Koreana Spring 1995 (Japanese)

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韓国の芸術と文化 V o1. 8 / No . 1 1 9 9 5年 春 季 号


い /

ソウルの南の商業地区にあるホテルには、最高に 親切で、最高にリラックスできて、最高のサービ スをするという定評のあるホテルがあります。 お客様のご要望をお察しして、すばやく応じるか らです。すばらしいっその通りです。 それが韓園流のおもてなし、そしてルネッサンス のスタイルなのです。

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ダイヤ


韓国の美

太極の紋様

極は宇宙の根源であり、

人間生命の源泉とされる。

宇宙という無限の概念の

の調和は五行をなす。太極には、東

太極から天と地の陰陽が生じ、陰陽

思想が下敷きとなっている。韓国の

洋思想を最も長い間支えてきた陰陽

るが、陽の赤と陰の青が調和して宇

国旗は太極の紋様が基本をなしてい

宙と事物の根源を象徴する。太極紋

様は韓国の国旗のみならず、韓国人

の自然観、思想、人生観など精神領

域に深く内在している。 韓国人が好んで使用した三大極は、

天と地、そして人間の 三つを大極で

表したもので、韓国人の神話と生活 の中にたやすく見いだすことができ

る。赤、育、黄からなる曲玉模様の

紙づくりの太極扇などの扇や華麗

三太極紋様は、とりわけ伝承工芸品 で多様な姿で現れる。

工芸品に陰陽ひとつがいの太極から

な螺銅漆器の装飾など、数々の民俗

五太極に至るまで多様な色合いと形

が姿を表す-

日常生活の中でも玄妙な宇宙の真

理を悟り、それを生活の美へと誘っ

ていた韓民族の深い哲学と美的感性

が窺い知れる。。


B ?Ii Il IIl 慨

光J 友5 韓国の文化と芸術その由顧と展望

E

カバー ・ス トー リ一 光復 5 0 年、韓民族は今年、 民族解放 5 0 周年を迎え る。解放後、国土分断、戦 争などの堪え難い試練にぶ つかりながらも韓国は、乙 の半世紀の間、驚異の発展 を成し遂げた。 KUJ班 A NA

4 光一司

は、波乱と成就の中をくぐ

O

五 復爽

り抜けてきた韓国の文化・ 芸術の足跡を探ると共に自

激変の韓国史

前に迫った二十一世紀を展 望する特集を企画した。 過去半世紀の局、行き交っ

12

た明暗は、文化・芸術にど

韓国文化芸術の回顧と展望

うか。

のように反映し、次の世紀

ROUND TABLE

にどう展開していくのだろ

24

南と北は文化的 同質性を取り戻せるか

金文: 換

30

韓国現代美術の展開過程と展望

, __

36

韓国画五 O 年の課題と反省

史 年

五 学 文

2 国植 4 韓鍋

朴容淑

111

李逸

47

CLOSE UP

作家、朴景利の生き方と文学 鄭額基

a p b m h u n白 tion

PPET︿ 印 mとZ の亡 i

K(eJ f I mU


V o.l 8,No. l Spri ng 1995

KOREANA コリアナ 1995年

春季号

韓国国際交流財団が発行している季刊誌

大韓民国ソウル特別市中区南大門路5侮 26 干

100- 095

発行人兼編集人

屋昌潤

韓国国際交流財団理事長

在米彫刻家・韓を庸進 金畑国

58

KOREANARTI FACTS ABROAD

ピバディ一博物館

金光彦

62

ONTHE ROAD

漢灘江と鉄原平野

編集長

柳済 擢 アート・ディレクター

朴昇雨 定価

51

KOREANARTISTS ABROAD

金周祭

70

DI SCOVERI NG KOREA

椿

600 円 ( 4, 500 ウォン)

金泰旭 発行所

韓国国際交流財団 大韓民国ソウル特別市中央郵便局 私書箱2147号 - 電話・ 82ふ 753- 3462 . F AX : 82-2-757- 2047、2049

73

CURRENTS

1' 95美術の年」の意味 李亀烈

編集デザイン

A R T S P ACE PUBL I CAT I ONS 大韓民国ソウル特別市鐘路区通毅同 35- 11 ・電話 82- 2- 734- 7184 • F AX : 82- 2- 737- 9377 f KORE ANA ( コリアナ)J は緯国国際' " 涜財団が発行し ている季刊誌です. 従って版権はすべて本財団側に あり、本財団承諾なしに転載・複製することは禁じられ ておりますのでご了承下さい.

また、本誌掲載の記事・論文の内容は、本誌 編集者または本財団の意見ではありません。

1987年8月8 日 登 録 叫 1033号 1995年3 月20日 印 刷 1995年3 月31 日 発 行 ( 毎年3 、6 、9 、 12月4 回発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウル特別市減東区華隣同167- 29 ・電話: 82- 2- 468- 0361- 5

て1鳥 護

軍 i 彪: ~ 惨i


ラ0 光復 5 0 年記念事業バッジ



したのだからわれわれはすぐにも独立国家

際情勢を十分に理解できずに、日本が降伏

ており、当時韓国国民がこうした冷厳な国

の大きな筋書が独立運動史であり、独立運

を建設しなければならないといった非現実

占領して軍政を敷いたことがこれを裏づけ

動を先頭に立ってリードした先烈を顕彰し

的な考えにとらわれたことが解放後史に悲

つながったのも事実である。わが国現代史

光復(民族解患を語るとき、われわれは

て建国功併動山章を授け、その子孫に援助の

界の万邦に伝え、窮極的には祖国の解放に

よく帝国主義日本の植民統治中にたゆまず

手を差し延べているのもそのためである。

んでいる要因を取り除く、正確で確実な方

PKO部隊を派遣し、ロシア独立国家連 闘争を繰旦仏げた憂国先烈の独立運動を誇

策を見出すことができる。

合に少なくない経済援助を提供し、さらに りにする。もちろん先烈の方々が 一身の安

になったと自負している。雷原戦争やソマ

北韓の軽水炉支援計画にイニシアチブを

しかし、解放の直接の動因が第二次世界

リカ事態に際して小規模の兵力ではあるが

取って参加するなど、分相応の国際的役割

大戦で日本を敗退させた連合軍の勝利であ

精神の精華である。そして彼らの苦難に満

後、韓単車問を米軍とソ連軍が南・北に分割

ることは厳然たる事実である。日本の降伏

ため、日本人が逃げ帰ったからさっそく自

ですら大部分国際政治の見識を欠いていた

解放空間における韓国の政治指導者たち

劇をはらませた脹芽でもある。

した事実は韓民族が永遠に称えるべき民族

危を乗り越正て殺身成仁の崇高な志を実行

ちた抗争が韓民族の独立に向けた意士、少乞世

しかし政治・経済的な成就の裏に前進を

を果たすまでになった。

ることを見逃してはならない。昨年の一年

-74ah

匂 九

ていたわけではない。韓国戦争も同じであ る。一般に、解放により﹁国土﹂が分断し、

かった。 こうした性急さは解放空間だけに限られ

して従来とは全く異なる新たな展開を示し ていることには視点を据えることができな

急な意志が先走りし、世界が米ソを両軸に

すると、解放空間の興奮と国家建設への性

最前線の角逐の場となりつつあった。換言

戦依前に両分されるにともない、韓半島は

いたのである。しかし世界が米ソ葛藤の冷

みながら新国家の主人になることを夢見て

た素朴な幻想を抱いて各自政党つくりに励

主独立国家を作らなければならないといっ

視点を持えることができなかった

る新たな展開を示していることには

先走りし、 世 界 が 米 ソ を 雨 軸 に し て 従 来 と は 全 く 異 な

解放空間の興奮と国家建設への性急な意志が

温む精神的な弛みの現象が顕著に現れてい 間に発生した各種の大刑事哉、例えば至尊

a圃 ‘-

派殺人事件や将校脱営騒ぎ、聖水橋崩望事

a

故、航空機墜落事故、旅客船沈没、火災事 故など相次いで起こった事件・事故は先進 社会には決しであってはならない、前近代 型の恥ずべき記録である。 いわば、光復五O年の韓国社会は誇らし き成就のドラマと共に混沌と無秩序の恥ず べき醜部が混在しているということだ。成 就の先進国型のドラマを自慢しているうち に不道徳と未熟の後進的な恥部がさらけ出 されたのだ。韓国人の集団海外捧行が外国 人の自には、秩序意識の欠けた成金連中の 行列に映るのも、韓国社会のこうした二重 構造のためであろう。

光復五O年の真の意味 光復五O年を迎えるわれわれは、韓国社 会空重構造の淵、摂とありさ2乞よく見窮 めて、その正体を明らかにし事に臨まなけ ればならない。それは五O年前われわれは 民族解放をどう迎え、またどのようにして 分断の道に迷い込んだのか、そして民族同 士の韓国戦争の悲劇の中でその分断がどの ようにして固着されるようになったのか、 その過程を正しく認識しなければならな い。そうしてこそ今日韓国社会の発展を温

. ・ .・



南・北に政権ができて国家が分断し、韓国 戦争によって民族が分断した lこ、2一百われ

一つの民族が互いに殺し合い抹殺しようと

劇を、 水続化させた決定的な恕穫となった。

ばならない。二千年の歴史上その類いを見

あったのか、その正体を明らかにしなけれ

われわれは、またこの勝利がどこから来 て、それまでの過程がどのようなもので

このあと二O年を経るうちに一門語以上の 差をつけて南が 一方的な勝利を収めた。

した、この極限的な対決があってからは南

出し難い民族的なエネルギーの炎がどう点

ているが、韓国戦争こそ韓民族史分断の悲

と北はかなりの時間が経ってからテーブル

らかにし、迫りつつある新たな時代の建設 の教訓としなければなるまい 。新たな文明

されど、っ燥え上がったのか、その経緯を明

を囲んで向かいム守つことがあっても協万や 統一に向けては心を開くことができなかっ た。赤化統一といった野望を満たすために

を明白にしてやることが過弘正再ぴ繰り返

で膚懲されなければならない理由がここに ある。北の選択が間違っていたということ

なし 。

りを添削せずに歴史に記録しなければなら

われは過去の成長ドラマの中の役者の役割

の誕生は、その時代を生きた歴史の主体の 皇見と奮発の中で行なわれるだけに、われ

させない途でもある。

しかし、 一層切実で緊要なことは成長の 影て形づ くられた混沌と無秩序と否藩仙の

戦争を起こした北の政治勢力が歴史の審判

零冗の歴史、全敗の歴史

のメンバーがま⋮一体となって構築した血

といえるであろう。そして、これはある特 定の系列や集団の努力だけではなく、国民

を見出し難い栄光と誇りの歴史的なドラマ

達成した政治的民主化と経済発展は、類い

しかし、こうした苦難と失敗の歴史だけ が解放五O年史ではない 。こんにち韓国が

序と背徳・退廃風潮がほうはいとして韓国

ど実におびただしい大型事件・事故の中で 暮らしてきた。その、?ぇ、全国民的な無秩

校の脱営事件、橋梁破損事故、盗税事件な

人・彊事件と航空機・船舶の事故、軍将

講じるかということである。昨年 一年間だ けで、われわれは前代未聞の反人倫的な殺

逆機能を解消するため、どのような亙雪

と汗の結目罪であるとい、っところにその意

念の声が高い 。経済的事就を鼻に掛けてい

局面にさらされるのではないかといった懸

このままでい吋ば韓国社会が解体の操 ι

社会は、やっと迎えた繁栄 への上昇カ lブ が揺さぶられている。 味を探し求めることができる。七、八0年 代の 一時期、われわれは蟻のように働いて 経済大国の夢に胸を膨らませた。七 0年代 の初めまで墓守であった南と北の経済は、


U支出﹂E ︽

凶ハ

光復( 民族解放) 50年を迎え、 韓国人が正義と民主主義を求めて闘った闘争と、そしてそこで勝ち取った成就を素材にした演じ物が公演されている。写真は 1960年の4 ・19学生革命( 上) 、 8 0年代半ばの民主化運動( 下)


d g E︿ U

る国民のおごりは、あたかも成金の反文化

的な醜態を見るようで恥ずかしい思いがす

る。引き潮のようにわんざと山掛ていく海

外観光団は文化国民の待遇を受けたがる

が、よく札びらを切るかも扱いか、下手を

すればごまかされるのが落ちである。

一一弓つならば、解放五O年のわれ たとえて一

われ韓国人の自画像は図体だけは大人のよ

うに大きいが、中味は子供のレベルにとど

まっている未執鬼のようなものである。そ

こでこの未熟児の前途には経清と文化の

無限競争という不安に満ちた世界史の大海

このこ出ょうものなら、激浪の中で漂流す

が待弘構えている。このまま外部世界にの

るか、また競争相手の食いものになるかわ

自分の主張を強要もせず、

他人の主張に巻き込まれることもなく、

それを他人から認めてもらわなければなら

からない。世界化だの情報戦争だの、また

は経済戦争だのといった予報がないにして

も、われわれは大人の図体にふさわしい内

実、すなわちバランスの取れた道徳と文化

と節制の充填なくしては世界化への海に乗

光復五O年にわれわれが迎える世界化の

均出すことができない。

に拒否反応を起こさせない礼儀正しく、知

真の意味はなにか。それは世界の市民たち

恵に満ち、偽りのない人格を備えることで

ある。五O年の間世知辛い歴史にもまれる うちに、どうしょ、?もなく体得してきた偏

10


見と我執と利己主義にとらわれた制度・慣

行・体質の文化をかなぐり捨てて、人霊園

ればならない。

遍の価値と時代的潮流に順応していかなけ

他人の財産、他人の人格、他人の慣習な

どを尊重しながらも自分を守り通し、自分

の主張を強要もせず、他人の主張に雪忍

まれることもなく、自分のものを大事に守

り、それを他人から認めてもらわねばなら

を学ばないわけにはいくまいが、国語が立

ない 。世界の共用語は英語であるから+義聞

ことわりのように、まず国語の大切さとあ

派に使いこなせる人が英語も上手だという

りがきを知り、洗練された国語を駆使する

能力を備えねばならないのと同じである。

こ れ ま で の 五 O年を

踏みムロとする未来の五 O年 に 向 け た

出発としなければならない

このようにして解放五O年は、これまで

の過ちを反省し再び同じ過ちを繰り返さな

の五O年歩踏み台とする未来の五O年に向 けた出発としなければならない 。これまで

い決意を固める戒めの時間であるべきであ

り、過去よりは未来が大事であり、未来は

正義に満ち確実な出発によって達成できる

という平凡な真理に思い至らなければなら ない。そして、それはこれまでの挫折と汚

史を蘇らせる知恵と決断の意志により成就

辱の歴史を清算し、栄光と誇りに満ちた歴

0.

されるであろう

11


総基 毛f号 ラ 0

崖禎錆一﹁光復(民族解放)五O年、韓

この席にお集まりいただきましたが、この

国文化芸術の回顧と展望﹂というテi マの 下に韓国の文化芸術分野の専門家に今日、

座談会の会場は早そもこのテl マ関連の専

門家みなさんのお話が尽きることなく溢れ

出るのではないかといったような雰囲気で す。司会を務める私だけが何か場違いのよ

の私を司会にしたのはそれぞれの分野の専

うにも思えるのですが、このように専門外

門家みなさんの意見に対して中立的である

と共に公平な立場から時間を配分できるの

ではないかという主催者側の配慮ではない

12


特別座談会

韓国文化芸術の回顧と展望 過程の中に見られた韓国の文化芸術全般に

と悲しみ、歓喜と挫折という過去の歴史的

かと思われます。この座談会は、光復五O 年、ですから我々民族の栄光と傷跡、喜び

見ますと、主権を取り戻した光復五O年で ありましたし、また光復とともに国土が分

失った一九四五年までの歴史的な宿命から

てみますと、ます、我々が我が国の主権を

な見解があるでしょうが、私なりに整理し

実施して西欧の国々が過去三世紀にわたっ て実現した﹁産業化﹂を僅か 二O年の聞に

かけて我が国が﹁経済開発五ヵ 年計画﹂を

革命﹂とともに、六0年代から七0年代に

をおいて設けられました。ということで、

かったにもかかわらず、我が国が経済的に

件を経て萎縮し退嬰の道を歩まざるを得な

断された分断の五O年でもありましたし、 分断されたままありとあらゆる披行的な事

あいにおいて、かつて保守派との対立の中

展を踏まえて民主化に向けた闘争の結果と 政治量命﹂ して勝ち取った先進民主化への ﹁ を挙げることができます。そのような意味

関する回顧とこの分野における将来の展望

いったん我が国の文化芸術とは直接関連が

も政治、文化的にも過去数百年の聞にも成

成し遂げた﹁経済革命﹂を挙げられますし、 九0年代に入ってからはこのような経済発

ないにしても我が国の過去五0年間の文化

し遂げられなか った巨大な成就とそれなり

で推進された開化派たちの近代の世界に向 けての大きな目標が、ある面では外国勢力

を、ともに語ろうというところにその意義

芸術の変化であるとか、発展的な過程を探

﹁三重の革命﹂とも言われているようです

の発展を遂げた五O年でもありました。

の侵略によ って崩れはしたものの外国勢力 が退いた後すぐ、すなわち、光復の後にも ただ一人として過去のヨーロ ッパのように

る背景として、はたして近代化を目指して ひたすら突っ走ってきた過去半世紀は我々

スのとれた塾育の機会をもたらした﹁教育

が、まず義務整問制度の導入によりバラン

にとってどのような意味を持つ歴史であっ うことなんです。これについてはいろいろ

たか、どのような五O年であったか、とい

13


王政復帰を求めることもなく、また﹁王党 派﹂のような社会的な大きな混乱もなしに もちろん、光復五O年、建国四七年の

たやすく共和制を採択しました。 我々の歴史を、新たな従属と国土の分断、 民族の分裂あるいは独裁の連続などといっ た否定的な視点から見る傾向も無きにしも 非ずですが、ある意味においてはこの五O 年というものが途方もない成就の五O年で ような韓国の歴史に大きな足跡を残した五

あったと考えてもいいかと思います。この

うな影響を及ほしたか、そしてその文化芸

O年の歴史が我が国の文化芸術にはどのよ

たか、振り返ってみるのもいいのではない

術は五O年の問、どのような道を歩んでき かと思います。この五O年の問、我々の文 化芸術が得たものとは何か、どのような面 で成就されたかということを探ってみるの も意味があるでしょう。同時に、それにも の中で我々が失ったものが何であり、忘れ

かかわらず分断五O年という長い時の流れ ているものは何なのかなどという点を議論 してみたいと思います。この五O年の歴史 こられた文化芸術界の大先輩であり、光復

を、その始まりから立て役者として歩んで 後の現代史を最も身近に体験し目撃してい らした朴容九先生から、まずお話ししてい 朴容九一可会者がご指摘なさったように

ただきたいと思います。

ら、過去の歴史に対し何か体験的な話がで

私は韓日併合の四年後に生まれましたか きるように思うんです。光復五O年を語る としたら、まず韓国戦争と国土の分断とい う我が民族の断絶と挫折の歴史を何よりも 先に話さなければならないと思います。 八・一五光復後、李承晩政権の大韓民国 政府が樹立されてから比較的最近に至るま

14


で我々は終始、反日と反共で通してしてき たんですね。そのために我々はこのような 研究できず、また主要苧点となるイデオロ

冷戦構造の中で隣国である日本もきちんと

いる社会主義の基本理念さえもタブl視

ギーとしての対決様相は共産主義がもって し、それを自主的に受容し、理想的に受け 入れ、批判し、理解する包容力も許されな

けでなく光復以後、当然下さなければなら

おります。このような分断の挫折の現状た

できた状態で、数々の披行の傷跡を残して

する松の木のようによじれ、曲がり、節の

います。そのため、韓杢島は我が国を象徴

れが分断五O年を振り返ってみながら真撃

心構えをもたなければならないのです。こ

戦以後、すなわち統一以後に備えるそんな

な状況に対して絶対に顔をそむはすに、冷

おかれ、冷戦が続いていますが、このよう

そんな意味で、我々は未だに分断の状況に

が言葉と文{圭乞再び取り戻したということ

ひとつは、一九四五年の光復とともに我々

たつに要約して考えてみたいと思います。

金柄翼一私は文学という枠の中でまずふ

いと思います。

点がありましたらおっしゃっていただきた

えて、必ず指摘しておかなければならない

の文化芸術の回顧について特定の分野をこ

O年の意味を理解するためには光復の前の

が、今お話を伺ってみますと我々が光復五

際的な媒介ではなかったかということで

化と文学のアイデンティティを取り戻す実

字を取り戻したということ自体、我々の文

んです。何の笹机もなしに我々の言葉と文

かったということを指摘しておきたいと思

なかった親日問題に対する歴史的な審判が に考えなければならない問題でしょうね。

すが、今はある特別なジャンルや分野をこ

舞踊と音楽についてお尋ねしたいと思いま

雀槙錆 一朴先生には後程ーまた我々の

できたということです。外国勢力の植民地

と、それを文化語として成熟させることが

で、かつ深刻であったかという問題を思い

国権喪失の深みがどれほど大きく多層的

雀禎錆一 お話の途中に申し訳ありません

す 。

挫折してしまったということを深刻に考え とともに親米の問題、すなわち我々の文化

とともに国だけ取り戻したのではなく、

起こす必要があるように思われます。光復

なければならないと思います。また、これ とアメリカ文化との従属的な関係、あるい

の母国語の回復を結果的に意味するもので

そして我々の国の言葉でつけられた自分の

我々がそれによって我々の言葉と文字を、

状態を抜け出したということは、当然自ら はありますが、にもかかわらず、その母国

名前までも取り戻したということが、この

の背景に関連した重要ないくつかの歴更的

語の回復は消極的な意味というより民族の

噴の若い世代にはたやすく共感できないか

えて光復五O年の現代史の全般にわたって

たのですが、この先私たちが議論していく

認識というか、そんな問題をお話しなさっ

アイデンティティの形成という積極的な意

は過去の時代の運動圏から始ま った反米な 絡んで我が国の文化芸術においても深刻な

味として受け入れなければならないと思う

ど、体制の異なる南北の特殊な体制状況と 影を落としているんですね。これは我々の

ったと思います。で は、過去五O年の我々

分かるようになって初めて光復ということ

大きくなって歴史の流れや社会の雰囲気が

本が変わってしまったんです。その時はそ の意味がよく理解できなかったんですが、

だったんですが、ある日突然言葉が変わり、

思いますが、解放当時、私は小学校一年生

ていますから、そんな特別な感慨はな いと

我々の言葉と文字を使う条件の中で暮らし

金柄翼一今の若い世代は生まれた時から

代ならではの感激であったのですから。

取り戻すことと負はす劣らず大きなその時

もしれませんが、文化の面においては国を

問題に関する重要な話の糸 口を示して下さ

があるように忠われます

たかという問題を思い起こす必要

大きく多層的で、 か つ 深 刻 で あ っ

前の国権喪失の深みがどれほど

理解するためには九筏の

我々が光波五 O年 の 意 味 を

自主性の回復と絡み合う問題であるのです

C

15

から、そのまま見過ごしてはなりません。

軍一実的m F Eの

雀禎錆


ω ωE 的︺邑吾

しく苦しい屈曲の激しい社会を反映しなが ら、その悲劇または歪曲と戦い、現実変革

いわゆる ﹁純粋﹂対 ﹁ 参与﹂ と い う

あまりにも多くの精力を消耗したのではな

いかと考えられるからです。純粋、たとえ ば﹁美﹂が芸術の究極的な目標と考える、 そんな図式がかなり長い問、我々の社会を

じっと耳を澄ましてみますと、朝鮮王朝時 代のソンビ(官職に就かない学者・文人)

支配してきたんですが、それが語る内容に

きたことになりますが、 実 際 は

構図が結局九 0年 代 ま で 延 長 さ れ て

その芽は植民地時代に吹いて

が、他のいかなる感慨よりも我々の言葉と 文字を取り戻したというところに大きな意 の意志を弛みなく遂行したということで す。解放とともにもたらされた分断と戦争、

験したことになります。最近の若者達が使 う用語が結局普遍的な用語になってしまい ましたが、いわゆる﹁解放空間﹂がもって いた、ある可能性と、その可能性が現実に まともに反映されなくなった一連の状態が

っていろいろな勉強を通じて、間接的に体

けですが、当時何が起こったのかを後にな

分かりませんでした。民族史的に見る時、 ちょうどその期聞が重要な年代にあたるわ

校一年生の時に韓国戦争が起こりましたか ら、成長過程においては当時の状況がよく

金 文 換 一 私 は 一九四四年の生まれです から、解放の前の年に生まれました。小学

お話していただけませんか。

いたと言えるんです

味があり、窪教授のお話にもあったように そこを原則的な出発点としなければならな

じ、文学と文学誌の位相と役割を高めたと いうふたつの出来事・は光復五O年の韓国文 学が培うことのできた最も巨大な歴史的意 味をもっと思います。もちろん、外国勢力 の侵入により、または西欧文化の流入によ り韓国語の純粋性がかなり損なわれはしま したが、にもかかわらず韓国語の幅を広げ、

差しおくことはできません。いわゆる﹁純 粋﹂対﹁参与﹂という構図が結局九O佳代 まで延長されてきたことになりますが、実

歴史的回顧においてはかなり重要なのでは ないかという気もします。光復五O年にお いて特徴的にとらえられる美意識を語ると すれば、どうしても﹁理念﹂の対決様相を の秀でた成就ではなかったかと思われるん です。

際はその芽は植民地時代に吹いていたと言 えるんです。不幸なことに ﹁ 純粋﹂を語る 人達のほとんどが参与的な性格の芸術運動 を忌避したり、それを無力化させることに

深めることに寄与し、ハングルと韓国語で 我々の文化を創造していくというその経験 はやはり当然ではありますが、過去五O年

護禎錆 一美術の領域にはいる前に美術 よりももう少し一般的な美学的レベルで光 復五O年、我が国の人々の美意識といいま しょうか、文化全般にわたって金文鎮先生、

る﹁美﹂というものを現実とは講離しなけ ればならないものと説明し、加えて軍国主 義の性質を遮蔽する役割までした日本的な 美意識に対する関心が、五・二ハ軍事クl

した﹁美﹂を芸術によって再現するとかい った古典的または伝統的美学の概念が現実 的には、現実に介入し、それに対して反省 を求めることに頬かむりさせる役割もした のではないかということです。このような 理解を直接的または間接的に学んできた当 時の多くのインテリ層の影響によって、そ の後も我々の間では相変わらず芸術におけ

主義をごまかす役割をしたということも、 ある側面においては事実たとも言えます。 そのような自然美だとか、自然美から発見

において日本的な美意識を探し求めていた んです。ここでは自然美に対する態度が中 心になっています。それが、一方では軍国

てきた過程を見ますと、結局はその当時の ドイツの新カント学派の芸術と現実の問題 を絶縁させる、そんな思考亙を全く当然 のことのように受け入れ、このような観点

以後、植民地時代に美学が導入され変遷し

たちの間でもてはやされた吟風味月的な風 貌が支配的なんですね。そんな自然への隠 遁といいましょうか、そんなものをあたか も芸術の究極的な目標のように考えてきた のではないかということなんですね。とご ろが、植民地時代の美学がそのような傾向 を強化させた疑いが濃いんです。明治維新

いと思います。 事実、我々の言葉と文字は韓国語とハン グルという独自の文字体系をもっていなが ら、昔は漢文に抑圧され、土俗語と諺文と いう辺境にほっぽりだされ、さらに植民地 の時代には使用することすらできませんで した。﹁民族﹂の実質的な存在性の取り戻一 しということは、すなわちその言葉と文字 の取り戻しの中に見出せると思うんです。 その言葉を取り戻すということは、すなわ ち我々民族の起意と記標の 一致を我々の歴 史において初めて確保する結果を得ること によって、民族の﹁光復﹂が実践される契 機を作ったんですね。以来、我々の言葉と 我々の文字は五O年という時代的な流れに 沿って漸次ハングル専用への道を歩みだし て文化語としての中心的役割を担うように なったのですが、その作業をリードしたの が言語芸術である文学なんです。もうひと つは植民地時代に近代的な形態を育て始め た我々の文学が解掠僚も、我々を襲った厳

指し統 一を模索して人間の権利と正義を実 現する現実的な作業に文学的な参与を通

窮乏と混乱、四・一九と五・工ハクーデタ ー、産業化と維新と独裁政権などの歴史の 試練に立ち向かって、自由と民主主義を目

金文鎮

16


治勢力と巧妙にかかわって匙りながら、

デタl以後、民族的民主主義を標梼した政 文化に対する新たなスポットライトは、例

現れました。開発独裁時代に作られた伝統 というのは過去五O年の損失です。

ものをそれなりに生かしてこられなかった

が活発に行なわれたようです。日本的な色

いうととは何かということについての議論

であ ったようです。これに応えて韓国的と

ルに展開されたのですが、これは過去の植 鮮展﹂の東洋画なるものが 民地統仏崩に ﹁

彩からの脱皮は、特に韓国画の分野でリア

しゃいますか。

特に美術の五O年をどのように見ていらっ

こから抜け出さなければならなかったとい

大部分日本化されたものであったため、そ

援禎錆一李亀烈先生は光復五O年が韓

(両班)の場面を外してしまいました。そ

李 亀 烈 ・ こ の 五0年間、韓国の美術も

国の文化芸術においてどんな意味をもち、

れが階級意識を助長するという解釈のため

多くの変化と発展を記録してきました。光

えばタルチユム(仮面踊り)の記録映画に

ならば、イデオロギー的葛藤というものが です。相対的に大堂街では、それを偏った

現れたのですが、そこではあえてヤンパン

植民地時代に芽をふき、国土分断によって 階級論的な画だけで解釈し、タルチユムの

う論が極めて強かったと言えます。反面、

からず影響を与えてきたと言えます。言う

いっそう強調され J五 ・ 一六クーデター以

西洋画においては、当時問題になっていた

我々の伝統文化を解釈するにあたり、少な

後に開発独裁が行なわれ、イデオロギー的

復とともに美術界においては朴容九先生も

イデオロギーの紛争が文学においては﹁参

お話になったようにいわゆる、親日問題と

与﹂と﹁純粋﹂で対立していたのが、美術

りヤンパンに対する抵抗という側面を強調

いう主要命題が当時のさしあたっての課題

か作品上に現れた日本的な色霧から脱皮と

中に込められている他のいろいろな要素よ

心によって我々の文化がもっている豊富な

するという結果を生みました。政治的な関

さらに深化し現実化しながら、我々の社会 の中でかなり重要な要素として機能しまし

対決を促進させる温床としての貧富の差が

た。そのような対決の様相はあらゆる所に

FEλ 凹田空 の!と

17


においてはこれといった論争的な理由もな りますが、解放後に再びその脈を新たに継

戻った後は画壇も徐々に再整備され、﹁国

ました。政府が釜山の避難先からソウルに

ったりして画壇の組織の変化がかなりあり

に来たり、また左翼系の画家たちは北に行

混乱とともに当時、北にいた画家たちが南

すね。戦争と避難で惹き起こされた社会的

争という骨肉相食む悲劇に見舞われたんで

的な分水嶺とでもいいましょうか、韓国戦

開催されます。そうこうするうちに、歴史

ス・ビエンナーレ百周年の記念特別展の行

なわれているという状況です。今年のペニ

の自らの探求的で製尽悶な模索が活発に行

承問題が弛みなく追求されながら画家たち

的には韓国の伝統的な美術文化の創造的継

しての韓国美術の位相、そのうち最も本質

においては世界の中の韓国美術、国際性と

術の位相が構築され始めます。現在の時点

ィがもてる創造的な美術として韓国現代美

極的な態度から我々自らのアイデンティテ

済的な発展とあいまって美術界において も、西欧の美術回、舗に追随するといった消

も飛び交わない、歴史のもうひとつの戦争

にそのわずか二年後には銃声もなく、銃弾

戦に参戦した国々から見れば平和が戻った 終戦の年であります。しかし、終戦ととも

にとっては光復の年であり、第二次世界大

りますが、この一九四五年という年は我々

れるんです。これもひとつの背景説明にな

れ、評価されて然るべきではないかと思わ

たものと言えばそのようなことが論議さ

おいて得たものと言いましょうか、成就し

ず、光復五O年の聞に我々の文化芸術界に

このようないろいろな制約にもかかわら

はないかと思うんです。そうだとすれば、

性を通じてなされなけ汽はならないのでは

ればならないか、それともそれ自体の自立

同体のために文学が道具として使われなけ

すが、そんなふたつの事由の対象を前にし

粋﹂と﹁参与﹂の問題として現れるわけで

ていくかなど、それが文学においては﹁純

集団性がもっている歪曲をどのように正し

いう側面と絡んで社会の、共同体の矛盾や

ようにするか、その前提とは何であるかと

われました。文学的に、個人の発見をどの

の中盤に近代化に対する議論が活発に行な

七0年代に入つては多角化し始めます。経

展﹂が再び聞かれるようになります。解放 展示館を建てて参加することになったこと

事にいくつもの競争国を退けて韓国専用の

が始まったんです。そうして一九四七年以 後の抵界は、わずか何年前までも続いてい

金柄翼一文学においては一九六0年代

4M

てどのように文学が受容するか、つまり共

ないかといった問題が提起されます。その

雀偵錆一司会者の立場から見る時、私

う思いがします。このように我々の文学は

ての論争のみを見てきたのではないかとい

にして文学に受容し、表現するかをめぐっ

く個人と共同体のふたつの対象をどのよう

力に推進されたアンフォルメル運動への直

されましたが、その平和は一瞬であり、そ

急識に時代が変わり、社会が変わり、人聞

画壇の中心人物として登場したんですね。

では、文学からお話ししていただけます

後の世代がこの時期に登場するんです。光 は、この間の国際交流と韓国美術の世界的

ような論議はどの時代においても絶え間な

ヵ.

復後に韓国で美術学校を出た人達が当時の

な位相が国際社会で大きく認められている

た、いわゆる冷戦の年代たった。そんな意

いでいるという流れの中に我々はいるので

アメリカとパリを中心にした西側世界の

という背景の下で可能であったということ

いう混乱をみせながら﹁鮮展﹂が引き続き

新しい美術の動向に刺激を受けた戦後の一 一 は言うまでもありません。

しに 一部の団体の芸術外的な対立が続くと

O代の若手の画家を中心にして、その後強

味あいにおいて 一九四五年、我々の光復と ともに、世界は終戦によって平和がもたら

接的な契機を作り、我が国で初めての前衛

たちがこのように光復五O年を語りなが

の後、特に我々の韓半島を舞台にして冷戦

あげたと思います。解放直後の混乱から韓

が熱戦に変わり、そのような冷戦体制の先

それが我が国の文化芸術においての、

ら、光復五O年まで一九世紀以後の我が国

世界を支配したその理念の対立の問題な

国戦争後の戦後派、六0年代の実存主義、 七0年代のリアリズム、八0年代の民衆 一

的な絵画運動の主役として登場するんで

話ししていただいたのですが、この全てが

ど、あらゆる事柄を説明するベlスになっ

の発見-社会的共同体としての意識の拡張、

の価値観が変わる中で、その変化に積極的

その熱気は大変なものでした。朴栖甫、金

我が国の近代化の過程において入ってきた

ているのではないかと思うんです。しかし、 それにもかかわらず 一九世紀末に始まった

民族史の再現という文学的成就をなし遂げ

で解放された文化を営為してきました。

昌烈らは、当時主導的な役割を果たした韓

新しい文化的ジャンルなんですね。言うな

近代化運動とともに光復五O年を考えると するなら、それなりの各分野における巨視

鋭な対立を見せていた極東のひとつの地域

国現代美術の生き証人です。そうしている

ものですよ。過去の我々の伝統社会に﹁画

的な眼目での成就があったと思うんです

たことは充分自負してもいいと思うんで す。また、そうした中で文学的な真正さを

の開化期の近代化運動という大きな流れと 見なければならないのではないかというこ

うちに国際化に対する志向、かすこぶる速い

員﹂ではない、近代的な画家がいたわけで

が、それが何であったのか具体的に話した

賞受毒で美術を押していった世代です。

テンポで展開されます。六0年代以後加速 化した国際交流、すなわち美荷家たちの欧

もないんですし、音楽もそうですよね。こ

後、その陰りと言いましょうか、否定的な

す。彼らは戦争を自ら直接体験しており、 織烈な生き方の墓耐と自分自身を一体化さ

米滞室告が増え、国際的な作品活動が活発

に始まった開化ーすなわち近代化運動の過

うして見ると、これらの全てが 一九世紀末

し、そうすることにより韓国人の精神と意

に対抗し、また、それを反映しながら芸術 的形象化を成し遂げるうえで大きな成果を

に行なわれ始めます。今は画壇の中堅、ま たは元老と呼ばれている多くの画家がパリ

側面、あるいは当面の問題点などについて 議論しては いかがかと思うのです

とを感じました。これまで文学や音楽、美 術などの分野に沿ってお一人、お一人にお

に進出、パリに韓国画家村ができるほどだ

の侵略という大きな暗黒期を経ることにな

程で、不幸にもその過程に帝国主義・日本

求め、文学を週じて現実を新たに見つめ直

民族文学という巨大な芸術出史的な潮流の流 れの中で分断と戦争の悲劇、近代的個人性

ったと言います。特定の伝統や遺産もなし

らば、過去の我々の伝統社会にはなかった

に展開されてきた韓国の現代美術運動は、

18


志を溜養しようとする努力は引き続き、 我々の文学の創造性を類いまれな精神的で れらの作品がなぜ光復五O年の成果として

雀禎錆一具体的な成果を考えれば、 こ す。最近になって新たに再評価されている

作品として高く評価するに価すると言えま

の歴史性であるとか、現生荏を反映させる

す。近代文明の新しい文化を受け入れると

において挫折と断絶をもたらしたと言えま

が我が国の音楽において、特に創作の分野

ますと、まず国土の分断という歴史的状況

いう側面も、大きくは民族的な自我の発見

朴寿根は、韓国戦争の時に北に行った画家

だと思っていますので、我が国の音楽の場

がわかるような気がします。美術の分野は

ですが、芸術における創作の自由を志向し

挙げられるのかという、はっきりした理由

雀禎錆一こんな質問が可能かどうかわ

ながら我々の民族的な情緒を大きく浮き彫

李亀烈一美術においては文学の方で挙

る重要な時点において歴史的な断絶がもた

合-捜漫主義から国民主義的な傾向に流れ

いかがでしょうか。

高い位置に引き上げました。 かりませんが、我々の抽象的な議論から読

この世を去る寸前まで貧しい恵まれない暮

りにした代表的な画家のひとりです。彼は

者を解放し、もう少し具体的な事柄を紹介 げたような解放後の世代、その過程で浮か

らされたんですね。そんな意味あいから我 が国の音楽は、ある時期までかなり長い間、

び上がる、ずば抜けた作品活動を見せた作

民族的自我を喪失した状態におかれていた

するという意味で光復後五O年の聞の韓国

ということを否定することはできないよう

文学の成果を具体的な作家と作品で挙げて

です。にもかかわらず、私は創作分野にお

らしをしましたが、彼の作品の中には常に

を、絶望的というよりは苦しみを乗り越え

無名の女達など庶民の生活の生き様と哀歓

いて北韓の作曲家金順南とドイツに行って

彼の周囲でいつでも見られる老人たとか、

代表的な画家としては朴一寿根と李仲嬰、そ

ていく生の表情をとらえています。現代的

ながら当時の状況が作品の中に反映された れに金換基を挙げることができそうです。

なロマン主義者といわれる金換基はアメリ

家もかなりいますが、その前の世代に属し

﹃張吉山﹄は、民族文学のカテゴリーに入 李仲嬰の場合、国土の分断と韓国戦争の悲

金嫡翼一朴景利の﹃土地﹄、黄醤嘆の れられる大河小説ですし、そのスケールと 劇が彼の作品の中にそれこそ、その本質を

みたらどうかと思うのですが・・・。

文学的な成果という意味からも当然挙げら

なまり﹄の越世照、﹃人の息子﹄の李文烈

天国﹄の李清俊、﹃小人が打ち上げた小さ

ということを離れて当代の優れた成果をあ げるとすれば、﹃広場﹄の雀仁勲、﹃君達の

あたかも彼自身の心情的な苦痛をそのまま

ますし、彼の代表作﹃牛﹄では泣き叫ぶよ うな、この上なくもの悲しい牛の叫び声が

では天真糊漫な童心の世界が表現されてい

ています。たとえば彼の作品﹃鶏の喧嘩﹄

うなものが彼の作品の中にはっきりと現れ

戦争による家族との辛くも なしています。 ・ 悲しい別れの苦痛だとか、極度の孤独のよ

脈がはっきりと現れている過去五O年の音

雀禎錆一音楽の分野においては大きな山

でしょうね。

術の業績を残した画家と言うことができる

こそ解放前から五01六0年代、またはそ の後までの時代に亘って最もずば抜けた芸

を作り上げた特別な画家と言えます。彼ら

カに渡り、彼ならではの独特な金燦基芸術

とが、またひとつの象徴的な存在にしてい

じて東洋の音楽精神を具現化したというこ

し、者ノ伊桑の場合は国際的な音楽技法を通

れてしまったということが金順南を争占山に した、ひとつの象徴的な話になっています

でありますが、分断によってそれが断絶さ

楽が金順南を通して樹立されようとしたの

国の音楽の象徴的な存在と考えています。

現在も帰って来られずにいる安伊桑を我が

れます。また、洪盛原の﹃繁明﹄、金源一 の﹃常に青き松の木﹄、越廷来の﹃太白山

などの文学は世界的水準のものと言えます

しょうか、そんなものがありますか。

楽芸術の成就を代表できる峰とでも言いま

脈﹄のような大河小説とともに、スケール

ね。そこへ高銀、申庚林、黄東杢、金芝珂

訴えるように描き出されています。このよ うな 一連の痛みと傷跡、虚しさなどが彼の

朴容九一私の立場から音楽を語るとし

演奏家がいますし、最近注目されている張

して、金永旭、養東錫のような素晴らしい

ったバイオリンの場合、鄭京和をはじめと

でしょう。特に、東洋の情緒にぴったりあ

めに演奏においては韓国音楽が世界的な名 声を勝ち得たと言っても言い導 c ではない

とつである抽象性、この高度の抽象性のた

反面!音楽は音楽がもっている特性のひ

られずにいることが大変警ゆです。

南・北の理念の対立により本国に帰って来

るように思われます。しかし、彼は今も

国民主義の音楽、すなわち民族主義的な音

固有の言語的成果として高く評価されねば

鄭玄宗らの詩的業績は韓国的情緒の回復と

作品の主潮をなしながら、その時代の我々

まず国土の分断という歴史的 状況が我が国の音楽において、 特に創作の分野において挫折と 断絶をもたらしたと言・えます

て有名な若い芽が続々とふき出していま

永宙(サラ・チャン)ら、この分野におい

19

ならないと思います。

3pb 天紹豆のと

朴容九


す。指揮者としては、少し前までパリのバ なって、はじめて言語叩中心の写実主義の演

本で﹁新劇﹂を学んで来たりもし、当時の

場合は、柳致虞をはじめとする何人もが日

上において引き続き社会告発的な作品がか なり多く見られました。相対的に我が国の

もちろん、全体的に見れば、写実主義がい

の作家達と対照的な存在になっています。

がこのような傾向に立って写実主義の系列

て注目されています。作家としては杢玄和

李允揮、李嫡勲らがこのような作業におい

我々が門戸を開放することにより、すなわ

すと弁証法的な関係だと思っています。

ですが、私はそれを並行線上を常にともに

を形式論理学的に矛盾するものと思いがち

ひとつ門戸の開放と自我の発見というもの

すね。そのような大きな脈絡があり、もう

入ってくる、我々としてはかなり異例的で 多角的な対外関係を持つことになったんで

南北を問わずして文字とeおり世界が韓国に

て活躍していた鄭明勲がいますし、ピアノ

政治的な状況ももちろん勘案しなければな

まだに主導的ではありますが、いわゆる新

る状態で発展してきましたし、その延長線

では白建字、徐恵京、そしてニューヨーク のオペラ舞台で世界のトップクラスのプリ りませんが、結局は体制の肯定的な公演活

世代的な盛見にアピールする草木も時折成

ち他人と出会うことにより、はじめて自分 が誰なのかという自我に対する認識と自覚

劇に対する挑戦が自につきますが、孫振策、

マドンナと堂々と肩を並べるソプラノの曹 奪実など、いちいち名前を挙げるのが大変 動に繋がり、真撃な演劇の伝統樹立がかな 果を上げています。

スチーユ ・オーケストラの常任指揮者とし

過去五0年間極めて輝かしい発展を遂げ、

なほどです。とにかく 演奏という面では

二技法を活用した作曲技法のように闘わね

り困難でした。そのため、たとえば美術に おけるアンフォルメルや音楽においての一

大陸を文章の園、すなわち文学の園、韓半

をたやすく知ることができます。私は中国

てば抜けた民族性をもっていたということ

がその昔から音楽と舞踊など歌舞において

このような音楽的風土を見ても、我が国

きても、それほど注目を浴びるような作品

えば西欧の不条理劇のようなものが入って

ばならない対象が不透明な状態では、たと

もつのですが、演劇のように闘争しなけれ

いて初めて新しい潮流というものが意味を

ばならない対象がはっきりとした状態にお

ち開化であり、近代化であったわけですが、

は西洋を受け入れるということが、すなわ

心文化が中国から西洋に移りながら、結局

し活発に交流したと思います。しかし、中

整理してみますと、 一九世紀まで我が国は 世界の中心文化であった中国との門を開放

雀禎鏑 一私なりに光復五O年の意味を

す。そうすることにより、その昔我々が無

つことができたからこそ、一体我々は何な のかという自覚が生まれたのだと思うんで

入れ、多くの国との多角的な国際関係を持

うならば、我々が光復の後西洋文化を受け

J

の素晴らしい演奏家が出たと言えますね。

実際に世界の音楽文化にも寄与できるほど

島を歌舞の国と見なし、日本列島を美術の

を作り出すことはできなかったんですね。 むしろ、七0年代に入ってからは開発独裁

﹁歌舞の故郷﹂というタイトルで紹介して

て初めて自覚した作家達が現れてから日本

によって生じたいろいろ不安定な政治状況 だとか、正義感を失った社会の現実に対し

ある意味では日本の代わりにアメリカ文化 が入ってきて、腰を据えてしまったとも言

ました。また、解放を迎えたということは、

関係が対外文化関係の主流になってしまい

から、我々の意思とは関係なしに日本文化 が韓国を支配し、このような日本文化との

それが西洋に代わる日本が入ってきたこと

するなら解放後、我が国の文化の全般的な

なんです。これをもう少し具体的にお話し

しようとしているのではないかということ

視したり粗末に扱った我々の伝統文化に対

ックを見たことがありますが、朝鮮族を

流れにおいて、過去にエリート文化とした

する新しい見方をするようになり、再発見

いました。のみならず、中国の歴史書のう

における﹁新劇﹂のような作品の類型が中

が生まれると考え始めるんです。率直に言

国と見なす見解をもっています。いつか、

ち、我が国を紹介した﹃東義列伝﹄でも歌

中国で発行された英文で書かれたガイドブ

舞を好む民族として記諒されています。

いわゆる、上流社会のヤンパン(両班)文 化の総体的な後退、または没落とともにそ

ィを探し求める過程で過去に馬鹿にした庶

れが、開化の具体的な過程で自我を探し求

没落により朝鮮王朝時代においての基層文

れを大衆化することにより普遍的な教育が 幅広く広がったんですね。ヤンバン文化の 世代が主流をなしている人達によって日本

外関係の全てであったわけですが、国土が 分断された後は日本の代わりに北韓にはソ

民文化、たとえばタルチュム(仮面踊り)

違って多くの国と交わるというより常にシ グニフイツクな、すなわち意味あるひとつ

えるということなんですね。韓国の対外関 係意識の特殊性と言えば、ヨーロッパとは

心をなすようになるんです。杢康自のよう な寓話的な技法を使う作家もいないことは

﹁新劇﹂に挑戦し、今の日本の演劇の既成

な作品が支配的でした。この時、日本は

式英語である﹁アングラ﹂、すなわちアン

ビエトが、韓国にはアメリカが入ってきて、

なかったんですが、全般的には写実主義的

金文換 一美術の但窓口、五 0年代に ハ 百一っていわゆる、アンフォルメルという新

oi

雀禎鏑 一演劇はいかがですか。

しい潮流がひとつの大きな波を起こし、音 い作曲技法が世界的に認められたことに比

楽においても一二立最法を中心とする新し

国の演劇、特に演出作業において欧米から

ダーグラウンド演劇が展開されます。我が

南北の対立的で異変的な関係が続いてきま

とかパンソリなど、我々の基層庶民文化が

めようとする、民族文化のアイデンティテ

しろ国民文化として格上げされました。そ

化、すなわち最も低い階層の庶民文化がむ

べれば、演劇の場合は相対的に、﹁反劇﹂ と言いましょうか、こう言ったものが大き

直接的な影響を受けて、いわゆる﹁残酷演 劇﹂系列の公演が柳儲量骨、安濃守などによ

した。そこへソウル ・オリシビックを契機

の国との関係だけを維持してきました。と すれば 一九四五年までは日本が我々との対

な衝墜を与えることはなかったと言えま

って試みられ、呉泰錫はこれをさらに韓国

す。日本の場合、﹁新劇運動﹂というのは

の伝統的な演戯で見せる﹁小人﹂と受口さ

感傷主義的で娯楽志向的な演劇に対抗する

新たにいまや階級を超越した我々の国民的 な民族文化として格上げされ、新たに再認 せる作業を引き続き行なっています。今に

に八0年代の後半に起こり始めた世界的な 緊張緩和、つまり冷戦の終息とともに東西、

比較的真撃な演劇という意味もあります が、実はプロレタリア運動とも関わりがあ

20


です。

議される過程にあるのではないかと思うん 要な前提であり、方法ではないかと私は考

化芸術が 一段階レベルアップするための重 ニズムの意志が積極的に機能しなければな

者たちの意識的変化が総合的になされなけ ればならず、各種の文学支援におけるメカ

うのがありますが、それらのほとんどが時

す。我々の諺に﹁安物質いの銭失い﹂とい

の安い外国の商品を輸入して時間を埋めは しないかという心配がなきにしもあらずで

目前にしています。ところで 一 二 世紀を展

金文換一我々は今一一一世紀の幕開けを

という心配があるんです。これに対する対

代遅れであったり、低俗なものではないか

金柄翼一韓国文学が今最も深刻にぶつ

えます。

の大きな成就にもかかわらず、言語的な障

かっている問題は、この五O年の韓国文学

国土の分断ですが、分断の問題は結局、全

次に考えなければならない大きな問題は らないでしょうね。

体性の喪失を意味します。喪失した半分間 士、お互いが半分と感じずに、相手側に対

ん。結論的には、芸術教養教育のレベルで

、には第 一次芸術が振興しなければなりませ

応はただただ質の高い我々の文化商品の開

な現象はすでに我々の目の前に現実として

発しかないと言えるわけですが、そうする

存在しています。そんな意味で政府が文化

の時代とまで見ています。事実、このよう

政府と各界の支援により翻訳事業が行なわ

はもちろん、芸術の専門整同のレベルでも より果敢な開放政策が求められています。

望する多くの碩学たちは、未来を文化戦争

れていますが、未だ本格的なレベルには達

ようとする意志を表明したことは、すこ ぶ

産業の振興に関心を持ち、積極的に育成し

電すにいるということです。近年になって

ろ間違った虚偽の全体性を主張する結果を していません。それをどのように乗り越え、

壁のために国際的な評価を受けることがで

生むことになります。したがいまして、 世界文学の中での韓国文学という位置を獲

のでは全体性を喪失した、その弱点がむし

我々がより多くのものを受容できなかった

してこちら側の定義だけを主張するという

分断五O年をそのまま見過ごしてはならな

李亀烈一美術分野における今日の問題

が、国内外で美術家たちの多様な作品活動

点というより課題と言えることなんです

と創作行為が国民生活全般を文化的に潤

る幸いなことと言えます。しかし、その発 う心配もあります。言い換えますと、文化

し、暮らしの質を高める芸術の生活化から

想が甚だ粗雑で物量主義的ではないかとい

系的で効率的な方法と積極的で定期的な支

戦争にきちんと対応するためにはハードウ

はほど遠い状態にあるという点を指摘した

得するかが韓国文学が解決しなければなら

朴容九一日本を研究で電す、共産主義 援がなされなければならないと考えます。

エア!と同じくらいソフトウエアlが充実

ない課題なんですが、そのためにはより体

を研究できなかったことが、すなわち分断

これとあわせて提起したい問題は、近来突

いと思われるんです。

五O年の杢幸だと思います。

然ひどくなってきた文学の商業主義化から

の常設美術館、展示館の全国的な拡散、そ

雀禎錆一これまで我々は過去五O年の

して政策的な誘導を通じての全国民の日常

いと思います。これを改善し望ましい方向 多くの時間帯を外国の商品で埋めなければ

に進展させる道は、公共、または民間財団 ならないようになっています。もちろん、

的な美術へのアクセスという環境、つくりな

を急いでいますが、現在の状態では放送の

がら文学はエンターテイメントの消費的次

んですね。また、学校教育と成人教育、そ

していなければならないということなんで す。さしあたっての現実として CASTV

元に堕落しているんですが、我々の正統文

文化は自然に交流する中で発展します。し

るかということです。文化産業が膨張しな

に探ることができたように思われます。次

かし、利潤を度外視できない CAaTV業

本格的な文学をどのように擁護し発展させ

に我々の文化芸術を各々の分野で当面して

後の新たな課題として登場しています。こ

学を保護し、育てていくことが九0年代以

韓国の文化芸術を回顧し、そこから我々が

いる問題点と、それを解決する方法につい

成就したものは何であるかについて具体的

て議論を進めてみることに致しましょう。

れに新聞や放送などマスコミによってその

めとも言えますが、その文学が土台をなす

きたのは、もちろん日本の文学が優秀なた

す。日本がノーベル文学賞を 二回も受賞で

到底比較できないほど遅れていると言えま

化全般に対する海外での認識は、日本とは

と思います。そんな側面から現在我々の文

な環境づくりが優先されなければならない

りがあるために何よりも我々の周辺の快適

朴容九一文化は生活と直接的なつなが

与ができるでしょうね。

ような方向へ進めさせることに基本的な寄

界のほとんど、いや全部がともすれば値段

韓国文学が今最も深刻にぶつかっている問題は、 この五 O年 の 韓 国 文 学 の 大きな成就にもかかわらず、 言 語 的 な 障壁のために国際的な評価を 受けること、ができずにいるということです

日本文化に対する西欧の知識人たちの全般

21

れには文学警尺作家と出版、編集人、読

問題点を正確に把握することこそ我々の文

3P 実情片豆のl t

金柄翼


E E コ ' OZ面白X

韓国の現代美術の世界性の確保は、 既に幅広く行なわれていますし、 既に世界が注目する段階に来て いると思います

!ンのような人は日本に定着して、日本

ランド生まれの文学者ラフカディオ・ハ

介することに中心的な役割をしたアイル

日本の文堂作品を翻訳して外国に広く紹

味があると言えます。そんな側面から、

くべき道を示そうというところにその意

備えて明日の我々の韓国文化が歩んでい

顧し展望することにより、将来の統一に

この席は、韓国の文化芸術の五O年を回

くくりに入る時が来たようです。今日の

出直禎錆一そろそろこの座談会も締め

合的な努力を注がねばならないと思いま す。また、翻訳作業に先立って、より重要

大学と企業など、いろいろなレベルでの総

ものなんです。このため、政府と支援団体、

ではなく、政策的で社会的な支援を求める

れは文空たけの、あるいは作家だけの問題

するということを認めざるを得ません。そ

りません。こんな点でまだかなり見劣りが

素晴らしい翻訳であることは言うまでもあ

文化を海外に積極的に紹介した人ですが、

これから最後に韓国の文化芸術の世界化

なことは我々の文学の深みと幅広さが国境

ならないと思います。

それも考えてみれば、快適な生活環境と ともに高い文化意識のためではなかった

についての問題を簡略に議論して、この

的に高い認識とも関係がないとは言えませ

かと思われます。そんな意味で我々も創

されなけハはなりませんし、国力とともに

問題であり、芸術教育においても当然初

かったということが我々の大きな当面の

て評価できる、然るべき機構や制度がな

かったということです。公演活動につい

公演芸術分野においてチェック機能がな

したいことは、光復後の五0年問、特に

ならないと思うんです。もうひとつ指摘

生活環境を高い水準に引き上げなければ

な戦略が求められながらも、もう 一方では

一方では韓国文学の世界化のための積極的

金 柄 翼 一 前にも言及しましたように、

の文化芸術のこれからの課題と展望は何 でしょうか。

報化という世界的な環境変化の中で韓国

います。多角化している国際化と高速情

源的な問題の提起になりはしないかと思

どのような哲学的深みと普遍性を確保し ているかという点から考えるのがより根

にいく時、初めて韓国の海外紹介が体系

ばならないと思うんです。外務部、教育 部、文化体育部、公報処にそれぞれ散ら

外交のための窓口がより効率的に働かね

ではありませんが、国内の優秀な作品を 海外に積極的に紹介しようとすれば文化

る公演芸術の分野だけに当てはまること

金文燦一ただ単に演劇をはじめとす

きるように高揚されねばならないと思うん です。

韓国文学全般が世界の関心を引くことがで

の垣根を越え、人類的普遍性の問題が提示

造的な芸術家や外国の翻訳家が定着して

座談会を締めくくりたいと思います。ま ず、韓国の文化芸術の成果というものが

級学校に正規の科目とともに基礎的な科

的にある程度の規模をもって進められる

ばっている機構どうしの協力がスムーズ

目として我々の音楽、舞踊、演劇などが

正統的で本格的な文学の保護のための努力 が必要だと思います。韓国文学の世界化に

含まれなければなりません。この点から 教育法の改革が一日も早く行なわれねば

おいて真っ先に求められることは、何より

化芸術の発展に寄与できるように我々の

暮らしていけるように、そして韓国の文

ん 。

李亀烈

と思うんですよ。かといって官主導にな

ってもいけませんけど。それよりはすで

に活動している非政府機構を充分活用し

なければなりません。また文化交流の範

囲も、西欧 一辺倒の度が過ぎていやしな

いかということも点検してみなければな

の普遍語になったとも言える英語で紹介

りません。私個人の考えでは、今や世界

されているのと同じくらいに、アジア・

太平洋地域圏においても特にオーストラ リアとの連携が米 ・日の 一方的なイニシ

アチブに対応するために考慮されてしか

るべきだと思います。この地域圏の中で

は韓国の文化と他の文化との聞の類似性

をもう少し強調することが有利な反面、

西欧の方面には中国の文化と日本の文化

ることも、また必要ではないかと思いま

に比べ韓国の文化がもっ差異性を強調す

くまで我々の中に設けられなけばなりま

す。しかし、世界化のための枠組みはあ

の共同体が享受できる良質の文化がきち

せんし、全世界に散らばっている韓民族

んと育っていける基盤と環境づくりが何

よりも先決されなければならないと思い

ますね。

李亀烈 一積極的な国際交流、国際的 な潮流の消化、あるいは受容に基づく世

界性の弛みない新しい文化芸術の創造を

志向しなければなりません。韓国的で民

族的な特質の具現は、それ自体が世界性 をもつことにつながります。韓国の現代

美術の世界性の確保は、既に幅広く行な

われていますし、既に世界が注目する段

階に来ていると思います。しかし、我々

の内部的力量の基盤はいろいろな側面に

おいてまだ充分ではないことは誰もが認

める事実なんですね。

22


て長期的で 具体的な計画とともに、 これが、すなわち世界の環境変化に積極

トを考えてみることができると思います。

の文化芸術の五O年を話して下さいまし

それぞれの専門分野について真撃に韓国

一種

の文化企画院とでも言いましょうか、現

朴容九一顧みますと、我々が過去の 後進国家から急速度の産業化で目覚まし

た。近代化を目指して走ってきたこの半

が分裂し国土が分断されるなど、数々の

世紀、民族解放は実現されたものの民族

好余曲折を経ながらも挫折せずに、むし

的に対応していけるひとつの方法になる また、この先の二、 000年代は東洋

と思います。 の世紀が再び戻ってくるという予測も可

ろその挫折を乗り越えて、我々はこの地 に今日を築き上げました。

在の文化部より強力な体制に切り替えて、

能ですが、それは東洋の伝統的な文化や

経済と文化というふたつの中心的な二元

教育方式が、すなわち宇宙論的なものか

い経済発展を成し遂げたことも、その要

二一世紀 は、情報化の急速な発展によ

因のひとつに長期的な経済開発の政策と

り地球が囲いのないひとつの共同文化圏

過去五O年の中で我々が得たものは、

り合理的で望ましいでしょうね。

的に 言い ますと、文化もこれと同じよう

ら出発しているからです。未来の世界は

それだけにいっそう大切で価値あるもの

体制で国家体系を運用していくことがよ

な体制への切り替えが急がねばならない に入る時代が聞かれると思います。そん

このようなべl スの上で引き続き発展し

ともに経済企画院という管理体制の効率

と思うんです。 な面から西洋とは違った他の漢字文化圏

と考えながら今日のこの座談会を終える

的な運用があったからと言えます。結果

経済と文化はある面で切っても切れな

ていくものと思われます。

ことに致します。

A-

い関係だと見ることができます。間近に

雀禎鏑 一これまで長時間にわたって、

をもっているアジアが 一体化した文化圏 の中で衛星放送中心のグローバル・アー

迫った二、 000年代には、文化におい

3 o r b Am 亡 I 臼 戸︾失 UV

23


出麟

手金Z 失文 5

7

1

している。 一方、北韓は韓国と同様、今年

て、彼のいる限り﹁主体の社会主義の偉業﹂ は永遠に必勝不敗であり確因不動であると

させ祖国を統一させることは、これ以上延

述べている。そして、﹁民族の分裂を終息

が共和国を孤立・圧殺しようとする帝国主

会主義の旗印を強固に守り通そ、っとするわ

韓政策を見てみると、北は 一九九四年を﹁社

で強固に武装させるための思想教養事業を

自と勤労者をわが党の革命思想、主体思想

ない多くの事業の中で J凡の組織は党員各

建五O周年﹂であることも強調している。 そして、そのために繰り広げなければなら

と背信の道へ進むことによって、和解と団

の哀切な心に銃ロチ向けファッショ的暴圧

去)に対して、統 一に向けた対話の 一方の メンバーとして吊意を表するどころか民族

がけなく発生した同族の事故(金日成の死

と述べ、解放五O て、これに臨んでいる﹂ 周年に際しての民族統 一の重要さを説いて 南朝鮮の統治輩は思い いる。それと共に ﹁

ばすことのできない民族至上の課業とし

全ての方向から固めなければならない﹂と

を﹁祖国解放五O周年﹂になる意義深い年と

義者と反動らの策動がかつてなく強化され

A ベ大衆が血縁のように 深化させ、首領、 ロ

正日同志、すなわち敬愛する首領﹂であっ

L

この共同せ説を引用しながら北韓政府の対

た とみている。そして﹁偉大なる指導者金

つながっているわが革命隊伍の一心団事乞

に望み薄であることを示している。 北はこれまで新年を迎えると、金日成の

見ている 。しかし、今年は﹁朝鮮労働党創

同社説を発表して新年の辞に代えている。

2

新年の辞を発表してきたが、今年はこの共

年新聞の共同社説はそうした期待が現実的

光復五O年 南と 北は文化的同質性を 取り 戻せるか 山 一切

された北韓の党機関紙と寧新聞、そして青

が、少なくとも 一九九五年 一月一日に発表

も、といった希望を持たせたこともあった

た金日成の死は、 一時再統一が可能なのか

因を提供した代表的な人物に指折られてい

れの渇きを一層切なくする。分断固着の原

年と重なり合って、再統 一に対するわれわ

光復(民族解悲五O年は不幸にも分断五O

一 、

24


合の方向に発展しつつあった北・南関係を 再ぴ反目と対決の方向に立ち戻らせてし ま った﹂ と南側を非難している。 さらに﹁民族分裂の歴史に終止符を打ち 一九九0年代になんとしても祖国を統 一し なければならない ﹂ が、このためには﹁全民

と所属、政見と信仰の違いを越えて一つの

族大団結 一 北 O大綱領﹂の理念に基づいて ﹁ と南、海外のすべての同胞たち﹂は、﹁党派 民族に固く団結しなければならず、朝鮮民 族の 一成員として自分の置かれている窪塊 と条件にふさわしく国の統一のために特色 のある寄与をしなければならない﹂として いる。 北 の政権が提示する ﹁ もっとも公明

正大で合理的で現実的な + n伝﹂は ﹁一つの民 族 、 一つの国家、 二つの制度、二つの政府 に基づいた連邦制方式﹂であり、この連邦 制方式によってこそ、寸自主的で平和的で 中立的な連邦国家﹂が可能であるというの である。北韓政府は、こうした方式の統一 が可能な 一つの証拠として、﹁ほとんど 一 年半に亘った朝・米会挙乞終結させ、歴史 的な朝 ・米基本合意文を採択発表する大き な成果﹂を挙げている。 以上紹介したよ、つな北韓の新年に際して の共同社説について韓国の国土統 一院は ﹁改革 ・開放を目指している 国際的潮流の 中で 、変化よりは体制の安定的維持を最優 先の目標とし、既存の政策路線を踏襲して いこうとするもの だの見方を示している。 ﹂ 要するに、閉鎖的な ﹁ われらが方式の社会 主義を引き続き堅持していこうという態度 を示したものと見ている 。このため南北対

ところが、韓国政府は北の核問題に関す

話と南北交流・協力は、当分の間進展が望 めなさそ、つである。 る北 ・米ジュネ ーブ合意を受けて、南 ・北 経済協力の再開に踏み切り、南の企業代表

25


五番目の革命演劇に指折られているこの

にする。

会﹄を 一つの事例として分析してみること

作品は、俗に前半の風刺的な色彩と結末の

いる昨今である。こうしたなかで駐韓米大

が北京経由で北韓入りするケlスが増えて

ゆるチュチエ(主体)思相芋﹄放棄しているよ

使がテレビ・インタビューで北韓は、いわ

る。北の関係者によると、この叢ム叩漬劇は

正劇的な色彩が並行しているとされてい

﹁帝国主義侵略者たちがどんなに虚勢を

とりわけ、キリスト教界では五O年ごと

うだと述べる一幕もあった。

張っても奴らの滅亡は避けられないし、民

住民に求めているが、われわれが一般に理

韓は今年も﹁思想教養事業﹂を深化するよ、つ

を振り切れない。先にも引用したように北

きり知っていなければならないといみ妥え

再現して﹁共和国創建四O周年﹂の一九八八 年四月一六日、金日成の﹁誕生記念日 Lの﹁名

うことになっている。これを﹄支担演劇﹂に

いわゆる﹁不朽の古典的な名作﹂の 一つとい

うな抗日武装闘争期に創作・公演された、

26

U J弘正田ト巴︿

凶ハ

踊 舞 典 古

の 国 韓 た し

にすべての借りを帳消しにしてやる旧約聖

LYJ

書の穂子説りどころにして、 一九九五年

いン

族自主精神をもって闘っている人民たちは 必ず勝つとい、っ作品の深奥な思想千二層明

る。筆者も同じく今年のうちに再統一のた

を﹁統一のための稽年﹂として宣布してい

Z 守

目見

風 代

﹃娘から来た手紙﹄、そして﹃三人一山岳のよ

円慶祝大ム一とは、﹃城悟山岳、﹃血憤万国AE、

確に表明﹂しているという。

でいる。そう考えながらも、寸帳消し﹂にす

めの決定的な葱穫が訪れることを待ち望ん るためには帳消しにする内容の主体をはっ

北 韓 は 今 年 も ﹁思想教養事業﹂ を 深 化 す る よ う

住氏に本めているが、 わ れ わ れ が 一 般 に 理 解 し て い

るえ化・芸術がこれに該当するので、北韓当局の言

解している文化・芸術がこれに諺ヨするの

節(祝祭日)﹂に国立演劇団が初めて舞台に あげた。その際、上演の音盆衰をいやが上に

う﹁思想教養事業﹂の内容を具体的に知る必要がある

で、北韓当局の章つ﹁思想教養事業﹂の内容 を具体的に知る必要がある。

も高く誼い上げたが、これは金正日の﹃映

画芸術論﹄の持論を生かしていると考えた

術家は敵を形象化する階級的な立場に確固

からだった。すなわち﹁わが国の作家、芸 北韓の言、つ﹁思想教養事業﹂を理解するた

らない。仇敵は仇敵として典型化して本格

さ、滅亡の不可避性を鋭く見せつけねばな

的に描かなければならない﹂というのであ

として立って仇敵たちの反動的本質と脆 が手っ取り早い。ここでは﹁新たな様式の

めには抽象的な理論よりは芸術、とりわけ

といわれている革命演劇﹃慶祝大 風刺劇 L

総合的な性格を帯ぴた演劇を取ってみる方

一 、 一


伝統の舞踊でも南と北との異質化が現れている。北韓の舞踊

いる。革命軍の﹁討伐﹂に失敗したことを隠

が中心となって 聞かれることになった話﹂

る。この作品の内容は、﹁日帝侵略者たち の欺臓に満ちた慶祝大会が押し潰され、代 わりに朝鮮人民革命軍の盛大な慶祝大会が

式では駄目だというのだ。このようにして、

調﹂の通称で通っている誇張された演技方

ようにすべきであって、俳優の外的な渚授 により人為的に笑いを強いようとしてはな らない﹂というのである。いわゆる、﹁新派

﹁俳優が自分と人物との形象的統 一を実現 するためには、人物の世界に深く入り込ん

評価を受けることになる。 要するに、金日成の教示通りに﹁人民の ために服務する芸術、人民たちが喜ぶ芸術﹂

で性格を正しく分析把握した、?えで、その と 生活を真撃に体験しなくてはならない ﹂ する金正日の要求がかなり満たされたとの

して酒盛りが催され、その場で失啓乞暴こ うとする勢力との葛藤が描かれる。こうし た内部矛盾も﹁朝鮮人民革命軍﹂の地下工作 員の﹁知略﹂によってめでたく解決する。 ﹁兵力数と現代的な兵器があれば勝てる のか。そうではない。人民の反帝自主精神 の偉大な思想は、アジアの萌血主﹄となって 暴れていた日本帝国主義を滅亡させ、今日

演劇は総合芸術であるだけに演技だけでなく、

台芸術・音楽効果なども﹁社会主義現実主題作品 ﹂

にふさわしい技術が強調されもするが、 ここでも

金 正 日 の 名 で 求 め ら れ て い る ﹁真実性 ﹂ が

歌一曲を作曲するにしてももだれでも歌え

を発展させるため、歌詞の 一行を書くにし ても、だれもが分かるような歩詞を書き、

原則として示される

とわめいている米帝国主義 では世界﹃一最強﹄ を滅亡の 下り坂に転げ落としている﹂と、

革ム叩演劇﹃慶祝大会﹄を通して発見される

一一、

ものである。

内容と形式に変化があったことを示唆する

れ、後に脱出した映画監督夫妻)の功労で あるにしても、寸思想教養事業 Lの具体的な

ざる密使﹄という映画でもうかがえる特徴 であって、たとえ申相玉夫婦(北に投致さ

芸術作品にす る歌を作曲する、﹁通俗的な﹂ 帰ら るというのである。これは実際に、 ﹃

反帝自主思想の歴史的意義と共に現代への 継承を掘っている。すなわち、それは﹁全 社会の主体思想化の偉業が絶えず深まって いるこの時期に、われわれ人民を主体の革 命息想で教養するのに大きく貢献すること になろう と言うのである。演劇は総合芸 L

術であるだけに演技だけでなく、舞台芸 術・音楽効果なども﹁社会主義現実主題作 品﹂にふさわしい技荷が強調されもするが、 ここでも金正日の名で求められている﹁真 実性﹂が一つの原則として示される。すな わち、﹁風刺劇にしても、演劇の形で現れ る生活の中で自ずと笑いを込みあがらせる

27

--?


も、それがたとえ限られているにせよ内部

矛盾を描く文学作品に対して統制を強化し

北緯の芸術、または﹁思想教養事業﹂の特徴 を要約すると、①人民性、③安働階級性、

のような形式であれ現実に批判的に対決す

を標携する韓国社会では、芸術普聞とはど

なくなっている。理念的に自由と民主主義

本に対する南と北の理解は再び遠のくほか

分かる。このようにして、文化・芸術の基

て、開放と改革から尻ごみしていることが

北韓では、 いわゆる ﹁わが氏族第一主義﹂を補強でもするかの よ う に ﹃春香伝﹄を筆頭とする古典の数々が氏族歌劇の名で

@凡性│の一一一点の基本治軒が挙げられる。 この基本指針のほか、﹁民族的な形式に社 会主義的な内容を盛った芸術﹂、﹁人間中心 日成に次ぐ金正日の教示に忠実に従うと

などが、金 の社会主義的写実主義の方法 L

制作・公演されるといった新たな変化を見せ始めている

ることによってそれが持っている矛盾を認

を認めるとい、さ⋮で美術の理解と層高で

0 年代になって、少なくとも演劇では 九

いった名目で守られている。

ものがこの時期になって作家たちの視野に

ある。もちろん開発独裁に反対して闘った

劇の名で製作・公演されるといっ子薪たな

﹃春香主を筆頭とする古典の数々が民族歌

時代の手本のような作品で、わが国歌劇笠宮

﹁現代性の問題を正しく解決したわれらが

﹃春香伝﹄ は民族文化遺産の継承において

ている。結論的にいって、そのようにして、

なると、すたれてしまったというのである。

たこうした傾向は社会主義の奪化が問題に

うのである。

噴き出始め盛況を呈するようになったとい

識の対象としてみたことのなかったものが

北韓社会の芸術に対する視点とは全く次元 を異にするものだった。

支持する動きがなかったわけではないが、

形式に社会主義的な内容を盛った芸術﹂を

三0年間、とりわけ八0年代に﹁民族的な

る相対的な声律性を持った世界であること

する歌劇作品に合わなければ、新しく立派

体的な生活現実では感じてきたが、自戸)意

入る cこうして、これまで北韓の住民が具

識させ、これによってその矛盾を超越させ

理が依然として強調されている。こうした に創作して新たな民族歌劇の様相にム早つよ う 一つの情緒にしなければならない とし

結局、﹁首領の形象化﹂に収敬される基本原 中で、素材的な側面から、いわゆる﹁わが

変化を見せ始めている。筆者が日本の福岡

術創作におけるもう一つの-記念碑的な名

民族第一主義﹂を補強でもするかのように

で一九九一年一O 月七日にみた﹃民族歌

作﹂に指折られるようになったというので

解放五O年、そして分断五O年に百一って、

L

劇・春香 F は海外公演用に縮小されたも

もちろん八 0年代の北韓文学には党の政策

ンファ芸術劇場を専用劇場に持っている

壌芸術団は、それぞれ二千席と八百席のボ

性や山{易派性はほとんど脱色されていた。平

とがあるが、筆者の見るところでは韓国演

にも違和感はない﹂と書いたのを読んだこ

分が演歌、ないしは流行歌調なので日本人

日本のマスコミが﹁メロディの多くの部

九0年代の北韓文学では基本的に党の政策

が行聞に読み取れると言われる。しかし、

かつて考えられなかった生活の具体的現実

研究によると、この時期の北の作品には

決めておいた限界はあったが、先に挙げた

的方針を常に作品の結論としてあらかじめ

覧会に際して出版した﹃われわれの美術を

北韓が一九六六年 一 O月第九回国家美術展

いても例外ではない。われわれは、これを

正当化﹂のためであって、これは芸術にお

には北韓当局が求めてきた﹁教条的な自己

南・北韓を異質化させてきたのは、根本的

それすら国家権力により教条的に強要する

のなので、その全貌を把握するには多少の ある。

が、公演では金正日の指導が強調されてい

劇界と観客からも世晋cれそ、つににはみえ

ところが、年が経つにつれて強まってい

無理はあるものの、基本的には、労働階級

る。具体的な指導事項はおよそ次の通りで

民族的な形式に社会主義的な内容を盛った

行物の中でパターン化している。それを要

ない。だからといって、分断五O年の聞に

約すると次の通りである。

ある。すなわち、まず歌詞の面ではややこ

家たちに一定の書く自由を与えず、作家た

革命的な美術に発展させよう﹄とという刊 ちに一定の党方針の枠が様々の経路を通じ

内容を盛った革命的な美術に発展

①、美術を民族的な形式に社会主義的な

的な統制が以前に比べて強化されている。 北韓小説の傾向とその歴史的な意味を問う

て示されて、作家はこれを知らず知らずの

すなわち、北韓当局はこれまでのように作 一研究(キム・ ジェ ヨン )によると、九0年

うちに受け入れて傾向文学になり下がった

いというのではない。例えば、九0年代の

情性豊かに、その形象的な質を決定的に高

代の北韓文学は国際的な条件と密接な関連

形成された﹁異質性﹂がなんら障害にならな

めぬばならず 、 L 歌も﹁われわれの時代の人

をもつようになってから、むしろ八0年代

の歌詞を﹁哲学的な深みがありながらも叙

民たち、とりわけ青年たちの情緒的・美的

しい漢文調と﹁速まわしな﹂表現、対話唱式

感覚に令つように創作する一方、メロディ

というのである。

ばならない﹂というのである。また﹁歌の様

韓の現実をもとにして、それまで現実的に

韓文学は国際的な条件よりはこれまでの北

作して﹁わが民族第一主義﹂を称えながら

ようにイデオロギーが脱色された作品を創

代になって北韓当局は一方では古典歌劇の

0年 に対する比較研究を基にするとき、九

養に貢献する。

に見せてやることによって階級教

③、搾取社会の本質を実感が溢れるよう

②、革命の道と人民の英雄的な闘争の姿

させる。 いたといわれる。すなわち、八0年代の北

が達成した成功を後ずさりさせる結果を招

相的統ごをもたらすためには﹁既に創作公

存在してはいたが意識に上っていたかどう

こうした八0年代と九0年代の北韓文学

歌謡式に描くが、メロディを美しく描かね

はそれぞれのシ lンの情況の虜とならずに

演されて人民たちの聞で広く知られている

かにかかわりなく鉦観されてきたこれらの

を形事化する。

﹃重責 F の歌にしろ、その歌が新たに創作

28


あると共に分断五O年の歳月を通して深化

こうした観点からみると、光復五O年で

げられて、南と北の墨質化は更に広がるも のになっていくほかなかった。

いった二つの要因が複合的に働き合って民

体制からの威圧と社会・政治勢力の分裂と

ないであろう。われわれは、解放後、世界

家gqorgE C O・ ロ2包巾)として残るほか

うしな い限り、韓半島で実存する 二つ の国 家は未完の民族国家という、永遠に欠損国

画や版画も引き続き発展させねば 六七年第四期 一五次全員大会を翠穣にして

化するものに限ってしまった。北は、 一九

いるため、伝統文化を通℃て同居住を取り

教条主義的な解釈によりかなり皐質化して

統文化に対する理解も、やはり北韓政府の

されるようなものではなくなっている。伝

SE自己5ロ)に根差した近代的民族意識が

から遅ればせながら抵抗民族(君主巾﹃中

して帝国主義日本の支配による植民地空間

族田容乞形づくることができなかった。そ

多致養わなければならない。

ならない。 立して、すべて主体思想の枠組みの中に押

としての主体思想を確 北韓社会に唯一思想、

⑤、朝鮮画をもとして美術を発展させる

ある美術家の後代に備える人々を このような基本方針は、結局北韓の美術

のもとに同 一化を強いることによ って解消

した暴露出は、思毘はを求めるという名分

⑫-美術創作事業を大衆化させて才能の

活動を党と革命の利益のために服務する革

知らしめる。 が、だからといって外国の美術形 命的美術であって、党と首領の霊室形象

④、社会主義社会で享受している幸福を

こうというのでは決してない。油

式にすべて反対し朝鮮函だけを描

⑤、美術の分野でも主体を確立する。

ら国家社会内部の階級的・集団的分裂が深

民族主義運動と社会主義運動に分裂しなが

手'ユ手 'eh

⑦、朝鮮画を基本とするが複百主義的に

いまとなっては現実の認識と現実の超越を

戻そうと試みても無駄だろう。したがって、

して、それぞれ資本主義陣営と社会主義陣

まり、遂にはアメリカとソ連の周辺国家と

一層教条的な綱領に縛られた。このように

め、これまでの成果を相関的に受け入れる、

根源的に可能にする芸術活動の本質を認

し込めようとした。北のす べての芸術は、 して軍事政権のもとにはあったが、北韓に

昔のものをまねるのではなく、鮮

比べ自由を享受していた南の芸術世界から

明で簡潔な伝統的画法を研究して 時代的要求に合うよ、つ発展させな ければならない。

産主義的に教養することができ、

れ変われないだろう。したがって、新しく

われは十分な条件を備、えた民族国家に生ま

な南北韓の現実が克服されない限り、われ

営に分割・吸収されてしまった。このよう

懸け離れた硬直した芸術世界が北に築き上

未来志向的な解決策を講じるほかない 。そ

③、美術作品の主題を正しく選ぶ(この

彼らを革命闘争と建設事業に力強

生まれ変わるためには何よりも、まずこれ

場合、良き主題とは﹁人民大衆を共

く呼び入れられるような絵画﹂を言

までの南と北の支配勢力が、分断構造を統

治の手段として利用してきたとい、ユ亭実を

⑬、資本主義社会の美術は主観主義と形

層発展させなければならない。

情緒と志向に合うように、より一

基底にして社会主義建設者たちの

る芸術も、やはりこのような作業に同じく

ない 。狭い青山味の文化としてよく挙げられ

民主主義の力量を養っていかなければなら

平隼立構造から解放し、市民意識に基づいた

族の具体的な実体である構成員を全ての不

一民族としての意識の回復を図る一方、民

また、長い歴史を通じて共有してきた単

窓古一に認めなければならない。

式主義、自然主義に基づいていて、

りつつあるという見方もそれなりに正しい

前に控‘え民族国家の意義が従来よりは薄ま

形成に貢献できるであろう。一一一世紀を目

が、分断による民族構成員の現実的苦痛に

参茄してこそ真の意味における民族国家の

に愛される美術作品を創作するた

。、美術家たちが党の求める作品、人民

はほお被りしながら世界化を叫ぶとすれ

る 。

めには現実の中に入っていかなけ

ば、そのスローガンはまたとなく非現実的

AV

工場と農村にじかに出掛けていっ

であろう。

ればならない。そうするためには、

り、人民の愛情を引き出せずにい

人民大衆の生活とは懸け離れてお

うな美術もすべて朝鮮的なものを

産業美術、彫刻、手芸、工芸のよ

⑨、絵画だけでなく映画美術、舞ム門美術

、 ュ 。

︾司﹃ 的 SRHm

て労働者や農民たちと仕事を共に しなければならない。

29


麟 県知 山

光復五O年 韓国現代美術の 展開過程と展望 関かれ、そうした時代的な状況に呼応する

は、戦争を恕穫にして韓国が世界に向けて

岱芙術の観点から理解されたものであった

とって近代美術とはあくまでヨーロ ッパ近

てしまうという時代的要請に直面しなけれ ばならなかった。のみならず、われわれに

美術の展開に関連し﹁超克の論理﹂という言

前に書いたある評論で、筆者は韓国現代

障されているといっても過言ではない。

さにこの﹁余臼﹂により自らの存在理由を保

注 じるときまず提起される問題

実際に美術におけるこの﹁現代

なければならない遺産もなかったというこ

継承されねばならない伝統も、また拒否し

こうした事実は、韓国現岱美術において

かつて存在したことがなかった。

る。もっとも、この 二つは所栓、韓国現代

もう一つは純粋な造形的発想の側面であ

か。一つは先に述べた美術史的側面であり、

つの側面から照明できるのではないだろう

葉を使ったことがある。言い換えると、そ

ある。逆説的にいって韓国現住実術は、ま

かのようにわが国の美術も世界の美術に目

し、それすら日本化した西欧式美術の断片

れは﹁論理を超越した論理﹂の世界といえる

ことになる。そして、二番目の韓国戦争で

覚めることになる。これと時を同じくして

的、折衷的な移植に過ぎなかった。まして 近岱突術が示している註杭と断絶、または

国現代美術の全般的な状況を論

新しい世代による美術の動きが現れること

継承と草新といった美術史的つながりは

' 峰 山 一

JE払寸lは、現代美術の誕生、または形

になるが、この新しい世代の登場と共に韓

l

成の時代的背景である。顧みると、韓国現

国現代美術が生まれてくるのである(また ︿円 gg ﹀ と g 宮Eミ L いう概念もいってみれ ば、西欧的な発想によるものではないかと

代史において一時代を画する民族史的な事

い意味の歴史的背景とより狭い意味での美

時代的な背景というとき、それはより広

すれば、その断絶は比験的にいって一種の

かの﹁断絶﹂があるというのが事実であると

国の現岱美術とそれ以前の美術との間に何

との傍証にほかならない。しかし、もし韓

もある。

美術において同一の問題に帰結するもので

思 ユ 。

件でもある。美術に限ってみると、この二

の場合これは言、2aでもなく韓国の、いわ

術史的な背景とを意味する。そして、後者

それにこの﹁余白﹂は単なる空白ではなく、

ゆる﹁近岱美術﹂と関連することになる。し かし、われわれは近岱突術の伝統が成立す

その中に無限の可能性を秘めている空間で

一番目の場合、韓国美術界は﹁日本留学

る過涯を経ないでまっすぐ現住柔術に入つ

つの担穫はやはり美術分野なりに重要な意 味がある。 世代﹂が大挙帰国して韓国近代美術の方向 定めにおいて一つの転換的な道標を設ける

﹁余日の空間﹂といえる性質のものである。

美術分野に限られるものではなく、韓国現

五 O年の韓国戦争である。これはもちろん

り、もう一つはその五年後に起こった一九

一九四五年の八・一五光復(民族解患であ

h

代美術を形づくる、?えで 二つの歴史的﹁契 機﹂が決定的に働いたと思われる。 一つは

かもしれない。そして、この論理は一応二

-h'

芋 逸i

一、

差李イ

ンフォルメル美術(﹀ユ宮町 05色)運動は、

韓国現岱美術の最初ののろしとしてのア

一 、 一

30


一般に五0年代の末頃に現れたものと見な されている。そして、その主役は﹁六・二

O歳 五(韓国戦争)世代﹂と呼ばれるべき 二 (当時)内外の若い作家群である。 この時期はヨーロッパ的な視点からみる

まだいえていない痛手と制御し得ない虚無感を胸に抱いたまま、

と、いわゆる﹁戦後第 一世代﹂に対応するも のと思われる。韓国戦争が韓国皇室台たち

自分の本能の声をそのまま表出する途を選んだのである

にもたらした精神的な事宇と第二次世界大

ひたすら自身の混沌とした内部の声、

戦後のヨーロ ッ パ が体験した精神的な状況 とを比較して一 百うのである。もちろん年代 的にみると、その時差は約五│一 O年の聞 きがあるが、問題は時揃性よりも一種の﹁状 況的共感﹂にあろう。それに、そうした共 感から韓国初の﹁表現主義的﹂抽象が生まれ の重要な音堂義は、このアンフォルメル運動

てくるのだが、これが持っているもう一つ と共に韓国に初めて強烈な前衛意識が差ぇ、それが集団意識化された事実にあると われわれは、韓国戦争を体験した若い世

い 、 え よ 、 っ 。

として、それこそ熱狂的に受け入れた体験

代がアンフォルメル美術を一つの前衛運動 的な動機を十分に想像できる。それは、 一 時代を切実に体験し生きてきたその世代の の事T乞青春の勲章のように抱えていた若

集団意識を反映するものでもあった。戦争 い世代は、まだいえていない事子と制御し 得ない虚盤減少乞胸に抱いたまま、ひたす色 自身の混沌とした内部の声、自分の本能の 声をそのまま表出する途を選んだのであ る。人為的なすべての作為の空しさを悟っ た前衛的な韓国の若い作家たちは絵画から すべての現象、すべてのイメージを追いだ とも原初的な衝動の中で生を確認しようと

T絵画の極限点を指向したし、人間のもっ

31

『闘鶏 B 1955. ( 28x40cm)

李 {中 型E

した。それは絶叫の芸術であり、人聞を原 点に立ち戻ら せようとする﹁実存﹂の芸術で あった。

戦争の痛手を青春の勲章のように抱えていた若い世代は、


るようになる。そしてこれが﹁還一月﹂の時湖、

おいてはまた別の形の前衛美術として現れ

芸術的﹂性向のものであり、それが韓国に

こと自体が韓国現岱実術の全体的な流れか

一つの集団的な誓 c として登場したという らみると、 一つの必然的な要請に応えるも

期抽象﹂とは、すなわち幾何学的 ・還元的 フォルメル運動が、たとえ集団的な雪 c と

な抽象をいう。しかし韓国におけるアン

の時期と時を同じくして展開されたという

すなわち六0年代末から七0年代半ばまで

韓国における﹁アンフォルメル時代﹂は、 およそ一九五七 │ 六五年頃にできあがる。 そして、これと共に 一つの特記すべきこと のであったことは否定できない。それは、

あるといえるだろうし、その代表走者を指

韓国でかつて追求されたことのない基本的

九(一九六O年の学生革命)世代﹂と呼べる

して姿を隠したとはい、?ものの、単なる美

のではないかと思う。

画、とくに抽象の第二期を画するものであ

学的、または流派的レベルを越えてそれが

年代的にみるとき、六0年代を締めくく

一方、この﹁還元的﹂性向の美術と時を同

は、韓国現住実術の最初の本格的な国際進

限されていた)に一九五九年の割設初期か る最後の二年は韓国現住実術のもう 一つの 新たな章を聞く年といってよかろう。そし

じくして同じ﹁四・一九世代﹂の一群の作家

るとすれば、われわれは七0年代の後半期 に差しかかって再ぴ﹁第一一一期抽象 L といえそ

出の舞台であった﹁パリ・ビエンナーレ

ら 一九六五年(第二回│四回)に百一って韓国 て、その後を次いで展開された一時期の美

によって、これとはいろいろなレベルで相

ことになる。すでに一般化された用語を借

うな韓国抽象美術の新たな局面と向き合う

ことは、韓国直壇の風土においてきわめて

を代表して参茄したすべての作家が、みん 術動向の全体的な様相をかつて筆者自身は

反するかにみえる一連の﹁幻想的﹂な性向の

輿味のあることである。

なアンフォルメル性向の作家だったという ロ)﹂の共存の動態と ﹁還元と拡散(別名 してとらえたことがあった。再言するまで

美術が生まれてくる。﹁幻想的﹂というのは、

い絵画の世界といえるだろう。しかし寸ミ

りると、その抽季乞﹁ミニマル的﹂性格の強

明瞭性に対する切実な雲互の集団的士費で

事会式である。

もなく、この二つの用語は対立する概念で

一次的に芸術概念およびその領域の拡散を

造形秩序の確ν 一と、これに担めする視寛的

らに共通した特徴は爾面から一切の造形的 あり、それが共存すると言ったとき、それ

意味する。そして、その具体的な形として

ニマル﹂という語を使いはしたが、そこに

は大きく評価されねばなるまい。

要素を排除することにあったし、その代わ

はそれほど韓国現岱美術が複合的な様相を

は必ず確かめておかなければならない但し

韓国現代美術に占めている美術史的な意義

りてマチエ lルの重視と共にそこに刻まれ

帯びるようになったことを意味するもので

書がつきまとう。すなわち、ここで議論の

エンナーレ展の出品作家は三五歳未満に制

た行為の痕跡、要するに画面との﹁身体的﹂

る。もっとも、その﹁オブジェ﹂なるものが

現れるのが、いわゆる﹁オブジェ美術﹂であ

対象となっている﹁第一一一期抽象は決してア

﹂(周知のようにこのビ (巴gE 貯 仏 冊 目 ︾ 釦 コω )

なぶつかり合いということにあった。そし

もある。そして、先ほど言及した寸第二期

も一九 一 0年代(とりわけダダ運動のこと

美術の領事乞侵して入ってきたのは、早く

六 0年代の径十期に差し掛かると、われ

しつつ、韓国初のモダニズム美学の論理的

的パターンによる各諺的な面の構成を指向

のこの幾伺字的抽象は、単純明快な幾

g T

め、新たな基本的造形性を追求する韓国初

岱美術の宿命と言わざるを得ない。このた

は人間精神)との出合い(ランデブー)の美

これを指して﹁事物(オブジェ)と人間(また

すことで終わってしまうのである。そして、

的なオブジェをあるがままの状態で指し示

は、ある新しきものを造り出すよりは日常

ベルに拡散され、このようにして芸術行為

新たな接近の試みである。こうした一連の 試みと共に美術はわれわれの日常生活のレ

ディー-メード﹂というオブジェに対する

であり、そのもっとも代表的なケlスは周 知の通りマルセル・デュシャンの﹁レ

ニマル的特性はむしろ﹁脱ミニマル的

て、まさにこうした意味からわれわれのミ

的な自然観を基にしているのである。そし

造形的思老吾超越したわれわれ固有の独自

かえって合理主義的な論理と筆花された

だけでなく、われわれのミニマル的特性は

リズム美学のどのような痕跡も見出せない

らみると、われわれはそこでかつてミニマ

実である。

とは全くその本質を異にしているとい、ユ事

還元的な幾何学的抽象が韓国の現代絵

一一、

て純粋な美術史的な側面ではなく、その美

抽象﹂はその代表的なケlスである。 まず、この﹁第二期抽象﹂、すなわち幾何

われのアンフォルメル運動は一穫の飽和状

展開の幕を上ザゐことになる。同時に、そ

学﹂とも言ったが、これと共に美術領域の

して﹁六・ 二五世代﹂を受け継いだ﹁四・ 一

術を生ませた精神的な萱尽から推し計ると

学的、または﹁還元的﹂抽孝乞中心にみると、

前衛美術としての活力を失い、空虚なマン

の払理一は当初からある限界佐を持った折衷

( E弘吉E 呂田-)﹂であると共に﹁汎自然主義

的風土との共成帯がまさにそれである。

2

同時に

熊苧﹄迎える。これは換言すると、この表現 主義的抽象が当初の生命カを失、

的(司自E E E -印日)﹂といえるであろうし、

実際に、韓国現代美術の全体的な流れか

メリカやヨーロッパにおけるミニマリズム

ネリズムに陥ってしまったということを意

的な発想のものであることを免れられない

新たな地平が聞かれるのである。例えば設

その汎自然玉義的世界を指して、あるフラ

われわれにはその伝統がない。これは言い

味する。このようにして自然発生的な行為

ものでもあった。しかし、たとえそのよう

置作業、アッサンブラ lジュ、さらにはパ フォーマンスなどがそれである。このよう

ンスの美術史家は﹁自然の秘密に満ちた作

gg

き、そこには 一種の宿命的な紐帯意識のよ うなものが明らかに内在しているのであ

換えると、やや飛躍するが、いわゆるモダ

の軌跡としての非定形(gE﹃自己)のマチ エlル過剰に取って代わり、一層基本的な

な限界があったにしても韓国において

な作業は、属性上実験的であると共に﹁反

これらの作家、とりわけ商家の場合、彼

る。すなわち第二次大戦を経た後の戦後(ア プレ・ゲ lル)のフランスと韓国戦争を自

造形秩序の再確認という問題が再ぴ持ち出

﹁ 六 ・ 二五世代﹂の、いわゆる﹁熱い抽象﹂に

ニズムの伝統がないということと軌を 一に するものでもある。こうしたことが韓国現

され、これと共に韓国の抽象美術は﹁第二

次いでその反対給付として幾但子的な抽象

ら体験した﹁六・二五世代﹂の精神的・倫理

期抽象﹂の時期を迎えることになる。﹁第二

32


業と人聞の創意性の合ご富市ロコ司o a --。ロ)

の世界だと規定したに違いない(一九九二

年イギリスのリパプ lル・テlト・ギャラ

リーに飾られた ﹁ 韓国現代絵画六人展﹂に付 けた ﹁ 自然と共にした作業﹂(巧RE 認 さS

Z三号巾)の標題も同じ流れのものと思われ

る)。そしてこうした特性はほかでもなく、

厳格王義的であり規格化されたミニマリズ

先に筆者は韓国固有の自然観とい之一日葉

ムの克服を意味するものでもある。

な自然観と流れを同じくする。そして、そ

を使いはしたが、それは一層広くは東洋的

の基底をなしているもの、それは自然を人

間が征服し統制し所有しょ、っとする客体と

して認識するのではなく、人聞が共に息を

する源泉的な生成の広場として認識する思

想である。また 、それは自然をして自ら姿

を表わし、自ら生成させる観照の世界でも

の本然の姿に送り戻し、またそのように認

あり、すべての森羅万象を感寛の向うのそ

識することを意味する。そして、そのよう

な自然観を基底にしてわれわれの独自的な

育てあげるよ、つになる。

抽象、言い換えれば モノク ロの絵画世界を

0年 代 の 径十から人0年代につながる 七

一時期、一群の作家によって強力に推進さ

れたこのモノクロミズムの絵画は、もちろ

んわれわれだけのものではないばかりか、

また昨日や今日に始まったものでもない。

そのル lツを、あるいは一0年代のマレピ

チの絶対主義ω (右 足ヨ己窃包)から探し求め られるかもしれないが、その後にも一九六

0年代の初めに現れたイブ ・クラインの

(当主主ロ)により﹁高貴で品格の高い精神 性と L 規定されてもいる。

ノク ロームはかつて美術史家ベルフリン

33

﹁ が一つの指標を画した 青色モノクロ ーム﹂ ものとみることができよう。そしてこの モ ~

1955.油絵 ( 65x80c m) 金換基


韓国の作家たちの場合、そのモノクロー ムの世界はきわめて特殊なものと考えられ

かも知れない。実際に欧米のモノクローム

ている。 一一言でいって、それは﹁精神性﹂と 物質性の自然な統合にあるといえるだろ う。あるいは釜名前者への収数といえる が色 U 4 -感覚的・物質的な単色に還元した ものだとすれば、韓国の作{杢 ちにとって それは当初から物質性を超越した﹁源泉的 モノクローム﹂である。換言すれば、その モノクロームが欧米の受口、物質化された 色彩空間を意味するものであるとすれば、 われわれにとってはあくまで精神的空間を 意味するものである。 日本の美樹霊=愛ナカハラユlスケは、 あるカタログの序文で、韓国のモノクロ絵 画について至って含蓄のある指摘をしてい る。彼によれば、韓国のモノクローム主義 は﹁色彩に対する関心の表明としての反色 彩主義ではなく、彼ら(韓国の画家)の絵画 に対する関心を色彩以外のものに置いてい ること﹂を語っているというのである。実 際に、この時期のモノクローム絵画は缶彩

的コンセプション(発想)﹂の原初主義をい

るのではなかろうか。

て、それを指して一応は﹁原初主義﹂といえ

の中に包括している俗諺なのである。そし

の水墨の世界のように、すべての色彩をそ

ル的モノクローム主義が七0年代の径十か

そこから東洋特有の自然回帰的・脱ミニマ

イリュ lジョンを含めて 一切のイリュ 1 ジョニズムが排除されるのである。そして、

ればならず、したがってそこでは空間的な

イメージなど、このすべての﹁追加物など﹂ がこの絵画の原初的な構造に同化されなけ

かれる線だとか色彩、または色の面だとか

的には﹁自己還元的﹂なモダニズム、さらに

り委元化された形に現れる。それは、一次

その﹁拡散﹂の概念がこの時捕においてはよ

ぐ新世代の登場を意味する。 先に筆者は﹁拡散﹂という語を使ったが、

ノクローム絵画を含むモダニズムの後を継

流れの中で 一種の﹁多元主義﹂の時期に入っ ていくのである。そして、それはまさにモ

岱実術は、大きく様相を変える。国際的な

0年代の半ば以降今日に至るまで韓国の現

現象﹂といえるだろう。そのようにして八

味から、換言するとある特定の流派、また

が堂々と﹁世界の中の韓国美術﹂として発言

れていき、これと共に始めて韓国現住美術

ており、それが美術の領域の拡散といった、

は一切の霊凡主義の克服とい、っ命題を掲げ

おいて二つの方向に展開されていく。一つ

gEZ吉弘吉国)といえる美 て、﹁内容主義﹂( 術を誕生させることになる。それは大体に

る形式主義美学は遂にその反対給付とし

モノクローム主義一を含む韓国の、いわゆ

みを見せるのである。

代美術は誕生以来かつてなかった様々な試

は傾向とはかかわりなく﹁ポスト・モダン

う。これは換言すると絵画をその本来の原

ら、それも作家の世岱季v乗り越え拡散さ

味する。そして、それが絵画作品の始発点

また別の途方もない結果をもたらすのであ る。そして、これを指してより包括的な意

は、主に美術自体の観点から﹁絵画性﹂の回 復であり、もう 一つは芸術外的な鯉口⋮にお 権を得るに至るのである。 しかし入0年代の墜すになって韓国の現

であると共に帰着点でもあり、﹁描く﹂とい う行為がその自明性にもとるものであって はならない 。そのようにして画面の上に描

原初主義というとき、それはまず﹁絵画

面という画面の自明性を確認することを意

初的構造に立ち戻らせること、すなわち平

に対する無関心の表明ではない。無関心で はなく、そのモノクロームはいわば東洋画

『祖父と孫 A 1960. 油絵 ( 146x98c m)

朴霧根

34


それは一方では形象 ・イメージ・缶諺など で表出される。こんにちの生については、

それが時代相という屈折を通じて多様な姿

を帯びることになる。それに ﹁ 生﹂というと き、それはほかならぬ﹁現実の生﹂を意味し、 韓国美桁の版図を一軍旦かで多彩なものに

であろうが、現実逃避であろうが、今日の

界を蔵してもいる。それにこれが現実参加

立することである。われわれの現岱美術も、

申僅と世界佐とい、つ垂直 ・水平が相捺する ﹁今日﹂とい、ユ父差路でわれわれの位相を確

-または複百主義的な仮想(︿EE )の現実世

の複合的な再登場、他の一方では表現領域

けるメッセージの重視である。前者の場合、

の拡大であり、これは新たな技法・メディ

そのことわりは同じである。そうなるため にわれわれは、もう一度昨日と今日、そし

と、この美術はなによりも﹁拡散された視

まれる)に百一る。それに後者の場合を見る

芸術( F S仏﹀ス)﹂・ピデオア lトなどが含

時事的な攻撃性を持ってもおり、また時に

優先して、時にはイデオ ロギー的、または

伝達しようとするメッセージが表現形態に

る。このほかにもこの内容主義は、それが

よく﹁人間条件の疎外﹂とも言われている が、これに対する告発がいわばポスト ・モ ダン的主要なテ l マの一つをなしてもい

置を忘れてはならないであろう。その位置

といってその中におけるわれわれ自身の位

化の時代﹂に生きている。しかし、だから

の一層幅広い展望を可能にするものと思わ れる。 国際 今日われわれは﹁情報化の時代﹂、 ﹁

んにちの状況に対する全的な﹁確信﹂(ジュ

との依存関 れにはなによりも﹁過去の権威﹂ 係から脱して過去に対する果敢な批判とこ

A'

リオ・カルロ・アルガン │] 三5 の回ユ o ﹀ZB)が展開されねばならないであろう。

ビジョンを固めねばならないだろうし、そ

て明日に対するわれわれなりの確固とした

点﹂を前提とする。視点、それはすなわち

を守るということ、それは、ほかならぬ歴

ー しており、同時にこれからの韓国現岱美術

人間の生に対する視点であり、それに対す はより広い視点からの文明批評的な譜語、

アの導入から各種の設置作業吉田E EE O目) (ここにはもちろん環肇天術としての﹁大地

る接近の方法論によって美術は多様な様相

35

1980. ( 72. 7x91cm) ~

李涌益


古川総

西洋の人々が文{壬乞ベンとインクで書く一

から、まず理解する必要がある。この点は

古来の紙)に{壬乞書いたり絵を描いた状況

そして墨が容易に吸収される画宣紙(韓国

にペンではなく筆で、インクではなく墨で、

朝鮮朝時代の文人の書芸に見られるよう

の思想が生まれてきたし、ここから水墨画

字が一つであるという、いわゆる書画一致

を解釈する絵でもあった。そのため絵と文

文は意味を伝える文字であると同時に音謀

かったのも、こうした事情のためである。

字を書くことと絵を描くことを区別しな

初期以降朝鮮末期まで施行された官吏登用

はないかと思う。文人画が科挙制度(高麗

は、やはり文人画と古墳壁酉系統の美術で

韓国画を語るとき関心を寄せるべきもの

的なものを追求する絵の埜入であるとすれ

もない。なぜなら墨の絵画が時間的で精神

小させるか無意味にしてしま、ユ索地がなく

れば二つの埜入が持つ絵画自体の意味を縮

いえる。しかし、こうした区分は、ともす

術とすれば、他の一方は疎外階層の美術と

歴史的な観点からは一方が支配階級の美

いのである。

する方法にも特別さを認めなければならな

察しなければならないし、またそれを理解

め同じ東洋画の韓国画を特別な視点から観

独立していたのである。こうした違いのた

かったのだが、西洋では分化し、それぞれ

書芸と絵画の表現様式が分化されていな

状況とは対照的である。いわば、東洋では

使ってカンバスの上に絵の具で絵を描いた

方、絵は筆やナイフのような別の道具を

や絵画の来歴には、昔の人々の{主由論的な

理解し得なかった。なぜなら、それらの文

ど深奥であり、普通の人々はそれを十分に

れは学問の深い学者のものであればあるほ

である。いわゆる画題というものだが、こ

の意味を簡単に詩句の形で市芳約しておくの

えば、四君子や山水を描いてその余白に絵

大部分文章と絵が一緒になって現れる。例

れることになった。この時代の絵を見ると、

や文人画といった特別な絵画の霊会生ま

的な彩色画である。古墳壁画は、亙神図や

画五O年の流れを理解するためには、この

つの埜入はどの時代においても必要不可欠 であったからである。今日われわれが韓国

現れ、その意味もまた複合的に理解される

のどの文字も漢字ほど絵の意味が鮮やかに

もその源流は絵文字だった。しかし、世界

文字の歴史から見ると、アルファベット

文章では容易に表現のできない部分を絵で

て相互補完的な関係を維持した。いわば、

になり、文も、またある程度は絵に依存し

がって、絵画は初めから文に依存するよう

哲学が染み込んでいたからである。した

美術と折衝を重ねながら発展してきた本格 民画に脈絡を保ちながら主に民閉信仰とも

文字はないだろう。昔の学者や士大夫が文 れば古墳壁画は色彩の絵ということがで

結びついた。文人画を墨の絵といえるとす

二つの様式がどのような背景のもとに生ま れてきたのかを探ってみる必要がある。

国画とするのが正しい。

の盆聞はもとより古墳壁画などすべてを韓

の国家試験制度)を導入した高麗時代から

ば、彩色画は空間的なもの、生の具体的な

あり、韓国も例外ではない。韓国画とは、

どの国もその固なりに発展させた絵画が

き、また墨の絵画を文人や士大夫(両班)の

真実ゃある規範を提示する絵画で、この二

ヤンパン

少なくとも西洋の文物が入ってくる前から

絵とすれば彩色画は匠の絵といえるであ

薬 4 r r、み

われわれなりにこの地で発展させてきた絵 ろ 、 っ 。

!

朝鮮朝の後期に至るまで美術文化の主流を なしてきたのは、土着的な古墳壁画が仏教

義 キ トジ 喜容 3 手淑 2

韓国画五O年の 課題と反省

光 復

画を総称する。したがって、文人画や画員

一 、

36


表わし、絵でよく伝達できない部分を文章 に表現するため、そのどちらも完壁な表現

要がある。

彩色画は畳の美学を、いわゆる人間世界に

それは、われわれ自身の選択というより時

どうしょうもない歴史的な賓叩であった。

援を断たれた韓国画が、その時点で主に西

水墨画を描くということは、あたかも競技

王朝が滅亡した後にも引き続き文人画や

のこうした意味は確かに水墨画と対立的な

ているという一思想と比較するとき、彩色画

正しいだろう。

流への投降であり適応であったとみるのが

欧文化への指向に焦点が合わせていたのは

水墨山水画が脱世俗的な世界観を反映し

対する世俗的な関心を反映する絵画と理解 される。

のである。こうした事情から文章を書いて いた墨筆で簡単な絵を描いたり、反対に絵

軸をなすものであることが分かる。実際に、

の手段として独立することができなかった

を描いていた墨筆でふと思い浮かぶ考えを の規型 けがあって実際には競技が行われ の規則も不必要であるのと同じく儒教文化 が崩れ去った今、そのような絵を描かねば

れらが時代のわれららしき絵画﹂という

一九三0年代に同延社のグループが﹁わ

ないようなものである。競技がなければそ

キャッチフレーズを掲げた。不幸にも大き

過程で水墨画や文人画様式が{喜宥したとい

な成果は収められなかったが、韓国画を主

簡単な文章で書き入れたりした。こうした

見られるように匠の文化から発展してき

水墨山水画は士大夫の書芸文化から培われ たものであり、彩色画は壁画や扉風などに

なる絵に一、 二の各諺が加わるとか、また

体的に発展させなければならないとい、♀思

うことに留意する必要がある。単に墨から

識は、韓国画五O年の歴史を振り返ってみ

浮き彫りにされなかった。これが韓国美術

え人 画 を 墨 の絵 と い え る と す れ ば

古 墳 壁 画 は 色 彩 の 絵 と いうこ と ができ、

また墨の絵画を丈人や士大夫(両班)の

絵 と す れ ば 彩 色 画は匠 の絵といえる

む士大夫階層が存在したのであり、筆記文

俗的な世界の秩序やその規範を事つのに応 用されるものといえる。このことは、世界

るものであるとすれば、彩色面の伝統は世

である。墨が気韻生動の思想子主に表現す

は王朝社会から離れては存在し得ない。時

義思想から切り離せないように文人画精神

させねばならなかった。民主制度が啓蒙主

な形態にせよ王朝の思想的な雰囲気を存続

神に深い理解が必要であったし、どのよう

来の姿を取り戻すためには、まず文人画精

われわれの自の先近くにあるということで

て現れる傾向は、山水が西洋画でのように、

およそ、この過渡期における絵画に共通し

O年の歴史を振り返ってみる?えで一つ 五 の目録になっていることは確かである。お

渡期的なものにとどまるにしても、韓国画

銭のような大家たちの絵を王朝時代の絵画

化が発達したのである。

を動かす目に見えない、ある絶対の力を墨

先ほど、水墨と彩色の両様式は対等な関

この両者のどちらを選択するかにあったの

は畢自体を淡く、または濃くして見分けら

と比較するとき、はっきりとした変化を見

た。したがって韓国美術の近代的な課題は

れるように、これを強弱のリズム ればならない。

出すことになるのだが、それらはたとえ過

ならない理由がないのであり、伝統絵画は

(問﹃白色白色。ロ)に活用しながら、だんだん絵 画優勢の方に転換していったからである。

係だと暗示したように韓国函を現代的に発

逆説的ではあるが韓国画が活発にその本

五 O年の訪裡の歴史を象徴する最初の兆候 でもあった。

どのような方法であれ現代的に変貌しなけ

もちろん文人画様式がこのように{蚕看する

的基盤を十分に検討することによって可能

展させる途は、この 二つの霊乱が持つ蓋子

るとき重要な意味を持つ。事実、われわれ は金麗鏑、李象範、許白錬、中寛樋、墓古詩

に至った背景には科挙制度というものが

だが、実際にはそうした問題意識は十分に

あった。科挙制度があったために書物を読

なったので、科挙応試者は誰もがどうしょ

が問題にするとすれは、彩色は世界それ自

の歴史は、この科挙制度が消滅したあとの

文人画が発達するようになったのは、こう した事情によるものである。韓国画五O年

のもそうした観点からである。したがって

人々が墨を月に暗ぇ、彩色を太陽に暗えた

力する機能になるとい、っ香川味である。昔の

体をより一層はっきり差別化することに協

ないからである。王朝勢力やその文化の後

といって新たな時代の文化的精神にはなれ

だ独り文人画精神のみが独り走りしたから

代が西欧化に走っている状況のもとで、た

空間に巨視的な視点を与‘える独特な遠近法

で現れた方法、例えば余白の意味だとか、

的な視点から見たり理解しようとする過程

ある。文人画時代の画家たちが自然を{王出

科挙が文亨乞書く試験を尊重するよ、つに

ならなかった。儒教文化時代以来わが国で

うもなく筆と墨で文亨乞害き絵を描かねば

時代の絵画史だということを念頭に置く必

37

一 、 一


の三違法が彼らの近代の絵では重要ではな くなるか次第に取り除かれているというこ とである。彼らは岩や木や山などのような いうよりは、われわれの日常的な感じで存

、?えで、これを具体的に理解しこれに対応

動﹂の思想が西欧の現代美術を受け入れる

代的に再生産するという意味を持ってい

は物語と精神、または見える世界と見えな い世界を共存させる東洋的な中庸の美を現

的な抽象の埜入と一つにしなかった。それ

題を抽象的に変形させながらも決して西欧

できる源泉的な力であり踏み台であるから

に再生産されるかにある。それは﹁気韻生

だ 。

た。筆者はこれを韓国函の両意性と言いた

い。この両意性は両者択 一や担仇(葛産を

傍する。ともあれ、こうした試みは 同時代、

求める西欧的な美学とは異なった立場を標 一九四0年代に朴奉株が描いた﹃闘鶏﹄は

る、?えで一つの明白な里程標になったとい

またはその後の世代に韓国画を現代化させ

李雁魯、金永基、金基調、徐世鉦ら五O

える。

T乞現代的に変容させた初の 気韻生動の差交

絵画を試みた。彼は、文人画の伝統的な函

を西欧美術の抽象聾入に結合させて独特な

試みであったといえる。彼は毎望動の力

一 、 一

自然の対象が{主由的な視点から存在すると 在することを望むのである。それが西欧の 近代的な自我論の影響であることは明らか である。しかし、そうした意図が全体的に 文人画の枠を変えるまでは至らなかった し、その方向が正しいものであったかも疑 わしい 。重要なことは、文人画時代の絵を 支えるうえで根本精神となっていた﹁気韻 生動 Lの哲学がどのようにして新たな時代

1986. ( 136x69cm)

~

李膝魯

描こうとする対象のを未

がら、

rJFt:! r群.{U などは、 李患魯の

単調な墨の濃度を通知に調整していきな

( 具象性) と味合い自供梓〕を通知に 維持している

38


し、こうした両意性が気韻生動よりは抽象

合い(修費子)を適切に維持している。しか

ら、描こうとする対象の意味(具象患と味

調な墨の濃度を適切に調整していきなが

ため集中されているのを見せてくれる。単

両意性を失わずに新らしい対孝主衣現する

﹃摩、卓会などは水墨的な造形の意志が

見出す。 一九五八年に発表した李麿魯の

はっきりした流れとなって現れているのを

ー六0年代の作品にはその雨意性の実験が

けではそれ以上押し通せないということを

に持っていった、こうした試みが墨と紙だ

を極大化させながら水墨を抽墾衣現主義的

されたことを意味する。結局、溌墨の効果

ない。それは造形は存在するが意味は破壊

決して文字として読めるようにはなってい

おぼろげに残しておく。しかし、その線は

その上に書体の画を連想させる墨の痕跡を

せる。紙(画宣訴のの全面を墨でにじませ、

一九六二年に発表した徐世鉦の﹃作ロ問﹄は その題からして解体主義の面容乞うかがわ

見されるものである。

もの幸いであった。

代に至って勢いよく燃え始めたのはせめて

気に至っていなかったというのは不全十なこ とであるが、その火種が七0年代と八0年

年代と六O一年代の韓国画壇がそ、つした雰囲

新たに創造したケlスと同じである。五0

底的に理解することによって、その美術を

のルネッサンスがギリシャ時代の古典を徹

けとならねばならない。それは、イタリア

を裏付けていた性理学に対する勉強が裏付

現代的に変容させるためには、水墨の聾凡

伝統的な水墨を前向きに解釈し、これを

墨作業は早速ミ ニマルアlトの影響下に入 るようになり、その実験は表現主義的であ

表現主義的に流れたということからも分か

墨林 目に価いする。一九七0年代の初め ﹁

画の現代作持逐一市に影響を及ぼしたことは注

あれ間接的であれ、こうした雰囲気が韓国

もこの時期になってからだった。官接的で

造主義哲尚T乞比較した著書が現れてきたの

論が互いに比較される論文や、性理学と構

紙( 画宣言氏)

の全面を墨でにじませ、

その上に書体の画を連想させる

墨 の 痕 跡 を お ぼ ろ げ に 残 しておく 。

しかし、 そ の 維 は 決 し て え 字 と し て

言売めるようにはなっていない

るよりは威賓と知覚的な感じを重要想する

る。しかし、この運動が行き詰まると、水

運動がこうした雰囲気と関わりのある 会﹂ ことは、彼らの滋墨の現代的な変容が抽象

画漏神により近かったということは、どう 悟るようになるのは時間問題であった。

も ぬ﹄ゆ-

秋史(名筆金正喜の雅号)とドイツの観念

遁聖や朴魯毒、または徐世話の佐聞にも発

しょうもないことだった。こうした点は張

ゐ午、﹁

曹 司 。 4叫 r

39

『端祥図 I A 1984. ( 84. 4x103.6c m) 金基調


ないことはないし、なおさら韓国函という

問題は、そうした機能を担い得る絵画的な 李曜日魯は 一九五0年代に、早くもこの問

史の流れからみるとき時代的な要請でも

金基調が伝統的な水墨画に入門せず彩色

の捗誌は当然復権されねばならない。

絶対、必要だとすれば、彩色の発言権とそ

あったが、それは全く金殴錆の配馨 であっ

たといえる。ともあれ、当時の日本酉理が

画で出発するようになったのは、韓国美術

がら経験した農村の日帝生活を扱ったもの

特殊な用語にこだわることもなくなる。

ら八0年代の新たな盛荏の水墨をリード 一九世紀の初めにそうした状況があった

能力があるかということである。西欧では

ら具体的な気に拡散することを意味する。

した若い画家たちは、注意深く彩色に対す

新たな韓国画に変身することになる。これ

る禁欲王義を緩和させたり解除させつつ、

題を進撃に考えた。彼の﹃曲屠芸、 ﹃ 農村﹄ 一、 ﹃市場﹄などの作品は、彼が実際に暮らしな

目覚め、日本独自の絵画様式‘、 つくりに貢献

案事求是﹂ 、 一八世紀に ﹁ し、韓国にも 一七 の精神が出現しながら実景山水や風俗画を

である。金永基や金基調からも、消極的で はあっても同じ関心が見出される。それは、

したとすれば、金基調の彩色画も関接的で

大別して二つの道に入っていくようにな る。一つは溌墨と彩色を並行させながら具

下寛植以来の画家たちが 一度は共通して悩

あった。こうした実験が主に墨と彩色の出

の描きだした人物たちが熱い黒章棋や墨線の

裏付ける創意性が発現されなかった。彼ら

ても彼らが描いた作品には方法的にそれを

ようとした 。しかし、その試みは無謀だっ

このような課題を単なる水墨だけで解決し

画文化のシンボルであるとすれば彼の﹃秋﹄

性を克服するのに役立たせたのである。水 墨が文字文化のシンボルであり、著] が絵

素材と結合する新たな造形言語聞が開発され

れわれが今日、散文埜入を作り上げるとき も同じである 。気韻生動の精神を散文的な

描かれたのはそのことを物語っている。わ

色の機能が強化され、その発言権が回復す

が新たに浮き彫りになり始めた。それは彩

果を生んだ。そして、彩墨や彩色函の意味

たし、結果的には水墨の消滅を自ら招く結

その隼舟ぴ文字文化の機能を取旦戻しなが

すものである。しかし金基調の彩色函は、

事実、李麿魯と同時代の画家たちは当初

水皇室笠入に物語が導入されるということ

に世俗的な空間に対する肯定的な感情を表

や﹃戦服図﹄ などのような初期の作品は確か

は結局、水墨が散文埜孔に発展するという

に発展させる、?えで世俗的な物語の登場が

の ら彩墨聾凡になる。過程は違うが成在休⋮ 0年代と六O一年代の 場合も同じだった 。五 な気から水平的な気、または観苔的な気か

意味であり、同時に気韻生動の美が垂直的

るということを意味する。韓国函を現代的

はあるが日本画を通して水墨画の持つ限界

会いによって試みられ、 一般に彩墨と呼ば

延長線からではなく、 一つの挿絵のように

た 。

れるようになった。

韓国の神話や歴史物語が益場している

﹃檀君誕生図﹄、 ﹃末学図﹄などでは

韓国の固有な色彩(陰陽五行)が、変形されて現れ、

朴生九の ﹃瓜一女﹄、 ﹃十長生﹄ シリーズでは

西欧文化と接触しながら早くから彩色画に

んだ韓国画の現実と課題の延長線でもあっ

画家金弘道の雅号)や惹園(朝鮮朝の薗家申 潤一帽の雅号)の風俗画は、その関心自体が

試みた前例がある。しかし檀園(朝鮮朝の

気 望 覇 の 社 会 的 ・歴史的な表現ではあっ

させる試みであり、もう一つの試みは墨と 彩色をその機能において同等なレベルに引

象的なイメージよりは抽象的な感覚を増幅

き上げながら物語を果敢に導入する亙凡で

1982. ( 136x137c m) 『亙女 1 ~ 朴生光

ねばならない 。この点が老虐されなければ 絵画を必ずしも墨と筆で紙に描かねばなら

40


態の骨組や気質をなしていた成の水墨は七

している。水墨が形熊字-リードするか、形

成の作品には彩色の効果が際立 って現れて いるが、依然いとして水墨の表現が主軸をな

のが正しいだろう。

りは古墳壁画的な絵画整入の再生だという

的な意味の歴史主義の導入であるとするよ

場している。こうした現象をただちに西欧

学園﹄などでは韓国の神話や歴史物語が登

主義に、または色彩叙情抽象様式に近接し

水墨埜入は彩色と結びつきながら抽塞表現

れるものである。大きな流れから見るとき、

画盤をどの方向に発展させたかに面詰さ

の方向に展開させたか、また壁面的な彩色

場も同じであった。

絵を描く画家もそうだつたし、批評する立

識を持ち得なかった日々であった。それは

といっても過一言ロでないほど、明白な問題意

彩色の本質的な機能を取り戻したのではな

になっている。しかし彼の彩色は、決して い。早くも六0年代に金基調、朴峡賢、七 0年代には李鷹魯、安東淑、安翠田らが伝

されたということも見過ごしてはならな

色彩の具象様式に劣らず抽象様式が信夜験

つかなくなった。

れ、遂には九O年の様式とほとんど区別が

な要因の増幅にもかかわらず装飾的に流

てきた。また壁面的な彩色商翠凡は説明的

なるわけではない。固有の絵の具-を使、っと

が墨と紙を固執したからといって韓国画に

にのって漂流していることである。韓国画

として問題意識に対する確信もなしに時流

重要なことは、今の若い画家たちが依然

0年代になると、その勢力がほとんど同等

やはり朴生光や千鏡子の作品においてで

かった。彩色の機能がはっきり現れたのは、

r

44えを

, 、 バ ワ HH J 巾

か伝統的な色相を反映したからといって必

統的な媒体を通して西欧的な意味の抽象様

6

edJ32量屯 -42零噌

ユ ‘t '

、..

式を試みたことがあった。しかし、抽象画

ことは、水里霊突の基盤となった気韻生動 の析皐が実は現代物理学の多くの丞府理論

の変遷過程を回顧しながらはっきり言える

ない。言い換えれば、気韻生動の宣言現

ずしも韓国画になるわけでもない。それは、

問題と、その進展状況を簡略に探ってみた。

これまで韓国画が歩んできた五0年間の

の五O年の歴史は一言

位置を占めることになるだろう。事実、そ

き残ることができ、世界的な美術としての

あろう

は世歪斎界において堂々と認められるで

決したとき、初めて韓国画は存在し韓国画

0.

代物理学とどのように結びつけるか、壁画

いまでは単に絵を描く基本的な材料に事己

がその成果とは別に韓国画精神の両義性か

様式をわれわれの神話隼糸とどのように結

基盤が神詩的であったことである

また壁画的な伝統が油絵の歴史と同じくその

実は現代物理学の多くの先端理論とその発恕が同じであり、

言えることは、 水 墨 様 式 の 基 盤 と な っ た 気 韻 生 動 の 哲 学 が

﹄の五 O年 に 舌 一 る 韓 国 画 様 式 の 変 還 を 回 顧 し な が ら

われわれがこの五O年にEる韓国商様式

あった。とりわけ朴生光の八0年代の管問 qu u"i u 旬

TA 急ぎ

は、韓国画のまた別の可能性を示してくれ た一つの里程標ともいえた。人0年代の彼 の絵は、面と面をじかに結びつけた、これ までの日本画的な画法から脱し、多くの点

とその発想が同じであり、まち 虐 J 面的な伝 統が油絵の歴史と同じくその基盤が神話的

こうした問題が絵画的にわれわれらしく解

びつけて発展させなければならないのか。

ら離脱したということは依然として批判の 余地がある。

い関心を示してこそわれわれの韓国画が生

であったことである。このごつの主題に深

枠を取りつける画法などが主に使われたの は八0年代の半ばであった。彼の還さ﹃十

それは韓国画が水墨議蛍入をどのように、ど

で民画や亙俗画の画法を援用したものだっ た。面と面の聞に塀を張り巡らしたような、

. 1983. ( 161x138cm) ~

徐世 il

長生﹄シリーズでは韓国の固有な色彩(陰陽 五行)が変形されて現れ、﹃檀若誕生図﹄、円東

41


HA

寸 ハU 指数 叶 o r7U

国造りに先立って国を取り戻すことに価値 評価の基準が置かれていたことから、国造

すことに価値志向を置いたものであった。

れわれの近代文掌史は、当然、国を取り戻

まま民践だけの歴史展開の中に置かれたわ

られるからである。国家要るが内面化した

ま、民族だけの歴史を展開してきたと考え

が国の近代文学は、国家概念を喪失したま

化であるといえる。韓・日合併を恕穣にわ

わしているものの一つは、国家概念の内面

われわれの現代文化史の特徴をよくあら

る。要するに、国を取り戻すことを基本に

の性格規定に該当するものであるといえ

に、それに対する認識はわが国近代文学史

地という特殊性と深く関連しているだけ

このような幾筋かの思想的傾向は、植民

的範鴫をなしてきたことは見落とせないだ ろ 、 っ 。

ア文学も、日本による植民支配期中に文学

文学ゃ、階級思想を旗印にしたプロレタリ

値中立的な中産階層の保守王義的世界観の

している。廉想渉や察首内植に代表される価

は多かれ少なかれ資本王義的な性格に関連

かのような外観がこの時代にはあった。し

た。言い準えると、新しい世界が到来する

はこの時事乞理念の選択の可能な空間にし

ような解放空間の制約性は、一方において

歴史展開が解放空間まで延長される。この

相変わらず国家概念が成立せず民族だけの

てもたらされたものであった。その結果、

のではなく、連合軍という外国勢力によっ

広げられたが、 一九四五年の光復(民族解 患はわれわれの運動によって得られたも

て数々の試練をなめながら絶え間なく繰り

植民地時代の全期間を通して国内外におい

十九世紀末に火の点された民族運動は、

同盟に荷担した作家の心理的過程が、っかが

ては、いわゆる純粋文学と訣別し、文学家

姿を見ることができる。﹃解盤別辞におい

高植の﹃民族の罪 AC(一九四八)に典型的な

認は、李泰俊の﹃解盤則長(一九四六)と察

まず、作品を通じての自己批判と自己確

しい出発のため、まず自己批判ということ が文人たちに強いられたのである。

ちの自己批判である。解放空間の中での新

まず問題として浮かび上がったのは文人た

れは国を取り戻すことと国造りとが混在し

すところにあったとすれば、解放空間のそ

である。すなわち、植民統拍崩におけるわ が国文学史の歴史哲学的方向が国一を取り戻

りと重要な諸警⋮は、相対的になおざりに

したわが国近代文学史の性格は、精神史的

かし、理想とは裏腹に現実は旦症に戻り、

過渡期的なものとして規定されるべきもの

されていたといえる、文人が自ら歴史に飛

文脈を最高の項目とした価値中立的なもの

われ、したがって理念的なものだときロえる

な方法によって自己分析、または自己批判

た状熊亨造りだしていた。この過渡期に、

び込んで悲劇的な主人公になることを書く

南と北はそれぞれ外国の箪政治下におかれ

文 尚T乞はじめ、国家概念の喪失、または不 在に対する言い尽ミしがたい思いを謡った

される恕騒が終戦解散とともに訪れた。

と階級的なものをその下に率いる形であっ

文学が、この時代を代表する作品だった。

た。このような文学史的特徴が大きく修正

界があったことも否めない事実だが、それ

だが、この精神史的文脈は、それなりに限

i

とすれば﹃民族の罪人﹄は、もっとも作家的

二、解整聞の文学

韓国文学五O年 史 宇植U

ることになる。 解放空間の歴史哲学的性格は、何よりも

一、民族文化の歴申在

失 潤予

百金Z

42


を試みたものである。 一方、座談会を通じた文人たちの良、心宣 言は、二度機会が与えられるが、その一つ は終戦・解放二日後の八月十七日に催され た文人たちの集いであり、もう一つは、い わゆる鳳風閤座談会(一九四五年十二月)で あった。しかしながら、この二度訪れた機 会の場で文人たちは自己弁明に汲々とし、

建設総本部﹂がやがて﹁文化建設中央協議 会﹂へと組織を拡大して寸プロ芸術連盟﹂と

2 -

内部における人民性と党派性の対立と、文 学と政治の関係として表象される純粋論争 を挙げることができる。こ 事は、﹁青 年文学家協会 中心の金東里、越演鉱、越

一九五三年七旦ア七日に休戦撞票結ぼれ るまでの三年の問に二百余万名の人命被害

を出した懐惨な戦争だった。また、この戦

争は対外的には世界の冷戦体制の一大衝突

僅村山の文学理論を展開した。このように論

これに対し、﹁文学家同盟﹂側は階級主義

などの雑誌は、直接・間接的 軍﹄、﹃蒼空﹄ に彼らの活動によるものであり、彼らのが

であり、対内的には階層対階層の衝突であ

芝蓋⋮らと﹁朝鮮文学家同盟 に L 属していた金 東錫、金乗達、金茂山らとの聞で繰り広げ

り市民性対人民性の衝突であったといえ る 。 韓国戦争が起きたとき、文人たちがした

L

として﹁朝鮮文学家自﹁が結成された。﹁朝

ことのうち外部にあらわれたことは、従軍

対立し、左派内での分裂が露わになる。一 九四五年十二月、左翼政治勢力の聞で長安 派が朴憲、永派と手を取り合うころ統合団体

文学を主張して右派民族王義菜子要害代

記者団の組織であった。﹃戦線文学﹄、﹃海

ちが初めて組織をつくったのが﹁中央文化

られた。この論争で金東里は人間性擁護の

鮮文学家同盟 Lの政治的な組織に坦仇して あらわれたのが、いわゆる﹁全朝鮮文筆家

品が﹃駅馬﹄(一九四人)である。

弁する。そして、このような后思芋﹄不寸作

協会﹂(一九四五年九月)であり、次いで鄭

して、民族陣営、または自由主義系文人た

建 Fである。左翼系の党派的体系に対抗

より国造りという意識に圧倒されていたこ

良、主皇言に対する原則論を穫認するのにと どまった。それは、そうした消極的な課題 ともある。つまり、文人たちの良心塞一百と

文学的結実としてあらわれたのは、国防部 政訓局出版の﹃戦時韓国文学選﹄(一九五五

年)に収録されている詩編と小説編の二冊

である。

戦時下の従軍作家団の活動は差しおくと しても、戦後の文学は戦争中の体験をもと

にしている。休戦の成立とともに交換され

る捕虜の心理を取り扱った朴栄俊の﹃ヨン

チョ島近聾(一九五三年)や輿南橋頭壁作 戦を材料にして、民族的エキソドス現象の 実相を深く掘り下げている金東里の﹃輿南

撤退﹄(一九五五年)などが代表作である。 戦争と直接関係のある作品のほか避難した 人ぴとの生き方と帰巣本能を扱った作品が いう問題は、いつの間にか政治的感覚の裏

九五五年)や北から南へ来た芸術家たちの 避難生活を深く掘り下げて描いた金利錫の

終戦・解放後、真っ先に組織された文学 団体は、﹁文学建設総本部﹂(一九四五年八

これらの作品は在来的手法から脱皮したも

態を扱っている金東里の ﹃ 密茶園時代﹄(一

の正統派文人らが難を避けていた時分の生

多薮現れたが、その中でも文芸家襲素列

全朝鮮文筆家壌玄﹂が組織 寅普を会長に、 ﹁

しかない。左派側には、そのような内在化

﹃冬眠﹄(一九五八年)などは、戦争と芸術家 の生活との関係をうかがわせる。しかじ、

議がごく単純な、そしてごく常識的な次元 に還元してしまったとき民族文学論はその

方の方へ押しやられる形となる。この時期 の文学は、民族文堂左ぃ、っ危印をめぐって

され(一九四八年三月)、右翼的な文化団体 の中‘心となる。 このあと﹁朝鮮文学家同盟﹂が活発な活動 を目指して文学者大会を催したが、この時

への時間的余裕がなかったのに対し、十徒 側はその余裕があったものと思われる。

のではなかった。 一方、戦後世代の登場によってわが国の

月)である。林和と金南天、李源朝を軸と したこの団体の政治的布石は朴憲氷守蒔に あったことが後で判明するが、これに反旗 をひるがえしたのが李箕永らで﹁プロ芸術

行方を見失ってしまう。いまや方伝は、再 ぴ理念の内在化を深め、その密度を高める 点で﹁プロ芸術聯里側はここから完全に脱 落、三人度線の北側へ移り北韓文学で正統

三、 一九五0年代の文学l 戦後世 代の文学l

文学はかつてない、多くの作家群と豊かな 創岱聞を生み出した。まず﹃雨の降る日﹄の

先鋭なイデオロギー的対立を示すようにな る 。

急激に没落するに伴い﹁中央文化更衣﹂が韓

韓国戦争は、 一九五O年六月二五日から

的位置を認められるようになった。一方、 左翼の﹁人民抗手﹂が失敗し、また南笠丸が 国文壇の主導権を握ることになる。 その中で特記すべきことは、左翼文学論

聯盟 を L 組織するこ九四五年九息。﹁文学

43


る。このような性向は作家の忽質的な側面

作家、孫田容を挙げられるが、彼の代表作 ﹃血書﹄、﹃未解決の章﹄などにあらわれる病 的で無気力な状態は、絶望のどん底におか れた時代相との対応関係を物語るものであ

る。とくに、﹃ヨハン詩集﹄は内的モノロー グ体と時間構造とを混ぜ合わせることに よって、従来の小説技牢とは非常に異なっ たものにしている。また、金撃翰の﹃かた

05

からくるものであろうが、それが戦争と結 び付いて戦後文学の特質を成したのであ る。﹃地動詳(一九五 、﹃ヨハン詩隼 (一九五五年)などを書いた張龍鶴は、寓話

つむり﹄、﹃五分間﹄、﹃蛙﹄などは主知的な 傾向のものであり、儀式の流れ手法を流麗 に駆使して登場した呉尚源の月猶予﹄も戦後 文学の特質をよく一一小ている。要するに、主 題の深化と技牢との関係を問題にすること が戦後文学の特質をなしているが、これは 戦争という残酷な試練をとらえるためには 的な要素を小説の中へ取り入れ、この傾向 は長編﹃円形の伝説﹄に至るまで続いてい

新しい技法なくしては望めなかったからだ ろ 、 つ 。 このような実験的な新しい技法と言語が 大きな成果を収めたにもかかわらず、時間 が経つにつれてそれに対する批判も起こ り、鮮子輝の﹃火花﹄を境にそれが具体化さ れていった。正統的な方法に関、少乞寄せて いた作家としては﹃脱郷﹄(一九五五年)と ﹃裸像﹄を書いた李浩哲、﹃ハク村の人たち﹄ (一九五七年)、﹃誤発酵(一九五九年)の作 家、李範宜、﹃若いやももたち﹄(一九五九年

V

無気力な状態は、絶萱のどん底におかれた時代相との

対応関係を物語るものである

朴寅燥、金旅瑛らの集いは、 一九 一一 一 年代 0 のモダニズム詩運動の脈を継ぐものであっ た。モダニズム詩運動が韓国戦争を境に活 発になったのは、韓国戦争の様相とも深い 関連がある。朴仁燥の﹃黒い峻烈の時代﹄、

一方、詩はどうであったか。解放空間に おいて青鹿派に代表されるモダニズムの登 場は、注目に価する。﹃新しい都市と市民 の合唱﹄(一九四九年)をを出刊した金環麟、

の塁握、﹃泡首(一九五八年)の麿隼臥ら を挙げることができる。

『血書』、『未解決の章』などにあらわれる病的で

44


金環麟の﹃国際列車はタイプライターの如 く﹄、趨郷の﹃一九五0年代の赦怠などが その成果であり、またこのような流れのう えに戦争の体験を融合させたものとしては

一九七0年代は、畠議な経済成長と近代 化から生じた諸問題が伝統的な社会構造と

の矛盾を先鋭に露呈した時期である。この 時代を支配する方向性が民族文学であると

実は文化の属性のもつ一一元性に起因する。 相結際問機能と認識的機能がそれである。原 論的にはどちら側も一方的に撃饗 c れるよ

いうことは、こと新たに指摘するまでもな

徴は自由の上限線からどのようにして徐々 に挫折していき、それに対する文学的応戦 形式がどのように成り立つ. たのか、という

ある時代の具体的な現実としての歴史的・

うなものではない。しかし問題のありかは、

い。純粋や参与とかリアリズム、反リアリ ズム、あるいは民衆意識とか時代意識、疎

そのような応戦形式の一つの類型が、金

ことにあるといえる。

社会的・階層的制約性に関する解釈の方訟

全鳳健の弓鋲条網 ι を指折ることができる。 承鉦の﹃ムジン紀行﹄(一九六四年)、李清俊

だからといって、伝統志向の詩が全部萎え

特定時代の歴史的制約性が決金権幸もつか

にある。それは、文学の 二つの属性の、2 の、ある一方に重きをおくということは、

てしまったわけではない。﹃歩兵とともに﹄ の柳致環、﹃歴史の前で﹄の趨芝薫 γ ととに朴

の﹃うわさの壁﹄(一九七 一年)、﹃星をお見 せします﹄(一九七一年)などである。自由 に対する抑圧の線がはっきりしてきたと

らである。 だとすれば、具体的な現実としての六0

粋 ・季主譲の弁証法的志向がある。 一九七0年代、韓国文字基翠峨する墨田同

い換えたものにすきない。そのなかには純

ている。それは、ただ単に文化の蓄積を言

外論、分配塑論などは、今や民族皇位の基 盤の上で老虐せざるをえない装窓にまでき

き、文学は当然、政治的活動の放水路の役 割をせざるをえない。文学的感覚が封じ込

戦後の評論は 一方でヒューマニズムの旗 印を掲げながら、他の一方では分析批評を

在森、李東柱、朴嬉斑らの活動が目立って いた。 められた政治市動の代用品の役割をする時

年代の韓国の構造的な矛盾が何であるかに

の項目は、申庚林の亘書、黄哲暁の﹃サ

七三年)の世界であろう。﹃農警の重市在

試みる。金容権はニュ l ・クリティシズム を、李御寧は修辞盆を、金守鍾は隠骨伝を、

の 上限 線 か ら

ンポへ行く道(一九七三年)、﹃他都(一九

0年 代 え 学 の 特 徴 は 自 由

それに対する文学的応戦形式が

象に対する文学的防衛であるとの観点から 見いだすことができ、﹃サンポの行く道で

は、農村共同体と関連する民俗ノリ(遊ぴ) の様式を借りて、農村共同体を破壊する現

どのように成り立ったのか、

への文学的対応を確認することができる。

一方-批評においても小説の受ロと同じ

0年代から七O年に続く、重要な文学よの 糸口を宿している。政治的成比見が封じ込め

誌に代表される霧、塩などと、ひもじさに 代表される李清俊の文学的イメージは、六

代ほど鼓舞的な時代はないのである。金承

方、近代化の推進と大衆意識の成長は民衆

無玉義のような様相で文学に登場する。一

あり、したがって、その自由の内在化は虚

関心が注がれざるをえない。 四 ・一九革命 に端を発する六0年代の意識は、自由の上 限線に対する挫折とともに始まったもので

るための具体的な実践作業は、﹃第一一一世界

あろうと考える。このような方向を輩存け

ということにあるとい、える

は、七0年代になって達成された産業社会

どのようにして徐々に挫折していき、

ム ハ

柳宗鏑は土着語の批判をそれぞれ足場にし て華やかな批評活動を繰り広げ、不毛に近 かったわが国の批評界に大きな活力素に なった。

四 、 一九六0年代の文学│翠歴問 機能と認識的機能 一九六0年代文学の糸口を切り開いたの

した白楽晴は、反植民・反封建の伝統から

ような文学的対応を、民族文学論の形式を 通じて行なう。民族文学理論の展開に貢献

われわれは自由という抽象語に代表される

られた状況の下では、文学的成阿見がその代

は、雀仁動の﹃広場﹄(一九六O年 で V あった といえる。南・北韓のイデオロギー的現実 を同時に批判しているこの小説において、 四 ・一九学生革命(一九六O年 の歴史的意 味を読み取ることができる。しかし、その

用品の役割を果たすようになる。そして、

意識の力によって発現される。前者には純 粋文学論が、肇告には参与文ま嗣が、それ

民族主学の観点を立てよ、?とする。そして、

自由は主人公のイl ・ミョンジュンの自殺 が象徹するよ、つに相変わらず単なる徴候に すぎなかった。四 ・一 九革命は歴史的な事

その時代は隆盛の時代といえるだろう。そ

ぞれ対応されたのである。

たとえば、申庚林の﹃文学と民容(一九七 三年)、廉武雄の﹃民衆時代の文学﹄(一九七

頭したことは、注目されなければならない。

七0年代の批一評界に農民文学論、労働者文 学論、民衆文学論、リアリズム文学論が台

こうした民族文学論議の進壊とともに、

の文学と現舎六﹄(一九七九年)などに見るこ とができる。

ひいては民族文学は世界文学へ参与するで

件ではあるが、それに見合う条件が熟して

の時代は、文学のみがあえて行なえる、い

V

いなかったために翌年の五 ・一六軍事クー デターを呼び起こしてしまう。六0年代の

五、 一九七O年の文学l 民族文学 の視点

わゆる内面化の空間が形づくられる。言い 換えると、純粋・参与の晶画 ﹂いえる。 文学で論議される純粋・季号の問題は、

2T

文学は、この 囚 ・一九革命の挫折意識から 始まり、それへの応戦霊凡であったと要約 できる。言い換えると、六 O忽代文学の特

45


の紹介が大きくあずかっているが、何より

た裏には社会経済学者の努力と文学社会学

竪密に関連している。批評界が活発になっ

論議は七0年代における韓国社会の変動と

九年)などを挙げることができるが、この

もろもろの矛盾した状況と絡み合って激烈

抑圧されてきた政治的象徴力が八0年代の

がって、八0年代の文学は南北分断以来、

禁までといったように、抑圧と蟹ーという 両面的な性格を帯びて展開される。した

月の光州抗争から始まって八0年代末の解

全体的にみて、八0年代は 一九八O年五

の激変と悲劇的な体験を小説的に形事化し

続く民族史の激動期を背景にして、民族史

である。解放から民族分断、韓国戦争へと

のが超廷来の﹃太白山俸と朴景利の﹃土地﹄

大河小説が数多く書かれた。その代表的な

れた。韓国の現代史を濃密に描いた長編の

小説的な認識とその形象化が著しくあらわ

一方、小説においても挙働問題に対する

ば、八0年代の理念をめぐる後日談風の小

代初の批-置壊に熱気を吹き込んだかと思え

いる。ポスト・モダニズムの論議が九0年

社会と結びついた新しい盛丸性が成長して

を支配した談論の凋落現象とともに情報化

な影響を及ぼし、一方では八0年代の文学

社会の数々の徴候が文学の潮流にも決定的

一九九0年代になってからは、後期産業

て小説ジャンルに対する自意識を露わにし

説と、新しい文体意識と盛丸性を基盤にし

活動をみせた時代である。

も創作と結び付いて力動性を得ることがで

の文学は文学と政治との相関関係が極大化

な葛藤を噴出させる。すなわち、人0年代

の対決の意味が何であるかを問うている。

た作品などがあらわれている。

た﹃太白山犀は、イデオロギーの選択とそ

時期の一つの潮流を形成している。

きた。 小人が射ち上げた小 ﹃客地﹄の黄哲膜、 ﹃ された時代であるといえる。したがって、 ﹁ 作品としての文学﹂より﹁運動としての文

さなまり﹄の超世照、﹃南と北﹄の洪盛源、 の労作がこのような諸理論の具体的な実践

さらに杢文求、者ノ輿士口、全商圏、崖一男ら

一方、﹃土地正は朝鮮朝末期から植民地時代

矛盾した状況と絡み合って激烈な葛藤を噴出させる

・抑圧されてきた政治的象徴カが入 0年 代 の も ろ も ろ の

八0年 代 の 文 学 は 南 北 分 断 以 来 、

を経るまでの一世紀に及ぶ歴史の変遷の中

およそ十年を単位にしてその様態が表選し

きたことを確認することができる。一方、

に対する応戦の帯えを整えながら展開して

経るうちに、その時期に与えられた諸問題

運動、六・二九塞言など歴史的な大事件を

以上、考察してきたように解放以来五十

年に亘る韓国文学は、解放空間の理念の激

学﹂がより説得力と影響力を発揮した時期 であった。そして、労働者、農民など、い

突、韓国戦争と四・一九革命、光州民主化

としてあらわれ、また理論を導いていった

いろいろな点で示唆的である。六0年代の

のである。そして、また七0年代の幕開け とともにリアリズム益事が起こったことも

d

純粋・参豆 論議の新しい展開ともいえるこ の論争は、﹃思想界﹄誌が催した座談(一九 七O年四月)に端を発し、具重瑞、廉武雄、 金痢傑、金字鍾、金額、金永秀、元亨甲ら が出席した論争である。

てきたのは、民族文学を壁止させるための 道程が平坦でなかったことを示す証拠であ

このあと民族文学、または民衆文学の課 題に関連して、リアリズムについての新し

け入れることを否定的にみている。この立

金顕は、リアリズムを主に技法上の図式主 義と理解して、韓国文学がリアリズムを受

も一つの特撮といえる。

において民衆的基盤が大きく拡張されたの

わゆる基層民衆の急激な浮上とともに文学

民族移動の問題などが登場人物の生活にそ

民地支配の過程、満州間島地方での生活と

族制度と階級の解体、西欧文物の受容と植

その転移過程一を描いた作品で、封建的な家

で 一ヤンパン(両班一貴底家門の没落と、

熟さを立証するものである。

し掘り下げていく深みは、わが国文学の成

軟性の幅と、社会と人関心理の内面を追求

の文学が積み上げてきた社会的対応力の柔

しかし、そのような過程の中でもわが国

るといえよう。

J

い解釈と新しい内包を付与寸 るための努力

場は、文学の認識的機能を重要なものとし

を示すものとし、民衆的民族文学論という

まず、八0年代の批評の大きな特徴は七 0年代の市民的民族文μT乞小市民的な限界

が続いたのは意味のあることと思われる。

て承認しているにもかかわらず、必然的に

潮流に対し、ときには相補的で、ときには

民族文学などの強い方向性を提不する他の

ころとする批評は、民衆文学、農民文学、

ざるをえない。このような文学寧乞よりど

と、体制イデオロギーの巧妙、かつ隠響な

一方、産業社会の各種の日常化された欲望

し、すすんでは実践的闘争を強調している。

民衆の概念に積極的な階級の意味を付与

連しているこの潮流の批評は、七0年代の

う。八0年代の政凶程会的状況と密接に関

新しい骨格を作ったところにあるであろ

に生産され、過去のどの時期よりも幅広い

の新しい詩の美学を確立した詩などが多様

に関心を注ぐことによって後期産業化時代

せる詩、そして舌呈叩自体の本質とその技法

知的言語をもって描写した特異な均衡をみ

と民衆的秩序をもとにした民衆詩、都市化 した現実の中で人間の生きざまの疲幣性を

一方、詩の方では入0年代は現実志向性

されるであろう

世界の舞台での存在の意味が文学的に確認

ものであり、このような面貌を保ち続けて

ちこの民族文学の成熟度の中に収蝕される

韓国文学五十年の力量の重みは、すなわ

想像的機能をいっそう重視する方向へ進ま

のまま反映されている。

強く対立する。

浸透力に対する多角的な論輩もまた、この

はじめて民族統一の意志、それを踏まえた

0.

六、一九八0年代以後の文学l わ が国の文学の聞かれている地平

46


CLOSE- UP

作家、朴景利の生き方とえ学 一彼女の長編『土地』の大団円を見て一 チョンヒョン

鄭穎基 延世大学教授・国文学・文学評論家

47


adA

、 i a d 年九月号の﹃現 代文学﹄誌に執

i F Iぃ i F 帽

J一 ノ - / 筆・発表し始め た朴景利の﹃土地﹄は、一九九四年八月 一 五日に第五部の最終ペ1ジに﹁終わり﹂の 文字を書き入れた。延々二五年にわたる執

筆活動であったのだが、これは吐聖司に時間 を引き延ばして作品の内容をずるずるべっ たりに長くしたのではなく、作家朴景利が、 被女が向かい合っている当代の世界(執筆 から終わりまで)との懐絶で織烈な戦いか ら一寸たりとも退くことのない応戦過程で あった。一九六九年の韓国政治の現況は、 朴正照大統領の軍事独裁体制が極悪な維新 独裁の状態に馳せ始めた年であった。七0 年代になって大統領は維新憲法を発表する とともに、大統領の緊急措置の布告令を出 して国民の語る自由を封じ込めてしまっ た。これは明らかに 一九六 一年の五・二ハ 軍事クーデターに次ぐ第 二のクーデターだ った。この不法な維新憲法に反対する数多 くの良心的な人々が逮捕され、拷問を受け

は、まさにこのような基本的な質問法をも って解いていく小説である。﹃土地﹄が背 景にしている 一九00年代から一九四五年 までの朝鮮は、日本の軍国主義の暴力によ って全国土と国民が傷つき抑圧され、日々 の生活の行方も見極められず、挫折し絶望 しなければならない時代であった。飢えが 全国土を覆い、人々は生活の方向を失って それぞれ生き残るためにあがくしかなかっ た。﹃土地﹄は、日本の植民地時代にひと りひとりに加えられた暴力的な力に対応す るひとりひとりの﹁身の振り方﹂に関する 探求の書である。

を笠に着て調子に乗り食欲ぶりを発現す

ある部類の人間は当時の流れに乗って、 権力をもっ日本の官憲になびいて、そのカ る。チェ・チス一家の財産を一時奪って自 警察 分のものにしたチョ・ジユング、日本一 の手先になって数々の悪事を働くキム・ド

克明に見せている。自己存在の値打ちは文 学作品が行う究極的な目標のひとつであり

ゥス、自分の欲だけを満たそうとする肝悪 なイム・イネらがそんな人間たちである が、﹃土地﹄の作家はこういった人物たち を通して人聞が自分の置かれた実存的な状 況から選ぶことのできる醜悪な自己選択を

るなど苛酷な弾圧を受けた。何の罪もない 正直な人々を捕まえ軍事裁判にかけて、死 刑や無嗣寝泊役などの重刑を言い渡し、植民 地時代に見られた日本官憲の暴力による人

得る暴力の時代、汚れた時代にも自己の善 良な本性を失わず、あらゆる苦痛と逆境に も耐え、善良な生き方を見せる人物たちが また﹃土地﹄の中に生きている。ヨンイ、

な善良な人物たちは﹃土地﹄に登場する七 三O余の人物(そのうち人物像が描かれて いる者は四三O余人)の中で大多数を占め

中でも、まじめに善良に生きながら中心を 失うまいとする人物たちである。このよう

プンスニ、孔老人、ヨンパリ、金訓長、チ ェガビらは自分に与えられた最悪な条件の

権不在の時代を傍併させた。唯一の血肉で あった朴景利の娘、金玲珠は当時民主化運 動で拷問などひどい弾圧を受けていた金芝 河の妻として当時受けた弾圧の内容はあま り知られていないが、その苦しみは耐え難 いものであったろうと想像される。 朴景利の﹃土地﹄がもっ偉大な力は、作 家の生命に対する織烈な感魯とともに湧き 出る。善良に生きていこうとするあらゆる 生命に加えられる不当な抑圧と危害に、 人々はどのように対応していくか。﹃土地﹄

りしないようにと心に決めた朝鮮族の民衆 の典型である。

をなしているといってもいいだろう。彼ら は植民地時代にあって隣人であり、同族の 人々に悪いことをしないように、憎まれた

インテリで、﹃土地﹄の登場人物の基本軸

ており、邪悪な人物たちを浮き立たせる役 割をしているが、彼らは主に農民、労働者、

って綴られている。悪は善より常に優位に 立たなければならないのか、善良な心をも

国を踏みにじり、彼らの存在の値打ちを高 いものと錯覚しようとするのかなど、﹃土 地﹄の内容は始めから終わりまでこんな質 問とその質問に対する絶え間ない探索によ

に存在するようにな っているのか、あの残 酷で非情な日本の軍国主義の勢力はなぜ韓

朴景利の ﹃土地﹄ がもっ偉大なカは、 作家の生命に対する蟻烈な 愛情とともに湧き出る。 善良に生きていこうとするあらゆる 生命に加えられる不当な抑圧と 危害に、 人 々 は ど の よ う に

まさにこのような

対応していくか。

﹃土地﹄

小説である

このように多くの人物たちの生きていく 様を描写しながら作家は、困難な時代を耐 え抜く大きな哲学原理を三つ、﹃土地﹄に 植えつけている。 一つは、人聞が生まれながらにして背負 っている運命に対する凄絶な質問の公理で ある。な、ぜ、よりによってこんな生存条件 を背負うことになったのか、惇悪で食欲な 人物たちは、なぜあんなに善良な人々の前

舞い、行動ひとつひとつに対して寄せる質 問の緊張を決して緩めない。これが ﹃ 土地﹄ があれほど長く、多くの人々を登場させて いるにもかかわらず、決して飽かせること なく、むしろ芸術的な含量を支えている大

かと作家は話の節々、登場人物の立ち振る

よこしまな勢力に負けるしかないのかどう

って誠実に生きようとする人々は手段と方 法を選ばず、自分の食欲を満たそうとする

基本的な質問法をもって解いていく

----'・ .

48


要素である。二つは尊厳性の公理という名

芸術であれ、その存在に緊張を与える基本

きなカである。力とはいかなる生存であれ

ろを巻いていることを我々は注視する必要

暴力を振るった日本帝国主義の原理がどぐ

卑怯な背後には、必 9当時恐ろしいほどの

っていく。悪事を働く人物たちの心理的に

場人物たちはそれぞれその格調の等位を作

して発説されるこの公理は作品﹃土地﹄の

場人物のひとりであるイム ・ミョンヒを通

で、人聞を荒廃させる悪い疾病である。登

大の徳目である。憎むこと、蔑視すること、 憎面笠 9ることなどは全ての破壊であるのみ

局、物事への限りな い愛の中にのみあるこ とを我々に確認させる。

がある。何か力のあるパ ックを信じて、 他

役割を果たしている。愛する人のために真

芸術的含有に美しさを加える大きな文学的

代表する作家のひとりになった。﹃土地﹄

人々全てをその胸に抱いて愛する、民族を

個人的なレベルを越え、ハングルを使う

韓国において朴景利はすでにその人生の

朴景利はどんな作家か

人の前で調子に乗って大きな顔をして生き

心を尽くす心遣い、愛する対象のために最

尊厳性とは地球上に存在する、あらゆる

のつく道徳原理である。

は主張する。﹃土地﹄は、とりわけ、この

生命体がもっ基本権であると作家、朴景利 る人生の醜い姿と、そんな強力な勢力によ

が積み上げた民族言語の塔は巨大で雄壮

尊厳性の公理によって全ての人物がもっ存

で、そしてまた繊細である。ここで語る民

族の話は決して他の民族に対する理不尽な

優越感や劣等感を言っているのではない 。

いかなる民族も、 い 4 かなる国家もその集団

生活の提と文化があり、それは互いに高

の上に基礎づけられている。朴景利の作家

い・低いで評価することのできな い尊厳性

﹃土地﹄ではよそさまの暮らしの旋と文化

的視点は、すなわちこの点におかれており、

を根本的に破壊しようとした日本人たちの

醜い様を指摘し告発して いるが、同時に日

本は韓国を占領することにより自らの提も

傷つけているということを見抜いている。

作家朴景利の人間的な魅力は何より非妥協

性にある。いかなる圧力や悪の勢力にも彼

女迫嬰コに妥協しない。彼女が今や作家と

して巨匠と呼ばれるにふさわしい風貌を備

在価値としての格調を決定づけている。こ

く人生の美しい姿を﹃土地﹄は絶妙のスト

分自身を失わずに自らの尊厳性を守ってい

って抑圧され、被害を受けても、決して自

係のみで生涯を送り、それが虚しいもので

るイム・ミヨンヒは自分が現実的な利益関

る。自分の人生が失敗したと悟ることにな

的で全人類的にする幅になって広がってい

原理は、﹃土地﹄が志向する目標を全宇宙

善を尽くす人生が、すなわち創造だとする

的苦痛を三つほどに要約できる。

堪えてこなければならなかった苛酷な実在

その他、中 ・短編の作品を綴ってくる問、

場と戦争﹄など十一編の長編小説を執筆し、

することのない不屈の精神からきたもので ある。彼女が﹃土地﹄を完刊するまでの 二 五年、﹃漂流記﹄、 ﹃ 金薬局の娘たち﹄、﹃市

えているのは、すなわち勢力化したあらゆ る不条理に対抗して弛みなく抵抗し、妥協

の原理は儒教の経典がその高い境地を立て ている ﹁ 中庸﹂の精神にも一脈通じるもの

ーリーの中で描き出している。そして、最 後の原理は、愛はすなわち創造だという公

重要な試金石になっている。自分の利益の ために他人が大切にしている財産や観念、 甚だしきに至つては生命をも脅かしたり、

確かにキリスト教の聖書が教える墨両 ・最

愛は、すなわち創造であるという公理は

生涯の生き甲斐や意味を創造する力は、結

あったということを悟ることにより自分の

植民地下の体験である。挺身隊(従軍慰安

第一は、被女が子どものころに味わった

があり、自分と他人との関係の価値を量る

理である。

奪い取る行為の程度に従って﹃土地﹄の登

49


う恐怖は大変なもので、このような絶望

婦)に引っ張られ自分の人生をめちゃく ちゃにしてしまいはしないだろうかとい

家族の実存的な苦痛である・。﹃土地﹄は明

は爾後の問題であるしかないというのが

芝河の生涯の正しい、正しくないの判断

の独裁と暴力が我慢できなかった詩人金

には﹁始めと真ん中と終わり﹂という構造

ていることがわかる。彼女の詩学理論の中

の深みに関する理論を固定観念としてもっ

素養の中に、我々はアリストテレスの作品

西洋精神によって中毒になった文学的読書

かなければならないことを、あるがままに

な枠、たとえば当為論的な視点から当然描

含めて韓国の模倣的な論客たち)、固定的

たり縮んだりすることはするが(西洋人を

杖のようにそれを使う人の思い通りに伸び

かる尺度になる時、それはあたかも魔法の

を裏切る。写実主義という言葉が作品をは

的な恐怖に耐えるために積んだ精神的鍛

理論がある。芸術は人間の行動を模倣する

の作品を組み立てている話の深みにある。

錬は彼女の小説の世界を緊張と力で美し らかに 一九七0年代的な産物である。

トとなって死んでいくものである。 一切

く昇華させられる源泉になったと私は思

骨組みを作るには、殺す﹁適切な﹂深みに制

ために、またそれを公演する芸術品として

描いてみせるというような格式に﹃土地﹄

う。第 二は、結婚生活の途中の韓国戦争 一時、私は悪が勝利するという絶望の

のもつ独創的で個性的な文体と見ても間違

中で夜通し文字を綴り、家族との糊口の

限しなければならないというのが彼女の理

で、夫と息子に死なれた悲しみである。 ために夜を明かさねばならなかったし、

論であり、この理論は西洋を週じて圏内に

夫と息子をいっぺんに失った悲しみにつ 病苦に立ち向かって屈服しないという証

流入し、全ての文学ジャンルに作用してい

は少しも合わせていない。それを﹃土地﹄

いては誰かを深く愛したことのある人、 左として文 とをやってもいいのか、いいのかと叫び

の狩人に追われる鹿のように、そんなこ

{ Z 綴り、蛙何神の殺害者、あ

作家朴景利はそんな固定観念を全て裏切

が大きいと言える。 一種の固定観念である。

る。特に、小説のジャンルにはそんな作用

は何のためだと考えればいいのであろう

に読まれ、感動の渦を巻き起こしているの

わらず、すでに百万冊あまりが売れて読者

る。彼女の﹃土地﹄は、菊版十六冊(それ ぞれ四五O頁以上)にまとめられて出版さ

か。彼女は前述した通り、その体験、凄絶 な絶望と孤独を堪え忍びながらも最後の最

このような彼女の技法的な特徴にもかか

真っ暗な光というものがなんであるかを

ながら文字を綴った。

いないと私は考える。

そしてそれを失った体験をもっ人のみが

ったような緊張と絶望と、そして暗閣の

計り知ることができるはずである。それ は裸足で研ぎ澄まされた刀の刃の 上に立 体験の 一種と言える。彼女はそんな痛み 彼女が一生を週じてその上に立ってきた

題に関しては少し長い説明が必要だが、主

させる主動人物と反動人物がない。この問

的精神、韓国的感受性、道徳感情、風流精

には全て長い間伝えられてきた純粋な韓国

らに彼女が駆使してきた小説的な文章展開

負けまいとする蟻烈な抵抗精神である。さ

生命に対する変わら皐魯であり、不義に

を人間の生涯のうちでいちばん美しいは

き残っている。しかし、我々がその点を 確認しながらも作品の中には作家のそん

動人物と反動人物の区別をはっきりさせて

神などが織り込まれていることが 一冊、一

れは真の値打ちをもって生きている全ての

後まで失わなかったものがあるのだが、そ

な熱い息吹が数千度に冷却されて現れて

読者の感興を煽る在来式の方式は今では大

冊読むごとに確かめられる。﹃土地﹄には

二つ目に、彼女の小説には、一般に登場

れた。

であり、作家としてはそんな強烈な辛酸

いるという点を、ただただ驚嘆の思いで

衆的通俗小説によく用いられているが、こ

伝統的な韓国人のハン(怨念)を歌うパン

桂桔の刃は、彼女の作品﹃土地﹄の中に

彼女の娘婿である詩人の金芝河は﹁臨調り﹂ と表現している)として発現する内的な

接するのみである。彼女が言い尽くせぬ

れは善と悪といV 2一 元論的な考えの枠を抜 けきれない西欧的な固定観念のひとつであ

厳格で芸術的な緊張としてしっかりと生

力の源泉とも言える。第三にあげられる

絶望の中で完成した﹃土地﹄は、その骨

る。チェ氏の家の長男であるチェ・チスの

は誰も冒すことのできない色合いの体験

心痛む体験の内容は一九七0年代に見舞

底して裏切っているということが確かめ

組み自体が次のような 一般的な観念を徹

ソリの調べがあり、サランパン(韓国の伝

ずの青春時代に味わったのである。それ

われた唯一の血肉である娘の痛みにつな

人物であるが。彼があとで日本の警察に捕

前ではキム・ファン(ク・チョ一一)は反動

刑の宣告を受け、刑務所生活を送ってい

うことは、深い自我を探すという反証で

れを広く重々しい濃度に表面化している。 一般的な観念に裏切りの態度を取るとい

の深い伝統的な感受性に錨をおろし、そ

的な活気と人柄を表す主体たちである。

主動人物であり、重要な主人公として人間

く、その四三O余にのぼる登場人物は全て

っ人物として描かれている。それだけでな

あるだけでなく、かなり哲学的な深みをも

まって死ぬ場面までは堂々たる主動人物で

と私は信じている。彼女の生命に対する心

いる。﹃土地﹄は、韓国人の民族的な言葉 の宝庫であると言っても言い過ぎではない

言葉の中に尊厳な格調を備えた提が生きて

あり、何より登場人物同土がやりとりする

てくる本を読む声に似た朗々とした情緒が

民主化の闘争に身を提げ出した娘婿が死

がある限り抜けられない運命の毘である。

をなめてのみ出せる生き方の艶(それを

がっている。子というのは誰でもその命

られる。彼女のこのような小説の技術論 的な裏切りは、逆説的に見れば、韓国人

統家屋に見られる主人の居間)から聞こえ

た時、巨大な組織暴力の前に手をこまね

生きているということも驚くべきことで

いているしかなかった親としての絶望と 苦痛がどんなものであったのか、一九七

あるが、受け入れざるを得ない。

0年代の維新独裁政権の時代を体験した

を焦がす思いを﹃土地﹄の中で探し出すこ とを私は期待する。

A三つ自に、彼女は 一九三0年代に 一時韓 国文壇を風摩した写実主義的な小説の技法 なく裏切っている小説形態は、何より彼女

彼女が我々の 一般的な読書観念を余地

人ならその程度が推し量れるはずである。 暴力の時代には、言わずともしれたこと だが、何の罪もない人々がスケlプゴ l


KORE AN A RTl STS ABR OAD

完壁

者 の 方 式 金 Z 畑;

園Z

ソウル大学・環境大学院教授

51


r rhノ の涙もそうであるといわれてい 一 ぱいにあったから、そんな作業をしたので

装していたのである。そんな石がいいあん

産の石であるということだった。古物屋で 安値で求めることができたので、それで鋪

A3 品、 は、相手の心を揺さぶる。女性 るが、男性の涙には胸に熱く来 は決してなかったに違いない。彼の隼霊 のある街で一緒に食事をしながら聞いたと

る, JU るものがあり、ときには、 すら感じさ せる。体質的に女性に比べて感性的でなく、 そり?え文化的にそれをタブ l視する風土 もいちいち独りで作業をする亙凡が今では

1 z c

の中で育ってきた回荏にとっては、涙に接 することがめったにないだけに、なおさら 体質になってしまっているのだった。その

会した韓鏑進の涙は、一疾の球結凶が干からび

るの作業安¥す乞兼ねた住居で、 二年ぶりに再

たのは、ブラジルで聞かれた第七回サンパ

合っていた。樹話がニューヨークに居つい

に居を構えた彼と樹話は互いによく訪ね

一九六0年代の初めごろ、ニューヨーク

時、彼は樹話、金燦基の話をした。

てしまった私にとっては大きなショック

一九九四年の夏、ニューヨーク近郊にあ

ころによると、始めから終わりまで、しか

そうなのだろう。

だった。巨木を連想させる大きな体に、今

忘れられない。世間の万事がみな便{息王義

はしなかったものの、作品を出したという。

サンパウロ・ビエンナーレには、韓は出席

年が還暦で老年期を迎えている人が自分の

に流れ、自分も他人から角を立てずに生き

同業者(彫刻家)である、?えに先輩・後輩と

ショナーとして出席した直接からだった。

ろと豊口(?)を受けもするが、芸術{ゑの道

ウロ・ビエンナーレ(一九六三年)にコミッ

が便宜主義ではなく原則主義にあると信じ

いう間柄や母国から遠く離れたニューヨー ク生活ということもあって、二人はごく自

立場乞語るさい流していたその壊を、私は

る自分にそんな忠告が堪えられない感属頃乞

然にじっ懇な付き合いとなった。

い。韓は、生真面目に昔の匠のように一

フェリーにある韓の家のすぐ前は公共ゴル

スフェリー(ロ吾宮内巾円ミ)にあった麓錆進の 家をしばしば訪ねることになる。ダブス

そこで賀商は、ニューヨーク近郊のダブ

誘発するのだと言う瞬間、涙が溢れ出て次 の言事乞継げないのだった。

人でもぞもぞと石の佑業をしている。彫刻

原則主義者は馬鹿正直で融通が利かな

隼歪古いうのは、たいてい鍛治屋の隼来

へ行って明け方まであれやこれやと語り合

フ場の一部で、運動場ぐらいの広さの芝生 う。私に樹話から聞いて感銘宇長けたとい

場のようでもあり、また石工所のようでも ある。それで単純な伶桂木には入手を借りる

芝生一面を覆っている落ち葉にを目をや

である。 りながら、樹話は韓国の桐の葉を回想する。

う話をしてくれたのへそのす重でのこと

彫刻作業だけではない。二年前、新しく

その昔、わが国の小規模の牧場では、桐

のが常であるが、韓は何一つ他人に頼らず、

作業室をこしらえるときもそうだつた。大

の木を切るとついている葉はもとより落ち

もっぱら独りで石を刻む。

に独りで煉互大の石を張り詰めていた。そ

液体を桐の板材に丹念に何度も塗有染み込

通りから地階にある彼の作業室に入る脇道 の石は、産業時代が明ける前にヨー ロッ パ から渡って来る綿花輸送用の空き船が中心

ませる。こう手入れをした木材で作った桐

葉まで掻き集めて煮詰めた。その煮詰めた

を取るために船の底に敷いていたベルギ ー

( 77x58x33c m)

~

52



のたんすは、表と内部がまったく同じ色合 えは、地下の岩盤を削り取るうちにあんな

沈歎を破って催される今回の彼の個展の作

ど、彼の作品は自然に似ている。十年間の

石のかけらが彼の作品であると田やえるほ

ておいたということだった。

形の面白い石が出てきたからあそこに置い

みならず、何か手を差し延べたい気持を起

合の韓の人柄は、ひとに信頼感苔与えるの

品も、石の山から選りすぐって来たかのよ

桐のたんすのように上辺と内部が同じ色

を一不すという。

る今の住居に継ぎ足してスタジオを建てる 性に強烈な人工性を加えて世界的な名声を

こさせる。ア 1ピングトン(同号百四ぢロ)にあ ときのことである。 ニューヨーク郊外にあるアlピ ントンで

( g E 2 0宮内玄)の石の彫刻とは異なる。

しているアトリエで、地階は彼の作業安手と

い。天井に窓のある一階は、彼の妻が使用

タジオを増築するのは並大抵のことではな

このような住人たちの気持を逆なでする ことがないようにと気をつかいながら、ス

ちだ。

こういう街は、おおよそよそ者を警戒しが

帯えるのにふさわしい所でもある。しかし、

晶援でありよく整っていて、芸壇家が居を

彼の石塊は、見る人をして数多くの想像

と自然との共感帯を確保するためである。

戸いて自然との交感を試みたように、作品

部取らずに幾つかをかきさぎの餌に残して

われの祖先たちが、柿の木から柿の実を全

状態そのままにしておく。それは、昔われ

方の面を石の山から石を掘り出したときの

だが、一旦崩れ落ちると再び自然に戻る、

の一方の壁面をなしているときは人工なの

崩れ落ちた塔の一方の壁面を思わせる。塔

韓の作品を注意深く見ると、あるものは

博した日系アメリカ人の彫刻家、野口竜

うな感じを受ける。この点、自然石の天然

は、住民が一様にきれいな筒づくりに並々 ならぬ関心を寄せている。そのため、村は

なっている。地階を作るとき特に気をつ

を生みださせるほどに様々の顔を持ってい

ことができたと都市発達史には記されてい るのであるが、村の人ぴとに迷惑を掛けま

良港となり、それ以来、高層ビルを建てる

ろから人ぴとが住みつくのに適した天然の

感じることができるとき、はじめて彫刻家

鐘瑛は、かつて﹁一人の女から数十の女を

る。彼に抽象彫刻の模範を示した人物は、

る。これを人ぴとは、抽象彫刻と称してい

そういった姿である。実際、彼は作品の一

タンは巨大な岩盤であるため、十六世紀ご

かったという。地階一帯は、マンハッタン まで続いている巨大な岩盤層│マンハ ッ

いとダイナマイトを使わず、いちいち手作

い筋がぎっしり走っている石塊を置いてい

あり、鯉に似ているような、灰色の地に白

るという方法で。 その時分、彼は家の前に庭石のようでも

た前後の事情については、私も最近になっ

ルで個展を聞いた。アメリカへ渡って行っ

して、八0年代初期になって初めて、ソウ

韓は、一時母国との往来を断っていた。そ

一九六0年代にアメリカへ渡って行った

わが国抽象彫刻の鼻祖の金鍾瑛である。金

業で石を削り取った。ドリルで穴を開け、

た。彫刻家の隼喜吉その周囲にある石は

ている。

全部作品のように見えるものだから、それ

て聞いた。個展を控えて私に送った手紙に

そこへ衝撃を加えて岩を砕き、すくい上げ

になる と L 、韓錆進らソウル大学美術学部 を出たばかりの未来の彫刻家たちを激励し

も作品なのかと、私は聞いてみた。彼の答

z r o Z ︿凶 P -

Stone~

~Standig

54



書いていることだが、内容が面白いので、 ﹁久しぶりにじっと座って、週ぎし日の 物の年零していたコンヌアムの石工所に

いさつを交わした。その後、何日かして私

チャン・ウクチンを介して韓と初対面のあ

なった公共造形物の隼宋に参加する。私は、

自分の履歴を辿っていく、っちにおかしくて 笑いました。一九五九年にソウル大美術学 力仕事をする石工のような身なりで隼京

彼を訪ぬた。一九八六年初夏のことである。

ここに紹介することにする。

部彫刻科を率業し、 一九六 一年には中央女

ですが、﹀山崎巾 U世間戸岡山﹃包というデンマーク

渡って来た。一年ほどよく遊び回ったもの

団の招きを受けて一九六四年にこの地に

専任講師に在職中、アメリカの国際教育財

指である。﹁彫刻家の手はこんなもんです

やっとこのようにすばしつこく見える長い

的だった。ショベルのように平たくて広く、

て説明する際の彼の大きな手が非常に印象

に打ち込んでいた。隼未の進行状況につい

は国立現歪夫術館野外彫刻場に設ける石造

圭両校の美術教師を二年勤め、梨花女子大

の方が主催する現代作家共同作業の招請を 語りかける、そんな手であった。そ よと L の大きな手で石をゆっ り撫でつけなが

であった。

場の雰囲気を和らげるほどの悠々自適ぶり

ο

受け、あの遠いデンマークに行って一年間、 国ミ包括師範大学で教えもし、五十余点の 作品を残しもしました。それが今は国巾﹃ロ﹄ 5阿美術館になって、そこに保管されてい ます。そうこうするうちに金も貯まり退散 ら、﹁いじくっているときが楽しい﹂土語る 彼の姿は、強い日差しの下で力の要る年末

するころになったと思われたので、 一九六 です。ここでは相当歩き回ったので、ソウ

私には、彼の造形亙入を感じ取れる作品と

代美術館野外彫刻場にそびえ立っている。

コンジアムで造った作品は、今は国立現

ルで履いて行った、自動車のタイヤで作っ

見ているので、いっそう愛情が持てた │

六年八月十五日パリに汽車で乗り入れたの

た靴の底に穴ができた。それで、オックス フォード製の靴を買って履いてみたとこ

美術館に行くたびにしばらく見とれたり、

思われ、作品が完成するまでの一部始終を

ろ、ブIンと飛べそうな思いだったから、 またも歩き回りました。秋が来ると、遠い

その作品は、現代版の塔である。私は、

近寄って手で撫でたりする。

され、これからは韓国へ帰って仕事をしな

に立っている塔を最高の境地のものだと

わが国の伝統的な環境彫刻のうち山寺の庭

所にいる親しかった十会んちのことも思い出 くちゃ、とニューヨークにいる友人に手紙

更でもなかったのでここへ来ることになっ

ではないかと来た。私も友人の誘いには満

ニューヨークで+苦労しながら仕事をしよう

で気楽に暮らそうという考えは捨て、

岱美術館側の容斜によると、この作品を﹃曜

屋根の線との対峠、一方で尾根の線との調 和は絶妙である。韓錆進の塔の作品は、現

を後ろに高く釜え立っている山に似せる。

思っている。垂直の塔は、大雄殿の頂上の 水平の屋根を乗り越えて、しまいには自ら

を出したところ、その友人いわく、ソウル

た次第です。 一九六七年五月のことであっ

い夜の黒い石﹄としているが、作家が付け た名ではない │ 五つの正方形の石を上に

L

それから久しぶりの一九八四年に園とい

と、高く、そしてまっすぐに近づいてくる

積み上げたものである。やや遠目に眺める

たと記憶しています。:・・::・

き寧さオリンピック開寧主聞にして活発に

うギャラリーで個展を開いた韓鏑進は、引

ZO町内比三O ェ ↑ ﹂﹀EE川一弓

mt andi ng St onen 94- 3 ( 56x18x38cm)

56


『石培』、ソウル・ボソン高校

石の塊であるが、近寄って見ると、石と石

である。

である。そのため、韓は私には慕わしい人

人が生きていくからには、胸の中が空洞

が接触している辺りに陰刻で石を切り取っ た線が静かな波紋を描いていて理寛的な面

る。オリンピック選手村にある﹃ソンドル﹄

国立現代美術館所蔵のもののほかに二点あ

な心の持主は、考えただけでも慰みとなる

の心の一隅を急に占居してしまう。清らか

しか会えないにもかかわらず、韓鏡進が私

のか遠く離れていても、そしてときたまに

人が懐しく思われるわけだが、どうしてな

化同然になることがよくある。そんなとき

(メンヒル)、そして普成高校にある、詩人

韓国内で見られる韓鏑進の公共彫刻は、

白味を高めている。

李箱を称える記念塔である。李箱記念碑は、

A'

錆進にとって生と芸術は互いに一体であ り 、 二つが一つの道であるのである。

めて全身全力を尽ミして石を刻んでいる韓

わせるのである。ひと汗ひと汗、真心を込

ひとすじひとすじ真心の紐を互いに結ぴ合

生きるということはこんなものである。

にしまっておいた。

私は枝の切れ端を紙に包んで、たんすの中

だ。その心尽ミしがありがたかったので、

亙凡に従って削り取って香にしろというの

た。伊吹の枝の切れ端を、祭柑のさい昔の

枝の部分を送ってくれるということだっ

なったのだが、幹は彫刻用に取っておき、

れしているうちに伊吹を一本切ることに

端を送るからと知らせてきた。庭園を手入

暦の八月十五日)のころ、韓が伊吹の切れ

いぷ き

れは間違っていないよ、吹だ。昨年の秋夕(陰

チ ユゾク

へ思いの矢が飛ぶと相応するそ、吹だが、こ

人は霊的な﹁動物﹂であるためか、どこか

のだろうか。

のである。金燦基の後妻である被女は、若

金郷岸女史の長年の念願がかな、えられたも

彼の作品からは、 ﹁石なんかなくてもいい。 しかし、 それがあってこそ世の中を支える 脊 椎 の よ う な も の が あ る ﹂ とする 彼の信念を読み取ることができる

死にした詩人の奥さんでもあったからであ る。金換基の追慕碑も造って、彼の墓の前 に立てた。 これらは、みな彼の作品世界をよく示す てもいい。しかし、それがあってこそ世の

作品である。そこからは、﹁石なんかなく

る彼の信念を読み取ることができる。

中を支える脊椎のようなものがある﹂とす 石を主に扱っている彼は、内と外が同じ 石のような人間である。外に見える姿が、 すなわち隠し立てすることのない彼の内面

57


ノ ミ i

ア 5 イ

r E寸│世紀の初めから半ばまで、そし て二O世紀半ばの三段階に分けられる。 一 九世紀末は朝鮮王朝の凋落期で、 一般の 人々は文化財に対してほとんど関心がない 時分だった。また 二O世紀の初めから半ば てい子よ植民地時代で、実に膨大な量の貴重

にかけた時期は帝国主義・日本に支配され な文化財が略奪も同然に日本へ持って行か れた。それから二O世紀の半ばは韓国戦争 が勃発した時期で、やはりを重の文化財が 海外に流出した。この三つの時期は国家社

。 圃 ・ 3n p 4

しかしライプチヒ博物館の窪呂が行き届か

からであろう。つまり、東ドイツの財政が

なかったのは所在地が東ドイツ地域だった

外国の文物を大事にするほどゆとりがな かったことに原因があるものと思われる。

ところで大部分の民俗・民芸品は、その

材質が繊維や皮や木でできていて、きわめ

て細心な保存処理を施さない限りその寿命

が短くなるほかない 。これらに関する専門

にあるものが少なくなく、またそれ自体が

家がいないことから放置されたままの状態

青磁や白磁のような高価なものでもないこ とから関心も薄く、多くの遺品が消滅の危

機にさらされている。

韓国国際究流財団の海外文化財調葦事業 に基づいて私を含む調査団一行がはじめて

ピバディ l博物館を訪ねたのは 一九八六年

国{至﹂を設ける話が持ち上がり、また同博

のことであり、続いてその翌年・ に再度訪れ た。これが契機となってこの博物館に﹁韓

物館所蔵の韓国民芸品の国内展示案が出さ

れた 。こうして、このうち国内展示はやっ と昨年になって実現の運びとなり、昨年十

ところで 一つ興味のある事実は、文化財

けでなく博物館の所蔵品すら国外に持ち出

中には大混乱のさ中に個人所蔵の文化財だ

外国人の外交官や民間人、高級将校らが自

財は、かなりの鑑識眼や専門知識を備えた

であった。また韓国戦争中に流出した文化

の流出に至るまでの方法は略奪向然のもの

書画など貴重な文化財に集中しており、そ

ウィーン民俗博物館などにもあるが、審室

族博物館、ブレ 1メン海外博物館などであ る。このほか旧ソ連のいくつかの博物館や

ツのライプチヒ民族博物館、ハンブルク民

博物館とスミソニアン自然申街鮪錯、ドイ

蔵しているところはアメリカのピバディ l

と、韓国の民俗・民芸品を比較的多薮、収

である。この点からも、今回の展=小会の意

んできて展示したのは今回の展示が始めて

はあるが、国外にある韓国文化財を持ち込

まで韓国の文化財を国外に搬出してヨー ロッパやアメ リカ等地を巡回展示したこと

二月からソウルの中央博物館で展示中であ る。展示は二月末日まで行なわれる。これ

流出の時期によって国外に持ち出された文

のが大部分で、これは 一応まともな収集行

分の好みに従って買い求めて持私心山したも

される災難に遭った。

化財の品目と流出経緯がそれぞれ異なると

な情緒が動機となった。これに対し、植民 統治中に日本人によって収奪された文化財 は、高麗青磁や朝鮮白磁、または高価な古

一九八六年から韓国国際交流財団が行

プチヒ民族博物館の接骨 荻態は悪い方だ。

ところはスミソニアン自然申省筋錨とピバ ディl博物館である。これに比べるとライ

これらの博物館のうち握呂状態が良好な

いないのでその質がどの程度のものである

ハンブルク民俗博物館の所蔵品皇王ふ歪⋮ に上るといわれているが、まだ公開されて

芸品のうち最多薮のものである(ドイツの いえないだろう。 なってきた海外文化財調査の結果による

ピバディ l博物館には二千五百傘尽に達 する韓国の民俗・民芸品が所蔵されてお り、これは圏外博物館所蔵の韓国民俗・民

味は非常に大きいといえよう。

いうことである。一九世紀末に流出した文

所蔵されており・ の面で見劣りする。

韓国の氏俗・氏芸品が

きが国際相場に近い値段で行なわれたとは

二千五百余点に達する

為といえるだろう。ただ、この時賄の取引

博!

( 1)

化財は、大部分民芸品で、当時の外国外交

用 ・ 〉4

官たちの韓国の文化に対する関心や異国的

てい子点轟菌川だったが、とりわけ韓国戦争

会が極度の混乱に陥っていたか身もだえし

物 館 ピパヂィ一博物舘には

圃ー令

一三国の文化財が大量に局外に流出

じ H 註した時期は、 一九世紀末と 二O

-h'

ピ5

58


で活動を始めた博士は自分の専門からほど

め谷科を収集するため日本に渡った。日本

自分の学問的な理論(進集嗣)を立証するた

機となった。生物学者であるモス博士は、

八一九二五)博士の人一倍の好奇心が契

国文化財収集は、第二代目の館長を勤めた エドワード・シルベスタ l ・モス(一八三

かは分からない)。この博物館における韓

時の体験をまとめて出版したモス博士の

の名刺であった。日本にとどまっていた当

遺物第一号は当時の開化派のリーダーたち

れなかった。博士が手に入れた韓国関係の

民芸品を買い求めてくるよう類むことを忘

なく韓国を訪れる外交官や官薮師に民俗・

化に大きな愛情を抱いていた。それだけで

譲ってくれるようにとねだるほど、韓国文

これらがいまピバディ l博物館に所蔵品に

徐光範、卓正植が彼に名刺を渡したのだが、

当時モス博士と付き合っていた金玉均、

そかにスケッチしたりした。

あったので親しく交わり、彼らの姿をひ

た。彼らは愉快で温情の溢れる人々で

行く数人からなる朝鮮人使節が乗ってい

たドイツ人メレンドルフが登場するのもは

当時大韓帝国の外交顧問として赴任してい

この博物館の韓国文化財収集過程には、

とができた。

掛けた。おかげで韓国特有の長いキセルを はじめ八点の民俗品を譲り渡してもらうこ

だと思って私に譲ってくれまいか﹂と持ち

のでなかったら、ピバディl博物館のため

にも、 モス博士は寸特別ないわれのあるも

なはだ興味深いことである。モス博士は一

なっているのである。

八八三年アメリカに帰国することとなる

﹃日本で過ごした日々﹄には次のようなくだ

同じ年の 一 O月、日本に滞在していた矛

が、その途上上海に寄ったとき、清国駐在

りがある。

雄烈と手致実父子がソウルに帰ることにな

遠い東北アジア文化に深い関心を抱くよう になる。韓国は一度も訪ねたことがなかっ たが、日本で知り合った韓国人が帰国する

り挨拶かたがた博士のところに寄ったとき

59

一八八二年神戸からきた汽船には東京へ

苧布塵旗

たびに博士は彼らが日常使っていた品物を

;や


トゥルマギ(外套や履き物、ポソン(足琴、

贈した。その中には食士ロ潜が着けていた

一や一扇子、あげくには下着まで カッ(君、扇

のドイツ領事として勤め、任を終えて帰国 の途についたメレンドルフに会って親しく

のこの寄贈は勿論モス博士の要請によるも

脱いでこの博物館に寄贈している。食士ロ濯

このほか韓国初の対米使節団の通訳兼案

のだった。

内役を務めたパシビル・ロ lクエルを始め グスタフス・ゴ I ワlド、エドウィン・

モス博士だけでなくわれわれ韓国人もメ

れたメレンドルフ卿に心から肇字る。

いっていいほど彼の名が登場するのをみて

を所蔵しているヨ ーロッパ 地域の大部分の 博物館の収集過程を調べでみると、必ずと

周年記念のために聞かれたシカゴ万国聾見

八九三年コロンブスの北米大陸発見四 nHU

モ1ガンらもピバディ l博物館の韓国す花

レンドルフ卿に心からなる謝意を表さなけ

も、彼がわが国文化財の海外紹介のために どれほど大きな労を取ったかが分かる。そ

交のために骨身を惜しまなかったが、その

民俗品中心に収集したことに対しても敬意

れに、メレンドルフが当時慎棋の張らない

り、ピバディ l博物館の韓国文化財収集は 中断同然になり、その後はアメリカに進出

帝国合併と 一九二五年のモス博士の死によ

一九一O年に強行された日本による大韓

後でピバディ l博物館に移された。

会に韓国政府が出品した大琴、柔琴なども

テグムヘグム

財収集に大きな役割を果たした。また、一

モス博士はこれについて一八八三年惜縞 ればなるまい。メレンドルフは大韓帝国外 一方でアメリカのモス博士にだけでなく、

を表せざるを得ない。 一八八三年にアメリカを訪問した韓国人

私の知っている限り、これらの民芸品は

ロシアをはじめドイツ、オランダ等地の博

していた、ある日本人商人を通じて子供用

J 初のも 朝鮮本土から外部に響ぎれれ 最

たといわれる。

ている。

館に提出した年例墾口書に次のように書い

慎棋は当時の貨幣で二五0 ドルぐらいだっ

まで多種多様にわたっていたし、これらの

装身具、喫煙器具、貨幣類、武器類に至る

皿、鍋、さじなどの食事選具をはじめ枕、

O 点ほどで、 に送った民芸品は全部で二五

するようになる。メレンドルフがモス博士

なるや韓国の民芸品や文化財の収集を依頼

ンドルフが大韓帝国高官歪窓mの外交顧問と

交わることになった。そしてその後、メレ 茶碗

外交官たちも民俗品や文化財をいろいろ寄

携帯用銅酒瓶

物館に韓国民俗・民芸品の紹介にこれ努め た人物であるからだ。韓国の民俗・民芸品

照足灯

のである。それだけ貴重一なものであるに

いぐさ枕

もかかわらず殺酬なしにこれを送ってく

いぐさの座布団

60


屋で表に掲げていた苧布墨旗であろう。

も目立つものは朝鮮時代ソウル鐘路の杢琳

ピバディ l博物館附蔵品のうち、もっと

宮中礼服などを購入しているにすぎない。

のセクトントゥルマギ(極彩各界季、官服、

だが、同博物館所蔵のは 二品以上の判書(大

服のうち、とりわけ慶祝日に着用した礼服

最高級官職)から従九品にいたる{呈史の官

金冠朝服も、また注目に価いする遺物で ある。朝服は朝鮮時代の正一品(正一級・

ものである。

く順調にいってくれるようにとい、っ頗いが

ようにいろいろのな色を使うのは華麗さを 引き立たせるためでもあるが、万事市りな

おり、﹁オパンジャン・トゥルマギ﹂ 、また は﹁カチトゥルマギ L ともいっている。この

方向をそれぞれ象憶する色の布からできて

これは一回目の誕生日や名節(却妓市日)に着 る晴着で、東・西・南・北と中央の五つの

色の 着物)は、なんと可愛らしいことか。

から告し

高さ四メートルに達する大型の旗で、各商

臣)や政丞(丞相)が着た礼服である。背面 の中央に垂らした後綬(紐)には鶴が舞い上

収集品の一つで、最近その孫が寄贈した。

米国公使を勤めたエドウィン・モlガンの

も見落とせない文化財である。これは駐韓

鍵掛けは主婦権のシンボルで、姑が嫁に譲

植を表わす紋様が一面に入れてある。この

かの銭がぶら下げてある。また真ん中に寿

いだ。真鈴に布紐を結び、その端にいくつ

れていて筆麗さを添えている。 いくつかの鍵をぶら下げる鍵掛けもきれ

考え直してみると、まさにごの点、すなわ

はあまりいないと思われたからだ。しかし、

れた 。当時はもとよりム寸ですら、こんな物 が博物館に所蔵されるべきものと考える人

のが網羅されているからこそピバディ l博 物館韓国民俗・民芸関係収蔵品は値打ちが

に所蔵されているのには、いささか驚かさ

-﹄ザー、

一種)の刃やふくべ、鍾などがこの博物館

込められている。また馬蹄形のタピ(鋤の

すき

華やかさで知られた平壌監司の行列と饗宴

一切切り盛りするのであり、実際に倉から

り渡す。嫁はこれを渡された日からム崩を

八幅に及ぶ平壌監司の饗笠置習乞描いた絵

の各階層の人々数百名が登場するが、それ

の情景を細やかに、しかも精巧に描いてい るすぐれた作品である。そこには朝鮮時代 ぞれの人の揺震から惹情、そして街の光景

米などを取

ち一九世紀における韓国人の生突玉般を見 ることのできる民俗品のほとんど全てのも

想像するだけで当時の商庖街の繁昌ぶりが 、フかがわれる。

チョポチョンギ

庖ごとにこのような旗を掲げていた壮観を

がる奈と二つの金の指輪模様の刺繍が施さ

枕の両端に付ける飾り

2 出す際は鍵掛けの鍵で倉を開 けてやったのである。 男の子のセクトン着(虹色に染めた極彩

に至るまで徴に入り細に入り描いているの で朝鮮時代の民俗研究に重要な盗容となる

!; F二叶│

錠前

く保管できるよう助けてやり、韓国のす花

0 .

の博物館(個人の場合も同じだが)がよりよ

取り返してくることに心を砕くよりは外国

したがって、われわれは韓国の文化財を

てはなるまい。

国人に見てもらっているということも忘れ

物館に展示されて、韓国の文化を多数の外

それと同時にすぐれた文化財が外国の博

残り得ただろ、っか。

かったとすれば、今日まで果たして何点が

れてはなるまい。もし国外に持弘凶山されな

でも目にすることができるとい、ユ事実を忘

合はむしろ外国に持ち出されたがために今

が少なくないが、これが民俗・民芸品の場

されたことについて残念に思っている人が

あるのである。 われわれの貴重な文化財が国外に持ち出

青銅の鉄

ことに努めるべきであろう

を研究する学者が大勢現れるよう刀を貸す

61

粉青磁器


痛ましさを五O年に亘って胸に秘めている

EE官円 の歴史の痕跡がはっきり現れて 一 ノ いる河ではないが、国土分断の

あるが、それを自ら静まらせて何時の間に やら平穏な姿を取り戻す。しかし、韓半島

渦苧さながら身悶える激烈さを不すことも

である。時には曲がりくねり、絡み合い、

る。それ故、流れ行く川の姿はつねに平和

名もなき建早の根にも生命の尊厳さを与え

人間の戦争会﹄食い止め、しなびてしまった

鉄原に行くには分断のシンボルである三八

だ。鉄原は韓単車問の中心部に位置しており、

ているところがほかならぬ鉄原であるから

分断の歴史の苦しみをもっとも濃く捧ませ

越えて鉄原を過ぎる辺りからである。国土

運を物語るようになるのは、軍事分界線を

れた地点で臨津江に合流する。この河が悲

線を越え、鉄原と漣川を経て二二六キロ流

灘江は、平康を週ぎ、休戦ライン軍事分界

分断の北方にある金剛山に源を発する漢

るが、ここに万歳橋という橋があり、橋の

沿って北方へ進むと三八休憩所に行主主た

れている。ソウルから抱川を経て国道に

暮れ、二四回も主人が入れ替わったと言わ

まった。南と北の軍隊は町の争奪戦に明け

住んでいたこの町は瞬時に廃虚と化してし

O万発に及ぶ砲弾が打ち込まれ、二万名が

韓国戦争中には、この静かで平和な街に三

にあり、もう一方の片側は大韓民国にある。

朝鮮民主主義人民共和国と称される北の地

灘江は鉄原 に流れ込むさい分断の悲運を秘 めている河と山とが出会う。鉄原の片側は

の役割におろそかであるか放棄するかし

残っている。

て忘れてはならぬ一つの河がある。あえて

河、韓国人ならだれもが必ず胸の中に秘め

の中央を北に流れる漢灘、 江は他の川とは違 へ悲運の痕跡をそっくり秘めたまま流れて

度線を越えなければならない。それに、漢

然に活気を吹き込み、強い風を静まらせ、

指摘するまでもなく地上に存在している

いるので、韓国人の思い出の中を流れる河

きいとか長いとか、または過去

て、元の姿から離脱することがない 。山の というよりは胸の中に存在する川として

Ah'

奥から流れ出た水が谷間に集まって川をな

数々の河は、大自然に生命刀を与える自ら

し、荒れ地を縫ながら河岸のやせ衰えた自

62



ムサンと呼んでいる鳴声山が眺められ、新 鉄原を過ぎると間もなくムンへ里が現れ

下を漢灘江の女流(永平川)が流れている。

橋を載せて現れる。承日橋である。この橋

ここがほかならぬ三八度線で、戦争中には

を建設し始めたのは北の金日成であり、橋

かう途中で漢灘江が、河の上にア lチ型の

白山脈の中心部が陣取っている江原道で

る。ここで左にカ 1ブを切って長輿里に向

もっとも広い平野地帯である。北から南に ろであったというので、二人の釜剛から一

を完成させた時期は南の李承晩大統領のこ

この支流を挟んで近憐の住民が銃 口を向け

走っている太白山脈の険しい尾根が鉄原に

合い脱み合ったこともあった。鉄原は、太

来て切れ、あたかも肥沃な鉄原平野を保護 があるが、実際は戦争中に橋を完成した韓 国軍が近くの戦場で戦死した社本日連隊長

{モすつ採って承日橋にしたとい、2言い伝え

を迫真するためその名を取って命名したの

その鉄原平野のまん中を漢灘江が横切って いる。無心に鉄原平野を歩いていると、地

する、城郭のように張り巡らされており、

の底から地軸を揺るがし逆巻き荒狂、つ早瀬 である。 雲川から新鉄原の方へまっすぐ行かず、

の音が聞える。水の音を追って河べりに

現れるが、東松の手前に朝鮮時代中期の有

左側の道に沿って進むと東松に抜ける道が

行って見ると、眼下の遁か下に見下ろされ いを覚えさせる。遁か遠い昔、火山活動が

ぶつかる。林巨 正は賎民の身分に生まれ、

名な盗賊団の頭領だった林巨正の遺跡地に

る河の急流が自に飛びこんできて一瞬目ま

に作られた駈屋の百厚である。

哀定、そして江原道一帯 当時、黄海道と平{ を舞台に盗賊団を率いて回りながら農民に

進んでいたとき地盤が崩れ落ちて特異な形 議政府からやはり四三号国道沿いに雲川 を過さたところで右側に土地の人々がウル

z t o -重一回安

国土分断の痛み と苦しみ を告げる遺跡地でもある。

韓半島の中心部に位置する鉄原は、

荒涼たる旧鉄原駅の向こうに延びる鉄路( 左)

と鉄原近郊 にあ るチ クタン滝( 上)

64


1 0 7 22己 正 コ

65


て人間的な姿であり単純で素朴である。仏

い人々に分け与どえた英雄的な義賊として有 した信者たちの名が刻み込んであるのも特

像の背中には、仏像を造るに当たって寄進

蜂起を煽動し、官庁の倉亭乞荒らして貧し 名である。彼らが隠れ家にしていたという

の内側に一 O余名の者が車座に座れる広さ の空間が現れる。林巨正が盗賊団を率いて る。ここに入るには、わずらわしい手筈 c

ている鉄原の古い街と月井里の旧駅であ

がっている所は民間人の出入りが統制され

異である。この寺は西暦八六五年に近辺の

いた当時は、王の暴政や役人の収奪にいた が必要だ。兵士の案内に従ってパスに乗り

仏教信捷一、 五のむ名が志を一つにして建

たまれなくなった農民が農土を捨てて流浪 民統線(民間人統制ライン)の内側に入る

孤石亭が、すなわちここなのだが、この孤

民になるか盗賊の群れに加わって暴政に対 と、北側の山岳地代に設けられているス

やっと潜り抜けられる出入り口があり、そ

抗した。林巨正の蜂起は 、当時、他の数多 ピーカーから﹁税金のない人民のふところ

石亭の岩道に沿って下りて行くと一人が

くの農民蜂起が抱えていた共通の弱点がも

の作戦道路に沿って行く道端には人影が認

しかし、鉄原を訪れる人がいちばん見た

とで失敗に帰してしまったが、封建社会に のわめき声が耳をつんざかんばかりだ。軍

にやって来い﹂という人民軍アナウンサー

立したという記録がある。

ている。新鉄原から孤石亭まではパスで二

おける民衆運動の 一つとして高く評価され

孤石亭から再び北方に行くと東松邑が現

O分ほどの距離である。

たま森の中からびっくりしたキジがあわた

められない 。索漠たる山と山の聞に伸びて いる赤色の軍事専用道路が見え隠れし、時

れ、ここから 一・五キ ロの地点に到低序寺 があるが、最近は仏教信者にだけ開放され

だしく翼を羽ばたかせ空に飛び上がる。 びが進んで手を触れるだけで崩れ落ちそう

月井里に着くと伸び放題の雄早の中に錆

ている。この寺にある仏像は、まことに特 異である。仏の顔は珍しく細長めのうりざ ね顔であり、仏像の姿からは程遠い、至つ

漢灘江で景勝を語われている コソク亭( 左)

分断の痛み と統ーへの念願を込めて架けられた承 日橋 ( 上) と

66


コ・内¥4dH 山XEda

67


山行き列車の始発駅でもあった。戦争が起 こる前までは、鉄原の住人は弁当下げて朝、 のうちに金剛山に行って景勝を楽しんだあ と、夕方汽車で帰ることができた。しかし、 A 党舎に使われていた 旧市街は北韓の労働 兄

建物が 一棟ぽつんと骨だけの哀れな姿で 建っているのみで、二万の人口と四つの銀 行があった昔の鉄原の町並みは戦争の砲火 に跡形もなく市えうせ、人の背丈ほどの雑 草が生い茂るだけの荒れ地が遠くの方まで 韓国人たちは、いまや分断五O年の長い

長々と横たわっているのみである。

月井駅は、もともとソウル元山聞を往

主胃組だけの貨物列車に行き当たる。ここ

ウルと暫義州をつないでいた京義線上の臨

を立ててある所は、ここだけではない。ソ

断たれて以来﹁鉄馬は走りたい﹂という標札

たい と L 書かれた標札が立ってる。鉄道を

線の北側に住んでいた人々で、戦争中に南

岸の束草の住民も韓国戦争前は、箪事分界

いたのである。この貨物列車を眺める韓国

がますます進みつつある貨物列車の哀れな

道固城郡にもある。分断の苦しみは、錆び

れずにいる。帰れない古里に思いを馳せな

られる。しかし、彼らはその古里の地に帰

の方へ避難して来た。丘に登ると五O年前 彼らが暮らしていた山河が眼前に繰り広げ

復元された月井駅には﹁鉄馬(汽車)は走り

じわじわ染み込んでくる。観光客のために

人の胸には、遣る瀬ない、1すきと悲しみが

駅は京元線鉄道の主要な駅だったし、金剛

を抜け出て鉄原の旧市街へ行く。昔の鉄原

姿にも、やはり色濃く現れている。月井駅

がら彼らは五O年を生きている。

a'

ること四O余年、そのあいだ錆びが進んで

ながら暮らしている。鉄原もそうだが東海

復していた京元線列車が利用した簡易駅

津閣にもあり、東海岸線を走っていた江原

年月を統一が達成されるその日を待ちわび

爆撃会受けた瞬間からその場に釘づけにな

れている

だった 。その列車のうちの一本が戦争の際、

到彼岸寺の鉄製毘虚遮那仏像。今は鍍金が施さ

月 井 里 駅 ( 上) 到彼岸寺全景( 左下) 旧鉄原の元労働党舎( 中下)

サンブヨン滝( 右下)

68


69


は山茶科に属する小喬木

﹁ mm)で、東アジア a s -ご

J4 T ナE 地域での暖帯を代表する

tfl 24a司,

? 旭

のものがはるかに美しいはずなのに椿を植

は堀りかえされている。椿に覆われた島そ

植木鉢が一っか二つはあるほど、ここの椿

羅南道麗水の梧桐島をはじめ紅島、黒山島、

木鉢に移植して所有しようとする人々の心

このほか椿で有名なところは多いが、全

ように海洋性の花樹である。

智異山には多くの有名な寺剃があるが、

がさもしい。

蔚山の目島、巨文島などがある。椿はこの 麗水梧桐島の森は、美貌の婦人が盗人に

の二つの寺には椿の古木が数本ずつある。

中でも燕ハ全守と泉隠寺が代表的である。こ

追いかけられたあげく水死し、このあと彼 るが、それで椿の花の美しさはその婦人の

女の墓から椿の芽が生えたという伝説があ

韓国の西南海の沖にある紅島は南島と北

仏法の塞{吊寧乞連想させるからだ。生の栄

るときは、ある瞬間にぽたつと落ちる様が

椿は、こんな古寺に向いているようだ。咲 いているときあんなに華やかだった花が散

美貌によるものだと言い伝えられている。

で南島の山の陽山峰には椿が覆い茂ってい

島の二つの島からなっているが、ひと昔ま

かった。しかし、焚き物不足のころここの

た。花の咲くときの紅島はひとしお美し

椿の花から学ぶことができる。

光と奈落が、間髪の差にあるということを

余の品種がある。もともと西洋には椿がな

の種類を (富 U 島芯と称するが、アジアの暖 帯・熱帯地方に分布し、三二種二、 内門

δ

の木とは血縁がきわめて近い。椿と茶の木

たしたちがよく飲む緑茶や紅茶をつくる茶

亭があり、この亭のある小さな正を糸、柏

北方限界である。ここには冬柏亭という

忠山室岡道各川郡西面馬梁里にある椿の山が

では欝陵島が最北端である。内陸地方では

輩護費津郡大青島が最北端であり、東脅岸

南部地方海岸と島に限られ、西書序では京

れている。冬ここを訪ねる旅人は、青くう

な島であるが、島全体がすっかり椿で覆わ

南海の真ん中にある巨文島はかなり大き

ソム(椿島)とも呼んでいる。

の島に椿が多く自生しているのでトンベク

ない東海岸にある。この地方の人々は、こ

慶尚南道蔚山沖の目島は、島のほとんど

椿の花が咲いているのはあまりにも対照的

もかかわらず、麓では鮮血を思わせる赤い

わけだ。山の頂上には雪が積もっているに

て聖人峰を造り、その麓に椿を育てている

がぶつかって渦巻くところに火山が爆発し

韓国の南方の海峡から上って来る暖い海流

る欝陵島北方から流れて来る冷い海流と、

あずまやトンベク

かったが、一七三九年にチエコの官薮師ゲ

山(冬柏 H椿の実口海抜三0 メートル)と呼

な光景である。

吋間開︼。印内耳

オルグ・ジョセフ・カメル(のg

ねっている波の上に赤く咲き乱れる椿の花

陵島で、椿はその葉で太陽の栄光と恩恵を

東海に照り注ぐ陽光を漏れなく集める欝

んでいる。この正に人工植樹したものと思 われる、おおよそ四ハむ年生の椿が八ハむ

ことに巨文島の町の家々にはきまって椿の

に目を奪われてしまう。しかし、歯がゆい

目ハ回国王)が東洋を旅行した際に椿を西洋に

余本があることから付けられた名である。

ていった。残念なことである。

とから彼を記念する意味から属名を PZ

われてしまう

く咲き乱れる椿の花に目を奪

青くうねっている波の上に赤

巨丈島を訪ねる旅人は、

欝陵島宅洞の裏側の低い正には椿が密生 している。東海の真ん中に盛り上がってい

ーーーーーーーーーーー .

持ち帰って植えた。そのあとフランスの社

韓国で椿が自生しているところは、ほぽ

だが、カメルがヨーロッパに持ち込んだこ

竺- ・ もIτ 雇

右 岸Iム jρ手 ;

一一

且-

.

予言写1ヶ .

1 て よ ふ ・ Ci ~

τ ・ 圏 目 白

椿が島の人々によってやたらに切り倒され

i i

z

Eとした。

百 金Z 交界でこの花が人気を集めることになるの

樹木の一種。日本にも中国にもあるが、わ

士泰テ

70


コ同︾hd 川 田 VAE4企

限りなく楽しむ。艶のある厚い葉がそれを

は全ての生命の希望であり、それで古くは、

物語っているが、陽光会必木しむということ

婚礼式のさいお館の上に椿と竹の枝を生け

た瓶を置いたりした。幸せが変わることな く続き、栄光を末長く保つことを祈願する

意味であった。

椿は長い間わが民族と生活を共にしてき

た。近世朝鮮の茶山・丁若錆先生は椿につ

いて説明している。茶山という雅号が茶の

木にちなんだものか、それとも椿にちなん だものなのかについては意見が分かれてい

咲いているときあんなに華や

かだった花が散るときは、

る瞬間にぽたっと落ちる様が

仏法の無常観を連想させる

る。つまり。彼が住んでいた康津の山亭に

は茶の栽培が盛んだったため茶山としたと

する人がいる一方で、次のよろま山茶に関

する茶山の説明から茶山の﹁茶﹂は椿ではな いかとする人がいる。

﹁山茶﹂は南部地方に育つ佳木であり、

﹃酉陽雑姐﹄とい、っ書物には ﹁山寺は背が 高く、花の大きさが一すを超え、色は赤

た﹃本草書﹄には、山茶は南方で曹り、葉

く、一一一月に咲く﹂と記されている。ま

は茶の木と似て厚く、真冬に花が咲くと

記されている。蘇載の詩には、花火のよ

ら油を搾って髪に塗ると艶が出て美しく

うな赤い花が真冬に咲くとある。種子か

みえるので婦人たちはその袖を大切にし

71


δ 年長とする大椿に

ものだという観念を芽生えさせたものと思 われる。散花または散華、つまり﹁花が散る﹂

ということは、人生の結末や栄牽の傾きの ようなものにつながるき一口語 藁と考えて

とし、次の入、公 比べると何でもない﹂というくだりがある。 このように椿という木は、人生を達観した 表現の中に現れる伯木で、空想に走らせる

ともいえる軍突きと鮮麗さという反対方向 の価値も凝視しながら、この二つの面を一 つにして一層高い位置に持ち上げておい

ている。実にすばらしい花樹である。春、

て、それを眺める美の意識も培ってきた。

忌避したのである。ここで、わたしたちは

花が咲くのを春相と称しているが大屯山 にこれが多い。椿を昔は翠柏、または叢

の漢族が長生きする椿をみて、そうした空

要因がかなりある。われわれ韓民族と中国

椿の花はそれを立派に果たしている。もの 静かでないものは大部分が展示的な感じが

かな感じを見いだしにくいが、椿からは静 かな落ち着きが見いだされる。華やかであ りながらもの静かであることは難しいが、

堂・萱堂と同義で、他人の父母への尊教語

を祈る心が込められている。また喜一は椿

は、人間の心は相通じるからだろう。相手 の父を椿町または椿堂と呼ぶのは、長寿

想上の木にたとえて椿の字を当ててきたの

西域のことであり、その時代の人々は椿と 石棺の木は豊富な結実性があり子孫繁栄の

した。この﹁海﹂は外国、つまり南方地方の

方、昔ーわが国では中国と同じく、椿に 一 準語、または海棺という中認を与えたり

2

柏だと呼んだが、漢清の文鑑はこれを岡 和やかな春に咲くれんぎようや杏、桜、

は椿を指していることは明らかである。 椿の花は、ぽたつと音を出して落ちるが、

濃い。寂実たる感じ、それが椿の魅力だ。

うすらうめ

梅桃、つつじなどは、その花からもの静

梧としている。

椿に対する精霊崇拝のようなものを読み取 ることができる。

落ちてからのんびりとした静かな姿はいじ らしくもあり、椿の花を見る初春のたびに

このような先生の説明からすると、山茶

歳月の流れの早さに驚いたりする。何より

ろがあると考えたようだ。つまり、椿は多

象徴性があることから、互いに通じるとこ

は正しい。

椿の花より美しい花はないというが、これ

緒に落ちて死ぬとい、っ妥えから由来するも のだが、椿の花が咲いて散るのは、椿の精

花の中に隠れていて、花が落ちるときに一

ら、逆に悪い病を癒やすのに利用する習わ しができもした。これは疫病の鬼神が椿の

の花がこのようにぽたつと落ちることか

椿はどんなに厳しい冬でも、そのみずみず

であると同時に、一方では新婦の尻をたた

に役人たらが腰に付けた椿の木槌は鬼神や 災いを防ごうという念願が込められたもの

というものがあるが、これは中国の漠時代

桃の木などを代わりに用いた。また、剛卯

性は男の子を身ごもるという迷信写生むま でになった。その椿の棒を卯杖と称したが、

もりを助けるものと信じられていた。それ で椿の木の棒で女性の尻をたたくとその女

ようになり、さらにはこの木は女性の身議

くの実を付けるために筆ナ多勇を象徴する

椿の花は、散るとき丸ごとぽたつと落ち

も椿は、冬を象徴する季節の花を咲かせて、

るために、不士ロを象徹する木に扱われもし た。不意に発生する不幸なことを椿事正い うが、今までみずみずしかった椿の花が急

であり、萱は北堂、すなわら主婦の居間を 掃す母のたとえである。

寒さと苦境を乗り堪えた美しさを誇る。

韓国の棒は美しい。美しいと

霊の隆盛と凋落に関係するというのであ る。病を作包山す悪い鬼神が美しい椿の花

しい緑色で糸を乗り掛培えて花を咲かせる。 わが民族の情緒が宿っているわれわれの土

に落ちて腐ってしまうのを見ると、椿事E いう語の由来が分かるような気がする。椿

の中に住むという着想はいささか無理のよ うだが、しかし病気をすっかり治すという

着の花なのである。

いうことはきれいだというこ

日本ではツバキに椿の字を当てている が、椿はもともとせんだん科の落書同木の 震のことである。ツバキを韓国では彰

は、人聞が苦痛から脱するためにはどんな

象徴をぽたつと落ちる花になぞらえたの

気ロ聞を備えていることを意味

韓国の椿は美しい。美しいということは きれいだということを超えて哲学が染みて

のは茶の木と縁があるからだろう。また、

な変事)と無常を祈りとシャーマニズムに

その昔、世の中に満ちていた崇り(意外

断面を示しているよ、込九。

ものにもすがって哀願し訴えるという弱い

A'

いて幸選を願ユ建具としても使われた。

卯杖は椿の木のない場合は柊や棄の木、

なつめ

木と称している。鶴丹とも言っているのは

と言っても椿の字にツバキの意味がない

鶴頂紅とか耐久花とき尽つのは文堂土おりの 意味があるからである。

木に潜んでいる霊魂とは別に死を催促する 気味の悪い花という幻想を抱かせ、不吉な

よって逃れ得ると信じていた時代は、椿の のではなく、チャンチンとツバキの双方の 意味があるようだ。荘子の故事には﹁人間 の寿命がいくら長くても入、ハ門× U年を春

ひいらE

おり気品を管えていること宇量味する。冬

花の色が赤色だからであり、山茶目と言う

とを超えて哲学が染みており、

が哲学の季節だとすれば、椿は萱字を持っ

の理想的な姿とみて、そこに高い価値観を 見出そうとする風潮も培われてきた。また、 酷寒にもりりしく堪え通すことから厳実之 本として最上の花に祭りあげたりもした。 このように、清純さと雅趣に向けての強烈 な憧憶にもかかわらず、椿の裸身の美しさ

ナム

ている。即ち冷徹と冷落を懐に隠し持って いるのだろう。椿を清廉と節操が固い人間

す る

72


李ィ

亀グ

烈Z

IV

起こし、理解を深めてもら、フためである。 換言すると、すべての美術家が国民と共に

一一種のキャンペーン的な性格を持つものといえる

畠 砂 化体育部が政府施策の一環とし ︽ て国民の文化生活と芸鑑字受の 一 / 普遍化・日常化を目指して分野

別に﹁文化・芸術の年﹂を定めることに決 め、全国的に特別行事多美施し始めたのは 一九九一年からである。すなわち、﹁演劇・ 映画の年﹂(一九九一年て﹁舞踊の年﹂(一九 九二年)、﹁本の年﹂(一九九三年)、﹁国楽の 年﹂(一九九四年)が設けられ、それぞれに 関する特別プログラムや記念行事が全国の 主要都市で名彩に繰り広げられてきたが、 表向きには多くの成果をあげたと評価され ている。

美術文化を生活化し生活の質を高めていこ うという、一種のキャンペーン的な性格を 持つものといえる。このため、っ阿美術の 年 Lの組織委員会(美術界のメンバーから なっている)はキャッチフレーズを﹁美しい 心、美しい生活﹂に決め、すべての人々の 実生活の中に美術が息づくことを目指して 運動を繰り広げていく有卦を決めている。 しかし他の分野も同じだが、組織委員会 の決めたスローガンや行事に対しては批判 も少なくない。文隼冨術の新たな変化と発 展、さら仁は社会へのアクセスはスローガ ンやキャンペーン、戸江事によってもたらさ れるものではないからだ。美術界が望まし い方向に発展するためには、政府の長期的

2

かれる寸韓国デザイン四O年展﹂、芸術の殿 堂での﹁今日の韓国美術展﹂(組織委員会企 画)、﹁ソウル版画美術祭﹂、﹁文差晶写真展﹂、

まず記念展示会は、国立現岱美術館で聞

な振興政策と並んで美術関係者たちが自ら の力で文化的、芸術的な共同体を構築しょ 、 の努力がなければならない。 とはいっても、スロ ーガンやキャンペー ン、﹁江事はやはり必要である。このような ことが繰り返されるのも挙荏が認められ たからだろう。﹁美術の年﹂組織委員会(委 員長 H李大源・大韓民国美術院会長)と執 行委員会(委員長 H朴洗員・韓国美術協会 理事長)は一月十六日ソウルの世宗文化会 館で﹁美術の年﹂を官有すると共に、次のよ うな名桂の特別展示と記念プログラムを発 表した。

国氏と共に美術文化を生活化し生活の質を高めていこうとい、?、

続いて今年は﹁美桁の年﹂なのだが、いろ いろの特別展やセミナー、シンポジウムな どが進められている。このような一連の行 事は国民に美術に対して新たな関心を呼ぴ

THE y1ι 4 ROF ART 9 5

展﹂(四月 j五月)、﹁アメリカ現代陶芸展﹂ (四月)、韓国文些冨術振興院美賀古館での ﹁韓・中水墨画展﹂(五月)などが予定されて

﹁韓国美術家の姿﹂、ソウル車止美術館での ﹁ テlマ現岱美術展 、 L 光州市立美術館にお ける﹁第 一回光州ビエンナーレ﹂、韓国ギャ ラリー協会主催の﹁小さな絵画展﹂、全国 ギャラリー美術祭などがある。 また、﹁美術の年﹂を記念する国際交流展 示としては、国立現住泰館で開催予定の ジャコメッティ ﹁イタリア現代美術展﹂、 ﹁ (月i八月)、芸術の殿堂における﹁カ 展 L七 ンジンスキlとロシア・アバンギャルド

!JI

いる。このほかパリの市立美術館で十 一月 美 開催予定の﹁韓国現代美術三O人展 も L﹁ 術の年 を L 記今芋る展示会の一つである。 韓国美術の国際交流で特記すべき一九九

73

s T N E

R R U

C π


論、それには政府のテコ入れも必要であろ

韓国の諺に﹁同じ偉ほなら赤いチマ(同じ

商品の国際的な競争力をも左右する。

う。それと共に国際美術展を国内に幅広く

よくわからないが、一応は国家聞の関係と しての﹁国際化﹂よりは上位の概念としての

値段なら気に入る方を選ぶ )と L か、﹁見た

五年のイベントは、宿願であったペニス・ 誘致して、圏内美術界に新鮮な刺戟を与え

ビエンナーレにおける韓国館(穴 ﹁世界化﹂が打ち出されたものと人々は理解

2ロ

る。この諺を今日の生活に代入すれば﹁機

重視していることを物語っているものであ

﹁ O

このような国際化、または世界化と並ん

冨︿ECロ)の建設・開館である。韓国館の建 ﹁美術の年﹂組織委員会が韓国美術の﹁世

で、いま一つの方向は美術文化の国民的な

これは韓民族宅翌見的な茅を日常生活で

界化﹂を謡っているのも、世界への飛躍を

のいいのを選ぶ﹂ということになろう。食

能と品質に差がなければ、きれいで原掛け

目にいいのが味もいい﹂というのがある 。

の運びとなったが、開館の記念行事と韓国 志向するキャッチ・フレーズと理解した

享受を目指して一般の人々の羊蕎へのアク

るのである。

人作家の予亨根、聾重⋮、全室町千、金仁謙の い。十二月に予定されている国際シンポジ

セスを容易にし、その生活の中に入り込ま

世界佐の創造とアイデアの啓発に役立たせ

四名の絵画や彫刻作品などの展示が圭疋さ ウムでその問題が具体的に論じられるであ

せることである。

しているようである。

れている。それに今年はちょうどペニス・ ろうが、それは韓国美術の現況と国際交流

設はペニス当局の承認を得てとうとう実現

ビエンナーレ一のむ周念を記念する年であ の宮寵芋-検証しながら世界化指向の新たな

せるということである。美術を日常の生活

色彩の乗用車、都市環境のすぐれたデサイ

るということになる。洗練された美しいデ

的にも味覚をそそり一層おいしく食べられ

物の場合だと、見た目にきれいなのが心理

り特別祝祭が催されることになっているこ

現実的に必要に 空間に持ち込むことは、 、 なってきている。例えば、産業のデザイン

おりに﹁美しい心、美しい生活﹂の条件なの

である。

ンなどがすべて﹁美術の年﹂のスローガンど

サインの生活定具やすばらしいデザインと 美術もその 一つである。このデザイン美術 は圏内の生活文化や環境だけでなく、輸出

換言すれば芸術的な生活環境に持ち込ま

とから、韓国館のオープニングは韓国現代 模索という形で現れるだろう。

出して交流を広げていかねばならない。-勿

一つは、美貸家たちが自主的に海外に進

すべきことは二つあると思われる。

韓国美術が世界一を指向するに当たってな

美術の国際交流を画期的に促す卑穫になる ものと思われる。 ペニス・ビエンナーレには、自国の独立 した展示館を持ちたがっている国々の競争 が激しいことから韓国館建設の許可も危ぶ

今年は韓国で地方自治制が全面的に宮嘉

まれていただけに、同館建設が陽の目を見

される歴史的な年でもある。﹁地方化時代

所栓、単なるスローガンと彰式的な行事に 終わることになろう

ときにはじめて意味がある。そうでないと、

0 .

﹁ 美術の年﹂のキャン ペーンや展示などの 行事は、先に述べた本質的問題とつながる

ぐねている。

えられた、レベルの高い文化生活を待ちあ

る。国民は高い教育水準と生活の安定に支

美術展示を日常的に接することを望んでい

を熱望している。そして、展示館で各種の

は美術館と博物館、そしてすぐれた展示館

デザインの生活化と共に、全国の地方都市

いまやすべての国民は美しく洗練された

る 。

に進んでいることを意味するものでもあ

標としている国家的な課題が望ましい方向

う。全国民の寸美しい心、美しい生活﹂を目

その享受の機会の均等化をもたらすだろ

の開幕﹂は、文化芸術の地域的な平準化と

した韓国館のオープニング行事に対してペ

ローガンの﹁世界化﹂の概念がどう違つのか

た。これまでの﹁国際化﹂の概念と新しいス

野における﹁世界化﹂を目指そうと呼びかけ

昨年の暮れ、金泳三大統領はすべての分

LV

積極的な広報を繰り広げなければなるま

の作品が知れ渡るよ、つ国際美術界に向けた

ばならない。そのためには、参加作家たち

念の展示が成功するよ、ス玉力をあげなけれ

だからもうサイコロは投げられた。開館記

る。しかし、囚名の作品展示は決まったの

展示するのは無理なことだ﹂と指摘してい

の小さな韓国館に四人もの参加者が官聞を

ソウルの美術雑誌とのインタビューで﹁あ

賞したピデオ・アーチスト白南準は、最近

一方、昨年のペニス・ビエンナーレで受

まっている。

いて早くもソウルの美術関係者の関心が集

ニス美術界がどのような反応を不すかにつ

たことは喜ばしい限りである。同時にこう r' 95美術の年」の宣布式が「美術の年組織委員会」主催で開かれた

74


J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE

企 三3

作家として力量を認められながらジャーナリストを 振り出しに数々の政府要職を経た徐基源。 風刺的視点から人物を促えた 短編集『馬鹿列伝』から三編を紹介する

75


て作家になろうという夢を

い時期に本の世界に没頭し

スマンに転職したあと、国務総理室のス ポークスマン、青耳台のスポークスマン などを経た。 一九八0年代の後半の第六 共和国政府では文芸振興院長、ソウル新 聞社社長、 KBS社長を経るうち有能な 管理者としての力量を発揮した。公職生

る ) 。 七0年代に彼は経済企画院のスポーク

ともに鮮字輝、孫昌渉、呉尚源、李浩哲、 河瑳燦らをひっくるめて戦後作家と呼ぶ のが韓国では普通になっている(戦後と いうのは韓国戦争以後という意味である ため、第二次世界大戦以後の意味に使わ れる欧米や日本の場合とは意味が異な

が初期の代表的な作品である。徐基源と

を踏み出した。主に韓国戦争当時の若い 世代の意識と行動を描いた短編を立て続 けに発表し、作家としての位置を固めた。 ﹃この成熟した夜の抱擁﹄、﹃前夜祭﹄など

六年に﹃安楽死論﹄、﹃暗殺地図﹄などの 短編小説を発表して作家としての第 一歩

軍将校を務めて除隊した彼は経済部の記 者として通信社に勤務する 一方、一九五

(朝鮮戦争)が勃発して軍に入隊した。空

品を理解するにあたって他の作家に比べ 重要であると言える。 一九三O年、ソウルで出生した彼はソ ウル大学の商科大学に在学中、韓国戦争

から人物をとらえた短編をまとめた本で

短編集﹃馬鹿列伝﹄は、風刺的な視点

風刺的視点

政治的権力の中枢部で働いた経験は、徐 基源の作品に権力の行動様式の細目を詳 しく描かせている。社会から疎外された 個人ではなく社会的な力の中心部にいた 作家の個人史的特徴が鮮宇輝とともに徐 基源の作品に密度の濃い社会的なきめを 与えている。

伝﹄のような短編集がある。また、現在 は朝鮮王朝末期の輿宣大院君の政治的行 路を扱った﹃光化門﹄を日刊紙﹁朝鮮日 報﹂に連載している。政治的改革の意志 がぶつかる試練と挑戦を描いているこの 作品は、現在の状況と暗示的に関連して おり、独特な興味を呼び起こしている。

歴史小説のほかにも﹃女の脚﹄、﹃馬鹿列

表している。改革の意志が強かった趨光 祖の政治的挫折を描いた﹃王朝の祭壇﹄ には作家の官吏生活の経験が渉みでて独 特な重みを成就している。前述した長編

O代に ﹃金玉均﹄、﹃革命﹄などの歴史小 説を執筆した彼は公職生活の後にも﹃王 朝の祭壇﹄のような重厚な歴史小説を発

活は彼の作家活動を鈍らせたのは事実で あるが、全く筆を折ったのではない。三

多声的響さと風刺的視点

-rLP

rHliJ ﹄ 可 d9 育て、早々と作家になって しまったという類型の作家がいる。こう いった作家の場合、生き方というと作品 の素材を探すための研究になることが多 い。生き方自体の冒険を観察し、表現す るという作家としての道に従事すること になる。 一方、平坦でなかったり、波乱 の多い生活経験がそのまま作家的野心の 直接的な契機になっている場合もある。 トl マス・マンやジェlムス・ジョイス のような作家は前者に属し、トルストイ やコンラドのような作家が後者に属する と言える。韓国の現代作家の場合、たと えば朴泰遠や金東里が前者に属するとす れば、鮮字輝や孫畠渉は後者に属すると 言うことができる。生活経験というもの は、どんな作家であっても作品の中に投 影されるものであるが、鮮字輝や孫昌渉 は生き方の中の特殊な経験が彼らの作品 の世界を規定し、定義したと言ってもい いであろう。 徐基源も本の世界に引かれて早々と作 家志望を準備した系列の作家である。し かし、生き方の歴程が専門的な作家とし て貫くことを妨げた特殊な場合だとき Pえ る。従って、伝記的な事実は徐基源の作

ある。主人公たちが生きている時代と生 活には一貫性がない。人間の生き方は、

所詮愚行の連続であり、人間というもの は本人が意識するしないにかかわらず、

愚かでいい加減な存在であるという作家 の人間観がこれらの短編をつなぐ、いう ならば組織の原理である。

私は作家と現実という課題をみる時、 たとえば主題別の問題提起式の方法に は全く興味がなく、また必要以上に内 攻的な言語の遊戯のようなものにも共

感できない。前者の場合は論説に任せ ればいいことだし、後者はどうしても 太平盛代にでも似合いそうな方法では

ないかと思われるのである。 ちょうど大統領の選挙戦が終盤にさ

しかかった。全ての様相が極めて馬鹿 列伝的だなあと思いながらひとり笑っ ている。笑いながら長い食もたれから くるおくびをしている。

短編集﹃馬鹿列伝﹄に寄せられた作家

徐基源の右の発言は彼の作家的な視点と 方法を簡明に説明している。いうならば、

明確に規定され、計算された目的意識や 問題意識から出発する創作方法は拒否す るというのである。また、心理描写や内 省的な意識の表出で一貫する方法も嫌う

というのである。あくまで人間観察から 始めるという態度をはっきりさせている。 大した意味がないように思えることに重

要性を付与しながらいろいろの愚行をし でかす人々のいい加減な姿を好んで作家 は描いてみせる。 ﹃馬鹿列伝 ・一﹄が描いているのは、 大まかに言えば歴史の歪曲に関係するも

76


のである。自分の家門を輝かしいものに う気持ちは理解できるものである。また、

不必要な差恥心から救ってやりたいと思

ずかしい行跡を覆い隠すことより息子を 想として尊ばれていた朝鮮王朝以来、立

するのである。 種という名で祖先崇拝の儒教が正統思

史実性が美徳と見なされてきたことは、

になっている。﹁春秋筆法﹂という歴史の

筆﹂という名で峻烈な叱責と批判の対象

とは正反対に歪曲し、歴史的事実のよう

するためという口実で祖先の行為を事実

それでも正しい歴史のためには幸いなこ

一家門の歴史の変遷を描きながら作家

とであった。

っていた。家門を輝かしくすることは族

いうことは普遍的な社会価値の一部にな 譜と呼ばれる家系人名録や豪華な墳墓に

身出世して家門を輝かしいものにすると

いう教育的な価値も否定できない。しか

ることにより子孫に行いの模範を示すと し、明白な過去の事実を途方もなく正反

どうせなら先祖の行跡を見かけよく変え

馬鹿はこの水門の前を渡るたびに生

にしようとする企てが扱われている。

前会えなかった祖父を思った。日本の

が、調刺は苛烈で峻烈なものというより

は、人間の虚栄と自己欺輔を批判する。 この批判精神が調刺の源泉であるわけだ

二O世紀末の今日にあっても成金をは

よっても行われる。

も憐欄に近いものである。調刺の対象に

できないだけでなく、あらゆる伝承や文

じめ、いわゆる出世した人達がやること

ためである。

なる人物が大方ひ弱で愚かな人柄である

対に変えるということは道徳的に正当化

ることと適切に族譜を改作する乙とであ

といったら:祖先の墳墓を豪華に改造す

植民地時代に北海道とかに連れて行か

用を生む。まして、過去の事実を変える

る。このような人々の便宜のために族譜

れたまま消息の途絶えた父から、甲午

真の動機は他人の目を意識したものであ

制作者たちは常に門戸を開放している。

前で銃殺されたというのである。

から逃げ出そうとして捕まり、東門の

る。結局、現実的な金力と政治的実権を

最期に対する美化を試みるが失敗に終わ

在しているものと言える。こうして馬鹿 は民間史学者を買収して地方紙に祖父の

はなく、韓国と中国を含む東洋文化に内

れぞれの君主や王朝の歴史の歪曲は﹁曲

ることである。東洋の伝統においてもそ

族国家が成立した後、しばしば目暗され

人のレベルに限られるのではない。国家 のレベルにおいても歴史の歪曲は近代民

このような広い意味の歴史の歪曲は個

残されてしまう。しかし、当時大学生だ

多くの人々は赤い軍隊の占領地域に取り

爆破してしまったため、渡江に失敗した

するや南側では漢江橋をあまりにも早く

を描いている。主人公、馬鹿三は韓国戦 争勃発当時、漢江を泳いで渡った経験を

憐伺に近いものである

誠刺は苛烈で峻烈なものというよりも

﹂の批判精神が誠刺の源泉であるわけだが、

人間の虚栄と自己欺騎を批判する。

一家門の歴史の変還を描きながら作家は、

化的記憶に不信感を抱かせるという副作

った祖父が倭軍の討伐隊の包囲網の中

る。ベネディクトが﹁恥の文化﹂と命名

年の義兵の乱の時の首謀者のひとりだ

で勇戦奮闘、壮烈に戦死したという話

したのは、事実、日本固有の心理性向で

馬鹿の祖父の行跡を事実から離れて美

持っている人に、いわゆる史学者は協力

﹃馬鹿列伝・二﹄は若き将校の軍人生活

いる史実はそうで弘なく、その下水口

を聞いた。しかし、世の中に知られて

化して息子に伝える父親の振る舞いには、

もっている。北側の軍隊がソウルを占領

肯定的な側面が全くない訳ではない。恥

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った馬鹿三は命がけで漢江を渡るのに成 功するが、韓国軍に捕らえられてスパイ だと誤解されもするのだが、軍人の中に ちょうど知り合いがいて誤解は解ける。 鉄橋を渡るところでこの倖品は終わって いる。

ては重罪に該当するが、これを知った ﹁智異山の虎﹂はパンツ 一枚で真冬の平壌 の大同江の鉄橋を渡れと命令し、見物人 たちの好奇心に満ちた視線を浴びながら

ったため、国軍の初期の将校は、大部分

編された。二年後の一九五O年に韓国戦 争が勃発した。近代式軍隊の歴史が浅か

一九四五年の解放後、国防警察隊とい う軍事組織ができた。一九四八年大韓民 国政府が樹立してからこれらは国軍に改

その後、彼は将校の試験を受け、任官し たあとは通訳将校として配属される。し かし、辛うじて英語の本が読める程度の 大学生の英語の実力と経験不足により任 務の遂行にいろいろと差障りが生じる。 会話の能力や聞き取りの能力が足りずぺ らぺらの対話が必要な戦闘状況において 窮地に陥った彼はついに精神不安からく る便秘に悩まされるようになる。 充分な訓練を受けていなかったし、奇人 もいた。彼らに関する数々の逸話が結構 話題になったりしたものである。﹃馬鹿列 伝・一 一 ﹄が描いているのは、このような

る。無謀で残酷で部下にも恐ろしい上官 でありながら奇想天外な命令で部下を保 護したりする人物でもある。要するに軍 紀や素養という観点からは常識外れの人 物たちが見せる喜劇的な行動を通して人 間の愚行を浮き彫りにしているのである。

国軍初期の奇人の行動である。﹁智異山の 虎﹂というあだ名で登場する将軍も 一九 五0年代の韓国人の問では広く知られて いた実在の人物をモデルにしたものであ

このような作品は、作品の中の行動が 展開される当時の状況に対する予備知識 がなければ充分理解することが難しい。

仁川上陸作戦後、戦況が逆転し北側の 捕虜が爆発的に増える。馬鹿三は米軍側 の要請で捕虜審問官に指名されて赴く。 気の短い彼は頑固 一徹の共産主義者の捕 虜を殴打したり、審問官の気に入られる ように目にあまるほどへつらう捕虜の胸 倉をつかんだりする。この暴行がもとで 米軍将校に審問官を辞めさせられるが、

その後、﹁智異山の虎﹂というあだ名で 有名な将軍の目にとまり、捕虜収容所長

当時についての示唆が多いからである。

馬鹿三の嘘の豪語で米軍の上官を殴り飛 ばしたという噂が韓国兵の聞に広まるよ うになる。

の任に就くことになる。名前は収容所長 と聞こえはいいが、 一線地方にある捕虜 たちを管掌する職責に過ぎない。彼は捕

留意することは、作品の理解に欠かせな い。軍人の死活のかかった重大問題を扱 うにあたって将校たちの行動が作品に描 かれているように恋意的で即興的なもの であったからである。軍人としての経験

このような人物たちの行動が一九五O年 の韓国戦争の最中に現れたということに

虜たちの中に知り合いや学校の後輩が混 じっていることを知る。北側の軍隊が占 領地で狩り集めたいわゆる、義勇軍(志 願兵の意味)で、戦場で捕虜につかまっ た者である。馬鹿三は、これら知り合い の捕虜たちを即決処分するといって連れ て出して釈放してやり、各自要領よくソ ウルに逃げきれと言う。これは将校とし

と戦闘経験が足りないことも加わって軍 隊の内部での愚行が多かったのである。 この点を例外的な個人を通して浮き彫り にしたため、この作品はタブ!とされて

その複合的な可能性を示唆する。このく だりで作家の筆致は次のように展開する。

内部の要因はおそらく血統の遺伝と 関係がないとは言えないだろう。清白

に流れているユーモラスな筆致もある意 味での余裕を感じさせるという付加価値 を持っている。

吏の伝統をそのまま固く守ってきた馬 氏の家から魚肉の生臭いにおいが漂う 日は一年中で正月と秋タだけであり、 五代にわたる奉嗣と十回を越す祭和に

いた軍隊問題を扱うことができた。作品

権力の世界

ちの視線を意識したからでもある。しか し、息子の官吏登用を見ないことには死 ねないと言う父親の遺言を聞いた馬俊は

くない行動だと言って息子は拒絶する。 在野の批判的な知識人及び官吏志望者た

親は政界の実力者である権勢家を訪ねろ と勧める。一種の間接的な粗鋼官運動と言 える。しかし、清白吏の家門にふさわし

科挙に繰り返し失敗すると、馬俊の父

くの坊が生まれないだけでも幸いとし なければならない。

まして、そんな栄養失調が二代、三代 と重なっているのだから、下の代にで

ところである。 そのような両親の下で頭脳明断な子 どもが生まれるはずがないのである。

曾祖父の代から栄養失調になっていた だろうということは、充分想像される

も肉踊二枚、干し明太一匹程度しか使 わなかったのであるから、少なくとも

﹃馬鹿列伝・三﹄の主人公、馬俊は清白 吏の曾孫で、科挙に及第して官職に就く ことを願っている。科挙とは中国と韓国 にあったもので、日本にはなかった官吏 採用のための試験である。公正に施行さ れる場合には人材を登用し身分移動の可 能性を広げることにより社会安定にも寄 与するという側面が大きかった。ただ、 試験の内容が主に中国の古典に加え、詩 文能力を評価するものであったため、あ る意味では限界があったことも事実であ る。清白吏とは大臣を含めて高級官吏た ちが推薦して選んで決めた清廉潔白な役 人のことで、特に尊敬されていた。民話 の中には、屋根が漏れるからと言って傘 をさして部屋の中で本を読んだという宰 相などの話が誇張された形で伝えられて いる。一旦、清白吏に遷ばれれば家門の 大きな誉れとなる。このような歴史的背 景に関する情報はこの作品を理解するの

し、ちょうどその瞬間、若い知識人と官 吏志望者が抗議のデモを起こし、そのう

結局、権勢家の屋敷に出入りして顔なじ みになる。そうとうするうちに、ついに 井邑地方の賂監の座を得るに至る。しか うだが、科挙試験制度自体が腐敗してい

ちの一人が斧で自分の頭を割ったという 報告を聞いた権勢家は、その場の雰囲気

に必要である。 馬俊は科挙のために 二0年間勉学にい そしんだのであるが、受からずにいる。 理由は本人の才能不足のせいとも言えそ て公正さを欠いていたからでもある。作 家はそのどちらとも断定することなく、

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をなだめる思いでその白書を謀ったソン ビ(知識人)に井邑の牒監という官職を 与えてしまう。最後のどんでん返しにこ 列伝・五﹄が描いているのがこのような 世代問の葛藤である。しかし、具体的に

の葛藤である。既成世代の保守主義と若 い世代の変革志向との聞には言うまでも なく葛藤と不和があるものである。﹃馬鹿

つてんだ。お前らの親父はみんな金持 ちかい。金持ちだってそうだ、警察が

あげくの果ては電車の車掌まで、日本 人の下で飯を食っていない奴がいるか

で日本人に取り入らないで食っている 奴がいたら言ってみろ。総督府の官吏 をはじめとして巡査、訓導、面の書記、

七0年代以後、韓国においては親子問、 世代間の葛藤は格別先鋭な様相を示して

この作品の背景は解放以前の日本によ る被占領時代である。しかし、特に一九

父親の逆境や苦労に対しては最小限の理 解も示していない。

拒否的な抗日態度を終始持ち続けること はできなかった。日本横民地主義の住民 統制は、とりわけ後期になるにつれて徹 底していたのである。従って軽重を問わ ず、画 一的に親日行為を罵倒することに も問題がある。ゆえに上に引用したマ・ ヨンの言ったことは、非常に粗末な自己 弁明でありながらも無差別な罵倒の観点 に対する批判にもなりうる。従って、 マ・ヨンの声には、いくつもの声が混在 し多声的な響きをもっている。このくだ りに限らず、全てのくだりがそのような 多声的響きを共有して、作品の多意的効 果を醸し出している。作者の風刺的視点 は宝ての人物に向けられているものであ り、マ・ヨンや金参議にだけ向けられて いるわけではない。彼らの息子たちも例

A-

て馬という姓をもっ者である。このため、 馬一族の愚行謂ということができる。し かし、﹃馬鹿﹄はでくの坊や間抜けの意味 をもっ日本語であり、普通悪口を言った り、叱ったりする時にしばしば吐かれる 言葉である。このような日本語の意味が 含まれているということは言うまでもな い。また、組高の故事に出てくる﹁指鹿 為馬﹂に対する示唆が入っているという ことも留意に価する。

﹃馬鹿列伝﹄に登場する主人公たちは全

葉のニュアンスにおいて人一倍敏感なス タイリストであるということを思い起こ しながら読むことが求められる。

は翻訳の過程で蒸発してしまいかねない。 翻訳過程において味と粋な感じが消えて しまう文体はそれだけ詩に近い。彼が語

ユーモアと面白味が充分に伝わりにくい であろう。特に重厚で気品がありながら も、その一方では軽快な彼の文体の妙味

アリストアアネスの喜劇に見られる当時 の時代的言及が現代の読者には訴える力 が弱いからである。従って、徐基源の ﹃馬鹿列伝﹄の連作も外国の読者にはその

ネスの作品は、ソフオクレスやエウリピ デスのように大きな共鳴は得られない。

外ではない、彼らは彼らの今日を作った

の作品の妙味があるのだが、それも親し は日本の植民地主義の権力に協力して暮 らしを立てている父親と、これに敵対的

治安を維持し、思想犯を取り調べてい

いる。従って、この作品も当代に対する 暗示と示唆を込めている作品と言える。 議刺的視点から生まれた喜劇は悲劇よ

な態度を取っている息子との問の対立と 葛藤である。いわゆる、親日派と呼ばれ

り理解することが難しい。アリストアア

い間柄の批判的知識人に官職を取られた ということでどんでん返しのおもしろさ を 一層大きくしている。冷笑的な実力者 は、知識人の集団的抗議ぐらいは個別的

たことを言ってるか!

ている対日協力者にも、上層部の有力者 と下層の小人族とがいる。作品の中で中 枢院参議として登場する金氏が前者だと すれば、日本の警察の密偵として登場す るマ・ヨンは後者に属する(中枢院は日 本総督の諮問機関で韓国人からなってい た。実際の権限はない名目上の機構であ っ た ) 。 上層親日派に属する金参議は息子が植 民地統治に反対する集団に加担している ことを知り、そこから抜け出るよう説得 するが失敗し、結局息子を物置に閉じこ めた後、死を偽装して偽の葬式を出して 戸籍からその名も消してしまう。 一方、マ・ヨンの息子は父親が日本警 察の手先だと友達にひやかされ、これに 我慢できず、登校拒否の症状さえも見せ はじめる。乙との次第を聞いたマ・ヨン は息子に次のように対処の方法を諭す。

マ・ヨンのこのような話は息子に自己 防御用に教えたことになるが、同時に親 日派が居直る際によく使われている弁明 である。植民地統治下においては亡命で もしない限り、他になす術がないではな いかと彼らは言う。厳密に言って、全て の自己弁護がそうであるように 一理がな いでもない。事実、大地主でもない限り

るから堂々と暮らしていられるんじゃ ないかつてんだ。どうだ、俺が間違っ

な買収や官職の供与で充分鎮圧できると 思っている。 この最後の逆転で我々はスイフト﹃ガ リバー旅行記﹄第四部六章に見られる次 のようなくだりを思い出す。 宰相という高い地位に上がろうとす れば、三つの方法がある。第 一の方法 は巧妙に妻か娘を利用する方法を考え ることだ。第二の方法は前任者を裏切 るか、滅ぼすことだ。第三の方法は、 公開席上で宮廷の腐敗を﹁激しい熱意﹂ をもって糾弾することだ。おかしく感 じるかもしれないが、この最後の方法 を使った連中を賢明な君主は登用する ことだろう。 このように、この作品は権力の世界の 腐敗と堕落を扱ったものである。それは 歴史的な過去を語っているが、実際にお いて現代をも標的にしている。ここに作 品の現代的な意味がある。作者の風刺的 視点が特定の個人に集中されていると言

そこに座れ。お前が理解できるよう に話すにはちょっと大変たが、そんな ことを言われたら、こんなふうに言っ

るが、朝鮮の人を傷つけるようなこと はしていないと。それでもまだそうい

うよりも、登場人物全てに向けられてい るということも注目に価する特徴である。 父と息子 ツルゲlネフの﹃父と子﹄が描いてい

うことを言ったら、お前ら朝鮮人の中

てやれ。うちの親父は日本人たちと親 しいから、警察署にも出入りしてはい

るのは、父子の聞のそれを含めて世代間

7宮


N E WS F R O MT H E K OR E A F OUNDA T I ON

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、初もの大学、研究所なとで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文・社会 科学・芸術分腎のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請 を受け付けております。

韓国国際交流財団のフエ ローシッブ・プログラム

韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエローシップおよび 韓国語フエローシップを次のようにこ案内いたします。

韓国研究フェローシップ

①韓国学、韓国語なと韓国関連講座の開設およひ拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および支援額については、同 年十月十五日までに申講者に通報いたします。 上記の乃紗十での韓国研究に対する支援」およ び「韓国国際交流財団のフェローシップ・プロ グラム」の申請書およひ案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求められます。

申請書およひ1案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 絡願います。 穂国国際交清謝団国際協力 1 部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号 電話: 82-2-753剖 64 ・ FAX: 82-2-757却 47 ・ 2049

KOREA FOCUS ( コリア・フォーカス)

( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊言郭OR E A F OCUS ( コリア・フォーカス)

所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月三一 日ま でに韓国国際交祈調団に提出してください。 選抜の結果は同年畑中旬までに通報いたします。

韓国語フェローシップP 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する砂防大学院生・学者およ び適格の専門家に対して、韓国語フェローシップを提供し、六一一二カ月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フエロー

を刊行しております。「コリア・フォーカス」は日本のみなさんに韓国関連

シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一

の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としております。

つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料と所定の

当財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する有益

滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成

な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス」は、日本語版のほかに英文腕< OR E A F OCUS も

刊行しております玖同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関備住誌、学者t 誌などの刊行物から翻訳、転載したものです。 韓国の時事問題に関する情朝主記事を幅

のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書およひ案内などについてのお問い合わせは、下記の{ 草原宛にご連 絡願います。 韓国国際交流財団国際協力 2 部

広く選んでおりますので、韓国の現況につ

大韓民国ソウル特別市中央重髄雷軒ム書函二一四七号

いて広い視点を提供することになります。

電話: 82-2- 万 3-6465・ FAX: 82-2- 汚 7-2047,お49

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