Koreana Winter 1994 (Japanese)

Page 1

コリアナ


Lo t t e , TheV I P ' sChoice

「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁で、ない男で、ある」

E a r lS.MooreJ r.Pres i d e n to fA s i aP a c i f i cM a r k e t i n g

ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「 だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならない」 アール s .ムーア、 J r氏の持論で、す。 ホテルロッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス Jo そして乙れはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります。

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Memberi nSeoul ,Korea 恥 _

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HOTELLOTTE

,~日高石市町

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-ごよ り .東京オフィス:( 0 3 )3日4-1462大阪オフィス:(06)263-1071-2福岡オフィス:(092)413-5001-2 2 0 1 )倒4-1117L.A.オフィス:( 3 1 0 )540-7010 N.Yオフィス:(

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HQIL o t t e :C .


韓国の美

風鈴

凶日ヨ世田﹂FE︿

観の秀でた山の谷間に横たわる

お寺に足を踏み入れると、ひっ

そりともの寂しい空気に響く、

ものさぴた風鈴の音が山寺の風雅な趣を味

わわせてくれる。山寺でチリンチリンと鳴

り響く風鈴の音に耳に傾けると、悦楽の世

界に引きずり込まれるような不自議室回ぴ

昔々、中国から伝わったといわれる風鈴

を覚、える。

は、もともとお寺や楼関などの軒先に下げ て音を楽しむ鈴。形は口巾り鐘模様で、内側

に舌を垂らし、その先に魚形の薄い金属断 片をつけておく。

風に吹かれると揺れるたびに音の強弱や

テンポを異にして鳴り、聞く人の 心情に

よ って奥ゆかしくも、あるいは寂しくも響

く妙な魅力がある。そのためか、韓国人は めてきた。

昔から風鈴を愛し、そこに文化的情趣を込

風鈴の音は単調ではあるが、拍子の反複

がないため退屈しない。味なアクセサリ ー

の効果のみならず、部屋にいて天気の奪化

を知らせる生活の知恵も込められている。

自然と共に暮らし、一輪の梅の花にも人

生の真の味わいを見つけようとした先人た

ちの風雅と知恵子﹄こ こにも見出すことがで きる。

A


ppbx 臼田句会Ul 亡

山 と韓国人

c

カバー・ストーリー

韓国人の生き方と文化の中 に溶け込んで多様に表現さ

れている山は、伝統音楽と

山は生活・文化の古里

小説の素材として、また伝 統絵画と詩の主題として取

N

4

り扱われてきており、韓国 人において山の意味は、煩

韓国人の生活に投影された 山と韓国文化

雑な世俗から税却させてく

T

れる、心の古塁として韓国 人の生活と精神世界に欠か

雀禎錆

1 ν

田 品

と 里 古 の 想

1t 向 や 琴

。圏一時

せない要素である.

E

写真は、漢江上波の江原道 寧越地方にある ソ ン ドル (重量え立つ岩)である。

N

16 韓国人と山の絵 李成美

T

s

24 山と伝統音楽

韓明照

32

二 O世紀の韓国小説に現れる

山の類型と想像の世界

J え

柳宗鏑

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岬洲

町山

一川一釦

6 一一耳梯 3 ω 42

SEOUL600

漢江の歴史と遺跡 金乗模

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Vo . l7 .N o .4.Winter1994

50

KO 阻 ANA コリアナ

S E O U L6 0 0

聞かれた都市

ソウ j 、 レ 今日の状況と未来

アー ト・ディ ν?? -

68

朴昇雨

D I S C O V E R I N GKOREA

期預

任慶彬

鱒園匡際交流財団 大緯民国ソウル特別市中央郵逓局 私書函2 1 4 7 号

72

・電宣言:8 22 7 5 3 3 4 6 2

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⋮ 山 李

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韓国国際交淵オ団が発行している季刊誌

大韓民国ソウル特別市中区南大門路 5 街5 26

dun山崎弘へ

5

韓泳奏

1 9 9 4 年冬季号

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金石文に見る百済武寧王の世界

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李容遠

大事章民国ソウル特別市鍾路区通義 5 ・1 1 洞3 ・電話:8 2 ・2 ・7 3 4・7 1 8 4

さい。 また、本誌縄叙の記事・論文の内容は、本誌 編集者または本財団の意見ではありません。

l a7 年 .8 月8 日蛍量叫 1 0 3 3 号

1 2月 2 0日 1 制年 1 2 月3 0日 (毎年3, , 69 , 1 2 月 咽 発 行) 日以年

日 瑚I J P i I . 三星文化印局鵬式舎枇 6 7 ・2 9 ソウル特別市城東区華陽洞 1

.電話:8 2 2 4 6 8 0 3 6 1・5

民総見

財団側にあり 、本財団の承諾なしに転寂 ・複制 することは禁じられておりますのでご了象くだ

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'}(OREANA( コリ 7ナ) J l l 線国国際交流財団地帯豊 行している季刊誌です。従って版権はすべて本

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1 0


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︿町 一 ﹀

一、都市に伸びた道と山に帰って

韓国人は山に固まれて暮らしてきた民族

である。日の当たる、住みよい山の麓には、

3 乞しては暖を

いつも大小様々の村ができていた。山で山

菜を摘んで食べ、また薪取

は山の裾で生まれ、そこで暮らし、そして

とって暮らしてきた。都市が発達する以前

死んだ後では山の麓に埋葬された。これが、

われわれの人生の始まりであり終わりで

あった。実際に生きている者の住居と死ん

だ者の墓は山を逸脱できなかった。広い平

野や広々と した草原に恵まれていない韓国

人にとって山はすべての人々の生の古里で

あり、同時に死の憩いの場とならざるを得

なかった。山に回帰していくといった考え

が伝統的にわれわれの祖先の頭の奥深くに

根を下ろしていたのであった。

儒教思想を浸って暮らしていた朝鮮時代

のソンピ(学徳を兼ねた人。士人)の生活世

どれか一つを選ばなければならなかった。

界には 、二つの方向に伸びている道のうち

官職に向か、ユ埠と山に向か、ユ坦である。 ﹁ 官職への道﹂はソウルに進出する道であ

り、胸に抱いていた夢が実現して世の由を 救済できる機会も与えられる。 しかし官職

への道には汚辱と謀略が落とし穴のように

待ち帯えている。時には、志操を失うこと

もあり止大T乞奪われることもある。これに

は単調ではあ 山に帰ってくる道 L 引き比べ ﹁

るが、のどかな憩いと情を分け合、ユ吾びが

ある。自分の 、 h身 z を肥やし田信惨乞深く清く

することのできる環境がある。しかし胸に

や本のように朽ちていくのは決して生やさ

沸きたつ情熱を抑えながら山聞に埋もれ草

しいことではない。

このため、 ソンピの多くがたどる道は 、

1 1


生草野に埋もれていた孤高の士の手本であ れわれの生活の古里であるばかりでなく学 問の産室であり思想の士自且でもあった。

して心身を磨くことに よって、自らがれい、 または仙人になろうとする優埠の目標にか

て山野に戻るということは欲を捨て去るこ

いこととしていたようである。官職を捨て

修坦する人が住んでいた山は、その人の

たちが山を好んだのは、山が糧定をするう

なフ所とされていた。とりわけ修埠僧の中

淵明の﹃帰去来の辞﹄では官職への道を﹁肉 とであって、凡庸な人間に、そうやすやす

えでもっとも適した条件を備えていると考

しかし朝鮮時代のソンピは退出をより貴

る 。

体が精神をこき使う﹂ひどい道だと言って とやれることではないと考えたからであろ

えたからであろう。このため、山麓の奥まっ

る道を歩んだのである。東晋時代の詩人陶

若くしては山で学問を磨き、中年には官職 を求め、晩年には再び古里の山に帰ってく

いるが、山に帰ってくる道は﹁精神が肉体

いた。儒学者が好んで住んでいた山は、な

笹泡の理想と左訟によって位置が異なって

句会易から遠ざかる。のどかな谷間などに

も魅力であったろう。都会で大勢の人と交 わると暇がないばかりか心が乱れがちにな

た。山裾あたりの住み家をよしとしたのは、

そして水の音のうるさいところは嫌われ

と考えられていた。険しく高い山と山奥、

て清らかで静かな流れがあれば、極上の場

だらかな低自の山裾の奥まった谷間に沿っ

適しているのであろうか。まず、煩わしさ

山が持っているどのような条件が修定に

学の論理に通じるものであった。

なわち﹁雑らず離れず﹂(不雑不離)の性理

いながらも、世の中のことは心配する、す

た所にあるソンピの住居は世俗から離れて

く者も少なくなかった。このように修道者

を訪ね﹁雲一水﹂のように四方の山河を巡り歩

には、一つ所に留まらず景観の優れた名山

をこき使う﹂正しい道ではなかろうか。李 くれば好きな学問を磨くことができたこと

う。ところが本人にしてみれば山に帰って

腰を据えて圭易を読み、詩を詠み、考えに

野原の平らな地帯と高くて深い山との中間

混(号一返還は五O歳にしてやっと心にか

二、山と水が調和を保つ暮らしの

なった書斉の実権駐を建てて移った自に詠 山深く陽は早々と暮るる/一暮らし粗きを知

ふけるのがはるかに意味のあることと老え

優れたソンピの中には、出仕することに

会の巷で磨いた学問とは自ずからその内容

にした。このように山で磨いた学問は、都

間で大学者が輩出され、当代の思想チ豊か

気象の集まった山裾に奥まった谷聞を擁し

た所は、高くて険しい山ではなく、明るい

れわれの生と死の場となり思想を苧んでき

を取ったものとニ一 白えた。儒教文化の中でわ

年時代に読書三味に入る頃になると、静か

れる。実際に朝鮮時代のソンビたちは、青

く、爽やか風と緑の木々は気概を育んでく

のない静寂の宿る場所なので精袖統一によ

んだ詩に﹁片ほとりにたまに人訪ね来る/ れど/体が心治むるより勝るからむや﹂と 山に帰って心が主の隼直を取り戻した満ち たのである。実際に朝鮮時代には多くの山

励んだ人物と退出(退宮中するために努めた 人物があった。二ハ世紀に絞ってみても、

も違ってくる。都会では現実問題に関する

まじわ

足りた気持を謡っている。

に属し、杢退壌と盲目植(号一南冥)は後者に

越光祖(号一静駐)と李現(号一粟谷)は前者

しかし、山僧や道士は高く深い山に険し

ある寺剰を訪れた。今でも、お祈りをする

な所を求めての家を捨ててよく山の中腹に

と宝由の源を究める哲学や人格と道鏑僅を

とか願を掛けたいときには、民俗のシャー マニズム信仰の人々が他の宗教団体に紛れ

実用的な知識を習得するが、山野では人間 錬磨する修養論が関心の債冶⋮となった。こ

て修志の場とした 。深い 山は、世俗を超越

く奇怪な君と深い池などのある場所を求め

た静かな場附であった。

てて山村の古里に帰ることを願っていたの

のようにして、伝統社会における山は、わ

属するといえる。退渓は、いつも官職を捨 で﹁山鳥﹂の揮名をちょうだいしたりした。 南冥は初めから官職への未練などなく、一

1 2


出日深詮的↑巴︿

韓国人にとって山はすべて人々の生の古里であり、同時に死の 憩、いのま暑であった。 そして、 山に回帰していくといった考えが伝統的に われわれのオ且先の頭の奥深くに棋を下ろしていた

1 3


はじめて、 全体のバランスを 耳元ることができる。

山と水は矛盾する対立の 関係ではなく、

ネEl手市う関イゑといえる

と玄琴は、昔のソンピたちが官職を捨てて

UEE目ドム巴︿

ちし身なれば、老いゆくも独りでに﹂と山

凶一

らかな新鮮さに感じ入ったあまり、山に住 む喜びを歌っている。 ﹁ 原広く天高し、長 と水とともに調和をなして一つの自然の中

いる所なのだから、長い時間をかけてそん

を修養する場の条件は、山と水が調和して

古里に戻るときに 、、仕す携えていたもっと も大事な友であった。

かりし梅雨上がる/青山に巡られ、耳には

に溶け込んでいる人間の生活を描いてい

ほど山には宗教的な神々しきがあり、学問

山と水は互いに調和してはじめて、全体

非嫡翠の水の音/いまぞ山水限りなき興を知

る。第二に、世俗から超脱した世界である。

退渓は、雨上がりの山峰に登ってから清

のバランスを取ることができる。山と水は

る/世俗の虚ろな過ちょ、いざさらば﹂山

な場附を探し求める。のみならず、この隠

的な深い思索に適したところである。山で

矛盾する対立の関係ではなく、相補う関係

と水が調和のとれた空間は、ソンピが煩わ

居の場に小じんまりとした庭園を作ると

をなナ所に人間の暮らしと芸術が、そして

の楽しさと胸の奥深くに真理を依停させる

で寂しく単調な場所ではなく、諸宗な自然

のように山と水が調和をなした所は、静か

ている。第三に、学聞を磨き修坦する場で

絶させ、超脱の世界として守り通そうとし

自然を楽しむ自分の生活を世の人々とは断

と歌っている。山と水が調和を保っている

がった周囲の生活世界を創造したりする。

ところなどを命名して自分の思想とつな

観を塑員し、山や岩、せせらぎの曲がった

か、ときどき周辺を消迄しながら自然の景

られてくると信じていたのである。

といえる。山が準え立つ様は、水の深さに

田に白鴎/この二つの楽しみを誰ぞ知る﹂

朝鮮後期の李年は﹁川水に負挑び、家前の

学問と宗教が一層深く、敬廃になり得たの

喜びがあふれる場所なのだった。

その際立ったものに、水の流れに沿って山 と水が調和し景観をなしている九つのくね

孔子は﹁知恵あるものは水を好み、善良

である。

ある。山と水の問で自ら楽しむソンピの生

なるものは山を好む﹂と述べ、山と水を徳

る。朝鮮時代のソンピの多くは、周囲にあ る小川のくねりに沿って﹁ 九曲﹂の名をつけ ﹁ 九曲の歌﹂を作った。このようにして朝鮮

りごとに詠んだ船歌が手本になったのであ

活は、超脱した自然の中で周葉山と暮らすの り﹁理想郷 であった。寸山と水が調和をな

山と水が調和のとれた中での自足の生活 は、儒教社会におけるソンピの﹁古里 Lであ

わむ君来たらば留守と告げよ﹂とある。山

りにそれぞれ命名した九曲というのがあ る。朱子が武夷山の流れの九つのくねりに

性と知性という人間の二つの人格的能力と

L

とができる。第 一に、自然と人聞が融合し たところである。朝鮮中期の円孟塞品麟厚(号

孟告の最大の喜ぴを の中に埋もれて暮らす μ 読書とし、読書を妨げる誘惑を振り切る決

したところ﹂ は 、ソンピが生活の場として 歌った歌などにいくつかの特性を見出すこ

一河田)は ﹁山独りでに、水独りでに、山水 の聞の我も独りでに/その中で独りでに育

命名した武夷九曲と、その水の流れのくね

して対比させている。すなわち人聞は、知 水を共に重視したのだった。昔の漢詩に﹁青

恵と徳性を養うことのできる環境として山

るる水は絃なかれど果てしなく聞きたるコ

山は無言なれど、不えに読まれたる書物、流 ムンゴ(玄琴)なり﹂と歌い、山と水の調和 を書物と玄琴にたとえている。実際に書物

の時調(韓国固有の定型詩)には﹁万巻の書 にて生涯過ごす喜ぴこの上なし/われに会

ではなく、人間関係の道徳規範を蔵して、 これを実現させていく生活でもある。李、探

ソンピが学問を研究、または講論し人格

対照されてこそ一層際立ってくるし、山の

る学問探究の場であり修道の場である。こ

しい世俗から一歩下がって喜んで訪ねてく

意を見せている。

静かな不動の様は水が休むことなく流れる

智異山の麓にある求札華巌寺

動きと対照をなすからこそ、山と水が調和

宗教的信仰が篤くなり、学問丘審に整え

込んで山に入る光景をよく見掛ける。それ

山と水は互いに調和して

14


囲の山水を鑑賞したりした。

時代のソンピたちは、﹁九曲﹂をさかのぼっ て流れの根源を探し求めて歩きながら、周

また韓国人の伝統的な信念によると、山

い悟りの世界を経験したものともい、える。

たのが、盗かな新天地を夢見るように新し

晴ればれとしない現実社会の中で悶えてい

眺めるときとを挙げている。朴祉源の涙は、

色の砂浜を歩みながら逢か壁万の水平線を

けたソンピたちが科挙に受かり官職に就い

追求せよと教える。山間で儒教の教えを受

国是として いた。儒教は義理を貴ぴ理相芋﹄

者が少なからずいた。朝鮮時代は、儒教を

をかなぐり捨て山林に隠れ弟子を養成した

王朝に仕えるのは不義であるとして、官職

朝に変わったときソンピの中には、二つの

して 一部のソンピの活動舞台は山野となっ

ちは、山奥に隠れざるを得なかった。こう

なくされた。そのため生き残ったソンピた

弾圧を受けておびただしい数の犠牲を会議

め撃手乞求めていたソンピたちは、権刀の

連の士禍によって理相・山政治を実現させるた

被った大獄事件)が相次いで起こった。 一

代に正論を主張するソンピが謀略によって

ソンピたちは山の麓や小川の近くに住み

二、山峰で見渡す限界 には精気があり、山の麓に住むか山を登る

た。山の中に埋もれて学聞を磨くソンピの

るソンピは、官職についた後いつでも未練

V

ンピの精神﹂として壁止される。 義理の精神(道伊沙問な正当性 を信念とす

て義理の精神を山間の森林で活動する﹁ソ

理の精神が武装され、朝鮮時代全体を通じ

意識は、不一義と世俗的な貧欲に批判的な義

たとき、憤慨したのは支配層の世俗的な権

家を作って暮らしていたのであるが山奥に

v E Z コ 10孟面的

権力の弾圧によるソンピの﹁士禍﹂(朝鮮時

の聞で険悪な対立関係が生じる。こうして

ソンピとソウルに根づいていた既得支配層

しだし、ここで新たに登場した山林出身の

力追求だった。ソンピたちは、公然と批判

李成桂のクーデターで高麗王朝が朝鮮王

四、山林で磨く義理の蛙伺神

精神はさらに深く大きな力をもてるのであ る 。

分け入り、頂上を目指すことも珍しくな い視野と広い視界が目に入るとき、一途な

かった。頂上を征服して遮るものの何もな 考えや閉ざされた眼目から解放される。凝 り固まった小さな世界からやにわに柔軟な で閥達な気性を培った。ソンピは抑えつけ

大きな世界に脱出した気持になる。その中

学問に専念することを誇りとするものもい

なしに官職を投げ捨てて山野に帰っていく

李退渓は小白山の頂上に登ってから﹁は

た。野人のソンピは山や水が調和の取れた

られた考えと情緒をきれいきっぱりと解き

じめは息がつかえたが、しまいには快い気

所に身を隠して暮らしていたが、その主張

決意を持っていた。また、はじめから官職

持になった L と述べている。李退渓は学問

の論理はきわめて鋭く強硬であり、この時

ほぐしてやるのは、勉強にも欠かせぬ心の

に励むうち、さ迷ったあげくに悟りが開け

代の価値観をリードしていた。彼らは義理

につくよりは山水の美しい草野に埋もれて

たことを山頂で知ったと言っているのであ

林の営者たちである。

の精神で徹底的に武装された朝鮮後期の山

る。朴祉源(号手厳正悠即の 一員として 北京に行く途中、摩天嶺の頂上に登った。

錫はソンピが義理に従って対応すべき一 つ 一 一 の道を示した。第 一は、﹁義兵を挙げて侵

朝鮮の末期に日本がわが国の国権を侵し 始めたときソンピたちは義兵を挙げた柳麟

略勢力を一掃すること﹂であり、第一一は、﹁遠

頂上に立って 一望千里に繰り広げられる遼 東平野をみた瞬間、 ﹁ 良き泣き場なるかな。 よく声をあげて心ゆくまで泣くにふさわし て暗い母胎から広い世の中に出てきたとき

ゃ﹂と溜め息を洩らしたそうである。狭く

くへ去ることがあっても儒教の伝統を守る

を誇りとしたのである。

して儒教の伝統を教えその伝統を守ること

に朝鮮末期の儒学者は一様に山の中に隠遁

不すもので、特 なに深く根づいていたかを一

守ること﹂を示したは、儒教が社会にどん

操を守ること﹂である。このうちに﹁儒教を

こと Lであり、第三は、﹁自決し果てても志

泣き出すように、重なる山に取り固まれた 翠古しい韓半島に閉じ込められて生きてい たのが、広漠たる中国の天地に接して思わ ず爆発しそうな泣き声を上げたかったのだ ろうか。また、彼は生まれたばかりの赤児 の偽りのない泣き声で泣いてみたい時と場 淵の海辺の金 EX

所として、金剛山の眺虚峯の頂上に登って 東海の海を眺めるときと、

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1 5

浄化方佳であった。

慶尚北道安東所在の陶山書院


李成美

一、はじめに

韓国精神文化研究院教授・美術史

昔も今も、韓国人たちは山に固まれ、ま でいる。まったく山の見えない広い平野な

たは山の見える自然環境の中で生活を営ん

こにいても、山が視野に入ってくる山の固

どはとても考えられないほど、韓国は、ど

、 b

山々があって、全体としてはやんわり包み

岩肌を露わにしている山も、周囲には土の

濯木に覆われている緩やかな土山が多い。

ているごつい感じの山は少なく、閲葉樹や

じんまりとしている。また岩肌を露わにし

中国、または日本の山々に比べて大部分こ

や日本も同様である。所栓、山とい、ユ仔在

うな現象は、ひとり韓閏だけでなく、中国

山の絵は大きな割合を占めている。このよ

た今日の韓国美術においても、相変わらす

のすべての西欧美術の影響を万遍なム又け

ミニマリズム (EE自由民的自)など、二O世紀

け、今日では非具象、抽象、超現実、王義、

くから周囲の山を絵に表現するよ、つにしむ

始の人々は山の姿を造霊玄術に表現したに

る。それ以前にもどのような形であれ、原

そこには山が原始的な手法で描かれてい

い例は、五世紀初期の高伺麗喜壁画で、

ち年代がはっきり知られているもっとも古

たのであろうと考えられる。

の一つとして山の絵が持続的に描かれてき

にしているので人物画を発達させ、一方、

一般に儒家は、祖先崇拝や勧戒思想皐

山水観

二、文献記録からみた古代東洋の

について簡単に触れたい。

接、間接に影響を及ぼした古代中国の文献

東浮文化圏で山の絵の発達の初期段階に直

ることにする。韓国人の山の絵を見る前に、

で、何点かの山の絵の例をもとに考えてみ

おうというものではなく、韓国人の山の絵 に現わた思想を見ることに目的があるの

寸山﹂というテ lマに合わせて﹁山の絵﹂にし た。また本稿は、韓国の山水画史を取り扱

絵﹂は﹁山水薗﹂に改めなければならないが、

意味からすると、本稿で標題の中の﹁山の

然の中で山の姿がそうであるように、早く

隠されているような感じを与どえる。

が自然環境として存在して人間の思索倭糸

現在残っている韓国の山の絵の遺跡のう

鄭散(一六七六 j 一七五九年)の﹃金剛会 図﹄がそのよき例であると言えよう。

違いない。しかし、東洋では、西洋の風景 画(-包含g宮匂包三宮間)とは異なって、 自

に大きな影響を与えるうちに、造形的表現

過なく受けている現代においですらそうである

実主義など、 ニO世 紀 の 西 ヨ ー ロ ッパ美術 の 影 響 を 万

る山の絵の割合を多いものにしてきた。非具象、

山の多い韓国の自然環境は、韓国人をして周囲の山を

~2ミ

から山の絵には水が付きもので、﹁山水画﹂ という用語が生まれるようになった。その

絵に表現するようにしむけ、古代から韓国絵画におけ

このような自然環境は、韓国人をして早

のような例外もあるが、スイス、アメリカ、

なのである。しかし、韓国の山は、白顕山

& ろ 、 超


を楽しみ、智者は活動的で、仁者は安定

孔子日く、知呈告は水を好み、仁者は山 われる。また、山水画の山水とは山と水と

つ山への認識を端的に表しているものと思

東洋人の生活に途方もなく大きな重みを持

序匝にも現れている。中国の伝説上、また は歴史上の人物は聖人であろうが、君子で

時代の宗明(三七五l四四三年)の﹃画山水

道家は大自然の中で自民主調和をなす人間 像を重視するので山水画を発達させたもの 的である、智者は楽天的で、仁者は長寿

あろうが、賢人であろうが、名山で遊楽し

けでなく儒、仏、道の三つの思想が不可分

関係にあって、均衡と調和をなしている。

そ道符商な徳目を身につけられるという中

は考えられないばかりか、山に親しんでこ

たことになっている。これは山抜きの生活

よ 哩P のこのような観点は、山水画に間接

水序﹄の始めの部分と終わりの部分を次に

Y

と考えやすい。しかし儒家と道家の思想だ する。︹去塑F巻六/二士二︺

を関係において言っていることである。山 の静的な面と水の動的な面が互いに相補つ

の一体となって、山水画の発達に直接、ま ﹁仁義礼智﹂のうち儒家は ﹁ 仁﹂を第 一の徳 目とするが、その仁を実践する人、すなわ

的な民審を与えたであろう。 このような山水観は、短編ではあるが、

引用する。

たは開接的に影響を与えた。 に山の絵に道符商権威を与え、多くの東洋 ち、仁者は山を楽しむ人であるとしている

山水画に関する最初の論文と言える、六朝

次の有名な﹃一議豊田の件りは、山水画、特 画の中でも山水画を至上の絵として位置づ のである。﹁仁﹂と山を一つにしているのは、

9

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bずい刊日料品兆円ダイ小川怯

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国人の考え方も示すものであろう。﹃画山

けるのに大きな貢事乞したといえる。

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Yゑ沼会

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明叩

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刊崎防水内端本内 一

鄭数、『金剛全図 A 1734 年 1 羽 .7cmX5 欲m 湖巌美術館所蔵

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'I l l

可可 f E 君、急 l i


聖人は道を体顕して事物を明らかに し、賢者は心を清くして︹事物の︺形状を 吟味する。山水はと言えば、質(物理的 な面)が存在し、︹精神的︺趣きは霊妙で ある。したがって、軒鞍(黄帝て桑、孔

始めの部分は、先に引用したよ哩Fの件 りを援用したものであるが、もろもろの伝 説的、歴史的な人物が起居していた名山の

すべての景色が彼らの精神と思考に融和 する。私は、これ以上何ができようか! ただ、精神が︹自由に︺伸びていくよう﹁暢 神、すなわち、精神の解放﹂をするだけ である。精神を伸ばすよりもっと優先さ れるべきことは、︹果たして︺何であろう か 。

ところであるという。おおよそ、聖人は 名を並べ立てて山とい、ユ仔在白体に道徳性 を与えている。 一方、最後の部分において

子、広成子、大鬼(盤古一中国神話の造 物)、許由、孤竹(伯夷、叔斉)のような 人たちは、必ず空洞、具茨、貌姑、箕山、 首陽山、大蒙のような︹名山で︺遊楽し、 ︹その山水は︺また、仁一者と智者が楽しむ 精神をもって道を体顕し、賢者は︹これ を︺通じて理解する。山水は形をもって

それ故、私はのんびりと過ごし、気を

寸仏陀のみが彼の精神をもって道を体顕す J . d ‘

っていて世界の果てまでをすべて探求で きるので、自然のいろいろな障害に逆ら わずに、独り誰もいない野原と相対する。 山の頂上が高く釜えており、雲一に覆われ た森は果てしなく広がり、聖賢らの道が 限りなく遠い昔から︹今に︺照らすので、

懐館建﹂、すなわち、心を清める道を観照し、 ﹁臥遊﹂、すなわち横になって、または夢の 中で山を鑑賞するという山水画の道徳的知

正して酒杯をきれいに拭い琴琴琴琴寸寸 77., (山水画)を広げて奥床しく相対すると、座

このほか宗伺の他の著書の﹃明仏静にある

とかいう、 は、気を治めるとか、﹁無人の野 L 多分に道家的要素を含んだくだりがある。

5C初期に描かれた原始的な山の描写

る﹂(唯仏則以神法道)というくだりと関連 させてみると、コ凹山水序﹄全体を儒、仏、 道の思想の混合的表現であると考えること ができる。 宗痢はまた、東洋の山水画に{蚕君した﹁澄

道を美しくして仁者を楽しませてくれ る 。

徳興里古墳壁画

用論と理想論の始源となる逸話を残した人 物でもある。﹃宋書﹄列伝の宗摘の条を見る と、次のような件りがある。 ﹁:::老いて病みついて 名 L 山をあまね く巡ることができないので、ただただ心 を清めて道を観照しながら、寝そべった ままその山々の﹁絵を見ながら想像の世

な関係を保って発達してきた。中国の山水 画を表現技法[の側面からみると、初めは簡 単な線描や単純な山模様に彩色するスタイ

ルから始まり、次いで青緑山水といわれる 華麗で幻相街な絵が、そして水墨山水画と

いわれる正反対の美的感覚に基礎をおいた 東洋特有の山水画が発達した。このような 発達過程は、わが国三国時代の古墳壁画に そのまま見られるが、現在、大部分の壁画

古墳は北韓地域にあるので直接観察して研 究することはできず、北韓、または日本を 通して入手した資料を見て間接的に研究す るしか方法がない。筆者は、韓国精神文化 研究院が刊行した﹃北韓の韓国学研究の成

界で﹂山の中をぶらつくがいい。

果分析﹄という論著の中で、北韓の美術史

﹃臥遊図﹄とい、 Z 相称がついている山水画 は、結局、山水画発達の初期から、実際に 山に登って山を直接体験することのできな い人々にとって、実地体験の代役をしてく

き入れた山にすぎないようである。

すると、狩猟という人間活動が行なわれて いる舞台が何であるかを知らせるために描

この古墳の天井には狩猟場面があり、そ の背景にごく形ばかりの山が描かれてい る。山の模様は山の{壬乞連想させるくらい 単純であり、山の大きさが騎馬の狩人と まったくアンバランスであるなどの点から

里壁画古墳である。

現存する約八十基の高句麗の壁画古墳の うち、年代がはっきりしている措塞はたっ た二基(安岳三号墳、三五七年と、徳輿里 壁画古墳、四O八年)しかない。そのうち 山水画の最初のものとみられる壁画は、平 安南道南補市江西区域に位置している徳輿

のは、壁画を実際に見ないまま論じなけれ ばならなかったということである。

の古墳壁画研究の成果を詳細に分析した。 これらの古墳壁画は韓国人の山の絵の起源 を理解するのに、またとない重要な端緒を 提供してくれるものだ。ただ、残念だった

研究の成果分析を担当、執筆Lたが、その 論文で筆者は韓国・北異そして日本学界

れるものである。﹁一澄懐鯉泡﹂というのは、 よく巻物の山水画で、巻物を広げ始めると、 絵が現れる前に﹁前額﹂または﹁引首﹂と呼ば れる部分に築書で大きく書いた字が出てく るが、山水画鑑賞の準備段階で、心を清め ておかなければならないという意味に取ら れる。 もちろん、すべての山水画に深奥な宗教 的、道徳的意味があるわけではないが、上 で述べたような思想的、理論的背景をもっ て発達し始める東洋の山水画は西洋の風景 画とは根本的に達っ。そのため、西洋より 早くから山水画が多くのテIマの中で相対 的に重要なものと見なされたのである。ま た、山水画は歴史的にある程度起伏はあっ たが、十世紀以来ほとんどの受口いつも、 すべてのテlマの中で優位を占めており、 このような現象は、現代に至るまで引き継 がれている。

ュ、﹁真景山水﹂以前の韓国人の山 の絵 韓国人の山の絵は、中国の山の絵と密接

1 8


これに対して、一九八九年発掘と豊口さ

低いが柔らく快い温和な感じを与え、西

に処理されている。東側の壁の月岩山は 側の壁の九月山は厳粛で神秘な感じを与

山々の輪郭の線は太い墨の線で力強く 描かれ、山の起伏と傾斜面は明暗が明瞭

山の絵に比べると、はるかに山水画らしい えている。

れている黄海南道安岳郡坪井里の一号墳

山水画であるという。この報告書によると、

は、年代は分からないが、前の四O八年の

墳墓玄室の東・北・西の三面の壁には、彩

には十二子からなる銘文があるが、判読不

黄海t k女岳郡坪井里一号の+晶壷画実測図

た山の絵がいっぱい描かれているという。

近所にある山を描いたものであるとすれ

知ることができて興味深い。また、実際に

まで享有しようとしている意図ゃうかがい

られるが、前に引用した ﹁臥遊﹂をあの世で

単に近くの山を描いたものであるともみ

色した痕跡がまったくなく、塁だけで使っ

しかし、高一句麗が滅亡した年の六六八年以

稚拙な域を出てはいないが、夕陽を背面に

を思わせる。峰に立っている何本かの松は

38.7cmX106.5cm日本奈良天理大学図書館所蔵

能の字があって年代を考証できずにいる。

百済時代の山水画の痕跡を、っかがわせる

ば、十八世紀に大きく発達したわが国の﹁真

遺物は、絵ではないが、低浮彫からなる瓦

前に築造された墓であることだけは確か

山水画らしい山水画ということになる 。

景山水﹂画の先駆的な役割を果たしたとい

と同時に、現在まで知られている水墨山水

噂で、山水文嬉と呼ばれている。扶余で発

、 ZRで、その重要性が一層浮き刻りになる。

闘のうちもっとも年代の古いものであると

形の峰がいくつも立ち並んでいて深い山奥

形どったものともみられるが、柔らかく丸

れている韓国のどの遺跡のものよりも古い

ZRでまた注目される。発掘報告書によ 、 い ると、この墳墓の近辺の東北の方には月岩

これらの山の姿を事金大的に描写していると

には遠く九月山が眺められ、この壁画は、

した、遠方の冬の山によく見掛ける山峰を

見されたこの瓦湾には、山の姿が山の生を

山が扉風のように巡らされており、西の方

だ。とすれば、この絵は、現在までに知ら

(下)安堅、『夢遊桃源図~ 1447 年

いう。報告書の一くだりを引用する。

1 9

( 上 H山水紋埼』百済 7世紀 2 9 .6 cmX2 8 .8 c m


連想させる。特に、前の部分と両側に碑石 を思わせる岩の描写は、後日、金剛山の岩 峰は鋭く描いたに対し土山は和やかな感官レ に描いた鄭散の﹃金剛全国﹄を連想させる。 いちばん下の方に水平に置かれている岩ら しく見える部分は、解釈によっては水が流 れる様子を形式的に表現したものと見ら れ、この瓦埼を﹃山水文埠﹄と呼ぶように なった動機を提供している。右側の第一番 目の丸い土山の輪郭の中には猶椙らしい一 ﹃山水文埼﹄は山を楽しむ人物の姿を取り入

人の老人が歩いて行く姿が描かれていて、

以上、わが国絵画史の始まりと言える三

れた最初のロマンチックな山水画の例とい えるかもしれない。 国時代の絵の幾つかの類型を考えてみた。 山水画が本格的に発達し始めた高麗時代と 朝鮮時代初期の多くの遺物は、数世紀とい ろ歳月を勘案するとごく少数にすぎなく、 ここでは朝鮮時代初期の作品一点を挙げる にとどめる。 一四四七年作、安堅の要遊桃源国は、 わが国の﹁真景山水﹂画が発達し始めた以前 の山水画を代表する傑作である。宏子大君 (一四一八l 一四五三年)が夢に見た桃源の 孟妻、当代の名書貝だった{主に命じて 描かせたといわれる。この作品は、桃源と いう中国の文学作品に登場する理想郷をも

国の山水画技法から大きな影響を受け、ま

なことであると言えるだろう。

皇見の傾向が強く現われた時代的背景に思

風を追ってはいるが、夢に見た桃源自体は、

代と北宋時代を通じて発達した李郭派の画

国に実存する山水を描写した絵とい、主忌味

または中国山水画の模倣から脱して、わが

﹁ 真景山水﹂という用語は、想像の世界、

でわが国の﹁真景山水﹂画の伝統の脈は受け

少し衰えはするが、それ以降現在に至るま

なる。このあと十九世紀の径十期になって

が絶頂期を迎えることに 紀には﹁真景山水 L

を主題にした絵が多く描かれ始め、十八世

七世紀の後半から積極的に、わが国の山水

のである。わが国の紀行文の中でもっとも

残した時期が、﹁真景山水﹂の全盛期だった

見て親しみを覚‘えた山河を詩文や絵にして

多く現れたことである。すなわち、じかに

勝地を巡りながら直接景色を体験しただけ でなく、紀行文、名勝地を詠んだ詩文が数

のは、この当時の多くの人ぴとが国土の名

﹁真景山水﹂の発遠に直撃/響を及ぼした

い至ると、﹁真景山水 Lが発達したのは当然 た中国の文学作品をテ lマにした山水画が 多く描かれた時期でもあった。ところが一

絵の右側の部分にまばらに桃色の桃の花が

である。﹁実景山水﹂と言ってもよさそうだ が、現在美術史の記述で通用しているので、

七七六年)と正祖(一七七七i 一人OO年)

継がれている。特に、英祖(一七二五l 一

四 、 ﹁ 盲宣原山水﹂画の台頭l 朝鮮時 代後期の山の絵│

のぞくだけで、濃い霧に包まれてその姿を あらわにしていない。とりわけ、そこへ入

ことにする。すべての山水画は﹁真景山水﹂

ここでも﹁真景山水 L という用語を使用する から始まったといっても言い過ぎではない だろう。高麗時代後期と朝鮮時代初期は中

大きな部分を占めているのは、やはり金剛

のか、とにかく夢路の桃源を適切に表現し た傑作品である。

年間、わが国の文化全般にわたって民族的

る道が全く見当らないことから、空から落 ちてくるのか、それとも夢にだけ見られる

う一段階幻想化した山水画である。中国五

毒物館所蔵 鄭数、『万濃洞』 33cmX23cm ソウル大学1

2 0


山遊覧記で、十七世紀後半から十九世紀中 ばまでの聞に六十余種の金剛山記が書かれ ように、上の方から見下ろした独特な構図 にしてある。遠くに見える岩山の先鋭な多 くの峰と、左側に見える土山の柔かい多く

をなす十八世紀の﹁真景山水﹂の代表作であ る。金剛山の多様な姿を一目で眺められる

2 1

ている。このことから、金剛山を描写した ﹁真景山水﹂の金剛山と詩文学に現れた金剛 山とを比較して考えるのは、当時の人々が

萎照彦、『暮春、桃花洞望仁旺山』 24.6αnX42伝 m

の峰の相補うような描写から、謙斉の優れ た真吾白水措法をみることができる。特に、 被とほとんど同時代の人物である息山、李

るか遠く、曲がりくねって繋がっているが、鋭く

そびえ上がり、今にも空へ・・

万敷(一六六四i 一七三二年)の﹃地行宮中 の﹁金剛山記 Lは、謙斉の絵を見て書いたよ うな文章で、文と絵が果たしてそれぞれ実 景の描写にどれだけ接近し得るのかを不す

前を眺めると、 一万二千の峰と相対して山脈はは

金剛山に対して抱いていた認識や美的能度 などを理解するのに役立つと思われる。 現在ソウルの澗松美術館と湖巌美術館に それぞれ一点ずつ所蔵されている謙斉、鄭 散(一六七六1 一七五九年)の﹃金剛全図﹄ (湖巌美術館、一七三四年)は、彼の﹃仁王 雰色図﹄(湖巌美術館、一七五一年)と双壁

萎世晃、u'1:iI洞口 s 1 7 5 7 年

2 2 t 世


; J E A ~

ものとして興味深い。次にひと件りを引用 する。 前を眺めると、一万二千の峰と相対して

れて寿春に至り、秋巌灘の水と合わさっ

て、更に流れ下って嵐谷川の水を受け入 ﹃松都紀行帖﹄に収録されている。萎世晃自

多く残した。そのうち、彼の一七五七年作

一見して驚かされる。俗説の伝えるとこ ろによると、池の下方ら竜が出て来たと

霊通洞入口にある岩は雄壮で{吾座一棟 ほどに大きい。青いこけが覆うていて、

身の政文を紹介する。

李万敷はまた、金剛山の雄壮で敬謙な気

て昭陽江になって、漢江に入って西海に 流入することになる。

持を一帯ネ買を眺めながら、仁、義、札、賀

山脈ははるか遠く、曲がりくねって繋 がっているが、鋭くそびえ上がり、いま 道、徳、文章の標本とすることのできる資

言われているが、信ぴょう性のない話で

ろしく驚くべきことで、嬉しく、いとし 質を発見したと述べ、東洋の伝統的な山水

ある。しかし、雄壮な見物は、また珍ら しくもある。

にも空へ飛期するかのように見えて、恐

観をもう一度披露している。

十八世紀の剖自に値する﹁真景山水﹂は数 多いが、金弘道と同時代の人物である奈寅

のもう一つ別の姿を見せてくれる特異な構

文(一七四五i 一八三年)の師髪嶺から 見た金剛山を紹介する。この絵は金剛山

図の絵であるが、このような特異さを理解

に、この絵をそのまま描写しているよ、?な

するのに決定的な説明が﹁町髪嶺から見た﹂ という修飾語である。たまたま李万敷の文

くだりがあるのでここに紹介する。

てくる水が一所に集まって水溜まりを形成

(ソウル大学博物館所理は、四方から流れ

また、他の鄭散の金剛山の絵の﹃万爆国

ない。そうせずに、金剛山の教訓を身に

ころで金剛山を描写し尺ミすことはでき

うが、どんなに多くのたとえを挙げたと

ば、もっと広く例を挙げることもできよ

ソンピ(剖起蒔伐のヤンパン識者)が子供一

としたのか、萎世晃自身らしきロ パ乗りの

一棟ぐらいの大きな岩であることを表そう

して描いた優れた﹁真景山水﹂である。家屋

画といってもいいほど薄い. 墨と淡彩を配合

その岩を描いた﹃一霊通洞口﹄は、現代水彩

なり、幾重にもそびえ立って川に届くか

雪のような、氷のような峰が幾層にも重

留まる所ごとに玉のような、銀のような、

があり、その山は天麿山だった Oi-東 側に向かって金剛山を眺めると、視線が

く、尊ぶに値し、怖がるに値し、内臓ま で爽やかに水に漬かっているようであっ た 。

する特異な実景を描いたもので、独特な構

人を伴って狭い谷間に入って行く姿が見え

この道に沿うて 三里ほど行って峠に

図を見せている。次は、李万敷の﹃金剛山

つけ山の安らぎと重厚さを採って﹁仁﹂の 標本とし、その流動し精通したところを

のように見え、その空の向こうにはもう

:このようなたとえを挙げるとすれ

総記﹄から万濃洞に関する記録を引用した

る。このように、進取的な技法を駆使する

を過ぎて、再び熊虎峰以南の水を受けて

て百川洞の水と合わさって、長安寺の下

万爆洞は、表訓寺の後方を回って流れ

取って﹁礼﹂の手本にし、その峻厳で泰然

詳細で透徹し、すっきりしているのを

点を取って﹁義﹂の標本とし、その細密で

するところがが明快でさっばりしている

l 一七六四年)が﹃晩毒花洞に登って見た

彼のこのような態度は、菱田⋮彦(一七一 O

を使って、伝通山水画の脈を見せもした。

米+炉﹂父子によって創始された南宗画技法

一方、彼は文人画家らしく、 {木代の米草 ・

渡ってすべてがちょんまげや女の髪のよ

足りなく思ったが、今は天と地が晴れ

はいつも雲が高い山を覆い包んでいて、 ここへ来て金剛山を眺める人は甚だもの

τ

上ったのだが、この峠は町者領とい、﹁毛

ものである。

取って﹁智﹂の標本とし、その険峻で断絶

眺められる東天が尽きていた(中略 これについて慧密が言うには、﹁ここ

流れ、もう一度鉄嶺以南の水を受け入れ

うに山の頂上があますところなく姿を見

一吉った。

たはこの山と因縁があると知った﹂と

せているのだから、まことにあなた様が

仁旺山図﹄に書いた画題にもよく表れてい る 。 その輝かしく燦らんたるを取って﹁文章﹂

真景を描く人は、常に地図に似たもの

たる点を取って﹁徳﹂の標本とし、どこで あれすべての光景がない所がない所を 取って﹁道﹂を万遍なく備えた標本とし、 の標本とするならば、ここに山を観察す る理を得ることになろう。

絵は実景に十分迫っており、また画家の 諸法を失っていない。

の名勝地を探勝し、自分の哩察したことを

べた。歩いて、あるいはロパに乗って全国

紀の﹁真景山水﹂画に現れている韓国人の山

以上のことから簡略ではあるが、十八世

すなわち、﹁真景山水﹂は実景をそのまま

になるのではないかと心配するが、この

描くのも重要なことではあるが、地図のよ

かぐわしい文と絵で描いて残してくれた祖

実践儒学を強調した実学者であり、当代

十八世紀のわが国の画壇において文人画

うに見えてはならず、画家の諸法、すなわ

今も、北韓に位置している金剛山や松都(開

。 ト品λノ

あますところなく表現した文であると一 事え

の秀でた文章家にふさわしい観察と思考歪

家として、そして才能のある職業画家の後

ち伝統的技法から離脱してはならないとい うのである。

先たちのおかげで、国土が分断されている

の絵について当時の紀行文学との関係を述

援者として重要な役割をした萎世晃(一七 二=了一七九一年)もまた、 寸真景山水﹂を

2 2


惑の景勝を鑑賞することができて感慨無 量である。

五、結び一二十世紀の山の絵に現 れた山に関する認識

4r

山自体の美しく霊妙ふ は、時代を超え て引き続き芸術 たちに霊前門芋提供してい の無数な山の絵の中でどの絵がもっとも時

{ るといっても言ゑ い過ぎではない。二十世紀

されている簡単な彩墨画である。基本的な

豊谷、成在然(一九一五i)の一九七六年 作﹃山(国立現代美術館)は、幾つかの山峰 と単純化されたこつの塊の雲とだけで構成

発な美術界を考えると、なおさらである。 筆者は、本稿で堅持してきた山の持つ東洋 的な意味に焦点を合わせて、二十世紀の美

と変化を繰り返しながらト成り立っている淡

三角形の山峰を少しずつ変形させて、反復

術という大きな世界的時代性を老麗して一一 幅の作品を紹介する。

敷桁するまでもなく、山の神秘な存在をわ

淡として単純な構図を、力強く伸びてゆく 黒い輪郭線とほとんど単色調の濃い色とだ

宋秀南(一九三八i )画伯の一九七八年作 ﹃ 月に照される正﹄は、二十世紀後期に 一 時 風麻酔した抽象主義と工ニマリズム

ところどころ白い 部分(飛白)を含んだ黒い 筆線は、堂に入った蒙字体の童屡を連想さ

感じを与、える作品である。

青田、李象範(一八九七i 一九七二年)の 作品のようになじみ深くはないが、斬新な

SEE--臼ヨ)に次いで七0年代に戻ってき た極写実主義を連想さ

界を自由に出入りすることのできる無限な

山の形自体は、根本的に抽象と具象の世

れわれの目の前に浮き刻りにさせている。

けで処理している。この山の絵は、もっと

せる細密な描写で、月

ている。

せるかのように絵自体に生命力が満ち溢れ 流れる水筋の神秘さを

国立現代美術館所蔵

代を代表するかを考えて選び出すというこ とは至難のことである。特に、わが国の活

に照らされた正と細く かもし出す絵である。

可能性と最大限の利点を持 っており、この 絵で画家は、まさにこの点を拡大させなが

4 如 nX23cm個人所蔵

しく和やかで柔かいが輔しゃ偽りがな

雄壮でありながらも倣慢さがなく、美

画伯の絵に関する霊耐の一部を紹介する。

間感と統一性を同時に与えている。成在休⋮

ほとんど同じ色の空の背景は画面全体に空

認識を強烈に伝え、やや強度の差はあるが、

ら自分の山の絵を構築していったようであ る。極度に抽象化されているが、山という

東洋画と西洋画の理想 的な接ぎ木を試みるか のように二つの世界が 無理なく調和をなしな

筑JcmX14 伽 n 湖巌美術館所蔵

がらも、東洋的な山の

(下)宋秀商、『月光の照らす丘~ 1 978 年

イメージを一層強烈に

66.5αnX13α: : r n (上)成在然、『山~. 1 9 7 1 伴

く、軽薄でない絵が絵だと思っ。

﹁ 軽薄でない絵﹂という言葉は、特に昔か ら﹁ 俗気﹂を不治の病とする東洋画の伝統を そのまま受け継いだ考えで、特に韓国人の

山の絵と、またとなくよく調和をなす表現 であると思われる。山がわれわれに施して くれる精神的世界は、言葉では言い尽﹀¥せ ない﹁道の境地 Lであるということをこを新,

しく感じる。

' A

2 3

漂わせている。

(右上)李寅文、『断髪嶺から見た金剛山』




て序論 背山臨水の明堂(風水学でいう 一等地)と いわれる所で生まれ、死んだ後も左青竜右 は山で生まれ、山に帰る過程であると言っ

白虎の山の裾野に埋められる韓国人の一生 ても言いすぎではない。それだけ、わが民 族は山と緊密な関係で絡み合っている。ひ いては我々の生活だけでなく、歴史と文化、 情緒、意識世界に至るまで全てのものが山 とともに発酵し山とともに・交渉してきた。 このようなことは伝統音楽も同様であ る。太初に御言葉があったように我が国の 場合は、太初に山上の音楽があった。昆祷 山で竹冠を得て音の起源にしたとい、っ中国 の例があるように、朴堤上の ﹃ 符都誌﹄。では 山と伝統音楽との菌数関係もその例外で

太初の開闘を音で出しているからである。 はない 。まず山は芸術の 滋養素といえる 我々の成桜宇﹄豊かに育ててきた。そのため、 興が湧くとこれまた自然とリズムがついて

我々の先人は山に入ると自然と興が槙き、 きた。そして鳥のさ加えずりを聞きながら声 音を学び、蝶が飛ぶのを見てリズムを覚え、 花を眺めては﹃山有花﹄を口ずさみ、木の葉 を見上げてはメナリ(農夫が畑仕事をしな る。山と音楽が決して別々ではないという

がら口ずさむ歌の一種)調を歌ったのであ 理由が、即ちここにはらまれていたので あった。 確かに我々の山と伝統音楽は、とりわけ 切っても切れない血縁関係で結ぼれている といえる。本稿では、このような山と伝統 音楽との相関関係を七つの項目に分けて掘 り下げて みることにする。

26


二、本論 ー、声音の創始の母体としての山 太初に人聞が音を意識するようになった のは、山野を吹きまくる風の音や天地を揺 るがす雷声、即ち大自然の調和が作りだす 荘厳な音がその始まりであったといえるで

ほえる声、風の音のようにほとんどが山が

包括している。

一方、山が音の原型の役割をなす局面と

いうのは、こと聴覚的な音響の世界に限っ

のレベルでも山は音、即ち立皐木の原型とし

たことではない。物理的な音を越えた意識

春香 て働く。このような例はパンソリの ﹃

ルからやって来た李道令が秀でた人物であ

歌﹄で李道令の下僕のパンジヤ(房子)がぶ らんこにのっている女主人公の春杏にソウ

ることを、その地域の山勢に結び付けて歌

うくだりにもみつけることができる。山勢

が人間の天性を左右し人間の天性の声の質

つくほかない糸口もここから撃つことがで

を決めてしまい、結局は音楽の内容に結び

ドイツで生まれアメリカで亡くなったラ

主 ﹄ る 。

イヒテントリトラという著名な音楽学者

恩山別神祭の神降ろし

あろう。媛小な人間の感性は、 森山の麿領

いえる

をかすめて吹く風の音に圧倒され、谷間に

荘議な音がその始まりであったと

荘子が語る天籍、人績、地績のうち地績

わかるように至高な天界と結びつけられる

タリヨン(鳥打令。 タリヨン H音曲のニは

? f pち大白然の調和が作り出す

こだまする音響を奇異に感じたであろう。

風が吹き抜けるさい出す音だといってい る。 いうならば、地球の交棚意木であり、ギ ものは、やは杓ムロ向い山であるからである。

あり、いく種類もの鳥の鳴き声が出て来る。

風の音や天地を揺るがす雷声、

は、高い山と深い渓谷だけでなく、地上に

リシ ャのピタゴラスが音楽を奥妙な宇宙の

従って、宇宙の理を含蓄する音楽のル lツ

記述している。

その昔我が国のソリクン(パンソリの歌い

音楽は聾見を前提としたひとつの芸術で

なったのは、 山野を吹きまくる

輩仕している大小さまざまな凸凹な部分を

調和( Z223巳E50ミ)として把握した

2、音の模写の原型としての山

i v

いはごく自然で当然な発想なのかもしれな

されている山岳と結びつけることは、ある

を、大自然の神秘と{主回の不可回議が凝縮

山岳に吹きすさぶ風の音から管早に、し

ことと 一脈通じている。 かも確実に自然の音が確かめられるよう に、新羅の時代の人物である朴堤上が書い たという ﹃ 符都誌﹄も我々の伝統音楽の音の 始源を山に求めている。即ち、朴堤上は音

漢書 ﹃律歴志﹄ をはじめとする中国のいく つかの典籍にも音楽の始源が山とつながっ

パンソリ(一人の歌い手が鼓の拍子に合

ていると記録している。即ち古代中国の黄

手)たちはこのくだりの鳥の鳴き声を本物

わせて歌う劇的内容の歌)の﹃赤壁歌﹄の﹁セ

帝は、令誌に建写作らせたのであるが、

のように真似られなければ名唱の仲間に入

のと警ベ{主墨田で観念的な音の世界を

仏揺は昆需山の北側の慨谷の竹を切って六

れてもらえず、これができてはじめて聴衆

は地上でもっとも高い麻高城で生まれたも

律と六日、即ち一 一一音の建百を作って後世

の人気を得ることができた 。このように音

ていた。古代人の観念の中に形象化されて

あり、即ちその人聞の聴覚を刺激する原初

それに本物に近くなるよ、?心血を注ぐ。

楽において実際の声や音を真似るときは、

よく知られているように真似声のくだりが

の音楽の起源にしたとい、?内容である。 このように洋の東西を問わず古代の音楽

いる山の意味も、また{主由論的な世界観と

的な声や立Fというのは鳥のさえずh,、獣の

2 7

論は、{主曲論的であり象徴的な特性をもっ

共通点が多いといえる。﹁宇宙木 Lの例でも

太初に人間が音を意識するように


李捺致も、またこのような名声をとどろ かすまでには厳しい修練期間があった。一

つらい思いをし、パンソリの歌い手の道に

説によれば彼は本来パンソリの鼓手として

励んだという。パンソリの修笹子乞決心した

は、二O世紀の初めにハイドンが音楽活動 をしたオーストリアのアイゼンシュタ yト

驚いたとい、主叫がある。ひとりの音楽家の

出発したのであるが、名唱との差別待遇に

作品の世界を気候風土と地政学的な特性と

ンの音楽にあまりにも類似している ことに

結び付けて解釈する例は、音楽社会学とい じこもり、数年にわたるパンソリ勉強に励

彼は、深い山中に洞窟を掘ってその中に閉

を訪問し、そこの地形的な雰囲気がハイド

う分野に早くからあったことがわかる。一 むうちは、洞窟の入り口を大きな石で塞ぎ、 ほどの刻苦の努力を重ねたという。

小さな隙間を通して食べ物を入れてもらう このような名人名唱にまつわる刻苦の修

言で言って、山は実際の音響的な音の原型 としてのみならず情緒的で観念的な側面か いてきたことは間違いないといえる。

らも音楽を規制する潜在的な要因として働

間を経たという。彼は毎日のように、ソウ

に成長するまで伝説のような刻苦の修練期

て一世を風廃した響右大は神技に近い達人

朝鮮王朝の憲宗の時代に大琴の名人とし

新曲を三O曲作り、これらの新曲の 悼杭命得

に没頭したのだが、五0年間の修練の末に

であり、智異山の雲上院に入ってコムンゴ

記録にも発見できる。玉宝高は恭永の息子

五弦琴一と七弦琴がある)の名人、玉宝高の

る新羅時代のコムンゴ(玄琴H琴の一種で、

練の逸話は、ヨ国史喜の ﹁ 楽詩附﹂に出て来

ルの仁旺山にのぼり﹃トドゥリ﹄という曲を

に伝授した。抽杭命得はこのコムンゴ音楽を

3、修練と隠遁の場としての山

限りな 繰り返したのであるが、一回吹く

i

ごとに砂粒を一つずつ木靴に入れ、木靴が

に伝え、ついに新羅コムンゴ音楽の脈を今

貴金に伝え、貴金はこれを再び安長と清長 日にまで継がせている。

砂でいっぱいになってはじめて下山した。 ある時はその木靴の砂の中から変な草の芽

ゴの秘法を伝授されるまでには大変な好余

ところで、{玄長と清長が貴金からコムン

朝鮮王朝の末期のパンソリの名唱として

が出たという話が広まったりもした。

曲折があ った。世俗を離れ智異山に入った

コ IOZJ出回X正 E

とであり必然的な現象である。山が楽曲の 貴金が下山する素振りをまったく見せない

いう言葉が直接曲名に登場する場合であ

この記録は、新羅のコムンゴ音楽が音楽

のような逸話が伝えられている。彼は声量

多くの後日談を残した李捺致の場合は、次

り、もうひとつは曲名には明記されないが

に分けてみることができる。ひとつは山と のような近世の名人名唱に至るまで、音楽

うな上古時代の音窪#かから鄭若大や李捺致

素材として登場する例は、まず大きく一一つ して糞金を説得させようとした。允輿は聡

以上の何かを意味していたことを窺わせる

明な青年の中から宏長と清長を選抜し、貴

くだりである。とにかく玉宝高や貴金のよ

と実際の音にそっくりであったし、イン

でいると、コムンゴ音楽が断絶することを

ギョン(昔、夜の通行を禁じる時刻を知ら

やはり山聞の情趣が描写されるか、あるい

をはじめ﹃定・山、﹃五冠山、﹃松山などが

俗謡としては広く知られている﹃青山別

B

山﹄、﹃無等山﹄、﹃方等山﹄、﹃智異山など を挙げることができる。また、高麗時代の

前者の例として百済の時代の歌で﹃禅雲

は山と関係があると見られる場合である。 う例は 一つや二に留まらない。

の道を歩む人聞が深い山中に隠居して修練 を伴って智異山に入り王命に背くことはで

に打ち込むとか奥妙な芸道を会得したとい きないから、どうかコムンゴの秘法を伝授

もかかわらず回答がない。結局、允輿は妻

聞こえたという。特に鳥の鳴き声の描写に

4、楽曲の素材としての山

金のもとに送って懇ろに下山を勧めたのに

は格別優れ、ある時は西南地方の益山付近

してほしいと数回にわたって哀願し、貴金

ンと真似ると周囲が振動して本物のように

の深谷寺で歌った﹁セタリヨン﹂の中の鳥の

韓国人の情緒が山と関係がある以上、山

鳴急、声のところで座中に実際に鳥が飛び込

が音楽の素材として登場するのは当然なこ

んだという証言があったそうである。

はとうとう﹃瓢夙﹄ をはじめ秘蔵の三曲をふ たりの青年に伝授したというのである。

せるために鳴らした鐘)の音をゴlンゴl

心配した新羅王は、允輿を南原公使に任命

一つや二つに留ま らない

﹃春香歌﹄を歌う時はラッパの音を放唱する

打ち込み、 奥妙な芸道を会得したという例は

が豊かなだけでなく﹁音﹂の描写にも秀で

音楽の道を歩む人間が深い山中に隠居してイj l 将来に

28


パンソリの場面で歌う、いわゆる短歌類の

象徴的に表している歌である。この外にも

﹃アリラン﹄はいろいろな民族情緒と歴史的 つながりを含蓄している山(峠)をもっとも

山棚、 禁 山などの名で呼ばれたりもした。

演する高い舞台を指す語であるが、総棚、

とができる。山台というのは歌舞雑戯を公

は、長い伝統をもっ﹃山台ノリ﹄をあげるこ

た 。 山の意味が音楽と結びついた例として

らの本山台は松坂山台を除いては全て消滅

政府などのぺである。ところが、今日これ

稜谷、旧把接、退渓院、ノドル、松坂、議

ぺ(グループ)であるエオゲ、ノ ックポン、

れに従事した技能人たちがそれぞれ自分の 村で別途の山台ノリを率いるようになる。 これらが本山台で、ソウルの城郭外の山台

ある。今日も山を曲名にする伝統は相変わ

、﹃一雲談風雲、﹃歴代歌﹄、 歌である押杖 ﹃探景歌﹄などは歌の題名はどうであれ、ほ

この﹃山台ノリ﹄は早く高麗時代から宮中で

な慣習は遠く中国東菅の時代の王義之にさ

慶州の飽石亭は、流れる水に杯を浮かべ て風流を楽しんだ遺跡地である。このよう

宮中の山蓋都監劇がなくなったあと、こ

ろ役所を設けて管営主 9るほど盛んだったが 後日消滅した。

もので、朝鮮王朝に入つては山大都監とい

ナレ(儀礼)という儀式として行われてきた

楊州仏谷山の麓にノリト(山台ノリの公演

楊州別山台が山台ノリの代名調のように確

し、これら本山台にならって新たにできた

である﹃山悠と、﹃山房白書、﹃山桃花﹄、﹃堂 山﹄、﹃ 青山道﹄、﹃白頭山神曲﹄などが即ち その例である。

らず続いており、新作の国楽分野の発表曲

山を素材にした音楽の中で現在広く歌わ とんどが山聞の情趣と風光を歌っている。

金剛山タリヨ 民謡の﹃五峯山タリヨン ﹄ と﹃ 新 ン﹄、黄嘩泡地方の﹃山念仏﹄、成鏡道の ﹃ かのぼる。山東の人である王義之は今日の

fE

れている歌は、民俗楽系統の忌謡とソンソ

高山タリヨン﹄などがあり、また土俗民謡 漸江省の紹興地方の会稽で官職についたこ

5、ノリ(避ひ)の空間としての山

として地方ごとに個性的に歌われている とがあるのだが、その当時王義之はよく友

リ(立唱)の分野に多く見出すことができ

﹃メナリ調﹄、即ち﹃山有花﹄歌系統の歌があ

る。思謡部分の代表的な曲としては、古義

る。さらに、パンソリの名唱たちが公演に

達とともに美口の水の流れに杯を浮かべて

一句ずつ詠んだという、この風流は徐々に

歌は、 氏俗楽系統の氏謡とソンソリ (主唱) の分

場)を設けて公演していた。

固とした位置を固めている。楊州別山台は

の中にも﹁山﹂の字が入った曲で コ刀古江・山

先立って序曲のように簡単に抜露する短歌

交わす、いわゆる曲水流暢の浪慢を楽しん だ。酒の杯の順序が回って来るたびに詩を

や﹃鎮国名山などがある。一方ソンソリ(立

の飽石亭と日本の福岡県にまで伝‘えられる

広まって、唐の長安の曲池はもとより新羅

の造紙署近くで酒と伎女の歌の中で詩会を

φ コE 一回送亘

慶州鈎石亭。新羅時代、酒の流水 l こ杯を浮かべて風流を楽しんだ遺跡

と﹃裏山タ 唱)分野の歌には﹃前山タリヨン﹄ リヨン ﹄、﹃遠山タ リヨン﹄などがよく知ら

鮮王朝に至っては詩会やたのもし講にも伝

山を訪ねて行われたこのような音楽に

雑歌の一つ)﹂、﹃珍島アリラン﹄があり、京

野に多く見出すことができる

れている。 後者の例としては、曲名に﹁山 Lの字が明 示されてはいないものの、その内容が山と

ノリ(花弁を摘んで油焼きにして食しなが

えられ、さらに今日の婦女子のホアジョン

こととなった。また、曲水流暢の時俗は朝

ほどたくさんある。その昔、百済の﹃井邑司自

関係のある音楽は、いちいち挙げられない

は、よく伎楽のような音楽が行なわれるの

ら遊ぶ婦女子の行楽)などにもその伝統が 継がれている。

また、曲名は山に関係ないが山河の景観

る﹃幽谷清声島、高麗歌謡選霞洞﹄ 風 と﹃ 入松﹄なとが、即ちその種の音楽である。

が常例である。安平大君は、ソウルの洗剣

をはじめ新羅の玉宝高のコムンゴの曲であ

を歌った歌なら、時代をさかのぼるまでも

でおり、また世祖王代の成侃は今のソウル

とともに詩と絵とコムンゴ(玄琴)を楽しん

畿民謡の﹃ききょうタリヨ ン﹄もそういった

開いている。歌客(昔の歌手)として名を知 られた朴孝寛や安民英らは、同僚歌客との

亭の近くに武夷精舎を建て、何人もの人材

クチャベギ(南部地方で広く歌われている

ない。現在広く歌われている歌の中にも、 まず南道の代表的な歌とされている﹁ユ ッ

歌ではなかろうか。﹃雄善アリラン﹄をはじ

方の仁旺山麓に設け、風流にふけったりし

29

遊び場として友台という受口を景福宮西北

など め﹃江原道アリラン﹄と曜雑タリヨン﹄ もその例外ではない。﹁アリラン峠﹂の歌、

山を素材にした音楽の中で現在広く歌われている


このような山台ノリの例、あるいは詩会、 ・ と、その品目熊川では毎年四月と一O月に熊 山神堂で神をまつり、下山する時にはその

に山と音楽との伝承のノリ(遊び)は、互い いろなノリ(遊ぴ)をしたという記録があ

地方の人々が鐘と太鼓を鳴らしながらいろ

その他の風流ノリ(遊び)で確認できるよう に深い繋がりをもっているのである。 る。これは報恩地方の風俗にも発見できる。 即ち、毎年一O月の貧の日に報恩俗離山の まって音響乞奏で何日も行事を行なったと

法住寺で祭りを行い、山中の人々が全て集

6、鑑賞と交歓の対象としての山 伝統音楽において山を鑑賞の対象として

で周期的に行われている行事正して広く知 られているものには、﹃昭ヤ山別神祭﹄、 ﹃ 江

山一依古音楽が結合した保護のうち現在ま

いうのである。

取り扱った例は数えきれないほど多い。す でに述べたように、題目には山の名こそ出

同じ手ではあるが手の甲を見るか掌を見 これらのお祭りは、ぃ、?までもなく近隣の

陵端午無﹄ 、安東河回の堂祭などがある。

ないものの、内容からすると山をテ lマに しているものも少なくない 。 るかという違いのように内容が類似した題 堂山(土地の守り神がいるとされる山)から

材をあえて項を別にして記述する理由は、 神をお運びして来る儀式から始まる。儀式

から神をお運びしてくる場面から、江陵の

我々の伝統音楽、特に歌詞をもっている声

ることから、そのような特長を強調するし

端午祭は大国領の城陸神をお運びする過程

楽の場合、山の占める比重が極めて大きい

たいからである。このような特長は、周知

から、そして河回の別神祭は 三つの祭堂の

だけでなく、描写した山の情趣が楽曲の生

のように山を題材や北旦尽にして鑑賞とホ薮

の裏山の西手の恩山川の絶壁の上の別翌呈

の対象にした音楽は何よりも詩調唱(韓国

うちのひとつである上堂、即ち城陸堂(村 の守り神がのり移っている古木)から主祭

は、それぞれ恩山の別神祭堂山である思山

固有の定型詩│時調 │ に節をつけて歌

者である山主の神ネリム(神が亙女にのり

命のように音楽全体の雰囲気を左右してい

、ユで多く自にすることができる。

このほかにも三捗郡道渓邑の新里では

うつる儀さから始まる。

は火回民がこぞって白い衣をまとって臨時

7、館一議的な聖所としての山

の洞堂といえる山の頂上の大きな松の木の

﹁サンメギ祭 と L いう山祭りを行うが、これ

太白山に降臨した桓雄の遺習のためか、 そうでなければ高空を志向しようとする人

下に集まり、銅羅や鉦、太鼓などの楽器を

必ずついて回った。従って、音楽と山と祭

リの過程には音楽が針と糸の関係のように

音楽行為ではないが、必ず祭儀の過程やノ

た。民俗的な悠儀行事は、もちろん純粋な

つって別神祭を行っているという。 例えば、我が国の至る所に堂山があるよ

調査によると一門門X示の村落で城陸神をま

お祭り)が盛んであるが、一九七0年代の

岸地方には別神祭(漁民の間で行なわれる

蔚州郡や月城郡裏陽、高城地方に至る東海

びえ 間本然の属性のためか、昔から高くそ、

打ち鳴らして行なったという。のみならず、

礼行為は互いに切っても切れない関係をな しているのである。

うに、これらの堂山の城陸神をまつる忽議

どらか

三才が交感する通過儀礼的な祭場でもあっ

E の対象であり、天・地・人の た山岳は 震

﹃与地勝覧﹄や ﹃ 東国歳時記﹄などによる

山祭と音楽が結合した祭儀のうち現在まで周期的

に行われている行事として広く知られているものには、『息山別神祭』、 『江陵端午祭』、 安来河田の堂祭などがある

出け

z t E Z

(左)農楽に打ち興じる少女

崖 10主 面的XE コ

(上)アリ ラン祭りで山をテーマとした詩調のソンソリ・タリヨンを歌っている

30


もたくさんあり、このようなお祭りでは音 楽が付きもので、結局山は音楽を伴う祭儀 の聖所であることが明らかになるのであ る 。

ニ、結論 以上七つの項目に区分して言及したよう に、韓国の山は我々の伝統音楽と密接な関 た我々の文化のひと枝であり、生活のひと

係にあることが分かる。伝来の音楽も、ま つの様相であるとみる時、我々の文化-我々 の暮らしは早くから山と不可分な関係を結 んできた。周知のとおり我々の暮らしと文 化は山から聞き始めた。桓雄が三、 のハむ の群れを率いて太白山の裡壇樹の下に降臨 したという開国神話と壇君が白岳山に都を 間と歴史の拾源がこうなのだから、我々の

定めたという記録がそれである。祖国の空

はいられなかったであろう。

暮らしの実態や儀式の慣行は山と無関係で また、人間の暮らしが主体と環境の問の

デンティティと韓国文化の特性に及ぽす影

刺激 (25EZ 凹)と反応(﹁g吉田お)の関係で あると捉える時、韓国の山岳が韓国のアイ

響はほとんど絶対的である。このよ、つな影 に再照明されなければならないであろう。

響は、いろいろな角度から専門的、論理的 ただ、本稿は山と伝統音楽が実はかなりの

コ IOZ面的

亙 XE

3 1

部分で互いに緊密に繋がっているというこ

楊州別山台の仮面踊り

とを思い起こさせることで充分であろう

. 0 山と音楽が接ぎ木された


ユ ジョ ン ホ

柳宗鏑 梨花女子大教授・芙芸子

をあげ四方を見渡すと、大小 は山が多い。韓民族の生活の中

様々の山が目に入るほどに韓国

い。このため李重漢も一八世紀に﹃択里誌﹄

で山抜きの自然の経験は想像すらできな の中で﹁一般に住みよいところというのは、 まず地理が優れ、次に生理が順調でなけれ いなければならない。この四つのうち一つ

ばならず、また人情があり山水に恵まれて

で根を下ろした生活が富や誉れとは縁のな いものであるのは分か均乏﹄ったことである

観を簡潔ながらも充実に描いている。そこ

して暮らしてきた且辱整会の基層民の人生

に追い出されたのである。寄る辺とてない

とい、っ途方もない濡れ衣を着せられ、金爺

がなく、年俸もまたきちんと支払っても

束とは違い着るものもろくにもらったこと

落からはほど遠い健やかきであるとし、文

唆する。自然の中における生活は腐敗や堕

康でしかも満ち足りたものであることを示

を背にして行った所は薪取りをしたあとで

山に登った。空のチゲ(荷物をかつぐ道具)

チュンシルは、ふだん薪取りに行っていた

らったことがない。自分の妾に毛をつけた が、そんな生活もそれなりに内容があり健

明や都会に背を向けた田園生活の受容・賛

は、ともすれば捨警cれ見落とされがちで

活は、なんとか堪えられるものとして描か

折しも秋だったのでチュンシルの山での生

で蜂の巣を見付けて飢えをしのぐ。季節は

そこで一晩を過ごした彼は、翌日山の中

なんども昼寝をしたことのある谷間だっ た 。

ある。遠くから眺めた山聞の農耕生活も、

れている。のみならず彼は薪を取って市場

しかしこの場合の自然の中の生活の実状

美となっているからである。

ともすれば美化されがちとなる。現地に定

に運んで売り、じゃが芋と粟と塩と鍋を買

いしと述べでいる。李重漢が言っているよ

でも欠ければ住みよいところとはいえな

着しているものの目ではなく、外部の観望

うに四つの条件は、決してそれぞれ切り離

三言葉を僚つのが許されるとすれば、山は

に反映したものとなっている。こういった

山は叙情性よりはむしろ社会の現実を多様

教養体験の反対概念として生活体験とい

せない相補う関係にある。

私たちにとってもっとも基本的な生活体験

と思う。もちろん焼き畑を作り、そして近

う。彼は丸太小屋を建て、豚や鶏を飼おう

くに住んでいる娘、ヨンニョと一緒になり

者の視点から捉、えられた山間の生活は現実 李孝石の﹃山は、こうした意味で一つの

たいとも考えている。 せている。それに作中人物の性経畑写より

簡潔な文章と叙情性の濃い号観の描写を見

文字通りすべて、まくいきそっに描かれ

主人公のチユンシルは金爺の家で一八年

は随筆の流れの格調に重吉⋮を置いている。 間もの作男暮らしの末に追い出される。約

ある不安なものである。この作品では予測 可能な突発事態の蓋然性には目をつむって

ている山中生活である。しかし、山の生活 はたった 一日の秋雨で台なしになることも

d

凡例となっている。一九一ニ六年に発表され

の契機となってくれる。﹁日ごとに眺めて

一、生活の場二一つの類型 山がわたしを取り囲んで﹄で 朴木月の詩 ﹃ は、素朴ながらも山聞の僻地を生活の場と

たこの作品は、杢表 石の短篇の特色である

とは遠くかけ離れたものに描かれやすい。

な意味をもって迫ってくるものではある が、伝統的な韓国人の心情の一端をよく表 わしている。﹃青山別曲﹄(高麗時代の自然 を歌った詩)から﹃青鹿集﹄にいたるわが国 の詩歌のうち山は私たちの心の古里として 息一ついている。これに対し、小説の中では、

探ってみることにする。

ことを全体に亘って述べるのは、筆者に

迫ってくる とっては望めないことなので、二O世紀の

はじめて初実な意味を持って

なお懐しき山よ﹂と歌った謹議⋮の詩句は、

それが一定の年齢に達して、

それが 一定の年齢に達して、はじめて切実

山よ」 と歌った越芝勲 の詩句は、 韓国小説に描かれている山の類型に限って

「日ごとに眺めてなお懐かしさ

32


安値で売りさばく計画を立てる。ところが、

リヨンは作男と組んでその肉を村の人々に

リヨン﹂に従属している 。 ある日病みついていた牛が死ぬと予セ

どん底にあえ いでおり、経済的には﹁予セ

の世界に美化される にしろ、予測不可能な

事実である 。しかし土着的なエロチシズム

ない 。 いろいろな変形と混合形があるのも

を見た。こうした こ項対立構造の中で生活 現場としての﹁山﹂が 言 い尺ミせるものでは

れた生活の表象として現れて いる ケlスと

漠然と抱いている憧れみたいなものが櫨過 なしに生活と結びつけて美化して描いたと

でもあり、切り立った崖と険しい地勢で

る。人間に危害を与える猛獣と毒蛇の巣窟

でないということをわれわれは知ってい

か、炭を焼いていた人々が村に下りて来る。

が﹁よ!助けてくれ﹂と叫ぴ続ける騒ぎのな

あと息を引き取る。食中毒を起こした人々

活が保障する自足性に力点を置 いているこ とが読み取れる。作品全体の流れは自然か ら感じる心の安らぎと自然礼讃のメロ ディーであり、 { 要宥者の生活の実成下品りは

出向いて来た郡の 畜産係の役人は病死した

﹁山﹂中の生活をかなり美化して いる。その ため、われわれは作中人物の心憧撃が生

故郷を失った者の望郷の情緒がにじんでい る。まさにこうした点で 暮らしの場として

後、埋めた牛を掘り出し腐りかけた牛肉を

活の実感から出たというより、山に対して

いう印象を受けるのである。それは山に定 の山は、 遠距離から眺める美化作用により 安静貝されているといえる 。

村の人 々に安い値段で売りつける。腐敗し た牛肉を食べた村の衆はみんな食中毒を引

r

人々を危難に落とし入れることさえある。

そして山の炭釜は火に包まれてしまう。こ の作品は﹁村のものがみんな死んじゃうぞ﹂

U豆 町 ↑

E︿

が嫌になったからだ。山に引かれるという

のだろうか、それはいうまでもなく世の中

隠れて住んでいた隠者が多かった。ところ で、これらの人々はなぜ深い山奥に隠れた

東洋文化圏には、世を捨てて深い山奥に

二、反体制知識人と拒否集団

ある。

まるということも留意しておくべきことで

現代小説のもっとも近しく、なじみ深い背 景であり舞台とな っていた。現代小説にお ける山の変貌が近年の社会変化を辺機に始

呪いの場として現れるにしろ、絶対貧困が 支配していた時期においては、山はわが国

着した者の生活の姿ではなく、山を憧れて いる局外者が自然を観 A心 F的に捉えている、 しかし 暮らしの場としての山が、いずれ も 一様に生活現場の実成茅ら隔け離れてい

き起こす。ある婦人は分娩前に腐敗した肉 の汁を吸ったことがもとで死産児を産んだ

了した後、智異山に{墓石した去婦の生活を

金東里の﹃山火事﹄は生活の現場としての山

といった絶叫と猛列な勢いで燃え上がる山

牛を埋めよと命じる。 苦 ノらは役人が帰っ た

ある﹁村﹂と﹁街 は山の反対概今 ﹂しての堕

似て非なる姿であると拍請されても致し方 あるまい 。そして、 ﹁ 山﹂と相対的な関係に る形に描かれているわけではない 。自然と しての山が人間にとって、必ずしも友好的

L

落と腐敗、無秩序、反正義を含蓄すること になる。 山が生活の場として少なからず実化され ているこの作品は、都会と田舎の二分法的 な構図の 上で、田舎の方に生態的・道徳的 優位を置いている回国文学の糸図に属しな がらも 一つの変形をなしていると言える。 ところが多分に美化されていながらも、 暮らしの基盤としての山は現代の韓国小説 の中に繰り返し背景や舞台として登場す る。例えば一九五0年代に発表された呉永 寿の﹃こだま﹄も、そういった作品の一つと して記憶されるだろう。短編としてはかな り長い方であるが、この作品は、韓国戦争

描いている 。杢孝石の ﹃ 山と同様、作中人 物は﹁街 と﹁村﹂の方で暮らしを立てていく

の残酷さと怖さを見せてくれる一つの凡例

後いわゆる﹁山の人﹂(パルチザン)掃討が完

術を見出せず追われてきた人々である。夫 婦がなめる苦渋と試錬は並大低のものでは

といえる。 この作品の舞台は、四方を山に固まれた

L

ないが、彼らは穴蔵作りから始めてなんと か暮らしを立てていく。原始的な自然経済

火事の場面で終わっている。絶対貧困と無 知と自然の残酷さがひとつになっているこ

い、時たま通り過ぎる薬草取りの老人と人

による貧しい暮らしではあるが、小犬を飼

ことは俗世が嫌にな ったということにほか

韓国の現代小説の中にも歴史小説の流れ

ならない。

の作品で、山はそのもっとも厳しい 一面を 以上でわれわれは暮らしの場としての山

谷間で、冬になれば炭を焼いて暮らしを立

が多分に美化されて現れるケlスとのろわ

見せつけているのである。 である。この谷間の人々は松葉をとって冬

てていく人々が集まって生活している山奥

これからみて作家の筆致は焼き畑による

の糧代わりにすることもあるほどの貧困の

情を分け合ったりして暮らしている。 生活の苦しみよりは、自然の中における生

3 3


︾訂4 臼担亥Um

ろがないほどで、一言でいってこの住品は

したがって山は精神的な世俗の拒奇だけで

一九八0年代末に読者層を風廃した ﹃ 南

なく、文字通り体制逸脱の場としての意味

部軍﹄の智異山は、﹃林巨正﹄に登場する青 石谷の延長線上にあるといっても過言では

をも持っている。

少された﹃択里誌﹄ともいえる。これは一九

ない。自意であれ他意であれ、反体制的な

一年金正浩が描いた朝鮮地図)であり、縮

二0年代に桜狩としていた﹁朝鮮主義﹂につ ながっている。朝鮮主義はわが国の歴史に

文字で解説している﹃大東輿地図﹄(一八六

対する啓蒙的な照明や国土紀行文の盛ん

開いていかねばならなかった人々の根拠地

であるとともに潜伏の場でもあった。﹃南

拒否集団の一員となって険しい生活を切り

部軍﹄の中のファムン山や智異山は、歴史

だったことにも現れているが、この時捕に でみれば﹁朝鮮主義﹂の発露の一つであっ

本格的に展開し始めた歴史小説も大きな目 た。亡国の植民地のもとで、われわれにも

小説に登場してくる山や山村とはその姿を

た。それは官箪の力が及ばない辺境が残っ

集団的な凍死をするようなことはなかっ

独立した歴史的な過去があるとい、っ事実の

た歴史的未来への期待も持つようにと目を

ていたからだった。少なくとも作品の中で はそんな具合になっていた。しかし﹃南部

異にしている。歴史小説の中の山の人たち

覚ましてくれたのである。かたわら、それ

軍﹄の中のファムン山や智異山は、もうそ

再確認は、それなりに苔痛を癒す機能を

儒家の志士である金時習の自には、楊士

は当代の社会の現実に対する集中的な探求 が引き起こしかねない植民主義権力との張

持っていた。傷つけられた民族の自負心を

彦(朝鮮朝宣祖時代の書道家、四代名筆の

りつめた緊張関係をほごす亙束にもなり得

ても一つ所に集まって冬の夜を過ごすとか

い。また時には反体制的、反逆的行動集団

一人)にとって泰山がそうだつたように山

は、生活がいかに険しく貧しいものであっ

の拠点として登場することもある。階級脱

は求道の場のである。近代西欧の象徴王義

多少なりとも慰めてくれたし、また独立し

い込まれたケ1スがほとんどである。その

は国土に対する知識と

仙仰外法権的な辺境は、もユ仔在し得ないの

んな辺境ではない。討伐隊の手が届かない

た。結局、﹃林巨

て登場する。数知れぬ死を無成貨に受容す

であるどころか、冷酷で威嚇的な姿となっ

者にとって万象が互いにめくばせする﹁象

山が反社会的拒否集団の根拠地として現

る非情の場として現れるのである。遠景で

徴の森﹂に映ったように、儒家的志士にとっ

れるのを、われわれは再び嘉吉山で見出

意味で山を隠遁の場として選んだ人々も、

は修身斉家の聞かれた道場であったのだ。

すことができる。朝鮮朝粛宗時代に生まれ

捉えたロマンチックな美化を拒んだという 点で﹃南部軍﹄匂は画期的であったし、それ以

である。このため山は人間に対して友好的

愛情を育む朝鮮主義的な衝動を当代の国土 ι T

寓意の森となった自然は、したがってもと

いるこの作品は、いろいろの点で﹃林巨耳

た広大(芸人)活貧党員の張吉山を描いて

紀行文と共有していたと言えるだろう。

登場する小説の代表的なものに李文求の

の美しさをあらわにするよりは包み隠して

ては万象が﹁寓意の森﹂に映っていたことを

﹃梅月堂、金時習﹄がある。金時習は三角山

いるのが普通である。この作品の中で自然

に類似した平行関係を示している。その中

再び確認できる。すなわち自然と日月星辰

の重輿寺で科挙に受かるため学業に励んで

でも、例えば崖弘福が一頃たむろしていた

反体制的な知識人の隠遁の場として山が

いたころ首陽大君(後に朝鮮朝第七代の王、

ための自然描写が抑えれているのもこれと

描写のための描写、あるいは喚情的効果の

地で、権力の力が及ばないリ界法権的で臨

が、死が迫ると下山するーといった筋書

小説)である。この作品に登場する人物た ちの足取りは朝鮮人道の地に及ばないとこ

その代表的な作品がまさに洪命喜⋮の﹃林巨 ( 起蒔代後期の義賊の名を取った同名 正 C朗

﹃林巨正﹄や﹃張吉山のような歴史小説中

前の山の人々の文学的な偽りを仮借なきま でに批判したわけである。

現代小説でも山は反体制的拒否集団の偉力

の山が反逆者集団の巣窟として描かれてい

と挫折の場として現れる。それは、自然の

チョル嶺(またはチャビ嶺)の地形描写か

脱出した奴枠、逃走した常民と賎民、法

体を浮き彫りにする。この国の墓地が山地

ら、われわれは﹃林巨正﹄の択里誌的な細目

の保護を受けられない人々からなる体制拒

に造成されているのは、したがって偶然と

るように、﹃智異山、﹃太白山昨のような

否集団の隠れ場か、または根拠地としての 山は、険しさと役所から遠く離れて いる辺

持続性と人間的なものの虚ろではかない正 部なところであることをその特徴とする。

を再び確認することになる。

ク アン デ

世祖となる)のクーデターによって端宗(朝

時の﹁解放地区﹂に表現されることもある。

山と山村は、反社会的な拒否集団の根拠

関係がある。

である。李文求のこの作品は金時習が五O

きである。金時習にとって山は生活の場で はあったが、それは自営の焼き畑の生活だ

を目前に控えた年で雪山獄山に入って暮らす

任じ生涯を良き心を養うことに努めた義人

のあと自発的な階級脱落をもってみずから

とを知って仕官の意を捨てる。そして、こ

鮮朝第六代王)が退位を余儀なくされたこ

ある意味では世を追われた逃亡者ともいえ る 。

落者や亡命者というものは、他意により追

とか農耕生活ではなかったとい、つ点で先ほ

表Z 札されることもある

ど見た生活の類型と区別される。

治タト法権的で臨時の 「解放地区」に

を汲むものの中には、山が反体制的な知識

根拠地で、権力の力が及 l ぎない

人の逃避の場として現れる場合が少なくな

山と山村は、反社会的な拒否集団の

34


李孝石にはそれぞる同名の﹃狩猟﹄とい、つ短

いえる。八・一五独立解放以前の杢泰俊と

ための労働が道楽に変貌していく歴史とも

楽の場でもあった。狩猟の歴史は、生存の

山は暮らしの場であると同時に道楽と行

が重なり合って出てくるが、意味深長な対

つつじ祭りに関する場面で祝祭と学生運動

索の軌跡を辿りもする。標題となっている

な対話の場面を活用しながら重みのある思

て、また竪張解消の方便の細目として放漫

は登場人物の性格描写のための方策とし

機能を持っていることを見せている。作家

登山が緊張した社会生活のストレス解消の

世代の軽薄さと中年の卑俗ぶりを描いて、

な当代の習俗と言語である。すなわち若い

は、登山中の二組の人物が織りなす世俗的

しかし﹃つつじ祭り﹄のいわんとする要点

ンバーの一度で終わるかもしれぬ貢献に

挫折や途中下車にもかかわらず、異なるメ

間ない交替と新たな充員である。個々人の

ものの 一つは、その運動のメンバーの絶え

意味がある。学生運動の連続性を保証する

うした省察は、われわれの現実には特別な

事件の 一回性と歴史の反復性に関するこ

繰り返されることなのよ﹂

てきたことですし、またこれからも無限に

ことだけど、実際には限りなく繰り返され

とってははじめてであり最後の一度だけの

私たちに起こることといえば、私たちに

みれば限りなく繰り返されることだけど。

その鳥にとっては一度だけね。全体として

味では現代小説の中の山の機能の変貌は、

的な契機になってきたからである。ある意

山は長い間観照と膜想と省察と知恵の直接

ぜなら、少なくとも東洋の詩の伝統の中で、

部である。このようにして道楽と行楽の場 と省察の場になってくれ としての山は田本m る。そして、この地点で小説の中の山と詩 の中の山が遂に合 一の境地に到達する。な

り、山の中で固めることのできた思索の一

は自然の核心として山から得た発想であ

統の一環である。 われわれが肯定しようがしまいが、それ

行の中で理解し哲理を探し求める東洋の伝

解につながるが、人間事を自然と季節の運

こうした想念は、歴史の反複性か歴史の理

いる。

編がある。この二編とも標題通り狩猟を 話はヨ翠巾な言葉づかいの中で経済的に処理

よってその持続性が保たれ、いつの間にか

はいえない。山は亡者の居住空間であり、

扱っている佳作である。李泰俊の﹃狩猟﹄ されている。

続性の空間でもある。

三、行楽と伝統的位相の直視

社会の変化を示唆する一方、世俗の山と絶

ソードが描かれており、杢孝石の﹃狩部は、

サニャン

生きている者が亡者と共に帰属している連

には猪狩りとそれにまつわる盗みのエピ

えず共存関係を保ってきたといえる。

' A

像力の到来を待ちわびているのである。

い。山は生能山尚子的危機の中で生態学的な想

がっているということは否定する術がな

危機およびわれわれの危機管理能力とつな

いえる。しかし、われわれの未来が自然の

は、小説に関する限りまだ現れていないと

生態学的な想像力によって表象した作品

追い込まれている 。こうした自然の危機を

なわち山を保護しなければならない状況に

用の脅威から、われわれの国土と森森、す

いまや酸性雨をはじめ数々の工業化の副作

てから成就したものである。われわれは、

河川の汚染と死んだ水という代価を支払っ

とに一応成功した。しかし、それは全国の

土の森森を再び蘇らせ青い山を取り戻すこ

る。これまでの一世代の問、われわれは国

態学的展望と宿題の章として浮上してい

いまや、山はわれわれに残されている生

伝統という威厳すら備えることになるので

てくるようになる

ある。毎年咲いては散っていくつつじとそ

U耳目E ︿

動と娯楽と対話の場に変貌してえ学の中に登場し

エピソードを描いている 。二つの 作品は

学生たちの猪狩りとそれにまつわる失敗の

﹁血を吐いて死ぬのはもうご菟よ。なん でそんなことが繰り返されるんですか﹂ ﹁一羽の鳥が死ねば次は他の鳥が死ぬわ。

れにまつわる伝説にかこつけて吐露される

山は農耕生活の場や拒否集団の隠れ場ではなく運

どっちも山を舞台にしているが、山が生業 ではなく道楽の場として登場するのは、そ が積極的な行楽と運動の場に変わっていく

れまでの社会の変化を背景にしている。山 のは登山の普及によるものである。一九一一一 九年に発表された杢孝石の﹃山精﹄には既に 一九六0年代以降登山が本格化するのに

登山が素材として登場する。 伴い、山は農耕生活の場や拒否集団の隠れ 場ではなく運動と行楽と対話の場に変貌し て文学の中に登場してくるようになる。い

FF﹂逸脱の場ではな

まや山は昔のよ、つに辺

く、完全に体制の中の法と秩序の領域に組 徐廷仁の歴史小説﹃つつじ祭り﹄は智異山

み込まれている。 の登饗を描いている作品で、登山している 若い女性二人と二度会って山に来たという 中年の男女を求心長にして登山の実体と世 態や習俗を細やかに描いてみせる。この作

3 5

品で作家は優れた筆致で全国にいたる所に ある登山路の典型的な登山の宣幸描いて

一九六 0 年代以降、釜山が料各イじするのに伴1."


ONTHEROAD



いものになると 二0メートルほどの高さ

ものでも三メートルから四メートル、高

一つは大小様々の石で基礎を広くして積

個も積み上げた単線の石塔であり、もう

っている。 一つは同じ大きさの石を数十

ここの石塔はおよそ二つの類型からな

ある。

O数メ ートルある いは 二 それがなんと 一 O数メートルも積み上げられているので

拾ってきて単線に積み上げた塔なのだが、

谷間や道端に無造作に転がっていた石を

に積み上げられている。これらはみんな み上げた後、その上にまた単線の塔を積

であろうかという疑問である。

一定の形をしているのではなく、自然の

い歳月の問、よく倒れもせずに積み上げ

れの興味をそそるのは百余年を越える長

た痕跡もあらわな苔の生えた石塔は低い

石をそのまま積み上げたものである。当 の大きさは両腕で一抱えできそうなもの

み上げたピラミッド型の石塔である。石

のであるが、今では八O余基が残ってい 聞を何かで固めたとか、積み上げるため

きなものまで様々である。また石と石の

から、両腕では抱えられそうにもない大

が祭えている中間の谷間である。ここは

ろは、先に紹介した馬耳峰の 二つの岩峰

事実である。これらの塔が位置するとこ

られた当時の姿のまま立っているという

こうした石塔の築造法とともにわれわ

O八基の石塔を積み上げたも て全部で 一

初は仏教の教えにある一 O八煩悩に倣っ

るだけである。これらの石塔の前に立て に石を削り取ったり、付け加えたりした

深い谷間であり、地形的にも前側が広く、

ないであろう。つまりこれらの石熔はど ような痕跡が全く見当たらないのである。

ばだれしも一つの疑問に囚われざるを得 のようにして積み上げることができたの 全羅北道銭安所在の馬 耳山入口に林立してい る石塔

3 8



二つの岩峰は夏は緑の森林の 上に隼之たって、 ま る で えに昇る竜のように見、ぇ、 また秋が深まり、 紅 葉 が 燃 え 始 め る

、 百回八ふ 4 あたかも疾走する t l

である。とすれば、 二O数メートルにも

ながら石塔を積み上げていく術がないの

ろうか。櫓状のものを組み立てるか、あ

なる石塔をどんな方法で積み上げたのだ

るいは土をピラミッド状に積み上げてか

ら、塔ができあがった後で、取り払うと

いったアイデアもあり得るが、そうだと

しても人聞が踏み込んで登ることさえ不

可能な絶壁にある石塔はいったいどのよ

うな方法で積み上げられたのであろうか

及ぶ石塔の下の部分を強く押してみても、

ないのである。人が二O数メートルにも

かに揺れ動くだけで決して倒れたりはし

しかし、ここにある八O余基の石塔は僅

る木は根こそぎになるなどの目に遭う。

とわきの丘の木の枝が折れたり、またあ

く吹き込む。とりわけ夏季に台風がある

後ろの方が狭いところなので強い風がよ

いう気がする。特に単線の塔の場合は想

間の手では積み上げることができまいと

見ると、いかなる手段をもってしでも人

にある絶壁の上に積み上げられた石塔を

絶壁の上にも石塔が立っている。馬耳峰

それに人々が易々と近づけそうにもない

八四年から一九一四年の聞に築造された。

のだろうか。これらの石塔はおよそ 一八

もせずに耐えてきた神秘は果たして何な

で持ち上げるのも大変だが、たとえそれ

が不可能なのである。重い石を頭の 上ま

背丈を超える高さに石を重ねて置くこと

ないが、問題はそこからである。人間の

ぐらいは何とか積み上げられるかもしれ

バランスを取れば、あるいは人間の背丈

な石を重ねて、その隙間に小石を挟んで

スが取れずに倒れてしまう。また、大き

石の数が五つや六つを越えると、バラン

たいの中心をとって積み上げられるが、

毒虫がうようよしていると言われていた

救世の道だと信じた。そして彼は猛獣と

らの教えを基にした精神世界の定立こそ

で彼は儒教と仏教と仙教を研究し、これ

を救うことが何よりの願いだった。そこ

に入って修道生活を始めた。乱世の衆生

生まれた。 二五歳になったとき、馬耳山

彼は 一八六O年に全羅北道の任実郡で

れたのである。

によって不可能なことが現実となって現

甲龍であり、この伝説的な人物の精神力

馬のようにも見える

という疑問が湧いてくる。このように常

識的な科学知識をもってしでも到底解き

上の部分が少し揺れるだけである。とす

像の限界をはるかに超えているのである。

を持ち上げたところで、バランスを取り

得ない神秘的な現象を演出した人物は李

れば、この驚くべき石塔の築造の秘密は

実験をやってみても二つや三つならだい

東洋には昔から常識では到底考えられ

したときに拾い集めてきたものである。

利用したが、大きな石は全国各地を巡礼

馬耳山から一 一一キロ以内にある山の石を

とに打ち込んだ。石塔の材料である石は

って三O余年かけて石塔を積み上げるこ

別して昼は石を運んで積み上げ、夜は祈

げていったのでである。世間と完全に訣

えながら 一人で一 O八基の石搭を積み上

り下り、薄着のまま厳しい冬の寒さに耐

しのぎ、木靴をはいて険しい馬耳山を登

による修道生活を送った。生食で飢えを

馬耳山の麓に独座して苦行と祈祷と膜想

何であり、百余年の聞の風雨にもびくと

伝説的な人物、李甲龍

4 0


ない超自然的な行跡を残した人々の話が

また限られた時空を自由に行き来したと

多く伝えられている 。未来を予見したり、

いった謎のような話もよく耳にする。李

甲龍のような人物もそういった類の人物

であった。彼は 一九五O年に起こった朝

、 鮮戦争を予言し、テレビの出現を予言し

えば、ゴミやチリなどによる自然の汚染

使い捨ての品物の出現を予言したかと思

も予言したというのである。さらに彼は

自分が死ぬ日も予言した。実に信じ難い

話ではあるが、これらの話は彼の生存中

に、彼を近くで見守っていた人々の生々

石塔の上の方の山の中腹にある金塘寺

しい証言なのである。

は、西暦八 一四年に中国から渡来した僧

侶によって建立されたもので、これまで

数回に及ぶ修理を経てこんにちに至って いる。しかし、石塔や李甲龍なる人物と

の関わりは余り深くないようである 。た

だ、今では金塘寺がこれらの石塔を管理

でいる金塘寺までの距離は時間でいえば

している。馬耳山の入口から石塔が並ん

石塔が谷間や断崖に積み上げられていよ

僅か 一 O分余りに過ぎないが、それらの

うとは誰にも思い及ばないことであろう。

ありきたりではないが、狭い山の谷間に

では石塔のすぐ近くまで乗用車が出入り

は雑木林があるだけだからである。いま

できるようになっているが、李甲龍なる

人物がこの地に石塔を積み上げていた当

時は、鎮安から馬耳山の谷閉まで来るに は数里の険しい山道をただひたすら歩く

ほかなか った 。 そ う い う 所 な の に 、 今

我々は乗用車で乗りつけ、チョコレート

のである。

を口に放り込みながら石塔を眺めている

A

4 1



SEOUL600

漢江の歴史と、血 キム

ピョン

乗模漢陽大教授・考古学


漢江の発祥地は 二カ 所 で あ る 。 江 原 に棲息地を探し求めてきた。それで、原

時代から今日に至るまで人間は川ととも

人間は川とともに暮らしてきた。石器

一、漢江 道の太白山から始まる南漢江は西になが

二、川と人間

れ、麗州を経て両水里で金闘山から始まり る動物を捕まえたりして暮らしてきたし、 新石器時代の人々は川辺に洞穴を作って

始人も川辺を居住地とし、水を飲みにく

居住地とした。

西南に流れる北漢江と合流する。両水里で ルの真ん中を貫流し臨津江と合流して黄海

合流した二つの流れは西へ流れていきソウ に注ぐ全長五 一四キロである。漢江の長さ そのために、ソウルの岩寺洞や周辺の

居が多数あったということは、その時代

河南市美砂洞では新石器時代の洞穴住居

の人聞が村を形成していたことを意味す

は世界の大きな江と比べると短いが水量が

漢江の流域には春川、麗州、寧越の盆地 る。その村の住人は、漢江に棲息する各

豊富であり水がきれいなため各種の魚類が

と金浦平野があり、韓国中部地方の主要な

の跡がいくつも発見されている。洞穴住

穀倉地帯となっている。また河口からの河 種の魚類と貝類を食糧資源にしていた。

棲息している。

航距離は三三0キロメートルである。

(上)北漢江と南漢江が合流する両水里 (左) 5世紀初め、漢江沿いに発達した百済文化の遺跡

4 4


4 5


済は郁里河と呼んでいた﹁三国史記﹂。そ

江を阿利水と呼んでいたし(好太王碑)、百

を活発に受け入れ強固に成長し、遂に韓

新羅は黄海を渡り先進国の随、唐の文物

まれていたが考古学者たちによる強力な

ウルオリンピ ックの際、道路計画線に含

保護運動の結果、今見られるような美し

青銅器時代の漢江辺の住人は、東南ア

B C三千年代のことである。

ある。

棄し、南の公州に移り都とした。その後、

城(ソウル)、二聖山城(京幾道河南市)

江の河口に外国の貿易船が頻繁に往来し

高麗時代(九一八1 一 三 九 二)には漢

で現在も残っている。

七世紀から 三百年百一って新羅は漢江流

い公園として保存することができたので

そのうち代表的なものは望月寺と僧加寺

域の北漢山に数多くの寺を建立したが、

半島を統一した。

石村洞にあるピラミッド風の百済王陵、

の後、百済が中国の東晋文化を受け入れ

時代に従い主が替わった山城の跡も少な

ている聞は漢水と呼んでいたが、やがて

A D四1五世紀頃までは百済に属して

ていることになる。

ヒル)、夢村土城(ソウル五輪洞)、風納土

くない。阿嵯山城(ソウルのウオlカl

ジアに始まった稲作技術を習い、金浦と

いた。ところが、北方の高句麗の南侵が

麗州では古代のものと見られる米の化石

風習も東南アジアの人から教わり、春川、

行われたので四七五年に百済は漢江を放 半島の南方で興った新羅が漢江を占領し

て二世紀頃には、漢江を帯水と呼ん

漢江は経済要衡としての役割を担ってい た。その頃、漢江河口にある島、江華島 漢江を手に収めた た (AD六世紀)。一日一

などが三国時代の遺跡である。特に石村 洞の百済王陵と夢村土城は 一九八八年ソ

でいた。北方にあ った王国の高句麗は漢

三、歴史時代の漢江

全羅南道、江華島などに数多くのドルメ ン墓を造り上げた。

以上のような過程を経たために、漢江 辺には 三国時代の遺跡が数多く残ってい る。春川と麗州の高句麗古墳群、ソウル

ソウル風納洞

て漢江という名は千年以上の歴史をもっ

(横面)南漢江上流

漢江の名になり今日に至っている。従っ

(下)百済遺跡の風納土城

いた住人は、死者をドルメンに埋葬する

ソウル岩寺洞 ソウル五輪洞

がたくさん発見されている。稲作をして

(上)先史時代の住居跡に復元された穴蔵 (中)百済遺跡の夢村土城

4 6



漢江河口にある江華島には寺剰など文化遺跡がたくさん残っている (上)江華島のドルメン (左)江華島の傍燈寺 (下)江撃島摩尼山頂の斬星檀

昔もん 7も 漢 江 は 韓 半 島 の

中央に位置しており、渓江を

利用する人たちが韓国史の

立役者の役割を来たしてきた

である僅君をまつる斬星壇が摩尼山の頂

に伝燈寺が建てられ、また伝説上の国祖

上に設けられた。特に、江華島は 二二 世 紀蒙古が進入した際、高麗の臨時首都と

E) と高麗青磁 経(吋ザE

( Q -包 Oロ)が完

なり、この時世界文化史に輝く八万大蔵

高麗の後をついだ朝鮮王朝が再び漢江

成した。

ら六百年前のことである。その頃建てら

流域に都を定め、漢陽と命名した。今か

れた王族の宮殿がソウル市内に五カ所あ

り二十七人の王とその家族の墓がソウル

ていて、儒教を国是とした朝鮮の歴代王

を中心とする半径四0キロ内に全て残っ

の孝心が厚かったことがうかがえる。朝

鮮は北漢山が北に釜え漢江が南方に流れ

る位置に首都を定め、東洋の歴史的都市

が備えている風水思想を克明に示す例を

二O世紀のはじめ日本がわが国を支配

残した。

するのに伴い朝鮮王朝が幕を下ろし漢江

辺の最大の都市であるソウルは暫くの閉

その名を京城に変えた後、最も土着的な

一九

意味のソウルと呼ばれるようになった。

ソウルが正式の呼称になったのは、

四五年の韓国政府が樹立してからあとの

ことである。ソウルというのは、都とい

e う新羅語のソブルがソラ フ ルに変わり、 それが現代語のソウルになったというの

4 8


が言語学者の解釈である。土俗的な語で

の全ての都市のうち漢字では表記できな

あるため東洋 三国(中園、韓国、日本)

現在のソウルは北方の 旧ソウルと南方

いただ一つの都市の名がソウルである。

の新ソウルに区画される。のみならず、

漢江は今でも多くの農産物を生産してい

口 一千万人のソウル市民が飲んだり使用

る耕作地に潅淑用水を供給しており、人

したりしている水を供給している。

昔も今も漢江は韓半島の中央に位置し

ており漢江を利用する人たちが韓国史の

立役者の役割を果たしてきたし、これか

らもまた同じく立役者の役を果たすもの

音もなく流れる漢江、常日頃は慈悲深

と思われる。

いが、洪水になれば暴君のように荒れ狂

う漢江は今、 二O世紀から二 一世紀に向

けて流れている。漢江は二O世紀のはじ

めに日本とロシアが戦う音を聞き、韓国

戦争中には米軍と中国軍の話す外国語を

聞きもした。ソウルオリンピックの時は、

各国応援団の声を耳にした。漢江沿いは、

密集している居住地域、生産施設ですき

る。更に河口の永宗島地域には東洋最大

まのないほどの人口過剰地域になってい

漢江流域に残っている歴史的文化財は

の国際空港を建設中である。

思想的な目から見ると、仏教式文化財か

ら儒教的文化財に変わり、更に今では商

業化された文化財の透き間に数多くの、

実におびただしいキリスト教の教会が建

未来の考古学者たちが韓国時代の漢江

っている。

流域の遺跡を発掘したら、韓国の文化は

どのレベルのものであったと判断するで あろうかと心配だ。 A

4 9




では膨張過躍で現れた諸々の副作用(交通

ルに対しては愛情を持っており、その一方

は二重構造になっている。その一つは歴史 的・文化的・経済的発展の産物であるソウ

なく発展する都市は、このような文化と文

成の条件になることを意味している。弛み

民生活の集積である都市文化が市民精神形

べている。この言葉は歴史と空間の中で市

姿は再び都市民の蛙舗に影響を及ぼすと述

混雑、住宅不足、不動産投機など)に対し 明の総体的な集合体としての役割を担わな ソウルだけがもっているアイデンティテ

ければならない。 ィ、即ちソウルのイメージを発見すること

ては嫌悪感をもっているということであ のである。とはいっても、やはりソウルが

る。いわば、﹁愛憎の都市﹂となっている 韓国の発展過程に老いて果たした中枢的な は、国際的な都市としてのソウルに生まれ

一九八0年代までが、ソウルの量的な膨 張期間であったとすれば、 一九九0年代と

る所は見当たらない。

し、ソウルほど便利な立地条件を備えてい

という面からみれば、韓半島の中央に位置

要衝地である。それのみならず、組国統一

ソウルは歴史的な古都であり、戦略的な

川辺は水辺の公園としてソウル市民に安ら

命水は漢江である。漢江を中心に都市のス

ある。パリのセiヌ川のようにソウルの生

めに、ソウルは自然と融合している都市で

つに分けて説明することができる。まず初

であろうか。ソウルのイメージは大きく三

では、ソウルを代表するイメージとは何

変わるための最も基本的な課題である。

役割については高く評価しなければなるま

それ以後は質的な発展期だといえる。即ち、 ぎの場を提供している。

れば、現在と未来のソウルは過去と歴史的

ほどの経済成長の道を走り続けてきたとす

いは環境芸術的な形象化を成している。こ

岳山をつなぐ陸景軸と漢江の水景軸の出会

格を成す二つの軸、即ち北漢山、南山、冠

また、ソウルの自然景観と空間構造の骨

カイラインは美しく広がっており、漢江の

過去のソウルが﹁漢江の奇跡﹂と呼ばれる

現在を振り返り、創造的な都市づくりに励

のような自然の姿は、都市の中で変わるこ

む時といえるのである。 ソウルのイメージ

とのない自然の表象としてのソウルのラン ドマlクとなっている。

都市である。朝鮮王朝時代に都に定められ

二つ目に、ソウルは長い伝統をもっ歴史

前述したように、朝鮮王朝がソウルを都

人類の歴史を通して都市は、人々に愛され

た後、ソウルは興亡壁設を繰り返しながら

国際都市としてのソウルの位置はどうで あろうか。今のソウルがどうであるかも重

ると同時に憎まれてきた。しかし、都市は

も、根の深く長い文化遺産を大事にしてき

に定めた理由の一つもこのように秀でた自

人類が創造した文明そのものである。都市

た。市街地の中心部に位置する南大門、徳

然風景にあったのである。

のない文明は存在したことがなく、偉大な 文明は偉大な都市によって造り上げられ

寿宮と景福宮、昌慶宮などは王都としての

要であるが、ソウルが何にならなければな

た。ムンフォード(喜自砂丘)は精神が都

ソウルの歴史的遺産をそのまま残し、今は

らないかということも重要な問題である。

市の中にその姿を現し、その反対に都市の

ソウルの未来をシンボライズした 63 階の大緯生命保険ピル

5 2


市民に緑と安らぎの場を提供しながら、日 常生活の中に歴史の存在が融合し調和を成 している。 また、仁寺洞の路地や嘉曾洞の古い韓国 式家屋の集落はソウルの名所に数えられる て、世界的な文化蔀市としての位置を固め

するイベントが次々と催されている。それ に加えて、ソウルの南非街路軸づくりや歴 史探訪蹟つくりなどの戦略事業に乗り出し ようとしている。 世界を目指す都市、 ソウル 国際化の新しい波とソウル 世界は急激な変化を迎えている。二一世

所であり、いにしえの文化の香りが感じら れる所である。保存と創造は都市計画の基 本命題である。このようにソウルは所々で 息づく歴史があり、これは現代文明と共存

れまで、韓国

V

紀を目前にしている我々はかつて経験した ことのない国際化、世界化!汎地球化とい う時代の流れを目の当たりにしている。 ﹂ E

1 1 11 1 1 1 1 1 1111 1

していることから、今誕生を目前に控えて いる一二世紀に備えて、いにしえのものを 保存しようとする努力と新しいものを創造 h

圃 ・・・・・ ・ 圃

輔副 圃 ・ 圏 圃 ・ 圃 の 成 長 に 対 し 一四 露 幽 園・・・ルて外国では 白 圃 圃 圃 ・ 4 ﹁韓国人が押

まで貿易に含めて開放化を進めている世界 の新経済体制 (WTO体制下)は韓国経済 が世界に進出するいい機会にもなるが、同 時に情報産業で先進国に及はない韓国の企

ちにあっているのである。また、知的所有 権、直接投資、サービスなどの新しい分野

と東南アジアの新興国家は、必死に韓国を 追いかけている。このため韓国は先進国か らの牽制と開発途上国の追い上けの挟み撃

いアメリカや 日本のような先進国は、新たな経済ブロッ クを作って韓国を牽制しようとした。また、 豊富な労働力と天然資源をもっている中国

1E E 1 1 lszl 圃 ・ ・

・圃匝 圃 ・ ・ ・ ・ ゥ 心 を 見 せ て き -司圃 固 ・ ・ ・ ・ た 。 こ れ に 伴

圃 ・ 園 田 園 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ リ , ,

開醐圃 ・ ・ ・ ほ と と も に 警 戒

1卜凶圃圃聞闘圃 圃 圃 圃 醐 思 わ せ る な ど ー ー岨 園 圃 ・ ・ 駒 と い っ た 驚 き

a・・・園面・・・貿二の日本﹂を

逼 園圃 ・ 圃 圃 ・ M し 寄 せ て 来 薗 圃・圃圃・抗る﹂とか﹁第

圃 圃 即 圃・ E r

しようとする努力のシンボルともなってい る 。 三つ目には、国際的な文化都市としての ソウルのイメージを挙げることができる。 既に大田エキスポ、ソウル・オリンピック などを契機にソウルは国際的な文化都市と しての一歩を踏み出している。世界各国の 情報、文化、知識などがソウルに集まり、 消化されている。また、ソウルを通じて海 外に韓国の文化が伝播しており、とりわけ 今年は﹁韓国訪問の年﹂を迎えて、韓国の 伝統音楽、生活風俗、伝統飲食などを紹介

5 3

ソウル都心部の夜景

古い歴史と現代が共存するソウルの南大門付近


業は国際競争において淘汰されかねない。

占めているアジア・太平洋地域は現在、世

の到来はその地域に属している国家聞の緊

きも悲しいときも、常に韓国人の心の中に

中海は過去の海、大西洋は現在の海、そし

は、時が経つにつれて高まっている。﹁地

が大きい。韓国、中園、日本の経済協力が

とつになる相互協力体制が作られる可能性

経験、中国と北朝鮮の資源及び労働力がひ

においては日本の技術と資本、韓国の開発

して成長する牽引車の役割を担って、韓民

ルはこれからも経済や産業活動の中心地と

その生命力を維持していくであろう。ソウ

する愛情は一層強く韓民族の自尊心として

の一部であったため、統一後もソウルに対

性を示している。ソウルは韓国民族の生活

自尊心として残っていた。イデオロギーの

圏内的には文民政府のスタートとともに て太平洋は未来の海﹂というジョン・ハイ

具体化されれば、北京、ソウル、東京をつ

終意と国際的な雪解けムlドは統一の可能

市民の自治活動か増えており、あらゆる分 の言葉のように、来る一 一一世紀にはアジ

なぐ東北アジアの大都市の連絡軸が形成さ

てアジア・太平洋をリードする東北アジア

野において民主化が進められている現況で ア・太平洋地域が世界史の主な舞台として

密な協力を必要とする。特に世界史におい

ある。これとともに来年、地方自治制が実 登場するであろう。このような世界史の中

移動が、ある瞬間鈍るかストップして、よ

も、この地域の世界経済全体に対する比重

現すれば、これまでのようなソウル中心の 心軸の移動においてソウルは、こと韓国の

れ、ソウルは BESET 宙 開 位5・ ω o o z 、 g soの頭文字を二つずつ取って組み合わ

り住みやすい都市として開発されれば、そ

界のGNPの六O%を生産している。しか

開発ができなくなることから、ソウルは従 首都としてだけでなく、歴史の軸を変えて

せた用語)の中心になるであろう。

結局、韓国の位置は現在、必ずしも楽観で

来のような急成長は望めなくなるであろ いく巨大な力の空間的中心としての位相を

きない立場に立たされているといえる。

う。また、今まで﹁民族的念願﹂とされて もつであろう。 の拠点都市になって、北京と東京をつなぐ

第二に、 二 一世紀のソウルは東北アジア

感脅が交差する所としてソウルは嬉しいと

韓国を代表する都市として認識して来た。

の役割である。韓国人はこれまでソウルを

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1 1

格をもっ地域であり、金浦空港の周辺に位

永宗島新国際空港はソウルの関門的な性

永由歪回新国廃エ港

を紹介すると次のとおりである。

る。このためのソウルメガ・プロジェクト

域内高度情報処理体系の構築が必要であ

どの都市情報サービスを担当する各種の地

域間のエネルギー環境、防災、イベントな

下部から支えるソフトウェア!としての地

尖端産業基地の建設、そして都市の運営を

域への返信のための国際業務機能の強化と

た情報、技術、文化の受信地域から発信地

きる都市基盤施設の構築が必要である。ま

を整備して三つのポlトが有機的に連結で

て成長するためには空港│港│テレポート

ているように、ソウルが国際的な都市とし

全世界の都市の国際化戦略において現れ

戦略地域及び戦略施設の開発構想

国際化のための

ソウルの国際化とメガ・プロジ ェクト

韓民族の自尊心のシンボルになるに違いな

こで生活している人々にとって、ソウルは

族の雄飛の礎となるであろう。急激な人口

いた祖国統一への道も聞かれる見通しであ 朝鮮の経済及び社会間接施設の再建設のた 役割を担うであろう。アジア・太平洋時代

第三に、韓民族の自尊心としてのソウル

り、これに伴う北朝鮮住民の韓国涜入、北 めの統 一費用の負担などの問題が生じるも のと思われる。このような民族内部からの 波は、外部からもたらされる影響とともに ソウルの未来が決して明るいものではない

その位置を再び確認し、成熟した市民意識

よ 丹

というととを窺わせている。にもかかわら ず、巨大都市に急成長したソウルは今こそ とソウルを古里と考える意識を呼び起こし て、古都としての根と歴史的な文化都市と しての香りを蘇らせる時である。言い換え ると、ソウルを統一した祖国の首都として 睦らせ、地理的なメリットを生かして﹁東

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北アジアの拠点都市﹂に作り上げなければ なるまい。 国際都市、ソウルの役割 国際化、世界化の波に乗ってソウルは、

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二 一世紀には文化都市の姿を備えるであろ

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う。ソウルの未来像を見てみると次のとお

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りである。 まず、二 一世紀にソウルはアジア・太平

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洋地域の中心地としての役割を担うであろ う。世界の面積の三O%と人口の四O%を

圃冒

5 4


置している。これはソウルの国際化戦略の ひとつ?あり、引き続き増加している国際

れるであろう。このような事務室及び産業

信網の情報ネ ット ワークによ って既存の都 心の事務室及び尖端産業などが郊外に移さ

(国吾)空港としての役割をするであろう。

発と首都圏の空間構造の改編を通じて、ソ

一世紀を準備するソウルの新しい誕生 一 一 このような国際メガ・プロジェクトの開

成していくに違いない。

連定路網によって績はれ、広域都市閣を形

と立地に従ってその役割が多藤に展開され るであろう。また、衛星都市が循環都市高

しながら地域中心の傾向が増し、その規模

体グループを中心に発達したソウル周辺の 衛星都市は、周辺地域の都市化として拡大

旅客の需要を満たすことのできるハブ 二四時間利用が可能な滑走路が三つ以上の ハプ空港、永宗島新国際空港に ﹁ テレポー ト/国際業務機能﹂などを集中させ、国境

また国際業務・国際情報通信の受・発信

のない自由都市化の豊富も計画されるであ ろう。

ルと首都圏の空間構造も見直されるに違い

機能施設が有機的に連結されるようにソウ E E。 え し

際化と全ての人々が不便を感じずに生活で

ウルは世界の中の都市として市民意識の国

今日、企業経営において情報それ自体と

テレポート

きる各種の便宜施設をいろいろ兼ね備えた

二 一 世紀のソウルはよりスムーズに作動 できる都市システムが備わり、家庭生活と

都市として再創造されるであろう。

電波妨害のない地点に地区局を設けて通信

もない。このような情報受・発信のために 衛星を活用しながら国際間の情報伝達をよ

職場、教育、娯楽、文化活動などを便利に

情報接近性の重要性は改めて指摘するまで

るシステムが整えられなければならない。

りスムーズに、より大量にすることのでき

享受できる夢のような都市になるであろ う。もちろん、このようなことは我々の周 辺で急速に発達している科学境術によ って

即ち、二四時間世界各地と情報を受・発信

機能集中に伴う解決策のひとつとして都市

テレポートは情報受 ・発信と高度の業務 機能を担うだけでなく、大都市の中心部の

を統合的に収容できる超現代的な施設でな

オフィス、公演場、通信受・発信施設など

施設として宿泊施設、展示会場、大規模な

大規模な会議場を設けるだけでなく、付帯

ンターは蘭芝島か龍山のような立地条件の よい地域に建設されるであろう。ここには

の重要性を増しているコンベンション・セ

的なビジョンに立脚して首都圏及び東南ア

として、また統一韓国の首都としての長期

市空間構造は 二 一 世紀の東北アジアの拠点

して変化するものと思われる。首都圏の都

の管理体制の基本的な枠組みもこれに相応

と変化させるであろうし、これに伴い都市

け込んだ文化国際都市、尖端情報化時代に

国際都市化、あるいは韓国の伝統文化に溶

た国力をもとに各種の国際施設を誘致して

成し遂げられるであろう。

ター、高速電鉄駅舎などの都市基盤施設の

必要なテレポートやインテリジェント ・パ ークのような尖端施設が設けられた情報都 市、各種展覧会や文化行事が 一年中開催さ

また、ソウルの地取学的な位置と発展し

を活性化させるための施窓口型都市構想の一

できる情報基地としてのテレポートが求め られているのである。

環として永宝島新国際空港、蘭芝島、龍山

ジア ・西海圏 ・北朝鮮を結ぶ広域﹁インフ ラ構築﹂を前提とする。国際化のための国

立地とこのような施設問の有機的な連結は

各種の国際展覧会や見本市の役割が果た

際空港、テレポート、コンベンションセン

このような国際化施設の立地は、ソウ ルの国際化を一層加速化させ、聞かれたソ

都市、そして人間の情があふれる国際都市

ければならない。

ウル、世界都市としてのソウルの役割を充

現在の都心構造を一層多極化させ与新国際 空港、テレポート、コンベンションセンタ

が即ち﹁未来のソウルの姿﹂であろう。

地域のうちのひとつに建設する予定であ る。

足させるに違いない。 ソウルの国際化のための戦略的施設の立

ーを中心に地域情報網にような総合情報通

コン ベンション ・センター せるコンベンション・センターを建設する

地は、ソウルの既存の都市空間構造を確然

れる国際見本都市、ソウルを囲んでいる秀 でた自然環境を積極的に開発することによ って人間と自然との調和がとれた国際観光

予定である。都市活性化の手段として、そ

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出会いを求めて

ム長正王::::1 I噌完2

一子--1=孟司 《ぷ云 か換家

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行 仁 一 向 払金

李局換は日本で活動している韓国人画 家である。彼は現代美術運動に貢献した 作家であるばかりでなく、美術評論の分 野でも優れた実力を見せてきた抜群の理 論家でもある。作家としての李再燃は平 面絵画(油絵・版画)は、もちろんのこ と立体芸術(オブジェ ・彫刻)に至るま で多彩な発想の転換を試みてきた。彼の 作品の特性は﹁モノ派﹂といわれている 一つの流派に現れているが、彼は﹁モノ 派﹂の実質的なリーダーでもある。また、

いているが、それほど困難な条件のもと

ぃ。﹁これまでモノ派を支持した批評家は たった一人もいなかった﹂と李再換は書

でモノ派の神話が誕生したということは 一応吟味するに足りる点である。

モノ派は一つの運動であろうか。ある

作家はモノ派は運動体でもなかったし、 運動を主張したわけでもないと述べてい

る。ただそのような現象があったという ことを認めるだけである。当時の日本社

てのみならず文学、音楽、演劇など各分 野において連鎖的に現れた現象の一部分 であって、その根底には﹁自己確認﹂と

会の特殊な状況のもとで芽生えた現象だ というのである。それは単に美術におい

いった間断のない懐疑が横たわっている。

李爵換は日本の画壇でも不動の位置を固 めている。 李馬換が日本の画壇に初めて知られる ようになったのは美術評論を通じてであ

自我の新たな目覚めからもたされた現象

していた。根気強く鳴り響いていた音が

んできはじめた。私は焦りながらもいつ の間にかベルの音に合わせて絵筆を動か

な中で電話のベルがキャンパスに流れ込

話のベルが鳴った。途中で筆をおくこと ができなかったので必死になって筆を動 かした。電話のベルは鳴り止まず、そん

ご生懸命に絵を描いているところへ電

の自分自身を彼は際立たせている。李馬 燥の作品世界の実体にアクセスすること のできる最も容易な方法として、作家が 書いた評論の中からいくつかのくだりを 紹介する。

と哲学のつながりと交感を通じて休みな く思索的な作業を続けてきた作家として

力にものをいわせた明快な文章や評論を 通してモノの世界を披露してきた。芸術

の一側面に導 c ないというのである。 李局換がモノ派の作家であることは確 かである。彼は作品だけでなく鋭い分析

った。 一九六九年、東京の美術出版社が

界の一角ではミニマリズム(BEEgrs)が

け継がれたようにも見えるが、実際に李 属燃は郭仁植からの影響を否定していな

年上の先輩画家で﹁モノ﹂の始祖ともい える彼の芸術の傾向が李爵換によって受

の系列にはもう一人の在日韓国人画家で ある郭仁植がいた。李再燃よりもずっと

によって新たな状況が展開したからに他 ならなかった。遡ってみると一九六0年 代末から次第に輪郭を現し始めたモノ派

は彼の確固たる理論を武器にしたうえで の現代文明論的な視点が共鳴を得ること

李爵換の李福岡崎炭芸術が﹁李函換イズム﹂ と呼ばれるほど大きな反響を呼んだ原因

年代末に大きな波及効果をもって登場し たインフォルメル(EP 円自己)絵画の延長線 上にあるものだった。

盛り上がりを見せていたが、それは五0

刊行した美術月刊誌﹃美術手帖﹄の美術 評論の公募に応募して入賞したのが始ま りとなったのである。一九五0年代の後 半にソウル大学美術学部に通っていた。 彼は、ある日突然日本に渡って、東京 の日本大学文学部哲学科に再入学、同大 学を卒業した。このような履歴から見て、 彼はすでに初期の修学課程で実技と理論 を備えることができたことが分かる。 一九七0年代から始まった李再燃の作 品活動は日本だけでなく欧米の多くの美 術行事に参加するなど同時多発的に熱気 を噴き出している。彼の意欲的な活動が 韓国にまでその領域を広げさせて以来、 韓国の現代美術運動にもかなりの影響力 を及ぼした。とりわけ彼の評論集﹁出会 いを求めて﹂(七 一年刊行)は初期の李再 燃の思想を集約したもので、その 一部が 韓国語に翻訳され、それが韓国に紹介さ れることによって多くの同調者を得るこ とができた。この時期における韓国美術

5 6


ついに止んだとき、私も同じように筆を おいた。その後、絵の前に立っとそこか ら何となく電話のベルの音が聞こえてく るのである。一体だれが何を言っている のであろうか。受話器になってしまった 絵から目に見えない電話の主を追って視 線は果てしなく絵の中をさすらう。 作品は静止している記号や痕跡など ではない。それは生命のある細胞のよう に常に進行形の生きている構造体である。 李爵換の作品世界、すなわち彼のモノ 派美術はミニマリズムと一脈相通じるも

のがあると思われる。その徹底した自己 規制と自己概念を愚小化させながら、 相 対的な反射利益として最大限の効果をあ げ得るといった意図自体がミニマル的で ある。それに モノ派美術は時限的な臨場 性をその特徴としている。作られては解 体され取り払われるもの‘事物と空間が 緊密に相互浸透し、一つの場所で照応は しているが、それは一瞬だけであり、一 瞬の利那的な生命として消滅していく 一 回性、または無名性が根幹をなすのであ る。現存のモノ派の作品がきわめて少な

いのもこのためである。 ﹁モノ派は偶然や窓意性に表現を任せる れの性格をあるがままに生かしている﹂ というのであり、また﹁最大限の要素自

具現するための素材でもなければ、表現 の主役でもないというのである。﹁それぞ

体と事物が直に出会う場面性を引き出し た﹂と説明している。)李爵換が発表した

置すること(中略てそうした点で場、関

た作品を対象にしようとしたことは、現 代美術史の中でも画期的な事件であった

ノ派の作家、李属換はまたこうも言って いる。 ﹁ 人間と世界の関係を場として再解 釈することによって主客の論理を超越し

と見なしている。モノ派は﹁事物を作る のではなく、場所を生かすために﹂すべ てのものを必要とすると言っている。モ

を殺す経験や技術などは不必要なものだ

された概念を引き出すことが可能となっ た。モノ派は、イメージの再現のために 時間を費やしはしないと言う。また事物

いう表現でモノ派をミニマルアlトの様 式系列の中に用心深く組み込んでいる。 モノ派を受け入れてミニマリズムは拡大

まれているのである。 李再燃は﹁場所的なミニマリズム﹂と

派が意図する節制の妙といった意味が含

えられた注意深い行為の周辺には、モノ

これらの作品は、作ることを一 E見送り、 作品の永遠性や永続性すらも遮断した一 回きり的な発想である。若干の加工が加

h

化の流れによる必然的な結果であるとも いえる。彼を含めたモノ派作家グループ は、彼らなりに開拓した﹁聞かれた世界﹂ に大きく近づいた。

が必要だが、それは現代美術思潮の多立

の加工性に留める﹂というのである。 李馬燥の芸術世界を理解するためには 高度の知的で理論的な熟練と新たな視点

体の活性化を狙い、事物や場所は最小限

ことはできない ﹂と言っている。作品の 計画を立てて思索を深めてエスキス(下 絵)を繰り返すというのである。時期を 待つ十分なゆとりが必要であろう。計画 とは、モノ派に言わせると出発点であり 契機である。だからといって、その計画 が充実的に実践されるのでもなければ、 計画通りに行為が完結されるわけでもな い。﹁実践ではなく、いろいろな要素と互 いに関係を結ぶこと ﹂というものであっ

﹁作ることから脱出してモノ派 が対決したのは巧妙にも事物に

関してではなく、行為と事物に 広 相対峠することによって空間や詔 状態、関係、状況、時間などが朝 現れることになる非対称的な世司

h

界である。人間や事物が自分を 同 閉ざそうとする完結性の表現を 止 揚 す る こ と 、 よ り 関 か れ た 世 ¥い 界として作品を始めるためには、遁

て、再現的な課程によってではなく﹁い

係、状態、対応、浸透などの概念は制作 の契機であるよりも姿勢であり、方法で

作ることよりも時や場所に関係 をもたせる方式で自らを再び放 ろいろな条件の対応の中で行われるもの ﹂ が制作においての必然、だというのである。

ある。こうした独特な方法への自覚がモ ノ派作品の性格を規定している﹂と李再 燃は述べている。 あたかも引き裂かれたかのように裂け た厚い鉄板の隙聞に石(自然石)が並べ られている。(﹁意志と自然の相互浸透の 場を演出している﹂と説明する。)鉄板の 上に重ねて置かれたガラスに石を落とし て、ひびのできた場面を演出した。(﹁身

作品における構成要素として自然物 (石、木、士など)や工業用の材料(鉄、 ガラス、セメン ト、煉瓦など)が動員さ れたり、公園や展覧会場の場所としての 性格が活用されたりもする。それ以外の 出会いを通じてそれぞれ異なる要素が互 いに浸透し反発しながらイメージの素材 として引用されるのである。これらの作 品の構成要素は、これまでのイメージを

5 7

李高燥


、 、

(上) W Rel a tum~ 1979 9 8 9 (左) WR elatum ~ 1 鉄板と石を素材 にしている

世界の言語を発見しようとする人間﹂で ある。人間と世界が主客の関係を超越し 出 て 一体感を撞得することこそまさに ﹁

シ ﹂ 田 川 ? っ ﹂ モノ派時代の李再燃の作品の特徴を規 定する創作的な基盤は ﹁ 否定と創造の論

であると 言うのである。この聞かれた世

会い﹂の瞬間である。 開かれた 世界とは 、あるがままの自然

界に向けて知覚をリードする構造に時代

理﹂ であると述べている。新たな様式の 創造とは、既存の様式の否定にあるとい

うした否定の精神が東洋圏の 美術でいか

その場所のあるがままに現れた様相自体

に実質的な効果をあげることができるだ

性が反映されるという事実 の重要性を作 家は認識しているのである。出会いを伴

な世界、その世界を発現している場所、

ろうか。芸術家、すなわち作家とは彼に

うことを 二O世紀以後の西欧現代美術の

よれば﹁より深く直接的に出会いの世界

う構造こそ芸術作品のかなめである。そ

状況の展開を通して体得済 みである 。 こ

を引き続き知覚しようとする人間であり、

5 8



して、新たな世界観や価値観の確立に貢

神の蓄積された修練と流れをともにする。

長い間の模索の末、芽をふき出してきた

﹁点から﹂と﹁線から﹂以降のシリーズ は﹁絵の 具から﹂、﹁色塗りから﹂、﹁彫刻か ら﹂などにつながる。チューブから絞り

出したままの状態の油絵の絵の具をキャ

また常に新たな生命体になるであろう﹂

再生産でないように、私が表現する点も

であり、線である。森羅万象が私による

ということは線であるから私もやはり点

ある 。存在するものは点であり、生きる

作業などが相次いで発表される 。すべて

んだ物質と行為の関係性についての検証

(B呂田おい質感)の存在性の検証作業、そ れに四角い板の表面を同じ道具で刻み込

絵 の 具 を な す り つ け た マ チ エ 1ル

ンパスに定着させた物質性の検証作業、

体と筆さばきすらも等価的関係として統

一九六0年代の後半に端緒を見せ、七

李爵換の絵画の特質を﹁ 一回性﹂と

言うのである。 二回繰り返されでもなら

裏返したキャンパスに平たい筆で油絵の

ず、とりわけ反復されてはならない。そ ういうことが許されない精神統 一の剃那 的な境地である。それは東洋の水墨画精

0年代の始めに出現しはじめた﹁点から﹂ や﹁線から﹂の連作以来、李再燃の作品 の世界は 一層明るく澄んだものとなる。

を呼び、そして線に延長していく。すべ てのものは点と線の集合と散乱の光景で

関係性は事物相互間の対応と同じもので、

新たな状況が展開したからにほかならなかった

轄しており、制作の中枢としている 。キ ャンパスも絵の容器ではなく、その 一部

献できる芸術家の位相は、まさにそれを

現代文明論的な視点、が共鳴を得ることによって

﹁関係性﹂で検証してもいる。画面の生成 の基盤となる二つの要素のうち 一回性と

作家は絵画に動員されるすべての資料媒

呼んだのは、彼の確固たる理論を武器にしたうえでの

であるという考えである。

実現することのできる者である。

李高燥の芸術が「李高燥イズム」と呼ばれるほど大きな反響を

は、要するに画面を決定する一筆一函を

のであろう。作家は、またこのようにも 書いている。﹁宇宙の森羅万象は点から始 まって点に帰するという。点は新たな点

時間の流れによって生成と消滅を繰り返す李高燥の作品 (上) ~点から~ 1973年 膝 を 素 材 に し た 油 絵 (下) ~線から~ 1977 年膝を素材にした油絵


が一様に 一回性的な作業であり、画面に れでは閉じられる。すべてのものは一回 が、近作では一層作品が柔軟になり透明

性の関係を持って規定することができる

4 修

.内 . ,

描かれた点や線がそれぞれ関係性を持ち

然石と鉄板を利用して、物質の重量と弾

ながら 一定の反覆を経て成立した作品群

性を狙った潜在的な特性を巧妙にして鰍

取り扱われた七0年代の後半には主に自

までにいたる課程を目の当たりにするよ 密に調律している。このように物性自体

性を確保している。彫刻作品が集中的に

うな感じにおそわれる。存在から無に移 までを作品に 取り入れながら、その対応

なのである。こ亡でわれわれは誕生しな

行する生命の法則を暗示するようでもあ 関係の変容までを作家は作品に介入させ

がら有為変転していく宇宙の生涯、消滅

る。一九八0年代の後半になると﹁風か

の里程標に一本の線を描いている。

ている。李百円燥の作品の世界は現代美術

6 1

ら﹂のシリーズになる。 画面は生成と消滅の緊張関係のテンシ

1983 年油絵 (下) ~Correspondence~ 部分

1993年

油絵

ョン (R55口一精神的な緊張)で、聞か

A

( 上) ~風から~


エ愛 家

和敬師

払金

代舞踊家、洪信子。彼女は 子大の英文科を卒業した後

ケば λん かか間よ生た常をか、のつ全そなのつい界た生の らにのうきょに与らこソたてのくい町そにエは道

忠清南道で生まれ、淑明女 アメリカに渡り、舞踊家としてのレッス ンを受け舞踊家として活躍した後帰国し た。そして一九七三年、当時の韓国の公 演界に一大センセーショナルを巻き起こ

わないわけにはいかない。しかし彼女が

テントの家を建てるしかなかった理由は、

家を建てるお金がなかったからである。

彼女はいつもそうであるように自らの悪

条件を昇華させることに格別のものをも

っていた。これが彼女の芸術である。彼

女は舞を舞う理由について﹁言語を超え

てその何かを体験する時、私は舞を舞う。

これが私自身と他人と、そして神との対

話を分かち合う方式であった。これを離

れて、どんな手段を使って自然の全ての

美しきものを表現できるというのだ。星

﹁言語を超えてその何か

﹄れが私自身と

を体験する時私は舞を

乗 っ 。

他人と、 そ し て 神 と の

対話を分かち合う方式

であった ﹂

じこもっていたことはなかった。時には

になった。想像力が暮らしの枠の中に閉

のものを完全に任せた。想像力がテ!マ

ーマとなったインスピレーションに全て

かったものはその時、その時の作品のテ

で早々と湧いてはいたものが表現できな

いてきているものたち。あるいは私の中

舞を舞わなきゃ﹂と語る。﹁私の中から湧

できるただひとつの答えはこれであった。

を、森を、そしてあの太陽と月を!私が

を、花を、雲を、木を、風を、海を、岩

‘ 竹山隈想、 センターで限想中の洪信子

P

圃 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

した﹃祭礼﹄を発表した後、彼女はイン

. . 1司 ー圃

イ言ア

ドに渡った。インドでの三年に及ぶ生活

1

の後アメリカで哲学で博士号を取得し、

田園圃圃圃圃

抽象画家李サンナム氏と結婚、現在一四 歳になる娘が一人いる。韓国で最も保守

るなら﹁格式のある家庭﹂にうまれ、ご

的といわれる忠清道、彼女の言葉を借り く普通に大学を卒業した後、一九六0年 代韓国のインテリl層の羨望の的であっ たアメリカ留学の途についたのである。 そして、学問の最高の資格といえる博士 号まで取得したのであったが、彼女は自 然に帰ることを願った修業者に出会った。 そのため、彼女は大衆の前で衣をまとわ ず舞を舞う前衛舞踊家になった。ニュー ヨークのハlレム街で、明日にも火山が

L R23走1そ 量 売 宥 ま:.であ こえ 予想 な平 方は うに そう えて ぬシ れま ウル よう が話 挙- 震、 基ソ 号 に雪 2 2自 主 え 合 課 いら人ン張デ彼寄山~ t だ 5 翠っ Z彼 否 イ 上 主主量 Z ぞJ 在 長2 22 莞Z 52?22232会 長 聖 司 要 Z彼 り じ 主 義 吉 長 ル手 三 現い国ろ生ン丸室腹るろ るる人ののつ。クなは女ながはで女をて化つ人業 ち

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故うソ彼セツ舞を ブ危爆 国ソウ女ンセ踊歩彼ラ険発 の ウ ル は セ lで い 女 ツ だ す 代 ル に 、 lは 人 た は ク と る 名と定長シベ気が世サいか 調 着外 いヨ 、的 俗ド ンれ わし も でい うす lス トを 集皮 あのる国ナセめ肉なでてれ るはと生をラ、なこ事いな 。 、 宣 活 革 lそ こ と るい

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た風な場用屋テの型畿 「景かにすをン前的道彼 洪にろしる建トにな安女 信輿うてテて・は韓山が 子味がいン、ス貯国の生 はを 、。 るを トメ アジ タ池 水農 の山 竹の 活 変 抱こ わかこ彼枕リオの村マ根 りずを女木カが見でウ城 者に訪のの・あえあルに

I型~w E

神に選ばれた舞姫

6 2



私は人聞が誕生する前のはるか普の太初 の時間も私の想像力の中で舞台になった﹂ と自分の舞踊の根本的なテl マや舞踊に 洪信子には倉庫劇場のようなところが

臨む態度を語っている。 似合うという通念を破り、商業的な可能 性をみせた舞台は、一九八九年十月に世 宗文化会館大ホlルで催された﹁ラフイ ングス トー ン﹂舞踊団の ﹃ 島﹄であった。 ラフイングストーンというのは﹁笑う石﹂ という意味で、アメリカにある彼女の舞 踊団の名前である 。 この﹃島﹄は彼女の

より精神的で人間の生き方の総体的な観

﹁私にとって自然は師である 。私は 元来、

念、神の概念が入っている観念である。

師が二人いた。有名なラズニ ツシとニサ

ガダタ ・マハラジである。ラズニッシは

はインドの色街をかかえた市場の屋根裏

私をインドに呼んだ人であり、マハラジ

部屋に住んでいた方で、私をインドから

発つようにした方であった。マハラジの

つにしろ、修道士になるにしろ、人気あ

教えはガンジス川の川辺に座って死を待

るピエロになるにしろ、所詮大きな違い

即ち、彼女の舞踊は説明的ではなく、

水池の周囲を歩く。食事の前の簡単な運

ない。この頃も彼女は朝六時に起きて貯

知り、その全てから去った時残るものが

葉である。宗教と師の許を去るべき時を

とが即ち悟りであるというのが彼女の言

はないのである。お前が願う道に進むこ 直感によって即物的に共感させるものな

て午後には畑仕事などの野良仕事を団員

動、午前中には舞踊のリハ ーサル、そし

作品を通じてのメッセージ 、振り付けの ちろん、そのスケールも大変大きなもの

方法が圧縮されている作品であるのはも のである。

らないのか。人間は何故死ぬのか。死を

は何なのか。何故生きていかなければな

いうことに対する答えであった。人間と

場を探して行かなければならないのかと

いる。彼女の自然に対する探求は 、とも

うに舞踊を自然に帰る道としておもって

生など想像さえできない﹂彼女はこのよ

与える力である。私には舞踊を除いた人

間に生きる。この創造的な行為は生命を

た。今私は舞を舞い、歌を歌い、その瞬

俗にいう自然環境を意味してはいない。

しかし、彼女のいう自然の概念は我々が

ののうちのひとつであると彼女は語る。

で行う労働は、暮らしの中の畏敬的なも

働膜想﹂と呼ぶ。労働は神聖であり精神 治療の機能ももっている。特に自然の中

たちと一緒にする。洪信子はそれを﹁労

ある意味で洪信子の宗教だともいえる。

しその石も笑うというのである。これが、

人間の生命とは最も遠い冷たい石、しか

女の哲学を端的に表しているものである。

であり、自然であることを強調する。ラ

﹁自然と静けさに出会いたい瞬間が訪れ

であった。彼女の作品は安逸で平穏に暮

どのように受けとめなければならないか、

すれば生理的なものだといえるかもしれ

フィングスト ーンという団体の名前も彼

を終始感じさせる。

などといったことに対する哲学的な質問

らしている現代人が何故、あえてその劇

自然﹂なのである。 本来の故郷 ﹁ 洪信子は舞踊作品を通じて人間も動物

(上),(左)洪信子の『島』公演の一場面

6 4


6 5


姿に留まってはいない。文明批判、現実

彼女は韓国の舞踊界にあって、どの派

ご 言でいって働突である﹂と答える。

いったい何なのかという質問に彼女は

である。舞踊の絶頂に達した時の感情が

他のものと比較し、何よりもっと大切で

ない。彼女にとって道端の石ひとつでも

うな表現は彼女には似合わないかもしれ

この世の存在物である。しかし、このよ

まれた娘ヒヤは彼女にとって最も大切な

るため一般的に彼に対する印象はいいも

その晩年によくない新聞記事に接してい

子であった。ラズニツシに対して我々は

洪信子は前述の通り、ラズニッシの弟

か。奇異な興味として理解するだけであ る 。

る。誰が彼女のこんな哲学が理解できる

いによって、その人となりの解釈が可能

参加の表現として目隠しをした群舞の隊

にも属することのない唯一の舞踊家であ

く、そのように大切な娘は母親と離れ、

あり、他の石も同様なのである。とにか

しかし、彼女の舞踊は宗教的な求道者の

列、口を奪われて何もいえない現実、踊 り手の泣き声の適切な配合、支配者を連 る。彼女の公演はほとんどが劇場を観客

笑いながら修業をする﹂という懐古であ

想させる人物たちの握手、握手しながら で満員にする。この観客たちは他の舞踊

舞を舞ったのである。そのようにして生

最後には喧嘩する身振りなど、政治構造

ていた。にもかかわらず洪信子はどうし

機も何台ももっていた人物として知られ

を暗喰する振り付けもその作品の中にし

るだけでなく、賢明で母親が学校教育を

て彼の弟子になれたのか、その辺のとこ

のではない。百五十万ドルを超えるロー

無視するということを知っているから、

ろを尋ねないわけにはいかなかった。﹁私

ルスロイスを百台、そして自家用の飛行

自ら熱心に学校の勉強をしている。小学

の愛情を知っている。そして現実的であ

って彼女を舞踊界では我が国の舞踊界の

に影響をうけないという意味である。従

校を中退してもかまわないという母親に

シを知っている。彼は本質的に聖人であ

は組織のなかったブナ1時代のラズニツ

祖母と暮らしている。﹁娘は根本的な母親

﹁自尊心﹂といっている。彼女は国内に定

頼っていたら、自分の人生が滅茶苦茶に

の公演に集まる観客とは違う一般の観客

で登場した。暗い舞台の右手のスポット

着して﹁笑う石﹂という社団法人の舞踊

なってしまうというのである﹂と娘との

である。舞踊界に共生する特異な生態系

ライトを浴び、鎌をもって立っている。

団を創った。そして今年の五月﹃冥王星﹄

う作品に彼女の特技である﹁ソリ(唱)﹂

をたくしあげた韓国の農夫の姿である。

白いパジ(男性用の韓服のズボン)の裾

という作品で旗揚げ公演を行った。彼女

ばしば登場する。洪信子は﹃島﹄とい

テンポな動作、鎌は韓国の農民たちの暮

立ったままで鎌で自分の髪を切るスロー

要点が何なのかと人々はコーヒーでも一

る。﹁だから、簡単に言ってラズニツシの ニューヨークの貧民窟での身の毛のよ

関係を語る。

杯飲むように気軽に彼について尋ねるが、

は高級インテリーを舞踊の世界に導き入

私はそこに合わせて答えることができな

れ韓国舞踊の発展に間接的に貢献したと

踊を捨てなかった。彼女は﹁どのように

だつような生活、しかし彼女は一度も舞

の姿は韓国人の姿であり、髪の毛を切る

いう功労もある。しかし彼女が圏内に定

らしを支える最高の道具である。洪信子

着するまで、全てがそうスムーズに運ん

い。ラズニツシは大きな人物であり、そ

はたらく。そんな姿で彼女が叫ぶ泣き声、

の悟りを知ろうとすれば大変な修業の姿

動作も我々だけが交感できる符号として

とは振り返らない。喜び悲しみ、誰にも

ラズニツシの問題が起きたことは、アメ

勢をとらなければならない。アメリカで

暮らしても後悔はしない。過ぎ去ったこ

それがかえって悲しみと喜びから抜け出

遠慮せずに笑い、誰にも遠慮せずに泣く。

したからだった﹂と語っている。洪信子

ものが常にそうであるように、普通の 人々の理解を求めるまでにはかなりの時 聞が掛かり、 8 8ソウル・オリンピック

すととである ﹂生活が苦しかった時代を 彼女はこのような哲学をもって生きた。

だというわけではない。前衛芸術という

の際には文化行事のひとつに決まってい

こにしてしまう。彼女は既に知られてい カヤ琴の奏者、黄ビョンギと二人で﹁迷

ながら途中で参加が取り消されるという

こともしない。何百冊と出ている彼に関

はラズニツシを擁護することも批判する

魂を揺さぶるボイスは真に、観客をとり

宮﹂というレコードも出しているほど彼

エッセー集をみると、﹁笑い、または泣き

しかし彼女の最近ベストセラーになった

声で、あるいは泣き声で表され、人々の

には天使のような奇声が果てしない笑い

ない。時には悪魔のようであり、また時

その音は単に数値で計算できるものでは

ない舞踊家なのである。

関からは支援金を一文ももらったことの

国内においては、文芸振興院のような機

ク・タイムズに紹介されもした。しかし

演はただひとつの例外もなくニューヨー

何日間も寝たり、何日間も素足で歩いた

る経験をした。インドでのことである。

て笑ったり、何時間も泣きながら道を悟

はないことが分かる。﹁何時間も腹を抱え

我々が普通考える人間的な笑いや泣きで

の章を通じて彼女の笑いに対する感覚が、

の悟り﹂という不慣れな章に出会う。こ

喜悦の状態、大自由の状態であるという のである。しかし皮肉なことに彼女は肉

な存在ではなく、無我の状態、おおきな

う。彼女のいう神は我々が連想する敬慶

る。彼女は舞いを舞う時神を感じるとい

る通り﹁ソリ﹂のテクニシャンである。

女は﹁ソリ﹂のテクニシャンである。彼

毎年ニューヨークで公演を行い、その公

悲しみも味わった。彼女は過去二十年問、

心の奥深い魂を揺るがす。彼女はそんな

彼女は妊娠八カ月の体で﹃口からしっ ぽまで﹄という作品に出演したこともあ

体の糧にはあまり関心がない。ひとりで 食事をとる時には玄米ごはん 一杯、だけ、

リカ社会と彼の膨大な組織が摩擦を起こ

でも三オクターブの音が出せる。しかし、

女は高い音域で三オクターブ、低い音域

﹁ソリ﹂を人間の死体が焼ける煙を浴びな がら食事をする光景がみられるガンジス

り、何日間も死体の中で膜想にふけった り、辛い断食をし泣きながら、あるいは

洪信子は、ユニークな哲学をもってい

する本を読んで見ろというのである。

川のほとりで学んだ。彼女の舞踊と﹁ソ

る。ニューヨークのラママ劇場でのこと である。彼女の娘ヒヤは生まれる前から

リ﹂は、それを見る人の教養と経験の違

6 6


の眠れる舞踊界に衝撃を呼び起こしたの

である。これに対して元老評論家朴容九

ような論理で洪信子は 1970年代初め

氏は﹁侵略によって倒された隠遁の王国

おかずはほとんど食べない。醤油や煎り 彼女は竹山マウルに、この先膜想セン

ごまがおかずの代わりをすることが多い。 ター劇場の建築計画をもっている。士一だ

において創作舞踊は自我の悟りからはじ

おいた創作舞踊により自我の悟りを作品

まるものであった。伝統にそのルl ツを

化して韓国の現代舞踊の道を聞いた窪承

である。セメントや現代的な文明工法を な夏のフェスティバルの場所になってい

使わずに土の家を建 て、 アメリカの有名

大切に記憶するが、その後育たちはかえ

喜を始めとする西欧的な何人かを我々は

って彼らの創作精神より エンタ ーテイ ン

るジエイコフス・ピローのように劇場を

メントの要素やたけに偏ってしまったとい

名所に仕立てる計画である。彼女は、ま だ莫大な建築費が作れずにいる。しかし

' A

舞踊界を受け入れることであろう。

子たちを育てて大人の立場から我が国の

な成果も得て舞踊の大衆化に貢献し、弟

団をもって定着しているのだから商業的

舞踊の業績を評価している。 今や彼女に対する期待は、圏内で舞踊

らなければならないと洪信子の西欧的な

洪信子と﹁笑う石﹂は溶けてマグマにな

化的な爆発のマグマが待たれる時である。

備する、全てのエネルギーが集まって文

でないことは確かである。来る世紀を準

た・・・。今は世紀末を迎え旋風の季節

習としての悟りを聞かせる旋風といえ

避びとして達観する旋風、衆生に死の練

﹃螺旋形の対角線﹄なども人生をひ とつの

凝結したハン(恨み)を作品化したソロ

す旋風を巻き起こした。韓国の女たちの

な創作精神が推積化した形象を吹き飛ば

て公演した創作舞踊﹃祭礼﹄はそのよう

し穴である。一九七三年、洪信子が初め

うきらいがある。亜流が入りやすい落と

洪信子は、いつも何であれ楽観する。苦 痛の中の喜悦を希求することが彼女の宗 教といえば宗教である。彼女はたえず、 ろに移り住んだりもした。しかし、そこ

住みやすくなると、より住みにくいとこ でもまたより辛いところ、すみにくいと ころを探すのであった。そのため、彼女 の将来は誰も予測することができなかっ た 。 作品﹃冥王星﹄が今年の十月、﹁芸術の 殿堂﹂の土月劇場でアンコール公演を催 した。この﹃冥王星﹄の一部は北京のア ジア競技大会の時中国で公演された。 こ の時、この公演を見た中国の評論家オ! ジャン・ピンは自らの﹁世界の舞踊史を 作った人物たち﹂という本でイサドラを はじめ十八人の舞踊の大家をとりあげな がら洪信子を別途に紹介した﹁前衛舞踊 の花﹂という別途のペ1ジを割いたので ある。その理由について﹁洪信子はアジ アの国々全体を代表し、ここ数年の問に 外国人としては誰も洪信子ほど中国の舞 の中で中国の人々に洪信子ほどよく知ら

踊界に寄与した人はなく、外国の芸術家 れている人物はいないという意味であっ た﹂と述べている。オlジャン・ピンの

6 7

けで作られた家を建てることが彼女の夢

竹山隈想センタ ーで膜想と舞踊を指導している洪信子


緯国の再発見

c n

n 。

赤松は樹皮と枝先にある芽の色が赤いの

きた雑種松が多く見られる。

的には近縁関係にあるので、二つの聞にで

識別できる。しかし、赤松と海松は分類学

海松は中位に位置しており、これで互いに

葉の横断面上にあって、外位に位置するが、

とは区別される。また赤松の葉の樹胎道は

盤巨亜属のチョウセンマツ(五葉松)系統

二葉松のひとつで双維管束亜属に属し、単

赤松は海松とともに韓国に分布している

松の分類

た 。

さえて最も好かれる木であることが分かっ

人気が集まり、ケヤキやイチョウの木を押

査したことがある。その時、松に圧倒的な

一番好きな木について直接面談を行って調

数年前、山林庁は二O歳以上の知識層に

その中で生活を営んできたと言える。

た。それ故に韓民族は松の文化圏を形成し、

質的にも最も密度のある関係を結んでき

である。また、韓国民族とは精神的にも物

木材の蓄積量も最も多い木

の中で分布面積が最も広く、

は韓国に分布している樹木

" ' 。 刃

円噌

z

)>

また、住居地域付近で松林の繁殖力が強

れるので海松とも呼ばれる。海松は初めの

とも呼ばれており、海松は海岸で多く見ら

らに、赤松は内陸に多く見られるので陸松

ツしているので男松とも呼ばれている。さ

らかいので女松とも呼ばれ、海松はゴツゴ

類、シダ類、カエデ類、ニレ類等の閲葉樹

類の木と一緒になる場合は、例えば、ナラ

い。その一方で、肥沃な土地で松が他の種

松を育てるにはやはり肥沃な土地が望まし

でもよく育ち森林を作る。しかし、良質の

を持っており、またあまり肥沃でない土地

松は生態学的に乾燥した土壌に強い性質

たのである。従って、松を土壌の悪いとこ

松林は損なわれることなく、お互いにパー トナーとしての関係を維持することができ

ことができた。この ように人聞に守られて

りに松以外の閲葉樹種は好きなように伐る

てはいけないことにな っていた。その代わ

の枝は切り取って利用できるが、幹は伐つ

ては後に言及するが、韓国では燃料材に松

くなるもう一つの原因がある。これについ

うちは成長が早いが、時がたつにつれて赤

種との競争に後れをとってしまう。初めは

的な点が多い。

った考えである。幹の 曲が った赤松がよく

ものだと思っている人が多いが、それは誤

い。そのために松は元来幹が曲がっている

ければ育たなくなる。また仮に発芽したと

生い茂った他樹の陰に隠れて光が当たらな

そのために松の種子が土の上に落ちても、

の光を必要とする、いわゆる陽樹である。

松は成木になる前の生長期に多くの太陽

い。山火事が起こった後、松林ができるの

韓国にはこのように松に有利な土地が多

る。この穫の木を土地的極相樹種という。

極相樹種としての機能を発揮するようにな

い場合には松が実質的にその場を占有して

が、土地が地形的に乾燥し、土嬢体が小さ

を極相樹種という。松は極相樹穫ではない

競争に勝った最後の勝利者としての樹種

ろにだけに育つ悪者にしてはならない。 つれて次第に松が生存競争に負けてしまう

目につくのは、かつて松を多量に伐採した

しても、幼い苗は弱いために他樹と の競争

のである。

当時、幹の真つ直ぐなのが選ばれ伐採され、

変化が多ければ、これが淘汰圧として働い

において、気温、陰水、土壌などの因子の

広い面積に松が分布し、その分布領域内

生態品種

もこのような理由による。

幹の曲がっているものは用途が限られてい

所では松は他の樹木に比べ生命力が旺盛で

に打ち勝てずに枯れてしまう。しかし、尾

ある。また、人口密度の高い住居地域周辺

根が乾燥し荒廃した土地や、落ち葉の多い れてきたために、幹の真つ直ぐな松の遺伝

このようなことが数百年もの問、繰り返さ 子は淘汰され、幹を曲げる遺伝子が増加し

でも往々にして松が勢力を振るって林を作 る。 いったのである。しかし、現在でも人里離

ていった。つまり、森がだんだん退化して

るために結局切られずに残ったのである。

韓国の松は幹が曲がっているものが多

松の形態と生態

共に闘いながら生長するが、時間が経つに

松より遅い。このように赤松と海松は対照

れた山奥とか保護地区に指定されている森

慶 ?

に行くと直幹性の松林がある。

で赤松と呼ばれ、海松は樹皮が黒いので黒

文化財専門委員

彬5

任1 松とも呼ばれている。また、赤松は葉が柔

m


一帯に見られるものを金剛松というが、こ

江原道から慶尚北道の北部に至る太白山脈

松の地理的品種についての研究によると、

い山のてっぺんではほとんど見られない。

韓国の松は温暖な気温を好むために、高

品種または地理的品種という。

て、松林地域間で遺伝子の頻度に差が出て、 結果的に遺伝子の分化を招く。これを生態

の炭を供給するには周辺の山野の松を伐採

炭を使っていたといわれている。膨大な量

れる慶州では炊事用燃料に木ではなく、木

すでに百万人の人口を抱えていたと推定さ

ったという理由もある。 これに反して新羅の首都として千年前に

は適当でなく、人為的な干渉があまりなか

すのである。また、多雪地帯は住居として

るいはそれ以上の長い歳月を経るうちに曲 がった木は枯れ、真っ直ぐな木が子孫を残

築するとき、大梁が松であることが分かっ

何年か前に国宝第一号である南大門を改

に出るものがなかった。

耐久力がありく、建築材料としてはその右

なく、加工しやすく木目がきれいなうえに

が利用された。松は手に入れやすいだけで

木、梁、窓枠、板の間などは全て松の木材

の住宅は松と土を材料にしていた。柱、垂

用途 松の用途は多様であった。遠い昔、韓国

高い値段で取引きされた。

は赤松の心材であ った。この心材は非常に

するのに、その材料として最良とされたの

やはり松が使われている。

麓から松を運んで来たこともある。また、

補修には大梁に松を使うために白頭山の山

の金剛松は環境が作り出した品種と考えら する必要があり、同時に伐採に伴う林地の

ければ、積もった雪の重さに耐えきれず、

うである。即ち、幹が曲がっていて枝が太

この地域が多雪地帯であることが原因のよ

材質がきわめて美しい。このような特徴は

いのが特徴である。また、枝下の幹が長く、

金剛松は幹が真つ直ぐで、側枝が細く短

理的品種が知られている。

種とされている。このほかにも幾つかの地

の松といって一最も好ましくない地理的品

質の松が残るようになった。これは安康型

一帯の山地は土地の肥沃度が低く、末よ良形

荒廃が進んだと思われる。このため、慶州

ている。それだけでなく、ソウルの宮廷の

を消してしまっていたであろうともいわれ

たとしたら、とうの昔に、南大門はその姿

といわれている。もし、他の木を使ってい

ま今日まで保たれたのも松であったからだ

たが、六OO年前の建築当時の形がそのま

身辺の細々とした生活用具は松で作られ

机、箪笥、食卓などの家具類、農機具、

て、かなりの量の森林資源を食い荒らした。

る。在来のかまどは炊事と暖房を兼ねてい

なあに﹂ときけば、答えは﹁かまど﹂であ

ぞなぞで﹁この山、あの山食いつくすのは

はほとんど松が使われていた。木炭もやは りほとんどが松だった。ごくありふれたな

過去の生活様式では炊事用と暖房用燃料

人が死んだ後、死体を棺桶に入れて埋葬

松廃寺の大雄殿を建築するときも大梁には

れている。

折れて枯れてしまうからである。千年、あ

韓国の各地には名木として名高い松の老大木が多い。

﹄のような木には神霊が宿っていて、

人間の願いを聞いてくれると信じられていたし、

またその木を崇拝しなければ、 た た り が お こ る と い う

氏俗信仲があったために自然にこのような 木の保護がよく行われた

6 9


てともに落ちていくということは最も理想

最も消費の多いソウルに持ってきたので、

昔は税金を穀物で徴収し、船で運送して

このように朝鮮朝五百年の問、山に入るこ

年間、松を植えたという記録が残っている。

壮丁三千人を動員してソウルの南山に二0

太宗二年(一四一一年)には京畿道の

という。

的な夫婦の像と考えられたのである。この

の材料は松であったが、船があまり長持ち

船は欠かせぬ大事な運搬手段だった。造船

る 。

ったし、松の内皮は凶作のときの非常食と ような理由から伝統的な結婚式を行うとき

に深い夫婦愛の象徴としてとらえた。老い

して大きな役割を果たした。記録上でも凶 には、礼式床の上に松の葉を置く風習があ

た。松花の粉は特異な民俗食品の材料であ

を取ることを許可したという記録がよく出

作のときに、国王が百姓たちに赤松の内皮

ね、松と化してしまうという解釈も成り立

れ、松の中で暮らし、そして松に屍をゆだ

護政策を取った。松の以外の木は雑木とし

このため国では松を大事にし、格別な保

れに要する需要もかなり多かった。

造るのも松でなければだめだったので、こ

は莫大であった。それだけでなく、戦艦を

しなかったので、船材としての松の需要量

って多くの封山が指定された。しかし、こ

炭封山などが指定されたが、特に海岸に沿

材料には船材封山、木炭を作る材料には番

りした。棺桶の材料には黄腸封山、造船の

松林のうち優良なものを指定し、保護した

とを禁じたり、あるいは封山という名目で

松が人々の心性酒養に果たした功績は言

が﹁松は百木の王、だ。よって今後その伐採

高一麗朝、顕宗四年(一 O三一年)に国王

ていて、人間の願いを聞いてくれると信じ

大木が多い。このような木には神霊が宿っ

韓国の各地には名木として名高い松の老

こう見てくると、韓国人は松の家に生ま

つ。松は﹁百木の王﹂として韓国人の心の

る 。

に欠かせないものだった。赤松の煤で作ら

なった。当時の墨は文書の記録や墨絵など

奥深くに刻み込まれている。また、韓国人

て低く見られた。松は買木の王とされてい

てくる。当時、山野の樹木は全て国王の所

れた墨は松畑墨王いわれ、中国に輸出され

たのである。

有であった。また、赤松の煤は良質の墨と

たりした。 はそれを信じ、行動しながら生きてきた。

い尽くせないものがある。松を謡った古い

を禁ずる﹂という令を下したことがあった。

られていたし、またその木を崇拝しなけれ

のような封山も次第に侵されていった。

韓国人の文化は松の文化だと一言守える。

ところで、墓地周辺に松を植えることも らせると信じられていたからである。この 名詩や名文は数限りなく多い、また松は名

上訴文の中には﹁兵船は国家の重要な装備

朝鮮朝、世宗元年(一四一九年)、臣下の

多かった。これは、松は霊魂を安らかに眠 ような目的で植えられた松を丸松という。

画の素材にもなったりした。韓国の愛国歌 松の葉は二本が向かい合っていて、下部

松の名木

今もこの丸松が珍しくない。

にも松は強く威厳のある象徴の木として表

ために自然にこのような木の保護が行われ

ば、たたりがあるという民俗信仰があった

目、月、空気、水、鶴、亀、などの十長

現されている。

であり、建造材料には松しかな

松の象徴性

い・・・・・﹂と言って松の保護政策と兵

が葉鞘部の中にあり、下端は互いにくっつ

はないという東洋の甲笠号が現れている。即

た。これには、人間は自然を支配するので しかし、松の不法伐採が盛んに行われ、

ながら生活を営んできたのである。

ち、韓国人は伝統的に自然の摂理を尊重し

いている。また、その聞に幼芽がある。葉

二年には松の伐採を禁じ、保護する政策が

森の荒廃が進んだため、一七八八年正祖一

船の管理法を求めているのがいる。

のであり、松を長寿の象徴としていること

は入っている。長寿こそ人聞が最も願うも を見ても松を単なる木ではなく、まさに羨

生、即ち長寿を象徴する十種類の中にも松

たまま、葉鞘ともども落ちてしまう。韓国

が成熟して落ちるときには互いにくっつい 人の先祖たちは葉鞘を一軒の家として、幼

慶尚北道の種泉の石松霊という松の老木

望の対象として見ていたということが分か

樹立されるに至った。これを﹁松禁事目﹂

芽を将来誕生する生命体として考え、さら

(よ)慶尚北道青道所在のシダレアカマツ (中)江原島三捗の黄金赤松 (下)江原島寧越の法興寺の優良赤松林

7 0


けでなく、相当額の現金貯蓄があり、その

ない納税の義務を負わされている。それだ

と防衛税など、国民が履行しなければなら

いる。毎年、小作料の収入があり、財産税

輿がスムーズに通れる ようにしたというわ

き、下の方の枝を自ら持ち上げて、その御

いる。この木は世祖の御輿が通り過ぎると

ラソルを聞いたような美しい外観を呈して

輪をもっ松の木が立 っているが、樹冠はパ

俗離山の法住寺の入口には六OO年の年

幸福と繁栄を守る洞神木として、毎年村の

このような木はごく珍しい 。この木は村の

は黄金の松がある。針葉の色が黄色であり、

として評価されている。江原道の 三砂郡に

によ って韓国では最も典型的な松の一品種

れる松がある。この松は、その優雅な樹形

がどんどん伸びていく樹齢二百年と推定さ

ということである 。今も松の葉、だけを食

生活で、米、麦などの穀物を口にしない

健康を保 ったという。 これはまさに僻穀

侶は松の葉だけを食べて 一九年もの問、

記録によると約百年前にある寺剰の僧

が与えられているという。

て奇妙な形をしているが、この木にも霊性

の幡龍松という松は幹と枝が曲がりくねっ

を物語る 一つの事例である。

利子で学生たちに奨学金を与えている。 一

人々が祭礼を行なっている。

は現金、土地などの財産を法的に所有して

言でこの木は一国民としての待遇を受けて の正二品松は韓国の松のうちもっとも美し

けで、正 二品(大臣の位)が贈られた。こ

とはよくある。

うが、健康のために松葉の粉を食べるこ

べて暮らしている特殊な集団があるとい

いるだけでなく、身上持ちなのである。世

れているのは全部で一 七本だが、このほか

慶尚北道建泉の石松霊赤松。この赤松は財産を所有する法的権利が認められている

にも松の名木は多い。例えば、京畿道利川

現在、松の木として天然記念物に指定さ

界のどこにもこのように人間としての待遇 慶尚北道の青道にはしだれ柳の ように枝

いとされている。

' a

7 1

を受けている木はない。 これは韓国人が老 大木をどのように考えているかということ

忠清北道俗離山法住寺入口にある正二品の松。朝鮮時代の世祖王が官等を授けた


蘇鎮轍

所蔵人物画像鏡﹄(以下﹃隅田八 幡欝)と﹃七支万﹄に刻まれてい る銘文を新たな角度から解釈、五、六世紀 の百済・日本の関係を研究していた蘇鎮轍 教授(政治学 ・六回)がこれまで執筆した原 稿をまとめ、このほど論文集﹃金石文に見 る百済武寧王の世界﹄を刊行した。同書は 四編の論文からなり、日本語訳がついてい るが、それぞれの論文を発表する当時から 史学界、とりわけ日本の学界から少なから ぬ関心が寄せられた。日本の学界では ﹁ 五 、 六世紀当時、日本が韓半島の南部を治めて いた﹂というのが通説なのだが、蘇教授の

(圃光大学山出信用刊・七、 の ハ 汽¥ J ン) オ

の世界﹂

蘇教授は﹁わたしの学説の中心には、常 王の誌石が発見されてから百済と日本の関

七支 の銘文についても の分かれていた ﹃ ﹁これは寸大王﹂の百済王が候王(諸候国の

また、これを基にして韓日息子界で議論

とを明らかにした。

P

記念に 日本の継隼主に賜ったものであるこ

ていた古代を解くキーワ ードとして働いた ことに着目、研究したあげく武寧王が即位

大 斯撤﹂に表記する一方、百済の王を寸 名を﹁ 王﹂と している部分がこれまで聞に包まれ

﹁ 倭 ﹂ は百済が治めていたl

蘇教授の説の軍芭日は、①当時、百済は王

係を正確に解釈できる学問的根拠ができ

寧王であるの四点に絞られる。

が自らを ﹁ 大王﹂ をもって任じるほど大国 だった、②百済の王は、弟君または王子を 差し向けて日本を治めさせた、@芋両け

た﹂と語っている。つまり誌石に日本の王

に武寧王が存在する。七 一年に武寧王陵で

た者に統治権を象徴する神物として与‘えた

からである。

ものが銅鏡(﹃隅田八幡鏡﹄もその一つ)と ﹃ 七支 である、④幼いとき﹁倭王武﹂に位

蘇鋲轍著

論文はそれを否認しているだけでなく、む

一 王 . 2 . 1世上皇 大主.2.1世界一

紀 の したあと百済に帰って王位に登ったのが武

金石文主主日清武寧王身世界

フリー ( ラン サー)

ンノ¥

金石 百斉武廊 遠 ォ _ _ _ L _ . . .

本の国宝である﹃隅田八幡神社

イ 五、 しろ 日本は百済の属国であったとしている

P

古代緯日関係研突論叢

e

李l

@

という新し 王)の日本王、旨に賜ったもの﹂

い説を唱えている。 というのである。

蘇教授は、これまで圏内学界でほとんど 関心を引いていなかった﹃隅田八幡欝の銘

どの同じ文句がある 大王年 な 文に﹁斯撒﹂ ﹁ L

蘇教授は、さらに進んで中国の﹃宋書﹄に

記録されている ﹁ 倭武王の上表文﹂ を分析 し、﹁武王は幼くして父君、蓋婁王によっ

て日本に差し向けられた﹁斯繍﹂であり、そ こで成長して大人になってから帰国、 二五

代百済王の武寧王に即位した﹂と述べてい る 。 ﹁武王﹂など、中国の このような学説は、

史書に現れる﹁倭五王﹂を天皇系図の実体と

蘇教授によると、日本語訳論文を日本人

見ていた日本学界に衝撃を与えたようであ る 。

の反応を示してくれた手紙が意外と多く届

史μ 主台 一ハ内選小名に送ったところ、前向き

九州大の 田村園澄名誉教授は﹁日朝古代

いたという。

史に関連してはいろいろな説があるが、﹁蘇

先生の説は画期的な新しいもの Lであると

し、﹁日本の学界に大きな刺激を与えるこ

とになろう。わたし自身も蘇先生の解釈を

もとにして勉強しなおすつもりだ﹂ と語っ ている。

早稲田大の水野祐名誉教授も、﹁誌石の 斯椀が﹃日本書記﹄のそれと、また﹃隅田八

幡錆﹄のそれと一致するということは、大

いに注目されてしかるべきである﹂とし、 ﹁わたしが唱えた﹃隅田八幡鏡﹄の突未年(四

四三年)製作説を考えなおそうと思ってい

る﹂と述べている。

' a

72


JOURNEYSI NKOREANL lTERATURE

ノ ノ 、 』

ヨ ム

百 里

1930年代から 1960年代まで 韓国の代表的な作家であった金束里。 彼の作品は産業化や近代イじが進む前の伝、統的な 韓国人の生活をテーマにしたもの多い

7 3


ー 開 閉 . 開 閉 目 . ‘

来 里

とき、われわれは幾つ

かの特徴を指摘してお

く必要がある。散文小説、すなわちフィク ション分野における長編小説と短編小説の 独特な性格は、外国の読者や部外者には説 明が必要であろう。韓国は日本と同じよう に、日刊紙が連載小説を毎日載せている、 世界でも数少ない国の 一つである。新聞の 連載小説は、読者の期待を満たしながらも 常に次の展開が気になるように読者の関心 を引きつけておかなければならないという 非文学的な負担を背負っている。このため 大衆の趣向に迎合しなければならないとい 一 九 一 0年代から 一九六0年代中葉にか

う弱みがある。 けて、韓国の長編小説はほとんどが新聞連

ロロ

界 事 実

にも﹃駅馬﹄や﹃実存舞﹄、﹃かささぎの声﹄

てのものであった。先ほど挙げた短編の他

としての名声は、依然として短編作家とし

の韓国の代表的な散文作家として知られて

ぅ。しかしながら、例えば解放以前(戦前) いる人々、金東仁、玄鎮健、李孝石、金裕

れた短編作家とは違い、長編小説に力を注

である。そして、文学芸術家として認めら

台にして伝来の因習と風習を守りながら生

多数が生活を営んでいた農村(田舎)を舞

な韓国人の生活である。当時、韓国人の大

ーマは、産業化や近代化が進む前の伝統的

金東里が代表的な諸作品で扱っているテ

などの短編集がある。

いだ作家、例えば李光沫のような人は純粋

認められ、優れた短編小説を残した人たち

貞のような文人たちは、皆短編作家として

な文学芸術家というよりは大衆作家として

きていく人々の生活の細目が取り扱われて

0年代から六0年代までの韓国の長編小 一

発表し始め、やがてその力量が認められた。

を書いた﹃亙女図﹄や市場の奇異な運命的

た。在来の原一俗信仰と外来宗教の聞の葛藤

ら、彼は一時最も韓国的な作家とされてい

な現実を執劫なまでに追い続けることか

いる。彼らの生活は、貧困と抑圧的な昔の

位置づけられていたのである。

慣習によって抑えつけられていた。土着的

説である。もちろん、低俗な商業小説が量

の代表的な作家であったことは自他ともに

そして、六0年代まで黄順元とともに韓国

金東里は、三0年代半ばから短編小説を

三0年代に書き始める

産されたにも事会式ではあるが、長編小説と

そ短編小説を通じてそれを実現させようと

や作家的野望を持った若者たちは、おおよ

うになったのである。透徹した芸術的意欲

に、短編小説は特別な位置と重みを持つよ

このような韓国文学市場の特性のため

化を受けた。中学を中退した後、肺結核を

れていたが、その長兄から多くの影響と感

かった。彼の長兄は漢学の大家として知ら

に家門が傾いたため外国留学などは望めな

の後育に生まれた彼は、日本の植民地時代

州で生まれ号事朝の士大夫(文武両官 に任ぜられた両班の一般的な呼称)の家紋

ひと頃彼の作品は短編のモデルと見なされ

ながらも実域溢れる対話言語などによって

とした作中の人物、合理的に処理されてい

の長物のようなもののない構成や生き生き

金東里の文体は綴密で厳格である。無用

サデブ

認められている。彼は新羅の古都である慶

した。短編小説は、少数の眼目のある読者

の短編を収録するのは義務であるとまで考

た。高校や大学の韓国文学のテキストに彼 ﹃亙女図﹄、﹃山火﹄、﹃村の入口の前の道﹄、

現在、昏睡状態で生命を保っている。

えられた。何年か前に高血圧で倒れた彼は

もうなさつける作品である。

を予想して書かれた、厳密な意味での文学

しながら作家活動を始めた。﹃黄土記﹄、

患っていたので、田舎の山寺で療養生活を

﹃岩﹄などの作品が初期の彼の代表的短編 解放後(戦後)、文学界が左右の対立で

都市居住者の生活と意識を主に扱った作家

は対照的に、近代化と都市化の産物である

活を愛情と哀れみをもって描いて見せたの

金東里が過ぎし日、韓国人の土着的な世 であった。短編小説によって文学的才能を

い文人として文学の自主性を擁護し、政治

分裂したとき、金東里は右派を代表する若

誇りに考えていたが、一九二0年代から六 0年代半ばまで韓国のフィクション文学の

認められた作家たちは、もっぱら生活のた

や詩人たちがいる。

である。

めの方便や余技として連載小説を試みたの

一時的ではあったが、周りが文学論争に彼

的理念を掲げる文学批判の先鋒となった。

学界の態度にいささか面食らったであろ

ちにとっては、短編小説を重視する韓国文

(B旨 O 門官民白)として理解していた読者た

などの長編を発表した。しかし、彼の作家

彼は﹃サバンの十字架﹄や﹃自由の天使﹄

を引っぱり込んだ。朝鮮戦争が終わ った後、

義者であると言える 。金東里も﹃実存舞﹄

め、金東里は、ある面においては反近代主

のような詩人や作家を指している。そのた

韓国においてもモダニストとは、概ねこ

である。短編小説を下位のジャンル

社が全作長編を発刊し始めたのである。だ

優れた短編小説を厳選して掲載することを

作品であった。専門的な文学誌や総合誌は、

ている。

いえば連載小説を連相公 9る習慣は今も残っ

な出会いをテl マにした﹃駅馬﹄などは、 韓国的な住家というレッテルが貼られるの

ませる作品を書いて世に出したのが、一九

う不利な条件を克服して、今なお面白く読

どは新聞連載小説であった。新聞連載とい

渉の﹁三代﹂や朴泰遠の﹁川辺の風景﹂な

鋪ホ

水準と質を維持してきたのは短編作家たち

載小説であった。六0年代半ば以降、文学

ロ 。 刀 可さ

が、未だに韓国においては出版社で初めて

説の中で現代の古典に数えられている廉想

説であるとは限らない。二O世紀の韓国小

ずしも低俗な大衆の趣向に合わせた通俗小

新聞や雑誌の連載小説だからといって必

編小説が多いのである。

に連載した後、単行本にして出版される長

発刊される全作長編小説よりは新聞や雑誌

市場の読者が増える中で西欧のように出版

の 宇 イ

世紀の韓国文学を語る

。 一

品 一

, 五 r 』 、

74


こにはある伝説が伝わっている。その伝説 は、昇天しようとした一対の竜の挫折に関

示唆するものである。

でのように、現代戦争の破壊の中をさまよ う都市生活者を描いたこともある。しかし、

が進む以前の伝来の生活を扱うとき、彼の

この短編は、韓国の民間説話のモチーフ を取り入れている。ずば抜けた力と勇気と

が挫折する運命を背負わされていることを

文体と性格創造と状況描写と対話は断然生

を持ったまれにみる英雄・豪傑を韓国では

するもので、これはファンドコウルの住人

き生きと光輝くのである。その点からする

そこで彼の才能と力量は適切な素材を探し

と、金東里は外国人読者にとっていくらか

ャンスンは羽を付けたまま生まれるか、生

昔チャンスンと呼んでいた。このようなチ

当てたようには見えない。商業化と近代化

02)は翻

ロパlト・フロスト(習官民即

理解し難い作家であろう。アメリカの詩人、

るという。(ガブリエル・ガルシア・マル

ケスの﹃百年の孤独﹄にもこれによく似た

まれてすぐに目を聞けるなどの奇跡を見せ

人物が出てくる)。韓国でこのようなチャ

訳を通じて消え去ってしまうものこそ詩で

ンスンが現れると自国が侵されるとと憂え

ある﹂と述べているが、金東里の文体も翻 のである。それほどに、彼の作品では文体

訳によって蒸発してしまう危険性が大きい

た中国は人をよこして予防措置をとる。そ

の結果、チャンスンの出現や成長が阻まれ

る。これから言及する短編﹃黄土記﹄と

る一ざっとこんな民間伝説が少しずつ内容

と雰囲気が重要な役割を担っているのであ

の読者たちには郷愁のおびた情感を呼び起

﹃黄土記﹄の主人公をオクセは、超人的

を異にして、全国至る所に伝えられている。

﹃村の入口の前の道﹄は表題からして韓国 こしそうな喚情的な表題である。翻訳はそ

な力のあるチャンサ(壮士 U力持ち)で、

のような局面を消し去り、指示的な無味乾 燥な意味だけを残すであろう。

を驚かせた。ファンドコウルで生まれ育っ

たチャンサは逆賊になるという言い伝えを

上がる。(当時の法律では、逆賊罪には三

﹃黄土記﹄は三0年代末に発表され、作

一三歳のとき、剛力ぶりを見せて村人たち 挫折と浪費

族を滅ぼす極刑が行われた。したがって、 一族の中から逆賊が出ると、大変なことに

クセを不具にしてしまおうという話が持ち

なる。三族とは、父方の親戚と母方の親戚、

信じている村人たちとオクセの伯父は、オ

の村や小都市の地形を検討してその場所の

形学のようなものが伝えられている。一つ

そして妻の親戚を指していたため、連座罪

は昔から風水地理説として知られている地

いこと、不吉なことを予測するのである。

運勢を占って、その地の住民たちの慶ばし

は非常に広範囲にわたって行われていた。)

家の名声を確立させた作品である。韓国に

地理の専門家に決めてもらう。この風水地

家屋の敷地や墓地の位置は地官という風水

ところが、オクセの父親ががんとして応じ なかったので、幸いオクセは災難を免れる

中に岩を抱えて山を下りたり登ったりする

つれて湧き出る力と精力を抑えきれず、夜

ことができた。しかしながら、年を取るに

理説は類似科学的な根拠を持っていて、単 に迷信的な俗信と片づけることはできな ﹃黄土記﹄の舞台になっているファンド

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コウル(黄土郡)は黄土地帯であって、そ

7 5


災厄がやってくることを恐れるあまり村を 離れる。オクセの父親は死に際に息子に次 のような遺言を残す。 さることなく罵り合う。世間の 誰もが知っているファンドコウ

してしまう。後に残された二人 の男は依然として酒を飲み、尽

のだった。そんな噂が立つと、彼の伯父は

﹁お前が幼かった噴、誰かに運勢を見て もらったところ、お前の運命には禍の気が

結局ソルヒを殺害し、トウツボ に傷を負わせてから姿をくらま

あるから、若いときに血気を抑えないと、 とんだ災難を招くと言っていた ・・・。し かし、人間には力は宝と同然なのだからお

りである。その後、オクセは、この父親の

んでその日を待つがいい。 ﹂ この遺言は、この作品の中枢をなすくだ

巨人に翠己ない。

老の彼には家族すらない。彼は まったくの天涯孤独の状態を待 ちわびるうちに老いてしまった

力持ちたちが、似通った無駄と無益な自己

消耗の生を営み、今後ともそうであろうと いう予感がするようになる。 オクセの無駄遣いされた能力と挫折して しまった人生は、社会的移動(回OEt

B o σ倍々)が不可能で、身分が固定してい た旧時代と画数関係になるのであろう。身 分関係の固定が地理的な移動さえ、妨げた

時代の非凡な英雄・豪傑の運命を象徴して いるのが、この民話的短編の世界である。 これといった劇的な事件や展開がないにも

さらに一吉早えば、﹁オクセ﹂や﹁トウツボ﹂

かかわらず、この作品が韓国の読者たちに 深い感動を与えるのは、植民地時代の境遇 をそこから読み取ったからであろう。

ながったであろう。生き残る代

感受性が鋭い年齢の読者たちに﹃黄土記﹄

話や歌が衝撃を与えるのは、原型のモチー フを取り入れたからだと述べる人もいる。

前であるにしても、この状態に変わりはな い。原型を語る文学理論家の中には、ある

という名前は彼らが平民階級に属し、いわ やンパン ゆる両班家門の出身ではないことを示唆し ている。﹁オクセ﹂がたとえ幼いときの名

になり下がってしまったのである。彼の人

が特に訴えるものを持っていることは広く 認められている。ところが、外国人の読者

ファンドコウルに住みついたトウツボもま た、非凡な気運と力の持ち主ではあるが、 どうにかオクセの好敵手になっているだけ で、ずば抜けた能力を酒と女に使い果たし、 挙げ句には情婦に刺されて傷を負う身にな

もうけなければ﹁姓を背負ってあの世に行

対して 一瞥する必要がある。家父長制にふ さわしく韓国では、男の子を選り好む傾向 が特に強かった。家門を継承する男の子を

女の一生 ﹃村の入口の道﹄も、産業化や都市化が 進む前の非常に貧しい韓国の農村が作品の 背景になっている。したがって、この作品

たちの反応が比較的冷淡であるというの が、これまでの観察である。

る。彼もまた、全く身寄りも頼るところも ない男やもめである。われわれは、行間の 意味を読みとってオクセや下ウツボだけで

を理解するためには、事 し C 時代の慣習に

なく、 ファンドコウルで生まれたすべての

生は大きな力の所有とその浪費である。そ の点、二匹の竜の挫折に関するファンドコ ウルの伝説をそのまま現実化している。ど うして、このことがオクセだけに尽きるで あろうか。たとえ、風来坊であったにせよ、

わりに彼は自分の能力と才能を 伸ばし続けることができなかった平凡な男

彼が自分の本当の力を見せたと すれば、それは大きな災厄につ

オクセの挫折はカをひた隠し に隠してきた彼の生き残りの方 法と関係があるといえる。だが、

前がこれをのみ込んで振る舞えば、後々に 大きく振る舞う日がやってくるだろう。慎

ルのチャンサもトウツボとの無 意味な暗曜のほかは力を発揮で きる機会も与えられぬまま、た だの農夫として老いていく。初

のためのようだが、必ずしもそうではない。

イデンティティを確認するのである。不良 じみたトウツボを村に住まわせ、住居の小 屋すらあてがってやったのも彼の何かに引 かれたからだろう。オクセとトウツボとの 聞を行き来していた妖婦タイプのプこは、

対決は原型的なモチーフであるが、オクセ とトウツボは、まさにそんな関係である。 オクセは、トウツボを通して自分のカとア

に何か引きつけられる。好敵手で競争者の

を追ってファンドコウルへやってきたよう である。彼も大変な剛力で、オクセの喧嘩 相手でもある。好敵手を迎えたオクセは彼

はっきりしない風来坊である。思うにプこ

よそからファンドコウルに流れ込んできた トウツポは鍛冶屋だったらしいが、履歴の

遺言を守って時期が来るのを待ちながら暮 らす。彼はどこへ行っても力自慢などはし なかった。それによる災いを恐れたからで ある。しかし、いつかは力をありったけ発

示と環境はオクセに矛盾する態度を強いる

揮できる日が必ずくると信じていた。この 態度は明らかに矛盾しているが、父親の指 のである。抑えようのない精力と力を持て 余す彼の行き場は居酒屋しかなかった。 力の発散を抑えて時期が来るのを待ちわ びながら生きてきたオクセはいつの間にか 胡麻塩頭の初老の年になって初めて作品に 登場する。農夫の彼には機会が訪れなかっ た。彼は、実直に生業に従事するが、妻を 亡くし、子もいない境遇であった。そして、 器量も人柄もいい村の寡婦ソルヒと情を交 わす間柄になる。その二人の聞にトウツポ という男が割り込もうとする。そこへ今度 はトウツボの情婦のプニがやきもちを焼い て割り込んできて、四人の関係はいとも複 雑になる。ソルヒを聞において、オクセと トウツポは年に一、二度泥酔するほど飲み ながら血闘を繰り広げる。一見、三角関係

7 6


く ﹂ (代を継げな いと言う意味)といって、 祖先に対して大罪を犯すものと考えられて いた。したがって、自分の正妻が男の子を 産めないと妾を囲うのは当然のこととされ ていた。もちろんこれは、経済的にゆとり のある者の場合であって、暮らしに困る者 には望めないことであった。甚だしくは、 あかの他人の女に男の子を産んでもらう条 件で契約を結ぶ﹁シパジ﹂という富田もあ ったのである。事会大上の人身売買が行われ ていたのである。男の子を産んだ女人は、 子どもとは一切の関係を切らなければなら ない。男の子は父親側が引き取って育て、 出生の秘密は絶対に明かされないのであ る 。 ﹃村の入口の前の道﹄の女主人公である スンニョは、金持ちではあるが、息子のな いヤンという老人に身を売り、妾として因 われている女である。身を売る、つまり売 られてきたというのは、地主のヤンがスン ニヨの実家に五反歩ほどの田んぽを耕作さ せてあげたからである。いうならば、貧し い家を小作人にしてやって、その代わりに その家の娘を妾に囲ったのである。仲人の 男の子を産んでくれれば、賛沢三昧させて やるなどいう口車に乗せられて妾になった のであるが、実際には里の兄が小作人にな っただけのことである。スンニヨの実利と いえば、 一軒家に住まわせてもらい、飯を 食わせてもらうくらいのものであった。 一 年に一度、里の母親の誕生日に鶏 一羽を下 げて里帰りするのがたつた一つの楽しみで あり、生き甲斐であった。スンニョは息子 を三人産んだが、二人の息子は、ヤンの正 妻が自分の産んだ息子として育てていた。 三番目の息子だけは自分に育てさせてくれ るよう哀願するが、聞いていない振りをさ

たまま里帰りをする。 きれいに洗って履いた白いゴム靴が彼女 の唯一の賛沢であり、一年に 一度持ってい

きたことが、ばれて、ヤンの正妻に殴り込ま

ンの下女をそそのかして自分の家につれて

れた。自分の産んだ子どもでありながら、 会えない息子たちを 一目でも見ょうと、ヤ

ろうとしているのである。しかし、スンニ

ある。彼女が健気にも心から救おうとして いる里の家族も彼女を使って過酷に搾り取

ウーマンリブの視点から見るとき、スン ニョこそ家父長的な制度の最大の犠牲者で

の﹁女の一生﹂をこの短編は克明に描いて 見せている。

り間違えれば追い出されかねない。 一時代

が湧かな いであろう。スンニヨの状態は非 常に不安定なものであるだけでなく、まか

都市化と産業化が大いに進んでいる今日、 韓国人は韓国の歴史的過去をより冷静かっ

意とも関連する局面ではあるが、これは確 かめておかなければならな い局面である。

優れた作品は、概ね歴史的・社会的資料と しても意義深い場合が多い。現実観察の誠

するのは、必ずしも適切ではない。しかし、

その後のモデルとされていったのである。 文学作品を社会史の資料としてアクセス

短編を通じて文学に寄与してきた。量的に て 、 は豊富ではな いが、 質的な確かさによ っ

れてスンニョは瀕死の状態になる。結局、 スンニヨは三番目の息子まで取り上げられ

く﹁真っ赤な雄鶏﹂が慰みであった。

うな問題に対し、われわれの健忘症を癒し てくれる役割を担うであろう。

入口の前の道﹄のスンニョは形を変えて、 われわれの周囲で依然として犠牲と忍従を 強いられている。金東里の短編は、このよ

る。そうだとすれば、われわれの無意識の 片隅に﹁オクセ﹂の挫折がわれわれ自身の ものとして残っている。そのうえ、﹃村の

り、この変化は今後、加速的に進むであろ う。﹃黄土記﹄のオクセは、今日いろいろ な分野で非凡な才能と能力を発揮してい

﹃黄土記﹄と﹃村の入口の前の道﹄が描 いてみせる時代は昔である。世の中が変わ

おいては文体が重要である。文学と非文学 を区別してくれるのは、結局文体である。

た作家たちの作品が読むに価するのは、わ れわれに示唆するところが大きい。文学に

がら、落ち着いた観察と轍密な文体に期し

る。現実逃避という批判を甘んじて受けな

る。小さな目的意識が先行して十分な文化 的形象化が成し遂げられなかったからであ

困の文化 (2E50剛志ぎミ)﹄の多く の作品は今では読みづらい作品となってい

客観的な視点から眺められるようになっ た。三0年代と四0年代に、現実描写に専 念するという大義名分の下に書かれた﹃貧

ョはそれを意識していない。実家のために 犠牲になって忍従するという封建的な旧習 に従っているだけである。作家の観点はウ

はその数少ない人物の一人であり、優れた

が危機に陥っていたとき、民族語を守り、 磨き上げた文士はあまり多くない。金東里

記﹄などは 一時代の韓国人の土着的現実に 対する正確な観察であり、またその文学的 形象になっている。重要なことは、作家は 理念を標梼するものではないということ だ。作家的実践が重要であり、また抜きん でた文学的成就が重要なのである。三0年 代と四0年代にかけて韓国人の民族の言葉

かし、金東里の初期の短編﹃山火事﹄、﹃野 蓄額﹄、﹃岩﹄、﹃村の入口の前の道﹄、﹃黄土

うな要素が彼にはあるのかもしれない。し

派の批判にいつもさらされていた。そのよ

る。したがって、非現実的で神秘主義的傾 向を帯びた現実逃避の作家であるという左

左派文士たちと激しい論争を繰り広げ、文 学の政治的従属に反対してきた作家であ

のこと考えさせる。 金東里は戦後、社会主義的性向を帯びた

ありのままの現実を描くという公正な態度 を保っているのである。それだけにスンニ ヨの犠牲と忍従の一生は、われわれに多く

ーマンリブ的な視点からはほど遠い。ただ

この作品には余分な細目や必要のない逸 脱は見られない。必要なものはみんな揃え て、不必要なものは 一つも混じり込ませな いという構成の原理が支配している。忍従 と犠牲によって受け身の人生を生きていく スンニヨや攻撃的で残忍な正妻の人物描写 は簡潔でありながらもリアルに処理されて いる。また、支章も要領よく展開されてい る。韓国の短編の 一つのモデルになったの も偶然ではない。本妻がスンニヨを殴打し、 罵る場面には原始的な猛々しささえのぞか れるが、子の産めない女のすさまじいまで の恨みが真に追ってくる。このような本妻 と妾の聞の喧嘩は、韓国の小説によく出て くる場面であるが、これは韓国の家族制度 や慣習の特殊性という脈絡の中でだけ理解 が可能であろう。全体的に暗く、また出口 のない雰囲気であるが、女性の経済的な自 立が望めなかった時代においてスンニョが 歩んだ道は貧困から脱出する一つの方便で あった。スンニョの現状はそれでもいい方 に属する。しかし、ヤンが死んで本妻が全 権を握るようになれば、スンニョの運命は どうなるであろうか。自分の産んだ息子た ちは出生の秘密を知らないであろうし、仮 に知ったとしても、自分たちが妾腹である ことを思い出させる生みの母親に肉親の情

A

7 7


NEWSFROMTHEKOREAFOUNDATION

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、紛十 の大学、研究所などで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文 ・社会 科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請 を受け付けております。

韓国国際交流財団のフエ ローシッブ・フログラム 韓国国際交許謝団は、毎年実施している韓国研究フエ ロ←シ ップおよび 韓国語フエロ ーシ ップを次のようにこ案内いたします。

韓国研究フエローシップ

①韓国学、韓国語なと韓国関連講座の開設およひ波大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一 日 で、選抜の結果および支援額については、 。同 年十月十五 日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での緯国研究に対する支援」およ び「緯国国際交流財団のフ エローシップ・プロ 案内書は、稼国国際交 グラム」の申 請書およひ1 流財固または現地の韓国公館で求められます。 申請書およひ案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご 連 究期間中の滞在費が支五合されます。申請ご希望の方は、

絡願います。 線国国際交矛謝団国際協力 1部 大尊民国ソウ ル特別市中央郵逓局私書函二一四七号

電話:8 2 2 7 5 3 引 6 4・FAX: 8 2 ・2 乃7 ' 2 J J 4 7・'2JJ49

KOREAFOCUS

所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月 三一日ま でに韓国国際交祈謝団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。

韓国語フエローシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者およ

(韓国の時事問題関係隔月刊誌) 緯国国際交流財団は、隔月刊五世OREA FOCUS( コリア・フォ ーカス)

び適格の専門家に対して、韓国語フエローシ ップを提供し、六 一二カ月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フエロー

を刊行しております。「コリア ・フォ ーカス」は日本のみなさんに韓国関連

シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一

の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていく ことを目的としております。

つの韓国語講座を受講することかでき、受講期間中には、授業料と所定の

当財団は「コリ ア・フォ ーカス」 が 日本の皆様にとって韓国に関する有益 な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス」は、日本語版のほかに英文即<OREA FOCUSも 刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、学術 誌などの刊行物から翻訳、転載したものです。 韓国の時事問題に関する情報性記事を幅

滞在費か安浮きされます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成 のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。

i 器友の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 照宮にご連 申請書およひ案 内などについてのお問い合わせは、下記の住F 絡願L、ます。 韓国国際交滑調団国際協力 2部

広く選んでおりますので、韓国の現況につ

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いて広い視点を提供することになります。

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と同時に読者のみなさんは韓国の政治、経 済、社会、文化など各分野の記事や国際問 題 に関する見解、韓国に関する重要な資料、 主な出来事の日誌などに接していただ くこ とになります。

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1 9 9 4年韓国訪問の年はN O V I S . A : で ご 旅 行 を。

今年、 1 9 9 4年はソウルが首都に制定されてちょうど6 0 0 年になります二私たちはその記念すべき年を「韓国訪問の年:J( V I S I TKOREAYEλR 1 9 9 4 )とし、世界のお客さまをお迎えすることとなりました。ひとりでも多くの方々に私たちの国を、心で、体色感じていただこうと、 さまざまなイベントやフェステイ 1 ' ¥ ルを全国各地でご用意いたしました 。どうか心ゆくまで私たちの国 KOREAをお楽しみくださp.。

いちばん近い国だから。

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〒 1ω 東京.千代図区有楽町 1+1(三 f~ ピル 1111) TEL:( 田 I}草創期1FAX: { 田 } 蜘 欄1

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〒S.1 大阪市中央区本町 3 +S(KALヒル隅} 〒 811 福岡市 lH区1特駅前 1-1- 1(・間ヒル由}〒醐札観市中央1& ~t l 条西 3n(札!l MN ビル 7億} TEL:(筒}閣制7 FAX: ( 偏)1IiG醐3 TEL : ( ' 惚 U 1 H mFAX:( 即)17 1 8 0 1 5 TEL:(0 1 1 )1 1 0醐 IFAX: ( Q 1 I) 1 1 0醐 3

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