笑顔がこぼれるおしゃれな空間
私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーション、 1 3 0 0坪余りの広々とした届内、 それに4 00以上の豊富なブランドと 2 0屈もの有名ブティックで 心ゆくまでショッピンク、 を楽しめるから。 でもロッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すりエステやゴージヤスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/'¥ークのロッテワールド・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジック・アイランド。 000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 韓国 5 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、
ONLY LOTTE DUTY FREE SHOP
韓国レストラン
釜山シアターレストラン
賄罪1 1"ロザデ箆税唐 ロザデワータL-f!!箆税唐 ロザデ釜山1!税唐
格子
pp訂式的mCZ の 1C
通度寺大雄殿の花窓格子門
門は内と外、闇と明を結ぶ環である。こちら
からあちらへ、また現世から彼岸に入る通路と なるものでもある 。仏家では、門を悟りへ進む
通路として象徴するという。したが って、門に 精巧な模様を彫り、悟りに向かう切実な念願を 込めもする。
多くの場合、 門を飾る格子は、その模様に似 た漢字を引用して名を付けるのであるが、日字
模様、亜字模様、用字模様、井字模様などがそ れである。この模様は後ろに貼られた純白の障 子 紙 の 上 に 奥 深 く 穏 や かな味わいを呼び起こ す 。
寺利の格子に蓮の花模様が多いのは、たとえ、 この花が世俗のけがれの中で咲いてはいても、
そのけがれに染まらない清らかさを持つ極楽 世 界を象徴しているからである。各々の 花は三重 になっており 、前世、現世、来世の三世、すな わち時間を意味している 。花と花を互いに交差 させる対角線を通してつなげば、これは空間を
意味する。我々は、このように精巧に作り出さ
れた格子を通して、時間と空間を超越した精神 の絶対的空間である墨陀羅の世界に入っていく
ことになるのである 。 精巧 に彫られた蓮の花模様のこの通度寺の極 楽殿の格子は歳 月の厚みを感じさせる木の色彩 が自然きわまりない 。 企 '
pp一司式的mcZRU と
カバー・ストーリー
韓国人特有の美的概念 「モッ」 モッは長い歳 月をかけて 斡国民族の美的体験の 中
5
で体得され 、生活一般 に
寸法のない美 とモッ
普 遍 化 された 概念、 であ る。単純なよう で も単純
李御寧
ではなく、意 図せ ず作 ら
8
れているようでも 秩序が
生命と 霊魂の律動としてのモ ッ
あるモッ。 このような 両
朴 景利
面性が互いに交わり 、 自
10
然な調和 を作 り出すとこ
握 勝範
ろに韓 国 のモッがある。 F ト﹂
朝鮮時代のソンビのモッ
コリ アナで はこ のような 韓 国 のモッを特集する。 写真はひし形模様で装 飾
16
された 両班家屋の 外側 の
韓国の美術にあらわれた破格美
窓枠である。
萎友邦
22 韓国建築のモッ-視覚的な安定性の原理 金奉 烈
28 生活工芸を通して見た韓国人のモ ッ 季節のモ ッと風流、扇 雀公縞
34
日
モッの脱神話化
コリアナ I n t e r n e tWebsite コリアナの写真と英文の要 約記事を I n t e r n e tWebsite
ケ ビ ン ・オ ロー ク
J え
42
( h t t p: //www. k o f o . o r . k r / k d a t a . h t m )でご覧になれます。
ニューヨークメトロポリ タン美術館 韓国ギ ャラリー 李成美
45 I N T E R V I E W
新羅を守る土偶作家
手京烈
金 峡旭
47 A R T I S T SOFKOREA
ピアニスト 白成 鉱
白恵善
K o r e aF o u n d a t i o n 号!苛苛叫 Z守λ H' i !
ぬ[IUJ肋 3 A 川
n 川
50
KOREANA
ONTHEROAD 萎運求
コリアナ
引
J i
一拍同大
発行人
李廷彬
侃ノ 滑 日キ 駐 判 州の
編集長
定
D
陪
金泰 編集委員
金 光 彦 ・金 文 燦 ・金 畑 園 沈在能・ 李亀 烈・李種束
斡明照 アート ・デ、 ィレクター
朴昇雨 定価
600円
68
T R A D I T I O N A LA R T I S A N
真心を込めて醸した李参判宅の「蓮葉酒J 李畑権
発行所
7 2
韓国国際交流財 団 大韓民国ソウル特別市中央郵便局 私書箱 2 1 4 7号 -電 話 :8 2 2 7 5 2 6 1 7 1
KOREANN A T I O N A LT R E A S U R E
多宝塔と釈迦塔 李源福
F . 心 (:8 2 ふ7 57 2 0 4 1
7 4
編集デザイン
ARTS P A C EKOREA 大韓民国ソウル特別市錘路区新橋洞3 1 .i 屯話:8 2 ・ 2 ・ 7 3 4・ 71 8 4
KOREANMYTHOLOGY
死の神話 ・他界旅行の夢 金烈圭
・7 3 79 3 7 7 -FAX:8 22
HU Z﹄﹂
明洞聖堂、
nk- 1 官
また 、本 話、 掲 載 の 記 事 ・論 文 の 内 容 は 、 本 誌
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建
団の許諾なしに転載・複製することは禁じられておりま
kumm年 近 F/ 悶 周 金
rKOREANA ( コリ アナ) J は韓国国際交流財団が発行し
ている季刊誌です.版権はすべて本財団側にあり、本財 すのでご了承下さい.
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岬国 ∞韓
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韓国国際交 流財団理事長
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鎗国国際交流財団の季刊誌
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1998年 秋季号
編集理事
6 2 勿 諜 。 臥 林 宇4 5 6 ω 16
農村の秋、高倣にて
四岡藤嘉~謂・1 ..
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の編集者または本財団の意見ではありません。
1 98 7 年8 月 8日 登 録 叫 1 03 3号 1 9 98 年 9月 7日 発 行 (毎年 3、6、9、 1 2 月の4 回発行) 印刷所
三星文化印刷株式会社 ソウル特別市械東区議│ 場洞 1 6 7 2 9 .電 話 :8 22 4 6 803 6ト5
ベル リン世界文化会館韓国文化祭典 韓宇昌
82
E v e n t s&Ex h i b i t s
:申;つぷ阻鉱z 、 . ¥ イ Ii凹~‘献献7空!ご空ご芳警鴎塑守腎~1I1町 町
韓国人は昔から伝統的な歌の音調や踊りの身ぶりや水墨画
から、あるいはただ単なる日常的な仕事や遊びの中にもモツ を追い求めながら生きてきた。 ﹁モシイツタ(モツがあるご というのは、誰に対しても良い意味で、 ﹁ モシオプツタ(モ
ツがないごというのは、否定的な意味で受け取られる。韓
国人が最も聞きたがる讃辞はおそらく﹁モシインヌンサラム
では、モッというのは何であるのか。李照昇をはじめと
(モツがある人ごだろう。
する韓国の学者たちはモッを 一種の美的概念だと見る点で意
ッについて
見が一致している。簡単に言えば、モツというのは韓国人の
美意識に照らした美しさの 一種というわけである。美しさが
モツは美しさの特に韓国的な表象である。すなわち韓国人の
普遍的概念ならば 、 モッはより特殊で韓国的概念だと言える。
モツを韓国的価値だと き守える根拠として、我々は﹁モツ﹂
美意識に照らした美しさの 一種である。
または﹁モシイッタ﹂を外国語に翻訳するのが非常に難しい
という事実が指摘できる。これはモッというのが美しさ、洗
練さ、風流、優雅さなど、様々な価値が韓国人特有の情緒を
モ
gt塁2号モ 1t思請 I lιJ リ │z q 2:EJF 1 1 I 1 規
図てを活体ッ こ理し ~ く ζ 格象ツやらとに すの明の得は υ 性た 秩く性だタ自ばをし るモら中さこ を人 序正をけ」然、喧て とツかでれの 内物 丸 整常跳でとよ韓不融 こがに普てよ 包と 然でびな言り国す和 ろ目す遍きう しし と規越くうは人るす で指る化たに たて ~ / / ¥ し格号非。人は。る あすこさゆ長 内詩 1 _ _ 戸ζ./ . J l'て に 主 常 し の ど こ るととれえい 心人 R ~膚哩哩匝1 I いび昆にた作ん と jこにてに歳 のの I 酔盟監理J 1 て つ' Z人 が つ な で 会ろよい、月 美皮 l 一 一 l 真たで間ったこ 形 習をつるモを し千 L _ _ __ _ _ _ . 四り岳的てもと 成 喜明て 。ツ か さ 得 角ム似なモのをさ 注ら、こにけ かがのモ あ 「 も律風よとがな号格表ツや「 れ v かモの対て らいモツしる手の動流るは、もて今象と人モ て にツよす韓 求るツよか o /'で、、と言そのいりだいのシ い すのうる固 め。だりし イ、超華、われもる韓とう行イ る る内な感民 な彼とも、 ノそ脱麗モなを美も国もの動ツ 複 の容韓受族 けは言内結 のの、ツいーしの人 吉 はをタ がと閏ヰの れ夏え J L 局 し さ 美 豪 と 04 2い や は え 美 韓 」 的 今さ聞は 長 潟 、情 謝 。 tほ とう元 i幼 い しと、モるし固と な 回 ら 美 韓 的d 組 事 。モ 雪空 , 主 内う越与は隙ツ。さ人言 価 の に 恵 凶 一〓 糊〓 財 盛 軽美 芝 ッ言 問を のはう 値
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梨 花 女 子 大 学 碩 学 教授
十品、、 一西洋には﹁鍵穴からのぞ μむ き見る ﹂という表現がある。 J ノ, J ドアを閉めれば 一寸の隙も なく 。 ひったりと閉め切ってしまうとこ ろから生まれた表現だろう。
しかし、大まかな作りの韓国の戸 は、いくらきっちりと 閉 めてもどうし て も 隙 聞 が生じてしまう。そこで、 我々は鍵穴からではなく、﹁戸の隙聞 からのぞき見る﹂と言うことになる。 同じような障子紙を張った引き戸なの に、日本の戸はまた韓国のものと違う。 どの障子戸も、 一寸の隙間もなくぴっ たりと閉じるようになっている 。 その ため、日本の障子戸はいろいろな面で 韓国のものと似通っているようでい て、実は韓国の門風紙のような戸の隙 間風を防ぐために木枠の周りに張る目 張りの紙などはない。 そう 、 門 風 紙 は 韓 国 独 特 の も の な のである。したがって、門風紙のふる える音を聞きながらしんしんと冷え込 む冬の夜を過ごす情趣を知るのも、韓
戸の隙間風を防ぐために木枠の周りに張る
韓国人ならではのことであろう。 門 風 紙 は 寸 法 に
冷え込む久、、の夜を過ごす情趣を知るのも
門風紙のふるえる音を聞きながらしんしんと
目張りの紙などがない門風紙は韓国独特のものである
レ ピ
ぐらい繊細で精密に組まれている 。 用 の字型の桟、亀の模様をした桟、日の 字型の桟! こうした美しい障子窓の桟
木枠は大まかな作りであっても、その 窓の桟は、どの国のものにも負けない
た日本人に土木技術を伝えた韓国人と もあろうものが、それしきの窓一つま ともに作れなかったはずはない。窓の
通が利くからこそ、あらかじめ戸の木 枠をき っちり寸法どおりに作ろうとし なくてもすむわけである。 有り体に言って、法隆寺を建立し
立いのあることから生まれた産物である 国人ならではのことであろう。要する に、門風紙は寸法に狂いのあることか ら生まれた産物である。つまり、門風 紙の文化は、何ごとによらず採寸し、 事細かに計算する尺の文 化 の対極にあ る独特のものである。 門 風紙だけでは ない。雌雄二つの肘金と肘壷と呼ばれ る部分からなる韓国の蝶番(ちょうつ がい)は、西洋や日本の蝶番とは違っ て、金槌でたたくことでいくらでもそ の間隔を広げたり狭めたりすることが できるようになっている。そうした融
く るのか ﹂という時調は、心の窓を閉 めてため息の出るのを防ぎたいという
心の窓を開こう﹂という文句で始ま る時調は、 心 の窓を聞け広げようとい う も の だ し 、 ﹁ た め 息 を み つつ た め息をよっつ 一体どこから入 って
﹁聞こう窓を聞こうこの私の
る韓国の 美 しい定型詩にもよく表れて いる 。
実のところ 、 戸 と い う も の 自 体 が すでに合理的な計算や論理からはずれ た存在なのである。そのことは、戸と いうものを心にたとえた時調と呼ばれ
まれたのは、何ごとにつけ 一寸 、 二寸 と計算高くこの世を渡 っていく暮らし 方が、韓国人の気質に合わなかったせ いだろう。
を組めるほどの腕前であ ったならば、 戸の隙間をなくすことなど朝飯前だ っ たはずである。 それにもかかわらず、門風紙が生
ぢ ノ
意味である 。 このように、開閉という 相反する こ つの機能を合わせ持つ 一つ
」
5
J
しミ ノ 、 、
の蝶番によって開け閉めされるのが窓 本当に﹁窓は、暗闇と光の境目に
というものである。
のものであれば壁と大差なく、それが
ある傷口﹂である。それが閉まるだけ 開けっ放しでは果てしなく広がる荒野 となんら変わりがない。それゆえ、窓 はああだこうだという白黒をはっきり とさせたがる合理性では説明のつけが たい、もっと奥深い、存在の深淵の中 にあるものなのである。 合理的な物差しでは計り知れない 戸の傷口、光と暗閣のその境界に位置 でいく者たちは、物差しというもの、
する戸の持つ秘密を知って人生を歩ん
ていくことはできなかったのである。
そして寸法というものに縛られて生き 一寸 、 二寸の窮屈な計算では計り知る ことのできない人生の深淵、それを知 ってしまった者は、木を削り取る飽 (かんな)の音よりも、夜のしじまに る。韓国の窓の美しさは、その機能で
響く門風紙の音のほうを好むようにな
物差しで測り得ないものを測ろう
とするのが西洋の合理 主義であり 、機
能主義である 。だから 、西洋のズボン
はほんの少し太っても腰回りが窮屈
で、不便なことこの上なく、また少々
やせただけでずるずると滑り落ちて、
なんとも厄介なものである。
そこで、韓国人の作ったパジは、
最初から寸法を測ったりせず、初めゆ
で着付けるようになっている。つまり、
るめに仕立てておき、ひだを折り畳ん
やかなもので、誰がはいてもいいよう
韓国のパジの腰回りは世界で一番ゆる
に融通を持たせているところにその特
徴がある。それゆえ、腹が出できたら
はけばよい。女性のチマ(スカート)
緩めばよく、また痩せできたら締めて
も体に巻くものであるため、ウエスト が太かろうが細かろうが気にする必要
がない。男物であれ、女物であれ、韓
国の服はサイズなどというものを越え
た産物であり、その時、その時の状況
に応じて適用できるようになってい る。まず人があって、その次に服があ
になっていようとも、ウエストだけは
の場合も、たとえその裾丈がぎざぎざ
たく違う。いくらサイズを正確に測っ
健康なときと病んでいるときではまっ
事をすると異なり、空腹でまた異なり、
っている。
それを脱ぎ捨てても、立体的な形を保
あるものである。しかし、洋服は人が
る。服は人がそれを身につけるために
ぴったりと合っていなければならな
て仕立てた服でも、人の身体というの
そのものに付随する美しさであると言
はなく、矛盾した中で生きていくこと
パジ(ズボン)
い。この正確無比な寸法の概念が、今
時によって変幻自在である。
一インチの誤差も許すことなく服を仕
洋人のズボンぐらいおかしなものもな
た伝統的な韓国人の目からすると、西
しかし、綿入れのパジを作ってき
落としたナイフを探すのと同じくらい に愚かなことである。生きている身体
いうのは、水の流れにしるしを立てて、
生きている身体のサイズを測ると
マは、人がそれを身につけて初めて完
韓国のパジ・チヨゴリ、そしてチ
面体に還る。だからこそ、韓国の服は 掛けておかずに、畳んでおくのである 。
三次元の形をとり、脱げば 二次元の平
韓国の服は身にまとえば人体とともに
そのため、どうしても洋服かけに 掛けておかなくてはならない。だが、
西洋の機能主義、合理主義がどう
日人間をして月の世界にまで行かしめ た科学技術を生んだといっても過言で
立てる。ズボンのウエストのサイズが どれだけぴったりとしているかによっ
がどうやって物差しで測れるというの
成するのであって、それ自体の形とい
い。もともと、人の腰回りは測ったり
ふH
するものではない。人体の腰回りは食
はコンクリートの建物ではないから、
いうものであるかを知るには、洋服の
象徴であると言之るだろう
ズボンをはいてみるのが一番の早道で
どミまでも人間を包み込んでくれる融通無碍のえ化の
はない。
て初めて完成する。 ゆ る や か な 韓 国 の 服 の え は
ある。正確にウエストのサイズを測り、
韓国のノ《ジ、 チ ョ ゴ 1 )、チマは、 人 が そ れ を 身 に つ け
て 、 一流と 二流の仕立屋の差がつく。 ズボンだけではない。女性のスカート
えるだろう。
" " 』、
6
うものを特に有していない。サイズを 測り間違えれば、人が服に合わせなけ ればならない主客転倒の洋服文化、そ
のこと)、 木 ね じ の ように突き出たくる ぶしにレろ、その不 格好なことと言った らない。そのため、 中世の西洋の貴婦人 たちは、足が見えな
つま先のその繊細な形その意匠は、 不格好にによっきりと突き 出た親指 の 線を無視した抽象的な線を描き出して いる。ポソンの睡と足の躍の比率にし ろ、足首のくびれとポソンの足首の長 さにしろ、あるいは足幅に至るまで、
写実的だからである。
すでに何回か述べたが、ゆるやか で融通の利くことを好む韓国人は、何
ごとであれ、 一分の隙もなくきっちり としたことを好まなかったが、ポソン
だけは例外だった。ポソンは、チマや パジのようにだぶつくことなく、ぴん
一言で言って、韓国のポソンは、 はない。ポソ 足のミメシス(写し)で・ ンを初めて見た外国人は、これが足に
と張りつめた形をとることで足の不格 好さを隠し、新しい一つの形を作りだ
履くものであるとは思いも寄らないこ とだろう。そのため、ポソンを貢ぎ物 にもらった昔の日本の貴族が、これを
み、引っ張って抜けたところで、ころ
母親が外出先から帰ってくると、 幼い兄妹たちが走り寄ってきて、おの おのポソンを片方ずつつかんで座り込
すべてが足の人体工学を無視した創造 的な形を有している 。
しかし、韓国人は
頭に被り、それが江戸時代の烏帽子に なったという冗談まで生まれた。足格
んと後ろにひっくり返ってしまったあ の日のこと ・ ポソン、それは人体の不格好な部分 を様変わりさせる韓国の意匠感覚の原
ら誰にでも一度や二度の覚えがあるこ とではないだろうか 。
した。そのため、一度履くとなかなか 脱げないのがポソンである。韓国人な
粋な意匠感覚で、こ れほどに不細工で汚 れた足を最も美しいものに変えてしま
好そのままの寸法と形を正確に写し取
いように長いスカー ト の内側にそっと隠 すのを常とした。
うポソンを作りだした。西洋の靴下は、 それをはいて初めて足の形をとる。靴
の形を変えることはできない。そこで、
下は足の形をそのまま写し出す。足そ のものは、どのデザイナーにしてもそ
れが人間疎外の現象を生み出している とすれば、ゆるやかな韓国の服の丈は 、 どこまでも人間を包み込んでくれる融
って 足袋を作 った 日本人の想像力から は、決してポソンのような形の足袋は 生まれなかった。脱いだ日本の足袋を 見ると、切り取られた足首を見ている
型とも 言えるものである。 そのため、 韓国の文学作品には、西洋文学にはあ まり見受けられない足の修辞学が数多
ような気がしてくる 。気味の悪いほど
である。足の格好そのままである。そ のため、脱ぎ捨てられた靴下を見ると、 まるで蛇の抜け殻を見るかのような気
ず、徹底して独自の形と線を表現する。 そのため、ポソンは履かずにそのまま 置いておいても、その形が崩れること
である。
は、まったくの対極にある美学の産物
徹底した美へと昇華させられた韓 国のポソンは、スープのおまけに入れ られてとんだ目にあったあの靴下と
美しいと思ったものを強調するところ から生まれてくるのではない。醜く思 われるものを美しく装い直すことで、 その対象物は真の美へと昇華していく。
味の悪い形をしている。 しかし、韓国のポソンは、足を覆 つてなおかつ足の形に添うことはせ
西洋の服はどれも立体的なそれぞれの 形を持っているのに、靴下だけは例外
( 足袋)
ポソン(足袋)
くあ・る。有名な春香伝の主人公、春香 はきゅう りの 種のような小さなポソン を履いた足でしずしずと歩いてこそ、 その美しさが極限に達する。美とは、
通無碍の文化の象徴であると言えるだ ろう。 コソン アメリカのあるインスタントスー プの会社が、おまけに婦人用の靴下を つけて売り出したところ、かえってそ のスlプが売れなくなったという。消 費者が、無意識のうちにスlプに足を 浸けたような不潔を感じたせいであ る 。
はない。それゆえ、足に履くものであ るにもかかわらず、ポソンは室 内装飾 として飾っておいてもおかしくないほ ど、特異で個性的な形をしている。足 首とつま先の緩やかな二つの曲線が、 屋根瓦の線のように優美に交わり、か すかに上に向かって突き出たポソンの
•
人体の中で最も蔑視の対象となる のが足である。地面に直接、接する部 分であり、人体の中で最も汚れやすい 部分である。また、すり減りゃすい部 分でもある。それに加えて、取って付 けたようにくっついている五本の指に しろ(特に、ひん曲がった小指はなお
7
パジ(ズボン)
してのモッである。そしてまた、牛を
精神的な極致であり、精神的な均衡と
る。それは人聞が到達した高い境地の
造物のようにしっか りと組み合わされ
問で均衡を保っているが、ひとつの構
もので統合されており、人と土地との
った民族の文化はそれなりの異なった
小説家
(興)のようなものは韓国民
ン(恨)とかシンパラム
引いていた老人が崖に咲く花を欲しが
ているのは何とも絶妙であるという感
パ クキ ヨ ノ リ
ノ / 族固有の情緒だと言うこと
る水路夫人のために花を摘んで贈りな
・朴景利
ができ、モツもまた独特な韓国民族の
がら献花歌を歌ったという話もある。
h、
情緒である。それらはそろって抽象的
y、 なもので、複合的な内容を持っており、
モツという時、先ずはじめに頭の中
界を感じる言葉でもある。それはフィ ーリングの世界であるためである。
先ずは若さを、そして勇敢さと愛(献
士 、 その情景を思い浮かべてみる時、
ている地面にマントを脱いで広げる騎
うとする女王のためにぬかるみになっ
ろう。だから歴史の長さと短さが問わ
進行してきたということができるであ
は歳月の中で整頓され完成を目指して
民族、違 った環境の中で、異なる文化
よく伝統と 言 うが、それぞれ違った
に浮かぶのは一然の書いた﹃三国遺事﹄
うちのひとつに処容をあげることがで
個性はモッとしてあらわれるが、その
の行為や個性が記述されている。その
﹃三国遣事﹄の中にはいろいろな人物
や親切の概念とは異なる憐欄、慈悲と
全ての生命に施す、しかしそれは犠牲
自然そのものとも同様な淡泊な自然が
精神的な世界は雑多なものを全て省略 した最も源泉的なもの、均衡としての
世を断った老人の献花歌が見せている
的であれ、具体的であれ、それぞれ違
ある。たまに思い出すが、それが抽象
はないだろうか。モッは文化の産物で
天衣無縫の状態が最高のモツの境地で
まの正直とでも言おうか。言うならば
れた感情とは違って、無私であるがま
担とか親切という多分に冷淡に遊離さ
て言うならモッは﹁粋﹂、シンパラムは
の言葉は日本語では探しにくい。あえ
することである。 モッとシンパラムとハン、この 三 つ
均衡を追求することは結局生命を追求
芸術家が作品の製作に臨むにあた って
均衡であり、均衡は存在されるもので、
ある物体や造形芸術も自然である時、 モッを発見することができる 。 モッは
命そのものであり、精神である。行動 も自然な時にモッとなれるのである。
モツは自然なもの、自然なものは生
れるのであろう。
それは現世的あるいは世俗的なものと
身)を感知することができる。ゆえに
のであると見なすこともできる。
言うこともでき、情熱と欲望を伴うも
である。﹃三国遣事﹄は仏教的な色彩の 民族の精神史であるとも三宮ん、少なか
献花歌の場合とは極めて異なる。若
きる。歌で美しい自分の妻を犯した厄 神を悔い改めさせた処容の感情処理は
でも言おうか。犠牲という 一方的な負
さを超越し、欲望もみな払い捨てて俗
実に驚くべき精神美の極致をなしてい
できるであろう。
中の大きな流れであると見なすことが
らず今日に至るまでの韓国人の意識の
濃い史書であるが、その 一方では韓国
表現である。にもかかわらず表現の限
じであるが、もちろんそこには長い歳 月の流れがあったためであろう。
、 ソ
西洋ではいわゆる騎士道の典範にな っているものであるが、馬から降りよ
~L..
意義が凝縮されている言語、すなわち
-r~
8
もない。日本にも﹁うらみ﹂と発音さ れるハン(恨)があるが、それはただ
﹁興﹂、ハンという言葉は到底探しょう に転落してしまうであろうし、物質万
中を夢見て出発したのではないはずで
能は自然を疲弊させ生そのものの立つ 瀬をなくしてしまうことであろう。 真実、我々は望み通りの暮らしをし ているのであろうか。このような世の
怨恨、怨望であるだけで、ハンの持つ 生命の本質に対する悲哀と所望が含ま れていない。﹁きょう(興ごも興じる という単純な表現であってやはり創造 の喜びはない言葉である。特にモッに
言葉もそんなと ころにだけ集中的に使 われている。事実そんな部分にモッと いう言葉が使われるのにあたって意義 があるはずがなく、そんな部分が余分
ある。文明は隆盛であるが、人々は野 蛮に退化しているのである。現在はフ ァッションショーの全盛期であり、個 性の時代であるとも言い¥ミスコリア が関心の対象である。またモッという
なものである。濃艶な女性の姿、一万 のもとに人を切りつける武士の姿、そ れに準ずるものに対する表現である。
としてあることもやはりおかしいこと ではない。 ただし、そんなところにだけ局限さ
ほぼ当てはまるとき守える﹁粋﹂も精神 的な美意識が全面的に排除されたエロ チシズムとグロテスクが濃厚な一種の 美意識である。極めて現世的で快楽的
徹底して現実的かつ地上的な、とも すれば今日の日本、いわゆる資本主義 が成功を遂げた今日の日本はそのよう
ような現実を誼歌する人もいれば、日 本を羨望する人も少なくないのだが、
てしまうであろうし、仕事をする機械
うか。我々は今その限界を目の当たり にしている。このままいったら人聞は 快楽だけのために存在する動物になっ
る。霊一魂が伴わないもの、物質の奴隷
れているということが問題であると考 える。造形的なもの、色彩、人間の尊 厳とは関係なしに誇示するということ は一種の慈悲意識とも見られるのであ
な脈絡で読み取れはしないかと考える。 今日の韓国の現実もそうである。この
果たしてそこには限界がないのであろ
モッは白然なもの、 自 然 な も の は 生 命 そ の も の で あ り 精神である 。 行動も白然な時にモッとなれるのである 。 ある物体や造形芸術も自然である時 モッを発見するミとができる
になって惹起される諸般の現象は真の モツとはかけ離れているのである。モ ツは決 して浅薄なものではない 。美し い感情の流れる線のようなものではな
いであろうか。
韓国民族の文化はモッに集約される と私は考える。直線は生硬である。し かし曲線は柔軟である。そして流れが
ある。韓国の山河がそうであり、構造
甚だしきにいたってはポソン(韓国
物や衣服はもちろん一切の生活用品に も曲線を好んだ痕がはっきりと残って いる。
式の足袋)の爪先まで、きゅうりの種
のような足袋姿というそれこそ艶かし い表現もまさしくその曲線から出た言 葉ではないであろうか。生命は律動感 である。揺れ動きながら染み出る霊魂 の律動でもあるのである。生きている ものは尊重されなければならない。生
きているということは抽象的なもので
あり、決して物質それ自体ではないの である。
A
9
チェスシポム
・荏勝範 全北大学 国文科名 誉教授
ンビという言葉は幼い頃、
スターできずじまいになった。 私に﹃反切本文(ハングル)﹄を教 えてくれた祖母も、私のやんち ゃな言 行に対して、常にソンビにならねばな らない人物はそんなではいけないと
諭しであった。しかし、私はその後、 小学校に通いながらは 、学校の勉強を 口実に、夏と冬の休みの時にと引き延 ばし、そして最終的には﹃小学﹄をマ
は、﹃小学﹄に盛られている聖 賢の言 行を見習い、従わなければならぬとの
ならないと厳しく言い 付けた 。 しかし、 私は 日本語を勉強しなければならない との理由で、祖父の言い 付 けにそむこ うとした 。 当時、私は 小学校入学を控 えていたためである。しかし、祖父は 断固としていた。ソンビは何よりも人 間としての役目を果たさなければなら ず、人間としての役目を果たすために
終えるや、祖父はソンビ(土人)にな るためには﹃小学﹄を修学しなければ
ノ 祖父や祖母からしばしば耳 , 、 , にすることのできた単語で ある。﹃抽句(漢字勉学の入門書)﹄を
F
魚 手
--L
﹁ リ ノ 、 / 、 ド ﹂ ﹂ を口実に私の態度をたしな めた。 いわば、幼い頃、このように耳にタ
私はまず、ソンビ精神とは何である かを考え直してみないわけにはいかな かった。しかし、容易にその正体が掴 めなかった。いくつかの辞 典 をめくっ てみた。大部分のものが﹁ソンビ﹂を
韓国民族の精神的な支柱となる何かを 取り戻そうという社会的な気運が巻き 起こ っていた頃でもあ った 。
して 山 野にひそんでいたソンビが 三公 三人の丞 相)の官職に就いたからと ( 言っ てソンビであることを放棄したと
ソンビである し かない。官職に就かず に野にひそんでいる人物だけをソンビ と言 うべきではない。識者 ・読書家と
こに処し、どのような仕事に 従事する にしても、ソンビとしての 心遣いや身 曙みに忠実であるとすれば、その人は
しかし、このような解釈はなにか物 足りない感じが先立 った。人 間がいず コができるほど聞き慣らされた単語が
死 語 と し て 扱 ってい た。すなわち、 ﹁過去、学識はあったが官職には就か なか った人 ﹂、﹁学徳を備えた人物を古
﹁ソン ビ ﹂ で あ っ た わ け で あ る 。 し か し、本当に成長して親元を離れてから は、この﹁ ソンビ﹂という言葉をほと んど 忘 れ去って生きてきたのではなか ったがと思う。 この言葉に再び考えがおよんだのは 七0年代半ばに入 ってからの ことであ
風にいう 言葉﹂など と書いていた。そ して、今日では、ただ﹁善良で優しい
ぢ ノ
a ろうか。官職に就いたにして 言える た もその人の 心遣いや身曙みがソンビで あったとすれば 、 その人をソンビと言
hI . .
人﹂を例えていう言葉ともされた。
の
る。私は﹁朝鮮時代の時調(韓国の定 型詩)に現れたソンビ精神 ﹂ という題 目で文を書く乙とになった。ちょうど
存在が朝鮮時代のソンビであった
清一らかにしてくれる風止闘のような
その気品と香りで人の暮らしを
に比喰できるのではないだろうか 。 風蘭一
朝鮮時代のソンビのモッを一言で言え、ば、
イ に :
10
わざるを得ないのである。ソンビとし ての心遣いや身曙みから我々はソンビ 精神の発露を見受けることができる 。 私の幼かった頃、祖父や祖母が私に望 んできたのも、将来どのような仕事に 従事するにしろ、まずソンビとしての
っくりそのままにしておいたという。
採蔽しようか﹂で見られる精神である。 梅竹軒は世祖(朝鮮朝第七代王)即位 以後の俸禄には手をつけることなくそ 第四に、謙虚と身のほどを弁え、こ
文集などに見られる多くの上疏文がこ れを雄弁に物語っている。
六曲 ・三﹄がこれを語っている。孔子、 孟子のような古人にはまみえることが できなくとも、その聖賢たちが行い、
る精神である。退渓 ・李混(一五O 一 i七O) の﹃陶山十二曲﹄の中の﹃後
興・一﹄がこれを語っている。孤山は 三O才の成均館儒生であったが 、当時、 権勢を轟かしていた勢力家、李爾陪と 王妃の兄、柳希奮一味の過ちを激烈に 罵倒した﹃丙辰疏﹄のために最初の流 罪となった。後日、仁祖反正で釈放さ れたが、その後も超大妃の喪服の問題
に詠じた時調の一つが﹃漫興 ・一﹄で ある。山水の問の岩の下に﹁茅屋﹂を 建てるのを人々は笑うかもしれな い
を錬磨し、この道で人々の生活を正す
ための努力をしなければならないと考 えた。そしてこれがまさにソンビたち
の一生でもあった。
以上の五つをソンビ精神として挙げ ることができるとすれば、こうした精 神が透徹しているソンビの一生こそ容
うのを強調している。ソンビは常に謙
秋の燈火の下、本を閉じて昔を思い 返せば/人の世の、ソンビになるこ
五五1 一九一 O) も、彼の有名な﹃絶 命詩﹄でその道の難しさを語った。
易なものではない。最後までソンビの 生き方のため、そのソンビ精神を持っ て自らの命を絶った梅泉・黄珪(一八
虚であり、身分に合った生活をしなけ ればならないと考えた。 第五に、儒教的な理念を実践照行す
が、田舎の片隅に住んで世間知らずな 自分には身のほどを弁えた処世だとい
明かした道を守り、従わねばならない と語った。ソンビたちはこの儒教的な 徳目になる道でもって、まず自分自身
れ を 守 る 精 神 で あ る 。 孤 山・ 弔ア善道 (一五 八 七1 一 六 七 一 ) の 時 調 ﹃漫
彼は部屋の中に荏を敷き、三度の食事 も十分に取ることのできない貧しさで あった。たとえ赤貧洗うがごとしの状
ほど、大儀のための意志は気丈で怯ま なかったのがソンビ精神であった。
心遣いや身曙 みを持たねばならないと いうことではなかったろうか。いわば、 ソンビ精神を持って日々を生きて行か ねばならないという年寄りの願いだっ たわけである。 第三に、国を愛する精神である。悦
態であっても、甥の王位を纂奪した世 祖の不浄な禄米には手もっけなかった
私は朝鮮時代の時調を改めて読み返
ソンビたちは儒教的な 徳目になる道でもって L
A FZ¥ JM
互換 i
2タト子訟も
の雪 山
ま ず 自 分 自 身 を 錬 磨し 、 この道で人々の生活を正すための
る。彼の時調の終章に、﹁心よ、そな たは残れ、身だけは退かん﹂と詠んで いるように、ソンビは官職から退いた 後でも、常に何処でも国を愛する心に は変わりがなかった。僻地の田舎に帰 って住みながらも、国の政が 何か間違 いつつある と感じたときには、直ちに 破邪顕正のための上訴を俸げるのがソ ンビのなすべきことであった。先人の
外3 tゲ二 ー主 スf E Z 安易会傍受が
に対する主張を曲げなかったので、ま たも流罪となった。晩年の隠居生活中
ぇg j をネ笑芸令; 仰亭 ・宋純(一四九三1 一五八 三)の ﹃致仕歌﹄にこの精神はよく現れてい
努力をしな けれ ならないと考えた 。 ば 、 そ し てこれ、がまさにソンビたちの 一生 で も あ っ た しながら、そこに現れたソンビ精神を いくつか整理してみた。第一は、志操 を守る精神である。圃隠・鄭夢周(一 三一三七1九二)の﹃丹心歌﹄にその発 現を見受けることができる。自分の志 操のためには目の前の栄華も投げ捨 て、命をも捧げた我々の先人は、韓国 の歴史の隅々に数多く存在している。 第二に、不浄な財貨から身を遠ざけ た精神である。梅竹軒 ・成三間(一四 一八1 五六)の時調 、﹁飢え死ぬとも
ぞ?哩ヲづを桑~~ 4 乙三!?[宗法そt i
12
梅泉はソンビの道が難しいことであ
とこそ難しけれ した。 対馬島で 断食、最期を遂げた韓末の
いても官職に進んでも、先にあげた五 つの精神で 、常に自分自身を正そうと
るのを語りながらも 、 そのソンビの道 を実践柄行した朝鮮 時代 の真のソン ビ の一人であったのを再び思い返さない 排 日派の巨頭勉庵 ・雀 益 鉱 (一八三三 1 一九O六)は、ソンビには﹁堅固な 内守 ﹂ があるべきだというのを、常々 強調した。
官職に就いて、その出仕を辞退しな い者は、必ずその仕事を成すべき道の ある者であり 、退 きながらその退 出 を 心安らかに感ずる者は 、必ず堅固な内
を明らかに持 っている人物であれば、 誰しもソンビだと言える。
そして彼らは官職の有る無しにかか わりなく 、平常 の時には常に焦ること のない余裕しゃくしゃくたる気持ちで 生を楽しもうとした。風流生活がすな
わちそれである。いずこでも清らかな 風の流れのように、潔い生活が風流の
あ る 生 活 と 言 え よ う 。 河 西 ・金 麟 厚 (一五一 0 1 一五六O) の次の時調に
・
11hu B 2
1 3
の定見であらざるを得ない。この定見
〆
題
守のある者である。 ﹂ これがすなわち ﹁ 堅 固な内守﹂であ る。ここで﹁堅固な内守﹂とは、まさ にソン ビ の精神で固められた日常生活
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' 1 雪!
﹁ソンビが出仕して官職に就き、退
櫨きあ立 会
いて引退するのは昔も今も変わりがな
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ノ、-~
ソンビの道を磨いた先人たちは、野に
ヴi k 去
わけにはいかない。 ソンビの道が難しいとは言っても、 幼い頃から ﹃小学﹄を必須的に勉強し
づ ち 勺
そのような人生見出すことができる。
緑水も自然のうちに
青山も自然のうちに 山も自然に水も自然に 山水 の聞に我が身も自然に こうした中で自然に 育ってきた我が身は 老いゆく自然に委ねよう
ソンビはす職の 有る無しにかかわりなく、 平常の時には常に焦るミとのない 余裕しゃくしゃくたる気持ちで 生を楽しもうとした 。
それを悲しむものぞ
杯を手に勧める人なきゆえに
と詠じた時調も風流に満ちている
が、南道のソンビが北道の妓生と酒盛
りの席でやり取りした時調もまた風流
に満ちている。
北 天が晴れているというので
雨具もなしに旅立ちしに
野には冷たい雨(寒雨)かな
山には雪が降り
今宵は冷たい雨に降られたり
風流生活がすなわちそれである の日常生活には、やはり野心に満ちた
凍えて眠りを食らんか
このような生を享受しようとする人
込むすきがないようになる。
行動や、野合のような俗なものが付け 風流の辞典的な解釈は﹁俗な事から
物になっていた。しかし、これらを楽
こと ﹂ とな っている。ソンビたちの遊 楽には詩と酒と歌と踊り、女性が付き
今宵は寒雨に降られたり
どこへ押しやり凍えて眠りたまうや
A 衣 は おしどり(鴛鷲)枕、非桐翠 寸
なにゆえに凍えて眠りたまうや
離れ、風雅で味わい豊かに遊び楽しむ
しむにも、ソンビたちはむやみやたら
暖かく安らかに眠られたまえ
いかにして凍えて眠りたまうゃ
にではなく、清らかな風のように節度
けども、少しでも欲望を満たそうとす
象 村 ・ 申 欽 ご 五 六 六1 一六二 八) は 二 杯の酒を飲むのは楽しいことだ
寒雨
月影明るけれ
れば 、 火薬を抱えたような酒地獄であ
目に映るいずれの青山にも あえて西施のような美人を
湖 ・ 林 悌 (一五四 九1 八七)が 、黄真
る。俗な 言葉は商人に近く、邪な言葉
これまた悲喜交錯する人欲の苦海であ
ことだが、少しでも俗な流れに陥れば、
る。来客を喜ぶのはこれもまた楽しい
伊 の 墓 を 訪 ね て 行 って詠じたという時
ンビの 言葉が、この 中 の 一っとでも関
は娼婦に近く、冗談は芸人に近い。ソ
うしてみると酒盛りや宴席の後の事ま
連すれば威重を損なう﹂と言った。こ
調や、平壌の妓生、寒雨とやり取りし
の前⋮で
で考えてこそ、ソンビたちの風流に満
たモツを窺うことができる。林悌が墓
たという時調にもソンビの風流に満ち
風流男児として当代に名を馳せた白
乗せなくとも風流なろうぞ
﹃漁夫詞﹄でも次のようにと詠んだ。
と礼節があった。騒然たる高麗末期の
白 湖
14
象村はソン ビたちが起居す る部屋で 近くに置いておかねばならないものを
うな人物であるかが想像できる。古書 もなく蘭もなしに生半可な書一函などが
家の蘭を目にすると当家の主がどのよ
ちた酒宴の場になるのである。
挙げ連ねた。経書、諸子百家、史冊は もちろん 、薬材と方書(道家の方術を
飾ってある部屋は、たとえ華やかで広
て次のように 述 べたことがあった。 ﹁ 私は他人の家に行ってみて、その
書いた本)および紙 、筆、墨も備えて おかねばならないと言った。そして 、
て布団を作れば老後生活はそれで十分
﹁柳の枝で枕を作り、葦の花を集め
はないか。﹂
体を養うだけだが、聞は精神を養うで
ら、その上なにを望もうや。パンは肉
の間に酒でも 一瓶置かれているとした
いものであってもそれは 一つ の料理屋 にすぎない。あばら屋や蛸舎であって
である。深い 山の中で高雅に過ごそう
も古書数 冊 、 蘭が二、三鉢、そしてそ
とすれば、火鉢に香を焚くのもまた欠
嘉藍はこの言葉を時には講義の時 間 にも話したことがあり、随筆には直に
特におもしろいのは枕と布団と香に関
かすことができない。老いた松の木と
する話である。
朝鮮松の木の根、枝、葉と実などを一
風間の花を詠んだ時調も書いている 。
花は白くもか細い紫煙の色である
つけて混ぜ合わせて作った香は、一粒
所に集めて潰した後、楓の木のヤニを ずつ焚くたびに清貧な雰囲気を醸し出
薮の中に隠されていても
朝鮮時代のソンビのモツを 一言で言
知る人はこれを知る
高く優雅なその品格やその香り
すのに十分である。﹂ ソンビの生活では決して華やかであ
であろう。
るとか、豪宕なものをよしとしなかっ た。なんと実用的で倹素なものだった
ろうか。いつどのようなところにあっ
ても緑の自分を色を失わずに、糸のよ
えば、風闘に比憾できるのではないだ
うにか細い花ではあっても、その気品
嘉藍 ・李乗岐(一八九二1 一九六八) のソン ビ たちも蘭を手がけ、蘭を描く
は蘭の愛好家としても有名である。昔 ﹁写蘭﹂を好んだ。蘭だけではなかった。 狭い庭でもあろうものなら、竹、菊 、
わり﹂を体得しようとし、またそれら
によって、﹁天地造化の微妙な力とこと
とき、なおさらにソンビ精神が花咲か
失 ってい ったのはいつ頃からだ ったろ うか。今日の我々の社会を眺めてみる
こうしたソンビ精神が我々から艶を
ンビであった。
と香りで人の暮らしを清らかにしてく れ石風聞のような存在が朝鮮時代のソ
を友にして、朝な夕なに自分の性情を
梅の木など、花や木を植えて丹精込め るのを喜んだ。それらを手がけること
正そうとしたのだった。仁斎 ・萎希顔
ビは死語ではなく、現在でも生きてい
なければならない。
せた風流とモツが 懐かしくなる。ソン
(一四 一九1 一四 六 三) は﹃養花小録﹄ を残した有名なソンビでもある。 嘉藍はソンビが起居する部屋につい
A
1 5
J1、 い つ も 変 化 す る 。 そ れ
モッは平凡な生活から探すミとができる。 平 凡 な 人 間 は も っ と 破 格 的 で あ り うる。 、 な ぜ な ら そ れ は 必 ずある 型 には ま る 理 由 はな く 自 由 で ゆ っ た り し た 心 の 余 格 を 持 っ て い る の で、
二 つは根本的に違うからである。
らである。ところで美術の歴史的な流
ので、あっさりと型から逸脱できるか
と破格的でありうる。なぜならそれは 必ずある型にはまる理由はなく、自由
尾(大きな瓦家の屋根の両端に置く装
国立慶州博物館長
飾用の瓦板)があげられる。全て民衆
-萎友邦
朝鮮後期の銭画白磁と民闘である。こ
あらわれている。したがって、それら は美術史の研究対象から除外されるか、
破格のモツは 三国時代、新羅の土偶と
U骨 土偶 ﹃ 韓国の美術史にはじめて看取される
大胆な破格のモツを初めて確認するこ とができる。
屑の部分や底足の高い器のふ 瓶士宮の 一 たの上に土偶などをひつつける。新羅
ている。
作られたものとして区別されて呼ばれ
新羅時代、五、六世紀には数多くの
土偶と 土備が作られた。土偶は土器に 付着したものをいい、土偶は独立して
なく見せている。
品にだけ没頭し、精々のところその作
土備などである。そして土偶と土偶で
琴を弾く様子 、 狩 猟 す る 様 子 、 男 女 が
の手でこしらえた破格的なモツを遺憾
れらから我々は下流または庶民の生き 生きとした生活を読み取ることができ、
あっさりと型から逸脱できるからである
私は今まで美術史を研究しながら様 式だけをあつかってきて、モツについ
れの中で、その強力な跡形が間欠的に
品に宿っている思想を明らかにしよう
の意味を明らかにすることはたやすく
あまりに意外で破格的なのでその存在
はないが、そういう範轄に入るものと
川l
としただけで、その作品の実体である
して皇龍寺祉から発掘された大きな鴎
l
生活を探ろうとしなかった。
であり、朝鮮初期の粉青沙器であり、
しかしモッはむしろ平凡な生活から 探すことができる。平凡な人聞はもっ
ない。それがすなわち新羅時代の土偶
でゆったりした心の余裕を持っている
いわば作品を見て研究するが、その作
てとりあげて論じたことは一度もない。
モツを代入することはできない。その
について話す時、その用語の代わりに
と錯覚しやすい。しかし、実際に様式
ょっと見ると様式とモッは同じものだ
て違いがあることがわかる。だからち
と民族によって、ひいては個人によっ
モッにもいろいろあり、時代と地域
してきたことを意味するのである。
地域と民族によって違い、いつも変化
はとりもなおさず、生活様式が時代と
て二
ず 士 夫 域により、民族によって違
A ﹄術 様 式 は 、 時 代 に よ り 、 地 rA
車 章
16
るから写実的で精巧ではないが、むし
性交する様子など、その当時の新羅人 の生活像が滑稽に、また生命力あふれ で表現されている。これら新羅の土偶 などは、手で即興的に作られたのであ ろ直感によって本質的なものをより生 き生きと表現しており、ある部分を強 調し変形させることによって強力な生 命力を発散している 。
だように口をおおっている。新羅時代
羅人のモッを惜しみなくあらわしてい る。その女人は左手をあげ、はにかん
方に分けた女人のはにかんだ様子は新 の瓦屋根の軒端を飾る丸い瓦)の彫刻 柄にするのだが、そうした瓦をつけて
な新羅人の顔をこしらえ軒丸瓦(韓国
全体の発掘調査に着手した。発掘を初
蒙古の軍隊によって灰に帰して七0 0 余年が経った一九七六年、政府は寺跡
こしらえた巨大な鴎尾がある。 新羅の寺院の中で最大規模で護国仏 教の求 心的役割を担 ってきた黄龍寺が
の土偶、土伺儀器などすべてまとめ て最もユーモラスで素敵なものをあげ るとすれば、最も人間的な新羅の女人 の姿を率直で淡泊に手でこねて作った
めて三年目に入った一礼七八年のある 日、私は現場で高さ、一メートル八二 センチにいたる超大。 型の鴎尾を見た。
あまり大きくて腰を横に切り分けて焼 いた後、一つに組み立てられたもので ある。
それは 三国時代によく見られる鴎尾 の形態だったが、巨大な鴎尾の細部面 に付着した蓮の柄の瓦と人の顔の瓦な どは手でこしらえた珍しいものだった。
顔はみんな笑っていた。だが、顔は同 じものではなく、 一つ はひげを描いて
男であることを強調し、さらにまた男 女を重ね合わせた。ひげは鼻の下だけ
ではなくあごにもあり、お爺さんであ
1 7
この土備をあげることができる。 土偶ではなく、顔を手でこねてこし らえた瓦などが時々作られたが、これ なども新羅にだけある。手で天真無垢
国立慶州博物館所蔵
最近、慶州陸城洞の石室墳から出土 した土備などもまた、三国時代の新羅 の伝統を受け継いでいる。特に髪を両
慶州陸城洞古墳から出土された「髪を分けた女人」 、統一新羅7世紀 、高さ 16. 6cm、
ることがは っきりとわかる。真ん中に 小さな赤土の塊をでんと付けておいて、 顔のでこぼこを指でおおまかに作って から、やはり 急速度で 二つの目と 口だ けを瞬間に刻線で表現しただけである。 ところが、その顔がこの上もなく天真
のだろう。私はそんな新羅の底力 、全 国民が参加した団結力の象徴をこの黄 龍寺の鴎尾からまざまざと感じること ができ た 。 粉青沙器・錨画自磁 我々はこのような破格的なモ ッに朝
は空 笑 いをしている。 二 つの目と口の 作りを即座に処理したのを見ると、い かに即興的に一気に この顔瓦 が作られ たかを知ることができる。 二度焼きして表れる色、お焦げ湯の よ うな黄味がか った白い柄の聞から見え るよもぎ 色 の胎土の素朴 な色こそ 、韓 国民族の 心 をよく 表 した下地色ではな
ならさないまま使 った。 その 上 に刷毛 で白い 土を 塗り 、薄い灰色または薄い 緑色の透明な上薬を塗る。素焼きし 、
鮮時代初期 の粉青沙器によ ってまた出 会う ことができる 。胎土は、たやすく 手に入る灰褐色か濃い褐色の土でよく
このように手の指でこねて作 った蓮 の花と顔を見ると、たった今作 ったよ うな新羅人のあたたかい手を感じ、ま た私も今すぐにも手で赤土をこねてこ
欄漫で傷がなく色白ですがすがしく何 とも明朗なのである。大きく微笑をた たえているかと思えば 、 またあるもの
んなのを作ることができるという思い
いか。 ところでそんな土着的なお焦げ 色とよもぎ色が柄をおいて見え隠れし ている。その柄が突然その地味な 下地 に生 命力を与える 。下地と 柄は属性が 違うにもかかわらず、一体となって互
この中で彫花技法は白土で表面を塗 った後、柄を線刻 したものである。 一 対の魚や花を抽象化した柄が多い。こ
にかられる 。一 四O O年という時間的 な距離を超えて私はその時代に行って 、 その鴎尾は現在 、生命力をそのままに して生きている。 鴎尾の大きさからみて 、黄龍寺で最 も規模の大きい中金堂の鴎尾であった 可能性が大きい 。 しかし東アジアの覇 者として君臨しようという気迫で、政 府の厳格な監督のもとで推進されたで あろう国寺の金堂のような重要な建物 に、名もない瓦工が即興的に手でこね て作った、こんなに茶目っ気の混じっ た鴎尾を捧げるということは許されが たい雰囲気だったであろう。だが 、と にかく工事の監督者はそれを許諾した
の場合だい た い器の模様は 一扇一瓶で、適 当に面を分割していろいろ多様な幾何 学的な柄で満たす。 一対の魚は力強く 表現されているが、かなり写実的であ
彫花技法、剥地技法、銭画技法などが あり 、柄がなくた だ 刷 毛の跡だけが残 ってい るものもある 。
いに欠かす こと のできない 特異 な関 係 を結び 、 互いに葛藤を引き起こす こと なく絶妙な調和を保っている 。 、 草、花、魚 白土で器の表面を 塗 り など柄をつくる方法としては印花技法、
のである 。 この鴎尾から私は民衆の自 発的な参加の 積極性、上と下を包容す る偉大な調和を感じる。そのためあら ゆる面で遅れた新羅が 三国を統 一した
減
『噌
、 ; '
, 、 晶、
ぎ主主
18
る。だがそれ以外の柄 、たと えば国立 中央博物館所蔵の牡丹柄の肩瓶に表現 された柄を見ると、もう牡丹柄とは言 えないほど 、完全 に変 形した現代的な 抽象性を見せている。側面も三段に面
松美術館所蔵の花模様の一扇 一瓶が代表的 な例である。湖林博物館の蓮の花と魚 の柄の一騎瓶にいたるとそおな技巧は極 致に達する。蓮の花は、 抽象性と写実
〈
FU
性を共に生かして面の複雑な構造が実 に徽密でただの柄とは見えず、絵画性 の極致をみるような気がする。 鍛画技法は器の表面を白土で塗った 後、鉄粉の顔料で柄を描いておく方法 である。この時、魚を幾何学的な線で
蔵の唐草模様の瓶査を見ると、それは もう唐草模様ではない。抽象の極致で あり、生命 力に満 ちている。抽象とい うのは決して西洋の現代美術で初めて 実験され完成されたものではないこと
一 -子 倫 』
. . .. . _
を分割して垂直線と点線をすれちがい に配置し 、瓶の表面全体を抽象柄で適 切に配置して見事に空間を生かしてい る 。 剥地技法は象依技法と正反対であ る。白土を塗 った後、柄を描いてそれ 徽密に構成し、その筆線の速度は速い が決して乱れてはいない。これらの柄 は、やはり抽象的な線で還元された唐
館所蔵、(右)カヤグムを演奏する人の姿
以外の空間の白土を除去する方法であ る。この 過程で除去する部 分を最小 化
(左)性交する男女の姿
韓国の美術は中国や日本の美術のように 完壁に仕上げられたものは
そ ん な に 多 くない 。
偶装飾長頚壷」、高さ 34cm、国立慶州博物
草模様と蓮の花柄との結合に 一貫して いる。しかし同時に強いタッチで事物 の形態を完全にくずした柄、実に自由 奔放で豪放な筆裁きだけが存在する、 そんな柄もある。たとえば林錦姫氏所
そこからユーモアを発見し、 白 由 を 発 見 し え古一九湖漫さと余裕を見つけ また時には喜悦を感じる
するため、柄を面的に最大に拡大する 変形過程が起こる。柄はたいてい牡丹 柄と蓮柄が多いが 、これ らの花と葉を 表面いっぱいに満たすことにより、除 去する余白を最少化することができる。 だから空間は、この場合余白にあるの ではなくむしろ拡大した柄自体にある よう な妙な感じを与える。したがって これはやはり抽象的な線による面の構 成という現代的感覚を呼び起こす。澗
19
新羅人の生活像が滑稽に表されている「土
を知ることができる。 それでは今まで見てきた柄の単純 化 と抽象 化 、 そして大 胆で 自由奔放な速 い筆線はどのようにし てできた のだろ うか 。 それは大量生産による絶え間な 。 い反復の過程で可能なことであ った そして上流社会のためのものではなく、 庶民達 の生活容器だ ったので陶工達は 注文と制約から離れて、自然に自由に 思い切り、いろいろな柄の様式を描き 出すことができたのである。そんな中 で人間内面の世界が直接的に即興的に そのまま表出できたといえる。一七、 一八世紀に 作 られた白磁銭給雲龍文の 瓶壷を見ると、龍の柄は大きく変形さ れている 。すなわち、龍の顔は滑稽に 表現され、龍の絵柄も自由奔放で上流 社会に納品される瓶に描かれた威厳の ある姿の枠を完全に脱している。ある 龍の顔はただ二つの目玉が大きく表現 されただけである。このような表現主 義的傾向は、国立中央博物館所蔵の白 磁銭鎗雲龍文の瓶で極致に達する。龍 の顔は雲に隠れて見えず龍の絵柄と雲 の柄が弾力性に満ちた強力なタ ッチで 舷しく表されている。私はこの瓶に至 つては、物が言えなくなってしまう 。 この驚くべき現代的感覚がどうして可 能だったのか。本質的に韓国民族の内 面に 潜んでいる 純粋な生命力へ の意地 の表 出 ではなかろうか。 抑圧さ れた生 活から噴出された憤怒の声が聞こえる ように、その一つ一つの筆のタ ッチは あまりにも強烈である。そのタ ッチと 線は、驚いた ことにどの 一カ所をと っ てみても、乱れず、互いにひきしま っ た抜け目のない構成をみせている。ヲ﹂
高さ 36.1cm、国立中央博物館所蔵
「 白 磁鉄絵雲龍文壷 J ,17世紀、
2 0
の瓶を見ると、芸術はもうこれ以上前 に進み出ることができないと痛感させ られる。 平 凡な民衆の生まれもった天性から 無意識に表現された民衆のための作品 は、素朴な中に意識的にはとても不可 能で不思議な破格的表現様式をみせて いる。したがってこのようなアマチュ
敢に表出されている。 私は韓国の美術史を研究しながら持 続的に読みとったことは、 .韓国民族の ユーモ ア感覚であった。私は数多くの 仏像を細密に観察してスケッチし、記 録しながら、独りでにっこり微笑する ことが多かった。このように厳正な作
に多くない。私はそこからユーモアを 発見し、自由を発見し、天真欄漫さと 余裕を見つけ、また時には喜悦を感じ る。ユー モ アは未完成性、非対称型、 自由奔放などの破格から生まれる。私 はこれまで破格美のモツを見せてくれ るものとして、新羅時代の鴎尾、土偶、 土備、朝鮮時代の粉青沙器、銭画白磁 などをあげた。そこには自 由奔放さが あり 、生命力があり、幼子の天真無垢 さがある。大胆な変形があり、即興的 で滑稽である。絶え間ない反復から生
まれた速度と驚くべき単純 化と抽象性 がある。このような造形の特性は美術 史家達が扱う美術品からは探しがたい ものなのである。これらの破格的な美
しさの背後には、生き生きとした民衆 の生活がある。その民衆達の生活が楽
天的で、滑稽で天真無垢なのでそのよ うな美術が誕生し得たのである。驚く べき、感嘆すべき、愛すべき破格の美
A'
しいモツから、韓国民族の味わい深い 生活をはっきりと読み取ることができ る 。
21
品 の隅々にもユ ー モアの微妙な片鱗が 見えるが、特別にはっきりとそして果 敢にみえるものがあるのである。 韓国の美術は中国や日本の美術のよ うに完壁に仕上げられたものはそんな
国宝 179号 、高さ 22. 7cm、湖林美術館所蔵
ア的な作品は美術史学者が追求する様 式の歴史的変 化 の過程の枠を超えてい る。それらは、歴史の流れの中で間欠 的に突然噴出され、民族性の内面が果
「 粉青沙器剥地蓮魚文肩瓶」、 1 5世紀 、
韓国芸術総合学校建築科教授
視覚的犬安定性 ﹀原理 キムポンヨル
・金奉烈
ものと言えよう。こうした芸術の雰囲
視し飛び越えて描く文人画が代表的な
イをあげることができ、また画法を無
ちと心にしたがって演奏されるシナウ
れた楽譜や約束なしに、演奏者の気持
rトtELFる 。 音 楽 で 言 え ば 、 決 め ら
公式もなしに曲線を描いて空に向かう。
韓国の建築の軒の線は、二疋の規則や
築の軒の線が水平的な直線に近い反面、
と屋根の曲線美である。中国と日本建
形は見事な軽やかさで跳ね上がった軒
実 に 現 れ る 。 韓 国の建築物を思い浮か べるとき、もっとも先に浮かんでくる
れて幾何学的な規範が破られてくるた
に配置され、むしろ近世に近づくにつ
行と直角を正確に保つ幾何学的なもの
れた形に配置される。古代にさかのぼ ったほうが、かえって多くの建物が平
各々の建物が互いにずれていて、もつ
技法は、韓国の建築では見出し難い。
の間隔が平行や直角の形で出会うこと はない。いわゆる﹁幾何学的な配置﹂
いる寺や住宅の場合 、建物と建物の聞
石土寸のように数多くの建物からなって
重い屋 根の荷重を 耐え抜くことができ
そのため大工たちは建物を建てる前に、
物は何よりも堅固でなければならない。
法則が作用しているのが分かる。建築
しかし、つぶさにこれを見てみると、 この ﹁ 即興的なモ ツ﹂の中には一定の
変化を試みたのである。
たちの意図と感覚によって自由自在に
らかじめ定められた規則と規範に必ず
ようになったわけではない。ただ、あ
建築でも即興的、自然的なモッは如
気は非規範的だという面で﹁自然の美﹂
単に屋根だけではない。さらに大き
それこそ屋根を作る大工の思うがまま に曲線を造り上げていく。
したがうという必要性を感じず、匠人
と言われたり、芸術家あるいは匠人た
るためには多くの部材をどのように設
守 EEE- 興 性 の モ ツ は 伝 統 的 に 韓 国 NH川JH芸 術 全 般 に 流 れ る 特 徴 で あ
ちの裁量と個性が発揮されるという面
め、建築術や測量技術の不足からその
で﹁任意的なモツ﹂とも言われる。
な視野で見れば、慶尚北道、栄州の浮
、 ソ
22
2 3
計すべきか、暴風や地震に耐えるため にはどのように柱を立てるべきかを予 測する。これを﹁構造的な安定性﹂と き 口 う 。
煉瓦やコンクリ ートの建物の場合に は、数学的な計算に基づいて柱の大き さや床の厚さをほとんど正確に予測し て工事をすることができる。しかし、 韓国の建物は木材を主な材料としてい た。建築材料の中で木材は、ほとんど 唯一生きている生命体を切って使用す る材料である。したがって鉱物質であ る士やセメントや鉄材とは異なって、 生命体が持つ特性を維持している。木 材に衝撃を与えれば、折れる前に曲が ってしまう。とくに韓国の松の木はほ とんどのものが曲がりくねっている。 また、虫が食ったり雨に濡れて朽ちか けているものもある。 こうした点で、木材という建築材料 は力学的に不均質材料として扱われて いる。いまだに木造の力学的な性質が 明快に究明されていないので、材料の 強度や許容応力度も仮定値だけで、正 確な実験値を規定することはできない。 煉瓦、コンクリ ート、鉄骨とは異なっ て、木は画一的な物理的性質が存在し ないからである。木で作った木造建築 は荷重を受けると曲がるとか縮まると いう変形をおこす。木の中にあった樹 液などが抜け出し、振れるとか裂ける という自体変形も発生する。とくに松 の木を主とする韓国の木材は、その変 形の程度がもっとも激しい。 昔の匠人たちを悩ましたのがまさに 木材の変形であった。八尺の長さに切 った柱を立て、その上に屋根枠をのせ
24
建築のエンタシス技法に該
当する ベフルリム技法で製
の部材の位置もそれにつれて変わって
置。(小さな写真)ギリ シャ
ると、甚だしいときには柱が二 寸 ほど 縮まってきて、柱にかかっている多く
入り込んだ浮石寺の伽藍配
のかなりの部分を削り取らねばならな いが、ミンフルリムは上に 行 くにした がって細くなる木材の現象を応用した
とともに普遍 化されたのはミンフルリ ムである。住の下の方を太くし、上の 方を細くする直線形の柱である。これ もやはり平行の柱であることを放棄し ている。ベフルリム柱は、元来、木材
つ ︾ 柱についていくつかの代表的な技法 だけを挙げてみよう。例のベフルリム
い。ベフルリム柱は初めから、柱の断 面が 一定の円筒であるのを放棄した柱 である。この柱はひん曲がり按じれで もベフルリムのまま残っているであろ 。
に見回してみても中ほどが窪みはしな
韓国のベフルリムは錯視矯正用のもの ではない。ベフルリムのある柱をいか
即興的かつ自 然的なモ ッが
しまい 、家全体の構造が揺らいでしま う。そのため有能な匠人は完成後に生 じる変形までも念頭に置いて、余裕を
に水平材を使ったとすれば、 一年足ら ずで作り替えなければならないだろう。 大勢の行き来により、すぐに擦れて水 平線が変形してしまうからだ。しかし、
ねじれたまま並んでおり 、
持って部材加工をしなければならなか った。 しかし、問題は変形が一律的に生ず
れて垂れ下がってくる現象が生じてく るが 、 永遠に水平をなすことはない。 当初から水平を放棄して上の方に跳ね 上げておいたので、垂れ下がる現象が 生じてきても、常に跳ね上がっていて、 変わらないかのように見える。こうし
はたった一つだが、 曲線は数限りなく 多い。垂直線は 一つであるが、垂直で ない線は無限に多い。直角は 一つだが、 直角ではない角は無限である。韓国建
た原理を ﹁ 視覚的な安定性 ﹂ の原理と 言おう。二つの点を結ぶ線の中で直線
築で直線や直角を選んだとしてもすぐ
をベフルリムという。ギリシャ建築の エンタシスにあたる技法である。しか し、ギリシャのエンタシスは長い柱の 中ほどが窪んで見える錯視現象を矯正 するために考案された技法であるが、
性でもある。 浮石寺の無量寿殿の柱に見られる ように、柱の中ほどを膨らませる技法
がった梁の役割は、方向だけが逆であ るだけで同 一の原理を持っている。視 覚的な安定性はすなわち構造的な安定
ひん曲がった上がり権はどれほど擦れ ても曲がったままであり、永遠であり 得るのだ。屋根枠を支える上の方に曲 に変形してしまう。直線と直角を放棄 するとすれば、跳ね上がり、曲がりく ねったまま変わらないという逆説を発 見した。不可能な一つのことに苦労し て到達するよりは、無限に多い可能性 を選ぶ造形的な原理これがまさに視 覚的な安定性なのである。 視覚的な安定性の原理は 、韓国木造 建築全般を支配する。全羅北道の扶安 にある来蘇寺の僧房、寂黙堂の出入口 は下に大きく曲がった木材を上がり権 としている。三O余名の僧侶たちが引 っ切り無しに 出 入りするこの上がり権
作された柱(浮石寺)
るのではないため、どの程度のゆとり を持たせたらよいのか見当が付け難い 点である。日本の檎やカナダの楢の木 のように、木質が堅く真つ直ぐな木材 であれば変形は比較的軽いのだが、韓 国の松の木はいかに真つ直ぐ、そして 正確に加工しても、数年過ぎれば曲が ってしまうのである。木を扱うという 点においては 日本とカナダの大工は、 韓国の大工に 比 べればきわめて楽であ った。韓国の大工にとっては、京畿道 安城の青龍寺大雄殿のように 、 あらか じめ最初から曲がっている木を選んで 柱にした方が気楽なことであった。 変形に対する予測の不確実性は、完 成後の正確な垂直や水平性を保障する ことができない。どれほど優れた腕前 を持っている匠人といえども、木質の 不均質性と変形の不確実性を克服して、 永遠に変わらない木造建築物を作るの は不可能である。そのため木造構造物 の技法は当 初 から不確実な変形を認め るカテゴリーの 中 で開発されねばなら なかった。 韓国の木造建築で垂直と水平は工事 の基準であるだけで、守らねばならな い形態 的 な規範ではない。韓屋(韓国 式の伝統家屋)の軒は時間が経つにつ
25
各々 の建物が互いにずれて
加工法であるので、朝鮮時代に広く採
る 。 みを大 地に伝達する基壇と礎石の場合
る。このように結合された礎石と住は、
って立てる 作業が遥かに簡便であり容
を平らに加工し、柱の底部を直線に切
ベフル リム住は下 から三分の一ぐら
易である。凸凹な礎石に合わせて柱を
いのところが最も太く膨らみ、膨らみ
必要とする。それにもかかわらず後者
四隅の柱を内側 の柱よりもやや高く
を整然と積み上げれば見掛けよりもよ
考えれば、一定の規格に 削 り上げた石
の方法を取るのは、構造的な安定性を
用された。
を自にした人であれば、このような統
いはずだが 、かえ って構造 的には不安 定になる。一度の衝撃で完全に崩れさ
得るためであり、同時に高度の自然美
た大石壇と基壇などである。皮相的に
計的な公式が、これと 言っ て別に役に
る危険性が高いからである。しかし、
二つの材 料の聞の摩擦力を極大化させ にも同じような原理が適用される 。浮 るため、大抵の台風や衝撃にもそのま 石寺に行くと、最初に目に映る景観は . ま維持することができる。事実、礎石 大小様々の石を不規則な形に積み上げ
能となった技法である。完成後、いく らか変形があるにはあるが、永遠に角 べフルリムの曲線は、大工による墨線
立つものではないということがわかる。
浮石寺のように大小様々の石を 削 りな
の程度は直径の一 O分の一ほどだと言
の方が笠えたままになっているであろ の描き方次第であるからだ。柱の下と
う。しかし、ベフルリム住を削る現場
う。さらに角の方の住を垂直よりもや 上の 二つ の点に 墨糸を固定させておい
を造り上げるためである。
やはり柱の水平線を放棄したために可
や内側の方に傾けて立てる﹁アンソル
がらこれらを互いに噛み合わせて積み
する﹁キゥィソスム(角を高めるごも、
リム(内側寄りごという技法もある。 て、中ほどを手で掴み、斜めに持ち上
視覚的な安定性の原理が作り出した
削る作業は非経済 的で、高度の技術を
きわめて難しい技法だが、軒の荷重の
ちそうに跳ね上が っている 軒の曲線で
美しさの極致は 、 空 を 目 掛 け て 飛 び 立
ある。 軒 の線を正確に水平に作ってお
韓 国 建 築 の 即 興 的 な モ ッは 精 巧 な 、 腕 前 を 持 ち 合 わ せ て こ そ 可能なものであり、 自 然 の ま ま の 形 で あ る と い う の は 、
いたとしても、屋根を支えている垂木 は屋根の重さのためにすぐに垂れ下が
向か って跳ね上が っている曲線を造る のはきわめて難しい技術である。直線
を造るのは簡単な作業であるが、空に
曲線であるがままに変わらない 。 水 平
垂れ下がるとしても、曲がった曲線は
って しまう。当初から上に跳ね上が っ た軒の線を造 っておけば 、垂木がやや
織密な計算の下でのみ作り出せるものである。 任 意 の モ ッも や は り 十 数 年 の 試 行 錯 誤 の 末 に 生 ま れ て き た 匠人の技術の頂点である。 こ れ ら の す べ て は 、 視覚的な、安定性の 原理を追求した末に生まれてきたモッなのである
構造的な安定のためであり、この技法
しには不可能である。それにもかかわ
の垂木を数百個集めて 一つの曲線を作 り出すというのは徽密な計算と技術な
に転換された。
上げれば、各石の聞に立体的な支持力
そして見掛けにも自然な美しさを創出
とこ ろが 問題は、軒の線をどの程度
げてこれを放せば、墨糸は弓のように
する。 大部分の建物の柱の礎石もやはり 真
に反らし、柱をどの程度に高め、膨ら
ため住が外側に傾く問題を解決するた
うになる。このとき三分の一のところ を摘みあげればその辺りが最も膨らむ
つ直ぐ に加工されていない。自然石の
に削 った後、やはりこれを噛み合わせ るように礎石の上に載せて置くのであ
安定性の原理だけが存在するのみで、
がない。ただ 、大 きな原則i 視覚的な
が韓国建築を代表する視覚的な美しさ
らず、跳ね上がった軒の線を造るのは
ところが、これらの技法には定めら
ほどのところを摘めば、膨らむ位置が
あるがままに 凸凹 の石を選んで礎石と
が生じてきて、あたかも歯車が噛み合 っている よ う に 構 造 的 に 堅 固 に な る 。
れた数値的な基準がない。どの程度に 傾けるべきか、高めるべきか、曲げる
変わってくる。また気持ち次第で力を
ますかであった。ここには一定の法則
曲がりながら木に曲線の軌跡を描くよ
べきか、定められた基準がない。すべ
入れる強度や斜めの角度が異なるから、
合わせて凸凹 し、柱の底を礎石の形に,
め、当初から 内側 に傾けておくのであ る 。
てが匠人の経験と感覚に依存するしか
異なる曲率の曲線ができあがるしかな 柱だけではない。建物のすべての重
' ' u v
ようになるが、偏屈な大工が五分の二
ない。飴の長さを決めるのが飴屋の意 のままであるように、すぼめ方に高さ と傾斜の程度は大工の気持ち次第であ
2 6
っている。定められたマニュアルもな
具体的な曲線の形は大工の腕前に掛か る。視覚的に不安定な建物は、構造的
見えたり、柱の線が鈍く不安定に見え
物は、軒が過度に跳ね上が って軽薄に いく。ゆえに彼らを名匠と呼ぶ。
美しさに合わせて削り上げ結合させて
のままの形であるというのは、徽密な
合わせてこそ可能なものであり、自然
韓屋の線は、それこそ大工の気持ち
じである。
にも脆弱で長持ちしない。﹁見掛けの良 くない餅は味もまずい﹂という諺と同
作になる。名匠は技巧を施すにしても 華やかでなく自然のままであるが、か
作とな り、拙匠が造り上げた建物は拙
ればならない。名匠が建てた建物は名
匠人たちの心と匠人精神を理解しなけ
って韓国の建築物を理解するためには
安定性の原理を追求した末に生まれて きたモツなのである。そして視覚的な
である。これらのすべては、視覚的な
の末に生まれてきた匠人の技術の頂点
計算の下でのみ作り出せるものである。 任意のモツもやはり十数年の試行錯誤
韓屋の線を理解するには、それでも
しに美しく堅固な構造物を作り出すた
るためには、一五年程度の徹底した徒 弟教育を受けねばならなかった。そう 次第である。しかし、訓練された匠人 であるとすれば、それらの人々の心の
といってみすぼらしくもない。韓国建
必要である。
一般に建築界の匠人にな
めには、数十年にわたる経験と訓練が
した長い歳月の問、ほかの匠人の下で
築の即興的なモツは精巧な腕前を持ち
A'
れた、きわめて合理的な原理であった のである。
原理は構造的な理由のためにもた-りさ
骨身を削る修練を経た後で、はじめて い部材の一つ一つを、全体的な建物の
偏差がさして大きくない。そして数多
27
匠人として独立することができた。そ
大石壇
うでない生半可な大工が造り上げた建
大小の石を削っていきながら、ずらして積み、構造的にも堅固で見た目にも自然な浮石寺の
美 術 史家
うかがい知ることのできる表象と見な
わされた通信使の贈り物の荷の中にも 一扇は常に入 っていた 。 それほど韓国の 扇が珍重されていたことがわかる 。 そ の影響で江戸時代には﹁朝鮮骨扇﹂と いう名の扇が大変流行したりもした。 名称から見て、おそらく骨の重なり目
大事な品だった。例えば、朝鮮時代に 我が国に来た 中 国側の使臣は、一 O O 本以上もの扇を要求し、また日本に遣
初めて 登場するが、 義 昌の茶戸里から 出た扇の骨の出土品により、紀元前後 に既に扇が存 在 していたという事実が 確認された。隣国との交易や使者の往 来の時にも扇は欠かすことのできない
た必需品であった。 韓国で扇が 使 われるようになったの は、文献上では﹃ 三国史記﹄甑萱条に
扇の面に四君子(梅、菊、蘭、竹の墨
あることに違いはないが、扇はこのよ うに心の表現手段として機能したので、 身分や使用者の品位、教養の背景まで
習は最近でも残 っているが、端午に扇 を贈る伝統は近代のせちがらい世間の 人心を反映でもしたかのように、端午 それ自体より先に忘れられてしま った のは残念なことである 。 本来風を起こし暑さを鎮める道具で
と、扇を贈り合い夏の暑さに備え、ま た近所づきあいの共同体的親密感も分 け合 ったのである。年末に暦を贈る風
贈り物は扇、冬至の贈り物は暦本(綴 じ暦)とある。陰暦五月の端午になる
合 竹 扇﹂の場合 、 その優雅さ かれた ﹁ はい っそう高まる。普段から親しくし ている友や隣近所に、自分の心中の思 いを字や絵で表現した一本の扇をさり げなく贈るのは 、端午の節句の情緒あ る風習だった。﹃東国歳時記﹄に端午の
絵)や詩の一節などが淡泊な書体で描
ぢ ノ
されてきた。高 一 巌の人々は、冬でも扇 を持ち歩いたと﹃高麗図経﹄の記録が 示唆するように、 一 扇は 家柄のよい男性 たちが季節に関係なく外出時に携帯し
生活工芸 通して見が韓国人 のモ
馬事 博物 館 長
国工芸の味わいとモッは、
チェ コ ン ホ
A
・ 窪公鏑
' U I 占
¥a
﹄
ゴ ー 占 ﹁実用﹂と﹁象徴﹂の適度 トh寸 な調和からにじみ出る。 JJ
無駄がなく単純 ・軽快なスタイル と、手の味わいが感じられる合同 目的的な価値、ここに韓国民族 、 の情緒という基層に根差した ﹃ 州 豊かな﹁象徴﹂の森が、絶妙 下 に調和し呼応しながら独特な ﹃ 美意識の共鳴を醸し出してい る 。 一 伝統的な生活の中で機能し 一 ている大部分の工芸品が今言 戸 ったような範鴎に属するが、 戸 これらの 中 でも特に実用と象徴 , がバランスよく調和して存在し ている例を挙げるとしたら、﹁扇 ﹂ / ほどそれに該当するものはあまりな いだろう。 ﹁扇﹂は、清貧でありながら雅やか な風流を同時に持つ、学徳を兼ね備え た﹁ソンビ(士人ごを象徴する。特に
ぢ ノ 李寅文、「松渓閑談 図 」 、紙に彩色 、国立中央博物館所蔵
2 8
の面に太極模様を入れたことで有名な
ため日傘の代わりに使った﹁日扇﹂、扇
流階級の者が外出時に日光を遮断する
せて使い、内側の骨は動物の角を使っ
の骨は竹あるいは普通の木を 二枚張合
骨に動物の角を使った﹁外角扇﹂、両端
け赤黒い点を出した﹁班竹扇﹂、両端の
た割り竹を 二枚重ねて張り付け完成度 を高めた ﹁ 合竹扇﹂、扇の骨を小水に浸
部分を、竹の表面を活かして削り出し
職人の繊細な配慮が必要とされる。伝
扇を作るには、竹を選ぶところから
いたことを意味する。
いて確固たる位置を占め、愛用されて
扇がそれほどに先祖の当時の生活にお
子﹂の種類である。
一つの器物がこの
扇を指す名称は八O 以上にもなる。
﹁太極一扇﹂などが団扇の代表的なもので
を牛の骨で止めた合竹扇であったもの
普通、丸く固定された ﹁団扇﹂と開い たりたたんだりできる ﹁ 握り扇﹂、つま あるならば、扇の一番外側の他より厚
統を守る職人が皆そうであるように、 ﹁扇子匠﹂もまた竹を選び刈ることから
彫刻を施して美しく塗った
い竹を骨に使い自然の趣を演出した
日を前後してのひと月間、そして九月
が本格的な作業となる。陰暦七月 一五
末から翌年の 二月の聞に刈り取 った 竹
取れば艶が出る。これを割いて竹の表
間乾かしてから炭火であぶって脂気を
のみが、虫がつかず色もいい。ニ疋期
骨を使う﹁彩角扇﹂な どが、いわゆる ﹁ 扇
﹁竹節扇﹂、動物の角を染めたり
ように多彩な種類に分けられるのは、
り﹁扇子﹂に区分されるが、様々な形
た﹁内角扇﹂、根の部分の節の間隔が狭
始めとして、柄を蛇や龍の形に削り工 芸的な味わいを活かした ﹁ 蛇頭 一 扇﹂、上
と機能によりそれぞれ違う名がつき、 い凪同の
と推測される。
また装飾の仕方によってもそれぞれ名 前がつけられた結果である。 柄の留めの部分の形が僧の頭に 似ているため﹁僧頭一扇﹂とい われたものや、魚の頭に 似ている﹁魚頭扇 ﹂を
OZ目白CZ くmE2︿豆camC豆 ︿
した二片を鯨腰で張り付け、漂白した
面と内側の部分を削る 。竹の 表 面を残
牛の骨を削ったもので扇の骨の端を固
定する。準備しておいた扇の骨の間々
に紙を折りたたみながら張り付け、端
を重ねて銀か白銅で留めれば完成する。
く知られてきた﹁合竹扇﹂の製作工程
これが近代まで伝統的扇として最も広
ここに、﹁焔竹﹂(絵や模様を焼き
の大略である。
んのこと工芸的な趣は極致に至る。
付けた竹)など使えば 一 扇の品はもちろ
2 9
﹁合竹扇 ﹂ の骨に熱した焼きごてをあ
双太極団扇
て、松鶴、コウモリ、蝶などの絵を描
m
mcz
三 司凶=︿豆亡凹 Z一 ︿ O Z 日E C
婦女子の扇携帯禁 止令は、 庶民 が一扇の
一錘 端 に ぶ ら さ げ る 優 雅 な 装 飾 の﹁扇 ﹂
を使用することを制限した慣行と合わ せて、封建社会を支えた核心的基礎で
ある階級に、 代 々受け継がれていくべ
き秩序を確保 ・維持するのに、 扇が積
極的 な機 能を果たし ていたことを暗示
るいろいろな禁忌や 制度 は、その後も
する 。朝鮮時代に形成され た扇に関す
習が残っていた。
ずっと守られ 、近代 に至るまでその慣
一方 、その時その時 の変 化する時代 精神や美意識に従い新しいスタ イル と
かの例を通して確認できる。 創意性を 最もよく表わしているものとして﹁別
を発揮してきたという事実も、いくつ
機能を創造するため、たゆまず創意力
行 った。このようにして 作られた扇 一
一般的なスタイル
﹁ 別扇﹂といわれるこの扇には、高麗時 代の 柔らかい 松の枝を編んで作 ったと
扇﹂が挙げられる。
を 大 き く 逸 脱して い る と い う 意 味 で 時もあったというから 、 その 呼び値が
本の価格は、朝鮮朝の成宗王の時の記 録によると、木綿四O O反に匹敵する 匹敵するほどの非常におもしろい表現 素材だと舌守える。﹁焔竹﹂から 始ま って
どれく らいであっ たかが想像しても余 りある。
一つで事物の形態や陰影、甚だしくは 色艶までも表現する ﹁ 焔竹﹂は、墨に
本格的な絵画の領域に発展した﹁焔画﹂ の分野において、朝鮮時代に活躍し た
いた﹁焔 竹﹂は、植民地時代初期に 全 羅道紀行の道 中 で目撃 し、感 動の実感 を込めて記録した 柳宗 悦 の表現のよう
全羅道南原の 朴 昌珪は 、職業画家の域
いう﹁ 松 一 扇﹂や、丸い傘のように広げ られる﹁輪扇﹂などが代表 的 で、また
に、太い焼きごての先から細く流麗な いろいろの模様が描き 出 されるのを見
そうかと思えば、男女の差別がひど
ると、まさにほとんど神技である。一
﹁ 五O骨別扇﹂といって扇の骨が五O本 に堂々と入るほどの優れた製作活動を
かった 朝鮮朝太 宗王の時に布告された
万の色彩を含んでいる といわれ る玄色
幽頭輪扇
30
しいものと見なした性理学(儒学の一
を越える最高級扇を指したりもした。 特に﹁別 一 廟﹂に関しては、技術を卑
では扇子の絵が大勢をなす。神霊の山
した団扇に絵が描れたのに比べ、韓国
面画﹂にある。中国では主に形が固定
されたというが、今は伝わっていない。 美しい扇の白眉は何といっても﹁扇
を楽しむ李寅文の﹃松渓閑談図﹄や金
の辺の高台にもたれて座り、静かな時
た。欝蒼とした松林の聞を流れる小川
書 ・隷 書体で 風雅に書き込んだりもし
われ、文人墨客らの詩句を草書体や筆
なむ文人たちの目から見れば、一扇は暑
話として好んで語られた。書画をたし
(金正喜)の逸話は、扇を媒介とした閑
施したロマンティックな名筆家秋史
んだ扇商人に、
朝鮮時代の社会的雰囲気の中で、例外
ても技術に関した記録は扱わなかった
た山水人物、折枝、花井、草虫、魚蟹
一度その目で見てから死にたいと思っ たという金剛 山 や、四君子を始めとし
と考えられ、甚だしくは中国人でさえ
を窺えるよい例である。
た文人墨客の、扇に関する風流の 一端
面画は、朝鮮時代の文人画を担ってい
弘道の﹃西国雅集図﹄などの 一連の扇
と見なされたのである。
さをしのぐ道具というよりは、書画紙
一夜の余技として善を
の記録はもちろん、たとえ両班であっ
種)的認識に基づいて、職人について
的に各種の公私の文書に製作者と製作
式で重要な小道具として舞台に欠かせ
芸、仮面劇などの伝統芸能や亙女の儀
それ以外にも一扇は、パンソリ、放浪
過程が詳しく紹介されていて、非常に
︿ O Z日m一 CZ﹁くm 一司自↓︿豆己目mC豆
そして、偶然門脇の小部屋に入り込
など、ほとんど全ての回目が幅広く扱
場合、 そのイ憂雅さはいっそう高まる
興味深い。
、 司 ロ ド
L
﹁司斗
、
や詩の 一 節 な ど が 淡 泊 な 書 体 で 描 か れ た 「合竹扇」 の
一本を手に入
J を象徴する。 学 徳 を 兼 ね 備 え た 「ソンビ (士人 )
秀でた美しさにより、 で名付けられた﹁玉一扇﹂を作る全羅道
れても玉のように尊ばれたということ の扇匠金喜玉は、職人の資格で正史に 記録を残している珍しい例である 。 名前そのものからして普通ではない ﹁呉骨扇﹂は 、 朝 鮮 時 代 の 南 原 の 守 令 (地方官)であった呉在文がデザインし たもので、その工程が複雑で変わって って求め、端午の日が近づくと公私を
いるため、ソウルの権門勢家が先を争 問わず注文量が増え、扇匠の立場から 一般の扇より何倍も
すると大変な苦痛を強いられる職人泣 かせの扇だった。
竹の墨絵) 特に扇の面に四君子(格、 羽、
手がかかり、しかも官庁では 一定量を 報酬も与えず徴収してしまったため、 扇職人の 問では、この扇をデザインし た者への恨みを込めて、﹁呉の奴の骨だ﹂ と呼んだという。創意豊かな 一人の役 人のアイデアが後に職人たちをそれほ
また、朝鮮末期に王妃の親戚として
ど苦しめることになるとは、誰が想像 しただろうか。
曲頭五葉扇
権勢をふるった関台鏑がデザインした
3 1
扇で、彼の号をとって名付けられた ﹁杓庭扇﹂は、大きさが小ぶりで非常に 美しく、当時の文人たちにとても愛好
、 清貧でありながら雅やかな風流を同時に持つ 「 扇 」 は
扇は ぐ ノ ンソリ、放浪芸、仮面産I Jな ど の 伝 統 芸 能 や 丞 女 の 儀 式 で 重 要 な 小 道 具 と して舞台にえかせない 。 パ ン ソ リ に お け る 扇 は 、 開 い た り 閉 じ た り す る 動作を返して捧合全体に緊張感と活力を吹き込み、 放浪芸や仮面産I J での扇は、時には公演の小道具として、 時には、演出効果を最大限に発揮して観衆と 舞台を 一 つ に 結 び つ け る 舛 と も な る
車J I繍尾扇
ι
O ︿ Z印 巴EZく一沼田 ﹃︿ 豆 C問己主
ない。パンソリにおける 一 扇は、
一人の
歌い手の長時 間 の公演で、ともすると 単調になりやすいところに変化を与え、 たりする動作を通して舞台全体に緊張
曲 の流れによ って適度に聞いたり閉じ
での扇は、時には公演の小道具として、
感と活力を吹き込む。放浪芸や仮面劇 時 には、演出効果を最大限に発揮して 観衆と舞台を 一つ に結びつける鮮とも 近代では 、舞踊家金白峰が創案した
なる。 ﹁一扇の舞﹂が、静中動の整然とした踊り の多い古 典舞踊を凌駕し、韓国舞踊の たくさんの扇で構成される華やかで動
代名調になるほど広く流行している。 的 な群舞により、伝統舞踊の現代的な 継承と普及に成功した例である。 たとえスイ ッチ 一つ で暑さを簡単に 吹き飛ばせる時代に生きてはいても、
33
冷ややかで機械的な風に、扇ほどの情
ためて装飾したりした。摺扇
緒的な感応が宿る余地があるだろうか。
/ 日光を遮るための扇である大輪扇
(上)扇の雅致を引き立てる多様な模様の扇鍾
( 下)扇には絵だけでなくこのように漢詩をした
•
伝統 的 な﹁合 竹 扇﹂の 一本から、新し い時代が要求する創造的な知恵を得て みても悪くはないと思う。
(上左から)摺扇/顔を隠すのに使った遮面扇
慶照大学英文科教授
国を紹介するあらゆる本の は同質的な民族である﹂と
第 一ペ ー ジ 目 に は 、 ﹁ 韓 国 人
韓国 人は鮮烈な氏族の 守る ア イ デ ンティ テ ィ を 、 ため、 ﹁韓 国 的 な も の ﹂
に対 する執リ肴
そして それ を士吾んで
で書かれていた。﹁時調運動 ﹂ は 、 し ば
しば公然たる国粋主義的論調により行
われた﹁神話化プロセス ﹂ の一例に過 ぎ な い 。 こ の よ う な こ と は 、 二O 世 紀
の韓国で非常に広範に行われ、 ﹁ 敏感な﹂
外国人の気分を刺激する傾向がある。
この ﹁ 神話化のプロセス﹂の核は、﹁韓
ことである。例えば、 ﹁ 恨(ハン)﹂、
国固有のもの ﹂ を 発 掘 し た り 作 り 出 す
﹁モツ﹂、 ﹁ 興(フンごは韓国だけの固
有の概念、韓国的アイデンティティを
定義する要素であるとして強調するイ
日本人との歴史的混血を無視すること
の遺伝子はもちろん、蒙古人、中国人、
化した赤い髪のハメルとその船員たち
が自身の民族的純粋さを主張して、帰
いう意志として現れた。これは韓国人
そしてそれを喜んで神話化させようと
結果は﹁韓国的なもの﹂に対する執着、
守るため、多くの努力を払った。その
人は鮮烈な民族のアイデンティティを
現在に至つては、﹁時調﹂が本来どのよ
存在していたものと思うようになった。
もたたないうちに誰もがこれを昔から
﹁時調 ﹂ は大きな成功をおさめ、
一世 代
魂﹂であった。文学の形態としての
彼によれば﹁時調﹂は﹁民衆の息吹と
持つ精巧な文学スタイルを開発した。
は、複雑な韻律、音節、そして音価を
見い出した。在南善と同時代の作家ら
自覚の媒介としての先天的な可能性を
に屋南善は、伝統的な ﹁ 時調﹂に民族
級の聞に使われた漢文だが、﹁時調﹂は
本 来 朝 鮮 に お け る 文 学言 語 は 、 知 識 階
と多くの演奏者を必要とした。しかも、
魂﹂ に な る に は あ ま り に も 複 雑 な 形 式
であ った﹁歌曲唱﹂は、 ﹁ 民衆の息吹と
せて吟じられた古典的﹁時調﹂の形式
ったということである。本来音楽に載
﹁時調 ﹂ は ﹁ 民 衆 の 息 吹 と 魂 ﹂ で は な か
と述べられるわずかな事実のひとつは、
伝統的な﹁時調﹂についてはっきり
えているような混乱した状況にある。
﹁ 時 調 ﹂ を 崖 南 善 が 作 った そ の ま ま に 教
だが﹁モッ﹂は純粋な韓国語であり、
り、この概念の論議は古代にまで遡る。
﹁ 興﹂ は漢字語である。つま 恨﹂と ﹁
的違いが存在するだけなのである。
実は普遍的なものであり、微妙な地域
結びつけられている。こうした概念は
れなりの経験の中でこの三つの概念に
ある。しかし、韓国人でない者も、そ
韓国人だけのもの。この神話は完壁で
るようである。﹁恨﹂、﹁モツ ﹂、 ﹁ 興﹂ は
前提は、条件抜きで受け入れられてい
できないというのである。この基本的
なければ ﹁ 恨 ﹂、﹁モツ ﹂、﹁興 ﹂ は 理 解
神話化させようとした
だが、これまでこうして ﹁ 神話﹂を
うな姿だったのか本当に知っている者
庶 民 の 使 う ﹁ 諺 文 ﹂、 つ ま り ﹁ ハ ン グ ル ﹂
ンテリの趣向が挙げられる 。韓国人で
作り出そうという動きの中で最も顕著
はほとんどいないようで、学校でも
な例は、﹁時調 ﹂だろう。
にも現れている。
一九 二0 年 代
を抹殺しようとしたことに抗い、韓国
区別する韓国独特のアイデンティティ
である。日本が、自分たちと韓国とを
歴史的背景を考えれば、必然的なこと
れは、今世紀前半の日本の圧制という
デンティティは重要な問題である。こ
する目印となる。韓国人にとってアイ
固から韓国のアイデンティティを区別
非常に珍しい属性であり、世界の他の
いう言葉が必ず登場する。同質性とは
﹂μトh寸
ゴE 占
' U I A A
-ケビン・オ口 l ク
ぢ ノ
34
潤済、鄭例 日 立、組 芝薫、李御寧、金宗
論のテ l マとなってきた。その後、越
川の﹁モッ説﹂以来、韓国の学会の討 より少しずつ違うかもしれないが、基
圧制の経験がある固ならば、どこでも こうした ﹁ 恨﹂を抱いている。地域に
残し、帝国の無慈悲な搾取に苦しめら
﹁恨﹂に相当する単語がないといっても 、 しろ長編小説の分野で輝かしい業績を
本的 に﹁ 恨﹂は﹁恨﹂である。英語に
れたロシアでは短編小説と長編小説の
たイングランド 地方は短編 小説よりむ
英帝国から惜しみない支援を受けてい
ンド地方、アイルランドやインドの例 を挙げ、彼の理論を説明している 。大
音楽を愛する者ならわかる。それはワ
でも、そして魚が餌にくらいつく感じ
ではない。釣竿を手にしたものなら誰
﹁興﹂はしかし 、韓国人に固有の感情
な ﹁恨﹂の国 といえる了イルランドと
│ズワ l スが自然の真理を洞察した瞬 間に感じたそれであり、 卜 マス ・ハl
を感じた者なら誰でも、それがわかる。
はるか十里に 桃 の花 春の興にあふれいく
かもめよ笑ってくれるな
吉などの韓 国文学を 打 ち立てるのに寄 英語圏の人間の大部分はその概念が正
両分野であのように優れた成果を収め たのは何故なのかに注目した。典型的
一九四一年に﹃文章﹄誌に載った申石
する文を発表するという潮流が生まれ
与した学者が 、次々とこのテ l マに関 確に何を意味しているのかを知 ってい る 。
インドでは(アイルランドの場合、ジ
彼等の主張を裏付ける根拠の一つが、
た 。
で発展するというおもしろい説を打ち
短編小説作家のフランク ・オッコー ナーは、短編小説は﹁恨﹂の多い社会
越えながら感 じ たあの強烈な瞬間に経
英語には﹁恨﹂、﹁モツ﹂、﹁興﹂に該当
C
する単語がないということである。英 の
ディーがボト レル城に向かう道で丘を
m
ョイスやベケ ットが例外となるが)、最
の部分を見逃してしま い 、 よってこの 方 、P 泊 干︿ 印 己Z
出している。彼は、ロシア、イングラ
験したものでもある。ウィ リ アム ・カ
語を生み出した祖先が 、残念ながらこ
も優れた作 はみな短編か 口 ら出た。早聞 くから絶賛を浴
の極まった声が一つに溶け合うのがわ
見たことがある者なら、肩の踊りと興
韓国人は肩から始まる。農楽の演奏を
イルランド人は足から始まるのに比べ、
びた短編研究﹃寂しい声﹄
いものである。
かるだろう。ア イルラン ド音楽に親し んだ者なら、ジグとリールの踊りに合
概念に関しては韓国語が英語より繊細 だというのである。だが 、 ほとんどの
はずである。﹁恨﹂は、歴史の全てにわ
﹁興﹂は、美の理解から にじみ出る喜びである。こ
わせて生み出される特有の足の運びが
ルロスが有名な﹁赤い 一輪車 ﹂を 見回 して感じたものでもあっただろう。阻(
た って執助について回った、韓国人に
れは、ほとんど全てのもの
わかるだろう。農楽のリズムと体の動
を感じる瞬間に最も特有の動きが、ア
と っ て は 苦 く も 本 質 的 な概念である。
、 に触発されうる。日の 出 日の入り、酒、音楽、踊り 、
きは韓国固有のものであり、ジグとリ
から発展した彼の理論は説
しかし、アイルラン ド の地 には一平方
洞察、魚が釣餌にぱくつく
詩、友、絵 、人生に対する
ー ルの足の運びはゲ│ル民族固有のも のであるが、 心 に感じるものは こっと
得力に満ち、大変おもしろ
マイルごとに韓国 と同じ ほどの﹁恨﹂ が渦巻いているといっても言いすぎで
瞬間等々。朝鮮の李退渓は、
も同じである。
の概念や感覚に共鳴することができる
、長き はない 。分断された祖国の﹁恨﹂ にわたる文化的搾取の ﹁ 恨﹂、未 亡人た ちの﹁恨﹂、息子を亡くした女たちの
﹁ 興 ﹂ とは自分の民族の言 葉(ここでは高麗歌謡を意
英語圏の人聞は﹁恨﹂、﹁モッヘ﹁興﹂
﹁ 恨 ﹂、自分の人生 を老いた両親のため に犠牲にするよりなかった女たちの
一九世紀後半に 書か れたもの
ないで﹂というフレーズを、金宗吉は
と思われる小説﹃興夫伝 ﹄のパンソ リ の歌詞の中の﹁味わい(マツ)も知ら
出した、
三ミ﹄で﹁ モ ツ﹂は一 九 世 紀 後 半 に ﹁味(マッごの発音から転 化したもの だと説明している。金腕(圭教授が見い
金宗吉は、著書﹃叶50242コ加切包凹広
味する)から出てくる感覚 だと 言 った。時調は、﹁興﹂
うたた寝をして竿失くし
阻 ( ・
の興、酒、音楽、釣りの
に満ちている。春の興、愛
﹁ 恨﹂ 、虐待された継子の ﹁ 恨﹂ アイルラン ド にはまた 、韓国に知られ ていない種類の﹁恨﹂ もある。横暴な 母や貧しい環境のため結婚できなかっ た男やもめの﹁恨﹂、こうした ﹁ 恨﹂の ロシアにおいても、同じように再現さ
踊り踊 って蓑失く し 年寄りの年忘れ
思いはヨーロッパ大陸とその向こうの れた。アフリカ、中東、極東地域は言 うまでもない。実際、長期間にわたる
35
た人間の標本である。その人はとても
ることを意味する。完壁で、完成され
そこに見い出すのである。目に見える
バラを見るのである。普遍的な象徴を
ない。全てのパラの本質である 一輪の
一輪の花の物理的外見には関心を持た
腰布 一片切り取って
冬至の月の長き夜
らなかった。
この台詞は﹁そうとも知らずに﹂﹁不注 もよく、セクシーな面もあり、流行を
洗練され、都会的で魅力的、ルックス
例として挙げている。この文脈の中で、 意に﹂という意味が込められている現 モ ツも知らないで﹂と同じ意味 代の ﹁
春の風布団の下に
先取りするお酒落でダンディな人物で
た純韓国語(ハングル)だけに依存し
後半からようやく本格的に使われ始め
題点は、別にある。つまり、一九世紀
を定義する概念としての﹁モツ﹂の問
たと見ている 。 しかし、韓国的感受性
一九世紀後半になって使われ始め
お酒落、カツコいいごという表現と共
金教授は、﹁モッ﹂とは﹁モッチェンイ モツチダ(素敵だ、 (お酒落な人ごや ﹁
七0年代に編纂さ れた安政英の﹃ 金玉 叢部﹄にある時調に現れる。そのため
モ ツ﹂の 副詞形である ﹁ 例だろう 。 ﹁ モ ツチゲ(素敵にごという言葉は、一八
しても最近まで使われていたという用
である。誰でも自然の、芸術の、また 一人の 人間の魂の美しさに魅了される
出される。これらは みな普遍 的なもの
徳は、現代人より祖先たちに多く見い
であるより精神的である。こうした美
対する愛で外に開かれている。肉体的
の内側に束縛されるより、多くの人に
﹁モツ﹂は、頭より心にある。自分自身
る。彼は生の経験を心ゆくまで味わう。
自らの心を美的な経験に向けて聞かせ
表現して分かちあう心のゆとりを持つ。
を果敢に打ち砕く 。 感 情 を 惜 し み な く
面が自由な人間である 。慣習 的な束縛
の﹁モツ﹂ こそ本 当の﹁モツ﹂の真髄 だといえる。﹁モ ツ﹂がある人物は、内
った。韓国 的美意識への理 解と いう観 点から見ると、非常に重要な出来事で
化させる 。 朝鮮初期、詩歌に大きな変化が起こ
たら、韓国の詩人はそれを宇宙に普遍
微鏡で見るように精密に観察するとし
に具体化された精神的真 理のシンボル とみなす 。 ホプキンスが 一本の草を顕
に関心を持つ。彼はバラを、自然の中
う。韓国の詩人は、事物の道徳的側面
神秘が神 の栄光に通じている ことを謡
驚きに引かれ、しまいにはその存在の
い一本の草が持つ独特さから得られる
に微妙に区別されるのかを見、何気な
の草を見 、そ の本質を定義したい欲求 を感じる。それは、他の草とどのよう
か見い出せない。ホプキンスは、
花は散りはらはらと
つばめは軒に斜めに対なし飛び
るものだった。
はないが、朝鮮時代の両班の婦女には、
いう詩は、今日ではそれほど衝撃的で
保留の憂き目に遭 った受難の﹃漢江の 書斎におられる方に寄夫江舎読書﹄と
裂だという理由で詩集からはずされた。
整理していた時 、 いくつかの傑作は狼
i 一六一八)が、後日彼の姉である許 蘭雪軒(一五六 =一 1 一五八九)の詩を
が作った時調である 。許竹均(一 五六九
していた﹁束縛﹂から自由である妓生
これは、大部分の両班の時調を制約
するする解こう
くるくる巻き入れ 恋しき人来た日の夜に
て、韓国的な美学を定義できるのかと
とき、そこにはいつも﹁モツ﹂がある。
絹衣の上かすめ
重複は避けられない。傑出した学者だ
非常に緊密に結びついており、意味の
朝鮮の詩歌には、こうしたものがな
交情のこの夜ゆっくり過ぎろ ゆっくり過ぎろ
愛しき君と私が凍え死んだとても
氷の上に竹葉のしとねを張り
情熱は抑えることができない 。だが、
一本
いうことである。開化期末の民族主義
ただ、個人、文化圏、国ごとに美しさ
ある。つまり、韓国の詩歌から情熱が
英詩のようなものは、韓国ではなかな
美しさは心で感じる美しさに座を譲る。 それゆえ、例えばホプキンスが書いた
ツ(味わいごが﹁モツ﹂という意味と
に使われている。これはおそらく、﹁マ ある。﹁モツ﹂は、見た目の ﹁ モツ ﹂と 内面の﹁モツ﹂の 二つが あるが、内面
的自覚が生じるまでは、朝鮮の知識人
消え去 ったのである。 例えば高麗歌話
なか ったのは、周知のとおりである。
に 、
社会で純韓国語であるハングルで示さ
に至る方式が違うだけである。 ﹁ モ ツ﹂に関する論議は、﹁美﹂に対
洞房より目をこらせど 胸痛むばかり
った鄭矧畏が言うには、韓国人はバラ
か った。少なくとも黄真 伊に至るまで
李退渓のような偉大な文豪でさえも、
この詩に表現された感情は注目されう
れた言葉がそれほど重きを置かれてい
する態度への論議から出発する 。 ﹁モツ ﹂ ﹃満殿春﹄の一節を見てみよう。 と ﹁ 美 しさ ﹂は 、 同 義語ではないが、
二O位紀にな って 初めて作られたもの である。それまでは﹁諺文(卑しい文
は微妙に違う花びら 一つ を、あるいは
は。その後、黄真伊があの有名な時調
実際、﹁ハングル﹂という言葉自体が、
字ごという言葉が、通常使われていた
この世に存在する全てのバラの持つど
を書くまでには、数百年を待たねばな
見たりはしないという 。 他の花びらと
草緑江南人未帰
洞房極目傷心底
落花擦乱撲羅衣
燕掠斜管両両飛
草青く江南の人未だ帰らず
用語であった。
一つ の花びらを見るのではない。韓国人は 、
を見る時、花びらの一つ一つの配列を
﹁ モツ ﹂ は学術的というよりは、大衆 的な用語である 。定義づ けるのが非常 に難しいが、この 言葉 は人や物の美に
のような花びらとも確かに違う、
(素敵な人)とは、全ての面で紳士であ
対する知覚、洗練、優雅さなどへの認 識 を 反 映し ている。﹁ モ ツがある人﹂
36
情熱を卑しいものとみなした。エリオ ッ卜の 言葉を 借りるならば、朝鮮社会 は 一種の感性の分裂状態にあった。情 熱は韓国の詩歌から消え去り、一八世 紀に、両班の儒教の束縛に比較的縛ら れず、相対的に失うものも少なか った ﹁ 中人﹂出身の詩人が前面に 登場する ま で、再び戻 ってこなかった。韓国の詩 歌から情熱が消えてしまってから、道
専
E ' . ..
4
, 、
‘ '
.・ .
」 刈 e
を次のように感覚的な言葉で描写した。
臥若氷雪入我喉 一 一
茶を 一椀飲めば 氷雪喉元を過ぎ 試嘗 次の詩は、 碁の楽しさを正確に描写 している。
j M f
- パ
石ぶつかる音に喜びあり
吋一 羽
ある﹁道徳的思索﹂に至る前に、穴か ら出ようとして一瞬ためらったネズミ
彼は、韓国詩の本来のエッセンスで
少ないということに驚く。それでも、
高麗の詩が宋の詩よりは感覚的な面が
な新鮮さを持っている。だが、宋朝の
詩歌を読んでから高麗の詩歌を読むと、
を観察している。
胡為長首鼠去就不早謀
どこへいこうか迷うのか
なぜ穴から首を出した鼠のように
であった韓龍雲の傑作中の一つである。
牛荘 ﹂ は禅詩であり、僧侶であり詩人
韓 国 の詩歌の道徳的で観念的な傾向 は、今日までも続いている。次の﹁尋
素はほとんど死に絶えてしまう。そし
しかし朝鮮時代になると、こうした要
そこには感覚的な面がまだ生きている。
こうしたイメージは感覚的な所に焦
て、主な強調点は﹁教 訓﹂に置かれる。
点を当てており、紙面に弾け出るよう
/乃 島. . . . : - ; -
' Wi l ・ ・ ‘
. : .
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徳的なものが支配的になり、﹁感覚的な﹂
、 パt 担 . )
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詩への要求は消え去った。高麗時代の
F
詩人である李圭報は、茶を飲む気持ち
~司‘,_,..
噂 「:
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37
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越 限龍 、「群蝶』
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正 ミ
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•
失う牛がいなければ 探すというのは意味がない もしも、失うことが明らかならば 誰が飼 ったり するものか そんなことなら探さなければ やはり、失うこともなかろうに ﹁尋牛荘﹂は、仁旺 山 の麓の韓龍雲が 住んでいた 家の名で もあった。この家 は、主権を失った祖国の恥に毎日顔を 突き合わせずにすむようにという住人 の意志を反映して、朝鮮総督府の建物 に背を向けて建 っている。禅詩が好き
な者ならこの詩を好むだろうが、ここ に表われる詩的手法は純粋な﹁抽象﹂ である。 一九六0年代に書かれた金沫峡の詩 ﹁青空﹂を見ると、この先駆的モダニス 卜詩人も、今だ抽象的な観念を好んで いたことがわかる。この詩で唯一感覚 的である要素は、 ﹁ 血の匂い﹂だけであ る。事実、この詩の文脈の中でこのフ レーズは、異様なパワーを放つ。 青空を制圧する ヒバリが自由であると羨んだ
ある詩人の言葉は 修正されねばならない 自由のために 飛朔してみたことの ある者ならわかる ヒバリが何を見て歌うのかを どれほど自由には 血の匂いが混在しているのかを 革命は なぜ孤独なものなのかを 革命は なぜ孤独であるべきなのかを
「モッ」 を
は 、 普通的である。 だが、 韓国の
イ也の国のそれと差別イじするのは手章国ヰ寺有の
美意識のためである韓国の詩人は感覚的美しさより
道徳的美しさ重視し、 その関心は具イ本的なものより
普通的なものにある
代表的な韓国の名詩選集から、どん
「モッ」
んどはずされている。 現代に至って初めて、李御寧が韓国
がずらっと続く。専門用語の枠を抜け 出すのは不可能である。﹁この詩はモダ ニズム的で抽象的、主知主義的な傾向 に基づいている。﹂一行ごとに専門用語 が飛び交う。評論だろうと感想文だろ うと、異口同音に教訓的な語調である。 感覚的な側面は、主な関心事からほと
な解説でもいいから抜粋して読んでみ るか、詩についての学生たちの感想を 聞いてみよう。抽象的、観念的な言葉
李 慶治l 、「 釣翁図 」 、31. 1X24.8cm
38
j 多物デ〆
金弘道、「牧童帰家図」部分、 34X2 5 .3cm、紙に水墨
的な自然へのアプロ ー チである﹁概念
﹁天を意味する韓国の古語﹃プル﹄の音
また先に他界せし雀南善の解釈には
に合わせ、漢字を当てたもの﹂とあ
的 自 然 象 ﹂ を 主 張 す る に 至 った 。 彼 は
こ の 説 に よ れ ば ﹁ 風 流 ﹂ は 宗 教的 な
韓国伝統絵画からヒントを得た。 西洋
含蓄を強く帯びた概念である。これは
り ・・・ ﹂
める。彼は自分の主張を例証するのに、
韓 国 の 詩 人 は 一度 に 様 々 な 視 点 か ら 眺
る。だがこの言葉の実際の使われ方は、
人間の 内 面 に 潜 む ﹁ 天 の 明 る さ ﹂ で あ
では二点透視画法﹂が発達したが、
した。彼の表現によれば、詩人はまる
詩人素月の有名な詩﹁山有花﹂を引用
いう感覚的な制約から自由である。こ
神 的 に行われ て いるが、それが実際に
い る 。 風 流 の 原 理 の 解 明 は 宗 教 的 ・精
いる。これは徐廷柱の詩にも表われて
い音楽、詩、酒、妓生などを暗示して
う し た 考 え は 、 綿 密 な 批判 を 受 け れ ば
描かれるのは﹁妓房﹂においてである。
例 え ば ﹁ 風流 客 ﹂ の 生 き 方 に 欠 かせな
か な り 揺 ら ぐ だ ろ う が 、 少 なくとも、
で ヘ リ コプ タ ー に 乗 っ て 飛 ん で い る の
事 物 の 概 念的 な 面 に 対 す る 韓 国 的 な 執
詩は続く。
と 同 じ で あ る 。 彼 は ご つ の視点﹂ と
着が存在することを示唆する非常に特 異な概念であることは間違いない。
夜 の 路 地 裏 の ど こか の 部 屋 で
この言葉をつらつら考えてみるに う 中 国 語 の 言 葉 に 結 び 付 け 、 ﹁モツ﹂の
つれづれのなぐさみに
恨を胸に抱いた年老いた妓生が
あ る 学 者 は 、 ﹁モ ツ﹂を﹁ 風 流 ﹂ と い
みている。だが、この結び付けは多少
概念に歴史的な深さを付与しようと試
その風流の 一節 な ど に
耳を傾ければ
爪先でぼろぼろと弾くカヤグムの
ずっとずっと遠い遠い億万里
根拠が貧弱である。新羅の﹁風流﹂は、 のであり、金宗吉によれば本来 ﹁ 社会
中国語の﹁フオンリウ﹂を 翻 訳したも 的道徳﹂を意味したが、徐々に ﹁ 憂い
あるにはある
ちらちらゆらゆら訪れるものが
李朝白磁や高麗青磁の逸品の壷など
陽炎の彼方の故郷の 出来事のように (楽)、 酒 、 色 を 楽 し む こ と と 関 連 が あ
のない超然とした人生の姿﹂という意
る。﹁フオンリウ﹂は唐の時代に全盛期
こ れ を 前 に 考 え るに ・
ひとつゆつくりと撫で回し
味を帯びるに至った。 これは、詩、琴
に 達 し 、 続 い て 韓 半 島 に わ た って﹁ 風
﹁恨﹂の概念を徐廷柱がどのように結合
この詩から、妓生の﹁恨﹂と芸術的
流﹂に、 日本 に 伝 わ っ て ﹁ 雅 び ﹂ に な 風流﹂の概念を、 同 名 の 徐廷柱は ﹁
っちん。
﹁ 新羅の詩人寵致遠が 言うに﹁我が国
詩により次のように説明する。
させたのかを見ょう。﹃豆mU2ロロ加国三日 、韓 国 の 音
楽 や 舞 踊 の 専 門 家 で あ っ た ア ラ ン ・ヘ
O 司ζ田町﹄において金教授は
ン ド の 釈 迦 の 仏 教や中国の老子の道教、
イ マ ン が 長 年 に わ た り ﹁モ ッ﹂が ﹁ 興 ﹂
で初 め て 生 じ た ﹃ 風 流 ﹄ の 考 え は 、 イ 孔子の儒教の絶妙な混合物﹂であり、
39
と﹁恨﹂の相互作用から生じると考え たのは間違いだと語る。教授は、﹁モツ﹂ は﹁興のもう一つの面﹂以上のものだ と指摘し、アラン・ヘイマンが韓国の 音楽と舞踊に接して得たものが、彼の 見解に反映したもののようだと結論を 下す。だが、歴史の中に見い出される
や一六世紀の有名な妓生黄真伊は、﹁モ
偉大な ﹁モ ツ﹂の 例は、 多 く の 場 合 ﹁恨﹂を示す例でもある。 例えば、 豊臣 秀吉の朝鮮侵略のときに日本の大将を 抱き、絶壁から身を投げた妓生の論介 ツ﹂のシンボルであり 、 また﹁恨﹂の シンボルでもあった。徐廷柱が﹁モツ﹂ についての考えを表現するため、妓生 の﹁恨﹂ を取り上げたのはおもしろい。 これ らの 例は、﹁モ ツ﹂の概念を独創的 なものとして定義するために、どれほ ど多くの神話が作られたのかを示して いる。 新羅の﹁風流﹂の宗教的意味が何か ら由来したのかははっきりしていない が、唐の﹁フオンリウ﹂から新羅の ﹁風流﹂へ の転換は相対的には っきりし ていると思われる。問題は、新羅の ﹁ モ ツ﹂にどのように 風流﹂が今日の ﹁ 進 化し たのかということにある。 二つ の聞には、言語学的な連闘がない。だ から、﹁風流﹂と﹁モツ﹂が同じ民族的 情緒から派生したとする仮定を裏付け る歴史的根拠をめぐって、論争が起こ りうる 。何より、 ﹁ 風流﹂という 言葉自 体が本来中国から来たものなので、固 有の韓国的感性の定義とはなりえない。 ﹁ 風流﹂│﹁ モ ツ﹂の 典型を示す韓国 人として、水路夫人にツツジの花を棒 げるため絶壁を登る新羅の老人を挙げ
ることができる。徐廷住が ﹁ 老人献花 歌﹂という詩で語っているように、老 人は﹁ 風流 ﹂が 欠如した水路夫人の夫 と同行人の 代 わりに、彼女のためにツ ツジを摘む。 騎馬の夫と同行者の問で
きれいな花
女も馬に乗っていた ﹁ 中 め 、 hJ士会め
あれを少しでも手に入れられたら﹂ 花にであろうか人にであろうか 空にであろうか語るように 馬上で首傾けて 投げられた女の言葉に 夫は間抜けのように聞くばかり 同行者もまた聞き流し むしろ 他人の老人が
申潤福 、「舟遊,青江」、 2 8.2x35. 2cm
通りがかりに耳にして
請け負い交す言葉あり
老人の﹁風流﹂の本質は、次の二行
の中に凝縮されている。
そんな 心以外 に持つもの何も無し
花が花見て笑うよう
老人は﹁超越者 ﹂ である。彼は慣習 の枠を破り、禁制の壁を 叩く。深遠な 感性を惜しみなく施す者として自分を 現わしている。服従する妻と無味乾燥 な夫、そして年齢を支配する社会的規 範をあざ笑い、彼女の理想的な美以外
は全て忘れ てしま う。老人に ﹁花﹂と 見えた水路夫人は、彼女自身がまさに ﹁ 風流﹂として、単純な感覚的美人では なく美学的美人であるというところに、
この状況の特 別な複合的感性が存在す る。こ こで問題と なるのは、精神的価 値である。人生における強烈な瞬間を 体験する時、自らの生を超越すべく、 感性の呼応に対して心を開くのである。 これは韓国固有の感性ではない。全人 類が理解できる ことである 。 処容もまた、 ﹁ 天の明るさ﹂を心に秘 める者の典型的例と考えられている。
都の明るき月に 夜更けるまで戯れ
帰りて足元を見るに 足は四つなり 二つは我がものなれど 二つは誰がものぞ 本来我がものなりしを 奪われしもの 如何とせん
40
本失吾下是如馬於陰
二勝陰誰支下着古
二跨陰吾下於叱古
脚烏伊四是良羅
入良沙寝失見昆
夜入伊遊行如可
東京明期月良
て、処容を擁護するにしても、これら
うに処容が慣習的枠を打ち砕いたとし
とである。老人と水路夫人の場合のよ
がたいものとしているのは興味深いこ
この処容の態度の伝統的解釈を理解し
もしろいのは、現代の韓 国 の大学生が、
も完全に納得が行くものではない。お
る利口なトリ ックではあるが、それで
いる。苦境に際してうまく収拾をつけ
暗殺者のもとに向かって行った鄭夢周
酔って後向きに馬に乗り、待ち伏せる
多く見い出せる。まず浮かぶのは酒に
すのに引用される人物は、歴史の中に
韓国の﹁風流﹂│﹁モツ﹂を描き出
夜失卯乙抱遣去如
薯童房乙
他密只嫁良 置古
善花公主主陰
ある。前述のように、韓国の詩人は感
するのは、韓国特有の美意識のためで
国の﹁モツ﹂を他の国のそれと差別化
ころにあるのである。よしんばそのた
制 度や法規のくだらなさを超越したと
彼自身・・ ・。彼の﹁モッ﹂は、結局
覚的美しさより道徳的美しさを重視し、
﹁モツ﹂は、普遍的である。だが、韓
たにしても。
めにノーベル文学賞を受けられなかっ
の旧世代のシャレ者だといえる徐廷柱、
澗歩した金東仁、そしておそらく最後
奪叱良乙何如為理古 二つの 例は同じものではな い。平 均的 な西洋の読者なら、むしろ﹁薯童謡﹂
を擁護する方を選ぶだろう。慣習を壊
という古い郷歌に登場する﹁善花姫﹂
は部屋で傘をさして暮らした丞相 ・柳
後も船の帆住に体をくくりつけさせ戦 闘を指揮した李舜臣将軍、雨の降る日
の姿である。そして、息を引き取った
表面だけ見て大きな期待を抱く。そし
常生活に広く影響を与える。韓国人は、
出典によれば、 処容の寝室に侵入し たのは﹁疫病神﹂ の隠憾であるという。
その関心は具体的なものより普遍的な
ものにある。アプローチの方法は概念
的で、重点は教訓に置く 。 こうした韓 国的アプローチが、他の方法より特に
いいとか悪いとかいうのでほない。現 にこのアプローチに関しては多くの前
ロ ッパの詩の 傾向がそうである 。ある
例が存在する。特に 二O世紀の東ヨー
者は、ポ ー ランドの詩人チェス口 ・ミ
美への概念 的アプ ローチは、非常に
ロズ ご 九 一 一 1) と彼 の作品 が現在 の詩壇に与えた影響を思い出すだろう。
伝統的解釈では、個人 的災難に直面し
は確かに資格がある。反語的な詩題に
すのにも審査基準があるならば、彼女
より理想を重視する。そして人間の日
幅広い含みをもっている。これは現実
ても品位を保ち落ち着いて対応する処 容の態度に、賛辞を送っている。右の
人知れず嫁にいき
善花姫 は
ではなく﹁薯童謡﹂なのである。
注目すべきである。これは﹁善花謡﹂
コlトに縞模様のズボン、シルクハ ッ
るため命を 捨てた沈 清、モ ーニ ング ・
て死を選んだ論介、ハメの目を開けさせ
日本の大将を抱いて絶壁から飛び降り
服をはたいて蚤をつかまえた黄真伊、
寛、羅州府 使の 宴会の席で 、歌 う前に
の奥深くに根を降ろしていると考える
たい誰がこんな民族的性向が、美意識
また再現されるまで息を潜める。いっ
りの波は鎮まり、皆はこのプロセスが
話を生み出した者が引き下がれば、怒
りを爆発させ、関わりのある全ての者 を非難し、責任の神話を作り出す。神
て事がうまくいかない時は、道徳的怒
頬を打たれたら左の頬も出せというキ
させる。もちろんこれは韓国人にもそ
薯童の部屋に入り
トにカーネーシ ョンをさ して乙支路を
の落ち着きは西洋人に は戸惑いを覚 え
リスト教の教えの伝統の 中 に二千年生 きてきたとはいえ、やはりこういう類
うであろうが、 出典では、ここ で扱わ れているのは本当の姦通ではなく﹁天
夜黙って抱いて帰る
だろうか。
然痘﹂の険えであるとして誤魔化して
4 1
一国の耳目が集中した中でニ 一 ュ 1 ヨークメトロポリタン
A
る時代、あらゆる分野の美術品を収集、
誇るこの美術館は東洋 ・西洋のあらゆ
て称賛した。今年で二一八年の歴史を
韓国美術が東アジアの美術に占める重 要な位置をよく説明し、言葉を尽くし
ホールランド ・カッターの文を通じて
室によって、アジアの様々な国々の美
に設置され、今回開設された韓国美術
そして東南アジア美術室は一九九四年
設された。日本美術室は一九八七年に、
されて一九九七年に現在の姿で再び開
中国美術室はその後さらに拡張、整理
に位置している。美術館の幅は八O街 路から八四街路まで占める巨大な規模
た街で有名な五番街に向かって東向き
クの名所であるセントラルパ l クを背 景に、ニューヨーク 市 の最も洗練され
メトロポリタン美術館はニューヨー
ただけでも幸いなことである。
美術館内に今後、永久 的 に韓国美術品 だけが展示される一つの美しい空間で
術がおおむねすべて位置を占めるよう にな ったのである。東洋美術に占める
九九八年六月七日、韓米両
ある韓国ギャラリーが開幕した。金大 回る世界屈指の総合美術館である。そ
展示し、一年の観覧客が五百万名を上
である。
五年間余りの韓国と米国の様々な分野
中大統領も参加したこの開幕式はこの
この美術館の全体建物は今
まで、何度かの改築と増築を繰
り返して変貌してきた。一八六
の代表的な建築家、建築会社が
九年に美術館をこの位置に建設 することに決定して以来、米国
ら目覚ましい発展を見せてき
総て網羅され次々と参加しなが
た。全体の建物がついに現在の
姿に仕上がったのは一九九五年
にエジプトのデンダ│寺院を美
術館内部に取り込んだ時であ
の建物は米国の近 ・現代の建築
る。そのような点でこの美術館
史の集約体とも言える。 これらの全てのプロセスを短
い文に込めることはできない
が、この建物の前面が現在のよ
うな ∞ 3スタイルの新古 25 p・ 典主義様式に決まったのはハン
卜 ( E n g -己玄05日目 二 八 二 七
れたことは画期的だと言わざるを得な
こに韓国美術常設ギャラリーが設置さ
な ってや っと設置されたのである 。 し
の経済的かつ文化政策的理由で、今に
内にもう少し早く韓国室が設置されな ければならなか ったが、この間の韓国
韓国美術の比重で見ると、この美術館
に活動する線国人という点もまた私た
氏 ( 一九四一 l) が韓国と米国で活発
特に内部建築を担当した建築家再圭昇
遅まきながら場所を占めるようになり、
な歴史的建築物の内部に韓国美術室が
1 一八九五)の設計によるコ ものである ことをはっきりしておこう。このよう メトロポリタン美術館内の東洋美術
かしメトロポリタン美術館内の空間の
の専門家たち、そして韓国国際交流財 団、三星文化財団の共同努力の結実で あった。
室が設置され始めたのはかなり前から
中の地域の美術に割り当てることので
M BU
開館に前後して圏内の言論でもこの ニュ ー スが報道され、六月一一一日付の
であり、その中の大型中国仏教彫刻室 が先ず最初に設置され、一九八一年に
きる空間を私たちが占めるようになっ
r z -
ニュ ー ヨークタイムズは﹁韓国文化の 宝石箱﹂(﹀ 穴gコの E E ∞OH O吋Q d)
中国伝統庭園と絵画室が設置された。
ちに大きな自負心を持たせ てくれる。
というタイトルで書かれた美術評論家
42
この 美術館内での韓国室の位置 を説 明すると、建物の入口口、ビーからま っ すぐ向か って見える長大な階段を上が り、二 階のバルコニーを過ぎて北に行 くと、大型中国仏教彫刻室が出てくる。 この部屋の大きな壁面にある元代の仏 画と迎い合う方向から部屋の両側の端 の部分に、半階にもならない高さのそ の次の展示室に移動するいくつかの階 段がある 。 この階段を左側から上がる と中国先史時代と青銅器時代の美術品 が陳列された大きな通路のような部屋
わち電気照明と天然採光が適切に組み 合わされたこの空間には明るいながら も股々として落ち着いた雰囲気で満ち 溢れている。 白い麻織で貼られた内部の壁面とや はり同じ布切れで処理された内部陳列 台もこのような 雰 囲気の一 助にな って いる。両側の入口を除いた全ての壁面 に設置された陳列棚には無反射ガラ ス を使用しているので、壁面にかかって いる絵と見る人の聞に全く﹁壁﹂を感 じさせない。これらのガラス棚は 一定 の大きさを単位に反復していて、その
像のような雰囲気をかもし出している
こぎれいに着付けた韓国の伝統的女人
屋である。 比較的照明が暗い中国室や インド室から黒い金属で処理された高 い門柱を過ぎると、真っ白い苧の服を
中聞に位置した真四角の部屋で両側と もに入口が付いていて入りやすい位置 でありながらも通路ではない完全な部
棚のガラスは展示遺物の位 置や大きさ によ って 上 の部分を障子窓のような感
の内部まで延長して空間が実際より広 い感じがするようにした。壁面の陳列
でも変えることができる。また床は楢 柏を使 って井戸床という独特な韓国的 床構造を設置し、またこの床を陳列棚
同じ大きさを単位に連結して並べたも のなので、展示の 性格によ っていくら
があり、右に上がると、インド美術室 になる。韓国美術室はこの両陳列室の
約五O坪規模の韓国室に入る。 韓国美術室のもうひとつの重要な長
中にきちんと絵 や そ の他 の美術品が 展 示できるようになっている。陳列台も
所は、この四角い空間の半分程度に天 然採光を取り入れるようになっている
壁は展示の性格によっていくらでも位 置と形態の変形が可能なようになって いる 。
この部屋の一部に展示面を増やすため の臨時の壁が設置されているが、この
じが出せる半透明のマイラ 1 スクリー ンで一部覆えるようになっていて、ほ のぼのとした効果をねらった。現在、
ということであ る。元来 この建物の通 風孔を既存の小さな美術室と連結して 一つの 統 一された空間を設けたために、 このような幸運が持てたのである。建 築家再圭昇氏はこの通風孔部分を切妻
馬圭昇氏は韓国建築の形態を直接引 用せずに、韓国的情緒と美感を創出す るのに成功した。また彼は陳列された 美術品が目立つ ように 他 の建築的要素 を最大限自制したと語 った。韓国の文
43
屋根形式で上に狭めていきながら上の 部分に半透明のガラスを取り付けて、 その下の﹁天井﹂に該当する部分を白 い半透明の麻織(舞台背景用の布切れ) で横切り、ギャラリ ー内部を殿々と臆 過された光が照 らすようにした。すな
「紺紙銀泥大方広仏華厳経 J ( 紺色の紙に阿穆 に練っ て作 った金と銀の粉でしたた めた華厳経)、 高麗 1 3 37 年、国宝 2 15 号、20X36. 5c m
韓国美術を時代ごとの傑作品を中心に
開幕されると同時に行われた特別展は、
メトロポリタン美術館内に韓国室が
今回の特別展をきっかけに﹃韓国の
以上の高火度で培造された磁器が全く 生産できない段階、だったことも分かる。
時期には青磁のように摂氏二一 O O度
界最高の水準を見せている。
した本であり、本のデザイン面でも世
史学界の最新研究結果を包括的に反映
史の教材に使用できるほど、韓国美術
ある実情において、今回発刊された
海外に紹介することを目的とした。こ
には今回の展示に出品された全ての美
美術﹄という本が発 刊された 。この本
韓国室全体の企画はプリンストン大 学教授であると同時にメトロポリタン
韓国美術を紹介する本が極めてまれで
の展示を通して韓民族の文化的優秀性
美術館のアジア美術部総括顧問の方聞
一二世紀には韓国においてのみ独特に
を立証できる機会だけでなく、既存の
や彫刻品の場合には他の方向から見た
術品が原色図版で細部、または陶磁器
押しは韓国国際交流財団と三星文化財
その色彩が非常に異なっており、また
一層深く理解することができるきっか
中国美術室や日本美術室の意味をより
姿を含めて載せてある。また、韓国の
団により行われた。韓国国際交流財団
化財がこのように美しく見せられるよ
けを作ったのである。すなわち二国の
歴史と美術をいろいろと紹介した、全 部で六編の論文が載せられているが、
﹃韓国の美術﹄は米国だけでなく西欧世
美術室に比べて、その規模はたとえ小
掲載順序に沿って列挙すると、次の通
は建築部分を支援し、また三星文化財
うに最適の環境を作ってくれた建築家、 展示デザイナー、照明専門家、全ての
さくとも韓国室が誕生することではじ
スリアン大学教授の﹁韓国歴史紹介﹂、
りである。ジョナサン・ベスト・ウエ
団は﹁李建照韓国美術支援基金 ﹂とい う名称で韓国美術室の運営に必要な学
のを見ることができる。日本ではこの
めてこれらの東洋三国の美術文化の相
鄭良諜・国立中央博物館長の﹁韓国の
象飯青磁が新しく誕生するようになる
互関係を有機的に関連させて見ること ができるようになったのである。
陶磁器芸術新石器時代から朝鮮王朝
てくれたのは米国のプロスペロ財団で
芸研究費用を支援した。また韓国美術 プログラムのために一番最初に支援し
人に感謝したい。
水墨山水画の例を挙げてみると、中
まで│﹂、金理那・弘益大教授の﹁韓国
ることによって実感させられるのであ
置したこれらの各国の美術室を見て回
かということがこの美術館の二階に位
あり、またどれほど異なる点があるの
山水画の発達形態にどれほど共通点が
の金紅男教授の﹁安堅と八景図画風
朝の真景山水画﹂、そして梨花女子大
李成美・韓国精神文化研究院教授の ﹁伝統的美術様式と写実的描写朝鮮王
ル大教授の﹁韓国山水画の起源と発展﹂、
子大教授)が共同で作業して用意した。
良諜国立博物館長、安輝搭ソウル大教
的に支援した。開館特別展示は 筆 者 以 外にも圏内のいろいろな学者たち(鄭
之教授が責任を引き受けた。財政的後
ジのこの本は米国の大学でも韓国美術
国で初めて使われ始めた紙筆墨、また
仏教彫刻の伝統と変形﹂、安輝撞・ソウ
界でも韓国の美術を紹介する重要な役 割を果たすだろう。全部で五一二ペー
日本の三国が時代を異にしていくと、
は絹という材料でもって、中国、韓国、
る。すなわち同じ主題と同じ材料でも
にも朴英淑ロンドン大学教授がメトロ
メトロポリタン美術館所蔵の二点の山 水画に対する接近﹂である。その他
そのまま見ることができ、これらもま
日本の陶磁器文化の共通点と相異点を
になったのである。同じく中園、韓国、
載せられている。
の韓国美術コレクション﹂という文が
細に紹介した﹁メトロポリタン美術館
ポリタン美術館の所蔵品を分野別に詳
られた。この開館特別展示は来年一月
かげで全ての仕事が支障なく成し遂げ
ギョン嬢も現地で大変苦労し、そのお
方聞之教授の有能な補佐役であるジユ ディス・スミス女史、そしてソ・ホン
授、金理那弘益大教授、金紅男梨花女
あり、今回の開幕展は=一星文化財団、 そして L Gのニューヨーク法人も部分
いるのかを深く観察できる貴重な場所
各自の民族性がどのように反映されて
た各民族の趣向や美的感覚を理解する
現在、西欧人が中国や日本美術史に 関して豊富な知識を得ることができる
A'
のに大変大きな助けとなる。青磁の場
英文の著述は多く出ている。しかし、
二四日まで続き、その後もこのギャラ リーには韓国美術品が常設展示され る 。 合にも中国の青磁と韓国の青磁は基本 的に同じ技法で作られたものであるが、
44
キム ヨ /ウク
・金煉旭 本誌副編集長
新羅時代の魂を胸の 奥深く抱いて生さて さたず京烈翁は 今日の慶州でかけがえ のない生きている 遺 跡 と も 、言 え る
歴史と文化、あちこちに広がっている 遺跡から発散する新羅人の力と優れた 彼らの美意識を発見し、その溢れんば かりの感動を子供たちに与えるべきだ と信じて、子供博物館学校の万年講師 として仕事を始め、四O年過ぎた今で も子供たちの話の先生としてもっとよ
端の成鏡北道の朱乙である。慶州とは なんら関連がないようだが、幼いとき
く知られている。 彼の故郷は温泉で有名な韓国の最北 洗い流した美しい神秘主義者の顔のよ うでもあった。八二才とは信じられな いほど清々しく純粋である。
から、とりわけ読書を好んだこの夢多
と椛かれた綿のような真っ白い髪と灰 色の伝統衣装があまりにもよく似合う 私たち時代の最後のこの新羅人はあた かも仏様の顔のように安らかで温柔に 見えた。悟りを聞いた宗教人とでも言 おうか。笑っているようないないよう な表情のない彼の顔は、あらゆる時を
慶州の人々の誇りである彼は慶州の
い少年は画家の長兄がソウルから送っ
てくれた童話の本を通して燦嫡であり ながら神秘的な慶州の物語に次第に魅 力を感じたと言う。鶏林の林から卵を
て、偽りの歴史を学んで生きてきまし た﹂と予翁は語る。 彼が終生を韓国文化、その中でも力 強くて明るい新羅の文化を研究し愛す るようになったのは、韓国文化を日本 を通して歪められて学んできたという 事実を痛烈に実感したからだと彼は語
時期は二 O世紀だと思います 。今世紀 前半に主権を奪われたまま植民地とし て過ごしました。その時期に幼年と青 年期を送った人々は固ない民族とし
慶州はいつか一度は必ず行ってみたい 夢の都市であった。 裕福な家庭で生まれたが、彼も植民 地時代の暗欝さの中で教育を受けて成 長した。 ﹁韓国五千年歴史で最も恥ずかしい
は彼の憧れの対象であり、彼にとって
破って出てきたという慶州金氏の始祖 をはじめとする神秘的な説話の数々、 善徳女王の知恵と処容の涙、名もない 民たちの念願が染みた歴史の深い慶州
安京烈の作品
新羅を守る土偶作家
PIl羅の千年古都慶州。慶州は
血
け44d ノ韓 国 の 最 も 古 い 都 市 と い う
二J/だけでなく世界文化遺産に 指 、 一定された石窟庵をはじめに仏国寺、 慶州南山の仏像など、素晴らしい数々 の遺跡の宝庫である。都市まん中に千 年の歳月を無言で守ってきた巨大な古 墳があり、謄星台と雁鴨池など、新羅 人の知恵と暖かい息遣いが胸で感じら れる情感に充ちた都市である。 このような所で千年前の新羅時代の魂 を胸の奥深く抱いて生きてきた郷土史学 者・手京烈翁は、今日の慶州でかけがえ のない生きている遺跡とでも言おうか。 早くから私たちの風俗を土で守ろうとし た土偶作家として韓国の文化界では最後 の新羅人として通っている彼は、誰より 新羅を愛し、それらの魂を取り戻すのに 全生涯を捧げてきた。
3 7 1 J
問客を無言で歓迎してくれた。きちん
;J、
E二 二 二E
南山が向かいに見える陽智村の韓屋 に入りながら、私は空想科学映画でな ら可能なこのタイムマシンに乗ってや って来た千年前の新羅人に会うという 期待に胸がいっぱい膨らんでいた。ひ と目見ただけでもただの者ではない一 人の老人が表門の近くに入ってきた訪
45
INTERVIEW
つた。 ﹁新羅の美しさに特色があるなら、ば ば それは力強さと優しさの調和だと号号一 ます。新羅は高句麗の強さと百済の優 しさを同時に受け入れて、独自の独特 の文 化 を形成してきました。こういう 例は新羅がなした数多くの芸術品の中 によく現れています ﹂と努翁は語る。 翁の個人的な生き方と芸術を理解 表ノ するために取材を始めた記者として は、話の中心が韓国文化芸術の香りは 何であり、新羅芸術のモツは何である かという多少飛躍した方向に逸れてい たが、これまた手翁の生き方と密接な 九 九。
関連があるので、話を続けることにし
た﹂と予翁は語る。 人生を生きてきながら 他の 人々と同 じように多くの苦労をしたが、誰より
は、指先の技を越えた、芸術はどうあ
中之子多美女史であ った。自分自身を 厳格に修める立派な芸術家だ った恩師 の下で技術と共に徹底した匠人精神を 学んだ。土を生命だと思 っていた恩師
国の地で彼はあらゆる困難を克服しや り遂げるしかなかった。彼の恩師は日 本の人間国宝として広く知られていた
。 えるほど有難いと語 った 彼が本格的に人形に手をつけたのは 十九才の時、日本に渡 ってからである 。 一途に人形を学 ぶ ことができるという ただひとつの理由だけで、慣れない異
くれた妻と、父親の後を継いで同じ道 を歩んでいる息子たちも、考えれば考
言った。いまは故人になったが、生涯 を同伴者として何も言わずに激励して
形の本当の 姿 を見 つけだすのに生涯を 費やし、そのように生きてきたという ことが、考えれば考えるほど幸福だと
閣﹂として、臨海殿を建てたのである。 海は一目で全部見られないように、こ の池も一目で全部見られないように作
(アルムダプッタ)﹄と言いますが、両 手を前にして何かを抱えるように丸く 合わせることを﹃一抱え(ハンアルム)﹄
も幸福な人生を生きてきたと感じる罪 翁。幼 いときに日本人たちによ って作 られた風俗人形を見て、韓国の民俗人
﹁ 中世の西ヨーロッパ人は空に向か おうという人間の意志をゴシック様式 の尖塔で表現しました。それを建築す
り、海だと考えたようである 。 ﹁ 韓国語で一番良いものを﹃ 美 しい
るために数十年かかることもあったで しょう 。 しかし、新羅人は自然石をと
ては絶対に行けない天上の世界、新羅 人は天上の幻想、夢を現実に移しまし
本尊仏の威厳を生かすために周囲の菩 薩像と羅漢像を本尊より小さく造成し ました。新羅時代の代表的な遺跡中の ひとつである仏国寺は仏国浄土を地上 に建てた理想的な夢の世界です。生き
なるんです ﹂と手翁は語る 。 ﹁慶州南山の仏は 山と 調和をなすた めに、総じて体は岩に彫り上げること で表現されています。石窟庵の場合も
て、引いて見ると、それがまさに円に なります。だから自然に美しいものと
と言うので、この﹃アムル﹄という語 源から﹃美しい﹄は結局欠陥のない円 ということです。すなわち、円満だと いう言葉ですが、韓国の瓦の家の軒の 線とか味噌瓶の輪郭の線を長く延ばし
っんこつんと割って土台を作ってから 石を整えて、それを積んで雲にかかっ たような高い搭に昇華させ、作る途中 でやめて未完成に終わ っているような 仏像が後ろ側の岩山とつなが って山峰 が法堂に変わります。まさに自然と共 に暮らす美しさを新羅人は体得してい たのです﹂と予翁は語る。新羅の美し さにはこのように小さなものが大きい ものに包まれてよく見えないので、安 易に見過ごしてはだめだと言った 。 韓国の代表的な庭園の一つに数えら れる慶州の雁鴨池は、周囲が一キロメ ー ターを少し超える小さな池に過ぎな い。ところがこの池を海として考えた 新羅人は雁鴨池の横に﹁海辺にある殿
るべきか、その芸術をする者はどうあ るべきかを実践した人で、彼の終生の
教えとなった。 芸術は技ではなく、精神ではないの か。日本にいる聞は、韓国的なものが
出てこなか った。中之子多美女史 から 伝授された技術を基に韓国の民俗人形 を作 ったが、その技術に染みついた日 本色を克服するために生涯を送らなけ ればならなかった。
韓国独自のものを見つけるための彼 の努力はこの時から始まる。韓国人ら
しい風俗人形を作るために、求め行く 旅で彼は終生忘れられない恩師に出会
った。 伝統研究の 重 要性を悟らせてく れた蝶博士の石宙明をはじめ、﹁百済 仏像は全羅道の人に、新羅仏像は慶州
の人に似ている。そこから芽生えて花 咲くのがそこの美しさ ﹂ であるという 真撃な教えを伝えた韓国最初の近代的 美術史学者の高裕盤、美しさにも国籍
があることを教えてくれた画 家 の呉之
湖など、者ノ 翁は彼らの教え が自分を民 族文化の最大の宝庫である 慶 州に、そ して新羅人に導いた契機にな ったと語 った 。
表京烈の作品
46
じかに走って探し出した慶州南山であ る。還暦を越えた年齢で二巻の分厚い 分量の本を発刊したのである。韓国の
一九四九年、彼の生涯の夢だった慶 青舎を設立した彼は韓国人の顔と風俗
像が散在した南山を彼は六O O回余り も登つては下りて、谷間ごと踏み入れ
州に定着して風俗人形研究所である古 を基礎に人形を作ってきた。彼は韓国 人の生活の中で出会える美しい姿を人 形で再現し、また歴史の中からは宣徳 女王をはじめ花郎、官昌、水路夫人に なかったところがないほど探し回った のは、韓国人の顔を探して人形に形象
文化界でも意義あることに違いない。 慶州の聖山であると同時に新羅の仏
花を捧げる老人を呼び出して形象化さ せた。また韓国の人形の歴史を知るた めに寺家の羅漢像と童子像、墓前の文 武人石などを見て枠組を作った。 一度も韓国人によって調査されたこと
がなかった南山に関する総合報告書を 一個人の力で成し遂げたのである。 開発論理におおわれて遺跡がむやみ に傷つけられる現実がやるせなくて、 最後に残った慶州南山だけでも必ず守 らなければならないというのが安翁の 願いである。 ﹁新羅の芸術は悲しみゃ恨にあるの ではありません。力強くて明るい、そ してその中に自然さと多が宿っていま す。韓国人に似た仏の姿であり、燦欄 たる光を放つ新羅の金冠であり、滑稽 とも言える土偶たち・・・。到底推し
月刊﹃客席﹄記者
量ることのできない多くの遺産の中に
は、私たち民族が育んできた夢と無限 の想像力、そして東から日が昇るよう
なまぶしい明るさが含まれています﹂ と安翁は語る。
慶州を何よりも愛する人。新羅の精 神と魂を求め、さまよいながら自分自
身が新羅人になった人。芸術家として の挫折はなかったのかという問いに ﹁欲張らないで生きていたから、挫折
することはなかった﹂と語る現翁は慶 州の斡持であると同時に慶州を見 守る
番人でもある。
平穏が訪れたんです。﹃コンクールが成 熟した芸術家を作り出してはくれない﹄
うに体の力を失っていました。そうや って過ごしてみたら私の心にかえって
めちゃめちゃに殴られでもしたかのよ
のかも知れない。 ﹁ ひと月以上ピアノを遠ざけ、何かに
よりは気の小さい面のある彼女である から、その傷跡は一層大きく深かった
•
化するためであ った。 日帝時代、日本 人によって発刊された﹃南山の仏蹟﹄ が頒布されて以来、恥ずかしいことに
ベク ソ ノ ヒ ヨ /
特な片意地を張ったような言葉も忘れ
・白成鉱
'EEE恵 善 は 自 ら を ﹁ 私 は 器 用 な
世界の舞台に華やかにデビューした白 恵善は﹁最後の勝負﹂をかける覚悟で バン・クライパン・コンクールに出場 した。しかし、結果は以外だった。 一 次予選脱落。 突然止まった高性能の機関車のよう にピアニストとしての生命がこれで終 わってしまったのではないかという恐
t 一 一 一 一 一 一 一 _ . ・
ていない。 彼女がこのような広い人生観を持つ ようになったのは 一九九三年の初めで ある。ウィリアム・カペル国際コンク ール、ヘレンハl卜国際ピアノコンク ー ル、リ l ズ ・ コ ン ク ー ル 、 ク イ ー ン・エリザベス・コンクールなど主だ
ス
ろしさに一瞬襲われたと言う。見かけ
一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 _ _ _ _ J 邑 . .
彼の生き様を顧みるとき、決して欠 かせないもう 一つの貴重なことは彼が
~ー
.• 一~
ピア
、ト
、 ー 、田園園田圃圃色
った コンクールに次から次へと出場し、
ι
,
一 一人閉じゃありません。人一 EEE﹄ 倍 の 努 力 を し て は じ め て 若 干の報いがあるそんな演奏家です。も う一歩踏み出すための苦痛が恐ろしく 感じられます。﹂と告白する。けれども ﹁目前に 迫って来る未来を受けとめ、そ の冒険にあえて挑み、深く思考する目 覚めた人間でいたいのです﹂という独
4 7
E I
E三三E
KOREA OF
ARTISTS
という平凡な真理に目覚めたんです。 き芸術家 ﹂ に選定し、東車日報社は ﹁音楽東亜﹂の大賞を授与した。ソウル
そうする中で文化観光部は彼女を ﹁ 若
催されたベートーベンのピアノ協奏曲
リス ト﹂、﹁悦惚のア ーテ ィスト﹂という 賛辞を受けた。 しかし、何よりも記憶に残る演奏は やはりその年の七月にミュンヘンで開
上げを記録した。 彼女は今年の三月 一 一 一 日から四月 一
で売り出され、一万五千枚以上の売り
マンの ﹃ユー モラスク﹄、﹃ト ロイメラ パルス﹄などを収 イ﹄、ラベルの﹃ラ・ 、 めたこのレコードは今年の初め、国内
歌﹄の中の﹃糸まきの歌﹄など四曲、 モーツァルトの幻想曲ニ短調、シュ l
九九七年の七月、ロンドン・サウスパ ンク ・ヘンリlウ ッドでレコーディン グされた 。 メンデルスゾーンの﹃無言
世界的な レコ ード会社 E M--C L A S SIC Sとのレコ ーディング契約が 決ま った。契約条件は 三枚のレコード を三年にわたってレコーディングする というもの。その初のデビュー盤が一
れ始めた頃にあたる一九九六年十一月、
できました。久しぶりに﹃皇帝﹄らしい 演奏ができました。﹂ このように国際舞台で彼女が注目さ
た呼吸で演奏に深く溺れました。過去に チエリビタケが強調した音楽が果たして 何であったのかを改めて確認することが
した。個人個人のテクニ ックではない、 楽団のアンサンブル自体に全てのフ ォー カスが合わされ、集中力のあるサウンド 音楽を丁寧に築き上げていくんです。私 も気づかないうちに彼らとひとつにな っ
﹁ 団員たちの中には 三O代の半ばから 後半の若手の演奏家も多か ったんです が、ソリストを支えてくれる大変な凝集 力に知らず知らずのうちに感嘆詞が出ま
の言論家の賛辞を勝ち得たことである。
凸領して辛練なことで定評のあるドイツ
の全曲演 奏 シリーズでミュンヘン ・フ の協演を通じて音楽家としての再跳躍 ィルハーモニ ー -オーケストラとベー の足場を設けた。 ﹁ あの時は本当に大変でした。音楽家 一 トーベンのピアノ協奏曲﹃皇帝﹄を協 として果たして何をしたらいいのかが 最も大きな命題でしたし、その命題を 前にしてかなり身悶えしていた状態で した 。結局、韓国の圏内ではこれ以上 演奏家としての成長が不可能だという 判断を下したんです。それでソウル大 学を休職して若干遅れた感もありまし たが、思い切 ってあえてイタリアに発 つ勇気を出しました 。学生のやり直し です。徹底して自律的に運営されるプ ログラムは、アメリカだけで勉強して きた私にと っては、とても独特な体験 でした。ヨーロ ッパ音楽の伝統と個性 を体で体験できたんですから。﹂ レイ・コモでの成果は直ちに演奏会を 通じて現れた。彼女はボストン ・シンフ ォニー、パーミンガム市立オーケストラ、 ミュンヘン ・ フ ィルハーモニ ー・ オーケ ストラ、ニュ lジャパン ・フィルハーモ ニー・オーケストラなどと協演し、大変 なセンセーショナルを呼び起こした。 一 九九五年にボストン銀行が主催した招待 演奏会は、ホストン・グローブ誌によって ﹁今年最高の器楽リサイタル ﹂に選定さ れ 、 一九九六年の初めにはボストン・シ
ャー のようなピアノの大家の集中的な 指導と演奏会を通じて音楽的に幅広い
ンフ ォニーと行ったモーツァルトのピア ノ協奏曲ニ 短調の演奏は数多くの評論家 から﹁必ずもう一度出会ってみたい記憶 に残る演奏﹂という評とともに﹁夢のソ
経験を積み、世界的なオ ーケストラと
彼 女 は マ ウ リ ツオ・ポリニ l ニ 、 プ ・ソン、アレクシスパイセンベルグ、 メレイ ・ペライオ、レオン ・フライシ
の家屋などのイタリアの伝統文 化が共 存する大変美しい都市である。
が特徴である。リゾートタウンとして も広く知られているレイ・コ モはパラ ダイスと呼べるような自然の景観と昔
選定、イタリアのレイ・コモの湖のほ とりにある自らの大邸宅で、宿泊と食 事はもちろん、経費の 一切が提供され、 彼らだけの時間と空間が提供されるの
ール に上位入賞して将来が嘱望される 若きピアニストを後援するために設け られたプ ログラムである。年間五名を
ター会社の会長であり 、音楽 愛好家と して知られているティオ リ ベンが創立 したもので、世界的に名だたるコンク
グラムに女性ピアニストとして唯 一人 選定されたのである。レイ・コモのイ ンターナショナル ・ミュージ ック ・フ ァンデーションはドイツのコンピュー
コモ た。 そんな頃、イタリアのレイ ・ インターナショナル ・ミュージ ック ・ ファンデーションが提供する研究プロ
しかし、 一九九五年の初め、圏内に 定着した彼女はすぐさまこの道は自分 の道ではないということを感じ取った。 そして、たえず脱出を念頭においてい
大学に最年少 で教授に 赴任 したのもこ の頃であった。
ようやく視野が広が ったようなんです。 音楽に真の私の道があるという気がし て ・・・ ﹂ ﹂ 二九才 の挫折、それは彼女の性格ま でも変えてしま った。バン ・クライバ ン ・コンクールの失敗の後、彼女は積 極的な思考を持つ演奏家に変身した。 その代表的な例が一九九 四年の第十回 チャイコフスキ 1 ・国際コンクールに 出場して 三位に入賞 したことと、 一九 九五年の秋、ソウル大学の教職生活に 別れを告げて、イタリアのレイコモ行 きを決定したことと言える。この 二つ の果敢な官険により彼女は世界的なピ アニストの隊列に合流することができ たのである。 ﹁それは私に与えられた生涯最後のコ ンクールの機会だ ったんです。年齢の 上限である 三O才になるにはまだ何カ 月か残っていましたから。果敢な挑戦 を決心したんです。誰かに何かを見せ ると言うよりは﹃このコンクールを通
したんです。運が良かったというか、
じて私自身を探そう﹄という思いで書 類提出の最終日にコンク ール の受付を 一位のない三位に入賞することができ 士子し# 。﹂
チャイコフスキ 1 ・コ ンクールの入 賞で白恵善は再び自身を得、専 門演奏 家として徐々に忙しくなりはじめた。 ﹁芸術の殿堂﹂の音楽堂で鄭明勲の指揮 でI P I総会の特別演奏会を持 ったの を皮切りに、 L Aでの演奏会、ニュー ハンプシャl のノアダックフェスティ バルでの独奏会、ハワイのホノルル ・ シンフォニーとの協演などが続いた。
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O 日までデビュー盤のプロモーション を兼ねた全国九都市巡回演奏会を行っ たが、二年前のリサイタルとはまるっ きり違っていた。プログラムをあれこ れ選んで小 口 聞から難曲にいたるまで多 彩に構成し、聴衆に﹁白恵善はこんな 演奏家だ﹂というものを見せた。 聴衆に出会うたびに常に新しく近づ
でもすればいいのではないか、なんで
ると言った時も ﹁ 教会でピアノの伴奏 リンカー ン ・セ ンタ ー エリス ・トリ
静かで叙情的な面では繊細な感覚力を
発見し、その 中に飛び込 んでぶつかり 苦悩し痛 みを受けた全てのものを自ら の音楽におり 込もうとす る、変身のた めの努力があるからである。時たま 我々を驚かす神童音楽家が出ることは
けて期待の眼差しで彼女を見つめるの は、彼女自身が確固たる音楽の世界を
次世代の代表走者というタイ ト ルを付
での父親との最後の旅行であった。 三O代の半ばにさし かかった白恵善 は今や世界の舞台が認める次世代のピ アニストに成長した。我々が白恵善に
はすでに肺癌の宣告を受けていた状態 であった。残念だった。それがこの世
ちの娘は本当にかわいいよ。﹄と言った んです。それを聞いてどれほど嬉しか ったかわかり ません ﹂ 。 しかし、父親が娘 を 認めた時 、父親
会場で父 は私の手をし っかり と握り、 ﹃おまえが勉 強をしたことはしたんだ な。自分のやりたい事に最善を尽くす 姿が見られ たからも ういい。 これ でも うピアノと結婚したと思いなさい。う
い感動の涙を流した。 ﹁演奏が終わった後、レセプションの
吹き込んでくれた﹂と好評した 。 客席で彼女の演奏を聴いていた父親 はその時になってはじめてとめどもな
売り切れを告げる﹁∞ 0502 ﹂という案 内が付いたこの日のリサイタルで、彼 女は初めて自らの真価を世の中に知ら
ー ・ホ ー ル で ニ ュ ー ヨ ー ク ・デビュ ー ・リサイタルを開いた時、父親が娘 に会いにアメリカまで飛んで来たので ある。リサイタルの公告欄に入場券の
留学なんだ﹂と飛行機のチケ ットを破 ってしまう父親であった。 泣きながら飛行機のタラ ップ を上っ た彼女はニュ lイングランド ・コンサ パトリ予備学校から大学院までなんと 一五年の 問、下和場とラ ッセル・ ショ ーマン教授について学んだ。 父親が彼女を認めたのはピアノを始
しめた。﹃ニュ ー ヨークタイム ズ﹄誌は 当時、こ のリサ イタルに対 し、﹁幅が広 く個性の強い演奏であった。リストや スクリアビンでは空を暴風雨がおおう
子 言干した は繊 細 な 感 覚 力 を吹き込んでくれた」 と女
ような瞬間瞬間が感動的であったし、
うな H 舜問目非 同 が 感動 的 で あっ たし 、 静 か で 叙 情 的 な 面 で
くピアニスト白恵善。しかし、その新 しさの裏面にはそれ以上の苦痛が伴っ た。大郎で生まれ、満四才の時からピ めて二 O年もの歳月が過ぎた後のこと であった。一 九 八九年にウィ リ アム ・ カペル国際 コンクールで優勝した後、
1 デ、ビューリサ イタ ルに 対 し、 1 品広 く個性 の 強 い 演 奏で あ 1 '
アノを始めた彼女は、夜明けの六時に 起きて 二時間きっちりピアノを弾いて から幼稚園に行くことで一日の日課が 始まったという。小学生二年の時に 慶 北道内のコンクールに出場した時には、 ひと月の問、一日に一 0時間ずつ練習 して舞台に上がったという恐ろしい子 どもであった。 ﹁その時、ソウル大学の学生だった秋 勝玉先生(現在、嶺南大学教授)にピ アノを習ったんですが、今考えてみる とあの方も普通じ ゃなかったように思 えます。なぜならどうして幼い子ども にあんな無理な練習をさせたのか想像 もできないからです。その後、小学校 を卒業するまであの方にレ ッスンを受 A
同り宇アレ九九 。﹂
秋勝玉との縁は白恵善がピアニス ト として成長することに決定的な役割を 果たした。彼女の勧めで芸苑学校に進 学し、アメリカへの留学もまた彼女の 斡旋でなされたためである。しかし、
リス トや スク リア ビ ンで は 空 を暴風 雨 がおおう よ った。
出るが、ほとんどが感動のメ ッセージ を伝える芸 術 は芸術家なりの生き方の 経験を昇華したものであることを思い 起こす時、白恵 善の未来は極めて 明る いと言える。演奏会を開くたびにより 円熟した姿で我々に近づいて来る彼女
にかける期待が人並み以上である理由 もそのためである。 畠 '
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常に父親の存在が妨げであった。大郎 の東山病院の院長であった父親は一人 娘がピアニストになることを願つては いなかった。彼女がアメ リカに留学す
『ニューヨー クタ イ ム ズ 』 誌 は 当 時、 この ニ ュ ー ヨ ー ク・
LIAA 国は 四季 の は っ き り と し た 文 化は、急速に変化した環境の中でと めどもなく失われたり、変容しつつあ
にわた って形成されてきた様々な伝統
容を見 せる 。人々もまた 、それに合わ
変わる ために、自 然の 風景は劇的な変
節がめぐる。季節ごとに気温が大きく
﹂ ドE l月 間 は 冬 、 そ の あ と は ち ょ うど一二月ごとに春、夏、そして秋と季
ソリ、そして最近ではサムルノ リと呼 ばれるようになった農楽や、伝統的民
きた。その結果、チャン (唱) やパン
いう努力が若い世代の中から生まれて
中で伝統文化を守り、再生させようと
る。しかし 、 その 一方、こ うした渦の
↓
ゴー占国である。十二月から三ケ
せて衣替えをしなくてはならない。こ
きたはずである。季節の変化に合わ せ
る た め 、 そ れ は 長 い 歳 月 に わ た って 人々の気質に何らかの影響を及ぼして
されはしたが。そのため 、改良韓服な ど と 呼 ば れ て い る ) な ど は 、旧世代 の
族衣装である韓服(最近ではこれも現
のように四季の変 化 がはっきりしてい
ようとすれば、おのずと心せわしくな
人々よりはむしろ新世代の若者たちの
んどは 、都市 に生まれ 、農村 の生活を
方に好まれ、愛用されているようであ る。しかも、皮肉なことに彼らのほと
代 の生活に合うようにずいぶんと改良
るからである。 韓国はわずか数十年前までは、何千 年にもわたる純然たる農業国家だっ
知らない高等教育を受けた人々であ る。したが って 、 一見伝統的なものを
4
た。しかし、最近の韓国では、様々な
で農村に還り、農業を始めようという
好むようでありながら、実は彼らの中
た。そのため、ほとん どす べての年中 行事 と文 化 は農業にかかわるものだっ 混乱によって世代問の葛藤が深刻にな
若者はほとんどいない。
ってきている。その理 由 の多くの部分 は、農業から工業へという急激な産業
そのほとんどが都市とその周辺の工場
工業 化 の波に乗 って、農村の人々も
構造の変 化 によ って、人々の価値観が 大きく変わ ったことによる。長い歳月
残ったのは工場で働けない年寄りがそ の大部分だった。彼らが七十年代以降
に移ってしまった。そのため、農村に
ある。
力を使い果たした老人の . ような風情で
変えた家や瓦屋根の家、いまではその
を守ってきたのである。これらの勤勉
かつての伝統的な農耕社会では、三
ほとんどの建物が寿命が来ていて、気
これまで、韓国の農村を、農村の田畑 な人々は、彼ら自身の努力と国の政策
世代が 一つ屋根の 下に住む大家族が当 たり前だった。その当時は、働き手も
人として扱われ、田畑に出て働くこと
多かったが、何よりも平均寿命が短か ったために、五十才、ぐらいになると老 の結果、当然のことながら、農作業の
く建てられた家も、空と山と風の通り
らしく、洋風とはいえ国籍不明の新し
により、昔よりは経済的に豊かになっ 際にはそうしたことを誇るどころか、
道をさえぎって建っている高層アパー
た。しかし、それにもかかわらず、実 都会の人々と比べた場合の相対的な貧 作ゆっ# 。
ている。普及率が世界第何位とか言う
コストも以前よりずっとかかるように
電気と電話だが、その事実を視覚的に
もほとんどなかった。ところが、今で
らは若者たちが農村に還り、科学的な
証明しようとするかのように電柱が野
は平均寿命も多少は長くなったが、そ
方法で農作業を進めていかなくてはな
山の美しい頂に突き立てられ、幾多の
困感と劣 等感につきまとわれる人々の
上の人々と婦人である。ときには七十
らない。一つ一つが手作業であった時
方 が 多 い の が 事 実 で あ る 。その結果、
を超えた高齢の老人であることも珍し
代の階段状の傾斜のきっぃ、面積の狭
トも、周囲の環境にはま ったくお構い
や冷蔵庫を持つようになったにもかか
くない。そう遠くない昔でも、﹁結い﹂
らず、今も圏内のあちらこちらで同時
電線が走っている。それだけにとどま
なしに、経済性だけを考えて建てられ
わらず、生活の質はほとんど変わりが
といって隣人どうしが労働力を提供し
い水田も、現在では機械によって農作
新しい機械は高齢の老人にとっては
ないように見受けられる。それは、根
業が行えるように整理された。しかし、
そして高速鉄道の線路が山を削り、ト
多発的にいくつかの高速道路と国道、
手に余るものである。そこで、これか
本的には住宅問題が解決されていない
う慣習があったが、今ではそれぞれの
合い、農繁期にお互いの農作業を手伝
営農には多くの資本が必要である。農
れよりも働き手不足のために、田畑に
ことに原因のほとんどがあるように思
村に多大の投資ができる人はまだそれ
出て働いているのは大部分が五十才以
われる。未来に対する不確実性(いっ
もほとんど廃れてしまった。そのかわ
農家の労働力の均衡が崩れ、この慣習
によい食生活に恵まれ、大きなテレビ
たいいつまで農業を続けていくのか、
昔に比べれば量的にも質的にもはるか
またいつまで農村で暮らしていくのか
い地図が必要になるくらいの非常な速
ンネルを掘って建設されており、新し 農村を訪れると、自然環境は昔のま
たあらゆる変化は、残念なことにこの
度で大きな変化が起きている。こうし
ほど多くはない。
してくれるトラクター、コンバインな
て醜悪である。古くなった家はみすぼ
ま美しいが、人工的な物は大体におい
り最近では、人間の代わりに農作業を
という)ゆえに、住宅に対する投資を 足踏みしたり、そうでなければ投資が
どの農機具を持っている人を必要なと
韓国はわずか数十年前までは、 何千年にもわたる
純 然 た る 農 業 国 、 家 だ っ た 。 そのため、 ほ と ん ど す べ て の
年中行事と、又化は農業にかかわるものだった。
しかし、 最 近 の 韓 国 で は 、 様 々 な 泥 乱 に よ っ て 世 代 間 の 葛藤が深刻になってきている
53
きだけ雇って、仕事をしてもらう。そ
眺めている暇もない
不可能であるせいだろう 。伝統 的な家
民は忙しくて、こうした美しさを
屋である藁葺き屋根をスレート屋根に
高倣の文殊山は紅葉が美しい。農
国土の美しい自然環境を無惨な形に変 えてしまっている。韓国では七十年代 の初めから工業化、現代 化という開発 のス ローガンがすべ て の論理に優先し ている。 韓国の農業の中心は米である。小麦、 大麦、そして豆類も多く栽培されてい るが、韓国人は米以外のものをひとま とめに雑穀と呼んでいる。雑穀という 言葉 には、やはり 一段低く見るという 意味がこめられている。しかし、見方 を変えれば、それは雑穀を見下してい るというよりは、 米 に対する強い執着 を表しているとも言える。三十年ほど 前までは、一生に 一度 でいいから白米 のご飯を腹一杯食べてみたいという人 がいくらでもいた。降水量の多少や害 虫による被害のため、かつては米が豊 作になる年の方が珍しかった。他の雑 穀がいかによい出来であろうと、米作 がうまくいって初めて豊年と言ったも のである。 この小さな韓半島は 北と南に、その ちょうど中ほどで分断されている。 北
されているの がその証拠で
のことはさておき、南の場合だけを見 ても、南側 の北端である北緯 三八度付
と って 住みや すい数々の条
リ の よ う な 伝 統 音 楽 が 発 達 し 、 全国 津々浦々にその名の聞こえた歌い手た ちを数多く輩出した。韓国の工業 化 が
いたところである。高倣では、全羅道 文化 の核 心 とも言えるチャ ンやパンソ
こいの地形である 。 そのため、農業中 心の伝統社会にあって非常に繁栄して
流れるのにちょうどよい 小さな河 川 が 発達している。広い平野を低い山々が ぐるりと取り囲んで、穏やかな地形を なしている。要するに農業にはもって
ない。気候は 比較 的穏和で、降水量が多く 、 雨水が
件を備えてい たと考えるの は、さして無 理なことでは
ある。高倣が その 時 代にあ っても人間に
近の 山 岳地帯の米作と 北緯三 四度付近 の南方の平野 地帯の米作の時期は 、 ほ とんど二ヶ月 近くもずれている。緯度 で言えばたつた四度ほどの違いである にもかかわらず、その違いゆえに気温 と降水量が異なり 、 それによって稲の 発育も微妙に左右されるからである。 田植えは、南韓の北端では四月初めに 行われ、それは次第に南下して南端で の田植えは五月の末頃である。また 、 秋の取り 入れ はそれとは反対に、南端 では九月 初 めに始まり、北端の 山岳地 帯では十一月初めにようやく終わる。 ここに載せた写真は、全羅 北道の高 倣郡星内面と古水面で撮 ったものであ る。高倣は韓半島の南西に位置してい て、まだ伝統の名残りがそこかしこに 残っているところである。西海を懐に 抱 える高 倣 の地 には、先史時代から多 くの人々が居住 していた。青銅器時 代 のものとされるドルメンが、高倣郡の 上甲里と梅 山 里一帯に五百基以上も残
できる。 このように縄で編んだ袋をかつ
いで柿の木に登り 、もぎと って袋に入れ
る。普通、米の取り入れが終わったあと
に柿をも ぐ
もずっと華やかである。 韓国で最も大きな年中行事の一つで ある秋夕(陰暦八月十五日)は、秋の
く馬肥ゆる秋﹂と言う。 山 は様々な色 合いの紅葉に彩られ、春の開花期より
気温は快適で 晴 れた日が多く、取り入 れの時期であるから食べる物も豊かで ある。韓国人は秋を指して俗に﹁天高
とは言えなくなった。 秋は韓国人が最も好む季節である。
の取り入れを行う。秋の田んぼは、か つてと同じく黄金色に輝いている。し かし、今では黄金のように貴重な穀物
農民は喜びの取り入れではなく、義務
偏在により、農 村 の若者は都市へ都市 へと 引きつけられていった。 それと同時に 、農村の生活はますま す苦しくなっていった。しかし、そう した農村にも再び秋はめぐってくる。
れ、経済的にも発展から取り残される ようになった。これは高倣に限ったこ とではなく、同じような全国の農村に 共通の現象である。都市に偏った富の
進むにつれて 、こ うした 土地 柄はむし ろ産業の発展の名の下に隅に押しやら
柿はどの地織の農村でも見かけることが
54
取り入れが終わったばかりの時期にめ
ぐってくる。伝統的に儒教の影響を強
く受けているため、これといった宗教
的な儀式はなく、ただ各家庭の先祖の
酒とご飯と餅、そしてそのほかに何種
霊前に収穫したばかりの新米で作った
類かの果物と肉類を捧げ、﹁ご先祖さ
いました。収穫したものをお捧げいた
ま、今年もおかげで無事に農作業を終 わらせることができ、ありがとうござ
しますので、たくさん百し上が って下
さい﹂という意味の祭杷をとりおこな
農業と農村は衰退したが、秋タの儀
事つ。
る。そのため 、秋タともなると、産業
式 を 行 う 風 習 は 今 も 根 強 く 残 ってい
化され た都市とその近郊で自動車やテ レビ やコンピュータを作ったり 、売り
さばいたりしている多くの人々を含
め、農村をあとにした無数の人々が、
その祭叩に参 加す るため、都市に出て きて稼いだ金で買った車に家族と手土
産をぎっしりと積み込んで故郷へと雪
崩のように帰っていく。国内のあらゆ
る道路が麻痩したかと思われるほど
の行事が終わると若者たちは再び都市
の、いわゆる﹁民族大移動﹂が起きる 。 まるで 一騒 動あったあとのように、そ
へと舞い戻り、主に老人だけが残され
た農村はまたしても寂婁たる野山のな
かに沈んでしまう。ほどなくして、韓
国の秋はさらに深まっていく。日毎に
日は短くなり、気温は下がり始める。
ある日、北から吹いてきた冷たい風が
枯れ落ちた葉を舞い上がらせて吹き渡
っていくとき、すでに冬はその到来を 告げているのである。
' A
55
チョンスンモ
・ 鄭勝諜 ソウル市立博物館専門委員
﹁ 生 日﹂と呼んで、家族のように大事に した。作男たちに薮入りの日(韓国で は陰暦 七 月十五日)があるように、陰 暦一月に入って最初の丑日を牛の日と
おける午は、その穏 和 で勤勉な習 性 ゆ えに韓国民族にとってかけがえのない 存在だった。特に農家では牛のことを
インドの人々は牛を崇拝するという が、韓国人にとっても 牛 は単なる食べ 物といった存在ではない。伝統社会に
し、農耕に生活の基礎をおいた韓国の 伝統社会では、牛はあくまでも農業生 産力の大切な一部分であった。
給源である食品としての牛を思い浮か べる人の方が多いかもしれない。しか
牛が飼われ始めたのは今から約二千年 も前のことだという。最近では農作業 における牛の重要性はほとんど失われ、 今では牛と言えばまずタンパク質の供
愁を今でもかきたてずにはおかない。 考古学的な見地から見て、韓半島で
瞳、そしてモ l モ! という鳴き声は、 農村で幼い日々を過ごした者たちの郷
JHr ヨl 牛 の 大 き な 体 と 澄 み 切 っ た
ゴI占
占 国文 化 のなかで牛はどのよ ' u I F占 うな存在であっただろうか 。
MARKETS OF KOREA
1 .D
'万(1
56
いい、この日だけは牛に仕事をさせな いのはもちろんのこと 、飼い 葉桶にい つもより多くの豆を入れてご馳走をふ るまったという。 そのせいか、韓国には昔から牛を人 格化し た説話や逸話が数多く伝えられ ている 。朝鮮時代前期の名宰相として 名高い黄喜 がまだ幼か った頃、 通りが かりに 二頭の牛が畑を耕すのを見て、 農夫にどちらの牛の方が畑を耕すのが 上手いかと 尋 ねた。すると農夫は、黄 喜のそばに寄ってきて耳に口を寄せて こっそりと、﹁あちらの牛の方が上手に 耕します﹂と答えた。黄喜が不思議に 思ってそのわけをきくと農夫は、﹁ 一寸 の虫にも五分の魂と申しまして、牛の 気持ちも人の心もかわりございません 。 私 が こ ん な こ と を 言 う の を 聞 い た ら、 もう 一頭の方が悲しがらないと誰が申
5 7
せましょう﹂と答えた。この答えに黄 喜は大いに悟ることがあったと言う。 韓国社会でも、特にソウルのような
Z のzm czl豆﹀Z 主 ︿︿﹀
( 左下)牛市場が聞かれる日の市場の
大都 市 で牛が主に食 肉として 消費され た時期があ った。十九世紀後半の 一時 期、牛皮が主に日本向けに大 量 に輸出 されたが、これと並行して酒の消費 量
様子
がうなぎのぼりとなり、政府が禁酒令 を出すほどだ った。 一見なんの関係も なさそうなこの 二 つの現象を結びつけ るものは、酒の肴として牛肉が大量に 消費されたという事実である。つまり、 その背景には、牛を農作業に使役する のではなく、肥肉を目的として飼育す るという現象 があ ったわけである 。 し かし、これは社 会 全体として見れば、 またその後の 産業社会と比較して見れ ば、ごくわずかな 量であ った。
( 左上、右)戚平牛市場の昔の様子
二O世紀に入って産業の発展により
農村人口が都市に移動する過程で、農 村の両親が都会に暮らす子弟に仕送り をするのにも牛の果たした役割は大き い。牛はまとまった金になるだけでな く、手軽に現金化できる主要な動産で もあったからである。特に牛は、多く の農家にとって子供たちを大学にやり、 その学資を支える元手となり、ある時 期、大学を指して﹁牛骨塔﹂という言 葉が生まれたほどだった。また、最近 では現代グループの鄭周永会長が 北朝 鮮を訪れた際に、食糧支援の 牛 五百頭 をトラックに載せて板門店を通過した ことがニュースで伝えられ、話題を呼 んだことも記憶に新しい。 かつては農作業に必要な働き手であ った牛の供給の場であり、そして産業 化の過程で牛が現金 化され、将来の資 金調達を見込んで子牛が取り引きされ た場が、今ここで取り上げようとして いる牛市場である。 一九一八年末のある調査によれば、 当時全国六五五カ所に牛市場があった。 その中でも、 全羅 南道成平郡成平ロ巴の 成平 川近辺に位置する牛市場は、この 辺り 一帯の農家から集めら れた牛と智 島、荏子島などの西南海岸の島々で育 てられ、集荷を請け負う商人たちによ って集められた牛が売買されてきたと ころである 。島の人々が直接牛を売買 するために出て来るには交通の使がよ くないため、成平牛市場は今でも取引 量の多い、大 きな牛市場である 。 面積 は約 三千坪で、牛をつなぎ止めておく 繋留場には約八百頭の牛が収容できる ようになっている。もともとは成平の
戚平の牛市場は夏は早 くも明け方 5時頃から混雑し始めて午前8時になると取引がすべて終わる
五日ごとに立つ市に合わせて牛市も関 かれていたが、今では畜産業協同組合
がその運営にあたっており、管理の便
成平で市が立つ日に合わせて、五日
を図るため五 日市とは別途に 、十 五年 前に戚平 川 の向 かい側の河 川敷にこの 牛市場を設けた。地元の人々は牛市場 のことを﹁牛場﹂、﹁牛庖﹂、﹁牛市﹂な どと呼び慣わしている。
ごとの こと七のつく日に聞かれる威平 の牛市場は、家で育てた牛を売るため に、また これから育てる牛を求めるた めに出かけてきた農民 、 その売買を生 業とする商人たち、販売者と購買者を 引き合わせる 仲介入、畜産業協同組合 の職員でごったがえす。彼らはすべて
男性である。かつてはそのほかに、牛 にまぐさを食わせ、牛追いたちに食事 と宿を提供する馬房と呼ばれた宿屋の
主人、牛の健康状態を鑑別する鑑別師 などもいたが、今では交通と運送手段 の発達により馬房はなくなり、また取
り引きされる 牛 の大部分が肉牛となっ て、目方以外には牛の状態がさほど重 要ではなくなったこともあって、獣医 の出る幕もなくなってしまった。 牛の仲買人たちはあらかじめ牛の産
地 を回 って集めてきた牛たちを ト ラッ クに載せて来て売るのだが、牛の価格 がよければ売るが、値段の安いときは
売らずに、む し ろもっと買っていくこ
ともある。 仲 間貝人たちはそれぞれ自分 の牛を屠殺して精肉庖などに売る場合 もあるが、十数人一緒になって自分の
牛の尻にペンキで所有者の 印 を付けた あとで、一人の商人に一任して屠殺し、 これを受け取って卸売り市場に売るこ
58
ともある 。 この屠殺を請け負う業者は、
反対となる。 市 の立つ日にだけ営業す る牛市場付近の 食堂は、明け方 四時頃
って帰る ときには、荷台の様子はその
に屈を開け、市が終わってからは朝食
まいしてしまう。
や取 引終了後に飲む手打 ちの酒を飲み に来る 仲 買人たちを迎えたあと、朝の 九時頃にはだいたいの庖が早々と庖じ
た。そうした場合には、馬房と呼ばれ る宿屋に泊まって、明くる日の市にそ
農繁期や冬 ともなると、 一日に百七 十頭から百八十頭の牛が取り引きされ る。これは、競りに出される牛の約六
インを記すことになっている。牛の特
の性別、年齢、毛色、特徴、体重およ び落 札価格、そし て競売者の氏名と サ
件で 牛を集めてくる。農民の 側でも自 分で牛を 引 いて 市 場まで行くには、運 送費と時間がかかりすぎるため、家ま
で直接農民と取り引きして、有利な条
しかし、最近の仲買人たちは、現地
牛市場や 比較的規模の大きな長城牛市 場へ と移動する 。戚平牛市場を取 り巻 く付近の牛市場は、霊光牛市場が一の
なえた。買い取った牛をほかの市まで たちの仕事だ 連れていくのは、牛追い・
っ 存 、
徴としては 、顔に あるつむじの位置 、 角の形などが書き込まれる 。仲 買人た ちは、この牛市場以外にも、 比較的取
で直接来てくれる仲買人たちと直接取 引する方を好む。
て、取 引の中心 が役牛で、農民たちが 直接牛を 引いて来て いたころには、正 、 日暮れ時 かある 午過ぎに市が始ま り いはもっ と遅くな ってからすべての 取
に到着するトラ ックを見 ていると、そ の半分は荷台に何も載っていない車で、
後の交通混雑に巻き込まれることなく、 その日のうちに集荷場や販売所まで回 って、家 に帰れるからである。明け方
って、午前八時ごろにはすべての取引 が終了してしまう。冬でも遅くとも午 前六時前には市が始まる。仲買人たち は、開始時間をも っと早めて、ほかの 市 のように明 け方四時 頃に始 めたいと いう。早く終われば終わるほど、その
のは昔とさほ ど変わ らないが、その性 格はすっかり様変わりした。今となっ ては、 真つ昼 間に牛を引いてきて、の んびりと取引をしていたかつての牛市 場の面影は、どこを探しても見あたら ないのである。
農業が衰退し、農村の過疎 化 が進む につれて、田舎のちっぽけな牛市場は その姿を消してしま った。一 方、成平 牛市場のような中間的市場は交通と運 送手段の発達のおかげで取引量そのも
割 に当たるという。取 引量の多いとき には五 百頭にも上ることも あり、その うちの三百頭ほどが取 引され る。取引 が成立しなかった牛は、近くの栄 山浦
引量の多い全羅南道 内の長城牛市場と 霊光牛市場でも取引に携わ っている。
日と六の日、成平牛市場 が二の 日と七 の目、和順牛市場が三の日と八の日、 長城の黄竜牛市場が四の日と九の目、
引が終わった。遠くへ移動しなければ ならない 仲 買人たちは、 他 の者より急 いで競りを終え、暗くなる前に次の市
半分は牛を載せた車である。市が終わ
りの開始時間も次第に早まり 、 最近で は夏ともなれば明け方五時ごろに始ま
役牛の取引が次第に姿を消して肉牛 販売が主流をなすようになり、また牛 を手ずから引いて市に出てくる農民よ
仲買補助人は、かつては﹁蜂 ﹂仲 買 人と呼ばれ、非公式の取 引 を行う者た ちのことをいう。現在、仲買人は十八 名で、そのうち正式の仲買人が九名、 仲買補助人が 九名で ある。牛市場に集 ま っ て く る こう し た 人 々 を ま と め て
りも、トラックに牛を積んで来る仲買 人たちが市の中心となるにつれて、競
人は成平畜産業協同組合が発行してい る落札調書を作成する。この調書には、 販売者と購入者に関する事項と競売牛
競りで牛が競り落とされると、仲買
牛の仲買人たちの牛を預かって屠殺を 請け負う代価として牛の頭と牛皮、そ して少額の謝礼を受け取る。つまり、 牛を集荷して売買する牛商人と屠殺の 仲介をする牛商人とは分業化されてい るわけである。 ﹁自分の牛の大きさはわからないも のだ﹂ということわざがある。他人の 牛よりも自分の牛の方により高い点数 をつけるという意味で、牛の価格の決 め方は人によってずいぶん違うという ことを 言い表している。そ こで、牛市 場では昔から取 引を仲 買人にまかせる ことで争いを防ぎ、取引を無事にとり おこなってきた。 仲買人がそれぞれの牛を繋留する場 は決まっている。その場所には牛をつ なぎ 止 める杭が立っている。彼らは元 手となる資金もなしに、杭を動かして 牛をつなぎ止めておくだけで金を稼ぐ と言われ 、俗に﹁杭ころがし﹂と も呼 ばれた。現在の杭は鉄パイプ製だが、 昔は木の杭であったから牛が暴れると 杭が折れてしまうこともあ った。その
栄 山浦牛市場が五の日と十 の日に開 か れる。交通の発達で、最近は 牛 の仲 買 人たちも 、全羅南道内 に限らず 他 の道 の大きな市場をも渡り歩くようになっ た 。
へと移っていくこともあったが、大部 分の者は ここ で一夜を過ごしてから、
﹁牛の屈の人 ﹂と 言う。 牛市 場の一日も最近では昔に比べて まったく様変わりしてしまった。かつ
翌日の明け方に次の市へと移っていつ
59
場合には、その杭の持ち主である 仲 買 人が修理することになっていた。 牛を購入 しよ うとする者が、自分の 持ち場である杭に陣取っている仲買人 のと ころに寄ってきて 、牛の購入資 金 の一部を支払うところから取引は開始 される。仲買人が牛の持ち主と交渉し て取引が成立すると、 仲 買人は購入者 から預かった金を牛の持ち主に渡し、 その後購入者が牛の所有者に残りの金 を支払うことで取引は終わる。その際、 仲買人は手数料を差し 引いて おく。
•
NATURE O F
チョンヨンウ
・ 全 瑛宇 国民大学山林資源学科教授
存している現場を我々の周辺で見つけ るのは容易ではない。温帯の他の地方
る多くの広葉樹が集まっている所とし て有名である。三千坪規模の一ヘクタ ールの面積に四O余種類の広葉樹が共
な生物に細かく分担されていて、閉じ られた循環体系が円滑に回っていると いうことを指し、このような循環の過
われる。安定した生物社会を維持する ということは生態系を構成する生産 者、消費者、分解者の役割がいろいろ
の植物が生存していて、モデミ葉、金 剛提灯花、 ・金剛チゴユリなど、 コ一 六種 の韓国特産種が棲息していて、自生特
程が円滑なほど生態系の平衡がうまく 維持されることがわかっている。その ような意味で点鳳山の林は多様な樹種 で構成された生態系の宝庫だと言えよ う 。 点鳳山の林には韓国に自生する植物 全体の二O %に該当する八百余種以上
き声を林の中で聞くことができ、冷た い渓谷の水に泳ぐ満州マスと金剛フク
所でもある。 それでいまだにキツツキの澄んだ鳴
ソ、廓香鹿、山羊のような天然記念物 が集団棲息する地域として報告された
産植物の宝庫である。また林の中には 三O余種の動物たちがいて、 一時は韓 国で唯 一ヒョウが棲息した場所であっ ただけでなく、ムササビ、熊、カワウ
と比較してはるかに多様な樹種で構成 された点鳳山の閲葉樹林は貴重な韓国 の自然資産である。それで韓国の林や 自然に関心がある人々はここの閲葉樹 林存二度は訪ねるべき所として心に刻 んでいる。 生物種が多様であればあるほど、安 定した生物社会が維持できるとよく言
ロウを見ることができる所が点鳳山の
林である 。韓国の中でもこれ、ぐらい多 様な動植物が棲息する林が多くなく、 鎖東里点鳳山の林は 貴重な所なのであ る。点鳳山の林が生態的重要性を認め られてユネスコから自然環境保存地域 に指定された理由もここにある 。
この地で人の助け や干渉なく自然の 力で生成維持される処女林や原始林は すでに遠い昔に消えた。しかし、点鳳 山の林はこの地で原始林の神秘を少し ではあるが感じることができる所で、
韓国の林の典型的な姿を体験できる所
で時を待つモミの木の生存戦略、そし
である。特に鎮東二里の三叉路から始 まる九キロメlタの鎖東渓谷の林は韓 国の地で天然閤葉樹林の真価とその下 て原始林で味わうことができる太古の 神秘を共に体験できる唯一の所でもあ る 。 人間の時間で林の動態を予測するの はたやすいことではない。点鳳山の林 で、たやすく目につくことはないが、 自分の生育空間を広めるために激しい 闘争を閲葉樹等と展開しているモミの 木の力動的動態を見るのはそれで興味 深い。 モミの木が太陽の光を好むモンゴリ ナラや斧折(檀木)が作った暗がりの 薄暗い陰の中で周辺の木と競争して生
年輸を区別できたという経験を思い返
始めるために腐っていく切り株の上に 新芽を吹き出す幼いモミの木の苗木、
虫によ って腐って土に戻っていく老い
昔である。 これからすることは簡単である 。激 しい息づかいを静かに落ち着かせて、
ある。空はすでに欝蒼とした木で遮ら れており、林の底辺まで到達する太陽 の光の量が少なくなったのはもう遠い
体験できる所がまさに鎖東渓谷の林で
林の動態 。私たちは生死のあらゆる力 動を生き生きと感じることができる所 にいつの間にか入り込んでしまう。こ のようにほんの一瞬で原始林の神秘が
法則が生き生きと繰り広げられている
様な形態と各自異なる様相で新しい生 命を誕生させる大地の力、そしてまた 腐って土に戻っていく生命循環の自然
続は終わりのない自然の生命力を改め て考え直させてくれる悟りである。多
これらが共にもつれ合 って、すぐに目 に入ってくる現場。点鳳山の鎖東渓谷 の林で見ることができる誕生と死の永
た朝鮮ミネバリ、そして新しい生命を
ける独特の生育能力を持っている。 すに、この木の生存戦略は神秘的とま で言える。日陰で数十年の歳月の問、 時を待つことのできる木、その忍耐力。
持って眺めれば、ここでは絶えず循環 する林の姿も見ることができる。旺盛 な生命力をほとばしらせながら、空が
し、林の秩序を正しく見ることができ る目を持った人には、その真価が見え、 林はより 一層神秘的なのである。 それだけではない。少しでも関心を
の盟主はこのように遠くにあるのでは なく、私たちのすぐ傍らにある。しか
ミの木。威風堂々とした巨大な図体を 百年、二百年後には誇るモミの木。林
の木のような太陽の光を好む木をいつ かははねのけ、この林の主人になるモ
ているモンゴリナラや蔦紅葉または科
同時に大器晩成型の木である。 かりに今日の目で見ると、遅咲きの 木であるが、モミの木の上で生い茂っ
だからモミの木は遅咲きの木であると
日陰でも生きることのできる能力が 強い木であれば、耐陰性が強いと言わ れ、俗に陰樹と言われる。木が耐陰性 を持 っているか否かは 、林の主人を選 ぶ重要な要因となる。自然状態で林を 放置しておくと、長く続く選移過程に よって一番最後まで林を守ることがで きる木が陰樹であるからである。そん な理由で太陽の光が充分でない日陰で 十年、 二十年、ある時は百年間でも耐 え抜ける強靭な生存能力を陰樹は持っ ており、最後の瞬間には太陽の光を好 む樹種が占めていた生育空間を占める ことができるのである。 鎖東渓谷の点鳳山の林では二メート ルの高さで一 0センチメートル程度の 太さのモミの木を簡単に見つけること ができる。平地で育った木ならば、こ れぐらいの大きさに育つためには一 O 年程度で充分なはずだが、実際には百 歳にもなった木だという事実を知ると びっくりするであろう。数年前、研究
高いことを知らずに育つ木、寿命が尽 きて切り株ごと倒れている巨大なモン ゴリナラ、自分自身の痕跡がカビや昆
あらゆる時俗にやつれた体を林の清新 な気運で洗うことである。林の精気が いっぱいに溶けて流れる澄んだ渓谷の
水を 一口ふくんで、深呼吸をしてみる 時である。そして五官を開いて林を胸 に込めると新しい世の中が見えてくる。 林をこのようにたやすく胸の中に入 れられる所は多くない。原始性をとど めている鎖東渓谷の点鳳山の林だから
可能なことかも知れない。目を閉じて 林の声、林の香りを胸にいっぱい入れ てみよう。いつの間にか我々自身が林 の 一部になっているであろう。畠マ
63
目的で一株切った木の年輪があまりに も詰まっていて顕微鏡を通して何とか ℃﹀翠︿印m cz の亡 i
林の神秘が体験できる鎮東渓谷
き残る生存競争の現場がまさに鎖東渓 谷の林である。モミの木は日陰でも生 きられる特性を持っている。太陽の光 をたくさん浴びなければならない大部
00
︿︿ l
つ山海猫草/楢柏と紅葉樹の秋の森。温
分の樹木はこういう条件では生きられ
CZ ︿OCZ の
帯天然閲葉樹林の代表樹種である /原始
ない。しかし、モミの木は太陽の光の 十分の一程度だけがやっとさし込む広 葉樹の下で芽を出し、数十年生きてい
工 。
(上から)陰になって湿った条件の中で育
針葉樹林、混合林で
1
構成 されており、キノコの発生に極めて 4
よい立地条件を備えている 。 韓国は遥か昔からキノコを食糧資源、山林資源 薬用資源、として利用してきた (上)枯木に瓦家のように幾重にも並んでいるカワラタケ (下)松林の土地にひっそりと発生するアミタケ
64
LIA品 国 は 国 土 の 七O %が山地、 三O %が平野 地帯にな って
ゴE 占
1 4 H r ヨl おり、春、夏、秋、冬の四 季がはっきりしていて、夏は雨がたく さん降り蒸し暑い。韓国の植物相は活 葉樹林、針葉樹林、混合林で構成され
ており、キノコの発生に極めてよい立 地条件を備えている 。 韓国は遥か昔からキノコを食糧資
源、山林資源、薬用資源として利用し
てきた。すでに古代国家 ・新羅の聖徳 王︿七O 二1七三七)の時代から木菌 と地上菌を食用にしたという記録が三 国史紀(一一四五)に記されており、
その後朝鮮時代の仁祖(一六四三1 一 七一五)の時に松茸、夜苓を食用、薬
用にしたという記録がある。従って、 キノコにま つわる説話もたくさんあ
り、夜苓はその昔、瀕死の息子を救う ための霊薬を探し求めて山をさまよっ
ていた一人のソンビ(学徳を備えた人 に使った敬称)のそのひたむきな努力
に山神が感心して授けたもので、それ を煎じて飲ませたところ息子の病気が
治ったため、神が授けたものというこ とで﹁夜苓﹂という名が付けられたと 言う。また 、冬虫 夏草には恐ろしい病
気にかかって生死が危ない時、神が教 えてくれたキノコを息子が冬、山奥で 探し出し、父親を救ったという伝説が ある。
韓国に自生するキノコは一五O O種 余りに達しており 、楼息場所は地面、 樹木、落ちた木の枝、草原、堆肥、昆 虫などい ろいろである。これらのキノ コは大部分が担子菌類であり、子嚢菌 類は少ない方である。これは子嚢菌類
6 5
キノコは白然をきれいにする掃除屋のような 役割を来たし、 自 然 界 を 浄 化 し て い る 言い換えるなら生態系で 死んだ植物の有機物を分解して 自然に循環させる重要な分解者の
よる生態系の破壊により多くの種類が 知らず 知 らずのうちに消えており、こ れに対する対策が切実に求められてい る 。
分野に対する研究が担子菌類に比べて 少ないためである 。最 近は環境汚染に
の発生数が少ないためではなく、この
るのは四季には関係なしにカワラタ ケ、スエ ヒ ロタケなどであるが、道辺 の枯木の切株や林の中でたやすく発見 できるもので、木を腐らせている。こ
の分野で脚光を浴びている。 韓国のキノコの中で最もよく見られ
類は抗癌成分があることから代替医薬
機 能 を 来 た し て い るの で あ る
キノコは自然をきれいにする掃除屋
るドリンク剤として開発、市販されて いる 。 これらは水気がない時には乾い
のうちカワラタケは抗癌物質が含まれ ていることから健康食品のひとつであ
のような役割を果たし 、自然界を浄 化 している。言い換えるなら生態系で死 んだ植物の有機物を分解して自然に循
てひからびて死んだようにな ってしま うが、雨が降って濡れると、また生き 生きと蘇る。これは木の中の菌糸が死
料理などで多く使われる。 夏、特に六月の半ばから七月半ばに
これらの共通点は腐った枯木、落ちた 木の枝、落ち葉などで発生することで ある。この中でキクラゲは腐った枯木 に群れをなして発見でさることから、 これをとって乾かして食用にし、中華
給するためである 。 春に発生する種類はキクラゲ、シロ キクラゲ類、子嚢菌類の一部としての
なずにいて、湿気ができると水分を供
環させる重要な分解者の機能を果たし ているのである。 一部は生きている樹 木の皮に寄生して植物病原菌として樹 木を枯死させたりもするが、コフキサ ノコシカケ、マスタケなどがそれであ る。また、植物と共生生活するものも あり、アミタケ、ハナ イグチ、ウラム ラサキなどがそれである。 キノコは蛋白質、無機 質ビタミンが 豊富で健康食品に利用されるや、シイ タケなどはコレステ ロー ルの蓄積を 抑 制 し、高血圧や糖尿の血糖量を低 下 さ せるなど成人病の予防に適している。 また、 霊芝、桑黄キノコ、冬虫 夏草 の
t z
。工O O亡の不工︿
タマ ゴタケ、混合林の森の中の草のある 所に群がって発生する
66
かけての梅雨の季節は温度が二五度前 後であることからキノコの発生に最も 適していて大量に発生する。この季節 は高温多湿で、雨の降った後にはあち こちにキノコが発生し 、 庭 や 道 の 辺 、 野原、山 の林の中などでたやすく発見 できる。この 中 でタマゴタケは色が赤 く美しいことから毒茸と考える人が多 いが、実は食べられるもので、焼くと 香ばしい匂いがし、 林 の中の地面に群 れをなしているのをたやすく発見でき
は値段が高く、松茸を取りに行く時に は誰にも知らせずに黙って行くのが普
りがよく、牛肉の 味 がするため韓国人 には人気があり、日本にも輸 出 して農 家の大きな所得源になっている。松茸
松の木の樹齢が 一五年から 二五年ほど のものに最も多く発生する。松茸は香
コのうち、冬虫 夏草は冬は昆虫であ っ たのが、夏になると草になるキノコで、
用として大量に栽培され、ス ー パー マ ーケットなどで市販されている。 薬用のキノコとして使用されるキノ
えるが、この種類は寒くなり始めると 生え始める低湿性のキノコである。食
竹林 に は キ ヌ ガ サ タ ケ が 発 生 す る が、大きさが 一 0 1一五センチほどの 大きさで純白の網の目のような形がマ ントをかぶせたような感じを与える。 てっぺんに酷い臭いを発する粘着物質 があり、これに縄のような昆虫 がくっ
付く。この時は蝿の体に胞子がついて
して秋から徐々に減り始めて冬にはほ とんど目に付かなくなる。
胞子が散胞されることになる。 地面にはベニタケなど、大部分のキ ノコが春から生え始め、夏には欝蒼と
毒茸は 三O種余りにのぼっており、
活葉樹の枯木、針葉樹の 枯木、落ち た木の枝などにタマチョレイタケ類が 多く発生するが、雨が降らない時は乾
通であり、松茸の採れる所も誰にも教 えることはしない。針葉樹林にはアミ タケ類が多く発生し、その中には食べ
多く発見される種類はヒトヨタケ、テ ングタケ、ニガクリタケ 、 ドクベニタ ケで、この中でヒトヨタケは農家の堆
いてひからび死んだようになっている。 しかし、ひと雨降りさえすれば、再び
韓国のキノコは極めて多くの種類が
生き生きと蘇る。このうち、シャウチ ワタケは林の中の落ちた木の枝などに 発生するため比較的発見しやすい。
肥置き場に雨の降った後、 かたまって
唯 一動 物 性 の 成 分 で 育 つ キ ノ コ で あ る。ミミカキタケ、冬虫夏草が最も多 く全国どこでも発見できる種類であ る 。
られるキノコが多く、混合林にはナメ コの類が多く発生し、ホウキタケ類も
して 市場に出じて売ったりもする。し かし、ハナホウキタケのようなキノコ は食べると下痢をしたり、若干中毒症
多く発生する。ホウキタケ類は食べら れる種類が多く、田舎の人たちが採取
る。木材を腐らせるブフ菌のシナウチ
生えた後、すぐに墨汁のように液 化 し て溶けてしまう。ニガクリタケは 村 の 野山 の 松 の 木 の 切 株 な ど に よ く 生 え る。火鏡キノコは夜かすかな光を放つ 毒茸で、その昔、宮中で賜薬(死罪に
多様に生え、その清純さと美しさのた めに森の妖精と言われるほどだ。
•
る。しかし、ドクシルタケは白い色を しているが 、 猛毒を含んでおり、食用 のキノコと間違えてこれを食べると命 を落とすこともある。これ以外にも夏 には食べられるキノコが数多く発生す ワタケ、ベッコウタケなど木材を腐ら せるキノコも多く発生する。また、ヤ グラタケとナガエノヤグラタケのよう に他 のキノコの上に発生するものもあ る 。
処された王族や重臣に下される毒薬) に使用された。
67
秋から早春にかけてエノキダケが生
まって発生す るヱノキタケ
状を起こしたりもする。コウタケは田 舎で消 化剤に利用されるキノコである が、若干苦い味がする。ヒイロチャワ ンタケは普通の地面に固まって生える 美しいキノコである。
生す る ヒイロチャワンタケ/枯木の隙間にかた
﹂のキノコは
(上から)苔が生えている所に耳のように発生
秋には松茸が 出 るが、 o o c o -工︿CZ
。 工
するキクラゲ/苔類がある地面にかたま って発
TRADITIONAL ARTISAN
真心を込めて醸した李参判宅の
「蓮呆酒」 ヒョシク オ/ イ
文化遺産研究所長
詩人
・ 李畑権
てくる。
祭天儀式 に酒を使 ったという記録も出
としての価値に止ま る ことなく、倫理
しかし、不幸にも日帝の植民統治を
色品から伝えられてきた言葉に 三国時代に入 ってから は清酒と濁酒
経て酒税法なるものができて、酒の自
lコ一一一ご郡の政治は酒の味で分か
一家の事 柄は 醤 油 の味
躍時代 には蒸留酒 の区別が始まり、高 一 である焼酎の製造方法が普及して多様
と道理を高揚させ、人間同士の人 情 と 和合を醸し出し、隣近所と同族を 一体
で分かる﹂というのがある。この 二 つ
な内容 の酒が造 られた。 朝鮮時代には
化させる文化 の尺度になったのだった 。
が良ければ、そのほかのことはすべて
家醸造が禁 止され、 醸造場 というも の が生まれた。当時は各家庭ごとに酒を
t
が順調であ ると いう意味で、 昔の人々
るほど発展したと﹃林園二ハ志﹄は伝
酒の種類がおよそ一八O種余りにいた
二│││り、
には酒の 美味しさと食べ物の味は、
一
国の政治から家庭の日常生活までを測
醸すことが家内の大事なことの一つで
あったし、先祖代々に伝えられてきた
家 門の伝統によ って多様で 独特な 家醸 酒があ った。
韓 国 民 族 にとっては何よりも貴 重 な
一 五日に飲むキ ウイ 下ろした、正月 の
このよ う に長い歴史を持っている韓 国の酒文 化は固有の年中行事にも 根を
えている。
る文化の尺度となっていたのだった。 その中で酒は、韓国民族にとっては 何よ りも貴重な 礼 を象徴するものであ った。真 心 込めて家庭で醸した家醸酒 ppExmmCZ のと
民、 商 同 斗自
礼 を 象 徴 す る も の で あ っ た 。 主ハ心込めて
家 庭 で醸 し た 家 醸 酒 を 準 備 し て 神 と 先 祖 の
霊に捧げたり、 大事 な 客 を も て な し た り
あ る い は え 母 と 子 供 の 問 で も 杯 を 交 わ しな
がら尊敬と愛情を確かめ合った
日帝は、このような酒製 造 の産業構
可制にした 。 このた め、累代かけて伝
バルキスル ( 耳を聡くする 酒)、清明に
酒﹂ができた。また、新年の初めの日 とこしえに に目上の方々に万寿無彊 (
密造酒に転落するか、あるいは命脈を
を 準 備 し て 神 と 先 祖 の霊 に捧げたり 、
安泰になること)を祈る意味で酒を捧
絶たれ るよう にな り、各家庭ごとに醸 してきた独特な酒の製造秘法もなくな
酒税法の施行規則を設けて、これを許 敬と愛情を確かめ合った。そのため韓
げる献寿という麗しい風俗もあり、郷
ってしまったのだった。
造を自分たちの手中に納めるために 、
国の飲酒文 化 には必ず酒道という言葉 がつきまとったのかもし れない 。
飲酒礼といって村中の人々が集まって
い両班の家では、家内の冠婚葬祭や思
飲む清明酒、端午に飲む菖蒲酒、重陽
韓国の酒に関する最初の記録は、高
郷約を読み上げ、酒を飲みながら宴会
祭把などには、必ず先祖代々伝受され
節に飲む菊酒など、多彩な﹁歳時節気
句麗の建国 神話が 載 せられてい る﹃古 三国記﹄と曲阿酒の伝説と関連した高
を催す礼節もあった。 そのため、韓国民族にとって酒は、
母と子供の間でも杯を交わしながら尊
句麗女 性 の物語が 出 てくる中国の文献 ﹃ 太 平御覧﹄に見られる。また、 今から
百薬の長であるといっ た有益な 飲み物
こうした試練の歳月の中でも、名高
えられてきた韓国の伝統酒は大部分が
三千年前であ る扶余時代、迎鼓という
大事な客をもてなしたり 、あるいは父
蓮葉酒の名人が起居する参判宅の正門
68
ある。当時、固には酷い干ばつが続き、
秘書監丞として在職したときのことで
酒を開発しようとしたのだった。その
酒でもなくお茶でもない度数の低い薬
室長格である李原集が考えあぐねた末、
そのため、今で言えば、大統領秘書
勝手に醸して捧げることができなくな ったのだった。
の時代にまでさかのぼる。彼が宮中の
られてきた家醸酒である。参判宅の蓮
朝六曹の従二品の官職)宅で代々伝え
とができないように禁酒令を下した。
穀物の消費を減らすため、酒を醸すこ
酒が五大伝統名薬蓮葉酒だというので
月を逆に、退湖の四代祖である李原集
慶州の法酒、韓山の少麹酒、聞慶の 葉酒は、朝鮮朝の末期、高宗の時の杢
ある。
の礼安李氏の大宗家である参判(朝鮮
湖山春、安東の松花酒、海南のチンヤ 章閣の直学士と参判の官職にあった退
ところが、範を垂れねばならない宮中
しかし、蓮葉酒に関する記録を辿っ
になった忠清南道牙山市松撮面外巌村
ン酒、そして次にその来歴を探ってみ
から問題が生じてきた。王室の祭-耐に
てみると、﹃山林経済﹄や﹃閏閤叢書﹄
てきた家醸酒を作って伝統の脈を受け
ようとする牙山の蓮葉酒が、こうした 湖・李貞烈が自ら醸して高宗皇帝に捧 げ、家内の祭りの酒にも使われるにお
供える祭酒はもちろんのことであり、
継いできた。
哀しい歴史を持っているこの時代の民 よんで、その名声が広く伝わり始めた。
俗酒である。 五大伝統名薬酒という修飾語が 付い
王の食膳に添えるべき薬酒を一杯すら
69
しかし、この酒の来歴はもう少し歳
もち米、甘草、蓮葉、そして完成品
ている蓮葉酒は、民俗の村として有名
蓮葉酒の製造法が記録されている李原集の「治農 Jの中の一部分と蓮葉酒の原料である松葉、
明
JP泊穴∞ m c zのと
引き起こされた戦争)の時、 李涜将軍 が疲れはてていた兵士たちの士気を鼓
鮮朝一六代仁祖の時、清の侵略により
間のオンドルの焚口の近くに祭り、 一 度酒のかめを据えたら、酒が醗酵する
べてのことに言動を慎み、その日の方 位を見て厄神のいない吉方に酒のかめ を据えーておくが、酒のかめは必ず奥の
などに高麗時代の酒として紹介されて いる。また、朝鮮時代の丙子胡乱(朝
舞するためこの酒を作って飲ませたと いう記録があって、蓮葉酒はきわめて
という真心を持 って醸す蓮葉酒も 、 そ の製造方法は 一般の酒と同じで、麹を 造ることから始まる。麹は小麦を挽い
まで、その部屋にはその家の嫁と姑の ほかには出入りできないようにするの が不文律になっている。 このように先祖の祭加の膳に捧げる
蓮葉酒の製造方法は、李原集が﹃治
古い以前から韓国の人々が好んで飲ん でいた薬酒であったことが分かる。 農﹄という本に記録しておいた通りに、 昔の方式をそのまま踏襲しているが、 酒を造る秘法は宗婦だけに教えて代を
を包み、 これを 再び麻 布 で包んで五日 以上発酵させる。
て五対 一の比率で水と混ぜ、これを混 ぜ合わせた後、型に入れて成型させる。 麹が完成したら、カボチャの葉でこれ
継ぐようにしているのがこの家門の家 風であるという。 それに、この家 門 の蓮葉酒は祭りを 捧げるときの祖先に捧げる祭酒として
て完全に乾燥させてから使用する。 酒強飯はもち米 一升半と米 一O升を 水できれいに研ぎ、強飯を炊いて麻布
麹は白く徽の生えているものが 一番 いいのだが、これを細かく砕いて二晩、 霜や露に濡らし 、 二日ほど天日に干し
醸し、使われてきたため、ほかの酒よ りも禁忌事項が多く 、真 心込めて造る のが特徴とな っている。 まず、酒を造るときには斎戒体浴し、 衣服を端正に着こなし、手ぬぐいで口 と髪を包んで作業にのぞむ。また、す
精製して飲む。 このようにややこしく多くの手がか
かるので、蓮葉酒は人の 真 心を飲む酒 だと 言 える。とりわけこの酒は、王が 飲んだ酒だというので祭叩の膳だけに
のふろしきや箕などに広げ、冷ます 。 冷めた強飯はやや固めになるが、これ に麹四升と乾かさずにきれいに洗 った 生の蓮根 や蓮の葉五0 0グラムを細か く切ってかき混ぜ、水 一六リットルを
捧げたのであり、参判宅の親戚たちも、 祭加を終えた後 、飲福(直会)のとき
いるため、 血液を清 くし、陽気を保護 してくれ る薬酒として名声が高い。そ のため、 この酒はどれ程多く飲んでも 後の障りがなく、へべれけになるほど
忠清南道から文 化財 に指定されること になった。 特に蓮葉酒は、その原料が松葉、も ち米、甘草、蓮の葉などで構成されて
運動が引き起こされてから、宗家に秘 伝されてきた家醸酒が注目を受け、外 巌里参 判 宅の蓮葉酒も一 九九O年末、
つ ' こうした蓮葉酒が世間に知られるよ うになったの はごく最近のことである 。 韓国固有の民俗酒を蘇らせようという
。
に、一、二杯吟味する程度だったとい
注いでよく混ぜ合わせる。 その次に、酒のかめを準備するのだ が、かめは水できれいに洗って水気を なくした後、火を焚いて煙と火の気で 殺菌して使用する。 酒を仕込むときには、かめの底に松 葉を一重ね敷き 、その上に再び蓮の 葉 を 一重 ね敷いて、またその上に麹と酒 強飯を混ぜ合わせて造 った酒の下地を 入れ、きれいな水を注ぐ。酒を仕込ん だかめにはござで造った蓋を載せて、 約一週間は室内温度を 二五1三O度ほ どに維持し、これ以後は二 O度程度に 低めてさ らに八 日開発酵させる 。 この ようにして酒が完全に発酵した 一五日 ほど後から、ヨンス(酒を漉すのに使 う器 具)を突 っ込んで酒を酌み、ほか の容器に注いで 一日ほど浮を沈ませ、
70
飲んでも 一度放尿すれば酔いが覚めて しまうほどだという。
酒だけは昔の通りに祭酒を造 っていた 小さなかめを 利 用して、少量だけを生 産し、禁忌事項もやかま. しいほどに守 り通している。 両班の自尊心が生きて
分たちの代は酒を売るよりも昔の伝統 をそのまま守り通していくことで満足
しれない。参判宅の蓮葉酒は酒である
よりも生きている精神そのものであ っ た 。
苔むした石塀とギィッと立日をたてる ソスル大 門 (高い柱のそびえ立った大 門)、ぴかぴかに底光りのする参判宅の
すると言 っている。 さすが彼女は、 旧韓末、 日本に 国を 奪われるや、家に帰って孫の死んでい くのを目にすることはできても、国の
酒を仕込んだ瓶はむしろの蓋をして発酵さ
広い板の間に座 って眺めるサラングチ エ(客間のある棟)の屋根には、変わ
菜、下酒を一つ一つ重ねるように入れる /
滅びるのを見守るに忍びないと 言っ て 、 落郷した参判公の嫁らしい女性である 。
(上から )酒を仕込むとき l ま瓶に松葉、蓮
いるためである。 一七才の花恥ずかしい年ごろに参判 宅の宗婦にな って、蓮葉酒の伝統を受 け継いだ九代目の 雀 晃圭さんは、参判
入れてよ く混ぜて下酒を作 る
•
麹を混ぜる / これに生蓮根、蓮花葉と水を
無形文 化財に指定された後、参判宅 では少量ではあるが 、蓮葉酒を販売し ている。それにしても当家の子孫たち は、このようなことは先祖に対して面 白のない恐縮なことだと恐れ入 ってい
り出して広げてよ く冷ます/冷えた強飯に
らない歳月の年輪が積もりに積も って 、 酒が醸されていく初夏をさらに清々し くしてくれている。
く/松葉と共に蒸 し出した強飯と松葉を取
その上、窪さんは朝鮮最後の士大夫で あ った勉竜 ・窪益鉱先生の孫娘であ っ たのだから、当然そうであるべきかも
火を起こして熱気と煙りで毒を消毒してお
宅の宗婦が酒を 売 りながら 暮ら してい ると、あの世へ行 ってどんな顔して先 祖に会うことができようかと 言 い、自
(右頁上から) 蓮葉酒を作るためにはまず
るが、そのため、伝統だけは 一分の誤 差 もなしに守るように努めている 。 ほ かの民俗酒は醸造許可を取 ったら 急 い で大 量生産施設を整えるのだが、蓮葉
韓国民族にとって酒は、 百 薬 の 長 で あ る と った有益な飲み物としての価値に止まることなく
伶理と道理を高揚させ、 人間同士の 人 情 と 和 合 を 醸 し 出 し 、 隣 近 所 と 同 族 を 一体 化 さ せ る
7 1
え化の尺度になったのである
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この地には、釈迦の仏国土に姿婆の世
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あふれる 山 である。東海を友とし徐羅 伐を守って千年を重ねてきたが、今日 も変わりなく神秘さを大切にしている
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今 Zぞ}町 州には山と 川 がある。我々 i国時EMの 山 河 の ど こ で で も よ く 出 仁kb 一 会う平凡な自然である。し かし、その中には汗と愛、限りない真
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心が眠 ってい円る。 市内を扉風のように 包み囲んでいる仙桃山と南山(金繁山) が、そして千年の問、源泉となってき 界(俗世界)を具現しておこうとした 新羅の人の名残が、今日の仏国寺とな って伝えられている。
仏国寺は長い間の外国からの侵略に もかかわらず、多くの仏教の建築物と 数多くの遺物を保持している。そのう ち大雄殿の前庭には東西に各々 二 つの 善男善女塔が立っているが 、我々はこ れらを多宝塔、釈迦塔と呼んでいる。 この世に存在する全てのものは、各々
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た兄山江と北川がそうである。北 川 は
韓国の河 川 が通常、北から南へ流れて いくのとは違って北へ遡っていく。こ の川 の流れを源へと引き返し上ってい くと、意外にも今まで見ることのでき なかったような高い山並みが前に立ち ふさがるが、それがすなわち、吐含山 である。息を切らしながら走ってきた
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女 た美 しり 、確 か整 えい 花全 然 ちさ表に、儲違 をは面多墓岩う 見、の宝麗を複 る顔加塔なま雑
KOREAN NATIONAL TREASURE
近年になって、この女たちの腰に相 当する甲石の上に型造られ、女たちを
護ろうとする姿勢で残っている石の獅 子像は、 元来は四頭で あったが 、 いつ
の頃、一頭が無くなり、日帝時代に数 多くの韓国の文 化財がそうであったよ うに盗まれた。幸いにも一具の獅子像
が残り伝えられているが、この獅子像
は鋳貨にも登場するほどとても親しみ のある対象である。 心残りをあとにして、向かい側に足 を運ぶと長身の青年がそびえ立って旅
行者を歓迎する。悲しいいきさつのあ る塔ではあるが、外見は端正で剛直な
格調を見せてくれる優れた石塔である。 この塔は釈迦塔あるいは無影塔とも 呼ばれているが、東側の多宝塔が優れ た技巧を誇っているのとは違って、二
重の基壇の上 に直線で 真つ直ぐに立っ ている三重の塔身と、吐含 山 の稜線を 移し置いたような滑らかな屋蓋石の落
水面は、釈迦如来常住説法を証明する かのように単純でありながらも溢れる 力を感じさせてくれる。 塔を中心に周囲には、八方金剛座と
呼ばれ る、各々蓮の花を彫 った塔区が 配置されている。これは塔の浄域を区
別したもので、蓮の花 一輪に一菩薩ず、 つ、八菩薩の静座を意味し、あるいは、 石塔に直接彫刻する八部神衆の表現で あるとみるこもできる。 正確な用途はともかく塔の周囲に蓮 の花を配置したのは、清浄さの象徴であ る蓮の花の上 に釈迦牟尼であ る釈迦が常
住するのを表すもので、これは釈迦塔が 釈迦如来常住誼明のために造られたこと を確認させてくれている。 車 '
72
多宝塔は、紘 一 新 羅 時 代 の 塔 で 、 ζ
n 去華経 Jの i J L宝 塔 品 」 に 基 づ い て 建 て ら れ た
れは悟りの徳性を象徴イじしたのであるが、塔の高さは因果の 生徒的関係が深いことを示したものである 。
平面の広さはその徳が広く周りに及ぶことを、欄楯は尽きることの な L、 精 神 の 力 を 保 つ こ と を 象 徴 し 、 ま た 空 間 に な っ て い る 監 室 は 無 限 の 空 なんの手九着もなくる悲深ー さだけの心を象微している
(左)多宝塔、(右)釈迦塔
73
死の神話
3 色
ト 湾
でも知っているように、ライナー ・マ リア ・リ ルケの最後の長編詩、 ﹁ オルフ
の 有望ち
いている無言の夢かもしれぬ。
最後の結論ともいうべき﹁オルフォ イ ス﹂から 、我々はほとんど絶 叫 とも言 えるようなある声を聞くことができる。
死について扱ってきたリルケとしては、
められ てい る。この世の生命を終えた 一人の人間の霊魂を無事にあの世まで 導いてくれる案内者、そ の遠い遠い初
彼女は 、 いや、この女神は今も一部 の地域のシャl マン、すなわち亙女た ちによって﹁霊魂の導き手﹂として崇
一人の人 物を描いてみせてい る。その 名は他でもない﹁パリ公主﹂で、﹁捨て 姫﹂という意味である。
生と 同様に韓国の神話は、まさに ﹁ 死の聞を 風 のように自由に 行き来する﹂
ごのあ !オルフォイスよ、生と死の問 を風のように自由に行き来する者よ!﹂ これは、リルケ自身が自分に捧げる
オイスに捧げるソネッ ト ﹂ は、死を主 題としている。 長年の詩作経歴の中でいつも絶えず
ψす
墓碑銘のようなものだったかもしれぬ。 同時にそれは人間誰もが心の中にいだ
方 永
生と死の間を風のよ うに 文学に格別な関心を持った人なら誰
KOREAN MYTHOLOGY
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キムヨ ル ギユ
・ 金烈圭
仁済大学国文科教授
めての道、 知 らない寂しい初めての道 の道案内人がすなわち﹁パリ公主﹂だ と信じられている 。 韓国人は昔から死者の魂は、あの世 に行くと信じていた。しかしそれは遠 くて険しい道だと言った。だから行き がたい道だが、また 他 の理由でもそれ はつらい道だと言った。 誰も行きたくない道だという理由が あった。これを韓国人は﹁どうしても 歩み出せない道﹂と言 ってきた。これ は死そのものがいやだという意味であ る。しかし歩み出せないまた他の理 由 が二つあヲた。一つは家族と別れたく ない思いが何よりも強く霊魂の足首を つかむのだと 言 う。残 された家族の中 でも、幼い子供たちは霊魂の後ろ 髪 を 引くと言う。 二 つ目は死んだ者自身が完全に成し 遂げられなか った事など、成就できな か った旨があの世に行く霊魂の腰にし がみついて放さないのだと言う。これ らの霊魂の一部は最後まであの 世 に行 けず、この世をいつまでもさまようと 信じられているが、これらを普通﹁放
ってしまうわけである。
浪魂﹂ (浮遊霊)または ﹁ 客鬼﹂すなわ ち旅する霊魂と呼ぶ。あの世に行けな い彼らには死も畢寛、 ﹁ 未完の死﹂にな
さまよ う霊魂の救援者
上古代の建国神話とともに韓国の神
話の 二つの 流れを成している亙俗神話 の一方である﹁パリ公主﹂の女主人公、 パリ公主はこれらさまよう霊魂の救援 者である。そしてこれらの霊が﹁完全 な死﹂を遂げるよう助けてやるのであ マ 匂 。
パリ公主は、ある王国の七番目の姫 君として生まれる。後継者の息子、王 子の誕生を願い続けてきたが残念なこ とに娘ばかりをもう六人ももっていた
父王は七人目を捨ててしまうよう命令
した。﹁パリ公主﹂で ﹁ パ リ﹂は﹁ポリ ダ(捨てるごの﹁ポリ ﹂と同じ意味で ある。
生まれたばかりの赤子にもかかわら ず、箱に入れられ水の中に投げ込まれ たパリ公主は遠い他郷でひとりの老婆 によ って救われ養女として育てられる
ことになる 。そうして彼女 は寂しく貧 しい中で成長する。 その内に、父王は重病にかかり、と うとう危篤の状態におちいる。あの世 にある ﹁ 生命の水﹂だけが命を助ける
ことができるという占術師の話があっ たが、誰 一人そんな大変な仕事を引き 受けようと申し出る者はいなかった。
パリ公主の六人の姉もあれこれと口実 を作っては行けないと 言 った。 しかし、父王の使者からことづけを 受けたパリ公主はその仕事を喜んで自
74
分から引き受けて出た。それは自分の 命をかえりみない冒険であり、その結 果は誰も成功するとは思えない至難の 冒険であったが、ハメに捨てられた娘、 存ん。
パリ公主は父を救おうと出かけて行つ こうしてパリ公主は、シベリア ・シ ャーマニズム論や神話学で﹁他界旅行﹂ と呼ばれる旅路につくことになる。蒙 古族の神話に登場する﹁ヲバイコ﹂や、 あるいは満州族の神話の主人公、﹁ニザ ン﹂などのようにパり公主とほとんど 同じような動機で他界旅 行 をするよう になる神話的人物について語る時、 我々は韓国のシャーマニズムの源流が どこにあるかを推し量ることができる。 この他界旅行が地下世界だけだはなく 宇宙空間の旅行も兼ねて行われるとい うことをあえて付け加え指摘しておき たい。 同かれた禁止区劃
ii
一
パリ公主は死の瀬戸際を 何度も乗り 越え、またいろいろな難題を解いて難 関を勝ち進みあの世に到達する。そし てあの世の王の裏庭にある泉から生命 の水をうまく汲んで来て、すでに息の 絶えた父王を蘇らせる。 まさにそのためにパリ公主はあの世 来往の神の座につくこととなる。霊魂 の案内者の資格を得たのである。 韓国人の死に関する長い間の信仰の 中でパリ公主はまさに特別な意味を持 つようになる。普通の人の場合、誰で も 一度死んでその霊魂があの世に行け ば、自分一人のカや信仰ではこの世に 帰って来られないのである。一般人の
霊魂にとってあの世の道は完全なご 方通行﹂なのである。ただパリ公主 一 人だけが﹁双方通行﹂をすることがで
きる。彼女はあの世とこの世の問の道 で風のように自由なのである。
これはど偉い権能であって、パリ公 主が何よりもそれを自己犠牲と愛で勝
ち得た点に我々はパリ公主神話の第 一 の意義を確認することができるのであ る。自分を犠牲にすることを知ってい
るその愛で、乗り越えられないどんな
障碍もないということをパリ公主の神 話は物語っている。 次に二番目の意義としては、この神 話が死と生の問の間隙を乗り越えよう とする人間の意志であり、夢を描いて
見せているというところから見いだす ことができる。
人間にとって死は閉ざされた暗い禁
域である。生きている者にとって死は 確かに自分のものなのである。厳然と した自 己本来のものなのである。それ だけ純粋な自己の魂は他にはないとい っていいのである。だが生はそれから
厳に断固として拒絶され閉鎖されてい るのである。絶対に自分のものではな
いように拒絶されている。自分の死ほ
どわからないものは他にない。 この暗潅とした絶望に陥った韓国人 が最後につちかった夢、それだからこ そ﹁パリ公主﹂神話は逢か遠い昔から
今日にまで伝えられ、また話されてき た 。
それはギリシャ神話で、妻のエウリ ユディケを得ても成し遂げられなかっ
たオルフエウスの夢、その未完の夢を 完結する韓国人の夢なのである。
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75
Currents
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建築家 建築環境研究所「広場」代表理事
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所の 上 に建てられ、その歴史的事件を称える 深い意味を持っているように、明洞聖堂も偶
然というにはあまりにも当然で必然の結果と して、昔の自生教会時代には秘密会合の場所 だ った金範爵(最初の殉職者)の宅 地 を含む
一帯が聖堂建築の候補 地 にのぼり、フランス
外邦宣教会は 直 ちに この七地 所を購入、韓 仏修好条約直後の 一八八 七年から整 地 作業を 始めた。本堂の建築は、コースト神父(韓国 名 ・高宜善)の設計と監督により 一八九 二年
た 1こ縮に ローのめ よ シ八時壁る ア 九 、の 事 の O 朝厚故 建)鮮み、
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、 曹44ES洞 聖 堂 の 建 築 は ま ず 何 よりも そ tsa/ の立 地 の重要性から言及されなけ トト,ればならない。 一七八四年に明暗 坊(現. ・明洞) 一帯に自生的な信仰共同体と して 創立されて以来、 一八八六年の韓 ・仏修
好条約で布教の自由が認められるまでの百年 間 に十人の聖職者と一万人の信者が殉教 す る
とい匂 う激しい 弾 圧を受けた血の歴史のう え に 建てられた聖堂である 。 世の多くの聖堂が教会の歴史と関連した場
明洞聖堂 建築 百周年
差朝もこ l こ し鮮なの着 押政い長工 さ府難いし えが関と る風にはー
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築とにを何 盛畢1 1 ' , ......... な水点い 家独来増度 どの綴え サ立てすも の理きな位 バ門 口 設塔 I 1 掌由れい需 テ(シ計が 擦でた六に イーア変崩 に土難年冗 、ヘ公更壊すでで技こて争まな左人した動技足西の足さよ地しの成 の 九使 をしる人整術と朝のたけ官煉か)員術の洋困でれ つ 所ぃ工し 技八館仔たと夫 地 とに鮮あ 彼 れ工瓦持初で者た建難中たて有車事 た 術 ) (込 た い 四 工 経 も を お ら ば を 工 た 歩 き は め 築 を 断 り 工 権 主 期 雲 的 を 一 つ め う 名 事 験 な 追 り は な 1手 、 な 的 石(技経と、事の宋門で 助設八七高不がののつわで日らん大いなな工朝術?再資が証号も手
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7 6
Currents
わ 1レちん。 問問主Cふ
コースト神父は、一八四二年フランスのモ
組積式で作られるゴシック建築を、煉瓦で再 現するにあたり、灰色煉瓦で表現した構造部 材はむしろ副材料に使われた赤煉瓦より強度
構造的活用は、本格的なゴシ ック様 式の真髄
ンペリl付近に生まれた。パリ外邦宣教会の 神父として四三歳で朝鮮にわたり、建築設計 の正規教育を受けたことはないが、個人的な 興味から薬閥聖堂、龍 山神 学校などの設計を した 。浅 い経験だけで五O歳の 時 ( 一八九 二) これを設計したが、落成を見ることなく五四
に及ぶものではなかった。建築物の規模から みても、西欧の有名なゴシック聖堂にはたと えられない。 彼らが百年
が落ちるもので、構造材と非構造材の区分が 明確ではなく、屋根のアl チは木材構造で代 替され 、むしろロマネスクに近い構造方式が 選ばれた。そのため長い窓の問の壁と扶壁の
歳でこの世を去った。 当時、西洋の宣教者たちが通世の国朝鮮を 始めて訪れ経験した住居生活の 不便さなどを思えば、韓国の土 俗建築の非機能、非経済性に対 する不信が、自然と彼らの故郷 のゴシック様式を教会建築の代 表的モデルとして信じ跨賭する ことなく選び、これと同様に朝 鮮の文化に大きな 関心も愛情も持た ず、教会初期の土 着化をはかる努力 に不足があったこ とが分かる。また 専門的な力量と経 験の不足のため 、 本格的なゴシック 様式を再現したと みるには材料上、 構造上、無理があ る。たいてい石造
かかって建てた建築物と我々が六年で建てた ものを大きさで比較することは無意味であ る 。
しかし、前に 挙げたすべての悪条件の中で、 血と汗と誠 意 、そして、ひとえに信仰心だけ
でこれを完成させた話は感動的である。その ぶつえ、日本を経由せず西洋建築を直輸入した という点は建築史的意味を付与できるもので
あり、その配置とアプローチの方法が韓国的 だったという点を強調しなければならない。
それとともに当時のソウルの中心部で一番高 かった鐘雌坂に長さ六八 m、幅 二九 m、高さ
7 7
Currents
る。これは美学的な価値や建築構造学的な評
市民の愛情に由来すると見ることができ
さらにソウルの人口が一千万を上回った現
価以前のものである 。
在の都市状況で明洞聖堂とこの一帯の土地が
持つ都市的な意味は重要である。ごこはソウ
ル都心の美しい島である。そして、心の故郷
である。ソウルの都市計画でここは再評価さ
を喪失した都市の流浪民たちの精神的な公園
れなければならないし、付近の交通、用途地
域とスカイラインが再考されなければならな
一九八二年に大聖堂の外部改修と屋根の補
、 ,UV
修工事の設計を筆者が代表を務める広場研究
特に過去四O年の韓国民主化の過程で民主主
園櫨醸造園園圃臨富田富国富軽量園
義の聖地であり砦であった。今も、人々はや
酉溜酪盛観圃置彊援軍艦置
助。建だ け人築つ で問研た 建が究プ
二三 m、そして鐘塔四六・七 mを高く建てる
理圃 園圃置費 盟-置圃 置酷盟国E 周囲圃.園田園園輯圃
ことでゴシック様式最高の理想を実現しよう
こ教 と) で初 あ期
りきれない日には明洞を訪ねる。建築の本質
ば地韓百大 =なの国年祝 長ら持天経日 、なつ主つに
とした試みは成功だった。ソウルのすべての
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H 222E : JE 掴壇陸軍 園陸量調 書Z t z b 画E E EE E
的な存在意義は、それが持つ社会的評価│都
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人々がこの西洋建築物の荘重さに感嘆したと
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78
Currents
ベルリン総領事館文化広報官
-韓宇昌
1
・│口ツパで単一国家文化行事として - - - 最も大きい規模の﹁虎の年韓国﹂
→
ドイツ連邦政府とベルリン市の財政支援で
、 、 、 文化祭典がドイツの首都ベルリン世 界文化会館で、去る四月から六月一四日まで 開催された。
運営されている世界文化会館は、九五年に韓 ‘ 国、シンガポ ー ル、マレーシア等、アジアの いろいろな国の文化紹介行事を企画した。彼 らは約二年余りにわたった下調べから韓国文 化 の 独 創 性 と 優 秀 性 を 認 定 、 今 年 の 行 事を
﹁コリアフェスティバル﹂に計画を変更し、韓 国の文化、芸術、経済など総合的芸術祭典を
開催したのである 。 一九八九年に設 立された 世界文化会館は、 市内の中心であるドイツ連邦国会議事堂、大 統領官、首相官邸などがあるティオガルテン 公園にあり、主に非ヨーロッパ圏の文化を紹
介する機関である。 ﹁ 虎 の 年 韓 国﹂ の行事は、 四月 二日 一九時に世界文化会館大講堂で金勝 義ベルリン総領事、ク l ノップ館長が参加し
た中で開幕式が行われ、金徳沫サムルノリペ の響きと安淑善のチャン(唱)など伝統固楽 公演を皮切りに開幕した。金徳沫サムルノリ ペ公演は(四月 二日1 四日)ユ lジン朴のバ イオリン、ボルプガン・プシニヒのサックス
フォンとの協演で観衆の熱烈な呼応を得た。 特にサムルノリを指導するワークショップで はドイツ入、スイス人六O余名が四日間熱心
に韓国音楽を学んだ。 二ヶ月半続いた韓国文 化祭典は伝統クツ(亙儀)、現代舞踊、演劇、
7 9
えノレリ ン 世 界 文 化 会 館 韓国文化祭典 P
韓国 虎の年
Currents
音楽など九種類の公演と現 代美術、ファッションアl 卜、書道など三つの展示会、 韓国文 化関連シンポジウ ム、サム ル ノリワークショップなど全部で 一 六のプログラムに芸術家一五O余名が参加し、 韓国の多様な文 化 ジャンルをドイツとヨ ー ロ ッパの 観客たちに披露した 。 世界文化会館 展示場と ロビーでは韓国現代 美術展、ファッションア 1ト展、韓 ・中・日 書道展示会が 四月 二日開幕され六月 一四日ま でずっと展示された。美益中 、 全寿千、商百徳 鉱、窪正和氏など 一五名の作家が参加 した現 代美術展と斐千範、梁 翠理教授な ど、デザイ ナー一一一六人が出品したファッションアー ト展 、 書道展示会などは約二万名が観覧したと集計 された。 ﹁シャー マニズムからア バンギャル ドまで﹂ という主題で進行した今回の韓国文化祭典で は、サムルノリペの響きと名唱 ・安淑善 、牙 第(七弦の弦楽器の一つ)の李太白、テグム (韓国の横笛)の金栽策、僧舞の金利恵が、韓 国の伝統音調と踊りを披露した 。伝 統亙俗を 現代的に変えた李潤沢の﹃悪鬼﹄と﹃ハムレ ット﹄、生と死の聞を輪廻する 仏教思想を 描い た金亜羅の﹃オディプス﹄の演劇公演が舞台 でなされ、西海岸豊漁祭の技能保有者のム │ ダン(亙女)金錦花がクッパン(亙祭)を繰 り広げ 、最後に亙女 が研刃 (馬草などを 細か く切 る万)の 上で踊 る場 面 を演 出す るや、観 客 た ち は 息 を 殺 し て こ れ を 見 守 り 、誰もが先
Ga m 白 勺対
を争 って卜債(御布 施)を出すために長 蛇の列を作り待たな ければならなかっ た。シャ ー マニズム を現代舞踊に取り入 れた金賢玉現代舞踊団の﹃モドゥス﹄と﹃待 ち続ける霊魂たちの島﹄ 、洪信子が率いる笑う 石舞踊団の﹃巡礼﹄と﹃ミュ lジング﹄、ベル リン 安伊桑アン サンブルとソウルミュー ジッ クアン サ ンブ ル協演の安伊 桑、 具本線、金 勝 根などの 作品 演奏、夏の夜の野外舞台で公演 ,.、 された演劇公演沿、& 1韓国公演芸術の真の面 目を見せて くれる多様な作品ら が紹 介され、 約七千人の観客が公演を観覧した。 I M F経済危機を 克服す る韓国経済に、儒 教的官考え方が及ぼした影響などを分析する ﹁ カ ルビン対孔子﹂シンポジウムが五月八日1 九日両日、世界文化会館会議室で開催された。 李宜範前青瓦台首席秘書官は、韓国経済改革 の苦 しみ を説明し 、 I M Fを通じ韓国経済改
ることができると説明した。金文燥韓国文 化
革がより一層促進するであろうと明らかにし た。韓相震ソウル大教授は﹁韓国発展の危機 と儒教 ﹂ という論文で、儒教的な考え方はア ジア的リーダーシップの 根本で あり 、 人間関 係を重要視する﹁儒教的資本主義 ﹂ に発展す
1
・
行事を通じ韓国文化に対する理解と国 家 イ メ ージの高揚に大きく寄与したと評価した。 特にドイ ツ有力マス コミらは ﹁陰陽の 原理 (シュドゥドゥイチ ジヤイ ト ゥン一南部ドイツ 新聞、四・ 二 二 ﹂、﹁静寂な朝の固から来た文 c ラッ ト一経 済新聞、 化 使 節 団 (ハンデルス フ 五 ・一五/一六)﹂、﹁韓国芸術の中の亙俗(フ ランクフル トル ンドゥシャウ、五 -一四)﹂等
日報をは じめ、一 一のマスコミで 一五回にわ たりベルリン韓国文化祭典を報道し、今回の
化は 伝統と現代がよく調和をなしていて、理 性的思考 に疲れた 西欧人らに芸 術的 霊感を提 供した と賞賛した。国内のマスコミでは朝鮮
価値観 が、韓国人の経済生活に及ぼした肯定 的 、 否定的効果を提示して異彩を放った。 ドイツ及びベルリ ンの主要マス コミはもち ろん、スイスのチュ l リッ ヒ の新聞も今回の 行事に大きな関心を示した。約 二三の ドイツ のマスメデ ィアは 五O余回にわたり、韓国 文
国文化に影 響を及ぼ してきた亙教的世界観と
政策開 発院院長は、儒教よりもっと長い間韓
(下)ファッション
・
r 1't伊桑に敬意を
80
Currents
約四0分間、生放送インタビューを持ち、韓 国の伝統音楽であるサムルノリが西洋の現代
の題で、ほとんど毎日のように各行事を紹介 音楽との接続を試みていると話した。 ベルリンは統 一ドイツの首都であり政治、 文化、芸術、観光の中心都市であるだけでな
に対する高い関心を反映した。特に、ディウ
く、地政学的に東西ヨーロッパの関門として
する記事に重点を置いて取り扱い、韓国文化
一 ドイツ人たちには二 未知の国であ ったが 、今回 パリとモスクワを連結する欧州中心のメトロ
)は﹁韓国は文化的には
の行事を通して西欧的なものと伝統との調和
エルトゥ誌(四・
が韓国芸術の特徴であることを観客たちに刻
ポリスの機能を備えている。ベルリンでは年 中、世界最高級音楽、文化、芸術行事が開催 ・
ベルリ lナモルゲンポスト誌は伝統文化と
みつけてくれた﹂と紹介した。
瞳麟瞳瞳趨
臨醐開闇醤
翻醐輔輯繊
臨臨瞳瞳醐
文化の精神的支柱の役割をしてい るシャーマニズムが、現代西欧文
化と都市化にもかかわらず、韓国
文化、芸術活動が開催されている。 仏教とキリスト教の影響、産業
の画廊等で非常に躍動的な音楽、
ハウス、 一七O余の博物館、 一五 O余の演劇公演場、及、び 三O O余
されており、特にベルリンフィルハーモニー
醸輔輯灘溜
化と 一緒になっている韓国芸術を
をはじめとし、国立オペラなど三つのオペラ
瞳瞳輔瞳一 緩鰯瞳輯醤
九九年ドイツ連邦政府のベルリン
西欧文化、過去と現代がよく調和している韓
覇闘翻輯輯
国芸術は創造的であり楽観主義を標携してい
灘撞機鯨醤
はシ │ ヤマニズムから先端産業技術まで急激 な変化の中にある韓国現代芸術の真の面目を
ると論評した。また、ベルリ lナジエイトン
﹁虎の年韓国﹂文化祭典行事の経費は、ベル リン世界文化会館が全体行事費用の大部分で
な意味があった。
術の都市ベルリンで紹介したことは一層大き
移転を控えて、世界的な文化、芸
ドイツ第 二公営テレビ放送の姉妹放送であ
見ることができる良い機会であると紹介した。
ある百六O 万マルク(韓国通貨約二二億ウォ ン)を負担し、韓国文化観光部海外文化広報 なわれた。
韓・独両国政府が共同で準備した今回の
る3SATテレビは韓国展示会を録画、四月 0分間放 三日﹁文化時代﹂という番組で約 一
院が 二億ウォンを支援することによってまか
8 1
映した。また、金徳沫サムルノリペは自由ベ ルリン放送マルチクールティl ラジオ放送と
•
Events & Exhibits もちろん、絵画、彫刻、工芸などの美
4 0点余りの陶磁器と って製作された 1
術品など、私たちの生活の中で多様に
関連写真、挿絵、ビデオ映像物などを
表現さ れてきた。
通して沈寿宮家の陶磁器の歴史的背
今回の特別展は先史時代から近代
景、製作過程、独創的な芸術の世界が
までで、国立中央博物館、地方博物館、
理解できるように組まれている。この
個人所蔵品など、全国の虎関連遺物
展示は 1 0月2 2日から 1 1月1 5日まで日本
2 0 0点余りが披露された大規模な展示
九州地方鹿児島県で韓日共同で行われ
であった。展示された遺物も絵画だけ
る「朝鮮陶磁器伝来4 ∞周年記念祝典」
でなく、木や石で作った彫刻、虎模様
の起曝剤としても、その意味が深いも
の陶磁器、ノリゲ(装飾品)、ベゲン
のであった。
美術 「四百奪ぷりの帰郷一 目指の中におを咲かせ た総寿宮家の陶芸展 J 今年は大韓民国政府樹立 5 0周年で あり、朝鮮の陶磁器匠たちが日本に連 れて行かれ
モ(枕の両端に付ける飾り)、お守り 袋など、その種類も多様であった。特 に慶州舎羅里から出土した原三国時代 (B.C.2世紀~A.D .3世紀)の虎模様の虎
てから 4 0 0年
『韓 国 の S 喜一知恵、鷹 拐 さ 、 滑 稽a 総 別 展
目の年でも ある。東 E
形帯鈎(帯輪)、朝鮮後期の風俗画の 大家 ・金弘道と林照之が一緒に描いた 竹下猛虎図が目を引いた。
日報社と逸 虎年を迎えて国立中央博物館は
民美術館は
『韓国の虎ー知恵、鷹揚さ、滑稽』特別
これを記念する行事として、 4 ∞年前、
一方、博物館は展示と関連し、虎
展を開いた。 7 月1 4日から 8 月1 6日まで
日本に朝鮮の陶磁器を伝え、陶磁器匠
を主題に 7 月1 5日に「韓国虎の生態 J
開かれた今回の展示は、韓国人の先祖
たちの芸術魂を受け継いできた沈寿官 ・
と「韓国の虎の昔の絵 J、2 9日には
たちの生活の中で虎がどのような位置
家にスポットをあてた f 4 0 0年ぶりの
「韓国の虎の象徴」、「韓国虎と他国の
にあったのかを詳しく調べてみる機会
帰郷一日本の中に花を咲かせた沈寿宮
虎」という題目の特別講演をした。こ
となった。
月6 日から 8 月1 0日まで 家陶芸展」を 7
開催した。
の展示はソウルに引き続いて国立大郎
虎は昔から勇猛で賢くて神聖な動
博物館、国立清州博物館で巡回展示が
物の象徴でもあり、干し柿に驚く幼稚
沈寿宮家は 1 5 9 8年、丁酉再乱(慶長
行われる。
な姿とか、至誠の限りを尽くす親孝行
の役)の時、日本に連れて行かれた沈
者を助ける優しい姿など、伝説や諺は
『輔糧事後期菌室展 a
堂吉の子孫で、日本で 4 0 0年間 1 4代 、 韓国の姓と朝鮮陶磁器匠の芸術魂を受 け継ぎながら、世界的な名品である薩
湖巌美術館が企画した「偉大な文 化遺産を訪ねて」シリーズで、『大高 麗国宝展』と『朝鮮前期国宝展』に続 き、『朝鮮後期国宝展』が、その 3 回目 の展示として準備された。韓国の伝統 文化の最後を飾った朝鮮後期である
1 8、1 9世紀の 2 0 0年間の美術に集中的 にスポットをあてるこの展示は、 7 月
1 7日から 1 0月1 1 日までソウルの湖巌ギ ャラリ ーで開催されている 。 朝鮮後期は既存秩序に対する挑戦 と、そこから生まれた新しい価値観が
斗
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口 一 一
でた 門わ 名舗 に の代 申 家 M
芸間 陶年
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る1 A∞
時立
いろいろな現象が現れた。このような 時代精神は従来とはまた違った文化を
, 、 て 乱 : 乍示 剖展 器同
る「近代の繁明期」と言われるほど、
陶ふ今 摩あ
社会を主導した変革の時代で、いわゆ
82
Events & Exhibits 地下 l 階に多用途の公演はもちろん国
女性の空間、そして男性の空間、自然
創出した。すなわち、
際シンポジウムの開催も可能なように
科学と芸術が交ざり合 った天文地理と
朝鮮文化の貴重さと朝
設備された小劇場がある 。 また 3 階資
つの空間から構成され いう、 全部で 8
鮮独特なものの重要性に │
料室には外国作家の図録と作業過程を
ている。今回の展示は朝鮮後期文化の
目覚め、文化享有の階層
ROM100点余 入れたビデオ及び、 CD
ヵ所 独自性と韓国美の新しい境地を l
がより拡大され、多彩な
りを備えて、観覧客がたやすく閲覧で
で見ることのできる滅多にない機会と
表現様式が生まれ、激動
きるようにしてある。
なっている。
の近・現代史を経た今
路橋洞の稲名商 rア- t 重量載セシター J 開館
を成している時代と
開館式が聞かれた 7月9日には地神 祭(チシンバルキ)行事、金徳沫サム ルノリペ、名唱・安淑善、人間文化 財・李梅芳の祝賀公演が繰り広げられ た 。
j
も韓国民族文化の根幹
また7 月9 日から 2 9日まで開館記念展
して見ることがで きる 。 は湖巌美術館
示として、亡くなった作家や元老・中
の所蔵品を中
堅作家たちの未公開作品を集めた 『 反
心に、国立中
月5 日から 9 響』展が開催され、また 8
央博物館、宮
1 0月
中遺物展示
7日から 1 1月l日までビデオアート展、
館、大学博物
布団招待展などが計画されていて期待
館、個人など
を集めている。
の協力を得て、
月幻日まで豪州美術展と映画祭、
「
L
国宝 5 点、宝物 9 点
演劇
を含む朝鮮後期の精 神と美学が表出された各 分野の代表的作品 1 S 0点余りが厳選さ
98ソウル国際
1 i '
れた。この展示は、大きく帝王の気品
演 劇 祭a
が漂う宮中美術、鄭散・金弘道・申潤 福・李麟祥・張承業・金正喜などの韓 国の代表的な作家によって描かれた書 画、機能性・実用性・格調美・多様性 が交ざり合った陶磁器、自然とひとつ ソウル昭格洞に新しい文化名所の 月9日に開館し アート善載センターが7
信仰と結びついて民衆化された仏教美
た。ここ昭格洞と司諌洞一帯は、景福
術、生活の美が惨む作品らで造られた
宮とフランス文化院が位置しており、 国際画廊、ギャラリー現代、錦湖美術
Sぐら 館、アートスペースソウルなど 1 いの画廊が集まっていて、隣の仁寺洞 と共にひとつの文化地帯として文化の 街を形成している。 大字財団が慶州に建設した 善載美
83
にな った華麗な螺釧漆器、儒教や土俗
W 9 8ソウル国際演劇祭』が8月3 1日か ら1 0月I S日までソウル大学路文芸会館
術館の別館格のソウルのアート善載セ
大劇場と小劇場、ハクチョン・ブルー
化行事が行われるように組まれた複合
小劇場、大学路一帯の野外公演場で開
文化空間である。 l 階にアートシ ョッ
かれる。今回の演劇祭は、今年で 2 2回
プとカフェテリア、 2. 3 階に展示場、
階、地上 3 階の多様な文 ンターは地下 3
Events & Exhibits りを実地調査し、韓国現代建築批評の 歴史を正しく立て直すため、建築界初 めての大長征を始めた。 「現実批評研究所 」は元老級と 3 0、
4 0代のトップクラスの建築家など 5 0名 余りが参加し、お互いの作品を比較・ 分析し、その成果として「韓国建築史 J を執筆するため、「脱植民性ー韓国現代 建築をどのように見るべきか」という 主題の大規模プロジェクトを準備し、
7 月1 8、 1 9日京畿道日迎で閉幕式を行 った。 このプロジェク卜は l 部と 2 部に分 部は若い建築 れて実施されるが、第 l
6名の 家たちが中心となり元老建築家 1 1 5点を分析するプログラムであ 作品 1 る。今年の 8 月から来年 1 0月まで続く このプログラムの結果として『韓国 部』が編纂される。第2 部は元 建築史 l 老建築家たちが中心となり若い建築
5名の作品を分析、『韓国建築史第2 家3 部』としてまとめる計画である。第 l
建築
部のプログラムは毎月 l 回ずつ実地調 査と講演、主題発表、討論等で構成 される。 このプロジェク卜は「建築物が建 築雑誌の中の写真と絢欄たる言葉を通 してだけ解釈される風潮と外国の思潮
を迎えるソウル演劇祭が新しく名前を 変えたもので、演劇家たちと観客たち が楽しくひとつになって交流すること
建築ヅロミJェク t r脱 植 民 健 一 韓 国 現 代 建築をどのよるに見忍 べきか J
ができる祭りの場であり、海外の有名 劇団等の最新作品らが招かれるという 点で以前とは違う様相を見せる。 今回の演劇祭に公演される 国内作 品は劇団・星座の『ある老優の最後の 演技』、劇団・春秋の『塔の姿』、アリ ランの『流浪の歌』、神話の『地の果 てに立っと海が見える』、美醜の『暑 い陽射し』、楽しい人々の『天上詩人 の歌』、演友舞台の『キムチグッ氏、 気が狂う』 、延喜団ぺゴリの 『感じ 、 編が審査を経て決 極楽みたいな』の 8 定した。これと共に海外招請作である イタリア・ローマ現代劇団の『ワジ ヤ』、フランス 芸術劇場の『ロンド、 ロ 記者の地球村の報告』、スロベニア・ リュブルリャーナ国立劇場の『人生は 夢』、カザフスタン・コーリョ劇場の 『記憶』 、ポーランド・ビウロポドロジ 劇団の『悲運のカルメン』が公演され
を踏襲する事大主義的慣行などを打破
元老建築家たちと若い建築家たち
し、建築物を『実際に存在する具体的
が、韓国の代表的な現代建築物 2 2 0余
る 。
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Events & Exhibits ジャマイカ、 ドミニカ等 2 5ヵ国 2 8の島
また「我々の漫画の発展のための
な建築物』として評価する正しい伝統
1 0 0余名の公演団が参加し、各島々 の9
、 7 月l 日から 7 月7日ま 連帯の集い Jは
を立て、韓国現代建築史を新しく定立
が備えてい
でソウル仁寺洞一帯で『漫画よ、動く
するためのもの」だという趣旨を明ら
る自然の中
な!~という総合漫画行事を繰り広げ
かにしている。このように、建築界の
で育てられ
た。現在の萎縮した漫画創作の現実に
新、旧世代が交流と相互批評を通して
た歴史的な
対する漫画家の立場を代弁し、代案を
現代建築の歴史を整理することは、世
特色とその
準備するという趣旨から企画展示、ア
界建築界でも稀なことで韓国建築界の
独特な趣を
ニメーション上映、シンポジウムなど
発展に大きな契機になることと期待さ
出していた。
が聞かれた。
れる。
祭りの聞
この他に 「 漫画家協会 J と「参加
は主催館と
月3 日から 7 月9 民主社会市民連帯」が7
太平洋館、
日までソウル白象記念館で社会著名人
インド洋・
3 0 0名のカリカチュアを展示した『漫
大西洋館、
画で出会う我々の時代の人々』展が開
カリブ・地
催された。
つ 中海館の 5 の地域館が建てられ、参加した各島々 の多様な風物と工芸品が展示され、ま た固有の民俗公演と食べ物祭り、ファ ッションショー、ミス・アイランド選
『生活文化園
漫画 大韓民国アシダーグラ ウシド濃薗フェスティ
パ: J I J
祭り』
抜大会など多様な行事が繰り広げられ た 。
' 98 縞揃・島文化祭り
また参加した島々の花文化を詳し 世界最初の W ' 9 8
く知ることのできる盆栽公園と、独創 的な象徴物が展示される民俗彫刻公園
済州・島文化祭り』
がオープンし、このほかにも海釣り大
月1 8日から 8月 が7
会、ウインドサーフィン、パラグライ ダ一、スキューバーフェスティバル、 山岳自転車行事など多様なレジャーイ
1 3日まで済州道吾
(%CkeV ん 羅 観 光 地区で開催 1 s t 川
Cl 1llUR(S
された。この祭り
ベン卜も用意され、済州島全域を多彩
には圏内の済州島、巨済島、珍島をは
自由な想像力と創意性の所産であ
に飾った。
じめとしタヒチ、西サモア、ハワイ、
る漫画。韓国で、その漫画の現実を振 り返ってみる豊かな漫画祭りが聞かれ た 。 まず商業性と低級性を否定し、独 自の創作活動を繰り広げてきたいわゆ る「アンダー漫画家」たちの「大韓民 国アンダーグラウンド漫画フェスティ 月l 日から 8 月9 日までソヨル バル」が7
錦湖美術館で開かれた。『残酷』とい う主題で、表現の自由を抑圧する検閲 の残酷性、作品性を妨げる商業性の残 酷性など、この地で行なわれる全ての 残酷性をあばき出し、告発する性格と しての漫画展示、アニメーション上映、 絵画、パーフォマンスで構成された。
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韓国国際交流財団の 海外での フエローシッフ・フログラム 韓国研究に対する支援 韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエローシップお よび韓国語フエローシップを次にようにご案内いたします。
韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、これを支援しております。人
韓国研究フェロ ーシップ
文・社会科学・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムにつ いて支援申請を受け付けております。 ①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 1日で、選抜の結果および支援 上の申請のしめ切りは該当年の 5月3 0日までに申請者に通報いたします。 額については、同年 1月3 上記の「海外での韓国研究に対す る支援」および「韓国国際交流財団 のフヱローシップ・プログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の緯国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 韓国国際交流財団国際協力 1部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函
方は、所定様式の申請書と研究計画書を作成のうえ、該当年の5 月3 1日 までに韓国国際交流財団に提出してください。選抜の結果は同年 8月 3 1日までに通報いたします。 韓国語フェローシップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者 および適格の専門家に対して韓国語フエローシップを提供し、 6~12 カ
月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講できる機会を与えております。 フエローシップを与えられることが決まった方には、韓国内の大学の うちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授 業料と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の 月3 1日までに韓国国際交流財団に提出 申請書を作成のうえ、該当年の5 1日までに通報いたします。 してください。選抜の結果は同年 8月3 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 緯国国際交流財団国際協力 2部 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函21 4 7 号
電話:8 2 2 7 5 3 6 4 6 5 FAX:8 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2 0 4 9
21 4 7 号
電話 8 2 2 7 5 3 3 4 6 4 2 2 7 5 7 2 0 4 7・2 0 4 9 FAX・8
KOREAFOCUS (コリア・フォーカス) (韓国の時事問題関係隔月刊誌)
O 阻A F I 配 U S(コリア・フォーカス) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌K を刊行しております。「コリア・フォーカス Jは日本の皆様に韓国関連 の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としており ま す 。 同財団は 「 コリア・フォーカス Jが日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「コリア・フォーカス Jは、日本語版のほかに英文版K O R E AF O C U S も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 「コリア・フォーカス Jが取り上げて いる記事は、韓国の政治・経済・社会・ 文化などの各分野と、韓国関連の国際問 題にわたっており、このほか韓国に関す る重要な資料と主な事件の日誌も掲載し ております。したがって、韓国の時事問 題に関する情報性記事が幅広く盛り込ま れていて、韓国の現実にリアルに接して いただけるに違いありません。
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l I i誌iii"i器 , . 一 一 一 一
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