Koreana Winter 1995 (Japanese)

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ひとりひとりにドラマが生まれる。 シェラトン・ウォーカーヒル・カジノは、ソウル市内でただ一つ のカジノ。 ここには、訪れる人を酔わせる華やかな時聞が満ちています主 yレーレット、パカヨプ、ラ、ソクジヤツ欠タイサイ…。

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BEAUTY OF KORE A

凧あげ

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ェ 〆

いろいろな形をした凧を空高くあげる凧

あげは、土日は正月の初めから小正月(一月 一五日)にかけて主に楽しんだのであるが、

その年の 災厄を遠ノハ 追 い払うという願いを 託して凧の裏面に厄とか送厄、 ぎ 厄迎福な どの文字を書き、わざと糸を切 っ一遠くへ 主 飛はしたりもした 。

この遊戯に関する最も古い記録としては

古代の三国時代、六四七年に新羅の金庚信

の陣中に飛ばして敵陣を混乱に陥れたとい

将軍が火をつけたかかしを凧につけて百済

韓国の凧の種類はおよそ 一のむ余種とい

う話が伝えられている。

えt

われており、その形は大きく分けて、長四

角の中央に丸い穴をあけたものと鱒の形を 真似て菱形の頭の部分に長くしっぽをつけ たものの二種である 。このほかいろいろな

形や色の凧があり、竜のような形のものか

凧につける紋様や飾り、色、形によって

ら虎や驚、蝶など動物の姿に似せた凧もあ る。

その名称も、慶尚南道の統営地方の亀甲船

凧をはじめ鳳凧、且阜市凧、皿凧、蝶凧、こう

凧は、障子紙か白紙に細い竹のくしか木

もり凧、燕凧などと様 有である。

のくしを縦横あるいは斜めに組み合わせ付

けて、糸で凧の前頭を結んで糸を糸巻ぎに

に浮かばせ、厄を払い福を招く韓国の民俗

巻き、糸をあやつりながら風にのせて空中 ノリの一つである 。


PPEX m Z 日c のと

カバー・ストーリー

韓留の農民が吉くから

笛、太鼓、鉦、銅鐸など をはやして歌い踊った農

楽は、豊作・豊漁祭りや

4

村祭りに欠かさず登場す る。頭に被る長い飾り房

付きのサンモは、数々の

韓国の関谷遊戯の特性とそのイ議問題

サンモ踊りの妙技を見せ

林東権

るのに欠かせぬ道異。次

12

元の高い芸術の域に達し ているサンモ綴りは、今

韓国の民俗遊戯

では公演場でしか見られ

20

ぬ伝統芸能じ位置づけら れている

綱引きの習わし

ρ

金光彦

26

歳時風俗と豊年を祈願する 民俗遊戯の生産性

林 在 海、

32 仮面踊りと遊戯精神 張漢基

38

河賀 鏡

INTERVIEW 鄭U l iJ浩

42

韓国音楽の回顧と見通し

宋芳松

48

韓国音楽界の成果と見通し 韓相字

54

KOREANARTISTS ABROAD

フィリップ・カン

金受

ab

印 刷ndat i on


V o.l 8,No,4,WINTER 1995

KOREANA

58

ONTHE ROAD

延辺の独立遺跡地を尋ねて

金周 祭

コリアナ

66

1995年 冬 季 号 線国国際交1剤オ団が発行している季刊誌

DI SCOVERI NG KOREA

大韓民国ソウル特 別市中区南大門路5街526

冬の渡り鳥の楽園: 休戦ライン

〒 100- 095

ヂ茂 夫

発行人兼編集人

縁関国際交j淑オ団 理事長

ART SPACE PUBLI CATI ONS

大韓民国ソ ウル特別市釘崎区通義洞 35- 11 . 電話 : 82- 2・734- 7 184

. FAX : 82-2- 737- 9377 (

)~

ている季刊誌です. 従っ て版権 はすべて本財団側 に あり 、本財団承諾なし に転舷・纏製する ことは禁じられ ておりますのでこ7 承下さい. また. 本誌掲載の記事 ・論 文 の内容 は 、 本誌 編集者または本財団の意見ではありませA.".

1987年 8月 8 日 登 録 叫 1033号 1995年 12月 20日 印 刷 1995年 12月 3 1日 発 行 ( 毎年3 、6 、9 、 12 月4 回発行) 印刷所

三星文化印刷株式会社 ソウル特別市城東区華陽洞 167- 29 ・電話 : 82- 2-468- 036 1-5

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編 集 デザイ ン

7張

. FA X : 82- 2- 757- 2047、 2049

叩一

- 電話 : 82・2-753- 3462

ウ コ﹂龍 ウ/刷イト 錫

私書箱1 2 147号

cナ

大韓民国ソウル特別市中央郵便局

/ 、

発行所

韓国国際克澗オ団

cの 画 映 国

600円 (4 , 500 ウォン)

アー ト・ テ ' ィ レクター

朴 昇 雨

~ KOREAN

園祭

金韓

綱高

佑芳

聖英

金林

彦烈

損光範

時 一金 李

柳済擢

定価

編集長

ワ岬レ 明

昌潤

! 時一 成

80

K B S交響楽団の国連演奏会

李相 高


民俗ノリという用語は広く使われている

が、その概念は極めて漠然としていること

が多い。一般に、民俗ノリといえば民俗的

な遊ひと娯楽はもとより、舞踊と演劇をも

含む広い意味に取られる場合が多い。

遊びという時には、まだ年端のいかぬ少

年、少女たちがふざけ気分で楽しく遊んだ

り運動することを意味し、娯楽は休む時間

らかねチ+

ング

に趣味をいかしてサムル(四物/太鼓、銅

羅、鉦、長鼓)を打ち鳴らして楽しむこと を意味する。したがって、民俗ノリは娯楽


というよりは遊びの概念に近いといえる。 踊りは、既に独自の位置を占めているが 、

ひとつとして伝わっている踊りは民俗ノリ

創作舞踊や古典舞踊とは違い、歳時風俗の

に入るものと受け取られる。民俗劇の人形

劇や仮面劇は民俗ノリの要素が多いが、そ

れは劇の一部であり全体の矯成は演劇的で

あるため民俗劇として独立しつつある。し

かし、ノリ(遊戯)の要素が多いということ

は認めなければならない。

民俗ノリという名で行なわれるものは多

いと思われるが、最も規模が大きい行事と

しては全国民俗芸術競演大会を挙げること

ができる。この大会は農楽、舞踊、民俗劇、

おり、民俗ノリは舞踊、民俗劇と区別して

民謡、民俗ノリの五つの部門に分けられて

独立した部門にしている。全国民俗芸箆腕

演大会の民俗ノリの部門に参戸加するものの

うち代表的なものを挙げると次の通りであ る。

カンガンスルレ(女たちが丸く輸を作っ

て舞う)、セギョンノり、テイベグッノリ、 燃灯タツノリ(済州島の陰暦二月、竿を

立てるなど神を祭る)、海女ノリ、韓将 軍ノリ、橋クッ、ヒヤンドゥゲノリ、車

戦ノリ(陰暦 一月 一五日、村別に隊を組 んで一輸の車を押して競争し速いほうが

勝つ)、ハムヨルノンギノリ(農旗の取り

合い)、コサウムノり、踏橋ノリ、亀ノリ、

俗離山掠 P まわり、牙山綱ひき、地神踏み、

立春クッ、オバンノリ、双竜ノリ、端午

グッノリ、ソダンノリ、十五夜綱ひき、

観灯ノリ(釈迦の誕生日を記念しての行

事の一っ て 瓦踏み、たいまつノリ、大

戯)、ノッタリパブキ(慶尚北道安東地方

盛ノリ(おはらいのさいの賑やかな遊

等で陰暦 一月十五日夜に行なわれる婦女


子の遊戯)、仲秋ノリ(陰暦八月十五日夜 に行なわれる遊戯の一ってキセベ

信仰と芸術性 いかなかった。

スルレの習わしに歯止めをかけるわけには

の遊戯を行なったのであるが、これが歳時

祝祭日には一日を楽しく渇こすために様々

わって遊んだことが故郷を懐かしく思いだ

わが国の民俗ノリ(遊戯)は土俗信仰や仏 教信仰にかかわる后柿性をもとにしたノリ と 、 祝祭日を迎えて歳時風俗のひとつして

う用語そのものが亙女のおはらい行事を意

以上の民俗ノリは、農漁村で村の人 4が 生活を楽しみ、祝祭日を楽しく過ごすため 行なわれるノリ、力を競い知恵をしぼり

味していることからもうかがわれる。つま

させ、さらに郷土愛を深めさせるのだ。

風俗として根を下ろして生活の一部になっ 橋クッ、地神踏み、立春クッノリ、大監 た。長じてから子供の頃の思い出として残 ノリ、端午クッノリ、燃灯ノリは多分に シャ ーマニズム的であり、これはクッとい . るのは、祝祭日に打ち興じた民俗ノリが大 部分なのである。月夜に友だちと跳びま

のものが大部分だが、その中には信仰につ あって勝負を決める競技のノリ、その他の

り、神に頼って災いを角かれ福を迎え入れ

神事からきていることを物語るものであ

の測りしれない力に驚畏を感じる時に、神

人聞が自らの能力の限界を感じながら神

ひとつの郡が東西または南北にわかれて勝

技を競いあう。これが大がかりになると、

分けて行なうのではなく隣村との間で力と

らも勝ち負けをかける。村の住人を二組に

信仰関係のノリ一橋クッ、燃灯ノリ、観 り、また祝祭日を迎える喜びから余興とし

a

ながる群衆行事も含まれていることがわか ノリに分けられる。数の割合からみて后局

ようという除禍招福の原始宗教から来てい

競技のノリは祝祭日と深くかかわりなが

関係のノリと祝祭日のノリが多いのは、民 る 。

以上の民俗ノリ(遊戯)を性格別に分類し

る 。 俗ノりが古代社会において神を祭る行事の

灯ノリ、塔まわり、地

にすがろうとする思いと神の教えを尊ぼう

てみると次のようになる。

袖踏み、立春クッ、大 て行なわれた古い慣習が今日に伝承してい

とする心が生まれたに違いない。

こういった過程で、神を喜ばせる方法と人

たのである。

い郷土愛に満ちた楽しい民俗ノリに成長し

人同士の協力が必要であり団結をしなけれ

カンガンスルレを例にとると、はるか遠

間の知恵と粋な姿を示す民俗ノリも現れた

神をまつって願いがかなうように祈り、

ち負けを決める。勝ち負けを決めるには住

ることを示すものである。 民俗ノリは生活の共感から形づくられ、

監ノリ、端午クッノリ 祝祭日のノリ一カンガンスルレ、たいま

くの昔、月のありがたさをしみじみと覚え

のであるが、信仰関係のノリがこれに当た

の競技は村、また地域社会の共同意識を培

橋ノリ、亀ノリ、キセベ、

ていたころ、暗い夜の恐怖から解放してく

る 。

ばならない。このようにして、組を分けて

ノッタリパブキ、瓦踏み、

れる月のありがたさが喜びに代わり、互い

てきた。綱引きの場合、勝った方の村はそ

り、また村の平和にもつながると信じられ

願いがかなった時には神に感謝の気持を表

トンパルノリ

に手に手を取って円舞したことから始まっ

祝祭日は毎年、訪れる周期的な祝日であ

の年の農作がうまくいって豊作になるのに

民衆の間で楽しまれながら伝承された。

農旗とり、十五夜綱ひ

て今日まで伝承されたものであろう。仏教

る。人類は祝祭日には楽しく過ごす事国と

対し、負けた方の村は凶作になると考えら

つノリ、韓将軍ノリ、踏

き、牙山綱ひき

と儒教が入ってきて体をみだりに動かすこ

知恵をもっていた。正月、上元(陰暦一月

す球舗の祭りが行なわれるようになった。

その他のノリ一海女ノリ、オバンノリ、

とを戒めるようになったが、民衆が陰暦八

の十五夜)、秋タ(陰暦八月一五日)などの

のではなく、勝ちはそのまま名誉につなが

競技ノリは勝負がつけばそれで事足りる

双竜ノリ、ソダンノリ、

月十五夜の喜びを動きで表現するカンガン

競技関係のノリ一車戦ノリ、コサウム、

セギョンノリ



雌の綱とに分けて、生産を可能ならしめる

れていた。時には、また綱自体を雄の綱と

られ、負担なく愉快な気持で参加できる。

に属する者なら誰にでも共感の機会が与え

て共感をもって長い間伝承されてきた民俗

ある。しかし、民族の生活文化の一部とし

か言いようがない。学校教育でさえ我々の

ノリが、近来西欧文化に押し流されだんだ

民俗ノリは、欧米のものに押しのけられて、

ん消え去りつつあることは残念であるとし やすく輿に乗りやすいのは、農楽が我々の

西洋の名曲に鈍感な人も、農楽や長鼓の

民俗芸術として生活化しているからであ

音には調子を合わせやすく体のふりもつけ

は天下の大本﹂としていた農耕民族のノり

する考え方もあった。このようなことは﹁農 が生産を祈る一つの儀式として始まり、成

民俗ノリは

単に遊戯を行なう

その意味が

あるのではなく、

そこには

ζとに

芸術性が取り込まれていると

いうことにも

意味がある

郷土性と民族的共球事}もっている民俗ノ

すたれに拍車をかけている。

リは発掘され、伝承されて新しい民族文化

創造に寄与しなければならない。韓国人の

は、今や年寄りたちのかすかな記憶に残っ

協同・団結と郷土愛を盛り上げるために

ている民俗ノリを発掘し、その長所を現代

ない。民俗ノリが長い歴史をもって我々祖

生活においても再現していかなければなら ことをさらけ出しているわけである。また

な民族芸術教育が、まともにできていない

きちんと教えていない実情である。主体的 な感覚によって自ら作った芸術であるた

それは文化的な価値があるものであり、こ

先の共感の中で伝承されてきたとすれば、

7﹂芸術的 長い生活伝統の中で我々の知事

る 。

音媒があるのではなく、そこには芸術性が

民俗ノリの主な継承者であった農民層の生

ことが我々の課題といえる。

れを伝承・育成して後代に継承させていく

活構造や音議が変わってきていることから 伝統をなおざりにする傾向があり、こう いった状況は伝統芸術としての民俗ノリの

め、いつ、どこででも共感が分かちあえる。

し求めるのがいちばん手っ取り早い方法で

さというものは、その民族の民俗芸術に捜

それゆえ、いかなる民族であれ、民族の粋

である。民俗芸術は、個人ではなく集団の

る。民俗ノリは民俗芸術の一つのジャンル 芸術的な共感によって形づくられる。集団

取り込まれているということにも音媒があ

民俗ノリは単に遊戯を行なうことにその

長したことを示している。

牝綱の方が勝たなければ豊作を望めないと

陰暦一月一五日の前夜、農村で行われるチュイブルノり( 畦道などへの放火)


さておき、新しい文化の創造の能力がない ことを意味する 。ひとのものを模倣して追

を失うことであり、民族文化遺産の継承は

生届の中で伝統を失うことは自らの文化

んだり、歌ったり踊ったりして楽しみ、山

ると老若男女が 一堂に集まって食べたり飲

踊った。

祭りを執り行なう際に歌を歌い、踊りを

威力と神秘を恐れ、かつ崇めて神のために

て歌い踊ったのであり、神はこういった人

即ち、人間の敬謙な心の印として真心こめ

に人聞が捧げたものであったからである。

深いつながりをもっていたのは、神のため

ある 。古代において歌や踊りが民俗信仰と

しながら、歳時風俗として定着することも

しなし。

自らの芸術的な感興を充分に発散したに違

このような歌舞を通じて人々は神と接し、

慰め奉送する過程で様々に繰り広げられ、

霊屋における歌や踊りは、神をお迎えして

頭に合わせて農民は歌い、かつ踊った。み

め神祭には歌舞がつきものである。

間の歌や踊りを喜んだからである。そのた

祭典儀式の際に、我 々の祖先は日が暮れ

や生活は形づくられない。このため、伝承 の神をまつってクッ(亙女のおはらい)を行

神、ソナンシン(氏神一村の守護神)、竜王

興の表現になって、さらに芸術的な球雀を

でる感 民俗ノリは、人間の内部から、空 c

従することに汲汲としていては独自の哲学 された民俗芸術としての民俗ノリについて

じっとしていられなくなり、ついつい立ち

感を得るようになった。楽しくなるから

ふんだんに取り込みながら多くの人々の共

くなり、遊戯のみが民族芸術として残り、

あがって歌を歌ったであろう。このような

神祭やクッにおいて神に対する信仰が薄

古代芸術の名残が今日の民俗ノリとして

楽しい避ひに分化して今日に伝わっている

い、歌舞を楽しんだことから、このような

新たな対策が講じられねばならないのであ マ 心 。

集団的であるほどおもしろい

ものも多い。 時は農楽がつきものであったし、農楽の音

新年を迎えて洞祭(村祭り)を執り行なう

なく、自らの内面から湧きでる球顛の表現

素朴な芸術行為は誰かがそうさせたのでは

お祭りが大がかりになればなるほど歌や

残っているのである。 踊りの規模も大きく、これが長い歳月をか

い。凧あげ、こま回しのように独りでする

あるほどいっそう楽しく、その規模も大き

団で行う場合の方が多く、集団的であれば

民俗ノリでは個人が遊戯をするよりは集

いていく。

同じ郷土、同じ民族である時、一体感に導

し、感銘を与える。このため民俗ノリは、

で育った人々には大きな共感を呼びおこ

民俗ノリは郷土性を表しており、その郷土

も郷土的な特徴をもっている。このように

スルレ、慶尚道地方のケジナチンチンなど

である。全羅南道西南海岸地方のカンガン

が流行っていることがその代表的なケ lス

いるのに対し、北部地域ではブランコ乗り

韓半島の南では綱引きが広く行なわれて

性から抜けだすことはできない。

性をもつのであるが、民俗遊戯もこの郷土

と社会がさらに加わって郷土性としての個

の生活様式を生み、ここにその地方の歴史

る。その地方の自然環境や生産壁宗彼ら

条件により歴史性・社会性をもつようにな

的な源がある。 郷土は、それなりの風土的条件と文化的

であったのであり、ここに民俗ノリの芸術

けて伝承されるうちに信仰との関係を深く

O コ 也O ︿C 8686 ︿︿

( 上) ノルティギ( 板跳び) 。正月や端午などの祝祭日に長い板の中央を丸めたむしろ台に載せ、その

繰りかえすが、民族芸術が素朴な形で 残っているところは民俗ノリである。古代 において人類が自然の力に圧倒され、その

両端に人が乗り交互に跳ね上がる女性の遊戯。( 下) 冬の男の子の遊びの独楽回し


いくつかの村の人 有がわんさと集まって行

がかりになる場合は、隣村あるいは近くの

衆が集 ま って行ない、さらにそれが特別大

ものもあるが、家族がそろい、または村の

した 。

い所では民俗ノりがすたれ・ てなくなったり

模の大きな民俗 ノリが伝承され、そうでな

うな協力関係が うまくいっている所では規

とのように進んでやったのである。このよ

すなわち、集団でなすべきことを自分のこ

て再現していかなければならない必要を覚

は他意によって消滅した民俗ノリを発掘し

本の植民統治が始まるころからすたれだし たという話をしばしば聞いた 。ここで 、 我々

て、年生町 りたちから集団的な民俗 ノリは日

数十年も前のことだが 、現地調査に赴い

ることができ、芸術的に 価値のある民俗 ノ

ひとつは原形伝承の方法である 。民族文 化の核として 、または民族生活の興味を知

討しなければならない。

く、カンガンスルレ、シルム(韓国式の相 ればあるほど、これに参加している人々に

民俗ノリが郷土愛を育て、協同精神があ

さなければならないと考えるのである。

えるとともに、民俗ノリのもつ意義を見直

経る聞に変形されているはずだから、どれ

リは原形のまま保存されて伝承されなけれ ばならない 。原形とはい っても長い年月を

という問題については、 二つの方向から検

のすごろく)は家族どうし楽しむことが多

なうこともある。即ち、ユッノリ(韓国式

撲)、チュイプルノリ(正月の初の子の 日に 一体感事﹄抱かせるが、このため日本の植民

いわけであるから原形の継承を行政当局に

時代の遺物ではあるが各時代の原形を見て

れていくことが望ましい 。

が、できるだけ原形に近い形のものを継承

が原形に近いかを断定することは難しい

畦道などに火をつける遊び)などは村の中 地支配のもとでは民俗遊戯が弾圧された 。

だけ任すこともできない 。ここで原形伝承 の問題が持ちあがる 。

研究資料にすることができ、創造し直しの

うために村の衆が一人残らずタブーを守

され、原形保存に力を注いでいるものもあ

芸術的な価値が認められ無形文化財に指定

りの理由があったであろうし、風土的な背

地方で生まれ、伝承されたとすればそれな

ければならない。ひとつの民俗ノリがその

とを考えると、その地方で原形を伝承しな

りに保存し伝承していく作業が引き続き行 なわれねばならない。

をもっているということを認識し、原形通

ているように、民俗ノりの原形も同じ機能

勺Q

美智﹄ コ3 c

我 々が博物館を訪ねるのは、過き去 った

民俗ノリはその郷土的な成員が昇華した

る大切な経験と知恵がその遺物の中に眠っ

可能性があるからである。人類が持 ってい

どのように伝承し て いくか

で行われる場合が多 い。また綱引きやコサ 植民地支配を強化するにあたっては、郷土 加えたとしたら石窟庵は元の姿をとどめる ことができなか つはずである 。こんな点か

ウムのような場合には郡単位でにぎやかに 行なわれる 。規模が大きい場合は数千名が 参ノ加することがあり、こうした集団遊戯は、 コ ODE700

︿一間

のであり、郷土人の聞に伝承されてきたこ

共感として形作られるため郷土性をおびる

り、遊戯に使われる材料や道具を喜んで提

る。このような作業は伝統の継承という点

民俗ノリ(遊戯)の中には、その文化的、

供し、大道具を作るのに進んで労力を提供

二つ目は再創造の叩受叩である 。時代の流 する必要がある。よく、原形の保存が無意

で有益なことであり、時代が変遷しても原

味であるとか、時代的な感覚にあわせて改

わら

景と歴史、社会における文化的な意識が あったであろうから、その原産地において

造し変化を与えようとかいう考えが披露さ

る 。

民族的な共感の下に歳時風俗となり、慣

共球事長ぼえる地元の人 々によって伝承さ

形に接することのできる文化的意味があ しかし全ての民俗ノリが文化財に指定さ

綱引きやコサウムノリで綱の上に人が上

れているわけではなく、またそれはできな

がると、足が地につかないことがあるが、 このような太い綱を作るには数千束の藁が なければならない 。綱。つ くりに要る藁は

必要である。

れるが、まずは原形伝承への頑なな作業が 愛、民族愛をあおる民俗遊戯は邪魔物だっ たのである。

習になって長い間伝承されてきた素朴な民 一 俗ノリを、どのような形で伝承していくか

買って使うのではなく村のメンバーが率先 して出し合い、綱、つくりも村の衆が行なう。

して協同値揮を示す。

違いなしに行なわれる 。 ノリを公平に行な

らして、伝承された芸術文化は原形通りに

と相手側の胴の部分を、先に押さ えつけ るほう を勝ちとするチヤジ ョンノリ( 下)

参加する者はもとより集団のメンバ ー全て

主メサンJ 巳万平

継承することが極めて大切である。

って勝負を競う柴山牛頭突き合わせ( よ)

がこぞ って参加 してはじめて、何ひとつ手

木作りの牛頭を互いに突き合わせ押し合

10


陰暦一月一五日に行われる婦女子の遊戯、ノッタリバプキの先頭を歩く女子生徒たち

我々が今日、慶州石窟庵の仏像を見て感 銘を受けるのは、新羅人の信仰心と芸術的

な感見と重荏をそこに見いだせるからで

に接することができ、大切に原形そのまま

ある。その仏像を通して新羅の宗教と美術

に保存してきた我々の祖先の文化一主義を高

く評価することになる。

もしも、その時代毎の球ω 覚で仏像に手を れはモラルも変え、審美的球舛見も変える。

各時代はその時代に尽した文化を生んでい

る。そうでなくては発展は望めない。した

がって、一方では頑なにまで原形の伝承を

しい創造がなされなければならない。

試み、それを源泉にして時代に相応した新

我々の現代史は、我々ものと外来のもの

が互いに絡みあい意識と生活に大きな変比

の中におかれているのが特 をおこす渦券妄 C 徴である。キリスト教が伝来し新しい文明

が入ってきて大きな波紋をおこし、甲午更

張(一九世紀末の近代改革)後の我々の文化 は変化の中で育まれノリにも大きな起伏が

あった。農耕文化を土台にして形成された

ノリが都市の産業社会化の中で共感事長う

ようになり、消滅衰退の現象がはっきりし、

その代わり現代人の戚賞にあったノリが登

場して楽しまれるようになった。このよう な状況では共感のないものはすたれて消え

去り、なおかつ共感の残っているものは折

衝式の変化を起こしている。どうしょうも

ない時代の変化である。

急変する状況の中で我々には再創造とい

う知恵が求められている。再創造は伝統を

現代的に継承することになり、また外来文

できるだけでなく、新しい時代に適応する

化も受け入れるこつの効果をあげることが

方法であるといえる。

11


qdTdUOコ

︿ 一白

韓国の伝統的な民俗遊戯は、一年中いつ

どこでも自にすることができるが、特に農

一月一五日)、端午の節旬、百中の日(陰暦

耕儀礼に深く関わっており、小正月(陰暦

秋タ(陰暦八月 一五日)など 七月一五日)、 、 の祝日に行なわれる遊戯は盛んである 。 こ

れらのノリは、早春の種まきと春、夏の成

育そして秋の刈り入れと切り離せない関係

ノリが最も盛んに行なわれる時期は、韓

にあることを示している。

半島の南部地方では秋タのころであり、中

部以北は端午の日である 。中でもノリ行事

が集中しているのは小正月の前後。農耕社

かけて行なわれる歳時風俗の中でも中心を

会において小正月のノリは歳末から年初に

るノリのうち中国から伝わったもののほか

なしている。そして、この時期に行なわれ

は、全てが農耕に関する伝統的な民俗行事

韓国のノリは現在までこのむ種ほどが知

である。

られているが、綿密に調査すればこの数字

をはるかに上回るものと思われる。よく知

られているノリのうち今日に伝承されてい

民俗ノリは、その目的や内容によって遊

るものはその半数にも満たたない。

けノリ、力比べのノリ、豊一漁を祈願するノ

戯自体が目的のノリ、豊年を祈るノリ、賭

リ、個人の願いや村の平和を祈願するノリ

などに分けることができる。

同()月一円﹀Z﹀は韓国の伝統的な民俗ノリ

の中から代表的なノリをグラビアとともに

紹介する(編筆告註)。

12


コクトウガクシ(人形劇)

綱渡り

高いところに張ったロ lプの上を歩いて

行ったり来たりしたり、踊りを踊る妙技を

見せるノリ。これは中央アジアから中国を

経て韓国に入って来た。

どさ回りのナムサダン(旅芸人)は村の広

場に陣取って、綱渡りのほかプンムル(農

楽)、ボナ(皿まわしてタンジェジュ(とん

トルミ(人形劇)などを演じて村人たちに楽

ぼ返りなどの軽業)、トッベギ(仮面遊び)、

しんでもらった。

綱渡りはただ綱渡りの妙技を見せるだけ

でなく才談(ユーモアあふれる世間話)をし ヤンハン

たり、歌を歌ったり仮面劇の場でのように

両班を皮肉ったりした。ナムサダンの綱渡

りの妙技は一七種類にも及んでいる。

二本の丸い木片をそれぞれ半分に分けて

ユンノリ(韓国式のすご ろく)

韓国の人形劇はパクチョムジノリまたはホ

四本にし、これを投げてひつくりかえるか

ナムサダン(族芸人)によって伝承される ンドンジノリとも呼ばれている。これは中

遊び 。

で、一家族はもちろん、隣近所どうし、ま

主にの元Eから小正月の聞に行なう誤楽

伏すかするのを数字に換算して駒を進める

央アジアから中国経由で入って来て古代一一 一 国時代から広く流行し、日本にも渡って

たは村の人々がともに楽しむ韓国の代表的

行った。舞台、演出方式、人形の操り方な ループによって一九二O年まで韓国の各地

どは中国のに似ている。ナムサダンのグ

このノリの発祥地はインドで、中央アジ

な正月の遊びである。 一九六四年重要無形文化財の第一二号に指定

で公演されていたが、今ではすたれている。

アとシルクロードそして中国を経て韓国に

入って来た。北米大陸と南米大陸の原住民

された。 仮面劇のように破戒僧に対する風刺、一 ン

もよくユンノリを楽しんだという。昔は、 J'

夫多妻制にともなう家庭の波乱、両班の横

農業の豊凶や戦争の勝敗などを占 ったりも した 。

暴に対する風刺などが主だったテ l マであ る 。

13


勺 ハ 墨 UEdt

ヨルサンデ

P る 。

年に重要無形文化財第二号に指定されてい

秀いでていると評価されている。一九七四

仮面踊りのうち最も粋で芸術的にも極めて

この揚州ピョルサンデ仮面踊りは韓国の

行なわれた。

月一五日)などの大小さまざまの祝祭日に

頭一陰暦六月一五日)、七月の百中(陰暦七

様の誕生日や五月の端午、六月のユドゥ(流

揚州ピョルサンデは陰暦の四月のお釈迦

デ(別山台)と呼んでいる。

サンデ(本山台)、揚州のものをピョルサン

の阿唄、磁橋、サジックコルのものをポン

リは全てサンデ(山台)ノリと呼び、ソウル

ノリ。ソウルと京畿地方に分布する仮面ノ

占墨臥道の揚州地方に伝承されてきた仮面

" l 77J /

14


ハフエピヨルシン

河田別椅クツ

慶尚北道の安東郡豊山面河回洞に伝承さ

れて来た民俗劇。伝説によると直麗時代の

を作っていた許ドリョンが彼を慕っていた

半ばに夢に現れた神霊の命令に従って仮面

乙女のために血を吐いて死んだため、その

死を悼んでこの別神グッが行なわれるよう

河田の仮面は現存の仮面のうち最も歴史

になったという。

一号に指定、保存されている。榛の木に漆

はん

が古く、そのうちの一 一個は国宝の第二一

を重ね塗りしており、芸術的にまれな逸品

とされている。

15


n m

U ﹀司↓盟 ﹀

p u 。 OCコ 由c

﹃封印

けて行なわれる。チヤジョンノリは住民が 無形文化財第二四号に指定されているこ

アンドン

のチヤジョンノりは、慶尚北道の安東に伝

は落ちないように紐をつかみ、右手では味

東西の両チ lムに分かれて行うのである いにぶつけ合わせながら勝ち負けを決め る。

方を指揮する。

安東チヤジョンノリ

ロープの形や戦う方法などは綱ひきに似

の強い民俗ノリである。

承されている娯楽性と団結性そして戦闘性

ンチほどもある長いロ lプの頭の輪奈を互

全羅南道光山郡のユットル村で一月のはじ

ており、勝った方が豊年になるという信心

コサウムノリ めから二月のはじめにかけて行なわれたノ リ。﹁コサウムノリ﹂の﹁コ﹂つまり輪奈は

もまた同じである。従って、このノリは綱

れており、小正月の前後に昼から夜まで続

それぞれ相手側を攻撃して地面に押さえ つけると勝ちになる。

トンチェの上にはム人特が上がって、左手

が、河原や野原がその舞台になる。

チヨゴリ(韓国の伝統衣装の上衣)について

ひきの変型といえる。

一名トンチ ェサウム(丸太戦い)ともいわ

いる紐のように 一本を長くのばして丸く輸 にして結んだ形になっており、直径五O セ

16


ンルム(相撲)

二人が腰と脚に回しのように結えた帯を

に倒すかによって勝負をつける韓国の代表

互に取り合って力と技を競い、どちらが先

四世紀の末の高句麗古墳のシルム壁画か

的な男性の競技のノリである。

ら推して、わが国では四世紀以前からこの ノリを楽しんだようである 。このシルムは、

モンゴルがル lツで中国を経て入って来た

もの。ここからさらに玄海灘を渡って日本

相撲はオ lスヤラリアの原住民、ポリネ

の相撲になったといわれる。

シア 、 アフリカにまで広く流行した世界的

な遊戯を兼ねたスポ ーツで、最も歴史の古 い競技のひとつである。

17


TE

d ヨ∞004 ヨ

ウイド

甥島テイベグツノリ

面大里という村で毎年陰暦一月の三日に豊

娼島のテイベグッは全羅北道務安郡の蛸島

漁を祈り、村の平安を願って行なわれる村

単位のクッ(お放い儀式)である。

大晦日の夜明けに村の東側と西側にある

堂山(村の守護神をまつってある山)にクム

チュル(タブーをあらわオ注連縄)を張り、

午後には村の裏山にあるお堂の願堂(祈願

のために建てたお堂)に登り掃除をし、船

主たちは自分の船でベッコサ(船の厄払い)

して船の旗をもった船主たちが村の裏山に

をする。そして一月三日には亙女と祭官そ

ら山を下り、午後には海辺で竜王祭りをし、

ある願堂に集ま ってお放いの噂式をしてか

浮かべた船に村の厄を載せてはるか沖に流 して追い払うのである 。

18


30三戸師。h 戸 x v c

農楽ノリ

韓民族が韓半島に定着して農耕生活を営

んみだして以来、続いていると言われる農

楽は、わが国の民俗ノリのうち最も歴史が

古い 。銅羅、鉦、太鼓、長鼓、笛などから

なる農楽は、村の祭りや豊作 ・大漁への祈

願、祝祭日などには欠かせない 。農楽には

銅羅ノリ、長鼓ノリ、太鼓ノリ、小太鼓ノ

リ、島譲ノりなどがあり、踊りの形態によっ

てはサンモノルム、手と足の踊りのパルリ

ムなどがあり、地域毎にノりのスタイルが

異なることから京畿農楽、湖南左道農楽、

嶺南農楽、嶺東農楽などに分けたりもする 。

京畿道は近隣にナムサダン ( 旅芸人)グルー

プの根拠地があってトヮ ンセ(民俗 ノリの リーダー ) が数多く輩出された 。

19


主 亡 ﹃ sa qd ︿Od

20


綱引きの習わし キムグァンオン

金光彦仁献糊受

21


マ・町尚南道昌密蔀のヨンサンでは毎 ら持ち上げて引っ張り合うのである。この

AA口一位回年三月の初めに 三・一文化祭が EEドど催されるが、この文化祭の行事 綱をない合わせるのに必要なワラの量も膨

るのさえ、なかなか大変だ。それで、 一 O O余の脇綱をつけて引き手の体に結んでか

のうち全国的に広く知れわたっているのが 大だが、綱を仕上げるのも大変だ。数十名 が寄ってたかつて、昼夜を分かたず会 い Uで

綱引きである。 これは町にある昔の城跡を境にして東西 だ 。 それだけではない。東西の両組は、夜も

も二O 日以内に仕上げることはないそう

昼も綱を見張らなければならない。相手組

の両組に分かれ、数千名の住民が勝負を競 る雄綱(相手側の綱の先の輪に差し込む、

う壮快な遊戯である。東組は男性を象徴す 細長い先のついている綱)を使い、西側は

チュル﹀の先を差し込めるようになってい

女性を象徴する雌綱(相手側の綱︿スッ

や針などを差し込んでおけば、競技の最中 に綱が切れると考えているからだ。また、

の者が忍び込んで、綱をまたぐとか綱に釘

ヨ ∞ T D 。。 コヨ O

る、丸い輪のある綱)を使って勝負に臨む

この綱をまたぐ女の人は男の子をもうける

aル

わけだが、西側が勝てば豊作になると言わ

といういわれがあって、男の子に恵まれぬ

アムチ

れる。だからといって、東側が容赦するよ

日本の植民統治時代の出来事だが、忠清北 道忠州のある村では綱をまたごうとしたあ

女性にも狙われるそうだ。

けの力を絞るのである。

たことすらある。

る女の人が投石の洗紅を受けて命を落とし

綱は一方の長さが四0 メートル、差し渡 しが五0 センチもある。重いため持ち上げ

り、ここではもっぱら勝つためにありった

留める

F

( 上) 韓国の代表的な民俗遊戯の綱引き用の太いワラの織。

うなことは勿論ない。豊作は先のことであ

( 下) 綱の先の雌綱。輪模様の雌綱に雄綱を押し込んで丸太で

22


綱引きはこの後に行なわれるが、女性の方

雨が太陽を追い払う意味を宿らせている。 中国における綱引きの中心地は楊子江流

綱引きは中国でも盛んに行なわれた。

それより東北では一月十五日に、西南地域

や大阪などの近畿地方を境にしてみると、

ジアでも、寺院や僧院の前庭で男女が豊作

日に大々的に繰り庁内けられた。ここでも綱

一帯であり、中でも湖北地方では一月十五

域の湖北省と湖南省、そして南部の広東省

最近では一月十五日の綱引きが増えつつあ る 。

月十五日にそれぞれ催されてきた。しかし、

では七月十五 日に、そして九州地方では八

た)、日本では地域によって異なる。京都

応ぽ町と拡析は閉じ形をしているが、先 、が勝ってこそ豊作になると考える。カンボ を祈る綱引きをする。ミャンマーでは綱引

を竜と考え、また綱を引く行為は竜が天に

した。

の雌綱の輪状の頭の中に差し込んで、長さ

の頭は雌綱の方が大きい。それは雄綱をこ 三メートル、直径二五センチほどの丸太を かんねき ; 問にしてつなぎ合わさねばならないから ももちろん豊作を祈る風俗である。綱を蛇

きをすれば雨が降ると信じているが、これ

上半身を前の方にかがめでは後ろにそらす

と考えられている。このため農作を始める ときは男女二組の群れが性行為をまねて、

陽神と女性の地母神か一年に一度会う壁民

ある。インドネシアの東部では、男性の太

ら見下ろすと、だれしも竜が思い浮かぶは

実際に数十本の脇綱のついている綱を上か

る。綱は、すなわち竜を表すからである。

くなし。

とする考え方は、日本の南部地域にも少な

地方では盛んだったのである。

ないのに対して稲作中心の南の湖南・嶺南

部地域では綱引きがほとんど行なわれてい

も漢江を境にしてみると、畑仕事中心の北

九州地域に集中的に分布している。韓国で

おり、この民俗が最初に稲作の行なわれた

日本の銅引きも稲作と密接にかかわって

昇る姿を表すと信じた。

を示そうともしている。ところで、この学

し書きを添えて日本固有の民俗であること

昔は八月十五日の綱引きが多かったとの但

からだそうである。その反面、その学者は

た韓国系移住民がこの遊びに親しんでいた

なわれたのは、古代にこの地方に渡って来

心地であった近畿地方で綱引きが盛んに行

綱引きの本場は東南アジアの米穀産地で

だ 。

動作を繰り返しながら綱を引っ張る。男女 ることで雨をたっぷり降らせることができ

ずである。人々は竜に似ている綱を引っ張 ると考える。苦から水の中に住む霊一歩な動

日に行なわれるが(冒頭で述べた慶尚南道

韓国と中国での綱引きは、主に一月十五

を知らなかったようである。日本の八月十

では八月十五日に綱引きが行なわれた事実

道、京畿泡そして慶尚南・北道の 一部地域

者は韓国の全羅南道の島々と済州島、江原

日本のある学者によると政治・文化の中

の神が年に一度会って恋いしさをいやす民

物と考えられていた竜は、雨をつかさどる

ヨンサンの綱引きも、もとは一月十五日の

綱と雨との関係は綱の形に見いだされ

俗は韓国の南部地方にも広く分布していた ラオスでは春、種をまく直前の日の夕刻、

行事であったが、 一九 一九年一一一月一日の抗

が、最近はかなりすたれてきている。

と信じたからである。実際に、慶尚車場の

五日に行なわれた綱引きも、韓国から渡つ

晋州や蔚山等の地方では長いこと日照りが

日独立運動を記今午'るため三月一日に変え

を踊る。このとき女の方が男たちを遁か遠

続くと、雨を祈る意味から綱引きをしたり

男と女がそれぞれ列をなして蛇を表寸踊り くの方へ追い払う仕草をするが、これには

綱と雨との関係は 綱の形に見いだされる。 綱は、すなわち竜を表すからである。 実際に数十本の脇綱の ついている綱を上から見下ろすと、 だれしも竜が思い浮かぶ はずである

23


ヨ印 E

003

( 上) 日本沖縄の綱引き ( 左) 慶尚南道の密陽綱引き。密陽の綱引きは脇綱引きを主とする一風変わった綱引きである

綱引きを一月一五日に 行なったのはなぜか。

それは、月を基準にして

農業を営んでいた農耕民たちは、

ていったものと見るのが妥当であろう。

新年になってはじめて月の満ちる満月の日を 神聖な日と 考えたからである

i ヨ印 E- o o Sヨ

綱引きを一月十五日に行なったのはなぜ

か。それは、月を基準にして農業を営んで

いた農耕民たちは、新年になってはじめて

月の満ちる満月の日を神聖な日と考えたか

の初日ともいえた。綱引きだけでなく 一九

らである。農民にとって一月十五日は新年

二種の韓国の年中行事の うち、五 二種の行

事がこの日に行なわれたのも同じ理由によ

るものである。また、村の守り神に豊作を

祈って捧げる祭りや民俗遊戯のおよそ四割 がこの日に行なわれたのである。

24


このように綱引きが一月十五日に行なわ

れ、それ自体が性行為に倣ったものである

うえに、綱が竜を表すものと考えられるこ

一つであることは確かだが、他の 一方では、

となどからみると、稲作地帯の重要干ノ何事の

地域の人々の団結心と愛郷心を高める役割

を果たしていた。農家では貴重なワラを惜

しみなく出し合っただけでなく、一月近く

昼夜なく綱つくりに喜々として励んだ熱心

さなどは、自分が生まれ故郷に対し並々な

いことである。

らぬ誇りや話脅かなかったとすれば望めな

韓国と中園、そして日本では地域によっ

てきわめて独特な綱引きを楽しんでもい

慶尚南道密陽の綱引きもその一つであ

る 。

る。綱の端を首に掛け、地を這う格好で綱

を引くのである。綱の中間の結び目に五本

の綱を掛けて五名ずつの人が双方から引き

合うこともある。両方合わせて一O名の人

るようである。中国四川省のチベット族に

が綱を引く姿は、あたかもカニが這ってい

ほどの布でより合わせた綱の両端に輪を作

も似たような避びがある。長さ四メートル

り二人の者がうつ伏せになって引っ張るの

だが、その格好が象に似ているというので

﹁象の綱引き﹂とも称している。このような

綱引きは中央アジアのキルギス族も楽しん

でいる。キルギス人は滑るのを防ぐために

両手にした牛の角を地に突き差しながら綱

これまでみたように、わが国の綱引きは

を引く。

稲作と関連が深く、綱を竜になぞらえ、綱

によって豊作になるとする点などから推し

引きを性行為とみなし、女性側が勝つこと

て中国の南部および東南アジア一帯の綱引

きと系統を同じくしているということが分 かる。

25


農 ;

b

r

E i

リ(まじない遊戯)とそれぞれ呼ぶことにし

族の生業と密接なつながりをもって生成さ

いかなる民族の民俗遊戯であれ、その民

リに限られながらも、また一方では一定の

民俗ノリは農業の主体である大人たちのノ

このため、農業と関係のある農戯である

ざした祭儀的な目的を帯びずしては、たや

る。共同作業をせずしては、また豊年をめ

のノリの性格や名称からすぐさま読みとれ

でも行なえるノりではないという事実がこ

トウレイルノリも豊年グッノリも、いつ

れ伝承されるのが 一般であるといわれてい られることになる。

歳時風俗とかみあって伝承されるノリに限

が伝承する民俗遊戯は除外しなければなら

遊戯の特徴を考えるとすれば、子どもたち

はない。農耕活動に関連してわが国の民俗

れ、伝承したということは耳新しいことで

民俗遊戯も農耕生活を土台にして形づくら

リであり、歳時風俗のひとつとして伝承さ

を祈願する意味合いをこめて行なわれるノ

で、仕事とノリがよくかみあっている場合 であり、ふたつ目は野良仕事を休んで豊年

直接、野良仕事を行ないながら行なうノり

様式にのっとって存在する。そのひとつは 、

農業に関連した民俗遊戯は大きく二つの

リがはっきりした目的性をおびているため

なう時期が一定しているということは、ノ

大衆ノリであるといってもいい。ノリを行

見ると、随特に行なわれるノリは農業と無

的な遊戯が民俗ノリなのである。相対的に

節や定められた祝祭日に限って楽しむ集団

ノリである。言い換えると、野良仕事の季

数が暑貝されて長い間準備が行なわれ、数

らないからである。従って、大がかりな人

妨げにならない時期に楽しまれなければな

の大衆の遊戯とも区別される。農耕生活の

また民俗遊戯は、いつでも楽しめる最近

ので、歳時風俗に従って村で豊年を祈願す

願する呪術的な意図まで満たそうとするも

日のお祭りムードを楽しみながら豊年を祈

レノリであるとすれば、後者のノリは祝祭

農耕の舞台である国ん圃で行なわれるト ウ

りきって働かせるためのもので、農繁期の

現場で野良仕事の能率を高め農夫たちを張

表している。このため我々は、無目的性を

済的な豊かさを得ょうという目的性を強く

具体的な狙い、即ち農作物がよく育って経

は、どれもその時期と状況が限られており、

である 。従って、農業に関連した民経埠戯

関係のものであり、民俗遊戯に該当しない

ない。子どもたちは、農業の主体ではない

れる場合である。前者の遊戯は農耕活動の

日にわたって楽しむノリは自然、仕事をし なかった。働く時期に行なわれる遊戯は仕

ウレイルノリ(共同作業遊戯)、豊年グッノ

ことができる。この二つのノリを便宜上ト

る呪術的なクッノリ(まじない遊戯)という

ホイジンハは物質的な利害関係と関連し

NO ンハ( rhwロ同53ロぬとやカイワ (H∞ 2 ﹄ o 印)の祝祭の概念を、そのままわが の日ロ OH 国の民俗ノリに適用することはできない。

然のことながら民俗ノリは、仕事場で仕事

事をしながら行なえるものに限られる。当

強調して、物質的な利益を否定したホイジ

ないで休む農閑期の祝祭日に限られるほか

ある。

だけでなく生業を営む存在ではないからで

すく行なうことのできない民俗ノリがこの

るほど民俗遊戯と生業は緊密な関係があ

風俗に制約されるのが民俗ノリである。

よう。

i

の能率を高めるノリのほかは徹底して歳時

在三

る。長い農耕文化の歴史をもっわが民族の

存予ー

風俗につながるものである。それほど歳時

た行為ではなく、それによってはなんの利

しかし我々の民俗遊戯はかなり生産的で

借りたりといった金の消費でもある。

り、場合によっては祝祭を行なう場所を

腕前の消費であり口祝祭の道具を買った

の機会である。時間、エネルギー、才知、

加したわけでもない。祝祭は純粋に消費

傑作が誕生したわけでもなく、資本が増

けでもなく、物が作られたわけでもなく、

うでなければならない。収穫があったわ

は再び同じところから始められ、またそ

いものは何も表れないまま、全てのこと

は異なる。一回の勝負が終わっても新し

徴である。この点で祝祭は労働や芸術と

りださないというのが祝祭のひとつの特

実際、いかなる富もいかなる作品も作

次のように述べている。

動として規定している 。カイワは、さらに

ださない﹂として祝祭を全くの消費的な活

﹁財貨も、富のいかなる新たな要素も生み

カイワは、祝祭は非生産的な活動であり、

ではなく、大窓沼戯に該当するものである。

が、これは子どもたちの遊戯とか民俗遊戯

益も得ることができないというのである

民 イ谷厨時 苑 遊風 戯俗 のと 生曲 産年 性を 祈 願 す 海 る Z 安

26


ウレ(共同作業)農楽や農旗取り、島語のど

ある。トウレイルノリ(共同作業遊戯)はト

る。彼は七つの村の田んぼに伝統的な歌ラ

育に大きな影響を及ぼしていると述べてい

もって歌と踊りが各種の草花や農作物の生

士は、いち早くこういった方面に関心を

とがある程度認められる。だとすれば、な

め事実上、野良仕事と変わらないというこ

良仕事のような役割を実際に担っているた

業遊戯)などは、それが遊戯ではあるが野

注意を向ける必要がある。

しながら、最近の解釈学的な研究動向にも

に考えなければならないということを皇見

しているのはもちろん、あらゆる面で生産 の田んぼに比べ二五%から六O%まで増加

ガ(﹃印ぬとを聞かせた結果、稲の収穫量が他

る意味で定期的に行なうノりである。仕事

はなく、仕事をしない季節に曲家作を祈願す

ない問題は野良仕事の現場で行なうノリで

おさらに積極的に関心を傾けなければなら

確実性に対する信念からなりたっているた

の合理的な意識とここに基礎をおく理性の

論に根差している。理性的認識論は、人間

言うならば主に近代以後の理性主義の認識

対象を解釈する従来の観点は、理論的に

ちの労働意欲をかきたてる実際的な役割を

自慢などがあるが、これらのノリは農夫た

性を高めている 。 このようなことから、田 した事実を突きとめた。

んぼの草取りの時に草取には携わらず掌取

ジーや金壷花、ベチュニアのような花の開

も取り去って古典舞踊を踊るだけでもデー

何の音楽の伴奏もなく、足首につけた鈴

リと違い、歳時風俗に従って迎える祝祭日

をする時期に仕事の現場で行なうトウレノ

解釈は、人間の理性を絶対的な準拠とする 。

め、全ての価値基準と対象に対する意味の

り歌のリーダ ー役をつとめるアプソリクン (音頭取り)は、草取りをする者より高い手

が遮断されているだけでなく、人間の認識

従って、世界は常に人間の理性によって対

作用が世界を支配しようとする無滋惑な力

象化されることから、それ自体の理解の道

グッノリである。これら豊作グッノリは実

の音宰心にまで作用する。今日、このような

に、仕事を休んで豊作を祈願する呪術的意

際に農作物の生育にも役立つが、トウレ・

近代の理性主義の限界と横暴に対する反省

図で村の人々が行なう集団的な遊戯が豊年

イルノリのように直接的な役割をするか、

として形づくられたのが、解体主義と後期

たという。こういったことから、トウレ(共

それとも全く何の役割もしないのか。これ

構造主義、ポストマルクス主義などである

花が他の花より二週間も速めることができ

らのノリを祭儀的な目的のノリ、または呪

が、これらの甲漏は究極的には脱近代性を

りをするソリクン(歌い手)は、イルクン(仕

術的なノリだとすると、このような事実を

指向している。言い換えるなら、解釈理論

の哲学的な解 l(F呂田・08認 の 旦 マ 釈学は、このような組織的で技術論的な理

勺 ﹃ オm 印w C O E61

の質問と言わざるを得ない。このため、こ

否定するものであるから、事実上見当違い

思考の先験性がもっ限界を克服しようとす

の次元で近代性が抱えている理性主義的な れまではこのような問題を持ち出すことが なかったのである 。

る反省が最近の解釈学的な潮流なのであ る。

にもかかわらず、村の人々がこぞってこ れらのノリをしなければ、豊年にならない

近代的理性主義が認識の対象を主観と客

観の両極的な図式で捉えるのに対し、ガダ しても、危険を承知でノリを強行したとい

日本の植民地の ころは強圧的にこれを禁止

と信じて引続き伝承してきただけでなく、

同)労働をしながら銅羅や鉦をたたき農謡

うことを念頭におくとすれば、単に呪術だ

S R )

由からである 。トウ レ農楽は、働き手の労

を歌い、踊りを踊りながら田植えをし、草

F

働意欲を奮い起 ﹂すだけでなく稲がよく育 つようにし、稲の害虫がつかないようにす

にするだけでなく、農作物の生命力を刺激

知識であり、科学的に検証されたことでは

である。言い換えると、それは教えられた

学的経験であるということになる。あら か

解を包括的に昇華する地平融合( r058・ 色包括)の道を模索する。従って、 守RRFS 地平融合をめざした解釈は、すなわち解釈 り、研究者の自己中心的な認識であるから

ないということである 。 た断定的な前提と先入感にとらわれずに新

の先験的認識から解放され自由にならなけ

可能性を名産に考慮しながら解釈者は自ら

それゆえ、我々は因習とか呪術とかいっ たに豊作を祈願するクッノリの役割を真撃

はなく、解釈者と資料の聞の充牙な解釈の

じめ想定した資料(広三 ) の 図式的な操作で

性主義の産物を排撃し、研究の対象の地平

取りをするということは働く人予を上機嫌

る効果をもち、田植え歌もまた稲の生命力

して生育を助けることが確かめられたので

どらかね

を助ける。銅羅や鉦をたたき田植え歌を歌

ある。

ノリの呪術的認識と解釈的 態度 植物の研究の進展とともに、農業に関連 したノリの中でトウレ・イルノリ(共同作

は全く対象を見る者の主観的な判断であ

と自らの地平の出会いをベ lスに対象の理

け橋の上を選ばれた王女が侍女たちに付き添われ

事をする人)より大きな役割をするとの理

間賃をもらう。イルノレ(労働揺)の音頭取

て歩いている

とか盲目的な因習のひとつとして見すごし てしまうことはできない 。なぜなら、それ

安東ノ ッタリパプキ。陰暦一月一五日夜に行なわ れた婦女子の遊戯で、腰をかがめて作った人間架

ぃ、踊りを踊りながらトウレ(共同作業)に よって田植えをすれば稲の成長の状態がよ しんだいうことはこれらの民俗ノリが生産

くなると思ってトウレ労働をし、ノリを楽 性の向上をねらったノリであるということ を示すものである。

a F )博 実際、インドのシング(叶C巴

27

一 、


ればならない 。

までも模索する解釈学的経験にいたらなけ

る新しい認識とあわせて研究者自身の変化

自体を変化させるものであり、資料に対す

対する創造的な自覚とともに自らの世界観

る。それゆえ、脱近代的な解釈学は対象に

らみれば解釈者自身を変形させるものであ

らみれば経験の開放であり、資料の立場か

になる。結局、地平融合は解釈者の立場か

は新しい年の凶作を占うという意味で綱ひ

えると、その年の豊作を祈る意味で、また

ることにする。小正月(一月の十五日)を迎

きりあらわされている綱ひきを重点的にみ

いる。この中でいっそうノリの様式がはっ

作を祈願するクッノリとして 一般化されて

回る)、チシ ンバル キ(地神踏み)なども豊

れる亙子のお被い)、チプトリ(村の家予を

リ(南部地方の漁村やソウル地方で行なわ

リ(村の守り神の祭り)やピョルシングッノ

な様式は綱ひきである。チャンスングッノ

プンノングッノリの最も代表的で 一般的

ひきも女性か参加するノリである 。

たちが夜、繰り広げるノリである 。また綱

リパプキとカンガンスオレは両方とも女性

でもとりわけ女性のノリが目立つ 。ノ ッタ

月の十五夜である秋タにも行なわれ、なか

のいい例である。豊作を祈願するノリは八

などがそ リ(女の人たちが輸を作 って踊る )

わる婦女子の遊び)、カンガンスウオレノ

、ノッタリパプキ ( 慶尚北道地方で行な 技)

豊作を祈願する呪術的なものに関連してい る。綱ひきとトンチェサウム(力勝負の競

る。小正月に伝承されるノリは、そろって

正月にはわが遊戯のほとんどが集中してい

日とかかわって伝承されているが、特に小

あるから、このノリの様式のうち最も基本

てみなせるかという問題を取リ上げるので

作物の豊作に何らかの影響を及ほす術とし

ノリがもっ豊作祈願の祭儀的意函が単に呪

このノリ自体の研究が目的ではなく、この

過程の準備と手続きが必要だ。ここでは、

なく参茄できる綱ひきである。

ミックに行われるのは、やはり男女の区別

を祈る民俗ノリの中で最も激しくダイナ

一 一 轟 遊戯を行なうことで豊能多産を祈る。曲

徴する男性たちを呼び入れ模擬的な性行為

る。女性たちのノッタリパルキも、地母神

象化して豊年を祈願する象徴的な役割をす

る女性たちの円舞を通じて季節の変化を形

カンガンスオレは、十五夜の暮霞を象徴す

エリアデ(冨何一回包巾)は、﹁創造的解釈学

きを行なうのであるが、このノリが果たし

太陽または昼間が男性に当たるとすれ

的な問題だけを検討することにする。綱ひ

である。大部分の民俗ノリがこれらの祝祭

は人聞を変形させ、ひとつの学説の理想と

て農作物の成長に直接、影響を及ほすのか

V 象徴する。ソ は満月であるから豊能多産 -

ば、月または夜は女性に該当する。十五夜

きは、準備の過程と競技の過程、まとめの

方の新しい技術にまでいたらせるのであ

して存在自体の質を変えることのできる、

どうか、綱ひきの生産的機能を具体的に検

ル(お正月)は太陽の周期を基準点にした男

ればならない。そうすることにより、資料

生きていく上での技術である﹂とした。こ

討することによりプンノングッノリ(豊作

性の祝日であり血縁の祝日であるため、祖

つ五一

ひ月; と十三

る 。

れまで、わが国の研究者は自らの世界を固

祈願のお祭り)が一般に吹けかけているい

に端陰

国万ー

四円十

の五月

大二五 祝ぃ日 祭秋品)

日空; 同

もまた解釈者に新しい世界を聞かせること

っき分析して意味づけをすることに慣れて

定させておいたまま対象のみをあれこれ突

くつかの質問に対して答えることにする。

わ午暦 が主の

保管してノリをうまく行なうための備えを

lプを作り、その綱を らを集め綱ひきの?

できる。例えば、準備過程では家ごとにわ

過程の、大きく三段階に分けてみることが

を守る洞神に包畿を捧げる洞祭が重要な祭

祝日であり、地緑の祝日であることから村

プに分けて結び合わせ実際に綱ひきをして

し、競技の過程では雌のロ lプと雄のロー

m

ングッ、仮面ノリなどプンノン(豊年祈願)

けでなく、チャンスングッノリやピョルシ

う。なぜなら性行為クッの様式は綱ひきだ

様式を中心に提起された問題を解いてみよ

最も中心部分である綱ひきの性行為クッの

する。この三つの段階のうち、このノリの

撒いてノリの祭儀的な目的を達成しようと

ロlプを切り刻んで豊作を祈って田んぼに

があるとされる丘または山)の樹に巻くか、

ひきを行なったロープを堂山(村の守り神

れる。そして、最後のまとめの過程では綱

勝ち負けを決めるノリの競技が繰り広げら

儀となる。従って、一月の十五夜を前後し

︾ の u ﹀司↓ m

祈願する女性のノリが 一晩中続けられる。

て豊作を祈願する洞祭とともに血轟多産を

月の十五夜は月の周期を基準にした女性の

先に捧げる祭司か重要である。しかし、正

術にとどまるものなのか、それとも実際に

綱ひきが行なわれるまでは、実に複雑な

を象徴する女性たちが一連の生産の神を象

まじないのノリ)に対する関心も同じであ

の八リ

きた。プンノングッノリ(豊作を祈願する

宇て月

っという既存の知識や類似した原理に基づ

三、綱ひきの性行荷琵乱と 豊作の祈願 笠日正

る。曲一回麓多産を祈願する呪術的な意図をも

し、このような遊戯を享受する主体の立場

日月

く模擬的行為であるという常識から抜けだ とノリ自体に基﹁ついて対象をはじめから見 直す必要がある。そうして、はじめてこの 研究の成果が我々の生き方を変化させ生き

て 一 小

28


今日、農村で行なわれている綱引きは、地域社会の共同遊戯である。小・中学の運動会でも人気のある競技種目となっている

グッノリなどにおいて一般化されている様 式であるからである。

綱ひきの準備過程では、わらを集めて ロlプを作る年来が中心をなし、そのロー

プ(綱)を守る務めもある。プンムルベ(銅

プ)が銅羅や鉦を叩きながら家々を回って

羅や鉦などの楽器を鳴らすはやしのグルー

う経費とロ 1プを作るのに必要なわらを集

歩くチプトリをしながら洞祭(村祭り)に使

める。わらを集める過程が、豊作を祈願す

る洞祭の一環として認識されているため、

家々ではプンノン(豊一作祈願)に心を込める

気持でプンムルベにわらを差し出す。この

ようにして集めたわらで村のイルクン(働

き手)たちが集まって共同でロ lプを作る。

ロlプができあがれば、そのロープは単な

る一本のわらの綱ではなく農業の神の竜、

または豊鏡多産を保障する男根または女根

として認識される。このため、ロープを保

護するということで昼も夜もつきっきりで

番をするのであるが、この時女性は絶対近

ない女性たちはロープにまたがることで男

づけてはならない。ところが、子供を生め

児を授かろうと必死にロ lプに近寄ろうと

する。村の人々にとって、このロ lプは 一

を創る神聖な人格体なのである。従って、

本の ロlプではなく生産力を保障し生命力

してロ lプにまたがろうとする。子供を産

子宝に恵まれない婦女子たちは、どうにか

んで育てるのも田植えをして育てることも

どちらも生命を育てることであり、農業で

てることも野良仕事にたとえ、俗に子供の

ある。そのため大人たちは子供を産んで育

かったかとかいう。ゆえに綱ひきのロ lプ

方の収穫はうまくいったかとか、いかな

の稲わらは稲作の産物であり、また稲作の

豊作を保障する媒介でもあり、さらに子供

作りまでも意味する生産力をもっ実体とし

29


る行為まで演じてみせる。亙女たちのピョ

ルとソムは性行為をして子供を産んで育て

名の男女が性行為を演じる。特にチュイパ

鏡を祈る人々の心と信仰は農作物の生育に

とを立証しなければならない。第三は、豊

の生命力を元気 つける役割をするというこ

る。第 二は、性行為の惇式は実際に農作物

呪術である可能性も大きいということであ

のない呪術ではなく、科学的な根拠のある

の葉っぱは茶色に変色して腐ってしまって

に﹂と祈り、もう一枚は応接間に置いたま まにしてひと月後に観察した葉、応接間

き、毎朝起きるとすぐ﹁生き続けますよう

んで一枚はベッドの脇のテーブルの上に置

験をした。庭園の雪の下の葉っぱ二枚を摘

とプネ、ソムと、チュイパルなどといった

自然、勝ち負けを決める綱ひきにおいて

ルシングッでも性を演じ、コリグッ(路上

て認訴識される。 もロ lプの生命性を認め、車手作を保障する 神聖な物として扱われる。そのためロ lプ でのお被いの出産コリでは出産の過程を見

J

(村の守リ神がのり移った竿)を立てておい

を運搬する前にロ lプの先にソンナンデ

め、第三の仮定、つまり豊能を祈願する人

感な生命体﹂という結論を下した。このた

生きとしていたということを桑寛し、植物

いたが、寝室に置いた方の依然として生き

つの仮定はこれまでの植物の研究におい て、ある程度証明できそうな根拠を捜しだ

間の心は農作物の生育に実際にプラスにな

影響を及ぼすことができるということも証 一 明しなければならない。ところが、この一一

すことができる。農業とは、即ち人間と農

せる。これらのノリは、どれも墓轟多産を

綱ひきが終わると勝ち負けに従って豊

作物である植物との間の相互交渉である。

るということができる。

祈願する裏山呪術行為であり、性行為グッ

プが勝てば豊年になると信じるかと思え

作、凶作が占われる。女性が引っぱる雌ロー

れ自体を人中心に研究しては科学的な研究

従って、植物の生態を研究しないでノリそ

うことである。綱ひきのように模擬的な性

作物の生命カを元気-つける役割をするとい

てコサ(簡単な祭杷)を行う。このロ lプを

じたりもする。蔚珍や月城地方の綱ひきで

ば、どちらでも勝った方が曲葎になると信

で注目されていなかった植物の研究成果を

成果をあげることができない。今やこれま

いう研究か行なわれた。特に、この実験は

行為か実際に植物の生命力を刺激するかと

まつってのコサを済ませた後は、ソンナン

ロlプの上に乗ることもある。金持ちの家

かう。このロ lプを運搬しながら子供が

は竜の方が勝てば米が豊作になり、虎の方

尋して、これらの事実を換証しなければな

人間の心と考え、信局が自分の育ててい

ることにする。

というボ lゲルの先行研究を否定する人々

第二の仮定は、性行為の様式が実際に農

ロープのことを生命力を保障する人格体

作になったという話が伝わるが、綱ひきが

る植物や自分と交感している植物に直接的

J

は﹁人間の感情をキャッチするたいへん敏

の 由 早 草 が魔よけのために、ロープに乗るの であるが、それにはかなりの寄附金を出さ が勝てば麦の豊作になるといい、さらに勝

らない。では、第三の問題から検討してみ

様式のひとつとして解釈されてきた。

なければならない。ロープの生命力がロー ち負けに関係なしに豊作が保障されるとい

ロlプを体に巻きつけて綱ひきの会場に向

プの上に乗った子供の長寿を保障してくれ

う信指まである。綱ひきをやめたところ凶

デを先頭にして銅羅や鉦をたたきながら

ると信じるからである。 として信じるわけは、ロープを引っぱる現

豊作を保障する呪術的な信仰を越えて経験 的な事実として認識されていたようだ。綱

二人がそれぞれ雄と雌のロ lプの上に乗っ

が飾られるかと思えば、男と女に扮装した

(結婚式に花嫁が頭の上にのせる小さな冠)

と女性に人格化され紗帽冠帯とチョクトリ

た綱ひきのロ lプは緑起がいいということ

では船をひくロ lプに使うこともある。ま

り、牛のまぐさに利用したりまする。漁村

に巻いたり、ロープを刻んで田畑にまいた

ンサンナム(村の守リ神を宿している老木)

ひきを終えると地域によってはロ lプをタ

いて反応しだすことをコンピューターを通 じて確認したし、もぎとった葉すら人間の

ければと考えた瞬間、その木がそれに気づ

博士の研究である。彼は木の葉を燃やさな

してあげられるものがクレイパックスター

法で検証されている。最も代表的な研究と

な影響を瓦ぼすということはいろいろな方

いう結論を下そうとした時、そのうちの一

ほとんど放棄して全てがいかさまであると

植物を脅かすいろいろな話をしたが、なん

いて自分の実験を客観的に立証しようと、

ター ・プログラマ ーらの何人かの学者を招

に疑いをもっ心理学者、医者、コンピュー

いう点で興味深い。ボ lグルは自分の研究

植物が人の考えを噂して、これに反応する

場でいっそう具体的に現れる。綱ひきが行

を説得する実験過程で新たに発見されたと

て絡んだりもする。特に、雄の綱と雌の綱

で、匡根や田畑に畏ければいいことがあり、

考えに気づく知覚能力をもっているという

なわれる田んぼに着くと綱がたちまち男性

の先を結び合わせるときは男根と女根の交

野良仕事がうまくいくと信じたのである。

四、豊作祈願の呪術性と 登子的蓋然性

ということまで実験を通じて検証した。

き緊密なつながりをもち、一、一二0キロ

植物はその人が人ごみの中にいても引き続

事実とともに、特定の人とつながりのある

気づき記録計に激しくグラフを描き始め

その時までしおれていた植物かいきなり活

人がセックスに関する話を始めた。すると、

の反応も示さなかった。そのため、実験を

接の形式を再現したりする。この時ロ lプ を引っぱる人たちはそれぞれにワイ談をぶ

もし綱ひきに農作物の成長を促す力があ

つけあいながら一進一退を繰り返す。綱ひ

るということを立証しようとすれば、次の

様である。﹁地下女将軍﹂と呼ばれる雌チャ

作を祈願するチャンスングッをする時も同

きを行なう際も性行為の姿を再現する。豊

ンスンと﹁天下大将軍﹂と呼ばれる雄チャン

まず、第一は有感呪術の二つの法則である

ピ l ・エム(円・∞Z )研究所のマルセル・

(4EF 巳呂同包各)博士が性的な活動と関

とみなされた。

オルゴンとは、ピルヘルム・ライヒ

ポ lゲル(冨・︿om 巾︼)は、自分のガ lルフ レンドのウオ lリ!と一緒に次のような実

バックスタ lの研究についで、アイ・

離れていてもそのような関係が費杭できる

スンが結婚式をかなり大がかりに行ない、

三つの事実を証明できなければならない。

仮面踊リにおいてもヨンガム(おじいさ

類似の法則と接触の法則がただ単に蓋然准

た。この実験を通じてセックスに関連した 巾 ) の 彼らの話がその場にオルゴン ( O H m oロ ような性的エネルギーを呼びおこしたもの

初夜を過ごす性行為か演じられる。 ん)、ハルミ(おばあさん)、チュン(僧侶)

30


守 n

・43 002 HP44

緯国の女性遊戯のうち、もっとも情趣豊かとされるカンガンスオレ

連して湧き出るエネルギーのことを言うの

O R門)まで検証した実験といってもい 口E

法則は、もちろん接触の法則2 2 司

健闘多産を有球主 9る雌のロ lプと雄のロ lプ

う事実が発見されたからである。ゆえに豊

O

だが、植物か性に敏感に反応するという事

になぜなら、一枚の葉を毒して植物全体 の成長カに影響を及ぼすことができるとい

ェl ル・ポ l ル・ソ l ベン

実も何人かの 主 A 告によって検証された。ピ ( H U巾 H己 巾

を検証するためにいつそう主長的な喜宰芥蚕験を

の性行為の様式も呪術にとどまらず、実際

ω25ロ)という学者は、植物の性的反応

ておいて、自分のガ lルフレンドといっ

行なつた。実験用の植物に検流計を装置し

十五夜に集中しているという事実も、また

綱ひきのほか豊能を祈願する民俗ノリが

の性行為のような効果が得られるといえ る 。

実際的な機能と関連している。十五夜には

しょに一三0 キロも離れた湖のほとりの別 の反応を探ってみたところ、性行為を始め

荘に行って愛しあって帰ってきた後、植物 てオルガズムに達した瞬間極めて激しい反

祝祭を行なうのに最も適しているというこ

月が最も明るいことからノリを繰り広げ、 最後に検証しなければならない仮定は呪

とに加え、月の周期にパターンをおいたパ

応を示したことが確かめられた。

よった行為は 、似かよった結果を生むとい

術の蓋然性である。まず呪術の中で似か

ンゲンネプ(﹀・︿202ロ弓 )の通過儀礼 町吉田凹晶巾)の構造を説明することで

( 江丹市臼 O

イ ・ケル,フラン (FoczFヨ円自)は植物の 差芳には他の学者たちがもっぱら熱と水分

満足することはできない。生物学者のル

のみが必要であるとしてきたのとは違い、

己貸広三からみる O 35 ことにする。まず、期待する結果を予想し

う類似の法則(-曲者

は、既に切実な望みがこめられている積極

それ以外に月の力もまた極めて重要な役割

ながら似かよった行為をするということ

る。たとえば、祈雨祭(雨乞い)を行ないな

の研究に一生を捧げたアリック・マクニス

を果たしていると主張した。植物の放射線

的な信仰の行為をするということを意味す がら雨を降らす呪術を行う人々は呪術の行

( ﹀znrZ己ロロ巾印)は、花はたいてい十五夜

為か即ち雨を降らすであろうという疑いの ない信慣を前提にしてこれを行なう。これ

ている。この研究の結果は、即ち十五夜に

なると生命力を活性化させる放射線が最も

が近つくころ開花のピ lクを迎えると述べ

強く放出されることを意味するものであ

い)の呪術行為も、農作物がよく育って豊 て行なう。従って、これは第一の仮定を立

年になるということを心の中でしかと信じ

り、月が植物の開花と生命力を刺激すると いう事実を立証するものである。従って、

と同じくプンノングッ(豊作祈願のまじな

証するものであり、この仮定もまた立証さ れたとみることができる。

がいちだんと旺盛になり、この時を利用し

いでその業のうちの一枚または、その玄真

を発展させた結果、植物を直接対象にしな

成長を促進させる技術を発見したが、実験

歳時風俗の中で特に十五夜に集中している

る。このため、豊鏡を祈願する民俗ノリは

広げるのがいちばん効果のあることがわか

て農作物の害欝多産を祈願するノリを繰り

十五夜には月の影響によって植物の生命力

ジョージ・ド ・ラ・パル(の巾 O﹃凶巾仏巾﹁印 ︿白円円)夫婦は催物に直接放射線を投射して

にエネルギーを投射することで同じ結果を

のである。

4

成功裏に得ることができた。これは類似の

31


哀楽が序のロで 血ハ趣を呼び起こして 大衆の熱気と参加意識を盛り上げた後、 仮面踊りは

再びその熱気をあおり立て

イライトは農楽と仮面踊りである。民俗的

わが国の民俗延知のうち、いちばんのハ

い。そして、個人技の相撲やブランコ乗り

統的な農楽に勝るものはないと言ってよ

ましい打楽器で群衆を圧倒するためには伝

し、大勢の人を集め銅羅、鉦などのけたた

いろいろな遊戯と行事が行なわれる。しか

に組を分けて行なわれた民俗競技)など、

る言葉と品のない言葉とが合わさって調和

情味があり緩急があるかと思えば、口聞のあ

ディーもまた高いようで低い。ムP詞も粋で

踊りは緩やかなようで速く、歌のメロ

しい思い)のある特独な民俗芸術である。

を得ない輿とハン (胸にしまっている恨め

仮面踊りは観客も我知らずつり込まれざる

らわめき合うのである。このようにして、

隠し、その神通力と魔力を駆使できるとこ

もっているが、その避ひの基はまず己れを

と喜劇、そしてサティロス劇などはすべて

ソスの行事の際、催されたあの有名な悲劇

あったのであり、国家行事であるディオニ

信仰にかかわる民俗遊戯には仮面踊りが

終幕を知らせるのである

な祭り行事の冒頭は多くの場合、農楽が顔

などは農楽や仮面踊りに比べて群集の一体

仮面踊りは、いろいろな目的と意義を

仮面踊りは男女に扮装した登場人物が心

変身と同じような影響力とでもき?えよう

ることになる。これは演劇における一種の

とらかね

を出し、その祭りの雰囲気をさらに盛り上

感を呼び起こすには何かもの足りない。

一種の仮面踊りに由来するものである。

りである。いうならば、農楽が序の口で興

げたあとで、終幕を楽しく飾るのが仮面踊 趣を呼び起こして大衆の熱気と参茄音識を

世界のどの民俗のお祭りにも仮面踊りが

言える。

その人は別人となり、その別のカを振るえ

のみならず、顔に仮面をつけることで、

盛り土けた後、仮面踊りは再びその熱気を

配事や恨みがましいことをたたきつけ、歌 を歌い駄酒落や憎まれ口をたたく。また、

ある。古くは古代ギリシャにおいても民間

ろに重要な意義がある。

あおり立て終幕を知らせるのである。

相手の幸せを祈る言葉を述べ、言いたい放

をなしている。踊りも仕草も歌も台詞も、

民俗的な祝祭の期間中は、ブランコ乗り

題のことを言い、泣いたり笑ったりしなが

それぞれに韓民族の生活感情を宿す風流と

とか相撲、チヤジョン(車戦 H 一月十五日

32


か。ともかく、古代における呪術や今に伝 ろな音媒を持つだけでなく、仮面をつけて

承される民俗遊戯のなかで、仮面はいろい 踊る人の心理にもそれだけ多くのカ(影響) 例えば、獅子や両班の仮面をつけると獅

を与えるのもまた事実である。 子や両班の威力を持つなど、演技者がこの 魔力を持つと錯覚することで完全な自由人 になれるのである。仮面踊りの遊戯精神は ことで何にも拘束されず、したがって一種

まさにここにある。自分の身分を忘却する の超人的力を得ることにもなる。

顔に仮面を

つけることで、 その人は別人となり、 ζとになる

その別の力を 振るえる

その昔、亙女は超人的能力の所有者で あった。これは亙女が自分の超人能力を確 信していたからである。 仮面は顔につけられると同時に、ある意 味と魔力を持つようになる。わが国の近世 仮面劇の中でその時代に最も弱々しくぞん ざいに取り扱かわれたマルトゥギとセトゥ つけることでこのうえない強者となりその

ギ(共に仮面劇の役)は、仮面踊りで仮面を 発言者となる。例えば、両班とセンニム(融

33

通のきかない学者)をどなりつけ、ぞんざ いな言葉づかいで両班とセンニムを愚弄し

韓国の仮面踊りのうち、演劇的要素が発達している揚州ヒ‘ ョルサンデノリ


じて彼の大乗仏教である民衆仏教を唱え、 実際に民衆とともに呼吸をしながら国論を

カのみならず長い伝統と信仰に培われた神 通力を持ち、その神通力のために今も伝承

明笑する。当然、両班のものとなるはずの

で大きな貢献を果たした人物である。 当時、新羅の仏教は貴族仏教であった。

若い女を横取りし、堕落した破戒僧にさん

これを理解し信じた階層は、すべてが王室

統一し、三国統一の偉業をなし遂けるうえ

まず神に告げたものである。それは、例え

の王族かあるいは真骨(新羅時代の王族・

されているのである。

ば降神を待って行なう茶札(陰歴の毎月一

貴族からなる身分階級)であった。一般民

昔からわれわれは、行事や祭りを間わず

日・十五日、民俗的な節目及び祖先の誕生

衆には仏教に接する機会も与えられなかっ 典に接することは、事実上不可能であった。

日などに行う簡略な祭杷)であり、これは

これが仮面踊りにおける根源的精神であ

そこで元暁か創り出したのが無碍舞であ

その神通力を乞い願う心に由来したと言え

ざん恥をかかせる。 これが、まさに仮面をつけた者の超人的 力の誇示である仮面の力である。

仮面踊りは、品目はある遊戯を目的をする

るとすれば、それに属する処容舞と灘礼舞

たばかりでなく、仏教の深い教理とその経

は、当然民俗踊りにおいてもその第一義的

る 。

わが国の仮面踊りの由来を見ると、外来

とはもともと華厳経に見られる り、﹁無碍 L ﹁一切無碍人、道出生死﹂の一節から取り出

というより予め事故や災厄を防ぎ、病を予

的なものを除いてはほとんど亙俗と民間信 要素を備えている神通力の見本と言える。

した語で、﹁すべてのものにとらわれない

防するためのいわば厄払いの儀式だった。

仰から来ている。 では、わが国の第一義的仮面踊りの要素、

その代表的なものが、いわゆる新羅の処

間で醇聴をもうけた後は俗服に昔蒼菅ぇ、当

元暁はかつて武烈王の王女、ヨソクとの

いう意味である。

者は、即ち生死を超えることができる﹂と

の目的と儀式を持つようになる。例えば、

第 一義的神通力を得た仮面踊りは、自ら

すなわちその本質は何であるのか 。

容舞と高麗の灘礼儀式と言える。新羅の舞

仮面を利用した目的の遂行であり儀式化で

踊は典慧守の資料によると疫神を追い払う また原始亙俗から来た同種の厄払いで、一

踊りが代表的なものである。吉岡麗の縦礼も、

は、その仮面の二元的要素を充分生かした

級の聞を回りながら、その仮面からヒント

で使っていた仮面に接する。民衆と下層階

や綱渡り、とんぼ返りなどをする見せ物)

時クァンデノリ(人形劇や仮面劇等の演劇

代表的な踊りである。元暁はこの踊りを通

元暁大師の創案と言われる新羅の無碍舞

ある。

承されている﹁チシンパプキ(民俗行事の一

月十五日行なわれ、今でも一部の地方で伝 つどのようなものである。 したがって、ここには威力があった。威

わが国の仮面踊りの

由来を見ると、

升来的なものを除いては

ほとんど

亙俗と氏間信仲から

来ている

34


35


を得て創った、やさしい﹁無碍歌﹂と踊り(無 碍舞)を人々に暗唱させ、踊らせて仏教の 布教にこれ努めた。

にその動作においてはマイムや踊りが長い 揚州別山台のクライマックスと言われる

間をおくこともある。

04

﹁老長揮は、その代表的な例と言える

の﹁ピトすル両班﹂、﹁オンチェンイセンニ

ム(兎唇学者)﹂それから﹁マルトゥギ﹂と﹁ポ

らに、観衆から打令調(音楽の音律の一種) を請われれば、さらにテンポの速い﹁ケキ

仮面がその人物を戯画化して喜劇的に扮装

させる。これは単なる遊戯のためであり、

を盛り上げるうえで大きな役割を果たして

たり構わず吐き散らすわいせつな雑言や酒

その意味と象徴的内容は、登場人物かあ

上の意味と内容を求める必要はない。

るかもしれないが、扮装と仮面にはこれ以

このため、これは舞台劇には不向きであ

溌刺として、隠しごとは全くない。

いるが、その動作は決して急がず緩慢であ

いる。 再び場面が変われば、すべてが初めに一戻

これは﹁老長舞﹂に限られたものではな

ドデジャン(捕盗大将)﹂寸小亙﹂らすべての

( 楽者の踊りの一種)踊りを踊り、そ リ L道 の後からは動作と踊りが共に速くなる。

とテンポがこの遊戯の興趣を募らせ雰囲気

く、仮面劇はこのように緩急によるリズム

長﹂は無言であり市中の﹁モクチュン(黒い

入った官昌が捕らわれの身となったあげく 殿子帰つて来たのをいたんで富田の勇名 一種)﹂と﹁小亙﹂のなぶり者として登場して

袈裟をきた僧で仮面踊りに使われる仮面の

新羅では、このほか勇敢に百済を攻め

をたたえた仮面踊りの官昌舞がはやってい た。このような仮面踊りによって新羅人は る。登場人物の各々に余裕がかいま見える のも、またわが国仮面踊りの持つ特徴の一

り平静を保ち緩急に続くのが、わが国仮面

落、余裕のある歌詞、幸せを祈る言葉、無

いった。この遊戯化が第二義的な目的であ

百済に敵慌心をあおることになったのだ が、それはだんだん単なる遊戯に韮展して つである。 その台詞はわいせつであり、きわめて低

言の踊り、マイムから求めればそれで足り

るのであり、観衆は彼らと解け合って笑い

楽しめば、それで目的と意義が叶えられる

のである。いわば、ここに韓国仮面劇の遊

戯精神があるのであり、これがすべてであ る 。

既述のように、わが国の近世的産物の民

俗仮面踊りは、純粋な遊戯的性格以外の、

ある悲劇的場面を連想させもする。これは、

テンポである

仮面踊りの基本的拍子であり

平静を保ち縫急に続くのが、 わ が 国

すべてが初めに戻り

場面、が・変われ.ば、

踊りの基本的拍子であり安ンポである。

る 。

では、仮面踊りの第三義的な目的と値揮 は何であろうか。これに先立ち前提となる べきことは、遊戯を含め人聞の慣習や習慣 というものは、時代によって変遷し、とり 言い換えると仮面踊りの第三義的発達

わけ遊戯は変化が速いということである。 は、その一元的であった宗教的威力と神通

遊戯がもっ未来の属性であり、遊戯が発展

力から離れ、また二元的目的の儀式化とそ に従って様変わりをする。勿論ここで目的

れの遂行から脱却し、より純粋な遊戯精押

は遊戯を劇的に盛り主けるのに大きな役割

は遊戯の生命力でもある。そのうえ、仮面

ある意味を持って観客の想像力を誘発する

も一脈相通ずるものであり、これがまさに

遊戯は、遊戯のために存在するのである

からである。わが国の仮面踊りも例外では ないが、日本の念仏踊りがその卑近な例で

を果たしている。仮面自体が前述のように、 から、仮面踊りもまたこの遊戯の性格を排

わが国仮面踊りの障調であり、その脈樽で

それ故に、遊戯は持続するのであり、それ

すれば自然に、ある劇的事件を求めたがる。 俗ながらも、反面 ・重味のある荘重な歌詞 と踊りによって中和される。 演奏席から響き渡る笛と鉦の音も、この

除しない。

の前後に村落、または寺刺で公演される仮

ある。これは毎年、お盆の陽歴八月十五日

あると一言守える。 時にマイムと踊りも、このうえなく緩やか

ここで言う遊戯の性格とは、喜劇的要素

このうえなく余裕があり韻文的である。同 な動作から速く活気あふれる動作に、いわ

であるユ ーモア的・風刺的精神を意味す

時はやみ、歌詞と相手の幸せを祈るム戸詞は

ば静的なものから動的なものに移って浮き

わが国の近世民俗の仮面踊りが見本にな

わが国の仮面踊りは、もとは必ずしも軽

浮きした気持にさせる。﹁老長﹂の踊りは必

品の荘重美と悲劇性が同時に感じられるこ

大﹂であり、この時の楽隊席での演奏は大

ず緩急に続くコ二進三退﹂、﹁八方突き﹂、﹁尊

的であり風刺化されている。

る。仮面踊りの人物は、それ自体ユーモア

びでは、エロチックな場面やわが国の﹁小

面踊りの一つで、次に続く滑稽戯と仮面遊

亙 Lのような妊婦が現れる。獅子や蜘妹な 概は緩やかな調子の念仏曲を演奏する。さ

五広大と山台劇(どちらも仮面劇の一つ)

ともある。鳳山仮面踊りや楊州別山台仮面 劇にも多くの沈黙の場面を見られるし、特

持っていることは確かである。

るのは見かけに週金﹂ない。そこには悲劇作

快でユーモラスではなかった。軽快に見え

るかどうかはっきりしないが、その一面を

になりユーモラスになる。

しかし、大衆の趣向に合わせて一層蕗侠

IV

意識が全く排除されているというのではな これは、即ち民族的な息づきと息吹きと

36


﹀司吋師、﹀ハu m

僧侶の堕落や家族どうしの葛藤をテーマとする松波サンデノリ( 仮面踊り) 中の破戒僧ノリの場面

く長い歳月の間民族の息吹として成長しな

はじめのうちは、それ自体が威力であっ

からである。

たし、次は目的になって、ここでは実に多

がら、その時代に見合った変化をしてきた

のである。それも、最初は念仏の読経、即

どの強烈な踊りがあるのは、あるいはこれ がわが国の仮面踊りと関係があるかもしれ

ち純粋な音曲的芸能から再び舞踊的芸能に

くの意味と内容を保ったまた複合的な遊戯

ない。場面毎にそれぞれ独立した内容のも

発展し、現在は日本の臨時舞台では多くの

に成長して来た。

この念仏踊りは、今では純粋な遊戯精神に

日本の寺刺や民間で広く行なわれている

同時に同じ民衆社会の哀歓と憂いを笑いと

会を批判し、宗教の非行を瑚笑もするが、

対する絶え間なき悪態、風刺などで階級社

時には、反時代的逆説と、両班、僧侶に

ヤンハン

劇的場面が盛り込まれている。

みを目的とする遊戯ではない。日本の寺に

ここでわれわれが見落とせないことは、

ばす喜劇として処理しているのである。

立って行なわれており、仏教自体の儀式の は、大部分、祖先を祭るお盆の日などに催 される念仏踊りが伝承されている。その内

e p

寸こ・ま、 反 時 代 的 逆 説 と 、 nuluJL

雨班、僧侶に対する絶之問なさ悪態、

風刺などで晴級社会を批判し、

宗教の非行を噺笑もするが・

うかがえることである。

わが民族の忍耐と根性のある瞳揮を容易に とより農耕と病虫害、祈雨祭、葬式に至る までこの遊戯が出し物となる。しかし、こ

は、明日に向けたテ lクオフと新しいもの

容は先亡追善から疫病R K旬、嬢災担福はも

の遊戯はあくまでも遊戯それ自体が目的で

このため、われわれはこの民俗的祭り、

このようにわが国民俗仮面踊りの精神に あって手段ではない。

に対する熱望と願望はあっても絶望と放棄 はない。 このようにわが国の仮面踊りも、その遊 戯の中に出てくる数々の劇的場面は遊戯で

み、これを毒して常に賢明に対応できる知

りから、民族の永遠なる根気と融通性を読

中でも最も歓迎されている伝統的な仮面踊

恵を育まねばならないだろう。

わが国の近世民俗仮面踊りのように楽し

あって、それ自体が演劇とは言えない。 く今様な意味を持っている遊戯は他に見当 これは前述のように、わが国の民俗仮面

たらないようである。 踊りは、仮面それ自体の意味を失うことな

37


た。特に、トヮレ(協同隼宋)農業が著しく

習にも密陽独特の伝統が引き継がれてき

んに行なわれた。こうした中で密陽では、

発達し、集団的で協同的な歌舞と遊戯が盛 オプタ

踊り、凡夫踊り、病身(身体障害者のこ

いまも農耕儀礼行事の農神祭をはじめ五鼓

申央主干・童暴露

密陽の百中ノリの豆鼓踊りと凡夫踊り、

る 。

モなどを入れた袋を持参し、それを農翠十

は、それぞれに米や豆、お金や願掛けのメ

た 一O匹の竜がぶら下がっている。村の衆

られ、その先ほどには、なわでより合わせ

の皮をむいた中身)で作った農神竿が立て

がらも野性的である。踊り手は、自分が両

に入る。凡夫踊りは、力強く節度がありな

り乱れて一騒ぎを演じた後、次は凡夫踊り

こうした中で踊りの広場は大勢の人が入

ていて象徴的な意味があることだ。

の哀歓と、両班を風刺する身振りが盛られ

からない。確かなのは、この遊戯には民衆

そしてピョンシンノリの由来は定かではな

にぶら下がっている竜のしつぼに結わえつ

班であるとの身分を示すために左の足に手

チ ョ ン ピョ ン

密陽百中ノリは、密陽に古くから伝わっ

け、農神竿を中心にして円形に立ち並んで

ぬぐいを縛りつけたあと、円を描いてはね

鄭明浩

ハン

てきている固有の民俗遊戯で、歳時風俗の

いが、このうち五鼓踊りはトゥレ農楽から 来ているものと思われる。 百中遊戯は、まず農楽(農民特有の民俗 芸能 ι笛、大鼓、鉦、ドラなどをはやして

二拝してから平伏して福を祈り、一人が村 一

回る翼踊りを踊る。一人ずつ入れ替わ

日の嘉日)に、作男たちが酒を汲み交わし

名節(祝祭日)といえる百中(陰暦七月十五

ている。

ながら腐り歌ったことに由来するものと伝

歌い踊る)から始まる。農楽に打ち興じな

の衆を代表して祝調を朗読する。

りながら踊るうちに雰囲気がさらに盛り上

ヤン

えられている。密陽では古くから七月の百

がらオパンジン・クッ(おはらい儀式)を行

告杷を終え、しばしトッペギ ( 農楽の拍

がると、今度は五鼓踊りに変わる。五名が

ひれふ

中前後に辰の日を選んで、豊作を祈り願を

子の一種)踊りで輿を添えた後、壮元に選

ヲ Vル ゲ チ鼻ム

掛ける農神祭りを催したが、この目、村の

なうと共に告記(家庭や村の安泰を祈る簡

ばれた作男をチャクトゥマ(背負 っこの支

たものと言われているが、確かなことは分

た 一九世紀後半の旧韓末から行なわれだし

ピョンシン遊戯は民衆への弾圧がひどかっ

作をそっくり真似て人々の笑いを誘う 。

不自由者やハンセン病者など、障害者の動

一場のピョンシン遊戯を繰り広げる。肢体

ン(台所仕事の下女)がそこここから現れて

この様子を見ていた作男たちとチョンジク

て、いわゆる閑良舞(両班踊り)を踊る。

ンリ ャン ム ヤ ン

ら威勢を振るえば、両班たちが仲間入りし

き壮元の作男が両班の振りをして踊りなが

ヤ ンパ γ

遊戯場をぐるぐる回りながら踊る。このと

えの杖で作った馬)に乗せ、農楽を鳴らし

クッはやしを行なう。庭には、麻骨(麻

U 市Q ﹁片目。C コGIC

司 l

単な祭り)の祭壇を清めるため妖鬼除けの

個性のある踊り、遊戯が生 々しい形で残っ

と ー

作男のうち 一番の働金暑を壮元(首席) に 選んで豪勢な供宴を聞いてやったのであ

密陽百中ノリと踊りの名人

として知られていた 。そのため、農耕文化

農作をなりわいとするのに適した温暖な所

こ││た農耕地に富んでいて、四季が

円口一一一心とされ、美しい自然に固まれ

畠ヂーーから慶尚南道密陽は洛東江 の中

ノりなど歌舞的な要素の織り込まれた と)

j 可賓鏡

踊りの名人、

?苛 が発達し野良仕事と関わりのある様々の風

I NTERVI EW

38



河さんは一九O 六年密陽で生まれた。両 一緒に満州に逃けた。が、間もなく金を使

たが、牛を売った金をふところにして女と

らしにびた一文も足したことがないのです

﹁私はこれまで自分の手で稼いで家の暮

辞を惜しまなかった。

た人﹂などと、外国の雑誌も河さんへの賛

ている。 い果たした後は、平安北道江界の工事場で

踊るこの五鼓踊りは、踊り場の中央に一人 が陣取り、東西南北四方の端から残りの四 雑役夫として働かされ、言い尽くせぬつら

よ。私も苦労しましたが、家族にはたいへ

親は報本契(たのもし講)という名の親睦団

ん苦労させました﹂彼は錯雑な気持ちで自

体の農楽メンバーだった。幼い噴から両親

い目にあったこともあるという。そのうち

ける拍子の 一種)拍子に合わせて大鼓を叩 の影響を受け風物(農楽楽器の総称)を打ち

に父親は病床に臥しがちとなり、やがて他

名がそれぞれ緩やかなクッコリ(国楽にお

鳴らして遊ぶのが好きで、書堂(寺子屋)を

分の生きてきた過去を悔やんでいるように

きながら中央へと寄り集まる。そして踊り 場の中央をぐるぐる回りながら輿に乗じて よくサボった。 両親について回りながらその真似ごとに

見えた。

うつつを抜かしていた彼が太鼓に打ち込み

班踊りは、亡父のか桓農楽隊で士大夫の役

界した。工事場のつらい生活をしていた時、

入ってその場で力強く太鼓を鳴らした後、 始めたのは 一六歳(数え年)の時であった。

けていた河さんが郷里に舞い戻一ったのは、

ぶり道抱(土大夫の通常の礼服)を着、扇子

を演じていた人から習ったという。冠をか

知らされた父の他界は大変なショックだっ

速いテンポで五回、太鼓の縁を叩き、次い 父が乞粒農楽隊の某甲(首席)であったので

た。手ぶらだった。古里に帰った彼は、ま

五 O年ほど経った 一九七0年代の初めだっ

太鼓を叩く。太鼓の鼓手は円の中心部に

で太鼓の真ん中を五回鳴らすといった具合 いに力強く粋な太鼓打ちが行なわれる。 一六の年端の行かぬ年ではあったが、彼の

家では歌と踊りが連日絶えなかった。まだ

り手と手を組んだが、思いどおりに事が運

ず国楽協会を作った。密陽で名の売れた踊

を右手にして踊るこの両班踊りは、翼を羽

に両班踊りと凡夫踊りがある。このうち両

いた。村の人んでも﹁チビの踊り手﹂と言って

大鼓踊りはそれこそ、一定の境地に達して

持って生まれた放浪癖のためさすらい続

彼が好んで踊る踊りには大鼓踊りのほか

百中遊戯の最後の場は、すべての演奏者

たが、放浪癖はどうしょうもなかった。

と群衆が 一緒になって楽しむ、いはば後 場遊戯で、決まったル lルのない自分勝 手な乱舞によって幕を閉じる。

広大野遊、すなわち仮面劇系の両班踊り

密陽百中遊戯が重要無形文化財第一八

通の特徴はベギムセ(踊りのしな)であるこ

ばぬと、ム寸度は民俗保存協会に看板を書き

のかは定かでない。この踊りは慶自虐の五

たものであり、どのように伝承されてきた

河さんの踊る両班踊りがいつごろ起こっ

ヤ Yパン

らして踊る踊りである。

鼓 ・銅羅・鉦の四物(四種の楽器)を打ち鳴

どらかねサムル

りではなく、農楽の編成である太鼓 ・長

河さんの踊りは三絃六角に合わせて踊る踊

照的に足の動きが少ないのが特徴である。

下させる独特な身の動きが多く、これと対

ばたくような身振りと肩をリズミカルに上

河賓鏡の 踊り に 対 す る 批 評 は 大部分激賞に近かった。 ﹁踊りを踊るために生まれた人﹂ ま た は

可愛がった。

﹁踊りの霊的な境地に到達した人﹂ な ど と ・

密陽で数多くの民俗芸人が生まれるよう

号に指定され対外活也明か活発になるにつれ

とが挙げられるが、密陽両班踊りのベギム

と比べられるが、それとも違うところが多 し、書堂(寺子屋)の勉強でさえいいかげん

て、河賓鏡さんが滅多にない優れた踊り手

セは動作がはるかに大まかである。密陽両

を注いだ。

したからであり、このほか一九四五年の解

であった彼が普通学校に入ったからといっ

であることがだんだん広く知れ渡るように

班踊りの主な踊り方は、一拍で両腕を一の

替え、民俗遊戯の保存と体系の整理に心血

放直後まで続いた券番(日本の植民地時代

て勉強に励むわけはなかった。ひたすら大

なった。全国民俗競演大会では踊り手とし

字に広げながら右足を踏み出し、二拍では

一九になって父の無理じいで河さんは密

に芸者の妓生が妓籍を置いていた組合)の

鼓踊りに励んだ。こうして二O歳で報本契

て個人賞を授与された。圏内ではもとより

広げた両腕を波打つようにしながら左足を

陽普通学校に入学することとなった。しか

影響にもあずかっていると言われる。

の正式のメンバーになって、やっと技能を

アメリカ、日本などに出向いて彼の持って

になったのは、民俗演戯の集団であったど

密陽の民俗踊りのうち五鼓踊りは、現在、

認められることになった。その年に同じ村

生まれた芸術的な技量を披露した。のみな

さ回りの寺党一座がここを根城にして活動

河賓鏡さんをはじめとする五名がその技能

の娘と結婚はしたものの、家長としての義

の上に上げながら肩をしきりに貨やかし、

踏みだす。次いで、三拍では左腕をやや肩

を保有しているが、河さんは民俗踊りでは

四拍では再び右腕を肩の上に上けながら右 足を上げてリズミカルに動かす。この踊り

大体において慶也坦タイプの踊りで、共

を保有しており、ピョンシン遊戯の技能保

らず、彼の踊りに対する批評は大部分、激

く特異な味わいと趣きがある。

有者はイ l -ガンソクさんら四各かいる。

務や野良仕事には全く関心を示さず、もっ ぱら大鼓踊りと、各地の相撲の場を転々と

賞に近かった。﹁踊りを踊るために生まれ た人﹂、または﹁踊りの霊的な境地に到達し

また凡夫踊りは河賓鏡さんだけがその技能

する放浪生活が続いた。あるとき父現か牛 市場に出向いて牛を売ってこいと言いつけ 自他共に韓国随一の踊り手として認められ

40


の特徴は、両腕を並べて広げず交互に広げ いかと思われる。

両班気取りから生まれた踊りの類型ではな

五O余年もの長い歳月の問、密陽固有の土

この時代の最後の踊り手、河賓鏡さんは

るということと一方の足を上げて踊る﹁無 河さんが踊る凡夫踊りの﹁凡夫﹂という語 であるにもかかわらず、老翁は今でも興が

俗的な踊りを踊ってきた。九Oという高齢

能﹁が多いということである。 が含意しているのは﹁常民(賎民どのことだ 湧いてくると太鼓を手に取ることもあれば

さヨ E 4 J

ω00 ﹁

41

が、一般には両班と常民の中間の身分であ

ウォン( 首座) に選ばれた男

彼特有の踊りを踊ることもある。それこそ

が木馬に乗って他の作男と一

る中人、すなわち街前をいう。凡夫踊り

作男どうし力を競ってチャン

老翁の人生は踊りであるとともに、踊りは

河貧鏡さん( 左) 。

の由来も確かではないが、踊りの形から推

銅鍵などのはやしに合わせて

して権勢家と民衆の間で葛藤の激しかった

緩やかにヤンバン踊りを踊る

まさに老翁の人生であるともいえる 。

がまず顔を出す. 太鼓・鉦・

たちが自分たちももとは両班なのだという

遊戯の踊りは、ヤンバン踊り

朝鮮時代の末期に、中人に属していた土豪

VOrm@ ζ コ由IC

密陽の百中( 陰暦七月一五日)

緒に踊っている( 下)


ヰハ U

↑ 7

20

宋芳松

光復から五O年 、 ~

嶺南大学教綬・殺国音楽学

一、今日の韓国社会と音楽状況

韓国社会はいま激動の転換期に差しか

かっており、音楽界もこのすさまじい転換

期において例外ではあり得ない。一九九一一一

からというもの、まるで全世界が急に聞か

年ウルグアイ・ラウンドの協定が成立して

に出るような緊迫感すらある。

れ、世界が同じ仲間と競争をするため戦場

このような緊迫した雰囲気は世界貿易機

WTO)の発足を起点として、より具体 構(

的で、現実感のある一つの危機音識として

我々に迫っている。こうした雰囲気は今、

単に経済領域だけの動きというよりは、

我々の日常生活の全般において波状的に作

J

用する刺激剤になっている。名 様な産業活

雰囲気が影響を及ぼしていることに思い至

動と共に政治 ・社会 ・教育 ・文化芸術 ・環 は埋守の全ての分野で知らず知らずそういう

ると、我今一は時代状況を正しく認識して、

時代変化に能動的で積極的に対応していか

ねばならないことが分かる。音楽家の認識

も、やはりこのような時代変化の流れの中

このように韓国音楽界は、いやが応でも

で例外ではないのである。

の大勢という波を避けられないのであるか

4

地球村時代の無限曲翠 体制、つまり国際化

ら、これからはそのような世界的な流れに

本格的な対座爪を講じなければなるまい。

実際に、様々な解決策と方法論が取り上

げられるが、筆者は これを文化芸術の非常

(口同

gti3、)に見いだしたい。創造性こそ

に基本的な存在方式、つまり﹁創造性﹂

こ一世紀の﹁生﹂の質的な向上のため、もっ

とも価値があり、見通しの明るい要素とし

て考えられるからである 。﹁国際化﹂や﹁世

界化﹂というスローガンは、﹁創造性﹂とい う言葉の中に収赦してはじめて実現すると

42


曲家であり、西洋の作曲技法および伝統音

題を作品として見せる当事者が、つまり作

いうのが筆者の考えである。﹁創造性﹂の問

家の現実と音楽環境により作られるからで

当水準の向上が可能だが、創作活動は作曲

楽作品に対する個人の音楽活動によって相

演奏部門に比べて相対的に低い。演奏は音

解放から五O年の創作音楽界の成果は、

の発達過程で﹁歌曲25ELという新しい

かったが、彼らの官聞は近現代民族音楽史

曲作曲家は作曲技法の限界を越えられな

ため努力した作曲家である。第 一世代の歌

いう評論活動の新しいジャンルを聞いた。

抱いており、八0年代には寸韓国音楽論﹂と

創作品であるか﹂という問いかけに関心を

いとする。彼らは創作過程で﹁誰のための

が剥製となった過去の遺物にしてしまった

今まで我々の関心から遊離していた。伝統

らず、それが過去のものという理由だけで、

めの新しい創造性の根本であるにもかかわ

韓国の伝統音楽は望ましい民族音楽のた

れの中で小出しにしか形成されなかった

れていた。このため、音楽環境も政治的流

六 一年)の軍事政権以来、独裁体制に綴ら

いである韓国戦争を経て、五・ 二ハ(一九

解放空間の政治的混乱に続く民族同士の争

ある。戦後における半世紀の民族の歴史は、

る。草議開、白庚東、金正吉らを含む第二

の現代音楽を輸入しようとした作曲家であ

却するために六0年代以後、積極的に西洋

た第二世代は、韓国作曲界の後進性から脱

歌曲作曲家の限界を乗り超えようと努め

民とは何の縁もない。また放送も関心を示

れることがないので、それらはまだ 一般国

いる。第二世代と第三世代の作品は、大部 , 分、作曲家の創作発表会後は、再び演奏さ

韓国社会では相対的に広く受け入れられて

第二、第三世代の音楽作品に比べて今日の

発表した作品のうち、第 一世代の歌曲が、

以上、三つの類型に分けられる作曲家が

目として概観されるであろう。

楽を素材にした創作活動の成果が第一の項

ジャンルを開拓するのに貢献したといえ る 。

古い音楽家達は、西洋音楽の自主盟又容と

世代の作曲家は、二O世紀の名 様な西洋の

していない。このため、第二世代と第三世

し、作曲家の創作活動も萎縮するしかな

作曲技法を早く身につけることが韓国創作

代の作品が近現代民族音楽史の発展過程で

J

伝統音楽の創造的継承という民族音楽史の かった。ここでは、西洋の作曲技法により

持つ音楽史的な意味は、三世紀になる前

﹀司↓印勺﹀ のm

時代的使命を見落としていた。このような

解 放 五 O年 の 洋 楽 界 の 作 曲

分野を頗みるに当たって、

見落とせない人物は

ドイツで活動していた韓国

創作活動をしている洋楽界と伝統音楽の創

のである。西欧の先端技術を身につけて経

界の立ち遅れを取り戻す途であると信じた

系作曲家のず伊桑である

みることにする。

作活動している国楽界とに分けて概観して

民族音楽史の二つの時代的使命、つまり洋 いう問題は、今日の音楽家にそっくりその

楽の自主的受容および国楽の創造的継承と

に取り上けられることはないと思われる。

解放以来五O年の洋楽界の作曲分野を概

済の復興を図るかのように西洋の現代作曲 第 二世代は第一世代の歌曲のような声楽で

技法を身につけようとしたわけだが、この ー、洋楽界の創作底果

まま引き継がれた。韓民族の音楽史を学問 的に研究して、今後、展開される理想的民

O

を受け入れて、これをわが国の音楽にする

は、主として一九世紀までの西洋音楽様式

は音楽的虚偽意識を清算しなければならな

よって幕を聞ける。第三世代は、古い世代

見られる創作技法が伝統音楽の現代的継承

として成功したからといって、彼の作品に

的な作曲家の一人として認められており、

ない人物は現在ドイツに居住して創作活動

はなく器楽曲を主に作曲した。 輸入された西洋の現代作曲技法にこだわ

伊桑である。 をしている韓国系の作曲家、者ノ O世紀の現代音楽の本場で罪伊桑は世界 二

観しながら、ここで取り主けなければなら が国の作曲家は、作品の内容によって三つ

る第二世代の作曲活動では真の﹁韓国音楽

音楽学者の杢康淑によると、解放後の我 の世代に、つまり第一世代、第二世代、第

である。しかし、苦ノ伊桑が世界的な作曲家

韓国人として誇らしい作曲家でもあるから

しようとする韓国音楽学者(同

三世代に分けることができる。現代詩にピ

三世代は若い李建鏡、劉柄壊らの登場に

( 関 )としての独創性を発揮し 058Bgお﹂ 難いと考えたのが第三世代である。この第

族音楽の歴史意識と歴史認識を正しく確立

アノ伴奏曲をつけて作った歌曲作曲家から

それゆえに第二の項目として挙げられるで

E28-o恒三)の研究業績に対する概観が、

なる第 一世代の金聖泰、李輿烈、金東振ら

2

あろう。

二、韓国洋楽界および国楽界の 創作

43


洋楽界の作曲分野とは対照的に、国楽創 の場合、もっとも大きな課題は伝統音楽の

楽に基つじた作品の演奏で、特に管長楽曲

教音楽が占める比重は非常に大きいといわ

韓国の伝統音楽のうちには、仏教音楽と儒

異を唱えることはないだろう。同じように

作界は作品活動の時期からみて、第一世代

入された西欧のキリスト教音楽は伝統的な

なくてはならない。また、開化期以後に輸

活動に励みつつ今日に至っている。伝統音

ように考えるのは禁物ではないかと思われ

よって創作した作品を答革路楽曲として演奏

改良の問題である。伝統音楽の現代化に

2、国楽界の創作成果

る。なぜならば、手伊桑の作品が現代音楽 に代表される国楽創作界の第一世代は、西

と第二世代に分けられる。金瑛床と杢康徳

という韓国創作界の課題のためのモデルの

の本場であるヨーロッパではそれなりの意

仏教音楽および儒教音楽と共に新しい韓国

味を持つことができるが、我が国でどうい

音楽の礎石となるものである。

目前に迫った一一一世紀の望ましい方向に

かわらず楽器改良の成果がまだ表れていな

向けて民族音楽としての韓国音楽を創り出

するには、楽器の改良が欠かせないにもか いし、従って国楽管長楽団のアンサンブル

すためには、国楽創作界と洋楽創作界は変

洋の作曲技法を学校教育を通じて正式に

には、いろいろと問題が起こらざるを得な

わっていく時代環境に適応できるよう自己

習っていないことから、その作品も西洋音 かった。一九五九年ソウル大学の音楽学部

楽の創作文法の模倣にとどまらざるを得な

い。しかし、楽器改良の問題は思うほど簡

う意味を持っかという問いかけは別の問題 者ノ伊桑の音楽作品が醸し出す東洋的イ

単ではない。楽器改良事業の第 一は正確な

変革の努力を怠ってはなるまい。まず、国

だからである。 メージが、たとえ韓国の伝統音楽に根差し に国楽科(ロ告白 525問問05SZ5円)が 新設されたことで、一九六0年 代 季 五 ら

音程を創り出すこと、第二に音量を増幅さ

ていると言われているにしても、それを自 分の作品をもっともらしく飾る道具の 一つ 国楽創作界の第二世代として登場し始めた

いし、今までの復古主義的姿勢やナショナ

楽界は伝統音楽の保存に安住してはいけな

として、韓国伝統音楽の印象と上辺だけを

リズム的自己陶酔から思い切って脱却し、

利用したものだという批評もあることに 我々は注意しなければならない。そして、

から抜け出て西洋音楽を自主的に受け入れ

第一世代と第二世代が伝えた模倣文化の影

ならないのである。その一方で、洋楽界は

伝統音楽の創造的継承に向け進まなければ

彼の音楽作品が果たして﹁誰のための作品

国楽二世代は、 伝 統 は 剥 製 に な っ て

という観点からも正しく評価し であるか L てはじめて手伊桑の作品の民族音楽史的な

死んでしまった過去のものではなく、

べきであろう。﹁予伊桑の音楽を韓国的だ

て、より民族音楽の発展に貢献する道を第

三世代は模索しなければならない。

解放以来、この五O年の洋楽創作界と国

楽創作界を振り返ってみると、作曲家自ら

の価値観と方向があいまいな状態だったた

いる 新しい音楽作品を作り出して ,

伝統音楽に根ざした、

・新しい創造活動の基盤であるとの信念を持ち

位置づけが可能だという見方も参考にする というのは先入観に過ぎず、彼の音楽は以 前の西洋音楽史に見られなかった独創性が あり、美学的な価値観を備えている。(丑日 楽東車﹄八九年三月号 )と L 述べたティピン

め、誰にも認められる音楽作品を創ること

マ 1・

イケ ・アイアの指摘に注目する必要があ

を重ねるかでしかなかった。どの国の音楽

ゲン大学の韓国学教授であるディタ

せる問題とじかに関わるばかりでなく、第

ができず、実験の中でさまようか試行錯誤 のが、李成千、金溶鎖、白大雄、朴範薫ら

る。また、韓国系作曲家としての予伊桑が 政治的に東ベルリン事件(六0年代に平壌

よって形づくられるということを想起する

史を間わず、音楽白人の主流が新しい作品に

向に進んできたとは言い難い。その原因の

時、この五O年の韓国音楽史は望ましい方

三に、固有の音色を保存する問題とも関 た国楽創作界の発展の課題が、つまり楽器

わってくるからである。伝統音楽に根ざし 改良の問題だと言わなければならない理由

である。国楽創作界の第二世代は洋楽界の り、いろいろな形で作品活動を展開してい

第二、第三世代のようにまだ実験段階にあ るため、彼らの作品が持つ民族音楽史的意

予伊桑も容疑者の一人だった)で受けた傷 跡を北韓に償ってもらおうとするよりは、

もここにある。

側の指令でスパイを働いたとされた事件。

韓国の民主化闘争に力を入れていたら、彼

味について論ずるにはまだ早い。

してきたという事実である。現在の西欧音

宗教との密接な関わりの中で誕生し、韮展

とすれば、それは全ての音楽がある特定の

世界の音楽史に一つの共通点を見いだす

らない。というのは、模倣文化に満足する

音楽家の知恵を今からでも集めなければな

代および太平洋時代に対処できるすべての

できるであろう。一一一世紀の民族統一の時

断された民族の悲運の中に見いだすことが

なる母国が政治的イデオロギーによって分

一つをあえて挙げれば、創作活動の母胎に

は九0年代の今では英雄に祭り上げられて

しい創造活動の基盤であるとの信念を持ち

楽の根についていうと、中世のカトリック

この国楽第二世代は、伝統は剥製になっ

伝統音楽に視さした、新しい音楽作品を作

音楽に由来しているものであることに誰も

て死んでしまった過去のものではなく、新

地を支配してきた政治的イデオロギーの生

り出している。彼らは洋楽界の第二、三世

いう意味で、予伊桑は、解放直後からこの け賛だったといえるのである。

代作曲家とともに、たゆみなく彼らの創作

故郷に錦を飾ることができただろう。そう

で死去)

(注・手伊桑氏は 一九九五年十一月ベルリン

44


ある。

文化的 二等国民になってはならないからで 五九年ソウル大学音楽学部に国楽科が設け はおびただしいだけではなく、多くの数え まず、奈意求が出した十二冊の単行本の

子を育て上げているからである。

また、論文集としては国楽と二編の洋楽

うち 、論文集には﹃韓国音楽研

論文を載せた﹃韓国伝統音楽の研罫(一九

を始め、琴の演奏法と運弦法及び時調(韓

論文からなる﹃察明の東西音ぎ(一九七四)

楽序毘﹃韓国音楽肇罫﹃韓国音楽論書が

七五)と﹃国楽史論﹄(一九八三)など五編の 論文集を出した 。

できあがった。したがって、この五O年の

られて韓国音楽学の発展に向けた真の礎か

二、第三世代に分けて検討してみるほうが

韓国音楽学の発展過程は第一世代および第

二巻(楽報)と﹃国歴楽学軌範﹄があり、また

ある。翻訳書には﹃世宗長献大王実容全二

に代表される韓国音楽学の第 一世代は、 一

には﹃井間譜の井聞大綱および調子﹄があ

一つの研究主題を深層的に掘り下げた論文

成﹄(一九九O )は﹃朝鮮大王実録﹄の音楽記

資料や解説としては、﹃国楽文献資料集

国固有の定形詩)と歌曲に関する十五編の

三、韓国音楽学の研究唇木

一六i 一九九ごと李恵求(一九O 九年 j)

便利である。即ち、今は亡き張師動(一九

方では韓国学(町内O H 2ロ印Z壬2 または

﹃韓国音

今日、韓国音楽学という言葉は単に伝統

Z

音楽を研究する国楽学と同一語として使わ の略語が国楽学という奇媒に理解されてき

集である 。また、彼の﹃国楽音楽史年表 (一

れる傾向にある 。即ち、今まで韓国音楽学

九九O )は古代から一九九0年代までの重

事を抜粋して年代順に編集した一種の資料

要な事項を年代別に整理した年表であり

る 。

ず、他方ではソウル大学の国楽科でこの両

は李恵求の晩堂音楽学の基盤 巻(一九八O)

﹃ )は韓国音楽史研究史 国楽文摩(一九九O

研究業績を韓国学界に残しているのみなら 大家は第二世代の弟子を多数育てた。両大

づくりに重要な役割を果たしただけでな

料の古楽譜に関する解題集である。

] 内 国OBSO O哲)の他の分野に劣らぬ多くの

韓国音楽学という言葉は、﹁韓国 L と﹁音

家の教え子として七0年代から研究活動に

く、この二つの翻訳書は漢文に弱いハング ル世代に重要な参考文献の一つであった 。

知識を見せる著作としては、我が国の伝統

たのである。しかし、韓国音楽学の用語は、

楽学﹂という こつの単語からなる合成語で

本腰で取り組んでいる第二世代には権五

楽器六O余種の機能 ・歴史、演奏法を写真

そのように単純には理解されてはならな

ある 。したがって、 二つの言業の聞にどう

聖、宋芳松、韓明照、韓首内楽らがおり、第

また ﹃ 弁間譜の井聞大綱および調子﹄は井間

とともに説明した﹃韓国楽器大酔(一九六

﹃ 世宗長献大王実録﹄全二 二巻(一九七一 三 と﹃国歴楽学軌範﹄第 一巻(一九七九)と第一 一

いう種類の言葉を補って理解するかによっ

譜について心血を注いで調べた研究室田であ

を扱った ﹃ 時調音楽論﹄ ( 一 九七 三 ) 、 世宗時

SEF口O]om可あるいは 自5FnOom可 O 問 05白)という意味になり得るし、二番目 は 、 寸 韓国における音楽学﹂または 寸 韓国で

さらに伝統音楽に関する張師動の幅広い

云初、張師動の研究業績、つまり云初音

張師動の論文には﹃国楽論書暴明の東

音楽の研罫(一九 八二)、それに遺稿集の

九)、時調の文学的な側面と音楽的な側面

楽学と晩堂、李恵求の研究業績、つまり晩

の横軸としての分類体系と縦軸としての歴

﹃韓国の音階﹄(一九九二)などが挙げられ る。最後に、晩年の力作としては韓国音楽

p ﹀ 司↓ 印 一υ 、nm

て韓国音楽学の意味が次のように変わるの

三世代には孫大龍、金鐘珠、南相淑らがい る。彼らの研究成果をもとに韓国音楽学の

る 。

代の音楽と楽器について研究した ﹃ 世宗朝

である 。まず、﹁韓国の音楽学﹂(同05S

もう一方の張師動は解放直後から著述佑 動を行な っているが﹃民謡と郷土楽器﹄ ( 一

堂音楽学は韓国音楽学の 二大ル lツという

西音表﹃韓国伝統音楽の研詐﹃国楽史静 ﹃ 韓国楽器大観 ﹃ 時調音楽静﹃世宗朝音楽

ー、第 一世代による韓国立自室 詰 究

発展過程を見ると以下のように概観でき る 。

九四八 ) はこのころの著作である。

の音楽学﹂(BERo o 坦 E 同O円巾白)という意 韓国音楽学は一九四八年に設立された国

研零 U﹃韓国の立島問﹄などがある。

味にもなる。 楽学会(今の韓国国楽学会)の学術活動に

べきである。実際、二人の研究業績の数量

よって少しずつ足場を作り、このあと一九

45


九八こは一九八O 年以前の研究論文と研

た概論書であり、﹃韓国音楽学論著解題﹄(一

八四)が挙げられるが、これは伝統音楽の

史を項目別に整理した﹃国楽大事血ハ﹄(一九 究書を解題した文献目録集である。

解放以来この五O年の聞に拳蔑した韓国

3、韓国音楽学の基盤形成に向けた事業

ために三O余年の問、学問的に研究した云 初音楽学の総決算でもある。

2、第二、三世代による韓国音楽学研究

文であり、第二は翻訳書であり、第一一一は資

績は大きく四つに分けられるが、第一は論

攻した世代からなっている。彼らの研究業

作業は韓国音楽学の発展に向けた基礎作業

がって、古楽譜の復刻事業やレコード製作

の音楽をもとにして得たものである。した

によるか、または民謡やパンソリ等の実際

は、すべて古楽譜や楽書のように音楽史料

料集であり、第四はその他の単行本である。 であるといえる。この半世紀の韓国音楽学

音楽学の第て第二、第三世代の研究成果

研容ん論文を集大成して単行本で出版され を回顧する場で、古楽譜の復刻とレコード

韓国音楽学の第二世代は一九五九年に設

た研究書としては、白大雄の﹃韓国伝統音 にある。

製作について概観しようとする理由もここ

立されたソウル大学園楽科で国楽理論を専

楽の旋律壁F( 一九八二)、宋芳松の﹃韓国 究﹄(一九八O )﹃高麗音楽史研究﹄(一九八

我が国の最初の復刻本として刊行された

ω 古楽譜の復刻

重木史研罫(一九八二)﹃韓国古代音楽史研 八)﹃韓国音楽史論孜﹄(一九九五)、韓蔦祭

古楽譜は、一九五四年延世大学の東邦学研

この二冊の古楽譜は初期韓国音楽学の研究

の﹃韓国仏教音楽研宰(一九八O )﹃韓国伝

に大きく寄与している。伝統歌曲の歌詞を

究所で出版した﹃時用郷楽譜﹄であり、一一番

造に関する論文集で、韓満祭の﹃韓国仏教

載せた歌の本は、国文学の研究にとって大

統音楽研罫(一九九こがある。﹃韓国伝統

音楽研罫は学術誌に発表した仏教音楽関

切な史料なので、早くから学術的関心の対

音楽の旋律構造-はパンソリ(鼓の拍子に合

連の単行本であり、筆者の著書としては﹃韓

象として浮かび上がっていたが、﹃海東歌置

ル通文館刊行の木版本﹃梁琴霊 rである。

Z をはじめ、﹃韓国古代音楽史 Z など五編の論文集

目に復刻された古楽譜は、一九五九年ソウ

国音楽史研

わせで演ずる劇的内容のある歌)の旋律構

研究﹄﹃高麗音楽史研

の古楽譜が紹介されている。解捗後紹介さ れた古楽譜は、国立国楽院が一九七九年以

て学界に紹介されたが、解放後には数多く

古楽譜は宋錫夏によって一九四三年初め

﹃歌曲源流﹄﹃協律大成﹄などがそれである。

(一九九五)と洪正守の﹃韓国教会音楽史料

超善字の﹃韓国カトリック教会音楽史料﹄

来韓国音楽学史料叢書の名で復刻本にして

音楽史料を集大成した資料集としては、

がある。

ント教会 音楽史料を集大成した単行本が

集﹄(一九九三)がある。韓国のプロテスタ

ドとカセットテープ、そして畢氾ではCD

韓国の伝統音楽は、録音したL Pレコー

レコード製作

灯している。 刊μ

教会の音楽史料を集大成した単行本であ

がたくさん製作されている 。

ω

﹃韓国教会音楽史料きであり、﹃韓国カト

る。宋芳松の﹃韓国音楽通史﹄ ( 一 九八四)は

リック教会音楽史料﹄は韓国のカトリック

上古時代から解放後までの音楽史を概観し

︾司↓印刀、ynm

46


L Pレコード一一一O枚からなる﹃国学大全 集﹄は韓国伝統音楽のさまざまな種類の音

謡三千里﹄は八道の代表的な民謡を編集し

曲を選んで作ったレコード全集であり、﹃民

楽情選﹄は伝統音楽のうち、主な種類の楽

あり、またL Pレコード六枚からなる﹃国

している伝統との断絶を意味するものでも

欧化﹂のことであり、西欧化は我今に内在

の道を歩んできた。近代化というのは﹁西

この五0年間、我々はたゆみなく﹁近代化

一九四五年八月一五日に解放されて以来

四、結論二二世紀の韓国音楽 学の見通し

たレコード全集である。オ・ボクニヨ、キ あった。我々の伝統に代わって信仰されて

楽をバランスよく編集したレコード全集で

ム・ジョンヨンらの西道民謡名歌手の歌声

L

を吹き込んだ﹃西道の名唱大全集﹄はL P一 はいまや新しい文明のパラダイムを求めて

きた西欧の文明か限界にぶつかると、世界 いる。一二世紀の韓国音楽学も、新たな目

O枚のレコードからなる全集物であり、国 立国楽院が毎年主な種類の伝統音楽を録音 標を探り確立していかなければならないで 目前に迫っている一一一世紀に向けて韓国

あろう。 音楽学が真撃に反省して姿勢を正さなけれ

四 O枚からなる﹃韓国の音本木﹄は政府の文化 財管理局から重要無形文化財に指定された

した﹃韓国音楽選集﹄もある。 L Pレコード

音楽部門一五種目の実況演奏を採録したレ

り離されては聞かれないからだ。未来は過 去から習い、現在を確実に位置づけし、現

ばならない。なぜなら、未来は歴史から切

在にそれなりのル lツを捜し出してこそ、

コード全集であり、民謡と民俗音楽を集め トテープ全集である。さらに、 MBC文化

た﹃韓国母語大全集﹄は一四巻もののカセッ 放送のラジオ局か一九九二年に製作を始め

ルーツのある伝統をしっかり踏まえて創造

はじめて我々のものになるはずである。 的な音楽創作に取り組まねばならぬ理由

たC Dは﹃韓国音楽大会亡で、済州島編は一

が、ここにあるのである。

九九二年、全羅南道編は一九九三年に、全 北道編は一九九五年にそれぞれ製作・配布

編は一九九四年に、慶尚 羅北道と慶尚恵 hL された。

我々の伝統に代わって 信仲されてきた

西欧の文明が限界にぶつかると、 世界はいまや新しいえ明のパラダイムを本めている

47


U ヰハ

207

、 光復から五O年

...

ハンサンウ

韓相宇

音楽評論家

I

﹀ ︿H m ︾司﹃巴 U

-h'

る。というのはキリスト教の宣

一¥三 国に西洋音楽が流入したのは、 ト日註 一八八0年代の中期と考えられ

-rE﹁

からであり、またこの事実歌によって西洋

教師がこの時期に入国して讃美歌を伝えた

音楽がこの地に根を下ろし普及したからで

ある 。 一 九世紀における西洋音楽の普及に

の影響も大きかったと思われる。このあと

はわが国にはじめて設けられた宮廷軍楽隊

二 O世紀に入って、植民地支配を受けた一一一

六年間と解放後の混乱期、そして韓国戦争

と続くのであるが、このようにして結局五

0年代の後半に入って、やっと音楽発展の

基礎ができ上がり、また音楽の早期英才教

育に対する関心もこのころから寄せられる

ようになった。もちろん、これより先の一

九二0年代には歌曲の作曲が行なわれ、植

を歌った多くの歌が広く歌われていた。

民地支配の困難な状況のもとで民族の哀歓

一九四五年の解放後、音楽家の努力に

よって、まず韓国最初の交響楽団である高

年にはテナ lの杢寅善の率いる国際オペラ

麗交響楽団が創立され、引き続き一九 四八

ヴェルディ作曲の﹃椿

F が公演された。こ

社によってやはり韓国はじめてのオペラ、

た 。

れは解放間もない困難な状況の下で行われ

一九五O年に起こった韓国戦争は三年後

に停戦が成立するまですべての音楽活動を

九五三年に避難先の釜山で開校したソウル

停止させた。しかしながら、戦争末期の一

芸術高校の創設は芸術の早期教育に対する

一般の関心を高める翠︿機を与えることにな

る。一九五0年代末から始まった音楽の英

才の早期海外留学は韓国演奏家の音楽的資

質を 世界に紹介することになり、豊かな音

楽的情緒を持っていた才能はこの時から開

花し始めた。

48


展し得なかった。

かわらず、圏内の音楽文化はまだ充分に発

する韓国出身の音楽家が少なくないにもか

膨脹が進む。その結果、世界を舞台に活躍

配ったため韓国の音楽界は質よりは量的な

ところが、この後は外的成長にだけ気を

受け継いだ現代技法による創作活動は、そ

と活気を帯びだす。世界の作曲界の流れを

り 一O年後の六0年代後半になって、やっ

米留学が少し遅れていたことから、それよ

野のことで、作曲界は演奏界などに比べ欧

らである。しかし、これは作曲界以外の分

基礎ができあがったのは五0年代の半ばか

た 。

世界の舞台との距離を縮めることになっ

帰国 ・活動したことで、我が国の創作界は

新しい創作法を身につけた少壮グループが

に分かれることになる。もちろん、海外の

なると、韓国の創作音楽界は、保守と進歩

ク ・チュンサンらが帰国 ・活動するように

いた。そこへ留学組の自筆果、草讃照、パ

性化に大きく貢献している。

第三世代同人グループ等があり、作曲の活

研究会、アジア作曲家連盟、女性作曲家会、

としては創楽会、未来学会、二O世紀作曲

に韓国音楽の創作界をリードしてきに団体

。 これまで 関心を抱かせる役割を果た した

楽界の注目をひき韓国の創作音楽に大きな

一九二0年代に洪蘭技が歌曲﹃鳳仙花﹄を 根らの若い作曲家が洋楽に韓国的な素材を

ある。それまでは、羅運策、鄭回甲、李相

家によって行なわれるようになったからで

協会の韓国警貝会の活動は、世界の現代音

になる。特に萎頑照の率いる国際現代音楽

留学先から続々戻り、創作界はさらに活発

七 0年代に入ってからは、若い作曲家が

いる我々、聴衆に感動を与えられる新しい

で事足りるのではなく、この時代を生きて

この点、作曲家たちは単に先端を歩むだけ

題は聴衆から見放されていることである。

しかし、我が国の作曲界の一番大きな問

の前後に留学先から帰国し始めた若い作曲

始めるが、先にも触れたように音楽発展の

作曲・ 発表してから創作音楽が脚光を浴び

﹀司叶的勺、ynm

取り入れるな. として、作曲界をリードして

49

創 作


めには、西洋音楽の創作技法を踏まえなが

作品の創作を試みるべきであろう。そのた らも、その中に韓国的な香り、即ち我今の 魂かこもっている創作作業が必要なのであ り、世界の音楽界で認められる道もそこに あると思われる。

二、六番楽運動 一九四五年の開放直後、我々の先覚者は 交響楽団の必要性を痛感し、吉田麗交響楽団 を創設したのであるが、本格的な交響楽運 動はKBS交響楽団とソウル市立交響楽団 二つの交響楽団は指揮者の林元植と金生麗

が設けられてから始まったと言える。この により専門職業交響楽団として成長した が、その後生まれたコリアンシンフォニ ー は、国立交響楽団常陸畑揮者のポストを退 いた洪環津が設立した交響楽団で、韓国初 の私立シンフォニーである 。 これらの交響 楽団は、いずれも毎年二O余回の定期公演 のほか随時に公演を催して専門交響楽団と しての役割を果たしている。この後、政府 の文化政策の 一環として各市 ・道に市立ま たは道立交響楽団が設けられて、現在、地 方毎に活発な活動を繰り広げている。毎年 春にソウルの﹁芸術の殿堂﹁が催している交 ており、少なくとも量的な面ではかなり発

響楽祭には、二O以上の交響楽団が参加し

しかし、シンフォニーのメンバーたちに

展しているといえる。

い。芸術集団としてのオーケストラが本来

支払われる報酬は、決して充分とは言えな の役割を果たすようにするためには団員に 応分の待遇をするべきであり、そうしてこ ろう。また不備な演奏場など揮設や環境の

そ、完全な職差父響楽団が確立されるであ 霊警にも注意が払われない限り、理想的な

︾司↓印可、 pnm

毎年春にソウルの﹁芸術の殿堂﹂が催している 交響楽祭には、ニ O 以上の交響楽団が 参加しており、少なくとも 量的な面ではかなり発展しているといえる

KBS交響楽団の公演場面

50


い。さらに、すすんで解決しなければなら

交響楽団に育たないことも忘れてはなるま

ケストラは所栓、指揮者によって育てられ

ないのは有能な指揮者の発掘である。オー るものであることから、理相街指揮者は即 ち理想的オーケストラの誕生につながるか そうした中でも、この五O年の年輪の中

らである。 で韓国の交響楽運動を導いてきた指揮者と しては、林元植、金生麗、金菖帽、鄭載東、 クム・ナムセ、林憲政、クム・ノサン、屋

洪燕淳、元京株、李南沫、朴因議、朴鐘赫、

ている指揮者には鄭明動、郭昇、威信盆、

乗韓、金鍾塞らがあげられ、海外で活動し 食涼らがいる。

三、オペラ運動 開放三年後の一九四八年一月、テナ lの 李寅善が中心となって設けた国際オペラ社 は韓国最初のオペラであるヴェルディの ﹃椿普を舞台にあげることで韓国オペラ史 ラ団が創設された。

はその幕を聞き、韓国戦争後には国立オペ 国立オペラ団が一九六二年から今年まで の三三年間に公演したオペラは五O編一を越 ペラも九編含まれている。一九六八年に創

えており、その中には韓国作曲家の創作オ 因された金慈環オペラ団は韓国の本格的な べて大衆的な共球苔念頭においた公演活動

民間オペラの草分けで、国立オペラ団に比 を活発に行なって韓国オペラ文化の定着に 大きく寄与している。金慈環オペラ団のレ パートリーを見ると、一九六八年から今年 までの聞に公演した三四編のオペラのう ち、創作オペラが七編に上っている。金慈 環オペラ団の成功に勇気づけられて続々一民 間オペラ団が創設されて、現在は五、六の

51


民間オペラ団が活動している。 数年前まではオペラ専用公演場がなく て、いつも多目的公演場で公演が行なわれ ていたが、﹁芸術の般堂﹂にソウル ・オペラ 劇場がオ ープンしてからは、いよいよ専用

ある。というのは、演奏にだけ専念するべ

特に金畏はソウル・バロック合奏団を創

丁讃字らが先頭グル ープであり、なかでも

バイオリニストとしては金南潤、金臭、

き演奏家が演奏することをやめ、弟子の養

ちに、おおかた演奏力が衰えてしまうので

パートリーシステムのオペラ舞台を作らな

オペラ劇場も、同劇場が中心にな ってレ ければならない。

設、韓国の代表的な窓丙楽団に育てあげる

など、室内楽運動に並外れた情熱を見せて

である四重奏団のクムホ弦楽四重奏団、そ

そんな中でも、少数ではあるものの、演

成に大半の時聞を費すからである。

四、圏内の演奏界

して様々な形の室内楽運動を繰り広げてい

ロック合奏団を始め、韓国はじめてのプロ

ほっとさせている。難しい条件を乗り越え

いる。室内楽分野では金畏のソウル・ バ

て我が国の演奏界を輝かしくしている音楽

エウム ・クラブ等の活動か挙げられる。

る韓国フェスティバル ・アンサンブルとイ

台を作り続けている音楽家がいて我々を

家としては、ピアノ部門では申秀貞、杢康

八 0年代の後半からは海外居住の若い演

奏家としての姿勢を崩さず、水準の高い舞

の、本格的な演奏家の活動は五0年代の後

後、金元一 幅、弔ア埼善らの活動かあったもの

淑がたゆみなく演奏してきたし、なかでも

奏家が多数圏内に戻ってきて、今では有能

わが国の演奏舞台では一九四五年の解放

いオペラを舞台にあげなければならない時

オペラである。今や我が国でもオペラらし

しだしてから始まったといえる。演奏家と

半から六0年代にかけて欧米留学組が帰国

リーズ演奏会など名権な舞台を作り出して

芸術総合学校の音楽院長である杢康淑はシ

楽のうち一番大衆的な人気のある部門は、

公演場時代を迎えることにな った。古典音

ラ団中心の公演から劇場中心の公演に変わ

期になったといえるが、そのためにはオペ は演奏を専門にするプロのことを言うわけ

の原則にしたがって観客が時間と入場料を

らなければならないし、徹底した商業主義

な若い演奏家が圏内で幅広く活動しながら

だが、我が国では解放五O 周年を迎えるい

費やしても悔いないオペラ舞台を作らなけ

演奏の質的向上に貢献している。彼らの演

まなお専門演奏家時代が訪れたとはいえな

専門演奏家としての面白を躍如たらしめて 。 Lる

い。留学組は帰国してから二、三年経つう

の ﹀ m穴印と天

ればならない。この点から﹁芸術の殿堂﹂の

は、できるだけ早目に専門演奏家時代の幕

奏力を引き続き保たせ、発展させるために

を開けなければならない 。そのためには、

地域毎に演奏場を建て演奏会の地域拡散を 図らなければならないであろう。

五、国際舞台での韓国音楽家

韓国音楽家の海外留学はピアニストであ

一 九五0年 る韓東一に始まったといえる。

代における少年、韓東一のアメリカ留学は

天才ピアノニストという名と共に国民の関 心を集めた出来事だった 。それもそのはず

で、戦争のさなか年端のいかぬ天才少年の

留学は明らかに心温まるニュースだったか

なるためには子供の頃から本腰でレッスン

らである 。また、このニュースは演奏家に

に取り組まなければならないということを

社会に知らせる妨穫にもなった 。もちろん、

韓東一は、アメリカで音楽学校を終えたあ

とピアノ演奏の活動をして成功を収めもし

た。しかし、現在はボストン大学の教授と

して弟子を養成しており、演奏活動からは

52


いるが、国際舞台での活動は未知数である。

作曲家の手伊桑はドイツで活躍中の老大

家なのだが、政治的な理由から母国に戻れ

ならない。北韓には予伊桑音楽研究所かあ

ずにいることは不幸なことといわなければ

るというが、彼の難解な作品が北の社会に

理解されているかどうかは怪しいものであ る。とにかく矛伊桑は、長年独り孤独な道

を歩いているわけである。(注 ・なお安伊

これまで、声楽の分野では韓国人は限界

桑氏は今年十 一月死去された)

があると考えられていた 。ところが近年に ん吋・を驚かせる出来事が起きていて 入り、我

胸をときめかせている。それはほかでもな い。 一人でなく三人のソプラノがほとんど

ナとして馨星の如く現れたからである。洪

同時に世界有数のオペラ舞台のプリマドン

芸品卿はニューヨーク・メトロポリタンオペ

ラ劇場の主役に立ち、申英玉はやはりそれ

に続いてメトロポリタンをはじめ主にアメ

リカで活動中である。盲目秀美は、今は故人

となったカラヤンに認められており、主と る。

現在の勢いからすると一 二 世紀の偉大なバ

が、彼女は確かに天才的な演奏家であり、

る。張、永宙の天才ぶりはよく知られている

英美はパバロティ・コンクール等で優勝し ており、バリトンのチェ ・ヒョ ンスはチャ

期待されている。 これより先ソプラノの金

人のプリマドンナには、これからの活躍が

してヨーロッパで活動している。これら三 バイオリ ンの鄭京和と姉のチェロの鮮明 和、弟のピアノの鄭明動の三人兄弟からな

イオリニストに成長するものと思われる。

離れている。

るチョン(鄭)トリオという名で名を馳せて

そのことは専門演奏家の道がどれだけ厳 しく難しいか、特に世界を舞台とする演奏

もいる。このうち鄭明動は指揮者としても

家としての白蓮子はヨーロッパにおいて非

世界的な演奏家が出ていないが、専門演奏

痢雲はパイロイトのワ lグナ 1祭の舞台で

一 方、ドイツで活動中のバリト ンの萎 る。

イコフスキ l ・ コ ンクールで優勝してい

家への道がどんなに険しいものであるかを

活動して、フランスのバスチーユ ・オペラ

常に独特な魅力を持った、演奏家として揺

ピアノ部門では、まだバイオリンほどの

物語るケ lスでもある。

に名を連ねている。今年八月にソウルで聞

劇場の音楽匙蓄を歴任、世界一流の指揮者

韓東一から一転して九0年代に目を向け てみると、国際舞台で活躍している韓国出

オペラ歌 手として の能力を認められてい

世界的な歌手たちと共演し、ワ lグナ lるぎのない地歩を築いている。白建字の名

帰国してソウル音楽大学の教授のポストに

せである。

韓国音楽界にとっていま一つの明るい知ら

ている。彼の後に続くキム・ヘジョンと 張永宙の後に続く、もう一人の天才少女 ソ・ヘギョンが国際舞台で活動しており、 チ ェ リ ス トのチャン ・ハンナがロストロボ 将来の活躍が期待されている。このほかェ . ピッチ ・ コ ンクールで優勝したニュースは リザベス・コンクールで入賞した白蜜革問は

る 。

かれた解放五O周年記念音楽会でも鄭明動 また、バイオリンではアメリカとドイツ

の第一号は、バイオリニストの鄭京和であ

身の音楽家は少なくない 。世界的な演奏家

で活動している金永旭とパリを拠点にして

声は、ますま主ロ同くなりつつあり周宜賞もし

オリン教授だったガ lラミアンの教え子の

演奏活動をしている萎東錫がおり、まだ一

は指揮棒を振るった。

うち、まな弟子だっイチャク・ポールマン、

O代の少女ながら大家の待遇を受けている

る。アメリカ・ジュリア 1ドの有名なバイ

ピンカス・ジュカマンとともに世界最高の

張永宙が我今に大きな期待を抱かせてい

バイオリニストとして知られている鄭京和 は東洋の魔女という還名がつけられてい

53


.

フ イ

リ ツ

韓国が生んだ世界的なパス 国際舞台でフィリップ ・カン(本名 H萎 柄雲)として知られている彼が、東洋人と しては、オペラ舞台に立つのも難しいヨー ロッパで主役クラスの歌手として大活躍し ていたということは、音楽ファンの間では よく知られている。しかし、彼の舞台に接 することのなかった一般の人々には、名前 すらよく知られていない。彼の国際的な名 ている我々現代人にとっても、まだ各界の

声に比べ、情報化とハイテク時代に暮らし

わっていないということを、彼を紹介しな

専門分野の情報がバランスの取れた形で伝

rme cdc

唱。﹃

音に至るまで自由自在に音を変えられる特

ことになる。ドイツ楽劇の集大成とも、ド

され、国際的なパス歌手として認められる

でハ lゲン役やフンディングなどの役を任

間 ﹃ -71ベルングの指静等の四編のオペラ

別な能力が認められ、一躍世界の舞台で注

イツ音楽の誇りとも言えるワ lグナ l楽劇

声量が豊富で、稀に見る低い低音から高

がら悪しる杢直な気持ちである。

目を集めるパスとして確固たる地位を築い

役クラスの歌手としてデビューした彼は、

東洋人としては初めて、脇役ではなく、主

イロイト・ワ lグナ l ・フェスティバルで

世界三大音楽祭の一つであるドイツのパ

身体、能力、歌唱力などの条件がワ lグナ l

難しいとされている。とりわけ東洋人は、

らい、声楽界ではワ!グナ lの楽劇が最も

ワ│グナ l ・シンガーという別称もあるぐ

性のため親しみにくいという人も多い。

作であり、一般にはワ iグナ l音楽の特殊

は、公演時間が平均して四時間を越える大

世界的なオペラの巨匠ダニエル・パレンボ

ているフィリップ ・カン。

イ lムと一緒に八八年から九二年まで五年

世界的なパスのフ ィリップ- カン

/

ソウル大学教授・バイオリニスト

受5

ているフィリップ・カンは、百余年の伝統

の深い顔、何よりも豊富な声量を誇りとし

四年、私がベルリンに滞在して以来、今日

ベルリンで何度も彼に会っている。一九七

声量が豊富なうえに声が柔軟性に富み、

から眺めてきた。

自由自在に音を変えられる特Aな能力を

まで二O数年の問、彼を近く、または遠く んな謹慎をも乗り越えてきた。こうして自

という言葉のニュアン久は、しばしば伺か

よく我々は幸運という言葉を使う。幸運

合格して、ヨーロッパ舞台に第一歩を踏み

にベルリンオペラ劇場のオーディションに

学に籍を置いていた。このあと一九七六年

持ったフィリップ ・カンはベルソン音楽大

が簡単に手に入るという意味のようにも取

人々がいる反面、努力はさほどしなくても

を乗り越えようと努力しました﹂

りました。わたしなりの努力をして、それ

の限界のようなものを啓したこともよくあ

﹁東洋の小さな国で生まれ、やはり国力

出した。

幸運が味方して成功する場合もたまに見ら

彼はド イ ツ屈指のオペラハウスである

ウッパ lタルやニュ│ルンベルク、マンハ

オペラハウスの契約期間中にも、彼はゲス

ペラハウスと契約し、活発に活動してきた。

て一九七六年から一九八三年まで正式にオ い。二O 余年の長い歳月に百一って、絶え間

トシンガーとしてハンブルグ、ミュンヘン、

イムのオペラハウスのソリスト(主役)とし

なく己を磨いてきたために能力と声楽的な

フィリップ・カンは、ある日、突然幸運

価値を認められ、ヨーロッパの音楽祭で脚

な声楽家と して我今の前に現れたのではな

ないのではないだろうか。

幸運はあまり意味がない し、永遠には続か

れる。しかし、血の穆むような努力抜きの

わらず、幸運に恵まれずに日の目を見ない

れる。血の惨むような努力をしたにもかか

たのである。

分の世界を構築して偉大な声楽家に成長し

を持つワ│グナ l ・フェスティバルで強靭

ウルで会っており、留学に行ってからも、

学部を卒業し、留学の準備をするまでにソ

私は彼が一九七一年、ソウル大学の音楽

光を浴びるようになったのだ。

金Z

な芸術家的魂とプロ精神、不屈の意志でど

ヨーロッパ人に負けない高い背と、彫り

だった。

脇役にとどまっていたのがそれまでの実情

楽劇には向いておらず、配役を任されても

ヨーロッパのオペラ舞台の主役クラスの世界的なバス

醐闘冨盟国悶悶悶同軍割問問. 闇.

-m

54



の舞台で六O余編のオペラの主役として舞

ンドン等身、世界中のオペラハウスの多く

セル、ウィーン、マドリ lド、ロ l マ、ロ

リスボン、チュ1リッヒ、パリ、ブリユツ

かせた。

の舞台を成功させ、当地の音楽関係者を驚

﹁夢の舞台﹂であるドイツのパイロイト祭で

富な経験と努力を生かして世界の声楽家の

る。そのためには韓国の聴衆とも接しなけ

国の音楽界のために尽くす決心をしてい

的経験と自分の芸術的才能を生かして、韓

フィリップ・カンは今までの多くの音楽

ホイザ l﹄、ケルンオペラ劇場でベルディ

国立オペラ劇場でやはりワグナ│の﹃タン

場でのワグナ│の﹃パルジパル﹄、ベルリン

﹃魔附由﹄を始め、フランスのニ│スオペラ劇

ペラハウスで公演されたモーツァルトの

しいオペラとしては、英国のローヤル・オ

九三l九四年のシーズン中に出演した新

ペラ界の発展のために自分の能力が必要で

ているし、誇らしくも思っている韓国のオ

うゆとりもできた。だから彼は自身が愛し

し、今では彼は自分がしたい役を選んで歌

オペラハウスの招待を受けて忙しい。しか

はパリにローマにと多くのコンチェルトや

カゴ・シンフォニーと協演しており、最近

ボストンのテングルiド音楽祭を始め、シ

ように 彼は、まさに﹁世界を股にかけた L

道を歩いてきたが、一九八八年以降、奥さ

じ舞台で主役として立つなど、ずっと同じ

ルンベルクオペラ劇場では夫婦が一緒に同

に結婚、二男二女にもうけている。ニュー

会ったソプラノの韓民姫さんと一九八O年

ニ│-オネ│ギン﹄に一緒に出演して出

場で公演したチャイコアスキーの﹃エフゲ

彼は一九七八年オルドンブルクオペラ劇

のは喜ばしいことだ。

も彼の本当の姿を近くで見る機会ができた

ればならない。また、韓国の音楽界として

台に立っている。

の﹃リゴレット﹄とモーツァルトの﹃魔曹等 からは母校のソウル大月主目楽学部で後輩を

あれば喜んで働くという謙虚な姿勢で今年

んは子供たちの世話のため一時、舞台を休

渇きました。近年になってのことですが、

聞に母国を離れてもう二O年という時間が

と細やかな心遣いを忘れず良き父親として

あるだけでなく、家庭においても篤い信仰

パス、フィリップ ・ カ ンは立派な芸術家で

ドイツのパイロイトを驚かせた世界的な

んでいる。

トリオの分野でも信頼できる優れた能力を

外国舞台に立つことに劣らず、母国の音楽

寸外国での演奏生活に夢中になっている

指導している。

にそれぞれ主役として出演した。 彼の才能はオペラ分野だけでなく、彼の 指導教授。フラウ エル(ベルリン国立音楽学

持っている﹂と指摘したようにとても多様

界や後輩のために働くことの重要さに気づ

幸福な家庭をリードしている。

校所属)が﹁フィリップ・カンは歌曲、オラ

コンチェルト独唱者としてもバランスの

る今が私に与えられた最後のチャンスだと

きました。で、まだ働けるし、やる気のあ

である。

るパスのすべての役をこなしている。フィ

R

考えたのです﹂

取れた声と感斜見を持っていて、自分ができ リップ・カ ンは彼の底力と海外舞台での豊

M

﹃ -,

らi

ドイツの有名な音楽雑誌の特集記事に紹介されたこともある( 上の右) 。 最近は母校のソウル大学で後学の指導もしている上( 上の真ん中) 。 フィリップ・カンはワーグナーの楽劇祝祭の「バイロイト・フェスティパル」の 『 ニーベルングの指輸』でハーゲン役( 左下) を演じて一躍世界のオペラ界に名を馳せた。

パリでのテ' ビュー当時モーツアルトのオペラ『魔箇』でサラストロ役( 左上) を 演じるなど、ヨーロッパを舞台に招請、巡回公演を活発に行なってきた

56


57


金周栄

-h'l--

の人々が満州地方に大挙して移住するよう

言っても大したものではなかった。朝鮮族

たが、おおかた強制によるもので、数から

年代である。それ以前 にも移住した者がい

移住を始めたのは、記録によると一八六0

が女真族の居住地であった満州に大挙して

ている。朝鮮族といわれている彼らの祖先

り、中でも吉林省の延辺地方に今致集中し

二百万名に上る朝鮮族が散在して住んでお

る遼蜜省 ・吉林省 ・黒竜江省には現在、約

いたところである。東北三省といわれてい

E ι

ー国人が多数住んでいる、いわゆ ト軒並 る中国の東北三省は、高麗時代 一 と朝鮮時代には女真族が住んで

作 家

延辺の独立遺跡地 尋ねて

-・ ・ ・ ・ ・ ・ 困 圏 直I G圃 国 竃 阻 島 田 ・ ・ ・ ・ ・ ・

58


になったのにはわけがあった。

当時、清は白頭山(中国では長白山とい

う)の北部が清の太祖の出生地であるとし

に指定し、よそ者の移住や土地の開墾を禁

て鴨緑江と豆満江以北の一の δ 里を﹁聖地﹂

じる、いわゆる封禁令を出していた。一八

0年代の韓単色同では凶作が続き、数多く 六

の農民が飢えにあえいでいた。とりわけ威

鐘坦と平玄坦の人々の暮らしは困窮をきわ

めていた。彼らは飢えをしのぐため清の監

そかに潜り込で土地の開墾を始めた。そし

視の目を盗んで鴨緑江と豆満江を渡り、ひ

て開墾が露見されれば追放されるといった

ことを数限りなく繰り返した。特に、一八

九六年に発生した自然災害はことのほか大

打撃を与え、多くの人々が満州に移住した

が、それから三年の聞に平霊場からの移住

者は六万名、威鏡道からは二万六千余名が

移住している。不法に移住したこれらの

人々が荒地を開墾して田畑を作ったとして

められていたので、朝鮮人たちは開墾した

も、土地は漢人と満州族にのみ所有権が認

土地を彼らに取り上げられるか、または作

男や小作農に転落して食いつないでいくほ

かなかった。そうした中で、北方ロシアの

脅威にさらされていた清の朝廷は一八七五

年、白頭山の近隣地域の人口を増やすため

封禁令を解除する。このあと、 一九O 五年

には乙巳条約により韓国は日本に外交権を

剥奪され、続いて 一九 一O年には日本の支

に困った者がぞくぞく満州に押し寄せて

配下に入る。その聞に国を憂うる者や生活

で起こった独立運動のときまで満州地域へ

行った。一九 一九年三月 一目、韓半島全域

の移住は引き続き増加していた。この時期

の満州移民はそれ以前に行なわれていた農

民の不法移民とは違い、政治的な目的を持 つ亡命移民的な性格のものだった 。満州居

59


住の朝鮮人は一九O七年に七万一千名、一

九 O 九年には九万八千名、韓日ム長か行な

われた一九一O年には一O万名、一九二ハ 年には二O万名、そして一九一二年には三 O万七千名へと年を追って急増している。

明を域ほして清を建国した満州族と同様、

朝鮮人たちも白頭山を霊山だと信じてい

た。そのためもあって、満州に移住した朝

鮮族の大部分は白頭山近隣の延辺地方に集

まって居住するようになる。当時、朝鮮の

朝廷でも謹曳移民に対しては目をつぶって

いたが、移住者が急増すると中国人との摩

T 使の洪南周は、豆満江 擦を雲心した会密 府

の対岸地域はわが国と中国の聞に横たわる

空地だという意味から間島と称し、以来わ

が国ではこれが通称となった。わが国が国

権を日本に奪われたとき、韓国の憂国の志

土が行けるところは中国の東北部地域の満

州をおいてなかった。こうして志士たちは

満州で武力による抗日闘争を繰り広げる一

方、教育を通じて若い世代に愛国陸将を植

東寧、呂準らが竜井で瑞旬義塾を設けて後

えつけていった。一九O 六年、李相高、李

て朝鮮の若者たちを啓蒙し、愛国心を鼓吹

進の養成に努めたのは、新たな学問によっ

して後日の独立運動に備えようというもの

こうして、満州の地には今までも自力で

だった。

やっていこうとする自立揖偲仰、そしてわが

国の昔ながらの習わしを守ろうという精神

ているのである。韓国が中国と国交を結ん

が韓国や北韓のどの地域よりも強く保たれ

で以来、夏の休暇シーズンともなれば韓国 から数多くの観光客が北京と洛陽などを

巡って延士ロを訪れ白頭山に登るのは、忘れ

去られている韓国人の古い風俗を満州居住

の三、四世の子孫たちがそっくり保ってい

ることに対するノスタルジアと敬意のため

60


抱いている。記録によると、白頭山は一五

立っており、かの名高い天池をふところに

、 動m vR

である。韓国からの観光客が北韓地域を通

pupmoE6IC

過できず遠回りのあげく延吉にやって来る

九七年八月と一六八八年四月、そして一七

る言葉が多くは中国語ならぬ韓国語である

数々の峰が天に釜えている白頭山は、その

O 二年四月に煤発を起こしている。長い歳 月を経るうちに大自然によ って彫刻さ れた

わけだが、ここに降り立つや耳に入ってく ことに驚く。旅行社のガイドばかりでなく

雄姿が千差万別なことから親光客の人気を

空港の職員やホテルの従業員すら韓国語で 話していて、他国に来たという啓しは全く

ような形の峰や鷹か獲物をくわえているよ

であり、虎やライオンがうずくまっている うな形のものもある。天池は南北四・八五

集めている。ある峰は天に後えた塔のよう

自在に使いこなしている。白頭山は 、延士ロ

キロであり東西三・三五キロの湖である。

しない 。延士口の 市長はもとより、役人の大

から白樺の林におおわれた西南側の樹林地

部分も韓国人の後葡であり古風な韓国語を

帯を車で走って五時間ほどの所に高く筆え

61

NPT

銭服を改良したような原色の服を着ている朝鮮族の児童( 上の上) と

韓半島北方式台所の示す朝鮮族住居の内部( 上) 。

整然とした図んぼがあり、朝鮮式家屋が随所に残っている( 下)

朝鮮族が多数居住している間島には


深さは平均二O 四メートルもあり、鴨緑江 と豆満江そして松花江の発源である。この 白頭山を中心にして至るところに日本軍と している。白頭山に行く途中で出会う青山

戦った韓国の独立闘士たちの戦跡地が散在

である。青山里は和竜県庁所在地から西南

里戦跡地は広く知られている抗日戦闘地域

二 O年一O月一一一目、朝鮮独立軍人ハむ余

方三0 キ ロほど離れたところにある。一九 名が洪範図の指揮のもとに日本軍三、のむ

O余名を襲撃して二、ハ汽む余名を撃滅し た地として有名である。しかし、この戦い で惨敗した日本軍は、その仕返しにそこか ら三キロほど離れた白云坪村の民間人を一 人残らず虐殺する蛮行をしでかす。この戦 跡地とともに記録されている漁浪村戦跡地 も、やはり白頭山に行く途中にある。青山 里の戦いで洪範囲と共に日本軍を激減した 金佐鎮部隊は漁浪村に移動した。日本箪は 独立軍が漁浪村に障を敷いている事実を突 きとめ包囲網をせばめた。これに対し日暮 れを待っていた朝鮮独立軍は暗闇に乗じて 包囲網の無事脱出に成功、十月一一六日には 再び追撃してくる日本軍を奇襲して勝利を もう一つの戦跡地は、鳳格洞であるが、

勝ち取って青山里戦闘の幕を下ろした。 これは図門市鳳梧貯水池の東北方の谷聞に 位置している。ここはもとチョモ亭(あず まや)と呼ばれていたが、屋東鎮が朝鮮の 移住民を率いてこの地を開墾し て以来、鳳 梧洞と呼ばれるようになった。また、この 地は韓国企子一独立運動以来、間島国民 たところである。一九二O年六月の三屯子

会議所属武装部隊の主な活動舞台ともなっ 戦闘後、日本の国境守備隊は鳳梧洞一帯の 独立軍を掃討しようと豆満江を渡って鳳梧 洞に進軍した。しかし、屋東鎮と洪範囲の 部隊は連合して日本軍を鳳梧洞の山の渓在

50 46c

可 O

白頭山頂上から見下ろした延辺一帯( 上の上)

と雄壮な長白滝( 上) 。 白頭山途上にある抗日 戦遺跡の青山里( 左) 。

鳳雅洞戦跡地( 左上) 。 『先駆者』の歌で広く知られているー松亭( 左下)

62


におびきょせた後、待ち伏せていた兵で奇 年代の鳳梧洞渓谷は、南側の入口から約二

襲を掛け壊滅的な打撃を与えた。一九二0

0キロも延今と続く長いものだった 。当時 は、あちこちに集落があったが、いまは貯 る。韓国の昔の風俗と情緒がそっくりしみ

水池と変わり図門市の水源池になってい

ことができる。竜井市の西側には竜井市が

込んでいるところとし ては、竜井を挙げる

あずまや

一望に見渡せるピアム山がある。一九 一一一O 年代このピアム山には亭とその憐に一株 の大きな松の木が立っていた。土地の人身 pu号 印OC う口c

市n u u 美

的。亡﹁ c 6i

63


にはここに﹁先駆者﹂の記念碑を建てたが、

観光遺跡地に指定してレる。また、九三年

て、同じ場所に亭を再現し松の木を植えて

竜井市では近年遺跡地復元事業の一つとし

はいつの間にやら姿を消してしまったが、

世間に広く知られるようになった。一松亭

なって﹃先駆者﹄という韓国の歌曲に歌われ

はこれを一松亭と称していたのだが、後に

井の井戸は竜井の地名の起源として伝説を

日本総領事館、間島派出所などである。竜

詩人罪東柱の墓と、日本の侵略を象徴する

代表的なものは井戸、大成中学、瑞旬書塾、

ろである。ここには、遺跡が多いが、その

る。竜井は詩碑国人にとっては由緒深いとこ

開墾した水田が目の当たりに繰り広げられ

からこの地に移住してきた韓国人の先人が

ヘラン江が流れ、ピョンガン平野には早く

O六年に竜井に設けられた瑞旬書塾が日本

を養わねばと決意し学校を設立した。一九

師は、朝鮮の独立のためには伺よりも人材

野の開墾に励んで朝鮮人村を建註した金牧

ンドンに定着した。中国人から買入れた林

ら 一 O余世帯の人々と一緒にこの地のミヨ

る。金牧師は一八九九年、成鏡北道一鍾城か

チャンジェ村には金ヤギョ牧師の墓かあ

代の竜井の中学を代表する進歩話な学校で ある。

歳の年にミョンドン小学校を卒業し竜井の

七年この地のミョンドンで生まれた。一四

だ﹂で始まる序詩で有名な予東柱は一九一

わたしは木の葉にそよぐ風にも思い悩ん

寸天を仰ぎ一点の恥ずかしきもなきょう、

家がある。

ギョン牧師の記念碑や礼拝堂、幸ノ東柱の生

うになる。このほか、ミョンドンには金ヤ

リスト教教育と近代教育に本腰を入れるよ

をミョンドン学校と称し一九O九年にはキ

FUr mocコGIC

いろいろな理由から中国側によって取り払

宿すところである。竜井の橋は ﹃ 先駆者﹄の

の官憲によって廃校に追いやられてから間

もない時分だったが、金牧師は新しい学校

われ、今は基石のみが残っている。ここピ

歌で知られており、大成中学は一九二 O年

ウンジン中学に入学した。一九三五年に平

アム 山から眺めればピョンガン平野を潤す

て光明学専に編入、ここを卒業した。一九

壌の崇実中学に移ったが、再び竜井に一一戻っ

一四年ソウルの延稽専門学校を卒業し翌年

日本に渡って立教大学英文科に入学した。

一九四三年七月帰郷直前、独立運動をした

容疑で日本の世間墓 m に逮捕され二年の刑を言

渡されたが、一九四五年二月、二八歳の若

さで福岡刑務所で獄死した。彼の墓もやは

このように延吉と竜井には朝鮮人の先人

り竜井の裏山の丘の上にある。

たちの情緒と抗日闘争の戦跡地か広い地域 にE ってまたがっており、今なお韓国人の

風俗と情緒をそっくりそのまま宿してい

64


る。このため、ソウルでは忘れ去られつつ

では少しも損われずにそのまま守られてい

ある古くからの祝祭と名節(祭日)がこの地

のように祝祭と名節の習わしが根強く残っ

て、母国の訪問者を悪し入らせている。こ

ているのは、早くから満州に移住してきた

朝鮮族の祖先が他国で暮らしてはいるもの

の、胸の中には古里の生活と情趣を大事し

ていて、朝鮮人としての誇りを守り通そう

「竜門路J ( 上)

からこそ、韓国から訪ねてくる数多くの観

という努力と執念によるものであろう。だ

これらは竜井が日本の植民地支配の下での 闘争とゆかりの深いことを示している. 『先駆者』の歌で知られている竜井市.進入口にある

はらからに会いに行く悲しみが、この飛行

国ならぬ他国の地を遠回りしてわれわれの

乗ることができたであろう。しかし、わが

る清津と威輿を経由して延辺に行く汽車に

ければ、開城から平壌や東海側の道程であ

のである。わが国の国土が分断されていな

群れをなして中国延辺行きの型行機に乗る

い深い趣を肌に感じとろうと春と夏と秋に

光客は彼らの奥深くにある魂と伝統の味わ

写真の右上から竜井の地名の由来を知らせる 篭井塔、ミョンドン学校、大成中学校、詩人罪東柱。

機に乗る人々を暗い気持にする。

65

総固の昔の風俗と情趣が残っている竜井には、独立運動 にかかわりのある遺跡がここかしこにある.


イ 木 冬 戦 :皇 り l

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学 大



西海岸の白銅島から東海岸までの二四八

きているため鳥類などの動物を寄りつかせ ているのである。 キロに亘る休戦ラインで観察された鳥類 ' しAV 々CLe

は、雁類と鴨類がもっとも多く、頬白類、 ヒタキ類、アトリ類、石タタキ類、白鷺類 が大部分で、一五O余種に上っている。こ れらの鳥類は冬の渡り鳥、旅鳥、夏の渡り 鳥、留鳥などで、留鳥を除いてはひとシー ズン、またはしばらくとどまった後で移動 するものとみられている。 冬の渡り鳥のうち、珍貴な鳥として知ら れている丹頂鶴は、鳥類 主 A 官なら誰しも一 度は見たがる鳥である。鶴類のうち丹頂鶴

丹頂鶴の教は

毎年八 O 羽から一 O O羽までで、 北方の地ロシアのハンカホ沼地と 中国の黒竜江の 広い河岸巴からやってくる

ンにたくさん訪ねてくる。その数は毎年八

はもっとも気品があり、冬の問、休戦ライ

のハンカホ沼地と中国の黒竜江の広い河山厚

O羽から一(ハδ 羽までで、北方の地ロシア

この丹頂鶴は毎年冬の問、江原道鉄原の

からやってくる。

て、昼間は田圃で落ち穂をついばんだりし

休戦ラインに近い広い原っぱに集団をなし

韓国でもっとも寒いといわれる休戦ライ

ながら冬を事﹄している。 ン付近の鉄原の原で丹頂鶴が落ち穂だけを で産卵してひなを育てることがないからで

餌にしているのは、冬の聞は昼間が短いの ある。つまり、自分だけでは魚貝類のよう

︿0 0 3Zoo-σ 。。

非武装地帯を訪れる真名鶴の群。毎年80- 100羽がここで冬を過ごす

68



5

3 非武装地帯でのどかに落ち穏をついばんでいる真名鶴

5

な営養たっぷりの餌を食べなくとも生きて

いけるのである。 これまた天然記念物に指定されている黒

灰色の羽毛を持った真名鶴は、丹頂鶴より

羽ほどがやって来て、丹頂鶴と一緒に nk)

たくさんここを訪れる。毎年、真名鶴は二

田圃で落ち穂をついばみながら群れをなし

て冬を渇こすのである。

鳥のうち、勝利のシンボルとされている

大きな鷲は、ここ二、三年前から鉄原の平

原と休戦ラインの鉄柵線内で一Q羽ほどが

群れでノロ(鹿科の獣)や兎などの死骸をあ

さる姿が観察されている。鷲類のカタシロ

鷲やノスリ類のうち珍貴なケアシノスリ、

特に韓国南部地方の洛頁江河口やチュナム

貯水池などで大きな群れをなして棲んでい

るヒシクイや真雁、真鴨などは、冬の問、

大群をなして、ここ鉄原のカンサン貯水池

図体の大きい黒はげ鷲は、これまで板門

を訪れる。

来るだけで、他の地域では一羽も観察され

庖休近の休戦ラインに二O羽内外が訪ねて

ていない。人聞が住んでいるところは開発

と公害などのため珍貴な鳥だけでなく、あ

りふれた留鳥、夏の渡り鳥、冬期旅鳥すら

安心して棲むことができず、人影のないこ

こ休戦ラインに集まるのである。

休戦ライン地帯の珍貴な 鳥の保護

昨年の冬、京畿埠竜仁の自然農園では飼

育中の真名鶴が産んだ二個の卵を、人工鮮

た。飼育土 によって健やかに育てられた二

化することに成功して、一年間大事に育て

羽の真名鶴は、竜仁自然農園側によって鉄

原近くのカンチョン貯水池に運ばれ付近に

いた一のむ羽ほどの真名鶴の群れのところ

70


に放された。 ところが、この二羽の真名鶴は野性の真

名鶴になっくどころか、人聞を見つけると

りする始末で、結局一羽は通りがかりの小

後をついて回ったり、走る自動車を追った

のため、農園側は、とうとう生き残りの一

型トラックに敷かれて死んでしまった。こ

羽をもとの自然長園に連れ戻すほかなかっ

この二羽の真名鶴は、卵からかえった瞬

たのである。自然保護運葺の失敗談である。

人 々に慣らされた真名鶴たちと 一緒に置の

おり

間から人聞から餌を与えられたし、また

中で棲むことに慣れていたために、大自然

の中で生きていく術を知らなかったのであ る。野生の真名鶴のように田圃などで落ち

穂をついばむ術を知らず、人さえ見つけれ

ば餌をねだりに来て、一羽は交通事故死と いうとんだ附 議に遭遇したのである。

世界で珍貴な鳥類となっている丹頂鶴や

真名鶴、黒はげ驚などは、われわれ人聞が

か、毎年シーズンになると飛んで来るとい

保護するからといってその数が増えると

てもらうとか、あるいは 少なくとも今の水

うものではない。鳥類にたくさん飛んで来

準を維持させるためには、開発や公室最き

丹頂鶴や黒はげ鷲など多くの鳥類が生息

の自然のままの環境が 欠 かせないのであ る。

しているこの鉄原地域で、耕作地の拡大や

南北統一を見越した開発、例えば新しい道

路や建物などが建設されるといった開発が

進められるとすれば、野生鳥類にとっては

大きな脅威となるだろう。そうではなく、

今のように 冬の渡り鳥たちが、北の固から

安心して飛んで来て食べられる餌が充分に

あるとすれば、この地域は引き続き美しく

公害のない地上の楽園になり続けるに違い

なし 。

71


1

を披露して、観客の固と耳を楽しませても

余名に及ぶ芸術家が各国の民族舞踊と音楽

を示している。世界三0 ヵ国から一万二千

にとどまらず総合芸術祭となっていること

演は、光州ビエ ンナーレが単なる美術行事

会館と野外公演場で毎日聞かれる各種の公

の祭典にな っている。それに光州文化芸術

大規模の、そしてもっとも中身のある芸術

特別展に作品を出品して韓国美術史上、最

えきれないほど多くの圏内芸術家が六つの

九一名の作家が本展示に出品しており。数

光州ビエンナーレは、世界五0 ヵ国から

である。

一つは韓国の歴史上、一番大きな文化行事 をこの都市が聞いている光州ビエ ンナーレ

起訴処分に強く抗議する動きであり、もう

は光州民衆抗争の加害者に対する検察の不

異なる出来事のため熱く盛り上がっている 一 つ のである 。その出来事は二つである。

﹁舵取り﹂になった光州が、九五年の今では

ルを抜け出て﹁民主主義の海﹂に出る時に

抗の都市として 、韓国が暗い独裁のトンネ

- A 16州は今も相変わらず熱い。一九

唖圃

E ι同 八O年民衆抗争が起きた都市と 、 一 ノ して、民主化の聖地であり、抵

CLOSE- UP

zr a FE C

72


そのほか﹁世界美術衣装畏﹂のような数々

いる。 の後援展示と記念展示が光州ビエンナーレ と同じ空間と同じ期間に一緒に聞かれ、光 術の饗宴﹂としての真骨頂を遺憾なく誇っ

州は九月二O 日から一一月二O 日まで﹁芸

光州ビエンナーレの主題は寸境界を越え

ている。

レ組織委員会は、この主題か﹁理念、国家、

光州ビエンナー ∞oER臼 ) ﹂。 て ( 回40EF? 宗教、人種、文化、人問、芸術の聞の複雑 多岐な境界を越えて世界の市民としての精 と説 神に向けたメッセージを持っている L 明している。光州ビエンナーレがアジア・ 太平洋地域で聞かれるはじめてのビエン ナーレという意味もあるが、その場所が韓 国の光州であるということを考えれば、そ の主題か含んでいる意味はまた格別である と見ることができる。国土分断という境界、 の状況から見ると、光州ビエンナーレの主

地域聞の蔓勝という境界を抱えている韓国

にも解釈できるからである。

題はその状況を破壌してみようという意味 本展示の﹁国際現代美術展-に出品した韓 国人作家は、実際に韓国社会に存在する反 目と葛藤を調和的に解消してみようという 願いを作品の中にこめている。このような 動した作家によって特に具体化されてい

願いは、八0年代に民衆美術側の陣営で活 る。八0年代初期から版画を﹁武器﹂にして 軍部独裁に抵抗する芸術活動を展開したホ ン・ ソ ンダン氏は、当時製作した﹃五月の い媒体に収録して、もう一度見せてくれる。

版画﹄五O 点の全作品をビデオという新し

ンヒョン氏も﹃ディズニーが建てた板門庖

今回の展示会で特別賞主蚤したキム・ソ

の韓国の状況を{貫話的に描いたし、イム・

食堂﹄という絵画作品を通じて分断五O年

73


九 0年代の韓国知識人の役 オクサン氏は ﹁ 割は何か﹂ということを自ら問い返す概念 を形象化している。 ビエンナーレ 光州ビエンナーレは﹁後発﹂ として、﹁先発﹂ビエンナーレとは明白な差 別化をしようという志向を示している。こ れは世界各国から参加した作家の顔ぶれを 見れば理解することができる。まず、韓国 レ、例えば、ハパナやサンパウロ・ビエ

のような第三世界で聞かれるビエンナー ンナ ー レは主として南米大陸の作家を中 心にしているが、光州ビエンナーレは世界 の全大陸の作家を対象にしているという特 色を持つ。従って、光州ビエンナーレは第 ンナーレと同じ性格を持っていると見るこ

三世界の都市が、第一世界で催されるビエ

O O年の歴史を誇るベニス・ビエン 一

とができる。 ナーレのような有数のビエンナーレに比べ て光州ビエンナーレが駆使した差別化戦略 は大きく二つに分けられる。その一つは、 行なわれる第一世界ビエンナーレでは展示

自国の展示館を持っている国を中心として

かった第三世界作家に幅広く出品の機会を

館を得られず、作品展示の機会すら持てな

アフリカ、東南アジア、南米など第三世界

与えていることだ。東ヨーロッパ、中東、 圏の作家は自国の展示館がなくても、いわ ば﹁美術先進国﹂作家と同等な資格を与えて 光州ビエンナーレが駆使したもう一つの

もらい、出品しているのである。

三 Oi四O代の若い作家を出品作家として

差別化戦略は、各大陸のコミッショナーが

たベニス ・ビエンナーレが世界の有望な作

選んだということである。六月から聞かれ

なくしているために、若い作家が主役をな

家を別途に招待する ﹁アパルト展﹂を今年は す光州ビエンナーレは更に音媒があるよう

m O F a E豆百dlEr 巴 一F ﹂ H

上からジ ョンジ ・ラパス( ギリシャ) 、 ジェフ ・ ウ オール( カナダ) 、

属清吉( 緯国) の作品

74


に見える。 本展示出品作家の平均年齢は三七歳とい われるが、名もない有望楳だけが参加した わけではない。ジョージ ・ラパス(ギリ シャ)、ジャック ・クロス 、ジェフ・ウェ ル(米国)グァンリ ・ジュン(中国)、ジョピ ア・クリーク(ポーランド)等、世界的に名 声を得ている作家も光州ビエンナーレの出 品作家に各教含まれているのである。 最近、世界の美術市場の不況のあおりで 国際美術祭がこれまでのような華々しさが

ナーレの中心に据えた光州ビエンナーレは

いうことに比べると、﹁新鮮さ﹂をビエン

等が主に巨匠クラスを中心に行われている 具体的で強力な社会 ・政治的メッセージを

ナーレの本展示場は美的に優れた作品より

とができるのである。従って、光州ビエン

する設置作品である。そのような理由から

的な方法は、人目をひく多様な内容を提供

ない観覧客の関心と興味を集める一番数果

の作品を何時間もかけて回らなければなら

人々の問題﹂という概念とイメ ージを伝え ている。

﹁キューバを離れる人とキューバに残った

い木船とピ l ル瓶だけで作品を構成し、

彼は光州近郊のタンヤン湖で手に入れた古

去り、それに従って作家の選定や受賞制度

新しい試みをしているといえる。 持った作品が主流をなしている。

住民文化の境界を越えた新しい文化の誕生

トーリーとしてつなぐという特色を見せて

域の過去と現在、個人と社会を一つのス

反映している。アフリカの作家は自分の地

の作家は、各地域の美術的特色をはっきり

している理由は、設置美術が世界的な流行

光州ビエンナーレで設置作品が主流をな

がこめられる設置美術をつ疎通方式﹂にして いる。

媒体を使って具体的で包括的なメッセージ

ように取られ、出品作のほとんどが名様な

作品に社会・政治状況の表現を求めている

つ境界を越えて﹂という主題かすでに美術

されている。作家は本国で頭の中に作品の

は設置作品の極致を見せる作品として評価

カチョ(キューバ)の﹃忘れてしまうために﹄

レ イバ・ 大賞受賞作であるアレクシス ・

でいるのである。

き彫りにするための方便として設置を選ん

注意をひきながら作品の意図を更に強く浮

めなければならない絵画よりは、観覧客の

作家は空聞が四角型のキャンバスに閉じ込

ア、仮想の現実、インターネットなど先端

ンターアクティブ・ア lト、マルチメディ

最先端のテクノア lトを紹介している。イ

ディレクターを担当したこの展示は、世界

本展示とともに観覧客の関心を一番多く

光州ビエンナーレに参加した第三世界圏

を指向している。アジアの作品が伝統文化

だということにとどまらず、ビエンナーレ

技術を芸術に持ち込んだ作品を紹介するこ

アレクシス・レイパ・カチョ( キューバ)

なビデオアーティストである白南準氏が

ER ﹀) ( ユF である。韓国出身の世界的

ひいている特別展は、﹁インフォアート

と西欧文明の対立した状況を克服していく

要芯だけを持ったまま韓国に飛んできた 。

( 右) は第一回光州│ ビエンナーレで

いるし、オセアニアの作家は欧米文化と原

姿を示しているとすれば、東ヨーロッパの

﹀司﹃日明

U E n m

という饗宴の性格によるものである。多く

大賞を受賞した

作品は脱人間化を助長する政治団体と伝統

ビデオ・アーテ イス卜

的なアカデミズムに対する皮肉に満ちてい

が受賞作品『忘れてしまうため』の

る。南米の作家は、特有の深い想像力と文 明、政治、哲学、性、肉体、神話を作品に 表現している。 光州ビエンナーレは冒険的で、実験的な 性向が強い若い作家の饗宴の場という点で

前に立っている

注目されるが、彼らが出品したほとんどの ている。出品作のうち、平面作品は一O%

作品が設置作品という点にも関心が集まっ

いる設置美術の名産な表現様式に接するこ

75

くらいに止まり、現代美前の大勢をなして

白南準のインフォアート展が聞かれている 展示場の外観と内部( 上) 。


の展示は、フランスで仮想の現実を造り上 げたスコット・ピシャのような有名作家が 大挙して参加して最新作品を韓国で紹介し このほかにも﹁文人画と東洋精神﹂、﹁韓

ている。

の今日﹂など、韓国美術の昨日と今日を感

国近代美術の中の韓国性﹂、﹁韓国現代美術

の歴史の激動期に世界の美術かどんな姿で

知させる特別展示があり、一九のむ年以降 その歴史に介入してきたかを見せる﹁証人 としての芸術﹂、一九八O年の光州民衆抗 争が持つ社会 ・政治的意味を形象化した

それに光州民衆抗争の犠牲者が眠ってい

﹁光州の五月の精神﹂も注目すべき特別展で ある。 る望月洞墓地には光州美術人たちの主催す る﹁統一美術忽rが光州ビエンナーレとは別 に聞かれ、今の光州は﹁抗争の都市﹂という 異名に加えて﹁美術の都市﹂、﹁芸術の都市﹂ といった、また別の異名を得ることになっ た 。﹁ 韓国の芸術の饗宴﹂、光州がビエンナー レという世界的な祭りを通じて﹁世界の芸 術の饗宴﹂ として生まれ変わるのである。 地方自治制が三O余年ぶりに再び実施さ れた今年、初大会を行なった光州ビエン ナーレは、特に韓国において﹁地方化時代 をあるべき姿で聞く﹂という象徴的な意味 を持っている。政治・経済はもちろん、文 化までもソウル集中化の現象を見せている 韓国の不均衡を光州が是正する巨大な文化 行事を企画したからである。 一 0 ヵ月という短い準備期間と運営上の かったとは言えないが、光州ビエンナーレ

経験の未熟さから行事の進行にミスがな は一応うまくスタートを切ったと評価され ている。その指標は開催 一ヵ月にして百万 にも示されている。

名の観客が展示場に足を運んだという事実

﹀司吋的℃︾のm

光州ビエンナ ーレの主展示場

76


CURRENTS

光復 ( 解放) 五O局年

韓国映画の今 日

! ι a p - 近、韓国映画の観客が例年に比

EC ベだんだん増えつつある。観客

に上る。このうち無修正通過した作品が三

の一方で破格を試み、商業主義を前面に押

九四年に韓国の映画監督界に現れた特徴

しる。

し出したことで観客動員に比較的成功して

は、まず年齢層が三O、四 O代に若返った

製作本数は年を追って減っているが、こ

六本、修正通過した作品が二九本である。

ことを意味する。九四年に外国の劇映画で

れは外国映画の輸入本数がそれだけ楢唱えた

こと、演出の性格がはっきりしていること、

一一一

準がそれだ世田向くなったということを意味

今様な素材を映画に持ち込んだこと、輿行

ll ・ J の増加ということは、作品の水 するもので、その音捺するところは大きい

を含む)に上っているのを見ても、圏内に

審議されたのが三八二本(三本の漫画映画

受けた匙書群の活躍が多かったこと、製作

ンルの映画が製作されたこと、専門教育を

られる作品は﹃私は望む。私に禁じられた

いをしていることが分かる。 九四年に作られた韓国映画の中で名を挙

おける韓国映画が相変わらず肩身の狭い思

問題についても、監督なりの解釈を与え、

取り入れたことである。またイデオロギー

の成功を優先すること、映画の固定撃油を

観客が増えた理由としては、様々のジャ

といえよう。

テクニックが向上したことなどが挙げられ

もの﹄、﹃偶然な旅行﹄、﹃フイモリ(韓国音

ハリウッド映画の技法を大胆に取り入れ、

破るということ、セックスと暴力を大胆に

るだろう。 一九九四年は新進気鋭の監督か活発に活

社会の現実に迫ろうとし、そして過去の物

語りを現代にマッチするように繕っている

大胆に脱がせ、映画の璽来性を前面に掲げ、

躍したのに対し既成の監督の落ち目が 目

楽の速い速い調子の歌)﹄、﹃二人の女の物 置、﹃絶対の芝、 ﹃マンムバン﹄、﹃四九日

立った一年だった。重い感じの作品よりは

ちは数々の新しい手法を取り込んでいる。

ことだ。このほか、彼ら新しい若い監督た

いま韓国の映画は、

たとえば、美学的または修辞学的な新たな

破戒僧らへと登場人物範囲を広けたり、製

運範家、パルチザン、民衆・学生の指導者、

イズムを映画に導入したり、脱獄囚や労働

映 画 の 対 升 開 放 と 衛 星 ケ ー ブ ル T V時代を述、之、 生存のための質的な発展を目指し・

5 、﹃瓜﹄などである。

などがなかったかというと勿論そうではな い。九四年に活躍した若手匙暑に、そうし

既成監督には、今指摘した若手陰書の手法

字と階層を前もって予言したりする。では、

た傾向か著しかったということであり、そ

韓国映画の製作は、九二年九六本、九三

ビデオの版権を収入項目に入れるべきだと

ケティングの科学化を試みたり、観客の数

したり、ギャングなどを美化したり、マー

作費中に占める広告の割合を増やしたり、

﹃ ゲ lムの法則﹄、﹃太白山脈﹄、﹃君に私を

の 回C、案書、﹃外一界に﹄、 ﹃ハリウッドキッ ドの生産、﹃九尾の狐﹄ 、 ﹃ パ ラ色の人芸、

軽い企画の映画がいい興行成積を収めた。 新世代(若い年代)の球貨にマッチする軽い

送る﹄﹃ブル

lガル﹄、﹃海夢、毒殺

ッチのコミカルものが依然としてヒット タ・ した。しかし、映画の審査では作品性が高

し﹄、﹃若い

1・ シ

く、実験性が際立っている映画に賞を与え

みると、九四年の製作本数は前年とほとん

年の六四本(漫画映画一本を含む)に比べて

の実、映画の形式と美学において、また映

た。いま韓国の映画は、映画の対外開放と 衛星ケーブル T V時代を迎え、生存のため の質的な発展を目指し、そのジャンルはコ

画言語の駆使においては明白な違いが現れ

ど同じ数字である。 九四年における映画興行の成績順位をみ

メディー・もの、ロマンチック・コメディー

ている。九四年は、特に専門領滅が入り組

もの、イデオロギーもの、空相術立子ものな

んだ一年でもあった。映画監督が演技をし、

シナリオを書き、映画俳優が映画匙蓄を兼

撮影技師がメガホンを取り、映匝霊嗣家が

て観察教で大きな聞きがある。 しかし九四年の韓国映画は、外国映画と

ると、外国映画と韓国映画とでは依然とし

の競争で牛菩残るため、従来の手法の踏襲

どと多様化しており、また独立プロダク 九四年の一年間に製作(公演倫理審議基

ションの新たな企画も見られる。 準)された劇映画は漫画二本を含め六五本

77

映覇者鯨

張錫龍


F

メンタリー映画としてははじめて有料で上

の封切は、映画館でドキュ できず方向感覚を失なっている映画だっ

の中の荒罫はフェミニズムの沼から脱出

よいほうである。許東祐監督の﹃尾を振る

しており﹃誰が俺を狂わせるか﹄も客入りが

ましい日の午後 Cは、早くも一一一O万を突破

ジュのコ低い

ね、詩人が映画評を書くなどといった専門 映されたという点から韓国映画史に新たな

きつけている。臭痢哲監督の﹃水牛の角の

領域の解体がかなりの水準にまで進んでい る 。

ように一人で行け﹄、・申承沫監督の﹃おじ

自己もきっぱりとした作品として観客をひ

ちゃんパパ﹄、金義錫監督の﹃ガンマン﹄、

た。﹃ママに悲人ができたわよ﹄は軽いコミ

映画誕生 一のむ周年、韓国映画七五年、

雀員旅監督の﹃へア ・ドレッサー﹄なども独

カルな作品であり、﹃クムホンア、クムホ

odぃ る可能性を示すものである

解放五O年、映画評論家安嘉塁δ 年を

記録として残ることになった。この有料上

日本軍に強制連行された従軍慰蓄の問題

迎えた一九九五年は、韓国映画史に現れる

特の映画的雰囲気を持っている作品であ る 。

映はドキュメンタリーものの興行が成功す

を告発した-記録映画である。

統計や記録数字がこと新しく問題になって

のを目指すというよりは、観客の好みに合

九四年に製作された韓国映画のうち海外

劇映画で鄭鍋字監督の﹃無窮花の花が咲

いる。 映画の審議日程と封切の目付や映画の製

わせた商品化を狙っている。こういった新

で多少なりとも好成績を収めたものは、大

きました﹄は、現代技法を導入したという

作本教の事討の正確でないことが明らかに

ンア﹄は商業性の面で失敗した作品である。

部分、韓国人の独特な情緒を盛り込んだ作

宣伝文句とは裏腹に片寄った演出で終始

され、また映画観客の発表や統計が果たし

かな優れた映画に対して、政策的な肩入れ

全国映画連合会と各映画社が示した資料で

ンをふんだんに取り入れながらも品を落と

のメロドラマだが、コメディ性とアクショ

一人の男性との聞の愛情を描いた三角関係

と、この一年のあいだに一度も映画を見て

画観覧についてのアンケ ート調査による

今年、青少年を相手にして行なわれた映

もいる。

てまともなものかという疑いが寄せられて

は、面白を潰すことになったわけである。

してはすっかり失敗した。七十歳の老監督

商業性を無視した﹃磁巾看﹄を作って奥行と

文芸ものを押し通してきた食賢穆監督が

ネルギーになるものと期待される。

進監督群の出現は、韓国映画界の新たなエ

が望ましい理由もここにある。

あり、正確さのほどははっきり言い難い。

さず、さらりとした清純さを感しさせる映

いない割合は三二 ・八%にも上る。青少年

F は旧

品だった。ところが、こういった映画は圏

し、観客に失望悪のみを抱かせた。越金燦

内観客にそっぽを向かれた。韓国の情緒豊

韓国映画に向けた一般の関心は観察教に 監督の﹃ピアノのある久、、﹄は、二人の姉妹と

九四年に上映された映画の観覧者数を見 ﹃ ツ 1 ・コップス﹄の八六万名を筆頭 ると、 . 画にしている。

韓国でも、いまや大部分の映画が文芸も

国産映画の輿行の順位を見てみよう。ただ

現れる。九四年と九五年の上半期における

に﹃君に私を送る﹄、﹃外界に﹄、﹃太白山匹、

﹃プル!・シ lガル﹄、﹃九尾の都、﹃あの

金策彬監督の﹃非常口はない﹄はソウルの

が国別にいちばん好きな映画は、アメリカ

となっている。また、ジャンル別ではアク

ロッパ三・一%、アジア0 ・四%という順

飾った映画としては、張善字監督の五三分

しかし、何といっても今春を華やかに

たア ニメの﹃赤い塵はこの先アニメ映画の 肥やしになるだろう。

﹃海兵歎示書は満足すべきものであり、ま

ションものが好きだと答えた者は五O%、

海兵隊の活躍ぶりを描いた李痢珠監督の

搾鴎亭の町(若い年代が寄り集まる歓楽街

る。ロマンチック・コメディものの﹃ドク

愛情ものとスリラーものが好きだと答えた

ホンコン 一八 ・四%、韓国四・九%、ヨー

ター -ボン﹄はドクター ・ボンの浮気が筋。

もののカンヌ映画祭招請ドキュ 1メンタ リ!﹃道の上の映画、﹁韓国映画シッキムヒ が挙げられるだろう。このドキュメンタ

が七三 ・六%を占め圧倒的に多く、以下は

やる瀬ない兄弟愛を描いた古典風のアグ

ものは、それぞれ二O%と一四%を占めて いる。

リーは一九世紀末の東学乱や、一O代の問

がある)ともいえそうな新世代の空間で繰

スト﹄、﹃無窮花の花が咲きました﹄、﹃若い 田 C、﹃ママに亦伊人ができたわよ﹄、 S力はつ

ションもの﹃テロリスト﹄の健闘も韓国映画

映画館側は、入場料の中に含まれている

﹃パラの日々﹄の順となっている。また今年

らい﹄、﹃ネオンの中の荒書、﹃永遠なる帝

の観客の注目を浴びた。新世代の風俗図を

題、天使の墜落、古里、国土の分断と統一

セージと共に多一様な見ものを提供してい

国﹄、﹃三O 一、三O二﹄、﹃クムホンア、ク

深く促えて見せる﹃若い田Eは映画手法から

文芸振興基金を出し渋ってか入場観覧者の

り広げられる風俗図に対する警告性メッ

ムホンア﹄の順である。 ﹃ドクター ・ボン﹄、﹃テロリスト﹄、﹃若

しでかなりスマートだ。﹃三O一・三O二﹄

などに関する話を盛り込んでいる優れた作 品である。この映画は、世界の一七名の著

ン﹄の三八万二、の︹む名を筆頭に﹃テロリ

い 田Eなどが上位で興行に成功しているこ

のかどうか不明な数害か事討に載っている

数をごまかしているとの噂もある。正確な

が世界の市場に向けて進出する可能性を示

の映画も成長してきたのであり、韓国映画

ることになった官聞である。それだけ韓国

は女性を素材にしたカルト映画で、大食症

いま上映中の李民庸監督の﹃くそいまい

指摘されねばなるまい。

まだ映画の用語が統一していないことも

と欠食症の女性の心理を冷静な手法で描い

とが示唆するところは大きい。これらは、 'oちろん文芸物ではない。こ-のことは、国

た作品である。政治的な陰謀を描いた朴鍾

名な監督の﹁映画六O周年﹂の中に名を連ね 元監督の﹃永遠なる帝国

示した作品だった。李銭承監督の﹃ネオン

の世代をリードしていく能力のあることを

Cは、監督自らが次

ほうを好む方向に移りつつあることを示す こうした中で女流監督のピョン ・ヨン

ものではないかということである。

産映画に集まってくる観客が、脱文芸物の

のである。

の上半期では興行順位一位の﹃ドクター・ボ

島に行きたい﹄、﹃ゲ lムの法目、コ妻殺し﹄、

CURRENTS

78


企業が二O余りに上る。大手企業が政府と

最近、本腰で映像産業に乗り出した大手

野になる。たろう。

映画製作の現場では、このようにいい作

したものでもある。 品と取り組んでいるにもかかわらず、映画

てやっと映画製作に注意を向けるように 政府は映像産業への投資を大胆に督励

なっている。

などを盛り込んだ映像振興法を制定、映像

し、映像事業に必要な設備、器資材の免税

われわれは金成鴻の﹃息も好きであり、

林権津監督の ﹃祝担知﹄も張善字監督の﹃花び

韓国映画をリードしている監督諸氏の忍

ら﹄も好きである。

映画が興行に成功することは喜ばしいこ

耐を高く買うとともに今後の幸運を祈る 。

力を合わせて映画関係施設を整え、映画従

産業に生気を吹き込んで、この産業が拡大

事者を再教育するなど時代が求めている ハードウェアを完成すれは、ソフトウェア

再生産する雰囲気を盛り上げねばなるま

かすばかりで、非難の的になっている。 映画の製作に費やす金額からすると、韓 である映画の質が高められるのは自明のこ

関係の委員会では不毛の論争にうつつを抜

国映画の年間製作総額は世界一O位以内に とである。 しかし、わが国の大学に演劇・映画科が

も成功する。その理屈が分かれば興行もの

文芸ものの映画が存在してこそ輿行映画

ば、韓国においてもシネマ天国が聞けるの は決して夢ではあるまい 。

ち込める環境会つくりができ上がるとすれ

とである。映画製作に何の不自由もなく打

入る。映像媒体に関しても初 ・中校時代か

専門の監督諸氏は謙虚になる必要があろ

ら英才教育を施す必要があるのであり、そ るにもかかわらず、政府はこれまでほとん

設けられてから四O年になんなんとしてい 伝 一 ノ 。

79

のためには、指導教師の育成と必要な機材 ど関心を示さなかった。それが最近になっ

『あの呪わ しい午後s (中左) 。

の供給が欠かせないだろう。世界市場を目 日

『クムホンア・クムホンア s (真上)

指して映画の教育と産業を興せば有望な分

。zm コ ヘ ¥

94- 95年に上映された弱国映画。 『ツー・コップス s (最上右) 。 『太白山脈s (最上左) 。 『ドクター・ボン s (中右) 。


CURRENTS

平和への音響

KBS交響楽団の 国連演奏会 音楽需品家

李相高

1

O周年と、国連五O

Aba-復(解放)五

E ι同 周年というこの意義深い年に韓 、 一 ノ 国の交響楽団之しては初めて、 そして東洋圏のオーケストラとしては二番 目にこの一O月五日、国連の大会議場で鄭 明動指揮の KBS交響楽団の演奏会が聞か れた。わが国の解放とシンフォニー創団と 国連の創設の三つの記今年 9ベき出来事が重 なって、今回の国連創設五O周年記念演奏 メッセージであり、二、公む余りの各国

会は国連総会場で世界に向け放った平和の の大使と国連の職員を感動させ韓国に対す る深い印象を植えつける舞台であった。 あの韓国戦争中に国連軍に助けられた韓 国が、今や人類の殿堂であるニュ ーヨーク の国連本部総会議場で歴史的な記念演奏会 を聞いて、人類の平和をアピールする一役 国連に加盟している国々の援助により今

を担ったのである。 日の経済的な某壷を築いたわが国が、今で は他の固に救いの手を差し伸べる国に変わ のである。

り、また平和への音響を轟かせるに至った 一九四五年一 O月、われわれにとって初 めての交響楽団、高麗交響楽団の 出現は 、 混乱に陥っていた当時の社会においては奇 蹟のような出来事-だった。わが国は一九世 け入れていた。そして、たゆみない西洋音

紀末に 門戸を聞いて以来、西洋の音楽を受

五年に交響楽団を作ることができたのであ

楽に対する訓練の結果、五O年後の一九四

五 O年前の高麗交響楽団の創団は韓国の

る 。 音楽芸術を花咲かす温床になった。韓国戦 争中に、韓国の音楽界は数多くの 音楽家を 失い、楽器や演奏の舞台が焼失してしまっ

80


はなく、美しい旋律に耳を傾け傷ついた心

た。そんな中でも韓国人は歌を忘れること り発展させている国は日本と韓国であると

で西洋の音楽芸術の精髄を最も徹底して守

た演奏を行なった。今日、非西欧国家の中

の遺産がむしろ東洋で守られているのでは

考えられるが、ともすれば西欧の音楽芸術

をいやした 。

KBS交響楽団は、一九五六年戦乱の惨 され、今日に至っている。今では数十に上

禍をくぐり抜けた音楽家たちによって創製 この日の演奏会は大部分ベートーベンの

ないかという思いもする。 三重協奏曲を鄭明動(ピアノ)、金永旭(バ

る園内の交響楽団のうちもっとも歴史が長 い。いま世界を舞台にして活躍している韓 イオリン)、鄭明和(チェロ)がそれぞれ独

世界の舞台における韓国出身の音楽家の 奏部分を受けもち、鄭明動が指揮を兼ねて 演奏した 。鄭トリオのメンバーのうち、パ

国人の音楽家は名薮いる。 位置は、ユダヤ人の音楽家とともに注目を

最後に演奏した美暁一のサムルノリ

とオーケストラの協演光景

鄭明動の率いる KBS交響楽団は多少

出生した人で、もちろんソリストたちもみ んな解放後の出生者である。

鼓・長鼓・銅羅・鉦による演奏)とオーケ

最後に演奏した萎暖一のサムルノリ(大

ツト ﹄の序曲を通じて指揮者鄭明動は、韓 国人の平和への願いを訴えた。

チャイコアスキーの﹃ロミオとジュリエ

の声の美しさを誇ることができた。

曹秀美がオペラのアリアを熱唱し韓国人

を加えることに大きく寄与した 。

した 。金永旭の参加は音楽の生動感と深み

イオリンは鄭京和に代わって金永坦が担当

(太鼓・長鼓・銅羅・位による演奏) オーケストラのための音楽は

聴衆を熱立させた

浴びるまでになった。 今年の光復節(解放記念日)には世界の舞 台で活躍している韓国人音楽家をソウルに 招いて解放五O周年を記念する大々的な音 楽祭典を聞き、その延長線上で今回の国連 の音楽会が催されたのである。

国連五O 周年記念音楽会で公演中のサムルノリ

ストラのための音楽は聴衆を熱狂させた。

KBS交響楽団団員の九五%が解放後に

荒っぽきはあったが、力強く活き活きとし

81

CURRENTS


CURRENTS

韓国的な伝統音楽と西欧音楽の要素を配合 した新しい創作音楽と、サム ルノリの迫真 感が聴衆を熱狂させるのである 。あ る意味 では、この舞台が今回の演奏会の象徴的な 音楽になった。 也伺揮者と演奏者の音楽的な力量は世界の 水準から見て少しもひけをとらない。今回 の演奏会は、それを実証して見せたのであ る。指揮者と演奏者が感じ取らせた音楽的 まっているものでもある。オ ーケストラの

霊感は、西洋人にとっては既に色あせてし メンバーの力量も、ひとりひとりが世界一 流のレベルに達していることを感じさせ

-演奏会の・訴える 力と感動は 十年前に国連で催された

N H K交 響 楽 団 の 演 奏 を しのぐものであったと 忠われる

ただ指揮者郷明動の技量に見合った、

た 。 オーケストラの一致成宮﹄余裕がいま一つほ しかったが、演奏会の訴える力と感動は十 年前に国連で催されたNHK交響楽団の演 奏をしのぐものであったと思われる。 目前に迫っている一=世紀には創造力を もとにして世界をリードしていく力量が測 る国民的力量、これが五O 年後の世界の

られる。オーケストラを熱心に育てていけ

よ ソ 。

リーダー国がどこであるかを決めるだろ

82


23 白c

官官r 目

四 0 代にして早くも巨匠になった李え烈、

レ パ ー ト リ ー と ジ ャ ン j レの多様な彼の作品群の中から

『若さ日の肖像』三部作のうち 『あの年の冬 J を紹介する

83


李文烈 の作品世界 ユン ジ ョン

EVHVJ いうことは難しいことである。

雄時代﹄、一時代の壁画を描こうとした﹃変

後のもっとも重要な社会問題を扱った﹃英

子﹄、気口聞のある反語と詰謹を織り込んだ 真訟なパロディーの﹃阜帯のために﹄、解放

からぬ欠陥を抱えている。それにもかかわ

成の上からも、時点という観点からも少な

多くの読者たちを魅惑させるこの作品は構

を通して、彼自身のまた別の関心を見せる。

的ものとの相関関係を扱った﹃人聞の息子﹄

を得た。しかし、彼は超越的なものと地上

クな作品を通し披露して、読者たちの信頼

反逆の抗議である。話し手は旅館の﹁方隅

日常生活の散文に向けて枠内けつける怒りと

かもしれない。若き日の出発とその詩は、

ように、そこには明白な理由がなかったの

若き日の多くの衝動的な行動かそうである

を選んだのかはっきり一ホされてはいない。

鉱夫や漁師の仕事でもやろうと田舎への道

いる。話し手がなぜ都会の大学をやめて、

草案灯論家

定義の網の目を抜けていく細目

に圧倒される。このほか、一種の組曲とも

豆を思い浮がベるだけでも彼の多彩ぶり

らず読者たちに訴える力を発揮しているの

任せる。結局、燃やし続けていた復讐の念

(片隅)﹂生活をしたり、様々の経験に身を

と特徴が非常に多く、それを追いかけてい

いうべき﹃君二度と郷里に帰れまい﹄があ

は、素朴ではあるが﹁生﹂の意味と﹁生の根

柳宗鋳

れば別の要素がまた抜け出していくから

る。それに、一九世紀の実在人物である放

源的な謎に対し若者らしい探究をしている

多彩な主題と文体的努力

だ。益支烈のように若い巨匠となった作家

浪詩人金桐淵に関するフィクション的な評

hF る作家の作品世界を定義すると

一九七0年代の末ごろから作品活動をはじ

の場合、その難しさは手のつけようがない。

伝の形式を取っている一種の芸術家小説

カラ﹄﹃われらの歪んだ英雄﹄など数多くの

尚彦三部作をはじめ﹃セハコク﹄﹃カレパタ

とする領域ともいえるだろう。﹃若き日の

多少模糊としている分野は、李文烈の得意

の秀作を世に送り出した。また中編という

正道と考えられていた短編の分野で彼は ﹃ ピ ロンの豚﹄から﹃金麹鳥﹄にいたる数多く

ひところの栄華は去ったが、本格文学の

レパートリーの名様さといえるが、これは

しく重要な資産を付け加えた。彼の特長は

リスティックな関心が無駄なく取り込まれ

密度濃く描いた﹃ピロンの摩も作家のリア

ている。また暴力と群衆心理の相関関係を

読者に生き牛菩とした現実を間接体験させ

造と生態をリアリスティックに描写して、

の作品は、暴力を基盤とした組織社会の構

のない、きっちり組まれた構成である。こ

家である。彼の処女作の﹃セハコク﹄は無駄

まだ四O代後半の壮年作家である李文烈

めると、彼の作品量は実に膨大なものとな る 。

A U を筆頭とする何編かの歴史小説を含 ﹃ 詩-

会に戻るまでの冬の聞の出来事が描かれて

から始まって山と海辺での訪僅を終え、都

書いている。この作品には都会からの脱出

一 O年前の若き日の扮慢を追憶談の形式で

愛読されているのは﹃その年の冬﹄である。

いるこの官聞のうち、もっとも話題になり

﹃若き日の肖舎である。三部作からなって

なジャンルである成長小説の変形といえる

けている作品の一つは、韓国では大変まれ

李文烈を依然として若い読者層にひき付

読者に対してアピールしているといえる。

投影されていて、その濃厚な内面性が若い

確立に向けた訪僅が﹃人聞の息子﹄の中にも

見せてくれた若き日の不確実な模索と自己

からだといえる。次いで﹃若き日の肖像﹄に

ねばならないイニシエ lション・ストー

き日の肖舎は韓国の若者たちが必ず読ま

けに独自の魅力を持っている。その点、﹃若

ズムは韓国の文学ではまれであり、それだ

びと繰り広げられるこの内面的ロマンチシ

と自己停滞性に向けた模索と扮健かのびの

いう文脈の中にあるからだ。若き日の孤独

がどの論理性よりも一つの詩的な陳述とし

あったし救援であった﹂という主人公の話

﹁絶望こそもっとも純粋で織烈な情熱で

の帰還を決心しソウルに戻ることになる。

を捨てた昔の政治犯に巡り合って、都会へ

t

一 O一年間、爆発的な精力で韓国の小説に新

めた彼は、あの険しかった一九八0年代の

名作を産み出した。彼の尽きぬ、精力的な

た短編の古典的成就といえるだろう。彼は

ジャンルにも素材にも当てはまる。

想像力が心ゆくまで発揮されている長篇小

作家的能力を、このようにリアリスティッ

李文烈のロマンチシズムの性向は、﹃君

リーになっている。

て訴える力を持っているのも、若さの詩と

説は、さらに多彩である。超越の問題を過

は、依然として将来性のある大成途上の作

去と現代の対比の中で扱った﹃人聞の息

84


した郷里と郷里の昔への出発を試みている

は姿を消した﹂と考える主人公が、姿を消

だわれわれが老いさらばえる前にその郷里

を保存していた最後の世代であったが、ま

力を発している。﹁われわれこそ真の郷里

二度と郷里に帰れまい﹄にも、再びその魅

ある。再び取り戻すことのできないものの

のできない大事なものも含まれているので

そして、そこには永遠に再び取り戻すこと

郷里はいまや姿を消したというのである。

副題の中にもはっきりと表れている。昔の

同説の主題は ﹁ そ の帰郷のための霊歌﹂という

脈絡から定義して示したりする。﹁恨﹂を民

うにして、いわゆる韓国的な﹁恨﹂を社会的

偏屈な昔の秩序に抵抗したりする。そのよ

かし杢文烈は普のもの自体を崇めないし、

昔の風習のあれこれを再現したりする。し

なかったが、しかし平和に仲よく暮らした

と審美の対立構造を読み取り、道徳性を強

識の重要さを強調する。昔の書道にも倫理

傾向(門grE5558)に対して批判的で あり、芸術の自律性と﹁生﹄における審美意

小説といえるが、作家は目的性を意識する

長編﹃詩人﹄などは、いずれも広義の芸術家

権力の本質に対する追求、﹁生﹄における

扱っている官聞である。

た一人の呪われた芸術家の苦悩と苦境を

た風土の中で、芸術の自足性を追求してい

Pは芸術の自律性という概念にうとかっ

調する書道に対して距離感を示す。﹃金麹

衆的な生活の苦痛の中から捉えて定義し、 接近の虚構性を露わにしているのである。

社会的関係を無視した﹁恨﹂に対する街学的

のでもない。わざと時代錯誤的な過去指向

るものの一つに、芸術の根本性梧に関する

る。それが必ずしも前向きに描かれている の人物を通して荒れ果てた今日の生託、方を

関心がある。短篇﹃金麹色P、中編﹃野牛﹄、

中には背の士大夫精神もあり風流精神もあ

散ではない。また回顧と追憶にありがちな 批判したり、昔の農村共同体の生活は、こ

に対する回顧や感傷的なホームシックの発 賛美的過去指向にとどまっているのでもな れといって取り立てていうほどのものとて

作品である。しかし、それは忘却的な過去

い。郷里を主題にした 一 O余編の変奏曲と

φcコ屯τC

杢す合烈の作品が倦まず弛まず見せてくれ

短かいエピローグで構成されたこの連作小

刃向 u Z

﹃若さ日の背像﹄

韓国の若者たちが必ず

読まねばならないイニシエ!

ション・ ストーリー

になっている

85


てくる。年端のいかぬ少年たちを描いてい

は、彼の筆先によって見事な迫真性を帯び

く人聞の非人間化とマキャベリ的な手法

学的主題の一つである。権力への追求が招

たのも、またその実、大衆に対する、質 もねりだったかもしれないとい の劣るお、

下積みたちの欲求に忠実であったと信じ

る悪意をむき出しにする口実に過きず、

も、突き詰めてみると自分の世間に対す

の﹁恨﹂を代弁したのだと信じていたの

れるのだと理解する。そして、深層的に彼 らの言動は権力に対する欲望と虚栄とエゴ

る抽象的な内省を通して急進主義を受け入

る理解よりは、自責の念が入り混じってい

の険しい﹁生﹂に対する直接的な、深みのあ

れた階層に属しており、草の根である民衆

義運動の指導者がおおむね、社会的に恵ま

とう観点である。こうした観点は、急進主

運動に対する保守的な批判にいつも付きま

的であり品位のある費調を具現している。

う規格品とは違い、この小説は面白く感動

構想されたもどかしい﹁リアリズム﹂に見合

る局面があるともいえる。しかし、窮屈に

東洋の伝奇的な小説と流れを同じくしてい

リズムとは、ある程度距離を保っている。

れた近代小説の主な特徴で構想されたリア

従って、ロマンスの対立項目に位置づけら

的・標準的なものから堂々と逸脱する。

作家は素材に見合うようにするため典範

逸脱を特徴とする主人公を書くにおいて、

る﹃われらの査んだ英雄﹄はアレゴリーへの う疑いまで生じてきた。

を反映していると考える。しかし、壁力へ

いう式の観察と受けとめ方は急進主義政治

傾斜が濃く、ともすれば作為的な卑しすら

あくまで民衆詩人、金柄淵の自己分析で

もだえしたのではなかった。下積み民衆

与えるが、そのよきケ lスである。権力と

ある。しかし、﹁民衆の中に﹂入って奉仕す

﹁カ﹂の横暴さに対する探求も彼の重要な文

的な気運すらただよわせるが、作家特有の

作家の主観と解釈に共鳴するにしろ反対す

支配欲の描写はその作品に、しはしば冷笑 前向きの視点と流麗な文体によって希釈さ

の一徹な欲望、報復と残虐性に向けた血

深く凝視し探求するまれな作家である。初

期のロマン主義性向も、これに由来するも

UO

いる。と同時に作家の政治観が鮮やかに示

のである。彼の幅広い教養の体験は、彼の

杢父烈は、韓国文学では人間の内面性を

についていろいろ考えさせられる。

るにしろ、読者は文学と人間と社会と歴史

ると考えているインテリたちの内面の風景

r z d c

れている。解放後、韓国の政治状司か造り あげた一人の進歩的なインテリの挫折を描 いている﹃英雄時代﹄は作家の政治理念に対

しされており、それだけに読者に敏感な反

作品の読後を、記憶するに価する教養体験

E w -際立たせて する陶酔の拒絶と留保の態F

応を引き起こしている。彼においての政治

持っている値調教養の力と﹁教養体験﹂の魅

的理念とは、時折他人を支配するための名 杢唱す拘引の芸術観と政治観は、最近作の﹃詩

になっている。彼は、また文体的な努力が

力は、たぶん若い読者をひきつける力の源

にまで引き上げている。内面性の文学が

人﹄に再び現れる。功利主義的文学観を批

分に利用されるもののようだ。

判するくだりで、作家は主人公の放担詩人

ないがしろにされている韓国の風土の中で

言葉を大切にする作家である。粗末で前弁 を示しているのも事会大である。それが一層

る暴力への意志が、正義に満ちた大義や高

走った衝動、出口を探し出せずに湧いてく

品を示す文体は彼の小説に芸術的な品位を

金伺淵の口を借りて次のように語ってい る 。

事者に表れているのは、洪景来の蜂起の部

にみえるときでさえ、古典的な堅固性と気 だんだん歳月が経つにつれて、彼は自分

添えてくれる。

李文烈の作品は、数ヵ国語に翻訳され外

が全く彼ら下積みと一つになったと信じ

ではない。しかし、普遍的なアピール力を

国でも読者と話題を集めた。それが、その まま作家の優れていることを証明するもの

にしても、それは大義と理想の原理を無効 こうした原理的な考察やせんさくではな

化するものではない 。しかし重要なことは、

持っているということは作家の器を惣語る

貴な理想の原理のすぐその下で認知される ころがなく、﹁権勢と力を何よりも上にあ

ものでもある。彼は、まだ依然として道を

ちも朝廷の腐敗した権力者と何ら変わると ると考え、それを掌中に収めるためには何

い。こういった作家側の認識を盛り込んで

分においてである。洪景来と彼の追従者た

るかのようにふんぞりかえっている意識

いる作品が作家の筆の先で説得力を発揮し

る瞬間においてすら、胸の片隅ではそう

があることに気づくようになったし、そ

である。

事をも辞さない輩﹂だと思うようになるの

した行動自体がまさに 一つの施しでもあ

の望みのない自分の虚偽意識に思い悩む

く洪景来と追従者たちの隠された動機は権

もっともらしい大義名分の倍壌と関係な

と、きわめて珍しい小説である。社会的な

社会小説のモデルを基準にして接近する

ゃから

ようになった。彼らに対する話盗用という ものも、突主﹄詰めてみると彼らの無知、

力の追求に過きず、目的を達成するために

たゆまず信頼を送ってもよいだろう。

のある未来の可能性に対して、われわれは

歩んでいる途上の作家である。彼の余力

浅はかさ、利己、卑屈などのような弱点

は大義と相反する手段と方法も辞さないと

この作品は、たとえば一九世紀の西欧の

などをがまんしてやったぐらいのもの

ているということが重要なのである。

で、積極的に抱き込み、一緒に苦しみ身

86


E 翠担曹関摺顎語理理璽. ] 1.翠 空11喝罪すご

N E WS F R O MT H E K OR E A F OUNDA T I ON

海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所なとで韓国に関する研究や韓

韓国国際交流財団のフエ ローシッフ プログラム 0

.

韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フェローシァプおよび

国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人文・社会

韓国語フエローシップを次のようにこ案内いたします。

科学・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請

穂国研究フェ口町シップ

を受け付けております。 ①韓国学、韓国語なと韓国関連講座の開設およひ海式。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および支援額については、同 年十月十五日までに申蒜者に通報いたします。 上記の乃毎外での穏国研究に対する支援」およ び「韓国国際交流財団のフェローシップ・プロ ク‘ラム」の申請書およひ案内書は、韓国国際交 流財固または現地の縫国公館で求められます。 申請書およひ案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 絡願います。 線国国際交矛謝団国際協力 1 部 大事童民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号 電話: 82-2- 万3-3464 ・FAX: 82-2-757- 捌 7. 2049

K OR E A F OC US ( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊まが< ORE A F OCUS ( コリア ・フォーカス)

究期間中の滞在費か支給されます。申請ご希望の方は、 所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月三一日ま でに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。

韓国語フェローシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者およ び漣絡の専門家に対して、韓国語フェローシップを提供し、六一一二カ月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フェロー

を刊行しております。「コリア・フォーカス」は日本のみなさんに韓国関連

シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一

の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としております。

つの韓国語講座を受講することかでき、受講期間中には、授業料と所定の

当財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する有益

滞在掛湖合されます。申請ご希望の方は、所掛獄の申請書を二通作成

な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス」は、日本語版のほかに英文脚< ORE A F OCUS も 刊行しておりますれ同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関僻世誌、学術 誌などの刊行物から翻訳、転載したものです。 コリア・フォーカスが取り上げてい

のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書およひ案内などについてのお問い合わせは、下記の{ 主所宛にご連 絡願います。 穂国国際交. 5 i l t 財団国際協力 2 部

る記事は、韓国の政治・経済・社会・

大殺民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号

文化などの各分野と、韓国関連の国際

電話: 82-2-7日 -6465・ FAX: 82-2-757-2047,お49

問題に亘っており、このほか韓国に関 する重要な資料と主な事件の日誌も掲 載しております。したがって、韓国の 時事問題に関する情報性記事が幅広く 盛り込まれていて、韓国の現実にリア ルに接していただけるに違いありませ ん 。

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