1994年韓国訪問の年はNOVISA: でご旅行を。
今年、 1994年はソウルが首都に制定されてちょうど600年になりますL 私たちはその記念すべき年を「韓国訪問の名 (VISIT KOREA YEAR 1994) とし、世界のお客さまをお迎えするごととなりました。ひとりでも多くの方々に私たちの国を、心で、体でL感じていただごうと、 さまざまなイベントやフェスティパJ レを全国各地でご用意いたしました。どうか心ゆくまで私たちの国 KOREAをお楽しみくださ p 。
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いちばん近い国だから。
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制緩支社 〒醐札帳市中央区北 1条函 3丁目 (ILI1 I MNビル 7陪) TEL : (011) 110 醐 1 F AX : (Ol1 I11Q- 醐3
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福岡支社 〒 811福岡市1特 即 時 駅 前 1- ' -1( 綱目ビル 醐 ) TEL 畑町川ト 7 mF AX :.<即H 7H 015
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大阪支社
〒: . ,大阪市中央E 本町 3-' -9( KAL ヒル 醐 } T E U情) 加ー剛7 F AX :( 冊 珊 咽3
ラ 々 民 -Aだ ト刷何ポに︿ スの婦も川
干1凶東京・千代図E 有楽町 1・ 4・ 1(三11ピル1陪] T E U叩} 恕舟醐, F AX :( 回 } 捌 蜘
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東京支社
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│ 韓国の美
すっぽん紋様の敷物 0 : T,C.嘩で編んだござ)
HUZ 的屋︿@
僧侶が蜘扶坐(胡座)を組んで座禅をする時
直径一O五叩国立民俗博物館所蔵
は前生(前世)、後生(後世)はもちろん逢かな
歳月の流れが頭の中を駆け巡るが、現生(現
世)を生きる僧侶の時間と空間は常に大きf i峰
はん
の調和が優雅である。すっぽん、細胞
などを表現しているのであるが、各諺
と茶色だけで水中に遊ぶ魚やおしどり
の敷物に全て込めているのである。白
味をもち、俗世に生きる人々の念願をこ
の花は平和を、というようにそれぞれ意
鯉は立身出世を、かにと海老は忠節を、蓮
ぽんは長寿を、おしどりは夫婦の和合を、
でいるところが独特である。中央のすっ
っぽん、鰹、蓮の花などの紋様をつない
そっくりの彫刻を張りつけたようにす
に長くつないで編んだもので、本物
などをよりねじって一本の糸(ひも)
や技法が莞草工芸とは全く違ってい る o馬 、麻の皮、ワングル、韓紙
美しさをみせる力作である。編み模様
する座布団で朝鮮王朝時代の草葉工芸の
仏(仏に礼拝すること)する時にだけ使用
このすっぽん紋様のござの敷物は高僧が札
布団の 上にとどまるのみである。
一
一 ﹃
などに使われる茶色は榛の木の実で
天然染色したもので、紋様が力強く立
体感に優れ、あたかも生きていて動きだ
すかのようである。二円む年前に僧侶が編
んだという朝鮮王朝時代のすっぽんの紋様は
のみである。この敷物へざぶとん)は韓順子氏
現在-全羅南道昇州の仙巌寺にただ 一つ残る
空︹む年ぶりにその技法を再現し、一九八
七年に伝承工芸大展に出品、大統領賞を受け
たものである。 '
(FromChoi Sung-ja'.s Li nes, CoJ ors and S,仰向- The Korean Tradi ti on ( Hanguki i i mi ), ] ishiksanopsa: Seoul , 1993)
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KORE州 山
2民俗手工芸
金活の知恵と風流が生んだ、文化遺産
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r1J , 翁J と/11 ' ばれる、この竹製品は竹 ~.
て編むわけだが、写' J ' H孟編んでいる 場曲1である。彩箱は背から衣服入れ の行:ji や針箱、野外m弁当など、鋸
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ft:-j ι のI. I iti l#n' bC L. で変.1#tlit でs た。 繊維な緩み方、色染め、波機入れ
など、製作過程がややこし〈手Q 司 畳 かるだけあって、出来上がりは絡巧 かつ恭やかで、諸事1め取れた袋L い 殺伐と共に口をま三しませて〈れる。
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あたかも花火でも見ているかのよ
列な 1 暖色の手lJ i初雪見代の抽象 うな強1
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6 先人たちの知恵、 真夏の民俗生活工芸
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24 竹工芸 林利司
熔画 。 尭き絵)
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鞠良文と金基燦 その消えゆく技術
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Vol 7,NO. 2, Summer 1994 目
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コリアナ
1994年夏季号 1留 年 8月 8日登録 叫 1033号
1捌 年 6月dl 日 印刷 1捌 年 6月 31日 発行 ( 毎年 3, 6, 9, 12月 4回発行) r KORE ANA( コリアナ )J は健国国際交流財団地勢
行 している季刊誌です。従って版権はすべて本
ラ4 ソウルの古い橋 添永倹
財団側にあり、本財団の承諾なしに転車主・複制 することは禁じられておりますのでご了承くだ さい。
58
また、本総掲載の記事・論文の内容は、本誌 編集者または本財団の管見ではありません。
発行人兼縄基人
孫柱燥
援国国際交淵掴理事長
INTERVIEW
パンソリ 一代 、 金素姫と朴東鎮
編集長
柳済擢
72
アー ト ・ ディレヲヲ ー
朴昇雨 発行pJi
穂国国際交司! f . I I オ団
と kvm
酬し
定価 5∞円 (3, 5∞ウ ォン)
ωた CE mし = 百
印刷所
三塁文化印属附式曾祉 ソウル特別市城東区華陽洞 167- 29 ・電話: 82- 2- 468- 0361- 5
金竜雲
の
A RT SPA C E 大韓民国ソウ ル特別市鍾路区通義 i同35・11 ・電話 : 82- 2- 734- 7184 . F AX : 82- 2- 737- 9377
二O 世紀音楽の驚異、一三歳の天才バイオリニス ト
一旦
編集デザイン
張71 < 宙の天才性と芸術│ 笠
税 7で ﹂権
大韓民国ソウ ル特別市中央郵逓局 私書函2147号 - 龍 吉: 82- 2- 753弘 62 2 ω9 • F AX : 82 ~ 2-7504
世界の中の鶴面蔓術家
79 舞踊人生三十年を決算する 鞠守鏑
金泰i原
ろし
え 京
を、真っ白いからむしの装いで横ぎる女人の だとか気だてが良いとかの細かいことはさて
姿を思い浮かべてみよう。その女性がきれい おき、その清涼な室思は見る人の心を捕らえ ずにはおかないだろう。一輪の蘭や水盤の自
マにした詩は、いつの時代にもあふれるほど
すだれを上げて眺むれば
パール(すだれ)は、戸を開けて過ごさねば
夏の情緒を歌ったものである。
と、歌っている。いずれもすだれ越しに見る
南北に青い山々が囲む。
祭礼雅楽のひとつ、﹃洛陽春﹄には、
ある。
刺繍のすだれにのんびりもたれて、
ならない夏になると、部屋の中が丸見えに
戸を開け放ってもすだれを垂らせば、部屋の
宅)の欠陥を補うために作られたものである。
なってしまうハンオク(韓屋一純韓国式の住 という一句があり、また高麗末期の円孟台、李
柳の花、風に舞うを見る。
穀も、
ぐあいで中が見えない。そのせいか、パ 1ル
中からは外がよく見えるが、外からは光線の 東屋で、目をさませば、
草の乾燥に使われるパ lル、魚労用のトン
用具として用いられるパ lル、海岸地方で海
ものをはじめ、こしの戸に垂らすもの、製紙
た。その種類も、夏に戸口に垂らす納涼用の
このようにパ lルの用途はいろいろあっ
うに珠簾を垂らして政務に干与した。
は百官との聞に外側からは内側が見えないよ
が不文律となっていた。このため、大王大妃
性が政治にの表舞台に出ることはできないの
後見した。しかし当時の社会においては、女
族)の長である大王大妃(王の祖母)が政務を
が度ゲあったが、そんな時には宗室(王の親
は、王の早死が頻発し幼い王が即位すること
三一百葉も似たようなものである。朝鮮王朝で
受命﹂、即ち王の御命を受けておもむいたと 記録されている。 ﹁ 簾前﹂は、王の前とい、っ意 味に使われているのである。 ﹁ 垂簾聴政﹂とい
を救い出すために高句麗に向かうとき﹁簾前
の忠臣、朴提上が人質となった前祇王の王子
ら引き継がれてきた。﹃三国遣事﹄には、新羅
だ。こうした観念は、はるか三国時代の昔か
のぞき見ることのできない聖域のようなもの
測れるようにすだれの内側は 、他人が勝手に
また、﹁簾内﹂、﹁簾前﹂という言葉から推し
法にもとる。
る時にも内側でする。外で巻き上げるのは作
ると、これらは瞬時に、調和の美しさに変貌
z z f u o @ fω
は戸の内側に垂らすのがしきたりで巻き上げ
然石にしても同様である。すだれを通して見
よ的 D
いくらいである
太陽がカンカンと照りつける真夏の昼下が
囲し
部屋に寝そべり、すだれの向こうの板の間
のて
散り落ちた花のどかなり、
ー
簾の編み方
とで
挙にいとまがな
工のすだれを垂らしてうちわを使いながら、
の 、 製紙用具と
五 高 たは漁筆) 等、枚
り、サランパン(離れ屋の主人の居間)に竹細
の戸に垂らすも
とし
ンバール( 筒簾ま
ふとすだれ越しに見える木々や草花に目がと
はじめ、こし( 輿)
るも
ノ ル 、 魚労用のト
まるとたちまち暑さも忘れ、われ知らず詩情
納涼用のものを
き E f乍 か
に使われるバー
こうした詩情は、本質的には木々や草花か
に戸口に垂らす
雰 J京
方で海草の乾燥
に駆られるのを覚える。
その種類も、夏
する。それでなのか、パ ール(すだれ)をテ l
バール、 海岸地
しく見えるところに、すだれの情緒と役割が
いδ いδ あっ f.=。
1i き して用いられる
らくるものだろうが、すだれを通して奥ゆか 加味される。いわば、すだれの情緒とは暑さ
パールの用途は
8
パール(筒簾または漁釜)等、枚挙にいとまが
ないくらいである。とはいえ、パールが広範
に生活用具として用いられ始めたのは朝鮮王
は貴族階級の専有物であったようだ。宋の使
朝の時代に入ってからで、中世の高麗時代で
臣、徐競が著した﹃高麗図経﹄ を見ると高麗の 重臣の高楼巨閣には、部屋ごとに豪蓉なすだ
れを垂らしているが、庶民の住居には見られ
なかったとの記述がある。
これはパ 1ルの歴史が暑さをしのぐための
気候条件によって作られたというよりは、中
いる。今もそうだが、当時も名門貴族の生活
国から伝来したものだということを示唆して
とは文明の源のように考えられていた中国の
生活様式を模したものが多かった。パールも
そうした伝来の一つであろう。
しかし、だからといって中国のすだれと我が
鶴などを刺繍したり、玉を糸に通したりする
国のパ lルが同じなのではない 。山水画や竜、
竹簾は単に日光を遮る機能だけが
韓国伝統の住居に掛けてある簾
からは我々の性情に同化して簡素で淡白なも
9
装飾的な中国のすだれは、我が固に伝わって
託されているのではない。
表面を平らにならしたあと竹を同じ長
さにそろえて切り、内側の肉を削り取っ
てから何本もの糸状の細い竹ひごを作 る。この竹ひごを細い穴に通して引っ
公し
このように根 気の要る努力 を注いではじ
23
枚が
ぱる 。この作業は五回繰り返す 。こう
主て
ル(すだれ)は、
ば. く 細
めて仕上がる。
絵室
長 を
儲駒官監を 編んで、 いる
がし れて
ので
パき ! あ
10
のに変わ った。パ lルのうち最上とされる細 は特にそ、つである o
簾(細い竹で綴密に作られたすだれ)に至って けひご f -
一分(約三、 三ミリ)の聞に竹薮が四、五本 も見える細簾は繊細の極致を見せる。その繊 細さは、竹畿を細くきれいに削りあげる竹匠 (竹細工職人)の腕一つに掛かっている。パー ルの材料として川竹が愛用されたのもそのた めである。川竹は強靭かつ柔軟で糸のように 細く割っても折れないし、きれいに仕上がる ので、そろいがよく節目がきれいに並んでご
り昨日 │ 回旦田哩墨国 持日計ド Mi
の地の産であった五彩竜紋席は貫主物として
花紋席の最高の産地は慶尚北道の安東で ( こ
朝の末期に記された﹃林園十六誌﹄によると、
一年草 で、その茎 の繊持組織が非常になめら
にでも生息する。 ワングルは渉草科に属する
の名産地である。 この地ではワングルがどこ
王に上納された)、次が黄海道の白川、三番
かでつやがある。その茎の表皮を刃物でそぎ
黒など九色の染料で色をつけ、まる一日清水
とり、これを赤、賞、程、青、緑、ネズミ色、
ソウルの家柄のある家では、竜紋席や白川
江華島ホァムンソク(花蓮)は安東や白川の環
花士事乞使用した。このことから推してみると、
境変化や南北の分断等により生産が中断され
UQ@
たために新たに脚光を浴びるようになったも のと思われる。 いずれにせよ、江華島は今やホ 7ムン ソク 五十 四 三 エ
U︿仏的 ト巴 ︿ 母 ω
八l九尺のものは四名、 一 O 尺から一二尺の
産は二人で編み、五尺から八尺までは三名で、
編み手の数が増減する 。三尺から五尺までの
に浸す 。 こうして色づ いた 表皮 が 柔 ら か く なった時に、 産 の編み機に載せて編む。 ホァムンソクを編むときは、広さによって
目が江華島であっ子百
i i !?;j j H2i i 至= ーー雪 山 12iifii HUZ目 ↑己︿ 。
感じを与える。
く自然な紋様ができあがる。強さでは真竹が 一番だが、節が太く柔軟さが足りない。こん なところに我々は韓国工芸の一断面を見るこ とができる。韓国の工芸は、芸としての特性 よりは生活の要求に応える材料的な特性を貴 ぶ。 こうした特徴は、必然的に材料の産地を 工芸の里とする 。すだれの名産地は、竹の産 地、全羅南道の調停陽である。竹細工の名匠達 たくみ
はことごとくこの地の出身である。津陽郡鳳 山面印岩里に住むパ lルの 匠 の金斗玉翁の
44
で い は 江 ン 字 物 主 な 苦言 こ 九 る 厚 エ三土
話によると、良いパ lルを 一枚仕上げるまで
によって優劣カち央まる( 下)
まず表面を平らにならしたあと竹を同じ長
真夏の韓国家屋の室内( 右)
には最低一O 日は掛かるという。
花ござは、紋様の調和や精密度など
ら何本もの糸状の細い竹ひごを作る。この竹
多彩な紋様入りの花ござ( 上右)
さにそろえて切り、内側の肉を削り取ってか
苧の躍を着てホァムンソク の上に寝そべったり座って いれば、ワンゲルのすべす ベとして冷やりとする感触 がいかにも 「 濠しも U という
引 暑 いこ型と? で涼がワ. t . き が た の 的 い 君 主 し い ン 了f
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自 主
iijj iG?iii7liliii 夏 うクら の よ 宗はし 情 り 註さて 緒 は 主 与さあ カf 、カf る 生ホ敷居 き 7 か間 るムれや とンて離 いソいれ
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ひごを細い穴に通して引っぱる。 この作業は 五回繰り返す。 こうして細くてしなやかな竹
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だ盟主た遼民は ? クるて? 車五もを家土
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ひごができあがれば、すだれ枠に載せる。
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一枚のパ lル( すだれ)は、このように根気の
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!?i iii;;ji;iiji;; 1i i;j?ii;;; 出!?iii E主5
要る努力を注いではじめて仕上がる 。
クるに がの入パ 敷 カf る l
ものには六名がかりである。ホァムンソク 一 枚を仕上げるには大低五日間ぐらい掛かる。
花よ花よ嘆くまい 年変われば春はまた来る。 よく歌われている。居酒屋の女たちの哀秋山が
敷溝団模様の大型の座滞団ロを敷き、全州、っ (
クに、これまたワングルでつくられたポリョ 号に指定されている)の 絵には、馬に乗って
会の生態を赤裸に描いた風俗画は国宝 二 二 五
代の風俗画家、申潤福の雅号。当時の庶民社
また苦心園(一八世紀末i 一九世紀の李朝時
この歌は今も慶尚北道の山奥の慶山辺りで
ホアムンソクの紋様も様々である。 J倍﹂の 字を紋様としたものもあれば、弓や松の木、 人々の心を打つのだろう。
ちわを使いながら清遊を楽しんだ。そうした 通りかかったソンピが川ベリで水浴ぴをして
人たちはこんな紋様の入っているホ 7ムンソ
カササギ、猫などの模様入りのもある。昔の
諸 情遊は昔の両班(朝鮮王朝時代の士底の気風 いる女人を扇で顔を隠すようにしてのぞいて
ヤン パン
にも合ったのか、朝鮮王朝の半ばには大変流 いるが、体面を重んじた昔の人々は、他人に 見せたくない時や見てはならないものを見る
行し、これに伴いホ 7ムンソク宇佐患の需要 も大きく伸びたといわれる。 しかし当時のホァムンソクは今のそれとは 違っていた。材料も今のようなワングルでは い︿き なく蘭草を使用した。今のホ 7ムンソクは、 住宅構造や生活文化の変化に伴い幾恒子的な
7
抽象紋様のものが登場するなど変わってきて いる。
夏になると風通しの良い離れの居間にホ
飾欲を満たすにも扇は手ごろであった。それ で多くの芸術家が扇に絵を描き入れた。 扇
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ムンソク宇佐患を敷いて座り、竹すだれの向
の絵は扇の特性のためか、爽やかな感じを与
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内
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こうの中庭を眺めるソンピ(学徳を兼ね備え
生活用具であり、風流の道具でもある。用途
えるものが多い。滝や、冬の山、花や鳥、蘭、
唱
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ト 、
時などに 扇を格好の道具として用いたし、 装
は株々である。昔は{旦史が威儀を正す道具で
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喝 、
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エ モ 、 会
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た人)の手には必ずといっていいほど扇が握
もあったし、閏房での営みのさい女人がそっ
いるように 一つのジャンルをなしている。
一扇面芸術﹂とも言われて 松、竹など扇の絵は J
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られている。
と顔を隠すにも扇が使われた。また婚礼を終
中でも最もポ
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扇は韓国人にとってなくてはならない夏の
えたばかりの新郎が新婦を連れて新居に向か
みても、太極の紋様が描かれていれば﹁太極
扇は種類もいろいろある。円い扇を取って 一
う時も、哲郎は青扇をあおぎつつ歩いたもの だった。そんな新郎を見ながら居酒屋の女た
雀 扇 Lなどと様々である 。
うふうに﹁五葉扇﹂、﹁蓮葉扇﹂、﹁五色扇﹂、﹁孔
扇﹂とい 扇﹂、形が芭蕉のようであれば﹁芭蕉一
青い扇に青い服、
ちは次のように歌を歌ったという。 花を見やりつ行き過ぎる
も
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我が留の麗は中国と日本で も名声が高く、 李 朝 三 代 王の太宗一 O 年には明の使 臣に白扇ー0 0本を贈り、 七代世握王一四年には扇子 - 0三本を、一五代王の光 海君の時には白扇ニ二四本、 鴻扇一、八三O本を清に贈っ たという記録がある
全州とその周辺で作られる「韓国扇」
12
に敷き、あおげば風を起こすをど、いろいろ
で安く実用的であり、座る時は座蒲団代わり
ピュラ!なのは竹で作った﹁八徳一廓 で L 、丈夫 入 また油紙を張ったものは﹁温一扇﹂、絵を曹 c
ものは 寸 広辺扇﹂狭いものは 寸 狭辺扇一﹂という。
O本以下は﹁小扇 と 三 L 称し、広げた面が広い づくと扇を贈る風習が盛んだった。扇の名産
いう言葉があるが、朝鮮時代には端午節が近
﹁端午の贈り物は扇、冬至の贈り物は暦 と L
の地域のものより柔軟さに富むといわれてい
しさに理由がある。金州と南原地方の竹は他
しているのは、何よりも竹の質と作り方の難
地である全羅道や慶尚道の観察使(今の道知
月までの聞に切り取ったものでなければなら
る。扇に使、つ竹は、旧暦の九月から翌年の二
あり、 鼠 涜 の 道 具
でもある 電 用途は
車華々である 。 昔 は
宮更が威犠を正す
れたものは﹁画一扇 μの名がつけられ、基女が使 八仙女扇 ﹁一 うものには ﹁ 日月扇﹂、 一 一 仏 扇 ﹂ 、 ﹁
事)は、国王に毎年極上の扇を作って献上し、
の効用があるのでこの名がついた。しかし何
い夏の生活用異で
といっても我が国の代表的な扇は、全州の﹁合
ない。この期間の竹が虫食いもなく良質であ
L
国王はこれを朝臣たちに一本ずつ分け与え
てなくてはならな
竹切れを撲さ合わせて扇の枠ができあがるま
扇を作るには手数がかかる。にかわで薄い
などがある、このほか広げれば傘のように円
,荏由
的XE
竹扇 Lであろう。扇子の代名詞格ともいえる
o 平z d
では、まず竹を割り、苛性ソーダで漂白して
から節を削り取るなど、いくつもの過涯を経
なければならず骨を細くきれいに仕上げるの
にも数十回の玉手﹄必要とする。こうして枠と
骨ができあがると、それをきれいに並べてそ
の上に障子紙を張るのだが、色扇や油扇の場
させる。こうした全ての過程にはおよそ三ヵ
合は色を塗るか、荏の油を塗って=百問乾燥
月掛かり、作業は盆奪行われる。
扇にまつわる逸話もたくさんある。﹃三国
史記﹄には高麗の初代玉、王建が国を創建し
たとき、彼の宿敵であった瓢萱(後百済の始
キセ〆
祖)が孔雀扇を贈ったという記録があり、ま
た朝鮮王朝の宣祖王の代に詩人の林悌は妓生
(芸妓)の黄真伊に七言節句の詩を書き入れた わる。
一扇を贈って、熱い恋心を訴えたという話も伝
我が国の扇は中国と日本でも名声が高く、
李朝の三代王の太宗一 O年には明の使臣に白
にかけておよそ千万個の扇一が作られている。
の風習は今も名残りを留め、毎年五月と六月
に残っている。
と日本の扇を六人換したという記録が王朝実録
という記録がある。また日本とも我が国の一扇一
扇二二四本、油扇一、八三O本を清に贈った
一本を、一買い王の光海君の時には白 子 一O一 一
δ 本を贈り、七代世祖王一四年には一扇 扇一ハ
δ 万個、 扇子は全羅北道の全州地域で担行 約四の δ 万個がそれぞれ作られており、この ほか忠清南道の江景や慶尚南道の密陽などの このように扇の生産が全州と南原一帯に集中
竹夫人も竹で作った避暑用具の一つで、高
円型の団扇は同じく全羅北道の南原郡一帯で
扇の用途はいろいろある
地域でも国扇や扇子が少量生産されている。
13
伝統の宴会でも扇は必手言品である
るからだ。
われた。
た。こうした習わしは民間にも伝わり、春に
を隠すにも扇が使
形になる﹁輪扇一﹂というのがあるが、これは扇
い女人がそっと顔
なると贈り物用の扇を大量に必要とした。こ
積房での営みのさ
子の中でも特殊なものであろう。
道具でもあったし、
合竹粛にも、材料や産地によって呼称が異な る。扇 一子の骨が五O本以上のものは﹁大扇 、 L
扇は韓霞人にとっ
いの円筒形に編む。形が大体整ったら再び炭
加熱しながら長さが四尺半、直経が 一尺ぐら
麗の半ばから使用された。これは竹を炭火で
節操を、竹に託して説いたものといえよう。
として描かれている。性理学に基づく女性の
し竹夫人は操を守り通して一人で生きる節婦
夫の宋大夫は家出をしたまま戻らない。しか
職に就いている人につける称号)に嫁ぐが、
く繊細なものであることはなかったろうし、
いとすれば、苧の服や麻の服は今のように薄
のと考える方が妥当であろう。もしそうでな
りは、それらを使用する民族の時好によるも
ているのは、その材料的特性に よるというよ
秋や冬のまた異なった趣のものに発展するこ
火で加熱して茶色に焦がし、水にふやかした
ともできたはずである。いわば、民族の噌好
大豆をひいてその汁を塗るか漆を塗る。竹夫 人にはとげやささくれや角ばった所があって
を形づくってきたといえる。こうした論理を
が、苧や麻を作り、それらがまた民族の情緒 更に進めていけば、我々は服飾文化や食文化
はならない。蒸し暑い夏の夜、離れに起居す パール(簾)やホ 7ムンソク(花紋席・・花
を独特に発展させていた我々韓国人の特質を
るソンピは竹夫人を抱いて寝るわけだが、竹 夫人がソンピの皮膚を傷つけてはいけないの 一、竹夫人などは、実に韓国人の夏の 産)、一扇
一言で要約することは難しいが、それは
で油でつるつるに磨き上げねばならず、その
摂氏三O度を越える韓国の真夏に、ホァム
故高裕慢の言った、淡白で静閑な J杖照の美﹂
風流を代表するものである。 ンソクに座して一扇を使いつつ、ホァチエ(花
のようなものであろ、つ。
上に麻の布で覆いを掛ける。こうして墓夏の て床に就けば、愛妾を抱いて寝るような安ら かした飲み物。いうなれば韓国式のフルー
菜 い蜂蜜や砂糖で味つけし、果物の小片を浮
みよ。真白な苧や麻のチマ・チョゴリ(女
ツ ・ポンチ)を味わうソンピの姿を想像して
ロンをかけなければならない。北自の韓国の女
ちは夜を通してでも洗い、のりをつけ、アイ
汚れやすいので、苧の服を着るたびに女性た
夜、ソンピが竹夫人を抱き、一方の足を掛け ぎと共に 、風通しがよくて汗ばまないので わけで昔から孝行息子は、父親に竹夫人を求
性用の韓国服)を着て渡り廊下を静々と歩く
苧の服はたった一日着ただけでしわになり
ぐっすの眠れるという寸法である。こういう めて差し上げ、父親の使用した竹夫人を息子
からむし
が隼つことは非礼とされていた。
性たちはこのように夜を徹して、韓国的情緒
眠れるのである
を作ってきたのである。
汗ばまずにぐっすり
れる織物であるにも拘わらず夏の情緒に資し
護ると、嵐還しがよく
女人の姿を想像してみよ。苧や麻は秋に織ら
竹夫人を抱いて
高麗末期に李穀の擬人化小説﹃竹夫人﹄で
真夏の夜、 ソンビが
は、ソンピの娘の竹夫人が宋某という太夫(官
出
U︿己的トE︿申
苧を織る光景
竹夫人
14
を静々と歩く
女人の姿を懇
像
苧の韓服
我が国の苧と麻は、国内ばかりでなく外国
着て渡り廊下
でも名声を博していたようだ。﹃後漢書﹄の東
平ωZ5出回 XE ,在@
チョゴリを
夷伝には、寸東夷の国は山が多く険しい地勢 で:::五穀と麻が豊富である﹂ とあるし、﹃宋 旦にも﹁高麗には、麻、苧の服がたくさんあ る﹂ とあり、﹃明一統誌﹄にも﹁ 朝鮮の風俗では 麻や苧の服を多用する﹂としている。これら の記録から見て、麻は三国時代からあったが、 苧の服は高麗王朝になってから盛んになった ようだ。史葦守によると、高麗の二五代忠烈 王の時には苧を織る技術が高度に発達し、宮 二代の隅王の時には、娘を持つ親が婚礼用に
J
一 中はもとより中国にも貢え物として贈られ 一 使い始めたことから需要が急増したため制裁 を加えたこともあったそうである。 一 O 数年 ほど前に、忠守中笠間道の青陽郡にある長谷寺の 大雄殿(本尊を奉つである仏堂)を修理復元す る際、金銅の薬師如来像の腹の中から王室の て話題を呼んだことがある。苧は履物や冠の
繁栄を祈る祝文を記録した白い苧が見つかっ 製作にも利用された。極細の苧で作られた慶 尚南道統営の冠は、名門貴族に大変引き立て られた最高級のもので朝鮮王朝時代には名声 をとどろかしていた。 ﹃輿夫歌﹄(朝鮮王朝時代に書かれた作者未 詳の寓話、盛ハ夫伝﹄ をパンソリにしたもの) には、燕に施した善行の思返しに得たカボ チャから ﹁ 吉州、明川の細い苧:::太い苧、 てくる場面がある。輿夫の妻は小躍りして喜
細い苧、臨川、閑山の極細苧﹂などが続々出 ぶ。それまで夢の中にのみ存在していた各地
蘇のチマ・
名産の苧が山と積るのである。このように苧 は、当時の人々には重宝がられていたことか らも苧がいかに韓国民族の心の奥深くに座を 占めていたかがうかがわれよう。﹁ 衣が精気 だろう。'
15
となる﹂という古い諺もこんな意味があるの
真白な苧や
KOREANARTISTS ABROAD
韓国の 、 P キムジョンテ
金鍾太 文化財専門書貝・美術史家
手工芸とは、 手で作るすべての作品を言 い、刺しゅう、木工芸、金属工芸、石工芸、 土工芸、 莞草工芸、竹細工:::などと枚 挙にいとまがない。 そこへ絵画を含める
ルアルタイ系統から入ってきたものとに分けられる。第二に、
韓国美術の特殊性は気候の変化に富んだ風土から多くの影響
を受けている。韓国の気候は四季の区別がはっきりしており、
で育った木材は、東洋美術でいっている五行の順行法則のも
冬も三寒四温が割に規則的であるので、こうした条件のもと
とで育った良い材料とされている。
こうした気候風土の中で形づくられた韓国の手工芸美術は、 純朴であり、庶民的であり、美しい上に精綴な特性がある。
韓国の手工芸美術を研究するには二つの方伝が考えられる。
一つは時代を歴史的に区分する方法であり、他の一つは種類
に区分して研究する方法であり、後者は、木工芸、金属工芸、
新石器時代、歴史時代、三国時代、高麗時代、朝鮮時代など
こともできる
れも中国大陸の文化を輸入してきたものと、シベリアやウラ 韓国の手工芸美術は韓国的な特徴を持っている。どうして
土工芸、石工芸など と種類別に研究する方法である。二っと
別に研究する方法である。前者は具体的に言えば、旧石器時代、
はこんな問題を考えてみる必要がある。その理由としてはい
しかし手工 芸史をを研究するとすれば、当然時代別に研究す
もそれぞれ長 ・短はあるが、その意見は学者によって違う。
韓国的な特徴が生まれてきたのだろうか。われわれは、一度 ろいろ挙げられようが、第一に地形的にみて韓杢島という特
次に、韓国手工芸の種類は大変多い。韓国の美術史も、多
るのが順序からみて筋が通っている。
殊性がある。韓国には大陸に通じる大陸交通路があり、一一一面 を海に図まれているので海洋通路もある。韓国文化の一部を なす形態美術は 、ほとんどが大陸を通じて入ってきたが、そ
16
い材料とされる
くを手工芸美術に割いてはいるが、その範囲は極めて広い。 手工芸とは手で作るすべての作品を言っていて、絵画、刺し ゅう、木工芸、金属工芸、石工芸、土工芸、莞草工芸など、 すべてのものが含まれる。
先史時代 韓国の手工芸美術は中国に比べ極めて消極的である。韓国 の工芸家たちは工芸に関する記録を全く残しておらず、また 有識層も工害に関する記録を残すことを意識的に避けてき た。このため、韓国には工芸が発展するうえで精神的な支え となるような文章や書籍がなかった。 韓国の手工芸は 旧石器時代の石器製作から始まった 。木器 文化も旧石器時代に始まったが、木器は保存がきかないので、 石器文化のみをみるほかない。石器は旧石器時代と新石器時 代の石器は石を叩いて鋭い万形のものを作って使用する方式 こうした道具を使った年代の上限線は六O 万年ほどの昔で
の頁斧が数多く残っている。
る 。
あり、下限線は五千年前ほどで、それ以後は新石器時代であ 新石器時代の石器は石を磨いて道具に作っているのが特徴 である。韓半島でも新石器時代の初期から磨製法が知られて いたが 、新石器の種類によっては打撃を加えて作った打製石 器が一般に使われた。こうした石器の特徴は石斧によく現れ この時期の石器には色々な種類のものがある。狩猟道具の
ている。
砥石、土器の文様を描く道具、石の鉄、半月万、石の磨き板
矢じり、槍、網の重り、鈷、工具に使われる石斧、錐、針、 などである。 これらの道具類は、新石器時代に既に韓半島内でも農耕と 漁労、狩猟など生業に必要な基本的手工芸品として生産され ていた。新石器時代には韓国手工芸史の新しい転機が訪れた が、それは外ならぬ土器の出現であった。 土器は人類が自然界のものの化学的な変化を利用して作っ た最初の道具で、その形は地方によって若干の違いがある。 南部地方では底が尖っていて上にいくに従って広くなる形の ものであり、東北地方では底が平面で深い器形の小さな土器
17
期のもとで- 育った良
新石翻寺代の石剣
韓国美術の特殊性は
i
気候の変化に富んだ
嵐土から多くの影響 を受けている 。韓国
の箆候は図季の区別
がはっきりしてお
り 、 冬も三寒四温が. 割に規員 的 , であるの
U
で 、 こうした条件の
もとで育った木材
ti 、 東洋美術でいっ
ている五行の鰻行法
が主に出土している。
B c =行内×U年頃に高度に
BEQ H U年頃には青銅
韓国の新石器時代の手工芸は、 発展した新石器文化を作りあげ、 器時代の文化を形作りはじめた。この時期の手工芸品は、石 器の製作と青銅器の製作、それに土器製作の三段階に分ける ことができる 。石器は高度に発達した磨製石器で装飾用であ こともあり、また農作に必用な半月形の石器などは実生活で も使われていた。 青銅器のような新しい手工芸品は、石器よりは多くの点で 優れた生活埠具であった。韓国の青銅器は中国の青銅器とは 違い、文様と形の面で極めて繊細であり光沢も秀でている。 このため韓国の青銅器製作技術は中国の影響によるものでは なく、シベリアか中国の東北部地方で発達した別の青銅器文 取に始まって鋳造に至るまで色々な工程を経なければならな
化圏の影響によるものと考えられている。車問銅器は鉱石の採 いので、何名かが共同で製作したに違いない。すなわち金属 を溶かす、るつぼ合金をする作業、溶けた金属を型に入れる 共同作業によって作られた最初の金属工芸品だったと雪尽える
作業などを経なければならないことから、韓国の手工芸史上、
で生産されたので、この頃から互いに材料を交換する交易が
わけである 。また、青銅器の原料となる銅と錫は特定の場所 発達した。以上のようなことから韓国の手工芸史は、青銅器 時代に多くの意味を与えている。 この時期に現れた土器には、無紋土器、赤い土器、黒い土 器などがある 。このうち無紋土器は青銅器時代の全期に百一っ て現れており、新石器時代の土器より不格好で底が平たく砂 が多くまざっているのが特徴である。 赤い土器は、薄くオレンジ色に近いが、石器時代に作られ た土器に比べ高温で焼かれ磨いたあとのツヤがある。また、 ある土器は黒い斑点のあるものもあり、北方では中国 の影響 をうけたものもいくらかあって、土器に多様な変化の兆しが 青銅器時代の末期になると、鉄器時代と並存するようにな
現われている。
ω ω荏的包︿ 申
慶州地方に現れ始めた。鉄器の使用により農耕生活に画期的 な変化が生じ、生産力が急速に伸びてきた。また、鉄器の使
用が増えてくると、鉱山の発掘から製錬、鋳造などの工程に
大がかりの集団労働を必要とし盆花を一層促すことになる 。
この時分から強力な国家が現われ、ついには原始三国時代か
ら三国時代へと、強力な国家が建評受 Cれ、国どうしが対立す
鉄器時代に入って、石器は完全にその姿をかくしたが、た
るよ、つになる。
は青銅器と鉄器及び陶磁器が発達した。陶磁器にも従来の無
だ儀式用の磨製石剣だけは残っていた。そして、この時代に
紋土器の伝統の上に、中国から入ってきた新たな土器製作技
術の影響を受けていろいろの変化が現れる。土器は地域に
よって形が違うが、黄嘩怠地域では植木鉢形の土器が、漢江
なる取っ手なども見える。
7パ形の糸底のつ
以南の地域では粘土の帯のある土器が現われた。牛の角から
また、従来の無紋土器に円形あるいはラ
いている皿やサパル(とんぶりばちの一種)などが登場し、瓶
この時期の土器は、紀元前後に楽浪文化の影響と新しい土
や査も胴体がふくらんでくる傾向がはっきりと現れる 。
器製作技術の普及により急速に変化した。原始三国時代の特
徴的な土器である軟質土器の伝統を継承しながらも新たな形
原始三国時代の手工芸美術は、全国で出土している土器と
に発展した。
にB C一世紀のものと糞疋される慶尚南道義昌郡茶戸里の遺
青銅剣などの遺物を通してその状況を探ることができる 。特
跡地から出土した各種の造物は、韓国手工芸史の研究にとっ
︿わ
て極めて重要な資料を提供している。この古墳からは樫の木
の完全な形の木棺、漆器類、青銅器物、鉄製の斧、鉄製の鍬
などと武器類、筆、五鉄銭貨幣など全部で二六種類六九点が
出土した。このうち筆者が注目するのは漆器である。漆器類
は、中国の漆器とは製作の方法と形が全く違い、漆器の形と
の韓国の木器芸術は、韓国的な地域的特色がある。
漆の色などから見て韓国で作られたことは確かである。当時
三国時品目
羅では工匠府を設けた。このような動きは新羅だけでなく高
家機関でも手工芸の重要さを認識するようになり、例えば新
三国時代には国家の体制が制昨花されるに伴い、次第に国
2.
る。すなわち、 B C三世紀頃になって 中国の北方でいろいろ な変化が起るにつれて韓半島もその影響を受ける。そのうち、 もっとも大きな変化は鉄器の出現である。鉄器文化は韓国の 全域で同時に出現したのではなく、中国に近い北部地域から 始まり、南部地方では北部よりもかなり遅い B C一世紀ごろ
新羅の酎責から出土した天馬図
18
句麗や百済にも確かにあったに違いない 。また、三国時代に 創作された手工芸品をみると、大部分が宗教とのかかわりで 作られたものである。三国時代の宗教は仏教が支配的であり、 は、仏教こそ救国安民の宗教であると考えたのであり、また
道教や儒教も国家の政策上認められていた。三国時代の人々 三国統 一の念願をかなえてくれる宗教と考えていた 。このた め、手工芸品は宗教的な生産が大部分を占めている。 高句麗の手工芸は、広大な北方の領土を背景にして、スケー ルの大きな強烈な精神をのぞかせる。高伺麗の壁画芸術は、 世界のどの民族の壁画に比べてみてもひけをとらない。高句 麗時代の工芸美術の雰囲気は、物静かで落着いていながらも 強烈であり、強烈でありながらも静かに落着いている。高句 麗は 、韓国の北半部から満州一帯にかけて強力な支配権を 高句麗には 、朝廷の肩入れで絵画、音楽、舞踊、工芸など
握って独特の文化芸術を築き上げていた。 に百一 って高い‘レベルの芸術が形づくられていた。これらを集 約的に示しているのが壁画なのである。 次に新羅の工芸美術は、高伺麗の工芸美術品に比べて豊富 な遺物を残している。高句麗が壁画の遺産を残したとすれば、 羅は地形的にみて三国のどの国よりも安全な半島の東南に位
新羅の残した遺産は金属工芸、土器工芸、石工芸である。新 置していたため外敵による文化の破壊に見舞われたこともあ まりなく、安定的で平穏の中で芸術を花咲かせることができ 新羅人は、工芸美術においても国をあげて取り組むことが
めている。
まで階級別に定められたものにしなければならなかった。貴 族内ですら等級別に厳格な定めがあった。 ﹃ 三国史記止には ﹁ 真
新羅人の階級制度は厳しく、住居の面積から装飾品に至る
や栢榎を張り巡らしてもならず、棟梁をあげる家を建てては
ならず、金・銀・真鈴及び五彩を飾つてはならず、三重の塀
返るような軒を作つてはならず、彫刻した魚をぶらさげても
新羅の人々は家を所有するにも﹁真骨の家は、長さと広さは 二四尺を越えてはならず、屋根を瓦でふいてはならず、反り
よび鍍金をもってする。六頭品、五頭口間以下は金・銀と鍍金
9 平 5説 話 耳 @
新羅日新' - 1: の金冠
た。新羅人の性格は楽天的で平和的であり現実的でもあった。 多かった。また国民的に、または何人もの人が一緒に取り組 んではじめて優れた作品を創りだすことができた。このよう なことから個人的な芸術感覚はあまり優れていたとは言えな いかもしれない。現在残っている新羅芸術品の殆んどが公共 性を帯びている寺剃や陵などである。その他は王族の所有物
的な産物が大部分を占
を禁一じ、虎の皮からなる毛布 ・敷物・座蒲団を使つてはなら
ため、手工芸品は宗教
だった賞金属工芸品などだが、これらも個人の作品ではない。
教と考えていた。 この
ない。四頭品以下の平民は金・銀・ガラスなどを禁じ、虎の
願をかなえてくれる宗
たとえば、偉大な金属工芸品の金冠も、多人数のたくみが共
り 、 また三国統一の念
皮の毛布や唐国の毛布を使つてはならない﹂とある 。また、
であると考えたのであ
同で製作したに違いない。
教こそ救国安民の宗教
骨(貴族階級の 一ハJo上から二番目の貴彦は装飾に金・銀お
19
三国時代の人々は、仏
あるぞ 百済では仏教を思想的に、文化的にそして芸術的に発展さ
では各種の手工芸美術を花咲かせる源となった。百済の芸術
家のうちで日本に渡っていった人物は因斯羅我、白加、阿佐
太子などで、彼らは日本の絵画美術の始祖となった 。建築工
門にしていた瓦博士らが派遣され、日本の工芸美術をリード
あった造寺工、金属工芸を専門にしていた炉盤博士、瓦を専
芸においても彫刻家であった造仏工と寺利建築の専門家で 一つ一つが陰陽五行の位置に符合するように置かれている 。
した。また、百済の工芸美術は新羅にも多くの影響を与えた が、新羅でもっとも高い塔であった皇竜寺の九重の塔(高さ
百済地域で、近年出土した公州宋山里武寧王陵の副装品は、
られていたであろう。新緩では乾漆工芸が発達し、そこに描
武寧王陵内の天井の星辰図は、ずば抜けた才能が発揮されて
高麗の工芸美術は、高麗の社会相と関係がなくもない 。お
乱 高 麗時代の手工芸
をおよほした。
遠くは日本にまで伝播されて、日本の工芸美術に多大な影響
完成した 。このように百済の工芸美術は近くは新羅に伝わり、
二二五尺)は、百済の有名な建築家の阿非知の指導のもとに
かれた漆画の気品は高いレベルのものである。新羅は三国の
国 立亙@ 平 OZ
百済の工芸美術は、日本と新墨守の地に伝わり、特に日本
いる。
百済は昔から気温が暖かく温和であり、平野地帯が多かっ
与える。
百済の工芸美術は、韓国的でありながらも落着いた感じを
に独特な技術である。
は楽浪や百済の武寧王陵にも見られるが、新羅の漆器は非常
現代絵画に近い高いレベルのものである。こうした漆画技術
から出土した天馬の像は、その表現が極めて精巧で感覚的で、
うちもっとも漆函が発達していたが、とりわけ慶州の天馬塚
とが禁じられていたわけで、従ってそれだけ創作意欲も抑え
たので暮らしにゆとりがあった。百済にも四世紀末に仏教が
当時盛んだった高麗 時代の手工芸美術で
ならず、石灰や染料を塗つでもならず、金属の飾りや野菜を
銀'1/1 紙、象巌青愛で ある 。 この三つの工 芸美術は、どれも象 巌という技術で作り あげる精美工芸で、
入ると、仏教思想に基づく芸術と文化が発達する。
なわち螺錨漆器、金
飾ることもならず、刺しゅうをほどこしたお膳かけを禁じ、
次の三つがある 。 す
せて、その影響を新羅や日本にまで及ぼした。
を代表するものには
としている。このことから推して、新羅人の 沈香を禁じる﹂ 貴金属工芸品は王族など極上層の貴族を除いては古工伺するこ
高麗時代の手工芸品
20
よそ高麗の美術は初期における仏教の影響と中期以後に伝 わってきた宋の性理学の影響を大いに、つけた。また、性理学 のおかげで、高麗時代の半ば以後からは高麗の社会の意識も 変化を見せ始めるようになった。高麗はもともと建国の理念 を仏教に置いていたし、国教もやはり仏教であった。このた め高麗の手工芸美術は、前期の宗教的な影響のもとでは仏教 的な細工技術が発達し、後期にいたって性理学が盛んになっ らでん
てからは、絵画や陶磁器、螺銅漆器などか盛んだった。高麗 では建国の初期から工部が設けられていて、そこに高麗の工 芸美術を管轄する多くの部署が設置されてはいた。すなわち 小腐寺をして国家の手工芸美術を担孟する機関とし、金属工 芸など比較的宝物クラスのものを答轟させた。 次に高麗の工芸美術の特徴は賎技思想である。実際に 一 一 国 一
百済の工芸美術は、 日本と新羅等
の地に伝わり、特に日本では各種
の手工芸美術を花咲かせる源と
なった 。百済の芸術家のうちで日
本に渡っていった人物は因斯羅
時代には手工芸にたずさわる者を賎民として取扱った文献的 な根拠はない 。ところが高麗時代に入ると、手工芸家たちを 見下していことを示す詑録がある。例えば ﹃ 高麗主成宗 一五
れる。もっとも大きな理由は、それは賎技思想であった。朝
といった特異な 工芸品はない。その理由は、いくつか考えら
れは朝鮮時代の初期に美希孟が主張した思想で、寓意とは士
なかった。ときたま両班階級のもので手工芸を楽しむときは、 ﹁寓意﹂という奇怪な理論で照れ臭い気持を隠そうとした 。こ
の工芸美術をリードした 。
ていた瓦博士らが派遣され、
していた炉盤博士、 瓦を専門にし
あった造寺工、金属工芸を専門に
た造仏工と寺剰建築の専門家で
建築工芸においても彫刻家であっ
日本の絵画美術の始祖となった 。
我、白加、 阿佐太子らで、彼らは
において白姿、粉青、青筆、辰砂、鉄砂があるだけで、これ
年の記録を見ると ﹁法典に基づいて考えて見るに、工匠と商家は技術をもっ て主君に仕え、その職業に専念し、士大夫と一緒に出勤し てはならぬ﹂ ﹁工匠、商人、楽工の子息は、たとえ功ありといえどもた
とあり、また ﹃ 高麗司﹄七五巻には
と記されている。これらの記録からみて、高麗時代から手
だ品物を与えるに留め、{旦叉への登用を禁ずる﹂ 工芸に携わっている工人や卑しい人々の子息は出世の道が閉 ざされていたことが分かる。 ・みる。すなわち螺鍋漆器、金銀和紙、象蔽青委である。この
さて、高麗時代の手工芸品を代表するものには次の三つが 三つの工芸美術は、どれも象献という技術で作りあげる精美
鮮時代に工芸家への蔑視は、世界史から見ても極端だったと
朝鮮時代の手工芸美術は儒教に基づいて理解しなければな
大夫が余暇を利用して風流にかこつけて自らの芸を楽しむこ
言えるだろう。中国でも朝鮮ほどには、ひどい差別待遇はし
工芸で、当時盛んだった高麗時代の手工芸美術である。
らない 。韓国の工芸美術は全体的にこれを説明するとき、三
4 H朝鮮時代の工芸美術
国時代と高麗時代の工芸美術を全盛時代とすれば、朝鮮時代
とを一言う。匠を極端に卑しむ社会で優れた匠が育つはずかな e かったのである。
21
の工芸美術は衰退期と呼んでもいいだろう。実際に朝鮮時代 の工芸美術は純朴で庶民的であるとは言えても、高度の精綴 な技術を要する工芸美術はなかった。これらの中には陶磁器
日 本
天匠﹂、設計 りする ﹁ 史匠﹂、斧で削ったり穴をあけたりする ﹁ する寸心匠﹂、棟梁をけずり一柱門を建てる﹁樫梁匠﹂などがあっ
人(職人)とは専門家とい、♀思味である。純粋 ‘‘畠 lE .一 な韓国語でいえば ﹁ジル﹂という語で表せる o 一d内
て多く、﹃経国大鹿(﹄には、全部で一 O 五種の職人が収録され 次は職人の精神を探ってみよう。元来、韓国の匠人精神(職 人気質)は中国古代の職人の精初から多くの思想的な影響を受
キムジョン
若い職人は
“
文作前 省高足音 貝 ・美術史家
いでいる
ある。この語は、韓国で作られたものではなく、中国の経書、 ﹃ 周礼﹄の﹁国には六織があって百工と共に一緒に暮す﹂から由
はなく、天が授けた天賦的な妻質があってこそ可能だという
である。天工の意味は職人の技術は誰にも習得し得るもので
ため、工芸人が器物を作ることを﹁天工開物﹂と言っていたの
ざるもないものである。また、中庸は喜怒哀楽がまだ発動し
中庸とはある一方に組せず、片寄らず、過きることなく及ば
ことだとしている。これが、すなわち東洋工芸の職人精神であ る。また、東洋の工芸美術における職人精神は中庸思想にある。
という人物がいた。宋は問書の 中で、天工は天の授けた能力
ていない状態を中といい、発動したにしてもすべて中絶され
て賎しくみえ、あまりにもったないと見た目にも悪いので人々
作品が必要以上に見映えがすれば人々の目を引いてかえっ
ているものが和である。従っ て中庸とは天下の根本であり、 家は天だ授けた天職であり、天が選んだ特殊な人物であると
により、人間に有益な利器を造り出す人であり、それはすな
芸能人、芸術家、商人、一必女、屠殺一業者などを指し、貴族は
強調している。
わち天の意に従って器物を作り出すとしている。そして工芸
除外される。朝鮮時代には工芸人すなわち器物を作る人々を と呼んでいたが、韓国語では 寸 ジエンイ﹂とも 総称して﹁ 匠人﹂ いった。 この匠人には様々の専門職がある。例えば大工の例
天下の道に至ることのできる原動力である。
を取ってみると、木をけずる寸樗匠﹂文様を画いたり彫刻した
ことである 。中国の宋に ﹃ 天工開物﹄という本を書い た宋応星
と述べ、職人が作品を作るのは聖者にも神者にもなり得る
れる﹂
つ。それに四善が合体して五彩が具備され、工巧が成就さ
同じで五行をよくし、四時と五行がよければ百物がよく育
るものである。このため良工は利器を作る。利器は四時と
べてのものが工によって、また法によって才を見せてくれ
者が存在するためであり、神者が存在するためである。す
彼はこの本の序文で ﹁ すべての工人が器物を作るのは天地の理である。これは聖
たが、それがかの有名な﹃休飾設である。
分が経験したもろもろのことを仕事の合聞に書いて書物にし
明に黄大成とい、ヱ伺名な漆器作りの職人がいた。かれは自
技術を体得して始めて良工と言、えたのである。
このため東洋の手工芸家たちは、四善合を立派に調和させる
これら四つのものがうまく符合した作品を ﹁ 四善合﹂という。
とある。この四つのものすなわち気、時、美、巧を四善といい、
まれず、地から良き気を得難い。﹂
品ができ上がる。材の美と工の巧が不良であれば、時に恵
は巧があるが、これら四つが一つになって始めて立派な作
﹁天には時があり、地には気があり、材には美かあり、工に
また、扇官意義﹄とい、品痛には、
金鍾太
今も力を注
人々とい、っ意味で、一般の人々を指していた。一般の人々とは、
けたようである 。昔、中国では職人を﹁天工﹂といった 。この
伝来 F正E芸を 継承 ・発展 させるため、
という語は、様々の 来したもののようである。次に ﹁ 諸色人﹂
百工﹂とは、もともと貴援 んだ考え方から生じたものだった。 ﹁ 人々を総称した語で を除いて、すべての仕事に従事しているー
た。そして朝鮮時代には、このような匠人(職人)の数が極め
、 - - 可.
rEEE匙 すなわち﹁先生ジル﹂ ﹁巡査ジ ル﹂といったふう に専門職に従事している専門家をいう。朝鮮時代は工芸人を
F
ている。
, 、
"A
﹁ 百工﹂ または﹁諸色人﹂﹁匠人﹂と呼ぴ、はなはだしきは﹁雑人﹂と 卑称していた。これらの語は、朝鮮時代に手工芸職人を卑し
チャンン イ
, .. Er
22
.
から疎んじられるとい、勺意味である。これがすなわち中高の 精神である。
分上昇を図ったり出世する
ことは覚束なかった。
この年寄りはタムグム ジルをするときの音を聞くだけで、
その鎌がものになるかどうかがわかるのだった。人間という
マングノ
γ乞顧みなければならない y 。朝鮮時代の工芸家たちは工商賎 . 相
った 。彼は仕事のためにあの町、この村をさすらいながら網
一生網巾を造るか修繕する作業をしながら生きてきた人であ
にかぶるもの)作りの林啓秀という年寄りがいた。この老人は、
また、こんなこともあった。全羅北道莞州郡に網巾(冠の下
層階級の者は、身分が釘づけになっていて、官吏への登用の
筆者は一O余年前、この老人を人間文化財に推薦するため
巾作りと修繕に打ち込んだ。
ヤ ンパン
のように細い馬尾毛で網巾の網を編んでいたのだが、私が驚
でふめる。 ,・
に忠実であり誠意を傾けて精進するとき初めて得られるもの
るものといえよう。そしてこうした職人気質は、自分の仕事
動かして思う通りのものを作り出す手際こそ職人気質の最た
を作る年寄が手先の動きを見つめることもなく、自在に指を
作られた職人気質であり、その道の極意である。また、網巾
なにを意味するのであろうか。これは一生を捧げて体得し形
けで、鉄の焼け加減を瞬時にして悟り得るのである。これは
至れば、その老人は焼けた鉄が水に浸る瞬間の音を問いただ
けてくる。 一人の鍛冶屋が八O年の問、鉄を焼いて極意を得る境地に
職人もひたすら作品作りに自分を棒げるうちに職人の道が開
修行僧が長年の修行をする、っちに仏法の悟
p r蘭くよ、つに、
野に打ち込むことによって職人包質が形づくられた。
たが、職人気質だけは徹底していたし、一途に自分の専門分
朝鮮時代の工芸家たちは、独りよがりで意地っ張りであっ
た。これがすなわち職人の持つ技能である。
一 O 回もきっちり狙って試みたものの針に通すことに失敗し
すのだった。私は感歎せざるを得なかった。あまりの見事さ に私も針と馬尾毛を借りて針に通そうとしたが無駄だった 。
一号針に馬尾毛を通すのだがろくに見もしないでプスッと通
み出していることだった。実に篤くべき手並であった。また
セモシ(苧麻で織った極細織りの麻布)よりも優れた網巾を編
れこそ いたのは、話を交しながら編んでいるにも拘わらずそ-
家に訪ねていった。老人は仕事をしていた。年寄りは髪の毛
仲シ
平φ否回道産自
人になり下がれば、再び両班の身分に復帰することができな
することは覚束なかっだ。両班(士族階級)といえども一度工
道が一切封じられるなど 、社会的に身分上昇を図ったり出世
J
奴として取扱われ、社会階級としては 下層に属していた。下
る。韓国の職人精神を理解するためには、朝鮮時代の賎技思
ものは一つ仕事に生涯打ち込むと、その仕事の極意を会得す るものである 。まさにこの年寄りは鍛冶屋仕事の極意を身に
じられるなど、社会的に身
かった。法と制度がそれを禁じていた。このため、工人の身 分の者は子孫万代にまで賎人の身分を引き継がざるを得な かった。こういった事情から工人たちは、集団をなして居住 し一種のギルド式の組織を作って、 。 互いに保護し合いながら 生業としての創作活動を続けた。彼らは、自分たちの世界に 能って、彼らなりの規律を作って生活を続けた。しかし、経 済的には必ずしも下層に属していなかった。腕和きの職人は、 両斑よりはるかにゆとりのある生活を営んでいたのである。 朝鮮時代の職人たちはこうした社会環境の中を生き抜いてき たため、かえって心血を注いで作品を作りだすことができた、 とある学者は逆説的に述べている。筆者も長い問、文化財専 門委員として仕事をしてきながら、これまでに立派な職人に に有名な鍛冶屋がいるというので訪ねていったことがある。
多数会っている。ごO年ほど前のことである。江原道の旋善
ピ ,
夏の盛りであったが川べりの道端で火を炊き、鎌を火にくベ て金槌で叩いている四O代の男がいれ JEそしてその隣りの平 床(木製の寝台の一種)には八O代の老人が目を閉じたまま横 になっていた。四O代の男は鋭山、一心に鉄を熱して赤く焼けてい る鉄を叩いたあと水に入れる﹁タムグムジル﹂を繰り返してい たが、この﹁タムグムジル﹂の技術次第で鎌の切れ味が左右さ れる。男が適当に 叩 いた鎌を水に入れると、﹁チジッチジッ﹂ と音を立てた。そのときである。横になっていた老人がむくっ
L
﹁この野郎! その鎌をもう一度水に入れろ!いい年しゃ
と起き上がって大声で怒鳴った。 がって。まだ分かんねえのか
23
まさに東洋の職人精神は中庸の精神にその基礎がある。
官吏への登用の道が一切封
韓国の職人精神は、これまで述べた中国の職人精神と相通
身分が釘づけになっていて、
つけていたので、音を聞くだけでそれがものになるかどうか
ていた。 下層階級の者は、
ずる所が少なくない。なぜなら韓国の手工芸は、基本精神が
会階級としては下層に属し
を分かるのだった。
商賎奴として取扱われ 、社
純朴で朴荊であり、素朴でありながら、序良的であるからであ
朝鮮時代の工芸家たちはエ
4 .刺引吋/きたので、高官修で豪華な生活をタブ l視する風潮
守 44Ed鮮時代には儒教思想を政治および社会理念として
く﹁隠居地﹂の意味に使われたが、これは中国の竹林七賢の故
徳を兼ね備えた人)を意味する。また竹林は、菅文学作品でよ 事に因んだものだという。こういうわけで、竹はとくにソン ピたちが使用する文房器物や装飾品として多様に使われてき
があった。このため、それ以前の高麗王朝まで盛
んだった仏教と、貴族の肩入れで発達した貴族的芸術は、こ
E S F一 一
のときから技術的な衰退と断絶をもたらすようになった。し
わが国で栽培が奨励されている竹類は、苦竹、淡竹、孟{一一小
た 。
つれて新しくて斬新な、民衆の素朴な美意識が芽生えるよう
かし、新王朝が政治、社会、文化的に次第に安定していくに
竹林の経済性がある地域は、慶尚道地方と全羅道地方に限ら れている 。慶尚北道の浦項と大郎、慶尚南道の居昌と成陽、
竹の三種類であり、このうち苦竹が大部分を占める。わが国
人為的な装飾性や人為的な構成をできる限り減らして街潔で
全羅北道の全州と金堤を結ぶ線以南の地方であるが、このう
になる。こうした中で、朝鮮時代木工の特色といえる純朴で、
明快な面分割を通じて高い美意識の境地に引き上げることが
淡泊な線を求め、自然的な木目を利用した造形性と、明確で
とくに、︿玉南津陽地方は、土日から今日まで竹工芸の名産地と
ちとくに慶尚南道と全羅南道が竹裁培に適した地域である。
できた。わが国の木製家具に主に使われてきた木材の樹種の うち、竹は各種の民俗的な生活器具を作るのに使われたが、
り古いものと考えられる。古代社会の重要な武器だった弓、
人類が竹を利用して生活器具を作って使用した歴史はかな
して命脈を維持している。
同じく、わが国でも竹は四季を通じて青く、真直ぐに育つ性
矢および槍の大部分が竹で作られ、防御用の垣などにも竹を
また木製家具の中でも独特な一面をあらわしている。中国と 質のため、君子の志操と節儀の象徴として考えられていた。
用いた。筆の軸も竹であり、洞簸、笛、大琴などの楽器も竹 製品である。わが国で生産される竹の性質とその用途につい
古言に寸竹を割ったような人 ということばがあるように、不 L
義や不正とは一切妥協せず、志操を守る固い意志のソンピ(学
26
て簡単に触れると、次の通りである。 一 わが国全域の海岸地帯で育つこの竹は 、堅くて丈夫 篠竹 なので矢柄、キセルのラオ、一扇骨、釣り竿などに使われる。 紫竹 一 竹の皮にツヤがあって強く弾力性がある。とくに皮 の色が秋には淡い焦茶色を帯び、春は紫黒色を帯びる。紫竹は、
編んで作った鞘をはじめ、弓、矢、然、筆などの く発見された。
いう神秘な笛に関する話を伝えている。
漆器が多
dUによると、新羅時代には 三竹、郷三竹で作った ﹃三国史楽器があったといわれ、また﹃三国遺事﹄には、﹁万波息笛﹂と
火に強く、割裂性、つまり割れる性質が良いため、用途がき
が国では慶尚道と全羅南道地方で多く育つ。この竹は湿気と
苦竹一 真竹とも呼ばれ、これはすべての竹を代表する。わ
碁盤などを枚挙にいとまがないくらいである。
竹紙笠、竹杖、竹箪笥、竹張硯箱、竹張本棚、位相、矢筒、 ・
さみ)、竹夫人(納涼用の抱ミ島、扇子、粧万(鞘のある小豆、
ほかにも、文房具類のうち筆筒紙筒、キセル、コピ(室長ば
竹尺、竹席、竹藤、竹箱、重箱のような民芸品や生活用具の
竹細工芸の特徴をあらわす器具は、座布団-箆、然、竹楠、
れめて広い。黒茶色の班点がある竹はつやつやしており、強
主に建築装飾用と竹張家具などに使われる。
靭であるので建築用や竹細工品の製作に適している。 ばれるが、米竹とは少し違う種類の竹である。淡竹の皮には
淡竹一 品 目 は主に然を作るのにに用いたことから然竹とも呼
う。この竹張装飾は、主にソンビたちの書斎に使用される家
く割った竹を、柄作りの家具に貼り付けて装飾することをい
竹張というのは、竹を半円あるいは四等分か八等分して細
ザル
班点がなく、真竹より弾力性が少ない反面、強くて組織が綴
具類に多く用いられた。これは竹の剛直な性質がソンピの剛 ・
ザル
密で細く割れるのが特徴である。このため、建築材および装
直な節儀にたと、えられたからであろ、っ。 竹製品には 、よく熔竹技法(焼き絵の竹の技法 Uで焼き絵な
一九=二年に発見された楽浪古墳の彩箆塚からは、竹を細
竹皮に絵や文字、紋様などを施す方法である。装飾絵は、十
どを刻んで装飾用にするものがある。つまり、こてを熱して
の柄、釣り竿などに多く使われた。
飾用工芸品をはじめ、洞籍、杖、扇骨、箆、冠のひさし、傘
の彩箆は、竹を編んで箱などを作る彩色箱の製作技法と似通っ
く割って作った大きな箱形の器に彩色した箆が出土した。こ
査された慶尚南道義昌郡茶戸里古墳群からは、わが国で発見
紋、サザエ紋、梅花紋、雲紋、亀甲紋など、数々の紋様が焼
が素材に多く用いられ、また部分的な装飾紋様としては煽娼
長寿の象徴物)をはじめ、四君子、草花紋、花鳥紋、 葦紋など
長生(太陽 ・山 ・水・石 ・雲 ・松 ・不幸早 ・亀 ・鶴 ・鹿の十の
された竹製品としては最も古い遺物が多数発掘された。つま
き刻み込まれる。 '
ている。また、一九八八年に国立中央博物館によって発掘調
り、一世紀頃の王族の物と考えられるこの古墳からは、竹を 己主的トミ@
27
一、賂画の由来
の末期の全国各地の主要物産を列挙した中に みられる ﹃ 統背熔﹄や ﹃ 林園経車にそれに類似
林永周
伝統工廿蕊替長・ 文作師専巳奮員
熔画というのは熱した焼き ごてを使って木材や竹材や
ztBOEZUQ-@
二、朝鮮王朝時代の熔画の 伝承系譜
を押した焼き印があった。
た、昔、牛馬や罪人に印をつけるために熔印
を熔画というように悲設にも使っている。ま
を押すことを焔竹、その校法で絵を描くこと
と雪尽つが、竹に熔 き付けることを﹁熔を押す L
{壬拝領き表す焼ぎ絵のことをいう。こてで焼
家具などに、こてで焼き付けて木目をはっ
以前まではほとんどなかったものと思われ る。ただ松や桐を板材にして製作した木製の
おいて熔竹、熔函をした職人は一八のむ年代
はっきりと証明できる資料もない。わが国に
わが国でいつ頃から使われはじめたのか、
作品も少ないだけでなく、そのような技法が
描く熔画の場合は、今日まで伝えられている
この絵は禽魚花鳥、山水、人物、城門、楼閣
地方の特産物の竹の箸に焼いて絵を描いた。
の中で朴自国珪について次のように記述してい
六回i 一九五三)は、人名録の﹃撞域書画徴﹄
祖の時代の画家で熔竹匠の朴回国珪 (一七九六 八 l 一八五五)という画家がいる。呉世田日 (一
した記録が見られるだけである。まして、紙
このような意匠技法は、本来鉄の判こを熱し
きり浮かび上がらせる技法は、その昔にも広
など、巧妙この?えなく、地方の官民の中央
面や皮、絹織物などに、こてで焼き付けて絵を
て押した熔印からヒントを得たのではないか
方面への大きな贈り物になっていた。そして、
﹁{子は聖器、号は輪以成あるいは垂山といい、
熔画というのは熱した焼きごてを使って木
と思われる。竹の箪笥をはじめとして官製筆
く使われていたものと思われる。
明末の遺跡が雲南に入ってきて武念の箸画
火画道人とも呼ばれた。成陽の人である朴日日
わが国における熔画技法の始まりの時期は
入れ、竹製紙筒、矢筒、竹のときぐし、竹杖、
(箸の鎗を探索するや狂ったふりをしてこれ
材や竹材や象牙材の面を焼き付けて模様や文
象牙材の面を焼き付けて模
、竹尺など各種の竹細工 鞘のある小万) 粧万 (
六尚早﹁屋南善の﹃朝鮮常識問答﹄には、中国 の熔画について次のように述べている。﹁先
に応じなかったことから当時の社会は彼を武
6な あ
また、金錫世(一八三 一i 一九一五)の﹃紅
る 。
れている唯一の人物としては、朝鮮王朝の純
そのよ、つな絵を描いた画家でその名前が知ら
のような技法が登場したようである。また、
以後の記録をみると朝鮮王朝時代の末頃にそ
正確にはわからないが、朝鮮王朝時代の中期
工芸品の表面に刻む意匠技法のひとつで、竹
を鋭くしたこてを火にあぶって紙幅や竹木片
め、全州に居をかまえていた﹂
珪は正祖七年奏卯の年の生まれで参季をつと
のことをいう。
に文様を刻む熔竹技法は既に古代から伝えら
風子と呼んだ、という記録が王使臣の﹃池北
れてきたものと推測される。しかし、それを
に書、または絵を黒く焼き付けることを熔筆
証明できるような遺物は一八世紀以前のもの
の明の末、雲南武定に武悟という人物がその
または熔画というのであるが、その昔、中国
はほとんど発見されておらず、朝鮮王朝時代
偶談﹄や当時の筆僧の書にある﹂と記録してい る。
様や文字を描き表す焼き絵
焔画をえがくため 焼きごてを炭火に 熱している
28
. .・. • h ζ
・ ., . ・. ・ .
"
ー ・--・ . -・
わか国最初の熔画家、朴昌珪の山水画 E
29
芝喝 a
竹が発達したのは、 韓国に
第一人者はこの人物にまちがいなく、処風子
で竜を描いた爆竹(きせる)を憲宗に贈ったと
だ。例えばこんなことがあった。垂山が熔竹
画業の脈をつらねている。垂山、朴昌珪は憲
このようにして 一族が4代にわたって代々熔
とある。このような記録 の好敵手になろう ﹂ から推して熔画家朴昌珪は成陽の人ではなく
むと竜の鱗が縮まったようになり、また息を
点は髪の毛ほどもみられない。東方の熔法の
南原の人で、しかも、字を﹁霊罰﹂としている
吐きだすと鱗が広がるように見えるとし
朴氏虎渓公波譜﹄のうちの朴昌珪編に比較的
画を描くようになった経緯については﹃密陽
り南原の人、垂山朴昌珪という人物で、彼が熔
推薦したという。
従兄弟の朴履珪(松庵)の技法です、と松庵を
れこそ神業と賞賛¥この技法はお前のもの なのかと尋ねたところ、垂山はこれは自分の
ころ、そのきせるで煙骨子乞撃ったびに吸い込
宗に彼の技芸を認められ、寵愛を受けたよう
も早く熔画技法を使用した人物は前述のとお
が寸公執﹂で、号はまた垂山であったと恩われ る。このようにして、わが国においてもっと
仔細に記されている。
即ち、垂山、朴昌珪の従兄弟である朴履珪
氏底決公波諮問﹄に次のように記敬されている。
松庵、朴履珪の画歴に関しては、﹃密陽朴 ﹁壬午年の冬、冬至上使金魯敬について中
は乙卯の年の生まれで丙午年(一八四六年)に
その内容は次の通りである。 次のような記録がある。﹁筆と墨を洗ってそ
市内を見物しながらいろいろなことに目覚め
国の燕京に行くことになった。そして燕京の
楽楼読懐人詩容にも垂山、朴昌珪に関する の因縁を切り、鉄を火にあぶって真の絵の形
松庵はこれに感動し、その後は絹で腕を巻い
手をとり、﹁紅豆相思﹂と書いた御筆亨賜った。
象をあらわした。彼の工法は綴密で小六鋭でし
て暮らしたという。彼は丁巳年(一八五七年)
謁見するのだが、その時、憲宗は喜んで彼の 法)を創始した。そして丙午年(一八四六年)
に武科に合格し乙卯年 (一八五五年)に通政大
従兄弟の垂山についてソウルに上京、国王に
。この には宮内に入り国王の寵愛を受けた﹂ 文から推して、朴昌珪は燕京で熔竹技法を
たという。彼は丁酉年に参奉の職につき、時
習って我が国で初めて熔画を描いた人物ある
夫、そして珍島郡守になったが四O の年に
を同じくして火を使って絵を描く技法(火画
ことだけは確かなようである。さらに﹃密陽
に珍しいものをということで熔画を贈った
たる高官と親しくしていたのであるが、盤守
七八六i 一八五六)をはじめ当時の都の名だ
鮮火画師﹂という文字が見当たるが、これは
白峨に熔函を伝承、その家系に伝わる絵に﹁朝
がら三 山という弟子を育てる。三山は息子、
帝国末期に日本に招かれ、そこにとどまりな
蕉山、埜安保は祖父の朴昌珪に次いで大韓
早々と天折し子百
が、その熔法は精密で繊細で神技に近かった
松庵(一八一九l 一八五九)と雲樵 (一 八三六
達したのは、韓国において竹が主にここで生
で伝承されてきた。この地域で特に熔竹が発
熔竹、熔画の挟法は主に湖南(全羅道)地方
埜宋沫を掃すものであろう。
i?)に、そして弟の桂隠(一八三Oi?)、
の技能を継承した職人としては、全羅南道湾
産されたためであろう。近代に入って熔竹画
(一九一四i)を挙げることができる。
陽の李同蓮(一九 一一l 一九人事六)と鞠良文
へと伝承された。 一方、従兄弟の松庵は息子 の竹疲(一八四二 1 9)に伝承し、竹波は息子
l 一九五九)に伝え、 は息子、小山 (一九O 一
の月山 (一八六九 j 一九四六)に、さらに月山
さらに息子の石川(一八九五i?)、孫の蕉山
垂山、朴昌珪の熔画技法vは、彼の従兄弟の
という。
後、水原監牧官を経ており、院宅金正喜(一
朴氏虎渓公波譜﹄の記録によると、彼はその
かも新しい。木板にみ仏を熔画したその手並 みは道人そのものである。絵をみごとに描く ことはもちろんであるが、特に熔画に優れ、 我が固の特技となる﹂ところで、朝鮮王朝末 期の学者、五州、李圭景が-記した﹃五州術文 で、朝鮮では南原の昔日珪をまず挙げられる。
長婆散稿﹄にも﹁中国では無風子の熔法が秀 彼の手並は神の境地にいたって精密で不足な
朴昌国作『鷲図』
{-t o.t-, ;
南( 全羅道) 地方で伝承され
.ιs '十 -'1
てきた。 この地域で特に強
-ぇ 去 、4 -ぜ l('
・- 4 ふ 第 , 1 羽 鳥島 ィZ ‘Z?
強竹、熔麗の技法は主に湖
おいて竹が主にここで生産 されたためであろう。
30
毛筆で描いた絵における大
胆な筆致には多少及 lまない。
しかし、 こでで焼いて表現 できる鋭い独特の線描から
我々は、 また別の味を感じ
とることができる。
ヰ付目典作民 老梅図』
林品目立附
表前み
三、朝鮮王朝時代の熔画の曹萌
桂隠、朴昌国筆の鋼毛図﹄の八枚扉風は、
上段部には画題を記している。朝鮮王朝末の
鷲、鷺、雁、 山鳥などを焼きこてで表現し、
ける線描だとか濃淡が与、える大胆な味にやや
文人画風がうかがえるこの絵は、毛筆画にお
欠けているが、こでで描く独特な筆致がまた
別の味をみせている。一方、雲樵、朴卦珪筆
王朝時代後期の画家、李寅文の描いた﹃江山
の熔函 ﹃ 山水図﹄の八枚目肘風は、あたかも朝鮮
厳に生い茂る深い山や谷に埋まる二、三軒の
無尽図﹄を見るようで、奇岩絶壁と枯木が荘
家が見え、山の渓谷から流れてくる水の流れ
が川をなして仙境をほうふつさせる風景が広
における大胆な筆致には多少及ばない。しか
がっている。これも、やはり毛筆で描い子議
し、こてで焼いて表現できる鋭い独特の線描
。
から我々は、また別の味一や感じとることがで
小山、朴相典は鷲、蘭、菊、牧丹、遂の花、
長C7Q
葡萄、松などを素材に描いた草花草虫図を主
に描き、こてを使った絵としての独特の筆致
を遺憾なく見せている。 '
31
A
寄 与 翠 』 , 、
長寿を表す鶴、
孤独な熔画家
XEZO
凶的
d
ふ} 平ゆ孟
接することができる。 多彩な象徴物に
その消えゆく技術 八O歳の生涯のうち七O年を焼き絵の
賂画一筋に棒げ、その道では第一人者 になって久しく、 だれにも秀でた腕前 と独創性を十二分に認められつつも、 安らかな暮らしに恵まれぬ鞠ヤンムン さん。しかし、鞠さんには他の追随を 許さなかった故に勝ち得た﹁人間文化 財﹂としての誇りが孤独な心境を慰めて くれる 。 焔竹では様々の紋犠と
幸せな未来を表す魚、
学者の気象を表す
梅の花や松など
李京姫
フリ !ラシサl
, pI
画家鞠良文さん、彼は七O年近く
a内ノ VEFその情熱を芸術に棒け、また自身、
の作品は作りえなかったと語る。一つ明白な
jn/ 自らの巧みな腕前に匹敵するほど
ことは見識のある批評家たちがあのパブロ・
ピカソの独創性に優るとも劣らないとする彼
の独特な芸術作品も、彼にとっては別に金銭
的な安定をもたらしてはくれないということ だ 。
齢八Oとなり、微々たる治療費をもって
樋怪病との孤独な闘いを続け、困難な現実の
民俗工芸の技桁の燈しを守ることに捧げてき
生を消え去りつつある 中にある彼は、その 一
たのである。 竹で有名な全羅南道湾陽郡の揮陽川のすぐ
そばにある小さな脇道、その道に 閲 Zした、と
あるみすぼらしい 一軒の家に鞠さんと彼の夫
人が暮らしている。ここ津陽は過去数百年に
わたり五日毎に竹細工製品の市がたち、全国
いるのだが、これは彼の芸術に対する揺るぎ
から商人と顧客が集まってきたところであ 熔画研究会重要無形文化財一一一 一号﹂ る。﹁ とい う大きな表札が彼の家の粗末な門にかかって
の仕事を始めてからも、ネヲいぶんになります
ない思いを表すものであるといえよう0 2 ﹂
よ﹂と一一言いつつ、老齢の職人は私たちを彼の
笠宋場へと導いてくれた。そこは大変小さく、
玄関脇のごく普通のオンドル部屋であった
が、彼の幾多の作品と数々の工具がきちんと
め、近来とみに衰退しつつある伝統技能の将
整頓されていた。彼はその弱った体に力をこ
の彼の人生と経験について長々と話し始め
来を深く憂いつつ、その技能の保護者として
た。彼は、彼がその作品の素材とする竹と同
じようなまっすぐで一面頑固な性格の所有者
ンタビュア lの質問さえもいやがる風であっ
らしく、彼の話を時たまさえぎろうとするイ
た。彼の記憶をたどって回想談は続くので
32
にして細く目の詰んでいる竹の櫛の作旦刀を
一九一四年、樺陽に生まれた鞠さんは七歳
きるかも知れないと思うようになったと語 る。彼は、父に熔画家の使、つ一焼ぎごて一式を
という。 そのうち、彼は自分もこれならで
昆虫のような模様を措き出すのを眺めていた
櫛の上に小さいながら愛らしい花、あるいは
しばらくして意識を取り戻した彼は、その
てしまったのである。
きれいなんだろう思った途端、雪の上に倒れ
とを知った。庭の雪を踏みつつ、彼はなんで
けていた聞に真白に雪の降り積もっていたこ
を過ぎて彼は部屋から出、自分が火と闘い続
きごては熱くならないのであった。午 苗 υ時
前によって、すぐに彼の生まれ故郷では彼を
けるようになったという。彼はその優れた腕
画を描いてくれという近在の人々の注文を受
間を過ごしていたのに代わって、彼は櫛に熔
それまで隣村に櫛を届け、なすこともなく時
てくれた。とにかく、その翌年にはすでに、
得の技術を身につけるようになったと説明し
きず、ただ自ら練習するのみ﹂というこの独
め、そのうちに﹁教えることも習うこともで
鞠さんは、彼は新しい焼きごてで練習を始
習い始めたという。竹細工の民俗工芸の 中心
買ってくれと頼んでみた。しかし、彼の父は
時初めて木炭ガスを吸いすぎたことに気づい
を熱しようとした。しかし、どうした訳か焼
地として有名な彼のふる里の村は、また高品
熱い焼きごてを扱うには彼はまだ幼すぎると
たのである 。﹁実際、熔画家になろうとも言
ごてが手慣れた手つきで動かされ、幅の狭い
特に韓国女性の伝統的なヘアスタイルであ いう理由で、その頼みを聞き入れてはくれな
あった。
るしっかりと固定された雷を結うには、細く かった。
質の竹の櫛によって全国的に知られていた。
自の詰んだ櫛が必ず必要とされたのであっ
ある時など一日に一ハ門む個ほどの櫛守つくり
知らぬ者もないほどになった。注文が殺到し、
う者が、それが 一体どういうことなのか大し て知りもせずに自ら危ない、 教習をやったし
た。他の数多くの隣人たちと同様、家で商品 子 、 。 少年は、父の 一 言うことに承服できなか っ そこで、伯父の下で働いて得るわずかばかり
ハ δ 世帯以上が櫛製造と農業を兼業して暮ら
口巴では、三つの隣村の全二五O世帯のうち二
鞠さんの記憶が正しければ、湾陽郡の澄陽
した﹂と彼は回想する 。﹁それほどまで思い詰
式を買い求めた。﹁私が 一一歳の時のことで
彼は村の鍛冶屋へ駆けつけ新しい焼きごて一
めた。焼きごてを買うに充分な金額になるや、
の金を焼きごてのため、貯金しようと心に決
は熔画家になる資格が充分にあるということ
時間吸いつつ、それに耐えられたということ
鞠さんが幼いながらも木炭ガスをそれほど長
てみたらどうかと勧めてくれた。その職人は、
画家に語ったところ、彼は熔画の技能を習っ
して言う。鞠さんが その時のことを隣村の熔
まったということですよ﹂と鞠さんは思い出
術の名匠にとって最高の勲章である﹁人間文
ね﹂と彼は言う。その代わり、伝統芸術と技
もたらしてくれる芸術ではありませんから
ならなかった。﹁一言で言って、これは富を
いても彼の家計が非常に潤うということには
しかし、それほどの卓越し子よ腕前を持って
い頃から働いていた。
化された櫛を作っていた伯父の下で、彼は幼
しを立てていたという。ある時などは、彼の
めてはいましたが、よもや私が 一生、その小
の作業をしたこともあったという。
伯父に米国より、つまり初期の米国への移民
さな焼きごてをもって働くことになるだろう
けなければならないのであるが、これは作業
ε 郷で作業しつ つ けた故李ドンニョン氏の技を
九八四年に七三歳で亡くなるまでの 一生を故
年、彼は彼のふる里湾陽での同僚であり、一 をし続ける上で耐え抜かなければならない最
化財﹂という称号を得たのである 。 一 九八七 屋に閉じ込もり、焼きごてを熱するため に炭
は、熔画家は仕事中ずっと木炭の煙を吸い続 火をつけた。彼は、竹の筒を通して火鉢の火
だといってくれた。韓国の伝統的なやり方で
を隣村にいる熔画家に属け、そこで装飾され
も大変なことのうちの一つなのである。
彼はあまりにも嬉しくて、その日すぐに部
とは夢にも思いませんでしたね﹂
た櫛を再び持ち帰ることであった。熔画家の
を吹きながら六時間もの聞なんとか焼きごて
継承し、かつ熔薗術の分野においてはこの国
うちで待っている問、彼はその老職人の焼き
彼の仕事は大体において新しく作られた櫛
んと忙しい思いをしたこともあったという。
のためこの幼い田舎の少年は平素よりずいぶ
鞠良文作: r,筆入れ」
者とみられる人々から 大量の注文が入り、そ
金基燦作: r~
34
熱した焼きごては、 熔函の描き道具の
うち最も重要である
で唯一生存中の名匠として政府から認められ たのである。
熔画は 一見単純な技のように見える。熱く
熱した鉄のかたまり、つまり焼きごてのみが
竹、普通の木、あるいは紙など芸術家の選ん
だ素材にかかわらず、その素材の上に絵を仕
上げるのに必要とされる唯一の道具である。
﹁実際には、かわるがわる作業するための二
式の焼きごてが必要になります。また、鋭い 自と素早く動く手も必要ですね。下絵となる
一瞬どこをどれぐらいの強さで焼きごてを動
ような ニ疋のパターンはありませんが、 一瞬
かすか、それは私自身で決めなくちゃなりま
せんからね﹂と鞠さんは語る。
伝統的な熔画家は焼きごてを自分の頬に近
るが、今のところこの方法が熔画家が求める
づけて、その感覚で焼きごての温度調節をす る。この方法は、はっきり言 って旧式ではあ
色調と焦がしによ って生じるぼかしを得るた めの最良の方法である。熔画家の焼きごては、
は、むしろ厚みがあり、鳥の頭部によく似て
鋭利な部分もあるにはあるが楕円形のその形
いる。その焼きごての形は、できる限り長時
人聞がいつから、この熱した道具で、素材
間熱を保てるような形になっているのであ る。
の表面を焦がしたりあぶっ たりしながら、絵
や意匠芸術を創り出す一 熔函術を編み 出したの かははっきりとしていない 。民俗学者李ヨン
ヘ氏は 一九六九年、大室短いものではあるが、
韓国の熔画術については初めての研究論文で
理論を支持しうるような記録は存在しない
ある﹃文化資産の役割﹄において﹁今日、この
が、その技術は紙の発明以前のものと思われ る﹂と推測している 。かつての中国における
のと同じように、 韓国でも昔は住所の官吏た
ちは自分 の使、つ物に焼き印をつけたもので
あった。古代社会においても、。歪豆、囚人た
35
ちにこの方法が少なからずとられたという。 二 O世紀半ばまでは、数多くの工芸家たち が文{去趨り寸焼き絵﹂を意味する熔画という技 能に従事していたのであるが、彼らは主に、 け根、筆、櫛、盆、扉風などに描いてきた。
竹の皮で作られた小さな扇、キセル、刃の付 民俗的な絵で人気のある花、鳥、虫などの伝 統的な一 O種の長寿の象徴と風景などをモ ティ lフとした多様なデザインが紙、木、皮
そして絹のような雑多な素材の上に描かれた のである。しかし、その中でもやはり竹が最 も一般的に使われた素材であり、また世間 一
応J
a 副理哩里叫 IE5泣2 31
イ鳳刀( 差し料) ( 金基燦作)
仏教儀式で権威を象徴する竹杖( 金基燦作) 現代的なデザインを加えた
熔竹技法の禍( 金基燦作)
は文字通り寸竹を焦がす﹂とい、つ土恵味である。
般に知られている緯国語の中蒜である ﹁ 熔竹﹂
歴史家の屋南善(一八九Oi 一九五七)は、
その著作 ﹃ 朝鮮常識問答﹄において朝鮮持代末 頃、全羅北道南原に朴昌珪とい、ユ伺名な熔画 家がいたと記述している。 ﹁一七八三年に生
はなかったが、竹彫りと熔画製作の腕前は非
まれたこの人物は、特に美男子というわけで
ての時代を通じて、朴昌珪ほどの技を持って
常なものであった﹂と雀は記録している。﹁︿玉
いる者はいないと人々は噂した。ソウルの高
官たちは、彼を自分たちの家に次々と招き、
彼の見事な技で様々なものに装飾をほどこし
てくれるよう頼むのであった﹂ 。屋南善は朴
自国珪の孫である廿棄沫にも言及しているが、
に知られた人であった。しかしながら、彼ら
彼もまた、その卓越した芸術的才能が全国的
の生涯や活動、またその後どのようにしてそ
の技が伝授されたのかということについては
詳しく知りうる術のないことを崖は嘆いてい ヲ 心。
屋南善と多くの他の学者たち、そして美術
品鑑定家たちが数十年もの冒頭を悩ませてき
た数多くの疑問点は、より若い世代に属する
優れた熔画家金基燦の努力によってその後明
らかにされたのである。すでに世を去った名
人李ドンニョンの弟子であった金基燦は二年
前、南原と全州地方に残る朴家の後孫たちの
家のほこりだらけの屋根部屋から昔の熔函の
破片、族諮、日記および一家の家業に関する
史料価値の高い様々な歴史的文書を見つけ出
特に注目すべきことは、朴氏 一族の家族史
したのである。
一八五八年に亡く
に関する記述なのだが、一七九六年(一七八
三年ではない)に生まれ
なった朴昌珪は、 一八二二年の冬至に朝鮮の
使者として赴いた金魯敬に随行して北京へ行
き、そこで彼は初めて熔固というものを見た
36
いで来た。彼らは現代の韓国の民俗工芸の世
i 一九五九)の代までは、その家業を受け継 界でその家業を継承してきた珍しいケ lスで
とこである朴履珪の曽孫の朴相典(一九O 一
紹介するとともに、その後優れた熔画{ネとし ある。
のである。この記述を読むと、後に下級官更
て、国内のみならず遠く中国にまでも聞こえ
である参奉となった朴昌珪は、熔函を朝鮮に
るような名声を得るに至った。彼の抜群の技 金基燦は、仏教の高僧たちの神重視される
品を昨年九月ソウルの京福宮内にある伝統工
術は、明朝時代の伝説的な中国人熔画家ウ
芸館での展示会で公開した。その展示会は、
た作品と、また彼の所蔵口問である骨董品の作
朴昌珪は、科挙の試験を受けるためにソウ
数多くの妨を含む自身の選りすぐった優れ
ルへ上り、そこで数多くの両班の友人たちと 人々にとって、今世紀のすさまじい現代化の
すでに失われた民俗芸術に関心を持つ多くの
焔画校法を用いて韓紙に描いた伝細甘な山水面入りの合竹扇( 金基燦作)
フォンツィに優るとも劣らないとされてい
つきあうようになった。そうした名家の出身 波の中で忘れ去られてしまった民俗工芸の多
三人の子供の父であり、敬度な仏教信者で
題
た 。
の友人のうち最も特筆すべき人物は秋史の号 様な側面に改めて目を関かせられるのに十分
今日、朴昌珪が製作した熔薗は残っていな
もあるこの三九歳の芸術家は、今でもこの工
"
ヤンパン
であった。金正喜は、官閏珪の仕事部屋のた
をもっ高名な学者であり書家でもある金正喜
よって、金基燦はその 芸術的創造と熔画の歴
な内容を持つものであった。この展示会に
これまでの努力が十分に報いられたわけであ
史的背景に関する研究という両分野における
めに、その独特な熟達した筆致で一筆したた 伝来の家宝のうちのいくつかの骨董品的な熔
めてやったのだが、それは今もなお朴氏担先 函とともに金ギチャンによって保管されてい
C い逸話が語り伝えられている。
る 。
いが、その代わり彼の驚嘆すべき芸術的才能
芸が将来においても金銭的には絶望的なもの
る 。
を示す珍
をえないようである。﹁はっきり申し上げて、
芸衛活動に打ち込むことができたのである。
うした助力によって金基燦はこれまで一心に
物屋の収入によって暮らしを立てている。こ
現在、彼の一家は彼の夫人がここで営む土産
ある由緒のある寺利、松広宣別に居を構え、
0年代後半から、彼ら 一家は全羅南道昇州に
からね﹂とこの芸術家は率直に語る。一九七
で生計を立てていくことは不可能なことです
いと言った方がいいでしょう。この技術だけ
現在韓国には熔画の専門家はもはや存在しな
であると嘆ずる時には、悲痛な声を出さざる
憲宗王は朴昌珪が竜の模様をほどこした竹 のパイプに魅了され、こう語ったという。﹁こ れは誠に驚くべき技である。私がキセルを 吸っているときには竜がまるでうろこを波打 たせるように見え、また私がキセルをフッと 吹くと、そのうろこを広げてみせるように見 える﹂彼の後孫が熔画の山水画を描いた扉風 は、それを見る者をして尊啓乞 一身に集めた その先祖の芸術的才能の水準の高さをしのば せるに十分なものである。この熔函の扉風は 墨と筆で描かれたものに比べ、そのスタイル においては似ている面も多いが、今日の芸術 家たちがよくやるよ、つな民俗的な香りのする モティ lフをもって埜花しているような作
37
品とは、はっきり異なるものである。 南原に居住してきた朴氏 一族は朴昌珪のい
•
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E
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重樹齢、ら北方遠くに見える栂童
@
代末期には江華島の城郭と砲台を守るためにやってきた韓半
島北方の砲手たちとソウルの役人や商人たち、そして二ハ二
七年、中国東北方にあった後金の侵略を避けて江華島に避難
してきた王族と貴族たち、それに韓国戦争(一九五O年)の際
の避難民といったふうに各地各層の人々がまざり合って暮ら すようになりながら、独特の気風と伝統生活が形づくられた 。 このため、江華島では伝統的に男性は気品があり勇敢で忍耐
心が強いという評を受けている。かれらは独立心に富んでい
て人に頼ろうとしないが、 一方で無愛想で人を慈しむ心や恵
みの心に欠けているとの評も受けている。こうした気質は江
華島が体験してきた侵略の歴史と 、それに原住民たちよりも
外部から難を避けて入ってきた人々が多薮住んでいたという ことに原因があろう。
二 =一三年、蒙古軍の侵略を受けて韓半島の全国土が侵略
吉岡麗の王は、都の 寧の馬蹄に踏みにじられることにな った。
開城からもっとも近い江華島に難を避けた。礼城江と臨津江
と漢江の河口に位しており、海路伝いで南方の地を治めるこ
とのできる要塞の地が江華島だったからだ。王は江肇鳥に軍
隊を派遣して宮殿を建造 しはじめた 。都の開城にある大宮殿
をまねて豪華な建物を完成させた後、王は臣下を引きつれて
戦乱を避け宮殿を江華島に移し、このあと、三九年間に亘 っ て江華を根拠地として粘り強く蒙古軍にせ抗したのだった 。
江華島に都を移した王は、本土にいる人々に海辺の島や山城
に移って箆れとのお触れを出した。このため、韓国の島々と
山城は難を避けてきた農民たちが蒙古軍と戦、 つ基地と化した。
さつりく
高麗人の抵抗が頑強だということがわかると、蒙古軍は平野
地帯の穀物を焼き払う戦術に出る 一方、残忍な殺裁に出はじ めた。とりわけ最後の侵入が行われた一 二五四年の被害は、
(朝鮮時代後期の都ソウルの人口が 二 O万名)を越え、蒙古軍
悲惨をきわめていた。捕虜として連れ去られた人が二O万名
の足の及ぶところはどこも立ち所に灰燈に帰していた。しか
し蒙古軍は草原地帯の遊牧民であ ったので陸地は焦土化する
ことができたが、江華鳥は六回に亘って攻め立てたものの、
海の急な流れに立ちすくんで しまうのだった 。このようにし
て戦争に疲れた高麗と蒙古聞の和平交渉がなりたち、王が
戦争の 渦中 においても、外敵の侵略から国の安李乞内寸ってく
再び都の開城に戻れたのは一二七O年のことだ った。高麗は
れるよ う祈る意味から ﹃高麗板八万大蔵経﹄ とい、立経板を 造り
40
高麗由也古宮の跡( 左上)
摩尼山頂上直樹重) を 目指して登る登山家たち( 上)
江覇岡崎面富近里の支石墓
都の開城にある大宮殿をま
ねて豪華な建物を完成させ た後、 王は直下を引きつれ
て戦乱を避けて宮殿を江華 島に移し、 このあと、 三十
に対抗したのだった。
しく禁じられていた。侵入したアメリカ軍艦も当然ただちに
揺るがす恐れがあると考えていたので外国船舶の出入りは厳
華島に侵入した。しかし当時の朝廷は、門戸の開放は王朝を
対して抗議すると共に、朝鮮との通商条約を迫る考えから江
R吉田口)号事件に 白E 遺ったジエネラル ・シャ l マン(のgR-
一八七一年にはアメ リカの軍艦五隻が大同江で焼き打ちに
主教徒の虐殺と弾圧に抗議してフランスの極東艦隊が江華島 に上陸したが、朝鮮軍との戦闘に失敗して引き揚げた 。また
時代の一六七九年のことである。 一八六六年には、当時の天
江署島には全部で入門の大砲が設けてあるが、これは朝鮮
かった。
都度失敗し結局 、高麗征伐を諦め和平交渉に臨まざるを得な
が狭い。蒙古箪は、しかし何回かの渡河を試みたもののその
江華の大橋から眺められる塩分の濃い河は 、軍兵たちの 着 ている能を投げ込んで埋めれば渡れる、と考えられるほど幅
ぎた今も傷むどころか虫をも寄せつけないのである。
を彫り付けてから漆を塗って仕上げた 。このため数百年が過
こと日陰で干した 。そしてこれを板にして鈎をかけた後、字
かんな
われた木材は海水に三年間浸したあと塩水で煮、さらに長い
刻の美しさと精巧さをもって世界に知られている。経板に使
大蔵経となって現れたわけだが、経板に彫りスヤ正れた字は彫
ている。蒙古の難に遭って仏の力を借りようとしたのが八万
上げた。この経板はいまも慶尚南道侠川の海印寺に保存され
拠地として粘り強く蒙古軍
撃退された 。このあと一八七八年には、日本がイギリスから 買入れた軍艦﹁ 雲一楊号﹂で江警島に侵入し、江著島の砲台と砲
41
九年間に亘って江華島を根
」ー .... 由 丙寅洋擾(1871年 )、 日:本の雲楊号侵入( 沼芯年) など車月鮮王朝末期の一連の事件で激戦場となった草芝鎮 ー
円
勾 _.岨 』 四 ....-ー -ー- ι 園田ーーー・』園町周忌ー、ー一
撃を交わした事件があった。当時、西洋や北方の中固との交
アメリカの軍艦による侵入というつらい経験があったので、
易すら禁じていた幼い王の父、領政の大院君は、フランスと
なおさら門戸開放とか外国との交易などは考えられないこと
であった。しかし雲楊呈事件により、韓国と日本の両国間に
いた外国との通商の扉が聞かれるようになった。
は結局通商条約が締結されることになり、長い間問、ざされて
当時、江華島の砲台でアメリカの艦船に発砲された砲弾は
約二のむ発だったが、敵緩に損害を与えた砲弾は一発もなく、
はみな雲脅すのはるか前でしぶきを上げていた。
また、日本の雲楊号に発砲した砲弾も、やはり一発を除いて
ともあれフランスやアメリカの艦隊が去った後、大院君は
両国との戦争で自分が勝利したものと勘違いし意気軒昂とし
ていた。というわけで江華島の海岸に﹁海の門を守る故、他
国の船は通るなかれ﹂とか﹁洋夷と和するは国を売ることな
り﹂という意味の石碑を立たりした。局外の情勢どころか新
式の武器で武装した艦隊の威力を全く知らない当時の権力者
ところで、江華島は高麗時代と朝鮮時代にかけて配所とし
が演じた笑劇の一つだった。
ても名が知られていた。江肇島は吉岡麗時代と朝鮮時代を通じ
て都から近かったので王様の争奪や陰謀の犠牲となった王族
の配所として悲しい物語を多妻倍している島である。吉岡麗時
代には 二人の王が王座を追われてこの地に流されており、高
麗を滅ぼして朝鮮を興した李成桂も高麗の最後の王をこの江
墓直同に流した。また 、この 後は二人の暴君と王族がこの島に
流されたあと殺されている。朝鮮王朝第十五代王、光海君の
弟君の永昌大君は、この島に流されて密閉した部屋に閉じ込
められたあと外からつけた火で焼き殺された。そしてこの焼
殺を命じた光海君自らも後では王妃と共にこの島に流される
皮肉に運命に巡り合う。光海君の息子は近くの小さな島に送
られたが、父に会うため監獄の中から洞窟を掘って外部に抜
けだそうと試みたのが発覚して死刑となる。そのことを知ら
された母は自ら首を吊って果てる。また、朝鮮時代第一O 代
王の燕山君も、江叢島のすぐ近くにある小さな島に流され幽
よう栢榎を高く張り巡らし、ただ小さな一つの窓を設けて食
閉の日々を送った。彼が幽閉されていた家は日が当たらない
物を入れる口に使った。日差しさえ遮られた家に閉じ込めら
れて生きていた燕山君は僅か四ヵ月自に、妻恋しさに身悶え
42
9
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冒
2
E
zf'z 内t uQ-o
伝灯寺の入口 。
厳しい寒風の中で-育った木々
がたやすく折れないのと同じ
に造り、 また生き残るための
つましく勤勉な気質に仕立て
には軒を支えている裸女の彫刻があるが、これには次のよう
の創建という吉祥国所在の寺利、伝灯寺の大雄宝殿の四つ隅
江華島の女性を素材にした伝説が 一つある。西紀一一一八一年
い印象は、こんなところから来ているのかもしれない。
内たけでなく満州地方にまで及んでいた。江華女性のどぎつ
は江警産の人造絹を持ち歩いて売ったが、その活動範囲は国
かつては人造絹織りが江華女性の主な仕事だった。彼女たち
れていた。いまの花ござ(花紋席)づくりがそうであるように、
韓国戦争が起ヤ﹂る前まで江華島は人造絹の産地として知ら
質と言われていた。
は、恥ずかしがらずメンツにこだわったり遠慮したりしない
気質に仕立てた。このため、昔は江華に住んでいる女性たち
靭な気質の人々に造り、また生き残るためのつましく勤勉な
折れないのと同じように、厳しくつらかった歴史は彼らを強
りあげたのだった。厳しい寒風の中で育った木々がたやすく
島に住んでいる人々の気質を強靭で、しかも勤勉なものに作
江華島が宿しているこのような波乱の多い悲しい歴史が、
れている。
ていた家は、竜輿宮と名づけられていまも江華市内に保存さ
時代第二五代王の哲宗である。哲宗が王座につく前に暮らし
して王座に就くとい、ユ事件もあった。それがほかならぬ朝鮮
まこの地で農作を営んで暮していた一九歳の少年が、一朝に
るのではない。王族ではあったが、社会から忘れ去られたま
しながら息絶えた。かといって江華島は悲劇だけを宿してい
史は彼らを強靭な気賓の人々
な伝説が伝えられている。大雄宝殿の修理に携わっていた大
43
ように、 厳しくつらかった歴
平OZd 凶的話語。
工の一人が近くの村の女と深い関係になった。ところが、工
事が完成するころは大工が預けておいた金を持って行方をく
らます。憤まんやるかたない大工は、耐え難く重い軒を支え
ながら読経を聞き自分の過ちを悟らせる考えから、決して美
しいとはいえない裸女像を彫刻して軒下にはめこんだとい う。この裸女の彫刻像は韓国の寺剃彫刻のうち唯一のもので である。
四隅に刻ま れた女人像の
伝灯寺の大雄殿の屋根の
うちの一つの襟女像( 右)
ztiozfU円立 母
あると共に韓国の彫刻史においても重要な位置を占める作品
花ござ市場は毎月
z g印)で作られるものと、喬桐面で生産するワ 巾岡田
ドンメの方は生産されていない。花紋様入りのござは、取り
編んだものであり、ドンメは製作過程が違うが 、今ではこの
あった。花紋様入りのござはワングルの皮を長く細く割いて
ングルで作られるドンメ(布で縁を取った模様入りのござ)が
(CUREM
もともと花紋様入りのござは、江華河陥面のワングル
は江著島特産物というより韓国の特産物となっている。
後とも長く引き継がれていくだろう。特に花紋様入りのござ
特産物として名声を馳せていた。江華花ござの名声は、こん
確なことは知るよしもないが、高麗時代の半ばすでに江華の
江華で生産されるござの起源については記録がないので正
五 日ごとに立つ( 上)
44
高し可郎、をつける商人を求めて回る婦女子
三二二三曳L . ょ書室冨. . .
- c事P - -
いろいろの花ござ 花ござの値段を掛け合う商人
入れたワングルを割いて露が降りるところにさらしたあと乾
かしたもので編むのだが、花紋様入りのござを作るために色
染めしたワングルは、中味を取り皮だけを使う。ござは編ん
でいくうちに色染めのワングルの皮で紋様を入れる。 一八 九
0年代の後半、朝鮮時代の王室は、江華でござ編みを業とす
る人々に、花模様を入れて編んだござを王室に納めるよ、つ命
じた。しかし何度も失敗を重ねるうちに河帖面に住んでいる
ととなった。江華島ござの紋様は、大体において東洋の現世
韓忠教という人が編みあげることに成功、王室に納品するこ
像を編み入れる 。伊j え(;f長
生きする動・植物の、不老
の草や亀、松の木、鶴など
を入れたり、あるいは擦を
象徴する竹や高貴な品性を
象徴する鹿、
毅然たる姿
をあらわす岩、威厳をあら
わす鹿などである。
崇拝思想を象徴する植物や動物の像を編み入れる。例えば長
想を象徴する植物や動物の
入りのござを頭に載せて市場に売りにくる人もがめついこと
よって行なわれており、また五日ごとに立つ市の日に花紋様
れらの繊細でまめな笹末が、いまではすべて江華女性の手に
毅然たる姿をあらわす一岩、威厳をあらわす虎などである。こ
たり、あるいは操を象徴する竹や高貴な品性を象徴する鹿、
生きする動・植物の、不老の草や亀、松の木、鶴などを入れ
江華ござの紋様は、大体 において東洋の現世崇拝思
で評判の江華女性なのである。'
45
ミ
ー一 幸 司 轟ξ
キム ポン J
作能別青函足音貝
蔚山大空副教授・文化体育部文
口
殿簡を訪ねてみる。
宮がそれだ。その歴史と主な
宮、畠慶宮、徳寿宮の四大王
在する。景福宮をはじめ昌徳
ばせる王宮がここかしこに点
こにはありし目の王朝をしの
市に発展したソウルだが、そ
一、
六O O年になる。今や人口一 0 0万 の 巨 大 な 近 代 都
に定めてから今年でちょうど
朝鮮王朝の太祖がソウルを都
金奉烈
ノ は 之 、
的
巳
l o z d XZ O コ
46
ソウルの王宮 朝鮮王朝がソウルを首都に定めたのは二ニ 九四年、太祖、杢成桂がクーデターで政権を 掌握して二年後のことである。その問全国を 対象に新しい首都の候補地を物色したわけだ が、高麗王朝の都、開城よりすぐれた所を探 すのに二年の歳月を費やしたことになる。符 余曲折の末に漢陽1現在のソウルを新しい都 に定め、今の景福宮一帯にただちに都市建設 あん︿つ
に着手した。この場所は古屋時代に南京と呼 んで高麗王室の行宮のあっ左附だが、新しい 王朝の宮殿として隼つには狭いということで 新しい宮殿の建設に華子したのである。あわ せて、東洋伝来の王道規範に従い王宮を中心 にして東に宗廟(帝王の祖先の 霊を祭った御 殿)と西に社稜壇(王が土地の神と穀物の神を 祭る祭壇)を建設した。一 一 一 一九五年についに 正宮の景福富が創建された。この時の景福{呂 は全部で三九O聞のとても素朴な規模であっ た。朝鮮王朝の王室は 景福宮のほかにもいく つかの宮殿を建設した。ソウルには昌徳宮、 昌慶宮、慶雲宮(現在の徳寿{呂)、慶堅呂(現在、 市立博物館用地)が建設され、 景福宮を含め 五大王宮と呼ばれている。正{呂の景福宮を除 くあとの四つの王宮は離宮とよび、正{呂が使 えない時に王族が起居していた所である。朝 鮮王朝三代の太宗は一四O六年に昌徳宮を竣 工し、正宮として使用したが、 一五代の光海 君は一六一五年に自国 慶宮を復元して正{呂にし た。このほかにも全国各地に王室が臨時に使 用できる行宮を建註した。南漢山城と江華島 には避難用の宮殿を、水原と温陽には外出 ( リ ゾート) 用の宮殿を建設した。 ソウルにある五大王宮は共通したスタイル で建設されたが、各々の宮殿の配置は少しず つ変形を加えたため個性的な姿を呈してい る。全ての宮殿は政務領域 ・生活領域・庭園
47
り、宮殿ごとに特性をもっている。
つの領域の配置と構成方法はそれぞれ異な
施設の三つの部分からなっているが、この三 ていた所で、蓮池ゃあずまや、森や散策路な
はやはり一般の官僚たちの出入りが統制され
が休息と遊戯を楽しんだ所である。この領域
一八六四年長い待機
の末に幼い高宗が王
座に就くと、王の父
の迎玉、新年の祝賀儀式など国家の最高の公
なっている。正殿というのは、戴 盛入や国賓
は正殿・便殿・寝殿の三つの建物が中心に
国民の目を盗んでひそかに宮殿を抜けだし北
の役)の際は王室がソウルの防御をあきらめ、
た。しかし、一五九二年壬辰倭乱(文禄慶長
ずつ拡張され正宮としての体面を守ってき
一回世紀の末に創建された景福宮は、少し
どが設けられていた。その代表的なのが畠徳
式的な行事が行われたところである。このた の方に避難した。この事実を伝え聞いて激怒
政務領域は政治を司るところであり、重要
親の輿宣大院君が摂
め、公式行事が取りしきれるよう正殿の前に した人々は王宮に火をつけ、徹底的に廃虚に
{呂にある庭園で﹁秘苑﹂と呼ばれているもので
は広くて規格にそったマダン(庭口が作られ、 してしまった。戦争が終わった後ソウルにも
な行政官庁とともに王{墨嘉誠に使用されるい
そのマダン(庭)を囲む長い回廊が巡らされ どってきた王室は景彊呂の再建をあきらめ、
ちを回目徳宮に移らせ、景一週呂の敷地内にあっ
くつかの殿閣が配置されている。この領域は
取となり政治的な
た。列柱が限りなく続く回廊の内側に広マダ
畠徳富と昌慶宮を修理して正宮にし、景福{呂 に三五O余棟の建物、全体的な規模としては
に払い下げてしまった。また一部の建物は南
た建物の四、ハハ× U間余りを取り壊して民間
ある。自然の地形を利用し、若干の人工を加
ン(庭)が広がり、そのまた真ん中に高くそび
は一八六七年に重建されるまで二七三年間廃 七、二二五問とい、ユ仏大な規模、これは創建
えたこの庭園は、伝統造景の美しさの極零乞
える正殿が配置されたが、正殿は国家の最高
虚のまま放置されていた。戦争の後、すぐに
当時の三九O間と比べて 一八倍を超す大きな
われたりした。このあとも一九一七年昌徳宮
山近くに移され日本人のための料亭建築に使
宮殿の核心部分である。このため、建物が堂々
の象徴的な建物だった。便殿というのは王様
再建されなかった理由はそのだけの財政的な
スケールである。従って、新しい景彊呂は創
実権を握るようにな
と高級宣史が集まって日常的な会議を開いた
余裕がなかったせいもあるが、当時の国王た
建当時とは︿テ¥別のものになっていた。大院
見せている。
ところである。宮殿の象徴的な中枢が正殿で
ちは景福宮を不吉な場所として考えていたた
としていて幾伺日字的に配置されている。ここ
あるとすれば、実質的な中枢はこの便殿とい めでもある。
に大火事がおこり、多くの殿閣が焼け落ちた。
政治の基盤を築くため景福宮を再建した 。
り先に権勢家門を無力化させ、強力な王権
った 。大院君は何よ
える。寝殿は王様の居所である。朝鮮王室の
焼け落ちた日開徳宮の再建にかこつけ、王妃の
F
法制に従って王と王妃の置所は互いに分離さ
がなかった。このため、特別の税金を新設し
君当時の王室には、莫大な工事費を賄う能力
てついに一九二六年、景福宮の正円だった光
一八ハむ年、強大な国王だった正祖ぎ蓮
化門を取り壊し、勤政殿の前面に巨大な朝鮮
したあと、朝鮮王朝の政治的守雇は語勢道
て工事費の確保と両斑階級の勢力弱化という
生活領域は王族たちと後宮(側宗るたち、そ
れている。
二重の目的を達成することができた。しかし、
ことに決まった国立中央博物館が、即ち旧総
総督府を建てたのである。このほど撤去する
寝殿であった交泰殿をはじめこのむ余棟の主 い高宗が王座に就くと、王の父親の輿官天院
督府の建物である。解放以後も段損の歴史は
だった殿閣を解体して昌徳宮に移した。そし 君が摂取となり政治的な実権を握るように
の侵略の前では無力だった。莫大な費用を費
既に大院君下の朝鮮政府は西洋の列強と日本
くりかえされた。宮殿の東のコーナーには民
いた両班階級にまで税金を徴収した。こうし
など、王だった王族たちの島町はいくつかの建
なった。大院君は何より先に権勢家門を無力
やした景福宮の再建は、逆説的に両班階級の
ただけでなく、それまでは税金が免税されて
物からなり、これらは小さな個別の殿閣だっ
化させ、強力な王権政治の基盤を築くため景
反発を呼ぴおこして大院君の失脚を早め、四
(権勢)家門の手に渡り、王室は極度に無力化
た。この殿閣と殿閣の聞は高い塀とどっしり
福宮を再建した。再建された景福宮の偉容は
した。しかし、一八六四年長い待機の末に幼
した門で区切られ、その問一を迷路のように複
大院君の執権序盤の最大事金季五衣すものであ
る。王妃や王世子(太子)、大妃(先王の王妃)
雑な通路がつながっていた。プライバシーの
して王族に仕える宮人(女官)たちの居所であ
維持と保安を老虐してのことである。ありし
路を拡張するたぴに景福宮の領域は徐々に
俗博物館が大きな規模で新築され、周辺の道 日本による強制上口拠の後、日本の帝国主義
O伍後には国家滅亡の悲劇につながった。
にあった東十字閣は道の真ん中に押し出され
減っていった。極端な例としては、東南の角
ると同時に、強化された王権の象徴でもあっ
は朝鮮王朝の象徴である景彊呂を致損しよう
た。再建された景福宮は、一回世紀の創建当 時とはまったく違った姿となっていた。何よ
と、じつように案を練った。没落した王族た
日の宮殿の生活嶺域は、おおかた取り払われ
り、二二万坪(約四0ha)という広大な敷地
ていまでは古い姿を探し求めることは難し hv
庭園領域は宮殿の裏に配置され、王族たち
48
てしまったし、西南の角にあった西十字角は 撤去されてしまった。一九六八年、コンクリー ト作りで正門の光化門を復元したのである が、この光化門は日帝統治の象徴であった総 督府の建物を半ば隠す役割をしている。現在、
ν 円 量的﹄白︿。
高斑階級の反発を呼びおこして大院君の失脚を早め、 回 O 年後
文化体育部は景彊呂を復元するために大々的
莫大な費用を費やした景福宮の再建は、 逆説的に
な発掘調査を行なっている。日帝時代に撤去 ているが、政府としては旧総督府の建物を撤
された数多くの建物の基礎の部分があらわれ
心であり民族史の正統性を象徴する景福宮を
去し、主だった殿閣を復元して、ソウルの中
には国家滅亡の悲劇につながった。
復元する考えである。もちろん、復元と﹁歴 史の回復 L に対しては批判的な見方もある。 日帝の侵略は厳然たる歴史的教訓であり、完 壁な復元というのは不可能-無意味であると いう反論も出ている。
景一賀昌の建築的構成 創建当時の姿はわかりょうがない。二O世 紀初めに作成された配置図が残ってはいる が 、 一九世紀に再建された姿を伝えるだけで の世宗路につながる中心軸上に主な殿閣が幾
ある。ソウルの裏山の北岳山のふもと、現在 何学的に配置された。この部分が宮殿の核心 さらに加えている。宮殿の外郭は高い塀で囲
部であり、左右対称の厳格な配列は象徴性を み、東西南北の四ヵ所に大門を設けた。この の門を通過できるのは国王だけだった。他の
中でその南門に当たる光化門が正門だが、こ
49
官僚と王族は東側の建春門と西側の迎秋門を 使用するようになっていた。
動政殿内の竜床
中心をなす軸上には、光化門(正門)l弘礼
宮殿の多様な作りを裏づける、また別の役割
韓国の建築では地形と
(王把の寝患を配列し、政務領域にしている。
政殿(便殿)l康寧殿(国王の寝殿)l交泰殿 かなければならないとい、ヱ束洋の規範を大き
が東向きになっている。国王は南の方角一を向
またもうひとつの離宮、昌慶宮は中心部分
全体の地形を考慮して 、
景福宮の位置もソウル
地勢を重視する 。
生活領域は東門の内側の北の方に複雑に配置 く離脱した構成である。一七世紀の昌慶宮の
も果たしていたといえる。
され、今の民俗博物館の周辺にあった。現在 再建当時、これを南向きに改めなければなら
門(午門)l勤政門(中門)l勤政殿(正殿)l思
の建物は慈慶殿と連軍楼だけで、そのほかは ないとい、?王張がかなりあったが、地形上こ
ら、量福宮よりは昌徳宮の方がより韓国的な
形の特性が有機的な非対称性にあるとするな
規則に配列されている。俗にいう韓国的な造
列され、生活領域は筆同線にそって極めて不
たる正殿の左右に便殿と寝殿が非対称的に配
群からなっていた。昌徳宮では政務領域にあ
て、一定の中心軸なしに左右に散在する建物
場合は前後に連なる山脈の聞に位置してい
る。一時期、正富に使用されていた昌徳宮の
もっとも宮殿の配置原則にかなったものであ
朝鮮王朝の宮殿のうち、量福宮配置霊入が
七倍以上の多くの建物がひしめきあって並
の様をなしているが、一九世紀には現在の一
O余棟の建物が残っているだけで、広い公園
八隅古一?などが残っている。現在はあわせて二
書草と休息の場に使われた成和堂、絹敬堂、
池は不定形である。香遠亭一帯には王族の読
方には遠く南山がそびえ、すばらしい景寧乞
わめてみすぼらしかったことだろう。南の前
もし、北岳山がなかったら景福宮の威勢はき
岩山で、王宮の威事乞高めるにはこの上ない。
とはいうまでもない
oH
いから理想的な場所に位置しているというこ
ソウルの中心の景福宮は、こういった意味合
な条件を具備した土地であったからである。
た。ソウルを首都に定めた理由も、このよう
心に左右に山並みが囲んでいる所とされてい
ければならず、はるか後方にはその建物を中
がり、そのまた前には澄んだ川が流れていな
かかって、前方には日当たりのいい野原が広
の条件というのは後方はでんとした山に寄り
ぶということを優先していた。そのいい土地
築物を建てるためには、すばらしい土地を選
広い土地を選んだのである。古くは立派な建
気が弱まっているということで、その前方の
帯えるにはあまりにも敷地が狭く、土地の運
の行宮の場である。この場所は一国の正宮を
右一対の石の猛獣の彫刻が即ち、審缶山の火
置くことにしたのである。光化門の門前の左
宮の正門の前に火を食べて生きる猛獣の像を
ため、この火の運気をなくす妙案として景福
気と解釈され、問題視されたのである。この
というのは封建王朝を倒そうとする陰謀の運
で、これが玉にきずとされていた。火の運気
岳山が火の運気を強くもっているということ
ろが、ただひとつ残念なのは、遠く南方の冠
から、文字どおり最上の土地といえる。とこ
る。山脈と河川が二重に囲んでいるのである
漢江が流れていてこの一帯を肥沃にしてい
の方角には審缶山がそぴえており、その聞を
ると、さらに遠く北の方角には三角山が、南
城の地理的一境界にもなっている。境界を越え
山が左右を囲んでいる。これがまたソウル都
の所々には日差しを遮るためのテントを張る
にずらりと並んだ臣下と向かいあう。マダン
高い宝座に座り、職級に従って口問階石の後ろ
式行事が行われる時、国王は勤政殿の内部の
右に九対の品階石が設置してある。国家の公
る。中央の軸線に三本の道が作られ、その左
装石を敷いて、いっそう謹厳な空間にしてい
建物の前の広いマダン(庭)には粗い質感の舗
の姿は番置に形作られ、極めて対照的である。
真ん中の二重基壇の上にでんと構えた勤政殿
りした外部空間は水平をなしているが、その
政殿である。四方に回廓が巡らされ、ひっそ
規模で荘厳な室内空間を形係っているのが勤
宮殿建築物の中では、もっとも高く大きな
ある所は、その昔、高麗王朝の行宮の場である 。
青瓦台 ( 大統領官邸)が
景福宮の裏の現在の
る場所を選択した 。
も っとも核心部にな
みな壊された。宮殿の裏、勤政殿の西の方に の主張は受け入れられず、東向きに配置した。 たことを意味する。景福宮の位置もソウル全
それだけ韓国の建築では地形と地勢を重視し
と香遠亭一帯がそれである。費量一帯は公 体の地形を老虐して、もっとも核心部になる
つの部分からなっており、いまの要耳棲一帯 式の宴会や行事に使われ主附で、香遠亭一帯 (大統領官邸叫がある所は、その責高麗王朝
場所を選択した。景福宮の裏の現在の青瓦台
は庭園領域が広がっていた。庭園は大きく二
E 棲の蓮池は真四角なのに対し香遠亭の蓮
は王族だけの私的な庭園であった。このため、
作りだといえるかもしれない。しかし、昌徳
提供している。前後に控えたこの二つの山の
を食べて生きるという伝説の怪獣、﹁海蛇﹂の
豪
宮は離宮として創建されたことから、広い後
石像である。極めて象徴的な話ではあるが、
時に使用した鉄製の鎖が認められる。広い
勤政殿
建てたのである。
園(裏庭)の庭園が重要であったため、自由な
いる)が流れ、理想的な土地の条件を備えて
聞には清渓川(現在は蓋をして道路になって
び、中心部を除いては迷路をなしていた。
作りが可能だった。象徴的で権威的な正宮の
それだけ地形の条件を綿密に分析して建物を
単刀の北岳山は雄壮な
役割は、景彊呂に果たさせたかったのだろう。
いる。また、東方には路山が、西方には仁旺
このため、秩序正しい景福宮の作りは、他の
50
重基壇には護衛の武官がずらりと並んで警護 を担当した。前方の中央の階段と基壇の上の 欄干には、十二支神像、木の葉、雲と鳳底の 彫刻で飾っている。前方、左右には青銅の香 炉と鉄で作った釜を置いた。儀礼または防火 外観は二階になっているが、内部は高い単
用である。 層の空間になっている。内陣部(口言巾)には高 柱を立て、この柱が外側の低い柱を支えてい る。内部の床には扮を敷いて平らにし、一
U 出正 的E︿@
実質的な最高の政治が行われた所である 、
段高い所に宝座を置き、{玉座の上の部分には 別途の屋根(覆い)をかぶせ、もっとも神聖な 場所であることを強調している。層高は高い が、華麗な丹青と彫刻などで無駄のない空間 により朝鮮王朝最後の建築的な力量を総集結
を作り上げている。堅固な構造と華麗な装飾 した代表作のひとつである。
思政殿 勤政殿の裂の恩政門の内側に位置する単層 平屋の建物である。王が居所としながら御前 会議を主宰するなど、実質的な最高の政治が 行われた所である。動政殿一帯が広いマダン のに対し、思政殿一帯は温和な人間的な尺度
をなして荘厳な記念碑的な尺度で形作られた をもって作られている。華麗な装飾も抑えら れて、勤政殿と対比される。内部には国王を 象徴するこ匹の竜が壁画に捕かれている。建
51
物の東側には万春殿(現在はない)を、西側に は千秋殿をそれぞれ配置して対称をなしてい
悪政殿は王が居所としながら御前会議を主宰するなど
慈慶殿の裏の塀は抽象的な幾何学文様で装飾されてお り、塀に付着した煙突は、小さな一O本の煙突を集めて おいたところである 。煙突の壁面に彫刻された動物と植 物は、長寿と健康を祈願する伝来の絵柄である 。
る。千秋殿は規模の小さな建物であるが、王 と文臣が膝をつきあわせ学問と芸術を討論し た場附である。
慈慶殿 前任の王妃のためにたてられた寝殿で、景 福宮の内部に現存する唯一の寝殿である。延 べ四四間の四つの建物がひとつになった複ぶロ 構造である。西側の部分はオンドルを敷いて 冬を過ごす塞至のスペースになっており、中 央の部分は昼間、起居しながら政治を相訟し (居間)が突き出ていて、夏を涼しく過ごせる
たスペースに、また東南の部分は二階のマル スペースにしてある。次いで女官たちが起居 した一二間の附属棟が連結してある。慈慶殿 の裏の塀は抽象的な幾何空文様で装飾されて おり、塀に付着した煙突は、小さな一O本の 面に彫刻された動弱と植物は、長寿と健事乞
煙突を集めておいたところである。煙突の壁 祈願する伝来の絵柄である。
峨眉山と慶会楼 勤政殿の西方に大きな四角い蓮池を掘り、
出
UZ叫に司自
蛾眉山 の煙突( 上)
慈慶殿外側の塀(左上)
出
U︿牛的↑巴︿由
慶会楼
52
二階建ての楼閣である慶会替乞建てた。この 蓮池を掘った土で思政殿の裏に峨眉山を作っ た。峨眉山は王妃の寝殿であった交奉殿(現 在はない)の裏の庭園である。四段作り階段 式の花壇に花を檀ぇ、六角形の煙突が屋外彫 刻のように設置されている。王妃の庭園らし である。
v-EZO
平山ラ当凶的
ここの毘辺には王室の読書室、書庫などが配列され、
く景福宮の施設物の中でもっとも華麗な空間
香遠亭は王室専用の私的な庭園である 。
慶会楼の四角い蓮池(方池)は、王室の公式 の宴会場所として外国使節の接対に使われた でいるこの楼閣は、たいへん広い内部空間を
静かな思索と休患の空間をなしている。
ところである。蓮池の内側の東寄りに浮かん もっ。このため、屋根の傾斜面は層高に比べ て巨大にならざるを得ず、外形の比例が歪む という危険性があった。慶会楼は尺度の査曲 を通じ、このような視覚的な危険性を克服し た。下の階の層高を二倍に高め、高い石の柱 を立てることにより、相対的に低い二階の層 高と木の柱などが自につかないように工夫し ている。このような視覚的な造作を通じ、遠 くから見ると、あたかも単層の安定した建物 のよ、つにみえる。
香遠亭 慶会楼一帯が公式的な庭園であるとすれ ば、香遠亭は王室専用の私的な庭園である。 ここの周辺には王室の読書室、書庫などが配 る。蓮池の形も不定形であり、蓮池の中に円
置され、静かな思索と休息の空間をなしてい 形の人工の島が作られ、その上に六角形のあ ずまやを健てた。今は、南側に木の橋がかけ られているが、元来は北の方にあった。二階 建てになっており、六角形の屋根のてっぺん
53
には青銅で作られた節瓶筒があしらってあ る 。'
寄墨亭
平 5 出回送︿ EO 9
-ふ !量・
L , ., uJ 石f 肝の多様な彫刻( 下) 菌, 菅宮の錦 I1橋の
.~ _
留意宮の銅 I1橋( 左)
r 景福宮の永済橋( 上)
ヨンホアン
潜永煉
ソウル新聞 ・ 論説顧問・文化財専問奮貝
げ れ ド に定められてから六OO号迎えるソウルは、古 ぃ姿は殆ど失われている。五大古宮と昔の城郭の
Mt戸曾 3
41
こ 一部、そして城門などが一部残つてはいるが、今 や人口一、一 nHU 万の現代都市に変貌した。
開発と都市化によって朝鮮王朝時代の遺跡が大部分消え
去ってしまったのである。
古い橋の場合も例外であるはずがなく、ソウルに残ってい
る古い橋は七、人に過ぎない。一九世紀末に作成されたソウ
ルの地図によると、都域内に七六、城外に 一 O で計八六の橋 が表示されている。
韓国の古い橋は、市中の川や小川に架設されるが、このほ
udE 同区︿白
出ハ
出
UZ E 凶 ︿@
54
もに悪鬼と災い
を追い払う醇邪
の意味から鬼面
や勤務の影栂が
刻んである。
2
川橋、昌慶{呂の玉川橋がある。これらの橋は古宮の中に位置
代表的な宮中の橋としては、景福宮の永済橋、昌徳宮の錦
宮中の橋
な自態突を表現する。
なしている。橋の両側の護岸を丸い石で積んで、簡潔で素朴
てから、人の通る人道を土で翠った、アーチ型の橋が主流を
一方、寺剃の入口の橋は、長方形の石で反り橋を築き上げ
えている)や竜のような伝説的生動物像が多く議する。
邪鬼を被うこと)の意味から鬼面や動物の形相を刻んで 砕邪 ( いる。動物には海蛇(獅子の形をしているが頭に 一本の角が生
宮中の橋は、美しさの追求とともに悪鬼と災いを追い払う
かし、宮殿の橋は、華麗で精巧な欄干装飾とア lチ形に反り した。 橋を水門として作り、美しい造型物にしょ、
このため、特別な装飾を施こさずに地味な形に作られる。し
民間人が架けた橋は、丈夫で質朴で機能を重んじていた。
か宮殿や寺剰の入口に架けられる場合が多かった。
しさの追求とと
しているので保存状態がよい 。
九五)に創建された朝鮮朝 の正富である。永済橋も宮
景福宮は太祖四年(一 三
聞にはめ込んだ二 二の飾柱は、豪牽な細工を施した彫刻品で
花山岡石基壇の上には、前頭部に一つの角が突き出た 一角獣
れるように造り、その上に石橋を架けた。昌徳宮の錦川橋や
朝鮮時代の王宮には、正殿の広間の前に清らかな渓流が流
が刻まれていて橋の下を見下ろしており、八角形の石欄干の 殿の創建とともに造築され
ある。 たものと壁疋される 。永済 橋の元来の位置は勤政殿の
回目慶宮の玉川橋や徳寿宮の錦川橋も同様である。
永済橋の長さは二ニ ・三メ ート ル、幅は一0 ・三メートル
このあと、景福宮のかたすみに長い間石材として放置し
川という。この錦川の上に架けられた錦川橋は二つの反り橋
かなり大きな川をなして宮殿の外に流れ出るが、この川を錦
昌徳宮には森の中に数多くの渓流があってこれが合流して
である。
ていたが、慶会楼近くにある溝に移して復元された。一九六
ルのものである。
朝鮮太宗一一年(一四一一)に建造されたこの橋は、現在ソ
からなっており、長さ一二・九メートル、幅二了梧メート
ウルに残っている古い石橋のうち最も古いものである。六つ
五年のことである。このあと現在の位置に再び移された。も の幅に合わせて 一つにされてしまった。もとの場所を離れて
の石柱をつなぐ側面五聞の欄干に精巧な彫刻が施されてい
鼓腹形の紋様を陽刻し、その聞の壁面に、横に長めに広がつ
て、橋というよりは華麗な石の彫刻品のような感じを与える 。
あちこち移されながら、規模すら半分に縮小されたので、い 永済橋は、国王だけが通れる橋だったので、いかめしく華
わば﹁見守護の橋﹂だったわけだ。
ともと反り橋は、七つにわかれていたが、移設する過程で携
済橋を取り払ってしまった。
一九一八年、動政殿の前に朝襲警府の建物を建てる際、永
日帝が朝鮮王朝の王宮である景福宮を、視野から隠すため、
正面前、現在の国立博物館の後方に位置していた。しかし、
景福宮の永済橋の海副象
麗な欄干が施しであった。
55
宮中の橋は、 美
香園池は、高宗時代(一八七三)に造成されたが、池の真ん に至る酔香橋は木橋で、長さ一一一一 一 メートル、幅一 ・六五メー
中に島を造り、そこに香遠亭とい、ヱ Aが T 建ててある。香遠亭
た蓮華一紋を透かし彫りにして窓の役割を担わせている。 こうした欄干の手法は、昌慶宮の玉川橋と同じ棒天である。 に装飾している。
平橋は、橋脚を立てたあと、その上に長方形の石を井の字形
民間の橋では、虹橋はなく主に平橋または桁楕を架設した。
民間の橋│水震構どサルゴジ橋
下がるだけでなく装飾も簡潔であまE見映えがしない。
徳寿宮の入口にも錦川橋という小さな橋があるが、年代が
トルで、比較的長い橋に属する。
欄干の柱の上には、蓮華の菅模様の宝珠と蓮華の花弁を華麗 石柱の下方には、八つの竜頭石が彫刻されているが、大き く見開いた自に歯をむき出しており、その表情はそれぞれ異 なる。宮中の橋としての威厳を回ザユ仔分に表現している。一方、 半円形に積み上げた二つの反り橋の聞に差し込んだ三角形の き出しそうな生動感を与える。この彫刻は、朝鮮朝前期の石
石の端には、険しい形相でにらんでいる鬼面像がいまにも動 造芸術の代表的な傑作である。こうした鬼面像は、邪悪な鬼
民間の橋であるので、装飾的な要素は排除され、実用性と堅
0 に組立ててから板を敷くように石材を敷く方法で築造される ・
鬼面像前の礎石には、南方に向かって海院が、北方に向かっ
神を追い払うと昔の人々は信じていたのである。 て石亀が{室巴されているが、たくみな彫刻手法は逸品である。 である。
牢性に重きが置かれた。したがって質朴に造られるのが特徴
畠慶宮の正門である弘化門に入ると、小川の上に美しい玉
た宮殿であるので、玉川橋もこのとき築造されたものと推量 される。
昌慶宮は 、成宗時代(一四八三)に造り始めて翌年に完成し
部を通過して東大門の憐の五澗水橋に抜ける川は、今では三 ・
わたって大々的河川工事が行なわれた。北岳から市内の中心
都以後、太宗時代(一四二一)と世宗時代三四二二)に二回に
工事をしながら大部分を石橋に変えた。木橋は、洪水になる
ソウルにはもともと木橋が多かったが、朝鮮初期に河川の
橋の長さは九・九メ ート ル、幅六 ・六メ ート ルで埋棋は小
川橋が架けられている。
さい方だが、石柱と欄干、石獣の彫刻などが秀でていて朝鮮
一高架道路工事のために蓋をした清渓川のことである 。この
と流されることが多かったからである。漢陽(ソウル)への遷
前期の代表的な傑作といえる。
空間には、いかめしい鬼面が写実的に彫刻されている。橋の
昌徳宮の錦川橋と同じく、ア ーチがつながる部分の三角形の
である。
た。これらの橋のうち今はただ一つ水標橋が残っているのみ
に架設する橋は、自然と恰好と輩入に気を使わざるを得なかっ
の橋が架けられていた。都心を流れる川であるため、その上
両端には四角形の柱を建て、その上に石獣像を載せている。
水標橋は、朝鮮朝の世宗時代に今の檀浅川二街に架けられ たが、一九五九年、清渓川の覆蓋工事の際、現在の位置であ
川には広通橋をはじめ、水標橋、恵政橋、毛塵橋など、七つ
中間には四本ずつの石柱を設け、その上に蓮華の奮の形の宝
) る奨忠壇公園に移された。この橋は、英祖一二六年(一七六O
橋の下は二つの半円形のア 1チを積み上げているが、下壇
珠を彫刻し、下に美しい蓮華の紋様を装飾するなど、非常に
部の石材は番置に積み上げ、その上に反り橋が構築してある。
華麗なできである。欄干の壁も、また浮き彫りと透かし彫り
川の真ん中に水標石を立てたことで有名になった。左右に一
に大規模の河川波深工事をしたあと、水位を測定するために
歩道は長方形の石材をもって境界として三つに分けている
二個ずつ計二四本の欄干柱を立てており、柱聞を連結した欄
でくりぬく手法で石造芸術の極致を見せている。 が、やや高い中央道路は王の専用通路、左右の低い通路は臣 減らされているが、威厳を備えた整斉美がよくあらわれてい
干石も八角形によく仕上げられていて、洗練された美しさを 見せている。橋脚は、四角と六角の石材を支柱にしているた
下の通路とした 。石の表面は長い歳月の間風両に洗われ磨り
水標橋とともに清渓川の有名な橋だった広通橋は、今の武
ち最も美しい橋として知られている。
め、荘重で簡潔な印象を与える。水標橋は、準決川の橋のう
景福{呂の香園池に設置された酔香橋は、美しい池の上に架
る。玉川橋は宝物に指定されている。
T ﹄調和をなしている。 けられていて、周辺の且轟
ozdZ己亘。
平
56
j 美江のサルコジ橋
一O 没した。世宗時代(一四 )に架設されたこの橋は、長さ 一
橋洞に位置していたが、清渓川高架道路工事のさい地下に埋
跡に費疋している。
八メートル、長さ八四メートル)を増設し、サルゴジ橋は史
抵抗を少なくしている。今は、橋の東側にコンクリート橋(幅
橋脚は菱形にし、表面一はノミで無数の線を刻み込んで水の
、﹁ノ。
しなければなかったので、船主たちの不満が大きかったとい
る。舟橋を架けるためには漢江べりにある民間人の舟を徴発
こうした舟橋の形は、正祖の﹃陵華図﹄にもよくあらわれてい
漢江に現代的な橋が架設されたのは一九のむ年、漢江鉄橋
の開通によって﹁漢江橋時代﹂が幕を開ける。アメリカ人モ l
スの設計で一八九六年に着工し、四年ぶりに定成したのであ
る。このあと、九四年が過ぎた現在、漢江には二二の橋が架
設されており、そのうちの二O の橋がソウルにある。
しかし、経済的な理由で漢江の橋は華芸観をないがしろにし、
ただ機能にのみ重きを置いて建設した。外国の大都市に見ら
れるような美しい芸術的な造剖実を備えた橋は造られなかっ
たのである。しかし、一九七九年に竣工した聖水大橋のとき
から橋脚聞の距離である径聞を一一一0 メートルに広めるなど、 橋の美学を導入した。
それなりに芸術的意匠が加えられ、ソウルの象徴的な橋と
は、八八オリンピックを象徴する記今日物であり、初めて懸賞
して挙げられるものがオリンピック大犠である。まずこの橋
募集によって設計が決まった。斜張橋であるこの橋は塔の柱
が四本からなっているが、これは四季と東西南北を象徴する
ソウル ・オリ ンピックが二四回目であることを表しており、
ものだという。両側にそれぞれ一二ずつ、計二四のケーブルは、
記念主塔の高さを八八メートルにしたのも、八八年開催とい
う記念的意味を表している。
こうしたオリンピックの象徴性とともに、オリンピック大 く目的で八ハ内道ーの舟を動員-舟橋を架設させた。正祖王は、
によくなっている。不粋で無味乾燥な構造物としての橋だけ
今やわが国も経済事情が七Oi八0年代にくらべてはるか
橋は漢江の最主突しい橋とい、条誉を担っている。 水原にある父君の思悼世子の陵に参拝するため舟橋を架設さ
を建設するのではなく、美意識を表現した洗練された軽快な
δ 隻を必要とした。大きな船で橋を造り、小さい舟は
6 丈夫な舟橋を造るためには、大きな船三六隻に小舟四円
ろ 、 っ 。e
すべき時点である。それは伝統と現代の調和する出合いとな
装飾性と造形感覚、精巧な彫割手法を現代の橋の建設に導入
姿の漢江の橋を作るべきであろう。 たとえ規模は小さくても、昔の宮中の橋にあらわれている
よって順次に連結してい ったので、舟橋の形は虹形になった。
円 j五
スのは川の真中に配置し、その左右には船の大きさと高さに
舟橋を固定させるのに用いられた。大きな船のうち最大クラ
部地方へ行幸する場合に備えていたのである。
せた。朝廷では﹁舟橋司 と L い、っ役所を設けて国王が漢江の南
朝鮮初期の暴君、燕山君は、漢江越しの準決山へ狩猟に行
るものであった。
漢江の現代橋
四メートル、幅一八メートルで、 ソウルで最も賑やかな町に
する人が平らな地面を踏むようだ﹂と、この橋を礼賛している。
成宗代の成倶は﹁橋の与える安らぎがわが家のようで、往来
位置していた。このため旧暦正月一五日の夜、踏橋(一種乞踏ん でその年の邪気を除く民俗遊態行事のあるときには、広通橋 と水標橋には人々が溢れ出て人山を築いたという。
漢江の舟橋
ρ
踏橋というのは、旧暦一月一五日の夜に橋を踏むと、一年
る
間脚の病にかからないということから行われた習わしである。
漢江は川幅が広いので、朝鮮時代には橋が架けられなかっ 、
されることが多かったからであ
踏橋とともに橋の下では、プンムルノリ(磯圭泡具による遊撃
えた。木橋は、洪水になると涜
と舞童の踊りなど、輿に乗じた踏橋ノリが催された。踏橋と
た。そこで老柔したのが舟橋たった。多くの舟をつなぎ止め てその上に板を敷き、人と馬が通行できるようにするもので
事をしながら大部分を石橋に変
を迎えて、今月二月、この踏橋風俗がソウルの元暁大橋で再
かったが、朝鮮初期に河川の工
ある。漢江の舟橋は、王の渡江のためにだけ臨時に設けられ
ソウルにはもともと木橋が多
踏橋ノリは一事δ 年代までザわれた。﹁ソウル定都六ハ門¥﹂ φzgxEZO
干
現された。 ソウル郊外の漢江・支流に残っているサルゴジ橋傘型中橋)は、 朝鮮時代の最も長い大きな楕たったが、大きく培狽され今で は半分ほど昔の面影を残している。代表的な一千橋であるサル ゴジ橋は、世宗時代に工事を始めたが、洪水のため中断された。 このあと六三年がたつた成宗時代(一四八三)に遂に橋が完成 した。長さ七八メートル、幅六メートルで、一万石の石を切 この橋を渡ると江原道と嶺南に至る三股道がある、いわば交
り取って船で運んでの大工事だった。当時の橋の名は済盤椅 通の要地だった 。 サルゴジ橋は、巨大な石柱を川に立てて、その上に支え石 を載せたあと床板を敷くように石を敷いて路面とした。
57
ソウルj署長引│ の水擦橋。今は奨忠重公園に移してある
︾}
、 姫 I NTERVI EW
朴東鎮
大田のある劇場で、ある有名な歌い手の 公演がありました。当時わたしは一三歳 でしたが、 ソウルにある大きな伝統音楽 の上潰劇場である「円覚社」は破産してい ました。ところでその音楽は驚きでした。 公演が終わったあと歌い手たちが泊まっ ている旅館に行ってパンソリを教えてく れるよう頼みました。 すると、彼らは食 事代と服代は自分持ちだよ、と言うでは ありませんか。わたしは一文も持ってい なかったのですから、一諸に行くことが できませんでした q
干 φZ面的 xt︿色白
p
ノぜンソ リ 代
フリーラ ンサー
ジ ュリ l ・ピ ッカリン
義兄はわたしに才能があることを知 っ ていたのです。 そうこうするうちに、 義兄は「朝鮮ソリ ( vocal) 音楽研究会」の 創始者であり偉大なバンソリ歌手の宋万 甲 ( 1867- 1939) 先生にわたしを紹介して くれました そのとき先生は光州に滞在 申でしたが二先生について学びました。 このあと先生は、わたしをソウルに呼び ました。怖かったんですが、これがわた しのパンソリ人生の始まりでした。 A
ANA--亘書最
を迎えて、 ﹃ KORE 可E令BEE-噂楽の年﹂
-一玉一
旨EE--,高のパンソリの歌い手の二
ンソリの位置のみならず、韓国の伝統音楽の
人とインタビューして、現代社会におけるパ
役割について知りたいと考えた。ただ一人生
存している国唱(桂冠歌手)であり ﹃ 春香歌﹄ ﹁ 人間文化財﹂である金素姫は、パンソリに対
する献身的な貢献のみならず声の純粋さと音
楽的理解力が広く認められてきた。 ﹃赤壁歌﹄の ﹁ 人間文化財﹂である朴東鎮は、
豊富なトlン、雄大さ、不屈の努力、そして
現存するパンソリのすべての場面(作品)を、
もっている人物として知られている。インタ
記憶だけで歌つてのける不可思議な能力を
ビュ ーは、ソウルの都心にある金素姫の自宅
で行なわれた。
- ﹃KOREANA﹄のインタビューに応じ
てくださいまして有雑うございます。とくに
今年は、﹁国楽の年﹂で、いろいろとお忙しい
と思います。では、まずどうして職業として
ンソ リを勉強なさったのですか。
パンソリをお選びになり、そしていつからパ
金素姫 一一 一一歳の頃だったと思います。
わたしは全羅北道高微で生まれましたが、姉
の誘いで光州に行き姉の家族と暮らすことに
なりました。ある日、登校のさい数人の人が
が自に入りました。パンソリ公演場を作って
何かは知りませんでしたが、テントを張るの
いたんですね。そして授業時間中、周囲に響
く美しい声を開きました。下校のときその声
が当時最高のパンソリの歌い手だった李花中
仙の公演であることを知りました。被女は豆沈
清歌﹄の一場面を歌っていたんです。:::沈
清は、 上帝の皇宿となって世の中の全ての富
と権力を握るようになりました。しかし、彼
女は盲目の哀れな実父のほかは何も考えるこ
58
。 金 調臣 朴東鎮
のでした。もし俵女が西洋で生まれたとすれ
ようでした。そして杢花中仙の声は大したも
りにも美しかったですね。まるで一篇の詩の
とができませんでした。:::この場面があま
の生徒は全員日本人でした。地方の役人の推
学に進学するよう推薦しましたが、その学校
たようです。地域の長老たちが大田の名門中
くれました。当時わたしは、かなりよくでき
した。学校ではわたしを二学年飛び級させて
このあとから、先生はわたしに助けを求めま
くことができませんでした。
文も持っていなかったのですから、一緒に行
だよ、と言うではありませんか。わたしは一
た。すると、彼らは食事代と服代は自分持ち
行ってパンソリを教えてくれるよう頼みまし
りますと、即座に追っぱらわれました。
した。男の門下生と話を交わす場面を見付か
聞では話し合うことすらはばかられた時分で
い至りますと、今どうして政府が若い人を﹁人
に若く、驚くべき立派な歌い手だったかに思
朴東鎮一ところがです。当時、彼女がいか
ば世界的な歌手になったでしょう。わたしは
ー 当時、先生は自ら特別な才能がおあり
彼女の声にすっかり吸い込まれてしまいまし
ました。 :・ :・その日開いた歌をまねて・ :: ・ と れでも教科書を 一度読むだけで全部そらんじ
わたしはクラスで一番幼かったのです。そ
しかし、勉強するカネがなかったんです。
堪えられないということも知っていました。
知っていました。日帝統治下で生きることが
朴東鎮一好い喉を持っているということは
素姫は 一九六四年、四七歳の時に人間文化財
たねばならない理由がどうもわからない。(金
鼓判が押されているのに、四O や五Oまで待
を抱かざるを得ません。並み外れた能力に太
間文化財﹂に指定しないだろうかという疑問
にかく毎日歌いました。それで姉にはずいぶ ました。写真のような記憶力があったようで
だということを知っていたのですか。
ん怒られました。姉はほんとうに怒っていた す。それで、勉強をする必要がなかったんで
朴東鎮 一非常に軽蔑していました。社会の
そのうち、わたしは学校に通うことに疑い
た。しかし、やがてその先生にはあまり教わ
彼の農作と炊事をしてやりながら学びまし
があっても、先生に興従しないということは
神のような存在でした。親には従わないこと
朴東鎮一先生たちは、わたしたちにとって
d
ろ妥 えていたんですか。
について正式に請願しましたが、何の回答も
ときに指定された)わたしは政府にこの問題
- ﹁朝鮮ソリ音楽研究会﹂はどういうもの
ありません。
だったんですか。
金素姫 一,有名な歌い手と演奏者は、みんな
にわたしを紹介してくれました。そのとき先
を抱きはじめました。大人になってから役人
るものがないということを知るようになりま
絶対許されなかったんです。田舎から上京し
そこで学びました。
生は光州に滞在中でしたが、先生について学
や判事になることを日本人は許さないだろう
した。先生は自分が知っているものを教え、
ました。
んです。姉は勉強に励むことを望んでいまし す。わたしは教室の一秀後ろに立って勉強し
認識は、彼らは単に各地を巡りながら公演を
薦状のお陰でその学校に入学することができ
た。歌を歌うのではなく:・・:。しかし姉の夫 ました。韓国人だったからです。日本人の生
被女の歌を聞いたあと、独りで歌を練習し
はわたしの歌を止めようとはしませんでし 徒たちはわたしにニンニク臭いと言いまし
する芸人でしかなかったんです。それでも、
た。動くことすらできなかったんですから。
た。義兄はわたしに才能があることを知って た。またある者はわたしを毎日殴りました。
わたしはパンソリが学びたくて、ある歌い手
に指定され、朴東鎮は一九七三年、五五歳の
いたのです。そうこうするうちに、義兄は﹁朝
教育は日本語で受けたのですから、韓国語は
ー当時の人々は、パンソリ歌手たちをど
鮮ソリ(︿虫色)音楽研究会﹂の創始者であり偉
にねんごろに教えを請いました。一年半の間
びました。このあと先生は、わたしをソウル
と思ったのです。親は役人になることを望み
わたしを連れてあっちこっち回りながら公演
が、もししくじりでもすればそれでおしまい
た者にとってはまたとない機会だったのです
匂)先生 外国語も同然でした。
・ ω ∞ S5
に呼ぴました。怖かったんですが、これがわ
ましたが、わたしは親が間違っていると思い
をさせました。彼はおカネを少し稼いだよう
(H
たしのパンソリ人生の始まりでした。
ました。体制が韓国人には不利にできていた
大なパンソリ歌手の{杢刀甲
朴東鎮 一わたしは申鑓嵩道公州で幼年時代
なんです。もちろん金さんは先生たちの最も
ー朴先生の場合はどうだつたんですか。
愛する弟子でした。きれいで礼儀正しく、ユ ー
です。 わたしは、もまなく彼から離れました。し
からです。それではたしは学校の教務課へ
かし、どこへ行く当てもなかったんです。と
モア感覚もありましたね。
行ってこの学校にはも、ヱ米ないと言って学校
ころが、ある金持ちのパンソリ・マニアがわ
を送りましたが、その当時は日本人たちがす
わたしは、自分の将来についていろいろ考
たしに、上京して﹁朝鮮ソリ音崎市研究会﹂の首
へ行くをやめてしまいました。 えました。韓国人には、なかなか機会が与え
席パンソリ先生の工貝烈先生に師事するよう
べてを支配していました。学校までもです。 わたしは模範生でした。それで村の長老たち
つまり韓国的なものを学んでやろうと思った
られない。とすれば日本人のできないこと、 んです。パンソリ公演を初めて見たのもその
朴東鎮 一そうです。当時わたしは 一八でし
手女史に出会ったのでしょう。 ー そのとえ X
金素姫 一朴さんの前でこういうこと言うの
を後悔したことがあるのでしょうか。
そうですね。古典音響乞職業に選択したこと
ーパンソリ歌手の人生は実に苦しかった
金素姫 一ど、?か、もうそれくらいにして・ :
は、わたしの両親にわたしを学校に入れるよ
頃です。大田のある劇場で、ある有名な歌い
は恥ずかしいですが、わたしにとってはとて
初めは村で伝統的な漢文教育を受けました。
う勧めたんです。こうして、わたしは邑(町)
勧めました。
ろがです。漢文時代たったんですが、先生が、
にある小学校に通うことになりました。とこ
た。そして被女はとてもきれいな方でした。
も答えやすい質問です。わたしには生れつき
大部分が男の弟子だったので先生たちは彼女
才能があったと思います。そして最初から最
でしたが、ソウルにある大きな伝統音楽の上
は仲々彼女に接近できなかったんです。
を本当に可愛いがりました。それで、わたし
手の公演がありました。当時わたしは 二二 歳 演劇場である﹁円覚社 は L 破産していました。
いことに気つきました。わたしが笑い出すと
ところでその音楽は驚きでした。公演が終
自分の教えている内容をろくに理解していな
ろん日本語でです。わたしは寸先生は漢文が
先生はどうして笑うのかと尋ねました。もち
高の先生に習、ヱ辛還にも恵まれました。ただ わったあと歌い手たちが泊まっている旅館に
金素姫 一しかもその時代には少年と少女の
おわかりじゃないようです﹂と一言いました。
59
出差亘。 平ωZH h r '
禽圃 n
, e 東 ' 企庁1
パンソリの勉強を始めるべきだったというこ
リの歌詞を覚えていらっしゃることで有名で
ー 朴先生、先生は現存のすべてのパンソ
音響乞作り出すのかを知りませんでした。
とです。つまり、音楽授業を始める前に学校
すが、今もすべてを覚えていらっしゃいます
しは先生を信じました。それでわたしも山奥
に入りました。そこは人をわずらわせずに歌
公演を終えるといつも歩きます。大部分のパ ンソリ作品は少なくとも三、四時間はかかり
を練習できる唯一の場所なんです。そこで歌
としません。若いときからそうしたことに反
ません。わたしは朴さんのように長く歌おう
げたり、気を付けて音を調節しなければなり
パンソリはとくに苦しいんです。上げたり下
とをするようにはできていないと患います。
た。匂いはたまったもんじゃありませんが、
かった。人々は体がむくむと糞水を飲みまし
ろいろあるんですが、当時はそんは薬がた
す。いまでは、そんは症状を治療する薬がい
り、ひどい時は腕すら動かせなくなったんで
ずつ歌を歌いました。すると体がむくみ上が
朴東鎮一とにかく四五日間を一日 一八時間
てる人がずいぶんいるんですよ。
金素姫 一そんなことをして喉をムロ無しにし
たんですね。
だ母たし、たくさん練習するほどいいと考え
い続けて鍛えました、当時わたしは= δ 前後
ます。 1 若い人にとっては、そんなに長時間歌
朴東鎮 一とくに女性はね。
い続けることなんて無理でしょうね。 金素姫 一とうです。ひどく疲れます。率直
対しました。人体には限界があるからです。
効果はあったようです。
に申し上げて、人間の体はそれほど苦しいこ
わたしが申し上げたいことは、わたしたちの
ね。先生は喉を保護するための何かの特別な
ー パンソリは確かに喉合酷使するんです
親しい同僚である朴さんの場合は特別だとい 朴東鎮一ところが、わたしには途中で中断
うことです。
金素姫 一とんでもない、違います。誰でも
朴東鎮 一そうですね。金さんは生まれつき
予防策でもございますか。
朴東鎮一 わたしは昔から記憶力がよい方で
毎日練習しなければならないんですよ。練習
教育を受けるべきではなかったかと考えてい
するのがとても嫌なんですね。一旦始めたら
たちをうらやましく思ったりしました。わた
した。練習も銑叩心にやりましれ/、。歌い始める
ん。一 0時間声を張りあげてみなさい。胸が
途中で止められません。わたしは舞台で歌い
しは勉強に行く前に毎朝いろんな勉強をしま
と歌詞が自ずと出ます。歌を歌うとき、わた
痛みはじめ、手足がむくむでしょう。信じら
か 。
した。それで今も惜しまれるのは、正規教育
しの目の前にまるで文字板がはっきり見える
をしないと最高の境地に入ることができない
もちろん長時間歌うのは容易ではありませ
演後に血を吐いたとか人糞を食べたとかいう
金素姫 一同感です。疲れますよ。でも、公 話はやめなさい。人々は、パンソリに関する
山で毎日練習しなければならない。
のですから。それが毎日練習しなければなら
- 韓国の土着音楽に対する関心を高めよ
ない理面なんです。
うという努力の一環として、一九九四年を﹁国
あったから学びはじめたんです。しかし、こ
金素姫 一わたしたちは本当に国楽に興味が
楽の年﹂に指定しましたが・・・:・。 せん。しかし、人間の排地物を飲んでみたこ
朴東鎮一わたしは血を吐いたことはあ
声がきれいな方ですが、わたしみたいな人は
を受けていたらということです。もちろん、
ようです。みんな合わせて 一人 0時間分のパ
れないことです。
ながら死にたいのですね。
わたしはそこで伝統楽器の演奏も学ぴました
ンソリが頭の中に入っています。﹃春香歌﹄八 壁歌﹄六時間、﹃水宮歌﹄ 四時間など、多いで
時間、﹃窪謀﹄七時間、﹃輿夫歌ι五時間、﹃赤 すね。少なくとも一 日一 一 一 時 間以上は練習しま
金素姫一 当時は誰も伝統思議を学ぽうとし
なったのですか。
こうした信じられない噂を広めますからね。
とは 一度あります。昔の人々は、それが薬効
れまでの五0年聞は、新しい形の音楽と出し
心を持ち始めたのは最近のことです。しかし、
があると信じていたんですよ。わたしは絶対、
昔わたしたちが学んだ方法で今の弟子たちを
えてきたんですね。人々が伝統音楽に再び関 一 00時間続けて歌ったと自慢していまし
教えるべきだというのではありません。時代
物が外国から入ってきて、国楽はだんだん衰
た。それがまさにその先生がパンソリをマス
弟子たちにそれを勧めません。それは喉と何
孟
l 朴先生は、パンソリの最長公演記録を
す。でないと忘れてしまいます。
朴東鎮一そうです。一九七三年に九時関西
O分のあ いだ続けて歌いました。
2
なかったんです。母語は誰でも歌うことがで
です。パンソリは韓国芸術の雲諺式です。
たんです。 まさにこの点に心が惹かれたよう │ 雲向の瞬間はいつでした。 金 素 姫 二 九 七 二年がわたしにとっては最
ターした方時たったんです。もちろん、わた
らの関係がないからです。昔わたしの先生は、 朴東鎮 一そういう長い公演のあとでは用心
金素姫 一今はわたしたち歌い手のだれもが
すべきです。歩かねばなりません。わたしは
高の年だったようです。そのとき、わたしは ういうも のであるのかを理解していました。
そうしたことができると人々は考えます。
率直に申し上げますと、若いときは何がいい
五五歳でした。声は強列刊だったし、音楽がど
保有していらっしゃると開いていますが・:
きましたが、パンソリはある意味で挑戦たっ
ー ど う し て パ ン ソ リを専攻するように
し、舞踊 はすでに郷里で学んでいました。
ます。わたしはソウルの通りで会う女子学生
一つ後悔していることがあります。少し遅く
今年は「固楽の年」、今や自らを省みると ともに計画を立てるときです。わたした ちのような職業音楽家は、この機会をど のように最大限活用すべきかを考えるべ きだと思います。
60
はそのようにして学んだからです。ちょうど
分の先生が使用した方法を固執します。彼ら
式で学ぼうとしないんです。ある先生は、自
が変わったんです。現代の人々はそうした方
だ五月ですからね。
ものをしたいのです。期待してください。ま
をしているのでょうか。わたしは何か特別な
先は何をすべきでしょうか。電導者たちは何
楽に関して何をしたというのでしょう。この
はたして彼らは将来、国楽に対して何をする
と思います。彼らにとっては映画事業でした。
リに対する恐信から映画を作ったのではない
ね。時宜を得たんです。でも、彼らはパンソ
作った人たちはとても運がよかったんです
理論と歴史も学びました。
ます。その子供たちは、歌や器薬だけでなく
めのパンソリ・キャンプをやったことがあり
て弟子の一人が五歳から九歳までの児童のた
朴東鎮一教えるということは、確かにわた
そこが心配なんです。先生たちは、ご自分の
方では、急に高まっている関心が心配です。
ことを有難く思っております。しかし他の一
変な才能があります。しかし、まだ彼女は未
ある呉貞該はわたしの弟子でした。幌支は大
他の面から見ますと、この映画の主人公で
かし、わたしは歌を聞いたあと大部分そのま
びたいとわたしのところへやって来ます。し
ぎています。他方で多くの人がパンソリを学
す。今の若者はテレビと映画に時間を割きす
パンソリ歌手になるのがたやすいと思いま
したちの最も大切なことの一つです。今では、
国楽は長い開無視されてきました。率←且に申
完成の器だと思います。そして今は映画にう
ま帰します。人々はこれをとがめるかもしれ
ことができるでしょうか。
ーときにはパンソリがヨーロ ッパで、よ し上げて、このように急に高まった関心がう
つつを抜かしています。失望するしかありま
金素姫一今年国楽がとくに注目されている
り熱狂的な反応を示しているようですね。海 とましいんです。人々は、かつて国楽がどう
せん。わたしは老いて病んでいます。わたし
ソリを趣味とする人とは違うと思います。誰
ません。しかし、パンソリのなり手は、パン
経験以上に弟子たちに多くのものを教えねば
外で、音楽と文学の分野で、パンソリに関す だつたのか、関心すらなかったんです。しか
こういうわけで、彼女がパンソリ修業を止め
は積女を実の孫娘のように愛し教えました。
なりません。それが先生の責任です。
金素姫一向こうの方々は音楽を通じて普遍 も、韓国の芸笹ゑたちはあまりにも苦しい生
る関心が高まっています。なぜでしょうか。 的なものを感じ、音楽についてもっと学ぼう 活を送ってきましたので、何かの関心を惹い
│最もやり甲斐があったという経験は何
もがパンソリができるわけではありません。
いたようものを得られる機会として﹁国楽の
の持主なんです。わたしは彼女が映画をやめ
力があります。一O万人のうち一人いる才能
朴東鎮一その通りです。確かに横女は潜在
七二年の二回目の公演では、本当に観客と呼
何が何だったか分からなかったんです。一九
し子、。初めの公演は一九六四だったのですが、
たことは、昌一一日うに言われない失望でした。彼
年﹂を迎えています。ごく小数の人のみが芸
て音楽に熱中する姿をみたいものです。わた
吸が合うのを感じました。わたしは歌うとき
女はまだまだ潜在力があります。
朴東鎮一もちろん、政府が今年を﹁国楽の
術のための芸術に関心があります。わたしの
しは金さんに赦しを請うて再び教えを一受ける
たり、得ること.のできる償いについては敏感
としているようですね。 ー 国際化が唱えられているこの際、国楽
年﹂に定めたことはうれしいことです。これ
見解では、漠然たるものではありますが国楽
よう彼女に勧めました。
公演の際、西洋人は表現が豊かだということ
動きがあまりない方です。しかし、アメリカ
なんです。それで、多くの人が長い間失って
はわれわれの音楽に関心が高まっていること
への関心は高まっているようです。映画、﹃西
金素姫一﹁国楽の年﹂はまたとない機会だと
は何をすべきだとお考えですか。
を反映しています。一方、わたしたちのよう
便制﹄の成功をみても確かなようです。人々
思います。しかし、単に行事だけですましで はならないと思います。そうなりますと国楽
と歌の感じを伝えようとして、より多くの動
を実感しました。それでわたしは、観客に筋
金素姫一わたしは二回目のアメリカ公演で
な職業音塞家は、この機会をどのように最大
は、韓国的なものの再発見に関心をもってい
かございますか。
限活用すべきかを考えるべきだと思います。
ます。驚くべきことです。確かに﹃西便制﹄を
は無視されます。一部の人々は国楽を愛して
については何も知っていません。わたしたち
扇子を投ぜました。観客たちは熱狂しました。
降りることはできないのですから、代わりに
のことです。わたしが舞台の向こう側に飛び
で沈清が海に身を投げる場面を公演したとき は、国楽が何であるのか、彼らの理解を助け
そのときわたしは自分の動作も板についてい
作(身振り)をしようと努めました。﹃沈清歌﹄
ねばなりません。村へ行って、隣へ行って、
ると思いました。公演は驚異的でした。何で
います。また別の一部の人々は国楽が好きで
国楽はわが国伝統の一部であるということを
もできるように感じられました。
ありません。さらに別の一部の人々は、国楽
人々に知ってもらわねばなりません。それは、
長い時間、査難うございました
よって、似通った経験をするよう望みます。
o '
国の若い芸術家一たちが、先生の啓身と教えに
ー すごい経験だったんですね。多くの韓
わたしたちの血の中にあります。国楽が何で せん。
あるかを彼らに教え、見せてあげねばなりま もし、わたしの建康が回復すれば、若い人 相手にパンソリを教えたいと思います。かつ
61
﹁国楽の年﹂、今や自らを省みるとともに計画
一部の人々は、国楽に・ついては何也知っ ていません。国楽はわが国伝統の一部で あるということを人々に知ってもらわね ばなりません。それは、わたしたちの血 の中にあります。固楽が. 何であるかを彼 らに教え、見せてあげねばなりません。
を立てるときです。これまでわたしたちが国
金素姫
現存と 永遠の照応
二三ロ J OURNEYS IN KOREAN Ll TERバrURE
r...-t"
、 1と ノ 、
金奉郡 誠心女子大学教授・文き評論家
E口同)に
D 呂 田
ちと先鋭に対立したが、南北分断とともに彼
主義リアリズムを支持して伝統詩の擁護者た
や、いわゆる﹁文学家同盟﹂の詩人たちは社会
韓国が日本の植民統治から解放されるやいな
圧によって挫折した。一九四五年八月一五日、
九四六年に成長地である元山で始められた。
移住して育った。彼の本格的な詩作活動も一
伝道師である両親について成鏡南道の元山に
ネディクト修道院の付属学校の設立者であり
るカトリックの(丞挺に生まれ、幼くして聖ベ
され始めたこの重要な時期に、伝統を重んじ
情詩、小説、戯曲が主要ジャンルとして{蚕看
らの活動舞台を北韓に移した。現在、韓国で
﹃凝香﹄に詩﹁繁明図﹂を発表し、このために筆 禍に遭って北韓を脱出し、一人韓国に来る。
彼は元山の文学家同盟が出した解放記念詩集
等を暴露、批判して、時には階級革命を暗示
て酷烈に批判され、彼が即刻粛正されるやも
彼の詩が徹底した共産主義者の評論家によっ
は批判的事実主義(RES-2丘町宮)系列の詩
する社会主義リアリズムの傾向を示したりも
えて、独創的な詩の世界を聞いており、具常
具常の詩は先に述べた三つの詩の流れを超
を開いてきている。我々の関心は、彼の詩の
する過酷な歴史の試練を経て独特な詩の世界
南にやって来た具常は、韓国戦争をはじめと
しれぬ危機にさらされたからである。北から
自身は、数多くの韓国人の深い信頼と尊啓乞
る 。
世界を独創的にした彼の独歩的な詩学にあ
具常の詩語は、外延が明瞭である。表現が
績詰の回避と存在的な認識
受けている、この時代韓国においてもっとも
月一六日にソウルで生まれた。この時期は叙
に立ち上がった三・一運動期の 一九一九年九
本の植民統治に反対して非暴力的な独立闘争
詩人、具常は、ほとんど全ての韓国人が日
偉大な詩人とされている。
なし
するが、これは韓国の詩の主だった流れでは
人たちが自生して社会的不平等、分配の不均
し、韓国文学が本格的な現代文学の特性を表
を聖者である異常の人格の中
を、つけた社会主義リアリズム(的口三回一-2
の分身たちが集まって、世俗
﹁宣伝同国)系列の詩は、一九二0年代の後半以
これら実質的なカオス的存在
し始めた時期である。具常は民族の独立運動
分け穏でなく集まって来る-。
が具体化し、韓国の現代文学が本格的に形成
父、文入、画家、托鉢僧などが
革を叫ぴ続けながらも日本の植民統治者の弾
異常の関辺には男女老若、神
後、およそ一O年のあいだ矛盾した現実の改
相を見せてきた。また、東ヨーロッパの影響
れたモダニズム詩との葛藤、受容、共存の様
した叙債詩であり、西ヨーロッパから受け入
情緒と思想と詩の形式を支配素(己
して展開してきた。伝統詩は韓国人の固有の
ダニズム詩、リアリズム詩の三つの流れをな
韓国の現代詩は、大きく分けて伝統詩、モ
序 論
なるのである
がいないから好きなように描くしかないとい
とに比聡する。お化けは、その実態を見た人
現実主義詩を綴ることをお化けの絵を描くこ
詩に対しては深刻な憂慮を表明する。彼は超
詩の言語的な技巧を排撃し、特に超現実主義
りながら感性的な表現にこだわるモダニズム
に、彼は存在の意味と真理の追及に無心であ
ガiの言語観と相通じるところがある。ゆえ
語った M、ハイデツ 現代を﹁存在忘却の夜 と L
ない華麗な言葉の技巧を彼の詩は遠ざける。
悪のうちの一つである。真理を表象、伝達し
ばならないという彼の詩学的な見解がその二 つ目である。﹁締一語﹂は仏教でいう一0種類の
であり、時の表象と真理は均衡をとらなけれ
葉、即ち﹁締諾﹂を避けようとする彼の言語観
理とは関係なしに巧妙にうわべだけを飾る言
場合が多い。その理由は二つある。一つは真
的な技巧を最少化して意味の正鵠を照準する
たずらに言葉の遊びをしたりはしない。修飾
られる。事実、異常の詩は絢嫡な修飾語でい
(Z55 ロ)を失い、詩の危機を招くものともみ
家たち (Z巾唱のご門戸円印)が語るテンション
((吉見ミ D ご己巾国)とみなしやすい。詩の批評
るくない読者は彼の詩を単なる観念詩
直裁なためである。従って、具常の詩学に明
で和解の統一体として一つに
62
具常の詩は絢燭な修飾語でいたずらに言葉の遊びをしたりはしない。 修飾的な技巧を最少化して意味の正鵠を照準する場合が多い。 その理由はニつある。 一つは巧妙にうわベだけを飾る﹁締語﹂を避けようと する彼の言語観であり、時の表象と真理は均衡をとらなければ ならないという彼の詩学的な見解がそのこつである。
HXO Z4十072U ムn
どうして 言語表象と意味の人類的な共感が得
うのである。なんでも描く超現実主義詩が、
具常の詩のテンションは、単純な意味論
られるかと彼は尋ねる。
ない 。それは、読者が具常の詩の深い所に潜
(ω22Eg)の次元E555E)では把握でき
て象徴ではない実相として体験できる。例え
在している存在論的な秘義に着目してはじめ
ば、彼の連作詩コ目は辞書に出ている単なる
水の流れではない。それは、彼が体験して手
実存と歴史の鏡である。この詩は﹁時間﹂と﹁永
本になることを望む彼の生き方と人格、彼の
優しさ、拘束と自由、生成と消滅の矛盾を包
遠﹂の葛藤を解消し、現存と非現存、暴力と
(F-
EE) の 苦コ邑E
容して和解させる。具常のコ目は、過去と現
在と未来を歴申存続性
意味として提示し、時間の中の現存と永遠を
具常の﹃釘は﹁出会い﹂の全一体である。現
照応させる。
代の悲劇は、人間と自然、人間と人間、人間
と唯 一神の分離(号gnggCのために起こる
が、具常はこれらを大我的世界の中で包容、
融和して生活と歴史の悲願を堪えることによ
出会い﹂の奇跡を実現する。具 り、統合との ﹁
常の生活の様子が変容したものが ﹃ 百なので
画家、乞僧などが分け隔でなく事正って来る。
ある。具常の周辺には男女季右、神父、文人、
これら異質的なカオス的存在の分身たちが集
まって、世俗を聖者(円Z
一 色} 玄白ロロ﹃耳 O ﹃ 可 一
ロ FD- 巾印乙である具常の人格の中で和解の統
体として一つになるのである。さらに﹃百は
仏教の経典である﹃華厳経 Eの理想のように平
等の表象として、氷遠をめざしていく。﹁生成
せている。コ自は時間と永遠の照応、その象
永遠﹂をみ 無常﹂に照応する ﹁ と消滅﹂のその ﹁
徴ではなく実相なのである。
c
具常の存在論的実相をより切実に見せてい
るのは、彼の詩﹃僕﹄である
63
禅僧の境地を究めた詩人、内エ超呉相淳の{主由
円 吊
とイブによる人間の本来的な罪である。詩、
観にも出会った。詩人、具常が東西洋の思想
z f 1 9宝U Q @
引き戸に夜の影のように ﹃僕﹄即ち、具常の自我は仏教とキリスト教的
と宗教を和解させられる理由を彼のこのよう
具
しっぽを振れ六根や七罪の
な精神の世界を包容、超越する大我的な{主由
重ねて章つならば、彼の詩作は存在の本質
心抄﹄は天真嫡漫な童心の実像を綴っている。 具常は連作詩を書き、同時に果敢に改作を
行う。連作と改作は存在の究極的実在を照ら
締諾をあえて退ける具常の詩作は一本の草
し出そうとする彼の宰古の聖人修業である。
花であり、その利那的な存在にまで照応する
永遠と無限を証拠立てることなのである。
思われる。彼は聖ベネディクト優坦院の付属
境、信仰の経歴などと関係が深いであろうと
か。それは、彼の仮定的な背景、成長期の環
を内包するようになった経緯はなんであろう
の秘義をみごとに探究し照らし出す彼の率定
﹃クリストポ lルの一回、﹃章一心抄﹄などは存在
﹃からす﹄、﹃かりんの木の癌にもいわくが﹄、
詩である。彼の連作詩﹃焦土の品F 、﹃畑日訂皆、
このような彼の詩作が産んだのが多くの連作
とみる。置流人生 的な生き方を﹁貫流人生 だ L
カトリック信者である具常は、我々の世俗
の探究にある。故に美認識の利那的な閃光や
翌子校に通、っ当時、その周辺の静かで美しい
者的な姿勢が産んだ大作である。﹃焦土の4 E
具常の詩からは、人間と自然、人間相互問、
森の小道を歩きながら人生と自然と神に対し
は韓国戦争(一九五Ol 一九五三)の悲劇を祖
人間と摂理の神との聞の霊的波動が感知でき
て深い思索にふけった。また、日本の大学の
窟流人生の歴史の認識
この詩の言語は日常語ではない。﹁六根﹂、
教の牧師である教授たちの講義に影響を受け
る。とすれば、具常の詩がこのような集合﹂
寸無明 L 、﹁業報﹂、寸七罪 L 、﹁原罪﹂は全て宗教
たりもした。カトリック教の環境で育った具
にも似て彼の書斎、﹁観水害伊で続けられる。
用語である。前の 三つは仏教、後の二つはキ リスト教の用語である。 ﹁ 六根﹂は目、鼻、耳、
常の霊的世界に仏教と新教が受け入れられた
そんな﹁触発生心﹂で詩を書くことはしない。 実在に観入する彼の存在探究は修士の求道と
舌、体、意志の、認識作用をする六つの器官
わけである。そして、その頃の具常は経験を
和解、出会いの秩序と牢宙的、霊的ビジョン
を指す。また、﹁無明﹂は煩悩によって真理に
越えて超越的普遍者の世界に到達したあと、
きょうも神秘の泉のような一日を
永遠を抱いている隔地大!
暗く、仏教の本質がわからないことを、﹁業報﹂
再ぴその抽象性を克服して人間探究に没頭し
下水の中で暮らした
り、﹃畑日ヨ止は畑の摂理とこの自覚、畑を耕 すことのような自己修業の表象であり、﹃か らす﹄は産業、技術時代の物質主義と現実の 不条理を警告した詩である。﹃かりんの癌に もいわくが﹄は波乱に富んだ歴史と病苦で幾 度となく死を目前にした体験をした具常の自
彼は韓国文学史において﹁真の機悔の詩﹂を書 いた珍しい詩人である。
も、そのような自我の姿が投影されている。
仰的に厳格で真実そのものである。彼の詩に
て自らを叱責する。彼は彼自身に倫理的、信
g ) の議理を感じ 常に存在(的色口)と当為(∞巳-
士)や禅僧のような生き方を追及しながらも、
いくつもの詩で語っている。彼は修士(修道
の無常に目覚め、超越した﹁心の自由﹂を彼は
というのは永遠の本質である天国に至る前に 生きる、この世での暮らしを指す。貫流人生
は一つの生命体が生まれる前の世界で、自ら
伝的告白録であり、﹃クリストポlルの Eは
国と人類に対する愛の心で証言した詩であ
犯した悪事のためにこの世で受けることにな
たガブリエル・マルセルの実存観に大きな感
存在の内面的真実と機悔と献身の表参乞、﹃童
宗教堂科に通いながら仏教の僧侶やキリスト
る罰と苦痛をそれぞれ意味する。﹁七罪 L はカ
動を受けた。また、彼は老子・荘子の思想と
{主由の中の声なき絶叫!
より大きい
散らばっている宇宙塵よりも
深海魚よりも
子の思想の影響も受廿た。
な精神史に見いだすことができる。
λ 、異相淳を通じ、老子、荘
である。これは彼の詩の精神の核心になる﹁圭一口
に接し、精神的師歪である詩
菱のトンネルの無明を過ぎ
学科に通いながら仏教と新教
享一の宮霜である。
長した異常は大学時代に宗教
原罪と業報の庭に
正統的なカトリック家庭で成
トリック教の七つの罪悪を、﹁原罪﹂はアダム
僕
64
うに澄んでいて清々して新鮮である。それを
に告白する。我々の生きている時間は泉のよ
具常は﹃きょう﹄という詩を通じてこのよう
繰り返す。
ス ・キリストが十字架の上で叫んだみ言葉を
のか、わからずにいるのです﹂という、イエ
る。彼は詩、﹃祈祷﹄で﹁彼らは何をしている
このような彼の姿がより鮮明に表現されてい
我々の願いと愛が無駄にならないことを信
素直に受ける苦痛は価惇めるもの、
正義は最後は勝ち、永遠なるもの、
領の懇落胆乞退けたことがそのいい例である。
一八年間、韓国を統治した友人、朴正照大統
がらも、直接的な政治への誓与は拒否する。
彼は司祭的な知性人であり、詩人でありな
性の発露であったといえる。
この世に存在させた一つの偉大なカの神秘を
いる。
考える時、彼の暮らしは下水のように汚れて
いや、みすぼらしくぼんやりとして、
なんの英雄的なそぶりもなく、
のだが、そんな誘或害退け、言論人、思想家、
りさ、えすれば権力の核心に干与できたはずな
前者を選んだのである。具常は、その気にな
彼は詩人の道と政弘仮警守の道のうち、その
A V警 識に拡大される。 寵
あの方が復活の道をひとりで行くように
じて
になっているのである。彼は自らの暮らしを 韓国現代史の真っただ中で多くの知識人が E
d
の二O 世紀の末、
決して美化したりはしない。彼の詩的自我は、
私もまた独り、行かねばならない。
具常の生き方にみられる認識は、歴史の認
彼の本来の自我と分裂を起こす兆しもない。
-H・カ l の ﹃ 歴 史 と は 何 か ﹄(巧 Z白門 広 田20﹃三)を読んだあと、彼は ﹃ かりんの癒に
いるという認識が彼の暮らしと詩作のベ lス
それだけ、彼の生活と詩は真実に近いのであ Z もいわくが﹄に次のように綴つれJ
c し世代の試行錯誤、
大なり小なりの世のあらゆる暮らしは
事 一つの失敗作にす支ない。
彼は一時期、ハワイ大学に籍をおいて東西文
らからの位置を守っている。
文芸創作科の客員教授として、変わりなく自
学の交流に貢献しており、現在は中央大学の
具常の詩、﹃あの方が独り行くように﹄の 一 一 つの速である。彼の救蹟史観は、歴史の虚無
E55) 亡命して生きたK-レピット宗主-
詩﹃敵軍の墓地﹄で北韓の共産軍の死体を埋め
い認識と人類に対する愛に表出される。彼は、
具常の霊的偉大性は、歴史に対する望まし
の偉大な詩人、具常の詩を偉大にする精神的 支柱はなんであろうか。それはカトリ yクの
大な精神力の支柱があると語っている。韓国
s ・エリオットは、偉大な文学には偉 T-
宝由的ビジョンと宗教的想像力
主義と英雄主義を克服する。キリスト教の信 仰、希望、愛に頼りながら、歴史の{蚕我と生 命の復活のために卑賎な者の孤独な道を歩い
の歴史哲学的認識と相い通じる。彼もまた、
精神を基盤にした宗教的想像力と宇宙的ビ
ていく彼の自我の表象が見出せる詩である。
冒険と錯誤の連続
世俗史を﹁頭の痛い失敗の繰り返し﹂であり、
てやりながら兄弟愛と憐倒を堪えられずに働
これは、ヒットラーに追われて一七ヵ国を
宗教人、教授として残ったまれな詩人である。
る。また、彼の詩、﹃近距には人生を機悔す る告白的な自我の姿がクローズアップされて いる。 一言で言って、昨日までの私の生涯は 天使の翼をつけて
私の心身の足跡は
突する。クリスチャンである彼にとって、呪っ
七罪の蓮の池をかきまぜてきた
かりんの実の癒のように日くだらけである
罪と死と、敗北と挫折の記録だとしている。
ものの内面に隠された高潔さ、その力説的な
い。高潔さの内面に隠された醜悪さ、醜悪な
わべだけを見て、生き方を判断することはな
賢者であり、クリスチャンであるゆえに、う
監獄であり、全ての人間は島流しにされてい
脱出の無意味性を悟らす。﹁世の中は全てが
にした中国人の囚人、チャンを語り手にして
絶海孤島で豚を飼って、ひとりで暮らすこと
た態度をみせている。南太平洋の島流しの地、
的な生き方に対して﹁あきらめの達観﹂といっ
具常は詩、﹃ドレフユスのベンチ﹄でも世俗
わない。そして多くの詩人、知識人たちも彼
弟の土地﹂を踏みにじり、集団虐殺もためら
悪心に燃えている。彼等は寸嘘の正義﹂で﹁兄
スローガンに盲目的に従、っカの崇拝者、英雄 主義者たちは敵を呪い、抹殺しようとする憎
対象ではないのである。ー力が正義だ﹂という
たり抹殺したりしなければならない事唱物的な
ると、具常の詩的想像力は東西洋の宗教的超
老子、荘子の思想の影響も受けた。言い換え
代に宗教学科に通いながら仏教と新教に接
的なカトリック家庭で成長した具常は大学時
ジョンだといえる。先に述べたように、正統
彼はこのように彼の内面の真実を透視する
生き方の真実を彼は照らしだしているのであ
る囚人である﹂、﹁死の島﹂を脱出する友だち
居場所ではないといみ重流認識が透けてみえ
我々が暮らしているこの地は我々の、在惑の
である。例えば、解車直後に他の詩人のほと
祭(曲目︾コ町田門)的、予言的知性人としての詩人
る。彼は単なる文士(BREgロ)ではなく司
このような詩人たちに整轟を鳴らす詩人であ
み言葉であることを悟りました。
僕 を 取旦囲む万有一切が
無明の目星がとれ
霊魂の目を覆っていた
越思想を受容した大我的カトリ ック思想から 出ている。
し、精神的師匠である詩人、呉担空宇﹄通じ、
る。それゆえに、彼の人間観はフランソワ ・
にチャンを通じて具常はこのように言わせて
く退化しているかを洞察して、恥ずかしがる。
る。しかし、世俗史に対する彼の絶望は、望
んどが解放の球厳と輝かしい未来の歴史を歌
等の宣伝にだまきれて、これらを賛美する文
レアム・グリーンなどのそれと似ている。
モlリヤ ック、ジョルジュ ・ベルナノス、グ
彼は、﹃差恥﹄という詩の中で、恥ずかしい人
みの絶滅につながるのではない。彼は歴史の
う時、彼が暴力の崇拝者である共産主義者を
を書き、最後には大いに後悔する。具常は、
間の姿を動物園で探している。彼は恥ずかし
正義を信じる。彼のこのような信念は、歴史
恐ろしい ﹁ からす﹂と告発できたのも予言的知
いるのである。
きを知らない七罪の蓮の池を騒がしくする
の主宰者は神であるという救蹟(蹟罪により
具常は今日、我々人類が霊的にいかに大き
我々の生き方を機悔し、キリストの道を歩い
人類を救うこと)史観に対する信頼から来て
具常の詩、 ﹃ み言葉の実相﹄の第 一連である。 仏教用語の﹁無明﹂がヨハネによる福音蓄のは
ι
エス﹄や﹃あの方がひとり、行くように﹄には
ているのである。彼の散文集、﹃ナザレ・イ
65
., .
みである。彼の詩には東洋的観照とキリスト
﹁偉大なお前﹂に出会えるようにする和解の試
レゴリーとして示されている。自然現象や生
(ロ口﹃口口立回)の絶頂にある情報化時代に到達
と歴史の意味を形而上学的、宗教的真理との
している。しかし、人類が夢見てきた完全な
両親、愛などの本質的な価値を踏みにじり、
照応を通じて照らしだす具常の詩は、詩人の
ように、彼が描く美しい自然はモダニズムの
もし韓国の美しい雪岳山で﹁山上福音﹂(マタ
技術的、戦略的価値がより重要視される現代
機悔の精神のためにこの時代の韓国のもっと
感覚的イメージとは違ったものである。彼の
仏 教 用 語 と 寸神仙図﹂のような道 仙 思想
イによる福立墨田第五章)を語られたとしたら、
の物質主義社会を予言者的な知性の声でたし
も偉大な文学という讃辞を受けるにふさわし
じめのその﹁み言葉 と L ともに書かれた詩であ
( g o g H )の用語が動員され、東洋画的な背景
百合の花の代わりにつつじか紅葉の葉を比聡
なめる。彼は現代社会と過去の歴史の、この
る。詩、﹃あらざる所なし﹄尚更そうである。
が提示された。これは一般的な啓示(開 gmE
の対象(OZ2 号 吊 g﹃﹁色色岩田)に選んだこと
ような錯誤がカトリック信仰をベ lスにした
中に統合されており、時には峻烈な倫理的ア
25sgロ)の問題とともに多くの神学的弘事 であろ、つ。
皇ヨハネ・パウロ二世を﹃華厳経﹄の有無相
望・愛で一つになる和解との出会いの詩学を
それ故に、具常の詩は全人類が信仰・希
外里聞大学の問。閥均 Z認可奇教授の仏訳、具
た具需の詩は、世界的な普遍性を帯びている。
を統合して、透明な言語で実在を照らしだし
と韓国の伝統的な文化と仏教及び老・荘思想
カトリックの精神を支柱にした西欧の思想
l v
通、静動 一如の奈として見る。人為的なカラー
間現存の内面に隠された神秘な意味を同区し
創造する。このために彼は、自然の現象と人
る 。
人生観、史観と宇宙的ビジョンで正そうとす
彼の詩、﹃あらざる所なし﹄の詩学、背景、
の農い祭壇に向かい、騒がしい群衆の歓呼の
常詩集﹃焦土﹄(寸巾﹃﹃巾回﹁ DZ 巾)(一九八六、パ リ)、カトリ ック教の修道士であり西江大学
彼の詩、﹃静と動﹄もそうである。韓国の仏
雰囲気は韓国的、東西洋的である。奥ゆかし
声とともにやって来るみ言葉の使者、ヨハ
彼の存在観は、東洋と西洋、光と暗問、有と
だすことに努める。生古万有一利那的存在で ある一本の草花までも永遠の投影として見る
(当目的丹市-自身口町内町巾) (FOEgbFag、一
, 口 の教授である﹀己宮ミ、g H 開 市の英訳﹃焦土﹄
クの姿勢と相い通じ、東西洋の思惟が和解す
い東洋的自然の中で神を探し求めているの
無、生と死を彼の大我的救援観の中に統合さ
各地域の固有文化に対する開極的なカトリ ッ
が、詩、﹃あらざる所なし﹄である。具常の詩
は静中動の実相として、それぞれ真理の実相
ネ・パウ ロ二世は動中静の実相として、大自 然の寂実と無為の絶頂で座禅をくむ性徹僧侶
せる。彼の詩は、自然と個人の生き方と歴史
る世界である。
の精神と詩的想像力は、このように開放され
い、?ものなのである。
なのである。これが具常詩学の包容と超越と
九八九)、用幼稚の輝き﹄ (ZPRω 立 g号吋)(ソ ウル、一九九O )、﹃河と畑﹄(﹀関口2 2
れ、広く読まれている。 +
力、即ち、因塁内進基胸、弁証法、挑戦と
の意味を解明しようとする他のいくつかの努
ている。全宇宙的 一律性(思ロZSの神はどこ にでもおられる。韓国の山寺、緑の山、雪に
発展的展望
究めることにより創造された彼の時は、﹁お
一九九一)などが既に西ヨーロッパに紹介さ 産業背景叩以後、自然の楽園(の﹁25立とか
前﹂と﹁私﹂が巨視的で広間な救購史の地平で
。ggミ、担認可色町ヨ巾冨帥)(FOEsb∞88口、
応身(変身)のように、いろいろな姿に身を変
ら遠ざかりはじめた人類は、今や技荷の楽園
応戦の歴史祈畠を超える。このような真理を
えておられる神を彼は探し求めている。この
てまでも、そのどこにでも観音量薩の多様な
平線の向こうのはるか遠く地の果て、空の果
おりた木の枝、夕日が沈む黄金色の野原、水
覆われた山の頂上、月の光が照らす川、霜の
教の最高の仙僧、性徹僧侶と韓国を訪れた教
を呼ぴおこすこともできる。しかし、これは
教の永遠の﹁河﹂や﹁伊のような自然の表象の
努める c
理想郷、ユートピアはどこにもない。具常は、
秘な意味を照らしだすことに
人聞が人間らしくあるために必須的な義理、
人間現存の内面に隠された神
信仰はこのように開放的であり、詩的想像力
のために彼は、 自然の現象と
が{主回的ビジョンを含んでいる。イエス様が、
出会いの詩学を書i臆 す る。 ‘=
寸証得﹂する詩である。﹁蓮塘﹂﹁山寺﹂のような
望・愛で一つになる和解との
神の実在を感じ、問うことによれ正信じる心を
異常の詩は全人類カ吋言仰・事告
66
世界の中の韓国芸術家
ヲ長オく dd 倣の天才性と耕地 金龍雲
キムヨ〉ウン
朝鮮日報・文化部記者
-A' 楽分野で神童とか天才という装飾
主 ︺ 二 一 語ほど陳腐な言葉もあるまい 。遠
八九年ジュピン・メタlが指揮したニュー ヨーク・フィルハ lモニック・オーケストラ パガニ l ニの﹃バイオリン協奏曲第一番﹄を協
難曲として知られているパガニーニの 『 バイオリン協奏曲
と、技巧の超絶した難曲として知られている
フィルハーモニック・オーケストラと、設巧の超絶した
くは古典派の作曲家ボルフガン
演して世の中を沸きたたせた八歳の少女。指 揮者兼バイオリン演奏者であるエフディ・メ ニューヒンをして﹁ 一 OO年に一人生まれる 神童﹂と激賛させた少女。四歳のとき紅葉の ような手で 一六分の一のサイズのバイオリン を弾きはじめ、九歳のときデビュー・アルバ ムを出し、二二歳の年に普通の演奏者が一一一O 歳にしてやっと持てそうなレパートリーを駆 るのだろうか。評壇では、その年頃だけにあ
使する張主由のバイオリンの驚異はどこにあ る純粋さと年とは全く釣り合わない超然さと をもって、事丞回の天才性を支える二つの柱 だと考えている。張、丞申を見た人々は、その 年の幼さに驚き、その演奏にもう一度驚く。 それで純粋と超然、天真らんまんさと字盤を 共に備えた真の意味の天才は、現代の音楽界 世界の音楽界がこの幼い大{雪いかに受け
では事水宙をおいてない。 止めているかは彼女をめぐるマスコミの表現 を二、三読むだけでこと足りる。﹁神童
( 巧E 合﹃EE)を乗り超えた驚異﹂(ドイツの
同市︿巾 内
-ZF )サラ﹂(ドイ
ベルリナ・ツァイトウング)、﹁ものの気にと
a -
りつかれた(自口宮三
ツのベルリナ・モルゲンポスト)・:。今年の 一月六日i八日、ベルリン ・フィルハ lモ ニックの新年音楽界で、ジュピン・メタ !と パガ?ニ﹃協奏曲一番﹄を柄拘演した事蓄の ング紙は、これに輸をかけて寸ベルリン・フィ
舞台を見守ったドイツのピルト・ツ 7イトウ ルハ lモニック団員と聴衆の聞で、どちらが より熱狂的な拍手を送るかを撃つ事能伊起き 音楽的に見て張、水宙はすでに﹁子供﹂ではな
た﹂とためらうことなく害きたてた。 い。被女はニューヨーク、シカゴ、ボストン、
八九年ジュビン・メターが指揮したニューヨーク・
一 グ・アマデウス・モーツァルトから現代のバ
J
イオリニストのメニューヒン、ムッタl、後 藤みどり、 ピアニストのキシンにいたるまで、 に、音楽史家たちは天才という装飾語を付け
幼い頃に頭角をあらわした音楽家の金剛の前
美術、映画、演劇、その他の芸術分野に比
てはばからない。 べとりわけ音楽部門に天才が多いのはなぜだ ろうか。おそらく常に大衆の前で技量を披露 し、また検証を受けて評価される音楽家ほど に注意を引く天才もないからである。このた め音楽という空には数え切れぬほど数多くの 天才の星が明滅し、いまニの瞬間にも新芽が 聞なく生まれているのである。
出るように、どこかで未来の天才たちが絶え 韓国が生んだ少女バイオリニスト張、丞由 (アメリカ名ぷ3FU邑の盆則の前にも﹁天 て陳腐にすら考えられるこの単語は、しかし
才 Lの修辞がつきまとう。あまりにも多喝き 張、丞由の主則の前では自然な重みと色合いを 得る。世界を驚かせた天才少女バイオリン演 奏者として七0年代のアンネ・ソフィ・ムッ
0年代に後藤みどりがいたとすれば、 タl、八 九 0年代には事丞頃乞まず指折ることができ る。このうち少なくとも、その年頃のありき たりの子供であり、英才教育を受けず音楽教 過ごし、授業には欠かさず出席し、友だちと
育を受けていないクラスメートと同じ教室で も遊ぶだけ遊び、演奏も優れている天才は張 、水事 けである。ドイツ生まれのムッタ lは 、 がなかった。十三歳の事水宙は、正常の学校
小学四年生以降正常の学校教育を受けたこと 教育を受けながら天才ぶりを発揮しているこ いるのである。
73
とが世界の音楽界に驚異を持って迎えられて
第一番』を協潰して世の中を湧きたたせた八歳の少女。
G
N A
H
c H A R A
s
クリ lブランド、フィラデルフィアなどアメ リカの﹁ビッグ・フ 7イプ﹂オーケストラとす べて協演し、今年に入ってドイツのベルリ ン・フィルハ lモニック(一月)、フランス国 立オーケストラ(二月)との協演に次いで、三 月にはトイツのライプチヒで巨匠クルト・マ ラとチャイコフスキーを協演、ヨーロッパ音
ズルカの率いるゲパントハウス ・オーケスト 楽の本場でも成功裏にデビューした。八ハむ 年伝統の出版メセ期間中に開かれたライプチ ヒ演奏会にはドイツの元外相ゲンシャー氏を はじめドイツ駐在の各国外交官が大挙して演 繰り広やりゐ舞台に光を添、えた。
奏会場を訪ね、東洋出身のニュ l ・スターが 四月には、張、丞由はマスルカの率いるゲパ ントハウス・オーケストラのロンドン ・ツ アlに参加、イギリスの舞台にも成功裏に進 出した。ムッタ!とミュロパ!と張永宙とが
に進出している世界の六大レコード・メー
賞した。三月には EMI、BMGなどドイツ
を専攻した母の李さんは、スワスモ・カレッ
フォノ・アカデミーが制定した第三回
る日娘と音楽史吏叩的な出合いを予一感する極
めから娘を音楽家に仕立てるつもりがあった
アメリカに渡り、翌年、、益田を産んだ。はじ
張、水宙の両親は、一九七九年留学生として
ジで停聞を講義している。
﹁ジャ l マニ・エコ l﹂賞まで席捲した。
めて異常な仕草を目撃する。
ジャ lと ZD Fなどの放送社で構成された
﹁ジャ 1 マ ニ ・エコ l 貨は、バイオリニスト、 ﹂ ケネディ(第一回)とムッティ l( 第二回)がそ この程度の音楽的成功は見方によっては粘
所へ行き主題の音楽を再生させて弾くので
ます。テレピで漫画映画を見た後でピアノの
寸永宙が 二、三歳の頃だったと記憶してい
わけではなかった。しかし父の張さんは、あ
れぞれ 茎 した。 4民 りと才能、それに若干の幸運に恵まれた音楽
す。びっくりしました。、主自に絶対音感が一あ
るとい今季実をこのとき賛したんです。漫
しかし張、丞由の非凡さは、これらすべての成
画映画のテ 1 マ曲だけでなく、テレビから流
家ならだれにも可能であり得るともいえる。
﹁自然のうちに﹂達成できたということにあ
果を短期間内に、そしていと‘ も簡単に極めて
は、いまや他の分野を包括するこの時代の﹁天
音楽の世界で語られていた張水宙の﹁天才﹂
めたものです。それで三つの時分から{本内は
るね﹂と、わたしたち夫婦は楽しい気持で眺
で独りで踊るのを見て﹁あの子、変わってい
ピアノで弾き、また音楽が流れますと隅っこ
れるC Mソングなどを五分後にはその通りに
才﹂として議論され始めた。アメリカの時事
ピアノを教えました。ところが、よくわたし
る 。
二八日付の﹃天才のなぞ﹄という企画記事を通
週刊誌-﹃ニューズ・ウィーク﹄は、九三年六月
フィア・オーケストラと録音した﹁パガニ l
ボルフガング・ジャパリシュのフィラデル
輝く真の意味の天才としてランクされている
たりの音楽の神童ではなく、二O世紀の空に
宙はバイオリンだけを立派に演奏するありき
世紀を輝かせた天才の一人に選定した。張、水
す
玩具代わりのプレセントに買ってやったんで
の誕生日に一ムハ分の 一サイズのバイオリンを
h一演奏者のアルバ 一のアルバムであり、最年 aノ
して話題を集めた。特に張、主由が協演した日
ニ﹂が再び三集として出ており、第四集はシヤ
それぞれ一日ずつ協演したロンドンの演奏会
は、エン王女が王室レセプションを開いて、
ロル・ ディトワと﹁ラロ﹂を、第五集はムッ
は、三O代、二O代、一O代の協演者がみん
世界がこの幼い犬家に寄せる関心のほどを実
のである。
のバイオリンをいじってるんです。そのうち、
感させた。
ティ l(演奏団体は未定)、第六集はベルリ
じて天才の秘密を害きながら、張、丞事乞アイ
レコーディングでも事氷宙の天才性は遺憾
ン・フィルハ 1モニックとバルトークを録音
ムであり、また発売されるやいなやビルボー
なく光を放っている。張、氷宙は舞台のデ
フィラデルフィアでバイオリニストの父張敏
張、氷宙は 一九八O 年十二月、アメリカの
た。父の張さんもみどりやチョリャンリンら
ルァフとモーツァルトを弾けるようになっ
永宙はそれから一年後の公開席上で、ブ
L
ビューとほとんど時を同じくしてデビュー-
シl ・ディレ lに﹁この子をお願いします﹂と の聞で生まれた。父の張さんはソウル大学の
を 育て あ げ た ジュ リ ア lドの名教授ドロ ゑ只経歴も華やかである。九三年の春、ロ
旅さんさ 一 七)と作曲家の母、李明峻さん全工。
アルバムを出した。 E Mーでは、すでに三つ
レ!との因縁が始まる。張、荏由はディレ lの
持ちかけ、その時から﹁聾弓の鍛冶国 庫亡のディ
みせたところ、ディレ lはご﹂れまでいろん
前でプルッフの﹃バイオリン協奏曲とを弾いて
音楽部を卒業、国立交響楽団(いまの KBS
な子供を指導したのですが、こんな子は初め
のレコードを出しており、メ lジャ l ・オー
ンクール﹂で、最年少 一位に入賞した経歴が
活躍した演奏者であり、国内の﹁東亜音楽コ
交響楽団)でバイオリンの首席演奏者として その年イギリスの音楽誌グラモフォンが授与
リン協奏曲 r第二集のレコードで、張、丞由は する﹁若い芸術家貧﹂主量すると共に、九四
て:・﹂と言って、レッスンを買って出た。永
ンドン・シンフォニー(コ lリン・デ1ピス 指揮)と録音したチャイコフスキ1の﹃バイオ
﹃デビュー﹄というタイトルの最初のアルバム
z 宙が六つの時だっp
ケストラと六集までの録音契約を終えてい
は、﹃ギネス・ブック﹄に載ったレコードであ
テンプル大学の音楽教授として勤めている。
あり、いまはアメリカのフィラデルフィア・
レ ッスンとはいうものの、レ ッスンにのみ
刊紙インディペンデント紙が与える第二回
京畿女子高校を出てソウル大学音楽部で作曲
年の一月にはイギリスの BBC放送と有力日 ﹁クラシック・ミュージック貰﹂の新人賞を受
フの小品を収録したこのレコードは、クォ l タl(四分のニ・バイオリンで録音された唯
る。サラサ1テ、パガニ l 一一、プロコフィエ
る。九二年の秋、張氷宙が九歳の時に出した
4(
するとの契約を結んだ。
バイオリンを離さなくなったので四つのとき
ローラ・スケートに興じる平凡な少女である。
ンシュタインやピカソやゴッホらと共に二O
教育をうけ、ポニーテールの髪をして漫画や
ラーを記録した魔法のアルバムである。最近
張永宙は英才教育の代わりに正常の学校
ド・チャート・クラシック部門のベストセ
生活を送っているということである 。
ヨーロッパの音楽界では﹁天才たちの競演﹂と
あるとすれば、普通の少女と全く同じ日常
な世の称える神童といわれているだけに、
張永宙が他の天才と区別される点が
74
子供たちと同じように学校に行って勉強した
クールに通っていた永宙は、ふだんは普通の
フィアのジ 7 1マン・タウンのフ レンズス
打ち込んだのではなかった。当時フィラデル
ズルが指揮するニュ ー ヨーク ・フィルハモ
ツアーを続け、秋には国連総会でクルト ・マ
三年の夏にはジュピン ・メタ !とイタリア ・
奏、遂にヨーロッパの舞台にも進出した。九
れで音楽界では豹(レオボルド)が幼い狼(ボ
た若芽を駆りたて酷使したからなのだと。そ
会の舞台に追いやるなど、ちょうど咲きだし
見栄が息子を次から次へと休みなく巡回演奏
を計る尺度で評価されることになります。娘
せんよ 。 ハイティーンになると大人の演奏家
クニックだけを身につけたのでは長持ちしま
ぃ。父の張さんはこのように語っている。﹁テ
がさしているような気配が見えますとやめさ
いですね。はたで見守っていて、練習に嫌気
せることにしています。子供が音楽を幸せな
に語学、絵画など教養を広く身につけさせた
母の李明峻さんと父の張敏床さんは猛烈型
ものとして受け入れられるようにしたいです
ルフガング)を死地に追いやったのだという
とは違っておおまかな方である。まず娘に練
ね。それで、空白の年頃の才能に長けた子供た
ジョークがあるほどだ。
リスに次いで五、六月には北京、シンガポー
習を強いたり急きたてない。父の張さんは記
ちが手先の器用さだけを身につけて挑戦しが
ニックとメン↓アルスゾ1ンの協奏曲を演奏し
ル、ホンコン、日本、韓国を結ぶアジア巡回
者とのインタビューで﹁永宙をバイオリンし
ちなコンクールを避けているのです﹂
たりした。今年一年は特に張、水宙の独り舞台
公演にのぼる辛ム疋である。
か知らない﹃頭の空な職 ACに育てたくなかっ
張、空白はいまや跳躍のための重要な山場を
り遊んだりし、土曜日ごとにニューヨークに
張、丞由が他の天才と区別される点があると
たから、自分の年頃のクラス・メ lトと自由
あるジュリア lド予一備学校に行ってディレ l
ジュピン ・メタlに会ってからである。九O すれば 、普通の少女と全く同じ日常生活を
に遊べる私立学校にやっている﹂と語ってい
迎えている。今年中学 一年の過程(七学年)に 進んでいて思春期に入ったのである。父 の張
になりそうである。ドイツ、フランス、イギ
年の始め、張水宙の天才性をうわさで聞いた 送っているということである。張、丞由は英才
る。張さんはまた J綱奏を希望している舞台
。 女史のレッスンを受け炉、
ジュピン ・メタ lはデ ィレl女史に張、空白の 教育の代わりに正常の学校教育をうけ、ポ
フィルハ lモ ニックの常任指揮者であった
したのは八つのとき、当時 ニ ューヨーク・
張、丞由が本格的に世界の舞台で旋風を巻起
演奏を聞かせてくれと頼み、自分の家に二人
さんは次のように語った。﹁永宙が思春期に
を招いた。彼女の演奏を聞いているうちに我
入っただけにマスコミや評壇も大目に見てく
は年に 一汽汽 ﹀余りあるが、明るい子供に育て これは張、 丞由を ﹁一頃は調子のよかった﹂短命
ニlテlルの髪をして漫画やロ lラ ・スケー
張、氷宙がこのように普通の少女と変わらな
な天才に追いやらず、永い生命力のある演奏
るため適当な線で調整している﹂とも述べた。
いのは、両親の教育方針からきているようで
家として育てるための賢明かつ望ましい配慮
トに興じる平凡な少女である。
ある。稿文の両親の子供教育は、放し飼い型
と思われる。
だったのは、︿手¥父レオポルドの責任である
親の放し飼い式の教育観と関係がなくもな
張、水宙がコンクールにこだわらないのも両
衆たちから認められねばなりません。しかし、
ないためにも立派な演奏でオーケストラや聴
これまでそうだつたようにこれからも立派に
との分析もある。幼い天才を 自慢したい父の
寸大きくなってからはだめだ﹂という話を聞か
れるはずがないと思います。もう自ら演奏 の 責任を取らねばならない年になったのです。
である。天才作曲家のモ ー ツァルトが短命
を忘れていたジュピン ・メタ lは急いでスケ ジュールを変更、二日後に開かれるニュー ヨー ク・フィルハ lモ ニックの定期演奏会
(ミヨ 月 間 君 主 に、この少女を特別怖演者ω として招請したのだった。 九O年一月一五 日、 一ハ蚕分間の熱狂的な パガニ 1 ニの﹃バイオ リ ン協奏曲第 一番﹄を協
。 ・ 起立拍手と六回に亘るカ ーテン ・コール :
招き、指傷者ジェ 1ムス ・レパインとシャル
O 周年記念演奏会に協演者として ケストラ九
ムッティ ーが彼女をフィラデルフィア ・オー
z 翌年、リカルド ・ り上げるところとなっp
なった。どの金メダルがこれ以上に国の栄光
に鄭京和と共に張、水宙の名を連ねることに
は、世界トップクラスの女流バイオリニスト
で最上級の﹁デルジエス﹂である。いまや韓国
使っている。一 七一八年産のグアルネリの中
時から成人用のフルサイズのバイオリンを
張永宙は九三年の秋、国連総会場の演奏 の
やっていくと思います﹂
ルディトヮ、バイオ リ ニス トのフィンカス ・
の名は遂に韓国と世界のマスコミが大きく取
演したこの 日の演奏の大成功により、張主由
ジュカマンらが相次いで彼女を協演者として
が世界のいたるところであげている音楽的な
に光を添えるだろうか。張、丞(由のバイオリン
シカゴ ・シンフォニー、フィラデルフィ
舞台に立たせた。
て軽くはない 。張、水宙のバイオリ ンがおもむ
成果は、オリンピックの金メダルに比べ決し
くところに、常に旗手のように韓国の国号が
ア・オーケストラ、ピッツパ lグ・オーケス
同行しているのである。企'
トラ、モントリオール・シンフォニーなどと 成功裏に演奏を終えた張、主自は、九二年の秋 ンフォニーとチャイコフスキ1の協奏曲を演
にはコ lリン ・デlピス指揮のロンドン・シ
75
DI SCOVE問NGK OR E A
でいたのだろうか。ぃ、2 zでもなく古朝鮮と
して穴RZ匂(この地域の替油)とZヨ宮町とよば
, .
れる発酵食品を愛用してきたが、韓国の豆と
はどのようなつながりがあるのかについては
三韓を経て高句麗(湖海)・百済 ・新羅に継が れるわれわれの祖先が住んでいた。
は近代に入って豆と豆製品についての科学的
まだ明らかにされていない 。ところが日本で
lillaはもともと東洋の産物であり、東 洋人だけが食べてきた。それがい このようにだれよりも先に豆を植え始めた
U
'll, -まとなっては、どこへ行っても豆 われわれの祖先は、豆を食べる上でも先駆者
な研究が行なわれ、これによってもたらされ
二一
で、頭は名実ともに全世界の人々の食料と
を植えており、全世界の人々が食べているの
た技術力をもとにして他に先駆けて豆製品の
多様化と工業生産に成功した。このため醤油
の役割を果たしたのだった。皆油や味噌類は
と豆腐が西ヨ lロ yパ社会では日本語の音を
もちろんのこと豆腐、豆ごはん、豆もやしに いたるまで、豆の食用方法が他民族よりも韓
りたいことが少なくない。ところが、豆は
民族にもっとも多く伝授されていることか
なっている。この豆について、われわれは知
る世間の話題はもっぱら人間の語る
ひたすら沈歎を守っており、豆に関す
話に過ぎない。ところで豆は原産
味噌が中国が原産地でないことを記してい
えば、中国の古い文献によると、豆の醤油や
ゎ、こうした過去のことをうかがわせる。例
ある。
とって各 O 苫 と gpとして知られているので
国豆研究会 藁 A
地がどこであり、だれが食べ始めたの
る。もともと中国には肉体首が当時の普遍的な
権泰完韓
夕方ンテワン 麟蹄大学教綬・
だろうか。多くの山主官による文献の霊祭
醤類であり、豆が原料の豆醤類は高句麗から
の後中国大陸に、そして日本列島へと広く伝
ものほど蛋白 質
の含有 量 が多い
ので、メジュ (昧
噌玉こうじ) や 特
に蛋由 貿 が強調
腐を作るのに向
百種に上る。しかし韓国の伝統的な食用方法
豆には種類がいろいろあって、その数は数
まなお野生の豆が広く分布している韓主色町
と老舌学的研究によると、豆の原産地は、い
伝来したと言っている。
かのぼり、五穀の一つとして栽培され始めた
播していったものと恩われる。一方、インド
このようにして豆の栽培と食用方法は、そ
の北部から南満州につながる地域に絞られ
のは紀元前四i六世紀頃と推定されている。
ネシアでも独自的に豆を利用する技術が発達
される豆乳と豆
q 平 E凶 洋 亙 @
いている。
ている。そして、その時期は新石器時代にさ
とすれば、当時そこには一体だれが住ん
E は粒が大きい
76
r / υ γ
メ ん,
77
図ったことである。
特に若い世代のものが豆を嫌っているのは
る民族になるだろう。ところが最近になって、
て炊いて食べるパムコン(栗色をしていて栗
によれば、ご飯を炊くときに米と一緒に入れ の味に似たおいしい味の大粒の豆)があり、
丸や四角に固めて発酵させたもの)用の白豆
味噌)などをつくるメジユ(豆をゆでてついて
醤油、味噌、赤味噌(唐辛子入りの味の辛い
いっても過言ではないからである。蛋白質と
がちな営養成分はすべて豆に含まれていると
の大切さは一層はっきりしだいる。米に不足
米を主食とする韓国人の食生活において豆
コチ王ンヤシ
があり、おかずの煮豆をつくる黒色の豆と豆 に対して、豆には蛋白質と脂肪質が豊富に
脂肪質が少ないため澱粉食品に分類される米
国人の米主食の体系が豆の導入により{轟品 に
入っており、澱粉は入っていない 。 いわば韓
やし豆などがある。このようにいろいろな豆 をいろいろと広範に食用する伝統は、われわ
もやしを育てるのに使われる白色で小粒のも
れが祖先から受け継いだ文化遺産であるた
無視する傾向が強くなっている。豆への感謝
しれない。ところがこんにちの韓国では豆を
がこんにちまで地球上に健在しているのかも
補なわれるのであり、これによって韓国民族
も重要な豆は、白豆である。豆の絶対量が足
世界的に生産量も多く消書室の多いもっと
め、これはわれわれだけの誇りとも言える。
りない韓国でも白豆は、やはり一番大量に使
る。豆の需要は増える一途にあるが、生産が
その結果いまわれわれは試錬にぶつかってい 激減していることから豆の輸入量は急激に増
どころか、その大切さまで忘れ去られている。
に使われているからであり、こうした用途に
われる豆である。白豆はメジュを作るのに使
は粒の大きな韓国の豆が最適であるのは萱一百
も満たないといわれているほどだから、豆の
えているからである。豆の自給率が二O%に
われるだけでなく、豆乳と豆腐の原料に大量
の含有量が多いので、メジュや特に蛋白質が
を要しない。豆は粒が大きいものほど蛋白質
わたしは主張するのである。大した量でもな い食用の豆だけでも、自給自足できるように
由一小王国としての面白丸つぶれである 。そこで、
急がねばならないと。
る。しかし油の原料にするため改良を重ねた アメリカの豆は、相対的に蛋白質の含奮牽が
強調される豆乳と豆腐を作るのに向いてい
低くその粒も小さい。これとは反対にもやし
となっている。互にはコレステロール値を低
豆の営養学的な優秀性はすでに広く知られ
め、老人の痴呆症を防ぎ、整腸作用と抗癌作
ているが、こんにち豆の中に含有されている
豆の食用には、豆の形を保たせたまま食べ
用をする成分が豊富に入っていることが一つ
豆は小粒なものほどよい。豆もやしの場合、
る方法とそうでない方法の二つに分けること
一つ明らかにされている。いわば、豆は最上
その豆部よりは根の充実している方が見映え
ができる。ところで、東洋の長い食習慣はほ
の天然的な機能性食品宮市的弱53sa)であ
いろいろな生理活性物質が新しく関心の対象
とんど前者に属し、西洋の亙入は後者に属す
がし味もよいからである。
る。後者の場合、豆から分離した蛋白質( 8岡
つの理由がここにある。これからも食生活に
る。われわれが豆を食べねばならないもう一
田︼﹃
DEロZDEg)をハンバーガ ーやアイスク
これが沈歎を守っている豆の 一 一言いたいことで
豆を一層多く利用するべきだろう。たぶん、
リームに入れるため、豆が入っている事実を の亙入に、このような新しい食用方法を追加
はなかろうかと思う。 '
知らずに食べることもある。それで祖先伝来 すれば、韓国人こそ豆をもっとも賢明に食べ
78
舞 算
十
E面 す
年
人 る
を
生
金泰源
ティディム舞踊団は、 このところ活気に満ち ており、活動水準に 至っては形式的な活動 にとどまっでいる国 立・市立の職業舞踊団
に比べると数倍も上回 るであろう Dとくに、 この舞踊図が追求して いる芸術の方向は、韓 国舞踊界にかなり意味
このごろ、わたしは振り付け師、鞠守鏑と
目でみている。それは、彼らの活動が、振り
彼が率いるティディム舞踊団の活動を驚異の
に越えて、極めて創意的で機動力があり、一
付け師であり民間舞踊固という水準をはるか
糸乱れぬ活動をしているからである。園内の
各舞踊団の活動に関する具体的な記録は持つ
てないが、明らかにこの舞踊団は最近、他の
プロ舞踊固または民間舞踊団に比べ国内外で
活発な公演活動をしており、また、しばしば
各地に招かれるなど多仕な日程に追われてい
る。こうして、ティディム舞踊団は、このと
ころ活気に盟事りており、活動水準に至っては
形式的な活動にとどまっている国立・市立の
職業舞踊団に比べると数倍も上回るであろ
の方向は、韓国舞踊界にかなり意味のある波
う。とくに、この舞踊団が追求している芸術
九二年と九三年の活動を見てもこれがわか
紋を投げている。
る。ティディム舞踊団は韓国的舞踊動作と奔
放な舞踊動作を組み合わせ、批判的論議を巻
きおこした ﹃ 春の祭血ハ﹄(ストラビンスキl)を
79
のある波紋を投げてい
る
-回 ・ ・ ・ ・ 圃 圃 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 圃 ・
、 品
決
したように、韓国人の舞踊動作と韓国人の呼
吸をベ lスに しながらも、今やわれわれの芸
めて貴重なものだと言わざるを、えない。 と言うのは舞踊史的立場から言えば
モンゴル、ベトナムなどを単なる民間舞踊団 が巡回公演をし、いかなる形であれ現地の芸
九二年五月に国内で初演したあと、ロシアに 赴き、モスクワのポリショイ劇場で披露した。
創造的発想の転換を通じてわが国舞踊の国際
人的努力と彼のティディム舞踊団の活動は、
会の中で持つ舞踊芸術の価値を増大させるた
めに絶え聞なく努力し自ら実践している。
踊団は、舞踊の一層深い専門化と職業化のた
第二は、団体を結成しているティディム舞
的競争力を向上させている。
術舞踊(とくに韓国創作舞踊担は、一層果敢な
﹁ 宋荷以後﹂ の空白を、同じ回荏舞踊家として ある程度満たしているからだ。
J 気たと言わ ていることは、何よりも大しれ 嘉
術家たちと交流するなど文化外交力を発揮し
九0年代に入って、舞踊界の公演は続いて
いるなかでモンゴルに、次いで九三年の冬に ざるを得ない。﹁絶え間なく将来を見越して
いていないなかで、振り付け師、鞠守鋳の個
いるが、﹁具体的な目標﹂がまだしっかり根づ
活動する﹂│ これは振り付け師、鞠守鏑と彼 に従うティディム舞踊団の活動目標であるの
事を穴、今や 四 O代の半ばを越えたばかりの
単なるス ローガンやことばということではな く、芸術的実践を通じてわが国舞踊界の意味
めに、とくにわが国舞踊界の指導層(中堅層)
@
を勤労者たちにも披露するかと回ザえば、大田
振り付け師、鞠守鏑のこうした企画力と機動
づけをしてくれるものと受け取られる。その
平 ωZ 出的 X孟 E
エキスポ芸術行事にも参加したりしている。
力は、彼の長い職業舞踊団と しての活動(国
も招待されて公演、同舞踊団のレパ ート リー
こんな忙しいなかにも一、二度日本公演をし
移している、というこ主である。
第三は、舞踊の社会的位相または、ある社
たとわたしは聞いている。
は常に目覚め、また舞踊界の発展のためのよ り独自的なアイデアを出して、それを実行に 。 るだ ろう 第一は、すでに﹃春の祭農がある程度成功
意味づけとは、おそらく次のように要約でき
全く驚くべき猛烈な舞踊活動である。未修 術総監督として二年間)から来たものであろ 交国か、国交があっても往来の少ない ロシア、 うが、とくに今日の視点からみるとき、きわ
立舞踊団で一六年間、八八ソウル芸術団で芸
かもしれない 。
次いでこうした公演が圏内でリパイパルして は創作品﹃魂の接をもって未修交国であるベ トナムに飛びハノイでの公演を敢行した。そ の合間に光陽湾製鉄所のような産業現場に
[I] :~ms C
80
いは内容といえるものが強調されがちであ
おうとする際、舞踊の形式よりは主題ゃある る。また、この振り付け師が劇的状況の展開
の段階の代表作として彼は﹃風物ノリ﹄(一種 の農楽・入二年三亙女図(入三年)﹄、﹃鼓の大
極的に採り入れて舞台化する過程である。こ
振り付け師自らのプロフィル・ノートによ 合書(八五年)¥﹃大地の春﹄(八七年)のような
や小道具など、舞台的、演劇的象徴物の使用 にたけている。このため、舞踊がより劇的に
、多面的な舞 A 一 昼蕎家
ると、彼の作品は三つの段階を経て変化して
観)、そして文化的距離感から生じる舞想の
な面を比較的よく融合させている。さらに、
付け師の場合は、舞踊の霊礼的側面や内容的
流れると懸念するかもしれないが、この振り
教文化や異国的な風物(風習および自然景 影響を受けた段階で、このときの岱聞として
作品を挙げている。次の段階は、わが国の仏
きた。鞠守鏑によると最初の段階は、わが国 の農耕文化と亙俗(シャーマニズム)文化から うなものなどを再構成するか、作品の中に積
劇的状況を舞踊に引き入れる場合も、むしろ 彼は﹃霧女図﹄、﹃白い肖像﹄、﹃大地の苗Zのよ うな作品の中で、誰よりも鮮やかに劇場長冨術 家としての舞踊劇の効能を強調しながら同時 に劇的展開をもっ集団舞を自らの舞踊の﹁芸 術的スタイル﹂に昇華させている。先に触れ 面的主題性や劇的性向が印象的に融合された
た﹃春の祭血 Uも、事実、鞠守鏑のこうした多 作品であり、今度の公演でみせてくれたより 本格的な劇的構造と異国的音楽を使用した ﹃明成皇后﹄も、そうした系列に確かに属した 岱聞である。 ﹃明成皇后出は、伝統的な舞曽田口口二﹃回呂田 の形式を借りながらも、モ ーツァルトのレ
S )と韓国の伝統楽である雅 クイエム(﹃Z 巳 な使用によって、朝鮮王朝末期に内在した
り、また韓国的舞踊の動作と仮面の表現的
楽とが絶妙に調和していることに意味があ
た。先に指摘した三種類の方向への舞踊芸術
悲劇的歴史性をレベルの高い舞台言語で形
の世界的な振り付け師ミクロシ・ヤンチョの ﹃ノストイ﹄のような岱聞を振り付けしたりし
頭副別圏、コンキミ﹄﹃男支君主、ハンガリー
く日にも花は咲く﹄、﹃壮士の夢﹄、孫様策の﹃白
ンマンソン﹄、﹃位、﹃飛産、金正銀の﹃風吹
山に野に﹄、金道勲の﹃黄真伊﹄、呉泰錫の﹃ハ
業をして、演劇演出者柳徳馨の﹃春になれば
特異に、また持続的に演劇界と密接に共同作
んこの振-n付け師は、わが国舞踊界に極めて
付えの努力を、・ 彼はその中に入れる。もちろ
初演となった﹃神経 C、﹃魂白書のような振り
アプローチするもので、圏内で今回の公演が
死、回帰のような東洋的主題や思想によって
品を彼は挙げている。三番目の段階としては
年)、﹃トドル河の恋歌﹄(八八年)のような作
は、﹃虚像の踊り﹄(八一一一宴、﹃白い肖像﹄(八八
影響を受けて農楽、地神祭 hソ、鼓の合奏のよ
﹃ 明成皇后﹄は、韓国的舞踊 の動作と呼吸をし、世界的 な作品に匹敵するほどの深 度のある構成と戯的構成を 完壁に備えていることから、 この先韓国創作舞踊の国際 化または世界化に大きく貢 献するものと期待される。
共同作業は、振り付け師鞠守鏑を、われわれ
作品ゃ、または彼の費杭的な演劇演出家との
る。つまり、その一つは彼がパカ正直といえ
いて、公演はスペクタクルでありながらも
現代舞踊をしのぐ力動的な舞踊に構成して
宮中舞を連想させる荘重な群舞と西洋的
象化している。 るほど、韓国文化または東洋文化の﹁多面的
終始観客を圧倒する力をもっている。また
が別の視点からも観察し評価させるものであ
側面﹂を、彼の舞踊芸術の中に包括して取り
世界的な作品に匹敵するほどの深度のある
この作品は、韓国的舞踊の動作と呼吸をし、 構成と劇的構成を完墜に備えていることか
は単なる舞踊芸術家の範囲を越えて﹁総合的 舞台芸術家﹂と呼ばれてもよいほど、舞踊・
ら、韓国創作舞踊の国際化または世界化に
扱おうとしていることであり、その次は、彼
ことである。
九 0年代半ばに入って力量を十分に昇華させ
な停滞現象に直面している。七0年代と八 0年代をリードしてきた人物たちが、今や
られずにいる中で、それすらこれまで保って
きた舞台芸術家としての﹁芸術の﹂機能や芸術
は、まともな韓国的公演芸術形式または劇形
魂は次第に消滅しつつある。また他の一方で
ウルグアイ ・ラウンドなど、外国公演芸術文
式を花咲かすことができないまま開放の波や
化の﹁工刀的流入﹂が予見されている。さらに、
公演芸術界の人材を育成し、価値のある公演
とそうでない公演を弁別してくれる批評の機
能すら主体性を失い、ある面では浮遊するか
の指導層は自己犠牲の努力に欠けており、公
無気力に陥っている現状である。公演芸術界
の投資をしていない。しかも、公演文也活性
演者はより健康であり純粋な自己成長のため
化のための芸術の場もま喜号﹂の上ない。 こうした中で、このたび四月一一一一日から
二四まで国立劇場の舞台にのせられた振り
付け師鞠守鏑の﹁舞踊三O年﹂記念公演は、
は、わが国の舞踊界と、さらにはわが国の
鞠守鏑という個人のためであるというより
不透明であり方向舵のない昨今の状況の
公謹需のために多くのものを考えさせる。
下でも、このように芸術家は自らを守って
にもかかわらず未だに﹁舞学童﹂のように自
おり、また、自分が﹁不惑の四O代﹂である
らを育て成長させている。最近、彼の 一層
大胆になりつつある(肯定的な側面で)芸術
家としての努力を比較的近くで見守りなが
ら、芸術や芸術家は決して天賦によってだ け作られのでなく、芸術に向けた自らの努力
によって成長し完成してゆくとい、ユ事実を、
わたしは今一度悟る気持である。このため、
﹁-立志伝的な芸術家的舞踊家﹂として、まず彼
を指折るのである。'
わたしは未だにわれわれの周辺で見出し難い 舞踊界を含め韓国の公演界は、現在深刻
大きく貢献するものと期待される。
演劇にわたって活動領域を広めているという こうした多面的主題へのアプローチは、振 り付け師が自らの舞踊の中に包括して取り扱
81
f. ì ClIW:~
NE WS F R OMT HE K OR E A F OUNDAT I ON
海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、砂防大学、研知庁なとで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文・社会 科学・芸術分苦手のうち左記に該当するプログラムについて支援申請を受け 付けております。
韓国国際交流財団のフエ ローシッフ プログラム 0 .
韓国国際交.V 1 E 謝団は、毎年実施している韓国研究フエローシ ップおよび 韓国語フエロー シッ フ・を次のようにこ案内いたします。
韓国研究フエロ ーシップ
①韓国学、韓国語など韓国関連の講座開設およひ拡九 ②韓国学研究の大学院生並ぴに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および支援額については、同 年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外で穏図研究に対する支援J および 「緯国国際交流財団のフェ口ーシップ- プログ ラム」の申請書およひ1案内書は、穏国国際交流 財団または現地の緯国公館で求められます。 申請書および案内文などについてのお問い合わせは、下記側主所宛にご 滞在費か支給各れます。申請ご希望の方は、所定様式
連絡願います。 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号
( 電話: 82-2-753-3464 ・FAX: 82-2- 万7剖 47 ・ 2049)
K OR E A F OC US ( コリア ・フォーカス)
(韓国の時事問題関係隔月刊誌)
の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、 該当年の五月 三一日までに韓国 国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。
韓国語フエローシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者およ
韓国国際交む樹団は、隔月刊言部ORE A FOCUS( コリア・フォーカス)
ひ漣格の専門家に対して、韓国語フェロー シッ プを提供し、六一一二カ月
を刊行しております。「コリア ・フォーカス」は日本のみなさんに韓国関連
間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フェロー
の情報を提供して韓 日両国間の理解を深めていくことを目的としておりま
シップを与えられる ことが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一
す 。
つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料と所定の
当財団は「コリア ・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する有益 な参考資料になるものと信じます。 「コリア ・フォーカス」は、日 本語版のほかに英文脚< ORE A F OCUS も
滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成 のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。
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刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、学術 誌などの刊行物から翻訳、転議したものです。 韓国の時事問題に関する情報性記事を幅
広く選んでおりますので、韓国の現況につ
韓国国際交詐謝団出版部 ( 大韓民園、ノウJ レ特別市中央重樋局私書函二一四七号)
いて広い視点を提供することになります。
電話: 82-2 万3- 臼65
と同時に読者のみなさんは韓国の政治、経
FAX: 82・2・万7-2047,加 49
済、社会、文化などの各うa i ! f に亘る記事や 国際問題に関する見解、韓国に関する重要 な資料、主な出来事の日誌などに接してい
ただくこと になります。 ー「コリ カ・フォーカス」の購読についてのお 問い合わせは下記の住所あてにお願いします五
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「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁でない男で、ある」
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ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならな P J アール ムーア、 Jr 氏の持論で、 すo ホテルロ ッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「 完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス」。 そしてこれはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもありま す。
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