ひとりひとりにドラマが生まれる。 シェラトン・ウォーカーヒル・カジノは、 ソ ウル市内でただ一つのカジノ。 ここには、訪れる人を酔わせる華やかな時聞が満ちています二 yレーレット、パカうえブ、 ラックジヤツ欠タイサイ. . . 。
本物のゲームだけが持つ興奮に出会 う。 本格的にカジノを楽しみたい方から、気軽にカジノの雰同気を味わいたい方まて: それぞれにきっとご満足いただけるドラマが生まれます二
シェラトンウォーカーヒノレ 韓国ソウル 電話 : ( 02) 456- 2121 金浦空港: ( 02) 666- 2121 FAX. ( 02) 455- 2121 干オフオフィス: ・東京 (日3) 3584- 0631 ・大阪 (06) 211- 3747 ・名古屋 (052) 21 1-1 515 ・福岡 ( 092) 414- 7707 ・札幌 ( 011) 242- 2121 ・仙台 ( 022) 266- 5228 ・広島( 082) 242- 21∞ ・ 香港 2721- 5325・ 台湾 (02) 565 2612 守
B _ I DI .J ; KC. J r ml
ビ ヨ ジ ユノくク
韓国の山河は、錦繍江山(錦に刺繍した
の景観が秀でているだけでなく、水が清く
ように美しい山河)と呼ばれるほど、自然
って作った小さな杓) 、 259点の一つ、桃模様のピョジュバク。朝鮮時代の作で、幅 12センチ、長さ 16. 5センチ。
て、全国どの渓谷でも流れている水をす
くって飲むことができた 。 このため、昔の
人は岩の隙聞から湧き出る泉の水を汲んで
飲むためにピョジュパクを腰に下げてよく
ヒサゴやヒョウタンなどを割るか、木を
歩いたりしたものだ 。ピョジュパクとは、
彫って作った小さい杓のことで、先人たち
が愛用した生活用品の一つ。様々の形から
ピョ ジュパクは、ヒサゴやヒョウタンで
なり、素朴な美しさが愛らしい。
作ったものを除けば、自然のいろいろなも のに似せているのが特徴。材料も数んである。
無病長寿の願掛けということで、ナツメの
枝を削って作った、仙家で言う天上の桃模
様のが好んで用いられた 。また大貝がその
まま杓に用いられることもあり、ケヤキの
実や根っこで作ったピョンュパクには漆を
塗って仕上げられたものもある。宮中や両
班家では腕利きの職人に作らせた青銅製や
銀製の、さらには青白磁のピョジュパクを
ε 使った 。 このほか、韓紙または皮 つ くりの
がついていて、そこに紐を通して腰に下げ
もあった 。把っ手の先に白銅製の輸の飾り
るようにし、 繊細ながら情の細やかな美し
さが込もるピョジュパクは、風流好きのソ
ンビ(官職に就かない学者)や旅人などが山
野で泉の水で渇をいやしてもらった愛らし い携帯品だ ったのだ 。 '
写真は、ジャーナリストであり文化財専門委員だった故丙庸海さんが高麗大学に寄贈したピョジュバク( ヒョウタンなどを割
c
勺﹀司穴凶mC Z由 。
水と
カバー・ストーリー 水は、すべての生物にと って生存の源を支える。人
韓国人の生活・ え化
間とて例外ではない。わが 国の場合、水は神話に始ま り民俗、文化、芸術の全領
4
域で欠かせぬ素材とな って きた。
宙ω
知 る め
ム 口
を明 水 夜
今回の特集 I!l}くと韓国人 の生活 ・文化』では、水に 関する韓国人の思想、民俗、 科学、芸術などの広範な領
10
域に亘 ってサーベイ してみ た。写真は京畿道楊平郡揚
韓国の伝統的空間と水
水村で撮った 、日昇り寸前
食柄林
の静かな河水の表情である
18
泉と井戸 と薬水
6 2
金光彦
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品ロヰ 土問干・:
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32
韓国の民俗信仰と水の意味
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林在海
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K ORE ANA
56
韓国画における韓国性とはなにか
2 6
朴容淑
コリアナ 大韓民国ソウル特別市中区南大門路5街526
100- 095
〒
柳済擢 佑芳
聖英 金林
燥烈
す︿集唱一
金李 付
集一・
刊雨 i彦 園 観光畑ト昇
制 約 編金 金 ア
定価
600円 (4, 500 ウォン)
発行所
韓国国際交流財団 大斡民国ソウル特別市中央郵便局 私書箱2147号 - 電話: 82-2-753c3462
. FAX: 82- 2- 757- 2047、2049 編集デザイン
ART SPACE PUBLI CATI ONS 大韓民国ソウル特別市鎚各区通義洞 35- 11 ・電話 82・ 2・ 734-7184
. FAX: 82-2- 737-9377 UKORE飾品{ コリアナ) J は強固国際交流財団が発行し
ている季刊誌です. 従って版権はすべて本財団側に あり、本財団の許諾なしに転議・複製することは禁じら れておりますのでこ7 承下さい. また、本誌掲載の記事 ・論文の内容は、本誌 の編集者また は本財団の意 見ではありません。
1987年 8月 8 日 登 録 斗 1033号 1996>手 9月 20日 印刷 1996年 9 月 30日 発 行 ( 毎年3 、6 、9 、 12月の4 回発行) 印刷所
三星文化印刷株式会社 ソウル特別市城東区華陽洞 167- 29 ・電話 82- 2- 468-0361 ・ 5
日ン
編集長
ア
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金正源 韓国国際交流財団理事長
割問 谷真 民写 の
発行人兼編集人
U町人 払男 湘 川 ち沫 た説 7 削 番 ス秀 釧 f 聞の いぷz
家 作
の そ と
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国
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鶴国国際交流財団の季刊誌
奇平
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1996年 秋 季 号
76
DI SCOVERI NG KOREA
韓半島の淡水魚 田祥麟
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CURRENTS
海外の韓民族と次の世代 金文: 換
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也 , :3.
水を治める知恵
チェイルナム
崖 一男 説 家
めるための努力の一端を示す適切な例のよ
とを窺わせる。これは我々の祖先の水を治 ない。日照りの終わりはあっても、長雨の 終わりはないという。火は焼け跡だけでも
が怒ると全てなくなってしまって何も残ら
水は包容力とやさしさの象徴である。水
水と韓国の諺
本来の性質を指す言葉であり、病気は人 々
もするということだが、薬というのは水の
るようなものも多い 。それが諺のおもしろ みではなかろうか 。病気にもするし、治し
わけではない。むしろ警句性のけちをつけ
これらは全て水の美徳だけを称えている
した諺が. さつと百近い 。
ほど水に関わる諺が多い国も珍しいであろ
もなく、お腹をすかせて泣かすとしたら、
に、そんな幼な子にミルクを飲ませる余裕
が唯一の実存の証明といえようか。ひと口 ひと口が文字通り血になり肉となる 。反対
験した。ミルクを飲んで、寝て :・寝て、ま
を抱いてミルク飲ませながら私もそれを体
る孫娘の幼児期と、つい最近生まれた孫娘
また耳ざわりがいい。人間の平和は、即ち
うに思われる。 残すが、大洪水があると、地上の文物は跡
の後天的な悪用をたしなめるということを
おり、ピョッコルという名は﹁ピョ(脅)の
第三の意味は、水流の利用にある。水流 形すらなくさらわれてしまうという恐ろし い性格をもっているからだ 。しかし、水は
表していることを知らなければならない。 と、息子の乳を呑みこむ音がいちばん美し
たとえば﹁自分の田んぼに水が流れこむ音
劇的ス トーリーを歌う)の﹃沈清歌﹄では妻
ソリ(韓国の伝統芸術のひとつで、一人で
なことでもやりかねぬ心情であろう。パン
親として心の辛さはいうまでもなく、どん
たミルクを飲んで・:を繰りかえすことだけ
う。水にたとえて世の中のあれこれを風刺 - こういうものではなかろうかということが 実感させられる。現在、小学校に通ってい
の利用がいかに重要であるかは、朝鮮王朝
日々の暮らしの中できれいなものの証しと
らせながら、この世を汚れさせる人間の貧
流れに逆らうと腐るものだということを悟
い﹂というのはどうであろうか。雨風順調
コル(髄)﹂、即ち﹁骨髄﹂に由来しているこ
てもわかる。太祖の李成桂が都を定めるに
を開く際、新しい都を定めたことだけをみ
して我 4の周りを取り囲んで流れている 。
で漢陽(ソウル)に変更した理由は、鶏竜山
で田んぼの水がいっぱいなら文句はない 。
あか
て中雀包場鶏竜山を押し通そうとしたが、後
当たって、はじめは重臣たちの反対を抑え
は水の使、が悪いということだった。漢陽に 欲を戒めたりする。
都を確定した朝鮮王朝は、その後、漢江の ﹁秋の水は牛の足跡に溜まる水も飲む と
を掘ろうという話が持ちあがったことがあ
らソウルの城廓のある南大門の外まで運河
る﹂といわれるほど暫し降るだけだが、こ
の父親)のひげを借りてでも雨宿りができ
いう諺がある。﹁秋の雨はチャンイン(妻
の水の引きこみロに流れこむ水の音が、ど
民は満ち足りた気持になるだろう。田んぼ
ある日慈雨を降らせて万物が蘇るとき、農
日照続きに漂う雲が気をもませたあげく、
一層せつなく聞こえる。
の最も遅い調子)の歌の文句。か、そのため
の沈清を抱いて歌う晋陽調(二四拍一長短
の郭夫人を亡くした自の不自由な沈氏が娘
水流を充分利用しながら発展した。漢江か
L
るが、これも水流を存分に利用しようとい
れほど心を和ませることか。
ことわさ
は、朝鮮王朝はじめの頃ばかりでなく、い
うことだった。このように水を治める知恵
の二つの諺は秋と雨の絶妙なハーモニーが よく現れている 。その国の民の生活ぶりを
すみませんが、奥さん 。この子に乳をやっ
端的に表すのが諺であるとすれば、わが国
音も 赤んぼうがごくごくと乳を飲み ﹂ vむ
つの世も重要な意味をもっ。
印
宝 bx m﹁ヲあと
6
回 目i割問( : ; ' ¥む=ミ)
G'
j.
ln
f G'"*
~I! ~I'Q
い悟りの論理である。﹁脳天から注いだ水
我々が必ずわきまえるべきことは大きく広
というのもしかりであ が足首まで流れる L
たやすく得られる賞は賞ではない。 ﹁水が流れりゃ船が来る﹂とい うのは、何
る。目上の人の行動が目下の人の行動の模
になった船にたまる水をいくら扱み出した をするにも先毎女件が欠かせないというこ
範になるという意味である。﹁上流の水が
てはくれませんか。
て、いつ 、どこでもただ流れているもので
とを巧みに説明している 。水だからといっ
ところで、どうなるものでもないからだ。
はない。﹁水は流れても浅瀬は浅瀬のまま
生まれて七日で母親を亡くし乳が飲みた 摘はどうであろうか。人聞は誰でも褒めら
というのは、一分 一秒の暇もないほど目ま
く使われていて 耳にたこ ができるほどであ
こと
り LR
﹁ただの冷や水も賞なら受ける という指
かわいそうな子なんです。どうか乳をわ れることを意識し ハそれに伴う馨貝に惑さ れる 。﹁冷や水を飲んで 冷たいオンドル部
ぐるしい変化の中でも事物の本体はそのま
る 。
くて泣いてるんです。
お宅の大切なお子さんに、呑ませて乳が
けてやってください。 屋で汗をかく﹂というようなもので、理
まあり、全て本人の心構丈にかかっている
に似かよったものであるが、あまりにもよ
とにかく﹁罪は犯した通りに現れ、水は
下る道に流れる﹂﹁水がいっぱいになれば溢
L
余っていたら、 に叶っていない欲だと人から瑚けられで
という意味である 。﹁水がなければ渡らず、
澄んではじめて下流の水も澄む﹂という諺
お腹をすかしている憐れなこの子に、 も、構わないと思いこむのだ。﹁真水に小石、
人情がなければつきあうな﹂という教訓の
L
どうか乳をわけでやってくれませんか。 らし、これといった努力もすることなく、
暮らしは水﹂のように真水のように共に暮 こんな哀しい話をもっと哀しく、その場 で断る諺もある。望みの可能性が全くない
れる﹂は平凡な真理を、月も満ちれば欠け
る順理に通じ、花無十日紅(者る者久しか
根拠がここで確保することができる 。 水をテ l マにしたひとつの諺の中で、
天から何かが落ちてくることを願う心情に
C
よく似ている 。﹁挙で水を切る﹂のように
かめ
軍司犬印
m F 2の
という意味﹁底のぬけた瓶に水がいっぱい になったら﹂がそれだ。次は、中部地方の 昆詰の歌詞からとったものである。 いい子だ、いい子だ。泣くんじゃない。 餅をやろうか、ご飯をやろうか。 いだけ。
餅も嫌か、飯も嫌か。母さんの乳がほし 珊瑚の粒、真珠の粒の山々。芽が出たら 来るとよ。 扉風の絵の鶏が、翼を広げたら来るとよ。 底の抜けた瓶に水がいっぱいになったら 来るとよ。 同じ水を飲んでも、牛は人閉までもが飲 F
という奥妙な自然の理にも叶っているよ
とわり ﹄
む乳を作るが、蛇は毒しか吐くことがない うに、水はまことに今様な顔をもっている といえる。田んぼに水を引くのも本人の努 だけを考える、いわゆる﹁我田引水﹂の考え
力しだいだ。自分の田んぼに水を引くこと だけを試みてはたいへんなことになりかね ない。今の世の中は﹁駄目になった船の水 を汲みだす﹂式の現象が多く見られる。根 本的な対策を講じないで、目先“ の方便で万 事を片づけようとするという意味だ。駄目
らず)と結びついて、あんなに苛酷だった た、と私は信じる。ただ権力の盛衰だけを
歳月を耐えるうえで少なからぬ役割をし 指しているのではない。何であれ、いっぱ いになった状態を長く持続させることは難 しい。山の頂上に立ったら、下りることも 学ばなければならないという順理はこの 時、悟らせられる。 諺ではないが、現代になって水に関連し た言葉が本来の意味とは相反する姿に猛ス ピードで変わってきている 。水の環境がそ の昔とは同じではないと同様、言葉までが これにひと役かっている。例えば﹁水がい い﹂というのは魚のような海産物の鮮度が いい時に主に使う言葉であるが、最近は低 俗な意味あいでも使われている。即ち、﹁水 がよくない﹂(鮮度が落ちる)というのは﹁味 が変わった﹂と同じく、どうでもいい人聞 を指す。女性でいえば、みずみずしさが蒸 り、男性でいえば、 一時はよかった羽振り
発して魅力がなくなったということであ
いう意味である。
がきかず、あまり相手にされなくなったと 障害なしに流れる水は、我々の社会の健
だったことから、世人には我田引水的な解
などっちつかずの両非、両是論的な内容
かった。世の中のことに頭を悩ませる市井
不変の真理を刻むことで満足するしかな
﹁山は山、水は水﹂の中に込められた万古
学の花を咲かせた孤山、表ノ差a坦は次のよう
西南海岸の海南に流され、わが国歌辞文
人の心を九万里長天(果てなき大空)へ伸びる。
まにか真理の究極にまで到達するほど韓国
全羅北道内蔵山の白羊寺入り口
が、流れずにたまっている水は﹁サス(死
人は、それよりスケールのはるかに小さい
康を支えるセンス(生水 H命の水)である 水)﹂であり、腐ってなんの役にも立たない
かねないという指摘が仏教界の内部でさえ
釈をさせることになり、不義を正当化させ
いつのことだったか、曹渓宗の宗正(大
という教えを噛みしめなければならない。
の入寂の後、明るみに出た、凄絶なまでの
そんな側面がなくもなかったが、大僧正
性苗師の跡を継いで宗正(僧正)になった
ている。
に落ちる﹂という言葉を、そのため記憶し
風の音、澄めども、しばしば絶えるを、
雲、麗わしかれど、しばしば黒かるを、
な詩を詠んだ。
修行の姿に改めて接して、人々は悟った。
月下僧侶も、釈迦誕生日の法語の中で﹁小
持ち上がった。
山であり、水は水である﹂﹁蜂と花が踊りを
奉祝法会でこんな教示を行なった。﹁山は
どうせ世の中のこととは一線を引いて長坐
川のせせらぎが即ち法門であり、山色がど
僧正)の座にいた李性苗師が釈迦誕生日の
踊るところを見ると、いっしょに遊びたく
不臥一O年、伺も話してはならない歎言一
﹁軒から垂れ落ちる雨水は常に同じところ
なる﹂こう語る法語は、時まさに軍事政権
O年の高僧の立場からすると、そんなこと
諺に遵戻りした方がよくはないだろうか 。
の時代であっただけに世俗的な生の虚無感
そんな水の清浄度、が今どうだろう。複雑な
あらむや。
いみじくも止まらざるものは、水のみに
を煽りたてるのではないかと豚い念された。
うして釈迦であらざるをえょうか﹂と言っ
ことわり
は眼中になかったであろうという理を難
そして少なからぬ批判が出た。禅問答式の
気持だ。+
なく汲みとったのであるサ
た。流れる水の泊々たる威力と音がいつの
法語や青山高峰から世の中を見下ろすよう
韓国の伝統的空間と水
ユピョンニム
食畑林
ィ九軒、
ソウル主義境大学院教授
JU'hu 行機に乗るやいなや、冷たし
・
F
げ仲1・を一杯、と求め 伊東洋人ど いえ 一 --J一ば韓国人をおいてぼかにない、 .
はや
べというのが外国航空会社のスチュワーデス たちの常識であるといわれる 。韓国人たち
は逸る心をしずめるために、まず冷たい水 一
を飲むという習慣があるわけだが、このこ
ている感情をのぞかせる一つの糸口である
とは韓民んが伝統的空間と水に対して抱い
といえそうだ。我々の先達たちは日常生活
の中で水を多様な方法で活用する知唱を身 につけており、それを生活の様 々な面に発 揮してきた。ソンピ(学識はあるが、官職
をよしとしない両班)の家の庭には、水盤 を置くか小池を作って、静止して動かぬ水
面を眺めて心の静けさを求め、また家の近
くの谷間などを流れるせせらぎをよく訪 ね、身近なものとしていた 。小池のある庭
園は、隠遁生活を送る志の堅いソンビの庭 であれば、ほとんど見られるものだった。
ソンビたちの水に対する欲求は賢沢では , あったが、雑念・ を払い、心を清める﹁洗心﹂
の苛段 であった。静かな水面を見つめなが ら同そこに映る自分自身の姿を通して深い
膜想に耽りもし、また、ある時には池の中
定 ( 主んが寝起きし、李応援する居間)
の前の庭には小さな水盤、漢方の薬園、見
たちのよい松の木、蜜蜂の巣箱が見え、ま
事な庭石、丈は低いが枝が横にのびた姿か
たサランの向かい側の 山の麓には瓦葺きの
亭と茅葺きの亭があり、瓦葺きの亭の前に は花木と石塁、松林などがある。小池には
竹筒を通して渓流の水が引き込んであり、
またその小池も 一つならず二つも作って庭 国 園で心ゆくまで水没楽しもうという趣向で
R
育、
ある。さらには h別霊の近 ペに の立 γ自が夏の盛げの情趣を
Fbx m ヲ1亡 臼﹁ 6
ヤンバン家の庭園づくりの全型を示す玉萱亭図( 上) . ; ' 章陽ソセ園 の内部( 左) 。岩からなる渓谷に階段、石堤、石; 也などを配し風 雅な趣にしている
小さく深くないのが普通だ 。渓流など水の
したがって、 一般住宅の庭の池は大体が
かった 。
朝鮮時代に別霊と呼ばれた別荘や高楼
ものとしたにちがいない 。 は、その敷地を物色するに当たっては渓流
め、渓流などから庭園の池に水を引き込む
流れる音も遠くて家には届かない 。 このた
に際しては水管先の上下を離して水を落下
や小川が近くにあることが前提のように
させ、その音に聞き入って水の情趣を味
なっていたため、庭に水を引き込むこと自 り、竹などで作った筒を通して庭の池に水
体はさほど難しいことではなかった。つま
などがその例である 。 この村の宋というヤ
の全ての住宅の庭に水を引き入れることも
ンパン家の水の引き込みは、ことに凝って
わったりした。両班と平民とを問わず、村
流れ落ちる水の音は、水の乏しくなる頃に は、また別の音響幼果となって感じられる 。
いた 。庭では曲がりくねった狭い水路に水
を引き込むのだ 。全羅南道濠陽にあるソセ
これを飛溝(遺り水)という。また、渓流近
苑は、その代表的なものである 。竹筒から
くの別壁や楼亭とは異なり、普通の住宅の
の音を響かせて、舎廊で水の音を聞くこと
を流し送り、曲がる箇所ごとに落下する水
のできるような工夫がなされた。チョロ
あった。たとえば忠清南道牙山のエアム村
いため雨期に地表水を溜めておくか、離れ
庭では水源と水量を思うように求められな ている河川や渓流の水を引いて来るほかな
12
は、まさに韓国の伝統的な庭のみの独特の
隠れするコイのゆったりとして動く情景
に眺める小さな池の中の蓮の葉の下に見え
チョロと流れる水の音に耳を澄ませて静か
間は、言うまでもなく彼らの家の庭である 。
ることにつながるからだ。その代表的な空
べてみることこそ彼らの生活空間を理解す
持って暮らしていたのか、ということを調
物について、どのような思いと価値観を
たどり解釈を試みることだろう。彼らが事
いう。この島には我々の祖先たちの考えた
た形の池の中には島がある。これを中色同と
は池という形を持って表出される。角張っ
浸ろうとした。伝統的な空間において、水
え現実世界から離れて、しばし仙郷の夢に
まの形で身近なものとして存在し、それゆ
かぶ蓮の花と葉などによって自然がそのま
になっており、人工的な山、つまり築山を
散策しながら庭園での生活を楽しめるよう
工的な造形を持つものが多い。池の周りを
きな池が造られ、したがって、その形も人
に、舟を浮かべて舟遊びができるほどの大
中国の庭園には、自然にある池そのまま
h 司 E天 目 白﹃失Ul 亡 y
情景といえよう。ともあれ、我々の先達た
伝統的な空間と水の関係は、庭園の様式の
とっているということだ。
ちは水に関する限り風流とはいえ、その希
のものと類似した池を配した、いわゆる廻
求するところ賛沢そのものであったと言わ
遊式の庭園があるが、その数はさほど多く
造って、庭園内に山河の形をできる限り再 ていた。いわゆる神仙田端心だ。しかしなが
ない。むしろ日本の庭としては、韓国の雁
現しようとした。 一方、日本にも庭に中国 ら、興味深いことは池の形が同じ儒教文化
ことのできる場であると観念的に考えられ の中心部母屋から離れたサランチェ(離崖)
圏にある東洋三国でそれぞれ異なった形を
神仙たちが暮らしていると、または暮らす
伝統的な空聞を理解するための最も身近
の裏の閑静な場所にあるのが普通であっ
中に簡明に現れている。おお.さつばに言う
で手っ取り早い方法は、その空間そのもの
た。そこには岩、松の木、池、その池に浮
と、庭園は伝統的に男性の空間であり、家
ヤンパン)やソンビたちの行跡や価値観を
を所有し、使っていた士大夫(門閥の高い
ざるをえない。
中国北京の願和国( 最上) 、中国蘇州め庭園( 上の上) 、日本京都の銀閣寺( 上)
14
図の形に似せたという)形式が伝播したも のといわれる平庭枯山水が有名だ。この平
鴨池(新羅の古都慶州にある池。新羅の地 えない。それにもかかわらず、池の水を通
日本の王宮のそれに比べれば大きいとはい
鴨池は池としての大きさでいえば、中国や のが特徴である。そのため、中色同までの橋
景観として鑑員できるように造られている
楼閣や廻廊を設け、中島そのものが 一つの
め、実際の庭に見られる池の水の持つ意味
広い海と深い山を表象するものであるた
庭に見られる砂地や自然石は、それ自体が
ソウルの秘苑(昌徳宮内の李朝宮苑)を訪
は韓国の伝統的な庭園で水が有している意
れると、その名も美しい季連池という池が
味とは事実上異なっている。
ある。夏の真盛りには、この池は蓮の花で
が架けられ、人々は歩いて中島まで行くこ
できた。こうした情景は、文人たちの詩画
かって周囲の風景を遠くから眺めることも
覆い尽くされる。濁った泥沼の中にあまり
とができ、また中島の亭の欄干によりか
にもしばしば描かれている。つまり、具体
に深遠なものだ。韓国の伝統的な庭園で水 を引き入れる際、水は空間を非常に深く、
的な物象を美しく配置することによって全
ソンビたちがそのすばらしさと美しさを賛
にも美しい蓮の柁が咲くゆえ、その昔から
して感しられる空間としての大きさは非常
国の庭園では、水の景観としては渓流の姿
るような長大な水景は、庭園の大きさその
広くみせる効果をあげるように使われてい る。 フランスのベルサイユの庭園に見られ
の地方の人々が考える理想的な環境(理想
体的に理想的な風景を造り上げ、それをそ
と河の形状を抽象的に表現している。わが をそのまま借景しており、その反対に池は
ものによって雄大な景観を意図したもので
庭枯山水では 、水の代わりに砂によって海
池は自然の形状よりは多分に抽象的な形態
方形に中島を築いたものが多い 。すなわち、
あり、韓国のそれとは性格を大きく異にす 伝統的な庭園にあって水に向き合う熊倖尻
物の抽象的な美しさを感じさせるような方
(出曲目巾)を通して眺めることによって、事
本の姿かたちを扉の枠や花窓という枠
郷)とみなモうとした 。さらには、花木一
うな実を結んでいるかについて 心を尽くし
も、それがどのような環境の中で、どのよ
のソンビたちは自然を眺めるにあたって
嘆しつつけてきた所である。かつての韓国
韓国の伝統的な庭園では、人が池を越え
をもって表現されている。
るといえる。その違いは、池の形や中島と
も、我々は中国人や日本人とは異なってい
て見極めようとし、その全てを究極的には
菊・蘭・竹という四君子が伝統的な庭には
思いを込めたものだ 。よく知られた梅・
るものだ。
は池のほとりで、あるいは建物の内部から
法をとった。
のためか、庭に植える花ひとつひとつにも、
道徳的基準によって見定めようとした 。そ
て向こう側に渡れないような造作になって
中色同を眺めることになる 。当然のことなが
の関係からもすぐに分かることだ。中国の
日本の庭園は、中国とは違って対岸に渡
の方形・中島の方式とは異なり、もとの自
からだ。初春に雪の中から頭をもたげたよ
必ず見られるのも、そのような由来をもつ
いるのがその特徴だ。したがって、鑑賞者
ら、中島にある松や柏の木、または竹や自
庭園では、中島には亭があるのが普通で、
れるようにはせず、戻って来るようにして
然の形に似せて造るのが原則だ。また、日
あずまや
に映るその景観は現実のそれとは異なっ
る。中国の庭園では、中島という概念は現
向かい側の対岸へと渡れるようになってい
え、島のなかほどに亭を造り、四方を眺め
実的な空間として表現されている。それゆ
本の庭園での水の扱い方は、中国庭園に見
儒教思想から見て価値のある対象としての
る。換言すると、見る者をして、具体的な
た、非現実的な事物として抽象化されてい
ある。また、日本の庭には亭がある場合も あるし、ないこともある 。池の形韻ヤも韓国
せ抽象的かつ観念的な対象として認識さ
自然物を一 定の距離をおいてこれを見さ
る。したがって、池そのものも舟に乗って
ながら景観を鑑賞できるようになってい 舟遊びできるほどに大きく造られた 。同時
られるような現実的自然としての水を意識
うに花開く雪中梅は、花そのものの美しさ
また、庭園の規模を大きくするにも限度
せる技法をとったのだ。 があるため池の大きさも制限されるのが普
よりも、孤高の気骨を表すものと考えられ
め尊ばれていた規範的価値が、より 一層重
く、ただソンビたちの概今佐-界において崇
粋な梅の花の美しさにはさしたる意味はな
より一層の比重を置いていたといえる。純
る道徳的な忠実であり、彼らはそのことに、
の美しさというよりは、それが表現してい
んで持ち込もうとした自然は自然そのもの
結局のところ、ソンビたちが、その庭に好
もソンビの庭にあって愛でられた花木だ。
たためにその価値が重視され、いつの世に
する能語民に似ていると思われる。枯山水の
てられた愛蓮亭がある
に、それが可能ならば池のまわりの四方に
え、狭い空聞を大きく感じさせるためには
3P司犬∞m﹁ ﹃失U C
ソウル昌徳宮秘園の愛連池。真夏ともなれば一
通であった 。そうした場所で心に潤いを与 具体的な空間要素を省略し、物理的には 我々の身近にはありえない対象を設定する きない彼岸という要ふが韓国の伝統的な庭
技法が用いられた。つまり、渡ることので
慶州の雁鴨池を訪れると、そこにも中島
園空間には存在しているのだ 。 がある。雁鴨池の造りで注目すべきことは、 池のまわりのどこに立っても、池全体の姿 を一望のもとに眺めることはできないとい うことだ。そのように造ることによって、
要な素材として意味を有していたといえる だろう。 秘苑にある芙蓉亭は大変美しい亭だ。そ
15
さほど大きくもない砲が広大な空間である 0 かのように悪しさせているのだ ・ 実際、雁
面蓬の花が満開する。池の北側には 17世紀に建
DP司Xm 、失川Vi C 印 戸
の姿は、池の上にあって、まるで人が谷川
の水に足をつけているような風姿である。
建物の半分は土の上にあり、あとの半分は
る活来亭もそうだし、懐徳の南潤精舎も同
水の上に突き出している。江原道江稜にあ
じスタイルだ。ところで、なぜこのような
独特な造形が生まれでたのかについて不思
たちの自然観に関連、つけて考えてみたい。
議に思う 一方で、筆者はその理由をソンビ
昔からソンビたちは、君主の請いを受けて
治世経論の意味を説き、これが受け入れら
れないときには、野に下って都から離れ隠
居するというのが正しいソンビの道である
と信じていた。そのため、隠逸生活と言え
ば、それはそのままソンビの生投与刀を指し、
したがってソンピの詩画にはそうした隠逸
生詰を描写したものが多い。その中でも、
夏の盛りに谷川 の水に足をつけてのんびり と遊ぶ、いわゆる ﹁ 濯斯、濯ロバ﹂ということ
ばは、俗世の欲を避けて悠々自適の生活を
送るソンビたちの姿勢を代表するものだ。
このような価値観こそが、ソンビが事物
を審員する際の基本的な姿勢であったため
に、彼らが日常的に暮らす庭園と亭にもそ
うした価値観が表現されたといえる 。亭が
池のほとりに二本の足をつけているように
二本の柱を突き立てている形は、そのまま
ソンビが水辺で濯足(足を浸す)しているか
のごとき姿だ。したがって、庭に存在する
水辺の亭はソンビそのものを意味し、その
姿かたちもソンビの生きる姿勢そのものを
表現している。韓国の全域にわたって、濯
による。多分、亭をそのような形に造るこ
斯という名の亭が多いのも、そうした理由
たのであろうし、それはつまり理想像に少
とによって、もう少し中島に近づこうとし
しでも近づこうとする意図があったから
だ、と解)て. もそう的はずれではないだろ
16
軍司犬稿写あ亡
時計四りに李慶胤の山水人物画帖 10幅のうちの「高士濯足 」 、昌徳宮秘苑の芙蓉亭、
麗州の雁鴨池 (右) 、 江陵の;舌来亭 ( 下) 慶尚北道漆 谷 の舞j斤蓮権。
2P司穴∞m戸﹃条 M1C
の価値観を庭という自然の 中 に現実的に表
ぅ。このようにして、ソンビたちは、彼ら
現し、そうした方法によって彼らの価値観
を理解しようとしていたのだ 。 このような
断片的な観察からもわかるように、我々は
伝統的空聞を理解するにあたって、単純な
翠見的美しさを超え、ソンビたちの精神世
17
界を読みとることによってのみ、その中に
そのままソンヒが‘ 水辺で濯足( 足を浸す)
しているかの J ときさをだ
龍められている真の造形の意味を波み取る
二本の柱を突き立てている形は、
ことができるのだ。争
亭が; 也のほとりに二本の足をつけているように
井戸と薬水
て水を扱み上げる今日の井戸で、ポンプの
そしてチャクトウセムはポンプを利用し
る 。
ひょうたんを割って作った小さなパガジ)
石の重みで上がってくる仕掛けになってい
やチョクパク(小さなふくべで作った水浪
取っ手を上下させる動作が必要だが、この
トウレセム・チャクトウセムに分けられ
L 一市E曹ころを指し、韓国語では地域に ーー-ノよ ってセアム・シアム・セムト
動作がチャクトウ(押し切り)を用いる仕草
る。チョクセムは、ピョジュパク(ひさご・
などという。中部以北の地域では家の中か
い泉を言い、俗にパクウムルともいわれる。
に似ていることに由来した名杯である 。
み)パガジなどで浪むことのできる底の浅
レッテ(つるベを吊るした竿)を設けてある
トウレセムは、つるベをぶら下げたトウ
み上げるところを井戸、共同用の浅くて 人々が座ってパガジ(ふくべを二つに割り
これを区別せず、ふつうセムと呼んでいる。
け、綱を引っ張ってつるベを泉の中に落と
泉を言う。竿の片方には石の重りを縛りつ
から湧いて小池のように水溜まりのできる
ば岩の透き間から湧きでる売出泉、くぼみ 池状泉、地下水が地上のあちこちに湧き出
ろを泉と言い分けているが、南部地方では
I C
してから手を放すと、水を混んだっるベが
軍 司RMm
三 の
泉は水を混む方法によってチョクセム・
また、泉水の湧き出方によって、たとえ
中身をくり扱いて干した容器)で汲むとこ
村落内の家の外にあって、つるべなどで浪
fl俗、とは地中から水が湧いて出ると
泉 と
キムグァンオン
金光彦
﹁長問大学教綬・民俗学
; 斉州島の三姓穴の近辺にある薬水の出る泉。
温泉水が湧き出るように泉水が岩の隙聞か ら湧き出る
18
軍司犬印戸ヲあと
慶州校洞( 町) にある金庚信 ( 新羅の名将) の
角形に組み合わせている
卵の入っている泉水を最初に浪み上げて、
た。正月初めの辰の日の明け方に行なわれ る﹁竜の卵取り﹂の風俗がそれである 。竜の
泉の中に入り込んで卵を産むと信じてい
昔の人 々は、泉を神聖視するあまり竜が
だ 。
の泉)などに喰えるのも、同じような理屈
官をチムセム(唾の泉)とか、タムセム(汗
を分泌するとか、または体外に排池する器
湧く﹂と喰える。身体の中から特殊な液体
なく、湧いてくることを﹁力が泉水の如く
る源の比喰に用い、新たな力が止まること
るセストという語は、泉水のように湧き出
る。また、韓国では泉のある場所を立案す
泉水のような不滅な王朝を夢見たのであ
るわけだ。スタートしたばかりの新王朝は、
鮮朝も永えに栄えよ、との祈願を託してい
した﹃竜飛御天歌﹄は、﹁深きより湧き出ず る泉は、長き日照りに干ることなく川をな し、海へ流れ込む﹂と歌っている 。深所よ り絶えることなく湧き出る泉のように、朝
命力を見いだした。朝鮮朝建国の事跡を-記
て、韓国人は尽きぬことを知らぬ旺盛な生
泉水が絶えることなく湧き出るのを見
て湿地をなす湿地泉などに分けたりする。
生家の井戸だったジャメ井。模様の石材で正四
20
竜は雨を象徴する動物であることから、そ
れ、主婦はその日の未明、泉へ駆け付ける。
ご飯を炊く家は、その年豊作になると言わ はひと昔前まで残っていて、村や個人に異
勝つであろう Lと叫んだという。この俗信
た後﹁水の味は変わっていない故、戦いは り)を上げるところもあった 。 この亙女祭
ることのないよう﹁セムクッ﹂(泉の亙女祭
呼ぶようになった 。
井戸は、ふつう地中を掘り進んで、その
りは、一般に村の守り神のための祭礼の後 中に水が溜まるように仕掛けた設備を言う が、これが﹁土井﹂であり、また岩の透き 泉は死の病なども治すと信じられた。床
を積み上げて壁とし、地上には井の字型に
を﹁石井﹂と称している 。土井は周りに石
間から湧き出るとか溜まるように作ったの
で泉のところに、移動して行なった 。
に伏した、酒好きの父親を介護する孝行者
変が起これば、大同泉(村の泉)または当人
がいた。貧しい息子は酒の代わりに泉水で
の卵を手中に収めれば豊年を迎えると考え
泉の持っている神通力は災いも除いてく
昔の人々は、井戸に神秘な生命力が宿っ
丸太を積み主けて仕上げる。
y ク チ ョン
れる。全羅北道地方では、油を入れた小皿
も、と毎日朝な夕な泉に通い詰めるうち、
の家の泉水がざわつくものと考えたそう
あった。百済軍を撃ち破って帰国した金庚
ある日泉水が酒となり、これを父親に飲ま
ていると信じていた。新羅の始祖朴赫居世
たのだ 。
信(新羅の名将)は、百済軍が再び攻めてき に棉の芯を浸して火をともしてから泉に浮
は薄井という井戸端で卵に生まれたし、そ
だ
たという知らせに接するや戦場に向け馬を
e ころ広病が治った 。そ せたところ、立ち と
また泉の水は、安危を告げる徴候でも
馳せるに先立って部下に命じて家の井戸の
れ以来、村人たちは、その泉を﹁喜平成省衆亡と
21
また地方によっては、泉水が汚れず尽き
河川や渓流から引いた水が木に彫ったくぼみを流れ落ちる( 下) 。
かべる 。そして一年の災厄を放うのである 。
岩の隙聞が湧き出る水を溜めておく石井( 上) 。
水を汲んで来させた。そして、それを味わっ
軍司 式 的 問ヲあと
地中を掘って作った井戸は、 周囲を石築の壁とし、地上には丸太で井字形の枠組みを設ける( 上の上) 。
軍司究開戸空のと
だ。その子が党一国師で後には大国債のソ
げて飲んだところ身ごもって男の子を産ん
前の石の井戸(石井)に映った朝日を汲み上
ハクサ村に住んでいた、ある娘が堀山寺の
た江原道漠州郡には、こんな事請もある。
て離れない。そこで、自分の不届きを悔い、
ひさごを口にしたところ、口元にくっつい
きを覚えていた部下は水を汲んでくる途中
で来いと言い付けた。ところが、自分も渇
登ったが喉が渇いたので、部下に水を汲ん
昔脱解が幼かったころのこと。ある日山に
行ないをした者を罰する。新羅第四代王の
井戸には神通力があって、道理に外れた
は雨がほどよく降ってくれるものと信じ
の水を特別に﹁豊作の水﹂といって、その年
一杯の井華水を供えて豊作を祈ったが、こ
慶尚北道月城郡地方では、旧暦二月一目、
あった。
とし、水呑み百姓は 一杯の井戸水を供え物 にするだけで婚礼の儀式をあげることも
杯の井華水は、祭儀のお供えには不可欠だ
じれば特別な霊験があると信じた。また一
といって、天に願かけをするとか、薬を煎
て、日昇り前と日暮れ後は、よその家の井
習わしだった。この習わしは今も残ってい
福を持って行かれるということで追い返す
後に自家の井戸水を汲みに来ようものなら
のと考えた。このため、よその者が日暮れ
清めた。
井華水をクッを行なう広場の周りにまいて
女の放い儀式)を始める前に、灰を混ぜた
のがあると考えられた。亙女たちはクッ(亙
海に通じるという考えから来ている。
ナンの神(城陸神 H村の守り神)になったと
二度とこういう真似はしまいと誓ったとこ
村の大樹の周りは男性の憩いの場となっ
戸水を汲みに行かないのが普通だ。
一般の家庭では井戸水を福をもたらすも
また井戸は竜宮の出入口とも考えられ
ノ 。 lv ﹀h
た。もともと竜女であった高麗太祖の祖母
た 。 未明に、汲み上げた井戸水は﹁井華水﹂
井華水は、悪鬼を被う霊験あらたかなも
ろ、やっと口から離れた之いう。
宮に出入りしたといわれる。これは井戸が
チョンファス
は、開城にある大井という井戸を通って竜
の妻も闘英という井戸の脇で生まれた。ま
ソウルの宗廟にある丸い石井( 上) 。泉が湧き出て、こぼれ落ちるようにした石作りの泉( 下)
22
交場でもあった。村の主婦は井戸から水汲
ていたが、これに対して井戸端は女性の社
せれば仕事姿になるのだ。井戸端へランデ
の外出が禁じられていた茸、水瓶を頭に載
かなデ lトの場でもあった 。日暮れ後、娘
また、村共同の井戸は若い男女にはひそ
と言う。また井戸端で遊んでいた子どもが、
込むやり口を﹁井一 戸の幽霊の手口みたいだ
分は何とかすり抜け、代わりに他人を引き
﹁井戸の幽霊﹂と呼んだ。厄介な問題から自
者、が井戸に身を投げることもあったから だ。人々はこのように死んだ人の霊を恐れ、
大きい村ではいくつかの井戸を掘って、道
井戸は、多くは村の中心部にあったが、
かで、子どもも落ちないよう守り給え﹂と
みをするほか、野菜洗いや簡単な洗濯をし ブーに出掛けると怪しまれない。先に来て
論ともいった)のため、ささやかないさか
咲かせる。こうした井戸端会議(井戸端公
あった。
い引きはこの上なく楽しく切ないもので
の山であったけれども、それだけにこの逢
恋のささやきを一一、.三言交わし合うのが関
持﹂とも言う。 このため忠清南道の瑞山郡
状能芋}﹁井戸端に子どもを遊ばせている気
ため 、何か事が起こるのでは、と不安がる
井戸に落ちるといった事件も起きた。この
の一つに井戸契ができた。井戸の管理は毎
こうした仕事のために契(韓国式頼母子講)
は、使用者が共同で受け持つようにした 。
た。そして井戸の掃除や施設物などの管理
て何軒かの家を指定して井戸を共用させ
や小川を境にするか、それとも地形に沿っ
祈る習わしがあった 。
たことから、どうしても井戸端で過ごす時 待っていた若者と暗闇に包まれた井戸端で
L
は、村の噂や子どものことなどに話の花を
聞が長い。それで井戸端に集まって女たち
いが生じもするが、井戸端は庶民層婦人の
飯を三匙井戸に投げ入れながら﹁水が清ら
地方では六月流頭(旧暦六月一五日)の日に
メンバーたちは年に初春と梅雨期、秋の収
年、契のメンバーが交わる交わる行ない、
ギ孟
仕事場であり、憩いの場であり、社交場で ところが、井戸端は、いいことずくめな
Ep bR臼 田空のと
23
のではない 。ときたま、恨み骨髄に撤した
社交場、情報の交換場でもあった
あり、世の中の事情に触れる教育の場でも
雪獄山の五色薬水の泉( 上) 。全羅南道筏橋の民俗村にある楽安城の井戸( 下) 。
あった。 h J P ﹀泊↓ 印 わm
使い水が流れるようにした石作りの溝が異彩を放っている。井戸端は婦女子たちの作業場であり、
印
E E Am W 2の 亡 I
ひそかに使いをやって、
占宰になる占良が 7]<.. を節約する ようによくしつけられて いるかどうかを五在かめた
ていたのだ。
男の子をもうけ、幸せに暮らせると言われ また、節度を重んじる家庭では嫁を迎え る前にひそかに使いをやって、嫁になる娘
すると、福が去ってしまうと信じたからだ。
昔の婦人たちは、およそ水を節約して
筆者の家にも井戸があったが、私は幼い時
るかどうかを確かめた。みだりに水を浪費
波み上げた水は、必ずつるベを傾けて一部
が水を節約するようによくしつけられてい
を井戸に一戻したし、湧き水のセよトでも、
分から水を節約して使うようにと祖母から
山岳地域では井戸水を汲むとき、三度目に
同じように三度目にすくい上げたふくべの
使った。たとえば、西南地方と東南地方の
が出し合った。
は、村中の家、が契のメンバーになることも
ムジルグムジル﹂といった。そうしてこそ、
水の一部を泉に戻したが、これを﹁チルグ
埠を迎える前に
あった。そして必要な経費は契のメンバー
また、村人全員が 一つの井戸を使う場合
穫後に集会を行なった。
節度を重んじる家庭では
みだりに水を浪費すると、
ヤタス
薬水とは、飲んで身体のためになるとい
都会における住宅の井戸は、一九七0 年
医者の治療を放棄しヤクストの近くに長い
水を迎える﹂といった。場合によっては、
を飲むか、あるいは身体を洗うことを﹁薬 代に入って冷蔵庫が広く行主法る前までは
ほどだ。この水を長いこと飲んで胃腸病や
間とどまって、薬水服用に励む者もあった
すL か ま く わ
マトなどの果物を井戸に浸して冷やした し、ご飯やキムチ入り容器を入れた龍を井 戸の中の壁に垂らしておいて、鮮度を保た せた。
有名なヤ究ストの近くには、薬水の神通
神経痛、糖尿病、皮膚病などを治した者も いるという。
冷蔵庫代わりをした。西瓜や真桑うり、ト
れた。
われる泉水のことで、病を治すためにヤク
薬水は鉄分、カルシウムなどが多量に含まれてた鉱泉水で、薬効があるとされ、人の足が絶えない
の世に行って、自分が無駄に使った分量だ
国立公園周王山の達基薬水泉近くの食堂街( 最上) 。達基薬水場の中の薬水の泉( 上の上) 。
厳しくしつけられた。水を浪費した者はあ
周王山近くの青松にある有名なシンチョン薬水泉( 左下) とその薬水の落下する光景( 右下) 。この
スト(薬水の泉のあるところ)に行って薬水
信じられていたからだ
け飲まされる罰を受けることになると言わ
福が去ってしまうと
24
力を守ってくれる山神聞や城陸堂(村の守 この薬水の泉近くに現れると、大きな青大
水が五つの色彩を帯びているといわれてい は、狩人の弓に当たって追われていた一匹
れるところであり、麟蹄郡のパンドン薬水
トは地下から怪力の持主が生まれたといわ
のタルギ薬水は、鶏とうるしの木を入れて
い。慶尚北道青松郡にある周王山国立公園
を煎じて薬として服用することも珍しくな
る 。
煮込んで食べるところとして知られてい
る。喪中の家から帰る者など、不浄な者が
の践が傷口を泉水に浸して逃げのびるのを
り神を杷る大木)、または祭壇が設けてあ
見て、薬水泉と指名されたという。
ることが少なくない。熱心な者は毎朝﹁薬 将が出て来て生害を加えるだけでなく、薬
科学的な分析によると、薬水も普通の水
水の泉も干上がってしまうと信じられてい
とあまり変わらないという。鉄、カル‘シγウ
水の供養﹂を怠らず、自ら飲む前に必ず祭
このほか、薬水の泉であることを仙人に
壇に薬水を供える。また﹁薬水祭り﹂と言っ
教えられたと言われる泉は枚挙にいとまが
た 。 江原道には、また全国的に名の売れた薬
て、年に二回ずつ定期的に祭礼の儀式を行 なう地方もある。
多く含まれている鉱泉水に過ぎないとい
ム、マグネシウム、ナトリウムな、戸
薬水は、生で飲むよりは鶏、鴨、キジ、
ないほど多数ある。
い者には健康に役立つ ﹂ v ともあるが、そう
う。だとすれば、これらの無機物の足りな
主え々の薬草を
加えて煎じ、薬のように
少なくないが、
んどが雪獄山を中心とした山奥に位置して
イノシシなどの肉に数奇の薬草を加えて煎
水の泉が二O余に上っているが、そのほと
じ薬のように飲むことも少なくないが、蛇
ヤクストには、それぞれの霊験と神通力 おり、それぞれヤクストにまつわる伝説が
イノシシなどの内に
オセクヤクス
ある。三捗郡のワンパウィ(王の岩)ヤクス
飲むよりは鶏、鳴、 キジ、
を述べる伝説が伝えられている。 江原道裏陽郡西面五色里の五色薬水は、
でない者には重金属宝毒になる危険すらあ
るという。
薬水を飲んで病気を治したという人は、
薬水の薬効よりは心理的な期待感と合わせ
の中で身心を休めたことが治療を可能にし
て、複雑な日A E事から解放されて自然景観
た要因であったろうと思われる。そして薬
物による治療効果を期待する心理は韓国人
7﹂ 畏 にこと強く現れる、水に対する神秘球
敬心によるものであろう。
ソウルの霊泉洞(町)とか薬水洞(町)など
といった町名にまで登場しているのを見る
飲むことも
と、われわれの薬水に対する関心と期待の
薬水は、生で
大きいことが窺われる。'
25
朝鮮時代半ば五色禅師が発見したもので、
深山の野生の人参を堀り当てる人( シンマニ) によって 世に知られたといわれる江原道の麟蹄の有名なパンドン薬水
国の科学技術史において水と関 され、大きな川や小川にはそこを人々が渡 とにする。
のが使用されており、この頃になって初め
ということは、当時すでに水醇計というも
心町並連したものを探してみようとす れらすべての分野において、韓国の科学技
る役所が水時計に関する仕事だけに携わっ
れるように橋をかける技術が発達した。こ
-tE一 る と、いろいろなことが 思い浮 術的な歴史はかなりの内容をもっている。
水時計は韓国の科学技術史においてかな
たとは考えられない。漏刻典という名称の
h ' A a かんで来る 。農耕社会 においては水という また、その内容の中には隣の国々よりは
の科学史の主題のひとつということができ
り有名た。大衆的な関心が極めて高い韓国
て水時計を管轄する役場かできたというこ
のは生存の最も根源的な要求条件である。 少々先をいっていると思われる成果も少な
いたはずである。当時の記録が天文官署を
下に水時計とその他の関連業務を担当して
水時計
雨がたくさん降って洪水が起きれば誰もが るであろう。
時計の絵が描かれていることからも分か
用したが、このために三国(高句麗・百済 ・ そのような大衆的な関心の高さのほど 新羅)時代以後ソウルと地方のあちこちに は、韓国の墨田同額の紙幣一万ウォン札に水
おいても天文と水時計は同じ機関において
ことから考えると、そしてその後の歴史に
別途に設けていることを指摘しないでいる
氷の倉庫(氷庫)が作られた。
とである 。とはいっても、水時計を担当す
被害を被るが、まだ都市というものがな くない。例えば、冬になると川に張 った氷 を倉庫に貯蔵しておいて夏にはその氷を利
かったその昔に逆のぼると、洪水はそれほ しかし 、雨が少ない場合は農耕社会におけ
ど大きな問題にはならないこともあった。 る被害が絶対的に深刻であった 。日照りは
担当したという事実から推すと新羅の漏刻
典というのは天文学も一緒に担当した盆所
水時計とは古代文明のどこででも韮見す
であったようだ 。
ることができ、従って取り立てて言うこと
もない水関連の器具だともいうことができ
る。八世紀の新羅にだけ水時計があったわ
けでもなく、それよりずっと前から三国の
どの国にも水時計があったことは確かであ る。また、水時計は 三国時代 に続く亘麗に
の成果を見ていけば、こういった面でも
韓国の歴史上、水と関連する科学技術上
英実は韓国の伝統科学の代表として広くそ
最も代表的な自動水時計を作ったという蒋
る。また、一五世紀の初め、世宗大王代の
関する記録がないということは、即ちその
像するのは難しい 。そして当時の水時計に
当時の水時計がどんなものであったかを想
ら、水時計のあったことが分かる。ただ、
水と韓国 科学史
もあった。﹃高麗まやその他のどこにも高
麗時代の水時計そのもの関する記録はない
が、高麗時代の天文官署には水時計を担 その昔の人々の生存に絶対的な脅戯であっ
数々の話を繰り広げていくことができる。
の名を轟かせている。
当した官更がいたとの記録があることか たため、わが国の歴史には数多くの日照り
このように水に関する伝統科学技術史の主
かと思えば 、水の流れを せきとめてあち
作って使いもした。勿論、祈雨祭も熱心に 行なわれた。
比較的研究も進み、よく知られでい
届かず、まだ分かっていないこ とが多い。このため、ここでは
については、未だ研究が充分に行き
本と似かよっている。しかし、水の科学史
である。﹁水時計を担当する役所﹂ を設けた
年に漏刻典という役所を設けたということ
時計に関する記録が出てくるのは、七一八
国史記﹄に残っている 。 この地に初めて水
新羅時代には水時計を使用した記録が﹃三
歴史に初めて登場する水時計ではない。
た技術者があらわれ、当時としては珍しく
四代世宗大王の時代には蒋英実という秀で
の標準時計にしたという記録が現れ、特に
鮮王朝時代の初めには水時計をもって国家
存在は記録するまでもない当然のものだっ
題のうち、かなりのものが隣国の中国や日
こちに水路を作ったりもした 。そうするう
るいくつかの主題だけを選んで紹介するこ
このよ うな水時計の伝統を継承して、朝
たからであろう。
ちに土木技術も発展した 。また、海と川に はそこを航海するための船が作られて使用
しかし、蒋英実の作った水時計が韓国の
り、水を上に汲みあげるいろいろな水車を
とその被害が記録されている。日照り化対 処するために堤防を築いて貯水池を作った
の
26
名前は韓国人にとって身近さを感じさせる
いが、何よりその水時計のために蒋英実の
時計、自撃漏は今その痕跡すら残っていな
て軸の俸が上がって、その売が指す目盛り
ばん下の水筒の水位が上がればそれに従っ
て、水の流れを一定に調節しておき、いち
計は二段または三段になった水筒を連結し
かったようである。おそらく伝統的な水時
この水時計は自動的に動くものではな
置を施し、それを撃発させる動ぎに従って
在来式の水時計の軸棒にいろいろな撃桑装
撃漏の実体を知るのに役立っている。蒋は
つの水筒の遺物が残っており、蒋英実の自
より 一世紀後に作られた後世の自撃漏は五
るが、遺物は残っていない。しかし、それ
は﹁世宗実録﹂などに詳細な記録が残ってい
四年に自撃一漏を完成した。自撃漏について
とにかく彼の自撃漏は、当時のわが国にお
り優れていたという証拠はない。しかし、
実の自撃漏が中国やアラブの自動水時計よ
な自動の水時計を作った記録があり、蒋英
先だって中国やアラブの人々が極めて精巧
たかを手にとるように知る術はない。彼に
の時計の中で、いかに斬新な水時計であっ
記されている。しかし、彼の自撃漏が世界
砂田拝賀されたといわれる。
歴史上の人物になっている。といっても、 を読んで時刻が分かるように仕掛けたもの
いては時代の最先端をいく水時計であった
またすばらしい水時計を製作したのであ
彼の製作した水時計はひとつだけではな
ことは間違いない。また、彼はこの時計を
る。彼が一四三四年に完成した自動式の水
く、少なくとも三つはあったと考えられて
ようにし、さらに人形が出たり入ったりす
時刻を知らせる鐘、銅羅、太鼓の音を出す
そんな在来式の水時計を彼は一0年間に
と思われる。
作るに当たって、中国の文献から装置に関
する部分的な資料を得ることができたが、
るようにするなどの巧妙な装置を施したと
いる。東来の官奴の出身であったという蒋 渡って研究し、工夫しなおしながら 一四三
ようだ。それだけ蒋英実の自撃漏は、当時
大部分は彼の考案によらざるをえなかった
としては卓越した発明品であったというこ
とができる。
この自動の水時計を作った蒋英実は、世
宗大王に褒められて自信を得た。その結果、
彼は再び一層精巧で、目的のやや違う水時
計であり、天文装置である玉漏を作りはじ
め、四年後の一九三一八年に完成した。これ
が彼の三つ自の水時計だった。勿論、玉漏
はただ単に自動的に動く水時計ではなく、
時聞を知らせる装置に加えて、太陽と月の
運動もそのまま再現させ、さらに農夫の畑
を耕し種をまく姿を人形で見せた。これら
に精巧な装置であった。自撃漏のように、
が、全て自動的に動くようにした、まこと
その遺物が残っていないとはいえ、誇るに
以上のような自動の水時計に関する記録
値する装置だったことは確かだ。
の製作技術がかなりのレベルに達していた
から、我々は当時、水を利用した自動装置
ことを知ることができる。このような水の
流れを動力に利用した﹁水激式﹂装置は、水
時計の外にも当時、製作された天文器具の
27
は一四二四(世宗六年)には既に吾ん点之器﹂ という優れた水時計を作って世宗大王から
﹀訂↓白羽 P 口m
世宗王の頃、蒋英実の作った水時計
の正宮)慶会楼の蓮池の北側に作られた浬
いる 。例えば 、世宗大王代に景福宮(李朝
いくつかに利用されたという記録が残って れないように鉄の釘を打っておいた 。そし
せた後、その上には敵兵がよじ上 って来ら
部分をなくし、代わりに半丹形の蓋をかぶ
て、さらに船の先に竜の頭をあしらい、秀 銃砲を発射したといわれている。そして後
吉軍の船が攻めて来たときは、そ の口から
煙が出るように改めたようだ 。告軍船 は鉄
儀と運象などの天文器具も水激式装置で する方式は、このあと 一七世紀の 天文 器具 にも利用されたという記録がある 。しかし、 甲をかぶせた構造になっており、世界初め
あ ったとされている 。水を動力にして活用
水の動力への利用は、民間ではあまり行な
レベルであったということを示すものでも
K9るのに劇的な役割を果たした戦船 を撃艮 として広く知られている。そして 、この船
壬辰の倭乱(文禄 ・慶長の役)の時、日本軍
を挙げることができるであろう。亀甲船は、
国史が残した代表的なケ lスとして晶軍船
次は、水に関する技術上の業績として韓
ような神秘的な存在でもある。その理由は、
このように亀甲船は我々にとって神話の
ての潜水艦であったと記しているが 、この 記録は勝手な想像によるものであろう。
半世紀前のある書物は亀甲船が世界で初め
これは未だ正説ではなく、鉄甲で覆われて いたことは確かめられてはいない 。ま た、
覆われていたという証言もある。しかし、
つにつれて次第に神秘化したためと思われ る。李舜臣は亀甲船を作り 、その船団を指
に絶大な役割を果たしたことから、時が経
おおかたこの亀甲船が李舜臣の秀吉軍撃退
甲船はそれまで製作され使用されていた伝
しかし、亀甲船に関する多くの誇張的要
揮した海将だったのだ 。
なって編纂された ﹃ 杢ゐ山武公(李舜臣)全書﹄ に、二種類が簡単なスケッチで残っている
ていない。また、亀甲船の絵もかなり後に
であったということを物語っている 。告軍
しても使われていた板屋船がすばらしい船
の主力艦隊であり、また漕運船(運送船)と
た船だったことは確かである。それは当時
なる朝鮮特有の造船技術が見事に活かされ
まで発達していた日本や中国のものとは異
のみだ。勿論、亀甲船はこれまで知られて
船は、船の下層部の長さが約二0 メートル、
素を無視するとしても、この船はその当時
いる事実から言っても、たいへん特殊な船
の形や大きさに関する資料はあまり伝わっ
だったこ とは確かである 。板屋船の甲板の
が明らかにされている。ところで、この船
良して新たに作山ソあげた戦闘艦であること
来の船、中でも朝鮮王朝初期の板屋船を改
果をあげたと言っているのであろうか 。亀
では、どうして歴史は亀甲船が偉大な戦
ある。
の成功は 当時の朝鮮の造船技術がかなりの
当時の日本の記録の中には亀甲船が鉄甲で
作られたもの﹂と断定している 。そして、
かではない 。ちょうど一世紀前、 食吉潜は ﹁ 亀甲船は鉄甲の兵船として世界で初めて
ての鉄甲船であったという説もあるが、確
では、その口から石倍賞や煙草を燃やして
われていなかった。民間での水の動力利用 といえば、水車が広く使用されていたくら いのものである 。
事 船
y r n m ﹀司4 印司
壬辰 倭乱 (文禄の 役)の際、秀 吉の日本水軍を敗った亀甲船
28
n m ﹀弓盟主
慶州の石氷庫
船首から船尾までの長さが三五メートルほ どあったと考えられる。ここに約一五O名 が乗船し、このうち櫓の漕ぎ手が約一のり 名だった。彼らは五人ずつ組を組み、その
に比べ強力だった。こうした技術的長所が
李舜臣の勝利に決定的に寄与したというこ ﹁とができる。
りで権を漕いだであろう。このようにして
表的な昔の氷の倉庫として知られている。
今も慶州に残っている石氷庫は、最も代
うちリーダーがいて、残りの四名が二人ず つ交代で櫓を漕いだ 。緊迫時には四名がか 速力をあげて、亀甲船は敵陣のど真ん中を
普通、石氷庫は慶州にあるため新羅時代の
の後期に造られたものだ。勿論、氷を貯蔵
ものと考えられがちだが、実際は朝鮮王朝
して夏に使用するということは、新羅です
たと記録は伝えている。 秀吉軍が攻め寄せて来た当初、亀甲船は
でに行なわれていた。コニ国史ヨ止に依ると
突きゃぶりながら縦横無尽の猛攻撃をかけ
三隻しかなかったといわれる。当時、朝鮮
智証王六年(五O 五年)の冬、二月に朝廷
との記録がある。また、新羅時代にはその
が役所に氷を貯蔵せよという指示があった
日本の船より機動力も秀でていたようだ。 そこで李舜臣のような朝鮮軍の海将は地
軍は日本軍より強い火力もあり、亀甲船は
理的にも気象的条件にも明るく、これらの
想像される。また、実際に亀甲船の屋根は
その特異な姿、形が侵略軍を威圧したとも
たといえる 。特に、畠申船は数は少ないが、
後、各地に氷庫が造られたが、技術的進歩
術は時が経つにつれて次第に発達し、その
い、それが融けないように貯蔵することが
か湖に張った氷を切り取って倉庫にしま
夏季に氷を使用するためには、冬季に川
ようなことを司る役所として氷庫典のあっ
近接戦に強い日本軍の接近を阻んだだけで なく、こちらの水軍の兵員を保護した。さ
の子細はまだ明らかではない 。ともあれ、
たことが明らかにされている。
らに、近接の際にも屋根の上に鋭いきりの
高麗時代になっては宴会の席で氷で作った
いでは、すこぶる有利な立場におかれてい
ような釘が打たれていたことから日本軍に
飾り物を使用したという記録もある 。崖忠
利点を充分活かせたため、日本水軍との戦
は何より恐ろしい存在にならざるをえな
最も重要なことであった。しかし、その技
かった。
砲火の威力を弱め、葦の上をきりのような
舶だったが、それよりは蓋をかぶせて敵の
たもてなしを行なったのであるが、その中
会を催した。この宴会では、いつぶう変わっ
りに催し、次いで五月には高官を招いて宴
五年の釈迦誕生日に然灯(提灯)会を大がか
いで一世の権力をふるった峯恰は、二一四
鉄釘で固めて敵が船上に上がってくるのを
には銀と螺銅で飾った四つのお盆に氷の山
献(高麗中期の権臣)の息子で父親の跡をつ
防ぐ独特なデザインが成功の鍵であったと
、 を作ったという記録、がコ量主にある 。夏
技術的にみて亀甲船は当代の最も発達し
いえる。おまけに、竜の頭の前面と後面か
ていた造船技術を充分に活用して造った船
ら、そして左右に各々六つずつ、計二ハの
繰り広げられる宴会での装飾用に氷が使わ
らでん
砲口から放つ火力も、また秀吉の日本水軍
29
進
﹀訂↓ω司 官 ynm
ソウルの清渓川から漢江に流入する水量を測った水標橋
れていたことを示す例である。 作って氷を使用した。それは現在、数多く
どれほど河川に流れたかを測定する器具も
雨量の測定にとどまらず、既に降った雨が
る。そこで当時の朝鮮では測雨器での降
もたいへん意味深い発明品であったといえ
の遺跡が発掘されていることからもわか
朝鮮王朝に入つては全国至る所に氷庫を
る。しかし、氷を貯蔵しておいて夏、使用
てられていた水標である。確かに、測雨器
を流れる漢江と城廓内を流れる清渓川に立
についてはまだ明らかにされていない。ま
と水標は、世界の科学史において最も秀で
作られ使用された 。それが、ソウル城廓南
た、全国的な氷の貯蔵の慣行がどのように
する技術が時代ごとにどう発展してきたか
して、全国に広がっていったのかについて
ででも冬の聞にきれいな氷を貯蔵しておい
いな水が豊富であったその昔には全国どこ
な接近を試み始めたことといえる 。即ち、
が、そのひとつは自然現象に対して計量的
いういくつかの特徴をもっても説明できる
一七世紀は西洋のいわゆる﹁科学革命﹂と
た成果であったといえる。
て、翌年の夏に使用することは可能であっ
その前までは人 身はいかなる自然の現象に
も研究が行なわれていない。しかし、きれ
ウルで朝廷が使う氷は東氷庫と西氷庫で供
たはずである。特に、朝鮮王朝時代にはソ
からは、人聞は測定することのできるもの
かった。しかし、科学革命の行なわれた後
で、その量を正確に量ってみようとはしな
対してもそれを漠然と知覚して ・ いただけ 浦(現在の玉水洞)に小さな規模で作られ、
なら何でも量ってみようとし、このような
給したのだが、東氷庫は漢江の上流の豆毛
た。もう 一方の西氷庫は、そこより下流の
計量的な態度こそ近代の科学を起こす中核
主にきれいな氷を王室の祭杷用に供給し 若智山の麓にあって、宮中の飲食保存にも
な測定装置が出始めている 。温度計、湿度
的なそティ lフとなった 。実際、一七世紀
計、気圧計、雨量計などは全てこの時期に
使用され、官吏にも分け与えて使われたた {旦史には、おおむね夏季にひと月ほどを
登場しはじめた。ところで、それよりざっ
以後になってはじめて西洋では、いろいろ 目安に氷が供給されたが、その量は位の高
め、多量の氷を保管していた。
さで差がつけられる規定があり、その具体
と二世紀ほど先立って朝鮮では、 一四四 一
代の測雨器と水標(水位標)をあげないわけ
ずばぬけていた機器としては、世宗大王の
韓国の伝統時代の水に関する科学で断然
測雨器と水標(水位標)
的な能雀民においては朝鮮が世界をリードし
学の国取も重要な特徴のひとつといえる計量
されていたのである 。少なくとも、近代科
流れこんだかを測定する水標も作られ使用
正確に測定する装置の測雨器を作って使用
年(世宗二ご 一 年)に世界ではじめて降雨量を
的な内容は時代によって異なっていた。
にはいかない。当時、即ち一四ハむ年代の
を語る場合、まず指折られるのは測雨器だ
水に対する韓国人の科学精神や科学伝統
しはじめており、その雨が河川にどれほど
初めまでに世界のどの国にも降雨量を測量
ていたわけだ 。 する特別な装置を作った証拠は未だ見つ かっていない 。測雨器は、そんな意味から
30
つが韓国の歴史において先に始まったとい
い。しかし、このような重要な特徴のひと
発達しなければならないということはな
が先に現れたからといって科学がそこから
能能尻にだけあるのではなく、その特性だけ
れに近代科学の特徴は、必ずしも計量的な
学がそこに見いだされるとはいえない。そ
けを先に発明使用したからといって近代科
という理由がここにある。勿論、測雨器だ
学の発達における象徴的な出来事といわざ
作ったのだ 。測 雨器と水標は 、世宗代の科
江に流れこんだ川水の量を測定する水標も
するのではなく、毛れと同時に清渓川や漢
人はいなかった。雨が降った量だけを測定
うな簡単な装置を使って測量しようとした
年まで全世界のどこにも降雨量を、このよ
いと映るかもしれない。しかし、 一四四一
るというアイデアは、たいしたものではな
の測雨器のうち最も代表的なものといわれ
も重要な原因は、韓国にだけ残っているこ
たちがこのように誤った主張をしている最
いても同じくあらわれている。中国の山主告
ある。そして、このような費論は台湾にお
朝鮮にだけその遺物が残っていると書いて
あった世界の国々に送られたが、その中で
国で初めて作られ、当時、中国の影響圏に
いる。中国刊行の科学史には、測雨器が中
大王は日照りと雨に対したいへんな関心を
世界最初の降雨量の測定装置である 。世宗
朝鮮人によって初めて作られ、使用された、
測雨器は、明らかに朝鮮王祖のはじめに
じているのである。
の年代が書いてあるから中国のものだと断
を知らないのだろうか。彼らは、ただ中国
ちは朝鮮王朝が中国の年号を使用したこと
主唱た ば一七七O年を指している。中国の μ
いて誇らしい題目といえる測雨器を中国の
ところが、このように韓国の科学史にお
時の年号であり、その時代の庚寅年といえ
字の中で﹁乾隆﹂というのは中国の清の国の
という漢字が刻まれているからだ。この文
ている、美しい測雨器に﹁乾隆庚寅五月造﹂
明品を生んだのだ。争
大きな関心が、このような特異な科学的発
ながらせた 。水に対する 一五世紀の先達の
もち、その関心を測雨器と水標の発明につ
るをえない。
学界では中国人によって発明されたとして
うことは興味のある話題のテ l マになりう それでは当時、なぜ世宗はこのように熱
るだろう。 心に降雨量を測定し、また河川の流れを量 のひとつには、農耕社会においての一般的
的に測ろうとしたのであろうか。その理由 な関心を挙げることができる。当時の産業 のうち最も重要なのは農業であって、農耕 が重要なだけ雨の量や川の水の量に大きな の水量が知りたかったであろうし、雨がた
関心が集まらざるをえなかった 。当然、 川 くさ ん降るか、日照りが厳しくないかを確 認する必要があったであろう。しかし、当 は、必ずしも田畑に水が欠かせなかったか
時の日照りや洪水また降雨に対する関心
または適当な雨は国王が賢君としての
らだけとはいえない。むしろ当時、日照り 政を行なっているかどうかを判断する ひとつの目安となっていたからでもある。 測雨器は雨がどのくらい降ったかを測る装 置であるが、善政をどれほどたくさん施し とにかく、この測雨器が発明されてから
たかを判断する基準にもなったのだ。 全国のそここ こに測雨器を設け之 、雨が 降ったらそれを測ってソウルに報告させ の円筒の形をしている測雨器で降雨量を測
31
た。高さ四二センチ、直径一七センチほど
朝鮮時代初期の測雨器
L
3P司天的回﹃条Ue E
イムジエヘ
林在海
重大学教授・民信子
韓国の民俗信仰と 水の意味 一、水の笠間な原一初性と象徴性 韓国人にとって、水は神話的な原初性と 象徴的多義性をもっている。韓国の最も古 い神話のひとつである創世神話には、火の 起源一はもとより、水の起源に関する事柄が 記してある。建国神話としては最も古い壇 国神話にも、桓熊が天から太白山の神壇樹 の下に降りて来る時、雨師という﹁雨の神 をしたがえている。創世神話に見える水が ご飯を炊くのに使う飲み水を指すもので あったとすれば、建国神話に見える水は、
薬水は病を癒すと信じられた観念が薬水信仰で 村落共用の井戸は、不浄を械うという信仰から ある。全羅北道任実にある; 令川薬水( 下) 。 お誠いの儀式が行われた ( 左)
農耕生活に必要な一種の農業用水のことを
言っている。このように、わが国における
水とは、神話時代から人間の生存に基本的
に使われる水、即ち飲み水と農業用に使わ
れる水を指しているのだ。
事実、天地開閣の神話において水はより
原初的な役割をしている。天地が混沌とし
ていた末に、天と地がついに聞かれ、宇宙
の秩序がきちんとできあがるようにした基
本的な媒介物は水である。天地開閣の抑話 太初以前には天と地がひと の園田頭には、 ﹁
つで暗閣の混沌とした状態にあったが、次
は露が湧きでて陰陽が互いに交感し、天地
第に天と地が分かれ天には露が結び、地に
開闘が始まった﹂とある。創造主がいて天
地を創造するのではなく、水が作用して天
で天地開闘をなす自然な主体の一つである
地開闘をなした。このように水は神話の中
だけでなく、水、が火とともにこの世を構成
する必須の 文化的要素であり、国を経嘗す
神話的な女主人公は、そろって井戸や川
る基本物質として取り上けられてきた。
に出現するということも注目に値するとい
える。神話の中の男の英雄は、そろって天
から降りてくるか、山の頂上から下りてく
るのであるが、女主人公は主に井戸や川、
それに海から現れるという点で大変対照的
である。高句麗の祖、朱蒙神話では、東明
王(朱蒙)の母親の柳花夫人が川の神である
河伯の娘で、雄心淵という池から出現する。
そして新羅の祖、朴赫居世の王妃の闘英夫
人も、また閥英井という井戸から現われて
おり、高麗王朝の女始祖の竜女も、また西
海の竜王の娘だ。
建国時代の母親または王妃が水の中から
現れるというのは、水が生命を産む出産力
していたからといえる。開祖の母と妃の出
をもっているだけでなく、盛田寵多産を意味
32
身の王妃たちは、水のもつ曲喜一さと生命の
産能力が国の繁栄を左右するからだ 。水出
水出身の王妃のことをムルハルミ(水ばあ
原理を人間に具現した存在も同然である。
さん)と結びつけて考える三とができる。
ヤタス
韓国には 山あいや石の聞から湧き出る水
のうち、一部を特に薬水と呼んで、いろい
ろな病気を治療する薬効があると信じる伝
これによって崇められる泉の支配者が、水
統がある。薬水信仰ともいえるものだが、
の女神である。世間で俗に言われるムルドハ
ヤタ
ルミ(水ばあさん)なのだが、ムルハルミは ﹁ 水の王妃﹂ま たは﹁水の女始祖 Lの原刑すネ
なされてもいる。最近までもヤクスト(薬
水が湧き出る所)のそばにろうそくに火を
みたまや
ともして祈りを稼げる人がいたりしたもの
だが、古くは小さなサダン(洞堂 H御霊屋) を建てて水の女神を拝むこともあった 。こ
れを遡っていくと、神話の水は天地を開聞
させて宇宙を生成させる動力になっただけ
の食生活を支えた。そして国の繁栄と車轟
でなく、飲み水と農業用水とに分けて人間
して、下つては薬水信仰に至ると、水は生
多産を約束する象徴物だったのである。そ
命の源の役 目を担って崇められる対象に
なったりするのだ。
二 、 悠一 議 にみられる水の浄化一と邪鬼蹴 い の機罷
水に対する担語的な認識は、祭儀と信仰
の中に具体的に現れている。シッキムクッ
(西南地方で行なわれる霊のための亙女儀
式)やプジョンクッ(不浄を浄める亙女儀
式)をして汚れた邪悪なものを被う時には、
ごく自然に水を必要とする。シッキムクッ しりょ う は死人の罪をきれいに洗い流して、死霊が
あの世に無事に行けるようにするクッ(亙
33
をする。従って、祭儀に参与する祭官たち
祭儀の場所を清めてくれる呪術物的な役割
質であるという点で死霊の罪を洗い清め、
も洗うように、全てを洗い清めてくれる物
水は垢も洗い、罪も洗い、体も洗い、心
をしなければならない。日常的な世俗の垢
したければ、祭官と同じように冷水で泳浴
ければならず、祭官でない者も祭儀に参列
だ。夫が悠公自の場合はその妻も泳浴をしな
なって川水をかぶらなければならないの
指定された川辺に行って氷を割り、裸に
是非しなければならない 。それも真夜中に
も、必子白分の体を清めなければならない 。
をきれいにしなければ、非日常的な神聖な
で聖なる空間に変わる。
で、最も重要なことは休浴斎戒なのだ。クッ
祭官が守らなければならないタブ lの中
ンコリともいうが、あらゆるクッの始めに
プジョンクッ(不海抜い)、は俗にプジョ
く、手洗いに行って来た後も泳浴をしなけ
朝晩、休浴をしなければならないだけでな
必ず守らなければならない。平素とは違い
祭り)を行なう祭官たちも、このタブーは
なう村では、正月の一二日頃になると村の
れ管理される。小正月に洞祭(村祭り)を行
物をそろえる時に使われる井戸水も特定さ
壇に供えられる供え物も清められる 。供え
によって祭官が清められるだけでなく、祭
泳浴斎戒をして各種のタブーを守ること
空間である祭儀の場所に入ることができな いのだ。
女の放い儀式)であるが、珍島地方に今も
ればならない 。全身休浴が原則であるが、
共向井戸をきれいに汲み取って掃除をす
を行なう亙子は、もちろん泳浴斎戒をして
伝承されている。シッキムクッの中心をな
行なわれる儀式だ。本式のクッに入る前に
少なくとも手と顔は洗わなければならな
体と心を共に清めなければならず、洞祭(村
すのは、亡者の体をきれいな水で何回も洗
儀式の場をきれいに清めることによってバ
してきれいな漢谷の水に、代わる代わるほ
儀式)を始める前にお膳にま華水(早朝、一
亙子がポングッ(本来の目的をもっ祈薦の
チャレ茶礼(簡素な祭杷)や祖先の命日に行
秋タ(陰歴八月一五日)など民俗祝祭日の
祭儀と儀礼においても不可欠だ。正月と
体を清めることは、儒教の伝統に基つく
水を独り占めして酒を仕込んだり、もち米
洞祭に使う供え物を準備する者だけが井戸
井戸水は太初の神聖な井戸水に戻る 。但し、
してしまう。こうすることによって、その
ることはしない。死んだ人が平素着ていた
する役割をし、赤い唐辛子は雑鬼を追い払
炭は、井葦水の澄んだ水を更にきれいに
は炭と唐辛子を浮かべたりすることもす る 。
を踏まなければならない。このように祭儀
祭杷の際と同じように、まず手を洗う手順
ばならない 。冠礼(元服)に参列する場合も、
に置いてある洗面器の水で手を洗わなけれ
は、祭床 (祭杷の 供え物を並べた膳 ) の そば
なう祭杷または朝廷の祭礼等に参列する人
具)を奏でて、ウムルクッ(井戸の清めの儀
羅、鉦、太鼓など農楽に使われるはやし道
(農楽を奏でる人々)がプンムル(風物 H銅
て食べること)をし、村のプンムルジャビ
ムボク ( 飲福 H祭杷の後、供え物を下ろし
ることになる。洞祭を済ませた翌日は、ウ
たりする 。こう して供え物には神聖さが宿
を漬けたり、各種の供え物を洗乃て調理し
チ品ゾタ
うきに浸して、かかしの頭のてっぺんから
ておいてプヅョンクッを始める。井華水に
番はじめに井戸より汲んだ水)を一杯供え
服をござに巻いて立て、ご飯をよそった飯
う邪鬼被いの役目をする。亙子が亙歌を歌
を始めるに先立って祭官が体を清めるの
e いてはじめて 式)をした後、注連縄をほ と
チョンファス
るというより霊魂を清める象徴的な意味の
茶碗の上にハンジ(韓紙)を長く切って作っ
ぃ、踊りを踊り 、クッ サン(儀式の供え物 を置いた膳)の上に置かれた井華水の入っ
水で体と心を清め真心を捧げる行ない
は、真心をこめるという意味がある。
村の人々は、それまでと同じように共向井
る。この時期は、井戸水も川の水も冷たく
月(陰歴一月一五日)即ち真冬に行なわれ
eh
サン
たノクチョン(霊嚢)を載せて亡者の体と頭
た器や水の入った大きな器を持ってクッパ
は、共同体の祭儀で 一贋著しく現れる。洞 く回りながら雑鬼を追い払う。クッパンに
て休浴をするのは、かなりつらいことだ 。
チ
てカッ(普身分のある男性がかぶった帽子)
ン(クッ儀式を執り行なう舞台)をぐるっと
祭など共同体の祭儀は、多くは正月や小正 現れる雑鬼を火で焼き払い、ク ッパン の汚
しかし、各管に選はれた者は、このことを
物を神聖な供え物にする役割をするのであ る 。
戸が使えるようになる 。前 々から注連縄を 張っておいた神聖な井戸は、ごく普通の食
らかね
をかぶっている恰好にした後、これを水で
一周しながら、あちこちに水を撤く。その
シッキムクッにおいて水は体についた物理
れたものを水で清めるわけだ。このように
を作る 。そして頭の上には釜の蓋をかぶせ
洗い流す。こうすることによって、この世
後、藁の束に火をつけてクッパンをくまな
的な垢だけを洗い流すのではなく心の奥に
して日常の垢のついた世俗空間は、きれい
を果たしている。
ついた道徳的な垢までもきれい・ にする役割
わら
に無事に還生できると信じるのである。
で犯した罪と恨みを全て洗い流し、あの世
方が強い 。このため、亡者の体を洗い清め
下の方に洗い流していく。亡者の体を清め
しめなわ
い流すというところ。亡者が生前着ていた
に張りめぐらし、人々の出入りを禁じ閉鎖
では、7 1 < の神の信仰の痕跡が認められる
る。そして、その後は注連縄を井戸の周り
泉の支配者は水の神である。今も薬水泉の近く
い。祭宮として体を清めることは大切な心
供え物も; 青められる
得なのだ。
なく、祭壇に供えられる
クッパン(クッの儀式の場)を聖なる空間に
祭官が清められるだけで
する、予備のク ッがプジ ョンクッなのだ。
ことによって
て、よもぎを浸した水と香を入れた水、そ
各種のタずーを守る
服で亡者を象徴するかかしを作っておい
本 ; j谷斎戒をして
34
の家の運勢がよくなるといって、表門を開
するための呪術的な道具に過ぎない 。水が 祭儀で一層積極的な目的に使われる場合
被う役割を果たす水は、祭儀の目的を達成
汚れたものをきれいにし、不浄なものを
せて繰り出すのであるこの日いちばん初
ませて帰って来る頃には水瓶を頭の上に載
夜が明けるのを待ち、祭官たちが洞祭を済
が蟻烈である。主婦たちはほとんど寝すに
くのだ 。特に小正月には水を汲む競い合い
、神への捧げ物、神格の形象
は、それ自体が神に捧げる聖なる物の役割
け放しにしたまま先を争って水を浪みに行
をする。いわゆる井華水という名で神の
いちばんになると信じられていたのだ。水
めに水を浪んで来た人は、その年の作柄が
に井戸に行き、いちばんに汲んできた水を
生命水や農業用水としての水のようなもの
を即座証するという信心は、抑話に出てくる
一 が、即ち家族の健康な暮らしと農業の曲需
チ E Y 7v ス
祭壇の前に供えるものが水なのだ。夜明け どんぶりや中鉢に入れて寵王(台所を守る
華水は、寵王神のほか七星神にも捧げられ
神に捧げられる聖なる物の役割をする井
である。
神)や七星神(北斗七星の名に因んでつけた 穴 一 豆 印O O i Z︾豆
七つの神)に捧げるのである。信心の篤い 主婦ほど夜明けに早起きして水を汲んで、
の保障まで受けもっているとも信じられ
割もする。家族の健康と無事、子孫の寿命
の味を司り、火事が起きないようにする役
保証してくれると信じられているため、主
七星に象徴される。申し子を与え、寿命を
七星神は寿命の長寿を司る神であり、北斗
水を供えて、朝晩祈りを捧げるのである。
油や味噌などをいれた瓶の置き場)に井華
みあげて作った祭壇か、チャントクテ(醤
た。寵王神の具体的な神格は水の器である。
婦たちが井筆水を供えて一生豚公ロ祈る。七
た。台所の裏手のひっそりした所に石を積
かまどの正面に寵王の中鉢を置き、毎朝水
寵王は台所の神のひとつで、家族の健康
を取り替えて祈りを捧げる。夜明けに人よ
星壇が設けられている台所の裏手は申しあ
と無病を保障する神である。具体的に飲食
寵王と七星神に供えて真心を示すのだ。
い) を行う時もコメとともにチョンファスは欠か せない
り早く水を汲んできて寵王に捧げれば、そ
35
全羅北道、錆島のテベクッ( 悪女のお誠いの儀 式) 災厄を茅作りの船にの載せて沖に流している ( 上の上) 。チョンファス( 井華水) は供え物とし ては最も簡単で、亙女が死霊のためのクッ( おl抜
げて願を掛けるのだ。子どもができない新
た後、清潔な心で井華水一杯を七星壇に捧
ない。台所で後片づけを済ませて頭を洗っ
星の見える夕方の祈りの場としては申し分
は夜、真心こめて祈る場所である。北斗七
に北斗七星が浮かぶ方向だ。寵王壇が朝方、 真心こめて祈るところだとすれば、七星壇
わせたように北向きにある。夜になると空
たときには、あれこれの供え物か準備でき
井筆水を供えて三神に安産を祈る。切迫し
時のように事態が急迫している時も、膳に
は打ってっけなのだ。また産婦が出産する
に入れられる井華水が朝夕の供え物として
はない。このため、早起きと運動だけで手
かる供え物を準備するのは並大抵のことで
日常化されている祈りに、費用と手間のか
で手軽に準備できる供与え物である。朝晩、
に井牽水を供える。祭官は、山神堂の神聖
を除き給えと祈る。洞祭を行なう時も祭壇
起きると、その場所に井華水を置いて災い
う三神)に手を合わせる。家の中で事故が
を一杯謄に供えて三神(国土を聞いたとい
くない。子どもの具合が悪い時にも井華水
このほか、井肇水を供えるケ lスは少な
な但議の供え物ということができる。
る。このため、井華水は最も素朴で日常的
あらためて安産に対する感謝の祈りを捧げ
と祈るのである。これは、亙子としての生
験を示し、クッ(被い)がうまくいくように
す。井華水を供えて、自分が司祭として霊
て亙子としての霊験を発揮させる神を指
をする。モムチュシンは、亙子にのりうつっ
の亙子にのりうつる神)に供えて朝の挨拶
汲んで自分が杷っているモムチュシン(そ
供える。亙子は朝起きると、すぐ井華水を
も、自分の家に設けてある神壇に井華水を
有 Y司天的m F﹃失UIC
りが一杯の井葦水に託されて七星壇に伝え
妻や幼い子どもの将来を心配する母親の祈
な泉に行って井牽水に供える水をまず一一一杯
ムルクッ(井一円の厄放い)の対象になり、寵
村の共向井戸が神格としてみなされ、ゥ
活が続くあいだ行なわれる。 スlプを作る時になってはじめて、炊きた
ないからである。産婦が出産し、わかめの
井葦水は、祭壇に捧げるには最も清らか
られる。
て手を洗う亙女( 上の上) 、沫浴斎戒の代わりに川岸で手と顔を洗う思山別神祭の祭官たち( 上) 。
汲んでおいて、泉の水で休浴をする。亙子
水はすべての物を洗い清めてくれる物質で、祭儀の場を浄化する呪術の役割をするほか、祭官たちの身を
てのご飯とわかめのス lプを三神に捧げ、
清めるのにも欠かせない。宗廟の祭礼に先だって手を洗う祭官 (最上) とク ッ( お被いの儀式) に先だ、 っ
36
ともあった。三国(高句麗・百済・新羅)時
神格として崇められ、祭儀の対象になるこ
ように、水が供え物としての存在を超えて
王の中鉢が時には寵王神自体と認識される
汲んでも枯れることがない。常に、水が湧
てて汲み出したものだ。どちらも毎日毎日
井戸水の方は必要によって地下水を掘り当
出たものであり、 水は地下水が自然と雪 c
泉の湧き水であり、井戸水であった、泉の
は、﹁竜神の竿﹂と呼ばれる松の木材を立て
れを竜渠とも呼んだ 。慶尚北道地域の竜祭
食を捧げるのである。地域によっては、こ
式の祈りを捷ける。農業の意掃の竜王に飲
(幸せを祈る言葉)を交わし合ってから、略
して田んぼの土手に供えて豊年を祈る徳談
水の湧き出ている所)で竜王に薬水を飲ま
力があるものと考えられる。ヤクスト(薬
だけに水の生命力から当然、医術的な治癒
のとして崇められた。薬水と呼ばれている
水も、やはり生命力と豊能の原理をもつも
ルミ(水ばあさん)の水﹂と思われていた薬
ることから始められる。農夫が初伏の日に
せる時はいうまでもなく、薬水は水の神で
かさ
で多記を執り行なっており、四海にも竜王
代には大きな山と川を神霊化したために国 き出て一定の量の水がたまるのだ。これら の水は、人間や家畜はもちろん全ての生命
が棲んでいるとして定期的に祭柁を執り行
ぼうしを竜の卵と信じて、それをすくって
正月の一五夜に井戸に浮かんでいる月の影
ため婦人たちが正月の一五日(小正月)の夜
ある竜王の水として観念化される。時には、
せて焼いた食べ は餅とチョン(小麦粉を被、 物)を載せ、﹁稲穂を早く実らせ給え﹂と祈
明けに先を争って竜の卵をすくったのだ 。
田んぼの真ん中に松の木材を立てる のだ
る。畑でも田んぼと同じように竜祭を行な
江原道江陵の端午のクッの神話のもとに
が、これが﹁竜神の竿﹂マだ。竜神の竿の上に
せられる力、即ち生生カをもっているとい
もっている。自ら生命力を涯杭させ繁殖さ
うが、竜神の竿の上にウドンをひっかけて
なった泥日国師の出生にまつわる逸話に
と湧き出て枯れることを知らない自生力を
行ない、漁村では彼らの仕事場である海に える。従って、沈んでは、また昇る月のた
おくところが異なる。麺のように、スイカ
ρ糧になるだけでなく、自らも次から次へ
捧げる祭儀として竜王へのクッを行なっ ゆみない循環性を認めて月を生生力の象徴
やカボチャ、キュウリ、マクワウリなどの
の前に流れこむ川の流れに向かって位議を
た。このような祭儀は、洞祭とともに毎年 と考えるように、水もまた自ら湧き出る自
なった。農村では﹁水口寒ぎ﹂といって、村
決まった日に定期的に行なわれたが、日照 生力と不浄なものを浄化させるだけでな
飲む女の人は受胎するとされている。その
に行なわれた。竜が雨を司る神だと信じら
りのような悪い事態が起きた場合には随時
に映っている太陽を飲み、それによって子
も、似たようなことがみられる。乙女が水
子どもは非九な能力を発揮しながら育って
を宿し、出産するというのであるが、その
められているのだ。 漁村での竜王祭は一層盛んに行なわれ
の山神になったという。このように水が月
国を守る大きな人物になり、やがて大間領
蔓が長く長く伸びますように との願いが込
る。一七世紀の文献の﹃墓口俗語仕によると、
や太陽といっしょになって生命力の源泉に
く、死にかけた命までも生かす生命力を
深い海の底には竜が棲息していると信じ
で夜中に井戸に投げこむのだが、これも竜
小正月(陰歴一月一五日)に紙にご飯を包ん
なるとみなされていたのである。
もっているため生生力の象徴物として注目
たり、または水をそのまま竜神として考え
王祭と称したとしている。最近まで伝承さ
れ、竜が潜んでいると考えられている沼や
るのも、このような水の生生力のためであ
れている竜王祭を拾ってみると、中盆伺北道
川、海に向か って祈雨祭を行なう。国王が
地下から湧き出る泉の水が飲み水として
る。水は太初に宇宙を生成する原動力と
された。
人間の生命を保たせるように、雨は農作物
なっただけでなく、人間の生命を維持させ
地域には、船頭が船の渡し場や船の上で行
る。この際、井戸や川、海は万物の生命を
川と海の神を把る祈雨 祭を行なうのであ
に加えて井戸クッを行ない、日照りの時は
を司る神として祈雨祭の対象になっている
水と海の神として竜王であると同時に、雨
る動物押としての竜がいるのである。竜は
かと思えば、深い海の底に棲息して雨を司
して、ろうそくに火を灯して、テーブルの
みあげて婦人たちが夜、泳浴を行なう。そ
正月の一四日に家にある井一戸の水を全部混
る。井戸のそばで行なう竜王祭をみると、
りや井戸で行なう婦人たちの竜王祭があ
あたって水が絶対的な力となるように、人
農作物の種子が芽を出して生命力を得るに
飲み水と農業用水とを同時に指していた。
水が生命力の源泉であるということは、
り行なわれた。
の成長を保たせる。泉が乾き雨か降らなけ
なう船頭たちの竜王祭と、村の小川のほと
直接行なう祈雨祭は川だけでなく池でも執
れば、人間も農作物も生命を保つことがで
ハルミ(水ばあさん)のような人格神がいる
る生命水の役割をしている。従って、ムル
保たせる存在であり、事実上、神と変わり
だけでなく、豊年を保証する農業の竜神で
玉、水の再牛穣能と祈雨祭の呪術
いよく湧き出るようにと毎年洞祭(村祭り)
きない。従って、井戸の神を杷り、泉が勢
ない。水が神に捧げる供え物でありながら、
女性に受胎を可能にせしめる男性の精液が
液体で水の状態であるだけでなく、泉の水
間の受胎にも水が絶対的な力を発揮する 。
が処女を受胎させる力をもっているという
ら家族の幸せを祈る。テーブルの上には井 たりする。家に井戸のない場合は、小川の
華水とともにご飯とわかめのス lプを供え
をしている。済州道に伝わる亙俗神話にも、
神話でも、水がそのまま精液のような役割
上に井華水とともに置いてから、拝みなが られる。このため、漁村では豊漁のクッを
ほとりで竜祭を行なうこともある。井戸
る限り、豊かさを倖証する神格として崇め 行なう際、必ず 竜王を杷る竜王のクッを別
と川には農業の神が杷られ、この神が碧寵
にたまった水を飲んで受胎したとある。こ
喉の渇いた女神が塵掌山で豚の足のかかと
もある。どんな竜であれ漁業と農業に関す
を行なう。
途に行ない、農村では夏に﹁竜王の餌付け﹂
たため、竜神として崇められた。﹁ムルハ
をもたらす力をもっていると信じられてい
ているのも、このような水の生命力のため
農村では、働き手たちが真夏の初伏(夏
同時に祭儀を行なう神格の役割まで果たし
四、水の生生力( F a z q ) Y轟轟の悠一議
至後の第三の庚の日)に簡単な料理を用意
かのムえ
J
水は、それ自体、生生力を特っている。
である。
伝統社会で飲み水に使われた水はほとんど
37
のように水の生命力は、それ自体、受胎の
生命水である。日照りが続いて、しおれか
喉が渇いて死にかかっている人には水が
を防いで水を得られるいい場所を選別する
も関わっている。﹁風水﹂とは、陰陽道で風
生き返らせる生命水の信仰は﹁風水 信 L 仰と
生活を始めることを祈願するのだ。死者を
る。この世を捨て、あの世で新しい霊的な
返ることを願うという意味が託されてい
かった農作物にも水は生命水である。病を 地理的な理をいう。言うならば、風が強
カをもっていると認識されている。
治寸薬水がより発展すれば、死から蘇らせ くて水を得ることのできない場所は﹁風水﹂
プンス
る生命水となる。薬水に子どもが授かるよ
プンス
うにと祈る新妻もいるほど薬水が受胎の霊 ﹁風水﹂において水は流れて来て、流れて行
地理学的にみる時いい土地とはいえない。
ことわり
験すらあると信じてられているわけだが、 プンス
薬水を飲んで死んだ人が生き返ると信じる
水の水脈まで念頭においているのである。
のではなく、地の底の深い所を流れる地下
山なら比較的たやすく見つけられるが、生 地の上側と地の下を流れる水の流れをよく
くという川や、海だけを念頭においている
命水はこの世でたやすく探し出すことはで 捉えて、墓地の位置を決めてはじめて家運
人はいない。このため、死から蘇らせる生
きない。彼岸の世界である、あの世に入ら
も輿盛し、子孫が繁盛すると信じるのだ。
命水は別途に設定されている。薬水は深い
いのだ。死霊をあの世に導くオグクッで口
なければ生命水は探し求めることができな
されている亡者にまで影響を及ほし、その
水は生きている人々だけでなく墓地に埋葬 生気により後孫の吉凶植福に影響を及ほす
請されている﹁パリ揮の説話では、捨てら れた娘が生命水を探しだして死んだ父親を
かりで息子がなかった。七番目もまた娘が
らせる再生の力まで持つと信じられている
間と万物の生存を保たせ、死んだ生命を蘇
伝統社会において、水はあらゆる所で人
と考える。このため、水は風水の決定的な
生き返らせるというストーリーになってい る 。 要素をなしている。
生まれると王は怒って七番目の娘を捨てる
のだ。このため、泉の水が勢いよく湧き出
昔、玉夫妻がいたが、生まれるのは娘ば
ように言ったのである。家来たちが生まれ
るようにとセム(泉)のクッをするかと思え にと祈雨祭も行なう。あらゆる生命の生ま
ば、日照りの時には雨がたくさん降るよう れることと育つことが天と地の究渉である
のだが、阜譲が来て保護したため王女は死 ななかった。そして、子どものいない老夫
たばかりの王女を荒涼とした川辺に捨てた
婦に拾われて育てあげられる 。その後 J王
いて雨を祈願する祭儀はたいへんな比重を
雨を通して行なわれるため、農耕社会にお
のために行なわれるのではなく、共同体全
占めていた。まして、祈雨祭は特定の個人
が病死すると、捨てられたパリ姫は言葉に いわれる、あの世にまで行って生命水を探
尽くせない苦労をしたあげく西天西成国と し求めて帰ってくる。ちょうど運び出され 口に注ぎ入れて息を吹き返らせる。パリ姫
体の鹿轟を保たせるものであることから、 祈雨祭は公的な祭儀にならざるをえない。
ようとする枢の蓋を開け、生命水を父王の
祈雨祭以外の共同体の祭儀においても雨順 社会における生活は適切な降雨の量にか
風調は欠かせぬ祈祷の項目であった。農耕
は、その後、亙神になった。 オグクッで死者のために、こめような説 話を回読するのは霊魂かあの世で再び生き
3yyb 犬印而戸﹃条川 VC
村祭りである恩山別神祭が行われるに先だって、一切の不; 争を被うために村の前の川に注連縄を張る
38
うとしたら、雨が降ったという伝説もある。
を火にあぶり、ある王は火の中に飛び込も
降らないので、ある地方長官は自分の足首
伝説の中には、祈雨祭を行なっても雨が
国王に至るまで日照りのひどい時は祈雨祭 の祭官とならねばならなかった。
かっているため、下は地方の長官から上は
行なうのである。このような祈雨祭の伝統
司ると信じる竜を媒介にして、祈雨呪術を
て雨を降らせざるを得なくなるのだ。雨を
の棲息地に火をつけたりすると、竜は怖く
らせるのである。竜の住みかを塞いだり竜
じられる所に火をつけて竜を脅して雨を降
は、雨の降り具合が統治力を左右するから だ。祈雨祭は、竜が棲んでいる所や枯れる の生活にどれほど重要なものとして認識さ
ころから、神話時代から現在まで水が人聞
祈雨呪術が多様に開発されており、古代
は、今も伝承されている 。
ことのない泉のある所でよく行なわれる。 れていたかを切実に感じさせる。薬水信仰
王や官吏が命をかけて祈雨祭を行な うの
祈雨呪術は雨を司っていると信じられてい と生命水信仰、風水信仰がこのような水の
ヤタス
の王が一種の祈雨呪術師であったというと
る竜を動かして雨を降らせたり、乾くこと OO土﹀宝
主主的
れいにする浄化の役割をして病を治す薬 水、または万物の生存を保障する神聖な生
認識を端的に表している。水が体と心をき
際、女性を暑貝して山の頂上で一斉に放尿
なっていた時代には、少なくとも水質汚染
命水として認識され、崇められる対象に
E F
させるとか、サッカツ(男性用の笠)を被ら
とえば、犬を殺して、その血を神聖な祈雨
有感呪術によらない祈雨呪術も多い。た
すかもしれない。水を崇める后拘を今日の
なく毒水にまで套質し、我々の生命を脅か
させるようなことになれば、水は廃水では
としてだけ取り扱って、わざわざ汚染 同NC
のような自然棄損の問題は起こってはいな
祭の舞台に撤けば神様が汚れた血を洗い流
文化に蘇らせなければならない理由もここ
かった。水の生命力を虚偽にして単純に
すために雨を降らせるとか、または竜が棲
つだ。
んでいる竜の住みかを塞いで水をなくさせ
にある。 φ
る様子を模擬的に演出する有成制明術のひと
せて、その上から水を徹くのは全て雨が降
のない泉の有感呪術(白百宮門 ロヨ告の) 的な考えに基ついている。祈雨祭を行なう
る済州島のヨンドンクッ。海とクツの場の聞 には布を敷いて竜王の通路を作る( 下)
たり、竜山や竜岩など竜が棲んでいると信
00 ・2﹀豆 字 会主的
39
すべての災厄と不浄を載せて沖に放たれた茅 作りの船( 上) 。海の竜王を招いて豊漁を祈
ONT HE ROA D
-品'凶凶│国全羅北道一鎮安郡聖水面に源を
ト軒並発し、南海の海の入口にある光
FE一陽湾に流れ込む河が蟻津江であ る。韓国で九番目に長い河で、その長さは
二 三 了 三キロ 。どの国の河も同じであろ
うが、狭い国土の中でとりわけ河の多い所
に住んでいる韓国人の生活は昔も、今も、
河との因縁を切り離しては考えられない 。
であり、山が後えているところにはまた河
河が多いということは山が多いということ
が存在する。婚津江もまた同じである。重
嶺山脈の東の傾斜面と小白山脈の西側傾斜
面である鎮安郡白雲面の八公山から熔津江 は、その源を発している。苦からこの山の
麓で生まれ育った子どもたちは、山と河を
遊び場にしていたため 、大人になっても自
て遠く離れた異郷生活に疲れ挫折したとき
分が飛び回った山と河を心の奥ふかく秘め
は幼いころの 夢を育んできた故郷の河と山
に戻 って行きたい衝動を覚えるようにな る。河は豊かさと活力、そして智恵をはら
む源であるからである。
幼い時を過ごした河に似ていない人はい
。 河 の上流に住んで いる人と珂が流れ ない
海と会う浦に住んでいる人との心性と突か
である。静かに流れる河を眺めながら育っ
互いに異なるのは、人が河に似てくるから
た人と荒波を見ながら育った人とは、自分
の前に迫る現実に会い、そして別れる方式が
異なるのである。 ソウルの漢江を毎日渡り
ながら生活している河の南側の人と、河を
渡ることなく河の北側でのみ暮らす人の生
活方式が異なるのは、そのような脈絡から
現実的な解剖が可能である 。山にも同じこ
鎮安郡白雲面の八公山から
場津江は、その源、を発している
とが言える。険峻な山を背景にした古里で
小白山脈の西側傾斜面である
かいも一緒に飲み込む。井一戸のない人達は、
退屈すると、ときたま村を作り人々の息づ
りくねって流れる。自分一人で流れるのに
高さの山と丘陵をよけて羊腸のように曲が
が人に親しげに追ってくる。小川は適当な
帯は、ちょっとした河の姿をしている小川
嶋津江の上流に位置する鎮安郡の聖水面一
そのこじんまりした丘の心性に似て来る。
た丘のまわりに集まって住んでいる人は、
峻な山の姿に似て来るし、こじんまりとし
その山と一緒に暮らして来た人は、その険
産嶺山脈の束の傾斜面と
と
水を汲み出したとて渇れる河水だろうか
どの形をなすのは全羅北道任実郡からであ
このような謄津江が河と名付けられるほ
的ダムは 、葛濠貯水池の水を利用する。こ
れている。六五年に完成した婚津江の多目
池は雲巌貯水池、あるいは玉井湖とも呼ば
おり
い、家畜にも飲ませる。金容沢という詩人
その川水を汲んで澱を沈めて飲み水に使
る。任実郡の渓谷から流れ出る多くの水流
智異山のずんぐりした腰もとを回って流
懐かしきに骨も折れよと抱きしめ
栄山江へ流れる水を呼び寄せ
混んでいったとて渇れる河水であるか を。
何人かの親無しの無礼者が
暮れゆく蝿津江に沿い行っ て見よ 。
明るくうなずくのを見ながら
夕焼けに染まった無等山はそうだと
無等山にそうではないかと訊けば
が非常にたくさん取れるが、この葛湾貯水
ある 。この葺湾貯水池の上流ではワカサギ
いる農地はほとんど見あたらないくらいで
と貯水池を除くと、団地農業に使用されて
池は任実郡の面積の七分の一を占める。山
かり離れたところであるが、この葛濠貯水
込む。雲巌面は任実邑(町)から六0 キロば
門を出ると嶋津江の女流の一つである萎川
シンボルである広実楼に至り、広実楼の 正
く。膿津江の本流に沿っていくと、南原の
筋は井邑郡にある別の発電所に流れてい
をそのまま継いで南原に流れいき、他の一
生活の場は失われてしまった 。ここに溜っ た水は、 ダム を越えて一筋は嶋津江の流れ
いた人々はバラバラになり、かれらの長い
のダムが完成してから、河の周辺に住んで
立ち上がってカラカラ笑い
智異山の暮れる河水に顔を洗い
暗津江に沿って行きながら 見よ 。
れる 何人か寄 ってたかって酔卓江の
一編には次のように詠まれている。
は嶋津江を素材にした一冊の詩集を出し
辺に広がる肥沃な土地( 下)
た。かれの﹃櫓津江﹄という、この詩集の第
しい流れ( 左) 。河のほとりで暮らす子ども達( 最 上) 。川岸で投網を打っている( 上の上) 。川の周
と合わさって雲巌面に至り、せわしい息を しばらく吸い込みながら葛濠貯水池に流れ
求礼を流れながら河幅を増し、河らしい姿を表す。 遥かなる智異山を見上げながら流れる鎗津江の美
42
3p司犬m m戸﹃条ω oC
43
に出会う。妻川は南原の東北側にある長水 郡白雲山の谷聞から西南向きに流れる水流 である。萎川橋を見下ろしている山の麓に 小さな亭が見えるが、錦水亭である 。錦水 亭のすぐ隣にパンソリ(韓国古典の劇的内 容の歌)の名人、名唱の後葡が技芸を磨い ている南原の園楽院が位置している。夕暮 れになると、この国楽院からは粋なパンソ リが聞こえてくる。南原の伝統的な昔の情 趣に浸った嶋津江は、休むことなく流れ の七四%が山岳地帯であることからも分か
真っすぐ谷城郡に流れ込む。谷城郡は全体 るように山の多い地方である。しかし、山 らしい山はなく、ほとんどすべての山が丘 陵地と同じく、非常に身近な感じがする 。 は、この山々をさらに回って求礼の地に至
淳昌の地を潤しながら流れてきた惜津江 る。河が広いためであるのか、谷城の農耕 地はおおかた瞬卓江の側に位置していて 、 は交通が便利で光州、南原、順天、求礼な
粟の花の香りが谷間に充満している。谷城 どにたやすく出入できる。しかし、人々の 住んでいる姿からは、いわゆる現代文明の は、いまなお土塀が残っており、老人が農
影響があまり時しられない。谷城の町内に 器具を頭に載せるか肩に担いで歩く姿を.さ らに見掛ける 。また淳昌から谷城に入ると、 る。この境界は、南原から流れて来た萎川
嶋津江を境に全羅北道と全羅車埠に分かれ
ている。谷城と言えば、鮎が連想されるほ
あゆ
が嶋津江に合流する谷城邑東山里まで続い ど、ここの鮎は有名な特産物である。これ が、嶋津江の価値を一言で代弁している。 鮎は、きれいな水でのみ棲息する魚類だか らである 。谷城の住人は、この河が谷城か ら嶋津江と呼ばれる条件を備えている言 である。鮎は性格が庁やこしい魚類で、き
う。そのきれいな河に鮎が棲んでいるから
3pb天的m Hヲ失U1C
44
れいな水でなければ棲まず、水を離れれば した鮎の群れは河を遡って上流に上がって
瞬時に息が絶える。三月ごろまで海で越冬 来るが、苔が繁殖しているところを求めて 群れをなして棲む。そして、他の群れに領 域を侵されると許さない。鮎の味は、柳が 葉を出しはじめる頃に捕れる、いわゆる柳 谷城を通り越した嬉津江は、さらに求礼
鮎が最も香りがよく芳しい。 に流れ込む。求礼に流れ込みながら川は再 び西施川をはじめ多くの支流と合流し、川
日竜 ;
藻屑蟹が よその人には人気がある。求礼の
も くずがに
も、ハ合城に劣らず鮎が棲んでいるし、しな
あると記している。求礼を流れる楠窪圧に
蒔いて一四O斗を取り入れられる土地 Lで
州および晋州と共に求礼の土地は粉一斗を
る土地を肥沃地と言うが、南原と慶自由地星
もみま
の種粉一斗を蒔いて六O斗を越す収穫のあ
の李重贋という昔の地理山主告は、ここを﹁稲
幅を大幅に広げることになる。それで韓国
向か って流れる智異山渓谷のきれいな水、双渓寺近くの仏
人は、暗津江の水を根から吸い上けて育っ さんし ゅ ゆ 山茶頁(実を乾か して解熱剤などに用いる )
45
きれいな水のなかでのみ生息する熔津江の名物、鮎( 上) 。 下は左から熔津江の鎮安にあるせせらぎの一つ、 鎗津江に
3P司X
m ω ' c h条 印-
ロ離れた求礼までは船便が可能であったと
が、豊かな水量を利用して河口から四0 キ
ではならないところが華厳寺という寺であ
には上流から移動した岩が河川の浸食に
広い砂場が繰り広げられており、合流地点
ている。谷城郡五谷面鴨緑からは両河岸に
厳寺の夕刻に響き渡る雲鼓閣の太鼓の音と
キロ地点の智異山の麓に位置している。華
たが、二ハ三O年復元された。求礼の東六
の寺剰は、壬辰の乱(文録の役)中に全焼し
西紀五四四年に創建された、由緒深いこ
よって露出し、河川の底にも岩が多い。こ
鍾閣の鐘の音は、浮き世の煩悩を 一時に
マ。。
れらの岩は水運に障害になることもある
て、非常に住みょいところ﹂であると書い
九万村は小舟を利用して魚や塩を入手でき
地理学者の李重換も著書の中で﹁求礼南の
0
と雀舌茶(新芽で作った茶)を誇りにしてお
慶尚道民と全羅道民が相半ばして賑わう華開市場( 上) 。河としての寿命が尽きて光陽湾に注ぐ鰭津江の河口 f 下)
のことだ。しかし、なによりも求礼で忘れ
河束郡の中では山間の村を結ぶ交通の要所である
り、いまも薬草と雀舌茶は有名である ・ ま た、この一帯で取れる蜂蜜も有名だ。昔の
華問は慶尚南道と全羅南道とを結ぶ要地でありながら、
P 司E ︿∞ mHヲあと
46
華厳寺に 一泊しながら、深い谷聞に徐々に
払 勺てくれる神秘な魔力があるとされる に逢って交わるファゲ市場であり、そこに
ろが、即ち慶自虐の人と全羅道の人が互い
現実的役割を最も誠実に実行しているとこ
の中で夜通し聞こえる鳥の鳴金、声は寝そび ようにファゲは慶尚南道と全羅車坦とを結
婚津江の 一筋が流れているのである。この
c
沈むタ閣の後、清らかなせせらぎの音、森 れても聞くだけの価値時かある。俗世の仕事
こから五キロ⋮離れた双渓寺という寺がな
の村を結ぶ交通の要所である。しかし、こ かったとすれば、今日のファゲが全国的な
ぶ要地でありながら、河東郡の中では山間
どこであろうと美しくないところはない
に疲れ果てた人なら、なおさらだ。河は再
が、求礼から 華 閉までの道はさらに美し 紀八四O年に創建されたこの寺利は、奥ゆ
名声を博することはなかったであろう。西
び求礼から河東に流れる。嶋津江ほとりの
い。 ファゲから惜津江河口の河東まで三四
ゲでは、昔から五日市が聞かれる。作家金
ァ れ、河辺の美しい風景を堪能できる 。 フ
である。双渓寺にいったら、当然必訪ねるべ
と垢を瞬時に洗い落としてくれるのに充分
ら下りてくる清く冷めたい空気が俗世の挨
かしく落ち着いた雰囲気とともに智異山か
フ ,ゲ
キロの船路は、昔から河東浦口八里と呼ば
東里は、﹃駅罵﹂の中でファゲ市場の模様を
河はさらに河東口巴(町)に流入する 。河東
であろう。
きところは高さ六0 メートルの滝、仏日滝
次のように描写している 。 ﹁河東と求礼、双渓寺に延びる三叉路 で、往来する旅人でファゲの市場は市日
年までも市日には商人と荷物を運ぶ舟か河
に大きな市場があったところで、一九四五 東浦を埋めた。海からは各種の魚類と盗品開、
邑も、また朝鮮時代末までも全国で五番目
工産物などが河東の浦に集まっては散って
でなくても、いつも賑わっていた 。智具
ているファゲ市場は名高く、慶尚・全羅
至るファゲ峡谷 一里半の景観に憐り合っ
いった。しかし歳月が流れ婚津江の河底は
山に登る道はいくつもあるが、双渓寺に
両道の境に位置していた。市日には、智 つるに ん じ ん き 異山火由民が持ち集ま った蔓人参 、桔
砂が堆積して河床が高くなり、自然の船路
山村からは山菜と薬材、そして都市からは
梗、たらほ、蕨などがあり、全羅道の
わらび
雑貨商品か、糸、針、鏡、鉄、帯、財布ひ
れた。そこで陸路の運送手段が著しく発
を聞いてくれた嶋津江も片方の機能は失わ
まった。今では、ただ慶尚道の河東と全羅
達し、河東浦の繁栄も昔語りになってし
きょ う
る。また河東では、暗津江下流の海産物
も、白粉などをもって求礼からやってく
い、塩漬ぐち、塩漬さばなどを持ち込み
商人が、のり、わかめ、ふのり、めんた
河は、あっちとこっちを分ける特徴とと
四 O%を占めている。小白山脈に源を発す
て河東は竹の本場であり、粟は園内生産の
道の光陽を結ぶ渡し舟が、ときたま河水を かき回しているだけだ 。しかし、いまもっ
もに、二つの空間を結ぶといった二つの側
に沈んで行くが、その美しい河辺の景観は
る捨卓江は、二一 一一キロの地点で南海の海 昔と同様美しく、韓国西南方の真ん中を
面をもっている 。このような河が持つ隔離
悠々と流れている。'
性と連結性のために、性格が互いに異なる して機能することもある。このような河の
空間の聞にいながら両空聞を結ぶ象徴物と
47
L
ソウル市立大学耕 受
康 j弘彬
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ン ギュス
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K ORE AN A RTl STS A B R OA D
節制の美学
ずにいる 。 この半世紀の資異的な経済成長
が建てられた。しかし、それがただちに熟
変貌し、その過程でおびただしい数の建紡
とともに、韓国は農村社会から都市の国に 建築にかけては神童が出ないと言う。い
建築の素材
管理を覚えるの に時間がかかるだけでなく、
高幸算と節制の美学
い建築家になるためには年を取らなければ
した建築文化を誕生させるには至っていな い。そうなるには、変化の幅が途方もなく
伝統的生き方は根ごと引き抜かれ、固有の
ならないとも言う句それほど、良い家を建 てるためには 、さまざまな技術、制度、経
建染伝統もやはりその社会的立地を失った
からである。近代化の激しい波のなかで、
とその内容に対する深い理解か育まれてい
大きく、変化の速度があまりにも速かった
なければならないということである。これ
いま形成されつつある。これまで、金寿根、
が、これに代わる新しい秩序と建築文化は
けでなく、建築の素材である人間の生き方
は、ある個人だけでなく社会 一般にも当て
営、組織管理を覚えるのに時間がかかるだ
はまる。ある社会が優れた建築文化の花を
かったわけではないが、彼らの活動と影響 が圏内に留まらざるをえなか ったのは、ま
金重業の ような優れた建築家が輩出しな
技術力が育成され社会的安定を基盤にした
られる。経済力はもちろんのこと、充分な 文化的力且異が熟さなければならない。建設
こういう脈絡において、韓国出身の在米
さにこういう建築の社会依存性のためであ る。
咲か せるためには相当な社会的基盤が求め
には移植されない 。建築は文明の総体的成
建染家である属圭昇は例外的な存在として われわれの目を引く。彼は韓国で成長し、
技術とは異なって芸術としての建築は簡単 熟を土壌にし、その頂点で咲く社会的芸術 である 。
建築の世界に入ったが、アメリカに腰を据 えて国際舞台で確固たる位置を築くのに成
若い躍動する韓国社会は、いまだに独自 の建築文化を成熟した水準に引き上げられ
良い家を建てるためには、さまざまな技術、制度、経営、組織
である人間の生き方とその内容に対する深い理解が育
まれていなけれ lまならないということである 。これは、
ある佃人だけでなく社会一般にも当てはまる
DAVI Dト I<NDERS αv
48
m︿mG 司 明 mZ4E﹁
的﹃
豆 z n穴玉目的
うどこの時馬圭弄の作品活動に注目してい
皇内 }ep 司口史︼6p-4 ﹃ 起 のO
韓国を去るに及んで、留学を決心すること
第に自分の仕事に専念したい欲求に勝てな
論家が指摘したように両社会から一定の
くなってから、学校を辞め自分の事務所を
功した。華々しい彼の号音量歴かアメリカ
構えて作品活動に専念し始める。一九七九
たM I Tから建築科の教授に就くよう請
アメリカでの最初の一年はニューヨーク
年のことである。
われる。再びケンブリッジに戻って教える
で暮らした。コロンビア大学で建築の勉強
百円宝昇は節制の作家である。彼は名作を
になった。この二人は、それ以来お互いを
申円圭昇は日本統治下の太平洋戦争中に生
るピアニストの金貞子に出会う。後日、彼
をする聞に、後ほど彼と結婚することにな
しない。建物の小さな角の一つにも自分の
尊敬し合う友人として関係が保たれてい
まれた。韓国戦争の砲火の中で少年に成長
の記念美術館を設計する金燦基に初めて
寸批判的距離﹂を維持しているかのようであ
住居団地設計懸賞共同一位(彼とともに共
し、四・ 一九市民革命(一九六O )と事・一
逢ったのもこのころである。コロンビアを
るが、建築を通して彼はこの韓国とアメリ
思 量 し た ロ パ lト・スターンは現代建築
六軍事クーデター(一九六こを経験しなが
手が行き届くことに固執する 。 この大量生
建築界での彼の位置を惣諾っている。一九
界のスターである)を受賞し、 一九八一年
ら大学時代を送った。彼がアメリカ留学の
卒業後、ハーバード大学都市設計修士過程
七三年にはピッツパ lグ市のマンチェス
には権威ある建築専門誌﹃プログレッシ
途につく年には韓国はまだ貧困の泥沼から
かたわら作品活動をする日々が始まる。次
ブ・アーキテクチャ l﹄の優秀建築家賞の
抜け出せずにいた。
J
受賞に次いで、八四年には公共建筋の設計
る。量と規模だけで見ると彼の作品活動は
ある垣内圭昇の事務室はアトリエ並みであ
産の時代にボストン近郊のケンブリッジに
分野でアメリカ大統翠貝を、そして九一年
サlトは学校の都合のため、まもなく学校 で自分の世界を切り開いていった。中学、
こんな難しい時期に、彼はほとんど自力
グランド建築家協会の優秀建築峯塁手賞
ュ lポ lト ロンビアのウィラ l ・ヒル、 ニ
あまり目立たない。サウスカロライナ州コ
ハーバード大学の教員社宅群であるオブ
のポ lト・アダムス幼稚園二九八五)、
ない卒業後すぐ彼の事務所に入社する幸運 に恵まれる。この世界的巨匠と共に暮らし
を去ることになるが、百円圭昇は彼の自にか
た五年間、彼はスペイ ンのミロ美術館、南
された未来﹂のためにソウル大学医学部に 進学せざるを得なかった 。しかし、間もな
ザーバトリ l ・ヒル・コモンズ(一九九
高校時代には絵に才能があったが、﹁保障
く医尚子を捨て建築科に転入学して周囲の人
O)、ケンブ リッジのウ l ハウス(一九九
作 した。彼の﹁単純でありながら、優雅な L おり、名門M I T建築学部に設けられた
めとする多くのプロジェクトの設計に参画
三)、アカディア国立公園のジョ lダン ・
仏の美術館、ファンデーション・マグを始 する 。 サlト事務所を退職してニューヨー
ボルド・ハウス(一九九四)、そしてソウル
を驚かせた。ここで彼はすぐに頭角を現し、
ク市の革新的都市教計チ
にある燦基美術館二九九二)と金昌 初 邸 ( 一九八八)ぐらいのものである。
先輩の建築事務所では争って彼の助力を求 めるようになった。面阿圭昇は、やがてアメ
しかし、まもなく都市設計チ lムは市の財
彼の設計講座はいつも学生で超轡貝であっ た。局圭昇は韓国が世界舞台に書出した数
リカ人建築家のオズワルド・ナグラ !と共
政難で前途が不透明になったのだが、ちょ
J
に働くようになってから初めて高い水準の
申同圭昇が韓国の建築家であるかアメリカ の建築家であるか、ということを問題にす
建築世界に接することになりい ナグラーが
キムチ司令 〆
るのは無意味である。彼はそのどちらかで
1ムに合流する。
はなく、どちらでもある。 P Aのある評
少ない建築家の一人である。
品は主要な国際的建築誌に広く掲載されて
から三年間連続でボストン及びニュ lイン
に入ってからケンブリッジの生活が始ま る。彼が師事したかったホセ・ルイス・
る 。
ジのウィラーヒル
カの二つの社会の両方に意味のある寄与を
ーダンーボルド・ハウス、ハーバード大学のオブザ
してきた。
パートリーヒル・コモンズ、金昌烈邸、ケンブリッ
ヨーク市主催のル lズベルト・アイランド
写真、上からアメリカ・アカテ、 ィア国立公園のジョ
タ l街路公園設計審員一位、二年後ニュー
節制の作家高圭昇は大作は手がけない。
50
昇は無口な作家である。彼は自分の作品に
などが都市的スケールの作品である。百円圭
くつかの住宅団地と都市設計プロジェクト
村、そしてアメリカと韓国で計画されたい
めに建設したオリンピック選手村と記者
一九八八年のソウル・オリンピックのた
澄さと端整さはこれに 由来する。
発見の過程であり、発掘と解釈の作業であ
造の過程ではない。むしろ、それは探求と
とって、建築設計は無から有を作り出す創
と、つまりその結果が体験できる場所に作 ることにあると考える 。だから属圭昇に
は、その正解を見つけてそれに肉、つけるこ
に、さまざまな思潮の流れについて﹁捉え
とした立場で通した。彼自身披涯したよう
タニ一スムについての論議の中でも彼は超然
新しいものを作ろうとする。にもかかわら
﹁問題の状況﹂が異なると考え、状況ごとに
れることを望まない 。プロジェクトごとに
局幸弄は、自分の建築にレッテルが貼ら
の作品に一 貫して見られる節制と謙譲、明
り、展開と演出の活動である。彼自身と彼
ついて話したがらない。建築雑誌を派手に 飾 っている﹁建築論﹂にもあまり加わらな い。M I Tの建築科教授時代、ポストモ
ることは捉える が寸イズム﹂に巻き込まれ
洋的﹂ な ものを売り込もうともしないし、
心がない。アメリカの盈築舞台で敢えて﹁東
築家を観衆とする観念的な建築遊戯には関
ることは拒否する。彼は批評家や仲間の建
派手な視山田郊果とか刺激的な形態が見当た
学﹂という表現を使いたい。彼の建物には
彼の建築の色を語るとすれば、 ﹁節制 の美
一貫した考え方から来ている 。無理やりに
あり、その 一貫した色は建築に対する彼の
ず、彼の建築には明らかに一貫した﹁色﹂が
L
めようともしない。彼はただ自分の内面を
最新の西欧思潮を広 韓国に来ても敢えて ﹁
る。彼は、実は大変論理的な作家である。
して理解したら、それは大きな間違いであ
面円圭昇の言語的な無口さを論理の不在と
み渡る。論理性と叙情性の優雅な結合、こ
う秩序は静かに胸に迫り、穏やかに心に染
面の秩序が参み出ている。そして、こ・うい
遠い。その代わり、彼の建築には静かな内
威圧的姿勢l こういったものは彼とは程
らない。誇示する身振り、奔放な雰囲気、
彼の設計は、徹底した状況の分析と体系的
こに馬圭昇建築の持つ魅力がある。こうい
凝視しつつ、作品でのみ語ろうとする。
は﹁造形意志﹂を掲げて形態とイメージを予
な摸索の過程を通して成り立っている。彼
にある小さな美術館、属圭昇の長い知己で あった故・金煉基画伯のため設計した燦基
う魅力を一番よく表している建物がソウル
美術館である。
め固定させることを拒否する。彼は、いつ く。与えられたプログラム、建紡の存在理
も具体的な状況から設計を進化させてい 由、敷地の地形条件、都市的脈絡などを徽
れについての正解の鍵は予め問題の中に隠
か、各要素にどんな意味を与えるのか、こ
と部分の関係をどういう風に設定するの
にこの種を育てて、種に潜んでいる意味と 秩序を思い切り花咲かせるのである 。全体
を探し出す。そして、上手な園芸家のよう
が主役として観客と出逢うように背景と
求に直面する。一方では、展示された作品
簡単には調和させがたい相反するこつの要
芸術家を称える記念的美術館の設計者は、
美術館、特に煉某美術館のように特定の
換某美術館一 建築と美術の二重奏
密に考えて、その中に隠れている建築の種
されていると彼は考える。彼がすべきこと
豆=のズヱ﹀﹁ -市川印
ソウル・オリンピックの際、設計したオリンピック選手村と記者村
51
家を称える記念的造形物の主役となって ﹁発言﹂をしなくてはいけない 。
もう一方では、美術 一般、あるいは特定作
す。これによってA 設展示と企画展示、集 R
よって機能と敷地条件は絶妙な調和をな
あるいは離れたり、あるいはつなが ったり して全体が出来上がる 。このような構成に
雑な建街に作り上げた。いくつかの稜紡が、
百円圭昇は煉基美術館を小さいがかなり複
由同圭昇は燥基美術館で、この問題を絶妙
なって、静かに控えていなくてはけないし、
に処理している 。金煉基の絵は百円圭昇の建 会と学芸など異質の機能が適切に空間的に
重される中で細長い斜めの敷地(八メート
J
おり、面問圭昇の建築は金煉基の美術と溶け
築物土台の上でさらに玲瀧な輝きを放って 分離され、美術館が必要とする小さくない ボリ ュームは人間の尺度と敷地の秩序が尊
になった画家の芸術的魂を蘇らせ、彼と心
を分かち合った彼の長い 交友、すでに故人
年の違いにもかかわらず、深い精神的共感
の統合された記念空間として訪問客を惹き
外部領域全体が緊張した体験の場所、 一つ
である。建物だけでなく建物と庭を含む内
ルの高低差)に収まる。その結果は魅惑的
J
い建物において、 申問圭昇は 一世代を超える
合って 一層深い詩情を漂わせる 。この小さ
に感動を与える一編の二重奏を繰り広げ る。金煉基の絵がそうであるように、百円圭 本館もやはり動線上では一つの空間であ
つける。 るが、造形的には 三つの ﹁ 建物群 Lの組み合
昇の煉基美術館は静かではあるが、確信に 満ちた宝石である 。明澄な甲主勾の産物では
わせになっている。進入軸に面して、階ご
一対のボルトを戴いている長方形の建物が
あるが、その叙情性は胸を打ち、大げさな
展示館であり、外部からは見えないがこの
とに少しずつ後退して正方形のモジュール
るが大変豊富である。この建物において、
表現で自分自身を主張しないながらも内面
再圭昇は再び彼が論理と詩的想像力を共に
二棟の建物の聞に位置する正六面体のガラ ンドウの空間が ﹁ 中央ホ lル﹂である。 この 三つの﹁建物群 Lは転移空聞を聞に挟んで、
であり、前述のようにこれとずれて建つ、
備えた、まれに見る力量の作家であること
中央ホ lルの外からこれを囲む階段によっ
を積んだような建物が学芸機能のある建物
燦基美術館が与えてくれるこうした感動
的なエネルギーが充満し、謙遜しながらも
は、偶然に出来上がったものではない。立
て連続した空間になる。この三つの建物群 の造形処理に三、 二、 一の構成が見られる
透徹し、非常に抑えられた 言葉を使ってい
地の選定から敷地の処理、建物の構成、空
を遺憾なく表してくれる 。
間の演出、資材の選択 │ 全ての段階、亡要
のが興味深い 。三つの正六面体を重ねた学 芸棟、二つのボルトで分けられた展示棟、 一つの正六面体の内部として成立する中央
紫震門丘陵地の住宅街の谷聞に隠れてい る。西には仁旺山が、南には北岳山が見え
軸に向けて聞いた入口ホ lルから始まる。
美術館の拝観は J子芸棟﹂の下の階で進入
始的で強力な対比と統合の秩序を本館建築 に与えている 。
ホ lル│このコ二分法﹂に基づく構成は原
る風光のいい敷地に静かなソンビ(昔の学
L
素に対する設計者の執助なこだわりがもた らした計算された結果である。 煉基美術館はソウルの都心部の寸画廊街
者)のように孤高でありながらも、決して
この入口ホールは上からの光が溢れる、狭
から離れた 、昔のソウルの情趣を漂わせる
自分を露わにしない姿である。
換基美術館 の外景
コ 主O↓工︿耳﹂忍 Fm ︿
52
は、まだある。階段と展示空間の聞に作ら
者の徽密な計算が窺える。このような装置 れた転移空間がそれだ。この転移空間に
くて高い空間である。正面には画家の作業
よって、中央ホ lルと展示空間は互いにつ
場面を撮った大型の白黒パネルが観覧客を 迎え、側面の壁の上にはステンドグラスに
二階と一一一階の展示空間は、それぞれこじ
写し変えられた画家の線画、一点が南向き
んまりとした大きさの 二つ の領域に区切ら
ながっていながら分けられた領域として体
入口のホールを通って小さな転移空聞を
験される。
渡ると中央ホールである。横、縦、高さと た中で領域ごとに、それなりの同質的雰囲
れるか区分されている 。観客と絵が密着し
の光を入口ホールに透かしながら写し出
もに八メートルのこの正立方体の空間こそ
す 。
燦某美術館の中核である。美術館中どこに 気の展示が出来るようにするためである。
に慎重に進められる。壁と壁、壁と天井が
展示空間のどこに観客の視線を置いても、
壁が四面を囲んで目の高さに点々と繰り広
出会う時、これらは﹁折れる﹂代わりに互い
ルを意識せずに通り過きることはできない
げられる金煉基の絵を玲瀧たる宝石として
にずれる。これらは室内空聞を囲む区画で
いようが、どこへ移動しようが、このホー
浮き立たせ、その上では壁がなくなる代わ
ある前に絵を支える背景であることが、こ
るが、効果的背景を作るための演出は綿密
りに柱と梁が空間を正方形の網に作り、そ
のことによって強調される。この折れると
絵と争うような建築的装置は排除されてい
の隙聞に三階の記今詰へ昇る階段をまるで
ころでは全ての作品に向ける観客の視
し、ここでは建築家と美術家の二重奏が白
天上へ導く階段のシルエットのように露出
眉を成す。ホールの下の階では舷しい白い
させ、目の高さの絵を見た視線を天に引き
ルを金煉基の芸術に捧げた一つの神殿に仕
比と統合の絶妙なドラマは、この中央ホー
した幾何学的な枠の中で繰り広げられる対
彩色と有彩色、面と線、光と影 │ 整然と
そうであるように空気と光が溢れ、自然の
倉庫ではなく、金燦基のキャンパス空間が
こういう演出の結果、展示場は密封された
山の雄大な山々が室内空間に入って来る。
ボルトの聞を分ける垂直の窓を通して仁旺
隠された天井から陽が差し込み、ボルドと
展示場の外の世界との究流が成り立つ。
線から一歩引いたところにあるのだが、
上げる。ガ ランとした空間に醸し出された
息づかいが感しられる空間として生かされ
上げる。閉さされた空間と聞いた空間、無
る。中央ホ lルを区切る四つの壁を後ろに
る。節制と謙譲を通して設計者は展示空間
記念碑、これがまさに中央ホ lルなのであ
全体を画家とともに 寸 心象風景﹂を歌いあげ
展示場を渇きて外に出ると正方形の庭が
取り巻いて、上に昇る階段があり、訪問客
現れる。 中央ホ lルの屋上に作られたこの
を展示館へ導く。天井から注がれる光のた
の壁の中に固まれた中央ホ lル、ガランと
る感動的な場所として作り上げるのに成功
した空間がネガティブ・スペースではな
﹁序は、またもや建築家に任された空間で
している。
く、物理的実体を持った独立した構造物と
ある。伝統的な韓屋の中庭のように、この
め、階段は実際には室内でありながら屋外
して認識される。中央ホ lルに記念として
庭は四面、が塞がっている。鉛の屋根を斜め
であるような感しを与え、その結果、四つ
のアイデンティティを与えようとする設計
=ZO平占︿耳追悼Fm︿
換基美術館の夜景
53
に戴いたカラス フロックの長い回廊が(あ い。石板で被われた立方体の淡泊な構造物
繰り広げられている建物だとは想像し難
P
いだあいだに開口部を開けてはくれるが)、
の円形ボルトのシルエットが三角形の広窓
き出ており、西の回廊越しに展示場の二つ
ルに光を送る円形の広窓が井戸のように突
意函は見られない。にもかかわらず、換基
その視覚的効果で観客を圧倒しようとする
られるが、建物の外形を造形的に飾って、
などにありきたりではない洗練美が垣間見
カメラレンズを意識して演出された
大げさな'身振りもない。
う石板の質感、そして屋根に戴いたボルト
を聞に挟んで山のようにそびえ立ってい 美術館にはたやすく近づけない気高さが
│角の銅板の線と基壇と上部によって違
る。正四角形と円、カラスと金属が醸し出 漂っている。それは建物自体からだけでな
四面を囲んで庭を空に向けた空間に作り上
す、この庭の雰囲気は、とても抽象的で節 く、建物を地面に据える方式から醸し出さ
げる。舗装された床の真ん中に、中央ホー
制されている。周囲の自然環境、金煉基の 取り囲むように回ることによって中央ホー
れている。室内階段が中央ホ lルの外壁を
われわれは焼基美術館で高圭昇建築の真髄を見る。
絵、そして美術館内部の叙情的な空間の雰
﹁スカイライン﹂もやはり見られない
ルを浮き立たせているように、舗装された 展示された絵とその背景の空間を共に経験
徴でもある。優れた霊又性と確固たる演出
﹁、正面﹂
ここには誇張も、声高な掛け声も、
囲気と徹底的に対比される。こうした対比 窒芥空間と階段が本館の四面を取り囲むよ
彼自身の言葉を加えてこの上なく感動的な
によって訪問客は﹁画廊﹂に開けられた開口
韓国出身の在米建築家の馬圭昇が韓国と
は明らかに意函的である。このような対比
ある。落ち着いていて整然として、静かで こぎれいだ 。しかし、その中には心を+葱き
アメリカの社会でどのような作家として記
た、ある亡くなった芸術家の魂を蘇らせ、
われわれは煉基美術館で百円圭昇建築の真
つける詩的感動がある。節制を通した詩情
力によって馬圭昇は彼と精神世界を共有し
髄を見る。ここには誇張も、声高な掛け声
の発現、澄明な思考と叙情性の合体、親近
る。また、百円圭昇の作品世界から﹁韓国的﹂
録されるかは歴史に委ねられることであ
して初めて換基美術館は真の姿を見せる。
景をさらに近いものとして感じる。幾何学
も、大けさな身振りもない。カメラレンズ
感の中に内在する記念性 ! こういった性
その姿は非常に節制され、精製された姿で
的抽象を通して馬圭昇は再び燦基美術館の
を意識して演出された﹁立面﹂とか﹁スカイ
向は馬圭昇の建築に一貫した属性である
そこに一定の記念碑的独立性を与える。
テ1 7、﹁心象風景を通じた自然と宇宙の
ライン L もやはり見られない。煉基美術館
うに回って建物を斜めの地形に密着させ、
表出 を L 反認させる。
は彊見的鑑負の対象ではない。総体的な体
が、同時に金燦基の美術世界を貫流する特
部を通して見える木と岩、山と谷、風と雲、
この庭から出ると本館の外である。外か
験の場所である。美術館の内と外、そして
うともしない。
実である 。﹁受賞2Fはあるが﹁設計依頼 があまりない作家がまさに建築家、 の運﹂ 馬圭昇である。そして彼は自分を売りこも
あまりにも落ち着いていて内向的で節制さ れている 。彼は自らの世界にあまりにも忠
らず、不幸なことに彼は韓国社会ではあま り﹁売れっ子﹂の作家ではない。彼の建築は、
世界建築界での確固たる地位にもかかわ
‘lv
てはならない韓国に示唆するところが多
体験して、それなりの建築文化を育てなく
今までやってきた作業は急激な社会変化を
淵源と面貌を選り分けるのは批評家の役割 ℃ある 。その判定がどう決まろうが、彼が
一つの建築的-記念碑を作り出している。
ら見た本館は非常に単純で淡々としてい る。その中で多様で迫真感のあるドラマが
それから見てきたばかりの金燦基の心象風
と か
54
換基美術館は立地の選定から建物の備造、
空間の処理などに至るまで非の打ち所ないといわ
館外の昼の姿( 上の上) と夜の姿( 上) れる。美術館内部の展示空間( 有) 。
彼は、徹底的に建築が
まさに、そのようなことから馬圭昇と彼
の建築はわれわれの現実を写す鏡になる。
彼にとって建築は人生である。彼は建築を
通して世界を見、建築に映して世界を理解
しようとする。しかし、彼はそこにとどま
らない。彼は、徹底的に建築が人聞を人間
らしく暮らせるようにする環境の一部でし
かなく、独り偉ぶっても構わない超越的な
存在ではないことを認める。だから、彼は
自分の全体を蟻烈に枠内けつけながらも謙虚
に自分を控えることを知っている。どのよ
うな既成の理念とか流行にも惑わされるこ
これを維持出来るのは彼が犠烈であるため
となく、一貫して自分自身の姿を見つけ、
である。その反面、自分の姿を初めから主
張せずに、与えられた建物が置かれている
ほぐしていく彼の姿勢は、具体的で個別的
状況と要求するプログラムから設計を解き
な状況を華皇する謙虚さから始まる。蟻烈
ではなく、この両者が互いを引き立てて育
さと謙虚さ、この二つの聞の算術的な平均
毛窮極的には相互に溶け合って 一つにな
る状態、こうした中で馬圭昇の建築は成り
立つoe
人間を人間らしく暮らせるようにする
環境の一部でしかなく、独り偉ぶっても構わない超越的な 存在ではないことを認める。
だから、彼は自分の全体を域烈に投げつけながらも 謙虚に自分を柱、えることを知っている
55
韓国画における 韓国性とはなにか 11ク ヨ ン ス ク
動の雰囲気、がある程度漂っているというこ
のようなヨーロッパの絵画瞳揮にも気韻生
いえないまでも印象主義や野獣派、未来派
だ。とは言っても、画法上、一致するとは
れにとってはたやすいことではないよう
いだすのは、西洋画を見慣れているわれわ
いて絵画の中でどう反映されているかを見
気韻生動の原理が陰陽五行の思想に基づ
高句麗壁画に見られるユニークなものであ る 。
韻生動の美学は中国絵画に現れる以前に、
なしている。ところで、時期的にみれば気
が、これは中国の山水画論の根本原理をも
うだ。こうした雰囲気を ﹁気韻生動﹂と言う
ち溢れ、あたかも生きて動いているかのよ
に、四神図をなす動物は一様に生命力に満
絵画であるということが分かる。それだけ
て宇宙創造の原理を示す原始的なマンダラ
異なる相応の動物を描き入れることによっ
様、四つの方向に分け、その上にそれぞれ
仏教のマンダラ( 52仏白一色におけると同
れていない状況ではあるが、まずこの絵が
なく筆致が精密であり主題が深奥だから だ。まだ、この方面の研究は充分に行なわ
して類いのないほど洗練されているだけで
神図を優れた絵と言うのは、これが絵画と
性を代表する、優れた絵画である。この四
蛇を描いているが、わが国古代絵画の独自
四方壁面に、それぞれ竜、虎、鳳恩、亀と
ほうおう
る独特な動物画だ。この壁画は東西南北の
とりわけ注目すべきものは四神図といわれ
な壁画世界を形づくっている。このうち、
壁画は、強烈な原色的色彩法によって独特
花、木、動物などを適切に配置して描いた
術が発達していた 。当時の風俗はもとより、
tEEt俗に地下世界といわれる古墳美
同リ‘一約三世紀の問、韓国では神話で
EE﹄世紀から七世紀の半ばにいたる
,
同徳女子大学樹受・指騨
朴容淑
中国の吉林省の輯安にある高句麗の壁画。四神図と呼ばれる独特の動物画である
56
麗四神図の気韻生動は、抽象的な音主心とし
とは参考にすることができる。しかし高句
明できるものではなく、非合理的な現象で
ププルム﹂は理屈で説 重要なことは、この ﹁
何かが膨らんでくるのを覚えるという意味
い調子)﹂と言っているが、これも心の中で
あり、そのため神秘に属するということで 新羅時代の高僧だった ある。七世紀ごろ、 .
で、錬金術での用語と相似の関係にある。
のそれとは異なる、重要なことである。四
てではなく、動物の形象を通じて現れてい る。これは、唐以後に発達した中国山水画
は、その後中国からわが国に伝来した水墨 元暁はこのププルムの体験 について次の
神図によって確立された気韻生動の伝統
三味経 ように述べている 。元暁は 仏典の ﹃ 疏﹄を著すに当たって牛に乗 って移動しな がら書いた。現は牛の頭部の 二つの角の聞
(朝鮮朝の中期、性理学の反動として起こっ た実事求是と生活の向上について研究した
山水画のためその流れが途絶えたが、実学
学問 H訳注)が登場する 一八世紀前後 に風 てである。このため牛が歩を運ぶたびに、
に揺れる。このよ うに、それぞれが勝手に
角の聞の硯はもとより牛の背にまたがって
に置き、右手には筆を、左手には紙を持っ
俗画、亙神図、民固などに再び現れること になる 。したがって、わが国美術において 韓国的なものを探る仕事は、こうした流れ から探し求めなくてはならないようだ 。 揺れるのでは 、ものはろくに書けない 。に
いた元暁の胴体も、また左腕も右腕も左右
中国の画論にしばしば登場する﹁気韻生
女神の踊り﹂と同様、真理の実体を暗示し
味経疏﹄である 。この話はイ ンドの﹁シパの
もかかわらず、元暁は 、その揺れ動く不確 定状態のもとで仏典を書 いた 。それが ﹃ 三
らむことを表す。この語は古代の錬金術と
( E H
プ 動﹂ という言葉は韓国語に言い替えると ﹁ )とい うことができる。プルの語 ル ﹂ ( 句EE 源はブル 火)であり、その意味は膨 関わり、亙俗語に使われていた﹁プルタ ン
ている。つまり、元暁がもの書きができな
ムは火の手が勢いよく上がるように膨らむ
い状況の中で書けたのはシンパラムが身体 の中で湧き出ていたからである 。 シンパラ
は、稲の穂と麦の穂を一緒
)L
に吹け込んでおいた壷を指していた(タン
ジ(夫婁団池 ジは壷のこと)。 これは錬金術の重である
つの元素がぶつかり合いながら生じる現象
寸惨であり麦は﹁序である 。陰陽のこの こ
( 牧 )L と言って、牧畜に喰えているが、こ
韓国人は絵を描き文学を書く行為を﹁チダ
定的なエネルギーを抑え込んで不動の中心 を作り出すことができた 。 、 一 言でい って 猛猛しいじゃじゃ馬を馴すのに似ている。
現象であるため 、その現象がす べての不確
が﹁ププルム(膨らみどであり、そのププル
れも同じ脈絡と考えられる 。すなわち﹁絵 文字をチダ Lというのは、 ﹁チダ をチダ﹂ 寸
と同時に崇拝の対象であった 。古代に錬金 術を行なう神をつフル ﹂ と呼んだが 、これは プルの意味がププヌン(膨らむ)現象を言 っ たからだ 。陰陽五行田詣仙からいえば 、稲は
ムを可能にする神秘の場所が萱なのであ る。このときの稲と麦は﹁気﹂であり、萱は
(牧)﹂が牛を飼い馴らすように、不確定的 な エネルギーを自由自在に制御するという 意味なのである。それがシ ン パ ラムであり サ
は、文字をこのように自由自在に﹁チヌン
ι7晶
芸術なのだ 。秋史( 朝鮮時代の名筆金正喜)
i 3p司 -A 的 m Fヲ穴山 v亡
57
﹁韻﹂であり、膨らむのは生動であるから、 、つ プルタ ンジは言葉とおりに ﹁ 膨らむ責﹂ V包括していたのだ 。 まり気韻生動の概念 われわれは 、こうした現象が心の中で生じ ることを﹁シンパラム(浮きた った気持 ・い
青 ・白・ 紅・黒・貧は五方色といわれ、寺幸IJ などの塗装にも用い られた
かもしれないし、場合によっては人聞にな
を描くという意味でもない 。虎は猫になる
実主義的な能信氏でもなければ、徹底して虎
自然は汎神論的だ。民画に見られるように
るかもしれないと考えるからである 。実際
と見るのである。そのため韓国画において カササギと虎が互いに対話を交わすとか、
に煙草をのむ虎などは人間のように感しら
この点は民画も同様である。煙草をのむ をくわえており兎がキセルに火をつけてい
虎と人聞が一緒に暮らすとか、または人聞
れたりする。こうした視点は、自然とは実
虎を描いたある民画には、虎が長いキセル
とい チダによって表される。しかし﹁チダ L る。寓話のように面白いこの絵は、実は四
し、この種のものは原則として陰のエネル
が竜に乗っているとかいったのもそうだ
である人問主実は一瞬間も休むことなく変
は一時も休まず変化しており、自然の一部
にわが国の絵画における気韻生動も、この う概念をより深く理解するためには﹁パシ しているかを示すものである。虎は十二干
神図と同様、陰陽の気がどのように相生
(牧するどことによって書いた。同じよう
ミ﹂という概念を知る必要がある。この語
いうことは、陽のエネルギーが場合によっ
ギーが結合する関係を示すものである。と
そうしよう
は建築用語で、釘を使わずに木材と木材と す。兎が虎のキセルに火を付けているのは
したがって、このように絶えす変化し流れ
化している存在であることを語っている。
支で夜の果てを指し、兎は昼の始まりを指
ては陰のエネルギーに、陰のエネルギーが
を組み合わせ固定させる方法を言う。この
陽のエネルギーにそれぞれ変わるか 、また
方法には陰陽五行の原理が採用され、基本 のものでありながらも、メビウスの帯のよ
夜と昼、陰と陽が互いに相反する別の性質
るエネルギーの波の中で何かを確実に固定
原理は陰と陽の力を互いに依存させること だ。
は二つのエネルギーが結合して全く別の姿
させるということは愚かなことである 。韓
先に述べた四神図は陰陽五行の原理が採
のエネルギ ーを創り出せるということを示
うに微妙につながっていることを示してい る。 これが字宙万物(自然)が存在する姿で
の形で陰陽の関係を表しており、また竜は
亀は海を象徴することから、垂直的な対称
ラムである。韓国画におけるこうした特徴
れば膨らみであり、心中での経験はシンパ
形態からするとパシミであり、形象から見
あり真実であるとすれば 、その際の真実は
り、すべての自然の対象は瞬間瞬間が完成
いるのではなく可変的な姿で現れる 。 つま
こうなるためには、形態は常に完結されて
ラムであり、膨らみであり、パシ、主である。
している 。 これが気韻生動であり、シンパ
み、そして縮まる過程の繰り返しであると
即興性と紛ら しの 美意識がよく反映されて いる 。生きることは、いかなる場合も膨ら
は木器のようなものには、韓国人の独特な
国人 の土塀に固まれた住居や庭園、あるい
用された典型である。鳳恩は空を象徴し、
先に述べた四神国は 陰陽五行の原理が採用された典型である 。
鳳風は空を象徴し、亀は海を象徴することから、 垂直一的な対称の形で 陰陽の関係を表しており、また竜は昼一を、 虎は夜を象徴するため、 この南動物は水平的な対称によって
昼を、虎は夜を象徴するため、この両動物
は、自然を眺める視点からは二つの側面を
陰陽悶係を表す
注目すべきことは、海を象徴する亀が実は
は水平的な対称によって陰陽関係を表す。
韓国人は信じてきたかのようだ。膨らむこ
先に膨らみとチギのどっちもシン パラムに
とは生きることあり、縮むことは死である。
属するといったのは、それらが死の方向で
であるとともに、またその瞬間瞬間が未完
いことである。なぜなら、いかなる対象も
を絵画に移すということは、きわめて難し
成であるという意味である。こうした視点 みがおかれるということだが、ここでは線
浮き立たせる。一つは、自然を空間として
遠近法はもとより山水画独特な遠近法さえ もう 一つは 自然物を種概念から見るの
くのは﹁紛らす﹂ことだ。紛らすことは、写
ある 。韓国画の特徴の中でもっとも自につ
完結された形態に描いてはならないからで
と 一九五0年代に描いた朴奉株の ﹃ 闘鶏﹄
はなく実は生の方向に突 っ走る行為である からだ 。
無視される。 ではなく、陰陽を形づくるエネルギー(気)
J
が自然の微妙な原理によってどんなに膨ら
わされるパシミの原理と同じである 。
陰刻をした木材と陽刻を施した木材が釘 一 本打ち込まずに、母語且に動かぬまう組み合
みつつあるのかを示しているのだ。それは、
理解するよりは時間として理解する方に重
( 左下) は李応魯の『群魚』 ( 右下) は朴奉; 朱の『闘議』、
は垂直的な陰陽と水平的な陰陽の二つの軸
次頁の写真( 上〉は民函の『カササギと虎』、
蛇と絡まり合っているという点だが、これ
伝統の山水面を描く姿( 上) .
58
どっちも動物を描いている。﹃闘鶏﹄は画題 のように二羽の鶏が激しい動作で、互いに
一九七0年代に描いた杢麿魯の﹃魚群﹄は、
うに黒い筆さばきが素早く、墨が爆発する
が衝動にかられ、その力が膨らんでいるよ
羽の鶏は、あたかも宇宙の陰の気と陽の 気
できる 。自然のエネルギ ーに象徴される二
紛らしであるということは、だれもが実感
える即興的な行為と見るからである 。
部分が 一層多い 。歩いている牛の背に座っ れが理由のある紛らしだということは先に て文を書くということは、不確定的なエネ 説明した通りである 。 はっきりしているの ルギーを没我的に投入しながら 一瞬間を捉 - は、この作家は魚の 、ある特定の対象を描
はその技法においてチギとして説明できる
杢麿魯の ﹃ 魚群﹄は、コウライケツギョの 群を墨で描いており、水の中と思われる部
ケツギョに見えようが、コウモリに見えよ
しているのである。したがって、コウライ
こうというのではなく、水の中にある動く
模様でもあり蛙の群みたいにも見える。 こ
かし、このような断定を下すことができる
相手を攻撃している瞬間を措いている。し
分を淡彩で埋め尽くしている。もちろんこ
この作品はもちろん中国の水墨画様式に
しかし先に元暁の例で見たように、この絵
要素よりは中国的な要素が強いといえる 。
にならない 。それらすべてのものがみんな
うが、あるいは蛙に映ろうが、それは問題
一つの形の中に投影されているとすれば、
れらが魚であろうという確証は明確でな い。見ようによっては、それらはコウモリ
エネルギ ーを見ながらそれを即輿的に表現
おけるように、紙と墨を使って描かれたも
の絵も魚の目と思わしき部分を除けば、そ
ような勢いを見せている。
のトサカを連想させる力強く速い筆さばき ので、四神図に見られるような韓国画的な
のは、実は画題のお陰だといっても過言で ないほど絵の内容は明確ではない 。ただ鶏 から、われわれは二羽の鶏が互いに闘って いるということを感じ取ることができる。 この絵が即興的であり、シンパラムであり、
59
鮮
こう言えるのは、濃い墨は陽の気の表現で
曾
あり薄い色彩 は陰の気であり、また線は陽
但市 伊
ている。村には瓦とワラぶきの家が点在し
取り囲まれた孤立している村の風景を描い
の気 の表現であり 、面は陰の気の表現とし
金基調の ﹃ 間抜けの山水﹄や成在休⋮ の作品 などは彩色が多いという点で伝統的な水墨
あたかも早い速度で動いていたフィルムが
ように見えるということである 。それは、
線が及び腰で、非常にゆっくり動いている
山や木々を表わす線、そして家や塀を表す
から丸見えになっている 。重要なことは 、
そに長い間その命脈を保ってきた 。その意
は壁面的な伝統が、水墨画様式の導入をよ
と中国の絵画は水墨が益重一され、わが国で
先ほど触れたことだが、彩色面からみる
ルギ ーの状能苔描いているのである 。
を描いているのではない 。風景をなすエネ
したが って、成在休の絵は風景そ のもの
一般に、韓国人の色彩観念
は五方色から由来すると 信
赤
つまり青は末、 白は 西、
は南、 烹、は北、
そして黄は中央を象微する
ある。 したが って、韓国画における色彩 の特性
文化がその規範に適応してきた のは事実で
は差しお くとしても、長 い間韓国人 の色彩
来の原始的な色彩感情と符合するかど うか
い礼である。また、黄は和合の和を象徴す る。色霧 に対するこうした規範が韓国人本
あり、黒はさとい智であり、赤は礼儀正し
の思想をも持っている 。 つまり、青い色は 慈しみの仁であり、白は義に満ちたもので
を指示するのではなく、それぞれそれ相応
竜と呼ばれていた 。この五方色は方向たけ
黒い動物の玄武と呼はれ、中央は黄色い貧
す虎は白い白虎であり、また北を指す亀は
東側を指す竜は青い圭旦屯であり、西側を指
南方を象徴する鳥は赤い鳥の朱雀であり、
も、方向と密接に関わっている 。いわゆる、
先にも見たが、四神図に登場する動物など
るときは四神図がその原形をなしている 。
想と関連しているからで あり、絵画的に見
方色観念と深い関わりが あるのは錬金術思
崇高なものに通じる 。このように色彩が五
韓国人にと っては白色が死で あり、黒色は
ば、黒色は西洋画においては死であるが、
じられている。
z z z
マヲ ,百管
。 句
ており、その中に住んでいる人は 、みんな
て理解されるためである 。
Avd 4F
なも﹃ 引な
それこそ画家の本望であり満足のゆく庇就 である 。 壁のない部屋で暮らしているかのように外
画とは区別さているが、さらに紙と筆と墨
突然スローになるときに経験する、その戸
ている 。
を基本にしているという点で四神図の気韻
惑いにも似ている 。これも不確定的な事物
一般に 、韓国人の色彩観念は五方色から
生動の絵画様式とは異なっていると見なけ
質が実は機械をのぞいて見るように明快な
由来すると信じられている 。つまり青は東、
味で韓国的なものを浮き彫りにする上で 、 彩色に寄せる関心は当然なことである 。 ものではなく、むしろその不確定性の中で
観を反映するものであり、生きることの本
何かになりそうなものに見当をつけてみよ
もちろん韓国人の固有な思想ではなく、古
示するように、いい加減に山水風景を描い
代の東方世界に広まっていた汎世界的な色
統を充分に受け継ぐものと見ることができ る。金基調の﹃間抜けの山水﹄は、画題か暗
金基起の﹃間抜けの山水画﹄と比較してみ
白は西、赤は南、黒は北、そして黄は中央
ると、成在休⋮の絵画ははるかに明快な感じ
彩概念でもある。 しかしながら、色彩 に対するこうした観
を象徴する。色彩に関するこうした発想は、
文人画との差別性を強調しているからであ
いのもそうだが、彼の 絵画における太い墨
だといえる。形態を表す線が確かであり強
うとする韓国人の独特な紛らしの美意識が
ろう。 ﹃ 間抜けの山水﹄は、もちろん間抜けが描
念が韓国に長い間保存されているとい うこ とは注目す べきことであり、色彩感覚か ら
反映している。
いた絵ではない 。しかしながら、伝統的な
線は線として存在するよりはむしろ面とし て存在するとい っても過言ではないほど、
見ると 、明らかに西洋画とは違う。たと え
たと思われるほど聞が抜けたような描き方
練されていない絵であるか、 一目で分かる。
彼の絵画では線と面の役割が紛らわしい 。
山水画と比較してみると、それがいかに洗 彼の大部分の﹁間抜け﹂の山水は緑の山 々に
をしている。というのは、伝統的な中国の
ればならない 。しかし形態を扱う方法にお いて、これらの作品は韓国的な紛らしの伝
おいてだけでなく、風景画においても現れ
この不確定的な形態の追求は、動物園に
b
( 上) ()~ ~
司 活 ど
60
多くのものをわれわれに示唆している。
めてしかるべきだろう。とりわけ、亙神図は
る亙神図、民画、または仏画などから探し求
も、やはり地下世界の壁画とその変形であ
ニズムと言っている地下世界の伝統は、わ
図像であるといえる。西方社会でシャーマ
教)はいずれも地下世界の文化を象徴する
半ばに起こった儒・仏・道を折喪した宗
壇君(神話上の建国の祖)、東学(一九世紀
描いた後、色彩を上塗りする方法)によっ
あるということは疑いの余地がなく、実際 に彼の絵は亙神図的な設彩法(下地に墨で -
んだテ 1 7が﹃亙神図﹄と同じ流れのもので
とする近代的な運動であった。朴生光が選
差別化されるからだと見なければなるま
亙神図の様式と区分されるのは画法の面で
神図、亙神図、民画は山水画に比べて非遠
ているといっていいほど平面的である。四
八 0年代における朴生光の作品は徹底し
亙神図とは、シャ l マンが崇拝する神々
近法的ではあるが、それでもそれなりの空
を描いた一種の宗教画である。そして、そ れらの絵画は地下世界の文化が日常化して
いる。この点が彼の創意性であり、韓国的
それすらも徹底的に彼の画面から追放して
な美音議の発展可能性を示唆するものなの
間的感じは存在している。しかし朴生光は、
描かれていたものであった。そのため、す
だ 。
いた時代は、すべて地下の部屋や礼拝の場
べての亙神図の色彩は地下世界の体質をほ
受けた初期の諸作品ともある程度関わりが
所として使われた神聖な空間の壁画として
とんどそのままに保っている。色彩が補色
ある。特に、画面に余白を許さず、描こう
亙神図に描かれた神像などは、大部分、
では、亙神図と民画の方法を援用して無秩
それである。しかし、彼の八0年代の作品
とする対象を一ぱいに満たしていく方法が
事実、朴生光の平面性は日本画の影響を
る 。
やスプマト(印吉田主 O)に発展せず、原色を そのまま維持していることなどがそれであ
観念的な理念を象徴する神々であるという
ズ﹄をはじめ、﹃タル(仮面)﹄、﹃壇君誕生図﹄、
代的に援用されだした。彼の﹃亙女シリー
であり、仮面は秘密儀式の神聖な道具であ
は、その時代の女司祭であり、壇君は教祖
ち神仙教として理解される。そのため亙女
れわれにとっては神話時代の宗教、すなわ
ろん同じ設彩法を使いながらも、彼の絵が
が、設彩では同じ方法を使っている。もち
念や色彩でいくらか変形されたりはした
持っていた青・白・赤・黒・黄は、その理
て作り上げられている。五方色の理念を
い。'
ら、それなりの秩序と言えるかもしれな
に、伝統との訣別を意味することなのだか
乳房を捨ておいて食膳に座る子どものよう
において常に新しいということは、母親の
ま順守しないということを音保する。絵画
な脈絡にありながらも、その原則をそのま
なりの秩序といったのは、彼の絵が伝統的
る。朴生光の絵に見られる平面秩序をそれ
基づいて再配置するということを意味す
た陰陽のエネルギーを五行の原理(秩序)に
再現するということは、彼が直観的に捉え
て、その時代の画家にとって自然の対象を
在し、また流動する現象である。したがっ
いて自然の対象は陰陽五行の原理により存
する。先に述べたことだが、伝統絵画にお
味の平面秩序とは異なるということを意味
いう。それは、彼の平面秩序が伝統的な意
もちろん、その秩序はそれ相応の秩序を
序の中に秩序を与えている。
よりは実質的に人間の生に利益を与える超 能力的な力を持っている神々である。これ らの神々が地下世界の壁面を占めていると きは、特別な色彩感を持っていなければな の神像が鮮やかに映るためには強烈な力を
らなかった。薄暗いろうそくの火にも、そ
うなるためにはできるだけ単純な原色を使
持った色彩でなければならなかったし、そ わなければならなかった。色彩に夜光の効 果を与えるため燐を混ぜたのも、そうした 配慮からだった。この方法は、地下世界の 時代が過ぎ、亙俗の神々が地下の世界から になってしまった。しかし原色を単純な形
地上に出てくるようになるや不必要なもの で使う絵画の描き方は、そのまま維持され
﹃東学図﹄などは、韓国的な色彩告識を申し
る。また東学は、その精神を復活させよう
たし、八0年代になって朴生光によって現
分なく発揮伴した作品群である。実際に、作 品の題目が語っているように亙女、仮面、
61
3~
韓国画の韓国性と その作家たち
・
2 国画の韓国性という時、この両 な条件がそろっているとはいえない。だと
材料的な側面からみると、韓国画は水墨
すれば、それは単に名前を変えた、水平的 - と紙を主な材料としているのに対して、西 洋画は油彩とキャンパスを主な材料に使用
近年に至つては、材料の概念だけでは韓国
しているところにその違いがある。勿論、
な移動に渇きない。われわれにとっては、
いう特殊な用語の方が、はるかに聞こえが
東洋画という普遍的な用語よりは韓国画と
いるほど材料の使い方が自由になった。従
画、西洋画の区分が簡単にできなくなって
ければならないようだ。まず韓
いいというのは勿論である。まして東洋画
来は、単に材料を見ただけで韓国画と西洋
者の異なる概念規定から入らな
は何かということである。韓国固という名
国画とは何かということと、次に韓国性と
という言葉が限りなく暖味模糊なのに比
画が区別できたものだが、今日はそのよう
起注
り、以前は東洋画と通称されていた。だか
称は一九八0年代以降普遍化した用語であ
べ、韓国画という言葉ははっきりとして指
な区別が難しくなったということである。
示的だ。かといって、はっきりした名分、
例えば、韓国画に従事する画家がキャンパ
いうことになる。東洋画という言葉が包括
手をすればとんだ価値の混乱が起こりうる
特に様式的な要件がそろわない場合は、下
スにアクリルのような、主に西洋画で多く
けの、はっきりした名分が論理的に示され
すぎないと考えている。あるいは、ここに
区分自体が不断に芸術を萎縮させる装置に
可能性を信頼している側では、そのような
があり、他方、材料の拡大、表現の無限の
切にしていかなければならないという考え
式であるから、やはりそれなりの価値を大
る二つの考えがある。韓国画は伝統的な様
なってきている。これをめぐっては相対す
ため、ただ絵画と呼ぶことがかなり多く
念自体を無意味にしてしまっている。この
とか西洋画だとかいって、区別する分類概
ある。そのような能蔭尻は、従来の韓国画だ
要があるのかと、彼らは反問しているので
意味になっている。あえて材料を分ける必
い。若手の画家ほど、このような限界は無
扱う材料を大担に使っている者も少なくな
素地が少なくない。それらを説得できるだ
はっきりした指示的な内容を帯びており、
即ち、東洋画というのは極東三国に生ま
謀の概 らない。とすれば、韓国画はその P
一種の様式概念として把握されなければな
韓国画というときは地域的な特殊性を含む
てきた伝統的な絵の様式であるということ
内容は、過去の東洋画という名称で呼ばれ
通用されている韓国画という名称と、その
ここでは、この問題をこれ以上問わない。
な問題に直面しているからだ。
向摸索を行なうべきなのかという大変面倒
れた絵画を指す文化用語に近いのに対し、
念を満足させられる様式的な内容を備えて
を先に喚起してほしいのだ。
件││即ち韓国画になりうる諸般の特殊
うな名分に相応するだけの様式的な要
されなければならない。ところが、そのよ
わったとすれば、変わったことの名分が示
洋画というグ謀から韓国画という名称に変
新しい様式の絵画を称している。
るのに対し、西洋画は西洋から移入された
画が伝統的に継承されてきている絵画であ
国画と西洋画のふたつの種類がある。韓国
現在、わが国の美術には絵画の領域に韓
アイデンティティのもうひとつの名称とみ
概念であるといえる。それだけに、それは
的な性向、または韓国の独自性を包括する
国性である 。韓国性というのは 一種の韓国
次に我々が論じなければならないのは韓
その内容をどのように整え、どのような方
いなければならないということになる。東
韓国画のジレンマがあるのかもしれない。
なかったことの証拠である。
諸般の特殊な条件がそろっているとはいえない
様 式 的 な 要 件i 即 ち 韓 国 画 に な り う る
ところが、そのような名分に相応するだけの
変わったことの名分が示されなければならない 。
韓国画という名称に・変わったとすれば、
東洋画という名称から
より具体的である。
的であるのに対して、韓国固という言葉は
ら韓国画というのは東洋画の新しい名称と
ー ー ﹃
E ι﹁
-h'
美術評論家
呉光株
62
韓国画自体が我々の固有の様式であると
なしても差しっかえないはずである。 すれば、その中の韓国性というのは 一種の 反復構造といえる。言い換えるなら、強調 語法になるのである。例えば、韓国の中の 韓国、韓国的なものということである。 従っ て韓国画の中の韓国性は当然、最も韓国 的な独自性を含有する韓国画の例を探し出 すことになる。 まず、 いくつかの類型を求めて探ってみ ることができるであろう。韓国画のもつ形 式上の特殊性とそれによる高揚された内容 性から、その類刑茅}探がし出せるであろう。 韓国画は、水墨を基調にした芸術様式であ の世界をその内容としている。古くは、そ
り、それの駆使によって起こる独特な情緒 の類刑茅-文人画に求めることができた。今 日、文人画の陣揮を継承しながら形式的な 面で幅広い造形性を求めている場合をこの 範暗に入れることができる 。節制した筆の 運びと豊富なニュアンスをもっ墨の駆使を 通じて、格調高い精神世界を士や向しようと することが、おおむねこの傾向の主な目標 である 。過去の文人画ではごく限られた素 材ではあったが、はっきりした対象に根拠 をおいていた 。卑近な例としては、四君子 (梅・蘭・菊・竹)のような素材を好んで 扱っているのがそれである。文人画の精神 面を継承しながらも、今日一部の画家は過 去の素材を踏襲しようとはしない 。はるか に抽象化された内容だ。この傾向を代表す るだけの画家としては徐世鉦、宋栄邦、金 浩得などを挙げることができる 。この画家
徐世主玉の『群舞』
たちの一部の作品には多少説明的な要素を 見いだせるが、ほとんどの場合、簡潔な筆
63
運びと墨の散りと縮まりから生まれる圧縮 された表現性をみせる共通性をもってい る。
~
~
();~
( ä¸&#x160;)
64
文人画家たちの高度に含蓄された値需の一
せる。彼の作品に向かう能雀守﹂そ、過去の
のままに、一気に筆を運んで作品を完成さ
徐世鉱は﹁一筆これを揮う﹂という表現そ
いでいることが悪しられる。金浩得も山水
せるという点でも文人画の伝統を忠実に継
しているだけでなく、含蓄された表現を見
人画家たちが好んで扱ってきた素材を選択
宋栄邦は、山水や花鳥のような過去の文
うことは、それだけ圧縮された表現、抑え
水墨画である。単一の色彩を使用するとい
するが、徐世誌や金浩得の作品は、大部分、
る。白黒のト lンによって駆使されるから だ。時たま淡彩を加えて変化を与えたりも
一九八0年代の初めに一大旋風を巻きおこ
とした世界観に立脚した風潮だといえる。
界を葺重しようとする東洋固有の精神を主
として現れる。幾重にも重なった人間の姿
ありながら、彼の筆跡は概念化した人間像
り静かで落ちついた叙情の世界を志向して
絡に深く接している方である。宋栄邦がよ
を駆使しているという点でやはり伝統の脈
を主な素材にしているが、大変簡潔な表現
きたことが、過去の文人画の世界の本領で
この暗示的な領域・茎詩的なものと考えて
くなるということも水墨画の特徴である。
のより、外には現れない暗示的な領域が多
限界が前提となる。それだけ外に現れるも
られた駆使という能雀民を取らざるをえない
た
を示したが、これは非常に重要な体験だっ
自らの固有の値縄文化を守ろうとする努力
精神の危機を自覚した一部の芸術家たちは
められる。物質の豊かさがもたらすムを速な
に対する憧景が多分に働いていることが認
対する関心も、やはり外の世界より内の世
瞬の流露という表現が当てはまる。それで
した﹁水墨画運普も、精神を主とした世界
だとか、列に並んでいる人聞の姿、両手を いるとすれば、金浩得はより激情的な世界
今日、一部の画家たちの水墨画に対する関心も、 やはり
タトの世界より内の世界を尊重しようとする
東洋固有の精神を主にした世界観に立脚した風潮といえる
レ︿ え
あげて互いに踊りを踊るように円を描く姿 を示す違いが見いだされる。
場
この水墨画運動のリーダー役をつとめた
ても、群像という説明に捕らわれていない
あった。今日、一部の画家たちの水墨画に
( 上)
()~
宋秀男の『水墨 9 O~
水墨はその材料自体が大変、制限的であ
65
など、ことごとく群像を表している。といっ のが彼の絵なのである。 、 』 車
qJ 村 守 、、
韓国画では、紙( 韓紙) が 極めて重要であると認識されている。 事実、水墨とは紙の上に 具現された墨の働さのみを言うのではなく、 墨のイ動さとそのパタ ー ンになる 紙が 一つになって 作りあげる独特な白烹の緊張感から
~
生まれるものといえる
( 左) 国立現代美術官の韓国画室の展示室( 下) 3P欠 E陥手前亡
66
業を引き続き行なっている 。宋秀南、李苗
伺人かの画家が、いまもって水墨による作 ンスで、水墨でなければ表せない独特な余
の濃淡と内に染み通るような散りのニュア
執着することなく、筆の扱いによって生ま 上に具現された墨句働きのみを言うのでは
ると認識されている。事実、水墨とは紙の
韓国画では、紙(韓紙)が極めて重要であ
裕と美しさを感しさせる。
れる強弱の呼吸と墨の濃淡を適切に融和さ
浪のような人々はその代表格だ 。彼らは単 に墨の散りや縮まりのような微妙な変化に
せながら、構成を引き出す世界を志向して 一つになって作りあげる独特な白黒の緊張 感から生まれるものといえる 。この点は西
なく、墨の働きとそのパターンになる紙が
洋画のキャンパスとその上に具現される顔
いる。それだけに墨による構成という表現 墨を主な材料として使用して一種の点描 料の関係とは大きな違いをなすものであ
が適切である。
る鄭陣永の画面も、そのゆったりとした墨
67
方式(直接筆で描かずに)で作品を完成させ
李日鐘の『暮ら しの中でー中道の世界 』
韓国の独自的な造形性は、文人画の伝統
を継いでいる水墨画と韓紙の固有の材質的
る。また、その造形性は過去の庶民社会に
な特性を造形の因子として積極的に解釈す
の中に具現された、すべての造形性を現代
流行した民画や民聞社会 のいろいろな器物
の中にも現れている。今は亡き朴生光は、
的に変型させていく一群の画家たちの作品
その内容や色彩の駆使において過去の亙俗
画から強い霊感を受けた代表的な画家であ
の色彩整見や図形の体系を現代的に変形さ
る。今日の若い世代の中でも亙俗画と仏画
せようとする試みがよく行なわれている。
李鐘祥は、壁画の技法によって、わが国の
いる。彼が描いているイメ ージも広い意味
絵画の本来の方法を探求する作業を続けて
においては山水ではあるが、より図形化さ
れ記号化されているのが特徴だ。
民間で流行した絵や生活の中にあらわれ
る各種文様や色彩体系は、より韓国人の感
覚と密着したものといえる。高級な形式の
絵ではなく、アマチュアたちによって描か
れた民画は、府民の生活と庶民の夢と情緒
が濃く染みこんでいる代表的な造形であ
る。金基頑が自ら﹁間抜けの山水﹂と命名し 即ち、地肌になっている紙が造形の主体で
品とするのだ。
韓紙の原液を絵の具代わりに使ったのを作
えるものだ 。
んでいる。いうならば、民画の現代化とい
た 一連の絵は、民画を現代的に変形させた ものである 。民画にみられる稚気の残る表
る 。
あることが再発見されたのである。しかも、
加えずに書画用の紙自体のよさを生かした
与える温かな質感にひかれて、 一切顔料を
ロ官官乙展が西 O
・ いる。一九八0年代の前半には、﹁ワ lク
に顔料で描いた。また、 一部では韓紙の原
く、キャンパスの上に韓紙を張って、そこ
油絵の具のような顔料を使用しただけでな
家であり、元文子は紙を 凹凸の 立体成事-与
な質感事造形の領域に積極的に取り込んで いる画家もいる 。権寧面向はその代表的な画
ある表情を作りだしたりして、韓紙の独特
コラージュ画式にしたり、紙に傷をつけて、
金柄宗、李日鍾、石鉄周は、そういった中
び生かしはじめている画家が増えている。
れる各種文様や色彩構成に雪軍事-受けて、
を、彼 は積極的に自分のスタイルに取り込
現や強烈な原色やユーモラスな対象描写
これら一部の西洋画家たちは紙の上に直接
ていた西洋画家によってである。そのため、
洋画家によって多数聞かれている。これら
液のタク(韓紙の原料になる椿の樹皮)を
える構造にして、やはり紙の質感左足形の
韓国画の領域においても、いち早く紙が
紙(韓紙)またはキャンパスに対する認識 で は、何も韓国の画家たちに限られたもの. はなく、一九八0年代以降、一部の西洋画
の展示は、 一種の ドローイング展なのだが、
そのまま材料として使用し、それが乾いて
でも秀でた成果をみせている画家たちであ る。
それをより洗練された現代的な造形にも再
民国ではないが庶民の生活器物の中に現
単にドローイング作業と見週こしてしまう
固くなるのむ待って作品を完成させたりし
中心因子に引きあげている画家である。
オン・ペーパー﹂(君。長
よりは描くということと地肌としての紙と
た。いうならば、絵の具は一切使わず純粋
こうぞ
の関係が不可分であることを印象づけた。
これは油絵の具とキャンパスを主に使用し
家たちによっても大きな関心が寄せられて
権寧高の『無題』
68
李象範の『朝] ( 上の上) 。下寛植の『農村の晩秋] ( 上)
氏問で流行した
このほか、韓国性は伝統的な山水画を継
る一群の画家にも発見できる。既に亡く
承して、わが国固有の山川の精気を描写す
なった李象範、ヤ寛植のような近代の大家
たちが完成しておいた韓国の山水の典型に
で韓国の山水のもう 一つの姿の追求を試み
深い感化を受けながらも、各自独自の画風
る画家としては、金東珠、李氷燦などをま
ず挙げることができる 。山水は大きく理想
郷を念頭においた観念山水と、実際にある
自然の景観をモデルにした写景山水に分け
絵や生活の中にあらわれる
各種え様や色彩体系は、
より韓国人の感覚と密着したものといえる。
高 級 な 形 式 の 絵 で は な く、
アマチュアたちによって描かれた氏画は、
庶氏の生活と庶民の夢と情緒が濃く染み込ん
でいる代表的な造形である
られるが、観念山水が中国の影響を濃厚に
写景山水は韓国の自然に基づいているた
受けた多分に形式的な絵であるとすれば、
め、その分イメージが強い絵ということが
できる。写景山水の画家はかなりいるが、
韓国の山川の独特な気運を巧みに捉えてい
る画家はあまりいない。金東沫、李永燦は、
徹密な山川の描写にみられる写実楕押に負
けず劣らず、韓国の山野に染みこんでいる
独特な雰囲気を捉えるのに秀でた一面を見
せている。'
69
I NTERVI EW
アジアの民俗芸術の番人
コリアナ冨偏謀長
金焼旭
シャーマニズムは、わが国の基
! ι 7 4民族の信仰の対象となってきた
らそうという風潮の中にあって、写真を撮
た。﹃草茸きの家をなくし、村道を広げ:・ ﹄ などと歌いながら、我々みんなが豊かに暮
ちょうどセマウル運動のたけなわの頃でし
で初めて社会人 として働き始めたのが 、
﹁今はありませんが、かつての月刊﹃世代﹄
にまとめあげた。 一九八三年刊行の﹃黄海
という二O巻にのぼる全集にこれを体系的
かけたクッをカメラに捉え、﹃韓国のクッ﹄
であり、ム lダン(亙女)だったのです。﹂
訴えて、慰めを得ることができたのはクッ
れ、自分たちのいかんともしがたい事情を
く 、 疎外された悲しい 人々が苦しい時に訪
るものだ。それは、韓国文化の中核である
層文化を反映した、伝統文化の本質といえ
る人身の間では伝統的な農村社会を記録す
う不安からだった 。
の生き方や固有の自然観、宗教観、人間観
ともいえる。したがって、その中には我々
るという仕事が一種のデ lムとなって起
道のクッ ﹄を初めとして、一巻、一巻ずつ 出版されてきたこの全集は一O年後になっ
、,が国古代の三韓時代以前から韓
などの民族的思考の中心部分がそっくりそ のまま内包されている 。
こってたんです。風景よりも、人聞の方に
てようやく全巻刊行され、一九九三年の﹃ソ
風潮にさらされ、一時、消滅の危機に見舞
関心を寄せようともしなかったその時代に
消え去りつつあ った亙俗などには、誰も
ジャ ーナ リスト的気質で、
クッの札場を追い
主主けながら、 クッの保存と
ウルのチンオギクッ﹄をもって完結した 。
あって彼は彼特有の
ホンクッ、
yウルのチンオギクッなど必全
慰める全羅道のシッキムクッ、済州道のム
ている村 のクッを始めとして、死者の魂を
文化財に指定され、今でも伝承 ・保存され
恩山の別神クッ、摘島のティベクッなど、
寧と豊漁を祈願する済州道の霊登クッ、
京畿埠の都堂クッ、海女や船主たちの安
トダン
持っている祝祭的性格も重視している。
と団結を図る働きをもっ村のクッが合わせ
ことを弾調する。また、ムラ共同体 の和合
めるという文化・芸術的機能を備えている
神話と民族音楽、そして歌舞の原形をとど
彼は、クッが宗教的役割を超えて豊かな
しなかったその日寺代に
wd
このような歴史の発展過程の中で自然に
関心があった僕は、ムーダン(亙女)たちを
われたことがあった。 一 0年代の経済 九七
あって彼は彼特有のジャーナリスト的気質
詐も関心を寄せようとも
クッの写真家、金秀男は韓国の消え去り
形成されてきた韓国固有の伝統文化が、現
撮り始めたというわけです
開発五ヵ年計画と同時に押しつけられた
で、クッの現場を追いかけながら、クッの
L
代という時代にあって深刻な批判と軽視の
﹁セマウル運動﹂が、まさにそれである 。田
﹁クッに対する叫弾圧の歴史は、ずいぶん
保存と記録に努めた。それと同時に、彼は
古いんです。朝鮮時代の賠民であるム│ダ
舎の草茸きの家はもちろんのこと、迷信打
た写真作家、金芳男(同日)は、カメラ一台を
がままの時代だった 。これを見るにみかね
え聞けば、ところ嫌わず現場に飛んで行っ
で暮らすこともできなかったのです。日本 の植民地時代も同様でした。しかし、貧し
ンはソウルでは門内(都ソウルを囲む南大 門など四 大門 の内側、即ち城壁内のこと)
次第に民衆の精神世界と密着したクッにの
丞俗などには、
破の旗印 の下にクッ(亙女の儀式)を行なう
消え去りつつあった めりこむようになっていった。
アジア各地織の民俗を執鋤に追い続けている
亙女まで拘禁するような、軍事独裁の思う
写真作家の金秀男
引っさげて、クッが行なわれるという噂さ たのだ。大切な我々の伝統文化が、あっけ なくも消え去ってしまうかもしれないとい
記録に努めた
i
A』 、 系二 ヨ 三 乃
九四刀
キム
家
作 盲
写
70
﹁当時、僕は三九歳で、不惑を目前にして、
ルシンクッと帽島のテイベクッなどがあ
た性格をもっ亙俗としては、巨済島のビョ
は、漁村を背景としたクッが多い。こうし
はできず、改めて彼の仕事の記録的意味が
現在ではほとんどその原形を目にすること
六 0年代に行なわれたクッの記録であり、
願したクッだ。彼の著書にあるのは、一九
社を辞め、彼はフリーランサーとなること
のことだ。当時、籍を置いていた﹃東亜日報﹄
俗に関心を向け始めたのは一九八八年から
一応のめどをつけ、再びアジアのクッと民
日本の沖縄に始まり、彼が韓国のクッに
のための補助金が支給されることになった
の国際交流基金に申請してあった国際交流
悩んでいたのです。ちょうどその噴、日本
う領域へと広げていくのか、あれこれ思い
のか、またはクッという主題をアジアとい
俗という主題に、より深く踏み込んでいく
ろいろ考えているところでした。韓国の民
これからの僕のテ17を何にしようかとい
る。巨済島のビョルシンクッは、典型的な しのばれる。
を宣言した。周囲の人々の慰留にもかかわ
との便りが届きました。そこで、日本から
の活動を続けている。
漁村である巨済島のチュンリム村で二年に 彼の仕事ぶりは単にクッの現場を追いか
らず、当時としては向こう見ずと思われで
始めて、アジアの伝統信仰、歳時風俗、通
有数の学者たちと共に、現在に至るまでそ
一回、旧正月の中旬に行なわれるもので、 けつつ、写真を撮るということにとどまら
も仕方のなかったフリ i功メラマンとなる
過儀礼など、手垢のついていない彼らの生
へ流すことによって、村の安全と豊漁を祈
村中の人々が集まって祭杷の供え物を真心 なかった。クッを真剣に-記録していくため
ことを宣言した彼は、二番目のテーマであ
活と土俗文化を訪ね歩くことになったわけ
舟)を作り、村中の厄運をこれにのせて海
を込めて準備し、村の豊漁と安寧を祈願す にも、クッについて学ばねばならなかった。
るアジアのクッを追いかける大長征を開始
地理的に三方を海に固まれている韓国に
て彼が思いを込めて世に紹介したクッだ。
る村のクッだ。摘島のテイベクッは全羅南
F
71
彼は、一九八一年に創立された﹁クッ学
出版した( 右)
道婿島のテリ村で行なわれるもので、旧正
ぶりにやっと 20冊ものの 『韓国のクッ』シリーズを
した 。
海道地方のネリムクッ撮 影を皮切りにして、 10年
の創立会員として、民俗、芸術など圏内の
かや
緯国では亙俗を撮ってき た金秀男は、 1983年の黄
月の月始めの四日間にテイベ(茅で作った
K i mS oo- na m
彼は写真を撮るためには、たとえ何日かか
築き上げつつある。並の写真家とは異なり、
撮り続けながら、彼は彼なりのスタイルを
土俗信仰の源流を訪ね歩くアジア巡礼の
はずだという彼の期待から来るものだ 。
ず、身振り手振りで意思疎通をはかるのは 中間決算の場として、昨年、彼は一二年ぶ
真資料を確保している 。現地で言葉が通じ
彼がアジアの奥地を訪れ始めてから、今 毎度のことで、時には現地の本長な慣習に
の中に入り、共に飲み食いをし、心を分か
ろうとも彼が撮ろうとする対象の人物たち
です﹂ 年でもう九年目だ。このテ l マに二O年は
りに初めて﹁アジアの空と大地﹂と題する写
真作家の夢は、つまり、あと二年は残っ
取り組んでみるという、この意甲ω 強固な写 の麻薬地帯やゲリラたちの支配地域にもた
現地の人々でさえ二の足を踏むような、逗境
供え物の動物たちの首から飛び散る血、神
)暗闇と火とエクスタシー 、 ムlダン(亙女、
神との秘密めいた意識の交流をはかる
才をも っている人物のようだ。
彼は 、人々と隔たりなくつき合える天賦の
ち合い、まずは彼らと仲良くなろうとする。
J
当球午 ることも一度や二度ではなかった。 真展を聞いた。
ているというわけだ。彼は一年のうち二回、 かくのごとき彼の徹底したプロ精神は、
めらうことなく赴き、隅 々まで訪ね歩いた。
話と祝祭が醸し出す熱気など、総計二五O
﹁韓国のクッに最初に取り組み始めた噴 にも、ム lダンやク ッを行なう人 々は写真 に撮られることを思み嫌いましたので 、実
は文明か遅れ、停滞している地域はかりを 彼が新聞社の記者出身であるということ以
点をも って見せた強烈な原色の躍動感は、
少なくとも一一 一ヵ月ずつは旅に出ている。彼 訪ね歩いている 。彼の文化巡托は 、日本か 外にも、外部から隔離された地域であれば
のチョルモリクッの一場面( 左)
際に玄其を撮ることよりも、その人 々とつ
ら始まって中国と台湾、タイ 、ミャンマー 、
年に 2 回以上、アジアの奥地を訪ね回っている金 秀男の旅券と国均の民俗を記録した手帳とスライ ド( 上) 。彼はまた済州島の美しい四季と民俗を紹 介する写真集を日本で出してもいる( 下) 。西海岸
二 0年間、一 つのテ l マだけを粘り強く
見る者をして圧倒するものだった 。
と題 する写 真展を聞い た
あるほど排他性とタブー への好奇心が強
初 めて「ア ジアの空と 大地」
く、文化の純粋さがそのまま保たれている
昨年、金秀男 は一二年ぶり に
インドネシアなど、一 一ヵ国に百一っており、
アジア巡礼の中間 決算と して 、
すでに八万四千余枚にのぼる膨大な量の写
~r
72
。 さを持った彼を好きだという人 々は多 い
しかし 一方で、柔軟で素朴ともいえる優し
強引ともいえるプロフェッショナリズム、
す。今ではむしろ、大きなクッの祭りが行 彼の友人たちは、各界にわたっている 。も
き合う方がもっと大きな問題だったんで
りも、まず僕の方に連絡してくるほどに彼 の天与の気質のせいでもあろうが、それは
ともと人々とつき合うのが大好きという彼
われるたびに、ムーダンたちはマスコミよ
L
しては語れないことだ 。大体、彼と向かい
今や、金秀男はクッの現場に常に顔を出
らと非常に親しくなったのですが すクッの常連、クッの現場に欠かすことの できぬ人物となっている 。 合っていると、汲めども尽きぬ話の内容に 変容したものよりは原形に、また表現よ
時間の経つのも忘れてしまうほどだ。
また彼の持っている人間的な魅力を抜きに
﹁立派なム lダンになるというのは、本
りは記録に、より大きな関心を持つこの写
当に大変なことです。数十人から、多いと られるような強力なリーダー シ ップととも
きには数百人の人々を自分の方に魅ぎつけ
の親戚から送られた一台のカメラが機縁と
真作家は、延世大学校地質学科在学中に彼 なって、この道に入ったというが、今では
に、本にすれば優に何冊にも及びそうな分
誰がみても立派なプロフェッショナルだ。
量のものをそらんじることのできる記憶 ほどの持って生まれた才能が必要なんで
祭杷の供物を整える方法に至るまで 一人前
彼の罪論だ 。舞、歌、楽器を始めとして、
ないような様 々な働きがあるというのが、
ことが問題となるだけです。厳密に言って、
の中に芸術性が宿っているかどうかという
と思うのです。どんな写真であろうと、そ
のかということはさして大きな意味がない
また、写真をめぐって記録なのか、芸術な
ジャンルも、そう多くはないと思いますね。
﹁写真ぐらい様・々な方法で活用できる
力、そして、どんな芸術に優るとも劣らぬ
す ﹂
の立派なム│ダンになるためには数十年も
ム1ダンには、普通の人々が真似のでき
の問、学びつづけなければならないという
は生そのものに対する関心が高いんです。
私の写真はドキュメンタリー写真です。私
熱く燃えるような情熱と冷徹な批判力、
のだ。
後、女性たちとポーズをとっている( 上) 。沖縄のお祭 りの一場面 (左)
生まれつき人間好きな金秀男は人聞をカメラに牧める前にまず親しくなろうと努める。バリ島で祝祭の
74
のできる﹁窓﹂であるという点で、関心を
を通して人々の暮らしをうかがい知ること
を記録するということに満足しているんで す。 クッもまた、 一つの祝祭 、 一つの信仰
ある時代の、ある階層の人々の暮らしぶり
だ 。
な写真作家に授与されてきた、権威ある賞
この賞の海外作峯貰部門は現在まで世界的
号室するという栄光にあ,すかった。特に、
て、東洋人としては二人目に海外作家賞を
真フェスティバルでは韓国人としては初め
ちの土俗信仰に集中している。彼は、現地
とのなかった強靭な生命力を持った民衆た
らかの外部からのカによっても消滅するこ
男の写真撮影の関心は、異質の文明と、何
アジアの民俗文化を訪ねて巡礼する金芳
うね
資本主義に染まっていないからなんでしょ
純粋な人々であるかがわかるんです。多分、
てみると、彼らがどれほど気持ちの優しい、
ですが、ほんの少しでも彼らと共に暮らし
前回の展示会では日本のある雑誌が彼につ
て何冊かの本が日本でも出版されており、
家の一人だ。﹃写真集、済州色Fを始めとし
彼は、日本でも広く知られている写真作
界の写真界にも認められるような 一つの結
ともいえる。彼の仕事のこうした点が、世
しての価値に加えて、学術的な底果である
まま収められてきたということは、資料と
族の民俗文化が彼のカ メラにそっくりその
韓国はもちろんのこと、アジアの小数民
化 の流入とともに次第に滅びつつあるとい うことです。小数民族に会ったばかりの時
惜しまれるのは、そのような文化が西欧文
あるということは、驚くべきことでした。
﹁まず、あれほどの多様な文化と伝統が
いるかのようだ。'
未だ倦むャ﹂とを知らぬ情熱と力があふれで
眺め、その中から宝石のように輝いている
険家のごとくアジアの様々な地域をそっと
訪ねて、時には巡礼者のごとく、時には回目
価値を引き出す写真作家、金書力の顔には、
と消え去ろうとしている土俗信仰の源流を
いての記事を特集として組み、一冊の雑誌
には、無骨な人々だという印象を受けがち
文明の波に押し流され、追憶のかなたへ
L
持ったわけです﹂
で接した小数民族たちの実情について、こ
に仕立てあげるほどその名は知られてい
実と見なされたのだ。
のように述べている。
る。それだけではなく、昨年八月の東川写
75
DI SCOVERI NG KOREA
以上のような魚類相の特徴を、その起源 一
ここでいう東韓亜地域とは、嶺東側の江
大変貧弱で、韓半島の固有種はコイ科のセ
と関連してみてみれば、嶺東側河川の淡水 の淡水魚類相は古黄河から、それぞれ氷河
ボシパヤ一種のみである。また、特徴的な
まれるのだが、この地域は純淡水魚類相が
し、その淡水魚類相が韓半島に至った時期
時代を経て由来したものと思われる。しか
固有種がいつごろから韓半島で新しい独立
水魚類相の特徴となりえる数多くの韓半島
は、まだはっきりとはせず、韓半島産の淡
つの河川は河口域で合流している)以南の
ど南側に位置する楽豊川と珠樹川(この一一
南韓車地域というのは江陵南大川のちょう
南大川までの地域に分布している。また、
ショウ科北方系のキタシマドジョウが江陵
られるコイ科のコウライアブラハヤとド
は末だに明らかにされていない。
れ込む河川が含まれている。ここの純淡水
全ての河川、さらに栄山江以南の西海に流
魚類相は非常に豊富で、韓半島の固有種で
東海へと流れ込む河川と、南海に流れ込む が有力だが、筆玄告の約四0年間にわたる調
一方、韓半島の淡水魚類相は旧北区のシ
査・研究をもとにした韓国産淡水魚の分布
ロカマツヵ、ドジョウ科のナガシマドジョ
ギなどが生息しており、特徴的な魚種とし
あるコイ科のコウライイトモロコ、コブク 当し、残りの大部分の地域が満州亜区に該 当する。
スジシマドジョウ、スズキ科のオヤニラミ
ては、ドジョウ科のタイリクシマドジョウ、
区界をみてみると、威鏡南北道と平安南北
したがって、韓国産の淡水魚類は全て満
に、タイリクシマドジョウ、スジシマドジョ
などがこの地域でのみ発見されている。特
ウ、オヤニラミの三種は全て、西日本にも
の小亜地域に区分できるのだが、筆者はこ のコ一つの亜地域に区分している。
れを東韓車地域、南韓亜地域、西韓亜地域
ウ、ヨコジマドジョウ、ギギ科のウサギギ
州亜区に属し、この地域はさらにいくつか
道の鴨緑江上流域一帯がシベリア亜区に該
ベリア亜区と満州E区に該当するという説
した種としての分化を遂げたのかについて
が氷河期のいつごろであったのかについて
魚類としては古アムール河に由来すると見
陵南大川以北の東海へ流れ込む各河川が含
置置雪量霊室翠l I J i ¥c; iiJ JII
魚類相は古アムール河から、また、嶺西側
ホタテコブクロカマツカ
78
カゲカマツカ、ホソギギ、コクチマスなど
ナガミヒガイ、カワヒラ、カワアカメ、ト
科のホソギギ、サケ科のコクチマスなどが この地域でのみ発見されてじる 。中でもミ
ラ、カワアカメ、トカゲカマツカや、ギギ
無分別な骨材採取などは、自然界にあって
流入、河床構造の無分別な改造、 これまた
的規模で急速に起こりつつある各種廃水の
られているが、ここ数年間にわたって全国
このように、韓半島産淡水魚の分布区界
やウエキゼニタナゴ、産卵後に周辺の小石
産卵期の婚姻色が大変美しいコンゴウハヤ
生息している韓日共通種である点が注目さ
の魚種はすべて中国大陸との共通分布種で
これらが法的な保護を受けられるように
これまで述べてきたように、中国大陸と
大幅に狭めており、そのため全国的に淡水
も極めて限られている淡水魚の生息空聞を
る習性を持つヤガタニゴィ、形熊字体側斑
をくわえてきて産卵容を築き、卵を保護す
また、前述した韓半島の固有種の中でも
なったことは 一歩前進であるといえる 。
テコブクロカマツカ、サメガシラ、ヅナガ の共通種が多数生息しているという事実
魚が激減しつつある 。さらに 一部の魚種に
除く栄山江以北の西海へ流れ込む全ての河
は危機淡水魚を特定野生動植物に指定し、
かである。韓半島の固有種であるコイ科の
川が含まれ、いいもまた純淡水魚類相が豊
あることは注目に値する。
ドジョウカマツカ、コウライシマドジョウ、 は、韓半島、特に西韓および南韓更地域の
に関しては、現在も微細分布の調杢か進め
コンゴウハヤ、チョウセンボテ、クロムギ
れる。一方、西韓車地域とは南韓亜地域を
ツク、ホソムギツク、ヤガタニゴィ、ホタ
プアンシマドジョウ'、ミホシマドジョウ、 淡水魚相が古黄河水系にその源をもっとい
近になって環境部(省)が一部の希少、また
別の対策が求められている。幸いにも、最
うる淡水魚である。'
ジョウなどの魚種は、我が国が世界に誇り
ラ、ヅナガ、ドジョウカマツヵ、ヨコジマド
特異なホタテコブクロカマツカ、サメガシ
紋が特異であり、またはその生態の習性が
さらに、アカザ科のコウライアカザ、ニク
至つては、ほとんど絶滅の‘ 借様に瀕してい るのが実情であり、関係当局の緊急かつ格
う推定を可能なものとする一つの根拠であ る 。
79
アカザなどが生息しており、特徴的な魚種 としてはコイ科のミナガミヒカイ、カワヒ
韓国の川と渓谷に生息している コクチマス( 最上) 、 コンゴウハヤ( 上の上) 、 コウライオヤニラミ (上)
除
メリカにある韓国語振興財団と
て FF 韓国語教育協会共同主催の第一 韓国精神文化研究院の後援を得てこの大
ることである。 今回の韓国学大会は十三の分科に分かれ
世界化とSATE韓国語﹂のような問題が
民族と次の世代﹂というテ!?で七月一九
ω﹀ 叶 国 間05白)は、一九八八年から韓国語
会を主催したSATE韓国語振興財団とS A T E韓国語採択委員会(のOBE 2FH
イデンティティの究明である(つ韓民族の源
伝統社会および伝統文化を通じた民族のア
主題は大きく五つに分けられる。第一に、
と海外同胞・北韓・韓国の三者聞の新しい
代に結びついた海外同胞社会に対する理解
大会のテーマである海外の韓民族と次の世
催された。因みに、アメリカの大学入試用
番目の外国語に採択されたことを-記念して 国人たちの問題として普遍化して、国際韓
ティティ問題を、全世界に散在している韓
として生きていく韓国人たちのアイデン
の世代のための伝統教育 L など)。第三に、
の地位とアイデンティティーの問題﹁次
民族の流・移民の性格﹂、﹁在米韓国入学生
いは他意によるものであれ不幸な韓国史の
は、その移住が自発的なものであれ、ある
だったといえるだろう。大部分の海外同胞
断面とつながっており、海外に定着する過
程でも少数民族としての差別と辛酸をなめ
なければならない異邦人であった。海外の
韓国大使館は同胞社会への助力者というよ
りは常に監視者の役割をしてきており、海
外在住同胞に対する政府の政策的配慮は皆
無に等しかった。今回の世界韓国学大会が
在米同胞民間団体によって聞かれたことか らも、政府の無関心ぶりがうかがわれる。
しかし海外の韓国人社会が、それぞれの居
住国で一定の社会的地位を獲得し、韓国も
また国力の伸びを背景に世界化に目覚めた
結果、われわれは海外同胞が一一一世紀の韓
その音公設は二通りにいうことができる。第
国学大会歩品開催するまでになったのだが、
四に、韓国精神文化の根幹となる哲学的、
民族の伝統と現代﹂、﹁統一韓国﹂など)。第
係の摸索である(﹁南と北、そして海外の韓
海外同胞・北韓・韓国の三者聞の新たな関
胞・韓国・北韓を民族共同体として一つに
しかし、ここで問題となるのは海外同
民族史に一定の役割を担える重要な資産で 目は物理学、化学、生物学、社会学、米国
一に、個別的な分野で築き主けられた韓国
ティがなんであるかといちことである。﹁在
束ねることのできる民族的なアイデンティ
韓国語の SATEへの採択は、米国社会
究明するものである。第二に、これを通し て韓国の未来を韓国本土だけではなく海外
展望に関するものである(﹁海外の韓国学
民族的なアイデンティティに基づく民族共
実上、世界化時代の韓国の問題でもある。
三世の民族的アイデンティティの問題は事
あることを知るにいたった。
イン語、現代へブライ語、ラテン語、日本
史、世界史そして外国語(ドイツ語、久ベ
関連のすべての成果を普遍的な一般理論と
﹁地球村時代の倫理的な価値体系﹂など)。
倫理的問題である(﹁世界哲学と韓国哲学﹂、
における韓国人の地位がそれだ立高くなっ
の韓国学﹂など)。第六は、韓国語の世界化
│過去、現在そして未来ヘ﹁情報化時代
たことを反映するものであり、韓国語が国
に散在している海外同胞、北韓同胞たちを
際言語として認められるようになったこと
r 含めて広義の韓民族という視点から、こ れ
を意味する。これは韓国語および韓国学の
ら同胞聞の未来志向的な相互関係を定立す
同体の形成は、論者によっていくつかの異
世界化に向けた大きな発展といえるだろ
に関するものであり﹁ハングル、韓国語の
語、中国語)だった。
しての韓国学に収赦していこうということ
モ イ
ティの問害にあらわれた同胞二世または
世
米韓国入学生たちの地位とアイデンティ
金文焼
の
SATEの試験科目は英語と数学、そして
関係についての模索であった。これまで海
特に、今回の韓国学大会における焦点は
日から一一一一日まで米ロサンゼルスで聞かれ の試験採択のために努力してきたが、昨年
、﹁芸術文化の伝承と 承継﹂など )。第二 流L に、海外同胞社会に関する理解である(寸 韓
これに属する。
た。この犬会は、米国の大学修学能力試験 メリカという多民族社会において少数民族
八月に財団として出直した。この財団はア
て聞かれ、四O余りの論文が発表された。
江口
回国際韓国学大会が﹁海外の韓
の一つである SAT(叶F巾ω 口 F o F ω
外の同胞が本国と保っていた関係は片思い
円円
Eの学科目に韓国 H語が九 旨おgB巾三吋皇)
、
う
車 章 民 族 と 次
巾阻止ロ閃)であり、 SATHの試験科
タ ト の
である。これは民族的アイデンティティを
(HN
;毎
第五に、海外における韓国学研究の現況と
読解
CURRENT
80
なった解釈が下されているが、今回の大会 で確かめることができたのは、われわれに を復元することにあるのではなく、それを
と って重要な こと は過去の伝統社会の価値 二一世紀の新たな 世界環境の 中で再構成す ることにあるということだ。 主題講演の 中 の一部を掻い摘まんで述べ みとることができるだろう。
れば、会議の全般的な雰囲気をある程度読 李賢宰元総理は基調講演の 中で、韓国と 在外同胞の聞の三角交流関係の必要性を、
韓国語の∞﹀叶E への採択は、 米国社会にお け る韓国人の地位が それだけ高くなったことを
反映するものであり、韓国語が
国際 言語として認められるように な った こ と を 意 味 す る
民族同質性の回復のための措置の 一つとし て強調しているが、彼はこのような在外同 とが在外同胞の アイデ ンティテ ィの危機を
胞の新たなレベルの役割と位相を高めるこ 克服するのにも大きな意義があるというの だ。 萎真吉教授(官露大学 ・史学)は、移 民社 会で 母国文化を保存することが排他主義、 平和主義的であり現地民社会 はもとより人
↓印
﹀ -4 3ZHm
雲一川町ヨ J?仔一目芥州叫剖言旦
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81
孤立主義、植民主主義的な方向ではなく、
昔のハングル本の『月印千江之幽』
CURRENTS
治と世界経済において韓国の重みが増すに
金泳三大統領は激励の辞を送り、国際政
別 ・指定する方針である。
を把握した後、重点守護する研究機闘を選
の構成、講座全体の時間など全般的な実態
講座のうち、教授と教材の確保状態、学生
の作成や教師の養成、韓国語試験に関する
は来年から行なわれるが、それに備え教材
米国では、先述のSATEの韓国語試験
に備えるとき、はじめて立派なものに築き
責乗糞教授(梨花女子大学 ・国楽)は、音 つれて韓国学左韓国語教育に対する海外の
現在、韓国関連の講座を開設した海外の
上げられると述べ、多くの共成年得た。
楽もいかなる民族であれ社会集団の全体 関心が高まってきており、韓国語がアジ
大学は、米国がハーバード大学、エール大
らねばならないと注意を促す。
的、文化的な脈絡から形成されていくもの ア・太平洋時代に有用な言語として浮かび
類社会全体の発展のために貢献する道にな
なので、その文化圏だけの音楽観、音楽様 上がってきていると述べ 、海外の同胞たち
広報、韓国語教室の開設など取り組むべき
のとみられている。
式、音楽語法に慣れなければ理解し難く、
していることから現地学生たちが就職のた た大学は四九カ国二七九カ所に上ってい めに韓国語を学ぶなど、必要に応えてのも る。政府は、この二七九の韓国語・韓国学
とりわけある文化圏の音楽が芸術的により いっそう高い価値を持っているとか発展し よく学んでおくよう呼びかけた。そして同
界市民として生きていくためにも韓国語を
もこうした世界化の時代に競争力のある世
鮮族が多数住んでいる中国は、二九カ大学
など六三箇所で二番目を記録している。朝
もっとも多く、日本が東京大学、慶応大学
学、スタンフォード大学など七O 箇所で
出すとなると、その仕事はさらに山となろ
の言語に﹂、そして﹁韓国の世界化 Lに乗り
験関連の事業のみならず、﹁韓国語を世界
望んでいる升国の大学が漸次増えてくるにつれて、 升国の大学の
現在、政府としては韓国学と韓国語講座の開設を
の状況を、 一目で見渡すことのできる世界
在して暮らしている五 二二 万名の海外同胞
恵を掘り出すヤ﹂とだけでも生易しい仕事で はない 。筆者は、全世界 一四 O余カ国に散
ればならないと主張してきたが、この場合
韓民族館のような施設を速やかに設けなけ
スフィヨラ博物館は立派なモデルになるだ
イスラエルのテルアビブ大学にあるディア
め伝統文化の価値を再発見しようと努力す
が大きくならざるを得なかったし、このた
ほど、自分の主体性を失ったことの空しさ
近代化と産業化を成功裏に進めれば進める
く変わってきていることに満足する 。彼は
が七0年代以来、とくに八0年代から大き
てくるにつれて、外国の大学の韓国学研究
現在、政府としては韓国学と韓国語講座 ' の開設を望んでいる外国の大学が漸次増え
た 。
みんなが一つになって努力しようと訴え
の養成のために政府だけでなく韓国人同胞
り、世界各国に韓国学を普及する専門人力
たちのために長期的な韓国語教育計画を作
ベクとハンカリーが三つ、チェコと旧ユー
れぞれロシア・カザフスタンが四つ、ウス
二つの大学に韓国学講座を設けており、そ
が、インドネシアとフィリピンがそれぞれ
とタイ、マレーシアにそれぞれ四つの大学
講座開設ブ lムが起こっている 。ベトナム
ロッパ、旧ソ連地域でちょっとした韓国学
北韓文化、そして韓民族同 一文化の模索方
しなければならないこと 、 一 九九0年代の
発表に参加し、民主主義と民族主義が結合
文化共同体形成方策﹂というテ!?で主題
おり、音主義のある学術会議であったといえ る。筆者は﹁南と北、そして海外韓民族の
が、それぞれの分野での権威が認められて
初め世界各地から出席した者は=一 九名だ っ た。外国人の出席者は九名に過きなか った
などを開設した大学は四九ヵ国二七九ヵ所に上っている
ちが自ら東洋文化の価値を再認識し、東洋
に肩入れしたいとしている 。政府が韓国国
ゴスラビア地域に 二つ、ルーマニア・ブル
法などを論じ、特に寛容 の精神をも って世
大会 の発表と討議に出席した韓国学者の
ろう。
文化から新たなものを学ぼうとする傾向が
際交流財団を通じて把握したところによれ
ガリアに 一つの大学が講座を設けている 。
界化に備えるべきであることを強調した 。'
うち 二五名が韓国からの出席者で、米国を
現れてきたことも影響 したものと思われ
ば、六月末現在、外国の大学の中で韓国語
このような現象は、韓国企業の投資が急増
特に、最近では東南アジア地域と東ヨー
る。彼は固有文化の継承が、伝統的なもの
科または韓国学研究セ Yターなどを開設し
るようになる。これには、西洋の知識人た
を可能な限り純粋に伝承する動的な面を共
が韓国語講座を開設している 。
六月末現在、升国の大学の中で韓国語科または韓国学研究センター
政府が韓国国際交流財団を通じて把握したところによれば、
韓国学研究に肩いれしたいとしている。
史を整理し、その中から世界化に必要な知
う。中でも海外韓民族の流 ・移民一 ハむ 年
アメリカの韓国語振興財団がSAT試
ているものだという判断は独善的な民族中 時に海外で生まれ成長した二世、三世間胞
課題が山積している。
して、彼は韓国でも伝統音楽に対する認識
心主義的判断に過ぎないと述べている。そ
"Ì C[l=~U.
82
J OURNEYS IN KORE AN Ll TERATURE
金承鉦 予実的 mCフRU1己
、 、
金承弘のえ学を引っ張っていく
基本的な推進力は、一言で いって純粋かっ溌刺とした好奇心であるといえる
83
確認されていない局面の 確 認 作 業 i金 承 鉱 論
千 二斗
文堂命誌想家
その姿を消 しつつあったにもかかわらず、
中、あるいは戦後(ここでの﹁戦中﹂﹁戦後﹂
ては疑問の余地がない。彼は、いわゆる戦
の役割を 十分に果たしたということについ
た金承鉦が、六0年代の文学の旗手として
一九六0年代の初頭から作家活動を始め
執着から完全に離れていたことだ。第二に、
られた強烈な現実的論点なり教訓主義への
金承鉦の文学が持っていた画期的な点 は、まず第一に、 一九五0年代の文学にみ
を広げてみせた作家が金承鉦だ 。
た。こうした時期に、新しい文学の可能性
争の生々しい臨場感事﹄薄めるのに充分だっ
していた。しかし、一O年という歳月は戦
例外なく何らかの明確な問題意識を前提と
に緊張を帯びたものであり、またほとんど
0年代の文学は、その文章のト lンが非常
ツを 一枚、買ってくれたんですよ。とこ
ている女がやってきたときに、僕にパン
その翌朝、日銭稼ぎに小間物を売り歩い
に寝たことがあるんですがね、彼女は、
の中 の大きいミジャ姉さんと一晩、一緒
かったんだな。ところで、僕はその五人
僕はとんと、そんなことは思いつかな
だけじゃないでしょう﹂ ﹁ あ、なるほど、それはそうですね 。
に入ってみたことのある人は、伺も貴兄
だって知ってるんでしょう。その飲み屋
子のミジャ姉さんと呼んでるんです﹂ ﹁ しかし、そんなことはほかの人たち
性のためにのみ使われているとしても、そ
る。しかし、我々の日常言語が純粋に遊戯
い比率にとどまっていることを指摘してい
のためにのみ使われる言葉は、極めて少な
ンも、我々の 日常の対話の 中で実用的目的
﹃詩の理
である場合が非常に多い 。それだからこそ、
いる言葉の大部分は、それこそ無償の 一 言語
ような性質のものだ。実際のところ、我々
無意味な無駄話だと片付けることのできる
全に遊離しているという事実だ。それは、
新しい文学の領域が未だ明確に予見されて
彼の文学には 一九五0年代の文学に見られ
主義的な性格の色濃いものだった。一九五
いなかった時点で、全く新しい世界の中へ
る深刻でありながら、それと同時に激昂し うことだ。金承鉦の文学にはむしろ、みず
ろで、彼女が貯金箱がわりに使っている 一升瓶の酒の空き瓶には 二 0 ウォン
話行為に寸会 な C いとしても、結局のところ
れはおおかた、何らかの実用的な場面にか こつけて行なわれている場合が多い 。言い
戦争という絶体絶命の事態にきりきり舞い
といえよう。一九五0年代の作家たちは、
き始めた順に大きいミジャ姉さん、二番
前の娘、が五人もいましてね、その庖で働
い、とある居酒屋には、ミジャという名
﹁乙支路三街にある看板もあげていな
交わしながら交わした対話の場面である 。
に冬の屋台の飲み屋で出会っ て、酒を酌み
これは、彼の﹃ソウル│一九六四年、冬﹄ という作品に出てくる、 二人の若者が偶然
文学には全く見出せないものだった。一九
る発話行為であり、それは 一九五0年代の
意味な行為、対話そのものを楽しもうとす
に繰り広げられている対話は、それこそ無
そ作為的な言語だ。そうした意味で、ここ
うことだ。
換えると、言語の遊戯性を楽しむための発 入っていたんです﹂ ﹁ それはまた、おもしろいですね 。そ
は、その実用的な側面を利用しているとい
F の著者、ブルクスワ ・ウォ l レ
行われるわけではない 。我々が日常使って
の日常的な対話が全て実用性のためにのみ
飛び込んでいくという冒険を強行し、真の
ているような調子が全く感じられないとい
一九五0年代の初期に起こった韓国戦争
の﹁戦 L とは韓国戦争を指す H訳注)文学で
意味で新しい、滋刺とした文学の領域を構
は、その後の約 一 0年間の文学を性格づけ
の事実は、まさに貴兄だけのものですね﹂
しながら対峠しつつ、自分たちの文学を構
こうした対話から感じ取れることは 、登
ところで、先に引用した対話は、それこ
築するほかなかった。このような条件の下
場人物たちの言語が日常的な実用性から完
的にであれ、または消極的にであれ、教訓
に形成された一九五0年代の文学は、積極
目のミジャ姉さん、 三番目のミジャ姉さ ん、四番目のミジャ姉さん、そして末つ
学は、広い意味で戦中・ 戦後の文学である
る決定的要因となった。一九五0年代の文
みずしい球銀系住から生まれ出る自由奔放な ウイッ トが満ち満ちている。
ある 一九五0年代の文学が、当時ほとんど
築するのに成功した。
、
84
一般的に極大化したものであるといえよ れから押し寄せてくるであろう、まだ確か
一杯﹄という作品の冒頭には、﹁すると、こ
そ よ
五O一年代の文学の言語は、言語の実用性を
か で に す
めえずにいる数多くの日々が怖くなって、
、 五 確 歳
彼はワッと泣き出さずにはいられないよう
え に
していくために、言語の遊戯性を追い求め
ば 二
う。こう見た場合、言葉を人為的に作り出
の の
、 僕 た ち つ t主 て 確 し 、 カ ミ
だつた﹂という一節がある。
一九五0年代の文学に対する挑戦であった
場 合 に 限
ていくという金承鉦の姿勢は、それ自体が
「
23
ルアもいえる。
僕 あ
「
また、先の対話の場面から読み取れる、 もう一つの重要なことは金承鉦の文学にお いては、個人や個人としてのあり方、ある いは個人的な感受性というものが、ひとき わ強調されているということだ。他の人は 知らずにいる、自分一人だけが知っている こと、それがどれほどつまらない無意味な ものであろうとも、それは明らかに自分個 それは自分個人に対する確認であり、事実
﹁僕も、それは、はっきりしてます﹂彼
うです﹂
﹁僕たちは、やっと二五歳になったば
かりですよ﹂と僕は言った。
これは﹃ソウル│ 一九六四年、冬﹄のお
であろう、まだ確かめえずにいる数多くの
﹁怖くなってくるんです﹂
はコクンと一度うなづいてみせた。
日奇﹂を目前にして、どうしょうもない気
わりの部分だ。金承鉦の作品のこの一節を
﹁その、何ものかが、つまり・: 彼は溜 ﹂ 息のような声音で言った。﹁僕たちが、
分になって耐え難いと思いつつも、その目
読むと、我々は﹁これから押し寄せてくる
あまりにも年をとってしまったような気
﹁何がですか﹂僕が聞いた。
がしませんか﹂
強烈な現実的論点なり教訓主義への執着から
人の完全な所有のもとにあるということ、
一九五十年代のえ学にみられた
一九五0年代の文学が個人の問題をほとん
画期的な点は、まず第一に、
の自己同一化への努力を反映したものだ。
の中に組み入れることによって、個人の責
金承弘のえ学が持っていた
ど例外なく、戦争という名の全体的な文脈
ることに比べてみたとき金承鉱の手法は画
任を集団の問題へとすり替えてしまってい 期的なものであったと言わざるをえない。 戦争という巨大な問題から、ミジャである とか、貯金箱であるとかというような潰末
完全に離れていたことだ
な対象へと関心の方向を変えて示しただけ ではなく、それがどれほどつまらないもの であっても自分自身によって確認されたこ
できるのだ。
とだけが自分自身のものであるという、 ・ 価 値観の一大転換の様相をここに見ることが
金承鉦の文学を引っ張っていく基本的な た好奇心であるとい﹀ええる。彼のよ ﹃お茶でも
推進力は、一ゴ二言一
85
、 一
前の日 々を粘り強く確認しようとする作中 の話者の強烈な好奇心を読み取ることがで きる 。金承鉦の文学の底に は、このような 活達な好奇心が常に存在している。好奇心 とは、﹁確認されていない ことを確かめ、 L
自分自身のものとしようとする純粋な情熱 ともいうべきものだ。このような好奇心は、 ちからぴと
﹃力人﹄における話者の姿にもよく現れて いる。彼は、騒動と無秩序、そして貧困に あえぐ貧民街で絶望と自暴自棄の日々を 送った後で今度は堂々たる秩序と家風を 持った、ある上流塞挺に居を移してから、 生の様々な局面を確認することになる 。つ かりとした秩序と家風をもっ上流家庭へと
まり、無秩序と貧困にうんざりして、しっ 居を移したものの、そこでの彼は去勢され たような生の実感しか感じられず、貧困と 無秩序の貧民街でこそ味わえる生の活気を 再び懐かしむようになる。 金承鉦の大部分の作中人物たちは、こう ﹃無尽紀行﹄、 ﹃ 僕 したさすらい人たちだ 。 が盗んだ一互の話者たちは、濃い霧の立ち 込めた、息の詰まるような自分たちの故郷 を確認するために旅に出るし、﹃旅﹄の女主 人公は道徳という﹁垣根﹂の向こう側にある 問題意識を前提としたものでは決してな V
そのまま、韓国の政治的惨状、道徳的に堕
代の方式﹂などに描かれているが、それは
とえば ﹃乾﹄、﹃山羊は力が強い﹄、﹃六0 年
らきらと光らせながら牛小委回らなくてはな
知らぬ土地を訪ね、大きく見開いた目をき
だ。新しい篤きと出会うためには四方の見
ち主は飽くことなく移動しつ.つけるもの
識からは遊離したものであり、好奇心の持
好奇心というのは、ある決まった目的意
し 、
人﹄に見られるようにソウルの様々な様相
作中人物たちが、果てることなく放浪の精
へとつながるものだ。彼の作品の大部分の 神にまとわりつかれた存在であるというこ
らない。好奇心とは、要するに放浪の蛙掲
性に戯画的な照明を当てているのも事会大で
に対する風刺的点検となっているかと思え
ある 。しかし、こうしたことは 一九五O年
ば 、 ﹃多産止でのように 、現実世界の不毛
Jた ﹃カ 落した社会相に対する告発となり、 ま
心が暴き出したこの世の現実の局面が、 ・た
よい歩く。このような汲めども尽きぬ好奇
代の文学に見られるような、ある種の論点、
好奇心の持ち主は飽くことなく
る身であるにもかかわらず、夜の街をさま
ある決まった目的意識からは遊離したものであり、
ものをそっとのぞき見ょうとして、夫のあ
好奇心というのは、
いるだけであるか、またはその作中の観察
者の好奇心の対象として浮き彫りにされて
は、﹃力人﹄における秩序と家風の化身のよ
いるにとどまっている 。そうした例として
うな祖父、﹃無尽紀行﹄に登場する話者の故
郷の友人たちなどが挙げられる。
金承鉦の作中人物たちは、例外なく一種
の未成年者たちであるという点において、
共通点を有している。年齢的にもそうであ
るし、また精神的にもそうだ。﹃乾﹄、﹃山
羊は力が強い﹄などの観察者たちは子供で
あるから言うまでもないことだが、﹁僕た
ちは、やっとこ五歳になったばかりです
L
と言う﹃ソウル │ 一九六四年、冬﹄の作中 人物の話のように、彼らはやっとこO代に
は生活と世俗の基盤から遊離した未成量告
なったばかりの青 二才たちであるか、また
このように見た場合、金承鉦の現在まで
たちだ。
の文学的軌跡は大人ならば、とうの昔に確
かめ乗り越えたはずの、与えられた現実の
ていない数多くの﹂局面として向き合いつ
様々な局面に今になってやっと﹁確認され
つ、そのひとつひとつを衝撃と驚きの中で とも決して偶然の一致ではない 。
作家、金承起の文学に 一貫 しているモ
想的雰囲気を帯ひているのはそのためだ。
る。彼の作中の現実が大概の場合、濃い幻
確認していく過程そのものであるといえ つまり、金承鉦の作品の主人公たちは、 ほとんど例外なく日常の現実の住民ではな
登場しない。たまさか、そうした人物がし
俗的な才覚を働かせるような、そうした現
の共通点だ。家庭を築き、家族を養い、世
レベルのそれであり、したがって、彼の文
うに徹底して個人化、または個性化という
うとする金承鉦の作業は、先に言及したよ
認されていない数多くの﹂局面を確認しよ
の通過儀礼もまた、このような個人化、ま
たは個性化というレベルでのそれであるこ
学が描いてみせる基本的モティ lフとして
とはいうまでもない 。 '
としても、彼らはどこまでも害責上の作中 めの付随的な装置としての役割を果たして
人物、すなわち問題の個人を際立たせるた
ばし作中の現実に顔を見せることがあった
実的な人々は彼の小説にはほとんど一人も
ンそのものであるといえる。 ﹁ 確
ティ│フは、いわゆる通過儀礼のイニシ
九らせながら歩き回らなくてはならない く実際的な意味においても、象徴的な意
見知ら土地を訪ね、大さく見悶いた目をさらさらと
ョ エlシ
新しい驚さと出会うためには四方の
味においても、放浪者たちだというのがそ
手本イ動しつづけるものだ 。
86
NE WS F R OMT HE K OR E A F OUNDAT10 N
海外での 韓国研究に対する支援 -韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合 、 これを支援 しております。人
韓国国際交流財団の
フエローシップ ・ プログラム 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエ ロー シップおよ ひ韓国語フエローシ ッフ。を次のようにご案内いたします。
文・社会科学・ 芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについ て支援申請を受け付けております。
韓国研究フェローシップ
①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月 三一 日で、選抜の結果および支援 額については、同年十月十五日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での韓国研究に対す る支援J および「韓国国際交流財団 のフェ口ーシッフ。・ フ。 ログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財団または現地の韓国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 緯国国際交流財団国際協力 1 部
ま乙給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書と研究計画書を作 成のうえ、該当年の五月 三一 日までに韓国国際交流財団に提出してくだ
2 147号 電話 82- 2- 753- 3464 FAX: 82- 2- 757 ・2047 ・2049
選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。
さい。
即
よび適格の専門家に対して、韓国語フエローシップを提供し、六 一二
P3
韓国語フ エ ローシップ
し
韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者お 白川
間 輔
閥
勺 開
山川 和 句 切
閣
U
F
O
FK A EL R O K
大斡民国ソウル特別市中央郵逓局私書函
韓国国際交流財団は、隔月刊誌K OR E A F OCUS
カ月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。 ( コリア ・フォーカ
ス) を刊行しております。「コリア ・フォーカス j は日本のみなさんに 韓国関連の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 同財団は「コリア・フォーカス」が日本の皆様にと って韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「 コリア・フォーカス」は、日本語版のほかに英文版 K OR E A F OCUS しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 コリア・フォーカスが取り上げている 記事は、韓国の政治 ・経済・社会 ・文化 などの各分野と、韓国関連の国際問題に
E っており、このほか韓国に関する 重要 な資料と 主な事件の日誌も掲載しており ます。 したがって、韓国の時事問題に関 する情報性記事が幅広く盛り込まれてい て、韓国の現実にリアルに接していただ けるに違いありません。
フエ ローシップを与えられることが決ま った方には、韓国内の大学のう ちの一つの韓国語講座を受講することができ、 受講期間中には、授業料 と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書 を作成のうえ、該当年の五月 三ー までに韓国国際交流財団に提出してく ださい。選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 韓国国際交流財団国際協力2 部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函 2 147 号
電話。 82- 2- 753 ・6465
FAX: 82-2・757- 2047 ・2049
.、4
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~
~
Lot t e, T he VI P' s Choi ce
「私は完壁な ビジネスを追求する、 完壁でない男で、ある」
Earl S . Moor e Jr. Presl dent of Asi a Pacif lc Markeling
ビジネスには失敗は許されません。しかし残念なこと にどんな人も ひとりの人間として完壁ではありえない。 「だから 、ホテルは、いつも、完撃でなく てはならな P J アール S. ムーア、 Jr 氏の持論で、す 。 ホテルロッテを繰り返してお選びになる氏の理想のホテル像は、 「完壁な施設とロケーション、そしてゲストを暖かく包みこみ、 決して完壁さを表に 出さない優雅なサービス」。 そして乙れはまた、ホテルロッテが追求するホテル像でもあります
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