L otte, T he VI P' s Choi ce
「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁でない男で、ある」
Ear l S . Moore J .r President of Asi a Paci fic Markeling
ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならな P J アール ムーア、 Jr 氏の持論で、 すo ホテルロッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「 完壁な施設とロケーション、そしてゲス トを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス」。 そしてこれはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもありま す 。
s.
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KOREANA 4 基 韓国の印刷術 孫 { 玉
・園 ・ 丸 I ・・ -・ 、
園 ! 剥E
初韓国の冊板表紙紋様林永 周
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記官
函E
周 栄 初海印寺の蔵経閣をたずねて 金 主振 佐川エキスポ文化、先端技術の文化 委 必再生造形館 石 窪 血 ⋮
、 ビデオ・アーチスト白南準 魯 福美
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﹃ 麗 わ し き 霊 歌﹄ 境界線を越えて ダピ
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竜雨 幻自南準と韓国の 美 李 木月 駒詩画 ・墓地にて 朴 ポ lス ン・ 回朝鮮時代の絵画コレクション ケ
7 6
ω パリの韓国画家たち朴壁文
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世界最古の活字本を遣した 杢在俊
知山清州興徳寺社
恵 鳳 帥韓国の典籍 千
韓国の古印刷
[ 特集]
、 .
z ↓ω Fboc 刃刃m 7 パンソリに載せた韓国人の情と恨 鄭重憲 仁 源 花園楽は、各音楽分野に進入している 李 純韓国現代版画の形成と展開 予明老
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問 山nd抗
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I
コリアナ
韓国の芸術と文化 V o.I 6/ No. 2 1993年 夏季号
市拘.
KOREANA コリアナ
1993年 夏 季 号
1987年 8月 8 日 登 録 叫1033号 1993年 9月 1日印刷 1993年 9月10 日 発 行 ( 毎年3,6,9,12月 4回発行) I"J<OR E A NA ( コリアナ) J は韓国国際交流財団が発 行している季刊誌です。従って版椛はすべて本財
団1刊にあり、本財団の許諾なしに転戦 ・複製する ことは禁じられておりますのでこ7 承ください。 また、本誌掲載の記事 ・論文の内谷は、本誌編 集者または本財団の意見ではありません。 発行人兼編集人 孫 柱 燥 ( 鑓 国 国 際 交 流財団理事長) 編集長
柳 済機
アー ト ・ ディレクター
朴昇雨 発行所 韓国国際交流財団
大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函
2147号
- 電話: 82-2-753-3462 • F AX : 82-2-757-2047, 2049
編集デザイン
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4
Ean
、 類文化の発達を考えるとき、 もっとも祝福された発明の中 ノ の 一つが印刷技術であったと
言える。一冊の書物を多数の複写本につ で必要な技術であったしそれはいまでも
くりだすことによって知識を広めるうえ 同じことである 。印刷術によって人類社 会の進歩を早めることができたことはわ れわれの歴史でよく証明されている。人 類が積み重ねた知識を子孫代々に伝え、 今日まで栄えてきたのは、印刷術に負う ところが大きい。
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さて、印刷術はいかにして発明された
のか。これに先立って文字の発明から考
えなければならない。文字のはじまりは
ほど前、人類は牛の助骨に月のうつりか
旧石器時代にさかのぼる。およそ二万年
に文字を書きだしたのは、およそ青銅器
わりを刻みこんだ。土板または竹片など
印刷術は、判子の彫刻、彫刻物の拓本、
時代以後のことと考えられる。
紙と染料、墨などの発明が前提条件であっ
た。ほんものの印刷は木版印刷からはじ
まる。どのようにして木版技術がはじまっ
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たのだろうか 。一 般に中国で最初 にはじ こでは石刻仏経が漢 ・唐時代 に見られる
まったものと考えやすい 。ところが、そ
雲居寺のこれらのもの は中国が保存に非
ぐらいである 。最初に発掘 された房山県 常に関心が深かったことをうかがわせる 。 木版印刷はそれほど早く行われていない 。
典印届! 倣が世界最古の木版印属物
五 一年の聞に印刷されたものと考えられ
仏国寺の三重石塔で発見された経
慶州 の仏国寺三 重 石塔で 七O 六年から七
に残っているものとしては、慶州、i
無垢浄光大陀羅尼経広が発見された。 る﹃ 今 日まで発見された印刷物と し ては世界
のと考えられている。しかし、今日
最古のものである 。韓国 では保存よりも
たものである 。漢の文化は韓国と日本に と って、外来文化 であったた め、早くそ し て広く伝えられたもの と見られる。 こ う したいきさつが印刷術の発明に かかわ る本当の歴史であろう。
木版印刷は、普通中国で始まったも
ろ一時産相官一季一足 立一 、喜一挙-長かお
一段崎務令初芳鈎門事稲川戸 A A警 暴姦約一糸 JW亦第一 永伺令官善寺戸学ほサずか安伊奈緒一 一殺さ別
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向かっ 仏教教理の公布の方に一層関心が 古 たものと見られる。その後、す こし遅れ て日本の ﹃ 百万陀羅尼経﹄が刷り出された 。 陀羅尼経は 中国から韓国と 日本に伝わっ
大
高麗にお け る印刷術は、引続き発達 し た。多くの 中図書籍も輸入されていた。 文化 が栄えていたごろの高麗は 、蔵書国
である。
遁 轟F 轟轟
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義不字選禁議長支護室麦一 一臭毒事霊法株主夏本・金白白衣棋会我
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長食霊堂世襲禁罪受章豆諸 dr 中凶一崎務所白金岡本合治三一窮森岡之本成四一 ゑ柔孟禁中委員季対案書 士
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則金不ニ境一 A 三匂背十一句約策現鴎一験計川孔境刻断 m ム呉川町、す肉十月刊朗孔一句頻関投-一句同共孔鉾紘一 禁札村役ぜず斯込争下益財務中一向格幼一崎ポ吾氏一
高麗時代の「 櫨 」 という 活字(下)
主
4 P E L Z 乙・ -両日 V2A U 9﹂?? f?[-2
r貞元新訳華厳経疏』巻十。高麗時代( 10お年)刊(上)
義
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磨子関=一糸費人捧庖誇・ 界 a第 M 二一十九之丞 方億五日 hv ゑロ時一童子孝善命 裁 r 義知識涼心愛 義 教 念 善 知 識 語 Ah ・哉ふ・我a 札靖国 一事作是合言国主ロ hF A 我鵡法孟ロ知識者是我陣 一孟系議 争 一 誠 守一小導ポ我諸傍法故孟ロ知識者え 一我眼目本余白地品市金虚空故孟ロ知戸-義
え表キ温昨今我待入諸俳動奉還 一 者a
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一花・池故識者品叩有至海海底息 4a 弄 一 長 一一国来賓強請周亜一風速 一切賓樹 一有列ま'ゑ一切賓花場南・泉珍花布一 A品品目 薫 一散其吃一切賓香者香乱気r 一十方一切一賓尋揖晶明大賞等夜夜喜一 一下一切摩足賓五揖南太摩疋-貫通 一布・充満一切安ゑ持品司教義色友度 一其苛庭用盛敷布一切-音必著者風'勃一 一成音其音美珍造栄夫泰一切窓良 一其者各市弥玩奇妙之 物議底分布一波為歳前葬地清埠無有高下索中一 一具有百万殿堂え摩え安之町会式一 一首万薬関脅 さ哲人 4攻守護其よ 百万 一 v 一宮殿吠底追鄭摩疋究開・鍔さ辰一一 一 万洛池・来支 av 号育期鈷周蟻圏
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がし出して送ってやった。それだけでな
めてきた。高麗ではこのうち 一一一一種をき
鹿再 れている。また蒙古の侵略のとき﹃高一
野博物館にもその 一部 がそれぞれ伝えら
医印陀羅尼経﹄は、韓国に一部と日本の上
た。一OO七年、高麗捧持寺で刷ったヱ玉
その一方では木版彫刻事業も続けられ
る。
く高麗は、契丹と大蔵仏経の出版をめぐっ
になくなった 一 一 七種の書籍を高麗に求
としても有名であった。当時宋ではすで
て競争もした。そして一O 八七年に﹃高麗
り、宮中の書籍舗の火事で内部に所蔵し
麗では王の姻戚である李資謙の反乱によ
木を伐採して使う必要もなく 、製材に要
つことは周知のとおりである。大きな材
うかも知れない。活字がより経済性をも
行なわれていたことについて不思議に思
ところが活字印刷と木版印刷が同時に
いる。
て、この版木はいま海印寺に所蔵されて
雌大蔵経﹄(八万大蔵経)がつくられてい
このあと数十年後の一 一一一六年、宋は
初彫大蔵経﹄を完成した。 契丹の侵入を受けて欽宗、徽宗の両君主
てあった書籍が焼失した。その結果、書
を人質にとらえられた。そして同じ頃高
籍の刊行が求められた 。多くの部数が必
のが金属活字印刷である。すなわち合金
する人力、空間などの費用が節約できる
術の発達により狭い空間でも結構間に
要ではなかったが、多くの種類が必要と
合ったのである。それだけでなく活字は
なった 。そ こで奇抜な考えが浮かんだの の宋では 一 一 回O 年頃、勝泥活字を発明
である。金属活字がそれであった。中国
ルを可能にさせてくれる。ところが、多
くの本を必要とするときは木版印刷のほ
金属を溶かして再使用ができ、リサイク
うが都合がいい。木版は紙型の役割をつ
したことがあった。しかし、もろくて使 を 一一 O 二年に学んできた。高麗はこの
えなかった 。高麗は宋から銅貨鋳造技術 技術を活字の鋳造に利用したのである。
とめることになるからである。 めた。高一麗王陵と満月台で発掘された金
時代への移行を、つながした役割をも果た
プライターを生み、つぎにコンピューター
活字印刷の発明と発達は、結局、タイ
それは膝泥活字の弱点を補って余りが
属活字は、その聞のいきさつを雄弁に物
したと言えるだろう。.
あった。それ以来活字印刷は花咲きはじ
語っている。またて嶺字はそれをよく知 もと開城で活字印刷された﹃南明泉訟証
らせてくれるものでもある。
て翻刻したこと、﹃古今詳定礼文﹄を金属
道歌﹄を一二三九年、江華島で木版本とし 活字で印刷したことはよく知られている。 現在、フランス国立図書舘に所蔵されて いる﹃直指心体要節﹄という高一麗僧の書い た本によって、韓国清州郊外の興徳寺で ていたことが明らかになった。いま、興
活字が鋳造され、それによって印刷され 徳寺跡には古印刷博物館が建てられてい
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・ ・ 遺書沼恒温
の ヘポノ
恵鳳成語大学護・重量平
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の印刷以、初め以中央官暑で行われていた
年まで以使われていた。金属活宰を用いて
金属活字以遅くても高麗時代の
朝鮮時代の活字の ①千 種類と印本
出刊されたのだった。
L 増えた。このようじしてニO世紀初めまで戸数知れ拘印本が 銅などと数種類J
ルの活字、が新しく加わり、活字の文字以二種類となる。活字の素材も鉄、青銅、
朝鮮時代じ入って闘もなくハングルが創製されると、それまでの漢字じハング
当時の都、開京から透く離れた地方の寺利にもその技術が伝えられた。
ヨ カ
﹄
r A 属活字印刷術は、かつて、高
島ハずT申 麗時代に先祖の創意的知恵に ノて一 より考案された偉大な文化的
所産であることは広く知られている通り
である。ただ遺憾ながら、これらに関す
る初期の記録が全くないのでそれが、い
つ、だれによって、どのような方法で鋳
造され、印刷されたかは定かでない 。
幸いにも、十三世紀初に金属活字で印
E M Z可宮)﹃ 南明泉和尚頒 刷された鋳字版(
(裏返にして重ねて彫りつけた本)した、
証道歌﹄を高宗二六年(一二三九)に重彫
二種の書物が伝えられていて、これを通
じて、少なくともその頃の中央官署で金
それから政府が蒙古箪の侵入を避けて慌
属活字印刷が行われていたことが分る 。
しく江華にせん都する際に、礼官が持ち
詳定礼文﹄を金属活字で 二 出せなかった ﹃
八部刷って、各官署に配付し、保管させ
たこともよく知られている杢実である 。
しかし、このような中央官署の金属活
字印刷は、その後、元が屈辱的な従属政
治をほしいままにしたので忠烈王の時か
らはその機能が麻揮してしまった 。その
後、高麗末期に至り、中原で新興勢力で
ある明が興り、元を北方に追放しはじめ
の復元意識が台頭した。これに力を得て、
るや高麗内でも排元思想が芽生え、主権
ついに圏内の学界でも、これまで通りに
室昼相鏑を設置し、鋳意文字を造って経書・
史書など各種の本を印刷して、学問を奨
励すべきであるとの意見が出た。
このようなことは、高麗末 l朝鮮初期 のμ 孟告である都道伝 (?l一三八九)の ﹃ 三
峯集 巻 一﹁ 置書 籍 鏑 詩 娃 序 ﹂ に 記 さ れて ﹄ いることだから 信じても よかろう。 とにか
10
記
入息
胡
不守智言毛監
主 応
f併 主
李
諾 京
本
E主 Z
ニ
金属活字印刷の 影響が開京から遠く離れ
ただその間にあった、実に重要な事実は
属活字印刷機能が麻薄または停滞したが、
このように、高麗朝では中央官署の金
いする。
字印刷を再び制度化させたのは注目に値
なり、書籍院が設置された。こうして鋳
その措置が制度として講じられることに
く、この結果恭譲王四年(一三 九二)一月
件 其 徒4 大t 4亘
業 本
一
其主玉 1 鳴 車守 E長 ま 幸 J千 E
徳寺活字で印刷した ﹃ 慈悲道場機法集解﹄ 裏返えしにして彫刻 上下巻 一冊の翻刻本(
存されていて、世界最古の活字本として 世界の公認を得ている 。また最近その興
要節﹄下巻 一冊がフランス国立図書舘に保
属活字を鋳造して印刷した ﹃ 仏祖直指心体
清州牧の郊外にあった興徳寺が自力で金
その実例として繭玉三年 (一三 七七)七月、
た地方の寺利にまでおよんだことである 。
高麗時代(1239年 )27. 5X16. 6cm
一一一
高麗金属活字版の穣刻本である r南明泉和尚頒吉正道歌J 。
裕のあった寺剃が中央官署の活字印刷の
印刷した本)が発見されたことで 一層確証 を得ることとなった 。 これは経済的に余
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11
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ー盆、
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待 差ニ 十 蹄 告 t晶 乙 iB 画 担 b t
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守 百 平早品機
三
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奮 闘E 田
.酪 塩 崎 幽 . ~._ a H -lI'!nEð.:
明11民正音』 。 朝鮮時代 ( 1446年) 。朝鮮の官板。国宝第 70号。 潤松美術館所蔵
12
行した高麗寺剃鋳造の活字印刷本である 紀余後のことであったことから、中央に
もある。金属活字が発明されてから一世
ない 。また場合によっては、上の字の下 の部分と下の字の上の部分が重なったの 鋳字所を設けて活字を造り、数多くの本
らは、崇文政策を強力に促進するために
基礎が内外に安定した三代王の太宗朝か
印刷して需要にあてた 。しかし、王朝の
この﹁甲寅字﹂にいたり、活字の四隅を 平たく正確にし、それに印版も精巧かっ 堅固に造ったため 、全くみつろうを使わ
別名これを寸衛夫人字﹂とも言っている。
影響を受けて、金属活字印刷の利点を実 とい、1Rでその意義が大きい。 この﹃仏祖直指心体要節﹄を、上で述べ
ず、竹ですき聞を埋め、組立て式に版を
組んで印制することに成功した。このた
を印制した。 その最初の活字が 一四 O 三年 に鋳造し
おける活字の鋳造と組版技術が地方にま
め、一日の印刷能率は﹁庚子字﹂の二倍ほ
で伝わっているはずがなく、このため地
どの四O 余誌 へと大幅に増やす、﹂とが出
た鋳字版﹃南明泉和尚頒証道歌﹄の重彫本
笑未子﹄で、その数は 二 た銅活字である ﹃
刷術はその絶頂に達し、その技術は朝鮮
来た 。 ここに至ってわが国の金属活字印
ケ:
一一一O 万字に上った 。朝鮮朝で初めて 造ったものなので活字の大きさも 一定せ
朝末期に至るまで様々な種類の活字を造
方の興徳寺は、それまでの伝統的方法に
ず粗雑であり、枠の四つの隅と、活字行
り、様々の本を出版する原動力になった。
と比べて見ると寺剃鋳造活字の印刷本で あるため、はなはだ稚拙ではある 。活字 高麗朝で最初に創案普及した活字印刷
間を区画する境界線をすべて固着させた
oi
によったものであるため、活字の大きさ
印版に無理矢理に合わせて密着配列した
頼るほかなかったものと思われる。
にむらがあり、同じ字の場合にも字の形 たので簡単に木の活字を作り必要な本を
は朝鮮朝に引き継がれ、飛躍的に発展し た。建国初期には王朝交替の混乱期であっ
の鋳造方法と技術が寺利の伝統的な方法
がまちまちであったりする 。また行の字
ため、横の列が合わず、上の字と下の字 の字画が重なっているのがよく日につく。 の文字に一つ二つの過 ・不足が生じてい
それに小さな字で印刷した本では、 一列
現存する印本では﹃東莱先生校正北史詳
る 。 節﹄第四、五、六巻、 ﹃一 七史纂古今通商E 宋朝表筆摺類﹄第 六i 第一六、 一七巻、 ﹃ 第 二 巻、﹃新刊類編歴挙三場文選対策﹄ 第 一 i一一 巻(残 五j八巻、﹃纂図互注周礼﹄ 紙本)、﹃陶隠先生詩集﹄第一、三巻等が伝 わっている。 活字印刷技術は、世宗(四代王)が即位 して 一四二O 年に二度目に鋳造した﹁庚子
特に﹁甲寅字﹂は字体が正しく整ってい
字﹂に より第二段階の発展を遂げる 。活字
﹃成宗実録﹄を印刷するため、一層大規模
て屡々加鋳、補鋳、改鋳を重ねながら朝
すりへらされたものを取り替えるための
の大きさが、発未字よりもはるかに小さ
能率が葵未字よりも大いに上がり、日に
補鋳が行なわれ、完全な改鋳は六回にわ
鮮末期まで使用された。 一四九九年には 二 O余誌を印刷することが出来た 。 世宗は 一四三四年七月に再び活字の改
その字形は迫力があり、 美しく、印刷の
鋳(活字を新たた鋳造すること)に着手し
たって行なわれた 。それでも足りない活
く大文字と小文字に造られた銅活字で、
て、二カ月余にかけて大文字と 小文字の
字は閲時、木製の活字を造ってこれにあ てた。
一五 一五年には
銅活字二O余万個を造った。これがいわ
六回の改鋳のうち 二回目の改鋳は一五
13
の加鋳と補鋳を行ない、
に整っており、美しい筆書きの晋字体で
ゆる﹁初鋳甲寅字﹂である 。字体がきれい
ソウルの忠武路にある朝鮮時代の鋳字所祉
数にもむらがあり、横の列もそろってい
F東東先生校正北史詳節点未字本。朝鮮時代 (1403年)
r交食推歩法仮令」。戊寅字。朝鮮時代 (14日年)。
ソウル大学図書館所蔵
。 醐 時 代 (1403年 - 1418年)。国宝第1日号。29Xl 9c m。ソウル大学図書館所蔵 『 宋朝表牒持、類』
八 O年に行なわれた寸庚辰字﹂であり、一一一 回目に鋳造した﹁甲寅字﹂は 二 ハ一七年に
王位基奪に反対して殺された後には、直
る大 ・小の活字であるが、兄君の世祖の
当代の名筆の独特な筆致をよく表してい
ぐに溶かして﹁乙亥字﹂を造ったため、今
という。 年に鋳造した銅活字を﹁庚午字 L
した﹁戊午字﹂である。また、四鋳の 甲寅
着手して、その翌年の一六 一八年に完成 字は一六六八年に金佐明が守禦庁で改鋳
日に伝わっている印本がきわめて少ない 。 ﹁ 乙亥字﹂は美希顔の字をもとに して 一
るが、このうち中文字の字体に萎希顔の
四五五年に鋳造した銅活字である 。その 印本によると大・中 ・小三種の文字があ
戊申字﹂である。五鋳の﹁甲寅字﹂は した ﹁ 一七七二年に正祖が王世孫の頃 一五万字 寅字﹂は 一七七七年に平壌監使の徐命麿に
壬辰字﹂であり、六鋳の﹁甲 を改鋳させた ﹁ 命じて 一五万字をさらに追加して別途に
この乙亥字にハングルの活字が並用され
字体の特徴がもっともよく現われている 。 一八五七年鋳造所の火
災により焼失してしまったのが﹁丁酉字﹂
使用していたが、
たが 、これを寸乙亥字並用ハングル字﹂と
印本がかなり多く伝わっている。
次いで長い間使用されてきたため、その
称し、字体は印書体から筆書体に移行す
世宗は 一四五七年に若い年で他界した
世宗朝にハングルが創制され、はじめ
である 。
に値することであった 。 一四四七年頃の
王世子(徳宗)のめい福を祈るために、王
る特徴を表わしている。乙亥字は 壬辰倭
印刷物と見られる﹃釈譜詳節﹄と﹃月印千江 之由﹄を見ると、ハングルがゴシ yク体の
乱(文禄 ・慶長の役)直前まで、 甲寅字に
活字で精巧に印刷されている 。 この活字
の他の写経を装頼する一方、﹃金剛経﹄の
世子が生前に書いた﹃金剛経﹄をはじめそ
の本を刊行したことは印刷文化史上剖日
は初鋳﹁甲寅字﹂の大文字および小文字と
てハングル活字を青銅で鋳造し、国漢文
が並用されているために﹁初鋳里員字並用
これを﹁丁丑字﹂または﹁金剛経大文字﹂と い、 っ。 このほか一四五八年には大文字と小文
本文の大文字を筆写してこれを手本に銅
字の銅活字を造った 。 これは﹁戊寅字﹂ま
活{壬乞作って﹃金剛経五家解﹄を刊行した。
ハングル活字は 一四四八年に世宗王が
たは ﹁ 交食字﹂といわれるものに該当する
ハングル字﹂と呼んでいる 。また鋳造の目
賜わった﹃東国正韻﹄の印刷にも使われて
交食推歩法仮令﹄と ﹃ 易 が、その印本には ﹃
的と用途にしたがって﹁月印釈譜字﹂ とも 呼んでいるが、力強く太い直線の印書体
いるが、これは木製活字だった 。 この本
であることが特徴である。
の漢字の大文字は﹁東国正韻字﹂、ハング
テ啓蒙要解﹄がある 。
出刊した 。その 仏典の字体 は全体的に見
仏書を頻繁に出版した 一五世紀の半葉に は、寺剃で木製の活字を造り仏典を多数
それに国王と王室で活字と木版により
れは ﹁ 乙酉字﹂と称している 。
て大 ・中 ・小の鋼活字を造らせたが、こ
一四六五年にも鄭蘭宗の字をもとにし
ルの大文字は﹁東国正韻ハングル字﹂とい う。また﹃東国正韻﹄に次いで編纂しはじ め 、 一四五五年に印刷した﹃洪武正韻訳訓﹄ のハングル字も木製活字が使われたが、 漢字の大文字は﹁洪武正韻字﹂ハングルの と称して 大文字は﹁洪武正韻ハングル字﹂
O {女平大君蕗の字をもとにして 一四五
いる。
14
15世紀の後半までは、国内の名筆の
字をもとに鋳造した独自の活字を使 用したが、 このあと中国刊行本の字 を手本にしたため字体が一変した。
一 求 詞 五輪序 一久礼網畿大礼泳行帝人生巧険 一 陽 和 札 ゑ 検 交 激 効 禁 生巧替既 一 生命 七を 角 兵 Lt者向井f mw橡 亦 一 備 ・、 才青田禁制問雄、相え命中市喝経 一 室 深 浅 亥 徐 ゑ 於命線⋮条是欽 hb 一 被 笠 卦芳婦問制字 亦皆 閲兵角袋一 一之理似通島物と情え 一 兆・ e 段翁
﹁lぽ 限ゆ械鴻詩海油吻出川伊崎尚いに
r東国正韻』 朝鮮時代 (1447年) の活字本。建国大学博物館所蔵
は﹃ 仁慶政文﹄と ﹃ 天地冥陽水陸雑文﹄があ り、仁慶ハングル字本には 一四九六年印
自の活字であったが、成宗朝からは再び
刻が精巧であるばかりでなく墨痕あざや
刷した﹃六祖大師法宝壇経﹄ と ﹃ 真言勧供﹄ が伝わっている 。字体が整っており、彫
て﹁乙酉{子﹂に似ているのが特慣である 。 ﹁ 東国正韻字﹂以後﹁乙酉字﹂ までは、囲 内の名筆家の字をもとにして鋳造した独 中国刊行本の字を手本にした ことから字 体が一変した 。 一四八四年には字が大幅
た銅活字 に木製活字の補充 が多くなり、
一六世紀に入ってはそれまで使ってい
かで実に美しい 。
銅活字﹁ 甲辰字﹂を造った。その数は大文
に小さくなり、形の正しく整った 美しい 字と小文字を合わせて三O 余万字であっ た。 この活字は甲寅字と乙亥字 に次いで
辰字など主に使われる活字の欠けたり磨
また 磨滅が激 しくて使いものにならない 活字が増えてきた 。それで、甲寅字、甲
滅したものをさらに鋳造する一方 、中国
長い間使用されたため印本が比較的多く 伝わっている 。
成宗朝の 一四九 三年 にも名版本である
洗練度において劣っている。 成宗が崩御 した 一四九五年には大妃が
取れたものではあるが字画が太く、その
いる 。 この字体は甲辰字のように均整の
であるとの声が上がった。その結果、昭
量に鋳造して 、 いろいろの 書籍を刊行し て書慰(本屋)に出して市中販売するべき
と称 している。一五 一九年には、 地方郷
丙子字﹂ 置され 、ここ で造られた活字を ﹁
{ 壬乞新しく鋳造することにした 。 それで一五 一六年 一月、鋳字都監が設
版の ﹃ 資治通鑑﹄から大きさと字画の細さ が適当な字を選んでこれを手本にして活
王の冥福を祈るため、﹁円覚寺﹂で経典を 大々的に刊行した。この時は漢文だけで
格署と地方寺利の鍛器を集めて活字を多
く造り出したが、これを ﹁ 己卯字 ﹂ と称し
校で本が足りなくなるや、活字を一層大
なくハング ルの木製活字も造られたが、
﹃ 資治通鑑綱目﹄の字体をもとにして銅活 字を造ったが、これは﹁奨丑字﹂と言って
干恵鳳所蔵
漢字活字は ﹁ 仁慶字﹂ 、ハング ル活字は ﹁ 仁 慶ハングル字﹂と称している 。仁慶字本に
15
台通鑑網目』。丙辰字本。朝鮮時代 (14お年) 。
F 貸;
ている。このように二回にわたって活字
活字は一文字の活字と使用頻度の高い語
木製活字を造り、本を出版販売すること によって、経費の 一部にあてる方策が講 じられた 。その結果造られたのが即ち﹁訓 練都監字﹂である 。この活字は宣祖末期(一
仁祖王が李時時に賜わった﹃纂図互注周
礼﹄の肱文によって、世の中が安定しはじ
めた二ハ四0 年代に、国の印刷事業が以
前のように再び校書館に戻されたことが わかる。 ぞの昔、訓練都監で経験を積んだ職人
壬辰倭乱(文禄 ・慶長の役)後には この
たちが校書館に所属して新たな木製活字
にしているだけでなく、ハングル活字の
木で造 外にも、広い意味での﹁実録字 が L 宣 をはじめ ﹃ られ戦乱前の﹃朝鮮王朝実録﹄ 、﹃孝宗実録﹄の印刷 仁祖実録﹄ 祖実録﹄、﹃ に使用された 。 この活字を細分すると、
六OO年頃)から 仁祖末期 (一六回0年代) まで半世紀近く使われたが、その活字体
中間文字と小文字も造って使用した 。そ
活字の大きさ、字体、製造時期およ び用
を造って本を出版したのであった。
戦乱 の後、初 めて二ハ一人年に三鋳の
﹁仁祖 宣祖実録字﹂ 、 途にしたがって分類﹁
は甲寅字体、庚午字体、乙亥字体、甲辰
甲寅字である戊午字を造り 、わ ずかに数
実録字﹂ 、 ﹁李宗実録字﹂と呼ばれている 。
字体、丙子字体など、多様な字体を手本
種の経書を印刷したが、十六世紀前半に
グル字﹂という。
して、このハングル活字を﹁訓練都監ハン
起こった丙子胡乱のため、長い間この訓
そしてこの頃功臣都監でも職人を置いて 一六四八年八月に木製活字で印刷し、
木製活字を造り﹁功臣禄巻﹄と﹃功臣会盟
練都監字を使わざるを得なかった。
『 論語諺解』 。 朝鮮時代( 1期 年)。経書のハンヴル文字
句を 一つの活字のように造ったのが特徴
4
であることから己卯字を新しい系統の活
戸 汽i喧 寸!日 Ir
が造られたが、これら活字の字体が同じ
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壬辰倭乱以前に は民間で 活字を多様に
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で壬辰倭乱以前から使って来た。
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字と見ずに、激しい干魅で鋳造が中断さ
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造り多くの本を出刊した。その代表的な
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れた丙子字の補鋳と見る傾向が強い 。
をあげることが出来る。 ものに﹁湖陰字﹂ しかし、朝鮮後期に入っては、朝鮮前期
破壊または焼失し、活字と活字本はその ほとんどを略奪さ れた 。 このような実情
巳
量
づ
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再鋳 一六世紀後半の宣祖朝に至っては ﹁
のもとで 、それま でのように金属活字を
に高度に発達していた印刷施設が思いの
いろいろな活字名称を付けているが、そ
造って本を刊行することはとても考えら
甲寅字﹂の外に大学、中庸、論語、孟子の
れらすべてが正確な考証を経たものでは
外、戦乱(文録 ・慶長の役)により完全に
ない。しかし、経童甲子﹂出刊する目的で造っ
当面は散り散りになった昔の活字を集め 、
﹃四書諺解﹄をはじめ 小学、 孝経等の経書
たものであるので、よくこれを﹁経書字﹂ と言い、ハング ル活字は﹁経書ハング ル字﹂
それだ けでは必要な本の需要をとても満
それに木製活字を補充して使用 したが 、
呉 川 !刊 み 77 ふ
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国訳本の印刷に新しい銅活字が使われた。 その鋳造に関する記録が詳しくないため、
と言っている。漢字の字体は乙亥字体よ
幸い訓練都監で自給自足の方法として
たすことが出来なかった。
れないことであった 。それで、戦乱後の
りも鋭く書体も精巧である 。 また、二ハ世紀後半には暦本を印刷す るために洗鉄で ﹁ 印暦字﹂を造った。この
11手 間 ゐ lぷ
r朝鮮王朝実録』。朝鮮時代の活字本。国宝515。ソウル大学図書館所蔵
16
﹃ 詩経諺師EC朝鮮時代前剣 。訓練都監 ハングル文字
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畑中
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録﹄を刊行したが、これを﹁功臣都監字﹂と 十七世紀半葉に金属活字印刷が 復活し てから十八世紀初に入って多くの活字が 造りはじめられた。先ず挙げられるのが ﹁顕宗実録字﹂である。一六七七年に﹁顕宗 実録﹂ を印刷するため民間の﹁洛東契字﹂を 購入し、それに活字を鋳造して追加した 銅活字である。その印本には歴代の実録 をはじめ﹃列聖御製へ各種の誌状および 一般の書籍が今日に伝わっている。 十七世紀末期には、また校書館で、明 朝体刊本の字体を手本に、印章自体の鉄製 活字を造った。印童自体漢字の金属活字を
麗湖周
一│欄間劇 │ E 創脳叫
同ヨ A J 酬ヨ
造ったのはこれがはじめてである。 その材料が銑鉄であったた め、鋳造がややこしく、字 画が少し太く粗雑であった。 その後一七二0 年代に再び 鋳造したが、文字の横の字 一 闘闘釦叫 111 a 動叫 函を細くして印書体らしい 形を整えた。先に造ったも 一 回開幽舛冨 のを﹁前期校書館印書体字﹂、 打開割 あ と の も の を ﹁ 後 期 校 書 館 一 笑叶誼 -│劃刈劃 印書体字﹂と称している。 この活字とともに使われた 世書
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﹃ 続資治鑑網目﹄。輯鮮時代二七七二年)。
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﹃ 生生{子宮 。朝鮮時代二 七九 四年)
洪武正韻文字。ソウル大学図書館所蔵。
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ハングル活 { T乞﹁校書館印書 この頃には個人が銅活字を造って使っ
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体字並用のハングル字﹂と言っている。 たこともあった。金錫由同は名筆の韓構に 字を室田かせ、それをもとに活字を鋳造し たが 、独特で小さな筆書体であった。こ れを﹁初鋳韓構字﹂と言、つが、朝鮮朝廷で は一六九五年にこの活字を買入れて使用 していたが、一七八二年再鋳し、一八五 八年に三鋳 した。この三鋳活字は 、実物 がい までも国立博物館に保存されている。 その外にも、粛宗朝の二ハ七六年に﹁校
能友弟里中悪少亦加欽憶北口 潟牒尉尚寛仁九建設祭敦時叩 耕 一 、エ不一﹂込令官叶件以吋与冷言叶 1J勺寸寸
『 孟子諺解』。朝鮮時代( 一六六八年)
18
策に重点を置き、歴代王の印刷政策をそ のまま継承発展させる一方、清の印刷術 も取り入れて活字印刷文化が華やかな花 をきかせた。正祖は王世子であった頃﹁壬 辰字﹂と﹁倣洪武正韻字﹂を造ったほか、即 辰字)﹂、曹允亨と黄運鮮の{壬乞手本にし
位後は、﹁丁酉字﹂、﹁再鋳韓構字(一名壬 た﹁春秋綱字﹂などを造った。正祖の執政 後期には、清の武英殿が木製活字の印刷 法を記した﹁欽定武英殿緊珍板程式﹂を導 入し、一七九O年とその翌年にかけて二 回にわたり木製活{壬乞購入したが、これ と称している。 を五質木字 L 一七九二年に中国の﹃四庫全書﹄に入っ ている緊珍板式﹃康照字典﹄の字体をもと にして、木製活字三二万個を造った。こ れを﹁生生字﹂と言、つが、その彫刻が精巧 であり、字体が美しいので一七九五年に は、これを手本に、さらに銅活字を鋳造
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lJ γ口 G N JJ E E 刃汀£ 一5EqE45庄 斗 、ザ言。一日、守朴呂田司人小サム。、立不
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ユ オ叶 円、引五五ロ王叶包司、叶 a o マ斗古川,互豆ム 、叶号、汁刊ヨ ﹃五倫行実因。朝鮮時代二七九五年)。初鋳受理字併用ハングル文字。ソウル大学図書館所蔵。
わが国が古くから活字王国の位留を保ってきたの以、活 字の考案が世界最古であるごと、活字を絶買えず改良発展 た乙と、活字の種類、かいろいろであること、異なる さ・ MM 活字、がそれぞれじ特長がある乙と、活字印刷本を庶民階 層にまで供給し、 啓蒙 ・教育戸大きく貢献したこと、 どの理由からである。
最後に、張混の造った筆書体の小型木
製活{壬乞挙げることが出来る。その印本
と各種の詩文等がある。非常に小さくか
としては一人一O 年に印刷した﹃壇家職篤﹄
これを﹁張混字﹂または彼の雅号にちなん
なり精巧に造られた点で印象的である。
で﹁而巳厳字﹂ともいう。
先ほど一八五七年一 O 月の鋳造所火災 で活字が焼失し新しく鋳造したと述べた
が、その中の﹁再鋳整理字﹂とコニ鋳韓構字﹂
が国立中央博物館に所蔵されている。再
されながら、大韓帝国の時まで使用され
鋳整理字はハングル活字が造られて並用
いう。なお中央官署が最終的に造って使っ
た。これを再鋳整理並用字ハングル字と
近代の﹁新鉛活字﹂は一八八O年、日本
た活字には﹁学部印書字体﹂がある。
で、崖智燐の字を手本に鋳造して﹁韓仏字
間人から印刷費を受け取りハングル書籍
字が使用されたが、大韓帝国時代まで民
この後、この活字が次第に普及されなが
と書籍が最初のものと伝えられている。
た新たな鉛活字で博文局が印刷した新聞
る。囲内では一八八三年日本から導入し
典﹂を印刷したのがその晴矢のようであ
を出刊したりした。このハングル書籍の
一八一六年には純祖の母君である綬蹟
出刊は、民衆の教育と啓蒙に貢献した意
朴氏の兄朴宗慶が印書体衆珍字を造って の文集を出刊した。この活字は﹃穎翁続藁﹄
義は大きい。
れらの古活字が命脈を雑持しながら、韓
たが、その中でも二O世紀前半まで、こ
した。これを﹁初鋳整理字﹂または寸乙卯字﹂
で﹁全史字体 L としていたことから﹁全史
この外にも民間人の造った活字で、先
純祖朝(一八O 一l 一八三四)には高位
父親の文集である﹃錦石集﹄をはじめ一門
字﹂と命名し、造った人の雅号を取って﹁敦
ず数えられるのは﹁整理字体鉄活字﹂であ
であった。
国の伝統文化の伝婚に大きく貢献したの
という。活字の数は大・小文字を合わせ
岩印書体字﹂とも言っている。活字の大き
る。この活字でもって大韓帝国時代まで
官職にいた官吏と権力をふるった外戚お よび民間人が活字をいろいろと造って本
体の影響を受けて、木製活字である﹁筆書
あった南公轍は、一八一五年に清の活字
純祖朝に弘文館、芸文館などの要職に
執政の頃とその後に出た若干の官吏用政
う別名もついた。その印本には大院君の
刷をしたと言うことで﹁雲唄宮活字﹂とい
はこの活字を没収して私邸の雲唄宮で印
八 七三)に 大院君執政の時(一八六四i 一
生活に必要な本を印刷するのに使用され
族譜(家系図)、漢文教材をはじめ、日常
ながら純祖時代から高宗の頃まで文集、
ことはわからないが、民間人がもち歩き
めて鋳造したのか記録がないので詳しい
とが出来る。この活字も誰が、いつ、始
制されており、今もその活字本に多く接 することができる。 挙げるこ その次には﹁筆書体鉄活字 を L
るとき、わが国が歴史的に、活字王国の
蒙し教育するのに貢献した点などから見
階級だけでなく庶民階層までも等しく啓
それから多様な活字で本を印刷して支配
り、各々それなりの特性をもっている点、
活字の考案を試みた時期が世界で最も
ら昔の活字の使用がだんだん減っていっ
文字はかなり細く小さいながらも精巧に
さが適当であり、現代活字のように精巧
中盆伺道と全羅道をはじめソウル地域で印
体緊珍字﹂を造った。彼は自作の詩文集﹃金
書類を除けばほとんどが民間の編著書を
た 。
ができるのである。 .
位置を強固に保ってきたと自負すること
良発展させた点、活字の種類が冬/様であ
早かった点、このような活字を絶えず改
陵居士文書をはじめ知人の著述などを印
はじめ、道教、仏教関係の書籍である。
た 。
刷してやった。この活字体は筆書体のも
そのうち、国訳本には印書体ハングル活
を出版するなど印刷文化が大いに発達し
ので字画のはね具合が屈曲上向性を示し
八六三)の頃からは、あちこち持ち歩いて は民間印刷物を印刷するのに愛用された。
て三O万個であり、このうち大文字は字 体が平たく字画が太いほうであるが、小 つくられた印書体である。
に鋳造されていて、哲宗朝(一八五Oi 一
tJ.
ているのが特徴である。
19
01
祉
世界最古の現存金属活7字本。
『 白雲和尚抄録仏祖直指{ ; 、体要節』巻下。
活字本を遺した l ①李在俊幸日韓編集居長・韓国美術忠実三重
世界最初の金属活字
韓国印刷文化の優秀性を世界に ﹃直指﹄ ・
知らせた現存する世界最初の金属活字本
である 。 ﹃ 、 ﹃ 直指心体要節﹄の略語で、 直指﹄は 仏家の 経雌 。 (
、 この本は、 高麗楠王三 年 (一 三七七年)
清州牧興徳寺 で印刷したものである 。こ
れの正確な時期と発刊場所は、 直指の最
終章 に記録されている 。その内容は次の
ー宣光七年、丁巳七月O 目、清州牧外
通りである。
この年代は、ドイツのグ lテンベルク
興徳寺鋳字印施│
が発明した 金属活字より七 三年も先立 つ
ものである。
直指が、世界最初の 金属活字として公
認されたのは、今から 一一 一年前である 一
九七二年。 ユネスコがフランスのパリに
ある国立図書舘に所蔵されている ﹃ 直指﹄
を、世界最初の金属活字であると公認し た。
しかし、 この本が世界に初めて知られ
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山口
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宝
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ー コil54i ! J Li
高麗時代 (13刀年) 。高麗奥徳寺字板。
清州の古印刷博物館に展示中の木版印刷場面( 左) フランス国立図書館所蔵( 上)
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j青州の古印刷博物館に再現された金属活字の鋳造場面( 下) 0
復元された清州興徳寺の金堂全景( 上)
たのは、もっと前のことである。一九O 一年、フランス人モリス・キュ 1ランが、
公認して・ から少ししか経過していない時
筆者は、暇があれば李博士とともに寺
点で出た請だった。
祉を踏査した。そして、寺桂で寺名を確
韓国書誌の付録に収録することによって、 関連学界に報告されたものと、記録され
認できる遺物である瓦を調査した。しか
ユネスコが直指を世界最初の金属活字
忠清北道清原郡水一面霊下里に、昔か
し、輿徳寺社は探し出せなかった。
ている。 本と公認したあと、各国の字典では、金 属活字の項目を修正した。そして圏内で
た地域で、塔の基壇部から﹃輿徳寺﹄とい
の寺社は、日帝時代に発掘調査が行われ
研究が相次いだ。韓国は、これでもって、
う銘記があらわれたところである。日帝
ら興徳寺だと呼ばれる寺社があった。こ
世界で最初に金属活字を創業した頭脳の
時代まで仏と塔があったが、外地に搬出
は、書誌学界を中心としてこれに関する
民族であることを誇れるようになった。
されたりした。
﹁もしやこの興徳寺が興徳寺社ではない
だろうか﹂筆者は長い間こうした可能性を
考えてみたりした。
しかし、興徳寺は、興徳寺ではなかった。
一 O 数年近く、興徳寺祉を探すことは、
清州考古学界の宿願となってしまった 。
た韓国教員大学の鄭永鏑博士、韓国先史
0年代、清州地域を主に調査し 七Oi八
文化研究所の孫宝基博士も、清州に来る
と口ぐせのように﹃直指心体要節﹄を印刷 した興徳寺祉を探すべきだと述べた 。
興徳寺桂 の発見 今から約 二 O年前のことである 。筆者
だった 。午 前 二 時 頃 、 道 広 報 官 室 か ら
記者室で 一線 取 材 を 担 当 し て い た と き
当時、政治部長の肩書きで、忠北道庁の
八五年一O 月のことである。筆者は、 は、当時も週末には忠清北道内の遺跡を
興徳寺と一O余年の宿願
踏査することを主要日課としてきた 。当
特種記事があるとの連絡があった。
その場所を知らないというのだった 。 ユ
体要節﹄を印刷した世界的な科学史跡で、
きだという話を聞いた。輿徳寺は﹃直指心
に清州牧の寺剃だった興徳寺祉を捜すべ
筆者はある日、李博士から、高麗時代
ところだった。
れているところで、いつも注目していた
地開発事業場は、普から寺社として知ら
く瞬間、興奮をかしくきれなかった 。宅
れたというのだった 。筆者は受話器を置
州市雲泉洞の宅地開発事業現場で発見さ
﹃輿徳寺﹄が明記された禁口(鍾)が、清
時、この遺跡踏査には常に前江陵大教授 である李ウォングン博士が同行した。
ネスコが﹃直指﹄を世界最初の金属活字と
22
﹁興徳寺社が本当に発見されただろう AM﹂
筆者は、文化財研究室が配った報道資
である金堂の遺構と付属建物祉などが確
認され、高麗時代の多くの遺物が収集さ
機に突かれてこわれたものだったし、そ
た。この遺物によって、興徳寺は既定事
十年興徳寺銘﹂の青銅器である仏鉢だっ
認する遺物が発見された。それは、﹁皇統
発掘途中、興徳寺であることを更に確
れた。
の外面に次のような銘文があらわれてい
料をみた。銘文の刻まれた禁口は、堀削
ると、報道資料に載っていた。
八六年五月、世界最初に金属活字を考
実として確かめられた。
案して﹃直指心体要節﹄を印刷した興徳寺
000坪
して八七年から復元工事と博物館が着工
社は、史蹟第一三五号に指定された。そ
された。
寺祉の保護区域は約二万八、
にのぼり、総事業費は国費二九億ウォン、
である。
地方費一一一億ウォン、合計四一億ウォン
博物館と興徳寺の復元は、とても美し
く造営された。正門を入ると、藁ぶき屋
根をまねたド lム型 屋根の遺物展示館が
室と第二戦一不室からなっている。
目で見られる一六五坪面積で、第一展示
あらわれる。 ﹁甲寅五月O 日西原府興徳寺禁口蓋坐﹂ 筆者は直ちに編集局長に電話を掛けた。
いる法語および刊記など、三五九字を花
展示室の壁には、﹃直指﹄に記録されて
遺物展示館は、印刷文化の発達史を一
一面下版を止めて輪転機を固さないよう ﹁私たちが一O数年間探し歩いた世界的
に要求した。
に理解できるようにしたものである。
ンがあらわれる。金属印刷文化史をすぐ
第一展示室に入ると、マルチ・ビジョ
岡岩タイルに彫刻した。
のエンジンをかけた。そして、非常ライ
筆者は、道庁記者室を抜け出て自動車
な科学史的興徳寺社が発見された﹂
トをともして新聞社に駆けつけた。特種
円形壁面を追って行くと、世界印刷文
化年表と活字の発達史がわかるように説
中の特種であったからだ。 新聞・放送の報道が出たあと、宅地開
明が加えられ、外国の印刷文化との比較
もできるよ、つにしてある。
発事業場だった寺祉は、緊急保存対策が 講じられた。
この展示室には、金属活字以前の木版
印刷の発達過程と、金石類の分布図、拓本、
輿徳寺祉の発掘は、清州大学の金栄根
れた無垢浄光大陀羅尼径、新羅時代の経
印章を展示し、慶州の釈迦塔から出土さ
興徳寺社発見と復元 館長が担当した。発掘の結果、寺の本堂
23
木版印刷用の活字
とくに目につくものは、金属活字の製
して、発掘当時出土された多くの石材と
われたが、ここには芝が植えてある。そ
金堂の外には南回廊、東回廊祉があら
なく一塔ずつ伽藍に造営する壬定である。
作過程を再現した人形。当時の衣装と作
板、影印本なども展示してある 。
業状況を、考証を通じて立体的に作った
柱礎石が整然と置いてある。
清州 の古代文化
第二展示室には、寺社から出た遺物で
ものである。
大きな鴎尾、青銅香炉、仏鉢、竜頭、高
ある鐙をはじめ、建物の 屋根を装飾した
世界で初めて金属活字を考案した高麗 人。その中で ﹃直指﹄を印刷した清州はど
復元したものである。高麗時代の典型的
物で、発掘当時にあらわれた礎石の上に
ぐらした)屋根の正面五問、側面三間の建
化遺跡があらわれて、これを立証してい
文化が聞いた。周辺の丘陵から旧石器文
川と無心川が合流するカチネ(小川)から
清州は、本来、錦江の上流である美 湖
ういうところだろうか。
な建物様式にならって建てたもので、屋
る。美湖川は、豊 富な水量の大きな川で
麗時代の美しい瓦当類が展示されている。 復元された金堂は 、八作(庇を四隅にめ
根の両端には鳴尾を装飾、威厳をのぞか
あったし、魚が多くとれたので、先史人 地だった。
たちの住居地としては、極めて良好な立
せている。 金堂の前には、元来の伽藍の形どおり 典雅な 三重の石塔一基を配 置した。 まも
馬韓は、百済と共存した勢力だった。
それで清州は、高句麗の南侵時機である
美湖川流域で暮してい た先史人たちは、 つ の集団は 次第に川をさかのぼ って 、 一
のと推量できる。
五 j六世紀まで、百済の影響を受けたも
与地勝覧をみると 、清州は百済時代に
の麓に定着して暮した。彼らは、ここで
上堂だと呼ばれたという記録が出る 。そ
今の新鳳洞に、もう 一 つ の集団は父母山 穴蔵を堀って住居とし、石を磨いて道具
呼ばれたという。六二九年に は娘管城で
を作って使用した 。新石器 ・青銅器人が
高句麗 ・新羅の一大接戦が展開された。
の後高句麗に服属され娘管城とか管城と
青銅器人は、この地域に馬韓の 一国を
高句麗軍士五、 000人が城を守り、新
まさに主人公である 。
いが、父母山の麓の洞名が﹃アヤン洞﹄で
J J '
昆 p 1L ?FFZF
弘幸 a?
の政治、行政、経済、文化の中心地だった。
西原小京は新羅の五小京の一つで西原
である。
を滅亡させたあと、清州に西原小京を設 けた 。 これが新羅統一後二八年目のこと
新羅は娘融問城を奪い、六六O 年に百済
の城と比定している。
清原郡北 二面釜淵里の俗称寸南管城﹂をこ
があるが、李ウォングン博士の場合は、
娘腎城の位置については、学者聞に異見
新羅は完全に対百済の橋頭畳を確保した 。
この戦争で高句麗は大敗した 。そして
る大軍が攻伊ヂ乞したのだった。
羅の金計玄(金庚信将軍の父)将軍が率い
聞く。 この国の名はまだ究明されていな あることを勘案、もしかは愛裏目だった のではあるまいかという学者もある 。
愛裏国は文献通考にでる馬韓五四カ国 中の 一つで最初に名の挙がる国である。 この地域には、昔の土城の痕跡が残って おり、周辺から磨いた矢尻 、無紋土器な どが出土した 。また 、 この地域から遠く ない清州工業団地の周辺野山では、多く の土墳墓が発見された。この土旗墓は 、 原始 三園地代、つまり馬韓時代の遺跡で、 強力な集団がここで雄拠したことを立証 する資料である 。ともあれ、清州は旧石 苛│馬韓につながる古 器 ・新石器 ・青銅 m 文化地域で、早くから文化を花咲かせて いたことがわかる。
復元 された r無垢; 争光大陀羅尼経」の一部
清州興徳寺1止で発据された r興徳寺Jili 禁口
) 9 14 ~ 7 ( 14 r
24
こに移住させた 。 これは、地方分権を強
神文王は、初春に慶州の土 豪と貴族をこ
職が記されている。これは何を意味して
中という新羅時代学院の経営と官吏の官
いる銘文の中には、学院あるいは郷、郎
一つの自慢の種である 。睦竿に刻まれて
は、清州古代文化の香りを立証するもう
て、きわめて感動的な面持だった。
館と復元した興徳寺の金 堂を見回ってみ
内で興徳寺祉を訪れた。南さんは、博物
在日韓国人史学者南碩燥氏が 、筆者の案
るEXPOを契機にして世界に広く紹介
ない 。 一つ幸いなことは、大田で聞かれ
ていない 。 しかも、世界にはいうまでも
阻ハ徳寺 祉は、 事 実囲内にも広く知 られ
﹁わが韓民族の優秀性を世界に誇示でき
清州は、このときカら馬韓の質の高い
化し、地域文化を暢達させるためであっ た。
されるとい、1Rである。
たということだけを誇ってはならない。
私たちは、世界最初に金属活字と作っ
パリの図書舘で﹃直指﹄を見る機会が
る遺跡です﹂
その底力と優れた頭脳をもとにして、もっ
いるだろうか 。 まさに清州が、すでに新
と優秀な印刷技術を創り出すべきである。
羅時代から学問を崇尚する水準高い教育
あった南さんは、まだこの本を印刷した
世界で最も優れた印刷文化を創造すると
かせる契機を作った。清州の人々は、寺
興徳寺社が清州にあるということを知ら
き、その意味がよみがえるということを
土着文化の土壌の上に新羅文化を花咲き
この気運が、まさに世界最初に金属活
なかったと述べた 。南さんは、﹁興徳寺社﹂
都市、学郷だったことを示している 。
を国民教育の道場に作って、若い世代に
を建て学校を運営して質の高い生き方を
追求した。
た 。
25
字を創案、﹃直指﹄を印刷した原動力だっ
覧できる。ただし、冬季中は一時間繰りあげて午後四時に閉館する。
清州市の牛岩山土城を中心とした一帯
た金属類、陶磁器類、瓦などを含む遺物などである。 j青州古印刷博物館は、毎日( 月曜日を除く) 午前九時から午後五時まで、観
と、無心 川辺に多くの新羅統 一期の遺跡
物も展示されている。 また、興味を写 │く展示物は、興徳寺の発掘作業に関連した逸話、発掘され
知るべきだ。.
る。 残りの部門は、 一九八五年に興徳寺祉で発掘された遺跡などに関するもの である。清州大学の史学者で構成された発掘団は、作業中に主妓支、つまり 金 鼓と、伝説的な「輿徳寺」と刻まれた青銅製の仏鉢( 供養の飯を盛る器) などの 造物を発見した。興{ 窓毛11 : の発見に決定的な手がかりを与えたこの二つの造
みせてやるべきだと強調した。そして世
もので、 一三七七年に興徳寺で印刷された。 二つの部門に分離された↑ 導物館の印制文化部門は、世界印刷史の年代記と、 韓国印制史の多様な段階を見せてくれる。高麗と朝鮮時代の木製活字と動く 金属活字、そして朝鮮時代に使用した動く木版活字とハングル活字などであ
界各国に広報、印刷文化の聖地として整
二巻からなるこの古書は、白雲和尚カ考書いたた善に到達する秘法を要約した
今後の課題
の過程カ{ 再現された過去への旅行で、 ある。 この博物館の重要な展示物の中の一つは、 一九七二年、ユネスコが世界最 初の金属活字本であることを公認した『 酎旨心体要節』の最後の章で、 あるが、
が残っていることは、こうした当時の配
持ち帰ってほしいものだ。 エキスポ現場から近い清州古印刷博物館は、頭から爪先まで、目映いほ どの白色で装うた等身大のマネキンによって、 金属活字の製造と木版印刷
えてゆくべきであろうと付け加えた。
ている。 この博物館の開館は、 金属活字がグーテンベルクでなくて、韓国の幾人か の僧侶によって発明されたという事実を、全世界に伝える恰好の展示館でも ある。世界の人びとが、大田エキスポを観覧するために韓国を訪れている今、 この博物館を通じて先端技術だけでなく、韓国文化に関する知識も、 一緒iに
慮を知らせてくれる資料になる 。
期間中、四一億ウォンを投じたこの博物館は、印刷文化先駆者の偉業を称 え、後爾に祖先がみせてくれた不屈の意志を伝えようとする意図が盛られ
去年の夏、日本の瀬戸市に住んでいる
:::I:!.:b.. 国人は、韓国人の祖先が世界で最初に金属活字を発明した事実を、 日Eヨ 非常に誇らしく思っている 。昨年三月、金属活字の発明地である 1 可 占 興徳寺社に、 i計 , ,' 古印刷博物館が開館した。四年間にわたる工事
南門路にある国宝・竜頭寺祉の鉄瞳竿
清州古印刷博物館
d
紋様を入れて漆を施す器具
品主 4・ 町 菱花板は、本の表粧(表装)に
JJ
与えられた福と官職の禄を去 本の歴史は、約二五O恥盤い
のである。出
4 a腔
ろうと推定している。会
で、印刷文化の発展過程で創
案した装飾美術だといえる。言うならば、 を割って束ねて本を作っ 倫が紙を初めて作り始めて一命 化は急速に発展するように 考 た 。とも
用したりした。そのあと、 警 r
刷り出して平面的な絵を描くのでなく、 に、九世紀頃になって 、巻軸で作られた
ド人と言われている。印刷本が中国に伝
学説によると、印刷術の創始者はイン
本が葉子本に変わりながら、線粧本に発
紋様を刻んだ木板、つまり菱花板に韓紙 展した。
紋様が浮き上がって出て立体的数果を与
印刷文化に大きな革新をもたらしたも
ぎλ 九世紀頃だとみている。
葉子本の書籍は、そのあと約二世紀が過
えられたのは七世紀頃の唐代だといわれ、
の紋様を施して冊衣(本のカパ l)を作る 版木をいう。しかし、よく菱花板という
ェi
イムヨンジユ
現在の本は、いずれも洋装で製本され
で木板印刷が始まったのは、﹃経籍会通﹄
のは、まさに木板印刷といえるが、東洋
正一四年(恭慰王三年 H 二二五三)に晋州
庚午歳配本﹄と称したというが、原本は至
たというのだから、これはおそらく最も
ET紋(右)
表装絞織の大部分を占めていた(左)
蓮花紋。古問震時代から朝鮮時代半ばまで本の
幽四何学的紋織の
@林永周伝統工量長・文詰奪回以畜貝
ているので、本の装飾も多様であり、そ
表装、つまり粧演にある。菱花板を利用
の菱花板紋様は、原型どおりに再現され
で刊行した木板本であり、この本の表装
結冊し、本の表に紋様を描いたり刷った
と考えられる。その表紙の色は、淡黄色、
わが国典籍の独特な面は、まさにその
りして装飾した。
てみると、高麗時代に木板活字の発達と
して本の表装に紋様を施し始めた時期は 明らかでないが Aおよその時期を推定し
菱花板で本の装順をすることは、中国
栗色であり、紋様は蓮華乞ヒシ(菱)、荷 葉などが調和して交差した形をしている。
古い菱花板紋様を見せるものではないか
昔の典籍の表装を粧演というが、白綿
ともに、冊板の使用も始まったものと推
や日本の場合、その例が全くないわけで
量される。 忠烈王一四年から忠恵王元年二三四O
て、とても貴重に考えていたし、珍らし
はないが、主にわが国で特徴的に盛んだっ た。
チふヘ
い本は﹁冊宝 Lであるとして、幸運と福禄 j 二二八七)問に崖海が書いた﹃拙蕎千百﹄ をもたらすと考えた、つまり、書物は、 - とい文集を、日本で影印して﹃尊経閤叢書
東洋では、書物を七宝中の一つだとし
色紙を利用した。
紙に梶子水などできれいに染めた華奪な
では、在来東洋式の線粧本で本を括って
によると、唐末か宋初といわれる。
1 I ' -t.ム 1 1五iJ I
木刻板の中には、本の表装に使われる版 木のほかにも、壁紙や盤子板に紋様を刷 り入れるときに使われる版木、あるいは 掘削子(ふろしき)などに捺染して紋様を入 れる採花板、あるいは捺染板などを総称
271 (きi
の意匠も多彩になったが、二O世紀初ま
している。
〆 一 、
菱花板とは、 一般的に本の表装に各種
、 え る 。
で強くこすると、木板に刻まれた凸凹の
を当てて、その柔靭性を利用してその上 に蜜織を塗ったあと、平たく滑らかな石
西洋式版画( gmE三口問)のように、板に絵 を刻んで色付けをしたあと、紙を当てて
4f、
菱花板は、一種の版画であるわけだが、
-一
﹄P3
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一一一- ー ‘一 ...... 島伺圃l nI I I ! 圃. ,. . . ・国型E 里 区 田 ー 一 一 一
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三
-
- 調圃圃邑
菱花板の紋様は、大部分、仏教的な要 素が濃厚にあらわれているが 、わが国で 菱花紋表装が特徴的にあらわれるのは、 尚から始まったとする見解がある。
高麗時代に仏教の隆盛とともに仏典の 崇 ふろしきや織物に捺染した総花板の場 合は、紋様自体が華麗な花紋と、吉祥紋 によって自然と衰退した。したがって、
を図案した紋様が特徴である反面、菱花 様と波のような紋様をひらひらするよう
菱花紋、つまり四葉花文は、中国では
を使って宮閥を建てるが :::、奇妙な紋 に刻み、菱と機が互に交差して競い、葉
板には宝相唐草紋、蓮華唐草紋、宝雲一紋、
が茂り、色を目肱いがするほど巧妙に配
日字紋、七宝紋、亀甲紋、そして雷紋、 回紋など、大体において仏教的な紋様要 合して調和させた﹂としている。
その細密画は、版画技法へと変わるよう になった。
素が使われた。結局、﹁菱花板﹂という名
うからだ﹂としているが、これから推して
た。菱は水中のものであるので火災を嫌
かたどって、蓮華と支荷の形相を彫刻し
そして﹃風俗通義﹄には、﹁殿堂は東井を
える菱花紋には、それと類似した紋様が
があらわれ、朝鮮時代の書籍の表装にみ
代の仏画の衣紋には、多様な菱花紋形式
代の仏教美術に多く見出される。高麗時
、 わが国でも統一新羅時 唐時代に盛行 し
称は、本の表紙に菱の花の紋様を入れて
池沼 ・河川に自生し、葉は水面に浮き菱
多くあらわれる。
装飾したことから付けられたものである 。 いうものは、 ヒシの花、つまり﹁菱花 と L 形で、夏、白色四弁の花を聞く。果実は
みるとき、菱と蓮花は、火災を防止する
菱花板紋様の構成お よび展開は、地紋
一 一一 i 四角の菱角である。わが国ではこの
といろ音住一ーに使われたものと思われる。 洋の東 ・西を問わず、 書籍の発達と と
植物をJE浮草﹂というが、その四弁の花
紋様、つまり地紋が極めて重要な意味を
儀範などを記録した聖典、あるいは聖人
地紋は、唐草紋系、雲紋系、菱花板系、
板の地紋が構成される。
韓交花板の紋様構成は、まず土台になる なったのは、聖典からはじまった。例えば、
もに表装に装飾紋様が施されるように
もっている地紋は、連続が可能なように
と主題紋様に大別できる。
ものが菱花紋である。昔からこの菱花を
意図され、主題紋様の性格に合わせて木
と果実を唐草紋と混成して紋様を成した 神聖視しているが、これは仏教の影響に
ランなどのように、宗教の教理、戒律、
西洋中世のキリスト教聖書ゃ、回数のコ l
よるものと考‘えられる 。 ﹁大夏と宮関に部屋と門が列を成し、桁、
の言行を記録した書物などには、各種の
後漢代の記録である﹃准南子﹄をみると、 軒、種の端などに喬木の校と菱実が茂っ
主題紋様の類型は、瑞獣 、瑞禽紋系、
回紋系、草花紋系などが施された。 瑞花・瑞草紋系、太極、人卦紋、七宝紋、
自学紋系、亀甲紋系、芭子紋系、雷紋系、 はその例である。一般的に、ミニアチュ
宝雲紋、寿福文字紋、諮字紋などがある。
いる。西洋の中世時代、経典写本の密画
が、色が互に入り混じって長く広がり、
ア ( ヨ ︼EZ﹃巾)という絵は、筆写本の挿絵
神聖な絵や紋様を入れて神聖さを表して
きれいに開いており、奇妙に幾重にも反っ
を意味し一五世紀以後に盛行した細密画
唐草紋を地紋に利用する場合は、蓮華
ている丘、蓮華と韮荷などを彫刻し刻銭
て鋭くそびえたりし、入り乱れに絡んで
は、木板画、銅板画など、印刷術の発達
して、五色が互いに競争するかのようだ
いる﹂としており、また、﹁大々的に材木
雷蓮花紋
唐草紋、牧丹唐草紋、菊花唐草紋などが
普通だが、その形式は、高麗時代の陶磁器、
仏画、銅鏡などに特徴的にあらわれる唐
る菱花板の本の装順は、朝鮮初期から末
草紋類型である 。唐草紋が主にあらわれ
ね世宗年間(一四一九i 一四五O)に刊行
期まで続けて使われたようだが、おおむ
された﹃天文類抄へ東文粋(一四四八年に
金宗直が刊行)をはじめ、相当数のい典籍に
かは朝鮮後期(一八世紀)以後に多く使わ
あらわれているといわれ、蓮唐草紋のほ
いわゆる菱花板と呼ばれる紋様は、全
れたものとみ、える 。
な地紋からなっていたり、四葉花紋形式
般的に菱形、四角形、三角形の幾何学的
一一一葉の花紋に米の字、×字模様などを
を基本としながらも六葉、八葉、一 O葉 、
交えた形式もある。こうした花紋を、丹
青用語では ﹁錦紋﹂と呼び、そうした紋様
これは文字どおり織物の織造過程で現わ
というが、 を描いた丹青形式を﹁錦丹青 L
をあらわしたという意味で付けられた名
れる幾何学的な紋であり、つまり ﹃ 錦紋﹄
朝鮮時代初期から菱花板紋様のうち最
称である。
も多く使わたものが百字紋だった。百字
紋の展開方式は数種に区分できる。つま
り、井字紋あるいは格子紋の中に﹃記﹄字 を入れたたもの、あるいは﹃司﹄字紋を連
続紋様に したものがあるが、目字紋を正
方形に展開したものと、斜線方向に展開
したものがある。
28
亀甲紋とは 、六角 形の幾何学的図形を 儀器などにも用いられている 。 こうした
ずれも雲で雷など、自然現象から象形さ
るとき、一五世紀頃から一八世紀まで多
二年に刊行された﹃真実珠集﹄の表装紋様 にも七宝紋があるが、これにてらしてみ
たので やは り高貴な 、ものである。一 四五 高麗史節市否や 一四六 三年に刊行された ﹃
連続紋で上 ・下・左・右に展開させた亀 の甲模様の紋様をいう。 これもやはり錦 仏教では宇宙の本理である大我、心体の
紋様は、一様に永遠不滅の生を追求し、
れたものであり、中国の殿周時代の青銅
されてきたが、丹青紋様用語で﹁ソスル錦
紋の一種で、寺利建築の丹青に主に使用
がっているように、亀甲紋が壁面全体に
室壁面には、まるで錦のとばりが垂れ下
ができる。つまり ﹁ 天王地神塚﹂などの玄
高句麗の古墳壁画に多くの例をみること
として愛用された 。七宝は、仏家では七
るほど、高格な趣向をあらわす象徴文化
物や士大夫の生活器物に洩れなく使われ
いる 。とくに、朝鮮時代では、宮中の器
一種で、仏教美術で特徴的にあらわれて
七宝紋は、古代から仙家的吉祥紋様の
主題紋様として特徴的にあらわれる紋様
風、駿麟、亀、そのうち竜紋と鳳風紋は、
七宝雲紋がみえる 。 四霊といわれる象徴的な動物の竜、鳳
瑞雲紋を地にしたものが多く、朝鮮時代
青華白磁にも 、 一七 j 一人世紀頃に七宝 紋が多く施された 。七宝紋は、目字紋や
く使われたものと思われる。朝鮮時代の
描かれており、また、新羅、百済時代の
を意味しているが、それとは関係なく、
珍といわれ、極楽浄土にある七種の宝物
である 。
無限性を意味する 。
り多くあらわれていることから、この紋
古墳出土遺物からも、亀甲紋装飾がかな
仏教意匠で象徴的な七種の事物を紋様に
使われたが、宮中で刊行された典籍に使
紋﹂と呼んでいる。亀甲紋は、とつくの昔
様が、古代から神聖なものとして使われ てきたことがわかる 。
した七宝紋が、各種の生活器物に使われ た。七宝紋は、銭宝、犀角宝、方勝宝、
用された。煽煩紋は、宮中の衣装紋様に もあらわれるが、朝鮮時代、民俗工芸品 でよく使われた紋様である 。とくに、 一
中国の蘇州地方で生産される絹織物に
している 。 古文献の表装に目字紋が施された実例
これらの紋様は、仏教的な意味で多く
初期の肖像画をみると、官服の紋様にも
蓮華折枝、草花草虫紋、雲竜紋、七宝紋、
書面宝、支葉{一玉、鏡宝、特磐宝をいうが、
八i 一九世紀頃、中国の清代とわが国で、
蓮唐草紋。 一五=二年。
﹃目﹄字紋が特徴的に使われたことから由
菱花紋などからなっているものが多くみ
つまり銭宝は富の象徴であり、犀角は西
この七種はいずれも高貴な象徴物である 。
服飾、家具、建築、工芸に広く利用され
目字紋は、﹁蘇州椴紋﹂と呼ばれたが、昔、
来するものであり、これは、この地域が
える。このうち、一三六一年に刊行され た﹃ 仏祖三経﹄や 一四一九1 一四五O 年頃
の一種で呪符の役割をし、書画は福禄の
域から伝えられた高貴な杯、方勝は結び
亀甲紋を地にして、煽幅紋、 目字雲紋、
仏教文化の影響を大きく受けたことを示
に刊行された﹃近思録﹄が古い例であり、 一五六三i 一五七三年頃の刊行と
また、
﹁平安﹂と﹁多福﹂をもた らす紋様であると
を挙げると、一四五三年に刊行された﹃高
こうした例にてらし、亀甲紋が使われ
解釈してきた。こ、つもりは仙鼠、つまり
L
た典籍は、朝鮮時代初期に盛行したよう
仙界にいる動物で、千年の 寿を享受する
たが、中国語では﹁嘱﹂と﹁平 L 、コ蝿﹂と﹁福
であり、朝鮮時代後記になりながら次第
と伝えられている。それでこうもりを一
されている﹃伝灯歩もある 。
に使用例が少なくなったことが分かる。
対に配置したのは、﹁双福﹂つまり、福が
麗史節軍吉で、その主題紋様は七宝紋で構 成され、地紋は百字紋が施されており、
亀甲紋は、朝鮮時代に螺鍋漆器、官服箱、
がそれぞれ同音であることから煽蝿紋を
また、明宗年間(一五四五1 一五六七)に
火薬筒、よろい、万などに多くあらわれ
重なって入ってくるのを祈願するという ことで、多福の意味がある 。また、こ、つ
象徴であり、鏡は、幸福の象徴、特磐は
刊行された﹃春秋左伝直解﹄、一五九 二年 に刊行されたという﹃方広円覚惰多了義
ているが、この紋様は長寿を意味してお
古代楽器の一つで、天祭儀礼に使用され
また、百字紋菱花板紋様の使用は 、現
り、寿命を守ってくれるという民間信仰
てある程度仏教がリパイパルされながら
代初期に多数あるが、すでに高麗時代の
幾何学的な紋様が使われた例は、朝鮮時
に大きな影響を与、えた。
。 経が E ある
には多く使われなかったが、中期になっ
存する古書の例にてらし、朝鮮時代初期
顕著に増加する傾向をみせ、更に末期か らは再びその使用例が少なくなっている。
したわが先祖たちの高い気品と生活信仰
様を施して装飾したことから、文を崇尚
もり四匹が囲んだ中に﹁福﹂の字や﹁寿﹂の 字を図案して構成したものは、五福を意
しかし、近代になって族譜(系図)など、
にあらわれ、また、高麗仏画の衣紋にも
仏教工芸品の香炉、党鍾などの装飾紋様
菱花板紋様として、雷紋、回紋などで、
私書の場合、大部分が単純な百字紋が使
用いられていた 。雷紋と回字紋様は、い
がうかがわれるのである 。.
このように、冊衣に各種の吉祥的な紋
味している 。
われたという事実は、極めて特異な時代 的現象といえる。
29
印 寺
11 ・rll, 端からはお寺は見えない ﹂と言う、 ことわ 一 LFE↑- ざ(諺)がある。 これはひとえに禅と修行
を行うことで 一生を終えねばならぬ僧侶
の隠遁性と煩雑な世俗の世界に生きる普通の生活人には
寸 、J
到底はかり知ることの出来ない 仏教の真理と知恵の深さ
を含蓄のある表現であらわしたものであろう。
高麗時代の ﹃高麗大筋経﹄ の緩 板戸 版主 が
が捨てられていた 。釈迦牟尼はその骸骨を見つけたとた ん、そばによって丁寧に礼拝するのであった 。 これを見
を旅行していた 。ちょうどその時道端には無造作に骸骨
釈迦牟尼が多くの人を率いて︿マガダ﹀という国の南部
所粛 してある建物である。八万余枚に上る
ユ
でも耐え忍ぶ思恵、十番目 は亡 くなるまで子を愛し見守 る昭恒思であると釈迦牟尼は叶令えるのであった。 道端に捨てられた見るかげもない骸骨によって釈迦牟
るまで無事を祈る思恵 、九 番目は子のためなら悪いこと
恩恵、八番目は子供が遠くに離れているとき 、帰って来
てる恩恵、七番目はよごれものをきれいに洗つでくれる
ぬれた場所に自分が寝る思恵 、六番目は乳をのませて育
て子 に与える恩恵、五 番目 は乾いた場所には子を寝かし、
番目は子を生んだ後あらゆる 心配事と苦労を共にする恩 恵 、 四番 目は苦いのは自分が 食 べ、甘いのは口から出し
二番討はその子を生む時に受ける苦痛に 耐える恩恵、 三
語って聞かせた 。第 一がその子をみごもり保護する恩恵、
の苦痛とその子を育てる聞に恵む思恵についての事柄を
いて尋ねた。釈迦牟尼は母がその子をみごもり生むまで
尊者は大きく悟る と ころがあり釈迦牟尼に父母の恩につ
る。それでその骨は黒くて軽 いの だ﹂それを聞いたア ナ ン
のまし子を育てることで 自己犠牲 の苦痛を余儀なくされ
可能でしょうが、くちかけた骸骨でもって、いかに男女 の区別が可能でありましょうか ﹂ 釈迦牟尼は答えた 。 ﹁ 女 は子を生むたびに多くの血を流すばかりでなく、又乳を
骨なら白くて重いはずだし、もし女の骨なら黒くて軽い はずだ﹂ と。しかしアナン尊者は又も尋ねるのだった。﹁男 女が 生きている時にはその外貌でもって区別することも
たかも知れない 。そしてその骨をよく見てごらん 。男の
まりの骸骨は、もしか したら前世 において私の父母だっ
﹁道端にころがっている名もない骸骨に礼拝するのはどう ﹁これらのひとかた いうわけですか 釈 L 迦牟尼は答えた。
ていた十大弟子の 一人、アナン尊者は尋ねるのであった 。
a
L 刻み乙まれている。 栃木J
キム
@ 金 周 栄 小 説家
を
以 、 釈 迦牟尼の蓉えを網羅 し、 ぞれが L・ 大 読 経J
Lある説経閣以、 の瀕印寺、境内J
の て
海 た 戯 ず 経 ね 閤
30
尼は母の恩恵の尊さについて、弟子達に教えたのである。
その骸骨の主人公は百年前に生きていたかも知れないし、
あるいは二百年前に生きていたかも知れない 。 しかし釈
迦牟尼は百年、あるいは 二百年前に死んだ人の骨から、
取り出して語ったのである。仏教の智恵と 真理は凡庸な
今を生きている人々の生活指標になるまことの ことばを
世俗の人々にはなかなか悟り得ないものである 。それで
韓国のお寺は繁雑な世俗をきらい、すべて山奥に入り込
伽仰山海印寺。このお寺もまた、他のお寺と同じく肩
んだのかも知れない。
額にはちゃんと伽仰山という山の名が刻んである 。海印
寺が建立されはじめたのは西紀八O 二年であるから 、今
える歴史を持つ予﹂の海印寺は慶尚南道陳川郡に位置して
から一一七O 余年、前の新羅時代のことである 。千年をこ
いる 。海印寺は慶尚南道梁山郡にある通度寺と全羅南道
昇州郡にある松広寺とともに韓国の三 代寺利に指折られ
特に海印寺を︿法宝寺院﹀と称するのは︿高麗大蔵経﹀、
ている。
のように貴重な価値のある経板を保管している聖地は世
即ち ︿八万大蔵経﹀という経板を保管しているためで 、こ
観、人生観の基礎となる釈迦牟尼の教えを網羅して板木
界のどこにもない 。 この経板(版木)は仏教の教理と世界
に刻み込んだものである 。今 日、この経板が全世界のす
べての人々に最も適切な精神的救済の道を示していると
すれば、その経板の原本がおさめられている海印寺は韓
31
海印寺蔵経閣( 上) 大蔵経版を所蔵している海印寺全景( 下)
国の︿法宝寺院﹀であるばかりでなく、世界の︿法宝寺院﹀ この海印寺に所蔵の︿高麗大蔵経﹀を俗に︿八万大蔵経
といってもいいのではなかろうか。 と言っているのは この大蔵経の板木の数が八万余枚に達 するところから来たのであろうが、また 一方では仏教で 膨大な数を指す場合、八万四千という数を使う習慣と釈 八万四千法文﹀と称するならわしから来 迦牟尼の教えを ︿ り国家的な事業として この大蔵経は高麗時代二度に百一
ているのかも知れない。
O 八七年までの七 O 一一年から 一 刊行された 。最初は 一 七年間に百一る大事業であった 。刊行の目的は仏の願力に よって 北方の契丹(蒙古系の遊牧民族)の脅威的な侵略を 比較して、より内容の充実した完壁なものであった。し
防ごうとするものであった。これは当時の中国の蔵経と かし慶尚北道大郎にある人公山符仁寺に保管されていた この大蔵経は一 二三一 一年の蒙古の侵入によって焼失した。
V
八万大蔵経﹀は、 八万大蔵経﹀である。この ︿ されている ︿ 最初は江華島に収蔵していたのだが 、近海に 出没してい た海賊の略奪を避けてソウルの支天寺に移 し、再度 二二
大蔵経の板木に使われた木は南海地方の巨済島、莞島、
九八年、今の海印寺に移して所蔵しているのである 。
済州島等地から切り取った白樺と朴の木であるが、それ を丸太のまま 三年間海水に浸して板木を造り、それから また塩水で煮た後陰干ししたものを使った 。乾かした板
木をかんなできれいにけずり、それに経文を陽刻するの
である 。先ず筆で経文を板木の上に書き、それを 一字 一 字彫って行くという根気の要る仕事であった 。仕事とい
うよりは修行であった。大蔵経を完成するまでにそそが
れた人々の真心と少しのゆがみも許すまいとする当時の 人々の厳しい態度は今日の我々には想像もつかないもの であった 。字を 一字彫る度に 、 一度拝礼をするという方
式だったので、その心掛けと用心深きはすごいものであっ
九六O字にの た。三 十余名の人々によって五 二、三八 二、 ぼるる文字の 一つ 一つを 美しく彫り上げたその腕前の見 事さにはただ驚くばかりである 。
33
それから五年後の 一二三六年に、またも大蔵経の刊行を 手がけ、 一五年後の 一一 一 五 一年に前回のものよりも立派 な大蔵経が造られたのである 。それが今、海印寺に保管
蔵経閣の内部( 中) 大蔵経普眼門( 左)
蔵経閣内の板本( 右)
大蔵経閣の 一部。湿気と温度、通風が科学的に処理され、大蔵経の永久保存 ができるように工夫を凝らしてある(右)大蔵経版の一部。長い歳月が流れた
陥 っていた。大蔵経の刊行は、仏 を祈願しようとした高麗人の信
にもかかわらず製作当時のままを感じさせる(下)
蒙古と契丹の度重なる侵略によ っ
34
て 、 高麗王朝は極度の混乱に
心への信仰をもとに国泰民安
寺剃内で刊行する寺刊版の一つの ﹃ 寺刊蔵経﹄
その体制と校正も正確であり、その内容もまた、既に焼
経板の仕上げまで細心の注意がはらわれた大蔵経は、
は入りこむものである。しかし二棟に分かれた蔵経閣の
保管されている蔵経閣の内部のどこにもくもの巣一つ見
であるが虫が喰わないのは板木ばかりではない。板木が
どこにも、くもはもとより蟻一匹さえ見えないのである。
えないのである。風の吹きこむ小さな穴一つあっても虫
害虫は最初から蔵経閣の近くには寄って来ないというの
失した契丹蔵経や中国の大蔵経より一層豊富であった。 の後に造られたどの大蔵経よりも優れた内容と美しさを
中国最高の蔵経と 一 言われている︿万歴板﹀はもとより、そ ︿高麗大蔵経﹀は備え持っているのである。そこでこの︿高
がお坊さんたちの証言であった。
まで移した理由は何であったろうか。この経板が海印寺
この八万四千枚もの経板を江華島の禅源寺から海印寺
いい、南側の建物を︿修多羅殿﹀という。この蔵経閣は朝
に建立されたものと思われる。北側の建物を︿法宝殿﹀と
とから、おそらく今の建物は朝鮮朝初期の 一四八八年頃
が、大蔵経が海印寺に移されたのが 一三九七年であるこ
この蔵経閣が立てられた年代は正確に伝わっていない
麗大蔵経﹀は近代に造られた日本の︿新修大蔵諺を始め、
に移された第一の理由は、王子に生れながら僧侶となっ
現代の仏教大蔵経の優れた手本となっているのである。
た高麗の大覚国師は、 二 =二六年に始められた大蔵経の
. . 番目の理由は海印寺が深い山奥に位置しているた
圃 ・ 入 を 受 け や す く 安全な場所でないということ。一一一
・ 圃 は 海 賊 の 略奪が激しかった頃で江華島は海賊の侵
.である
。それに高麗末から朝鮮時代にいたる時期
刊行に多くの力を貸したのであるが、その大覚国師 .が泊 っていたところがちょうど海印寺であったの
度が自然に調節される仕組になっている。炭は湿度の調
また、秋、冬などの乾燥期には湿気を適当に放出して湿
炭、また灰を適当に敷いてその上を粘土で固めることに
る。蔵経閣が建てられている土質もいいが、それに塩と
重要な湿度と通風が理想的に調節される仕組になってい
建物である。この蔵経閣は経板を保管するのにもっとも
朝鮮朝初期の建築物の中では、その建築様式が最も秀で
に始まったこの経板の大移動はほとんど一年をついやし
・圃とチゲ(荷物を担ぐ道具)が続き、またその後を頭 ー に経板をのせた婦女子たちが続いたが二ニ九八年
回 国 し て そ の 後 を 大 事 に 包 装 さ れ た 経板を積んだ荷車
・ 圃 多 く の 僧 侶 が 仏 経 を 唱 え な が ら こ れ に 続 いた。そ
法であって、建築様式が発達した今日においてもなかな
く造られている。真向いの法宝殿の窓は修多羅殿の窓と
く、修多羅殿の窓は下の方の窓が上の窓より三倍も大き
ばかりでなく建物を保護する役目もしている。 そればかりではない。通風の機能をより良くするため
よって、梅雨の季節である夏には炭が湿気を吸い取り、
ているので、建築史的な側面から見てもきわめて重要な
. . め、海賊の略奪から経板を隔離できるという地理 ・圃的条件など長点が備わっていたためであった 。
節器であるわけだ。塩はまた寒い冬でも土を凍らせない
l
圃 ・ 列 の 一番前には童児が香炉を捧げ持って道を導き、
圃 ・ ︿ 八 万 大 蔵経 Vの移動は壮大なものであった。行
てやっと終えた。一説によるとソウルから舟で漢江を下 り、海に出て釜山から洛東江をさかのぼったとの説もあ
か思いつかない知恵といえる。
大蔵経が造られた高麗末期は蒙古と契丹の度重なる侵
は逆の形に作つである。これはまったく科学的な通風方
板殿の窓は縦骨だけの格子造りになっているばかりでな
る。つまり洛東江辺りにある今の慶尚南道高霊郡開浦村
でこの大蔵経の刊行は歴史の命脈を受け継ごうとした高
略によって、高麗王朝は極度の混乱に陥っていた。そこ
に上陸、海印寺まで陸路伝いに運んだという説もある。 ともかく八万大蔵経の移動もまた、国をあげての大事業
影響を及ぼした世界的な文化財と言える。.
いずれにせよ、︿吉田一民大蔵経﹀は世界の印刷術に多大な
の紀綱を立て直そうとした王朝の努力の結果であった。
麗王朝の念願がこめられており、乱れた民心を正して国
だったわけである。 一三九七年にはじまり、一年がかりで海印寺に移し収 めたこの八万大蔵経は刊行されて七四O余年を週ぎた今 日に至っても板木に湿気がしみることもなく、かびがは えることもない。そしてまた一枚の板木もねじれること がなかった。もともと虫が喰わないように漆を板木にぬっ
35
大蔵経が造られた高麗末期は、
心が込められていた。
名称大回世界博覧会 主 題 新しい時儲陣八の遁 副 題 ① 伝 統 語 と現代科学との調和 ⑦資源の効率 的 利 用と再活用 J、 ヌ 多 Zjf 、 期間 / 妻 へ 4
演 ・祝祭行事などを網羅している。 先ず博覧会のお祭雰囲気を高める各種
現しながら、必要に応じて、ネオン、ホ
映像媒体を基本的な手段として主題を表
﹁テクノ ・ア lト展﹂は、ビデオとコン
ログラフィ l、ワ lタl ・スクリーン、
毎日二回ずつ、無公害電気自動車のリー
ピュ ータ ーがどのように芸術に利用され
パレードが 、エキ スポ全体を華やかにい
ドで、特殊効果の機器が総動 員 さ れ て 開
るかをはっきりと見せてくれる。展示場
レーザー光などを主な材料に使っている。
かれる常設パレ ードは、遊戯の広場の前
で作ったビデオ窓を見出すことができる。
に入ると、黄土の壁のまん中にモニタ ー
ろとることになる 。
の広場から展示場全部を貫通してエキス
固定 した場面だけを見せてくれるのでは
普通の窓のように窓枠を具えているが、
ポの意味を伝える。 展示場の隣りにある甲川でくり広げら
の自然を生き生きと再現する。波打つ海
なく、この窓は時空をのり超えて、韓国
れる﹁甲川水上映画ショ l﹂は、先端技術 でエキスポのイメ ージを立派に牛かす代
何時の間にか雪の吹きすさぶ四季の変化
るかと思えば、ときたま、両が降ったり、
辺と、花の咲いた草原がくりひろげられ
表的な行事になるものと見られる。 展示場の前を流れている甲川をせきと 二キロメートルの湖上に、水柱を噴きあ
を一目で楽しめるようにしている 。また、
めて作った幅一O 五メートル、長さ一 げてスクリーンを造り、これにレ ーザー
が現れ、見事な その床には﹁ビデオの湖 L
術の板張と言えるものになるはずである。 エキスポ会場を華やかに飾り 、観客の
テクノロジ ーで作り出そうとする試みに
ている自然よりも、もっと美しい状態を
ラストラクトに変わるのである。
錦鯉が泳ぎ回っているうちに、やはり機
視線を集めるのに決定的な役割を果たす
ほかならない。実際の虹よりも一層れい
のシンボル ・マーク)と高句麗の武士が飛
光線を発射して 寸クムド リ﹂ ( 大 田エキスポ
と思われる文芸展示行事は、主に先端科
クリーンに強烈なスラ イドを当てニジを
見すぼらしい輪郭だけが残る 一種のアプ
学技術と芸術のつぎ合わせを図る ﹁ハイ ・
描いて見せる作品である 。あたかも自動
械の作動によってコイの色が急に変わり、
テク美術展﹂と﹁国際展示行事 Lが軸をなし ている。 ﹁ハイ ・テ ク 美 術 展 ﹂ に は ホ ロ グ ラ
車のライトに 水玉ができた時、 宝石の よ
び交う童話のような幻想的な場面を演出
フィ l ( 立体映像)、ネオン ・アlト、コ
うに輝ゃくニジの現象を大きく拡大した
するが、これは科学が作り出した映像芸
ンピュータ ー ・ ア ニ メ ー シ ョ ン 、 キ ネ
ものである。 先端技術を芸術表現の媒体として活用す
南準の﹁ビデオ・ア ート・ ショ l﹂などが、
れている。図体の大きな花山岡岩とテレビ
やはり科学と芸術の組み合わせで構成さ
テクノ・ア!ト展を代表する彫刻も、
ターで薄い水の膜を作り、その背後のス
ろうとした姿を見せる人工の虹は、モー
テクノ ・アlト展は、われわれが知っ
ノ ・アート展﹂と再生造形館で聞かれる白
ティック ・アlトなどが展示される﹁テク
る実験的な舞台として、どの展示会より
、 列車のレールのよう ジョン・モニタ ー
に設置されたネオン ・サイン、ステンレ
も関心を集めるものと見られる。 テクノ・ア lトは、コンピュ ーターと ・
38
世界の鼓祝祭( 上)
野外に設置されている白南準の作品(オープン ・カl)(中) シ ョ l(下) テクノ・アート ・
う記念碑が、彫刻のまた別の次元を開い
ス鉄鋼の冷たい現代的なイメージが似合
を使って、韓国固有の伝統であり、神秘
ショーは、使えなくなった T Vモニタ ー
に聞かれる白南準ビデオ・アート・
術であり、環境の保護と資源の再開発の
0坪規模の再生造形館は、
一種の設置美
数十万個の空びんで作られた一、 00
中の場面と天上の場面を、圏内初のコン
げ、普通の舞台美術では実現できない水
退ける物語)をオペラに脚色して舞台にあ
娘の物語)と ﹃ 処 容﹄(故事をもとに災厄を
てくれる。
な発明品であるコブックソン(亀甲船)が、
ことを試みている。
ピュ ーター映像グラフィックで表現する
である。
世界各国の空びん数十万本を利用して
最大規模の作品として注目されている。
価値を、白常の生活に象徴的に実現した
オペラという古典的な総合芸術に、コ
デオ・アートが顔みせする。
再生造形館では、廃品再生用の重要性
ンピュタ i ・グラフィックという先端文
実際に閑山鳥で活躍する概念を描いたビ eまたー韓国の歴史と固有の美を説明す
と意味を芸術的に再現した作品などを集
る﹁現代美術リサイクリング殿﹂には、世
るT V受像機を組合せて作ったロボット
ントである。観客がじかに会うことにな
化がどのように調和するかがキ l-ポイ
が四台登場する。
めた﹁リサイクリング特別美展﹂が世界初 白南準の作品は、大 量消費社会で 、莫 ! に開催され、大田エキスポのもう一つの
作った再生造形と内部の展示室で関かれ 界の美術家たちが寸資源の再活用 Lである 在日韓国人作家、崖在銀さんが、通常
設置美術を披露する。 の建築資材を使わず、張力を利用した囲
ラフィックを、効果的に構成しようとす
体に応用されているコンピュ ーター-グ
るオペラの三次元の空間で、各種映像媒 韓国の芸術団体が、数年前からエキス
る新たな試みをしているのである。
内初の建築として設計した再生造形館自
ポの舞台のために準備している作品のう
シンボルとして浮かび上る。
ち、ソウル芸術団の﹁ハイテク創作ミュー
大な量が吐き出されるごみと産業廃棄物
いう人間の努力と発明を再現するといっ
象徴し 、これを再生女ることができると
韓国の四季にあらわれる独特なイメー
を素材にして、複雑な生産と消費構造を
た概念を持っているものと言える。
ジを光と音で表現する寸韓国の光と音の御
体が、一つの設置美術であるoJ 韓国人芸術家としては最も世界的に知 られており、名実共に最高の水準をいく
スポ全体の象徴的なイベントとして披露
これと共に、スイスの作家シヤルル・
ジカル﹂は ﹁新たな跳躍 への道﹂というエキ
ビデオ ・アーチスト白南準の作品が、再
塔の周辺で毎晩披露されるこの行事は﹃恨
きる 。三 カ月間の博覧会期間中、ハンビッ
殿﹂でも新たな芸術の一面を見ることがで
モルガンは 、自然│生産│消費│再生の
韓国の伝来文学を素材にした﹃沈
金慈環オペラ団とソウル ・オ ペラ団は、
F(孝行
されることになっている。
生造形館の展示室で、エキスポを代表す
循環構造を一目で説明してくれる寸リサイ クリアム ﹂ という設置美術を出品する計画
る傑作としての位置を占めている 。 再生造形館の﹁リサイクリング殿﹂と共
39
大
エ
田
キ
ポ 開
ス
事 事
長
広
げ
た れ う
111 甲
の で
映 像
ま
y
の
ヨ
書
知られている四物遊戯が、コンピュー
韓国の伝統芸術中、世界的に最もよく
する複数のロボットによって実現される。
三百年前の新羅時代に作曲された宮中管
J)
楽曲の一つ)、﹃ケジナ ・チンチン ・ナネ﹄
の演奏により、エキスポでひろうされる。
ター -シミュレーションによるロボット
五百年﹄(伝統民謡の一ハ 、﹃寿斉天﹄(千
(伝統民謡の一つ)などの伝統民謡、雅楽、
四物遊戯ロボットは、韓国固有の芸術
サムルノリ
サムル遊戯(四種の打楽器で演奏するはや
と、精巧な科学技術の面貌を同時に見せ
ロボ ットと言うよりは作動楽器と言つ
し)などを背景音楽として、超大型レー
た表現が一層似合うこの風物(ドラ、カネ、
ザー映像が展開されつつ、希望に満ちた のハンピッ塔の周辺が、すべて舞台とな
太鼓など農楽に用いる嚇子道具の総称)
てくれるところに、そのねらいがある。
るこの行事には、科学の力により観客を
未来を見せてくれる。九一一一メ ートル高さ
楽しませる舞台の広さを無限に引伸ばし
は、コンピューターにインプットされた
イテク創作品として見せるものである。
大田エキスポのテ l マを伝えるためのハ
ミュージカル﹃トンセとなって帰る﹄は、
ム)など韓国固有のリズムを正確に、そし
リ、フ イモリ (何れも伝統音楽特有のリズ
銅羅を演奏することになるが、ジュンモ
鼓、鉦、長鼓(大型のつつみ状の打楽器)
速度と強さにより、実際の楽器である大
プノ ムル
てくれるのである。
ン・スクリーン、マルチ・ビジョンが登
て実際に近いタッチで再現する舞台をひ
科学と文化の接木を表現するため、スケ 場し、東 ・西 文化の出合いを表現するた
ろうする。
〆サシ
あ l、大 広げる音響ドキュ 1メンタリ l﹃
音響放果の大きも金ボルレさんが繰り
雑なコンピューター -シミュレーション
動きを表現するものであるので、一層複
てシンクロナイズドされた三次元空間の
て再現させるこの舞台は、音楽に合わせ
鉄製のロボットに各種の仮面をかぶせ
ボットによって実演させる予定である。
青獅子踊り﹄、﹃鳳山仮面踊り﹄などもロ
チョ 〆ポ
北 また、韓国固有の無形文化財である ﹃
プク
め、伝統楽団と現代電子音楽グル ープ ・ 現代音楽祭は、コンピュ ーター音楽と
サウンドが一つになって演奏する。 電子音楽が、既存のクラシック音楽と結
韓民国﹄は、韓国近代史から最近の新政府
合する舞台として設けられる。
発足に至るまでの韓国の歴史を叙事的に
を必要としている。
鳳山仮面踊り特有のかいぎやく的な物
編みだし、これを言葉で説明することを
語と、韓国の踊りの特性を生かした典型
避けて、音響で物語りを織りなしていく 新たな種類のドキュ l メンタリーとして
的な身振りの再現を、実際の芸術家たち
知らない芸術を見せてくれる予定のロ
故障の起こらない限り、決して疲れを
専門家が研究に専念している。
の助言により、コンピューター自動制御
期待を集めている。 このように古い伝統文化と先端技術が 決してかいり しているものではなく、調
ボッ ト鳳山仮面踊りと叶物遊戯などは、遠
和を保ちながら互いに発展していけるも のであることを証明する数々の試みがエ
観客の視線を集中させるものと見られる 。
隔調整による新しい種類の人形劇として
キスポで顔みせする。 このような出会いは、人間のせん細な 芸術創作の能力にまで領域を広めよ、っと
40
は、すべて自国の展示舞台に、各国固有
調和を図るものである。 一一一 二の参加国
化芸術が一つどころに集まって、競演と
大図エキスポ文化行事は、全世界の文
や作家、出演者、観客の区別を色あせた ものにするほど、総体的な参加を追求し
パフォーマンスであったのに対し、いま
であり、舞台か ら観客 へと一方通行的な
絵画を持ってくるであろうと発表してい
とミケランジェロ、ラファエロの本物の
レオナルド・ダピンチの科学技術の遺物
模型と世界最初の放送設備などをはじめ、
バチカン教皇庁は、バチカン天文台の
ている。
つかの国が同時に芸術という共通の言語
の文化芸術品を見せたり、あるいはいく で一団となる舞台も設けられる。 は、産業と技術を誇る外にも、先進国は
六三にのぼる国家別・地域別展示館に 先端技術と接ぎ合わされた尖端文化を、
作っている。造幣文化館に設置される映
せることになる大型の映像│音響装置を
ごとに、多彩な視聴覚資料を立体的に見
世界博覧会に参加する各国は、展示館
くり輸入した日本で、数百年の間伝授さ
辰倭乱(文禄・慶長の役)中に、これをそっ
磁器製造技術を持っていた韓国から、壬
計画である。一五世紀まで世界最高の陶
作り出す高度の精密ロボ ットを出品する
るロボットを出品した日本は、陶磁器を
一方、筑波エキスポでピアノを演奏す
る 。
ジェクトを利用して、エキスポ期間中、
という媒体を通じて再び戻ってくること
れてきた神秘な技術の数々が、ロボット
像システムは、七二台のスライド・プロ
に出品している。
開発途上国は伝統的な文化をそれぞれ主
韓国の四季のイメージを光と音で表現した先端レ lザ・ショー
毎日、立体映像劇場ショーを上映する。 この映像装置は、まずコンピューター
このような試みは、これまで長い問、
になったのである。
字通り現実と仮想の区別が不可能な体験
にいるのと同じ感じを与える機具で、文
によって、光りと音を出しながら満開す
れる。 また、日本の展示館には、温度の変化
り客観化されるようにした試みと考えら
実﹂は、先端画像装置に視線を吸い込まれ、
の計算作業により、多重のカメラ角度を
オーストリアは、九O 席規模の観覧席
を提供する。
る﹁椿の花園﹂が観客の目を引くものと見
プスの自然と自国の精密機械の技術を説
が動き、大型スクリーンを立体的に鑑賞
オーストラリアは、熱帯の林に起源を
られる。
調合して画面を撮影し、これを三次元の
する﹁客席移動劇場﹂を造った。カナダ展
発するオーストラリア伝統の建築様式を
フランス高等造形芸術研究所の主管に
い陶磁器製造技術が、科学的な計算によ
示館でも画面の動きにつれて椅子が動き、
見せてくれるグラフィックと、オースト
より、行事の広場の中央広場と人工池の
徒弟的な教育と経験なくしては習得し難
でいく感じを与える寸シミュレーション劇
観客がちょうどフィルムの中に溶ゆこん
ラリアの都市、田固などの特徴のあるイ
まわりに展示される﹁未来のテ l マ・パー
ションの作動に溶け込んで、まるで現場
中国は、昨年、セルピア・エキスポで
場L を通じて、カナダのすべての地域を実
メージを 一秒当り 一メートルの速さで動
ク彫刻展﹂は芸術と科学技術の接木を通じ
全身がコンピューター-シミュ l レl
ひろうし話題を呼んだ三六O 度全体をカ
際に訪問しているような感じを与える幻
て、未来指向的な環境│造形美術の作品
明するマルチ・メディア劇場を造りあげ
バーする﹁サクロラマ﹂を通じて、魅惑的
想旅行を楽しませている。
を一 く観覧用移動歩道(玄25向者間口内垣間可) 00メートルの大きさで設置する。
た 。
な中国の自然景観と由緒深い風俗を見せ
オーストリアは、また、アルプスの最
このように世界各国で出品した先端機
スポのシンボルとしての位置を占めるこ
が、行事期間の問、常設展示され、エキ
空間に投影して、実物と同じ三次元の映
てくれる。観客の前後左右を全部取囲ん
も 難 し い ス キ l ・コースを仮想現実
器は、観客をして、決して 一個所で 一つ
像を実現させる方法である。
でいる﹁サクロラマ ﹂は、見る人をして、 中国の秘境に入っているような幻想に陥
で再現する﹁スキ l ・ シ
の画面だけを楽しむようにほうっておか
害の減少対策を提示し、未来の理想世界
とになる。.
フパキ
いるのに十分である。
255-F佐々
ない。これまで文化芸術の鑑賞が単線的
フランスは、地球資源の保護と都市公
ミュレーション﹂を持ち込んでくる。最近、
V
で作って見せることになっている。
を一目で見渡せる﹃フィ lチャ 1 ・スコー プ(匂Z EE-忠告巾)﹄をマルチ・スクリーン
世界的に熱い関心を集めている﹁仮想現
スイスは、五つのスクリーンで、アル
41
キスポ行事はそれぞれ印象的
い一七七・六メートルを誇る﹁主題館﹂も、
一つの建物としては韓国でもっとも長
と優雅な姿で目を引いている。
ピッ塔﹂(大きい光の塔)はとがった塔の形
さに建造されたシンボル・タワ i﹁ハン
九九 三年を記念 して、九一 一一メートルの高
が登場している。エキスポが開かれる 一
回大田エキスポでも多くの特異な建物
所として愛されている。
て、またフランス文化を象徴する観光名
量で最大限の強度を保つ﹂鉄鋼構造物とし
が過ぎた今日にいたるまで、﹁最小限の重
けた。このエッフエル塔は建造一OO年
芸術的な香りを演出したとして好評を受
産業革命をリードする鉄鋼とフランスの
ルが建造したエッフエル塔を披露して、
博覧会では、建築家グスタフ・エッフエ
それから三八年後の一八八九年のパリ
観覧客の関心を引いた。
と卓越した建築技術を象徴するもので、
ヨーロ ッパ最強であったイギリスの地位
た。ロンドン博覧会では、水晶宮自体が
のガラスを使用した﹁水晶宮 Lで展示され
かれた世界最初の博覧会は、約三O 万枚
一八 五一年にイギリス・ロンドンで聞
精神、そして芸術性が要求される。
のである。ここには高度の技術力と時代
相を含蓄させてこれを造形物で表現する
代の最高の建築技術を動員、当時の時代
ある。エキスポが聞かれる時
な造形物を残すことで有名で
エ
どのエキスポ行事も、 開催現場に印象的な造形物 を残すことで有名である。 エキスポが関かれる時 代の最高の建築技術を動員、 その時代相を含蓄さ
せてこれを造形物で表現するのである 。 ここには
高度の技術と時代精神そして芸術牲が要求される c
① 石 珠 薫朝鮮日報記者
再生造形館( 左) 。資源の致率的利用と再活用という大田エキスポの理念をそのま
1万5千本の空瓶か実井を覆うなど 、言十5万余本に上る世界各国の空瓶が使われた
ま表している。再生造形館の一部をヲロース ・ア ップしたもの( 上)
42
このたびの行事のテ l マである﹁道を求め て﹂のイメージを立派に表現した建築物の 一つである 。光繊維を利用した照明装置 で、五色の 二重虹を描 いている寸エキスポ の橋 L も観覧客の目を引く名物であり、宇 宙の中の 地球の姿を連想させる奇抜なア イデアで表現された﹁エキスポ西門﹂も現 代科学技術を象徴する造形物として高く しかしこれら多くの建物の中で、この
評価されている。 たびの大田エキスポを代表する象徴造形 物としては、廃棄物で建造された﹁再生造 形館﹂が断然トップに挙げられている 。再 生造形館は﹁資源の放率的な利用と再活 いう大田エキスポの理念をもっとも 用と L よく表現しているばかりでなく、一九九 を適切に表わしている象徴的な記念物で
0年代の半ば、人類が直面している状況
と環境汚染という人類最大の問題を﹁資源
あるからだ。再生造形館は、資源の枯渇
ている。
通じて解決できることを示し の再活用 を L
000余本の空瓶が天
常設展示区域の中央部に位置する再生 造形物は一万五、 、 の空瓶が使用された 。直径三0 メート ル
井を覆うなど、合計五万余個の世界各国
の建物は、独特な建築様式のほかにも、
高さ一五 ・四メートルの円錐形模様のニ 代表的な廃資源といえる空瓶を史上初め て建築に利用したと いう点で 、大きな意 これまで廃資源を 利用した芸術作品は
味があるものと評価さ れている。 いくつかあったが、実際の建築物に、廃 資源が主な材料として使用されたのは初 めてのこと。廃資源もアイデア次第で立
43
派な建築資材になりうる ことを簡単に証 再生造形館は廃資源で作られた建物で
町
明したのである 。
-~
井を通じて造形館の内部を照らし幻想的
昼間は日差しが五色の空瓶で覆われた天
美しさを持っている。
あるが、他のどの建築物よりもすぐれた
合わ せる腕前がずばぬけていて、このよ
さらに驚くべきことは、切れ端をつなぎ
伝統的で代表的な廃資源活用の例である 。
のは、祖先の生活の中に染みこんでいた
たらした弊害をじかに見せてくれる﹁がけ の道﹂が展示されている 。原始自然の生態
れている。テーマ館では産業化過程がも
用﹂の考えはほかのところでもよくあらわ
をはっきりと見せている 。 資源の再活 再生造形館で強調される ﹁
的な価値のある産業材料に活用できる点
が開発いかんによって、いくらでも経済
やはり何気なしに捨てられていた廃棄物
生建築材料などが 一緒に展示されている。
たガラス製品、割れた煉瓦を活用した再
このほかにも、煉炭の燃えがらで作っ
顔負けするほどに美しかった点である。
うに作られたふろしきが 一般 の工芸品も
に再生造形館の姿が反射し、まるで宇宙
雰囲気を演出する。夜になると周辺の湖 空間にぽっかり浮かんでいるような感じ を与える。これを知らない人びとは、こ の建物が廃資源でできた建物というより は尖端装飾材を使ったものと誤解するほ どの壮観を呈している。 この再生造形館内部に入る入 口は割れ た瓶で飾られている 。割れた瓶は破壊さ れた自然、見捨てられた資源を象徴して いる。入口を過ぎて展示室に入るあいだ には﹁ウ lン﹂という妙な 音が聞えてくる。 屋根を飾った空瓶と内部に置かれている 空瓶が共鳴現象を起こして音響致果を出 再生造形館を設計した崖在銀さんは﹁こ
の﹁廃資源を活用した芸術作品﹂も多数展
このほか再生造形館では、専門芸術家
科学化を目指して突っ走ってきた現代社
、 ている。打ち捨てられた テレビは産業化
作、資源循環のイメージをよくあらわし
枯れてゆく木々が配置されている。﹁地球
﹁ が けの道﹂には各種廃棄物と 工場 の廃水、
成長を表現した﹁近道﹂に次いで現われる
を象徴する ﹁シルク・ロード﹂韓国の経済
を象徴する﹁花の道﹂と東 ・西洋文化交流
の音は破壊された世界、廃資源の世界か
示されている、ヤザ lル(フランス)、ェ ンゾ ・グチ(イタリア)など世界 一四カ国
さんの作品もやはり、今回展示されてい
会が排出する廃棄物を象徴する。白南準
すのである。
ら再び生まれかわる世界、再活用の世界
から廃資源芸術の巨匠三二人が資源再活
ているのである。
をこのまま放 置する場合 、われわれが 直 面する状況﹂を現実感のあるタ yチで見せ
に入りつつあることを知らせる聴覚効果 を出すために設計したものだ﹂と説明して
る他の廃資源利用芸術家の作品と同様、
大田エキスポは各種造形物や展示物の
﹁文明の利器﹂が持っている﹁反文明性﹂を、 再び芸術作品に昇華させたというのが一
用のイメ ージを芸術的、象徴的 に表現し
展示室には各種の廃資源と関連した作 品が展示され、資源再活用の重要性をあ
作った芸術作品を募集、資源再活用に対
世界各国の小学生が廃資源を利用して
て、アジア、アフリカ、ヨーロ ッパ など
品展示によって、圏内芸術界にも廃資源
きな評価を受けている。これら巨匠の作
じて新しい世界を創造するという点で大
のから一歩進んで、捨てられた資源を通
後に隠されていた自然破壊を告発するも
物を徹底的に活用した伝統をもっていた。
るか豚の飼料に利用していたように廃棄
床下にうずくまっている小犬に投げ与え
その昔われわれの祖先は、食べ残りを
してきた廃資源の活用事例が注目きれる。
にわれわれの祖先が日常生活の中で実践
廃資源の活用例が展示されている 。とく
このほかにも、再生造形館では多様な
道路鋪装や建築資材に立派に再利用でき
道路を鋪装しておいて、これら廃棄物が
煉炭の燃えがら、産業廃棄物を利用して
いる。 、 行事場内の 一、000余坪は廃 タイ ヤ
して建設され、廃資源として運営されて
が効果的に実現できるよう作られ 再活用 L ている 。 いくつかの施設は廃資源を利用
ほかにも、施設、運営面でも﹁資源節約と
する未来世代の考、えを表現する﹁子供心が
を利用した多彩な芸術世界が繰りひろげ
衣服を作って残った切れ端をすべて集め
般的な評価である。
見た再活用﹂は、当初、大田エキスポ組織
られるものと期待されている。 韓国出身のビデオ・ア lトの巨匠白南
芸術家の作品は、これまで産業社会の背
委員会が大きな意義を与え心血を注いで
準さんは古物テレビ一五O台を材料に﹃亀
ることを観覧客に見せている。
コプ
る子どもたちの目を通じて見た多彩な再
推進 した事業である。未来の主人公であ
これをつなぎ合わせてふろしきを作った
行事場で発生する食物の食べ残りは残
甲船 ﹄を形象化したビデオ・アートを製
2 仏げられている。 7
活用の世界が繰
とくにアジア文化研究所が主体とな っ
らわしている。
再生造形館に展示されるこれら廃資源
ている。
「リサイクリング特別美術! K J 展示から。
いる。
廃 品再活用の重要性と意味を芸術的に再現した
44
f エキ
行事場の食べものの浮で作られた肥料は、
スポ肥料」の名で、展示場内に捨てられた廃資源
を集めて来る子供たちに記念品として分けてやる 。
リサイヲリング特別美術展に出品した米国の作家口パート・ラウセンパーグの作品
にして再活用される。肥料は 一五 O坪規
らず発酵乾燥機で処理され、 肥料と飼料
チャ、 ト ウモロコシなどの農作物はもち
模の﹁再活用温室﹂で栽培されているカボ
ろん、各種草花に施されている。飼料は
温室内水族館の淡水魚飼料に使用される 。
水族館の水さえセリの栽培地で自然浄化
して噴水台に送られるといったふうに、
いうことに焦点を合わせている。
すべての資源を徹底的に再活用できると
行事場の食べものの浮で作った肥料は ﹃エキスポ肥料﹄というレ ッテルを付けて、
る子どもたちに記念品と して分けてやる
展示場内で捨てられた廃資源を集めてく
事業も進めている 。この事業は﹁資源再活
観覧客がじかに資源再活用に参加する
再活用教育﹂という 二重の効果を収 用﹂と ﹁ めるものと期待されている 。
全国各地からエキスポ行事場に向かう
機会もたくさん準備してある 。
けられていて、エキスポを見にくる第 一
高速道路の休憩所には、空缶圧搾機が設
歩から 、資源再活用を実践するよう誘導 している 。行事場内の飲食庖や記念品販
売庖などでは、箸、食べ物の容器、包装
限されている。インスタント・ラーメン
紙など使い捨て用品の使用が最大限に 制
のような欠かせない使い捨て用品を販売
する場合には、販売庖の近くに空缶圧搾
同時に、これら各種の生活廃棄物が再
機ポリ ・スチロ ール 処理機、空瓶処理機 など再活用機器が設けられている。
活用される過程をじかに見せてくれる再
る展示空間である。
活用センタ ーも、 やはり関心を集めてい
エキスポ組織委員会は、再生造形館が
象徴的にあらわしている資源再活用につ いて、 韓国人の考え方が行事期間中に、
48
のと期待している。大 田 エキスポ組織委 するのは意味のあることだと思いました。
る代表的な廃資源ですので、これを活用
﹁空瓶はわれわれの周囲で、さらに見掛け
形館に注いだのであった。
ら、自分が bっている﹁勘﹂をこの再生造
本の空瓶を綴密に積み重ねながら、点、線、
造物のように見えるが一万五 、000余
崖さんは﹁全体的には円錐型の単純な構
ているのも再生造形館の特徴の 一つであ る。
用性を追 求 した建物として分離して建て
いるという日本ですら処理しにくいいろ
に感謝しています。建築技術が発達して
設計者の意図に忠実に従ってくれたこと
合建設会社も金銭的な利益にこだわらず、
心がどれほど高いのかを実感したと述べ
スポと資源再活用運動に対する国民の関
多彩な再活用プログラムを通じて実践に
員会の 申聖激資源活 用部長は ﹁ 大田 エキス は、ガラス瓶が光を通す特徴を利用、芸
とくにこれを素材に建物を建てる場合に
面、円を含めた流動的な字宙の意味を盛
活用の新たな転機を与える行事になるも
つながるとすれば 、今回の大会が資源再
ポが先端科学の祝祭であるばかりでなく、
り込んだと説明した。とくに握さんは一
生活化する機会になり得るだろう﹂と述 べ 、 ﹁ 再生造形館はこういう考え方をよく
た実務陣の お陰で立派な造形物が誕生で
いろな注文を不平なしに受け入れてくれ
館のイメージを実際の建物で表現する過
列し、結びつける作業がもっともむずか
﹁実際に建築作業を担当したイルシン総
ている 。
観覧客が廃資源再活用の重要性を実感し、 側面も考、えました﹂
術的な放果を最大限に生かせるといった
万五、 000余本の空瓶を幾何学的に配
崖さんは ﹁一万五、 000余本の空瓶が
んは新羅ホテルなどソウル市内の一一の
程で 、多くの新しい経験を積んだことが
差し込まれている屋根を通して再生造形 館内部に降り注ぐ幻想的な光線と、地下
ホテルを巡りながら、再生造形館に使わ
これから屋さんは産業化社会の裏の姿
語ってい 個人的には大きな収穫でした と L る。
表現している象徴物といえる﹂と強調し ている。 の両側の壁に積まれている空瓶が美しく
れる空瓶を自ら選びだしたのだった 。お
と、機械文明の後ろに押しやられている
崖さんは﹁想像力から出発した再生造形
再生造形館を設計した崖在銀さん(囚O
間が廃資源を媒介にして出合う空間が作
反響する人間の声と調和して、自然と人
ら、青色、黄色、空色、褐色、無色の五
もに洋酒瓶が多い八万余個の空瓶の中か
疎外された人間の存在を表現することに
きたと思います﹂
歳)は二三歳の時に日本に渡って、当地で
られたもの ﹂ だと語った。
崖さんは空瓶を集める過程で、大田エキ
色の空瓶を選りすぐって建築に使った。
専念する計画であるという。なによりも
再生造形館が建てられるあいだ、崖さ
自立した現代美術家である。おもに大型
側面が強調されている造形物で、各種再
しく、心血を注いだと語った。
設置美術﹂が 造形物と装飾物を取り扱う 寸 崖さんの専門領域である。一般の人々に
活用芸術品が展示される 地下空間は、実
として創作する芸術家として名が売れて いる 。
汚染と資源の浪費を減らす予﹂とのできる
地上にあらわれている建物は、芸術的
んは国際舞台で廃資源活用を主なテ l マ
は﹁廃資源を活用した設置美術﹂ という用 語そのものがなじみの薄い方だが 、獲さ
廃タイヤ、がらくたの 自動車、壊れた
にな って ほしい﹂と援さんは再生造形館の
資源再活用の重要性を認識させる記念物
館が長いこと国民の胸の中に残っていて、
る。エキスポが終わってからも再生造形
大きな反響を巻き起していると聞いてい
が活発に繰り広げられており、韓国 でも
防ぎ、公害を減らそうとする﹁縁の運動﹂
待している。 屋さんは ﹁ 最近、全世界的に環境汚染を
生活で廃資源活 用を生活化することを期
ちが資源再活用の重要性を実感して、実
出生さんは、再生造形館を観覧した人た
このたびの大田エキスポを契機に環境の
建物の一部など、ありとあらゆる ﹁ 廃棄物﹂
﹁廃資源の活用﹂ を自分の作品の主なテー マにする考えだという。
が崖さんの手に渡れば 、強いメ l ッセ l ジを持つ芸術作品になり変わるのである。 崖さんはすでに国際的に有名な設置美術 家なので、一年の約半分は日本であとの がら展示会を開くなど、仕事に追われ通
半分はアメリカとヨ ー ロッパを巡廻しな しである 。 しか し、峯さんは 、再生造形館を建築 していた 期間中には 、 一月に一週間以上 を韓国で過ごさねばならなかった 。外国 のどこにいようと、工事に問題が生じた となればすべてを投げすてたまま 一足と びにかけつけた 。再生造形館のもっとも
役割に期待を寄せている。.
47
重要な素材である空瓶の収集から建設図 面作成にいたるまで漏れなく点検しなが
再生造形館のリサイヲリング特別展を観覧する観客
-h' 日に開幕した四五回ペニス・
三 国出身のビデオ・ア lト創始 一 UKH 当 者の白南準氏はさる六月十三
授賞式と同時に公式閉幕したペニス・
ビエンナーレ国際美術展には、韓国を含
む五O余カ国二OO余人の作家が出品、
世界現代美術の現在の位置を、﹁方位﹂の
E E F一
概念で解釈している。
目前に控えているペニス・ビエンナーレ
OO周年を 一八九五年に創設され、 一
ビエンナーレ国際美術展で、ドイツの彫 問え
。 ・ 0525
ンナーレの主な行事場のジャルディニ公
か 、 二 二日午前 一 一 時(現地時間)、ビエ
が国際美術展で、ローマ大学の美術史教
れる世界最高の芸術祭。そのハイライト
建築の五カ芸術部門の行事が同時に催さ
は、美術だけでなく音楽、演劇、映画、
園で聞かれた閉幕式で、白南準氏はハッ
ガルト美術を創始した評論家アキレ・ボ
授であり、イタリア・トランス・アパン
が最高展示館賞に決まったものと聞いて いる﹂とし﹁賞を受けるということは結構 なことだが、オリンピックのように必ず
ボク
ミ
公園の森のあちこちに建っている国家別
模の広いジャルティニ・ディ・カステロ
大軸を成す両展示会行事は、
ペニス・ビエンナ ーレ国際美術展の両 一 O万坪規
人が訪れるものと見込んでいる。
エンナーレは、来る 一 O 月一O 日まで続 くが、主催側は、この期間中に総二五万
経費が一、五OO万ドルにのぼる今度のビ
イタリア政府とペニス市共同主催で総
予約済みの状態。
て、ホテルと航空便が数カ月前から完全
各国から来た観光客、美術関係者によっ
を楽しもうとするヨ ー ロッパ人と、世界
するペニスは、文化行事と重なって休暇
にヨーロッパ最高の﹁文化避暑地﹂に浮上
スに移ったという感じだった。 とくに、ビエンナーレが聞かれるたび
家でにぎわい、世界美術の中心地がペニ
余人の取材陣と画商、美術関係者、評論
事では、世界各固から集まった二五OO
ペニスのいたるところで聞かれた閉幕行
公式閉幕に先立って、九日から三日間、
なった。
年初めて展示会の総責任者(のロ﹁国ぢ﹁)と
ニト・オリパ(﹀円E Ego--︿白)が、今 m∞
ファロ・イタリア大統領からペニス・ビ
) 場一致でドイツ館(pmCREEFS-oロ
をあぴた白南準氏は、﹁審査委員たちの満
百人の写真記者からカメラのフラッシュ
この目、世界各国から集まって来た数
る 。
レで受賞したのは白南準氏が初めてであ
韓国出身の作家がペニス・ビエンナー
Tた。
エンナーレの象徴である黄金獅子賞を受
ケlと 共 に オ ス カ ル ・ ル イ ジ ・ ス カ ル
一、 000余名の参加者が出席したな
のcEEoロ)を受賞した。
鐘 貰( E N 2ごZFE号5
刻家ハンス・ハッケ!と共に、最高展示
ヒ 〆 プ 晶、
•
四五回ベニス・ビエンナーレ ノ
①魯福美聯含坦宣義車業待遇
最高展示館賞受賞
担 割E 回直垂; ヨ
ア!?スト
、 賞を受けるべきだとは思っていない と L
堂堂とした態度で受賞の感想を披涯した。 白南準氏は、自分がドイツ館の共同代 表に選ばれたことについて﹁もちろん名誉 あることだ﹂と述べたが、﹁ドイツにとっ てもそうした外交的ゼスチュアが必要 としながら、﹁ドイツ国 だったのだろう L 籍がない私と、ドイツに批判的な作業を 多くしてきたハッケ lを共同代表に選ん にかかわらず、ドイツのイメ ージ改善に
だのは、ドイツ館が賞を受けるかどうか 大きなプラスになる極めて賢明な選択 だったとみる L と述べた。
Pai k ・- m
48
の独立館展示と、若い作家たちの実験的 オープン幻﹄ で前衛的な作品を展示する ﹃ ジャルティニ公園の場合、約三0 カ国
(胃 O ロ包)展である。
が、自国の国号を大きく掲げた展示館で 展示をして国力を誇示する反面、韓国を 含む二O 余カ国は、別の展示館を設置で
きずにイタリア館に付いている附属建物 で﹁居候﹂展示をしている。 今度のビエンナーレに韓国は、西洋画 家河鍾賢氏が代表作家として出品、﹁禅﹂ を主題とした絵画七点を披露している。
ハンス・ハ ッケーの設置作業( 上) 自衛準作 r スキヲイ王、僅君J ( 左)
22
一 口 丹 市 ﹁ 口 白 20 同 己 ︼巾 品 ∞ 門町 ロ白一 O
今年のペニス・ビエンナーレの主題は ﹁ 芸術の方位﹂( PE E一2530﹃﹀﹁?円Z
己巾 E 白ロ仏門町市呂巾
で、芸術の国際性と相互交流に焦点を合
回 EE-巾)。文 ご宮︿ ﹀ユ何 HUE-220 F 化の多元主義化という世界的すう勢の中
わせて、異なる文化と言語がいかに相互 ﹁流浪 L口同 し﹁ 共存﹂するのかを、 ( ヨ 注目的自 ) 東西南北という方位概念で考察してみる
こ シ ﹂ 。 ﹁ 内白﹃巴∞;∞ 美術家﹂を文化の﹁流浪者﹂(門町
一 E-SB包吉岡)とみ コロ。ョ邑 O2 Eoaq ﹃ 円 るこうした観点で、韓国出身のビデオ・
アーチスト白南準氏が、ドイツ作家ハン ス・ハ yケ!と共にドイツ館の共同代表
として参加しており、フランス生れの女
とくにドイツ統一後、初めてのビエン
流彫刻家 EEお∞OR岡市巴 ωがアメリカ館の 代表として出品している 。
アメリカ在住のドイツ彫刻家ハンス・
ナーレで、ドイツ国籍のない白南準氏が、
ハッケ!と共にドイツ館の共同代表作家
として参加、大賞の中の 一つである﹁最高
めて意味深い事件として受けとめられて
を受賞したことは、現地でも極 展示館賞﹂
﹃ パ lラマ﹄誌をはじめとしたイタリア
いる 。
雑誌、新聞と、ドイツの﹃シュピ lゲル ﹄ 誌などが、白南準に関する企画記事を載
せて、彼のドイツ代表参加に大きな意味
を与えており、開幕行事期間中にドイツ
とする各国の新聞、雑誌、放送記者たち
館の前では、彼とインタービュ lしよう
白南準氏を選抜したドイツ・コミッ
が列をなした 。
)氏は、﹁白南準は韓国 呂田5EZEE
ショナーのクラウス ・ブッスマン(刀﹁え-
人であり、世界的作家﹂だと強調し、﹁美
P
50
ドイツ代表作家に選抜したのは当然なこ
パー -ハイウエーーペニスから、ウラン ・
白南準氏は、 ﹁エレクトロニクス・スー
一切の作品がな
ドイツ館の裏を囲んでいる庭園(門﹃足
バlトルまで ﹂(明z agE円ω石 市﹁ dミ 一 } 己 問 F︿ 司ヨヨ︿巾EBSC一 )という主題で、 白 ロ ∞ 白 けO ﹁ 大小四つの部屋と庭園に作品を設置した。
術史上極めて重要な作家である白南準を とであり、彼はすでに 二 O 年前にドイツ 館を乗っ取るべきだった﹂と語った 。 ドイツ館の中で最も関心を 引いたもの
、 ハンス ・ハッケ lは
は、断然、一マルクの大型コインとヒト 具を入口に掛けたドイツ館。 ラーの24
ロ ) を 国 ZEES 巾官三 20 並ESROE 仏E 東西を連結するスキタイ ・ ロ lドに 設定、 ・ o s -の巾口問EE穴}話口司氏。﹁巾 mwD穴5 同 ﹁円 ℃ E e (檀君)アレキサンダ!大王-﹀EE 吋吉岡
7Amw O
ニア﹂という文字と、展示場のコンクリー
ゲルマ く、展示場の正面に大きく書 いた ﹁
P 同町内コロ巾吾巾のZR喝など、馬や自転車、
.,nユヨ巾印ロ門担円曲﹃一 己 戸内穴百問。﹃円﹃巾国ロロ∞
最近ドイツで起きているネオ ・ナ チ症に
象に乗った七台の T Vロボット彫刻と T
ト床を砕いて覆うた﹁虚﹂ を 衝く作業で、 対する痛烈な警告のメッセージを送った 。
代以 後主 にヨーロ ッパとア メリカを 舞台
に し て 活 動 し て き た 白 南準 氏 は 、 現 代 文
化の支配的コミュニケーションであり、
最も大衆的媒体である T Vを利用、ピデ
オ・ア lトという新しい芸術ジャンルを
白 南準 氏は、世界現代美 術に大きな影
開拓した 。
響を及ぼしたEZ﹃ EEos- 宣言5 ョ。︿巾
音楽の父﹄ ジ ョ1 ン・ケlジと、ドイツの
Bg円の創立メンバーで、アメリカの ﹃前衛
をしながら、従来の芸術の概念を打ちこ
前衛芸術{丞。印巾℃﹃∞23と歴史的な交わり
﹁{主由的な芸術家﹂コ一O 世紀ルネサンス
わす革新的な作業を発表してきた 。
ミケランジェロ﹂などと多くの別名をもっ
芸術家﹂﹁文化的テロリスト﹂﹁電子芸術の
いたるところで﹁マエス卜ロ﹂と呼ばれ、
ている彼は、今度のビエンナーレでも、
めて確認させた。
世界現代美術界の﹁大物﹂であることを改
閉幕一カ月前から韓国、アメリカ、日
本の技術陣八人と一緒に作品の展示作業
をした白氏は、行事の全期間をとおして
黒いズボン吊りで吊るした例のだぶだぶ
のスボンと、ポケットの付いたしわくちゃ
な白色のシャツ姿で、世界各国の画商、
に掲げた参茄国の国旗の中で、﹁太極旗(韓
V仏陀、モンゴリアン・テント(玄 g問。-5ロ 広三)などの作品で、観光客を魅了させた。
国の国旗)が漏れていないか確めよ﹂と注
業をみながら、芸術において、最も韓国
東西洋の歴史と情緒を往来する彼の作
とに熱心だった。
意を与えるなど、韓国をチェックするこ
忙がしい中でも﹁ジャルティニ公園の入口
とくに、槍を手にしてペニス運河を見 下ろしているロボ ット彫刻﹃スキタイ王﹄
評論家、記者に会った 。 そしてそれほど
可橿君﹄は断然、圧巻だった。 このほか、 T V五OO余台を利用した マルチ・ビジョン・ル lムと プロジェク
的でありながらも国際的なものが何かと
タl四八台を、部屋の四面はもとより、 三 O 秒おきに切れたりつながったりする
天井にまで発射して、各種のイメージが
うだつた 。.
いう疑問に対する解答が、自ずと出るよ
音とともに、部屋全体が揺れるプロジェ クト作業などを披露 した。 一九三二年にソウルで生まれ、五O 年
51
白雨準と韓国の美
'aE'南準の芸術には、われわれが F一一一 観念的に一言、っところの﹁韓国の
EEE, 美﹂は、これと言って存在しな
い。彼は国粋主義者でもなく、芸術のジャ ンルの区分も徹底して拒み続けて来た作
いあ拘抄い合う情報伝達、意志伝達の構
V﹂(冨﹁庄司岳 O ロ寸︿)を開発し、閉鎖国路 を通じてテレピカメラとオブジェが正面
参加 T でも疎通の領域をより拡大させ ﹁
もためらわなかった。彼はビデオアlト
ルであるピアノとバイオリンを壊すこと
﹁疎通﹂(の O回目 E F n阻まロ)のメッセージを強 調し、そのためには、伝統音楽のシンボ
で行為者と観客との距離を狭めるために
理性を絶妙に表出してきた。彼は、芸術
覚を混ぜ合わせ、科学者としての知識と
ず彼は音楽家、美術家としての総体的感
与した作家でもない。それにもかかわら
ことなく、論理的にも形式的発展にも寄
彼の理論は、特定のジャンルに属する
家だ。
向花 デ
ビ 者 1者
1雪
々元 ! デ
/
グ
zi
宅 三
i
問 l 二視
fq
涜 乏
せ た
と
は、形式よりは本質に、特殊性よりは一
般性に発見される。そのような例は、白
南準芸術に表われる独特な素材選択や、
素材と観客との聞に起こる微妙な酒落、
あるいは彼の芸術的ダイア ローグに登場 する反語法、表現の持つアレゴリーなど
白南準の東洋人としての本質的自覚は
に目立って登場している。
一九五八年、ダ lムスタット (ORg己邑門)
サマ l音楽講習会で、ジョ lン・ケ lジ
まった。白南準は東京大学在学中に当時
( ] O E のお巾)との運命的な出合いから始
音楽批評家であった秋山邦晴と、恩師野
ていた。しかし、ケージに対する当時の
村良雄を通じて、ケージについで耳にし
理由は、ヶ lジが東洋の禅宗思想に心酔
彼の見方は、多少懐疑的であった。その
しており、その禅宗思想の偉大な﹁無﹂の 概念や、 ﹁ 沈歎の言葉﹂などに作業のテー
置き換えた点や、テクノロジーのあらゆ
九五九年から 一九六0年代初・中盤プラ
白南準がケ lジから受けた影響は、 一
パ指向の韓国人に東洋文化のル lツを分 かり易く説明してくれたのである。
マを求めていたからであった。東洋的思 惟を持つアメリカ人作曲家が、西ヨーロ ッ
るテクニックを芸術に盛り込み視覚化さ
は、音楽を﹁聞く﹂概念から﹁見る﹂概念に
せた点、更に科学的ビデオテクノロジー
クサス ・ コ ンサート、アメリカでの初期
逸脱して新しい世界を開拓して行く精神
ピデオ作業に目立って表われ、伝統から
的支柱の役割を果たした 。特に騒音を言
の空間に引き入れた点などである。ピデ の開発品に違いないが、それを芸術とし
葉の概念に適用させた驚くべき発見と、
オテクノロジーは、明らかにヨ ーロ ッパ て位置付けたのは白南準であるというこ
一九六三年﹁音楽の展示 1電子テレビ
ソフトウェア白南準の情緒的結合こそ、 ビデオア lト 一 一 一O年の結晶を成功したも
ドウェアであるテクノロジーと、東洋の
のテーマ、即ち、変化(円冨口問巾)と不確定
(早巾宮﹃包 ESO)などが、その具体的な例 だ。またダlムスタットで講義した三つ
巴 (伊吉住吉 色沼EWー 口 広 ↓︿)展示会 の基本構成、﹁調整されたピアノ﹂
Rg された構造と形成に絶妙なダイア ロー グ
のとして規定づけるうえで極めて重要な
とに、ビデオア lトの質的成功の動機を 見出すことができる。西ヨーロッパのハー
を贈ったこの﹁疎通﹂の意味の中に見いだ
) E2qEEQ)、疎通ROBES-sEロ 性( はプラクサス哲学の主な関心事になり、 の本質は、沈歎の中に存在する目に見え
をポスト・モダンの先駆的作家として呼 ぶことができるなら、モダニズムの閉ざ
すべきであろう。このような総体的視覚
L
荏に整え、東洋的思惟 を自然主義的感 A
ビデオ芸術の創始者、白南準への賞賛
事を究だ。
る東洋的思惟の空間から由来するという
ない 一 言葉、固定された形式の枠を改造す
① 李竜雨美街宣要
す
要素となる。 r 7 1a 白南準芸術での韓国の美に対する研究
造を開発した。今日、われわれが白南準
努 殆 主
三
S
弓P
ピデオ芸術の.創始者自商準八の賞賛一以、音楽を﹁闘一くレ概念から
想 襲
引き入れた乙となどのためである。
;t
52
疎通の問題は、白南準によって一層積極 アート
的に拡大された領域に発展した。 白南準芸術は、非常に複合的である。 音楽家としての白南準と、ピデオアーチ ストの臼南準が別々に存在することは、 事実上不可能である。白南準の作業にお ける韓国性の問題も、特定の形式で現わ れず総体的雰囲気で伝達されるのは、ま
一つの感じと
ている。従って韓国人が彼の作業から感
さに彼の統合された芸術形式から始まっ じる韓国の美や韓国性は、 して伝達され、具体的に現われる韓国の 習俗を知らない西ヨーロッパ人には、異
素材ではない。この点は、東洋と韓国の 質的な素材として映ったり、そのまま見 過ごしたりしでしまう一つの場面に過ぎ 白南準の東洋的思考が作業に反映され
なし たのは、二つに分けられる。第一は総体 的作業形式の中に匿名的に表現される素 材であり、第二は意図的選択によって探 し出された伝統様式が極めて強い韓国的 素材であることである。第一のケl スは、 オプ ・アートに見られるような広がりの あるイメ ージでの選択ゃ、ダダイズムの 伏在したオブジェの機能のような明確な 区別は難 しい 。たとえば彼の一九六0 年
-
﹃月は 一番古い T V﹄は、彼がニューヨー
る 。
、叶︿)等一九六五年以前の作品がそれであ
T V﹄(冨 ﹃)や﹁TV時計 L E 巾 え づ 0 0 ロ 5 0 ( )、﹁T Vのための禅﹂( 寸︿円N g 司旬 2 w
器が闇夜から満月の姿を順を追って見せ
見せた月の姿から発展して、十二台の機
ボニノ展示会の時にたった一台の機器で
に発表されたこの作品は、一九六五年の
多様性の欠けた作品である。一九七六年
像は、臨ろげな月のように静的で視覚的
覚化している。
れる二四時間循環の時間観を、静的に視
で構成されており、自転の頻度から表わ
は、夜と畳を表わす十二台の白黒テレビ
るアレゴリーが含まれている。﹃T V時 百
いは韓国の伝統の中に表われた月に関す
ニターと対座しており、モニターの後ろ
である。この作品は仏像が自身を映すモ
路を利用した作業の中で最も有名なもの
V仏陀﹄(吋︿∞邑昏回)は、自南準の閉鎖国
典型的なミニマル構造を見せている。﹃T
と星に対する暗示など自然を素材にした
ている。ここでの十二台の機器と月の姿
TV ビデオ透写の原理が適用された ﹃
V仏陀﹄の一番絶妙な姿は、参禅と映像を は、一年十二カ月の姿を暗示するもので
ではカメラが仏陀を映し出している。﹃T
は、カメラやビデオテープなしに成され
単な作品を変形させたものだ。この作業
卵を垂直に立てておくことで、やはり月
象徴する仏陀が、自身が表われたモニタ ー あり、月の姿は、太初の静的な姿、ある
卵 ﹄ ( 、 ﹃ ︿E 同)は、極く日常的素材である
モノクロ
( S50 の 白zミ)の 展示会に出品された簡 ∞
住梓
クで初めて個人展を開いたボニノ画廊
代のミニマル構造を見せる﹃月は 一番古い
l' IE I( 1;
;~
.; 11;
テ ー-: -:1 1:
た非常に簡単な構造のテレビ作業だ。映
53
" 1 ; ;1
t . ド
ーー
li I[ 1 ; 1 ; illi 1打: ι I, t_" " .!j
ロ ) HNoe
ズから得た霊感は、彼をして﹃石の仏陀﹄
四年に製作され、これは﹃TV仏陀﹄から 発展させていったものだ。この仏陀シリー
土が、金、木、火、土と自然に出合う。
説とも理論的につながり、水、火、木、鉄、
を利用しているが、非技術的な表現とし
この作業の特徴は、すべてテクノロジー
旗想のシンボルとして一般的オブジェに
( ω g R∞邑岳由)、﹃TVロダン﹄(寸︿
の生成方式を、自然主義的発展のパラダ
生まれてから死に至るまでの一切の存在
切戸込書白)は白南準の自画像として一九八
は相違ないが 、これが白南準によって選
へと変遷させ、東洋的思惟の空間にピデ
の前で、再ぴ眠ム想に耽けるということで
択され 、 TV作業に表われるということ
オ ・テクノロジーを置き換えた代表的な
いる。しかしテクノロジ ーのシンボルで
草花、石などをあげるこセができる。彼
る自然物など、即ち水、火、空気、土、魚、
業は、この外にも自然主義的媒介体であ
韓国的感受性を直接反映させたピデオ作
事実上無関係ではない。騒音の音楽化過
と伝統的観念への挑戦は、東洋的思考と
れるプラクサス的要素、即ち既存の秩序
トの最も重点的背景をなしているもので
イムとみた東洋観は、白南準ビデオアー
て表われている。これは東洋の陰陽五行
が、ひときわ異彩を放っている。白南準
ある。仏陀は東洋宗教、あるいは東洋的
と仏陀は極めて親しい関係である。彼自 例である。
あるTV媒体と最も静的でありながらも
のピデオ作業の中に一目瞭然として登場
の衆生は不滅であるという仏教的解釈方
程も﹁挨ひとつとて捨てるものなく一切
白南準の東洋的思惟の空間、あるいは
身仏教が最大の宗教である韓国で生まれ、
東洋宗教のシンボルである仏陀が出合う
するこのような要素は、東洋の生命思想
極く自然に身近な尊厳の対象にもなって
という事実は西ヨーロッパのテクノロ ジーと東洋人 ・白南準の精神が出合う一
と深くつながっており、﹁土から生まれ土
(巴主﹁ OEn寸︿)展で新作を発表するため 偶然に作品にしたものであるが、後に彼
ニノ画廊で催した四回目の﹃電子TV﹄
白南準が﹃TV仏陀﹄を発表したのはボ
的素材に出合うことで、生命力のある再
を一際肥えさせ、テクノロジーすら自然
との驚くべき結合を通じて、白南準芸術
らの素材は、一様に西洋のテクノロジー
に戻る﹂輪廻的な思惟を字んでいる。これ
に観客のネクタイを切るなどの行為音楽
壊し、観客に豆を投げ、何の予告もなし
在の一つである。ピアノとバイオリンを
﹁無﹂の聞の間隙を形成させるあらゆる存
みな同じ俗世の構成要素であり、﹁空﹂と
法に照らし合わせてみると、結局、音は
一方、白南準のパフォーマンスに表わ
ある。
つの完結点だ。
の閉鎖回路作業の中で最も代表的な作品
生を果たしたとい、ユ事実だ。
ヒドラ
に発展し、これはまるで彼の自画像のよ
g )、﹃ピ 作業として﹃TV庭園﹄(斗︿の恒三
のように﹁変化﹂(各自問巾)されるべき観念
彼にとって西ヨーロッパ音楽は、ジョ ン ・ケlジのダ 1ムスタットの講義内容
程としてのみ見ることはできない。
が、単なるマルクスの弁証法的再創造過
うに変化していった。﹃怪蛇仏陀﹄(司王E
デオジャングル﹄(︿58Yロ問ぽ)、﹃空を飛 ぶ魚﹄(ヨ各古田市印認可)、﹃TVの海﹄(↓︿
的伝統であったのであり、この変化は﹁不
自然素材作業は、マルチモニター設置
E各¥河内注目uEロ門)等があり、閉鎖国路作業
ω 2 )、﹃本物の魚/本物の草花﹄( m g -
自己巾)、﹃石の仏 (U
新しい﹁疎通﹂( gggE-EEロ)に至る禅仏
確定性﹂(E2REEミ)過程を経て、結局 ﹃TVキャンドル﹄(吋︿
としては、﹃燃焼したTV﹄(切ロ百件、吋︿)、
以上のような汎素材的表現を通じた東
陀 ﹄( ω g E ∞邑昏即)、﹃どビデオの缶⋮﹄(︿Eg 目的﹃)また光を利用した﹃地球上の中国人
洋意識の表出は、白南準芸術が世界性を
より土俗性が強い。ここで言う土俗性と は、彼が国粋主義的愛国心を発揮するた
韓国の伝統性を直接表出させた素材は、
獲得する過程で、きわめて独特の言語を 維持し得た核心に属する。しかしながら、
アーか
より空の星の方が多いという事実を想起
57向 してみよ﹄(︼E匂号、H453白 。 ﹁ 巾 ωS35 口開白﹃吾)などがあ Z 叶 , P 可号自のEZお O る。これら自然素材のすべてを人間の生 と密接に結びつけているのが特徴である。 環境的でありながらも、自然素材的な
54
白南準作﹃ロボット家族父と母九一九八五年l 八六年
意図的に韓国の素材を避けてきた彼に
してのル lツを直接対話法で伝達した。
うな関連性があるのかに対する芸術家と
のである。これは記念的作品とも関係な
した観念によって、自然に感じる事実な
も見当たらない 。わずかに先験的に体得
制度を表わしているという表明はどこに
ロボ ット・シリーズでこれが韓国の家族
く、前述の通り﹁白南準の作業から韓国の
明らかにビデオタイムが示唆するこだま
美に対する形式的表現は別途に存在しな
とっては、一つの革命であった。これは
(︿E g d自己とはグローバル・グループ
であった。彼にとっては、ビデオタイム
vJ
ヨノンルセ
ボット家族﹂シリーズ以後 ﹃蒋英生F、﹃世
チヤ
あほの温達、﹃多 宗太平亡、﹃一益羅女平t、﹃
い﹂ことと説明を共にするものである。﹁ロ
居可)、﹁ガダルカナル鎮魂曲﹂(の g E -円吉田-
多益善﹄、﹃駕龍に乗ってお嫁入り﹄など T
O 告白
25g)などに表われるのと同様の水平
V彫刻やインスタレ lションなども、韓
( 2 0 σ 乱 。52巾)、﹁クロマキ lL(♀﹁
的な解釈であった。しかし、人間のより
国的素材の作業である。これらの作品は、
525)
00周年当時、パリ市立美術館で聞かれ
ランクリン﹂や一九八九年フランス革ム叩二
ン 一 アiワ ン ソ ノ ト ク ヨ ワ シ オ ノ ダ ル
私的関係に進入していったこのような特
閉山
質的素材は、彼のル 1ツと垂直的関係を
人物の場合アメリカの寸ベンジャミン・フ 一九八五年、シカゴ・ア lト・フェア
成している。 を通じて初めて発表された﹃ロボット家 族三月号σ ♀3 Eq)もこれに類似した意
の中の 一人である。これらは白南準にとっ
ソl﹄などと脈を同じくする社会学的人物
た﹁電子妖精﹂(EZE巾 展に出品 された﹃ディドロ﹄、 ﹃ロベス・ピ エlル ﹄ 、 ﹃オリンプ ・ドゥ グジ﹄、﹃ポルテ lル ル ﹄ 、﹃ ものであった。このロボットは通りに出
不合∞)は、歩き、歌い、そして声を出す
て身近な存在であったり、理想的な対象
円
て、匿名の観客との出合いを通じて、白
として選ばれ彫刻化された。
との合作﹃ロボットKl揃﹄(河oσσ0
味を持っている。一九六四年のω宮古﹀宮
南準の潜在意図を伝達して歩いた。それ
めの韓国人としての使命感ということで は断じてない。むしろ彼は伝統的な韓国
から一二年後白南準の分身であったこの
ツを理解する頃には、ビデオア lトと白
ナイプ
然かつ自然な素材として見過ごしてしま
出合い、そこに登場する伝統的要素は当
テクノロジーによる白南準の展示芸術﹂程 度に理解されている。韓国人は白南準が
韓国ではビデオアlトに関して寸西欧の
の素材を一般化させ、普遍性を獲得させ ようとする意志がうかがえる。これは白
ロボットは社会の中に分化していって﹃ロ
アl ト
南準芸術が持つ主要テ l マである﹁新しい
使用するテクノロジーの外観と視覚的に
シ ョッキングなイメージの話用の 一つの 例である。彼のこのような作業方式は、 記念的展示会で目立って登場している。
おじいさんおばあさん
方法への思考﹂に該当するもので、奇抜で
ボット ・ ハ ラ ボジ・ハルモニ﹄ 父 (のEロ己P52・ の ﹁sagoS巾﹁)、﹃アボジと
う。彼らは白南準のように憂慮もせず、
一九九一年八月、スイス、パゼル・ク
じさん
オモニ﹄(司丘町H s m﹃)、﹁アジョシと 2・ヨo おばさん アジュモ ニ ロ 口 同)、そして﹁ ロボ ッ ﹂ (CR-P﹀ ベピ ト赤ちゃん﹂(回ち 5 ) にその形を変えて生
敏感でもない。彼らが日南準の美学のル ー
母お
まれ代わった。この三代に亘る系図は、
ンストハ lレ ( ∞g m-F5∞笹山口市)で開かれ
南準に対する美術史的評価は終わってい るかも知れない 。それだけ白南準の作業
た﹁ピデオタイム﹂(︿広g 目ヨ巾)展は、白
にアジョシとアジュモニを‘独立した作品
韓国の大家族社会に存在する余りにも堅 固な家族観念を明確に描写している。特
は通時的なものである。 .
おじさんおばさん
南準の私的な追憶の時聞が仰々しい隠聡
る身内としてのアジョシ、アジュモニと
として分離したのは、韓国社会に存在す 匿名的男性、女性の呼称など別の人間関
おじさんおばさん
家族写真を公開し、韓国の古いかんむり
52阻害02)を脱皮し、観客と直接ぶつか り合った。彼はそこで一九三O年後半の
係を表わしているのである。しかしこの
しびんこし
つけて展示し、それらが彼の生とどのよ
とキセル、漫瓶、輿などをピデオと結び
55
池雲英作二八五二年i 一九三五年)。 ﹃ 藍岳(絹布に墨がき)。直径二園、八叩
腐 の
目
もっとも重要なものの
@ケン・ポlス
レクション 個 人
震 と て
し
長 在
含まれているからである。 くとも韓国戦争当時は、駐韓米軍がかな り重要な韓国の古代芸術品をいくらでも 勝手に持ち帰ることができた。 儒教思想に浸った上流層の伝統的な考 え方にも問題があった。当時、立派な芸
動をした。趨博士は、今も、ニューヨーク
で暮しているが、大学で講義をするなど、
母国の文化広報のための活動を続けてい
る。趨博士は陶磁器など、ほかの芸術品な
ども収集するが、韓国にいる知己からのイ
ンフォメーションによる絵画の収集を怠っ
ていない。同時に越博士は、舞踊家として
も旺盛な活動をしており、このため、全世
界を巡廻する機会が少なくない。
舞踊公演の関係でオランダにしばらく滞
在していたときのことである。筆者は超博
士から、彼が所蔵している数百点の風景画
静物画と室量作品などの選別笹雪手伝っ
には、扉風、掛け物、画帖、扇額入りの作
てほしいという依頼を受けた。彼の所蔵品 中人(ヤンパンと平民の中間階級)階級や
一八世紀中期の韓国絵画は、明らかにい
朝鮮後期の韓国絵画
品などがあった。 一八世紀末から
余地が少なかったのである。 しかし、韓国社会は、
くつかの方向に発達した。第一は、風俗画
一九世紀中期までは、かなり繁栄を亨受 したが、そのおかげで、二疋の範囲内で
または民画の発達だった。当時は、まとも
を、積極的に収集し保存することにはあ
はあるが、新しい実験をすることができ
まり関心を寄せなかった。例えば、典型
-1ノ
削 h
は芸術を作り出した一つの文
に教育を受けられなかった画家たちが、装
U7V すかにかかわりなく、私たち
た。韓国のもっとも有名な画家の一人で
飾用や儀礼用に描いた工芸品水準の作品が
的なソンピ(士族)は、いくら優れた絵で
ある金弘道(号 H檀園、一七四五i 一八一
化を認識し、価値を評価するとき、これ
あるにしても、真のソンピの内面を表現
風景画にみられる純粋な幾恒字的主題も含
四?)の風俗画は、この時代を代表するよ
を 一つの尺度として使用する。ある時代
した絵でなければ観賞するに値いしない
大部分であった。ここには神々の肖像董や
と考えたので、画家の芸術性よりは、作
い作品である。
の文化の芸術的表現を理解する、?えに役
た専門的、あるいは因習的な絵である。こ
まれる。第二は、世襲的な宮中画家の描い
れらは、技法の面では優れているが、創意
以後、中国の王室で長い伝統によって因習
的でない場合が多かっ合大多薮の笹在、
立つとか、あるいは芸術に関する定義の
でない単なる一枚の絵としての物質的価
的に描いてきた作品などの影響を努分に受
趨元庚博士の所蔵品は、個人所蔵として
韓国芸術品の収集家であり
値だけがあるものとみなす傾向があった。
後期と二O世紀初めの、美術界で最も広く
しか伝わっていない。これらの作品は、唐
た。このため、一般的に絵を芸術的価値
こうした状況にてらし、一部の家具、陶
知られている画家の作品が多薮含まれてい
は想像上の風景画のような、非現実的主題
けている 。究極的にこれらの絵画は、民間
であることが特徴である。
が従属的な形で表現された理想型、あるい を始めた。彼は定期的に韓国に帰国、高麗
ニューヨークに定着してから芸術品の収集 大学で講義をするなど、母国でも多くの活
るからである。越博士は、五O代の後半、
注文によって描いたもので、作家は匿名で
品の内容的側面だけが重視されがちだっ
が、まだ大衆にとっては余りよく知られ
家の聞では自明のことなのかもしれない
磁器、サランパン(客間)で使われていた
品などは、ヤンパン階級の興味をあまり
は現在、最も重要なものの一つとして評価
たとえ韓国の芸術が、芸術史学者と専門
一つは、蒙古や日本や清などによる侵略
ていない分野である。こうなった原因の
引けなかった。ヤンパン階級の数がどち
必須的な装身具を除いてはいわゆる﹁水準
けでなく、近代における日本帝国による
らかというと割りに多かったというせい
が低い﹂とされているほかの芸術品や工芸
侵略や韓国戦争などにもある程度その原
もあるが階級制度の厳しい儒教 社会では 、
たり焼失したからである。また、それだ
因がある。例えば、韓国戦争である。も
を受けたとき、芸術品の多くが破壊され
ちろん今は法律で禁止されているが、 少
されている。趨博士の所蔵品には朝鮮時代
敷桁に貢献する人は、ごく限られている。
術品としてみなされた絵や書道作品など
平民が、それなりの趣味や趣向を生かす
世紀初めの、美術界でもっとも広く知られている画家の作品が多数
L・以、朝鮮味れほ期とJ /っとして評価されている。・彼の所蔵品J J O
7じ
後援者
Ae たちが、芸術の定義をどう下
、
自 定
58
?醤
1"
豊喜世晃作 (1713年- 91年) 0 r山水面J ( 韓端正に農で )0 26. 8 X16. 8cm
59
コ科書mu
4
超博士の所蔵品の中には、朝鮮時代後期
日
朋党政治が進んでいたとき、一方では﹁純
完走盤調
ぜ 脅A ﹄宇却の1zJV 品・ 哉 霊法すよ叫吋目年王宮小
教 25 ・祁
近感がトあり、人体のサイズどおりに描こう
かわらず駕くほど独創的な絵画もある。作
この北宋画に対する反動で、宋時代 の幾 人かの画家は、美しいとはいえ、これといっ
マチュア画家と、専門画家の聞の葛藤に
者不明作品の多くは静物画である。当時、
のもっとも有名だった画家と書道家の作品 が一部あるが、よく知られていないにもか よって、芸術界が分裂した。事実、このイ
潔さが君子のようだという四君子、つまり、
して、また別の 一方では、ソンピ出身のア
デオロギ ー的葛藤は、技術的な違いによっ て発生したのではなかった。能力が抜きん
ピ出身のアマチュア画家が描いたものであ
梅、菊、蘭、竹の中の一つ)などを、ソン
な絵画、そ 粋な﹂韓国的素材と、﹁因習的﹂
占める ようになった。たとえ儒教思想が、
でていた大多薮の専門画家も、主にソンピ
した風景画では、人物が一層重要な部分を 朝鮮時代の社会的理鞄として{墓石したもの
が関心を傾けた文化に通達していたから
る。そのうち有名なのが、越秀三(雅号 H
とする傾向を示した。そして、徐々にこう
の、朝鮮時代の中期になってからは、ソン
だった。大部分のソンピは、農村に隠居生
芝圏、子翼、一七六二 j 一八四九)の作品
い硬直性から離れようという動きをみせ た。こうして現われたものが南宋画である。
様々の画法を実験したりした。これら南宋
はっきり現われはじめた。彼らは大部分、
ピ(士族)出身の画家の聞に、純粋な韓国的 なものを主題にした絵画に接近する動きが
活(あるいは流配生活)中にはじめて本格的
である。越秀一一一は、漢陽(今のソウル)出身
的対象が、北去幽系列の画家とは非常に異
画家や文人がよく描いた素材である蘭(高
画系列に属する画家の地理的、そして霊感
前述した北宋画の影響が依然として残って いたので、専門画家になることを潔しとせ
な絵画に取り組んだのだった。
産宣秀三作 (1762年 - 1849年) r山水面』 。 八幅罵風の中の一 。
この南宋函は、実際生活の姿に基づいた 即 興的であり、創意的な画風を帯ぴており、
なっていたので、当時、室恩埠作品に次いで
ず蔑んでいた。朝鮮時代後期の官僚による
た意味がなく、人間生活と密接な関係のな
笹寒九作。 18世紀。『山水画J o 1fficmX32. 8cm
最も多かった風景画は 、以前よりも っと親
殺 噌-d円1企庁'
考
80
の風景を描いた扉風ではすっかり姿を隠し
美世晃(光之、 一七 i九二の画帖、李 一 一 一
呼ばれる新しい形の書体を完成している 。
材料と主題をもって絵を描いたこれらの画
叫ザ
てしまって、むしろおだやかな光景をみせ
現在は趨博士の所蔵品を展示していると
のソンピであり詩人で、二幅の掛け軸と八
てくれる。海岸線は一直線になっており、
呈応(興官天院君、 一八二 01九八)の蘭と 張季未(吾園、一八回子九七)の静物画は、
ころがないが、趨博士は類似した絵を選別、
幅の美しい扉風を残した。これらの作品は、 一九九一年、オランダのライテンにある民
厚く短い画法と、多彩ながらもほのかな色
前述の展示会とカタログの一部を装飾する
の他の作品とともに載っている。西洋スモ
て、昨年に発刊されたカタログに、六二点
的・芸術的にきわめて大きな影響力を振
六i 一八五六)のものである。当代のもっ とも有名な書道家としての金正喜は、政治
品は、金正喜(雅号は秋史・玩堂、一七八
趨博士の所蔵品のうち、また際立った作
一八九九i 一九六五、そして主寛植(小亭、
雨(春田、墨鷺、一九O 一了五二)、李象範 ( 青 田 、 一八九七i 一九七 二)、審揚(鼎斎、
高義東(春谷、一八八六i 一九六五)、李用
作品である。 二O世紀初期の作品としては、
示会を開く計画をもっている。
ストックホルムとコペンハ lゲンで作品展
しい画風の導入にも努めた。
族学国立博物舘で、趨博士の所蔵品の中か
彩で強調されている。
家は、民族的な特性を失わずに、西洋の新
ら選んだ七九点とともに展示された。そし
モの木、そして査楽を描いた趨秀三の二点
るった人物である。彼は、構書と、崩して
δ 円 七六 l三O l 三。.
ロンドン、 一 九九二年、 ISBN一l八 七
絵画の中から選んだ作品。ベンプ出版社、
のうち、一八世紀から こO世紀初めまでの
、 ﹃ 韓国の絵一回越元庚の所蔵品 (l) ケン・ポ lス
の作品は北宋画系列で、均衡が取れれ 湯 J 川成 であるので、すさんだ雰囲気がいささか抑
書く書体(行書)の混合体である﹁秋史体﹂と
一八九九i 一九七六)など、有名な芸術家 の作品が、展示会で披露された。伝統的な 八景と呼ばれる関東(江原道の東海岸地方)
制されている。だが、この雰囲気は、関東
81
‘, .
司 -
の数は、六O 人ほどである。
ランスに来ている韓国人画家
-dF 留 学 中 の 美 術 学 徒 も 一 五O 人
p 、 近いだろう。パリで聞かれる大小様々の のは、いまやそれほどまれなことではな
展示会で、韓国人函家の作品を見掛ける い。韓国人画家ほど数が多く、活動の活 発な外国人画家の集団も余りないだろ 韓国で美術大学を終え、既成画家とし
、 つ ノ 。
一種の通過儀式のように、フランス画家
て活動していた人でも、パリに来れば、 志望生の入門の過程である国立美術学校
(Egz=Boz -己 gZ23二三回)か、グラ H H Z ・ン ・ド ・ショミエル(︻-﹀三三2 の﹁ 自 己 巾 ー のUEEq巾)あるいはパリ大学校と かその他の学校に籍を置いて、学生の身 分として、先ずフランス滞留の合法性を 確保しなければならない。そうした後で、 各自孤独な探求の道へと進むのである。 最近、ヨ ー ロッパは大変な不景気で、 美術市場にも寒い風が吹き寄せ、これに
l i a -
伴って画家も暮しにくい時 にでくわしている。固から送ってくる金 で生活しなければならない学生の場合は、 為替レ lトの変動で金づかいを引き締め ている。しかし、それにしても貧しかっ た頃の留学生や画家に比べれば、最近の ひもじいあまり、ひそかに鳩の首をしめ
留学生の暮しは、ずっといい方である。 て炊いて食べたという貧しかった先輩の 話は、近頃の学生には、さして切実に訴 えてくるものがないのである。 外国での生活なるものは、どんな様で あ れ 苦 し いものである。言語の問題と習 慣の違いのため、しばらくの聞は苦痛を なめるようにできているのである。しか し、芸術の世界で、東洋的な情緒は 、西
園
たち
ソウル 新聞社駐仏特種 貝
現在、フランスで活動している韓国人画家以、留 掌生を含めかなりの数によっている。なかに以フ ランス画壇で注目を浴びている者もおり、園内外 で活発戸作品活動をしている者も少なくない。 乙乙戸紹介する三名の作家同、中眠墨画家で、比較 的安定した活動をしているか、最近諸題を呼んで いる画家から選んた人物である。編集者多 @朴 康 文
62
せることのできるすばらしい財産である。
様な在仏画家の姿を、部分的ではあるが
中で選んでみた 。 この三人を通じて、多
近、話題の対象になったことのある人の
較的安定性のある活動をしているか、最
する。ここに紹介する三人の画家は、比
を続けている。このような変化について、
た色彩と、はっきりした線で表わす仕事
二年間、彼は自然の姿を、明るく澄み切っ
捨て去らしめた。パリに到着して以来二
没頭してきたアブストラクトを未練なく
七一年八月に 来た。パリは、彼が七年間
舎の家﹂と言っている家の中で、大部分の
してしまえば、呉さんは、家族のものが﹁田
に勤めている奥さんさえ朝のうちに出勤
学校に通っているので、パ リ市内の銀行
子供たちはパリの市内にあるアパートで
どかかる閑寂とした農村に住んでいる。
洋人の持っていない独特な個性に発展さ 結局、パリに来てからも、成功すること のできる道は 、自分の成長の背景から得 かいま見ることができるであろう。
韓国人画家たちの活動と生活の姿は、 ソウル大学の美術学部を終え、その名も
呉さんは一九四一年に生れ、一九六五年
を体験した例には呉チョン ・ヨンがいる 。
別の世界に出会うとともに、早速変化
多く残っていることを知ってきたからで
ら学ばなければならないことが余りにも
のではないと考えるようになり、自然か
彼は抽象と具象の区分がさほど重要なも
を描いたものである。この家の素朴な内
(ヨggロ号gEE宮市)は、他ならぬこの家
彼の展示カタログに出てくる ﹁田舎の家﹂
時間を一匹の犬と静かに過ごすのである。
ることを、多くの画家が悟るようになる
たものをいかに生かすかということにあ
みなそれぞれ違っている。芸術について
のである。
の考えも一様ではない。芸術家とは、各
部と庭、家族と老いた一匹のイギリス牧
羊犬は、彼の作品にしばしば登場する。
あると語った。 呉さん夫婦は、 パリから車で一時間ほ
ソウルで活躍していたが、パ リには一九
かなり売れたアブストラクト画家として
電
間なく夢見、果ての見えない目標を追求
'
自孤独な城主に他ならない。彼らは絶え
v
:?! . 弓〉
家はひどく古びているが、広い庭には樹
木も多く、小さな川の流れも庭園の一部 として彼の所有に帰している 。自然と親 しもうとする彼には、理想的な野外作業
展示会を見るためにパリに来ることを
場とも宮 一中えるだろう。
除いては、この静かな村の家に閉じこもっ
ので、隣り近所の人々も、一人の東洋人
ている。村の人々とも別に行き来しない
ているだけである。美しさを追求する画
芸術家が隠者の よう に暮していると思っ
いように、呉さんも常に無精者よろしく
家たちが 、 一般に自分の容貌には構わな
なりふり構わないが、年が五O の峠を越
えるや、まばらな彼のひげも白く染まっ
て、隠者のような風貌をより強くにおわ
せるのである。
川に立寄った野生のかもの中の一羽が、 庭の片隅に住んでいるアヒル(家鴨)と恋
仲になって住みついてしまった話を、彼
せてくれたことがあった。このかも同士
特有のゆったりし過ぎる口調で語り聞か
の熱愛により、ひながもまで生れてきた。
しかし、近所のものが川の所有権をはっ
きりさせるために川の中に張った綱に ひっかかって、かも夫婦の中の一羽が死
63
1 l ~o r
料東逸作﹃幼年時代の 回想﹄
なので、死んだ方が野生のかもであった
を迎えたのであった 。大部前に聞いた話
年以後あらわになり始め、いまも続けて この方向に探求を進めている。
を感ぜしめる。このような傾向は、八四
塗ることにより、童話とか遊戯の 雰囲気
き、その内側の白い境界線に沿 って色を
のかあひるであったのかは定かでないが
んでしまい、かもの熱愛は悲劇的な終末
おそらく人聞が作っておいた施設に慣れ
六月の下旬、彼に会った時には、八人
才にな った郷里の母がおいでになったと
てない野生のかもが犠牲になったのでは なかろうかと国十つ。
いうので、鄭明勲が指四 時し、洪恵敬がプ リマ ・ド ンナとして出演する﹁カルメ ン﹂
呉さんは、フランスによそからのかも として飛んで来て、色々な苦しみをなめ
翌日の明け方、ロ ー マの観光にお連れす
をオペラ ・バスチーユでお見せした後、
るため出発しなければならないのだと 言
ただろうが、健康に生き残った。彼は作 ヨークに決め、これらの 三カ所に大体同
品の発表の舞台を、パリ、ソウル、ニュ ー じ比重を置いて、大抵の場合、毎年展示
也市︿
qgE巾に住む朴東逸のア パートに電
パリの循環道路(司主宰 30ロ巾)横のE 三
いながら、少年のように浮き立ってい た。 をしている 。彼はパリの韓国人画家とし ては ﹁ 基礎を固めた ﹂中堅の部類に属して
うさを画幅に生かしているのである 。彼
かし東洋画の持つ余白のゆとりとおうよ
・ ディ 音楽マニアである彼は、 コンパク ト
り者の彼の 伴りょは音楽であるらしい。
除いて常に音楽の中につかっている 。独
て来る 。宿所にいる時には、寝る時間を
彼の絵は、韓国人の目にも、フランス
いる。
の絵画はキャンパスをぎっしり埋め尽し
スクだけでも一千枚近く集めており、日
ブラ iム スの音楽が 電話線を伝 って問え
た西洋画 のように息のつまる思いがしな
もすごく沢山持っている 。数カ月前彼は
話をかけると ﹁ (ハロ l)という彼の 甲 志﹂ 同 高い音担任の返事とともにモー ツ ァルトか
い。見る人を し て緊張させない。生きる
人の目にも独特に見える 。彼の色彩は明
ことは楽しいことであると語っているか
らかに韓国とか東洋 のものではない 。 し
のようである 。ちょっと見ただけでは、
アンプを ﹁ 少し無理をして ﹂アメリカ製の オーディオ・リサーチに替えた 。真空管
一枚の色合いにも、長い間、時差をおいて、
しかし、仔細にのぞいて見れば 。木の葉
を聞く機械を変えることだけには、たま
素で素朴な生活を していながらも、音楽
式のこの機械の暖かい音感と余裕のある パワ 1に彼は満足しきっていた 。大変質
ないかと思われるほどの軽快きである。
絵筆を手に持って鼻歌でも歌っていや し
何度も塗り重ねたきちょうめんさに驚か
はない 。木の葉を、半分は緑色に、半分
イオ リ ンを奏でるとか長鼓(つづみ を大
素である。彼の絵には、笛を吹くとかパ
音楽は、 朴 さんの創作に大変重要な要
に大枚の金を惜しげなく使った。
は白色に す るとか、 川 の流れ とか空を白
きくした形の韓国の打楽器の 一種)を鳴ら
彼の余白は、東洋画の余白そのもので
ざるを得ない 。
く描くといった具合であるー また、彼の
である絵画に非空間的な音楽の感性を導
す人がしばしば登場する 。彼は空間芸術
チ守ンゴ
をする時のように、ものの輪郭の線を画
絵は、あたかも子供たちが色を塗る勉強
84
演奏家のまわりを泳ぎ、人々は空中にふ
入している。花があちらこちらに浮かん でただよい、ある時には魚の群れが音楽 の市(ERZEH宮g巾)に出された古物を
とか食卓など家財道具は、おそらくノミ
をいれて沸かして飲む。アトリエの椅子 ある。パリを始め、ヨーロッパ各都市の
に見回っているのが、彼の勉強の一つで
が勉強﹂だという考えから、展示会を熱心
年前に来た。韓国では、大学卒業後、同 門の展示会以外は展示する機会を持てな
学芸術学部の絵画科を終え、パリには三
一九五四年に生れた高嫡鎮は、中央大
かったが、それは、彼の作品が当時の主
名のある展示会によく招待され、作品を 出品するほどの位置を占めている。しか
な流れと全く関係がなかったからであっ
買い込んだのだろう。こちらの画家のア
し、パリに来ている大抵の画家がそうで
た。﹁今は変ってきたでしょうが、その当
ることもある。
いくのは容易でない。やはり彼も韓国内
あるように、パリで作品を売って暮して
わりと浮かぶ。演奏家は妖精か妖怪であ
国人画家や外国人画家がたまにピンポン を楽しんだりするが、彼もときたま仲間
二年、年老いた学生として弘益大学の美
一九四一年生まれの朴東逸は、一九七
ウル側の景気も、さしてよくないという
ていた個展を、来年の春に延ばした。ソ
彼は、ソウルで今年の秋に開くことにし
ものは評価してくれませんでした﹂
面的なものを吐きだした私の絵のような
のでなければならなかったし、自分の内
一つの絵の中に、この世の中と死後の 術大を卒業した。大学に通いながら﹃ソウ 貢た。
で土製の火鉢のように武骨でもある。絵 の大きさは、 一様に二メートル×三メー
の展示会の収益が収入源の大半である。
あの世が重なり合っている。最近は画面 ル新聞社﹄で三年間勤め、その後、月刊雑
トルの大型である。普通のギャラリーで
入りしたりする。
時は、芸術とは社会の苦痛を代弁するも
トリエは、そのようながらくた CEr)で 間に合っている。アトリエの庭では、韓
現実と夢想がまぜ合わさった彼の絵に は、かめ、鶴、松の木などの十長生もた まに描かれ、民画の中の虎も登場したり
を半分に分け、昼と夜、音楽を演奏する 誌﹃セムト﹄(泉のほとり)の編集長として
いる画家の中から、独創性の優れた画家
する。
人物像を対比させる実験をしている。昼
四人を選んで、その展示会をパリ一一一区
の人生を始めるため、八O年雑誌社を辞
﹃ (Rmbog-母 E 号)にある展示場。R芯
プラスチック接着剤にまぜて塗りたくる。
土を、水に融かした油絵用の粉末顔料と
は展示も難しい。この広いキャンパスに
使って描いた木々は、大きく線が太いの
彼は木だけを続けて描いてきた。土を
間は妖精が笛を吹くが、夜は怪奇に満ち た彼は、もともと望んでいた画家として
七年を過ごした。芸術の道から外れてい
め、この年に始めての個展を聞いた。そ
同号で開いてやる。今年は韓国人の高 仏 g
黒褐色または青灰色を帯び水墨画のよう
毎年、パリ市は旺盛な活動を展開して
た月の光のもとで、妖怪が笛を吹く。
印目
朴東逸さんのアトリエはセ l ヌ川ほと り の イ シ l レ ・ ム リ ノ (Z37Z
畑鎮が、そうそうたる他の三人の画家と
して暫くたった後、道草を食っていた空
共に選ばれた。彼の作品展示会は﹁領土﹂
白を埋め合わせるため、八二年パリへの
な印象を与えて、絵の中の木々は普通の
gzH)という小さな都市にある。国 玄o c -ロ 防部のタンク修理工場が移っていって空
木ではない。あるものは古生代の植物の
家となった大きな建物を、韓国人画家た
五月一六日までの二カ月間にわたって聞
(35Eg)とい、っ毛で、三月二五日から
美術修業を決行した。その時の年が四一 歳であった。
膨大な文化の恵みも、よくわきまえて十
やフランス語も達者で、パリが提供する
それから十一年が週ぎた。彼は、いま
は、これが初めてのことである。
の展示会の特恵を韓国人画家が受けたの
ど、一切の経費はパリ市が負担した。こ
かれた。展示および広報と作品の運搬な
でもある。彼の木々は、考え、憤怒に燃え、
つったほこら)の木とか朱塗りの棒みたい
でもあり、陰惨な城陸堂(村の守護神をま
ようでもあり、他の惑星の生き物みたい
て、非常に安い値段で賃貸した。韓国人
ちが、芸術に関心の多い市当局にかけあっ 画家二O余人が含む四O余人の画家は、
分に楽しんでいる。﹁多くのものを見るの
不和とかっとうの不安な表情を見せる。
ソナム (ωOZ ﹀冨 OC一目見可完)を意味する 韓国語)という団体をつくり、巨大な建物 が分けて使っている。彼らは、この共同
を譲り受けて空間を仕切って、四O余人 のアトリエに﹀ユ怠E -とい、コ粋な名をつけ
﹁独創的なものが常にそうであるよう
それらは人間の内面の心理を強烈に表出 する。
た。フランス語ではR25-と同じ発音で ありながら同門が入っている。
に、怪奇な、どの種にも属しないもの、
は、まるで人間の言語の行為をまねてい
配する大樹林の列柱からそれている時に
圧迫であり、あるいは対話であるこの度 外れな芽生えの形が、昔風の均衡美を支
るように閉じ込められている。あるいは
するため、巨大な化石の中に、気がつま
高畑鎮のモチーフは感動的な信号を形成
リエに出向いて作業をする。以前は車を 持っていたが事故で大きくこわされてか らは、新車を買わずに過ごしている。昼 は近くのセルフ・サービス食堂で取る。 買って飲むか、アトリエに帰ってきて茶
食後には、フランス式の濃いコーヒーを
85
宿所で朝ごはんを炊いて食べた朴さん
Zの開 "
は、かなりおそめに地下鉄に乗ってアト
句
高畑鎮の作品を﹃発見﹄したのは、また、
三︿白色とい、2言葉で集約したりした。
彼は高嫡鎮の作品世界を﹃生命力﹄ (Z
る評論家FER己のミさんの評なのだが、
l 畑鎮の作品 に対す るかの ようである﹂ │高
示会を開いておらず、名も知られていな
える。彼はパリに来てからも、 一回も展
すべて旺盛な活動を展開し、展示経歴も 多い人々だが 、彼 の場合には特例だと言
なったのである。 ζれに選ばれる画家は、
く四人の画家の中に高畑鎮が入ることに
介した。その結果、九三年の展示会を開
リーが招待展を提議した。
フランで買取ったし、いくつかのギャラ
を管轄する責任者が、作品一点を 一一 一 万
るや、多くの美術関係者が彼の画室を訪
展示会の案内が O吉 田互 巾 ﹁EZO 口白一と ﹀﹁門司﹃巾目的巾など、美術専門雑誌に掲載され
来て、作品数十点を見た後﹁ 衝撃参受けた﹂
で﹃有名画{さにのしあがってしまった。
かったからである。﹃無名﹄の彼は一跳ぴ
を聞いてやる代りに、作品を 一点ずつ 貰つ
パリ市は、毎年、画家を選んで展示会
ねた。一 φ 号 明 ,Eロ円巾地方(首都圏)の美術官
ESSE教授
と言い、早速、パリ市の美術担当官に紹
別の評論家である]巾 g e F去の
(パ リ八大州きだった。昨年、高の画室に
高柄鎮f乍 r無題』一丸丸二年
てこれを所蔵した後、五年後にこれを売
るのである。年が過ぎると共に値段は張
るようになっているのだ 。そして、その
お金は、再び別の作家のための展示経費
など、芸術の振興に使われる 。
高嫡鎮は 、自分は運がよかったと言っ
ている 。同僚の画家たちの中でも、彼が
運のよい画家だと言っている人も少くな い。彼は作品で金をもうけたことがなかっ
エを設けて、暮しの心配なしに創作に専
たが、お金の有る夫人のお蔭で、パリの 郊外である︿民ミ・ ウ ∞25に、家とアトリ ωロ
彼は、これといった特別な趣味もなく、
念することができた。
公園の林の中を散歩すること以外には外
出も余りしないので、外の画家たちとも
リ生活三年が過ぎたけれどもフランス語
殆んど交わりがなかった 。そのため、パ
ができないのである 。山の傾斜地にある
小さな家を買入れ、これを住居にして、
傾斜状になっている庭を手入れして平ら
にした後、自らそこに作業室の建物を建
造した。そして、そ乙に閉じこもり怪奇
な木の絵だけを描い、てきたのであった。
彼の辛抱強い作業は、結局、日の目を見
るようになったのであり、彼自身すらと
まどってしまうほど有名になった 。パリ
の偉大さは、このように才能のある画家
を発掘することにあるのかも知れない 。.
s
、、曾﹄ めてアジアの現代的な都市を んとうにすばらしい。しかし
MtJT訪ねる西洋人は﹁なるほど、ほ
a4tノ アジア人が見た目にはどう映るだろう か﹂とひとりつぶやくのを時たま見かけ いている人々は洋の東西を問わず似たり
ることがある。高層ビルや事務室で働ら 寄ったりである。このように、現代の都 市生活は、見かけ上似通っているので、 てしまうのである。フロイトが愉快な経
始めての旅行者は間違いなくがっかりし
﹁エキゾティック﹂を期待する旅行者に
験の本質と見た ︿ 身近なものの再発見﹀は とっては少しも愉快なことではない。 このよ、うつな問題は文学の世界でも同じ ことだと雪 時には喜ぴを与、ええてくれる時もあるが、 .. : ル.::.:.理解不足からくる精神的な戦りつ?
外国小説を読む読者たちは異国的なスリ . ::.:.を楽しむためきちようめんに 一枚ずつ
ベlジをめくつて行くのである。 J
韓末淑の長篇小説﹃ 麗わしき霊歌﹄(外吾ヰ ot 霊歌)を読んだ西洋の読者たちが﹁なる ほど、ほんとうにすばらしい、しかし韓
国人はどう受け取るだろうか﹂とつぶやき
話ははずんでいくのであった。
これは確かに死に関する小説である。
旅立つ支度をしている年寄りなど﹂彼女の
それからその主題は作家である韓女史が
ながら本をとじる人はいないと、筆者は 満足を与えたり、異国的情緒をタップリ
はっきり言え ると思う。この本は誰にも 満喫させる代りに、小説のストーリは理
よく集約されていると一言尽える。﹃麗わしき
言うところの﹁あの世 と L 言う言葉の中に
を越えて行くみたいに表現している。若 し私がこの本の主題を私なりに一言で要
世からあの世へ行くのを、まるで境界線
この本で扱っているすべての死は、この
になるものと見られる。
するというもう一つの挑戦を受けること
約すれば、私は﹁境界線﹂と名づけて見た
霊歌﹄は現世と死の世界に関する話である。
正直に言って﹃麗わしき霊歌﹄の内容には、
のではなく、もっと幅広く包括的に理解
読者を気安くさせる必要がないにも拘わ
)の文人(ソンピ)の話を通し 一 一j 一九一O
j 一三九二)の武人と、李朝時代(一三九
の水を飲んで効験を得た高麗時代(九一八
とを私たちに教えてくれる。彼女は、こ
﹁この世(地上)﹂と位置づけられており、 作家はこの泉が﹁霊泉﹂と呼ばれているこ
た﹂と書いている。 この泉は、ユジンの意識世界では既に
ことだけはハッキリ感じ取ることが出来
ないが、しかし:::食欲が旺盛になった
後健康がもっとよくなったかはよく分ら
たのは去る夏からのことであった。その
吸いながら、健康のために歩こうと決め
始まっている。この作家は、ユジン夫婦 が散歩に出かけるのを﹁きわやかな空気を
出かけるため軽い気持で支度する所から
くの山の麓の泉まで、夫と一緒に散歩に
明けがたに目を覚し、何時もの通りに近
この小説は、キム・ユジンが寒い冬の
探し出さなければならないのである。
まかに、ゆとりをもって深く突っこんで
通常気安く考えているよりも、もっと大
されなければならないし、また私たちが
りも生死聞の境界線は究明と質問が繰返
間の意識聞の、大陸聞の、それから何よ
いと思う。境界線:・世代聞の、個々の人
からないとか理解不足のためにとまどう
しもないのである。しかし読者はよく分
@ ダビッド・コソブスキー
解し難いとか、スッキリしない部分が少
一境界線を越えて
らず身近なものを沢山含んでいる。この
小説の女主人公であるキム・ユジンの 数々の経験、満たされない希望を未練が
ましく後悔するとか、結婚後始めて気づ を思い出してめい想にふけるとか、つい
く孤独感、最初にプロポーズを受けた男 知らずに陥りかけたが不発に終った不貞
行為など・:は、最近の西欧小説の中によ く出てくる中年の危機に対する社会的、 心理的描写にとても似ていることにすぐ てはこの小説をより思弁的に、より先験
気づくことと思う。しかし、これらすべ 的に、そしてより異国的情絡をかもしだ すように計算された単なる背景に過ぎな いのである。 この作家との対談で、彼女は冗談まじ りに﹁私の小説の主題は﹃死﹄です﹂と極く 簡単に述べている。そして彼女は背すじ が寒くなるような話を、いたずらっぽい 微笑みと個性的な笑い声で柔らげながら ﹁私はこの本を書くにあたって最初から 一 年を四つの季節に分けようと思っていま した。そして季節毎に、この本の主題 である死の問題を集中的に追究しました :::。自殺、殺人、はたらき盛りに突然ポッ クリ行ってしまった中年の男、あの世へ
87
品蹄 刊評 … 糾
~ (Q)~ ~ b\
M
b\~
•
彼女は自力で栄誉獲得に努めたあげく、
を分け与えるようにとさとした。世代聞
ほろほしと思って、彼らに幾らかの財産
スの孫の怒りを和らげる一方、前非の罪
教会の重要ポストまで手に入れたもよう
の境界と生死問の境界に対する彼女の見
大郎の婆さんを見出してりつぜんとする。
たし、母に会えば多かれ少なかれ心配事が であった。彼女は、例の通り好意的にユ
中で父に会えば必ず翌日にはよい事が起き 起きた。一体、この世とあの世は互いに往
ジンに近づいて来たし、ユジンもやはり
て、その魔力にかかわる伝説をほのめか に関してもう少し深入りするように導く
している。彼女は、読者たちが、この泉 来があるのだろうか。だとすれば死後の世
直什+晶、
界は存在すると号一守えるのだろうか・・・:・。
・:高くそびえている山の岩聞から沸い
がそれを許すかどうかなのよ。復しゅうは
しかし問題は、亡くなったチエ社長の魂
H-
私たちは間もなく大郎の婆さんと長年
冷やかに応対した。
たことないの、あんた。私の話を信じなさい。
第三者が代りにしてくれるという話、聞い
度も繰り返される。
つき合って来た友だちであり、また相談
この質問は、この小説全編を通し、何
ため、次のように語っている。 てくるひと筋の水は:::天地かいびゃく以
役でもある人で、後ほど、この小説の中
来、今日まで続いているのかもしれない。 小説全篇に亘る文章の調子はめい想的
が勝手に猫ばばを決めこんだでしょう。人
で思素的であるが、ユジンをめぐってい
が死ねばそれでおしまいだと思うのはとん
その聞にどれだけ多くの生命が、この水を
交わす場面で、大郎の婆さんの人となり
飲みながら、生き、死んでいったことだろ
を知るようになる。大郎の婆さんは、
大郎の婆さんは、ォ l道人の忠告を受
チェ社長の魂はあんたを許していやしない。
:ここ十日の聞に三度もチェ・クァン
け入れることを拒んだ。しかし彼女は近
あなたに文書をあげたんじゃなく、あなた
の事件はユジンがまだ生まれないずっと
スと枕を並べて一緒に寝ている夢を見たの
づきつつある自身の死を、残った人たち
で霊的で道徳的な中心人物とし登場して
前に、この世を去った人びとによって起
でおかしいなと思っていた。夢から覚めた
に対する未払金の支払ないしは遺産の分
来る ﹁ オl道人﹂と大郎の婆さんが対話を
ていくように、典型的な形で現われて来
き始めたことがベ lルを一枚ずつはがし
後まで彼と交えた感じが現実のように生生
配を心配するようになったことから気づ
ろんな事件が発生しながら、話のペ 1 ス
さまに差し上げる井華水(お祈りの時供える
る 。
しく体内に残っているのであった。
きはじめる:::こう言う変化はユジンに
はがぜんその速度を速めて行く。これら
水)とか、ガンディス川の水浴びも:::みん
彼女の母の祖父は、老年に一七才の娘を
チェ・グァンスは彼女が五十代の時に
キリスト教の聖なる水も、七星(北斗七星)
な昔から水は宗教と多かれ少かれ何らかの
妾にめとった。老妻は、しっとよりもむ
会った最後の男で、既に還歴を迎えてい
かけた電話に引き継がれる。
うか。飛ぶ鳥も、猛獣も、また人間も:・
関連があったようだ。
しろ寛容と憐閣の情を持って対したけれ
た。その彼は、彼女と一緒に寝ている中
ヒントを与えた後、作家は早速私たちを
た後、若くて美しいが、学問も技能も持
に引き継がせようとした。祖父が亡くなっ
に引き渡す時、彼女は文書だけは渡さな
に話の花をきかせた。彼の遺体を遺家族
に入れた土地の文書を見せながら自慢げ
しかしユジンはそれを拒絶した。
に借りた借金のお返しょ。
うだい・:・:それは私があなたのお祖父さん
おいたから、私が死んだら遺書を読んでちょ
次のように導いて行くのである。
は更によかったのである。
かった。後日、その土地を処分したお金が、
ユジン、あなたに幾らかの遺産を残して
でもない間違いですわよ。
ユジンはその泉の水について霊性を考え
ども、ユジンの母は、彼女を絶対にゆる
作家はユジンの空想を次のようにしめ
くの男たちと性関係を結びながら、お金
たない妾はキ lセン(妓女)になって、多
ユジンが生まれる前、既に亡くなった
てみたことはまったくないが、ただ汚染さ
さず、かえって憎悪心を自分の娘ユジン
しかし、あの世に対して、このように
の中のきわやかな空気が吸えるということ
れてない水が飲めてよろしく、その上、山
に息を引き取った。その夜彼は、最近手
くくっている。 ユジンの空想は風に乗って果てしもなく
既に七O を越しているが、ユジンに対し
大郎の婆さんとも呼ばれるその彼女も、
訪ねて来て、その家の女中に次のような
の孫と名乗る二人の青年が婆さんの家へ
最初の夢を見た朝がた、チェ・グァンス
体については別に驚かなかった。しかし
間もなく、彼女はお婆さんのことでもっ
さんとの最後の通話となった。それから
と思ったのは間違いであった。それが婆
ユジンが、自分とは関係のないことだ
と関係ないお話です・・・・:さようなら。
ありがとうございます。でも、それは私 相当な幸運をつかむキッカケとなった。 、 - J'-nv
と幸運をつかもうとして懸命になるの
この小説は、すごくおだやかでなめら
ては好意的で、時たま電話で安否を問う
して実在するだろうか。
舞い上がって行った。来世なるものは果た
かに、そしてさりげなく書き出している
などたまに登場してくる。ユジンは亡く
と複雑にかかわりを持つようになった。
大郎の婆さんは、夢を見たことそれ自
が、実はユジンが目を覚してから床を抜
話しを残して帰って行った。
ナ九てナム
け出すまで、五ページに亘って、この小
つもりはないが、電話を受ける時だけは、
なった母の願いをいささかも聞き入れる
している。翌日ユジンは生れて始めて教
氷みたいに冷やかで突っけんどんに応対
猫ばばしたパパアだ。おれたちやそれを知っ
亡くなった時、ポケットから土地の文書を
十代の女占い師であるオ l道人と関係を
ない幸運をもたらしたばかりでなく、七
大郎の婆さんの死はユジンに願つでも
チェ社長の孫たちに殺されたのである。
大郎の婆さんは通話を終えて間もなく
説の主題である核心的な問題を提起して、 この導入部はユジンが亡くなった両親を
あんたの女あるじは、おれたちの祖父が
大かたの輪廓を示している。それから、 思い浮べながら、次のような疑問を独自
ている。覚悟しろと言っときな。 ﹁ オl道人﹂は婆さんに、チェ・クアン トゥルを肩に掛け﹁執事﹂と呼ばれている
会に出向き、計らずも銀白のミンク・ス 父母が亡くなって十余年、その問、夢の
の形で投げながら結んでいる。
68
教に造けいの深いオ l道人もユジンが熱
結ぶきっかけを作 ってくれた。しかし仏 心に教会の儀式と慈善事業に参加するの を止めさせることは出来なかった。オ ー 道人も、お婆さんの遺産の一部を相続し た。しかし彼女もそれから来る﹁東縛﹂か ら抜け出そうと非常にあせった。ユジン は道人の影響を受けて生きている人と死 人双方の功徳を観照する方向に引きつけ られている自身を発見する。また彼女は 生と死がお互いに関連をもっているとい うことについて段段認識を深めて行く自
に、また生きている人と死人の間にまだ
大郎の婆さんの財産が世代と世代の間 多くの人たちの、滑らかで一見捉え難い
的な意味を持った有用な星座を旅行する
あると思う。また、西洋の読者たちは霊
身を発見する。
返済されていない債務を象徴しているの
すのである。 死とそれにまつわる夢は﹃麗しき霊歌﹄
える功徳と災厄を際限なく次次と繰り返
者たちに労わりを与える道人の言動がこ
しかも自分なりの説法でキリスト教の信
な傾向が、仏教徒として修道し、観相や
もっと深刻な問題は、この諸説統合的
言行に衝撃を受けるであろう。
全篇を通じて現われる境界線交流の 二 つ
の小説全篇を通じて見られることである。
は恋意的に、また、あるいは宿命的に見
と同じく彼女が後に残した遺産もあるい
の形態である。ユジンは周囲の人びとが
確かに﹁韓国人はどう受け取るだろう か﹂という質問に対するより深い解答は、
運勢の占いなど亙俗や道教の秘法に通じ、
死んで行くたびに、ずい分長い時間をか けて死とは何か、そして死が意味するも
土着民の信仰と其の他の宗教から移入さ の小説の中で発見される。韓末淑が持つ
れた信念を奇妙に混ぜ合わせた表現がこ
のは何かについて熟考を重ねた。
最大の力量の 一つは、ある 一つの霊魂に
死とは、はるか遠くの海からしのびやか に岸に近づいて来る波のようなものかも知
対して、色々な信仰の中から、単に論理 的な相関関係を究明しようとする傾向に
はるか遠くの沖で人知れず準備されたもの
反して心理学的に描写する彼女の能力で
れない。岸辺を叩く波は、ずっと前から、
ユジンは自分の周囲で起きたさまざま
ある。
である。突然襲って来る波は絶対にない。 な事件を、手近な霊的なしきたりで受け
また現代的な情況の中で、伝統的な信仰
霊歌﹄を近代韓国の精神的な根底を探究し、
一部の読者と批評家たちは﹃麗わしき
轍的な表現は仏教、キリスト教、儒教、
心の活力を測って見ょうとする韓女史の
入れようとしている。それから、その隠
パ哲学の用語を援用している。このよう
試みであると主張している。更にこの間
亙女の習俗を始めさまざまな西ヨ ー ロッ な並列的列挙は混乱よりもむしろ簡明で
この世に出没してさまようため、あの世
国の一坐俗信仰は 死人の魂霊が、しばしば
で安らかに休むことが出来ないことを恨
題を最もはっきり主 かでもない道人なの
( ハン)と解している。このように恨(ハン)
張しているのが、ほ である。彼女は所謂
くなる程ぞっとさせる一例である。即ち、
はまた、死の世界とこのこ世の境いをつ
う韓国と中国流の占
大郎の婆さんも償われたことのない虐げ
四柱(生まれた年、月、
術)を読み取って運
られた感情を抱いたまま死んで行った。
日、時刻の四つの要
勢をあてることに熟
それで彼女の魂は怒りに満ち、たえずこ
ンスの恨(ハン)は他でもなく背すじが寒
達し、二一宮図によ る占星術の影響を受
るのである。この小説全体を貫いている
なぐ橋の役割もするのである。チェ ・クア
けて信仰を保ってい
素に基いて運勢を占
くとは言っても、表に現れた兆しとその
マH業)の観念と比較されもするが、この
カル 恨(ハン)と言う観念は、仏教の潟磨 (
二 つの観念は共に死後もなお引き続き残
の世の巷を、ひそかにさまよい続けてい
兆しによって左右される寸運勢﹂は社会的 観念での歴史的な変化とは違った意味を
る、まだ支払われていない借金と解され
韓末淑は彼女の師父が誰かという問い
ている。
に対してためらうことなくすぐに三島由
即ち、 女性の社会活動が禁じられた時代には一
得ることが出来ると被女は信じている。
般的な通念として女性を意味する花のしる
この小説は日本の作家、三島由紀夫の主
は少しも驚くにあたらない。なぜならば
題的素材の中の幾つかを反映しているか
紀夫の名を挙げる。﹃麗わしき霊歌﹄の読者
による紛糾の種と受け取られて嫌われた。
しかしそのようなしるしも、不貞な色ごと
しは歓迎されなかった:::その当時花柳界
しかし時代が変ると共に女性も社会活動が
に対する色々な意味がそれである。この
らだ。即ち、霊魂の再来とか、輪一廻、死
においてのみ女は魅力の対象と見なされた。
出来るようになってから、花のしるしが必
はそ、つである。
とし穴は、大抵の場合女主人公の性格と
危険に直面するのである。このようなお
に空虚さと、信じられない空しさに陥る この小説に出て来る間違いなく韓国的
この﹃麗わしき霊歌﹄は明白に見せてくれる。
ような主題を持って作品を書く作家は常
なもう一つの要素は﹁恨(ハン)﹂である。 この純粋な韓国語の語義は、翻訳すれば、
年四十にして上の中流階級に属し、高等
らずしも不貞な色ごととか軽蔑の対象と解
時たま﹁報いられない憤りの強烈な感情﹂
つかの翻訳書も出している:・キム ・ユジ
教育を受けた・:英文学を講義し、また幾
されるようなことはなくなった。特に最近
と定義づけられる。恨 (ハン)とは虐げら
民的感情の根元として、また、たまには
感情として、韓国人の個人的な心性と国
た彼女は韓国の伝統に深く根ざした家庭
見ても間違いのない現代女性である。ま
ンは西洋思想にも深く精通していて誰が
お話しから来るものであるということを
れた感情から派生したとめどもない苦い
民族的心象としてよくたとえられる。韓
89
1羽3年度ノーへ、ル文学賞韓国作家の候補として推薦 された小説家、韓末淑氏の『鷲わしき霊歌a
主婦でありかつ母親でもある。 彼女の感情移入に対する明確な才能ほ、
-E1 日もたて続けに降った雨で、川が溢れて田畑
不安もなかった。彼女は、へっついに腰をかけたまま、
に聞こえ始めた﹁ひそかなる調和﹂に対し
想像力と速かな理解力を与え、彼女の耳
彼女の理知的で批判的な性向は、豊かな
ことによってバランスを維持している 。
虫のくった柱も浮かんだまま流れて行く。すべてが同じ
流の上を藁ぶき屋根が、ぷかぷかと押し流されて行く。
村が、洪水に流されていくのをじっと見守っている。濁
水に巻き込まれそうだ。テシックは縁側に立って川上の
EEEt まあと 三日程雨が続くと、テシックの家も泥
かくにもあのくらい男らしい男もそう滅多にいないとの
一向に知らない。仲立ちの年寄りの話によると、とにも
つきであるのは見当がつくが、目鼻立ちはどうかなどは
らも夫の姿、格好が知らない。背丈は普通で、頑丈な体
夫の顔を拝めなかった。そのため嫁は、夜を共にしなが
嫁はテシックの足許だけ見ていたのだった。タベも嫁は、
﹁ゃあ、テシックの奴め、よほど嫁をもらいたかった様
テシックの主人は、
た事情からであった。
も早く口べらしをしなければならないという切羽詰まっ
ということであったし、嫁は嫁で、家が貧しいため一日
たが、選り好みすることなく最初の縁談なので婚姻する
に成り立ってしまった。テシックは嫁を見てはいなかっ
彼等の婚姻は、話が持ち上がってから一O 日目に簡単
中が海れて息が詰まりそうだと評判された乙女であった。
達によると、彼女の濡れたような瞳を見ると、なぜか体
嫁は肌は黒く、器量は良い方ではなかったが、村の男
れた。
テシックは、幼い頃から川上の村の地主、李氏宅の作
結婚する前に、彼らはたった一度会っただけだったが、
てもっと敏感にさせた、彼女は大部分の
方向に勢いよく曲がりくねって流れていく。たんすや戸、
夫を観察することに夢中であった。
迷信的習慣に現代的な懐疑を抱いている
それに木製の鍋蓋:::。テシックは無言でそれらを見詰
ことであった。
町川‘一 がすっぽり泥水で覆われてしまった。このま
が、しかし想像力豊かな彼女の性格は人
男であった。まめで正直者で、主人には格別可愛いがら
ある男に対する利己的な愛情に安住する
間精神のあらゆる顕示と触れ合って、そ
めている。 へっついに腰をかけて、 テシ yクの後ろ姿を見詰めて
れを感じ取るのに役立った。 いる嫁も同様に無言だ。
私たちはキム・ユジンの眼を通して、 明らかに人間に内在している霊的世界を あらゆる角度から眺めるのである。ガイ ドとしての彼女は決して独断的な解説だ とか出しゃばるようなことはしなかった。 いつも証人として本当らしく話を進めて 行った。 女主人公の背後には勿論作家が立って いるが、それは他ならぬ韓末淑の才能で ある。私たちを別の世界へ案内をしてく れた韓末淑に対して、私たちは本当に感 謝すべきである。彼女は小説の中で何度 計算されたム 1ドの喚起、期待しなかっ
ない。彼女は、恥かしくて夫を見られない。テシックも
食も一緒にとったのに、嫁はまだ一度も夫を正視してい
彼らは昨日の夕べ、初夜を共にした間柄であった。朝
に、李氏は、あたふたと新聞紙で壁紙を貼ってやった。
と笑った。李氏宅の山守りが住んでいた草ぶきのひと聞
子だな﹂
た反響に対して安どを与える絶妙な演出
とその別世界が現代韓国人の心にどのよ
な翻訳を通じて英語圏の読者に﹁別世界﹂
する。彼女はこの﹃麗わしき霊歌﹄を流暢
れたス lザン・クラウダーにも謝意を表
の境界線を越える作業を容易にさせてく
この書評を書くに当たって、もう一つ
け巡る。洪水には、鼠が 一番敏感だと言、っ。水が鼠の穴
再ぴ床下に降り、ちゆっちゅっと鳴きながらせわしく駆
押し寄せ、台所から縁側に抜け、柱に上ったかと田ザっと、
う俗諺を思い出しながら、嫁は頬を赤らめた。鼠が数匹
そってやっただけだ。二匙よそってやると情がわくとい
自分の飯を匙に大盛りに盛って、二度ほど嫁の茶碗によ
恥かしいのか、まったく無言である。食事の時に彼は、
嫁は、婚礼道具らしきものは何一つなかった。式が終
客もなかった。しかし、テシックは嬉しさを隠せなかった。
せて互いに見合って二回おじぎを交わしただけである。
間で食膳の上に餅ひと皿、白米のご飯二膳、汁二碗を載
別な食物も用意できず、テシックと嫁は、李氏宅の板の
つぎ、山を越えて、山守りの住んでいた草ぶきの家へ向
一一つ、唐辛子味増一缶、醤油一缶を入れ、それを背にか
わるとテシックは、釜に匙を二つ、はし二膳、ご飯茶碗
うに映るかを見せてくれるばかりでなく、
0
嫁は、家が洪ポに飲まれてしまうかも知れないという
を塞いてしまうせいだろう。
与えたのである
家、韓末淑の並々ならぬ贈り物を分かち
・
もっと広く読まれる価値がある韓国の作
結婚式であったにも拘わらず土砂降りの悶のため、特
で私たちを驚かせる。
も繰り返して急転直下する展開、精密に
l 副議
10
生と死の聞を さまようサ説 人悶 脱
り 1l 問 けれども、死後の問題についてはさほど気にかけてこな かったものだ。 紀元前 l 世紀の偉大な学者マニリウス ( mani l i us) 日く 、 「われわ れは生れるや否や死に始めて、その果てはまた始まりに戻るの で、ある」と 。
19世紀の有名な英国の放浪詩人パイロン卿は死に対する一般的 な認識を皮肉って次のように歌っている、 「 所謂、死なるものは 人を悲しくさせるものである。しかしわれわれは人生の三分の ーを眠りで、過ご、 しているで、はないか。 」
あろうか。愛とはなんであろうか。私に魂があるのだろうか。ある とすればそれは何に似ているだろうか。 作家は毎日のように起きてくる出来事を通して永遠に解けない疑 問を賢明に探し求めながら東洋の精神をまれに見る洞察を通じて私 たちに見せてくれる。この東洋精神なるものは西洋の観念と思想の 影響を受けているにも拘わらずそれほどには変質していないもので ある。
生きている者と死者との関係に照明をあてながら情景を描き 出すこの現代女性の魅惑的なお話は彼女の初期の作品とは全然 違ったものである。彼女は短篇小説『 神話の断崖』で'1957年文壇に l 世紀も前に彼の同僚であるワルタ ー ・ スコッ ト卿も 「 死とは最 デビューして以来簡潔明瞭な文体と不必要な動詞や華やかな形 後の眠りなのか」という永遠に解けない疑問を投げかけては白か 容調を省略する節制、それに独自の世界観と非凡なる感覚で若 ら「否」と答えて「死とは覚醒の最後の最後で、 ある」と喝破した。 い読者たちを魅了させている。 このように数世紀に亘って詩人、学者、文学家、哲学者たち また、彼女のもう一つの短篇小説『洪水』が1964年ニューヨーク はだれかれとなく彼らの著述や作品を通してあらゆる宗教と文 で出版された権威ある世界のベスト ・ラブス トーリ選集「 愛の言 化に対する彼らの見解を披渡する中で、この疑問を深くせんさくし 葉」に収録されたのも驚くにあたらない。 ている 。 この小説は学者出身の外交官で前文化公報部長官を歴任した 韓末淑の最近の作品『麗わしき霊歌』を非常に異質的なものにさ 金東最氏の流麗な筆致で翻訳された作品で、 その内容は突然襲っ せているのはこの作家が一風変った観点からこの疑問に対して て来た不運にもめげずに貧しい農夫と若妻が切っても切れない 接近を試みている点であろう 。それはシャーマニズムと、仏教、 契りと熱愛で生き抜いて行く様子をペーソスと生き生きとした 儒教、キリスト教から少しずつ借りてきて都合よく混ぜ合わせ イメージで描いている。 韓末淑の新しい作品『麗わしき 霊歌』は既に韓国の批評家たちと たものである。 だからこの小説の女主人公であるキム・ユジンが「クリスチャ 読者たちから好評と喝采を受けており、特にスーザン ・クラウ ンたちは人間が死ねばヨルダン川を渡ると信じ、仏者は三途の川を ダー ( Suzanne Crowder) のきめこまかい英訳によって疑いもなく 渡ると信ずる b 即ち 、人びとは一般的にこの世とあの世を )11が隔て 彼女は世界の文壇においても名声を博すことと思う。 ているものと信じているらしい」という事実を発見するとしても少 韓末、淑のこの新作みたいにこの世離れした宇宙的言語を駆使 しも驚くことはないのである。 して今日的な韓国の感性を表現している作品は殆んど見あたら ない。 その上、韓国の作品を翻訳して 今日の韓国に照らし合わせて見る ① ピ ー タ ー ・ ヒ ョ ン コラムニス卜 いる多くの翻訳者たちと違って、韓 時 、 『 麗わしき霊歌』はこの時代を生 国の伝統と、慣習と、言語を奥深く きて行く韓国の家庭主婦の人生の 理解しているばかりでなく、英文に 中で麗わしき歳月として記憶に残 おいても水晶みたいに透明で格調 るようなお話である。感傷的で、知 の高い語棄の選択と流暢な文体を 的に It 明で、尽きない好奇心の持ち 駆使する翻訳者に巡り合えたのは 主であるこの主人公は一世紀に E 作家にとってこの上ない幸運で、 あっ る数かずの出来事を胸に秘めてい るのである。 死んだ後にも生命はほんとうに あるのだろうか。生命とはなんで ~
. ~
74
( 1)
予想できなかった、文化イベ
り、観客層も大学生、サラリーマンから
月が過ぎた近頃も、劇場は連日満員であ
が競ってこの映画を観覧した。上映三一カ
泳三大統領と閣僚、国会議員や実業家ら
はまたたく聞に広まって、文民政府の金
コミの関心が集中した。こうしたうわさ
が押し寄せはじめ、映画界が驚き、マス
ていた韓国映画一編に、ある日急に人波
観客の好みに合わないだろうと予想し
ントとい、っ点で意味が深かった。
・ノ
﹂ 三年の春、ソウルで﹁小さな事 件﹂が起きた。これは、だれも
E阿川司
パンソリに載せた 韓国人の情と恨
z
主婦、高校生へと拡散している。
臣 室
沢
の
峡
函
哲が音楽を受け持つなどスタッフの面面
成監督、﹁韓国の音﹂を 創作してきた金秀
長が製作し、撮影の達人と呼ばれる鄭一
①鄭重憲映画費画家
チョンジュンホン
権
どうしてこのように、韓国人に﹃西便制﹄
も韓国を代表するに値する。
黄土色で彩りな
ノト ーンで、暗
がら、灰色のモ
言い漏らしてはならないもう一つは、パ
欝な時代相を掘り下げて映し出している。
ンソリを損ねないながらもぴりっとして冷
たく映像を支えている金秀哲の、あるかな
こうした韓国的素材と形式が調和を成
きかの映画音楽である。
している﹃西使制﹄は 、韓国人にはス ムー
中材産沢氏
m
この話題の映画は、韓国だけでなく、
E
用
世界映画界でも声価の高い林権沢監督演
は、難解に見えるかもしれない。それは、
ズに受け入れられるが、外国人にとって
75
映画 r西便告i L を演出した映画監督、
左手け試さ 査がで写い 臥 j弗 し て
・・ -一 三 4
木 本
_ 、
.
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35 五五度提示罰手ご書;2去く、て与 25qR3 号 空 722E よ5 22 民 撮 閃 、 る ド 立 明 で し 人 ん 作 の の で に る る 二 ; v) る 劇 異 評 ス ど わ 観 て 問 朝 ソ 族 影 め λ 。 ラ 派 坤 も た 生 じ は 連 映 哀 く o ~l \
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用
出の﹃西便制﹄。韓国映画の中興のために
時i zi T; ! 117P23i i i hi i i i i l i f?5185E;??i H信 1iz 将 一 だ 一五手性 U 日 日 日 時 間 引 刊 ぽ 問 ド 涙 苦肉夫優官主貧富豪ノ; 語ク花合同警官五菜 533 若草需をカ Ti 品 き 戸 J E2232; j 自 主 主 2芸 事 を21 襲22 ま弓 い し 映 去 匠 年 よ 人 い 1) い 嬰 さ し ミ 家 。 - ル深ぴけた口 風 た 画 注 に 警 つ 公 で を 売 の 』 4 4圃・岨はさにため Z 光粘で山ふ成てユき習 圃圃圃圃圃圃圃E h 、」拍だ ゐ
とつ試
数 れ る 李 林 き 東 意 れ 南 1い き な 会 こ タ ぐ 迫 謡 に 庶 朝 道 ドさ ヒ 時 ろ が こみとわれ極ン俳 民
c
心血を 注いできた泰興映画社の李泰元社
連日大入り満員の r西便告IL が上映されている映画館前。
。
あるが、パンソリという韓国音楽に盛ら
老・病・死の四苦と喜怒哀楽が綴られ、
も大きい。そのソリの中には、人間の生・
ず、構成がドラマチックでありスケ ール
て溶け込みながら、どの殺事詩にも劣ら
れた辞説(謡の合間に組み入れる話)と情
東西洋の﹁文化的な違い﹂によるものでも
調を理解するということは容易でないか
の別なく、誰でもすっかりそのおもしろ
それを知って内容を理解すると、東西洋
サー ル
らだ。しかし、韓国の文化に少しでも愛 画のおもしろみと深さにおぼれることも できる。 そのキlは、韓国人の興趣と情緒だと
映画﹃西便制﹄は、ストーリそのものが パンソリに劣らないほど切切たるものが
ありながらも悲壮美を盛り上げている。
衆の芸術パンソリを継承しようとする流
韓国社会を背景にして、没落してゆく民
浪ソリクン(歌い手)の生が、その主題で
終戦解放から七0年代にいたる転換期の
人の胸深く内在している情恨をよみがえ
の生活から去ってゆくパンソリを取り上
らせて、観客の心の琴線に触れさせる。
扮)に育てられた腹違いの妹ソンホア(呉
貞抜扮)とトンホ(金室哲扮)、継父からパ
ある。ソリクン(歌い手)のユボン(金明坤
したがって、国楽(韓国の伝統音楽)に
ンソリに対する懐疑とひもじさで、暗惨
新文化に押され、日増しに冷遇されるパ
彼は、映画の全編を通じてまるで亙女の
うとい観客でも、映画を見た後は、私た ちのパンソリがこのように悲しいほど美
リを遠ざけてきた門外漢にしても、韓国
女にパンソリの真髄(得音の境地)を悟ら
病に倒れ、ソリを遠ざける。こうした養
リを学んでいたソンホァすらその衝撃で
クンが嫌でトンホが逃げるや、歎々とソ
人(外国人の場合は異なるが)であれば、
せ、技芸を伝受させようとする一念で、
な日々を送る。ある日、希望のないソリ
一 O 分もたたずにそのソリ(話)と調子に
ることを、今までどうして知らなかった
心酔させる粘っこい魔力を、この映画は
歳月が流れてユボンは死に、都市に出
ユボンはソンホ 7を盲目にする。
リは退屈だという固定観念を破って、自
で、綿々と受け継がれてきたからだ。 したがって、大部分の観客は、パンソ
た兄と妹、二人は互いに自分を明かそう
南道のある小都市の居酒屋でめぐり合っ
して全国をさまよう。千辛万苦のすえ、
て商人になったトンホは、盲目の妹を捜
然と劇の中に没入できる。没入するとい
のなつかしさと恨を交感させながら切切
とせず、夜通しソリと調子で応酬、互い
ニックをなるだけ避けて、生き、死に、
この映画で林権沢監督は、西洋式テク
言も言わずに赤の他人のよ、つに別れる。
たる涙を流す。夜が明けるや、兄妹は一
とに通じる。おもしろいということは、
血筋には、昔からこうした節が溶けこん
もっている。なぜかというと、韓民族の
のだろうかと、いうようになる。パンソ
ンソリを習いながら流浪していた彼らは、
しく、胸がしびれるほど壮大で繊細であ
ような神技を見せる。
げて、その中に盛られた節と調子で韓国
いえる。林権沢監督は、近頃、われわれ
みに没入できるのが特徴だ。
情をもっているとすれば、誰でもこの映
田舎道で一緒に︿アリラン﹀の歌を歌っている、映画 ﹃ の主人公の面々 。 西便制﹄
うことは、おもしろみを感ずるというこ
﹃春香歌﹄﹃興夫歌﹄﹃水宮歌﹄﹃沈清歌﹄
大衆性を得るポイントとなる。
の生と情緒が、適切な辞説と調子によっ
﹃赤壁歌﹄などのパンソリ五幕は、私たち
78
﹁ ソ リを映像化する ﹂ ということ、最近、 先端技術が発達したとはいえ、﹃西便制﹄
られた 民保の哀歓大 一幅 の水墨画の よ うに玲磯たる映像で描き出したといえる。
、つならば、林権沢監督 は、パンソ リに盛
わす特異な映像言語をみせてくれる。言
結び、切り、締め、解くパンソ リであら
会い、別れる私たち民衆の悲しい人生を、
ム)を強調している。まさにこうした ヒューマニティーが 、 この映画のもって
の映画哲学である人本主義(ヒ ューマニズ
粘っこい生命力を通じて、林監督は自身
を抱きつつ新しく出発するソンホァの
また 、 ラスト・シ lンでも、観客は、恨
権沢監督のメッセ ージが敷かれている。
華させるパンソリ美学を、映像化した林
静的な雰囲気、しかし、内面で共鳴する
躍スターにのし上りシンデレラとなった 。
の﹃春香歌﹄履修者)は 、この映画一本で 一
ソリをする呉貞該(人間文化財金素姫先生
い。この点は林監督も認めている。とくに、
たとすれば製作できなかったかもしれな
明坤と、ソンホァ役の呉貞該がいなかっ
映画﹃西使制﹄は、主人公ユボン役の金
だと考えられる点だ。しかし、パンソリ
西洋のミュ ージカル映画とは異なる 。ま さにこの点が、外国人にはいささか難解
の映像で重なる特異な技法の﹃西使制﹄は、
パンソ リの内容と劇のドラマが、一つ
力素として働いている 。
ち、新入金杢哲の汚れなき新鮮さも、活
る洛山居士安煩京の優れた演技力も際立
林監督は、このむずかしい作業を、彼 とのできる要だといえる 。全体的に重い
な素材でありながら、世界性を帯びるこ
いる普遍性であり、あわせて最も韓国的
を卓越に消化、映画評論家協会が与える
身でかもし出しながら、ソリクンの哀歓
でもある金明坤は、南道特有の情緒を全
観客をとらえる。脚色者ぞあり演劇俳優
火のようなソリで呉貞該は、哀しい唱で
ものと信じる。 .
画を見れば、いかなる外国人であっても ﹃ 西便制﹄の世界性と普偏性を発見できる
に対する理解と、内容を吟味してこの映
技術を伝 受させようと いう一念から養女を 盲目にする 。
aJ
自身パンソリに没入することによって立 テl マだが、合間合間にユーモラスな場
男優演技賞を受賞した。後半を支えてい
チ守
派にやり遂げた。つまり、映画でソリと 面を添えて観客を笑わせるのも、林監督
ほど鮮明に盛るというのは容易でない。
映像、素材と主題は、別々のもののよう 特有の才能だといえよう。
ナイズされる﹁パンソリ映像ドラマ﹂を創
でありながらも 、従来は同じ筋にハ lモ
こうした調和の圧巻は、クライマック
灼 山山したといえる。 再会の場面、 一般的にこうした スの兄妹一 状況にぶつかると、抱き合って泣くのが は大鼓の調子で兄を感じ、兄は妹が血を
定石である。しかし、この映画では、妹
の切ない情と愛を全身で受け入れながら、
吐き出すように張り上げるソリから、妹
は、この最後の場面でわれしれず涙を流
映画 『 西使権b のーコ マ。
止めどなく涙を流す。映画館に来た観客
この作品で抜かす予 ﹂ とのできないもう
す 。 一つの場面は、中盤五分四0 秒間もワン シャット・ロングテイクで流れる﹃珍島ア リラン﹄。鄭一成撮影監督は、カメラのフ レーム を固定させた まま、 ユボン、ソン ホ 7、ドンホが遠くの一つの点から出発 して 、珍島アリランで応酬しながら、次 第に興じて踊りを踊りつつ 一団となって、
撃を観客に与‘える。
77
アングルの外にフレ ームアウトさせる技 法を試み、強い象徴性とともに新鮮な衝 まさにここに悲しみすらよろこびに昇
ユボンは、 養女のソ ンホァにパン ソリの真髄を悟ら せ、
c: 用
用
m
z
-t ( 1)
、
園最近、国楽界で以、
・映画ぞT Vドヲマ、
議
れば和やかに、その音楽的な構成が組み
ものであれば激しく、和やかなものであ
く、悲しいものであれば悲しく、激しい
辞説の内容が楽しいものであれば楽し
明を加える部分)の奥に弱く描き込まれな ければならないということである。
方)などが辞説(歌わず調子を取りつつ説
音や拍子と調子・調(調べ) ・唱法(歌い
﹁内部の面﹂即ち﹁内部に秘められた意思﹂ という意味である。即ち、パンソリの声
に﹁裏面﹂という言葉がある。﹁裏面﹂とは
パンソリの歌い手がよく使っている言葉
現している音楽ジャンルの 一つである。
韓国語文章の特性と美しさを最もよく表
パンソリ(韓国伝来の謡)は、韓国語と
韓民族の眠れる音楽性を呼び覚 したパンソリ
国楽童図一 家
たわれわれのメロディを求めることなど は、すべて重要なことと言わざるを得な 最近、偶然な契機から、伝統音楽の一
i v
つである パンソリがが ぜんスポット ・ラ イトを浴びている。その偶然な契機を与 イム グ寸 〆チ ク
ノピ
2 Jジム
えたのは意外なことに一本の映画だった。
される。その時、ドラマのパック・ミュー
ジックも共に伝達される。限られた観客
を相手にする演奏会とはその伝播力にお いて比較にならないのである。
去る五月七日、 K B S国楽管統楽団が
仏教音楽の新たな姿、 朴範勲の﹁普賢行願頒﹂
る。映画の初めから終わりまで絶え間な
林権沢監督の映画﹃西使制﹄がそれであ
第五七固定期演奏会 (KBSホール)で演
ディが、われわれの心の底に潜んでいた
熊らも名を連ねている。また、演劇音楽
舞踊音楽の方では、朴範薫が多くの作 品を書いてお り、黄乗葉、金永載、白大
奏した朴範勲作曲の国楽交成曲
なことは、根本的に、韓国語と韓国語文
既存の 一部の﹁賛仏歌﹂が西洋音楽式の音
楽管絃楽団と合唱のための音楽である。
などを通じて、国楽の香りの濃い背景音
章を、西洋音楽の旋律とリズムに無理矢
では金鉄浩らがたゆまず作業を繰り広げ
楽語法で作曲されたのに対し、この曲は、
楽をつくりだした。
中央管絃楽団の常任指揮者、朴範勲氏
く流れるパンソリのメ ロディ 、その メロ 韓民族固有の音楽的な心性を呼び覚まし ているのである 。 映画﹃西便制﹄ は 、われわれが喪失した メロディを再び取り戻す 一つの契機を設 このように重要なことを成し遂げること
けてくれているのである。﹃西便制﹄が、 ができるのは、これが映画という大衆媒 体の力を背景にしているからである。 最近、国楽界でも映画や TVドラマ ・
サノポ
舞踊・演劇などの音楽製作に参加する作 曲家がますます増えてきている。映画部
は、悲しい内容を軽快なメロディにのせ
﹃照りつける日差し﹄などを通 じて早くか
門においては、金永東が﹃森浦に行く道﹄
て歌っているものが少なくない。歌の内 容と音楽的な形式が全く合わないのであ る 。 また、歌調の節回しとリズムが、音楽
理にあてはめようとするところから生じ
るなど、多くの国楽作曲家がこのような
国楽の語法をもとにしながらも、これを
の調子とメロディに合わない。このよう
てくるのである。相互の特性が違うとこ
実用音楽に関心を見せている。 入れる、?えで最も大きな障害要因となる。
の歌を完全にわれわれのものとして受け
いる膨大な伝播力を考える時、大変望ま
これは、このような大衆芸術の持って
特徴である。これまで方向感覚を喪失し
新たな観点で拡大・発展させているのが
てきた仏教音楽が、これらの音楽を契機
従って、パンソリで﹁裏面﹂を求めること
にして、再び自分の位置を取り戻してい
や、大衆歌謡から歌調の内容にマッチし
しいことである。例えば、TVドラマ 一 篇は全国の数百万の視聴者に一時に伝達
の思想と教理を盛った曲で、大編成の国
ろから来るこのような異質感は、それら
﹁普賢行願領﹂は、やはり実用音楽の 一つ と考えることができる。この曲は、仏教
ら作業をしており、TVドラマでは、朴 範勲、金永載らが、 ﹃ =園吾、円館村随筆
て歌い、楽しい内容を悲しい調べにのせ
しかし最近はやっている多くの大衆歌謡
込まれなければならないというのである。
①李仁源
演劇などの音楽制作 参加する作曲家がますま寸増えてきている。
ι
国楽は 各 音 楽 分 野 に 進 入し ている
の
78
曲して使うとすれば、その儀式に参加す
あった 。特異なの は、この日二部族のフ
合った新たな音楽が切に必要である。誕
テンポが大変早い時は、三分拍が二分拍に
拍系統の 音楽が主流をなしており、曲の
一 一 分 が主流をなす西洋音楽とは異なり、 一
韓国の伝統音楽は、二分拍系統の音楽
を置いた音楽と見なすことができる。
る。二 分拍系統の 音楽は主に呼吸に基礎
る二分拍系統の音楽とは大きな違いがあ
統の音楽は 、 一拍を二つに分けて演奏す
一拍を三つに分けて演奏する三分拍系
リュ lト演奏曲が、主に三分拍系統の音
る人々の信仰が一一層深くなるかもしれな 、 。
楽だったとい、フ点である。
'V
生活音楽の必要性を悟らせた ﹁インディアンの踊りと歌﹂ これら宗教音楽だけでなく、われわれ
生日や結婚、還暦、それに葬儀など 、日
の日常生活の中でも、われわれの情緒に
常の様々な慶弔時において、われわれの
れたインディアンの音楽が、ゆるやかな曲
は大体において三分拍に、また速い踊りの
変わる特性がある。これは、この日公演さ
曲は 二分拍にそれぞれ演奏されたが、韓国
ることなしに使われているのは考えもの である 。また、このような生活音楽の製
情緒にマッチしない音楽が何らろ過され
作は、他の音楽部門に優先してまず行な
の伝統音楽が 三分拍が二分拍に変わるのと
は、われわれのこのような音楽的状況に
(国立国楽院 小劇場、五月一八1 一九日)
国立国楽院の招きで来韓演奏会を開い た﹁アメリカ ・インディアンの踊りと歌﹂
インディアン音楽に対する筆者の先入観
似点を見出すことができたのは、単なる
止などにおいて、韓国の 音楽と多くの類
また、長息音の処理や旋律の進行と終
同様なのではないだろうか。
わなければならないと思われる 。
対して、示唆するところが少なくなかっ
努力は、これら仏教界だけではなく、一
われわれのメ ロディを取り戻すための
に翻訳されており、祈稽の言語などが韓
は、根本的にキリスト教の教理が韓国語
た(讃美歌)が説得力を持つようになるの
このように国楽の調べをもとに作曲し
ろうでありながらも、あたかも恨を宿し ているかのようにもの悲しく、音階は国
われてきた楽器である 。音色が大変れい
豊作への祈願、その他宗教的な儀式に使
韓国の短笛に似たこの楽器は縦に吹く が、男 ・女の問で求愛する時、病いの治療、
が印象的であった 。
通じて伝えられてきたフリュ 1ト の演奏
上映から始められたが、特に古い歴史を
アンの歴史と生活を記録したスライドの
されたこの日の公演は、これらのインディ
コタ族イ ンディアンの踊りと音楽で編成
プエブロ族インディアンと北部草原のラ
ディアンの世界観を見極めるのに十分
調和と共同体的な生活を重視するイン
う に と 祈 願 す る 踊 りを踊ったケビン ・
て、世界の各民族が互いに平和に暮すよ
リングからなる二八箇のフックを利用し
の光景を 音楽で表現し作曲したというフ リュ lト曲﹁エルク鹿の愛の歌﹂や、丸い
姿を見てとても矢を射るに忍びなく、そ
ツリ l ・コディがエルク鹿の踊り戯れる
特に、フリュ lト演奏のうちロパ lト ・
のせいだけではなさそうである 。
部キリスト教界でも絶えず進められてき
国語で行なわれるということにある 。キ
楽の五音の音階とほとんど同じ感じで
北米原住民の中で、南 ・西部のジュニ ・
た 。
た。李成千 ・金容万 ・全仁平 ・文在淑ら
リスト教の色々な儀式を行うにあたって、
に、だんだん拡散する傾向を見せている。
を筆頭にする多くの作曲家が、国楽語法
韓国の言葉と文章にマッチする音楽を作
るかに見、える。
に基づくキリス ト教音楽を作曲しようと
だったと 言える。.
ロックの﹁フック踊り Lなどは、自然との
試み、このような努力はキリスト教全体
79
用
用 J
-t
( 1)
印刷術と切η離せない関係ーがある
年代に胎動した韓国の現代版画以、
z
韓国現代版画の形成と 展開 九五0
c:
ろ
品,,、 画は、印刷や製紙技術の発達 など、複製機能による大量情
画の 先覚者と言われている 何名かの作家
韓国現代版画の導入期においても、版
さらそ、つである。
いう媒体を通して表現した時には、なお
うちの 一つである。特に作家が 自分の造 形意志を一つの方法にだけ頼らず、版と
を受けていながらも多様な様式の絵画の
ある。しかし版画は色々と技術的な制約
ついて消極的な評価があったのも事実で
係があることから一頃、版画の芸術性に
刷るという点で印刷術と切り離せない関
の脈絡を同じくしている 。しかし版画が
位置を占めたのは、現代美術の出発とそ
ありながら、絵画史に新たな領域として
広く普及してきた 。版画が、純粋芸術で
EEF/報というメリットを 生かして
r 4 I F υ
に韓国の伝統版画も、いつかは総体的な
の美術史に占めていた重みを思えば、特
て登場した例があり、 ﹁ 鮮展﹂を中心にし て版画が出品された記録がある 。 四0 年
と 三0 年代に 亘 って、雑誌 の表紙函とし
つの転換期であった。六 ・二五戦争を経 て、新たな西ヨーロ ッパ文物の流入によ
なものから近代的なものに移っていく 一
一九五0 年代の韓国美術は、前近代的
の作品はほとんど残っていない 。
つが、個人的な趣向を抜け出すことがで
研究がなされなければならないであろう。
韓国の現代版画は、絵画の分野のよう
代に日本に留学した崖栄林、鄭圭らによ
に伝統的な様式と現代的な様式が共存し
このような流れから、国立現代美術館が
でさえ、彼らの活動領域は、元来、絵画
ているのではない 。 これは日帝による朝
る 版 画 と 雲 成 ・崖志遠らの活動が目 立
や彫刻あるいは工芸であった 。大体にお
鮮時代の没落と儒教的理念の崩壊による
資料史的な視覚の上で企画した︿韓国現代
いて、韓国現代版画は 、 このような作家
ものである 。韓国現代版画は、 二 0年代
きなかったばかりでな く、不幸 にも当時
ヰト 寿根作、 r木と女たち」。木版画 43X33cmo 1950年代
版画四O年展﹀の意義は、実に大きいと 言 わざるを得ない 。
により一九五0年代から胎動し始めた。
一
している。かつて、 日本の版画が 、 世界
しなければならない未開拓の領域が散在
しかし、韓国の現代版画は、まだ踏査
備するようになった 。
どに力付けられ、急速な発展の土壌を準
多くの作家の積極的な参/加と版画教育な
ような認識の中でも韓国の現代版商は、
どに、見下げられたこともあった 。 この
頃、版画は純粋芸術でなく印刷レベルほ
も版画に対する没理解と偏見のため、
とその軌を一に し ている 。しかし不当に
編成の時期を迎えながら、韓国現代美術
る覚醒と再 な戦乱を経て、文化全般に百一
五 0 年代の韓国現代版画は、その悲劇的
① 予明老ソウル大学酒造設授
版画教育じ勢いづけられ急速に発展している。
ことから見下げられたこともあったが、作家の旺盛な活動と
と
S霊
F 型 l-t
同,
ひ
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。
80
あれ、近代的な自覚が生じるにおよんで、
る文化意識の拡散と、自意であれ他意で
迎えたが、大きな反響を得られないまま
も、至って個人的な趣向ではあったが、
始めた。これに力を得た韓国の現代版画
で、潮のように押し寄せて来た新たな思
アlトなどの主義と主張が乱立した時期
主義の退潮と共にポップ・アート、オプ ・
一九六0年代は、アブストラクト表現
解体してしまった。
数人の作家によって古版画の蒐集が行わ
潮が、いつの間にか韓国の現代版画でも
文化全般に亘る変化と再編成が行なわれ
れ、その一方では西ヨーロッパの思潮に
発酵されつつあった。特に西ドイツ現代
現代版画展など、水準の高い海外版画展
マッチした版画に対する個人的な関心が 特に一九五七年、最初の国展で雀栄林
がこの時期に催され、韓国版画界に至大
版画展、アメリカ現代版画展、ブラジル
の木版画﹃裸体﹄と﹃楽﹄が受入れられ、同
高まり版画の製作も活発になり始めた 。
じ年劉康烈の作品がスイス国際版画展に
で一九五八年︿シンシナティ国際色彩石版
たな認識が芽生える ようになった。次い
際交流の 一翼を担うことになった 。 この
におよんで、版画が一足先に現代美術国
国の版画が出品され、金宗学が入賞する
六六年の東京版画ビエンナ ーレなどに韓
また、六三年のパリ ・ビエンナーレ、
な影響をおよぽした。
画ビエンナ ーレ﹀に韓国の版画が始めて紹
出品されるにおよんで、版画に対する新
介され、李恒星が受賞するに及んで、版
時期の韓国現代版画の技法的な形式は、
セ ット技法による石板函も目についたが、
木版が主流をなしていたのであり、オフ
主流をなしていたのはシルク ・スクリー
そして五八年、劉康烈、鄭圭、崖栄林、 李相、朴城男、任直淳、張利錫、ポ鍾夏、
画界は大きな刺戟を受けることとなった 。
車撃、金貞子、李恒星らが韓国版画協会
ンによる版法だった 。当時、シルク・ス
クリーンの流行は、七0 年代韓国画壇の ポップ ・アートとミニマル ・アlトの 受
を創立することになった。彼らが、当時、
容に先立つものだった。
版画を手がけた既成世代の全部であった とし ても過言ではない 。 この協会は、そ
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れ以来、新人公募展を通じて新進世代を
李桓星作、 『 影{ 象』 。石版画。 ω X8Ocm,1957年
して深い関心を持って 一つの運動に発展
させた民衆美術の出現などは、この時期
六0年代に、版画が国際的な普遍性を
八0年代の韓国現代版画の 一般的な傾
に現れた代表的な様相であった。
多くの作家が技術的な訓練を積むため海
互浸透の現象が際立って見えたという点
向は、ジャンル概念の打破と領域聞の相
獲得しながら、韓国の現代版画も一層活
外に進出したのである。そして、後になっ
い技術的制約を乗り越え、版画の固有性
である。特に版画の持っている少なくな
だけを専門にするギャラリーの出現など
画材料の国産化と版画工房の出現、版画
な増加と版画が普遍性を帯びながら、版
版画の社会的需要による版画人口の急激
それに、この時期の際立った様相は、
という認識から出発したものである。
大化が幅広い表現領域に拡大していける
性自体を否定するというより、実験の極
主流をなしたが、これは単に版画の固有
を打破しようとした実験的なすうせいが
を担当するか、または作品を発表するこ
一部デザイナ ーによるシルク・
がそれである。特に、官展体制の企画展
とか美術大学展示会などに版画部が新設
され、大学に版画だけを専攻する版画科
が増える 一方、数多くのグル ープ展、企
画展、国際交流展、個人展など、量的な
膨張と版画の質的な成長は、この時期を
展と共にサンフランシスコで開催された
や国際的な感覚と表現技法を十分に備、え
な悪条件の中でもたゆまず成長し、いま
韓国現代版画は、去る四O年の問、色々
表す代表的な様相である。 展、総合芸術誌の創刊などにより、新た
るようになった。しかし一一 一世紀を目前
な転換期を迎えることになる。
版画の国際化への背伸びでもあった。特
ている。版画の需要の急激な増加に伴う、
えなければならない数多くの課題を抱え
に控えた韓国の現代版画は、まだ乗り越 の多様化により、版画が技術的な制約を
に七0年代は版画の個人展とグループ展 がかなりの数に上ったという点と、版法
韓国現代版画 一 O 人展などは、韓国現代 意識の転換と発展の土台を作ったのは、
このような状況の中で、韓国版画界に
代版画も目を見張るほどの成長を重ねた。
七0 年代に創設されたソウル国際版画ビ エンナーレと現代版画グランプリ展なら
ら流入する偽作品の問題、版画材料の度
国性の回復のための自覚を踏まえて、単
一九八0 年代の韓国画壇は、いわゆる
を過ぎた海外依存、一部の形式的な専門
七0 年代の韓国画用は、韓国的または韓
ミニマル系統の退潮と極写実主義の影響
教育など、これらは今後版画界が克服 しなければならない課題である。 .
いわゆる注文による版画の製作、海外か
に次いで、ニュ i ・ペイ シティング系列
克服したことが意義深かったと言える。 は韓国現代版画の国際化と多様化の時代
の新表現主義的な傾向が主流をなすよう
型版画ビ エンナーレなどである。これら
な時代性を取上げて論ずることが無意味
を開く足場になった。七二年のペニス国
になる。特に社会的、政治的な問題に対
びに八0年代に創設された ﹁ 空間﹂国際小
であった時代である。七0 年代の韓国画
エン ナIレと七九年韓国美術五OOO年
際版画ビエンナ ーレ、カルピ木版画トリ
わゆる具象 ・非具象・抽象などの形式的
民展時代を聞く各種 の招待展とグル ープ
壇は、美術ジャーナリズムの拡大および
色主義の概念美術が主潮をなしつつ、い
増加と経済成長の力にあずかり、韓国現
一九七0年代は、急増する美術人口の
る 。
外に高め、これを拡散させていきつつあ
どを通じて、韓国現代版画の位相を国内
なって、毎年新人公募展と国際交流展な
会は、現在 一一一O 名以上の会員が中心と
画の新たな章を聞きつつある韓国版画協
このような状況の中でも、韓国現代版
れる。
されたことから来たのではないかと思わ
スクリーンがデザインの媒体として活用
ことと、
な木版画が印刷と不可分の関係にあった
傾向があった。多分それは過去の伝統的
物、デ、ザインの 一分野に見なそうとする
のジャンルと考えるよりは、単なる印刷
する認識が大変低く、版画を芸術の 一つ
六0年代の半ばでさえ、まだ版画に対
一つの土壌づくりでもあった。
急速に発展させた地ならし作業であり、
とになるが、これは、韓国の現代版画を
て帰国し、大学の美術関係科で版画教育
気を帯びるようになった。この時期には
45X弱 cmo 1犯4年 o
呉潤作、 『 祖 母.J
82
Korea Foundati on
k p z ×︺句研
問。岡山間
コリ ア・フ ォーカス) (韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌穴 OEW﹀
んに韓国関連の情報を提供することによって
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(コリア ・フォーカス)を刊行しており 司 己ω は日本のみなさ ます。﹁コリア・フォーカス L 韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 当財団は﹁コリア ・フォーカス﹂が日本の各 界各層にとって韓国に関する有益な参考資料 になるものと信じております。 ﹁コリア・フォーカス﹂は、日本語版のほか に英文版関 O 何 回 ﹀ 司O ( U C ωも刊行しております が、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係 雑誌、学術誌などの刊行物から翻訳、転載し たものです。 韓国の時事問題に関する情報位記事を幅広 く選んでおりますので、韓国の現況について 広い視覚を提供することでしょう。と同時に 読者のみなさんは韓国の政治、経済、社会、 文化などの各分野に亘る記事や国際問題に関 する見解、韓国に関する重要な資料、主な出 来事の日誌などに接し得ることでしょう。 ﹁コリア ・フォーカス Lの購読についてのお 問い合わせは左記の住所あてにお願いしま す 。 韓国国際交流財団出版部 一四七号)
(大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二 電話一八 二│二│七五二│六一 七 一 FA X一八二 l二│七五七 │二 O 四七、 二O 四九
韓国国際玄海財団のフ エロlシップ ・プログラム
韓国国炉ぷ人流γ財団は一九九五年度 ・韓国研究フエロ lシップおよび韓国語フエロ lシップを次のようにご案 内いたします。
韓国研究フエロlシップ
韓国国際究流財団は、人文 ・社会制笠子および芸術分野で韓国研究に対するフエロ lシップを提供いたしてお 句ます。このプログラムは海外の没者および適格の専門家が一了一0カ月の問、韓国で研究を行う機会を与え
るために設けられました。フエロ lシップを与えられることが決まった方には、韓固までの件復襲零金およ
び研究期間中の滞在費が支給されます。申請ご且布坊主の方は、所定墜孔の申請書二通と研穿訂画書を作成のうえ、 一九九四年七月一三日までに韓国国墜父流財団に提出してください 。選抜の結果は翌年の 一月末までに通報い たします。
韓国国墜ハメ流財団は、韓国語学習を希一望する海外の大学生 ・学主主ねよぴ適格の専門家に対して、韓国詰フエ
韓国冨阻フエロlシツ﹂ブ
ロlシップを提供し、六i 一一一カ月問、韓国内の大学で韓国訪講座主桑できる繋喜与えております。フエロ l シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一つの韓皇量座を受講することにな
でに通報いたします。
り、茎顛問中には、授業料と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所{亙笑の申一重星逼作 成の、?ぇ、 一九九四年七月一 三 日までに韓国国際交流財団に提出してください。選抜の結果は翌年の 一月末ま
海外での韓国研究に対する玄援
韓国国墜父流財団は、海外の大学、研窒附などで韓国に関する研究や韓国語聾座の開設などを行な、つ場合、
これを守護しております。人文 ・社会費子・芸術分野のうち左記に該当するプログラムに対して守護里事長 け什けてお杓手品す。 ①韓国学、韓国語など韓国関連の講座間割鼠および拡大。
**
Z たは研究費守考 ②韓国学研究の大学院生虫びに教授に対する翠玉 ま 右の申請のしめ切りは一九九四年七月一 一一一 日で、選抜の結果および支援額については、翌年一一一月末までに申
請者に通報いたします。
所{高空入の守護申請書および案内書は、韓国国墜一人流財固または現地の韓国公館で求められます。
申請書および案内一文などについてのお問い合わせは、次の住所宛にご連絡願います。
大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函一一一四七号 O四九) (電話一八二│二l七五三l三四六二 ・FAX一八一了二│七五七│二O四七 ・二
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~fl .Ji! ~1 H
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“私 のエレ ク ト ロニク ス・カン バスは
ビデオ・アートの巨匠一一ナムジュン・パク
レオナ 1レド・ダピンチのように精巧で、 モンドリア ンの ように奥深く 、 ピカ ソのように自由で、
彼のエレクトロニクス・カンパスには
ジャ 7 ソン・ボーラッ クのよう に大胆で、 ルノワールのように色彩豊かで、 ジャズパー ・ ジョー ンズのように詩的だ。
縫国ソウル市中区太平路2街250三星本舘ビル TEL 822-727-7114 FAX 822・ 727・ 7851
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