ひとりひとりにドラマが生まれる。 シェラトン・ウォーカーヒル・カジノは、ソウル市内でただ一つのカジノ。 ここには、訪れる人を酔わせる華やかな時聞が満ちています主 yレーレット、パカうえブ、 ラックジヤツ欠タイサイ…。
本物のゲームだけが持つ興奮に出会う。 本格的にカジノを楽しみたい方から、気軽にカジノの雰聞気を昧わいたい方まて二 それぞれにきっとご満足いただけるドラマが生まれますL
シェラトンウォーカーヒノレ 韓国ソウル 電話 : ( 02) 456- 212 1 金浦空港 : ( 02) 666- 2 121 FAX. ( 02) 455- 2121 干オフオフィス: ・東京 (03) 3584- 0631 ・大阪 (06) 211- 3747 ・ 名古屋 ( 052) 21 1-1515 ・ 福岡 ( 092) 414- 7707 ・ 札幌 (01 1 ) 242- 2121 ・仙台 ( 022) 266- 5228 ・ 広島ω82) 242- 21∞ ・香港 2721- 5325・ 台湾 (02) 565.2612
BEAUTY O F K OR E A
状差し
4
﹀司↓印夜どのm
F44 三に掛けて、手紙などを入れてお
rzq 二居間に欠かせぬ文房具。白い障
b 片まく状差しは、韓国家屋の主人の
子紙に黄色の床、濃い茶色の木製家具など
が醸し出す雰囲気の風情を 一段と添えてく
れるものが状差しである。状差しは単純な
線から成りながらも何か重量感がある。
平座式生活のため、家具類は一般に丈が
低い。そのため、壁に余白ができる。状差
しは、その余白を飾る装飾物としての意味
も大きい。文匝(手文庫)などの調度品とう
まく調和をなして端雅な感じが注意を引 ノ︽、。
状差しは、部屋の主の趣向に従って、形
態や模様はさまざまだ。火に焦がした桐の
板材を使って、その木目を活かしたもの、
前板に四君子や花鳥を陰刻したもの、竹細
ソンピ(官職に恋々としない学者)の居間
工のものなど。
は脱俗をもっとも重んじていた。主人の居
間の状差しは、ソンピの孤高な人柄にふさ
わしく華美に走らず、シンプルながら気位
が高いのである。これに対し、女性の使う
奥の聞の状差しは、一般に華麗なつくりで、
装飾を凝らしている。.
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1
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ヲ﹀刃式的mCZ の
K~
カバー・ストー リー 韓国人の生活に深く溶 け込んでいる伝統の木製 家具は、韓国の自然環境 や住居構造などの影響に
4
よっ て独特の造形様 式が 育まれる ようになった。
韓国伝統の木製家具、 その特性と造形美
あたかも現代絵画を忍 わせる 、こ のパンダジ ( 上部だ けに扉のあるた
朴祭 圭
んす) は 、 栃木本来の 色
14
合と木目を活かし て素朴
韓屋の空間構成と家具の配置
でありながらも温かい韓 国的美 を漂わせてい る
林永周
20
装錫の機能と造形美
洪貞賓
26
螺鋼漆器と 華角木器工芸 朴楽圭
30
指物師、 千相源 金煤旭
36
羅州ソバン ( お膳) の匠、金春植 金裕卿
42
日 Jえ
韓国の現代建築と韓国性の表現
50
INTERVIEW
画家、金宗準 金畑園
56
世界遺産登録、 『 仏国寺、海印寺、宗 廟』
萎在沫
E(orea Foundati on 竜寺号刈1.Ji !吾 川 喧
V o.l 9,No. 1 SPRI NG 1996
コリアナ
64
ONTHE ROAD
高句麗の気性を宿す地、輯安
。
KOREANA
溶
柏山戸弘
V ゆ{目
V-食 開M
l
KOREANARTl STS ABROAD
韓国人バレリーナ、
編集長
萎秀珍
佑芳
聖英
金林
文範
燥列⋮
金李
彦圏
韻光畑
一時金金
柳済権
アート・テ'ィレクター
朴昇雨
600 円 ( 4, 500 ウォン)
発行所
韓国国際交糊オ団 大韓民国ソウルヰ靭 IJ市中央郵便局
私書符2147号
- 電話: 82- 2- 753・3462 . FAX: 82- 2- 757- 2047、2049 編集デザイン
ART
口比
74
窪昌潤 韓国国際交糊梱 理事長
定価
u博
発行人兼編集人
mン 純 一 フ
100- 095
削ブ
干
IIJ
大韓民国ソウル特別市中区南大門路5街526
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ク
韓国国際交流財団の季刊誌
側一
1996年 春 季 号
7Jω
金周楽
SPACE PUBLI CATI ONS
大緯民国ソウル特別市鎚路区通義的 5-11
. 電話: 82-2・734- 71 84 • FAX: 82- 2-737- 9377 rKORE ANA ( コリアナ)J は韓国国際交流財団が発行し ている季刊誌です. 従って版権はすべて本財団側に あり 、本財団の許諾なしに転載・複製することは禁じら れておりますのでこ7 承下さい. また、本昔、縄戦の記事 ・論 文 の内容 は 、 本 誌 の編集者または本財団の意見 ではありません 。
1987年 8月 8 日 野 望 叫 1033号 19% 年 3月 20日 印 刷 199伴 3月 30日 発 行 ( 毎年3 、6 、9 、 12月の4 回発行) 印刷所
三星文化 印 刷株式会社 ソウ川靭 IJ市滅東区割欄司 167- 29 .電 請 苦 : 82・2- 468・0361- 5
李鍾浩
80
DI SCOVERI NG KOREA
春を飾る花
李畠福
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CURRENTS
檀園、金弘道展
李源福
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書案件凡) . 19C. 6OX 2 5 x 26cm 個人所蔵
らは韓国独自の様式に落ちついていく傾向
中国﹁明﹂の様式を思わせるが、十八世紀か
のことである。
りも、狭い窒宇 内空間とのバラ ンスを考えて
る民族の素朴な心性からもたらされた産物
十八世紀以後の韓国の家具が自然を愛す
空間が別々になっていた 。このため、男性
寸男女有別﹂の観念のため男性と女性の生活
の瞳縄世界を支配してきた儒教思想、特に
生活空間の特性としては、長い間韓民族
だとすれば、韓民族が生活してきた自然環
を示している 。
境と住宅構造の影響から目を逸らすことは
は主にサランチェ(舎廊房のある離れ屋 ) で、女性はアンチェ ( 母屋)でそれぞれ起居
バ ンとアンパン(奥の間)の家具も、その用
していた 。このため、自然のうちにサラ ン
できない 。 住宅構造による影響としては温突部屋の
途や趣向によって自ずと見分けられる個性
オンドル
平座生活壁内か、韓国家具の規格と形態を
サランパンは、男性の生活空間で、詩作
を持つようになった 。
よって材木の選択と製作技法が規制される
や画筆を楽しんだり、客を迎えて人生や政
決めたと言ってよいだろう。また、自然環
こと、また韓半島内でも地形と気候の違い
境の影響としては、四季毎の気候の変化に
から地方毎の特徴が現れているということ
の内部空間は、華麗・複雑ではなく、素朴
治を論じる社交の場であった。サラン パ ン
で安らかな雰囲気が不可欠だと考えられて
である。さらに、儒学思想を酔治理今 し 7﹄ た当時の社会慣習も、用途と個性の明確な
いた。このため、 大きくない窓丙空間に単
間か広くて高く、そこに付き物の家具も室
など文房家具類が大い ヒャンコジ(線香台)
ル)・冊床・筆筒(筆入れ )・硯滴( 水滴 )・
ことから文房生活に対する関心が高かっ た。 このため、書案・文匝・卓子(テ ーブ
そこで朝鮮時代には儒教を崇めていた
具が必要となった。
純な構造、快適な比例、簡潔な線を持つ家
家具を生み出した背景にな っている。
住{重宝乱と揮直による特性
内空間に合わせて大きくて装飾的にならざ
ヨーロッパや中国の椅子生活は、室内空
るを得ない 。しかし、韓国は温突部屋の平
に桑麗した。
める文匝は、重要な器物や文房用品を保管
サランバンの家具のうち重要な位置を占
座生活の影響で天井が低く窒内も狭いほう
する家具で、サラ ンチェの後ろの庭に通じ
だ。このため家具も想見的な負担を軽くし、 できるだけ広い生活空聞を確保するため低
間か広く見えるような役割をした 。壁面に
れた 。これは、書案(机)のように丈が低く て壁面にすのきりした余白を作 って生活空
るドアの下の空間か側面の壁に付けて置か
くて小さく、簡潔に作られた。 書案(机)・硯床(硯箱など文房具を置く どを置く)など部屋の中心に置かれる家具
小机)、チェパン(部屋に敷く薄板・灰皿な 類は、空間の利用を効果的にするため移動
いよう奥戸 きの幅を狭く設計した 。 垂直物を載せておく卓子は 、細い角材と
σ
を考慮して作られ、文匝、モリ ジ ャン( 枕 もとのたんす ) なども丈が低く奥ゆきが浅 い。平座式生活の便利を考慮したのである。
チュンノル ( 底板)からな っているため宰丙 空間に負担を与えない 。むしろ、快適な面
付けて配置する家具は、広い面積を占めな
またチャン(楠 Hたんす ) やノン ( 龍 Hたん すの一種)、四方卓子などのシンプルな作
6
ル(底板)だけの卓子があるが、用途は書物
らせた三・四 ・五層卓子と各層がチュンノ
具のために生じる壁面空間の空白を処理す
好まれた。特に、伝統的な住宅では低い家
実用もさることながら壁面装飾用としても
状ばさみ)は、壁に掛けておいて手紙や詩 築などを横に挟んでおく 0・ しかし、こんな
るよう骨組みが丈夫に作つである。コピ(書
み込んで装飾性を弾調し貴族的な品位を表
忠男紋、詩、 目 の字、亜の字などを精巧に刻
美を生かすとか、銀杏の木に十長生、雲鶴、
など、木目の鮮やかな木を利用して自然の
主に使われた。しかし、ケヤキや黒柿の木
させない、柔らかで素朴な質感の桐と松が
は、季節毎に着ける衣服をはじめ布やポソ
四季の区別がはっきりしているわが国
て華やかなのが特徴である。
の趣向に合わせて美しくて明るく、温かく
ンパン家具の倹素な雰囲気とは違い、女性
このためアンパン(奥の間)の家具はサラ
の分割と比例は、韓国木家具の美を代表し ているといえる 。卓子には、四方に張り巡
や文-墨貝玩品などを載せておくのに用いら
ン(韓国の足袋)などを保管するため二 ・三
層からなるたんすと龍(たんすの一種)がか なりのスペースを占める。このほか綿入れ
女性が起居する奥の聞は、男女有別の社
そうとしたのもある。 会的規制に縛られて外部から隔絶も同然
たんす、ボソンたんす、ウィゴリジャン(衣
床などとよく調和が取れていた。
るのに向いていたし、また文匝・卓子 ・現
れる。 このほかサランバン家具のうち見落とせ このほかサランパン家具には、座燈・燈
だった。しかし、その中ぞも自分の生活を
もとのたんす)、箱など様々の種類がある。
装掛けたんす)、鴛驚械、モリチャン(枕
ないものに書物を入れておく冊床(机)があ る。両班家には独立した書庫があるが、平 架 ・箱、余暇を楽しむ碁盤・玄琴(ヒョン
見出すことができたし、また子供を育て家
ウay ア ン シ 守ン
素よく読む本は身辺に置いておくために小
事の切り盛りが一切ここで行なわれた。
家具の材料には、艶がなく見る 目を疲れ
グムともいう)などがあった。
この冊床は、書物の重みに充分、耐えられ
さな冊床(机)を置いておく習慣があった。
三層卓子 。 19C. 45. 3x37.4 X 1 お c m 国立中央博物館
で、その重みに充分、耐え得る太自の柱と
は大部分、重い真銭か磁器からなっており、
厚みのある板材が使われた。木材は荒削り
また多くの量を積み重ねておいて使うの
に彫刻を施した彫刻械、角材に紙を張り草 花を描くか紙の紋様などを張り付けた酔 韓国の家屋の台所は、温牢構造の様式の
などで、多産、長寿、和睦などを祈願する
横、布に刺繍を施し板材に挟んで付けた
ため床が地面よりも低く、食膳を台所から
内容のものである。
一一・一一一層がくっついており、重量を支える 繍械、玲曜とした華やかな螺銅の紋様を
のものが使われたが、それがかえって見た
横と龍は両班家の主な家具で、横は一・ 必要から太自の角材の柱と厚い板材が使わ れる。これに対して、寵は各層を切り離せ 施した螺銅構、牛の角を平らに伸ばして
目にさつばりしているのだから妙である。
額卓の材料には厚い松の木の板を使う
らなかったので、人体工学的な設計と適切
か、薄い板材の場合は板の間の板材のよう
庭や板の間を通って宰丙に運はなければな
白、黒などの濃厚な高知移の絵を描いた花角
(お膳)・チャンタク ( 農卓子 H副食の材料
な材質が求められた。厨房家具にはソパン
薄く磨き上げた透明な板材に赤、黄、緑、
薄い板材からなっている。寵は大部分、二 械、透明なガラスに草花などを描き入れ
るようになっているため、やや太自の柱と 層で分離ができることから、持ち運びと管 理に便利である。
に板材をはめこむ式の方法が取られる。ま
富貴 多男 、 子 孫 繁昌 、 善 の字 などで、 多産、 長寿 、
和睦などを祈願する内容のものである
撰横は食器や食物を入れて盤呂する家具
た脚の部分の足台も、やはり地面の湿気を
や食器を載せておく台)・農機(茶だん
さけるために高自に据えつけられる。
自然の景観 をはじめ 草花 、 三綱 五倫園、十長 生、吉祥 段 、
これらの家具に主に使われた紋様は、自
鎮卓は食器類を載せて置く家具で、容器
す)・ティジュ(米橿)とその他の小品があ る 。
た花草織などがある。 然の景観をはじめ草花、三綱五倫図、十長
材質によって分類すれば、ケヤキや黒柿
生、吉祥紋、富貴多男、子孫蓄目、轄の字
あずさ
これらの 家 具に主に使われた紋様 は 、
の木、トネリコ、楓などの美しい木目を利 の木、梓の木、ケアム ールしなの木など
三層食鐸卓( おかずの材料を載せる棚 )0 1 9 C後半。 95. 5X39.7 X151. 3cm 個人所蔵( 左)
用して自然の美しさを強調したもの、銀杏
二層寵( たんす) 1 9 C後半。 74. 5X37.5X105. 6cm 個人所蔵( 上)
8
で、食器の重さを支える必要から、太い松 の木や木目のきれいなケヤキを使い、堅固 な鉄製の飾りをつけた。僕械は二または三 層からなっているのが普通で、前面はチ般
ι
のように板材か汚冷 ものと紙を張つて風 通しをよくした紙械などもある 。 このほか、米や穀物を保管するティジュ (米櫨)がある。ティジュは湿気を嫌かるこ とから風通しがよくなければならず、ネズ ミや害虫から安全で、重さにも充分耐えら れるよう太い松の木の骨組みにケヤキや松 の木の厚い板材で高自に据えつけられる。 ティジュには、大型のものから小豆やゴ マなどを入れる小型のものまで、いろいろ ある。また大型ティジュの中には二重に切 り離して、下の方には扉に雑穀の袋や容器 やその他小物を入れ、上の方には米を入れ る 。
自然環境と蓄穴 多様な{奮有木と木目 韓国の地形は南北に長くのびていて、気 温の差が大きく山が多いために木の種類が
目は、複雑な装飾や彫刻、色づけなどを不
や根に近い部位の渦券ぎ型の木目は、その
も斜の木目も共に好まれたが、特に木の節
めることもできた 。
できたし、また板材の収縮や亀裂を食い止
じ紋様の美しい木目の板材をいくつも入手
パンは特等品とされた。
かへンジャモク(杏子の木)に漆を塗ったソ
四季の移り変わりの中でできるきれいな木
多く、用途別の材木を入手しやすい。また
要にした。これは、できるなら人工を加え
模様が龍が体を振った形をしているという
銀杏の木・梓の木・ケアムールしなの
たが、特に卓子類は細い角材で綴密な結構
は、材質が堅固なため骨組みによく使われ
梓の木・梨の木・ちゃんちんの木など ことで龍木といい、主に奥の間の家具に使
木からは、比較的幅の広い板材を手に入れ
様式に組み立てられた。このため、丈夫で
も虫に食われることもあまりないだけでな
は、弾力に富んでいて、きずができること
いている。
く弾力があるため精巧な彫刻をするのに向
とぴら
木、桐、トネリコなどは木目が美しいので、
を持たせた。木目の美しい木材を薄く数枚
る扉のついている文匝の場合、すべての 扉が同じ形の木目を持つようにして安定感
く軽くて運搬にも便利なことから昔からソ
桐は、軽くて薄く、挽いても裂けず乾湿
梨の木・銀杏の木 ・檀の 木は木目が細か に挽いて収縮作用の少ない桐や松板材に張
パンの材料として広く利用された。このほ
われた。 こうした自然の木目を左右対称になるよ
あるばかりか、自然の木目によるすばらし
あず さ
国的な美の概念だといえるだろう。
ずに、自然の美を浮き立たせようという韓 家具としてよく使われる木を用途別に
いし、ねじれないのでソパン(小さなお謄)
ることができ、薄い板材を使っても裂けな
いデザインができあがるのである。
主に板材として使われた。このうち、黒色 が入ってい九黒柿の木は独特な木目の模様 を生かして械龍(械と寵の総称)や文臣、 硯床などに愛用された。
り付ける技法を利用したが、こうすれば同
探ってみよう。ケヤキ、柿の木、楓、栓の
うにし、とりわけ四つまたは八つ並んでい
の板材によく使われた。なかでも銀杏の木
それに、ケヤキやトネリコは直線の木目
際立たせるよう表面を処理すると艶がなく
どで弱い部分をこすり落とし、固い木目を
特に、表面をのしごてで焼いた後、ワラな
類などを保管する家具によく利用された。
の調節がたやすいことから、衣服や本、書
ク(たんすの前の両柱の聞の横木)などのよ
組みなどでは標卓、僕横などの柱やセモッ
など自によくつかない部位に利用され、骨
たんすの裏板、側面の板、層を区切る底板
一般にまっすぐな正目の堅固な板材は、
める韓国的な美意識をよく表しているとい える。
わりとしたが、これは自然と純粋な美を求
を左右対称にして華麗な色塗りや装飾の代
板材からなる前面をセモック(横木)やト
ンジャ(仕切り板)などの骨組みで割け、モ
ルムカン(腰板仕切り)やポクパン(真ん中)
などは狭い面で再構成した。このモルムカ
ンやポクパンのような板材は木目のよい板
材を二 i三ミリ程度の薄さに挽いて、収
縮・膨張の少ない桐や松の板材に筋交いに
付けた後、骨組みには糊などを使わず溝に
このような製作技法は木材の収縮・膨張
はめこむ技法を使った。
の欠点を防ぐだけでなく、小さな板材でも
美しい木目の材を入手しやすく、また薄い
れることから、家具自体の重量を減らすの
板材でも骨組みに頼って圧力を充分支えら
に効果的な方法である。また、これにとも
なう面の分割は、引き出しゃ扉の内側に入
ランスと調和のために徽密なデザインが必
れられる空聞を考慮し、また全体の力のバ
朝鮮朝家具の線と面の配分は、韓国的で
要とされた。
ならず宗主内空間にも適用された。また、ど
独特な比例球但見によって発達し、家具のみ
んな空間や住宅様式にもよく調和のとれる
美的球貨の利用へと発展して、今も高く評
面分割すなわち骨組みが主軸になるか、
価されている。
または卓子のように各層を分ける底板から
なる簡潔な家具は、内部は強固であり外部
は他に負担のかからない単純な構造、すな
わち仕組みと地き合わせに裏づけられねば
ならない。とくに、鉄の釘を使わず、やむ
を得ない部位にのみ墨書と竹の釘を使う 寒暑の差が大きいなかで育つ木は、木目
の木家具は、特に目に触れない部位にいた
場合、その結構はさらに重要である。韓国
仕組みと継ぎ合わせ の鮮やかな美しい板材を提供する。ところ
裂けやすい。このため、仕組みと地き合わせ
こう した仕組みと継ぎ合わせは、簡潔な
り、その仕組みと継ぎ合わせの技法は徽宮 である。
るまできわめて堅実な構造に組まれてお 朝鮮朝の家具は、このように様々の木で
に対する構造的な補強が自然に求められた。
が、季節によって収縮と膨張が激しいとい う短所もあって、広目の板材はねじれたり もって、自然のままの木目のきれいな板材
が利用された 。
る松と桐などが主に使われ、奥の間用には 美しい木目のケヤキ・トネリコ・黒柿の木
サランパン家具では、単純で倹素にみえ
うに強い圧力を受ける部位に使われた。
た
いなため、骨組みや板材に幅広く愛用され
手でき、樹脂が豊富で、木目が細かくきれ
松と朝鮮松は、どの地域でもたやすく入
具に広く愛用された。
が、このため倹素な雰囲気のサランパン家
重みのある質感をにじませるようになる
米極。 2 0 C初 。 33. 5X 23. 8 X 33.5cm 個人所蔵
10
線と面分割によってできあがっている朝鮮 朝の木家具には不可欠で、用途と材質、そ
装飾、基本的な形態と仕組みなどの面で地
平壌パンダジは、主としてケヤキの板材
原盤などがあるが、それぞれ材質と天板、
彫りにしてパンダジの正面を飾る、至って
亜の字、花紋、幾何紋などを精巧に透かし
れるもので、鉄板に鋭い鋲で作った百の字、
博川パンダジは平安道博川地方で生産さ
比べると、非常に装飾性が高い女性趣向の
般のパンダジが金属装飾を施しているのに
て華麗な雰囲気を浮き上がらせている。一
りを利用して装飾性を強調することによっ
るようにし、温かい感じを与える真銭の飾
の色合いを明るくして木目が鮮やかに見え
脚、色塗りなどで独特な個性を持たせてい る 。
特異な装飾である。このように多くの金属
家具である。
るたんす)は、地方別に形態に個性があっ ておもしろい。
ろん視覚的な効果を狙って費調高い技法に
パンダジも平安道バンダジ、京畿坦パン
ため木目のないケアムールしなの木がよく
装飾のため木自には注意が払われず、この
域的な特性をよく示している。
発展した。
ダジ、忠章温、、ハンダジ、全羅道、ハンダジ、
は単純なまだら型のが多く、白銅装飾を施
パンダジと似通っているが、金属製の装飾
ソパンには海州盤、羅州盤、統営盤、江
韓国は国土の面積に比べ山と川が占める 慶尚道パンダジ、済州島パンダジに分けら
国家具の特性とは裏腹の特性といえるかも
使われた。これは、複雑な装飾を好まぬ韓
して部位の応力によって構造と力学はもち
比率が高く、多数の地方に分かれていて各 れ、これはさらに博川、平壌、開城、江筆、
地方的特性
地方特産の木と生活様式をもとに地方色の 密陽、高興、兵営、羅州などのパンダジに
して華麗な雰囲気があって女性の趣向に
開城パンダジは基本構造や形式は、平壌
強い木家具が形づくられた。その中でもソ
しれない。
細分される。これらは、どれも材質、金属
11
パン(小膳)とパンダジ(上部だけに扉のあ
三層構( たんす) . 19C. 95X48X169αn 個人所蔵
. s c 。ム旧×8.∞×ωO合ヨ
国立中 央博 物 館
左)お膳 (
44
由吋×8N×也管ヨ 個人所蔵
c . ( 下)パンダジ(たんすの一っ てS
乳首型の太平頭釘を板材の端と
互いに噛み合わせた部位に飾っている
りした悪しを与える。また厚い鉄の装飾に
て柔かく、幅にくらべ丈が高いのですっき
であり、各辺が会う角の部位は四っともに
ルセ( 錠前)、アッパタン(前板)が糸巻き型 である。 また、扉板の両脇に大平頭釘が打つ
れたもので、キヨンチョプ(蝶番)とチャム
兵賞、ハンダジは全羅南道兵営一帯で作ら
せ、乳首型の大平頭釘を板材の端と互いに
に頭の広い釘を一の字に打ち込んで固定さ
字型の蝶番または幅の狭い糸巻ぎ型の蝶番
羅州パンダジは、もっとも単純な細い一
の﹁へそ飾り﹂と下段の広い余白が非常に特 異である。
丸い花形の肘翠刷、アッパタンと守央の菱形
ジよりも檀帽に比べ稚幅が狭く、丈が高い。
できるか垢がつくのを防ぎ、防水をし乾燥
漆と壮喬 木漆家具の塗装は、家具の表面にきずが
たしていてきわめて強烈な印象を与える。
鉄の金具がケヤキの木の板材を一ぱいに満
の大平頭釘と腹の膨らんだ糸巻き型の蝶
済州島パンダジは、ケヤキの板材に菱形
高輿,ハンダジは全羅南道の南原、高興、
気を表そうとした意図を窺わせている。
しなの木、梓の木などを使って簡潔な雰囲
また木自には注意を払わず松やケアム ール
とから始まる。
せ、同時に美装効果をも与えようとしたこ
した木に適当な量の油を引いて長持ちさ
番、下段のコウモリ形の取っ手当てなどの
かの字、亜の字などを透かし彫りにして装
噛み合わせてからコモルジャンシク(かす
噛み合わせた部位に飾っている。材質も、
飾りを付けたものがある。
飾性を押し出している。
がいの形をした木家具の角に当てる金具)
番に 目 の字、亜の字、八卦紋が透か し彫り
霊光一帯で作られたもので、普通のパンダ
を堅固に当てている。
にしてあり、扉板の 両側の大平頭釘には寿
は大部分、松である。金属装飾は草葉迎蝶
江華パンダジは、素朴な材質の松を使っ
に比べ丈が低いのに対して幅が長く、木材
銀杏。
幅の狭い糸巻き型の蝶番に頭の広い釘をーの字に打ち込んで固定させ、 の{子や花紋の銀象眼を施したものや真鎗の
もっとも単純な拘い一字型の蝶番または
a 密陽 ハ ンダジは慶尚南道の密陽、晋州地 方一帯で作られたもので、普通のパンダジ
合っているようだ。
羅州パンダジは、
12
く溶かして塗るのだが、濃い色を出すため
含んだ赤土)・くちなしの実などを水に薄
着色は黄土の粉・石間柱(酸化鉄を多量
せ、また重厚な感じを与えるために着色し
えたりするが、木目をはっきり浮き上がら
自然色の表面に色を塗り新鮮な感じを与
好の塗料だが、高価だったので高級な家具
がたつにつれて明るく透明になる。漆を塗 ると虫が退散し腐蝕しないので家具には格
漆は塗り始めのうちは赤黒い色だが、時聞
ソバンと高級家具には生の漆を塗った。
落ち着いた艶と美を添えてくれるので広く 愛用された。
に薄い膜を作って晶曳裂を防ぎ材料を保護し
球審生かす。この植物性の油は、木の表面
て使い、家具の基本の形と木目が強調され
な形で機能上どうしても必要な部位に限っ
使われた。
家具の用途と形によって、それぞれ選んで
金属装飾には、鉄、真銭、白銅の飾りが
すことに努めた。
透き通った塗料を使って自然の木目を生か
使わなかったし、大部分の韓国の木家具は
には墨汁や細かい黒い土を高せて塗ったり
た後、漆を塗った。
した。これがきれいに乾く前に好みの濃さ にのみ使われた。 宮中用と下賜用の家具には朱漆または黒
ようになった。.
複雑な形に変わり装飾的な面、が強調される
たのだが、後代になるにつれて、だんだん
金属の装飾は、朝鮮時伐の初期には単純
にして、その上にヒマシ油、松の実、クル ミ、豆、桐の実などの植物性油を塗った後、 漆を塗ったが、着色塗料は一般の家具には
13
布できれいに磨きあげて自然そのままの質
84. 2 x47. 8 x 174cm 梨花女子大学博物館
ウィゴリ撤( たんす) . 19 C後半。
早
三z : 亙亡.
の空間構成と {家目一ハの配置
••
・ ...
F
.-
の家あるいは部屋の主人が敷いて座る大き
木綿の衣装をまとった女主人がポリョ(そ
イムヨンジユ
林永周
韓国伝統工芸美術尚醤長
ノン(龍)とチャン(機)は衣類をしまって
れる。
おく家目円である。一段ずつ別々に作り、そ
つまり、男女がそれぞれ別々に暮らし、こ
れを二段、三段に積み重ねたものをノンと
チャ ンという。また、女たちが主に使う家
なマット式の座ぶとん)の上で針仕事に精
具の中にはウィノン(衣寵)に使った行李の
いい、上下に伸びる四本の柱の内側に二段、
の火鉢、そしてこての台などの小道具が並
まず裁縫箱やこでのささった三本足の真鋳
三段に棚を作って作りつけに したものを
(舎廊房、離れ屋の居間)に分けられていた。
れていた。 このためアンチエの家具とサランパンの 家具は違っていた 。
アンパンの室内装飾
アンパンの家具として挙げられるのは、
L I二
4rE 飾と家具の構成、配置である。わが国伝統 の住宅、韓屋は、明るい光が障子を通して 差しこんでは奥深い木の葉の影法師をオン ドルの床に落とす、ごく自然な映像的数果、 そして豊かであれば豊かなりに、貧しけれ
間)というスペースは、若い妻と母親、そ
チャン(枕下に置く物入れ)ベムルハム(宝
物をしまっておく家具としては、モリッ
材を骨組に して 紙で仕上げたノン)、また
が必ずしも木だけとは限らず、木骨紙装(木
を編んで作った。ノン(寵)は主に木で作る
の伝統家具の中でもその特色を表している
れに子どもたちの過ごす内室の空間にふさ
石箱)、・ウィゴリチャン(衣装たんす)、ノ
ような形をしたものがあるが、これは韓国
その情感を盛り上がらせたのである。この
わしく、落ち着いていて静かで清潔な室内
はチノン(紙龍一ただ紙だけを何重にも貼
び、下座には花と鳥をあしらった刺繍の扉
ような心配りは、上流社会に受け継がれ、
装飾が特徴とされた。気品のある家庭だと、
ン(衣類とふとんをしまったたん す)、書床
り重ねて作ったノン)、カルテノン(葦を編
風や魚の泳ぐ姿を描いた扉風がぴったりで
倹素でこざっぱりしている味わいを第一と してきた 。
白銅のろうそく台の奥深い明かりが部屋全
(文机)などがそろえられ、 これらはその 家
んで作った寵)、上流階級には螺銅のノン
韓屋の住居空間においてアンパン(奥の
韓国伝来の住居は、女たちと子どもたち
体を包んで落ちついた情緒を醸しだすオン
の社会経済的地位に合わせてほどよく飾ら
らでん
もので、ノン自体はもともとは萩や柳の枝
が過ごすアンチェ(母屋)と、その家の主人
ドル部屋で玉色(薄い水色)に口問よく染めた
ある。
をはじめ主に男たちの過ごすサランパン
ば貧しいなりに心性を飾り気なしに表し た。こうした質素淡白な室内装飾によって、
を出している姿を思い浮かべることができ る 。
の習慣は、こと上流社会においてよく守ら
回 戸川誌 の中でもひときわ美しいといえ ﹁ るのは、明るくて快適な室内装
国固有の伝統住宅の空間美、そ
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14
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ソンビ (官職のない学者) の書斎と居間を兼ねたサランバン( 舎廊房) 。龍仁民俗村
は学識はあっても官職に就くことを潔しと
先祖が官職についていた学者であり、本人
の角を薄く切って張りつけたもの)のノン、
(龍)、華角(木片に彩画を施し、それに牛
た、両班というのは 、位や身分が高い上流
ているものを総称して、士大夫という。ま
しない人を言う。このソンピと官職を持っ
階級をさす言葉で、世襲的に文官や武官に
ノンは、四方に性がなく、上部にも天板
刺繍を施したスノン(繍寵)などがある。 の前面の左右の飾りや蓋板の ないシンプル
層をさす言葉であった。この階層の人々は
なのが特色である。チャンの名称は、その
官職を退くと縁故のある田舎に引きこもり
つく資格をもっ 門聞を表す言葉である。
るウィゴリチャン、ポソン(韓国式の足袋)
景色のいい静かな所に家を建てて暮らし、
従って、ヤンバン(両班)と土大夫は同じ階
を入れておくポソンチャン、綿を入れるソ
読書をしたり冥想にふけったり、はたまた
ン、二段チャン、一一一段チャン、衣類を入れ
ムチャン、布団を入れたイプルチャン、本
用途に従って枕元に置いておくモリッチャ
を入れておくチェクチャンなどに分けられ
のさえずりを楽しみ、前庭に蘭を植えたり
を聞きながら花の香りと鳥 小川のせせらぎ加えて、パンダジ(半聞き扉のたんす)や
る 。
ら、自分の生活空聞を情緒を育む隠居の住
楽器を奏でたり絵をたしなんだりしなが
まいに した。男の屋内生活の空聞は、離れ
クェ(櫨)も、また大抵の家庭にみられた女
屋のサラン(舎廊)であった。ここは、ソン
たちにとっては大事な物入れ家具であっ た。前面 の上部だけを上下に開閉できるよ
チェ(母屋)とサランチェ(離れ屋)に分けら
うにした基本的なもののほかに、パンダジ
れ、出円民階層の規模の小さな一棟からなる
ピたちの居間であり書斎であり応接間でも た、いわゆるケクニヨク ・パンダジなど
あった。一般に、ヤンパンの住まいはアン 様々の変化がみられる。これらアンパン(奥
サランパン代わりに使った。大きな規模を
住宅では外部に接するオンドル部屋一聞を
ダジチャン、扉の部分を特に小さめに作っ
の間)の木製家具は、そのひとつひとつが
とチャンの機極を半分ずつ分け合ったパン
全く同じものがないといわれるほど大きさ
板の間がいくつも続くアンサラン(母屋の
誇るヤンパンまたは土大夫の家には部匿と
パカッサランには別途の建物を建てて書庫
客間)とパカッサラン(離れの客間)を作り、
や構成の比例、木の使い方、飾りや彫りの それぞれ特色をもっている。これも、また
仕上げなどといった全ての造形的要素が、 韓国の伝統家具の秀でた特徴のひとつであ
一八世紀の朝鮮王朝の実山主告である李重
を兼ねた書斎にし、これを斎舎と呼んだ。
住まいに定めそうな所として次の 四つを挙
燥の﹃宅里志﹄(一名、八城志)は、士大夫が
アンパンの家具の場合、そのほとんどが
るといえるだろう。
かで、真鋳や白銅など金属性の飾りも変化
みると、一家の主が暮らすクンサラン(大
サランパン(離れ屋の居間)の窒丙装飾を
すばらしいこと、の四点である。
あふれでいること、しまいに自然の景色が
第二は産物か豊かなこと、第三は人情みが
げている。まず第一が風水地理学的な条件、
男性用の家具に比べて飾りと仕上げが華や に富み、それぞれに違う。
サランパン(離れ屋の居間)の 室内装飾 朝鮮王朝時代のソンピというのは、その
16
サラン(内舎廊)といって、秘密の場所に使 は、ポリョ(主人の座る厚いマットのよう
モク(オンドル部屋の焚き口に近い所)に
よく、 書画も両側の壁に掛けるとか、左右 対列にすることは俗っぽいとされた 。 その部屋の主人の席になっているアレッ
舎廊)があり、その子弟が起居するチャ グ
われたり家のことを一切息子と嫁に託して
ンサラ ン(小舎廊)がある 。そこへ更にアン
隠居した年寄り夫婦が起居する居間を設け をのせておく小さなテーブル)か書床 ( 文
人の居所で、寝室、サランパン(居間)、チョ 子(テーブル)、本箱などが置かれることも
四方卓子(茶菓子をのせるテーブル ) 、長卓
付けて文臣(手文匝)を並べ 、その上には筆 入れや紙入の筒、水滴などを載せる 。また
机)を置き、その横には碩床(碩を置く台) を置いて使用した 。主人が座る左右の壁に
なもの)を敷き、その前に経床(仏教のお経
ることもある。アンサランとアンチェは、 つながるように建てるのが通例である。も ちろん主人の社会的地位や学識が高く家勢
ン(庁一板の間)、ヌマル(高自につくられ あり、壁には筆架け、書状ばさみなどを掛
が盛んなほどサランチェの規模も大きい。
た板敷きの間)があり、さらにヌマルは書 けておく。このほか線香立て 、香机とか煙
パカッ(外)サラン、即ちクンサランは主
主の精神的な趣向や経済的な能力を物語る
草盆、キセルなどの喫煙道具も文一 房(書斎) の小道具としては 欠かせない 。さらに趣向
斎につながる。文房と呼ばれていた書斎は、
い品格が求められた。本を広げておく書床
空間でもあり、その調度品の置き方にも高
によっては水石や蘭などの観嘗問や碁盤、 コムンゴ(韓国の琴)、 トゥンソ(尺八に似
(文机)、壁側には一二枚折の山水の扉風、 文机のかたわらには、碩床(碩を置く台)や
文房具の類をみてみると、書床(文机)、
た韓国のたて笛)など主好みの趣味を満た
筆入れ、筆架け、そして何種類かの筆がき
寸道具などが置かれたりした 。
の長い枕)、脇息が置かれ、部屋のもう一
れいに並べられる。サランパン(主人の居
ン)、長枕(上体を斜めにして肱をつくため 方には文匝(手文庫)、本棚、テーブル、衣
間)にもっとも関係切深いものは、﹁文房四
喫煙道具と碁盤、案席(背もたれのクッショ
めとする文房具が必ず備えられていた。文
友﹂あるいは﹁文房 四{玉﹂ といわれる紙、筆、
裳タンスが並び、さらに紙と筆と黒字﹄はじ 房(書斎)の室内装飾は、その部屋の主人の
墨、硯である。
の部屋に飾られる文一房諸具にも現れるた
活の理念であり、この 一途で清い精神はそ
た。いにしえのソンビたちは清廉潔白が生
きのものを生む役割をした。 ﹁ 書 ﹁ 文一序という語は、高麗時代にも
舞台とするソンビの交遊はサロン文化もど
しあったりした。このため、サランパンを
ては礼楽を論じたり、打ちとけた話を交わ
志をともにするソンビたちは、友を訪ね
趣向と生活ぶりに合わせて、それなりに優
め、煩雑な飾りやム人けさな調度は退けられ
使われたといわれる 。高麗の明宗時代(一
雅で清潔で粋な雰囲気を醸すように飾られ
た。室内の壁は白い壁紙、天井はたいてい
F
薄い青 ・緑のような淡々とした単色の壁紙
二世紀)の金克己が﹁書斎﹂ と いう題 目でう たった七言絶句の詩が﹃東文選﹄の第一九巻
て薄いオンドル紙にふやかした大豆をひい
を張り、オンドルの床は油を含ませた極め
が使われている。文房(書斎)は、高麗時代
の
﹀司吋印司、ym
17
てオンドルの油紙に塗って清潔に仕上げら れる。文房諸具はできるだけ簡素なものが
オンドル部屋ひと聞を居間の客室に使ったサランバン
ソン ヒ‘ が使った文房家具と平床( 木製の寝台) 。竹夫人を置いてある板の間。龍仁民俗村
あでか る大ら
は王 や草月 つ tこ た受
は継 後が 期れ tこ る
のけ
入が
ぺ 〉
か大 ら夫 で家
て土
の間)になっている。テチョンの調度品は、
を ﹁ #Cの字形に組みあわせて模様を作る板
で、床はウムルマル(短く切りそろえた板
の中心をなす部屋と部屋をつなぐ板の間
居間につながるテチョン(板の間)は家屋
板の間) の室内装飾 テチョン (
げ、よく眠れるということで広く愛用され た。
して染みこむ涼しい風で蒸し暑さをしの
時にこれを抱いて横になると、竹夫人を通
る。竹夫人というのは、夏、同世震を楽しむ
という竹製の工芸品を置いておくこともあ
いてい木枕が置いてあるが、夏は﹁竹夫人﹂
に置いて夏も冬も使った。平床の上にはた
され、たまには平床(木製の寝台)を真ん中
どのほか火鉢、喫煙道具などが適当に配置
を置く台、 ) 机、テーブル、本箱、座灯な
房諸具が置かれる。書床(文机)、碩床(碩
と同じようにソンビたちが主に使用する文
ここにも、やはりサランバ ンの室丙装飾
楽しんだり、友を呼んでは詩をよみ酒を浪 みかわしたりする場所でもあった 。
がっており、夏には暇なひとときに思震を
ヌマルはサランパン(主人の居間)につな
をここで過ごしたり、自信探する場でもある。
ここはその家の主人が主に使い、暇な時聞
体が見渡せるようになっている。もちろん、
ように高い所にあっ て後苑(裏庭)の景色全
られていた板の間のことで、屋根裏部屋の
ヌマルは土大夫 (ヤンパン)家に主 に設け
ヌマル ( 高目の板の間)
。い朝 に鮮
18
が見える (布) 。食器棚やお膳などが見える台所 (右下 ) 。 国立民
たいていチ ャンチャン(茶だんす)と米びつ
直房の家具
もごく丈夫に見える。
明
V Q h帥型、 6c
で、米びつの上には大小それぞれの調味料 の壷などを載せておく。さらに、コンノパ
る。チャン チャ ン(茶だんす)はチ ャンバン
(おかずを作ったり副食物の材料を貯蔵し
たりする部屋)の片隅に置かれ、漆器や瀬
戸物の器、鉄製の調理器具などをしまう機
箱)、九折坂 、木製の四角いお盆、木製の 茶碗をはじめ器、祭器(祭洞に使われる器)、
や材料をの せ ておく台)、チャンハプ(重
ンチャン(茶だん す )やチャンタク(おかず
というが、飲食物や食器類を保管するチャ
の家具を総称して﹁厨中雑物﹂ 厨房(台所 )
その昔、韓国の女たちは昼間は 主に台所 で生活したとい ってもいいすぎでない。
よ っては独特な模様に作られて使用されて
の部分が柱の外に飛び出したものや地方に
く何枚も積み重ねて作られるが、両側の横
き戸式になっ ている。
おくためにテ ーブルの中間 にたんすを置い た。 チャン(たん す)の開聞 は、たいてい引
れるが、器を伏せておく棚や食器を入れて
かずや料理に使う材料をの せる台 ) が置か
能をもっ 。台所の 一方には、チャ ンタク ( お ながら伸ばして整える石の砧が置いてあ る 。 テチ ョン(板の間)と厨房の 世帯道具をみ
ン(小盤 一お謄)などがそれである。これら
トクサル(餅に模様や形をつける板)、ソパ
いる。 .
いる部屋)に入る戸の横には、衣類を打ち
ン(板の間をはさんで居間と向かいあって
ると、食 べものや食器を保管する家具とし
の厨房用家具からも、韓民族の衣食住に関
えんじ ゅ
の木、朝鮮松で作られ、その木目がかもし
は材質が徽密で堅固な木材、主に棟や松
てチャン チャン(茶だんす)があるが、これ
き由た
は、まず丈夫でなければならない ため、こ
だす自然美が鮮やかである 。これらの家具
連した伝統工芸品を目にすることができ
このほか、チャンタクは松の木の板を厚
め地きや蟻差しで継ぎ合わせて、見た 目に
れまた丈夫な黒っぽい鉄の装飾をつけ、斜
19
一 ぎ芸伊 C P300
奥の聞と板の間の調度品。部屋と部屋の聞に挟まれた板の間には 戸棚や米纏があり 、奥の聞には寵 とi蔵( ど ちらもたんすの一つ ) 俗博物館
︾司4m u︾のm
円光大学制受 ・金属工芸
洪貞賓
E .l E37a E .~I .1;]~: aE
装錫
金属材料の中でも、主に銅と錫の合金材を
いう語は金、銀、銅、鉄、白銅など多くの
付ける金具の装飾を総称していう。装錫と
能の必要に応じて本体に
家具調度品を作るとき機
f, 錫とは、木工品のような
代の文房家具やサランパン(客間に用いる
調和していることが分かる。これは朝鮮時
な金属技術と木工職人のデザインがうまく
を見ると、職人たちが腕を振るった伝統的
る。朝鮮時代の木製家具に付着された装錫
と紋様を異にしてたくみ に使いこなしてい
の装錫は、調度品の形態と用途によって形
考慮して、適材適所に装錫を使った職人た
、 --3
を考えて作られた。これは力のバランスと
ちの審美眼を物語るものである。すなわち、
i
使って製作したところからつけられた名称
主人の居間)の家具、アンパン(奥の間)の
エアャ /
である。一般に、木家具の装錫は木の欠点
l干 空
である収縮・膨張を防ぎ、その仕組みゃ継
間構成と面の分割がもたらす造形的特質を
家具、その他の木工芸品などに見られる空
a a r -、
ぎ目の役目を坦わせるという複合的な機能
対称と反復の構成原理に美の基礎を置き、 節制された装錫を取りつけることで安定感 と整合美を表現しているのである。
の特徴でもある。さらに、朝鮮の職人たち は、この装錫を通して木材自体の仕組みと
数多の工芸品に取りつけられている装錫
調和のための方法で、朝鮮時代の木製家具
地き目を丈夫にするほかに、機能の完控花
はその種類が様々であり、それぞれの形態 と用途によって異なる装錫か使われた。木
ともに構造の補強を念頭において装錫が使 われたといえる。地き目および仕組みの補
工芸品に取りつけられている装錫にはー
を目指した。こうして、機能を坦わせると
強と機能は、真銭、鉄、白銅などを材料と
ちょう つが も ひ じ っ ぼ
する金属製装錫だけが持つ重要な役目なの
コリ(輪状の取っ手)、クアンドゥジョン(大
おお
キヨンチョブ(蝶番)、トルチョギ(肘査 と附鉱)、トルセ(掛け戸の鈎や取っ手)、 平頭釘)、カムジャビ(門の柄に巻き付け
である。 一方、装錫はこうした本来の目的のほか
ある。主な装錫の種類と機能を見ると次の
て打つ金属片)、 アッパタン(前板)、クィ 装飾(角の飾り)、チャムルセ(錠前)などが
ひらあたま ︿ ぎ ほ ぞ
木工古否聞の完成美を引き立たせる装飾的機 能も大きい。調度品の用途によって異なる 木材が遷はれるが、職人たちは自然の美し さというものを大事に考えていた 。金属製
朝鮮時代の木製家具に
付着された蓑錫を見ると、職人たちが
i胞を振る っ た 伝 抗 的 な 金 属 技 術 と 木 工 職 人 の ヂ ザ イ ン が う ま く
調和していることが分かる
二層縫( たんす) に取り付けられた装錫( 左)
20
w
21
-------ifj
軍軍事
将 軍I
通りである。
キヨンチヨブ(蝶番)
能は同じであるが、作り方と取り付け方が
違い、戸をつけたり外したりするのに便利
である。このトルチョギ式は、韓国伝来の
住居の施工方法から生じた知恵と見られる
ている。また出入り一戸のほか、チャンタク
が、正門とか大型の戸にこの方法が採られ
(僕卓 H副食物の材料などを載せておく台
対称となる二つの金属板の軸を中心に互
や棚)や本棚など、重い物を入れるか載せ
いにかみ合って開閉するように作った仕掛 である。キヨン チョ ブは開き戸を本体につ
をキヨンチョブという。日本の蝶番のこと
ておく木工芸品にも使われている。
られる。昔は二つの金雇板がつながって開
きており、何にもまして完壁な機能が求め
取っ手を総称してトルセという。トルセは、
引っ張ることができるように仕掛けられた
扉などに付いていて、手で持ち上げて聞
木工芸品の覆い板や大きな家具の左右の
トルセ(取っ手)
け、聞けたり閉めたりしてやる役目をし、 開閉する開き戸には欠かせない金具であ る。このキヨンチョプは開き戸のみならず、
閉することから﹁キョプチョブ﹂(二重一のも の)ともいった。キヨンチ ョブは、朝鮮時
開聞を要する大小の調度品に広く使われて
代に奥の聞に置くたんすや、鏡台、パンダ
ことから力学的バラ ンスが取れる ように家
やはり装飾用よりは機能的な役割が重要な
た。キヨンチョブの一つにトルチョギとい
い。持ち 上げるとか引っ張る機能から見る
具の左右に取り付けられているものが多 うものがある。トルチョギは開き戸を開閉
取っ手といえるだろう。機能とはかかわり
は小さな取っ手であり、トルセは大きな 戸にそれぞれ取りつけて門を開閉する仕組
なく、木工芸物の構造的形態に変化を与え
と、おおまかに言ってコリ (輪状の取っ手)
みの金具をいう。これはキヨンチョブと機
できるように、雌形のは門柱に 、雄形のは
機能もさることながら装飾美も重視され
けるとか、引き出しゃ扉などに付いていて、
とぴら
ジ(箱状の衣類入れで表側の半分が開閉で
牡丹模様の装飾( 下)
きる)などの家具に多用されたが、実用的
蓬の実模様の取っ手受けと七宝形の取っ手 (上) 。
W W W W W W腎 腎 事 . 腎 事F
lF 甲軍事F W W W W W W将 軍 亨 将 軍_ l f M' f ' _
22
の台の上に様々な形に、装飾を凝らしたも
入れものや引き出し用のトルセは、トルセ
るため取りつけられることもある。小さな
れることも多く、紋様は基本とされるまだ
アッパタンは本体の構成要素として按配さ
目的とする装飾アッパタンもある。装飾
らある。また、実用的な機能よりは装飾を ジョンは、一般にパンダジの前面に取り付
頭釘のことである。装飾的なクアンドゥ
一組になるよう同じ形にデザインされるの
を﹁へソ飾り﹂とも言って、 トルセの支えと
カムジャビ
が主に使われた。
が普通である。クアンドゥジョンの形は大
のが多い。
だら模様、梨の花、菊の花、水仙の花など
部分、単純 ・素朴で、模様としては月、ま
に豊かにするだけでなく、釘の跡やきずな
してある。この ような装飾は平面を視覚的
葡萄、不老草など写実的なものからなって
どを隠す役割をする。また、小さな木智聞
けられ、その形や大きさによって空 間的構 成に立体的な感しを与えられる ように工夫
いて、富貴と長寿、多福を祈る象徴性の高
や函(結納を入れる箱)などの底に取りつけ
木の家具で継ぎ目や角のと ころを丈夫に
て支えとすることもある。また、トルセが 取りつけられる場合、大平頭釘は長いこと
するために取りつける金具をカムジャビと
いう。カムジャビは、板と柱、柱と柱、板
クアンドマションとは、釘の一種で、視
と板の構造や地き目 の部位を 両側からしっ
クアンドウジョン(大平頭釘)
いものが多い。
ら模様 のほか雀、魚、 コウモリ、鹿、鳳風、
アッパタン(前板) アッパタンは、入れ物の開閉のためコ リ (輪状の取っ手)や錠前などをしっかり支え である。機能からすると錠前を支えるもの
機能させるように取りつける金属板のこと
が大部分を占めているが、隠穴錠前のアッ
けられて機能の補助的な役目をする。これ
使用に耐え、楽に持ち トム けて開けられるよ うに、 トルセが木製品に付く部位に取りつ
23
覚的 に装飾性と構造的な機能を兼ねた 大平
時計四 りに、石僧形日字紋様に透かし彫りをした装飾、亀形の錠前、
パタン、戸袋錠前のアッパタンも少数なが
nm ﹀訂↓印 h u ﹀
錠前の一つのソ ンパチムデ、様々の錠前
E ~.rJ:i E i .: SE 2fa Ea -t
7姐臨過酷;: r; . : r; 温S24a障 措 誌 鑑 閣 時 過 必aEE姐EE温陪過酷E 盗団江鍋直通極通区白・時過髭歪温認過酷EaL宝温雪道監率温EEaE; E盆
pnm ﹀司,﹁印司、
富貴と長寿、多福を祈願する多様な形の蝶番
スを保たせる補強装飾を兼ねていたので立
かってキズがつくのを防ぎ、全体のバラン
ともいう。これは他の物が木の家具にぶつ
木材の長持ちと強い付着性、角の 仕上げの
体的に作られた。
かり固定させる機能を果たす。そのため、
ジャビには木工芸品の部位によってゲパン
が、前面の端の部位に透かし彫りされた紋
と ﹁ し ﹂の けることができる。多くは、﹁寸 L 形で前面と側面の上板と側面に取りつけた
物に取りつけられて鍵で開ける仕掛けに
閉できるようになっている木からなる構造
した装錫の金具の 一種である。これは、開
取りつけて他人が開けられないように考案
チヤムルセ(錠前)
美的感覚などを高める役割をする。カム
ムジャビ、チョクトン(足の部位)カムジャ
(蓋板)カムジャビ、ホリッテ(腰の部位)カ
様で飾るのが普通である。紋様は左右対称
なっている。小さな箱からたんす、机、米
造も異なる。このため機能別と形熊別に分
心の装錫であるため、その形態によって構
きゃ形も様々である。チャムルセは機説中
びつ、倉の 戸に至るまで広く使われ、大き
チャムル セは、扉やたんすや入れ物箱に
刑宍まだら模様刑宍燕尾型、草型、不半者十
ピ、モムトング(胴体)カムジャビなどに分
型などが主に使われた。
角の装飾ほ
けられるが、機能別に見ると、さらに据付
け型と独立型に分けることができる。据え
他 の 粉 が 木 の 家 具 に ぶ つ か って キズがつくのを防主、
付け型チャムルセには隠穴チャムルセ、ソ
その形と大きさが木工芸品の美的感覚を引
ある。使い方も、またいろいろある。これ らの錠前は機能本位に作られてはいるが、
前)、亀型(かすがい型)チャムルセなどが
ルセ)、トゥコブタジ・チャムルセ(戸袋錠
ン・チャムルセ(一名、ネズミの尾チャム
全体のバランスを保たせる 補強装飾を兼ねていたので 立体的に作られた
クイ(角)壮語
装錫のデザインは木工芸品の形と用途に
き立たせる。
性が重一視され、おおむね単純な形をし素朴
木工芸品の角の部位に当てる装錫で、 木材の脆さを補うために取りつけられる。
な作りであった。ところが、だんだん装飾
ことになる。つまり簡単な作りから複雑な
性が重んじられ、造形美に関心が払われる
よって異なるが、朝鮮時代の初期には実用 のに対して、クィ装錫は平面的に取りつけ
つ﹂の形、﹁し﹂の形の金属 カムジャビが、 ﹁ を取りつけて立体的に木の構造を強化する られる。ふつう、たんすなどで二つの木材
に美意識の移り変りとともに生活感情の流
造形的表現に変わっていくわけだが 、そこ
がつなぎ合わされる継ぎ目の部位に直角に つける。木工芸もので三面が接し合う隅の
れを読み取ることができる。一般に、デザ インの基本要素である点と線、これらが集
角の部位をすっぽり覆い包む装錫で、角の 方にコカル(山形のかぶりもの)をかぶせた ように見えるということで一名コカル装飾
24
こから発展した楕円形、半円形、四分 の 一
の形は円形である。円形には、真ん丸とそ
現されている。もっともよく使われる装錫
覚的な対称をなして安定成事﹄与えるよう表
ンの基本原理である形の反復的な調和が視
できあがる。おおざっぱに言うと、デザイ
れる類似形とさらに発展した複合的な形が
円形それ自体の小さな変移として形づくら
角形などの変形が生まれる。非常に単純な
ら基本型である丸形や三角形、四角形、六
象徴性が添えられて、見る人の気持ちを和
どった動植物は 、それぞれ吉事につながる
た装錫の形は、それだけで美しいが、かた
朝鮮時代の職人の豊かな想像力を窺うこと のできる面白い発想である。これまで述べ
たびに蝶が飛び交う姿に形象化している。
アッパタン(前板)に用いて、扉を開閉する
見立てていたことから一扉の蝶番や錠前の
れている。とりわけ、蝶は木製家具を花に
りしたらしく、特に女性用品に広く用いら
ている。蝶は別名、野蛾または風蝶とも い う。他のどの動物より女性の好みにぴ った
やかにする。これら自然物の中から選んだ
円、輪形そして半立体円形などがある 。円
形は太陽と月の具体的な形を形象化したも 形の装錫は、透かし彫り技法や離蝿(金 ・
材には松の木、けやきの木、桐の木、黒柿 の木などが主に使われる 。これらの木は柔
ので、もっとも広く愛用されている 。特に、
かで美しい木目を持っているが 、金属の装
銀・銅の製品に模様を刻む)技法、象眼技
つけられている円形の蝶番は、一方の扉を
どによく用いられたが、開閉する扉に取り
錫は木材の持っている材質感と自然のうち
法を使って仕上げる 。家具の材料となる木
聞けると半月となり、閉めると満月になる
に調和し、木工芸品の品位を高める 。思う
アッパタン(前板)のいわゆる﹁へソ飾り﹂な
という意味が与えられる 。自然界にある動
に、これは金属装錫だけが持つ特性であろ
キヨンチョブ(蝶番)とチャムルセ(錠前)の
もので、動植物は写実的に表現されること
植物の像は人間生活との自然な調和をなす
は少しずつ暗い色合を帯びるようになった が、真鏡、白銅、錬鉄や象眼を施された銀、
う。そこで時代が 下るにつれて木工芸品
赤銅、銅などの装錫は、時の流れとともに
も、また抽象的に表現されることもある。
動植物の形象から人間の五福(寿・富 ・無
自然現象から長寿につながる瑞気を求め、
病など)を兼ね備えた瑞像を求めたのであ
具の美しさを引き立たせ品位を添える。こ れは全体的な空間の比例とバランスの取れ
艶か出てきて底光りがするようになり、家
た整合性といった盛見をもとにして、それ
る。植物は、生活周辺にある数 身の花を単
的には菊形、宝相華(唐草模様の仮想の五
純化した花形が大部分を占めている。具体
a 弁花)形、水波蓮(紙 つ くりの蓮の花)形、
錫を施した職人たちの審美眼によるもので ある。装錫の美から朝鮮時代の人身が平生、
にふさわしい材料を使って手噴な部位に装
草形、天桃(天上にあるという桃)形が好ま ぎ れた 。このほか二重菊、桔梗、水仙花、石
抱いていた念願と産嬰﹄読み取ることがで
ぼみ
権、梅の花、梨の花、蓮の膏、ヒマワリ なども少数ながら用いられた 。動物界では、
生活とつながり合って装錫にその意味を付
︿るつ
装錫に好んで用いられたのは吉兆を象徴す
と自然の観察からくる直観の世界が、日常
きる。自然の摂理に順応しようとする態度
このほか鯉、鳳風、雀、鶴、鹿、カニ、ザ
与したのである。 .
﹀司↓ωppnm
25
るコウモリ 、燕尾、蝶、魚などの形である。
リガニ、虎、兎、亀、エビなども用いられ
トルセ( 取っ 手)
ま って直線と曲線を作るわけだが 、ここか
量蔀・2EaeEa宮温認通話通認温曜温曜盆率温EE盤恋温宝盆EaEz a認週sz aeE温民 団 EBaEE盆 Z過は週SEaEEaEE語障畑区
苦 喜
ι ︾司 ﹁ 印勺﹀のm
26
国の木製家具は華麗な塗装や精
戸川﹄ 巧な彫刻を嫌い、単純な簡潔さ
L I二
4rt﹁ をもとにして快適な比例と自然 の木目を重視する。この家具とともに発達 した今一つの工芸に、特殊な材料、精巧な る螺銅漆器工芸と筆角(牛角)木器工芸なら
紋様、細心な製作技法、華美な効果を見せ びに桁起工芸がある。
螺銅漆器 漆器とは、漆の木から採取した天然の漆 を木や麻の布、陶器の素焼き、または竹の 一世紀噴の茶戸里出土品や五i六世紀三国
器の上に塗ったものをいう。漆器は紀元前 (高句麗 ・百済・新羅 )時代の皇南大塚古 墳、八i九世紀の統一新羅時代の雁鴨池な どで多量に出土されていることから、遠い 螺銅漆器は、型の上に組い麻布を張りつ
普から使われてきたことが分かる。 け、貝穀の粉や牛骨の粉または粘土に漆を 需せて塗った後、その上に嫁銅をいろいろ な紋様に切り取ってはめ込み、再びその表 面に繰り返して漆を塗って仕上げる。した
27
16C,31.3x31. 3x9. 8αn 国立中央博物館
螺銅箱。
竜仁大学美都洋桝耕受
朴柴圭
~
一一正一一#
.
.
て望ゴ仁竺ア
.
.
~
.
_ ....二 二E 二 二E
酔 -'--
; 1宣言 と 虫 累 室 田 ;黍
- .
旦金旦
んに行なわれ、この時代には切り取った螺
銅を槌で叩いて表面を平らにする﹁打抜法﹂
が新しく登場した。そして吉田鹿時代のよう
に二筋の銅線をよって筋と輪郭を形づく
り、鐙甲(海亀の甲羅を煮たもの)を使って
紋様は宝相華紋、菊花紋、高官十紋が大部
独特の工芸効果を出したりした。
よりはおおざっぱで大胆に表現されていて
分をなしているが、高麗時代に比べ精巧さ
の陶磁器に悪しられる味わいと一脈相理し
素朴で親近感を与える。これは、朝鮮時代
朝鮮時代の後半になると、製作道具が発
るものである。
り取り、直線は長く、丸い曲線は小刻みに
達したため螺銅を細長く一定の幅で長く切
(切断法)技法が使われるようになった。こ
切って紋様を形づくっていくクヌムジル
のため筆で描いたものに劣らぬ柔軟な表現
が可能となったし 、また螺銅を紋様通りに
切り取った後、その上に彫刻万で彫刻を施
す彫貝法を使って、すべての紋様を思いど
おりに写実的に表現できるようになった。
主に十長生紋、花鳥紋、四君子紋、竜紋な
ど民画風の紋様と寿福富貴栄華などの文字
紋とが使われた。 一つは組い感しがする 。しかし、多くのも
る経函を作るため朝廷が﹁銅函造成都監 と L
る。また、曲家古の高麗侵入後、経典を入れ
書類箱、硯床(文房具を置く小さな机)など
純で簡潔な紋様が施された筆入れ、煙草盆、
また、男性のための螺銅製品としては単 がって、反復される漆塗り年来と螺銅をは
のが集まって立派な声量模様をなし全体の
のはあまり上手ではないが螺銅の仕事は手
臣の﹃高麗図経﹄によると、﹁器に漆を 塗る
銅銀入総の金属工芸技法に利用された紋様
描いている。これらは高麗の象限青磁と青
部分で、このほか水辺の草と鳥、柳なども
よって唐草模様の筋をなす菊唐草模様が大
螺銅漆器とともに韓国工芸で大いに発達
華斉工芸
向とよく合ったため広く愛用された。
の生活品は、華美な螺銅の効果が女性の趣
Hたんすの一種 )が作られた。この女性用
した飾り)箱、チャン(横 H箪笥)、ノン(寵
たん す
台、ベゲンモ(枕の両端につける刺繍を施
文房具類が主に作られ、女性用としては鏡
め込む難しい製作工程だが、一旦できあ
いう新たな機構を設けて、分業で大量生産
がった螺銅漆器はなめらかな黒色の漆の下
調和が取れているため、優れた工芸品に なっている。
が込んでおり、値打ちがある﹂としている。
高麗の螺銅漆器の紋様は二筋の銅線を
また高麗の文宗王が中国に螺銅漆器を贈っ
一種の逆象眼技法と見ることができる。
と同じもので、また螺鋼技法も直麗焼きの
士一世紀ごろ高麗につかわされた宋の使
墳からも出土しており、中世高麗時代の遺
たという記録があることから見て、十二世 作技術はかなりの域に達していたようであ
螺銅漆器工芸品は、古代の三国時代の古 物には螺錨経函、嫁銅今心珠函、螺銅箱など
紀ごろには外国に贈り物にしていいほど製
といえる。
は螺銅を薄く、または紋様通りに切り取る 道具が発達していなかったため、その一つ
朝鮮時代に入っても螺銅漆器の工芸は盛
精巧な螺銅漆器製品などがある。中世まで
虹色が反射し、その華麗さは工芸美の極致
塗りの上に天然の螺錨が見せる玲聴とした
を行なったといク記録もある。
華角( 牛角) 四層織。 19C. 52.5x41 x95. 5cm
28
J
角)工芸である 。これは幼 したのは華角(牛 して平らにゆま ご い牛の角を湯に浸 引れ の四角に蒔く削 と一一定のまさ 色な な赤、緑、賞、白 し、その上に強烈
弔問持品村詰 は UJ持町内いいわ計均 持 に 一 一 貯
て華やいだ雰 Jリ ゴ て 、 柔 か く ッタ 泊 L fし、女性の趣向にピ タ E---! 牛角の大き こ oh っ1 K するよう亡﹄ A 妥i 7 、 戸製口聞は しか得 大きさの四角の板 さのため収られた
。当然響聞は
高
f 訂 れ 昨日山内 幻灯十斗片山 れ 長話ぱかった
11
つなのかは定かで 工芸の起こりがい 工L 器の螺銅ととも﹂ f 治、高麗の螺銅漆 と考えれ 響を受けたもの 刊つ山一阜の影 難であっ 笹田中の入手が困 こてとしうのは、 の工芸を 思いついたもの 式ため類似の牛角 である。ま と考えられるから 十日四吋 の枠に瞳甲らい 鮮時代の蓬角函 たものもある。 海亀の紋様を施し 竜 ては十長生、雲 書工芸の結とし 民画風 カザザギ、虎など 鳳恩、牧丹、倉山
29
国沼市民 た。 JJJB世泊伝う寸口口などに主に使われ 、 と 工芸の遺物をみる 今日に伝わる華角 り品や小品の家具 ほ JJんどが伺何日子の身回 、ポソ ンモ、小たんす 類で糸巻きペゲ がそれ たんす、議など わい品一it) i 化粧道具は鏡台、オルレビッ ↑ 内 さ っし チャムビッ(自のぎ (やや荒自の樹)、 る0 語)など多数に上 . つまった仕上げ用
22.3αn 18 C . 36. 5 X 21.2 X 個人 所 蔵 華角 (牛角) 函。
連した事務を司 った承政院の六房のひと
二のコンパン(工房 一 工業、土木などに関
て父親の下で仕事を習い、見ょう見まねで
兼ねた家具師であったという。彼は幼くし
の千諮問は、朝鮮王朝末期の名高い大工を
キ板の端に黒柿の木(製材した木目が黒光
使 ってノ ンを作ることである。特に、ケヤ
彼の独特の技術は、ケヤキを主な材料に
コリアナ
つ)があ ったからだと、この地の人々は言
ここ慶単定地方の木製品の特徴は、ケヤ
i
う。壬辰倭乱(文禄慶長の役)の時に、関山
財に指定されるにあたって、その巧みさが
E
職人のふるさと統営の匠を訪ねて
指物師、千司涼
4rE寸 閑山島から全羅南道の麗水まで
島に設けられた三道水軍統制営が壬辰倭乱
キを使って木目を生かすところにあるとい
認められた特技のうちの特技である。これ
、 、J ψ
の海路をいう。およそニハ δ あまりに上る
が終わって、今の統営市に移されてからは
えるが、千さんが作る木製品も、まさしく
はなかなか身につけられない驚くべき技で
dV14λ1
大小さまざまの島が浮かぶ、この辺の美し
統制使がその中に兵姑基地の役割を果たす
この 類いである。漆塗りをしなくても、 自
あることから、一時統営ではこれに似た製
L I二 国南海の絶景に指折られている 出 川 よ 閑麗水道は、慶尚南道統営市の
い海路の中でも、統営市の海域は、がぜん
一一一のコン パン を置いていろいろな軍事物
しさを誇る伝統的なノン(たんすの一種 つ
然のままの木の色と模様で端雅で優雅な美
統制営を廃止したためコンバンも庖じまい
あったのである。しかし朝鮮王朝の末期に
しる 。
存在になり無形文化財五五号に指定されて
くりを父親から受け継いで、今では独歩的
な建筋を左に曲がると、古いみすぼらしい
ど真ん中にあった。新しく建てられた立派
武デパートの向かい側の賑やかな中心部の
の模様)を施す技法が、即ち彼が人間文化
まが 一幅の 絵のように眼下に 迫った。飛行
することになったのであるが、このため職
最近、統営の伝統的な手工芸の継承と発
は統営伝統の名物の統営たんすに関する由
家屋の門が自に入った。そ して、そ の憐に
手並みを鍛えた。
閑麗水道一の佳景を誇っている。
資を作らせたのであるが、そこにこのよう
りする柿の木)で雷紋(方形あるいは螺旋形
ソウルから澗川行きの飛行機に乗って五
な工芸品を作るコンパンも、いっしょに
機の下に広がる南国の情趣をプ lンと悪し
人たちもばらばらになり、それぞれ自分の
の後援によって伝統工芸館が設けられ、千
展を目指して、文化体育部(省)と地方官庁
高い。特に、現在までもその命脈を継いで
こ統営は工芸品の産地としても、その名が
装飾)、鉄物など木工芸に関係するすべて
けでなく、うるしゃ螺鋼、装錫(金属製の
理由も、突き詰めてみると木を扱う技術だ
この地に木工芸が発達するようになった
楽になったといえそうだが、細かい工程を
とりで作業していた昔に比べればはるかに
の技術を習おうとする弟子もいるため、ひ
が広いスペースを占めている。今は千さん
二階建ての工芸館には、特別、彼の作業室
さんの家にあった工房もここに移された。
近くの山に登るという彼は古希の年齢にも
記者を待っているところであった 。毎日、
らやって来るという連絡を受けて 、自宅で
ちょうど、千さんは雑誌記者がソウルか
あることを紹介する案内板が立っていた 。
来と、それを作る指物師、千相源 の住居で
統営市の文化洞(町)にある彼の家は、忠
させる美しい風売か、縮こまった冬のもの
工房を聞いて仕事をし、それが代を継いで
)a
い海に、宝石のように散らばる小さな島じ
O分ほどたったろうか 。波のうねりも美し
品がはやったこともあるそうだ。
寂しさを遠くに 押しや ってくれるようだつ
きているのである。
いる統営ソパン(お膳)や統営カッ(馬の
の手工芸がごく自然にかかわってくるから
南海の明娼な景色が、いっそう映えるこ
た 。
しっぽの毛で作る冠の一種)、統営漆器 、
である。 木とともに、その半生のほとんどを送つ
の若者に欠けていることが、なんとも残念
とことんまで身につけようとする根気が今
いるようにみえた。
かかわらず堂々とした体格で力があふれで
らでんチャン yタ
ん技術的にも秀でた製品である。職人のふ
統営たんすなどは独特な形や模様はもちろ
てきた指物師の千相源さんも、この地で
チ ョy サ yウ ォン
このように数 々の伝統工芸品が今日に受け
るさととしても広く知られている統営で、
千さんと向かいあ ったアンパン(奥の間)
五代続いた統営っ子である 。千さんの亡父
だという。 継がれている理由は 、その昔この 地方に 一
30
31
可
R528・ c
32
なっているたんす)などが、まるで安物の
ので、本来ノンを構成している内側の桐の
と紋様の効果を兼ねた飾りの要素が強いも
除いてはあまり装錫を使わなくなりまし た と答えた 。 ﹂ この地方のノ ンに見られる装錫は、機能
仕事は三国(高句麗・百済 ・新羅)時代の以
葉である 。記録によると、ソモク ( 小木)の
内家具を作る木製品の職人を指していう言
クチャ(四方卓子一テーブル)など小さな室
チャ ン(小木匠一指物師、家具師)はチャン (たんす)、 ノン(たんすの 一種)、サパ ンタ
られた技法ではあるが、それを ノン の正面
工程は過去にも小品の文房家具に時たま見
マウルシの木で 縁どりをして 雷紋を形作る
。 黒柿の木とヤ 案したものであろうとい う
んすの一種 ) も、おそら く金普逸先生が考
も昔のようなものは作れません。わたしが
が、装錫のためかえってその味が少なから
れなければならない本来の自然な装飾性
該当官街に木匠(役所に勤めていた木工)を
ており、朝鮮王朝の時代にも都と道ごとの
要したにちがいない。
ぅ 。 千さん独特の技術である雷紋のノ ン( た
家具 のようにあちこちに無造作に置いてあ
板が丈夫でないことから装錫を家具の前後
には、彼の手で作られた三段構えのたんす
る。自然の木目には、ちょっと不向きな派
子供の頃でもそこらへんで、あっちこっち
( 木製品を作った職人)、金普逸先生の下で
千さんの 父親は朝鮮王朝時代の木物匠
大事なことは、なに一つさせてくれなかっ
で仕事を習い始めたころ 、師匠は薄情にも
を建てていた彼が指物師、金並目逸先生の下
木匠であ った。あちこちから呼ばれて建物
彼の 父親は、昔その名を轟 かせていた大
装錫を作っていたんですが、今は晋州まで
置いていた。
数年間に百一っ て無報酬で仕事を習ったとい
テモク(大木一宮大工、大 工)が宮殿や寺、
うあり様なんですよ。ですから、最近作っ
大工を指していう言葉だとすれば、ソモク
または邸のような大きな木護審を建てる
出かけて行ってやっと手に入れられるとい
ず損なわれているように思われた 。
やパンダジ(上部だけ開閉できるように
手な装錫(金属の装飾)が多少目ざわりな感
に拡大して施すということは工程の複雑さ
ーあるが・
からみて、かなりの熟練した技術と手聞を
時たま見られた技法では
は官府の中尚省に小木匠(指物師)が所属し
過去にも小品の文房家具に
前から専門職であったという。吉田麗時代に
雷設を形作る工程は
いう。ケヤキの雷紋(稲妻型紋様)が生かさ
ヤマウ J レシの木で縁どりをしで
左右にたくさん使って、丈夫にするのだと
黒柿の木と
じがしますが :::と ぶしつけな言葉で初対
たんすの前面を組み立てている干さん( 右)
面のあいさつに代えるや、﹁最近は、装錫
千さんの得意とする稲妻形の紋様( 下) 。
ているノン(たんす)には特別必要な部分を
33
指物師の技は、かんな掛けに始まる。絹糸より も繊麗なかんな屑を作りだす千相j原さん( 上) 。
わらず、先生は手ほどきをしようとはしな
ばをいっときも離れようとしないにもかか けそえた四角の太い木材)や童子木(家具の
美しいケヤキである。そして壁線(柱に付
雷紋のノン(たんす)の主な材料は木目の
オンドル部屋に積み主けておいて、ひと月
模様のある部位によって適当に鋸を入れて
少なくとも一年以上よく乾かした木は、
二、七ハむ万円)にはなります と L ひと言。
たら、ざっと見積もっても二億ウォン(約
む金持ちですよ:::。この木を金三量し
紋(直角になる四隅の部位の雷紋)のものも
を作るのであるが、二 一枚重ねて作るキネ
細く裂いて、これを何枚も張り重ねて雷紋
の木、ケヤキ、柳の木などを一ミリ程度に
合いがはっきりした黒柿の木、ヤマウル シ
ネ紋、ホッキネ紋、三回装などは、木の色
も最後まで習得できずに途中で授け出して
かった。しかし、生まれつ告示工の素質を 内部を仕切るのに用いる細木)など骨格に
以上乾かさなければならない。どうせ家具
﹁他のものはいざしらず、木だけは人も羨
もっていた彼の父親はあきらめることなく 使われる木材は、梨の木、桜の木などの木 自の美しい木である。
というのは室内で人聞によって慣らされる
半生を暮らしてきた。
師匠の技術を見ょう見真似で覚えることが 木を選ぶ時は、まず木目を見るそうだ。
ものであるから、あらかじめそれに連めさ
た。手の込んだ技術が習いたくて先生のそ
千さんも幼い頃から父親の後をついて歩 次に色である。木目は、波状または山水の
﹁木といっしょに寝てみると、人間の体
る作業です。弟子たちにこのキネ紋の作り
﹁いちばん難しいのはキネ紋の線を 入れ
大きなノン(たんす)に使われるキョプキ
しまう者が多いという。
きながら木工仕事を手伝い、人々にほめら
一 六Oあまりも施されるという。
ある。大きなノンには、このような雷紋が
できた。
れたりした。父子相伝とでも言おうか、彼
せておかなければならないそうだ。 温がどんなに大したものぜあるかが分かり
﹀勺ノ。
模様をした木や滴の模様が多い木を運ぶと ﹁木を見分け、扱えるようになれば、指
の手並みも、また生まれながらのものと思 われた。彼はサムサン小学校(現在の統営 物師の仕事は、もう半分以上覚えたような
まとめて逃けてしまいます。このキネ紋の
方を手ほどきしだすと、十中八九は荷物を
IV
に住宅の修理をしたり、新しい住宅を建て
小学校)を卒業した後は、父親といっしょ
いっしょに寝ながら曲がったりねじれたり
ます。体温で木が素直になるんですからね。
白松などと数えきれないほどたくさんの木
ケヤキ、梨の木、銀杏の木、桐、黒松、
ドにあった日本の植民地時代に、彼は徴用
が韓国の伝統家具の材料になっているので
い話である。
達人の境地なくしては到底、理解できな
たものまで合わせても、いくつにもなりま
すから、そのひもじさといったら言葉に尽
﹁野原に草すら生えていなか った時分で
自ずと木のことがわかるようになるはず、
いい木を捜し求めて全国を歩いてみると、
のがよく、捗域外にあるのは劣るそうだ。
ても、慶尚北道の慶州の城郭の内側にある
いをそのまま生かすには、かんなかけが何
かんなかけが始まる。木のもつ自然の色合
人間の体温に 一旦、慣れると、この時から
このように一通り、手の加えられた木が
きれいに積み上げられていた。
づかいを感じるかのように、部屋の片隅に
多く、手間のかかる作業であるため彼自身
他の手工芸に比べて手間のかかる工程が
けんどんに答えた。
ても、もったいなくて売りませんな、とつっ
に、彼は三、の門む万ウォンくれるといっ
にして、これに値段をつけるとしたら大体
た精巧で優雅なキネ紋のノン(たんす)を自
彼がサランパン(主の居間)で見せてくれ
せん﹂
くしようもありませんよ。うちの人人家族
というのであるが、近頃は主に智異山の河
より肝心だが、このかんなかけさえ、きち
千さんのアンパン(奥の間)には、一定の
ノンは、父が生きていた噴いっしょに作っ
もんです﹂
されて鎮海の工場に強制的に引っぱられて
ある。海岸の木がいいのは木目の紋様、が多
大きさにそろえて束ねられた木が主人の息
たりしながら大工仕事を覚えた。緊張ムー
行き、そこで事務用の机や家具を作った。
様だからである。特に、欝陵島の木は高く 評価されていると下う。同じ黒柿の木にし
する木を手でなでてなだめてやるんです﹂
解放を迎えて、そこを出た彼也遅刻した生
はほとんど飢え死に寸前でした。父に道具
東や山清地方の木を使っているが、ひと昔
活に追い込まれる。
箱をそろえてほしいとひたすら頼みまし
前のように、やすやすと手に入らないとい
ることができる。
ても常にすべすべして、鮮やかな木目を見
んとしておけば別途に塗りをしておかなく
わが国の伝統を愛する自の肥えた買い手の
も作品を多くは持っていないが、それでも
統営の木製家具の特徴は、なんといって
需要には、とても追いつけずにいる。
いくらくらいになるかという記者の質問
た ﹂ 彼は巨済島に向かった。解放後、無法の
︾円ノ。
家具を作るには、まず末材を手に入れて
地になっていたこの島では、ところかまわ ず傘庁で木を切り倒しても誰も文句を言わな
よく乾かさなければならない。木によって
もノンにある。特に、骨組みの使われない
は日光または雨にさらしたりしながら乾か
彼が好んで作る紋様は、細い線と太い線
ら呼ばれて仕事をして回った。金の代わり
ノンの形態が他の地方のとは違う。ノンの
か った。廃虚になった家を一軒 一軒新し く 建てなおしながら彼は位しく、あちこちか
チョゴリの襟、袖、脇の部分に施される飾
面の構成は骨組みのある ノンと同じ構成に
だけを活かした三回装(女性用の韓服の
なっているが、柱とか童子木、腰板、セモ
ろに 一年以上、陰干しして乾かす。長い時
すものもあるが、多くは風通しのいいとこ
り縫い)の紋様をはじめ、雷紋(稲妻型)キョ
にもらった米で家族がどうにか糊口をしの いだと言うのだから、当時の人身の窮乏ぶ
聞をかけて乾かすほどいい。乾かしている
ネ紋(四隅を一重にした模様)などで、中で
プキネ紋(四隅を二重にした模様)、ホッキ
みが現れない形態的な特徴があるのであ
たりしなくなるからである。
る。工程が複雑で難しいため、彼の門下生
も雷紋は競い手のない彼だけの特技であ
聞に、木の痔かぬけて木がねじれたり裂け 千さんの家にある仮小屋に集められた、
りが想像される。こうして三一年ほど過ごし
ありとあらゆる種類の木に驚いていると、
た彼は、再び忠武に帰ってきた。その時か ら、父親から継いだ技術をもとに彼は、ひ
ク(たんすの前両柱の聞の横木)などが組み 合わせになっているため、表向きには骨組
たすら指物師としての道一筋に五O年近い
34
る。また柳の木と黒柿の木を使って 、雷紋 (稲妻刑設様)を家具の扉や引きだし、腰板 などの端に多く用いるのも異なる点であ る 。 いったん、ケヤキの板をひとかたまりに したものをハンモッという。 このハンモッ の両面に桐の板を張って真ん中を挽く。こ
を一定の厚さに六等分する。その一枚一枚 のように雷紋のノンの作業は板をにかわで という工程で貫ぬかれる。この際、使われ
張って鋸で挽き、かんなで削る隼宋の反復 る鋸とかんなは、 一枚刃ではなく昔からの 朝鮮の鋸とかんなでなければならない。前 向に引く日本式のものではなく、向こうに 押し出す式のものでなければならないので ある。鋸を上手に使えるようになれば、仕 事はもう半分以上習ったも同然だというの んなを使いながら見せてくれたかんなから
だから、前知繰の深みが窺える。 千さんがか
いかんな屑が、その半生を大工の道 一筋に
弾き出される木綿糸のように、細くて美し
千さんの作業室には亡くなった父親の代
歩んで来た職人の境地を代弁している。 から受け継がれてきた朝鮮鋸から西洋式の 鋸、大きめのかんな、小さめのかんな、仕 いほど多くの道具が道具箱に、そして壁に
上げ用のかんななど、いちいち数えられな
このように道具が多いということは指物師
掛けてある。ざっと三O数種に上るという。 の仕事がそれだけ、ややこしく難しいとい うことを窺わせる。 千さんには六名の子供があるが、長男の 文甲さんは螺銅漆器を、次男の文宗さんは
J
る。そして、この文宗さんの車掌 さんは、
父親の跡をついで統営たんすを作ってい
J
かきっと自分がそうしたように車掌 も自分
o ヲp ﹃
OC 6t
臼
35
今はソウルで他の仕事をしているが、いつ の跡を継いでくれると信じている。企'
ケヤキの木目を活かした、稲妻形紋様入りのたん す( 上) 。倉庫の中で千さんのかんな掛けを待って いる、よく乾燥した木材( 左)
田E pu ﹃ 安O 6IC
春植 ノ ノ 、 』 3三
『 京鰯肺i L 記者
ちぶれて、これといった家財道具もない暮
地方のある有名な宗家を訪問した時、落
スや構成は、当然のことながら原則のよう
ともに実際の機能を重視したお膳のバラ ン
ものや脚の部分に技巧を凝らしたりしたも のまでいろいろである 。しかし、大きさと
いにしえ
たま昔の伝統的なお膳を集 め ﹂﹂一、 ﹃て展示している会場に行ってみ らしぶりの中でも接待用の四角いお膳が十
全国的に海州膳、羅州膳、統箪陪、忠州
中では、羅州謄が機能や作りの面で臣家も代
膳といったその地方の名前をつけたお謄の
そうけ
ると、ソパン(お膳)の世界のそ
る。
のスケールと形の多様さに今さらながら驚
目にしたことがある 。美術評論家の故峯淳
あまり台所の壁にずらりと掛けてあるのを
に小さなケダリソパン(四角で犬脚形の脚
羅州の生まれで今は全羅南道指定の羅州
表的な韓国のお繕といわれている。
雨氏のお宅では、正月に客のひとりひとり
(韓国式の雑煮)とナバックキムチ(水キム
がついた小さなお膳)を用意して、トック
膳)から結婚式にみられるべベクサン(新婦 っする時に調えられるお膳)、自分が死ん
近代の風物を紹介する写真には、結婚式
に至るまでの全工程を手相を見るようにつ
材の準備からかんなをかけて漆塗りをする
は、木 羅州膳を作っている金春植さん(日 )
五 種類あまりの 膳の無形文化財になり、 一
のベベックのあいさつを受ける新郎の家
チ)でもてなしたという話は有名である 。
族、親戚が全てひとり用のお膳を前にして
韓国人の人生に連れ添われて、その歩みの 中でありとあらゆる生活文化を生み出し
にするのかを尋ねてからお膳を調える台所
膳)にするのか、トクサン(ひとり用の膳)
キョムサ ン(二人以上がいっしょに食べる
残っていた数十年前までも、客が来ると
韓屋など韓国の伝統的な生活様式が多く
がら食事中である 。
ン(ひとり用の小膳)を前にして酒を飲みな
人も泊めたところ)の旅人は、ケダリソパ
幕 一田舎 の道端で一杯飲み屋を しながら旅
えたものがよく見かけられる。チュマク(酒
ぐるっと輪を囲んで座っている様子をとら
どは、主に銀杏の木を使って作るが、上板
盤)、チ ェササ ン(祭杷床 一祭杷用の謄)な
る小さな膳)、キョジャサ ン(交 子床一台
膳とケダリソバン(犬脚形の脚のついてい
でも、こんな意識をさせるような家庭もあ
が生活の一部分を占めていた 。もちろん今
どについて音識せざるをえないようなこと
んな形式のお膳でもてなしてもらえるかな
膳とか赤い漆を塗って彫刻を施したりした
とに特色があり、螺銅細工をした螺銅のお
時代に全国の 家々で使わ れたお膳は地方ご
そんなソ パン(お膳)であるから朝鮮王朝
どりを作り謄の四つの角に丸味を持たせて
膳だけの特徴だという。上板は、周囲に縁
掘って挟みこんで組み立てるところが羅州
から脚に至るまでのすべての工程で溝を
キョムサン(兼床一 二人 用)用の四角の食
ぶさに知っている。
仕事や、人の調えてくれた食事をする際ど
ハンオク
た 。
ン(祭杷の膳 )にいたるまで、韓国のお膳は
だ後も代々子孫に調えてもらえるチェササ
が新郎の両親をはじめ家族、親戚にあいさ
ととの
r L i r かされてしまう。今でも子どもが、一つに
なものが体系化されていた 。
なると調えるトルサン(初誕生日を祝うお
a -
金裕卿
l ー 羅州ソバン〈お膳〉の匠、
36
羅州膳. つくりは、鋸やかんなより彫刻ナイフを多く使うため手聞が掛かる
37
ように大衆的に使われるとい うより、その
弓
勺R O UEd-c
上板と脚をつなぐ雲脚にも、
ごちゃごちゃした彫刻は避け、筒潔な絵柄でまとめて
膳全体の線を
指物師のすべての基本が膳を作ることに
金春植さんの工房の壁に 掛けてある様身な形の雲脚
はっきりと浮き上がらせる
含まれているという。上板をかんなで削る
脚をつなぐ雲脚にも、ごちゃごちゃした彫
七回から八回漆塗りを繰りかえす。上板と
の角度がそろわず膳がかしぐのも、腕の立
べ物の塩気で膳が腐食してしまう。繕の脚
溝ははっきりと目立つようになるというの
塗りしている聞にかんなの削り跡のような
んなの削り跡が出ないというが、全体を漆
時は朝鮮式の押し式でしなければ上板にか
ほどの丸い膳は、飾りを兼ねた手軽な膳と
角形で犬脚形の脚のついた直径三五センチ
しかないという。その代わり、上板が 十二
かしさのあまり求めるといったほどの需要
キョムサン(兼床)用の四角いお膳も以前の
継ぎ目が合わなければカシュ l塗りでごま かすため曙か壊れやすく、竹釘の代わりに
て申し分ありません と金さんは語る。
鉄の釘を使うため二年もたたないうちに食
刻は避け、簡潔な絵柄でまとめて膳全体の
たない膳作りの仕業によるものである。 ﹁ 羅州膳は全ての空間がはじめから終わ
いう用途が好まれて、それなりに需要があ
L
各部分のつなぎ自には、竹を削って作っ
。 Lる た三五本から四O本の竹釘を打つ。そして
昔の羅州膳のよさが忘れられない人々が懐
線をはっきりと浮き上がらせる。これは、
である。
るそうだ。また、膳の脚の高さは伝統的な
りまでひとつひとつぴったり合うように作
しかし以前と変わった点もないわけでは
るため、上板はがっしりとして、そりかえ
のだが、上板の方は近頃、膳の上に載せる
九寸五分とほとんど決まっているようなも
を考えてのことで、布巾がけをする時ふき
て作った雲脚は、最近は朝鮮明か手に入ら
なく、﹁餅のような﹂朝鮮柳の木を素材にし
人が食事をするに当たって重要な衛生問題
ることがありません。膳の脚は角を同じく
器がどんどん大きくなっていく傾向にある
削 ってバランスよく広げ、 上板の重みを支
なくなったことから銀杏の木に代わり、
やすくし、食べ物が膳の溝に詰まらないよ
えることから、全体が非常に丈夫で膳とし
うにするためである。 いいかげんに作った膳は、膳の各部分の EETWEdlc
38
ヲ
o z s t a l e 羅州膳づくりは部位と部位を継ぎ合わせるとき溝 を掘ってはめ合わせる
39
ため以前より広くしている。 海州膳は上板の下の部分の左右に華やか
に従って作られるお謄の数々は、われわれ
職人の想像力と材木の種類と規模、 用途
の高い人でも必ず姿勢を正して受けとらな
食事の曙か出されたらいくら病人でも、位
膳を持って、板の間を行き来した人の姿や
上板は四角から六角、八角、十二角、半月 の生活の 中 にしみこんで いる美意識を目覚
のお膳 を共に して も、父と子は同じお膳 に つかないといった ことなどが、お膳に関連
ければならな い礼儀作法、祖父と孫は一つ
形といったように多様であり、大きさも手 めさせる。蓮の葉のよう に作られた小さな
の平ほどのものからある。 ュ 膳か お謄 の脚も一本脚で支えるイル チ
ので、装飾性が強調されるのみで機能性に らあるが、お膳の場合は、脚の屈曲や形に
な透か し彫りを施した板状の脚のついたも 欠けているため、今ではほとんど姿を消し
して浮かんで来る 。 おそらく、そんなこんなのお繕の機能と
上板の 下 のお謄の脚の部分 には 、蓮の花の 著から半分ほど咲いたもの 、それにか細い 蓮の花の茎など 、蓮池を思わ せるようない
思い出が忘れられなくて 、 一軒にひとつか
よって、それぞれ犬脚とか馬脚、虎脚など の名がある。加えて、縁の飾りの繊細さが はあった。
くつもの彫刻を浮き上がら せたお膳も以前
ている。 統管露は、上板は松の板に螺銅細工を施 お謄の収集家の興味と関心をかきたてるの
でももっていたいし、外国に移民した人た
a'
ふたつのお膳ではあるが、アパート暮らし
ちも改めてほしがるのであろう。
懐かしきとともに思い浮かぶ昔の記憶の ち運ぶのに負担のかからないようにしたお
中には肩幅を越えない大きさで、両手で持
しており、羅州膳とは雲脚の技法に違いが あり、膳の脚の聞をつなぐ横木の数も異な 春植さんは言っているが、機械にかけて 削 るとその技法は生かせないそうだ 。
である。 このようなお膳の脚を作る手仕事 お膳の脚)チンダ(うつ)﹂と金 を﹁サンダリ (
る 。 このように地域的な特徴のほか、韓国の
木工家具は鉄釘 を使わず年を 経 るほど丈夫に なる竹釘を使-つ。 真下、 ) 竹釘打ち(左)と竹釘 ( 古くからの道具(最下)
お膳のみならず、
お膳は上板とお膳の脚の形が様々である 。
puETWCヨ白1C
40
羅州膳は 4 角から 12角までのもあり、また虎足膳の名のもあるが、広く使われているのは四角膳で ある( 上) 。写真の下、時計回りに金さんが制作した一本脚のー柱膳、虎足膳とその脚
41
しかし、そうした中にあって、世界的潮流
う印象をあからさまに与えるだけである。
し得るものである﹂
その国家の伝統に基盤をおいて初めて獲得
﹃
z s ) は、解放後の国際主義( FEECOロ 白
国民大学校建窒語教授
韓国の現代建築と韓国性の表現 パク キ ル ヨ ン
一 r- -ヨヨ E商 キhi ゴ
の蔓延により完全に窒息状態に陥る 。
国の現代建築における韓国性の
戸川下山 問題は、単に一つの表現上の傾
L I二
う動きが徐 々に生まれつつある L ﹁:::、今、韓国建築は伝統的な建築と
まり、伝統建築の原型を引用するという方
建築の形態、空間、装飾、材質、色彩など
建築において、韓国性の表現を可能にす
世界的建築の狭間にあって、後者を性急に
は、空間という内的属性を中心にして摸索
韓国の建築が、技術革新と共に自国の伝
rE﹁ 向というよりは、韓国建築の現 ﹂ 当時、最先端の時代精神の理論家である
追いかけ続けている 。:::人類が普遍的建 築に到達するということは、我々が終局的
することもできる 。もちろん、装飾的要素
るものとしては様々な手法がある。それは、
と共に、建築家でもあった鄭寅国(一九一
に望むエキュメニックな建築という目標を
によって韓国的イメージを形成したり、土
は韓国の建築家たちの聞に浸透し、民族の
六1 一九七五)は、この頃の韓国建築の事
意味するが、これに至るまでにはかなり時
着的色彩のような要素がそうした表現の意
もつ伝統の表現、地方性を強調しようとい
一方的な西欧文化の人工受精によってもた
情について大変シニカルに語っている 。 ﹁こうした世界の新建築運動の動向の下
聞がかかるであろうし 、:::、今、我 々は
図を、より明確に表したりもする。そうし
統に目を向けるようになったのは、一九六
らされたものである。そのモダニズムの受
にあって、韓国の場合はどうであろうか。
価値のある建築、即ち独創的な建築を、社
たものが、他のどんな即物的要素にも増し
0年代に入ってからのことである。
け入れも健全な過程を通してなされたもの
完全に成熟したとはいえない国際建築様式
会全体として希求している。独創性とは固
代化過程を支配してきた認識の問題である
とは言えず、大部分は植民地時代に日本を
系列の建物か、韓国の遅れた工業生産と技
有性と自主性を意味する 。創作面における
という重宙産を持っている。
通して間接的に移植されたものであった。
術をそのまま露呈しており、先進国の規格
胎から自然に生み出されたものではなく、
しかし、韓国の現代建築が韓国性を追求
法によって、ある程度可能となる。あるい
のすべての竪易寅を対象とするからだ。つ
このようにみると、近代化の始まりと共に、
化された機械生産品による建物の外観のみ
韓国の近代産鑑掃は、自国の伝統という母
その裏面では自己破壊が同時に進んでいた
固有性と自主性とは、その民族、その社会、
とも言える 。植民地化と盲目的な西欧化に
を、取ってつけたように模倣しているとい
て韓国的感性に訴えるという期待もある。
よって傷だらけとなった土着文化の価値 n m
﹀-44Mhu ﹀
42
うにと誘導した公募指針を示したヤ﹂とにあ
既存の歴史的建造物を模倣して設計するよ
る。記念としての意味合いの強いこの建築
館の拡充政策によって実現したものであ
ら発掘された遺物の展示と、地方国立博物
/朴春鳴)は、当時、新安沖合いの海底か
一九七七年着工の国立光州博物館(光州
する道程は、最も安易な方法によって始 ま った。それは、歴史を模写することであ
るのであって、この意図に最も沿っていた
の造形は、典型的な古建築の屋根をもち、
治文化﹂に相当根強くはびこっていた。 一九六0年代に光化門(ソウル/一九六 八)をコンクリートで復元したのに始まり、
このような直接的な伝統理解は、創造的価
萎妻反の案が選はれたのである。しかし、
その様式的規範にのっとっている。それ故、
歴史の複製
造花を作り出すのにも似たものである。
り、まるで精巧に作られたプラスチックの
最近の青瓦台(大統領官邸)と執務棟もまた そうである。
のであり、建築界ではこのプロジェクトに
機能的に無理かあることと、空間的表現が
値の排除された文化的後進ともいうべきも
貧弱なものとなっていることは推して知る
顕忠洞(牙山/一九六九/菱奉辰)の復古 的意思は、国立中央博物館(現国立民俗博
は耳を傾けようとはしなかった。現在も、
物館/ソウル/一九六六/菱奉辰)の延長 線上にある。
反発する意見がまとめられもしたが、政府
国粋的伝統の理解は、 しばしば政治的プ ロパガ ンダの 手段として有効である 。
べしである。 の漂う是福宮の 中 にあって、誤った伝統理 解とはどのようなものかということを物 語っているのである。
語
このコンクリートの複製物は、歴史的香り
大体、第三共和国(朴正照政権)時代に横
したコンペティシヨンによって選はれたも
景福宮の 中に建てられた前国立中央博物 館の設計は、当時、文化公報部(省)が主管 のである。問題は、管轄官庁が、当初から
43
行したこうした建築物複製という考え方 向コンクリート構造技術か韓国風建築に も応用可能となった 一九六0年代以降、﹁政
態
李喜奉は形態的修辞に秀れた作家であ る 。 彼の国立劇場(ソウル/一九七二)は荒っ ぽさが残り、また、あまりにも記念的福図 のような要素は韓国性を申し分なく表現し
にこだわった面があるが、その屋根や列柱
福者記念聖堂(ソウル /一九六七)は、そ
たものであろう。 の屋根の造形が支配的要素となっている が、それが草葺屋根の借用であることは誰 の目にも明らかである。コンクリートの可 塑性によって可能となったこうした造形 は、漢江のほとりの自然を背景に、より一 層、印象的なものとなっている。 韓国人建築家の中で、もう一人のロマン チック・モダニス トと しては 、我々にもな じみ深い世宗文化会館(ソウル/一九七六 ) の設計者、厳徳紋がいる。彼は徹底した機 であるが、卓越した修辞技巧が、彼をして
O E z B )の考え方の持ち主 能主義(司ロロロ円F ロマンチストたらしめている。世宗文化会 館も、前面に建ち並んだ列柱、長く突き出 した屋根、窓と扉の装飾用格子などが韓国 性を表現している。
金重業の造形 金重業の造形の世界は、いくつかの点に おいて二重の側面を持つ。 彼の造形は、原始的官能性と現代的理知 が交差するもので、歴史的原型に依存する 例えば、徐産婦人科医院(ソウル/一九六
姿勢と、極端な抽象性という両面がある。
ウル/一九七O )の冷徹な理知とが彼の内
五)の官能性と、サミル・ビルディング(ソ
) 釜山の国連軍墓地正門(釜山/一九六O
面には共存しているのである。 は、韓国在来の家屋の表門を原型としてい
1966 萎奉辰
『国立民俗博物館』。ソウル
“
@芯司 ﹃ 国立光州博物館﹄ ﹃切頭山福子記念聖 堂。 ﹄ ソウル
∞ ︿ Q6Zoコ
李喜泰
﹃ 世宗文化会館﹄。ソウル
由 4吐 血
一厳徳紋
の線形は三次曲面を持つため、視点によっ
よって、より深い意味を持つ。二つの建物
官邸と大使館事務棟の 二つの建物が仰角に
が並んでいるのではなく、各々の向きが違
覚を通 る。そこに見える品性は、官能の球 ω
れが雄にあたる。
な造形を持った建物、 が大使官邸であり、こ
二つの建物の配置はその動態的構図に
ては動態的なものともなる。 は明瞭である。しかし、この建物において
それより若干大きく、音調が低く、メジャー 注目すべきものは、個体としての造形の完
た外観となってしまったこの建物は雌にあ たる 。位置からはその横に控えているが、
いて試みられた韓国的球径はより抽象化さ
八三)、平和の門(ソウル/一九八八)にお
結性というよりはむしろ、二つの建物の間
正門を潜ると、傾斜のある敷地内に大使
あるのに対し、雄はより大きな規模で、前
うために、建物に向かってアプローチする につれ、互いの屋根が交差する。それに よ っ
くのものを示唆している。
おいても発揮され、次 世代の韓国建築に多
駐韓イタリア大使館(ソウル/一九六七)に
金量業の建築の持っこうした審話荏は、
て空も様々な角度からとらえられる。 カンティレバl (g三FZ円)がこの屋根の 姿をダイナミックなものにしている 。カン
面に接続空間を持ち、屋根はより特異な姿
その位置から、まず目に入ってくる大使
ティレパ lの曲面は、この男性的な屋根を
を見せている。独立した前面の高柱と深い
館事務棟はやや小さめで、屋根の 曲線の音
無重力化し、まるで飛期するかのようなそ
る 。
調が高い。現在は、改築によって全く違つ
そして、その雌雄もまたはっきりしてい
雌は比較的、単純なアナ トミlの造形で
一九八二等は、以前の国連軍墓地正門の
れたものであるが、慶南文化会館(晋州/
ており、その価値は、建物全体に色濃くに
フランス大使館(ソウル/一九六一)に表れ
何よりも、彼の芸術的に秀逸な面は駐韓
やり方に戻ったかのようにも見える。
にあって醸し 出される、一対の 同調性であ る 。
の三部形式となっており、彼のアナトミ ー
~
現れる。建物の構成は、土台 ・本館 ・屋根
吋
ウル/一九八二、釜山塁審(釜山/一九
鴫
して翻案された形態である。陸軍博物館(ソ
朴
じみ出ている韓国的造形性にある。
45
春
、y司↓日ukyhvm
『住韓フランス大使館』。ソウル 1お 1 金重業
『平和の門』。ソウル
1988 金重業
『慶南文化会館』。晋州
1981 金重業
46
その証拠として、この建物の外観には日
笑的な批評を浴びせた。
こここに日本の影響が見られるとして、冷
た。むしろ、建築界は、このデザインはそ
ある地域的な伝統というものは、非常に
﹁空間グループ﹂という、しっかりとしたデ
化した人々である。そしてまた、金書根は
彼らは金書根の思考の世界を論理化、体系
に目を聞かせた人物だ。越英武と蘇輿烈、
物館長の崖淳雨、彼は韓国文化の本然の姿
彼は形能甫心の造形認識の持ち主であった
求めているものは空間である。それまでの
ている。
があり、また、月刊﹃空間﹄の雑誌社が入っ
この空間社には、小劇場一つとギャラリー
れているソウル市苑西洞にある空間社だ。
彼の後挺者たちによって現在まで引き継が
金童話恨の空間
本の伝統様式の﹁千木じが取り入れられてい
複雑な因子が、多重的な甲信勺を交差させて 国性というものについての考え方を拡大す
いったのである。彼が一九七 一年の汎太平
韓国のモダニズムにおける韓国性の実践 しかし、彼がこのような本領を発揮するま
という点で、最も積極的な人物が金書根だ。
金書根が日本の東京大学に学んだという先
綾織りをなしているものである。彼は、韓 ると共に、彼の作業領域を建鏡買のみならず、
究極的に、金書根が韓国性の主体として
での道程は、決して平坦なものではなかっ た。 ようとも、金書根は自分の持つ伝統という
入観が大きく影響した。どのように弁解し
かなかったのである。
ものに対する概念を再点検しない訳にはい
公演芸術、美術、そして出版のような複合
ザイナーたちの組織に支えられている。
一九六五年、扶徐に国立博物館を建てる
の腕前を以って、この古都の建築物を完成
れた。金書根は、秀れたコンクリート可塑 ここで、彼の後期の作業に重要な役割を
的なものにまで広げている。その本拠地は、
るということが攻撃の的となった。特に、
ことになって、その設計が金書根に委ねら
が、それが空間という対象へと変わって
させ、発表した。しかし、大衆と金書根以 果たした三人の人物がいる。前国立中央博
と述べているように、彼はネガティヴイズ
洋建築賞授賞式でのスピーチでもはっきり
外の反応は、はかばかしいものではなかっ
『国立扶鈴博物館」。扶鈴 1鉛 5 金書根( 最上)
主に陽性の美学であるのに対して韓国文
白
ム ( z a ciaB)というのは(西欧の建鏡京が
化の中で互いに反発することなく共存して
いる陽性のものと陰性のものの持つ価値で
あると明言している。
﹁究極的空間﹂(己巳 gaとω宮口巾)とは、
合目的という決定論的な西洋襲に当ては
まる慨建である。 一方、韓国建築の空間に
含まれている非決定的な営みから生じた余
白、ゆとりの空間、すなわち﹁第三の空間ど
は注目するに価する。また、﹁母胎空間﹂
ませる空聞的記憶に連なるものである。
( 巧 OBσω 匂印の巾)とは、受胎から匹胎、李 胎に至る、その弾力的な柔軟性と、心を和
とにかく、彼の考え方は空間社の社屋以
降、セムト社社屋、海外開発公社(ソウル
ル/一九七七│ 七九)などの一連の作品に
/一九七六│七九)、文芸会館美術館(ソウ
現れている。その中で金需根にとっての究
極性という面だけではなく、韓国現代建築
にとって最も知的に深い意味を持つ建築、
それが空間社社屋である。
この社屋は、三段階(一九七 一 │七七)に
る。現在、栗谷路に立って真っ先に目にと
亘る増築を繰り返して完成したものであ
び込んでくる部分が第一段階で作られたも
47
1971- 77 金書根( 上) 『空間社屋』。ソウル
1986 金基雄設計 『独立記念館』。忠清南道沃川
のであり、その後、奥の方へと増築が重ね られた。 この建物は、一見、煉瓦(暗灰色)という 伝統的な素材を使うことによって、建紡の
に委ねられるものではない。 韓国の葎築芸
術は未だにエリートの芸術であり、西欧と
は異なって大衆的亨蒔を得にくく、多元的
このようにして、韓国のモダニズムは、
価値を意のままにし得ない限界がある。
その価値を発揮し得ぬままに終わってし
物性を決定づけているが、それと共にこの 建物で注目すべきものは、数多くの機会空
まった。
結局、今まで見てきた韓国性の美的体験
ネオ・ロマンチック、 多様な美的体験
間か作り出している互いに交錯した関係で ある。小さな庭園空間を中心として、様々 かと思えば重なり合い、聞かれ、閉じられ、
な空間的産票、内へ、外へと、引っ込む 関係の関係を重層的に形づくっている。
ているものは、その意図が﹁はっきりして
形態主義がより直接的に伝えようと試み
合的なつながりを持って形づくられる、一
つ、さらに多くの意外性を持った要素が複
論理や空間的秩序のような物証を含みつ
費国性というものの本来の姿は、形態の
は、極めて限定的な反聞を繰り返してきて しる。
いる﹂という点でわかりやすいものである。
ポスト・モダニズム
明らかに、彼らの年末は、建築対象をあま
種の現象的結果である。韓国性の包括的な
しては決して促えることのできないもので
本質は、形態や皮質といった断片をもって
ある。そうした能信民は、まるで一本の指で
ローチに比べて、大衆受けするものである。 金基雄は、韓国性の伝統的課題を現代と
りにも抽象化している一連の概念的アプ
いう時代に移し変えるために、ポスト ・モ
る。伝統を自分のものとするためには、し
対象を取り上げようとするようなものであ その代表的な例が、金基雄の独立記念館
ダニズムの方法を採った。
なやかな指とふくよかで大きな掌が必要と
韓国の現代建築は現在、囲内代の第四世
されるのである。
代の建築家たちに受け継がれ、もう盃量
( 沃川/一九八六)である。ポスト ・モダニ (全州/一九八ごと予奉吉義土記念館(ソ
ズム志向の彼の考え方は、彼の全州市庁舎 ウル/一九八九)、そして、独立記念館へ
国性の本質から始めようという年末が、よ の伝統とは情緒的に大きく弟離していたた
は、すでに一九七O年半ばに越英武のアイ
みの基本的なベ lスとなる韓国学の摸索
韓国性を表現しようとする、あらゆる試
り一層今様な形で現れている。
とつながるものである。
めに厳しい批判にさらされた。それまでの
デアによって進められていた。彼の唱える
しかし、その大部分は結果として、本来
建築原理とは著しく異なるプロポーショ
る壇君哲学に遡るものである。彼は現在、
寸韓国学派﹂の主旨は、韓国の原始思想であ
﹁韓国原始知性と天符美学 Lの完成に心血を
ン、誇張された構法、まとまりのない{且恥 建築の構造主義の原理から抜け出ようと
注いでいるが、源泉へ向かおうとするこの
性などがその攻撃の的となった。
ニズムの基本条件である﹁より完全な自由﹂
したとしても、韓国性の格はポスト ・モダ
48
認識の帰郷は、韓国性の胎盤ともなり得る 以降、形態にのみ目を奪われていた自らの
であるが、金基雄にとっては、独立記念館
は、仏教と いう象徴体系と積ひ付けたもの
伝統の概念から抜け出す 一つの甥麗とな っ た。国立済州博物館(済州/一九 九 二 九
つものである。
五/金基雄)も、また 土着的な素材と伝統
ものであり、ム寸後にその実践的な成果を待
あっただけに、その造形は形態的に追求さ 的な空間の妙味を中心に据えている。
金錫激は、 一時期、金重業の門下生でも
設である芸術の般堂(ソウル /一 九 八 四 │ 移行したが、彼らの持つ韓国性に対する愛
韓国の現代建築は明らかに第四世代へと
れたロマ ン的な色 彩が濃い。複合的文化施
。 ルが韓国性を前面に押し出して いる
九三)は、屋根の線、軒の装飾的ディテ ー
がどれほど自分自身の情緒と懸け離れたも
で教育を受け、成長したのであるが、それ
らの大部分はモダニズムの思考と体制の下
のであるかは、彼ら自身のよく知るところ
情は具体的なものであるとは言えない。彼
スlジョルダン(住宅/ ソウル/一九九一三
である。
承孝相は空間グループのパー トナーを経
は、伝統的な一般家屋から導き出した中庭
新世代の建築家の中から、特に韓国派と
て独立した、四O代の建築家である。彼の
│棟│内部という関係を再現したものであ
いうグループを特定するのは難しいが 、そ の代わり、ある種の個別性を身につけてい
同じ空間グループ出身の柳春秀は、それ
る彼らは、この問題を非常に普遍的な課題
り、細かな部分にも韓国的感性を用いてい る 。
は頁洋の風景に溶け込むものである。 いるといえる。
として自分自身を考え方の中に位置、つけて
よりはやや自由な感しがするが 、彼の描写 現在、空間グル ープを引き継いでいる張 世洋は、ポスト・金書根の立場から伝統の
一九六 0年代に韓国の建築がアイデン ティティ ーを求める道程に踏み込んで以 韓国建築を進化させる触媒であった。建築
来、三O余年に百一るその課題は、明らかに
いる。
﹁理気﹂ の瞳需と時代精神の合一を摸索して 聞鉱植の建築は、その外観をなす空間的
れ、今まで以上に国際化したとしても、お
し、さらに生態学的な視点から関心が持た
が今後一層情報化され、より技術的に向上
構図が韓国的で、可能な限り、韓国の深い 伝統的情緒を取り込もうとしている。
そらく韓国性の摸索は永遠の課題として残
金鴻植は、広く深く歴史学を学んで、そ の本質の根拠となるものを求めている 。彼
ある種の建築芸術には絶対的な価値観が
るであろう。 あるものだが、韓国性の表現の問題は時間
の済州民俗自然史博物館(済州/一九八四) 着的な素材を用いる 一方、内・外部の空間
の美学であるが故に、永遠の課題であると
は、済州という特別な地域で、外装には土 が互い違いになったり、あるいは三次元を
それは、より多様な各種の要因の関係的
言える。 体験を通して表出される現象の美学なので
なし、その空間的構図が韓国的なものと 光州文化会館(光州/一九八五l 九二 /金
1984 金鴻植
『済州民俗自然史博物館』。済州道
1993 承孝相
~o
なっている。 常植)は形態意識だけではなく、その配置
残されているのである 。 .
あって、今後とも、さらに数多くの選択が
達磨会館(ソウル/一九八九/金基雄)
49
にも伝統的技法を移し替えたものである。
『芸術の殿堂』。ソウル 1984- 93 金錫 j敵
I NTERV印
j E . ポア ~; 画家、
K I MC H O N G - H A K
現代韓国美術史のひとつの断面 ソウル大学環境大学続・紺受
金 畑 園
lj 家、金宗撃は韓国の地で最も
品﹃
TT工一美しい山、雪岳山の麓で名山の
lL
国であり、そのつらさ、悲しさなどが彼の
韓国戦争の惨禍をくぐりながら耐えて来た
例えば、韓国の現代史に現れた傑出した
に似た例はたくさんある。
の復旧期に絵を始めた。戦争がもたらした
金宗撃は戦争の傷跡も生々しかった戦後
家、張旭損もそろって 一九一七年生まれで
大統領や﹁韓国のゴ lギャン﹂と言われる画
短期間のうちに先進国の礎を築いた朴正照
人物には一九一七年生まれが多い 。韓国で
むごたらしい傷跡と貧困の情景は、むしろ
ある。また一九三三年生まれの中には優れ た文筆家が多いというのも面白い 。ジャー
-﹃
画家の卵を戦争と貧困の反対状況である平
ナリストの雀積錯、文学評論家の李御寧、
画歴の中に反映されている。
たな自然となって蘇っているのである。
立公園の秀でた自然がキャンパスの上で新
和と余裕のこめられた美の世界にいざなっ
詩人の高銀らは、みな一九三三年の酉年生
四季おりおりの風景と、そこに
﹁雪岳の画家﹂という ニックネームがぴっ たりする彼の絵は、この時代のわが国の絵
ほど真撃で切実なものはないのではなかろ
たに違いない。廃撞の 中 で夢みる美の追求
育つ野の花を集中的に描いている。この国
る。全国土の七割が山からなるこの地で生
鶏は夜明けを告げる伝令であることか
まれである。
当時、画家たちは飢えに打ち勝とうとす
うか。
画の愛好家からこのうえなく愛されてい きていく生活環境なのだから、山に寄せる
るかの ように絵を描くことに熱中 した。
つ人がひときわ多いという解釈も出てい る 。
ら、この干支に生まれた人身の中に筆の立
愛情は我が民族の本性同然といえるが、加
﹁雪 岳 の 画 家 ﹂ と い う
ニックネームがぴったりする
彼の桧は、この時代のわが国の
絵画の愛好者から
人有が貧困からの脱出に汲々としていた状
このう乏なく愛されている
えて自然の美しさを象徴する代表的な花の
況の中で、画家は確かに異邦の人だったの
人材が多く出ている。小説家の金承鉦、李
嫌いな人聞がいるはずはないから、彼の絵
清俊らが、また評論家の廉武雄、金治沫ら
やはり文学畑に関する話だが、一九六O 鳳台のような今を時めく鋒々たる画家や彫
に対する愛好家たちの語講はごく自然なも 画家 の絵に対する必逢問の深さという面で
刻家は、瓦礁の中で芸術家を目指した人物
年に大学を出た者で現代文学を支えている も彼は韓国の現代画垣を代表する画家とい
がそういった人物である、 一九六O年はど
である。廃虚の中で画家を思い立ったのは
えるが、また現代韓国の画壇史を特徴的に
である。
金宗撃だけではない。韓錆進 、苦ノ明老、金
人格化しているという点においても代表的
史が暗いトンネルを抜け出る兆しが見えは 遂げてはいるものの、韓国はわずか半世紀 前までは日本の植民統治のもとでの搾取と
じめた頃であり、また民主化の熱望が盛り
んな年であったかというと、現代韓国の歴
な画家である。今日、世界の一 O大貿易国
このように 同じ時期に絵に入門した画家 時 がそれぞれ大成しているということは、 ﹁
上がった年でもある。大学生中心の 4月草
に仲間入りするほど 目覚ましい経済成長を
代が人を作る﹂という命題が正しいことを 証明しているように思われる。韓国でこれ
のといえる。
金宗拳
50
自然の雪岳が美しいように金宗撃の 『雪岳』も美しい( 上) 。彼は野に咲く ~ ( 右) 。画の 中の野花は面の分割の幾何学的造形を 見せる以前のモンドリアンの初期の花 ~ ( 左) と感じが似ている
51
金宗皐の『雪岳風景』
命もこの年に発生した。
金宗問問干の絵のスタイルに見る積み重ねの
中には、時代の意味が引続き投影されてい る。戦争の渦巻きとその後遺症の苦しみか
ら解き放たれ、社会がしだいに安定するの
にともない西欧のモダニズムの思潮がわが
国の画壇にどっと押し寄せて来た 。外国の
時代に日本留学生を通じて間接的に、それ
絵の思潮といえば、かろうじて日本の植民
た、それまでの状況の後で﹁美術界の戦後
も全く間歌的に知らされるにすぎなかっ
復旧﹂という抽象表現主義、欧米から直輸
入したミニマ リズ ムなど各種モダニズムの
思潮にかぶれる現象が起こった。金宗亭も
その例外ではなかった 。
モダニズムに対する憧僚は、ただちに旧
体制(﹀ロ22HNbmFS巾)に対する反旗と
の何人かが、まず政府主管の公差炭である
なってあらわれる。彼と同年輩の画家たち
国展に反旗を翻した。国展の審査委貝たち
が朝鮮王朝時代の流れを継ぐか日本の軍国
主義の閉鎖的な画風の中で学んだ人から
なっていることが、彼らの志向する美桁の
自由とは両立できないと考えたのだ。その
国展に反対して出品を拒み、その代わりに
ため、当時の唯一の画家の登竜門であ った
国展の聞かれる建物の塀に絵を掛けて街頭
展示会を催すという、韓国の現代美術史に
次いで、これら美術界の反体制グループ
残る有名な事件が発生する。
に属す若手の画家たちは、世界の美術界の
思潮を直接体験しようと外国へと旅立って
アメリカに渡って見聞を広めた。
いく。金宗撃も 日本で の修学に留まらず、
そして新しい美術の媒体として版画を製
作する一方で、ミニマリズム風の前衛美術
ところで、先端美術の思潮は若手の画家
に心酔する。
52
作業室( 上) と灯架のスケッチ作品( 下)
たちに二つの可能性を示してレたように思
われる。 一つは、その美術の思潮をそのま
ま求めて自らの絵のスタイルを取り込むも
のであり、もう一つは、その思潮を自らの
個人的な体験に客観化して正当化するお手
本にすることである 。それぞれ二つのうち
のどちらか一つを選択するか、その両方を
る場合にも、やはり人によって前者あるい
調和させたりもしたのであるが、調和させ
は後者にいくらか傾くことがあったと思わ
れる 。
金宗皐の場合は外国の先端思潮の刺激を
受け、これを媒体にして自らの造形的体験
に意味づけをするというスタイルに傾い
た。そして具体的に韓国の伝統造形の美し
さを見いだすのだが、そこで古い時代に作
られた家具をはじめとする木器の収集の病
彼は韓国の昔の木器から世界性と現代
いにしえ
的な執念に取りつかれてしまう。
に置いてこよなく愛している一のむ 年も昔
性を発見する。例えば、彼が常にかたわら
の人々が使用して いた木の明かり受けの造
)、ブラ 形は、コンザレス(﹄ロ自の Oロ Nと2
53
といって﹁物に執着すると意を失う﹂という 教えがある 。この言葉が間違いでないとい うことは、東西洋の ﹁ 信じようが信じまい
ンクシ(のO P2BgFS22)、ジャコメッ
が﹂式の世俗的な知恵でも確かめられる。
テイ(﹀5282Rog 巾RF)のような現代の
彫刻家たちの造形を、すでに先回りしてい 寝る間も惜しんで物の収集にやっきになっ た中国のような国では、ほしいものを手に
て金宗撃は木器の収集を通じて韓国の造形 入れるためには、妻も売りとばすという話
たということを確認したのである。こうし
ことを確かめるや、その収集品を惜しげも
的遺産が世界性や普遍性に触れあっている があるし、西洋では性欲も忘れてしまうと いう話もあるほどではないか 。とにかく、
展示されたとき、美術の愛好家たちの反応
この寄贈品が博物館の一コーナーに全て
的な執今年﹄振り捨てる儀式であったのであ
たって、それまでの木器収集に捧げた偏執
は自分だけの創作の方向を歩み出すにあ
この教え通り金宗撃の収集品の博物館寄贈
まったのである。
なく国立中央博物館に 一括して寄贈してし
はたいへんなものであった。普の人 々が
いにしえ
幾時代も経ながらて作って来た木器とはい る 。
の文芸復興期として知られている一八世紀
アメリカの名のある博物館で朝鮮王朝時代
評価のみに留まらなかった。 一九九五年に
認められたからである。この点は圏内での
のは与えられた環境のためであった 。それ
であるが、迂余曲折の末に破綻にいたった
あると教えられていた世代に属する金宗撃
も含まれる。家庭の安定した維持が美徳で
えられる環境もあるが、自ら選択する環境
いう言葉も真実である。環境には、ただ与
時代が人を作るように環境が人を作ると
え、こうして一堂に集めてみるとそれらの
の造形美術展を催したとき。彼の収集品も
中に 一つの系統立った造形性があることが
そこに展示され、外国のこの分野での見識
すにいた ったのは彼が選択した環境であ っ
雪岳山の麓を訪れ、ついにそこに根を下ろ
一方個人的な挫折を克服しようと、彼は
が 一O数年前のことである。
時価で計算しても莫大な値打ちのある木
る 。
家からも惜しみのない賛辞を受けたのであ
器の収集品を 、画家が惜し気なく寄贈した た
できたのだから彼の絵画的士中向は世界性と
が国の伝統造形が世界性につながると確認
な美しさに新たな出会いを作り、またその
真に奥妙なもので、人間の悲しい心は以前
なってしまったのである 。生活というのは
そこで、彼は雪岳の美しさに完全に虜に
ということは、金宗撃の画歴に二つの意味
隔たりのない韓国の地方性20口色々)から 再出発するものであるということを予告す
なるということを知らされるのである。ゆ
美しさと新鮮さを啓しさせる刺激の媒体に
を与えているように思われる。 一つは、わ
るものであり、さらにもう一つの意味合い
自然の中で心の安定を求めながら、その
えに自然は偉大なのである 。
は自にすることのなかった自然の深く新鮮
は金宗撃のみの造形の世界を具現する﹁ ため には今までの生活様式を果断に振り捨でな ければならないという皇見の発露であった
念に惑わされて、あれこれ見聞きしていた
燃え、それまでは絵の勉強が数限りない理
自然を描かなければならないという執念に
息見というのは、そういうものである。
のである。 韓国も含めて東洋の精神には、﹁玩物喪志﹂
C puE O 印E da
作業室内の金宗皐
54
来、彼の心はいきなり開眼するのであった。
のであったが、雪岳の美しさに出会って以
の絵に登場する数多くの草花が一つ 一つ見
の事象を普遍化して構造化する作業であ る。そのため美術の愛好家たちが ﹁ 金宗翠
るはずである。抽象というのは、一つ一つ
る時は、それほどでもないのに全体的に見
﹁絵を描くということは人聞が 自由になろ に理念の奴隷になっていたのではその音媒 ると、この上なく美しい﹂と声をそろえて
うということであるのに、これまでのよう がない。自の前に広がる美しい自然を描く 語るのもこのためである。
の塊でできているため大きな岩が山全体 の表面を覆っている。大きな岩がずしりと
雪岳はどんな所なのであろうか。花山岡岩
絵と悪しが よく似ている。しか し絵のスタ
前のそジリア│ニが初期に多く描いた花の
草花も熱心に描いている。絵の 中 の野の草
雪岳の風景の 一環として、金宗撃は野の
ということは、画家の宿命的な責任である﹂
周りを圧倒し、その白っぽいパターンの上 アl ニとは対照的である。モジリア l ニが
イルの展開においては、金宗向子とそジリ
ということを痛感したというのである。
に朝鮮松が四季を通じて美しい緑色を誇り つの完全な構図をなす景観は逸品である。
に移行したとすれば、金宗問問干の場合は木器
簡潔きわまりない花の絵から幾伺学的な絵
花は、面分割の幾何学的な造形を見せる以
ながら、そこここに体よく散らばって、一 こんな自然環境であれば画家の創作管翫を それゆえ、朝鮮王朝時代の壇園、謙斎の
とともに彼が心酔してやまなかったモジリ アl ニを顔負けさせる往年のわが国の風呂
刺激するのはごく当然のことである。
図という面では、抜群の南フランスのビク
もちろんわが国にとどまるのではない。構
ている。名山の環境が絵を刺激したのは、
なるのにぴったりであるが、画家は六O に
金宗撃は数えで六O である。﹁二O代は 医学博士になるのに、 四O代では文学家に
いるのである。
下敷きにして、個性のある花の絵を描いて
敷が見せる幾何学的な構成から得たものを
ト ワ lル山は完全に現代絵画の道を聞いた
える今は行くに行けない名山金剛山を描い
F
ような秀でた画家たちは、雪 缶の兄弟とい
セザンヌの絵に収まっている。
う大学時代の恩師、張旭績の言葉通りであ
なってはじめて自らの道をきわめる﹂とい
自然の雪岳が美しいように、金宗撃の雪 岳も美しい。絵の雪岳が美しい訳は、 山の
についに到ったことになる。
るとすれば、金宗撃も絵の化身になれる年 そのせいか彼が好んで描く雪に覆われた
特徴的な印象を正確に捉えて表現している からである。我々が人と会って、その人の
れた山の一連なりの間々に雪に打ち勝った松
印象を把握して見きわめようとするとき、
の緑が山の輪郭を作っている。彼の胡麻塩
雪岳の姿は、全く初老の彼に似ている。 ﹁ 雪 の山 L という意味をもっ雪岳には雪景色が
目とか鼻とか印象づける特徴を通して人
頭も、この雪岳の雪景にそっくりである。
頭のてっぺんから爪先まで一つ残さず、体
を見分けるように、金宗撃は雪の特性的な
ぴったりである。彼の雪景では、雪に覆わ
美しさを圧縮して、あるいは骨格的に見せ
であるという言葉が金宗拳にもあてはまる
そのため、成功した絵は全て画家の自画像
全体をつぶさに見るではないか。
ている。彼の作業が、このように成功した
のである。 .
-h
伊 PU。 E3 ﹁ 由 己
55
ことには間違いなく以前かなりの問、抽象 画に没頭していたとい う履歴が作用して い
金宗筆の雪岳; 同住居
eeCDGCDe 仏国寺、海印寺、宗廟 カン
ゾェ
ス
t:~
56
三件の文化財が、一九九五年一
、ノ が国の仏国寺と石窟庵、海印寺 ,大蔵経および版庫、宗廟、 この
し f
.-d 一九次世界遺産委員会で世界文化遺産とし
二月八日ドイツのベルリンで開催された第
世界遺産政旦録とは、世界遺産協約加盟国
て正式に登録された。 の優秀で独創的な文化財の中でも優れてお り、普遍的な価値があると認定された遺産 ために世界遺産目録に登録してユネスコが
を、人類全体の遺産として保存 ・管理する 管理する制度である。
、 これまで世界中から文化遺産三五O件 一 O 五カ国の計四六九件が世界遺産目録に
自然遺産一O 二件、複合的な遺産一七件、 登録されているが、我が国の文化財が世界 遺産として登録されたことの意味は今回、 初めて我が国の文化財の独創的な価値が国 とである。
際社会で認められることになったというこ 登録された文化財に対しては、設損防止 と永久保存のために、国際的なレベルの専 門家による技術支援と世界遺産基金からの 財政支援を受けることになり、人類全体の 可z o m@Edt
57
ム文化財管理局長、ィ・ウォンシク慶州市
六年の世界遺産協約に基づいて設けられた
様な技術援助と協力を行なうために一九七
して盛況裏に行なわれた。この日の講演で
教界の人士や慶州の市民ら五百余名が出席
世界遺産登録制度は、一九六0年代の半 ば、エジプトのアスワン・ダム建設のため
雪岳山の世界自然遺産登録を追加申請し、 今後はさらに昌奪回 1水原滅一廓、三年山城、
究所のキム・ドンヒョン室長が八万大蔵経
て、海印寺のチョン・リム和尚と文化財研
ゴン駐ユネスコ大使をはじめ、キム・ジン
に這か古代の貴重な遺跡が水没するという
武寧王陵、康津陶穴祉、漢撃山などを世界
と海田守について、蝿縄文化研究院のチャ
一方、これらの文化財かユネスコ文化遺
ジョンギ文化宣著員が仏国寺の伽藍につい
ン・チョルス教授が宗廟祭礼につ いてそれ
と音義について述べた。
ぞれ発表し、登録文化遺産の学術的な価値
世界文化遺産登録に際して訪韓した世界
寺法堂で曹渓宗のソン・ウォルチェ総務院
ソウルでは、この日の午前二時、曹渓
界遺産登録制
査を行なった。そして、学術講演会で﹁世
の、今回登録された文化財に対する現地踏
は、仏国寺と石窟庵、海印寺大蔵経、宗廟
遺産委員会事務局長のドン・ドロステ氏
た文化的価値を持っている、世界的な文化
長とソン・ソック東国大総長ら、僧侶や信
日該当地域で盛大に催された。
が﹁石窟庵の建築と彫刻﹂について、キム・
ために、今回登録された文化財三件を含む 危機に瀕したとき、当時の世界中の志ある
遺産として登録申請する予定である。
文化遺産であることを認めるユネスコの認 定証と、それを象徴するユネスコ世界遺産 長らが文化侍節団として出席した。 制度である。
文化遺産八件と雪岳山・漢撃山の自然遺産 考古学者たちを中心にダム翠玖敷地内の遺
は、元東国大学総長のファン・スヨン博士
徽章が使える。
二件の計一O件に関する暫定目録を提出 跡を安全な場所に移転、保存しなければな
産として登録されたことを国内外に広く広
、 わが国の文化体育部は、九五年一O月
し、一カ月後の九四年九月には、今回世界 らないという全世界的な運誌に醤展して、
我が国は、九四年八月、世界遺産登録の
文化遺産として登録された三件の文化財に 世界各地で移転基金の募金活動を行い、安
既に提出した仏国寺、海印寺、宗廟の一一一
対する指定申請書と付属書類を提出した。
報 ・宣伝するための多様な計画も進められ ており、これを祝う行事が去る一一一月一九
全なところに保存したことに端を発する。
遺産を保護するためには、国家聞の相互協
徒て只
ユネスコは、人類の歴史において卓越し
件の文化財に対する保存 ・管理 の実態を調
力を促進する・ことが必要たとし、一九七二
z o ω (国際記念 査・評価するために、日のo 物遺跡協議会)が派遣した建築分野の専門
年に聞かれた第一七回ユネスコ総会で﹁世
けではなく、韓半島会葎の文化財であり民
説明会を行ない、﹁文化遺産は該当地域だ
庵の登録裏番に経済的な潤いよりは長期
族の根本である。従って、特に暫羅一、 O QU年の古都である慶州は、仏国寺 ・石窟
についてスライドによる
家であり、スリランカのそラトワ大学教授 であるユマル・デ・シルパ氏が九五年二月
廟の告由祭にはユネスコ世界遺産委員会事
会が聞かれ、同日午後二時から聞かれた宗 務局長のドン・ドロステ氏が出席し、六O O余名の祭官と楽土たちが繰り広げる宗廟
的な観点に立った遺跡都市の環境保存に努
F
に訪韓して現地調査も行なっている。
界の文化および自然遺産の保護に関する協
六時から祝賀音楽会とレセプションが開催
祭礼を参観した。また、﹁芸術の股蛍{﹂では
δ 余名が出席するなか、記念法
その後、九五年七月に開催された巧出の
約(の Oロ︿gcoロのoロロ巾円ロ古関門宮司同 Oぽ口-
EE
to ご宮君。同互の己Z邑富島 Z印冨邑 ロO
世界遺産警貝会執行理事会)で ﹀C( は、専門家の現地調査をもとに、これら三
件の文化遺産に対する審議と価僅評価を実
回s 3 m巾)﹂を採択、このあと一九七五年か
ら実施している。九五年 一二月現在、同協 約の加盟国は一四一一一カ国で、韓国は八八年
施、総会に提出することになっていた。以
力するよう﹂求めた。
上のような ユネスコのすべての審査過程を
された。 同日の午後、慶尚北道慶州の仏国寺では、
国際社会に広く宣伝するために、ユネスコ
代表的な三件の文化財主旦録された ﹄ vと を 的な評価機関の徹底的な調査・評価を経て
団関係者 か出席して法会が行なわれた。 慶尚南道陳川の海自守でも、大蔵経経版
また石窟庵の窟法堂でも百余名の市民と教
三件の文化財を含む韓国の代表的な文化財
にパリのユネスコ展示室で今回登録された
から、今年四月の﹁ユネスコ韓国文化週間レ
等の関係国際機構などへの広報という意味
このほか、文化体育部は今回、我が国の
世界文化遺産目録は、人類全体として保
で世界文化遺産登録記念の法ム宗催され、
讃仏歌が厳かに響き渡るなか、大雄殴の前
一二月に世界で一O 二番目に加盟した。
登録寒車に対して、しかるべ会通産か専門
存すべき価値のある文化および自然遺産の
経て、世界遺産委員会第一九次総会(九五 議・確定したことで、我が国の文化財か世
厳選し、世界的に卓越した価値を持つ遺産
の世界文化遺産登録を祝う祝賀法ム玄が盛大
年一二月四日!一一一月九日)で最終的に審 界文化遺産に正式に登録されることになっ
として、登録基準を満たしているものを毎
a
この計画は文化体育部(省)が我が国の文
年二一月、世界遺産零貝会が審議し、その
たのである。
で、これを翠穫に我が国の文化財かユネス
化財の世界化計画の 一環としで進めたもの
成、運菅されており、世界遺産基金は遺産
世界遺産委員会は二 一の理事国から構
巡る﹁蔵経閣擁匝-などの行事が催された。
過程を再現する﹁法性図擁匝﹂と蔵経版庫を
介する。
を機に、各文化財の特徴と価値を簡略に紹
以下、韓国文化財、三点の世墨沼産直義
の写真などを展示する予定である。
破壊の原因究明と解決、保存対策の商藷に
から五時まで、新羅てハロ¥の古都、
に聞かれ、法会に引き続き蔵経版庫の移送
な観光名所となる。このため、文化遺産の
向けた専門家の研究 最新の保存技術に関
記念に聞かれた記念学術講演会が学界、仏
慶州のソラボル文化会館では世界遺産登録
結果を発表する。
保護に対する国民の関心が一白書同まるもの
する地域の専門家の訓練と国立公園の保護
コを通して世界的な文化財として持続的に
と期待されている。
や遺跡の復元のための装備の供給など、多
広報されるだけはなく、所在地域が国際的
今回、我が国の文化財か世界の遺産とし
これに先立って、二一月一八日午後一時
て登録される瞬間の現場にはキム・ヒョン
58
特に、主室内に安置されているグプタ
宗教・芸術か統 一された総体として表現さ
石窟庵の内部の空間は、本草仏である如
てた石造寺院である。にもかかわらず、有
来座仏像を中心に入り口から正面に見える
(の毛宮)様式の本尊仏は静かに結醐扶坐し た姿、細く聞けた目、柔和な眉、眉聞に漂
イチャは前方後円形の平面形態で、後円の
チャ型の石窟はインドから中国に渡り敦
周壁に菩薩優および弟子像、力士像、天王
う聡さ、今にも語りだしそうな口と鼻、長
れており、しかもそのすべてが有機的な関
慶州石窟庵の石窟は、七五一年(新羅景 埠、大問、雲山岡などで流行したが、これら
像など計三九体の仏像を安置し、釈迦常住
く垂れている耳など、すべてが内面に深く
中央に仏参のための塔をあつらえ、その周
徳王代)に当時の宰相であった金大成が創 は全部岩山をくりぬいて建立したものであ
の浄土世界を裟婆世界に移しているようで
石窟庵
建を始め、七七四年に完成した。建立当時 る。これに対して、慶州石窟庵の石窟寺院
ある。この石窟庵は新羅の宗教と造形芸術
係でつながっている。
は、名称を石仏寺と称していた。 はチャイチャ型を原刑す﹂しながらも岩をく
アは勿論のこと世界でも稀にみる理想的な
崇高な心を宿しているように見え、東アジ
名なのは彫刻の精密さと美しさ、そして空
石窟寺院の建立はもともとインドで始 りぬいて造ったものではなく、よそで手を
の全盛期を迎えて建立された傑作と評価さ
間の構成が絶妙だからである。
まったものだが、その形態は大きく区分す 施した石材を組み合わせた石造建築であ
りに列柱を立てた形をしている。チャイ
るとチャイチャ(のrtミ白)とヴィハラ
石窟患の内部の空間は、
本尊仏である如来座仏像を中心に入りロから正面に見之る周壁に菩薩像
1~
美を代表する遺産である。
れており、建築・数理・幾何学・物理学ト・
59
る。つまり、白色の花崩岩を材料に組み立
計三九体の仏像を安置し・.
( ︿F貧血)の二種類である。このうち、チャ
U Om ﹀司ー ↓盟 ﹀
石窟庵の本尊仏
仏国寺 慶州の仏国寺は、七五一年(新羅景徳王 代)に当時の宰相であった金大成が創建し、 ない寺利の一つである。
今日まで法灯を絶え間なく灯してきた数少 仏国寺のすべての木造建物は、後に復 元 ・再建されたものであるとはいうもの の、三層石塔と多宝塔の二つの石塔をはじ めとする多くの建物の基段や紫雲問、安養 石造物は、創建間もなくして改修されたと
門の前の大石垣、そして階段など大部分の
は、すべて花崩岩からなっており、その形
きに建立されたものである。これら石造物 態 ・築造技法の面で当時の石造中豪需技術の 精髄を尽くしてい・て、バランスの取れた美 これまでの発掘調査に よ って、明らかに
しさを誇っている。 された仏国寺伽藍の配置形式と基段形式の 特徴は次のようなものである。 まず仏国寺の伽藍の配置形式は、大雄殿 を中心に紫震門の無説殿の左右につながる 回廊に固まれた 一廓と、極楽殿を中心に安 まれた一廊が、東西に並んで配置されてい
養門の左右から極楽殿の裏を通る回廊に固 るということである。もう 一つの特徴は双 塔形式ということである。西側の塔である 俗称、釈迦塔は典型商な新羅石塔様式の代 表的なもので、外形が素朴で均衡のよくと の基誌の上に立っている三重一の塔で、新羅
れた優れた塔である。東側の多宝塔は二重 の典型的な様式の規範に従っているが、そ の造形は奇想天外としかいいようのないも のである。最後に、仏国寺には伽藍の配置 のみならず、伽藍の基段形式においても、 新しい要素を見いだ すこと ができる。この ような特色は金堂である大雄殿の基段に現
pn m ﹀司 4 印勺、
仏国寺
60
れていて、無説殴や極楽殿の基段にも見い だされる。
海印寺の大蔵経版と版、犀
の聖典になったのである。
海印寺の蔵経版庫は世界唯一の大蔵経版
保管用の建物であり、この建物は海田守の
伽藍配置において大寂光殿と共に中心軸を
なす。その建築技法は朝鮮時代初期の建染
さは勿論のこと、建街内のほどよい換気と
様式を見せているが、建築それ自体の美し
温度、湿度等が自然に調節されるように設
海印寺の蔵経版庫は、二二世紀に彫刻さ で、海印寺の現存する建物の中で最も古い
れた童践大蔵経版八万余枚を保存する宝庫
八万大蔵経の字体は欧陽詞体で、八万余
計されている。
四 O枚の大蔵経 この版庫には八万てコ一
ものである。
枚の木版がまるで一人の手によって彫られ
で 、 は横六九 ・五センチ、縦 二三 ・九セ ンチ
たように筆体が同じである。木版の大きさ
木版が保存されており、文字の数はおよそ
一枚一枚が二三行からなっており、各行は
﹁
O rmO2 60C
一つ一つに誤字や脱字が 一 つ もなく均等で
五、二OO万字に上るが、これらの文字の
大抵一四字ずっとなっている。
可
買われている。世界じゅうに存する大蔵経
集大成したものであるために、世界の仏教
八万大蔵経は仏教の経・律 ・論の三蔵を
精密であるという点で、その芸術的価値が のうち最も古く、内容も豊富であることか
れは日本が新修大蔵経を造るときに手本に
研究にとって貴重な文献となっている。こ
ら世界的な仏教遺産といえる。 大蔵版庫は伽僻山 の中腹にある海自守に
の資料に利用されている。
ランス ・ドイツ等の欧米諸国でも仏教研究
なったと言われる 。また、英国 ・米国・フ
あり、一四八八年の朝鮮時代初期に建立さ れてから一度も火災や戦乱等の被害を受け ることがなかった 。こうして、八万大蔵経 は一ヵ所にそのままの形で残っている仏教
61
廟
る正般は 、当時の単一木造建築(建坪 二 、
究価値が高いものである 。宗廟の主殿であ
とっても研究の対象になっており、十東洋の パン テオ ンと呼ばれるくらい建築史的な研
宗廟は朝鮮時代の神殿一 建築であるにもか かわらず、今日に通用する 一般建築として の価値がある。このため 、現代の建築家に
されている。
無形文化財第一号と第五六 号に指定 ・管理
る宗廟祭礼楽と宗廟祭礼も、それぞれ重要
日曜 日に執り行なわれる祭礼行事に使われ
u ﹀司↓印h ﹀ のm
物があり、特に宗廟正殴で毎年五月の第 二
物八三号に指定されている、丞最堅守の建
霊が増えるにつれて、王朝は増築を続けた 。 宗廟内には、国宝第 二二 七号の正殴と宝
を安置し、祭礼を行う神肢として建立され た。神肢としての機能は 、創建当時から今 日にいたるまで続いており、安置す べき御
宗廟は朝鮮王朝の歴代の王と王妃の御霊
刀 て
﹀泊司印可、Fのm
62
二七0 平方メートル)としては、世界で建 坪面積の規模が最大の建築物といわれる。 宗廟の建築様式は、宮殿や仏寺の建築が華 さを反映して地味で非装飾的である。
麗で装飾的であるのに対して、儒教の質素 宗廟の建物は、正面がとても長く水平性 が強調された非常に独特の形態をなしてい るなど、宗廟制度の発生地である中国とは 建築様式が異なり、もちろん西洋の建築に
今日に通用する一般建築としての 価値がある
は全く類例を見いだせない独特さを持って
いる。
にもかかわらず、
点からも、宗廟は東洋の古代文化の研究に
は、ソウルの宗廟をおいて他になく、その
中祭杷に関する儀式を継承しているところ
まま保存している。こうした東洋古代の宮
に起源を持つもので、それをほとんどその
などは、夏 ・殿 ・周の中国古代の儀礼文化
や祭器、楽器や衣装、儀礼音楽や儀礼舞踊
宗廟の祭礼や楽舞儀礼の手順、儀礼飲食
朝鮮時代の神殿建築である
である。 .
資料を提供する貴重な文化遺産の一つなの
63
宗廟は
•
序E
高句麗の気性を宿す地
万五千余名の朝鮮族が含まれている。この
一万の小都市である 。一一一万の人口には一
産の豊かな天恵の条件を備えている人E 一
でくる通路となっていて、温暖な気候と物
南の方の鴨緑江は温帯地方の季節風を運ん
方から吹き寄せる冷たい風を防いでくれ、
老嶺山脈が険しい峰々を張り巡らせて北の
ある。吉林省の最南端に位置する輯安は、
ならないため 、こん なに時間がかかるので
まで直行するのではなく、通化を通らねば
からは汽車に乗り換えねばならない 。撫松
ない。長白から撫松までパスに乗り、撫松
は 一五時間あまり自動車に揺られねばなら
ところが、長自県を経由して輯安に行くに
HHHい 真向かいに見える所が、ほかな - , らぬ中国吉林省の輯安である。
'I品韓の満浦鎮から鴨緑江を挟んで
金周柴
o
作 家
64
将軍塚の全景
地は、かつて沼曽という書道家が小江南と
呼称したところ。輯安市街の南側の鴨緑江
の河岸に向かって進むと、鴨緑江彼方の山
裾にぎっしり詰まった感じの、北韓の地、
慈江道満浦市街が一望に収まる。ここ中国
輯安県の通溝には、 て 五ハむ年の風霜に
耐えてきた、かの好太王時か立っている。
広開土王としても知られている好太王は、
わが国の三国(高句麗・百済 ・新羅)時代の
高句麗第一九代王である。同王は故国壌王
の太子に生まれて、 三九一年に即位し、高
句麗の領土を南北に大きく広げ、南の方は
いまのソウルの漢江以北、北の方は満州全
域を支配した王である。この好太王碑は、
王の業績をたたえるために建てた碑で、高
息子の第二O代目の長寿王が四一四年に父
る。この碑は自然石を加工しないままに建
さ六・三九メートル、重量は三七トンもあ
てたので表面がでこぼこだが、その表面に
は碁盤の 自のように四角い線を引き、成人
男子の手の平大の{号か刻み込んである。字
数は 一、七七五字。碑文の内容は大きく三
つの部門に分けられる。第一は、好太王が
富国強兵を実現させた後、四 一 二年九月二
九日に死んだので、その功績を子 々孫々に 伝えようとするものであると、碑を立てた
意味を述べている。第二は、好太王が高句
麗、新羅、伽仰と連合して倭国(日本)と戦っ
たことや王の業績を記しており、第三は、
好太王陵を管理保存するに必要な規程を記
している。この規程には ﹁ 高句麗が転落し
て滅亡する場合に備え、験が攻撃して手に
理をないがしろにする場合は厳しい刑罰を
収めた周辺の種族に墳墓の管理を任せ、管
加える﹂などという内容の文を書き連ねて いて、もっとも大きな分量を占めている 。
高句麗が都を卒本(いまの中国遼寧省の
海江流域の桓仁地方と推定されている)か
65
琉璃王(第二代)二二年であるから西歴三年
ら輯安に移したのは、東明王の王子である だったともいえる。わが国固有の山城は、
安は満州を支配した高句麗帝国の踏み台 六五三年前のことである。
三四二年)であるから、いまから数えて一、
を住人たちの物置小屋や付属連筋に改造し
跡形もなく消えてしまった。そこで城壁
後、第二O代目の王の長寿王が都を輯安か
のことである。琉璃王が輯安を都と定めた
山城の中は軍兵を駐屯させ住人たちが生活
分、長期戦に備える必要があったことから、
見晴らしのきく山を選んだ 。山城は、大部
交通の要衝でありながらも険しく周囲への
いだけでなく、性質もお となしいので交通
だが、腰馬は力が強く、あまり病気もしな
つく。雄ロパと雌馬との聞に生まれた雑種
輯安市内には螺馬の引く馬車がよく目に
壌に遷都した後も政治・軍事的面奮として
難くなった圏内城は、四二七年長寿王が平
せる。いまや、城の跡かどうかさえ見分け
て使っていたりして、わびしい感壌を抱か
らば
らいまの北韓の首都である平壌に移したの
統一の基盤を固めることにあったと言われ いに上り、山の峰をめぐって下る形態をし
城は、一般に多くの渓谷を挟んだ尾根、、った
を営める一定規模の平地と、泉または小川 がなくてはならなかった。規模の大きな山
の存在を知っている者でない限り、その残
いをしている人々に遮られているため、そ
を改造した人力車、それに座板を広げて商
の中心部には、螺馬の引く馬車とリアカー
宅に囲まれ圏内城の残骸が見いだせる市場
手段として利用されている。アパートと住
ため、二五O余年の問、原形に近く保存さ
満族たちが祖先の発祥地として輯安一帯を ﹁ 一封禁地帯﹂に指定し立ち入りを禁じていた
に管理した城であった。また、清の時代は
金、元代にいたるまで軍隊を派遣して特別
重視されたし、高句麗が滅亡した後、潮海、
らば
は、西歴四二七年のことである。長寿王が
ている。王権の強化とは当時、輯安一帯の ている。底の深い円形のソファーを連想す
都を平壌に移したのは、王権の強化と三国
強い経済力を背景にして成長した貴族の勢 れば、似たような格好になるといえようか。
築造された一五O余の山城が輯安を中心に
遺跡の宝庫となっている。高句麗によって
したわけである。そのため、輯安は高句麗
四年の問、高句麗の都としての役割を果た
敵とにらみ合った山域である。圏内域は、
城は一互有事の際、王と国民が立て寵って
平地に築いてある。これに対して、丸都山
のが多い。ところが、輯安にある圏内城は
遼河の東側では北から南にかけて築いたも
高句麗の山城は、中国との国境地帯である
る。しかし、都市開発事業により市街中心
高句麗の古都だったことを嫌でも知らされ
を出している庵か警固していて、この地が
J同句麗冷麺広﹂﹁高句麗の飲犀-などの看板
品物を売っている商庖街と﹁高句麗飲食
や勝利路の周辺には高句麗文化にかかわる
ないだろう。輯安市街地の中心部の国結路
骸が圏内城の跡なのかどうか分かりょうが
~
・
市門
四
、じ
部
中
の
市 安 輯
上
碑
王
土 開 広
抜六七六メートルの丸都山に位置してい
溝に沿って北側に二・五キロほど離れた海
かった。丸都山城は、輯安市街地から通河
若干展示されているのみで甚だ物足りな
には今、高句麗画の拓本などと出土遺物が
で眠っているそうだ。そして、この博物館
の遺物は公開されず輯安博物館の地下倉庫
いるほどだったが、これまで出土した数々
年前でさえ道端に高句麗の土器が転がって
が遅まきながら分かったのである。五 j六
れていた。それで高句麗の城跡であること
嗣
一
匹
一 }
ン 一
ヲO﹃封印のとコ白
t
力を骨該きにして、王権を確立するため O吾凹@E6t
して選手省と吉林省はもとより、西には遼
東側の竜山と北側の福岡山、そして西側には
勺
河、北には松花江と黒竜江流域、東には図
通溝河向こうの七星山が張り巡らされてお
と消え去りつつある。とりわけ、東側と南
部にある圏内城は、だんだん歴史の裏道へ
65
何江(豆満江)流域、とい ったように散ら
り、南には鴨緑江が流れて要塞をなしてい
側の城跡は川の霊室工事や理め立て工事で
F
ばっていて、高句麗大帝国の砦となってい
る。圏内城が築城されたのは、高句麗の第
'b
だったと言うのだ。とにかく、輯安は四二
r ~
た。高句麗は、また中国の諸民族と交流し
イ史っていたりで、 わびしい
ながら漢文化をいち早く受け入れて、韓半
付属建築に改造して
二ハ代目の王である故国原王一二年(西歴
イ主人たちの物置小屋や
島に伝える拠点でもあった 。この ため、輯
城壁の跡は
66
purE 帥5 qc
将軍服俸は韓・安の東側の 龍山の震に小高く準えている。 輯安市街の周辺にある 王陵一八基のうちもっとも原形に 近く保存されている
る。丸都山城に登る道の左手に見える七星 山の麓の方には古墳群が自に入る。この 古 のほか馬山古墳群、マソン、マンボジョン、
墳群は七星山古墳群と呼ばれているが、こ サンソンハなど、何と七五に上る古墳群が あり、そこには七、八ハむ余基の墳墓があっ て、輯安は世界の有名な他の古墳群に比べ てひけを取らない 。低い山や丘はもとより 民家近くのトウモロコシの畑や手畑、果樹 園の中でいともたやすく高句麗時代の墳墓 を見出すことができる。これらの古墳群を 総括する呼称は沿溝高句麗古墳群である。 これらの墳墓は、埋葬された者の身分に よって大ききゃ形が異なる。圏内城時代を 生きた歴代の王と貴族の墳墓はもとより平 民の墓もある。規模の大きな墳墓としては これらは、どれも積石塚である。そのうち、
千秋塚と太王陵、将軍塚などが挙げられる。
の白眉といえよう。
将軍塚は規模と構造からして高句霊倶石塚 ﹁ 起阜塚は輯安の東側の龍山の麓に小高く 釜えている。輯安市街の周辺にある王陵一 八基のうちもっとも原形に近く保存されて いる。この墳墓は雄大で神秘的でさえある。 中心部の高さが二 メートルというのも驚
鴨緑; 工を挟んで
左側j の写真は時計回りに
向かい側に北緯満浦市が見える( 上) 。
将軍塚の内部、高句麗舞踊爆壁画、沿溝高句麗古境
68
異的だが、 一、 汽 む 個に上る長台石を階 段式に精密に積み上げた技術は見上げたも のである 。特に、重さが五0 トンもある巨 んできたり、天井の上に載 せてあるのは現
大な石を二0 キロ余り離れたところから運 代科学でさえ解き得ない謎といえる 。この 将軍塚は 、高句麗人の豪放な気質と進取的 わせて高句麗の建寒秘術と強盛な国力を 示
な気性を象徴する代表的な遺跡である。合 。 では、この将軍塚 の主 すのに事欠かな い はだれだろ う。一 九 O 五年に日本とフラ ン スの 主 A 告によ って初めて紹介された将軍塚 は、いまも って主がだれなのか確認されて いない。ただ、その規模と形式から推して、 好太王か長寿王の墓と考えられているが、 最近、中国の学者たちを中心に長寿王の墓 だとする説が有力になりつつある。だとす れば、平壌に遷都した長寿王が輯安に埋葬 されたのは、 遷都の後も圏内城を重視した 輯安で観光客のガイドは、た くみに遺跡
政策の現れと見ることもできよう。 を紹介しながらも警戒の目を隠そうとしな かった 。写真を撮られるかもしれないと監 視怠りなく、些細な質問に 対しても答えた がらなか った。輯安の遺跡群が損われてい るとかい った間違った情報が外部に流され ては迷惑だといった気持ちからだろう。七、 八のり 余基 の 墳 毒 か て 五 ハむ年もの間限 り続けている輯安の遺跡群は、これまでに 教知れぬほどの棄損と盗掘に見舞われた。 一九四五 年以前 の盗掘は、とりわけ深刻で あった 。 当時は日本が満州を支配していた時代 で、歴史的な数多くの遺跡が棄損されたの は、この時代の 出来事であろうと人 々は考 えている。警戒の 目を光らせているガイド たちの熊徐民 からも、こうした一面の歴史的な 被害音識を読み取れるように思われた 。 .
EZEal c
69
から出発した。それは、もちろん博幼館の
寄贈した吉田麗青磁と青銅器など一行む余点
ンス病院を建てた、あのセプランス博士の
経変造は除く)が残っているといわれる。
今日、高麗仏画は全世界に約一OO点(写
麗仏画の中でも格段に優れた名作である。
O点を蔵しているに過ぎない。このよ 約一
このうち八O点余が日本にあり、圏内には
しかし、この博物館が韓国の美術品に大
体系的な収集によるものではなかった。
美術宰(一 九六回)﹃中国絵画 E ( 一九五回)の著書
くまで堪能していらっしゃいと是非勧めた
畔の都市の高いレベルの芸術の香りを心行
長に就くと、まず韓国遺物の収集に乗り出
館長に就任して からのことである。彼は館
わざるを得ない。
もっている。この点からも貴重な作品と言
画は至って特色のある内容と独特な形式を
い名声を馳せている博物鳴か健在している
団で広く知られている音楽都市であり、高
都市だが、早くからクリ lブランドホ盆景木
わせのクリlブランドはあまり大きくない
アメリカ五大湖の 一つエリ l湖と隣り合
の眼目が決め手となるということを示すモ
館にふさわしい中味を揃えるためには館長
O年の問、博物館が買い入れた遺物の八 O%が韓国の遺物だという。博物館が博物
る。同博物館関係者の話によると、この一
驚くほど質の高いコレクションとなってい
アメリカで朝鮮時代絵画の名作を収集する
磁器に比べて甚だ見劣りがする。このため、
土にある朝鮮時代絵画の現況を見ると、陶
かなりのレベルの官聞である。アメリカ全
するほどのコレクションとはいえないが、
立され、現在約五万点の作品を所蔵してい
れている。これは現在、アジア担当首席学
集した韓国美街晶のなかでは特に絵画が優
また、クリ lブランド博物鯖か新たに収
あったと雪国える。
リlブランドの朝鮮絵画は収集に限界が
のはたいへん難しく、この点を考えればク
館の展示方式は、国別の独立室を設けるの
がかりの長期事業で進めている。この博物
大規模の別館(Zg 司巧5m)の建築を一O年
取り組んでおり、展示空聞を拡張するため
韓国通である。
の交友が厚く、韓国にもしばしば足を運ふ
今日にいたっているが、 韓国 の美術史家と
任者としてクリ lブランド博物館に赴任-
を専攻しており、七九年に日本一葉術担当責
カンニンハムはシカゴ大学出身で極東美摘
まれである。また、その当時の絵で伝わっ
乱(文禄 ・慶長の役)以前の作品はきわめて
クリ lブランド博物館は一九二ハ年に設
はじめとする東洋の遺物の優れたコレク
るが、特に西洋の中世時代の遺物と中国を
芸官のミカエル ・カンニンハムの韓国絵画
23
ではなく、テーマ別に国との関係も岩虐に
仏印
入れて陳列しているが、 韓国 の遺物はアジ
チのほどのものだが、金堤の﹃索、林山水民一は
ているのも大部分、・小品で二O ×三0 セ ン
周知のように朝鮮時代の絵画中、壬底倭
ンツを保っていると言えようか。
MU
丘三百m )﹄を所蔵することで、どうにかメ
ア美術の陶磁器室、絵画室、仏教美術Y室に
クリlブランド情拡沼館のコレクションの
緯が明らかにされているのは安堅の﹃夢遊
時代の壬辰倭乱以前の作品に作品製作の経 一 O年前まではクリ lブランド博物館時か
桃源図﹄のほかにはほとんど見当たらない
いう人物のために描く﹂と書かれている。
が、この作品には﹁一五八四年安サハクと
そのうえ朝鮮時代の絵画史から見て、朝鮮
中からわが国の絵画を紹介すると、まず高 図書薩座書﹃阿弥陀三尊﹄﹃観音立書﹃白
麗の仏画を挙げねばなるまい。﹃釈迦三尊 衣観音﹄ J維漢図﹄﹃五百羅漢図﹄の七点は高
国・日本のそれとは比べものにならないほ 国美術品コレクションは、ソウルにセプラ
ど見劣りがしていた。クリ lブランドの韓
所蔵している韓国の遺物は、質量ともに中
占め ている。
それぞれ中国や日本の遺物とともに一隅を
六八×五三センチの大作である。また朝鮮
秀作﹃寒林山水(宅百丹市﹃FS
ただ二ハ世紀の画家金堤(回忌の宮)の
ションで有名である。子細な内幕は知る由
史への高い関心と眼目によるものである。
一六世紀の山水画や十七世紀の画帖などは
また朝鮮時代の絵画を見ると、まだ満足
文化の都市だ。
デル・ケースと言えよう。
u
し、この一0年間積極的に購入した結果、
しりとして重い。そこで直麗伍画が大部
いう。クリ 1. フランド博物館。私はそこに
して、クリlブランド博物館所蔵の高麗伍
分、型にはまった図柄を示しているのに対
うな状況の中でクリ lブランドの七点はず
何回かまた訪ねて行くだろうし、アメリカ
に絵画史の権威であるシャlマン・リーが
で広く知られたアメリカの中国美術史、特
きな関心を寄せるようになったのは﹃東洋
携行中に余裕のある方なら、この静かな湖
て、それは査所となり、興行に成功すると
にこれを必ず見るようにと勧めるとき初め
う一度見たいという思いがするとか、他人
観光地であれ映画であれ一度見た人がも
一 、 嶺南大学教授・美術史
もないが一九六O年以来遺物購入に本腰で
ユ ホンジュー
食弘溶
一 、 一
ACTSBROD K~.
ク リ一フラン ド博物館
C L E V E L A N D M U S E U MO F A R T
70
初期における最高の大家が安堅だとすれ
ば、中期(一五五01一七のむ)の大家は金
この絵は、もとは日本のある個人の所蔵
堤であろう。
であったと言われる。今日、圏内で刊行さ
れている朝鮮時代の絵画史関係の図録には
本人の個人所蔵であるとしている。この天
漏れなくこの作品が載っており、 一様に日
れたのは一九八七年のことである。
下の名作をクリ lブランド博物館時か手に入
u 筆主告はカンニンハムの作挫宋室でこの作 品
を拝ませてもらった。長いこと拝みたかっ
た名作であったし、またこれまで図録に
載っていたものは茎具がいずれもぼけてい
朝鮮初期における
一七O O) の大{品れは
最ム南の大{永、が、安竪 だ と すれば、
01 中期(一五五
金 堤 であ ろ う
たので絵の魅力は充分に知られていなかっ た。ところが、いざ実物を見ると、それこ
そ金堤の代表作であり、朝鮮時代絵画史の
の名作に対する解説は、私よりは﹁クリ l
記念碑的な名作であることが分かった。こ
円宮町円
円
E2 ブランド博物館の六五点、 (ω 日4a OB r Q 2色白色冨52BO
O
4︿
﹀ ユ )﹂と い う 副 題 付 き の ﹃ 解 説 書 ( 円 三G 叩H 2巳55)﹄に載っているカンニン ハムの解説を紹介するのが音媒があろう。
この冬の風景画には、すぐれた技官か
つぶさに現れている。絵具の繊細な色合
によって、主題か非常に叙述的に説明さ
﹃
71
52. 3X67. 2cr n
『寒林容雪図』。金堤 朝鮮 (1弱 4年)
72
重荷から解放されることは、幸せなこと
ジアの絵画では長い間、ソンピが官職の
絵の主題を明白に説明している。極東ア
したり(左)、出発したり(右、舟で)して
官最を離れるに当たって 、客たちが到着
あるソンビ(官職にこだわらぬ学者)が
かっては横の方に逸れて伸び続け、結局は
かれているが、木が育つうちに崖にぶつ
るというのだ。つまり絵には柳の老木が描
味は朝鮮の絵画にのみ認められる特徴であ
なのはその絵が宿しているユーモアと人間
な絵を描いた画家がないこと、さらに重要
扱ったが、一七世紀の中国と日本にはこん
美術を専攻し、博物館では日本美術を取り
絵だと言った 。なぜなら、彼は大学で中国
ただしげに去っていった。
求め、博物館の彼方の美しい散芝壊をあわ
らないので、夕食に付き合えないと了解を
の自由奔放なセミ ナーに出席しなければな
彼は毎週一回開かれる東洋美祈研究者たち
込んでいるのだとうなずかれた。その日、
術品の収集に熱意を見せ、また研究に打ち
聞いて、なるほど 、だから朝鮮時代の美
仏
国
いう思いがしきりであった。.
『金銅如来立像』。統一新羅 高 さ25. 4cm ( 右)
『竜融支螺漆箱』。朝鮮 ( 18C) ,87似 11. 0X11. 5c m ( 上 )
れている 。
であり、尊敬されるべきであるというふ
質論を思い起こしてみたところ彼の考えが
宿所に帰ってカンニ ンハムの朝鮮絵画特
うに描写された。 私はカンニンハムからこの名作の購入に 関する話を聞いて﹁八七年だと朝鮮画が最 言ったところ、すぐさま﹁質からするとそ
高値を付けていたころと思いますがね﹂と の高値など問題になりません﹂という答え が返ってきた。 この天下の名画を饗貝するチャンスを与 えるついでにと思ったのか、カン ニンハム は 、 ﹃ 柳の木と燕じという題の大作をもう一 点見せながら筆者の答えを求めた。作品の 値打ちゃクラスのことではなく、中国・日 本・韓国のうちどの国のものと思えるのか ということだった。実に難しい問題だった。 絵の品格や材質から見て 一七世紀の絵に違 いないが、落款すらなくては製作した国を 見分けるのは、ニューヨークの街を歩く東 洋人を見て国籍を言い当てるような、たや すいようでも難しい問題であった。 絶壁の上へと生き生きとした姿で顔を出し
ありがたく感じられながらも、一方では自
こんな場合によく使われる判別法は、技 法が完壁を求めているのであれば中園、対
分自身が恥ずかしく、彼が恐ろしくもあっ た。筈享句か泊まっていた博物館の隣のホテ
ている。このような生命力の誇示と勇気を には見当らないというのだ。そのため彼は
た、この地方の文化財だが、あまりにも落
隠喰的に表現しているのは朝鮮の絵のほか
﹁朝鮮﹂に分類するやり方である。ところが、
最近、朝鮮時代の絵にますます関心を寄せ
いれば日本、それに自然な雰囲気があれば この絵には今挙げた三つの要素が揃ってい
ており、朝鮮の絵を見てその画家が物事を
いつか是非もう一度この宿所を訪ねたいと
ち着いたもの静かな雰囲気の中で、筆著は
象の描写にデザイン的な要素が添えられて
るように見えた。それで筆者は、よく分か
どう観察し、また絵を通して何を言ってい
05巾)は一OO年前に建っ
らないという意味から朝鮮(時代)の絵であ
( ルO Eg
る確率が五O%だと答えた 。
いうのだった。
73
るのかを研究しながら幸せに思っていると
これに、カンニンハムは 一ハむ%朝鮮の
『自重青函竜紋壷』。朝鮮 ( 18C) 。高さ 39.4ε: m( 上の上)
李 鐘 浩
舞踊評論家
技術面から評価する限りにおいては、何人
てきたのである。それまでは、ロシアやヨー
かの国際的に通用するバレリ ーナが登場し
ロッパの一流バレエ団、あるいは中国の北
京バレエ団程度の水準を目指すなどとは考
そうした拍皇思を考えてみると、韓国人バ
えることすらできなかったのである。
レリーナたちが菱秀珍の踊り、表現してみ せた愛らしくきりっとしたジ ュリエットを
の情熱的な喝采を受ける様子を見守りつつ
見つつ、また彼女がヨーロッパ人観客たち
つけ一俣もろい韓国人の心情のせいにするこ
光らせた涙を、単に嬉しいにつけ悲しいに
とはできないのである。それは個人的には、
バレエに対する一念から故国を離れて長期
ナとして登場した萎秀珍の職業的成功に対
間の苦しみを乗り越え、ついにプリマドン
積って七O年、短く見積ると五O年ほどに
において一時期、低迷飛行の状態にあった
どっちにせよ、バレエは公演やその教育
き起こる様々な思いでもあろうが、その根
主女 犬乃
Hソ
珍 . 秀 萎 ナ
世界の壁を越えつつある韓国人バレリーナ
レエ団による﹃ロミオとジュリ
イツのシュトゥットガルト・パ エット﹄の公演初日の一九九三 年一月二九日、夕刻。シュトゥットガルト・ オペラハウスの客席のそこここに二、三人 ずつ分かれて座り、舞台を見守っていた韓 国人女性客たちの自ににじんだ涙のことを いなや、彼女たちの何人かはロビーに出て、
私は忘れることができない。幕が下りるや または自分の席に座ったまま、すすり泣い ていたのである。涙もろい韓国人の特性か 多分、場違いな所にまで及んだと思われる かもしれないが、彼女たちの一俣にもそれな その日のジュリエットは菱秀珍であり、
りの理由があったのである。 一俣を流した観客たちは大部分、ソウルから 飛び立ってきたバレリーナたちだったので ある。ヨーロッパ旅行中の一行だった彼女
なるが、その問、なせか足踏み状態を脱け
に低迷してきた韓国バレエに対する口惜し
底には長年にわたって深い自己反省もなし
で、そうした彼女を見やりつつ自分たちの
する心からの営費と羨望であり、また一方
のニュースを聞いており、その姿を見ょう
出せず、何らかの発展があったとしても一
のであるが(もちろん、こうした評価は世
d
レ 、
とこの日の夕方、劇場に集まってきたので
界の一流パレエ団に比べて、そして韓国バ
バレリーナ人生を振り返ってみるとき、湧
ある。彼女たちの流した涙の意味を理解す
のでしかなかった。その原因としては、舞
時的なものであったり、牛の歩みほどのも
に対する社会的認識の低さ、さらに初期の
踊界全般の水準と舞踊社会の雰囲気、舞踊
九 0年代に入り、ようやく本格的な呈震を
レエ史を振り返ってそうだ左いう意味だ)、
レリーナは、萎秀珍が初めてではない。す
海外有数のバレエ団で活動した韓国人バ
ままの韓国バレエ界の状況について知る必
でに一九六0年代に金恵植(韓国芸術総合
さのあることも否定し難い。
要かあるであろう。
みせるようになり、バレリーナ一人一人の
韓国にパレエが紹介されてから長く見
バレリーナたちの教育的責任などが挙げら
れるであろう。
ことと共に、長い歳月、スランプに陥った
コ曲豆 O 円YO叩 ︿OE
珍
るには、韓国人がもともと涙もろいという
たちは、出国前から萎秀珍の主役デビュー
1u IE J II N ~ J( G
A l~ I[
I
74
OCコO﹄室。 の200︿
ドイツのシユトウツトガルト・バレエ閏か来韓公演した﹃ロミオとジユリエット﹄の一場面
75
いう番組で彼女が見せた話術の巧みさとそ
と ビの対談番組、﹁キム ・ハンギルと人々 L
つつあることを改めて実感させられたので
彼女が次第に洗練された社会性を身につけ
球事得ただろうと思われるし、と同時に、
はっきりとした自分の意見を述べたのであ る。 こうした姿勢は多くの視聴者たちの好
受けたおかげである 。
くから海外に出てパレエの本場での教育を
バレリ ーナとして成長し得たのは、結局早
で終えたのであるが、彼女たちが国際的な
O 月)、彼女が夏 にあったし(一九九四年 一
トゥットガルト ・バレエの来韓公演がすで
の関心は大変なものである。彼女とシュ
れに比べれば今日、萎秀珍に対する圏内で
人今の記憶にはほとんど残っていない。そ
加え、国内外の交流もさほどなく、 一般の
比べて問題にならないほど低かったことに
たひどく大衆的な興味と、時には性的な好
方はふさわしいと言えるものではなく、ま
女に対して、質問の内容やアプローチの仕
ものであった 。純粋芸術の世界に生きる彼
それに適応しつつあるという印象を与える
ターになりつつあることをすすんで認め、
様子とは異なり、すでに自分が大衆的なス
タビューの申込みにも乗り気ではなかった
残念がらせる共通点がある。それは、二人
れない。けれども、この二人は共に我々を
人は菱秀珍に見出そうとしているのかもし
ているような誇らしきと羨望を、今や韓国
考えてみると、日本人が森下洋子に感じ
ら彼女はすでに立派に戚熱していたのだ。
のであったと告白していたが、しかしなが
に受けたインタビューの中で最も難しいも
彼女自身、このインタビューがそれまで
ようのない技量を示しており、今やその全
て、最近では動きの一つ一つに文句のつけ
演技力のどれもが抜きん出ているという点 にある 。上体が多少、硬かった以前とは違っ
に加えて、踊りのテクニック、感情の処理、
いバランスのとれたプロポーション、清ら
らないその身長(一六七 センチ)と無駄のな
洋人と共に舞台に立 ったときにもひけをと
う点である。もちろん、基礎の段階は自国
リスのローヤルバレ エ学校に学び、スイス のチュ lリッヒ ・パレエ団とカナダのグラ スコミを無視し、記者や評論家たちのイン
の能信号川、それまでのどちらかというとマ
年の夏、視聴率の高いことで知られるテレ
ン ・パレエ団で活動した例がある。しかし、
学校舞踊院長、前国立パレ エ団長)がイギ
当時のバレエに対する圏内の関心は現在に
の休暇を利用して帰国するたびにマスコミ 奇心さえそそろうとするかのような質問を
盛期に入ったという感じである 。わずか 一
かで現代的な印象の容貌という生来のもの
バレリーナとしての菱秀珍の強みは、西
からのインタビューの申込みが引きも切ら 重ねる司会者の意図に対しても、彼女は礼
とも故国でパレエを学んだのではないとい
ある。
λ レエ界における本格的な大衆
儀正しく、余裕をもって受け答えしながら、
ないなど、 スタ lの登場を予期させるものがある。昨 m onm 胆﹀
吊亡可 ︾﹁口
76
77
者は彼女に会うたびにハンガリー出身の指
あった。当時はまだ舞踊に対する一般の認 識は低く、圏内では﹁健気な韓国少女 程度
を飛躍させる転換点となったのである。
めて主役に抜擢し、それはそのまま義秀珍
げた一九九三年一月の公演では萎套ノを初
の扱いであったが、舞踊界におけるその意
揮者、ゲオルグ・ ショルティを思い出す。 彼女の方が六歳年下であるが、共に高齢で
団(一九八六年)し、このバレエ団の最年少
九歳でシュトゥットガルト・バレエ団に入
あること、東欧出身であること、よく通る
さらに閉じ年の一一一月の﹃マタハリ﹄では (もちろん振付師のレナ lト ・ジャネラの
L
入団記録を持つ彼女は、入団七年自に主役
味は大変なものであった。 音楽の方面で、崖ヒョンスがチャイコア
決定によるものではあるが)、ハイデと菱
れもなかなかの話題を呼んだ。芸術監督が
秀珍がダブル・キャスティングで踊り、こ
スキー-コンクールで大賞を取ったのにも リュッセル国際舞踊競技大会において、当
匹敵するものであった。一九三九年、プ
その声、年を取っても変わることのない気 た有難い人物であると言うべきであろう。
性)は、早期海外教育の機会を与えてくれ この点に関して、韓国のバレエ界が彼女に
テイストたちが大体そうであるように、萎 秀珍もまた驚くべきその才能に劣らぬ、超
に抜擢されるまでには、人知れず非常な精 ド 進含重ね-てきたのであるPH長長 ・74
人的な努力によって今日の彼女となったの
て登場することによって、結果的には非常
に象徴的な意味づけをしたことになる。こ
直接出演する作品に菱秀珍が共に主役とし
れに先立って、一O月には寄貝振付師とし
了した崖承喜が、マリ l ・ピグマンのよう な人々と共に審査香貝席に座っていたあの
時、小さな植民地の舞踊家として世界を魅
時から長い年月を経て、本当に久しぶりに
へ行った人々は、自らの努力や才能と共に 運志良かったと言わざるを得ない。(今日、
負っているところは大きく、当時、モナコ
成長をとげ、圏内パレエ界の主要人物とし
である。苦しい海外生活において、自ら伺 それを経験したものだけが知るものであ
らの韮展も見出せぬ時の焦りと挫折感は、 る。今でも彼女は出動前、午前七時から一
て来たベジャ lルの﹃魔法の直のファミナ 役を踊り、愛の神秘に捕らわれた直結な乙 である。筈著は、一九九二年のモスクワ国
国際舞台から伝えられたニュースだったの
女の姿を表現してみせたのであるが、ベ
て活躍している彼女たちは、再び教え子や
ジャ lルは初日の公演が終わって ロlザン
後輩たちをモナコへ送り出すなど、部分的
ンヌ・コンクールの創始者であり、また、
際ディアギレエフ・パレエ大会で、ローザ
りの部分を週三回サウナへ行くなど、身体 にではあるが、モナコとの関係を再開・維
時間、個人指導を受けており、月給のかな
持している) ソヴァは東洋の小さな固から来た、まだあ
四年課程のこの学校において、ベソプラ
氏に会ったが、韓国人であることを告寸ける
ルからロ lザンヌへと連れていった人物で もあるフィリップ・ ブラウンシュヴァ イク
かつてモ lリス・ベジャ lルをプリュッセ
してきたのは、それまでの努力がある時胡、
もしなかった。彼女がここ数年間に急成長
た﹂と語り、大変満足した様子を隠そうと
ヌへ戻るにあたって、﹁萎秀珍は私が期待
萎秀珍のパレエ人生を語るに当たって
管理に注ぎ込んでいる。
いる。一人はモナコ王立バレエ学校の校長、
は、触れないわけにはいかない人物か二人
はもともと、教師として優れていることで
どけない華秀珍を献身的に教育した。校長
急速に実を結び始め(長い間学び続けてい
格でありながらきめ細やかな教えを施し、
慣、芸術家としての値掲・姿勢について厳
共にしつつ踊りはもちろんのこと、生活習
ており、これは彼女の大きな挙奮といえよ
その品性においても清澄なものを身につけ
賛そのままに、萎秀珍は踊りのみならず、
つまでも褒めつづけるのであった。彼の賞
な勢いがつき始めたためであろうと察せら
が明らかになることがあるように)、非常
水がせきを切ってあふれ出るかの如く全て
ると、ある日突然ものごとの痘堤か見え、
したファミナを一のむパーセント描き出し
マリカ ・ベソプラソヴァ、もう一人はシュ
ね、彼女の踊りとその人となりについてい
と、すぐさま﹁萎秀珍を知っているか﹂と尋
から特に注意を引いた何人かを遷ひ、自分
来韓し、仙和芸術学校の幼い生徒たちの中
並外れた思い入れを見せたのである。卒業
e
トゥットガルト ・パレエの芸術監督マルシ
は最後の一年を自宅に住まわせ 、寝起きを
有名な人物ではあったが、華秀珍に対して
の学校へと連れ帰った。文薫淑(ユニバー
ベソブラソヴァは、一九八0年代初めに
ア・ハイデである。
サル・バレエ団長)、金仁姫(ソウル ・パレ
ろんのこと、今日に至るまで変わることの
後の進路について共に話し合ったのはもち
萎秀珍が初めて主役に抜擢された﹃ロミオ
ない感脅と守護で彼女を支え続けている。
シア ・ハイデは、彼女に対して多大の信頼
に至るまで諮葬珍を見守り続けてきたマル
魚のように、この時とばかり発揮され始め
陰で今まで積み重ねてきた実力が水を得た
り、と同時にハイデが目を掛けてやったお
格的に花開く時期を迎えていたためであ
このような彼女の実力がいっとはなしに本
かつての幼い生徒たちであり、彼女たちの
と愛情を寄せている。彼女がどれほど義秀
一方、シュト世ツトガルト入国後、今日
れる。ハイデが彼女を主役に起用したのは、
ェ・シアター団長)、許庸純(スイス・バ l
た円ノ。
ゼル ・バレエ首席バレリーナ)らが、その 後輩にあたる菱秀珍は少し遅れて、一九八
珍に目を掛けているかは、一九六二年に
たと見るのが妥当であろう。彼女を見つめ
とジュリエット﹄初日の公演が終わってか
てきた周りの仲間たちが、自ら進んでマ
ら楽屋で会った二人は、ひととき言葉もな
ネージャー役を買って出たことも大きな助
二年に留学の途についた。仙和芸術学校で
た﹃ロミオとジュリエット﹄でまとった衣装
けとなっている。
初めてバレエを教えたエドリアン・デラス
はもちろんのこと、当時の初演成功を祝っ
く涙にくれ、じっと抱き合っていた。 卒業を一学期後に控えた一九八五年一
てクランクが贈った指輪までも萎秀珍に譲
ジ ョン・クランクがハイデのために創作し
導に当たった韓国人教師たちと共に長期に
クールに出て入賞した。一位を二人で分け
月、萎秀珍はロ lザンヌ国際パレエコン
が、ソウル芸術学校や学院などで後進の指 わたって韓国のパレエ教育の一端を担った
﹃ロミオとジュリエット﹄を含め、今まで に彼女が主役をつとめた官聞は、現代的な
あったのであるが、韓国人として著名な国
この官聞の初演三O周年を記念して幕を上
人物だといえるならば、名調教師として名
際舞里人会で入賞したのは彼女が初めてで
り渡していることでも分る。そのうえで、
声の高かったこのクリミア出身の情熱的な 女性校長(彼女は真に情熱的であって、筆
78
吊EE川﹀口O口mm﹀ ー
萎秀珍とハイデがダブルキャストで踊って話題を呼んだレナー 卜・ジャネラ監督の『マタハり』 中の一場面
一 O 月に﹃眠れる森の美さの主役をつとめ
創作パレエが中心であったが、 一九九五年
ジョン ・クランクが突如死去した 一九七
思われる 。
ハイデは、萎秀珍について次のように述べ
六年以来このバレエ団の監督を勤めている
ている 。﹁ 萎秀珍は天与の資質を備えた特
たことは、彼女が性格表現中心の作品の方
別なバレリーナだ。舞台の上では独特のカ
を得意としているのではないかという取中念 ﹃眠れる森の美さは、古典パレエの全ての
を払拭するに足りる確実な証拠となった。
リスマ性を持ち、美しさと誠実さを兼ね
であればいざ知らず、古典バレエにおいて
大変珍しいことであるが、シ ーズン初演の 日の晩の主役として舞台に立った 。現代物
である。その作品で彼女は東洋人としては
つ間違えばひどくつまらないものにもなり あなどってはならない作品 得る、決して、 ・
と美しさは踊りと演技によって表現される
勢を示すものであるとすれば、カリスマ性
誠実さということばが、 人聞は稀である L
の理想的な三つの要素をすべて持っている
持っている 。 このようなバレリーナとして
技巧を様々な形で要求する、それ故に、 一
東洋人が主役をつとめることは並大抵のこ
二要素のあるパレエを最も好むと語ってい
べき舞台芸術家の全てと言えるのではない か。それ故なのか、萎秀珍は物語と踊りの
中人物にふさわしくない場合が多いからで
問題は二の次としても、まずその容貌が作
いことである。その理由は、テクニックの
パレエのどちらをも得意としているという
う少し拡大解釈してみると、現代物と古典
部分がそうしたものである 。この言葉をも
る。これまで主役をつとめてきた作品も大
その人の人となりと平素の努力し続ける姿
に立 つということは、ほとんど考えられな
とではなく、特にシ ーズンの初公演で舞台
の美人バレリーナたちと共に舞台に上がっ
ある。しかし、菱秀珍の場合、彼女は西欧
ないほど西欧的な容貌の持ち主なのである
とって永えのチャレンジの対象であり、夢
が、この作品こそは全てのバレリーナに
てみたい作品は﹃ジゼル﹄だと語っている
今後、最もやっ 自信の表れであるといえる 。
(これは一般に考えられている以上に大き なメリッ トである)。 一方、テクニックの
てみせる、この作品を踊ってみたいという
その 二つの世界を最もはっきりと対比させ
ても、特に東洋人だということか感づかせ
面においても全て非の打ち所のないほど彼
意欲は至極当然のことであるといえる。
である。現世と来世の相反する二つの世界、 女は成長していた。一九九O年五月、シュ トヲットカルトの日本巡回公演の時、横浜
見せてはいたが、今回の公演では彼女が単
すでにその頃プリマとしての可能性を垣間
最後まで踊りつづけることと、めくるめく
ければそれは死であり、消滅ではないか。
しろ、常に動いているものである。動かな
宙であると彼女は言う。人生にしろ宇宙に
踊りとは何か。踊りとは人生であり、宇
に性格表現にのみに優れた主役クラスにと
で見た同作品の中でのソリスト華秀珍は、
どまっているのではないということをはっ
それがヨ ー ロッパであろうと韓国であろう
舞台が彼女の宇宙ではないのか。たとえ、
であろうと。.
と。そして、それが舞台であろうと稽古場
きりと印象づけた 。おそらく、この作品で の成功は 、彼女が古典と創作バレエのどち る、真に世界に通用するバレリーナとして
らをも自己のものとして踊り表現してみせ 認められるうえでの決め手となったものと
79
ι ポク イチキ ン
李昌一繭
ソウル大雪寡思議
~
80
-ニノ
覚めた草や木は、すがすがしく
t 晶、 の風と共に咲くアネモネを ﹁風 Lb 一一一の花﹂と呼ぶ。長い冬眠から目
上品なおめかしをして、聞けっ。ひろげな笑
人里離れた洞穴の中で深い眠りについて
顔で春の光を楽しむ。
いた月の輪熊も目が覚めると、まず雪の中
に芽生えている食べ物を得ょうと鋭い嘆覚
熊が雪岳山の中腹でうず高く積もった雪
と経験を活かして捜しに出る。
を掻きわけて食べる草を、雪岳洞の人々は
﹁コムチ﹂と呼んできた。熊が食べる山菜と
いう意味である。似た名前で ﹁コムチュイ
(オタカラコウ)﹂という菊科の植物がある
が、コムチとは全く違う植物である。植物
自体が不細工で大きいことから付けられた
名前ではないかと思う。
コムチは植物学者らが言う姫座禅草
禅草と似ているが、業が細くて長く、春に
ω ( 可H G-o巾白ロ吉田己三uoE2印)であり、座 同
は花が咲かず夏に咲くところが違う。
座禅草(ω 百 戸 自 己0235)は春に葉が伸
び、すぐそばに見栄えの悪い、まるで蛇の
皮のような芭が伸びてその中に花が 吊り下
81
ツツジ( 上の上) と福寿草( よ)
がる。ソウルの人 今はベチュナムルと呼ぶ が、昔はムッナムルと呼んで民間薬にも利
北岩嶺は、当時は北からのスパイの秘密
なった時、初めて発見された 。
然保護区域に指定するために学術調査を行
限界線( ω o z pB g-;同任回EECOロ)に 巾E 近い地域だと考えられる 。雪岳山地域を天
た。中主伺北道梶山都にある君子山麓の岩が
な形をしているので、その名前が付けられ
自)がある。世界でも我が国 ( ﹀σ巾-FO匂FMLZ だけにある特産植物で、実が丸い扇のよ う
ろ、幼い奮をつけるものに、ウチワの木
まだ春が来る前、ひらひら綿雪の舞うこ
布は限られている 。
( 司
自慢するかのよ うなレンギョウ
ウチワの木に次いで膨らんだ黄色の花を
に指定された。
ある 。自生地を保護するために天然記念物
色のものなどがあり、花の大きさも様 々で
必要条件を満たさなければならないという ことを 示した立派な教材の 一つになっ た。
通路として知られたところだ 。この植物は
ゴロゴロした所に生えているこの植物は、
るが、中国から入ってきたもので、まだ分
木は梅の 中で早く花が咲く種類だと言われ
監視検問所のすぐ前で収集された 。 この値
土が見当たらず隙間なく岩に埋め尽くされ
て、そこでストップしたのだから、ここが 、 この植物が南の方に下が って来られる南の
物を収集した翌日、横にあ った検問所がス
た山麓に生えている 。岩 の奥の深いところ
雪岳山のような高山地帯では早春に雪が 溶け始める頃、う主且向く積もった雪の隅で
25) 、 寒 渓 嶺 草 片栗(何ミ与臼 Oロ ( Fgロ江口巾)、アネモネ(﹀ロ巾BO口巾)などが 先を争 って顔を出し始める 。
。 E Aノ 本A
ツジ (HNFO 仏O仏 仏﹃ Oロ ミ ﹀SE白)は、もの 寂しい限りの冬の景色をきれいに 変えてし
g
E白)と赤い光で覆いつくす朝鮮ツ oa-
ウチワの木の花は白色、ピンク色、象牙
ン草という名前とともに語り継がれていく
パイの手摺弾の洗礼を受けた 。ハンゲ リヨ
用された 。だから、これに近い種である姫
片栗は濃い緑色地に黒い模様がある葉が
座禅草を熊が食べるのは別に不思議なこと ではない 。
根元にあり、長い茎の先から紫色の花が下
るのは福寿草 ( ﹀ 仏03乙である 。背は低い
早く咲く花の中で比較的大きな花をつけ
かもしれない話のひと切れが宿っている。
けて周辺の石が手もつけられないほど熱く
光を受けながら伸び、夏に強い太陽熱を受
に根を下ろして 、幹は石の隙聞から強烈な
に咲き乱れ、その美しさを添え る。朝鮮 ツ
レンギョウは、どの山や野原にも当たり前
我が国の春を象徴するこの朝鮮 ツツジ と
p u美的mWEd-c
風の花という名前がついているアネモネ
を向いて咲く。 は、花びらを傘のように畳んで強い風が止
ツジが満開になる三月の節句に、女の人が
ツジで煎(小麦粉のころもを被せてフライ
まぶしい春の日差しの中を出かけ、朝鮮ツ
パンで焼いた食べ物)を作って食べ、歌い
ウチワの木は、このような特殊な環境にあ り、他の植物がなかなか侵入できないとこ
踊りながら 一日を過ごす﹁花煎遊び Lは伝統
消してしまうケ l スが多 い。特産樋物を栽
レンギョウはどこでもよく育ち、移植し
朝鮮 な詩人である金素月の代表的な詩も ﹃ ツツジの 花﹄である 。
的な民族遊戯の一つになり、我が国の有名
培したり、保護したりするには、環境的な
のために 公園等で栽培されたこともある が、周囲の樋物との生存競争に負けて姿を
ウチワの木は珍貴なことと襲貝的な価値
ろに生えているのだ 。 U 雪の中で咲く梅の花 (M﹃ 5 5 ヨロヨ巾 )も 早く咲く花で、早春に花が咲くと花の木に なり、夏に実か結ぶと実の木になる 。扶余
南済州島まで広が って いる 。
て、日本では新年の朝を飾る花の一つに
なっても、ウチワの木はそのまま生き残る 。
リヨ ン草(戸 巾
を出す前に、もやしのようにあちらこちら に芽生える 。 片栗とアネモネは中部地方から南まで広
て発見されたために付けられた名前だ。満
地方で有名な寒冬(050﹃自己目巾)という
五色渓谷の左側にある北岩罷俊線上で初め 洲から南の方に向かってここまで南下し
がっているが、ハンゲリヨ ン草 は雪岳山の
なっているという。東アジア地域で育ち、
ように見える。福寿草という名前が好まれ
咲き乱れるレンギョウ( 左)
が花の直径が四センチ前後で、黄色い菊の
傘のような奮を聞く Anemone Radeana ( 中) 、雪
むのを待っているように見える 。ハンゲ
の中で花を咲かせる梅( 真上) 。全国至るところに
口江巳)は雪か溶けて地面が顔 O
初春の雪どけ期に顔をのぞかせる片栗( 最上) と
82
雪岳山の入り口の雪岳洞左右稜線に位置
地域では国際的な観賞闇葉樹になってい る 。
てもよく育つので我が国はもちろん、温帯
なって我が国の植物が現代科学と交わるこ
船ツツジが入っている。これがきっかけに
集してヨーロッパに送った植物の中に、黒
される際、一番最初に知られた植物である。
朝鮮ツツシの花はそのまま食べられる
ドイツ海軍が元山の海洋測定をしながら収
した権金城と蔚山岩等は、奇岩怪石の名所 とになった。
ライパンに焼いたもの)を作ったり、また
し、花煎(小麦粉などをこね花をつけてフ
ると、レンギョウの 一種であるヒロハレン
として知られている。しかし、近づいて見 ギョウ(司24P32包印)が岩の隙聞に生 お酒に入れてその香りと色を楽しむが、黒
えている。植えたり、手入れをしたわけで はないが、長い時聞をかけて成長し、花と 朝鮮ツツジを真の花(叶E 巾 戸
03円)、黒船
E0 ・出O垣市同)と呼ぶ理
U M巾
木が大部分である。しかし、江原道旋善郡
は朝鮮ツツジより太いが、濯 黒船ツツジ,
由もここにあるようだ 。
ツツジを犬の花(日
船ツツジは毒性があってそうはできない。
紅葉で景観をいっそうすばらしいものにす る。 我々は国土を錦繍江山(錦繍のような美 しい山川)と言っている。これはさまざま
半論山に生えているのは丈が五メートル
な紅葉の色で飾られた我キの国土の美しさ を表現した言葉であるが、実は明るい色で
根の近くの周囲は一O 八センチである。樹
花を咲かせ、春を飾った植物がそのもとに
冠は直径が七メ ートル あり、樹齢が二ハむ
で、胸元くらいの高さの周囲が七八センチ、
朝鮮ツツジの木は、北向きの斜面でより
年に至る。これは天然記今紘第三四八号に
なっている。
かっていくと鮮やかに咲き誇る朝鮮ツツジ
多く育っている。高速道路を南の方へ向
指定されて特別に保護されている 。
は、もちろん周辺の植物まで台無しにする
大勢の人々が狭い場所に集まるのでツツジ
て天気が少し和んだ後に行う行事である。
祭というのがある。朝鮮ツツジの花が落ち
山岳人たちが春に行う行事の 中にツツジ
の花畑が南の方から北へ行くにつれ、だん だん少なくなっていく。どうも湿度が重要 朝鮮ツツジは、北の満洲を経てモンゴル
な原因となっているようだ。 とウスリ l川まで広く咲いている。赤く染 まる景観は似ているが、レンギョウとい っ
朝鮮ツツジの花が落ちると、里山船ツツジ
咲きはじめる。その中でも目に付くのは高
く頃には、さまざまな花が先を争うように
朝鮮ツツジと黒船 ツツジの花が萎んで行
という世論に押されて自制し始めたが、ま
の花がパトンタッチする。朝鮮ツツジの花
麗ウツギの仲間である。王座の月桂冠を目
だ完全になくなってはいない。
は葉が出る前に先に咲くので赤い花の世界
しょに広がる景観はかなり違うと思われ
のように見えるが、黒船ツツジの花は葉と
渓谷の入 口を占めている。アメリカの園芸
指して走る高麗ウツギの仲間(耳2m己主が
る 。
黒船ツツジは 山麓から山腹を経て山 の上
家が我が国の吉田麓ウツギの仲間の中からカ
同時に咲くのでその色合いと景観が違う。
のように生い茂っているところもある。
まで登り、稜線地帯には黒船ツツジの花畑
ナリ(の告白々)という新しい品種を捜し出 ' したという。 企 黒船ツツジは我が国の植物が西洋に紹介
戸
Ohd A ヲ O﹃m u --c
83
CURRENTS
ウォン ポ ク
国立中央博物館学習概官
李源幅
イ
催したが、この展示には国立中央博物館の
物館は﹁今月の文化人物、檀園金弘道
Fを
一種)や延豊県監に任じられている。
により地方官職のアンギ察訪(地方官職の
今回の展示会を従来のそれに比較する
T11J 鮮時代の絵画展にしてはもっと -?3-ノも大がかりの展示といえる﹁檀 出身の職業画家だったが、詩文と音楽にも
と、金弘道の遺作のうち国宝第一一一一九号に
された。
ほか湖巌美術館や個人所蔵品の数々が出品
長じていたし、正祖王の後援もあって朝鮮
指定された湖巌美術館の﹃群仙図﹄と宝物第
日、観覧客で賑わっている。のみならず圏
画と人物画を中心にした五六点の所蔵品展
りするが、六五年に国立中央博物館で風俗
今回の展示に比べると規模の面では見劣
いてこれまでの展示とは格段の差がある。
るという大がかりのもので、規模の面にお
画帖﹄二五点など、約三OO点が展示され
央博物館の宝物五二七号指定の﹃檀園風俗
七八二号のコ内辰年画抽﹄の二O点、国立中
確立している。
金弘道は、中人(両班と常人の中間階級)
r t - 園金弘道特別展﹂が、九五年 一 二月一九日から九六年二月二五日まで国立
絵画独自の領域を示し、新しい様式を開拓、
金弘道誕生二五O周年を記念して聞かれ
中央博物館で聞かれた。 た今回の展示は、国立中央博物館の撤去を
内では、珍しく国立中央博物館、澗松美術
示をはじめ、これまで五回に亘る金弘道展
控えて聞かれる最後の展示であるためか連
であったことからして、その音義は大きい
館、湖巌美術館が共同主催した大規模展示
湖巌美術館では、もう二年も前から金弘
道展のため準備を進めてきたし、国立中央
博物館では年初から倉庫の未公開作を含め
金弘道の作品といわれるすべての作品を調
べ、その中から八O余点を厳選している。
澗松美術館では五O余点、特に﹃関東入景
図﹄﹃故事人物図﹄﹃翻毛図﹄のような名品を
出品している。このほか、ソウル大学や高
そして一 O余の個人所蔵品も展示されてい
麗大学など大学博物館と公・私立博物館、
もう三O年も前に金弘遁の風俗画と人物画
示会が開催されている。国立中央博物館は、
るまですべての分野が漏れなく入ってお
花蕊草虫、魚蟹、四君子そして遺墨にいた
故事人物、道釈人物、肖像、花鳥、開毛、
これらを分野別にみると、山水、風俗、
ヲ匂。
周知のように、金弘遁は朝笠刑期の{章
り、多方面において金弘道が築き上げた絵
といえよう。 (一五世紀)、末期の張承業(一八四三 j九
日i八月三O 日)。し (一九六五年七月 二 ハ
今回の展示で初公開された作品には、ま
を中心に五六点の所蔵品を公開している
ず山水画の分野で個人所蔵の﹃金剛四郡帖﹄
七)とともに﹁朝鮮三大画家﹂の一人に指折
それから八年後の七三年春と秋、そして
を挙げることができる。金弘道が四四歳
られている。弘道は朝鮮後期の画壇におい 散(一六七六 j 一七五九)とともに活動が際
八五年の春、朝鮮絵画の最高の宝庫といえ
だった一七八八年の秋、正祖王の下命に
トを当てたまたとないチャンスである。 立った画家で、俗に風俗画家の大家として
る澗松美術語は、所蔵品だけでそれぞれ三
よって金剛山を探勝して描いたもので、五
画の世界と、この大画家の真の姿にスポッ
知られているが、すべての分野ですぐれた
O点から五O点内外の作品を出品した 三回
冊の画帖に全部で六O 点の絵が載ってい
かし惜しいことに、この展示では図録を出
天才画家であった。
に百一る金弘道特別展を聞いて名数の名作を
していない。
彼は若くして道釈(道教と仏教)人物画と
公開した。また、九O年の秋、国立中央博
てソンビ(官職をよしとしない学者)画家鄭
肖像で名声を馳せ、御真(御真影)製作の功
84
金弘道は、 李朝後期の晶壇で 鄭 説 ( 一 六七、一ハj 一 七 五 九 ) と と も に 活 動 、が際 立 っ た 由{永で、 f
俗に風俗画家の 大{永として知られているが、 すべての分野で
すぐれた 天才画家であった
る 。 桐 の木 で作られた画帖の 表紙には、五冊 全部に﹃金剛全図﹄と紙に筆書きの画帖名が 付着されている 。もともと宮中から持ち出 された絵で、これまで公開されたことがな く、ただ杢東洲の金弘道 に関する 二編の論 文を通じて、そのうち四点のみがモノク ロ 画百毎に印章があるが、 六O点全部の場
図版で公開されているに過ぎない 。 所名を述べている筆室田きは同 一人の筆体 で ある 。比較的早い時期の実景山水画で、こ れまで知られていた彼の 山水画とは違い、 非常に繊細で九帳面な筆さばきである 。 これら の画帖と ともに 、国立中央博物館 所蔵の金剛全国 三点(妙吉像図、翁天図、 飛竜爆布図)もはじめて公開された絵であ る。 次に、故事人物画系統の絵の中では個人 所蔵の﹃朱夫子詩意図﹄ が まず挙げられる。 数年前に日本から里帰りした﹃弘斎全書﹄に も言及されているように、もとは八幅で ている 。これ は朱子が唱えた 八つ の徳目を
あったが六幅の日本式扉風に作り変えられ 図像化したもので、御覧に供するのにふさ わしくごく丁寧な筆さばきの落ちついた絵 画で、画幅ごとに方正な書体の詩句が書き 込まれている。金弘道五六歳のときの記念 合わせて、 珍しくも弘道の師匠萎世晃の
作である 。
は画面の状態が良好とは言えないが、独特
長い隷書題政(題字と践)のある ﹃ 慎言人図﹄ な主題の水塁たけで描いた作品である。凡 常でない筆線などが注目される絵である 。 刊記によって一七七コ一年金弘道二九歳のと
Q61フ00 コ
︿ 一 印
85
きの作品であることが分かる。 また、国立中央博物館と澗松美術館所蔵
金弘道展示会が聞かれている国立中央博物館の展示場
f'l Cl:~m
の故事人物画は八点ずつの一連の作品で、 それぞれ掛け軸になっているが、もとは扉 風であり、これら全部を一括して 一つの場 所に展示したのは今回がはじめてである。 個人所蔵の﹃舟上観梅図﹄は最近、確認され た金弘這の時調(韓国の定刑表討)と同一の内 容の絵画で、これまで図録に紹介されたこ であった。
とはあるが、一般への公聞は今回が初めて この ほか間毛画(鳥獣を描いた絵)や鳥固 などにおいても湖巌美術館の﹃丙辰年画帖﹄
金 弘 一道 は 、 韓 国 の 山 河 を 独特の詩情をもって美しくユーモラスに描きだして いるのである
の中の九点の朔毛画がすべて展示された し、澗松美術館所蔵の八幅の餌毛画が一括 して公開されたのも初めてのことで、この 分野 においても他に後れを取らない金弘道
い弘道の山水画、庶民たちの質朴な生活を
の真面目をはっきり見せてくれた。美しい 韓国の山河を独特な詩情で描き出した美し 話語で絶妙に描き出 した彼の筆きぱきの境 で、今回の展示会は末長く記憶に残るであ
地をわれわれみんなが堪能できたという点 ろう。 .
a僻ww 芯ザ砂川 凶作五
品川小系が 彰司 網
、 晶
ト , 、
金弘道の作品
86
J OURNE Y S IN K ORE AN Ll TERATURE
崖仁動
在イニ動を一言でいうなら、 どの作家よりも、どの歴史書よりも 韓国の近代・ 5見代史を豊かに客観的に再現した作家で ある 。 彼の作品のうち尻代史を表札した『国道の果で』 と『笑い声』が紹介される
87
偶像に対する恐怖と韓国文学の可能性
山佳仁勅の作品の世界 ユポソン
の作品を勧めたい 。さらに主観的な判断が
について知ろうとするなら、筈互告は屋仁動
万 一誰かが短い時間で韓国の歴史と文学
観的に眺望すること に成功 した最も重要な
崖仁動の何編かの小説が韓国の歴史を客
柳 潜 善 草案豆一家
イデオロギーと情緒との聞の関係を究明す
が人間各自 の意識と無音謀、認識と実践、
許されるとしたら、一層この表現を強めた
o
ることは困難であるという事実を意味する
要因は、崖仁動の個人的な体験、彼を通し て形成された作家音識と関係が深い 。崖仁
の普遍史をもとに確立されたということと
え人聞を規定する規範体系が西ヨーロッパ
仁動の小説を見よと言い たい 。その理由は
と知性史を見るというのなら、なおさら崖
作審議を獲得した。雀仁動の作家音識の
その険難な歴程を乗り越えながら 一貫した
動の 生き方の歴程は険難そのものであり、
なのである。
が彼を偉大な作家と称する田平も重要な根拠
としたら、韓国の現実は文字通り予測し難
い。韓国文学の特殊な質を確認しようとい
の方法論が考案されたにもかかわらず、ど
中で何より先に鮮明なカラ ーを浮き彫りに
この言葉は、現実はそれほどに
d v d予測し難く、また個々の人間的 寸寸l
うのなら峯仁動を見よ。まして韓国の歴史
TE1﹂ 実は授精で人聞は複雑である
意識と実践は不器用な規定を許さないほど
ないほど捉え難い。これは勿論、歴史を捉
く、韓国人 の内面心理は言葉 に言いつくせ
t ι ι y
を意味する。歴史を把握するために数多く
名様な要素によって決定されるということ
れひとつとして人類の歴史を体系的に定義
にくい韓国の近代 ・現代史と複雑多岐な内
簡単である。たやすくその本質を見きわめ
が出たにもかかわらず人聞は、このような
られているように思われるとともに、韓国
の歴史は必然性よりは偶然性によって進め
化した作家が 即ち崖仁動であるからであ
冷静な観察と深みのある事由を通して形式
面世界をもっ韓国人の存在方式を、幅広く
年期が、ある 日突然暴力の介入によって壊
ラ である 。バシ ュ しているのは﹁脱郷音議﹂ ルが生涯 ﹁ 最大の風景﹂と呼ぶほど聖なる幼
このような事情を考慮してみても、韓国
関係が深い。
することに成功したことがなく、同じく人
存在であると定まった論は未だかつて出て
人は合理的な体系で説明することができな い存在のように思われる 。単 一民族を強調
この崖仁動を一言でいうなら、どの作家
聞を規定するにあたっても数多くの認識論
いない有り様である。
しながらも同族間の棲惨な戦争を行なった
よりも、どの歴史書よりも韓国の近代・現
校猪だということが即ち与えられた現実の
であるといった方が正確であろう。現実が
校猪であり韓国人の意識と実践はより複雑
否定していたかと思えば、ある瞬間その矛
昨日ま で誰よりも熱烈に、矛盾した現実を
しすらみえないのが韓国であり、またつい
現実的に再現することに成功したという点
、 の近代 ・現代史を実際の歴史相より 一層
品が言葉に言いつくせないほど複雑な韓国
といえるとともに、崖仁動のいくつもの作
代史を豊かに客観的に再現した作家である
意識は、 Jcすらい意識﹂あるいは 寸 遊牧民
雀仁動の作品全般を貫ぬくもうひとつの
もに理性の狂気に対する発見も含まれてい る。
識﹂には精神(または霊魂)の故郷喪失とと
そうして、崖仁動の﹁脱郷意
本質をつきとめ、その未来を予測すること
盾した構造の忠実な体現者にな ったりして
J 詰一旦参照)。
力は理性的行動と呼ばれていた(崖仁動の
される。ところが、おかしなことにその暴
韓国の現実と韓国人の存在・万式も、また
だけでなく、未だ分断の壁は崩れ落ちる兆
が困難であるという意味をもっているとす
しまう存在が即ち韓国人なのである。
す 心。
同じで ある。いや、韓国の現実はより一層
れば、そして人聞は複雑であるということ
88
かった。人間らしく生きて行くための目標
し、その精神的自己完成の道はたやすくな
説の主人公として世界史的な個人を送り出
常に悲劇的である。勿論、崖仁動は彼の小
いたことになる。
作家意識が、雀仁動の作品の世界を韓国社
崖仁動の作家意識は、このように 幾重 に
しているわけではない。峯仁動の小説の主
会に対する冷静な観察と批判的な省察に導
も重なっているため、我々はこれを﹁偶像
されなかったからである。雀仁動は激変の
が、窪仁動が生きていた歴史的空間では許
人公たちは、そのほとんどがある巨大な集
が社会の発展と再び調和をなす精神的な自
の地にも精神的なよりとeころを見いだせな と﹁主観と客観﹂、﹁個人と全 に対する恐怖 L
時代に生き、激変の時代においては自己反
己完成を夢見たということができる。しか
かった。叙事詩的な充溢から強制的に追放 体が調和をなす社会に対する憧僚﹂と呼ぶ
省や省察はむしろタブ l事項になるもので
は、呪われた運命のようにさすらい歩き、
されたために、さらに強烈だった幼年期の ことができそうだ 。一言 で言うなら雀仁動
団を代表したり、ある巨大な歴史的な流れ
どの地にも定着することができなかった。
記憶は故郷ではない所で幸せを感じること は感心目見的な確信から知覚、五性(人間の五
ある 。崖仁動は、ただ単に自己の完成を目
わった強力な叙事詩的な体験のために、ど
を源泉的に不可能にした 。また故郷から追 つの性情一喜び、怒り、欲、恐れ、憂い)、
意識伊である。雀仁動は幼年期に故郷で味
放された状態で留まった韓国の資本主義体 自己音議、理性、精神につながる精神的な
ばならなかった 。彼の独特な作家的体験と
標にするという理由だけで苦痛を受けなけ ればならなか ったし、さすらい歩かなけれ
しようと全力をつくした人物たちが、その
い。 一 般に悲劇性が、ひとつの秩序を体現
を体現する人物として設定されることはな
崖仁動の小説全般にただよう雰囲気は、
と客観のバランスがとれた社会 ではなく、
制は個人の冒険的行動と社会の発展、主観 自己申完成を、過程を通して対象に対する意
人物としては、どうにもならない新しい秩
識と自己音識が 一致する、そしてその奇話
コ
ブ0 0
従って峯仁動の霊魂をまた別の意味合いに おいて荒廃化させる社会であった。崖仁動 d
︿品目。﹁
れた運命を拒否する人間個体が挫折すると
序によって座礁するとき、あるいは定めら
き発生するとしたら、雀仁勅の小説に登場
する主人公たちは 、この ような人物からは
であり、自分自身を保存しようとする性格
はるかに懸け離れている 。平凡な人物たち
しかし、雀仁動の小説の主人公たちは、
の持ち主たちである。
説の主人公は、ただ﹁私の責任からあまり
誰もが悲劇の情況に取り囲まれる。彼の小
にも遠くに投げ出された荷物、それを私は
背負うカがない。力がないのに引き受けて
にはわからない(雀仁動﹃西遊-記﹄
)L
という
倒れてしまったら伺の音媒があるのか、私
判断を下して、自己保存的な人生をおくる。
それにもかかわらず、屋仁動の小説の主人
は常に理性の名前で行われる)から自由 に
公たちは権力による暴力(この場合の暴力
なれない(崖仁動、﹃グレ lクラブ顛末司皆、 、 ﹃西遊書、ヨ曲一呂等)。 ﹃広場﹄、﹃灰色人﹄
は自らの音主心とは関係なしに深い絶望の深
崖仁勲は韓国社会を、ひとりの個人の生活
て読者の自己意識の実現過程を遂行しよう
淵にはまりうる、精神的な自己完成を通じ
とする個人には 一層抑圧的な社会として捉
89
マンはドストエアスキーとボ lドレ lルと
でドストエアスキーに注目している。パ ー
性の経験﹄(﹀口叶 v a r ω o -三宮市-zFS Hoggso同冨 O仏巾E q )の中
は、とりわけ寛大な視線を送っていると批
も社会主義という認識のスペクトラムに
るいくつかの認識を徹底的に否定しながら
ルカ iチが現実のゆとりのある再現を妨げ
対する身ぶるいするような記憶がベ lスに
異を消したうえで形成されたファシズムに
のリアリズムを指摘したある文章の中で、
を比較し、そこでドストエフスキlの文学
えていることになる。言い換えると、現在
念が主人になり、個人の自己の実現過程は
﹁全ての全体は虚偽である﹂という彼の認識
判している。アドルノのこのような批判は
の自己意識を実践し、それを専有して高い
奴隷に転落してしまう。また個々の人聞は、
の発展モデルの基礎を作った先進資本主義
世界を世界史の中心であるとして、世界史
ころには個有の人間と対象の聞の全ての差
論がそのベ lスになっており、より深いと
同一、H45何
ひとつの目的になるのではなく先験的な観
国家のモダニズムであるボ lドレールの文
E
実践の弁証法的な過程を許さない社会、峯
念の実現のための手段として二の次にな
学の世界とは区分される低開発国家のモダ
このような過程を経て先験的な規範や観
を通して再び秩序化したのである。
仁動は韓国の歴史と現実をこのような媒介
り、人間性は社会を運営するにあたり深刻
行動との間で深刻な断絶を味わうのであ る 。
雀仁動か何編かの官同の中で再び秩序化 な考慮の対象にならない。解放後、韓国で
ニズム(叶﹃巾目。ハrS2BO﹃ ロ ロ 仏 町 三 巾 ︿ 一 色 0y
段階の自己意識に発展させる、即ち事由と
一層実際的である。崖仁勅の設定した媒介
した歴史と現実は、実際の歴史と現実より 左翼・右翼の対立が激しくなり、同族相争
目
こそ、韓国の近代・現代史の本質にアクセ う悲劇的戦争が韓半島を巻き込み、そして
いる社会制度を模範的な世界に設定し、そ
験した国であった。即ち、既に施行されて
うとした体制である社会主義を間接的に体
しただけでなく、資本主義の矛盾を越えよ
なら、韓国は資本主義の希望と絶望を体現
韓国は第三世界国である。別の表現をする
を発展のお手本にして、それにあわせて歴 史を進ませたことがあるのである。さらに、
あった。従って、韓国は先進資本主義国家
うである。 勿論、作家屋仁動かいかなる先験的な観
も寛大ではなかった作家であり、今なおそ
的にいかなる先験的な観念や制度に対して
る。雀仁齢制は、韓国の文学史において例外
するような状況をつくりだしたからであ
させ、それが取り返しのつかない身ぶるい
分、人間性に対する最小限の信念すら忘れ
全体のみを志向する認識の粋組みは、大部
あるといえる。かの時代を風廃した普遍と
のこのような認識の能度は絶対的に必要で
韓国の歴史を眺望するときも、アドルノ
なっている。
れにあわせて歴史が進行したのである。
gg門)と称している。そして、パ lマンは
スできる経路として遜色がないからであ る。韓国は低開発国家であった。即ち、先
韓国のこのような歴史の展開は、韓国の
で精神的な居場所を定めることができず
念に対しても寛大ではないという理由だけ
進資本主義国家の発展を追いかける国家で
現実とそこに生きる人間たちを一言で規定
のものは、その先験的なものに従わなけれ
にいるのは、韓国が第三世界の状態で近代
依然として分断の状態が今なお克服されず
すと説明している。だとすれば、我々は精
類全般に対する深い絶望感と虚無意識を表
家の絶重を予め経験することによって、人
低開発国家のモダニズムは売進資本主義国
、 世界の 国の文学史においてのみではなく
足跡を残すにいたった。いや、ただ単に韓
によって彼の文学は韓国の文学史に確かな
らず彼は呪われた運命に喜んで堪え、それ
いうのは事実である。しかし、にもかかわ
に、さまよい歩かなければならなかったと
しがたいほど複雑にした。売す先験的なモ
ばならなかった。存在が意識を決定するの
性を経験したということと密接な関連かあ
神的な自己完成の過程自体が不穏視される
デルや制度、あるいは観念が与えられ全て
ではなく、意識が存在を決定するようにな
る 。
達する代わりに、先に与えられた普遍的な
通して上記のような韓国の特殊な歴史と韓
観と客観の疎通体系の確立﹂という媒介を
崖仁齢制は、﹁偶像に対する恐怖意事挿﹂と﹁主
ズム、第三世界的モダニズムと各つけても
主義国や低開発固とは違った形態のモダニ
いだそうとする崖仁動の文学を、先進資本
状況の前で絶望し、またその中で希望を見
偉大な文学はボ lドレ lルの言葉の通り、
べを立てるまでにいたったのである。結局、
ンの言葉を借りれば)という新たな道しる
文学史に第三世界的なモダニズム(パ l マ
い自己の実現過程を経て普遍的な理性に到
るのである。従って韓国の人々はたゆみな
理性に自らの全ての個別的な意志や威信を
国人の内面心理を誰よりも鋭く掘りさげた
呪われた霊魂のみが創造できるもののよう である。 .
bg) アドルノ(﹀仏 OBO)はルカ lチ(﹁ロr
いいであろう。
押し込まなければならなかったのである。
されたものは煙のように消え去る│近代
(ZSE--F52)は、章者﹃全ての固定
作家である。かつてマーシャル・パ!マン
るという固定観念が絶対的な権威を占める
普遍的な理性を目指す行動のみが真実であ ようになり、各個人は感情と認識、そして
90
震予竺- 警手11
I
町 ヲ
NE WS F R OMT HE K OR E A F OUNDAT I ON
海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、紛同大学、研究所なとで韓国に関する研究や韓 国語講座の開設などを行なう 場合、これを支援しております。人文 ・社会 科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについて支援申請 を受け付けております。
韓国国際交流財団のフエ ローシッフ
0
.
プログラム
韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエロ ーシップお よび 韓国語フエローシップを次のようにこ案内いたします。
韓国研究フエローシップ
①韓国学、韓国語なと韓国関連講座の開設およひ拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する 奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日 で、選抜の結果および支援額については、同 年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での韓国研究に対する支援」およ び「韓国国際交流財団のフェロ ーシッ プ・プロ グラム」 の申請書およひ葉内書は、韓国国際交 流財団または現地の韓国公館で求められます。 申請書およひ漆内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご連 究期間中の滞在費が支五合されます。申請ご希望の方は、
絡顕います。 樟国国際友5 i l t 財団国際協力 1 部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一回七号 電話 : 82-2-7日-3464 ・FAX: 82-2- 万7- '2fJ47 • '2fJ49
K OR E A F OC US ( コリア ・フォ ーカス)
( 韓国の時事問題関係桶月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊五割< ORE A F OCUS ( コリア ・フォーカス)
所定様式の申請書二通と研究計画書を作成のうえ、該当年の五月 三一 日ま でに韓国国際交流財団に提出してください。 超友の結果は同年八月中旬までに通報いたします。
韓国語フヱローシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する樹十の大学院生・学者およ び適格の専門家に対して、韓国語フェロ ーシッ プを提供し、 六一一二カ月 間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。フェロ ー
を刊行しております。 「コリア ・フォーカス」は日本のみなさんに韓国関連
シップを与えられることが決まった方には、韓国内の三カ大学のうちの一
の情報を提供 して韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しており ます。
つの韓国語講座を受講することかでき、受講期間中には、授業料と所定の
当財団は「コリア ・フォ ーカス J が日本の皆様にとって韓国に関する有益
滞在費か支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書を二通作成
な参考資料になるものと信 じます。 「コリア・フォ ーカス」は、日本語版のほかに英文即<OREA F OCUS も
のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してください。 選抜の結果 は同年八月中旬までに通報いたします。
刊行しておりますれ同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関僻量誌、判f 誌などの刊行物から翻訳、転載したものです。
脳協同1
コリア ・フォ ーカス が取り上げてい る記事は、韓国の政治 ・経 済 ・社 会 ・
F OCUS , 文 化 な ど の 各 分 野 と 、 韓 国 関 連 の 国 際 コ リ7 ・ 7 和島
x
問題に亘っており、このほか韓国に関
する重要な資料と主な事件の日誌も掲
劃
載しております。したがって、韓国の 時事問題に関する情報性記事が幅広く
盛り込まれていて、韓国の現実にリア
e
ルに接していただけるに違いありませ ん 。
F
絡願います。 韓国国際交滑謝団国際協力 2 部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函二一四七号 電話: 82-2- 宍i 3る465 ・FAX: 昭 -2-757- '2fJ47,お49 司占 -・
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