I SSN1 2 2 54 5 9 2
笑顔がこぼれるおしゃれな空間
私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーション、 1300坪余りの広々とした居肉、 それに400以上の豊富なブランドと 20屈もの有名ブティックで 心ゆくまでショッピングを楽しめるから。 でもロッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すり工ステやゴージャスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/'¥ークのロッテワールド・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジック・アイランド。 韓国 5000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、
ONLY LOTTE DUTY FREE SHOP
句、‘
垢すリヱステ
ロッテワールド アドベンチャ
釜山シアターレ スト ラ ン
崩 勿t 口切デ箆税唐 白砂デヲサ~I!!箆税唐
ロザデ釜山1!税眉
BEAUTVOFKOREA
カッ
pp司天∞mcZ の亡 i
人が 住 む 家 の 帽 子 が 屋 根 で あ る な ら
って、人体の最も高い部分である頭に
ば、人の屋根は帽子に比喰できる 。 よ
被る宮帽は衣服の中で最も象徴的な意
味 を 持 っ て い る 。 韓 国 の 官 帽 の 中で 最
も代 表 的 な も の は 約 五 百 年 間 の 朝 鮮 時
代 を 通 し て 士 大 夫 た ち が 被 ってきた黒
カ ツの 製 作 過 程 は 複 雑 で 難 し い 。 カ
く光る﹁カツ﹂、すなわち黒笠である。
一程度の太さの竹で編み、高く突き出
ツの 丸 い っ ぱ の 部 分 は 髪 の 毛 の三分の
ている 円筒 形 の 山 高 部 分 は 馬 の 尻 尾 の
毛 で で き て お り 、 こ こにカ ツ の 組 が 付
けられている。五一にもなるこのよう
な製作過程全てが手で施されており、
世界的にも類を見ない精密な竹細工品
だと言える。カツは太陽の光や雪や雨
を 遮 り 、 ま た 繊 細 な 竹 の 編 み目の聞を
出 入りする空気の流れは頭をすっきり
カツが持っているぴんとしたまっす
させる 。
性、またサントウ(昔、韓国の結婚し
ぐな質感と、軽くて柔らかい素材の属
た男性が結った雷)や網巾がかすかに
外に現れる透明感、直線と曲線が絶妙
に調和したシンプルな形、これを包み
込む高潔で厳格な黒は昔の韓国の男性
やソンビ(士人)の気品と風格をその
まま感じさせてくれる。血マ
のIC
勺 、P ET︿ 的mCZ
問
カバー・ストーリー
自 韓国人の価値観
今回のコリアナ春季号で は今日の韓国人の生き方 と思想に持続的に影響を 及ぼしてきた価値観、そ の過去と現在を主題に特 集した。表紙の写真は緯 実大祭で伶舞を踊る学生
4
の姿である。緯集大祭は
ROUNDT. 組出
三国時代にすでに始まっ
韓国人の価値観、 その過去と現在
た伝統的な行事で、今日
12
若い学生たちによってそ の伝統が引き継がれてい
朝鮮王朝時代の
る。このような若者たち による伝統継承の姿はこ
ソンビの生き方とソンビ精神
のほかにもいろいろなと
鄭玉子
ころで見られる。
18 茶山の生計論 安乗直
24 東洋と西洋、 マックスウェーバー 柳錫春
28 韓国の伝統文様の美
4 3
林永周
D
時洞裳
刑寺距 側仁金
40 黄真伊 ケビン・オーローク
44 東洋最大の渡り鳥の渡来地 洛東江河口-乙淑島 手茂夫
abbmhunddon
コリアナ 1 9 9 8 年春季号
58
総国国際交流財団の季干1 ) 1 志 大緯民国ソウル特別市中区南大門路5 街5 2 6
〒 1 0 0 ω 5
D I S C O V E R I N GKOREA
明りを灯す精神の代弁者燈蓋 金三代子
発行人兼編集人
韓碩鎮
64
緯国国際交流財団
制 官R V lEW
編集長
韓服デザイナ一、李英姫
金泰定
金峡旭
図爽
畑種
金李
燥烈
文範
金李
臥背鉱
6 9 剛令畑一一
併薬王
町田サ
制 寸q
州市
J庁!
薬
lV4H川
+ ハ 応
伝
妙
彦 龍 照 ル雨 観光在明日昇
融金沈韓ト朴 定価
州目権
前代明
u九寺 山 町 人 間職
5 2
問鶴
沫 学 李
KO 旺 ANA
600円
財団の許路なしに転厳・複製することは禁じられてお りますのでご了承下さい. また、本昔、掲載の記事・論文の内容は、本誌 の編集者または本財団の意見ではありません。
1 98 7 年8 月 8日 登 録 叫 1 0 3 3 号 1 9 9 8 年 3 月 2 0日 印 刷 1 9 9 8 年 3 月 3 0日 発 行 (毎年3 ,6 、9 、1 2月の4 回発行) 印刷所
三星文化印刷株式会社 ソウル特別市械東区華陽洞 1 6 7 2 9
46 8 0 3 6ト5 .電話:8 2 2-
間面坤
rKOR EANA(コリアナ )J は縄国国際免荒財団が発行し ている季干I J I 主です.版権はすべて本財団側にあり、本
盲 六
.電話:8 2 2 7 3 4 7 1 8 4 7 • FAX:8 2 2 7 3 7羽 7
慨場 41 釧の 4
大韓民国ソウル特別市錘路区通義洞 3 51 1
1寸 d
A R TS P A C EP U B L I C A T I O N S
80
写 代 見 国 韓
編集デザイン
制一昨山同
-電話:8 2 ・2 7 5 3 ・3 4 6 2 • FAX:8 22 7 5 7 ・2 0 4 7、2 0 4 9
7 5 町畢津
1 4 7号 私書箱2
町李本
間アえ
M己 完
慨刻
大韓民国ソウル特別市中央郵便局
問問
韓国国際交流財団
C
発行所
84 再認識される民間伝統彫刻の驚異 李亀烈
87 インターネットにおける韓国文化 金相頴
90 EVENTS&EX 日B I T S
﹃韓国人
コリアナ今回の座談会の主題は﹁韓 国人の価値観、その過去と未来﹂です。 非常に幅の広い主題ですが、ゆっくり と話していきながらつめていくことに し、自由な放談形式で進行していけれ ばと思います。まず﹁価値観﹂という ことに対する話しから始めてみたいの ですが。 崖鳳永価値観という概念自体が非常 に広いものですから、どのあたりに限 定するかということが問題ですね。ど のような文化でも、価値観が存在しな い文化というものはありません。そし て、文化によって価値観の特性が違っ て現れるとしても、韓国人にだけある 変わらない固有の価値観が存在すると いうのはありえないことだと思いま す。価値観というのは普遍的な性格を 帯びているわけですからね。 雀俊植そうですね。どのような社会 であれ構成員は価値観を持つようにな るのですが、私はそれを決定するのは 大体において宗教だと思います。宗教 が文化の核心をなしているわけですか ら。一 O 0メートル競走を例にしてみ
日m ﹂
026
雀俊値
雀鳳永
延世大学教授政治外交学
梨花女子大学教授抽韓国学
掛韓国航空大学教綬鎗国学
総国国際交流財団会議室
一九九八年一月一四日午後二時
現在、韓国が経済危機に見舞われ ています。この半世紀、急激な経済 発展を成し遂げ、もっぱら前だけを 見て突き進んできた韓国人にも、よ うやく自分たちを支えてきた価値観 が何であったのかを振り返 ってみる 機会が与えられたのだと思います。 そうした意味から、韓国文化に最 も接近している原形ということので きるソ ンビ精神や儒教文化をもう 一 度振り返 ってみながら、韓国人の価 値観を総体的に解明してみる場とし て本座談会を設けました。ここでは 先人の精神的遺産から受け継ぐべき ものは何であり、また捨てるべきも のは何であるかを明らかにし、今後 進むべき方向を提示できればと考え ています。(ソンビ一士人、官職に就 かない学者・学徳を備えた人物の呼 称)
ハA Yエポン
チ Zジユシンク
威在鳳
チヱポンヨン
価値観、 その過去と現在﹄
崖俊植でも、シャーマニズムは儒・ 仏教受容以前、韓国の歴史のごく初期
と思います。
たものです。私は朝鮮王朝五O O年の 儒教文化こそが今日の韓国人の価値観 の最も大きな土台をなしているものだ
分が儒教的な価値観をそのまま変容し
値観が中心となり、亙俗の領域まで抱 き込んだと見ることができるでしょ う。実際に亙俗人が亙祭を行う過程で 使う言辞を総合してみると、多くの部
値観がその文化の中心をなすと考えた 方がいいのではないかと思います。朝 鮮時代はソンビたちが形成していた価
崖鳳永そうでしょうか。私はどのよ うな社会でも主導勢力が持っている価
ているように思えます。
が変われば、価値観も変わるというこ とです。私の目には韓国は儒教とシャ ーマニズムが最も大きな影響を及ぼし
って可能なことでしょう。つまり宗教
ると、これは東洋では絶対に出てこな い競技です。始まりと終わりを分ける 西洋のキリスト教的な時間的感覚によ
の から行われてきた原初的なものです。
場 日 所 時
ROUNDTABLE
4
ことは事実ですが、民衆自らが持って
もちろん、儒教の影響をかなり受けた いた生の体系と価値観を否定するのは
で卜 はに な含
雀鳳永
のス
かれ とて
いま
いい うる
はどちらも正しいと思います。民衆に
戚在鳳私はお二方のおっしゃること
が﹁共有﹂するんだから、もちろん簡
値観だと見るべきでしょう。﹁大部分﹂
社会の大部分の構成員らが共有するよ
容が人々に受容されることによって、 うになった生に対する態度、それを価
しろ両班にしろ、来世や実存的な問題 に対して悩んだ時はシャーマニズムや
そのように変化する文化を理解する準
在するものならば、価値観というのは
そのように、文化が絶えず変化し、混
派生した色々な文化形態があるわけで すよ。
じゃないですか。また、それに従って
て主体としての役割を果たしているん
上に西洋の個人主義的価値観が加わっ
ないでしょうか。そして、今ではその
なぜこんなことを言うかというと、韓
いに区別できると思います。
系を提供する役割をするという点で E
生きていくのに必要な具体的な価値体
のであり、価値観は世界観に基づいて
ば、宗教は世界観の基礎を提供するも
どに対する前提が世界観だとするなら
感じます。虚空、生命、永遠、善悪な
観の関係を整理する必要があるように
雀鳳永私はまず宗教と世界観と価値
単には変わらないわけです。
拠点を提示するものではないかと思い
国が多宗教社会だからです。ところが 社会統合自体が不可能です。実際に、
宗教ごとに価値観が変わってしまうと
儒教ならば孔子が語った内容を記した
のか。便宜的に考えるとやはり思想、
気こ
ます。それでは、その価値観とは何な
教的な価値観を受け入れていたんじゃ
や家族の問題になれば、民衆も主に儒
仏教が助けになるわけで、政治、経済
難しいでしょう。
発の すテ るキ
雀 俊 植 そ う し た 経 典 に 載 っている 内
がと経 しか典 まらな す出ど
どのような社会でも主導勢力が持っている
価値観がそのえ化の中心をなすと考えた
方がいいのではないかと思います。
私 は 朝 鮮 王 朝 五 O O年 の 儒 教 え 化 こ そ が 今 日 の
韓国人の価値観の最もえさな土台をなしてい
教を理解しようとしている西洋人が、
ト教の原理でもって、韓国のキリスト
戚在鳳つまり、まさにそれがキリス
るものだと忠います
ても、つまり世界観が部分的におE い
韓国人がいろいろな宗教を信じるにし
的のはずれた誤解をしやすい部分だと
思います。私が見ても西洋的な外見は
んど同じです。したがって特定の宗教
整っているけれども、キリスト教徒で
違っていても日常的な価値体系はほと
とはできないと私は考えます。
だけをもって韓国人の価値観を語るこ
雀俊植もちろん、宗教は様々だけれ
とにかなり依存していると思います。
内容と価値体系は、やはり伝統的なこ
あろうとなかろうと、韓国人の精神的 ども、韓国人は、特に対人関係や社会 を受けています。そして、そこから 一
雀俊植だとすれば、その価値体系、
的性格では儒教によって徹底的な影響 段階さらに踏み込むと原初的なシャー
て話さなければなりませんね。私は何
特に﹁儒教的﹂なものとは何かについ
と言っても原始儒教の五倫、その中で
マニズム的衝動が位置を占めているわ けです。そうした表面に西洋の個人主
長幼の序と家父長的な孝の徳目が今の
いる儒教的な文化要素ではないかと思
私たちに非常に大きく影響を及ぼして す。たとえ宗教がいくつあるといって
います。私は孝から家父長的な集団主
りとコーティングされているわけで も、やはり韓国人に直接的な影響を与
義が、長幼の序から権威主義が派生し、
義的文明がまるで糖衣錠のようにふわ
えているのはこの二種類、儒教とシャ ーマニズムではないかと考えます。キ
住になっていると考えます。
ことを最もよくあらわしている現象が
威 在 鳳 私 は 韓 国 社会 が 儒 教 的 で あ る
これが韓国社会、文化の二つの大きな リスト教にしてもそうです。韓国のキ 接的影響より、むしろ儒教と亙教の影
リスト教は西洋のキリスト教からの直 響をかなり受けていると思います。
私たちが対話する時の呼称だと思いま
6
との関係性より、それ以前にある個人
親でも名前を呼びます。相手方と自分
す。アメリカでは兄弟の聞や時には両
夫婦関係を中心にした家族関係なら
持 っ て い る こ と が わ か り・ ます。西洋が
まわないという権威主義的な価値観を
が、目下に対しては尊大であってもか ど同じです。
は韓国だけでなく中国も日本もほとん
れた家族関係の中で理解します。これ
ですね。道徳的な﹁理﹂の概念でしょ
峯俊植それはたいそう道徳的な解釈
雀鳳永我々は形式論理の﹁理﹂概念
な た め に 二者 が 完 壁 な 形 で 出 会 う こ と
よりはそれぞれが持っている存在論的
のできる合致点がないんです。ところ
ほとんど似てるでしょう。集団主義社
峯鳳永少し話しの角度を変えてみた
が、我々は具体的に表れた事物の中に
雀俊植個人主義社会ではない所では
雀鳳永西欧の近代的個人主義と東ア
いのですが。西欧を合理主義文化と言
本質的な﹁理(イデアごが含まれて
る家族関係と言えるでしょう。
て も そ の 人 を 家 族 の 一員 と し て 還 元 さ が﹁私﹂の自己実現が中心だとすれば、
ジアの家族主義を比較した時、あちら
うのに対して、韓国文化は順理主義で
いると考えます。特に人間はその﹁理﹂
ば、こちらは父と子の関係が重視され
。 つ
v
を重視するためです。 反面、我々は大学生でさえも先輩後 輩間で﹁兄さん﹂などの家族としての
せる自動装置が内蔵されていて、誰も
なります。よく﹁勉強して一家を成し、
我々は﹁家﹂を実現することが中心に
す。道理に従って生きなければならな
自体がそのとおり通じるものであるか
な﹁理﹂をより重視するということで
が初めて会ったとき、お互いの年齢や
大家になれ﹂と言うじゃないですか。
いわけです。合理主義における﹁理﹂
ら、それさえ実現すれば﹁聖﹂の境地
しょう。西洋ではイデアと現象を分け
れに応じた呼称、表情、振る舞いを規
学年にこだわって上下を決め、次にそ
そして、以前は自我実現の最高の形態
のであり、順理主義の﹁理﹂は事物と
というのは外側に存在する客観的なも
がほとんどありません。
定するようになるようです。こういっ が大政治家、すなわち大統領になるこ
会では個人対個人の出逢いということ
たことを通して、確かに儒教的価値観 とだったでしょう。韓国人は自我の概
呼称を使います。韓国人には誰に会っ
は私たちに非常に日常的な次元から溶
としたわけです。だから自己修養と修
に至り、天シ二体化するととができる
ま す 。 イ デ ア は 完全 で 、 現 象 は 不 完 全
け込んでいると判断できます。
例えば、東学で﹁人乃天﹂というじ ゃ
ます。ところが弟や妹になるとすべて
に対する呼称がとても細分化されてい
す。このように韓国人は﹁私﹂を実現
員を家族と呼んで団結を図るわけで
様、ハ凡なのです。会社や学校でも構成
が家で、宇宙という家を束ねるのが神
わけです。
本来備わっている﹁理﹂に従えばいい
我々は道理に従って、すなわち自分に
﹁理﹂を共有しています。だから、
いるので、罪というのは副次的なもの
自体が完壁になりえる可能性を持って
す。しかし、東洋的な価値観では人間
動かすことのできない人間の条件で
伝統的なキリスト教社会では、罪が
練を重視するわけでしょう。
自分が同時に共有しているものです。 (H 神)
韓国に異質なキリスト教が入ることが
ではないのに、天
ないですか。人聞が直ちに天
念自体が﹁家﹂になっているんです。
いということでしょう。宇宙というの
できる理由の一つは神様が父と違わな
崖俊植韓国では兄や姉を﹁オツパ﹂、 ﹁オ、三ご(女性語)や﹁ヒョン﹂、﹁ヌ
﹁トンセン﹂となるわけでしょう。こ
(H 神)と人聞は
ナ﹂(男性語)と言うように目上の人
ういう呼称から韓国社会が目上には礼
することを徹底して家族または拡大さ
つまり宗教が、変われば、 価値観も、変わる
ムが最も大きな影響を及ぼしているように思えます
と い う こ と で す 。 私 の 自 に は 韓 国 は 儒 教 と シ ャ l マニズ
わけですから。
宗教だと思います。 宗 教 が え 化 の 核 心 を な し て い る
のですが、 私 は そ れ を 決 定 す る の は 大 体 に お い て
どのような社会であれ構点員は価値観を持つようになる
なんです。代りに恥を重視するわけで
儀をきちんと守らなくてはならない m ﹁m0 司 O ﹂ 0・
雀俊植
す。ここでは、倫理の根本が罪ではな く、果てしない自己修養と道、礼が核 心であり、それが成し遂げられないと きに負うのが恥です。 ところが、西欧は近代的個人主義社 会になる過程で、原罪を否定して個人 の欲求を正当化するようになりまし た。お互いが相手の自由を侵害しない ように境界を法で設定しておいて、ひ たすらそれに抵触するかどうかだけを 罪の基準としてみなすようになったわ けです。 戚 在 鳳 そ の と お り で す 。西洋の法は あらゆる問題を個人の聞の利害の相反 問題と考えます。それに対して我々は あらゆる問題を家族問の関係に帰着さ せます。あらゆる人間関係を五通りの 五倫に分けて、誰に対してもその五通 りの関係の中の一つとして解釈し、そ の関係に相応しい 礼を正しく使うこと ができる人を人間ができているという わけです。そして、そうした五倫がう まくいくように社会を組織したわけで す 。 私たちの伝統的な集落の姿、つまり 集姓村(同姓の 一族で構成されている 村)は朝鮮時代に入って高麗時代の郡 県単位を 一O O戸程度に減らし、特に 耐堂を建てて一族(血縁)中心の社会 にしたものです。老子に出てくる理想 的な集落の姿。隣の村から犬の吠える 声が聞こえても 一生行かないし行く必 要も感じない集落。そうした集姓村の 連合として成り立つ宗廟社線(王族を 祭る場所・地域や国に関係した神を祭 る場所)という国家単位が朱子性理学
の五倫に統合された理想的な社会の姿 でしょう。朝鮮という国が五O O年に わたり、何にもまして一心不乱に具現 しようとしたものがそれです。 わずか三O年ほど前まででも、人口 の九O %以上がそのような秩序の中で 生きていました。ところが、産業化に よ って、そうした人々の大部分が団地
の集まりにはみんな行くわけです。都
だに隣りに誰 に移 ったのですが、、今、 が住んでいるかは知らなくても、家族 市に住みながらも心では集姓村という ことです。
一つ目は、やはり一族の構成
佳 俊 植 私 も 八王く同感です。昔の韓国 人の生きざまは 三通りに分けて考えら れます。
員としてのもの、 二 つ目は集落の構成 員としてのもの、三つ目は民としての ものの 三 つです。昔は、この 三 つの単 位の統合機能をする宗教儀礼がすべて ありました。 自分の一族では祭間がそのような役 割をしています。ところが 一族だけを 強調するようになると、 一つの集落で も各家族の問で反目を生じ排 他的にな るわけです。それで、それをなくすた めに 一つの集落では洞祭という祝祭儀 礼をするんじゃないでしょうか。 一年 に 一度ずつ、そのような機会を通じて 金氏だ朴氏、だということを離れて、一 つの 地域の構成 員だということを感じ るわけですよ。 国家的段階では王が象徴的な役割を します。王が父親で、民はその子供な のだから、我々は 一人の父親の息子だ という 一体感を持 ったわけです。とこ
PP2-Ammcz のと
とで朝鮮が﹁東方礼儀之国﹂または
する儀礼を共有して、これをこなすこ
そのような﹁宗廟﹂と﹁社穣﹂に対
家における王の役割が、普通の 一 族 の 社 長老と違うのは土 地と 穀物を司る ﹁
ほとんど﹁家族主義強化の日﹂だと呼
秋と正月と言えるのですが、その日は
ちが最高の文明を保っていると自負し
ろが現代になると、今は 三 つの単位の
べるほどです。私たちが家族だけでは
たわけです 。儀礼を執り行うことが 最
中で家族しか残っていないわけです。
ない 一つの社会の構成員として同質感 を感じることができる、そんな祝祭が も重要な国家の役割の 一つであったの
です。
なければならないのにですよ。あるい に、現代にな って王 室 、両班などのい
腰﹂に対して祭杷を行なうということ
は、私たちの場合、解放記念日とか建
祭記は今でも威力を発揮しているじゃ
国記念日がそのような日になるべきな わゆるエリート階層が消滅することに
ないですか。韓国人の国民的行事は仲
のに、そうした日は私たちには何の意 わけです。
を社会的に統合させることができる統
とだと思います。ある人が韓国人であ
最も核心的な部分がなくなっているこ
ことは我が民族のアイデンティティの
現在、この礼法が崩れているという
より、儀礼の伝授が途絶えてしま った
﹁小中 華 ﹂ と 呼 ば れ た の だ し 、 自 分 た
味もないじ ゃないですか。 私はこれからの私たちの社会をまと
合原理、または象徴があるべきだと考
ると判断する基準は互いに礼をわきま
もに機能させようとするなら、韓国民
でそのような象徴を作りだすことがで
えているかということだからです 。 敬
えています。でも、果してどんな方法 きるでしょうか。
と思うんです。それが結局さっきおっ
も難しい問題でしょう 。
きなのですが、果してどのような儀礼 を再び共感を得て復活させるかがとて
です 。 そのようなところから私たちが もう 一度、アイデンティティを探るべ
語から始ま ってとても 小さ な部分まで 韓国人特有の儀礼を共有しているか ら
し ゃられた儀 礼、すなわち儒教の礼法 でしょう。葬儀があれば近所の人たち
戚 在 鳳 私 は韓国の儒教がそれに対 し、す、ぐれた慧眼を持ち合わせている
がみな集ま ってきて、これはこのよう
窪鳳永
です。それは具体的に人々が礼法を守 りながら生きていく姿であり、そのた
儀礼は現象として現れたもの
にするのではない、あのようにするの だと手順に対してごち ゃごちゃ口出し 共有していることが韓民族であるとい
するわけです。そのようにして儀礼を
めには人間の精神がそれを体得してい なければならないのです。そして、今 日その精神が断絶しているとすれば、
う証拠であり、同質性ということです。 我が国で﹁宗廟社穆 ﹂と 言うのには 特に理由があります。﹁宗廟﹂という
その意味を再び確認させるべきです。 最近では﹁体面よりは実利﹂を強調
のはすべての集姓村がみな持っていた ように王室の霊廟でしょう 。 そして国
することが美徳に通じているのです が、これは浅薄な認識です 。 人間らし く 生きるために何よりも整えなければ ならないのが体面です。人間らし く な い生き方を人間らしく生さることだと 教えるならば、誰が礼法をわきまえる んですか。ばらばらな人たちが集ま っ て住んでいる社会 で、礼とい うものは 相手が誰かを確認する手段です 。 とこ ろが、礼がなくなったので相手が誰な のかが分からないんです。 法の問題においても、もちろん法の 通りにも生きる べきだけれど、韓国人 にとって最も完壁な生き方とは自分の 分に応じて生きることです。今でも、 韓国の人々は﹁彼は法なしでも生きら
コリアナしかしながら、今は朝鮮時 代とは経済的、社会的環境がとても変 わ っているわけです 。何か現代的な視 野からの解決法が必要じゃありません みM
氏衆にしろ両班にしろ、 来 世 や 実 存 的 な 問 題 に 対 し て
悩 ん だ 時 は シ ャ l マ 子ズ ム や 仏 教 が 助 け に な り 、 ﹃
立 ム ロ 、 経一済や家族の問題になれば、 氏 衆 も 儒 教 的 な MJd
価 値 観 を 受 け 入 れ て い た ん じ ゃ な い で し ょ う か 。 そして、
今ではその上に西洋の個人主義的価値観が加わって
主体としての役割を果たしているんじゃないでしょうか
非常に鍬密で膨大な体系をそこまで 実 現した国はありません 。 その当時、生 産技術の限界ゆえに商欧と競争して遅
にも我が国の知識人はほとんどが制度
けることができます。ところが、不幸 論者だ ったのです。彼らは植民地時代 から外部のものをど のように我が民族 の生と文化に合うように受け入れるか で悩むのではなく、外部から取り入れ
れをとりはしましたが、彼らが成し遂 げた文化的な徽密さは大変 な水準でし
二回ずつ王が臣下と共に勉強し て毎日 一 なくてはならない国 がどこにある ので しょ うか。 人類史上、性理 学 のように
た理 論 をも って主導権争いにだけ没頭 。
です。例えば、伝統的価値観の中で、 完全に否定されるべきもの、修正が必 要なもの、修正の必要がな く そのまま 持ち続けるべきものが各々あるのに、
雀鳳永それでは、私が朝鮮時代が到
コリアナそれでは、我々の文化がな ぜそんなに突然断絶してしま ったので しょうか。今からでも蘇生すること が できる価値観はないのでしょうか 。
レ士民 IU# 7
先人たちは過去のものはみな価値のな いものだとしてなくしてしまいまし
達した文化水準に対して誇らしい話を ちょ っとしてみましょう。朝鮮は世界
資本主義 の弊害 を知 っています 。だか ら、それを制御するために階級論理を 受け入れ妥協を見たのがヨーロ ッパの
た 。 むしろ、現代の資本主義は人間の欲
た。文化を体質、制度を器官と考える と、足に出来物が一つできたとい う の
で唯一プラトンが 言っ た哲人政治の理 想を実現しようと努力した国です。正
福祉国家 ではないですか 。米 国 におい ても自ら のキリ スト教精神というもの が資本主義の誤 った部分を純化させる 役割をしているわけです 。
佳 鳳 永 近 代 化 が 始 ま った時か ら、社 会の部門によ って文化変動の類型をそ れぞれに合わせて適用すべきだ ったの
でそれを引っこ抜いて他の人のをくっ つけたようなものです。外から入った
祖 王 (朝鮮朝 二二 代)は代表的な哲人 です。正祖の文集﹃弘斎全書 ﹄を見る と王が臣下よりさらに古典に精通して います 。彼はそのような知識を経世済
威在鳳西洋では自分たちが直接、体 験して見てきたわけですから 、 むし ろ
求を正当化するという面において、非 常にお粗末な実験をしているわけで す。
そのような脈絡から単純な論理とし
制度を私たちの体質の中に取り込む過 程を経なか ったと言うことです。 制度 や法だけ取り入れてそれで近代化にな りますか。
避 け れ ば い い の で 差 恥 心 が な く なり、 人格が育ちにくくなります 。我々は法 を守 って生きていかねばならず、法が なくても生きていかねばならないとい う、この 二 つをどのように調和させる
このように 一旦受 け入れた資本主 義 をど のよう に制御し 受容 してい くかは て、知識人を文化論者と制度論者に分
民に活用して理想国家を実現しようと 努力しました。それに﹁経症﹂とい っ
かを悩まなければなりません。
れる人だ(﹁いい人﹂の意味ごと 言 う でしょ。孔子が言ったように法をあま り強調してしまうと、人はそれだけを
戚在鳳
1 0
その国の文化によるものなので、この 点で私たちには伝統文化である儒教が 大きな役割を果たしてくれることでし ょう。問題は儒教が求める理想的な社 会を作るのに、どれだけ私たちがそう した文化的資源を肯定的に活用できる かということです。 雀俊植儒教を通して資本主義を制御 できるというお考えには賛成です。朝 鮮時代には非合理的なシャーマニズム と合理的な儒教が互いに補完関係にあ ったじゃないですか。その中で合理的 な文化が壊されてしまい、今はシャー マニズム的な衝動と家族主義だけを残 した儒教のみが幅を利かせています。 これからは合理的儒教文化を蘇らせな くてはならないのに ス私たちは過去に 先人らが何をしたのかに対してもよく 知らないわけです。基礎からなってな いんです。その基礎というのが外でも ない研究です。まず、私たちの文化的 伝統に対する鰍密な研究が進められな ければなりません。 雀鳳永私は宗教としての儒教は今や 捨ててもかまわないけれど、儒学は綿 密に研究しなければならないと思いま す。朝鮮時代の儒教文化は私たちが生 きてきた具体的な生の根幹であるから です。そして今日、韓国人が培ってい く知性人の姿勢としてソンビ精神は継 承されなければなりません。私たちに は文士としての強い知性的伝統があり ます。知性人としての脈絡が途絶えた 知識人というのは本当に不幸なもので す 。
カ;ナ
ソンビ精神の核をどう規定
部で、自らのアイデンティティを確立
世界の範とならなければならない 。 歴 史の中に私たちが名前を残すようにし
ます。韓国人の魂を呼び覚ますことが できる説得力のある掛け声は﹁我々は
というものを尊敬しました。彼らが模
するために厳格な規範を設けるわけで す。だから、朝鮮時代の人々はソンビ
なければならない﹂ということです。
雀俊植先ほど言ったように、その倫 理をどのように蘇生するかが肝心なと
範としての役割を徹底的に果たしたの で、五百年もの問、王朝を維持するこ とができたわけです。 戚在鳳西洋の法は個人の私的な領域
は何でしょう。
ころでしょう。私たちの文化の根幹に 合わせた処方が出てこなければならな いわけで、そのためには研究からまず
に対して保護する義務があります。反 面、韓国の儒教社会での﹁人間﹂は常 に他と共にある存在です。要するにプ ライバシーがないんです。ソンビは 一
戚在鳳そうした学問的な総合を土台
なければなりません。朝鮮建国を見る と、その小さな規模の社会で世界観を 共有し、学問と政治力を兼備した人々 が驚くほど集まり、それだけの確信と
として中興のための推進勢力が出てこ
手をつけなければなりません。その次
人でいる時を慎めというじゃないです か。いつも人前にいるべきで、いつも
かによってその人に対する尊敬の念が
能力を土台にして国を興したわけで す。このような主導勢力が自然に出て
大変なものです。自分が精神的なリー
変わるんです。こうして見ると、社会 の基本的な精神が互いにどれだけ違っ
こなければならないと思います。今に なって私たちがそのようなことをする 余裕ができたのではないかと思いま す。植民地時代にはやむを得ず断絶が
他の模範になるべきだから、そうした 生き方がどんなに大変か。それを具体 的な礼法として決めておき、誰がより それを苦しみながら最後まで実践する
ているか分かるでしょう。 今、私たちの社会のソンピに対する 絶対的な尊敬は失われたといいます が、まさかそんなことはありません。
あったわけですし、その後は経済発展 しようとして大変でしたし、今やっと 建国五O年なわけです。新しい国を導 いていく何かが出てこなければならな
がある知性人としての規範が非常に徽 密に発達しています。例えば、ソンビ
す。ソンビは隙聞を覗いて利益を図れ ば終わりです。ソンビには社会的責任
ダーとして社会的な責任と主体性を持 っていなければならないのです。ソン ビは利益の隙間を見てはだめだといい ます。義に徹するを善しとし、その利 益を図つてはいけないということで
が普段、真つ昼間に横になって寝てい たら、これは致命的ですよ。
私が思うに道徳的な合意は恐ろしく強 くなっています。最近の I M F事態に 対処する姿を見てください。自然に消
第 二の建国ということですね。
コリアナ結構なお話をありがとうご ざいました。
佳俊植
い時になったのではないかという気が します。
費がずっと減って、すでに身に付いて きているでしょ。
雀鳳永ですから、世俗的な司祭なん です。朝鮮時代のソンビは学者であり、
崖鳳永我々はある状況で、歴史的事 態に対する自覚が喚起されればそれを 直ちに行動として実践しようとしま す。特に韓国人は自分たちが模範にな るべきで、それに加わる時、心が弾み
戚 在 鳳 一 言 でいうと修道者の生き方 でしょう。西洋の修道院の修道者の生 き方を日常生活の中で、家族のいると ころで実践するわけですね。
朝鮮時代のソンビの権威というのは
というのは何ですか。そのために彼ら は途方もなく自分を節制することにな るんです。
ビ精神の核心は模範を示すことによっ て、歴史を通して後世の人々の精神の 中に永遠に生きることです。﹁立身揚 名﹂と言うじゃないですか。﹁揚名﹂
て実践して行くということです。ソン
崖鳳永まず、ソンビは、﹁修身斉家 治国平天下﹂という人でしょう。自分 から始まって天下にまで責任を自覚し
しコ 官僚であり、また司祭です。自分の内
A
1 1
まり すア
H ir yえ
らない必要性が提起される。それは歴 史を重視することとして現れた。経経
いう基本的な態度こそ安定性の基礎で ある。 人類の生き方というのは試行錯誤の 連続線上で展開されている。同じ間違 いを繰り返さないためには過ぎし日の ことをきちんと知っておかなければな
んと知ってこそ新しいものを知る﹂と
持つ様々な特徴ある面貌に起因する。 先ず考えられるのが温故知新(温故市 い 知新)の精神である。﹁古のものをきち
の精神こそ、東洋社会が綿々と守って
きた人文精神であり、東洋の精神文化 を高めた土台なのである。新しい時代 が関かれるたびに、この精神は少しず
つ論理を補強し、新しい時 代 の対応論 理として機能した。韓国の場合だけを
見ても一八世紀の朴跡源によって斉唱 された法古創新の論理であるとか、 一
九世紀の東道西器論、 一八九四年甲午 更張(一八九四年、高宗甲午年に金弘 集らの開花派が政治制度を近代的に改
緯史の精神の強調がそれである。経典 の真理を永遠不変のものとして前提し
枠の中で陥没し、近代化の荒波にさ ら われてしまった。その結果、東洋社会 は一世紀以上西欧の理念の角逐の場に
ている。 しかし、西勢東漸に対応するこのよ うな模索までが一九世紀の帝国主義の
革したこと)後に提起された旧本新参 の論理が全てそのような認識に基づい
て経線と認識し、時の流れに伴う変化 の様相を歴史と考えて緯線と認識した。 例えば、真善美であるとか孝行のよう
えるが、植民地化以前の時代であった 朝鮮王朝時代の歴史に対する真撃な探
な人類の普遍的な真理はいくら世の中 が変わっても変わることのないもので あるが、それを追求する方法は時代に よって異ならざるをえないものなので
互補完して人間史を 把握する経経緯史
ある。 このように哲学(経学)と歴史を相
なって漂流した。 その長いトンネルの中から東洋社会 が抜け出そうとしている現時点で我々 が再び蘇らせなければならない精神の 中の一つが経経緯史の精神であると言
共感を呼び起こしている
は今なお多くの人々の
特徴づけられるソンピ像
常に威風堂々とした姿で
い不挽不屈の精神力、
ためには死をも辞さな
強靭な気概、 正 道 の
朝鮮王朝時代の ンビの生き方と ソンビ精神 ソウル大学園史学科教授
般的に朝鮮王朝時代の知識人 はソンビ(士人)と理解され
下ろすことができたのは、その思想の
を基本的に提示している。それらの思 想の多様さにもかかわらず、儒教思想 が中国の統治イデオロギーとして根を
役割を担ってきた。春秋戦国時代に形 成された諸子百家思想の論理は人類が 思い起こすことのできる諸思想の原論
ている。 東洋の知識人は時代の流れの中でい つの世でも社会的、政治的に中心的な
り方は、伝統時代の知識人であったソ ンビ と比較され、ソンビ精神に対して 再びスポットをあてることが求められ
今なお多くの人々の共感を呼び起こし ている。日帝時代と光復(解放)後の 現代史の展開過程の中で知識人が見せ た体質的な限界と現実妥協的な身の振
とした姿で特徴づけられるソンビ像は
な志操と首にナイフを突きつけられで も恐れることのない強靭な気概、正道 のためには賜薬はもとより死をも辞さ ない不捷不屈の精神力、常に威風堂々
一 ている。ソンビは今日の倭小 な知識人とよく比較される。特に剛直
一
A
鄭玉子
ソ
1 2
究とその時代の思想であった儒学、具 体的には性理学に対する省察が要求さ れる。 この性理学を学んだ朝鮮王朝時 代の知識人の代名調がソンビであると いうことは広く知られている事実であ る。ソンビというのは身分的には良民 で、経済的には中小の地主層である。 性理学を主専攻とし、その理念を実践
なることが最終目標であった。ソンビ 精神は清廉潔白の美学に基づいている。 ソンビの修己は﹃小学﹄から始まる。 ﹃小学﹄は 小学生程度の子供に掃除の仕 方と目上の人に対する 礼儀作法、部屋 の出入りの仕方など、人間らしく行動 するにあた っての最も基本的な立ち振 る舞いの規範から教えた。少なくとも 自分が寝た布団は自分が畳んで片付け、
はより一層徹底的にしつけられた。目 上の人に対する礼儀作法を強調する具 体的な行いとしては目上の人が呼んだ らすぐに返事をして、その前に参じて 教えをいただき、客が来たら謙遜な態 度で迎えて案内し、部屋の出入りの際
の立場から見ての朝鮮の現実に合った 子供の修身の教科書が登場するのであ るが、﹃撃蒙要訣﹄である。栗谷李現
(一五三六1 一五八 四)が著述した この 本は志を立てよという﹁立志﹂から始 ま っている点が特徴的である。併せて
立ち振る舞いの姿勢を具体的に説明し た九容(手 ・足 ・顔など身体の各部分 の望ましい姿を 九 つの部分に分けて説
の作法を段階的に規定して教えたので ある。性理学を国学にした朝鮮王朝時 代の社会で﹃小学﹄を子 供 の修身の教
従い、その都度考えなければならない
明している)とものの考え方を提示し た九思(日常生活で当面する出来事に
。 科書にしたことは当然のことであ った しかし、性理学が朝鮮に土着 化する 一六世紀の後半になると、朝鮮ソンビ
山水 J という 絵 画の ジャ ンルで表 現した 。絵 は真景 山水の大 家であ る鄭善女の「万濃洞、 」
自分が出したゴミは自分が始末しなけ ればならないというのである 。 これは 身分を超越したもので、両斑の家庭で
朝鮮後期 、 ソンビ ( 士人 )たちは浩然の気を 養 うため、祖国の山河に親しみ、それを「真景
を根本とした学者官僚である士大夫に
τ
する学人であり、士の段階で修己(自 らの人格と学問を磨く)し、大夫の段 階で治人(人を治める)する修己治人
, r F ' sむ ¥ ・ 皆 ・
b ; aw H 轟必然 Ja rνghH
1 3
2 m 品 川円か
リ シ 戸
33X22cm、 18世紀初め
JAzp芳 判官戸局 U W ・ 柿d
念 講
-証
九つの条目)などの項目は当時の知識 人が受けた教育の内容が手に取るよう
た。一六世紀後半の李現栗谷によって 朝鮮化された性理学を朝鮮性理学とい
内容より包装と 言える文章学がもては やされ、軽薄で華麗な文辞だけを羅列
れたのである。文章は経学で追求され る理念と歴史で提示された真理を盛っ た器と 言 え、その関係は道器論として 規定されたのである。時代によ っては
要﹄の誕生は外来思想としての性理学 が土着化したという証に間違いなかっ
う理由がここにある。以後、朝鮮王朝 時代の社会の展開過程はその理念の実
などの子供用の教科書を通じて未来のソンビたちを厳しく教えた(上と左)
に詳細に提示されている。 さらに彼らが基本教科書に採択した
. . . . . . . ・ ・
して問題になったこともあ った。しか し通時的に見れば、文・史・哲は同じ
ソンビ(士人)の清廉潔白な精神は幼い時から厳しく教育された。書堂(村塾)では「小学」
現過程であると言っても過言ではない。 以上、その時代の知識人である人々 が基本的に経学と歴史を学問の中心軸 にしていたことを探 ってみたが、それ
考えたのである
図書三経をはじめとする経典の内容は ﹃大学﹄の主要指針である修身・斎家、 治園、平天下を実践するための理念書 であり、指針書であるということがで
な人柄を持ったノくランス感覚のある人間こそ望ましいと
きる。特に統治者の学問といえる﹃大 学﹄の朝鮮的な変容といえる﹃聖学輯
あり、 正すべきところははっきりと正しながらも、 温か
比重で追求される必 須科目であった。 このような教育が理性訓練の極大化 であるとする時、その方法が格物致知
この二つを迫初に調和させて、 柔 和 で あ り な が ら 基 準 が
であった。格物とは物事の理知を知る
しい道理である義理をうまく調和させた人間であった。
った器として文章学の重要性が認識さ
の現れである人情と人間として守らなければならない正
を表現する媒体としての文章学もまた おろそかにはしなかった。経学と歴史 のメッセージを道と認識し、それを盛
朝鮮王朝時代の知識人が追求した人間の理想、型は、 感性
ために観察して、実験する段階として 知の基礎になるもので、その結果、真 の知の境地に達することが致知である
と言えるわけであるが、その中間段階 が理知を最後まで追求していく窮理で ある。格物、窮理、致知を通して、世
間万物の理知に到達し、明断な自己省 察が可能になり、完壁な人格を持つ人 間の形に到達する。しかし、そのよう
な合理性だけでは完全 な人間になるこ とはできないという認識の下、詩書・画を通じた感性の訓練を重要視し た。詩社を組織して、定期的に詩会を
開き、漢詩を作って書で残し、絵画を 描いてE いに鑑賞し合うなど、一連の
芸術行為を通じて、豊かな情緒生活を
営むことにより、無味乾燥になりやす い学者生活に光を与えたのである。そ
うして文 ・史・ 哲の専攻を補完する教
養の必須として詩・書 ・函が根を下ろ すことになり、理性と感性がうまく調
和 のとれた 人間の模範的な姿がソンビ と理想型として追求されたのである。 従って、朝鮮王朝時代の知識人が追
求した人間の理想型は、感性の現れで ある人情と人間として守らなければな
らない正しい道理である義理をうまく 調和させた人間であった。あまりに人 情にこだわりすぎては基準が暖昧にな
って腐敗しや すく 、義理だ けを考えた のでは、世の中すべてが索漠となって 生き甲斐を感じなくなるものであるか ら、こ の二つを適切に調和させて、柔
和でありながら基準があり、正す べき ところははっきりと正しながらも、温
かな人柄を持ったバランス感覚のある 人間こそ望ましいと考えたのである。
1 4
今日の知識人が信奉する合理主義の基 準からみると明確でないと思えるかも 知れないが、両極的な態度を止揚して、 中庸の精神を高く掲げたその時代の価 値観の表出であった。我々が 一般的に 朝鮮王朝のソンビに対して持っている 頑固だとか融通が利かなくて気難しい とかいった表現は朝鮮王朝末期、亡国 大夫になった劣悪な状況で自信を喪失 して自己防御的に偏向した知識人像で ある。 朝鮮王朝時代のソンビの社会進出は 基本的に科挙を受ける方法と生涯を片 田舎で勉強にのみ専念して山林に特別 採用される場合とがある。生員や進士 の試験が小科と呼ばれる資格試験であ るとすれば、文科の試験は大科で、こ れに合格してはじめて官職に就くこと ができる。このような官職へのコlス を踏むことなく特別採用される人は学 派政派の構図で展開された朝鮮王朝 時代の学問的かつ政治的状況の下では 事実上、学派の領袖であり、政派の中 心人物であった。こういった人物は、 何十年もかけて究め磨いてきた学行で、 一七世紀の非常時局に政治の一線に積 極的に登場し始めた。彼らは壬辰倭乱 (文禄の役)と丙子胡乱の二つの戦を克 服して朝鮮王朝時代の後期の社会を再 建するために国家の基本的な方向を設 定して、国民が 一致団結して共に努力 する求心点の役割も果たした。 一七世 紀は山林(官職に就いてはいないが、 学徳の高い隠士)の時代と言えるほど、 山林たちが国家の中枢的な役割をし、 待遇された時代であった。 もう 一つの進路は蔭職であるが、高
麗時代とは異なって、朝鮮王朝時代の 蔭職は微官末職であるだけでなく本人 進んで活動をするなり、身を引いて隠 れているなり、この時代の知識人は基
て作らないという意志の表現であった。
ても冷笑的であったり、責任回避をす るような態度をとらなかった。彼らの
な態度で臨ませ、いかなる事柄に対し
んのこと、国家社会に寄与しなければ ならないということが基本的な常識で あったためである。
二つの基準であった。この 二 つの基準
である。そしてそれを実現するための 目安が今、 言 及した人情と義理という
現することこそ、この世を住みやすい 世の中にする近道であると考えたため
一緒にこの世で生を実現できる共同の 善である公的な義、すなわち公義を実
本的に政治志肉的であるという共通分一 最大の関心事は公義の実現にあった。 個人的な欲望を抑えて、自分と他人が
常識と考えていた。最後に選択する道 が陰逸である。自分の存在している時 代を乱世と認識する時にとる道である。 無道の時代に政治の世界に飛び込んで
そのため彼らが最も強調したのが責
を受けて正当な道を探し求めることを
も自分自身堂々とできないと考え、蔭 職で出発したとしても再び科挙の試験
世の中の助けになることではなく、自
任意識であった。自分こそ社会のリー ダーであるという意識が何事にも真撃
母を持っていた。彼らにとっては、政 治を通じて自己成就することはもちろ
分の頭と知識が乱世を延長させること に加担したり、悪用される素地をあえ
1 5
いからである。
った彼の家を訪ねたのだが 、自分の 家
たことが確認できるようなエピソード と一言守える。当時の兵曹判書が左議政だ
持 っているにもかかわらず、回人的な 私生活では限りなく優しく温和な人で
精神と、強き者を抑えて、弱き者を助
事に臨む時、公的なことを優先し、個 人的なことは後に回す﹁先公後私﹂の
また、秀でたソンビ精神としては仕
府の長官)を全て歴任し、一八年間も
の門脇部屋のある建物とあまり変わら ないことに ショック を受けたという記 録も残っている。 右議政を務めた柳寛は雨漏りのする 一聞きりの茅葺きの家で麻の服と藁草
r
領議政の座について、清白吏の模範を 示した。彼が領議政の座についていた 時、工薗田判 書 を務めていた 金宗瑞が自 分の所属していた官街(官庁)である 工曹に若干の酒と油菓を準備して、政 丞と判書をもてなそうとした。これに
のか﹂と夫人を叱った。公私にかかわ らず、同様に厳しい基準を適用してい
色﹂と侮られもした。巧妙な 言葉 とす ました顔つきで人を編し、自分を編す
的に食事のもてなしをしようとするの
黄喜は四O代後半から五O代の前半 にかけての十数年問、 六曹 判書(朝鮮 王朝時代の主要国務を処理した中央官
嘘をつくと考えられたためである 。 また人にはよくして自分には厳しく する薄己厚人の精神を体質化させ、清 貧で倹約な生活を自然に身につけた。 この世の中で使いたいだけ使 って残る か﹂と厳しく 叱 った。予算 外の経費の 支出による副作用を警戒したのである。
が正確に平衡を保つ時、人々は疎外感 を感じずに公平な暮らしができるとい う認識であった。 彼らの実践は学行一致で始まった。 学んだ ことは行動に移してこそ意味が
余裕というものはあるはずがないので あるから、自分のためには惜しんで節
るんですのよ﹂と答えたという エピ ソ ードは有名で ある。大部分の官吏が傘 の心配をするような必要もない家に暮 らしていることをその夫婦が知らない はずはないのであるが、互いにとぼけ てこんな会話をやりとりする夫婦の姿 がユーモラスである。まさにその夫に その 妻とはこのことである。 この三人が集ま って話を交わし、友 情を分かぢ合 ったというところが今の 温陽に残っている孟氏の杏檀である 。 おそらく生涯の友として互いに力とな り、励まし合 ったことであろう。そし て、誰がより清廉潔白に生きていける かを賭けたかも知れない。 三人とも余 裕満々で心が広く、ユーモアを理解し たため十分にその可能性がある。 しかし、何よりも 重 要なことはE い に交わり感じることのできる透徹した 使命意識であ った。精神的に充実して いる人間には虚ろな感情などあり得な
ような理想社会である大同社会をこの
一 の 境地に到達しようとした。ここで 言う天 とは今日 言われる絶対者を指す のではなく、自然の秩序を意味してお り、人が自然の秩序の中に調和して 一 つになる境 地を 意味する。そしてその
他人が共にこの世の中で仲良 く生を実 現しようという理想を持ち、そのよう な認識を拡大することにより、天人合
自分自身の生活が大切であるように 他人 の生活も大切であり、自分自身と
人間相互間の愛敬を大 事 に考える礼に 立ち返ることができる近道だと考えた のである。
克服する克己の道だけが人を尊重し、
とである。自らの欲望を極大化させる と、人間は人を苦しめたり、人の生を 破壊することになることから、自らを
は自らの利己心と欲望を抑えて礼に到 達すること、すなわち克己復礼して人 聞がみな共存して共生しようというこ
りしているという人物を指すのである。 このようにして目指す最終的な目的
あ ったわけである。文字通り外柔内剛 の個性を持っ ている人聞がソ ンビの 典 型なのである。外面は優しく誰に対し ても親切で礼儀正しいが、芯はし っか
ける﹁抑強扶弱 ﹂の 精神をあげること ができる。危機に遭っては志操と節義 を守る透徹した気概を見せる強靭さを
約してはじめて人に施すことができる
ある日、朝 礼に大 臣全員が絹で作った 新しい服を着て出席したところ、黄喜 政丞だけが目の粗い麻で作った官服を
あるのであり、口でいくら偉そうなこ とを言 ってもそれを実践できなければ、 批判の対象になるだけでなく﹁巧 言令
というのである。そしてこのような清 廉な精神を官職生活を送りながら、実
着て出てきた。その翌日から大臣全員 が古い官服に着替えて出勤するように
対し、黄喜は﹁国家で礼賓寺を設けた のは接待のためであるのだから、もし 空腹であるのなら礼賓寺に食事の支度 をさせればいいものを、どうして個人
践することにより、数多くの清白吏 (清廉潔白な生活をする官吏)が輩出さ
なったというエピソードも伝えられて いる。象徴的な人物の一挙一動が及ぼ す影響力を物語 っている。それだけの 人柄と人格を評価される人物であった だけに、 豪審 を好む大多数の官僚たち を感化させることができたのである。 孟忠誠は夫人が新米のご飯を差し出 すや、この新米はどこで手に入れたの かと尋ねた。俸禄としてもらった米が あまりにも日が経ちすぎて食べられな くなったので、隣の家から借りてきた と答えると、 ﹁ すでに固から禄米をもら ったのだからそれを食べるのが当然で はないのか、どうして隣の家で借りて まで新米の飯を炊かなければならない
履という清貧の生活をしていた。ある 夏、ひと月以上も降り続けた雨で屋根 の雨漏りがひどくなると、柳寛は傘を 差して夫人に ﹁ 傘もない家はどうして いることか・・・﹂と 言 うと、夫人が ﹁ 傘のない家には何か代わりのものがあ
れ青史に輝きを与えているのである 。 清白吏を訪ねて、タ イムマ シl ンに 乗り、当時に戻 ってみよう。韓国の歴 史上最も進取的で創造的な時代で、社 会正義が具現されていたと言われてい る世宗大王の時代は、清白吏が数多く 輩出された時期とも言われている。彼 らがいたからこそ世宗大王のような聖 君が出たとも言える。その中でも代表 的な人物が黄喜、孟思誠、柳寛である 。 この 三人の人物は、友情も篤く、親し い仲であっただけでなく、実践におい ても 全く 同じ志向を見せることによ っ て、太平盛大な世宗大王の時代を築い たのである。
1 6
露である白磁で生活用品を揃えた。
て実用的な木造家具に文房四友(紙・ 墨・筆・硯)を置き、ソンビ精神の発
して国土愛を説いた。小さな構図にと らわれて大きな構図を見過ごす狭小な
特に朝鮮王朝時代の後期の知識人で ある士大夫たちは全国いたる所に出没
く、思想性である道を表現する媒体で
世に実現できるという確信を持 って前 衛になろうとたゆみない努力をした理 想主義者がソンビであった。 彼らは理想主義者であっただけに、 これより多少条件のいい場合は、池 と草堂(離れ)のある裏庭まで造 って
あ って、独自な生活空間が保障されて いた。サランチエは簡潔で品位があっ
また挫折も大きかった。殺伐だとしか
豊かで趣のある風流な生活を楽しむ余
学問と芸術を一致させようとする学
林の結果、祖国の山河に対する愛情が
に、浩然の 気 を育てる必要があるとい う判断からだ った。このような山川儒
う自尊意識)は、 一八世紀にいた って 自 らの 文化が最高 という自負心から朝 鮮文化の 全 盛 期 を 作 り 出 し た の で あ る。
真景 山 水 画 と し て 現 れ た り も し た 。 ﹁ 三千里錦繍江山﹂という国土愛の標 語も生まれた 。 このような思潮は朝鮮 文化の第 一主義とも関連する。二つの 乱(壬辰倭乱、丙子胡乱)を経て、 一 七世紀の朝鮮社会再建の牽引車の役割 をした朝鮮#華主義(文化中心国とい
このような運動の中心軸にな った士 大夫たちは、自らの文化に対する誇り
を育てながら、その文化を守り高揚さ せるだけでなく、 一八世紀半ばの朝鮮
文化全盛期の極点で先進文化の導入論 理まで作り出したのである。北学運動
がそれであるが、朝鮮性理学がなした
成果を発展的に継承するため、新たに 浮上 してきた清の技術文明を積極的に 導入して朝鮮文化の限界性を補完しよ
うというものであった。 朝鮮が自給自足の農耕社会から商工業
いくら ロで ・
の技術文明と新しい学問である清の考証 学を導入しようという生存論理であっ た。自己のアイデンティティは守りなが ら世界化していこうというもので、今日 の中身のない世界化 の呼びかけと比較さ れるものである。.
ない正しい道理)を追求する朝鮮性理学 の長所は生かしながら、方法論として清
社会に転換する時点での新しい進路の模 索であると同時に世界化運動 であった。 義理の学(人間として守らなければなら
させ、 清 貧 で 倹 約 な 生 活 を 自 然 に ' 身 に つ け た
て自分には成しくする薄乙厚人の精神を体質化
﹁巧言令色﹂ と 侮 ら れ も し た 。 ま た 人 に は よ く し
ば、 偉そうなことを言ってもそれを実践できなけれ、
行動に移してこそ意味があるのであり、
彼らの実践は学行一致で始まった。 学んだことは
裕もあった。ここに気の合う友人を招 いて、詩を朗請し、絵を描き、・書道を たしなんだのである 。
あるから、道と文章は 一致しなければ ならないというのである。
表現のしょうがないような名分社会に おいて、自己整合性を失ったり、論理
人間にならないために、文・史・哲 の 専攻必須と詩・ 書 ・函の教養必須以外
的な正当性を喪失した時、 言宮 から猛 烈な批判を受けただけでなく、土林社 会の世論である清議に押されて辞職疏 を出すことが珍しくなく、ひどい時は 流配されたり、それよりもっとひどい 時には賜薬を飲まされる事態にまで陥 ることもあった。辞職を強いられる場 合は自分の社会的・経済的基盤のある 故 郷 に 都 落 ち す る の が 常 例 で あ った。 そこで心機 一転 して出直す機会を待 っ たのである。 官僚生 活のために疎かに していた学問の研究と自己修養をしな がら弟子の養成を通じて自分自身の位 相と役割を新たにしたのである。 流配された場合、その地方の文化的
芸一致の精神は彼らの風流な生活の基 本的な姿勢であ った。絵 や書道が小手 先の遊び事でできるものではなく、本
かつ学問的活性化に寄与するために弟 子を育て、学問研究に没頭したのであ る。こうした人々の学行は苦行に近い もので超人的な忍耐力を見せるエピソ ードが多い。賜薬の命が下 っても心揺 るがすことなく毅然として入神の境地 にまで到達したように考えたりもした。 彼らのこのような行為の根底には、幼
が積まれて、香りを放つという文字香 (文字が醸し出す香り)と初巻気(本か ら湧き出る気運)が溢れ出て、はじめ て絵や書 が完成すると考えたのである。 このような認識は 書道をたしなむ 基本 姿勢である道文一致論と相通じる。文 章というのは華麗な修飾語の羅列でな
をたくさん読んで心の中に万巻の書籍
い頃から培われて、完成した人格体と しての自己確信があったと理解できる。 とはいえ、ソンビの生活が何の楽し みもなく索漠たる名分を立てることだ けに没頭していたわけではない。彼ら の生活空間には学問に没頭し、交遊で きるサランチェと呼ばれる書斎が別に
1 7
会主山 の 牛 計 論 7ンピョンジク
ソウル大学綬済学部教授
安乗直
タサン
)
a
若 鏑 ( 号 は 茶 山 一一七六二 A TEEE'i 一八 六 は、代々続い 一 一 た 由 緒二 ある士族の家門に生 まれ、一 七 八九年、二八才の年で 科挙
使)などの中央や地方の官職を歴任し
試験の文科(文官)に及第し、その後、 兵 ・刑曹参議や谷 山府の長官(谷山府 た。特に王命を 司 る役所である﹁承政 院﹂ の左 ・右の副承旨として王に仕え、 その信任を受けて様々な改革を断行し たが、むしろこれが反対派の妬みを買 い、一八O 一年の﹁辛酉邪獄﹂に連座 して全羅道康津に流 刑 の身となった。 だが彼は、このような逆境を﹁天が学 問をせよと自らに与えた良い機会であ る﹂と考え、流 刑生活の一八年間に儒 教経 典と 実学に関する 研究に励み、李 漢(号は星湖)に始まる一八世紀前半期 の実学で土 地制度の改革を中心とする 制度改革を唱えた ﹁ 経世致用之学﹂と 、 号は燕岩)に始まる一八 世紀 朴世源 ( 後半期の実学で商業の振興と技術の開 発を唱えた ﹁ 利用厚生之学﹂を集大成 し 、 一つの実学に統合した。 茶山 の学問は、﹁儒教経典﹂に関する 体系的 な研究と、当時崩壊しつつあっ た国家体制を立て直し富国強兵を成し 遂げ よ うという、実学から成り立 って いた。 このような彼の﹁経学研究﹂と ﹁ 経世論﹂ のスケールに 比 べると、本文 で紹介する彼の﹁個別家計﹂に関する ﹁ 生計論﹂は、 一見小さな問題の ように 見えるが、実際には生計論が彼の思想 体系の 中 に占める位置 は非常に重要で ある。 茶 山 は、彼の国家改革思想が込めら れた主著として一八 一七年に﹃経世遺
昔の韓国人の経済観
わりにご飯を一口食べる度に一度ずつ見るようにと言った話は有名だ。穏国にはこうした「此苔高卑」の話が全国に広くあるのだが、笑い話とは ひどいケチを抑撤して「批苔高卑Jと呼ぶ 。 あるソンヒ‘ が塩漬けの魚を買ったのだが、ご飯を食べる時、天井にぶら下げて子供らにおかずの代 言いながら 、普か ら勤倹な生活を美徳としてきた緯国人に教訓的な内容 として受入れられもした。
j 去を創案するなど、高麗時代から卓越 した商売の手腕を発揮して名声を悔した。この開織商人らが植民地時代には愛国心を発揮したので、日本人
昔の韓国人は名分を保ちながら実利も大事にするバランスのいい経済感覚を持 っていた。そもそ も「開織商人 Jは西洋より 2 0 0 年も進んだ簿記 商j 苫が関城に手を広げることができなかったという 事実はそうした韓国人特有の調和のとれた経済感覚を示す良 い例だと言える。
の 豆 Cm z o m の 工O工C Z 日己 主O明明言、y
開城商人たちの帳簿である「松都四介; 台簿 日記」は世界最初の複式簿記として伝えら れている
1 8
pp訂天印m亡 Z の C
は、実は彼が﹁生計論 ﹂ を通して訓戒 を与えようとした彼と同類の﹁貧士﹂ 階層を指している。茶山は、彼が﹁生
中で、農業開発を主に担う階層として 裕福な中小地主階層である ﹁ 高賞層﹂ を取り上げているが、この﹁高質層﹂
﹁井田制﹂を中心とする土地制度改革論 をその主内容としている。この著述の
表﹄を著した。この﹃経世遺表﹄は、
ることだ。つまり、我々がもしここで
重要なことは、先進的な営農方法、新 しい経済倫理及び新しい実学的学問の 方向が、彼の ﹁ 生計論﹂に示されてい
かという問題が扱われている。ここで
中、士大夫の営農方法は何であり、営 農において守るべき経済倫理はどうあ
いる。商品経済が活発になりつつある
るべきで、また農業に従事しながら得 た経験をどのように学問に結びつける
計論﹂において訓戒を寺えようとする
彼の生計論を、単純に官職につけない 不遇な新興士大夫階層の生計論として
その場所を茶山自身の分身にしたいとい う意味に解釈されたりもする
階層を ﹁ 貧土﹂と呼んだが、実際には 彼らは自作農の上層あるいは小地主層 pp泊犬四mCZの﹄ 己
0
士大夫層と重なるため、農業開発はも ちろん、国家改革においても彼らの担 う役割を非常に重要視したのだった。 彼の﹁生計論﹂は、官職に就くこと ができず、広範囲にわたり存在してい
一、営農 と商業 朝鮮前期において、士大夫は本来支 配階層として学問を究め官職につくこ
農業経営論、職業倫理論及び学問論と して考えるならば、彼の生計論は朝鮮 後期の新しい歴史の発展方向を明らか にする彼の知恵とみなすことができる ということである。
受け取るのではなく、先進的な階層の
う意味の「丁」と「石」の二文字は「薬 水の落ちる石」という意味、あるいは 「水のように暮らすのが夢(上善若水)J という道家の思想のように、水の流れる
とがその本業であった。官吏になれば 国家から俸禄と、科団法(朝鮮前期、
であり、新興士大夫(﹁読書日士従政 日大夫﹂といい、役人と役人予備軍を 通称する)層であった。つまり﹃経世 遺表﹄において農業開発の担い手とし て設定された﹁高賞層﹂は、この新興
茶山草堂近くの岩壁に茶山が直接彫った 文字(下) r 水が濡れて落ちる音」とい
た朝鮮後期の﹁農村知識人﹂の生計方 策を示すことをその直接の目的として
1 9
茶山・丁若舗が 18年 間 の 流 配 生 活 中 に 様々な分野の本を書いた茶山草堂(上)。
役人に固有地の収租権を与えた制度) により租税が受けられる収租地が付与 されるので、生計には心配がなく、ま た官職からしばらく遠のく場合にも収 租地はそのまま所有できたため、﹁吟風
堪えられないつらい労働であり、しか もその利益はきわめて少なかった。し たがって、広い耕地で農業をするのは 賢明でなく、士大夫家の﹁田農﹂は奴 嫁や下男に任せるのが良いとした。﹁園
どの園芸作物や綿花・煙草・藍などの 商品作物の裁培を指し、﹁園﹂は果樹栽
闘﹂は﹁圃﹂と﹁園﹂で構成されてい るが、﹁園﹂は野菜・薬草・高麗人参な
できた。しかし、朝鮮後期に入り科団 法体制が崩壊し、役人に収租地が与え られなくなっただけでなく、官職につ 培と植林を指す。﹁養蚕﹂と﹁畜産・養 魚﹂に関しては説明する必要はないだ
弄月﹂(詩を詠み人生を楽しむこと)が
けない新興土大夫階層が増え、士大夫 は別の生計手段を考えざるを得なくな ろう。この中で茶山は、士大夫が従事
ならない農業部門として養蚕を説いて
家が担える量ではないことを考えると、 彼の主張は近代的な商業農業に関する 一つの予見であると思われる。 茶山は士大夫が特に重視しなければ
業と結びついていながらも、それ自体 は商売ではないので、名分と実利が両 立すると考えたのである。
とつながっていたからである。茶山は、
車を回すのをやめず、その家は生活に
が、その時主人の家族らは、五歳の子 供は鳥を育て、老夫は葛のつるで縄を 編み、老婆は近所に遊びに行っても糸
ら老人にいたるまで自分の仕事がある べきだという。茶山は、かつて慶尚道 長者で流刑生活をしていたことがある
の分業を主張した。まず、農家の構成 員は遊んで働かない者が誰一人もいな いようにすべきであり、五歳の子供か
実践されなければならない。 まず勤勉に関して見ると、彼はその 方法として家族構成員の性別・年令別
た。勤倹がこのように解釈されるなら ば、それは当然士大夫の家においても
た。言わば、彼は勤倹は 一種の性格で あり、それ自体が目的だと認識してい
した。また彼は、これは自分の﹁性癖﹂ からそうするものであり、子孫に遺産 として残そうというのではないと語っ
を作り、そして魚を飼ってせりを裁培
茶山は勤倹を﹁性癖﹂だと認識してい た(腫学瀞家戒)。茶山は、茶山草堂に 起居しながら、自ら池を掘ってせり畑
ように考えていたのかという点である。
れていたということは特に説明する必 要はないだろう。ここで明らかにすべ きことは、茶山が具体的に勤倹をどの
れを彼の基本的経済倫理として受け入
のはよく知られているところである。 茶山もまた儒学者だったのだから、こ
二、 勤 勉 と 節 約 勤倹が儒教の基本的経済倫理である
いる。彼は、当時穀物以外の農業資源 が乏しい中、養蚕は新しい農業資源の 開発になると認識していた。彼は彼の 流刑地である南方地方の某農家は、桑 の木を三六O株も植えを蚕室三つを建 てて室内を十字路に区切り、蚕を育て る棚の﹁箔﹂を七層に積み上げて養蚕 をしているが、一年に穴銭三六O束の 収入を上げ、 一日に一束ずつ使う豊か な生活をしていると紹介している(示 学淵家戒)。そして、彼は桑の木を栽培 する方法として、畑に植えたものを毎 年根元まで枝打ちをする﹁地桑﹂とい うものがあり、絹だけでなく桑を売っ て収入を得ることもできるとした(牧 民心書勧農)。彼が養蚕の重要性を強 調してやまないのは、士大夫が生計を たてるにあたり、婦人の労働を紡績に 利用することによって労働力を完全燃 焼することが何より重要なことを深く 認識していたためである。 茶山が、土大夫が直接従事できる仕 事として﹁園圃﹂を強調したのは、こ の種の仕事が士大夫であってこそうま
が、﹁頃﹂は四O斗落(一斗落は約一 O O坪)であるから、高麗人参を﹁数
士大夫が商業に従事するのは身分にそ ぐわないと考えた。だが、﹁園圃﹂は商
くできるものであり、また士大夫でも 耐えられるものであったということも あるが、特に﹁園園﹂の収入がよかっ たためでもある。﹁園圃﹂が高収入であ ったのは、単なる農業ではなく、商業 頃﹂裁培するのは大商人でなくては不 可能なことだと思われる。これは 一農
くないと考えた。また彼は、高麗人参 は﹁数回︿﹂栽培しても良いとしている
議三)、広い土地を所有していない士大 夫でも生計を立てるのにそれほど難し
ば他の穀物の一 O倍の収益が上がるの で(﹃経世遺表﹄地官修制田制十井田
の周辺でこそ大量裁培が可能だった。 このような園芸作物は同じ耕地内なら
り、繊細な管理を通してのみ期待した 収穫が可能だったので、狭い耕地に労 働力を集中的に投与せざるを得なかっ た。また商品作物であるため、販路を 確保することができる大きい城や都市
の多様な野菜や、薬草・高麗人参など があった。これらの作物は集約的であ
当時の園芸作物には白菜・大根・ニ ンニク・唐辛子・ネギ・ショウガなど
術的にも高度なため、士大夫として自 ら農作業をすることのできる農業部門 として、園芸と養査を強調した。
できるだけでなく利益も多く、また技
った。そうでなければ、官職についた 士大夫さえも自分たちの身分を維持す ることができなくなったのだ。ところ が、朝鮮後期の社会的、経済的条件は 前期とは大きく変わっていた。後期に は商業が大きく発達し、これに伴い地 主制度も発達した。したがって、新興 士大夫の中には土地を購入して地主に なったり、彼らの下人を商業や高利貸 業に従事させることによって生計を維 持する者もいたが、茶山はこのような 方法による生計維持に対しては強く反 対した。なぜなら地主経営や商業・高 利貸業は理由もなく人から搾取すると いうことだけでなく、これによる富の 蓄積は﹁酒色雑技﹂に耽溺する子孫を 生み、滅びるに決まっていたからであ る。だからといって士大夫が穀物栽培 をする﹁田農﹂に従事することはでき なかった。﹁回農﹂は、士大夫には体力 的に手に余るだけでなく利益も少なか った。 茶山は、当時の農業部門を﹁田農﹂、 ﹁園圃﹂、﹁養蚕﹂及び﹁畜産・養魚﹂等 に区分している。﹁田農﹂は伝統的農業 のことで、体力のある農夫でなければ
2 0
~ M
-9
dp 菱 総 予J w もm J捌ゑ玄界、が げ
か i1i 令
約 ' d
れ d
州内々 わ # ゐ ・4 2 4 J 托 長
て
敬之 一 九 φ -
日
γ鮒一
u
一
舛 ・ 必 ゑ ム 者 ふ紘 例 一
t
i私 産 ? 官 、 r み えJhlgM多 μ仙沼 町五プ後妻子ラ院会
L 犠打,准ヲ今
叩メ喝 議ム??必 m
' 耗/ 各 る
強トー
ノ
、ィ吟ム静止⋮
レ ヲ 多m ,
秀J
J
jJ
行待一一
城
うな無益なことに溺れるようなことと
ればならなく、女遊び、賭博、酒のよ
別なく、自分が担う仕事に忠実でなけ
分業だけでは不十分で、老若男女の区
勤勉である方法は、この様な自然な
余裕があったとしている(瞳学務家戒)。
活はできないということである。
ても、節約がなければ、ゆとりある生
重要だと強調した。いくら勤勉であっ
活のためには勤勉に劣らぬほど節約が
定されていたのである。彼は豊かな生
する認識は、農民と土大夫のそれに限
定的だった。そのため茶山の勤勉に対
一年間の収入を把握して、それを二一
節約の方法は次の通りである。まず、
は完全に手を切り、自分が従事する仕 事を朝から晩までまじめに行うことを
の 支 出 額 を そ の 月 の 日 数 で 割 れ ば 一日
ヶ 月 に 均 等 に 配 分 す る 。 さ ら に 一ヶ 月
強調した。 このような茶山の勤勉に関する論議
大さいお金は
使わないように
え、それ以上は
額以内におさ
日に支出する金
に支出する金額が出てくる。毎日その
は士大夫のそれに関する論議であるこ とは言うまでもない。しかし、ここで
お金を使う、万法として、
幸 、 、 、
小さなお金は節約する。小さなする。かりにや ALL むをえず明日の お金を節約しなければ大きいお金が作分を事前に使う
一
ヶ月では若干の
こうすれば、一
なら、ま、明日ま れず、大きいお金を使わないと事業を十も炉わない。
h 功 さ せ る こ と が で き な い か ら で あ る 成
余が生まれるので、このように生活を
年では相当な剰
剰余が生じ、一
まかなうというものだ(為手輪卿贈
111111111
一
論議されている労働は、士大夫固有の 労働である﹁精神労働﹂ではなく、
いお金は使い、小さなお金は節約する。
また、お金を使う方法として、大き
呈 一 日)。
なぜなら、小さなお金を節約しなけれ
のことである。つまり、茶山の勤勉に
般の農夫も行なっている﹁肉体労働﹂ 対する認識は、それが農業労働である
きないからである。したがって﹁貧士﹂
限り精神労働と肉体労働の聞に区別が
が豊かな経済生活を営むためには勤勉
使わないと事業を成功させることがで
と節約をその経済倫理として確立しな
ば大きいお金が作れず、大きいお金を
する論議は士大夫階層を前提にしてい
識はどうであったのか。彼の勤勉に関
ければならないとした。
なかったということである。では、茶
るため、商業労働と手工業労働に士大
山の商業労働と手工業労働に関する認
夫が従事することに対してはやはり否
2 1
ル2 ・ 仲
F
一 台長 期一安審 Z向
の資本主義が儒教から出たということではない。 なぜ、な
ら 、 来アジアの資本主義は基本的に西欧の資本主義が移 植よされたものであるためである 。 資 本 主 義 そ れ 自 体 は た
とえ儒教の産物ではないとしても、 儒 教 と 資 本 主 義 の 問
こで営農と儒業が両立するだけでなく、
実学となる。特に、士大夫が当時の先 進的農業部門に従事しながら、この分 野の農法を考案するようになれば、こ この場合の士大夫の精神労働は一般農 夫のそれよりも数十倍も高貴であると いうことなのである(田論五)。 営農と実学の関係に関してうかがえ
ある。だから、﹁貧士﹂は﹁営農﹂と ﹁儒業﹂を両立させなければならないの では、営農と儒業が両立できる道と は何か。儒業はもちろん経学を含んで いるのであるから実学にだけ限定する 訳にはいかないが、実学は当然儒学に 含まれている。﹁貧士﹂が営農に従事し
である。
論は官職につけない士大夫らが農業に 従事しながら豊かな生活を営むように と残した訓戒だが、だからといって ﹁貧土﹂がそれで満足すればいいという
て得た営農方法に関する様々な経験を 整理して、新しい営農方案を考案する ようになれば、この営農方案は立派に
は実践されていた。いちいち例を上げ
ていられない程、茶山には営農方法に 関する著述がたくさんある。また、彼 の長子である丁学淵は﹃種畜会通﹄を 著わし、彼の次子の丁学遊は﹃農家月
令﹄を著わした。茶山の家は営農と儒 業を両立させていただけでなく実学関 係の偉大な著述を残したのである。
結び
朝鮮後期は様々な面で朝鮮前期とは 違っていた。田植え法(移秩法)の普 及で農業生産力が発展し、これを土台
物の商品化を可能にすることで小農経 営の自立性を大きく向上させた。これ と共に朝鮮後期に新興士大夫階層が出
に商品経済が発展した。これらは農産
が他家より優れるようにし、もし詩を
農業経営はすでに多角化段階に到達し ていたことを確認することができる。
発に発展した複合経営段階には到達で きていなかった。 それでも、朝鮮後期の最も先進的な
えれば、朝鮮後期の農業経営は経済作 物の裁培が始まったばかりの多角化段 階にとどまっていて 、農村手工業が活
の例で見たように、先進的な農法はま だ例外に属するものであ った。言いか
はいえない。また、商品経済や商業的 農業の発展水準も養蚕や高麗人参裁培
てい った。このような傾向はもちろん 朝鮮後期に現れた新しい現象であり、 当時の士大夫階層の 一般的な風潮だと
ことによって新しい営農方法を考案し
現したが、彼らがみな官職に就くとい うことはとうてい不可能だったので、
彼らのうち 一部は農村に住みながら農 業に従事するだけでなく儒業を続ける
でなく、茶山の家でもこのようなこと
だけで終わらなか った。朝鮮後期の実 学者の中にはこのような例が多いだけ
ものである(寄遊児)﹂ このような茶山の訓戒は単なる訓戒
事に勤しみ清致を得るということは、 すべからく常にこれをもって例とする
類し﹃鶏経﹄を著わすのに陸羽の﹃茶 経﹄や柳恵風の﹃煙経﹄のようにすれ ば、やはり良きことである。世俗の仕
鶏である。君が何に心を砕いて養鶏し ているかは知らない 。 すべからく多く の学者の著書により鶏説を抄録して分
作り鶏の情景を描写し、より良い養鶏 法を会得するようになれば、これは読 書する者の養鶏である。もし利益だけ 求めてその義を求めず、美味だけを知
書を熟読してその良き方法を選んで試 み、あるいは鶏の色合いで分類し、あ るいは餌を変え鶏が太って繁殖するの
しかし、養鶏の中にもやはり洗練と野 暮、清と濁の区別があり、もし能く農
聞くところによると君は鶏を飼うと いうが、養鶏は本来良きことである。
る茶山の文をひとつ見てみよう。
ζ
り情趣を知らず、日々隣人の老農夫と 朝からいさかいをしない日がない場合、 これはすなわち田舎者の拙劣な者の養
とを意味する には、 ある適合関係、が存在するという
NW722 h 鄭 主調侠m 、 f渇
ま之 漏え bfa 同
荘付 制M持 丸 士若 e 手傷' 丸山久
墾事会制武士会
手末 f 守d J m 20 銭 有 料、 Z72 流会荷・日 系戎士会 白 内 企 人 少定 戸武士 A e f-
A A Zゐ
d 求夜滑筑
品 分配州最低山丸= す時 伏見向 4氏 邦ル
おバ仲答者 i 5ー 1
d A{
説会伎 去 判 川 細 F 拭 育八 士内
¥?
しかし、 イ需教資本主義と言ったところで来アジア L、 る 。
つく準備をすべきであるということで
近来、 来 ア ジ ア の 資 本 主 義 は 儒 教 資 本 主 義 と も い わ れ て
ことではなか った。新興士大夫はたと え簡単に官職につくことはできないと しても、農業を営みながら常に官職に
茶山の﹁生計論﹂は官職につけない 新興士大夫階層が儒業を続けながら自 らの身分を維持できる方法として示し たものである。したがって、彼の生計
三、儒業と実学
イ 人
2 2
この時期の新興士大夫階層は官職につ ける機会が非常に限定されていたため に、その機会に備えながらも新しい生 活様式を開拓して行かざるをえなかっ
来主張されてきたように資本主義の萌 芽のようなものは発見されないとして も、世界の資本主義列強の挑戦を受け た時、資本主義を受け入れることので きる何らかの土台がすでに作られてい たのではないだろうか。
東アジアの資本主義は基本的に西欧の
は難しいが、儒教資本主義と言ったと ころで東アジアの資本主義が儒教から 出たということではない。なぜなら、
に何かについて本格的に論議すること
一言 で儒教といってもその思想的内 容は時代や地域によって違う。したが って、儒教一般と資本主義との適合関
ことを意味するのではないだろうか。
計論﹂のようなものは積極的に検討対 象にすることができるはずである。
時代と地域の儒教と資本主義の間の適 合関係を論じてみることはできるので はないか。そのような時、茶山の﹁生
係を論ずることは空しい論議に終わる おそれがある。だが我々は、具体的な
資本主義が移植されたものであるため である。だとすれば、儒教資本主義の
はないとしても、儒教と資本主義の聞
たのである。このような新しい生活様 式を提示したのがまさに茶山の﹁生計 論﹂なのであるが、彼の﹁生計論﹂は
には、ある適合関係が存在するという
成立における儒教の役割とは何か。資 本主義それ自体はたとえ儒教の産物で
い。そのため、儒教資本主義が具体的
近来、東アジアの資本主義は儒教資 本主義ともいわれている。しかし、儒 教資本主義が具体的にどのようなもの なのかはいまだに明示されたことがな
これまでに 言 及したように、先進的な 農業経営方式、新しい職業倫理、そし て新しい学問の方向を示している。こ
2 3
のような新しい動向の中で、たとえ従 I
pp司xmmcZ の亡
させる制度があった。それを取り決めた文章を勧分記という(右)、丁若舗の銅像(上)
•
勧分記、朝鮮時代には、ある個人が税金または借金を支払えない場合、近い親戚に分けて負担
延世大学社会学科教授
クスウ
この家産的社会構造は 特に最近の急速な経済 発展の過程において極め
必¥
yノ
の家産制に関する論議を出発点にして 東洋と西洋の社会の構造的特徴を対比 させてみることにする。 ウェ lパーによれば、封建制と家産
制は次のように対比される。家産制は 統治者と官僚の関係が父親の権威とこ の孝行心から発する服従に基盤をおく
てきた
僚の地位は統治者の配慮に依存してお り、常に統治者の自意的な要求に露出
に対置させた形態である。家産制の官 僚は統治者の行政を助ける個人的なア シスタントとして特徴づけられる。官
家族関係が拡大された姿である。これ に反して封建制はこの関係を武士たち の軍事主義的契約に基盤をおく忠誠心
いう概念はそれがどのような文明に属 しているかによ って、あるいはどのよ
あ ったであろう。ウェ lパlは東洋社 会の特徴を西欧の﹁封建制﹂と対比さ れる﹁家産制﹂という名を付けて論議
たちで構成されており、彼らは統治者 の名誉を自らの名誉と同 一視する関係 の中に存在する。武士たちは自らを武 装して専門的な訓練をし、自らの利害 と同 一な 利害 を持つ支配者の利害のた めに奉仕する。このような封建官僚の
は、統治者が自分の個人的な内部依存 者あるいは依存関係にある外部の者を 任命することで常に失敗する。しかし、 封建制においては官僚の大部分が武士
されている。家産制において独立的な 地位集団が官職を独占しようする試み
はすなわち、﹁世俗的な禁欲主義﹂を掲 げた﹁プロテス夕、 Jテイズムの倫理﹂
でなくあらゆる近代文化において最も 根本的な要素になっているのは﹃合理 的な行動﹄であり、これはすなわちキ リスド教的な禁欲主義から誕生した ﹃召命意識﹄に基づいたものであった。﹂ しかし、ゥェ lバlは西欧の文明が なぜ東洋の文明より常により合理的で 優越したものであるのかを十分に説明 できなかった。なぜなら﹁合理性﹂と
の構造的な特徴が西欧と質的に異なる 東洋社会を発見してからは一層そうで
であ ったと主張した。次のようなウエ │バ l の主張はこのような見解をよく 現している。﹁近代の資本主義精神だけ
て秀でた役割を提供し
したことがある。ここではウェ l パー
ニ ヨ
支配の特徴を見せてきた。
韓国は典型的な家産的
ツ
うな集団に属しているかによって、手 段と目的の基準が常に変わりうるから である。すなわち、﹁合理性﹂はそれを 規定する社会経済的な条件によって、 その内容がいくらでも変わりうる。こ の問題を前にしてウェ lバーがかなり 苦心したことは間違いない。特に社会
東洋と西洋、 ユソクチュン
柳錫春
tEl欧 の 学 者 た ち は 東 洋 と 西 洋
畠
11・一 の 歴 史 の 発 展 を 普 遍 史 の 基 EF準 に 基 づ い て 分 析 す る 作 業 一﹃ に関心を注いできた。一九世紀のドイ ツの著名な歴史社会学者、マックス ・ ウェ lバーもこの点に関しては例外で はなかった。﹃プロテスタンテイズムの 倫理と資本主義の精神﹄という彼の著 名な序文で、彼は次のように投げかけ ている。﹁ある条件の結合のために歴史 の発展において普遍的な意味と重要性 を持つ文化現象がただ単に西洋文明に おいてのみ現れるのであろうか﹂、そし て彼は何のためらいもなく、﹁合理化の 過程がすなわち資本主義という近代生 活の宿命のような動力を誕生させた原 因であった﹂と述べている。 このような結論を引き出すために、 ウェ lバ1は宗教と社会の関係を極め て広い範囲で研究した。世界のいろい ろな地域の宗教を比較した後、彼は宗 教の教え、すなわち教理が﹁経済生活 の合理化﹂を促進させることもできる が、その反面、それを抑制させること もできるという考えに到達した。そし て、ウェ lバlは、西欧において﹁近 代的な資本主義﹂が登場するにあたっ て決定的な役割を提供した宗教の教理
マ
2 4
た
í
l 勺て
紙 .♂弓夜~, ., 2町. ".. ~ ,. 丹
~'
~ -I , .
~
i
f よ' , e
単一向--..i~(
•~
~ .(r}~
'.:
,
L;ft*;:,Z:';f,~~~記減量~
. ) 1 : '
,
a p n aj 5 1 6 雪 j.
ι
: に す ~.
F V1 常 々 f "
i ffr;~. 訂?肝 工,一一吟-.11. r 吋 τ7 可!:戸 ~r.:;'f 界亨了τrη2 計 Tγ'τ z-アτ?了 '/ u γ i β2;オ守つ夜τfF f 写0.r'匂 干勾 「守す一π「寸rτ ~: t;1i 古~~ /r-~ :~γ& 予 3 吋 ? 牛 汗 巴;引詰れj 右 : 一 !汁 存 ρ J Z r ;: 『れ戸作&, 」 {e JE2rり 王』, γ r~ i ~.'~けP JiF干~:r咋語 f百l 与官件F1~tPi;5計 ν:hν 庁tl匂ぶ μ ; 口 ;;
日 E i 1 2
r 4
( h ' J7 f 3 ! 4
が!~} 1 付 f・ 1 3 5 町村'~. f{ 1;:k 郁 f:.~'~ ~~ 2fr ね ; 川~~!{.~ t 2 f i~~ I;μ~ ~rf~<< ~. %{t ,~,~'~ ;t ~~ ~~.:~.:,件,,1 ~i;;~ む土持;~. ;lt~~: i 王 : ; 戸 "4 μ 1 々' 』仏凡 2 肝 管 与 ;lκ ~ 恥i ' , F 434; e次~ f~ φ〆. ' り [' J 主 'f ず: ,7 ; 叫~ ; M ' ?許 刊 d μ ド ,仰 " h .t 1 : ; e ι主4 C PFk ; 仁 " . か tミ ? ;,0, ; tfぜ'i ~ ~. ~: l : : i 乍~ ;戸 , ゾ 1 立 t : . ~~冷,~!' 午~;~l :~.叫 l f ρ 岳 f F 存 む 2 生 ゲ ヴ 凶 ~, ;i : ; . f‘' 持が似 }~;{ tが;〆{ r~~ ~!.! ~ ~ r, " f f ! J~; i . 勺 t 才 l , 午 ; 「 1: ; { ι t ~.. .~五;~ . ; ' ~~ 7 :l吋~~ ~ !:~ 企 刊 追 ,叫
r ' ! i g 9 z μ 4 月r 1f f
ある。この 二 つは次のように対比され
1 i:iI&.司、マ
1 f t~ ノ'λ
寸 _. ' 白
とにより 、 これを獲得した官僚はその ような権利を自らの私的な所有として
.. t :
る。俸禄は官職にある人の実質的ある いは期待される奉仕に対する代価であ
~.
り、官職にある期間に限って非世襲的 に統治者が支払う経済的な報酬である。
渉
同へ '若,Jd弘J
西欧の封建制度の構造的な特徴は、近 代の産業資本主義の誕生に示唆すると
A LA'主J. J . . . J .. . . 1 .品。 , , 1 . 11
専有して世襲し、譲渡または分割され ることがないように維持させられる形 式の報償であ った 。 このようなウェ lバl の対比は西洋
1 : . ' ;. t. ・費三'主 ,
t~ .~, 土_,!,
特に、報酬は経済的な価値のある対象 物に対する所有権を提供する形式でな されるものではなく、二定の所得を保
, ;,
障する形態で支払われる。これに対し
~
用語を借りて 言 えば、西欧の封建制度 は階級闘争の萌芽をすでに持っていた
/蝿 , . ' " ,
噂
需福島¥
明
と東洋の社会構造的な違いを認識する ことに極めて重要な洞察力を提供する。 西欧では封土の専有、支配者と官僚の
' , .
開明明晩司馳働;1
て封土は統治者が封建的な関係を持続 的に確保するために個人的に官僚に提
且昆
のである。自由主義の表現を借りるな ら、封建制は社会集団同士の競争を構
・' . , ーι / d
眠! 司
契約的な関係、騎士道に随伴した身分 名誉 の概念などが発展しながら、分権
A
2 且
Jj
, 払
供した報償であり、経済的な価値のあ
A
プ
軍事的専門性に特徴づけられる資格条
‘ 二 〆
件は中 世 の西欧で﹁身分名誉﹂という 概念を発展させることになり、これを 通し て統治者と官僚の聞には双務的に
2 7 片手月' ± E t . 8 ' T r " "
北地、
規定される権 利 と義務の契約的な関係 が形成されることになった。
&
東洋と西洋社会この ような類型論的 な対比は統治者が自分の官僚たちに対 してどのように報償するかを説明した ウェ lバ 1 の論議を見れば、一層はっ
きりする。核心的な概念は家産制の ﹁ 俸禄(俸給ごと封建制の ﹁ 封土﹂で
l
i f聾 j . ' . ; , / $_ , _ . " . ,
一
n
叫 l 眠
院
〈
~~
~
.~:
& . '~
F
T j . 't . W ; 守
白
可
$
'~;{"~'
1 ~
,
.~
~,.
<i J; ;$J i
必
A
傾向;~i~ ~:;~~ lih:l!: ~ ~~.;ι;t;*~a~H~~!~;~~; ~ir~~:~H~伝説jdHAjjh ; . t. ,
1
,
" t
か
1 刊:~~;.; !:~L': ~ ' if:,~ ~ ; ; ~~:i '!,~ "
t ' : ß~
i ' 叩
~:
‘v a "V
~ t. .~
削 伸
J a
♀
ば 金
1 ! .
) .~,. r
T ; ; ,; ,~
, /掲 匂
喝
~
. ~:....
1. . .
~.
!~
μ l ~ !~~ CI~ U 1~M hl~<< ~1
孔
:;1
: ; ・ 4仲立
訪 i~"I " t ' . ; rt ~ .~ ~ : : i f-~ ' A ・12 4J Z' I 1 . 4 1 公;?ー'J ; ! ;: れペ Iλ ! i J J γ: 花 札1 ' . : ' ~う 1 ! ‘ I ! I ~J 吃;'j; t : . t 令~ づら生 J : : , ,: 主 ; :: i¥X tい; .~-:: f ;~
~i: f.~ ~れ :.n \ " 布 z t きJ ;' :~',~ ;1 '~ : γ ? ~ '/~.)~ j. , : ; , : . i ;;~ ~~. ,~!
,~ 一一ー 主ーー主ー- "~ーー一一_
i '
IJ.
μ
: 1 t_ 1- A _ま
, 九
.
i L J, .島!-~_ i ~ . . 主_0 4 ( ; .
る対象物に対して所有権を提供するこ
4
家産制的国家体系を基本とす
105.6cm、1580年 ( 上) 、 中央 集 権 体 制 の 下 で 、地 方 官 吏 を 監視す るための制度として暗 行御史という職を置いた 。 中 央政府は絵のような馬牌とい うものを暗行御史に与えて 、 地方で移動する時に馬を借り て乗れるようにした ( 右)
2 5
のような分権的な構造は支配者に対抗
で あ る 。 絹 に 彩 色 、 118x
的な社会構造が現れるようになり、
宴会を描いた「科挙思栄宴図」
して独立した権力と富を持つ土 地所有 階級の出現と産業資本家集団の登場を 可能にさせる背景となった。従って、
を 堅 固 に し た 。絵 は 科 挙 に 合 格した人のた め に王が開いた
ころが極めて大きい。マルクシズムの
る東洋 で は、 国 家 の 官 吏 を 選 抜するために科挙 の試験制 度
守
ー 、
った。従って、西欧のような独自的な 私兵、領主、ブルジョアなどの階級は
造的に容認しており、他の社会集団が 支配集団から独立した位置を占めるこ
を家産窟僚の統制下において強制的に
存在することができなか った。万 一こ のような集団がいかなる理由であれ、 必要であれば、家産制の統治者は彼ら
の比重を割いている。例えば、まずは じめに彼は資本主義的な現象を伴わな いまま、貨幣経済が発達して人口が増
たちは地方官僚には中央から派遣した
人物を任命し、またその任期を短くし
加した事実を重視した。 二 つ目に、彼 は中国の都市と同業組織が政治的な自 律性を欠如したまますこぶる隆盛した
これに反し、東洋では強力な家産制
とのできる可能性が聞かれていて、こ れを通じて西欧は多元社会に発展する ことができたのである。
一 目に彼は中央政府と対立する過程二 で互 いに結束はしなかったが、各地方ごと
いに異なる展開過程の可能性を受容す る内容を持っているものであった。そ して、実際に彼は自らの中国に関する
ウェ lバ ー が指摘したこのようない くつかの特徴は中国の国家が極めて早 く統 一した事実と、またそれに伴う家 産的支配の典型的な特徴である中央集
特 徴 と し て 記 述 し た 。そ して最後に、 中国は支配集団の倫理である儒教と被 支配集団の倫理である道教の全てにお いて革新的な精神的指向を発見するこ とができないと記述した。
求できないようになった。 このような説明と分析にもかかわら ずウェ lバlは中国に合理的な資本主
されてからは、政治的特権と経済的な 利益の機会を持つ官僚集団の集合的な 利害関係のために、この構造はより 一 層社会全体に浸透して他のいかなる集 団も自生的かつ独立的な権力と富を追
の地位を専有し、代々にわたって相続 する西欧の封土所持者とは異なり、い つでも排除されうる脆弱な立場に置か れていた。そしてこの構造が 一度構築
ものであった。結局、個人的な次元に おいて、中国の官吏たちは、自分自身
一方では、その地位は統治者の個人的 な信任に依存せざるを得ない不安定な
区別される独特な生活の様式を持つ地 位集団として位置づけられたが、もう
いえる公式的な窓口に科挙という試験 制度を導入し、徹底した人事考課を通 して官吏たちが俸禄を専有して、自ら 独立して社会経済的基盤を構築するこ
りも重要な装置として官吏の登竜門と
組織した。この統治構造ではただ一つ の集権的な社会集団、すなわち家産制 的な官僚のみが他のあらゆる社会集団
にしっかりした根を持フ血縁組織の機 能に関しても深度のある論議をした。
とができないようにあらかじめ防いだ。 全体的に見てこのような支配の方法
て役職が循環するよ う にした。さらに 統治者は縁故地に官吏が任命されるこ とのないように注意すると同時に、隠 密のような秘密警察を出勤させて地方 官吏を監督したりもした。そして何よ
的な権威のために分権的な構造よりは 集権的な構造が発展した。もちろん、 家産制だからといって統治者が自分の (領主、武士、地主、商人、職人など) を圧倒して存在していた。しかし、同
四つ目に、彼は官職候補者たちの聞に 個別的な競争を誘発して彼らが集団的 な次元で封建的な官僚貴族に変身する
は官吏たちの問に競争と不信を根付か せ、同時に教育的な成就を通じて個別
本﹃中国の宗教﹄において﹁中国的な 合理化は世界に対する合理的適応を意 味し、清教徒的な合理化は世界に対す る合理的支配を意味するものである﹂
つ
官僚たちとの闘争において完全に自由 になることはできなかった。統治者の 時にもう一方では、官僚集団は統治者 に対抗して団結することのできる意志 や機会を持つことができなかった。彼
ことができないようにした国家官吏の 文人化傾向、およびこの制度的な基盤
とし、合理化のE いに異なる傾向につ いて言及したりもした。しかし、ウエ
権的官僚制が西洋よりはるかに早く確 立された事実などと密接に関連した現 象である。巨大な領土を上から統治す
という事実を指摘したりもした。
領土が直接的に管轄可能な範囲を越え て拡大された場合、行政を担当する官 らは特権を確保するために統治者の信 任を巡って原子化された競争をしなけ
僚の存在は必須的なことであ った。そ して、このような官僚集団の必要性は
である科挙試験の発達を極めて 重要 な
│バーはマルクスの唯物論的な決定論
ればならない圧力の下におかれていた ためである。ウェ lパl のこのような 社会構造の類型的区分は、合理化の E
的に官職を獲得することは美徳として 考える社会的条件を作り出した。その 結果、官吏たちは社会の残りの集団と
家産的な統治者に特別な困難を与える 状況へと展開した 。 すなわち、統治者 が行政官僚を養成しなければ、家産制 国家崩壊および分割は避けられないこ とになり、万一その存在を認めれば、 統治者の絶対的な権力を危うくする可 能性が現れるためであった。特に官僚
るようになった。
たちが集団的に統治者の個人的な依存 者や家来から忠誠を得るのに成功すれ ば、統治者の権威は著しい脅威を受け このような分権化の傾向を防止する ために、統治者は家産官僚たちに自分 が賦課した義務を果たした時に限って
てこのような支配構造を維持するため の手段として、中国の家産制的統治者
仕に頼った 。従って中国では政治的な 権力をめぐる葛藤が土地の分配ではな く官職の分配を中心に進行した。そし
俸禄を受け取る官僚たちの行政的な奉
るために、中国の国家は自主的に武装 した軍人たちの軍事的奉仕ではない、 ために自らが発見した社会構造の類型 的差別性の持っている重要性と意味を 十分に発展させることができなかった。
を反駁するために資本主義の精神的な 起源を探し求め、これに執着しすぎた
特権は統治者の信任如何に依存するよ うになり、常に不安定な状態になる。
ウェ lパlは中国に関する自らの本 で、封建的な西欧とは対照的な家産制 的な中国の特徴を記述することに多く
特権を与えた。すなわち封士を与えた のではなく俸禄を与えたのであった。 このようになると家産制の官僚たちの
東洋の家産制的な統治者は富と権力が 集団的に統治者から独立して蓄積され る可能性を決して許容しようとしなか
2 6
不在から求める性急な結論を下した。 すなわち、彼は中国社会は競争的な産
義が登場できない理由を特定の精神の
する緊張であった。﹂
五百年にわたる儒教王朝のえ配とそれに
引 き 続 い て始ま っ た 日 本 の 植 氏 統 治 お よ び
米軍政のえ画己は韓国社会に常に分権の傾向よ りは集権の傾向を強く刻んできた
このような観点と補完的な関係にあ
中に対して持った緊張とほとんど同じ 機能を中国に提供してきたと主張して
した要素はブルジョアが自らをひとつ の階級として認識して社会の中で自立
な陳述はこのような主張をよく表して いる。﹁中国で究極的に資本主義を抑制
後の国家建設の過程と軍事革命以後の
において極めて秀でた役割を提供して きた。上からの計画と執行そして監視 と動員を通じて韓国の経済は過去三O
らない。 このような韓国社会の家産的社会構 造は特に最近の急速な経済発展の過程
と範囲において、韓国は他のいかなる 第三世界と比較しても絶対に引けを取
制が社会の残りの領域を掌握する程度
る主張もまた台頭している。例えば、 経済発展の過程も中央集権化された官 バラ│ズ(切同門田 N∞)は中国の発展にお 僚権力が主導した点においては同様で いて構造的な要素をとりわけ強調する。 , あった。国家官僚の上からの支配と統 彼の分析では他の社会集団に独立的な 富の蓄積を決して許容しない、上から
いる。特に彼は、﹁困窮からの脱出﹂と いう緊張の概念が、ウェ lバlが清教
的な地位の保障を獲得するために戦お うとしたあらゆる試みを無力化させた
して浮き彫りにされている。次のよう
の官僚制的な統治が中国で競争的な資 本主義の発達を阻害した主要な原因と
徒から発見した世の中に対する緊張に 匹敵するだけの内容を持っていると主
れてきた﹁新儒教(朱子学)﹂が、西欧 のプロテスタンテイズムの倫理が世の
る。メツツガlは、二一世紀に朱喜に よって主導されて以来ずっと中国の中 心的な国家イデオロギーとして採択さ
しかし、最近メツツガl (豆町ロ沼円) はウェ lバl のこのような結論を積極 的に否定して深刻な疑問を提起してい
業資本主義の発達に有利な条件と不利 な条件を同時に全て持っていたが、決 定的にこの世の中との緊張を形成させ る概念、すなわち西欧のプロテスタン テイズムの倫理の機能的な等価物が存 在しなかったために資本主義が発達で きなかったという結論を提示したので ある。次のような主張はこのようなウ エlバl の立場をよく表している。﹁儒 教で発見できないことは、すなわちプ ロテスタンテイズムに内包されている
な家産的え画己の特徴を見せてきた 。
が、それは基本的に政府は上級者、そ
年あまりたゆみなく成長してきた。も ちろん、国家が市場に介入した範囲と 程度は時期によって変化を見せている
して民間企業は下級者という役割分担 を前提にしたものであった。政府と企 業のこのような位階的な関係によって、 韓国は場合によって市場経済の基本秩
張している。 可﹀訂天白CZ の己 l
いる。これと同時に守フラウデル 5丘町])もまた中国における資本の蓄
序に従わない介入主義国家という焔印
国家官僚制の圧倒的な地位であった。﹂ 彼は中国に資本主義が登場するとすれ ば、それは﹁国家主導の資本主義﹂に ならざるを得ないという結論を下して
すことができたと主張する。﹁国家によ
積は国家と国家機構の内部でのみ、な ∞ ( って後押しされかつ監督されて常にそ の処分に依存する、明確に規定された 少数の特定集団でなければ中国での資
るからである。このような国家の役割 の背後に、家産的な韓国の伝統が根付 いていることは言うまでもない。.
軟性を確保する問題の全てにおいて国 家の主導的な位置は再び確認されてい
が中心的な役割を果たしている。財閥 の放漫な経営を改革し、労働市場の柔
を押されていることも事実である。し かしもう一方ではそのような介入主義 の結果、韓国の経済が過去三O数年間、 引き続き成長することができたことち 事実である。たとえ、今は一時的な外 貨不足のために I M Fの支援と監督を 受け入れてはいても、経済的危機に対 処する方法においては依然として国家 本主義は不可能である﹂というのが彼 の主張である。 韓国はもちろん中国とほとんど同一 の家産的社会構造の遺産を受け継いだ 社会である。いやむしろある意味では 中国よりはるかに典型的な家産的支配 の特徴を見せてきた。五百年にわたる 儒教王朝の支配とそれに引き続いて始 まった日本の植民統治および米軍政の 支配は韓国社会に常に分権の傾向より は集権の傾向を強く刻んできた。解放
2 7
決然とした倫理的な合理化によって人 間の自然な衝動を厳格に統制して自制
韓 国は あ る 意 味 で は 中 国 よ りは る か に 典 型 的
務国古美術協会研究室長 ・文化財委員
韓国の 伝統文様の美 イムヨンジユ
林永周
昔 か ら 生 き 甲 斐 の あ る 実行 豊 か な 人 生 を 指 し て 五 福 を
守旬、
康章 T (
健、 尿で、安楽なこと)、 依 苛 徳
稿とは、 す べ て 兼 ね 備 え て い る と 表 乳 し た が 、 五一
毒(長寿)、
万 ) 、 考然、命(天命を果たす ) と 言 わ (人格を備えた生き 、 祖は、 幸福な人生を願い、 そ の 願 い を れてきた 。 我 々 の 先 、 絵仁表した り 、 文字を 、 又様に図案化して、 生 活 を
れ、これを美しく飾 っている。また、
様と、その 他 に蓮の花、葡萄、竹など の縁 起 の良い草花文様を一つ一つ彫っ て煉瓦に焼き上げたものがはめ込ま
い った長寿の願いを込めた十種類の長 寿の象徴、つまり十長生と呼ばれる文
奇岩、水、松、亀、鶴、鹿、不老草と
塀と煙突の壁面には、太陽、 山 、雲、
の煙突と塀は、美しい草花の装飾がほ どこされていることで有名である。裏
取り 巻 く あ ら ゆ る 器 物 に そ の 願 い を 装 飾 と し て ほ ど こ し た 国の伝統的な建築をはじめ ゴ ほ 遣 として、衣食住に使われて
LZ 占 占 -
ー コιh吋i いる大小様々な生活道具を 見ると、そこにはいろいろな縁起の良 い文様がほどこされている。こうした 様々な文様を見ていると、韓国人の先 祖が日常生活のなかで実用とともに生 活の風流と美を楽しみながら暮らして いたことがわかる。 慶福宮峨帽 山 の煙突および慈慶殿
2 8
品にも文字文様と縁起の良い動植物、
ので、その周りには目字紋、亜字紋、 欝 字紋、雷紋、回紋、亀甲紋などがほ どこされている。また、日常の生活用
貴、多男、語などの字を図案化したも
福、康、寧、あるいは万害、無彊、富
字で飾られている。その文字文様は害、
多幸を意味する草花紋と縁起の良い文
その右側の塀は表も裏も、不老長寿と
る。この絵は、宇宙の万物が作られ育
きをあげて砕け散る波が描かれてい
っていて、その下に奇岩怪岩と波しぶ
らにその両側に非常に高い松の木が立
に太陽と月が高く浮かんでおり、高低
それを見ると蒼い空の両側には上の方
た。王が執務した宮殿の王座の後ろに は扉風がぐるりと巡らされていたが、
きたいという祈りを表現したものだっ
に表したものである。
つ際に根本となる五つの気運を象徴的
さまざまな五つの峰がそびえ立ち、さ
あるいは吉祥を表す抽象的な文様が施 され、互いに調和をなして、特別な意 昔からもっとも生き甲斐のある、
味を表している 。 こうした文字文様は 人の伝説的な話を絵文字に図案化して
山 水、風景、花鳥、草虫、あるいは先
が、﹁五福とは、まず第 一に害 (長寿)、
実り豊かな人生を指して 、 五福をすべ て兼ね備え い る と 表 現 し た も の だ 第 二に富(財産が多いこと)、第 三 に
τ
と相通ずるものがある。長寿を意味す
描いたもので、朝鮮時代の民画の内容 る文様は、部落や村人たちの身に、あ
好徳(人格を備えた生き方)、第五に
康寧(健康で安楽なこと)、第四に依
るいは田畑や 山 、海、草原、 川、岩、 木、人問、鳥獣、さらには太陽、月、
考終命(天命を果たす)なり ﹂と言わ れてきた。我々の先祖は、幸福な人生
星、風、雨などの天上で起こるあらゆ
を願い、その願いを絵に表したり、先
2 9
る現象を象徴的に表現したもので、韓
花子ヰ草虫文(上)
国人の生活の豊穣と繁栄を願い、いつ
十長生園、朝鮮時代(下)
に述べたような文字を文様に図案化し
長寿を祈願する景福富にある
までも多くの福を享受して暮らしてい
慈慶殿の煉瓦塀の
伝言え的な話を絵え字に図案イじして描いたもので、
山 万
木 、 人問、 鳥獣、 さらには太陽、 月 、 星 、
J 与 、
草原、
--aJ
、 I l
朝 鮮 時 代 の 氏 画 の 内 容 と 相 通 ず る も の が あ る 。 田畑や山、
風 、 雨などの天上で起こるあらゆる現象を象徴的に表現した
もので、 生活の豊穣と繁栄を願い、 いつまでも多くの桔を
享受して暮らしていきたいという祈りを表現」したものだった れ て き た た め で あ る 。 コウモリを図案
由 宮 町や福を意味する縁起の良い鳥獣とさ
害時福が二っとも訪れるという﹁吉兆﹂
を二羽のコウモリが取り巻く図案は、
そうした昔の人々の心を伺い知ること
韓国人の伝統的な服飾を見ても、
いる。
いう意味を持ち、この文様が繰り返さ
の願いを装飾としてほどこしたのだっ
て、生活を取り巻くあらゆる器物にそ
い﹂、つまり永遠なるものを意味して である。また、このような﹁書﹂﹁福﹂
配置した図案は、五福を象徴するもの
れているものは、﹁始めも終わりもな の音が﹁福﹂と同じところから枕の覆
﹁福﹂の字の周りに四羽のコウモリを
﹁書﹂の字や﹁福﹂の字の文様は、
い布にコウモリを刺繍したり、家具の
を 意 味 し て い る 。 さ ら に 、 ﹁ 喜宵﹂の字、
全体に丸みを帯びた形に図案 化された
の字の図案の地文として百字紋がよく
化 し た 文 様 を ﹁ 煽 幅 紋 ﹂ と 言 う。﹁煽
枠の中に、あるいは細長い菱形の区画
使われた。﹁日﹂は﹁高﹂の古文字で、
ができる 。 我 々 の 先 祖 が 大 体 、 白 い 服
装飾に﹁多福﹂を象徴する文様として
や青色のような繊細で薄い色に美を見
数多く用いられてきた。コウモリは千
いだしていたのも、先に述べたような
っているが、丸い 円 の 中 に 描 か れ た も
では﹁ウアン﹂と発音する。﹁日﹂、あ
同じ発音、同じ意味を持つが、韓国語
自然を敬いながら暮らす、素朴な生活
骨﹂の字、あ もある。したがって、﹁ 書
るいは﹁十﹂の字はもともとサンスク
年生きるという長寿を象徴する鳥獣で るいは﹁福﹂の字を中央に据え、それ
のを﹁図書字﹂、﹁団福字﹂と言う。書 が描かれているが、これはコウモリが、
と福の字の周りにはたいていコウモリ
の中に収められた形となって器物を飾
幅﹂はコウモリの漢字表記だが、﹁幅﹂
リット(究語)で﹁吉祥が集まる﹂と
え字え様は山水、 風景、 花鳥、 草虫、 あるいは先人の
た 。
民画の文字図、朝鮮時代
3 0
で、富貴を享受し、そして歓喜などを 象徴するもので、男性の象徴であり、 性的な意味を持っていた。また、子孫 に多く恵まれるという意味もあったの で、結納の品として婚約した女性の家 に贈られるという風習もあった。魚は また、富貴 の象徴であり、子孫の繁栄 を意味した 。 民画に数多く登場する魚 気 の絵を﹁魚龍﹂と 言うが、これは ﹁ 概に満ちた鯉のように成功する﹂とい う意味を持ち、そのまま登用や立身出 世を意味する。登竜門という言葉も、 魚が波をかき分け 、滝をさ かのぼって 魚龍になるという故事からきたもの
中める。
で、立身出世の関門を意味するもので 東洋人の造形美術の中に現れてい るパタ ー ンを分析してみると、夫婦愛 を動物や見虫にたとえているのが特異 な点だろう 。孔子の唱えた五倫の極致 が﹁愛﹂だとするなら、それは、男女 が﹁ 一組となる﹂ということは人間だ けの倫理なのではなく、自然現象の 一 つだという認識から出たものだ った。 我々の先祖は、伝統的に夫婦の結合を
粉青鉄彩魚文瓶、朝鮮時代、 16 世紀(上)、雲鳳文瓦当、統一新羅時代(下)
オシドリ、雁、胡蝶などで表すことが 多か った。このような文様は、刺繍扉
風や木造家具の装飾文様、螺銅漆器な どに施され、婚礼衣装の大礼服には牡 丹の花の文様とともに蝶、オシドリの
刺繍が施されている 。
菱花 板 ( 本 の 表 紙 に 菱 花 の 模 様 を 印刷する木版)に刻まれた様々な文様 を見ると、本というものが、昔の土人
たちにとってどれほど重要な役割を果 たしたものであったかということがよ
くわかる。その文様を類型別に区分し てみると、主題となっている文様は龍 紋、鳳風紋、煽幅紋、胡蝶紋、撫子紋、 野菊紋、楽器紋、文字紋、七宝紋など
であり、副題とな っている文様として は蓮花折枝紋、牡丹折枝紋、菊花折枝 紋、石栂折校紋、梅花折枝紋、胡産唐 草 紋、睡蓮紋、忍冬唐草紋、葡萄唐草 紋、宝相唐草紋、蓮花唐草紋、菱花紋、
雲紋、竹紋、鐘紋などがあり、地模様
としては雷紋、回紋、格子紋、雲紋、 目字紋、亀甲紋、菱花唐草紋などが見 られる。
て遊んでいる様子を彫り込んだ文様が
統一新羅時代の瓦と瓦当(瓦の端 の円い模様のあるところ)を見ると、 ブドウの蔓に男の子たちが ぶらさが っ
ある。この文様は、男児を多く産んで、 長寿を保つようにとの願いが込められ たものである。また、ザクロや蔓が描
かれた文様はたくさんの子宝を望む心 の表 れで、 雲一と鶴、 雲と鳥 が描かれた
文様は長寿 を願うものだ った。 高麗時代の 青 磁 黒白 象 候 技 法 の 発 十 二世紀の仏教の興盛と 達は、十 一5 43
ともに技術的に発展した青銅銀入糸技
3 2
法と螺銅漆器の文様の入れ方と関連が あり、高麗時代の工 芸文 化を代表す る ものである。象山飲青磁をはじめとして、 青銅銀入糸浄瓶や香炉、また螺銅経函 などに共通して多く見られる文様の素 材としては、秋の川辺を背景にしだれ 柳と水鳥を描いた風景文様の蒲柳水禽 紋や深く蒼い藷翠色の空にただ 一羽の 鶴と 一点の雲がのどかに浮かんでいる 風景を彫り込んだ雲鶴紋などがある が、これらは高麗時代の人々の日常生 活の中に染み込んでいた悠々自適の心 をよく現している。また、このような
文様の素材こそは、宗教と信仰を土台 とした民族固有の情緒をよく表してい る 。 朝鮮時代初期に新しい形態と技法
の表面に刷毛で白土の粉粧をほどこ してから、濃い褐色を使って半ば抽
象的な 、 世 俗 を 超 越 し た よ う な 技 法
で描かれた魚の文様、草花の文様な どは、その間違な筆致と相まって、
雄々しい気概を見せている。 青華白磁の文様は 、 写実的な風景 画風の文様から龍、鳳風、花鳥、草 むらの虫に至るまで、その種類が実
に様々である。そして、銅の酸化物 を彩料として朱色で模様を描き出し た辰砂白磁、鉄分の彩料で雲龍紋、
雲鳳紋、蓮花紋、唐草紋、竹紋など の 絵を描いた鉄絵白磁などは朝鮮時代の 陶磁器の特徴をよく表している。
・
このような陶磁器の各種文様は、 木造家具や螺銅漆器、また牛の角を開 いて薄い板を作り、その裏側に文様を 描いて家具に張り付けて作る画角工芸 品、七宝装身具などの民俗工芸品全般 にわた って見られ、韓国の民俗工芸の 粋と美を心ゆくまで味わわせてくれ A る 。
3 3
を持って登場した粉青沙器は、鉄分 の多い黒褐色の士をこねて作った器 の上 に 白 土 で 粉 粧 を ほ ど こ し た 後 、 青磁系統の灰色の紬薬をかけて不完 全燃焼の状態で焼いた磁器である。 粉青沙器の中でも特に、豪放置落な 姿でありながら絵画的な特色を見せ ているのが鉄画粉青沙器である。器
青磁象級葡萄童子文瓶、高麗時代、 13 世紀(上)、忍冬唐草文瓦当、統一新羅
時代(中)、青磁辰砂蓮花童子薬缶の一部分、高麗時代、 12世紀(下)
同 CZ のと
司、 ybR
f
ゥル市の大部分の街は乗用 ノ 車が潮のように流れていく 、 , 現代の街である。ビルの林
の中にはホテル の建物が一屑を並べ 、ス 、 ナイトクラブやカ ーパーマーケ ット
フェ、雑貨商店などが立ち並んだ乱雑 きわまる都市の面貌を見せている。そ
の絢欄さの中のどこかに、公害にやつ れた都市の人々や疲れ果てた旅行者た ちに憩いの場を提供するほどのスペー スを見 出すのは、ラクダが針の穴を通
るほど難しいことである。公園があっ ても劣悪な道路事情 、あ るいは生活空 間と隔離されていて、利用するのも容 易ではない。だとすれば、果たしてソ ウルにはパリのシャンゼリゼ、ニュー
ヨー クのソ ホ、モ スクワのアルバド、 北京の琉璃廠のように、その国の都市
の顔を 代表する文 化 の街はないのだろ うか。
規模は小さいが、そんな物静かな文
化の 空間がソウルにもある。ソウルの 安国洞ロ ー タリ ー から鍾路に延びてい く 二車線の道路の周辺は、韓国の伝統 と現代がともに解け合った文化特区の 名声を保っている。そのうえ、この辺 りには 世界唯一の複合美術の文 化空間
とも 言える ギャラリー、骨董品の応、 商房、紙問屋、表具師、筆房、古書籍、 伝統茶屋が並び、また一 O Oあまりの
韓食堂が六0 0メートルあまりの街の 両側を埋め尽くし、繁華ソウルの都市 の中に 文化空間を造り上げている。 イシ サ ド シ 現在、仁寺洞と呼ばれるこの地域は、
ナゴシドシ
JV
4
J
JfJ
仁寺洞の路 地を 中 心に 、近くの寛勲洞 キ 〆,ド〆キ〆ウ 〆 ヒ ・ と公平洞、堅志洞、慶雲洞ならびに
楽園洞など、ぜんぶで六つの洞にまた
3 4
安国;悶
4 ・ 日本文化院 安 園、. . . . .
雲泥洞
がっている。朝鮮時代に両斑(士大夫)
階級が住んでいた北村と商人たちの街 であった鍾路の聞に位置している仁寺 洞は、元来ソウルの中流層の居住地で
あった。仁寺洞が骨董品の街として名
声を得始めたのは、日帝時代である一 九三0年代からだった。書画はもちろ
ん、生活道具や装身具、伝統工芸品の
商店が道の両側にず らりと並ぶことに よ って、生きている路上博物館の呼称 を得るようになった。骨董品と古書籍
の街として出発したこの文化の街に、
七0年代、近代的な商業ギャラリーで ある現代画廊ができたのを契機に、画 廊の街に変貌することになる。そして、
また九0年代になってから、仁寺洞は 再び別の変貌を試みている。伝統の味
を伝える茶屋と飲食庖ができはじめ、 多様な文 化空間として の面白を持つよ
うになったが、こうした変貌は人工的
なものではなく、自然のうちに形成さ れ、独特な文化空間として発展してい
この街の独特さはすべての人々を抱
つ九ん。
寛勲洞
‘ソウルホテル YMCA ホテル
M lお
朝興銀行
錘路
国発行 韓関銀
普信関
鍾 路 2街
. 縫光 観
社
• •
ζノ
仁 寺i 同 ! ご シ
錘路 3街
1競 線 1 也下鎌鍾閤
楽園;同
鍾路 3街
え込む豊かな包容力にある。ギャラリ
E
-••
. 国公
3 5
、:ミ~-
曹渓寺
・ 圃 圃 圃 圃仁 :
~
5競 線 地 下 鑓
{¥
PPD穴包川C Z C C I
f : U! 務 '
F 第~P'
q 苦ト
~ ~\
3 6
u 明 、名声明mCZCIC
ミの荷の独特さはすべての人々を抱之込む豊かな包容力に
い情景が、長い問、忘れて暮らしてい たゆったりとした感じを一幅の風景画 のように蘇らせる。ゆえに仁寺洞の路 地はぶらりと歩いてこそ本来の味わい が出てくる。骨董品の庖にちょっと立
ある。 ギ ャ ラ リ ー と 骨 董 品 の j主と古書籍の庄から、
!と骨董品の庖と古書籍の庖から 、食 堂と茶屋、カフ工、屋台にいたるまで、 過去と現在が数限りなく、交錯し、調 和しながら隣り合 っている 。新たなも のだけを追求している世相とは異なっ ち寄って陶磁器が醸し出す昔の香りに 酔い、画 廊 のショーウインド ー をのぞ いて目を澄ませることで、胸の中がい つの間にか満たされてくる。ここでは 誰かに出会えそうな期待が生まれてく
食堂と茶屋、 カフェ、 屋 台 に L、たるまで、
て、この街が見せてくれる大部分のも のは古く 、久しく、変わらないものな どである。肩をすくませてうずくまっ ているような建物の数々、それらの家 の陳列 棚 には大小様々な骨董 品がい っ ぱいに満たされ 、 その一つ 一つが織り
過去と 琉 在が数限 り な く 、 交錯し、
るが、しかし誰かに出会わなくても構 わない。 ふと茶屋にでも立ち入ると、主人が 懐かしい客のように迎えてくれる。﹁お l、来たのか﹂、﹁私の夫は樵﹂、﹁学校 の 鐘 が カ ン カ ン カ ン ﹂、﹁平和造り﹂ 、 ﹁ 蚊遣火に月爆るかも﹂、﹁花を投げて暮 らす﹂、﹁妖怪が出そうだ ﹂ 、﹁今日のよ うに素晴らしい日﹂、﹁昔の話﹂、﹁流れ
調和しながら隣り合っている
なすエピソ ードと歴史が 、仁寺洞をあ たかも過去を現在に再現した巨大なセ ットのように見せてくれる。それゆえ、 仁寺洞には息を切らせて馳せているソ ウルの生活に疲れた人々、輝かしい現 在よりも古めかしい過去によりいっそ う慣れ親しんだ人々が集まってくる場 所である。 仁寺 洞 は疲れた人々が食し、目を楽
る水の ごと く﹂などの ように 、変わっ た名前のカフェではあるが 、 いずれも 親切なので 、 不慣れな旅行者たちです らなんらはばかることなく出入りする ことができる。 ﹁ 通文館﹂ 、 ﹁崇文閣﹂、 ﹁文庫堂﹂などのような古本屋と﹁学古 斎﹂、﹁サン画廊﹂、﹁東 山 房画廊 ﹂など
3 7
しませ 、休むことのできる場所を、ま るでポケットの多い服のようにいたる ところに隠している。だから、誰でも 仁寺洞の路 地裏に立ち入れば 、 いつの 間にか歩みがゆっくりになってしまう。 色槌せた一枚の写真のように微笑まし
仁寺洞の入口(上)、毎週日曜日 、仁寺洞は歩行者天国の街となり 、露庖で音の物 を売る人が集 まってくる。この時は、韓国の昔の物はもちろん 、奇想天外な人々にも出会え る ( 右)
のような画廊にはそれぞれ斬新で特色 のある企画により韓国美術文化の流れ
寺洞ロータリー、北の方の安国洞ロー
安国洞ロータリーの方から出発するの が効率的である。そこにある﹁学古斎﹂
スラ
ば、﹁イモ(母の姉妹)の家﹂、﹁青瓦﹂、
O Oあまりの小料理屋がひしめいてい
理屋は仁寺洞の食堂の生きた歴史であ
、 仁寺洞の道路に沿 って下りて行 くと ﹁首都薬局﹂の手前の右側に﹁ヘソ ン病 院﹂が現れ、その横の路地に沿って入 っていくと、﹁サドンチプ﹂というソル ロンタ ン (牛肉と骨を長時間かけて煮 たスlプ)の庖がある。そして、その
﹁姉の手打ちうどん﹂、﹁水刺(王に捧げ る食膳)﹂ 、 ﹁寺院﹂などのような韓国料 理屋が列をなしている。
を粘り強く引き継いでいる。 ともあれ仁寺洞の主は誰が何と言っ る。単位面積当たりの食堂数ではソウ ルでも一番といえる所ではあるが 、 こ こ十数年間、人々の舌鼓を打たせたカ
る。昼食には数多くのおかずが出る定 食と 一品ずつ別々に注文することので きる料理メニューがあり、夕方になる
タリーの聞の仁寺洞路の両側に蜘妹の 巣のように繋がっている路地裏には 一
ても骨董 品の庖と古本屋である。もと もと仁寺洞の性格を作り出したのが、 これらの昔の物を売っている庖である ルビ焼きの庖や刺身の庖などはほとん ど見つけることができない。大体にお いて韓国料理屋がそれぞれ似通った名
路地の奥の方には﹁サンゴル﹂という ナムル料理屋がある 。 ム ッナムル(摘
の前がちょうど仁寺洞の食堂街が始ま る所だからである。まず、最初に目に サチョン 飛び込んでくる看板は﹁澗川﹂と ソンチョシ ﹁宣川﹂である。これらの二つの韓国料
からだ 。 そのため仁寺洞の骨董品店は 仁寺洞の顔でありながら、歴史の万屋 でもある。昔の人々が使っていたあら
と本格的な酒と肴と料理が載 った膳が 出される。その路地の内側に立ち入れ
仁寺洞でグルメの旅を楽しむなら、
前の看板を掲げて並んでいる。
ファλ クドン チ ア プ 、 ぜ ヨ ン
ゆる品物が陳列されている。しかし、 これらの庖では主に高い値段の貴重な 品を取り扱っていることで定評がある。 黄鶴洞や長安平のようにソウルのほか の骨董品商店街で売 っている昔の家具 や生活用品などとは質的に区分される。 しかし、最近では市場に出てくる本物 の骨 董品の数量があまりにも少ないの で、外国の旅行者たちを相手にしてい
っている
る安い値段の工芸品を取り扱 っている
るところも仁寺洞である。南の方の仁
庖が増えてきている。 そうした 一方で、歳月が醸し出した 韓国料理の 真髄が依然として残ってい
明
U 司式問EZ ﹀ のと
仁寺洞にはいろいろな物を売る露庖、タ ル(仮面)や古本を売る庖、おいしいお 茶を飲ませてくれる伝統茶屋などが集ま
3 8
さん入った味噌汁を出すが、冷麺の器 に麦飯を盛り上げ、その上に卵焼きを 添えてくれる。再び、鍾路二街の方に
植物)、チゥイナムル(オタカラコや白 山菊などの山菜)とミルチョムピョン (小麦粉で焼き上げたもの)と具のたく
べるもの)とチャムナムル(せり科の
んでおいた山菜を乾かして次の年に食
韓国の有名な画家である李満益氏は、 彼を画家に育ててくれた仁寺洞の街を 次のように回顧している。﹁最近でもた
客は伝統音楽のメロディーの中で、庭 に置かれている彫刻品まで鑑賞するこ とができるのである。
子茶などのような伝統茶が安い値段で 飲めるようになった。日にここに来て お茶を飲んで帰る人の数が少なく見積 もって四O O人あまりになるという。
努力のおかげで、梅茶、菊花茶、五味
約が身に付いた西欧の蚤の市のように、 家庭で使っていた生活用品をきれいに手 入れして、日曜日に露店を開く人たちが
から仁寺洞入口にかけて両側の道端に仁 寺禍文化市が聞かれる。その中には、節
これに加えて、この街の雰囲気をさら
見られない楽しさが溢れ流れる。所々 に外国から来た露天商が場所を占めて 居座り、多国籍民族市場を形成して異 彩を放っている。そのため、ソウルの 仁寺洞は韓国のイメージであり、ソウ ルのイメージでもある。入口で始まる 伝統風物ノリペ(演奏団員)の公演、 誰もが餅の杵をつくことのできる餅作
た露店の問で多彩なイベントが繰り広 げられる。都心の真ん中ではなかなか
また、伝統文化や踊りなど、工芸品、 食べ物などがいっぱいに積み上げられ
に高める現象が、最近になって現れた蚤 の市である。毎週日曜日になると、鍾路
歩いて行って﹁トンイン﹂という民芸 品庖を過ぎて左側に曲がると、有名な 寺の精進料理専門応である﹁山村﹂に
営の展示場がほとんどなかった頃、徳 寿病院の跡に文芸振興院が美術会館を 開設し、画家たちに貸し与えてくれた のが、この街にギャラリーが立ち並ぶ ようになったきっかけだった。﹂
ものなら、向かい側の安国洞の画室の 建物を眺めながら昔話に耽ってしまう。 安国洞ロータリーから仁寺洞の入口ま で、画廊の立ち並んでいる街に発展し たのは、仁寺洞の昔の姿からもたらさ れた自然な現象であった。ソウルに公
まに立ち寄る﹁イモの家﹂や﹁澗川の 家﹂で若かった頃の友達にでも会おう
目に付くほど増えてきた。彼らが広げた 露店には本やカレンダー、ハンカチやレ コード、室内靴やロウソク、それに古時 計などが飾られている。
行き当たる。 仁寺洞の落ち着いた雰囲気を感じた いときには、この辺りに散在している 茶屋を訪ねて行けばよい。黄色く色槌 せた韓紙を貼り付けた壁、無骨な木製 の車子と椅子、震んだ電灯の光に中で 灰かに広がる柿葉の茶の香りが鼻をく すぐる茶屋には﹁帰天﹂、﹁昔の茶屋﹂、 ﹁茶苑﹂などがあるが、﹁耕仁美術館﹂ の茶屋である﹁茶苑﹂は仁寺洞茶屋の 代表と言えるところである。緑茶販売 の代理屈である﹁茶生員﹂を運営しな がら茶屋の普及に先駆けている主人の
り広場、投壷ノリ(壷に矢を投げ入れ る遊戯)が楽しめる広場、その場で陶
磁器を作ってみることのできる陶芸の 広場、楽しい踊りで大いに楽しませて くれる飴屋、チエギ(足で蹴って楽し む遊び道具)蹴りの模範を見せる年寄 り、異色の衣裳と演奏で目を引くバイ オリン演奏家、道端いっぱいに木の切
れ端やおがくずなどを散らしながらチ ャンスン(村の守り神)を彫っている 彫刻家たちを日曜日の文化市で見かけ ることができる。 これらは一世代前の韓国人の祖先た ちのイメージであり、今日を生きて
行 く 韓 国 人 た ち の イ メl ジでもある。 それゆえに仁寺洞には剥製にされた 骨董品などから見られる静的なイメ ージの代わりに、今日を生きて行く 人々の膨らんだ文化的な欲求の数々 が激動的なイメージとして溢れ出て いる。その名称自体だけでも、生き
ている文化財としての役割を十二分 に担っているところ、それが他なら ぬ、仁寺洞である。
3 9
介ノド﹂、/
オー ロ │ク
キセン
韓国人
昔八古河伊は、 神 話 的 な 部 分 が 多 い 人 物 で あ る 。 彼 女 が 見 せ た 、
一言では、一=ロい尽くせない優雅さ 、 つまり ﹁粋﹂
社会のすべての規範をあざ笑うような行動を取りはしたが、
にとって羨望の対象である。 彼 女 は 時 に は 無 謀 で
l ま
いうものである。二つ 目はもう少し ロ
マンチックで、彼女の母である玄琴に 関するものである。黄真伊の母が橋の
下で洗濯をし ている時、ある美しい若 者が通りかかった。彼は水を飲ませて もらえるかと聞き、彼女は従順な態度 で水の入ったひょうたんを渡した。水 を呑んでから、彼がひょうたんを戻し、 彼女にも飲んでみろと言ったので 、飲 んでみるとそのひょうたんにはおいし
若い男の正体については種々の説があ るが、ひとつは彼は不死の 世界から来
い酒が入っていた。黄真伊は玄琴とそ の美しい若者の聞に生まれ、 逸話によ ると彼女が生 まれた部屋は芳 し い香り でいっぱいに満ちていたという。その 青草茂る谷に、 眠るのか横たわるのか 紅顔いずこに去り、
た者で、二度 とこ の世に戻る こと はな い者だったというものと、もう少し現 実的なものとしては、彼は地方官吏の 黄真伊の生い立ちに関しては 二 つの 有力な説がある。まず最初は、彼女の 母が盲目の放浪芸人の歌い手だったと
黄という進士(下級官吏の名称)で、 玄琴を妾としていたというものであ る 。 黄真伊は比較的早くから ロマンスを
白骨のみ残るのか 杯を手に勧める者もなく、 君を哀しむなり
時調(詩)は、個人的な思い出からと いうよりは黄真伊への追慕の念を帯び たものだと思われる。それは次のよう なものである。
女の墓の前で彼が詠んだという有名な
る。また記録によると、林悌(一五四 九1 一五 八七)は黄真伊を個人的には 知らなかったわけであり、そのため彼
一五六七年に没している。興味深いこ とにこの 二人の儒学者は、どちらもそ の著書に黄真伊のことを言及してい
に没し、蘇世譲は一四八六年に生まれ
彼女は道徳的非難を超えてむしろえ衆の人気を集めた
確な生没年度に根拠を置くもので、徐 敬徳は一回八九年に生まれ 一五四六年
彼女と親しかった徐敬徳と蘇世譲の正
O年ほど過ぎた壬辰倭乱(豊臣秀吉の 朝鮮侵略)以後にようやく記録され、 それもいつくかの文献 に散らばってい る。残っている記録によれば、黄真伊 は 一五O 二年に生まれ、 一五四O年に 死んだものと推測される。この推測は、
的﹁女傑﹂として社会の全階層から愛 された。 黄真伊の直接的な史料としては伝わ るものはない。彼女の作品は死後約五
ざ笑うような行動を取りはしたが 、彼 女は道徳的非難を超えてむしろ大衆の 人気を集めた。その結果 、尊敬や模範 の対象とまではならなかったが、大衆
向から立ち向かった。個人に対する道 徳的断罪が公然となされていたその時 代の社会相に照らしてみると、彼女は 時には無謀で社会のすべての規範をあ
り、因習と厳粛主義を拒否することで、 良家の娘として具備すべき模範に真 っ
慶 煎大 英 文 科 教 授
六世紀の妓生で、詩人であ り、また歌の名人であった
黄真伊は、神話的な部分が多い人物 である。彼女が見せた、 一言 では 言 い 尽くせない優雅さ、つまり﹁粋﹂は、 韓国人にとって羨望の対象である。彼 女は、社会が堅苦しい因習を要求した 時代における芸術的な生の象徴であ
して名声を得た。彼女は職業上でも儀 礼上でも 化粧や装身具で身を飾ること をせず、彼女を呼んだ多くの高級官僚 には残念なことだったろうが、宴に出 る時さえ妓生の衣装に着替えることを 拒んだという。
最も卑しい身分に落ちるということで あり、そこから抜け出すことはできな いのだが、彼女は当代の学者、芸術家、 土大夫らと交わり、時代の因習に挑戦
雰囲気がつきまとう。妓生はもともと 日本の芸者のような遊興を提供する遊 妓で、妓籍に入るということは社会で
一 黄真伊(一五O 二1 一五四 O)。 この名前には、神秘的で独特な
一
A
事室f _ ~‘「
ー ' “
4 0
経験した。まだ幼い少女だった頃、あ る若者が庭に立つ彼女を見て熱烈な恋 に陥り、結局恋患いになって死んでし まった。彼の葬式の行列が黄真伊の家 の前を通りかかった時、馬と棺かつぎ の者たちの足が地にひつついて動かな くなってしまった。その棺は、黄真伊
仕事に戻った。両班たちの宴に行き、 歌と舞でそこにいる儒学者たちを虜に し、も っと楽しみたいのなら金を出せ と言ったのである。ある者は、こんな
いた。読むのをい っとき中断した彼は 彼女に風邪をひくから着物を脱いで乾
関係は、結局プラトニックなもので終 わ ったという。 碧渓{寸という儒学者にまつわる逸話
がある。松都(現在の開城)に着いた
言 したという。次の刺激的な時調は、 黄真伊がこの儒教学者に送ったもので
彼は虚勢を張って、自分はいくら美し い女が誘惑しても誘いに乗らないと断
った。彼女はこの老学者の弟子かつ崇
ついに出会ったことを認め、彼の足元 で眠ることで満足しなければならなか
かしなさいと 言っ たきり、 一晩中読書 を続けたという。黄真伊は、彼女の誘 惑を振り切れる道徳の備わった君子に
ことが起こっている問、恋人の李彦邦 は何をしていたのかといぶかしがる。 この話から推測するに、彼はこのとん
後の日の夜、黄真伊は恋人のため次の
な男は男ではないと 言っ たので、彼に 自分と 一ヵ月だけ一緒に暮らそうと言 い、その後ただの 一日でも過ぎてはい けないと念を押した。一月が過ぎ、最
算した。彼女にはいつでも男性の挑戦 を受けて立つ態勢ができていた。ある 時、蘇世譲が女性の誘惑に負けるよう
年間を 一緒に暮らした。その期間が終 わ った時、彼女は後も顧みず関係を精
わせても普通ではない女性であった。 最も非因習的な生き方をし、どんな状 況にあ-っても彼女が生きた時代の社会 基準 に挑戦した。これは、性に関する 部分に特にはっきりと 表 われている。 彼女は、李士宗と結婚し契約期間の六
黄真伊は、いかなる基準に照らし合
休んでいけばよいものを
戻れないものを 明月が空山に満ちているのだから
青山裡の碧渓水よ 先を急ぐことを自慢するなかれ 一度治海に達すれば、
ある。﹁碧渓水(青い渓谷の水ごは彼 の名と同音異義語で、明月は黄真伊の
でもない恋人を頼りに生きるのに満足 していたのではないかという気がす る 。
が彼女の上着(下着という説もある) を脱いで上に投げかけてやるとやっと 動き出した。黄真伊は、そのことがあ
妓名である 。
伝わるところによると、この 二人の
水は昼夜に流れる故に 昔のままの水であるわけがなし 人傑も水のごとく、 行けば再、ひ戻らず
山は昔の山なれど、 水は昔の水でなし
黄真伊も彼の死後、 彼を称える時調をひとつ書いた。
他に笑われるのだろう
心よお前は何故いつまでも若いのか 私が老いた時にお前は 老いないというのか おそらくはお前を追いかけて
なすことは全て愚かしく 万に重なる 雲の 山に誰が 来るというのか 落ち葉吹く風に、 もしや彼の人が来たのか
心の未熟さ故に、
拝者としてとどまった 。徐敬徳の黄真 伊に対する愛情を表現する時調が 二編 残っている。
ほど脚色されているのかをは っきりさ せるのは無理な話である。とにかく、 彼女は俗にいう優れた道徳的規範によ って肉体の誘惑から解放されると考え
ここで、黄真 伊に関する逸話がどれ
ってから妓生になることを決心したと いう。だが、彼女が妓生という特殊な 職業を選ぶことになった動機に関して は、比較的信憲性がある異説もある。 一説には、彼女が妾の子だという理由 で両班(貴族)との結婚がだめになっ ている人を引きずり下ろしてやりたい という欲求を持っていたようである。 一生を世俗を離れた隠遁生活の中で仏
尼になると言った。そうして、その徳 の高い高僧の心を奪ってしまい、彼を 破戒にいたらせてから悠々と日常生活
たので妓生になったと言い、また因習 的な結婚に伴ういろいろな制約を嫌う 彼女の天性の性格のためだとも言われ ている。最もそれらしい説は、彼女が 妓生の家庭に育ち、成長してそのまま 自然に妓生の道に入ったというもので ある。 黄真 伊 に 関 し て 伝 わ る 史 料 に よ る
に戻 った。黄真伊のおもしろい 一面は、 彼女がこの事件の後、大変な良心の町
道に精進する僧侶を、彼女がどのよう に誘惑したかという逸話が伝わ ってい る。彼女は、修道する学徒だと自称し、
と、彼女は倣慢な人間を嫌い、いい酒 といい音楽、いい詩を吟味できない男
これに関するいく つかの記録によれ ば、彼女は、もともとその当時の道徳 律を超越していたが、何かしら彼女の 心を乱すものがあったと思われる 。 伝わるところによると、黄真伊は、 師匠の徐敬徳をも誘惑しようとしたと いう。雷雨の轟くある夜、彼女は人里 離れた徐敬徳の山中の庵を訪ねた。こ の老師匠は、灯火の下で経書を読んで
責を感じたらしいということである。
に は 絶 対 に 好 感 を も た な か ったとい う。しかし、場合によっては例外もあ った 。 一説によると、彼女はある日恋 人の李彦邦(生員)と一緒に金剛山に 旅立ったが、その時、彼女が強情を張 ったので、下人も連れず彼らは平民の 履くわらぞうり姿で、その上彼女は尼 の使う笠をかぶっていた。人里離れた 寺で食べ物を乞うたが思うようにいか ず、飢えに耐えかねた彼女は、本来の
4 1
侶や彼女の師匠である徐敬徳に対して
対比は、おそらくこの時調の主題とい えるだろう。この力はおそらくそれが 表現している詩想からくるものだろ
さ。最後の﹁永遠﹂と﹁はかなさ﹂の
ような漢詩を詠んでいる。﹁奉別蘇陽 国を代表する詩人として認められてい る。特に彼女の時調の中で﹁霜月の長
彼女は六首の時調と八首の漢詩を残し たが、このわずかな 量の 作品だけで韓
谷世譲(陽谷は蘇世譲の筆名)を送っ 取った行動を考えてみてもわかるだろ う。彼女はおそらくこの二人の男を、 彼女が女であることを試すための実験
う。愛は永遠ではない。この世では確 かにそうである。
て﹂という詩だった。
き夜に﹂は、最も優れたものとして知 られている。
た伝説の中に包まれている 。原因不明 の熱病に冒され死を迎えながら、黄真 伊は自分の葬式には嘆きの声より歌と
この時調は、恋しい人のいない寒く
恋しき人来る日の夜に するすると伸ばそう
霜月の長き夜の腰の辺りを 切り取って 春風布団の下にくるくると巻き入れ
る。これに反し、この時調で黄真伊は 自分が先に関係を精算しておいて、恋 の心理と自由への根本的な問いかけを 投げかけているのである。
ない恋に捨てられた自分の運命を嘆く 女の観点で主題にアプローチしてい
時調は、他の妓生のものとは違うアプ ローチをしている。伝統的に妓生の時 調は、戻らぬ恋人を恋慕うか、やるせ
この時調は黄真伊が非常に若か った 時に詠んだものといわれている。この
送りて恋しき情は我も思わざりなり
なにゆえ朝には恋しきを知らざるや 行くなと言えば、去らざるものを
のレベルにはいたらないが、全て優れ た作品性を見せている。次の時調を例 に見てみよう。
黄真伊の他のどの時調も、これほど
台程度にしか考えていなか ったようで ある。
月光の下、野には桐の葉皆落ちて 霜の中、菊の花は黄色に咲き 舞を供えてくれと頼んだという。 そし て死体を棺に入れて埋葬せず、村の外 の川辺の砂地に捨て、カラスの餌にし てくれと言 コたという。彼女の言葉は
終わりのない夜が、ぬくもりと愛情で 満たされた永遠の時に変わる驚くべき
月下庭梧蓋 霜中野菊黄
楼高天尺 人酔酒三鰭
自分は人生で多くの男の胸を焦がした が、自らは人を愛したことがなかった
彼女の・人生のように、彼女の死もま
人は酔う、三杯の酒に
楼閣は高く空にそびえ
流水和琴冷
から、この世の全ての放蕩な女たちに 厳しく警告してほしいということだっ たという。松都の全ての風流人は、こ
に変化させている。続く最後の行では、 愛の喜びがするすると永遠に続くこと
類まれな美しさと超越した感覚、そ して男を圧する力をも っていたにもか かわらず、黄真伊は寂しさを抱いてい たらしい。
秋風に落ちる葉の音を
私がいつあなたを信じず
を暗示している。切り取り、くるくる と巻いて、するすると伸ばす、この過
1伸ばす、永遠ーはかな
あなたをだましたというのか 月の沈む子の刻に あなたが来る気配は全くないのに │出現、巻く
程は時調に際立 った統 一性を与えてい るが、直接的に表現しない暗示された 対比の結びつきにより、この統 一性は ますます強ま っている。冬│春、寒さ 温かさ、悲しさ喜び、恋人の不在
て、時調の情緒を安らかで楽しいもの
二行目の﹁春風﹂のイメージは、直接 的に内容を表わすのではなく、それと なくほの ・ めかして見せることによっ
は、この時調に果てしなく長い夜の寂 しい思いに対比した具体的で新鮮な詩 想を吹き込んでいる。温かさと香りに 対する非常に東洋的な暗示に調和する
イメージを中心としている。最初の行 に見える、時間を擬人化したフレーズ
梅花入笛香
れに非常に感嘆した。いかにも名妓ら しい遺言である、と。だからといって
るかに超え、一つの境地に達している。
つ ・ 詩人としての黄真伊は、見事に洗練 された感覚をもっている。彼女の作品 は、他の妓生のそれに典型的に表われ ている、去 ってい った者への悔恨や実 らない恋などの決まり切った範囲をは
。
ばっていた黄真伊の遺骨を集め、現在 の板門屈の近くのある丘に埋めたとい
ある者が、目も当てられないほどの悲 しい光景を目にして、夜のうちに散ら
ては黄真伊が望んだとおりになったと いう。だが、数カ月後、黄真伊を慕う
彼らが黄真伊の生き方を認めたのかど うかははっきりしないが、とにかく全
流れる水は琴の音に和して満ち 梅の花は笛の音に染みて芳しく 明朝相別後 情意碧波長 夜が明けて相 別れ旅立つだろうが 恋しい思いは青い波の如く 果てしなし
一緒にいさせてくれと哀願
いったい誰がこれに勝てるだろう か。蘇世譲はため息をついて 、自分は もう男ではないと言わざるを得なかっ た。彼は、
した。 黄真伊は当時の男性中心主義の偏見 にも挑戦した。これは、あの不欄な僧
4 2
まえて半月を詠 ったものである。 誰断昆山玉
私はどうしたらいいのか この時調を読んだ読者は、これが典 裁成織女統 牽牛 一去後 愁榔碧空虚
つれない恋人のために悲しがりもする
え 、
に美しい恋を終えようとするなんて、 我々はなんと愚かなのだろうか。
後に矛盾した対句により詩は締めくく られる。ここで彼女は問う。このよう
夢の中でのみ互いに逢える身 彼の人を訪ねたとき
願使遥遥他夜夢 一時間作路中逢
健訪歓詩歓訪慎
ージの中心となっている。この船は、 推測するに黄真伊自身を表わしている
次の詩は、松の木の小さな船がイメ
それからは夜毎入れ違う夢 共にたち、路中で会うことにして
彼の人は私を訪ねていたのか
相思相見只態夢
この時調は偶数行ごとに脚韻を踏ん だ五言律詩である。初めの 三 つの対は 全て対句にな っており、これは、対句 を義務的に守らねばならないこ句目と 三句目に特に顕著に 表われている。 楼閣│高く│空 1 一 尺 人│酔い l酒│ 一 l 一 下杯 流れる│水│和してl琴i満ち
ものと思われる。
汎波中流小栢舟 幾年閑繋碧波頭
後人若問誰先渡 文武兼全万戸侯
流れの中の小さき松の船 幾年を波に探まれてきたのか
これは、大衆の心の中に生きている 黄真伊の姿である。堂々とし、挑戦的 で、独特な個性をもっ黄真伊は、いつ でも最高を求め、それを達成した。韓
後の人、我がことを問えば 文武全 て兼ね備えし万民がための 者と ものであるのか笛のものであるのか、 どちらを選 ぶべ きかという興味深い選 択を迫っている。 ﹁相思夢﹂という詩では、夢と現実
国の 真 なる﹁大人物﹂あるいは﹁芸術 家﹂が、我々の生を数編の詩で豊かに 彩 ってくれることを願う思いがなくな らない限り、黄真 伊の伝説は生き続け ることだろう。血マ
最後の行は、翻訳者に芳しさが梅の
梅 花 │染めl笛│芳しく
実らない恋などの決まり初った範囲をはるかに超
っている。 彼 女 の 作 品 は 去 っ て い っ た 者 へ の 悔 恨 や
詩人としての黄真伊は、 見 事 に 洗 練 さ れ た 感 覚 を も
曲玉、半月、そして櫛は恋人たちの 複雑な感情を表現している。出会いの
物憂い心を虚空に投げかける
織女の杭き櫛を作るのか 恋しい牽牛が去 った後
昆忠岡山の 玉を誰が穿ち
型的な妓生の時調の伝統に当てはまる ものだと思うかもしれないが、ここに は微妙な違いがある。ここで黄真伊は、 が、それより自分の運命が感情の犠牲 にな ったことに、ことさらの悲しさを 感じている。彼女は愛の絶 望 に陥り 、 ど う し て い い か わ か ら な く な ってい る。詠み手のジレンマは、秋の落ち葉 のイメージを通して暗示される人間の 宿命的な有限性と老いの必然性により 高まっている 。 よく引用される 黄真 伊の最後の時調 は、今まで英語で何度も翻訳されてい るにもかかわらず、訳すのは簡単では ない 。 これはおそらく、この時調の中 心となるイメージ(緑水、青山)が現 代の読者には陳腐な表現に見えるため であろう。
譲に詠ったものと類似していると指摘
が入り乱れた、黄真伊特有の才能をう かがううことができる。この詩は、空 想を主調とし、微妙かつ徽密に編まれ ている 。
つの境地に達している
黄真伊は、時調より漢詩を得意とし た。全ての時代を通して、非常に優れ
している。 既に引用された﹁蘇陽谷を送って﹂ の漢詩は、黄真伊が蘇世譲と契約した 一月 が 過 ぎ て 別 れ を 告 げ る も の で あ
青山は我が心、緑水は彼の情 緑水が流れれば青山も変わるのか 緑水も青山を忘れ得、 ず湧き出るのか
た詩に駆使されるイメージの使い方が ここに表われている。ここに短い五言 絶句の詩を紹介する。これは古いおと ぎ話である織姫と彦星の物語、愛しあ
り、確かにこれと似た種類のものであ る。イメー ジは感覚に訴えてくる 。景 色、音、香、感覚、季節、 雰囲気、最
喜びは玉で作られた櫛の 美しさを通し て表わされている 。別れの悲しさは空 に捨てられた玉櫛を通して表現されて いる。ある評者はこの詩の構成が蘇世
う彦星(牽牛星)と織姫(織女星)の 出会いのために、 一年に 一度だけかさ さぎが橋をかけてくれるという話を踏
4 3
︿ O O ZZ00宍VO
洛 来 江 は 韓 国 の 天 然 記 念 物 の 鳥 類 を は じめ、 世 界 的 に も 珍 し く 貴 重 な 鳥 類も時 折
々、 禾 捗 H
やって来る渡り鳥たちの停留所である。 自 然 え 化 財 で あ る 丹 頂 鶴 、 白色崎、 尾白鷲、 ク ロ ツ ラ ヘ ラ サ ギ 、
群がって休んでいる海猫の群れ
は四 季 を通じて餌が豊富 で 、 寒 い冬で も水が凍らない所である 。何よりも洛 東江河口は広い砂 州 と葦 が生い茂 って
る。 韓 国 最 大 の 渡 り 鳥 の 渡 来 地 といえ ば、釜 山 の洛東江河口であろう 。 ここ
号に指定されている。ここで見 られる 鳥類は約一 二0種類で、この中の 一O 種あまりが留鳥で 、残りは渡り鳥であ
サジ ャ島 、 シン リなどとの問に広が っ ている葦原と砂原は東洋最大の渡り鳥 の渡来地であり、天然記念物第 一七九
動物で有名な のは河口 一帯の渡り鳥 ウ ルスク ド の群である。洛東江河口の乙淑島から
この川の水によ って運ばれ、また大韓 (朝鮮)海峡の潮流や渡り鳥によ って 海外の植物が運ばれてきたためであ る 。
最近、洛東江下流の植物調査によると 、 全部で 一五 一科九 一O種に達し、特に 鳴旨地域だけで七四科 三六六種 の植物 が調査された。それは内陸性の植物が
コウ ノ ト リ な ど が や っ て 来 る 唯 ベ渡り鳥の渡来地である
ppi東 江 は 韓 国 で 二 番 目 に 長 い £ヘノγト 川 で 、 江 原 道 の 太 白 市 に あ L, V寸 ﹄ る成白 山 か ら 始 ま り 、 嶺 南 地方の中央 低 地を通って南海島方面に 流れている。本流の長さは五 二五・一 、 五回、総流域面積は 二万三千六O Mで 韓国の面積の四分の一にあたる。 朝鮮時代の人文地理 書 である﹃東国 鰍地勝覧﹄には洛水と表記されており、 同じく 地 理書である﹃捧里志﹄には洛 東江とな っている。本来、溶東という のは駕洛の東側というのに由来したと 言われている。嶺南 地方のほぼ全域を 流れて南海島 方 面 に 流 れ 込 ん で い く 洛 東江には伽 耶 と 新 羅 の 千 年 に わ た る 民 族の哀歓と情操が渦を巻いている。壬 辰倭乱と六・ 二五の悲劇を抱き込み、 長い歳月の問、嶺南の人々の生きる源 泉とな ってきた。 洛東江流域の 主要 植 物 を 見 る と 中 流 ・上流流域は南部暖 ・温帯落葉 、 閲 葉樹林帯、下流は照葉樹林帯に属する 。
の
︿ OZZ00 O 由行 XU
4 6
いて、渡り鳥たちの格好の休息場所と 寝所になっている。行政区域 上、洛東
江河口は大部分が釜山 市 に属しており、 その 他金海市 チヨンガ面との 聞 に大き い河口が広がっている。また、ここに
は数多くの三角州が形成されている。 洛東江河口には渡り鳥が最も多く渡
ってくる三角 州 である乙淑島がある。 洛東江本流と竹林江の聞には巨大な三 角州が広がっており、河口の外側に無
数の砂浜の島があり、渡り鳥である水 鳥たちが 休 める格好の場所になってい る 。 何よりも洛東江河口の環境で欠かせ ないものは生物が棲息できる条件、す
なわち豊富な餌である。ここは 川 の上 流の栄養分の多い堆積物が流れ出て、
河口の砂州、水草などが積み重なり、 また 川と海が出くわして、あらゆる生 物の発生源になっている所である。そ
のため下等動 物 である原生動物から軟 体動物、甲殻類、環形動物、魚類に至 るまで様々な種類の生物が棲息してい る 。
このような環境は湿地生物にも最も 適した棲息環境になっている。目に見 えない下等動物である原生動物は沙査 の格好の餌になり、沙蚕は海猫や鴫や
川千鳥の餌になる。また、多くの魚は 海鴨と鳩の豊富な餌であり、また鴨が
口である。
多く集まる所なら当然鴨を捕まえて食 べる天然記念物の鷲がやって来ること になっている。すなわち生物の餌形態 である餌のサイクルが最もうまく噛み 合っている所がまさに釜 山 の洛東江河
洛東江河口は水と関わりのある所な
4 8
洛東江の河口にもっと も多くやってくる真鴨
;各来江河口の環境でえかせないものは生物が棲息できる条件、 すなわち豊富な餌である 。 ミミは川の上流の 栄養分の多い堆積物が j えれ出て、河口の砂州、 水草などが積み重なり、また川と j 与が出くわして、 あ ら ゆ る 生 物 の 発 生 源 に な っ. ている所である
4 9
水鳥である。最も多くやって来る鳥の 種類は鴨であり、鴫、川千鳥、鳴、鵜、 白鷺、鴎などの順序でやって来る。そ の他、鷲や鷹も見られ、河口の葦原周
ので、ここにやって来る鳥の九九%が
には水鳥である小鯵刺が砂島に大きな
白鳥、禿鷲、尾白鷲、クロツラヘラサ ギ、コウノトリなどがやって来る唯一 の渡り鳥の渡来地である。季節によっ
鳥類も時折やって来る渡り鳥たちの停
主に春、秋には旅鳥(通過鳥)であ る鴫と川千鳥がここを渡っていき、夏
て渡り鳥の種類と群れが変わるので、 いつも異なった種類の鳥を見ることが できる。
留所である。自然文化財である丹頂鶴、
辺にはおお 葦 切り(行行子)類、緋秩 鶏類などもやって来る。韓国のどこを 探してもこのように多くの種類の鳥や 群れがやって来る所はほとんどない。 さらにここは韓国の天然記念物の鳥 類をはじめ、世界的にも珍しく貴重な
群れをなして繁殖する。河口の葦原に は貌科のおお葦切りが数千匹繁殖し、 沼には緋秩鶏類である鶴なども多く見
ている。主に鴨、雁、白鳥、鵜、鳩、
の経験のある鳥の案内者の助けが必要 である。さらに船が借りれる場所、時
自由に見て回るというのは難しい。短 い時間に多くの鳥を見るためには洛東 江河口の地理と鳥に関する知識と長年
洛東江河口は何しろ広く、尼大な地 域であるので、渡り鳥の渡来地を隅々 まで全て見ようとすると多くの時間が 必要である。その上、湿地、砂州、川 岸がほとんどであり、水が浅く干満の 差が激しく、また水の勢いが強いので、
鴎が多く、一月を前後にして渡り鳥が ピークとなる。
られる。 洛東江河口は今頃が冬鳥の大きな群 れが最も多くや って来る季節である。 それゆえこの時期の洛東江河口は一面 が渡り鳥で埋め尽くされた壮観をなし
鴫類の中でもっとも大きいホウロクシギ
5 0
期選定などの事前準備をしておかなけ ればならない 。 そして見たい鳥がどの 時期にやって来るのか、珍しい種類な のか、大きい群れの鳥なのかを確認し て臨まなければならない。白鳥と鴎の 群れを見たいのなら釜山市沙下区長林 洞埠頭に行かなければならず、鴫や 川 千鳥をたくさん見たいのなら江西区鳴 旨洞埠頭近所の大馬院に行かなければ ならない。鳥を見るための船の貸与料
る所もあり 、朝九時から午後四時まで、 最低十万ウォンする所もある。洛東江 河口は小さい船着き場や. 村が多いので 遊覧船よりは小さい漁船を利用した方 が安い。 交通はソウル1京釜高速道路1郎馬 高速道路(馬山) 1湖南高速道路を経 て、金海インタ ー チェンジ1国道 二号 線1 乙淑島河口堰を通り 、 そして 下端 漁村契(漁民の組織)に駐車すればよ い。約六時間かかる遠い道のりだが、
a -
ソウルから洛東江乙淑島まではこのコ ースが最も楽である。
( 左)春と秋に もっとも多 くやっ
は 一定していない 。 鳥をち ゃんと見ょ うとするなら、四時間程度の時間が必 要だが 、時間当たり 一万五千ウォン す
洛束江には伽耶と ・ 新羅の千年にわたる 氏族の、哀歓と情操が渦を巻いている。
て くる鴫類 ( 下)
壬辰倭乱と六・ 二 五 の 悲 劇 を 抱 き 込 み 、 長い品川月の問、 嶺 南 の 人 々 の 生 さ る 源 泉
OOZ豆O O白00
︿
5 1
と な って き た O O之 豆0080
︿
世界的に珍し く稀な黒い頭の 鴎
李畑権 詩人・文化遺産研究所所長
、‘血 羅 南 道 の 光 州 か ら 国 道 二 九
KFTI 号線を走って宝城の 町に 入 メ・司 る と 、 大 き な 道 沿 い の 竹 林 の中からすっと顔を突き出した﹁禰力 聾器﹂という看板が立っている。冷た い北風にあおられて一層青さを増して いる竹林の色に重なって﹁聾器﹂とい う言葉が郷愁を呼び起 こさせ 、旅人の 足を止めさせる。 竹林には、冬 の野 原を吹き抜けてき た風がもの寂しい音を出し、あちこち に聾が転がっている。低い裏山の山並
護器職人九代目
ので、そこに行ってノ ック してみると、 ほっそりとした青年が現れた。重要無 形文化財九六号に指定された費作りの 職人の工房(仕事場)を訪ねたのだか
宮、
作
りつ
のた の は 九代に わたって三百年間受け継がれ
ってし ま ったとのことである。
にこの仕事に引かれて、費器職人にな
で窯を守り、﹁禰力費器﹂の伝統 を受 け継いでいるのである。李学旅氏は学 生時代 、 詩人を夢見ていた文学青年だ ったというのだが、三百年にわたる 血 筋のせいか、自分でも気づかないまま
が、四年前に亡くなり、その後を継い
実は この聾器 作 りの窯の主人は李学 沫氏の父親である李玉童翁だ ったのだ
、
'ヂ
みに体を委ねて大蛇のように寝そべっ ている費の窯にも冷たい北風が吹き付 けるだけで、燃え上がる薪火の中に器
同りがんつ存九。
つ表考れ轟
、 、y
を焼いていた熱気は感じとれない。窯 仕 事 にも冬の農閑期のような休息の時 があるらしく周り は荒れ果てた風景だ
ら、当然、黄順元の小説に出てくる ﹁ 聾を焼く老人﹂のようなお爺さんが
一 u
た現えて職 よるさ人 りとた/は、愛い
J
遠くからやってき た行きずりの旅人 に窯を守っている子犬が先に気づき、
れま承の受氏
出て くる ことを予想して いた のだが 、 土をこねていた途中で 戸を開けて 迎え てくれた饗器職人は、驚いたことに学 校の先生のようにスマートな雰囲気を 漂わせる李学沫氏、だった。
ないと年けが いたか月継、 か の を が 愛
今L
驚き半分嬉 し さ 半 分 に 吠 え るだけで、 人の気配は感じられない。庭の片隅の 日当たりのいい所に設けられたビニー ルハウスからラジオの音が流れてくる
命 も れ 人 代 人 の す は の に を 件れイ云生わ夢 だぱ続きた見 つ脱と方って たぎか、てい の捨家そ三た か で 業 の 百 李 もての風年学 し し 継 雪 間 沫
7 朱 運とそ職九詩
・ 調 ・ a
-~"1I1(.訓・
てきた聾作りの職人の生き方、言葉で
こそ九代目だが、その風 雪の年 月を考 えると、それは伝統とか家業の継承と かの表現よりは、ともすれば脱ぎ捨て
てしまいたか った運命の粋だ ったのか もしれない。今でこそ、この仕事も芸 術として認められ、人間 文 化財の待遇 をも受けるが 、わずか数十年前までは、
聾職人は炭焼きとか瓦職人とともに身 分の低い職人の扱いを受けていた。ま
してや最近の世相がきつい仕事 には手 を出さない実情であるのに、家業を受 け継ぐためにきつい労働を甘受して窯
に飛び込んだという彼の 心 の奥深くに は、職人だけが持つことのできる 一種 の意 地 というか信念がこもっていた。 費器職人の息子ではあったが 、李学 沫 氏 の幼年 時 代 は 華 やかだっ たと い う。当時、田舎の子どもたちが見るの も難しかった鞄に運動 靴を 履いて学校
ついてから父親が金をたくさん儲けて
に通うほど、父親は息子にありったけ の愛情を注いだ。幼い頃 、彼は父親が 嚢作りの名人で金をたくさん儲 けて い たのだと思っていた。しかし、物心が
5 2
李学沫氏は事んは土とえで作り上げる 創 造 物 だ と 言 う 。 従って、 受 を う ま く 作るには、 土 と え の 佐 賀 を 知 っ て こ れ を 自分の指先の感覚で作り上げなければな らず、 そ れ は 理 論 や 学 習 で 得 ら れ る も のではなく、 長 い 経 験 と 歳 月 が 作 り 出 し てくれる贈り物だと、ずるう
叩いて板のように広げ、それを順に積み上げ て器の型をとる ( 上)、ある程度器の型が整 えば、器の内外の壁を固め用途 に合わせて形 を作る ( 下)
と 月 以 上 も 口 を き か な い ほ ど 怒 った 。 蔑まされてきた費作りの仕事は自分の 代で終わりにしたかった父親の 一生の
のそばに帰ってくる。大学を放棄して まで帰ってきた息子を見て、父親はひ
中央大学の国文科に進学して文学 青 年の道を歩んでいた彼は、幼い頃から 持ち続けていた震に対する夢を実現す るために学業までも放棄して父親の窯
という夢を持つようになったのであ る 。
くようになり、いつか自分の手でその 堂々として懐の深い器を作ってみよう
でとは全く違った新しい目で見るよう になった。空っぽの衰の中をのぞきな がら、そこに自分の血と肉をあらしめ る祖先の息がこもっていることに気づ
されて見向きもされない時代遅れその ものであった。しかたなく生計のため
めてくる人も多くなったが、その当時 は震はプラスチックとステンレスにお
た。今でこそ聾が持 っている科学性と 優秀性が広く知られ、わざわざ探し求
て費を作ることに熱中したが、当時は 聾作りだけでは生活できない状態だっ
父親に言われた通りにろくろを回し
するなど、 -手当たり次第、仕事を押し つけて費器職人として生きていけるよ うに職人精神からたたき込んだ。
できたら土をいじらせるようにしたり
できないと悟り、代を継ぐことを許し た。しかし、息子だからといって特別 扱いはしなかった。家にあ った費を直 接、市場に持って行かせ、売って帰つ
そうしてくれたのではなく、子どもに 願いが水泡に帰 し てしまったからであ は自分の仕事を受け継がせたくなく る 。 て、そうしたのだということが分かっ しかし、息子に対する失望でしばら た彼は、父親の節くれだった指や窯場、 く酒と憂欝な思いに溺れていた父親も そして庭に散らばっている費をそれま 結局は息子の決心を変えさせることは
パンジャンジルによる 嚢器の製作過程、土を
に夫人が副業で宝城の町でメガネ屋を
ことに全力を傾けることができるよう
始めて生活を支えた。このような内助 があ ったおかげで李学旅氏は聾を焼く になった。昔の文献を探して伝統的な 蛮の製作方法を研究し、大学院に進学 して韓国の陶磁器文化の伝統を勉強す るなどしてその努力の結果、大韓民国 伝承工芸大展で特別賞を受賞すること もできた。 李学沫氏は聾は土と火で作り上げる
にさらす。こうしてはじめて土の持っ ている荒い性質が弱まり、こねる時に こねやすく、器を形作る時も成形がき れいに仕上がるからである。 よくこねた土を槌で町き、薄くばし ながら、土の中に含まれている不純物 を除いた後、板のように広げ、聾の形 を作り始める。このような作り方をチ エバキタレ技法あるいはパンジャンジ
を自分の指先の感覚で作り上げなけれ ばならないと言うのである。そして、
グルタレ技法とは異なる。
底と賓の胴体部分の型を取って作る方 法であるが、これは土の魂を長細い棒 状に作ってとぐろを巻くように積み上 げていく忠清道や慶尚道地方のトゥン
ルと呼ぶ。土を土間に何回もたたきつ けて砧の棒で薄い板状の生地を板作り
それは理論や学習で得られるものでは
創造物だと言う。従 って、聾をうまく 作るには、土と火の性質を知ってこれ
なく、長い経験と歳月が作り出してく れる贈り物だと言う。 作る過程は先ず良い土を選ぶことか
窯に入れて、千二百度程度の火で昼夜 の区別なく七日程度火をくべて焼く過
その後は、湿気の乾いた饗から順に
O %ほど乾いた頃 、松の木を焼 いた灰 と薬土の入 った桶に入れて一この粕薬 がまんべんなくかかるようにした後、 再びさらに二O 日ほど日陰で乾かす。
こ の よ う に し て 職 人 の 手 に よ って 各々の形にできあがった聾は日のあた らない日陰にきちんと積み上げ、 一五 日ほど乾かす。この焼く前の聾が三
レとドゲという道具を使って聾の胴体 の内側と外側の形を整え、その用途な どに合わせて形を作るが 、 最後の過程 は水をふくませた布で口の形を作るこ とである。
この板を作った後、ろくろの上に底、 胴体の下の部分、胴体の上の部分の順 に次々と積みながらくっつけていくの であるが、この形をしっかりと作る過 程が最も重要である。そして、次にス
ら始まる。いくら良い技術でも良い材 料にはかなわないという 言葉 があるよ うに聾器職人は何よりも良い土を見分 けられる目がなければならない。その ため、陶工(陶磁器の職人)たちは良 い土と良い木のある所を探して窯を作 って回るようなジプシー生活をするの である。﹁禰カ聾器﹂の祖先もそんな 来歴を経て、この土地に定着したので ある。 李学沫氏の遠い祖先の地は 、本来高 麗青査の故郷として有名な康津で、兵 営と海南を経て、五代前の祖先が宝城 に定着したのであるが、それはこの土 地の土が良かったからである。李学沫 氏は父親がそうしたように窯の仕事が ある時は、裏山に行って土を掘り起こ し、庭の真ん中に広げて何カ月も風雨
斐を作る主すこt ト イ 4HL臼世の・中のことま ﹄とはすべで忘れ、 昼夜無我の境地℃式 雑念を一'切断ち初つで、 李学沫氏は命、?コ
tz je! h -i{J とト17
水ですがな ︼・
在予が粗く、
・ i; FI 日 μAuvo-Y/¥、
日︺t 斗{ 4E 3 : h 刻、宅をい按司 、
いで使うため、
刀 で トF つ J eAd ﹁ 息 す る 器 ﹂ だ と 言 、 70 イ一た突を一言で 均磁器をF i J 1 イる土とは異なれゾ、
突を崎く土は掘った後、
砂も混じっ﹁、, e
﹁ L 否ため、
その竣一回rRj d 4 1
d .! : J .J4d4 i-づ 、と言、う 7の で あ る
聾 を作 る時に は世 の中 の ことは すべ て忘 れ、雑念を 一切断ち切って、昼夜
り、金になる作品になったりするため である。
張す る時 が火種 の消えた 窯の戸 をこ じ 開ける瞬間である。火のくべ方が悪く て 、 せ っかく 心 を込めて作り上げた聾 が何 の役にも立たないかけらに な った
程である。形を作る仕事の 他 にもこの 火をくべる 過程 をしっかり と経 て 、 は じめて良い聾が焼き上がるからであ る。そ し て、費器職人にとって最も緊
護器の製作に使われる各種道具
5 6
り、循環器系統が詰まったりすれば、 生命を維持することができないのと同 前から我々の祖先は自然の理知を生か
するために、近頃バイオ効果のある容 器が開発されたが、これよりはるか以
き残れると考えたからである。数百年 の問、韓国人の生活を守ってきた伝統
とであり、九代にわたって代を受け継 いできた﹁禰力聾器﹂の自尊心を生か
無我の境地にはまるという李学沫氏は 自分で作った費を一言で﹁息する器﹂ だと言う。陶磁器を作る土とは異なり、 じように、食べ物も同様である。醤油 や味噌、塩辛のような発酵食品が韓国
喪より実際の生活に便利に使うことの できる容器を作る仕事に情熱を注いで
す道だと信じているからである。
的な費が、機械で作られる容器を押し 退けて堂々と我々の食卓に上がり、聾 置き場に再びその座を占めることがで
の食べ物として代表的であるのも、こ の息する容器のおかげである。最近、
いる。日常生活にあって大衆から愛さ
して食べ物の腐らない容器を作って使 用していたというのは、まことに誇ら
費を焼く土は掘った後、水ですかない
作られている容器は密閉されているた め、食べ物を長く置いておくと腐りや すい。しかし、費に入れておけば、そ
れることによってのみ、聾の伝統が生
きるよう、費器職人の執念を持ち続け るという。それが生涯を窯とともに生
の器自体が息をするので、簡単に腐っ
しいことである。 そのため李学沫氏は最近、装飾用の
で使うため、粒子が粗く、砂も混じっ ているため、目には見えない隙聞が多
たりはしない。このような長所を活用
きてこの世を去った父親の道を継ぐこ
人も息をする時、鼻の穴が詰まった
5 7
く、その微細な隙聞を通して器が息を すると言うのである。また、費の表面 に塗った紬薬は自然そのものの薬物で あるため風がよく通ると言う。
A
窯より取り出した護器を見ている李学 j 朱氏(上)、彼の作ったいろいろな器(下)
金三代子
キムサムデジヤ
国立扶余文化財研究所学芸研究官
明りを灯す精神の代弁者
h F f -
品蓋 と い う の は 油 を 入 れ て 芯 ﹀ マ巴仁ふ を 差 し 込 ん で 明 か り を 灯 す
ト 必λ んた め に 作 ら れ た 器 を い う 。 燈童は材料や形または用途によって
様々な名称で呼ばれているが、油で明 かりを灯すように作られた基本原理は 同じである。暗闇を明るくするには油 の他にもロウ ソクがある。ロウソクは
るようにした掛燈、梁や垂木に結んで
製法が難しく材料が手に入りにくかっ たため、油よりも遅れて使われ始めた が、価格が高くて上流階級で主に使わ れ、庶民層では冠婚葬祭の儀式用とし てだけ使うことができた。
吊した懸燈、室内の床に置く坐燈など は燈蓋を実生活で便利に利用するため に創案された発明品である。この他に 植物性油も手に入れにくい山間地方の 火回民の家屋には松の椅(松脂が多く 固まっている松の療の部分)を利用し て火を灯すコクルや両燈火が取り付け られた。 燈蓋は形によってチョンジ(醤油な
は不便で、また外側を覆うものがなく、 室外で使うと風で 灯が消えてしまうと いう欠点がある。それで燈輩を室内外
ようにした 。燈蓋を一定の高 さに上げ て使用できるようにした燈架、燈聾の
どを入れる小皿)形、壷形、湯器形に 分けられる。現存するチヨンジ形燈蓋 はほとんど土器、陶器、磁器と玉石
で便利に使うために一定の高さにする か、または高さを調節できるようにし たり、また外側を覆って灯が消えない
高さが三、四段階に調節できるように した燈禁、外側を覆って持って歩ける ようにした提燈、燈蓋を壁に掛けられ
問、幅広く使われてきた燈童の基本の
時代末に石油が輸入され、壷形燈蓋が 登場するようになるまで長い歳月の
め、油をチヨンジに入れて芯を差し込 み、明かりを灯しても 一度に燃焼しな い。このようにチョンジ形燈童は朝鮮
ので昔から動物の脂肪や植物から搾り 取った油で明かりを灯した。動物性油 と植物性油はどちらも引火性が弱いた
(白色の石)で作られたものであり、 名称どおり形と大きさがチヨンジとほ とんど同じである。韓国は石油のよう な引火性の強い鉱物質が生産されない
登朝湯澄 場鮮器盆 す日寺形 は る ィミに形 よ 末分に れ 7 け よ ♂ に 石 ら コ て ¥ な i 台 れ て ミ る チ た る カ 。 ヨ 燈ま 輸 孟で入チ ン の 長 3三 ヨ ン 基 い れ ン 形、 、ジ 本歳 士 の 月 壷形 宮 形 の 形 燈 形、 で 問燈孟 あ 、主は コ イ ミ カ た
燈輩は高さが低く、そのまま使うに
幅 広 く イ 史 わ
.1'.4:1 ~JI~rell~ ・,
形であった。百済の武寧王陵の燈寵に 入れられていた燈章もチヨンジ形であ る。チヨンジ形燈童には植物性油(ご ま油 、 大豆油、綿実油、ひまし油)、
魚油、鯨油、牛脂(牛肉を煮込んだ後、 冷やすと汁の表面に固まる黄色の脂の
塊)を使い、芯には綿、麻紙、韓紙を 縫って使用した。新羅時代の燈輩の中 には三1六個のチョンジをパイプでつ ないで、アカ所に油を入れるとつなが
ったチヨンジ全部が 一定の油 量 に維持 されるように作られた多燈式燈蓋もあ り、明るさを調節していたことが分か
る 。 玉石製燈童はチョンジの大きさから
直径が三0センチになる大型のものも あり、使用していた階層は宮廷、寺利、 社や一部の権力層であった。大きな玉 石燈蓋は両側の口縁部に穴を開けて針
金の輸を通して梁に吊したので懸燈と も呼ばれた。梁に吊された燈に明かり を灯して下から見ると、まるで満月か 赤い太陽のようなので、月燈あるいは 日燈とも呼ばれた。この玉石燈蓋は中 国との重要な交易品の一つであった。
5 8
また韓国を訪問した中国の明の使臣た ちが欲しが って要求した物でもある。 使う場所によって名称が変わり、宮中 や 一部の権力者の家で使われるものは 石燈童、寺で使われるものは禅燈、社 では引燈と呼んだ 。 壷形と湯器形燈輩 は 石 油 輸 入 (一八七六年が公式輸入年 度であるが、その前から使われていた と思われる)以後、引火性の強い石油 を灯油として使いながら生まれた形 で、芯の取り出し部分が付いている蓋
ミミズク
があり 、高さと 直径が十センチ内外の 大きさである。壷形燈童には芯の取り 出し部分が 二1 四個あって、明るさを 高めるものもあり、夜目が利き、夜間 だけ活動する木菟を装飾して燈火が明 るく灯ることを願った。 燈架は下盤の上に長い竿柱が立てら れ、その上に上盤または丸い輪を取り 付けて、燈童が安定して据わるように した形で、庶民層や質素な両班の家の 舎廊房 ( 主人の使う居間)で主に使わ れた。 燈繋は三1 四個の鋸歯形の段級があ って、燈輩の高さを必要に応じて調節 l
の亡
司 、PERωmEZ
明
V bRM 百戸Z ﹀ ﹂ のI C
燈議だけを専門的に集めて展示している緯国最初の韓国燈重博物館(上)、
1 導物館には約 300点あまりの遺物が展示されている(左)
;燈孟を見ると,えよが清められ、 ほ の ぼ の と し て 温 か い 、
まるで故郷に抱かれているような感じがする。
歴史に逆らって過去の生活様式を
受け継ぐ必要はないが、
昔の;澄主を通して末、たちの先祖の
センスと主ロ忠を生ロることも;きロ未;宋いことである
6 0
6 1
し て使う よ う に 考 案 さ れ た も の で あ り、燈繋 コリまたはケン燈(ソウル、 京 畿 地域 の方言) と も 呼 ば れ る 。 燈 蓋の 下 に は 燈 蓋 か ら 落 ち る老廃物を 受けるための油受けが 吊 されている。 燈祭は奥の 間 や台所で よ く使われた 。 特 に 高 さ が 一メ ートル を 超 え る 燈 繋 は台所でよく使われ、 ロウ ソ ク が 使 え な い 庶 民 た ち が 祭 杷 にこ のように 大 き な 燈 繋 を 使 った 。 家 庭 用 の 燈 繁 と燈架は木 、 鉄 、 真鈴 、 白 銅 を 材 料
に作られた。木製品の中には各家庭 で必要に 応 じ て 作 っ て 使 わ れ て い た ものが多く、多様な形と工夫が 見 ら れる。 油 受 け は 燈 蓋 の よ う な 材 料で 作 られ た り す る が 、牛 の 角 を そ の ま 提燈は夜道や儀式によく使われ、燭
土 品副 利 回川 、 ーレ# 灼ノ ゎ 4 1uhん。
龍、燈龍、昭一足燈などがこれに 含 まれ る。針金、 真 織、竹、木などで骨格を 作 って表面に紙や紗(織り目が粗く薄 い織物 )を 貼 って、ガラスが輸入され
た後はガラ スをはめたりもした 。 上の 方には長い柄を付けて持ち運びゃすく して、また取っ手の 柄 の部 分 に非常用 の ロウソクを入れる よう に作 られたも のもある。内部にロウソクを入れて明 かりを灯すものを燭龍と 呼び 、燈蓋を 入れたものは燈龍、紗を表面に使 った ものはその紗の色によ って呼び名が付 けられた 。 また身分に よ って紗の色 や 使用する数が 制 限された。青紙燭龍は 紅 色 に 青 色 の 長 い 布 を 合 わ せ たもの
風を防いだり光を遮断したりすることができるようになっている ( 上)
燈架が置かれている舎廊房 ( 主人の使う居間)の様子 ( 下)
たと思われる。照足燈は足元を照らす
れている。 燭龍の中には紙で折り 目を つけて たたむと、 道抱の 袖 の中に 入れ られるようになる 小型のものもある。 壬辰倭乱の時に白沙 ・李恒福が 宣 祖 王 のお供をして義 州 に蒙塵(王が避難す ること)する時、道抱の中に入れてお いた燭龍で道を照らしたという野史の 記録から、 このような紙の燭龍があ っ
で、婚礼式に使われ、最近でも青紙燭 龍は結婚を意 味する 言葉として解釈さ
誰もが一般的に使 っていた燈架。後ろの蝶模様の板は方向が変えられ、
6 2
ということで付けられた名称で、宮中 では梁に吊されて使われ、懸燈とも呼 ばれ、また巡濯軍が夜警に回 って、盗 計されているので取っ手の柄の代わり に鉄索がある。門の外に掛ける外燈と パルドンコリは掛燈の伐表的なもので 燈という名前が付けられた。内部に鉄
り、中に燈蓋を入れて使 った。本を読 むとき扉を開けると燈火が前方を明る く照らし、文字を読むのに使うので書 F
いて、部屋と台所を同時に明るくする
ようにした施設があるが、これを両燈 火と呼ぶ。
今まで見てきたように、燈童は油を
使う原理は同じであるが、用途や形、 使用場所によって各々異なった名称で 呼ばれる。このような燈輩を見ると心
に彩色画を描いた燈で、とても弱く、
コクルは火田民の村の代表的な燈火 具で、部屋の片方に高さ 一メートルほ どの壇を設置して上には煙突を作り、
0 0セ 屋に置かれた。高さは七0 1 一 ンチほどである 。
た韓国初の燈章博物館である。 三国時 代から近代に至るまでの燈藍関連の遺 物三百点余りが体系的に展示されてい る 。
年一九九七年の秋にオープンした。こ の燈蓋博物館は水原で産婦人科病院を 運営してきた金東輝博士が五十年余り の問、収集した燈火具をもとに設立し
韓国唯 一の燈火器具 専 門博物館であ る韓国燈蓋博物館(館長金東輝)が昨
インを活用してみるのも意味深いこと だと思う。
を知ることで、現代の照明器具はもち ろん日常生活用品にも昔の燈蓋のデザ
を通して私たちの先祖のセンスと知恵
が清められ、ほのぼのとして温かい、 まるで故郷に抱かれているような感じ
で作られた強力な燈架を固定させたも のもある。高さは二五1七0センチで ある。長燈は角材や斑竹、烏竹で柱を
現存しているものはない 。 料紙燈は五 色の玉に糸を通して六角形にしたとて も華やかな宮中用の明かりである。四
松の椅を焚いて部屋を明るくする照明 と部分的な暖房を兼ねた設備である。
I
pp司手︿印mcZ の亡
を塗った華やかな家具様式で居間や部
、ガラスをはめた 面には紗を貼ったり・ りして、大部分が彫刻された装飾に漆
がする。歴史に逆ら って過去の生活様 式を受け継ぐ必要はないが、昔の燈蓋
賊を捕まえるのにも使われたので、盗 賊燈とも呼ばれた。さらに形が丸い剖 紙を貼り、表面に﹁忌中﹂という字が 書かれている。 懸燈は梁や軒の先に吊した明かりを 指す 言葉で、石燈輩、羊角燈、料紙燈、 照足燈のように梁や軒に吊すものを全 て懸燈と言った。この他にも四方燈 (琉璃燈)も梁に掛けて使ったので懸 燈と呼んだ。羊角燈は薄く延ばした羊
作 った四角、六角、八角の長方形で 一 つの面に扉を付けて、また下には引き 出しを付けて、引光奴(マッチ)やロ ウソクを入れるようになっている。表
ある。パルドンコリは喪家(喪中の家) の表門に吊して喪中であることをあら わす明かりで、竹や萩で骨格を作って
(ふくべ)に似ていることから瓢燈と もい った。上には取っ手の柄が付いて いて、下には円形の穴が開いていて、 内部は動く方向に応じて常に水平を保 って回転するように作られたロウソク 差しが取り付けられ、科学的に設計、 製作されている。内側に値段の高いロ ウソクを差して使うので、宮中や官庁 および上流階級で使われた。
禍が宣、祖王のお供をして 壬 辰 倭 乱 の 時 に 白 沙 ・李 恒 一 ゑ州に蒙塵する時、 道 袷 の 中 に 入 れ て お い た 燭 誌 で 道 を
方燈は角形(六面体)の木型に紙また はガラスで外側を覆って内部に燈を置
壇の上には石でできた小さな台を置い てその上で松の椅を焚いたりもする 。 が、この 全 ての設備をコクルと 言 う 江原道の 一部の地域には部屋と台所の 聞に穴を開けて、その問で松の楕を焚
の角で燈の外側部分を作 ってその表面
くように設計されている。 坐燈には書燈と長燈がある。書燈は 薄い木板で作られたり、木の骨格に厚 く紙を貼った箱形で、前面には持ち上 げ式の 一 扉が、天板には丸い換気孔があ
照らしたとい う 舟支の記録もある
掛燈は壁や柱に掛けるように作られ た明かりを指していう。沙器(陶器・ 磁器・瀬戸物)燈蓋を壁に掛けられる ように作られたものもあるが、木や真 銭または鋳鉄で燈架を作り、燈童を載 せて壁に掛けるようにしたものなどを 全て掛燈と呼ぶ。このような掛燈は台 所または舎廊房で多く使われ、使う場 所に応じて台所燈または舎廊燈ともい われる。室外でも使えるように外側が 覆われた掛燈は提燈と似た構造と様式 を見せているが、掛けられるように設
A
6 3
韓服デザイナー
・ ・幽 正 副 幽 ・ ・ ・ ・ ・
古3 7 -ノノ、』
1E主 斗r E4ーである。どの民族であれ固有 の伝統衣装を持つてはいるが、韓服は 世界のどの民族衣装と比べても遜色の ないすぐれた美しさを持ち合わせてい る。韓服の美しさを一言で表現するの
・ :
キムヨンウク
金煤旭
本誌編集副局長
か、パリに開設した李英姫ブティック
たのである。 世界 のす べての人々に韓服を 着 せて やりたい。﹂と常々語っていた李英姫氏 だが、彼女の生涯をかけた努力のお陰
並べて韓国のイメージを植え付けてき
﹁これまで韓国人の衣装を日本の着物
である。また彼女は次のように語 って いる。 と似通った衣装だと考えていた西洋の
化し、普遍性を持たせ ることに努めて
きました。﹂と語る彼女は伝統だけで凝
り固まっていた韓服の世界に、変化と 新しさを吹き込んだ先駆者である。彼
女の概念は東と西の出会いであり、伝 統と現代の出会いであった。 初期には、彼女は伝統婚礼服である
﹁ フ アルオツ ﹂の 刺繍を韓服に取り入れ たり、唐衣(婦人の礼服)と﹁チョゴ
リ(韓服の上着)の袖の線を強調して みたりした。形だけでなく素材、すな わち生地の選択においても﹁康津コッ ク細目﹂、﹁韓 山主細苧﹂などを使って みたり、自ら天然のものを染色してみ
では最近、韓服を求める人々が急激に 増えてきたという。世界の有名なファ ッション・デザイナーたちが集まるパ リ・コレクションに進出してから五年、 伝統的な韓服はもちろん、現代的に再 解釈した モダンな改良韓服や洗練美あ
じをさらに柔らかくするとか、純毛に
±ιIU存ι
。 実 際﹂ に韓服が韓国人固有の衣装とし て世界の人々の注目を浴び始めたのは、
ふれる現代的な感覚のデザインで 、彼 女の衣装は﹁エル﹂、﹁マリクレール﹂ など、世界的なファッション雑誌の画
人々に本物の﹃韓服﹄がどんなもので あるかを正しく伝えることに力を注ぎ
は身体の欠点を補い包み隠しながらも、 その優雅な姿態を失わない韓国人の粋
彼女の緯服に対する愛情と、これを世 界に伝えるための彼女自身の絶え間な い努力の賜物でもあった。彼女が﹁韓
た 一生 を通じて﹁韓服 ﹂ という固有名 詞を世界 化させたこれま での努力につ いて、自分ながらも大きな自負心を持 っている。彼女は韓服を通じて、彼女
﹁ 韓服、とくに女性の紛糾服は、その優 雅で品のあるたしなみにより、世界的 に定評を得ています。私は伝統の正し い継承も重要ですが、これを一層現代
彼女の韓服デザインが世界的に脚光 を浴びているもう 一つの理由は色合い
に韓国的な 美し さと香りが染み込んで いる。
シルクを混 紡して新たな素材 を開発し てみたりした。時には韓国の伝統紋様 をグラフィック処理して、新たな解釈 を施してみることもあ った。そう した せいか彼女の衣装を見ると必ずどこか
たりもした 。 また、現代感覚に 合う よ うに苧麻にシルクを混紡して苧麻の感
な味と情緒を反映している。 こうした韓服が持ち合わせている伝 統の粋な味と美しさを全世界に伝え、 、ノレし
世 報を華やかに飾ったこともあった。 ﹁ 界にはこんな衣装もあったのか、あま りにも芸術的で優雅だ﹂、彼女の衣装を d
服﹂という固有名詞を世界め人々の脳 裏に刻み込まなかったとしたら、口惜 J
(六二才)は、韓服の美しさを韓国人だ
そしてそれを広めることに揮身の努力 ・司 を傾けてきた韓服デザイナー李英姫氏 けのものにするのはあまりにも惜しい ことだと考え、緯服を携えて世界の舞 台に進出した韓国の代表的なデザイナ ーの中の 一人である。 衣装を通じて韓国文 化 の多様性と創 意性、優秀性を全世界に伝えてきた李
紹介する海外のマスコミではこうした 賛辞が絶えなかった。
しいことに韓服は単に韓国人の着る ﹁着物﹂という程度にしか考えられてい たかも知れないからである 。彼女もま
は極めて難しいが、韓服が持 っている 優雅な線や色彩、シルエットなどには、 洋の東西、それに時代を越えた美しさ が宿っている。西欧の近代衣装が身体 の美しさを際立たせるのに反し、韓服
だけの車越した独創的な感覚により、 パリの世界的なデザイナーたちと肩を
安臣
英姫氏は、ファッションの中心地であ
J
hIAA 服は韓民族が五千年もの長い
VF
問、着用してきた固有の衣装
オ ミ 』 るパリで ﹁ もっとも韓国的なものが、 もっとも世界的なものである﹂という ことを、彼女自身だけの独特な作業を 通じて、 全 力を尽くして見せているの
E
6 4
にある。紺色、灰色、黒と白など、深 くほのかな中間ト 1 ンである。ほかの 韓服デザイナーたちが明るく絢鋼たる 色合いを好んで使っていた時、彼女は 沈んではいるが、品位のある色合いで 脚光を浴びた。もちろん自然から学ん
一日一 心 に決めれば、どのような困難 な状況の中でも曲げることなく最後ま で押し通していく彼女のチャレンジ精 神の旺盛さと、 仕事に対する人並みは ずれた情熱が今日の彼女を作り 上げた のであるが、彼女の幼かった頃を振り 返 ってみると、彼女が韓服デザイナー にな ったのはま ったく偶然だけではな
の手で衣装を仕立てるのを好んでいる ようでした 。 母が衣装を仕立てていた 時には、いつも隣に座ってこれをじっ と見守っていた私は、自然のうちに韓 服を 仕立てる要領を学ぶことができた のでした。﹂ 韓服を仕立てている母の姿を通して、 彼女は衣装を仕立て上げるには技術よ りも 真 心がはるかに大切であるという 事実も悟るようにな った。また、母親 は﹁韓服の美しさは色にある﹂という 事実も教えてくれた。生 地 に手ずから 色を染めながら色の大切さを強調した
いと思われる。
で上手に韓服を仕立てる母親の姿を常 に見ながら育った。
のであった。彼女がこれまで韓服をデ ザインしながら 一貫して追求してきた
大郎で金持ちの 一人娘として生まれ た彼女は 、幼い頃から素晴らしい腕前
﹁嫁いだ家の親兄弟はもちろん、父親 の衣装も自ら仕立てていた母は、自分
「夢」というテーマを展 開 した
だ色感である。僧衣から、韓国の伝統 瓦から、博物館に陳列された多くの遺 物の色合いから 霊感を得てきたのであ る。 自分自身をファッション・デザイ ナー であるよりも韓服デザイナーだと 紹介する李英姫氏。彼女の極めて現代 的なデザインにも韓 服 の精神と韓国の 文化があますことなく盛り込まれてい る理由はそのためである。
Spring/ Summer96パリコレク シ ョンでは
℃﹀翠︿伯C Z のと
二つの 概念、﹁真心﹂と﹁色合い﹂は幼 い頃に母親から学んだ教えにあったの である。 大学への進学を目前に控えての父親
合いで染めたのだが、このように母娘 で作った高級な絹の布団は爆発的な人 気を得、飛ぶように売れていった。 彼女の生活に余裕ができてくるよう になった。こうなってくると彼女は金 を稼ぐための事業ではない、彼女自身 だけの何かがしたくなった。布団を作
の突然の死、死んだ父親の事業を受け 継いで母親が経営していた工場と倉庫 で起きた時ならぬ火災は、彼女の人生
った後に残った生 地を使 って韓服を作 り始めたのはこの頃からであった。と ころが彼女の作った衣装を着てみた
のない彼女が 、自分の名前を掲げて 韓 服を仕立てているという事実がまた常 に心に引っ掛かった。彼女は当時、檀
まり前のことである。今日の李英姫を 誰も想像できなかった当時の こと であ る 。 四O才を過ぎた年に出発したのだか ら、彼女の情熱は人一倍だったと言え る。韓服について正式に勉強したこと
彼女の客の群れを見て、彼女の後輩は 本格的に韓服衣装室をやってみるよう にと勧めた。﹁李英姫韓国衣装﹂の看板 を掲げたのは七六年、およそ二 O年あ
人々は彼 女 のす、ぐれた腕 前 をみんな一 様に賞嘆して惜しまなかった。瞬く聞 に噂が広がり始めた。列をなしている
を根こそぎ変えてしまった。大学への 進学を放棄したまま、軍人であった夫 と出会 って 、平凡な主婦として暮らす ようになった。その時 まで の彼女の人 生は、 一般の女性と少しも変わらない 平凡そのものであった。 結婚して十年あまりが過ぎて、自分 自身を振り返ってみると 、 何一つなし 得たものがなかっ た。どういう仕事で あれ、何かをしなければならないとい う考えが切実になり、大郎で綿工場を していた従姉とともに事業を始めた。 木綿の綿ではない絹の綿を扱ったが、 幸いに事業はうまく発展していった。 綿の商売が繁盛してくるや彼女は初 めから布団を作って売ればもっと人気 が高まるだろうと考えた。そして彼女 の判断は的中した。彼女は母親と共に 誰にも真似ることのできない独特な色
ションに紹介された韓服のチョゴリ
ランス・パリに韓国人としては初め
(上衣)を応用したデザイン(上)フ
て穏服をテーマとする専門庖を開い
介された作品(下)
た(中) 94 年作品集出版記念会で紹
理論と考証など、韓服についてほとん どすべてのものを学んだわけである。
然のうちに韓服を仕立てる方法を学ん だとしたら、石宇宙博士からは韓服の
国大学博物館長として一生を韓服の研 究に捧げていた故石宇宙博士を訪ねる ことに意を決した。彼女が母親から自
とがなかった。母から学んだ伝統染色 を学問的に研究するため、彼女は遅れ
ンドに強く植え付けてい った。 彼女の韓服に対する熱望は絶えるこ
韓国の文化をそ の基底に敷きながらも、 商業性と創造性を李英姫は彼女のブラ
このショーを通しても っとも特色のあ る衣装で世間の注目を浴びた。自信を 得た彼女は、自分だけの単独フアシヨ ンショ ーを開くことを決心して作 業に 入った。
ションショ ーに 参加 してくれるように 要請を受けた彼女は、夜を徹して発表 すべき衣装をデザインした。彼女は、
一九八O年 、韓国衣 装協会の創立を 契機に聞かれた会員たちの合同ファッ
に、今では誰も真似ることのできない 彼女だけの固有の色合いを作り出して いるのである。
強すればするほど、難しいのが染色で あった。﹁デザインは色から 出発する﹂ という彼女の信念は、刻苦の努力の末
彼女にとって石博士は母親と何ら変わ
こともあり得る 。そのため、適当に調
また、韓国文 化 を必要以上に強調する ようになると、ともすれば偏見に陥る
なる模倣に転落してしまうのである。
とである。模倣も創造の 一種であり得 るが、自分の基本概念がなければ、単
らである。しかし何よりも重要なこと は創造的でなければならないというこ
イメー ジを得る ことができたのである。 ファッションは基本的に商業性がな ければならない。金を稼いで拡大再生 産をしてこそ、その存立意義があるか
で彼女は彼女が作ることになる衣装の
らない師匠であるとともに精神的な支 柱であった。石博士を知るようになっ てから、彼女はひっきりなしに博物館 に出入りしながら伝統の色感と質感を 感じ、それを身につけていった。そこ
ばせながらも誠信女子大の大学院で 二 年間染色課程を勉強しながら。抜染な どの技法を学んだりした。しかし、勉
和をなしたデザインが必要なのである。
Spring/Summer98フ。レタポルテコレ
6 6
﹁ファ ッシ ョンショーを準備しながら 私はかつて体験したことのない私自身 の存在に対する発見とでも言いましょ うか、表現し難い熱情がたぎり立つの を感じることができました。作品の制 作から舞台の演出にいたるまですべて のこと芥二人で準備していたにもかか わらず、まったくきっいという感 じがしませんでした。﹂ 最初の個人ショ l が〆 h か どh E が成功をおさめるや k mv じミE 彼 女 は フ ァ ッ シ ョ ン 幽 門f M V喫
﹂ 。
けさが常に付きまとっていま レ v#
しかし、彼女はこうした気 持ちを振り払い、いつものよ うに常に現在に立ち戻ってく
レタポルテ・コレクションにいたるま でなんと六O 回以上も開催され、国内 ではもっとも多くのファッションショ ーを開催したデザイナーとして記録さ
ければならないという意欲を 新たに燃やしながら、 ﹁ 今こ
何とも言えない物足りなさ と、﹁しま った﹂と肱きそう な失策を見つけたりする。し かし、次のショーを準備しな
﹁世界の有名デザイナーたちですら衣 装一つだけで商業性を期待することは できません。何よりもブランド・イメ ージを定着させてこそ、付随的なすべ
る。いつもそうであった ように、
れるほど、仕事に情熱を燃やした。 伝統の美しさを新たに発見し、解釈
の瞬間に忠実になろう ﹂とい う思いを繰り返すのである 。 彼女は韓服で誰も真似ることのでき ない﹁李英姫﹂ブランドを作り、また パリコレクションに力づけられてブラ
ての製品の付加価値が創出されるので
ショ l に没頭した。 dga﹃ 必沼・ 4 この時から始ま った彼 女のファ ッションショー は、それ以降、大小様々のフ アツシヨンショーをはじめ、パリのプ
する仕事に信念を持って生きてきた李 英姫氏。彼女はファッションショーを 通して、彼女の持っている美の世界と
ンドのイメージを高めた結果、ホーム
彼女が創造する新しい世界をそのまま 見せねばならないと考えているため、 常に自分自身を鞭打ちながら勤勉に生 きてきた。従って、デザイナーとして
加味してこそ新たな付加価値が創出さ
求め 、試みながら新たな目標に向かっ て馳せていくであろう。
な衣装として位置づけられるその日ま で、彼女の情熱は絶えず新たなものを
えていく民間外交使節として名声を積 み重ねている李英姫。国内はもちろん、 海外でも認められている彼女だが、圏 内の経済事情が振るわない最近は、彼 女の事業も以前ほど活気が溢れている わけではない。しかし、韓服が世界的
孤独ながらもたつた一人で文化を伝
作っていくかが彼女の最近の深刻な悩 みの一つである。
97年からモナ コ博物館 に展示 されている 「韓服を着たバービ一 人形 J (上)、
れると、彼女は固く信じている。その ため、ブランドイメージをどのように
の特徴はまさに文化を持ち込んでいる という点にある。衣装に韓国の文化を
す 。﹂ 二 一世紀は情報と文化の時代になる 展望である。従って、二一世紀の商品
ョンを出す計画である。
が進められているアクセサリ ー を作っ ていくであろう。そうした後には家具、 容器、カバンと男性服などのコレクシ
コレクションである﹁メゾン ・ド・イ ヨンヒ﹂を商業化することができた。 これからは韓国の香りが盛り込まれた ﹁李英姫﹂香水、そしてジョイスと商談
の彼女の生活は、まさに人生を完成し ていく 一つの方法になっ たわけである 。 ﹁ファッションショーが終わった後、 衣装を整理するときに感じることは、 これまでの努力がどのような評価を受 けるだろうかといった不安感と、もう 終わってしまったという祭りの後の静
•
94年作 品集出版記念会で紹介された作品 ( 下)
6 8
薬
MARKETSOFKOREA
伝統薬材市場
メ、
マ 巾 チョンソンヒョン
tj麗 や 朝 鮮 で 地 方 の 土 産 物 を
このようなわけで国では薬材の多く 出る慶尚道、江原道、全羅道の代表的
晶
現物で国に納めることを貢
な都市である大郎、原州、全州に薬材 市場を開くようにした。薬令市とは国 が聞かせてできたものだったのでそう
r t '
口口 一 納といった。しかし、貢納 を収納する過程にはいろいろな弊害が 伴った。朝廷が品目と数量を決め、地
呼ばれたのである。これは一七世紀ご
たは 二ヶ月ほど続いた。現在は官の命 令で市場が聞かれるのでもなく、既存 の場所の代わりにほかの地域で多くの 薬材市場が関かれるので薬令市ではな
一九 一四年以後は十 二月 に一度だけ聞かれるよう になった。薬令市が始ま るとまず、官吏が来て国で必要とする 量を購入する。この取り引きが終わる と 一般の人たちの取り引きが始まるの だがその期間は開かれる度に 一ヶ月ま
。 大の種類は多い 一七 世 紀 に 始 ま っ た 薬 令市は初めは 一年に二度、 春と秋に開かれていたが、
tE
4
一切のである。薬令市で取り 置引きされる薬材の中で最 止 表的なのが人参で、 制も代 怖そのほかに黄書、夜苓な 鴎ど、数え切れないほどそ
函中国でも薬材が不足して 品也 引くると、郷薬の自給自足 時を奨励するようにな った
の薬材を使っていたが、
朝鮮を侵略した戦争であ る壬辰倭乱(一五九 二1 一五九八)前までは中国
もある。朝鮮では日本が
ろのことである。薬令市が開かれるよ うになったもう一つの理由は中国の薬 材生産量が減ったことに
方に割り当てるものだったので、生産 されもしない物品を出さねばならない 場合もあり、当時の交通事情から運送
中に傷んでしまう場合も多かった。そ れにこれを管理する地方官の不正もあ り 、 一般農民の苦しみはひどいもので あった。このような問題を解決するた めにできたのがすべての貢納品を米に 統一して出すようにする大同法であっ た。その結果、朝廷は必要なものを買 って使うしかなかった。
6 9
ミの地域ではいち早く薬令rj1が問かれた L、地域が j 工尿道で、
『韓国の市場』共著者・大一高校教師
全聖絃
17世紀に始ま った 薬 令 市 は 初 め は 一 年 に 二 度、 春と秋に開かれていたが、
1914年 以 後 は 12月に一度だけ開かれるようになった。 韓 国 の 薬 令 市 は え 卑 薬令市とソウルの:吉東市場のほかに何カ所かある。 手章国で山のもっとも多
Zのと ℃﹀迫︿紹C
く薬材 市 場と 呼ば れ る。現在全国で最 も規模の大きい薬材 市 場はソウルの京 、 大郎の薬材市 東市場である。しか し 場は伝統の薬令市を代表 し てきており、 現在もその伝統を引き継いでいるので ﹁大郎薬令市﹂と呼ばれる。規模におい
い 一九一 O年に日本の強 制占 領地 とな った。 この時から大郎薬令市 も日帝の 干渉と統 制 を受けるようになる。その 統制のうちの 一つが 一九 一四年の﹁朝 鮮市場規則﹂である。しかし弾圧の中
厳しい官の統制のもとで薬材生産者と 商人たちが定ま った開市日の聞にだけ 売買をしたのであるが、これは日本の
(一六五八1 一九O七)には今の大郎中 部警察署の 北側 一帯である当時の慶尚 監営客舎の周辺で薬令市が開かれた。
に大きい都 市 である大 郎 の薬令市は市 の立った場所に よ って 大き く二つの時 期に区分される。そのはじめの時期
がしてきで、数百軒の漢薬房、漢医院、 漢薬商を見なくても薬庫横町というの がすぐわかる。たとえ、昔とちが って
本帝国主義の干渉が 一層深化し西洋の 薬品が登場することによ って漢薬の需 要が減ったからである。
り扱う国際市場の 面貌を備えたのであ った。このように発展してきた大郎薬 令市が衰退の道にさしかか ったのは日
会﹂を組織して 一大復興運動を展開し た。そ し て、大郎薬令市は中国、日本、 モンゴル 、イ ンド、東南アジア 、 アフ リカ 、 ヨー ロッパなどの薬材までも取
でも粘り強く生命を維持してきた大郎 薬令市は 一九 二三 年 ﹁ 薬令市振興同盟
商人の 出 入りを厳しく 統制するための ものであった。もちろん、 この時は年 に二度 開 かれる季節市だったので薬材 を売り買いするための特 別な建物もな しに広場で薬材が売買された。 薬令市の規模がだんだん大きくなる
毎日開かれる市に模様変わりし、わい わいがやがやした市特有のにぎやかさ がなくなろうと 、 栄光と屈 折 をともに
大郎広域市中 区南成路 一帯三OOm はよく﹁薬塵横 町﹂と呼ばれる。入り 口に立った瞬間、濃い漢方薬のにおい
と大郎薬令市は 一九O七年、現在の場 所である中区南成路に移った。しかし、 朝鮮は薬令市が移転して 何 年も経たな
てもソウルの京東市場に劣らない。 ソウル、釜山に次いで韓国で 三番目
19世紀末の大 f i s薬令市の様子(上下)
7 0
薬令市が関かれた 。 しかし 、原州の薬 令市が 立 たな くな ったのはずい ぶん前 からのこ と で、かわりに原州から遠く ない堤 川で 薬令市 が聞 かれた 。原 州は
り業 や卸し売り 業の 許可さえあれば誰 でも取り引きをす る ことができる。し かし、これを加工する場合、薬事法と 食 品衛生法に抵触し、 これに 準ずる許 可を 得ていない人は薬材を加 工して販
いるから である 。
堤川薬 草市場が有名にな った のは朝 鮮時代から開かれて いる薬令市 のため でもあるが 、ここ で売られている黄蓄
のおかげで もある。黄老回は 畑 で栽培さ れる 豆科の多年生草である 。主 に高 い 山腹でよく育 つが、根は肥大 で幹は 一 。 m以上伸び 、初秋に淡紅色 の花が咲く
この 黄書の 根は 漢方で 気力を強め る の に良い 薬材として使われてい る。また、 この根は疲労回復と体力増強にも効果 がある。その ため、市場で黄書という
現代化した漢方薬局が立ち並んでいる大邸の薬令市(下)
抱えている伝統 薬令市を代表する 姿 は 今でも守 っている。毎年十月開催され
主主え-t}]れないほどその種類は多い
売することはできない。 これ が堤 川薬 草市場の商人たちの悩みであるが、一 般の人たちにもこのよ うな事 情は同じ である 。 ここでは 一般の人たちは原則 とができな い 。 的に 直 接 薬草 を 買 うこ・ それは 薬草市 場に庖を出 し ている商人 は卸 売り業の許可を持 って営業をして
7 1
1 え苓など 、 なのが人参で、 そのほかに黄者、
江原道 にあり堤 川 は忠清 北道にある。 行政区域の区分が人々の暮らす生活区
pp ヨ︿∞m cz の 亡
西門市場にある 、今でも昔のままの姿で薬材を売 っている薬塵横町 ( 上)
る ﹁ 大郎文 化 の都市 ﹂ の行 事 の時は以 前の薬令市 を再現したりもする。また、
薬令市で取り引きされる薬材の中で最も代表的
域を分離するのではな いように原 州 と
まれたのである。 もの だ っ た の で そ う 呼 l
大郎薬令市展示館﹂ 薬塵横町 の中には ﹁ を建て、資料を展示し 、 ここで薬材を 取り引きした りもする。
市場を開くようにした。 薬令市とは国が開かせてできた
堤川は同じ文 化圏 に属 している 。 堤川 の薬 令市は堤 川 周囲と丹陽 、 そして、 江原道 山奥の薬草 を集め外部 へと出す 。 役割を した 漢方薬の 材 料は農産物に属し 、 小売
全 羅 道 の 代 表 的 な 都 市 で あ る え 卵 、 原州、 全 州 に 薬 材
韓 国の 薬 令市は先に述 べたよ う に大 郎薬令市とソウルの京東市 場の ほかに 何カ所かあ る 。 韓国で 山 のも っとも 多 い地域が江原道である。それだけに薬 草も多くこの 地域ではいち早く原州で
一 七 世 紀 ご ろ 国 が 薬 材 の 多 く 出 る 慶 尚 道 、 江原、道、
i
の亡
﹀司手︿印m cZ
明 U
漢方薬は病気の症状に合わせていろいろな薬 材を交ぜて作る ( 左)きれいな白い紙で一回 分ずつ包む。 この一四分を「貼」という ( 上)
とこ の根の ことを指し、漢薬 一 房では薬
材としてこの黄蓄の根を使う場合が多 い。堤 川 の商人たちははじめから黄蓄 を切って販売していた。漢薬房では、 よく使われる黄奮を切るのに手聞がか かり、煩雑であった。このような漢薬 房の不便に早くから気づいていたここ
の薬草商人たちが彼ら特 有 の商人精神 を発揮して黄蓄を切 って漢薬房に供給 する や、堤 川薬草市場 の黄蓄 は断然 た る人気商品となり薬草市場で黄蓄の占 める割合も高くな った。 薬草 市場はもともと堤 川 五日市が聞
かれる市内にあったが今は堤 川公設運 動場のとなりに新しい建物を立てて移
転した 。堤 川薬草市場がもっとも盛ん になる時期は 九 月中旬から 初 霜が降り るまでである。別に決まった日がなく 毎日聞かれるのであるが、日曜日には
閉める庖が多い 。 七Oあまりの庖舗の 中には 一人で運営する庖より何人かの 商人が庖舗主に委託して運営するとこ ろの方が多い。そのため、この市場で
活動する商人の数は 三百人にいたる。 ここで 一般の人たちは薬材を買うこと ができないのであるが、たまには補身
用薬材だけを包装した企画商品で 一般 の人を相手にする場合もある。これら 堤川 の薬草商人たちのおかげで近隣の 農家では黄蓄の栽培で多くの所得を上 げている。堤 川薬草市場の 近隣には全 国最大の唐辛子の市場があり、田舎の
香りを感じるにはもってこいである。 もう 一つ の薬草 市場は忠清南道の錦 山で聞かれる。エ キ スポが 関 かれた大
田のすぐ下にある都市である。錦 山 は 昔から薬令 市が関かれたり薬材市 場が
7 2
•
繁盛したところではない。むしろ錦山 は人参の都市であ ったが、今の錦山で
は以前のように多くの人参は生産され
ていない。しかし、今でも錦山の人参 の名声のため、全国の人参はこの地方 に集まり、高麗人参の最大集散地とし
て有名である。畑で掘 ったばかりの水 参だけでなく乾かした人参を指す白参
を取り扱う市場が共に関かれ、市の立 つ日には壮観をなす。 朝鮮時代から首都であ ったソウルを
除いた地域では昔から五日に 一度市場 が聞かれた。そのため、五日市と呼ば
れるのであるが、今も農村地域と地方 の小都市では必ず五日市が聞かれる 。 その大部分は毎日聞かれる市場の近く
の空き地に五日毎に商人たちが寄り集 まってきて市をなすのである。常設市 が都会の形態とすれば五日市は田舎の
形態である。
市場の本来の姿と 一般農民の真の生 活の姿がこの五日市で見出されるのは
当 然 の こ と で あ る 。 錦 山 で は 二、七、 十 二、十七、 二二 、 二七日、市場が聞 かれる。このように市場が関かれる日
には全国の人参生産者や商人たちが寄 り集まり市を盛り上げ、この時人参の
値段も決まる。そのため、韓国の人参 の値段は錦山の市の聞かれる時に決ま
る人参の値段が基準になるとい っても いい。錦山薬草市場や人参市は市の日 にだけ聞かれ、ありのままの生き生き
とした姿になる。 '以上のように韓国の伝統社会で人参 は最高の薬材であった。あらゆる病気 に効く薬として信じられてきた人参の 効能は、現代医学でもその効能が次々
7 3
と立証されていることは周知の事実で ある。しかし、過去 一般の農民にとっ て人参はとても貴重なものであった 。 人参は元来山で野生の状態で採集され るものだったので一般の農民が食べる ということは想像しがたいことであ っ た。そのため、﹁年を取り病気とな った 親を看病する親孝行の息子に山神霊が 現れ、人参 一根をやり病気の親を救う﹂ という数多くの伝説が生まれたのであ
っち 。 このような人参に対する所望は栽培
Mr 手升-列
m ﹁m O I司O ﹂O
人参が人気を増し、商人たちが寄り集 まった時、人参市場の周囲には 一人二 人薬材商人が集まった。これが錦山薬
見せるのも事実である。薬草市場と人 することができるようになり、治療薬
草市場のはじまりである。 一度植えた 人参畑には十年以上人参を植えること
材に何とか対抗している 事実 はまた、 未来の様子を予想させるのかもしれな い。薬令市を守っている人たちに染み
を可能にし大量生産へとつなが った 。 現在、人参はどの市場でも簡単に購入 としての意味よりは体にいいものなの で、いつでも誰でも食べられるものに
錦山薬草市場は日ごと繁盛し歴史がも っとも古い堤川市場を凌ぐようになっ
込んでいる目に見えない温かみと生活 力を見る目こそ伝統の市場、薬令市を 見る目となるだろう。
ソウルの薬材市である京東市場の様子(上)
参市、そして、ホテルと旅館と旅人宿 が共存していて常設市と五日市がとも に聞かれるのが錦山 である。 薬令市の姿はこのように過去と現在 が共存している。輸入される外国の薬 変わってしまった。人参とほかの薬材 を御飯とおかずに比喰すると、薬材の 中の薬材であった人参は御飯となり、 ほかの薬材はおかずとなってしまった
た。 人参市場の入り口に立派な単独の 建物まで立てた堤川薬草市場はとなり にある水参市場をかえ って組末にさえ
ができなかったので人参をたくさん植 えた錦山では薬草栽培も徐々に増え、
のである。御飯にはおかずがつくよう に人参が集まるところにほかの薬材が 集まるのは当然のことである。錦山の
•
7 4
彫刻家
イスノテク
'+1F、 底した反芸術としての彫刻を J1aa川1 4 F
LA口 付 試みて見せている李升津は韓
美術評論家
てかなり異例な存在である。特定の理 念や思潮、様 式をブランド 化してしま うような作業活動を美術行為と考えて
時の作家たちは洋画を近代化の世界、 未知の進歩した世界に対する感覚のメ ッセンジャーと考えていたので、何よ
日帝植民地時代に西欧美術を近代世 界の産物として積極的に受け入れた当
た。しかし、ここでの西欧は日本を通 しての歪められた姿での西欧であ った。 日帝植民地時代を経て解放以後、近代 化の等式のように認識された西欧化は
手本は近代化の本場である西欧であっ
代後半から六0年代半ばにかけて韓国 画壇をさら ったエンポルメル熱 気とは 根本的に異なる視角と感受性を持った 作家の登場を意味する。当時美術大学
れは西欧思潮の韓国的な変容の様相と いう意味を含んでいる。以前の五0年
次元で拡散されたものと思われる。停 滞し、画一 化さ れ、無気力でさえあっ
的抽象、 美術概 念の 拡大現 象としての 環境美術とパフォーマンスなどが幅広 く展開された。これらすべてが受容の
アート とネオダダ的な消費社会の物質 的な体験と大衆的なイメージの受容、 オプテイカルアl卜 の視覚的、幾何学
プニングというものを初めて 見せ 始め たのだ った。それだけではなくポップ
て、いわゆる前衛精神への充溢を見せ てくれた。美術を常に形式的な枠を壊 していかなければならないと思った彼 らは、従 って最も前衛 的な 美術活動と して認識したパフォーマンス或いはハ
を卒業したばかりの作家が実験精神と 旺盛な意欲、熱気でグループを結成し
いた韓国画壇において、彼の破格かっ ブランド化されない作業の数々は真の 意味での現代美術 、 つまり現代美術の
技法を受け入れることにその啓蒙の意
真の理解に 近い試みに見える 。六0年 代以後今まで、大地美術、概念美術、 反彫刻、環境美術などと結び付けられ る多様な実験を持続させてきたが、特 に風、音、煙などを活用した彫刻の非 物質化を最初に行 って見せたことによ って既成概念打破の先頭に立つ作家と して認識されている。 既存の固定観念および思考に対する 挑戦として縛るとか、燃やすとか、あ
義を見 出し た 。 同時に韓 日併合以後、 西欧式美術教育と制度の導入により近 代 美術界が生まれるなかで、画家に 対 するイメージもやはり変わったが、そ れは他でもなく天才的な個人が創造す る芸術、それが美術として認識された ことであった。西洋近代美術はこのよ
従 って、作家たちは欧米の新しい思潮 と傾向に敏感な触手を突きつけるしか なく、それが美術 の決定的な問題意識 だ ったと 言っ ても過言ではない。 そのような問題意識を本格的に受け 入れた時期は六0年代後半からである。
他 でもない米国 化 の傾向であり、以後 韓国美 術 の流れ と進行 は進行中のアメ リカ美術の受容と同化の道につながる
いうことで説明されるのであるが、こ
この時期は韓国現代 美術史の位相が や っと本格的なモダニズムへ進入したと
,
りも形式を重要視し、これに追従して きた。植民地という現実の中で日本を 通じて西欧美術を受け入れた当時とし
うな絵画観と作家観を持 って作業をす るようになった作家の絵を意味するの
SCULPTQR
側面を持 っている。 そのため、以後の現代性の追求が現 代社会の姿や問題がどのように西欧ま
は韓国現代美術の軌跡 の中で前衛作家、 現代作家としての生き様を押し通し、
LEESEUNGTEAKARTCENTER OONG. 564-23 YUNNAM・ MAPO.GU.SEOUL‘KOREA 02 )322-4669 ( FAX ) TEL.(
ては、その西欧美術を無批判的に受け 入れるしかなかったのである。日本で 西洋画を学び、西洋美術史の脈絡から
441国の現代美術史の流れにおい
lEESEUNGTEAK
美術の近代性の意味を見出そうとして いた当時の新しいスタイルの教育を受 けた韓国の画家たちもやはり西欧美術
である。植民地時代の美術の志向は何 よりも反封建性と近代性であり、その
J千
またその名にふさわしい作業を推し進 めてきたと思われる。
ご百E F
たはアメリカ美術の傾向を吸収して表 出した のかという問題に置き換えられ たのである 。 ここで 重要視されたのは ただ個人の感受性だけで 、 アメリカ美 術、西欧美術を体得する過程であった。
るいは積むとか、振りまくとかの行為 を通して、呪術的な雰囲気を漂わせる かと思えば、韓国的な文化を喚起させ ることの可能な作業の事例を豊富に見 せてることでも優れている 。 アバンギ ヤルディスト或いは前衛的人問、偏屈 に見えて奇異な作家といわれる李升津
7 5
-M.]~I阻幽.1;lT';,tT,_,血血圏直
、 ¥ ぇ
した彼らが集まって結成したのが、他 でもなく、六八年に結成された ﹁ A-
た以前の時代の画壇を飛び越えようと
る。五0年代に彫刻を専攻してから今
界を規定しているものとして理解でき
る体験から生まれた意識が彼の作業世
皮し、一つの彫刻作品をそれ自体で完
って伝統的かつ姑息な材料観念から脱
結させずに、むしろ周囲の空間と環境
まで私たちの保守的な彫刻概念、すな わち石、木造、ブロンズのようないた
の画壇に新しい造形秩序を模索創造し
G﹂ (韓国アバンギャルド協会の略称) グループである。﹁前衛芸術への強い意
て、韓国美術文化発展に寄与すること﹂
し、拡大された造形思考を持つ彼は画
的な指向性の中に位置付けようと模索
識を前提にビジョンが貧困である韓国
をモットーに出発したこの団体に参与
一的かつ没個性的な韓国現代美術の構
して以来、実験的な作業を持続的に深
造的貧困から抜けだそうとする努力を
見せてきた。この努力が彼を結局すべ
化させてきた人物が他でもない李升津 彼は誰よりも進んで前衛的な活動を
なのである。 してきた。彼は韓国現代美術がどのよ
せたのだと思う。
彼は彫刻を専攻したが、彫刻に縛ら
ての 芸術ジャンルと巡り合わせる総体 性、いわばトータルアl卜と巡り合わ
れたことはなかった。それで、彼は自
うに西欧との時差を縮めていくべきか、 の独創的な発想と新しい造形精神の構
また克服していくべきかについて作家 築によってこれを遂行できるというこ
彫、写真作業、執筆活動などである。
らを美術作家と呼ぶ。﹁僕は人にできる
現在の芸術は何であろうと自分が表現
とを提示しようとした作家であると思
自分の作業自体に度が過ぎた意味付け
しようとするものはジャンルや方法と
われる。彼の特異な考え方と実験性は
をして、そして実験と前衛的なものだ けをモットーとした意識島体が受け入
関係なしに自分のすべてを表すのが特
そして、記念碑と銅像、肖像石像、木
れられなかった側面もあるように思え
徴なので僕は自らを統合的な美術作家
ものは何でもするという信条である。 絵、彫刻、設置、行為、事実と抽象、
る。姑息な韓国現代美術の幅を広げ、
時折画壇との摩擦もしくは否定的な視
絶えず思考と行為を通じて韓国現代美
に異端でかつ挑戦的な作業を見せて以
と呼ぶ。 ﹂ (作家ノi卜 すでに大学を卒業する前の作業から が、オブジェ作業という当時では非常
線をもたらしたのも事実である。特に、
の異端者、アウトサイダーと呼ばれた
単身で北から南に渡り、戦線で重傷を 負って病床生活を送るなどをしている
を付与しようとしたものである。﹂と 言
感受性の範鴎での理解としてある価値
っても過言でなく、非彫刻もやはり材 料の実験を意味しており、視覚よりは
李升津は﹁現代美術は材料の実験とい
来、ず っとその異端の道を歩んできた
術の最前線に立つ先駆者の姿、真のモ ダニストという評を得ると同時に画壇 りもした。
うちに自分の実存的体験と抵抗意識を
彼は韓国戦争の悲劇を体験しており、
育てたと 言 う。このような人生に対す
7 7
取 目
I i J1 9 1 長疑問京
A P いY ~t.\~
¥
、 軍の削髪令、 1 967、 10mX20mXO. 9m
させると同時に宇宙に対する総体的接 近の可能性を提供するという視覚でも
ある。同時に多分に原始宗教の祭儀的 側面を演 出 して見せるこの類の作業は 窮極的に物質としての作品、芸術を否 定することであり、展示場の空間では
ない自然の中に拡張する側面とかみあ うしかなかったのである。そして、こ
れは 具体的な作品の現存でなく 一時的 な時間の経過を見せるものであり、見 る者と共にした時だけが可能であり、 窮極的には写真としてだけ残る。
以後、彼の見せた興味深い作業が ﹁縛る、解体﹂ の作業である。作家自身 が自ら組の作家と呼んだように縛る行
為と紐は彼の作業に頻繁に登場する 。
李升津の作品に登場する縛るという概 念は異質的な存在物を 一つに結合する 方法である。彼は縛るのは縛られる物 体と縛る紐との緊張した関係において
六0年代に入り、本格的な作業を見
見えるものより見えないものに対する 存在論的提示と取れる。こうして、玄
ポリエステルで製作されたヌ lドの場 合、生きている生命体としての女体の 豊満さと弾力性を触覚化させて、結果
ってかえってその存在感が一層鮮明に 浮かび上がることである。堅い金属や
成立するということを見せてくれる 。 内と外との関係が縛るという行為によ って新 しく匙るのである 。 彼のトリ ッ クは物が紐によって縛られることによ ぃ、材料の実験を拡張させることから
せ始めた彼が試みた作業はいわゆる
妙な宇宙の原理と秘伝を発見できるよ うにすると同時に、それは自然と人間
の虚空に煙が出たり、布がはためく彼 の作業は空と充満との関係を殊更考え
の聞に 一定に維持されてきた習慣的な 距離を縮めたまま事物の隠された本 質 に新たに密着しようとしたのである 。
ある。彼は縛ったり巻いたりする非彫 刻的な行為を通じて事物と作業行為と
的に生命力を吹き込んでいるのである。 これは李升揮の反語的なユーモアと表 現行為の当為性を見せてくれるもので
﹁形のない作業﹂であ った。彼が追求し た非彫刻、形のない作品は環境と 一緒 る。すなわち 、概念的行為に 向 かう拡 大された造形思考から出たものである。 実際に作家は現場で行為し、この作業 すべての過程を写真記録によってその 現場性と リ アリティを伝えている。彼 は水、火、大地 、煙などを利用して形 のない作品を初めて登場させたのであ るが、これは、あるものよりないもの、
結局はなくなり、なくなったものが再 びあるものとして変わるという思考は 仏教的な因果説と関係がある。万物は 有から生まれ 、有は無から生まれると いう老子思想とも相通し、また空っぽ
になることによって出てきたものであ
反概念、否定の精神、そのエネルギ ー を芸術の生命力であり限りのない出発 点とした最初の作家である。
術において最も核心的なもので、 一次 的な要素といえる伝統素材と方法論に 対する否定性と接しており、既存の固 定観念を拒否して、より新しい概念を 創造するためのものである 。 彼はこの
出発した。彼は既存の彫刻に対する 挑 戦と克服として新しい価値を設定しよ うとする反彫刻、非彫刻活動をしてき たが、事実李升津の﹁反概念は現代美
燃える雲 、 1 987、3 .2mX12mX4m (上)
の疎通のための精神の一つの手段であ るとも 見 る ことができる。あるものが
974、6mX17mX2m ( 下) 無題 、戦車の防禦壁、 1
7 8
取り入れたものである。 ・ それとともに 砂利や砂の上に絵を描き、岸壁に水の
くの旗のはためきを見て自分の作品に
た豊漁祭で見られる色とりどりの数多
である芸術に結合させるのに注目すべ き成果を見せてきたのは事実である。 彼は﹁すべてのものは肯定するより否
韓国的な 美 意識と精神を総体的な水準
てくれた。また、忘れ去られた色彩、 特に韓国的な色彩を彫刻に導入して、
無限の空間への場の移動を絶えず見せ
ら再び元素的な素材に、限定空間から
術 の歴史であり肖像なのである。
って これを 一層充実さ せて見せ てくれ た作家に属する。それが前衛と実験美
きた作家である。常に新しいものを渇 望しており既存のものを覆して、否定
思考を人生の哲学、作業の根幹として
金属材のヌlドや石、オlジのよう
絵、乾いた谷に滝の絵、砂浜に波の絵
定するためにある ﹂というサルトル的
み込んでいるように思える。彼は意識 的に韓民族の精神と内面に位置したシ
であり、伝統的かつ呪 術的 な材料と結 び付いて 、 土着的な亙俗要素が濃く染
な材料の後に、紙と布切れの束が登場 するが、これはいたって日常的な材料
など自然環境にカラlリ ングをした一 連の作業は人間の存在を自然の中で具 体化させたものである。これは自然の 中で自然の風景を描き出す偉大な存在
.
国近現代 史 の歴史的束縛と 西欧美術思 潮の影響と無関係ではない。彼はかえ
しようとする意識は彼が生きてきた韓
ャーマ ニズム、およびそれに結び 付 い た美意識、土着的民間信 仰 に込められ としての人間の姿を見せてくれる行為 であり、また観客の参加を導くもので ある。
刻の独自的な造形世界は量感の表現か ら即 物的な 表現へと、物質的な素材か
由に求められるもう 一つの新しい 可能 性を得るためでもある 。 ﹁強い 個性は思 潮や理念を超越する﹂ という彼の信念は既存の観念や常識を 拒否する反概念精神で自分自身を武装 し、そのような意志の産物である非彫
同時に彼の焚身行為は既存の思考や方 法を燃やし尽くすことによってより自
てくれるものである。この李 升 津の焚 身行為は既に産み出された作品が消滅 することによってそれ以上の新しい剰 余物を 作らな い 。 た だ 残 る の は 記 録 ( 写真 ・ビデオ)だ けであり、作家と観 客の内面に 映 し 出 さ れ た 映 像 で あ る 。
て焚身するのである。火が燃えるとい うことはそれ自体に視覚的、唄覚的 、 触覚的なものを共有するものであり、 時間の経過に従って運動の変化を見せ
は 一九八九年に行われた焚身行為であ る。それは作品を作家自身の代替物 (分身)としてそれを燃やすことによっ
しかし、このような李升津の実験的 かつ前衛 的な作業の中で最も独特なの
た韓国的情緒と感性の原形を実験作業 と結び付けてきた。彼は韓国亙俗の美 には美しさより気持ち悪いゾッとした 感じゃ不快な魅了 、陰惨な恐ろしさな どが渦巻いているので 、 それらを自分 のものに近づけ亙俗の神秘を新しい角 度から模索しようとした。従って、作 業においてもできるだけ不吉な材質感 や土俗的な色を選んで彫刻でも絵画で もない非彫刻の探求に没頭してきたと っ。 言T 一つの理念や方法 論にこだわらな い 自由 な作業態度、そして 世界で韓国人 だけにできる民族的固有美を創 出しよ うとしたのが、まさに自分だけの一つ の方法論だ と言う。多分、果 川国立現 代美術館の野外に設置された六つの石 の墓は彼が追求し た亙俗的か つ土着的 な韓国民族の美意識を表した代表的な 作品であろう。
七0年代に初めて登場した風の作業 は風という媒体を 通じた状 況演出で、 風によってはためく動き、はためく音、 光、色彩、時問、空間などの諸要素が 互いに結合し、全面 的な 芸術環境を作 ったもので環境を広範囲に占めようと する大地の作業である。その風の作品 もやはり韓国の海辺の村に伝わってき
7 9
1965~1971 、 2mX2.3m X O.8m 、 石像+火
焚身する石像、
ClIJ1l剛T s
韓国現パミ写真 の 場 面 98年 写 真 映 像 の 年 を 迎 え て キムスンゴン
写真評論家
金升坤
リシビックが開催される 品 可 nI 4 寸 何年か前まではソウルの ﹂'/ 五階 建て以上の高さの ビ ルの上から外を見下ろして写真を撮
かった。
一九六0年代半ばまでのア
メリカの写真が大学で学ぶことので きる現代写真史の最後の部分であっ た韓国では 一九八0年代後半にいた るまで世界的な写真表現の動きに同 調する 何 の兆候も現れなかったのは 当然のことであった。
ることは禁止されていた。現実に直 接関わると言うより自然の景観に 心 酔したり、カメラを武器にその現実
が政府の開放政策が施行された一九 八0年代に海外留学を通じて異質的
な文化を体験してきたという事実に も注目しなければならない。 一九八八年、アメリカやヨーロッ
パ、 日 本 な ど で 留 学 を 終 え た 六 人 の写真家たちが集まって開かれた ﹁写真│新しい視座﹂展(ウオ │ カ
l ヒル美術館)に掛けられた作品
は内容と形式からそれまでの伝統 的な写真の枠から大きく逸脱する
黄圭泰の「無題 J 196 9~ 1972
ることができるという彼らの意見 は 、 短 時 間 で 学 生 た ち を 中 心に幅
同時代の写 真家 た ち に さ え も 容 易 に受け入れられなか った。しかし、 目には映ら な いある程度の水準の リアリティを描き出すためには現 実の外観を記録するのだけではな く、それを 加 工したり隣接し た 芸 術 の 方 法 を 写 真の 制 作 過 程 に 含 め
ものであった。彼らの写真の方法 は既 成の写真家はもちろんの こと 、
金秀男の「ア ジアの亙女 J1995
現在、韓国には五つの四年制大学 および十七の 二年制専 門大学(日本 の短期大学)、四つの大学院に写真 専攻の課程が置かれ、毎年二千名あ
まりに及ぶ専門家を輩出する驚くほ どの量的膨張を見せている。しかし、 質的な変化が起こったのは写真とい うジャンルに 一九六0年代以後出生 した若い写真家たちが登場してから である。彼らは写真に対して禁欲的 な態度で 一貫してきた以前の世代と は異なる文 化的環境の 中 で成長 し、 写真に対してより自由で若者らしい 強い好奇心と活力を持った世代であ る。また、彼らの中の多くの者たち
( 上から)
と戦っていこうとしている写真家た ちによって韓国の写真は進行してき た 。 一九八0年代後半にいたるまで このような二つの傾向は写真内部か
らの反省や外部からの何の挑戦も受 けることがなかったし、また多くの 写真家は写真という媒体に対して閉 鎖的な認識を持っていた。 一九六四年、韓国の大学に初めて 写真科が開設されて以来 、全国の各 大学に写真科が相次いで開設され始 めたが、学生たちには 外 国で進行し ている同時代的な表現の傾向を体験 し、新しい表現を試してみることの できる 何 の刺激や機会も与えられな
朴洪天の「工リスに・・・ J 1994
8 0
広く受け入れられていった。
自由な芸術の空間に解き放った新し
でも表現のための 一つの素材として
変化の規模と速度をほとんどリアル
を通じて流入される西欧の文化的な
化、そして地球規模で進行した急激 なイデオロギーの解体(政府が樹立
いった 一九八0年代は高度の経済成 長とそれに伴う社会と意識構造の変
ロセスの中に介入させる方により大
する世界を移すことより、自分の想 像力や現実に対する意見を写真のプ
ような時代的な特性を反映している からであった。これらはすでに存在
品、または性とフェミニズムや大衆 社会と現代文明に対する批評を盛り 込んだ作品を出品していたのもその
ものであった。 彼らが青年期に向かって成長して
る必要がある)と、いろいろな経路
された一九四五年以来、現在まで韓 国で反共が国是という事実を想起す
タイムで体験することができる時代 であった。多くの表現者たちが設置 や媒体の混用のような非再現的な作
考えていた。現実を加工したり、操 作したりする行為はそれまでの品性
態度で一貫してさた以前の世代とは異なるえ化的
正しい写真ではタブ!とされていた
い勢力として十分なエネルギーを持 っていた。展示場は実験的で純度の 低い通俗なイメlジで満たされてい た。それはあたかも抑制されていた 人間の感覚をすべての方向に向かっ
次いで聞かれた﹁写真八九│九O﹂ (一九九O 、ハンマダン画廊)や、 ﹁混合媒体﹂展(一九九O、錦湖美 術館)は具象と抽象、現実と虚構、 写真と美術という二分法的な区分が て一遍に放ったような力を感じさせ る粗い表現であった。ほとんど一九 六0年代以後に生まれた参加者たち は大学での専門教育やまたは外国留 学の体験を通じて吸収した新しい写
彼らにはそれ以上有効でないという ことを見せてくれた。ここに参加し た写真家たちの関心は目の前に展開 された現実対象によりも人間の意識
してからである。 イ皮らは写真に対して禁各支的な
真の価値観と方法論を多様な形で実 践していった。彼らは現実をあくま
以後出生した若い写真家たちが登場
内面に存在する潜在的な領域につい ての探求に集中していた。写真は今 まで考えられてきたものより遥かに 自由な媒体であり、 写真が開拓しな ければならない領域は広い処女地と して残っているという事実が彼らに 正当に認識され始めたのである。 一九九一年に二、三十代の学生と
と活力を持った世代である
写真家五十名あまりが参加して開催
韓 栄j 朱の「外出 J1959
自由で若者らしい強い好奇心 環境の中で成長し、
された﹁韓国写真の水平 ﹂展は若い 写真家たちの新しい写真に対する抑 え難い熱情とチャレンジの精神が自 然発生的な力で噴出した初めての大 型展示会であった。日本と台湾、ヨ ーロッパ七カ国の写真家たちが参加 1九三、 し、合わせて 三回(一九九 一 トータル美術館、ソウル美術館、公
8 1
平アlトセンター)にわたって開か れたこのグループ展は、韓国の写真 の世界で現在どんなことが起こって いるのかを見せてくれた初めての国 際的な写真イベントであった。この 写真展はそれまでの感傷的なアマチ ュアリズムと禁欲的なリアリズムの 呪術に縛られていた韓国の写真を、
韓国の写真に賞的な変化が起ミったのは 1 960年 代
C [I] ~m :m(:1
きな比重をおいていた。たしかに洗
じて急速に広まっていった。一九九
アリティの多くの部分が依然として
写真が蓄積してきた伝統を踏襲する より、 その禁欲的な方法に対する 否 定の形として現れることが多か った
に現れたこれらの表現は、それまで
0年代初 めから中頃にかけて集中的
残っており 、爆発的な エネルギ ーを 見せた九0年代の写真家たちの中に は、何よりも目の前の エクチユアリ
こそ沈滞 の沼に厳 ま っていた韓国の 写真が最も必要としていたものであ
のも 一つの特徴であった。 写真は物理的な現実を反映するだ けではなく、その現実の背景をなす
ティに至上の価値を付与しようとす る写真家たちが厳然として存在して いた。
練されてはいないが、それにもかか わらずこれらの作品は自 由奔放な気 運にあふれでおり、そのような活気
った 。 実際、この展示会が引き起こした 波紋は直ちに﹁ああ、大韓民国﹂
﹁ 風 景 を 超 え て ﹂ 展 (一九九 一、 松の木ギャラリー)、 ﹁ 大東山水﹂展 (一九九 三│一 九九七、コダ ックフ ォトサロン、ウォンソギャラリー)、
においた伝統的な作業を強い信念を もって持続させていった 。現実がど んなに複雑で暖昧な構造を持ってい
たとしても、彼らはその現実を より
明瞭な形で提示しようとした 。 まだ、韓国には公立写真センタ ー が 一カ所もなく、人口一千万人を超 えるソウルにただ =一カ所 の写真ギ ャ
ラリー があるだけである。未曾有の 経済的混乱に固まれた現在、外国と
の諸般の文 化的水準の差を縮めるの はだれの目にも当分の問絶望的なも のに映る。しかし 、多くの写真家た
一 世紀をす 実を思い返している。 二 ぐ目の前にした時点で制定された
時代と精神を反映するものであり、 自分が眺 める 現実そ れ自体よ りも そ の現実をどのように認識しているの
﹁ 韓国写真の流れ﹂展(一九九四、 芸術の殿堂)、 ﹁観点と 仲 裁 展 ( 一 ﹂ 韓国写 九九四、 芸術の 殿堂)や 、 ﹁ 真の現段 階 ﹂ 展 (一九九四、インデ コ画 廊)、﹁韓国人﹂展(一九九五、 インデコ画廊)、﹁写真は写真だ﹂展 (一九九六、 三星フォトギャラリ ー) に参加した多くの写真家たちがそう である。彼らの荒い活気が 一九九0
だといえる。企守
﹁ 写真映像の年﹂は未来に向かった 韓国写真の意志の一端を見せるもの
方法で現実に関与したらいいのかに ついてそれ以上何の基準も強迫観念
実である。彼らは写真がどのような
年代 の韓国の写真に与えた衝撃を緩 衝させる均衡装置として作用した。
ちは韓国が戦争の危険と度重なる貧 困な経済的、政治的状況、自由の大 きな部分が制約された劣悪な状況で も、短期間で諸分野において奇跡的 な成長と安定を実現させたという事
彼らは韓国の 風景と人 間 の生を 中心
(一九九四 、ジヤハムン美術館)を はじめ、﹁九四写真、新しい風﹂(一 九九四、現代アートギャラリー)、
朱明徳の「全北全州 J 1974
も持っていないかのように見えた。 しかし、このような方法で現実の 本質的な部分がすべて明らかになる のではもちろんない。現実世界には
かを見せるのに重点をおいている、 これら の写真家に よ って、少なくと もタブl の領域がなくな ったの は事
予胃栄の「サハリンのウムドン氏 J 1 991
写真家たちの解釈を必要としないリ
﹁身体または性﹂(一 九九五 、ギャラ リー眼)、﹁写真│今日の位相﹂展 (一九九五、慶州 ソンジエ美術館)、 ﹁ 韓 国 写 真 の 地 平﹂展(一 九九四、 現代アlトギャラリー)、﹁新しい風﹂ 展 ( 一九九五、リクルート画廊、東 京)、﹁写真の彫刻﹂展(一九九六、 錦湖ギャラリー)﹁若い風﹂展(一 九九六、大郎文化芸術会館)、 ﹁写真 │新し い視角﹂展(一 九九 六、国立 現代美術館)など、グループ展を通
(上から)雀敏植の「労働者 J 1959
8 2
CURRENTS
(上から時計の反対回り l こ)鄭範泰の「ソウル南大門市場 J1956、成南勲 のrNQ . . 2すでに
才の子どもとグループリーダーJ スペイン・マドリード、 1994、金基 学校を辞めた 13 賛の「横町の 裏の風景 J1982. 6. 26、陸明心の「黒沙浴」
済州島 1983. 8、装柄雨の
1 1J 1995-1996 「出会いと別れ J1995、具本昌の「最初に 1
8 3
I
. 、れる 氏問伝統彫刻の驚異 再認、議 弘 「韓国古来の石彫刻の力J展 を 観 て 美術評論家
李鍾烈
イ ゲ ヨJ し
A
一
九 九 七 年 十 一 月 か ら 一九 九八年十月まで一年にわ
一 たり展示が続く梨花女芋 大学校博物館前の梨花彫刻庭園で開 催されている﹁韓国古来の石彫刻の
の研究者たちにも新たな関心を呼び
力﹂展は、今まで国内のどの博物館 でも企画したことのない試みであ る。これは韓国美術史また民俗学界 起こすほどである。 展示内容は大きく二つで構成され 日﹂00司O
ている。ひとつは全国の山野のいた る所で誰もがよく目にしてきた名門 家系あるいは有名な歴史上の人物の 墓前に立てられていた石人像を運び 込んで設置したもので、もう一つは 主に嶺南及、び湖南地方と済州島で民 俗伝統として永い間受け継がれてき た村の守護神であるトルジャンスン (トルボクスとも呼ばれる)と童子 像などである。 様々な角度からの学術的・芸術的
研究課題を提起しているこの展示の 企画者(梨花博物館長・金紅男)の 意図は、何よりもこの石像彫刻を純
たものだ。彼らは職業的な匠人精神 による完壁な技術、そして時には奇 抜な創意性を発揮し、また純朴な手
この驚くべき形象創造と現代の視 覚においても造形的傑作とみられる 民間伝統の古来の石彫刻は、全て名 もなき石手と石刻師たちが作り出し
並で想像力を表出させ、卜ルジャン スンをとても滑稿で面白い表情に彫 り上げてもいる。このような匠人の
粋に造形的芸術美の対象として見て みようということである。これは、 これらの民間伝統も韓国彫刻史の研 究対象に含めなければという意味も
姿勢と衝動的感情は自由で多様な創
韓国の歴史的な石彫刻は、ほとん どが花岡石で作られている。韓国全 域に豊富な良質の花岡石が、これを 餅をこねるかのように扱った石刻師 という芸術家を生み、これら石彫刻 の多様な発展をもたらしたのであ る。この自然の中に置かれた花闘石
き、あるいは厳然たる彫刻美術の形 象として魅惑している。
日の私たちを神秘的な感動へと導
作性を生み出し、これらの要素が今
が作り出したものである
なさ石子と石刻師たち
の石彫刻は、 全 て 名 も
傑作とみられる氏問古来
の視覚においても造形的
驚くべき形象創造と現代
含んでいる。 今まで韓国彫刻史の主流と考えら れてきた三国時代以降の宗教的な仏
護神をまつるために石を積み上げた 所)に立てるため、厳格で恐ろしい 表情に彫られた擬人神像だ。
また、民俗的伝統のトルジャンスウ ンは村の安泰を見守る守護神とし て、村の入口やソナンダン(村の守
は、この墓の主人の霊魂を厳粛に祭 り、守る目的で作られたものだった。
祖先崇拝と民間信仰の機能を果たす ために作られたものだった。すなわ ち、墓前の石人像│文人像・武人像
教彫刻と同様に、これらも儒教的な
花を持った童子、高さ 87cm、朝鮮時代
8 4
CURRENTS
彫刻は、歳月の流れと風雨そして湿 いというのが、韓国人の伝統的な態 度であり道徳観だった。たとえ他人
ないということも、全ての韓国人の
の祖先の墓であっても、これを無闇 に段損することは絶対にしてはなら
と力を感じさせる。 このような花闘石の石人像が、永 道徳観であると同時に倫理観であっ た 。
気によって質感美の変化を自ら生み 出し、この内部に宿る雄大な生命感
い歳月の聞に苔と花模様の自然の斑 点を生じさせ山中の墓前にどっしり 世の中の変化と共にこのように厳 格だった韓国人の伝統的道徳観と倫 理観も崩壊するにいたった。反面、
せる。 様々な表情の大小の石人像は本来 の 一対で、または対を失った孤独な 単像で、展示演出者の意図的配置と
取得して持っていたりした約五O点 の石彫刻を対象として企画したこの 展示の雰囲気は、劇的であると同時 に空虚な歴史の時間と空間を実感さ
いうことであちらこちらと移動させ られたり、あるいは格別な愛好家が
本来の居場所と存在性を喪失したも ののうち、単に個別的に昔の石物と
た。梨花彫刻庭園に展示されている 古来の石人像の展示もこのような変 化の現実を反映して いる。 ソウル周辺をはじめ、全国各地の
観で見せることにより、墓の石人像 に対する認識も変わることとなっ
全ての歴史的遺物を今日の目と価値
と謹厳に立つ姿から、誰もが韓国人 の生活の歴史の息づかいと脈動を視 覚的に感じることだろう。 このような石人像が、 一九七0年 代後半から急速に進められた全国的 な国土開発と産業化の波によって、 数百年あるいはそれ以上の歳月を 黙々と守り続けてきた場から無残に も取り払われるという受難を味わっ たのである。 状況がこのようになったことで、 石像は本来の存在意義を失い、骨董 商人の売買物に転落した。しかし、 これらの中の際立った傑作や特別な 石人像は、これら石像の歴史的な造 形美を純粋に尊重し賛美する格別な 愛好家や収集家に譲られ保存されて きた。これは実に幸いなことであっ た。この中の相当数は日本に売られ でも行った。日本人は昔から、この ような石像を庭園に飾り、歴史的な 古の雰囲気を楽しむ趣向が強かった からである。
起伏ある庭園構造を背景に各々配役 を与えられた登場人物のように沈黙 の野外舞台を飾っている。こうして 観覧者は、この石人像が、過去守っ てきた墓の中の主人公と村落共同体 の人々に代わって、韓国人の生活の
FmmLOO
。 君
8 5
しかし、昔から韓国人は、他人の 墓のこのような石像を家の庭に置く ことはどんな場合であろうと禁思と 考えてき た。墓から出た陶磁器の よ うな副葬品でさえ決して持ち返らな
;斉州島の童子、玄武岩、高さ 50cm、朝鮮時代
-l トルジャンスンなどは、 より自由な創造力と
! r典的な表現感情で彫られたものが 多 L、。 全体の大ささの半分以上を頭部とし、
最大限恐ろ しく怖い表情で彫ろうとしながらも、
実際はとても温厚で笑いを誘うユーモアあふれる
べき傑作であるトルジヤンスンなど は、韓国の根の深い民間文化伝統の
させて くれでもいる 。力強い生命感 と力を 含蓄し、大胆な省略と誇張の 彫刻手法あるいは譜諺的表現の驚く
気持ちにかられる。 その 一方で、この石人像の全体的 または部分的な形態と造形構造の奇 妙な感動が鑑賞者の目を十分に満足
歴史を証言する無 言劇を見るような
韓国的シャ ー マニ ズムの土俗えイじに伝統の棋をもっ
朝鮮時代の中頃以降、民間の墓にも
どにうかがえる。高麗時代と朝鮮時 び王族の廟にもその形式 代の 王陵及、 の発展が見られる。そのような中で、
豊富な創造力を証明してい る。墓 を 守るために作られた文人石と武人石 の伝統の歴史的背景は、慶州の統 一 新羅時代の聖徳陵、興徳陵、掛陵な
かる ことな く発揮した。 反面、韓国的 シ ャーマニ ズ ムの土 俗 文 化 に 伝 統 の 根 を も っ卜ル ジ ヤ
して、石刻師たちはこの仕事 を引き 受けた状況によ って、伝統的形象 の 厳粛な石人像を大きくあるいは小さ く作りながら、創意的な手腕をはば
石像形式が広く波及した 。 しかし、 文人 石は名門家 系で可能だ った。そ
ンスンなどは、 一層 自 由 な 創 造 力 と即興的な表現感情で彫られたも のが 多 い 。 全 体 の 大 き さ の 半 分 以
トルジャンスンは、 現代彫刻と同様の感覚を忠い起こさせる
A
の感 覚 を 思 い 起 こ さ せ る 。 梨花彫 刻庭園の展示は、今でも全国的に 元来の場所で無数に保存または伝 来されている実像の断面を慎まし く見せているに過ぎない。
上を頭部とし、 最 大 限 恐 ろ し く 怖 い表 情 で 彫 ろ う と し な が ら も 、 実 際はとても温 厚 で笑いを誘うユー モアあふれる形象の意外な傑作ト ルジ ヤン ス ン は 、 現 代 彫 刻 と 同 様
文人石、高さ 1 42cm、 朝 鮮 時 代
8 6
イ ンタ
、 田 園 田 ・ 圃 -
、 .お け る
、 不ソ
韓国 えイじ 金相頴
東亜日報
記者
界る │米│が使英ラれ戦 る フ 言 よ ず ホ 関 そ と 語 成 タ 人 を る イ て 化 化 い 弘一一 品 化 時 パ 国 ネ そ わ 語 ン ば 争 実 よ ラ 語 う フ │ 連 れ 憂 と 長 │ た は 。 ン 驚 人 戦 。 帯-, は、ネのツうなをスな」のうンににラムのと慮文がネちじフタかが争言 すイ ツ実 トすい公だらをと奨ス使し ンペ 情共を化フ ツはめラ│ せ「」語 ./ な ン 卜 験 の べ す 用 け な 宣 こ 励 語 う 、 ス │ 報 に 表 を ラ ト 昨 と ン ネ た 戦 で 戦 力! 告 ラ
ノ
: ; ! ! ! ii f !日 ; ぇ! ? ! ? i ! i 1 f i i f ; i i H f ; 1 ii 国のう │六な 文大こク OL 化 衆とで年: の化をあ代イ 世・考る末ン 界世えアのタ
m
医国~ I .~, Iふ| 丘 | 品川 | 国 附
i t f;l h t 川
寸 国│
一一
て土 4 榊叩 K管制同刷ls ~
- 2 4
I
町 山 柑 阿 川
E. . 'cN....,' I~互~ I D.\W\I~11 N $U I ~~~ I • c::::己圃~型嚇面器面冒官官園田・哩. t ¥ .
l ' ch
・旬 " ' .
・
L saol e "
-
, E N白
C¥ ll t u ・I'tT O¥ lf
2W7 1 2 a ZE E 出』Z M
, 刷 ..“ 1 制Kw酬, " ' " 蜘
山 岬 仙川
刷 附 削
納 "叫 p開 , , '
F
Geomnn句
ω出
.IOIUIII ル TUR 品用問'^" 必j tl / l .TU抽 L J . H G . . . . c m :1 HlS TOP JCJ.LLB C ^ αEsl I: o 瓜思AJ-l l I. u .c .Bsl
κc 昭・t.nColou
,
別 組, J Mlb h ¥h, 1 ・ e ・ e ・ e 1 M U U・ .・ , , ・ “ a ) ; ANG凶 剛削船ぬ叫h 開 包間 山 , . ・ , . ' "‘ 眠l 句¥ nJ nt l l ・ ' M ‘
l : Or e : ; r .n . ・ぬ 'd
術凶
l ' t I y
l > $ o¥ ln . h Hl< l
仙他
韓国を訪問しようという外国人でも よい 。 その人がインターネットでど
】~'(>tu r:l. 1
.
化ぺあるいは﹁英語の世界語化﹂ だと 言 っても過 言 ではない 。つ まり
‘
l , l
・巾..・,
んな過程をたどって韓国に迫るのか を想像してみた。 彼 は ま ず ヤ フ 1 E 2ヲ ミ 宅 垣 宅
W . . b$U:UY( SPEOAL! ) C O-RQM(M ..,旬苦"・ ,..。 凶・ H~ -ÀJI\. t : t }Ju uum)
四
冊
・
d .i v l d dI n t otwomd .l n. e et !on.-S~ nß~ae!}ß andN ~I\lb-n g- e e . c : hbasedont rd l t l o n . o l pr l nci p ld Ot h . o lha . Vdgrownout0 1Ko 6, OOcrya1 'h l l r
インタ ーネットの大衆 化 は韓国を含 む非英語圏の国に大きな危機となり うるのである。
3 匂 n an Q 8 cA( I ' 、 ' 2 .Wリ
3zghoヨ)の類の検索サイトを探す
官 。 同 aluslghtooUorsa日 間 中 間 honsivelook 叫 l hor l c hp h l l o p h l Il ' l In dc u l lr dl 1 ・ g a c l 8 1 1o r‘ h・ Ko ・ 同np.opl. ・Th., 1 切 i ・
問│
し た 。国 広戦もに く争ち ? はでろ宣 「はん戦 文な武布
ことを韓国に限 ってみよう。韓国
はどの程度の準備ができているの か。我々は強いて ﹁ 文化戦争﹂の宣 戦布告をしなくてもかまわないの
カ
筆者は韓国を知ろうとする外国人 をまず頭の中に思い浮かべてみた。
一一一咽 ー
I
. 1
言ン 葉ス ま政 で府 使と つ文
M 4~品、.....側 Ilt thtl: U"'",
τht$oun .dJo!! {Or t l 弘
1, [1
出
三整理されているものを他に 三探すのは難しい。検索語に ﹁穴92﹂を入力した。その結 三 三 果として出力された資料の 三 ↓ 中で﹁地域一国一韓国﹂
mE 口同 一 一 円 O E =ご -m
スで選択した。他に検索語
o -g い025 という行をマウ
穴
︻
を 入 れ ず に ﹁ 河 内空0 2ご ・4 ∞ O E t a 2﹂﹁穴 22 O豆町﹂の の ﹁ 順序で探しても結果は同じ である。ここで﹁﹀コ除
二一ベ ( 河 内
t
だろう。ヤフ l はインタ ー 卜 で最も人気のある検 自ネッ 索ホl ムペ ー ジである。こ 志一 三れだけ体系的に情報がよく
山 品与い
i四 A 畑 山町 M Tr訂 SA NC同 校 < l !軒
三一 三帥 三 陥 円 uu 二一 三 附 三回 三陶
﹄一
ZEgg三 2﹂や﹁∞ 02m門司除 三百 三の 円 巾 ﹂ を選択してみたが、 三結果はお粗末なものである。 三 宣戦を布告したフランスの 一 亙 自 負 心 と 文 化 愛がうらやま Z しい限りである。
しかし、いくつかほ っと させるものもあった。 ﹁コリ アイン
サイト﹂(穴05 同日邑包三と﹁カルチャ ーコ リア sg) がそれで、 Z5﹂ c ( こういうホの ー ムペ l ジがあといくつ かあればどんなにいいかと願う希望 の光だった。 8 7
同 時一
b ! じ 以 … u . u u 川叩 叫i
CURRENTS ﹁インターネッ トに韓国文化の 真骨
頂を込める﹂ ﹁コリアインサイ卜﹂が前面に押し
出すこの文句は、少なくともこ のホ ーム ページ ( z z n o r h ) 吉 司 込 涛 Oお出 5 日 m に目を通した人ならば十分に納得が
できるものである。ここは何より ﹁豊富さ﹂で他のサイトを圧倒する。 ここには韓国の歴史、文化、思想、
宗教などに関する広範な資料が文章 と画像、音声、三次元映像などのマ ルチメディア形態で流されている。
「コリアイ ンサイ ト」 は 内 容 の 「豊富さ」 で 他 の サ イ ト を 圧 倒 す る 。 ここには韓国の歴史、 旬、粗 え化、 ・
宗教などに関する広範な資料がえ章と
1ぷ 正 也. . . . . . "
画イ季、
手7 七b
三次元映像などのマルチメヂイ ア形態
~F 、
でj えされている
英文かハングルの 二種類でサービス されているという点も見逃せない長 所である。
厳 粛 な 銅 鐸 の 音 と 共 に 関 か れる
﹁コリアイ ンサイト﹂はア l卜 スペ ースコリアが作ったホームページな のだが、その 内容分類か、りして非常 に韓国的である。韓国の伝統概念で
ある﹁相生﹂と﹁乱場﹂がその基盤 である。﹁ 相生﹂には韓国人の精神 世界と、これによって表出された文 化財を中心に思想と 宗教、文 化遺産、
S A N G S A E N G T
" , 同 市 内 叫 削 叫 叩 叫 噌 C 3 1Jw 問 山 d叩 四 回
臨時 Ît is 銅山混同組側o( tr.litì岨~K。偲aII lboag)nan~ 側同R
' "m裕町 i ~" limc.hot剛宅dide3J oflheK副首・ _,
T " ', """N
叫 吋 開 制 同 眠 叩 出 噌 削h inph:!伊
川 叫
τ1o...",叫 M叫', the O<<finuyK切~.舗 !ricd 胸 1 ・時間
Iwm ω 円 抽 出 向,h岡 宮 醐 抑 制B幡 i n. "'Dt'I>組閣'"問醐陀弘
WbÎleKOf四四溜裕伺"‘.~I山崎畠陀"ntphttlOf)l('前開 ""K 蜘咽'P<旬! c ' $ $ p i r i n 1 a !w u l t b関 ' Dd 白開.""俳 目 0( ,町"d<払 lI ~icri Il Ç(J.THl~lIil)'and .ll lol;(: o(陥胸骨 i$partda n:nl阿佐""u咽iliω
剛 ・ , J u附 " . 削 佃 例 眠 < < 印 刷
t 叩 t 町 . e t Y . 11
" . . b . : tew . . . 山川1 m凶 a'M 仰(~、
陥 nj.nlb lhepl~ rorinr.町岨剛畠国nhow l}ωUi\s h:!\'c li"td t 申 耐r i n l h ep . , 閣 剛 山 内 '0111'1111川 t h c i山 百回、y
C剖
印 刷 叫 加l h e f l. l叩 叫 輔 副合 同 師 向 向 山 rK 叩
,
1 .5舗がX'.問 uamincK 僻 回目 偏&,価値I 何回陀町四"',凶"剖四ぱ副8 r ω .岡山醐,...., 醐 醐 叫 回 ・nd i嗣 蜘 捕 。fK 倒 閣 l b o u,b l l n dn : i l: 剛一
ThoughlandR e l l g l o n 一 … 叩 山 … 叩 … … … 一 … … … … … . . .. . . . . . . . .
i i t 三百五官三当主主話器訟議EmLM
連載附 f I L 言 法制謡吉野球部:武器松守‘吉弘 ・ . . ・ ‘ . . . t . M a . I < > a . o l 脳 陣 句 " ・ ー ‘ 泊 凡 . . . . . 梅 . _ “ ・ ・5 同 町 刷
CuUur.1H e r l t a g e 一 … 一 ・4叫 … … … 一 一
一一… ....'.1"'1:.._."".一…~山崎町
_1 . . d ' . . . . . " ' . . t . . .山 ・一 …山山岡山町間一帥河 川 出 町 出r "lioI. ・ ・ ・ 日 叫
同...,畑町陶叩・一“・山・4 ・~,-・1UtOC.........出 崎山町出回出…凶凶.~.開山崎町』
生活文 化、韓国の 芸人など韓国民族 の生活様式と美意識を載せている 。
自然遺産、歴史と遺跡、韓国のイメ ージなどが載 せられている。特に文 化遺産では ユネ ス コが世界文化遺産 に指定した宗廟祭礼、石窟庵、八万 大蔵経、水原城、昌徳宮を非常に詳 細に見ることができる。﹁乱場﹂は 生活ともう少し密着し た部分。韓国 の市場、韓国の音、韓国人の身振り、
メディアコンテント製作業者が作 っ たホ 1 ムペ l ジである
﹁カルチャーコリア ﹂ は﹁見える インタラクティブ﹂というマルチ
物館l 風呂敷特別展﹂、金徳沫のサ ムルノリ(農楽)に関する情報を載 せた﹁サムルノリ﹂などが鑑賞でき る 。
のペ ージである。亙祭写真家の金秀 男氏の﹁金秀男写真展 │ アジアの天 と地﹂、昔の韓国女性のすばらしい 創意力を見せてくれる ﹁ 韓国刺繍博
)は訪問 ﹁特集 サイト﹂(∞℃25一巳お凹 者の関心を集めるに十分な特別企画
o I .
lM
"向 山 町 一 … 内回・・ h・ ・ 時 M ・m
・ ・ . w _
ThtS o t l n d so f l t o r
4
h
f . . .
戸 瞬 間 ・ 叫 ・ 叫 岡 山 町 嗣 同 信 凶d ・ 四 蜘 M ・ 岬. . . .1凶 酬 同 副 聞 .
四測同町蜘・..
官官ヨ'"有高官官 .~ ~. ョ
町、.…胤ー“
・ 、 … … … 山 ・e・M
鍛 結 晶 謀 総5ML 議 室5 砂 … ・ 同 町 … . . - ・4…
1 r .. 梢o..t$oltp
~_輔副側胞sic
……一一
…
T lu駒 酬 . ・ -
-, ~
KoreaI n s i g h t sの中から
8 8
Cl I H : 1 : 1n t ; J
の文化空間を表示し、各種の展示
した。韓国の政治・社会・経済・歴
に少なく、融通が利かないという感
やイベントなどに関する情報が非常
が、資料更新が遅くて、フォーラム
言 葉 や え イ じ が 跡 形 も 無 く な く な っ て し ま う か も しれな
ぎならなし、状態、なのである なけれ l
nzrE5r05pnoヨ)。取台前川
史・文化などを最も包括的かつ総合
怒 涛 の ご と く 押 し 寄 せ る 英 語 、 米国えイじの為に韓国の
(22 U ¥ ﹀と宅垣
的に知ることができる。初期画面で
五 千 年 の 歴 史 を 誇 る 韓 国 え 化。 しかし、 イ ンタ ー ネ
日
会 や 文 化行 事 を 載 せ て い る ﹁ 地下 鉄文化情報﹂も新鮮である。ただ
じを消し難い。政府サイドでもう少
韓国の文化を紹介するサイト(左上から時計四りに KoreaWindow、韓国の伝統芸術、文
をのままに韓国文 化の過去と現在
﹁ 文 化﹂(口三gd) メニューをクリ ッ
d
し、英文サービスがうまくいって
﹁巾戸
化観光部、 C u l t u r eKorea
を載せることに主力を注いでいる。 特に目宮引くのは最新の文化行事
O
いないのが残念である。
相剛 、噸 陶 舗、
遺産﹂(口三円呂田一 Ego-gmm)、﹁韓国の映
P
宅)は広報庁傘下の海外広報館 O
-r"量出ヰJ 司~-ニ品J
に私たちの 言葉、私たちの文 化は跡
である 。 このままでいくと怒涛のご とく押し寄せる英語、米国文化の為
五千年の歴史を誇る韓国文化。し かし、インターネットではまだまだ
価はしがたい。
の﹁国際競争力﹂に対しては高い評
ボル十種類﹂(古二?ミ ヨ巴己︼耳目・ヨ r2︺ oご︼︻ヨ) Edσo一 ¥ 印 ︺ ﹃ ヨσ 0 2 0・ ・ ︼ 加 ・いた。しかし、これら などが目を引
化体育部が作った ﹁ 韓 国文化のシン
(}忌明ミコ﹃210旧安出門司口吉田町-E12吋 出E 回 50、 寸 人
満の出発をした ﹁ 青い芸術都市 ﹂ ( E Vミさ宅垣・2 口-qh0・芝田コ DQ¥)、浦項 工大が製作した﹁韓国の国宝 ﹂
術を中心に編集する﹂として野心満
生活、芸術状況を韓国文化と韓国美
円の伝 E芝 Z5855乙と﹁韓。 国 nE C ・ 一 統 文 化 ﹂﹀ ( 古 ご ? 二 田町 O Z一・ r ¥ 冨 ︿ 一 -05¥Eσ一 百 三 ニ 55 示 。 ﹁ g09・ 2℃ ・ ﹄g d¥gREXE5-Zヨ 一 ) 、 E oミ門戸] ヨ 血 清 ¥ ︼ コ ﹃ O﹃ ヨm ﹁世界 の芸術空間、芸術企画、芸術
23-E
されているデイコムの﹁韓国の伝統 芸 術﹂(士 ζ ミ ョ -
クすると ﹁韓国文化概観﹂( 0 5 42)、 し積極的に活用する必要がある。 ﹁文化と芸術﹂ ( p r 5 除pd)、﹁文化 この他に九六年のインタ ーネット エキ スポの時に作られて今でも運営
﹁コリアウインドウ﹂(穴
三 コ 己
守 -,
が 運 営 す る ホ ーム ペ ー ジ で あ る
・... 軍軍司・
を 流 し て い る ﹁ 文 化 掲 示 板 ﹂、﹁伝 統音楽の世界﹂、﹁伝統武芸の世界﹂
一 一
m
= z r222 6・ 4沼田-凶....
・ 血・
開
画﹂ (穴Q g C 5 5 出)、﹁韓国のシンボ こ 庁 EQ) などに分れた ル ﹂ (Z255
Jm-
を載せた﹁韓国の伝統文化﹂であ る。全体的に小ぎれいなデザイン
....畑町四 . H叫 . 柏 町 句 . 宮
唱 = ・ ・蹟議議F 』… 由 …向 ・ …
詳細情報を得ることができ る。情報 の 量 と 質 は 非 の‘ 打 ちど こ ろがない
l I l l l I : J ! l l I I I 羽 目
に好感が持て、それに劣らない情
a ~首司』縄開町・-~
。 炉開町志田~ 諭明 岡 町η 即即時相j
(﹃与一¥主主主 05O 加E。外国人に韓国 を理解してもらうための窓口業務を 行うために 二年前に第 一歩を踏み出
韓 国 こ そ 一 日も早く 「え化戦争」 の 宣 戦 布 告 を し L、 。
形も無くなくな ってしまうかもしれ ない。韓国こそ一日も早く﹁文化戦
争﹂の宣戦布告をしなければならな い状態なのである。阜マ
8 9
トの世界ではまだまだである 。 このままでいくと 、 y
‘ u ~~,Ar-J"\l白 堕堕閉 山哨 剖,,"' ICI. 臨圃
・ ・ 1 m 週 .
報の豊富さがよい印象を与えてい
-,~抱z ・苫"-・る包'"
苫奇.,,,も
る 。 ソ ウ ル 市 地下 鉄 路 線 図 と 付 近
@
I B I T S MNTS&附
1 f t
一九九七年十 二月 二三日から一九九 八年 二月 一日まで聞かれた 。 土偶は文字どおり、土で作られた 人形を意味するが、人だけ
ても 多 様 で あ る 。 このよ う な土偶はたいてい、おもち
でなく、動物、植物、家 屋、 生活用具など、その形はと
千五百年あまり前の新羅人の生活 スタイルをそのまま見せてくれる土 ゃや呪術用の愚像や副葬用 として製作されたが、新羅 土偶は主に副葬用に作られ
ppb式的mcZ のと
偶﹃新羅土偶│新羅人の生、その永 遠なる現在﹄展示が、国立慶州博物 館(館長萎友邦)特別企画展 示室で
国立慶州博物館の ﹁新羅 土偶﹂展
え
たものと思われる 。新羅土偶は日帝 時代に 、体系的な発掘を通じて収集、 整理されたのではなく 、 工事現場で 偶然に収集されたもので ある 。よ って、正式な報 告書や発掘現況について の正確な知識さえも欠如 してお り、今まで 学問的 なアプローチが難しか っ たのが実情である 。 今回の展示は考古学的
のと
℃﹀豆入印而﹁﹂Z
かつ 美術史学的側面から新羅土偶に
対するより深層的な研究を通じて、 正確な概念規定と正しい 美術史的な 位置づけをすることに目的がある。
このため、国立中央惇物館と国立慶 州博物館をはじめ、その他 の国立 ・ 私立博物館に所蔵されている新羅土 偶 三五O点あまりが集められ、展示 された。 新羅土偶は高句麗や百済にはない
もので、当時の中国の土涌とも区別
される 。今回 展示 された土偶は楽器 を演奏する姿、夫の死を悲しむ女 、 背負子に壷を担ぐ 人、狩りをする姿、 出産する姿、男女の性交場面など 多 様で、また大蟻喰、水牛、オウムな
ど、当時新羅に倭息していなか った 動物まであり、 当時の新羅人の生活 模様と人生観、対外交渉まで垣間み ることができる 。
よ って、今回の展示は 学会 の者だ けでなく、一般人にも古代韓国 人 の
9 0
EVENTS& 閃 I B I T S
器、土偶付長頚壷など国宝指定文化 財をはじめとした四五O点あまりを 選定して、一九九七年十二月二日か ら一九九八年二月一 日まで、企画展 示室 I、Eで展示した。 今回の企画展の導入部では高句
生き生きとした姿を感じさせると同 時に、さらに世界の人々がすべて共 感できる人間の生の原形を通じて時 空を越えた永遠なる現在を実感させ た。 麗、百済、新羅、伽耶の土器が持っ ている地域的特徴が 一目で見られる ようにテl マを設定し、古代の土器
国立中央博物館の﹁土、芸 術 、 生 と 死i韓 国 古 代 の 土 器﹂展 土器文化を比較検討できる場を設け た。また、古代土器に見られる文様、 文字、装飾性、葬送儀礼などの小さ
な風俗画帖である国宝一三五号の ﹃恵国侍神帖﹄をはじめ﹃美人図﹄、
m ﹁m0 20 ﹂0
国立中央博物館は高句麗、百済、 新羅、伽耶の土器の中から地域と時 代別に厳選した名品をはじめ、最近 なテl マを設定して、古代土器の多 様な特徴に正しくスポットを当て
を体系的に整理、展示して、古代の
の発掘調査で出土した学術的な価値 て、理解できるように企画した。
広m0 ﹂ 26
のある土器を 一カ所に集めて、﹁土、 芸術、生と死韓国古代の土器﹂展 を開催した。
画約五O点あまりが展示された。 申潤福の本貫は高嶺、号は恵園、 あざな 字は笠父または徳如である。父親は 函 園 申 漢 秤 (一七 三 五? 1 一八 O
夫人勧善文帖﹄を含む先祖たちの書
たちの日常生活だけでなく、死後の 世界 に対するもう一つの違った精神 世界を垣間みることができる。
がある。
また、今回の展示会の期間中、申
時から博物館の講堂で聞かれた。講
潤福の絵画世界にスポットを当てる ために講演会が一月二 O 日の午後二
師は鄭良諜氏(国立中央博物館館長)
が﹁恵国風俗画の鑑賞 ﹂、李源福氏 (国立中央博物館美術部学芸研究官) が﹁高嶺申氏帰来亭公派の画脈﹂に 関するテーマで講演した。
﹃ 韓国人の顔﹄展
古代から現代まで、韓国の美術品 に込められた韓国人の顔を見るとい う展示が今年の二月十 一日から 二四 日まで、ソウルの ﹁ カナアlトスペ
ース ﹂ (O二 七 三 四l 一O 二O) で聞かれた。
﹁千五百年の歴史│伝統から現代
まで﹂という副題からも分かるよう に、古代仏教および民間信仰の彫刻
品の数々をはじめ、権鎮圭、韮錘泰、 韓鎮盤、金東羽、韓愛圭、洪淳模、 劉永教など、七人の現代人物の作品 に至るまで、韓国の彫塑芸術の最高
レベルを味わえる場所にな った 。 特に今回の展示に出品された古美
術品の数々は美術史的に価値の高い もので、青銅、金銅、木材、石材、
道が各層の生活模様を滑稿に表現し たのに比べ、恵国は男女の愛情をテ ーマにした作品を主に描いた。彼の 絵の淵源は先祖十一代目の申末舟 (一四 二九1 一五O 三)の夫人であ る 醇 氏 (一四 二九1 一五O九)に見 出すことができ、また書は先祖十四
この他に素朴で天真無垢であり、
陶磁器、紙などの多様な材料で製作 されており、また大部分が国内で初 めて紹介される未公開作であるとい う点で大きな関心を呼び起こした。
国 立 中 央 博 物 館 の ﹁一月の 文 化 人 物 ・ 申 潤 福 ﹂展 恵国とその先祖たちの書画、国立 中央博物館(館長鄭良諜)は文 化体 育部が選定した一月の文化人物申潤 福の月を迎えて、 申 潤福と彼の先祖 たちの書画世界にスポットを当てた 特別展を 一九九八年一月十三日から 一 二月 一日まで博物館の書画室で開催 今回の特別展には申潤福の代表的
' レ #。
代目の申徳隣(高麗末)にその淵源
九つ)である。彼は朝鮮後期に風俗 画の典型を築き上げた檀園金弘道 (一七困五1 一八O六以後)と共に 双壁をなしていた人物である。金弘
今回、出品された古代土器の大部 分は墓の副葬品または祭叩と関連あ る土器類で、これらを通して古代人
﹃ 松 亭 雅会﹄、﹃ 二匹の雄鶏﹄、﹃蓮池 の女人﹄など、ジャンル別の名品の 数々と、宝物七 二八号である﹃醇氏
一九九三年には﹁韓国の先 ・原史 土器展﹂を聞き、今回は原 三国につ ながる 三国時代│高句麗、百済、新 羅、伽耶の土器の中の騎馬人物形土
9 1
I
また生命力溢れる子どもたちの顔が 多様に形作られた各種の童子像は、 見る者を微笑ませ、当時の人々の生 活や願望を知ることができる。さら に現代作家たちの作品は写実的な技 法からミニマムなイメージ、表現主 義的な形 象に至るまで 、各 々独特な 造形語法を見せている。 今回の展示は伝統美術作品に込め られた韓国人の顔に対する悠久の造 形意識の歴史を見る機会であり、ま
え学
た現代を生きていく今日の自分たち 自身の顔を顧みる良い機会になった。
李文烈
下 一階、地上 二階、延べ面積七百坪 に二つの講堂と図書館、そして一五 の部屋を備えている。ソウルから家 族全部を引き連れて、ここに居を定 めた李文烈氏は﹁弟子﹂として院生 たちを広く募集して、彼らと共に古 典的素養と文学を極めることにな っ ている。一年に五名ずつ選んで三年 間、東洋と西洋の古典に通じるよう にさせ、随時、生と文学、そして文 明と時局に関する討論も行うように なっている。 負岳文院の院生は大卒程度の学力 を持ち、文学にすべてをかけると いう者を、原稿用紙百枚ぐらいの 自 己 紹 介 書を通して選定する。 こ れらの院生の他にも山里で文章を
常生活に必要なすべての施設が整
書くことと 研究に没頭したい者で あれば、誰でもここに留まること ができるように配慮されている。 彼 ら の た め に 負 岳 文 院 は 六 O名ほ どの寝床や食堂や洗い場など、日
作家李文 烈氏が今年 の 一月十七 日に京畿道
えられている。 自分自身の文学の世界化体験のた
写真 ︿写真﹀この時代の山河の 記録﹁大東山水﹂展 韓国の代表的な中堅写真家たちに よ っ て 構 成 さ れ た ゲ ルl プ で あ る ﹁大東山水﹂が、韓国の国土を自分 だけの視覚でとらえアングルにおさ めて見せる﹁大東山水﹂展が一九九 八年 二月十 二日から二四日までソウ ルのウオンリノギャラリーで開催され た 。 m I司O ﹁ mO ﹂O
o th
--
呉宗殿、金南 害時、窪康逸、金集吉、
四年前、志を共にし、今後十年間、 韓国文学の伝統を再び立て直して、 儒林の子孫として後学者たちと共に 韓国の魂が宿った文学の伝統を屈せ ずに受け継いでいく﹂と思いを語っ た。この文学書院の設立は韓国文学
洪 一、余敦鏑、許丁寅)は、金正浩 の﹁大東輿地図﹂と謙斉鄭散の﹁真
この国土を 写真で残そうと約束 した 韓 国 の 代 表 的 な 風 景 写 真 家 十 一人 (斐柄雨、金壮壁、朴洪天、金泰昨、 界にとってとても好ましいこととし て受け入れられている。
めに米国滞留を考えたりもした李文 烈氏は、その後、考えを変えて、こ の文学書院を通して﹁脈が途切れた
利川の 雪 峯 山の裾野に
個人として は初めて最大の文 学書院を開い た。 子どもを背負った姿に似ていること から負見岳と名付けられた裏山の名 称に倣って、この文学書院も﹁負岳 文院﹂(電話O 三三 六│六 三六 八 八六一)と決めた。 この 書院は李文烈氏が八五年に 購 入して、執筆室として使ってきた古 い農家住宅から始まったもので、地
-\ 叫 邑,J~
景山水 ﹂から名前を取って大東山水 とグループの名前を付けた。
今回の展示が四度目で、テーマは ﹁南道の風景 ﹂ である。昔、百済の 地であ った この豊かな海と肥沃な土 地などをカメラにおさめた 。土 地の 記録を写真で残そうとする写真の記
録性を土台としたこの集まりに参加 した作家たちは、だからといって記 録のための写真だけを紹介している
のではない。西部開拓時代に記録の ために土地を写真で残した伝統を、 今日の新しい現代の写真言語として
解釈した米国の﹁トポグラフ﹂の傾 向か ら既存の写真より縦や横を 引き 延ばしたパノラマ写真、平凡な写真
を焼き付け段階で変形させて作家の 意図を強く見せつける作品まで、韓 国の芸術的風景写真の現在の位相を 克明に見せてくれる。
九四年 の京畿を振り 出しに、忠南 の西海岸、智異山、南道と経てきた
が、彼らの国土巡礼はまだ六カ所も 残っている。嶺南と済州島、東海と
白頭大幹を回って、ソウルに戻るこ とで、彼らの旅程は終わることにな っているのである。
、す梁
K B S交 響 楽 団 の 常 任 指 揮 者として招かれた鄭明勲の 初の定期演奏会
9 2
任指揮者に鄭明勲氏が就任した。彼 は就任後、初の定期演奏会のタイト ルを ﹁ 祖国のために﹂と掲げ、一九
一九九八年、 K B S交響楽団の常 指揮する計画だ ム 、 八 回 の 公 演 を・ という。
持つなど、年内に四つのプログラ
九八年 二月十二日に韓国の作曲家の 作品を中心としたプログラムを初め て指揮した。
奏曲作品第 三三番などを指揮した が、彼はこのような音楽を通して国 民の痛みを共に分かち合い、慰め合
イコフスキーのロココ主題による変 行事が繰り広げられた。 伝統的にテボルム(小正月)の朝 には健康と無病を祈願して、 ﹁ おで
韓国の民俗行事の 一つであるテボ ルム(小正月)を迎え、 一年 の 幸 福と安泰、豊年を祈願する様々な
ルハーモニーのソウル公演を皮切 りに、日本の東京・大阪、米国の ワシントン・ニューヨークなどの
彼はまた、三月 一日に﹃芸術の殿 堂﹄でパンソリ、サムルノリ、ヵ ヤグム奏者が出演するアジアフィ
エニファl ・ジョン姉妹、そしてピ アニストの白恵善、金ヘジョンなど を協演者として起用した。
スン、ピアニストの金ユリ、バイオ リニストのアンジエラ・ジョンとジ
すること)や月見などが行われ、
式双六)、綱引き、農楽、凧あげ、 地神踏みなどをして、月が浮かび 上がる頃にはチュイブルノリ(ネ ズミを追い払うために火を放つ遊 び)、タルチップテウギ(月見のた めに薪を重ねて火をつけて明るく
たしの暑さを買っていけ﹂と 言 っ たりした。この他にも住民たちが 集まって、祭叩やユンノリ(韓国
大豆、黍を入れた五穀飯を炊いて 食べたり、いろいろな野菜の和え 物を作って食べる。そうかと思う と、夏バテせずに夏を過ごすため に朝早く友達を訪ねて行って名前 を呼んで、相手が返事したら﹁わ
また、韓国人アーティストを共演 者として大挙起用して、若いアーテ ィスト発掘に力点を置き、ソプラノ の申ジエミン、メゾソプラノの金ミ
外国為替平衡協基金債券を広報する ための企画でもあった。
えることを願った。この公演はまた
行事
テボルム (小正月) の民俗
イ え を
斉こに例えられる胡桃、栗、落花 生などを割り、﹁耳が聡くなる酒 ﹂ を飲む。また、米、もち米、小豆、
この公演では安益泰の﹃韓国幻想 曲﹄、パンソリ﹃春香歌﹄の中の ﹃愛の歌﹄(唱一安淑善、編曲一李永 朝)、ヰア伊桑の﹃礼楽﹄、ベートーベ ンのレオノレ序曲作品第三番、チヤ
氏
地でオーケストラ、室内楽公演を
い、願い事をするなど、様々な行
凧あげ、農楽など、代表的なテボ
テウギ、綱引き、チユイブルノリ、
なる願いが込められていた。
た。特に今年のテボルム(小正月) の行事には厳しい経済事情の迅速 な回復と国の安定を願う国民の切
ルム(小正月)を迎える行事の 数々が色とりどりに繰り広げられ
豊年を祈願して悪い気運を追い払 事が繰り広げられる。 今年も陰暦の一月十五日にあたる 一一月十 一日を前後にして、ソウル、 釜山、仁川、大田、済州、江陵、 三陽 、 清 道 、 馬 山 、 全 州 、 光 州 な ど全国各地で堂山祭、タルチップ pp翠︿伯CZ のと
9 3
I
Mm~ 聞協同
韓国国際交流財団の 海外での フエローシッフ・フログラム 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエローシップお よび韓国語フエローシップを次にようにご案内いたします。 韓国研究フェローシップ
韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人 文・社会科学・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムにつ いて支援申請を受け付けております。 ①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。
韓国国際交流財団は、 人文社会科学および芸術
②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の 5月3 1日で、選抜の結果および支援
分野での韓国関係研究者 に対してフエローシップ を提供しております。こ のプログラムは、海外の 学者および適格の専門家
額については、同年 1 0月1 5日までに申請者に通報いたします。 上記の「海外での緯国研究に対す る支援」および「韓国国際交流財団 のフェローシップ・プログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。
が3~12 カ月の問、韓国で
研究を行なう機会を与え るために設けられており ます。フェローシップを 与えられることが決まっ た方には、韓国までの往 復航空料金および研究期間中の滞在費が支給されます。申請ご希望の 月3 1日 方は、所定様式の申請書と研究計画書を作成のうえ、該当年の5 までに韓国国際交流財団に提出してください。選抜の結果は同年 8月 中旬までに通報いたします。 韓国語フェ口一シ ップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者 および適格の専門家に対して韓国語フエローシップを提供し、 6~12 カ
月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講できる機会を与えております。 フエローシップを与えられることが決まった方には、韓国内の大学の うちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授 業料と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の 月3 1日までに韓国国際交流財団に提出 申請書を作成のうえ、該当年の 5 してください。選抜の結果は同年 8月中旬までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 韓国国際交流財団国際協力 2部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函2 1 4 7号 電話 8 2ふ 7 5 3 6 4 6 5
0 4 9 F A X :8 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2
韓国国際交流財団国際協力 1部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函
2 1 4 7 号 電話 8 2 2 7 5 3 3 4 6 4
0 4 9 F A X :8 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2
KOREAFOCUS (コリア・フォーカス) ( 韓国の時事問題関係隔月 刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌K O 阻A F ' 町U S(コリア・フォーカス) を刊行しております。「コリア・フォーカス」は日本の皆様に韓国関連 の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としており ま す 。 同財団は「コリア・フォーカス Jが日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 O R E AF O C U S 「コリア・フォーカス」は、日本語版のほかに英文版K も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 「コリア・フォーカス Jが取り上げて いる記事は、韓国の政治・経済・社会・ 園圃 胃・ ・ ・ ・ ・ 文化などの各分野と、韓国関連の国際問
KOREA FOCUS 璽
題にわたっており、このほか韓国に関す る重要な資料と主な事件の日誌も掲載し ております。したがって、韓国の時事問 題に関する情報性記事が幅広く盛り込ま れていて、韓国の現実にリアルに接して いただけるに違いありません。
園長田 岡 山 一一←
ひとりひとりにドラマが生まれる。 シェラトン・ウォーカーヒル・カジノは、ソウル市内でただ一つのカジん ここには、訪れる人を酔わせる華やかな時聞が満ちています二 y レーレット、パカうえブ、ラックジヤツ大タイサイ…。
本物のゲームだけが持つ興奮に出会う。 本格的にカジノを楽しみたい方から、気軽にカジノの雰囲気を味わいたい方まて: それぞれにきっとご満足いただけるドラマが生まれますL
シェラトンウォーカーヒノレ 韓国ソウル 電話 :(02)456-2121 金浦空港:(02)666-2121 FAX.(02)455-2121 海外オフィス:・東京 ( 0 3 )3 5 8 4 0 6 3 1・大阪 ( 0 6 )2 1 1 3 7 4 7・名古屋 ( 0 5 2 )2 1卜 1 5 1 5・福岡 ( 0 9 2 ) 4 1 4 7 7 0 7・札幌 ( 0 1 1 ) 2 4 2 2 1. 21 ・仙台 ( 0 2 2 )266-5 2 2 8・広島 ( 0 8 2 ) 2 4 2 -21 ∞・香港 2 7 2ト5325・台湾 ( 0 2 )5 6 5 2 6 1 2
KOREA THEH I L T O NE X P E R I E N C E
韓園で 最も高級感の漂う リ 、 ノL トホテル 。 文化の中心地、新羅王朝の香り高く、 古都慶州に位置する、慶州ヒルトン 。 四季を通じて、 理想的な気候 、 3 2 4 室の豪華な客室、世界の味が楽しめる 最高の ホテル、 それが慶州、│ ヒルトンで、す 。
ピ、ジ、才、スホテル界をリードするソウルヒルトン 。
7 0 2室の優雅な中にも機能性を重視した , 5 0 0 人もの人員を牧?寄可能な 客室。3 コンペンシヨンセン タ一、そして会議室。 洗練された 9つのレストラン ノ〈一 。すべてがピ、ジネス、祉交、 ショッピングに、理想的です 。
u
e
" 。
リザベーション
MR
M由 " 。四回目。
EE--EEEa
FEE--B
"宵
U
0
•
・ソウルヒルトン(02)753-7788 ・慶州ヒルトン (0561)7457788 又は各ヒルトンインタナショナルホテル,ヒルトンリザλ、シヨンサービ、スオフィス, } j I'(行代理庖で取り扱ってあ、ります。