Koreana Summer 1995 (Japanese)

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1 '

し¥

I

ソウルの南の商業地区にあるホテルには、 最高に 親切で、最高にリラックスできて、最高のサービ スをするという定評のあるホテルがあります。 お客様のご要望をお察しして、すばやく応じるか らです。すばらしい? その通りです。 それが韓園流のおもてな 、 し そしてルネ ッサン ス のスタイルなのです。

ぷ さ

A

~NI^?ACE" 砂大韓民国ソウル特別市江南区窮三洞 676 番地電話 (82)25550501 FAX (82)2553 8118 ~ ホンコン、マラッ 力、鳴門、沖縄、 サンタカン、札幌、シド ニー、東京、米国、カナ夕 、南アメリ力 、ヨーロ ッ バ 、 アジア、アフリ力 、ヂ工ーンユード BR 、ま たは フリーヲイヤ ル (0120)222332、東京 (3) 3239 8303 と FAX (3)3239 6986 でご予約を頂けます。


BE AUl Y O F K OR E A

風呂敷

()~

19C. 6OX 6Oc m . 緯国車JI繍博物館所蔵

11 た造形美の風呂敷、それは朝鮮 イ

b'isaとりどりのきれいな色彩と模様 K4i 圃とで現代函を訪併させる、秀で

の女人たちの独創的な美意識が宿る芸智聞

なのである。風呂敷は日常の生活用品とし

て重苫玉がられ、主としてモノを包んで持ち

服地が貴重だった昔、女人たちは、官乞込

歩いたり、しまっておくのに用いられた。

めて反物を裁断したあと、残りの小切れを

大事にためておいてから一枚一枚縫い合わ

せて、かくも見事な﹁余り切れ風呂敷﹂を創 り上げた。

女人の繊細な美的感覚と倹約精神の現れ

でもある余り切れの風目敷は、絹や苧や木

棉など生地の種類や性質によって季節成賞

を取り入れたりして用いた。小切れを縫い

もあって、色とりどりの小切れを縫い合わ

合わせると長寿の願掛けになるという意味

せていく女人の真心は、風呂敷の持つ実用

性を乗り越え芸術の境地へと踏み込ませた

のである。美的感覚と創意力が日常、気軽

に 僚 昼 活 用 品 の 一つの風目敷に溢れてい

るところから韓国の女人の美しい心が読み

取れるのではなかろうか。


ppE EZU と

︽曲 目 川

KOREANART &CULTURE カバー ・ ス トー リー 199 5年、 f美術の年j を迎

え、国内外で様々の美術行 事 が 催 され る。

4

そ こで 、

K O阻 f ¥NA は韓 国現代美術

韓国の現代美術の流れとその性格

に焦点を当てて、その位相

李逸

と毘際化 の展望、そして現

10

役作家たちの活動を紹介す

韓国美術の光と色

る 。

16

韓国画の伝統と現代的なアプローチ 呉光沫

24

韓国現代美術の国際的位相と 世界の韓国の美術家 丁俊模

30

KOREANARTl STS ABROAD

李聖子

予晋盤

34

日 次

ROUNDTABLE

韓国現代美術の位相と国際化の展望

42

韓国現代美術、今日の状況 徐成緑

48

資料に見る 韓国の現代美術文化の現場

金遠鏡

ap

a Foundati on


一 側者点

6WYW 淑

5 αシ﹂ 神

W I n -

主同

家 作

雀昌潤

韓国悶際交淵梱理事長 編集長

寧越・旋善

72

DI SCOVE則 NGKOREA

柳済権

編集委員

金光彦金聖 佑金畑園 李重量烈林英芳韓高祭

李根培

76

CURRENTS

アート・ テ'ィレクター

朴昇雨

600円 (4, 500ウォン)

発行所

韓国国際克斑財団 大韓民国ソウル特別市中央郵便局 私書箱2147号 ・篭話 82ふ 753- 3462 . FAX: 82- 2. 757- 2047、2049

編集デザイン

ART SPACE PUBLI CATI ONS

大韓民国ソウル特別市鏡路区通義洞 35-11 - 電話 82ふ 734- 7184 . FAX : 82- 2- 737- 9377 rKOREANA (コリアナ) J は総国国際交流財団が発行し

ている季刊誌です. 従って版権はすべて本財団側に あり 、本財団最穏なしに転載・複製することは禁じられ ておりますのでご了承下さい. また、本誌tf, J 載 の 記 事 ・論文の内容は、本 誌 編集者または本財団の意見ではありません.

1987靭 月 8 日 登 録

64

ONTHE ROAD 金 周祭

発行人兼編集人

定価

100- 095

大韓民国ソウル特別市中区南大門路5街526

喜 一 町

1995年 夏 季 号 韓国国際交糊オ団が発行している季刊誌

コリアナ

KOREANA

叫 1033号

1995年6 月2 0日 印 刷 1995年6 月31 日 発 行

( 毎年3 、 6 、 9 、 12月4 閲発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウJ 同寺別市域東区議陽洞 167- 29 . 電話: 82-2-468- 0361-5

ペニス・ビエンナーレ韓国館の開館

李逸

79

建物は消えても忘れられない歴史

旧朝鮮総督府撤去告白祭 李 晩蕪


韓国の 現代美術の 流れとその性格

う。車事受口、すなわち韓国現岱美術の

おける歴史的措皇尽に区分することができよ

A同景をわれわれは二つの側面、 の時代的f すなわち一方では厳密な意味における美祈

と形成の時代的背景である。そして、そ

る問題は、その現住美術の匹胎

国現代美術の全般的な状況につ いて論じるとき、まず提起され

韓国のいわゆる﹁近岱突術﹂に対する生半可 で手遅れな未練をきれいに清算し、これが

らまし次のようなことになる。すなわち、

響は、また別の次元できわめて重要な意味 をもっている。以上のことを要約すればあ

おり、これが韓国美術の領域に及ぼした影

ならぬ六 ・二五韓国戦争であった。ぃ、ヱ立 でもなくこの戦争はわれわれにとって八 ・

理念的な葛藤が増幅されたのである。

らずその年代はしばしば重なりあっている

これら套天術運動の年代の設定が便宜上

四)、 新イメ ージズム宮内項 目 ヨ釦性的自)の 時 期 二 九 七0年代末から現在まで

呂ロヨ色)﹂ 抽象の時期二九七0年代 半ばから現在まで

0年代末から 一九六五年ごろ 一九六 三)、﹁第三期﹂抽象、﹁脱ミニマル(司OMケ

一五解放に劣らぬ民族史的な意味をもって

)﹂である。 E O5 ﹃-

九六五年ごろ 一一)、寸還元﹂と﹁拡散﹂(開4ggロ)の時期一

のものであるとはいったが、それにとどま

か 。

わたしは、かつて韓国現岱突術の展開過

官qZ)﹂のそれと相通じるものが少なくな い(韓国の場合この﹁戦後﹂は六 ・二五韓国

ろいろな面でフランスの ﹁ 戦後(﹀ 匂﹃ 2・

フォルメル美術(﹀ユ

抽 象 の 時 期 二 九 五0 年代末から一

美術史的背景からみるとき、これは改めて 言うまでもなく、いわゆる韓国の近代美術

すなちわ韓国における﹁現代美術﹂への転換 の恕穫を作ってくれたというのがそれであ

ということも指摘しておかねばならない。

一)、アンフォルメルまFほ表現主義的な

Zo含﹁ロ 韓国の現代美術は近代美術 (

と関連つけられる。

の集団的前衛美術運動である通称﹁アン

る。そして、そこから生まれたのが韓国初

T

こうした葛藤に終止符を打ったのはほか

﹀るという伝統の穫をなしに韓国の現代

そして、そのような現象でもある。まさに、 これが現岱美術の特徴の 一つではなかろう

史的背景と、他の一方ではより広い意味に

美術への転換といえる現代的な霊 対決 しなければならなかった。それに韓国の近

第一期の韓国のアンフォルメル美術を対

で折衷的な認識に過ぎなかった。そこには

程を次の四つの時期(または段階)に区分し たことがある。もちろん、こうした区分は

象にしてみるとき、その時代的な背景はい

継承や革新という美術史的な展開の論理も

あくまでも主観的な視点によるものであ

岱美術はいわゆるヨ ーロッパ的な流れから 理解される美術であったし、それも多分に ﹁ 日本化﹂された西欧式近代美術の、断片的

あ灼待なかったし、そのため集団的な動き としてのいかなる流派も形づくることがで

戦争以後を指す)。韓国現代美術の最初の 波が、 こんにち一般的に﹁アンフォルメル﹂ と い 、 2 蒜で呼ばれているのは偶発的なこ ものであることを付け加えておく。

り、各時期の年代の設定も多分に便宜上の

きなかった。そして 、こうした状況は人・ 一王解放後もそのまま続き、政治的または

した現象は少なくともそれが集団的な性格

味から言っているのである。そして、こう

が、時を同じくして登場しているとい、っ意

に互いに対立するかに見える複合的な傾向

な様相であるとしたとき、それは同じ時捕

であり、またその一方では美術展開の新た

アンフォルメル抽象の克服を意味するもの

理念的なレベルにおける転換は、すなわち

ても新たな転機を画する時期である。美術

大きな転換であり、美術展開の様相におい

は韓国現岱黍仰の展開における第二の段階 であるとともに、その理念の設定における

そのあとを継いだ﹁還元﹂と﹁拡散﹂の時期

とをつなぐ深い共感帯 国の﹁六・二五世代﹂ を確認することができるのである。

世代と韓国現岱美術の第一世代といえる韓

意欲を直接確認しなければならない﹂とい う内容から、われわれは ヨーロ ッパの戦後

われわれは今のこの混沌のなかで生の ち﹁

に際して次のような{亘言文の一節、すなわ

のため一九五八年の第四回現霊式術援震

一層接近していたという反証でもある。そ

りもむしろフランスの表現主義的な風土に

じめての抽象美術運動がアメリカのそれよ

とではない。これは言い換えれば、韓国は

李逸美重詰家

••••••••••••••••••••••••••••••••


特有の局面に差し掛かることになるのであ

立の共存ないしは同時進行という現岱夫術

れる。これとともに韓国の現岱美術も、対

例を見出だせなかったのではないかと思わ

の韓国の美術においてはかつてそのよ、?な

の美術の動きだとした場合、近岱柔術以後

なオブジェ美術はその視点において欧米の

のであった。のみならず、韓国のこのよう

される美術領域の新たな地平非﹄切り開くも

状態、すなわち、あるがままの状態に提示

にはこれまでの完結された彫刻から未完の

レベルに拡散させた。とりわけ彫刻の場合

すとともに、美術をわれわれの日常生活の

グループのメンバーによって試みられた。

第一回﹁韓国青年作家連立展﹂に参加した ﹁ 無 (NRO)﹂の同人と J市 ) ﹂ 吋(∞宮shwd宮

八年、 一群の若い作家によって進められた

のことであった。これは実際には、一九六

前に控えた 一九六七年から一九六八年ごろ

な拡散の新たな動きが韓国ではじめて具体 的な形にあらわれたのは一九七0年代を目

いわゆる幾但字的な抽象絵画だったのであ

向した絵画は、﹁還元的な抽象﹂とも言える

とも言えるこれらの画家たちが指 年)世代 L

意味である)、または﹁四・一九(一九六O

の第二世代(もちろん韓国戦争以後という

元﹂という概念を持ち出した。実際に戦後

グループの画家たちが唱え出した新たな傾 向の抽象絵画に関連して、わたしなりに﹁還

る。そして韓国の現代美術はヨーロッパと

それとは発想を異にしている。言い換えれ

まず﹁拡散﹂というとき、それは第 一次的

は異なって、かつてそのような幾餌一子的抽

る 。

しかしアイロニカルなことに、この﹁韓

め﹁オリジン﹂グループの出現とともに最初

象の遺産を受け継いだことがなく、そのた

国青年作家連立展﹂にはオブジェ美術とは 全く相反する傾向のもう 一つのグループが

ば、韓国のオブジェは、加工されたものだ

参加した。それがほかならぬ﹁オリジン

とか人為的にでっちあげられたものではな そのままの状態でありながら自らをあらわ

く、できるだけ本来の状態、すなわち自然

る。その具体的な表現の形として現われた のがいわゆるオブジェ美術である。このオ

には芸術概念の拡散を意味するものであ

ブジェ美術は﹁事物(オブジェ)に対する新

あらわにするオブジェである

そのままの状態でありながら自らを

すなわち自然

できるだけ本来の状態、

ものではなく、

人為的にでっちあげられた

加工されたものだとか

韓国のオブジェは、

の基本的な造形言語への還元という課題と

(02間宮 )グ L ル ープである 。わたしはこの

マルセル・デュイシャン)を示

L(

にするオブジェである。そして、そのよう

たな考え

162X130c肌 1鉛 8 ~.


130X97cm. 1991

還元的、幾伺一子的抽象が韓国現岱美術の

第二期を画する抽象運動だとすれば、その

後を継ぐ第一一一期抽象は、こんにちの一般化

強い抽象絵画といえるだろう。しかし﹁ミ

された用語を借りればミニマル的な性格の

ニマル的﹂という語を使いはしたが、それ

は、より適切な用語を未だ探しだせなかっ

たからである(抽象美術という用語も実は

同じである)。ここでひとつ明らかにした

ニマリズムとはその本質を異にしていると

いことは本来のミニマリズムは、韓国のミ

りユ事実である。むしろ、この時賄の一連

の抽象絵画は論理的、分析的造形の霊壬

超越した視点から、われわれ固有の独自的

り出しており、まさにこれが韓国の美術を

な自然観を踏まえた 一つの絵画の世界を創

る恕穫となるのである。こうした箆埠から、

世界のなかの現代美術として浮き彫りにす

わたしはこの時期の抽季乞﹁脱ミニマル的﹂

呂田旨包)と称しており、それはほか ( 2 2目 ならぬ厳一梧王義的な規格化されたミニマリ

ズムの克啓吾保するものでもある。

ここでわたしは韓国の独自的な自然観と

れない)。還元という概念が登場したのは

岱夫術の場合と似通ったものであるかもし

実は、あるいは奇妙なことにもアメリカ現

対決するようなるのである(このような事

た二次元的な平面性とともに自己還元であ ると規定している。そして、抽象絵画にお

その絵画の基本的な性格を、絵画の徹底し

文♂定代主義絵画(呂

a qロ吉国司自己百四)﹄で

。﹃忠ロ宮﹁也である。グリンパ lグは彼の評

ようにクレメント・グリンパ 1グ(Q巾 自 g

あり、この抽象盆幽を提唱したのは周知の

韓国の近岱夫術の歴史のなかでかつて見出

てアンフォルメルとともに失った、そして

とを試みたのである、そ、?することによっ

もっとも基本的な語棄として還元させるこ

の抽象は絵画の平面性とともに造形言語を

た。このようにして、韓国の戦後第二世代

するはっきりした意志を示すものであっ

序磐族中とした造形の世界に還元させようと

のであり、同時に抽象絵画を一層明快で秩

戻し、またそのように認識するということ

あり、ひいては森羅万象をその本来の姿に

し、自ら生成させるという観照の世界でも

また、それは自然をして自ら姿をあらわに

の広場として認識するという思想である。

く、人聞がともに生きていく源泉的な生成

るもの、それは自然を人聞が征服し所有し ようとする客体として認識するのではな

のである。そして、その根底に敷かれてい

では東洋的な自然観と流れを同じくするも

い、ユ衣現を使いはしたが、それは広い音保

もちろん昨今のことではない。この用語は

ける単純明快な色彩とデザインの物理的開 放性および線的な霊荏を唱えている。

だせなかった明断な造形意識の回複を試み

も言、える﹁後期絵画的抽象( 222 ・5丹 市 ﹃ ぞ

かったアメリカの二回目の抽象絵画の波と

ング、または抽象表現主義の波に立ち向

特にアメリカでのアクション・ベインティ

韓国においても抽象美術の第二の波であ

韓国のミニマル抽象はモノクロ絵画とし

を意味する。そのよろ会自然寧乞踏まえて、 る還元的、幾伺一子的な抽象は惰性化した表

たのであった。

ここで絵画的だという語は、すなわち表現

z g n t oロ)の基本的な嬰芯の 一つである。

現王義的抽象に対して反旗を翻して始めた

( 左) 朴栖甫。『描法 9102~.

主義的という意味に受け取られるものでも

162X 1お cm . 1987 ()~.



その絵画的な理念から球昌見的で物質的な色

果でもない。ただ韓国のモノクロ絵画は、

ロイズムはいわゆる﹁反色彩〆王義 の産物で

モノクロ絵画とはいったが、そのモノク

初的なものへの回帰を意味する。そして、

規定した場合、それはすなわちもっとも原

に﹁本来の姿で自らあらわになるもの﹂だと

て無関係のものでないのはもちろんのこと である。かりに自然をその本来の意味通り

も述べたように、われわれの自然観と決し

こうした韓国特有のモノクロ絵画は先に

れた汎色彩の世界である。

クロイズムという、いわば精神性に染めら

ところで、一部の専門家筋は韓国固有の

ニマル化を確立させるにいたるのである。

い)韓国固有の、ひいては東洋固有の脱ミ

化された合理主義的な思考の産物にすさな

はいるが、それはあくまでも人為的に有格

することによって(もっとも欧米のミニマ

べての人為的なイリュ 1ジョニズムを排除

にして韓国のモノクロ絵画は魚茅 含むす

無為の行為に回帰するのである。このよう

らみると、韓国美術の伝統は具象・抽参乞

するものであるからだ。そのような流れか

一層意識化された﹁近代的﹂宝業王義を意味

でなく、より厳密な意味でその自然玉義は

念は、それを西洋美術の流れからみると、 よく宝壬大主義と同義語に使われているだけ

くことになる。なぜなら自扶叩王義という概

釈において途方もない誤謬を犯す結果を招

るかによって、韓国美術の特性に対する解

し、こうした自然主義の概念をどう規定す

4

彩を排除しているのであり、そうした音楳

その回帰は最後には芸術行為それ自体とも 然に似通った源泉的な、言 い換えれば自然

はない。とりわけ色彩に対する無関心の結

の各諺の潜在性をその中に包んでいるモノ

自然観を挙げて韓国美術の特性が﹁自然主 義 (ZZ E -曲 白 目)﹂にあるとしている。しか

間わず(実際には具象とか抽象という発想 自体がわれわれとは因縁の薄いものでもあ

リズムも、いわゆる﹁排除の美学 を L 掲げて

で反色彩主義というよりはむしろ﹁汎色彩

関連づけられ、ここではまた芸術行為は自

L

は、いわば東洋画の水墨画のようにすべて

主義﹂という方がより適切であろう。それ

て、韓国の独自的な抽象絵画を{一琵させる にいたったのである。

S8708- H. 112X221cm. 1987

李寓換。『風と共に

162X130cm. 1991 A~.


河鍾賢。『接合 89心17J. 120X 18Oc m . 1989

也 氏王 ψ る)、﹁自然主義﹂ではなくむしろ﹁反自

る理由に代えたい 。

の鷺即を以 下に移すことによって見合わせ

そして、もし韓国の 美術が伝統的に﹁自然

とは本質的に異質的な性向のものである。

によれば自然川王義的であるどころか、それ

いない。その意味において韓国の近岱突

は︿ 雪吾川味の近岱夫術の伝統が確立して

実な課題として提起されている。韓国で

韓国の場合、伝統の問題がたいへん切

実際に、韓国美術の特性は西欧的な概岩

義﹂と呼ばれてしかる べきものと思われる。

への帰依﹂に根ざしているということが事実

然遍在とい、っ白然観が物語っているように、

自然は、ある客観的な対象世界ではなく、 自

なら韓国の美術のなかに盛り込まれている

むしろ寸汎自然主義﹂( Eロ 4 SEE--回目)と呼 ぶのが理にかなっていると思われる。なぜ

り戻すことがなによりも切実な課題に

それ程の危機に置かれている主体性を取

体的危機(冨巾EqQE目)を抱えていた のである。今の韓国の作家にと っては、

ない 。 いわば韓国現岱斎は当初から主

的であったと言わねばならないかもしれ

かなかったということは、あるいは愛叩

表現方法などを西洋のそれに依存するほ

結しており、それは単に美術分野に限られ

れは、またいわゆる﹁主体性﹂の問題とも直

場合、そこにはこの両者の聞に一種の円安叩 的といえる対決が演出されるのである。こ

して、それが特に現岱夫術と関わりのある

。 そ れは韓国固有の伝統とじかに結びつ く

そしてこの序文の末尾を次のような文章

戻すことにあるだろう。

統様式を作

れより一層重要なことは、韓国固有の伝

するというのも無昔媒なことである 。そ

ある伝統的な特定の様式を現代的に翻案

か素吠または+刀法省乞そのまま匙らせ るということは論外のことである。また、

において単なる過去の造形的な語義だと

d

人間の精神とともに生成する 一層 源 泉 的 な意味の自然であるからだ。そして、韓国 の﹁ 脱ミニマル的﹂抽象世界がまさにそのよ

術は事会六上一つの虚構に過ぎない 。こう して韓国の現岱黍仰がその造形的回釜 、

うな自然観に相応する芸術形態に見えるの

なっている。だからといって、今の美術

であるとすれば、それは自然主義ではなく

であり、そうした意味でこれこそ真の意味

るのではなく、 一層広範囲なレベルで議論 されている問題でもある。要するに問題の

で結んだが、その文句をそのまま本稿の結

の﹁韓国的﹂とい、ユ衣現が可能だと思われる。 言うまでもなく﹁一 韓国的﹂というとき、そ

核心は、韓国の伝統をいかに今日に復活さ

びに代えたい。

2 山した根源的なことを取り

せるかということにあるだろうし、率直に いってこれ に対するある種の新たな堤案を

韓国の現代美術が欧米の美術の流れ

ωE者)の韓国セクションのため

た﹁アジア現代美術展﹂(のgZB宮吋回ミ

美術館開館一周年記念特別展として催され

見たいものである。

こに韓国現住美術の大きな野心の一つを

立することを望むものであり、まさにこ

極的な逆作用を起こすことによ って、国 際世界のなかにわれわれ自身の位相を確

から離脱しながら、同時にその流れに積

﹀包自﹀ユ

題に関連して、一九八O年日本の福岡重ν 一

することは、わたしとしては見合わせるほ かない状況にある 。幸い、ちょうどこの問

にわたしの 書 いた序文があるが、その序文


極東三国のうち、わが国は中国や日本よ

なった国である。韓国人が初めて西欧式の

りずっと遅れて西欧文化と接触するように

る全体で把握することにあった。書道の道

て、こうした輩埠芸術に対して、職人の 工

のなかでもっとも価値のあるも

世紀前の韓国人にとって、芸術

は元来原始を意味するものであり、 書は禅

夫)階級が好んでいた芸術であった。従っ

のは筆記術から発展した書道芸

を超越し、本源的な空白を知覚することに

術であった 。輩泡は、もともと、韓国人が

は一九二0年代のことであった。 いまから

O年ほど前のことである。しかし、この 七

O年は韓国人がかつて経験したことのな 七 い民族的盤変の 一大試練期でもあった。

が、韓国ではかなり最近まで依扶山として踏

た﹁貴族の芸術﹂ と﹁{庶民の芸術 Lの対立関係

ともあれ、こうした試練を通じて、韓国

意味する表意の記号が東洋人が意識してい

に関する本質的な知識や形式の違いという

の美術はそれなりに変貌してきた し、それ

の脈絡からなる週妻術であって 、これが

よりは、社会的な階級とか芸術に対する態

開発した芸術の形式ではない 。古くから中

度の違いによってもたらされた。このこと

の十 一月ソウルの湖巌美術館は、その業績

なりに業績を積んできたともいえる。昨年

的な標識であった 。地中海のエーゲ海峡に

襲されていた。こうした差別意識は、芸術

は、それだけ韓国の社会制度が後進的な状

L

人のだれもが好んだ芸術の形式ではなかっ た。専制社会における文化というのは支配

態であったことを不すものである。

しかし、こうした書道芸術は一般の韓国

階級の文化を指しているように、置由主主抑制

たケlスと老ずえられる。 こうした東洋の書道芸術は単なる美術的 な技術ではなく、東洋思想の根源として知 られている陰陽五行の{主由観を内容とする の書道芸術について次のように述べてい

形式である。あるイギリスの観窓隼告は、こ る。寸東洋における視覚芸術は、空間の位 相を線で表現するところにある。これを秘 儀伝授する究極的な目標は、日常的な現実

た空間であったのである

源を発した文化が、ヨ ーロッパの北東地方

は韓国の貴族階級と、いわゆる両班(士大

字文化圏が伝統的にも っている文化の代表

にかなりの期間、 影響を及ぼした経緯に似

けでなく日本にも影響を及ぼしており、漢

あったのであり、一切を未分化の根源であ

美術作品をじかに目にするようにな ったの

相f

芸芸術とか染色技術は公奪な芸術を代表す るものであ った。 ヨーロ ッパの中世にあっ

国 国を通して伝えられてきたもの で、韓国だ

回 圃 圃 --' ・ ‘


を実証的な立場から見直す目的のもとに、 ﹁韓国美術の光と色﹂を企画展示している。 の役割をどのように受け入れてきたのか、

韓国の美術家は美術の表現における光と色 その相互間の主観的な経験を一つの共通分 母として確認してみようというのであっ 四つのパターンに分類展示された。

た。この展示は、こうした要請によ均次の 一。 土着の倫理(韓国の伝統色) 二。外と内(面の色) 三。印象と表現(受容と表出) 因。光と色 土着の倫理 韓国人が伝統的に意識していた色は、黒、 白、赤、育、黄であった。これらの色は純 の五方色を図式で構成する五つの要素、こ

色彩世界である

粋な感覚ではない。先に引用した陰陽五行

くれる象徴i的な

ニュートンが物理的な実験で立証した七原

陰陽五行の宇宙の原理を解いて

れを象徴する観念的な色といえよう 。

の五色からなっていて、

色の立場からすれば非科学的な色といえ る。しかし色を物理学的に指摘したニュー

色彩( 丹青) は黒・白・赤・青・黄

トンについて世界的に定評のある色の専門

の建築に見られる華麗な

家F ・ピレンは、たいへん興味深いことを 述べている。﹁ニュ ート ンは科学者である

韓国の宮殿や寺利、亭など伝統


一 一一量

Ja--

コ 10Z面 的 崖 耳

邑 ・ ・ 憲 一

EF& 一一 罵幽圃園田・ -w

a a -

な一面に影響されたからかもしれない。七

で意識できなかった彼の性格の神秘主義的

ルの中で七つの色を知覚したのも、それま

とともに錬金術師であった。彼がスペクト

ヨ笠子は東洋人にとって魔法の数字であっ

とって魔法の数字であったように、五とい

東洋人の心のなかで生きていた色であっ た。七といみ薮字が中世のヨーロッパ人に

あるのは事実だが、依丈の歳月にわたって

洋の五方色は慧ナ的に証明できないもので

に証明しただけであった。これに対し、東

を使い、とりわけ庶民の芸術ではそれが際

使う。これに対し、密教文化は積極的に色

禅の文化と密教の文化に類別する受口、前

必ずしもそうではなかった。東洋の文化を

しかし、こうしたシンボルの体系は貴族 階級には有用であったが、一般の庶民には

季節、音、情緒などをも意味した。

を、黄は信義をそれぞれ意味した。そして

たは正義を、赤は払即を、青は愛と諮寒心

近代絵画の先覚者と評価されているセザ

ここにおける色は色彩調和の世界ではな

至ろうとしたものと考えられる。従って、

く、そうした色の空間のなかで、いわゆる

間の感覚を楽しませてくれる役割ではな

ているといえる。このような色は単純に人

という数字は錬金術の魔法の数字であり、

このように黒、白、青、赤、黄の五色は、

たし、{主自の神秘を解いてくれる鍵であっ た 。

て密接な関係にあったため、例えば、マン

立っていた。韓国の民芸は卯術性ときわめ

ンヌは色について ﹁ われわれの脳髄と宇宙

聖なる数字であり、全音階の立暑の数であ

純粋な感覚による色であるとともに歪由の

が接合する場所﹂と述べている。宇宙はわ

一 五曹畠置一 穂一 n a 警官 一

でもあった。﹂ ここで分かるのは、ニュートンはただの

すべての原理を解いてくれるシンボリック

ダラの図像学にみられるまる複雑な形と

っ 、。

平 ωZ面的

EE

彩感情を表す表現主義的な絵だといえよ

く、極著]が乱舞する本能的で原初的な色

発色体験を通じて信仰的なエクスタシ ーに

機械的な物理丹孟告ではなかったということ である。彼はある日忽然として現われた個

色の入り混じった構成のような類型を見せ

者の特徴はできるだけ色を使わず墨だけを

体ではなく、ヨーロッパという長い歴史と

黒は知識または知事亨﹄意味し、白は正直ま

( 左) ビディオ ・ アーテイス卜白南準の作品

な色彩言語であった。参考に例不すると、

が認められる

深く豊かな伝統とが輩出した神秘主義者

光から内と外に明と暗という自然の光と色の変化

だったのである。彼は{主自の神秘を登子的

( 上) 縫国の伝統家屋の障子紙を通して差し込む


EEA山戸空の !C

3 1


して向こうには外があり、こちらのほうに いう遠近を意識するところから空間を一つ

空間を意識しているのであり、遠い近いと

ことと関連する。人聞は立っているために

あったし、日本を通じて西欧美術を受け入 れるしかない状態であった。従って韓国が

あった。当時の韓国は日本の影響のもとに

るのである。従って、彼のカンバスを境に

る。ところが、色はこの二つが接合する場 は内があり、色はそのカンバスにあるとい

れわれの外にあり、われわれの脳は内にあ 所にあるというのである。だから色は外に

よ って受け入れられた西欧美智乞間接的に

受け入れはじめた西欧美術は、韓国人が自

伝統的な韓国の住宅には紙が貼られてい

受け入れたのである。いわば日本人の感性

のトポロジーとして構成することができた

カンバスの物理的構造は四角の面からで

る障子窓があった 。雪のように白い紙で

を通じて日本化された美術を、西欧美術と

うことになる。すなわち、セザンヌは色の

きている。そして、われわれはこれを人間

貼った窓である。これらの南町長赤らんで輝

る。それほど当時の韓国は不幸な状態に

錯覚することもあり得たということであ

あるのでもなく、かといって内にあるので もしもセザンヌが哲一孟告であったなら、こ の表面認知で受け入れている。カンバスの

できたし、ただ白色に輝けばそれは真昼で

き始めると朝になったのを認知することが

ら取捨選択したものではなく、日本人に

のような言葉からわれわれは、ある抽象的 表面は向かい合っている面であるからであ

のであった。

な意味をそれなりに思い付いたかもしれな り、人間の二つの目は前面性の視覚という

次元についていったのだった。

い。しかし、誠に幸いなことには彼は画家

日本に留学した、きわめて限られた一部の

あった。美賀子校などは 一つもなかったし、

もなく、その合間にあるとい、♀恵味である。

だったし、彼の言行場所は彼の芸術を意味

それは夜に違いなかった。韓国人はこのよ

あったし、なんら別の色に変わらなければ

人々によって、西欧美術の断片ではあった

的には、人間は垂直的な存在であるという

がそれが韓国に伝えられたのだった。

もちろん韓国は固有な美術の伝統様式を

もっている国である。西欧美術が韓国人の

的な特性であった。ところが、こうした西

われとは異なった方法としての側面と室長大

にはなかった近代的な挟法、すなわちわれ された形式の歴史といえる。これまでの五

関心を呼び起こしたのは、韓国の伝華美術

百年間の西洋美術の歴史とは、こうした平

に日本で学んだ留学生により韓国に導入さ

欧美術のなかでも特に印象派の作品が、主

絵画の歴史とは、このように二次元の平

現われた歴史だといえよう。そして、その

が特に印象王義を好んでいたというところ

であったからでもあろうが、日本人の感性

に大きな理由があった。しかし、韓国に紹

れた。これには当時の美術の中心地がパリ いのは 二次元の断層であるカンバスだっ

一 つ 一つのイメ ージはきわめて多彩な形に

た。現代美術はこうした平面になにをどの

の美意識が客観的であるよりは主観的であ

かった。このような逆説的な結果は韓国人

り、合理的であるよりは民族的であるかも

介された印象主義は効果的に根を下ろさな に外部と内部を接合し、﹁場所﹂としての構

ように、そしてなぜそのように表すかとい

造に関する関心から出発したのだった。ア

た民族であったし、地域的には中国文化の

の固有な民族的個性の準仕力を維持してき

にあったが、芸術文化の領域で韓国人はそ

なりの問、政治社会的に日本の影響のもと

はまったく近親性がない。近世になってか

える。韓国人は逢かなる北方から下ってき

しれないということを想起させるものとい

﹃ 、-Z の、 メリカの﹁のOFom司田口)同 yEZ Lまた は﹁ w m﹂、そしてフランスの ﹀FFO︿H ﹁ リ開 と ωCH4omH,ωdz ,﹀( L 流れをともにす

影響をきわめて長い間受けたが、民族的に

は、先にも触れたように一九 二0年代で

韓国が西欧の美術と接触しはじめたの

る運動が韓国でも展開されたのである。

う関心よりも、セザンヌが予見したとおり

現われたのだったが、 一つも変わっていな

面の?えに色々な形のものが色々な壁凡で

面や?えに、ある種のイメージと色で構成

いう比聡である。

たるものを韓国人は 一枚の紙で意識したと

せてきたのである 。セザンヌの﹁場所﹂に当

ものと関連しているからである。より根源

1ι 1C / 4-. ¥.'

うに 一枚の紙を境にして、外と内を疎通さ

するものであった。そして、ここにおける

芸術はほかならぬ彼のカンバスを指してい

A そ弘 r

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4 1


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コ φ 主面的崖正

1 1

ないといろ意識をも生むようになった。こ

式だけでは存立の理由が稀釈されざるを得

た。 表現主義はフォ ーマ ル・アートではな い。パ ン・ゴ ッホの﹁わたしは赤と緑で人

こで求められたのが学際的芸術観であっ た。そして、それは新しいリアリティーを

的変動は韓国美術の進路にも影響を及ぽす ようになったし、芸術がその聞き星形

間の恐ろしい情念を表現する﹂という話は、

発見するものでもあった。

こうした新たな認識を持って﹁芸術は新

表現主義の本来の事乞シンボリ ックに表現 したものである。ゴ ッホの赤と緑は球何回同資

しい芸術を意味する﹂を実践した韓国人と

料としての色ではなく、彼の意識のなかに であった。それで彼の赤と緑は火山が爆発

高担仕していた実存主義的で新ロマン的な色

スに代わるようになるだろう﹂と 予言した

して白南準をあげることができる。六 0年

彼は、こんにち世界的に名を馳せているビ

代には ﹁ TVのブラウン管が過去のカ ンバ

なかに潜在していた表現主義の要素が爆発

デオ・ア ート の創始者である。白南準は韓

現されたのだった。韓国の美術{ゑの意識の したのは一九六0年代の後半であった。そ

国人だが、彼の芸術的な潜在力を発酵させ

する形のように激烈であ句、織烈な色で表

のようなものであったし、真の意味におけ

れは長い沈歎のあとに爆発する火山の噴出

展を重ねたとき、こうした恵みを受けられ

にし、主として地中海治序回で有機的な発

には希望に満ちた刺激剤になったし、肉眼

きた。こうした彼の成果は、韓国の若者達

かで彼の天才性を十分に発煙することがで

先進国であるアメリカという文化環境のな

なかったゲルマンやスラブなどの北方民族

でみられる色彩よりもア lティフィシャ

たのは韓国ではなかった 。彼は電子媒体の

は長い沈歎に甘んじていたのだが、その後

ル・インテリジェンスが創り出す各]彩が、

る韓国近岱突術の胎動の信号ともいえた。

これらの民族からも新たな力が噴出したの

かについて、多くの若い韓国人の知的な好

われわれ人間にどのような影響を及ぼすの

過ぎし二千年の問、西欧美術が古代を規範

グマは、いま進行中なのであり、将来どの

テ乞どのように 関するわれわれの定義や概 A

否かという問題ではなく、ピデオが芸術に

物館の J ・ハンハルトは﹁ピデオが芸術か

自南準の功績について、ホィットニ 1博

奇心を誘発させた 。

だった。このように韓国美術の爆発的なマ ような形象にこれが固ま っていくかが関心 の的になっている。

一九六0年代以後の韓国社会は、多くの

変形させているかが問題である﹂と前置き したあと、 ﹁ ビデオの物理的特性とわれわ

分野でかつて経験したことのない飛躍的な 発展を成し遂げたし、とくに産業部門にお

を讃えている。そして、それとともに﹁T V

南準の方法論があ ったと、彼は指摘してい る。

論述方法として捉えた﹂というところに白

という電子工学の媒体を社会的に、そして 文化的・政治的 ・経済的に機能する 一つの

れの認識の変革﹂に及ぼした白南準の功績

けるそれは剖目すべきほどのものであっ た。それは韓国の社会が孤立の装懸から抜 け出して、国際社会の 一員として活躍でき

いが、こんにちの韓国社会は昔日のそれで

るほど大人になったということを意味す る。もちろん、まだ未熟な部分がなくもな ないことは明らかである。このような社会

光 と 色

150X 3 cm. 1994.

∞ ~ ()

( 下) 丹青( 木造の建物に丹碧で

描いた色草分葉様) と伝統の 民間信仰に関わる強烈の色合が

印象的である


かのぼる必要がある。韓国における 一九世

は洋画に対する相対的な名称で

20称 国画(または東洋画)とい、 による主権の喪失など、不幸な歴史的事件

韓帝国の発足、そして日本帝国主義の侵略

時期である。朝鮮朝の衰えとそれに次ぐ大

紀は、内 ・外的にかなりの変化の多かった

ある。西洋式の住宅を﹁洋犀﹂(洋

服または洋装といっているのに対し、伝統

葛藤が生まれ始めた。伝統的なものに塾有

あった。固有の価値観は根底から揺さぶら

の厳しい荒波が押し寄せた急変の世紀でも

に綴られている。それは、いわば西勢東漸

と言 っているのと軌 的な衣装様式を﹁韓照﹂ を一にしている。そして、これは西洋の近 代文化を移入した極東地域で共通して見出

する傾向と、大胆にも固有なものをかなぐ

大抵の場合、伝統的なものは奈わらない

り捨てて新たな墾入を取り入れようとする

は西洋のものだと認識されていることか

ように相対的に変化の属性を持っているの

入れたものであるからだろう。伝統的な様 式もそれなりの変化をするものだが、その

る近代の諸様式が胃洋のモデルとして受け

の相対的な奪えを促したのは、伝統盤入の

ていた。のみならず萎えていった 。韓国聞

統絵画の独り舞台はもう過去のものとなっ

ゆる洋画家たちの数が増えるにつれて、伝

り西洋画の挟法を学んで帰ってきた、いわ

古い過去の様式だと見倣されるようになっ た。

のが主導事乞握っていき、伝統的なものは

傾向とが対立するうちに、次第に外来のも

ら、伝統的な盤註変化しないものとして

に立ち向かって、固有の方法をより新たに 転換を試みることなく、ひたすち過去の古

画家が、新たに押し寄せてくる西洋の様式

くさい形式主義 にしがみついていたから

は変わらないという筆入が働いているので ここに伝統に対する多くの論争の余地が 生まれてくる。ある 一方では固有な枠から

だ った。

四五年以後)おびただしい変化と摸索を続

わらず伝統的な様式の韓国画は戦後(一九

実、このように相反する論があるにもかか

新たに変わらなくてはならないとする。事

の様式はなおさら衰退の道をたどらざるを

透の形で殺到してくるに及んで、伝統絵画

そこへ日本画の影響が植民地への文也浸

日本の感性と左はが深く染み込み、なかで も伝統函の領域はとりわけはなはだしく汚

しい発展を続けてきたかということは二の 次の問題である。

家が、日本の感性と方法を克服し つつ韓国

染されていた。解事乞迎えると一部の美術

韓国画の変化を探るためには解放前(一 九四五年以前てまたは 一九世紀にまでさ

けてきた。それが、どれほどまともに望ま

得なかった。 一九四五年解啓 γ迎えるまで 韓国の美術は、 ジャンルのいかんを問わず

解釈していくといった、いわゆる近代的な

し、他の 一方では伝統も時代の流れと共に

逸脱してないけないものが伝統であると

ある。

一 九 一0年代になると、 日本の墓尽に渡

理解されがちである、すなわち固有なもの

は時代とともに変化すると考えられてい る。たぶん、それは変化の急速に進んでい

固有の様式とされるのと対し、西洋の埜入

外来の価値観が入れ替わるに及んで激しい

れ、この隙に乗じて新たに押し寄せてきた

されることである。

館)といっているのに対し、伝統的な様式 の住宅を﹁韓犀﹂主一一口う、西笠乱の衣装を洋

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6 1


ル 光 ォ旦 ︿

見出せるものだが、五0年代を通じた東洋

既成世代よりは新進作家に変革の意志を

の新たな美術聾孔の襲警唱えたのは、ひ どい汚学乞意識していたからであった。 日本の感性と方法からの脱皮は、他のど

そして、その若い作家の結集が一九五七

の分野よりも韓国画の分野で一層切実な課

年に発足した﹁白慶Fだった。白受誌の作

画への数々の摸索も主に若い作家たちを中

る数人の作家と韓国の山河をモチーフとし

家のなかには、すでに日本画の影響を缶漉

心にして行なわれた。

た実景山水を追求していた数人の作{季乞除

く受けていた人も少なくなかった。過去の

題に浮かび上がっていた。当時、韓国の伝

いては、ほとんどが日本画の影響を直接ま

+刀法を清算し、新たな絵画聾入の摸索に打

統絵画の領域は、過去の形式主義を追ホす

たは間接的に受けていた。それもそのはず

響もかなり幅の広いものであった 。 自費去に次いで登場したグループが一九

浮かび上がっていた

分野で一層初実な課題に

他のどの分野よりも韓国画の

日本の感性と方法からの脱皮は、

ち込んだこの団体の業績は大きく、その影

する美笠心

2

で、当時東洋画を修業しょ、 大学の日本画科だったからである。いうな

望生が訪ねていっ子よ附がほかならぬ日本の

たすべての美空室生たちは、日本画科で

らば、東洋画を修学するため日本に留学し 学ばなければならなかったのである。当時、 韓国で独学していた美質子徒たちも、みん 日本画の影響を受町ざるを得なかった。

な一様にその時代の支配的な傾向であった 従って、解放とともに日本画の克服は、 していった。線条を中心技法とする東洋画

まず没線彩画からの脱皮ということを実行

六 0年代に創立された﹁墨林会﹂である。墨

6 9 X 2 73c m,1954

~

の伝統から逸脱した図案風の彩色函こそ日 本画の典型的な方法であったのだが、これ から脱却することこそ日本画の影響から抜

族美術の建設だったが、韓国画における具

林会は白陽会よりも更に若い世代で、解放

け出す早道だと考、えたからである。

体的宝刀法は水墨淡彩に線条中心の対季τ

日本画の克服とともに主張されたのが民

把握することが中心課題だった。これは筆

後設けられた大学の美術系科出身のいわゆ 墨林会は既存のすべての形式と価値を全

る解放後世代の作家たちであった。

線に価値を置く方法で、過去の文人画に見 られた逸格の方法と類似性を帯びながら も、東洋画の伝統を過去の文人画精神から

の共通点は、具体的な対象性や形式的な方

の実験に取り組んだ。彼らが行なった実験 法から脱却した、自由な材料の選択と駆使、

面的に否定しながら、過激と思われるほど の文人画が志向していた高格の精神世界よ

追い求めようとした傾向をさらに深めてい

りは、現実世界に根を下ろしたリアリズム

自由な精神の具現を図るものだった。東洋

た。そして、そうした塑向の中でも、過去

精神を加味しょ、ヴと努力したのだった。

7 1

換基美術館長・美術評論家


くのではなく、流したり、振り掛けたり、

かった物質を大胆に画面に用いた。絵も描

の領域の材料や全く材料として考えられな

画で使われる固有な材料を投げ捨てて、他

とは否めない。

あった熱い抽象への共球茎呼び起こしたこ

り、それが一時代を形づくっていきつつ

うとする熱気をそっくり物語るものであ

な実験が、固有な伝統の束縛から抜け出そ

墨林会の過激な実験は、しかし全く独面

深めていった。元老グル ープの李象範(雅

に、一部の既成作家らは 己れの世界を一層

若い世代を中心とした実験とは対照的

こほしたりする、激烈なジェスチュアを伴

なものとはき中えなかった。われわれは、こ

号 一心油)、許百錬(雅回万一毅斉)らは主に

、?ものだった。

の時代の洋画や彫刻の分野を風廃していた アクション・ペインティング、または熱い

山水画の領域でそれぞれ独自の椿武が熟れ ていきつつあったし、重鎮グル ープの杢庭山

号 一青田)、←卜寛植(雅号 一小亭)、星宮町鉱(雅

抽象の流行を見落とすわけにはいかない。 少なくとも墨林会が見せてくれたいろいろ

124X67c m . 1956

~.

18


111 x 2斜 cm . 1957 ()~.

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9 1

130X103c m . 1974 110X155c m . 1981


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4・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・園 .J 、 司 ,田 _r.' !, F

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84.6 x 1 ωc m. 1984

20


覚のもとに、いわゆる写景山水のブlムを

れらの犬家たちに感動した一二O、四O代の 作家たちが韓国の自然を見直そ、?とい λ 自

の景色)の流れを匙らせた。七0年代はこ

で、朝鮮朝後期に断絶した写景山水(実際

る独特な情趣を様式化した代表的な作家

に遁進していた。 李象範と令官法偲は韓国の自然が持ってい

在休⋮らも実験を伴った自己の世界の穿さく

魯、張遇聖、金基調、 千鏡子、朴峡賢、成

という語が示唆しているように、この+点伝

への接近を実現しようとした。水墨画運動

た目標、すなわち水墨を通した固有な抽得

五O名や一のむ名、またはそれ以上の作家 が集まって展季乞終えるとともに解隼 9る

取っていた。例えば、 一つの展示のために

集まっては解散する大単位集団の形態を

であったのに対し、水墨画運動は特定の団

聞であった。白陽会や墨林会が一つの団体

を基にして独特な抽象世界を展開して世界 の画壇の注目を浴びたし、金基認は七0年

魯は六0年代の初めパリに進出、象形文字

求した作家は杢薩魯と金基調である。李麿

造形様式で具現できるかの問題を執効に追

らはこの集団的な運動が運動としての名分

、つ点で特記すべきである。八0年代後半か

ない珪杭性と集団的な推準刀を示したとい

の運動も次第にその熱意が冷めていった

求しようとした。八0年代半ば以降は、こ

の絵画性を取り囲んでいる情婦の隼糸を追

は水墨という材料が持っている絵画性とそ

のである。そ、?するうちに、一つの一貫し

体が展開したのではなく、そのときどきに

起こしもした。

代に入って韓国の固有な民画を新たに変容

や失い、次第に個別的な笹宋に移っていっ

東洋の固有な精神世界をいかに現代的な

させた独特な絵画様式を追求して、伝統の

韓国画は、他のジャンルの絵幽に比べ際

墨画に新たな照明が当てられたりした。

に圧倒され注目を浴ぴることのなかった彩

も少なくない。このあと、それまで水墨画

たが、個別的に水墨の方法を追求した作家

た。もちろん、この運動に加わりはしなかっ

が、これまでの韓国画壇では滅多に見出せ

現代化といった一つの方法論を示した。

八0年代の初めから起こったいわゆる ﹁水墨画運動﹂は、五0年代の白陽会と六0 年代の墨林会に次ぐ韓国画領域の理念の展

李象範と、下寛植は韓国の自然が持っている独特な

情趣を様式化した代表的な作家で、 朝鮮朝後期に断絶した写景山水

(実際の景色) の 流 れ を 匙 ら せ た

2 1

181 X240cm. 1956 ~.

182X125c m. 1986 ~.


ている印象が強い。多分、それは媒材的な

立って媒材(材料とその技法観念に縛られ ものが韓国画ほど直接的な影響を及ぼす ジャンルもないためであろう。この場合の 媒材とは単なる表翠千段としての材料では なく、ある形の精神状況を誘導する独特な 情緒体系ということができる。例えば、西 たは水性のアクリルを使うかという問題と

洋画の場合、材料として油彩を縮小っか、ま

のである。

は比較にならない独特な情緒を持っている

寵鮮から脱却するとい

λJ 点ではその出発点

の偏差は多様なこともあるが、与えられた

て可能だったといえる。実験の段階とそれ

脱却することは、一応実験的な方法を通じ

これまで述べたように伝統的な意識から

2


が同じである。しかし、世代別にその偏差 は著しい。言い換えれば、既成世代である ほど伝統からの脱皮は、伝統をどのように し、若い世代になればなるほど、伝統から

J

さらに進めば、 それまでの区分概念である韓国画と洋画の概念は消滅するほかないであろう

新たに解釈するかに慎重さを示すのに対 の脱皮はすなわち古い意識の苧乞打ち破っ て脱出すること、ひたすら脱度それ自体に がどのような様相を帯びるかについては大

価値を与えようとする。従って、脱皮自体 して意に介しないほうである。実際に、彼 らの作品は韓国画という盆聞のジャンルに は収容できない境地を駆け回っている。大 部分の若い世代の作家は、伝統よりは現実 に一層多くの関心を抱いている。韓国画で あっても構わないし、洋画であっても構わ ないとい、つをどえである。ひたすム 自分たち は現実に忠実な、絵画を求めているのだと 実であったと主張してやまない。

叫んでいる。常に偉大な芸術は現実に忠 それまで韓国函を他の媒材の絵画と区分 することは韓国画固有の材料である毛筆、 紙、水墨、彩色などによって可能であった。 しかし、今の若い世代の語佐官材料自 体でもってしでも区分できない。こうした 趨勢がさらに進めば、それまでの区分概念

それが果たして望ましい現象であるかど

である韓国画と洋画の概念は消滅するほか ないであろう。

ていかねばならない課題である。ここで一

うかという議論は、それから活発に展開し つ注目すべきことは、韓国画として残るか、

133x 1 お cm. 1985

~.

またはそうした名称はなくなり、統一され しろ、重要なのはどれほど主体性( Egzq)

23

た概念の絵画として残るか、そのいずれに

145X 89c m . 1お 8

()~.

{

)

(

を持った絵画が生まれてくるかが、引き続 ことである。

130X162cm. 1989

()~.

180X195c m .

~.

( )

き関心の的とならなければならないという

今の若い世代の一部作品は材料自体でもってしでも区分でさな L。 、 こうした趨勢が


韓国現代美術の

インデペンデン ト ・キュ ー レーター

丁 か

国際的位相と世界の 韓国の美術家

くから高裕饗は、﹁無技巧の技

これは、特に曲罪文化を直接体験した五O

なると見られる韓国の現代美術の単缶花と

らないものと、固定的で図式的に考えてい

国趣向﹂そのままの批評や美術史の記述が

若い世代たちによる新しい美術の傾向が共

代から六O代 の 画 委 主 の 官 官 た や す く

行なわれているということである。すなわ

ることを意味する。

デンティティ﹂ 、﹁無関心性﹂とい った用語を使って、﹁細部が綴密でないた

ち、このような態度は韓国の現代美術が初

といえる。もちろん、このような 二つの美

巧、 L ﹁無計画の計画﹂、﹁非アイ

めに更なる全体に取り込まれ、そこから独

期の立場をそのまま踏襲しているとい、っ由 季乞消せなくしている。従って汎世界的な

を百芥約して述べている。これは、伝統的な

術の傾向の中で基本的な流れをなしている のは、我々の時代的、精神的伝統である。

存しているのが今日の韓国の美術の現住所

そして、混迷している現岱芸術の代案に

見出せる。

特の味わいが生まれる と韓国美術の特徴

美学、国際化された美学を興すためには、 すべての地域においての芸術の創造を観察

日、価植混在の西欧美術のひとつの代案と

価値観と規範が互いに混ざり合ったり、絡

ら来る混乱、すなわち伝統と現代と未来の

統文化の混在から来る二重構造と重複性か

術を研究じなければならないのであり、こ

踏まえた美学、美術史の観点から我々の美

を確立し、我々の伝統と慣賀宗教などを

国際性を獲得するためには我々なりの美学

の表現主義実舗と 一九九0年代の設置美術 が徐々に退くに伴い、新たに平面に対する

いることからも分かる。また 一九八0年代

して浮かびあがっており、これは東洋美術 に対して西欧が少なからぬ関、少乞表明して

明るくしていると言っていいだろう

ことは、韓国の現代美術の前途をかなり

新たに平面に対する関心が高まっているという

設置美術が徐々に退くに伴い、

一九八 0年 代 の 表 現 主 義 美 術 と 一 九 九0年 代 の

このような韓国美術の独特な構造は、今

し思想を研究しなければならないであろ う。そして韓国美術のアキデンティティと

従って、西欧の史観や美学的立場から﹁異

韓国美術の特性をきわめて簡略に、しかも

L

正確に言い当てている。しかし、今日の韓 国美術の特性を表すには、何かもの足りな いものが少なくないということである。

るからである。今日の美術は、作品の背景

これは時代と状況、そしてそれに伴、っ文 化の変動などが大きな理由として働いてい となっている社会的・文化的・歴史的・宗 教的状況と環境を前提にして促‘えなければ ならない。それは、美術が環境の所産であ り、作家の人性を決定ずる文化の役割を見 いうことであろう。しかし韓国の現岱美術

逃しては、その実体的接近が困難であると

2疑

を分析・評価する次奏が、果たしてこのよ

うな立場から出たものであるかとい、

問である。これは韓国の現岱美術の移入段

みあったりする環境の中で文化的衝撃がも

階から展開過程に至るまで。外来文化と伝

たらす混迷さも、その原因の一役をかって

れはまた美術界の緊急な課題でもある。 観点から見ると、我々の美術の独自性は求

これまでの西欧 一辺倒の美学卓美術史の

関心が高まっているということは、韓国の

いるといえるが、批評や美術史の記述体制 が西欧的な観点から一方的に﹁のぞき見る﹂

世代のものとして片づけられている状況で

に﹁集団個性﹂ 、﹁仮面歓迎﹂、﹁平面の絵画化﹂ などと呼ばれるた聾入は、ただ単に過ぎし

変化を試みているが、その成果は今のとこ ろ現れてはいない。このため、一九七0年代

美祈分野においては様々な宮藤を行ない かし、韓国人は未だに農耕文化に根差した

現代美術の前途をかなり明るくしていると 言っていいだろ、っ。

伝統的な回釜羊主入をもっていることを考え

められないだろうし、今日の美術も西欧の これは我々の美術史や批評の歴史が浅い

E流にすまないと反省すべきであろう。し ことに原因があり、また美術史や美術批評

合わせると、最近の美祈の流れがどんなに

るからでもある。

をひとつの固定された枠の中で考え、それ

西欧に傾いても、その底辺には韓国的な感 性が内在しているとみなければならな い 。

局外者の立場乞とらざるを得ない限界があ

に代入させてみる態度を堅持しているから でもある。例えば美術史や美術理論は変わ

24


( 上) 丁昌援。『格 No. ω09A. 91 X 116. 5cm. 1990

( 下) 金昌烈。『水玉 A. 181 X 227c m . 1978

ある。しかし、はっきりさせておかなけれ

ばならないことは、そのよ、つな現象が両分

されている美術の傾向の中で、肯定的で主

観的な評価のみを誘発したのではなかった

かと我を省みる次事が必要だということで ある。

﹁ 韓国的還元主義﹂ と呼ばれる﹁単色の絵 画 Lは、時期的にはおおよそ一九七0年代 半ばから 一九八0年代の初めまで画壇の主

流をなしており、その特徴としては画面か

ら物性を取り除いた還元主義的な傾向を帯

ぴ、画面が全体的に単色、すなわち白また

は黒で通して平面の絶対性を追求している ことである。

25


しかし、このような傾向は集団個性化、

ていた。すなわち経済の低迷のため賛沢な

いわゆる新世代または新人類、オレンジ族

ひとつのグループがある。このグループは、

影響力は日を追って大きくなって、各種商

に過ごせる世代である。こういった世代の

スタント食品やハンバーガーで唇査を愉快

く、マスメディアの流れをもリードし、時

美術から離れ、高級な色彩図季乞求められ

分をなしている。彼らは新しい社会的雇塊

画一的な外形と没個性、どはずれの嬰歯

﹁貧しかった﹂当時のこのような流れは、

ろん、この世代は、それ以前の世代と比べ

品生産の内容と質を決定しているだけでな ) や 一九七0年 アルテポベラ(﹀﹃丹市司2R白

と文化的条件の中で誕生した﹁子ど' も﹂たち で、経済成長とい、っ発展イデオロギーの嫡

とも呼ばれる若手画家の一群で、年齢層は

代の韓国美術に少なからぬ璽論的準拠を提

た部類である。またテレビをはじめとする

はいえない。時代的に、発展論理の下にモ

しかし、この世代を見る視点はそう甘いと

ると政治に対してはむしろ無関心である。

には政治にまで影響を及ぼしている。もち

していたミニマリズムと同一線上において

我々はこのような傾向を当時の西欧を風廃

供したが、日本で活動した李属換を中心に したモノ派などが代表的なケ l スといえ

的で西欧的な論理をベ lスにしており、絵

映像メディアの中で暮らした世代でもあ

の綱領である﹁巨大な談論﹂﹁巨大な神話﹂の

る 。 一方、これら一九七0年代の画家と、外

ダン化の道をひたす色走ってきたこの世代

画と彫刻を超越して両者を統合しょ、フとす る努力の産物で、当時ヨーロ ッパとアメリ

形的にも作品においても弁別性を示すもう

る。オートメーションとピデオゲ lムに慣 れ、コ lラをキムチの代用品に考え、イン カの経済的な危機がこのよ、つを傾向を促し

しかし、このミニマリズムは極めて概念

見ょうとする接近方法を取った。

子として生まれ、豊かな消費社会で成長し

たりすることのないような美術にする必要

東洋の椅神位と、だましの技法を入り交ぜながら関心をヲい、ている

を生むことになり、自らの限界を露呈した

に固定させて新しいイリュージョンを創りあげ、

O代の前半から二O代の後半までが大部 三

う可視的ではあるが、瞬間にす吉ない自然現象をキャンパス

があったたのである。

パリを中心に活躍している金昌男l、は水のしずく ( 水玉) とい

まま画壇の後方にひきさがってしまった。

鄭キ目和。『無題 s, c:ト9 ・ 24s. 1 6 2 X 13Ocm . 1988

26


﹁主体の消滅﹂の結果として誕生した饗守を

崩壊が必然的に産んだ寸談論の破片化 L と

王 と呼ばれるにふさわしく、スタ1不在

ているのは白南準といえる。﹁ビデオの法 新しいイリュ lジョンを創りあげ、東洋の

ぎない自然現象をキャンパスに固定させて

の有名な美術館で招待展としての個展を準

刻家としてはすでに 一九九五年ヨーロ ッパ

の中にあって、価値を否定し﹁価値不在﹂の

市場への経済の組み替えが進んでいる。そ

は崩壊の時代を迎えており、世界化、単 一

経済的には脱冷戦の時代に、イデオロギー

ただ甘やかしておけないのである。政治 ・

感を美術の最小単位である点や線に還元さ せた絵で頭角をあらわしている。また、パ

百円燦は理論家として、画家として東洋の直

とヨーロッパの画壇の注目を浴びている李

日本に渡って作品活動をはじめ、今や日本

に取り込みながら成果をあげている。早く

新しい電子メディアを次々に彼の芸術の中

の世界の美術界を東奔西走している彼は、

人気をもとにアメリカに進出している。彫

ヂャンソプ、チョン・サンハらが日本での

立った朴西甫、ユン・ヒョングン、チョン・

心に活発な活動をしている。

再現している黄圭白は、ニューヨークを中

れる生活周辺の素材を高度の技巧と色彩で

リエ訂で修学したあと、版画で情夢めふ

関心をひいている。 S-E・ヘイニ lのアト

精神性と、だましの挟法を入句交ぜながら

がにじみ出る画面でもって、欧米人の関心

と筆線が何回も繰り返される中で力と熱情

ている。また、今年の夏の F・﹀・﹀ユ ︻ロ門 旬 。 ロ白色吉田}に参加するハン ・ヨンソプは、墨

プは、既にヨーロッパで早々と成果をあげ

木彫りを通じて紹介しているシム・ムンソ

か、農耕文化的な伝統と自妹、王いう王題を

がヨーロッパ 椅子﹄ 除かれた象徴としての ﹃ で脚光を浴びるものと期待されているほ

備しているチョ ・ソンモクの、機能を取り

L

時代をリードしている。さらに地球村とい

リを中心に活躍している金昌烈は水のしず

この外にも一九七0年代の美桁の先頭に

は、同時代的な無国籍の感覚と思考の均質

夫感させる情報と文化産業の威力 、つ一言事乞 t

く(水玉)という可視的ではあるが瞬間にす

これら新世代の美術も、ひとつの鮮やか

化をもたらしている。 な軌跡を描いていて、韓国美術の大きな特 徴のひとつになっている。新世代は高度成 し子である。彼らの作品の特徴は、たぶん

長の産物であり、先端産業社会現象の落と にキッチユ (ERF一俗悪)的で、またその 言葉使いは破片的で分裂的である。さらに、 た彼ららしくテレピとピデオをはじめ新

方法的にはイメージの氾濫時代を生きてき 聞、雑誌、漫画、ファクシミリ、複軍機、 ネオン、レ ーザー、コンピューター、ホロ グラムなど 、発達した視覚メディアの量産 するイメー ジが この世代の意識を支配して おり、彼らを同時代的な成彦症の連帯意識 しかし、彼らの新しい作品は、慣れてい

を密にさせている 。 るはずの新しいメディアに対する適応から は距離がある 。ある 日案⋮、押し寄せてき た電子時代、後期産業時代を迎える高度成 長のひとつの破片であるかもしれない。し おいて急進的な変化の時代を生きている人

かし彼らの美術は受容と適応という問題に

ため韓国の現代美術に今一つの流れを形成

類のひとつの姿を克明にみせている。この

韓国美術は前述のよ、つに世墨美術の注目

するものと思われる。 を浴びている。そういった中で先頭を走つ

27

12 4 x 151 x 44cm. 1991

A o

elif

OREA

~K


を引くものと予想される。彼らはそろって

あるが、留学が自由化してから数多くの能 を得ず﹂の覚悟で海外に出た。海外で活躍

るものの、ヨーロッパとアメリカでの展示

f刀を通じて事吻の存在を克明に描い な描g

の方に関心をもっているが、白南準のあと

中のアーティストは、特に新しいメディア

力のある美術家が﹁虎穴に入らずんば虎児 て、極めて新鮮な画家として浮上している。

がはるかに多いコ・ヨンフンは特有の執効

ドイツで活躍しているカン・ジンモも、極

チェ・インジュンらがそのメンバーであ

ムン・ジュ、チョ・スンホ、ホン・ユナ、

を次ぐビデオ・アーティストの誕生が期待 この外にも、多くの美術{ゑが外国で韓国

される。ユ・ヒョンソン、キム・ヨンジン、 の毎回のために、そして自らの美術家とし

クチュンは昨年白南準との二人展で既に

り、ニューヨークで活躍しているカン・イ

めて簡潔な自然の形態害もつ彫刻でスイス

ての成功のために努力している。これ は韓

とドイツで活動範囲を広げていっている。

国の経済事情がよくなったことの反映でも

1987

()~.

467x716X1107c m . 1989

L~.

( 下) 金員; 朱。『環境

五 O代から六O代で、業績が認められいる

美術{暑かたちである。四O代の美借家として は、パリで活躍している激情的で活力あふ れる色彩とリズムの画家、ファン・ホソプ、 ツコ、キム・ヒョンス、コ・ピョンジンら

自然の生命刀を象徴的にあらわすチョ・ベ

して設菅﹄芸術で脚光を浴びている、一風変

がその後を追っており、現在シカゴに居住 わった経歴の持ち主、キム・ジンスがいる。 さらに、韓国で暮らしながら作業はしてい

性会主歩

( 中) ソウル・アートフ ェア ーに出品 された沈文援の作品

28


』 。 ( 下) 趨畏黙。『メ ッセー ジ 88-lヨ

1988

∞cm. 6OX 4 0 X 1

ニ ュ ーヨー ク美術界の注目を浴びている。

今や彼らにふさわしい衣は束縛であると考

えているようである。新しい広い舞台で成

功してみようとい、﹁意志がこれら海外で活

躍している主宰ずのア ーティス トに期待をも たせているのである。加えて、経済的に大

意味からも政府と国民が関心を寄せなけれ

きくなった体を制御する頭を育てるという

今や、漢江の奇跡のように文岱云術の奇

ばならないであろう。

跡も遠からず起こることを 実感させてい る。

29

1988 )~. (


受けとめられる。

偉大な芸術家たちによく発見できるひと

つの事実は、人生の黄昏に達した時、それ

までの芸術的成果を総合して精髄をみせる

とい、1瓜である。それは客観化された絶対 精神や英担突の形態で現れる。そんな観点

からみるとき李聖子の芸術の精髄は、八0

年間にわたる人生の険難な行路と、五O薮

年間の芸術の歴程において発酵されて出て

来たものだということができる。

李聖子は一九一八年の六月

の南の地方である昆晋日局州で生まれた 。父親が

に幽玄な存在である人聞を透視してみせて

大きな比重を占めていることは極めて興味 深いことである。あたかも広大無変の{主由

はあるが、日本帝国主義の統治下にあった

ることができた 。多少、運命論的な判断で

高級官吏で、家が裕福であったため伝統的 の帰依処である。 李聖子の近作﹃極地に行く道は五O数年 間続いた李聖子の芸術の結晶である 。それ

光、この作品の中には画家が創案した独自

幸運だった。東京のある大学で三年間学び、

な儒教教育とともに西堂入の新教育を受け

わたって続いている

八0年代の初めから 今日まで 一 O数年に

的なパターンが{主見エ問を選手る姿とし

またはピンクをベ lスに、星の遊旅を瞳示

ウレトの夜﹄の連作の延長線上に立って製 作された﹃極地に行く道の連作は、ブルー

観化させて見つめようと努力したあとを見

行くように小さく措かれて、自分自身を客

て描写されたり、極地に向かって近づいて

たいへんな試練をもたらしたこの民族史的

転換点は韓国戦争であった。韓国人全てに

を二歳で死なせる不幸も味わった。 李聖子の生涯において、もっとも大きな

T

められている 。 一九七0年代に描いた﹃ト

O歳の時帰国した李聖子は、帰国してす 二 ぐに結婚し、息子を四人もうけたが、長男

する大小さまざまな点で満たされている。

せている。この作品に対する美樹評論家劉

なって近づき、ひとりの女性としてこの世 に生まれ、この生涯を通じてこの 世に生き、 また死んで{主由に帰って行かなければなら

俊相の次のような解説は、この点をより萌

は美術{永の生涯を寂しい自我意識として

自身のみであり、このような自律の因果

術家が頼らなければならない窮極は自分

う遊泳の存在に比聡される。ひとりの芸

ひとりの美術家の生涯は、{主由をさまよ

してフランスに着いた李聖子はパリに定

学の途についたのが戦争翌年の 一九五一 年。戦争によって破壊された祖国をあとに

好余曲折の末に息子たちとも別れてパリ留

意味している。戦争によって全財産を失い、

その生涯自体が平凡ではないということを

術行路は、このように楚々大海の島々の

て重要な変数になるように、李聖子にあっ

着、今日まで四五年間にわたってフランス で創作生活を続けている。 おおかたの人生において、出会いが極め れ、韓国女性のひとりである李聖子の芸 宇宙空間をさまよう、極地への道として

天であるという比輸は、ここから誘発さ

自寛させる。芸術家の故郷は地ではなく

換の恕穫になったというこの逆説は、既に

これまで画面をいっぱいに埋めて来た、独

もとにし ている

特なパタ ーンの模様が漸次縮小される反

来洋の陰陽思想を

な悲劇が、李聖子の芸術の始発点であり転

循環体系を記号化した

ない人間世界の自然の摂理を象徴する。万 年雪で覆われた山の峰々とオ ーロラの光線

月のように宇宙の

白に示している。

繰り返し て欠けては満ちる

面、{主由を暗示する無限大の空間が、より

李聖子の作品世界は、

に満ち溢れたそこは、現世を超越した霊魂

生涯を含蓄的にみせている 。それらは、暗 閣の{予宙の向こうのどこからか 一筋の光と

えて亙口紛息子ができたことは、たいへんな

館 長

当時の女性としては新式の教育を受け、加

いるような、この比喰法は、人生のはかな

ヤ フ

さをあらためて知覚させるようである。ま

ト ギ

は人生の黄昏に立った年老いた芸術家の生

き方に対する観照と英知、そして洞察が込

代- -

を目前にした年老いた芸術家の波乱万丈の

現 轡:

李聖子の﹃極地に行く中書の連作は、八O歳

語手3 評 雲 晋7

30


李聖子。『極地に行く道

1 3

92刊 . 162x 1ぬ cm . 1992


160X 130c m . 1975 ]. 765

わたって影響を及ぼした。杢動量子の作品の

世界の根幹をなしているこの凹凸形象と青

スモポリタンとしての美術家の、文化的な

と赤の色彩聞の結合は、世界を放浪するコ

に確認させる心理的な母胎であったに違い

紐帯感と血縁的なアイデンティティを不断

見ず知らずの異国の地でも常に祖国を忘

なし。

れずにいたということは、被女が創りだし た数多くの造形的象徴を通じて確認でき

る。これは、すなわち創作の母胎が依然と

ているということを意味する。パリに定着

して自分自身が生まれ育った土壌に根づい

と風景画を除いて、本格的な抽象画の製作

の時顛にあたる一九六0年代の作品は、強

した一九五0年代に製作した一連の静物画

烈な南仏の太陽の輝きとは違った色価の、

つの全体によって決定される﹂というテン ヌの説は李聖子の作品に見られる色彩の洗

取り囲む精神と風俗の一般的な悲忌のひと

練美と形態の完壁性の形成を裏づけてい

ン・フォトリエF S E三日﹃)らが実験的 みていたが、ニューヨークの直壇が漸次世

柔らかで暖かい黄色の トlンを帯びてお

な傾向の美術﹁非定型絵画(日ロゲ自己)﹂を試 界の美術の中心地として浮かび上がってい

る。しかしフランス的な感性の洗練美と

り、市穎の短い筆のタッチが重なり合って

AMm

から通いはじめたアカデミー-グラン・

いっても、李聖子の作品にあらわれている

器や花紋席(花ござ)の表面の質球字通想さ

生まれた抽象的な画面の質感は、櫛目文土

えば、一九五三年、パリに{蚕看して一亙 ドゥショミエ l ルでのイブ・プレール

色彩の根源は、やはり韓国であるというこ

z n E )との出会いがそれである。特に、ブ 田 シとの出会いは李聖子の芸術において重要

ニューヨーク訪問の印孝孟背込んだもの

れは一九六九年になってはじめて実現した

連の作品を発表することになるのだが、こ

0年代末に李聖子は都市をテlマにした一

ていたのである。余談ではあるが、一九六

世界に向けて漸次その影響圏を広げていっ

一方、李聖子の造形言語の根幹は陰陽思

ような芸術的な洗練は、 -被女の作業に対す る不断の切磁琢磨の精神から出ている。

さと優雅さをもっているだけである。その

形の色調のみがフランス的な軽快 多様な亦 A

ている。ただ、被女の作品からにじみ出る

される韓国の色彩美学の体系に根幹をおい

いる色彩の特性は、青い糸、赤い糸に代弁

度の高い労働、キャンパスの作業に投与さ

木をオブシエにして扱う時に求められる強

自ら体で実践していることを証明してい

、 業方式は被女が労働の神聖な生活倫理を

りでなぐさめた朝鮮王朝時代の女性の誠実 な生活態度につながる。実際に、被女の作

うな形態の製作方式は、忍苦の歳月を機織

せる。辛い肉体的労働の産物であるこのよ

︿しめもん

とは否認できない。青と赤が基調になって

な部分となる木版画を試みる契機になっ

である。国際的なマンモス都市、ニューヨー

想とい、つ東洋精神に根づいている。凹凸の

タl版画工房でのロドフ・ブシ(河

た。そのほかジルダス・ファルデル(のE8

クが発散する機能主義的な都市美学の量 d-

裏づけられなければ支えていえ丞﹂れないも

れる精神の綴密性などは全て誠実な態度が

る。木版画の製作に伴う綴密さと厳密性、

3E色)との出会い(一九六O)は、ヨーロッ パにおいての本格的な活動の恕穫になった という点で、詩人ミシェル・ブィト lル

さと、幾何学的な秩序の世界は多様なモ

は、﹁査みと充満﹂の反寧笠一小す月の形象の

形象で象徴化されている彼女の造形言語

な結合と解釈できる。被女が生涯の半分以

義と、洗練されたフランス的な感性の字盤

のということができる。中国の古典である

ように、{主由の循環撃手乞記号化させたも

のである。

李聖子の芸術の世界は、東洋的な神秘主

チーフと豊かな霊威少乞被女に与えた。

た一九五0年代の初めの状況は、世界の美

がペニス・ビエンナーレで大賞を受賞し

を失いかけていた時期に該当する。マチス

及ぼしたであろう。﹁芸術作品は、それを

とも、芸術的成桂の形成に絶対的な影響を

2 5巾)の環境論をもちださなく てテンヌ(

上をフランスで送ったとい、ユ事実は、あえ

習、さらに習俗や意匠に至るまで広範囲に

針でもあり、学問をはじめとして生活や風

は、儒教社会においては修身のひと つの指

周易の根本体事乞なしているこの陰陽思想

女の親愛の媒体であり素材になっており、

戚位見が嫌で木版画を選択して以来、木は彼

スでの初期、銅版画がもっ冷たい金属製の

離して考えることは不可能である。フラン

OZ)

、ジャ

(Cg﹁ 民E2)、ボルス(︿ mgp由

(一九五O 年)、ジョルジュ・マティユ

李聖子の隼未において木版画と絵画を分

術のメッカとしてのパリが、漸次その名声

李聖子がフランスに{忍着することになっ

Z 、 口⋮で、それぞれ至って重要な縁である。

τ

詩的霊威 ﹂絵画的創造とを交感させたとい

( 呂 円 宮 市 ∞Eg﹃)との出会い(一九七七年)は

品。℃宮 O

。25)との出会いだとか、一九五七年へイ

( ︿ ︿巾 内 ロ ユ 帥切 ﹃ ミ 巾 ﹁ )とアンリ ・ゴエ ツ(国

ク・マウンテンスクールの前衛芸術が、全

た。ジャクソン・ポールロックCRrgロ E 一-onr)によるアクション・ ベインティン グとかジョン・ケイジが主導するブラッ

ても、何人かの人物との出会いは被女の生

( 下) IToure世es の夜] . 150X15O cm . 1979

涯と芸術の形成に大きな影響を与えた。例

( 上) ~

32


するということ、木との秘密の対話であ

私が木版が好きなのは木とともに仕事を T る順応的家事と自然への合一とい、尋 聖

洞察に溢れた対話は、根本的に{主因に対す

木に対するこの細やかな心遣いと英知と

、 ル ベ lル・マネリl(Euqg 室自巾E)は

版画にまつわる思い出に発しているし、ア

るようになった動機も、幼い頃見た寺の木

数多くの話が伝わっている。木版画を始め

原則でもある。木に関連した逸話としては

建築において金科玉条として守られてきた

は創包山される。それは、また韓国の伝統

にした年輪の部分に、判このように多様な

ねて刷って、まるで機にかかっている糸の 交差を連想させるような作品、鋸で輪切り

る。屈曲した木の断面を直諌に陰刻し、重

木のイメージは多様に変形して現れてい

または木を利用した立体作品においても、

連想させるような布を利用した設置佐業、

違った世界とE いに違った欲望を語って くれる。

る。人間の苦情とはあまりにも距離のあ 子の芸術の線本美学を産みだす。それは根

さらに宇宙を洞察し直観する媒体になっ た。被女は語る。

る生命体である木の話を聞かせる人にな

上がらせた作品など数多くの方法論が応用

の上においてスプレーでその痕跡を浮かび

南仏の自宅の庭に暴風雨によって倒れたく 図って、例の丸い年輪の作業が誕生する契

号と象衛は、韓国の伝統的な文様にぎらに

見られるデザインを連想させる。太極や餅

されている。木に刻まれた、このような記

機を作ってくれた。 タピストリlの作品ゃ、あたかも執亨乞

記号を陰刻したオブジェ、木をキャンパス

に、あるがままに見つめること、作品に使

本的に線の美学である。自然を傷つかせず

1

ること。木自体の表現、木の勇気と音、 、っ場全なるべく加工を慎もうとする態度

努力のようなものが現れるようにするこ 直線よりは、あるがままのノ苧乞生かした曲

るみの木を作品の製作に使うよう便宜を

て行く方向についていくか、でなければ

と。木の年輪の意志を感じ、その広がっ 線的な形を活用する姿勢からこの線の美学

の型押しの文様、韓国服の襟の金箔の模様、

鬼瓦やレンガまたはセクトン(色々に縞を

入れた子供服用の袖布地)服の文様などが

豊富な意匠の宝庫なのである。しかし、そ

る。それらは作家の手を経るうちに再創造

れらは直接的な類似性から抜けだしてい

の過程を経て新たに変身する。多少陳腐な

表現を借りるなら﹁伝統の現代化﹂が、外国

に居住するひとりの作家を通して行なわれ

ているとでも言えるだろうか。それは共感

的な距離の確保を通じて可能になったとい

えるであろう。なぜなら、対象との距事乞

野の確保を意味するからである。

維持するということは、それだけ客観的視

杢妻子の芸術の世界は、{主因の空間をさ

まよう流星のように美しさの世界を追って

りのコスモポリタンとして、聞きされた世

訪復してきた自由精神の所産である。ひと

界の中に宇在することなく、しかも、自分

自身の生まれた故郷を決して忘れたことの

ない彼女にあって、晩年に探した﹃極地に

行く叫巴は険難であった彼女の旅程ほどに いる。

多難な韓民族の歴史を凝縮させ象徴化して

3

拒否すること。木は種類によって互いに

No.1 3月1975,250x200c ll1o 1975 ~


位相と国際化の展望

される光州ビエンナーレなど、大国際展も 目前に控えております。私たちの社会全般

韓国館の開館とともに、世果的な規模で催

ス・ビエンナーレでの歴史的な快挙である

れる予ム疋となっております。とくに、ペニ

まな美術関係の行事が国内外で繰り広げら

の年﹂です。それで、今年一年間、さまざ

えている懸案を中心に、我が美術界の中心

美術文化の国際競各カなど、韓国美術が抱

い国際化への方向とその展望は何なのか、

ティ、韓国美術の長所と欠点、そして正し

のか、韓国美術の精神、またはアイデンティ

いて韓国美術はどのように評価されている

はいかなるものなのか、世界の美術界にお

この座談会では今日の韓国現岱突術の位相

の世界の美術の傾向を見ますと、ある世界

国家の重要な任務であると思います。最近

略の中で文化を支援・育成することは現代

た文隼蚕の諸現象を研究し、巨視的な脈

商品化される﹁文化戦争﹂時代に、多元化し

劉俊相一近頃のように文化が資源化され、

いますか、ちょっとその辺をお話願いたい んですが。

思います。まず、韓国現岱美術の立場と言

広く、忌惜のないご意見をお伺いしたいと

の主な閥、公事の一つである国際化、世界化

的課題の一つである世界の中の韓国美術の

的なはっきりとした潮流があるのではな

きな論点として浮かび上がっております。

は、他の芸術分野と同じく美術界において

進むべき方向を模索するため、先生方の幅

金煉旭一今年は政府が制定した﹁九五美術

も﹁韓国美術の国際化-世界化 Lの問題が大

0主 コ 民三巴崖 コ・

34


韓国現代美術の 況ですね。よく現代美術を﹁コンテンポラ

化とでも言いましょうか、とても複雑な状

とい、つ語を使うのですが、ある極度の個別

モダニズムとか、ポスト・ナショナリズム

しているんですね。それで一種のポスト・

もっていると言うか、そういった傾向を示

く、かなり普遍化した、あるいは一般性を

う問題が現在、急を要する当面の課題で

うにして自分たちのものにしていくかとい

主義の問題をどのように受け入れ、どのよ

味をもっているのか、私たちは世界と民族

ムの時代に文化の交流というのはどんな意

多元主義、多良族玉義、ポスト・モダニズ

ます。過去の時代と違って、多文化主義、

まざまな登山が出てきたと見ることができ

かということです。いわば、それはおそら く現住美術のアイデンティティとは何かと

ことは、はたして我々のものは一体何なの

しょう。それとともに私たちが考えられる

リ1 ・ァ lト﹂ と言いますが、世界的に見 るとアメリカがこの現代美智乞約三0年間 リードしてきました。もちろん、その前に はフランスが三0年間リードしていたので すが、このようなプロセスの中で美術のさ


コ i内¥負 出的XE延 日 時

d

たと存じておりますが、その当時の状況と

し、また国際展にも数多く参泊してこられ

さって急速な経済発展と近代化を通じ、伝

文化など、さまざまな諸般の要素と合わ

域もその影響を受け、美術も、事つ社会、

の生活環境が変化する、っちに自然に芸術領

が国の社会が徐々に近代化、西洋化し、人

は韓国美術を診断するひとつの役割になる

比べ今日の韓国美術をどのようにご覧にな

統的な価値よりは新しいものを受け入れ

精力的に創作活動を続けてこられました

でしょう。このような面から見ましても、 りますか。

いう話になるんですが、それを考えること

私たちは相対的にアメリカや日本などの先 李川河植一私笠

などの研究セ ンターの設立が何よりも優先

化する雰囲気をリードする正確な美術情報

ての懸案問題を研究して、美術がより活性

てきた抽象美術への流れは当時としまして

ニズム ﹂ 、すなわち現代美術運動において 五 0年代末から七0年代にわたって貫かれ

した。私を含めまして当時の世代は﹁モダ

この二 0 一 年間、囲内で創作活動をしてきま

造形言語を踏襲しながら、それを私たちな

てきたと思います。西洋美術の思潮の論理

る、いわば早く西洋化するプロセスを辿っ

6 年代末に大芋乞卒業し、

クがほとんどありません。こういったすべ

進国に比べ、美術杏蒋に関するデータバン

されなければならないと思います。

ようですね。最近の韓国美智乞見ますと、

め、かなり悩んできたとい、ヱ被跡が見える

統性の問題を追求するのかとい、っ葛藤のた

問題を追求するのか、それとも地域的な伝

考えでは、 最初の出発点において現代性の

れなりに肯定的な側面も多かったように思

が国の現代美術史に照らしてみますと、そ

肉的でしたが、七O年にもならない短いわ

わが国の現代美術運動はあまりにも西洋指

だったわけですね。振り返って見ます止、

ました。いわば、当時と七ては新しい美術

は画期的で、また実験的な様相を帯びてい

ぶ前から﹁民族性﹂と﹁世界性﹂の問題が重要

できないという西洋美術に対する長いコン プレ ックスの結果、韓国の美術界ではだい

うに世歪芸術の思潮の主流を形成しリlド

んな循環過程を続けてきたんです。 このよ

思潮を常に一歩遅れて追っかけている、そ

りに消化していくことに汲々としていたん ですね。そうしているうちに、西洋美術の

や概念を受け入れ、その左伝論など 一連の

牽在崇一韓国の現岱美術を見るとき、私の

世界の美術の現況と同じで、明日 Z開﹀問、吋と

沿って私たちも、歩調をあわせていると思

現実というものが美術との直接的な流れに

術状況を見て、現在としてははっきりとし

だえしているかのような最近のわが国の美

あまりにも急激な奪化のため、まるで身も

守世代に移行しつつある作家なんですが、

おります。過去の時代の旧態依然たるもの

面的で、まったく新しい様相として表れて

韓国現代美術の全般的な状況はたいへん多

活発に展開されてきたと思います。今日の

を開発していく積極的な 意志として今まで

呈 聞 ちなりの自体的な文化を追求し、美街一=

いう純控美術モデル自体が壊れつつありま

います。もちろん、いまだに韓国現住芙桁

から象徴言語のみを変えていくそんな部類

な論争の対象になってきました。とくに八

におけるアイデンティティをどう見るの

です。

た診断を下すことが正直言って難しい立場

があるかと回心えば、その慣行を破り、既存

われます。その実、現在の美術界の状況と

か、またそれをどう求めるのかという問題

会議旭一今日の韓国美術を見ると、九0年

の美術言語自体を新たに受け入れ、画 一化

すし、美術も他のジャンルの中にある芸術

一 白いますか、一種 とともにグローバル化と一一

代に入り、量的・質的に大きく成長してい

された傾向から脱皮する動きがあり、韓国

めたのですが、それは 言っ て見れば、私た

の汎地球化のような、またそれと絡んで地

るということを実感します。これから開か

の伝統文化と結合させ、それを極大化する

0年代に入り、そのような動きが表に出始

域的な伝統性の問題、そういったものが一

れる美術館文化のハードウエアとソフト

かと国やえば、現在、西洋で進められている

比較してみますと、実に大変な案化である

緒に詰仇する状態にあると見ることができ

ウェアを企画し、実行する重要な人的資源

といえます。今や私も齢五O に近づく、保

るんじゃないかと思いますね。

として、その役割を担当しておられる

らに早く精神の幅を広げるいくつかの、﹂と

新しいものを違う形の感覚で受け入れ、さ

つつある状態だと思つんです。また社会的

金焼旭一韓国現代美術の位相がどのような

キュ lレlタ1の立場からわが国の美智乞

と呼吸することによって、その境界が崩れ

ものなのかを考えるにあたって、世界の美

どのように展望しておられますか。

がす べて 一緒に共存しています。それで 一

の関係、または韓国美術の実体の問題につ

朴幾津一私たちの画壇で起きている葉巻

つ の過渡期とし て一度は経 うな混乱は、 一

術の動向について全般的な状況と私たちと いてもくわしくご指摘下さいました。李斗

多様な芸術活動、私はたいへん鼓舞的であ ると思 いますし、前向きに見ています。わ

面錯綜として見えたりもしますが、そのよ 植さんは韓国美術協会の会長という公人と ざいますが、七0年代以後、 しての立場もご、

36


ことができる、たいへん重要な時点に来て

理する意味で私達なりの美術言語を見出す

形拳乞見せておりますし、それを検証し整

は、﹁新しい美術﹂というそれなりの多様な

ねばならない段階だと思つんです。結論的 に申しますと、今日の韓国現包美術の状況

の後解啓乞迎え、それから韓国戦争が勃発

受け入れ始めて、約三O年続きました。そ

でも言いましょうか。とにかくそのように

一方では不回議さもあって、憧れていたと

れ自体が新しいのだから、珍しくもあり、

らではないでしょ、?か。当時としては、そ

の習慣になかったものを新たに受け入れ始 九 一OLδ 年か めた年代は、おそらく 一

界の動向を差し置いて、わが閏だけを孤立

きたんですね。他のことも同じですが、世

らの影響がそのままわが国の美術に入って

ト、あるいはミニマル・ア1トなど、それ

絵なんです。当時アメリカで流行したアク ション・ペインティングとかポップ・アー

うちにすることですから、その習慣の中に

ろうということなんです。習慣は無意識の

ですが、結局は仕事るする期目慣で美智乞や

えることと感じることなどいろいろあるん

慣は何かということです。習慣の中には考

のかということですが、それは私たちの習

いると思われます。したがいまして、今日 思います。 国の現代美術が本格的に現れはじめまし

O年枠後半からわが 入り経済開発と共に六

してから長い空白期間を経て、六 0年代に

囲を広げている。九0年代初めアメリカの

チ乞超え、社会的問題を表面化させた 粋概 A りするという大きな一つの文化概念へと範

たやすく明らかにされることはありません

ばなりません。そういったものが論理的に

素を捜しだし、そのモデルを作り、あらゆ

に内在している潜在的なもの、芸術的な要

は隠されたものが必ずあるわけで、その中

の状況はたいへん希望的で喜亘も明るいと

させて考えることはできません。人Oi九 0年代に入り、アメリカの美術は、美術を ただ単にEZ何﹀問、吋であるという以前の純

金燦旭一九0年代に入りますと、若手の作 た。西洋で当時、牛組事乞行っていた美術思

O年続きました。これと共にわが国の歴史

潮を執叩心に受け入れながら、今日まで約三

メージに対する社会学的意味が提起されま

においてマスメディアが持ち込んだ複合イ

なんです。それだけでなく、現代産業社会

美術に見られたエイズの問題がまさにそれ

に比べて、わが国は美祈に関する具体的な

ということなんです。日本やアメリカなど

て斐叩的なことは美術研究センターがない

から。そんな面から見た時、私たちにとっ

るものを分析してデlタにとって見なけれ

つの争点に浮かび上がりましたし、高度の

家を中心にメディア実験の美術の領域が一 テクノロジー笹未で多様な造形美術の模索 が活発になってきていることがわかりま な経済復興など数多くの変化を経験してき

も、多くの社会的変動と政治的混乱、急速

資料といいますか、データがあまりにも不

す。このような現象は私たちがだんだん高

したね。白南準もそういった作家であると

度産業化社会に移行しつつあるという証拠

ました。それで、だいたい七0年代から始

です。それは、おそらく私たちの民族的な

ん。かなりエクスプレッシブ(何出︾E M - ︿開)

には雄策的で、批判的な傾向が見られませ

まだ不足している状態であると見られてい

文化マインド、経済力を備えた文化認識が

時に経済的資源として捉える世界化された

ていますが、芸術を文化的資源であると同

足しています。

まったのが、私たちが言うところの新美術

であると考えられるのですが、世界美術

が最近わ 金煉旭一﹁国家競争カ﹂、﹁世界化 L

の動向に照らして見ますと、今日の私た

が国の社会で大きな問題として台頭してき

の現岱美術における後期現象と五0年代初

す。そ乃頃の時代的というのは、フランス

性向と関係があるようです。世界的な観点

r

かます。この三0年間、わが国の作家たち

ですね。美智乞時代的な便宜として受り入 れる、そんな区分として見ることができま

言えます。したがいまして、韓国 現 岱芸 術 もこのような文化概今 ﹂して見る必要があ

ちの美術とはどんな関連があるのでしょう 、。

めアメリカで起こった一連の現象を融合さ

AHH

る前に、わが国の現岱美術について、まず

劉俊相一世墨柔術の状況についてお話しす

せたようなものだったのではないかと考え

r

の実球 ﹂して申し上げますと、私たちが西

論じなければならないようです。それを私

が国際的に競争力を備えるためには、韓国

ます。そのような側面から、わが国の美術 ノ Zヨ出回 X向 フ世

からわが国の美術、その中で韓国とは何な コ 。 附 ︺

ます。現在、残っているのが、そういった

るという具体的な指摘をして下さいまし

美術文化研究センターが何よりも急を要す

杢車山田市一ご存じの通り、九0年代になって

た 。 私たちにとって致 A 叩的なことは美術研究センタ

から、世界は急激な国際情勢の亦花ととも

理念の不在時代、喪失時代になり、多少ア

の対決構造がなくな灼,ました。言つなれば、

により、それまで激しく対立していた理査

に東ヨーロッパ圏の没落と社会主義の崩壊

ー が な い と い う こ と な ん で す。 日本やアメリカなどに比べて、 わ が 国 は 美 術 に 関 す る 具 体 的 な 資 料 と い い ま す か 、 デ ー タl が あまりにも不足しています

宮)、受口文化一主義とでも言

マルチ・カルチュラリズム(宮 C F、 コ

メリカ的な状況ではありますが、いわゆる

g口5Eω

37

洋美術、すなわち新美術を、つまり私たち

劉俊相


と優れた感受性なども彼らが韓国美術に

力を持っていると考える人もおりますし、 反面、西洋化して独創性を欠いていると指 摘する人もおります。優れたテクニ ック

ついて持っている普遍的な視点のようで す。

は目的地に向かって航海する船が バランス

劉俊相 二つの社会を船としますと、文化

情報自体の流入が相当速くなっておりま

した。また、大衆メディアの発達とともに

海外究流がいまだかつてなく頻繁になりま

の活躍がだんだん目立つようになり、また

ね。そしてわが国の作家たちの国際舞台で

の問題として再び詮索し始めているんです

動や集団精神は存在せず、作家各自の個性

に入り、以前のように大きな一つの美術運

た問題が台頭してきております。九0年代

いますか、私たちには耳慣れない、そういっ

の視点を超正、韓国美術を受け入れる世界

世界化をめぐって続けられてきた国内美桁

活動を見せております。韓国美術の国際化、

あれば海外展や国際展の門をたたく旺盛な

は世界の舞台での跳躍のため、チャンスが

たちの頻繁な国際的参〆加が続き、作家たち

ょうと思います。最近になって、圏内作家

のですから、これについてさらに話して見

要がまさに韓国美術の国際化の暴孟である

に受け取られられているのか、この討論の

界の中でどのように見られ、またどのよう

れます。だとしますと、わが国の美術が世

うに劣悪な状況であったにもかかわらず世

これまで、わが国の作家は相対的にこのよ

の幅を広げなければならないと思います。

は社会的な意味で韓国企業も美術守議活動

劣りがするんです。官主導の美術政策より

す。それに引き比べ、韓国はあまりにも見

芸術活動に対する支援はたい へんなもので

アメリカやドイツなど先進国を見ますと、

政的支援が不足しているということです。

のは、残念ながら美術に対する経済的、行

すが、その当時の状況とあまり変わらない

現在、韓国の作家たちを 一つの資源として 見るとすれば、資源はいくらでもあるので

量的に比較にならないほど発展しました。

化において障害物と雪える弱点、または改

変えまして、では韓国美術の世界化、国際

援を惜しむべきではないと思います。話を

が積極的に使命成害持ち、文化に対する支

体があることはあるんですが、何より企業

して、芸智消動を企業が後援してくれる団

金燦旭 一私たちも最近、﹁メセナ﹂と言いま

ンドを持つべきでしょう。

が即ち資源という、世界化された文化マイ

代的で、封建的な価値観から脱却し、文化

ん。﹁美術はなくても構わない﹂という前近

である国際競争において、文化に対する経 済的後援を大幅に増やさなければな せ

す。したがいまして、資本力が経済力の要

手OZ面白XEJE

私たちも力量のある若手の作家たちを果敢に政 c くりをする必要 策的に後押ししてやれる条件 つ

が あ る と 思 い ま す。 今後は、 世 界 的 に 認 め ら れ る作家を私たちが自ら作り出してゆかなければ

果たしているんですね。文化はまさにバラ

感覚を失わないように支える重要な仇舗を

す。私たちが今、やっていることも外国の

の人々が、韓国現岱一議について持ってい る視点がどうなのか気になります。これま

ならないでしょう

ンスでしょう。船がバランスを失えば傾く

ように、文化はその社会が傾かないでまっ

ものを模倣する段階とい 、 ?か、それを解釈

で国際展などにずっと参加してこられた李

すぐ前進する決定的な役割をするもんで

人が持っている強い造形言語を創包山して

斗植先生のお話をお伺いしたいのですが・ . .

年代の韓国美術の状況はどの時代にもまし

の状況について当時と今とを比較します

ナーレを度切りとして六0年代初めから ずっと参加してきました。当時、韓国美術

始めたのは、六 一年の第二回パリ・ビエン

李斗植 一わが国が本格的に国際展に参茄し

いがい韓国美術を見る世界の人々の視点は

かと思います。私の経験からしますと、た

習慣がすばらしい民族も珍しいのではない

品してきましたが、私たちのように美術的

ておりますし、海外の墨不会にも数多く出

思います。私も世界のいろんな国を見てき

的な美術的期債はほんとうにすばらしいと

界を舞台にずっと芸衛活動の幅を広げてき ておりますし、我が民族が持 っている潜在

作委 ちが韓国美術の代表性と関連して選

る程度の国際展に以前から参加しているん

サンパウロ・ビエンナーレなど、韓国もあ

いろいろ-あ旬ます。ペニス・ビエンナーレ、

の参加作家の選定においても改善の余地が

ナlレ、ドキユメンターなど国墜斎祭へ

と言える各種のビエンナーレ、トリエン

あい、優越を競う 一種の美術オリンピック

朴策理一世界各国の美重砦す刀がぶつかり

ですが、ここに参加するコミッショナーや

善すべえ舌⋮は何でしょうか。

て、そのエネルギーに満ちていると、 一応 一吉守えると思います。

と、今は美術人口の底辺拡大といいますか、

様々ですが、比較的プラスの評価をしてい るんです。創作意欲の豊かさや大きな潜在

2a

いますし、それが普遍的な世界の美術の流

金煤旭 一昔乞総合して見ますと、九0年代

作家はもとより美術学校、美術館、画廊、

0

に入り、新しく見られるようになった韓国 現代美術の多様な 一面が、結論を下すには

美術理論家、キュlレlターなどすべてが

分に持っています。結論としまして、九0

多少早いのですが、何か肯定的 ・蓄 誌 で 希望を持つのに十分な要素があると考えら

し直す水準に留まっておらずに、作家個々

れにひけをとらない、そういった力国軍苔十

宇 卜 豊 能 津

38


ていますが、注意して見ます左展示の目的

家たちの展示会が海外でかなり多く開かれ

善すべき点が少なくありません。囲内の作

たちの個人展、グループ展などの賞作も改

くありません。また、海外で関かれる作家

学閥や人脈によって選ばれるケlスも少な

ばれるというよりは、美術の屠付権勢力の

です。それは、たぶん私たちの原形質の中

発展速度とい、?ものは信じられないくらい

るんです。それにもかかわらず、私たちの

の歴史を私たちはきちんと探り出せずにい

あまりにも浅く、またかれらが積んだ美術

美術史を見るとえその歴史は西洋に比べ

向上が目立っています。 一応、韓国の現代

美術的資源においての量的な膨脹、質的な

李種崇一 冒頭でも指摘されたことですが、

芸術を支援する団体であるアメリカの

後に良くなるのがこの分野なんです。文化

芸術で、反対に景気が良くなっても 一番最

滞すればもっとも打撃を受けるのが文化

方にすぐ現れるようです。経済が停

O 万ウォンがすべてでした。総じて経済 不況の直接的な影響は、文化芸術の

たちに四、 ハ門む万円を支援し、韓国の作 家たちは﹁韓国美荷受Fから支援した八O

ある若手の作{季乞続けて発掘し、育成して いく方に方向を旋回しなければならないと

えることでもあるんです。今や画廊も能力

守っていく道は韓国のものを外国に広く伝

の画廊も目を外に向け、圏内美術を世墨幽 壇に積極的に紹介すべきです。国際的に一

幅広くなったと言いましょうか、昔のよう

のせいだとも思えるんです。九0年代に なって、私たちも絵に対する考え方自体が

にか/入外に出てみようという間違った貴行

国際的感覚に合った綴密な企画なしに、と

こで可視的に戻ってくる利益がないからと

要があると思います。量的な膨張ほど、そ

美術においての海外進出を慎重に考える必

般の状況が、より活発になったことにもそ

に隠れている美的気質とか、韓国社会の諸

なに多くありません。もちろん、さまざま

金をかけ、開催できる態刀がある国はそん

エンナ lレだけを見ましでも、一 OO億 ウォンが投じられますが、こんな莫大なお

に進むでしょうね。現在 1いろいろと言わ れていますが、今年の秋に聞かれる光州ヒ

にせよ、韓国は成長している状況なので すから、諸般の条件はこれからも良い方向

岩間 のような機構も、昨年には支援額の 半分程度が削減されたと一言います。いずれ

ね 。

て、作家の発掘の幅を広げるべきでしょう

商業性に片寄った作家を選ぶことをやめ

割をしました。今や韓国の画廊も短期的な

カlン・パイラーもそのうちの一人です が、まさにこれら、すなわち画廊の主人が

ないと思います。美術史を通して見ましで も、西洋ではすばらしい画商が多いんです。

が作家と画廊、そしてコレクタ!との関係

思います。 杢車崇 一美術の流通構造では最も重要なの

つになっ子主穴術マーケットで韓国のものを

がどこにあるのか疑わしいほど、その成果

に西洋美術の論理や概念に従Y?単なる追随

ばかりで、また可能性といラ側面も長期的

いって、すぐに挫折することはないと思い ます。というのは、私たちはスタートした

な問題がありますが、そのような問題は私

李斗植一作家の海外進出には評論家や キュ lレ1ターなどの役割問題も相当に重

2 ません。現地の正確な美術情報や

が物足

ではなく、私たちなりの文化と伝統、韓国

に見通すべきだからです。強く言えば、す

たちが試行錯誤を経て徐々に修正できる

名の作家が参加しました。日本の場合

エンナーレには韓国と日本からそれぞれ一一一

李斗植一画廊も今や、ずいぶん増えてきま

もので、現段階では肯定的な要素が多く、 希望がもてると思います。

国美術を官在し、圏内に美術を花聞かせる

要だと思います。この人たちこそ海外に韓

作家を発掘していき、後援をするそんな役

です。批評は二次的な役割しかでき

の民族性や表わすのと同時に私たちのもの

でに指摘されたように組織的f i毒液を一日 も早く準備すべきだということです。たと

r

を踏ま、えた絵幽に対する視点力幅を広げな がらも、西欧に遅れをとらないそんな作家

えば、九四年の第一一一回、サンパウロ・ビ

すが、これを支える制度的な政治・教育制

の原因があるのでしょう。私としましては、

韓国美術にとってプラスの側一由だと思いま

たちが合事 ν ております。とくに惹ずの作 {本たちを中 ι 心にしてですね。これも、また

度の霊警など、まだ多くの当面課題が残っ

豊富なソフトウエアを開発するプログラ

という問題についても、お互い草つ意見が

ある。韓国美術のアイデンティティが何か

美術のアイデンティティを確立する問題が

金蝶旭一国際化を論じるとしますと、韓国

ます。

性化との関連で、深刻な状況にあると思い

め、この人たちの役割もまた韓国美術の活

商業画廊に頼っている構造的な弱みのた

マーなんです。韓国の美術文化はほとんど

した。韓国美術の海外進出に関連し、圏内 エ 巴気比 コe同¥h面的 )

, zmo czu﹀、コ OZLから日本の作家 ﹀ HM

J﹀

九0年 代 の 韓 国 美 術 の 状 況 は ど の 時 代 に も ま し

一応言えると忠います

て、そのエネルギーに 満ちていると、

国美術が重要だとい、っ視点と共に韓国の作

あるでしょうね。国家皇位の美術として韓

家たちはどうなのかという、いわば作家 個々人のアイデンティティも世墨美術界で

39

ています。

李鍾崇


どのように描くのかとい、?単純なレベルを

しなければなりません。われわれのものを

的な、または民族文化に対する深い研究を

しているのですから、たゆまず白らの社会

同一民族の文化的な球径が地層に根を下ろ

んです。二つ目は、絵画はいずれにしても

絶えず求めなければならないということな

味を超えて、それ自体が持っている本寅を

それに対する審請で観念的で霊前な意

が肯定的にどんな意味を持っているのか、

持つべきということです。絵画とい、つもの

う琵曇嘉叩自体について、幅広い考え方を

ねばならないと思います。一つは絵画とい

国の作家たちが二つの問題をめぐって悩ま

朴鍍津一ごもっともな指摘です。そこで韓

ます。

どうなのか診断もできるのでないかと思い

ます時、世墨実術の中で韓国美術の位相が

ティを追求するものであり、そのように見

を変えますと、美術も一つのアイデンティ

重要な問題になろ、?かと思?んです。見方

彼の作品を見て、外国の霊愛たちは東洋

カに渡り右ロ名になったんですね。ところで

クスを通じ、そこで原点を見出し、アメリ

日本で教育を受け、ドイツのフロックソッ

せん。わが国で生まれたというだけで彼は

家、自南準を育てたのは私たちではありま

きますが、率直にいって今日の世東的な作

す。私たちは白南準の例をあげることがで

いということがはっきりしているからで

すが、決して心底成郵干'るまでには至らな

一時的な刺激と好奇心を誘うことはありま

ものであり、東洋的なものとして映って、

る育園的な表現が最初は西洋人には異色な

のではないんですね。韓国的なものに対す

ず表わそうとしたからといって、表れるも

わゆる韓国的アイデンティティ多作品に必

きがかなり暖昧だということなんです。い

に浮かび上がらせるべきか、その辺の線引

地域としてのわが国の伝統性の問題を︿主回

ます。世界的な普遍性の流れに隼つべきか、

杢車山田市一それは解決しにくい問題だと思い

になされるものではないと思います。

民族性の表れというのは思考により壱誠的

てくるというんです。芸術の創造において

まとうんですね。実際、若い作{季九ちの場

ら、選抜過程においてはいつも文句がつき

際展に選抜される作家は極少薮なのですか

みです。美術人たちの量的な拡大に比べ国

した。私としましでもこの問題は大きな悩

今まで美術協波宮の国際分科で行なってきま

李斗植一国際展に参加する生家の選抜は、

する問題だと思います。

内での健全な美術風土づくりがまず急を要

が正確に、正当に評価され、認められる圏

ることができないんですね。作家一人一人

ものをまともに評価してくれるよう要本す

んな状況では、世界の美術の中でわが国の

の笑いの種になることも時々あります。こ

係のないわが国の作家たちが参茄して、も

ますと、世界の美術の潮流とはまったく関

ろいろの問題があります。外国に行ってみ

作家たちを見ますと、選抜する過程からい

ないと思います。国際展に参加する韓国の

も客観的で正しい評価を得なければなら

正当な評価を受けるためには、まず国内で

朴策津一世界の美術の中でわが国の美桁が

る恐れがあるということなんです。

評価を受けるにあたって、むしろ障害にな

ぱ、世界の美術の流れの中で美荷が独自に

のかを検証する展示でありましたし、九一一一

ふがどの方向に向かっている 後、設置の概 A

パ1グのコンバイン・ペインティング以

は﹁構造体の拡張﹂と言って、ラウンセン

でした。昨年のサンパウロ・ビエンナーレ

のように奪化しているのかを検証する展示

ド・メイド・プlメラン﹂でした。デュシャ ン以降、オブジェが登場した後、美術がど

をとってみましても、展示のテ1 マが﹁レッ

ば、九O年のシドニー・ビエンナーレだけ

美術祭ではどういう作家を望んでいるの か、ということをいち早く把握して、それ

す。また作家の選抜の基準においても国際

らを集中的に+守護する方法を模索すべきで

数の優秀な作{ゑが世界で認められるよう彼

台に進出することはできないからです。少

うに、すべての作家が有名になり世界の舞

す。すべての美術人が優秀な住家でないよ

すべて支援するということは難しい話で

の蟻烈な競争である以上、多くの人たちを

多薮の国が参加するオリンピックに劣らず

も、先ほどお話しましたが、どうせ美命も

ことがあ

にあって、あわてて三人に減らしたという

超正てですね。 李斗植一食品工学を研究しているある教授

的な思惟の精神が宿っていると言ってい

思います。西洋のものを受け入れたとした

しょうね。美術もこれと同じではないかと

の中にまさにそれがしみ込んでいるからで

たがるそうです。これは、私たちの原形質

べたことがなくとも、だいたい四O歳ぐら いになるとキムチや味噌など韓国食を食べ

もとで育った人たちが韓国料理を一度も食

世、つまりそこで生まれて、そこの文化の

であれ作業の中に表現されるものです。も

をするもので、作家のル lツはどんな形態

は必然的に自分のル 1ツをもとにした作業

はないと思います。しかし、すべての生家

重要なことは、個性であり、国籍の問題で

たものでは通用しないと思います。作家に

図的であったり、ある強迫観念の中から出

韓国的アイデンティティを見出すことも意

んだ何かがにじみ出たのでしょう。それで

る。それは、とても自然発生的に体になじ

ロ・ビエンナーレ組種委員会側からは参加

いてしまったことがありました。サンパウ

す。端的な例としまして、サンパウロ・ビ エンナーレの際、わが国が国際的な恥をか

も見過ごすことのできない問題の一つで

るのかということも重要ですが、その人数

すさ2最善を尺ミしたいと思います。 杢在崇一作家の選抜にあたって誰が選ばれ

い。今後、審査員の選疋について公正を期

合、国際展の参加について関心が非常に高

置の領域を消化しきれない作家たちは次第

のように作用するかということを問う場で した。もう一度申しあぜます左、立体と設

年カlセル・ドキュメンターでは装置、す なわちディスプレーという概今川喜もって作

にふさわしい作家を送るべきです。たとえ

2 志した。組織的主毒液において

の国へ移民に行ったわが国の同胞二世か三

がこんな話をしていました。アメリカや他

としても、私たちの中にある美的気質とか

ちろん、民族的なアイデンティティ多}求め ることは重要な問題ですが、それに没頭し

作家を選抜しました。結局、組種委の抗議

てやらなければならないと思います。

亙入も世界の美術の流れとか塑流に合わせ

います。普通、世界の美術祭は主宰すの作家 が現岱実術の明確な 一つの方自主の問題 を取り上げて、互いに競争し、それを検証

する場なんですね。ですから、作家の選抜 すぎたり、それを曹困的に表わそうとすれ

に世界の美術展への参加が難しくなると思

家が自分たちに与えられた空間に対し、ど

盛荏が歳月がたつと自然ににじみ出てく るからでしょう。わが国の佳杢 ちが、ど

ロ わ れ b 主二人以内に制限するさ2 -一 する作 李 たのですが、私たちは以前と同じく九人の

んなに西欧のものを追いかけても、その中 にはどこかわれわれらしい何かがにじみ出

40


ん。つまり、世界的な規模の屋支去を開催 しながらも作家の選抜をする際、いわゆる

わが国の場合はそこまでいっておりませ

主主 の作家を育てているんです。ところが、

意するそうです。いわば、文化政策として

中させ、浮上させるきっかけを積極的に用

がチャンスを豊富に与え、世界の耳目を集

格の登壇をさせ、作品になろうがなるまい

朴鑓津一西ヨ ーロッパでは若手の作家に破

きくなり、何になるのか今としては正確に

過ぎないとしますと、将来、この子供が大

しかし、韓国美荷がまだ青少年期の段階に

を取り上げたようですが、それは事実です。

韓国の美術界が抱えている根深い問題だけ

アがあってもソフトウエアは不足などなど

財政守護の不足、行政上の乱脈、ハードウエ

杢車崇一今まで情報の不在、組織力の欠如、

海外守護の専門機構は欠かせません。

広報などを担重する専門スタッフからなる

国際的な感覚を踏まえた轍密な企画、組織、

には国家の力と密接な関係で職ばれている

と言いますのは、文化もやはり経済、さら

人だけの力でできることではありません。

可能なことです。それは、また美術界の一

たすべての事柄が有機的な関係を持つ時、

問題でもないと思います。今まで話し合っ

て実現する年末ではなく、簡単に実現する

李斗植一韓国美術の国際化が 一朝 一夕にし

性を持っています。

になるでしょう。いずれにしろ、 韓国美術 はエネルギーが充満した明日の明るい可能

ニストの類型として見るとしますと、白南

ることができると思います。金燥基をモダ

げろといえば、私は金燦基と白南準を挙げ

家、世界を相手に成功した韓国の作品事牢あ

リタンの類刑芦﹂して海外作家らしい海外作

国の土ではないといろ意味です。コスモポ

外で活動している韓国の作李乞掃すのです が、かれらが踏んでいる土は同じ土でも韓

れますか。 劉俊相一海外作家とは、読んで字の如く海

とくに新しさもない、そんなケlスがよく

した作家の作口問だけ選ばれる、個性もなく、 知ることはできません。さまざまf 卓担仕的 な能力を持っていると見るべきでしょう。

国際化が理解されると思います。しかし、

からで、このような脈略の中で韓国美術の

家でした。白南準が驚くべき直感万と呈昌

た個性のある作家であり、それこそ海外作

でしょうね。﹃どこで何になり、再び会おう﹄ の金燦基は、真の美術の聖座を遊泳してい

準は現代的な類型に分類することができる

J

圏内の名声のある既成の作家、旧熊訴疾左

あります。ですから、私たちも喜重のある

現在、驚くほど世界の関心と注目を浴びて

な知識、体質的にユーモアに富んだ世界的 なビデオア lトの名づけ親です。この 二人

わずか数年前と比較する時、韓国美術界は います。

と同時に世界の芸術家です。とくに白南準

光州ビエンナーレなど韓国が開催する多様

会批煉旭一韓国美術の国際化は、何よりも勇

とその芸術が韓国美術の現代化と世界化の

な経験を通じてその力を蓄積するでしょう

います。今後は、世界的に認められる作家

し、そもつすることによって専門的なスタッ フが育てられると田ザつんです。今、ニュー

気と決断力のある作家と美術界の自覚の中 でなし遂げられねばならないと思います。

てやれる条件づくりをする必要があると思 を私たちが自ら作り出してゆかなければな

ヨークとパリを中心に美術史や芸術行政を

国炉議等見を収放して賢い長期的な眼目で進

若手の作家たちを果敢に政策的に後押しし

らないでしょう。

勉強している潜在的なスタッフだけでもそ

道標になっていることは誰も否定できない でしょ、っ。

純粋なものであるから、とにかく持って

積極的な考え方を優先すべきです。芸術は

はなく、美術商品をもって出ていくという

します毛、韓国の純粋な美智問それ自体で

に否定するための否定ではなく、発展に対

な見解も少なくありませんが、それはまさ

いずれにしましでも、守護は量的にだんだ ん増加している傾向です。いろんな否定的

韓国作家として世界が認めている韓国の真

求めていく作家の個々人の努力が 一層求め られる時点に来ていると思います。最後に、

ことにありがとうございました。

ますが、いろいろなご卓見をいただき、ま

金蝶旭二百口い尽ミしていないところはあり

の卓越した海外作家は韓国の芸術出家である

劉俊相一国際展に参加するのは、厳密に申

の人数がたいへん多いと聞いております。

められるべきですし、韓国美術の独創性を

行って見せるというのは幼稚な発想で

の海外作家は誰で、その理由は但 と思わ XEd合

優れたテクニックと成主又一位等も世界の人々が韓国美術に ついて持っている普通的な 視点のようです

4 1

するビジョンを提示するための 一つの参考 ー コ ω 互面的

す。文北戦争の時代には海外情報に精通し、

李斗植


今日の状況 アーティストと区別される点とは、はたし

なくはない。そのため、ここでは﹁媒肇夫術﹂

し単純化する﹁媒体琵疋論﹂に陥乏氾険性も

L

L

徴候がはっきり現れているが、﹁媒笠夫術

て何なのか、そして彼ら新世代の美的成比見

し始めた若い世代の活動状況、団体別の傾 は非常に大きい。つまり、既成の画壇に感 じる虚脱戚苧﹄埋めてくれるものだとすれば

の代りに﹁設置﹂という用語をそのまま使う

てのものを、材料やメディアの問題に還元

ば、単なる反射的な作用の産物であっても

を取りまとめる要素は何であるか、それぞ

ことにする。﹁設置﹂と﹁媒隼美術﹂の聞には 共有される部分がないわけではないが、現

とい、2言葉にひたすら沿っていけば、すべ

構わないと思うほどの状況まで来ているの

れ調べてみることにする。

合わせ、彼らの画壇への問題提起と既成

だ。新世代というのは、いつの時代にも存

向、個人の作品の性格を探ることに焦点を

若い世代ほど問題意識が強く、異議申し立

﹁個人 Lの性向をはっきり不す方向に向かい ながら ﹁ 様式の多元主義 と﹁創造的な個人 主義﹂を花咲かせた時期として特徴づける ことができる。これを ﹁ イデオロギーは失

てを周囲の顔色をうかがわずに活用念のまま

するということを勘案すると、 ﹁ 設置﹂の方 が適切な表現だとき中える。 ﹁ 平面﹂の限られた条件を認めない﹁設置 L

もっていたジャンルを最もはっきりと弁別

ョ うよりはやはり﹁設置(インスタレ lシ ン ・アlト) ﹂ 、 ﹁ 立体﹂側に求めることがで

を広げていく基本の枠からして違うだけで

九 0年代の空間の中で特記すべきことと いえば、さまざまなスタイルのグル ープの

夏 合 ・震 前 で あ る。

なく表現のスタイル自体が非常に包括的 ・

ある資料によれば、九0年代のグループ展 は大部分﹁設置﹂、寸立体﹂がリードしたとい う。特に、問題提起的な作品展や企画展と 若いアーティストのグループ展の場合、﹁設

志向のアーティストは、作品の発想、それ 側のゆっくりした歩みに比べ、 きる。﹁平面 L ﹁ 設置﹂側の歩みは速くて機敏な方である。

九 0年代の美術の端緒は、 ﹁平面﹂側とい

在通用しているジャンルと過去に拘束力を

などと見る、 われ、流行だけがいっぱいだ﹂ あまり良くない視点もあるが、それは韓国 に行、えるからである。

消賢社会の美的感覚

の美術界が騒膨だった七、八0年代を経る

自由奔放で個性的な世代、強烈な自己表 現-雪之から抜け出した豊かさ、個人主義

Jhdiv

日向があれば日陰があるように 、これら

などと、彼らを特徴づける言葉はいろいろ

t 、、。

の傾向とともに商業的な酒廊が急増し、市

ある。物おじしない要求の表出、自身のア

き 現象を表していることも見過ごせない。 ﹁ れいで﹂﹁楽しく﹂ ﹁ 美しく﹂﹁しなやかな﹂絵

傾向のアーティストの出現は、画軍内にた

求よりは脱物質的な価寧乞強めつつある傾 向をうかがうことができるが、このような

一にすると見る時、その特性はおおかた強

﹁ を感知することができると 個性的な発言﹂ いうことである。しかし、その﹁個性的な パタ ーンをくくって表す用語が別途に必要

絢嫡たる演出手法など一般によく言われて

の聞では盲目的に大衆消費社会の美的成比見

発言 を L 、いわゆる﹁新世代﹂の登場と軌を となったが、その端的な例が、いわゆる ﹁ 媒 隼実術( 富市仏 5 ﹀三﹂といわれる言葉の出現

とは、広告やマスコミによく取り ﹁新世代 L

だならぬ気配が広まっていることを確信さ

置作業( 円EEEロ)﹂がやはり圧倒的であ E る 。 ﹁ 設置作業 が沸き上がるにつれて、その を刺激していることが読み取れる。作品制 作の埜入がやりたい放題で、主義 ・主張も 紛々、筋道の通らないこともしばしばだが、

である。﹁媒隼芙術 と L は、一種の材料の概 念であり、どんなメディアを使っているか

L

全般的には過去のア lトとはだいぶ違う面 が現れているということはたびたび指摘さ

上げられている若い世代そのものを指すの

いることから成りたっている(ここでいう

力な自己表現、自由奔放な聾入パターン、

れている。 したがって、ここでは九0年代から登場

ではなく、九0年代以降画壇に進出した

を楽しもうという、何の得にもならない風 潮が蔓延しつつある。これは、韓国の美術 界が、商業メカニズムの挑戦の前に内部的 な調整力を失いつつあるといういうことを 不す小さな出来事の 一つに過ぎない。これ よりもっと深刻な問題は、それらへの対処 方法さえ持たず、手をこまねいて傍観する しかないということにある。 その反動のためか、新世代にかける期待

ということを基準とする言葉である。それ ほど九0年代の美術で は、材料の拡大化の

せる。こうして、以前の露骨な抑圧からは 味わえなかった自由な雰囲気が既成の画壇

がデパートの陳列台の商品の ように大量生 産されるかと思えば、一部のアーティスト

イデンティティへの熱望など、物質的な欲

場の莫大な力に押されてよろよろする異常

在するものだが、彼らに期待をかけるのは

うちに苦労して作りあげた成果にほかなら

九0年代の前半の韓国美術界は、徐々に

42


使う積極さを見せる。

手に入る材料をすべてかき集めて小道具に 次いで創立されたグループも、前世代の

アーティスト群を称するものである。そう が正しい表現だが、使{宅中、通念的な用法 美術とはかなり違っていることが分かる。

いった意味からは﹁九0年代世代﹂とい、ヱ力 にそのまま従ったということを言い添えて おく。その新世代からは、過去に比べ非 常に一陣仏くて断絶的に見える要因、例えば ﹁白黒テレピのように見えるだけである﹂と

は 、 例えば♂己切の包切(一九九O年塑品 ﹂ 過去のリアリズムやモダニズムについて 断定しており、﹁黄金のリンゴ(一九九O年

いろいろなスタイルの混用や復古調スタイ ル、アッサンブラ1ジュ、キッチュ的な属

家グループ﹂などは、共通して以前の堅い

﹁バイオ・インストレlション﹂、﹁古い画 形式論理または政拍何社会的な問題に対して

) ﹂ 、 創立)﹂、﹁O 司 BSOZ(一九九一年割v一

幼いころから消春荘会、映像メディアに

見出せる。 固まれて成長した経験にすっかり慣れきっ はあまり関、官乞示さない。続く寸グリーン・

性、相互参考、各種の先端メディアなどを

ている彼ら新世代は、文字世代とは違った

いて言及することはするが、ある一種の様

ではない。環境問題や伝統的な倫理観、近 代化により醸し出された社会問題などにつ

JE

感覚と経験警をもっている。例えば、理

構造﹂、﹁タイム・ ハlト﹂、﹁つつじ﹂、 も例外 カプセル﹂、﹁チ1ム・スピリット L

性を抑制する文字世代に比べ、九0年代の

式による唯一の価値への塾雪いうよりは

性中心的で論理的な考え方を重視し、価値

映像世代は感性中心的で感覚的な判断に

複数の様式による複数の価値の併存に注意

観においては同質志向的で自忌即制的で感

ており、自己表現が強く感性を自由に噴出

よって行動する異質志向の価値撃﹄所有し

を継承することを拒む、かなり大胆な世代

だ。映像世代は、七、八0年代の文化遺産

特定の媒体(平面)に執着することもない 。

らの団体は、八0年代のように政治的イデ

ιと 作業を進めており、内容においても以 刑 はかけ離れた美学的断絶が存在する 。これ

既成世代とは非常に違った視点をもって

を傾ける。

こういった側面は、主に三O代初・中盤

する側面が歴妹、王している。

である。 新世代グループのうち、先発世代の ﹁ミュ lジアム(一 九八七年創立) ﹂は、創立

る。迷路の ような装飾、エロティックな素

自らの独自な領域を構築していこうとす

のアーティストに 一般に見いだせる性格

展の序文の中で﹁われわれはいかなるカテ

ている。実際、彼らはコラージュやオブ

一種の実験舞台に変えるところによく現れ

る。そして、このような自由音宰心は作業を

やイデオロギーも拒否しようというのであ

個人の審美の自由を束縛するいかなる理論

ンガ、雑誌など視覚媒体の幅広い活用、そ

密かな内面の風景の公開、 T Vや広止只マ

視する資料中、心王義、アーティスト自身の

小会の延長としてのカタログの内容を重 展=

柏婦とさせるあらゆる材料と手法の起用、

材やおふざけの 素材など伝統的にタブ l祝 されてきたテ l マ の 設 実 竪 お 実 警 害

何の後ろめたきもなく自由な観点に立って

オロギーのコンプレックスに悩まず、また

ゴリーにも所属したくない﹂と述べ、理念

ジェ 、ドローイン グ、アッサンプラ lジュ、

してビデオ、コンピュータ・グラフィック、

?

/

の金縛りから抜け出そうとする。すなわち、

布、紙、ポリコート、アクリルに至るまで

43

1993

~.

洪スンイル.

~ ~

/

ー イご

~

..____i

ュ:..-----:-- ~ .


ホログラム、ファックス、レーザー、バー チャル ・リアリティを始めとした先端メ

息づく欲求、例えば﹁商品に対する感覚的

イベントとしては﹁美術とテクノロジー﹂、

くる必要が生じたが、これに諺ヨする企画

が有力になると、このスタイルを別途にく

特に、電子メディアを利用した作業傾向

ければならない。共同の理今、山的価値を追求

プという外形があるだけで、実際には共同

考え直す必要があるだろう。

う 一つの欲望の幻想を呼び起こすとすれば

とに対する戒めと読めるが、その戒めがも

が物質問の関係にすり替えられてしまうこ

差を無視して折衷的な態度に出たりもす る。 これは、人間の問の明白な社会的関係

な幻想﹂や﹁ 商品化された性﹂を赤裸々に暴 き立てたり、時には本格芸術と大衆文化 の

﹁ 仮説の庭園﹂、 ﹁ 科学と芸術﹂、﹁ア lト ・ ダイアット﹂ テク﹂、 寸 、﹁美術と写真﹂、﹁T 九 一 一一 エキスポ ・テ V美術、ソウル九一二﹂、 ﹁

するということを、彼らはわずらわしい障

ディアを好むということなどが際立ってい

クノピアヘ﹁遠隔操縦﹂などが催されてお り、ここでは一方通行による意思の伝達で

る 。

はなく観客の参加による相互疎通というこ 害物と思っているのではないかと思われる

来見られたものもあるが、その裳に敷かれ

が、これではグループの結成の理由と目標

誰かが要求すれば集まるといった風なのだ

ほどだ。集まっては別れ、またグル ープの

の理念的価値がないということ主鶏しな

これと共に、これらの団体活動がグル ー

とが強調されている。

たアーティストの意識は、従来のものと全

さらけ出すようなものである。そして目立

もちろん、先に述べた特徴のうちには従

く違う。意識を表現に移し替える動機は、 テクノ ロジー特有の属性に起因する。 これ

つジエスチャーや奇想天外なアイデアや先 法のみを求めていると言われでも仕方ある

端メディアの動員など、目新しい新奇な手

が確固たるものではないということを自ら

により駆使されるテクノロジ ーは、伝統的 な美術のジャンルである絵画や彫刻がもた

まい 。新しい媒体を取り入れながら商品市

以上の団体とか展示とかは、 一般に消費

らす 二次元的または三次元的な﹁観照的﹂な

社会の美的感覚を反映しつつ去最なアイデ

場の担恐から抜け出そうとしているのは見

リl、一九九 一 二 )﹂ ﹁こんな美術 │ ノスタル

様態から抜け出て、より ﹁ 複合的﹂で﹁全感

というのではなく初めから欲求をなくして ジア(錦湖ギャラリー、一九九一一一ごなどが

上げたことではあるが、欲求に控仇しよう しまおうとしている態度は、見る者に不安

な刺激の範囲にまで美的体験を拡張 覚的 L させる。 つまり、単に見ることにとどまら ず、聞き、感じ、作品に共に季号する水準

を抱かせる。

められた現実をどのように誘導し調整する

鯉口⋮は、いくつかの小グループ活動におい

してのアーティストと高尚な芸術作品への

アに引かれる大衆性に便乗して、創造者と のかということが関心を引く。これらは、

あげられる。そこでは、理寛イメ ージに埋 な視点を不す部類は、韓国社会の産業化、

作品の客観的な世界に入る導火線の役を担

て認められる。 例えば、 ﹁ 不毛﹂は、欲望に身を焦がす現

同世代のア ーティストのうち多少悲観的

して働き、先端メディアに対する愛好度は

または商品化過程を追跡しながら、美術文

うことになり、商品の生産と消費の構造の

現場感は作品のリアリティを深める要因と 日々増しつつある。

化との関係を設定しようとする人々であ る。特定団体の結成を通してというよりは 、

ように、 2 まく包装された技術をして文化批

村﹂は論理の 美学の代わりに感性の 美 学を 選ぴ、日常のこと細かな出来事を一つ一つ

代性の問題との正面対決をためらわず、﹁新

な nJ

かりでなく、大部分の媒体中心的作業には

一連の企画展やテl マ展を通じ発言しよう

評という目的地に導く。

A F Z消してしまったりする。このよ、

創作の質的変化が見いだせる。彼らの年来

としているわけだが、 これに諺ヨする展示

脚光を浴ぴつつあるテクノロジー作業、 ば

態度は、通俗的で分散的で氷山音街だ。何の

文化的批評の視覚

ことかと言えば、大衆文化、広告など産業

館 、

会としては﹁ああ!大韓民国(紫霞 門美術 一九九二)﹂ ﹁美術の反省(錦湖ギャラ 文化の要素を大胆に取り込み、我々 の中に

~.

1993

まで発展しつつあるというわけだ。 のみな

~

らず、 T Vやピデオがもっ伝達の迅速性と

て ヨ

44


心に満ち子主臥みを図っている。これらの団 の条件とすることさえ辞さない。進取的美

いた﹁不毛 L は、貧困それ自体を未来先取り

ム・アートギャラリー ﹂の 二 一ヵ 所でそれぞ れ一囲ずつ計三回に亘ってグループ展を聞

ンタ l﹂ と ﹁松の木ギャラリー﹂と﹁チョンナ

物資を利用して物質に圧倒される現実を表

時には悲劇的だ。安元燦は廃棄された軍用

彼らの現代文明を見る視点は批判的で、

いう団体である。

た模索の一環として生まれたのが ﹁ 不毛﹂と

を現代文明に合わせてきており、そういっ

分裂し引き裂かれた文明の風景と対照させ

が命の象徴として緑色を提示し、それらを

義の問題、すなわち国土分断の痛み、断絶 された伝統の問題を表出している。安元燦

族史または自伝的なストーリーを通じて広

照樹党と都乗勅の場合、極度に限定された家

丁寧に突き詰めていくかと思えば、﹁三O カラット L は、女性の固有性を探査しつつ

体は、知識を美術として扱う試行錯誤を犯 術を志向する﹁後期美術アーティスト受話﹂

人間、自然展﹂(以上一九九一年)、そして﹁波

の企画で開催された寸われわれの歴史 一 O O年展﹂や﹁文化、人間、現実展﹂、﹁文明、

し、蚕食穆は屠殺場の鉄串にぶら下がった

明と自然の息づまる弁証法的対立を提示

性が息づく自然のイメージを併置して、文

クタ lを動員し、薄汚れた都市文明と原初

的に進歩的現代美術の獲得を狙 いながら

に解釈する。性業方法は各白違うが、基本

てトーテム、シャlマン、風水思想を新た

化から断絶された歴史を回復させよ、っとし

して都乗動は伝統と遊離するこの半鳥の文

るとすれば、李照壁は自然と都市文明、そ

批判するという共噌口⋮がある。この点は、 動│噴出の歴史展(一九九二年)﹂、﹁対角

肉塊を通じて尋常でない心理的緊張あるい

男性中心の支配的論理の権威にせ仇する野

すことなく、着実に進取的形式の要件を備

新しい団体の性向を見ると、さらに明確に 線からの風展﹂、﹁対応者ーその自伝的模

現して見せ、李照饗はスライド・プロジェ

なる。 索展(一九九三年)﹂に参加して共通の関心

えて、われわれの懸案問題を浮き彫りにし

一九九三年、 ﹁現代文明の不毛性告発﹂ を 趣旨に結成され、﹁コンピョン・ア 1トセ

寸抽象﹂を記標にとどまらず記意の次元にま で発展させていることがわかる。

新世代の美術について述べる場合、決し

は衝撃を警己出すという手法、そして聾宋 勲は死の現場を解剖する ことによって限界 状況の端にぶらさがっている人間の絶望に

り球径がこの世代の美学になっているとい

て見落とすことのできないことは、理論よ このような作業の内容も内容であるが、

ついて語っているのがその例だ。 ﹁不毛﹂のまた違った特徴として挙げられる

の﹁抽象﹂が自身の内在性、自己充足性によ

プ展を聞いたが、彼らの作品に描写される

ンフン・ギャラリ ーで﹁ 日常の生態学﹂とい うテl マで現在まで三回にわたってグルー

来、パタンコル・ギャラリー、そしてクア

ターで﹁軽さと柔らかさに対する一一 一 O代の 想像カ﹂というテ l マで創立展をもって以

うことだ。この方面の代表的な団体として は、﹁新村﹂をあげることができる。﹁ 新村﹂ は 一九九三年、コンピョン・ア lトセン ものは、 ﹁ 抽象﹂でありながらも主題意識を 顕著に打ち出しているとい、ユ事実だ。彼ら にとって﹁抽象﹂とは、これ以上審美的価値 にのみとどまっている固定概念ではないの

り外部の現実に対し門戸を閉ざす性質のも

﹁日常﹂とは、はかなく、それでいなが ら到 底抜け出すことのできない性質のものとし

はもちろん、高価な象牙のように身を装う ためのアクセサリーでもない。モダニズム

のとすれば、彼らに見いだせる﹁抽象﹂は、 ﹁内破された抽象﹂であり、ばらばらに引き

うな﹁雰囲気の構成﹂で満たされていると言

裂かれた状態で外部の現実をモニターし、 またそれに反応する。この受口、﹁抽象 が L 帯びる豊かな絵画性、堅固な造形性、隙の

える。例えていうならば、目の前にいきな

て描写される。そして、彼らの作品は、記 標が踊り、演劇舞台を一時移しておいたよ ない構成などは顕著に弱まって、代わりに

り現れ、それを見つめようとした瞬間市え てしまう、そんなものである。我々が予想

彼らには、﹁成叫尚早がある考えや事物の内

に付いた世代においては、お固い理論より、 ﹁ 球貨の{ゑ﹂が穏当な発想の居場所になる。

できるように、こういった剃那的徴候が身

その場には窮乏、荒い息、緊迫感などが新 たに登場することになる。安元燦に見いだ せる物寂しい、ある孤立感、 杢鹿⋮饗の ぞっ とするような不調和 のスペクタクル、杢俊 穆の残酷さ、または惨倦さ、そして都乗動 の意味が分散した文字の起用など。特に李

45

1993 View~o ation lI ~Ins


だ針金、乱舞する記号、映像イメージの刺

絡まった糸の一塊りのように絡みに絡ん

品をみると一層はっきりする。

ない。そして、こういっ主箱は彼らの作

美学を生産すると見るほうが妥当かもしれ

感覚を説明するのではなく、むしろ感寛が

刻的な季与の美学であるほかない。美学の

ーを説明する美学は瞬間的で触感的・即

容より優先しているように見える。﹁感覚﹂ が事物の内容に先立つとき、このよ、つな﹁感

ニール袋の密関空間、全身傷だらけの車椅

かりいじけた物象の世界、ボックスやビ

ばって進むモーター、密かな私的空間、すっ

激、おけらのようにべったりと這いつく

3∞× 初OX250c m. 1 ω4 rCloth~.

激、複製された傘、すらりとした柱、読ま

れることを拒む本などに見られるように彼

らの作品は意味伝達に執着してきた美術

にし、その代わりさまざまな色と形をし

からはかけ離れている。意味伝達は後回し

は感受性のための役割の演技者にな

た感受性がほとばしる。アーティスト

り、絶え間なく他人または自我の信 号と反応に敏感に応じる﹁他人志向

る。ここで我々は過度の自意識や依存心

性﹂、または﹁内部志向性﹂を表すに至

理、欠陥、老衰の徴候に関する不断の探索

になる。

など、一種のナルシシズムを経験すること

このナルシシズムを具現するために、ど

んな手法も検討の対象にする。鉄造、石造、

できるあらゆる媒体を、複合的に構成し演

木造などに依存していたパターンから利用

出習室増大させるだけでなく、完全な形

態、完了した作業、単 一のオブジ ェの代わ

りに分割された破片の組合せ、互いに違う

物質の混用、そして政治概今芋応用し、横

たえ、つなぎ、立て、くっつけ、はめ込む

などの彫刻的な反応を起こすように配列し

媒体の独自性を主張するというよりは

てある。

﹁効用性﹂に注目するわけだが、その効率性

とは、ぃ、2までもなくメッセージではなく

視覚的効果である。スクリーンの上を通り

すぎる映画の停止した一場面を連想させる

ということである。もちろん視覚的効果に

メージの体系、私的生活スタイルを伝達し

こだわる理由は、雰囲気、成雄問、情緒、イ

れていた夢、体、欲求、郷愁、趣味、心理

ようということである。言語の障壁に遮ら

このような世界とは、形態守備えているも

などは、こうして表出可能なものになる。

のではなく、まばらで、もろいことこの上

46


よってのみ捉えることができると見ると、

非体系的な言語、その場その場の表出に

構成が不可能である。むしろ複合的な演出、

ないものなので、体系的な言語によっては

﹁太い綱﹂を提赤することによって田克を好

ら怒っ意味のある試みを示した。﹁挟譜﹂と

注目し、韓国性の問題を女性主義の視点か

みて明性中心社会で抑圧された女性文化に

て近来の展示では韓国の伝統を振り返って

む思想と女性差別の問題を扱った河畏秀と

彼らの視覚的効果に対する依存は当然の帰

の橋によって、過去と現在を対比させた屋 銀京ら参〆加アーティストは、当面している 女性問題を韓国の伝統的観点から解き明か す 。

新世代アーティストが、抑圧された人間 の潜在的欲求を噴出させ、里議の余地なく

向を見いだそうとすることのほうがもっと

しかし、このような指摘は、新世代にの

大事なことかもしれない。

みある問題ではなく、どの時代にもあった

の美術から肯定的な側面を発見するとすれ

ことだ。そういった点から、新世代を十把 ひとからげに罵倒することはない。新世代

入式や説教亙孔の代わりに美術と文化の関

法論、世界観が扇状をなして繁殖している ということである。したがって、従来の注

ば 、 一つの潮流を見いだすことのできない 代わりに各種の主義、主張、スタイル、方

いう抵抗しているのは間違いない。しかし、

伝授されてきた価値基準から逸脱しょ、つと 全部がそうだと断定するのは速断である。

いう努力も、このような変化の兆しを端的

係を明らかに、また具体的に把握しようと

いった肯定的な側面は、彼らに条件抜きで

に表している部分と言えるだろう。こう

彼らの一部はあまりにも簡単に消費文化に ている。こういった点から、新世代の抵抗

はまり込み、日常の記標に溺れる隙も見せ と実践の潜在力を強調しすぎることは、マ 言葉の物神化に捉われて大騒ぎするような

れるであろ、っ。

拍手を送るのではなく、発言の勇ましきに 劣らず内実を期すよ、つ要求するとき発揮さ

スコミと広告が流布させた﹁新世代﹂という 無意味なことである。

女性アーティストだけで構成された﹁三O

ということに特色がある。その一つの例が

する河相林のインスタレ lション、華奈齢 の油絵、大地を人間の体に例えて気、血、

性の身の上を主体性の剥奪として鋭く分析

を形象化する廉ジュ コリ(厄払いの儀 ギョン、父権中心の社会から疎外された女

杷)﹂、﹁クッ(シャ l マンの儀式)﹂﹁プダッ

家庭の厄運を被い幸運を神霊に祈る祭

れるのに比べ、シャーマニズムと関係した 家祭﹂、すなわち﹁告杷(一身や 女性中心の ﹁

つということ、芸術と類廃のあいまいな区 分、もう少し悲観的に見れば、言葉では﹁個

、能力よりは欲求が先立 ﹁ばらばらの言葉 L

代という名とともに沸き上がった無数の

安気に見えるいくつかの理由による。新世

れは、現在進行形ということの外にも、不

座を占めていないように見受けられる。そ

おいていわゆる﹁新世代 は、まだ正確には

る論議が盛んに進んでいるが、韓国美術に

序の中で総括して認識できるよ、つにする理

特別な意味を与え音義を見いだしもする。 生の部分的な経験を、一つの統一された秩

足らない隅っこにまで入り込んで、そこに

を我がものとする。また、一部では取るに

流動的な霊凡に対して開放されたそのもの

皮し、現実の中で個人が経験する愛国的で

人間の﹁生﹂を規定し掌握する﹁因習﹂から脱

ユニークであるようだ。それほど、彼らは

彼らの絵は、現実の全体的認識と再現と いうリアリズムの規範に恋々としない点が

、 具体的な方法として女性 O カラット﹂ は の実態と潜在力を探求する隼奪行ってき

1 揺れる古典主義﹂、

極図、誕生説話より母性の普遍的価値を発 見する金美京、母情ではなく父情を通じ自

をして育てる仕事を担うと見た朴智淑の大

回程変叩を与え、万物の結実は女性が生産

個性を装った無個性であり、新世代を装っ

と大して変わるところがない。いうなれば、

見ると、新世代の盛又性とは﹁放縦の美学

態度も見受けられる。こういった側面から

新たな定義を待つ数多くの真実が隠れてい

個人主体の疎外された生の形式の中では、

係を提起しようという試みは高く評価でき る。誰かが述べたように、彼らが描写する

で、︿早奔的な再現の弱体化は惜しまれるが、

個人の意識と経験を中心にあらゆる生の関

らの存在の端緒を捜す杢貴美、最後に、二

とがわかる。そのため、この不建夫な現実

た旧世代的発想がここに入り込んでいるこ

L

はっきりいって、﹁新世代 の美術に関す

生﹄が作品 カラット﹂である。﹁女としての ﹃ の素材として使われ得るということを感じ

骨、肉など風水地理説を通じ解き明かし、

念依呆が存在しない現在の精神的状況の中

L

ており、三O代に属する自分たちを=一O カ

たない単語をつなぎ合わせるなどの無理な

性﹂というが、言葉としてまともに成り立

回展では﹁男性実在

また第三回展では﹁ルlツ捜し﹂をテlマに 設{疋、女性の立場から見た韓国性に関する

つの柱に設置された一二台のモニターとそ

以上の展示会に見られるように、﹁三O

問題をテ 1 マにして企画展をそれぞれ開い ている。

の前に歎々と据わった石臼で作った飛び石

ることを否認できないのである。

SL

ラットのダイヤモンドに例えている。この

る安美瑛、これと類似して陰陽原理により

女性のよ、つな生命の源泉にとして象徴化す

て、互いに助け合うために﹂結成された﹁三

団体は、一九九三年に創立展を開いて女性

李承娼、儒教的な祭礼が国在中心に伝授さ

L

の自我発展に関する問題を扱い、同年第二

結と言、える。 新世代の関心は一ヵ所にとどまっている のではなく、さまざまな方面に及んでいる

霊 の中で展望的な視点を確保しようとする傾

カラット﹂は女性性の発見、性差別、そし

47

1994 ~.


E見

イ ヒ

が国では 一年に五、Q μ υ 件あ まりの展示会が聞かれ、 一七 、

公δ 名あまりの美術品主が輩 出され、昨年の 一年間にソウルだけでもお およそ二七ヵ所のギャラリ ーと展示場が新 たにオ ープンした。そこで今年は光復(民 族解放)五O 周年を迎える意義深い年であ り、政府が指定した美術の年である。西欧 や米国の美術に 比 べ比較的歴史の浅いわが 国の 美術文化は不毛に近い環境の中でも、

i Z

それなりに変貌しながら成熟し、今日では 花している。 至って冬角化 日本の植民地支配から解放されて以来、 今日に至るまで自生的な近岱実暫乞持てな かった韓国画壇にとって、もっとも大きな 成果としてあげられるのは美術教育接関が 館、美術館、ギャラリーなど美術文化空間

大幅に増えたことである 。 のみならず博物

の輩出、﹂耶えて韓国美術の海外進出と活発

4 家らの専門人力 の量的な増加と画家、評 珊 =

な作品の交流が行なわれているが、ここで ぞいてみることにする。

は韓国の 美術文化の概況を谷蒋を通じての

韓国の美術文化の現況 美術館 韓国の代表的な美術館 は何と言って も 国立現代美術館。一 九六九年にオ ープン し、このあと一九八六年にソウル南方 の 果川 に建物を新築し移転した 。総面積二

000坪あまりで九つの展示場と野 万二 、 外彫刻場からなっている 。学芸研究室お 三課を置いている。近代 ・現代の美術品

よび管理謀、展示課、渉外教育課の 一室 、 を常特展示しているほか各種の企画展を 聞 いている 。国立現代美術館は美術館文 化学校を 設け、土曜美術講座、美術館学

υ在的↑ E︿

果川の国立現代美術館

48


金 達 鎮

~i ィ ー モ

車 童国

私立美術館のうち、美術文化の振興の

講座、青少年美術講座などの講座を聞い ており、美術教師の研修も行なっている。 先頭に立ってきたのは湖巌美術館である。 私立の美術館としては規模がいちばん大 きく、京畿道の龍仁にある。 一九八二年 に開館した。四OO坪あまりの展示室と 一万五、 000坪の野外彫刻場を備えて いる。先史時代の遺物から国内外の現代 ことで知られている。年に二回、展示品

絵画・彫刻品に至るまで所蔵物が多様な

る 。

を交替展示するほか企画展を開催してい ウォ lカlヒル美術館は、ソウルのシエ 一九八四年に設立

ラトン・ホテルのコンベンションセン ターに位置しており、

された。二二五坪の展示室と三四 三坪の 屋外展示場がある。韓国の現代美術作品 と古い民俗芸術品を常時展示している。 ソンジェ美術館は新羅千年の古都慶州 にあり、一九九 一年に開館した。七OO 坪あまりの展示場をもち、 囲内国外の有 ている。

名な美術家の招待企画展を中心に運営し 燥基美術館は、今は亡き西洋画家、金 燥基を記念して 一九九二年にソウルの鐘 路区付岩洞に建てられた。三OO坪あま りの展示場をもち金燦基の作品の常説展 示と並んで現代美術作品の特別展や企画 展も開催している。美術理論の講座を設 けているほか、美術関係セミナ ーや美術 鑑賞会、それに音楽会も聞いている。 ソウルにあるトータル美術館は一九九 二年に開館した。二OO坪の展示場を備 え、トータル美術大賞を設けるなど現代 美術の振興に力を注いでいる。このほど 新しく京畿道長興にトータル野外美術館 をオ ープンした。

49

J

ダ"

キム

る 料 資

国立現代美術館・資料室


SE ︿

光州市立美術館は一九九二年に開館し

凶けを

た。展示場は八四七坪。常設展示と貸館

展示している。

美術館会の会員を中心に講座を開くなど

韓国美術館は一九八三年に開館したが、 活発な活動を行ってきた 。一 九九三年ソ

之湖記念館、許チョンウン寄贈記念館、

展を併行している 。美術館には、また臭

ウルから京畿道竜仁に移転した 。展示場 は 一 のむ坪。

鄭官模氏が設立したもので、済州島の美

済州彫刻公園の新天地美術館は彫刻家、

許栢錬記念館がある。

とができる 。三 万坪の敷地に三OO点あ

﹁芸術の殿堂 内 L にある ハンガラム美術 館は五つの展示場に 一、O 五七坪の展示

は、ソウルに六人ヵ所、地方に 二 O ヵ所あ

あることに原因があるようだ。一九七六年

( 下) i剤 N ' 島の彫刻公園

; 斉州彫刻公園の新天地美術館は彫刻家、

雲郷美術館は忠清北道清原の 雲甫文化 韓国画壇の巨匠、雲甫金基調と 雲郷林峡 賢が我が国の美術界に及ぼした業績を偲

まりの作品が展示され、絵画が展示でき

タウンにあり、一九九四年に開館した。

んで建てた。 二 OO坪の展示場を備えて

しい自然と美術作品をともに鑑賞するこ

おり、文化タウンにある陶芸院、寿石展

る一五O坪の室内展示場もある 。

美筆巾場の長期的なスランプにもかかわ

ギャラリー らず、ギャラリーは弛みなく増加する趨勢

面積があり、一九九O 年に開館した 。国

るが、協会に加入していないギャラリーを

1 ~;

示館、野外陶磁器公園とともに芸術性の 高い展示場を提供している。 専用空間として 一九八八年に開館した 。

ソウル市立美術館は慶照宮の跡に展示 展示場は三OO坪あまり。毎月第一・第

高まり、件寄宇美術家たちの展示会が活発で

内外の現代美術の企画展と貸館展を併行

こでは大きなギャラリーを、中心に採って

含めると、実際はその倍かもしれない 。こ

にある。中産層の美術文化に対する関心が

三金曜日には市民美術講座も開催してい る。

している 。同じく﹁芸術の殿堂﹂内にある

みることにする。

に創立した韓国画廊襲爵属のギャラリー

書芸館は 一九八八年にオープンした 三 O 八坪のスペースで、主として書道作品を

( 上) から、龍仁の湖巌美術館、

「芸術の殿堂J のハンガラム美術館 ( ソウル) 、

慶州のソンジェ美術館、

美術作品をともに鑑賞することができる

平φミ 面白 己 X正

りと)は 一 ギャラリー現代(の巴ミ出ベ CZ

の画家の作品を展示している。これまで こ

九七O年に開館し、主に中堅、または元老

のむ回あまりにのぼる作品展を聞き、韓国 で最大のギャラリーといわれている。

カナ画廊は 一九八三年に開館し 一九八八

年に隔月刊﹃カナ・ア lト﹄ を創刊、一九九

版画工 房を開設するなど進取的主事業経営

O年にはカナ美術賞も設けた。さらにカナ

と海外市窪面の足場を築 いている。

サン画廊は一九七七年に開館、以来中堅 小会を数多く開催した。 一九 画家たちの墨 一 八四年サン美術賞を設けた。


美 一 術九

主 空 中年 的に に開

紹接 A、L

ご 買

ちの展示会を誘致している。 インコン・ギャラリーは 一九八八年に開 館しており、展示空間が現代的で造形的で ある。主にモダニズム系列の展一 一宏子乞開い

のア lトフェア1にいち早︽参 加しフラ ン

韓国の美術団体は、ほと んどが同じ大学

の出身である同門か、同じ地域の画家の集

まりであるが、小さい所では O 一 名以 下、

大きく江北圏と江南圏に分けられる。江北

オープンして以来、個性のある展示会を開 いて来た。

大きい所では 一のむ 名以上の会員を擁して いる。 一年に一、二回会員達の作品展を開

ギャラリ ー ・ソミは一九八八年に開館し

は仁寺洞、司一諌洞、東崇洞 一帯に、江南は

ス美智乞数多く紹介した 。 朝鮮画廊は 一九七 一年、エ画廊は 一九七 八年、ピョ画廊は 一九八 一年にそれぞれ

現代的で実験性の強 い作品を紹介してい る。

新沙洞 、 清 調停洞、瑞草洞に密集して いる。

韓国画の画家の集まりである﹁新墨会﹂は 古山身からなり、 一九八四年に創立 弘益大 μ された。自然を観照して表現する新しい価

パクヨンドク画廊は一九九 三年に開館 し、主に三O代後半から四O代初めの若手 美一塑軍部の展委事開いている。

部門別に主要団体を探ってみることにす る。

いたり、または公募展を聞いたりしている。

パクヨスク画廊は一九八三年に開館し、

値観を模索しながら山水画を主に描いてい

ている。

以来充実した中味のある塵一公訴を数多く開

一年に数回企画展を行うギャラリーと貸館

展示の性格からみると、常設展を主にして

しい活路を模索している。

催しているが、工芸にも関心を寄せている。

ソウルのギャラリ ーは、漢江を境にして

ハクコ ジ ェ画廊は一九八八年に開館し、 古書画の専門画廊として出発したが、最近 ζfo z ︽ ∞一﹀

アメリカ美術を展示中の国際画廊

珍画廊は 一九七二年に開館したが、海外

韓国画を中心に扱っており、伝統絵画に新

トンサン画廊は一九七五年の開館以来、

装 置 男 官

ははっきりした主義・主張をもっ美貸家た

身であ 韓 国 の 美 術 団 体 は 、 ほ と ん ど が 同 じ 大 学 の 出'

る同門か、 同 じ 地 域 の 画 家 の 集 ま り で あ る が 、 所では一 O 名以下、 小さい 、

え さ い 所 で は 一 O O名以上の会員、をい擁している

を主とするギャラリーとがある 。韓国画廊

である。﹁春秋会﹂は彩色画を追求する画家

る。﹁新樹会﹂も弘益大学の出身によって 一 九六三年に創立された比較的古い画家集団

達の集まりで、 一九七五年に創立され公募 はソウル大学 展も聞いている。﹁韓国画会 L

リーごとに画家を推薦して、年例行事とし ての全国規模の画塵美術祭宙開OCF﹀日 N同, 匂己河)を開催しているが、 一九九一年から

現 まで多様な作品世界を追求している 。﹁

協会に所属しているギャラリーはギャラ

は清揮美術祭(の国 CZのり﹀冨﹀児、﹃匂﹀局) を 、 一九九四年からは新沙美術祭をそれぞ れ開いている。

代韓国画協会﹂は、東洋画という呼び方を 捨て韓国画とすることを唱えて 一九八一年

出身によって 一九六七年に創立された。伝 統的な作品から抽象画的なジ ャンルに至る

美術出開得

1 5

る最 。近国


西洋画家たちの集まりである﹁具象展﹂は

に創立した。

今 念 中

理 新しい音意山味をもつ具孝乞主士尚するとい、うつ是 展も兼ねており、最近は韓国画画家も何人 か加わって写実と抽象の中間的な立場の作 は自然主義的 品を追求している。﹁ 木友会 L な室長大を志向して 一九五八年に創立した。 公募展も兼ねており彫刻、韓国画、文人画 の画家も参加している。 ﹁エコ ルド・ソウ ル﹂は毎年招待された画家たちによって運 営される暫定的な団体で、 一九七五年に創 立展を聞いた。一九七0年代援半以来、韓 オリジ 国現代美術界をリードしている 。寸 ン絵画協会﹂は弘益大学出身の集まりの中 ではもっとも大きな団体で、 一九六一二年に 創立された。非具象の作品を追求している。 ﹁ は抽象系列の作品を中心に 創佳夫術援 E ﹂ 一九五七年に創立され、公募展も兼ねてい る。﹁韓国現代版画家協会﹂は版画の基礎固

水彩画を奮い起こし相Eの研究と活苧乞活

めと普及を目的に一九六八年に創立され、 韓国水彩画協会﹂は 公募展も兼ねている。 ﹁ 発にするために一九七五年に創立された。 彫刻家たちの集まりである﹁ソウル彫刻 会﹂は、ソウル大学出身の同門たちが 一九 韓国具象彫刻会﹂ は、 八 一年に創立した。﹁ 具象系列の彫刻家 によって 一九七七年に創 立されて以来、毎年文化放送 (MBC)の後 援のもとに MBC韓国具象彫刻大展を開催 している 。﹁韓国彫刻家箆耳﹂は、彫刻文化 の向上・ 発展と彫刻家の権益を擁護するた めに一九八五年に創立された。﹁韓国現代 彫刻会﹂は弘益大学の出身者たちが 一九六 九年に創立したもので、抽象的な作品で意 欲をみせている。 韓国工芸家 工芸家たちの集まりである ﹁ は一九七 四年に創立された 大きな団 協会 L

全国の美術家を網羅している韓国美術協会の会員は一九九五年現在、

ソウルに五、 0 ニ七名、地方に四、 一五七名の計九、 一八四名で、ある

川河

1 hU h1h fe -s g 1z 2 ﹃ H I tT ' ss SE Et g﹃' ・ ・ 1 ・・・ L H h u h H a t 1 H 1 h 11 2 5 2・ 5 ' e, ' 't 't ' Re E 増S -E st ts' -' sF tE t Ee t げ

1

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-B -E tE zt 'E St Et IZ EE EE E l S 't St Pt RE EE ﹃ t﹃F E EE E 川 町 、1 f1 z ' ・ 1 tg EE lI iF -E -F ' ・ 晒 E ・・ h白川町E・ t EE FE ES

• •• • ...

oOZ面白崖亙 コ

ソウルの K OE X展示場内の彫刻広場

、 i i t

52


応韓国美術援去の会員数が参考になる。韓

科を置いている。

体であり、金属・陶磁・木漆・染色の各分

が二七名、彫刻家七七六名、工芸家一、

名、西洋画の画家主 ニ、八七八名、版画家

計九、 一八四名である。これをジャン ル別にみると韓国画の画家が一、七一人

この協会の会員は一九九五年現在、ソウ ルに玉、 O 二七名、地方に四、一五七名の

し、会員の推薦を受けて入会する。

展覧会に作品を発表した実績のある者と

載された﹁韓国近代美術を見直す﹂という

いる作家としては、ある美術関係雑誌に掲

韓国の作家のうち、もっとも評価されて

韓国写真作家盟百には三、 の会員がいる。

を行なっている。

トリエで少数の生徒に数えながら作品活動

の教師、または美術教室を運営したり、ア

韓国の低めの山野、典型的な田舎の風景と 貧しい農村の暮らしを好んで描いた。独

査委員を歴任し弘益大学の教授も勤めた。

家になった。解放後、国展の切叩﹁侍画家、審

始めた。連続しての受賞と特選とで推薦画

ある。

国美術援云は 一九六 一年に創立されたが、

特集で近代美術史学会の会員、または近

作家の数を正確に言、つのは難しいが、 一

術科を率業して満一一一年以上作品を発表して

R90 あまり

岱美術関連の著述者三九名の推薦によって 選ばれた。選ばれた美術家は次の七名で

特の表現と写生風の綴密な構図をもって

た 。 一九二二 年から鮮展に出品し、伝統的 な水墨画の新しい創造的追求で脚光を浴び

墨書道公州出身、書面芸賞五で優子し

奈象範一 ( 八 九 七 │一九七 一 )

新会員の加入資格としては四年制大学の美 二六二名、室夏場家 一、 O 一七名、デザイナー 三九四名、-評論家二二名である。しかし実

韓国建筆家協会に 一、 一QU争あまり、

きた生議のある者、専門大を卒業して六年 ており、会員達は大学の教授・講師、美術

際の美術家の数は、はるかに多いと見られ

作家の現況

二年間美術を専攻した者で擾訴が認定する

知られている。 一 九七二年の﹃東亜日報﹄主

己特別展(国立現岱美術館)などが催され

催の遺作展(新開会館)、一九八 二年の十周 た 。

← ト寛植一 ( 八九九l 一九六五)

黄海道要書山身で外祖父の趨錫晋に師事

し、日本にも修学している。 一九一一一年に

五七年に国展の腐敗ぶりを暴露してからは

始まった書而問史云展と初期の鮮展に出品し た。解放後は国展に出品していたが、一九

た。奔放で荒い筆致と墨を大胆に使用する

画壇を遠ざけ、首都女子大に出講したりし

寂歎法と破墨の技法を見せた反骨の画家で

あった。金剛山の実景と理想郷を目指した

農村風景を数多く描いた。 一九七四年の個

人展(現代画廊)と一九七五年の﹃東亜日報

社﹄主催の懐古展(新開会館)が大きな展示

会であったといえる。

江原道楊口の出身で独学で絵を始めた。

鮮展に初めは水彩画を出品、一九一二六年か

ら 一九四O年にかけて入選し、国展でも推

さい、北から南のソウルに住みついてから

薦画家や審査委員を歴任した。韓国戦争の

53

以上作品を発表して来た実績のある者、 十

120焔 Ocm,1962 ~


50X お cm,1955

市場の行商人、 露天商、路地の風景、裸木、 のもっとも平凡な人々の暮らしを独特な視

子供を背負った女などを好んで描き、韓国 点と造形言語で形象化した。単純で堅固な 形態、花山田石の表面や泥のかたまりのよう

一九七0 年 代 に は

を歴任し、当代の天才画家として脚光を浴

一九四八年に個人展(トンフ 7画廊)を催

びた。解放後、梨花女子大学の講師を勤め、

し、塑化絵画研究所も開設、運営した。一

七年には未発表作展(文化画廊)がそれぞれ

九四九年に第一回国展で審妻責を勤めた

なマチエ lルの独特な棒式で表現した。一 九七五年には十周忌展(文献画廊)、一九八

一九七二年に遺作展(ソウル画廊)、一九七

が、韓国戦争中に三九歳の若さで他界した。

おり、もっとも高く評価されている画家の

聞かれた。自由奔放で個性が強く豊かな感

生喜]空間を表現した。国立現岱美術館で

面分割の連続的な四角の中に点描の連続的

成の抽象を経て、一九七0年代には新しい

(丹孟台)精神と民族意識をもった知識人とし

湖南地方の美術の発展をリードしソンピ

め、国展の招待画家と審妻責を歴任した。

{妥看し 一九六O年まで朝鮮大学の教授を勤

人画表を刊行した。一九八四年に光州に

強い叙情玉義の面貌をみせた。

選び、華麗な色彩と鋭いタッチで盛丸性の

面で受け入れた。生活の周辺からテ l マを

性の所有者で、印象王義の絵画を感克♂的な

し、二科展、自由展にも出品した。一九五

一九七五年に懐古展、 一九八四年には十周

て具象画に対する確固たる信用念と理論を兼

全羅南道新安の出身で日本大山︹T乞-卒業 六年から三年間パリに滞在し弘益大学の教

の中でもっとも世界的な画家として評価さ

忌展がそれぞれ聞かれており、韓国の画家

とニューヨークで他界した。 一九三0年代 には具象王義的な椿式化による抽季乞追求 し 、 一九五O年には月、山鳥、白磁などを 主題に豊鏡正色彩と詩的な 表現の様式化さ 一九六0年代後半の幾恒子的で単純な構

れた作品を世に出した。

備した画家であった。明るい外光描写と印

協套に出品して新美術家建耳を結成・活動

本の文化学院を卒業し日本の美術創作作家

平安南道の平原出身で、一九四O年に日

した。韓国戦争中に北から南に下り釜山、

. 開 い た 。野獣派的な表現で牛、鶏、桃-子

け、一九八五年には懐古展(国立現代美術

李仁星(一九二了一九五O )

館担が開かれた。

象主義の技法を固守した芸術論を保ち続

l 一九八二) 果之湖(一九O五

で初めての原色の画集﹃呉之湖・金周経二

全羅南道和順の出身で 一九一 三年に東京 一 九三八年には韓国 美賀子校を卒業した。

西帰浦、統営などを転々として避難民事り しをした。一九五五年にソウルで個人展を

れている。

李仲饗(一九一六│一九五六)

エンナーレの各春闘賞を受賞し、渡米したあ

授を歴任した。一九六三年サンパウロ・ビ

金燦基(一九三

T 一九七四)

ひとりである。

四角の・中に点描の連続的な青色空間を表現した

五年には 二 O周忌展(現代画廊)が聞かれて

新しい面分割の連続的な

何学的で単純な構成の抽象を経て、

大郎出身で日本の太平準黍型子校を卒業

( 下) 李仲塗, ~

+苦労を重ね、晩年は白内障で左の目が失明

93X157c m,1971

するなど、貧しさと苦痛の中で他界した。

一九七四)は、、一ハ0 年 代 後 半 の 幾

( 中) 呉之湖, ~

した。一九=二 年から一九三六年まで鮮展 で受賞および特選を繰り返、えして推薦画家

i

金焼基(一九一三

178X127c m,1お 5

()~

S4


トリエンナlレ、バングラデシュ・ビエン

・ イ ンド ンナlレ、カンヌ・ビエンナ ーレ 、

供らを素材にし、郷土的な宣号民墜思識 をベ 1スにして描いた。純真無垢な天性と ナーレ、ペニス・ピエンすlレなどであっ たちが中心で、朴栖甫、金昌烈、沈玄安、

た。これらに出品したのは抽象美術の画家

らが最多出品の画家である。若手の画家、

る。晩年は家族との生活、離別など盛り込 んだ自伝的な作品を残しており、 一九七二

陸根丙は 一九 九 二 年 の 第 九 回 カ セ ル ド

作家的精神のため多くの逸話を残してい

年の遺作展(現代画廊︺と一九八六年の 三 O 周忌展(湖巌ギャラリー)が、その面貌が窺

している白金男は、 一九七一年以来これま

白金男版画と視覚デザインの作品を製作

外で活発に活動している。

キュ lメントに招待されて以来、囲内・国

河鐘賢、李馬媛、徐承元、予亨根、表明老

える大きな塵 一 公 Eであった。 以上挙げた七名のほかに、金復鎮(一九

)は歴史の屈折と波乱を躍 九四O

動的で壮大な人物群像で表現し、最近新し

O 一ーー 一

い評価を受けている。高義東(一八八六│

一 一 でに何と 一 O回以上の個人展を聞いてい る。現在、韓国美術の流れは 三O代から五 O代までの作家がリードしているが、国内

一九六五)は韓国最初の西洋画家であり、 近代美術界の大物、金殿錆(一八九二 │一

回以上出品している美術家が増えつつあ

外でのアlトフェアl へ 一年に三回から五 る。韓国美術の海外展は一九九三年の 一一一 一

九七九)は伝統的な彩色画の大家で、数多 上記の李象範、未官積、朴書根、李一仲壁、

おり、また外国の美術家の囲内展も 一九九

九件から 一九九四年には二六九件に増えて

くの弟子を育成した。 金燦基らは作品に高い価格がつけられてお

一一一四件というように増え、韓国美術の海

三年に一七七件だったのが一九九四年には

り、ニューヨ ークのソドピ lクリスティ lの 韓国の現岱美術が国際展に本格的に参茄

いることを示している。

外時苦凶と国墜交流がますます活発になって

韓国美術品の競売でも売買が行われている。 し始めたのは 一九六0年代からであり、主 にパリ・ビエンナ ーレ、サンパウロ・ピエ

5

162 X 13Oc m . 1982 2~ -6

51 X100cm. 1988 8629~.

( 下) 白金男。『手紙

82

( 上) 徐承元。『同時性


は韓国画壇では聞き慣れない名前であっ

展を聞いたときでさえ、彼の名

国生活の後、囲内で初めての個

し・ながら活動していて、それこそ文字どお

ク所在の作業宗山才乞運営、日本や韓国を往来

大学で修学したのち、これまでニューヨ ー

の後米国のニュ ーヨークに渡ってフレッド

学、そこで本格的な美術の修業に努め、そ

た。しかし、これまで漢江での水上ドロー り後期産業社会の多文化的な感性を持って 地球村﹂の作家といえる。 いる ﹁

九八九年、全書千が長い間の外

二回にわたる個展(九二年と九四年、カナ・

イング、大田エキスポのシンボル造形凶明、

の経験│すなわち自分を自分が生まれた

彼の作業傾向は自分の置かれいる、また

国の地理的・歴史的な範囲内ではなく、そ

は彼自身が自分に与えた特殊な環境と認識

四人の代表作家の 一人として選ばれて参加 の外部から内部を覗いてみる ー を反映し

レの韓国館開館を記念する初の展一 一 公 耳 の 、 することになり、いまや韓国画壇では確実 ている。彼は八0年代の後半からこれまで

ギャラリー)、それにペニス・ビエンナー

ている。実際に全書千は早くから日本に留

な位置を確保した作家として浮かび上がっ

神 と芸術

X

ω コー 主面的 巴 証

1 ~

( 左) ~

一一-

' 95ペニス・ビエンナーレに出席する韓国の代表作家

の一人、 全霧千。彼は国立現代美術館により「今年

の作家」に選抜され、韓国画壇の注目を浴びた

質文明の弊害を批判する。 1, 500余の土偶からなる巨大

な設置作品である

56


ICL OS E UP 司

宋 美 淑

誠信女子大学教授・美術史

宿借り、惑星、または最近の土偶などとそ れぞれ姿を異にしているものに打ち込んで

る。

いるか、または背を向けた姿であり、ほと んど全部が黒い シルエ ットで処理されてい

のもっとも本質的な問題に対する 一貫した

ある実存の条件状況に集約される。この人

な関心は人間であり、彼の普遍的な問題で

た人間の実存状況ーその力に従属される

可抗力的で不可解な力により条件づけられ

作業は、人間の実存に対する状況、ある不

であったが、これらは強い表理王一 義的な傾 向を持 っていた。現実に焦点を置いた彼の

聡した難民のメタポとしての絵の意味は、

棄物に生存をかけて生きている宿借りに隠

一九八0年代の彼の隼在主に絵画部円

関心は、しかし素材のモチーフ、方法と媒

か、または疎外されて離れていかねばなら

が、われわれみんなの実存状況と健闘係で

作家自身の現実経験を踏まえているよ、ーだ

けがつかないようにフ1ドをひっかぶって

たような渦学 ¥ 筆さばきと赤と青の色彩に 告義された画面は、人物たちが正体の見分

全蕎千の激烈な表現主義の趨勢は、人O

る 。

はない、すなわち普遍的な問題を扱ってい

ひとの家を隠れ場にして、使い捨ての廃

実存の様相をそのまま伝えている。

らの動作は巨大な力により左右される人間

体、またはスケールの変化を通じて多様に

ないと、その悲劇的な現実を取り抜っ

る。不一確定な正体というものではなく、彼

発展してきた。こうした変化は、彼が自分

ていた。巨大な火炎または風に巻き込まれ

はいるが、その実、彼の作業至における主

に与えた生活整列すなわち据え付けられ せず、常にさすらいながら生活し、多様な

たもののように、ある 一つのところに安住 経験を持っていることに原因があるといえ

57

その作家精 dr~ uzs___ -" .

当r

-=・ 一 一

ノ ノ 、 』 :t


i o z u コ 目 XEJ 珪

年代末になって落ち着いた感性に置き替え

られる。人物は依然として彼の主な素材で

けで正体が見分けられる屈んだ垂直のシル

あり、その姿は依然として頭と肩の曲線だ

エットに処理され、隠磁の形で登場する。

ときどき身体の一部分である手、足、顔な

の中でも顔はアンゼルム・キlパlの作品

どが断片の形象で画面に登場する。これら

でのように歴史の寓意的なシンボルであ

り、これらは他の形象、例えば卵、梨、亀、

ている対象物である。これらのシンボルは

矢、螺旋型、十字架などとともに界事cれ

コラージュされた金属板や板などに刻まれ

画面に描かれていることもあれば、画面に

ていたりする。これらは具体的な叙述の対

象というよりはステンシルで型染めしたよ

うに平面化・抽象化された隠喰現象に近

ν 、 画面には、ほとんどいつも鉄の棒が曲げ られて円形の曲線をなして笠看されるが、

されている

グ展J を催して、

1989年には、ソウルの漢江で「水上ドローイン

スケールの大きさをも披露した

このときの暴露 Cという盆幽のタイトルか

『土偶 I ~

いるに違いない。い まや彼の主な関心であ

たものは、個々の惑星をシンボライズして

ら推して、球憲一の軌道運動の経路を読み取 ることができる。この軌道線上につけられ

安定した人間関係を象徴するものとも

58


ルに変化しているということを物語ってお

る人問実存状況の概念が、現在の時間と現 実空間でより大きく全体的な時空のスケー

図が変化を代弁している。しかし、こうし

り、現象の客観化された再現と安定した構

た変化にもかかわらず彼の以前の作品での

不安とノスタルジアと混沌のような現実の

実存状況は、依然として 一つの端緒的なモ

チーフとして残っているが、指標を失った ような混沌とした足跡、広げた手、垂直の

シルエッ ト現象などがそれである。

九0年代のはじめ、作家は本然の絵画的

から好んで使っている特徴的な構図や構成

+ n伝に戻っているが、しかしこれらに・主削

技法やシンボルの使用などは以前と変わら

ない 。絵の具を薄く塗ってベニヤ板の木目 をきれいに生かした表面は、色彩と筆さば

人物は依然として彼の主な素材

であり、その姿は

依然と し て頭と烏の曲線だけで

正体 が 見 分 け ら れ る

忌 ん だ 垂 直 の シ ル エ ッ ト に処理

され、隠喰の形で

登場する

S9


X

崖 ω 平 互面的 己

『 知恵の光』。ネオン、石膏 、 映像。

1, 850 x250 x 24Oc m . 1995

跡、とりわけタイトルが示唆しているよう

に人間の形で表現した神(または神格化し た皇帝)の顔などである 。これらの写真転 宝物を収集するため多くの美術館 ・博物館

きのテクスチャーを効果的に運用した表面

ある。昨年催されたカナ・ギャラリーでの

に通ったという全書千は、この作品で﹁惑

と交錯して表れ、ときどき鏡のように尭沢

個展で全書千は特異な類型の設置作業を披

をだすステンレス板が画面に代わることも

露したが、﹃神の顔、人の夢というタイト

星 L人 ( 間)たちのまた別の世界に、いわゆ る神話への旅程を通じて歪万全で混沌とし

ルの設置オブジェは一連の平たい電光箱 否手乞明るくする照明 で、これらは暗い展-

た実存の条件を提示してみせている。 美術の年である今年、ペニス ・ビエン

ナーレの韓国館開館のテ lプ を 切 る 初 展 示に代古衣作家の一人に選ばれた全蕎千は、

てられるか、または床のあちらこちらに歩

同時に国立現岱美術館の﹁今年の作家﹂の栄菅

の役割を同時に務めていた。悉置に長く立

ている箱の 中のものは、東西古代文明の遺

行を邪魔するかのように散らばって置かれ

ω


ステンレス、オイル、鉄 。 ~.

245X 2ωcm. 1995

コ IOZ 百三巴崖

ソウルの国立現代美術館で開催された作品展には大型の設置作品のほか、初期の平面絵画など、 彼の作品が網羅的に展示された

1 6


, 平OZd 凶的XE Z

『人間の顔、神の顔s. 1, 0 c mX 5

∞ ∞X 121cm. 1994 異例的に作家が望む埋棋の墨否宏¥王で別途

外には不可知的で非可視的な精神の歴史の

明るくしてくれる道、または追求する者の

ネオンの光線は過去と現在・未来をつなぎ

ボライズし、これらの聞に長く延ぴている

の予算を掛けて設置した今回の﹁今年の作

までさらうこととなった。美術館開館以来、

家展﹂は、最近の全蕎千の作品の傾向と同

字の起用で一層直裁的に提示されている。

軌跡、または輪を象徴しているかに見える。 次の展示室にある一名﹃進化する惑星ら

ここにうず高く積まれた砂利は混沌の自然

じように設置作品で一貫しており、作家が

展示室は、大部分、設置の主なシンボル・

を、そのうえに散らばっている透明なビ

の道目Cという設置にも、似通ったメ ッセー

モチーフであるとともに照明の機能まで兼

ニールや板はそれに刻 ま れ た 文 字 │ 文

いるが、これらはいずれも互いにつながり

ねた、怪異な雰囲気を醸し出す青灰色のネ

明・社会主義・兵器・知恵ーなどから推

完全に再構成した六つの部屋で展示されて

オンで明かりを取っている。最初の展示室

して、文明社会、すなわち自然の徴表であ

ジを読みとることができ、メッセージは文

に入ると、ネオンの光線が長い室内を横

り、その 上に釜えて浮遊しているように浮

合っている。

切っているが、これがなければ重⋮のよう

三番目の塵歪孟にはライフ・キャスティ

に暗いはずの室内を照らしている。そして

ングした灰白色の幽霊のもののような石膏

かんでいるネオン棒の管は﹁進化﹂(放浪?) らの土偶は、あるものは腕歩前のほ、つに伸

の簾が、それぞれある目標や方向性もなく

する惑足墓を象徴するかに見える。 ばし、またあるものは両の手会﹄前のほうに

まれているが、それらはあたかも、ある見

四角の床には、まわりの縁だけ残しておい

集めて組んだ次奏で立っている。ほぽ中央

えない引力が働いているかのように、ネオ

て、どこにも土偶が並べられている。これ

には、土偶が重なりあって山と積まれてい る。土偶のモチーフは再びシルク・スク

ボライズしているネオンの光線は展示室の

円を描いている。﹃知恵の光り﹄というタイ トルが示唆している ように、テーマをシン

床に自由勝手に散在しているか、または積 リーンに転写され宮丙の三面の壁を満たし

ン棒が始まっている中心に向かって大きな ラスでまとめられ、その下には産業廃棄物

土偶が置かれている展示室の床は強化ガ

ている。

とかがらくたで満たされている。地下のゴ

のビデオはその横のタイプから引き続き打

ち出している文字を捉えている。たぶん足

隅に置いてあるピデオ映像につながり、こ

跡は人間現実の混沌状況を、 一五メートル

二疋の間隔を置いてネオンの棒が立ってい るが、これは先に触れた青灰色のネオンと

ミやがらくたなどと床のガラスの聞に所々

ともに唯一の党源となっている。ここで作

次の展示室の設置作品は全書千が八0年

る秩序を象徴しているのではあるまいか。

代の後半から手がけてきたオブジェ作業

以上の長さのネオンは混沌のなかに内在す る産業社会や物質文明の豊能のなかで暮ら

家は、観客が土偶の聞を縫って歩きながら、

しているわれわれが、世の中にどのよ、?な

で、鉄兜を利用している。しかし、これま

その下の産業廃棄物を見下ろして、いわゆ

弊害を与えているかを吟味するように仕向

に変形されていたのに対し、今回の設置で

での佑業では鉄児が戯画化した仮面の素材 けているかに見える。このときの土偶は韓 国人の内面精神のアイデンティティをシン

62


OZ面白XE 証 子

『進化する惑星』。ネオン、ステンレス、鉄筋、砂利など。 1, 2 X 7 0 0 X 1 お cm . 1995

ある鉄兜とは違い、十字架、釘、手、回在

ており、これら十 一個の鉄兜は床に並べて

に作った小さな柱のような座台に支えられ

目の中央列に位置する鉄兜は、上段を斜め

軍墜孔の整列を比聡して見せている。四番

に│一列に十一個ずつ七列に│並べて、

をそのまま展示室の床のうえに一列

は幸運の数字を二回反復した七七個の鉄兜

国立現岱実術館の今年の作家展における

世界を類推してみせようとい、?ものであろ 、 ﹁ ノ 。

態の過去の神の歴史を借りて、いまの人間

ジを選んだことは、破損し歪万全な混沌状

ないか、または身体の一部が欠けたイメー

例事乞選んだことと、さらにほとんど頭が

人間の姿に表現した古代ギリシャや仏像の

古代の作品においても、とくに作家は神を

像を借用している。遠い過去の東・西洋の

ハイライトは、なによりもまず最初の展示

の性器、犬の顔、民俗仮面などの形のもの ちろん進歩という美名のもとに│人聞社

室の﹃土偶E﹄で、この作品に若干の手を加

を溶接して入れて、戦争に比聡した│も 会の残忍性、性愛、宗教などを告発してい

という。結論的にいって全蕎千の強みは、

えペニス・ビエンナーレに出品する弔人疋だ 五番目の塵歪在、最初の展-一主主同じ

る 。

や方法に塾宥・安住せず、ひとりで漂泊の

る一つの場所やグループ、または文集実

生活をしながらも多くの文化と筆入をじか

彼が自ら選んだ生存の亙入、すなわち、あ で作った長い直四面体の鉄板の枠の中でも

ようにテラコッタで担ねて作った土偶の群

土偶の列は続き、枠の背後にも土偶の行列

に見、体得した炉ぷ惨 γ 蕗まえて、人間のもつ

れを、ここでは二列に並べてある。ガラス

は続いている。さらに、その上のほうにも

とも普遍的な問題である実存の条件状況

すべての過程、概念品医疋における構成、製

土偶は続いている。これらの土偶は脚まで

作、そして設置に至るまで、他人の手や知

を、霊協な個人主義や自我陶酔的な国家

品の一つであるこれらの小さな土偶人形

識を借りることなく、彼自身がすべてをや

土に埋もれており、その合聞に青灰色のネ

は、韓国固有の精神文化のなかではもっと

り遂げたということにある。彼の独創性は、

にある。また、もう一つの強みは、年末の

も素朴で安定した人間関係のシンボルであ

主義に陥ることなく、執捕に探索したこと

り、その材料であるとともに生成と消滅の

まさにこのような徹底した匠の精神と客観

オンの光線が流れている。新羅時代の上流

もっとも近しいモチーフである土との関連

貴族階級の撞暴などでよく発見される副葬

性は死、ひいては時間の歴史に探し求める

的な歴史と文化意識から発見されるのであ る 。 ことができる。 六番目の展示室、すなわち最後の輩犀 品は、昨年カナ・ギャラリーで聞かれた個 の顔、人の墜というタイトルの作品は、

展をそのまま再現させたものといえる。﹃神 転宝物が入れてある電光箱を利用した設置 隼宋であるが、この作業で作家は東洋の仏 ク期や古血期の古代ギリシャの神々の彫刻

像と西洋の古代作品、大部分がアルカイッ

63


-・ ・ 圃 璽E一一 圏 直 理 ・ ・ ・ ・ 一 -.盟 一 一 一 一 一 「 │



犯罪も起こったことのない村が江原道には

原道に住んでいる人々は、かえってそうし れていない自然の景観を心ゆくまで楽しみ

アリラン峠を培えさせ給え。

この江原道に錐善という田舎町がある。 雪を降らさむか、雨を降らさむか、

れるが、この歌詞に出てくる万寿山は高麗

それは、五百種を超えるこの地整晋アリ

今でも韓国の奥地といえば、十中八九この

いつごろから歌われたかを教えてくれる。

ながら車を駆っていくと、やがて整官巴(邑

いほど、地方の人々の心根は純朴で、他人 長梅雨とならむ 万寿山に雲が黒々と群れる。

これに取って替わるや、高麗王朝の七名の

は日本の町・村に喜子る)に到著する。

をけなすとか、私腹のために他入に魯室 娃善を数えるほどの山奥のまた山奥であ る。しかし、だれも自家用車多持っている なにゆえ咲き

忠臣は二君に仕えることはできぬとして、

でいるのである。

えるようなことはしない。こうした心情 主d 今では、この地もさして遠い道程ではなく

官職を捨て深い山奥として知られていたこ

た開発の波が打ち寄せなかったことを喜ん

は、彼らが生活の場としてきた江原道地方 なった。江陵に抜ける東部高速道路を東に

はなにゆえ鳴く ほとと宝寺'

暮れ行く春の三月でなかりせば、

多い。市場などでも、ののしり合ったり、

の自然環境と関係がある。韓国の山河は、 向かって走ると、江原道の高地帯で上陳富

言い争ったりする光景は滅多に見当たらな

都市化に向けた開発のため圏全体が掘り返 インターチェンジが現われる。ここで南の

ozd XEZ

の基音の地に忍び住んで生事乞過ごした。

二五二年高麗王朝が滅び、朝鮮王朝が

の都であった開城にある山で、この思詣が

ランの歌調のうちもっとも古いものと思わ

され喧騒をきわめている。しかしこの江原

アリランアリランアラリヨ

白砂の浜でなかりせば、はまなすの花は

道だけは自然の鍛損がほとんどなく、汚染 ほうに折れ曲がった国道に沿って、汚染さ

ソン・バウィ( そびえ立つ岩)

されていないところも多い 。そのため、江

寧越地方の清i令浦頂上の


67


のあるものではなかった。しかし長い歳月

詩を詠んだし、またそこにつけた音律も趣

もとその士大夫たちは漢文からなる望郷を

度切りになったという。この島商は、もと

れがほかならぬ旋善アリラン・シリーズの

回想し、残しておいた家族を懐かしむ気持 ちから詩を詠んで心の痛みを癒したが、そ

隠れた士大夫たちは過ぎ三玄った昔のことを

新しいもので入れ替えるのである。焚き口

にも必要に応じて朽ちたものを取り除き、

このノワの寿命は五年までであり、その聞

にして載せておいた住居がノワ家である。

に吹き飛ばされないように所々に石を重し

つ噛みあわせながら屋根にふき、これが風

る。これらの板で上のほうから端を少しず

を斧で割って作った少さな板状のものであ

このようにゆ ω 節を{すゐがために、この地に ・ 赤松の短い丸太を縦に立てておいて、これ

に百一って、土地の人々の口を通じて謡われ のほうで薪をくべると、煙突から抜け出ら れなかった煙がノワとノワの隙聞から立ち

哀歓が自然のうちに溶け込んで哀切なメ ロ ディーに替わり、五百種に余る歌詞が生ま るがままに屋根の上に載せて、ノワで屋根

葺いた家のことで、一般に石のかけらをあ

石瓦の家は薄い板状の青石で瓦代わりに

ほどだとか、または鶏が鳴けばその鳴声が

峰をつなぐ洗濯物の干しひもを掛けられる

を指して、元談半分に前の山と後ろの山の

今も、この地方の人々は自分たちの土地

クルピ家は、ともすればノワ{本と混同し やすいが、クルピとはくぬぎの皮のことで、

る 。

環境からたやすく手に入れることができ

屋根茸きの材料は、どれも家の周辺の自然

昇るので、屋根に火がついたように見える。

れるようになった。また、アリランの歌が を葺くように屋根を作るのだが、これらの

る聞に、人間生活の苦しさと愛情、そして

は、肇膏の地理的な条件も無視できない。

山奥の人々の哀歓を深く宿らせているの

長い間谷間にとどまるほどの山奥だといっ

を葺くこともある。二O年以上育ったくぬ ぎの皮を使うが、その皮は一定の大きさに

山間地方では時折この木の皮をむいて屋根

むくことができないので、これで葺いた屋

このような山奥には、江原道の山奥の 人々の住居であったノワ家と石瓦の家が

ている。

残っている。ノワとは、二百年以上育った

コ・0主回目

巴 正 V

昔、江原道の山間にあった独特の家屋形式の「ノワジプ」が今もたまに目に止まる

ω


E ω

354A師国

69


を載せておくが、このくぬぎの皮の屋根も 五年はもっ 。これらは、みな山間地方で暮

ところには風に吹き飛ばされないように石

どおりなって隙聞を塞ぐ。これも継ぎ目の

雨が降るとか混度が高くなればすぐさま元

め、部屋のなかから所々空が覗かれるが、

る。クルピは大気が乾燥すると縮み込むた

根はまるでほろを載せておいたように見え

く、残りの一方は切り立つような崖が釜え

り、三面を深い川に固まれているだけでな

川岸にあるが、松の老木が欝蒼と茂ってお

に流された。このチョンニョンポは西江の

この寧越郡南面太華山麓のチョンニョンポ

奪われた。端宗は軍卒たちに取り固まれて

後の一四五五年、叔父の首陽大君に王位を

年一二歳の幼い身で王位に就いたが、三年

渉んでいるところである。費示は一四五 二

の第六代の王であった聾示の悲しい歴史が

.カ

いつの日にか、この悲しみ尽き得ょう

ままならず。

夜な夜な寝入らんとすれど、寝入ること

淋しき影、山のなかに独りたたずむ。

暮らしながら詠んだ詩が残されている。

の若い身空で殺害された。端宗がこの地で

祖が寄越した刺客により一四五七年一七歳

の鳥が止まっている木々の花びらは赤く染

鳴くたびにくちばしから血を吐くので、こ

たり

血の涙静かに流れ、春の花を赤く染め

三日月は空に映えたるに、

らしていく人々の生活の知恵がもたらした ていて、船で川を渡るほかには外部への脱

の地で流刑生活をしていた端宗は叔父の世

ものである。 出は不可能な離れ島のよう立所である。こ

不如帰の鳴声いつしか止み、 ︿ 主XZ 壬 J Z

きI Z︿呈 v-74

﹂﹀工

まってしまうという伝説がわが国に昔から

不如帰はその鳴声があまりにも哀切で、

かくも聞こえくるや

わが耳に いかにして憂いを c

まいに

空の彼方にても、かの断腸の音は聞こえ

基香から南のほうに国道に沿って下って

恨めしえ鳥となりて王{戸追わるるに

行くと寧越郡に抜ける。寧越郡は朝鮮時代

70


コI X フう﹀工 Z︿呈 一

体を引き上げて、墓を作って埋葬したのち

ンドという人物が夜中にこっそりとその死

気を出せなかったのである。ところが、フ

打ちを恐れてだれもその死体を埋葬する勇

ことなく東江に投げ捨てられた。朝廷の仕

聾在殺害されたが、地中に埋葬される

を突き刺しておいて安寧乞祈る風習や、廟

に向かって十字を描き、その交差点に包丁

く、また妻が難産のときには庭に出て北方

踏み臼などを使って穀物をつくところが多

風習字多く留めている。まだここでは臼や

もやはり韓国の奥地であるため昔ながらの

なく昔の姿を永く保てるように、この寧越

ればあるほど都会の影響を受けることが少

人々を愛し、互いに助けム守つ人情と、土地

ずに長い間腰を据えているのは、隣近所の

かわらず、人々がおいそれとこの地を捨て

のを至るところで発見できる。それにもか

れるほどの傾斜の急な斜面を耕しであった

では、人々が真っすぐに立つことも危ぶま

場をよそに移すようなことはない。寧一越郡

くと、ちょっとやそっとのことで暮らしの

で暮らすのは難しいことだが、一度住みつ

れる農家の物静かな風景は韓国山村の昔の

道路と谷聞を流れる水、そして時たま現わ

止めずにはおかない。きれいに舗装された

辺の秋の紅葉の美しさは、われ知らず車を

あるが、珍富から聾晋と寧越をつなぐ国道

韓国の雪岳山の秋の紅葉の美しさは定評が

道に浴って肇菅と寧越を目掃す万がいい 。

だ。 基音や寧越を訪れる旅行者は整畠から国

V

姿をくらましてしまった。

の門に人の顔を描いておいて、その目に針

伝わっている。

寧越は、昔から伝えられるところによれ

の美しい自然環境ゃ、そして豊富な水のた

姿をありありと見せてくれる。そして、そ れらの農家の合間にノワ家とクルピ家、そ や釘を刺して病を治すといったような風習

れから石瓦の家が顔がのぞかせる。

が残っている。

の泉といえる南漢江の上流地域でもあるの

ば、役人と住人の家が合わせて一O暫応ら

こうした寧越郡の山奥に人々が入り込ん

ずの小さな村だったので、箆所の仕事は皆

にある端宗王と王妃の墓( 右下)

めである。ここは一千万ソウル市民の生命

無同然だったといわれる。山奥の辺境であ

n

端宗主の流耳JI 地だった; 青;令浦( 上) と、清治浦入口


韓国人 の生活 と文化と午

峠向こうの畑いつの 日に耕す。

牛飼いの子らいまだに起きぬ

の窓明るく雲雀さ、えずる

れた穀物を運搬する仕事などは、すべて牛

牛を交通の手段に利用したり、秋に取り入

ない 。西洋では馬に乗るように、韓国では

ばならない。田園と畑を耕す仕事だけでは

なく、労働力の 手段として飼っていたので

か牛肉を生産するために飼っていたのでは

農家で、牛は西洋でのように牛乳を絞ると

七O%を占めていた六0年代以前の韓国の

農業が主な産業であ内農民が国民全体の

詩人

この詩は韓国の固有な定形詩で、朝鮮朝半

が引き受けていた 。

ある。そのため、牛は豚や鶏のような家畜

という諺があ ﹁牛を盗まれ、牛小屋直す﹂ るが、その意味は事前に 十分に予防をせず

ように優遇されたし蔓呈されて いた。 欠かせない労働力で、それが占める比重は

とで後悔する愚かしきをいったものであ

災難に見舞われたり、または事を誤ったあ

絶対的であ ったし、山間の僻地では今も牛 の労働力を借りて仕事をしている。

及んで 牛 の役割が急激 に減 ったが、農耕社 会の数千年の問、牛は韓国の 曲戻村にとって

ばの学者であり、詩人であり、政治家だっ

めには牛にスキを付け土を掘り返さなけれ

出て種をまき田植えをするのだが、そのた

冬が去り春が来れば 、農夫たちは野良に

に陽が昇り、牛と共に陽が暮れた。

のである。﹁牛飼いの子らいまだに起きぬ﹂ が語 っているように、韓国の島符は牛と共

としてではなく、農夫の分身として家族の

培べ

た南九寓(一六二九i 一七 一 一)が詠んだも

根f

一九六0年代にセマウル運動が始まって 農村が近代化され、耕転機が普及されるに

李ィ

72


73


28.3 X 40.8c m . 1953

?えで、もっとも毛本とすべえ先生である﹂

風景は、広い草原で羊の群れを追う姿では

ばしば絵の素材となって登場するのもその

牛に乗って笛を吹いている少年の姿が、し

びりと草を食ませる少年と牛の姿である。

の正の上に一頭の仲士乞引いて行って、のん

なく、しだれ柳の垂れ下がった川のほとり

九五六)は独特な筆致で韓国的な牛を好ん

術の代表的な画家、李仲安(一九一六i 一

ためである。

韓国のピカソといわれている現代韓国美

とまで賛辞を呈している。

で描き、彼の内面の意識と牛のイメージと

の代わりに牛に乗って往来した。朝鮮朝の

実際、昔の韓国人たちは、往々にして馬

を 一致させたが、絵画だけでは不足だった のか一篇の詩まで残している。

初期、連漂白なことで有罪﹄った政治家

りで牛に乗っていたので、牙山の役人たち

孟甲誠 ( 二二 六Oi 一 四 三八)がソウルから 郷里の牙山に帰るとき、みすぼらしい身な

降り降りいまここに

も彼を見分けられなかったというエピソー

(一八九八i 一九六二、小説家廉想安(一

呉相淳(一八九四i 一九六三)は詩人末祭魯

ドは有名である。また、韓国の近代詩人、

美しく降り こんこんと降り積もり

韓国人はだれが正しくだれが間違ってい

話も広く知れ渡っている。

丸裸で牛に乗り市内に入ってきたとい、っ逸

たが、興にのって服をすっかり脱ぎ捨て、

の山の中で酒を酌み交わしながら戯れてい

八九七i 一九六三)らと一緒にソウル近郊

果てしなく溢れたま、え 生きるは淋しく 悲しく恋しきもの 麗しゃここに 清らかに二つの目を開け

るかを糾すような場合にも﹁牛を後ろ向き

に乗って行く人に訊いてみろ と L いう。牛

にまともに乗らず復ろを向いて乗る人です 李仲墜の詩﹃牛のニ量産の全文である。画 家が詠んだ詩ではあるが、韓国人が牛を見

の程度を表すものであり、﹁牛の耳にお経﹂

﹁牛が鶏をみるようだ﹂というのは鍵陶心

反語法を使ったものである。牛が人間と近

ら、それぐらいのことは知っているという

る目がどのようなものなのか、愛情と憐感、

胸をすっかり 開け広げる

韓国近代文学の父といわれる小説委亮

て言わなくとも李仲型が描いた牛の目は、

そして純粋な心をよく表わしている。強い

うに愛し大事にしていたため、牛の性格な

にとっては大きな財産、または大事なもの

沫は﹁牛徳煩しとい、?文の中で、﹁牛!牛は

してくれたのだから、その有り一難さは何を

代に、牛は絶大一な労働力として人聞がしな ければならない力仕事の大部分を肩代わり

人聞が生きる根本として神聖視していた時

また﹁農は天下の大本﹂といって、農作を

がいるのかは知らないけれども、たぶん牛

牛の上位に人聞がいるのか牛の下位に人聞

が言ったように、万物が次第に高等動物に 進化していくうちに牛になったのだから、

かの仏であり聖享告である。アリストテレス

深く刻まれている。韓国における牧歌的な

ない絵画の対象として韓国人の胸のなかに

けでなく、生活のなかで欠かすことのでき

このように牛は、農村の労働力としてだ

ち溢れてい石のである。

この詩に表れているように清い美しさが満

状況がこれに応じてくれなければ成功は覚

であり、﹁牛も正があって身を擦れる﹂とい うのはいかに能力があっても周囲の環境や

働いて金を有益に使えという教訓的なもの

うのは労働は神聖なものであるから忠実に

か言わんやである。それで、牛歩﹄{ゑ族のよ

は、人聞が動物性を捨て神聖な存在になる

しかったため牛になぞらえた諺も多い。

のシンボルであったことをこの諺は喧不し

は、日本の﹁馬の耳に念仏﹂である。また、 ﹁牛のように稼いで宰相のように使え﹂とい

る。ここで注目しなけばならないのは、な

動物のなかの人道主義者である。動物のな

いたのである。

妻 子

ているのである。

どは自分の手のひらのように知り尺ミして

労イ動力で、 それが占める比重は絶対的であった

ぜ盗まれた貴重なものを﹁牛﹂にたとえたの

農耕社会の数千年の問、牛は韓国の農村にとってえかせない

かとい、ZRである。すなわち、牛は韓国人

~.

74


h

を奪い始めてか らは、牛は人間の点差理主 失いつつある。宣 実盟主告であり国立中央 博物館長を務めた雀淳雨(一九 一六1 一九

つかない とい う意味であり、﹁ゆっくりで というのは、大人物は仕事乞 も牛の歩み﹂ ゆっくりゃ っていても正確に行なうので、 人を抜いて先を行くとい、っ昔様である。 という小文 八四)の﹁牛が鶏をみるように﹂ 最近、韓牛の姿がみすぼ を見てみよう。 寸 らしく見えるのは、雄大で毅然とした北部

F というのも、農

また 、﹁牛は農家の祖

表している。東洋では十二支と いって陰暦 で日毎にそれぞれ十二の動物の日がある がられて いた。家族はだれもみんな牛が寒

たかも家族のように大事にされ、ありがた

めたからでもある 。むかし農家の牛は、あ

の牛の種が長い問、絶たれたためでもあろ

が、韓国の農村では毎年の陰暦正月の最初 くないだろ、?か、または暑くはないだろう

きたというのは、むしろ当然なことである﹂ と、彼は品 目の愛されていた牛といまの愛さ

頃の牛と今日の牛の姿がまったく変わって

かと季節ごとに心を配ったものだが、その

うが、わが国の牛に寄せる主人の愛情が冷

の丑の日(上丑日)を﹁牛タルギの日﹂と言 っ

村では昔から言いならわされている。牛が 農村でいかに貴重な存在であったかをよく

て、この日は牛を安らかに休ませ、 豆を茄

ζfoZ︿凹 -﹀

でて与え、また 一切使役しない習わしが あった。 しかし、機械文明が牛のやって いた仕事

そうだ。誠実で忠実でものも言わず、た

れていない牛の姿を対比させている。

れで﹁農家の祖先﹂とい う最高 の称雪笠 Hえ 7

だ歎々と汗を流し働いていた韓国の牛、そ られた牛、春 ・夏・秋 ・冬にかけて、のど かな韓国の田園風景のなかでい つもその中 心に位置を占めていた牛、その牛が霊杜 会と機械文明に押され、昔の愛情にあり付 とりわけ、外国から乳牛と肉牛が入って

けられな い身の上になっている。 きてからは 、韓国伝来の在来種牛は相対的 にその立つ瀬がなくなりつつある。しかし 韓国人の心のなかでは、韓国伝来の牛はと 九 こしえに家族の 一員であり友である。 一 八八年ソウル ・オリンピックのマスコッ ト として虎が選ばれはしたが、韓国的なマス コット 一 位は止会﹄おいてほかに考えられな v

韓国人と共に汗を流し、寒さ、暑さ、悲 しみ、喜びをともに分かち合いながら生き てきたからである。

出ハ

u d庄町 ↑E︽

75


ペニス • ビエンナーレ

韓国館の開館とその意義 美術評論家

李逸

年は光復(民族解葛五O周年に ら、もつ半十世紀の歳月が流れた

なる年である。解事 T堪えてか

術のアイデンティティを内外に誇示できる

た展示館を持って、胸を張って韓国現岱美

の﹁間借り﹂をしての出品にとどまってい た。いまや韓国は、われわれ自身の独立し

すら、他国の展示館の一部を借りる、一種

ょうもない事情があったからだろう。それ

れは展示空間の制約という、いわばどうし

を除いてはすべて絵画作品であったが、こ

加は、第四四回(九O年)の立体作品の出品

これまで韓国のペニス・ビエンナーレ参

いうことを裏付けるものでもある。

現岱黍仰の位相がそれだけ高まっていると

したということは、国際舞台における韓国

の参如とい、ユ浅い年月にもかかわらず実現

六年(第四六回)の初参加以来やっと五回目

れだけでなく、この韓国館の建設が去る八

二番目に建てられるのが韓国館である。そ

ぎず、とりわけアジア圏では日本に次いで

、 りやっとこ五ヵ国(韓国寧乞含めて)に過 2

国は、七Oj八O のビエンナーレ参/加国の

ビエンナーレに自国の展示館を持っている

国際展として歴史と伝統を誇るペニス・

層引き立たせている。

む周誓乞迎える年でも 六回であり創立 あって、それがまた韓国館開館の意義を一

λ

ニス・ビエンナーレ自体が開催回数では四

開館である。のみならず、 一九九五年はペ

ペニス・ビエンナーレにおける﹁韓国惇の

一つの慶賀すべき出来事を迎える。それは

美桁の年とともに韓国の美術界は、もう

てもいる。

同じくして、われわれは﹁美術の年﹂を迎え

ことになる。また、この意義深い年と時を

δ、

全嘉千。土偶シリーズの一部分。 1995

76


ようになったのである。

いま建設中の韓国館が起工されたのは昨

年の十一月のことである 。そして今年のビ

エンナーレのオープニング行事は、まず一

次的に六月七日、韓国館の開館を兼ねたプ

レス・オ ープニング、次いで六月十 一日に

はビエンナー レ全体の公式オープニングの

日程が組まれて いる。こうした日程に合わ

せなくてはならない建設工事も問題ではあ

るが、これと合わせて今回の出品作家(四

名)のうちの三名の作品が寸設置﹂、ない し は設置に近い立体作品なので現場作業は欠

かせない。それに作業に要する時間がおよ

そ二週間とすると、韓国館の完成は遅くと

も五月二十日までに終えな く てはならな

い。ところが問題はこれにとどまらない。

改めてい、2 までもなく、コミッショナ ーと

しての第 一の任務は出品作家の選定にあ

る。そして、その作家の選定にあたってま

は展示空間の構造である。これに合わせて

ず何よりも先に配慮しなければならないの

平面作業と立体作業にそれぞれ一人、設置

隼宋(野外設置を含む)に 二人を選抜するに

いたった。その結果、平面には絵画の安享

それぞれ選ばれた。

根、立体に金仁謙、設置に全書千と郭薫 が

展示空間構造の特性に沿ってこれらの出

品作家を選抜するに当たっては、ぃ、 2 志で

もなく各作家の作品が持っている﹁作品性﹂

(同三目立内宮田口々)が問題にならざるをえな

かった。そして、展示会が﹁国際展﹂である

だけに、いわゆる﹁韓国性﹂ と﹁ 国際性﹂の統 合ということも問題になった。ところが当

然のことながら、これとともに問題になる

のは各作家の作品世界の﹁個性﹂であり、コ ミッショナーとして出品作家の選抜に合わ

13 0X 162c mo 1991 E ]o BLU ~ U MBER


ζfoz︿的手

20X52x16i nch. 1994 A' SOUND~. ~KALP H

はこだわらなかったし、韓国現岱実術の全

こうした観点から選抜作家の年令や世代に

せた焦点もまさにこの点であった。また、

器の一種)からしてそうである。そのオン

蘇っている。まず、﹁オンギ﹂(土俗的な陶

韓国固有の伝統的な生活の遺産がそのまま

まず絵画の弔ア享根の場合、彼は今回の四 人の出品作家のうちもっとも高齢の六O代

庶民的な生活の痕跡としての理由がそれで

もっている。すなわち韓国固有の民俗的・

ギは、美術用語を借りれば一つの﹁オブ

後半の作家である。画家としての年輪のた

ある。そして、そのオブジェが元のままの

体的な動向という脈絡から、ある特定の傾

めではなく自然観それ自体に対する通達の

姿で生活の添え木と調和し合って、われわ

向に片寄ることも意図的に避けた。

回 ため、彼が追求している絵画の世界は二一

れの祖先の生活を憧れる一つの銭事詩的な

ジェ﹂ (0σ﹄巾乙であるに違いない。しかし、 同時にそのオブジェはそれなりの理由を

のではないかと思う。これは、ぃ、2までも

Eo で﹁汎自然主義﹂( g g a自)といえる ロE

もっとも、これらの﹁設置﹂作品に関する

宣幸繰り広げてみせているのである。 なくもっとも東洋的な自然観でもあり、そ (の22呂o E 宮内巾)という観照の世界に圧 縮、単純化しているのである。

また実際には、これらの作品が残したもの、

品が現地で完成されるものであるからだ。

かぎり、それに関する断定的な評価は一応

一方﹁平面﹂に次ぐ金仁謙の ﹁立体﹂作品に

それは大抵の場合、展示場の現場の記録だ

れを芝字根は天と地、または陰と陽の照応

おいては、彼の構造自体が一種の透明な環

けでもある。

レへの韓国の参茄は今年で五回目となる。

先ほど触れたようにペニス・ビエンナー

見合わせるほかない。それは、それらの作

境性を持っているかに見える。まずは彫刻

、 しかし、問題は単なる参加回数ではなく

{ネとしての彼の作品が構成的な性格を強く その中に聞きされた空間と開け放たれた空

保持しているとはいうものの、その構成が

それが韓国館の開館という一つの画期的な

これによって韓国現隻講の国際舞台進出

間を同時に抱きかかえているのである。そ

のための確固とした砦が確保されたという

﹁ 事件﹂と 一緒なのだから一 層意義があると

また、﹁設置﹂作品を披露している二人の

事を穴である。その開館記念展のコミッショ

して、まさにそれが彼の作品をして新たな

作家は、二人とも一種の﹁反文明的な﹂世界

記念展だという一回性の行事にとどまら

一つ明らかなことは、韓国館開館とともに

を強く前面に押し出しているかに見える。

ず、より一層長い眼で韓国現住黍仰が世界

いえる。それとともに、結論的にいって、

全書千の場合、彼は﹁土偶 と L いう韓国固有 の土俗的なモチーフを蘇らせ、それを文明

空間的環境を創り出させているといえるだ

の廃棄物と人工的・文明的な装置と対照、

のなかの美術として跳躍できる踏み台に

ろ 、 っ 。

または統合させることによって惇品自体が

なってほしいということである。

ナーとして望みたいことは、今回の参〆加が

あるいは﹁超文明的 L といえる一つの独立し

2 山しているのである。

最後に、郭薫の作品を見ると、そこには

た小宝由を創

78


建物は消えても忘れられない歴史 光復五O 周年の三・一節記念日に

旧朝鮮総督府撤去告白祭 『中央日報 』 文 化 部 記 者

李晩薫

れまで撤去問題をめぐって、さ 来空杢までに毒4すると見られる。 政府は、これと共巴行む九年までに総

跡だからこそ、歴史教育の場として残 すべきだ﹂との主張がぶつかり合ってい た 。

の撤去と景福宮の復元を訴えてからであ

青瓦台(大統領官邸 の V 竣工式の席で総督府

額て七八九億ウォンを投じ、日本が取り

したがって、韓民族にとって﹁国権の喪

まざまな論議を呼んでいた旧朝

失﹂という恥辱の象徴である旧総督府の建

ル・オリンピ ックを開催するなど韓国の国

る。政府としては、経済成長を背昆尽に ソウ

鮮総督府(現国立中央博物館)の

物が完全に取り払われ、景福宮が本来の姿

は、九O年 一O月、当時の車泰愚太統領が

際的地位が向上した点を老虐、民族の檀気

O月 一日。韓日併合翌年の一九一 一年に朝

この地に姿を現わしたのは、一九二六年一

として記憶されることになる朝鮮総督府が

早ければ来年中に撤去され、歴史の痕跡

終止符を打った。

への移転計画を発表して撤去弘一譲に事実上

して撤去計画を具体化、中央博物館の竜山

趣旨からだった。車泰愚政権に続く現政府 は﹁ 文民性﹂を誇不するための方便の一つと

少乞高める を取り戻し韓国人としての自負、

族時代が問かれるものと期待される

の正富だった景福宮を復元する計画だ。

政府が撤去の問題を公式に取り上げたの

建物に対する撤去が五O周年の党複節であ る八月十五日を期して本格的に進められ る 。

を取り戻せば、これまで毒されていた民族

は、解放直後の第一共和国(李承晩政権)初

された。しかし、その度に撤去にかかる莫

館移転の際など機会あるごとに強く持ち出

期に出はじめ、五・一六(一九六O年の軍

これにより光復節の目、建物の象徴であ る﹁ド lム﹂の部分を取り外すのを皮切りに

事クーデター)後と八六年の国立中央博物 は、現在、工事中である朝鮮王宮歴や博物

大な費用もあって宙ぶらりんになってい た。 その問、﹁恥辱の遺跡であるだけ

このような旧総督府の建物の撤去日程 館の竣工と、それに伴、勺中央博物館の移転

に取り払うべきだ﹂との主張と﹁恥辱の遺

やされ、二一世紀に向けた紘一韓氏

の精気を正し、 二 一世紀の統一韓民族時代

ヲ回

旧総督府の建物を撤去すべきだとの要求

を開く出発点になるものと期待される。

た景福宮が元の姿を取り皮せ l王 、 、 の五十 一周年の光復範別に、また遅くとも

れまで毒されていた氏挟の精気が悲

払った殿閣四八棟を再建するなど朝鮮王朝

このため政府は、すでに今年の三・ 一 節 に光受 E 員、独立運動の犠牲者の遺族およ び各界代表、一般市民など約四、兵む名 が見守る中、この建物に対する撤去事実を

国内外に伝払える撤去宣布式と共に告由祭を

総督府庁舎が取り払われ、正宮だっ 本格的な撤去作業が行なわれる。

取り行なった。

韓民族にとって恥辱の象徴である! 日 開館時期にあわせたもので、早ければ来年

79

" 7"


鮮総督府新営計画﹂に従って、 一九一六年

鮮総督府の初代総督だった寺内正毅の﹁朝 (現ソウル市庁)と結びつけて﹁大日本﹂と読

と﹁本﹂の字形模様に建てられた京域政庁

この後、米軍政庁として使われたこの建

とって成績の場になった 。

とめた後、 最地内にあった光化門と輿 札門をはじめ交泰殿など大小の殿閣の延べ

この目的を果たすため、朝鮮総督府は 一 九二ハ年春に、建設に関する基本計画チま

物は 一九四八年八月 一五日、大韓民国政府 が正式に発足するに及んで政府庁舎に使わ

韓単車両の植民地化に続いて、中国に対す

面積約四、の︹HU坪を取り払ってしまった。

中央庁時代に最も大きな損傷を被ったの

くの政治の激変と権万の浮え沈みを証言す ることになる。

ませようとしたことはよく知られている。

る野、少v抱いていた帝国主義日本は、韓民 族をはじめ対内外に感刀を示す老ぎえから英

このような横暴に対し、当時の日本の著名

七月一O日に着工し、約一O年に亘る工事 の末竣工した。

国のインド総督府やオランダのボルネオ総 督府よりもひと回り規模の大きな建物一を建

な美術家、柳宗慣は﹁朝鮮民族のために泣

は韓国戦争の時だった。 三ヵ月に亘る共産 享占領の末、首都奪還で太極旗を掲げられ る感事乞味わったが、共産軍が撤退する際、

に移転する時まで行政の中枢部として数多

れ、その名を中央庁と呼ばれるようになっ た。中央庁は八三年に政府部処が総合庁舎

てたのである。もちろん、東洋では最大規

庁舎を建ててもかまわないと言、つのか と L 痛烈に批判したりした。

して皇居を取り払い、その場に日本総督府

Z

模の総督府庁舎だった。

く﹂という論説の中で、﹁朝鮮が日本を併合

当初、プロシアの建築顧問として朝鮮ホ テルを設計したりしたドイツ人、ゲオル ゲ・デ・ラランデの基本設計(一九一四年

総督府の建築にかけた費用は六七九万 円。これは当時の米五六万かますの価格に

放火したため、内部は丸焼けとなってし まったのである 。中央庁は一九六O年の

日本の台湾総督府設計者、野村 一郎と朝鮮

八月ラランデの突然の死により細部設計は 総督府技師・国枝、韓国人技師、朴士長隠が

中央庁が再び政府庄一口としてオープンし

石などで窓や壁などが四慢壊した。 の建築技術がないとの理由で撲実のほか

たのは一九六二年 一一月二 二日。クーデ ターで政権を握った箪事政権が当時総額二

四 ・ 一九学生革命の時にも、光化門にいた 警察の阻止を突破したデモ隊が投げつけた

は使われなかった。 このようにして完成した総督府の新史一回

億七円む万ウォンを投じ、復旧したので ある。中央庁は以後、朴正照政権の問、国

国産で賄われた。しかし、韓国人は西埜凡

には、竣工式を九ヵ月前に控えた一九二六 年一月に南山倭域台にあった総督府が移転

ヰ警=する金額である。建築資材はすべて韓

した。このあと三代・五代総督の斎藤実を

くなり、八一一一年四月に国務総理室などの移

中心的役割を果たしていたが、全斗燦政権 一 δ 年の問、韓半邑毘但民支配の総本部と

かけて改修工事を行ない、一九八六年二月

転を最後にとうと、つ政府史蒔代の幕を閉 じた。それと同時に約二のハ同︾億ウォンを

経て、最後の阿部賞付までの七代固まで総 督府として使用されたが、韓民族にとって

して君臨してきた総督府庁舎は、日本の無 条件降伏のあと一九四五年九月九日にハ ッ

の時代に、これ以上政府機事乞収めきれな

ジ中将を代表とした連合軍側がこの建物の

は呪いの建造物だった。

政規模が急速に膨れ上がったため経済部処 などを分散しながらも、相豪わらず行政の

完患をもとにして景福宮内勤政門前の 二 万九、四 一人坪の直四角形敷地に基礎建坪 二、二 一九坪の五階建物(地下室七九坪、 屋塔六九坪を含め延べ建坪八、四七 一坪) が建てられたのである。埜入は当時世界 的に流行していた近代ルネサンス式。 日本が総督府をよりによって景彊串内に 建てようとしたのは、風水地理説に従い韓 民族の精気を絶つためのもの。風水思想に よると、ソウルの最高の地は、主山である 白岳と朱雀である南山の中間あたりで白岳 の左右の麓に流れる明堂水が市街地を東の 方向に意流して、山水のぜ﹂が成り立つ書 宮一帯である。したがって、ここに朝鮮の

もかくとして、この国の政治・文化の中心と して六八年五ヵ月間の生涯を閉じ、いま歴

してきた。旧総督府の建物は好悪の念はと

一日からムまで国立中央博物館として使用

第一会議室で最後の阿部総督と上月朝鮮軍 司全呂から降伏文書を手凄c れたことで幕 を閉じた。当時、宏一回の外の世宗路一帯に は数多くの人波が押し寄せて歓乎の声を上

史の埜万に消え去ろうとしているのである。

正富だった景彊呂を威圧的に見下ろす建物 地として支配できると考えたのだろう。朝 鮮総督府庁舎の平面図が﹁日﹂の字形になっ

げ、この建物が現れて以来初めて韓民族に

を立てることによって朝鮮を永遠なる植民

ているが、これは﹁大﹂の字形模様の北漢山

ω


J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE

康信哉の短編小言えからは、女性の運命や現代人の 愛情倫理に対する鋭い観察、才覚溢れる溌刺たるえ体、洗練された感覚、 人物描写の技巧など、彼女のえ学体系の特有な面貌が読みとれる

8 1


康信哉の作品の世界 通念は、織烈な散文精神に立脚

信哉について我々のもっている で 第 一一 面女流墓査を、一九八四年には長

七年には長編小説﹃この燦嫡たる悲しみを﹄

小説﹃一絶壁で韓国高買を受賞し、一九六

説に登場する人物は﹁石鹸の香り μのような

文章も長くならざるを得ない。康后皐臥の小

対象の全体を考虐しなければならないため

と告白したことがあるほどである。読者は、

した長編作家というよりは感覚

短い文亨乞通じて現れた人物の破片的な特

感昔前な刺啓乞通じて自らの存在をあらわ

康信哉の文学世界がみせる特有の面貌

性と人物を包んでいる雰囲気と背景を、あ

編﹃警坦世子揮で中央文化大賞を、一九八

長編小説﹃波痔﹄を連載した後、三O数編の は、小説の描写的な側面においてたやすく

一つ一つを組み合わせて、統一された形象

的な亙凡で戦後の愛情倫理を提示した短編

長編小説を書いてきているのだから、もう 感じ取ることができる。被女は具体的で感 覚的な表現を通じて人物の形象を創造す

として再構成する。そこに加えて﹁トルコ

は大抵の場合、漠然としたイメージだけ﹂

くつがえされてもいいであろう。にもかか

る。すなわち、登場人物が作家の主観的な

す。作家自身も﹁私をひっぱっていくもの

わらず、短縮作家という通念が強く残って

叙述によって・その性格的な特徴をあらわす

八年には芸術院賞を受賞して作家としての

いるのは彼女の作品の世界の特徴的な面貌

ブル lのワンピース﹂のようなあまり耳に しない外来語と西欧的な情趣があふれる登

作家であるということである。しかし、こ

が、短編小説において成功的にあらわれて

はいくつかの本質的な外貌と行為を通じて

場合はほとんどない。むしろ被女の人物達

喜事までんぷんに誇ることになる。

いるからである。すなわち、女性の運命と

たかもジグソーパズルを完成させるように

現代人の恐信の倫理に対する関心、センス

場人物ひとりひとりの国主主主入と家庭の雰

完成は短編が有利だ。短編には玲警 る完

ある。このような事会式は﹁芸術品としての

界が短編小説の中に生かされているからで

み、お湯を浴びて出て来る頃には石鹸の

彼が学校から帰ってきて風巴場に飛び込

いやそうではない。いつでもとはいい切 れない。

彼はいつも石鹸の香りがする。

ろ大といえる。しかし、このよ、つな文体的

非散文的、または詩的な感応力によるとこ

も、このような特異な文体からにじみでる

康信哉の短編小説が注目を浴びる理由

情趣をかもしだす。

生活などを通じて異国的でロマンチックな

囲気と、 S村という豊能な住宅街の風景と

壁性がある﹂という作家自身の言葉からも

香りがする。私は机の前にどかっと座っ 近寄って来ることを:彼の表情や気分ま でも余裕をもってあらかじめ球状レとるこ

て何もしないで、じっとしていても彼が

としての性格にまず注目しなければならな

な面貌だけで康信哉の全貌を語ることはで

しV

きない。そのため、我々は彼女の女流作家

ンス ニ﹄を、金東里の推薦を得て﹃文士一 Cに

とができる。(﹃若いけやき﹄)。

説と長編小説を発表した。このような弛み

﹃タロは山に﹄などをはじめ数多くの短編小

連載するまでの四O数年の間﹃若いけやき﹄

る。大抵の受口、対孝乞解剖するためには

家は登場人物の特性を短い文章で叙述す

剖する論理的、概念的な言語ではない。作

康信哉の文章は、叙述の対一季笠綿密に解

も女性の目を通して事件が一不される。女性

として登場するか、男性が主人公だとして

の小説では、そのほとんどが女性が主人公

り、彼女の小説は﹁女性の話﹂である。被女

康信哉はあらゆる意味で女流作家であ

ない創作活動のあげく一九五九年には短編

始める。その後一九八0年代末に﹃拭害﹄を

発表してから作家としての活動を本格的に

おこる直前の一九四九年の末のことであ る 。 一九四九年 二 月短編小説員﹄と﹃チョ

康信長が玄壇に霊壇したのは韓国戦争が

れいろう

確かめられる。

と人物描写の技巧など、彼女ならではの世

にあふれ横刺とした文体、洗練された成貨

自らの姿をあらわにするのである。

の通念は彼女が 一九六一 二年の﹃現代文学﹄に

事b

鍾j

郁:

文学 評 給家

このような関心は、韓国戦争の後にも引き

を形象化している。女性の生き万に対する

結局、妹に奪われてしまう消極的な主人公

なった男への思いを胸の中だけに刻み続け

を描いているし、﹃チョンス一一﹄では好きに

たあと自閉症にかかってしまった女性の姿

をみせている。﹃厚では愛する夫と死別し

﹃チョンスニ﹄などから女性の生き万に関心

被女は文壇へのテビュ l作である員﹄、

ある。

根源的な疎外と孤独を呼ぴおこす姿なので

る辱薙の課程だけではなく、それが人間の

が関心を傾けたものは女性のありとあらゆ

ところで、女性の話を扱いながら康信皐叫

る 。

であると同時に女性が叙述する話なのであ

る。従って、被女の小説は女性に関する話

あるということは否認できない事実であ

の小説において女性が作品の構成の中心に

密に検討してみなければならないが、彼女

なっている女性の性格に関しては、より綿

捉えることを意味する。もちろん焦点に

自らを取り囲んでいる対象と現実の世界を

点をあわせているのは、女性的な観点から

あげることができる。作家が女性たちに焦

﹃荒涼たる日の童宮、﹃変乱のあと﹄などを

﹃川のある風意、﹃投機﹄、﹃彼らの行進﹄、

き方に叙述の焦点をあわせた作品としては

﹃若いけやき﹄、﹃イブの変 、﹃粘援軍な どをあげることができ、ひとりの女性の生

B

の目で事件を提示している作品としては

金:

82


でさえ、女性の生き方がベ lスになってい

虚構性とイデオロギーの批判を試みるとき

も引き続きあらわれている。 ﹃ 一保﹄の中で はっきり示されているように、韓国戦争の

独と疎外戚グ乞もたらす。﹃荒涼たる日の童

連の喪失を意味し、窮極的には融調的な孤

この世の全てとい与意味をもっ 。そのため、

人関係は、この世の出口という意味よりは

なわち、主人公たちにとって家族関係や恋

説の中の人物たちは、家族関係と恋人関係 の中でのみ思考し活動して死んでいく。す

る。従って、米軍兵士の ジ ョlが帰国命令 を理由に去 ってしまうと、キエがクンスの

継がれ、﹃解放村に行く車、 ﹃ 絶壁などに

愛を振りきり結局はパンパンに転落してし

さることのできる瞬間とは、どれほどいい

人聞が人間であることを完全に忘れ 置 で﹁

女性的な生き方の多様な姿を執劫に追うこ

け入れられずに死んでいく姿 (﹃絶壁宮)など

のプロポーズを受けながらも、その愛を受

は恋の失敗を人間の根源的な孤独の問題に

い瞬間とは・:﹂というミョンスニの独り言

間違いでもおかしたように感じなくともい

ものであろうか。孤独を罪のように、何か

家族と恋人関係の破壊は他人との全ての関

した離婚女キヨンアが昔の恋人のヒョンテ

まう過程(﹃解放村に行く道﹄ )、死を目前に

とに関心を集中するというのはそう驚くべ

昇撃させようという作家の意図をよく表し ている。

しろ、失恋の傷あとは女主人公に人間に対

あることが多い。その原因がどこにあるに

めるどうにもならない運命的な力に原因の

式に原因があることもあるが、戦争をはじ

人物である。恋の失敗は男性たちの生存方

く。このようにこの作品は、社会的なタブー

てではなく皐佐としてみていることに気づ

学生ヒョンギュとも同じ家で暮らす。時の 流れにつれてス ッキはヒョンギュを兄とし

ある大学の教授と再婚したためスッキも母

である。主人公のス ッキは母親がソウルの

やかな感覚などを浮き彫りにしている呑作

純な恋を通じて若者達の繊細な盛在、爽

いけやき﹄は血縁上は他人でありながら、 法律的には兄妹の関係にある若き男女の清

若 一九六0年代のはじめに発表された ﹃

きことではない。むしろ注目すべきことは 恋の失敗がもたらす女主人公の心理の奪化 である。女主人公たちはほとんどが戦争、

する極度の不信を抱かせる。これによって ﹃解 人の真実の愛も拒絶することになる 。 放村に行く道﹄、﹃ 絶壁亡などに描かれてい るように、このような失恋とぞ信、そして

死、背信などによって恋の挫折を経験した

愛の拒否という悪循環はひとりの人間に絶

と青春男女の愛との聞に繰り広げられる葛

な理由は、家族または恋人との関係があま

外という人間の根源的な問題に至る根本的

康信哉の小説の中で女主人公が孤独と疎

と人生を経験しはじめた一八歳の少女が霊

経験するということ、 言 い換えると今やっ

の少女が社会的、倫理的に禁じられ子愛を

藤が事件の展開の主な流れである。一八歳

親について ソウルに行き、義父の息子の大

望球タ﹂孤独をもたらす。

りにも絶対的なものとして設定されている 人は、作家達がもっとも一般的に設定する

られた愛の熱病という精神的な試練をどの

やはり純盲霊場主義をもった少女が禁じ

魂の試練にぶつかるということはまことに 興味深い主題である。この作品の焦点も、

というところにある。家族または愛する恋

小説における家族関係、または恋人関係は

ように乗り越正てい くかということに合わ

社会的な関係である。ところが、康后卑臥の 社会的な関係に拡大されることはない。小

83


す安定した生活も破滅に陥るのである。そ

う。すなわち、家族とい、主向体が作りだ

肉体的に破滅の道を歩むことになるであろ

た。運命は小説的な前提としてのみ可能な

扱うことなく脱出の可能性を作っておい

康后毘市 町 は、このように ﹃若いけやき﹄で運 命を扱いはしたが、それを本質的な次元で

運命となんら違 っところがない。

のは李御寧が明快にスローガン化した﹁火

において戦後の作家の意識を支配していた

いった時期であった一九六 0年代の小説界

た。被女が自らの文学的世界を確立させて

を借りて自らの文学世界を発展させてき

い例である。

私は、いくつもの感情がまざ均あった混 して、家族共同体の破壊はス ッキに他人か

のであって、小説全体の中で主人公の生き

はいるが、その裏面では回在と女性の聞の

男性と女性の不調和と対立をベ lスにして

新たに出発しなければならなかった戦後の

ズムの伝統から完全に隔離された状態から

f

乱状態の中から私自身を救わなければ、と らの絶縁と孤独をもたらすであろう。この

方として促えられてはいない。そして、運

田民意識﹂であった 。前代の 文学において

て描かれるが、作中人物の世界から見ると

暗い川を眺めながらいつも考えるのであっ 破滅と孤独の脅威の前で、スッキは芸高

命から抜けだすことのできる可能性の世界

創作方法の大勢をなしていた文学的リアリ

に犯すことになるとしたら、それは精神的、

た。思いのままにこの身を任せることので 条件を受け入れざるを得なかった。前にも

がすなわち愛なのである。康后卑臥の小説は

せられている。

きないのが私の立場であり、また思いのま 述べたようにスッキにとって、家族はこの ヒョンギュとスッキの恋を妨げる社会的

幸福な調和、すなわち愛を追求しているの

以上見てきたように康信哉は短編の竪入

まということ自体にも分裂した考えを収拾 世の全てであったからである。

はない。そんなことはあり得ない。しかし、 な条件は、彼らの自由意志によって選択さ

ヒョンギュを愛すること自体に罪悪意識

しょうがない。

母とムッシュ杢をそんな意味で裏切るとい

めに多様な文学的実験を行なったのであ

な愛である。 しかし、康信哉は愛が現実的に実を結べ

昇華されたロマンチックな愛であり精神的

とする欲望をもった愛というよりは、より

でのスッキの愛のように相手L﹂結ぼれよう

る﹂という冒頭からはじまる﹃若いけやき﹄

国文学史において問題作の大多数が短編の

年代以後から一九七0年代に至るまでの韓

を開拓しようと試みたのである。一九五0

の刃物を弛みなく事ベ磨いて一層鋭くす

いなからも鋭い刃物であった。そして、こ

の悪い刃物ではなく﹁短縮小詐とい、?小さ

る。従って、戦後の作家たちが選択したの は﹁ 長編小説﹂という大きくはあるが切れ味

形式で発表されたとい、っ事実もこれを証明 している。

ることにより、戦後という精神的な荒れ地 ないようにせしめる窮極的な原因である男

は、国在たちの査んだ欲望帯造によってよ

面を完成された姿で提示し、これを根拠に

康信哉の 作品も、またこのように短編小 れるのではないとい、1瓜で、小説的な前提

最後のくだりは興味深い。作家は男性の交

る 。

戦後の韓国的な現実を直視し価慎乞評価す

説の形式の中で戦後の韓国人の生き方の断 が適用される短編小説というジャンル的な

通事故の場面を他の登場人物の言葉を通じ

である。これに関連して﹃千のある風景﹄の

であった。破滅とい、2言葉の真っ暗で恐ろ

うことは四人みんなの破滅を意味すること

属性とも関連するが、康信哉の小説の中で、

が結合して現れるのである。スッキの母親 とムッシュ李が﹁はじめから 婚姻していた

規制する倫理的な禁制は、いく度かの偶然

この作品において主人公たちの生き方を

め、作中人物に運命的な形態として影響力

既に作中人物の世界の中に入っているた

規定ずる社会的条件は、作品が始まる前に

として与えられている。主人公の生き万を

れていく過程として描かれず、小説的前提

と同時に女性の姿も、必す回在によって被

造の不条理に対して関心を示している。

だ欲望構造とそのもとになっている社会構

代の後半に至つてはじめて恩妊たちの歪ん

バルーン﹄、﹃タロは山に﹄など一九六0年

作家は﹃ホサ﹄、﹃緑地帯とピンクのアド

麗に飾った作家ということに音保を与えな ければならないであろう。

形象化して韓国の短縮文学の一ページを華

個人の内面世界を、卓越した独特な文体で

い個人的、または家庭的な葛藤を突きつめ 点、そして て前面に浮き彫りにしたとい、内 J

性たちの生き方と社会的に媒介されていな

従って、我々は康信哉の作品の世界が女 おかれていない。登場人物の意識は形成さ

としたらスッキとヒョンギュの葛藤は存在

害を、つけると い、ネ買では描かれていない。 う 緑地帯とピンクのアドバル ーン﹄がそのい 人公がこのようなタブ l主 を い λ毛 の 下

L

することはなかったであろう。しかし、主

を行使する。それは、時には戦争のような 社会的な状況によって媒介されるものとし

き﹄)

しい響きの前で私は震えた。(﹃若いけや

じれた女性たちの生き方の様相があるだけ

とはしない。作家の視野にとらえられるの

性の利己的な欲望に対して関、官乞傾けるこ

その愛は﹁彼にはいつも石鹸の香りがす

である。

作家たちは、新しい創作方法を形づくるた

イ iJ4;: :11y /

て語っているだけである。

.

/ .~"

1 L ~

登場人物の意識は生成と成長の過程の中に

/

84


NE WS F R O MT H E K OR E A F OUNDA T I ON

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交む樹団は、海外の大学、研都庁なとで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文・社会 科学・芸術分苛のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請 を受け付けております。

韓国国際交流財団のフエ ローシッフ・プログラム

韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フェローシップおよび 韓国語フェローシップを次のようにこ家内いたします。

韓国研究フェローシップ

①韓国学、韓国語なと韓国関連講座の開設およひ波大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および、支援額については、同 年十月十五日までに申請者に通報いたします。 r~

4

び「韓国国際交流財団のフ工口一シップ・プロ ク. ラム」の申請書およひ案内書は、韓国国際交 流財団または現地の韓国公館で求められます。 申請書およひ1案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 絡煩います。 穂国国際交流財団国際協力 1部

所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月三一日ま

大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号

でに韓国国際交流財団に提出してください。

電話: 82-2- 万3-3464 ・ FAX: 82-2-757-2047 ・ 2049

選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。

KOREA FOCUS

韓国語フエローシップ

( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊 [ t KOREA F OCUS ( コリア・フォーカス)

韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者およ 凶直格の専門家に対して、韓国語フェロ ーシップを提供し、六一一二カ 月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フエロー

を刊行しております。 「 コリア・フォーカス」は日本のみなさんに韓国関連

シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一

の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としております。

つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料と所定の

当財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する有益 な参考資料になるものと信じ ます。 「コリア・フォーカ ス」は、日本語版のほかに英文即( OREA F OCUS も 刊行しておりますれ同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関儲瞬、学術 誌などの刊行物から繍訳、転載したものです。 韓国の時事問題に関する情鞍│ 生記事を幅

緯国国際交流財団国際協力 2 部

いて広い視点を提供することになります。

電話: 82-2-万3-6465・ FAX : 82-2-万7-2047,お49

題に関する見解、韓国に関する重要な資料、 主な出来事の日誌などに接していただくこ とになります。 担恒生ーー

申請書およひ家内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 絡願います。 大総民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号

済、社会、文化など各分野の記事や国際問

.

のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中句までに通報いたします。

広く選んでおりますので、韓国の現況につ と同時に読者のみなさんは韓国の政治、経

I~

滞在費か支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成


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ビデオ・アートの巨匠一一ナムジ、ュン・パク

レオナルド・ダピンチのように精巧で、 モンドリアンのように奥深く、 ピカソのように自由で、

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ジャクソン ・ボーラックのように大胆で、 ルノワールのように色彩寝かで、 ジャズパー ・ジ ョ ーンズのように詩的だ 向

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ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならな P J アール ムーア、 Jr 氏の持論で、す o ホテルロッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス」。 そしてこれはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります。

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