韓国現代文学 @ 冒閣議: ; : t 界化ゆ展望
'
ひとりひとりにドラマが生まれる。 シェラトン・ウォーカーヒル・カジノは、ソウル市内でただ一つのカジノ。 ここには、訪れる人を酔わせる華やかな時聞が満ちています二 1レーレット、パカう えブラックジヤツ欠タイサイ…。
本物のゲームだけが持つ興奮に出会う。 本格的にカジノを楽しみたい方から、気軽にカジノの雰囲気を味わいたい方まで それぞれにきっとご満足いただけるドラマが生まれます二
シェラトンウォーカーヒノレ 韓国ソウル 電話 : ( 02) 4 5 6 - 2 121 金浦空港 : ( 02) 6 6 6- 2121 FAX. ( 02) 455- 2 121 キ オ7 オフィス : ・東京 ( 03) 3584- 0631 ・大阪 ( 06) 211-3747 ・名古屋 ( 052) 21ト 1515・福岡 ( 092) 414ー7707・札幌 (011) 242- 2121・ 仙台 (022) 266- 5228・広島(082)242- 21∞ ・ 香港 2721- 5325・ 台湾 (02) 565. 2612
BEAUTV O F KORE A
青磁鳴形水滴
青磁鴨形水滴。高麗時代 ( 12C前半) 。長さ 12. 5cm. 国宝74号
pitぬ高の気晶と瞳伺神を備えた、かつてのソンピ(官職に就か
h引引 UVない両班の堂骨)の書斉であるサラン房には、まず基本 l吋 一 J 的なものとして、紙、墨、筆、硯の讐記具があるのだが、
これらを各つけて﹁文房四烹﹂という。文房(書ぎには、この四種
の筆記具の使い勝手をよくするための様々な用具と、書籍を始め
とする小物を収納しておくための家具や置き物が置かれ、ソンピ
たちの学問錬磨と教養を積むのに不足のないようにした。ソンピ
の率直で純粋な精神は、文房に整えられた文房四友や文房具にも
現れ、雑多な装飾ゃあれこれ並べたてることは慎むべきこととさ
れた。主人の左右の壁ぎわには手文庫が置かれ、その上に筆立て、 紙箱、水滴などを載せたのである。
文房四友のひとつである硯とともに、水滴も実際に使われる大切
入れ物で、文房で実際に使われると同時に、鑑賞品としての役割
な文房具のひとつであった。水滴は、硯に垂らす水を入れておく
も担っていた。大概、水と関連して、これを象徴するような亀や
一是非・善悪を判断するという獅子に似た、頭の真中に 一本の角
鴨、魚などの形のものの他に、四角、扇一型、六角、へ了ア(訳者註
が生えているという伝説上の動物)、桃など、その形態は非常に多
岐にわたる。水滴には、ふたつの小さな穴があり、水を入れて垂
らしゃすいようにできている。特に、実用的でありながらも鑑賞
に耐えうるように、その造形は簡潔であると同時に可憐で、優雅 さと俗に流れない趣きを兼ね備えている。
柔らかきと、そこはかとない上品な青磁の質感が溶けあい、端
正でありながら清楚な美しさを特った青磁鴨形水滴は、十二世紀
前半頃の惇品であり、その頃の工芸芸術の真髄を見せている。 一
のどかな姿を形象化したものであり、背中には蓮の葉を丸めて載
羽の鴨が蓮池に浮いて、蓮の花の茎を口にくわえているという、
の花のつぼみから出てくるように作られて、いかにもかわいらし
せた形の空気孔があり、水は鴨のくちばしにくわえられている蓮
決して華やかではない、そこはかとない色使いと質感、また素
朴でありながら洗錬された美を内在させたこの青磁鴨形水滴こそ、
この時代のソンビたちの持っていた生活情緒と美意識の結晶であ るといえるだろう。.
実 可 〉ヨ
. . ざ♂ブ? で 鴻可バヨ試-.
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存可
。
カバー・ストーリ ー
1 9 9 6年は韓国政府が制
定した文学の年である. 韓 国社会全般にわたって国際 化が普遍的な課題として提 起されている最近の韓国文 学の位絡はどのようなもの
4
であり、また文学の国際化
今日 の韓国文学、 その現住所と展望
は可能であるのか、韓国文 学を海外に紹介する課題と 展望などについて探ってみ
金煩翼
る 。
10
写真は稲叢で作られた韓 国の伝統的なむしろの上に
韓国文学、その世界化への道
原稿用紙を合成したもので ある。コンビュータが一般 化している最近は原稿用紙
権 寧 E民
16
に文字を書く作家たちも次
世界における韓国の作家 彼ら の文学とテーマ
第に減ってきている傾向で ある
金容稜
22
土地 と韓国文学
朴徳套
32
EAST MEETS WEST
私が見た韓国文学 中野俊子
36
日 次
F OCUS
偉大なる文学の余韻、小説家朴景利 金網園
40
I NTERVI EW
小説家李昌来 コリアナ
45
宗廟、六百年伝統の儀式と建築 金東旭
korea Foundati on 哲寺号刈I.ii!吾川喧
V ol. 9,No. 2,S UMME R 1996
-liI&f.ìJ'~
KORE ANA コリアナ
ジョン ・ぺ (J ohn Pai )
56
1996年 夏 季 号
ONTHE ROAD
大緯民医ソウル特別市中区南大門路5節
26
100- 095
発行人兼編 集人
珍島、宝のよ うな民俗を 蔵する美しき島 金周祭
金正源
64
韓国国際交訴謝団理事長
CLOSE- UP
舗 集長
萎盆中、その小さくも大き い芸術 佑芳 聖英 金林
娯烈
タ
金李ク
60
文亀一
集一-
彦園刊雨 i 翻 光 畑 ト昇
a金 金 ア朴
柳済擢
定価
彫刻家
安淳永
総屋国際交流財団の季刊 隊 守
52
KOREANARTISTS ABROAD
李 周憲
68
DI SCOVERI NG KOREA
韓国の味、薬味 ~ 4 .50
0 )
発行所
韓国国際交流財団
大穂民国ソウル特別市中央郵便局
私 書 抱 147号 司
.p, 正X : 82-2・757・2047、2049
電 量 署 長デザイ ン
ART SPλ CE PUBUCATI ONS ・理器苦: 82 2- 734-7 184 • F AX : 82-2- 737・9377 崎
1'1<0 同訓l A ( コリアナ) J は縄国国際交流財団が発行し ている 季 fl J &t です. 従っ て版権 はすべて本財団側 に あり ‘ 本財団の許荷な しに転車2・複製するこ とは禁じ ら れており ますのでご了承下さい.
また. 本誌掲載の記事・論文の内容は、本誌 崎議諸または本財団の童昆ではありませA A ,
1987年 8月 8 日 登 録 時 1033号
1991P手6月 20日 印 刷 1991P手6月 30日 発 行
( 毎年3 、6 、9、 1 2月の4 回発行) 印刷所
三星文化印刷株式会社
ソウル特別市城凍区議揚綱 167・29
. 理翠昔: 82- 2-468-0361- 5
ミュージカル 『明成皇后』成功の秘訣
金文 燦
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大韓民国ソウ凡特別市鐘路区通義洞 35- 11
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の韓国文学、 そ の現住所と展望
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金煩翼
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一 年単位で決定的な翠畿を迎
代韓国の歴史は、奇妙なことに
4 -E . ・ O
抗運動を抑え難くなった八0年代末期に
に収める。そして民主化を求める国民的抵
れ、新軍部のクーデター勢力が政権を掌中
力によって光州民主化抗争が苛酷に弾圧さ
る。ところが、翌年五月いわゆる新軍部勢
主政治が復活するとの期待が満ちあふれ
大統領の暗殺によって終止符が打たれ、民
れる。この独裁政治は七九年一 O月朴正照
会の全般に亘って一段と厳しい統制が敷か
新﹂クーデターが起こり、政治・経済・社
乗る七0年代初めに、親政のいわゆる﹁維
ればならなくなる。韓国の産業化が塾埠に
このあと長いこと軍政的支配にあえがなけ
避けたが、翌年五月にクーデターが発生し、
わが国は歴史上初めて下からの革命をなし
一九六O年には四月の学生革命によって、
戦争に耐えなければならなかった。そして
体制がもっとも苛酷な火花を散らせた韓国
かった。五年後の一九五O年には世界冷戦
南北の悲劇的な分断を受け入れざるを得な
と同時に解放を、その解放の歓喜と同時に
三六年に亘る日本の植民地支配からの脱却
14J.えているようだ。一九四五年、
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日
4
なって、韓国はやっと政治的民主主義へと
進み出し、一方で国土の再統一に向けた北
方墓表講じられるようになった。他方で、
韓国は政治的民主化を果たせなかった三O
年のあいだ、経済的には大きな量的発展を
なし遂げ、先進国の入口に差しかかってい
このように類いのない政治的・経済的変
ると見られている。
化の歴史が示唆する意味は大きい 。まず第
一に、終戦・解放以来半世紀聞の変化は、
非同時的なものが共存していたことであ
る。すなわち伝統的な封建的人間タイプと
価値体系を 一つの極にし、後期産業社会的
都市的行為と情緒をもう一つの極として、
集落社会と大衆社会、権威主義と個人主義、
保守的価値観と現代的な進歩主義といった
ふうに矛盾する両極の価値観と人格タイプ
がぶつかり合いながら同居していた。もち
ろん、これらのものの衝突と対決は、社会
的葛藤を先鋭にしている。第二に、その変
化は自生的で構造的であったが、テンポが
速く影響は全般に及んでいたため数々の社
会的問題を発生させたということである。
その問題とは、権力の独占性と非民主主義、
労・使と貧・富の深刻な葛藤、地域と世代、
産業部門と職種聞の摩擦、公害問題、南北
の分断と対峠の構造化、知的偏向性と自由
の統制ーなどである。そして、これらの
ものは構造的なもので、たやすく解決でき
る筋合のものではない 。第三に、にもかか
わらず変化に対する韓国人の観念が変わっ
てきたということである。韓国人は伝統的
に保守主義的な傾向があるうえに、開化以
来、近代史の変化は常に悲劇を伴っていた
という経験的な悲観論を持っていた。とこ
ろが四月学生革命が成功し経済開発が進ん
でからというもの、変化とは望ましいもの であることが分かりだした。そして、われ
われは未来を企画し管理することができ る、といった楽観的な考え方に変わってき たのである。第四に、このような過程で生 まれた未来への自信は、改革と未来の青写 真の模索という知的活動を可能にしたとい うことである。企業の輸出戦略と生産技術 の開発から体制のを盾に対する批判と、こ れまでタブ l視されていた進悲酌理念の受 容にいたるまで、現況の是正と変革を目指 す動きが七0年代以降各議な形で現れてい る。その結果、頑なな反共主義のあおりで ご法度になっていた社会主襲論とその存在
等質的な民主主義と平等主撃を代案として 探りながらその理論と理由を進誌に登子 化しようとした世代である。彼らの関心は 盾 ι才 プルジョア・プロレタリア聞の構造 り と民族分断状態の止揚であり、そうした左 派的体系をもとにして文学・文化・学聞を 洗い直して変革をなし遂げようという実践 運誌でもあった。こうした三つの世代的パ ラダイムを、旧世代・ハングル世代・琵子 主義世代と言って区別しているが、三つの 世代の考え方をもとにして保守主義者・自 由主義者・進歩主義者といい換えても言い だろう。ともあれ、この理ゐ筒体系の三つ
期的な病症が目立って現れるにつれて、こ うした現実に対する文学的良心の問題を提 起し、さらにどう書くべきかという問題に
起こるにつれて、ものを書く行為の意味と 目的か根本的に聞い直されたのだ。この論 議は、政治的な弾圧が強化され産業化の初
起こされたが、これは当時の韓国文壇の全 部を巻き込んで、文学が、腐敗した現実に 対して何をなし得るかといった反省か巻き
働階級の解放のために努めるよう強調す る。文学のこうした告蓬的な目的論は官聞 を書く行為と方法の転換を求めるものだ
めるとともに民族文学論を唱える。彼らは ﹁階層﹂の用語を﹁階級﹂に改め、現実のネガ ティブな側面を矛盾論で分折し、文学は労
韓国文学のこの半世紀に亘る展開過程 も、こうした世代的視点から検討され得る であろう。伝統的な土俗的世界観と古典的 なヒューマニズムがリードしていた韓国の
会笠子的規定は模糊としているが、まさに その模糊性のため現実の霊香を求める人々
きるハングル(韓国文字)世代であり、意識 のうえでは西欧文化を直接受け入れた整資 階層である。この世代は、外国語の本を読 み表現しなければならなかった、そして他 民族の支配のもとで暮らしたその前の世代 とは違い、汚れを知らぬ世代であったし、
0年代半ば、マルキシズムの洗礼を受 人
に耐え得るには言語的なカタルシスのほか には手段がなかったからだろう。彼ら一人 一人が体験しなければならなかった戦争と 貧困と混乱と矛盾は、彼らとともに生活し なければならなかった韓国人すべての普遍
要な資産に数えられると思われるほどだ。 韓国の創作家がそこまで登りつめ得た理由 は、惨たんたる民族史的体験と苛酷な抑圧
的に形象化するうえで巨大な足跡を残して いるのである。その豊かで優れた文学的成 果は、少数民族の言語という限界を乗り越 えるとすれば、今日の世界文学の一つの重
特異性によるものであろう。しかし韓国文 学の成果は、理念的・理論的な抑圧から自 由な作家の作品に求めるべきであろう。彼 らは韓国の現実と内面、夢と価値観を文学
つある。 こうした一連の文学論争が韓国で執勘に 持ち出されたということは、韓国の社会発 展と文化桑麗が遅れているからであり、そ れ以上に錯雑で葛藤的な韓国社会と文化の
発展する。しかし、こうした告筆的な論理 は八0年代末の東欧社会主義諸国の崩壊を 自にしながら大きく揺らぎ、急速に衰えつ
表現壁凡を開発しなければならないという こと、社会主義リアリズムに基づいて無産 階級社会を建設するように仕向けていかな ければならないなどといった過激な論理に
が、創作の主体が労働者自身でなければな らないし、それも複数の者が一つの官聞の 創作に携わらねばならないということ、伝 統的なジャンルを解体させ、新たな民衆的
対してリアリズムを提示する。この参与論 とリアリズムに批判的に対応する、いわゆ る自由主義文学派は、文学が現実に対して
現代文学は六0年代半ばハングル世代の浮 上とともに抑圧的な現実と疎外陣層に目が 転じられ、さらに八0年代の進歩主義的な 新世代にいたって民空文学論を要花した
に向かって一層アピールできたのである。 ともあれ文学でまっ先に提案された民衆論 は、それ以降他の芸術部門と人文、社会科 学などすべての分野に広まっていって、こ
の枝は現代韓国の知的・意識的・形能街地 形を描いてみせている。
持つ関連性を同じように認めながらも文学 的自律性が放棄されてはならないといった 態度を取り、その方法論においてもリアリ ズムに限られるよりはモダニズム的な創作
労働文学への進展を示している。この過程 は、現実と言語という関係からみれば、文 学の現実に対する無関心から、社会季子と 現実変革といった関心に変わったことを意
が一つの代案として示されるまでになるの である。 こうした考え方の変化とそれに対応する 文化的・認識論的な緊張の中で、韓国には
味する。換言すれば文学の現実を超越する
の時期の時代的な象徴語同様になる。﹁民 衆﹂の文学的表現は、疎外集団の日常生活 の具体的描写だという論となって現れる が、それは支配者の歴史への拒否と根強い
手法の開発を提案する。 この論議の延長線の上で、金之河が発想
三つの異なる世代が現れていることが確認 される。三つの異なる世代が生まれたとい うことは、考え方次第ではパラダイムの転 換だと言ってもよいが、その翠命慨を作った
孤立性と、現実との国怠のもとでの自律性、 現実改革への手段性を指す。文学に対する こうした観念の変化を促し媒介したのが、
生命力を持った降民たちの健康な生活、彼 らが築き上げる平等と愛の世界への希望を 文学が再現すべきだというものであった。
合理主義的な意識を持ち、主体的自我を求 める現代的な世代であった。二O年後の五 月光州抗争世代は産業化がもたらした相対 的な豊かさの中で成長した。この五月世代
に示 した﹁民衆文学一静が七0年代半ば導 c される。労働者や農民など経済成長の犠牲 となった階層を中心にして中産階級まで取 り込むよう求められる﹁民衆﹂の概念は、社
のは一九六O年四月の学辻輩命と八O年五 月の光州民主化抗争である。四月差叩世代
0年代以降、韓国文壇に持ち出され、三 六 O年の間論じられてきた一連の参与文学論 とリアリズム論、民衆文学論、そして民族
けた新たな世代は、この民衆文学論をより 笠子的で理念的なものに発展させるよう求
は政治的には民主主義の可能性を提起した 世代であるが、文化的には韓国の歴史上初 めて母国語で教育を受け、考えることので
文化論であある。 文学参与論は六0年代の後半、ある教授 のサルトルの参与論に対する批判からむ c
は、そのときまで韓国の精神的・現実的な 理念の基盤をなしてきた西欧指向的・資本 、 し 主義体制的な価値体系の虚構を見いだー
6
れを文学を通して実現させようとする真撃
がら生きていく甲斐のある生活を夢見、そ
現実の生活を切り抜けて、それに抵抗しな
的な経験であったし、逼塞し苦痛に満ちた
ポストモダン的な生存の様相と行動にいた
品を書くこととインテリの意味の栓素から
られた生存の社会的問題にいたるまで、作
在論的関心と救いの問題から労働者の埋け
国人作家の文学的関心は、いまや人間の存
が新たな文学的地平を聞くにいたった。韓
をなす韓国戦争文学は、惨たんたる戦争が
である。五0年代の韓国文学の主なテ l マ
活の様相を規制する条件をなしてきたから
社会の現実的・政治的・撞自・日常的生
史的な観点からだではなく、その後の韓国
が現代韓国の歴史の分水嶺をなすという歴
統一の歴史的当為性とそれへの念願を熱く
越廷来)。また長編叙事詩など(高銀)は、
会史的情況を全面的に再検討する(金源一、
戦争が起こらざるを得なかった内在的・社
して新たに認識し(金源一、李斎そその
かった北の人民軍をわれわれと同じ人間と
学的真実を通じて生きることの重みに耐え
現実の状況にぶつかって作家と詩人は、文
ら豊かさを警見たのだった。苦痛に満ちた
ら自由を渇望したのであり、貧しかったか
求しなければならかったし、抑圧されたか
展開過程を検討すれば、韓国社会の警高
探ってみることにする。これらのテ lマ の
三つの中心的テ!?の文学的展開を簡略に
学の流れを概観するうえで適切と思われる
多岐に 亘る文学的関心の うち今日の韓国文
るまで幅広いものとなっている。こうした
の視点(雀仁動)にアプローチしたり、少年
戦争は相反する二つの理念の衝突であると
昌渉)。四月学生革命が成功した後、その
ズムの喪失であった(金東里、責順元、孫
の倫理や価値の崩壊、古典的なヒューマニ
もたらした個人的生存の実存的援椛と既存
に打ち出している。
に対する認識を新たにし、統一指向を前面
の同質性を想起させながら解放後の現代史
冷戦構造的反共主義を乗り越え、同じ民族
歌っている。こうした音総識の文化的前進は、
せんさ︿
は混乱に満ちたものであったから真実を探
な心持ちは彼ら共通のものであった。彼ら
抜こうとしたのであり、そのために可能で 矛盾が作家たちによってどう捉えられ省察
期にその戦争を体験したハングル世代の作
あったその文学的成果はこの三O年の間旺
韓国作家たちは、苦痛に満ちた
韓国の歴史とともに生きできながら誤った
乳実と闘い、よりましな生存に向けて他の分野の人々
に比べてもはるかにえさく寄与してきた。
彼らは受難を重ねながらも抑圧的政権に刃向かい、 改革の理論と情緒を培い、 そして覚めた精神と変革の力で
大きな文学的成果、現実社会の変化する w最感に反映する、伝統的なリ 主題の数々-
盛に現れてくる。
韓国戦争と国土分断の問題、第二に近代韓
るだろう。その三つのテ l マとは、第一に
的な表現をどう獲得してきたかを理解でき
されてきたか、そしてそれらのものの文学
悲劇を主体化することによって克服しなけ
清俊、金源一、手輿吉)として回想され、
を認識させるイニシエ lションの契機(李
家にとっては、それは世界の悲劇的な状況
的手法を借りて韓民族史を再現しようとの
のではあるが、この悲劇の由来するところ となった韓国近代史の探究が大河歴史小説
韓国戦争への悲劇的認識から始まったも
韓国社会の氏主化と自由を育ててきた
アリズムが、その精神と手法によって現代
ればならない対象として示される(洪盛
近代韓国民族史の反省
韓国文学の柱をなす中で、表現の自由に対
原)。幼児期または韓国戦争後に生まれた
な手法が探索され利用されている。また、
韓民族史を捉えているという点で従来の歴
下層階級の民衆史的史観に基づいて近代の
らの歴史小説は、問題意識を持って庶民や
史小説とは異なっており、歴史の長い流れ
試みが小さからぬ成果をあげている。これ 文烈、林哲茄)。戦争白体は次第に作家た
を総体的に描いているという点で大河小説
作家には、その戦争は今日の分断的状況と
八 0年代になってその戦争は現代韓国史を
ちの音識の背後に退いてはいるが、しかし
的な構造を持つ。近代の韓民族史の文学的
それが規定する抑圧の正体へと変わる(李 解放とともにもたらされた国土の分断と 一 九五 O年の韓国戦争は、わが国作家の執
しながら、これまでは照明されることのな
抜本的・社会史的に再び見直す資料に浮上
に、または方法論的に多彩となる。ジャン
対象に対する視点も多角的になって理会前
の争いと戦争における残酷な殺りく、それ
劫な文学的重水の的となる。その民族同士
ルのうえでは、伝統的な短編小説中心から
て実験的な手法、解体主義的な方法論など
長編小説に発展しながら大河小説と連作小 説の野心的な作業が行なわれている。そし
聾回戦争と分断の問題
の問題である。
な一場面
国民族史の反省、第三に産業化と疎外階級
緯国の作家たちが執働なまでに文学的
する現実的な制約から放け出すための各議
追求の的としている韓国戦争の悲劇的
応のみを注目した本稿で結論に代えてはっ
るであろう。社会の変化に対する文学的対
日の韓国文学への概括的な理解か可能にな
も変貌せざるを得なくなった。八O生代に
こうした全般的な変化の中で韓国の文学
描写(黄哲瑛、趨世間)に発展し、七0年代 半ばになると工場労働者たちの苦痛に満ち
再現は、六0年代に長編小説(安室雲口)と長 た生活とその条件を聖書しようとする努力
文学の資産を大きくしているが、大衆的な
七O一年代になると野心的な作家たちが使命
執揃に続いてきた緊張の連続を反映させな がら、現状を改革しようとする作家たちの
人気は凋落し、それに代わって九0年代の
編叙事詩(申東嘩)になったことがあるが、
0年代に入ると、労働者たちは非人間的な
蟻烈な緊張を通してダイナミックに文学的
ことの実体はどうだつたのかについて歴史
ぜ惨めな状況にあるのか、韓国人の生きる
ている。それは、韓国人の今日の歴史がな
日にいたるまでの韓民族の歩みを映し出し
こうした文学的な底果は、一八世紀以降今
配、イデオロギーの腐敗と偽りを証言する。
現しながら支配者と被支配者聞の葛藤と支
の過去の生存の実相を総体的・社会的に再
瑛)。これらの長編大河民衆小説は韓国人
層に対する民衆の抵抗を形像化する(責哲
金周策、文淳太)、伝統社会の動揺と支配
人間化に導く物神的資本主義体制に対する
の憂愁(金光圭)と商品広告文化が人聞を非
義社会の中で真実性が失われていく中産層
ているが(崖仁浩)、八0年代以降、資本主
疎外問題は、早くも七0年代に持ち出され
的な問題を境けかける。都市民の内面的な
産業化がもたらす人聞の自我喪失の存空論
急速に成長する都市と中産層の膨らみは、
物神化に対する批判である。産業化により
都市中産層の偽りの生活と資本主義体制の
たということは注目に価する。第二には、
ダニズム的手法を初めて試みた作品であっ
が、八0年代の重要な労働文学の成果がモ
に向上しコンピューターをはじめとする技
なっている。そして国民所得は中進国なみ
た労働運動を含む圧力団体の活動も活発に
チで進んでいる。これまで弾圧を受けてき
いて文民政府が樹立され、民主化が急ピッ
ある。三O年の間続いてきた軍事政権が退
年代の韓国も急激な変化を再び経験しつつ
が解体し、東ドイツが西ドイツに吸収され るといった国際的な情勢変化の中で 、九0
東西の理念的冷戦体制が崩壊し、旧ソ連
今後の課題
九 O隼代の韓国文堂と
ているが、今日の韓国文学の風土は消費文
ン、金ヒョンギョン)がベストセラーとなっ
感のいわゆる後日談の文学(援允、孔チヨ
運語圏の人々が体験する知的・情緒的挫折
とに関心のある伝統的な文学的追求(鄭燦) も行なわれてはいる。八0年代の体制批判
の例である。もちろん真実をさらけだすこ
表出(具孝書、由民錫)などがそうした作業
r蝕まれる都市大衆の非人間化(庚河、 流行
れわれの意識と知識社会にも直接的変化を
の中味である。こうした生活の変記は、わ
小説、空想小説の氾濫、軽いノンフィクショ
セラー化が煽っているが、大衆小説と推理
コンピューターと漫画に想像の根拠を設け 既存の中心価値を解体しようとする欲望の
的な探索(李舜源、議政て庚河)であり、
社会に溶け込んでその堕落史を暴く自意識
(申京淑、韓江)であり、退廃的な物神崇拝
若い感受性と内面的な苦悩の素直な吐露
的再現をすることである。
郷撤(呉圭原)、現代文明か誘発する人間の
議政この作詩作業に際立って表われ、中
やゆ
廃棄物化に対する憤り(鄭玄宗、峯勝鏑)、
は女性作家の大量出現とその作品のベスト
学の方に移っていく傾向か強にこの傾向
六 0年代に企画され七0年代からその現
産層のエゴイズム(朴腕緒)と中間インテリ
これに対する文学的関心は早くからきわめ
それによって急激な都市化が形成される。
の強力な輸出政策をもとにして進んだし、
で農民と労働者の労働力の搾取と独裁権力
は、韓国文学の全貌が明らかにされるわけ
以上のような概略的な点描をもってして
能性(金香淑)などが小説作業にも散見され る 。
層の懐疑(金源祐)、労働階級との和解の可
わりながら近代性から脱近代性への変化を
る。文字から映像にメディア体系が移り替
る寸小さな話﹂に話題が変わっていきつつあ
きな物語﹂から人聞の欲望と内面を重視す
引き起こし、社会と歴史をテ l マとする﹁大
文化発展の段階にともなう構造的または自
と、九0年代のめまぐるしい変化の動きは
従来の韓国文学の性格と事就に比敷する
どによってさらに進むものと見られる。
ンもの好み、映像イメージへの高い関心な
ている内面の雪 c を率直に表しており、新
て先鋭に示され、それは二つの方向に展開
たな生存条件とそこから新たに形づくられ
学的変化が作家と読者の自由な欲望と生き ( 人類)の出現を自にするよ ゆる﹁新世代 L新
然なものであるかもしれない 。こうした文
うになる。こうした極端な変化の兆しを知
る新世代の球銀又性を怖じ気もなく自在に表
ファッションなどに特徴づけられる、いわ 人間の存在論的な省察と救いの追求(臭貞
現し、その初々しい表出によって変貌した
引き起こし、コンピューターやイメージや
その第一は、まず産業化に犠牲になった
姫、李文烈、李農種、産勝子、金恵順)、
ち出されたポストモダニズム・論争であろ
識社会で示したのは、九0年代の初めに持
もなく、そのうえ質的なレベルと言語的な
か脱落した疎外集団と階級に対する関心で
現実に対する知的認識と批判を(糞東歪、
形象力を示すわけにもいかない。少なくも、
ある。六0年代後半の農民と都市貧民に対
金芝河、黄芝雨)掘り下げていってこそ今
れんびん
めの浮浪労働者たちの渡り者生活に関する
する憐髄(朴一泰淘、草案げ)は、七0年代初
する。
はんらん
は、資本と技術が全くなかった状態のもと
実化を確認することになる韓国の産業化
産業化と疎外階級の問題
し生活は消費中心に変貌してきたのが変化
術・情報産業が急速に進み、社会は大衆化
の半ばにいたる聞におおむね完結し、韓国
うして今日の韓国現代史の悲劇の原点とし 労働現実を知り、階級性に目覚め資本家の
形象を獲得してきたということを自負する
れている。それは新たな世代が身につけた
作家たちによる新しい文学が盛んに発表さ
執勘に求められた大河民族文学が九 0年代
て植民地時代の韓国民衆の生きる姿を再現 横暴に対決して階級解放を高らかに叫ぶ
ことができるということである。
きり言えるのは、韓国現代史の展開過程で
させ(洪盛原、 AR 源二、民族の主権が失わ ニズム的な手法(趨世照)も使われている
(朴ノヘ、白ムサン)。そのプロセスでモダ
輿士口)。八 の敗北を形象化する(越世照、者ノ
れる直前の韓末の開化期を通して伝統的な
感から熱情を注いだテ l マでもあった。こ
生存の様相と近代化の失敗を描き(朴景利、
う
8
コAWC コ @ 白v t o a
近年盛んに普及しているパソコン文学の成
な姿を煽っているということも否めない。
家の真撃な瞳掲を損なう深刻なネガティブ
かかわらず文学を消費の対象に仕立て、作
は充分に指摘されねばならない
cそれにも
価値と倫理体系を示しているといった長所
アが引き受けるべきものであるが、大衆文
はじめ関係財団と大学、そしてマスメディ
ねばならないだろう。それは文芸振興院を
成することのできる社会的仕組が設けられ
されつつある本格文学と実験文学を保護育
成し遂げなければならない。第二に、疎外
を見直し、それに合った教育方法で改革を
かった。われわれは文学教育の目標と内容
学に抵抗しながら創造性の文学を生産する
のネガティブな姿への変貌は、文学教育の 不在、美学的価値の生かじり、大衆性と消
長を通して一層激しくなるかもしれないこ
費性生活パター ンへの 急激なのめり込みで
ればならない。第三は、韓国現代文学の成
作家と出版業へのテコ入れ体制を作らなけ
して提起された﹁文学の危機﹂論が決して杷
の機闘が韓国文学 の国際化に向けて
努力しており、そ
の成果が現われて
はいるが、少数民
族の言語という限
界と翻-努未熟、そ
して翻訳文学量の
少なさのために韓
国文学一の特質が充
分に伝えられてい
なし
教育はこれまでにもあったが、何かよい文
ならないということである。文学に関する
さと真撃さを取り戻一す方向に改革されねば
三つである。まず、学校と家庭と社会が共 同で行な っている文学教一育が、文学の真実
て取り主けなければならないテ l マは次の
九六年を﹁文学の年﹂に定めたいま、主とし
としての地位を取り一すよう願うものであ
えり、新しい世紀の初めに創造的芸術の柱
力が世紀末の堕落した風土に新しくよみが
者は、これからの文学が真の価値の成熟と
韓国社会の民主化と自由を育ててきた。筆
も抑圧的権力に刃向かい、改革の論理と情
く寄与してきた。彼らは受難を重ねながら
0.
緒を培い、そして覚めた精神と変革の力で
学であり、それはどのように受け入れられ
る
て他の分野の人々に比べてもはるかに大き
誤った現実と闘い、よりましな生存に向け
ちた韓国の歴史とともに生きてきながら
ともあれ、韓国の作家たちは、苦痛に満
199b 宮町三ItiH るべきであるかに関する手頃な手引きはな
そのため今日の韓国の文学が、特に一九
憂ではないと言えう。
4)
果を海外に紹介するま素である。近年、数々
あって、これからの韓国文学に対する展望
90年代の韓国文学は、女性作家群の新登場と
を曇らせる働きをしている。こうした悲観
共に急速に変貌しつつある
的な観点からすれば、近年に深刻な問題と
韓国のある文学賞の歴代の受賞作家たち。
F aE 4:司 そ韓
│の国
l
世文 界… 子 ニ 化、 i
^ '櫨 の
j
E民5
i
円U︿ Aa凶↑白︿
韓国文学の
紹介という仕事は、
海外への
まず政府が
主導してきた
韓国文学の
一環として
海外広報事業の
始められた
韓国文学の世界化
韓国文学の世界化とは何なのか 。
韓国文学という領域において、寸世界化﹂
会の成立過程にあって、韓国は日本による
封建的な朝鮮社会の解体と近代的な市民社
代性の撃には、韓国社会の近代的変革と いう時代的な特殊性か常に存在していた 。
いうのが真相だ。韓国文学が求めてきた近
てきたし、文学の形式と技法、主題と蛙碍 近代性﹂というものを引きずってきたと の﹁
学の形態から近代的な文学形態へと変容し
国文学は、過去一世紀にE って伝統的な文
という概念は大変不馴れな課題である。韓
L !J 道
10
る商品消費市場の原理とは全く異なった、
文化的条件によって決定づけられる。韓国
文学の世界化、あるいは海外への紹介は韓
国文学が異質の外国文学の中へ入って行
き、互いに衝突したり、友好的な出会いが
あったりする過程の中で行なわれるもので
ある。これは文学的な技法と主題に対する
読者の水準の高さによって、その成否が左
右されるのである。この場合、一番大切な
ことは、情緒の普遍的な価値を追究すると
いう、文学に本質的な属性であるといえよ 弘 ソ 。
韓国文学の海外紹介事業
韓国文学の海外への紹介という仕事は、
まず政府が主導してきた韓国文学トの海外広
報事業の一環として始められた。韓国政府
は国家的事業として文化芸術を守護すると いう目標の下に、一九七三年に韓国文化芸
術振興院を設立し、文芸振興院を通じて文
学作品の翻訳、海外への紹介という事業を
繰り広げた。しかし、韓国文学は世界とい う舞台では、さほど注目を集めることはで
きなかった。一九七0年代後半から八0年
文学の近代性というものが、主体の認識と
こうした韓国文学の変化の過重における
設にあたっては国土と民族の分断という体
植民地時代を経験し、近代的民族国家の建
見ょうとする新しい概念だ。この場ム口、最
く、空間的な本質を問う概念に置き換えて
展を時代区分という概念によってではな
れてきた寸近代化﹂一という語とはコントラス トをなすものだ。この語は、韓国文学の発
韓国文学の世界化とは、これまで欝論さ
韓国文学の海外への紹介という問題た。文
るにともなって関心の対象となったのは、
転換、これがまさに世界化の方法なのであ る 。
的なものへの拡大、特殊性から普遍性への
ら始まるのであり、韓国的なものから世界
通の普遍性に対する文学による靭議作業か
るのである。韓国文学の世界化は、人類共
の選定も今様化し、翻訳者もその翻訳言語
外への翻訳事業は、一九八0年代半ばに なってようやく本格的に動き出した。作品
舞台では話題となっている。
人々の興味を引きつけることができなかっ た。むしろ、反体制運動や民主化運葺に積
は政府自体の広報事業と結びつけられて、
ゆえに、政府か主導する海外への翻訳事業
代始めまでは韓国圏内の暴力的な政治状況
関わっているとすれば、韓国の場合、それ
も重要なことは、韓国文学を認識するため の方法論の一大転換である。韓国的な、時
学作品の海外への紹介は、文学の海外伝播
を母国語とする外国人を中心として選ば れ、翻訳の質的水準を高める努力がなされ
験を余儀なくされている。
はそのまま民族というものに対する近代的 認識を基壷とする。また、近代性というも
代的特殊性についての払譲のま戒を破り、い
とその新しい受容を意味する。これは、価
韓国文芸振興院が+守護する文掌作品の海
極的に参加した文人たちの方が、国際的な
のが制度としての近代を想定したものであ
かにして空間的な広がりをもった世界的普 遍性についての論議へと関心を向けさせる
格と品質とファッションによって左右され
韓国文学の世界化という課題か提起され
るとすれば、韓国文学は、値民地時代と分
ことができるかが、当然、課題となってく
断の時代を経るなかで歪められた近代化を 体験してきたということになる。
11
た。翻訳された作品の出版も、原則として
σ
外国の出版社を通して﹁ われるようになっ
F訳・出版
フランス語圏での韓国文学の 河の詩選集、ヰア輿吉の小説﹃母﹄、白楽晴の
で日本語による翻訳、出版としては、金之
その出版
韓国文学の良質の翻訳と
語圏を中心として広く紹介されている。李
められている。李す剰と李清俊はフランス
しかしながら、このようにして外国語に
ているという。
白山 F
きな問題となるのは翻訳の質的な水準であ
作品の外国語への顎訳にあたって、最も大
批評選集などがあり、趨廷来の長編小説﹃太
い作家は黄順元、金東里、臭貞姫などだ。 文烈の﹃金麹ap、﹃塞下曲﹄、﹃我らの歪ん
翻訳された韓国の文学官京、外国の一般
事業は、英語圏でのそれに比べてその範囲 が限られているとはいえ、悲吊に活発に進
黄順元の﹃木々、坂道に立つ﹄は園内で翻訳 だ英雄﹄、﹃その年の冬﹄などが翻訳、出版
韓国人の手によって翻訳される場合が多
た 。
されて出版されたし、また﹃動く城﹄はブ され、李清俊の﹃イオ阜F、﹃予言者﹄などと
読者たちの関心を大いに集めたというケー スはさほど多くない。大部分の作品が韓国 とのことで初版を刷ったまま終わることが
このような顎訳作業は決して望ましいもの
隼宋を主に行なってきたのである。しかし、
かった。外国文学を専攻した韓国人が翻訳
るといえよう。これまで韓国の文学官問は、
とは、良質の割訳作業である。韓国の文学
文学作品の翻訳で何よりも一番大切なこ
ルース・フルトンによって翻訳された。﹃黄 長編小説﹃あなたたちの天国﹄などが翻訳さ ちあげた小さなボ12、崖仁浩の﹃深く蒼
多い。外国の出版社は、助成金をもらって
の日本語への翻訳が現在進められ
順元短編選警はエドワード・フォイトラ れた。このほかにも、組世照の﹃小人が打
教授の翻訳による類似の選集も出ている。 い夜﹄、金聖東の﹃一憂陀羅﹄、朴腕緒の﹃母の
小説の場合、翻訳された作品数の最も多
ス教授の酔試によって出版され、フルトン
で翻訳、出版の助成を受けて出版され、やっ
金東里のものとしては長編小説可欝堕のほ
出版された。詩分野では、個人詩集之して
杭﹄、ヰア厚明の﹃敦埋の恋精﹄なども翻訳、
学街の大きな本屋でも、韓国文学に関する
がって、ヨーロッパやアメリカの有名な大
普及にきして気を使うこともない。した
本を出すために、本の部数も制限し、販売・
応力にはとても太万打ちできない。
母国皇聞とする外国人たちの言語的直感と感
ではない。その韓国人がどれほどその外国 語に精通しているといっても、その言語を
凶
υι ︿ A目↑巴︿
かに、﹃亙女図﹄、﹃岩﹄、﹃駅声﹄、﹃花郎の
は具常の詩選集が出たし、詩画集形式の詩
外国語訳作品が 多いと言われている金東皇、 具常、黄順元(上から)
後書などが翻訳、出版された。呉貞姫の
選集としては、間意植教授による﹃韓国現
が著した﹃あなたの沈歎│韓国現代昔話慈善
責東査、金光圭らの議案が翻訳、出版さ れた。しかしながら、ピ lタl ・ リ l教授
聾畢奇襲之溶、徐廷柱、具賞金宵昨、
的官聞はすべて翻訳された。詩の方面では、
翻訳されていることが特筆に値する。
らの歪んだ英雄﹄と﹃詩人﹄がイタリア語に
他の外国語への翻訳としては、李す舟山の﹃我
あり、主に詩画集形式のものが多い。その
ン教授の個人的努力によるものが大部分で
金高島﹄が刊行されたのみである。 ドイツ語圏での翻訳は、韓国人の具ギソ
韓国文学作品の割訳自体にも問題か多く、
えているところも多くはない。そのうえ、
持っている人もほとんどなく、まともに教
そろえられてはいるが、韓国文学に関心を
の大きな大学図書館にはこうした本が大抵
本を見つけるのは難しい。もちろん、規模
理解できるといっても、文学についての関
ない。その外国人がどんなに韓国語を深く
翻訳者は文芸的素養も充分でなければなら
た外国人が中心となるべきである。特に、
を母国語にもち、さらに韓皇聞にも羽最し
韓国の文学作品の蜘酬訳は、必ず翻訳言語
F 、﹃おもちゃ屋のさ、
﹃夕暮れのゲ lム﹄、﹃中国人街﹄などの代表
場全﹃憧虫、﹃別
(ハワイ大学出版部)を除いては、韓国現代
ては不適切であると言わざるをえない。外
心と理解がなければ文学作品の翻訳家とし
詩の全貌を網羅した詩選集はないに等し
結果となる場合もある。
見識のある読者たちがこれにそっぽを向く アジア圏で行なわれている翻訳作業の中
12
Nahe und
昨年、文芸振興院主催のもとドイツで催された韓国文学セミナーに韓国からは詩人の徐廷柱らが出席した
フランス語圏を中心に作品が翻訳、紹介されて
いる小説家の李清俊( 上) と李文烈( 下)
国人の翻訳者が、その外国語に毒した韓国
人と組んで共同の割訳隼霊行なうことが
できれば、より一層母語意翻訳が可能とな
るだろう。
韓国の文学作品の翻訳では、翻訳の対象
となる作品をどのようにして選定するのか
ような作品を翻訳するのかという問題が、
という問題も大変重要である。まず、どの
なる。今まで行なわれてきた韓国の文学作
海外への翻訳、紹介の成否を分ける要素と
よって翻訳作品が選ばれたケ lスはさほど
品の翻訳で、翻訳家自身の好みや関心に
U 出 ︿仏師ト巴︿
多くない。大概、翻訳の対象作品をまず決
ていたからだ。翻訳者は自分の関心や判断
めておいてから、その作品の翻訳を依頼し
とは関係なく、与えられた作品の翻訳年末
をするだけだったのである。このような受
ものであるとは言い難い。割訳官聞の選定
動的で消極的な翻訳者の姿勢は、望ましい
は、まず翻訳者自身が責任を持って行なう
べきことなのだ。割訳者は翻訳官聞の傾向
し、その作品の読者層についても予測を
と特徴を考慮して割訳方法を考えるべきだ
怠つてはならない。自分の翻訳する文学作
13
する。これまで翻訳、出版された本の中に
では出版社の役割がまた、その成否を左右
韓国の文学作品の翻訳、紹介という作業
も明白にしておかなければならない。
資料として使われるのか、などということ
催したりした。このようなことは、韓国文
読者たちを前にした翻訳作品の朗読会を開
庖と組んで、この本の翻訳者たちを招き、
ストン、ホノルルなど主要都市の大規模書
籍流通網とつながっているシアトル、サン フランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、ボ
三版を出すにあたって出版社側が自社の書
二年目にして重版された。そして、さらに
は、韓国で出版されたものも少なくない 。
品が、大衆向けなのか、大学の教材や研究
しかし、韓国圏内で韓国文学を外国語に翻 学の翻訳、出版では非常に珍しいことであ る。
。 したがって 、 ことは反省する べきだろう
国人読者には見向きもされなか ったという
国内で出版されたのだが、その大多数が外
国語に翻訳された本のうち、相当数が韓国
よ って作品の選定と翻訳作業の方向つけが
てはいるが、翻訳者自身の好みや関心に
めに文芸掻興院とユネスコの助成金も受け
地﹄は入門レベルの大学の教材用として企 画されたものだ。もちろん、翻訳作業のた
よって翻訳作業が始められたし、﹃流刑の
は当初から米国の出版社の企画に
訳し出版したとしても、外国で販売するの は容易なことではない。過去には韓国文学
F
海外の出版社に韓国 の文学作品の出版を積
の過程で、大抵、作品をあらかじめ決めて
﹃ 別
極的に働きかけていくことが肝要であると いえる 。もちろん、韓国文学は海外ではさ
とは、大変対照的である。どのような読者
を紹介するという広報的主集合いから外
ほど知られていないため、外国の大手出版
層を対象とした作品の翻訳なのかをはっき はおぼつかないものとなる。
りとさせておかなくては、その翻訳の成功
おいてから翻訳を翻訳家に依頼しているの
なされたといえる。わが国文学作品の許試
うした問題を解決するためには、韓国の出
社か韓国文学の出版に積極的に関心を持つ ということは、あまりないと思われる 。こ 版界が活発に海外の出版社と交流していく
社の判断によって独自の販売戦略を立て、 読者たちのために朗読会を企画するな.とし
この二冊の作品集は、何よりも翻訳の質
ことだ。 韓国文学の海外への翻訳、出版という作
の高さが文学作品の海外での出版の成否を 左右するということを改めて確認させる出
そのうえ、韓国の文学作品の海外出版では
有名出版社でなくては難しいことである。
ということをよく示している。 女流作家の翻訳作品集 ﹃ 別辞﹄の成功は 、 こうした外的な各種条件と共に韓国文学に
は、出版社の選定がどれほど重要であるか
に、二冊の本の出版が実現したということ
慣例化してしまった出版費の助成もなし
て販売に力を入れた。全国の販売網をもっ
考えるにあた って、最近、米国の書庖街で
来事であった。文学作品の翻訳は必子翻訳
業をどのように行なうべきかということを ちょっとした話題となっている英訳された
言語を母胃語とし、さらに韓国語にも樟旭 した外国人を中心にして韓国人との共同で
二冊の韓国小説作品集について検討してみ ス・フルトンが夫人のヰアジュチャンとの共
る必要がある。韓国文学の翻訳家ブルー
F訳が行なわれるべきである。また、特に
内在している女性的なものに対する海外の
翻訳者の文学的素養も重要である。前記の 二冊の本の翻訳家たちは二人とも、長期に わたって韓国語を習得し韓国文学を本格的 に学んだ専門家たちだ。
読者たちの関心が、質的に人類共通の普遍
訳で出版した韓国女流作家小説集 ﹃ 別辞
この二冊の作品集は、出版社の積極的な
(ヨミ仕え明白吋巾耳巾ロ)﹄と、ハワイ大学の マーシャル・フィルル}ブルース ・フルトン
後押しがその商業的成功を可能なものとし
性に対する認識につながるものであること
円流刑の地(FB 仏 O 同開問己巾)﹄がそれだ 。
がやはり共訳で出版した現代韓国短編選集 この二冊の本は、海外で事訳、出版され
た。これらの本を出版した各出版社は、自
出
υ︿島ト立︽
( 次ページ) 。同小説は 目下、英語と
~
た韓国の文学作品集としては初めて、発行
文学作品の海外紹介で何よりも大事なのは
翻訳の質である。英語、日本語、フランス語などに
翻訳・刊行された李文烈の作品( 布) と
16巻の大河小説をフランス語で一冊に抄訳 ・刊行された
日本語への翻訳作業が進んでいる
14
わらず、海外の大学での韓国語教育に対す
への関心が広まるといえる。それにもかか の優れた翻訳・出版と、その大衆化が成否
い。韓国文学の世界化は、韓国の文学官同
織的に拡大、推進していかなくてはならな
い。そのためには、海外の韓国文学研究者
学の専門家を育てていかなければならな
からも注目される。韓国の文学官聞の中で 海外の読者たちの情緒に訴え、共叶剛志呼び る韓国政府の関心は疎かになっていた。こ
たちへの研究費の助成と、韓国文学を専攻
れからは、政府が国の事業として、韓国学
する学生に対する奨学金の守癒を大幅に増
国的な特殊性の中に閉じこもっているもの
起こすことのできるものは、その素材が韓
界各国の大学で数多くの日本学の専門家が
やす必要がある。日本は、すでに一九六0
といっても、その官聞が翻訳されなければ 言語を異にする読者たちとの出会いはな
を左右する。いくら立派な文学官聞がある
講座を開設・薯白している園建学科と担当
の研究費を投じてきており、その結果、世
年代から海外の日本学の発展のために巨額
要たからというのではなく、海外の出版市
育ち、日本文化は今や相当な水準まで世界
ではない。韓国的なものから人類共通の普
い。韓国文学の劃訳事業は韓国にとって必 場の求めるところに従って長期的な事業と
化したといえる。韓国の場合も、最近、韓
教授の研究を守護できるような制度を斡講 そのためには、韓国語講座用の教材を体
して推進していかなければ切ならない。そし
国国際交流財団を中心に様々主忍援を行な
していかなければならない。 系化していく作業に政府がより積極的な関
て、また韓国文学の翻訳と研究に対する支
遍的な問題へと拡大しうる主題のみが、外
心と守護を惜しんではならない。外国の大
援も拡大しなければならない。海外で韓国
U︿ 乱回ト巴︿
学で韓国語を教えるのに必要な講義用教材
HZzOZOLFU品凶︿仏
を統合・体系化するには、韓国語を教えて
国の読者たちの共感と好評を得ることがで きるのだ。 解決すべきいくつかの寵題 韓国文学の世界化は、新しい世紀を迎え
企 川 Ja
回凶J 4︼民的凶J
L 酬吋
る韓国文学にとって避けることので告ない
語教材を開発していかなくてはならない。
の専門家たちと一緒に国の事業として韓国
いる担当の教授たちを広く参画させ、韓国
いない。韓国文学の翻訳に対する助成金制
者たちは、翻訳料以外には何も受け取って
成を受けてきたのに対し、韓国文学の翻訳
学者たちが、様々なル lトで韓国からの助
の政治・社会・経済分野の研究をしている
新鮮な関心を呼び起こせるものと思われ
高い水準にあるので、海外の読者たちにも
んど注目されてはいないが、豊かな素材と
韓国文学は、まだ韓国以外の国ではほと
出
命題た。韓国政府は今年を﹁文学の年﹂に定
すでに、日本が一九六0年代末にロ l マ文
る。海外では大学を中心に韓国語講座か増
E ﹃ 可 可ロ 句 可制調 叫 E E E 同
4 司時 4 4 噌
2HM-Z凶Hυ ︿2M凶︿出品 門戸Q
うようになったが、より長期的かつ体系的
韓国文学は、まだ韓国以升の国では ほとんど注目されてはいないが、 豊かな素材と高い水準にあるので、 海升の読者たちにも新鮮な関心を呼び起こす
めている。韓国文学の世界化の確園たる基
字による表記を体系化させた日本語教材
たちをそれぞれに+忍援していかなくてはな
度を設けて、世界各地の韓国文学の翻訳者
ものと忠われる
盤を築き、実のある事業を体系的に推進し
を、固による事業として開発・普及し、日
明るいといえる。韓国の文学官房良質の
正忍後方法を講じる必要かあろう。 T
ていくためには、次のような課題を段階的
本語教育に画期的な転機をもたらしたこと を参考にすべきであろう。教材の開発と合
海外で韓国文学の専門家たちをきちんと
いることからも韓国文学の世界化の展望は
に対する守護を拡大すべきである。韓国文
育成していかない限り、韓国文学の世界化
割訳と出版に一層の力を注いでいけば、海 外の書庖でも韓国文学作品と一般読者との
まず、外国で行なわれている韓国語教育
に進めていかなくてはならない。
えつつあるし、韓国文学トの専攻者が増えて
学の世界化は、韓国語の全世界への普及と
より一層効果的な教育が可能になると思わ
わせて、視薯義材を同時に開発すれば、
など論外である。韓国文学を広く知らしめ、
らない。
結びつく。韓国語教育を通して韓国への認
れる。
識が可能となり、韓国語についての理解を
出会いは今後一層、増えるだろう。・
韓国文学の海外への事訳・出版事業を組
韓国文学研究の水準を高めるには、韓国文
基盤とするこん﹂によって初めて、韓国文学
15
。
金容稜
大 学
i
している同胞は約一八O万名で、このうち
とのできない所である。今日、 中国に居住
自治州は海外在住同胞を語る際、欠かすこ
一方、中国の間島、すなわち延辺朝鮮族
やすく想像できる。
文化と文学への受容能力の大きいことがた
メリカ居住の韓国人同砲か身につけている
ば抜けて高い。この高い教育水準からもア
住韓国人は大学教育を受けた者の割合がず
スによると、他の少数民族に比べて米国居
九七O年にアメリカ政府か行なったセンサ
域の韓国人は教育レベルが非常に高い。一
あるいは品格の問題かつきまとう。このよ
な計量の単位ではない。そこには、必子寅
る。文化活動で空間、または地域は平面的
なく文化芸術の範暗に入る文化現象であ
という空間概念である。文学はいうまでも
とすれば、それはまさに地球のここかしこ
もある。この際、問題にすべきことがある
の文学を知らせて読ませようという意味で
化とは空間的には地球のここかしこに韓国
ロlバライズという。従って、文学の国際
に生きている。よく国際化をグ
、 , れわれは、それこそ超高速情報 f p J 革命といってよい国際化の時代
・4
」
整
~
世界における韓国の作家 彼らの文学と テー
会ヴ認可
i1 ー刻勾砕
当 今川刻 、 34A23・
見必 々4佐川老・演を局場
A
044 ,外援ヰ! d 令奇母宅ヰ会支 マ
ddm44hv.dleJ 句,A
bl
持
今 ぞd 坊 々42a f emA会zdωH,
A Z I - 瓜イ
マ
、 k
.. 可1『1
.e ._ ・ $I ' 0 1 士U .., - ,-圃1 - 1 1
・
16
今や韓国文学も韓半島という狭い枠から抜 け出さなければならない 。 言うなれば 地球のどの地域でも韓国の詩と小説は受け 入れられ広まらなければならない
する。ところが、一九三0年代になって満
がもとで大量移民が満州と沿海州とに発生
まかせなかったため、日本に居座るほかな
ら補償をもらうどころか帰国すらも思うに
徴用していった。戦後、彼らは日本政府か
たちを日本の炭鉱や工事現場や軍需工場に
A
州事変後、対日警戒論が田町じてくると、ス
J 伺,
国への朝鮮人移民史は大韓帝国末期の農業
九O%以上が延辺自治州に住んでいる。中
移民に始まるが、 一九三0年代には朝鮮人
今日この延辺自治州は人民政府幹部の七
農民が大挙して間島に移住する。
O%以上が朝鮮族であるという。のみなら
られている。
ず彼らの教育水準もたいへん高いことて知
日本に居住している同胞は、また別の意
味で海外在住韓国人を代表する。彼らの大
部分は、帝国主義日本が韓国の主権を踏み
にじってから労働力不足を補うため﹁徴用﹂
などの名で移住させた者からなっている。
日本は一九三0年代末から朝鮮の青・壮年
ターリンは沿海州居住韓国人に対して中央
ギーの違いによる南北分断は、在日同胞社
かったのである。そしてブ母国のイデオロ
。 写 サ ふさずペサ
o a
中国の間島と日本、ロシアのカザフ、そ
AW咽 Aし、その結
o tコ@的さ コ
中国延辺で活躍した、
わが国の代表的な
詩人の一人、 予東柱の詩砲(右)と
韓半島という狭い枠から脱け出さなければ
れにアメリカの各地域は、在外同胞が移
アジア地域に移住するよう
会にも分裂をもたらし、韓国守蒔系の民団
延辺の朝鮮族子供だち(上)
ならない。言うなれば今日の韓国文学は地
住・定着した歴史が他の地域の同胞に比べ
果、いまのカザフ居住韓国入社会ーか出現し
海外同胞社会の歴史的背景
球のどこでも読まれるのでなければならな
て久しい。また、これら地域の韓国入社会
た。彼らは、母国語を忘れるどころか、今
系と朝鮮総連系に二分される。そこへ同胞
うに国際化社会を生きているわれわれの現
いし、地球のどの地域でも韓国の詩と小説
は彼ら独特の文学を含む文化を持ってい
もって韓国語の新聞や雑誌を発行してお ロシアのカザフ地域の場合、居住韓国同
状に照らしてみると、いまや韓国の文学も
は受け入れられ広まらなければならない。
る 。
中国・日本・ソ連・アメリカの各地域に居
胞は約四O万名。彼らの歴史は約一のむ年
アメリカの場合、一九八七年現在、約乞
に甘んじなければならなくなる。 以上 、米・中・日・ロの四ヵ国で活動し
き、在日同胞は疎外された少数民族の地位
たちへの日本政府の差別政策は終戦後主杭
韓国文学の脱地域主義時代を望む立場から 住している海外同胞の文学と、そこに反映
前の沿海州移住にさかのぼる。この初期移
O万名の同胞が居住している。アメリカ地
り、韓国入社会独自の 文学活動も行なって
された作家の意識の性向を探ってみるのも
民のあと、日本の撃事植民地盤爪の余波
いる。
それなりに意味があると思われる。
17
会
ンウクらの小説とチェ・ヨンの戯曲が収録
キム・ギチョル、ィ・ジョンヒ、ハン・サ されている。これらの作品は、おおむね階
せる理由として、満州地方の日本勢力に利 た。この懸念が事実だったとすれば、日本
用される余地を排除するという名分を蝿け 級闘争を礼賛するか、ソビエト体制を賛美
ている韓半島系作家の作品には、地域に よってはっきり現れる弁別的特徴がある。 が処渠件降伏した後では朝鮮族をもとの沿 海州に帰らせる措置を取るべきだった。し
て疑わなかったイデオロギーは、もちろん
する内容である。越明照や越基天らが信じ
それはすなわちイデオロギーの違いであ る。ロシアの中央アジアの同胞社会が数年 かし、そのような措置は取られなかった。
根づかせており、同胞文学界の未来を明る
く照らすよいケ lスになっている。
荒野に放置された格好のカザフの同胞た
ボルシェビキの革命理論だった。ソ連在住
社会で暮らしてきたため文学観今宮考え方
的な空間とイデオロギーによる階級闘争の
中国の朝鮮族は、長い間断絶された閉鎖
中国の朝鮮旗文学
ちは、しかし荒れ地を開拓して生活の糧を
がかなり頑なで、また世界文学甲舗の理解
リカと日本居住の同胞は自由な西側世界で
前まで共産圏に属していたのに対し、アメ 暮らして来た。ところが、社会主義体制下
いたとしても、旧ソ連社会という時代的背
にも乏しい。このため朝鮮族の文学官夜、
朝鮮族作家の官官革命思想が濃く惨んで
概してイデオ hギ l傾向が強く、古めかし
得、そして粘り強く民族的自我、つまり祖
イデオロギーとともにロシア在住の同胆作
景を考えれば、何ら異とするに足りない。
で暮らして来た同胞作家の文学作品は、お おむねその社会の支配的イデオロギーを礼 うとした。今日ロシア在住の朝鮮族には文
先伝来の言語や習俗、文化などを保全しよ
い労農経済の流れを汲む性格が濃い。中国
に対し、アメリカと日本に居住している同
家にも韓民族だけのものとして語られてし
これらの作品は 反日意識が浮き彫りにされたり、
それぞれ異なる時点から朝鮮挨の歴史意識、 民衆的な視点から文化大革命を含む
かるべき世界と感情かありそうなものであ
在住朝鮮族文学の流れをみると、大筋では
政治・社会問題を取り扱ったり・
る者が数多くいる。彼らは、また民族文化
Pコ 干 ﹂ω的ぷ白 色
化や教育、科学など知的職業に従事してい
賛するか、少なくとも肯定している。それ 胞作家は、まったく自由な立場から官聞を
書いている。
移民期の反日文学、戦後の階級闘争と政治
旧ソ連時代、ソ連に住んでいた朝鮮族が
という団体を持っていることで タ作家安 E
をしている詩人や作家からなるアルマ・ア
りわけ注目されるのは、母国語で作ロ盟国動
物も窪行している。カザフの同胞社会でと
も親しみ深いアナトリl・キムは、ロシア
でに代表作の数々が翻訳され、われわれに
する。短編の﹃青い色Fや長編﹃りす﹄などす
リl ・キムとプ・ウラジ lミルは注目に値
に名を馳せている朝鮮族作家のアナト
ウォンギルの﹃雪夜﹄﹃春情﹄などがあり、ま
時代﹄、李クンジョンの﹃苦難の年代﹄、李
は金事織の長編﹃へラン江よ語れ﹄、﹃激情
目ぼしい作家・作品をみると、小説分野で
う。今日、中国居住朝鮮族の文壇では四O O余名の作家が活動しており、そのうちの
開放期の多元化文学に分けることができよ
運動期のイデオロギー文学、そして改革・
る 。
民族意識や文住広統を守ることは、至難な
ある。この協会は一九六O年の後半、一O
在住朝鮮族の哀歓と情緒に満ちあふれ、ま
た詩分野では金チョルの長編叙事詩﹃セ
最近、韓国とロシアはもとより、世界的
の保存 ・維持に熱心で、母国語専用の劇場
業であった。レ i ユンに次いで政権の座に
た現代的で独特な自分だけの世界を披露し
を持っているばかりか母国語の新聞や出版
就いたスターリンは、意図的にソ連邦内の
月革命五O周年記念にカザフ居住朝鮮族の
た官聞を世に送っている。彼は官問世界を
ソ連の朝鮮藤停家たち
少数民族を無力化または抹消しようとし
る 。
ピョルジョン(新星伝)﹄、金ソンフィの ﹃ 長
詩画集である﹃ 一 O月陽光﹄を刊行してい
通してロシア内朝鮮族文学の陸将と伝統を
た。この少数民族の弾圧政策は、第二次大
この作品集には、組明照、越基天らの詩、
戦が終わった後も続いた。スターリンは朝 鮮族を沿海州から中央アジアに強制移住さ
18
されたり、民衆的な視点から文化大革命を
朝鮮族の歴史意識、反日意識が浮き彫りに
これらの倖品はそれぞれ異なる時点から
ている。
白山よ語れ﹄など数十冊の詩集が刊行され
うした闘争と虐殺がピIクに達したときに
されたと言われる。九・一人事件とは、こ
れ、二、QμU省証い革命家と民零か殺害
へラン区だけで九四回に亘る討伐が行なわ
四千名の民衆が虐殺された、そして延吉県
し、彼らの活動は戦後、直接・間接に中国
戦後ほとんど本国に引き揚げている。しか
集﹄がある。これら詩人・作家は、二次大
当時の同人誌には﹃北野や﹃在満朝鮮詩人
発行した。また同人活動も怠らなかった。
うに日本に移住した韓国人とその二世の作
てであれ自由意志によってであれ、このよ
れた人々からなっている。強制徴用によっ
帝国主義によって強制徴用されたか使役さ
先に触れたように在自韓国人の多くは日本
階から不幸な韓日近代史を反映している。
家は、日本社会の差別構図と偏見、そして
の朝鮮文学の肥やしとなった。 いま一つは、中国の朝鮮族作家たちの聞
いることから窺われるように、﹃へラン江
認識の違いから生じるを盾の中で自分を確
発生した。この九・一人事件を素材にして
に見られる伝統感覚のようななものであ
族の歴史と民族感揺を取り主けたりといっ よ語れ﹄は民族意識を濃厚に映し出してい
て文学を展開する。またイデオロギー面か
ると思われるが、こうした現象は文学官聞
らみれば在日同胞は三つの範曙に分けられ
認していくといった基本テlマをもとにし
延辺を中心とした中国在住同胞の文学が
いばかりか作家も多数に上ってくる。延辺
かし中国の場合は、その年代がはるかに古
る。ロシア在住同胞は彼らの文学の草分け
持つ民族性の特徴は、二通りに考えること
が一九六0年代の趨明照と考えている。し
ができよう。まず中央アジアに強制移住さ
る 。
含む政治・社会問題を取り扱ったり、韓民 たように各様な主題を扱っている。 金事識の作品﹃へラン江よ語れ﹄は三部作 つの意味で民族的自我に立脚している。作
からなる長調小説である。この作品は、二 品の舞台はもちろん延辺という中国東北省
o a
の頃、満州一帯に住んでいた朝鮮族の間で
に住んでいた朝鮮族の強圧に乗りだす。そ
国主義日本は、東北三省を侵略し、その地
起こった一抗日闘争をいう。それ以前に帝
で発行された文献によると、一九三二年に
事変である。九・一人事変とは延辺昼間州
また、この作品の資料となるのは九・一人
の一地域、登場人物は主に朝鮮族である。
もよく知られている金這頭、柳致環、金北
家が活躍し作品を出版している。韓国内に
本軍占領下の満州でもかなりの数の同胞作
して作品活動を行なっている。この後、日
策、シン・ジョン、申一采浩らが中国に定着
との往来が行なわれていた。初期には金津
でいるに過ぎないことから絶え間なく母国
同胞は、母国とは鴨緑江や豆満江をはさん
れた後のロシア在住同胞とは違い、中国の
て行なわれていたのである。
胞の文学活動は芸術性そのものにも配慮し
局、ロシア在住同胞とは違い、中国在住同
浩、吾ノ東柱らの作品も評価されている。結
ギーから離れて作品を書いた金津築や申采
ることが分かる。また、ここではイデオロ
回復を目指した反帝一抵抗文学に始まってい
刊行の文学史を見ると、彼らの文学が国権
念を形象化している。たとえば金石範の﹃観
者の文学も、やはり教条的に北韓の行動理
組織とされている。そして、そこに属する
路線に沿って、またその指令によって動く
朝鮮総連である。総連は完全に北韓の行動
コ目印Cコ@凶 ︼色
朝鮮族自治区、
延辺の住人は大部分、
朝鮮族からなっており、
朝鮮古来の
風俗を宿している
は広く階級思想が伝播されていた。朝鮮族
原らの詩人主義愛、朴啓周、霊童ロらの
日本の韓国入社会は、それが作られる段
朝鮮経建を離れる。その代表的な作家が金
るにつれて、懐疑を抱きだした一部の者は
朝鮮経連の行動路線がだんだん頑なにな
などがそれである。
徳亭﹄﹃火山岳、許南願の詩集﹃朝鮮冬物置
在日韓国人の左派勢力を代表する組織は
と中国人の間では反帝抗日の買運か高まっ
小説家は、その作家群に属する。彼らは圏
にそのまま反映されているようである。
ていた。これに対し、日本軍は苛酷な弾圧、
内文壇での発表はもとより現地でも官聞を
日本の韓国人生家と文学活動
で臨み、一九三二年一年だけで延辺地域で
19
延辺にある長白滝。
間派または転向文人である。彼らは南と北 文脈からみて、この官聞には少なくともイ
しい存在となって浮かび上がる。こうした
ができない。そのため、母国は切なく懐か
意識だ。こうした意味から、この種の官間
れない。これは、かなり高いレベルの作家
日同胞のイデオロギー文学にはなかなか現
これは、日本でイデオロギーを異にする在
ないところから醸しだされる苦脳である。
ことになる。連行された一四名の牧師のう
牧師たちを連行・処刑した事件を担当する
る。﹁私﹂は、そこで共産軍が後退する際、
にCICの情報将校として平壌に進駐す
た作品である。主人公の﹁私﹂は韓国戦争中
金恩園の ﹃ 殉教者﹄は韓国戦争を素材にし
象される羽層、伝統に自らを一体化させ得
に対してそれぞれ批判的な態度をとってい デオロギーの色彩がない。このように純粋
世界は、在日作家のイデオロギー文学とは
類推すると、老人は母国に骨を埋めること
る。鄭承博の﹃亀裂の後に﹄の主人公、﹁私﹂ な望郷の念にかられているのが、このタイ
達害時、金石範、朴慶植、歪﹂戸川、李哲ら中
は幼いころ生きる術を求めて日本に移民し プに属する人々の文学であるわけだ。
ち二一名はむごたらしく処刑される。そし
てきた。日本の無条件降伏、その後の混乱、 対極にあるものでもある。
を乗り越えてやっと釜山に到着する。しか
まったく不親切である。﹁私﹂は数々の難闘
彼に韓国訪問事務を代行する居留民団は
本国訪問の手続きに取りかかる。そうした
く。﹁私 は古里と弟を懐かしむあまり早速
﹁私﹂にある日母国の弟から長い手紙が届
し古里を訪ねることのできる道を聞く。
することにある。その典型ともいえる作家
ロギー、または芸術一切の断面をあらわに
る作家もいる。彼らの意識世界は超イデオ
立場から官聖書くことだけに尽力してい
の作家の中にはイデオロギーとは無関係な
となく日本で暮らした。また在日同胞出身
人に杢漢穫がある。彼は民団にかかわるこ
ば、ひところ日本に滞在して詩を書いた詩
の組織に入っているわけではない。たとえ
馬鍾基、宋瑛らがいる。彼らの多くは、ひ
高遠、朴異枝、金恩園、朴南秀、李哲範、
ヨンイク、李ラックス、ュ・ピョンチョン、
地域で活躍している韓国系作家の中には金
住同胞文学の水準も高いほうだ。アメリカ
のメンバーの知的水準は高く、アメリカ在
ながら様々の様相を帯びている。また、そ
ろした韓国人の生活も二世、三世へと続き
またがっており、それぞれの地域に根を下
政治保衛部将校の鄭少佐によると、処刑
かになる。
たものと疑われていた申牧師の行跡が明ら
そのときまで背信の償いとして命拾いをし
命TLをした事実か明らかになる。そして、
だれもが神を否定し、見るに忍びないほど
る。彼を通して殺された二一名の牧師は、
わった政治保衛部将校の一人がとらわれ
を殉教者に仕立てる。ところが虐殺に関
日本在住同胞の親韓国系組織は民団であ
し、そこでも旅費を旅行案内員にだまし取
が李良枝である。この作家は移民二世に生
ところ圏内でも作品活動を行なった経歴の
が差し迫った最後の瞬間に堂々と自分の立
﹁私﹂は母国にいる家族の安否も知らぬまま
て、申牧師と韓牧師の二人が生き残った。
られ、検問の警官には手数をかけたという
まれた。日本で早稲田大学に学び、一九八
持ち主である。また、彼らのうちかなりの
場を申し立てたのは申牧師だけだったとい
しかし韓牧師は、おどろおどろした体験を
ことで若干の金をとられる。結局この作
O年から作品を発表した。彼女の作品﹃由
者がアメリカの大学教授の経歴を持ってお
る。しかし、この組織もやはり問題を抱え
品は在日同胞を迎え入れた韓国の否定的な
医は一九八八年に芥川賞を手賞している。
うのである。鄭少佐は、ただ彼の堂々とし
ている。親韓系だからといって、みながこ
イメージを浮き彫りにしている。しかし、
主人公の由照は李良枝の分身で、在日二世
り、それぞれの専攻分野で研究実績も積ん
た態度に魅せられて処刑しなかったのだと
不慣れな異国の地で一人で暮らしている。
彼らと朝鮮総連系文学とでは明らかに違い
でいる。彼らの文学は、他の地域の海外同
語る。結局、軍当局で発表した殉教者と背
いと絶ち難い磁力に引かれ
わらず、由照は結局それらの間で生じる葛
がある。親切な母国の人々の好意にもかか
ら使い慣れた日本語の方が便利たし親しみ
(リチャ lド・キム)がまず挙げられ、また
して小説に ﹃ 殉教者﹄﹃失れた室貯の金恩園
母国語ではなく英語で作品を書く作家と
いることである。
者であると述べる。そして真相を知ってそ
自分は銃剣の前でひざを折った卑怯な背信
人々の前で一二名の牧師が殉教者であり、
本なのだ。それにもかかわらず申牧師は
軍情報部では彼を利用して一二名の牧師
申牧師一人だけだ。
したため発狂している。まともな生存者は
がある。総連系の詩人や小説家の作品から
である。彼女はあるとき自分が韓国人であ
胞文学とは明らかに異なる特徴が二つあ
の言う通りだと、申牧師こそ共産軍の銃剣
教者の位置が入れ替わったわけだ。鄭少佐
アメリカ在住の同胞文学
は、イデオロギーを技きにした母国への懐
ることを悟って、ルーツを求めて韓国に留
る。その一つは脱イデオロギー性向であり、
巷の雄弁にも耳を貸さず
藤に打ち勝つことができない。この小説は、
主に短編を発表している金ギチョン、朴テ
れをただしていた﹁私﹂(李大尉)に向かっ
アメリカ在住の韓国人は地域的に全国に
かしい気持ちは怒しられない。しかし、次
学する。当初、彼女はアイデンティティを
もう一つは強く普遍性・一般性を追求して
老いの身が独り今日も
白照が東京に戻ったあと話し手の﹁私﹂が自
ヨン(タイ・パク)がおり、詩ではハワイ初 期移民のころの﹁写真新婦たち﹂(虫
て、さらに驚くべ会主ロ白をする。
の前でも屈せず信仰を守り通した殉教の手
こだまなき最空をみつめる。
分のことを振り返るところで終わる。 作家は回想を通して、由照に集約された 在日同胞二世の苦脳を表そうとした。それ
文学賞を受賞したケーシー-ソンらがい
n z z が、すなわち母国の言葉、それによって表
回ユ常的)を素材に詩集を出してエ lル大学
公の老人は八O歳である。彼は六O年のあ
﹁私は遅自に結婚しました﹂ いだ異国の都、墓尽で暮らした。文脈から
この詩の前半を見ると、この官聞の主人
果てしなく広がる空をみつめる。
生まれた地への
L
のような李哲の官聞は大いに違う。
科に入学する。しかし彼女には幼いころか
確認するため母国語を学ぼうとS大学国文
そのうち、韓国は過去の思想経歴を不聞に
そして母国のイデオロギー対立、こうして
る
20
﹁最初の息子を埋葬した同じ年に妻も その反対の境地にいたった者であることが
殉教者とは神を信じる者ではなく、むしろ
れによって、われわれはこの作品における
ときに、答えとして述べた言葉である。こ
埋葬しました。妻は息子が死んでから数
彼はいった 。
週間後に死んだのです。病に取りつかれ
われわれの叫びと喜びは
分かる。これは、この官聞が人聞を実存的
でもなく反キリスト教だとか生半可な人間
たのです。一委は息子を死なせたのは自分 せず祈るだけでした。こうして私も悲嘆 主義とかいうことではあるまい。彼は実存 風のようなもの、 よく分からぬ
殉 視点から捉えていることを示している。 ﹃
のあまり寝込んでしまいました。しかし、 主義文学の流れまでも念頭において人間の
われわれの理性と思考、
私は生き理ひなければならない義務を感
外国語のようなもの。
われわれの価値と望み、
じましたし、妻は意地を張り続けました。 したのだ。これに似たことは他の在米同胞
真の意味の存在という問題を取りあげよう
教者﹄の作家が意図するところは、いうま
それで、来世なるものは存在しないのだ
の罪のためだと言って、食物を一切口に
と妻に断言したのです。不幸な私の妻、
門
宇田
﹄
s aMoa
ESE-ル s m E ぬ巾 拘 置1 0 3 m山口-
この詩で目を引くのは終わりの部分であ
る。ここでは実存するす べてのものがはか
ないものと歌われて いる。これは生成した
万物が必滅し、無に帰するという仏教的無
常思想に通じる考えといえよう。これは、
この作品の主題意識が物理的次元やイデオ
ロギーを超えた次元、すなわち観念または
形而上的次元に達したことを意味する 。
以上、中国・旧ソ連・日本・アメリカに
アメリカで活躍している
韓国人え壇の特徴は、
はじめから
強く求めていることである
脱 イ ヂ オ ロ ギl 的 で あ り 、 普通性・一般性を
者なりに探ってみた。そして、この四ヵ国
おける韓国人文壇の現況と官聞の特徴を筆
における韓国人文壇状況から読み取れるよ
ロ]同
szz
RSFSFF
。q wOE芯宮内ごo-og 回 058
信 士 038 0382PZ55E' 四 芯 O円 同 O ﹃叩
V宮 O﹃
OR588S 05poaz 門戸
ZBFロ門op 巾 含 師 同
仏
人聞を灯火に比轍したところから始める。
202(UBP)は うそくの影﹄(叶宮巴包
の物である。灯火はわれわれに薄暗い影を
呂田匂
えに耐えられなかったし、そんなことを
境け与える。それに次いで人間のわれわれ
ともしび
耳にしながらも生き理ひていけるほど強
自門ご
r m F σ -巾
約束なしには生きていくことができな
が次のように歌われている。
ミ 邑 5 8 仏og og
0522g 仏回 二 O可 O 0 4 4 F P 昏巾省広仏zr巾 ∞ r r m 己 冊 目 白 ロgu
環境を反映している。.
ンティティに、それなりの地域的・社会的
外における韓民族の文学は、民族のアイデ
民族の流民・移民とともに始まった撃互同
ているのである。近・現代史の激浪の中で
をなしている地球のいたるところで創られ
うに、韓民族の文学は韓半島の南と北での み形づくられるのではなく、韓族が共同体 いに見られるようにする客観的な相関関係
ニューヨークの自由の女神像
その灯火は、暗くて見えない存在の夜に互
ろ 作家の作品にも見いだされる。朴異泣の ﹃
と
くもなかったのです。妻は来世に息子に
恐怖におののいていた私の妻はそんな考
を
会えるという希望と、予定された天国の かったのです。妻は生きた屍となって
しかば担
絶望の測で死んだのです。﹂
そして愛するために
泣くために生まれた、憎むために、
存在するとすればなぜ無実の牧師を死な
素直になるために、考えるために
これは、語り手の寸私﹂が申牧師に、神が せ、悪の群れを生かしておくのかと訊いた
21
屍主そ警そ 去しきし にてとて 戻死め何 るぬるか たたた煮 めめめ味 にににの 生、、分 ま カ ‘ れ ら た な o ,¥ 、
: 土 ~*
と韓国文学
士 也
パクトクキユ
朴徳杢
コ白田CコO的u f o a
一、郭在九の﹃馳草取で﹄の舞AR
南光州
一九八一年一月﹃中央日報﹄は新一春文学の
みんな雪原なのに
不慣れな気分も骨身にしみる思いも
零時をまわれば
雪の花の和音に耳を傾ける。
そう、今はみんな
しんしんと雪は積もり
苦い薬のような煙草の煙の中で
長患いの咳と
みな知っていた。
沈歎せねばならないということは
帰郷する気分で
さわりさわりしながら
ひと龍のリンゴを
ひとつなぎの干しグチと
時には酒に酔ったように
生きていくということが
みな何も言わなかった。
青っぽい掌をストーブの火にか.さして
いっぱい詰まっているが
胸の鼠命保くには言いたいことが
ストーブの火の中に放りこんだ。
一握りのおがくずを
懐かしく思いおこしながら私は
過ぎし日のことを
何人かはまたゴホンゴホンと咳こみ
大晦日のように何人かは居眠りをし
でんと構えていた。
おがくずを焚いたストーブが
白い雪の結晶が窓ガラスごとに咲き
待合室の外は夜通しボタン雪が積もり
終列車はなかなか来なかった。
ている。その詩は次の通りである。
当選作で、我々に意味深い詩一編を紹介し
L 」
n
夜汽車はまたどこに流れ行くのか
地方)の平野地方の町に実際に存在する駅
を与えるが、ともすれば南道(韓半島南部
文学官聞の舞台が実際に存在するところ
の名前ではなかろうか。
もみじの葉のような何枚かの車窓をつけ
ひと握りの涙を
懐かしい瞬間に声をかけながら私は
であるかどうか、ということは、それほど
光州出身の当選者、郭在九の詩﹃砂平駅
中で次から次へと実際に存在する空間の要
走馬を誕生させるにおいて作者は想像の
重要なことではない。しかし、ひとつの文 で﹄の全文である。我ん吋はこの一編の詩か
な空間を設定しなければならない。そのよ
素要素を引き出しながら、ひとつの具体的
燃えたぎる炎の中に授けてやった。
には、必ずそのような歴史によって傷つい
ら一九八O年の悲劇的な歴史が刻まれた後
る実際の空間というのは極めて大切な条件 になる。﹃砂平駅で﹄の詩人は、自らの空間
うな時は、いつも彼の頭の中に浮かびあが
﹁砂平駅﹂をどのような実際の空間の要素と
たひとりの若者の内面風景を見ることがで 貧しさと寒さに震えながらも、人情を忘
きる。 れずに生きる我々の周りの人々の温かな人
して構成したであろうか。 作家の言葉を借りるなら、直定のどの簡
情と体臭を久々に感じながら、しかし自ら の希望に満ちた時聞を、多少諦めの球種で
易駅もみなこの詩に感じとれる﹁砂平駅﹂の
いう。南光州駅は文字通り、わが国の鎧坦
回想している若者の悲しげな内面が、雪の
上で光州駅の次の、いや下の駅で、晋
雰囲気に多分に似ているが、具体的に頭に
そして我 4は、まさにその見慣れぬ名称
州│順天聞の慶全線がつながって光州に
舞い散る田舎の簡易駅の待合室を背景に美
の簡易駅に漂っている感しの中でも、ふと
至って終わる、ひとつ手前に鈍行がとまる
浮かべて描写した駅は﹁南光州駅 Lであると
ひとつの疑問符を作らなければならなかっ
しく描かれているのである。
た。砂平駅?確かに﹁平らな砂地 程度の意
簡易駅である。南光州市場で野菜を売るた
めに、宝城、筏橋周辺の人々は、この駅で
夜明けに降り、主に夕方にこの駅で乗る。
そのため、どの簡易駅にも見られる様子、
いつ着くとも知れぬ終列事を待ちながら、
つぶやいてはゆっくり沈黙に落ち込む農夫
咳をするかと甲γえば居眠りもし、二言三言
においてもじっくりと再現されているので
たち、我々の周りにいる人々の姿がこの詩
ある。さらに、この作品がひとつの単純な
状況(南光州駅の待合室)を示してはいる
が、実は﹁ひとつなぎの干しダチ﹂や﹁ひと
寵のりんご﹂を手に、そこを行き来する南
ているといえるだろう。
道の人身のふるさとの情緒とともに描かれ
直 品
I
砂寧肢日の舞AR 二、林昔帽の ﹃
ちょうど郭在九のこの詩﹃砂平駅巴のひと
くだりを引用して、またそのこまごまとし
た言葉の表現を適切に内容の中に蘇らせて
綴った小説﹃砂平駅品はこの時から数年あと
の一九八0年代の初めに童壇して注目を浴
びていた林哲結によって書かれ、今一度話
題になった。詩﹃砂平即皆に登場した匿名の
人々がこの小説の 中では 、ひとりひとり具
いの床に臥した父を病院に運ぶ農夫、服役
体的な存在として生き生きとしている。病
中に出会った思想犯の頼みで彼の年老いた
んでいることを知り、荏然自失して帰る途
母を訪ねるのであるが、その老母が既に死
中の中年の男性、除籍された事実を父親に
告げられずに故郷を後にする大学生、何の
に変身した新村の﹁たんぽぽの家﹂の酌婦
当てもなく上京して洗練されたソウルつ子
チュンシミ、僻地を歩き回って海産物や衣
類を売る二人の行商人の女、金を盗んで逃
げたサピョンテク(砂平出身の女)を捕ま
23
L
味に取られる、ありふれているような印象
郭在九の『砂平駅で』
光州の南光州駅の外景( 左)
の舞台となった
と駅の待合室( 有)
えにやって来て、捕まえはしたものの、そ のみすぼらしい姿にほだされて、あり金を
τ
かと甲 ノと、慣れた手つきできれいに裂
なかなか来ない終列車を待つ問、彼らは
駅﹂、林哲祐の小説﹃砂平駅﹄の舞台南平駅
郭在九の詩﹃砂平駅で﹄の舞台﹁南光州
き、みんなに配った。
る気遣い女、その気遣い女のために、乗客
主人、待合室の木のベンチで眠りこけてい ら、いつのまにか親しい間柄になる。線路
少しずつお互いの内面をさらけ出しなが
を経て慶全線に沿って更に南に下ると、わ
すべてはたいて悔やしがっている食堂の女
が延着した終列車に乗って発った後もおが を真っ白に覆う冬の白い雪は、この時真冬
が国の文学を語るにおいて欠かすことので
らの悲しくも親近感を与える表情は、小説
空間が一編の短編小説にまとめられる。彼
て繰り広げられていることになる。
の小説で、もう少し余裕のある隣人愛とし
多少絶望的で諦らめの混じった色彩は、こ
ても示されている。詩﹃砂平駅で﹄において、
く登場人物の活動する背景としての空聞を
舞台なのである。小説で舞台という時、よ
こが越廷来の大河小説﹃太白山脈﹄のメイン
きない地名筏橋にすぐに出合う。即ち、こ
てやる。ストーブが赤く燃えている。心
老人が咳をしはじめる。農夫は老人の胸 州駅ではなく慶全線ということからして、
した、この﹃砂平駅﹄の実際の空間は、南光
詩﹃砂平駅で﹄からモチーフと状況を引き出
ところで、南光州駅をモデルにしている
しなし。
の空間的背景として示されるにとどまって
なった体構は、単にそんなイメージとして
意味するが、﹃太白山脈﹄における舞台に
大部分の大河小説がそうであるように、
れてはいない。主人公の活動領域からみれ
もちろん﹃太白山陣の舞台は筏橋に限ら
しながら登場人物の運命を決定してしまう こともある。
展し、それ自体がひとつの駅舎として存在
における筏橋は、そこからさらに役割が発
申し分なく重要な舞台になるが、この小説
登場人物が育ち、働いて死んでいく空間は
影が行なわれていた時も、この南平駅が実
レビドラマ﹁テレビ文学停の﹃砂平駅﹄の撮 際の撮影現場になったりした。また、この
それより更に下にある﹁南平駅﹂である。テ
ともなく眺め、女たちはふと口寂しく
男たちが煙草をくわえている様子を見る
の待合室を表面的な状況にしてはいるが、
小説もやはりひとつの単純な状況、南平駅
いる人々の体を温めている。
なったらしい。女のひとりが荷物に手を
り所と故郷の光州や南平付近のいくつかの
実際はそこを行き来する人々の暮らしのよ 町の姿が彼らを通して描かれているのであ
の手が何かをつかみ、やがてその手に干
勺Q表明。亡コ白と
それを早速ストーブの上に置いて焼いた
し明太がぶらさがって出てきた。彼女は
突っこんで何かを探っている。ついに女
地よい暖気が、ストーブの周りに立って
を節くれだった武骨な大きな手でさすっ
ゴホンゴホン:・
の中で次のように具体的に描かれている。
極構と智異山
くずストーブを消せずにいる駅長一・:・:なか という具体的な背景を設けながら、彼らの
、超廷来の﹃太白山脈﹄の舞台、
る
心温まる人情を描く象徴的なイメージとし
の舞台である南平駅( 左) と
らが待ちあぐねる、それほど長くはない時
駅近くの住民たち( 右)
なか来ない終列車を、砂平駅の待合室で彼
林哲祐の『砂平駅』
24
三 よ ; 再
25
ば、麗順反乱(一九四八年全羅南道麗水と チョゲ山への敗走に始まるヨム・サンジン
順天で発生した左翼反乱事件)の失敗後 のパルチサン生活の舞台もまた重要であ る。ヨム・サンジン部隊は韓国戦争の前後 にここ筏橋で、いわゆる解放戦争を繰り広 げた後、休戦後に智異山や白雲山などに立 て龍ったものの結局、壊滅してしまう。こ の点から推してわが国の文学において重要 な空間のひとつである智異山とも、この小 説はたいへん深い関わりをもっているとい また、この小説は筏橋や智異山の領域を
える。 越えて韓国戦争の戦況に従って、ソウルや 釜山、平壌、巨済など地域を広げていって いる。特にパルチサンの活動は、智異山を 頂点にして太白山脈の脈を継いでいるもの として描かれている。この小説の題目が﹃太 白山医になった理由もここにある。 しかし何より、この小説は﹁筏橋﹂の中で も、中島という日本人の地主が自分の小作 かって二里あまりの堤防を築いて作った
人を動員して筏橋浦から順天湾の方に向 ﹂島平厚に焦点を紋っている。日本人の 地主と韓国人の小作人の関係は、既にこの 小説の本筋が展開される以前のことで、解 放後日本の植民地直量が行なわれなかった 実情のもとで、このような類の矛盾関係が 招いた深い傷あとを洗いざらいさらけだし このため、この小説が示す歴史観も﹁土
な小説であるといえる。
に代表される土地の歴史的矛盾に韓国の現
地﹂と関連が深い。筏橋の中でも中島平原
る。即ち、筏橋の矛盾が韓国の矛盾として
代史が足をとられていると作家は考えてい 考えられているのである。その矛盾の被害 者たちがおおかた大部分、自分たちの行動 を後悔したり反省しようという態度をもた
o a
コ ・ 白Cコ@切さ
26
哲学を窺うことができる。筏碕か、土地か
ないというところにも我々は作家の土地の
ようである。この小説を﹁今日の話題作﹂に
自らの運命を決定したと彼らは信じている
散りばめられていることを指摘できよう。
浮上させた重要な要因に、方言と卑俗語が
こん畜生、わしやまた何のことかと と思ってき:腹がたつたってもんでき。
思ったわさ。田舎もんだと無視すんのか
このわしも日本人の脇っ腹にぶすっと
まあ、ちょっと聞いておくんなさいよ。 やってよ:・浮き雲みてえにあちこも、 ほっつき歩いてたわけよ。そのおかげで ソウルにも、まあちょびっ といたんだけ どね。だけどさ・:あのソウル言葉つての は、ありや玉さげた男のしゃべるもん じゃねえよ。下のさけた女たちのもんだ よ。﹁ご飯食べた?﹂寸元気ワじとかさ。く すぐったくってき:・身の毛がよだつって もんさ。あんなのどこがよくって習うん チ Eヲ ド
だね:・まったく。あんなソウル弁に比べ して味があって。大将も全翠泡に来たつ
りや全羅道弁はなんぼええか。どっしり いでに全羅道弁、はよう覚えていきなせ 九。こりゃ男がちょっとやってみるだけ のもんだと思うんだがね。 このように、全羅道男の意地と一本気を 武器にごく自然に当然のことのように桑聾 の卑俗語をそのまま吐き出させながら解放
される理由もそこにあり、そしてこんな類
プレックスを絶妙に表す人物ヨム・サ ング
後、活動した極右派の認識と人間的なコン の小説的な役割が意外と大きかった理由 も、そんなところにあるといえる。 一方、小説﹃太白山脈﹄の現場取材を担当 した記者たち巳よると、﹁のろし火が 燃え
越廷来の代表作﹃太白山脈﹄の主要舞台となった全羅南道筏橋の平原。数多くの登場人物が育ち、働きそして死んでいった歴史の空間でもある
27
U︿ 色 目 ト 巴 ︿
出ハ
場、ホンギョ、キム・サヨンの崩れおちた
らされた駅前の広場、仕返しによる死の現
の青年団の建物、ヨム・サンジンの首がさ
ブの空か交わされる亙女の家とトタン屋根
対談記)
きることへの憐倒、恨みの美学﹂、宋虎根との
た姿を見たという村の人がいたそうです よ。(朴景利、 ﹃ 作家の世界﹄九四。冬号。﹁生
飲み屋で皿を洗っているその子のやつれ
連れてどこかに消えてしまうんですが、
うです。後で、ある男が現れてその子を
瓦ぶきの家、北風が吹きすさぶ中で女たち
あがるチェソク山、ソファとチョン・ハソ
が貝をとる浜﹂などの姿が小説のほとんど
て、﹃太白山脈﹄は文学の舞台となる地域の
﹃創作の故都一九九三)。そんな点におい
二五年間の執筆期間に 一六巻の膨大な分量
したて、恨みと抵抗を抱く山を設定して、
いた話を母胎に、 一万石取りの大地主を押
この記事からもわかるように幼いころ聞
そのままに描かれているという(李相文外、
を示す代表的な小説としても評価すること
山が存在しそうな慶尚道の土地を地図で探
石取りの大地主が本当にいそうで、巨大な
作家朴景利は、この﹃土地﹄のために一万
の小説を書き上げたのが﹃土地﹄である。
作物(上)
いる。﹃太白山脈﹄ の作家、越廷来と著
民俗村に指定されて
筏橋平原と隣り合っ ている楽安邑城(上 の上)。小説の中の 平凡な人々の暮らし を窺わせるが、今は
取材や探訪がどれほど重要なものであるか
ができる。 四、昔憲判の﹃土地正の舞台、
れおちる地脈をせきとめ、その智異山を左
ある小白山脈の最後の絶頂、智異山から流
し出す。そこが、太白山脈の南道の主脈で 母の実家は巨済島にあったんです。巨
平砂里と智異山
済島のどこかに、果てしなく広い土地に
ファゲの渡し越しに耀津江の豊かな川の流
に挟んで流れ、全羅道と慶尚道が出会う
れを迎え入れる応い平野の河東アギャンで
るまで刈りとってくれる人を待っていた
ある(筏橋と順天光陽を経て来た慶全線は
黄色く実った稲がそのまま穂を地に垂れ
の人たちを殺してしまった後だったんで
んですがね。その時は、既にコレラがそ
﹃土地﹄のメイン舞台はアギャン平野の中
ここで休んでいく)。 ただひとり残った娘がその家を守ったそ
す。実家の家族はみんな死んでしまって、
28
A﹄
a コ-OCコ@的︼ o
でも平砂里である。前述の砂平が逆さに
地を取り戻す。
子二人を産んで、ついに故郷に一戻り管の土
主雀参判(朝鮮王朝時代の官職のひとつ)の
一九世紀末、平砂里の一万石取りの大地
るが、当然その話だけのために﹃土地﹄が存 在するはずがない 。この小説はアギャン平
が、やがてこれを取り戻すということにな
のように大地主の娘が莫大な土地を失う
ごく簡単に要約してみれば、﹃土地﹄はこ
なっているが、同義であることは間違いな
家に不幸が重なりはじめる。東学(一九世
、U
紀半ば儒・仏・道を折衰した新興宗教。一
栄辱を執揃に追い求める。この時、この小
て生きた人々の話を通して、韓国の歴史の
説の少なくとも三部までの主人公は土地に
野の平砂里とそこで絡みあった関係をもっ
のリーダー格一訳注)キム・ゲジュに手込
九九四年革新と壌夷を標傍し蜂起、日清戦
めにされた参判の夫人罪氏が内密に産んだ
ソヒや、彼女を取り囲む中心人物のキルサ
対する恐しい執着でそれを取り戻すチェ・
争を誘発させた一訳注)の接主(小グループ
の異父兄)の夫人をたぶらかしてものにし
息子ファンは、地主のチェ・チス(ファン
朴景利(上)
平砂村前の平原で畑 仕事中の農婦(上の 上)と原州の自宅の 庭で自ら裁縫した唐 辛子の手入れをして いる﹃土地﹄の作家、
ン、ヨンイ、ウォルソニ、イミネ、クチョ ヤンハン
チェ・チスは、財産を狙うおちぶれた両班
智異山に逃げ込む。これを追いかけた
ン(ファン)らではなく、まさしく平砂里な のである。 キム・ピョンサンと召使キニョに殺され
の血筋として残った幼い少女のチェ・ソヒ
で采配を振るうようになると、屋家の唯一
こへ家に親戚のチョ-ジュングが入り込ん
八月一五 日)が過ぎると 、山の頂きから
かくて薄いからむし)のような秋タ(陰歴
胸痛む祝祭、閑山のセモシ(織り目が細
豊かで賑やかでありながらも悲しくて
る。夫人の予氏までもがコレラで死ぬ。そ
がこれに立ち向かう。しかし、チョ・ジュ
になってしまった野原は夕日に照らされ
遠い、はるか遠くの地平線までがら空き
虚しく横たわっているであろう。村の裏
チ 守 合
ングの暴圧に抵抗して彼を殺そうとした てしまう。下男のキルサンとコン老人の助
山、雑木林とぽつねんと寂しくそびえる 峰奇は黄色く染まるであろう。なんだか
‘'zy タ
チェ・ソヒとその一行は中国の間島に逃け けで大金持ちになったチェ・ソヒは童書と 家門の復興のためにキルサンと結婚し、息
29
平砂村とファゲ市場の聞をうねうねと流れる蟻津江。この河の豊富な流れ伝いにある河東のアギャン平原が『土地』の主要舞台である
んだといって立てた煩徳碑や苔のむした
烈女の碑、それにチャンスン(村の守り
きるすべり
神の男女一対の木像)の横に一、二株ず
つ立っている百日紅の木には水気のない
風が通り渇きるであろう。
そうして、その後は冬の長い夜がやっ
て来る音が聞ける。
このように、豊かさと貧しさ、騒がしき
とうら寂しきを共に抱いている平砂里の
いきさつ
姿、それは単純に人間たちの殺人と放火と
不倫と復警の経緯、またはわが国の歴史の
連続と変貌と断絶を意味している。この点
についてはある評論家はこのように説明す る 。
:﹃土地﹄第 一部のメイン舞台となっ
ている平砂里という農村の器商な閉鎖
社会は愛と我執、陰謀と反抗、不倫と殺
人、憎悪と自虐、苦悩と解脱の威信と行
動の様式が挟律的に浮き彫りにされる生
き方の総合的な風景になると同時に理念
的・思想的葛藤と社会・政治的・経済・
い換えるなら、どこかの村と少しも変わ
文化的激変と陣痛の圧縮の場になる。言
らない、伝統的な農業を糧とする村落で
ある平砂里が、この﹃土地﹄においては当
代の韓国と韓国人の生き方全体を紹介す
る、韓国社会のなまなましい現場と化し ているのである。(金柄翼、﹃恨みの民族史と
葛藤の社会史﹄、一九八八)
この平砂里とともに、欠かせない実際の
空間が智異山である。この小説においては
平砂里の人々の閉鎖的な生き方に反し、智
異山で暮らしていたり、出入りする登場人
物を通して、むしろより広く変化する韓国
の、すべて現実に聞かれる姿を描いている。
30
この点、作家自身も﹁智異山は逼迫を受
は暮らすことのできない人々のユートピア
ける者のふところ﹂であり、﹁現実の空間で
であり避難処﹂であるということに注目し
ていたことを告白する。そして一時慶尚南
えながら東学の指導者たちの避身所になっ
道一帯までその勢力を広げていた東学が衰
の接主であった﹁キム・ゲナムが河東まで
ていたとの根拠を示しながら、東学の実際
入って来て、アギャン平野を血で染めたと
いう口話 Lを思い浮かべながらキム・ゲ
ジュという架空の人物を創り 出したとい
う。この点においては、﹃土地﹄がパルチサ
ンの舞台であるだけでも韓国の小説のひと
つの舞台になっている智異山を東学年代に
べきであろう。
までさかのぼらせている功績は評価される
小説の中において智異山は、キム・ゲ
ジュの兄ウグァン和尚が住職をしているヨ
ンゴク寺を中心に、崖家の蛙詩的な後継者
ファン、ヨンゴク寺の孤児出身のキルサン、
氏夫人を手込めに であるウグァン和尚、号ノ するキム・ゲジでその聞に生まれた息子
智異山の名鉄砲撃ちの猟師カン、風来坊の
あばたの大工ユン・ボらを媒体にして、一
方では平砂里の人有と関わらせ、もう一方
では当時の現実を取り囲んでいる韓国の時 代的な状況と関わらせている。
さらに、作家としては一度も行ったこと
のない空間、間島竜井が、この小説では
かれているということである。あわせて、
あたかもそこが我々に身近な空間として描
間島を舞台にした文学が、わが国文学の重
要な舞台をなして来ており、この先も統一
時代を迎えて再びより重要になるであろう
という点で ﹃土地﹄が描いている繊細で綴密
のあることと考えられる。.
な竜井の風景を読みなおしてみるのも意味
31
r 、 島 知 11の盟国い ば 、 日本で国語学国文学専攻学徒であった
小説集﹃風琴があった場一町を開くと、一裏
重ねる。
描く時、単に小説の作者に対する接し方と
表紙に作者自身の後記から抜粋された文章
が次の如く読者を迎える。
噴は当然のこととして、それ以前も、それ いをして来たつもりであり、外国文学とて
以後も、文学官聞とは人並み以上の付き合
申京淑氏の短編小説﹃風琴があった場町
論外ではなかったのだが、今にして考えれ
は別の次元ではないかと草案してしまう。
て同紙上に掲載されたのは一九九三年の新
が、日刊紙﹃韓国日報﹄文営責点善晃げ 品とし
ば実に不可解なことに、その中に韓国の文
人と人との偶然の出会いが友情をもたら に、短縮小説﹃一風琴があった場町との出合
し、時には愛の温床となることがあるよう
たけなわ、あたり一面、実に美しかったの
緑の候、﹁村へ戻って来る道は、まさに春
している。私は当時、ソウルの生活を始め
です。:::﹂という書き出しの一節を-記憶
在は印象的であったが、作品に触れてみよ
分自身に納得させていた故、私に与えられ た一時一時を反錦し自分のものとして生き
抱きつつも、﹃生き様﹄即ち﹃震であると自
美化して来たのではないか、という考えを
の非社会性を世に曝しているのではない
か、様々な欠陥の数々を﹃文学﹄の名の下に
り難いことに嵐琴があった場町の作者、
うとする意欲は持ち合わせなかった。従つ
﹁私のものを書く行為が概して、私自身
いは、私にとって未知の世界に等しかった
申京淑氏の官官対する成員は、出合いか たばかりで不慣れな生活に必要な情報を得
, M オ anan
韓国の現代す辛への道を聞いてくれた。有
学作品は含まれていなかった。文学史的な 比一づかの知識、そして詩人、釘志舟氏の存
う一一一年を経てもなお薄れることなく継続
るようにさせてくれる﹃通り司書でもあるが
故に、(ものを書く行為か)やめられません
この小説集が発刊以来、三年を経た今日
でした﹂(筈著拠点)
においても、若い女性読者を中心に愛され
続けている事実は、人の生き様を執劫なま
での愛の眼差しで捉えずには置かない申京
淑作品の、﹁源泉﹂としての位置付けを明 確にしていると言えよう。﹁生﹂イコール
ぎの等式、人が生きるということ自体が
愛することに他ならない、という信念を抱
きつつ、氏は初の長編小説潔い悲しみ﹄を、
そして掃離された部犀を世に送り、共に
一時ベストセラーにランクされた。 るために、-日のかなりの時間、辞書を片
﹃風琴があった場町が、先に述べたように
を手にして読み始めた て、新聞の切り警 c
﹃隔離された部屋﹄が所謂 ﹁ 小説﹂と見倣さ れることに対しては疑問視する向きもある
プロット上の 不備を指摘する論評があり、
﹃深い悲しみ﹄に関して、長編小説として 手に新聞必読む事に費やしていた。 T Vで
韓国の文堂作品との初の出合いであったわ
て、新聞を拾い読みするのがせいぜいで
力が及ばないという不甲斐ない状態にあっ
官聞はベストセラーとなり、一九六三年生
訪れた。私が購入した初めての韓国の文学
作品と共に一 冊の小説集として私の手許に
この書官聞は、時を置かず他の七編の
瓦ぼすことはない。もともと研究者とは異
文学的アイデンティティにはさほど影響を
研究の立場としての見解であって、読者の
まれの若い女性作家、申京淑氏の筆名が高
申京淑作品の愛読者達 は私をも含めて、作
した文盲に等しい状況下に巡り合った私に
まるにつれ、マスメディアへの登場も回を
あったのだが、﹃風琴があった場所﹄はそう とっては初めての韓国の文学作品であっ た。私自身の文学との係わりについて言え
なり、一般読者には作品を好みに任せて鑑 賞する自由が大幅に与えられているのだ。
のだが、これは飽くまで文学作品の評価、
わゆる
あれ、ラジオであれ、言葉の聞き取りが必
けだ。
あ
要となるメディアには、自身の韓国語の実
事
私が見た韓 国 文 学
qqb
間
rで
」
L
7司
-・ ・ ・ ・ ・ 面 画 副 姐 畠 温 幽 迦 ・ ・ ・ ・ ・ ・
32
ハ?とする展開も無く、それでいて読者は 語り手が声を呑み込み、作者か終止符を打 つまで息を詰めて待ち続ける。 昨年末発刊の散文集﹃美しい陰審 は、生、 即ち愛の等式を信重 9る読者にはこの上無 いプレゼントかもしれない 。愛することに
慢僚するのだが・
だっ鳴V市借と目される﹁私﹂が語り手と なっ宅清州島に於ける短い旅行中のエピ ソードを淡々 ー と語り出し語り終える。心臓
号するたびに﹄は七O Fほどの短縮作品
が、昨年度の現代文学賞を受賞した円深い
が愛のようだ・・・:・﹂
も。:::恋慕に慣れ過ぎて今主業するの
裏が見え始めた。生成と消滅は別 々でなく、 美と醜は同居していて:::幸せと不幸せ
離って﹁恋慕﹂にな ってしまったのだと。そ
いてほしいと誰もが夢見ていることを知る とお に及んで、愛に手が届き難くなり、愛は遠
(作中﹁莞か訪れて﹂より筆者抽訳) ゃ 愛を恋慕して巳まない申京淑氏の生の流
して、﹁愛に恋慕し続けていると世の中の
ざか
病を患っていていつも且転車乗りの練習を
J
使ったに仏文 品た理対の集
宅ヱ事;会 空室 輪i h 竺 京 id と
2
のよ犀す世
第六感をも動員させて感性を絡さぶる。か と思えば、雪を掃き除く単純な箸の音、
f
~
t
o
している島の少女と、血色のよくない、チェ ロを弾くという旅の若い女慢か海辺を萱尽
存 主す五 22 え は ん ーつご近美
三様をりをし と々追絶音 い
でにい望識偉
ろみめ隔せの
4 ; さ 1!:
あ絡詰
まな板の現実的な音、﹁もう寝ちゃった?﹂ という肉声が愛のメッセージを帯びて広 がって行く。愛への憧慣は膨らみ渇きて手 の届かない悲しみの底に弾けて果てる。こ
ついて作中次のような告白がある。幼い時 は﹁互いに話をすること﹂だと 。少し長じて は﹁白制身を大切に思ってくれる人がいるこ
ラして謀い悲しみ﹄は挿話との相乗作用に よって更なる﹁深み﹂を加味して遂に底無し になってしまう。
:;./~"
う合て離る項転 っ し さ 。 目 t主 でまれ愛で散
自身都会生活を営みつつ常に故郷の生家を全身で
中京淑氏の作品の女性主人公達は、
作中の寓話風の﹁挿話﹂に着目したい。
文学悼を大いに高めている
こ の作 品 が 単 純 な 悲 恋 物 語 と さ れ な が ら 、
﹃潔い悲しみ﹄について私は、
とだと﹂ 。更に長じてから、そういう人が
・ .tI#"'!'" ,; ぞ5ト a A
~
~ ' !" ‘
, -・"; ~ ~t!:. .ー , 1-
•~: ・-i!;
長一編官同よりは短編作品を縫奨したいのだ
‘ , 司 、
ところで、私自身の好みでは申京淑氏の
、 . ‘ .・.. ・ ‘ , # _・ I・ '
に登場するが、ドラマティックな筋立ても、
33
..
担ね愛三琴己さ
3
固に於ける評価にも気を配らなければなら ない。こうした複雑な外国文学の評価、研 究に対して﹁自己本位﹂を提唱したのが、英 国文学の研究者でもあった夏目激石である といわれている。勿論、その菌の文化的脈 絡に於いての調いではあるものの、研究者 に﹁自己本位﹂が容認されるとしたら読者に はより幅広く容認されて然るべきでない か。私の韓国文学作品への接近時、﹁自己 本位﹂を後ろ楯にしてずっとスムーズに なった。
宅 彦 君
キムハンギル
作者金漢吉氏が描く各種のコラムの含蓄あ
る文章世界とのギャップを恨めしく感した
ものだ。 掛が話題になった昨夏、私は申京淑氏
と周年の若い女性作家から韓国のそれ程遠
くない過去の思まわしい事件と、その後遺
症の如何を教えられた。自由を奪われ、人
た婿か、仮令解凍されたとしても、二度と
たとえ
間性を抑圧された時代の﹁生﹂は、凍結され
青い海を泳ぎ廻ることが出来ないように生
きながらの死を意味する。テーマの類似し
ている梁貴子氏の﹃希望を読んだのは最近
のことで、﹃夜よ、さらば﹄の原題が示寸如
く、主人公の青年の無気力な自己からの脱
脚を示唆して幕を閉じる上下巻の長編小説 である。彼をとり巻く人々、家族、恋人、
父母の家業である木賃宿を寝ぐらにして、
彼と深く係わる老人と孫、中年にさしか かった男性などの人物描写の確かさに依っ
て、不幸な歴史が与えた傷口が依然として
みの実替を仮借なきまでに呈示する。同
癒えることなく界妥﹄続けているという﹁痛
作家の﹃千年の雲が現在ベストセラーを続
ろ読んで欲しいと語っていたことに安堵し
けているが、私には未だ読む機会がない。 作者自信がラジオ番組で﹃希望 Eの方をむし
ヨンミうたげ
Z
小説以外で、崖英美氏の﹃三十の宴は果
チ
ているのではあるが。
の句集﹃サラダ記念日﹄がベストセラーにな り、以来、俳句から派生した自由律の俳句
てぬ﹄は詩集として破格のベストセラーだ が、先年日本でも若い女流俳人、俵万智氏 になって水が退くように失せてしまったの
深い。所謂﹁曹は影が薄いのであるが、翻っ
がプ!ムを呼んでいる現象と呼応して興味 長編小説についても同様の感しを持った。
ことに驚く。文学雑誌でも毎月数多くの詩
て韓国文学に於ける詩の地位の極めて高い
通り没頭するほど持続した興味が、第三巻 は私だけの所感であろうか。興味の費腕性
T Vドラマ化もされたベストセラーだが、
Lわゆる
という点では﹃女子の男子﹄上・中・下巻の
推理小説風に展開する一、二巻では、文字
の花が咲きました﹄は、意味深長な内容が
ようになった。空前のベストセラー﹃木檀
むくげ
﹃風琴があった場町に端緒を得て、私の 関必はベストセラー官問、受営作品へ向く
、
34
かない。泰掛のその他の小説、エッセイま
に秘める﹁喪失の時代﹂を想起させずには置
意義の大きさに敬意を表したいと思う。
文学作品という存在を越えた﹃土地﹄の持つ
味の文化への回序にあるという。単なる
がれたという、この大作の意図は﹁真の意
安である。門外漢の一読者のたわ言として
が、誤解、失礼など、多々あるやに思い不
代文学についての所感を述べて来たのだ
これまで、全く﹁自己本位﹂に、韓国の現
言葉のハンディに苦慮しつつも、いろい
でもあやかりたい jLと熱い視線を送るの
を読んで先生の大きな器のほんの片隅に
お許しいただければ幸いである。.
でが次々に翻訳されて登場しているが、私
申京淑氏が、新聞のコラムの中で﹁1 一
にとって﹃喪失の時岱は﹃ノルウェーの杏 より客観的意味の把握に役立ち噴味深く読
ろな小説を読み続けている主、文化的障壁
を読み、あわてて﹃金薬局の娘産を読み出
うつろ
度もお自に掛かったことはないのに﹃土地﹄
が少しずつ崩れて、韓国文学に対する理解
したのが一昨年の春だったろうか。埜A利
一、申京淑氏作品
(作品リスト)
めた。
もそれなりに出来て来る。五里霧中、目を
る衝激の強さに疲れを覚えた程だった。
氏のスケールの大きさに圧倒され、度重な
副刊
品吋a
に道が見えて来る威賀だ。とり主けた官問
凝らしているとアンゲ(霧)の中におぼろ気
﹃深い悲しみ﹄(裂芸人一己筈)
﹃風琴があった場所﹄(吾吾川円以自刃副・)
ョ 隔 離された部屋﹄(到世慰)
E)
﹃深い息をする度に﹄(裂さ告雪組叫叫叫)
﹃美しい陰影﹄(川町書叫o rコ﹂一
二、其の他の作家作品 ﹃木措慢の花が咲きましたと早云掛耳元 ω・珂叫品
土岡叫叫)キム・ジンミヨン ﹃ 女子の男子﹄ ( 倒科剖甘科)キム・ハンギル
2E 古川叶)コン・ジョン ﹃ 鯖 ﹄(
﹃希望﹄(劃叫口)ヤン・グィジャ
﹃ 千年の愛﹄(一担凶出﹁川副回)右同 ﹃三+の宴は果てぬ﹄ (μ川喜古利﹂亡音波叫)
うべき﹁鐘の音﹂が読後暫らく胸の嘆に重く
同離別のうた﹄は、官聞のキーワード主主一一ロ
格のある官聞に感銘を目見えた。予厚明氏の
ない﹄﹃白い設等、昼允氏、景ノ厚明氏の風
の他に、李箱文学賞を受けた﹃ハテコは居
わり合っている私にとっても、待ち遠しい
は測り知る由もない。好んで韓国文学に係
が、ここに韓国文人の誰が仲間入りするか
学賞受賞作家の肖像画が掲げられている
文庫の階段ロビーには、歴代のノーベル文
Lて久しいと聞く。ソウル市の 中心街、 K
韓国文学界では、ノーベル文掌賞を渇望
﹃白い船﹄(司位州)ユン・フミヨン
、J
﹃ハナコは居ない﹄(司叫呈﹂一﹂叡叫)チ工・ユ
﹃ノルウ工 lの森﹄(日本文学)右同
﹃襲失の時代﹄(川口組到刈叫)村上春樹
﹃サラグ記念日﹄俵万智(日本文学)
チェ・ヨンミ
球審七た。
限りであるが、さし当たっての私の課題と
わかれ
以後、如伺糧の鶴国の文学官聞に触れる パタキ, γ 一
ことになるか未知数ではあるが、朴景利
﹃ 離別のうた﹄(日置到﹂高)右同 ﹃ 土地﹄朴景利 サ皐止対して礼を欠くことになろう。一昨昨
(文中記述順)
﹃ 金 薬局の娘たちに到尽﹁号叫﹁叫言言)右同
氏の﹃土地﹄に言及しておかなければ、韓国
い︾えば、﹃土地﹄を読むという大住事にとり 掛かることではないか、という思いに辿り 着く。 年生繕に至るまで、二十五年の歳月一書努轟
35
一文学の余韻
らず、韓国民族が自分たちの言葉を守り、
て、長い受難の歴史を経てきたにもかかわ
るのは、束縛の時代を生きた﹃土地﹄の主人
小説﹃土地﹄が批評家たちからだけではな く、数多くの読者たちからも讃辞を得てい
られている。
る民衆の潜在力が加わって、ついに祖国が
力、そこに人間としての尊厳を守ろうとす
三部での小説の筋を借りて、私は地理学の ある現代的理論の一つを解説した文章を書
心配になった。﹃土地﹄に感銘を受けた余り、
て順調に小説を書き終えられるだろうかと
くも残らなくなった時点で、作者が果たし
け方であった。 ところで、 ﹃ 土地﹄執筆の完了までいくば
した日も、また一 九九四年八月十五日の明
知るすべもないことであるが、執筆の完了
まいに対し、そのメンバーの一人として恥
好き勝手に取り壊すようなこの社会のふる
活の中の趣というものであるのに、たとえ、 ょうらん どの作家のものであろうと、文学の揺監を
はなく、守るべきものは守っていくのが生
り崩してしまうのは決して能のあることで
ずかしい﹂とつぶやいた。発展という名分 の下に山野をあっさりとブルドーザーで切
をすでに伝え聞いていた朴景利は、別にそ れを気にする風もなく、ただ、ふっと﹁恥
ソウル大学教授・環墳大学院
の信念は決して誇張ではないと思う。小説
民族的同質性を保ってきたのを見ても、そ
公たちと同じように、作家の生活もまた、
いたのだが、これが縁となって、一年に一、
えてテレビで見たと言いながら、ロシアの
ずかしいというのである。さらに、つけ加
キムヒョン
家、朴景利の場合も、この信念の確かさを
覚悟と忍耐、勇気と執念の歴程であったた めだろうと思われる。戦争未亡人として、
二度すつ原州に作者を訪ね、私的にいろい
金畑園
劇的に証明しているケ lスである。
貧しく筆一本で家族を養い始めた朴景利
ろと教えを請うようになった。そうこうす
ある知識人の言葉を引き合いに出した 。旧
AAfl尽甘来、苦しみの果てに必ず幸
朴景利は、小説﹃土地﹄の作家として広く 知られている。彼女の最新作であるという
は、死の病である癌と戦う一方、血縁の者
るうちに一九九三年のある日、作家の家も
が、一九八O年に地方都市の原州に移った
ソウルで作家生活を送っていた朴景利
た家で、小説創作の労苦に打ち勝つリクリ
備のために、測量作業を行っているのを目 の当たりにしたのだ。原州郊外の人里離れ
ろう﹂と言ったというのだ。
大な文化がある限り、再び立ち上がるであ
作家の家が取り壊されるという知らせに、
も新聞のコラムなどを通して発言してきた
生詰を根拠に、環境保存の重要性について
えないと思った。過去が存在しなければ未
が文化を守り育てていく方途とはとてもい
作家の生活の現場がなくなってしまうのだ ということに思い至るや、私はそれは我々
小説の完成自体が危ぶまれるだけではな
く、現代の韓国社会で最も尊敬されている
を定めたためだ。ここで、たった一人で菜 園を耕し、野菜を栽培するという弧絶した
彼女の執念がぐらつきはしないかと危ぶま
場所の痕跡を守れないというなら、我々が
来もないと言うが、文化が蓄積されてきた
のだが、小説の大団円は一九四五年八月十
れたのである。 家が取り払われる運命にあるということ
五日、日本から解放された日をもって締め くくられている。ところで、偶然なのか、
生活を送りながら、小説の第四部と第五部 を完成するのに十五年という歳月を要した
のは、刑務所を出た血縁の者がこの地に居
エlショノの方法として、有壁窪を使っ た野菜栽培を細々と守りながら、こうした
日本帝国主義から解放されるという筋が綴
点で、また、およそ二六年間にもわたる長
含めて、韓国土地公社が宅地開発事業の準
同ti一 福がやって来るというのは、韓 一 一 l l国人の信念だ。強大国に挟まれ
い執筆期間の末に完成した十六巻という分
が独裁政権に抗する反体制人物として、長
中にあっても雑草のごとく生き残る生命
背景として、民衆たちのなめた様々な苦し みと悲しみを描き出している。その苦難の
統治のくびきをはめられる韓国の近代史を
小説﹃土地﹄は、朝鮮王朝、が滅亡へと差し かかる一九世紀末から、日本帝国主義植民
﹃ 土地﹄はそのま ま彼女の代名詞とさえな っ ていると言える。
た小説として評価されていたという点で、
に韓国現代文学の中で最も抜きんでて優れ
いこと刑務所生活に耐え抜いているのを見
和j
ソ連が解体してからというもの、二流国家 に転落してしまったロシアではあるが、﹁偉
去武
守らなければならない時期もあった。
層重注
量の大河小説であるという点で、さらに執 筆中からすでに、評論家たちから異口同音
本 ト
36
務方式は産業社会の代表的論理である標準
そうであったが、それ以降も土地公社の業
した。この前任の社長が現職にあるときも
ことができるように協力してほしいと墾繭
を話し、作家の家を文化的空間として残す
公社の前任の社長の 一人に、こうした事情
ることから、私がよく知っていた土地聞発
そこで、私の研究分野が土地と関連のあ
か、心配になってきたのだ。
どのようにして文化立国を図るとい去の
たのだ。そのようにして、一九九六年の春
にし vと す公園の中に作家の家を取り込む ﹂
ために、あの手この手を使って、法規の許
地開発を留保できるような関係法規がない
ることにしたのだ。文化的価値のために土
家の家を﹁朴景利文学記念館同﹂として保存す
児童一公園として造成し、その敷地の中に作
もかかわらず、作家の家のある土地一帯を
なるという、公社内からの批判があったに
は、かなりの費用負担をかかえこむことに
るに至った。公社が追加分として行う造成
ために小さな文化センターを建てて、それ
た活動とは、原州に文化的活力を吹き込む
仕事が当分の間なくなった作家が想を練っ
家の意欲は、再び頭をもたげ始めた。小説 ﹃ 土地﹄を完成させた後に、全力投球すべき
新しく土地を購入するや、仕事中毒の作
ひっそりとした場所を求めた。
キャンパスからも近い、美しい山裾に大変
所に土地を物色し、ちょうど延世大の原州
ないと言い、原州郊外のさらにもの寂しい
ベく早くこの家を空けてやらなけらばいけ
た補償金を全額投入すると決心したという
のだ。この仕事のために、公社からもらっ
芸創作クラスの学生たちを指導するのに も、ちょうど、おあつらえ向きと判断した
が延世大の原州分校へは歩いて行ける距離
込むには格好の場であり、また、この場所
みれた文化芸術の関係者たちに生気を吹き
すばらしい所であるので、都市の汚れにま
具体的には、新しく求めた土地が景観の
一九九六年は、政府が文芸瞳奥の手段と
のである 。
を受け持っているこの大学の国文学科の文
にあるので、作家自身が何年か前から講義
化、画一化を重視してきた。この論理は、 土地開発においては何よりも経済性が優先
だ。時同じくして、 して指定した﹁文学の年 L
され、これを実行するためには一律に事業
年初から土地開発公社は、機関の名前にあ
決め、先のような事情で関係の生じた、韓
加することを 地公社は文学の年の行事に参/
的に表しているのだ。この延長として、土
つようにしたい、という意識の転換を象徴
ないとして、土地の保存にも深く関心を持
の役割が、時代の変化に適合するものでは
た。土地開発にのみ全力を傾けてきた従来
る﹁開発しという言葉を使わなくなり始め
を展開しなければならないというのだ。
ほ文学の年の行事に
設けたいと申し出てきた 。
朴景利を記念する
な事情で関係の生じた、 韓国文壇の巨星とも
ζとを決め、
土地開発の事業地区の指定に際して、縁故 の土地所有者の希望を聞き入れれば、どの
をたよりに伝来の土地を守ろうとする一部 事業も実現不可能になるとして、例外なく 既存の住宅地・田畑・林野などを整地し て、生産性の高い工場の敷地、高層アパー
、 こ の 申 ' し 出 に 対L 、 ほえ変光栄なことマはあるが・
る文学賞を設けたいと申し出てきた。
国文壇の巨星ともいうべき朴景利を-詞窓芋
私は、公社のこれまでの事業方針も正当
ト用の住宅地を作ってきたというのであ る 。
つつある時期に、そうした方針は再考され
なものであるが、今や産業社会が高度化し
原州の地名そのものが、韓単島の地理的な
を直接、運呂してみようというものだった。
に低下する恐れがあるので、これを辞退す
くあって、結果的に文尚早賞の価値が相対的
く、そのうえ現在、文件孟貝があまりにも多
的に直接、お祝いの対象となるのは面はゆ
朴景利は、この申し出に対し、個人的に
中心という意味を持つところから、韓単色同
は大変光栄なことではあるが、自分が個人 は撤去され、公園を含む土地公社の団地造
現在、作家の家だけを残して、全ての建紡
統一への祈願を込めることもできるし、ま
の追求に加えて、文化と環境にも価値を見 にきていると主張し、作家の家をそのまま
出し、これを世に示す努力を傾けるべき時
である。
成事業は一九九七年末までに完了する予定
るべきだと説得した。土地公社も、経済性
の状態で保存するべきであると強調した。
の文化事業に助力してもら与えれば嬉しいと
る一方で、その代わりに自分が今、構想中
時を同じくして、江原道の文化人団体も朴
い、今でも昔からのひっそりとした山村と
んと盲人十にも及んでおり、乱立気味なの
申し出た。実際、韓国社会では文堂必尽かな
だ市内からの都市化の流れが及んでいな して残っているこの場所には、この地方特
朴景利の家は、段階的に公共機関の管轄
有のサムルノリ(農楽)である﹁ナ ジリ風物﹂
下に入る予定なので、作家は自宅と土地に 対する補償金を受け取った。しかし、公社
伝承することができるということで、作家
上げ始めた。
景利の自宅撤去は不当であると抗議の声を あれこれ様々な要因が重なった結果、一
は朴景利が彼女の生金そいる闘はこの家に とどまり、 住み続けるようにと申し出た 。
が残されており、誇るべき伝統を未来へと
プンムル
九九四年の秋、公社の責任ある幹部たちが
けれども、ひどく潔癖な性格の持ち主であ
は決心を固めたのだ。
度、作家の意に積極的に賛同し、これに参
朴景利の対応と申し出に、土地公社は再
である。
し、作家の家を住宅団地内に造成が予定さ
時代の要求の変わりつつあることを直視
るためか、補償金をもらった以上は、なる
e
れている公園の中に保存することを決定す
J
37
ZE コ o a a 当
ソウルのチ リ大使館で
ラル文学賞
ガブリエ ル・ミスト
いる朴景
を受賞して 利。同文学
賞は、女流
昌お年のノ
詩人のミス トラルが ーベル文学 賞受賞包周 年を記念し
て、チリ政 府が綬与す 世界の文学
るもので、 家包名の一
人に﹃土地﹄ の作家朴景 利が選ばれ た
画することを決定した。何よりも、作家の
意とするところを実現するのに必要な建紡
を建設してくれることになった。朴景利は、
土地﹄によって文学的名声を博したの 小説 ﹃
であり、公社は土地の生産と販売を専門と
する機関であるところから、この作家と公
のは当然だという、はなはだユーモラスな
社の仲は﹁開業者﹂の関係にあり、+守護する
ここで、作家が﹁土地﹂を小説の題名とし
態度を公社側は示している。
た由来を一度、再確認しておく必要がある。
土地、地面、土、大地などは似かよった言
さらには世界の未来にまで気を配りつつ、
ことも含め、韓国の未来、東ア ジアの未来、
がまもな に移すための仮称﹁土地文学財団﹂ く設立される予定だ。有望な作家を育てる
土地公社の守護に力を得て、これを害容
ような題名をつけたとのことだ。
有﹂の問題にその根源があるとみて、その
なったのは、何よりも土地にからんだ﹁所
ており、人類の歴史が多事多端なものと
韓国語の中で﹁所有﹂の意が色濃く込められ
名としたわけは、﹁土地﹂という言葉のみが
葉であるが、その中で﹁土地﹂というのを題
ガブリエル・ミストラル文学賞記念メダル
38
個人的創作、集団討論、憩いと膜想、化出品
ろうというのである。その受け血として、
活動の、小さくとも音鑑読のある受け血を作
そのために、文学を主軸に芸術および学術
る意欲と知恵を集めたいというのであり、
の本質である生命の音媒を追求しようとす
朴景利の立場だ。環境破壊の時代に、﹁生﹂
Jtの真の在り方を模索しようというのが
た文学者を多数含め、現在生存している世
一九九五年にスペイン語文学で功績をあげ
周年となゥたのを記念して、チリ教育省が
五年にノーベル文学賞を手宣してから五十
トラル(一八八九一一九五七)が、一九四
出身の世界的女流詩人、ガブリエル・ミス
(のと)同芯Z Z 2可とのOBB巾 gogと守巾 冨色色)を受賞した。このメダルは、チリ
において、作家はミストラル記念メダル
時、二つの理由から面くらったと号室の所
作家は、メダル号室のニュースを聞いた
出版することを決定したと伝えられてい る 。
作も出版しているパリの著名な出版社から
これを今までにノーベル文章皇曇再を何
gts 当2E)の一つとして﹃土 河 458ロ 地﹄を選定し、全巻、まず仏語に翻訳し、
ωのO のoE巾25ロ な代表作品集(巴Z開
して、今年の二月にユネスコ本部が世界的
﹁天使﹂をミストラルは﹁旦を意味する。こ
なのであるが、スパイン語でガブリエルは
語っていると説明した。彼女の名前は筆名
の中でミストラルの業績は彼女の名がよく
語った。
府と国民に敬意と私の愛情を送りたい﹂と
なことを含めて、メダルをくださるチリ政
ものがあって、それが心に通じたのではあ
の名前に込められた意味は、また 一方で、
作家が想像したように、チリ大使は祝辞
るまいかと思われ、そんなこんないろいろ
も、文学の背後にある行聞に真実のような
発表と公演などのための堕誌が設けられる 界的な文学者五十名を選んで授けることに
球苔語っている。﹁私たちの生活は、過去
O白
予定だ。 したものであるが、この五十名の中に萱尽
朴景利が構想している文学館は、圏内で は皆無であるが、外国には先例が少なくな
思う。﹁風の試練の中で天使の真理を具現
とは誰の目にも明らかだ。西欧社会が数百
韓国の現代史が誇るに足る歴史であるこ
しようとした﹂という点において。
朴景利の文学を端的に語るものであろうと
にユネスコ本部が
ιて
年にわたって行なった近代化を、我々はわ
仏語に翻訳し、
我々の誇るべきことは、ただ単に産業化と
は、確かに誇るべきことである。しかし、
民主化をやり遂げたということにとどまる
ずか一世代の聞に圧縮して成し遂げたこと している パリの著 名な出版社から
り抜こうとする渦の中にあって、我々はま
ものではない。短い期聞に歴史の発展をや
韓国では、他の国では例を見ないほどの
た偉大な文学をも産み出したのだ。
由について、次のように述べている。﹁﹃土
国でも広く読まれているメキシコの作家パ
は、二人のノ ーベル文学号賞者、また、韓
利も、選はれたのだ。世界的な文学者の中に
チリは我が国とは地理的に最も遠い所なの
ような賞を授けるのか。また、もう一つは、
の人となってしまった人々を称えて、この
るが、あの国は 一体どういうわけで、過去
をすぐに忘れ去ってしまうという習性があ
かつ証言している﹃土地﹄という文学は、韓
が守り続けてきた生命力を劇的に描写し、
ているのだ。韓国近・現代史の中で韓民族
う心で外面的なことも大切であるが、朴景 利の ﹃ 土地﹄のような偉大な文学も産み出し
伝之られている
ル﹄企を
でにノーベルえ学賞受賞作を
選定し、
表作品集の一っ と
い。例を拳げると、ドイツにはベルリンに
﹃
あるパンゼ・ハウス(巧B52 同自由)が、 フランスには国立図書センタ ー( の 巾ES 仏2 巾包︿白日)や民間団体のア (戸曲目白8ロ
円
EFOE-E ロ三巾)が管理する﹁作家の家﹂ RZ寄)があ シェット財団(司oSEEO回 国
H043) の持つ﹁国際執筆事業﹂(日ロ窓口同印氏自己
り、米国ではアイオワ大学(d -423qo ロ
E
巧 ロ mHJomHBH)が似たようなケ lスで ある。 このようなことが決められようとしてい た今年の三月末、朴景利は社会の各分野の 湖塵員は、我が国では最も賞金額の大きい
優れた業績を称える﹁湖巌茅を受賞した。
地﹄は、単に韓国文学史上の一つの到達点
ズ(O ♀雪5HUR)も含まれている。朴景利
多数くの文学専門誌が発行されている。そ
であることを超えて、我々民族の言葉と精
がこのように、世界的な作家として知られ
ことで有名だが、量尽利を用量者とした理
の最大の-雲仙碑であるというべきだ。我々
神の資産を豊かなものとした、解放五十年
に、一体またどうして、私のような人間の
た文学的成果であるとともに、まさに記念
国社会、そして我々も含めた人類社会の明 るい未来に対する展望を予見しているとい でに英語、仏語、日本語などに翻訳されて
るようになったのには、彼女の各作品がす
も今や、世界に向けて、韓国にも ﹃ 土地﹄と いう文学作品があると胸を張って言えるよ
う点で、韓国現代史において掘り起こされ
いることも影響していると思われる。しか しながら、 ﹃ 土地正はその分量があまりにも
ことを知り、このようにメダルをくださる のか、大変いぶかしく思った﹂と言うのだ 。 ﹁けれども、数日たって、何かしら因縁の
朴景利の高遁な作家精神は、また一つの
うになった﹂
碑的(冨oEBBE)作品であると自負して もよいものなのである。. るにとどまっている。ちょうど時を同じく
多く、第 一部だけがようやく翻訳されてい
ようなものが感しられるようになった。あ の国の文学についてはよく知らないけれど 二六日、ソウル市城北区のチリ大使の官邸
結実を得ることになった。一九九六年四月
39
NT E RVIE W
来 との対談 日 目
李
アイデンティティーのドラマ 『ネイティブ・スピーカー』の著者
コリアナ
関しては、彼はいいアイディアをいくつも
コリアナ一どのカテゴリーにも当てはまら
だと言ってました。
にもそう易々とは当てはまらないのが好き
持っていたので、彼を選んだんです。彼は、
互いによく知り合っていたし、本の販売に
ン大学に来て、大学院の修士課程での課題
ないような本が何人もの編集者を魅了した
コリアナ一あなたは二十代で、ここオレゴ の一つとして﹃ネイティブ・スピーカー﹄を
というのは、少しおかしなことではないで
しょうか。
僕の本に好感を抱きそうな編集者たちに本
李一しかし、真の文学作品というのは、決
を送ったのですが、彼らは早速、出版した いと言ってきました。そのことは、僕自身
ニューヨークのいくつもの出版社がこの本
にとっても、本当にびっくりするような出
書き始めたそうですが、その何年か後には、 の出版を打診してくるまでになりました
ちんと書かれた、まじめな作品というのは、
ね。その経緯を説明していただけませんか。
全てのことを一度に扱ってるんです。つま
い、そういうものではないでしょうか。き
り、人生のあらゆる面をです。シンディは、
してカテゴリーなんかには当てはまらな
ふうに通りいっぺん以上の興味を示してく
もの大手の出版社が僕の本に対し、そんな
作品の主人公のへンリ l ・パクがアジア系
されたらいいと思っていたけれど、いくつ
れるだろうとは夢にも思っていませんでし
米国人であり、その中でも韓国系米国人で
来事だったんです。僕は、自分の本が出版
ん。編筆唱たちが、それほど真剣に興味を
あり、この本は明らかに韓国系米国人たち、
カトクという友人がいたんです。僕は大学 まって、文を書いていたのですが、彼とは
卒業後、二年ほどニューヨーク市にとど
示してくれたのは、本当に意外でしたし、
あるいは移民たち、そしてあらゆる種類の
牽畠来一僕には、出版代理人のゴードン・
ン州のヨ lジンに移ってきてからも、互い
一方で大覆嬉しかったのも事実です。
理解してくれました。彼女はまた、本の書
新一季恒たちに関する話であるということを
iカ1
ほど彼らの興味をかき立てたと思います
テ 女小観﹃ネ J1 1ィヴ・ス
と細かに、観得方費持つず描いた彼の処
り合いをつけてい︿過種を、驚くほどこ
若い*来韓国人か自努の僧み的語、そし
てま弘、聴器辛苦 E Fィーよ語
一丸丸五年の初め、豪畠操は、一人の
その時に紹介されて知り合い、僕がオレゴ
に連絡を取り合っていました。ある程度、
コリアナ一今、振り返ってみて、何がそれ クトを試みたんです。彼らに本の一、二章
、 刀
﹄
して、他に三人のエージェントとのコンタ
本が書き上がった段階で、僕は彼を始めと
分ずつを送り、もしかして僕の代理人とな
アリソンの﹃透明人間口55FFZS)﹄ を
しろいと思ったんです。さながら、ラルフ・
連想させるのだというんです。僕もその本
き方とか、その言葉や形式が独特で、おも いうのでもありませんし、また他の誰々の
をずいぶん前に読んだんですが、その本の
ゲルは、必ずしもアジア系米国人だからと ものというのでもなく、僕の小説自体が持
第一行目を読んですぐに、その情感に打ち
李一僕の担当編集者のシンディ・シュピ l
つ冷静沈着な物言いが素敵だと言っていま
るか、あるいは残りの部分を読みたいとい
いという連絡が来ました。中には、すぐに
間もなく四人全員から残りの部分も読みた
したね。彼女は、僕の本がどのカテゴリー
う音ゆ向があるかどうか、打診したのですが、
でも代理人契約を稿ほうというところもあ りました。しかし、ゴードンとは、すでに
40
る前の、一九九一年一月に亡くなりました。
事もしています。母は、僕がオレゴンに来
夫とともに香港に住んでますし、そこで仕
してもらえるでしょうか。
、l ・タンについて、誰がどんな風に考え
ストンのこともですよ。芸術家としてのエ
父は、今でも蛙需科の医者として現役で働
李一僕には姉が一人いますが、彼女は今、
るかということはさておき、そして僕は彼
げさに騒ダ、立てたことを思い出しますが。
スの天井(のZZ の2-呂町)﹂川つまり、アジ ア系米国人はある程度の地位にまで上がる 女はすばらしいストーリー-テラーだと思
いていますし、再婚もしました。
李γええ、それとマクシム・ホン・キング
ことはできても、それ以上の昇進はなかな
コリアナ一﹃ネイティブ・スピーカー﹄の成
ことと、実業界でよく言われている寸ガラ
せんね。また、そうであってほしいとも思 か難しいという現象との聞に、何らかの類
うんですが、ただ誰かが彼女についてこん
コリアナ一あなたは、今、あなたの言った
います。それこそが、僕が彼の人物像に付
なことを言うのは我慢ならないんです。つ
功は、あなたと他の家族との関係に何か影
へンリ l ・パクも、そうした情緒というも
与したいと思ったものなのですから。 李一そう思います。この社会には、ある程
似点があると思いますか。
響を及ぼしたでしょうか。何か変記したこ
のめされたように啓したものです。ゐ身、
コリアナ一あなたは、アジア系米国人作家
主流に対し、白人社会に対し、そして権力
まり、﹁エミ l ・タン、あなたは、社会の
のをいくらかでも持っているのかもしれま
とみなされていることについて述べました る十分の信頼球下}親しみを持っているとは
とでもありますか。
度までアジア系米国人を受け入れようとす
李一実際のところ、僕たち家族の関係は、
が、そのことについては、さほど抵抗感は
りにも大きな力、あまりにも大きな影響力
を持ち、人々を左右しうる人々に対しあま
ないのですか。 思いまオ。けれども、例えば僕らがの肘 O
( 2区間同25SOS2ヘ墨田向経営責任
李一非常に当たり前のことだと思っていま す。まさに、それこそが僕自身だからです。
互いのことを知り合えるようになりまし
李一僕たちは、概して以前よりもっと、お
コリアナ一どんな点で。 確かに、物書きというのはみんな、自分の
むしろ母の死後に変わったと思います。
書くものについて慎重にならざるをえない
を持っている。だから、あなたは自分の書
に得るためには、何かもっと他の要素が必
¥それは文学というゲ lムの本質だと思
くものについて、慎重であるべきだ﹂とね。
要なんです。僕が思うに、アジア系米国人
います。僕の考えるところでは、そんなこ
コリアナ一あなたがた三人のことですか。
者)になれるほどの、もっと深い意味での
また何を話し、それをどんな風に語るべき は他のマイノリティ l-グループに比べる
李一そうです。母の死は・:多分、こういう
親密さと信頼、そしてある種の理解を本当
かといったことについて、人々が先入観を
と、こうした障害とぶつかった時期がずっ
、l ・タンが犯した罪というのは、つまり、
とをいう評論家たちの目がらみて、ェ
アジア系米国人作家はどんな風に行動し、
持って決めてかかってくることです。たと
と遅かった。しかし、それは、どのみち同
僕がむしろ、きゅうくつに思っているのは、
え、僕が自分の小説の中で、いつもアジア
じことで、そうした障害に気づいたという
ことです。
た。もっと対話をするようになったという
けではないにしても、結局のところ、僕の
系米国人たちのことについて書いているわ
いと願っていたし、書こうと思い定めてい
とでした。それまでも、僕はいつも書きた
す。それは、僕にとって本当に衝撃的なこ
ことは、どの家族にも起こることなので
女が批評家たちが望むようなやり方で従っ
化的アイデンティティーというものに、彼
ましたが、母の死は並外れた力で僕をゆさ
しょうが、僕たちを非常にゆさぶったんで
たりはしなかったということなんです。彼
これまで正義を規定したり、道徳性を提示
す。しかし、芸術家としての立場から言え
女は法律の一字一句に従うようなことはし
してきた、ある決まった芸術的あるいは文
に移住してきて、都市で暮らしながら、そ
すね。それは、つまり、そう遠くない過去
いと思うんです。もちろん、それは、よい
、ば、僕は、僕の書きたいことを取捨選択で きるだけの能力を持っていなくてはならな
いていく上で、一つの啓示となりました。
ぶったんです。そして、それは僕が物を書
そうした問題について書こうとしていま
こで彼に襲いかかってくる様々の雌偲高緊
は常に変わっていくものなのです。社会で
ませんでした。しかし、その法律というの
わけなんですよ。そして、僕はこれから、
張を体験していく、一人のアジア系米国人
え、審美的にも強い確信を持った芸術家が、
作品を作り出し、いろいろなことを深く考
て僕が体験してきた出来事についてなんで
の物語なのです。そして、アジア系米国人
書くものは、この国でアジア系米国人とし
の体験には、何かしら特別なものがつきま
マティが僕に乗り移ったみたいだと言って
オレゴン大学での指導教授だったギャレッ
ましたた。ただ、母と共にいて、母の死を
ト・ホンゴは時々、母の死後、母のヒュ l ミックです。けれども、物書きというのは、
こっていることというのは、すごくダイナ また違った時間のスケールと経験をふまえ
たことが、僕をもっと人間らしくしたのだ
見つめるだけという体験をしながら一暮らし
起こっていることとか、政治の世界で起
してしまうんです。それと、建かアジア系
言ったりすると、本当にちょっと、はっと
て行動しているんです。物書きというのは
と言うんですね。多分、それは本当のこと
は、誰かが確実性という問題について何か
ている。しかし、僕らが、僕らの生き方と
ジャーナリストではない。もっと何か違っ
だと思います。僕は、僕自身、母の死後ほ
当然果たすべき責任ですけどね。だけど僕
か体験といったものをもっと深めようとす
の芸術家を代弁しているのかという問題に
米国人のコミュニティーやアジア系米国人
ティックな仕事はしますが、しかし彼らは
た存在なのです。彼らはジャーナリス
らはこの社会にある程度まで受け入れられ
ると、さっきの社会的受容はだんだんと希
ついても、同じように考えさせられてしま
とっています。全体的な傾向としては、僕
薄であいまいなものとなってしまう。アジ
うんです。
はないと思います。そして、これは、僕は
ど自分が感情的に傷つきゃすくなった時期
ア系米国人が人間としては、部分的にしか この社会に受け入れてもらえないというこ
コリアナ一あなたの家族のことについて話
決してジャーナリストとはいえません。
とは:¥一面では興味深いことですが、一
l ・タンの大成功をめぐって、人々が大 ミ
コリアナ一あなたの話を聞いていると、ェ
面では厄介なことです。
41
~
今年 4 月、『ネイティブ・スピーカー』でヘミングウェイ文学賞を受賞した李員来氏( 左) が受賞式場でへミングウェイの息子と話ている
確信しているのですが、物書きが何か、そ
れなりの物を書こうという時には、誰に
とっても、こうした感情的な傷つきゃすさ
というものが必要なのではないでしょう ム
。 ‘ υ
コリアナソあなたのお母さんは 、あなたの
人生において、本当に大事な存在だったよ
うですね。そして、ギャレット・ホンゴは、
あなたの専門分野での大きな存在だったわ
けですが。そのほかには誰かいるのでしょ
ツと、本当にすばらしい体験を共有したと
うか。 李一僕は、大学でへンリ l ・ルイス・ ゲイ
思います。僕は、彼の自伝の書き方の講義
とばかりでした。彼は当時、まだ三十代初
を聞いていたのですが、本当に瞥嘆するこ
めの若きだったんですが、イュ lルのよう
ても重両であるように僕には思えました。
な大学で、しかも黒人として、何事につけ
とてもエネルギッシュで、とても個性的で、
完壁なプロフェッショナルとして自分の仕
事にあたり、世界との接点を持ち、世界を
攻撃し、そのどれをも最善の方法でやりと
は、彼らが音識するとしないにかかわらず、
げていました。世の指導教授たちというの
こうしたことをしてくれているんだと思う
つけることはできないということを、また
んです。例えば、彼らは、誰も僕を押さえ
教師はこれからも僕のことを気にかけてく
れ、僕のことをいつまでも覚えていてくれ
るといったようなことを教えてくれまし
た。僕は本当に目を聞かれたようでした。
が、僕がこの二人から得たものは、真の能
僕はへンリーやギャレットのようではない
この言葉は乱用され気味ですが、でも、い
力の開眼といったものだったんです。最近、
コリアナ一文学的影響については.とう考え
ま言ったことは本当です。
42
ます。このほか僕がいつも霊抗しているの
ジョイスです。特に彼の初期の官聞がいい。
その中でも一番好きなのはジェ iムズ・
李一僕の好きな作家はたくさんいますが、
ますか。
たにとって韓国とは、どんな意味を持って
カー﹄を書き始めた一九九一年ごろ、あな
コリアナ一あなたが、﹃ネイティブ・スピー
もたくさん。
代に僕は詩と物語を書いていました。とて
李一そうです。とりわけ、中学校と高校時
て予期していたのですけれど、感情的には
視線、彼女は頭ではそうしたことを前もっ
これから彼女をじろじろと見つめる人々の
ルの人々、その人口密度の高さと巨大さ、
国の食事には慣れていました。でも、ソウ
いくらいのものだったんです。彼女は、韓
何と驚嘆すべき素敵なことでしょう。
ことを感じ続けてきたからです。しかし、
ら、僕はいつも他の人と違っているという
かせるような威貨でもあるんです。なぜな
とても素敵な感じだし、また僕をおじけっ
う安心成事}持つことがあります。それは、
えば、どんなことでしょう。
彼の作品の明るさと叙情性はずば抜けてい
李一何といっても、手紙をたくさんもらう
コリアナ一﹃ネイティブ・スピーカ・4 の成
て考えさせるようになったんです。ミッ
ようになったことです。例えは、今週、僕
功以来、あなたの生活で変わったこととい
李一僕が﹃ネイティブ・スピーカー﹄を書き
は、ニューヨーク・タイムズ社から電話を
ついていけなかった。そして、そのことが、
始める前の年、僕は両親と一緒にソウルに
シェルが感じたようなことは、 、 程度の差こ そあれ、僕がここで感じていることと同じ
僕にアウトサイダーとしての生女方につい
は異なっても、同じような言葉の輝きと言
なのです。ミッシェルにとって、彼女を見
という申し出を受けました。僕はそのこと
もらって、僕の名前でコラムを書かないか
いたですか、そして、今のあなたにとって
葉使いの正確さを持っているという点で、 への最後の旅となったのですが。
行きました。それは、母にとってはソウル
は、巨大で圧倒的な威圧感事-もたらしたわ
かけない奴だとじろじろ見る人々の存在
は何を意味していますか。
彼の作品が好きです。彼の官聞は決して散 コリアナ一それは、あなたのお母さんに
スの場合と同じような理由で、つまり言葉
漫ではない。 とってお別れの旅行のようなものだったの
は、ウィリアム・スタイロンです。ジョイ
コリアナ一好きな韓国の作家はあります
を読んでいるという気がしたものでした。
た十二歳のときでさえ、僕はいつも翻訳文
感じられないと思います。けれども、たっ
すばらしい、そんな翻訳は決して翻訳臭く
いでしょうか。何かちょっと違うけれども、
原作と同じようにすばらしい本なのではな
す。よい翻訳というのは、一つの新しい、
行った初めての韓国旅行でした。一回目の
妻のミッシェルと一緒でしたが、それは、 両親と一緒にではなく、僕が大人として
ませんでした。この前の二回の韓国旅行は、
を見ても何もわからなかったし、何も感し
て、風景を見ても、韓国の日常生活や政局
けの国でしかなかった。二十三、四歳になっ
でした。ただ、家族と一緒にたまに行くだ
韓国に対して何の意味づけもしていません
るのです。しかし、一方で、とても楽に感
アウトサイダーとしての意識を目覚めさせ
た時に感じつづけてきたことは、僕の中の
を噂して、ずっと、ここや、特に韓国に帰っ
会の新参者なんかではない。僕が、僕の﹁牛亡
じざるをえない。だが、僕は決してこの社
知らぬ者だと見なしているということを感
ここでいつも、人々が僕のことを新来の見
けですが。しかし、僕にしてみれば、僕は
ラムみたいな何か他のものも書くべきなの
れども、このニューヨーク・タイムズのコ
るべきことはもちろんたくさんありますけ
てきたことですね。時々、僕は、ほかにや
ういうところが、僕の生活で大きく変わっ
あるべきか、ということについてです、こ
いるある種の公的な責任というものはどう
て、そして多分、一人の市民として持って
僕がかつて考えてもいなかった、作家とし
で、ギャレットと話し合いました。つまり、
。
ですか。
僕 が ﹃ ネ イ テ ィ ブ ・ス ピ ー カ ー ﹄ 書さ始める前の年 、
李一そうです。だから、あの旅行は一種の
僕は両親と一緒にソウルに行きました
カ 李一いや、ありません。なぜなら、僕は韓
我々は家族だけではなく、母の友人たちに
国人作家のものは続んだことがないからで
も会えたからです。そして、そのことで、
それは、母にとってはソウルへの
悲しい旅行だったんですが、一方では、す
ように正確な言葉づかいというものを心が
品を見つけることができたとしても、僕の
僕は母の人生を彩ったものに触れることが
最後の旅となったのですが
ばらしい捧行でもありました。なぜなら、
けている者にとって、それはおもしろくな
できました。その旅行が、僕にとってほ、
す。特に、僕の成長期の頃には、英訳作品
い、単調なものにしか甲山 え T なかったですね。
を捜してもなかったですね。何か、翻訳作
翻訳では作品の血となり、中身となるもの
たといえるでしょうね。それまでの僕は、
ものをまともに見ることのできる旅行だっ
ストーリーがなかなか気に入ったとして
じる面もあります。例えば、ソウルの通り
・
は訳されていないように感じられたんで
も、物書きとして、それらの翻訳ものから
りでした。しばらくの問、彼女は本当にカ
ではないかと考えたりします。普通だった
旅行問ミッシェルにとって驚くことばか
ら、僕はそんなコラムは書きませんが、そ
に、僕はいつも書いていました。
のないような、ただ僕が韓国の人々の一員
を歩いていると、他のどこでも感じたこと
学ぶべきことは何もなかったのです。それ
ルチャー-ショックを受けていました。彼
コリアナ一あなたが、﹁僕はいつも書いて
女にとっては、まるで火星に着陸したよう
いた﹂というとき、それはあなたの十代の
んな特別な紙面と場を与えられて、そして なもので、それ以外には比較のしょうもな
であり、特に目立ったりはしていないとい ころの話ですか。
43
を
ロモーター、モデルを欲しているだけなん
ません。彼らは、有名人、デマゴーグ、プ
回、五回、六回と見なければ気がすまない
いでしょうが、僕は、一つの文を三回、四
分、ワープロではそうした隼宋が簡単なせ
推敵するタイプの作家ではありません。多
もらえるでしょうが。次の小説では、延阜
コリアナ一あなたの次回作について話して
のです。
とニュアンスを限りなく追求していきたい
マの輝きを増してくれるような、他の単語
します。僕は、一度まず、書き上げてから
かっていて、機会がやってきたのだから、 です。 んです。
僕が何について書きたいかということもわ やってみるべきではないかと思います。金 コリアナ一あなたの一日の仕事について、
コリアナ一あなたは、作品を一文づっ、声
ずも同然なのです。僕は、言葉によるドラ
の問題ではないんです。あの編筆告たちは、 また、どんな風に仕事をしているのか、話
俳優、あるいは真の政治家を求めたりはし
僕が言いたいと思っていることについて何 していただけますか。
そうですが。
とか聞いてみたくて、つまり僕が何を言う を出して読み上げますか。
だろうか、それを知りたくて、このコラム 李一そうですね。僕は家で仕事をします。
慰安婦の女性が主人公として描かれている
を依頼してきたようです。もしそうだとし
李一僕はいつだって、耳で聞かなければ気
験について、というよりは、むしろそのよ
度の小説は、従軍慰安婦の女性の経 李 一 A7
たら、それは僕にとってすばらしいことで そして、毎日、自分の仕事、小説とか、今
うな経験をした女性についての小説であ
すが、同時にすごいプレッシャーと責任感 を感じないわけにはいきません。僕は、僕
うな影響を及ほしたのか、というのがこの
てからのことが、彼女の人となりにどのよ
小説のテ lマです。全ての小説は、ある意
り、収容所でのそうした経験と韓国に戻っ
味で、アイデンティティーのドラマですが、
が何かの代表だとは思いませんが、しかし
はよくわかっているつもりです。小説も同
その紙面が人々に影響を与えるということ
彼女のアイデンティティーは、こうした恐
そうしたコラムの一語一句が意味を持ち、
ションの内側の世界のことと、登場人物、
じような仕事です。しかし、作家はフィク
この小説には、一人のアメリカ人が、もう
7﹂切っても切れない関係にあります。 怖球
一人の中心的人物として登場しますか、こ
いるのが普通です。しかし、この錯綜たる
の物語は、いかにしてこの二人が自分のこ
そしてその小説のもつ意味について考えて
て、僕はそうしたことについて書くよう、
世の中では、また話が違ってきます。そし
ことを描いています。ある面で、この小説
は、過去の出来事についてというよりはむ
れからの生き方を見つけていくか、という
しろ、未来についての話なんです。
ますます求められるようになっていると思 いと思うと、次の瞬間には、いやになって
うんです。ところが、僕は喜んでそうした しまうこともある。そういった面で、僕の
コリアナ一本はうまく書き進んでいます 、 刀
生活はかなり変わってきたといえますが、 実は、僕はそういう生活があまり好きでは
よい構想を持っているということです。前
の中で自分が書きたいことについて、大変
れています。おもしろいのは、実はこの本 のを聞かなければ、僕にはその音感が伝
がすまないたちです。もし、声に出したも
李一僕が予想していたのより、ペースは遅 やっているちょっとしたコラムなんかを書
ないみたいです。そして、そのことが、僕
く時聞を見つける工夫をします。特に、ちゃ
が本当に書きたいものは何なのかというこ とをより一層、自覚させますし、その皇見
し賢くなったということかもしれません。
が僕に自分の小説、家族についてのこと、
僕がずっ前から書きたかったことが湧いて
の作品よりもずっとよいと思います。文章 の音感がおかしければ、その内容がどうで
の書き方という面において、前回よりも少 あれ、僕には気に入りません。音感の変な
に最もよいと思われる方法を見つけさえす
きていますし、僕はただ、その話を語るの
わってきません。おそらく、ある音媒で、 もしあなたが、僕が何か書いている時に、
文を書くわけにはいかない。もし、ある文
僕は詩人なのだと思います。もし、その文 僕の肩越しに原稿を見たら、一文一句ごと
がきちんとした音球審表現できていない時
んと、ある程度出来上がった第一稿を書く
らく、僕は物書きである以上に、一人の有
に何度も何度も消したり、書き足したりし
までに、非常に時間のかかるタイプです。
名人であることに少々抵抗を感じているの
ていることに気づくに違いありません。僕
のコラムを書かせるのだと思います。おそ
だと思います。なぜなら、この社会では、
には、僕にとってその文は、ただのごみく
そして、多分このニューヨーク・タイムズ
人々は有名人以外には受け入れようとはし
は、五度か六度、書き直して、やっと満足
ればいいのです。. ないからです。大衆は、真の小説家、真の
44
六百年伝統の儀式と建築 キム
'Z 'E
国を中心とする東洋社会では、 本的道理として寸礼﹂を重視して
ET4E'久しい普から人聞が守るべき根
でも最も重く見られたのは人聞を取り囲む
きた。礼には種々の儀式があるが、その中 自然界に存在する神霊を祭る士口礼であっ た。紀元前五世紀頃、孔子は礼を基本にし て 一つの哲学的体系を作りあげたが、こ れが後日儒教に発展した。その後、儒教は た 。
東洋の古代諸国の基本的統治理念となっ 吉礼の対象になる神霊の中には、天を司 る天神をはじめ自然の大地や大きな山河は もとより人間の日常生活に関連のある農事 を司る神や穀物を司る神がある。このよう な神々には、それぞれ神霊を祭る祭壇を設 け祭杷を行なうのが慣習であった。また吉 礼の対象の中には、亡くなった人の神霊を 杷り祭杷を行なうことも含まれている。名 な人物か吉礼の対象になり、また歴代の国
高い勇将の関羽や儒教の創始者孔子のよう 王も死後は同様だった。この際、亡き人の 霊を杷るところを廟と称した。宗廟とは、 亡くなった国王の神霊に祭把を行なう場の ことである。 壇を築きあげ天と地の諸々の神霊に祭柁 を捧げ、また孔子や亡くなった国王のため に廟を建て祭杷を行なうことは中国や韓 国、日本、ベトナム等古代中国文化の影響 を受けた東アジア諸国においては長い間慣 習となって受け継がれた。その中でも、こ とに中国と韓国は中央集権的王朝体制が長 て重んじられて来た。
らく保たれたために、士是か国家行事とし 東アジアの王朝で、とりわけ重一視された 祭杷の場は宗廟であった。宮識の祭杷は、 ほかならぬ王室の権威を象徴するもので あったからである。したがって、どの王朝
永寧殿を向かって 3間からなる門。神霊だけがこの門を出入りすることができる
4
ミM
45
京畿大学校教授・建築工学専ヰ
金東旭
も宗廟は、またとない吉祥の地を選んで建 て、また朝廷の儀式のうち最も盛大な祭杷 儀式がここで行なわれたのである。ただ宗 廟は、常にその王朝と運命を共にせざるを 王朝の宗廟も取り懐されてしまい、その後
得なかった。つまり、王朝が滅べば、その
のである。このため、新しい王朝が生まれ
新しい王朝が自らの宗廟を新しく建立する るたびに新しい宗廟が現れた。 朝鮮王朝(一三九二 j 一九一O)の宗廟 は、一三九二年朝鮮王朝のスタートと同時
朝鮮王朝は 慣例に捉われず 歴代の国王を一人残らず杷っ
て全員に祭犯を 捧げていたのである
に建てられた。数年後、新しい王朝は都を 開城から漢陽(ソウル)に移すことになった ことから、宗廟も新しい都に何よりも真っ 先に新築されることになった。一一 一 一 九 一 一 一 年 のことである 。この朝鮮王朝の宗廟は、い 王朝の宗廟は、五ハむ年の長い歳月を耐え
くつかの点で大きな特色がある。まず朝鮮 抜いている。このように一王朝の宗廟か長 年にわたって套航した例はほとんどない 。 また、この宗廟では五円む年の問、王座に 就いたすべての普の神霊を祭って祭記を行 なう点が特異である 。普通、祭紀は五代か
U︿色町 トE︿
出ハ
46
七代を渇きると行なわないのが古くからの 慣例だった。が、朝鮮王朝は慣例に捉われ ず歴代の国王を一人残らず杷って全頁に祭 杷を棒げていたのである。もう一つ注目さ 王朝の滅んだ後む引茎響 c 行なわれ、今日
れるのは、五QU年間続いた宗廟の祭司か に伝承されていることである。一回世紀末 に始まった朝鮮王朝の宗廟祭紀が二O世紀 末の現在まで六のむ年も続いているのであ る。このような宗慶誌は、同じ儒教文花 園に属する中国や他の園ではとうに姿を消 朝鮮主朝は世界でも珍しく、約五百年の
している。 長い間続いた。その聞に二十七脅か王座に の人身である。この二七名の国王だった人
就いているが、すべて李氏の姓をもっ一門 は、死んだ後、全員宗廟にずっと杷られて きている。二十七名の王のほか王位継承権 者で即位以前に死んだ六名の者もまた宗廟 に杷られている。その反面、二人の王は途 中で王位を追われたために宗廟に祭られる 資格を奪われている。また初代王の太祖に 対して特別礼遇し、その四代上までの祖四 宅主示廟に祭ってある。朝鮮儒教社会で普 るのであろう。このようにして、計三五名
通四代上の先祖までを杷る慣習から来てい の霊が朝鮮王朝の宗廟に杷られているわけ 宗廟は、初めのころは杷る国王の神霊か
だ 。 何者もいないことから小規模のものであっ た。ところが歳月を経るにつれて神霊が増 えてきたため、宗廟の建物も増築を重ねる ことになる。 宗廟では一人の王が一聞の撞墾空間を振 り割てられる。聞とは二本の柱の閣の空間 を指す。その一間の奥まった所に卓子を置 位牌の前には多記の際拝礼をする空間の外
47
き、その上に王の名を記した位牌を立てる。
宗廟の正殿
には住二本だけが立っている開放された空
側に厚い二枚の扉をつける。木の扉の外側
聞があるが、ここでは祭間の際、呑をたく
卓子をおく場である。
建孟当初の宗廟は七聞の啓紘初であった。
その後、宗廟に把る神霊が増えたために宗
廟の建物とは別途にその西側に朴撞葎紡を
建築した。永箪最と言う名の建物である。
この付属夜街には初代王の四代上までの祖
四名と直系の子孫で王位継承権を持ちなが
ら、王座に就けなかった者を把っている。
永寧般と区別するため、本般を正殿とした。
正殿とは付属産築ではなく正式の後紡とい
う意味だ。正取には、朝鮮を建国した太祖
をはじめ直系で王位にのぼった人物が杷つ
である。太祖の位牌は建物の西側の端に
肥ってある。その次の位牌は順序にしたが
い、東側の方に並べてある。、喜一厳にはま
ず建物の中央に太祖の四代上の祖四名の位 牌が杷つである。
一般に、企害﹄ている人聞には東側が良い
方角とされるが、神霊を柁る場合は西側を 上座とする慣習かあった。そのため、太祖
の位時か西側の端に置かれることになった
のである。これは後日、宗廟を増築する際、
てられた正殴は、間もなく十一聞に増築さ
非常に長所となった。即ち当初、七聞に建
れたが、この時既築の七聞をそのままに置
方法で正般の建物は最後には十九聞に増築
いて、その東側に四間だけをくっつけて増 築すればよかったからである。このようた
された。最後の増築工事は一八三六年に行
なわれたが、その後正殴はそれ以上の増築
はなく一九一O年朝鮮王朝は幕を閉じるこ とになる。永寧最の場合は、中央の四聞を
る方法を採っている。これまた一八三六年
そのままにして、その左右に建街を増築す
に中央の太祖上代の四名の祖先の位牌をそ
48
宗廟の永寧膝( 右〉
正殿禽室( 上) とその位牌( 左〉
と朝鮮朝歴代王と妃の神位が杷つである
aE HU︿
︿
のままにしておいて、左右にそれぞれ六閑
ずつ増築している。
宗廟は朝鮮王朝の都である漢陽(ソウル)
に創建される際に宮殿の左側の東方に建て
た。宮般の西側には大地と穀物の神を祭る
社穣壇が建てられた。宮般の左側と右側か
ら歴代王の先祖の神霊と大地と穀物の神霊
を祭り、王朝の隆盛をを祈願したのである。
今も、漢陽を継いだ首都ソウルには都市の
て、その中聞に古寓か立っている。
真ん中に宗廟と社複壇がそのまま残ってい
今の宗廟は、当初からの位置にそのまま
保存されており、建筋だけが歳月の流れの
うちに増築されているのみである。十五世
ているが、戦後すぐ本来の姿に復元された。
紀末には日本兵の侵略によって一度焼失し
森に固まれた広い地域の中央に正殴が南
に向かって立っている。正殴の西側には永
寧股がこれまた南を向いて建っている。正
T は、どっちも太い木の柱からな 肢と、永密 肢
る東洋の伝統的木一議案をなしていて、屋
根は前後に急な傾斜をなす単純な作りであ
る。屋根は灰色の伝統的な瓦で覆われ、屋
ルの動物の装飾か施してある。
根のてっぺんの両端には建物を守るシンボ
二棟の建物の特徴は、ともに横に長い形
それぞれ一人の王の位牌を祭ることになっ
をなしていることである。凄紡の一間毎に
ているため、いちばん端に初代王の位牌か
とによるものである。祭杷を行なう蜜紡は
あり、そこに次々につなげて増築されたこ
もとから構造がシンプルなほうだ。位牌を
把る卓子を備えるだけで足りるし、卓子の
前には祭把を行なう際、拝礼か可能な空間
たく卓子が一つあればいい。申天際、宗廟の
があれば充分なのだ。また扉の前には香を
各神室の構造を見れば、このような用途に
49
太い木柱を基本にした東洋の伝統的な木造建築の様式を取っている宗廟の側面。全部で 19聞からなり、同じ神室が19.室ある
見合った非常に簡素な構造をしてレること が分かる。 十九聞の長い正股の建物は、両側の端か
ている。月台の広身と操り広げられる石畳
築的厳粛さと形態的壮厳さの秘笥か隠され
の上も、正股前の厳粛で静寂な雰囲気をさ
けではないが、正肢の建築形態をがっしり
この左右の付属遺稿は特別な用途があるわ
の建物は壁で固まれた閉鎖的構造である。
だ柱と屋根だけの開放的構造であり、西側
建碕かついている。東側の付属語紡は、た
なければならない。祖先の神霊が杷られて
われる日も、王は東側の小さな門をくぐら
ただ神霊のみが出入りできる。祭租が行な
王といえども、この門の通行は許されない。
るが、この門は人が出入りする門ではない。
らされている。南側の中央に三聞の門かあ
月台の外側には整然とした方形の塀か巡
らに添える。
とした緊張感のある構えにするのに重要一な
いるところでは国王も、身を低めなければ
ら直角に方向を変えたそれぞれ五聞の付属
役割を果たしている。もし両側の付属建物
ならないのである。反対側の西の方にある
門は、祭杷を準備する者たちが出入りする
に長いだけの粗末な外観を呈したであろ う。前方に直角に折れ曲がった左右の付属
正殿空間の壮厳さは、とりもなおさず裡霊
門である。宗廟の建紡の主人は神霊なのだ。
がなかったとすれば、宗廟の建紡はただ横
ている。これまた長い葎紡の外観に安定感
宗廟で多記を行うときは真心込めて供え
のための建築的知恵の産物である。
建筋肉、番震においても同じように建っ を与えている。 き、その後方に木造平屋の長い建物から
ながら壮重な音楽と舞を添える。音楽と共
物の食物を準備し美しい文句の詩を朗唱し
宗廟の正殴は広い四角形の低い壇を置 なっている。壇は月台と呼ばれているが、
多記に当たって支度される食物は牛肉、
に詩と舞踊の総合的芸術が繰り広げられる
一方の長さがλ むメートルをはるかに越
豚肉、羊の肉を基本とし、ここに各種の果
える大ききである。祭明か行なわれる際こ
を奏でる者や舞いを舞う舞姫がことごとく
物と穀物か添えられ、酒が供えられる。祭
のである。祭記とはこんなに楽しいものな
この月台の上で各々の役割を演じるからで
記に供えられる器の数は六十三種に上る。
のである。
ある。月台の上には、ごつごつした方形の
食物を盛った器は脚が三つの特製で、遠ア¥
の月台を埋めるほど名薮の人が上がってく
石で覆われている。わざと石細工の手を抜
古代中国から形が変わらず伝わったもので
る。担一小田仙を執り行なう者はもとより、音楽
いない。粗い表面と不規則な配列か、かえっ
き、それもきちんと並べて敷くこともして
一の作りだ。その構造は極めて単純である。
祭る一聞の神室である。各神室はすべて同
される。宗廟を構成する基本単位は位牌を
粛な空間の結構と壮厳な建物の形態に圧倒
を歌った﹁定大業﹂がそれである。これは、
歌った﹁保太平﹂に続いて、その軍事的活躍
い国造りの難闘を乗り超えた人文的業績を
の業績を称える歌が同時に歌われる。新し
れるが、これには朝鮮王朝を建国した太祖
祭珂か始まるときは、まず音楽が奏でら
ある。
この単純な、そして形が同じ神窒か一九回
もともと中国の祭杷にはなかったものだ。
宗廟の正股の前に立つと、誰もがその厳
てこの月台の上に生彩を添えている。
操り返えされるのである。ここに宗廟の建
50
E
;
凶
EEE U ︿
祭礼中の祭官たち( 上) と宗廟祭礼楽に合わせて文舞を舞っている光景( 下)
宗廟祭記楽と称される祭記の際、演奏さ
し、音ははるか天に昇る。壮重で真心を尽
音楽の清雅な調べは月台の広い庭を満た
でる。音楽に合わせ舞が舞われるが、保太
楽器の一種)などが壮重で悠長な旋律を奏
強い拍子をもとにしながら笛、牙筆(捺絃
ように澄んだ音を出す打楽器と、大鼓の力
独特な節をなす。編鐘(雅楽器の一種)の
ころがない。この行事がある時は平素各自
や真心においては朝鮮王朝と何ら異なると
族の祭柁になってしまったが、行事の規模
祭礼行事を引き継いでいる。今では家門一
朝鮮王朝の血統を継いだ全州李氏の後奇か
曜日に行なわれる。勿論王のいない今では、
宗廟祭杷は、今では毎年五月の最初の日
くした祭組は一日中行なわれた。
れる音楽は壮重なリズムと優雅な調べとで 立つ。中国楽器と共いに鮮で開発した c
テグム
型
平の歌に合わせ舞う文舞と定大業に合わせ
の生業に従事していた全州李氏の長老たち
大慾のような固有の楽器も 一諸に編成され
て舞う武舞である。文舞を舞う時は、手に
が数旦削から心を引きしめ祭
記に備え、需を行なう当日、
一一一一一士一
を奏でるようになり、国楽学
伝統音楽家たちが宗襲撃
校のうら若い女子生徒たちが
過去の文舞と武舞を再現する。
長 一プ竺
像装で壮重な舞を舞う。
と槍を手に祭把楽に合わせて
万を越える巨大都市であり、コンクリートの
に昔の姿のままで立っている。人旦けハむ
宗廟はぶ,もソウルの中心部
¥子註
了一世二そ一 昔と全く同じ服装を着て手に 一 一一 J 2 F♂ 笛と雑子の羽毛と、そして剣
一 一 一 一 一 芳 一一
三 JF r y 一
量 三
一 一 てさ
冨手 二 士 一 各々受け持った役割によって た片二一¥ 昔の方式に従い、祖先への祭 ・ 柁か進めば国立国楽院所属の
事 喜 一
笛と雑子の羽毛を取り、武舞を舞う時は剣
すべて朝鮮王朝を創建した業績を舞で再
と槍を手にして舞う。
れ、その合間も、国に異変が紀こるときは
宗廟祭杷は一年に五固定期的に行なわ
祭珂か今もって継承されていることも、ま
らいだ。のみならず六の δ 年一昔と変わらない
に並んでいるということが信じられないく
00年の歴史を継いで来た古い建物か一諸
高層ビルが林立している都市の中心部に六
別途に神霊にそのこと・秒報告するために行
現するものである。
なわれた。祭把が始まると王が直接各神室
性を宗廟とその祭杷音識から見いだすこと ができる。.
た文化的驚異と言える。二十一世紀に向か
の前に出て、四回大タミ拝礼し盃を差し上 げる。 論三十五位のすべての位牌に粗相
の伝統と慣習か尊重されている韓国の両面
う目覚ましい変化と発展と共に、長い生活
F
のないように同じ儀式が反復される。広い 月台は王に待る多くの役人と音楽を奏でる 者たち、舞を舞う女人でいっぱいになる。
51
K ORE AN ARTI STS A B R OA D
rEE1 人かの現代の芸術家が、あらゆ した。母親は、韓国女性に与えられる社会
時、独立運動をしたかどで刑務所暮らしを
業デザイン科を卒業したばかりだった彼
思った。プラット・インストチュ lトの産
えた。彼は韓国に行って両親を助けようと
ことのほとんどにその答を見い出したと考
AIlうな存在としてこの世に知られ 的・政治的役割の慣習的なタブーを破った
は、大田の近郊で両現か建てていた農村μ子
彼の父親は、韓国が日本の植民地であった
ているとしたら、ジョン・ベのような芸術
先駆的な女性であった。彼の両親は、政治
しかし彼は、私は何を目的に暮らしていけ
校の別館建設を手伝うことになっていた。
n H ﹃る解答をもって ドる人間神のよ といえる。韓国とアメリカを往き来しなが
家は、解答を求めて聖地を巡托する巡托者
いたが、帰国のメドがたつやいなや祖国に
的亡命の途につき一時アメリカで暮らして
味を追い求めた。彼は他の巡礼者とは違い、
深く考え、彼の芸術のためにこの経験の意
戻り戦争によって廃虚と化した故国を再建
ばいいのか、と自らに尋ねた。私がするこ
が小銭をやろケとすると、父親が先にそれ
とを教えてくれた。物乞いをする乞食に彼
や(NO)、と父現か誰より先に彼にそのこ
とが韓国を金持ちにできるのだろうか。い
ン・ベは、家族とともに仲良く過ごした思
両親が故国に帰るや一四歳の少年ジョ
深く存在しながら、この世の全ての人類と
い出を胸に秘めて独りウエストパ Iジニア
の職業に疑問を抱くよりは、そのまま表現
情で彼は探し求める。多くの芸術家が自分
時には悟りの道をきわめる僧侶のような熱
よう。勉事珍始めたばかりの学生のように、
の道徳的で哲学的な基盤を探し求めてさま
に近い年にもかかわらず、彼は未だに芸術
ら探したりしました﹂その後、教年間その
どの星がいちばん明るいかなあと考えなが
ます。話に耳を傾けながら夜空の星を数え、
ていた場面が今でも目の前に浮かびあがり
になり、祖母のしてくれる昔話に聞きいっ
は祖母であった。﹁祖母の膝を枕にして横
た。彼の記憶に最も明瞭に浮かんで来るの
に残り、孤独をかみしめながら大きくなっ
ることができた。
いう父親の后思必を彼はあとになって推し量
誇りをもつようにならなければならないと
に満ちて、自分自身と自らの文化に対する
あり、そうすることによって韓国人が希望
何より先に経済的独立をすることが急務で
故そうしたのか説明しなかったが、韓国は
を取り上げたということである。父親は何
コ目白亡コ@的u t o a
して生産してしまうこの時代に、彼はあた
夜の記憶を思い浮かべ、彼の人生がその時
た。一人の兵士が彼のそばにやって来で﹁あ
たちが田植えをしている田んぼに出かけ
の教訓を得た。暇ができたので、彼良
Z -
貧しい学生を助けようとして彼はまた別
かも革命的な芸術家のようにその何かをた
一九六四年二六歳の彼は、知りたかった
などと彼は考えた。
ゆみなく探究し、探し求めているのである。
ことであったかもしれない。牧師であった
な革命的なことが彼自身にとっては当然の
見た多くの星とどのような関わりがあるか
e『ー •圃圃圃 -'
革命家の家に生まれたために、このよう
- 彫刻家、ジョン・ペ
手を取り合ったある宇宙に到達した。還暦
自己陶酔におぼれることなく内面の底に奥
することに身を捧げた。
﹄
ら彼は、異質的なこの二つの文化について
h
.・ .・ ・ r_・ __....... ・ 司司
アメリカ居住
人類学者
予淳永
ン• ぺ ジ
ヨ
儲翻圏輔圃園鶴鶴鍛継器
52
なたは一体ここで何をやってるんですか﹂
と尋ねた。学生たちの田植えを手伝ってい
ると答えると、兵士は学生たちの方があな
たよりうまいから心配せずにあなたはあな
たの仕事をしなさいと言った。夢を抱いて
故国に帰って来たのだが、韓国には彼がで
きることがないようだつた。祖国に対する
愛は地理的な国境を超越するものであっ
その故国訪問中に韓国の文化と芸術の保
た 。
全に努力して来たある人が、彼を博物館に
韓国の文化を韮展させた数えきれないほど
いけない、その何かが章害聞の中にあった。
物質的な富や量局級の自動車が到底ついて
た。長い間耐えぬいて来た貴重なその何か、
あるかが、はじめて分かったような気がし
ぬくもりを感じた。韓国の固有文化が何で
彼は鋼で作られた物の中に韓国の昔の
はがねいにしえ
せてくれた。陶磁器、彫刻、スプーンなど
案内し、また個人的に収集した骨董高も見
1OOx100x1 OOcm
の存在を彼は感じた。彼は偉大な建築家よ
今致の芸術家、音楽家、作家、哲堂骨たち
53
『世態 B. 1974. 鋼鉄。
E
j ニューヨークにある作業室の彫刻家ジョン・ぺ
ら来ており、子どもが二人で 、いま強位初を
グラムを開発して、国際的な交流と創意的
彼は両親と故国を離れて、教授としてア メリカに戻った。ニューヨークにあるプロ
かったんでしょう。韓国にいる問、私は頭
ということも言ったんです。どうやってわ
当てたんです。私の妻がどんな女であるか
り、文化の芸術家になりたかった。
な教育の育成機関としての学校を育てるこ
がおかしくなる思いでした。﹂
建て終わったばかりだと、その女はみんな
とに貢献した。学生たちは彼が作ったプロ
亡くなった祖母に手を引かれ韓国の過去
の中に連れ込まれたような経験であった。
グラムにひかれて集まって来た。自分自身 と自らの固有の文化の中にしっかりとした
韓国から戻って彼は﹃沈歎の守在﹄(のo 5 5
行なうように立方体を最大限の直面献で積み
0目 的 巳
g o巾)という作品を作った。﹁祭杷を
土台を築き、自分だけがもっている当面の 問題か何であるかと自らを凝視するよう学 生たちに勧めた。
あげまし内た。﹂彼の彫刻は中から外に、彼
は、また別の文化の真実を確認した。人聞
アメリカの芸術家たちは東洋の文化の中
テl マではなかった。駆けだしの芸術家で
は、誰でも予測を許さない象徴的で完全な
まっていた。亙女に会った経験によって彼 も、全てを脱ぎさり正直な自己省察を蟻烈
自分だけの宇宙をもっている。彼は人問か
自身だけの直感と彼自身だけの{主聞から始
に行なうとすれば、結局は万人に通じる真
各々もっている字宙の相違性を賛嘆し草重
から、沈黙とか虚無とか運のようなテlマ
理と価値あるその何かを探せるであろうと
する。芸術は、彼にとって彼だけの宇宙を
を引きだしたが、それだけが現代美術の
いうことであった。
一九八O年に、亡くなった画家の金換基
表してみせる権利を与えた 。 ように教育に没頭したが、 一五年くらいし
の夫人が金換基とジョ ン ・ベの官聞をパリ
数年間、あたかも自分の彫刻に取り組む て再び韓国を訪問したことが彼を変えた。
の百﹀のに出品した。ジョン・.への多文化
が安らかだった。彼の芸術は論理的な笠子
一九七九年の韓国は産業化が進んで活気に
の枠の中から生まれ流動的に進化してい
である。彼は故郷に留まっているように心 博物館に全であった。しかし 、現代化の波
き、あらゆる文化とあらゆる種族をつない
的宇宙が初めて国際的な観客に出会ったの
の下には韓国の祖先と魂の影法師がついて
だ。ア メリカとヨ ー ロッパの芸術家をはじ
あふれ、変身していた。西洋美術、西洋音
まわった。 親しい友だちでもあり演劇人のユ 1 ・ド
楽、西洋文学が大学とコンサートホ lルと
クヒョンと散歩に出て、彼は韓国の祖先と
のような哲学者を知りながら、彼は様々の
めロスザ
1 たちは歩いていると、その女が私を呼 私 びとめたんです。ヘルマン・へ vセの シ v
た亙女が突然現れて彼の手を引っぱった
た。そして学べば学ぶほど彼は人間神的な
の書物を耽読し人類の文明を全体的に捉え
始美術と比較文学についても、彼は数多く
芸術的表現と概念を学んだ。アフリカと原
yク、ピ vシニ ア lク、ウォルチ
韓国の魂の影に接する経験をした。年老い
ダルタに出て来る、顔が地になったり川に
芸術家に対し、いっそう腰昧模糊とした感
0
なったりする船頭の顔のようでしたよ。瞳
情を抱くようになった。
彫刻家であるチリアン・ ジ ェガ!とのイ
は見られなかったですけど、無限の深さが その自の中にあるようでした。私が外国か
54
いんですね﹂数年間にわたって彼はロス
るが、その言葉の与えるイメージがよくな
を受けた人ごという意味のことを言って
ル パ lトは﹃芸術家は創造しろという呪い
ンタビューで彼は語った。﹁カルピン・ア
これは偶然の結果ですよ。作業をしている
する。﹁若干の意志が入っていましたが、
い。彼は彫刻という彼の作品でこれを説明
わせたり究極的な答えを下すものではな
はできません。演奏者にならなければ。時
きていることを知るんです。芸術家になろ
彼は芸術を行なう。﹁芸術を通して私が生
話を彼はする。音楽の公演を行なうように
す原動と信じるオーストラリアの原住民の
水盤の上に飾った水石のように高貴で品よ
誘いをかける。彼の彫刻は、韓国の人々が
やさしい音色で、彼の音楽は早くおいでと
ついて語る。クモが美しい巣を張るような
しさが魂となって蘇ろうと努力することに
彼の音楽は、鋼鉄の中に閉じこめられた美
があるということを悟らせてくれる。彼の
えるこんな水石は、それらの上に大きな山
びこむんですよ。作品を作る渦程が作られ
くみえる。我々が家に置いておきたいと考
うと自らを普通の暮らしから切り離すこと
近年になって被は、以前よりいっそうさ
誘い込まれていく。.
し算│ついに彼の奥深いところに我々は
作品を考えてみよう。ー自然に完壁な足
彼の彫刻のある部屋に入ると一瞬、沈黙
た結果より重要なんです L ‘
たま自分をテストしたりもしますし、過ち
み悩みはしますが、作品がどの時点で終わ
らなる信念とエネルギーをもって作品に挑
を犯したり、疑問を抱いたりして中聞に飛
聞は自分の限界と行動の結果をもって苦し
ん
りを迎えるかは量り知ることもできませ
ザックか主義苔受け、引き続き尊敬して スザックの芸術を考えなおすようになっ
いるが、いつからかは分からないが彼はロ た。﹁ロスザックはもう疑問を抱かないん んでいる。彼は﹁作ろう﹂とはしない。﹁歌
L
かったんです﹂彼にとって人聞の行なう創
だなと知ったとき、私は彼を離れるしかな
してはじめて彼の音楽が耳に入って来る。
55
という芸術行為か、この世を動か のつな L
~.
1983. 鋼鉄。 122x109x45cm ( 上) 1968。鋼鉄。 147x96x96cm ( 左)
『三王国 J.
造とは個人的な探求であり、人類の荷を負
1984. 鋼鉄。 50x50x50cm ~.
↑
U m E︿ ︿a
出ハ
キムジユ
金周祭事家
O NTHE R OA D
宝のような民俗を蔵する美しき島 56
τ
が授けたる美し会島、長さ五、 A晶 、 骨円 六里ほどあり、その聞に箪ゆる 一 - ノ 山高く水深し。大地は肥え、牧
場の馬は錦の如く野をおおい、みかんの木
が林をなす宝物の蔵、財物の府をなす南の
かつて朝鮮王朝の全羅道観察使(今の道
国の最たるところなり。
ていった文である。彼の述べているように、
知事に該当)を勤めた李叔賦が珍鳥を称え
珍島は韓半島の西南の一隅に位置する島で
あり、宝島のような島である。温和で美し
い海上に絵のように広がっていて、大小の
いる、たったそれだけの理由で長い間流刑
島々を従える珍島はソウルから遠く離れて
の地に利用されたが、宝のような島であっ
たために、しばしば変乱にさいなまれたし、
歴史の区切り目ごとに怨恨を残すところと
なってしまった。
珍島が流刑の地に利用され始めたのは高
の王、仁宗治世中に反乱を謀った杢資謙の
麗王朝の中期からであった。高麗第一七代
息子、コンウィがこの地に流され、初の珍
島流刑者として記録されている。朝鮮時代
に入っては、珍島には数多くの者が流され
てきたが、謀反を企てるか、権力争いに敗
かった。
れた王族や両班階級の者が全部と言ってよ
このように珍島に流されたあとで、流罪
を解かれて官職に返り咲いた者もいるが、
朝建かよこした毒薬を飲まされて死んだ者
全羅道監察使(高麗・朝鮮時代の従六品の
も少なくない。朝鮮王朝、英祖王治世下の
官職)が﹁珍島には流刑者があふれ、この者
どものため食糧が足りず、島の者まで飢え
死にしかねない状態故、流刑者を他の地域
に移されたし L と朝廷に申し出た記録があ
ることから推して、珍島に流された者は教
百名、またはそれ以上だったようだ。
57
珍島に流された者は大部分、風流の何た
るかを分かる両班か王家に近しい者から
なっていたので、彼らはありし日の栄華の
想いを振り払うため、切ない心境を詩文や
絵に託した。またこの島の人々も流罪に
なった者を慰めるために島の民謡や踊りを
今日、珍島に気品のある詩・書画ととも
披露してやったに違いない。
に島特有の踊りと民謡が伝承されているの
も、言ってみれば、流刑者のわびしく孤独
な生活から来る失意のなかで覚える哀歓を
高い境地の文学と芸術によって昇化させよ
うしたことによるものだろう。こうした歴
史の背景のせいかは分からないが、珍島の
文化は韓半島の西南側に片寄って位置する
島にしては不相応に水準が高い。今もって、
いるのも決して偶然ではあるまい。
名だたる東洋画家や西洋画家が数多く出て
絵と歌が好きで風情あふれる珍島の人々
の性格を形作った背景には、余裕のある暮
らしから来る雌伺神的な豊かさと、荒波に引
き裂かれて本土から孤立していたという事
国の南海と西海の海路の要衝であり中国と
情もあったであろう。珍島は地理的に、韓
ら、高麗時代の対曲家古抗争をはじめ朝鮮時
韓半島と日本を結ぶ要衝であったことか
黄海進路を封じた水軍の武将)の鳴梁大捷
代の李舜臣(文録慶長の役の際、日本兵の
かった。
など大小様々の兵乱をなめなければなら
後三国(新羅・後百済・泰封)を統一した
高麗王朝太祖の王建は、九O九年珍島一帯
を功略、西南海岸の海路を制圧したあと珍
島を手に入れた。高麗元宗(第二四代王)十
)には、三別抄(特殊箪)の軍 一年(一二七O
兵が曲家百軍に降った高麗の朝廷に反旗をひ
るがえして、珍島に陣を構え対蒙抗争を繰
り広げた。三別抄が麗・蒙連合軍に敗北し
58
平田
さ
g aE
つなく珍島大橋とその周辺( 右) . 写真上から時計図りに、 珍島特産の珍鳥紅酒、
珍島の天然記念物の珍島犬、
J 7vb J ¥F t, :よ111
F, .ぷ£F; ,
[吋 、。 と へ
"
~'
h
_ - - ,,_ . 、 /酎 ;
-_
.
ー 不老草として有名な珍島の拘紀子
にJ Z¥毛 耳 京三多ゐ. ...
~
て済州島に後退して立て寵った後、住人 一
万余命が捕虜に連れて行かれ、十三年後に
やっと釈放されるなど、珍島の住人たちは
た後も大きな破乱を乗り越えている。宣祖
散荷な自に遭っていた。朝鮮王朝に変わっ
三二年(一五九七)丁酉倭乱(慶長の役)の折
りは鳴梁海戦をはじめとする激戦が繰り広
げられた所で、珍島はひどい戦禍にさらさ
珍島は、全羅璽坦の端に位置する海南と、
れた。
鳴梁海峡を荒々しく流れるウルトルモク水
路を聞に挟んで向かい合っている。この海
峡の上に一九八四年になって珍島大橋がで
で行き来できるようになった。いまでは、
き上がり、海南から珍島の方に船ならぬ車
かもしれない 。珍島大橋の下を流れている
本土とつながっているから島とは言えない
の際、李舜臣 海峡は、丁酉再乱(慶長の役)
隻を撃破し、世界海戦史上類のない戦果を
が僅か十二隻の兵船で日本の兵船三三O余
ルモクとも呼ばれているこの海峡は、僅か
挙げた有名な鳴空会の地である。クルヤ
三 06メートルと狭いが、潮が満ち引くた
るので、ひとたび潮流に巻き込まれれば大
びに海水がどっとこの海域に押し寄せてく
型船も流れに逆らって進めないほど海埼か
荒れる。
珍島大橋が架けてある鹿津一帯は、今で
は国民観光地に指定され、マングム山、ヵ
ンカンスウォレ(民俗歌舞の一つ)祉、ベク
トチ、ノチョク峰など秀吉軍との戦跡やそ
の戦さにまつわる話が言い伝えられてい る 。
堂開は、済州島、 巨済島に次いで韓国で
は三番目に大きい島である。海南から伸び
てきた小白山脈支脈のオクメ山脈が海に消
ち直しているため丘陵が多い 。 古属鹿時代に
え落ちた後、この地に及んで再び山勢を持
59
全羅南道の海南と珍島を
珍島は、 j 斉 州 島 、 巨 済 島 に
次いで韓国では三番目に大きい島である。
海南から伸びてきた 小白山脈支脈のオクメ山脈が
海に消え落ちた後、この地に及んで
再び‘ 山勢を持ち直しているため丘陵が多い
て乱を起こした三別抄が、喜重合軍に敗
した朝廷に従わず、最後まで戦うよう求め
囲んでいる城廓が竜蔵山城だ。蒙古に降伏
こともあり、寸一年の農作で二年半は持っし
肥沃な土地ということで﹁沃伊と呼ばれた と言われたことからもうかがわれるように
高麗の高宗十八年から四0年間、曲家古は
の根拠地となった由緒深いところである。
何と七回に百一って直麗に攻め入り、わが国
れて済州島に敗退するまでの九ヵ月間基家
を何けることはなかった。このため、島な
全域をほとんど焦土化してしまう。十回自麗は
珍島は、土地がとても肥えている。農業に
のにもかかわらず海産物に乏しく、﹁海辺
)二月、曲家古軍にとう 元宗十 一年(一一一七O
適し、作物がたくさん取れたため、海に目
の山中﹂とも言われたそうだ。俗に、不老
とう城下の盟いをしたが、特殊軍の三別抄
仲孫を将に立て、王族の承化侯温を王に推
はこれを不服として抗戦した。=一別抄は菱
ちか
の実)は珍島の特産品として有名だが、お
長寿の薬材と伝えられている拘杷子(拘杷 茶を点てて飲んだり焼酎に漬けて飲んだり わ かめ
する。そのほか自然産の石若布とこの地特
対蒙抗争の根域
官同麗時代、三別抄による
となった竜蔵山城の跡
有の伝統酒で、鮮紅色の色合を出工会早と
い朝廷を聞いた。そして江華島が高麗の都、
して、敵に降った吉田麗政権に対抗して新し
︿だ
いう薬草を入れて作る珍島の紅酒も特産品
にはあちらこちらに遺跡地が散在してい
島に上陸、天恵の要塞である竜歳城に障を
そして軍需物資を積んで南下し、南端の珍
は一、のハむ余隻の艦船に兵員とその家族、
開京(今の開城)に近すぎることから一一一別抄
る。そのうち、特に三別抄が蒙古軍に対抗
構えた。そして、ここに宮殴と守最を築い
世にはあまり知られてはいないが、珍島
だ 。
するため立て龍った竜蔵山城と南桃石城を
撃を試みたものの失敗する。そこで兵力を
た。一塁家連合軍は、数回にわたって珍島攻 珍島を東北から南西に横切る一八番国道
九ヵ月経った元宗十二年(一二七ご兵船四
増強して、三別抄が竜蔵城に入城してから
まず指折ることができる。 に沿って珍島邑(町)の方にやや下ってから
OO隻と兵 一万余名を率いて大攻撃に出
東側に抜けて行けば郡内面竜蔵里という村 が現れる。この地の竜蔵山をぐるっと取り
60
いる。
棟の建物の跡と一ヲ所の井戸の跡が残って 三別抄の将であった蓑仲孫が麗蒙連合軍
た。三別抄は十余日に亘って防禦戦を繰り
と決戦を交えるうちに戦死したと伝えられ
広げたものの、衆募敵せず敗北する。そこ で三別抄は残りの兵力を集めて済州島に逃
ともに東門、西門、南門がほぼ原形のまま
げのびる。しかし、その二年後には霊童
残っており、域内にはいま民家がぎっしり
ル、周囲が約六キロの城廓で、丸い城壁と
山の周りに巡らされた竜蔵山域は、城廓 詰まっている。高麗元宗のとき三別抄が海
ている南東村の南桃石城は、高さ四メート
の長さが十三キロメートルに及ぶ。その城 岸を防禦するため、この城を築いたとの説
合軍に済州島にまで攻め入られ、平定され
壁は大部分が石築からなり、域内の面積が もあるが、より確かな資料によれば古代三
てしまった。
二五O余万坪もある大がかりな山城であっ
子四 Cコ@由芝oa
61
国(高句麗・新羅・百済)時代に早くもこの
と城の南阿前面にある紅橋( 下)
た。しかし今では大部分、崩壊して原形す
麗蒙連合軍と決戦のあげく散った南桃石城( 上)
ら見分け難い。域内には石材からなる十余
三別抄の大将、嚢仲孫が
珍島の金剛山といわれている金骨山は郡
許維の画室、雲林山房も見落とせない。 内面金骨村の東北側に位置している。山は 低いが奇岩怪石が美しい。このため金骨山 は正面から見ると、あたかも芸術品を彫刻 して置いたかのようだ。山の前面と背面の 絶景がコントラストをなす山の麓には、 五 重の石塔が珍島の長い年輪を語るかのよう に歎然として立っている。百済の塔様式を じだ。高さ五 ・四メートルで四枚の板石で
継いだ高麗時代の作で、塔全体が細長い感 組まれた基壇の上に建てられているが、基 地に城を築いており、その後、何度も改築
ているが、ここはもと吉田躍末期に建立した
る。いまこの塔は金城小学校の校庭に立っ
壇の各面には支え柱と隅柱とが刻まれてい
の南門の前を流れる小川の上には紅橋と双
されたと見るのが正しいだろう。南桃石域
金骨山には三つの石窟があるが、山の中
と推定される海院寺の跡と言われる。 腹の方へ絶壁沿いの岩の上を 四 0 メートル
橋の二つの情か架かっている。二つの橋は、 どちらも片麻岩の板石を立て重ねた規模の 小さな、かわいらしいものだが、このうち
た金骨山の五重の石塔と、朝鮮末の南宗画
このほか珍島では、高麗末期に建立され
は全国を通して類いのない特異なものであ る 。
岩壁か続いていて、どうしてこんな岩壁に
刻のある壁の下の方に目まいを起こさせる
繊細で精巧な味わいには欠けているが、彫
でいるが、この石仏が磨崖如来座像である。
ほど行くと比較的大きな石窟が現れる。一
自然の石材を利用して整担した紅橋の様式
四七O年ごろ、この石窟の北側の壁に左右 三・五メートルほどの弥勤石仏を刻み込ん
の大家で詩・室百 ・画にすぐれていた小痴、
日Cコ@凶 さ oa コ・
珍島シキムク ツ (中間)、
雲林山房 ( 最上)、
上)、 金骨山中腹にある弥物石仏 ( 金骨山の五重の塔 ( 左) 左の左) と回洞村の﹁モlゼの奇跡﹂(
62
である。この庵は、珍島巴(町)からまっす
着させた小痴、許維が晩年に暮らした庵
いた画家)であり、南宗文人画の技法を定
房は、朝鮮末の御真画家(国王の肖像を描
正統的な南宗画の聖地と いわれる雲林山
て死者と接触させるのが特色である。今で
の一つである。このクッは死者の後詰閣をし
と歌と音楽が一つに調和した代表的な民俗
を晴らしてやり、極楽往生を祈願する踊り
クッは、この世で晴らせなった死者の怨恨
を司る一種の宗教にも似た珍島のシキム
せる。長い年月かけて珍島の人々の生と死
ぐ南方に下ると、尖察山の西側、双渓寺の クッをしてやるのが一番の親孝行だと思っ
も珍島の人々は、親に死なれるとシキム
彫刻できたのか、不思議な感じがする。
その背面にわらぶき屋と、そして新築の記
一 貫 近い所にあり、コの字型瓦屋の雲林山一
立派に育っている。四代にかけて彼の後喬
た樹齢三のむ年の百日紅の木がまっすぐに
造った丸い島があり、その中に小痴が植え
秀麗な池の真ん中には自然石を積み上げて
押しかけて来る。海水干満の差によって海
国内外の観光客が足の踏み場もないほどに
ている、このヨンドンサルのころになると、
になる現象、一名﹁モ lゼの奇蹟﹂といわれ
新面茅島村の聞の海水が割れて海底が露わ
毎年、陰歴三月初めに古郡面回洞村と義
ている。
が南宗画の伝統を受け継いだこの山房は、
念館からなっている。雲林山房の前にある
彼の孫の南農と許健の両画伯が昔の姿をそ
底の砂丘が四0 メートル幅に水の上にさら
は風流を重んじる地域にふさわしく、珍島
かな民謡からも感じられるように、珍島
市場で出会った六十代の老婆の味わい豊
た海底を我先きにと歩き出して、またたく
回洞村で待ちかねて いた人々が露わになっ
を﹁ヨンドンサル L という。海が割れるころ
けだされて神秘の海路をなすのだが 、こ れ
さるすべり
のままに復元したものである。
の人で絵や書道に巧みでないものはなく声
聞に海路は色とりどりの人 々で巨大な流れ ができあがる 。海底が姿を表すのを待ちき
後まで﹁脱出﹂できなかったカニ類を捕ろう
の澄んでいない者はないといわれている。
らだ‘けの独特な踊りと歌が存在する。彼ら
と先を競っている人々の姿もみえる 。また
者同人の生と死、日常のすべてのものには
の民俗文化には、ーカンガンスウォレ﹂のほ
神秘の海略か開けると同時に、一方では竜
でい‘く気の早い人もいれば、潮水が引いた
かにも珍島の野歌や珍島アリラン、珍島の
王祭とポン老婆の祭柁をはじめ普段は見掛
れず、ひざの上まで漬かりながら飛び込ん
シキムクッ(亙女踊り)など、いろいろある。
﹁恨み﹂を昇化させた豊満な文化であり、彼
今日、珍島ではカンガンスウォレ ・直定野
けることのできない固有の民俗が楽しめる ﹁ ヨ ンドン 祝焦﹂が幕を開け、すっかりお祭
彼らが保ってきた﹁趣﹂え奥﹂、寸悲しみ﹂と
歌・シキムクッ・珍島タシレギの四種目が
人々の輿をそそる珍島の地は、いつ訪ね
りムi ドを盛り上がる。 ても古里のように居心地がよく胸をときめ
国家重要無形文化財に、また珍島挽歌と大 れており、それを保持する人間文化財も十
知らず同化し、どっぷり酔ってしまう韓国
鼓遊戯が全羅南道文化財にそれぞれ指定さ
珍島の人々は、この世に別れを告げる最
のマツコリ(濁り酒)のような奥ゆきのある
かせる。いつの間にか彼らの踊りや歌に我
後の行事でも大鼓や長鼓の音が入り乱れ
香りがしてくるのである。.
余名に上っている。
る風物。フンムル(農楽用の楽器)を鳴り響か
63
~
霊安き
今や、世界文化をリードしていく潜在的
李周憲
である。
美術註嗣家
ムジュン・パク)と一共にホイットニI美術 ニューヨークに来たのは、それから二十四
一九六O年に清州に生まれた菱盆中が
らゆる雑多な話と、ありとあらゆる雑多な
を描いたものであるとも言える。ありとあ
彼の小さな絵は、基本的にはアメリカで
館のチャンピオン分館で二人展を聞き、サ
年後の一九八四年のことである。彼は一時
リーダーの候補者名簿に載っているのだ。
一 . 一 '突きつけてくれる作家だ﹂
ンフランシスコ国廃語新筆事業では環境
オ・ア lトのゴッドファ lザl、白南準(ナ
サンフランシスコ・クロニクルの美術評
美布設置作家に選ばれるなど、現地でそれ
現岱実荷がどうすれば過ちの可能性を少な
なりの地歩を固めてきたこの若き作家は、
期、一日十二時間労働をしながら苦しい留
小さな物たちが描かれ、はりつけられてい
と呼ばれる一連のシリー ベインティング L
る。一部の作品には、中にスピーカーまで
ズである。そうかと思えば、木彫レリーフ
取り付けられていて音を出す。﹁サウンド・ かった彼が、とても小さなキャンパスを
から、暇をみて絵を描かなければならな 作って、それをポケットに入れ、行き帰り
は昔、糖尿病にかかって失明した父親のた
学生生面を送らなければならなかった。だ
日i四月三O 日、アート・スペース・ソウ
の地下鉄の中で作品を描いていたからと
て、人々の大きな関心を集めた(三月一一一一 ル、尚早牛肉斎、朝鮮日報美術館)。﹁芸術は過
最近になって故国での初めての個展を聞い
生の中から湧き出た何ものかへと一したと
観念から脱け出し、芸術を大変心地よい、
ち﹂という、その無限の抱擁の海原の中で
めに彼がわざわざ凸凹をつけて製作した作
てきたのに反し、菱金中はまさにその強迫
いう評価にほかならない。すなわち、美盆
品である。﹃ニューヨーク・タイムズ﹄など
の新聞でみた様々な単語とアメリカ人たち
いって、それが殊に変わったやり方だと見
の日常が、文字とイメージによって刻みつ
ることはない。なぜなら、彼にとっての絵 は生存それ自体を意味するものであったの
っとも溶かし込み、エネルギーを極大化さ せた彼の作品が、韓国の多くの入場者たち
けられているのである。
アメリカの現代文化と韓国の現代文化を二
専門化、副業化という現代化の流れから逸
レード・マークとなった観のある J二イン
だから。そうした過程の中から今や彼のト
には過ちを拡大することによって、芸術の 脱させ、再び、その昔の前産業社会には当
メリカと韓国を頻繁に往き来しながら、今
の足を引きとめたのである。このようにア
る。彼の芸術は、むしろ全ての時代を貫く
ことのある人なら誰も知っていることであ
去への回帰でないことは、彼の作品を見た
家なのである。もちろん、それが単純な過
人聞の本性から生じた産物へと還元した作
明るいものであると占う人々がいる。彼は
ティスト﹂であると述ベ、彼の未来を大変
紀﹂であるとか、﹁美盆中はメジャー・アー
を避けながらもコ一十一世紀は萎盆中の世
ニューヨークの評論家たちの中には、断言
になりつつある。彼が主に活動してきた
や彼はいわゆる﹁ワールド・アーティスト
三インチの絵画シリーズが生み出されたの
た作品など、様々なものを素材とした三×
キューブによる作品、チョコレートを使っ
描くことに始まって、木のレリーフ、透明
あるが、キャンバスを手ずから作って絵を
チ×三インチ﹂の絵が誕生したのである。 つまり、ちょうど手の平サイズの絵なので
る品々と、ちびた鉛筆、おはじき、ガラス
ムの履物、仮面、巾着などの韓国を象徴す
げられたキューブの中には、韓国固有のゴ
日数を意味している。フォ 1 7イカでつな
家が留学の途につく以前に故国で過ごした
四九O個にも及ぶものであるが、これは作
透明キューブ・シリーズは、全部で八、
いった類いのものである。
人聞の普遍性、芸術の普遍性に訴ゑると
L
たりまえにあったような普遍的で自然と、
中は﹁過ちを許す﹂ことを通して、むしろ時
くすることができるかということに腐心し
る。一口でいえば、﹁ニューヨークの風旦黒﹂
暮らす移民の目に映ったものを表現してい
の作家しであると言う。それは、今までの
論家ケネス・ベーカーは、萎盆中を﹁過ち
-EA ・A 、 術は過ちだ。菱盆中は、
ニューヨークへ移住して十二年、ビデ
その小さくも大きい芸術
~
- H 一FF まさにその真実を目の前に
十
OS E、λ I
64
65
玉、メンコ、ねじなど、作家の幼年一時代を であった。つまりは﹁昼耕夜読 Lの苦しい
て学費と生活費の一部を稼ぐといったもの 好奇心のせいなのだ。
となってしまったのは萎盆中の人一倍強い
しかし、貧しい無名の画家であった菱盆中
級格差﹂を大きく縮めるものではなかった。
ではない。彼がニューヨークに到着したば
の上にくっつけてみたり、あるいは、それ
は、そのおもちゃをそのままキャンパス地
も、なかなか目を離せないような彼の感性
道端で売られている安物のおもちゃから
といった、大変幸せな結合であった。作家
に同等の関係を保ちつつ互いに浸透しあう
あるかなどということには関係なく、相互
日常のうち、どちらの方がより高いもので
の八0年代の﹁地下鉄での作茅は、芸術と
かりの頃、それまで暮らしてきた韓国との
は日常をとらえ、日常はまた作家を同じよ
L
博 を禁じえなかったが、その家具が寸不百六﹂
象徴する物がぎっしりと詰め込まれてい 日々であった。
かにも、各種のドローイングと﹃韓国語を 違いから、彼にとっては自に映るもの全て
うにからめとっていたのである。
しかし、その中に楽しみもなかったわけ
る。つまり、彼の生を物質化してさらけ出
yキl マウス﹄シリーズなど、﹁小さ
で彼の視線を誘ったりしたのである。そし
らのものが内に秘めている漫画的世界にま
して見せた官聞ということになる。このほ
なものを集めて大きな一つのもの﹂を作り
学ぶミ
ヨlヵーたちにとってはあまりにも日常的
が不思議で目新しかったという。ニュー
てまた彼は、道端のありとあらゆるイメー
出寸典型的な彼の作業のあり方は飽くこと で、陣腐にさえ見える一つ一つのことが、
なく続いている。 萎盆中は生まれは清州だが、育ったのは
一人の芸術家をその出生地と背景によっ
面世界に入っていこうとするのは大変危険
てあらかじめ規定しておいてから、その内
な仕事である。それはその芸術家の惇品に
ジを単純な形態と線の中に溶解してしまっ 出てきてパートタイムで働いていたのだ
とって重要な部分であるかもしれないし、
た。一人の田舎の踊り子がニューヨークへ が、その職場の建物か倒れ、死亡したとい
そうではないかもしれない。特に、その芸
彼にとっては何もかも物珍しく新しいもの
た米軍兵士たちにチョコレートをもらって
う記事を新聞で読んだ彼は、将来に希望を
術家が独創的であるとすれば、多くの場合、
だらけであった。そのために、目の前に繰
食べることが時折あった。戦争の名残りが
投資した若き芸術家としての彼が感じた
ソウルである。幼い噴、一時期、彼は梨泰
まだそこかしこにあり、経済一も立ち遅れて
﹁同病相憐れむ﹂といった切なさを例の小さ
院に住んでいたために、竜山に駐屯してい
いたその頃の韓国の子供たちにとって、 G すいぜん I(米軍兵士)のチョコレ lトは大変な垂涯
る。量一女盆中もやはり、人並みすぐれた独創
う限界を超越しているのが普通だからであ
国境線によって区切られる文化的停滞とい ﹁彼らは名戸のために一生懸命働いてい
なキャンパスの上に記録したりもした。
かしきと、ほかでは味わえぬ甘さの二つが
るしという文とか、﹁私は、私の健康のため
の官聞の基本メカニズムを理解するには、
性を見せている作家である。けれども、彼
の的であった。施し物を食べるという恥ず ない現せになった中で、彼は満足感と渇望、
に絵を描くしという文が作品の中に入って
韓国文化の特性を理解することが少なから
いるのは、日常における多くの悩みごとの 中で人々が、また作家自身が考えている生
ず役に立っと思われる。
のであり、まさしくその記憶を踏まえて、
の座標軸が何なのか、その時その時手探り
羨望と差恥といった感情の全てを味わった 最近、米軍の階級章の入ったチョコレート
する身振りのようなものなのである。
を及ほしているのかを、チョコレートを通
事件が自分自身の生き方にどのような影響
である。彼の生まれつきの好奇心のお陰と
対象となり、全て彼の絵の素材となったの
り広げられるありとあらゆるものが興味の
道具以外にも、時には寸ポータブル﹂な水彩
を製作していた頃、彼はドローイング用の
彼が地下鉄に乗って往き来しながら作品
たクク(汁物)やチゲ(煮つめた汁物)などの
らば、彼の作品は特に汁気のたっぷりとし
彼の作品とを比較し、関連守つけて述べるな
韓国の食物文化が持っているある特徴と
のである。韓国戦争と冷戦という世界史的
作品を作って見せることまでやってのけた
して振り返って見た作品なのであるが、こ
させ、墨草させる力をその内にもっている
韓国料理がもっ複合性、つまり材料を調和
といえるであろう。彼は自分の官聞をよく
け、刺繍をしていたという。周りの乗客た
韓国のピピンパプ(需せ御飯)にたとえてい
絵の具や針と糸まで携えて外出し、色をつ ちにとって、それはさぞかし奇異な光景で
いうべきか、彼の新しさを追求する債熱は
あっただろう。印象派の画家たちは、息の
今に至るまで続いている。 ドアの取っ手の形の違うこと、家具の足
るが、彼の作品には、持ち合わせの材料を
のように彼の作品の中には韓国とアメリ
の形の違うこと、果ては刃物の形の違うこ
詰まるような束縛されたアトリエの中から
カ、個人史と世界史が一つのものとなって 幼い噴から絵を描くことが好きだった菱
とまでが彼にとってはみな目新しく、その
一緒くたにして需せ合わせ、掻き蝿ぜて食
溶かし込まれているのである。 盆中は、弘益大学西洋画科に進んだ。四年
中の一部は単純に描かれるだけにとどまら
べるピピンパプの材料の入り混じった様
と、その味の調和した様がよく反映されて
らの野外での製作作業は従来通り、日常と 現実を創作行為にとっての一つの対象とみ
いるといえる。 何はともあれ、小さな作品群をそザイ
抜け出て野外へと飛び出したというが、彼
クのフレット・インスティテュ lトに通っ
張りつけられもした。彼の夫人は、夫の展
なしていたのであり、﹁至高の﹂芸術と現実、 あるいはその芸術と日常との間にある﹁階
ず、オブジェとして彼のキャンバスの上に
た。彼のニューヨークでの生活は、その当
示会のオープニングで自宅の家具の足が一 本、作品に使われているのを発見して寸驚
間の学業を終えてすぐに渡米、ニナ lヨー
時の大部分の韓国人留学生がそうであった ように、多くの時聞をアルバイトに費やし
66
たものを一つ一つ採集してくるのである。
街角から、そして彼の心の中から、そうし
はピピンパブ類の特徴を多くの面において
手法は、このようなククとチゲ類、あるい
全体として完成するという萎盆中の官聞の
ク・タイルのように集めて、一つの大きな
物、そして音として表現されている。こ
のそれぞれの作品の中でイメージと加工
準と萎一盆中を結びつけ、またそれは彼ら
日常的なアメリカの大衆文化は、白南
拠してこの二人刀作晶を次のように評価し ているのは、示唆するところが大変大きい。
したホイットニ l美術館のキュ l レl タl、ユ lジニ l ・サイがピピンパブに依
人展﹁マルチィプル・ダイアローグ﹂を企画
る。これと関連して、妻盆中と由南準の一一
自分たちの言うべきことをあたり樺らず語
ている。二人の作家はどちらも﹁多々益
よって秩序整然としたグリッドを形成し
千個もの一一一×一一一インチのキャンパスに
ターを積み上げるのに対し、萎一盆中は数
小様々な形態の数多くのテレビのモニ
る。ただその特徴としては、白南準が大
ジュールの単位によって構成されてい
業はすべて、巨大な全体橡を作り出すモ
らの観察は似かよったウイット、鋭さ、 自己卑下のユーモアで現瓦る。彼らの作
持ってアメリカ玄化を注視している。彼
見つめる韓国移民としての独特の視点を
と、混乱した心情を持って環境の変化を
残りの鱗もたやすく想像できるであろう。
の鱗の中の一つでも、その人の感性に響く ものがあったとすれば、その人はその他の
てこの広い世の中へと流れ出して行く。そ
(作品)は、今、時を得てその河の流れに乗っ
あろう。そのように浮かび上がってきた鱗
である。したがって、いつの日にか集めら れ、積み上げられて大きな山となることで
生の卑穣さというものを映し出しているの
に浮かび上がって来たものなのである。若
そこに反射する時、その鱗としてこの世
はない。人生の河が酒々と流れ、生の光が
実のところ韓国文化合葎の中心をなす特性 でもある。彼は世界を観察し、その世界の 破片をかき集め、それによって自分自身の 世界を形成する。新聞から、テレビから、
部分を最もよくとらえて表現していると
生活に広範囲に行きE っている画一的な
この教知れぬほどのマルティプルが現代
者)という格言を受け入れ、その結果、
あるが、それは日常自体が一つの戦標すべ
鑑賞者たちにもたらす一般的な体験なので
中が断片を集めて形成した世界がしばしば
くであろう。実はその戦標の体験は、萎一盆
な魚を想像して、その幻想的な姿におのの
鱗一つ一つを集めて一匹の形となった巨大
そしてその人は、再びそのキラキラと光る
い作家ではあるが、彼の芸術はそれほどの
うるこ
そして、それらのものの聞の﹁基本権的平 の二人の作家は、果てることのない驚き
信じる。ピピンパプと白南準、差益中の
き奇跡であることを示しているにほかなら
萎盆中はこの夏、ホイ vトュ l美術館
今年の一月、彼がイギリスで招待展を催
した時、あるテレビニュースのアンカーマ
の菱一盆中の管問世界についての次のような
言及は、それ故、耳を傾けるに値する。
したがって、それらは、どこででも見つけ
はそれらをとんなところででも作り出す。
寸菱盆中の絵画はウイルスのようだ。彼 りは、むしろ彼の人生の流れの上に描かれ
ることができるのである﹂
•
反映している。そして、このような特徴は、
等﹂を保ったまま、集められたものたちは
芸術の類似性からみて、全ての構造は明
善﹂(多々ますます弁ずということ一訳
らかに生の中から引き出される普遍性を
ンは、彼のチョコレート作品をかみ砕きな
たちが積み重ねてきた芸術的成就の普遍的
がら彼の官同世界について帯した。彼の芸
ない。そして、それは美術史上の重要人物
フィリ vプ・モ lリス分館で個展を聞く。
共有しているのである。すなわち、白南
招待展である。彼のような若い作家として
る。したがって、﹁多々益善﹂の彼の世界は、
術は、大衆との親和力が非常に強いのであ
な姿にほかならないのである。
は大変な栄誉であると言わざるを得ない。
に置いてかき高せているのである。
しかしながら、それは彼にとっての新たな
ていく。アメリカの画家バイロン・キ l ム
それだけ速いスピードで大衆にアピールし
準と差益中は全てのものを一つのところ
スタートにほかならない。彼の小さな各作 つであろう。 彼の絵は、実際のところ、彼の小さなキャ
たものであると言える。彼の絵は、単純に
ンパスの上に描かれたものであると言うよ
与えられた空間の上に描かれたものなので
67
1田 4。ビデオ・アーテイスト白南準と共作のマルティメ
品は、いつかは巨大な山となってそそり立 ディア展示会。 1994
~o .
ホン ソ ン ユ
洪性裕
韓国の味
れほど裕福でなか ったにもかかわらず、お いしいものをおいしく食べることのできる
のように生活環境や経済的な面においてそ
ところが、その昔の我々の祖先は、今日
ているといえる。
ろそのような不幸な方向に我々を押しやっ
ないようである 。今日の文明社会が 、むし
の楽しみと幸せを自ら放棄する人が少なく
と私は考える。しかし我々の周りには、こ
与えられた最大の喜びであり、幸せである
しいものはないであろうし、それは我々に
﹄'除伊 べるということほど楽しいこと 全 一 芸 はない。おいしいものをおいし ノ ・ く食べられる楽しみよりすばら
生 車
68
賢さをもっていた。ひとつの材料で今様な
料理を作って食べる、ということにおいて
の持ち味を生かして吟味するのが生活の知
も真にすばらしい知恵をもっていた。材料
恵であり、生活のセンスであるということ
を知っていたのである。
韓国料理の特色はいろいろ挙げられる
ることのできる生活の知恵と生活のセンス
が、何よりもひとつ食材料をおいしく食べ
とつの材料をもって多様な味を出寸私訣は
が生かされているということができる。ひ
祖先代々、受け継いで来たヤンニョム (臼
28包括一薬味・調味料)の味にあると
いえるであろう。
では、ヤンニョムとは何か。料理の味を
生かすために使われる調味料の全てを指し
てヤンニョムと呼ぶ。例えば、にんにく、
ねぎ、しようが、唐辛子、胡麻、それにこ え
しよう、からし、わさび、胡麻油あるいは
荏胡麻の油、酢、砂糖、さらに韓国ならで
たぐ
はの発酵食品であるコチュジャン(唐辛子
ことができる。
味噌)と味噌、そして醤油の類いを挙げる
食べ物の昧は薬味、が左右するぐらい韓国の伝
‘統料理においてチャン(醤油や味憎の総称) と薬味は欠かすことのできない重要な材料で
ある。写真の左側下から時計方向に韓国の伝 統的な醤油や味噌を醸造するための陶製の瓶
の置き場の風景。味噌、コチュジヤン、醤油 など味を合わせるチャンはほとんど瓶に仕込
んでここに保管する・伝統的な藁葺き家の軒 下に干されているニンニク、瓶置き場でコチ ユジヤンをすくっている主婦、料理の味を利 かせるために牛肉の上にさまざまな飾り付け
の薬味を載せた焼き肉、いろいろなナムルや チゲなど野菜だけでお膳を整えた寺剰の精進 料理
69
必ず塩加減が合わなければならないとい
しかし、どのような料理や食べものにも う、基本的であると同時に動かせない条件
このほか細菌が繁殖しやすい夏には、殺 さびなどは魚の生臭みや毒を除去するとい
菌力の強いからしを味っけに使ったり、わ
これは、ただ単に韓国料理に限られたこ
がある。塩加減というのは濃からず薄から
とではないであろうが、特に韓国料理は、
ずで口にぴったりすることをいう。
その材料はほとんど植物性であるが、料 塩加減が濃からず禽からずとはいっても、
る 。 理に添加されて味と香りを生かす香辛料の
うことで刺身や寿司にはいっしょに出され
役割をしたり、料理の味や香りを引きたた いえない。
それが一律に全ての料理に当てはまるとは つまり、料理によっては塩が濃くなけれ
し い た
こともあるが、乾燥させたり妙めたりして
せる。このような調味料は生のままで使う 使う場合も多く、また油を絞って使ったり そ持ち前の味の出るものがあるのである。 辛い料理は辛くなければならず、ある程度
ばならないものがあり、逆に海か薄くてこ
腐らせなければ味の出ない料理は、韓国料
る人が料理を作る過程でみじん切りにした り、薄切りにして加える場合もあり、また
もする。食べる時直接添加したり、調理す
調味料の中に鵠せ食わせて使うなど使い方
理に馴染みの少ない外国人には鼻をつまま せるほど臭いがしなければならない。
も様々である。 また、建具的に食欲をそそるために使う 場合もある。これを称して﹁コミョン﹂(目
握手い食べものはある程度は塩気が強く なければならず、ピリ?と辛い食べものは ある程度は辛くなければならないというこ
を楽しませる飾りを兼ねた薬味)という。 というのは、視覚用の つまり﹁コミョン L
て、あるいは個人個人の味つけの好みに
とは、どういうことか。それは地方によっ よって異なってくるであろうが、それぞれ
飾りと味を引き立たせるために料理の仕上
の好みにすべて応えられる料理士が一流な
げに振りかける薬味の総称である。錦糸た まごとか海苔などがコミョンに使われる。
のだ。これと同じ論理で、一般の家庭でも きちんと塩加減のできる主婦が料理の腕前
錦糸たまごは、卵の自身黄味を別々に薄焼 ネンミョン(冷麺)やオンミョン(温麺)など
のいい主婦といえるだろう。
きにして千切りにしたものをいう。普通、 の麺料理に使われる。
民族固有の文化と慣習と深い関わりがあっ
どの民族においても、料理の歴史はその
ちの郷土料理の総称である。
と地主両班蒙の料理、そして素朴な所良た
すなわち、緯国の料理は賢沢な宮中料理
多彩で名 様である。普通、基麗的な塩加減
前述のように韓国料理の調味料は極めて
作りあげたのが韓国料理なのである。
ジャン(高霊十子味噌)、味噌、醤油などの発
て、気候や環境やその民族の固有の好みに
農業中心のわが国は、田畑から比較的豊
ぎ、ごま塩と砂糖、唐辛子粉とこしよう、
には塩と醤油が使われるが、にんにくとね
J
酵食品は、どの調味料よりも韓国料理の味
よって影響を周界け、独特の料理の技術と味
はじめ粥、小麦粉やそば粉、かたくり粉な
韓国料理は種類が多い。主食にはご飯を
この点が韓国料理の特徴であるといえる。
とねぎは、ほとんど全ての料理に使われ、
うことは先に触れた。このうち、にんにく 肥えた土地と澄んだ内 吉丸がもたらした農
酢と胡麻油などの薬味が共に使われるとい 始まったといえようが、我々が今日ロにし
産弱を主な材料にして、それをおいしく食
かな農産物を産出していた。さらに三面を
ている韓国料理の基盤はつまり、五のむ年
海に面していたことから海産物にも恵まれ
韓国料理はタン(汁物)であれ、チゲ(鍋物)
にわたる朝鮮王朝時代の王室と、いわゆる
韓国の料理史も韓国の民族文化とともに
を発達させて来たといえる。
であれ、はたまた純粋なミッパンチャン(作
べられるように様々の調味料を義きさせて
ていた。
りおきのおかず)であれ、真の味を出すこ
権勢を誇った両班階級の豪勢な食生活を中
T
とができる。
このように多様な調味料か調和してこそ
あるといえる。
チとともに世界に誇れる食品であり、味で
郷土料理か合わさってできあがった。
心にして、そこへ地方の特産物を利用した
食べる際にも味噌は欠かせない
を左右する韓国薬味の代表格であり、キム
このほか、韓国ならではの独特なコチュ
汁物や鍋物のみならず、チシャなどに飯を包んで
70
チム(蒸しもの)、チョリム(煮物)、サンジョ
の汁もののほか、ポックム(妙めもの)や、
ル(肉を主にした唐辛子抜きのよせ鍋)など
味噌を加えて煮こんだ鍋もの)、チョンゴ
にした汁もの)、チゲ(肉または魚に野菜や
てはクク(汁、つゆ)、タン(肉や魚を材料
どをこねて作る麺類などがあり、副食とし
もの用などがそれぞれにある。
用、卓上用があり、醤油にも汁もの用と煮
ンでもチゲ(鍋もの)用とチャンアチ(佃煮)
油、味時間弓か使われており、同じコチュジャ
な種類のコチュジャン(唐辛子味噌)や醤
ク(汁)やチゲ(鍋もの)にしても、いろいろ
薬味を必要とする。副食の類いに属するク
るだけに、いろいろな味と性質を生かした
ミョンとに三分することができる。
と調味料と香辛料、そして前に述べたコ
右する決め手になったのだ。
作る主婦の腕は、その家庭の料理の味を左
た。コチュジャンと醤油、味噌をおいしく
を作ることが大変大事な行事になってい
ムチ類をはじめ、数々のチャンアチ(佃煮て
類だけで二ハむ一種あまりといわれているキ
げていったらきりがない。そこでその種
材料によって味がまた違うということは言
各様である。地方によって、また使われる
る材料も餅米から粟、砂糖きびに至るまで
また、このような醤油、味噌類に使われ
のような塩辛汁などに分けられる。
唐辛子、唐辛子粉とすり胡麻、あみの塩辛
の蜂蜜、水飴、それに油主酢、唐辛子と糸
味噌、コチュジャン、そして砂糖や甘味料
調味料も、また細かく分けると塩と醤油、
薬味と 一口にいっても、これを大別する
ク(串焼き)、天ぷらなど、ひとつひとつ挙
これまた数々の塩辛などの副食類も、外国 ひと昔前まで、家々では毎年醤油や味噌
うまでもない。
このように韓国の料理は種類、が多様であ
人には到底想像にあまるほど多彩である。
飾り付けの薬味は昧とは関係なく 料理の見た目をよくして 食欲をそそる役割をする。卵の黄身と自身、 カボチャ、糸唐辛子などからなる 飾り付けを基にその上にネギの和え物、味噌、 ごま塩などが見える(上) ほとんどすべての料理に必ず使われる ネギとニンニクとショウガ(左)
71
コチュジャンは味噌とともに韓国人の食
議ユジャン(唐季語) ジャンは餅米、うるち、麦、小麦などを原
生活に重要な役割を果たしている。コチュ
極だけみても胡塩、再製塩、食卓塩、機 械塩などに分けられ、その用途もひとつひ
塩などを混ぜて作るが 、醤油のように手な
料にして味噌玉麹の粉や唐辛子粉、麦芽、
と説明することが困難なほどた。
鱒掴 みによって味や色具合が異な ったりする。
胡麻の油、豆油、綿実油、落花生の油など
油などの油類も韓国の人 々にとって欠かせ
このほか、すり胡麻や胡麻油、荏胡麻の
ある。
料理によ って使い分けられる。
あるが個々に関する説明は割愛する 。
があり、それぞれ特有の味と香りがあって
響子
事料
香辛料は前述のように、にんにく、ねぎ、
ない調味料であり、その用途もまた名様で
唐辛子は韓国料理の味を出すうえで 欠か せない調味料である。唐辛子は、青唐辛子 を除いては、粉にしたりイ差辛子にしたり
こしよう、しようが、からしなど今様で、
特ににんにくとねぎはキムチには不可欠の
調味料である。
ヨ、/
既述のように、コミョ ンというのは味と
香りもさることながら、見た目にもきれい
にするために料理の上にかけたり加えたり
する薬味である。先ほど錦糸たまごや海苔
こ類や松の実ゃくるみ、ぎんなんなどもよ
などをその例に挙げたが、このほか、きの
さらには牛肉や豚肉、鶏肉、魚や貝類など
くコミョンに用いられ、いくつかの野菜、
もコミョンに使われる。どんな料理にどん
なコミョンが添加されるかは料理の種類に よってそれぞれ異なる。
要するに、料理を始めるに先だって薬味
の使用法を知っていなければどうにもなら
ないのが韓国料理である。どんな薬味を使
うかによって料理の味はもとより色と香り
砂糖は食べものの甘さを出すのに欠かせ
識鴨
ン( た唐辛子粉はコチュ ジ ャ 唐辛子味噌) を 作ったり一般の調味料として使用され、少
して使用する。すなわち、細かく粉状にし
るうちに韓国料理の奥深い味に親しみ好き
を外国人からよく聞かされるが、食べ慣れ
ればいい味を出すことができない。 韓国料理は辛くてしょ っぱいという評判
も、調味料の配合がきちんとできていなけ
HU︿ 色町 ト巴︿
醤油もまた、塩とともにすべての料理の 塩加減をする基本的なものであり、また重 要な調味料でもある。韓国では昔から各家 いたことは先に触れた。主婦たちの腕前に
庭で醤油を作ることが大きな行事にな って よって塩加減と味、色の具合と香りが異な り、醤油の味がよければよいほどその主婦 は家事の切り盛りが上手だと褒められた。 醤油の主原料は豆と麦であり、味噌玉麹を ねかして作る。味噌玉麹を塩水につけて長 くねかせばねかすほど醤油の味がよくなる をもとに作られたが、現在は工場で生産さ
という。醤油は、家ごとに代々伝わる秘法 れる醤油が大部分を占めるようになった 。 しかし 、これを家庭で作られる醤油と比較 してみると、味や香り、色に特性がないだ けでなく、大衆的な好みに合わせて味が甘 いなと、質が劣るといわれる。 醤油も汁もの用の薄口醤油と料理用の濃 い口醤油、それに陰干し醤油、そして工場 製の醤油に分けられる。一般の家庭では塩 加減の薄口、濃い口を使い分けるが、家毎
ない調味料である 。原料と製造一占依によっ
カクテギ(大根のキムチ)に使われる。また
し粗めの粉状にしたものは白菜のキムチや
が決定される。どんなにいい材料を使って
てやはりいくつかに分けられるが 、 一般の
に塩加減や色具合が違うため料理によって
味噌
料理には主に白砂糖が利用され、砂糖が現
使う量を加減する。
味噌は醤油をしぼ ったあとのかすで作ら
粗い粉状にしたものはキムチの浅漬けなど
韓国料理に使われる食用油は胡麻油、荏
金明油
なわち味覚と翠見の調和を作り出すためで
たは粗めにする理由は、料理の味と色、す
に使われる。唐辛子粉をこのように粉状ま
を出す調味料としての役割をするだけでな
で食べる時にも使われる。味噌は味と香り く、それ自体も蛋白質が豊富な食品である。
る
0
だんだん増えつつあることを私は知ってい
になるだろう。実際、そのような外国人が
・
れるが 、汁ものや鍋もの、和えものはもち
などに使われる
れる以前の音は蜂蜜や水飴が使われた 。
トウガラシは、総園料理の味付けに欠かせぬ調味料である。
ろん、ちしややごまの葉などにご飯を包ん
木目細やかなトウガラシ粉は、一般の料理にはもとよりトウガラシ味噌作り
72
ュlジカル専門の劇団エイコム 高宗の背後で、宮廷全般にわたって影響力 で、全員釈放の判決を言い渡した日本の帝
の心は揺れ動く。そうなればなるほど、聞
のかす外国使節の争いに巻き込まれて高宗
とぎ澄まされ、一方、時同じくして日本は
妃の外交的直球官﹄政治に対する見識はより
朝鮮侵略の野望を露わにする。急迫した状
国主義的思考と行動体系が、結局は原爆投 ということを、歴史的教訓として提示しよ
下による無条件降伏につながってしまった うという意図が読み取れる。しかし、観客
は生活苦にさいなまれる旧式軍の蜂起は、
況の中で時代の流れに取り残され、さらに
を行使した実力者として、肯定的な側面が
の誰もが、このような意図を充分に理解し
多々あるにもかかわらず、今まで彼女に対 ミュージカル﹃明成皇吉には、これまで否
しては、否定的な見方が支配的であった。
うるだけの装貫かセットされているわけで
を基に﹃明成皇后を製作、昨年 に引続き、今年の春に行なわれたアンコー
末の、観客動員数延べ五万人に達した初演
た関妃の真の姿に、再び光を当ててみよう
定的な側面によってのみ印象づけられてき はない。
ミ 司 、 は、李文列験作の喜劇﹃狐狩り﹄
ル公演も大成功であった。﹃狐狩り﹄とは、 しいぎ守︿ 明成皇后獄逆を意味する日本軍の作戦暗 この官聞のために約二年間、関妃拭逆事件
という企画の音箇がうかがえる。原作者は、
このミュージカルでは、両者の聞の首震は、
院君との対立抗争で有名である。しかし、
再度実権を握る。彼女が無事だったことへ
后は清と密約して大院君を清へと押送し、
は動乱の中に行方不明となる。しかし、皇
大院君をして再び権力の座に就かせ、阜唐
号である。一九世紀半ばの朝鮮は、伝統的 についての歴史的資料を収集したと言われ
明成皇后といえば、夫の実父にあたる大
な社会体制をもうこれ以上維持できないと る。彼が、多分に否定的なイメージでもっ
の高宗の喜びがひときわ高まる中、日本は
いう、危機的状況に直面していた。圏内的
聞妃を邪魔者とみなして、暗殺を画策し始
には、無能で腐敗した王朝に抵抗する民衆
する国際情勢の中にあって祖国を無事に
て語られる聞妃を、何らの抵抗球芯なく﹁明
単純な権力闘争というよりは、むしろ会愛
勢力が育つ一方、対外的には、門戸開放と
背景説明に多くが割かれ、多少、劇の進
める。 れであるという解釈を出す﹄﹂とに演出の意
守っていこうとする真の愛国心の一つの現
二幕の流れは非常に力強いものとなる。皇
行がもたつきがちだった第一幕に比べ、第
た場面が見ていて楽しく展開される。それ
后の英敏さと社交性、そして大胆さを描い
図がある。そのため、宮廷の前で行われる 平和で華やかに繰り広げられる。しかし、
高宗の婚礼の儀式は、嵐の前の晩のように 次いで宮廷の庭で女官たちと戯れる高宗
だけではなく、一幕からずっと一つの伏線
ついには自分の体で皇居を守って犠牲とな
からというもの、被女だけを園業しつづけ、
として描かれていた武芸別監の洪啓薫の王
成皇后﹄という棋逆後に贈られた誼号で呼
これに抵抗する大院君と軍兵の反撃から生
仏などの外国侍節たちによる開放圧力と、
る。この切ない恋は、日本の将校と大陸浪
される。単純な夫と萎の聞の心の葛藤のよ
西欧列強の侵略に対する危機意識が高まり
んでいること自体、まさにこのミュージカ
じる乳蝶など、もろもろの政治的な力学関
王子の泣き声が胸を切り裂くようである。
人たちによって、鮮血に染められて終わる。
と、これを見て煩悶する皇后の安か映し出
つつあった。このように激変する世遅場
ルを通して観客たちに芸術的な球舗を与え ることのできた大きな原因だろうと思う。
係と、このことからの疎外感が、明成阜霊加
妃に対する決して実ることのない恋慕の情
の中にあって漂流する朝鮮王朝は、ついに
序曲とともに幕が上がると、広島の原爆
の内心の葛藤の原因であることを暗示して
れるのなら、この身が灰になろうともかま
が、やるせなく描き出される。ならず半 h?と
日本帝国によって減ほされてしまう。昨年、
投下の映像とともに、一九四五年という字
いる。
うにも見えるが、その前後に演じられる大
一九九五年は解放五O周年を記念する年で あると同時に、関妃獄逆百周年に当たる年
幕が現れる。次第に年代をさかのぼってい
ついに高宗は、男児を得て意気揚々とし
アリアと、﹁朝鮮よ、永遠にあれ、ああ、
という皇后の わぬ、皆の者、立ち上がれ L
院君の摂政政治と民衆たちの嘆き、そして
でもあった。日本軍によって棲惨な殺し方
く数字列が止まるのは一八九六年、この年、
た皇后の勧めに従って、親政に乗り出すこ
の家の塀越しに息置をちらつと盗み見して
をされた聞妃は、実は明成皇百の卑称であ
明成皇后獄逆事件に対する裁判の聞かれた
とになる。しかし、守旧派の衝突と、米-
(話唱)が荘厳に最後を飾る。
ああ、栄えあれ﹂という民衆のパルランド
して騒ぎを起こしてばかりいたのが、故郷
り、この作品は、その歪められた歴史音識
場所か広島であったという葦委借りて、
露・中・日などの外国勢力と結びついた一
たちの客寄せぶり、さらに、また独・米・
を正そうという意図が伝羅く出ている官聞
自らの犯罪を知りながらも、墾口たちめ犯
派、そしてさらに、彼らをいろいろとそそ
近代商品を売りつけようとする外国人商人
である。総明さと知恵を兼ね備えた朝鮮最
行は立証するには証拠不十分ということ
ついにエピローグとなる。﹁この国を守
後の皐唐は、有能な強い性梧の女性だった。
73
最後に、皇后に奉げられたこの鎮魂曲の るほどのよい成果を収めたとは言い難い。
ただろうと思う。また、振付けも印象に残
たって、大胆に台詞を省略することにした
選曲は、原作をミュージカル化するにあ
当の衣装が断然よかった。古典的な衣装の
相対的に見て、舞台美術の面では、なか
もつ品位を失わないようにしつつ、現代的
なか成功した方だと思う。朴東祐の舞台装
画によって、より一層強められたドラマ 成賞でこれを再構成し、古典と現代の統一
置も公演に深みを与えていたが、金賢誠担
チックな要素は、さらに梁仁子、金照甲夫 性と多様性をよく調和させている。した
べき試みの一環である。劇作家金光林の参
妻の作詞・作曲によって、 一挙に最新の
予浩鎮が演出の狙いとする、賭けともいう
ミュージカル形式に挑戦するほどの水準に がって次のような主催者側のコメントは、
全般的に見て、印象に残った場面は、精
まで高められている。
コ雲が組み合わされた序幕、華麗な宮中の
巧に復元された景福宮の模型と巨大なキノ 婚礼儀式、外国からの使節たちを接見する 宮中の宴会、舞台を上下に等分して暗殺を 謀議する日本人たちと、国を守ろうとする 愛国の志士たちの同時対照、そして、砲煙
はっきりとはしないが、﹁梅の花が咲かな
立ち寵める戦闘場面などだ。音叫味の伝達が
い春、春じゃないよ﹂という子守歌を歌う
特に誇張したものだとは一言えないだろう。
副司
子供たちの登場する場面も、それ自体とし ては印象的であった。それに比べ相当、力 を入れているように見える、万を持った立 ち回りの場面は、まだまだ生半可なものに 見えた。 六十余曲にものぼるという歌の中には、 ﹁舞台は広く深い。枯れた木の枝がうら
ああ闘舞中在オ人る様 わる場; 台のにベな役子 -
、抗,・ .
ー-
- T
品
戸
01
也巴と
IL
で
へ皇し足出よる各
流行歌に瞳還した作曲家自身のヒット曲が
寂しく垂れ下がっていたり、ゆらゆらと垂
られた紅い細長い帯状の布や、黄金色の鳳
影を落として、時には食傷気味の印象を与
嵐の模様、幕はチョゴリ、ツルマギ(オー
える部分と、場面々々が要求する音楽的性
んで、観客たちを舞台に引きつけて離さな
いる。あるいは、典雅な丹青の模様に掛け
かったという点で、成功だったといえるだ
バーのような裾の長い外衣)の結び紐とな り、栄華を誇る朝鮮王室の品格が四方から
れた柳の枝、が青く凄然とした姿をさらして
ろう。むしろ、あまりにも脚色されたよう
匂い立つようである。見えかくれする庇は、
ではなかったが、まずは流れの全容をつか
な感じをもう少し大胆に省略することがで
格にうまくついていけない部分がないわけ
きたなら、一層、観客の胸に響くものになっ
II I E 一帯1 与 、 l 勺組目下日 J 1 NL │ -J W U 4 41 F 守f; 日誌 iiZ E 邑J V ・??fJ 1 ・モ 55 t??aS15 日 目 E こはお 判、てが、のえた同の
CURRENTS
三だれミ々の典侍宮 ミュージカルのクライマックスで『人民よ、立ち上がれ、 壁現体て 、ての注た時 底実舞? こい高ヤすは る限う 、l 要あ装す宴 朝鮮よ、永遠なれ』と絶叫し死んでいく明成皇后 感台直れくさ会。隠 のさ。全ジ素るので会 たをは屈と。とに時し にれ主てカが」競にで 考曇 J 室 交 上 奥 ぎ に 大主役のル作 語、ののは衣るごテ伝いゲし仕とあく重つ証麗全ち差が宮正はあ
τ
営者事努量 T の型重義 i TZ 主↓語 22 存雪喜七 2主555v 警長眠 E UZ 品 と定じはとた きでな的さ小に ー になこくのたはて袋い梨とる三るがま深亀 主主多量主 t あ 義守主佐道空警会集会宅福 E i Z 罪 事 E t 志主雇白予言吉夫ゑ ~ る 11 : の そ み 具 だ れ 面 を 。 て 々 流 の 精 に 多 比 つ ろ み で る が 自 り 、 つ を
功している。ただ、音楽がもう少し、この
俳優の特質とよく合っていたならばという
点が惜しまれる。
今回の公演で特筆すべきことは、声楽を
専門に学んだ予致美の出演である。豊かな
るその歌唱は、一つの模範を示したものと
声量はもちろんのこと、歌詞を正確に伝え
韓国のミュージカルの歴史も、今や決し
いえる。
て短いとは言えぬほどの歳月を経てきた
が、この公演はまさしくその歴史の上で大
きな音鎗窺を持つ 一つの出来事である。世界
進出の夢もあながち無理なことではないと
い。そうだからといって、問題がないわけ
ささやかれているのも、決して誇張ではな
ではない。経済的負担を考慮するとしても、
あまりにも録音に依存する度合が大き寸ま
て、例えば、多くの俳優たちが歌っている
ふりだけに終わるような場合、観客たちは
h
その分、感動をそがれざるを えない。特に、
音盤最術がしっかりとしていない場合、そ
のような弱点がより一層、増幅されること
は避けられない。俳優の動きが制約されて
いる中で、音楽の比重が、なおのこと大切
なものとなっている状況では、このような
﹃明成皇后が現在、米国の守ブロ ードウェ
弱点は致命的なものとなる。
イで絶讃を受けて公演中の﹃ミス・サイゴ ンl﹄ほどの成功を収めようとするのであ
れば、どうしても克服していかなければな
らない堕在、まだまだある。しかし、そ
E が将来、挑戦しようとしている海
れなりの可能性は充分にあると思う。﹃明
成皇
外への進出が成功するよう祈ってやまな い。.
74
. J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE
朴腕緒 、 -、
戦争の残した深い傷に 苛まされる朴姉緒は、その精神的傷痕を踏みじめて、 さらに反俗精神を貫き通した作家である
75
そして最近の﹃その山が本当にそこにあ っ
生きている日の く午後﹄、﹃都市の凶年﹄、 ﹃ 未忘﹄、 はじめ﹄、﹃その冬は暖かかった﹄、 ﹃
ゆらめ になった。処女作﹃裸木﹄をはじめ ﹃
を繰り広げ、当代の代表的な作家のひとり
はその後誰よりも精力的な活動
作家としての出発をした朴腕緒
九七O年、四十そこそこの歳で
的な雲蓄になっている。
い読者をひきつけており、若い世代の標準
いた作品ではあったが、発表後持続的に若
表した処女作﹃裸木﹄はそれ自体、青春を描
た﹂と告白しているが、四十代に入って発
の子どもと姑をかかえる長男の嫁であっ
代以前はそうであった。作家自身は﹁五名
底そぐわなか った。少なくとも 一九七0年
耗的な職種であり、従って知的作業には到
ことは、まことに時間消耗的であり精力消
的な主婦│韓国で主婦を全うするという
ずで、過激で 、薄情な世態と卑俗な人物に 対する容赦ない反俗的な視線である 。俗っ
朴腕繕の小説の特徴のひとつは、恥知ら
国の母親像の原州茅﹄なしている。
朴椀緒の小説に遍在する、あの鳴咽する韓
る蛙得的外傷の経験の深さを具現している
る話し手の母親は、家族を失ったことによ
にも鮮明に表れている。作品の中に登場す
験の追跡と穿撃は朴腕緒の小説の重要な テIマにな っているが、その兆候は処女作
の戦争がもたらした惨酷な且押的外傷の経
き方と意識と行動を規制する。 一九五O年
烈に作品の中で現実とな って作中人物の生
かれていない。にもかかわらず、戦争は強
暮らす人々の生活と良心の没落を通して
きで﹁金持ちでも貧乏人でもない、普通に
厳密な意味での小説の本領というものを思
小説と言える。(ここで我 々は世態小説が
て、朴腕緒の小説は当代の最も秀でた世態
を色濃く特徴、、つけている。その意味におい
びその鋭さを露わにしながら、全ての作品
ゆらめく午後﹄で再 痛烈に描いている長編 ﹃
作家の反俗精神は、内面性不在の物質主
た疲労と傷心 l瞬間、彼の傷心が鋭い悲し みとなって私を貫いた。
愚かそうにはみえない善良な瞳にこもっ
証帯手。言語
ただろうか﹄に至る長編小説はそのまま、 最も多く読まれている現代小説の一覧蚕に な っている。また 、いずれも成功作といえ
品は、若い女性の話し手の、家族のいる中
ぽく、過激で卑しいものに対する敵意は全
そうとしたと語っているが、これは朴腕緒
我 々が生きている時代の正直な断面﹂を示
ユ ジョン ホ
、 ﹃ る短編の数 々は 恥かしさを教えます﹄ 、 ﹃盗まれた貧困﹄、 ﹃ ﹃ その秋の 背反の一星 、
年の画家に対する切なくもはかなか った恋 を主なモチーフにしている 。戦線にほど近
ての優香的なもの、気どっているものへと
柳宗鏑
などの短編集を通して読者に多く 三日間﹄ の何かを訴えている。朴腕緒は、その外に
い土地での戦時中の直伺純で悲しい恋を扱っ
拡大される。それらは、ことごとく俗っぽ
の作品の世界に対する適切な自己解説に
い起こす必要がある。 ) 作家は作品の 後書
﹃ 子市ロ 04 己0 BB55の訳語であるとして、
義と拝金主義がっくりだす浅薄さと苦境を
も鋭い世態観察と市民的良心を特徴とする
ているという点で、珍しく正面から取り上
べて顔を出している。 作中の話し手であり主人公のイギョ ンは
女主人公の中年の画家に対する愛を決定的
裸木﹄において話し手の嫌悪の を与える。 ﹃ 対象になる人物はダイアナ・キムである。
優れた世態小説家がそうであるように、
り、そこに我 々は作家の批判精神を垣間み ることができる。
色づけしているのが強烈な反俗精神であ
なっている。世態を描く時、作家の視線を
戦争のさ中に 二人の兄を亡くし、それに
にする契機となったのも、ダイアナ・キム に侮辱を受けてからの画家の傷ついた視線
ぜんさく
コラムニストとしても、また健全ながらも
げた青春小説ではあるが、この作品は朴腕
いものと決めつけられ痛烈な批判の対象に なる 。俗 っぽく下品なものに対する描写に おいて作家の筆はますます冴え官聞に生気
処女作が作家の世界を知る上でのある程
よって精神的に障害をきたした母親ととも
であった。
おえ っ
毅然としたフェミニストとしても、多くの
緒の小説にみられる執念的なモチーフがす
Z 口指標になるということは広く知ら 度のヱ
におかれており、どこにも戦争の現場は描
に暮らしている。そして米軍の P Xに勤め て生活費をかせいでいる e戦争はその北皇尽
発揮する。さほど多くない叙述によって作 中人物を生き生きと描き出す。人情の機微
作家は性格描写において抜きんでた腕前を
しかし朴腕緒の場合は、この言葉が見事
れてはいるが、必ずしもそれは正しいとは いえない 。 に的中していると私は思う。ひとりの模範
韓国戦争中のソウルを舞台にしたこの作
読者を持っている韓国の代表的な女性知識 人でもある 。
‘
76
て追って来るのである。その迫真感は、こ
作中の状況が手にとるように真実味を帯び
の把握と描写においてけちのつけようがな い。そのため簡潔な描写にもかかわらず、 つかんでどういうわけなんだと問いつめ
たのは見知らぬ女であった。首根っこを
りかえしているうちに、ついに自分の夫 の収監番号を呼ぶ声を聞く。はい、答え 嘩するのであった 。愛する男の取り合い
男がひとりもいなくなったかのように喧
塀の中に置いている女たちは、この世に
けないような最悪の亭主を拘置所の高い
られる 。未知の世界に対する好奇心は文学
や波乱と危機に満ち満ちているか実球苫﹂せ
我々の生活の現実が 、どれほど未知の細目
量に感嘆しながら、見掛けは凡常にみえる
る。こいつ、このあま・:、おまえは誰だ :¥こんなことをわめきちらしながら拘
くないすれっからしの女たちのこのよう
をする女らしくもなく、女っぼさなど全
を読むことにおいて基一本的な衝動のひとつ になっているが、これを以てしでも朴腕繕
の世を生きていく上での根源的な悲しみの 確認につながる。朴腕緒の小説の訴える力 の暗嘩は、どんな暗嘩より激しく熱がこ もっていた。このあま、こいつ 、などと
情か私の胸に迫って来た守
ことに対する宿命的な悲しみのような感
彼女が誘い込もうとする未知の世界が決し て雲をつかむような話ではなく、我 有の日
。 の小説の魅力の源泉が自ら理解されよ う
置所の前庭で繰りひろげられる本妻と妾
どなる悪態は、なんとも鋭く、虚空に稲
な熱 のこもった暗嘩を見ていると、世の 中に男と女、二種類の人種かいるという
はここから生まれる。
で面会の申し込みゃ-するが、間もなく棄
常の周辺であるということに 、優れた世態 観察者であり話し手としての朴腕緒の特徴
妻が長い間待ったあザ¥や っとの思い
があるのである。例えば 、最近作のひとつ
妻のような亀裂をおこして人々の鼓膜に 短編 ﹃ ある体験喜の一場面ではあるが、
たということである。妻は不思議な思い
である ﹃ その山が本当にそこにあ っただろ
却される。理由は既に一件の面会があ っ
読者たちを未知の世界に引き込む作家の力
響きわたった。ふしだらな男、女房に差 し入れをさせる亭主、亭主の風上にもお
うか﹄においても一九五一年一月、共産軍 に明け渡した後の ソウルにおける赤い軍票
の使用にからんだ逸話や、米軍部隊周辺の
性的倒錯者にからんだ逸話は 、そこに暮ら した者でなければわからない未知の細目で
満たされているが、このような細目の提示
は作品の現実を大きく盛り上げるととも に、作家的才能の賜物であるということも
見落としてはならないであろう。 渇きし日の話し手(作家)たちは、達者な
話術で話し手の本領を発揮することができ た。しかし、現代の作家 は話術にだけ頼る
わけにはいかない。話術に替わる 文体が近
代小説の活力の源泉にな って来た 。処女作
﹃裸木﹄の中の極めて印象的な場面で読者た ちは次のような、これまでにない地の文に 。 出合う
どうしても愛という言葉はいとも軍に
人 々の口に上るため、あの人に対するこ の上ない渇望をこめるにはあまりにすり へり寸会﹄ていた・:。私はこれとい った代
替語を見つけられず、ど うしょうもなく、
また愛という言葉を使 ったが 、彼と私の 聞にはどうしてももっと別の言葉が必要
77
にかられた:・。三、四日こんなことを繰 EE
U︿ 乱 回 ド 出ハ
朴腕緒
﹁誰も使ったことのない悲しくも濃密な
り、それ以前に俵女か吐露した作家として の言葉を実つけている。一時社会主義思 想にかぶれて後に転向した経歴をもっオツ
の山が本当にそこにあっただろうか﹄を通 して彼女の個人史と家族史があらわにな
であり、これといった虚構的な手直しを加 えていないと述べている。特に最近出版さ れた自叙伝的な作品﹃あのたくさんあった おおおやまそば シンアは誰がみんな'とって食べたか﹄﹃そ
た。しかし肯定的な変化の一方では、多く の人間的な代価を支払わなければならな かった。市民的自由の制限から政治的、社
だと悪した。誰も使ったことのない悲し
韓国社会は一九六0年代以後、産業化と 都市化という急激で全面的な社会の変化を 経験することになる。それは一九六五年の
語﹂は、事実上、言語の非個性化の傾向に 抵抗して真に個性的言語の創出をめざした
パ(兄)は戦災中に殺された。﹁一方ではオ
会的抑圧に及ぶ苦しい過程は、改めて指摘 するまでもなく、変記と成長の代価はきわ
く本瀧密な語が。
近代の詩人たちが求めた言語的理想の細目 である。このような言葉の追究か成功裏に 行なわれる時、その構成はそれだけ詩的言 語に到達することになる。生活の現実を正 ツパを反動だと、ありとあらゆる悪蝶な手 段でだまし、恐喝して、ひ弱なインテリに
国民所得がλ むドルであったのが一九九 五年には一O、ハハむドルになるという所 得増大に象徴される経済成長と生面レベル の大幅な向上を伴うたいへんな変化であっ
面から取り上げる世態小一司か詩的理想を常 に求めることはできないが、人情の機微の
司仏由民司 U 凶パ
る。現時点での幸せの事就の不可能性を語
り、人間生活の悲しみと悲劇性を語りなが らもこの世を救うものはおおげさな理念で はなく、人聞に対する人間の温かきである
と言っている。いや、朴腕緒の読者たちの 読後感を簡単にまとめるとそうなるのであ 。 る
初期の短編である﹃み仏の近辺﹄と﹃カメ ラと作業靴﹄は、朴腕緒文学の原型である
という点でたいへん啓示的である。誰でも 小説一編の素材をもっているという巷の公 論がある。人間の一生は、誰にとっても波 乱が多く辛く苦しいものである。しかし一
編の小説の素材になる経験が、ひとりの作 家にとって持続的に官閣を産み出す契穣に なるのは珍しいことである。よ仏の近、♂ は戦争による瞳掲的外傷の経験の深さと悲
織細な把握により詩的理想に近接すること はできる。事実、我々は朴腕繕の小説のと ころどころで彼女独自のこなれた文体に接 することになるが、それが﹁濃密な一声﹂への 志向から来ていることはいうまでもない。
しみを痛切に描いている朴姉繕の小説の真 髄といえる。一方﹃カメラと作業靴﹄の方は、 精押的外傷の経験の衝撃がどれほど涯杭的
に虚しいものであるということが明らかに なる。﹁涙ぐましいアイロニー﹂という言葉 がよく使われたことがある。家族たちの祈 願の成就が希望していた幸運をもたらさな
原因が不幸の選択から発している も 3 のであ ると考え、いかなる体制の下であっても生 き残れる技術者に育てて、無事安逸と凡庸 の幸福を望もうという家族たちの悲願が真
前述のように、一九五O年の戦争が残し た精神的外傷の経験の文学的処理が朴腕繕 の小説の主要モチーフである。しかし問い
めて大きいものであった。朴椀繕の一連の 世態小説は、産業化と都市化という巨大な 変化がもたらした破壊的で否定的な影響に
であり、死者の記憶がどれほどしつこく生 者を支配するかを、ひやっとさせられるほ どリアルに描いている短編である。不幸の
すぎない彼をついに廃人にしてしまった し、もう一方では廃人を連行してアカだと 責め立てるには気抜けしたのか、からかっ
対する中露穴な小説的反応を形づくってい る。人間の歪曲と価値観の喪失、そして拝
いこの短編のモチーフは、文学的成果はと もかく、我々の魂の無意識的存金芯向を顕 著にしているという点でこの先長く記憶さ れるであろう。イデオロギーは隠蔽するが、
たりいたずらをした後で、すぐには死なな い程度に銃傷をおわせて放り出したまま後
の文学作品が社会史の貴重な資料となると いうことは、文学社会学者たちが共通して
芸術は暴露するものであるという言葉を強 烈に想起させて僚らない啓示に富んだ作品 である。.
金主義と物質至上主義が産んだ人間の堕落 と社会の卑俗化のあれこれが繊細な筆致の 中に余すところなく捉えられている。良質 許える力を持っている。このような点で、 朴腕緒の小説は理念的両非論に立って、そ の痛みを訴え人間擁護を叫んでいるといえ る。いわゆる分断小説に分類される官聞が 全てそうである。
指摘することであるが、朴腕緒の小説が二 十世紀後半の韓国社会を忠実に反映してい る文学作品であるということは確かであ
理念という名のもとに仕出かされ 退した L た人聞に対する人間の暴行に対する痛切な 拒否が全作品に流れており、それが強烈に
つめてみれば、戦後の作家の中でこのよう なモチーフに背を向けた人があったであろ うか。にもかかわらず、朴腕繕の小説が圧 倒的にアピールするのは外傷的経験の原因 を提供した戦争に対する作家の偏らない視 点のためであるといえる。性急な理念的偏 向や屈折した視点は、戦争とその被害者を みつめる目を限定して、二刀的な罵倒や同 情を前面に出しながら生の悲劇性を襲損 し、安易な判断に導きやすい。左翼か右翼 かに全ての責任を負わせることによって、 現実認識を告発に切り替えるのである。そ の時あらわになるのは作家の政治的立場の みである。 いくつかの作品を通して、また個人的な 手記を通レて、朴腕緒は作品の中に出て来 る戦争の被害者の原型である﹁オツパ﹂(兄) が自分の家族史と個人史の中の実在の人物
78
NE WS F R OMT HE KORE A F OUNDAT I ON
海外での 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人
韓国国際交流財団の
フエローシップ・プログラム 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエローシッフ。およ
び韓国語フエローシッフ。を次のようにご案内いたします。
文・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについ て支援申請を受け付けております。
韓国研究フエローシッブρ
①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月三一日で、選抜の結果および支援 額については、同年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の『海外での稼国研究に対す る支援」および「車 豊国国際交流財団 のフエロ ーシップ・プログラムJ の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求め られます。 申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、 下記の住 所宛にご連絡願います。 韓国国際交流財団国際協力 1 部
選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。
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ス) を刊行しております。「コリア ・フォーカス」は日本のみなさんに 韓国関連の情報を提供して韓日 両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 同財団は「コリア ・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス J は、日本語版のほかに英文版K O阻 A FOCUS も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 コリア ・フォーカスが取り上げている
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記事は、韓国の政治・経済 ・社会 ・文化 などの各分野と、韓国関連の国際問題 に
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韓国語フヱローシッフ。 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者お
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成のうえ、該当年の五月三一日までに韓国国際交流財団に提出してくだ
2147号 電話: 82- 2- 753- 3464 2049 FAX: 82- 2- 757- 2047 ・
韓国国際交流財団は、隔月刊誌K O阻 A FOCUS ( コリア・フォーカ
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支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書と研究計画書を作
大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函
な資料と主な事件の日誌も掲載しており ます。したがって、韓国の時事問題に関
する情報性記事が幅広く盛り込まれてい て、韓国の現実にリアルに接していただ けるに違いありません。
よび適格の専門家に対して、韓国語フエローシップを提供し、六 一二 カ月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。 フエローシップを与えられることが決まった方には、韓国内の大学のう ちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料 と所定の滞在費が支給されます。 申請ご希望の方は、所定様式の申請書 を作成のうえ、該当年の五月三ーまでに韓国国際交流財団に提出してく ださい。選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 総国国際交流財団国際協力 2 部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函2147号 電話: 82- 2- 753- 6465
FAX: 82- 2- 757- 2047 ・2049 ~
“ 私のエレクトロニクス・カンバスは
ビデオ・アートの巨匠一一ナムジ、ュン・パク
レオナルド・ダピンチのように精巧で、 モンドリアンのように奥i菜 〈 、 ピカソのように自由で、
彼のエレクトロニクス・カンパスには
ジャクソシ・ボーラックのように大胆で、 ルノワールのように色彩豊かで、 ジャズパー・ジョーンズのように詩的だ。
韓国ソウル市中区太平路2街250三星本舘ビル TEL 822- 727・ 7114 FAX 822・ 727・ 7851
サムソンの製品が使われています。
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「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁でない男で、ある」
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ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なことにどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから、ホテルは、いつも、完壁でなくてはならない」 アール ムーア, Jr 氏の持論で、 す 。 ホテルロッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に出さない優雅なサービス」。 そしてこれはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります。
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・ソウルヒルトン (02) 753- 7788 ・慶州ヒルトン ( 0561) 745・7788 又は各ヒルトンインターナショナルホテル,ヒルトンリザλ ーシヨンサービスオフィス,膝行代理屈で取り扱っております.