人々 に の れ の中に根付いた韓紙の
色その芸
Lo t t e , TheV I P ' sChoice
「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁でない男で、ある」
Ea r lS.M∞r eJ . rPr e s i d e n t0 1AsiaPaci f i cMar ke t i ng
ビジネスには失敗は許されません。しかしj 残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならない」 J r氏の持論で、す 。 アール ムーア、 ホテルロッテを繰 り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「完壁な施設とロケーシ ョン、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さ を表に出さない優雅なサービス」。 そしてこれはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります。
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KOREANA 特集韓紙の昨日と今日
E
一医 匁現代音楽の交流と動きE 一
%対談・韓国音楽教育界の新たな試み 辺 恩 美
労韓国内陸の山道、聞慶・鳥嶺 金 周 栄
“詩画・風葬 品 民 主
乃芸術の殿堂 崖 成 子
お世界の舞台へと進出する舞画家たち 金義
可能性がある 金英珠
万韓国のデザインは無限の
ω 河瑳燦﹁受難二代﹂の擬声語・擬態語 湧震二
湾 6 韓紙 影 M 韓紙の歴史性とその特性について 高 祥 周 M 多彩な韓紙の伝統工芸品 禁 M 紙工芸の真髄とその魅力 喜姫 雨 必紙と現代美術 主 強絹のように繊細な韓紙成宇済
一
包囲際交流について
宅!ヨ~~~_jj!尋..lII'i!
﹁信頼される日本﹂を目標に
相互理解を 義邦夫
KOreaFoun 制 i o n
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コリアナ
韓国の却時と文化 Vo . I 6 / N o . 11 四3 年春季号
KOREANA コリアナ
年春季号 3 9 9 1 号 3 3 0 H t 月 8日話量 t 年 8 7 8 9 1 年 6月 1日印刷 3 9 9 1 0日発行 年 6月1 3 9 9 1 回発行) 月4 2 ,6,9,1 (毎年3 Jは韓国国際交流財団地勢 OREANA(コリアナ) < J ' I 行している季刊誌です。従って版権はすべて本財 団側にあり、本財団の許諾なしに転載 ・複製する ことは禁じられておりますのでこ7承ください。 また、将封書載の記事 ・論文の内容は、本誌編 集者または本財団の意見ではありません。 発行人兼編集人 孫、柱
煉(線国国際交流財団理事長)
編集長
柳 済権 アート・ディレク歩一
朴昇雨 発行所 終回国際交流財団
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2 6 4 3 汚3 2 2 -電話 :8 9 4 0 2 7, 4 0 2 7 5 7 2 2 • FAX:8 編集デザイン
ARTSPACE 1 1 5 悶3 大韓民国ソウル特別市鍾路区通義1 4 8 71 4 3 7 2 28 電話 : .
7 7 3 9 7 3 7 22 • FAX:8 目
印刷所
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3,抑制 定価問円(
a' う点。第五は、なめらかな艶と透明性が あるという点である。このように韓紙が
ら清い水の流れる山村の谷川で作業をし てきた。
損なわれ、澄んできれいな韓紙の美しさ を失うようになる。それで韓紙は、昔か
o 、掲砧過程 一
八、脱水過程 九、乾燥過程
敷いてこれに組織を作らせる作業。 紙の厚さと紙地を決定する作業
※紙桶で紙料を漉き、賛のように薄く
六、糊料混合過程 七、流漉過程
四、繊維叩き過程(叩解) 五、紙料混合過程
二、楕の皮を煮る過程 三、不純物選別過程
て楕の皮を剥ぐ過程
ことにする。
韓紙が作られる各過程を順次に述べる
外国紙よりもはるかに優れた五種類の特 性がある要因は、大きくみて、先ずは何 よりも天然的な紙素材の優秀性と、韓国 紙匠たちの繊細な手による丹誠さにある といえる。また、紙を作るに際して、水 が絶対必要だが、韓国の山河に流れてい る自然水の水質がよいという点も無視で きない。紙を作るのに必要な水は、硬度
がて水に鉄分(可 g gロZE)やマグネシ
が低く純粋であってこそ、きれいに長く 保存できる韓紙を得ることができる。万
楕種と真緒種は、主に韓国の中南部地方 で栽培される品種で、皮が厚く繊維がや わらかであるので昔から多く栽培され、 主に書画用紙として使われている。
ウム(呂田宮gEB)のような成分が入ってい ると、紙の中にその成分が残り紙が早く
紙、壮板紙(オンドルの床に貼る厚い油憩 あるいは紙撚工芸品用に使用される。要
の格繊維は、主に紙の強い性質を利用し た冊紙(書籍用の紙)や生活用紙として壁
けて、幹は真直ぐに立たずに横に傾きな がら育つ特性があり、皮は強い代り薄く て繊維の少ない品種である。この麻葉種
〓凶│紙は、韓国の自然風土の中で 、麻薬種は、主に韓国の中北部地方で栽培 される種類であるが、業が麻のように裂
ねH U Z 育った楕(コウゾ)の皮を主原
EE﹁ 料として、今から一六OO年 前から引き続き作られてきた韓国伝統紙 の名称である。 韓紙は、一八世紀以後、西洋の機械文 明が入ってきて、韓国の全ての民俗工芸 品が急速に機械化してしまった今日でも、 純粋手工芸品として残っている韓国民族 固有の特産物である。韓紙がいまだに入 手で作られる理由は、韓紙の製造方法上、 どうしても機械化し難い繊細であり微妙 な特性があるからである。韓紙の触りが よい紙のキメと、紙面の自然的な繊維の 韓国で育つ楕の皮繊維は、東洋圏のほ かの国(中国・日本・フィリピンなど)の
紙素材繊維とくらべ、繊維が長くて強く、 酸化してしまうので、韓紙の特性である yヤ 艶があるので韓紙の独特な特性がでてく ・ 寿命の永久保存性はなくなる。そればか る。韓紙の優秀な特性は、,大きく五種類
柄は、紙匠の手の先の感覚で作られる。 韓紙の主原料は楕の皮繊維である。こ の楕は、クワ科の落葉湛木で、漢字では 格木であり、学名は回55852担 問
に分類できる。第一は、昔べから﹃紙千年布 五百年﹄といわれるように、韓紙の寿命が
gsE
ω田切である。韓国のどの地方であれ、低 目の山や野原でよく育つ格は、よく農村
樹皮の繊維マか他国のものより長くて強く、 艶がある
樹皮か一剥がされた韓紙の主原料である格。
りでなく水の中にごみや微細な砂のよう な不純物がまじっていれば、紙のキメが
の畔や山の斜面・谷間のようなところで 育っているのをみることができる。
いるという点。第三は、通風性がよいと いう点。第四は保温性が優れているとい
一 OOO年以上保存できるという点であ る。第二は、やわらかでありながらも強く、 強いながらもやわらかい両面性をもって
韓国の楕は、各地方の気候条件によっ て若干ずつ異なる三つの種類があるが、 麻葉種と要格種と真格種がそれである。
g
一、格の皮を剥ぐ過程 椿の枝を農閑期である冬(一二月i二 月)に切って度を剥ぐ。桔の枝を大きな釜 に入れて水蒸気で蒸して皮を剥ぐが、最
煮た楕繊維は、流れる清い水で充分に 洗って灰汁を除去したあと、不純物を選 りわける。繊維の聞に付いている不純物 を入手で一一選りわける過程は、人の労 力を多く必要とする。普通、四1五人が 一日中不純物を選りわけても、一人の紙 匠が漉く一日分の分量にしかならない。
初に剥いだ皮を黒度という。黒皮は楕の 表皮がそのまま付いているので、灰汁を 入れて蒸すと、黒褐色繊維になるので粗
四、繊維の叩き(叩態過程 不純物をすっかり選りわけた清潔な楕 繊維を粉砕する。このとき、一般的に動
紙として生産されるが、これを白くする ためには漂白剤を使わなければならない ので、繊維が弱くなる欠点がある。この ため、漂白剤を使わない良質の伝統韓紙 を作ろうとすれば、この黒度を更に水で
ため、伝統韓紙の製造には使用しない。 伝統韓紙の自然な紙地の紋様を生かすた
力装置が付着している、ぜ 1タという機 械を使用するが、この機械は、多くの刃 が付いているので繊維を短繊維化させる
三倍以上になる。良質の韓紙は、まさし
めには、餅を掲くように繊維を石台に載 キネ せて人力で杵で携いて粉砕する。
ふやかして表皮をもう一度剥いで白皮に する。白度原料は黒度原料より皮を剥ぐ 入手が多く要るので、原料価格が黒度の くこの白皮繊維で作られる。白度は元来 の色が白いようで黄包を帯びているので、
五、紙料の混
紙桶の繊維をよく解かしてから充填剤
六、糊料の混金程
なし。
い。それ故に、繊維を水の量に合うよう に入れて繊維をよく解かさなければなら,
二疋の厚さのキメがきれいな紙は作れな
ケツ(約二0キロ)を入れて解かす。これ をトンパプジエンダ(桶飯を計る)という が、このことばは水の量に適した繊維を 入れるという意味である。地桶に繊維を あまり多く入れて漉くと、繊維が均等に 混ざらずに、固まる現象の雲紙になって
桶に水を半分程度入れ、揚いた繊維一バ
中で解かす。地桶は幅二メートル、高さ 四五センチ程度の木桶であるが、この紙
揖いた繊維を、水が入っている紙桶の
A a担恒
伝統韓紙の色は、西洋のホワイトよりは やや微妙なベージュ色系統のうすい色を 帯ぴるようになる。
二、格の皮を煮る過恒 格繊維を煮るときは、十分煮るように し、繊維の不純物を除去するために苛性 ソーダ(九八%)を使用するが、苛性ソー ダは繊維を弱化させる。それで伝統韓紙 の製造には、苛性ソーダを入れずに、ソ パの幹や豆の幹の灰汁を使用したり石灰 の粉末を入れて煮る。白皮六O切に灰汁 は三斗余り、石灰粉は二0・切程度を入れ る。格の皮は長さが二 iニ・五メートル 程度なので、煮るときには皮の長さを四 等分して切断したあと、まんべんなくま ぜながら煮る。楕繊維は=了四時間程度 充分に煮る。
三、不純物の選別過程
である黄葵を混ぜる。黄葵はアオイ科の一
年草で、学名は出ggg的 自SFV吾 Oである。 黄葵は、根から粘っこい粘液が多く出る ので、掛押紙を作るときの糊料として利用
するために栽培する。黄葵は韓紙製造に 欠かせないもので、紙桶の中で粘性によ
り長繊維である楕繊維の沈下を防止し賓 の上で水が流れる速度を調節し、紙の組
かにする役割をしている。しかし、湿紙
織作りを容易にし、紙地の表面をなめら
板の上に数百枚も積み上げた湿紙が、圧 着してからも絡み合わずに、ただ費の上
で紙地が形成されるときだけその役割を する極めて神秘な物質である。糞葵の濃
度を適当に調整して、紙の厚さと堅固性
を調整するのは、老錬な紙匠の長い経験 があってこそ可能である。
七、流漉過程
韓国の伝統的な流漉方法は、﹃流し﹄式 で、西洋や日本の﹃溜め﹄式とは異なる。 つまり、西洋式と日本式の費は、費枠に 蓋が付いていて、費に載せられる紙料が 費枠の中で紙地を形成するのに対し、韓
1 0
紙の費枠では、蓋がない貨の平らな支え る。韓紙製造の流し式漉きは、最初は前
枠で漉くと、費で紙料がそのまま流れ出 方流漉をして紙の縦組織を作ったあと、 左右流漉を幾度も繰り返して横組織を作 る独特な方法である。韓紙の特性である
最後に使う入の手が触るので百とし、昔から百紙とも呼ばれている。
紙の強さ、つまり引裂強度の高い理由は、 まさにこの韓国伝来の﹃流漉式﹄にあると しても言い過ぎではない。流漉する過程 は、韓紙が作られる全過程で、紙匠の熟
煮て石台の上で砕かれた格の樹皮の樹監。
練度と繊細な手並みが最もよくあらわれ る重要な過程である。一般的に一枚の韓 紙を作るために紙匠は、一 O回1 一五回 の流漉をし、必ず二回漉き一枚に合わせ る陰陽合紙に作るのが緯紙の特徴である。
八、脱水過程 紙匠が一日中作業して漉きだした紙(湿 患は、平均三OO余枚である。この湿紙 を紙上板(湿紙板)に載せて重い石で押さ えて夜通L徐々に脱水する。それでも残っ た水分は、ジャッキで圧搾して水分を搾 り出す。湿紙を一挙に急いで絞ると、繊 で、徐々に絞るのが要嶺である。
維が押されて横に按け出るようになるの
湿紙を圧縮機で絞って、指で押しても
丸、乾燥過程 へこまないほどに脱水したあと、一枚一 た鉄板の上に湿紙を載せて、ほうきで掃
枚剥がして乾かす。乾かす方法は、熱し きながら乾かす。また、オンドルの床に 紙を幾重にも載せて乾かしたり、板や土
1 1
扉に張って乾かしたりする。韓紙は、乾 燥したあとには裏面にほうきの跡が残る ようになる。
十、揖砧過程
一枚の韓紙が作られるまでには入の手が九九回も経なければならず、
乾燥板で乾燥が終わると、普通は紙が 完成するが、紙の面をやわらかくしてな めらかにするために砧打ちをする。砧打 ちをするとほうきの跡形がなくなり、繊 維が一層圧縮されてキメ細い高質の韓紙 このように、一枚の韓紙が作られるま
が完成する。 でには、人の手が九九回も経るようにな る。それで、昔から韓紙を使用する人が 終わりにもう一度触ることによって、百
4
長 五 ¥ せの 、 τ厚
•
度手を経るものとして、百の字をあてて 百紙と呼んだりした。
鳴いた繊維を地桶に入れて溶かし、一枝一枚丁寧に漉く。
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き ? ま 空 板
の 上 重 お
石
重
韓紙の用途
日まで現存している。このほか、高麗時 代や朝鮮時代の数多くの古書面などが韓
いえよう。
国の文化財として保存されていることは、 韓紙の永久保存性をよく代弁していると
あり、なめらかで、筆写するとき墨の染 みが端雅であり深いので、昔から文筆用
韓紙は、強いという特性のため、生活 の中で広く使われた紙の用途が韓国のよ
韓紙の用途は、記録用と生活用に大別 できる。韓紙は、繊維のキメがきれいで
として大きな人気を集めた。そのため、 早くから中国や日本に輸出され、文士た
うに多様に使われた国も余りなかった。 韓末、ロシア大蔵省の調査報告書であ
て作るので、紙質が西洋の紙のように柔 弱でなく、あまりにも頑丈なので紐を作っ
る﹃韓国誌﹄では韓紙について次のように 述べている。﹁韓国の紙は、繊維を抜き取っ
ちから賞賛を受けたのである。韓紙は、 寿命が長久であるので記録の保存用とし て好評を博した。韓国には実際に今から
残っており、仏国寺釈迦塔から出た﹃陀羅
てこれでいろいろなものを作る。紙にキ メがあって、そのキメを探して裂かない
一 一 一 五O年前(新羅景徳王一四年・西紀七 五五年)に作られた紙が、未だに元の形で 尼経百と、日本の正倉院にある﹃新羅文書﹄ などが、千年の歳月をはるかに越えた今
1 2
水気を取った緯紙を一枚すつ熱した鉄板の
上に載せてほうきで掃きながら乾燥させる。
ような用途にも使われた。
韓国民族は、厳冬の寒風にも薄い韓紙 一枚で障子を貼って暮してきたが、これ
と布のようによく裂けない。昔韓国の製 紙業は、最も発達した工業に属し、中国 に輸出されて今も北京では韓紙を壁に
カなし。
代用品として使われたが、紙の鼓と紙衣 がそれであり、韓紙に油を染み込ませて
らゆる生活用品として利用したので、.韓 紙の用途は、韓民族の生活全般にわたっ て影響を及ぼさないところがなかった。
でなく、紙を重ねて付けたり編んで、あ るいは油を塗ったり色を染めたりしてあ
このように韓紙は、文筆用としてだけ
ほど紙を緊要に使った例はほかに余り例 貼って暮す高官たちが多い。﹂このような 事実は、韓紙の頑丈な特性とその用途を
防水用傘や雨帽を作って使ったりした。 りじ bp また、紙鮭という履物も作って履いたの で、紙の強さがどれほどであったのかが
韓紙は透明性に優れていて、障子に貼る と日の光が明るく差し込み、夜は月光が
よくあらわしている。韓紙は、革や布の
推量できる。
物静かに差し込んで、部屋の雰囲気を明 るく居心地よくしてくれるのはもちろん
韓紙で紐をよって作る生活用品には、 わらじ 紙軽だけでなく火を灯す紙灯、水を入れ る紙の水桶、紙たらい、紙帯、紙鞍、紙
よけの紙(門風紙)の音は、韓国民族の情 緒にまで深く影響を与えたものである。
遺産である。
化の発達は、韓国民族の誇るべき貴重な
で大きな影響を与えたことは、おそらく 世界で韓国の紙、韓紙だけだと思われる。 韓紙の独特な特性と、優秀性による紙文
このように、一国の紙が多様に、多用 途に使われながら、その民族の情緒にま
であり、紙戸と紙窓に映る影と、隙間風
筆立、紙カバン、紙函、紙の眼鏡入れ、 紙瓶、紙洩瓶まで作って使ったのだから、 韓紙の用途の多様さに驚かざるをえない。 また、韓紙は保温性に優れ、綿の代りに ‘ 韓紙 の破れ紙や韓紙繊維を衣服に入れて 刺し縫いにすると温いので、辺境を守る 兵士たちの防寒用軍服に使われたりした。 また、韓紙は、木の実や花弁などの自然 植物から染料を抽出して、育、黄、紅、 緑色などの色に染めて婚書紙や詩筆紙の
3 1
て し
と ミ イl ジ ョ ン サ ン
李鍾祥(ソウル大学・美術大差泉洋学科教授)
↑軒並
った紙(韓紙)の上で生まれ、 一生をその中で暮しそれに触
r国人は、昔から自分たちが作 h 2 A 4 -
FE﹁
れながら結局は韓紙にきれいに包まれ、
母の胸のように涙ぐましいほどあたたか い情に包まれて土に戻って行く。 その上で生まれるというのは、壮版紙
(オンドルの床に貼る厚い紙)の上で生ま れるということであり、その中で暮すと いうのは、障子紙と壁紙に固まれて生活
するという意味であり、それに触れると
いうのは、韓紙に筆写され印刷された書 籍に親しむということであり、それに包 まれてゆくというのは、きょうかたびら
経雄子)を着せるとき、よかれあしかれ ( 私たちが作った韓紙を使うということで ある。
人類歴史上、ある知恵のある民族がい たとしても床に壮版紙という黄色い紙の
カーペット (nRU2)を敷いて焚口に火を くべながら私たちのように暮してみたこ とがあり、あらしの吹きすさぶ荒野で、
軍用天幕用に油紙(厚い油紙)を作って使 用する考えを持ったことがあり、戦時に
は跨馨桔接紙で甲衣紙を作って矢を防ぐ
紙の鎧を作る考えを、あえてどの民族が したことであろうか。それ故に韓国人に
対しく誰も、紙文化に関する限り軽々し いことを言ってはならないのである。 そもそも紙は、前漢時代にすでに雪綿 子という綿打ち機械に麻、樹皮、古着な どを入れ、叩いて平たい札を作って筆写
用紙として使用していたが、まだ紙とし
ての完全な要件を備えていなかった。後
O五年)に、宮 漢の和帝元興元年 (AD 一 廷用度局で尚方令(王室技術院長)を務め、 腕前の優れた画才のあった察倫という宣 官が、宮中で必要な装飾品を精巧に作つ
4 1
矢だといわれている撒馬爾干紙(サマルカ
ンド・ペーパー)である。そのあと、一 O 世紀頃になって初めてエジプトに製紙術
され、一一世紀頃には遂にヨーロッパの
が伝えられて、西洋最初の亜麻紙が生産
oo
スペインに伝えられた。それから一
スト教固に伝播されながら、一回世紀の
i二OO年を前後して地中海北岸のキリ
モンゴル箪のヨーロッパ遠征の際に伝え
られた活字印刷技術と出会うことによっ
て、印刷文化の発達とともにボロパルプ
ある。韓国が日本に製紙法を伝えたあと、
八年、フランスのニコラスが最初の連続
最初の製紙工場は、二ハ九O年、フィラ デルフィア近所に建てられたし、一七九
による紙の生産体制が整い始めた。北米 格である南北朝時代の樹皮紙、麻紙、竹 紙などが出現し、唐代に萄の酵機岬牒と謝
一 五O年も過ぎた唐玄宗の天宝一O年(A
ていたが、もっと丈夫できれいな紙を作 れないだろうかと思案したすえに黄蜂の 巣、蚕のマユなどからヒントを得て枝、麻
公牒、そして五代、南唐の澄心堂紙へと
D七五一年)に、アラビアとトルキスタ ンとのタラス河畔の戦いでトルキスタン
も韓紙の抄紙法に基づいて作られた紙で
頭、布、魚網を石臼で砕いて水に混ぜる 抄造手漉法による察侯紙に発展させた。
させた長繊維パルプで叩いて解かして作
一層発展した 。すでにこの時、韓国には 手漉抄紙法が伝えられたが、これを発展
抄紙機を開発して爆発的に伸びる紙の需
スではポ lドリ l ナ l兄弟が長網式を、 二年後、ジョン・ディキンスンが環網式
式抄紙機を発明し、一八O七年、イギリ
彼は安帝が親政をするようになるや、
る韓国特有の紙が作られていた。
はじめた。
めて砕木パルプ化法を始めてから、二O 世紀のさんらんたる西洋紙文化が聞かれ
要量を満たし、一八四O年、ドイツで初
このとき、トルキスタンのサマルカンド
化圏に手漉抄紙製造技術が伝えられる。
国に伝えられ、更に日本に伝えられたあ
がサラセン軍の捕虜になって初めて韓・ 中・日など極東一一一回以外の、イスラム文
の首都鍛馬爾干(サマルカンド)が陥落し てから、唐の製紙技術者である援兵たち
王の祖母である宋貴人を謹告した過去の
一年(AD六O五年)に、高僧曇徴が破喧 (臼)と文一房四宝を日本に伝えたと記録さ れている。日本が誇る雁頭牒、布頭牒、
に造紙寧乞設置し、手抄による留漉(漉す) 抄紙を生産したが、この紙が西洋紙の轄
察候紙で始まった紙文化が最も早く韓
醇濡牒、桁波牒、雲藍紙、密香紙、桃花紙、 浪耳紙、談藤紙などの和紙類が、いずれ
日本書紀によると、高句麗の嬰陽王二
罪責感のため服毒自殺する不幸な最後を 遂げた。実に人類文化に至大な功績を残 した彼は、才人薄命だといわざるをえな い。いずれにせよ、初期の雪綿紙から察 候紙に発展し、東晋の王義之が﹃蘭亭序﹄ を書いた蚕繭紙と、今日の画仙紙の晴矢
1 5
紙の発達は、筆写と影印、複写の必要
ま遂に東洋の紙のため姿を消してしまっ 。 た
王朝の首都ペルガモンで生産していた羊 度紙は、いずれも真の意味での紙ではな いので、需要を満たすことができないま
と、イスラム教国に伝えられながらエジ プトのパピルスや小アジアのアッタルス
それで私たちの心性にあう粗いようで 丈夫な韓紙が、中国の体質には轍密であ り鋭敏な唐紙が、日本人の趣向にはさっ
質料から表現効率の﹃最少力行使則﹄と なってあらわれる。
思想性の表現は、更に環境を作っている
の技法は、当時の造形的体系の中に高い 精神性と深くつながって'おり、こうした
的特殊性は、必ずその効用性を高める独 創的な技法が伴うようになっており、そ
) がなく長繊維であるとい、喜一であ g g (
世界最高の紙質を作る、?えで欠かせない
使用している。しかも桑科植物であるこ
によって行われ大きな影響を受けたこと がわかる。それ故に筆写などを最も必要 ばりして淡白な和紙が作られようになっ
と、細くて多角形の断面で、先端が尖鋭
であり短線であるものとの二種類のセル ロースから成っている。その上とくに、
これに対し、一一一技格繊維は、太さ、内陸 の広きが不均一であり形も不均衡である が、繊維が繊細であり柔軟という長所が ある。雁皮繊維は現在も栽培が不可能で
細胞膜が厚くて強靭であるので手打叩解 の高度の難しい方法によって、一次膜彰 潤と二次膜フィプリル化を施すのである。
あり、八年生の野生木は採取して黒皮と してだけ生産されるが、繊維がきわめて 美麗で綴密なのが特徴である。よい紙と
ものである。これら繊維の特性は、靭度 だけを使用するので木質のリグニン
る。この中で、韓紙の代表的な原料であ る格繊維は最も長くて扇平帯状形であり、 先端がまるくて内腔がよくみえないもの
の三技格(毘同225gu昌三雪印)と雁度 (巧際的可o msgωFEr-目白)の靭皮パルプは、
うぞ(格・ 6呂胃53)は、そのパルプの質 で他国のものは韓国産にはるかに及ばな い。このほか、沈丁花科に属する育、赤
これにてらして製紙術の発達は、初め
とする宗教の盛衰と密着な関連があった。
で、韓国の紙文化(質料、技法文化)は、 直ちに私たちの精神文化(書画、影印文也 に直結する。
展してきでいるのである。こうした側面
界をあらわすのに、適した材料と技法が 一つの有機的な﹁表現連鎖﹂するなかで発
たのであり、また、それにふさわしい表 現技法がその上に展開されながら精神世
は道教と儒教から始まって仏教文化に大 きく貢献し、次いで回教文化に貢献した あと、一四 j 一五世紀からはキリスト教 文化に大きく貢献していたことがわかる。 このように分類してみると、韓国は仏教 文化圏域の紙文化帯を形成しているとい えよう。発願のための仏経の筆写と布教 のための経印作業は、最高の製紙技術と 高度の加工技術が絶対的に必要条件で
一が原料であり、第二が製紙術であり、 第三が紙加工術のためである。
あっただろうし、こうした良質の紙と耐 久性の研究は、自然に東洋画の様式を発 展させて今日に至らしめた原因になって いると信ずる。東洋画の独特な表現様式 は、地理的位置としての東南アジアを含
この三つのいずれも原始的であるよう だが深く観察してみると驚くほど科学的
このように書画と書冊文化は、表現技 法と印刷術の発展が製紙術と加工技術の 発展と結びつくことによって可能である。 製紙技術が大きく発達した今日でも韓紙 が最高級紙として優待される理由は、第
めた東洋全体の絵画様式ではない。紙文 化は人類歴史上最も長く亨有しており、
である。また、造紙に最も適した気候風 土と水質によって、中国や日本の紙がこ れに及ばなかったので、日本はもとより、
察してみることにする。先ず、紙の主原 料になる植物性繊維についてみよう。 私たちは製紙原料の中で最も高級とし て評価されている靭度パルプの長繊維を
中国の書生たちも韓国の﹃高麗紙﹄を使っ てみるのが念願だったと伝えられる。で は慨略的ではあるが上の三種の特徴を考
また今も二OOO年の歴史の中で最高級 紙として認められている韓紙、唐紙、和 紙を製造して使用している極東の三カ国 (韓・中・日)だけが、西洋の絵画様式に 匹敵する東洋画様式と、よその国にない 書道美術を持っていることに注目する必 要がある。生態系の﹁食物連鎖﹂が存在し
画だけをみても、紙、筆、墨、硯の質料
ているように、文化芸術の中にも﹁表現連 鎖﹂が存在していることが分る。東洋の絵
・・ a
•
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いうのは、用途によって異芯るだろうが、 おおざっぱに言って耐久保存性が優れ外 観が美麗であり、操作が容易であり材質 感が優れ、紙としての作用が敏感でなけ ればならない 。韓紙の優秀性は、この全 てを殆ど備えているのでその価値が認め られているのである。 つまり、繊維間の 摩擦力による引張強度が優れ、繊維聞の 結合力による破裂強度が優秀で、パルプ の長短による引裂強度が高く、原資材の 柔軟性に左右される耐折強度がどの紙よ りも高い韓紙を作ることができたのは、 韓国産格パルプの根本的な優秀性に基づ くものといえよう。これに劣らずに今日 の韓紙の名声に功献したのは、韓国だけ の独特な造紙秘法の伝授である 。同 一の 抄紙手漉法を使用しているがよく観察し
サマルカンド紙、エ ジプトのE麻紙、砕 木洋紙とは紙質と強靭度だけでなく、造 と 紙の精神面でも生と死ほど﹁有のmEZ﹂ ﹁鉦お見EZ﹂聞の距離が離れている。韓国 では同じ折紙法でも手漉法を使用じてい るが、七世紀以前にすでに独創的な片足 ﹁掬い﹂の流漉法を使用して紙に生命力を 与え、歴史上その類のない紺紙陀羅尼、 金泥写経紙や木版影印紙、金属活字紙を
て韻律に合わせて﹁掬い出した紙﹂となる。
作ることができた。それで韓国の紙は、 単に﹁掬い出した紙﹂でなく、流れに乗っ このように無地の組織の中で、竹格子の 十字方向に横水が流れながら、最後に生 じた繊維の方向性が作り出した紙のきめ
る原理は正に韓紙の﹁きめ桔接﹂の原理に 過ぎない。こうした理由で、古籍の表紙
を相互反対方向に重ね合わせると、その 引裂強度はいかなる絹や皮革にも勝るも のとなるのである 。最近のベニヤ板を作
うことができる。ただ独り長繊維を生産
に適した引裂強度と耐折強度が高い紙を 作ることによって、千年をはるかに超え
てみると、先に述べた﹁表現連鎖﹂の原理 によって、質料と思想の出会いをうかが できる天恵の地理的条件の中で、その質 料にふさわしい私たちの思想、息吹きな
紙術と加工術があってこそ可能であった。
る歳月をもちこたえる書籍の文化を亨受 できるのである。これには抜きんでた造 統一新羅時代に、すでに紺紙加工をして、 金泥、銀泥で書き、描いた写経が盛んだっ
浮光陀羅尼経 である。今 か ら 約 = ︻O ﹀ ﹄ A D 七五 年前である新羅三五代景徳王 (
ど、まさしくその匂告(気きが宿ってい ることがわかる。四 EE(気質)は死ならぬ 生であり、運動であり、宇宙万物の秩序
たのは、驚くべきことだったといわざる
それで紙料の懸濁液の中に足を入れて、
である。無数な変化の中で一つの統一体 を成す生命の呼吸であり方向性である。
をえない。
一年)のときに作られたのであるので、私 たちの影印技術と長久な版画の歴史をも
上下左右に波を起こし前の水をすくって 後ろに、横の水をすくって反対側に流す
たらした造紙、加工術が、いかに優れて いたのかが推量できる。
でなければならない 。私たちはすでにこ
?日碓紙を作って使用し うした条件に合、 た。
中国の王義之が﹃蘭烹長 官﹄を書いた A D 七八O年に、私たちの祖先は筆写から印 刷が可能な流漉抄紙をとうの昔から作っ て使用し、当時中国の書生たちがあれほ
ど欲しがっていた﹃高麗紙 ( 穴 。 ﹃2 ロ を製造して、中国と日本の羨望の 宮胃﹃)﹄ 的になった 。このように靭度パルフ紙の 高級紙文化を持ったわが祖先は、紺紙写
麻谷寺の﹃妙法蓮華経 第一巻変相銀泥 ﹄ 党網菩薩戒 写経や、東国大学所蔵の高麗﹃
( r m g丹市﹃)造紙
酸度が七になるよう軟水
紙法によって作られた韓国産格の靭皮パ ルプ紙でなければならない 。また、紙質
経から木版影印に、更に金属活字印刷文 化に発展して、遂に世界で最も古い金属
このような印刷が可能になるためには、 湿潤強度が優れ、引張強度が高い流漉抄 大方広仏華厳経﹄一三巻変相 の一四世紀﹃ の天主光天女や二童子像などはいずれも 純金泥で、紺紙の上に描かれた本である。 わが国最古の木版影印本は、仏国寺釈 迦塔の舎利函の中の賜蔵物であった ﹃ 無垢
用水を使 用 し 、 弱 ア ル カ リ の 天 然灰汁漂 白と、天然樹液格糊で作られた右 62ロ紙
経﹄金泥変相ゃ、来蘇寺所蔵の宝物第二七 人号﹃法華経﹄折本写本、湖巌美術館所蔵
片足﹁掬い﹂をすることになるのである 。 パルプの自由組織の中での統一を求める 方向性は、左右横水流しの流漉抄紙法で、 紙の中の見通せぬ心づかい、紙の木目を すくい出すことによって、遂に息づかい が匙り生命のある紙を作り出したのであ る。それで木目のない液過紙を留漉抄紙 法で作って使用した察侯紙、唐紙、和紙、
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活字本である司直指心体衰F(パリ国立図 書館所龍四)を印刷することができたのであ る。この本は、約六行δ 年前の高麗末に、 白雲和尚が清州雲泉洞、現在の総合運動 場前の低い山の麓にあった輿徳寺で著述 した本を、高麗饗腰紙に金属活字で印刷 したものである。それで今は、ここに﹃清 州古印刷博物館﹄が輿徳寺桂に建てられ て祖先の文化的偉業を称えている。 O O年(高麗・顕宗二年) ま た 、 一ニ に作った﹃八万大蔵経﹄と、一一一一OO年頃 ( (高麗・忠烈王)に木版画﹃妙法蓮花経 E開 城・開国寺七重塔)、一三七八年(高麗・ 爵王四年)に、晴、唐代の偽経で絵が添え られた木版本﹃仏説大報父母恩重経合綴﹄ (趨明基所蔵、挑泰の鳩摩羅什の翻訳で仏 説父母恩重胎骨綴が合綴された)があり、 ハングルで翻訳された恩重経最古本冊紙 は、一五五三年(朝鮮・明宗八年)長漏 の華蔵寺版本と、一O年後に刊行した松 広寺版本と、翌年に黄海道九月山・明葉 寺版本、一五八七年(宣祖二O年)、慶尚 道豊基郡の喜方寺版本がある。 このうち、檀園金弘道の描いた中国古 事に依拠して表現した恩重経冊が一七九 六年(英祖二O年)に作られて、現在、ソ ウル大学事章閣に保管されている。昨日 もソウルの都心にある韓国出版貿易展示 場で、驚くべき古書などが展示されて調 べてみる機会があったが、一様にコウゾ (格)靭皮韓紙で加工された表紙と内紙 だったので、その優秀な複写性と耐久性 に驚嘆を禁じえなかった。その中でも、 現在、圏内で伝えられているもののうち 最も古い図書目録である﹃大蔵目録﹄巻上 と、一四五四年版本﹃新刊大学明心宝鑑﹄、 一五OO年頃の ﹃ 朝鮮賦﹄などの紙質と製 本加工が際立っていた。 ﹃芸術は長く人生は短い﹄とは、実にわ が韓紙の上に成し遂げたわが文化遺産を 指して言っているに違いない。 最近(一九OO--九三九)に砕木パル プで作られた洋紙に印刷された洋書の中 で、すでに破損されたものが半分以上で あり、二000年代に入る前に劣化防止 (の Sおミ巴。ロ)の非常手段を講じない限 り、本が酸化して一巻も残らないだろう と、アメリカの図書館などが一九五六年 に調査結果を明らかにしている。これで アメリカでは、図書館振興財団が創立さ ロ)研究に拍車を れ、蔵書保全(匂吋巾臼巾ヨ白巴 O かけているが、とくに韓紙の保存性に深
い関心をもって研究している。パージニ ア州立図書館のウィリアム・ J-パロー は、世界的な蔵書保存専門家でありこの 財団の研究員である。彼の研究結果を財 団が採択した﹁永久に残る本のための指 針﹂をみると、パルプは酸度が最低PH・ 七・五まで許容でき、耐折強度は横へ一切 の張力がなければならず、二つ折りの (USZ巾室内回)折れ目が三O以上強靭であ るべきであり、引裂強度は縦に最低七O% まで許容され、アルカリ性保有物は重量 比で最低二%までとする。また、製本用 紙の製紙用パルプは、綿などのボロパル プと漂白木材パルプであり、非漂白パル プ、砕木パルプは混用を禁じ、酸性ある いは塩化物の印刷インクは使用してはな らず、製図用紙は可能な限り使用しない としている。私たちの紙に木版影印、あ るいは紺紙に金・銀泥写経、あるいは金 属活字印刷本が、千年を超える歳月を原 形どおりに保存できるということは、す でにその当時の知恵ある祖先たちが、こ うした永久紙の指針条件に適する造紙術 を研究したからである。
四季の区別が以っきりし、﹄厳し い越冬のための厚い制駒市併を準備 しなければならない自然条併の もとで以、 良質の繊維を作るよ うじなっている。
結局、紙が良質で強いというのは、そ の製造工程で、より良質の原料で純度の 高いパルプを得て加工するかどうかにか かっているとみられる。 そうした意味で韓国の紙は、原料と造 紙法、加工術のいずれもがこの条件に合っ ていることがわかる。まず、わが国で生 産される靭皮繊維の原料を調べてみると、 最も代表的なものが猪皮、つまりコウジ 靭度から得る繊維素である。もちろん、 これと類似するか同一の格が中国や日本、
あるいは東南アジアなどでも多く栽培さ れている。中国宣紙の原料として多く使 われる青檀皮や、日本和紙の原料である ミツマタ(三・)なども、靭度である。し かし、これら非木質繊維の中でも、セル ロースを結合する細胞聞の高分子物質で あるリグニン(ピ官5)の内包度が、国産の コウゾほど多く含まれている。しかも、
中国の南部地方や東南アジア地方で量産 される格皮の成分は、疎水性のリグニン 含有量が度を帥思しているので、溌墨でロ ジン気やパラフィンの斑点があらわれる
傾向がある。これに対しわが国中部地方 の田園の畔や日当りのよいゆるやかな傾 斜地の砂質土で、四季の区別がはっきり
し、きびしい越冬のための厚い靭皮を準 備しなければならない自然条件の下では、 良質の繊維を作るようになっている。そ れでどの地方、どの国の格繊維よりもベ クチン (22E)成分が多くリグニン 官官宮)成分は少なく、繊維の長さも最も 長く、七・三i一七ミリの長さに幅が0 ・ 一 10・ 0四五ミリで、その比率が 0一 洋紙パルプである砕木繊維の六Ol八六 にくらべ、七 1八倍に近い四二Oi五一 Oの幅長比率を誇っている。紙の寿命に 致命的影響を与えるリグニンは、洋紙の
8 1
ー一一一一一一一一← ~
-砕木パルプには二Oi三O%、韓紙の靭
いる高分子無定形物質で、弱酸性にはめっ
皮パルプには一五l二O%程度含まれて
たに加水分解しない結合性が強いフエ
)重合物質である 。韓国産 ノ1ル( o g Z コウゾ(格)には、リグニン含有度が僅か
九・八 j 一七%に過ぎなく、あえて化学 処理をする必要がない天恵の原料繊維を
で最も優れて永持ちする紙を製造できる
得ることができる上に、石清水を利用し た造紙軟水を豊富に得られるので、世界
環境的条件を備えていることに感謝すべ
きである。水質は、昔から製紙術ととも に地質に絶対的影響を及ぼした。洋紙が
殆ど石灰水あるいは玄問、 P など、各種の
硬化塩を含有している製紙用水を使、つし
かない地理的条件のため、韓紙のような 中性純紙を作り難い外ない。北自の製紙工
たちは、山紫水明なところを求めて紙を 作り、梅雨ゃにわか雨が降ったあと、各
種の有機物や塩基性無機質が融解した硬 水、つまり、硬化塩が重炭酸塩を含有し
た 一時的硬水と、黄酸塩を含有した永久 硬水を使うまいとして一時的に製紙を中
断したというが、世界に誇るべき紙、印 刷文化財が私たちによって作られたこと
は、決して偶然ではないのである。 私たちが今も、玉板宣紙のような中国
の高級紙を買い入れてから、数年後には 薄茶色の斑点がみられる場合をしばしば
3 気中の酸素と結合して水酸化第 一鉄(
経験する。これは製紙用水の中に溶解さ )の早 )N れている中炭酸第一鉄(司巾(図。。 ω 塩基が無色に溶解されていたものが、空
(CE)じになると共に薄茶色を帯ぴるよう になるのである。 ( (図。。 ω)ω+O+ENO F N
)韓紙も近頃になって ←N 。 ON F合同 )ω+品 大気の汚染による酸性水の影響と無分別・
9 1
な地下水の濫用、または鉄配管を通過し た用水の忠塩などによって、紙の劣化を 促進させているのをみる。紙の劣化は、
漉法を使用した無結紙をも作った。また
西欧式では初めて 一八OO年にドイツの モリス・ F ・イリッヒが発明したのロヨ・
司市印宮(生木から採取した樹脂)包 巾 N 法を利用
しており、人造乾燥法を使用して作った 証券、紙幣用の引張強度の高い局紙とい
材料と製紙法で、在来的韓紙すらも需要 と供給の原則によって量産体制が止むな きに至り、純韓国産措度を使用できずに、
う紙を初めて作りだした。
普通針葉樹の傷から有機溶剤を強制的に
さしく無理な臼5 方法にあるので、その寿 命が韓紙とは比較にならないのである。
洋紙の耐久性が劣っている理由は、ま
リグニンを多量含んでいる外国産自皮を
ロース(繊維素)で、炭素、水素、酸素か
輸入して、強サイズを洋紙並みにするし
らなる炭水化物の一種である多糖類
湧出させた松脂類のロジン(吋包ロ)には、
かなかったためである。紙は多くのセル
oqZ2Z﹃区乙であり、グルコース
(匂
添加してロジンを遊離させ繊維に結合さ
巧gam・ 2包ロの二種類がある。これを予め 酸化させて紙料と混合したあと、明馨を
と 、 先に述べた生木樹脂であるのZB485 枯れた針葉樹から分解して湧出させた ているグルコース結合は、酸性の中では
(gzg沼)という糖が鎖状( n g g ω 冨胃)に 結合しているパルプの自由組織体から 成っている。このように糖と糖が結合し 加水分解を起こして切断され短鎖状に変 わる。包括剤が疎水性であるのに対しセル ロlズは親水性を帯びており、とくに、
然ワックスもあるが、あまり使用してい
このほか、石油系の樹脂ワ ックスや天
せたあと、抄紙するようになる。
5 剤を使用しなかったり、物理的方法で、 する方法を利用することによって、繊維
世界で類のない親水性宮市剤を使って揖砧
アルカリ性であったり中性の場合は膝着 力が落ちるので、明馨つまり﹀59を媒
性の化合物である。ゆえに、紙の表面が
ない。これらのロジン類はいずれも樹脂
回
と 印5 剤を結合させるための強酸性媒染剤 を使わないので紙の酸性化も防止できた。
染剤として利用し穆着させている。まさ にこの黄酸饗土は、自体の酸性によって
(nS82目g 立)に致命的影響を与えたりす
﹁P出るこ自体がすでに それにセルロ lズ 持っている水酸基と親水性ポリマーによ り、常温常圧で約一 O%の水分を含有し ていることから、議墨と誼染、最染が容
紙を作ることができる科学的な方法の叩 て西欧式砕木パルプ紙が輸入されながら、 一 九O 一年、朝鮮印刷部抄紙部を設置し、
石臼を利用した磁叩法、唐臼を利用した 掲叩法などの方法を使った 。町解は、韓
いて、斧折の木の砧榛で叩く打叩法と 、
解作業である、平らな石の上に靭度を置 ソウル竜山の典園局造紙所で初めて三枝 楕靭皮を使って西欧式ロジン巴おをしてか
紙の重合度はいうまでもなく、外見と強 度を左右するようになる。叩解過程では、
韓紙の製紙過程でもう一つの特徴は、 最も原始的でありながら最も寿命の長い
る 。
多糖繊維鎖状を酸性化させ、劣化防止 易である。 内法とかロジン 韓国では、昔から強巴 N をしなかったので、紙の酸性化を懸ス芯 回 目 Nm しなかったが、一八八八年、日本を通じ
ら作った折衷式紙が作られた。このとき もまた手渡抄紙法を採用したが、ただ留
2 0
皮)などの靭皮は、もともと繊維の長さが
も寿命の長い韓紙を作ることに成功した のである。コウゾ繊維、三枝楕、ガンピ(雁
までしながら中性紙を作って、世界で最
が劣る現象を、長時間の砧棒で打つ苦労
焼いた灰汁を使用したのであり、叩解度
性ソーダ類を使用せずに、豆がら、藁を
O内外が適当であるので、昔から強い苛
リ性が高ければ叩解度は高くなる03七-
を早くから発展させたため、溌墨が鋭敏
韓紙のように、自然乾燥よりは天板乾燥
繊維の鎖状損失をともな、つようになるが、
せずに、石灰発酵させて剥皮するので、
展するようになる。唐紙などの玉板宣紙
ら、軽く漉い出す片足流漉抄紙技術が発
限り懸濁液との物理的接触を減らしなが
そのため、唐紙と和紙とは遠い、出来る
すので、高度の抄紙技術が必要である。
する水波の振動によって粘度変化を起こ
漉い取り、繊維が水の中でもつれずに均
をする際、平滑度を高め、より薄い紙を
なくなる。そのため、三国時代から抄紙
まう。それで表面で掬い出すことができ
五倍もするので溶媒の下にすぐ沈んでし
本の百万塔陀羅尼経は、曇徴が製紙法を
の金剛経は八六八年代のものであり、日
尼経を保有しているが、中国の敦埠石窟
五一年に木刊本で印刷した無垢浄光陀羅
では韓紙に勝る紙はない。わが国が、七
たらすようになった。しかし、紙の寿命
になり、南宗文人画と水墨画の発展をも
は、樹皮を剥ぐ際、私たちのように蒸解
れ現象が甚しい上に、比重が水より約了
長く、また、互いに水素結合によるもつ
けを緩慢にするよう調整し、不純物を浮
等に混ざって、漂いながら桶からの水抜
先に言及したように、拡たちの先祖は、
伝えてから六五年後のものだといわれる。
を抄紙の過程で作り、最終的に浮遊物質
かせる役割を担わせながらも、中性を帯
中国や韓国で多く使用した貧萄葵は、
などを横流しで流して、横木目を一層強
びる天然の糊を、各種植物、海藻類から
スより早く膨潤するので、 J同ヘミ・セル
アオイ科の一年草で、その根と幹の一部
の統一比は、二対三または三対五である
く作る。木目漉紙の縦と横のパルプ方向
ある。寸ヘミ・セルロース は、セルロー
現代の洋紙のように刃ピlタl法とか丸 ピlタ!法を使って、紙料に金属性物質
ロース﹂を含有している格靭皮繊維は膨潤
を水で膨潤させて、澄んだ粘度の高い糊
流漉抄紙方法を用いて、縦横の二重木目
が混入するのを防止するため、きわめて
度が高く、一次膜除去過程で、豆がらを
を作られる黄賓葵を使用した。また、青
のが普通である。時代をさかのぼるほど
採取して使う知恵をもっていた。
原始的な方法を使用している。
は自然と高くなるので、手打叩解でフィ
焼いた灰汁の弱アルカリのために膨潤度
この比率は後者の最終結比が大きくなる
L
叩解は、繊維の膨潤作用とフィプリル
た。日本の和紙には、コウライウツギの
桐の根や金梅の根から出る粘液も使用し
(同
F e z )化の粘状叩解と、セルロースの二
二次膜除去および内部組織の大きなフイ
プリル化をしなければならない。これは、
のフィプリルはゆるくなるので叩解がた
ので、繊維は十分に膨潤され、組織単位
毛細管吸収が内陸吸収とともになされた
蒸解、水洗、日光、漂白の過程を経ながら、
り、フィプリルの間にある親水性の﹁へ
の膨潤圧力に大きな影響を与える。つま
なる現象である。フィプリル化は、内部
状に割れて、外部表面積が極度に大きく
表面に微細なマイクロフィプリルが細毛
ブリルが解かれる現象で、セルロースの
ぜる。黄濁葵の糊は、溶解すると溶液の
差はあるが、溶液の四i五%の容量を混
ロン酸(宣言25号包色)の多櫓類物質で あり、溶媒の水温、パルプの種類による
く関係なく、親水性の水溶性ガラクト l
黄萄葵の糊は、繊維の凝固作用とは全
国人だけが使用する独特な加工術である。
ない。昔は揖砧紙を多く使用したが、韓
以上も保存しているが、驚嘆せざるをえ
りももっと強い表紙を作って一OOO年
凹凸を四五度方向にして溝を造り、草よ
をしたあと、菱花(庁523R巾)木刻板で
り、表紙は縦横の五重紙で梶子腰磐染色
向になるようにして屈折強度を高めてお
楕繊維の膨潤は、水が桔パルプ繊維に
次膜除去作用が行なわれる。
やすくなる。膨潤は、フィプリル間隙に
ミ・セルロース﹂の膨潤軟化と、叩解の機
温度が0 ・七1 一五%まで自ずと上昇し、
ことがわかる。古籍が常にキメが垂直方
存在する親水性の﹁ヘミ・セルロース﹂の
械的作用が影響し合いながらフィプリル
空気中の酸素と接触しながら、常温状態
靭皮から出る粘液を糊として使用した。
膨潤を助ける。このときの膨潤度は二O
化が進行する。こうした韓紙格パルプの
て白皮状態たなるので二円むよR6%
韓紙では、一次膜の除去をすでに終え
度)が高ければ叩解度が低くなり、アルカ
叩解は、低温で膨潤度が高くなり、酸度(冨
して粘度が急降下し、抄紙の場合、反復
で一八i三二時間が経過すると自体分解
堅めていって平坦度を高めケパをなくし、
面糊付けをして重ねておいてカラウスで
タチナン
j三O%の容積増加率をみせる。
が膨潤した繊維は叩解し、解織が容易で
2 1
2 2
中性サイジングの致果を得ることによっ て木版印刷、金属活字印刷紺紙に金泥、 銀泥の写経が可能な紙千年の紙文化と亨 有できたのである。 昔は、キメ紙三重紙に漆を染みこませ て幾度も砧打ちをしたり、渋い柿渋から 得たタンニンを使って沈漬携砧したり、 黄漆(天然植物性パニス)で表面処理もし、 大豆油技法で壮版紙も作った。木版本や 金属活字本の影印で、墨のにじみを防止 するため、紙は鴇砧サイズをし、油を燃 やして油煙墨材を得、植物の分泌粘液を よく混合して印刷インクを作り早くから、 立派な印刷文化を亨有していた。わが国 の造紙工場は、楠原料の確保と水質によっ て分布しているが、主に湖南地方に集中
めて乾かしたあと、樹脂を染み込ませて
油結紙を桔接し、掲砧した梶子染料で染
による量産体制に突入することによって、
代の産業社会の中で、需要と供給の原則
いと深みある美的感覚を忘れたまま、現
れているのは淋しいことである。
純粋韓紙でない韓洋紙がやたらに生産さ
床に敷いて、この村を壮版紙の生産地に したと伝えられている。このあと民家に
と熱を上下に通してくれる理想的な床を
気のあるオンドル部屋に、腐らずに湿気
くて息の通う紙カーペットを作って、湿
豆油塗りの技法で 加工術を発展させ、強
すことができるようなこの分野の専門研
命が一層補強されながらも、需要をみた
紙の長所を研究開発して、その特性と寿
最も優秀であることが立証されている韓
関関係を持っているのだから世界歴史上
材料(質料)と技法と造形思想は必ず連
ヤンパ μ
普及されたが、初めは宮中や両班家で大
作った。しかも、壮版紙の貧色は、農耕
紙を使用して技法を開発する作家と造
究が切実であると思われる。
文化の中に根を下ろしたキピ(稜)、つま り、曲辰神を意味する稲作物の黄金平野を
紙家が協力して、わが韓紙の優秀性を、
意味し、国でも黄色は土地、国家の領土 を象徴するだけでなく、中央の色であり、
今日の発達した製紙術と接木させること 色)を重視して、信頼の領土が堅固である ことを渇望する潜在的な意識が、家の真
主にする中国画とは根本的に異なるとい
かろうかと考える。韓国の絵画と溌墨を
ができるとすれば、望ましいことではな
王権を意味し、﹁信 Lの意味をおびるよう になる。ところで、国家では宗廟と社稜(黄 は、四園、京都、鳥取、福井、富山、石
している。全州、所陽、淳昌、南原(以上 全北)、長城(会商)、盈徳、安東、栄州(以
いて作った中国紙とは自ずから異なるの
で作られた韓紙と、発酵してきれいに挽
もに育ったコウゾの世界最長の靭度繊維
うことは、結局、わが国土で私たちとと 朝廷では、この松広村がえんになって、
泰を満喫したものと見られる。このあと 継承している松広村がある。全州から一
全州に造紙署を設置し、王室用の状板紙
が当然のことわりだと思う。
今も昔の誇りを失わずに造紙の伝統を 二キロほど離れた完州郡所陽面大興里に
と、将兵が野外で使用できる軍用天幕を
ソウルの洗剣亭一帯にも、終戦直前まで 草紙工場が多数あった。
位しているこの村では、今から約四00
常に紙文化に対する自負と誇りを抱き 年前の朝鮮宣祖四一年に碧岩大師が松広
ながら概略的なことを略述した。
中国は安徹、漸江、澗川、福建、広西、 山西、陳西省などに多く、とくに、安徹、
作るための油草紙を本格的に生産するこ とになる。しかし、こうした韓紙の味わ 寺を重建し、オンドル部屋用として韓紙
ある。京畿地方は、平沢、加平などがあり、
中に黄色の壮版紙を敷いて、心の中で安
ある。 川などが有名である。
度、耐折強度が高いのが韓紙の特性で
上慶北)、丹陽、堤川(忠北)などが有名で
力による破裂強度に優れ、またろi 裂強
福建省に二ニカ所が集中している。日本
2 3
繊維間の摩擦力による引張強度、結合
優れた技術戸よって作られた純 緒紙以黄弟、務育、不畜、家紙 およひ紅、青、露包などに染め られて多彩な色紙となり、それ ぞれの用途い艇かれてきた。
; zの
2 4
また、の紙であること かにさ h 羅尼経の 一枚が国立慶 州博物館に所蔵されているが、これが韓 国に現存している最古の紙の遺物とされ でおり、また、成恩主寸で白紙の文書が一
五品目関紙の巻物 ・ -え世紀
r
九五允年に発見されたが、成恩寺は新羅 A D六人二年)に文意エの の神文玉二年 ( 冥福を祈るために建立された寺孟 盟 国 時 識 鏡獅 近年にば、平壌の高句麗時代-@ 跡発掘調査で、 麻で作られた紙が発見さ ?っ。こうした三国時代の紙費拡、 れたと い 主に麻紙だったことにて らし J この時代 には椿紙の製造技術がそれほど語 調 いなかったものと考えられる。 Lかし、格紙もすで に=一国時代に作ら がて いえと いう案証となる遺物議事錨眠 れてから韓団の格紙の歴史が事新伝誕糖 立されて いる。
つまり、慶州仏国寺の釈迦塔で発見さ と、日本の正倉院に伝わっ れた﹃陀羅尼経 ι ている﹃新羅文書﹄、そしてより確実な記 録である湖巌美術館所蔵の﹃大方広仏華厳 経﹄(新羅、景徳王一四年、 A D七五五年) では、﹁格に香水を撒いて育てて皮を剥ぎ、 剥いた生皮を臼で砕いて紙を作る﹂と、格 紙の製造方法について述べている。これ は、新羅時代に仏経を作るための格紙が 発達していたことを証明するものである。 当時、中国で新羅の白種紙として広く知 られていた紙が、まさにこれではあるま いかと考えられるが、繊維質が均一であ り、白くて丈夫な紙である。 中国では、韓国の紙が﹃鶏林紙﹄、﹃繭紙白、 ﹃蛮紙﹄などの名で呼ば れていたというが、 とくに、日本の書誌同孟告である八木は、﹁新 羅の白碓紙は、他のいかなる紙とも比較 にならないほど優れた紙で、中国でも天
下第一一紙だとして大切にした﹂と述べてい る 。 高麗時代には、仁宗二二年 (AD二 四 五年)から明宗一八年 (AD--八八年) まで、全国的に格の栽培を奨励し、民間 製紙業もこのときから奨励した。 これに先立つ一一世紀後半からは、中 国に多くの紙が輸出されたが、高麗の文 宗三四年 (AD一 O 人O年)に、高麗から 宋に送った国信物の中には、大紙と墨が 入っていたし、宋との通商で取引きされ た輸出品の中には多くの白紙と松煙墨が 入っていた。そのあと、元でも高麗紙を
ι
仏経紙 して輸入したが、一度に一 O万 枚という莫大な量の紙を輸入したことも あった。このように高麗紙は、強くて厚く、 裏と表ともになめらかで、書写用と印制 用にも重宝がられていたが、このときす でに韓紙という独特な紙が作られていた
といえる。 揚砧と漂白などの工程を経て、優れた 技術と器用な手際によって作られた純格 の白確紙は、黄染、務青、玉色、翠紙お よび紅・青・藍色などに染められて、多 彩な色紙となり、それぞれの用途に使わ れてきた。 韓紙の種類は極めて多様である。先ず、 朝鮮初期に造紙所で作られた紙には、表 筆紙、杏文紙、藁精紙、柳葉紙、柳木紙、 憲草紙、麻骨紙、純倭紙などがあるが、 こうした各種の紙は、それが作られる材 料が異なるので、当然ながら用途や、使 用方法も違う。つまり、表筆紙というも のは、国家に吉凶がある場合、それを王 に報告する文章を書くときに用いる紙で あり、杏文紙は中国と交信する文書用で、 これらは極めて貴重に扱われたもので あった。苦県精紙は、カラスムギ(烏麦)や
黄色、桃色、笹色、膏色、務翠色に染められた緯紙は独特な色彩を放つ。
2 8
韓紙を材料にして作られた
色紙工芸品は独特な質感と用途、
そして各種の意匠紋様が施されて 多彩で、あるのが特徴である c
糸や布切などを入れて置く女性の手回り品
3 2 X 2 1X 2 c m1 9 世紀作
麦藁を主原料にして作られ、主に印紙や 筒紙として多く使われたが、この紙は成 鏡道富寧で作られたものが有名だったと
いう。この藁精紙は、元来は丈夫な紙を 作るためのものであったが、一方では、
橋を節約する目的もあった。麻骨紙とい
うのもやはり格を節約するために使われ たが、これは皮を剥いた麻幹(麻骨)五分
に格 一分を混ぜて作ったので、とても丈 夫な紙であった。柳木紙と柳葉紙などは、
それぞれ柳の幹や葉を原料にして作られ た紙であり、憲法紙は鳩麦が原料である。
以上の造紙所で作られた紙のほかに、 独特な方法で作られた苔紙がある。これ
は、朝鮮時代史三 E 六 年 U一五四一( に金安国が作った紙であ﹀ るという。これ
は、苔に格を混ぜて作るもので、若い苔 に楕を多く混ぜ、古い苔には格を少し混
ぜて作るといわれている。 わが国で生産された昔の紙の b 世 蒜 を︿
全羅北道築貢条には、高麗 宗実録地理志﹀
大典会通工典条には、大好紙、小好紙、 ︿
紙の種類を次のように記録している。 副本単子紙、甲衣紙、銀紙、歳画紙、 火薬紙、油定紙のほか九種である。
錬格注紙、官教紙、公事紙、草注紙、 啓白紙のほか四種が載っている。
このほか、用途によって紙の種類を分 類すると、筒紙、周紙、半折紙、封筒紙、
壁紙、壮板紙、塗壊紙、詩筆紙、封物紙、 試紙、草紙、婚書紙、杏文紙、表紙、印紙、 本紙、薬幅紙、窓戸紙、画本紙、扇子紙 などがある。
そして、紙のサイズによって白紙、壮紙、 大好紙、小好紙、三畳紙、龍扇紙、佐清紙、
鰐翼紙、白綿紙、雪花紙、原白紙、持接 紙などがあった。
純倭紙という紙は韓国固有の紙ではな
2 7
いように思われ、一四二八年世宗時代に 日本から輸入した製紙術によって作りは じめられたものと推測している。 格注紙は、朝鮮朝に格貨として使われ
まず、紙を利用した服飾があるが、紙
なものがある。 油彩というのは、油紙で作った雨着であ
紙を撚って作る紙撚を紙縄というが、 これで円形の行李や龍を作って使用した。 とくに種子を入れる龍には紙縄で作った ものがよいとされた。
せると防虫効果があるので、紙箱、紙袋、
紙匝など、小さい紙物に使われたりした。
また、大きい物としては紙たんす、紙能 があるが、衣類窪田用に多く使われた。
とい、っ。 そして、紙で作ったとばりに紙帳があ
主に国境を守る兵士の軍服に用いられた
づくりの袋と引き出しがいくつか付いて いて、この引き出しには指貫面が入れで
切れなどが入っており、あるものは、紙
五色の色紙を切り取って貼った紋様のき れいなこの色紙函には、各種の生地や布
たんすの上にいろいろな形の三合(種)の 色紙函が置いてある。藁紙で A 同組を作り、
主に奥の問で使われた紙たんす、紙龍、 紙臣、そしてパンダジ(上部だけに扉があ
注紙、玉色格注紙、紅色格注紙、草緑格
り、紙製の財布を紙袋と言った。紙で鎧 も作ったし、箭筒(矢筒)、火薬筒も紙で
大抵の家柄の家の母屋には、枕もとの
注紙、青樟在紙、黄格注紙、翠紙、機紙、 銀面紙、青色紙、金粉紙などがある。
作って使用した。紙製鎧、つまり紙甲は、
層たんす、 パンダジ、衣服たんすなど、 比較的大きいものがあるが、一方、筆、墨、
れて作った冬服であるが、この着物は、
り、紙笠は艶帽に使われた帽子のことで ある。また、紙衣は、綿の代りに紙を入
紙を利用した各種の工芸紙を作る材料 も多彩で、材料によって用途が異なる。
あったが、これも同じく色紙函で、その
硯を入れておく硯箱、書類を入れておく 書類函、机などの文房具類と、網巾筒、
た紙であるが、格の皮で作られた。格注 紙は、染色によって黄染草注紙、務青草
察倫が古布で作ったという布紙、魚網で 紙を柑接(紙を幾重にもはりあわせるこ
中に色とりどりの布で作ったきれいな指 貫が串のようにさし遇されているのがよ
れた。色紙工芸には枕もとのたんす、三
紋様、日月紋様、そして各種の花井紋様、 朔毛と樹木紋様など、華麗な紋様が施さ
などは、色紙を草花紋様、格子 るたんす) 紋様、竜鳳、雲鶴紋様、百字紋様、燕尾
作った網紙、生布で作った麻紙、藤で作っ と)して、約二す平方の鱗状のものを作っ て鹿の草紐で結わえて漆塗りをしたもの である。
笠匝なども紙で作られた。 韓紙に染めた青、黄、白、黒、赤の五
た繭紙、格で作った格紙、樹皮で作った 穀紙:::などがあるが、書籍用の紙とし
くみかけられた。 紙は湿気に強く、 それに油を染み込ま
ては竹紙が主流を成していた。このほか にも、紙の用途によってそれぞれ特性の ある紙が使われた。 紙を利用して作った器物には次のよう
2 8
本 主 弘 吉 O1 ' s (
ヘヤ
b
E
8 2
初
種類の色は、五行思想による基本色に合 わせて作られたものであり、このほかに も中間色の各種が作られ色紙工芸に使わ れてきた。 韓紙を材料にして作られた色紙工芸品 は、独特な質感と用途、そして各種の意 匠紋様が施されて、多彩であるのが特徴 である。つまり、わが国の美術で全般的 に特徴となっている単色の趣向の中で、 色をあらわす工芸品としては代表的なも のといえる。 色紙工芸品は、男性用品と女性用品に 大別できる。男性用としては文房具類が 大部分であるが、筆入れ、机、硯床、紙筒、
手紙袋、財布、笠臣、網巾筒などがあり、 女性用品には、折紙、色紙箱、針箱、進
物箱、四柱箱、装身具箱、色糸箱、お騰、 果物盆、テーブル・クロス、たんすなど
があって、一層多彩であった。 昔は、新婦が嫁入りのときに持って行 く嫁入り道具の中で抜かすことができな いものに色紙箱があった。箱の中には各
種の小物などが入れであって、枕もとに 置いて使用される。箱類の形は、直四角形、 正四角形、六角形、八角形など、多彩で ある。針箱は閤房七友といわれた物差し、
鉄、糸、針、指貫き、糸巻、裁縫鍾など、 針仕事に必要なものの一切を整理して入 れておく箱、だが、その形も同じく多彩で
ある。
1 3
進物函と四柱箱(婚約して新郎の家から
新婦の家に送る新郎の生年月日を記した
書状を入れておく箱)は色紙工芸の代表的 なものの一つである。進物箱は、新郎側
から新婦側に送る綿織物(これを礼鍛とい
う)と礼物(贈り物)を入れる四角形の大き な箱で、蝶番を付けて華麗な色と紋様を
施してある。また、よく四柱単子(四柱書
状)を入れて送る四柱箱とつがいに作られ
いう。器物の骨組を木材あるいは厚紙を
た。ここに紋様を施す技法を第紙技法と
重ね合わせて付け、その上に白い韓紙を i三重にかぶせてて下地の色紙を貼っ
一 一 たあと、五色の韓紙を折って、紋様を彫 刻万や鋲で切り取って拡げると、左右対
称の華麗な花の紋様などができあがる。
その紋様を付けて意匠を施す手法が特徴
である。 このほか、紙で作られた紙物は、昔の
生活器物としてどこでも見かけられるほ
カメ
ど多様に使われたのである。 また、米、大豆、小豆、緑豆など、穀
る。紙賓というものだが、これは紙を蒸
物を貯蔵する聾も紙で作られたものがあ
して揚き砕いて作ったカメで、それを油 に染み込ませると虫よけになるばかりか
湿気にも強くなる。そして、油を染み込
ませて作った紙灯龍や紙灯は、軽いので
持ち歩いたり移したりするのに便利であ
るだけでなく、韓紙に映る光は、{季内の 雰囲気をもりあげるうえで最も適してい る 。
古い言葉に﹃紙千年絹五百年﹄というこ とばがある。韓紙の寿命は千年、絹の寿 命は五OO年というのである。わが国の
いほど強く堅固な特性をもっている。
韓紙は、幾重にも重ねてはり付けると堅 固さが鉄のようで、矢も突き抜けられな
3 2
糸や布切などを入れて置く女性の手回り品14X 加 n1 9 世紀作
壮紙を桐の実の油を染み込ませて作っ
た油紙で袋を作って、旅行の荷物の中に 入れて歩いたりしたが、婦人が内密に持
ちたがる小物を入れるのに使ったという。
このように、生活周辺で便利に利用で きる器物が、紙で作られたということは、
わが祖先の質素で倹約的な生活信条から 出た精神的産物といえるが、また、その
中で韓国美術が持っている素朴な味わい と美しさを見出すことができる。
朝鮮時代末期に一時、書冊をちぎって、 その紙を撚り、各種紙縄器を作って繍ゆっ風
習が盛んだったらしい。それで当時のある
主告は、そのようなことが続けば古書が 実μ 全てなくなってしまうだろうと嘆いた記録
も残っている。 朝鮮時代、各地方で産出された特産品
は、全州の簡壮紙(手紙を書く壮紙で折っ た紙、この便装紙は封筒も同じ壮想、南
平と南原の扇紙、寧辺の白露紙、平康の 雪花紙が有名だった。 わが国の紙は、靖たけを材料にして作
られているので強く、砧打ちしてなめら
かに仕上げる。
各種工芸品だけでなく、建築にも色々 と使われた。最も代表的な物が窓戸紙(障
子紙)だが、韓国式住宅の障子に韓紙を貼 ると、灰かな光が室内に映え和やかな雰 囲気をかもしだして安定感を与える特性
がある。それに韓紙は紙や灯龍用に最も 適している。韓紙を障子紙に使用すると、 紫外線をよく透過させ、室内空気が清く
なり衛生的であり科学的である。また、 韓紙で各種工芸品を作って日常生活に利
用すると、湿気を吸収して悪臭を除き、 腐敗を防いだ。とくに、韓国人のオンド
ル構造で発達した壮板紙は、極めて高い 文化をみせてくれるよき例であろう。
3 3
, JA O代少年の頃(一 F 、 金永福氏は 一 レ 九 一 。年代)から故郷近くの寺 -PEFの老僧から紙縄(こより)工芸を 習った。かれは一生この工芸品造りを続け た。余暇を利用してタバコのケ1ス、将棋 の駒入れ、花瓶、財布、あるいは書類カバ
ンなどを作った。そして自分の腕前に感嘆 する友人に分け与えたり、あるいは家族用 に保管したりした。 韓民族受難期の日帝植民地時代には同 族の福祉に深い関心をもっていた。名声 ある漢方医であり、さらに村の有志だっ た金氏は、自らの技能の値打ちを確信し
工芸の とその 韓紙の伝統工芸の素備らしさJ L魅ぜられた二人の工芸家、 紙締工芸家の露英俊さん乍占と努紙工芸家の
L 対する愛情とその 尚碁洛さん雫し)。彼らの伝統工芸J 思い以・ イギョ ン
李慶姫(自由査費ゑ)
3 4
ていた。しかし、かれ自身が伝統一一芸を 永遠に維持するためにその流れをうけつ いだとい、ユ事実を認識するまでには数十 年の歳月を要した。 かれの孫の嫁で握英俊さんは、ただ一 人の技能伝承者である。金氏の紙縄工芸 作品を見ると、だれもが韓国在来の椿の 韓紙の信じがたい特性に驚かざるをえな い。紙製の花瓶は水が漏らず、簡潔で古 典的なデザインの財布はだれもが欲しが る品である。書類カバンは現代のファッ ション・ストアに陣列してある高価な皮 製品みたいに堅固に作られていながらも 手触りも至極くやわらかい。作品一つ一 つに打ち込んだ驚くほどの労苦と愛情が 想像に余りある。技能伝承者の崖さんは、 じ、こう語った。
忠清南道洪城の自宅でインタビューに応 ﹁この紙縄作品は思ったよりはるかに耐 が、これらの作品は焼かないかぎり壊れ
久性が優れています。信じないでしょう
堅固性と耐久性のほかに、紙縄作品は
ません﹂ 安らかな感じを与えてくれるが、それは 親しみの持てるデ、ザインと落着いた色合 いのせいなのだろう。その堅固でやわら かな織物はまったくの手織りなのである。 手織り作業も実に物倦い準備作業を経 た後でやっと始まる。格の韓紙を幅一・ 五センチ、長さ二五センチ程の大きさに 切る。両手の親指ど人差指でよりをかけ て紐状にするが、両指は随時濡らさなけ ればならない。そしてこれを 丞 J 宋とし縦 には一巻きの糸でよる。手織り作業は底
糸(経)には二巻きの糸を一緒に横糸(緯)
に戻って作業の始まった底面の中央部で
面から織り始めて上方へ進み、再ぴ底面 締めくくる。
3 5
全過程を通じて必要な道具はペー パー-ナイフ(紙用の刀)と錐だけ。錐は 手織りの途中、引き締める時に使われる。 最後の仕上げはラッカー塗りである 。防 温と耐久性を高めるためラッカを塗るの
余りにも時間と労苦を要しますが、わた しの作品を売る積りは全くございません でした﹂と彼女は付け加えた。被女はこの
である。
﹁わたしが始めて祖父にその技能を習い たいと言った時、たいへん喜んでいたこ とを今もはっきりと覚えています と O L 四 代初めの主婦である彼女は語った。それ に彼女は地域社会の青少年問題のために もボランティア相談役として活躍してい る 。 故金永福氏は少なくとも初期の段階で は、決して親切な先生ではなかった。祖
分野では﹃人間文化財﹄に指定されたただ 一人の工芸家である。それで道庁から受 領する毎月の国家補助金を費用にあて
と思っている。
父は正確な基本技だけを教え、被女をほ めるどころか、しばしば叱りつけた。彼
がっているが、資材代が安いのですべて の費用をまかなうことができてなにより 崖さんは一九八六年祖父が他界した後、 望んでいた称号を得た。彼女は故金永福
女は自分の作品を彼に見せるのを恐れた。 それで祖父の足音が聞えてくると急いで
叩﹀Z
りした。
障子の影に隠したりしたものだった。そ
うしたある日、彼女の造った花瓶が彼の 目にとまった。祖父は微笑を浮かべて﹁だ
れがこんなにすばらしいものを造ったん だい?﹂と聞いた。 ﹁それ以来祖父の態度は全く変ってきま
した:::﹂崖さんの回想は続いた。﹁祖父 はまわりの人人に﹃あの子の腕前は俺より
も優れている﹄とまで激讃するのでした﹂ そして彼女は遅まきながらそれが自分へ
の祖父の教育方法だったのだと始めて 悟ったそうである。 彼女は最近その地域の主婦たちを相手
椀財布、花瓶、お盆など様々なった
緒紙の古本を成って紙維を作り、ぞれを編んで呑炉、
氏と共に長い間熱心に仕事をしたお蔭で、 指紋すら失ってしまった。
香炉、ブラシ、ホ1ルダ 1905巾 吋 ) 、 ティ 1 ・テーブル、針箱、財布、花瓶、 お盆などが崖さんの好んで造る作品だ。 積女の話によると、香炉とかティ1 ・テー ブルなど大型作品の製作には三カ月以上 を要し、花瓶のような小物は二O日以内 で完成できるという。﹁各作品の完成には
﹄
r J Tmw
-
3 8
3 7
に講義を始めた。礼山郡(忠清南道)が主 催する木曜日の講義には、同地域の主婦 五O余人が参加している。﹁これはわたし にとって全く新たな経験です。﹂彼女はこ れまでは隣り近所の主婦や、ちょっと関 心を持っている人が教えてくれと頼んで もおいそれと応ずるわけにはいかなかっ た。何故なら﹁これは退屈まぎれにできる ような仕事ではないのでお断りしたんで す﹂と付け加えた。 むかしは紙縄工芸を熟練技能人だけで なく、広く一般の人々もたしなんだ。 ヤぷパン 両班階級のご隠居さんも暇の時にはタバ コ入れや将棋の駒入れなど簡単な物を 造った。この工芸はご隠居さんたちに暇 つぶしの方法を提供するだけではなかっ た。手がやわらかに触れ、指を休まずに 動かすので健康の足しにもなった。古本 をたくさん所蔵しているお寺の坊さんた ちも、これが暇つぶしには絶好の方法で あることを何時かな体得した。 手に入れやすい古本で制作したむかし の作品は、印刷された文字のお蔭でその 殆んどが濃い灰色とか黒い点などでまだ らになっている。それにこんにちでも印 刷された紙を使うのが紙縄作品の土俗的 な味を生かすというので、 一つの伝統と して残っているのである。 紙縄工芸とは概念や技術の面で全くち がうのが五色勢紙王芸である。こんにち 韓国人にもほとんど知られていないが、 色を染めた格の韓紙を見事に切って造っ たものである。空想的なパターンに飾り つけた多彩な色合いの化粧品箱、手紙入 れ(ファイル)、衣類箱などは数十年前ま でも大抵の韓国家庭で見受けることがで きた。 ソウル南部、江南の繁華街に位置した
い色彩と形をしているしごく多彩な伝統
尚基浩さんの作業場では、いずれも面白 工芸品を自にすることができる 。このよ うな所は今日の韓国では滅多にない場所 である。四三歳の尚さんは長い努力のす え、同時代の韓国人美術愛好家の聞で、 自分の技能と名を広めるのに成功した独 学の工芸家である。﹁それこそ偶然な機会 に努紙工芸の美しさを発見しました。﹂尚 さんの話である。一九七0年代の初め尚 の時。彼は人々が見向きもしない古ぴた
3 s
さんは父と共に骨董品屋を経宮した。そ
あり、 その工程は忍献を必要
とする。紙紐を作りそれを編 んで、作品を作り上げていく。
紙箱を発見した。﹁色は槌せているものの
紙縄作品は全てが手織りで
0 4
韓国人以伝統的じ老掃と以健康、夫婦闘の愛情、 多くの子
ι
ども 恵まれる乙とと考え、 ぞれらを動物ぞ植物じシンボ
ヲイズ化して宇宙のすパての物質を形成する五つの基本要
描き入れた。 L 素を表す赤、育、黄、白、黒の五色で作品J
特別賞を受賞、それがかれの作品に対す ﹁思ったよりも簡単でした﹂尚さんは一言ロ ぅ。﹁色調とデザインに対する鋭い目が必
政府が毎年主催する民俗工芸品展示会で
だった。 尚さん自身にとっては、この工芸の習
る人々の反応にも急激な変化をもたらし たのである。かれの借金 一切を返済する
買する品物の中で最も安いものだった。
要ではあるが複雑な技術は要らなかった。 これがわたしがつねに弟子に強調する点
した。
得は一つの楽しみであった。しかし、こ れをもって事業をすることは全く別の話
にはきして多くの時間を要しなかった 。 そして、より大きな喜びは、自分がそれ
それらの箱は高価な絵画や陶磁器に熱中 していた多くの収集家にとってがらくた
民俗工芸よりも簡単なものだと思ってい
世代に伝受される大部分のほかの民俗工
実に美しい﹂と思い注目するようになっ た。それらの紙箱は当時の骨董品屋が売
である、かれは作業に非常に多くの時間 を費やすようになり、時には完全に没頭
にすぎなかった。 尚さんはそれらの箱が魅力的に見えた
るので、子どもたちの余暇の利用だけで なく、韓国工芸の伝統を理解する方法と
耐えがたい貧困と挫折の歳月が数年間
です﹂尚さんは、この工芸が殆んどの韓国
ので、みずから作ってみたくなった 。し かし、この工芸を教えてくれる人もなけ
して習得することをすすめている 。むか しは、専門の技能人は売るために品物を
芸に比べ、わりに簡単な技術で事足りる という。それにもかかわらず、土俗的で
が余りいなかったので、間もなく借金が たまりはじめた。
決して孤独な戦士ではないという事実 だ った。 尚さんの話によると、この工芸は次の
程愛していた染色工芸部門でこれからは
れば技法を記述した本も見当らなかった。 独りで習う決、少乞したかれは、かなり多
もつづいたがこうした暗い生活の末、思 いもよらない変化が訪れた。一九八六年、
するため、繁盛している庖を閉めたこと すらあった。かれの作品を買いたがる人
くの箱を解体して、それらが始めからど
造ったのであり、主婦は趣味、あるいは 日常生活に使うために好んで造ったの のように造られたのか正確な方法を研究
4 1
象徴的であり、多彩な想像のパターンと 明るい色彩の配合により特徴が生きてく るすばらしく魅力的な作品が生れてくる と言、っ。 作業の手順はフレーム(枠)の準備とパ ターンの切断で始まる。むかしは文房具 箱とかブラシ・ホールダーのような小物 のフレーム(枠)は、格の韓紙を重ねて望 みの厚さに糊付けして作った。しかし最
ひっ
近では段ボールのフレームが便利な代用 品になっている。 木のフレームは、一般に大きな植とか テーブルなど大きな品物に使われる。木 のフレームの表面に韓紙を重ねて貼りつ けるが、ときには望む特定のパターンを 装飾パターンの切断と作品の表面にそ
浮彫りにする。 れらを適用する作業には経験と技術だけ ではなく、美術的感覚を要する。まず紙
4 2
の上にパターンを画いた後、鋲やナイフ で切断する、複雑なデザインの入り乱れ
た繊佃な韓紙の織物は、熟練した工芸家
にも容易な作業ではない。この工芸が伝
統的な民俗図でもって大衆的主題を表し、
永遠な願望の象徴的役割を果した点は注
古代韓国人の間では長寿と幸福に対する
韓国人の伝統的な見方からすれば、幸
目に値する。
福とは健康、夫婦問の愛情、多数の子供、
尊敬される社会的な地位そして安定した
生活状態だった。彼らは自然の中で丹頂
鶴、鳳風、菊の花、ぶとう(葡萄)、ぎく
ろ(柘棺)、蝶、こうもり(煽幅)などが彼
らの願望の実現に助けになると考えた。
古代の東洋哲学における調和と対比の理
想としての太極マ lクはいまの韓国の国
にもしばしば表現されている。
旗に現われており、古代の努紙工芸作品
大抵のこのようなパターンは、スタイ
ル化した対称様式として現われている。
時たまそれらは、古代の金属工芸作品の
に使用されたりする。すべての複雑なパ
優雅な彫刻を思わせるアラベスクとか幾 何学的背景の見事なホ ットワ lクととも
一層堅固な耐久性のためにラッカーを塗
ターンを貼りつけた表面は、つや出しと
の実などからとった油を使用した。
る。むかしは胡麻、松かさの実、豆、桐
その名の示す通り、この工芸では色彩
が重要である。五つの基本色は五つの基
本方向、あるいは宇宙のすべての物質を
形成する五つの基本要素を象徴する赤・
青、賞、 白、そして黒色である。古代の
工芸家はいろいろな植物と鉱物を配合し
た自然染料を使用したが、尚さんはもち
ろん殆んどの現代工芸家は工場で生産さ
れた色紙を使っている。
4 3
李竜雨(美衡評論家)
FEH-Tmw叩﹀Z
--
ぴ起こしがたいのが事実である。現代美 しかし現代美術の中での紙
会芸術の示す美的感覚の分類方式が大き
的な素材に認識されていて、後期産業社
用の度合にとどまらない。産業社会の多
く変化していることを示している。
術は紙を媒体とする印刷媒体がより積極
様な媒体と材料の拡張は数多くの素材が
紙に対する探索は伝統的なものであれ、
は上で列挙した伝統的概念の利
面作業概念とだけ認識されてきた紙は、
的・量的比重を高めている。紙が単なる
現代的なものであれ、すこぶるデリケー
察倫が紙を発見した A D一 O五年以後、
絵画の土台になるという事実はあまりに
トであった。かりに韓国美術が紙と結ん
むろん今日でも平面絵画の相当数が キャ 。 ンパスや紙の固有機能を利用する場
経之大方広仏華厳経も一一一OO年以上保
で、国宝第=ヱハ号の無垢浄光大陀羅尼 経が紙の遺産であり、国宝第 一 O号の写
美術の名目で登場して、形式と内容と質
すでに西欧でも ﹃ 紙の作業﹄言。長 S 官 官﹃)という独自の領域を確保しており、キ ャシパス一本やりの西欧の平面絵画のジ
も古くさい話になってしまったのである。
合が少なくないが、キャンパスや紙が絵
守簿作ロポ苦合4 4 ・一 窓為謙一切諸豆
一枕校後怯付 A令 P 伏匁 一 J
河崎京箆泌一 虫 色 mm 一
一 総会建李均一
報菜案成熟蓬一 日 一 一会議尋-堂義一
i A A山家↑ 菊池町込葵衣 一宥稜省内笠号吾、 一会期判決等乃桜竪
警護教委池 一
一家足後特務犬・番
一機託乙品加わ吾妻ず十
な紙は単なる記録的な保存手段としてだ
存されてきた紙の遺産である。このよう
け存在したのではない。東洋人は紙と墨
したがって存在の画論や書法を説明す
とが出合う事実をきわめて思惟的概念で
ほど多彩なメディアとして利用されたう
筆﹄と るくだりでは、﹃禅筆﹄あるいは ﹃ 雲一 いう説明をつけて哲学的メッセージを琉
紙が東洋三国の主要材料として開放さ
. ぇ、東洋美術史の主なジャンルは紙の上
調した@紙と触れ合う筆は単に描くとか
れ、それが芸術的混用の価値を発揮して
これはキャンパス五OO年、紙一 000
に描かれる美術形式が主流をなしてきた。
書くのではなく、紙の上にたわむれると
受け止めており、墨と紙が交成ザすると考
年という保存概念にふさわしく、東洋材
か、人格を修養するという意識を持たな
えた。
料に対する一種の誇りとして認識されて
日本の伝統絵画は﹃紙絵﹄呼ばわりされた
だ因縁の輪はきわめてねちねちしたもの
は多様に利用されている。そのうえ繊細
画の基底となる美術は積極的共感帯を呼
など、デザインの積極的要素として作用
な感覚をもっ紙の触感はファ ッション・ デザインや版画やパッ・ケ lジ・デザイン
やソフト・スカルプチュア(帥 Oご田口 巳宮尾市)でも紙が適する媒体としての機能
々ンルを拡張している。また、設置作業
14J.増大している。東洋絵画の平
4 代美術で紙の占める材料 -Ea. vrEY としての重みは日を追って
と
きたのは周知の事会穴である。韓国、中国、
している。
、 h
紙
~~
1
,
紹介された。そ乙にナンシー・グラヴァスの作 品(左)とロパート・ルクセンブルグの作品(上)が 出品された。
の土壌格といえる紙の用途から推して、
れることを指している。ここで活字媒体
媒体によって、社会が一定水準に養育さ
どの映像イメージと新聞、本などの活字
広告や映画、コンピューター、テレピな
のである。このメディアは、あふれ出る
感覚と情緒に突っ走ることを予告するも
おけるおもな機能が情報化社会の総体的
づいているのは、二一世紀の政治社会に
最近メディア作業が東西を問わず活気
なく、聞かれた通路を通じて共有する感 性を液過することにある。 .
H初年に開かれた「ソウル国際美術祭Jで穂紙が
ければ完全に出合えないという考え方 だった。 また、これは表現万能ではなく、表現 が生成されるまで克服すべき作家の成熟 したがって、墨は単なる黒色としての色
. なかろう。 議 が その用途が東洋美を多方面で立証する 造形的変数をもっているとしても、韓紙 はあくまでも紙の 一分類であり、素材で あり、積板的解釈の対象なのである。し たがって、商標包装ダザインや視覚デザ イン、ファッション・デザインなどの応 て認識されており、活用度も高まってい
用美術分野でも、韓紙は 美しい素材とし る。現代美術の総体論的感覚構造は、ま さに美的具現の方法がモダニズム時代の
1
/そ _P
した意識を尊重するということである。 彩概念ではなく、白い紙に悟淡と出合う 哲学的精製過程としてあらわれる。これ はロシアの絶対主義芸術家(印石市﹃呂田片岡弘)
30
2E︼ ) の カジミル・アレピチ(穴関宮町宮田一 純粋非対象(吉﹃ ogR号芝)的解釈に 目 ロ 出合う。 紙と墨との出合いも同様である。紙の
上にあらわれる墨の染みを西欧人は墨の 墨の染みが深まり、 色が深まったと表現
線が広がったと表現するが、われわれは する。芸術作業に用いられる韓紙(同Rgロ
EH5巾﹃弓宮宮司)はこのようにパルプで大 量生産する紙とは本質的にちがっており、 る 。 芸術を熟成させる特徴をもっ︽小一 三年前、ソウルでは韓紙を素材とする
1
ソウル国際芸術祭が開かれて、韓紙が芸 術といかに出合うかについての造形的実 験があった。紙の使い方が文化水準の尺 せる契機だった。朝夕に出合う紙、情報
度であることをいまさらのように認識さ 伝達の直接的媒体でありながら J生の歴 史を記録する紙が表現手段であるか、そ
その結果を見ると、西欧
れとも感受性の打診であるかを実験する 毅穣だった。
性近くに接近する様子
作家がわりあい紙の精神 を見せており、中には キャンパスのデッサン
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情緒のように縮小されるとか、一方的で
4 5
(下絵)くらいに認 識する場合も 4あった。とく
会業いしあそすた 意と料洋獲とでうど せ聡家宮ト 5 7を に の 杜 意 て た づ る も 韓 義 T の 的 と な 確 視 う 同 て 的 と 5. 雪 し 中 直会味いたく紙の国が ・ 拡伝しっ認角い展く 1 i同 E L g て国 替 の で る か 立 製 が 人 あ 大 t統 て た さ を う 零 れ 法 様 g ラ 平 き で 思素いとい{玄作あのつき普のはがせ実ふ会たモ、宮ゥ門た数 媒材え信生受技る韓 f こな及材東、る滋うは。接韓邑セ暴ナ年 介のばじ、さ体。紙 且誼... 収 恒 人 に 、 .近紙tz. 、、〆あ 体中、る白れ 韓に ・ ・幽 k 来 の 受 韓 しの ン 干さ にの. やか衣て王国対 4 ・・・・・・畠 目け紙 て属数パ展 1 解 ー は ら 民 お Xの す 4・・・・・・・・b 取 と 、性人 I 示 ・ 生 釈つりで族りか伝る 掴圃・・・・・・・I L るい 熟との l 峯グ活 さで韓あの、し統愛覗・・・・・・ でう 達食作グ言レし れ あ 紙 る 息 紙 か 的 情 ぁ 素 [ t~ 家(催イな るりも。吹は与方は 司 ろ 材 た 記は 烈しさが 点 ・ 、多しき韓今法並 4・・・・・・・・E う を 腕出東。たさら に情忙かを国日では 圃 ・・・・・・園田F か 西 前合洋ヴロ冨紙 は報迂し代人ま製ず ー 冒・・・・・・F と欧 もう美士パ自作 異杜産広弁ので作れ 明暗F甲曹司騨t いで 見 隠 桁 ム I. ' ; j 業
二一世紀の変形された美学的価値の先端
的に利用しただけで、紙の製作に至った 除去する。
で、その原理と成分はいまもって明らか
である。秋に刈り入れて軒下につるし、
にされていない。
保つことである 。次に蒸した白皮を水に
翌年にこれを砕いて水をかけ、足で踏み
この時に注意すべき点は火気を一定に 浸して灰汁を除去し、この塊を臼に入れ
えない。 とはニ -P 韓紙は格で作るということで格紙とも て揚くか叩くのである。この原料を水桶
くだく。この時に根からねとねとした粘 液質が惨み出るが、これを布に包んで絞
素材になることは明らかである。 呼ばれており、楕紙は播の樹皮を原料と
に入れて希釈していら、黄奈と呼ばれ
ルク色で、ジエリーのように粘り気があ
り出したのが黄察である。色はうすいミ
この黄奈はアオイ(察)科の一年生植物
する。韓紙の奥深きにふさわしく、椿は
る植物性のねとぬととした粘質と諺出液 を入れると措紙が出来あがる。この場合、
古代エジプト人は、ナイル川岸に野生 するパピルスというアシに類似した植物 根が深いのが特徴である。桑科に属する
格紙は一枚ずつ作り、一日中作ってもせ
あ︿
繊維を利用して記録の道具に使用した。 柑は、西洋の紙製作方法では紙を製作で きないのが特徴であり、繊維質が長く強
とろろあおい
ているが、高さはこi三メートル以上で、
このパピルスは今もナイル川岸に野生し
靭で、相互結合する特徴がある。格紙の
る大衆消費社会の紙がせいぜい五O年か
耐と真心が要求される。パルプで製造す
百紙とも呼ばれるほど、韓紙は職人の忍
るからである。賞察研究で博士学位を取っ
成分はすばやく紙の中に溶解してなくな
ぜて乾く途端に黄察の使命が終わって、
究明できずにいる。その理由は、紙に混
るが、はっきりした成分の分量、正体は
る。黄慈市を研究する日本人学者は多数い
いである。エジプト人はパピルスの茎を
いぜい六枚から八枚が限度である。
太さはまわりが一 0 センチメートルぐら
いて適当な長さに切り、これを束にして
製作過程を見ると、まず茎から小枝を除
この樹皮を黒度といい、その表皮を剥
ら一OO年の寿命を保つにすぎないが、
九九回も手をかける仰で、これを一名
てから乾かし、それを記録用に使用した。
切り取って縦横に組合わせ、接着剤を塗っ
がしたものを白度という。黒皮を白皮に
から蒸したあと樹皮を剥がして乾かす。
する方法を見ると、まず黒皮を水に浸し
いて酸化や腐蝕の進み具合がゆるやかで、
韓紙は高度のアルカリ性成分からなって
たく行われていない。これは、すでに韓
この方法が考案されたのは、およそ二五 記録用材料としてはパピルスが最高のも ので、中国の紙製作法がヨーロ ッパに伝 てやわらか︿してから、ナイフで表度を
紙が大量生産を必要とするほど需要があ
OO年前であるといわれている。当時、
わった八世紀ごろまで、地中海沿岸から
それだけ寿命が長いのである、ここで紙
韓紙の製作過程は機械化、産業化がまっ
た韓国の学者もいると聞く。
小アジアにかけて広く普及されていた。
剥がして乾かす。白皮を水に浸してふく
を粘着させる黄察はまったく奇妙なもの
活用度も高まっている。
らましてから釜に入れ、ソーダ灰と苛性
韓紙は美しい素材として認められており、その
それゆえ紙の起原がパピルスであるとい
ファッションデザインなどの応用美術分野でも
ソーダを添加して蒸す。そして異物質を
現代美術の世界で包装デザインや視覚デザイン、
う説もあるが、木という材料だけを一次
朴栖甫さんの作品位炉法NO . 8 81 C 〉 用
4 6
るわけではなく、限られた用途をもって いるという意味である。また韓紙を大量 生産するには格の栽培が追いつかない 。 そのうえ大量生産する場合、レディー-
E
島市)の一律的複製品機能 ﹃g身 ( メlド 以外に芸術的用途を見出せないという考 えも働いている。詩碑紙を製作する職人の 労苦が適切に注ぎ込まれなければ、その 生命力に問題があるとみられるのである。 質感が粗雑でありながらも重味があり、 重味がありながらもちがった味合が求め パンソリ(韓国の唱劇)で歌い手ならぬ
コ ス
現代のように大量生産される紙に無暗
で書く筆、手でする墨など、誠のこもっ た書信をやりとりしながら人知れぬ感性 の世界を培ってきた。
ある。われわれは鼓手の適切な伴奏と合 の手は録音が代行できるが、この場合、
やたらに書くインスタント文化は存在し なかったのであり、その簡札は 大切に保 たれていた 。 この筒札は宮廷文化や上流
鼓手(鼓を叩く人)の役割は、パンソリの 芸術的センスを感じさせるアキレス臆で
それはすでにパンソリではない。そのう えパンソリを歌う者の興は醒めてしまう。 絵画での顔料一滴、一点の筆のタ ッチが
よって生命力を継承している 。とくに伝 統文化に対する認識が日を追って高まっ
も製作過程の特徴と綿綿たる歴史性に
現代美術はあまりにも多様化した材料 概念によって、紙と深く関連していない ように見える 。しかし韓紙は、なにより
ており歌調文学や書簡文学を開くうえで 大きな貢献をした。
社会の習性を知らせる 資料的価値をもっ
芸術的用途が多様な紙の製作過程は、 韓国や日本、そして中国がみな類似して いる。それはほかならぬ手工作業が必要
と同じである。
重要なのは美の均衡のためであり、それ が守られるのは細胞組織の亀裂を防ぐの
韓紙製の封筒
であるということである 。 このように共 通していることは、韓国、中園、日本が 一様に紙を芸術的生産過程を経た芸であ
のもとに展開される兆しを見せている。 文化は生態学的に源流を探し求めてさか のぼる。先端社会の先端媒体がどしどし
中国紙や韓紙よりはるかに鋭い感じを与 える。そして色 彩感もきわめてはっきり
日本紙は見た目にきれいで、墨の染みも
える。韓紙は 墨が深く染み、つやがない 。
るかに複雑である 。かと思うと、韓国の 紙は淡白でありながらも丈夫な感じを与
中国の紙は多様な技巧によって多様化、 分類化して、韓国や日本の紙に比べては
最高のものと考え、宣伝する。 そのような認識と解釈には一理がある。
現代芸術と紙はそういう意味で積極的に 隣り合っている。
の尺度を測定するとき、韓紙の固有領域 を説明するのは比例値をもっといえる 。
一国の造形芸術の水準を評価するときに 美術舘数を数、えると同様に韓国造形芸術
観賞者の慧眼によって 左右され、文化意 識の尺度として息づいているのである。
韓紙の生命はそれとともにする芸術魂ほ ど強靭であり、製作者の誠、芸術家の深み、
開発されても、韓紙の領域は固有である。
ているなか、その波及妓果も新しい次元 ると認識していることを意味する 。この 東洋三国はそれぞれ自国が開発した紙を
している。紙の特徴を見ただけでもそれ ぞれの民族性が見分けられるかのようで ある。 昔から東洋 三国は、紙を見ただけでど の国の製品であるかが区別できた。それ だけ芸術行為と紙は密接な関係をもって いたのであり、平面芸術が核をなした過 去の代表的な媒体手段であった 。とくに 簡礼文化が発達した 三国は手製の紙に手
7 4
られるのである。
総紙は産業社会の素材のひとつとして認織 され、その用途が多様化し現代社会の中で織々に活用されている。
.r唱~・』
李英姫之んのパリ・プレ?・
のあいだツウルのハイヤ ヴト s ア帽 ホテルで催されたデザイナ ー
‘4 ポ止テ・コレクション参加記念帰国発表 会島常終舞台には紙製め純白なウエディ ン眠・ドレスが登場Lた。﹃紙の研究家金 幽帯キム・ギョシグ)先生が楕紙七O余枚 動齢制作した世界最初の紙製ウェディング
には不思議な見世物に映ったのだろう。
穂町レスである﹄と司会者がややうわず令た 芦で紹介するや、客席から一斉に大きな 拍手が起こった。普通の繊維でほ表現で きないトンボの羽のような紙衣裳が観客 昨年東京で開催された東京コレクJ H V に紙衣裳六点を出品したデザイナ李信 h t 一附さんも金卿さん(六九歳)から材料を提 供Lてもらったという J金さんは五O年 このかた韓紙と共に暮してきた圏内唯一 V 四 の韓紙研究家である σ発点喰会仁つ Uで 月二一日から五月一唱にかけて、ソウル ヒ寺洞のギャラリLで闘機された韓紙作 品展﹁韓紙の芸術世界﹂では、金さんの韓
紙研究の結晶といえる紙製作品四O余点一 . が展示された。これら作品の材料と五 0 たのは壮紙、蚕輯紙、宝島田紙など、川円引が
のようじ 、 , 戸 E晶司l i、
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葬訴 胡な {
J、判阿 川
時代の貴族が身じつける装飾品の包装紙
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仇もで韓紙であづ討。 ﹁古慌が一一一団時代からわが国の紙は中国
っていた。もう一つの壮紙は、 などに線、 紙質の厚い、丈夫な韓紙のこ' とである。 この庵展示された、これトりの伝統韓紙は、
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母も優れた質をもっ 知ら机吋その伝統 h札 ば朝鮮時代まで受継がれました。L 大量生産される洋紙に締め出され いる
水に漬けて港かしな ・ 金卿さんが古い紙を' がら製造技法を二三官学び取ったあと守 主らピ改良したものである。蚕繭紙は楕
いまでは、良質の韓紙除名称だけを残L たまま場え去りまんた﹂と金卿さんは無念 そうだf蚕繭紙も玉虫醐紙も古くから名声
主長 42
v翼 、 注民マ挽いて作った手製の紙であり l を博していた高級韓紙。蚕藤紙は絹のよ うに木目こまかで肌触りがよく、恩川£も、 最紙は格を煮詰めて砕き、苛性ソーダ宥 J漂白した、これまた手製初紙である 1金 薗時代に作られていた Jまた、玉最紙 卿さん出陣ム£良ιk特殊な製法を手主 は薄絹のように透けて見え‘蚕もどきの 文様がところEZ砂にできでい℃い朝鮮 と命名したが、色の技
・
い。半年のあいだ手ほどきをしても失敗
ていた。中国の紙は 桑などの樹皮をはじ め、ムギ、コムギ、ィ、不などの茎を臼で
法をまともに伝受した者は今のところな
挽いて作るので繊維が短く、やわらかい 反面、すぐ破れる欠点がある。しかし、
て強靭である。漉け上がった後も砧棒で 叩くのだからなめらか で艶がある。 現存の韓紙のうちでもっとも古いのは、
韓紙は格を打って作るので、繊維が長く
続きで、技法を身につけた弟子は、まだ 出ていないそうだ。
種類は多様で、品質金書 六年前に蚕繭紙の製法を学び取ってか ら﹁ジュムチ扶法﹂を開発するまでに六年
格紙からなる経文の無垢浄光大陀羅尼経 だが、これは七世紀末に建立された慶州、
の歳月を費やしたが、その間金卿さんは 全国を巡りながら紙製の伝統工芸品を収
仏国寺の釈迦塔から発掘されたものであ る。またソウルの湖巌美術舘収蔵の大方
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集した。﹁三O年前、慶尚北道安東の河田 村に立寄った時、奇妙な格好のヨガン (しゅぴん)を見つけました。紙で編んで 漆塗りしたものだが、嫁いでいく花嫁の 駕龍に入れてあげるものだったんです。 ﹂ これを手始めに純工芸品の収集に乗り出 したが、本腰を入れ始めたのは六年前か らだった。 現在、金さんの収集品は、二OO余点 に達しており、保温瓶、履物、竹筒、財 でいちばん古いのは朝鮮初期のものと推
布など、種類もさまざまである。この中
るさい、泥の跳ねるのを防ぐための、い
定される泥よけである。雨の日ロパに乗 わば泥よけの服なのである。 金さんによると 、紙衣裳は作り方が絹 物に比べてややこしかったことから高価 で珍しく、宮中や身分の高い家柄でない と手に入れることは思いも寄らなかった という。しかし、普通の壮紙は安かった ため庶民のあいだで服に綿代りに入れて 冬着にしたり、兵士の鎧に用いたりした。 また、高麗時代には戦いに臨む兵士が壮 紙製鎧を水に浸すか、油を塗って幾重に も厚着をしたが、これは矢よけ用だった のである。 韓紙は種類が多いばかりか、その品質 のよさは 昔から 中国や日本でも認められ
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印
韓紙の綿々たる優れた伝統は 日帝植民 期中に断たれてしまった。そのうえ研究
日本展、盛況裏に聞く
五年)代の文書である。
三四年(西紀七五 広仏華厳経は新羅景徳一
二万五千余人が観覧する盛況ぶりだった が、展示品の製作年代は日本側の記録に
に白本の富士美術舘で催された金さんの ﹁ 韓国伝統の美│紙工芸展 Lは三八日間に
いなかったと述懐している。一九八八年
れ催しているが、説明文に間違いがあっ たにもかかわらず、それを指摘する人が
九八九年には韓紙創作工芸品展をそれぞ
強いので染めるのも簡単である。金卿さ んは今回の展示会に通度寺の住職が栽培
では格段に違っていたのである。したがっ て韓紙は洗濯も可能であるが、吸収力が
原形を保っていたというのである。要す るに、材料の格の質が韓国のと外国のと
各国の椿紙を氷の中に漬けたところみん な溶けてしまったが韓紙だけが溶けずに
すら十分にできていない。服飾分野では 衣裳の材料は繊維に限るとしていること
した花で染めた黄金色の紙と、悪鬼被い をするという藍色染めの紙を出品した 。 金卿さんは、これからは実用化のむず
より推定できたのも少なくなかったそう 翌年の一九八九年には世界の紙の大展
かしい韓紙製衣裳よりは、韓紙のスカー フや帽子などの制作に励みたい考えだそ
だ 。
についての認識は、まだ十分と言えない 示会がこれまた日本で催されたが、ここ でも韓紙の優れた紙質が評判になった。
から韓紙製の衣裳は当然、仲間外れにさ れているが、韓紙工芸品の美しさと価値 状態なのである。金さんは、一九八七年に、 収蔵している韓紙工芸品の展示会を、一
うである。手荒に洗わない限り破れない 韓紙が誇りの金さんは、これから先、ゆ くゆくは﹁紙の家(紙の博物舘 )を L 建てる
夢も抱いている。
5 1
ンター(大衆音楽館)の舞台では、だぶだぶのシャツを着た
昨年のはじめ、韓国のポピュラー-ミュージック・セ
初めて韓国の 一 O代はかれらの政治的な色よりも衣裳の
なかった。しかし、そういう現象に対して疑問が提起され、
なるライフ ・スタイルにも時聞を奪われるわけにはいか
O代は、いか 試験地獄に閉じ込められている韓国の 一
ょうであった。かれらの 進出 は享楽と消費の新世代であ る若者たちの新文化と相まっ て増加する広告と符合した 。
ポピュラー・ミュージッ クの傾向
しかし、かれらの父母は﹃ソテジと子どもたち﹄(三人組
三人の少年が﹃おれは知ってるよ﹄と叫んでいたし、年幼い 観衆は歓呼で答えていた。かれらも知っているようだつた。
経済的不均衡、社会的不安などが新たな種類の音楽と変
色に気を使うようになった。ある程度の民主主義の成熟、
コンサートの主催側は、企劃の欠加とコンサート ・ホー ルの収容定員の超過入場とで非難を浴びた。し‘ カし、
なり、五O人のヒステリー性一O代少女ファンの入院で 幕を閉じた 。
が招いた結果は荒廃と驚樗だった。かれらの訪 問 は金浦・ 空港での一大混乱から始まって、コンサートはお流れと
ラックが韓国を強打した時、最初の信号が来た。かれら
ラップと﹃ソテジ・ブ iム ﹄ は旧 世代を驚かせた。かれら は注目の的となってしかるべきだった。去る二月、アメ リカ一 O代の偶像ともいえるニュ lキズ ・アンダーブ
わったライフ・スタイル追求の背景を提供した。
の芸名)を見て、首を振りつつつぶやいた。﹁子どもたちは
もつけたまま:::。﹂ママとパパは全く知るよしもなかった。
何をもってすれば分かるだろうか 韓国の大衆音楽はバラード、ソフト ・ロ γクとトロッ トと言われる韓国特有の演歌調の歌謡スタイルが主流を 新しいものでないが、韓国では初めてのラップが登場した。
なしてきた。ところが一九九二年に、外国ではきして 目 ラップは一O代の出現によって、新世代のスタ l﹃可愛 少年たちを誕生させた。一 O代と大人の聴衆が明 らしい ﹄ らかに区別され、マーケティングや放送プログラムのカ O代の方だった。 ードを確実に握っているのは 一
韓国社会が次第に 西欧化しながら、世の 中も大きく変っ
新しい音楽 てきた。新世代の救世主ともいえる﹃ソテジと子どもたち﹄ は社会的、文化的な変化を即時表面に浮き立たせるかの
主
とレうのにサングラスを掛け、服はだぶだぶで.フランド
もの事を全く知らないって。帽子は逆さにかぶり室内だ
曹 胤 庭(コリア ・ヘラルド記者)
2 5
4
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.、司﹄‘・ 6f a -v a
は]でも求め 存在し 氏 、 ることができ ね 件 かしニュ lキ :ダ 1・フロック ばい で代表される主流り対衆劃剰のAうに簡単に移殖はでき なかった。それは黒人のものであり、都会のアメリカ人、 極度の憤怒と街のリズムという点で、韓国人の生活とは 韓国には朝から晩まで鳴らし続けるビデオ ・ミュー
異質感があった。 ジックもなく、 M T Vや同種類の放送が一日二四時間放 送しているわけでもない。ビデオに専念するテレビ・プ ログラムはたった一つだけだが、 KB Sの﹃世界のビデ オ ・ミュージック﹄がそれである。外国ポップソングのラ このようなわけで韓国は長い間外国音楽の流行から比
ジオ放送は園内の作品によってかなり圧倒されている。
よびハウスなどの影響力は今だに微々たるものである。
較的に遠ざかっていた。モード、パンク、アリシ!ドお ﹃ソテジ﹄は一つの媒体の役割をした。かれらはラップを 取り入れて韓国化し、それを全国のテレピに放映した。
を拘束された。
外国の影響は直接的であるよりも、むしろ園内のスター
主体性の問題
たちを通じて先ず澱過される。望むライフ・スタイル、
ことで批判されたりした。 S BS ラジオ製作チ lムの李
容貌、声 :::。新たな音楽は外国物の真似ごとだという
ジンキュ氏によると、寸一九九二年を要約すれば、この一
トに乗り、インタビューと観察、そして分析の対象になっ
年は新しいスタイルは豊富だったが反面、殆んどの歌が
シンドロームは彼らの生活に疲労をもたらした。子ども たをり昆ぎたてた。かれらの名前がビルボード・チャー た。年にかかわりなく、全国の子どもたちが、かれらの
剰窃騒ぎに巻きこまれ真の意味における発展はなかった
音楽とスタイルを模倣して歩いた。
と言っている。 しかし、そのような物言いは、韓国大衆音楽の世界で
ソンは機会に恵まれなかった。それから一カ 月も経たな
こすおそれのあるコンサートを全面的に禁止した。パウ ラ ・アブドルは公演が許可されたが、マイクル ・ジャク
コメディアンの楽しさのようなものだった。
映像を描き入れていた。またかれの多少馬鹿げた踊りは
理を象徴する頭巾 のほかにクリス・スロスとマルコムの
かれのファッションはまず原色のだぶついた衣裳と義
余地があった。
な大衆音楽として受け入れられているトロットは論争の
の主体性とは距離のあるものだったが、一般的に伝統的
ラップやハウス ・ルック、そしてテク 1 ・ポップは韓国
L
﹁シンドローム﹂はライバルを浮び上らせた。ヒョン・ジ
は常に引き起こされてきたことを記憶すべきであろう。
らのどこがくるっているのか﹂。﹁いかにすればそのような L
にしてもたらされたのか。﹂ ニ ュ lキズ事件は望ましからぬ外国模倣事件として熔
の年の後半期のことである。
の興奮を引き起す本国出身の﹃ソテジと子どもたち﹄が出現
た。かなりやわらかな調子の流行のラップだった。その
﹃おれは知ってるよ﹄は愛と熱情に対する害の無い歌だっ
は販売開始 三カ月足らずで七O万枚が飛ぶように売れた。
戻ってきているが、李さんもその中の一人であった。か
ん で い る 多 く の 韓 国 歌 手が ス タ ー を 夢 見 な が ら 故 国 に
李ヒョンウは黒色の皮のジャケットを着てすでに﹁苗 7﹂ と いうラップ・ミックスで舞台活動をしていた。外国に住
それは韓国のものとも言えず韓国のものだと言ってもい
の遺産であり、日本の﹁演歌﹂に由来するものであるため、
き起こした。その争点はトロットなるものが植民地時代
李美子の﹁冬柏(椿)アカシ(娘 )L は六0年代以後論争を引
せいか韓国の若者たちがこの歌に歓呼でこたえたのであ
けないというのであった。
が似通っているとしても、トロットは明きらかに韓国の 植民地時代の悲しみから抜 物であると言い切っている。 ﹁
音楽作曲家協会の常任委員呉ヨンロクさんは、リズム
れはアメリカの声とスタイルを引きさげて来たのだった。 歌って名を馳せた。かれは本命の新世代スターとしての イメージを固めていた矢先、去る一月に麻薬事件で身柄
かれは英語と韓国語を混ぜ合わせて一つの歌を続け様に
したのである。かれらの特集アルバム﹃おれは知ってるよ﹄
いうちに歌を歌うというよりは歌を吐き出しながら極度
印を押された。文化部はこれに類似したヒステリーを起
ンヨンは音楽、踊りファッションなどすべての必要な部 門で相手に取って損色のない好敵手として出現した。そ
気違いじみたまねができたのか 。﹁このような行動かいか
な攻撃の対象は幼いファンだった、人々は言った。﹁かれ
. .
" ' i‘- .
J .
る 。 ラップはアメリカをはじめ、全世界にわたって長い間
ソテジ・シンドローム
5 3
~
けだし七O年の間各世代の社会的な色付けを具体的に表
プの先駆者の一人とも言えた。事実、彼は二年前ジャズ ・
ル﹄の創刊号に胸をむきだしにした姿を見せた。
スタ Iの舞台は完全なずハンド程人気がなかった。試しに グループ﹁ネクスト﹂のシン ・へチョルと団員は、雑誌﹃エー
動きをいち早く見て取って バ ンドを組織した。ワンマン
そしてコンタクト・レンズを使用した。かれは音楽界の
し、十字架の耳輪をつけ、帯にも十字架の飾りをつえた。
新しく姿を変えたシン・へチョルは頭髪を腰まで伸ば
カフエーでソフト・ラップを歌っていた当時、最大の努
力を傾けたが、技巧は全くない。彼は手織りと見える頭
歌手太珍児と金知愛がそれぞれ一、二位を占めた 。 一九九二年末の KBS最高歌手賞すらもすんなりした バラード歌手シン ・スンフンのものとなり、その他の賞
巾付きのセーター姿で舞台に立ったものだった。
現している﹂というのだ。 ﹁ラてフとバラードは子どもたちに人気があるかも知れ は各ジャンル別に仲よく、あんばいされた。 MBCの最
ようになるだろう。 -ウンドなど三人
高賞は﹁ソテジと子どもたち﹂のものになったがその年の一
ないが、年を取るにつれてトロットの歌謡を聞き、歌う L
O大歌手には周ヒョンミ、玄チョル、 のトロット歌手と、萎スジ、直サヨンら二大のバラード
一般的に悪くないと思われているバラードがあまりに も日本のスタイルを真似ているという。一例をあげると、 歌手が仲間入りしていた。 すことはできないが、全体的な噌好度に対する信頼のお
ラップはある変化に対する触媒の役割を果したかは知
明るい衣裳にサングラス、頭にはバイキング・スカーフ
三年初めに浮び上ったチ l ムはラップ・デュエットで、
名前の売れていないほかの歌手たちも同じ道筋をた どってスポット ・ライトを浴びる方法を探った。一九九
られないが、全体的な変化をもたらすまでにはいかなかっ
でしゃれた﹁チョリとミエ﹂である。かれらはD Jとか踊
イメージの演出
ける尺度にはなるのである。
このような音楽賞が音楽界全体の実質的な現象と見倣
一九九一年のビョンジンソプの歌﹃ロ l一フ﹄がそれである。 この歌は日本の斉藤ユキの歌を剰窃したということで告 歌詞が問題になる場合には英語をでたらめに使うのが
発された 。 攻撃 の的となる。主な曲を探って見ると、一九三七年に 一九六0年代の﹁ボヘミアン ・タンゴ﹂と寸はら色のスカー
り子から抜擢された代表的な変り種のスターである。
出た﹁サーカス 、一九四七年の﹁わたしの恋人ジュリア﹂、 フ﹂および七0年代の﹁ウェディング ・ドレス﹂などである。
た。歌手の中には流行を追って渡り歩く傾向を持ってい
L
一九八0年代に入ってダンス・ミュージックと共に八 八年オリ ンピックのあおりでその頻度が増してきた 。 オ
チョリはD Jをやったことがあり、八0年代の半ばに
はスタ│寸ナミ Lの歌に視覚的数果を添えるため出演したプ ンブンダンシング・デュエットの一人である。﹁ミエ﹂は放
送社が管理する舞踊団の名もない団員の一人だった 。 し かし、すぐれたファッション球舛見と、かなり包括的なラッ
プ・リズムのお陰で現在かれらはトップ・スタ!の地位 を占めている。
若者たちは英雄に飢えている。民主主義のための闘争が
新種音楽が人気を引いているのは、それが真似てみた い衝動的なイメージを提供するからである 。九0年代の
早くイメージの変化を図った。彼はある点では、韓国ラッ
るものもいた 。 ラップの出現以後、イ メージが以前より も一層重要になったという事実は明きらかになっている。 シン ・へチョルのように位置を固めたスターは 、 いち
( z z
リンピックの公式歌話にはヨ己 8520FECをはじめ、 ﹃g巳ω g c ω ω
手に手を取 って とコリアナの ﹃ 巾OEC
dS23PB巾合同日臣官と ﹃ヒョ ンジンヨンゴ l ・ジンヨ
zrg仏)﹄などである。この他現在ヒットしている歌は 評論家は﹁国籍のない歌﹂だと非難し、金キヨンイルさん
ン ゴ l﹄である。 は﹁韓国の大衆音楽はル l ツがないので目茶苦茶だと言っ ている。﹂しかし問題は、韓国がこれ以上の固有の大衆音楽
国の大衆音楽は殆んど外国に影響を与えたことがなかっ
偶像化
た。トロットが日本では人気があり、歌手李美子らがちょっ
したという意見は間違っている。一九九一年の春にも大
争点の欠加から弱まるにつれて音楽部門の変化が加速化
より重大な問題は影響力が一方的だという事実だ。韓
をもてるか.とうかということである 。
とした人気はあったが、それは海外在住の同胞たちに限
J
歌詞の歌が主涜をなしてきた。 と乙ろが /九九三年じ韓国で初めてラヅ。ブが登場した。
韓閣の大差薬以バラード、 ポップス、ゾブトロックとトロットと言われる韓国特有の演
規模の学生デモが引き起こされた。
られている。
過去の背景探り 新世代は傍で見るように未だ位置を固めておらず、六
0年代以後の大衆音楽の主流が思いの外きれいに忘れ去 られていない。韓国放送研究院は、一九九一年の バ ラー ドのシェアが八三パーセントに達すると評価した 。 その 年の一月の KBS歌謡トップ ・テンでは二人のトロット
5 4
Lし、 スターの姿を追い求める。 求めて駆けつけるようじなった。絞ら以イメージを大切J
ゴンサ lトじ以多くの JO代のブァンが新たな種類の音楽と変わったヲイブスタイルを
ペレーターとして、歌手、 D J、M C、俳優およびビルボー ド2 5σ0白丘)の偶像の位置で働いている。そのほかのバ
ンと金ミンジョンは、ジャンルを総網羅した個性あるオ
ンドもやはり男性である。﹁015Bヘピノキオ、ノイズ、 ネクスト:::。
要求している偶像を産み出せない。バラードはあまりに
バラード、ソフト・ロック、トロットは、九0年代が
ルがおもな原因です。しかし女性歌手飢僅のより大きな
性歌手は扱いにくい Lと野放しで言っている。﹁スキャンダ
踊りの女王金ワンソンは公式的に隠退した。金さんは寸女
て病弱な容姿のカン・スジとハ・スピンが思い出される。
確かにこうした現象は女性スタ l の誕生を見放してい
も退屈である。バラードの歌手は舞台でも動きに欠け一
原因は要するに彼女らのレコードが売れないことです。
レコードを買う大衆は殆んどか若い女性で、彼女らはかつ
シンガーはあまりにも年を取り過ぎている。あかぬけし
このいい若い男性が好きなんですよ。﹂
様に端正で、ダブル・ボタンの正装を着用した。トロット・
レーにでも同行するようなトロット・シンガーに対して、
た身なりに黄色いハンケチを振りながら安手のキャバ
の数は全体のおよそ七O パーセントに及ぶそうである。
レコード協会の統計によると、レコードを買う一O代
ターたちは先発ランナーとして立派に活動している。一
近でろの若者たちは冷やかな反応を見せた。新世代のス
このような動きは当分の間崩れそうもない。金プロデュー
メンバーと金ジョンソを含めて世間で名前と顔の売れた
サーとかれの同僚はそれを知り尽している。金P Dのプ
最も人気あるスターだけである。
人で歌うソロよりも、バンドぐるみの舞台が華やかで動
る。アンダー・グラウンドという用語は政治的、社会的
きとエネルギーに満ちている。かれらは日増しに背丈が
なものではなく、パワーのあるテレビ・プロデューサー
の ログラムに出演する D Jは、孫、シチャン、﹁015B﹂
ファンを分け合っている。視覚的にも年取ったスターは
伸び若返ってより優れた容姿と個性で七0 年代生れの 競争の相手になり得ない。テレビは視覚媒体であるだけに、
が声をかけてきてもこれに応じないことを意味する。
O代の熱病は全世界的な現象である。どの国でも見受 一
任でも、快楽的でもない。ポップソングが導火線となる
のを確信をもってやっている。かれらはまた韓国の名門
けている。かれらは、人気はあるが自分の思っているも
ある。ソフト・ロック・パンドの﹁015B﹂はふたまたか
おり、尊敬されているアンダー・グラウンド・スターで
李スンファン、権インハ、チョハムンはよく知られて
は常に若者の領分であるので、これも国際的な流れから
均等に分配すべきだと言っている。それにポップソング
必要性を強調している。そして一 O大歌手賞は、これを
かれは特定の聴衆を狙ったより専門化したショーの開発
質感を与えるだろうと心配していた。この点を考えて、
金P Dは、こういう流れが続けば、成人層には一層異
聴覚以上に視覚が重視されてきた。
けられ韓国も例外ではない。クリ l フ・リチャ lドが六
次に彼等は時おり発表されているように、決して無責
0年代を風牒し、リフ・ガレットが八0年代の初頭を飾っ
の生放送に出演することによって造られる。ラップは、
と関連したバンドのはんらんであるとみている。マハンド
ラップ・ロック・ジャズ・ハウスまたはテクノ・ポップ
金 P Dは一九九三年に特に活液化する流れの一つが
見て自然である。
以前は全体スペクトラムをより均等に分配していた娯楽
の仕事はライブ演奏を引立たせてくれます。一フイブ出演
しかし大抵の場合、音楽界の構造は、スターがテレビ
大学の学生たちでもある。
らもそれをよく知っている。彼らは世界的な動きに歩調
が多いのは認めますが、録音に合わせて口だけを動かす
新世代のスターたちは社会的に関心の対象であり、自
た 。
を合わせ環境問題がかれらの関心の一つになっているこ
やショ l ・プログラムからトロットやバラードを締め出
のが例外でない規則になっています。﹂
すことによって、家族の視聴を分裂させるとして非難さ れたりした。
はこちらで完全にこなしていくことを望んでいる。﹁わた
過去を模倣するしかありません。
L
固有音楽は、われわれの伝統古典音楽だけです。しかし、
しは韓国の大衆音楽を詮索しません。韓国のほんとうの
かれはなによりも外国の影響をそのまま模倣するより
現在と未来
とを立証している。 韓国最大の日刊紙﹃朝鮮日報﹄が繰り広げている主なキャ 015B﹂ を ンペインで﹁ソテジと子どもたち﹂﹁ネクスト L﹁ はじめ主なポップ・スターが一堂に集まって﹁明日ではお そすぎる Lという主題のアルバムを録音するために韓国版
﹃F M人気歌一宮の スーパーパンドを組んだ。 一九九三年に入って K B S 2 F Mの 一九九三年に入って最も人気のあるバンドの一つ寸0 1 金ヨンクンプロデューサーは、ラップが下火になっても 若くて容姿の優れたスターだけは残して置いた。孫ジチャ 5 B﹂は韓国のアンダー-グラウンドに属するパ lトであ
5 5
記者・・音楽学校の開設準備でいろいろお 急がしかっただろうと思いますが、準備
並区, -年前のことだが、李御寧氏(元文
2ヱ リ
化部長官)は、国際クラシック音
?¥ノ、 楽界で活動している韓国生まれ の演奏家について「西洋の音楽学校で教育を 受けているので、厳密な意味で韓国の音楽 家とみなすわけにはいかない」と述べ、反響 を巻き起こしたことがある。李御寧氏とい
l
えば博識多才な文筆を揮うことで知られて おり、才能豊かな音楽志望の青少年に対し て才能の奮を聞かせるに足る英才教育の場 が韓国にないと痛い現実を突いたものだっ た。李氏は、続けて言う。 「韓国が西洋音楽を受入れて、まだ臼が
李康淑校長
浅いにもかかわらす郁京和、飼え旭、美東 錫、白健宇など世界的に名を知られている優れた演奏家を多数輩出した。たいへん誇ら
立柴崎子交交
しいことである。しかし、これら有名演奏家は、そろって欧米諸国で教育を受けている。 国内に優秀な音楽家を育てる場が、まだできていないわけだ。まことに残念なことだ。」 韓国の大学は、音楽科を設けている大学が多数あって、数千の学生がそれぞれ専攻の 音楽教育を受けている。しかし、優秀な音楽教育家が無限に伸ぴる余地のある学生の素 質を見出し、才能をぐんぐん伸ばしていけるような音楽教育システムはなかった。この ため当然、音楽英才教育システムの確立を求める声か清まっていた。具体的には、西ヨー ロッパ式の、ハイクラスの音楽学校を作れ、ということである。者卸寧氏の発言はこういっ た声を反映・代弁したものだったのである。ところが今年に入ってイベントは急速に展 開し、状況はがらりと変かりつつある。韓国初の西欧式音楽学校が去る三月、ソウル南 部の瑞草洞にある『芸術の殿堂』でオープンしたのである。音楽学校は国立で、国が本腰
韓国音楽教育界の
新たな試み
をなさりながら何をお考えになりました
か 。
一李・・一年このかた、この重要な時期にい
ま、わたしのしていることは歴史的意味
を持っているのだ、と自分に言い聞かせ
てきました 0・われわれは、長年、専門演
てきましたが、この学校の設立によって、
奏者を教育する音楽学校の設立を要望し
その願いが汁えられたわけです。この音
芸術学校のモデルになりますので、格別
楽学校が今後創設される五つの非音楽系
に心血を注いできました。韓国の優秀な
音楽専攻学生は欧米で高価な音楽教育を
受けていますが、わたしの本望とすると
ころはこのような現実から脱け出ること
です。韓国では西洋で音楽教育を受ける
ことが専門職に就くための条件と考られ
てきました。しかし、音楽学校の創設に
より、このような考え方には歯止めがか
かり、圏内で音楽教育を受けたがる優秀
な学生も増えてくるに違いありません。
さらにつけ加えますと、うちの学校は将
対
三火 口Jく
でテコ入れをしているため、韓国の音楽教育史に大きな区切りをつけるものと予想され この国立音楽学校の創設は、ひいては現在大学が音楽教育を担っているシステムを揺 さぶる重大な変化をもたらすものとみられる。音楽学校の設立を皮切りに政府としては、
教授を歴任した五七歳の李康淑さんである。李さんは昨年七月に設立カ鴇定した 楽学音E 韓国芸術総合学校の初代校長に任命されて以来、同学校の創設を準備する立て役者とし て活動した。 創設問もないためか多忙をきわめると聞く李さんも、この日だけは音楽学校の校長室 で本誌コリアナとの対談のため、しばらく手を休め、温かく迎えて入れてくれた。
コリアナ編輯室
純粋芸術、舞踊、視覚芸術、伝統芸術の各分野毎の学校を増設し、ゆくゆくは六つの学 轍育機関に育て上げる計画である。 校からなる総合芸4 さて国立音楽学校を開設するまでの総元締めは、音楽評論家であり、元ソウル大学音
を訪ねてl
る 。
(辺思美=コリア・へラルド記者)
5 8
穏園芸術綜合学校があるソウル7ートセン生ーのコンサートホール
李・・去年八月に聴取審査を行なった時、
訳があったのですか。
音楽的才能の認知という問題をめぐって
る外国人学生を誘致する計画ももってお
来、高水準の音楽教育を受けたがってい
できると確信しております。
ります。わたしはこれが一 O年内に実現
ソウルが世界的な文化都市になる日もそ
人演奏者が帰国して力になってくれれば、
いわれるほどの学生は一人だにいません
の学生が受験しましたが、音楽の秀才と
学父兄と教育者との間に大きな考えのズ レのあることが分かりました 。 二一四人
とくに海外で活躍している有名な韓国
れだけ繰り上げられることでしょう。
音楽学校新設の意味はなんだとお考えで
記者・・これまでの音楽教育と関連して、
法を実行に移す研究機関を設立するつも
よび動機付けについての科学的な評価方
これと関連してわたしは、音楽的才能お
でした。
すか。 李・・音楽教育に関するわたしの基本的な
めに多くの児童が﹃天才﹄に化かされて音
才能をテストする科学的な方法がないた
大変な熱意をもっていますが、客観的に
りです。とりわけ韓国では子女の教育に 考え方は、その社会が必要とする人を生
楽教育を強いられています。
産することです。必要とする人は時代に よってちがいますが、今の時代は演奏家 も非演奏家も同時に求めています。わた
だたる教育者や国際的に名声を博してい
記者・・この学校の教授陣にはわが国の名 しの言う非演奏家とは音楽学者、音楽 ジャーナリスト、評論家、教育者などを
に劣らぬ重要主仔在であると考古えます。
陣と四O人の講師が迎え入れられ、つい
李・・開校とともに知名度の高い専任教授
についてはどういうご意見を:::。
る在外演奏者がいて評判ですが、教授陣 わたしは、韓国音楽がバランスのとれ
指します。
このような考えから、わたじは圏内の 音楽教育界が二つの領域を別々に考える
ル大学教授)とニューヨークに滞在中の菱
その中には、バイオリンの金南潤(元ソウ
た発展をはかるには、非演奏家も演奏家
べきだと思います。言い替えますと、音
うことです。こういう塑尽からわたしは、
大学は非演奏家の教育を専門とするとい
と崖ヒョンス、ピアノの李キヨンスク(元
翼燥、チェロの鄭明和、ソプラノ金英美
で七人の時間講師が補充されました。 楽学校は演奏家の教育を受け持ち、また
音楽学校の誕生は韓国音楽教育の全般的
の萎忠模、作曲の李建(元ソウル大学教
延世大学教授)と前ピボディ音楽学校教授
授)と鄭致溶のみなさんがいます。これに
な構造に大きな変化をもたらすと信じて います。
加えてバイオリニストの鄭京和さんと金 記者・・音楽学校の当初の目的の一つは、
ルに来る都度、講義をしてくれるとの約
束をとりつけました。わたしが海外で活
英美さん、指揮者の鄭明勲さんらはソウ 期教育を提供することでした。ところが
躍中の有名演奏家に短期の講義をお願い
年少の音楽人材を発掘して、かれらに早 年少者は選抜しなかったのですが、何か
5 7
けて来るものと思います。
も著名演奏家の指導を受けるためつめか
これがことば通りにいけば、外国の学生
上の滞在を条件としていることですが、
たのですか。
があったと思いますが、それはなんだっ
ですか、入学許可に際しては評価の基準
ぎません。なぜこういうことになったの
これは定員二ニ三人の七割ちょっとに過
九八人の新入生を募集しましたけれども、
指揮と、四つのクラスがあって、そこに
とに一つの講座に統合させています。こ
理論課程を﹃西洋音楽の慣用法﹄の名のも
ということです。うちの学校では様々の
つの特色は室内楽課程を必修にしている
がってい vます。それから音楽学校の今 一
レッスンは一般大学の二倍にふくれあ
はありません。それで、専攻科目の実習
楽学校は実習一本といっても言いすぎで
い空間が必要になろうかと予想しており
は手狭で、来年からは、ゆとりある新し
使用しています。しかし、これらの施設
サート・ホール施設とを教室や事務室に
オペラ・ハ'ウスと﹃芸術の殿堂﹄のコン
音楽学校は、現在のところ臨時にソウル、
わけです。
記者・・この学校には声楽、器楽、作曲、
記者・・立孤な教授をそろえることができ
するさい強調していることは、二カ月以
たのは、最高水準の教授障で固めたいと
ます。 ﹃ 芸術の殿堂 Uの後ろ側の敷地には総合芸
李・・非公開採用という立場にはいまのと
ませんが・・::。
われたことについては批判がなくもあり
思いますが、教授採用が非公開裏に行な
校側の定めた一定水準に達しなければ入
という方式をとりました。ですから、学
げますと、相対評価ではなくて絶対評価
ました。入学許可の原則について申し上
李・・入学試験には七OO人余りが志願し
課程でもあります。
は演奏学習に直接関係する理論を教える
とってはまったく役に立たない課程なん ですね。この学校の ﹃ 西洋音楽の慣用法﹄
法を必修課程にしていますが、演奏者に
的﹄と言えるんじゃないかと思います。一 般の大学では、ほとんどが和声楽と対位
のような新しい教科課程は、まさに﹃革命
をあげますと、美術院はソウル南部の果
せてもらうことになるでしょうね。一例
校も当分のあいだ既存の他の建物を使わ
かなりの時間を要しますので、舞踊、伝
とになっています。校舎が建つまでには、
いう確固たる信念でしたのでしつこくね
教授陣が韓国最高でなければならないと
て来渋る方もいました。でも、わたしは
授のなかには今の勤め先が未錬がましく
いことでした。ぜひ来ていただきたい教
立に関する業務のうちもっともむずかし
ます。その実、教授採用の問題は学校設
人も志願しなかっただろうと確信してい
が木管部門の実力は水準以下のものでし
平均実力はかなり高い水準のものでした
たとえばピアノ部門とバイオリン部門の
別に水準の聞きがありすぎるんですね、
心配していたことではありますが、部門
たことを知ってほっとしました。一方で
わたしは志願者の水準が全般的に高かっ
た 。
た学生だけが選抜されることになりまし
先的に開設しようとロビ l活動をしてい
門家や関連者は、ご自分関係の学校を優
ところ決まっていません。該当部門の専
の学校を先に設けるかについてはいまの
ずつ開校する予定となっていますが、ど
五カ校を五、六年にかけて毎年一校 李 ・・
スケジュールはどう組まれていますか。
記者・・音楽学校を除く他の五カ校の開校
う考、えておられますか。
た多彩な経歴の持主ですが、ご自分をど
評論家、著述家、音楽行政家などといっ
記者・・先生は学者、教育者、ピアニスト、
舎に使わせてもらうかもしれません。
統芸術など、こん後開設される五つの学
術学校と音楽学校の校舎が建てられるこ
ころ変わりがありません。もし、公開採
こういうわけで資格が認められ立証され
学を認めるわけにはいかなかったのです。
えると する先生の大きな努力の賜物とニ一一口
用をしたとすれば、わたしの望む人は一
ばりましたね。でも、今になって考えて た 。
関する活動は一言で申しますと、韓国の
者と呼ばれたいですね。わたしの音楽に
李・・強いてその中から選べといえば教育
ことですが、そうなれば美術院を臨時校
川にある国立現代美術舘に移転するとの
もそれはまったく骨の折れる仕事でした。
るということですが、困ったことだと思
きましたか。
るとのことですが、この問題はメドがつ
るかという問題が大きな課題になってい
記者・・韓国芸術総合学校をどこに建設す
類や社会とは切っても切れない関係にあ
活動と考えることができます。音楽は人
音楽世界と一般社会の双方に対する教育
力です。広い意味からしますと、評論も
音楽をまともな軌道に乗せようとする努
います。
李・・われわれは実習を最優先としていま す。舞台で演奏する腕前が演奏者に対す
楽活動はすべからく人類や社会のしあわ
記者・・この音楽学校の教科課程は大学の
る評価のカギなのですから、教科課程は
せに貢献する義務を背負わせられている
記者・・先生は、この学校を国際的な有名
李・・いろいろ考えていますけれど、めぼ
の方向に沿ってやっています。
実習中心に組まれていますし、指導もそ 李・・その問題は ﹃ 芸術の殿堂﹄後ろ側にあ
と信じています。
校に作り上げたいお考えであるわけです
しいものを挙げますと、まず国際的な音
る空地を敷地とすることに文化部とのあ
音楽科の教科課程とどう違っていますか。
楽コンクール大会を設ける案があります。
一般大学の音楽学部や音楽科は、実習、
いだで合意が成立しました。ですから、 建設予定地の問題は、いちおう片付いた
が、そのための具体案を何かお持ちです
それから数年先のことになりますが。卒
理論、教養という三つの課程を平行させ
, 刀
業生と在学生からなる専門オーケストラ
る教育をしているわけですが、うちの音
ります。このような観点からわたしは音
を組織しようと幸えております。
5 8
直に言ってわが国が日本の侵略で占領された Ab、 F与 手収 4B 一九O五年ごろ、つまり朝鮮時代末期までにも、 7 、 〆一 見通しのいい西欧式概念の道路はわが国には
ほとんどなかった。われわれの祖先が二台の荷車ですら
擦れ違えない狭い道路に満足した理由はいろ いろあった。
つづら折りの地形そのものだった。莫大な建設投資をし
全国土の七O パーセントを占める林野地帯はすべてが屈 曲の激しい山岳地帯であり、羊腸よろしき河川と谷聞は
地理的条件が備されていなかった。また伝統的農耕社会
たところで直線で貫通する広ぴろとした道路を完成する
では他地方との交流が少ない自給自足の閉鎖的生活様式
を取っていたため、多くの人が遠路を往来する必要がな かった。
工業もまた一九00年代中期に平壌に外国人宣教師が
渡来し、建てたゴム靴工場が軽工業の晴矢になったほど で、いたって閉鎖的な手工業水準にとどまっていたため
ていた状態であった。また、北は中国から、南は日本か
多くの工産品を迅速に流通させる陸路の必要性も半減し
に陸路の開拓をはばかってきたという逆説的説明がある
ら残酷で野蛮な数多くの侵略を受けてきたため、伝統的
ほどである。そこで韓国人にとって﹁道﹂という語が与え
てくれたイメージは﹁道を聞いたところが犬ころがお先に
に否定的に刻みこまれているのである。
通りやがる﹂という僅言があるように、情緒的には心の底
一四五五年、甥の端宗から王位を奪い取った世祖は、
朝鮮時代の政治の基準となった﹃経国大典﹄を編纂して、
あらゆる制度の骨幹とした。この経国大典には当時の首
都であったソウルの道路幅に対する規定がある。すなわ
ち大路の場合は幅約一八メートル、中路は五メートル、
小路の場合は約四メートルに建設するよう規定し、地方
う規定している。一見この道路の幅は当時の西欧や日本
道路の場合は大路はなかったが、中・小路を建設するよ
の道路を参酌してみても、さして貧弱な水準ではなかっ た
ところが、その道路を使用している人々の心性が問題
だった。道路沿いに建築された民家の低い軒や垣根が通
路の空間を侵し、ありとあらゆる汚物・ごみを道路に放 り捨て、家の中で始末できない家財を道端に積み上げた。
関
はなはだしくは人間の死体までを道端や河川に放棄した。
いうなれば、道路が本来の機能を発揮できるはずがなかっ
た。経国大典で規定している幅 一八メートル道路だった 雲鍾街(今の鍾路)の様子を見せてくれる一九一 0年代の
写真を見ると、雑多な品物が雑然と積まれている道路は 曲りくねっており、車二台が擦れ違うのも不可能である
ことを見せてくれる。しかし、道路のこのような否定的 実態にもかかわわらず、朝鮮時代を通じて間断なく発達
したのが水路である。山が険しいと谷聞が深く、谷聞に は水が流れるにきまっている。渓流は谷聞を流れながら
支流と合流し、そして大きな河川になる。 それゆえ韓国の田舎の集団住宅地は十中八九山麓を背
にし、目前に河川を眺める小高い丘陵に位していた。こ
のように水路交通が発達できる地理的条件を備えていた のであり、農耕社会での生産物や手工業製品がすべて河
川を利用して交流され、それはおもに﹁江商﹂(船による運
搬業者)によって交易・伝達された。
朝鮮時代の麻浦や松枝、そして鷺楽津などが、今は首 都ソウルのどまんなかを貫通する漢江ほとりの名だたる
盛り場だった理由もまさにそこにある。ソウルでない地 方であったとしても、舟が着く渡し岨切であれば市が立ち、
6 1
聞慶から忠州に通じる第 1 関門である主舵関(上)と間慶
酒と身を売る遊女とならずものが雑踏した。酒屋では酒 代と飲食代だけを貰うだけで、寝部屋を提供しても代金 はもらわなかった。江商は渡し場で会う内陸の行商と取
セジェ嶺を取材する小説家金問栄さん。
り引きする。たまには値段相応の物物交換もする。お互
いに満足できる取り引きが成立すると、酒屋で祝杯をあ
げる。祝杯をあげる慣習は、今も地方の牛市場でいくら
内陸の行商から品物代を受け取った江商は暖いふとこ
でも見受けられる情景の 一つである。
ろを自慢しながら遊女を買う。夜明けになると内陸の行
商たちは買い入れた貨物を整頓して腫馬の背に積みはじ
める。行商は急いて渡し場を後にする。累累たる険山が
四方を取り巻いているため昼間が短く、旅路は減法遠い
て瞳馬を急き立てない。山壁と谷聞にはミルク色の霧が
からである。しかし、いったん旅に出れば、行商は決し
もやもやと輪状を成し、冬ともあらば粉雪の降りしきる
中を、行商は腫馬をむちうつことなく、声でせきたてな
8 2
がらゆっくりゆっくり歩いて行く。
行商と老いた瞳馬は 久しいあいだ喜怒哀楽を分け合っ
てきたので、強いて鞭で急き立てなくても、撞馬は行く
べき道程と目的とする市場を知り尽しているからである。
当日の日暮れ前に市場に着かなければならないことは艦
O年以上も同じ道を往来し 馬も、行商も知っている 。 一
ているから、路傍に淋しく咲いている野の花も、かれら
にとっては方向を知らせる目じるしになり、時刻を教え
る日時計にもなる。なぜなれば、かれらの歩く速さは一
O年以上の往復にもかかわらず変わることがなかったか らである。
朝鮮時代の陸路には 、見逃がせないもう一つの部分が ある。まさしく自然景観を損ねてはならないという韓国 人の自然崇拝思想をはじめ 、名もない路傍の雑草も生命
を持っているという共生思想が頭の中に多分に刻み込ま
れている点である。険しい山腹を辿って通り抜けば時聞
けぞき
が節約できるが、わざわざ回りの山道を選ぶのであった。
道路のどまんなかに爆が立っていても、よほどのことで
ない限りそれを切り倒さなかった。木が、岩が 、野花が
咲き乱れていても、それを避けて遠回りした。道の終る
所には渡し場があり、渡し舟で向こう岸に着けば、また
ムンギョンセ
yz
も険しい山道がつなが っている。それゆえ韓国の内陸商 人はまさに詩人であり、渡し場の船頭は歌人だった。
韓国内陸の山道を代表するものに聞慶(慶尚北道)鳥嶺
がある。空高く飛ぶ鳥だけが越えられる険しい峠である
太白山脈の連峰の中の一つである主蛇山である。この主
ι7・ ゥ ル サ ン
という意味で鳥嶺と名付けたという伝説のこの険山は、
る。嶺南地方の南端から北上するあいだに鳥嶺ほど高く、
蛇山を境に韓国の京畿地方と嶺南地方が南北に両分され
険しい山はなく、この峠を越えてソウルまでの道程にも、
鳥嶺ほど高く険しい山はない 。海抜わずか一 一 00メー
トルだが、韓国の陸路はこの鳥嶺に突きあたると、やむ チ 鼻ウ ル サ ン
なく峠を越えなければならない。
主位山の連峰が韓半島の東側から西側に険しくつら
なっているので、これを遠回りする道を探せないからで
いくら腹の坐っている旅人でも暗然となる。しかし、こ
ある、間慶地方で遠望できる主吃山鳥嶺を眺めていると、
の聞慶鳥嶺は朝鮮の嶺南地方と京畿地方をつなぐ唯一の
6 3
方の科挙試験の志望生は行商と連れ立ってこれを越えな
道だった。なんとなく無気味な峠ではあったが、嶺南地
高麗の光宗時代(西紀九五八年)から始まった科挙試験
ければならなかった。
制度は一八九四年(朝鮮時代 ・高宗三一年)まで九OO余
ある。
年もつづいたのだから、この鳥嶺を利用した嶺南地方の 科挙試志望者がどれくらいだったかは推して知るべしで
聞慶(慶尚北道)から忠清道梶山までが徒歩でおよそ 一
O里。しかし、その途中の険しい旅路は人足のまれな荒
地で、新羅の文聖王代に法輿寺という名で創建され、吉岡
麗時代の恭慰王代に恵国寺と改名した寺院一つだけであ
る。寺院に隠居している坊主を無暗に信じて、険しい山
中の寺院を無鉄砲に立ち寄ることはできない。
鳥嶺を遠くに見上げる山麓には、この峠を利用する科
挙試験志望生や行商を目当てとする居酒屋が待ちうけて
いる。ドブ酒や肴がかれらを誘う。真昼にも虎の咽噂が 旅人の耳をつんざくのであるから、一人で旅する度胸の
持主は滅多にない。居酒匡に先着した旅人は後から来る
しかし猛獣の唱え声に驚いた撞馬が貴重な荷物を背に
旅人を果てしなく待っている。一 日も四日も待ってから、 一 一 いざ猛獣と立ち合える人数になると出発する。
したまま森の中に隠れてしまう。あるいは立ちすくんで
動かない。こういった時の旅人たちの胸の焦りは想像に
一五九二年(宣祖二五年)に勃発した壬辰倭乱(文一禄・慶
あまりあろう。
長の役)の際、この鳥嶺がソウルをはじめとする京畿地方 を効果的に防衛できる要塞の地であると知 った朝廷では、
しかし、この三カ所の関所構築以前にも、第一関所と
七O 八年(粛宗三四年)に鳥嶺の三カ所に関所を設け、 一 城を築いて後日の外敵侵略に備えた。
第二関所の中聞には鳥嶺を往来する官員が宿泊する﹁院 ﹂ があった。この﹁院 Lの制度はソウルと地方を往来する官
員だけが宿泊する 一種の旅寵屋だった。官吏たちに寝食 の便宜を提供するばかりでなく、遠路くたびれた馬を替
今もってソウルの郊外に残っている弘済院や退渓院、
えてやるのがおもな任務であった。
梨車検院などの地名の由来は、朝鮮時代に地方を往来した
4 8
官更に宿所と馬を提供した﹁院﹂があった場所を意味する。 これらの﹁院﹂があった場所は都市開発などで跡形もなく
いて、後世のわれわれには少からぬ感慨を与えている。
消え失せたが、鳥嶺のそれだけは原形のまま保存されて
その鳥嶺の﹁院﹂祉を紹介している標示板には、われわ
れが見のがせない重要なくだりが記されている。高麗時
代から設置されていたのが確実な証明されているこの
はかなり賑わったというのである。
﹁院﹂は朝鮮時代後期からは官吏ばかりでなく、一般の旅 人にも開放されて便宜を提供したので、﹁院 Lの北側界隈
朝鮮時代の前期、後期を問わず、当時の身分制度は今
日のわれわれの想像を越える厳しいものだった。とくに
土林や官吏という名で呼ばれる上流社会と行商人呼ばわ
りされる槻負商とが連れ合うとか、寝食をともにするな
そして船頭や遊女同然に蔑視されたので、韓国の両班は
どもっての外のことだった。とくに裸負商は奴隷や芸人、
に行くと、結局は賎民である行商との対話のやりとりと
市場には行かないのがならわしだった。両班階級が市場
か駆引きをしなければならないからであった。それで家
庭で必要な品物があれば、その品目を記して下男に手渡
そのような厳しい身分制度が未だに残っているにもか
し、それを買い入れるようにした。
かわらず、朝鮮時代後期の山麓の居酒屋や旅龍屋では、
両班階級の官員だけが使用できた場所を行商や一般の旅
人にまで開放した。その理由は、鳥嶺の山路があまりに
かったところからくる人間愛の発露ではなかったのだろ
も険しかったうえ、つね日ごろ猛獣の出没がはなはだし
。 μ
荒波に漂流する船乗りは無言のうちに生死をともにす
phノふ
る覚悟をきめる。同じく険しい山路の旅人らの心情もま たしかりではなかったろうか。
6 5
代の b
こうのえいじ
鴻麗映二(拓殖大学・講師)
と表すことがあって問題が起きます。な ぜかというと、普通の英語の単語には最
て問題の提起 河瑳燦の文学世界については、あらま
も同じことがいえるのではないだろう か?そういった証明を試みてみたい。 受難二代﹂の展開と構成 二 、 ﹁ 寸孟昨二代﹂は表題その通りに二代(父親 A
といえば、父と子の不幸な再会というだ
けなのに、色々な起伏、陰影、主題性といっ
たものを成伏レるのは構成のためか?
構成は、折り返し地点を回って、同じ 所へ帰ってくる長距離走のような形態に
幾つかの劇中劇らしきものが重なってい る。それらは入れ子構造だ。﹁舞台﹂(丸木
と息子)にわたる悲劇を扱っている。父親 のマンドは、韓国動乱で傷を負って家に
は、ダイナミックに物語が展開するのだ。
橋、居酒屋、駅といった)は、往路と復路 ではその意味の重さが倍も異なる。復路
戻ることになった一人っ子sのチンスを迎 えにいく。怪我の具合いはわからない。 ただ﹁病院から退院した﹂という報せが
Aは、酒に酔って丸木橋から足を滑ら し、川に落ちた話。A、は、マンドがチン
あっただけだ。マンドは、大したことは
スをおぶって橋を渡る。緊張感があるの
は予め川に転落したエピソードが紹介さ
にはなっていまい、と思う。 かれは太平洋戦争の折、日本軍に徴用
ないだろう、まさか、自分のようなさま
され、南方の島で飛行場をつくっていて、
休まず早足で距離をかせぎ、到着時刻よ り少し早く着くことができた。汽車がプ
である。そして、その文体は擬声語・擬
この作品の最も重要な要素は、その文体
立つ妻。 c、は、チンスを迎えにきて、そ の姿に驚嘆するマンド。
用に行くマンドを見送りに駅舎の外に
れているから。 Bは、居酒屋の女とのざ れ一一言 。 B、は親子の接近と対話。Cは、徴 空襲を受け、片腕を失ってしまったのだっ
ラットホームに滑り込む。息子の姿はな い。向こうの方に松葉杖を突きながら外
た。駅は家から歩いて何時間もかかる 。
へ出ていこうとする傷摸軍人の動きは眼
態語で支えられている。例を見た後、そ
れを考、えよ、っ。
しかし、構成の数果もさることながら、
の端をかすめたが:::。乗客は全て汽車 から降りた。妙だな、好加減な奴ではな
三、擬声語・擬態語の挿入例
本文中の80自民 O句
いんだが、そう思った瞬間、﹁父さん﹂と
のように例を採れる。
刈叫叶で汁 A
o gと、呂田g 印は次 は息子が両脇を松葉杖で支え、足がある
叶、国司、司叫叫且吋﹂亡司羽川芳 ①吉 E忍
1、 汁対﹁人吉副,乃 判﹄司、叶o E一吋叫 旬 乃若川引い暑刑
取りに合わせた。二人の前に丸木橋があ
で麺を食べ終わってのことだ。そこを出 ると今度はマンドが息子の後からその足
きこえてきたからである)
(野原越しに見‘える停車場から煙がもくも くたちのぼり、ピl ッという汽笛の音が
号、司袋、汁叫吾、叫斗。 もちろん、文章表現としても豊かだとい
らわれた 。片手のマンドは、片足の息子、
さと先に歩き出す。落着いたのは居酒屋
べき筈のところのズボンの片方が風にな ぴいていた 。 マンドはあまりのことにひ
プラス子音(時によって、子音+母音+子 音・子音)の違いこそあれ、表音文字とし ての規則には中包夫なのである。そして、 ﹁風声拘吠なんの音であれ、そのまま摘 み上げる擬音語と、風水走禽どんな動態 であれ、動態そのままを擬することばが
える﹂宙 と、李泰俊なども述べているように、
t zd.LTe一 ②苦手﹄亡を丹苛o一豆電奪三人平副o 噂!、叫置亡豆=-吉証言外怠忍斗。ユ司豆剥 同 日 ﹄ 刈 ,A
以上のレベルと判断しても、あながち錯 視とはいえない。とすると、数果の面で
O目。呂田
SU25及び、ヨ58Zの質量は普通
チンスをおぶってそろりそろり丸木橋を 渡るのだった。 ざっとこういうストーリーだが、事件
多いというのは、言語として豊かなのは
どく激怒する。そして、自分一人でさっ
らです﹂ 事というような問題はない。子音 プラス母音、あるいは、子音プラス母音
し﹁河蓮燦・人間の底を見つめる眼差し﹂ (コリアナ一九八九年秋季号)で触れた。 此稿ではそこで取り漏らした事柄につい て詳述したい。すなわち、それは、﹁擬声 語・擬態語﹂ 三についてで、こと﹁受難二代﹂ sという短篇に限つてのみ、特殊な使われ 方をしているようなのだ。 ﹁受難二代﹂は、作家生活三O有余年に 及ぶ河蓮燦に対し、いまだに世間をして と言わしめる作品であ ﹁受難二代の作家 L る。それほどの強い感動や印象を与えた 要素はどこにあったのか、この課題を、 通常、小説に対して行われる分析方法と 並行させながら、考えてみる。挺とする
びきの音をZZZあるいは RKXXなど
のは、 80昌広告35と、豆沼市 ωお( S E a ι 45﹃島)である。ハングルは、﹁英語ではい
背後から呼ばれた。振り返ると、そこに
低一つの母音があるものなのにこのよう な表記には母音があるとは思われないか
•
側
司有剖V 2坤︿泊戸﹄ム邑叶司社斗。
(マンドは指で片方の鼻の穴をきゅっと押 さえながらクンッ!と鼻糞を飛ばした。 そしてよたよた坂道を下っていく)
剖品﹂亡突叶斗。
③ユオ人高︿ヰ苛叫﹂叶叶刈言。一豆唾曜日刈羽
(ただ先っちょだけが肩の下にだらりと垂 れているのである)
z吉一会列 A司、輩、汁﹂亡梨、叫斗。オ合同門K河電 ④o 豆、司曇豆、月叫井旦吋 亡 。 E斗
叫副会ロ吉剖刊企号、川﹁井ペヰコ草言語、針。一
(小便をジャーッと放つのである。鏡のよ うに透んだ水の上に小便があたり、ごぽ ごぽ白い泡をつくりあちこちから魚の群 れがあつまる)
L
L T 4 E吉
⑤モ叫井、利社外ぺ詞肴与す五日酔 外
﹂亡、突叫dA 斗 4井 叫向
(マンドはよほど欝することがあってもこ の女の尻のそばに座ると、・もやもやがパツ と晴れていくのだった)
叶社省社召司設斗。 司、オ EEo凶E
⑨ユ安全昔芳首尋=豆、刻。ォ斗d a -守司、乃﹂亡
(それをブラブラさげて停車場の方にむ かっていると、脇の下がこそばゆくなっ
匁斗
斗 。 宮 珂剖品﹂亡、安叶凶 M dず
ZT 考要。一豆唱、澗﹁オ司﹂亡
(今まさに太陽がスッと水平線に沈もうと するところだった)
AV ﹄ 叶
⑮ユ司王叫斗判叫 ペ ヰ 幹 ﹄ 4
三邑叶 ET
(それに海面にだいだい色に光る大きな山 がふわふわ浮いているのだった)
斗ロ吉季五道、歎ヰ。 HO--
ぺ平、ぺ誹玉三﹁帯主主を甘す忍叶旦 ⑬ ロT
2智会吾、司或斗。
E a 4叶司令 ZD一 国 A 対 O且井斗司い﹂剖
ET雪叫叫﹁刊、首守首叫叶剖耳玉、司
P 若者、
寸!ユ
udAEdJ
匁斗。ユ司ユ司、利号、司王国言。亡叶叫詞詩
⑪ユ﹂て叶叫 λA会 E 列 ZT 斗吋﹂斗位、
五刈羽叶鼓ヰ。
(かれはしかめっ面をしながらマッチを
4叫 T什 或
シユツ!と擦った。どうしてなのか火は
すぐフッと消えてしまった)
ヰ 。
@を号、叶刈︿号、刈井英忍吋柑 4 ﹃4 ﹃
(片方の腕のつけ根がズキンズキン、我慢
できないほど疹いた)
白河4 4オ4 4人今司娘、q。言、司せ旦 Eτ叶宮古吾
前弓叫﹁吋司剖且叫﹄す外己主五号、叶宣言、省、叶 吉 剖 品 E
外 O亡亡叶ぺ且ヰ。せ豆﹂亡、刈司吾首己主唱割 斗
(ポッポ!ッ汽笛の音だった。むこうの山 の角を曲ってきているらしい。マンドは 辺りを払い、スッと席を立って横におい であった鯖をつかみ上げた)
4
E
オ豆、喧斗吾、叫叫﹁忍ヰ。オ尋﹂ 刈ω﹁剖耳子、司 刈 A
--司朴、昔、ぺ卒、一社﹂亡人ム司吉一 自司喝噌亙 o﹁ d♀
叫勺﹂亡忍叶羽羽号、河斗設斗。
(チンチンチン、鐘が鳴ると、少しして、 車は音をたてながら滑り込んだ。機関車 の横腹からは湯気がシュ lシュ i飛び出 た)
﹂叶オれ﹂守司匁斗。勺到、聞い﹂ @せ王将凶 E雪o ヰ 。
剖琶斗企﹁ 刈 314 け立ロ吾、叫言、司、叫出来 叶乎4 A叫
ET﹂ 刈目玉号ヨ品川吋 豆﹂ロ T
(マンドの顔はサッと緊張した。真っ黒い 列車の中からぞろぞろ乗客が押されて出
てきた)
T
⑫旦オ刊号制﹄ヰ司、乃ヰ千谷必﹃午、ぺ﹂亡対人叶
君 03
(蚊に刺された場所がしきりとちくちく痛 むではないか。ボリボリ掻いたが一向に
@ユ牛﹂社吐豆、剖﹁
オ豆、句会寸唱叫﹁忍斗。
気持ちがよくなかった)
λ 滋匁斗。 山を叫 叶
汗 件 、u u
30 司王ロ オ ペ 笹
( ウlウ│ウ!と空襲警報が鳴ると仕事を していた手を休め、全員、ばたつと伏せ なければならなかった)
娘、叶件戴斗。
会﹄す五旦
⑩弔444叶豆
(蚊に刺され痛になったところをボリボリ 撞き、雨のようにこぽれる汗を:::)
丈晶一巴斗オ﹂亡叫ロ白一 E:: 叶企 E
⑬旦汁叶叫叶ロ吉司主 1﹁ 同 ユ 町 Oで N d で朴、司吾叫 4 司
(マンドは肩をグッとすくめながら ヒャ l ッと大声を出した)
叫 、
。叫じ玉﹂亡、叶刈叫 ET 曇叶詞玉置付金、司、四将司
望、叶対﹂剖
た)
(ぞっとするほど美しい光景に皆、あんぐ りと開いた口がふさがらなかった)
叫﹃人ゴ羽叫司乃﹂亡、夜、州﹁凶 A 斗 。
会社、汁金、叫 ⑩ユ剖邑叶、司、司叫吋企豆、喧 す E雪
オヨで同将司列す!許
E-E
(そのことが頭に浮かぶと背筋を冷たいも のがスーツとかすめるのだった) 。引っ朴、乃胡 dq人 寺 訓 叶
す司、叫オペ斗剖獄。 -E叫﹂亡弓﹂宣言季公 20 斗 。
ン!と動きはじめたときは本当に憂欝
(汽車がシユツシユツ音をたて、ゴット
‘ 聞 い ﹂ : ・ : ・ 、 吋 裁o一 (一鉢すくって刺身にし、キューッと一杯
だった)
4 言、立昇、ュ 叶詞 明
O
ゃれたら・・・:・)
u -
⑭引ベユロ叫﹁司令叶量判豆者同ロ司‘有力﹂亡号叶
紅くゆらめいていた)
(甲板の上にのぼってみると、空は赤々と 燃えており、海は火に溶けた鉄のように
刈曇副官、河、司豆匁匁斗。
主双豆、叫安曇 O 亡 日 言刈 ﹂ 一 ﹁o ﹂ A 4 4刻唱団ロ差万
⑬川百品 叫 E乃 且け﹁許﹂言。亡零時宅時中一吉一 寸 品 刈 ︽ L叫
ようやくなおってきたのだった)
(しかし、停車場がすっかり遠去かり、車 窓に新しい風景がパツパッと飛び込むと
一等、刈三品晴、叫オ﹂亡、安叶匁ヰ 刈件斗ロ T
嘉 E
o ⑫ユ、司汁可、弓オ芳、川﹁朴啓刈司-叫神井豆、斗外一
・ 句 、 胃 E刈 A 井ぺ没。一首じみ守叶翠豆金 OEτ
滑白一豆叫豆。古
⑤豆、汁叫宣言守司、ぺ斗喜豆曇喝 dqz 言、叶言、刈 豆、ユ﹂亡判斗平斗司吉一邑スキ位司叶或斗。
(魚の群れにむかつて鼻糞をクスンクス ン、飛ばしたあと、かれは用心しいしい 丸木橋を踏みしめた) ⑦ロ吉叶位旦﹁司 d 勺外刊明司、叶唾刑事オ司獄。一斗中一 滑川可叡匁斗。 AT
ユ斗曇﹂亡、川叫干斗柑暑を人亡。一豆#。官、河 司五叶司﹂亡
(水が冷たくて下顎がガタガタいったが、 縮こまった股ぐらのものを片手でぎゅっ と握り、耐えるしかなかった)
d ﹁ ﹁ 干
⑨叫 L王﹂亡叶、在宅、香♀﹂曽川﹁獄、叫﹁王叶品﹁司﹂叶
関
(その瞬間、マンドの両眼は恐しいほど大 きくひらき、口はぽかんとひろがった)
、乃・裕司オ司い﹄吋勺ET﹂古叫豆、河or梨、 宅三
N1J
@曹司社主Oせユオ叫O凶04守、汁叫LJ叶斗井、豆司、司 叶匁斗。 ﹂亡対 λ
(しばらぐのあいだただボ l ッとしてだけ いたら、鼻がしらがツ │ンとなるととも に両眼に熱いものがワッと溢れるのだっ た)
ヰ 。
@2E亙,呈Eて人亡叶曇若手一同寸O一E司五 双匁
(鯖を持った手ががき ゅっと 拳を握ってい た)
号呈吉一包昔、列、叫MA斗。
匂叫じ豆ω﹁E吉品川0豆、乃ヨ柑剖E邑 -R 羽川、司斗井署剖叶
(マンドの豚鼻が大きく聞いたりすぼんだ りし、クスンと鼻水をすすった) @ロT寄与を守、叫斗吾司利豆﹂亡49若者叫豆 品。。言け勺、乃﹂亡裂、叶叫A斗。
(ぶっきらぼうな一言を投げるとスタスタ 先に立って歩き出すのだった)
E 一豆、HZF 宇都 且O EA吋叶司司ぺ番号忍号、叶叶
@刃LATLて剖叉吉川刈叫司斗吾﹂亡脅脅語、突o一E司 斗叫寸司曇叫致斗。
(チンスは唇まで落ちてきてとまった塩辛 いものを舌先でぺろつとなめながら、ヒョ コヒョコ、 父のあとに随った) 匂刈﹂︿T﹂亡旦﹁﹁寸前O叶ぺ設封、M40・奇﹂亡江牙 。古オ岳会脅し一叫,Z叶ユロ斗吉一EA可ロ言柑司河口吉 叶旦汁・王娘斗。
(チンスは咽喉からグエツとわいて出よう とする熱いものをこらえようと奥歯をき
りきり食いしばってみた) 刊寸ぺ科会白一、同,手ォ‘討会﹄zo一号、叶同品 @A﹁到 ud 斗 。
(女が くっと笑 つて はたはた襟を合わし た)
品叶叶叫官、同司五是正豆品﹁羽﹂司叫耳白一豆暑必﹃
⑪苦誓老若王叶官、叶れ﹂ヰ。ユ吾斗叫--a-z吐含 叫司、叫。
ω瓜叫A斗。
u
d
a・有毒司司﹂ 勺割ぺ叫い﹄三ロ
(ゴクゴクゴク、よく入る。その大きな酒 盃で一息に空けるとまた女の前にぐっと 差し出す)
。 玉
⑨刻﹂牛﹂亡叶叫刊誉会
(チンスは額に汗をポタポ タ流しながら向 こうの方までやってきていた)
(マンドは振りかえった息子の顔に向かっ
⑨叫邑品百世孟百
⑩
@ ユ完﹁ユヨ﹁
U国外寸叫回投
てにっこり笑ってやった)
⑮平司﹁平剖﹁
⑨汁。TEτオoTEτ
l
﹂ 一 現 一 司︿ ③﹂
@日川0吾刈o吾
(マンドは背中を息子の前に当て、 一つし
叫明 d 叶剖叫Lてを金司叶豆叶場叶明言、司、
⑨叫じ王﹂て号、叶司号、叫号泣刊、外スヰ叫24叶叫,
かない腕を後ろにスッと伸ばし)
これらユーモラスな騒音は、作品世界 を暖色で彩る致果がある。健常者が戦争
@oT吾OTユ邑
が原因で親子二代にわたって不具者とな
⑩引川﹂AT﹂亡ロT司剖世司令刊をE文許﹄互﹁﹂古o-軍司社。一 司い﹄叫叶五号、叶斗、引叶誹OA﹁冒言E亡ET普﹂豆斗吋
りそ人生の希望のかなりの部分が台無し
オ叫﹁ユ司会旦﹁歪オ喜平吾 4内せ渋ヰ。
(チンスは非常に恐縮したように片方の限 をぎゅっとつむりながら、鯖と杖を持っ
から漂うム lドが妙に明るいのは、音感 が豊かなこうした第一群のせいだろう。
になった物語が本作品であるのに、行聞 た手で父の太い首をガパッとかき抱いた)
ヰ 。
@吐三﹂亡外措決刈品可制司会卒、 司dY04守豆電叫﹁叫A
(二)↓m z ω一 OZ 鞭で打たれたような緊張感は、一字表 現、及び、そのすぐ後に感嘆符が付いた 韓国の文学者たちは、日本の小説家(三 島由紀夫)が嫌うほどきには、擬声語 ・擬
⑦斗
②利﹁、喝!
(マンドは下腹に力を入れ、ウンシヨツと 立ち上がった)
態語について蔑みの念を抱いていない 。
白番
場面に多い。
李箱が﹁芝溶の ︿ 馬 ﹀ の中のコムジョンコン プロンコンをやろう?の部分はわたしに
々して外
ロ一E4畏旦合会叫斗且吋巷等、引 1﹂苛斗常叫
この上ない魅力だ﹂と評している 玉ことを 見ても、擬音にすぐつながる愛着がうか
これらは容赦のなさを知らしめる。人
@E一﹁!司
ZAE4
凶臥﹂亡斗吋、刻、外レJ d pレペ喫叫斗乃﹂亡刻々勺斗。
がえるし、徐廷柱が紅い牧丹が午後四時
⑨引ベサ叶E一E盈豆電力oZず﹂ハキ考叫
そろりそろり随いていくのである)
(杖をついてヨロヨ口先をゆく息子の後ろ 姿をながめつつ、腕が一つしかない父が
頃、咳をするとしたら、それはどんな音
目頭があっくなる、等)される一{壬衣現は、
かむ、キンタマを握る、胸がス 1 7とする、 冷気にぞっとなる、口をあんぐり開ける、
いくが、肉感に即した個所に多用(手鼻を
速度で始まり、それが主調和音となって
いうメッセ ージがそこに 託されている。 本作品は主人公のマンドがスタスタ歩く
瞬々々が予想外な出来事の連続であると
生とは決まったシナリオではなく、一
命説寸
⑪回守
③ 必 ﹁
匂HETユHA司 44号、引HTA叶ペユ君、利叫L王将嘆
同音反復表現は、生動球γ乞喚起する。 例は以下のものである。
( 一 ) ﹀O↓一︿弓︿
四、殺果
かにこだわるのもそ肯定的に捉えている からだろう。
ム﹁叫ぺL亡辛苦手老人言、叫醤豆、斗、司、乃朝 刻。ォ司、q。妻子同00一豆、司会合会誇寿叫 閣官、叶日て斗。
司、ぺ対 44D
(あまりにあわてて飲んだためかマンドの 腹の中ではごぼごぽ酒がわいて足がよろ めぐ。鼻の穴から熱い息をフ l ッフ lッ とつく) ⑨叫じ王﹂て吾、外旦﹂亡、外E宮司包霊会 ユペo丈、叶手放、叫。
7 0
世の中を都合よく解釈する﹁観念性﹂を排 し、寸現実の厳しさ﹂を担調している。 (三)。m zm刃﹀﹁弓︿
本作品は、なによりも生身の人聞の素 直な感情を尊重している。人はお手本通 りにはなかなか行動できない面をもつが、 シチュエーション通りの叫ぴ声を発する ものだ。コ平 o F とい、ユ女堵の溜息ゃ、♂一 斗!﹂という恐怖。﹁司号﹂とか﹁オユペ﹂な どの様々な笑いもそうしたものだが、大 時代的な数果で、つけようとする気負いは 次の部類などに感じる。
そのことが主人公の性格描写に生彩を与 えている。マンドは片腕だが居酒屋の女 の前で堂々と亭主然と振舞う。 川を渡り畦道をしばらくいくと邑 (まち)に出る一本道に出る。道路脇 で挨に白く染まり腰を据えているわ らぶきの家は居酒屋である。マンド が巴に出るたぴ必ず一度は立ち寄る
を表す﹁ニコニコ﹂﹁ニヤリ﹂などがそ の例である。擬声語と同様の構成を もち、また現代語ではともにかたか なで書かれる場合が多い。日本語に
排列である。かといって、語葉の選択に 心を砕いた感じはしない。マンドの残響 で最終まで通そうとしている。﹁試練に負 けないこと﹂がテl マだからだろう。
はとくに豊富で、こまかいニュアン スのちがいを表現するのに用いられ、
(八)﹁舎!では、白色とか銀色系統を連想 させる、 Hを頭に付けて、喜一!とす ると紅い牧丹の色彩と合う感じがす
がわかる、 (六)三島由紀夫﹃文章一読本﹄中央公論杜一 九五九年。 (七)李箱﹁わたしの愛諦詩﹂初出は寸中央﹂ 一九三六年一月号。
年 。 (五)原文はコニ代独子﹂つまり、三代続い て男の子一人しかできなかった事情
作 。 (三)松田徳一郎監修﹃漫画で楽しむ英語擬 音語辞典﹄研究社一九二五年。 (四)李泰俊﹃文章講託腔博文書館一九四O
(二)寸韓国日報﹂一九五七年新春文芸当選
外国人にとってはわかりにくい。小 学館﹃日本百科大事血ハ﹄(昭和四四年)
六、結論 以上、﹁受難二代﹂をテキストとして、 小説表現における擬声語・擬態語の役割 といったことを探ってみた。こんな小文 が書けたのも同作品が。ロ。呂田同825を意 識せざるをえないほど多府していたため
なじみの庖である。この庖の眉毛の 濃い女とは軽い冗談をいい合う仲だ。 敷居をまたいでマンドが
多く使用すると、悲劇的内容もその度合 いが薄まるのではないかとの仮説が得ら
(一)擬声語 H音のまねをしてつくったこ とば。鳥の鳴え﹄声の﹁カアカア﹂﹁ピ 1
︿這
れでも、o 25と自58Zが﹁生動感正 g sS 白U ﹁緊張﹂﹁府民性﹂を作品に付与することは 確かなよ、つだ。
れたように思う。この仮説の証明には、 他の文学作品による検討が必要だが、そ
である。分析の結果、擬声語と擬態語を
﹁日一那様のお越しだし というと、女は、 ﹁ あlら、かったいさん、いらっしゃ
ν ・﹂ と返事するのがあいさつのように なっていた。
@列叫 ⑪叫叫
こういう具合いで、停車場の待合室
⑤苧白可
⑪ 豆 、 到 同 市 ⑫剖﹃司 ⑬叫O叫百叫百
大衆小説であるなら問題視することも ないが四百字詰の原稿用紙計算で僅か二
@ d o 胡6噂
でも、 ﹁もし、いま何時です?﹂ 向かい側に坐った洋服の男にきい た 。 ﹁二時四O分だよ﹂ ﹁へえーっ、そうですか﹂
詩文学原諮問﹄ る﹂と、徐廷柱は述べる。 ﹃ 正音杜一九六九年。 (九)拙稿﹁河瑳燦・人間の底を見つめる眼 差し﹂﹃コリアナ﹄一九八九年秋季号。 作品の成りたちに、ヨーロッパで第 一次大戦で片輸になった靴屋(息子は 第二次大戦で戦死)の話が参考になっ
六枚程度の短編の中に、パ 1ゲン・セー ルさながら放出されるこれら一言葉の数々。
多い。副詞的に使われるのが原則だ が、その音をだすものの名まえをつ くる場合もある。新しい例では﹁パチ
た回目、触れられである。 (丈))浅野鶴子編﹃擬音語・擬態語辞典﹄角 川書庖一九七二年。
という風である。そしてすぐタバコを 一本取り出して火を点ける。嘆きはする が、悩みはしない。そういう性格に擬態 語がよく役立っている。同じ擬態語でも 世界には、﹁眼球がいったんはずれて、ま
ンコ﹂があり、古くは﹁ネコ﹂﹁カラス﹂ などが擬声語起源のものと思われる。 なお、広く擬態語をも含めて擬声語
を表す﹁キラキラ﹂﹁ピカピカ﹂、笑い
似せて球質的に表現したことば。光
ヒヨロロ﹂水の音を、つつした﹁ジャブ ジャブ﹂﹁ボチャン﹂﹁サラサラ﹂など がその例である。日本語⋮には比較的
た眼禽(がんか)の中に入る音﹂だとか、﹁パ ンに何もつけずに食べる形容﹂などがある というが、マンドの場合、そういう複 22
※本稿は大谷森繁博士還暦記念論文集の寄稿を訂正・加
一方、チンスに対しては、﹁別﹁﹂﹁ HTEτ升 ﹂ 叫 邑 宮 古 L EE 一 口 、 忍 吾 ﹂ ヨコ司﹂﹁オ oTEτオ oTEF﹁ 対 ﹁じられる などにしても、割と繊細さの感
筆したものです。
雑なのは逆数果だ。
とよぶこともある。 擬態語H音に関係ない現象を音に
作者は明らかに音で出来る限り紙面を埋 めてしまおうと意欲しているようだ。そ の放果は﹁平易性・大衆性﹂の招来にある。 従来、使われている言葉以外に作者がア レンジを施した単語もあるようだ。
五、分析 ﹁受難二代﹂に使用されている擬声語は 一一、擬態語は四九で、擬態語の方が五 倍近く多い。そして、その内容は、登場 人物の動きに関連したものが多くを占め る。文脈上の扱いは非常に直裁的で、あ まり品のよい形容とは言いがたい。だが、
7 1
のデザイン以 2 がある の可 2ー
金英珠
wdEn る イ メ ー ジ は ど こ と な く 照 れ 質 的 水 準 や 国 際 競 争 力 が お の ず と
、 , ずか一 O年前までも、韓国でらといって、またデザイナーの数が増 ﹃デザイン﹄という単語の与ええたからといって、デザイン自体の
fV︺ 守
臭く、不馴れで、内性的であるばかりか、解決されるのではない。 い た っ て 特 定 の も の を 指 し て い た 。 と こ 八0年代中期から始まって、 ろが入0年代に入ってからデザインはにソウル・オリンピック(一九八 わかに全盛時代を迎えて、大学や学院か八年)を前後して、韓国のデザ ら溢れ出る数知れぬ予備デザイナーたちイン界は﹃韓国的デザイン﹄(韓 はデザイン ・ブlムに乗って、﹁先端職業国の伝統的対象をイメージ の隊列に立った﹂という興奮と期待感を抱化するとか、韓国的文化と くようになった。芸術、生活風習などを表現 一つの技能職とだけ考えられていたデすることによって、韓国的 ザイナlの作業が製品、衣裳、包装、広アイデンティティを主張す 告と編集分野など、社会全般にわたってるデザイン)を世界市場を 浮上し、それが以前の様相と確然として目指す一つの突破口と 比較され、デザイナ ーの 前 に 壁 同 様 は だ し て 考 え る よ う に な つ かっていた候所や大企業も﹁デザイン抜きた。韓国人には陳腐に見 のヤボ﹂という論理に同意しはじめた。しえるかも知れない韓国の かしデザインに対する認識が高まったか . 伝統的対象がデザインのそ
界つ
るゆえんでもある。
的でない護国デザインレといわれ
チーフとして登場した。﹃韓国的﹄という
単語も抵抗感なしに使用された。 ﹃短いデザイン歴史﹄というハンディ キャップを背負って世界市場に飛び込む ためには、みようによってはこの方法が
もっとも早く、賢明な手立てだったかも 知れない。しかし、直接的な韓国的イメー
﹃
、 3二二・コリア﹄ (212 穴OgEn)は 平均年齢三O歳前後の社員からなってお り、これまで韓国のデザイン会社がかも し出していたスタジオ・スタイルの家族 的雰囲気から脱け出て、産業デザインを 組織的にビジネス化して話題になってい
は新しい接近と努力でもって韓国デザイ ンを世界の競争舞台に押し上げるために 努力している。工業デザイン分野で最近、 新風潮を巻き起こしているデザイン会社
からである。 こうした流れの中で、心あるデザイナー
ザインという分野もやはり韓国という国 を知らせ、韓国人のアイデンディティを 植え付けるにとどまるには、それがもっ 底力と無限な可能性があまりにも惜しい
すべての文化がそうであるように、デ
、つ。
台で行なわれる公正かつ堂堂たる競争で は、引続き後じさりするよりほかなかろ
して民族的情緒をまるで個人の独創性と 個性の手段であるかのように、これを気 まま勝手に利用しようとすれば、世界舞
韓国人なればこそ抱く韓国的なものに対 する愛着や情緒を否定しようというので はない。しかし韓国の伝統的なもの、そ
るかもやはり未知数である。もちろん、
ジの競争力というのがどれほど長続きす るかは未知数である。また、嫌烈で徹底 した世界市場で韓国的なものを強調する デザインがどれだけ実質的に外貨を稼げ
r z
2 7
ないというのがかれの持論である。かれ
がデザインしたベージュ色の四角張った
﹃一二 二 ・ キムチ箱は大きくヒ ットした。 コリア﹄の株価も大幅に 上昇した。円筒形 の箱型を主張した企業主をして、その先
入見から脱度するよう説得した努力の結
果だった。
ウンさんのこのような デザイン哲学は、
かれの組織的で合理的な思考と先端の会
ンセプトと相侠って、世界デザイン市場
社システム、グローバルなデザイン・コ
業デザインを専攻したデザイナーで、今
クのプラット大学院(早器 Z2ER)で工
社長ウン・ピョンスさんはニューヨー
多くの時間を割いた 。大回世界エクスポ
に自身のデザイン哲学を説いた。それに
かれはまず、圏内のクライアント (05口同)
に進出する時機がやってきたと確信した。
是与と国際舞台 そ韓国のデザインも正正 A
らした仕事である 。キムチは明らかに韓
頼した)もやはり、ひたむき・な説得がもた
れの容器デザイン(韓一ステンレス社が依
プロ ジ ェクトの一つであるキムチ漬物入
また、ウンさんがとりわけ愛着をもっ
会社モトローラ杜からのデザイン依頼を 受注して、産業デザイン分野では圏内最
出のための準備を怠らなかった。
達した社員を雇用するなど、世界への進
と入手し、社内に西洋の文化と言語に熟
ニューヨークにコ二二・コリア﹄法人を 設立して海外の傾向と情報を次から次へ
への進出に決定的な役割をした 。かれは
はデザインよりもデザインを売る仕事に
を保管する容器まで伝来の聾を使用する
体得したから であろ、っ。
デザイン市場で生き残れるノウ・ハウを
国際競争で勝利できたのは、まさに世界
ンコンなどのデザイン会社を押し退けて
その結果、ウンさんは最近米国の通信 必要はないと確信した。あくまでもキム
初の韓国デザインを販売した。日本やホ
デザインした ﹃ 韓国的デザイ ン﹄に間違い
に忠実でありさえすれば、それがどんな
国の伝統的な食べ物ではあるが、キムチ た電気自動車(既存の自動車外形にテクニ
, ( 寸 ZHE SFZE色。口同日同宮島 組織 委員会を尋ねて、同委員会が計画してい
チの特性と独特な保管、そして使用方法
を製作、納品することになった。
5 )
てなかったウンさんが会社を創立して
カルな部分だけを改造して製作しようと
ることであった。
ア( v g n F R巾)を手にして、企業を訪問す
ンを投資して製作した広報用プロ lシユ
没頭している。一九八九年二月、コネと まっさきに手がけた業務は、二ハむ 万ウォ
した)を大胆に改造するよう説得し、結局 ﹃ 一二二・コリア﹄は問委員会に、デザイ
ンであるとしても、結果的には韓国人が
に現代的で西欧的な感じを与えるデザイ
る 。
様国のト ップクラスのファ ッション・デザイナーである
ン能力を存分に発揮した最先端の自動車
かれはコアザインにもビジネスが必要で ある﹂という確固たる信念とともに、今こ
7 3
李f 言雨さんデザインの衣裳
李信雨さん
近来ファッション・デザイン分野でも、
てるようになった契機が訪れた。韓国の
世界市場に進出できるという自信成芋﹄も
トップ・クラスといえるファッション・
デザイナー、李信雨さんは、四回にわた
る東京コレクション参加で得た経験と自
信感をもとに、韓国としては初めて去る
三月一一一日、フランス・パリで開催され
たパリ・プレタ・プルテ・コレクション
uzgg﹁丹市﹃のozg-oロ)に参加し
(司主回目
た 。
事実、韓国のファッション・デザイン
は他のデザイン分野に比べると、短期間
けに、かれらデザイナーが克服すべき障
内に急成長したことを否めない。それだ
害や解決すべき問題は尋常ならぬもので
あった。大半のトップ・クラス・デザイ
ナーはソウル・オリンピック(一九八八
年)と時を同じくして、韓国の伝統的シル
エット( ω523巾)と色感、素材などの表
現に熱中した。しかし、かれらが追求す
る作品性と独創性を遮る障害は世界性と
現実性であった。
こういう状況を勘案するとき、李さん
は韓国ファッション・デザイン界の突破
口を聞く、?えで大きく貢献したといえる。
かれのデザインはきわめて韓国的である。
は、韓国の衣裳を現代的に消化するとか、
八0年代までにしても李さんのデザイン
韓国の伝統的生活と染色技法を応用する
とかして、圏内でも﹁韓国的イメージを
て指折られていた。
もっとも鮮かに表現するデザイナー﹂とし
かれのこのようなデザイン・コンセプ
トは東京コレクションでも例外なく表現
されて、その反応もきわめてよかった。
しかしパリ・コレクションを控えての李 さんの考えはちょっと変わってきた。根
7 4
いろな効果をあげられるよう製作するな
かれのデザインは、 一着の衣裳でいろ
かった点が今度のコレクションのキ1 ・ ポイントである。
ブランドが世界舞台に進出できる可能性
めない。また韓国の固有ファッション・
いう宿題を解く糸口をつかんだことは否
せられていた﹃韓国デザインの世界性﹄と
数多くのファッション・デザイナーが課
とみるのは速断かも知れないが、韓国の
て、韓国の伝統文様を驚くほどに汎世界
の﹃ 韓国伝統文様集﹄は組織的なリサーチ とハイテクを利用した単純化作業を通じ
統文様集﹄ 05自室。巴︿窃)を出版してき 同 ( た。現在まで合計八巻を刊行しているこ
感覚にマ ッチするよう視角化した﹃韓国伝
日本人デザイナーに西欧圏は食傷気味で
だった。
を問わずだれにも親近感を与えるもの
られて表現された韓国的な感じは、東西
ンプルなラインはほどよく調和し、抑え
進出に対する熱意は同様である 。図書出
を見せつけた舞台でもあったのである。 グラフィ ック・デザイン分野でも世界
であると考えたのである。
より実用的で国際的な感覚に専念すべき かれの最初の西欧圏進出は﹃成功的﹄ が間断なく執着してきた自然的色調とシ
ど、実用性と経済性を備えており、かれ
本的には軌をともにしているが、今回は
日本的な色彩を表現してきたこれまでの
だったという評価を受けた。﹁あまりにも
という批判がこれを裏付けていると ある L もいわれている 。李さんの衣裳は明らか
( 回 oorE町)に新しい主題の文様で展示さ れている 。 韓国の伝統文様を伝統文様そのままで
. .
. . ・岬
ている。上記した三つの例のほかにも、 どこかで息を殺して世界舞台に飛び込む るに違いない。先進国に比べて数十年立
準備をしている数多くのデザイナーがい ち後れてはいるが、デザインを専攻する 大学生が国内外の動きに敏感に反応して べて幅広い視角とグローバルな感覚を
おり、指導する教授もやはり、過去に比
も﹁井一戸の中のかわず﹂式の考えから脱皮
もっており、現場で働いているデザイナ ー
化されて、世界デザインの潮流に 一点を 記せるかは、まさにこれからの宿題であ る 。
情緒がかれらの手でいかに料理され、消
しかし絶対に無視できない韓国人のみの
は、避けたほうがいいに決まっている。
するために必死なのである 。独りよがり
拘 "骨崎g
化させている。この本は毎年フランクフ ルト(ドイツ)で聞かれるブ ック・フェア
に韓国デザイナーが独創的に制作した韓
版社アン・グラフィァク(﹀町ロ m Buzz
"刷岡
見せるとすれば、あえて外国人がこの本
・ "
象について先端方法を利用して、世界的
a
-ロ円)では一九八六年から韓国の伝統的対
-
・・・
.剛副'
•••••
今度のコレクションをきっかけに、李 さんのデザインが国際的な評価を受けた
影響を与えている。
韓国のデザインは無限の可能性をもっ
をえない。
外国のデザイナーに大きな
国のデザインであるが、決して世界的感
米国やヨーロ ッパなどのディーラーの手
覚からずれているとか、目障りにならな
を買うわけがなかろう。しかし ﹃ 韓国伝統
九九O 年 に は ス イ ス の ロ ト ビ ジ ョ ン
によって販売されていた。このあと、一
文様茅は、もっとも韓国的な素材をもっ とも韓国的でないデザインで視角化する ことによって、世界のデザイナーと専門
いる。決して大きな部数とはいえないが、
HnE-2 宮間宮) 何 og︿窃古田)社に専有権 ( 同 (譲って、毎年五OO巻ずつ出版されて を この本がもっている専門的な特性を考慮
家が実務に応用できるモチーフを提供し
すれば、うなずけられないでもない。と
ている。七年にわたって行われた伝統文 ク・フェアでの絶大なる反応とともに、
様の現代化作業はフランクフルト・ブッ
くに外国出版社と正式契約を結んで韓国 のグラフィック・デザインを輸出し、さ らには韓国の出版物を輸出するといこと は、韓国ではまた珍しいことといわざる
世界各国に進出する転機を提供した。 一九八六年、日本のグラフィック社で は第一巻と第二巻の日本語版をそれぞれ 三OOO部ずつ出版したが、それまでは
7 5
『韓国議定文様集』は
A-PF
キムヨン
金栄泰(舞踊霊家)
と
しており、 一九九二年には日本のアレナ・
いる。ナム・ジョンホは、日本でも活躍
レエ学校に優秀な弟子を留学させたが、
英国ロイヤル・バレエ団、モナコ王立バ
ホlルで﹁対話﹂などを振付けている。
イ1 ・サンマン、キム・ソンヒ、パク・ イルギュ、チョl・ギュヒョンらをあげ
イジング舞踊団代表のキム・ヨンスン、
ラスが養成した男性舞踊手にはまず ニューヨークのホワイト・ウェーブ・ラ
デラスの世話により留学した。また、デ
はソウル公演(一九九一年)のさいドスト
ペテルプルク・バレエ団のエイフマン
力を圏内舞台に披露した。
して、三年余りのロシア留学 で学んだ実
ジュリエット﹂(二O分に縮小)の振付けを
連のペテルプルクバレエ団常任振付師) が来韓公演した際、同バレエ団員のペク・
一九九二年にボリス・エイフマン(旧 ソ
まず萎秀珍をはじめ、ムン・フンスク、
ることができる。このイl ・サンマンは
エフスキ 1原作の﹁白痴﹂などをはじめて 紹介したばかりでなく、﹁レキュエム﹂
キム・インヒ、チェ・ムンヒ、イ1 ・ィ ンギョン、ホ・ヨンスンら優秀な学生が
舞踊団を率いて活動しており、演劇から 舞踊家に転身したチョ l ・ギュヒョン
﹁フィガロ Lの二作品を国立バレエ団のた めに客員として振付けているが東欧圏で
五O 余人の中でただ 一人の東洋人がペ
活躍しているモダン・バレエの先頭走者
元国立バレエ団員)は﹁ロミオと ヨンテ (
は、、ニューヨークのラ・ママ劇場を本場 としているが、﹁パナマ L宮 (ロ 陸自白)を振付 けてヨーロ ッパ巡回公演もしている。
ツットガルト・バレエ団は英国のロイヤ
ンスに留学したときシャンコダン現代舞
るナム・ジョンホは八0年代初期にフラ
情性と遊戯性の強い作品を振付けしてい
ルギーのプリュッセルに滞在中である。
学校のディプロマ( s白)を取得し、ベ z e b
キム・ジュンヒは 一九九二年にパガノパ
パク・ジエグンは現在留学中であり、
ク・ヨンテなのである。
ル・バレエ団、米国のニューヨーク・シ
九八一年て実弟のナム・ヨンホも現在フ
踊団団員として活躍したが(一九人Oi 一
釜山の景城大学教授を勤めており、叙
エ団に数えられるバレエ団である。
そして一九九二年には﹁デ lピ ット シ モ などを公演した。 ンス﹂(電子音楽) またイタリア滞溜中のパク・ジエグン
引率して来韓し﹁螺旋型の階段﹂などを、
世界であるが、﹁ラフィングストーン﹂を
て﹁禅﹂思想も体得した旗想と踊りを継ぎ 合わせる独創的世界がホン・シンジャの
にはインドに渡り、膜想修道生活を通じ
して名声を博した。 一九七0年代後半期
クで舞踊団﹁ラフィングストーン﹂(笑う 石)のリーダーとして、前衛舞踊の旗手と
ンジャは七0年代後半まで、ニューヨー
ている。一九六六年に渡米したホン・シ
ティ・バレエ団、旧ロシア共和国のキエ フ・バレエ固などとともに世界八大バレ
ランスの現代舞踊団団員として活躍して
ているのではない。いまは故国で後輩を
・ 巾 切
学中、当時来韓したモナコ王立バレエ学
は二O代の半ば、彼女が善花女子高校在
トの中のファーストだった。萎秀珍の年
眠れる森の美 一年、バレエ団の墓尽公演﹃ さを見たが、当時委秀珍は三人のソリス
芸術監督を担当している。筆者は一九九
ヨーロッパの舞台で一時頂上を占めて いたマルシア・ハイデがこのバレエ団の
とそうだが、しかし技量面で決して後れ
舞踊界では代表的人物といえる 。森下の お陰で日本では七0 年代からバレエ・ プlムが起こったという見方もある。日 本生まれの小沢征爾が交響楽団の指揮者 として名を馳せているのと比肩できるか もしれない。
校のマリカ・ベソプラ・ソパ(富民E
)教授のオーディションに合格、 Z 山O 川 8q白 モナコ王立バレエ学校に留学したのは一
るソウル滞在中に多くの弟子を養成した。
師のエドリアン・デラスは一一一年にわた
一九九三年は韓国の舞踊界に慶事とお めでたが重なった年でもある。ドイツの シュツットガルト・バレエ団でソリスト として活躍した美秀珍が一月二九日、当 地の舞台で﹃ロミオとジュリエ ット﹄全幕
O代の時だった。善花女子高校バレエ教
公演の主役に抜擢されたからである。シュ
数多くの韓国のダンサーが
世界を舞台に活躍し名声をはせ
ている。
養成し、まだ現役である森下洋子は日本
国立バレエ団の首席男性舞踊手であった ミン・ピョ ンスもペテルプルクに滞留し
外で活動している韓国の舞踊 主﹄副 ‘家の数は、日本に比べれば少 ないほうである。数からいう
、hμ JS
、 ' / .
8 7
はロシアのパガノパ学校に在学中である。 していたとき、被女はアリカベソブラソ
萎秀珍がモナコの王立パレ工学校に留学 パ女史の寵愛を受けた。世界各国から集 まったバレエ志望生のうち、容姿や才能 が抜きんでていたからである。そして一 九八五年の lロザンヌ国際バレエ・コン の年で一位に入賞した。シュツッガルト
クールで、東洋人としては初めて最年少 バレエ団のオーディションに合格したの はその後であった。萎秀珍は一九八九年 一九九二年の韓国における舞踊の秋の祭
にホンコン舞台の﹃オネギン﹄に出演し、 典では﹃ロミオとジュリエット﹄主演男性 舞踊手ヴアンカパリラ(イタリア生れ)と キリアン振付け作品﹃雲﹄で二人舞いを 踊った。また、萎秀珍は一月主役舞台で 好評を博し、一九九三年の下半期予定の ﹃眠れる森の萎女﹄の主人公に再抜擢され た 。 国立バレエ団長に赴任したキム・ヘ シックが東E舞踊コンクール(第一回)金 賞受賞後、英国のロイヤルバレエ学校に
が海外バレエ学校留学の草分けであった。
ルバレエ団の主役として活動した。これ
バレエ団の首席舞踊手にピックアップさ れたばかりでなく、カナダモントリオー
ヘシックはその後、スイスのチュ 1リヒ
チェ・ミンフア(ユニバーサルバレエ団
バレエ団の来韓公演があった)。その時
オーディションに合格した(当時ロイヤル
のとき、英国のロイヤルバレ工学校の
ているムン・フンスクは善花女子高三年
ユニバーサルバレエ団の副団長を勤め
目前に控えている。
あった。ムン・フンスクはジゼル公演以
z m z・妖精たち)を公演したことは、 の (国のバレエ史上に一線を画す﹁事態﹂で 韓
男性舞踊手アンドレリエファと﹃ジゼル﹄
レエ団の招請で、世界的な旧ソ連出身の
いるが、一九八九年に旧ソ連のキロフバ
数えることができる。
チャン・インジユ(梨花大学卒業)などを
修),ハン・ヘリ、イム・ムンジュそして
博士課程履 たムン・エリヨンをはじめ (
八0年代中半期にすでに実験した分野で
が一九八O年にニューヨークから帰国、
現代舞踊家、金福膏さん
かれは現役から引退して今年の一月に国
おり、一九九三年九月にはオレグピラグ
後、﹃ドンキホーテ﹄公演に再招請されて
主役として今日まで不動の位置を守って
立バレエ団長に赴任するまで、米国カリ
首席舞踊手アン・ウンスク)も合格した。 その後モナコ王立バレエ学校でメソプリ
マ劇場で﹃隠された記憶﹄のような作品も
ラドフが振付を担当した。また、ラ・マ
留学したのは一九六七年であった。キム・
フォルニアのピ lグ ガ ー デ ン グ ン ス ア
ソパ女史の指導を受け、米国ワシントン
ホン・スンヨプは一九九二年、スウェー
オーディションで﹃遠くにある墓﹄(キム・
デンのピルギットカルベルクバレエ団の ピデオ舞踊の実験作業はイ・ジョンヒ
発表した。
もある。舞踊評論分野ではパリに留学し
カデミーの振付と指導委員を担当した。
バレエ 団に入団してからソリストとして レエ団が創因されるやムン・フンスクは
活躍した。一九八四年にユニバーサルバ
ヒバレエ団のソリストとして活躍してい るバレリーナは善花芸術女高出身のホ・
キム・ヘシックの後楚で、現在チュ lリ
ヨンスンである。彼女も主役デビューを
η
﹃祭礼﹄公演以後であった。今年からは故
一九八0年代初期にフランスに渡って、
ンチノパシリエブ女史の寵愛と指導を受
ム・ソンヒは二年短期課程留学中にパレ
学校を卒業したキム・ソンヒである。キ
のバレエ留学生第一号はベカノパバレエ
東欧圏との障壁が崩れるや、旧ソ連へ
の舞台でならした韓国の二大スターと言
なした。美秀珍とムン・フンスクは世界
クで公演された﹃白鳥の湖﹄公演で主役の オlデット・オ lディルの役を難なくこ
分野を開拓し、一九八七年にはニューヨー
ス﹄(一九九二年にソウルで公演)で新たな
究したキム・ヒョンオクは﹃ピデオダン
パリの四つの大学で現代舞踊と美学を研
けたが、バレエ指導者コ lス課程々外国
国に定着するといわれている。
人がオーディションに合格卒業したのは
出身のキム・ボクヒの弟子)をあげること
男性舞踊手としてはヨ・ヨンハ(漢陽大
、 え よ 、 っ 。
ができるが、一九八八年に米国のマ lサl
梨花大学舞踊科を卒業したユ・ジョン
初めてであった。 オクは一九九二年、﹁舞踊の年﹂祝典に招
ンスクに次いで、一九九三年にはキロフ
来不動の位置を堅持している。ムン・フ
フリバレエ学校に留学し、一九八七年以
のフランケティバレ工学校、米国のジョ
のカミタニパレ工学校出身で、フランス
る 。
が、一九九三年には入団する見通しであ
ンスコクが振付けした作品にも出演した
の評)、好評されたものの入団は保留され た。ホン・スンヨプはカルベルグとマレ
::・(スウェーデンタゲンスヌヘタ1ジ
な光りを発する魔術を帯びているように
手とは違い、かれはやさしい動作も優稚
ン応募者の中で脚光をあびたが他の舞踊
ヨンテ詩)をソロで踊って、オーディショ
ン・インヨンが﹃サルプリ(亙子の厄払い
ヨーク舞台に進出し、現地で留学中のソ
チャン・エスク振付けの﹃郷愁﹄はニュー
ユク・ミヨンの振付け﹃禁じられた遊び﹄
スティバルで受賞したパク・ヘジュン、
が期待されている。一九九二は ﹃ 舞踊の年﹄ であったが、若い踊り手たちの秋季フェ
いで再招請されたキム・サンジャの活躍
スティバル)の振付師で、一九九二年に次
に進出し、 ADF(アメリカダンスフェ
クアンジュンそして韓国舞踊のイ・ミョ ンジン、キム・スヒョンなどが日本舞台
ク・ウンファ、ファン・ミスク、ソン・
をあげることができるが、現代舞踊のパ
催する韓・日ダンスフェスティバルなど
には日本舞踊手がソウルで共同公演を開
対象とする表現主義に重点を置いている
ては、ヨーロッパの舞踊は技巧を重視す
とヨーロッパの舞台をあさった彼女とし
知できる日常の感興に愛着をもっ。米国
﹁技巧 L本位の動作よりも作品全体で感
どで活躍した。
術監督を勤めているプパ lタル舞踊固な
結婚記念日﹄などの秀作を にも来韓して ﹃ 公演した)をはじめ、ピナボウィシが芸
パに移して、ドイツのケルン舞踊団(韓国
躍し、一九八五年からは舞台をヨーロッ
米国のアルピンエイリ舞踊団員として活
ンオクは一九七二年から一九八四年まで
配分を見せてくれた佳作だった。ユ・ジョ
なアイディアが肉体エネルギーの破格的
迅速な動きと変奏、そして想像力と奇抜
で表出した彼女の作品は、劇舞踊的要素、
ト ホlルでは・夫婦共演した。
でも健在を誇り、一九九二年には湖巌アー
ジョンは日本作家豆﹀ ωCO只切り﹀の﹃テー ブルの下の婚礼﹄(ジョンホンジョ振付け)
であった。同年三月の舞台﹃フルチネラ﹄ でも主役として登場した。ジェ lムス
ムジョンが出演した ﹃ 椿佐で、アルマン
ト(おもにキャラクター役)である。ジュー
が、今はニュパ lサルバレエ団のソリス
ムスジョンはニューヨークで活動した
O世紀バレエ団に身を寄せていたジェl
ひところモ 1リ ス ベ サlルが率いるこ
胆に消化した。
レスカフチリとともに強度ある技巧を大
ヨンハは ﹃ 迷宮への使者﹄の主役を果した。 ﹃ 迷宮への使者﹄の二人舞いで、かれはテ
グレハム舞踊団が来韓公演した時、ユ・
招請舞台が期待されている抜群のバレ
の踊りとなどを踊った。 ソン・ファン(バイオリニスト)は﹃サム
と自分の考えを披涯する、ユ・ジョンオ クはドイツのウルンベベコンタンツシア
したように、この男女関係を衝動的動作
請されて、﹃タルベ lピズ﹄を振付け注目 を浴ぴた。その舞台を観覧して筆者が評
リーナである。持続的な交流公演はフラ
ルメリ(四つの楽器で演奏する形のもの)﹄
在米現代舞踊家洪信子さん
ンススポンサーが周旋(一九九二年、フ
ターで振付けを勤めており、同時にミュ
の父役はかれの個性を見せてくれた作品
ランス全域で一九回公演)した市立舞踊
の﹃伽僻琴と人性のための迷宮﹄は一九七
と合同公演で ﹃ 門﹄を振付け、黄葉糞作曲
国立バレエ団の主役チェ・テジは日本
団、メキシコとの文化の掛け橋の役割り
ンヘンダンスアカデミーで学生たちを指 導している。
る米国のそれとはちがって、人間の生を
を果たしたキム・ボクヒ舞踊団、そして
の舞踊と観客が会ったのは一九七三年の
0年代の秀作として数えられる。洪信子
進出が自立つ。
一九九三年一月に東京公演を催し、六月
現代舞踊の振付けにも韓国の若手の
7 8
aF
静化は時代相を反映する。産業 技術が発展して生産力が高ま
うになっており、大衆文化の多様な変貌 は新しく成長する世代のそれぞれ異なる 個性を見せてくれている。 韓国社会の新しい試みは文化空間にも
リ iX
ると、社会の各分野が変貌す あらわれている。文化水準に合わせて文
-J
る。社会の各分野が正常的に発展して文
しどし建設してきた結果、文化空間は一
化力量が最高度に達すると、健康で均衡
昔に比べればゆとりがあるほどである。
が、最近われわれは優れた文化施設をど
さて、今日の韓国社会は堅固な文化力 なかでもとくに﹃芸術の殿堂宮(社長・金尚
化を受容する空間造りは不可欠のことだ
量がその根底をなしているだろうか。伝 植)は一一一世紀韓国の文化芸術を背負う跳
の取れた文些冨術が花を咲かせる。
いに刺激して、明日の望ましい民族文化 躍台として期待を集めている。
統文化と外来文化がほどよく調和し、互
は容易でない。正答がなんであるかを探
を奮ませるだろうか。これに対する答え ﹃芸術の殿堂﹄は東洋最大の複合文化空 間である。最大が最高を意味するのでは もつことによって、最高の文化芸術を指
ないが、われわれは大規模の芸術空間を
会は間断なく新しい試みに挑んでいる。
なった。また韓国最初の音楽学校として
しかし一つだけは断言できる。韓国社
る作業も容易ではない。
文化の面でもしかりである。純粋芸術の 水準は急ピッチに向上して、われわれは
名乗りをあげて聞もない韓国芸術総合学
向するという当面の目標をもつことに
以前に比べ品位のある高級文化をもっょ
チェソンジャ
崖成子(韓国日報・文化部次長)
7 9
の
韓国社会の新しい試みは文化空間にもあらわれている。文化 水準に合わせて文化を受容する空間造りは不可欠である。
ラ・ピットが設置されているオペラ劇場
移動式回転舞台と先端のオーケスト
01五OO席)の三つの劇場がある。
場とソウル音楽堂を教育の場としていて、
校も﹃芸術の殿A 5内のソウル・オペラ劇 名実ともに韓国文化芸術の心臓部として
なっており、オペラのほかにバレエ、現
は、客席が一階と三つのバルコニーから
ソウル市瑞草区瑞草調の牛眠山麓に位
の位置を固めている。
代舞踊、ミュージカル、創作音楽劇など が公演される。演劇をはじめ舞踊、パレ l、 ミュージカルなどを公演する土月劇場は
八年にわたる長期の大工事のあげく完成
オーケストラ・ピットまで設置してあり、
置する﹃芸術の殿堂﹄は、二年余の企画と
六OOO坪の規模だが、五棟の技能空間
した。敷地七万一 000坪、延建坪三万
小規模のオペラ公演も可能である。
替える可変舞台が設置されていて、演出
性格と内容に釣り合うよう舞台と客席を
また、演劇専門の自由劇場は、公演の
と四つの屋外空間とで構成されている。 においてはもとより、国際交流の舞台と
今後、韓国文化芸術の創造、教育、普及 して果たす役割は計り知れないものがあ
一九八八年に開舘した扇模様のソウル
者の意図を存分に生かすことができる。 この大建築の費用は韓国放送公社の公
ると思われる。
体感・チ醸成すべくアリーナ(Rg白)型舞台
演奏会が催されている。客席と舞台の一 一九八八年二月、音楽堂と書芸舘の完成
を設置した音楽堂(二六OO席)では交響 楽、合唱などの大型演奏会が聞かれてお
音楽堂は囲内最大の演奏空間で、様々の
を皮切りに、一九九O年一 O月に﹁ハンガ
り、リサイタル・ホ lル(四OO席)では
文芸振興基金一五五五億ウォンである。
ラム L伽 ( 藍)美術舘とソウル芸術資料舘が
小規模の室内楽と創作曲発表会、独奏会
益資金が充てられた。公益資金のうち、
完工し、ついで一九九三年二月一五日、
がおもに催される。
世界唯一の書道専用空間であるソウル
オペラ劇場が開舘した。これらの建物は ンター、英国のパピカン・センター、フ
が、いろいろの企画展が次から次へと催
書芸舘(書道舘)は一一一室の展示館がある
規模と施設の面で米国のリンカーン・セ ランスのポンピドl、.-センターなど、
、﹁印刷媒体資料 料室﹂﹁最新情報案内室 L
を提供するソウル芸術資料舘は﹁子ども資
公演、展示を中心に各種文化芸術情報
び企画展を開催している。
を果たしている。ハンガラム美術舘は五 つの展示室を備え、各経国際交流展およ
されていて、圏内書道展示の中心的役割
国際的な文化空間と比べて少しも引けを 取らないといわれている。 では、各空間の規模と施設、そして特 慣を簡単に紹介する。
ム模様の円筒形建物であり、先端を行く
00坪規模で、地下一階、地上三階のドー
室﹂、﹁視聴覚媒体資料室﹂などからなって
ソウル・オペラ劇場は延建坪一万三二
オペラ専門劇場である。ソウル・オペラ
舞台設備と音響装備を備えた東洋唯一の
開舘記念行事を催した。
月二二日までの二ヱハ日間にわたって全舘
﹃芸術の殿堂﹄は去る二月一五日から一一一
いる。 専門の土月劇場(三階と四階、七二席)、
ラ劇場(二階と五階、二三四六席)、演劇
劇場の建物内にはオペラ専門空間のオペ
小規模公演空間の自由小劇場(一階、三O
関
う反応を示した。しかし、この東洋最大 めたものだが、このため同劇場の有料観
ラ専門劇場ということで大きな関心を集
が観覧している。 ソウル・オペラ劇場は圏内最初のオペ
展﹄(二月一九日l三月一八日)が催された ハンガラム美術舘には計二万六O六二人
のメドがまだ立っていないのである。
ぬわけだが、そのために必要な資金繰り
よぴおこし大衆の中に入りこまねばなら
ログラムの企画と開発とで大衆の興味を
観覧者で埋めるに足る、多様で斬新なプ
かしげる向きがないでもない。
中心部として定着できるかについて首を
員、警備員などの教育問題、交通便宜、
るに足る十分なスタッフ陣の確保、案内
の公演場と二つの展示室を円滑に運営す
A のイメージ・アップをはじめ、五つ 殿岳
タテに話にのってこない﹂と暗い顔だっ た 。
けているが、関心が薄いうえに不景気を
この行事に参加した国内の芸術家と団
の複合文化空間が施設にふさわしい文化 客占有率は殿堂に対する大衆の関心度を
芸術の殿堂は今年(一九九三年)の予算
が八二六人人、自由劇場が三O九O人で、
からの継続的支援がはっきりと保障され
から五O億ウォンなど計一一一O億ウォン を策定している。しかし国庫と公益資金
敗は、何にもまして安定的財源の確保が
文化芸術施設である芸術の殿堂運営の成
月二=百の就任記者会見席上で﹁世界的な
また、予算で占める人件費が三O億ウォ
Eの金尚植社長は三 一方、﹃芸術の殿A
て浮かび上がっている。
全館開館記念行事には一 O万余の観客 客席占有率の平均は三七パーセントにす
てないので、安定した財源に立脚した長
かなめ﹂であると強調した。金社長は、ま
施設の開発・改善などが重要な課題とし
を集めたが、その半分以上は招待客だっ
﹁韓国公演芸術の新しい章を聞く歴史的
ぎなかった。
期的な運営計画の樹立は覚束ない実情で
オペラ劇場の音響はすばらしかった﹂とい
体は﹁やはり施設は世界的であり、とくに
の中心になるためには、安定した財政収 測る尺度になるといえる。 ソウル・オペラ劇場の有料観客数を見
として国庫から二O億ウォン、公益資金
このような予算問題のほかに、﹃芸術の
入を得なければならず、また斬新かつ多
るとオペラ劇場が八五五人人、土月劇場
た。﹃芸術の殿堂﹄の開舘行事はマス・コ ミが大きく取り上げたにもかかわらず、 行事﹂と連日騒がれた全舘開舘行事がかく
た﹁安定した財政確保が構造的に定着する までは、国庫と公益資金に依存するより
五つの公演場と二つの展示室を観客、
様なソフトウエアを開発して観客を引き つけなければならないと指摘されている。
一般大衆の関心を引きつけるまでには至 らなかったようである。
ある。
の文化体育部と韓国放送広告公社に協力
ほかない。この問題については主務官庁
ムたった六億ウォンの経費を投じた記
も観客動員に失敗した理由としては、
ン、施設維持費が二七億ウォンであるの
純粋芸術の観客が限られていることか
に対して、公演企画費および製作費は一
ら観客動員に自信が持てなかったようだ 引くに至らなかったこと、
念行事そのものがお粗末で国民の関心を
﹃芸術の殿書のある関係者は﹁予算が一
展示計画を立てる仕組になっている。長
されている運営諮問委員会で公演および
﹃芸術の殿山{是の運営は、空間別に構成
を求める考えだ﹂とつけ加えた。
五O億ウォンぐらいはあってこそ企画プ
期的には分野別専属団体を入所させ、芸
ログラムの開発は望めそうにない。
O億ウォンにも満たないため、多様なプ
が、今回の一 O万余という観客数は予想
ム﹃芸術の殿山{去が交通不便な所に位置
をはるかに下回る低調なものだった。一 五OO億ウォンという莫大な金を投じて 建てたぼう大な文化施設が一般大衆とか
ログラムを開発するなど活動を活発に展
していること、 ム超豪華な施設が少数上流層のための
開できる﹂と述べ、﹁企業に支援を呼びか
専有物のように映ったであろうこと、 などが指摘されよう。こういうわけで、
けはなれた﹃ガラス箱﹄にならないよう、
﹃芸術の殿山{書が名実相伴った文化芸術の
観客誘致のための戦略を打ち出すべきだ 圏内の一七カ団体が参加して舞踊と演
との声が高まっている。
術監督制を採ることを標傍している。 金社長はマネージメント・システムに よる外部団体公演の場合、施設相応の水
の劇場別観客入場状況を見ると、一二つの
準の作品が公演できるよう貸館審議委員
劇、オペラを公演した会舘開舘記念行事 公演場をもっソウル・オペラ劇場が五万
会の機能を強化するかたわら、年二回と
心臓部として定着するためには、運営の アキレス臆ともいえる﹁財政﹂の確保問題
こん後﹃芸術の殿堂﹄が真の韓国文化の
できるよう便宜をはかりたいとしている。
公演団体が長期的な計画に基づいて活動
なっている貸館申請を一回に減らして、
二五九七人である。公演場別に見ると、 オペラ劇場が三万四三五三人、土月劇場 が一万二九三三人、自由小劇場が五一三 この期間中、全舘開舘記念音楽会(二月
一 人 。 一八日i二月二三日)と﹃交響楽の祝祭﹄
をいかに解決するかにかかっているとい
‘ え る 。
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(二月二七日 j一一一月一七日)が催されたソ ウル音楽堂には二万三七二人が入場し、 ﹃ 一 一 月 一 一 一 韓図書道百人展﹄(二月一ムハ日1一 日)が聞かれたソウル書芸舘と﹃現代美術
世界唯一の書道専用空間であるソウル書芸館。
一九四三年、私はソウル(当時は京城) からの連絡で朝鮮楽劇団の仕事をするこ とになった。この劇団はレコードの人気 歌手を中心に組織されたもので、歌あり 踊りあり、それにミュージカルの原型の ような演劇を上演する団体で当時の朝鮮 では最も優れた内容をもっとされていた。 私はプロデューサーとして地方巡業の団 長をつとめていたが、一年のうち朝鮮半 島を三分の二位歩く経験を得た。 その頃は皇民化運動の最中でこれに直
Lついて J ーコ信頼される日本レを l r v ヨ雷管担割Z z 回a
り、まず、日本を理解してもらう国際文
化交流が大切で、かつての朝鮮のように
﹁日本文化の押しつけ﹂でなく﹁相E理解﹂ が先決であると思った。
その思いを大きくアピールするまでも なく若い人たちが立ち上がって、続々と
この仕事に身を投じる気運が生れた。今
日、優秀な人材が﹁国際交流基金﹂という 組織を中心に能動的に従事し成果をあげ ていることはよろこびにたえない。この
仕事はすぐ結実するものでなく長い時間
ることに敬意を表したい。
と多くの努力が要求される。日本の若者 たちがそれを知っていて日夜活動してい
佐藤邦夫(映像文詐重岡家)
面した私は、何の予備知識ももっていな かったので、これがうまくいくかに疑問
生きている諸民族は、日本文化とは大き
朝鮮の皇民化運動の後遺症は今でも残 り、事ある毎に噴出してくる。それが五
従って船を漕ぐのである。
側の﹁考え﹂を出す前に先ず相手方が﹁何を 考え要求しているか﹂を把握することが大 切であり、それに従って行動すれば仕事
の本質的なものに共通点がある。こちら
長い鎖国から外国人とのつきあいが下手 で、文化発信力も弱いという面があるこ
私の体験は個人的なもので小さいが、
アジア映画振興に協力する時
閏臣民の誓調﹂﹁神宮への参拝﹂﹁朝鮮語を 使用するな﹂﹁創氏改名﹂などが行われた が、要は日本文化を押しつけたものであ
な差異があり、これを統一することなど とても考えられるものではなかった。
O年余の月日を経ても残っている点が、
鮮一体﹂をスローガンにしたもので、﹁皇
る。日本と朝鮮では歴史、伝統と文化と 異なるのに、軍事力をパックに政治権力
一時、帰国した時、アジアについて詳 しい知識と経験をもっ中国映画の川喜多
日韓文化交流の上にギクシャクするもの になっている。
この運動は朝鮮の人たちを戦争遂行に 協力させる必要から日本政府と軍部が﹁内
を感じた。
まく機能することは難しいことを知った。 ﹁アジアは一つ﹂と岡倉天心が言ったのは、 地政学的にはそうかも知れないがそこに
によって同じ文化にしようとするのだか ら、大きなギャップが生じたのは当然で
長政副社長にそのことを報告すると﹁各民 族の文化を独自に発展することに日本が
るのかと途方にくれた。併しその時、一
ト・バッジ﹂を東映が全世界に配給するこ とを発表したが、有無相通ずることから、
画研究を専攻する私は、アジア映画振興 に日本がどう協力するかに期待している が、すでに中園、台湾、蒙古、香港映画 に具体的な成果があり、韓国も﹁ホワイ
しては不信の解消は出来ない。アジア映
知ってもらいたいと考える。 ゆたかな経済力を思いあがりの材料に
技術力で世界文化に貢献出来るスタンス を持っていることをぜひ各国の人たちに
とから、相互理解に欠けるのを残念に思 うが、日本人が平和を愛する民族であり、
ある。
協力するのが第ごであると言われた。
一九四六年、敗戦によって焦土と化し た東京へ帰ってきた私はこれからどうな 戦後、私はピクターにあって、米、仏、
九二三年の関東大震災に焼失した東京の 街に子供心に呆然とした私は、その後の
の運営は巧く行く。要するに水の流れに
朝鮮民衆の苦しみ身を以て知る
水の流れに従い船をこぐ
富田節子氏の貴重な研究室盲﹃朝鮮民衆と 寸皇民化﹂政策﹄に詳しいが、この運動に反 対意志を表現すれば、たちまち憲兵隊に 出頭を命ぜられるような状態の中でいか
知る時である。
英、伊、露、印などの芸術家を日本に紹 介することになった。言葉は通訳によっ たが、﹁物の考え方﹂が違うこれらの国の
に朝鮮民衆が苦しんだかを身を以て知る 日々であった。
ると考えた。それには、世界の諸民族と の聞に﹁信頼される日本﹂になる必要があ
お互いが幸せになれればこの上の喜びは ない。その意味で今九三年度に日本の果 たすべき国際文化交流の責務の大きさを 人たちとどう協力するかに課題があった が、その時朝鮮での体験が役に立った。 要するに﹁文化-の違いといっても、人間
東京の復興にみせた日本のエネルギーを 知っていたので、日本の再建は必ず出来
私は朝鮮のあと、中園、内蒙古で生活 することになったが、そこでも﹁八紘ニ子﹂ をスローガンとする日本の文化政策がう
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KoreaF o u n d a t i o n
問。岡山開K F4σ 円︻涜
コリア・フォーカス) (韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌穴O Ew﹀
m o n c ω (コリア・フォーカス)を刊行しており ます。﹁コリア・フォーカス﹂は日本のみなさ んに韓国関連の情報を提供することによって 韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 当財団は﹁コリア・フォーカス﹂が日本の各 界各層にとって韓国に関する有益な参考資料 になるものと信じております。 ﹁ コ リア・フォーカス Lは、日本語版のほか に英文版関 O 自﹀きの己 ωも刊。しております が、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係 雑誌、学術誌などの刊行物から翻訳、転載し たものです。 韓国の時事問題に関する情報性記事を幅広 く選んでおりますので、韓国の現況について 広い視覚を提供することでしょう。と同時に 読者のみなさんは韓国の政治、経済、社会、 文化などの各分野に亘る記事や国際問題に関 する見解、韓国に関する重要な資料、主な出 来事の日誌などに接し得ることでしょう。 ﹁コリア・フォーカス﹂の購読についてのお 問い合わせは左記の住所あてにお願いしま す 。 韓国国墜父流財団出版部 (大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二 一四七号) 電話一八二│二│七五二│六一七一 FAX一八二│二│七五七│二O四七、 二O四九
韓匡居際交品側、財団のブ エロ !シッ ・プログ ラム ブ 。
韓国国墜ハメ流財団は一九九五年度・韓国研究フエロ 1シップおよび韓国語フエロlシップを次のようにご案
内いたします。
韓国国墜父流財団は、人文・社会費主主び芸術分野で韓国研究に対するフエロ lシップを提供いたしてお
韓国研究フエロ lシップ
孟官および適格の専門家主了一0カ月の問韓国で研究ををつ機会を与え ります。このプログラムは海外の μ
一九九四年七月三一日までに韓国国墜メ流財団に提出してください。選抜の結果は翌年の一月末までに通報い
るために設けられました。フエロ lシップを与えられることが決まった方には、韓国までの往復航空料金およ び研語筒中の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所{亙突の申重亘一通と研費計画室享作成のうえ、 たします。
韓国語フエロIシップ
韓国国医父流財団は、韓国語学習を希望する海外の大掌生・学主主および適格の専門家に対して、韓国語フエ
ロ1シップを霊山し、六l 一一一カ月間、韓国内の大学で韓霊童学主義できる樺奈を与えております。フエロ i シップを与えられることが決まった方には、韓国丙の三カ大学のうちの一つの韓星量隆を点桑することにな
り、受講期間中には、撃釆料と所定の滞在費が支話されます。申請ご希望の方は、所{亙笠入の申望日宣言趨作
成の、?ぇ、一九九四年七月一三日までに韓国国墜ヌ流財団に提出してください。選抜の結果は翌年の一月末ま でに通報いたします。
海外での韓国研究に対する支援
韓国国墜交流財団は、海外の大学、研翼所などで韓国に関する研究や韓国証量座の盟=成などを行寺つ受口、
これを守護しております。人文・社会筆・芸術分野のうち左記に喜子るプログラムに対して支援里雪受 け付けております。 ①韓国学、韓一昼間など韓国関連の護隆理=事よぴ拡大。 ②韓国単荷究の大登鹿生並びに教授に対する奪軍人芸志たは研託費-亨需
右の申請のしめ切りは一九九四年七月三一日で、選抜の結果および支援額については、翌年三月末までに申 請者に通報いたします。
**
所{亙笠入の守護申講書および案内書は、韓国国際一交流財固または現越の韓国公館で求められます。
申請書および案内文などについてのお問い合わせは、次の住所宛にご連絡願います。 大韓民国ソウル特別市中央郵逓肩私書函一二四七号
O四七・二O四九) (電話一八二l一丁七五三l三四六二・FAX一人一丁一丁七五七1二
•
画 詰
" 面 詰
宅 f 苛苛列1. J i ! . 喜λ sl i !
“私のエレクトロニクス・カンパスは
ビデオ・アートの巨匠一一ナムジ、ュン・パク
レオナルド・ダピンチのように精巧で、 モンドリアンのように奥深〈、 ピカソのように自由で、
彼のエレクトロニクス・カンパスには
ジャクソン・ポーラックのように大胆で、 ルノワールのように色彩豊かで、 ジャズパー・ジョーンズのように詩的だ。
総国ソウル市中区太平路2街 250 三星本舘ビル TEL822-727 ・ 7114FAX822 ・ 727-7851
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