Koreana Summer 1997 (Japanese)

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笑顔がこぼれるおしゃれな空間

私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス 、 地下鉄と連結された便利な口ケーション、 1 3 0 0坪余りの広々とした居内、 00以上の豊富なブランドと 20屈もの有名ブティ ックで それに4 心ゆくまでショッピンクを楽しめるから。 でもロ ッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すり工ステやゴー ジヤスなサウナのあるホテル。 ' ¥ークのロッテワールド・アドベンチャーと 屋内テーマ J 湖に浮かぶおとぎの島マジック・アイランド。 000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 韓国 5 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張リな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、

ONlY LOTTE DUTY FREE SHOP

垢すり工ステ

闘関朝 磁i

ロ ッテワルド アドベンチャ

民俗憎物館

韓 国レストラン

釜山シアターレストラン

賄罪,~白砂デ箆税眉

口明デワ-J~P!箆税唐

ロザデ釜山箆税唐


チン

' .

℃﹀司宇︿同CZ のと

チンは韓国の公演に必ず登場する楽

器で、固定した音律を持たない代表的

な打楽器である。真鍛(黄銅)を打ち

ばち

つけて作られるこの楽器は、先が布で

厚く巻かれた砲で叩いて演奏するのだ

が、その音の響きは力強く清明であり、

余韻が長く味わいがある。音は余韻の

波が深く、いろいろな響きを残すもの

で合図用として使われていたが、太鼓

が良いチンとされている。元来は軍隊

のように音を出すものとして使われる

ようになり、舞楽や農楽のような各種

の民俗音楽はもちろん、大吹打(管弦、

打楽器からなる軍楽)、宗廟祭礼楽など

で幅広く使われている。さらに、現代

の韓国音楽でも重要な部分として残っ

チンは伝統音楽において基本リズム

ている。

となる基本の拍子を叩く反面、小さな

チンであるケンガリは華麗なリズムを

叩く。単調ながらも音自体の響きと流

れの強いカを備えたチンの音はものす

うるささはなく、じんわりと聞こえて

ごい音を出しながらも耳をつくような

るようなエクスタシーを感じさせる。

きて、まるで神秘の世界に引き込まれ

チンはこのような音の響きと余韻で、

興に乗って思わず肩を揺り動かしてし

ま う 韓 国 の 音 と と も に す べての始まり

を知らせる韓国人の合図でもある。

チンは四物ノリで使われる重要な楽器のひとつである


ppb xm 亡 zの・ 印c

KOREANA 町 &CULTURE カバー・ストーリ-

韓国の演劇と 伝統演芸の公演え化

1997年 9月に世界演 劇協会(IT I) の総会が ソウルで 開催される にあ たり、 コ リアナ夏季号で

4

は 韓 国 の 公 演 場 及 び演

R O U N D T A B L E

劇、伝統演芸について特

韓国演劇の位相と世界化の展望

集 します。表紙の写真 は

1 2

河回 タルの中のモクチュ ンタルで、韓国の伝統タ

一 九九七年世界演劇祭

ル ノ リ (仮面踊り)の 一 場面です。

鄭鎮守

16 韓国の伝統演芸のルーツとその継承問題 李美媛

22 韓 国の舞 台における 主 要劇団 具照書

32

九0年代における韓国演劇のい くつかの徴候 側国 雨 ) 国 成 6国 陀 4 韓 沈 到韓李 3 韓4

金潤哲

演浪

場広

公流 のの

主寸

男 団

j

日成

J

病 膚 皮 た れ 現

仮 と 面

峨洛

54

ONTHEROAD

江陵草堂の村 金周祭

6 2

K O R E A NAR 1 1 S T SABROAD

プラハに咲いた韓国人画家 李起順の人生行路と芸術世界 林 永周

E ( o r e aF o u n d a t i o n 宅何奇~1I.Jil.号 ~H 'i!


K O : 旺 ANA コリアナ

消え行く韓国の色彩を求めて 藍染職人韓光錫氏

7 2

I N T E R V I E W

車庫国国際交流財団の季刊低 大緯民国ソウル特別市中区南大門路5 街5 2 6

l -ω5

6 6 李畑権

1 9 9 7 年夏季号

不在の自我を求めて文章を書く 柳美里の文学を理解するために 朴海 鉱

発行人兼編集入

金正源

7 5

隷属国際交流財団理事長

D I S C O V E R I N GK O R E A

編集長

韓国の夏の見虫

金泰定 佑龍

聖在

金沈

換烈

文亀

金李付 彦園熊んげ雨

割光鯛明げ昇

働金金繰ド朴

南相 豪

8 1

C U R R E N T S 梨花女子大学博物館特別展

「 探 梅 ・ ・ ・ 梅 花 を 探 し てJ

金宗圭 定価

6 0 0円 ( 4 . 5 0 0ウォン)

発行所

韓国国際交流財団

韓国文化を商品化する 安恵利

大稗民国ソウル特別市中央郵便局 私書箱2 1 4 7 号

-電話:8 2 2 7 5 3・3 4 6 2

• FAX:8 2 2 7 5 7 2 C 問、 2 0 4 9 編集デザイン

ARTSPAIαPUB 日C J : : ¥ . 百O NS 大韓民国ソウル特別市錘路区通義洞 3 5 1 1

.竃話:8 2 2 7 3 4 7 1 8 4 ・9 3 7 7 • FAX:8 2 2 7 3 7

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1 9 8 7 年8 月 8日 登録 Hト 1 0 3 3 号 1 9 9 7 年 6 月 2 0日 印刷 1 9 9 7 年 6 月 3 0日 発 行 (毎年3 ,6 、9 、1 2月の4回発行) 印刷所

三星文化印制株式会社 ソウル特別市減東区華陽洞 1 6 7 2 9

.電話:8 2 2 4 6 8 心1 3 6 1・5

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山空.山

VO 川, N o .2,SUMMER1 9 9 7

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t 的 行7 2 3 7

⋮ 国官

車掌雲

ε 震 リ

という旗織の下、

(ITI) は

一九 四 八 年 六 月 二八

界の人々の平和成就のための力を持つ﹂

﹁演劇は人類の普遍的な表現であり、世

金正鉦国際演劇協会

生にお話をしていただきたく思います。

の組織委員長をなさっている金正 虹先

長 で 、 今 回 の 総会 及、 び世界演劇祭全般

体であるのかを、 I T I世 界 本 部 の 会

のように構成されており、何をする団

だこ うと思います。 国際演劇協会はど

協 会 (ITI) に つ い て 紹 介 し て い た

け入れられています。先ず、国際演劇

韓 国演劇 界 で は 大 き な 慶び 事 と し て 受

鉦 実 行 委 員 が会 長 に 選 出 さ れ た こ と を

二六 次 総 会 で 韓 国 の 代 表 で あ っ た 金 正

ズ エ ラ の 首 都 カ ラ カ スで 開 催 さ れ た 第

と 設 け ら れ ま し た 。 一九九 五年 に ベネ

の演劇について総体的に考えてみよう

(ITI) 総 会 を 迎 え る に あ た って韓国

ウ ル で 行 わ れ る 第 二七 次 国 際 演 劇 協会

金文燦この席は一九九七年九月にソ

A向 ・

σ~

ヰ 目

L とー

は 初 め て 国 際 演 劇 協 会 (ITI) 総 世 界 演 劇 祭 、 世 界 マ ダ ン劇 フ ェ ス テ

会 が 開 催 さ れ る 。 この総会と同時に ィバル、世界大学演劇祭、シンポジ ウムなど、多彩な行事が開催され、

居ミ

ぜ= 4 月

金正銀

l T l会長、中央大教授

あろう。コリアナでは韓国で聞かれ

林賑憲 世界マダン劇大祝祭実行委

演出家 格と意義、そして韓国の演劇が世界

員長、演劇演出家 性、そして普遍性を通じた世界化の 方案と展望に関して意見を話し合う 席を設けた。 *マダンは韓国語で庭や広場という

(編集者註) 意味である 。

純国国際交流財団会議室

一九九七年四月八日火曜日午後二時

の演劇界において占める位相と特殊

専門家たちを招いて今回の行事の性

孫 様 策 世界演劇祭芸術監督、演劇

演劇評論家、ソウル大教授

τヰ =

るこのような行事を契機に演劇界の

る国際的なフェスティバルになるで

世 界 約 九0カ 国 あ ま り の 国 が 参 加 す

σ~

金文娘 鍵国文化政策開発院長、

与 守L 千に

一九 九 七 年 九 月 、 ソ ウ ル で 東 洋 圏 で

4


日にチエコのプラハで発足しました。 話していただけませんか。

国の演劇全般にわたって発展するきっ

も の で あ る と 考 え る た め に I T I総 会

金正担 金 文 換 こ の 問 、 I T I総 会 は ヨ ー ロ

かけになるはずだと思います。では、

舞踊、音楽など、演劇全般を包括する

一月 二 四 日 に 設 立 さ れ 、 士 九 五 九 年 に

総会の付帯行事として準備されている

をヨーロ ッパ 中 心 機 構 か ら 脱 皮 さ せ た

また、ユネスコと緊密な協力関係を結 第八回ヘルシンキ総会に初めて代表を

ッパを中心に事業が展開されてきたの

ということでしょう。

ん で い る 非 政 府 間 組 織 (NGO) でも

で 、 東 洋 圏 で 開 催 さ れ る よ う に な った

I T I韓 国 本 部 は 一 九 五 八 年

あります。現在、全世界九五カ国が会 たびに代表を派遣して韓国の演劇を世

派遣して加入しました。以後、総会の

純 粋 演 劇 委 員 会 、 音 楽 劇 委 員会 、そし

員 会 、 舞 踊委員会、演劇教育委員会、

デ ンティティーと発展委員会、通信委

しています。分科委員会は文化的アイ

多くの国際行事を単独あるいは共同で

てきました。 ITI韓国本部はこの間、

修交国家との芸術交流活動をリードし

にも旧ソ連をはじめとして東欧圏の未

動を展開しています。特に、冷戦時代

界に紹介するなど、 ・活 発 な 国 際 交 流 活

出されました。この時、すでにこの余

るのに韓国が最多得票数を記録して選

ンプl ル 総 会 の 時 、 執 行 委 員 を 選 出 す

金正盛一九九一年にトルコのイスタ

いても詳しくお話ししてください。

国 で 開 催 さ れ る よ う に な った 経 緯 に つ

のは画期的なことだと思いますが、韓

祭)及、びシンポジウムを開催する予定

そして世界大学演劇祭(ベセット演劇

劇祭と世界マダン劇フェスティバル、

を契機に国際的な演劇祭として世界演

れるのですか 。

フェスティバルではどんな行事が行わ

と共に世界演劇祭が開催されれば、韓

分科委員会と執行委員会を中心に活動

員国として加入しており、七つの常任

て劇作委員会などで、その名称が示す 開催してきましたが、代表的なもので

I T I韓 国 本 部 は ソ ウ ル 総 会

ように狭い意味の演劇だけでなく、演 は 第 三 世 界 演 劇 祭 及 び コ ロ キ ウ ム (一

金正担

と芸術団体が共に国際交流活動を展開

劇全般にわたって代表的な芸術家たち

です。参加する国家は流動的ですが、

い九0カ 国 ほ ど が 来 る の で は な い か と

オブザーバーの固まで含めるとだいた

思います。オブザーバー国には会員資

見がありましたが、時期尚早という意 見が多く、結局見送られました。その

勢を駆って総会を誘致しようとする意

次の一九九三年にドイツのミュンヘン

九八一年)、アジア大会記念アジア演劇 記念世界演劇祭(一九八八年)、演劇の

祭(一九八六年)、ソウルオリンピック 年を記念したアジア・太平洋演劇祭

格を喪失した固と新たに加入しようと

しています。 金 文 燥 韓 国 が I T Iに 加 入 し て 来 年 で四O年 に な り ま す 。I T Iが 創 立 さ

す る 国 が 含 ま れ て い ま す 。 そして、代 た後、暫定決定され、

と期待しています。より具体的な内容

表 団 は 約 三001四O O名 程 度 に な る

一九 九 五 年 に カ ラカス総会で開催することが確定し、

についてはちょうど各行事の実務障が

総会の時にソウル開催が再び提議され

同時に世界演劇祭も誘致することに決

座談会に参加していますので、直接聞

(一九九 一年) な ど が あ り ま す 。 さらに

定 さ れ ま し た 。 このようになったのは

創立十周年の時に韓国が加入したので

ェスティバルも主管しています。最も

私 が 思 う に は I T I韓 国 本 部 が 対 外 的

れたのが来年で五O年になるのですが、

しょう。最初加入する時、柳致員先生、

すから、歴史がかなり長いと言えるで

一九八一年の第三世界演劇祭を契機に

大 き な 寄 与 と い え ばI T I韓 国 本 部 が

くのがいいでしょう。

一九 九 四 年 か ら は 韓 ・ 中 ・ 日 三カ国の 首 都 で 開 催 さ れ て い る ベ セ ット 演 劇 フ

いろいろな方々が最初に行ったと知ら

呉泳鎮先生、舞台美術の朴石人氏など、

にかなりよく映ったのが一つの要因で、

れています。もう少し詳しい内容をお

韓国内の演劇界ではこの度の行事のた

大きな力として作用したと思います。

れには中国と日本のセンターの支援も

高くなっているからだと思います。こ

らの行事の中では何と言っても世界演

ポジウムも聞かれる予定ですが、これ

生演劇祭であるベセット演劇祭とシン

フェスティバルがあり、その他に大学

劇祭として世界演劇祭と世界マダン劇

金 文 換 付 帯 行 事の 中 に は 国 際 的 な 演

劇祭が最も大きな行事になると思いま

め に 韓 国 演 劇 協 会 と I T I韓 国 本 部 が 人たち全部が参与できるようにしまし

す。国内外の公演をすべて網羅して観 金文換英語でシアターというのは必

になると期待しています。世界演劇祭

ちろん、

一般 の 観 客 た ち に も 良 い 機 会 ずしも演劇だけを意味するのではなく、

覧できる機会になり、演劇人たちはも

共同で組織委員会を作って韓国の演劇

も う 一つ は 東 洋 に 対 す る 世 界 の 関 心 が

続けて執行委員国に選出され、 I T I

00・司O

日間﹂

金文燥


以後 、 そ れ ら の 施 設 を ど の よ う に 活 用

するのかという問題に対するものでし

たので、この行事に参加する演劇はそ

る文化の多様性﹂という趣旨で出発し

金文換マダン劇というのは韓国固有

と思います。

の 一つ で あ る と い う 期 待 が さ れ て い ま

転換を実際に代弁してくれる代案の中

と思いました。このマダン劇は演劇の

て、劇場を飛び出した野外公演フェス ティバルがぴ った り 合 う の で は な い か

r

た。また、その演劇祭が霧散した原因

を考えてみましたが、環境に優しくか

っ過多な施設投資が必要ではない演劇

いう発想の転換をするに至りました。

祭を構成するのが良いのではないかと

このようにしてマダン劇を中心に働い

てきた﹁民族劇運動協議会﹂ではこの

で代表される付帯行事についてのより れぞれの大陸を代表するようなもので

の名称です 。 一九八0年 代 を 中 心 に し

司O 日m0 ﹂ 0・

i T i総 会 の ソ ウ ル 開 催 が 一 九 九 五 年 にカラカス総会で・決定し、同時に世界 演劇茶も誘致するミとになりました。 こ の よ う に な っ た の は i T I韓 国 本 部 が対升的にかなりよい印象を与、之、ま た東洋に対する世界の関心、が高くなっ

世紀の演劇﹂であり、先程お話しした

度 の 行 事 の 主 題 が ﹁ 文 明 の 転 換 と 一一一

詳しい話を世界演劇祭芸術監督として

て伝統のタルチユム(仮面踊り)を基

ているからだと思います

頑張っていらっしゃる孫振策先生にお

なければならないという規定がありま

ルで行われる世界演劇祭が世界有数の

す 。 そ し て も う 一つ は 、 た と え ば ソ ウ

問題とこの主題に当を得た演劇祭とし

願いします。

のがマダン劇ですが、それが目指す特

本にしながら現代に合うように直した

も高く評価された優れた作品を可能な

演劇団体とその演劇、演劇史の中で最

されて話題になったのも全て世界演劇

と い う 側 面 か ら マ ダ ン 劇 を 一つの場と

徴の数々を共有する世界の演劇がある

す 。 日本の﹃能﹄、﹃歌舞伎﹄、中国の ﹃京劇﹄などが初めてヨーロ ッパに紹介

五七年に﹃春香伝﹄で初めて参加しま

祭を通じてでした 。 また、韓国も一九

孫 様 策 世 界 演 劇 祭 は I T Iの固有の

て韓国演劇の真髄を世界の演劇界に紹

創造しなおして見ようとするものであ

共に参加し、一種の村祭りを現代的に

限りたくさん招請する博覧会の性格を

の で き る 生 き 生 き と し た マ ダ ン劇 も 準

持っとすれば、京畿道果川で準備中の

備されていると聞いています。

して設定し、世界のマダン劇を一度集

として評価される作品を選定しました 。

体が胸をワクワクさせる現代都市のフ

め て み よ う と い う 趣 旨 で こ の 行事 が 推

ただし、選定条件において国際演劇祭

林 賑 還 は い 、 そうですが、事実世界

ェスティバルを展開しようとする点に

した。選抜基準は各地域の特殊性よ多

ではソウルで世界演劇祭が、京畿一円

の趣旨が非商業主義であるためにその

おいて普通の祭りと異なった概念があ

様性を十分に生かせる作品を優先して、

で世界マダン劇フェスティバルが開か

ような趣旨に賛同する団体を優先的に

マダ ン 劇フェ ステ ィ バ ル は 最 初 は 取 り

ると言えるのです 。 さらに果川という

世界の演劇を国内に紹介することで文

れる予定です。各行事に参加する作品

上げられませんでした。ところが、世

都市全体が環境に優しい都市であり、

介すると同時に、この時代を象徴する

の 性 格 を 見 る と 世 界 演 劇 祭 で は 演 劇 史・

八O年 の 中 で 韓 国 新 劇 史 に 輝 く 八 つ の

選 定 し ま し た 。韓 国 の 作 品 で は 演 劇 史

界演劇祭の 一環 と し て 京 畿 道 儀 旺 で 世

世界マダン劇フェスティバルは十カ国

に残るであろうと評価されている伝統

界 演 劇 祭 を 開 催 す る た め の準 備をして

の場所に決定しました。

地方自治団体も関心を見せたので行事

余りの海外団体と十余りの国内団体が

的な演劇と、世界マダン劇フェスティ

に毎年聞かれる競演形式のソウル演劇

作 品 を 評 論 家 た ち が 選 定 し て 、 その他

いたのですが、いくつかの理由で霧散

さらに韓国演劇の特殊性を見せること

バ ル で は 若 く 実 験 的 な 演 劇 と 、二 つに

し て し ま い ま し た 。 そ の 理 由 の 一つが

進されるととにな ったと聞いています。

大きく分けて見ることができるでじよ

と新作を選定しました。その他、世界

祭で紹介されたこれまでの非公演作品

過多な投資に対する憂慮、また演劇祭

環境破壊で、他の理由としては施 設 の

た作品の中でも世界演劇の最新の潮流

う。この度の行事の公演では先程のお

マダン劇フェスティバルについては実

すでに公演を通して芸術的に検証され

話 に あ った よ う に 招 請 さ れ た 国 際 作 品

行委員長の林賑漂先生にお願いしたい

化水準の向上に寄与できるように努力

と圏内で選抜された作品の二つに分け

金文換

ベセット演劇祭とシンポジウ

ります。人口七万の果川という都市全

られます。世界演劇祭は﹁演劇におけ

しています。今回のソウル世界演劇祭

な が ら 開 催 さ れ ま す 。 この行事を通じ

行事として全世界の会員国家を巡回し

金正佳


こ れ に つ い て は 金 正 担先生から説明し

ムも聞かれるようになっていますが、 学生たちの演劇祭です。 I T Iの組織

いる世界有数の演劇学校が主催する大

I T I内 の 教 育 分 科 委 員 会 に 所 属 し て 金芝河、オランダで主に活動している

賞 を 受 け た ウ ォ ル ソ イ ンカl、 作 家 の

と思っていますが、現在ではノーベル

いう意見が出るようになり、今度のソ

なって実験的な演劇運動を続けようと

が活性化できずにいましたが、近頃に

ち ょ う どI T I総 会 を 迎 え て 各 種 国 際

四回目で、ソウルで開催されますが、

がら巡回開催されてきました。今年が

設され、北京│ソウル東京を結びな

金正担ベセット演劇祭は九四年に創

の総会の主題である﹁文明の転換と 二

に開催されるシンポジウムではこの度

えてくれると期待されています。同時

か新しいエネルギーが出せる要素を与

ツト・ く 、 そ こ で ベ セ・ 演劇祭は世界マダ ン劇 フ ェ ス テ ィ バ ル と 共 に 演 劇 界 に 何

って 衰 え て い く 感 じ が な い わ け で は な

が五0年 間 運 営 さ れ て き て 、 古 臭 く な

全体が保守化しつつあり、その集まり

人 々 が 集 ま って い ま す 。 し か し 、 世 界

想的に進歩的な演劇を目指している

というのがありますが、実験的かつ思

ます。 I T I内 に は 新 し い 演 劇 委 員 会

があるので、すこし説明したいと思い

事に関連して行われるいくつかの行事

います。この他に今度のソウルでの行

民族演劇学者バルパなどが招待されて

で開催することにしました。さらに世

界評論家協会では執行委員会をソウル

重要なポグントとなります。また、世

ど の よ う に 解 釈 で き る のか と い う の が

が、西洋の文化を東洋的な流れの中で

巡回公演することになりました。私も ﹃ リア王﹄を公演することになりました

演劇を基にした公演を組織して世界を

ウル総会を契機に主にアジアの芸術、

行事と共に聞かれるようになって、よ 十一世紀の演劇﹂について論議しよう

φ

てくださいますか。

り豊かなフェスティバルに作り上げら れ て い く で し ょ う 。 ベ セ ット 演 劇 祭 は 勺﹀司一︿白川CZ のと

韓国的に翻訳されたハムレッ卜


ンポジウムを持つようになっています。

ソウルで開催され、総合的な展示とシ

界美術家協会の舞台美術分科理事会が います。

評価し歪曲していたのではないかと思

自分たちのものを自分たちの中で過小

供しながら世界の有数の公演を持ち込 体的にどんなものがありますか。

金文換海外で公演された作品には具

言うなれば、韓国が世界演劇の場を提 むことになり、同時に韓国の公演も見

リー、ユーゴスラビアに行ったんです

孫 様 策 初 め て 唱 劇 を 持 って、ハンガ

せることになるのです 。今回の座談会 の趣旨も韓国の演劇の世界化というか、

こした反響は凄かったです。唱劇を演

が 、 特 に 沈 清 伝 が ヨーロ ッパで引き起

世 界 の 中 で 韓 国 の 演 劇 が 持 っている意 のも全てこのような行事内容から始ま

味が何であるかということに合わせた 出しながら台調を取って全て唱だけに

度か行われてきました。さらに、評価

す。韓国の演劇の海外公演はすでに何

ばならないという意見が多く出ていま

の演劇の世界化に焦点を合わせなけれ

金 文 換 そ う で す。今回の行事を韓国

けるほど、激賛されました。﹃呉将軍

は、ほとんど国賓に近いもてなしを受

こしました。また、﹃呉将軍の足の爪﹄

たちからとても肯定的な反応を引き起

自体が持つ特性がヨーロッパの文化人

ましたが、このような企画よりは唱劇

るなど、スピーディーな演出を企画し

するとか、照明もオーバーラップにす

もよかっ吃と記憶しています。では、 韓国の演劇団体が過去にいろいろな国

の足の爪﹄はムlダ ン の シ ャl マこズ

ったものです。

際行事に参加しながら、世界の演劇の

ムの儀式を通じて無念のまま死んだ人

のか、一度検証してみる必要があるよ

解怨クツの儀式を扱いましたが、外国

の怨恨を 呼 ん で そ の 怨 恨 を 解 い て 送 る

が ロシア太平洋演 劇 祭 に 行 っ た と き に

か、またそれらがどんな評価を受けた

中でどのような位置づけをされたの

うです。 孫 様 策 い くつかの演劇公演を紹介し

に﹄がこの度のベセット演劇祭で公演

した。そして、﹃春になれば山に野原

ながら見るほどの大変な反応が起きま

人たちは台調が聞き取れなくても泣き

は海外進出の経験があまりなく、実際パ

ながらお話ししてみます。韓国の演劇

見せました。また、マダンノリを見て、

であると説明されるほど大変な反応を

されますが、この演劇について中国で

にどのように映るのか、またどのよう

ある人が﹁私は演劇学者だが、このよ

は中国の劇の流れを変えるほどのもの

に共感が得られるのかについて検証さ

うに生きている演劇を見るのは初めて

まい、果たして韓国の公演語法が西欧

れたことがなかったためにかなり心配

である。最も生きている演劇とはまさ

外に出るととになると大変興奮してし

しました。ところが実際、出てみると

にこのような演劇だと思う﹂というの u

で し た 。 こ の よ う に 考 え る と か えって

大変な反応と激励を受けて全く予想外

雀仁勲の『春になれば山に野原に』


れば、私たちが考えもしなかった評価

ょう。外国公演で得るものがあるとす

いましたが、多いほうだと言えるでし

の各地で各々五1 六 回 の 巡 回 公 演 を 行

これらの公演はヨーロッパと日本など

﹃名の無き花は風に散って﹄などがあり、

花は咲く﹄、﹃血の結婚﹄、﹃ハムレ ット ﹄ 、

ができるか﹄で始まり、﹃風吹く日にも

金正担私が持って出たものでは﹃何

を抱きました。金正担先生も海外公演

を聞いてやはりそうなんだという共感

な努力は自分の作品を世界市場に出す

がとても重要だと思います。このよう

あるいは個性を探そうと努力すること

ですから、芸術家たちは自分の主体性

真似したかのようになりやすいのです。

で努力しなければ、すぐに人のものを

と思います。最近は情報交換が早いの

中では自己を発見するのに問題がある

べきで、あまりにも閉鎖された文化の

があってもやはり世界と呼吸を共にす

てどんなに地域的な閉鎖性とか、困難

を発見することになったんです。従っ

った形式の中で新しい音楽劇の可能性

その人々の目を通して何か枠を取り払

を全 く し た こ と が な か ったのですが、

す。ス ペ イ ン 文 学 で 同 じ 情 緒 が 込 め ら

今でも何カ所から公演要請が来ていま

婚﹄の場合は特にスペイン語文化圏で

演出して外国に持っていった﹃血の結

るかにあると思います。 例えば、私が

と普遍性をどのくらいうまく調和させ

金 正 話 そ う で す 。結局問題は特殊性

ことができるのかと考えるようになり

時に世界的に普遍なものを際立たせる

すれば韓国の特殊性を生かしながら同

評価されたのかも知れませんが、どう

彼らの目には東洋的なものが目新しく

なものと同じだという気がしました 。

も ち ろ ん 、 観 光 客 ま で 来 て 見 る き っか

す 。韓 国 の 演 劇 を 海 外 の 演 劇 人 た ち は

品するには両面性があるということで

の作品を招請し、また韓国の作品を出

一つ考えなければならないことは海外

開かれることになりました 。 ところが、

ありますが、東洋圏では初めて韓国で

た 演 劇 を テ ー マ に し て 聞 か れ る 行事 で

己発見もあるのです。

が持っている特色を味わえるという自

であっても依然として目新しく、作品

ちの作品ですが、東洋的でかつ韓国的

うのを確認することでしょう。自分た

に理解して表現できる世界があるとい

ものです。私たちは韓国演劇を音楽劇

﹁新しい音楽劇フェスティバル﹂という

したが、そのフェスティバルの性格は

が表立ちました。もちろん、芸術性も

ものをどのように生かすかという問題

回かありましたが、果たして韓国的な

された韓国の公演を観覧する機会が何

金文燥私は観客の立場で外国に出品

力的な作業になるのだと思います。そ

て舞台にするというのが演出家には魅

ているので、これを韓国的に再解釈し

られている戯曲はすでに普遍性を持っ

持 って い る と 思 う の で す 。 世 界 的 に 知

に理解できる要素、すなわち普遍性を

した違いがあるにもかかわらず、十分

でも言いましょうか。国内だけで活動

にある普遍性を発見するためであると

います。演劇祭をする理由は自分の中

うことを論議しなければならないと思

方向にもっと焦点を合わせるのかとい

もなるでしょう。ここで私たちはどの

多 種 多 様 な 演 劇 が 見 ら れ る き っかけに

けになりますが、韓国人も世界各国の

を何度かなさいましたね。

というか、反応を受けて自分たちを再

れ た 戯 曲 と ﹃ 血 の 結 婚 ﹄ は 、 は っきり

だと考えたことはなかったために、ど

あり、民族的な特殊性もあると評価さ

林賑還今回の行事は演劇を始めとし

発見するということです。例えば、私 とき確実に評価されるでしょう 。

うして韓国を招待したのかと尋ねたと

れましたが、韓国人である私が見ると

ました 。

たちが﹃何ができるか﹄で招待を受け

ころ、韓国の演劇から何か新しい音楽

する演劇人たちは韓国の演劇の特殊性

て﹁レンヌフェスティバル﹂に行きま

劇としての可能性を発見したからだと

でも東洋ないしは韓国的な表現で十分

れは西洋的な普遍性を持っている作品

会を通じて韓国の演劇の世界化、世界

して見せることも重要ですが、この機

孫振策そうです。世界の作品を招待

の成果ではないのかと期待しています。

未来の種を発見することが今回の行事

あったけれども、見つけ出せなかった

ようになるのです。自分自身の中には

知ることで特殊性と普遍性を発見する

らにはこのような違いがあるんだなと

の作品を見ながら、あっ、韓国とそれ

を発見するのは難しいでしょう。海外

き、ある部分では日本あるいは中国的

韓国の演劇は海升進出の経験があまり なく、果たして韓国の公演語法が西欧 にどのように映るのか、 ま た ど の よ う に共感が得られるのかについてかなり 心配しました。 ところが実際、 出 て み ると大変な反応と滋励を受けて全く予 想升でした

9

言うのです。韓国ではこのような考え 日m 0 司 O ﹂ 0・

孫振策


がありましたね。アジアに属する演劇

ましょう。 I T I総 会 が 東 洋 圏 で は 初

めて聞かれる行事だけに皆が準備を一 俳優たちが互いに集まって、アジアの 一 生懸命しています。幸いにも現在まで

ではありますが、世界演劇祭のための

演 劇 を テl マ に し て 地 方 で 小 さ な 規 模

問題をア ジ ア の 声 と し て 出 し て み よ う

という実験でした。その時、もちろん

練習をしてきました。たとえば春川で

人形劇祭を開いたり、仁川が韓民族の

る場面では自国語で演技しても内容を

移民史の出発点であるという意味を浮

重要な場面は英語で言いましたが、あ

がありました。これを通してアジア的

十分に伝えることができたという経験

あり、あちこちで特に光州ビエンナー

なくても国際演劇祭を開催したことが

き彫りにして全世界に散らばっている

ろいろな国の人々が自国語と自国の身

レ 以 後 、 芸 術 を テl マ に し た 国 際 的 な

韓民族の公演団体の中で優秀な団体を

振りを持ってもアジア的なあるいは世

行事を開催しています。このような国

な演劇または演戯の伝統が持っている

のをジャンルの解体、交替、統合とい

界的な普遍性を持った共同作業が可能

行動の多様性が言語的な表現より注目

う言葉で包んで商業的に利用したりし

なんだなあと思いました。

ているとか、水原でもそれほど大きく

ます。しかし、これは演劇の作品性を

招いて公演をしようという計画を持っ

うという意味がより大きいと考えられ

進出のために門を開くきっかけを作ろ

落とし、人気だけを高めようとする薄

の時の行事を通してアジアに属するい

ます。同時に演劇というのが演劇をす

されるのではないかと思われます。そ

る人々だけのもの、または特定の観客

て、たゆみない交流の中で普遍性と特

中の韓国演劇として自己点検もしてみ

の閉鎖的な性格から抜け出して世界の

際行事を通じて韓国の演劇が昨日まで ンソリ公演では言語伝達の問題が深刻

林賑還特に私が今回香港で行ったパ

っぺらな考えでしかありません。

でした。パンソリの語法で表現すると

説(歌詞)の内容の伝達が不可能だっ

金文換演劇を考えるとき、もちろん

たのです。ですから字幕を利用したり

アジア演劇の中心地になるきっかけに

金 正 鉦 今 回 の 行 事 に よ ってソウルが

娯楽的な要素や面白さを抜きにして考

めにもっと人気を集めようとするのは、

もしました。ところが、人々は内容よ

かけを作ることができれば言うことが

浅はかで精神的な内容が欠如している

りはパンソリという形式により多くの

舞台芸術として認識できるようなきっ

と評価されるしかないでしょう。どの

ています。他の方々たちの意見を聞か

とについては何度か話が出たので、私

林賑達先程、私たちが目指すべきこ

みち韓国の言語というのは単純に発音

に対する認識が低い状況ですが、外国

なればと思います。韓国ではまだ演劇

殊性を求めるという意味を持つと考え

は止揚しなければならないことについ

記号だけでなく、はっきりと自分たち

リの様式自体が持つ独特さと﹁気﹂と

関心を寄せているようでした。パンソ

の場合、演劇が他の文化を引っ張って

ができますが、外国人たちの前では辞

てお話しします。演劇、特に西洋演劇

の意味を伝える道具であるから、言語

いくケl スがしばしば見られます。

大変な影響力と共感帯を作り出すこと

は言語を中心に成り立っているために

のか、それ自体から受けるそのような

言うのか、あるいはエネルギーと言う

えることはできません。しかし、面白

国際交流をするには困難がなくはない

ょう。ただし、言語というものを組み

が持っている機能を無視できないでし

さだけを求めたり、目を楽しませるた

のです。ですから、このような言語機

しまい、抽象的な感じだけが残る場合

語の機能は喪失し、内容がなくなって

好評を得ている国際的な演劇の中に言

向があります。海外で多く公演されて

きをおいて表現する作品が流行する傾

て身振りや動作あるいは声の部分に重

会として﹁アジアの叫び﹂という行事

ための努力の中で一つの表現手段とし

た時の言語と、人間の全人的な表現の

理主義や科学主義に偏るのが盛んだっ

立てていく過程において、西欧式の論

れるのだと思います。

も感じることのできる境地だと考えら

ものは言語の通じない観客たちの間に

明の転換と二十一世紀演劇の役割﹄で

文 林 賑 津 ち ょ う ど 今 年 の テl マが ﹃

す。このような可能性が発見できた機

て の 力 を 持 った 言 語 は 区 別 で き る の で

いことが何であるかについて考えて見

にあたって私たちがしなければならな

金文換では、最後にこの行事を行う

マダン劇のような場合は社会批判ある

今まで、私たちの民劇協がやってきた

引き出されることを期待しています。

すから、私たちもこ乙で展望と代案が

がときどき見られます。このようなも

せていただきた いと思いますが。

能の問題、言語伝達の問題にかこつけ

ないでしょう。

すが、国民全体が共感して共有できる

の専有物であるかのようになっていま

林賑還

1 0


ような世界的なフェスティバルをきっ

おざりになる傾向がありますね。この

て、ソフトウエアである内容が少しな

演劇美学を完成したレベルまで引き上 かけに映像の内容になる演劇や他の芸

というハードウエア側だけに偏ってい

げて織烈な抵抗精神は失わず、より多 術を大切に取り扱わなければならない

いは社会闘争の性格が強く、広く共感

くの国内外の観客たちの共感を得るた

を得られなかった点があります。将来、

めに努力しなければならないと思いま

ますが、観光がうまくいくには見る楽

と思います。さらに、私たちは観光を

しみ、食べる楽しみ、遊ぶ楽しみがな

付加価値の高い産業として育成してい

ちが二O年 あ ま り の 問 、 行 っ て き た 形 ければなりません。全部がそうですが、

﹁世界マ ダ ン 劇 フ ェ ス テ ィ バ ル ﹂ は 私 た 態の演劇が、一つの時代を流れていく 特に見る楽しみを作るというのが文化

す。よって、今回の﹁世界演劇祭﹂、

の 新 し い 世 紀 を 担 っ て い く 一つの芸術 いでしょうか。人間が人間らしく生き

的な接近とかなり関連があるのではな

道具としての演劇ではなく、これから

と思います。

方式になることを確認する場になれば る価値を確認する方法としての芸術全 体が持っている意味を私たちがふくら

なければ、世界市場に出したときにか

孫 振 策 先 程 も お 話 し し ま し た が、海

なり貧弱になり、結局は文化的な帝国

ませ続けていくことも大切ですが、芸

から、今回の行事を私たちの演劇の根

主義の前に私たちがすごすごと手そあ

術を応用して時代が求める情報化、映

源と特徴について再検討し、顧みる機

げざるを得なくなるかも知れないから

外の演劇を招待して観覧するよりは、

会とすれば、成果のある演劇祭になる

です。今回のフェスティバルが芸術の

世界的な普遍性を持った私たちの演劇

と思います。さらにこれを通じて韓国

持っそんな力をきちんと確認する機会

思います。芸術が持つ潜在力を活用し

の演劇における伝統の断絶の問題や、

に な れ ば と 思 い ま す が 、 こ れ が 一回切

像化と関連させていくことも大切だと

あまりにも西欧指向的に流れて自分た

りのものになっては意味がないと思い

を国際舞台にどのように紹介するのか

ちの尺度ではない西欧の尺度ではから

ということが重要だと思います。です

れる傾向に対して反省しなければなら

る世界的な行事で、これをきっかけに

ま す 。 今 回 の 行 事 は I T Iが 中 心 に な 自分たちの実情に合う決して派手では

ないですね。そして、世界が地域問、 い、さらに演劇文化を通じて世界の

ないけど意味のある行事が定倒的に開

民族間において互いに尊重し、保ち合 人々の精神的な牽引車の役割と世界平

はお忙しいところ、このように出席し

か れ る よ う に な れ ば と 思 い ま す ・今日 ていただき、またよいお話をお聞かせ

0

になることを願います。

和を維持する役割を担えるそんな機会

最近の傾向として映像産業に

下さり、有り難うございました。

主 A-Uそ﹀﹁円

1 1

金文換

多くの注目が集まっていますが、映像

劇団自由の『名の無き花は風に散って』


ー 一

A

演劇協会理事長

才L

・イントゥl ・ナイト﹄、のような このように初期の演劇祭は世界の演

作品もまたここで披露された。

l

貢 献 を し た ﹃ ロ ン グ デ イ ズ ・ ジ ャl ニ

オニ 1 ル の ノ ー ベ ル 賞 受 賞 に 決 定 的 な

どがあり、アメリカの劇作家ユジン・

ビングシアター﹄、﹃北京オペラ﹄、な

ロ・デラ・シトラ・ド・ミラノ﹄、﹃リ

ア ン サ ンブル﹄、﹃ピッ コ ロ ・ テ ア ト

表 的 な 劇 団 を あ げ る と ﹃ ベル リ ネl ル

ッパ人の注 目 を 受 け る よ う に な った代

れた。この世界演劇祭を通じてヨーロ

(付帯公演百五O 編 は 除 外 ) が 紹 介 さ

界 五0 カ 国 の 純 粋 演 劇 作 品 百 八O 編

十年間、世界演劇祭の歴史を通じて世

中に招待して公演を行った。初期の約

劇作品を二ヶ月のフェスティバル期間

パリ市の支援を受けて、主に外国の演

に開催されてきたが、フランス政府と

六五年まで世界演劇祭はパリで固定的

後援のもとに創設された。その後一九

世界演劇祭は一九五四年にユネスコの

二七次I T I総 会 と 共 に 聞 か れ る こ の

る大規模なフェスティバルである。第

ノ - ア ジア圏では初めて聞かれ

で開かれる世界演劇祭は、

、年ソウル市と京畿道果川市

↓7

-鄭鎮守

PREVIE W

界演劇祭自体は当時の政治・社会的影

の国際的性格を強化していったが、世

世界演劇祭の経営を引き受けて演劇祭

し た 。 そ の 後 一九 六 六 年 に パ ロート が

の演劇祭として名声を確固たるものに

劇芸術交流に大きく貢献した世界最高

で聞かれたのであるが、今年の世界演

作品が参加して競演を繰り広げる方式

ル 演 劇 祭 は 八i 一一一編の圏内創作初演

という戦略を立てた。これまでのソウ

を定例国際行事として発展させていく

いても規模は小さくてもソウル演劇祭

ェスティバルを企画し、来年以降にお

全域の公演場を総動員する大規模なフ

在 の 参加 申 し 込 み で あ る た め 、 ま だ 選

創作初演作品十編(以内)は四月末現

する。

劇団と今年初創団した市立劇団も参加

も混ざっており、民間劇団以外の国立

西洋の現代古典を再解釈した作品など

けではなくべケット、ブレヒットなど

官(

響のために萎縮していき、世界演劇祭

演 劇 人 た ち が 中心 を 成 す で あろう。こ

祭の内部規定によって、比較的新鋭の

後者の場合、すぐ競演に参加できる

が開催されない年も生じるようにな っ

公演作品の方に圏内の中堅劇作家、演

定作業が終わってはいないが、前の再

た作品十編を選定し、今年の公式招待

韓国を代表するものであると認められ

の他にまた十編以内の作品を自由参加

作として選定する予定であり、今年の

公演というカテゴリーを作って世界演

アジア地域で演劇分野の中心的な役割

と世界演劇祭の開催を通して、韓国を

初演作品十編程度が中心を成すように

以降の優秀舞台再公演作品十編と創作

演 劇 祭 の 圏 内 演 劇 公 演 作 品 は 六0年 代

し た が って ソ ウ ル で 開 催 さ れ る 世 界

国の演劇の多様性を出すため、やはり

ャンルも含め全ての伝統を尊重し、韓

を成とは言っても、純粋演劇以外のジ

また世界演劇祭はたとえ演劇が主流

劇祭に含めた。

を果たす国として浮上させるという目

なる。前者の再公演作品十編の中には

世 界 演 劇 祭 国 内 部 門 演 劇 作 品 は 三O余

標の下、政府の支援と演劇人を含む芸

劇作家で朴詐烈、呉泰錫、李康白、金

英 雄 、 孫 振 策 、 金 ア ラ 、 窪 允 一な ど 国

家が網羅されており、演出家もまた林

光林、李潤漂など韓国を代表する劇作

品六編を含めた。その他、韓国の伝統

中 で 韓 国 の代 表 性 が 認 め ら れ る 舞 踊 作

六0 年 代 以 降 、 既 に 公 演 さ れ た 作 品 の

編に達するであろう。

の開催を成功させるために全力を尽く まず、世界演劇祭の期間を今年で第

内最高の演出家が大勢参加する。

一編ずっと西洋ミュ ー ジカルも一一編含

的な劇形式として唱劇と女性国劇も各

二十 一回 目 を 迎 え る ソ ウ ル 演 劇 祭 と 同

これらの作品の中には韓国の作品だ

じ期間である九月一日から十月十五日 までの四十五日間に決定して、ソウル

している。

術家たちの積極的な参加で世界演劇祭

に決まった韓国は、 I T I総 会 の 誘 致

アジア地域初の世界演劇祭の開催国

ことになったのである。

れる I T I総 会 の 開 催 都 市 で 行 わ れ る

劇祭のためにこのようなカテゴリーを

・ 自 でT Y 7 1 3 7 J

維持しながら、追加的に韓国演劇の底

A向 I

の 創 設 主 体 で あ っ たI Tー は こ の 演 劇

-

た 。 そ う して 一九 七 三 年 、 世 界 演 劇 祭

; y で こ

一作 品 の み 参 加 で き る と い う 世 界 演 劇

ヌ 3、

出 家 が 大 勢 参 加 す る こ と に よ っ て 一人

虜リ

ら昨年まで既に発表された演劇の中で

手 手

力 を 国 内 外 に 見 せ る た め 、 六0年 代 か

~L土土ー

祭を巡回開催方式に変更し、世界演劇

学F

祭の舞台はパリを離れ二年毎に開問推さ

-L--

1 2


加する外国演劇作品は一 O編 程 度 と 予

ソウルで開催される世界演劇祭に参

バングラデシュなど各国の公演情報を

ル、タイ、台湾、香港、インドネシア、

難しかった。フィリピン、シンガポー

らず、やはり適合する作品に会うのが

生した。距離上招請経費も低廉な方な

想されるが、初めは六大陸が全てを代 入手したが、世界演劇祭の参加作選定

まれた。そして、また韓国の国楽、民

表する演劇祭を構想しながらも、アジ 基準を﹁現代的な演劇﹂と制限したた

ので、アジアの公演を大挙招請する計

ア地域最初の世界演劇祭であるだけに めに満足できるような作品を選ぶこと

画であったが、多くの努力にもかかわ

アジア国家により多くの比重を置く考 ができなかった。まだアジア地域では

れる。

えであったが、招請作業過程で主催側

俗楽そしてパンソリ公演も今回紹介さ

及び参加国の予算及、び日程などの事情 ができなかったと断定するほかなかっ た。結局アジアではインドの﹃ソパン

現代演劇が確固とした根を下ろすこと

ナム﹄、劇団と中国の﹃上海話劇団﹄、

てしまった。 まずアメリカのロパート・ウィルソ

によって最初の意図はある程度変わっ

ンの﹃ハムレット﹄、とイギリスの

なりの比重が置かれる結果になってし

るしかなかった。その結果、日本にか まったが、これは前で述べた通り、意

と日本の 三団 体 を 招 請 す る の に と ど ま

の代わり主要西側国家の作品は演劇の

を招請しようとした努力が実らず、そ

った。おそらくアジア圏で演劇が活発

図的なことではなく結果的なことであ

﹃ナショナル・シアター﹄、とドイツの

地平を広げられる実験的かつ異色的な

﹃フォルクスブlネ﹄、などの最高劇団

公演が招請対象の主流を成すようにな

ように思われるが、今回の世界演劇祭 を契機に韓・日両国の演劇交流を活性

な国は日本と韓国の二つの国しかない

化させる契機になればそれだけでも大

った。アメリカの﹃ラ・ママ﹄、フ ﹄ イ タ リ ア の ﹃ カ ル ロ ・ カ ル ラ ﹄ 、 人、 形

ラ ン ス の ﹃ イ マl ジ ュ ・ エ ギ ュ l 劇団、カナダの﹃ル・ドゥl ・モンデ

で説明する世界マダン劇フェスティバ ルまで含み、全部で四団体が参加し、

きな成果ではないかと思う。日本は後

既に二年前から韓・日演劇人同士の定

ニアの﹃クレオパ﹄、国立劇団などが そうである。欧米を除外し国家別に見

│﹄、ギリシャの﹃アトリス﹄、ルーマ

れば南米代表としてベネズエラが参加

世界演劇祭を契機に両国が政治的に疎 遠な関係でありながらも演劇を通じて

期的な交流の集まりが作られ、今年の

民間交流は新しい局面を迎えることが

し 、 ア フ リ カ は ア イ ボ リlコ1 スド、 北欧はアイスランドが代表することに

中東はレバノン、東アジアはラトビア、 なったが、オーストラリア方面では幾

できるであろう。 ソウルで開催される世界演劇祭には

つかの公演を検討したものの適官する

ただ演劇だけでなくいくつかの重要な

1 3

作品に出会うことができなかった。 問題は 一番 重 点 を 置 い た ア ジ ア で 発

唱j f l J ~沈清伝』の中から


( 下)

つ残念なことは演劇全般を網羅する ・ た めに外国の音楽劇団体も招請を交渉し

ー ・ バ レl R も ま た 招 待 さ れ る 。一

ア メ リ カ の ﹃ ニ ュ ー ヨ ー ク ・シティ

ンガリー、ドイツの舞踊団も参加し、

﹃マギl ・マリン﹄、を始めとして、ハ

舞踊公演も招待される。フランスの

う。主催側ではいろいろな事情もある

という感じを与えるのは難しいであろ

ませるような魅力的なフェスティバル

新しい作品に会えるという期待を膨ら

に外国からの参加者の目から見る時、

な新鮮度が落ちるのは間違いない 。特

が、その 量 が 豊 富 で あ る の に 比 べ 内 的

な演劇の形態が披露される予定である

てきた。それに加え日本は歌舞伎や能、

本に 比 べ韓国は低い関心の対象となっ

済 的 な 位 相 の た め に 相 対 的 に 中 国と日

会がなか った。 世 界 舞 台 で 政 治 的 、 経

韓国の演劇は世界に広く紹介される機

実 際 、 韓 ・中 ・ 日 の 東 洋 三国の中で

との出来る絶好の機会になるだろう。

人には韓国演劇の全体像を垣間見るこ

形式に発展しながら、韓国の伝統的な

閉ざされた劇場空間中心から聞かれた

なかった。

く知ってもらう機会を得ることができ

承と 保 存 の 難 し さ が あ って対外的に広

ダンノリの形態を取っているため、伝

異なり室内劇場形式ではなく野外のマ

うな韓国の伝統演劇は中国や日本とは

もあるが、パンソリ、タルチユムのよ

しかしここにきて世界演劇の趨勢が

たが、まだ音楽劇の概念が確固してい

中国は京劇のような古典劇様式が存在

界演劇祭を誘致するに至って、韓国

の 政 治 、 経 済 的 位 相 も 高 ま り 、 今 回世

マダン劇形式に関心が・ 寄せられる時代 的雰囲気が形成された。合わせて韓国 それに比べ韓国の演劇の伝統が支配

に理解ができる室内劇場芸術の形態を

階層の抑圧を受けて萎縮してきたせい

取っている。 様な外国の公演形態を豪華に披露する

ティバルであるために内国人 中 心 で 多 という考えが前に出た。 ・しかし、外国

また韓国で関かれる最初の国際フェス

全体的にソウルで開かれる世界演劇

と言えるだけの作品に会うことがたや

祭は伝統的な演劇を始め、とても多様

すくなく、音楽劇は完全に排除された。

しながら同時にこれらが西洋人に容易

=弓

が、初めからフェスティバルの性格を

劇 団キラ ジャ ビ の 『飯 ~ ( 上)

明陳に設定しなかっただけではなく、

大略舵艦( 日 本)の 『 海 印 之 馬~

ミュージカルの他に音楽劇のジャンル

ないせいか正統オペラやアメリカ式の

1 4


の演劇の伝統に対する国際的な理解 ア 諸 国 の 野 外 劇 公 演 も 一緒 に 招 請 し

に日本、インドネシア、タイなどアジ

主催側は今回の世界マダン劇フェス

た 。 ティバルの成果を事後評価した後、国

を高める必要があると判断された。 統演劇形態に固着しないで、韓国現

ここに四編の付帯公演形式のマダン

代表性のある作品のみを一堂に会し、

たとおり、いろいろな面で違いを持っ

に行われた世界演劇祭とは先に説明し

果川市で開催される世界演劇祭は過去

今 年 九1 一 O月にソウル及び京畿道

l マンスとの経験を共有しながら新し

人が共に混ざり合う各種行事が続いて

のための演劇行事も聞かれ世界の演劇

ポジウムなどが共に聞かれ、ここに U T N、IFHET-のような若者たち

(. '(

特に韓国のマダン劇はただ韓国の伝 代演劇の発展過程から生きている伝 ると判断した場合、このフェスティバ

際的に意味のあるフェスティバルであ ルをソウル以外の地域で常設して開催

てきたので、韓国のマダン劇を披露 することのできるもう一つのフェス の形態は室内劇場演劇とは異なり、演

する計画を持っている。このマダン劇

統としてとても特徴的な影響を与え

ティバルの場を設けようとする試み このような趣旨から主催側はソウ

を行うことになった。

を地方都市に拡散させていく意味も含

ムを拡散させながらソウル中心の文化

ウル近郊に位置する京畿道果川市で まれている。特に韓国のマダン劇の伝

劇に門外漢である一般大衆に演劇ブー

世界マダン劇フェスティバルを共に

ルで聞かれる世界演劇祭と合わせソ

繰り広げることになった。ここには

心を砕くという精神に基づいてるた

て彼らの生活の問題を一緒に討議して

公演が全国から参加するのだが、全

め、単純な娯楽で終わることなく演劇

統は庶民大衆の生活の中に入っていっ

部で一二編が出品される予定である。

の機能の中の一つである治癒的役割も

韓国を代表する現代的なマダン劇の

こ れ ら マ ダ ン 劇 公 演 も や は り 六0 年

劇を援用した公演が参加し、圏内の

ている。そして今年の世界演劇祭は先

また果たすことができるためである。

マダン劇従事者の合同公演が新作と

代以降、既に公演された作品の中で

して作られ、新しい演劇の可能性を

ろな付帯行事も注目を浴びるであろ

で述べたような公演行事の他にいろい

世界マダン劇フェスティバルはこれ

各種ワークショップ、セミナー、シン

う 。 ITI総 会 と 共 に 聞 か れ る た め に

い接点の可能性を打診するために多様

演劇芸術のオリンピックに肩を並べら

(左から時計回りに)アパンティ・ディスプレイの人間噴水(英国)、 ドン・コサック・ソンとダンスアンサンブル(ロシア)、 (タイ)

マカムポンの『マライ・モンコル~

模索する。

の固有性を出しながら、外国で行われ

で終わるのではなく、韓国のマダン劇

な外国団体の一 O作 品 程 度 を 同 時 に 招

れる地球村ハンマダンフェスティバル

オ ている野外劇及びストリート・パフ ー

イタリア、ドイツなどの西欧国家だけ

請した。ここにはイギリス、フランス、

になる展望である。

1 5

でなくコロンビア、ロシアの公演と共

A


-流賞

伝統様式一タルノリ、

ゴ干主術の伝統を誇りとしている。

皐頁

山、統営、水営などの地はみなこのよ

られる。この時期に形成されたタルノ

は 、 早 く は 一 三 世 紀 中 葉 であ ったと見

ンデ ド ガ ム ( 山 台 都 監 ) の 廃 止 以 後 、

のことを取り扱っていた官庁であるサ

これらのタルノリは朝鮮時代に演芸

うな都市であった。

タルノリは民俗劇であり、韓国の伝

と思われる。従ってこれらは都市型或

出会うことによって形成されたのでは

統演芸の中でおそらく最も演劇的なジ

属する。現在は河回別神クツや江陵端

速な西欧文化の導入によって、 二十 世

午 祭 別 神 ク ツノ リ が 伝 え ら れ い る 。 特

たちとアマチュア的な地域タルノリが

ある。多くの民俗劇がそうであるよう

名実ともに韓国を代表する伝統演劇で

新しい後援者を捜していた専門演劇家

アジア国家がそうであるように、韓国

いはサンデドガム(山台都監)型タル

現存するタルノリのなかでは古い型に

の演芸は伝統的な形式と西欧的な形式

ノリと言われている。

村型仮面劇とは違い祭儀とは、はっき

の仮面)が伝えられているが、これら を炭素測定で鑑定した結果、一三世紀

に、河回別神クツの場合モッタル(木

中葉のものであることが明らかにされ

り区別される。釈迦誕生日とか端午の

に、その起源や歴史についての正確な 二十世紀以後になって初めてなされた

節句に定期的に公演されたが、これは

記録は殆どなく公演の採録の始まりも ものである。それだけでなく西欧のコ

ノリの形成年度推定に大きな助けとな

た。この ようにモ ツタル は 現 存 の タ ル

の間で現代的でありながらも韓国的な

メディアデルアルテのように公演自体

劇、新派及び西欧式新劇である。この

ある。だがアクロバット的な劇場的曲

な固定テキストの確定も事実上困難で

国宝として指定されている。ソナン祭

っただけでなく、その美的な卓越さで

待され公演されたと伝えられていると

赴任日とか地方の有志の誕生日にも招

われた。それだけでなく地方行政官の

祭儀とは独立した名節の娯楽として行

都市型タルノリの公演の背 景は、農

現存する韓国の演芸は大きく六つの

に多くの即興性を内包しており、正確

中でタルノリ、コットゥガッシ、パヤ

のタルノリは独立した演劇と見なすに

ころをみるとその公演が祭儀とは異な

はまだ祭儀的な性格が強すぎる。タル

り、独自のものであったことがはっき

いて今日最も愛されている韓国の伝統

ノリは村の部落祭儀の一部であり、部

芸と当時の生活を包括する文学性にお

落の祭りと切り離しては公演されな

ソリが伝統様式に属し、唱劇は西欧の

タルノリの起源や歴史については正

演劇である。

それ以外では崇拝の対象ではなかった

リ で 神 聖 化 さ れ て い た タル (仮面)も

りと見て取れる。一方、農村のタルノ 今日、広く伝わっているタルノリは

し、一部のタルノリでは公演後、タル

'LV

いたい交通要地にある商業都市や行政

その後のものと思われる。これらはだ

ル ノ リ や さ ま ざ ま な 状 況 か ら 推 し 量っ てみるしかない。今日の学界で問題視

確な記録がないので、現存しているタ

されているいくつかのタルノリの起源

り今日まで韓国演劇の主流となってい

ができるが、順を追って調べて見ると

渡期的様式、西欧的様式に分けること

る。これらをより大きく伝統様式、過

り、新劇は西欧近代劇の受容から始ま

新派は日本の過渡的様式の受容であ

影響を受けたパンソリの変形である。

要な課題として残っている。

ノリ、コットゥガツシ、パンソリ、唱

グループに分けることができる。タル

アイデンティティを究明する問題が重

リ は ソ ナ ン祭農 村 型 タ ル ノ リ と 呼 ば れ

の現存する形態として形成されたの

こ の よ う に 始 ま ったタ ル ノ リ が 今 日

た起源説などがある。

都市で一八世紀に発達した。今日代表

F c r 9

説としては、亙俗起源説、伎楽起源説、

若久

的なタルノリが伝わっている楊州、鳳

さ ふ ! 主

農 楽 隊 ク ツ起 源 説 及 び こ れ ら を 総 合 し

コ 。

ャンルであると言われている。地域的

コットゥガツ

と そ子

にも全国に渡って幅広く分布しており

①タルノリ(仮面劇)

ノ コ

の演芸の主流となるに至った。多くの

一九 世 紀 後 半 、 急

ノレ

紀には西欧的な公演形式がむしろ韓国

んできた。しかし、

ズムとか仏教の祭儀とも深い関係を結

﹂ ドE↓ , 韓 国 の 演 芸 は こ の 伝 統 の 中

コ 。

シ、パンソリ

. ~~‘-

で自然に発達し、初期にはシャーマニ

次のようになる。

44 叶二〆

T 乏子

慶配⋮大国文科教授

σ コ

LI二 国 は 五 千 年 を 越 え る 文 化 芸

-李 美 媛

草案 l ヨ三 l

1 6


一九二O 年 頃 に は 女

の家柄から多く出てきたが、神託とは

を燃やしたりした。役者たちも亙俗系 リ、野遊、五慶大、山台ノリ、タルチ

都市型のタルノリはより多様で獅子ノ

河回や名山及び江陵に伝わっている 。 布 に よ っ て 一部 の エ ピ ソ ー ド が 加 減 さ

ピソード式の構成を持つ。地域的な分

ぃ。即ちアラビアンナイトのようにエ

ドゥンイ科場、ハルモムハラボム科

場、獅子チユム科場、両班科場、ムン

科場、サダンチユム科場、ノジヤン科

無関係であった。 り、禁忌だった女性も役者として登場

性の役割を妓生(芸者)が受け持った 獅子ノリは北青、野遊は水営、五慶大

ユム(仮面の踊り)などと呼ばれる。

同じモチーフの変形として認識される

している。しかし各々のエピソードは

れたり、その内容も一部変形されたり

と儀礼で、始まりと終わりをまとめて

ノリは構成上、儀式的なチュム(踊り)

科場に分けることができる。即ちタル

場、終結儀式及び儀式舞科場の九つの

キlセン

した。 程度のものである。

おり、その聞にアクロバット的な踊り

は駕山及び統営、山台ノリは松域、阿

科場と物語のある科場などが展開す

唄 里及び楊州、タルチユムは鳳山、段

全てのタルノリに見られる各科場を

タルノリの構成や内容は地域的分布 栗等の地に伝えられている。仮面劇の

によって少しの差はあるが根本的には 構成は科場(幕)に分かれ、科場の聞

同じである 。 古 い 型 で あ る ソ ナ ン 祭 の

9 世紀 ム と か 仏 教 の 祭 儀 と も 深 い 関 係 を 結 ん で き た 。 しかし、 1

世紀には西欧的な公 後半、 急速な西欧え化の導入によって、 20

演形式がむしろ韓国演劇、 演 芸 の 主 流 と な る に 至 っ た 。 韓 国 の

演劇は伝統的な演芸と西欧的な演劇形式の問で王見代的でありな

がらも韓国的なアイデ.ンティチィを究明する問題が重要な課題

として戎っている

る。特に全てのタルノリに両班科場が

基本的なモチーフとして単純化する と 、 始 ま り の 儀 式 舞 科 場 、 モ ツチユン

にはプロットの必然的なつながりはな

1 7

タルノリは別神クッと呼ばれており、 可﹀司 Rmmc zのと

韓国の演芸は伝統の中で自然に発達し、 初期にはシャーマニス♂


え 、 全 体 的 な 統 一感が 強 い 。 内 容 も や

が朴余知の一代記のような感じを与

はりタルノリと同じように亙俗的な祭

祭って、公演の時だけ祭記を行った後 に取り外すというのを見ても神聖な仮

儀の残淳及び破戒僧に対する風刺、一

ノリの場合は村の洞舎の前庭で村の守 護神台を建てておいて公演をした。都

国宝として指定されている河回タルは

面 の 特 徴 を 今 も 垣 間 み さ せ る 。 韓 国の

見られ、大部分のタルノリにハルモ ム・ハラボム科場とノジャン科場が見 る。山の麓の傾斜したところに観客が

市型のタルノリの舞台はより多様であ

夫多妻制の矛盾と庶民の貧困な生活の

られる。それだけでなくこれらの科場

木の仮面で高麗中葉(十三世紀)頃に

様子、両班階級に対する告発と風刺及

は言 語 が 重 要な 意 思 伝 達 の 手 段 で あ 座りその前のわずかな平地で公演をし

公演はポジャン(とばり帳)と呼ば

る。即ちこれらは文学的な物語をもっ

れる空中舞台で行われる。ポジャンは

び死後の冥福祈願などを扱っている。

て仮面を作った。公演後に仮面を燃や

三メ ー タ ー 内 外 の 四 方 に 四 つ の 柱 を 建

作られたと推定されている。都市型の

したりしたというからバここにもやは

たり、場合によつでは仮設舞台を設置 踊りは全てのタルノリにおいて重要

り亙俗的な邪鬼を退ける儀式や浄化の

科場などでタルノリの核心部分をなし 科場などとは対照的である。アクロバ の動作は様式化されていて踊りに近い

な比重を占める。それだけでなく全て

て 、 舞 台 に な る 側 だ け 一 ・二メl タ程

タルノリでは紙やひょうたんを利用し

ット 的 な 演 芸 の 伝 統 に 言 語 的 な 演 芸 が

儀式が作用したといえる。

することもあった。

次第に導入されるようになり今日のタ の始めから終わりまで続けられる。従

と言える。また音楽の伴奏もタルノリ

ているが、物語がないとか微弱な踊り

ルノリに発展したのではないかと思わ

度の高さの上に人形が出てきて戯れる

れる。 ってどんな西洋の ミュー ジカ ル よ り も

コットゥガツシノリは民俗人形劇

を張り巡らせた舞台である。ポジャン

度の舞台を作り、残りの四方全てに幕

約 横 二 ・五O メi 夕 、 縦 七0 セ ンチ程

タルノリの公然性は物語の内容を圧 音楽が重要な位置を占める。タルノリ

で、現存するテキストは大体庶民文学

② コットゥガツシ ノリ

倒する。事実上、内容だけでは奥深い

が台頭してきた一八世紀にさかのぼる

の中では人形使いであるテジャビが中

の伴奏は農楽隊か三絃六角が演奏す

心に座り、その両脇に助手のテジャビ

る。だがタルノリはチャンゴ(長鼓)

ことができる。これは都市型のタルノ

が座り、人形を操るのと登場退場の手

のは難しい。仮面劇を生き生きとさせ

の伴奏だけでも公演ができる。即ちそ

助けをする。一方舞台の下では歌い手

文学的な或いは心理的な感動を感じる るのはまさにその公然性である。公然

ミ、或いは朴余知ノリや洪同知ノリな

で あ る サ ン パ ジ と 楽 土 で あ る チエビが

リの発生時期とほぼ同じである。トル

観衆席と殆ど分けられていない状態で

れほどメロディよりはリズムが伴奏の

は寺堂牌或いは男寺堂牌という専門的

どと呼ばれていたコットゥガッシノリ

形は動作の部分を主に上体に依存して

舞台を見て座り演技が進行される。人

性は熟達した伎芸を基底に即興的な演

タ ル ノ リ の 歌 は プ ロ ットの進行とは

な演技集団によって演じられた。寺堂

核心だと言えるのである。

る。即ち長い間の鍛錬で熟練された踊

牌というのは特別な行事性や地方色の

技を通じて瞬間的に光を放つのであ りと動きが必要となり音楽は公演の始

る役者が歌をうまく歌うと、すぐにそ

の芸人はいなく男だけで構成された寺

ない流浪芸人集団で、全国を流れなが

おり、主材料は木である。

果 別のもので、主に興をそそる役割を。 たす。構成上の必然性がないので ツ あ

めから終わりまで要求される。 役者の訓練には特別な方法というも

の役割に歌が多くなったりしたとい

堂牌を意味する。彼らは風物ノリ、ボ

コットゥガッシノリの形成期とだいた

な繰り返しの動作を辛抱強く見て、真

マ・チョゴリ(女性の衣裳)に必要に

コ ツト ゥ ガ ッ シ ノ リ の 構 成 や 内 容 は

ノリをした。

ル ノ リ ) を し た あ と で コ ッ ト ゥ ガ ッシ

人)が出てきて歌とサソル(辞説一歌

ようになり、多くの名唱(歌い手の名

マ ダ ン の 固 定 さ れ た レ パl 卜 リ を 持 つ

である。十八世紀中葉に至ると十二の

パンソリの出現は都市型タルノリや

よっては重ね着をした。多様な重ね着

タルノリとだいたい似ている。構成は

似をしながら修行を重ねた。このよう

は亙女の服と似ている場合が多く、直

ら公演を行った。男寺堂というのは女 タルノリが民俗劇であるために、そ

い同時期の十七世紀末から十八世紀初

のはなく、見まねで覚えていく。役者

の衣裳は日本の能や歌舞伎のように精

ルム(綱渡り)、卜 ッペ ギ ( 一種 の タ

ナ(皿回してサルパン(宙返り)、ォ

の見習いは何十年に渡って師匠の単調

パジ・チョゴリ(男性の衣裳)、チ

巧ではない 。 韓 国 人 の 基 本 の 服 で あ る

③パンソリ

な単調な体得の後になって初めていわ

タルノリの舞台は特別に設けられる

接亙女の服を借りて着る場合もあった

っ ,

ゆる公演の趣だといえる即興的演技が

ことはない。広々とした聞かれた空間

許されたのである。

でも観客が収容できれば、タルJリを

の聞に挟む話)が交叉するパンソリ独

口 碑 文 学 で あ ったパンソ リは 、 十 九 世

特の形式を完成させた 。 しかし依然と

紀中葉に両班であった申在孝によって

的な因果関係はやはりない。ただタル ノリに比べてコットゥガッシノリには

科場に分かれているが 、科場開の必然

朴愈知が話し手で登場し、まるで全体

といわれ、亙俗の影響を衣裳からも感 仮面は実に多様である。古い農村型

じとれる。 のタルノリでは仮面を神聖化し嗣堂に

を着替えられる楽屋を片隅に白い布で 囲んで作り、楽土たちの場所を作れば、

公演することができる。役者たちが服

公演の準備は完了する。農村型のタル

1 8


ソリの古典と呼ばれている。

っていないので、他の五歌が現在パン

がそれらであるが 、 今 日 横 負歌は伝わ

赤壁歌及、び横負歌(別名カルチギ打令)

た。春香歌、沈清歌、朴打令、水宮歌、

六場面の劇本として記録され定着し

劇とみなすことに無理はないと思う。

にもなりはしたが、韓国近世特有の演

形式のため、

一時 こ の ジ ャ ン ル が 問 題

ながら興をそそる 。パ ンソリの独特な

鼓手はチユイムセ(磯子言葉)を入れ

味 を 持 った動作)と呼ばれる演技をし

(パンソリの内容と直接関係のある意

観客の数によって屋外であったり屋内

舞台を、ソリは歌を意味する。舞台は

る。なおパンソリのパンは公演を行う

基本的に音楽劇とみなしたものと言え

演技力を強調した。これはパンソリを

て、役者、語り、文学性、音楽性及、び

てその次がノルムセ(演技)だ﹂とし

調されればノムセと、より舞踊的な要

ば れ る が 、 演 技 的 な ジ エ ス チ ャl が強

演技力はノルムセ或いはパルリムと呼

語進行の細部を知るのに効果的である。

リは歌でなくサソルで、パンソリの物

への感情移入に大きく寄与する。アニ

態を伝えるのに活用され、観客の劇中

語の進行よりは登場人物の感情とか状

が一人の鼓手の伴奏に合わせて唱(歌) もパンソリの美学を﹁広大というもの

早くからパンソリをまとめた申在孝

熟 練 が 要 求 さ れ る 。 唱 は パ ン ソ リ の物

たちが最も喜ぶ部分で、演じ手の長い

パンソリの公演中 で唱(歌)は観客

ムと呼ばれる。このような演技は写実

素 が 強 調 さ れ る ジ エ ス チ ャl は パルリ

パンソリは一人の広大(役者の総称) であったりもした。

とアニ リと い う サ ソ ルを 交 互 に 演 ず は第一に人物の見かけ、第二にサソル

的であるより象徴的な表現が多い。

チレ(語りてその次に歌唱力、そし フのと ppE天的mC

1 9

る。このとき広大はパルリム(歌いな

朴東鎮が『赤壁歌』の中の一小節を歌っている(下)

がらする舞踊的動作)或いはノルムセ ppbx の IC ∞mCフ

コットゥガッシノリの人形劇は、 18 世紀以前に始まった(上) パンソりは 17 世紀末から受け継がれている重要な声楽ジャンルの一つである。人間文化財、


パンソリの観客は当初は庶民たちで

ででき、 唱 劇 が は っき り と 定 立 さ れ た

民 文 学 の 一環 で あ った こ と を 意 味 し て

紀の近代意識の出現と共に台頭した庶 役 者 が 独 演 し て いた の を 唱 劇 で は 配 役 別 に 分 け て 分 唱 しず 多 数 の 役 者 た ち が

唱 形 態 で あ る 。 即ちパ ン ソリで 一人の

唱劇の形式は基本的にパンソリの分

と言える。

いる 。 そ れ が 次 第 に 両 班 階 級 に ま で 広

あ った 。 こ れ は パ ン ソ リ が 十 七 、 八 世

く普及し、全国民的人気を集めた。両 西欧的舞台を借用したので室内劇場で は実質的な舞台装置までを設置しよう

登 場 す る よ う になる 。 そ れ だ け で な く

と努力した 。

やかに文字として定着させ、より精巧 な唱や女性のパンソリも登場させた。

班 の 観 客 層 の形成は口碑パ ン ソリを速

しかし、その反面パンソリの社会的な 唱 劇 は は っき り と 外 部 、 特 に 西 欧 の

を乗り越えて、次第に社会が安定して

解 放 直 後 の 混 乱 と と 六 ・二五 戦 乱 の 傷

存在価値が認められるようになった。

た。 し か し 六0 年 代 以 後 、 新 し く そ の

末、西欧化の波と共にその運命を終え

る社会に対してどのように積極的に対

の独 演 形 態 を 分 唱 し よ う と 試 み て い た。 唱 劇 は 伝 統 演 劇 が 急 激 に 西 欧 化 す

を男唱、童唱、女唱に分け、パンソリ

ができない 。 す で に 申 在 孝 も 春 香 歌

るが、

影響を受け入れたという点で注目され

くるにつれ、少しずつ再び自分たちの

ャ ン ル で あ る。 し か し 唱 劇 は 二O 世 紀

処したのかという点でも注目される ジ

以上の伝統様式の演劇は十九世期

批判機能を脆弱にした。

固 有 文 化 に 対 す る ルl ツ 探 し が 進 ん

初 め の よ う な 人 気 を 維 持 す る こ と がも で きず、次第にすたれ 、生き残るこ主が

一方 自 主 的 要 因 も 見 過 ご す こ と

だ 。 こ れ に は 辛 抱 強 く伝統様式の 演 芸

できなか った。

を早期から整理 、 研究してきた学者た ちの努力が大きい。伝統様式の演芸は

唱劇は西洋演劇の影響を受け入れた

劇 の 受 け 入 れ が 日本 を 通 じ て な さ れ た

立した称号から由来した言葉で、近代

う 言葉 は 日 本 の 旧 派 で あ る 歌 舞 伎 に 対

た演劇様式である。もともと新派とい

受け入れる直前に過渡に受け入れられ

新派は二 十 世 紀 初 め に 西 欧 近 代 劇 を

②新 派

六0 年 代 半、 は か ら 一つ こ つ と 大 韓 民 国 重 要 無 形 文 化財 に 指 定 さ れ 始 め て 、 七

0年代末までには大部分が無形文化財 に指定された。 過渡期的様式唱劇と新派

パンソリの変形した形態である。 よ り

一年 、 林 聖 九 の 革 新 団 公 演 を 筆 頭 に 約

こ と を 物 語 っていると 言 える。

① 唱劇 ( チ ャンク ツ)

具 体 的 に い う と 、 唱 劇 は 一九O 三年に 燥などによる春香歌の対話唱を始めと

な ど の ス ロ ー ガ ンを か か げ な が ら 日 本

十年間は新派劇が韓国演劇の主流をな

一九 一

韓国最初の西欧式劇場団協律社で萎龍 して、 一九O 八年に園覚社の舞台で、 よ り は っき り し た 配 役 と 分 唱 が で き

と同じように初期には軍事劇が人気を

した。勤善懲悪、風俗改良、民志開発 一九 三 三 年 に は 朝 鮮 声 楽 研 究 会 ま

た 。

I

pp泊天日mcZ の亡

唱劇 『 春香伝』の中か ら

2 0


博していたが、次第に家庭悲劇に移 っ ていった。

写実主義劇の深化に力が注がれたが、

めて伝統的様式との融合を試みたのは

現 代 の 韓 国 の 演 劇 が そ の ルl ツ を 求

を今日に生かそうと力を尽くしてい

継ぎ合わせではなく、その無形の精神

六0 年 代 に 入 っ て 不 条 理 劇 な ど 新 し い

実主義的な応接間演劇から抜け出て本

る。化石のような伝統でなく生きてい

西欧式様式西欧式近代劇と伝統を求

格的な劇場主義を標傍し始めた。一方、

る伝統を求めることは韓国の演芸・演

形 的 な 再 現 や 部 分 的 イ メ ー ジや形式の

西飲式近代劇の受け入れは大体一九二0

七 、 八0 年 代 に か け て 伝 統 劇 の 形 式 を

七0 年 代 以 後 で あ る 。 今 日 で は そ の 原

運動に影響を受けて改良新派に発展 に東京の留学生たちで結成された劇主病

年代以後と見られる。一九二0 年代初め

借りて当時の政治の現実を批判する学

て七0 年 代 に は 韓 国 の 演 劇 が 従 来 の 写

し 、 三0 年 代 に は 東 洋 劇 場 を 中 心 に 高 協会を筆頭に常生たちの 一 連の小劇場運

劇の国際化と直結すると共に二十一世

半写実的演劇などが紹介された。続い

等新派に発展した。極端なスタニスラ 動が起こり、玄哲の俳優学院皇開院した。

紀に向かう韓国の公演文化の課題でも

める

プスキ,!システムのもと、台本なしで

これは次第にマダン劇と呼ばれいき基

生アマチュア演劇が盛んになったが、

二0 年 代 は 土 月 会 な ど の 西 欧 近 代 劇

大体の筋だけでアドリブで相手に応ず 一九三0 年代、劇芸術研究会を経て西欧

21

式宝業主義の近代劇は基盤を築いた 。

抜け出て本格的な劇場主ゑを標持し始めた

るいわゆる口建て式公演であった。誇

妄問演劇から 代 に は 韓 国 の 演 劇 が 従 来 の 写 実 主 表 的 な 応J

ある。

解 放 後 、 五0 年 代 ま で は 主 に 西 欧 式

な と 新 し い 半 写 実 的 演 劇 な ど が 紹 介 さ れ た 。 続 い て 70年

盤を築いていった。

って観客の感覚に訴え人気を集めた。

ゑ字IJ の深化に力が;主がれたが、 60年 代 に 入 っ て 不 条 理 劇

A

4 直氏ま也からの解語え後、 50年 代 ま で は 主 に 西 巨 大 的 な 写 実 主

張した抑揚とかジエスチャーなどを使

西洋の演劇形式を受け入れて初期に公演されたハムレ ッ 卜


の 濠リ

国 ZE I i ' Lム > < 一 Eコ

HJ

レ﹄

・具 照 書 演劇評論家

体の数はかなりに上る。 現在韓国演劇

員団体、公演者登録をしている演劇団

﹂ドE↓ , 総 な ど に 登 録 さ れ て い る 会

舞台を続け、現在まで何度か立ち直り

が、その後も新協の名前を守りながら

前に創立され、国立劇団に改編された

団 新 協 は 一 九 五O 年 に 国 立 劇 場 創 設 直

劇 団 は 劇 団 新 協 と 国 立 劇 団 で あ る 。劇

協会などに登録されている会員劇団数

に歴史の長い劇団は国立劇団である。 国 立 劇 団 は 一九 五O 年 に 新 協 を 迎 え 入

な が ら 名 前 を 引 き 継 い で い る 。 そ の次

れ た 時 代 と 六0 年 代 の 明 洞 国 立 劇 場 時

は ソ ウ ル 八 五 団 体 、 地 方 五 二支 部 六O

に登録して公演者登録だけで活動して

れに民芸総傘下の民族劇団体と市や道

代を経て、七三年から奨忠洞国立劇団 時 代 を 迎 え 、 現 在 に 至 って い る 。 そ の

九0 年 代 の 舞 台 で は こ れ ら の 多 様 な 性

作の概念が入り込んだ状態で発展し、

心 制 の 劇 団 が 合 流 し 、 八0 年 代 に は 制

た 劇 団 を 筆 頭 に し て 約 二0 1三O 年の

制 劇 団 や 七0 年 代 に 出 発 し て 地 位 を 得

う い う こ と で 六0 年 代 に 出 発 し た 同 人

低調である。現在のソウルの舞台はそ

がある 。 制 作 劇 会 も ま た 最 近 は 活 動 が

後 半 に 大 学 劇 勢 力 が 集 ま った 制 作 劇 会

格の劇団が混ざって活動している。劇

歴史の劇団が残っているが、十年未満

他 、 歴 史 の 長 い 劇 団 と し て は 五0 年 代

団の性格やその劇団が積み上げてきた

現 在 の 韓 国 の 劇 団 は 六0 年 代 に 同 人

名前も浮沈が激しく、歴史の長い劇団

る 。

の浅い歴史の中で力をつけた劇団もあ

ることである 。

の沈滞や新進劇団の浮上などもよくあ

制 劇 団 か ら 出 発 し 、 七0 年 代 の 代 表 中

当なものである。

いる各種団体を合わせればその数は相

劇 団 、 海 外 支 部 二カ 所 な ど で あ る 。 こ

ゴE 占 る 劇 団 、 ま た は 芸 総 や 民 芸

し 才 る

現在、韓国の舞台で最も歴史の長い

l オ│お

LE二 国 の 舞 台 で 現 在 活 動 中 で あ

ヰ;家主草案

国立劇場の開館記念公演『元述郎』

2 2


今年以ソウル一円で世界演劇祭が開

場合がかなりあるためである。

が 古 い 劇 団 を 押 さ え て 、 ト ップに立 つ

にはあまり知られていない新しい劇団

く変わっていることが実感できる。時

加劇団を見ると韓国舞台の版図が大き

最近何年間、ソウル演劇祭の公式参

を 待 ち な が ら﹄、漢陽 レパ ー ト リ ー の

金哲理演出の﹃春の日﹄、サンウルリ ムのベケット作、林英雄演出の﹃コド

の﹃サンシツキム﹄、琵置の李康自作、

て﹄、セシル の 李 鉱 和作、 奈 允 一演 出

孫据策演出の﹃呉将軍の足の爪﹄、演 ﹃私 を 見 に 来 友舞台の金光林作、演出 .

昨烈作、 作、演出の﹃悪鬼﹄、 美醜の 朴 一

は 素 直 な女﹄、国 立 劇 団 の 呉 泳 鎮 作 、

ブレヒット作、屋馨仁演出の﹃四天使

美術家協会、批評家協会といった国際 金 相 烈 演 出 の ﹃ 孟 進 士 宅 慶 事 ﹄ 、 市立

ティバル、世界大学演劇祭、国際舞台 会議などさまざまな行事が聞かれる。

かれ、それと共に世界マダン劇フェス

演 劇 協 会 とI T Iが 共 に 主 導 す る 世 界 劇 団 の 創 団 舞 台 など 全 部 で 十 の 劇 団 作 品がある 。

て舞は人

演劇祭組織委員会は既に公式招請参加

加劇団やそれらの作品が世界の演劇と

る劇団の面貌を探るのは、これらの参

教えた弟子らを集めて八四年に創団し

家である呉泰錫氏がソウル芸専で彼が

劇 団 木 花 は韓国舞台の代表的な劇作

ある 。

肩を並べられる何らかの代表性が認め

り な が ら 七0年 代 初 め か らソ ウ ル 芸 専

た劇団である。旦(泰錫 氏 は 劇 作 家 で あ

劇団木花の呉泰錫作、演出の﹃白馬

られたと考えるからである。

ら、今年の 世 界 演 劇 祭 に 公 式 招 待 さ れ

乙の中で国立劇団を除外すれば、残

動代代出 し の に Z丸

じ期間に開催されるソウル演劇祭も五

j 舌年年ら

劇団と作品を選定して発表を行い、同

二九八回

り の 九 劇 団 は ほ と ん ど が 七0年 代 と 八 0年 代 に 創 因 さ れ た 劇 団 で 、 そ う で な い 二つ の 劇 団 は 九0年 代 に 、 ソ ウ ル 市

て....か

月には公式参加作が確定する予定であ る。

ゼ、、産~

立劇団の場合は今年創因された劇団で

今日の主要劇団について語りなが

.~

で 教 え な が ら ド ラ マ セ ン タ ー舞 台 を 通

主主午、﹀仁庁

2 3

る で作 0 在 ま { の年の 、 = 概代韓 れ念の 国 ら が代の の 入表劇 グ り 中 団 ま 様 i と心 l なん制 , t 生だ の O 格状劇年 の態、団代 ~でがに 団発合同 が展流人 j 昆しし制

江の月夜に﹄、演戯団コリペの李潤津

マダ ンノリ 『 沈清伝 』

、合制七 Z 見 L


して 演 出 作 業 を 始 め 、 木 花 創 回 以 前 に もソウル芸専出身の俳優らと共に舞台 作業を行い、当時彼らはその強い結束 力とテンションの高い訓練の雰囲気の ために演劇界では呉師団という別名を 付 け ら れ た ほ ど で あ った。木花はその こ の 劇 団 の レ パ ー ト リ ー は 主 に 呉泰

呉師団から発展した劇団である。

スピアの﹃ロミオとジユリエット﹄、

錫作 、 演 出 の 作 品 で 、 最 近 は シ ェ イ ク

訳劇がレパートリーに入った。

ブレヒットの﹃三文オペラ﹄などの翻 八四年新作﹃アフリカ﹄で創団して 以来﹃匹夫の夢﹄、﹃父子有親﹄、﹃ビニ ー ルハウス﹄、﹃火の国﹄、﹃雲上閣﹄、 ﹃沈清はなぜ二度も印塘水に身を投げ たのか﹄、﹃白鳩よ、ふわふわと飛ぶな﹄ ﹃白馬江の月夜に﹄、﹃朝の 一時・・・﹄ などの新作と既に発表された作品を直 接演出して木花のレパートリーにした ﹃春風の妻﹄、﹃胎﹄、﹃自転車﹄などが ある。 木花の舞台は初期の誼祥度、韓明求、 洪元基、鄭鎮玉氏などの俳優から現在 った 俳 優 た ち が 飛 び 込 ん で き て 、 演 出

の若い俳優たちまで、強い結束力を持 家と し て 呉 泰 錫 氏 が 磨 い て き た 独 特 な 韓国語の語調を探し出す作業を引き継 いでいる。この劇団はこの間、ソウル 演劇祭受賞をはじめとする各賞受賞と の名が響きわたった。東山台所洞に小劇場

九四年の呉泰 錫 演 劇 祭 の 主 管 な ど で そ ﹁衝突ごと﹁衝突二﹂を作り、活動 したりした 。 早 く か ら 国 際 的に紹介さ れた劇作家呉泰錫氏の名前と共に海外 舞台公演も行ったことがある。 演 戯 団 ゴ リペ は ゲ リ ラ の よ うk 東 西

yE︿ 的 ﹀Z φ

刀 、

tz

。 ︿

2 4


に現れ、多様な顔を見せている劇作家 李潤津氏がプサンから率いてやってき て、今は北村創宇劇団にある韓国劇研 彼 ら は 八 六 年 に 釜 山 でメソッ ド演 劇

究所をリードしている劇団である。 集団演戯団ゴリべという名前をつけて 出発し、八八年に李鉱和の﹃サンシ ツ を 契 機 に そ の 次 の 年 、 第 一回東山宗演 劇

キ ム ﹄ で ソ ウ ル の 舞 台 に 登 場 し 、 これ

ソウルでの活動を開始した。出発当初

﹀泊↓盟υ﹀Om

『悪鬼 一 死の形式~ ( 右)

祭 に ﹃ 市 民 K﹄ で 招 待 さ れ て 本 格 的 な

O主EZ

﹀C 口 一 ↓

ソウル、演劇祭の公式参加劇団をえ

ると韓国母ムロの版図がえさく変わ

っていることが実氏吋で5 る 。

hF知 ら れ て い な い ・ 新 し い 劇 団 が 古

あ ま

い 劇 団 を 押 さ え て 、 トゾブにムムつ

場合もかなりある

2 5

( よ) 『サンシ ッ キム~

は﹃フ ーガ﹄、﹃ヒパクシヤ﹄、﹃詩人追 pp司犬印品川CZ のと

『胎~ ( 上)、『白馬江の月復に~ ( 右下)


と r

z

放﹄などの状況劇を揚げながら独特な

祭、日本東京国際演劇祭、ドイツエツ セン世界演劇祭などに招かれている 。

力に浮かび上がり、この間ソウル演劇

う劇団民芸の演劇の中で育った孫振策

国劇のスタイルを探すストリート劇シ

氏が、彼が追従していた許主演劇の世

カ ラ ー を 見 せ 、 九0 年 代 に 入 つ て は 韓

泣いて﹄で近代劇に対する探索を標携

劇 団 美醜 は 演 出 家 孫 振 策 氏 が 八 六 年

し、カフカの﹃変身﹄で新しい韓国の

民芸団員の中でも彼について出てきた

界から離れ、独り立ちをしたのである。 人が多く、当時美醜の創団は民芸の分

話を引き出そうとした。この劇団は李 さと共に彼の名前がかなり早くから強

潤淳氏の個人的な劇作演出作業の絢嫡

に劇団民芸から独立して独自の演劇精

『私を見に来て~ (下)

リーズを主としている。﹃悪鬼│死の

『 呉将軍の足の 爪 ~ ( 上)

形式﹄、﹃馬鹿女房﹄、﹃山の向こうのケ

C二

国伝統公演芸術様式の現代的受容とい

神の具現を掲げ作った劇団である。韓

ットンア﹄などで、韓国伝統文化の現

コ 可

代的受容を追求し﹃愛に輔されお金に

c ﹀o -↓ 0ヨ亡豆

2 6


った 林 錫 杢 氏 が 、 当 時 三O 代 で 嘱 望 を

シル 劇 場 と 改 名 し て 運 営 す る こ と に な

現在は金敏基、李相字が離れて各自、

集 め て い た 演 出 家 奈 允 一を 迎 え 入 れ 一

で問題作として注目を浴びた。

みた 。 こ の 劇 団 の 一 番 大 き な 特 色 は 彼 学殿、 此 移 舞 を 率 い て お り 、 そ の 中 で

余りの作品を発掘して新しい評価を試

美醜は鄭福根作、孫振策演出の﹃守 らが創作劇だけをやってきた点であ

団サンウルリムの林英雄氏に演出のレ

緒 に 作 った 劇 団 で あ る 。 奈 允 一氏 は 劇

家だと言われた。 護神﹄で創団公演を行い、それ以降 どんと出ている。

ッスン を 受 け て ﹃ に ん じ ん ﹄ で 演 出 デ ビューをしており、セシルとサンウル

育て上げた若い作家 と演出俳優がどん 彼 ら は 現 在 、 創 団 二O 年 記 念 特 別 企

るものの、彼らのように翻訳劇は絶対

画 一.﹃新しい時代を開く若者の舞台﹄

る 。 創 作 劇 を 多 く や って き た 劇 団 は あ せず、韓国の創作劇だけを主 張して実

﹃呉将軍の足の爪﹄、﹃新 二国記﹄、﹃男

践 す る こ と が こ の 劇 団 の 持 っている 一

寺党の空﹄など韓国演劇の方法論と歴 史意識を新しく得ょうとする努力を傾

、 劇 団 セ シ ル は そ の 後 、 劇 作家 鄭 夏淵

けミュージカル、唱劇、音楽劇、マダ

李銭和、李康白など何人かの劇作家と

リムを中心に活動をしている 。

﹃ 代 表 作 ア ン コール 舞台﹄ 、 芸 術 の 殿 堂

を 進 行 中 で あ り 、 次 に 特 別 企 画 二.

この劇団には代表である鄭漢龍氏を

﹃我 が 時 代 の 演 劇 ﹄ シ リ ー ズ 招 待 参 加

つの特色であり、こだわりである。 筆頭に呉鐘祐、金光林、金敏基、金石

ンノリなどを通して伝統演戯の現代的 受 容 に も 関心を持ち続け、また﹃時間 満、李相字、文成根などが主軸になり

氏 と は 彼 の 全 作 品 を 全 部 一度 ず つ 公 演

親しく交流を深め、その中でも李鉱和

の影﹄、﹃マクベス﹄、﹃四天使は素直な

今回の世界演劇祭に参加する﹃私を

女﹄などを通して西欧演劇話法の韓国 林 賑 津 、 揚 姫 盟 、 窪馨 仁などが参加し、

公演などを予定している。

的受容にも関心を傾けた。九六年に芸

﹃サンシツ キ ム ﹄ な ど は 全 て 、 李 鉱 和

ジャ ﹄ 、 ﹃誰ですかっ﹄、﹃不可不可﹄、

術の殿堂が主催した雀仁勲演劇祭は美 量 を 見 せ 付 け た も の で あ った 。 多 彩 な

いる。﹃霧﹄、﹃0 ・九 一七 ﹄、﹃カデン

受賞経歴と日本、中国、ソ連の各種演

するという密度の高い関係を維持して

劇祭参加、外国演劇人との共同作業な

と 奈 允 一の 名 前 で 舞 台 に さ ・ れ、これら の作品はセシルのレパ ートリーの 半 分

醜がリードして美醜の昨今の全ての力

どを通してまさに国際的な規模の活動

を占める大きな比重で再公演、長期公

め、苦ノ文植、金鐘峰、鄭泰和などが看

で、奈允一がサンウルリムや他の劇団

し っかり し た 代 表 中 心 体 制 の 劇 団

演 が 行 わ れ る に 至 った。

板俳優で出ており、最近は京畿道に野

での活動を兼ねながらも自分だけの独

この劇団には女優の金星女をはじ

を繰り広げている 。

外舞台と練習室を作り団員の訓練、作

自の色彩で舞台を作ってきた劇団であ

演友舞台は七 八年にソウル大演劇班

戯曲賞を受け、九二年にソ連で聞かれ

の 百 想 芸 術 大 賞 で 作 品 賞 と共に演出、

か公演禁止や各種制裁を受けた。﹃私

のためにこの劇団は軍事政権下で幾度

という姿勢で作られたものが多い 。 こ

に対して新しく批判的な視覚を持とう

作品は現代史に対し、また政治と社会

劇団セシルは七七年李箱原作、鄭夏

る 。

め 各種 演 劇 賞 を 受賞 し た 成 功 作 で あ

れた作品である。ソウル演劇祭をはじ

ないかも知れないというテーマで作ら

難しく、もしかしたら 真 実 というのは

件を素材に 、 真 実 を 明 ら か に す る の は

見にきて﹄は、迷宮入した連続殺人事

員 として 登 録 さ れ て い る 。 ま だ 経 歴 と

順 、 李宗国、斐相敦、鄭明哲などが団

劇団は演出家金哲理氏を代表に李玄

道﹄、

今まで創団公演である﹃メッカへの

劇 団 琵 琶 は 九 五 年 三 月に創団され、

出の基本的な特徴を見せている 。

の﹃サンシツキム﹄で、この劇団の演

彼らの世界演劇祭参加作である﹃呉

品 の 準 備 を 行 っている。

出身の演劇人が集まり創回した劇団で

たちのあの世﹄、﹃チ ャン サンコ ツメ ﹄ 、 ﹃私 の住んでいた故郷は﹄、﹃立 ったま

淵脚色、 奈 允 一演 出 の ﹃ 翼 ﹄ で 創 団 公

業績があまりない劇団で世界演劇祭に

い作家たちのたゆまない作業で個性を

ある。呉鐘祐作、金光林演出の﹃朝は

まのあの棺桶は喪主もいないのか﹄、

演を掲げて出発した。この劇団は太平

る。創作劇中心のそれも何人かの親し

いつも 一人 ﹄ で 創 団 公 演 を 掲 げ て 始 ま

﹃ 韓 氏 年 代 記 ﹄ 、 ﹃ チ ル ス と ミ ンス

路 の 演 劇 人 会 館 劇 場 を 引 き 取 って、セ

将軍の足の爪﹄は八八年初演、その年

った彼らの舞台は創作劇だけで満杯で

﹄ ﹃遺方に泣く鳥﹄、﹃鳥も世から去る、 ん

一編 の 舞 台 だ け で あ っ た 。 乙 の

今回の世界演劇祭参加作品は李鉱和

出している。

ある 。 彼 ら は 二0 年 間 に 四O 編 余 り の

だね﹄などはそんなレパートリーの中

た亜太演劇祭に招待され参加した。

シリーズを通して、忘れ去られた十編

新作戯曲を作り韓国現代演劇の再発見

2 7


招待された民間劇団の中で歴史が最も

る舞台の完成度などを長所としてあげ

漢 陽 レ パ ー ト リ ー 劇 団 は 九O年 五 月

い歴史はないが、確固たる基盤があり、

一流の才能ある者たちが団員であるか

この劇団は、韓国の舞台で活躍する

漢陽大学演映科教授である雀馨仁氏

﹃血筋﹄を揚げて出発した。

女﹄で胎動し、九二年創団記念公演

立三O 周 年 記 念 公 演 ﹃ 四 天 使 は 素 直 な

と、その後の漢陽レパートリーが見せ

に作られた同作品の舞台に対する評価

若いながらも老練な学習の積み重ねが

どうかにかかわらず、喜んで参加し、

が教え子たちを中心に作った劇団で教

国 立 劇 団 は 一九五O 年 に 国 立 劇 場 設

個性から、その特徴を見つけ出し期待

はその参加者、特に演出家金哲理氏の

ており、今でも韓国の若い舞台俳優の

男、安石花など鋒鋒たる名前が参加し

在建、李豪宰、李周賞、朱虎撃、組明

金容琳、ヰア小品、全茂松、朴政子、金

﹃スルl ・ウエスト﹄、﹃春風の妻﹄、

﹃幽霊﹄、﹃チャンア姉の半ズボン﹄、

心の面白い演劇を目標に立て、今まで

国最高の専門劇団で安定した公演活動

共に現在の体制を整えた。名実共に韓

経て、七三年に奨忠洞国立劇場開館と

る 。

た舞台に対する信頼があったからであ

あ る 。 招 待 作 品 に 選 ば れ た は 、 九O 年

かったが、昨年現代劇場のソウル演劇 またそういった面でいつも貫禄を維持

立と同時に発足し、世宗路明洞時代を

μ

祭参加作であった﹃骨と身﹄に団員全 し、名声を誇ってきた。俳優としては

らが大勢参加した。この劇団は俳優中

授 申 一沫 氏 と 演 映 科 出 身 の 若 い 演 劇 人

に文芸会館で漢陽大学演劇映画学科創

員が力を合わせて参加した。新しくで 金聾玉、戚賢鎮、金茂生、金仁泰、史

ることができる。

きた劇団であるが、団員はみな既存舞 、 美 子 、 安 汝 貞 、 白 星 姫 、 孫 淑 、 窪仙 子

彼らはこれまで、自主公演ができな

浅い劇団である。

てきた人々で、劇団としての特徴より

台のあちらこちらで顔を出し活動をし

しなければならないようだ。今回、彼

劇団サンウルリムは世界演劇祭招待

など多くの有名俳優を輩出し、現在は

茂松、権成徳、孫淑、金鎮泰、金星女

金鮮影、高雪峰、萎桂植、李豪宰、全

の有名俳優が所属していた。金東園、

国立劇団は草創期から現在まで多く

をすることのできる劇団である。

らは李康白氏の﹃骨と身﹄で認められ、

﹃ある夏の夜の夢﹄、﹃ラブレタ ー 、 ﹄

同じ作家の﹃春の日﹄と共に世界演劇

名簿の中で最も歴史が長い民間劇団で

鄭祥鉄団長兼芸術監督の下に二七名の

祭に招待される栄光を得た。

ら﹄もまた韓国舞台での公演年数が最

あり招待された作品﹃コドを待ちなが

団員を抱えている。

な舞台を持っており奨忠嗣時代には

郎﹄、﹃雷雨﹄のような成功した伝説的

国 立 劇 団 は 五O 年 創 団 初 期 ﹃ 元 述

も長い作品であり、今まで国際的に大 きな演劇祭に最も多く出た作品であ 劇団サンウルリムは六九年にこの

る 。

﹃聖雄李舜臣﹄、﹃南漢山城﹄、﹃亙女図﹄、

﹃ 世 宗 大 王 ﹄ な ど 、 総 数 百 七 一回 に 及

韓国の代表的な劇団であるが最近団員

﹃青大将の新郎と彼の新婦﹄ な ど の 舞

の 平 均 年 齢 が 四O 代 に な り 、 若 い 力 が

中で 演 技 力 を 認 め ら れ て い る 俳 優 が サ

﹃コドを待ちながら﹄の韓国初演舞台

窪馨仁氏は彼自身が俳優であり、ま

不足してきていると自己分析してい

を作る中で胎動し、次の年正式に創因

た演出で舞台に参加しながら、彼が教

ぶ公演目録を持っている。国立劇団は

育し引っ張ってきた若く才能のある俳

る 。

台を作ってきた。 い う 素 朴 で は あ る が 、真 実 の 目 標 を 掲

優に多くの機会を与えてきた。この劇

っている。いい演劇を一生懸命すると げて作られたサンウルリムの演劇は、

団は注目を浴びる若い才能のある俳優

表的な劇作家呉泳鎮の作品﹃孟進子宅

ンウルリムの舞台を通じて観客と出会

持続的に水準の高い舞台を一貫して維

いつも観客の信頼を得ている。記録的

慶事﹄をミュージカル台本にするため

された劇団である。今年劇団創立二七

持してきた劇団である。八五年にはソ

な各賞受賞や観客動員数の実力がその

を多く排出し、最近のテレビや映画を

年 目 を 迎え 、 そ の 間 途 切 れ る こ と な く

ウルの新村に小劇場サンウルリムを開

見れば、その活躍ぶりが理解できる。

先生に師事した。彼の演出は写実的で

劇に巡り会い、韓国舞台の元老李海浪

る 。

内外の評論家に激賛された舞台であ

ダプリン、ポーランド公演を行い、国

、 今 ま で 十 回 の 国 内 公 演 と ア ビ ニヨ ン

作られるいろいろな楽しみがある。長

っており、その舞台にはいつも演劇が

び付けながら、かなり活発に舞台を作

学校教育と実際の舞台を理想的に結

今回はその中でミュ ー ジカルの台本を

ュ ー ジ カ ル な ど 三 種類で書いており、

は同作品を映画、シナリオと演劇、ミ

新しく作られたものである。呉泳鎮氏

彼らの世界演劇祭参加作は韓国の代

館し、専用舞台を通して多くの成功作

この劇団の代表的なレパートリーで、

証拠である。﹃コドを待ちながら﹄は

真撃な表現、正しい言葉使い、深みの

演出家林英雄は徽文高校演劇班で演

を出している。

ある作品分析、重さと厚さを感じさせ

2 8


選択したものである。 ソウル市立 劇 団 は今年創設された新 しい劇団である 。 正規の給与が保障さ れた国立劇団と共にもう一つの専門劇 団 が 作 ら れ た の で あ る 。 ソ ウ ル 市 は金 義卿氏を団長にした市立劇団を設立 し 、 現 在 指 導 団 員 と 一般 団 員 な ど 総 十 名の団員を確保して新しい作品を準備 中である。 この劇団はこれから少数の団員を中 心にして、必要な時だけオーディショ ンによる俳優選抜制度で作品を作る計 画であり、劇場も世宗文化会館ではな い演劇専用劇場を持つ計画である。こ の劇団は今始まったばかりであるが経 済的に大変な演劇界の一般的な状況の 団の演劇祭参加舞台は相当な関心の対

中で多くの期待を集めている。この劇 象になっている。 これらの世界演劇祭公式招請参加劇 団は明らかに韓国の舞台では重要な劇 団であることに間違いない。しかしこ れら以外にも韓国の舞台にはいろいろ な側面でその重要性を語り特性を述べ る こ と の で き る 劇 団 が あ る 。 創 団 二O 年以上の歴史の中で持続的に舞台を作 りながら韓国の困難な演劇状況を乗り 越 え て き た 劇 団 と し て 二O 近 い 劇 団 を 挙げることができる。架橋、故郷、広 場 、 大 河 、 東 浪 レ パ ー ト リ ー 、民芸、 民衆、プリ(根)、星座、新協、実験、 女人、自由、作業、 制 作劇会、七六回、 架橋は最近何年間、新派劇や楽劇で

現代劇場などである。 興行の記録を立てており、広場はミュ

2 9

ージカルに熱意を見せており、東浪レ パートリーはドラマセンター劇場の

サムエル・ベケ ットの『コドを待ちなが ら』


跳躍が期待されており、また民芸は専

大々的な修理と再開館で今年の新しい

に至っていない。

復興運動があったが、昔の名声を得る

団である新協はこれまで何度かの再起

ている。韓国の舞台で最も古い現存劇

し新しい転機を期している。

時代を終え、苦ノ浩鎮氏が代表職を担当

ppEX担己Z の己 i

用小劇場の経営と伝統演戯様式の現代

を準備中であり、星座は専用小劇場の

昨年のスランプから脱し、新しい舞台

た 。 プ リ は 今 年 創 団 二O 周年を迎え、

てから持続的に旺盛な活動を行ってき

な時期を経て鄭鎮守代表体制に代わっ

い る 。 民 衆 は 七0 年 代 前 半 、 若 干 低 調

この劇団は、これまでの押鴎亭小劇場

ある多くのレパートリーを持っている

﹃神のアグネス﹄など観客に親しみの

宅慶事﹄、﹃エクウス﹄、﹃アイランド﹄、

である。﹃フィガロの結婚﹄、﹃孟進子

団の中で断然トップを走ってきた劇団

実 験 は 六0 年 代 に 誕 生 し た 同 人 制 劇

な国際的な演劇交流に参与しているの

は 舞 台 美 術 界 で 、 演 出 家 金 正 経 氏 はI T I国 際 本 部 理事 長 と し て 、 さ ま ざ ま

た劇団であろう。代表である李乗福氏

の中で最も多くの海外公演を行ってき

きた劇団である。おそらく韓国の劇団

り、特色のある作品世界を作り続けて

大家を中心に国内外の舞台を駆け巡

劇団自由は李乗福、金正旺の二人の

的受容という創団理念をずっと守って

運営と共にたゆまない公演活動を行つ

劇団実験の『エクウス』

てきている。 彼らがおち出す集団創作による演劇方法は韓国

' は世界の演劇との出会いという側面でかなり注目され の演 l

ている

かれた舞台東珠、作業、展望、チユル

天、半島、復活、ソジョン、新市、関

ン・サラムドゥル(仕える人々)、舞

はロデム、ローヤルシアター、モシヌ

演 劇 祭 に 公 式 参加 し て き た 団 体 と し て

これらよりも歴史は浅いが、ソウル

相当注目されている。

国演劇と世界との出会いという側面で

打ち出す集団創作による演劇方法は韓

的な団体として浮上している。彼らが

で、彼らの劇団もまた国際交流に先進

劇団自由もまた国際交流に先進的な団体として浮かが上がっ

3 0


台を持って頭角を表してきた団体とし

などがある。大学路小劇場街に専用舞

ゴウン・サラムドゥル(楽しい人たち)

年余り若い演劇の実験を続けてきた 小

代表例としてあげることができる。十

の劇団柳、李相字の此移舞などがその

がら主張を始めた集団もある。柳仁村

にはこのような状況に果敢に挑戦しな

ル制作に参加している。ミュージカル

新市、神話、アルムなどがミュージカ

ル専門劇団の他にも広場、大衆、民衆、

や ソ ウ ル 芸 術 固 な ど 既 存 の ミ ュ l ジカ

ト な 歩 み で 前 進 し て い る 。 市立 仮 舞 団

モシヌン・サラムドゥルがコンスタン

ど が 九0 年 代 に 新 風 を 起 こ し て お り 、

前を大切にしなければならないだろ

ければならず、われわれはこれらの名

演劇は一人ではなく複数の人が一緒に

が、それでも演劇を作り続けている。

の中で、離合集散がひどく屈曲が多い

(今日)、銀杏、学殿などがある。

ては大学路劇場、アリラン、オヌル

ってきた第三舞台など 、 特 性 を 固 守 す

さな神話、聴覚障害者の演劇舞台を作

う。われわれは代表的な劇団を選んだ

団は一つの個体としての個性を育でな

行う芸術であるので演劇活動の中で劇

劇団は歴史も重要であるが歴史が全

団体はこれからは企業の参与でもっと

r

てではない。それに韓国の劣悪な演劇 る個性ある劇団もある。

韓国の劇団は劇団の名前を守りかっ

の現実の中では大概、歴史のある劇団 ミュージカル劇団としては安浩鎮氏

独自の演劇精神を守るのが難しい条件

りするのではなく、特色のある劇団を

のエイコムや宋承桓の桓パフォーマン

増える展望である。

が沈滞、挫折、不振などの時期を経な ス、ソウルミュージカルカンパニーな

大切にする姿勢で見守るべきである

0

3 1

が ら 座 礁 し て し ま う 例 が 多 い 。 九0 年

ザ・ナショナル・ドラマ・カンパニーの『世宗 32年』、国立国楽院礼楽堂の開館記念で公演され た音楽劇である

代に入ってから新しくできた劇団の中 m ﹁m ﹂ 訂 O O Ol


おける

ー コ

才3、

穏国演劇院教授、演劇評論家

ナョル キムユ、 d

し、 劇だけの状況ではなく世界のどこへ行

ためである。これはもちろん韓国の演

テレビ、映画、サイバー産業などの攻

いう常識的な単語を避け、あえて徴候

A O世 紀 最 後 の 十 年 間 に お け る

と い う 表 現 を 使 った 理 由 は 、 こ の 現 象

韓国の演劇は大衆的基盤が弱いため、

っても見られることである。しかし、

で確実に根をおろせないまま暗中模索

れた徴候を主題と素材、形式および実

の で あ る 。 九0 年 代 の 韓 国 の 演 劇 に 現 験 的 な 側 面 か ら 検 討 し て み るが、この

それらの影響がさらに破壊的に現れる

である。演劇は現在、他のどの時代よ

末的な時代的情緒を反映しているため

徴候はピンチに追い込まれた韓国の演

を繰り返しているためであり、もう 一

りも生存自体が深刻に脅かされている。

方ではそれが通常とは全く異なる世紀

が 一方 で は 、 ま だ 演 劇 の 美 学 と い う 点

勢が量的にも速度的にも以前とは比較

. 金潤哲

σ コ す る こ と が で き な い ほ ど 強 ま っている

℃﹀翠︿給巴Zのと

ミ寅王手L E蒙リ í~

一 韓 国 の 演 劇 に は いくつかの 明

東崇洞はソウルの演劇の中心地である

, . 雲 匡 ヨo

一確な徴候が見られる。特徴と

である公演ポスター(下)

σ コ チケットボックス(上)と案内板に姑つ

守主文草案 A _ . . . . .

pp司耳目mcz の 己

3 2


劇芸術家たちが彼らなりに講じた白救 ウエン アィ・ワソシユタインの﹃ミ

ネ ル ダ ン の ﹃ ス チl ミ ン グ ﹄ 、 米 国 の

﹃トップガール﹄と﹃クラウド・ナイン﹄、 り込み、義慈王とク今アが歴史の前

る村の大同祭という祭りの枠の中に織

滅亡させた義慈王とク今アの話をあ

文 民 政 府 と な っ て か ら の 九0 年 代 に は

扇動劇があったが、検閲がなくなり、

聞に挑戦し、多くの政治告発劇と宣伝

劇で最も頻繁に取り扱われる主題と素

色、林英雄演出)の公演以後、韓国演

ボlボ ワl ルの﹃危機の女﹄(鄭福根脚

劇団サンウルリムがシモンヌ・ド・

主題と素材に現れた徴候

観客を集めた劇の大部分は男性中心社

を 中 心 に し た 公 演 の 中 で も 一番 多 く の

を集めた作品に属する。これらの女性

などが批評的にも興業的にも大変関心

ル ビ ー の ﹃ ス リl ・トl ル・ウl メン﹄

ス・アンド・ミセス﹄、エドワード・オ

失 敗 し た 金 玉 均 と 洪 鍾 宇 の 二人 の 若 い

梗)﹄では傾きかけた国を救おうとして

あわせて弾劾する。また、﹃トラジ(結

めとしたいろいろな忠臣たちの過ちも

美名のもとに人倫に逆らった階伯を始

に犯した罪を告白させようとし、忠の

教室﹄を翻訳し、光州抗争を主導した

ランドの実験演出家カンターの﹃死の

頃に 一回 ず つ 本 格 的 な 政 治 劇 を 試 み は した 。 ﹃案山子ごっこ﹄は李潤津がポー

た。もちろん、李潤漂と李康白が半、は

逆に政治劇がほとんど存在しなくなっ

J

策にほかならない。

材があるとすれば、それは女性主義に

勢力たちに対する知識人たちの暖昧な

で李康白は光州の米国文化院の放火事

態度を叱時し、また﹃火をつけた男﹄

件を素材にしながら、政治状況は変わ

り来たりしながら各自の立場を擁護す る。李潤津もまた歴史物の好きな劇作

改革者たちがこの世とあの世を行った

家兼演出家である。彼は特に﹃問題の

た初期女性主義の性格をもっていたも のだった。韓国の社会が儒教的な価値

会で女性が不当に虐待される話を扱っ

体系と位階秩序の影響を長い間受けて

の 公 演 だ け を 見 て も ド ニl ス・シャl ロ ム の ﹃ マ マ は 五O で海を発見した﹄

関連するものであろう。サンウルリム

(林英雄演出)、朴腕緒の﹃彼女はまだ

らないのに人々が堕落した

﹀ 亡 。 一 ↓ 0召と豆

演出)、アl ノルド・ウエスカl の﹃娘

夢を見ているのか?﹄(安石花脚色及、び

)として、真実と正義に対し 同一昨て胸を焦がし、顔を背ける

一叩世の中を告発した。しかし、 ワム ボリ政治劇の復活を予告するか

ヨンギョンの小説を脚色した﹃たばこ を吸う女﹄(林英雄演出)など、最近こ

、木引のようなこの二つの公演の

に送る手紙﹄(林英雄演出)、キム・ヒ

の劇団が興業に成功した作品は、ほと

ある人問、燕山﹄を書き、演出しなが

ろうか。李潤津はやはり彼が書き下ろ

件平和と安全を希求するためなのであ

疲れきった市民たちが無条

﹃か、それとも葛藤と緊張に

河榔る対象を失ったせいなの

' ν

んど全てが女性を主人公にしながら家

トわ後に続く作品はなかった。 ・川文民政府となってから政治 川淵行為としての演劇が闘争す

父長社会で女性が追いつめられたり、 あるいは女性の社会的権益を高めたり、 または女性のアイデンティティを確立 するための女性劇または女性主義的な

らやはり生と死に自由に出入りし、人

演劇である。この他に劇団ボンウォン きたた、にでもあり、また韓国人たちが

し、演出した﹃ジーパンをはいたフア

好む感傷主義が十分に実現されている

ウスト﹄で、韓国現代史で一番織烈に

ペが公演したチュ・チャンオク作﹃女

政 治 的 闘 争 を 行 っ た 四 ・ 一九 世 代 が 現

は何で生きるのか?﹄(金東沫演出)、

かった事情と暴君となり滅亡するまで

実に安住する小市民に転落する風景を

間燕山が血の復讐劇を展開するしかな の権力のメカニズムを表現主義的に描

からである。 女性を中心にした演劇に負けないく

きながら歴史をパロディー化し、今日

劇団ミンイエの﹃その女の小説﹄(オ ム ・インヒ作、康英傑演出)、女性文化

るとすれば、それは﹁歴史の組解き﹂

らい度々取り扱われる素材と主題があ

反省し悲しむが、結局は政治劇の失践

ラ・ウォi カl 作 、 チ ョ ン ・ ヘl ソン

の政治現実を遠回しに叱責する。

芸術企画の﹃アマゾネスの夢﹄(パlバ

た公演である。このような創作と演劇

または﹁歴史の書き直し﹂を目的とし

的な女性劇または女性主義的な演劇も

評を博した。この時期には海外の本格

しながら新羅の美人局におぼれ白馬を

江の月夜に﹄を直接書き下ろし、演出

泰錫と李潤津がいる。呉泰錫は﹃白馬

作りの先鋒に劇作家兼演出家である呉

る。八0 年 代 の 暗 欝 な 政 治 状 況 で は 検

いる。ある徴候とは政治劇の不在であ

はなく、ないがゆえにさらに際立って

の中の 一つ は 、 あ る 徴 候 が あ る か ら で

変化があるとすれば、それは喜劇が初

九0 年 代 の 韓 国 の 演 劇 に 最 も 著 し い

影式的徴候

を証明することになってしまった。

台本、ユン・ヨンソン演出)なども類

活発に紹介された。英国の代表的な女

九0 年 代 の 韓 国 に お け る 演 劇 の 徴 候

似の理念の劇として観客から多くの好

性主義劇作家キャロル・チャーチルの

3 3


ュl ジ カ ル を コ ピ ー す る こ と に 重 点 を おいている団体ではあるが、劇団シン

の内面に訴え、観客が自分自身を見つ め直すに至る過程をなおざりに扱った

めて韓国の演劇の中心形式となったこ とである。しかし喜劇の形式の中に若

サ、劇団エイコムは創作ミュージカル の制作を先駆けている。これらの劇団

面もなくはない。 ミュージカルは年を重ねるごとに韓

干の変化もまた感じ取られる。第六共 和 国 末 期 か ら 九0年 代 の 初 期 ま で は 長

J

しスペクタクルを作り上げて、多くの

観客を集めた。一九九七年から劇団エ

イコムは﹁芸術の殿堂﹂と合作でミュ

ージ カ ル を 制 作 す る シ ス テ ム を 導 入 し 、

公演場と制作費の心配をしなくても創

の 部 分 を 海 外 の 専 門 家に頼っており、

えている。しかし、まだ音楽のかなり

作に専念できるようになり、大いに燃

またミュージカル形式の台本が書ける

コムは制作規模を見ても創作の水準を る。劇団エイコムは﹃娘とごろつき﹄

見ても韓国ミュージカルの代表格であ

作家が不足しており、さらに大衆ダン

の中で演出家安浩鎮の率いる劇団エイ

はブロードウェイのヒット作品をほと

で創団公演を行ったが、その後﹃シ

ている有望な演劇形式である。今まで ん ど そ の ま ま 模 写 し た コ ピl ミュージ

ム・スイルとイ・スネ﹄、﹃明成皇后﹄、

国の演劇観客たちの間で人気が上がっ

カルが流行したが、俳優たちの歌唱力

い間の暗くて不幸だった記憶を払い落

出帆以後、韓国社会に対する演劇人た

劇が主流をなしていたが、文民政府の

と ダ ン ス 力 が 向 上 し 、 さ ら に ミ ュl ジ

とすかのように軽くて愉快で楽しい喜

ちの展望が暗くなったせいか、冷笑主

スの水準にとどまっている振り付けな

どの限界が克服できないため、この劇

るミュージカルであり、﹃便所﹄は公衆

し、観客に向かってこっ。ひどく瑚弄す

抱えている深刻な問題を思いきり茶化

を専門に制作する劇団の中で、劇団現

能性が一段と高まった。ミュージカル

してきたので、創作ミュージカルの可

カル専門の演出家と劇作家たちが出現

王妃である関妃を日本の浪人たちが殺

した﹃明成皇后﹄は朝鮮王朝の最後の

寄与している。特に一九九六年に制作

め、創作ミュージカルの開拓に大きく

創作し、ある程度の興業的成功をおさ

﹃冬の旅人﹄など、韓国ミュージカルを

式の枠の中に取り込み、また﹃ハムレ

出 家 金 正 担 は ﹃ 血 の 結 婚 ﹄ で ロl カの

現代化する努力である。劇団自由の演

韓国的状況に盛り込んで時間と空間を

わ れ て き た 。 第 一に 西 洋 演 劇 の 古 典 を

c z

団の将来は必ずしも楽観視できるもの

ではない。いずれにせよ若い観客たち

が芸術的完成度とは関係なくミュージ

カ ル を 一方 的 に 好 ん で い る の で 、 韓 国

の演劇ジャンルよりも早いことは間違

内におけるミュージカルのの発展は他

いないであろう。

韓国演劇で 一番脆弱な部門があるとす

実験の様相

ればそれは実験劇である。演劇観客の層

が薄く、演劇を見に来る観客のほとんど

るため、大衆的ではない実験劇は観客た

は大学生である。理由は比較的難解であ

ちに大きくそっぽをむかれていることは

便所で起こる状況を想像し、政治、経

ジ カ ル カ ン パ ニ ー な ど は ﹃ 娘 と ご ろつ

代劇場、劇団広場、劇団ソウルミュー

害した事件を取りあげ、ミュージカル の. 可能性の実験を真撃に試み、韓国ミ

否定できない事実である。しかし、この

済、南北関係、倫理、芸術など、 -韓 国

き﹄、﹃四二番街﹄、﹃レ・ミゼラブル﹄、

ット﹄では韓国の﹃クツ﹄(シヤ │マニ

﹀CO一 O ﹃ 亘

義 、 ブ ラ ッ ク ユ ーモア、 暴 力 、 悪 口 と 猿襲、歪曲と誇張が横行する暗い笑劇 類が韓国の舞台を圧倒するようになっ た。﹃沈清はなぜ二度も印塘水に身を投 げたのか﹄、﹃地下鉄 一号線﹄、﹃便所﹄ がその代表的な例である。﹃沈清・・・﹄ は呉泰錫が韓国の古典﹃沈清伝﹄の概 念だけを借りて、龍王と一緒に世上の 見物に来た沈清が今度はあまりにも荒 に身を投げるまでの過程をブラックコ

涼とした人間世界を救うために再び海

の人形劇形式を取り込んだ劇として九

メディーと残酷劇の技法、そして韓国

れた秀作である。﹃地下鉄一号線﹄はド

0年 代 の 韓 国 最 高 の 演 劇 と し て 評 価 さ イツの原作に金敏基が韓国的状況を対 立させ統一の問題、社会階層間の葛藤、 富裕層の堕落と見捨てられた者たちの

社会の全般的な堕落のイメージを歪曲

﹃キヤツツ﹄、﹃コーラスライン﹄など、

ュージカル史上初めて劇全体を音楽化

純情、権力者の横暴など、韓国社会が

ムニバス劇である。二つの作品とも笑

と 誇 張 を 通 し て 拡 大 透 視 し た 一種 の オ

まだヨーロッパとブロードウェイのミ

﹃ブラッド・ウエディング﹄を韓国の葬

相 の 実 験 は 九0 年 代 に も 変 わ り な く 行

ように劣悪な環境の中でもいくつかの様

いをとるには大成功であったが、観客

劇団エイカムのミュージカル『シム・スイルとイ・スネ』

3 4


ソポクレスと韓国の小説家将正一の世

ィプスとの旅行﹄でギリシアの劇作家

団ムl チ ョ ン の 演 出 家 金 亜 羅 は ﹃ エ デ

り似たような概念の実験であった。劇

﹃ジーパンをはいたフアウスト﹄もやは

た。李潤爆の﹃私たちの時代のリヤ王﹄、

ッパの観客たちの間で大きな共感を得

のテキストを取り込み、韓国とヨーロ

ズムの儀式)の形式にシェイクスピア

のある人問、燕山﹄などがその代表的

月夜に﹄、李潤津の﹃オモニ﹄と﹃問題

と﹃愛を探して﹄、呉泰錫の﹃白馬江の

て大変効果的であ ヲた。金光林の﹃家﹄

たりして、確実性を破壊する装置とし

境界を意図的に崩したり、混沌とさせ

はこの不確実性の時代に現実と幻想の

中で自己の反映性を強調するこの実験

一つの演劇を挿入することで、演劇の

て劇中劇形式である 。演劇の中にもう

ぼんでしまったことは韓国での実験演

的な観客の反応のために最近大きくし

園叙とユン・ヨンソンの活動が、消極

持続して行っている演出家兼劇作家奇

るのである。ポストモダン的な実験を

の実験が 一般 観 客 に 受 け 入 れ ら れ て い

流をなしている韓国演劇ではこの程度

ルである。しかし、事実主義演劇が主

な い ほ ど 一般 化 さ れ て い る 演 劇 ス タ イ

という演劇固有の性格を最大限に生か

中で出会いぶつかりあう生の公演芸術

の観客と生の役者が同じ時間と空間の

のためである 。 今 後 、 韓 国 の 演 劇 は 生

イバー産業による生活パターンの変化

映画を中心とした映像産業の発達とサ

前よりもまして深刻に感じられるのは

やはり観客不足である。この問題が以

九0年 代 の 韓 国 演 劇 の 最 大 の 問 題 は

A

ずである。

まりである 一 二 世紀にも生き残れるは

ば、困難が予想される新たな世紀の始

して、芸術性と大衆性を共に実現すれ

界を並べ、相互反映させる形での実験

劇の立つ場所がどれほゼ狭いかを物語 っている。

実際は、ここで言及した二つの様相

OZ豆CZ ﹂ Z の IO ︿

な例である 。

九0年 代 の 韓 国 の 演 劇 人 た ち が 一最

処方と展望

劇団エイカムのミュージカル『娘とごろつき』

を最近行ったことがある 。 の実験は西洋ではすでに実験とは言え Zの i︿ ppb犬 凹 ﹀ ζZ

3 5

(1996 年)

劇団エイカムのミュージカル『明成皇后~

も集中して実験を行ったのは群を抜い

c oヨC豆 ﹀o

劇団木花の『沈清はどうして二度も印塘水に身を投げたのか』


が、韓国の伝統劇が野外遊戯的な性

韓国の公演場としてはすでに高麗時 代 か ら 山 塞 と い う 仮 設 舞 台 が あ った 格が強かったために屋内劇場が本格 的に発展し始めたのは開化期になっ てからである 。 このような屋内劇場 の設立は韓国演劇史において重要な 変化を及ぼした一つの要因である。 初めは倉庫のような既存の建物を改 造 し て 使 用 し て い た が 、 一 九O 二年 には本格的な屋内劇場の形態を整え た最初の劇場、協律社が設立された。 これを始めに社会の激動期を経なが ら数多くの劇場が生まれは消え、韓 国の公演の歴史と共に歩んできた。 文化体育部の統計によると一九九 一般 公 演 場 が 一 O六

六年末現在、韓国全国には総合公演 場が四七カ所、

カ所、小公演場が一四七カ所ある。

中 央 国立 劇 場

O 二│二七 四 一 一五一 1九

四l 六七

住所ソウル市中区奨忠洞二街山一 電話

FAX O 二 │ 二 六 七 七 一 八 六

d

E買

J

土日

ある。

-ノ リ マダン

一九五O 年 五 月 に 専 属 劇 団

された。最初、府民館の建物を国立劇

住 所 ソ ウ ル 市 中 区 奨 忠 洞 二 街 山 一四

場にして、

が柳致虞作、許碩演出の﹃元述郎﹄で

ー六七

開館公演を行い、本格的な劇場運営に オペ ラ団、国劇団まで専属にして名実

乗り出した。続いて交響楽団、舞踊団、

囲んで座ることのできる韓国式の聞か

ノリマダンは舞台を中心にして丸く

一九五O 年 の 六 ・ 二 五 事 変 ( 朝 鮮 戦

共に公演芸術の揺藍となった。

れるように設計されている。よって、

れた劇場で、公演が進行される中で、

が、さらに大郎に移転し、

農楽、タルチユム(仮面踊り)のよう

舞台と客席の区分がなくなり一つにな

にソウルに戻ったきた国立劇場は明桐

一九 五 七 年

にある市公館を国立劇場にして、たゆ

区分が厳密ではない各種の公演に適し

な伝統芸術様式の公演や舞台と観客の

争)のためにしばらく釜山に避難した

みなく発展のために努力してきた。一

一九一坪、舞台面積九七坪、客席 三 四

坪 、 客 席 一五 一 八 席 の 大 劇 場 と 総 面 積

00 た。 総 面 積 九O 四 坪 、 舞 台 面 積 一

り 、 米 国 の ブ レ ッ ド & ドl ル 劇 団 の公

ざまな芸術家たちの公演が行われてお

どが収容できる座席が備えられてい る。 人 間 文 化 財 に 指 定 さ れ て い る さ ま

り 、 四 三 六 ぱ の 面 積 に 約 一二O O名ほ

国立劇場の大劇場と小劇場の間にあ

ている。

九 七O 年 に な っ て 画 期 的 な 変 化 が 訪 れ、この時に現在の位置に総合民族文

四席の小劇場が建てられ、傘下に国立

演が行われたこともある 。 また、若者

化セ ン タ ー と し て の 国 立 劇 場 を 建 て

ペラ団、合唱団、バレエ団、歌舞団な

劇団、唱劇団、舞踊団、交響楽団、オ

八O

FAX O 二│三九九一ーー六四六、五

二七、六二八

O 二│ 三九 九 一│ 六 二六、六

一 一 一

住 所 ソ ウ ル 市 鍾 路 区 世 宗 路 八 一│

世宗文化会舘

かれたりしている 。

のための行為芸術フェスティバルが開 活発な公演が行われるようになり、

ど八つの団体を置いている。 一九 八0年 代に 入 っ て か ら は 練 習 場 を 公演場に変え、マダンノリのための野 外舞台も作られ、公演空間の拡充を図 る一方、伝統芸術の保存と大衆化に努 韓 国 唯 一の 国 立 劇 場 と し て 三0 年 間

力している。 余り、特に民族文化の発展と芸術性の

つである世宗文 化会 館 は 、 ソ ウ ル の 真

高い公演芸術を目標にたゆみなく遁進 ル で 開 催 さ れ る I T I総 会 の 舞 台 行 事

ん中 で あ る 世 宗 路 一 番 地 に あ る だ け で

ために国家によって設立された劇場 国立劇場の設立が論議され始めたの

である世界公演芸術祝祭が聞かれる予

立 劇 場 は 一 九 五O年 に 民 族 芸 術 発 展 の

は 一九 四 六 年 か ら で あ る が 、 一 九 四 九

定 である。

なく、周辺にはいろいろな古宮があ っ

ソ ウ ル 市 民 の 象 徴 的 な 文 化空間の 一 年になって国立劇場運営委員会が組織

*マダンは韓国語で庭や広場の意味で

ι

され、初代国立劇場長に柳致員が任命

してきた。また、今年の九月にはソウ

(編集者註)

代表的な公演場を紹介する。

さらに公演的な側面から特徴のある

位置する公演場を中心に施設や規模、

では、次にソウルと京畿道一円に

としての発展が期待されている 。

などがそのまま公演できる専門劇場

った演劇、舞踊、オペラ、伝統芸術

なっているので、今後は性格の異な

演場に対する支援条件がかなり良く

に比べると演劇人に対する認識と公

題として残っている。しかし、過去

象は今後克服しなければならない課

しており、文化施設のソウル偏重現

公演場の場合も似たような様相を示

ような状況は減りつつあるが、他の

近くがソウルに集中しており、この

しかし、特に小公演場の場合、半分

、 ,

で、韓国演劇のメッカでもある。

言 活

O~ . " . " " " 、 、. .

秀麗な景観の南山の麓にある中央国

草草

3 6


mcZ のと

司 、PE 式的

国立劇場は大小の劇場と野外公演場を 備えている。国立劇場の外観(左) と内部(右) 野外舞台の楊州別山台ノリの公演場面 (上)

3 7

也醤轟画醐薗圃薗画曹 . , ; . . . ' " : ' . : . . ~.,~で過11 -:::-,',=むよ乙語圏~.:・ 0・・ 0 ・

号 一


ルハーモニーを始めとした世界最高の

割 を 担 っ て き た 。 開 館 後 、 世 宗 文 化会 ベルリンフィ 館 で は カ ラ ヤ ン の ド イ ツ.

て歴史と現代が出会う文化の場として の意味が深い。昔、この場所には市民 音楽家たちの公演はもちろん、イタリ アのラスカラザオペラ団、ボルシヨイ

けない火事で焼け落ち、その場所で 一 バレエ固など、各分野の芸術団体が公

会館があったが、一九七二年に思いが

一九七

化会館の建築様式は韓国古来の 宮 閥 様

五坪)で地上六階、地下三階の世宗文

延べ建坪五万四五

年 、 IT I総 会 の 舞 台 行 事 で あ る 世 界

宗 文化会 館 の 舞 台 で 光 輝 い た 。 ま た 今

くの韓国の芸術家たちゃ新鋭たちが世

に愛されている鄭明勲と山秀美など多

しての韓国の誇りを高め、世界の人々

演を行い、さらに世界中で文化国家と

九七四年から文化会館建設工事が始め られ、満四年余りの工程の末、 ) 、 台地二万一 O 五 四 ぱ ( 六 三 八O 坪

八年四月に開館した。

式を現代的な感覚に合うように石柱を 公演芸術祝祭が関かれる予定である。

ood( 一万六五六

配列し、その列柱の聞に見える壁面全 体には韓国の伝統的な格子模様で装飾 住 所 ソ ウ ル 市 瑞 草 区 瑞 草 洞 七0 0

芸術の殿堂 電話

されており、屋根を外郭に突出させて 韓国固有の軒と屋根の形態を変形調和

F A X O二 │五八七 1 五 八 四 一 、 五

一一一 四

させながら、外部の壁面に花闘石を使 八O l 一四四四

O 二 1 五八O

用して、荘厳ながらも優雅な造形美を 主舞台である大講堂は客席が三八五

持つように配慮されている。

韓国の文化芸術の中心的な存在であ る芸術の殿堂は、文化芸術に対する大

2 m余 り の 舞 台 は 直 一七00

きな時代の要求によって一九八二年に

九席あり、 径 一七 ぱ の 回 転 舞 台 、 四 つ の 水 平 移 動

建築の計画が打ち出されて、

一九 八 四

ま た 五O O名 余 り が 同時に出演でき、

舞台、三つの昇降舞台からなっており、

のりを経て、

年に着工されてから、九年間の長い道

けて五二二席の客席が備えられてお

ム形式の独特な様式で、て二階にか

堪能できる。また、小講堂はスタジア

の高い活動の姿を見せることによっ

と い う 空 間 概 念 に 合 った多様かつ水準

合 文 化 芸 術 セ ン タ ー 、 文 化 テl マ空間

した 。 開 館 以 来 、 今 日 ま で 韓 国 初 の 複

一九 九 三 年 に 全 館 が 開 館

にとらわれず、公演を快適かつ華麗に

音楽・演劇・舞踊・映画などジャンル

り、一 O O名 余 り が 同 時 に 舞 台 に 立 つ

台に、伝統文化の保存・育成と市民の

踊団など傘下の八つの専属芸術団を土

団、ソウル市立合唱団、ソウル市立舞

このような施設とソウル市立交響楽

壁を崩す作業に力を傾けてきた。芸術

な芸術ジャンルの受容とジャンル間の

進取的かつ実験的な企画を通した多様

間として位置付けられつつある。特に

空間に引けを取らない新次元の文化空

て、短期間で世界的な名声を持つ芸術

文化芸術の振興、そして外国の文化芸

の殿堂は大きく分けるとオペラハウス

ことができる規模である。

術の健全な受け入れにリーダー的な役

のと

犬印mCZ 司 一

pp

国立劇場野外ノリマ夕、 ン

3 8


は特色のある五つの劇場がそれぞれ備

と音楽堂からなっており、各々の中に

劇を中心に舞踊、ミュ ー ジカル、オ ペ レ ッ タ な ど が 公 演 で き る 七 一O 席

ハウスの顔である。さらに、伝統演

ろん、韓国の創作音楽劇、現代舞踊、 ミュ ー ジ カ ル ま で 公 演 で き る オ ペ ラ

光輝く所で、オペラやバレエはもち

古代紫の舞台幕に金色の舞台額縁が

音楽会のためだけの空間であるコン

してきた。韓国で初めて建てられた

要 な 舞 台 と し て 、 芸 術 の 殿 堂を 代 表

また世界的な演奏家たち招請する主

場である。開館以後、国内の演奏家

家たちがその真価を認めた延べ建坪 五九 三O 坪 の 正 統 コンサ ー ト の 演 奏

る 。

界公演芸術祝祭が聞かれる予定であ

聞 か れ る I T I総 会 の 舞 台 行 事 の 世

の良い反応を得ている。

誰にでも開放されていて、観客たち

に 音 楽 堂 の ロ ビl は 公 演 と 関 係 な く

オペラハウスは建築延べ面積約一

えられている。

規模の土月劇場と前衛的かつ実験的

サ ー ト ホl ル と 小 規 模 の 独 奏 会 、 室 内楽、 実 験 創 作 音 楽 を 演 奏 す る リサ

市 瑞 草

今年は東洋圏では初めてソウルで

形建物の中に公演活動のための公演

万三二 O O坪で、直径一 O 八 mの円

な小規模公演のための自由小劇場も

たちに愛されている演奏空間として、

かれているパブリック空間とで構成

空間と、

オペラハウスに含まれている。

(上から)世宗文化会館、芸術の殿堂、芸術の殿堂内にあるオペラハウス

イ タ ル ホl ル の 演 奏 空 間 が あ る 。 特 I訂O m ﹁m O ﹂O

地ソ 堂 ウ

一般 利 用 客 の た め に 常 に 開

されている。主要な公演場であるオ ペ ラ 劇 場 は 二 三 四O 席 の 客 席 に よ っ

C

3 9

0 0

/

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音楽堂はすでに世界レベルの音楽 pp司式的mczの

M

草 洞

/

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. . 白 ・

区 瑞

¥

て馬蹄の模様のように固まれていて、 m ﹁m O ﹂ O カO

住 所 礼


客席八OO席規模の公演場として伝統

、 積 四 二 二四 坪 に 地 上 四 階 、 地 下 一階

城を連想させる建物の外観と、延べ面

年間の海身の末、誕生した礼楽堂は古

圏内最大の国楽専用の劇場として八

一 一 一 一 一 一

国 立 国 楽 院 案 内 O 二l 五 八 O │一 二 三

的な韓屋である瓦屋に八角屋根と花岡

できる客席を備えている。建物は伝統

ノ リ マ ダ ン 、 そ し て 一五 O O 名 が 収 容

し て 一 七 O 坪 の 建 物 と 一四 O 坪 の 円 形

万 坪 の 湖 水 公 圏 内 に 二五 O O 坪 を 確 保

めに建てられたソヴルノリマダンは九

発表、伝授、伝承及び発掘、保存のた

国の伝統的な民俗芸術の技能と芸能の

休息空間として脚光を浴びている。韓

いな池と広い公園があって都心の中の

で、場所を提供して主に公演が行える

優秀な団体の公演活動を支援する次元

的 な 性 格 の 公 演 が 行 わ れ て い る 。 また、

可変舞台である小劇場では新しい実験

祭など、全国規模の行事とレベルの高 い 作 品 の 数 々 が 公 演 さ れ て い る 。 また、

大劇場ではソウル演劇祭、ソウル舞踊

われており、プロセニアム舞台である

ある 。 年 間 約 一O O 件 余 り の 公 演 が 行

界を代表する中規模の典型的な劇場で

っている総合公演場として、韓国公演

一っと 二O O 席 規 模 の 小 劇 場 一つを持

制度によって自ら品位を維持している

を貸すかどうかを決定し、このような

れると諮問委員たちが審査をして会場

湖 岩 ア1 ト ホ l ル で は 公 演 が 企 画 さ

響の残響時間を調整できるようになっ

さらに多目的なホlルに合うように音

て音響拡散、音響効果装置を設備し、

め、大きな空間での音響条件に合わせ

ータ装置の最新舞台・照明施設をはじ

会議場としても活用できる。コンピュ

の芸術公演だけでなく、大規模な国際

に通訳できる施設も備えており、各種

芸術の真髄と魂を生かせる空間として 石の基壇、エンタシス様式の住で建て

てられた文芸会館は七一O席の大劇場

構成されている。 られており、地下には各種の付帯施設

古城である夢村土城があり、またきれ

特に国楽公演にぴったり合ったメイ

電 話 O 一一 五 八 O 三 O 三 七 1 八

ン舞台と可変型の後舞台などの舞台装 がある。

などの施設を整えている。

考えた客席配置、独特な音響システム

リなどの民俗芸術公園と伝統的な民族

大、東莱野遊、永営野遊、松坂山台ノ

公開しており、統営五広大、固城五広

承発展のために韓国の伝統芸術を随時

ソウルノリマダンでは民族文化の継

ている。また今年はここで世界公演芸

のスタッフたちが公演の進行を支援し

演の支援のために実力を備えた各分野

営しており、さらに、レベルの高い公

たちで構成されている審議委員会を運

ようにしているが、そのために専門家

である。

る 文 化 事 業 の 一環 と し て 始 ま っ た も の

り 、 こ の 公 演 場 の 設 立 は 三星 が 推 進 す

設 立 者 で あ る 故 李 乗詰会 長 の 号 で あ

た め に 一 役 買 って い る 。 湖 岩 は 三 星 の

だけでなく、レベルの高い公演を行う

を設置した家族連れや団体客を中心に

音響システムは味わいと機能性を生

ている。

置と、三列ごとに土塀型の低い手すり

かした民族的な四角い凧模様の音響反

住 所 ソ ウ ル 市 中 区 芸 場 洞 八 l 一九

電話O二│七七八lO二六一

F A X O 二│ 七 七 八i 九 六 五 O

にシェークスピアの﹃ハムレット﹄で

専 用 の 劇 場 で 、 一 九 六 二 年 四 月 二一 日

六四O 一九八 一年 に 着 工 さ れ 、 満 四 年 の 工

開館公演を行った。年中無休公演を掲

ll 九

ドラマセンター

術祝祭が開かれる予定である。 湖岩アートホlル 住所ソウル市中区巡和桐七番地 FAXO二│七五一

電話O

住所ソウル市鍾路区東崇桐一一

文芸会館

芸術の講習会を開催している。

で音響が伝わるようにし、両側の壁面

射板を天井に設置して、客席の後ろま に吸音性のカーテンを吊り下げ、残響 時間を調節したのが特徴である。

三O

二│ 七 五 一│ 九 九 九 九 O二1 七六0 1四六一 0 1四

事 の 末 、 八 五 年 五 月 一日 に 開 館 し た 湖

雷︼話回

礼楽堂内には同時通訳室を別に設け

岩 ア ー ト ホ l ル は 延 べ 建 坪 一五 六 O 坪

ための財政難に端ぎながらも韓国演劇

げて出発した劇場であるが、客不足の

て、国際民俗音楽学術セミナーや国際

韓国の代表的な文化芸術の街である

で一、二階に客席八六六席を備えてい

一九六二年に柳致員が設立した演劇

大学路の中心街マロニエ公園にある文

る。さらに舞台は一六O坪あり、中型

F A X O二│七六Ol四六 一一

の公演芸術分野の象徴的な建物として

芸会館は、一九八一年四月一日に韓国

民族音楽競演大会誘致など、国楽の世

石村

界化に対する準備も徹底的に行ってい る 。 ソウルノリマダン

の中興のために公演活動を続ける一

住所ソウル松坂区蚕室洞四七

方、﹁演劇開発 三 カ 年 計 画 案 ﹂ を 発 表

し、演劇教育及び公演の活性化にも力

一体 感 を 感 じ る こ と の

を注いでいる。しかし、この劇場の核

が共に呼吸し、

できる規模である。昇降・水平移動の

劇場としては最も広く、客席と公演者

できる現代的な機能を備えた舞台は 二

心 と な る 公 演 活 動 は 財 政 的 な 基 盤 の、 脆

開館した。開館以来、芸術性の優れた の活動を助けるためのレベルの高い舞

弱さと演技陣の大挙離脱のため、

純粋創作作品の発表と優秀な公演団体 台を提供してきた。特に大韓民国演劇

規模である。そして、六か国語が同時

0 0名 余 り が 同 時 に 出 演 で き る ほ ど の

湖水公園内

一四 九 六 坪 の 敷 地 に 建

祭を開催して韓国の公演芸術分野の礎

O 二│ 四 一四 │ 一 九 八 五

ソウルノリマダンはソウルの昔の都

となってきた。

指電話回

市の情趣が灰かに漂う査室の石村湖水

一九

公園の中にある。この周辺には首済の

4 0


年には付設学校である演劇アカデミ ー が発展し 、 もう一度その命脈をつない

六三年にその幕を下ろした。一九六四 九月に聞かれる世界公演芸術祝祭が開

工事が終われば、新しい舞台で今年の

り、今年五月に完工する予定である。 トセンター は東崇ホ ー ル、小劇場、映

る触媒になろうと設立された東崇ア ー

体の相互理解と生産的な活力を鼓舞す

の 五 階 に は 一 八O 席 規 模 の 小 劇 場 、 東

由な想像力の場を目指している。建物

じめ、映像と公演、音楽が織りなす自

山宗スタジオシアタ ー が あ る が 、 と こ は

演劇専用舞台として生まれ 、初期に東

崇演劇祭を開催するなど、若く力量の

J

画 館 を 備 え た 総 合 文 化空 間 で あ る 。 東

ある演劇人たちの実験舞台としてのイ

出 一 市 ア ー ト セ ン タ ー の地 下 に あ る 東 崇 ホ の 客 席 、 合 わ せ て 五O O席 を 備 え た 中

ー ル は 一階 の 客 席 と 二階 の バ ル コ ニ ー

の空間配置が自由 な 可変 型 の 舞 台 で あ

り、 ま た 天 井 が 高 く 、 規 模 に 比 べ て 多

メー ジ を 作 り 出 し て い る 。 客 席 と 舞 台

様な舞台設置が可能である。野外には

規模の劇場である。演劇、舞踊、コン んなく収容できる伝統的なプロセニア

サートなど多様なジャンルの公演をな ム舞台と扇形模様の客席が調和をなし

催される予定である。

るソウ ル芸 術 専 門 大 学 の 講 堂 と し て も

話回

住所ソウル市鍾路区東崇洞

盛田︼

F A X O 二l 七 四 一 │ 五 二 二五

一五O 席 の ノ リ マ ダ ン が あ っ て 、 各 種 m ﹁m O カO ﹂ O

ている。演劇、舞踊、コンサートをは

O 二 │七 四一│三 三九 一1 四

束中{示アlト セ ン タ ー

だ。現在は演劇アカデミーの後身であ

既存の構造は円形舞台と両側にサイ

使われている 。 ドステ ー ジ が あ り 、 客 席 の 後 ろ に は 聖 堂 の 聖 歌 隊 の 舞 台 か ら ヒ ント を 得 た 円 形舞台がある。しかし、現在は既存の 劇場が老朽化したため、より現代的で 個人の創作意欲を刺激し、共同体全 ppb-︿ 印mCZ の 亡I

4 1

演劇に適した新しい劇場を建築中であ ﹁

mm ﹂ OOI訂O

日m O カO ﹂ O

( 上から時計回り l こ)文芸会館の大劇場、ソウルノリマダン 、 ドラ マセンタ一 、 礼楽堂、湖岩 アートホール

こ;ム;上~,


会場としても活用できる特殊施設を備 えた公演場である。特に舞台に設置さ

のマダン劇はもちろん、設置美術、音 楽会も可能である。ここでは今年世界 に合わせて踊る噴水式の施設で、華麗 な照明とマッチし、幻想的な雰囲気を

れ た ダ ン シ ン グ ・ ウ ォ ー タ ーズ は 音 楽

演出する特殊施設としてリトルエンジ

演劇祭が開かれる予定である。さらに、 テツクでは主に芸術映画を上映してお

映画上映専用の劇場である東崇シネマ り、監督別、テーマ別企画の映画祭が ェルス芸術会館が誇る施設である。

二│ 二 O 四 │一O一一 1 四

l 二八三 │ O O 八 八 O 三三 一

国民俗村

住所京畿道龍仁郡起興面甫羅里韓

韓国民俗村ノリマダン

開催しながら、映画運動の流れを形成 している。 リトルエンジェルス芸術会館 電話O

住所ソウル市広津区陵洞二五番地

る。ここは京畿道龍仁郡一帯の欝蒼と

民俗村は韓国の民俗的な生の営みを総

一九七三年に基礎工事に着工し、

した樹木と清らかな小 川 の流れる盆地

合的に再現している興味あふれる所

八一年一一月一三日に綾工されるまで

にある。藁葺き屋根に住む昔の一般庶

リ ト ル エ ン ジ ェ ル ス 芸 術 会 館 は 一九

八年という長い期間、全身全霊をかけ

民の生活から両班官吏の豪宕な九九間

六二年五月五日に創設されたリトルエ

て建てられた。特に建築の最後の作業

の大邸宅まで、全てが見られるように

で、韓国人はもちろん、韓国を訪問す

である室内装飾のモルディング(石膏

造られた民俗村は総合的に昔の生活を

る観光客たちからも脚光を浴びてい

モルディング専門技師十四名が一年半

いろいろな昔の風習を見ることができ

て実際に生活をしている人々がいて、 る。韓国の昔の帽子であるカツを被っ

再現した村である。ここには腰を据え

ている男性や、頭を長く結ったチョン

の問、汗と魂で完成させたもので、建

ハウス様式の大公演場と中講堂(ブル

ある。四階規模のこの建物にはオペラ

ガーや、チマ・チョゴリを美しく着た 子屋で厳しくしつけられながら文字を

少女たちの姿や、糸車を回したり、寺

が そ れ ぞ れ 一つ ず つ あ る が 、 こ れ ら は 全て華やかなロビ !と世界水準の照

なく、華やかな晩餐会及、び各種行事の

れているので一般的な芸術公演だけで

大 公 演 場 は 多 目 的 ホl ル と し て 設 計 さ

を 取 り 揃 え て い る 。 客 席 一 二八 二 席 の

農楽と伝統婚礼式を見ることができ、

リマダンが準備されていて、毎日二回

な生活文化が見られるだけでなく、ノ

読む少年たちの姿を見ることができ る。また 、韓 国 の 民 俗 村 で は こ の よ う

に進行することのできる舞台施設など

明、音響施設及、び各種の公演を効果的

ー ル ー ム ) 、 小 講 堂 ( レ ッ ド ルl ム)

物 の 内 部 装 飾 の 一つ 一つ が 芸 術 作 品 で

で彫刻して装飾すること)は九か国の

一九

三O万坪の敷地の上に造られた韓国

ンジェルス芸術団の専用公演場として

F A X O 二 │ 四 五 二 │ 七 三九 一

﹀b ↓回一 U﹀のm

m 1 8 ﹁ m0 ﹂0

東崇アートセン ター ( 左上)、リトルエ ンジ ェルス芸 術 会 館 (右上)、韓国民俗村 ノリ マ ダ ン (下)

4 2


﹀司﹃盟、﹀Cm

春川子ども会館での世界人形劇祭の中の一場面

祝日や公休日、日曜日には各種の伝統 舞踊や北青獅子ノルム、松坂山蓋ノリ など、重要無形文化財の公演が行われ る。 果川市民会館 住所京畿道果川市中央洞六│二 電話 O 二│五O四│七三0 0

O O四席の

果川市民会館は 一 二 世紀の文化・芸 術の時代的な要求に応じて建てられ、 地方文化の活性化に心血を注いでい る。九五年に開館され、一 大劇場と六六七席の小劇場などの室内 公演場と同時に 一 O九O坪規模の 一二 三六名が収容できる野外公演場がある が、これらの場所では九七年世界マダ ン劇大フェスティバルが開かれる予定

のマダン劇が出会う場となるであろ

である。特に野外公演場では関かれた 空間にマッチした世界のマダン劇が繰 り広げられる予定であり、東洋と西洋 う。 これらの公園施設の他にも展 示場 と体育施設、教育施設などを備えてい る総合文化の空間である 。 特に果川は 韓国で最も暮らしゃすい都市として名 高く、快適な住居環境と同時に文化芸 術の場を共に備えている点において注 目されている。 春川子ども会館 住 所 江 原 道 春 川 市 三川洞 二二三i 二 電話 O三六一 1 五四│七九 三三 、五 六│八 二九 一 湖畔の都市、春川にある春川子ども 会館は衣岩湖が見おろせる丘に位置し

ている。七九年世界児童の年に記念事

送センター設計﹂で優秀作に当選した

業として着工され、八O年第九回全国 建 築 家故金重業先生の遺作である。 少年体育祭開催に合わせて開館され K BSホールは骨格が円形にな って た。 公演施設としては収容人員 二O O - いる多目的ホlル で、ロビ ー の空間は 名の大劇場と収容人員 三O名の小劇場 丸い形で維持されながら、また異なる があるが 、 子ど も会館を象徴する野外

かれている。世界各国の若く意識のあ る人形劇団が参加する国際人形劇祭は

子ども会館を特徴づける最も大きな 行事は春川人形劇祭で、毎年五月に聞

としている 。

湖が見おろせ、﹁湖に咲く終わりなき 童心の世界﹂を築き上げることを目的

音楽堂がある 。総面積 一九八Oぱ、舞 2 台面積 二ニ0 m、収容人員約 二千名余 りの公演施設で、舞台の後ろには衣岩

台面積が五九 一坪で、回転式 の円形舞 台、昇降舞台、水平移動舞台などを備

の文 化芸術ホlルが持 っている単調さ から思いきり脱皮しており、同時に多 様な形態の自由さを見せてくれる。舞

がさらにはっきりと際立つ。全体的に 円形を 基本アイテムとした構造は既存

な円形の建物は屋外に突出した 三角型 のスペ ー スフレ ー ムと対照的にその形

円形の拡張空間を つけ 加えるアトリウ ム構成の技法が特異である 。 このよう

春川を 文化都市として浮かび上がらせ るだけでなく、ソウルではない地方で

主要都市に K BSホl ルを建てている ので、今後地方文化の発展にも寄与す ると思われる。

り、公演芸術文化はもちろん、放送文 化発展にも積極的に寄与するであろ う。さらにソウルだけでなく、全国の

のような公演と放送プログラムとのつ ながりは、高級文化を広めることにな

で、都心の中の休息空間としての役割 も担っている。広場をはじめとした庭 園には各種の彫刻作品や噴水台、池な どがあり、季節によって変化する自然 を感じることができる。 K BSホlルで公演されるプログラ ムは K B Sと直接つながっており、全 国のお茶の間まで中継されるので、こ

えており、客席は 全部で 一七七六席と いう規模である。 さらに、 K B Sホlルは都心の中で も自然を味わえるようにしようとする 基本的造景概念によって建てられたの 国際行事を開催するという意義もまた ある。

K B Sホiル 住 所 ソ ウ ル 市 永 登浦区汝失島洞四六 O 二│七八一│二七 一八1九 、 七 八 一 二 七 六 四1六 電話

K B Sホlルは韓国の公営放送であ るK B Sによる五年間の準備の末、一 九九 一年に誕生した国際規模の総合文 化芸術ホlルである。芸術家には最高 の表現舞台を提 供し、観客には最高の 芸術作品を伝えることで高級文化と伝 統芸術の発展にリーダー的な役割を担 っている。現在の建物の中には八八年、 ソウルオリンピック大会で国際放送セ ンタ ーに使われた建物 があるが、これ は八五年に K B Sが公募した﹁国際放

A

4 3


民俗学者

公州民俗博物館長

同国国

シムウソン

・沈 雨 毘

広大とは朝鮮時代の仮面劇・

人形劇・綱渡り・地上での軽

川1

U 浪広大とは・

品、﹃

J'EH

、 γ1 業 ・パ ンソリ(韓国伝来の全羅南道民 謡)など民俗演戯活動をした芸人の総 称で、これを才人とも言った。ところ で、このような芸人の足取りは朝鮮時 代以前の三国時代まで遡っており、記 ウイノチャノウジエイ〆ヒシ司

録によれば優人、侶優、才人、戯子な また、広大は大きく 二つ に分けられ

どの名称で伝えられている。 るが、その 一つは家庭を持ちながら官 街(官庁)や士大夫(両班家)の招き

のと

勺﹀司式的m CZ

ぺ チユ ァク ワァン dT

主に大きな都会を中心に定着した生活

に応じてソリ(民話)や踊り、器楽 ド

あったが、その名称だけを紹介すれば、

を営んでいる 。 コルリッペチュンコルリッベクワァンデベ

、 蘇 塗 牌 、 竹 広 大 牌 、 チ ヨ ラ ニペ

男寺党ノリは当時仕事

に励んでいた農一氏や漁

氏たちにとってこの上

ない慰めであり、

仕事をする活力となり、

また力を蓄えるための

貴重な氏衆芸であった

地方の官庁に取り締まるように指示し

いる一群の狸雑な遊戯は禁止しなけれ ば な ら な い ・ ・ ・ ﹂ と い ったふうに、

こ の よ う な 流 浪 芸 人 集 団 は 一 九 二0

る文献や資料が余りにも希少である。

程を明らかにするには、伝えられてい

男寺党牌の淵源や歴史的な形成の過

て﹁下卑な人間の好ましくない遊戯﹂

ついては全く関心もなく、終始 一貫 し

男寺党牌ノリ(遊戯)の背景や淵源に

テリヨンクワ 7ンデ

(三弦六角)、綱渡りなど多彩な芸を演

乞粒牌、僧乞粒牌、広大牌、カツクソ

年代までは何とか細々と伝承されてき

て い た の で あ る 。 これらの記録では、

たが、その後次第に跡形もなく消え去

リペ、イエギチャンサなどがあ った 。

ったが、その代表的な集団が 他ならぬ

ていたとしても人間の道に背いた衰退

特に支配階級ではない一般の庶民大衆 の娯楽であ ったので、仮に記録が残っ

てこの上ない慰めであり、再び仕事を

事に励んでいた農民や漁民たちにとっ

であると罵倒しきっているのである。

サダシペ

日に伝わっている。実は、今日の男寺

した風俗集団だとして否定的な目でし

する活力となり、また力を蓄えるため

しかしながら、男寺党ノリは当時仕

は女たちだけの演戯集団で踊りと歌・

党牌も寺堂牌と一緒になってしまい本

か見られていない。﹁・・・渡り歩いて

来の構成とはかなり変わっただけでな

たずに渡り歩いた。 このほかにも流浪集団はかなり多く

きとした家庭を持って く、今ではれ つ・

綱渡りなどの芸を演じ、やはり家も持

ナムサダンベ

﹁男寺党牌﹂であ る。男寺党牌が男たち

ってし ま い 、 い ま や 男 寺 党 牌 だ け が 今

こうした浮広大を﹁流浪広大﹂とも言

だけで作られた組織とすれば、﹁寺堂牌﹂

﹁ 男寺党牌﹂ の由来

じた演芸人たちで、これを待令広大と

く家 言い、もう 一つは決まった家もな。 トゥンクワァ・〆デ 庭もないまま渡り歩いた浮広大である。 ・

4 4



男寺党ノリの再現発表公演の中のキルノリ

た り し た 。 そ し て 、 彼 ら の 綱 紀 は 一糸

ど 厳 し い も の で あ っ た 。 五O名内外の

乱 れ ず 、 む し ろ 画 一的だと言われるほ

の貴重な民衆芸であったのは改めて言 は、その起源を少なくとも三国時代以

うまでもない。この方面の研究者たち

のある狩猟・遊牧・農耕の過程を経て

韓国の民族移動の経路とも深い関係

子供たちが対象になることもあれば、

に連れてきたり、また孤児や家出した

引き渡すだけのことだが・・・)の下

父母の承諾(実際は食べさせられず、

の方法として、貧しい農家の男の子を

くるうちに、民衆趣向の流浪民衆ノリ

メンバ ー を 必 要 と す る 彼 ら は 団 員 確 保

集団が生まれるようになったのであり、

コットゥセは必ず 一名 であるが、彼

時には誘拐するケl スもあ ったという 。

たものであると見ている。

こ の 集 団 は 部 族 の 移 動 に 沿 って共に流

前か、あるいはそれよりもさらに遡っ

浪した 一つの芸 人 集 団 と し て 形 成 さ れ

コム ベ ン イ と は 男 寺 党 牌 の 隠 語 で

を補佐するコムベンイセは牌の規模に

﹁許可 ﹂という意味であり、ある 村に行

よって 二名の場合もあった。

ったとき、ノリマダンを催してもよい

るようになった後にも、それらの集団 は引き続き各地をさすらいながらプロ

という事前の承諾を取り付ける任務を

たのであろう。そして各部族が定住す

たのではないかと思われる。こうして

の 芸 人 集 団 と し て 発 展 し 続 け 、 一 九0 0年代の 初 め 頃 ま で 命 脈 を つ な い で き

る。コムベンイセが二人の場合、その

中 の 一 人 は 団 員 た ち に と って最も重要

受 け 持 っ て い る の が コムベンイセであ

な﹁食糧問題﹂を受け持つ﹁クル(彼

てきた民衆趣向のノリぺ(芸人集団) の中で、その起源が最も古く、その内

みると、男寺党牌は韓国民族が温存し

容も最も多様で充実しているのに違い

らの隠語で飯という意味)コムベンイ

男寺党ノリの芸人の中で、各ノリの

セ﹂である。 文 化 財 第 三号 に 指 定 さ れ て 以 来 、 主 に

男寺党牌は、一九六四年に重要無形

なし。

昔の男寺党牌の家族と近い親戚の後商

分野の先任者を﹁トンセ﹂というが、 ﹁ ト ンセ﹂は一四人内外で内容は次の通

・サンゴンムンニム一プンムルジャビ

りである。

(農楽隊)の親方(ウトウモリ)でケン

たちによって今日に至っている。

コ ット 一つの牌ご座)は親方を ﹁

男土寸党牌の組織

ムを取る人)を担当する人物

ガリ(鉦)の中のサンセ(全体のリズ

-ジ ンスニム 一銅鐸打ちの中の先任者

ウセ﹂と言い、その下に﹁コムベンイ

.コ ジャンス ニム一チャ ンゴ打ちの中

セ﹂、﹁トンセ﹂、﹁カヨル﹂、﹁ペツクリ﹂、 ﹁チョスンペ﹂、﹁トンジムクン﹂など、

・フェチョ ックス ニム一ナルナリクン

・ブックスニム一太鼓打ちの中の先任

の先任者

四1五O名で成り立っている。 牌の親方である﹁コットゥセ﹂は対 内外的な責任を負う人物で、彼の能力 により家族(団員をこのように表現し ていた)が集まってきたり散っていつ

4 6


(細笛吹き)の中の先任者

ずその村の農楽の旗(龍藤旗)が野原

﹁ トゥレ﹂(農楽)のある時期には必

コ ットゥセといえどもアム トンムを 一 ではためいた。そうした時期にその村 人以上独占することができなかったし、 ﹁ の 前 を 通 り か か っ た 男 寺 堂 牌 が 一 目 で

ヨントッキ

ピリたちが主に引き受けた。それに、

以 上 の も の で あ った し 、 ア ム ト ン ム は

見下ろせる峠の上などで彼らの黄色の

ピリはトンセたちの判断によって適

者の﹁ピリ﹂が補佐することになる。

令旗を振りながら、興に乗じて鳴り物

-ボ ツク ニム一小太鼓打ちの中の先任 使い走りから始まり、一つずつ芸を身

ため、全員がカップルを作ることはで

ピリの数が全体の半分に達しなかった

当だと認められる演戯にあてがわれ、 につけてカヨルになれるのだが、彼ら

・サンムドンニム一舞童の中の先任者 はカヨルになる前には女装をしていた

れは、自分の分け前のアムトンムを確

うとする時には(もちろん村長の了解

見 つ け た 村 の 人 々 が 彼 ら の 一座を招こ

を鳴らし舞童が踊り出すなどあらゆる

保するための方便でもあったであろう

って村に入ってくるように合図を送る

を得なければならない)農楽の旗を振

芸を演じてみせるのであった。それを

が、それ以上にきれいなピリの多い男

このピリの争奪戦が織烈であった。そ

の 衆 意 に よ っ て 選 ば れ る よ うになって いるが、 コ ット ゥ セ が 年 老 いて技能が

寺堂牌が人気があったので殊更そうだ

きなかったという 。 男寺堂牌の間では、

発揮できなくなるとか、過ちを犯して

ったという。

トゥレのない場合にも、やはり村で

仕組みになっていた。

ろな芸を見せ、一方ではコムベンイセ

が村に乗り込んで村長から事前の承諾

最もよく見える小高いところでいろい

を得るように努めた。もしも承諾が得

男寺堂ノリを演じたところは主に農 村や漁村、あるいは大都会であっても

六種呂の男寺堂ノリ

城壁の外側の庶民の住む村であった。

の方式で選ぶことになっているが、一 はっきりさせておかなければならな

定の任期はなかったと伝えられている。

ら れ れ ば ﹁ コ ム ベ ン イ ト ッタ (許可を

ア ツク (農楽による行進曲)を鳴らし

受けた)﹂と 叫んで 意気揚々と キルグ ン 男寺堂牌が、ある村でノリマダンを繰

つつ 全 員 が村に入 つでいくのだった 。

また、その時期は冬を除いて晩春から

り広げるためには、先ず村の村長から

。 晩秋にいたるまでであ った ムトンム(女)﹂という名称を持った男

事前に承諾を得なければならなか った 。

いのは、彼らは現在はそうではないの だが、昔は ﹁ス ッ ト ン ム ( 男 ご と ﹁ ア

一方 、 ト ン セ た ち は 彼 ら が 演 ず る 演

色組織を作っていたのは事実である。

風物(農楽)、ボナ(皿回し)、サル

プンムル

戯の規模によって必要な人数の﹁カヨ

例 外 は あ っ た が 、 ス ツト ン ム は カ ヨ ル

再現できずにいる。)

能保有者が現在いないので今のところ

ェトックニム﹂と﹁オルルンセ﹂は芸

を受けた人物を、協議を通じた多数決

はトンセの中で最も多くの人々の推薦

えられることになっている。その時に

家族たちの信任を失うようになれば代

彼らのコットゥセは完全に団員たち

のが特異な点である。

.フェト ツク ニム一先唱者の中の先任

ボナジエビの中の先任者

-ボナセ 一皿 回しなどの妙技を演ずる ・オルル ンセ一手品師の中 の先任者 .サル パンセ一 地上での軽業 師 の中の 先任者 -オルムサニ一綱渡りの中の先任者

ギ仮面踊りの中の先任者

-ト ッペギ セ一仮面踊りである卜 ッペ

ルパン

(ここで説明されている人物の中で﹁フ

操縦者

・トルミセ一人形劇・操り人形劇の主

どで呼ばれた。公演はポジャンと呼ばれる空 中舞台で行われる。人形は主に上体を動かし、 人形は木製である。(中)タルノリ、(下)サ

ル﹂を手下とし、またその下には新参

4 7

(上)コットゥガッシノりは民俗人形劇で卜ル ミあるいは朴チョム ジノりや紅ドンジ ノリな


パン(地上の軽業)、オルム(綱渡り)、 トッベギ(仮面踊り)、トルミ(人形

る。鳴り物を鳴らし農楽隊が村の大小

演じられる。 プノムル・ フシムル 風物(農楽)一男寺堂牌の風物は、 彼らが全国八道をさすらっている流浪

の道をくまなく回れば、村の人々はそ の後ろに付いて行列をなしながらキル ノリ(道で行われる軽業などの芸)が

どのために広場の真ん中に五、六枚の 広大であるため、これといった地域性 プシムル がなく、いたるところの風物の中で優 れた部分を選りすぐりながらこれを再

劇・操り人形劇)の順序で六つの芸を 演じるため、村の広場にあらかじめ綱 渡りの縄を張り、操り人形劇のテント を建て、ボナ・サルパン・トッベギな ゴザが敷かれた。 牌は村の家々に分かれて夕食を食 べ、暗くなった八時以降にノリが始ま PPD式印mCZ の 亡I

(生きていけるごになるのであり、 でなければ﹁チュクルパン(今にも死 にそうだごという意味からこのよう に名付けられたという。﹁タンチエジ

﹁サルパンとはうまく行けばサルパ

なものいくら回した って飯はおろか水 一滴出てこんわ﹂

道化役者﹁なんだと!馬鹿野郎。そん

ボナ ジ エビ﹁ど うれ、腹が減 ってきた から盤でも回してみょうか﹂

才と共に進められる 。

は、次のようなボナジエビと道化役者 がやりとりする機知に富んだ会話や漫

側 に 布 を 被 せ た ﹁ ボ ナ ﹂ と テ ジ ョブ (平鉢)、テヤ(盟)などを梅桃の木の 棒や長いキセルなどで回すこの妙技

ボナとは、チエパキ(簡の縁)の両

するなど、男寺堂ノリの性格をよく表 しているくだりと言えよう。

ちが農楽隊の旗を立てて出たり、ある いは令旗などを村の人々に持たせたり

と、ひいては村全体のためのノリであ ることを象徴するために、村の若者た

こうした風物ノリに村の人々の参加

プシムル

(旗手)﹂らを合わせれば最低三O 編成している。 メ ロディーも 多彩なだけでなく、そ- 名 以 上 の 大 規 模 な メ ン バ ー に な る た 7シム ル れらの風物が列をなして広場に描く模 め、よく修練された牌を構成するのは 昔 も 今 も き わ め て 困 難 な 仕 事 であ っ 様は、昔の兵士たちの ﹁陣形﹂か ら由 た 来したものだという。 ﹁ ケ ンガリ﹂(三名)﹁チン ﹂( 名) 一 ﹁プク﹂(三名)﹁チャンゴ﹂(一 六名) ﹁ボック ﹂(八名)﹁ナルナリ﹂( 名) ムド 〆 一 一(五 のジエビ(楽土)たちと﹁舞童﹂ ヤシパ シ

名)﹁両班広大仮面﹂(一名)﹁キジヤ

ユ﹂あるいは﹁コンドウ﹂などの軽業 もサルパンセと道化役者が漫才を交わ しながら進めるようになっている。 前 コンドゥ、後コンドゥ、稲妻 コン

4 8


うにな っている 。

ト ル ミ と 呼 ば れ て いるこの人形劇は

﹁モックトルミ(首筋)をつかんであ

ざ笑う﹂という杖頭人形の操り方を表

と恵われる。筋書きを見ると、(こ

す意 味 か ら 付 け ら れ た 名 称 で は な い か

封建的な支配階層の横暴とそれに対す

る庶民の抵抗。士二破壊僧に対する

辛練な風刺を通じての外来宗教の批

判 。 (三) 庶 民 た ち の 心 温 ま る 情 緒 と

と一 O個余りの小道具によってそれぞ

馬鹿正直な念願などが四O余りの人形

れ独立・関連した﹁ 二幕 七景﹂の劇で

組まれている。

第一景一朴チヨムジ遊覧の景

一.朴チヨムジの幕

第 二景一 ピジヨリ(乙女)の景

第三景一操り人形の景

第四景一イシミ(龍でも蛇でもない

怪物で悪練な両班を食い平らげる象

徴的な動物)の景

二.平壌監司(ピョンヤンカムサ)の幕 第一景 一鷹狩り の景

第二景一サンヨ(韓国の枢車)の景

トゥ、 ジャパンディジギ、パルコルム

技を見せ、最後には﹁打令リズム﹂に

﹁前進﹂﹁後退﹂﹁ 空 中 回 転 ﹂など の妙

リズムに合わせて綱渡りをするが、

葛藤を、賎民の側からの意識的な抵抗

刺劇で、かなりの部分が両班と賎民の

富んだ会話と身振りの部分が優勢な風

趣に迎合している。踊りよりは機知に

われている。外国からの招請公演もあ

無形文化財発表公演が毎年定例的に行

は最低 三時 間 を 要 し た 。 最 近 で は 重 要

以上の男寺党ノリ六種目を演じるに

且{凧

第 三景 一寺を建てたり壊したりする

などの妙技の後に、赤々と燃え立って

合わせて飛んだり跳ねたりしながら

の形で表している。四つの場面(四幕)

って、 比較的国内外に知られている民 俗遊戯の 一つである。芸能保有者(人

綱渡りは男寺党ノリの中でも人気の高い演目である

いる火鉢を両手で前の方に抱え、走り ながら空中タ ンブ リングする﹁サルパ

﹁緑豆将軍の行進﹂で観衆の気持ちを

で構成された順序を見ると﹁マダンシ

﹁綱渡り﹂をオルムといっていた。や

うに難しく危険なノリだということで

オルムとは、氷(オルム)滑りのよ

りはその時その時の地域民の渇望と興

他の地域の仮面踊りに比べ、意識性よ

う意味の仮面踊りを表す名称である。

トッベギとは﹁被ってみせる﹂とい

ャビ﹂(破壊僧の瑚弄)などというよ ・

(内部の矛盾との対決)﹁モツジユンジ

ャビ﹂(外勢の排斥)﹁センニムジャビ﹂

シ﹂(遊戯の広場の確保)﹁オムタルジ

仮面と人形などを作っている。

がおり、保有者候補として朴龍泰氏が

間文化財)には朴季順氏、南基燥氏ら

ノックドゥ

ン﹂で締めくくる ようになっている。

引き立てる。

はり道化役者との寝才と楽士の鳴らす

A

4 9


の仮面と仮面に現れた皮膚病 と、その奥深い価値に魅了されてしま

E州大学校医科大学皮膚科学教授

た 症 状 が ど の よ う な 意 味 を 持 っている

けでなく、仮面と直接かつ間接的に関

仮面はその仮面自体の意味を持つだ 連している生活慣習と深い関係を持っ

v

でき、また遠い昔から伝えられている

世界中どこでも簡単に接することが

のかが理解できるからである。

でも見られるものだが、皮膚病やその

し難いであろう。仮面は世界のどこに

それぞれ異なった仮面の文化を持って いるが 、 そ う し た 中 に お け る い く つ か

ている 。 地 球 上 に あ る 大 部 分 の 国 々 が

の共通点は、仮面が単なる装飾品とし

には各国ごとにあるいは村ごとに伝え られている伝統的な仮面と、中世期以

文化遺産の一つが仮面だと考えられ る 。 仮 面 の 種 類 も 多 彩 で 、 ヨ ー ロ ッパ

降、仮面舞踏会などで上流階級の人々

の タ ル 以 外 に は 見 ら れ な い と い った 特 本稿を理解するためには、まず仮面

徴がある。

て生まれてきたのではなく、どのよう

と﹁踊り﹂は決して切り離して考える

持っている点である。そのため﹁仮面﹂

る。それは中国や日本の場合、仮面踊

国々の仮面踊りと区別できる特徴があ

な理由であれ、多分に踊りと関わりを

見られる美的感覚の優れた多彩な仮面

ことができない。そしてその仮面踊り

が使っていた仮面類がある。またアフ

類は、とりわけ人々に好まれている。

が持っている社会性によって仮面の形

りのシナリオが国全体で共に使われて

リ カ 大 陸 、 特 に ア フ リ カ 中 南 部 地域で

が持っている特殊性を理解しなければ

南太平洋地域で見られる仮面、東南ア

きた史劇としての舞踊劇が大部分であ

の次に韓国のタルチユム(仮面踊り) ならない。そうすることで初めて、ど

ジア地域で見られる仮面、アメリカ大

も決ま って き た と 考 え ら れ る 。 ゆ え に ムンドンイタルではライ病の症状が描か れている。(上)

ソンニムタルでは天然痘の症状が見られ る。(右下)

りを理解しなければならない。

るのに対して、韓国では地域性が強く、

見ながら、

の仮面を

めのものもあれば、病魔を始め、村の

備えて戦士たちの勇気を掻き立てるた

仮面踊りの由来は、部族問の戦争に

地域であ ってもタルチユムが公演され

が そ れ ぞ れ 異 な っている 。 ま た 、 同 じ

地域ごとに伝えられてきたタルチユム

いるのが分かる。しかし、なによりも

るなど、ドラマに即興性が加味されて

って、台詞が少 しず つ違ってきたりす しての仮面劇があるが、この場合の仮

る村によって、あるいは時期などによ

面はドラマの演出効果のための一つの

は、やはり地域性が強いという点であ

韓国のタルチユムの最も大きな特徴

る。また、ドラマの一つの固有の形と る仮面特

手段として利用された。中国、日本、

魔物を追い払うための仮面踊りもあ

有の性格

韓国の仮面踊りはドラマに転用されて

それらが

はじめる

を研究し

持ってい

いろな形

わるいろ

また、韓国のタルチユムは周辺の

うして韓国の仮面踊りで使われている

仮面を理解するためには、先ず仮面踊

きたという特徴がある 。

仮面に皮膚病の症状が現れているのか

韓国に伝

陸における仮面、そして中園、日本、

m ﹁m日 ﹂ Zのi Z﹀の穴

についての説明が可能となり、そうし

についての 一般 的 な 知 識 が 必 要 で 、 そ

他 の病気の症状を見せる仮面は、韓国

EEIん 病 と い っ て も 容 易 に は 理 解

﹃工﹀面)。仮面に現れている皮膚

‘F・ ﹄ ' 膚 病 を 持 っ て い る タ ル ( 仮

.李 成 洛

イソンナヲ

韓; 国

5 0


﹂Zのー のX mm但 F Z﹀

ホンベクタル(右)は血管腫の

一つであるスタージーゥェバー症 候群が見られる。(上)

る。今世紀にいたるまで交通手段が今

日のようにスムーズでなかったため、

地域性が維持できたのかも知れない 。

韓国のタ ルチユムは、その地方の地

域性と共に 、韓国の生活文化の一つと

して伝えられてきた。村の住民たちが

組織した踊りのマダン(広場)で使わ

トーリーを大きな骨組みにしながら

れた台調は、昔から伝えられてきたス

を適当に加味したりしたという。

も 、 村 で そ の 一年 間 に 発 生 し た 話 題

は、村を支配していた地主階級に

特に、韓国のタルチユムや仮面劇

ための踊りのマダンでもなく、

よるものでも、あるいは地主の

F

L

村の人々が主体となって楽しんだ

行 事 で あ っ た 。 年 に 一唱団 、 村 の 住 民たちが仮面をかぶって自分の正

体を隠し、地主階級を非難したり、

からかったりする内容の仮面劇公演が

許されたのだった。すなわちタルチユ

ムのマダンを通して、村の人々は地主

たちに彼らの苦痛を直接的かつ間接的

っ た 。 タ ル チ ユ ム の マ ダ ン が 一度 終 わ

に伝え、表現することができたのであ

ってしまえば、そのマダンに参加して

いた地主と村の住民たちは、地主が設

けた酒盛りの席で共に酒を飲み交わし

た後、全てのことを忘れてしまおうと

いう意味からタルチユムに使ったタル

を踏みつけて捨てたり焼き払いなが

のである。ある社会学者は

J

韓国にタ

ら、一年間のストレスを吹き飛ばした

ルチユムがあったからこそ、長い間地

主が支配してきた農耕社会で農民が主

導した反乱の歴史がなかったのだと指

摘したが、こうした韓国のタルチユム

5 1


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・・ 圏 直 置 圃 図 書 ・ 圃 量 ・ ・ 国・ ・ ・ ・ ・

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したのだと思われる。もうちょっと医

ル﹂は広範囲に侵された白班病を表現 学的な鑑別診断から見ると白色症

さんということになる。ところが、今 日まで伝わっているこのタルチユム

ができないので白班病であるのは間違

で、この二人が使っている会話の内容

いないであろう。

の場合、青・壮年期を生き延びること

らが庶民出身であるのが分かる。すな

﹁ホンベツク(紅白)タル﹂は赤い色

ZE55) と も 考 え ら れ る が 、 白 色 症

わち、タルチユムが持ついくつかの原

を見ると、しきりに方言を使い低俗な

則の中の一つに、両班(土大夫)階級

一種の美的感覚や形而上学的な表現の

と白い色が共に使わねたタルである。

言語を駆使していて、これだけでも彼

は白色が基調になっているタルで、庶

ために赤色と白色を共に使ったものと

民とか悪役は黒色が基調になっている

れゆえ、﹁ミヤルハルミ﹂の黒いタル

は中国の仮面のように色の配合からど

考えるのも可能であるが、韓国のタル

タルで表現されたというのがある。そ

の色具合から見て、その出身は庶民で

のが特徴である。また﹁ホンベツクタ ル﹂をつぶさに観察してみると、顔の

んな意味を持つか追求しようとしない

真ん中を中心にして二つの色が塗られ

あり、西洋人によく見られるが、韓国 い点で描写しているのが分かる。従っ

人には希なそばかすを、黒いタルに白 て、夫が白い顔をしているからといっ

く塗られているのである。これは血管

るが、白色よりも赤色の方がもっと広 腫 の 一 つ で あ る ス タ1 ジlウエバ l症

ているその幅が異なっているのが分か 葉から見て庶民出身であるのは間違い

候群という特殊な先天性皮膚病を表現

て、両班出身だといえないのは、すで

ない女の夫だと言う点ではっきりと理

﹀ の 守 ︿ ﹂ZのiZ 日m日

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広m但 ﹂Z Z﹀OX

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に言及したように彼らが使っている言

解できる。そのために﹁シンハルビタ

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特 記 す

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シンハルビタルとミヤルハルミタルは「白い 顔」のおじいさんとおばあさんの仮面という 意味である(左下)、白斑症の患者(右下)

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瞳盟麺盟-圏・ E 圃瞳園圃園田園圃-圃Eヨ・庫署圃・・・・ h

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5 2


したもので、血管腫により血管が異常 に集まった部位の組織が肥大になった ものである。すなわち、特有の皮膚病 を患った村の人を描写したものと推測 ﹁チィパリタル﹂を見ると、﹁チィパリ﹂

される。 の語源が酒に酔った人、すなわち酔漢 を意味しているのが分かる。これは常 に酒に酔って村の人々の関心の対象に なっていた酔漢を舞台に登場させたの であった。﹁チィパリタル﹂ではアル コール中毒者に見られる早老現象を見 つけることができる。すなわち、額に くっきりと刻 まれた深い鍛や免疫機能 が低下して皮膚によく生じる毛嚢炎な どが、かなり象徴的に両方の頬と顎な どに見られるのである。 このほかにも﹁ソンニムタル(お客 の仮面)﹂では天然痘の症状を﹁ムン タル﹂では済癖などが見られる。先程、

ドンタル﹂ではライ病を﹁オムジユン 韓国のタルチユムの特徴の一つが地域 ンドンタル﹂を挙げることができる。

性だと言及したが、その例として﹁ム 韓半島の南部地方にある比較的暑い地 域では伝来のタルチュムの中にライ病 や北部地方では全く登場しないのであ

患者がしばしば登場するが、中部地方 る。このライ病はもう私たちの周辺で は一切見られなくなった病気ではある が、疾患疫学の資料とも一致するとい う点でも私たちの関心を引くには十分 である。このように韓国の仮面踊りに 使われた仮面から皮膚病とその特性を 見ることができるが、これは明らかに

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5 3

韓国の仮面の大きな特徴だと言えよ う 。

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チィバリタル(右)は酒に酔った人を表した もので、慢性アルコール中毒者の典型的な症 状である大きな織と炎症性腫損傷が見られる。


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れ、社会に出て自分の能力を発揮でき

の中で家事だけをする者と決めつけら

の思想が徹底していた当時、女性は家

づくのはとても難しかった。男尊女卑

この揺らぎの水は馬車や船そして手押

雪軒 の 意 識 世 界 で 支 配 的 に 作 用 す る 。

る水﹂が象徴する女性的なものは許蘭

的 な 作 用 に よ っ て 起 こ る 。特に ﹁揺れ

水と苦悩、水と純粋などのような精神

りもする。そして、日常生活の不安感

し車と同じ揺らぎの感覚で連想された から逃れようとする深く静かな水の浄

であった。そのような制約の中で許蘭 雪軒はわずか八歳の時に︿贋寒殿白玉

ないように押さえつけられていたから

棲上梁文﹀という神仙の世界を描いた らぎは許蘭雪軒が当面している封建社

化作用とも関係がある 。このような揺 会の規範の中で疎外された闇房生活の

詩を詠んだ。彼女は一五歳の時に金誠

不安感を反映している。

立と結婚したが、円満な夫婦生活では なかった。夫は家より外での遊びを楽

l

m c z の亡

しみ、姑のいじめと妬みの中で暮らし 可︾司R

弟である許諾までも流刑にされるとい

失うという痛みまで味わった。さらに

追い打ちをかけるようにお腹の子まで

た/ 神 仙 た ち は 青 い 玉 の 杖 を つ き /

破の水に潜んでいる龍の背中に乗っ

きのうの夜、夢で峯来山に登り/喝

下の鳳風は笛を吹き/月の光は静か

中 の 水 の よ う に 小 さ く 見 え る /花の

足下に遥か東海を見おろすと/盃の

絶望の中で、専ら本を読み、詩を書く

らいでいる。全ての条件が人間的なも

全文である。この詩のよラに許蘭雪軒

この詩は許蘭雪軒の感遇という詩の

に黄金の水瓶を照らしている

のと水に結びついている。水と生命、

よって許蘭雪軒の意識世界は常に揺

命を終えた。

ことにだけ専念し、二七歳という年で

芙蓉峰で私を温かく迎えてくれた/

草堂村入口にある許渇の文学碑(上) 、許蘭雪軒の詩碑(下)

う悲劇が続いて起こり、許蘭雪軒は現

た。 愛 していた息子と娘を失った後、

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実の世界に対して裏切られた気持ちと

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5 6


現実の世界の夢を仮想の世界に設定し

は朝鮮時代の女性として実現不可能な に支えてくれる自然の対象であった。

なる鏡浦湖も許蘭雪軒の世界を現実的

ていた 。 鏡 浦 湖 の 名 前 は 鏡 の よ う に 澄

はその生家の前まで鏡浦湖の水が満ち んでいるという意味である。許蘭雪軒

今は松と 山 桜 で固まれているが、当時

である。朝鮮時代の女性は社会的活動 が幼いときには大門の外に出るとすぐ

て現実の世界の挫折感や虚無感に対す

が極度に制限されており、さらに夫の にこの鏡浦湖の鏡のような波を見渡す

る悲痛を美しい夢の国で展開させたの

の死、愛する弟、許諾の投獄による挫 ことができたということは想像し難く

放蕩生活、姑のいじめ、幼い息子と娘

ない。この鏡浦湖には夜になると四つ の月が浮かぶという風流が味わえた。

せ、その中で安らぎを求めることに傾 空に浮かんでいる本当の月、そして東

折 と 虚 無 が 許 蘭 雪軒 に 神 仙 世 界 を 描 か いていった。夢を通して出口を探し、

い た の で あ る 。 許 蘭 雪軒 に は 生 涯 に お

しんでいる風流な客の盃に浮かんだ月

に映る月、そして湖の周りに座って楽

海の海に映る月、そして鏡浦湖の湖面

℃﹀ExmmCZ のと

超俗した神仙の世界との混沌状態を築

一つ 目 は 、 こ の 広 い 世 の 中 で

いて三つの﹁恨﹂があったと伝えられ よりにもよってどうして朝鮮時代に生

いる人の瞳に浮かぶ月を合わせて鏡浦

である。あるいは向かい合って座って

ている。

ま れ た の か 。二つ 目 は 、 よ り に も よ っ

渡り鳥がやって来て遊ぶとして名前が

人もいた。この湖の真ん中には各種の 付けられた鳥岩がある 。神仙の世界を

湖には全部で五つの月が浮かぶと言う

どうして金誠立の妻になったのか。こ

思い描いていた許蘭雪軒の詩文に鏡浦

てどうして女に生まれたのか。 三 つ目

れはまさに神仙の世界に耽溺すること

湖が抱いている自然の神秘が影響を与

は、数多くの男の中でよりにもよって

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えたであろうという推測は決して誇張

になった許蘭雪軒の悲痛の現実でもあ 草堂村に行こうとすると経ることに

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5 7

鮫山の丘にある殿山許渇の詩碑(上) 村の全景(下)


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老松の林にどっしりと構えている江東

照、そして月見、魚釣りの船の夜景、

ぶが、ここから見る東海の日の出と落

れる八つの景色を指して鏡浦八景と呼

う言葉がふさわしい。鏡浦台から見ら

浦台から眺めると、それこそ絶景とい

草堂村に立ちのぼるタ制の煙をこの鏡

時代になって現在の位置に移された。

という引月寺跡に建てられたが、朝鮮

あ った 人 に よ って 四 人 の 神 仙 が 遊 ん だ

暦一三 二六 年 ) 当 時 、 江 原 道 の 官 更 で

の 鏡 浦 台 は 元 来 高 麗 忠 淑 王 二二 年 ( 西

渡せる高い丘の上に鏡浦台がある 。 乙

にはならない。この鏡浦湖を一目で見

鏡浦湖(上)、鏡;荷台(下)

5 8


門、そして草堂村から立ちのぼるタ餓 の煙である 。

鏡 浦 湖 を 過 ぎ て 海 辺 の 道 路 に 治 って

O分ほど走ると遠く曲がり 北側に約 一

くねりながら見えていた五台山の山並

み が 水 平 線 に 切 れ た か と 思 う と 、 また

小さな山が見えてくる。ここに許蘭雪

軒の弟であ った渇の生 家跡がある 。

許竹均は最初のハングル小説である

﹃洪吉童伝﹄を 書 いた人物である 。韓国

の若者の中で自分の祖父の名前は知ら

な く ても洪吉 童 と い う 名 前 は 知 ってい

るというほどこの洪吉童は多くの人々

に親しまれてきた 。 丘のようなこの山

は 竜 に な れ な か った 大 蛇 と し て 知 ら れ

ている伝説上のイムギが這うように曲

がりくね った 姿 を し て い る の で 鮫 山 と

呼ばれ、これはまさに許諾の号でもあ る。 鮫 山 の 下 に 許 諾 の 生 家 で、母方の

実家である愛日堂があったらしいが、

今は丘の上に蚊山詩碑があるだけで、

のは彼の姉と変りはなかった。許竹均は

愛日堂の痕跡は見つけることができな い。 許詣 の 人 生 も 不 幸 で あ った と い う

当 代 き つての文章 家 であ ったが、 妾 が

生んだ庶子であったために、科挙試験

にも除外されるという制約のため出世

も受 け る こ と が で き ず 、 ま た 官 吏 任 用

で き な か っ た 。 し か し 、 理 想 主義者で

か つ 自 由 主 義 者 で あ った許諾は、同じ

運命を持ったソンビ(官職に就かない

学者 ) た ち と 付 き 合 い 、 彼 ら の 運 命 に

同調するようになった 。 生まれのため

に制約を受ける社会的な 差 別と、金力

で政治を引っ張っていく不条理な世の 、 中 に 対 す る 反 抗 心 が 深 ま った 許 高 は

庶子や賎民階級も平等に生きられる世

5 9


ppb 六回 m己Zの IC

の中に対する 夢 を 捨 て 去 る こ と が で き

なかった 。 このような精神的な土台は

姉 の 許 蘭 雪軒 と 大 き く 違 わ な い 。 彼が

書 いた洪吉 童 伝 ( 一六 二一 年 ) は 洪 吉

童という義賊の活動を通じて暴君であ

った 光 海 君 ( 一 五 七 五1 一六四一)の

暗い政治を呪い、不遇な庶子たちに革

正そうと激励するために書かれた小説

命精神を吹き込み、腐りきった社会を

であ った 。 し か し 、 許 渇 は 自 分 の 夢 を

叶えられず、逆賊を真似たとして逮捕

され、流刑を余儀な く された。しかし、

O 年 (一六 一八)に再び 彼は光海君 一

逆 賊 を 謀 った と す る 事 実 が 発 覚 し 、 体

全体がずたずたに引き裂かれるもの凄

い 惨 刑 を う け た の である 。 姉 で あ る 許

蘭 雪軒 が 平 凡 な 女 に な れ な か ったよう

に弟の許詣もまた平凡に生きて行く文

人にはなれなか ったのである 。 しかし、

の現実的な制約から完全に逃避して、

許 蘭 雪軒 は 昔 か ら 続 い て き た 女 性 差 別

詩 に よ って 解 放 の 自 由 を 得 た 。 そ し て

許詣の革命精神と自由の精神も彼が死

ぬことによって勝ち取ったという慰め

を持つしかない 。

韓国の昔の女性たちの中で素晴らし

い詩を書く人は珍しかった。士大夫た

ちの家の中では閤房の暮らしがとても

厳 格 で あ った た め 、 女 た ち が 詩 を 学 ぶ

のことを考えるだけで、文章は習おう

ことはできなかった 。 いわゆる、食事

ともしないというのが伝統的な女性の

考え方であった。このような中で書か

れた許蘭雪軒の詩文の数々は彼女が天

才 で あ った と い う こ と を 立 証 し 、 学 び

を轟かせた詩を書いたことを考えても、

もしなかったのに、わずか八歳で名前

6 0


許蘭雪軒の父親・許醸の家 決 し て 平 凡 な 女 性 で は な か った。 こん

私が姉を失った悲しみは彼の悲しみと

同 じ で あ り 、 彼 の 文章 を 真 似 て 悲 し み

を記す﹂と。姉と弟の互いの情理がど

れほど深かったのかを見せてくれる文 である 。

江陵の鏡浦湖を訪れる旅行客が逃し

てはならない名所がひとつある 。 それは

し行くと 二股道に出るが、右側の道の方

船橋荘である 。鏡浦台から市内の方に少

入口に広い駐車場があり、周辺に民俗飲

へ0 ・七キロほど行くと船橋荘がある 。

人住宅としては最も広い家である船橋荘

食店が軒を並べている。江原道にある個

は、もちろん昔は鏡浦湖の水と相接し

ていた 家 屋 で あ った 。 この 家 は 朝 鮮 時

代 の 上 流 階 級 で あ っ た 全 州 李 氏 一家の 豪 華 な 住 宅 で あ った。 この住宅が持つ

定の方式にとらわれず、自由な空間が

特 徴 は 一般の士大夫の家とは異なり一

築かれたところである。そして、 寒 い

地方の閉鎖性と暖かい地方の開放性が

一つの家の中に共存しているという点

である。 家 の 横 の 池 に あ る 活 来 亭 は 池

の中に四つの石柱を建てて、その上に

建物を作ったのだが、その姿が涼しく

ビの姿を十分に連想させる。四方の壁

流れる水に足を 浸 して休んでいるソ ン

た 。 ま た 、 子 供 を 二人 と も 失 い 、 胸 に 恨 を 抱 い た ま ま 死 ん で い った 。 いつも

があ った が 、 姉 の 姑 に 認 め ら れ な か っ

その周辺の自然と家一軒、そして一本

た歴史の香りが濃く埋め込まれている 。

とりにもこのような激烈で哀切に満ち

門を 全 て 開 け て お く と 、 東 屋 の 中 に 座 って い て も 自 然 と 一体 感 を 感 じ る こ と

も全て門だけで連結されていて、この

姉のことを思うと胸の痛みをどうする

の木と岩にも何百年もの歴史の苔が埋

な姉の詩文を弟の許諾はこのように言 った。﹁死んだ私の姉は情け深 く、文才

こともできない。ファン・テ・サの哀

まり、今日まで色槌せることなく私た

許蘭雪軒は昔から続いてきた女性差別の現実的な制約 から完全に逃避して、 詩 に よ っ て 解 放 の 白 由 を 得 た 。

辞を読んでみると、彼が洪氏に嫁いで

ちの目をとらえる。

が で き る 。 鏡 浦 湖 と い う 一つの湖のほ

そして彼女の弟、 許 諾 も 死 ぬ こ と に よ っ て 革 命 精 神 と

い った 妹 を 悲 し ん だ 情 が あ ま り に も 哀

白由の精神を勝ち取ったという慰めを持つしかない

切に満ち、悲しく、それから千年後に

A

6 1


世界の中の韓国人文化芸術家

文化財管理局専門委員

プラハに酸いた瞳 イムヨ ンジユ

九才の若き日に家族と別れ故

. 林永周

A

﹃iEl郷 を 去 り 、 三 四 年 ぶ り に 故 郷 一への夢を抱いて帰ってきた李 起 順 は 、 一 九 五O 年 の 朝 鮮 戦 争 の 廃 嘘 三才の初老の身で帰ってきた。生死さ

からたった一人で離れたソウルに、五 えも分からなかった私の叔母が奇跡の 如く帰ってきたのである。 十数年前、韓国は﹁離散家族捜し﹂ に国中が沸き立っていた。韓国戦争の 人公を見た。彼らのことを考えるとき、

時に失った家族を捜す多数の悲劇の主

一九 五 六 年 に 李 起 順 の 人 生

きてきたチエコの韓国人である。

への恋しさを一枚の絵に縫い込めて生

なった李起順。彼女は美しい夢と故郷

ながら、歴史の渦の中でチョコの人と

か言いようがなかった。韓国で生まれ

思わなかった数奇な人生行路を歩む運

である。この戦争は李起順に、夢にも

李起順の運命的な長き旅が始まったの

学中、朝鮮戦争が勃発し、この時から

セ、、フランス看護専 門 大 学 の 二年 生 に 在

だが、経済的に難しかった。ソウルの

る頃、自らは美術学校への進学を望ん

江豊、李樺、李可染、董希文、徐悲鴻

は大きな幸運だった。この時、斎白石、

の中央美術学院絵画科に入学できたの

た。中国に安住し、

一九 五 二年 に 北 京

故郷に帰る道は永久に失われてしまっ

そこで休戦を迎えたが、異国の地から

は仕方なく中国に渡ることになった。

国共産軍の野戦病院に送られて、彼女

かれる途中、攻撃を受けて負傷し、中

と努力して過ごした。

てながらチエコという国に適応しよう

は、家にいて家事をし、 二人 の 子 を 育

た 一 九 五 七 年 か ら 一九 六 六 年 の 十 年 間

も覚え、そこの習慣にもある程度慣れ

た。娘のレンガを生んだ頃、チエコ語

国の地に定着して、新しい人生を始め

彼 女 は 、 プ ラ ハ と い う も う 一つの異

勺孟矢印 mEZ のC

そして、

人生に多大な影響を与えた。

は新たな転換期を迎えることになる。そ

れは、李起順が北京で絵の勉強をしてい

る時、彼の 地に来て 東洋画(墨絵)を学

んでいたチェコス ロバキアの彫刻家ヤ ロ

スラブ ・ベイチエク氏と出会 い、結婚し

たことである。翌年の 一九五七年、李起

順はまだ勉強中のベイチエクをおいて、

息子のパベルを胸に抱いて北京を発ち、

プラハに向かったのだった。

タペストリーの本場チェコでの新生

ソウルからプラハまで、運命的な長

民軍看護兵として戦争に駆り出され、

命をもたらした。十九才の若き日に人

などの中国の有名な芸術たちに出会え、

活と芸術

き旅程

中国哲学を深く学ぶことができ た。李

風景、父、姉、兄、そして彼女が満十

時々ふと思い出す故郷の裏山や村の が終わりに近づいた頃、敗残兵の隊列 開城高女を卒業し、上級学校に進学す

家族に知らせる暇さえなかった。戦争

イキスン

李起順は、一九三二年に開城で生ま

李起順

れ、この地で少女時代の夢を育んだ。

季 起順の北京での生活は、彼女の芸術と

の中で野戦病院に従い、北に連れて行

私の家族の再会はまさしく奇跡だとし

6 2


ラルゴ (Largo) 1、 102X91cm、 1996年

五才になった年に他界した母の温かい

声 を 思 い 浮 か べ 、 母 国 への 想 い を か み

しめた。そんな時は、 学 生 時 代 に 好 き

李起順は、

一九 七 三年からチェ コス

でよく歌った﹁故郷の想い ﹁ 鳳仙 花 ﹂ 、 ﹂ままに歌っ ﹁岩峠 ﹂ などの歌を思いつく たりしたという 。

ロバ キ ア の 独 特 な 技 法 で 描 か れ た タ ペ

ストリl技 法 に 魅 了 さ れ 、こ の技法を

習 い お ぼ え た 。 最 初 は プ ラ ハ か ら 二六

九 キ ロ離 れ た ブ ル ノ ・スタ ジ オ に 行 っ

て 作 品 を 制 作 し た 。 乙の時、李起順の

作 品 の中 に は い つ も 幼 い 頃 の 楽 し か っ

たことや少女期に住んでいた開城の松

獄 山 の 風 景 と 故 郷 への 想 い が テl マと

な っていた。また 、 太陽、月、星、雲、

水、火、空気、土、海、 山 、 想像上の

花や鳥など、いわば宇宙自然の要素を

素材にして 美 しい状態に調和させ 、 東

洋の神秘を込めた幻想的な世界を作り

上げていた。 その東洋の神秘とは、仏

思想などの 宗 教 的 な 想 念 が 一 つ に 昇 華

教 的 思想 と 道 教 的 思 想 、 そ し て 儒 教 的

したものだ 。 そのためか、ある外国の

評論家は李起順の絵を見て、﹁この絵の

ていますね﹂と語ったという。

中 に は あ な た の 故 郷 の 色彩 が に じ み 出

彼 女 が こ れ ほ ど 懐 か し が った故郷の

地 を踏んだのは一九八四年の夏のこと

ることがで き たのだった。

で 、 長 い 努 力 の土木にやっと故国を訪れ

そ れ か ら 十 三年 の 歳 月 が 過 ぎ 、 深 い

愛 情 を 捧 げ て き た 夫 ヤ ロ スラブ ・ベイ

チエクに先立たれてから、李起順は大

きなスランプに陥り、立ち直れないほ

ど の 苦 痛 を 味 わ ったが 、 多 く の ﹁ 死 の

森﹂ からも生き抜いてきた彼女は再び

6 3


に な ら な い と 、 そ の 部 分 だ け も う 一度

ウールペインティングは製作プロセ

羊毛を加え、また機械にかけるという。

スが複雑で、いかなる芸術ジャンルよ

り作家の繊細さと忍耐心が必要とされ

る。既存の絵には見られない、いや表

現できない、人間に内在する感情を余

すことなく表現できる。濃淡に使い分

まな色の木と森の聞に流れ落ちる滝の

けられた色、線の太さと細さ、さまざ

に溶け込んでしまいそうである。また、

音など、静かな渓谷の雄大な自然の中

飛び交う鳥や岩壁は神秘的なアラベス

クのようで、これほど神秘的かつ魔術

的で繊細に表現された作品を見れば、

誰でもそこに李起順の天性の才能を感

て 神 話 、 説 話 、 寓 話 の 世 界 が 一つとな

じ取れるだろう。東洋的な幻想、そし

る李起順の芸術の世界は、精巧であり

ながら動的で、強い色彩を帯びていな

李起順の作品は、彼女がウールペイ

がら静かで強烈な材質感を持つ。

ンティングに堪能なだけでなく、乙の

技法を心から愛しており、自分自身が 芸、陶芸やガラス工芸も輝かしい発達

描きたい絵をスケッチし、その絵を適

羊毛函を製作する過程は、まず自分の

して絵を描く﹁羊毛画﹂である。この

は、常に昔の思い出が込められていて、

切に活用している。彼女の作品世界に

対する恋しさと熱情のためだと言える

このようなチエコ特有の 美術分野の

にチョークで細部までドローイングす

当な大きさの平らな毛の材質の布の上

イルの中に十分に表現している。

過去の画像を昔話のように自分のスタ

し か し 、 李 起 順 は 最 初 か ら ウl ルペ

中でも、ウール・ ペ イ ン テ ィ ン グ の 技

る。そして、布を背景に多彩な羊毛を

インティングの画家だったのではない。

法は、世界中どこを探してもない美し

ちぎるか、はさみで切り取って絵を構

エコでこれほどウール・ペインティン

い芸術である。間違われやすいタペス

パステル、水彩画を同時に使ったコン

グ作家として広く知られているのは、

ビネーションだったし、油絵も混ざっ

成し、羊毛を固定させ、特殊な機械が 七 百 本 の 針 で 作 業 し て ウl ル ・ ペ イ ン

ト リl 、 ア ー ト プ ロ テ ィ ス と い う 用 語

ティングのプロセス全体を仕上げる。

彼女の生涯が大変な苦しみと痛みを経

いだろう。これは、一般的な水彩絵の

彼女が一九五七年に結婚した後、最初 に 開 い た 個 展 は 、 ポ ス タ ー ・ カ ラl 、

チエコはヨーロッパの心臓と言われ、

具、油絵の絵の具、パステルなどの代

て い た と い う 。 そ の 後 、 一 九 六0 年 代

あるスタジオに預ける。この機械は、

またチェコの文化と芸術は、ヨーロッ

乙の時、もし自分の望んだ通りのもの

よりは、羊毛で描いた絵という意味の

パ全体につながっている。特にチエコ

わりに、いろ山ろな色の羊の毛を配置

ウ1 ル ・ ペ イ ン テ ィ ン グ と い う 方 が い

の手工芸は、大変発達していて、石工

てきたからだと思われる。

だ ろ う 。 彼 女 が ヨ ーロ ッ パ で 、 特 に チ

し伝えることにおいて、その技法を適

生きる気力を取り戻し、今はひたすら

を遂げている。

抱いている想像の世界を芸術的に表現 製作に没頭している。それは、故郷に

夜明けの渓谷 (AV a l l e ya tDawn)、99X151cm、1 . 996年

6 4


シリウス ( S i r i u s )、 80X80cm、 1994年

後半にウ ー ルペインティングを始めた のである。彼女が好んで扱う自然を素

長過程の影響であろう。自然に対する

材 と し た テl マ は 、 お そ ら く 彼 女 の 成

畏敬と愛情、そして故郷を恋しく思う

気 持 ち 、 孤 独 が テ ー マにな ったと思わ

彼女は故国で一九八四年以後、帰国

れる。

じ取ることができたのは、最初の展示

展を 三、 四 回 行 った。 そ こ で 我 々 が 感

メージを強く残し、徐々に時が経つに

会では暗いけれでも哀愁のただようイ

つれて、東洋・西洋のよい点を調和さ

せた明るい姿になってきたことだ。チ

エコが共産主義国家だったため、統 一

が実現するまでは訪ねることができな

いと思っていた故国の家族とも、今は

自由に会うことができるし、残された

人生を喜びの心と辿ってきた道のりで

自分の芸術の世界に表現して生きるこ

画家の観察力と経験により昇華され

とができるようにな ったのである。

た創造の世界で、見る者は画家の神秘

的な夢の世界に引き込まれ、われを忘

れてしまうのである。自分にとって

しまわないようにと李起順は願う。ふ

﹁ 神 秘 的 で 美 し い 故 郷 ﹂ での幼少期から 糸 ﹂ の端が切れて ずっと続いてきた ﹁

かび微風に揺れる、か細く並ぶ花の美

わりと浮かんで飛ぶ鳥、岩壁の聞に浮

しい色 、 ま っ す ぐ 立 つ 木 の 枝 と 蔦 が か らみ欝蒼とした森は、何もかも神秘を

細さと美しさを表現した画家の絵を見

帯びたアラベスクのようだ。神秘と繊

ると、叙情美があふれる女流画家の天

性の才能がその土台となっているのが

分かる。

A

6 5


-aA

lの 認 識 に は 大 き な 違 い が 生

の中を見つめる目、物事を

東は青、西は白、南は赤、北は黒、中

水は黒と認識し、方向で表す場合は、

た。木は青、火は赤、土は黄、金は白、

我々の祖先はこの五行を色で表現し

算されるべきもの、つまらないものだ

の伝統的な価値と文化、思考体系は清

たスローガンに押されて、韓国人本来

定した近代化・産業化・西欧化といっ

についての記録を失ってしまった。近

の色彩と感じはどんなものであったか

どのような色を好んで使い、その実際

しかし我々は今、自分たちの祖先が

i E r 一見つめる目によって、人間 l寸l

数千年もの問、この地に根を下ろして

じる。例えば、西洋人の思考体系全般

きた色彩の文化が完全に見捨てられ、

代 化 が 始 ま っ て わ ず か 一世紀の聞に、 実際、我々はその時流に乗って多く

全てが色とりどりの西欧的な色彩に塗

と認識されてきた。 のものを手に入れたものの、二度と取

このようにして韓国人の色彩の代名

り戻すことのできない大切なものも失

央は黄とした。 調とも言える五方色ができ、チョゴリ

に流れている世界観と東洋人のそれに

を作るときも青・赤・黄・白・黒の縞

違いがあるのと同じく、色彩について の認識にも同様のことが言える。西洋

まさに韓国人の感情と体質までも西欧

が物事を認知するのに、人間の直感と

その中の一つが韓国の優秀な色彩文

るものである。

化させてしまう文化的な従属を予告す

り替えられてしまった 。色彩の消滅は 化で あ る 。 白 衣 民 族 と い わ れ 、 普 の 祖

ソウルから約五時間半、思いを馳せ

ってしまった。

先が色彩に関して無関心だったかのよ

ながら南へ南へと走り続けると、全羅

の祖先は色を把握するのに、単に屈折

うに言う人もいるが、韓国語の中の色

模様のチョゴリが基本であった。我々

る現象だけでとらえたのではなく、よ

した光の波長によって私たちの目に映

彩を表すおびただしい形容詞を見るだ

五感に思考の出発点を求めるとすれ

り哲学的かつ宇宙的な思惟を通して把

ば、東洋は直感よりは物事の本質を見 ると言える。

抜く思考体系により重点が置かれてい

握したのである。

の奥深くまで入り込んだ水辺に筏で架

南道宝城郡筏橋邑に着く。海水が内陸

いで色を表現したのに対して、我々韓

に韓国の伝統的な音階であるクン・サ

しかし、現在の韓国人は音楽の時間

赤い色を表す表現には、﹁赤い、紅

ズムを通して発見した七色の虹の色合

それゆえ西洋人はニュートンがプリ

できる。

けでも、その優秀さを証明することが

国人の祖先は陰陽五行という思想を基

い、赤みがかった、真っ赤だ、濃い赤

設した橋があったことから﹁筏橋﹂ ( ポ ル ギ ヨ ) と 呼 ば れ る よ う に な った ン・カク・チ・ウを知らないまま、先

と い う こ の 小 さ な 街 は 、 我 々 に と って

ずドレミファソラシドを習うように、

全く見知らぬ街というわけではない。

の基本として定義した。

だ、青みがかった、青ざめた﹂

だ ﹂ 、 青 い 色 は ﹁ 青 い 、 蒼 い 、 真 っ青

に認識された青・赤・黄・白・黒を色

まま、まず七つの虹の色を先に覚える

青 ・赤・黄・白・ 黒 の 五 方 色 は 知 ら ぬ

﹃太白山脈﹄の作 家 越 廷 来 と い う 優

陰陽五行とは、宇宙や人間社会全て

れた語り手に出会ったことで、﹁筏橋﹂

の現象は陰と陽の二つの要素が調和を

うに多いということは、それだけ韓国

は韓国の現代史の激動の歴史が圧縮さ

等々・・・。色彩を表す表現がこのよ

れた巡礼地となりつつある。小説の中

のあらゆる面が西欧的な価値体系でで

民族が色彩に敏感であったことを証明

ようになっている。これは我々の教育

するものではなかろうか。

のである。昔の人々はこの五行の原理

これまで、我々の生き方や歴史を規

きているためである。

なし、生成と消滅を繰り返すというも を通じ、宇宙と人の世の様々な現象を 解釈し、吉凶禍福を占ったりした。

6 6



に登場するフンギヨ橋、ソファ、ナガ

そこには筏橋の象徴ともいえる新鮮な

数十人の女たちが露店を聞いていて、

い 日 で も 近 く の 浦 々 か ら 集 ま ってきた

らないのだ。筏橋が水辺で何とか食い

チゴク村の韓光錫氏を訪ねなければな

陸 の 方 に 入 った 山 裾 に 位 置 し た 古 邑 里

に 包 み 込 む 古 来 か ら の 色 彩 農 業 。 その

の鳴き声のような平和と純粋さを静か

色から、煙の上る夕暮れの野原の子牛

の農業である。生き生きとした青春の

のはこの世で最も輝かし く 美し い 色 彩

Z 一の 大︿︿ 02 F mm工︿OE

て い る 昔 な が ら の 村 に 根 を 下 ろし て 暮

らしている若い農民である。その気質

つ点で、ハ・デチやヨム・サングのよ

や荒 っぽい 言 葉 遣 い 、 あ る い は 口 が 立

う な 男 た ち に 決 し て 一歩 も ひ け を と ら

ない、典型的な筏橋の男、韓光錫氏。

しかし、彼は単なる農民ではない。韓

国に 一人 し か い な い 国 宝 級 の 農 民 で あ

彼 が 作 って い る も の に は 米 や 麦 も あ

る 。

ン、ユロ、チエソク山のような固有名

つないでいる庶民の村であったとすれ

るが、実際彼が汗を流して営んでいる

調や地名は、まるで私たちがかつてこ

ば、古邑は名前の通り、昔この地域を

歳月が流れ、市場の裏道にあった日

つくような荒っぽい言葉に耳を傾けて

な小説に出てくる筏橋の男たちの絡み

がら、ハ・デチやヨム・サングのよう

たその歯ごたえのある灰貝を味わいな

組廷来氏がしきりにほめたたえてい

月がたち、今では筏橋の街は賑わいを

班 の 村 で あ った と こ ろ だ 。 し か し 、 歳

咳払いが垣根を越えて聞こえてくる両

治 め る 役 所 が あ った と こ ろ で 、 両 班 の

藍色の農業である 。

中でも彼が最も情熱を注いでいるのは

った。

増し、古邑やチゴク村はひなびてしま

年の問、苦楽を共にしてきた命と同じ

深 い 海 か ら た った 今 引 き 上 げ た よ う な 鮮 や か な 色 を 彼 は ﹃我 が 民 族 が 二千

秋 空 ﹂ と い う 言葉 は 知 って い て も 、 そ

色 ﹂ と 言 う 。 し か し 、 ﹁ 藍 色 の よ う、 な

見たがったが、今度の旅行の目的地は

とにかく、韓光錫氏はこの滅びかけ

別のところにあった。 ない 、 ぐらい内 筏 橋 か ら 一里 に も な ら い

それでも全羅線の列車が止まる駅前の 風景は昔のままである。市場の立たな

建てのアパート団地ができたものの、

でくれる 。

しまい、不釣り合いに背の高い一五階

本人が造った和風の家屋も姿を消して

空間となって、優しい感情で包み込ん

の街で暮らしていたかのような追憶の

灰員がたっぷりと積まれている 。

(上から)藍の花、藍の採り入れ、そ れを瓶に入れて腐らせる

6 8


を通して、﹁胸にしみる朝鮮の色彩を

ある学古斎画廊で聞かれた伝統染色展

一九九 三年 と 今 年 の 初 め に 仁 寺 洞 に

氏と、筏橋邑ク今ア山の麓のチング

を発行し、つい最近亡くなった韓彰基

持ち、﹃根の深い木﹄と﹃泉の深い水﹄

ようだ。伝統文化に並々ならぬ愛情を

なったのは、その血筋のせいでもある

た。何かは分からないが、その分身た

の手で創り出した数々の作品であっ

ようにしてくれたのは、他ならぬ自分

あ っ た が 、 そ う し た 孤 独 に 耐え られる

がみついていることは耐え難い苦痛で

誰も分かってくれそうもない仕事にし

歳月だった。

ンでの生活は、あてもなく一涙ぐましい

朝鮮の女性なら昔は誰でも畑や川岸 再現した﹂という賛辞と共に話題の人

アン村で野生の茶を栽培し、チングア

八 二年から 一九 八 五 年 ま で の チ ン グ ア

に生えている藍の草を摘み、綿布に色 物としてスポットライトを浴びた韓氏

ン鍛器(真鍛製の器)やチングアン焼

は 、 必 ず 最 高 の 職 人 に な ってみせると

ちが呼び起こしてくれる喜びと使命感

彼が誰も見向きもしなかった韓国の

を付ける技術を持っていた。しかし、 の作業場は、チゴク村のどこにでも見

きを生産している韓相慎氏は彼の叔父

色彩を蘇らせるのに身を捧げるように

我々はその染色法どころか、藍の種さ かけられる平凡な農家だった。平凡と

にあたる 。 失 わ れ つ つ あ る 伝 統 文 化 に

いう意地のようなもので彼を鍛えてく

この筏橋の空の色が与えた贈り物だっ

えも絶滅させてしまうという残酷な歳 言うよりは、むしろ藁葺き屋根をスレ

れたと言う。

の藍色で染めたチマ・チョゴリを着て

月を過ごしてきたのだ。 ー ト に 変 え た だ け の 、 か つ て の 貧しさ

の一本気な人生があったからこそ、今

意 固地なほどの 愛 情 を 示 す 二 人 の 叔 父

一人で山奥に閉じこもり、

韓光錫氏は我々がすっかり忘れてし がそのまま染み着いているような小屋

たのかも知れない。

まっていたその藍色の大切さと美しさ だったが、彼はここで老いた両親と一

暮らした時代を覚えている人々はそれ

を現代に蘇らせてくれた主人公なので

そのまま布に移して着るということ

も出ていない畦に立ち、﹁自然の色を

てそよぐであろう。韓光錫氏はまだ芽

る。素焼きの瓶が肩を並べて置かれて

上には、様々な色の作品が干されてい

土ぼこりをあげるような庭の洗濯紐の

天気の悪い日には一陣の風が意地悪く

もなく、犬やひよこたちが遊んでいて、

グアン寺跡の谷間に小屋を建てて、茶

を作るために汗を流したりした。チン

叔父と共に昔の文化を復元する伝統村

故郷筏橋に帰ってからは、もう一人の

様々なことを学んだと言う。そして、

ら 、 身 近 に 目 利きとしての叔父に接し、

彼は 一時 ﹃ 根 の 深 い 木 ﹄ に 勤 め な が

にまとったというが、彼にとっては初

が麻や苧や木綿にこの藍色を染めて身

に十分であった。昔の大人たちは誰も

の憂いの多い胸の内を慰めてくれるの

が創り出す奥深く輝かしい世界は、彼

中 の 純 潔 な 水 色 と 言 う べきか。その色

い秋空の清らかさというか、深い海の

た藍色との出会いであった。はるか高

は、ある日偶然叔父に紹介してもらっ

ほど多くない。

ある。チゴク村の茅葺きの小屋の前に

は、思っただけでも心ときめくことで

いる瓶置き場の 一角 で 彼 が 夢 の よ う な

畑を作り、焼き物を焼いたり、伝統染

その中でも最も彼の心をとらえたの

はないでしょうか?﹂と反対に私に尋

色を再現する職人としての暮らしを始

日の韓光錫氏があるのかも知れない。

緒に暮らしている。

ねてくる。赤銅色に日焼けした彼の顔

られないほどだった。(最近、彼は音

朝鮮の色を再現したということが信じ

めて見るものであり、初めて味わう感

作業場が別に設けられているわけで

ある小さな田んぼには、今年も例年通

の向こう、遠く雁が降り立つ野原には

めたのである。

り藍が生い茂り、春風のような顔をし

海が逆立ちしたような藍色が広がって

の家を取り壊し、新しい家を建て、作

入れてかき混ぜる。重E の液に石灰を入れて かき混ぜると青く藍色がよみがえってくる

動であった。

業場を少し現代的に改良した。)

彼が二O代 後 半 の 情 熱 を 注 い だ 一 九

いた。もしかすると、彼が我々の前に m ﹁m Z︿OCZ の大三 OZ

6 9

蘇らせた藍色とは、彼が呼吸している

(上から)瓶の中で腐らせた後、取った原液 を集める。藍の原液に入れる石灰の粉は貝 殻を細かく砕いて作る。藍の原液を石灰を


J'

色に実する基礎と体系を確立した彼

ヨンサン浦で藍を試験栽培していた

は、無一文でチングァンを出た後、

を歩みたいという思いに駆られた彼

日mZ︿OCZ の15主OZ hIふ

藍 色、 が創り出す世界は、 彼 の 憂 い の 多 い 胸 の 内 を 愈 め て

く れ る の に 十 分 で あ った。 昔 の 大 人 た ち は 詐 も が 麻 や 苧

や木綿にこの藍色を染めて'身にまと ったというが、

初めて見るものであり、 、 初めて味わう感動であ と っては 、

は、一九八五年にそこを引き払い、ま

っι

たとおり、瓶に藍を寝かせ水を加えて

た世の中に出てきた。あえて、明かし

J

AE

る ィ,,、 勧訂 濃示

い ど展

ほの るそ /¥、

すと

多上

を左 数( 回品 染錫

る作 めの

その時から彼は藍色に魅了され、そ

腐らせた後、網でこし、そこに石灰を

栽培し始めた。この時期に彼は偶然、

振りかけて藍色の水は得たものの、染

藍染色の秘密はただ花の泡を立てる

の消えてしまった朝鮮の色彩を蘇らせ

に出てきたのは何よりも当時の時代的

たいという願いにとりつかれた。最初

状況から、もっと本当の生の価値を探

一層 深 い 技 術 と 職 人 精 神 が 要 求 さ れ

ことだけに止まるのではなく、より

チョン・グアンチエ氏を訪ね、彼に

さなければならないという自己反省の

頼み込んで種を手に入れ、再び藍を

結果、だったようである。

たくない家族史の好余曲折があったか

たように見えても布を水から取り出し

だけで、布には移らなかった。染まっ

彼 は そ の ま ま 一 種 の コ ミ ュl ン運動

らだと言っているが、彼が再び世の 中

く、それだけでは全体像がつかめなか

録はしたものの、断片的な知識しかな

てみると、すっと色が落ちてしまうの

である﹁ハンサルリム﹂に加わり、光

分をあざ笑うかのように水の中にある

った。その上、藍色の最も基本になる

だ っ た 。 自 然 か ら 採 取 し た 色 で 染 色、 し ようとするならば、その色の秘密を解

色することはできなかった。藍色は自

ものが藍の染色であるということが分

き明かさなければならないのだが、そ

て外出したが、にわか雨に降られて家

い て あ れ こ れ 尋 ね 歩 い た 。 二 言 三言 採

かって、その藍を探し回ったが、種す

に帰ってきたところ、体中が蒼い藍色 する者の手で生まれさせなければなら

器、チャンスン(村の守り神として村

した。染色はもちろん、素焼き、陶磁

イムとなる伝統文化の継承作業に没頭

けで藍色はインクのように染み出てし

ずなのに、にわか雨に一度降られただ

の泡の立った藍で染めた股引だったは

に染まっていたという。確かによく花

ある日、麻を藍色に染めた股引を着

ることに気づいた。

ら見つけることができなかった。産業

国文化の全般的な部分で新しいパラダ

州のソチャン農場で暮らしながら、韓

ないということだった。藍の草を腐ら

はずれに立っている男女一対の木像)、

その秘法はつまり、藍色は藍染めを

の秘法が分からなかったのである。

そうしているうちに、韓国日報の論

の殻を焼いて作った石灰を撒き、熊手

せ抽出した色素に灰貝やカキなどの貝

し伝統染色を勧めてくれた。当時、叔

る。この時、白かった泡が蒼いナス紺

でよくかき混ぜて花のように泡立たせ

することに全力を傾けた。

が こ も っ て い る 文 化遺 産 を 再 現 、 普 及

らせることのできる我々の祖先の精神

緑茶、柿葉茶、扇など、生活の中に蘇

子供の頃、そばで見ていただけの人た

ちる理由を尋ねてみたが、ほとんどが

た 。

の種を探し出してきて、彼の叔父に渡 父たちと一緒に伝統染色を蘇らせよう

いう合図となり、こうして生まれた藍

に変わって初めて、藍色が生まれたと

の過程を正確に覚えていたり、染色の

ちばかりで、仮に経験者であってもそ

原理を十分に把握している人はいなか

この時期は、藍の染色に関しても、 時期だった。徹底した自分だけの道

彼にとっては自己燃焼と自己研舗の

村のお婆さんたちを訪ねて藍色が落

いた彼は、高齢のお婆さんたちを訪ね

やく分かったのである。

色だけが染料として使えることがよう チングァン時代、藍をはじめ自然染

回 っ て 、 染 色 す る 方 法 を 一 つ 一つ学ん しかし、藍を収穫しお年寄りに聞い

でいった。

という仕事に意気投合して取り組んで

まったのだ。

説委員だった丙庸海氏がどこからか藍

統染料の藍はすでに絶えた状態であっ

化した文明の影がこの地に上陸し、伝

は村のおばさんたちに昔の染色法につ

郡出蹴

イ 皮

7 0


どの試行錯誤の末に自ら体得するしか

った。彼はその秘密を数えきれないほ 必要だったのかという問いに、彼は

それが分かるまでにどれほどの時間が してもらったものではなく、一人の若

は あ る 人 間 文 化 財 か ら 一瞬に し て 伝 授

を、まだ熟していない柿や栗の渋皮に

皮では黄土の丘のような穏やかな朱色

紅花で椿のような茜色から桃のような

彩は、藍色だけでなく実に様々である。

により本来の姿を取り戻した我々の色

彼の苦労をいとわぬチャレンジ精神

り、夢のような美しさを現す。

りて華やかでほのぼのとした色彩とな

るありふれた全ての材料が彼の手を借

山ツツジ、葦など、韓国の山や川にあ

も鶏頭、桃、シヤジクソウ、ハントキ 、

者の情熱と汗によって蘇ったものであ キビや豆を混ぜれば枯れ葉のような柔 り、その意味で貴重なものだと壬一 守える 。一 らかくのどかな秋の色を・ ・ ・ 。 他に

﹁なかなか﹂と少し笑つで見せたが、

一九 九O年 の 初 め 、 ハ ン サ ル リ ム 運

淡いピンクまで、自然の色彩なら出せ

その笑顔の中には苦労の連続だったこ

動が挫折すると同時に結婚した彼は、

ないものはない。クチナシの実とウコ

その秘密とは、第一に色の筋が立た

なか った

チゴク村に定着し、本格的な染色作業

の十年間の歳月の歩みが重なって見え

に取り組み始めた。そして、ある日突

彩で、これから韓民族の生活像を復元

た 。

彼はハンサルリム時代にこのように

ンやタツタソウは黄色の混じったもの

し、世界の桧舞台に紹介してい く 計画

なければならないということ、第二に

藍と染色の関係を一つ一つ体得した 然、その輝かしい色の祝宴を我々の前

を、芝草は胸の深いところまで染み通

を持っているという。

藍の性質を正確に把握するというこ

後、自然染色に対する確固たる自信を に繰り広げ始め、伝統染色の大切さを

る紫色を、春に水分を吸い上げた松の

するかということだった。

と、第三に染色した後の後始末をどう

持つようになり、これが自分の道だと 我々に呼び覚ましてくれた。この技術

Fmm0 120 ﹂0

A

彼は自然から取り出した神秘的な色

いう人生の目標を立てることになる。 日m0 司 ﹂ 0・ O

7 1


不在の自我を求めて文章を書く

、、は韓国人でも日本人でもな

‘引吋 F砕い。今年、芥川賞 を受賞 した 411 川川韓国系在日同胞作家柳美里は

自 分 自 身 を 指 し て 韓 国 と 日 本 の﹁問﹂ に 挟 ま れ て い る 存 在 だ と 言 って き た 。 そして彼女自身は見えない存在でその

の Z︾ 主 ︿CZ I

O 的 犬

-朴 海 鉱

朝鮮 日報 文 化 部 記 者

設 雑 な 韓 日 関 係 に よ っ て柳美里の、又学は

二重 の 世 界 で 構 成 さ れ て い る 。 し か し そ

れらは彼女の、又学の中でうまく 、 調和して

、‘ 。 彼 女 の 内 面 の 自 我 と 世 界 は 互 い 、 ‘ L 六d L

に交ざり合わなく常に敵対的である 。

国人でも日本人でもない ﹂ という彼女の

その歴史に対する記憶・痕跡とは何の

文学の肉体は韓国人共通の歴史体験や

る と き 罵 り 合 う 言 葉 で あ った。 柳 美 里

は別れた両親が彼女が幼い頃、喧嘩す

す ぐ 韓 国 の マ ス コ ミ で 文 化 面のトップ

に も 広 ま った。 彼 女 の 受賞 の知らせば

女 の 名 前 は すぐ 韓 国 の 一 般 の 読 者 の 聞

目 の 芥 川賞 が 柳 美 里 に 回 っ て く る と 彼

李 良 枝 に 続 い て 在 日 韓 国 人 と し て 三人

韓国人作家というタイトルが付いて回 った。こんな状況のもとで作家李恢成、

うに大騒ぎしているのではないかとい

作家がノ ー ベル賞でも受賞したかのよ

権 威 が あ る と 言っ て も 、 ま る で 韓 国 の

指 摘 も 出 て き て い る 。 芥 川賞 がいくら

主義の産物ではないかという 批判的な

ミの熱狂的な報道が日本に対する事大

一方 韓 国 で は 柳 美 里 に 対 す る マ ス コ

麗なスポ ット ライトによるものである 。

ー ム は そ の よ う な ジ ャー ナ リ ズ ム の 華

に あ る 。 圏 内 で 起 き た 柳 美 里 シ ンド ロ

ある。彼女の思春期時代の受難は在日

そ れ 故 に 何 度 か 自 殺 を は か った こ と も

韓国人という理由で同級生に苛められ、

情 が 指 摘 で き る 。 柳 美 里 は 中 学 の時、

韓日両国の現代史に因る微妙な民族感

っと多く入り込んでいると思う 。 まず

は文 学 的 判 断 よ り は 文 学 外 的 要 因 が も

国の マス コミが 見 せ た 柳 美 里 の 報 道 に

文学賞にすぎないというのである 。韓

賞 は長い伝統があるにしても、新人の

に語 っているとい う指 摘 も あ る 。 芥 川

自 我 と 世 界 の 不 一致 を 意 味 す る

にもかかわらず韓国人たちは柳美里

関係もない。

ニュースとして扱われた 。 韓国のマス

女の記憶の中にある韓国語と言えば今

すかな記憶の向こうにあるだけだ。彼

い 。 彼 女 の 存 在 は 芥川賞 受 賞 以前から

を 単 純 に 日 本 人 作家 と し て 考 え て い な

手 章

よ う な 原 型 的 生 き 方 の 条 件 が 作 家 の立 場で見ると幸いなことだと 言っ た。 しかし、作家柳美里は明らかに日本 文 学 の 作 家 で あ り 、 新 人 文 学 賞 の中で 一番 大 き な 権 威 を 誇 る 芥 川賞 ま で も ら い、作家的立地を固めた。彼女の文学 の言語は日本語であり、韓国は両親の

E ・~

韓 国 人 が 日本 で 経 験 す る 民 族 差 別 の 象

うのである。また今 まだ二十代の若い

柳 美里

作家でしかない柳美里の文学を大袈裟

・・ ...・!:

コミは外国で活躍している韓国系人物

~ 町 二

が 得 た 成 功 を 常 に 大 き く・ 取り扱う傾向

ト ー= I ・

壇と演 戯 曲 ﹃ 魚 の 祭 ﹄ な ど で 韓 国 の 文・

国 で あ る に す ぎ ず 、韓 国 語 は 彼 女 の か

‘~--圃・

劇界の 専 門 家 の 間 で は 広 く 知 ら れ て い た。 柳 美 里 の 名 前 の 前 に は い つ も 在 日

U~

7 2


徴的な意味を持っている。柳美里は両 いう名前をつけたのはフランスの︿

たという記事は韓国だけでなく西欧社 の脅迫は当然韓国人たちを不快にした。

ここにある。柳美里に対する日本右翼

できないと言っても、韓国人作家とし

韓国人たちは彼女が韓国語が少しも

入れようとするのは、韓国人特有の情

会にも伝わった。﹁日本のルシディ﹂と

のである。柳美里自身は﹁私の小説の

別を乗り越えて自分の文学的才能が認 ル ・ モ ン ド ﹀ で あ っ た 。 日本の右翼の

親の離婚だけでなく日本での韓国人差

論理は単純である。柳美里が韓国人だ

て 受 け 入 れ よ う と し て い る 。 韓 国の読 日本の右翼 は 柳 美 里 の 小 説 に は 日 本 人が馬鹿のように書かれているという 日 者たちが彼女を韓国人作家として迎え

められ、成功した在日韓国人の範轄に

ンティティ ー を 確 認 さ せ 、 韓 国 人 た ち

入る。韓国人は作家柳美里ではなく、

に 反 発 心 理 を 引 き 起 こ さ せ 、 彼女 を 後

の文化によるものである。また日本の

美里は今年の三月に韓国を訪問した。

右翼のテロ脅迫が彼女の民族的アイデ

金浦空港に到着した彼女は﹁日本では

ることもできる。

押しするように仕立てたのだと解釈す

ほしい﹂と言った。その事件の後、柳

いつも独りぽっちだという想いで暮ら

どこにそんな部分があるのか指摘して

人に対する迫害が激しくなる中で、ヨ

知っている。この頃ヨーロッパで外国

してきたのに、このように故国に歓迎

のマスコミも日本の外国人差別をよく

このように韓国人たちが柳美里を一 ーロッパの知識人たちは人種差別を非

こ の よ う な 韓 日 関 係 に よ って 柳 美里

から嫌いだというのである。フランス

人 の 同 胞 と し て 抱 き か か え る 背 景論 理 難している。柳美里に対する右翼テロ

文学は二重の世界で構成されている。

日本社会で立場を固めた在日韓国人柳

を提供するのは常に日本社会の民族差

本でできなかった読者サイ

され戸惑っている﹂と言いながら﹁日

美里にまず注目しているのである。

別意識である。柳美里の読者サイン会 が日本の外でも注目の的になった訳も

その 二重の 世 界 は そ れ ぞ れ 韓 国 と 日 本

自我と世界は互いに交ざり合わなくて

であるが、重要な事実はそれらが彼女

常に敵対的である。まず﹁韓国人でも

ン会がソウルででさること

い。先にも書いたように、

日本人でもない﹂という彼女の宣言は、

になり複雑な心境です﹂と

彼女の文学は日本文学であ

自我と世界の不一致を意味する。彼女

の文学の中でうまく調和していないと

る。それにもかかわらず彼

は自分自身を位置付ける現実的社会を

ころにある。また彼女の内面のなかで

女 は 韓 国 を 故 国 だ と 言う。

失っている状態である。彼女は民族的

にも韓国文学の要素はな

ところが彼女の文学を認め

語った。彼女の文学のどこ

賞 を与えた人たちは日本人

共同体や近代的国民国家の枠の中に閉

きていくことを熱望している。そんな

じこめられず、純粋に一個人として生

彼女にとって家族とはその出生の根源

であり、彼女には日本人の 彼女の芥川賞受賞作

ではあるが、生きることの土台になら

読者も多い。 ﹁家族シネマ﹂は八万部以

ない無意味な空間である。

彼女の小説は壊れた自分の家族の話

いる。もちろん、この小

を扱っている。賭博に明け暮れる父親、

上印刷されたと言われて

ル訪問をきっかけにベス

説の韓国版も彼女のソウ

ほ か の 男 と 所 帯 を 持 った 母 親 、 ポ ル ノ

ウス﹂に登場するこのような家族構成

女優になった妹・・・、小説﹁フルハ

などは柳美里の小説によく登場する実

ってきた。彼女は自ら ﹁韓国人でも日本人でもな

トセラー順位の上位に入

い﹂というが。彼女は明

際の環境である。

芥川賞受賞作﹁家族シネマ﹂には母

らかに日本人でありなが ら韓国人でもある。

7 3

が右翼テロの脅迫のために取り消され

町、~~宍、ヘ'

‘ 、 ・ { 、 、 , ト ー 合 a

. ー .

ミ~,.:-品・


な った 家 庭 を 一編 の ド キ ュ メ ン タ リ ー 敬淑氏の言葉に共感します。もしも私

知りたくて始める作業であると言う申

社会で暮らそうと思えば日本の文字を

上の学習を試みなかったのです。日本

を見たことはありますが、ハメはそれ以

あ、ぃ、ぅ、ぇ、おを練習しているの

いう。まだ彼女の歳では結婚は急ぐ問

柳美里は当分結婚する考えはないと

で、私の手で壊されたワープロが全部

れていくような気がするのです。今ま

が、機械で文章を書いていると何か壊

映画で撮るという奇妙な話が展開する。 が﹃女﹄、﹃韓国人﹄あるいは﹃日本人﹄

覚 え る の は 当 然 で す 。 と ころが父の気

いる時、私の日本語の教科書を出して

こ の小説の中の 家 族 た ち は ま る で 集 団 という範瞬に入れれば、私自身も楽で

持ちの片隅には日本の社会に同化され

くしたてた。﹁小説とは即ち自分自身を

でサイコドラマに出演するが如く映画 し求める潜水夫と同じなのです。﹂

す。しかし作家は自分の深い意味を探

親までが加わってこの散々バラバラに

の中の与えられた配役に忠実である。

りしながら家族の本当の意味は何なの

撮影現場で現実との聞を行ったり来た

ある。小説の話者﹁私﹂はその映画の

反応も示さないということである。特

が驚くことには彼女の家族たちは何の

家族のことを土台にしている。ところ

柳 美 里 の 小 説 は 先 で も 述 べたように

の韓国人は韓半島から日本列島に渡っ

盲としておいたように思えます。多く

たくない抵抗感があり、自分自身を文

ではと疑いたくもなるが、彼女は失っ

もしかしてレスビアン的気質があるの

て彼女は幼い少女が好きだと言った。

婚できない﹂と強く言い切った。そし

にもどのような約束もできないので結

で七台にもなります。﹂

この配役は即ち彼らの実際の運命でも

題ではないせいもあるが、彼女は﹁誰

か、家族の一個人に与える意味はまた

てくる長いトンネルを通過した後は、

る気持ちで、ただ幼い少女が好きだと

てしま った 自 分 自 身 の 片 方 を 捜 し 求 め

自分たちの過去を土に埋めてしまうと

Z﹀ 豆 ︿一 CZC出O 大

に彼女の父親は日本で三十年余りも暮

何なのかという質問を無味乾燥な文体 で投げかけている。柳美里の文体は華 やかな飾りはない。聞達な軽快さが小 説全体を支配している。

った。世の 中 に 向 か って堂々と自分を

せてくれた活発さは少女そのものであ

言ったのである。彼女が私的な席で見

投げ出すこと。とてつもない実存主義

ありふれた自殺未遂で女子校から退 したが失語症のために戯曲作家に方向 転換した柳美里の個人の歴史は残酷な ノJ7

広大(韓国の曲芸師)のようにぐらぐ

クワ γ

苦痛の連続であった。彼女は綱の上の らした土台の上で成長期を過ごし、彼 女の小説を支配する簡潔な文体の力は ものである。

彼女特有の強靭な生存力から養われた

じ た ま ま 、 世 の 中 に 向 か って 自 分 自 身

である。

を押し出す行動が柳美里文学の原動力

彼女の少女のような感傷は白黒二種

類 の 色 だ け で 構 成 さ れ た 本 の 中 で 私た

の実際の姿は閲達であった。韓国の若

つて は い る が 、 ソ ウ ル を 訪 問 し た 彼 女

ある。

説についてよく分からないというので

字が読めない文盲であるため、娘の小

らしてきたにもかかわらず、日本の文

迎え、世界の大多数の作家たちが機械

愛用するという。コンピュータ時代を

柳美里は文を 書くとき主に万年筆を

言います。父もそんな韓国人なのです。﹂

すること﹂であると強調した。

いながら﹁本はそれによって永く存在

取りその香を嘆ぐことができる﹂とい

中で私たちはさまざまな色の花を感じ

ちに多彩な色を感じさせる。彼女は ﹁ 黒い活字と白い紙だけで創られた本の

い作家を代表する小説家申敬淑と会い一 した言葉遣いで申敬淑文学に対する読

かしたことがありません。たぶん今年

﹁私の父は一度も私に本当の年を明

﹁ 万 年筆で文章を書くとぽたぽた落

のように咲くのか、彼女が歩くたびに

にいる。彼女が行く道に華麗な花がど

万年筆十で非可視的多彩色をつける道程

柳美 里 は そ ん な 意 味 で 画 家 が カ ン バ

後感をはっきりと語った。申敬淑の小

六十五才か六十六才になると思います。

ちるインクがちょうど私の血のように

どんな花が咲き出すのかはまだ分から

スに色を塗るが如く彼女自身の言語に

説﹁オルガンのあった場所﹂﹁バドミン

ているという実感があるのです。時々

感じられます。自分自身が文章を書い

い時代的な道具に執着する。

トンを打つ女﹂が日本語で翻訳されて

パチンコ屋で力仕事をしていた父にと って は 日 本 語 は 話 せ さ え す れ ば 十 分 で

いて韓国へ来る飛行機のなかでその二

した。父は日本語で文を書くことがな

冊を耽読したというのである。彼女は

かったからです。私が小学校に通って

ない。

申 敬 淑 と 会 っ た 席 で自 分 の 文 学 論 を ま

ワープロで文章を書くときもあります

で文を書く時代であるが、柳美里は古

彼女は軽快でありながらも理論整然と

思 春 期 の 時 、 失 語 症 に か か ったと言

的なものではな く、自らの体全体で感

学させられた後、演劇俳優になろうと 柳美里

7 4


の香りが漂い始めると、コガネムシや

ぃ。ナラガシワやクヌギの木からヤニ 類であっても春の蝶に比べて大きく華

期に大量の餌を摂取するため、同じ種

た、野山では甲虫類、バッ夕、ハナア

たちが夏の夜を美しく彩っていく。ま

ほのかな光を点滅させながら、ホタル

、 自 然 が ま す ま す 緑 を 深 め、夜 麗な姿をしている。

A

﹃ 告 ハ よ り 昼 の ほ うが長い夏にはこ カミキリムシ、クワガタムシなどが頭

ブ 、 シ リ ア ケ ム シ 、 蛾 な ど の群れがそ

を木仁ぶつけるようにして四方八方か

ちの活動が活発になる。生態系の中で

いる温帯 地方では、 夏 は と く に 昆 虫た

t

一 ノ れ ま で あまり目に付かなかっ

梅雨があけて蒸し暑くなってくると、

た多くの見虫たちが、装いも新たにあ

かし、こうしたセミたちも年を追うご

韓国のように四季がはっきりとして

れぞれ姿を現す。

とにその種類と数がだんだん減ってき

の木と思う存分のど自慢を始める。し

さまざまな種類のセミたちがあの木こ

り、その色彩の鮮やかさや 羽根の大き

森や野原では蝶の数も一段と多くな

ら集まってくる。

さは、春の蝶の及ぶところではない。

らりとしたトンボが軽やかに飛び交い、

ちらこちらに姿を現すようになる。す

リ スや馬追虫やスズムシなどが、回国

7 5

森の人目のつかないところではキリギ

暑さを忘れさせてくれるミンミンゼミ

餌が最も豊富な時期であり、自分の姿

過な季節だからである

ているのは残念なことだ。夜になると

豊富な時期であり、

自分の姿を隠したり保護する上でも最

普通、夏に成虫となる蝶は、毛虫の時

くに昆虫たちの活動が活発になる 。 生態系の中で餌が最も

交 響 楽 の 季 節 に 備 え て そ の 準 備 に 忙し

韓国のように四季がはっきりとしている地域では、


ば し 夏 の 休 眠 に 入 ったりする 。成虫と

ある種の昆虫たちは、暑さを避けてし

だからだ。しかし、ヤマキチョウなど、

クワガタムシに負けず劣らずの見た

の中にあり、幼虫もここで繁殖する 。

いる。住みかも主にナラガシワのほら

のヤニをなめて暮らすことで満足して

関 し て は 驚く ほど 質 素 で 、 ナ ラ ガ シ ワ

ろしい武器とは対照的に食べることに

きる 。 し か し 、 そ の 大 き な 体 つ き や 恐

相手にかなりの傷を負わせることがで

う と き に は 武 器 と な り 、 そ の 一突きで

クワガタムシのように引っ込めたりす

全体として 一つの固まりにな っていて、

がある。彼らの角状のおおきな顎は、

マダラコガネムシなどめコガネムシ類

は、ツノコガネムシ、オオコガネムシ、

木のヤニによく集まってくる虫として

って 棲 息 す る 木 の 種 類 が 違 う 。 ま た 、

木に与える被害は甚大だが、種類によ

が木の幹の中で幼虫時代を過ごすため、

である。カミキリムシはすべての種類

虫が目の前に現れたかと思うとまたす ぐ飛んでい ってしま って、ず っと向こ

いろいろな色できれいにおめかしした

田舎の寂しげな小道を歩いていると、

素敵な巣を作り、その中で幼虫を育て る。

す る オ ト シブ ミ の 巣 で あ る 。 彼 ら は 栗 の 木 や ナ ラ ガ シ ワ の 木 の 葉 を 切 って 、

る。これは、実はコクゾウムシ類に属

のが落ちているのを目にすることがあ

いてまるでパイプのような形をしたも

木 の 中 に 穴 を 掘 って い く の は お 手 の 物 〆 まに木の 葉 の 端 が く る く る と 巻 か れ て

森の中をぶらぶら歩いていると、た

して長期間活動しなければならない見 虫たちにと って 、 暑 い 季 節 の エ ネ ル ギ

目の良いのがカミキリムシだ。まず、

ることはできず雄の立派な角は象徴的

ているその角のような顎は大変堅く、

ー消 費 は 何 に も ま し て 避 け た い も の で

その長くて威厳のあるすらっとした触

て、クワガタムシの角は 実 際に敵と戦

夏 の 森 は 植 物 が 欝蒼 と 生 い 茂 ってい 覚は、昔の将軍たちの長い髭のようだ 。

うの方に止まっていることがある 。彼

を隠したり保護する上でも最適な季節

て、昆虫たちが棲むには最高の楽園、だ。

なものに過ぎない。

森にすむ昆虫たち

ルチョンのオオホタル(上) 天然記念物第218号に指定されているウスリ オオカミキリムシ(左)

ある。

蝶や虫たちが大好きな香り高い花が至 そして、大きくはないががっちりとし

けて立っている怪異な姿の虫を見つけ

葉の聞をよく観察すると、尻を上に向

細い枝や木陰をなしている森の木の

るという独特の習性を持 っている。

の中に動物の死体を埋めて幼虫を育て

シ デ ム シ と い う こ の 虫 は 土 を 掘 ってそ

たちがうようよしているのが見える。

こうした死体をよく見ると、小さな虫

山中にはときどき鳥や動物の死体が そ の ま ま 横 た わ っていることがある。

しまう。

のを待ちかまえていて捕まえて食べて

ながら、他の虫がその中に落ちてくる

幼虫は土に穴を掘ってその中で棲息し

捕らえて食べてしまうし、特に彼らの

いとみればどんな虫でも見つけしだい

常に荒っぽい性格の虫だ。自分より弱

に道案内してくれたりするが、実は非

う。彼らは人聞にはこんなふうに親切

ミチオシエ(和名ハンミョウ)ともい

うに見えるところから、その名を俗に

先 に 立 って 道 案 内 を し て く れ て い る よ

らは人の歩いていくのにつきまと って 、

る所に咲いていて、コガネムシやカミ キリムシ、クワガタムシが好む木のヤ こもこの時期になると十分に流れ出す。 また、日陰を好むウラナミジヤノメや ヒカゲチョウの群れやシリアゲムシな どは、当然のことながら木陰を求めて 甲虫類の中でも最も威風堂々として

森の中に群をなして集ま ってくる。 いるのは多分クワガタムシだろう 。 甲 は堅く、平べったい姿をしており、雄 の頭には顎の変形したノコギリ型の長 い角があり、角の内側には鋭い突起が ある。角が単なる飾りに過ぎないオオ コガ ネ ム シ や ツ ノ コ ガ ネ ム シ と は 違 つ のzO Z﹀主宮Z

天然記念物第312号に指定されている茂州ソ

7 6


ることができる。それらはその姿どお

り﹁シリアゲムシ﹂と呼ばれているが、

その動きは大変柔軟ながらゆっくりと

てはいくらでもいたが、今ではあまり

している。このシリアゲムシ類はかつ

変態をする見虫としては、現存する最

見 か け ら れ な く な っ て し ま った 。 完 全

古の種属と考えられているこの見虫は、

原始的な性質を多く残している。

このように、森の中にはさまざまな

昆虫たちが生息しているのだが、ここ

に挙げられた種類の他にも数多くの種

類の蝶や蛾、蜂、ハエ、甲虫類がそれ

ぞれの営みを繰り広げている。

野原の昆虫たち

野原でいちばん目に付くのは何と言

ってもひらひらと舞い踊っている蝶々

たちだ。大根畑や白菜畑ではモンシロ

チョウやキチョウが群舞を舞っている

し 、 春 に 出 て き た 時 に 比 べ て ほ ぼ 二倍

ほどの大きさになったアゲハチョウは

あちこちの花の蜜を求めてひらひらと

草むらの生い茂っている野原や雑草

忙し く飛び回っている。

が生い茂る渓谷を歩き回ってみると草

陰で鳴いているキリギリスを見つける

一匹が鳴き出すともう一

ことができる。彼らはみんな素晴らし

い演奏家で、

アブラムシがたくさん集まっている

匹が少し後から続けて鳴き出す。

をしたテントウムシたちが群れをなし

若葉や茅の蔓などには丸いひさごの形

て暮らしているのをよく見かける。そ

れらの模様は実にさまざまで、赤地に

い斑点のあるものなど、とにかくいろ

黒の水玉模様のもの ハ または黒地に赤

7 7


いろだ。テントウムシの幼虫は休にと

に 飛 び 回 っ て い る ト ン ボ だ 。 トンボの 仔ソつ 。

夫な巣を上手に作ることで知られてい る。

河辺に垂れ下がっている木の枝や草

川や池のような水辺でみられ、夜行性

しはしっかりとして見える。成虫は河

みな幼虫時代だけ水中で暮らし、成虫

が 一段 と 活 気 を 帯 び て 見 え る 。 彼 ら は

動き回っているおかげで、水上の風景

シがあるが、彼らが水面でちょこまか

い る 群 れ と し て は ア メ ー バとミズスマ

幼虫はどれも水中で暮らしているため、

野原の見虫の中で忘れてはならない 薮には、大きさはさほどでもないが数

の種類は昼間は岩の隙聞や生い茂った

げがたくさんあって、醜い姿をしてい

のがカマキリだろう。彼らは乱暴なこ 多 く の カ ゲ ロウたち がその短い 一生を

森の中に隠れている。

飛ぶこともできずに水の上に浮いて

とこの上なく、小さな見虫を手当たり 嘆くかのようにゆらゆらと揺れている。

水辺を飛び回っている見虫としては、

るが、この幼虫も成虫と同じようにア

次第に捕まえて食べてしまう。前足の 体つきは筆者で、その羽根もはかなく

もう一つ、ムラサキトビケラをあげる

天然記念物のホタルとウスリオオカ

カ ゲ ロ ウ と 似 た よ う な 習 性 を 持 って' いるのがカワゲラだ。この見虫は、カ

先にあるノコギリの歯のような形をし の長い毛のような尾を垂らしたまま、

見えるカゲロウが、腹の先に二、三本

ことができる。彼らの姿は蛾に似てい

ゲロウよりは多少大きく、体つきも少

た鎌と、よく発達したその口は狩りの

るが、幼虫とさなぎの時期を水中で過

蒸し暑い真っ暗な夏の夜、有難迷惑

池 や 沼 、 あ る い は 河 辺 がトンボたちの

道具としてじっにお挑え向きにできて 群れをなして飛んでいる。カゲロウの

ごす。そして大部分の種類は体と羽根 に毛が生えているが、鱗粉はない 。 特

故郷というわけだ。

いる。時として彼らは交尾の最中に雌 成 虫 は 種 類 に よ って 、 僅 か 数 時 間 か ら

ブラ虫などを餌にしている。

が雄を食べてしまうことすらあるのだ

二、 三 日 の 生 命 し か な く 、 普 通 成 虫 と

では茂州郡ソルチョン面のホタルの生

なくなってしまった。そのため、最近

今では公害が蔓延して普通では見られ

昔懐かしいこうし足ホタルの光も、

応える信号を出す。之うして結局は雄 が雌の光に引かれて番となる。

雄 と 雌 が おE い に 近 づ く と 雌 も こ れ に

聞 に 約 三1 五秒の間隔で発光するが、

っている。雄は地上を飛び回っている

うに、ホタルの光も生殖的な意味を持

発光する大部分の昆虫たちと同じよ

この発光部分だけは黄白色をしている。

節から光を出す。体は大部分が黒だが

はお腹の一番後から二番目と三番目の

希に卵も発光することがある。ホタル

く、幼虫やさなぎの時にも光を出し、

ホタルは成虫だけが光を出すのではな

光には熱がなく冷光と言われている。

ることができる 。 ホ タ ル が 出 し て い る

を灯しながら飛び回るホタルの姿を見

かせていると、時としてお尻に明かり

先で焚きながらあれこれと話の花を咲

ミキリ

生活する。

になると水の中から出てきて水面上で

が、こうした彼らを指して西洋では

な客である蚊を追い払う蚊取線香を庭

いミヤマシロチョウ(左)

﹁祈祷するムシ﹂と呼ぶのだから、東洋

ャンスカブトムシ(上)

に、ムラサキトビゲラの幼虫は大変丈

韓半島の南部地域ではめったに見られな

なったその日に交尾をしてすぐ産卵を

と西洋とではずいぶん感覚が違うもの だと思う。 実際には野原にも森の中に負けない くらい数多くの種類の見虫たちが生息 しているのだが、耕作地となった所に は特定の植物だけが植えられ、また大 量の農薬がまかれるために多くの昆虫 たちにとっては棲みにくい環境になっ た 。 河辺の昆虫たち 池や河辺に 棲む水棲昆虫たちの中で O 工

最もよく見かけるのが、水辺で軽やか pzφ

豆 Z︾

義国でだんだん見られなくなっているチ

7 8


息地を天然記念物ゴ 二二 号に指定して、

保 護 管 理 し て い る 。 この地域は幼虫の

時期に水中でミヤイリガイを餌とする

エパンデイツプル(初夏に繁殖するホ

タル)と幼虫の時期を陸上ですごし、

パンディップル(晩夏に生殖するホタ

陸上のカタツムリを餌にして育つヌ ツ

ル)の国内最大の生息地だが、次第に

進む水質汚染と周辺の環境の悪化によ

る 。

り、その生息密度が著しく減りつつあ

昆虫の中で天然記念物に指定され、

保護されている種類はウスリオオカミ

キ リ と ホ タ ル の 二種だけだ。しかし、

一八号に指定されているウスリオオカ

種それ自体が指定されているのは第 二

ミキリだけだ。それらも現在は京畿道

江陵地域以外では見つからなくなって

いる。かつては北漢山、江原道春城郡、

五台山小金剛などで採集された記録が

こうした地域ではその姿を見かけるこ

残っているが、すでにずいぶん前から

とがなくなってしま った。

暑さを忘れさせてくれる昆虫の演奏

家たち

夏を最も実感させてくれる昆虫であ

る蝉は、いちばん蒸し暑い夏の真つ盛

りにそれぞれ声を張り上げて鳴き続け

る。夏休みになって野山に出てみると、

あちこちでしきりに鳴いている蝉たち

の合唱を聞くことができる。成虫の蝉

は こ の よ う に し て 夏に 約 十 五1 二十 日

間ほど地上で過ごすのだが、このひと

夏の短い期間を過ごすために、大変長

蝉はお腹の部分に発声器があり、そ

い間土の中で暮らさなければならない。

7 9


Z﹀豆努 Z の 工O

こについている鼓膜を強く震わせて音

を出す。しかし、この発声器は雄だけ

にあり、雌はひと声も発することなく

馬 追 虫 は キ リギリス類に属するが、

その一生を終える。

いのに比べて、馬追虫のそれは大変長

キリギリスの前羽が腹部全体よりも短

く、すばしつこい様子を見せるのが特

徴だ。彼らも夏の間涼しげな草陰で羽

根をこすりあわせて名演奏を聞かせて

くれるが、季節の移り変わりにはなす

の中に卵を産みつけると、消えてしま

すべもなく、秋風の吹き始める前に土

う。それ故、童話では勤勉な蟻と対照

的な怠け者として描かれている。

馬追虫も雄しかこういう素敵な音を

出すことができない。一部の種類では

べて発達程度が低く、音もずっと劣る。

雌も摩擦器官を持っているが、雄に比

これまでに国内で知られている一万一

千余種の昆虫類の 中 で、夏に成虫とな

るものが一番多く、至る所でそれぞれ

の本来の姿をあらわし、大自然を美し

チュルチョウ ( 下)

A

く彩っている。

真夏に主に活動する銀筋ヒョウモンチョウ(上) 緯半島の南部の ごく 一部の地織 に出現するワン

8 0


CURRENTS

「探梅.•.梅花 を 探 して 」

三 号 ↓ Zそ長五時君主李主守主 : 2日 目 雇 2g号 雪害曹そ高 2を り 至 、 使 た た で と け 別 そ 花 し の 博 育 共 い る う 歴 3 522子 の 校 梅 l る活ーのる文わ彼陶韓い て展の女て役物機にるのに史学 か 企 二 _,_ーι 花マこよ , 、 堂 さ ま 房 れ ら 磁 国 う 今 き 示 所 子 い 割 館 関 、 博 か 受 と 博 ー ら 画 五 二Zエ 三 島 が の の う 思 に ま で 四 た の 器 の 一 年 た を 蔵 大 る を の と 研 物 を け 伝 物 九 多 展 回 ノ+ート、 あ も 展 に 想 集 ざ 百 宝 家 日 、 先 つ は の 二 品 学 。 忠 旗 し 究 館 よ 継 統 館 三 く 示 特 -l = Iる と 示 な 、 め ま 二 、 具 常 絵 祖 の 「 で 五 だ 博 そ 実 手 て と の く が が は 五 の は 別 た' せ'雪 古にはつ風てな 0食 生画がテ梅あ年け物しにとの社機表れど、年閉夏展梨るの

・ ‘

.

な角度で浮かび上がらせている。

の梅花に対する感性と解釈をさまざま

になっている。またいろいろな遺物に

れている伝統を強く再認識できるよう

展示品は大部分が梨花女子大の所蔵 一 残された梅花を通して韓国人の生活の 中 に 生 き て い る 梅 花 の 伝 統 を 学びなが

趣旨に喜んで参加したいくつかの博物

しい時代の文化創造のつぼみを作る力

ら、古木に花が咲くように伝統から新

している所蔵品で、この展示会の企画

館と個人所蔵家の賛助出品も含まれて

の 基 盤 が 発 見 で き る よ う に な ってい る。 ま た 、 古 美 術 品 の 中 に 咲 い て い る

刻からは昔の女人の感性と愛に接する

の絵を見ているようであり、繊細な彫

品に施された装飾紋様であっても一枚

入れの梅花を見ていると、たとえ実用

された鏡台、櫛入れ、螺銅漆器、種物

る。純白で美しい愛の象徴として装飾

花が彫られたかんざし、装飾品で始ま

られて昔の女人の手に触れた繊細な梅

く 端 正 な 女 人 た ち の 手 招 き に 引き寄せ

九五九年に制作した賞梅図の中の美し

又月 ・金活蘭先生の還暦を記 念して 一

た第 一展 示 室 は 朴 魯霧 画伯が二O代に

室に入るたびに期待を持つようになる。 ﹁ 愛と春の伝令﹂という副題がつい

区分されており、観覧者は各々の展示

た展示室は各展示室ごとに色が確実に

陶磁器に咲く梅花など四つで構成され

形状、芸術で表現された絵の中の梅花、

興味を提供している。女性生活空間の

る副題をつけ観覧客に多くの楽しみと

四つの部屋に分けてその特色を強調す

梅花の象徴性、形状、使い方によって

時代から朝鮮時代までの多様な遺物を

別展の構成を詳しく見て いくと、高麗

今回﹁探梅・・・梅花を探して﹂特

な郷愁までも引き起こしてくれる。

分の昔の姿を振り返るようなおぼろげ

梅花は忘れ去られた過去の想い出と自

いる 。 梅花のある百二O点 余 り の 韓 国

美術品を新しい角度からその特性と美 しさが再発見できるように四つの小さ によってさまざまに表現された梅花の

なテl マ に 分 け て 、 使 い 方 や 生 活 意 識 美しさとその象徴性を見せるので、梅 花を通して現代にまで綿々と受け継が

8 1

れら今探大よ門 語 圏 ・圃圃圃置置曜 日 た れ も し 学 う 前 謁 置圃・圃圃量掴 長梨てーて博にで '渇盟国圃圃圃圃 花 い 般 」 物 門 春 設 置彊圃園田盟国園女売のと館をを ; 遺書竃園田園圃園田園 子一人いの関知 ~璽檀哩竺竺竺竺守・園 大 々う第いら

E

5

見媒 、ーーー四回目圏 、 る 体 温 園 艦 櫨換 え こに 冨置園田憲騒品i と先 櫨 掴 醜野 一 が 人 司 圃 瞳 謹設 ヤ での 薗隈思想鴎~, き生 園瞳圏直醤錨勝争'

探代と しゃい 出りう し現鮮 韓代明 国主な 人ベテ

i t

需品展:君主義宗管

三省出版情物館館長 キwョニギュ ・ 金宗圭

梨花女子大学校博物館


ようなほのかな香りが感じられ

と和睦の意味で広く愛されたことが感

房など土人の日常生活用品に表れた梅

の梅花詩を紹介しており、書室、舎廊

高麗時代の 一然 禅 師 を 始 め 多 く の 文 人

るく温かいもう一つの異なった側面が

な精神の象徴であると共に、梅花の明

花のさまざまな形も見せている。

春の象徴として表現され新しい希

梅花は害福、和睦、愛、長寿、回

代末の青画白磁の食器に描かれた

背景に華麗に咲いている。朝鮮時

の気品と徳の象徴として欽慕していた

え入れられない孤高な土人(ソンビ)

色の花びらを咲かせる梅花を世俗に迎

始まる。冷たい冬の暗さを突き抜け玉

家である退渓李晃の梅花を詠った詩で

第二展示室は朝鮮時代の性理学の大

るが、これらを異なる視点で見れば冷

品の一つ 一つが全て素晴らしい物であ

間見ることができる。展示された美術

に至るまで高潔な土人生活の風貌を垣

と文客が使ったかに思える野外用水瓶

早春に探梅、尋梅の道に出かける文人

μ

房 具 と 机 、 官 服 入 れ などの家具、また

土人の筆筒、筆架、硯滴、墨など文

百童子が遊ぶ梅花枯木の扉風があ

花折枝図の扉風と多産を祈念す・ る

強く浮かんでいることが発見できる。

望を知らせる春の伝令であり、愛

困層の引き出しには紅梅が緑色を

り、華麗な古彩で装飾された画角

母屋や離れで使われたような梅

は韓国の伝統の中で冷徹な意志と高潔

r

じられる。これを通して見る時、梅花

, ー一 ' 〆 ハ る 。

1 1

白磁銭華梅竹文詩銘壷、朝鮮 17 世紀、高さ 35.3cm

の 中 に 生 き て い る 梅 花 の 伝 統 を 感 じ な が ら 、 忘れ去ら

れた過去の思い出と自分の昔の姿を振り返るような郷

愁までも引き起こされる

ている 。 朝鮮時代の代表的な女性文人、

要な素材に遷ばれ多くの作品が残され

身の修養の目標としたため、絵画の重

する愛着は梅花の高過な品格を自分自

列されている。韓国の先祖の梅花に対

朝鮮時代から現代に至る梅花の絵が陳

絵 画 の 中 の 梅 花 で あ る 第 三展 示 室 は

ろいろ鑑賞できるのがわかる。

品はスポットライトの角度によってい

面が新しく浮かんできて、韓国の美術

として表現されている梅花のまた違う

たい残雪の中で清く冷たい理性の象徴

いろいろな造物に残された梅花を通して韓国人の生活

8 2


詰 ( 一八O 八1?)、申命術(一

の絵として伝わる枯梅八幅、李漢

師任堂申氏(一五一 二1 一五五九) 代の作家たちの絵画と、油絵やアクリ

i )、李惟台(一九 一六1 ) など近

七九1 一九六八)、張遇聖(一九二二 の象徴性と 一つ一つの美しさが表れる

は梅花がある陶磁器を一堂に集め、そ

第四展示室の﹁陶磁器に咲いた梅花﹂

ど、梅花の紋様が施された陶磁器の真

装飾され雪中梅を連想させる白磁な

白磁の瓶、純白磁に陽刻で梅花の枝が

髄が集められ展示されている。一五世

紀の小さな 青 函白磁の水瓶は閲達な筆

八O九1?) など端雅で慎ましい

特に梅竹紋が前後に装飾された高麗

致に現代的な構図と表現が驚くほど見

ように企画されている。

事であり、

七四)、李大源(一九 二一 1 )、李圭

時代の青磁の湯沸かしは高麗青磁の梅

ルで描かれた金燦基(一九二ニ1 一九

で多くの梅花の絵画を残した又

花 紋 が 主 紋 様 と し て 描 か れ た 唯 一のも

文気ある作品と秋史金正嬉の門下

) などの現代の作家の作品

九五1 一九六六)、金股鏑(一八

画の伝統を継承した黄成河(一八

作品がある。そして朝鮮時代文人

の画面いっぱいに満開した梅花の

去と現在を切り離さないで綿々と受け

作品世界で表現された梅花を通して過

せてくれるとも言えるが、現代作家の

梅花の絵は韓国の精神世界の順路を見

受け継がれている。芸術で表現された

に至るまで梅花の絵の伝統はその脈が

の小さな水瓶、一九世紀末の辰砂青画

青磁に次いで一五世紀朝鮮の青函白磁

ても貴重な例であると言えよう。高麗

する遺物はごく少なく、この作品はと

愛用されていたと推定できるが、現存

が描かれていて高麗時代に既に梅花が

高麗時代の王健の陵壁画に松、竹、梅

ので、新しく紹介されたものである。

の皿の破片に描かれた梅花紋様の資料

で出土した朝鮮青磁の香炉と朝鮮白磁

いる。また朝鮮時代の官窯の発掘調査

証明する新しい資料として注目されて

の生活に深く根を下ろしていたことを

味での梅花が朝鮮時代初期から韓国人

一緒に表現されていて、 円満と愛の 意

白磁としての優秀性と共に梅花と鳥が

一六世紀の梅鳥紋瓶は朝鮮

九四八1

鮮(一九三八1 )ヘ 金ヨンチョル(一

九六i 一九七三)、孫在馨(一九

九二1 一 九 八 二 、 李 乗 直 (一八

る 。

継がれていると改めて自覚させられ

まで公開され、研究者にとっては重要

な研究材料が実際に見られる機会にも

展示室の隅々に古代人と現代人が互

なるであろう。

いに感じられるように工夫された探悔

展を静かに歩きながら観覧してみる

と、韓国の生活で梅花がこんなに多様

に使われ、さまざまな象徴として韓国

人の意識の中に流れていることに驚か

される。そして一つのテーマで多様な

メッセージが伝わる特別展の教育的効

果を切実に感じ、博物館の存在理由を

静かで美しく洗練された調和を保つ

改めて思い知らされる。

展示室を歩いているといつの間にか混

乱した世俗を離れ、昔の士人が探した

深くて清い梅花の渓谷にいるような清

涼で新鮮な気分になり、ほのかな梅花

新春を象徴する薄緑の明るく舷しい

の香りに浸ってしまう。

光のせいなのだろうか。

8 3

峰 ・ 越 照 龍 (一七九七1 一八六O )

、 〆え

O 三1 一九八 一)、李象範(一八 F m mO ﹂φ O 司

L . _ 一一ー

九七1 一九七一)、金容鎮(一八

CURRENTS


CURRENTS

韓国文化を 商 品 化 す る 中央日報文化部記者

- 安恵利

ア メ リ カ や フ ラ ンス 、 隣 国 の 日 本 で

るだけの段階でこれを現実化できるほ

能性について語っているが、今は考え

ないという状況にある。美術関係者た

も、美術館は芸術品の展示場の役割か

このような重要な意味を持っている

さに韓国の文化商品なのである。

自然に紹介することのできるものがま

るお土産や、もらう人に韓国の文化を

る 人 々 が 大 き な 負 担 な し に 買 っていけ

韓国を訪れる外国人や外国を訪問す

のブランドを付けてオンラインで販売

フなど、数千種類の商品を美術館固有

具を始め、ポスター、カード、スカー

サ イ ト を 設置 し 、 ア ク セ サ リ ー や 文 房

館 は イ ンタ ー ネ ットにアl ト シ ョ ッ プ

つも持 って お り 、 メ ト ロ ポ リ タ ン 美 術

術館の外に支店の形で別の売店をいく

ている 。 ニ ュ ー ヨ ー ク 現 代 美 術 館 は 美

が独自のア

ど規模の大きいいくつかのギャラリー

る。最近になって、カナギャラリーな

と国立中央博物館の二カ所だけであ

織を置いているところは、湖岩美術館

独特の文化商品開発のために別の組

ているケi スはごく稀である。

商品として誇れるほどの商品を確保し

ちは文化商品の必要性とその発展の可

物館の中の遺物にだけ感じられるもの

ら一歩進み、その美術館の所蔵作品を

品が主疏を占めている。

ではない。その国でなければ手に入れ

そのような状況なので、私たちの文化

どの十分な環境が整っていない 。未 だ

その国の文化的力は必ずしも古宮や博

ることのできない独特の文化商品一つ

ョッピ ング の 場 所 と し て も 脚 光 を 浴 び

応用して作った文化商品を販売するシ

r

とができる。

だけでもその国の文化水準をはかるこ

にもかかわらず、今まで私たちは多忙

早 く か ら 文 化 商 品 に 投資 を 始 め た の

化商品開発の準備を進めている。

1 ト シ ョップを出して、文

であるという理由で、または経済的な

しているほどである 。

は湖岩美術館である。先史時代の遺物

このくらいになると、別にお土産用

余裕がないという理由で文化商品の開

ではなくても誰もが美術作品を鑑賞し

五千点以上の圏内最大の所蔵品を誇る

発をなおざりにしてきた。 韓 国 を 訪 れ る 外 国 人 な ら 必 ず 一度は

美術館らしく、文化商品に積極的に投

湖 岩 美 術 館 は 九 三年 、 運 営 室 に 商 品

資している。

か ら 最 先 端 の 現 代 作 品 に 至 る ま で 二万 立ち寄る国立中央博物館や国立現代美

てから記念に 一つ、ぐらい買おうと思わ せ る ほ ど 美 術 館 の アl トショ ップ が 充 これに比べ 、 韓 国 で は ま だ 文 化 商 品

実している。 に関する組織さえも十分に定着してい

遜色のない高品質の文化商品に出会う のは難しい。アートショ ップ が あ り は

術 館 に 行 って み て も 、 外 国 に 出 し て も

するが、粗悪な安物や外国からの輸入

8 4


名のデザイナーが商品開発の業

ザインや工芸などを専攻した四

開発チームを置き、現在視覚デ な固定品目などに分けることができ

品企ポスターや葉書、ハンカチのよう

は企韓国伝統商品企グッドデザイン商

発 チl ムが主力を在いでいる品目で、

韓国の伝統商品は現在、湖岩商品開

る 。

昔の素材と技法を応用し、これを現代

で商品化された作品だけでも九

務 を 担 当 し て い る 。 昨 年 一年 間

る。商品化された品目は四つに

O品目余り、三百種類近くにな

に売れるが、一旦展示会が終わ

示会が開かれている聞は集中的

量を決める。こうした商品は展

調査してこれをもとに品目と数

の規模、主な観覧者層を事前に

る 。

紐などのさまざまな材料を実験中であ

め に 螺 鋼 、 ワ ン ゲ ル 、 韓 紙 、 竹 、 組み

開発しようというものである。このた

って、古風な中にも新しい文化商品を

だが、これらを組み合わせることによ

は木工芸品しか作ることができないの

漆器職人は漆器しか、木工芸の職人

うな質の高い製品を目指している。

ら 世 界 各 国 の 人 々 に も ア ピ ー ルするよ

化した商品である。韓国的でありなが

一つは、ギャラリーの展示に

分けることができる。

ことである。作品の性格と展示

合わせて展示関連の作品を作る

ると販売量がぐっと落ちるのが

の中で湖岩ギャラリ ー ァlト シ ョ ッ プ

日mL0020

普通である。もう一つの特徴は

の最高のヒット商品はアl トミラ ー で

湖岩美術館で開発された多様な作品

ことである。展示とは関係なく

商 品 そ の も の よ り も 作 家・ の知名 度により製品の販売量が変わる

ある。ガラスではなく、金属を特殊処

8 5

一年中作られている商品として

、 湖岩ギャ ラリ ーのア ー トショ ップ

I


九九年に開館する三星現代美術館で

は 、 三 つ の フ ロ ア で 一二O 坪 規 模 の ア

ートショップを運営する予定である。

開館する頃には文化商品に対する一般

人の認識も高くなっているだろうとい

湖岩美術館の他に唯二アザイン室を

う期待から広い空間が設けられた。

運 営 し て い る 国 立 中 央 博 物 館 は 、 文化

商品の差別化という言葉も出ないほど

発 を 始 め 、 今 年 の 三 月には折、ザイン研

状況が厳しい。昨年の四月から商品開

究室まで別に設けたが、商品開発やデ

ザイン業務よりは展示、ディスプレイ、

図録製作などの他の業務が多く、商品

開発には力を注げないという実状であ

/ガ クポ

る。独自に開発した商品もハングル文

字と片搬などからイメ ー ジを得たネク

パ勾丘 ヨンテク

タイとスカーフ、 T シャツ、ノl トの

四品目しかない。

デザイン研究室の朴銭沢室長は、

﹁博物館が出している文化商品の差別

化 を 語 る に は 、 ま だ 国 内 の 文 化 商 品事

業が軌道に乗っていない﹂と言い、

か文化商品の必要性を認識 ﹁今は官庁 、

して、デザイン室を置いたことに意味

けでなく、機能の面でも進んだ商品の

湖岩美術館はこのようにデザインだ

の大衆化であり、最終的な目標は湖岩

た目的がある。それはまず、文化商品

商品を製作するのには、はっきりとし

いる。商品の監修をするだけで、販売

ート ショップは民間の業者に委託して

り、また値段も三千ウォンと安

ある。記念品としての価値もあ

で、高いお金を払ってでも商品が買い

商 品・ に比べて高くならざるを得ないの

種 少 量 生 産 で あ る 美 術 館 の 商 品 は 一般

の必要条件はもちろん商品の差別化で

ンドを創り出すことである。このため

のできない、韓国を代表する文化ブラ

でなければどこからも手に入れること

た安物である。すぐに金になる商品を

で、ほとんどの商品は零細業者が作っ

発された商品の数が余りにも少ないの

には 一切 関 わ っ て い な い 。 博 物 館 で 開

作ろうとするので薄利多売の組悪な商

たくなるほどの購買欲を呼び起こす魅

品になってしまうのである。

ε の人

ある。他にはない自分だけの物として、

人気ぶりである。これほ

美 術 館 の 文 化 商 品 が 脚 光 を 浴 び ること

こうした国内の事情に比べ、 燦 基 美

る 。

もそう遠くないことである。

力がなければならないという発想であ 湖岩美術館がこのように多彩な文化

がロイヤリティーを払い、この アl トミラーを商品化している。

気を集めているため、他の業者

く、十万枚以上が売れるほどの

デザイン室はあるものの博物館のア

理した薄くても割れない性質で、

開発に多くの比重を置いている。多品

を持つ程度だ﹂と語った。

れて芸術性も結合させた作品で

裏にさまざまな作品の写真を入

ClJJrmDIGl

8 6


はアl 卜 シ ョ ッ プ を 設 置 しているが、

国立現代美術館と芸術の殿堂美術館

上 が 売 れ る な ど 好 評 で あ った 。

ョップを運営している。金燦基

術 館 は か な り 充 実 し た アl ト シ の作品をモチーフにした文房具 民 間 企 業 の 韓 国 アl ト チ ェ ー ン に 運 営 昨 年 の 一月 に 開 館 し た ガ ナ アl ト ショ ップ は 、 ま だ 独 自 の 開 発 商 品 よ

を委託している 。

類などいくつかの品目がある。

りは湖岩ブランドの文化商品や諸工

マサノ

規模の小さい個人美術館とし 化商品を開発し既に販売を始め 芸家の既存作品、外国からの輸入品

ては馬山にある文信美術館が文

設けてはいないが、韓国を代表 を主 に 販 売 し て い る が 、 展 示 を 通 じ

た 。 別 に アl ト シ ョ ッ プ を ま だ

文信氏の作品を商品化し、﹁文信

する彫刻家で去年亡くなった故 て商品の数を増やす計画を持ってい る 。 ア ー ト シ ョ ップ の あ る ビ ル の 三

運営基金を設けて、一般の人々

財団法人文信美術館が財団の を アl ト シ ョ ッ プ の 固 定 品 目 と し て

びつけた作品展を続けて聞き、これ

階の企画展示場では美術を商品と結

ブランド﹂を作ったのである 。

が芸術作品を身近に感じられる

開館記念として開かれた﹁時計美術 展﹂には陶芸家だけでなく、韓国画

扱 っ て い る 。 ガ ナ アl ト シ ョ ッ プ の

や西洋画、彫刻など様々な分野の作

よう大衆化するために、指輪と のアクセサリーの七種類をまず

ネックレス、ペンダントの 三 つ

作った。このアクセサリーは昨

された。国内で初めて時計の機能性

家 二 六 名 の 作 品 、 九O 点 余 り が 紹 介

して話題を集めたが、展示期間中に

と美術の美学が結びついた展示会と

マサン

屋の開館を記念して開かれた文

年の九月、馬山文化放送の新社

展で作品と共に展示、販売され

信ステンレススチール彫刻特別

環境の整った私設美術館であれ、国

る 。

後、アートショップで販売されてい

売れなかった作品は展示が終わった 特 別 に 商 品 開 発 チl ムがあっ

た たわけではなく、美術館の作業 室で文信氏の作品を石膏で型取

めているデザイナーたちの話の共通点

立美術館であれ、文化商品の開発に努 は、今の段階では文化商品の経済的価

である。材料は文信氏が好んで

値がないということである。しかし、

り、それをそのまま縮小したの

一八金を使い、

使っていたステンレススチール

品さえ開発すれば、驚くほどの付加価

十分な投資により高品質で独創的な商

イン分野に関する関心が次第に高まっ

値が生まれるという面で、美術とデザ

や黒檀ではなく、

た。材料そのものが高いために、

数 量 は 一 五O 個 に 限 定 生 産 さ れ 商品も最低七万ウォンから最高

ている。

十七万ウォンまでと安くはなか っ た が 、 展 示 一 週 間 で 八O 個 以

A

8 7

Cl I l P m m A l


、、

JOURNEYSI NKOREANL l TERATURE

イ 余

イ ヱ 6 ﹀ 日mKX-

徐廷イニの作品世界の特徴は綾密な構成と磨き込まれたえ章とモチー フに合ったえ体にあれまた作中の人物をはっきりと浮き彫りにさ せながらも無駄のない会話、感傷に;えされることのない冷徹な観察 力、この全てのものをうまく調和させながら、不必要なものは受け 入れない圧縮の美学である

8 8


かたメロドラマを好む読者の趣向に合

編小説であった 。連載長編小説がおお

誌の連載小説と月刊誌の短

を支えてきたのは新聞・雑

九 六0 年 代 ま で 韓 国 の 小 説

る大河小説の爆発的な生産に隠れて以

模範的な事例のひとつである。いわゆ

的、可視的な水準で克明に見せている

が文 学 の 現 象 に 加 え る 規 制 力 を 皮 相

い起こさせるが 、 これは物質的な条件

うに小説といえば、すぐ長編小説を思

話、感傷に流されることのない冷徹な

させながらも無駄のない 整 理された会

体 、 作 中 人 物 を は っき り と 浮 き 彫 り に

込まれた文章とモチーフに合った文

構成、二子も軽率に扱うことなく磨き

の上での均質感である 。 それは鰍密な

る作品が一 貫 し て 持 って い る 作 品 成 就

徐廷仁の作品の世界の特徴はあらゆ

ている 。 徐 廷 仁 の 作 品 の 空 間 的 な 背 景

い ろ い ろ な 面 が 完壁 に 細 か く 再 現 さ れ

営まれる索漠として荒涼たる生き方の

社会の変動と暗い政治の現実を背景に

る一九六0 年 代 以 降 の 一世 代 に わ た る

都市化或いは近代化という名で呼ばれ

時代の生き方の再現である。産業化、

を通し 一貫 し て 追 求 し て い る の は そ の

う存在論的な使命感は、文学市場の零

こに与えられた文学的価値の具現とい

世紀の前半に韓国で発揮した勢いやそ

ジ ャ ン ル と さ れ て い た 短 編 小 説 が 二O

実であったともいえる。西欧では周辺

り、ある意味ではそのような定義に忠

の考慮という芸術家的妥協の産物であ

ないが長編小説は作家側からの市場性

独立した短編の集まりとして読んでも

たプ こ の う ち ﹃ 月 宮 ﹄ は ひ と つ ひ と つ

的作家としての確固たる地位を固め

﹄ ﹃月宮 二﹄、﹃ふな﹄などを発表し代、 表

日の間﹄、﹃つつじ祭り﹄、﹃月宮 一

品集﹃江﹄、﹃はさみ﹄、﹃土曜日と金曜

作家活動を始めた徐廷仁はその後、作

の新人文学賞の入選により注目され、

﹃後送﹄が当時有数の総合誌﹃思想界﹄

一九六 二年 、 軍 隊 生 活 を 扱 った 短 編

授とい う身 辺 的 な 事 情 以 外 に 、 完 壁 主

働と時間の消耗を要する外国文学の教

彼が専業作家ではなく彼なりの知的労

計が作品集が六、七巻前後というのは、

六O 才 を 越 え た 作 家 と し て の 作 品 の 合

れ 見 劣 り の し な い 秀 作、 ぞろいである 。

ことはできない。全て調華集に収録さ

敗作や力のない凡庸な作品を見つける

うな特性が均等に織り込まれ、彼の失

な い 圧 縮 の 美学 と 要 約 で き る 。 こ の よ

させながら、不必要なものは受け入れ

の暮らしと木目の細かさをこれまたご

多くの人が営んでいるごく平凡な日々

過度に依存する劇的な仕掛けもない。

るのかという読者の本能的な好奇心に

人 のよ う な 極 限 的 な 状 況 は 好 ま れ な い。 ま た 、 こ の 次 は ど ん な こ と が 起 こ

ある 。 従 っ て 彼 の 作 品 に お い て 死 や 殺

が持っている基本的な衝動のひとつで

学 に置き換えようとするのは彼の短編

いる。平凡な日々の 暮ら し を 非 凡 な 文

から田舎の町にいたる多彩さを見せて

韓国の経済成長が始動し始めた一九

るため多少は逸脱するが、彼は短編作

差し支えないが 、連作小説の形態であ

実 で あ った 希 有 な 作 家 の 一 人 で あ る

る。そういう点で厳格な職業倫理に忠

義的な規律のためであると推測でき

とが彼の短編小説の基本的な骨組みで

く 平 凡 な タ ッ チ で 凝 縮 し て 描 写す る こ

0

六0 年 代 以 後 事 情 は 急 変 し た 。 今 日 、

家 と し て 一貫 し て 韓 国 の 短 編 小 説 特 有

徐 廷 仁 が 冷 徹 な 観察 力 と 圧 縮 の 美 学 ・

登 場 人 物 も 社 会 の各 層 か ら 選 ば れ 多

あり野心であるといえる。

短編小説は周辺群小ジャンルのひとつ

の文学的な威厳を率直に見せている。

解が可能になり得るであろう。

細性を考慮してはじめて局外者にも理

わせる傾向を見せたのはいた仕方のな

前の勢いを失っている感はあるが未だ

, 鏑 不 士 ,ホ ; 三

い こ と で あ った。 従 っ て 作 家 た ち が 芸

柳 ユ

は大体が大都市ではなく地方の小都市

-

短編小説は優秀な才能の参入を通じて

I J、 皇

術的な野心を形象化する場として把握

続議

観察力、この全てのものをうまく調和

A

ブ ミ ヲ ー と

ている。

た の霊 作家の文学的な水準を示す指標になっ

イ 六 ー

したジャンルは事実上短編小説であっ

~二警

た。例外的な場合がなかったわけでは

E

に 押 し や ら れ 、 西 欧 で そ う で あ ったよ

8 9

吉 垣 二 一 一 一

学 』

吾三丸 p 、

I

~

I l

徐 ' 索 F


出した場末の人物たちである。成功を ペーソスをかもしだしている。作家の

ばえのしないつまらない日常生活を譜 諺によ って と ら え て お り 、 密 度 の 高 い

様であるが、大体社会の主流からはみ 勝ち取り意気揚々とした勝利者や希有

廷仁の作品が呼び起こす人間観が古典

として描き出している。かといって徐 的な性善説や分別のない楽観論に彩ら

譜諺は人間の様々な欠点を許せるもの

大学生として描かれている過ぎし日の

な才能の持ち主や大変な幸運に恵まれ

秀才、除隊して帰郷はしたものの就職 ﹁凝り固ま って し ま って 久 し い 彼 ら の

れているわけでもない。﹃分裂式﹄の

た人々は歓迎されない。凡庸な老いた

先が決まるでもなく、複雑な家庭事情

結局山の中の祈祷院で寝泊りするよう

ち、体面上息子の嘘の話を演出するが、

暮らしていながら、その時の便宜や状

になる。人々が随時仮面を付け替えて

かわっていることを我々は気づくこと

顔の上に薄い膜がかかっている。その

の中 で心の安らぎが得られない若者、

になった拠り所のない政治失敗者、そ

況の要求する役割を全うするようにな って お り 、 そ の 基 調 を な し て い る も の

膜は彼らと私の間だけでなく彼らの聞

して道すがら偶然出逢った中年の男と

は不道徳な個体存続の論理であるとい

漠然とした日目険を期待し、日常生活か

女、智異山を登りながらおしゃべりを

うことを示唆する人間観である。にも

ら の 脱 出 を 試 み る が 無 駄 に 終 わ ってし

する若い女性たちなどたいていの作中

かかわらず民詩的な﹃野話﹄が見せて

﹁ 膜 ﹂ が﹃渓谷﹄では﹁仮面﹂にいれ

人物は現在の暮らしの中で心の安らぎ

いるように、人間の醜さや意地汚さは

も わ け 隔 て て い る 。﹂ と い う 段 落 の

が得られず、平穏な暮らしの願望を抱

もろく限定されたものでもある。徐廷

まう田舎青年の脱出劇、財産もなく晩

くことすらできない。雄々しく世の中

年にする事もなく計画もない老人た

を渡るとか成功が約束されている人た

仁の作品の軽い詣龍はそこから出てい る 。

ちの話とはほど遠い。 そのどちらにも偏らない人たちの生

き方は厳しく、意味を索漠としている

の普遍的な姿を見せるのだが、その生

的な伝言を通して伝えられるのではな

そしてこのような感慨は作家側の意識

うであるだろう﹂という感慨を与える。

かわらず、その時代の生活が大体﹁こ

神を引き上げてくれる﹂と自分の本の

し、閉ざされた魂を聞き、弱まった精

彼のかたくなな心を優しく解きほぐ

倉庫のようである。面事務所(村の役

彼らの背景になっている農協の支所は

らしが良くなる﹂というのがあるが、

ということは徐廷仁の短編の中の作品

のが普通である。人はその中で選択と

く、冷徹な観察力とそれを繊細に丁寧

べきであろう。彼は簡単に自分の伝言

後書きに記していることを思い起こす

いる。乱雑な床屋のなかで間違いなく

場)と警察と交番は仲良くくっ付いて

できない﹂と言い、﹁人に他人になれ

決断を通して日々の暮らしを営むとい

に綴っている文体が自然に触発させ

を明示して伝えず、人間の暮らしぶり

を適当に選んで読んでみても直ぐに現

うより既成の因習と慣習と惰性によっ

る。ここで我々は彼が﹁文学はそれ自 泉のないのが文学の知恵である。文学

な情景描写が着実な普遍性を得ている

がそこに由来している。例えば具体的

る。彼の作品が持っている本質的なカ

するようだ。その庖に釣り合わない

もあり、美容院もある。花嫁の化粧も

年が首を突き出して覗いている。薬屋

ひと月前に除隊したはずの田舎臭い青

﹁農協がよく営まれてこそ農民の暮

小さな普通の人々の生き方に注目する

体の知恵の泉をもっていない。知恵の

て息苦しいものであるという実感を濃

の分野に従事する人々ほど知ることが

は世の中のいかなる分野に対してもそ

めない人たちであるが、彼らは変わり

厚に伝えている。大方の登場人物は憎

て、その時代の条件に埋もれている。 彼の作品はこの世の生き方が索漠とし

作中人物の背景空間の特殊性にもか

面がえ壁に知かく再現されている をつぶさに見せることに力を注いでい

き方の実像を扱い、その時代の生き方

背景に営まれる索漠として荒涼たる生き方のいろいろな

れる。

代以降の一世代にわたる社会の変動と暗い政治の現実を る力を与え自分の姿を自分の姿をその

求しているのはその時代の生さ方の再現である 。 1 9 6 0年 まま見つめることができるようにし、

徐廷イニが冷徹な観察力と圧縮の美学を通じて一貫して追

9 0


ムが入ってくると遠近の人々がここに

な く 回 って 行 き 先 の な く な ったフィル

う。市が立ったびに全国三千里をくま

建物があるが、おそらく公会堂であろ

横は空き地でその後ろに倉庫のような

が連続放送劇を再放送していた。その

広々とした駄菓子屋ではトランジスタ

に当たることが少ないので色白の娘さ

﹁おい、お客さんだよ﹂と叫んだ。陽

テ ー ブ ル の 前 に 立 っていた太 った男が

でずらしてはき、金庫が置かれている

うだ。だぶだぶのズボンをへその下ま

りが多いのをみるとサービスもいいよ

広くてきれいな庖であったが人の出入

車が市内の冷麺屋の前で止まった。

か持ってこなくちゃね﹂(﹃東屋の陰﹄

そ の ま ま に な っていた。﹁まあ、ちょ っと こ こ を 片 付 け な き ゃ 。 そ れ か ら 何

のかテーブルの上に食べ残しの料理が

ょっと前に食べて出ていったばかりな

い 部 屋 の 片 隅 に 座 った 。 お 客 さ ん が ち

た娘さんの後ろについて開き放った広

はビl ル 二本 を 片 手 で わ し づ か み に し

をへその下までずらしてはき、金庫が

き 立 た せ て い る 。 ﹁だぶだぶのズボン

型 的 な も の と し て 一 部 分 を 特 徴付 け 浮

飲食庖が韓国のどこにでも見られる典

せる。また、わずか何小節かで通俗な

す汚れた日常茶飯事を鮮やかに連想さ

の田舎の典型的な情景を描き出し、う

作 家 は わ ず か 何 行 か で 一 九 六0 年 代

日寺有数の総合誌 『思想界』 の新人え学賞に入選して注目され、

作家活動を始めた 。 作 品 集 『 江J 、『はさみ』、 『土 曜 日 と 金 曜

日の問 』、 『つつじ祭り 』、 『月宮ー 』、 『月宮ニ』、 『ふな 』 など

を発表し韓国の代表的な作家としての確固たる地位を固めた

いゆ勺

集まってくるのだろう・・・(﹃江﹄

置かれている テー ブ ル の 前 に 立 っ て い

962年 に 草 昧 生 活 を 扱 った短編 『後 送 Jが当 作家、 徐廷イニは 1

た男﹂は田舎のどこででも見られる冷

の中か ら)

4¥Gj

"

てこまめに料理を運んでいた。私たち

んたちが 青 い 服 に 白 い エ プ ロ ン を 掛 け

9 1

の中から)

会 事

f


る宣言にもなり得る。良い文学は我々

く見せている。最後の部分で主人公は

の姿を確認させながら変化の必要性を

は有益であると同時に爽快なものでも

思い起こさせる契機になり得る。徐廷

麺屋や食堂の主人の典型である。正確 ても彼には人を安心させる弱さのよう

ある。﹁体格からみても身なりからし

いう強力な力があり得ないという社会

その成果が現れる以前の時代であっ

九七0 年 代 は 経 済 成 長 が 進 行 す る が 、

人公は経済的に没落した家の息子で、

社会復帰を始める姿を描いている。主

廷仁のものとしては多少異色な作品で

本能的な荒々しささえも感じさせ、徐

まった男やもめの農民が子供を親戚の

ある。水害のために穀物を流されてし

一九七六年に発表された﹃行旅﹄は

それだけでなく文学を含む人文学が

決して素直な性格ではない 。 しかし墓

た 。

のであるというなら、日々の暮らしの

究極的には人間に自意識を提供するも

七三年に発表された作品で除隊軍人の

収 録 さ れ て い る 短 編 ﹃ 野 原 ﹄ は 一九

文学の創造物である。

農村には彼を残留者として残らせると

家出を決心するが、それは廃れていく

でしかも過不足のない描写は作品の底

的な事実とつながる事柄でもある。一

r

辺に漂っていて先の小説の内容が非常

その社会的な意味を省みさせる優れた

仁の模範的な短編は憂欝な自己確認と

り﹄の中から)といったの現実の理解

なものがある。それが八百屋を社長に

と人間洞察は我々に小説の格別な面白

させた秘訣なのかもしれない。(﹃家造

その時代におけるな生き方のあれこ

にありふれたものであることを示唆し

れを追求し、その索漠とした姿を見せ さを教えてくれる。

ている。

てくれる徐廷仁を我々は現代のずば抜 けることができる。にもかかわらず

けたリアリストの一人であると定義づ 我々の文学談論の現況の中でこのよう 一部の文学談論がリアリズムという概

家々に預けて上京する。日雇いでもし

な定義は聞き慣れないだろう。それは

ながら糊口を凌ごうというのだが出戻

た村の住人が、その村の男やもめと妹

りの妹が同行している。途中立ち寄っ

念を過度に制限的に把握し適用した事

現実の理解と人間洞察は我々に小説の格別な面白さ

の結婚を口添えし、農民はいくらかの

旅費をもらってソウル行きを続ける

が、妹は村の不良に犯されてしまう。

婚約者はその光景を目撃し加害者の鼻

に噛みつき暴行罪で捕まってしまう。

被害者である妹は旅費はおろか何の対

れている生の本能的な荒々しさと残

策もなしに兄の後を追う。ここに描か

の必要性を再認識させもする

るものだけではない。 そ れ は 譜 諺 と 寛 容 と い う 美 徳

の限界に対する意識は必ずしも暗い悲観論につなが

を教えてくれる。 人 間 と い う 罪 深 く 虚 弱 で 暗 い 動 物

実に因るものだからである。文体に対 する努力やスタイルの洗練さに冷淡な 視角と登場人物の階層や意識を過度に きる。社会の現実に対する敵対的な距

重要視したことと関連づけることがで 離や転覆的な含意が強調されながら冷 静な観察力や文体に対する努力が評価 されていなかったということは事実で 係にあるこのような局面に対して我々

ある。過去の暗い政治的状況と函数関 は適切な批判的ライトを当でなければ

再確認は自己理解の拡張に寄与するで

よという父親の命令に逆らえない。部

参りに行って祖先に社会復帰を報告せ

名が世界一周の﹁旅行﹂ではなく、

なものを経験させる。この作品の題

いる生の暴力性に対して戦傑のよう

酷さは読者にいたるところに潜んで

あろう。人間という罪深く虚弱で暗い

しかし一方では索漠として息の詰ま

ならないだろう。 るような日々の暮らしとその中で俳佃

ればならない事柄である。都市化が

し出没する小さな普通の人々を注意深

進むにつれて離農現象が韓国の大き

うことも読者が心に留めておかなけ せずにいる。我々は彼を取り囲んでい

ながらもはっきりとした方向感覚を探

して浮かび上が な 社 会 問 題 の 一 つ と・

流れ者の﹁行旅﹂になっているとい い。それは詣諺と寛容という美徳の必

る社会の堕落と自覚のない惰性的な生

った彼の行動はためらいがちに妥協し 要性を再認識させもするであろう。索

き方の彼が落ち込んでいく姿を実感を

ている。血マ

っていることもこの作品を理解する っ に 当 た っ て 必 要 な 背 景 的 事 項 と な,

分的な服従と服従しない部分が絡み合

そうでなくても索漠として息が詰ま

漠とした暮らしの中でいかなる種類の

もって見つめさせられる。短くて過不

い悲観論につながるものだけではな

り、日々の暮らしだけでも十分なのに、

ものであれ、誠意を尽くした逸品の手

足のない会話は作家の力量を惜しみな

動物の限界に対する意識は必ずしも暗

それを再経験し再経験させるのはいか

並みという人為の美しさは貧弱で無邪

くかっきめ細かに描写することの意味

なる理由からであろうか。このような

気な自然に対する人間の威厳の堂々た

に対する疑問は正当なものでもある。

きる。まず、大方の洞察経験というの

疑惑に対して我々はいろいろと反応で

9 2


﹀-

r r i u 車が入ってきた。半坪足らずの切符売り

F= 場 で う ず く ま っ て い た 切 符 の 委 託 販 売 人 yuJBが 這 っ て 出 て き た 。 彼 の 鼻 の あ た り に は

旧式そのものの老眼鏡がのっていた。腰が曲がり背

の低い、五O前 後 の せ む し の よ う な そ の 男 は 、 何 人

くらい降りるかな・・・と考えているようにこしゃ

っているのは全部で三人だった。彼らは鉄の柱に支

くに近づいてくる汽車の方を眺めていた。汽車を待

のベンチビ腰掛けてもう三O分 以 上 待 っ て い た 。 彼

えられたスレート葺きの屋根の下、二つの長い木製

らのうち二人はすでに切符を買っており、あとの 一

人は出迎えだった 。 出 迎 え に 来 て い た の は サ ン チ 村

の金参奉のところの長男であるが、参奉の末の孫が

三年の軍隊の務めを終えて家に帰ってくる様子だっ

た。 今 でこそどうにか食べていける程度ではあるが、

彼らが幼か った頃はサンチ村の金参奉といえばその

年 の 刈 り 入 れ の 時 に は 五O O石 は上 げ る と いう 大 金

持 ち だ っ た 。 彼 自 身 を 含 め て 、 そ の 一帯で金チャン

一人はハチに住んでいる鄭氏のところの

ボンの土地のおかげをこうむらずして食べている者 は一人としていなか った 。 切 符 を 買 った 二人は若者 だったが、

次男に間違いないのだが、もう一人の方はどこの誰

なのか、とんと思い浮かばなかった。育ち盛りの若

者は会う度に違って見え、向こうから先に挨拶でも

してこなければ分からないのが普通なのだが、この

頃の若いもんときたらどういうわけか目上の人を鹿

とお思わないようだ。本当に世の中が変わってしま ったようだ。

汽 車 が 止 ま っ た 。 巨 大 で 真 っ 赤 な 塊 が フl フ!と

いう音を立てながら息遣いを荒くしていた。黒い眼

つの部品のように見えた。公益会の生卵やゆで卵の

鏡をかけた機関士の上体は機関車にくつ付いたひと

売り子がいちばん後ろの車両から身軽に飛び降り た。 そ し て 真 ん 中 あ た り の 車 両 か ら は 除 隊 軍 人 が 一

てくる汽車に乗り換えるようである。汽車がガタゴ

人降りた。卵売りはしばらくして反対方向からやっ

トと音を立てながら体を蛇のようにクネクネし始め

9 3


粍 五 号 、

きなさい。それから帰りにおじさん、おばさんのと

ころにも寄 って挨拶してきなさい﹂

人影がないとか、村の近くを通り過ぎても、竹垣で なければコケ ッコ ッコとうるさい鶏の雛が鳴く 、ぐら

た。車掌といえば、魚の行商から 一、二銭ずつくす ねているのか、その影も見せなかった。汽車はもう

﹁帰りにはどこにも寄れないんです。墓参りしたら

す 。 僕 は ま だ 完全 に 除隊し たわけじ ゃな い ん で す 。

その足です ぐ に 全 州 に 行 か な く ち ゃならないんで

休みした。彼の言葉通り、ひと足というわけにはい

終わるんです。

いがせいぜいというところでそんなに距離が感じら

﹁ご苦労だったな。さあ、家に帰ろう。空模様が怪

かないようだつた。彼は周囲を見回した。後ろに立 ヲている息子には分からなかったが、一時彼の土地

れない。しかし、金氏は途中、野原の真ん中でひと

しいな・・・﹂

であった辺りを見当をつけて眺めていたのだった。

つできたら話す乙とがたくさんあると思っていた。

で空はどんより 曇っ ていた。

金氏は三O分あまりも待たされて少々腹も立って

ところが、彼自身のゴム靴の底と息子のバスケ ット

山の向こうに消えていた。今にも雪が降ってきそう

いたが、桃のようにむちむちと子どもっぽかった息

の家の土地であったということを知らないわけでは

息子のキヨンチョルも彼が今立っている所が昔自分

﹁子どもの頃、 会 っ た だ け だ か ら 覚 え て い る わ け な

よ ﹂

﹁わかんな い か ? チ ャ ン パ ウ ッ コ ル の チ ャ ン セ ン だ

﹁大変だったろ?でも顔色は前よりよくなったな﹂

よろよろと近づいてきた。

いた老眼鏡をかけた男が曲がった腰をさらに曲げて

った見栄えのしない満州杏の木の下でうろうろして

を合わせてやっと道にしたんだ﹂ 切符売り場の横、た った 一本 の木の葉のみんな散

あそこのあの畦も去年の夏、村の連中がみんなで力

﹁ お父さん、ここはまだタクシーもないんですか?﹂ ﹁タク シー?タクシーなんて・ ・・と んでもない。

いて大きな紙袋を抱えていた。

青みがかった除隊服に黒いバスケットシューズを履

かった。彼は上着の裾がベルトの外にはみ出た薄く

﹁家族が多いようでも、いざとなると役に立たない

﹁ヒョヌ とボンウはどこに行ったんです?﹂

悪くてもう三日も寝込んでいるんだ以

ちといえば、ひとりは出かけたし、ひとりは具合が

﹁誰がいるというんだ。母さんか?お前の兄さんた

もというんなら父さんでなくても誰でもいるじ ゃな 、 いですか﹂

てくれなくてもよか ったのに・・・まあ、どうして

﹁何で父さんが迎えに来たんですか?誰も迎えに来

た歩き出した。

と歩いただけでこの様さ﹂

に墓 を作 った者の感慨と同じわけがなか った。 ﹁近頃めっきり足腰が弱くな ってなあ・・・ちょ っ

親の死に水をとって先山(先祖の墓のある山)の畑

ちを食べさせ育てて結婚させて、切り売りしながら

なかった。しかし、その土地からの収穫で子どもた

たんだろうよ。風邪をこじらせたようだ﹂

な・・・寒い日にそこに行 ってきたのがよくなかっ

のサドン(嫁の実家)が子どもに先立たれて

﹁ い や、上の兄さんだ。つい何日か前、ヤンピヨン

すか?

﹁どの兄さんが具合が悪いんですか?下の兄さんで

白質の塊だった。

だとかいう抽象的なものではなく、極めて具体的な

ようだ。いざ出てきたのは﹁息子﹂だとか﹁末っ子﹂

は何も浮かんでこず、空 っぽ だった 。時 た ま 何 か 言

けがとりわけ大きく聞こえてくるだけで、頭の中に

シューズの底が湿った黄土の上を踏みつける足音だ

父親はしばらく口をつぐんでいた。彼は息子が帰

予備師団に行って除隊証をもらってはじめて全てが

てきたのを見ると何ともたくましく思わざるを得な

子が髭もいつのまにか濃くなって大人になって帰っ

いですよ。寒いから、あそこでちょっと体を温めて

もんだ。ひとりは父親の病気の使いでどこか行った

そうになったが、キヨンチョルは我慢した。しばら

それなら、何でわざわざ父さんが・・と言い出し

り、犬の糞があちこちに目につき始めたと思ったら、

とぼとぼ歩いていくと黄土の道は砂と砂利が多くな

に挨拶して通り過ぎた。またしばらく何も言わずに

足で蹴った。みすぼらしい身なりをした百姓が金氏

ひとつの物質、ひとつの独立した肉の塊、巨大な蛋

うものは﹂ということだけをあまりにも考えすぎた

話の種にもならなか った。 彼 はおそら く﹁息子 とい

周りの小枝は 全 部 切 り 落 と さ れ 、 木 の 葉 も 散 っ て し まった幹だけがぽつんと立 っているだけで、まるで

いたいことが浮かんでこないわけではなかったが、

いきませんか。冷えきった所で小一時間も待 ったん

くの問、父と子は何も言わずに歩いた。田圃には刈

があるみたいでな 。

金氏は独り言のようにぶつぶつそう言いながらま

だから、足もかじかんだでしょヨ?﹂

ヤンピョンのサドン って 一体誰なんだろう。エエ イ!キヨ ンチヨルはからたちの木の皮の乾いたのを

一里 の 道 の り だ か ら ひ と 足 と い う わ け に は

ようだし、あとのひとりは母方の実家の方に何か用

﹁いや、

金氏は後ろ手を組んでコホンコホンと空咳をしな

り株が白く立てられていたが、なだらかな峠にさし

いかないが、さっさと行って家で体を温める方がい

がら、畦道にさしかかった。息子は何も言わずに後

ぶつ切れになったもの、ねじれたもの、色の濃いも

今度は人間の排池物も現れた 。 形がそのままのもの、

い。さあ、行こう、早く﹂

に続いた。体は背は低いががっしりとした体つきに

の垣根の横に藁の山が色槌せたまま積まれていた。

の薄いもの、青っぽいもの・・・いろいろだった。

かかると勾配になった畑に麦が青く育ち、からたち 都会で四キロといったら、パスの停留所でいえば

﹁今日はゆっくり休んで明日の朝、墓参りに行って

見えた。 三 つか四つというところだが、田舎道の一里は大抵

9 4


持及

そして四、五歩進むたびに石垣と腐った茅などで適振りかざして横から雌鶏の足をすくった。雌鶏はそ

中学校の教師をし、三番目の息子のフアンチヨルは

ンチョルは主に面事務所(役場の所在地)を回って

氏には四人の息子がいるが、一番上の息子のソンチ

台所から出てきて母親はマツコリ(韓国のどぶろく)

郡の農業協同組合で札束を数えていた。長男の嫁が

ヨルは家に残って田畑を守り、 二番目の息子のヒヨ

メンの空き袋ゃくしゃくしゃになった煙草の空き上げながら石垣の方に飛び上がっていってしまっ

当に隠された糞桶があらわれ、一 O歩 ご と に 青 く 雨 れ が 足 に あ た っ た の か 、 あ た ら な か っ た の か 分 か ら びっくりし てコケコ ツコ ツココと叫び声を 水がたま っ た 人 糞 の 貯 蔵 タ ン ク が イ ン ス タ ン ト ラ ! な い が 、 . 箱、セメント袋のちぎれたものなどと一緒にあらわた。キヨンチヨルは竹竿をまだ院みをきかして向か

いるのか、路地には子どもたちの姿、だけだった。小った。

ルで体を温めようと部屋に入った。シンオギが母親

を買いに行ったと言った。金氏はあったかいオンド

れた。彼らは隣村を通り過ぎていた。大人たちはおい合っている二人の子どもの方に投げ出して、もう 、そ ら く 家 の 中 で 縄 を 編 ん で い る の か 、 手 相 で も 見 て 主 で に 村 の 外 に 出 て い る 父 親 を 追 い か け て 走 っ て い

ユン(おじ)に挨拶した。サンムユンが﹁何年生だ﹂

のチマ(韓国風のスカート)の後ろに隠れてサムチ

と聞くと、シンオギはサムチユンはしばらくの問、

学校の二、三年生に見える子どもが二人互いに取りその村を過ぎると次はパスが通る広い道だった。

離れていたから可愛がってくれるのかと思ったの

合いしていた長い竹竿がキヨンチョルの足にぶつか金氏は家に到着するまでほとんど話をしなかった。 った。彼は足を 止 め 、 後 ろ を 振 り 向 い て 今 ま で 彼 が. キヨ ンチョルは何かをひとつずつ確かめていくよう

﹁五年生にもな ったもんが使いひとつもできずに、

歩いてきた方向に向かって力いっぱいその竹竿を蹴な気分だった。大抵期待というものは完全にその通

ばあちゃんが酒を買いに行ったのか﹂キヨンチョル

か、若干サムチユンに近づきながら﹁五年生﹂と答

が声を荒立てた。その時、ちょうど庭にさしかかっ

えた。

ヨンチヨルに向かってはっきり聞き取れる口調でわらず、路地の石ころ一つ、石垣の上のひん曲がつ

れを拾いに行こうとはせずに、そのうちの一人がキあるが、三年以上も離れていて帰ってきたにもかか

た金氏の女房がキヨンチョルの後ろから﹁あの子た

ていった。先ほど喧嘩していた子どものどちらもそが、その問、三、四回休暇の度に通ったところでは

﹁ こ の 野 郎 ﹂ と 悪 態 を つ き 、 彼 を ま じ ま じ と 眺 め た 。 た 瓦 一枚 、 彼 の 期 待 に 、 あ る い は 彼 の 記 憶 に 逆 ら う

り飛ばした。竹竿は音を立てて遠くの方まで転がつりになるということはほとんどないのが普通である

彼はその子が全く逃げ出そうとしなかったので、追ものがなかった。全てのものが、ほんの小さな驚き

てマツコリの入った大きなやかんを嫁に渡した。シ

ちを使いにやるとごまかすんだよ﹂と言った。そし

ンオギが母親のチマの裾を離してばあちゃんのチマ

いかけることができなかった。彼は拳を握ってそのの声さえも上げさせないほど、きちんと彼の期待に

の裾に移った。金氏の女房は孫の頭をなでながら、

子の鼻の頭に押しつけた。﹁何だよう・・・何すんそっていた。少し変わったところがあったとしても、 かった。キヨンチョルは走っていってその長い竹竿収されてしまった。むしろそんな変化までなかった

だ ﹂と言 い な が ら 顎 を 引 い た だ け で 、 び く と も し な そ れ は 若 干 の 変 化 を 予 想 し た 彼 の 期 待 の 中 に 即 刻 吸

い、続いてほんとに寒い天気だと言った後、庭に立

汽車、かもしや延着したのではないかと心配したと言

っていた二番 目 の 息 子 と 四 番 目 の 息 子 を 部 屋 に 追 い

を手に取った。ちょうどその時、生後三、四か月にとしたら、そんな変化を予想した期待までもなくな

やった。

見える小さな一羽の雌鶏が雄鶏に追い出されたのって若干の脅威感を覚えたかも知れない。しかし、 か、子犬に苛められたのか、コッココッココ・・・その変化さえも正確に予想した通りだったのであ

向かいの部屋には一番上の兄のソンチヨルが布団

と鳴きながら蛇鳥のようにちょこちょこと横の路地る。

TA

一 豆 ﹄ l︿O亡Zの

から飛び出してきたため、彼はその長い竹竿を低く家には二番目の兄のヒヨンチョルが来ていた。金

父親はしばらくロをつぐんでいた。 彼 は 息 子 が 帰 つ で き た ら 話

す こ と が た く さ ん あ る と 忠 っ て い た 。 ところが、 自 分 の ゴ ム 靴

の底と息子のバスケットシューズの底が湿った黄土の上を踏み

つ け る 足 音 だ け が と り わ け 大 き く 聞 こ え て く る だ け で 、 頭の・中 に は 何 も 浮 か ん で こ ず 、 、空っぽだった

9 5


業を した ため徐々に生活が苦しくな ったということ

声をかけることも忘れなか った。彼は自分自身、農

勧めてはじめて旨味が 一層加わるというもんさ﹂と

ほら、あ っちの盃が空じ ゃないか、酒というもんは

が、弟たちの前におかれた盃が空になると、﹁ほら

れ る の か と 言 い た く な る ほ ど 一生 懸 命 し ゃべっ た

の間どれほど寂しさを我慢したらあのくらいしゃべ

て、正直だ った。そしておし ゃ べりだ った。 彼はこ

馬鹿がつくほど人がよく、善良で少々聞が抜けてい

かった 。 百姓たちが概してそうであるように、彼は

風邪が治 っていないからと酒の盃を取ろうともしな

てきた男らし く、深い鍛だらけの中年の彼の顔は土 色に焼けていた。酒の膳が運ばれてきても彼はまだ

は全く 受 けなかったことにより無駄をしたような損

済ませたことは本当に馬鹿らしいことだった。それ

名簿 か ら 彼 の 名 前 が 外 さ れ て い た 。 講 習 を 半 分 だ け

すっかり信じ切っていたにもかかわらず、受講者の

に指名されて講習を 受けたのであるが、夏休みには、

の椅子を守るのにも金がかかった。冬休みには無事

割 り 込 み す る の に だ け 金 が か か る の で は な く 、自分

来るものであるにもかかわらず奨学士が悪さして、

元々指名というものは序列に従 って自動的に順番が

の指名を受けなければならなかったのであるが、

回にわた って講習を受け、講習を受けるために講習

↓級の正教師の資格証を取るために、彼は冬と夏 二

資格を 一級 に 更 新 し て お か な け れ ば な ら な か った。

は先ず、少々遠い話ではあるが、彼の二級正教師の

お く こともできること ﹂ であった 。 校長になるには 校長の資格がなければならず、校長の資格を取るに

きたが、彼はそれを黙殺して風目敷包みから酒を出

入った 。庖の女主人が親しげにいろいろ話しかけて

。 と父親が 言っ た

﹁墓にあげて残ったらチヨンセンにやってこいよ﹂

で彼に差し出した。

明太 一匹を、真織の盃ひとつと 一緒に風巨敷に包ん

う何日も前に買 っておいた焼酎の大びん一本と干し

ォン足して 二百ウォン渡した 。 そして金氏の妻はも

ス代がほしいと言 った。 金氏は往復のパス代に百ウ

頃、彼は父親に向か って墓参りをしてきたいからパ

ってただひたすら眠った。四日目の朝、それも十時

キヨンチヨルはその翌日の朝、墓参りに行かなか った。三 日目も行かなか った。 彼は部屋に閉じこも

イルも向こうで起こったことであった 。 彼は何度か

を知 って いた 。 また、彼はどうして 農 業をしてから

害だ った。 この世にあれほどの犬畜生にも劣る奴は

し、﹁これ、いくらで売ってるんですか?﹂と尋ね

金もないのにどうすりゃ 一 いのか﹂と聞くと、彼は ﹁ ん いいんだ﹂と答えた。それでその時まで酒でごくご

しかし、ヒョ ンチョルが﹁何故そうならそうしな

﹁兄さん、割り込みしたんじ ゃないんですか?﹂

蘇ったのを見た。

ろうじて最後の最後の段階で彼の名前が名簿 の上に

が分かった。彼は こ万ウォンつかませた。そしてか

た。ひん曲が った松のベニヤでできているその棚に

ね﹂ キヨンチヨルはその酒の瓶を陳列台の上におい

﹁それ、金剛 二O度 ? だ っ た ら ・ ・ ・ 二 百 ウ ォ ン だ

外に出ると、彼は先ず家にいちばん近い雑貨屋に

包みを 受け取 って家 を出た 。

チョンセンは先山の墓守だった 。 彼は金と風呂敷

瞬きをして眠りについた 。

徐 々に生 活が苦しくな ったかということも知 ってい

いないだろう。秘かに探してみたところ、彼はどこ

う少し長期的な目で、例えば、校長のようなものに

るよ う で、またどのようにすれば農業をしながらも っといい暮らしができるようになるかも知 っている

どこに済む誰々が一万ウォンつかましたということ

をかぶって座っていた 。 二0年間土地を耕して生き

ようだつた。

ん く飲んでいたキヨンチョルが﹁金さえありや誰だつ

﹁私に二百ウォ ンくださいよ 。 あ と で ま た 買 い 戻 す

は挨が白くかかっていた。

彼女はよろよろと後ろずさりになり真 っ黒に手垢の

きながら言った。

ついた小さな木の箱を開けた 。 そして百ウォン玉を

ん 腹を立てた。

庖の女主 人は呆気にとられて彼を見つめていた 。

から﹂とキヨンチョルが言った。

二 つ出して彼に手渡した。

﹁元々はあったさ。だが、序列がいったん調整され

一級正教師は夕飯を食べてすぐにイムドンを発 っ

彼 は そ れ を 手 に し て 、 丁 寧 に 父 親 が くれたパス代

たら、それが新しい順序じゃないか。その順序から

た。そしてキヨンチョルは火をくべて温められたオ

と 一緒にして上着の内ポケットにしまい込んだ。そ

一ヒョンチョルは兄とは違って農業にはとんと関心

とは何もなかった。友だちと隣村に鶏泥棒に行って

ンドル部屋に引っ込んで早めに床についた。軍服を 脱いだ初めての夜が静かに暮れてい った。 大したこ

うしてから盃を引っぱり出して片手に持ち、明太と

一 のない様子だった。彼は一 O年以上教壇に立ち、こ

る目的というか目標のようなものを設定してみる

きた気分とでもいうか。彼はインドシナの人々をた

しかし、彼が掌を広げて彼女の鼻先に突きつけるや、

と、身近なもんで 、例 え ば 奨 学 士 と い う よ う な も の

くさん殺した。しかし、それは遥か昔の出来事のよ

外されたっていうわけなんだ﹂

が考えられるが、これは利潤も多く華麗で計画年度

風巨敷はくるっと丸めてズボンの後ろポケットに突 っ込み、後ろも振り返らずに屈を出た、空気は氷点

ル が、昨年は一級の正教師の資格を取るために努力し

も短縮できていいが、費用があまりにもかかりすぎ

うに感巳られた。とにかくそれは直線距離で 二千マ

ド た 。 彼 は 苦 労 す る の は あ ま り 好 き で は な か ったが、 ⋮今の彼の現状では﹁人生を生きて行くにあたり、あ

て達成が難しく、諦めたわけではないが、重点をも

ん の春からイムドンの中学校に勤務しているのである

もうかなり酒が回っているキヨンチョルが盃をお

ん で で き る さ 、 な い か ら で き な い ん だ ﹂ と言うと﹁そ 一れじゃ俺に人ができないことをやれというのか﹂と

野展

9 6


事 号 』 号 、

ルが足を止めようともせず、﹁おはようございます﹂

途中村の人間にも何人か出 くわし、彼らは揃 って 足 ボ ン は 村 の 中 心 と は 反 対 方 向 で 一 O 里ほどのところ を 止 め 、 話 し か け よ う と し た 。 し か し 、 キ ヨ ン チ ヨ に あ っ た 。 村 は 三O里だった。運転手はしばらく走 ってメーターを下に回して空車にじた。キヨンチヨ

っ っ 。っ は 広 い 道 に 向 か って の そ り の そ り と 歩 い て、 行 た

下前後で冷たか ったが、日差 しはま ぶしか たが、文句を 言 わずに 車 を方向転換させた 。 サム

言 うと、運転手はあまり嬉しそうな様 子 ではなか

冷 た く 彼 の 汗 を す ぐ に 冷 や し た 。 彼は再び体を元に

に遠 く広がる緑がか った山を眺 め 深呼吸した 。 日差 し は と て も 暖 か か っ た が 、 風 は 爽 やかながらもまだ

彼は靴を脱いで、靴下のまま床石の前に行き、酒と

に足は棒のようにな っていた 。

てきた後だ った ので 、

く腰をかがめて頭を下げ、﹁じいち ゃん、キヨ ンチ

めて深々と頭を下げた 。二 度目は 一度目より少し 長

明太 と盃をその上にのせた。そして、体を翻し南方

﹁ええい!・・・ ベトナムよりはましだ・・・ ﹂ 彼は一番上の墓まで登った。汗が流れ息が切れた 。

一番上の 墓 に到着する前に既

と 挨 拶 だ け し て そ の 都 度 通 り 過 ぎ よ う と し た た め 、 ル は 知 ら ん ぷ りした 。 もう少し腰を落ち 着 かせてい 彼らは 多 少決まり悪げに彼の方をじろじろ振り返 っ たいと思 って いるうちに、サムボ ンに着 いてしま っ た。 彼がいくらかと尋ねると運転手は振り向かずに

た。彼と

こ ん な 事 情 は パ ス の 停 留 場 を 兼 ね て い る 広 い 通 り に 三 百 ウ ォ ン だ け く れ と 言 った。キヨンチョルは 二百

て み な が ら 自 分 の 行 き 先 に 向 か っ て 歩 い て 行 った。

戻し盃に酒をついだ 。 そしてその前で 二度腰をかが

で義務づけられでもしているかのように、大袈裟に有り難く受け取ってくれた方がいい﹂

‘ を踏み入れるや薬 屋の主人 が懐 か し げ に し か し ま る ご 五0 ウ ォン もあれば十分なところなんだから、

面した 薬 屋でも似たり寄 ったりだ った。彼 が 庖 に 足 ウ ォ ン渡した。

両手を広げて彼に向かってきた。彼は薬屋の主人の運転手は有り難うとは言わなかったが、それほど ぶ つぶつ文句を 言 わずに車を引き返した 。 キヨンチ

ヨルが来ました。家の中の様子から見て、じいちゃ んがちょ っと見てくれないと大変みたいです 。 まあ、

したいようにさせておいて﹁お久し ぶり で す ﹂ と 言

でにもうちょっとお願いします。ね、いいでしょ、

帰 ってこられましたが、どうせなら、家の方もつい

﹁タクシー?ちょっと前にこの上の村に一台入って然と並べられていた。墓ごとに花闘石で石垣が築か

三 つ縦に 整

﹁いや、どこにかけるか つて 、 こ と で す よ ﹂ 中 に は 芝 生 が き れ い に 手 入 れ さ れ 日 当 た り の いい空

﹁何か用ですか・・・﹂の奥へ奥へと五里の道のりをのそのそと歩いていつ ﹁ 。墓 の周 り には松林が 欝蒼 と茂 っていたが、その 電話 を か け る ん で す よ ﹂ た

み干した 。 そして彼は 二杯目の酒をついだ。その盃

がいただきますから・・・﹂と言い、酒をぐいと飲

ょう・・・退酒(祭把の時のさがり酒)は玄孫の私

いたか知らないけど、まあ 三杯 く らいは飲んだでし

じいちゃん﹂と 言っ た。そして前の方に進んで盃を 取り、﹁じいち ゃん が い つ も 酒 を 何 杯 く らい飲んで

じいち ゃんのおかげで私も五体満足の姿でこうして

て下さい﹂と言つた。して黄土を赤く削りながら流れる小川を逆上り、山

った後、机の上の 電話に近づき 受話器を取 って 、 背 ヨ ル は 酒 の 瓶 を 出 し て 片 手 で そ の ビ ン 首 を 持 ち 、 も 中の後ろにいる 主 人に肩越しに﹁ 電 話ちょ っと 貸 し う 片 方 の 手 で は 明 太 を 出 し て そ の 尻 尾 を 持 った。そ

った

暖かくな ってきた。そしてその 熱 気が体中に回 って

いったからすぐに出てきますよ﹂れ、大理石の床石があり、苔の生えた碑石があ

﹁車をちょっと呼ぼうと思って﹂き地を作り、その傾斜した空き地に墓が

﹁すぐ ﹂ とい う のが一 O 分 ほ ど か か り は し た が 、 車 り し て キ ヨ ンチヨルとしてはここに来て初めて祖父 が 一台 品 て き た こ と は 出 て き た 。 キ ヨ ン チ ョ ル は 薬 が 参 奉 ( 朝 鮮 時 代 の 官 職 ) だ ったということに気づ

くるにつれ、この世の中も少々暮らして行くだけの

家の中の様子から見て、

もまた少し経 った後、飲み干した。 急 に術の辺りが

O歩ほどだった 屋 の隣 の庖で三O度の焼酎の二合入り 一本 、 つ け で く の で あ っ た 。一 番下から上まで 一

価値あるものに見え始めた。彼は再び 墓 に向かって の 5 7 h﹄ ︿ 4OCZ

キヨンチョル、が来ました。

﹁じいちゃん、

じ い ち ゃ ん 、 が ち ょ っ と 見 て く れ な い と 大 変 み た い で す 。 まあ、

いちゃんのおかげで私も五体満足の姿でこうして帰ってこられま

F

いいでしょ、 じいちゃん﹂

したが、 ど う せ な ら 、 { 永 の 、 万 も つ い で に も う ち ょ っ と お 願 い し ま 、 す。 ね

9 7

P って車 に乗 った。彼が﹁サムボンに行 って 下 さ い ﹂ が 、 元 々 傾 斜 が ひ ど く 、 お ま け に 山 道 を か な り 歩 い

>>令加。加ペ3官。孔持。沙~


拝した。そして酒瓶と盃と明太をまとめ、靴を履い

とした時、向こうの松林の方で何か物音がした。そ をちょこちょことついできたりした。兎一匹、キジ

り一人前の口をたいそうにたたきながら、彼のあと

と い え ば ど ん ぐ' りをひと握り拾い集め、﹁うう ん・・・格好だけは鉄砲玉そのままだ﹂などとかな

ルはどがぐりの鉄砲を作って遊び、墓守りの息子は

借りないことには到底息がっけないということなん

人に借りた金の利息が五分もするんで、銀行の金を

ちょっと助けて下さいよ。上の兄さんの話では、個

﹁じいちゃんのじいちゃんにもお願いしたんですが、

れ伏して拝んだ。

から﹂

ょ。下の墓のじいちゃんにもあげなきゃなりません

ういえば、少し前に墓の前で拝んでいた時にも何か

一羽捕まえたことはなかったが、どれほど多くの兎

息子は山をあちこちくまなく歩き回り、キヨンチヨ

人気があったような気がした。彼は明太の尻尾をぎ

やキ ジ を 追 い か け た こ と か 。 一 度 は 松 の 木 の 切 り 株

開べることに味をしめ、一二日とあけずに無断欠席し、

刷 映 函 館 に 出 入 り し た り 、 本 を 売 っ て 餅 や 小 豆粥を食

日た村から中学に通うと言って学校に払い込む月謝で

もうとかなり努力した。だが、息子は四O 里も離れ

のがよほど恨めしかったのか、その息子には教え込

三才 下だったが、父親のチョンセンは墓守りをする

にもまた歴史があった。彼はキヨンチョルより二、

墓守りの息子だった。墓守の息子ならキヨンチヨル

いたのだが、よく見るとそれは先山の管理人である

が﹁何するんだ﹂と叫び声を上げ、こちらを振り向

明太の頭でその男の頭を殴りつけた。するとその男

そばに行って、いきなり﹁この野郎﹂と怒鳴りつけ、

鎌で松の枝を落としていた。キヨンチョルはそっと

﹁間引きするにしたって、許可を取ってしなき ゃ ・・・勝手に間引きしち ゃまずいんじゃない

のさ﹂

﹁どうしてって、枝が多くなったから間引きしてた

だ?﹂

﹁何が強いもんか 。 ど う し て 松 の 枝 を 刈 っ て い る ん

介ゆ・・・﹂

んだ。それにしてもずいぶん強くぶん殴った

﹁わあ!キヨ ン チ ヨ ル じ ゃ な い か 。 い つ 帰 っ て き た

﹁こいつ、庭掃き(下男)じ ゃないか﹂

は冷水摩擦ではなく、温水摩擦だ った。

が暮れる前にそこに行って冷水摩擦をすれば、それ

たが、その泉の水は寒さの厳しい冬ほど暖かく、日

暗くなってしまうのである。山の尾根には泉があっ

したこともあった。事実、山で日が暮れたらすぐに

問題じゃないようなんですよ・・・﹂彼は立ち上が

ならないらしいんです。でもそれがそんなに簡単な

それでまあ・・・農業資金としてまた借りるのはも

る前に、人間様の口に入ってしまったようなんです。

てきたようなんですが、その金が豚の食い扶持にな

祈った。﹁昨年は養豚造成資金としていくらか借り

拝みながら、農協の金を融資してもらえるようにと

に 並 べ て 酒 を つ い だ 。 そ し て 二度深々と手をついて

がんでいた。キヨンチヨルは再び供え物を床石の上

野原の切り株に立てかけ、その横に体を丸めてしゃ

が少しふらついた。庭掃きが松の木の枝を束にして

供え物をまとめて一番下の墓に行こうとした時、足

みにした。彼はもう二杯、酒を供えた。彼が再拝し、

孫の私がいただきます﹂と言い酒をぐいっとひと飲

上の盃を取り、﹁じいちゃん、退酒は不肖ながら曽

彼は立ち上がった。そして前の方に進んで床石の

キヨ ンチヨルはさっきと 同じように 二度大きくひ

t

ゅっと握ったま ま 、 腰 を か が め 、 獣 の よ う に 素 早 く

ですよ﹂

て次の墓に降りていった。

芝生を横切って松林の方に走った。確かに何か物音

ンセンが大人特有の脅かし半分の呼び声で彼らを探

をノコギリで切っていて日の暮れるのも忘れ、テヨ

制 挙 げ 句 の 果 て に は靴磨きの道具箱をひとつどこかで

か?﹂

彼が曾おじいさんの床石の上に酒瓶と盃を置こう

のする方に近づいた。誰かがこちらに背を向けて、

がした。彼は注意深く松林の聞をぬって忍び足で音

制 手 に 入 れて近くの大都会に逃げ、一月後には乞食に

つてはいい友だち 制 し か し 、 彼 はキヨンチヨルにと・ 桝だった。キヨンチヨルはこれまで父親を喜ばせたこ

めた後、床石の上に置き、酒をついだ。﹁仕方があ

前に行った。そして手にしていた明太をしばらく眺

いて小便をした。キヨンチヨルは彼の曽祖父の墓の

めてまとめた後、少し離れた所に行って腰紐をほど

き、庭掃きのいる所におりていった。

盃を拭ってズボンのポケットに入れ、靴を探して掃

供えた。

ね﹂彼は残った酒を二杯に分けてなみなみとついで

んのお父さんと同じように 三杯差し上げなくっちゃ

じいちゃんもじいちゃんのじいちゃんとじいちゃ

う無理な話というわけで、一般貸出を受けなくちゃ

桝 な っ て 帰 っ て き た 。 チ ヨ ン セ ン は﹁も って生まれた

つ #。

酬とがあまりなかったが、あえてあると言文ば、それ

りません。じいちゃん、元々明太はたたいて食べる

﹁おじさんは家にいるのか?﹂

庭掃きはすでに刈っておいた松の木の枝を拾い集

﹁へへん・・・そんなにうるさいこと言うなよ﹂

制 は 彼 が 山 に 行 っ て 遊 ぶのが好きだった とい う ことで

ものじゃありませんか。本当は明太を三匹買って来

﹁村に行 った。 誰 か ん と こ の 結 婚 式 が あ る ら し

だ。俺が松の木の枝を間引きした乙とを言いつける

ωん

彼は気分よく酔っぱらった。彼は再びひれ伏し、

肘 あ っ た 。 中 学 に 通 っ て い た 頃 1 彼はほとんど 日曜日 。 i ご とに山に行っていたのだが、家に帰るのがいくら

ゃんが まだ 全部召し五がっ

なけりゃいけないわけなんですが、一番上のじいち いちゃんも全部召し上がらずに、少し残して下さい

τないようなんです。じ

遅くなっても山に行ってきたと言えば、彼の父親は であれ、彼は山で半ば暮らしていた。彼と墓守りの

手放しで喜んだ。学校が休みになると夏であれ、冬

酬のことはあきらめてしまった。

制運はそれぞれっていうわけか・・・﹂と言って息子

時五車

9 8


野尽

この山に入る者なんているものか・・・、滅相もな い。 じ ゃ気をつけてな﹂

﹁滅相もない!誰 一人 松 の 木 の 間 引 き を す る た め に

ってやるぞ!って言っておけ﹂

﹁松の木の枝を間引きする奴がいたら、足をへし折

な・・-でも残念だな・・・﹂

﹁親父に会わないって言うんなら、僕は助かるけど

それで、家には寄 っていかずにそのまま帰るのかっ・﹂

し上がって下さいといってな 。﹂ ﹁はあ、その明太、本当にいろいろ使われるんだな。

れ。それからこの明太持っていってくれ。どうぞ百

前から家に帰つできたら俺が来て帰ったと伝えてく

たいと思ったんだが・・・。ちょうどよかった。お

﹁まあ、その事もあるし、帰ってきた って挨拶もし

﹁我らの握手はひとまずあずけておいて、来年あた

村のヘンチユルだ・・・まあ・・・詳しいことはつ き合ってみり やわかるってもんさ﹂

いつはおそらく弟分になり、そうだな・・・うちの

よ・・・ということはお前は俺の甥 ってことか。こ

があのサンチ村の金チャンボン兄様の息子で

ぶって・・・おい、そこの二人、挨拶しろ。こいつ

うな﹂ ﹁ ふん、まだ独り者のお前が、目上の俺様の前で偉

するさ、嫁さんも、甥 つ子もみんな変わりないだろ

﹁トクセは元気だったか。まあ・・・好きなように

﹁こいつ、帰 って き た ん な ら ま ず 兄 貴 に挨拶に来な 。 水臭い奴だな!﹂ き手 そういう彼も一杯ひ っかけた様子だ った。

っていた。キヨンチヨルは運転席の横に乗った。

彼は見ず知らずのひとりの男と一緒に後ろの席に座

。 れよ、日常く﹂という声が聞こえた 。 ト ク ス だ った

と音を立ててパ ックしてきた 。タ ク シーの窓が開い てそこから﹁おーい、キヨンチヨルじ ゃないか!乗

﹁まずはここでひと休みしてから、どこか行って簡

なようだ。茶房の名前は﹁宮城﹂だ った。

向かいの茶房に入 った。茶房の主人は横文字が好き

ラ・・・煙草代でもや ってくれ﹂

﹁ う ー ん 、 あ と の セ リ フ が 気 に 入 っ た 。 ヘンチユ

なくてもいいし・・・﹂

﹁好きなようにして下さい。くれでもいいし、くれ

﹁運転手さんよ・・・いくらやろうか﹂

村に向かって車を走らせた。

者も車を止めようとするそぶりがなか った。 彼らは

村の前を通り過ぎた 。 しかしキヨンチョルは降りよ

﹁ゃれっ!ゃれっ!子どもらはそうやって喧嘩しな

裂く前に・・-﹂

を治すには少々荒療治が必要なようだな 。 口を引き

返して 言っ た。

人して雁首並べているのも挨拶じゃないでしょうか

か・・・﹂

単 に 腹 ご し ら え し て ・ ・ ・ 映 画 で も 一本 見 ょ う

彼らは百ウォン玉を握らせて 車 を降りた 。 そして

車が村の中心街に到着するや、トクスが言った。

うともせずに、トクスだとかトクセだとか 言っ てる

がら大きくなるもんだ﹂しばらくして彼らはサンチ

﹁初対面の挨拶にこいつとは・・・その生意気な口

キヨ ンチヨルはほろ酔い気分で山を降りた何度か

りにでもしましょうかね。まあ・・・こうやって二

来るのだが、ない時は

ね ﹂

のか﹂

溝を渡りながら水にはま ったりしたが、すこぶる気

﹁うん、このまま帰るよ﹂

O分も 一時間も待たなけれ

分よく広い通りに出た。パ スがある時はすぐにでも

が一台、反対方向に過ぎ去った。もう少し待ってい

一 ばならなかった。ジーニ プが一台通り過ぎ、タクシー

しかし、その車はキヨンチヨルの前を通り過ぎて何

ついてきた。遠目で中を確かめると人が乗っていた。

るとトラックが一台通り過ぎ、その後にタクシーが

﹁こいつ、たいそうな口をきくじゃないか・・・﹂

をじろっと腕み付けながら言った。

かそうとはせずに助手席に座っているキヨンチヨル

ヘンチユルは椅子にふんぞり返って体は少しも動

ま え は そ ん な こ と し か 言 え な い の か 。 トクセ ﹁ お.

いうこと きくようだな﹂

ごめあ、いいねえ・・・そういう時はおまえの舌も

酒でも 一杯引っかけるか﹂

﹁トクセは相変わらず映画が好きなようだな、夜は

メートルか走 った後、キl ッと急ブレーキを踏む音

キヨンチョルが左の肩越しにヘンチヨルの方を腕み の 至宝﹂一︿OEZ

を立てて止まったかと思ったら、 せっかちにブッ 1

つでも金のことで来たんなら、

-ご苦労だったの一言ぐらいあ

ん7 は-銭もないからな﹂

﹁ふん、 いい気なもんだ。 お 前 が 万 に めからロにするなよ。

﹁いつ来れ、ばあるんだよ。 それにさあ・

-俺も死にたい心境だよ・

9 9

ったっていいじゃないか﹂ ﹁ああ、 ご苦労だったな。 ご苦労さん・

」ー

不 刀

、・


野法 w

や ・・・あいつを連れて歩くんなら言葉遣いをちょ っと教えておけ。俺はひと つ走り組合 に顔出してて るからさ﹂ キヨ ンチョルは 二人を茶房に残して外に出た 。 邑

﹁金でもたんまりくすねて来いよ﹂

店と商店と床屋のようなものが都会の 真似をしよう

庁-(町役場)と中央劇場とい く つかの金融機関の支

﹁今度はだめだ ﹂ ﹁ 兄貴 が・ 金、融資して くれよ﹂ ﹁ 俺を介せずにやろうというのなら、いくらでもや ってみ ろっ てんだ ﹂ ﹁どいつが融資してくれるんだ?﹂ ・ ﹁ 一般 貸 出 な ら 貸 付 の 窓 口 で す る さ 。 常 務 や組合長 は人がいいんだが 、 クソ ッ、そこの代理が 言 うこと

﹁そいつの馴染みの飲み屋はどこだ?﹂

﹁どいつだ?貸付 の 代 理 の こ と か ? この狭い土地で

馴染みもなんもあったもんじ ゃないか・ ・・強いて

娘がいるんだが、それに惚れてんだ﹂

言うな ら玉浦屋かな・・ ・その屈にヨ ンビョ ンっ て

﹁車代もくれないって言うのか?﹂

﹁昼飯をここで食べて行けよ 。出前取 ってやるから ﹂ 彼はキヨンチョルに五百ウォン玉をひとつやっ

﹁ 代理、 貸 付 代 理 の こ と か ? そ い つ さ え う ま く丸め りゃいいわけだな ﹂ ﹁親 父 が 五 分 の 金 で も 使 う 気 が あ る の か ど う

彼は農協を 出た。茶房では先ほどの二人が茶を一

映画を見て外に出てみると、 あのい い天気がいつ

りさ﹂ 、

﹁昼飯代も金でくれないかな・ ・・俺こ こで帰るか

た 。

彼の兄は出納窓口のガラスの向こうで札を 数 えて

か・・ ・その辺もわからないしなあ ・・・それもそ

杯ず つ注文して半分 くらい口をつけたまま待 ってい

をきかねえんだ﹂

いた 。彼は頭にポマ ードを 塗 り、きれいに髭も剃っ

うだな、そいつを連れ出して酒を飲むとしたら、一

た。彼らは外に出て昼飯を食べ、そして三時間くら

と頑張っていたが、暖かい日差しの中にここが都会 ではないという事実があまりにもは っきりと現れて

て服装もこぎれいにまとめていたので、それなりに

杯飲み屋に行くと思うか・ ・ ・ ?俺もいろいろ考え

いた。キヨンチョルは農協に行った 。

スマートに見えた。彼は弟を連れて構内の茶房に行 った。食堂も兼ねている茶房は木造の教室のように

いの長い洋画をひとつ見た。

u﹀のm ﹀訂↓印一

ているのさ ・・・ああ頭が割れそうだ 。 お前こそさ っさと就職することでも考えろ﹂

﹁おまえ、俺の服を着たな 。ネ ク タ イ 、 ワ イ シ ャツ

冷え冷えしていた 。 まで・・・﹂ ﹁ 靴も兄貴んだ ﹂ ﹁ ふん、いい 気 なもんだ 。 お前が万に一つでも金の ことで来たんなら、初めから口にするなよ。今は 一 銭もないからな﹂ ﹁ いつ来ればあるんだよ。それにさあ・・・ご苦労 だ ったの一 言 、 ぐ らいあ った っていいじ ゃないか﹂ ﹁ああ、ご苦労だったな 。ご 苦 労 さ ん ・ ・ ・ 俺 も 死 にたい心境だよ 。お前がうちの事情をどの くら い分 かっているか分からんが、去年家が組合から借りた 金、俺が毎月元金を償還してるんだ﹂ ﹁そり ゃ、当 然 でしょ ﹂ ﹁ 当 然 だ と ? 人 が 身 も 縮 む 思 い で 苦 労 し て る ってい う の に ・ ・ ・ こ の 野 郎 !﹂ ﹁それじゃ融資してくれよ﹂ ﹁ 俺 の 金 を 融資だ と ? 去 年 の こ と だ って俺が聞に立 って畜産資金をとったんだ ﹂ ﹁ 農 家 が畑仕 事 するのに 農 協 の 金 、 借 り て ど こ が 悪

w

いんだ 。少しもおかしいことないじゃないか。今度 もちょ っと融通してくれよ﹂

1 0 0


野~

の聞にかどんよりと 曇っ ていた。 ﹁ ト クセこれから一杯つき合わないか ﹂ ﹁ お前がおごる っていうんなら飲むし、 お前が出さ ない っていうんなら・・・俺が出すよ ﹂ ﹁ じ ゃ、どっちに転んでも今日は 一杯やれる ってわ けか﹂ ヘンチユルが天気でも確かめるように空を見上げ ながら 言っ た。彼らはまたそ ろぞろ 茶 房に 潜 り込ル だ 。 ﹁ まてよ、せ っかく弟分が除隊してきたんだ・ どこにしようか﹂ ﹁どこ って、いちばん大きいところに行き ゃ いいじ ゃないか﹂ ﹁金が足りな く な ったら、 ヘン チ ユ ル お 前 が 出 す ﹁そう細かいこと言うなよ、そんなことは飲んでか

か?﹂

いところへ行った方がいいんじゃないか﹂

らの話じゃないか、それよりどうせ行くんなら大き ﹁よし、玉浦屋へ行とう﹂ ﹁キヨンチヨル、あいつが玉浦屋をどうして知ヲて る ん だ ?﹂ ﹁あ そ こ に 行 け ば ヨ ン ビ ョ ン っ て い う 娘 も い る TU・ ・・ ﹂ ﹁ おっ、こいつ ヨンビ ョンまで知っているのか?と

いうことは・・・俺たちは同じ穴のむじなというこ とになるのかな﹂ ﹁ 心配するな、そんな仲じゃない。さ っき組合に行 って兄貴に聞いたんだ﹂ ﹁お前の兄貴もヨンビョンに惚れてるってことにな りそうだな ﹂ ﹁そうじゃないんだ。組合の代理の奴が熱を 上げて いるそうなんだ ﹂ ﹁代理?・・・ああ、あのガリガリの貧弱な奴か ﹂ ﹁ あいつに俺んちの命がかか ってるんだ﹂ ﹁そいつが人の息の根を止めようとしてるってわけ か ﹂ ﹁あいつがその気になりさえすりや金が出るらしい

んだ﹂ ﹁ああ、融資っ て乙 とか、おい!そいつを引 っ張 っ てきて、一緒に飲みに行こうや﹂

をひとり知っておいて損することはない。家でも何

﹁ やめとけ、やめとけ、飯がいや酒がまずくなる﹂ ﹁ヘンチユルっちは金持ちだから、銀行にいる奴の 本音 つでもんを知らないかもしれないが、あんな奴 かの資金がどうのこうの って言 ってたし・・・そい つがひとり余計に飲んだからってたかが知れている よ。 ﹁連れていくのはいいとしてひとつ条件がある﹂ ﹁そ乙にまたおまけが付くのか﹂ ﹁うん、酒を飲んでも俺たちは気分に酔わずにあい つの気分に合わせてやるんだ。酒が無駄になる。そ う、無駄酒になるんだ。いや、無駄酒どころか恨み を買うことになる ﹂

そういうことになるな、 そ れ は 自 信 な い な

+め・・・﹂ ﹁あいつの干支は何だ?プルチャンか﹂ ﹁よし、 一度や ってみるか。キヨンチヨルお前が連

れてこい。言うこと聞かなかったらのしてしまえ﹂ そ の 日 は 代 理 に 何 か 急 ぎ の 用 事 があ ったようだ

が、キヨンチヨルがどうか 一緒に 一杯つき合って下 さ い と 必 死 に 頼 み 込 ん で や っと 玉 浦 屋 に 連 れ 込 ん だ 。

﹁代理さん、こちらにどうぞ、こちらが上座のよう

ですから﹂ ﹁ゃあ・・・そこまで気を使 ってもらっては・ フフ ン ﹂ ﹁こいつらは私の友だちです 。 こ・ っちはカルグム小 学校の校長先生の息子、こ っちはチョl ・ドクスと

いう者で・・・﹂

1 0 1


持尿 v

﹁私がチョ l ・ドクスです。お忙しいところ、 き合いいただいて有り難うございます。﹂

完 全 に捕まり、あとのひとりが 三人に酒をついだ。 ﹁ヨンビョン、こ っち の お 客 さ ん に も あ ん た が 酒 を

て酒だけあおっていた。ヨンビョシは代理ひとりに

か った。彼は予備師団に行 った。そして除隊証と除

もの寂しい気分になった。到底家にまっすぐ帰れな

た 。

それでもその中では少し善良そうに見えるキヨンチ

きが尋常ではないのに気づいたのか何か不安げな様 子だ った 。 彼 は 唆 昧 に コ ホ ッ コホ ツと空咳をして、 理の胸元をまさ ぐ る 手 を 逃 れ て キ ヨ ン チ ヨ ル の 方 に

るとヨンビョンが待ってましたとでもいうように代

もうひとりの娘が少し怒 った口振りで 言 った 。 す

﹁キヨンチヨルが帰ってきた﹂母親が彼を一番最初

込んだ 。

出てから八日目の日、彼は再びこそこそと家に潜り

がらなだめた 。 そ れ 以 上 は 耐 え き れ な か っ た 。 家 を

い気持ちを 一週間の問、道庁所在地でぶら ぶらしな

隊金をもらった。彼は遠い遠い所に行 ってしまいた

しかし、次の日になると、キヨンチヨルはひどく

ついであげてよ﹂

ヨルに向か って﹁除隊したそうですね﹂と声をかけ

体を寄せて座りなおした。 ﹁おいおい、どこに行くんだよ 。 こ っち へ来いよ、

が何度か因されている うちに代理は知らない人に初

人間というものは健忘症のひどい動物である。盃

はないですがね・・・今、資金事情がよくないんで

﹁その件は、まあ話としち ゃ何 度 か 聞 い て な い こ と

るのだから、当然のととであろうと思われた。

態度で酒を勧め、ヨンビヨンが横で酒をついでくれ

れほど大人しそうに見えない二人の若者が最敬礼の

代理は次第に気分がよくなっていくようだ つた。そ

座っていた 二人の聞に座らせた 。 酒が何杯か回 った。

と言うと、代理が﹁融資をしてもらおうと俺をこの

﹁あーあ、呆れたもんだ、ちょっともんでやろうか﹂

気をちょっとふかL てやろうか﹂と 言 い、 トクセが

もなかったのが、ヘンチユルが﹁鼻の穴から熱い湯

反比例するものであ ったのだが、すぐには現れそう

いを合わせたものに比例し、相手側の 三人のそれに

理というものだ った。 それは代理の肝 っ玉と酒の勢

一定の高さと限度があった 。代理が三人を相手取り、 ひとりでそんな場面を引 っ張っていくことは所詮無

言葉が相乗作用するだけだ った。 しかし、そこには

代理が言った。それから後は売り言葉に買い言葉、

けながら、﹁おい、代理、一杯ゃれよ﹂と言った。 コζこ の ど い つ だ 、 そんな無礼な口をきく奴は?﹂

その時、トクセがあいた盃を代理の 鼻 先に突きつ

った次の日に、代理が手続きを急いでくれて金が出

﹁きのう、フア ンチョルが金を持 ってきた。お前が寄

﹁鶏ですか?﹂

ばかり眺めながらお前の帰りを待 っていたんだぞ﹂

ん だ と 言 っ て 鶏 を 一 羽 さ ば い と い た 。今 か 今 か と 門

部屋にお入り 。 母 さ ん が お 前 が 来 た ら 料 理 し て や る

も 分 か ら な い 世 の 中 だ か ら な あ 。寒 い だ ろ う 、 さ あ

証は元々もらえることになっていたんですから﹂ ﹁しかし、近頃は当然そうなると決ま っていることで

﹁それで、用事はうま く済んだのか﹂

て力無く﹁はい﹂と答えた。

か﹂と聞いた 。 キ ヨ ン チ ヨ ル は 板 の 間 の 端 に 腰 掛 け

に見て叫んだ。すると部屋にいた父親が﹁どこをほ

としきりに横に座 っているヨンビヨ ンの体を這 って

ろんとした目で言い出した。また、トクセはという

んだな、まったく・・・﹂といったようなことをと

なかった。まずは初めにヘンチユルが﹁いい気なも

幸なことに酒の酔いが回 ってきためは代理だけでは

が遊んでいちゃしょうがないからな﹂しかし、不

先 は い い 仕 事 で も 探 し て 就 職 し な く ち ゃ な 。若 い 者

﹁除隊した って ? う う ー ん 、 ご 苦 労 だ ったな 。 この

を現し始め態度が倣慢になっていった 。

﹁いいさ、トクセ、誰かが始めてなかったら俺がや

﹁悪かったな、キヨンチヨル﹂

ずつ金をや って玉浦屋を出た。

うに慌ただしく去っていった後、女たちにいくらか

がはっきりしてしまった 。彼 ら は 代 理 が 結 局 そ の 日 の飲んだ酒代までひ っかぶっ てその場を逃げ出すよ

りゃ俺が融資してもらえるんだ﹂と言 った時、それ

ン、代理の盃に 一杯つげよ 。 酒を 一杯・・・そうす

横にいる娘の尻をとんとんと叩きながら﹁ヨンビヨ

を見たが、キヨンチョルは聞いているふりもせずに

うな気分にな った。彼はその日の晩、母親が炊いて

まえると考えたとたん胸のつかえがすっととれたよ

キヨ ンチヨルは向かいの部屋に入 った。そして服 も脱ぎもせずに、腕枕をして寝転がり天井を眺めた。 これでもう思い残すことなく遠い遠い所に行 ってし

﹁組合に申し込んだ金に決ま っとるじゃないか﹂ ﹁農協に頼んだ金 が出たというんですか?﹂

﹁何の金ですか﹂

たと﹂

﹁もう、うまくいくもいかないもありませんよ 。除隊

いる代理の手が大胆になっていくのを見下げながら

﹁お前が代理に酒の席を設けたそうじ ゃないか﹂

﹁ほほほ・・・なかなかやるじゃないか。いい気な

くれた鶏肉の粥をおいしく食べた後、金を 一銭も持 たずに家を出てしま った。 。 その晩キヨンチヨルは彼らと一緒に町で泊ま つ

ってた。 槌を打 っていた 。 キヨンチヨルは部屋の片隅に退い

もんだ本当に﹂と独り言のようにつぶやきながら相

すよね﹂

っつき歩いていたんだ。予備師団には行って来たの

めて会った時に感じる断絶感、萎縮感、恐怖感のよ

席に呼んだのか﹂と言いながら、キヨンチョルの方

聞にヨンビョンを座らせ、あとの 一人は入口近くに

うなものを全て忘れていた。彼は徐々に代理の本性

人ついて入ってきたのだが、その 一人はヨンビョン だ った。 上座に陣取 っていた代理とキヨンチョルの

しばらくして酒の膳が運ばれ、酌婦らしき女が 二

た 。 こっちへ﹂代理が言づた。

代理は部屋の中をざっと見回し、どう見ても目つ

お 付

1 0 2


-u﹀のm ﹀泊﹃ω

畠与、先の花冷えの風が白く土挨をたてながら、

子門=一一山の裾野の方から吹いてきた 。 パ ス か ら

τ 一 ノ 降 り た 二人 は ま つ げ に 白 くかかった挨を

垢でテカテカに汚れた袖でこすり、山の嶺の向こう

に消えてい くパスの後ろ姿 を眺めた 。 ﹁ ふ ん 、 ど う せ 乗 せ て く れ る ん だ ったらもうち ょっ

顔が赤黒い土気色に薄汚れた男が両目をパチパチ

と親切にしてくれり ゃい いものを﹂

彼の目は結膜炎で白眼が両方とも魚の白子のよう

させながらぶつぶつ文句を言った。

になってしまい、土挨の混じった風のために外側の

白眼は充血していた 。

﹁乗せて くれただけでもよかったじゃない﹂

女が 言った。 彼女は色のあせた白い手ぬ ぐい をと

んがり帽子のようにして頭に被 っていた 。

﹁乗せないでみろ、ただじやおかないぞ﹂ ﹁ただの 車 に 乗 せ て も ら う の に 慣 れ た っ てわ

﹁慣れるも何ももう嫌気がさしたぜ・・・﹂

同り・・・﹂

男が親指で鼻の穴を押さえつけながら鼻をかん

で飛ばし、その指をズボンにこすりつけてふいた。

そしてカバンの持つところの紐が切れ、紐の代わ

ていきそこで小便をした。女は脇に抱えていた風

り に 縄 で く く っ た 黒 い ビ ニ ール カ バ ン を 脇 に 降 ろ し て お い て 、 道 の 曲 が り く ね った 所 ま で 数 歩 降 り

呂 敷 包 み を 下 に お い て 頭 に 被 って い た 手 ぬ ぐ い で 服 の 壌 を は ら った 。 疲 れ 切 っ て み す ぼ ら し い 姿 は

同じだったが、女の方はそれでも額と鼻筋に若さ

が多少残っていた。男は新品の時であっても金持

ち が 運 動 す る と き で さ え も 被 ら な か った と 思 わ れ る古びたゴルフ帽子を被っていたが、汗と垢で汚

れ き り 、 そ こ に 土 挨 が つ い た と こ ろ で 大 し た 違い

がないと思われるその帽子からはみ出た髪の毛に

も挨が被っていたが、帽子をとってその換をはら

は﹁さて、今晩はどこで一夜の宿を借りよう

うことなど、とんと考えていない様子だった。男

か・・・﹂と独り言を言いながら、地球上に大き

1 0 3


行永

もや大変な貧村に来たようだ。しかし、豊年の村で

つ声をかけると旅人は渋々という感じで腰を上げ、

く格好いい飛行機の描かれた古びたカバンを再び

かべ、見栄えよく、ぐいっと一息に飲み干した後、カ

こちらにやって来て挨拶代わりに顔にほほえみを浮

脇にはさみ、青麦が一寸ほども伸びて揺れている畦 の乞食はもっと惨めなもので、彼らは貧乏な村に来 るとかえっ心が落ち着いた。 ﹁今晩はラーメンでも食べようかね﹂

を降りていった。

白い飯を食わしてやるからな﹂

﹁ちょっと待てよ、俺にも考えがある。明日の晩は

ら言った。

﹁どっちにしろ王手だよ。どっちにしろ﹂

﹁そうしたら包で王手だぞ﹂

﹁車で象をとれよ﹂

﹁ ・ サンチャン(象将)を受けにや・・・﹂

返って、若干つっけんどんに言った。

なんで峠を越えて来たかっていう意味だよ﹂

﹁梨の峠を越えてきたのは誰もがわかっているよ。

﹁梨の峠を越えて来たんでさ﹂

﹁どこから来たんかね﹂

﹁明日は何か特別な日なの?﹂

﹁馬が効いていて王が進めないじゃないか﹂

l ッと声を上げながら手のひらで口を拭った。

﹁おう、あいつの命日だ﹂

﹁こうなったら、こいつ馬でも取ればいいじゃない

﹁去年、水害にあって果実も穀物もみんな流してし

﹁王手だよ、ほら。何してんだ﹂

﹁あいつ って、死んだ義姉さんのことだね。もう、

まい、食べていくのも大変で、ソウルで日雇いでも

﹁王が逃げたじゃないか﹂

そんなこと言わないでよ。死んだ人が何の役に立つ

﹁どうするんだの差し直すなり、酒を一杯おごるな

か ﹂

しようかと、故郷を後にしてきたわけなんで・・・﹂ ﹁ 子どもをおいて、なんで女房だけ連れていくのか

女が風呂敷包みをまとめて後ろからついてきなが

って言うのよ。先月の九日が兄さんの誕生目だった

り・・・﹂ ﹁うーんそのスジを信じて車を一つくれてやったの

ね ﹂

斑点のある男が尋ねた。

目を細く開けたやぶにらみの男が後ろにふんぞり

癌のある男が言った。

飯いっぱい食べようとも言わなかったじゃない。死

﹁あのスジだの、このスジだの、賭け将棋に差し直

に・・・差し直せとは・・-﹂

こと私も知っていたけれど、あん時はあったかいご んだ女房のことを想ったからといって誰が烈夫門を

﹁女房には去年先立たれましてね、子どもたちはて

黒い土気色の顔の頬骨の上に皮膚病で十円玉ほどの

﹁村とか市場に寄った方が旅費を作るにも少し楽じ

んで・・・あいつは妹なんですよ﹂

んでんばらばらにあちこちに預けて来たってわけな

黒ずんだ斑点のある男が指の聞に挟んでカチカチ音

鋤で掘り返されたばかりの土のようにとりわけ赤

しがあるか﹂

建ててくれるっていうのよ﹂ 男は答える代わりに溜息をついた。二人は何も言 に埋まった砂利の聞に草が生えている車道が現れ、

わずに麦畑の聞をとぼとぼと歩いて行った。土の中 山の麓に片寄せあった村が、ぼんやりと視界に入って

の上に投げ出した。すると頭を角刈りにした背の低

をたてながら、もてあそんでいた死んだ馬を将棋盤

ら下げて来た。おそらく主人であろう。その男は片

い男がすばやく雑貨屋に走って行って潜をひと瓶ぶ

ったりしているんですがね、一夜の宿を借りるには

﹁大きい道を行 っ た り 、 こ こ み た い に 小 さ い 道 を 行

癌のある男が人情味にあふれた声で話した。

ゃねえかな﹂

﹁孝行息子や烈婦(孝行心の篤い嫁)の門は聞いた

きた。

男が村の入口に近づきながら独り言のように前方

ことがあるが、烈夫門なんてのは初めて聞いたぜ﹂

こんな小さな村がいいんですよ﹂

﹁ 今晩の寝場所はまだ決まってないだろうに・ ・・﹂ それまで黙っていた頭を短く刈った男が言った。

その見知らぬ男はすぐさま顔に喜びの表情を浮か

﹁あんたが勝ったら俺があんたら兄妹の寝場所の面

彼あはつまみもなし

彼は先ほどの賭け将棋で勝った男なのだが、後ろの

めながら言った。

ばせたが、尻が簡単に岩から離れなかった。女はそ

倒をみよう。あんたが負けたら酒を一杯おごっても

村の雑貨屋の前で四、五人の男たちがうずくまっ

って力無く遊んでいた。この村にたった一つの雑貨

こから二歩くらい離れて大きな老木の向こうに男た

ネジレはそう言いながらもうすでに将棋盤に駒を

屋の庖先には二合入りの焼酎が何本かといくつかの

ちに背を向けて座っていた。あとの男たちも一言ず

ρ

に一杯ずつ回しのみした。いちばん最後に盃が回っ

目が半分くらいつぶれて相手の顔を見る時は頭を後

てきた、首にアヒルの卵ほどの癌のある男が酒を飲

﹁ええ・・・私も実は今それを心配していたんでさ﹂

雷がみっともないくらいねじれていた。

ろにふんぞり返す癖があった

み干し、向こうのケヤキの下で斜めに座っていた見

﹁ほんとうに、人がいいんだから・・・﹂

知らぬ旅人を呼びつけた。

を見つめたまま言った。

﹁おい、そこのご仁、こっちへ来て一緒に一杯やら

女は男のすり切れた運動靴のかかとのあたりを眺

て輸を囲みチャンギ(韓国の将棋)をさしていた。

ねえか﹂

﹁こっち来て俺と将棋を一番さしてみねえか﹂

らんだ子どもたちが目をとろゐとさせて地べたに座

大人たちのそばにオタマジャクシのように腹のふく

ラーメンが飴や菓子と一緒に換を被ったまま片隅に

﹁将棋盤で今晩の寝場所が出るんでしょうかね﹂

並べ始めていた。 一

ころがっていた。主人は姿も見せないでいる。また

1 0 4


行株

雑貨屋の主人が自分の鼻先を見るように目を細め

いて林をなし、村は一層新鮮で豊かに見えた。家に

山の頂には何本かのケヤキがすでに若葉も濃く色づ

どの緑の若葉をつけ、その背景をなしている村の裏

う な お 粗 末 な 茅 葺 き 屋 根 で あ った が 、 そ の 家 々 に 植

ながら言った。そしてポパイを五袋つまみに出した。

ある木は大抵黒い皮がスッポンの背中のようにさけ

えられている何十年も経った大きな木がまばゆいほ

じで初めて賭けができるというもの。まずは一番お

た柿の木がほとんどで、長い年月を経て荒い雨風に

計にもらうつもりも安くもらうつもりもありません

手合わせ願いましょうか。そうしてみないことには ﹁ひとつは封を切らずにあそこにいる女の人んとこ

耐えてきたその黒い皮の忍苦はその乾きの中に、日

からね、その分の金だけをいただきますよ﹂

車砲をとるか、良布をとるか、大体にしてもわから に持っていってやんなさいよ﹂ 癌のある男が親切そうに言った。

﹁ありがたいお言葉ですが・・・実力がある程度同

ねえじゃないすか﹂

﹁おおい、カ ツパン、 こ れ ひ と つ 持 ってい って食べ

らおうかね﹂

﹁ ど っちが上手いか ど う か 分 か ら な い って話ら しい

チ4 ポヤ、/ポ

が・・・そんなことどうでもいいじゃねえか。手が

奥妙さをもっていた。

差しの中でも最も繊細で薄い新緑の光を引き立てる

ろ﹂ 旅人が偉そうに叫んだ。

いちばん大袈裟にこっくりとっくりしていたホク

袋をひとつつまんで妹のところに行った。彼女はう

ホクロがこれまた優しげに言った。旅人が菓子の

うにして村へ帰っていった。次には溜がいきなり目

言を言いながら後ろも振り返らずに足を引きずるよ

し て ヒ ヨ コ の 小 屋 を 作 っ て や ら に やとぶつぶつ 独り

立ち上がってズボンの尻をパツパツとはたいた。そ

ロがその反動でパッと驚いて目を開けるとすくっと

なだれて自分の指先を見つめていた。彼はその手に

お前さんが持っていっておあげなさいよ﹂

﹁女の人がこんなもん、取りにここに来れますか。

多けりゃ勝つんだし・・・少なきゃ負けるってのが 将棋じゃねえのか﹂ ネ ジ レ は 自 信 あ り 気 で あ っ た が 、 駒 の 進 め 方 か ら。

の上に駒を投げ出した。そしてやぶにらみの男の脇

にかなり残したまま、駒を読み違え、早々と将棋盤

菓子の袋を握らせた。そ して男たちのいる方に戻 っ

見 て と う て い 旅 人 の 相 手 で は な か っ た 。 彼 は駒を手

った。おそらく雑貨屋の主人がいちばん実力が上な

腹をつつきながら﹁お前さんの出番のようだ﹂と言

いった、その次はネジレが口をペチヤペチヤさせな

と文句を言いながら、村の外の方にとぼとぼ歩いて

を覚まして頭を 一度 か き む し っ た か と 思 っ た ら 、 里

みる酔いが回った。酒が入ると、それまでその酒の

長の家に行くつもりで出てきて半日遊んでしまった

ために待て待てないと駒を争っていた男たちもたち

がら起き出したかと思うと、何も言わずにしばらく

て来て酒の杯を回した。ほんの何杯しか回ってこな

名乗りを上げようともしなかった。寝場所の次は夕

といびきまでかいていたやぶにらみがいつ居眠りし

かったが、空きっ腹に飲んだ酒はすぐにきき、みる

飯の賭けだった。彼は申し訳ない気持ちもあり、ま

まち勢いを失い、肩を落としてあちこちであくびを

後ろに伸ばしてネジレの後ろ姿が消えていった方に

った。続けて二番勝ってしまうと、もう後の連中は

た寝場所が解決できた安心感もありそれに久しぶり

始めたかと思うといー つのまにかへそを突き出して居 眠 り を 始 め た 。 村・ の方から鶏の鳴く声が一層のんび りと聞こえてきた。この村の家はそろっと造って入

顔を向けて目を細く開けごめいっ、また女房をぶん

のだろう。しかし、やぶにらみも彼の相手ではなか

に勝ちを決めて気分のいいこともあって女房の命日

って、また這って 出 な け れ ば な ら な い ほ ど ぼ ろ ぼ ろ

ていたのかとばかりにしっかりと 立ち上がり、頚を

目だけパチパチさせ、村の中に入っていった。する

﹁これ、うちの村じゃ一本 一二0 ウ ォ ン な ん で す が

で低い土壁に骨組みが埋まり、雑草が生えているよ

にと思っていた酒を手にしてその場で口をきった。

﹁ここでもお前さんの村と同じですよ 。 そ れ よ り 余

ね、ここじゃいくらなんですか﹂

乏 の 一 豆 ∞Ooh工C

﹁こっち来て俺と将棋を一番さしてみねえか﹂

﹁将棋盤で今晩の{技場所が出るんでしょうかね﹂

1 0 5

﹁あんたが勝ったら俺があんたら兄妹の寝場所の面倒をみよう 。

んたが負けたら酒を一杯おごってもらおうかね﹂


行株 かぎこちなくも、気 は日がまさに暮れようとする様 、

沈んでいった 。本当に久しぶりにその旅人にとって

でんだ﹂と独り言を言った。日が向こうの山の頂に

昇は村一番のごろつきで、何かというと女房をぶん

違えた唐辛子味噌の、味噌玉のように髭がねじれた

って い う わ け で も な く 、 特 に 頭 を 短 く 刈 って踏み間

ら一緒に将棋をさしたからといって、皆が皆友だち

をしたんですねと言うとホクロが首を横に振りなが

ほ ど い い 奴 だ と 言 った。 それで友だち同士掛け将棋

確かめてみると遠回しに答えた。すると彼らは結婚

話をむげにすることもできず、本人の気持ちを一度

してみたらと言った。そのため彼は彼らのたっての

ると言い、よく損得を考えてホクロの言うとおりに

前のせいで苦労したが、この先は必ず運が向いてく

三は名前に数字が入っているために今まではその名

と、それまで黙っていた屈の主人のやぶにらみが徳

いからと言って四度目というのは酷すぎると言う

殴りたくなったにちがいない、だからあんなに急い

がかりでもなかった 。 彼 は そ の 日 の 晩 、 妹 共 々 雑 貨

殴り、ソウル、大田をあてどもなく歩き回り、お前

と いうのは嫁に行ったりもらったりする者同士の勝

さんに賭をしようと誘いをかけたのも、凶悪な方法

手 で 決 ま る も の で は な く 、 必 ず 仲 人 が聞に立つもの

夕飯を食べ終わった後、約束通りネジレの家に行

で酒を奪らせようとしたのであって、行きずりの旅

屋の世話になり、山菜の和え物と麦飯でもてなされ た。

人に寝場所を世話してやろうとした訳ではないはず

かせるなとばかりに彼の耳にささやきかけるように

と言った。そしておいてやぶにらみがホクロにも聞

かなくてはとやぶにらみと話していると、ホク口が 訪ねてきた 。 彼は雑貨屋の主人を片隅に連れてい っ

はないかと心配していた時、頬骨に大きなホクロの

して バ そうなれば、徳 三は元々人情のある奴だから

で、周りでお膳立てしてやれば、その通りになるも

ある男が再び癌に話題を戻し、徳三が名前の通り、

取 っ て 置 き の 米 一俵 で も 口 を 切 っ て こ と を 発 っ て 行

んだと言った。そしてまた、徳三は里長と遠い親戚

徳があってまめだから、下男奉公十数年で田畑が上

くあんたにいくらかでも持たしてくれると思うが

棋をさして遊んでいても親しい、親しくないの差が

とを言ってくれるもんだと内心思いながらも体面も

沓で何反にもなり衣食には心配がいらなくなった

ね ・ ・ ・ と 噴 い た 。 彼 は し ば ら く の問、頭を傾けた

だ と 言 った 。 旅 人 は 同 じ 村 に 住 ん で 仲 良 さ そ う に 将

あって、﹁まあ、酒は好きなことは好きなんですが、

が、ただひとつ妻の福が抜けていると言い出した。

後、外に出た。

てしばらくこそこそしていたかと思うと、旅人のと

目を患 っ て い る ん で た く さ ん は 飲 め な い ん で す よ ﹂

そして、またホクロはより 一層 卜1 ンを落とした声

とカ ツパンが 言っ た。彼女は彼が外に出ると垣根の

ころにやってきて、﹁お前さんは酒もいける口のよ

と一応遠慮した 。

でソウルに行ってあ自分の金が多少なければ他人の

横に首をうなだれて立っていた。

の下に水を 一杯 酌 み 交 わ し て 天 地 神 明 に 誓 えばいい

月目を患っているって全然みえねえのか?﹂ ﹁ 全然見えなかったら盲人でしょう?両方の目の眉

家 に 住 み 込 む 女 中・ や工場の女職工がせいぜいである この頃、妹を道に放り出しておいて苦労させるくら

筋にあるから、明日にでもさ っそく里長の立ち会い

﹁そんなのは大したことない 。 そ ん な の は 金 を 持 っ

間の方にちょっと目やにがたまってんですよ﹂

いなら、むL ろ適当な相手を探してやって一緒にし

れでお前の気持ちはどうなんだ﹂

又その夜の寝場所の行方がおかしくなってきたので

ている奴らが病気だって言うもんでさあ・・・さあ

﹁私たちの立場が今誰彼のことを考えられるって言

川 の流れのようにはっきりしていると思った。彼が

さあ、とっちに来て一杯やろうぜ﹂

てやった方がいいんじゃないかと尋ねた 。 彼は酒がさ つと冷めてしま った よ う に 感 じ た 。 何

うもんじゃないでしょ。何も言わずに徳三とかいう

うだから、まあ旅の疲れもとるということで一杯や

分よく回した。酒の瓶がからになると庖の主人がも

ある。彼はしばらくの問、何も言わずに黙って、床

故なら彼もそんな考えを何となく持っていたからで

らないかい﹂と 言っ た。旅人はこれはまた嬉しいこ

う一本開けた。その酒もまたからになった時、旅人

﹁そりゃ・・・まあいいんだが・・・後に残るお前

人のくれるお金をもら ってよ﹂ が娘一人でもいたら話を出しはしないと答えた。

﹁後に残るもんは生きようと死のうとみんな持って

はどうなるんだ﹂

﹁そうか、話が簡単になったな﹂と彼は言った。﹁そ

﹁兄さん、部屋の外でさ っきの話みんな聞きました﹂

は自分の番が回ってきたことを悟り、予定外の金が

いるですか﹂と聞いた。ホクロがすぐさま先妻の子

だけを見下ろしていたが、﹁前の奥さんの子怯何人

方徳三は三回結婚しているのだが、最初の相手には

の朝早く、村の人が目を覚まさないうちにこの村を

生まれた運命なんだから、そう心配しないで、明日

彼らは夕飯の食べ残しのおかずを肴にして盃を気

んだ勢いで思い切って、自分が出すからもう一本い

ながらも、酒を飲 あまりにも出ることに少々戸惑い 句 こうと大きな声で叫んだ。すると二人は約束でもし

死なれ、次の相手には逃げられ、三番目は追い出し

昨年の秋の取り入れの後、亡くしてしまったと説明

番 目 の 女 、 た だ 一 人 だ っ た が 、 そ れ も 娘、 だったのを

命働いて、一度は普通の人間の生きていく様の真似

発 ってよ 。高 速 パ ス に 乗 ってソウルに行って一生懸

ていたかのように口を揃えてこれ以上飲んだらグ│

たと言い、三人の女のうち徳三の子を産んだのは三

てホクロが声を潜めて、さ っき 昼 間 、 首 の と こ に鳥

さだめ

て酒はこの辺でやめといた方がいいと言った。そし

グl寝 る だ け だ し 、 腕 の 中 に 脂 気 の な い こ と を 考 え

の卵ほどの癒があった男は姓が宋で名はトクサムな

した。彼が彼の妹も初婚ではないが、いくら運が悪

でもしてみてよ﹂

んだが、彼と親しい男の話では人が良すぎるという

1 0 6


行#..

生だから言うこと聞いてくれよ。もう、俺たちも揃

いない様子だった 。 彼 は 来 た つ い で に 面 ま で お よ そ

その晩、ホクロは喜びいさんで村に帰り、旅人の

一里の道を走った。里長は面にもいなか った 。 会 議

聞き返してきた。徳 三は物事が何とも妙にこじれる

付けをしてきたのだが、家では知らなかったのかと

のために郡に行き、何とかという工場を見学に行っ

ら、その人の前でただの水でもいいから用意してお

ものだと思 った 。 彼 は 腹 立 ち ゃ 失 望 に 先 立 って物 事

って初めてでもないじゃないか﹂

互 い の 生 年 月 日 の 八 字 を 記 し た 紙 を 置 い て 、 あの世

がなぜか横道にそれているようでごまかされている

﹁行きずりに男やもめが女やもめに会ったからって

のご先祖様と天地神明に 誓 え ば い い も の を 、 何 で そ

の約束を破って現れなかったが、彼も庄の主人も待

れができない って言 甲つんですか 。一 晩 も 我 慢 で き ず

ような気分にな った 。 嫁 は 来 た と き に 仕 込 め と い う のに、昨晩の失敗はいくら考えても口苦か った。彼

兄妹は村の雑貨屋で 一夜 を 過 ご し た 。 ネ ジ レ は 掛 け

ウォン札を一 O枚もらって、奥の聞で女主人と寝て

に 一生 恨 み を 残 す こ と は な い で し ょ う 。 初 め て じ ゃ

は村の入口の老木の木陰で長い竹のキセルを口にく

た様子だった。面の職員は里長がその日遅く帰って

いる妹をその場に置き去りにして村を発 った。 ﹁ こ っちの方をちょ っと 向 い て 座 ん な よ ﹂ 徳 三 が言 った。 ﹁一晩中壁だけ見て明かそう っていうのかよ﹂

ないから づ て、水 一杯 の か た め の 盃 も 交 わ せ ず に 一

わえて、げっそり痩せた顔にあくびばかりしている

くるだろうと言い、こちらに来る人あてにそんな言

﹁他人のことは心配なさらずにどうぞ先に休んでく

も私も子どもの頃、まだ親が生きていた頃は門前で

緒になろうってんですか。鱒僕に種がないと言って

村の年寄りたちをひとりひとり頭の中に描きながら

人の倫理ってものがあります。里長さんでもいいし、

ださい 。﹂ ﹁どうして、他人なんだね、枕元に女を座らせてお

村 の 中 心 街 を と ぼ と ぼ と 歩 い て い た 。 その時、真 つ

里長さんがだめなら誰か村の年寄りでも結構ですか

いて独りで寝るって法があるもんか﹂

物乞いする人聞は人閉じゃないみたいに思っていま

昼間から溜を飲んでいたひとりが彼を自にとめて、

より先に起きて外を一回りしてきた庖の主人から千

徳三がカツパンの細い腰を引き寄せた。彼女はの

飲み屋の戸を開けて彼を大声で呼び止めた。ホンテ

ちはしなかった。翌日朝早く目の覚めた旅人は、彼

け ぞ り な が ら 彼 の 腕 を 振 り 払 った。 そしてすばやく

方でちょっと眠らせてもらいますからね﹂

し た よ 。 一 日 、 遅 く 出 会 っ た と 思 ってあちらの方で 今 晩 は ゆ っくり休んでください 。私もこ っちの隅の

きて何がどうなるっていうんだ。夜が明けたらいち

つぶれてガiガl いびきをかいている人間を連れて

や酒を飲んだくれるんだ。正体のなくなるほど酔い

でも言いたいのか。あのおやじは面に行きさえすり

いか。面まで追いかけて行って連れてこなかったと

ぽかされて来たことをあんたも知っているんじゃな

にどうしろ っていうんだ 。俺 が あ の 家 に 行 ってす っ

と思い、あえて無学な年寄りは探す必要はなか った 。

りなら村にもいたが、どうせ 一日遅れたことだから

ではない女房が用意してくれた朝飯をあたふたと食 べてまっすぐ里長め家におじを訪ねた 。 無学な年寄

なってやっときた眠りから目を覚ますとすぐに女房

んのように淡々とした夜を過ごした。日が昇る頃に

に意地を張 っているおかげで、女を側に置いて坊さ

男 は 腹 も 立 ち 、 多 少 不 満 で は あ った が 、 女 が 頑 固

でもないらしか った。 気 分 も も や も や し て い た こ と

酒というのは必ずしも気のあ った者同土で飲むもの

のにまかせて立て続けにどぶろくを何杯か飲んだ。

手招きに誘われて庄の中に入った。そして彼がつぐ

飯も大して食べなかっただけでなく、かなり歩いて

も な く 気 に く わ な い 気 分 で あ った が 、 食 欲 も な く 朝

将棋をして以来、初めてだった。彼は別に懐かしく

だ った。彼 は 前 の 前 の 晩 、 村 の ス 口 の 雑 貨 屋 で 賭 け

体を引いてさ っきより少し遠くに座りなおした。 ﹁里長のおやじが面に行 って家にいなか った の を 俺

ば ん に 飛 び 起 き て 里 長 の お や じ ん と こ 行 ってさ、お

里長は家にいなかった 。前 の 日 に 出 て ま だ 帰 って

腹もすいてきたので、これといった考えなしに彼の

やじの酔いがさめたら連れてくるからよ 。 さあ、後

里長さんでもいいし、 里 長 さ ん が だ め な

行きずりに男やもめが女やもめに会ったからって人の倫理っ てものがあります。

-誓えばいいものを・

ら詐か村の年寄りでも結構ですから、 その人の前でただの水 でもいいから用意して・

1 0 7


行株 だけでも嬉しかった。彼がいつになく口数もなくど

もあったが、酒が入ると彼は横に誰かがいてくれる らく両目をパチパチしばたいた後、急ぎ足で村を目

に出たようだつた。日は頭の上にあった。彼はしば

主人を呼んで酒代を払い外に出た。ネジレは少し前

すばやい奴だかち軽はずみにけしかけては失敗する

況に置かれていても、彼はその男が泥棒猫のように

一歩 そ の 男 に 近 づ い て い っ た 。 そ ん な 驚 き 慌 て る 状

と自然にずり落ちて白い下半身を覆った。彼は一歩

と考えた。男はズボンの片方をたくし上げて急いで

指し始めた。 村 の 入 口 の 老 木 の 下 で 年 寄 り が 二人座り込んで頭

はたいた。そして、背中の後ろに未だ一歩位は退け

ぶろくだけをぐいぐい飲んでいるのを見て、ホンテ 髭 が 踏 み つ け ら れ た 味 噌 玉 の よ う に 片 一方がないく

を振っていた。彼は挨拶をしながら彼らの前を通り

は何かあったのかと聞いた。いつも自分は坊主頭に せに、人の首筋に何かちょっと出ていてもからかい

いた。彼は両手で彼の両肩をぎゅっとつかんだ。素

早さではどうかもしれないが、度胸という点ではお

る空間があったが、びくともせずに彼を脱み付けて

畑だ ったところにある小さな彼の家に着くまで続い

そらく癌の方がネジレより劣ることはなかった。彼

でにこぼれた。その笑いは村はずれのその昔、青物 た。彼の家の土聞には見知らぬ男のコムシン(ゴム

が彼の両手にだんだん力を加えていくと男は恐れを

過ぎようとした時、わけの分からない笑いがひとり

をそんなに馬鹿飲みしてるんだと言いたげな様子だ

製の履き物)が女のコムシンの横に並んでいた 。 彼

たくなる性分であるため、この青豆のような奴がど

ったが、酒に強い徳三はそんなちょっかいには動じ

うして、朝から面事務所をあたふたと出入りして酒

もせずに、里長を訪ねただけだと答えた。そしてま

強めていきながら肘を曲げて男の体をこちらに少し

なした眼差しで﹁なぜだ、俺が何したってんだ、お い放せよ﹂と低い声で言った 。 彼は手の圧力を一層

男は思いもよらぬ事態にズボンもたくし上げられ

ずつ引っ張ってきた。距離がだんだん縮まると彼の

は部屋の戸を力いっぱいこじ開けた。

の上の男の重みから解放されるや起きあがりこぼし

ないままぱっと立ち退いて部屋の隅にどき、女は腹

た婚期を逃した女が嫁に行こうとすると背中に腫れ らうという時、何でまたこんな時に工場見学が飛び

物ができるというが、男やもめが三年ぶりに嫁をも ださにゃいけないんだ・・・と独り言のようにぶつ

院み付ける目つきに負けて男が視線を下に落とし

﹀司 4M勺、 pom

のように挑ね起きて座った。するとチマがスルスル

ぶつと言った。するとネジレが雷にだけ雄雌がいる と思ったら工場にも雄雌があるのかと言いながら、 かと尋ねた。それで彼はおととい村に転がり込んで

新房(新婚夫婦の部屋)と里長と何の関係があるの きた中古と夫婦になろうと思ったら、これが自分が 春香でもあるまいし盃を交わして髪をとく前は俺と つ部屋に枕並べて寝たっていうのに手も出せなかっ

寝ないとぬかしあがんのさ・・・それで夕べはひと たと言った。そしてまた酒をあおいだ。昨晩寝そび れた彼は酒の酔いがいっぺんに回ったのかいびきを どれほど経ったのか、ふと彼が自分のいびきに驚

かきはじめた。 いて目を覚ましてみるとネジレはどこにもその姿が 見えなかった。彼は大変悪賢いため近くにおいて得 になることはない奴だが、あいつがやったところで せいぜい酒代のいくらか俺にひっかぶせていくこと ぐらいだろうと高をくくっていたが、いざそうされ るとやはり気分はそうよくな ・ かった。まして、町か どこかに行って酒か女で遊ぶというならともかく一 緒に村に帰ろうというもんを置き去りにしてひとり った。その時、急に嫌な予感がした。彼は飲み屋の

で村に帰ったとしたらなおさら理解できないことだ

1 0 8


行総

ラ。ゆ炉

回し前に引きつけながらいきなり彼は彼の目の前に

た。その時だった。彼は片方の腕を男の首の後ろに

ネジレは悲鳴を上げた。そして汚れて薄暗い部屋

ある男の鼻の頭をかみちぎった。

口の中で回しながら固くて噛みきれない肉のかけら

の壁に血を流しながら外に飛び出した。徳三は舌を を血と一緒に部屋の床に吐き出した。そして、手の 甲で層の周りについた血をこすりつけながら拭っ た 。 彼 は う ず く ま っ て 座 っ て い る 女 の 前 に 行 っ たー 彼女は涙もかれてしまったのか顔を伏せてうなだれ ていた。彼は手の先で彼女の顎を持ち上げてしっか り目が合うようにした。目の周りが腫れ、唇の端が 切れてぎゅっと結んだ唇にそって血が惨んでいた。 あちこち殴られた様子だった。彼は彼女の顔をじっ と 見 つ め ﹁ 学 識 の あ る お 前 さ ん が 何 で 水 一杯 の 盃 も 交わさずにこの有り様になったんだ﹂と言った。彼 ないまま遠くを眺め、時折力無く目をパチパチさせ

女は力の抜けた獣のようにぼんやりと視線の定まら るだけで言葉がなかった。それは彼女が答えられる 質問ではなく、彼女の方が尋ねたい質問だった。 村の連中は口を揃えてホンテ、あいつは犬畜生に カツパンはその決の日の朝早く、節々ががたが

は清涼里ということだけで探すのは極めて困難か

ていって日雇いをしながら定着した彼らと同じ村 た に な り 全 身 が う ず く 体 で 二日 前 に 彼 女 の 兄 が 消

も知れないと心配しながら重い体を起こした。村

後のことだった。

えていった広い道に出た。彼女はここに来たとき

も劣る奴だと罵った。そして、彼の鼻の頭が治った が知れると態度を少し和らげて﹁罰があたったんだ﹂

後も鼻の頭は完全になくなってしまったということ

と同じく頭に白い手ぬぐいをほおかぶりにして、

た。そして、無学で知識のない村の人々が、法律は

にそっと潜り込んできたのはその日の真夜中だっ

ホンテが鼻の頭に包帯と紳創膏を大袈裟に貼って村

うと、言葉もなくして散り散りに去ってしまった。

徳三がその日の晩、本署の留置場に入れられてしま

どうかとか、姦通罪がどうのとか言っていた連中も

た里長の家に集まってこっちからも告訴で応じるか

を立てているようだつた。工場を視察して帰ってき

らないが、二週間以上の傷害は無条件拘束する方針

かれていた住所を写し取っておかなかったことを

兄が持っていた汗に汚れた黄ばんだ封筒の裏に書

でもなかった。彼女は荷物の横にうずくまって、

茶苦茶に殴られた腰や脇腹、尻と胸に比べれば何

には青いあざができていた。しかし、それらは滅

た。唇は醜く腫れ上がり、腫れ上がった験の周り

腰に手を当てて口笛を吹くように長い溜息をつい

とだった。広い道に出ると荷物を道辺に降ろして

ろといえば、片足を少々引きずっているというこ

脇に小さな風呂敷包みを抱えていた。違ったとこ

の村をもう一度振り返ってその村を後にした。

訴訟と治療費のために全て失うことになった徳三

ヒビを作りながら働いて集めた土地と小さな家を

はともあれ彼女のために、一

の聞に何本かの煙が線を描いていた。彼女は理由

ぬ生き生きとして美しい柿の木の若葉が輝き、そ

木の皮の多くの痛みから抜け出しているかも知れ

た。薄い朝需の上にともすれば、荒々しく裂けた

かも知れないのである。彼女は村の方を振り返っ

の大々が何かの用事でこんな夜明けにも出てくる

彼の兄はその人を訪ねていったのである。彼女

の人の手紙だった。

やってきて徳三を捕まえて行った。誰が決めたか知

と言った。その日、日の暮れる頃、警察から巡査が

住民登録証に同居人として明示されている婚姻だけ

後 悔 し た 。 そ れ は 彼 ら よ り 一年 先 に ソ ウ ル に 流 れ

1 0 9

O年 の 歳 月 を 手 足 に

を保護するということを知ったのはそれからずっと


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海外での 韓国研究に対する支援 切韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人

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文 ・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについ て支援申請を受け付けております。

韓国研究フェロ ー シ ッ プ

①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の五月 三一 日で、選抜の結果および支援 額については、 同年十月十五 日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での韓国研究に対す る支援」および「韓国国際交流財団 のフェローシッフ。 ・ フ. ログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 弱国国際交流財団国際協力 1部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函

韓国語フ エローシッフ。

町民

闘 精

白 初

韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者お

韓国国際交流財団は、隔月 刊誌KO 阻 AF OC US ( コリア ・フォ ーカ ス)を刊行 しております。 「コリ ア・フォーカス Jは日本のみなさんに 韓国関連の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的と しております。 同財団は 「コリ ア ・フォーカス Jが日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。

O阻 A 町 スJ S 「 コリア・フォーカス」は、日 本語版のほかに英文版K も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 コリア ・フォーカスが取り上げている 記事は、韓国の政治 ・経済 ・社会 ・文化 などの各分野と、韓国関連の国際問題に 亘っており、この ほか韓国に関する重要 な資料と主な事件の 日誌も掲載しており ます。したがって、韓国の時事問題に 関 する情報性記事が幅広く盛り込まれてい ⑤ 』 回 虫一 一

さい。 選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたし ます。

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て、韓国の現実にリアルに接していただ けるに違いありません。

よび適格の専門家に対して、韓国語フエローシップを提供し、六 一二 カ月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講する機会を与えております。 フエ ローシップを与えられる ことが決哀った方には、韓国内の大学のう ちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料 と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書 を作成のうえ、該当年の五月 三ーまでに韓国国際交流財団に提出してく ださい。選抜の結果は同年八月中旬までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所完に ご連絡願います。 緯国国際交流財団国際協力2部 大緯民国ソウル特別市中央郵逓局私書函 21 4 7 号

電話

822-7536465

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