Koreana Winter 1998 (Japanese)

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笑顔がこぼれるおしゃれな空間

私は韓国のロッテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーション、 1 3 0 0坪余りの広々とした居内、 00以上の豊富なブランドと 2 0庖もの有名ブティ ックで それに4 心ゆくまでショ ッピングを楽しめるから。 でもロッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すりエステやゴージヤスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/¥ ' ークのロッテワールド ・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジ ック・アイランド。 000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 韓国 5 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、

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l i I 凡1 1 1 空Floc. J t ie

白 オ

拍は大部分の韓国の宮中音楽で使われる楽器と して、他の楽器とは違い、演奏するというよりは 音楽の始まりと終わり、そして音楽上の重要な変

化があることを告げる役割をする。堅い木の六片 を繋ぎあわせて作る拍は、一方の端が革紐で縛つ

であり、扇子のように手に持ち、反対側を掴んで

広げたり畳んだりしながら打つのであるが、この ようにすると大きくて端麗でもあり、かつ優雅で 淡泊な音が出る。 拍 が出す音は単純である 。音の高低のようなも のは全くなく、ただ木の六片がぶつかりあって ﹁タッ 、タダ ダツ﹂という音を出すだけだ。これ

は西洋音楽から見るとうるさい﹁音﹂の部類に過 ぎないが、音の加工段階を最小化した自然の音を

尊重する韓国音楽の特徴を見るとき、 拍は 自然に 近い音を出す典型的な韓国の楽器なのである。 この楽器は宮中音楽の演奏で指揮者が持つため 西洋音楽での指揮棒と同じ役割をする。宮中音楽

の演奏において指揮者を﹁執拍﹂というが、これ は即ち﹁拍を持つ人 ﹂という意味でもある 。音楽 の進行と 内容をよ く知っている元老楽士が 拍を持

って音楽の始まりゃ重要な変化があるときには 一 回、終わる時には三回打ちその変化の時を告げる。 韓国の宮中音楽は音の響きが小さくて灰かであ り、呼吸を基準に演奏するためテンポが遅い。従 って、音楽の雰 囲気は静的かつ膜想的で落ち着い ている。このような音楽の流れを、結んだり解い

たりしながら演奏するよう導く拍は 、韓国 の宮中 音楽演奏での道しるべなのである。

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のと

/ 勺﹀泊︿印mE-

カバー・ストーリー

韓国の伝統音楽を伝承する

国立国楽院

東洋では古く から音楽が 人の心を動かすことがで きるとされ、 礼法として

4

行動を正し 、楽 (音楽)

韓国音楽と韓国文化

として人格を 完成す ると

韓 明照

いう 礼楽思想を、民を治

10

める根本原理として考え てきた。これ に伴い 韓国

千年の音楽伝統 未来を開く国立国楽院

ではすでに 1400余年前 か ら音楽を担当する官庁を

宋恵真

権五聖

24

外国から見た韓国の伝統音楽

戸﹄1

18

別 に置き国家で主管して きた。コ リアナでは独 特 かつ長い歴史を持 つ国立 国楽院を特集する。写真 は楽器を演奏しながら空 から舞い降りる飛天像

国立国楽院の 2 4時間

で、江原道の上院寺にあ

コリ ア ナ 編 集 部

る銅鎚の文様であ る 。

28 私と国立国楽院 ロパ・ ート・プロパイン

32 韓国の夕べ クレール ・ベルチェバ ション

36

コリアナ I n t e r n e tW e b s i t e コリアナの写真と英文の

F O C U S 朝鮮王朝の儒学伝統と成均館

要約記事を I n l e r n e lW e b s i l e

安煩周

r n )でご覧になれます。

( h 世p : l l w w w . k o l o . o r . k r . 肱d a l a . h l

40

A R T I S TOFK O R E A 林権沢監督-彼の映画について 鄭聖一

44

ONTHEROAD 高原地帯の冬景色大関嶺

萎運求

50

M A R K E T SOFK O R E A 求礼 鄭勝議

K o r e aF o u n d a t i o n 宅}号寺刈 2吾川唱


lV o 川

N o .4W I N T E R1 9 9 8

KOREANA

56

N A T U R EOFKOREA

韓国の恐竜の足跡 林 成圭

コリアナ

60

1 9 9 8年 冬 季 号

D I S C O V E R I N GKOREA

韓 国国際交流財団の季 刊誌

韓国の香

発行人

朴照俊

李 廷彬

64

韓国国際交流財 団理事 長

T R A D I T I O N A LA R T I S A N

編 集理事

土の中に風の中に花開 く忍苦の歳月 瓦の工匠 韓亨俊

李畑権

編集長

金泰

7 0

編集委員

金 光 彦 ・金 文 燥 ・金 畑 閥 沈 在 龍 ・李 鍾 烈 ・李 種 東 韓 明照

KOREANNA T lO NALT R E A S U R E

荘厳-聖徳大王の神鐘 李源福

アート・ディレクター

朴 定価

72

KOREANMYTHOLOGY 黄金冠の神話

600円

金烈 圭

発行 所

韓国国際交 流財 団 大緯民国ソウ ル特別 市 中 央郵便 局

7 6

私書 箱 2 1 4 7 号

-電話 :8 2 2 7 5 2 61 71

C U R R E N T S

•F AX:8 2 2 7 5 72 0 41

9 8慶州世界文化エキスポを訪ねて

編 集デ ザイ ン

白承 睦

A R TS P AC EK O R E A

大鱒民国ソウ ル特 別 市錘 路 区 新橋洞 3 1

8 2 2 7 3 471 8 4 ・7 3 7 ・9 3 7 7 • FAX:8 22

大韓民国 5 0 年私たちの物語展

・電話

李忠 -

r KOREANA (コ リア ナ )J は緯国国際交流財団が発

9 8ソウル国際演劇祭 金美都

行している季刊誌です.版権 はすべて本財団側 にあ り、本財団の許諾な しに転披 ・複製すること は禁じ

韓国語誰の現代的変容

られてお りますのでご 7承下さい.

朴来卿

3 8

また 、本誌、掲載の記事 ・論 文 の内 容 は、本 誌 の編集者または本財 団の 意 見 ではありません。

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1 6 72 9

.電話 :8 2 2 4 6 80 3 6ト5

n e v E

ソウ ル特別 市城 東 区 議│ 場洞

間の 玩

印刷所

三星文化 印刷株式会社

印有 4 ぉ 阿美 8 刷

RUH出 H﹁

∞掴

1 9 8 7 年8 月8 日登録 t I } 1 03 3号 1 9 9 8 年 1 2 月 7日 発 行 (毎年 3 、6 、9 、 1 2 月の4 回発行)

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る音楽と同じように、﹁音 ﹂

' u I A A 国の伝統音楽も他のあらゆ

ゴE 主 その﹁音﹂は、どこまでも韓国的な音

drヨl を基にして存在する。だが、 ﹂

である。言い替えれば、韓国人の気質 や心性からにじ み出た音であり、韓国 の気候や風土に結びついた音であり、 宗教や 思想 とも無関係ではない音であ る。つまり、韓国伝統音楽の音は、韓 国伝統文化それ自体を苗圃として発 酵 ・生育した音なのである。従って、 韓国伝統音楽の特性を理解するには 、 当然韓国の伝統文化の属性や韓国人固 有の民族性を理解しなければならない。 人間の活動は、知性と感性の商に両 分して見ることができる。韓国人の場 合も同じである。それゆえ韓国の伝統 音楽には、知性的な比重が大きい音楽 と感性的な傾向が濃厚な音楽がある。 前者は﹁正楽﹂と過称され、後者は ﹁ 民俗楽﹂と呼ばれるが、あえて例える なら正楽は西洋の古典音楽に近く、民 俗楽はフォーク・ミュージックやポピ ュラー -ミュージックのようなものに 当たるといえる。知性的な色彩が濃い 正楽は、その雰囲気がしっとりとして いて思索的であり、きめ細やかである のに 比べ、感性的な色彩が目 立つ民 俗 楽は楽想が溌刺としていてストレート で躍動感にあふれでいる。 複雑な文化現象を 二元的に画一化し てしまうのは多少無理があるが、初心 者の理解を助けるために、韓国文化を 大まかに二つの分類に区分してみると、 基層的な庶民文化と上層的なソンビ (文士)文化に分類できるだろう。韓国 の庶民文 化 は、何よりも溌刺として健

康的である。また、ストレ ートで淡泊 であり、飾り気がなくユ→モアとウイ ットに富んでいる。一方韓国のソンビ 文化 は、優雅で高潔であり 、落ち着い ていて膜想的である。前者が感情をあ るがままに表出する感性的、外向的文 化だとすれば 、後者はできるだけ感情 を抑制す る知性的で内向的 な文 化だと 明

U 翠︿印m ﹀ cZ のと

言える。このような韓国文化の特性は、 そのまま韓国の伝統音楽につながる。 まず、庶民文化に 基礎を置く感性 的・外向的な民俗楽は、比較的テンポ が速く躍動感がはっきり し ており、ウ イットと ユーモ アを内包して 即興性が 濃厚である。声を発する時も仮声(作 り 声 ) を 使 わ ず そ の ま ま 吐 き 出 し (地

韓 国 音 楽 の 一 般 的 な 特 徴 と し て 、 まず 「稔やかなテンポ」 をあげる

ことができる 。 テンポが追いため、 こ れ ら の 音 楽 の 雰 囲 気 は 非 常 に 静 的

で目冥想、的、 そ し て 落 ち 着 さ が あ る 。 こ れ は 呼 吸 を 重 視 す る 韓 国 人 の

意識構造に関連している

韓国音楽の特徴のひとつに優しく暖かい音色を出すというもの

があるが、これは楽器に金属をほとんど使わないからである

6


るがままの自然さと生命力を感じさせ る。これに比べ、ソンビ文化に近い知 性的・内向的な正楽は、テンポが明ら

声)、ストレートさと健康的な感じを表 わす。精練された人工美ではなく、あ

大体において、韓国音楽の音色は、 ソフトであたたかい。正楽系統の音楽

で静的な特性を持つ。

で動的であるとすれば、呼吸を基準と した韓国の正楽系統の音楽は、長い息 の属性のようにしなやに伸び、思索的

の拍動を根拠とする西洋音楽が、心臓 の運動のように活気にあ ふれ 、進取的

りなす音楽だと き?える。

自然に帰依し自然んこつになろうとす る慈悲の姿勢を持つ感性と人間味が織

論理と理性により生まれたとしたら、 植物性楽器が主軸をなす韓国音楽は、

性が豊かでエクスタシ ーにはまりやす い。シャ l マン的な降神亙(神がかり

産物だと言える。結局、金属性楽器が 主軸をなす西洋音楽が、自然を克服し 自然に挑戦しようとする冷たい色彩の

い情を表立たせた韓国人特有の情緒の

かにゆったりとしており、楽想は非常 に重厚で幽玄、思索的である。庶民の が特にそうである。非 h 叶 2i 常に音色がソフトな -の で 、 音 と 音 、 旋 律 fit と旋律が衝突してもそれほど不協和音

反面、韓国音楽には、即興性が強い。 特に、感情を抑える正楽系統の音楽よ

く。声を発する時も仮声を使用し、原 色的な感情表現を抑える。 韓国音楽の一般的な特徴として、ま ず﹁穏やかなテンポ﹂をあげることが できる。正楽に属する大部分の音楽は テンポが遅い。ある曲などは、一拍の

植物性材質を好む。ほとんど全ての韓 国の管楽器が竹でできている点も、こ

ん、クラリネ ットなどにも 金属 がついているが、韓国の場合は弦楽器 の弦も鉄弦ではなく絹弦である。それ ほど韓国人はあたたかく柔順な質感の

洋の場合、木管楽器に分類されるフル ートはもちろ

1

としては聞こえない。このように音色 がソフトであたたかいのは、楽器の材

りも感情が高まる民俗楽系統の音楽に おいて即興性が強く出ている。自他共 に認めるように、韓国人は普遍的で知 性的な面より感性的な面が目立つ。感

服地である組い木綿ではなく、ソンビ の絹の衣の質感のように、音楽の流れ がなめらかで、かなり精巧に流れてい

質が非金属性であるためである。西洋 音楽の重要な楽器は、ほとんどが金属 性の材質であるのに比べ、韓国の重要 楽器はほとんどが非金属性である 。 西

長さが約三秒にもなるほど、音楽がゆ ったりと流れる 。このようにテンポが 遅いため、これらの音楽の雰囲気は非 常に静的で膜想的、そして落ち着きが ある。ある種の韓国音楽のテンポがこ のように遅い理由は、呼吸を重視する 韓国人の意識構造に関連している。昔 から韓国人は呼吸を重視してきた。感 情をコントロールするためにも、精神 修養のためにも、あるいは健康促進の ためにも呼吸を重視し、呼吸を通じた 修練を重ねた。人が死んだ時にも韓国 人は﹁息が絶えた﹂、﹁息が切れた﹂と 表現する。このように無意識に呼吸を

の亙女)が多く、 一度 遊興に興じれば とことんまでやり通す習慣など、全て 豊かな感性を基礎にした文化現象なの である。音楽を演奏する時も感性的な 興が高まれば形式を超えてしまう。興 が核心的な役割をするから理性的で徽 密なスタイルがあるわけがない。大体 の骨格があるだけで、細かい音楽の内 容はその時その時の興の如何によって 大きく左右される。﹁散調﹂という器楽 独奏曲の場合がそうで

r

あり、﹁パンソリ﹂という独特な声楽曲 がそのいい例である。現在は多くの音

楽が楽譜化され、 一定の形式で固定化 される傾向にあるが、伝統的にあるジ ャンルの韓国音楽は非常に即興性が強

く、はっきりとした形式を持たない開 かれたスタイ ルの音楽で ある。同じカ

li

ヤグム散調を 1 J 1川川川思以 演奏しても、 釦 奏者によ り、あるいは同

ES帽咽咽咽阻叩! 演

じ演奏者でも時と場により、その散調 音楽の演奏時 間が変わる 。わずか十分 前後に圧縮して演奏することもできる し、数十分に延ばして演奏することも

できるのである。民謡を歌う時も、興 に乗ったり長く歌う必要がある時は、

即興的なアドリブを駆使して歌を延 長 させたりする。興を基礎にした即興的

な音楽であり、厳格な形式 や 一 定し ' た終わりのない聞かれた形式の音 問 出 楽なのである 。 司 韓国音楽のまた違った特徴のう 可 ちの 一 つ に、できるだけ楽曲と楽 曲の聞を分離させず続けて演奏する

という点がある。西洋の連歌曲に似た 性格の韓国伝統歌の﹃歌曲﹄の例がそ うであり、西洋の組曲に似た﹃霊山会 相﹄のような楽曲の例がそうである 。

﹃ 歌曲﹄は小規模 の室内楽の伴奏を伴っ て歌う二十数曲が一つの組になってい るスケールの大きい声楽曲だが、これ ま を歌う時も曲と由の聞に聞を置かず相

次いで歌を歌う。﹃霊山会相﹄は九曲で 構成されている代表的な器楽曲である が、これを演奏する時も曲と曲の聞に

はわずかの休符も置かずに続けていく。

7

重視したので、音楽のテンポの基準も 一息の周期を一拍に換算する。ビート

のような傾向の証拠である 。朝鮮王朝 時代にも、金属工芸より木工芸が発達 し、日常生活の道具の中でも植物性材 質の用品が主流をなしている。対象を 解剖し分析する西洋の論理文化は冷た い理性の所産と言え、対象を抱き込み 包み込む韓国の感性的文化はあたたか

をパルス(鼓動 ・脈)というように、 心臓の拍動に近いテンポを﹁モデラー ト(中庸の速さ)﹂とみなす西洋音楽と は大きく違う点である。つまり、心臓

ー -


pp司式日mcZ の亡 i

そのため、具体 的 に曲を知らないと、 今どの曲を演奏しているのか全くわか らない。このように、音楽を演奏した り歌ったりする時、できるだけ断絶感 なく続けるという現象は、韓国人固有 の気質にも関係がある。韓 国人の気質 は、大体において表面的には柔順であ りながら内面的には強靭でなおかつ粘

く演奏し続ける持久力として表れる。 その最もいい例が韓国の伝統的な声楽 曲で、 一人の歌い手がある物語を歌に して語る﹁パンソリ﹂であるが、例え ば﹃春香伝﹄というパンソリ曲は、歌

また、韓国の伝統音楽はテンポの配

い手 一人でいろいろな人物の役割を全 てこなし、延々八時間以上を少しも休 まず歌い続ける。世界に例のない稀な 歌唱スタイルであると言わざるを得な

り強い側面がある。韓国人の民族性を ﹁密やかさと根気﹂と表現したある国文 学者の表現は、多くの共感を呼んだ妥

列が特異である 。西洋の場合には遅い 楽章と速い楽章が対比をなし、変化を

puv

当なものである。このように粘り強い 民族性は、音楽を演奏する時も 断絶な

うな現象は知性より感性が豊かな韓国

曲の場合でも同じである。最初の部分 の曲は遅いテンポで、後にいくほど加 速される。断言はできないが、このよ

リ﹂が奏される。散調のように同一の 楽曲ではなくいくつかの曲を集めた組

ん速くなる構造を持つ。よく演奏され る散調の場合、﹁チニャン調﹂という遅 い章が奏され、続いて適度な速さとい う意味の﹁中モリ﹂部分が奏される。 最後には速い章である﹁チヤジュンモ

与えて流れていくが、韓国音楽の場合 は大体、遅いテンポで始まってだんだ

韓国音楽の特徴ー で ある即興性が濃厚 に現れる民謡 (上)と シナウ ィ (下)

旋律と旋律が衝突しでもそれほど不協和音と

同」司、

_ILレ三ヱ.

しでは聞こえない 。 こ の よ う に 音 色 が ソ フ トであたた

かいのは、 楽 器 の 材 質が 非 金 属 性 で あ る た め で あ る 。

. 生の 西 洋 音 楽 の 重要 な楽器は、 ほ と ん ど が 金 属t

材質であるのに比べ、 韓 国 の 重 要 楽 器 は

ほ と ん ど が 非 金 属t . 生である

儀式の﹁宗廟祭礼﹂の時奏される﹃保 太平﹄という音楽においての﹁祝﹂と

て使われた音楽の中に、陰陽五行説的 な原理がはっきりと残っているという ことがある。例えば、歴代の王を祭る

は没我のエクスタシ ーに入り込むシャ ー マニズムのような韓国文化のカラ! と類似した現象であるといえる。 また、韓国音楽を理解するのに欠か せないポイントとして、祭礼音楽とし

人の気質に関係があるのではないかと 思う。テンポからして、だんだん速く なるプロセスで自己没入し、しまいに

韓国音楽の音色は、 非 常 に 音 色 が ソ フ トなので、

8


いう楽器と﹁散﹂という楽器の用途が おいては 、音楽を論ずる場において必

ならない。従って、東洋の音楽思想に 国文化の精神的軸と深くかかわってい

な民俗楽系統の音楽は、また違った韓

別に精神的深さより感性的起伏が濃厚

し い理解は、韓国文化自体に対する広

結論をいえば、韓国音楽に対する正

のためである。

スタイルを取っている理由はまさにこ

に必須である、いくつかの韓国文化の

る。風流思想と通称されるほどの文 化 新羅時代に既に風流徒というものが

背景の特徴を説明してみた。韓国の伝

ということになる。また、音楽の概念

存在した。儒教と仏教、道教を包括し 、

ずその対になる礼に言及するのが当然

融合させたものが風流徒であるといわ

統音楽には正楽と民俗楽の 二つの 流れ が共存しており 、こ の音楽は韓国人の

そのいい例である。﹁相﹂は音楽が始ま る時だけ使われ、常に東側に配置され、

れ、風流徒を実践し生活化した階層が

東を象徴する青を塗り、﹁散﹂は常に音

れ自体を超えた観念的音楽観が大きな

新羅の﹁花郎徒﹂である。彼らが風流

い理解から 出 発しなければならない。 これまで韓国の伝統音楽を理解するの

位置を占めているのも事実である。昔 のソンビの﹁詩興が泊々たれば楽器の

があることをいくつかの例により示し

気質や風土、文 化背 景と密接な関わり

の流れがそれである。

弦を切り、無音の楽器を奏じて深き楽

要素が歌と舞であった。つまり、芸術

徒の理想を実践する過程に欠かせない

がこのように拡大されているので 、韓

想に浸る﹂という例もそうであり、音

国の伝統的な音楽概念の中には音楽そ

楽を人間の修養の方法、あるいは社会

されて色は﹁西﹂を象徴する白を塗る。

しい実体を理解することはできない。 以上説明してきたように、韓国音楽は、

楽が終わる時だけ使われ、西側に配置

当然の理ではあるが、韓国固有の文化 の風俗を立て直すよき手段として見て

中国でもそうだが、韓国でも早く か

いたということが、全てこれに該当す

を通して人生の価値 、 余 裕 、 達 観 を 体 得していたのである。このような風流

あるソンビ文 化 と密着しており、民俗 楽は基層文化系統である庶民文化と関

た 。 一言でいって、韓国の伝統音楽の うち、正楽分野は主に上流文化階層で

ローチしていては、これらの音楽の正

このような陰陽五行原理州内面にある ことも知らず、単に音響的にのみアプ

背景と密接な関わりがある。

になる特徴の一つが﹁モツ(粋)﹂の文

神的雰囲気が濃厚な前者は、宇宙論的

係が深い事を検討してみた 。 また、精

徒の伝統を後世に伝える韓国文化の核 化を 苧み、その﹁モツ﹂の文 化 が実証

る。はなはだしくは、東洋では真に素

的に再現された芸術ジャンルが他でも

晴しい音楽は無音の境地に至るものだ とし、偉大な音楽は宇宙に共鳴し、同

った。﹁ 礼楽思想﹂がそれである。礼楽

化し、調和す るものだと言った。特に、

ら 音 楽 を 形 市 上 学 的に考える傾向があ とは、狭義には礼節と音楽を意味する

礼と楽に想定したものである 。具体的

羅万象の互いに異質である対称関係を

ティウスの宇宙音楽の次 元 とも相通じ

ニバーサル ・ハーモニーの次元やボエ

大きな構図としての宇宙論的境 地 の音 楽観は、ピタゴラスの音楽観であるユ

思想の持ち主がいたということである。

な度量で楽観的な生を営んでいた風流

余 裕 を 失 わ ず 、 大 自 然 を 包 容する雄大

世知辛い現実生活の中でも﹁モツ﹂と

ある。つまり、韓国の民俗楽の中には

ない韓国伝統音楽の内の民俗楽系統で

摘した。このような韓国文化と韓国音

風流思想と相通じる点が多いことも指

と余裕、達観が打ち出された楽観的な

由奔放な感性の民俗音楽は、ユ ー モア

音楽観といえる 礼楽思想に相 通じ、自

が、広義には東洋特有の二元的宇宙観 であり、﹁陰﹂と ﹁ 陽﹂を意味する 。森

には、地は 礼、天 は楽に該当し、分離

る意味さえ持ち、非常に興味深い。 このように形而上学的な次元の音楽

は礼、集合は楽 、暗 は礼、明 は楽、陰 は礼、陽は楽に該当する。

9

り身近な鑑賞が可能になると思う。

よくあらわしている

民俗音楽が自由奔放で興と活力にあふ れ、無限の空間に向け大きく開かれた

致(上)と祝(下)。この楽器は韓国音

概念は、主に精神的な性向が濃厚な正 楽系統の音楽と関係が深く、これとは

楽との相関関係を理解してこそ、初め て韓国音楽への正しいアプローチとよ

このように礼楽思想は互いに異質な もの存二つの対とみなす陰陽思想に 他

楽に色濃く残っている陰陽五行的原理を


ah

日h l日│ 〈│ 音楽評論家

-宋恵真

全国二十あまりの地方自治体で運営す

る。国立国楽院のいろいろな活動は、

界 を リ ー ド し て いる 国 楽 の 宗 家 で あ

国 立 国 楽 院 は 今 日 の韓国 社 会で国楽

な が ら 、 現 代国 楽の宗家として堂々

ら な い よ う にバ ラ ン ス 感 覚 を 維 持 し

よ う に 相 反 し た 様 相 が あ る 一方 に 偏

慎重な姿と、新しい物を探し求める 果 敢 な 立 場 が は っき り と 現 れ 、 こ の

国楽院の活動では、伝統を継承する

をも っと も 重 視 す る 。 そ の た め 国 立

る 公 立 国 楽 演 奏 団 体 と 国 楽 専 門家 を 養

国楽の宗家│国立国楽院

成する 一二 大 学 の 国 楽 科 と 国 楽 の 英 才

い そ

たる姿を維持 し ている。

い 史

を育て上げる 中 学校と高等学校の過

け い 継 歴

程、そのほかおよそ四百カ 所余りに及

ぶと推算される専 門演奏 団体と 国楽愛

るの

圧│

好会の活動に多少とも影響をおよ+ほし

で と

ハングルで国立国楽院と彫られている

て いる。国 立 国 楽 院 の 公 演 を 通 じ て 伝 mcZ の 。 亡

受 長

どにさかのぼる。六五 一年、音声署に

代 の大楽署 、統 一新 羅 時 代 の 音 声 署 な

楽院の淵源は 、 日 本 植民 地 時 代 の李 王 レコード あ る い は 音 楽 学 研究の 資料な

職雅楽部、朝鮮時代の掌楽院、高麗時 どは、今日の全国楽界が基づいて立つ

の企画 、 国 立 国 楽 院 で 刊 行す る楽譜と

基盤である 。 承 し 、 こ れ を 健 康 な 未 来 の 文 化とし

音 楽 機 構 を 通 じ て 絶 え ず 生 成 、 変貌し

代と思想の変遷にもかかわらず国家の

から千四百余年が流れる問、王朝や時 て伝えるための創造的な努力の傾注

国立国楽院は伝統音楽を正しく継

官職を設けたという歴史上最初の記録

国立国楽院 が企 画 す る 教 育 活 動 と 公 演

家の脈は千 四百余 年 も の 長 い 歴 史 を 通

院 味院

承 さ れ る 音 楽 と 踊 り 、 現 代 文 化を 反映

が の

じ て 伝 承 さ れ て き た 。 国 立 国 楽 院と い

国 の国

う名称で一九五一年に開院した国立国

楽 意楽 品の公演だと か 、 楽 器 の 改 良をはじ め

立楽立

する新たな実験、例えば新たな創作作

可 、P訂手︿ 印

一「

国 音国

刀く

1 0


r S F t

つつ伝承されてきた。少なくない戦争

を経てきたし、国家存廃の危機に陥っ たこともしばしばであ った韓国の歴史

を鑑みるに、千四百余年という長い歳

月の問、国家の音楽機関の伝統が持続

ほどである。なぜこのように音楽が重

されてきた 事実が不 可思 議に思われる

視され、なぜ歴代の王朝は国家の音楽

機構の存続にそれほど心血を注いだの

か不思議なくらいだ。これに対する答

えは音楽の歴史を記録したいくつかの

、 ある程度探し 出すこと ができ 書籍 で

ると思う 。 高麗時代の音楽の歴史を記録した

﹃高麗史﹄楽士山の序文には﹁音楽とい

うものはそれによって醇美な風俗と教

化を樹立し、祖宗 の功勲と恩徳を形象

するもの﹂と書いてあるが、大休にお

いてこうした考えが国家音楽の基本理

念であった。朝鮮時代の成宗の時に完

は天で生まれ人聞に付け足されたもの

成した﹃楽学軌範﹄の序文には﹁楽と

であり、虚ろなものから発して自然の 中で出来上がるものであるから 、人間

の心をし て感動せしめることにより 血

脈を鼓動させ、精神を流通させるもの

である。感 じたも のが等しくな いため

音も同じである筈はなく、嬉しい気持

ちを感ずればその音が弾け、怒りの気

しい気持ちを感ずればその音は哀れに

持ちを感ずればその音は荒くなり、悲

なり、楽しい気持ちを感ずればその音

がゆったりしてくるのである。そのよ

うに等しくない音を合わせて一つにす

る のは、王の導き のいかんにか か って いる。導きには正と邪の違いがあり、

風俗の盛衰もまたこれにかかってい

1 1

PPE ︿筒 CZ のと

国立国楽院全景

国立国楽院が受け継いでいる国楽宗家の脈は千四百余年もの

長 い 歴 史 を 通 じ て 伝 承 さ れ で き た 。 651年 、 音声暑に官職を設けたという歴史上 最 初 の 記 録 か ら 1400余年が流れる問、 王朝や時代と思想、の変遷にもかかわらず

国家の音楽機構を通じて絶えず生成、 変 貌 し つ つ 伝 承 さ れ て き た


織広?戦範一一

古来介体として玉虫解されて い た か ら で あ る

音楽の機構を設置すべき必要性につい て、﹃経国大典﹄の中に次のように書 いている。 ﹁音楽とは正しい性情に源をおいて 音と声文を通して表現されるものであ

り、何をもってしでもその気運を広め

ることができないであろうし、固にた

だの一日でも音楽がなければ 、何をも

ってしでも 和気を漂わ せる ことができ

ない。そのため 、 先王が音楽を隆昌さ

せたのであり、音楽を管掌する機関を

設けたのであって、これによって民心

る﹂と言うのであった。

を一つに 同化することができたのであ

結局 、 国家で音楽機関を設けて音楽

を奨励した理由は、音楽が単なる﹁楽

しみ]を与えてくれるものであるため 、 先祖と ではなく、人と人、国家と 民

子孫の関係を調和に満ちた状態に導い

てくれる媒介体として理解されていた ためであるのがわかる。

国家 音 楽 機 関の 活 動 歴代の国家音楽機関であった音声署

や大楽署、掌楽院の主な役割は、宗廟

や 文 廟 、 天 と地 の 神 々 に 捧 げ る 園 丘

(天子が冬至に天祭を祭ったところ) や社理(王が国民のために土神と穀神

に俸げる祭り)などの国家祭礼 と朝会、 王と王妃の 冊封式のような重要な儀式

と国家の大 小様々なあるいは公 ・私の 宴会などにおける楽 ・歌 ・舞を総合的

に担当することであった。国家の祭 礼

では十二世紀 以降、雅楽を演奏し、ま たその 他 の儀式と宴会では韓国の伝統

音楽である郷楽と中国から受け入れた

専攻、または郷楽と唐楽など二 、 三種 を兼ねるのが常であ った 。

野の音楽家の専攻が細分されたことも あった。そして演奏者たちは専攻と 副

唐楽を演奏したが 、 時 代 に よ っ て 各 分 の厳粛さと尊敬をきわめるためのもの

官)を歴任した成但の見解はいっそう

宮中の音楽人は高麗時代から世襲 制

一つ。礼楽、儀式などを司る官庁の長 である。そのため、あの世にいる者の ために音楽を演奏すれば先祖が感激

具体的である。 ﹁人は音楽を知らなくてはならない。 君臣が和合し、またこれを津々浦々に 広 く 広 め れ ば 教 化 が実現され、風俗が

し、この 世 のために音楽を演奏すれば

音楽を知らねば 心 が憂欝になって塞が

美 し く な る も の で あ る か ら 、 音楽の効

関係を調和に満ちたよi え7 3に 導 い て く れ る

る。宗廟で演奏する祭儀の音楽は先祖

ためではなく、 人と人、 国家と氏、 先 祖 と 子 孫 の

る。これこそ楽の道が国民を治める上

与えてくれるものである 音 楽 が 単 な る 「楽しみ] を,

の偉大な 徳 を賛美するためのものであ

国家で音楽機l 切 を 設 け て 音 楽 を 奨 励 した埋由は、

り、朝廷で演奏する音楽は王と臣下問

『楽学軌範』、朝鮮時代の音楽礼式や楽譜などを 整理した本である

で大きく関係している理由である﹂と

、 ー -

果はこの ように素晴 らしい﹂ 成宗朝の音楽学者であり優れた音楽 行政家として礼曹判書(朝鮮朝六曹の

国 ι

書かれており、朝鮮の建国と文 化 の樹 立に莫大な影響をおよぼした鄭道停は

~

1 2


くては宮中音楽人を充当するのが難し

が、高麗時代にいた っては、すでに音 楽人の職業が賎視され、世襲の形でな

幹を設けたという記録が少なくない

を自ら習得し作曲して、国家大楽の根

国家の若いエリートたちが音楽と踊り

証している。三国時代には宰相や王、

世襲制度が始ま ったのは、彼らの社会 的な身分がさして高くなかったのを反

度によ って輩出された。宮中音楽人の

れた裏面には、これらを早い速度で自

のように積極的に外来の音楽を受け入

重要なことは、国家の音楽機関がこ

活動を繰り広げることができた。

って音楽の 中心とし て遜色のない音楽

楽文化を積極的に受け入れることによ

たちを外 国 に派遣しながら、新たな音

国の音楽人を招鴨するか自国の音楽人

んである。歴代の国立音楽機構は、外

役割がきわめて大きか ったのはもちろ

らしたが、この過程で宮中音楽機構の

たく無い﹂と宣言し、自国の音楽文化

とも、中国に比べ恥ずべきものはま っ

創作した世宗が﹁わが国の音楽がたと え中国の音楽に勝 っているとは 言 えず

音楽と郷楽を応用して、ついに新楽を

あった。朝鮮朝の世宗時代に、外来の

は外来音楽の郷楽化を実現させたので

様式を韓国式に受け入れて、しまいに

ぜ合わせて編成するとか、外来の音楽

の音楽様式で演奏するとか、楽器を混

を見逃せない。韓国伝来の音楽を外国

朝鮮前期に完成した音楽文化は長い川

楽の直接的な 淵源 は朝鮮時代である 。

現在、国立国楽院が伝 承している音

ある。

結局、韓国音楽の捨て石になったので

させた歴代の国立音楽機関の作業が、

りながらも、それを自国の文 化に同化

高級音楽を受け入れる上で積極的であ

は有名な話である。すなわち、外来の

rtp 弓 ふ :'

を成して朝鮮の後期にまで伝えられ、

宮中音楽と正楽の現代 への伝承

か ったのである。宮中音楽人の世襲制

について大変な誇りを標携していたの / d

固化する応用力を備えていたという点 ] 41 旗

度は高麗時代に始まって 以来、 二O世 紀の初め、朝鮮王朝が終鷲を告げるま で引き続けられた。彼らは幼い頃から 音楽を学び始め、国家で設けた数段階 の試験の過程を経て、ついに音楽人と して 一人 前 の 役 割 を 果 た す よ う に な

宮中の各種行事を描いた絵である『班次図』の中で楽器を演奏する人々の絵

る。国家に所属した音楽人の数は時代 によ ってそれぞれ異なったが、も っと も華やかであった時期には千余名に達 したこともあった。 一方、歴代の国家音 楽機関は外国と の音楽の交流を主導する 主 な窓口であ った。国家所属 の音楽院に ついてなん ら記録を残していない高句麗と百済の 場合、当時、三国の音楽人を中国と日 本に派遣して彼らと音楽文化を交流し た点、とくに高句麗の音楽人が中国の 随と唐で運営していた七部伎と九部伎 の人々に劣ることなく堂々と肩を並べ た例は、彼らの音楽 組織と国際音楽交 流の範囲を推量させて余りある。 このほか統一新羅時 代 から高麗時代 までは唐楽と宋の詞楽と宮中の呈才宮 廷で宴会のときに演ぜられた踊りと歌

13

などの演芸および雅楽が受け入れら れ、韓国の音楽史に多くの変化をもた

保~ i t t


専門の音楽学校である﹁李王職雅楽部 員養成所﹂を開設した。そしてこの養

またその音楽の流れは、日帝植民地と 成所でのカリキュラムでは、過去の宮 すでに民間で伝承が難しくなった過去

いう文化の暗黒期を、特有の強い生命

の士大夫社会の風流に富んだ音楽をも

力で貫きながら、今日へとつながって 一九一 O年、朝鮮王朝が終意を告げ

導入しただけでなく、西洋の音楽理論

中音楽を主に教えたが、このほかにも

るや、事実上 、 国立音楽機構の運命は

きているのである。

朝鮮王朝とともに終息する危機に瀕し

と作曲に関する常識も含まれていた。 こうした李王職雅楽部の運営と雅楽

た。国家の音楽機関が担当していた王

伝統的な王朝時代から現代社会に移行

部員養成所の教育内容は、韓国社会が

朝の祭礼と多くの儀式が廃止されると ともに、この機構の役割が事実上なく

設ける橋頭壁の役割を成功裏に成し遂

する時期に、国楽伝統の新たな基盤を

なってしまったのである。このように 存廃の危機に瀕していたとき劇的な事

されていた音楽を、公演場で 一般大衆

げた。彼らはその昔、宮中でのみ演奏

態が展開された。日本の雅楽の歴史と その価値に造詣の深かった一人の日本

公演文化に適応するための自生カを高 めるのに尽力する一方、素 朴で はある

難無く消化し、また新たに形成された

を前に演奏 しなければならない過程を

人音響物理学者が、朝鮮王朝伝来の国 楽を耳にして﹁あたかも天上の音楽を

ので、いかなることがあっても伝承さ

楽の作曲を試みることによって、急速

聞いているみたいだ ﹂と感動を披躍し ﹁この音楽は世界的な音楽遺産である れなければならない﹂との意見を力説 したのだった。そしてついに、この意

列を整えた。

た国家音楽機構がパンソリ(湖南地方

する国楽機関として設立されるにおよ び、過去、宮中音楽を主に伝承してき

そして 一九五 一年、大韓民国を代表

に変化する新たな時代に立ち向かう戦

が西洋の作曲の概念を受け入れた新音

見は植民地政府を動かし、解散の危機 に瀕していた 旧宮中所属の音楽人たち は、﹁李王職雅楽部 ﹂と いう新たな名 称を持 った機構に編入され 、 過去の王 朝の音楽を引き続き演奏できるように

の伝統民話)や散調(主にカヤグムや

た。彼らは音楽人の世襲制が廃止され

音楽人たちを養成し始めたことであっ

雅楽部に正規の教育課程を新設して、

ったさらに重要な要因の一つは 、李王 職雅楽部の元老音楽人たちが、李王職

楽院に付設国楽土養成所を設けて新世

ていたように、

ようにな って 、活動の幅はなお 一層 広 くなった。そして、李王職雅楽部がし

ような民俗音楽の伝承をも引き受ける

シナウィ(南道地方の亙楽)、民謡の

玄琴などで独奏する南道地方の楽曲)、

たころ、音楽人の養成なくして音楽の

な ったのだ った 。 日帝時代、伝統音楽の伝承が可能だ

伝承は難しいという事実を痛感し、伝

代の国楽人たちを養成した。この学校 の学生たちは、過去の宮中音楽の遺産

一九五四年から国立国 統音楽だけでなく新しい時代が要求す る新知識をいろいろ学ぶことのできる

1 4


しかし、 彼らが国 立 国 楽 院 と い う 回 い の 中 で 繰 り広げる えさく異ならない。

だけでなく民俗音楽、西洋音楽の作曲

など幅広く学んだが、その大多数は宮

中音楽と正楽に精通した演奏家に成長

して、今日の国立国楽院正楽団へと受

け継がれている。

正楽演奏 団 ・民俗楽演奏 団 ・舞踊団

現在、国立国楽院には李王職雅楽

正楽団に属しているが、八 十代の元

部 出 身 の 八 十 代 の 元 老 楽 士 か ら 二十 代半ばの若い演奏者まで約八十名が

老音楽人は朝鮮朝末の宮廷楽士の伝

統を受け継いでおり 、彼らから音楽

い ず れ も 十 代 の 初 め に 国 楽 専 門 学校

を学んだ五、六十代の音楽人たちは、

い音楽の同僚として活動しながら、

で出会って以来、生涯もっとも親し

国家 機 関 の 正統 で あ る 音 楽 の 流 れ を

院の音楽人になった人とか父子、兄

受け継いでいる。そうかと思えば高 祖父、曾祖父 、 父に継いで国立国楽

弟 、 姉 妹 が 国 立 国 楽 院 で 一生 を 送 る ことも少なくない。

このように人から人へ綿々とつなが

る音楽の流れと、長い歳月、 一つの囲 いの中で 血縁のように 近しく活動する

国立国楽院音楽人たちの生は、 国立国

楽院の音楽を ﹁ 歴史 的 で正統である国 楽﹂とたらしめている源泉でもある。

こ れ が ま さ に 国 立 国楽 院 が 演 奏 す る

﹃寿斉天﹄や﹃与民楽﹄を外のいかな

る音楽団の演奏とも異なる次元のもの にし 、 また国立国楽院を国楽の宗家と

して釜え立たせるもっとも大きな力と

なっているのである。

国立 国楽院の伝統と音楽の底力は民

俗音楽でも遺憾なく発揮されている。

15

(上)国立国楽院の講師であ った名唱・金月荷と演奏団 (右頁上下)李王職雅楽部の演奏場面

本質的に国 立 国楽 院 氏俗楽団の演奏は、 国楽院のタ卜部 の 氏 俗 音 楽 人 た ち と

云S えf I 生 、 あるいは正統性を中,亡ょに 行 われる。 氏俗音楽の公演とその伝承は、 イ

また、 商業的な戦略が排除されるため、 国 立 国 楽 院 の 氏 俗 音 楽 演 奏 会 は 氏 俗 音 楽 の 原形質を失っていない品格のある舞台として定評がある


という囲いの中で繰り広げる民俗音

らない。しかし、彼らが国立国楽院

舞であることを立証してくれると同

踊団の存在は国楽の範陪が楽・歌 -

楽演奏団のほかに舞踊団がある。舞

演活動には宮中呈才のほかに民俗舞

する。そして国立国楽院舞踊団の公

可﹄﹀司式∞m CZのoC

パンソリ、カヤグム併唱、シナウィ合

楽の公演とその伝承は、どうしても

唯 一宮 中 呈 才 の 伝 統 を 受 け 継 い で い る が 、 彼 ら は 宮 中 呈才の 淵 源 が 千 年

六人の踊り手は、国内ではほとんど

ど熱中している。一九六0年代から新

験にも、ほかのどの楽団に劣らないほ

うに、国立国楽院は現代の新国楽の実

活動の内容を 中心 に話を展開したため 自然のうちに話が国立国楽院の伝統継

演奏 団と舞踊団 の人的構 成と彼らの

近くになる郷楽呈才と唐楽呈才を筆

国楽の公募と楽譜の発 刊 や演奏会など

承の方に流れた。しかし先に述べたよ

頭に、朝鮮時代を通じて韓国式に創 作 さ れ た 四十 余 種 の 宮 中 呈 才 を 公 演

音 楽 の 伝 承 史 を 理 解 せし め る 装 置 と し て 意 味 が 大 き い 。 舞 踊 団 所属の 四

時に、舞踊の伝承とともにしてきた

奏、散調、民謡、雑歌、風物ノリの各

伝統 性 、 あ る い は 正 統 性 中 心 になさ れる。 単 発 的 な 公 演 企 画 を 通 した大 衆 性 の 確 保 だ と か 大 衆 と の 親 和性 を 高めるための商業的な戦略が排除さ 奏会は民俗音楽の原形質を失ってい ない品格のある舞台として定評があ る 。

れるため 、 国 立 国 楽 院 の 民 俗 音 楽 演

国楽院民俗楽団の演奏は、国楽院の

国 立 国 楽 院 に は 正 楽 演 奏 団 と民 俗

から構成されている。本質的に国立 外部の民俗音楽人たちと大きく異な

学んだ二、三十代の若い演奏者たち

四、 五 十 代 の 中 堅 演 奏 者 た ち と 、 現 代式の専門教育過程を通して国楽を

口伝 心 授 の 形 で 音 楽 を 習 得 し 、 自 ら 音 楽 の 理 を 悟 る 自 得 の 境 地 をなした

分野の名人五十人で 構 成された民俗 楽 団 の 音 楽 人 た ち は 、主 に 伝 統 的 な

踊と創作舞 踊 、 舞踊劇などのレパ ー ト リーがある。

国楽院公演団体の公演、(上から)正楽団の霊山会相、舞踊回の鋤主主楽、扇の舞

1 6


を通じて、新国楽の流れを引き続き主 導してきた。しかし 一九八0年代から は、新国楽の演奏に適した管弦楽団が 雨後の竹の子のように増加し、新国楽 を主に演奏する楽団の活動が増加する につれて、相対的に国立国楽院の新国 楽演奏は 二の足を踏むようになった。 現在、国立国楽院では多様な形の新国 楽のための特別企画を通じて、現代新 国楽の里程標を整備している最中であ

完備されたのである。九八年現在、国 立国楽院には九 十 余人の人員が管理 課、掌楽課、国楽振興課、舞台課、国 現在九人の専門研究員たちが所属 している国楽研究室では、国楽学の 基礎研究である古楽譜資料の発掘と 国訳事業、国楽学の学術振興のため

外地域の訪問公演などを受け持って いる。

では宗廟と文廟などの祭礼と文化疎

百余点、そのほか博物館展示品五千 余 点 、 音 響 お よ び 図 書 資 料 が 二 万余 点所蔵されている。 国立国楽院は、最近﹁千四百余年

演小品、公演関連の絵画類などが 二

見計らって、ここから未来を聞く知 恵を見出だそうとする努力の一つで あった。

歴史性と正統性の価値を文化の心で

向します﹂という文句を一つのスロ ーガンとして掲げた。国立国楽院の

の伝統ある国立国楽院は清雅な士大 夫精神と味わい豊かな風流文化を志

楽研究室など五つの課に所属して活動 している。そして 一九九二年には全羅 北道の南原に民俗音楽の伝承と研究、 公演活動を専門とする国立民俗国楽院

といえる国楽年鑑の発行、伝統音楽 および舞踊の記録(楽譜および舞譜、 レコードの制作)、国楽器の研究、そ

の学術会議の企画、国楽の指標調査

昔の掌楽院の伝統を生かそうとする かのように頑固に掌楽課を固守してき

して国楽教育の方法論の研究と国楽

が設立され、国立国楽院の歴史に新た な転機を迎えた。

ている公演担当課は、年二百回余りの

実際に西欧化された文化と価値観 が移擁している現代の韓国社会で、 国立国楽院が国楽の宗家として堂々 たる威風で立っているのは生やさし いことではなかった。最近、伝統文

化に対する関心が増えつつあるとは いうものの、国楽の文化財的な価値

と現代的な意味は過少評価されてお り、国楽の活動は教育、社会、文化、 マスメディアなどの分野で疎外され た﹁きわめて特別なもの﹂と認識さ

れてきたためである。 しかし、今や国立国楽院は、こう した社会的な疎外現象を公演と教育、

楽機関として定着していきつつある。 それは国楽の宗家だという名分の固 いから抜け出し、名実共に韓国文化

研究を通じて克服する一方、こうし た多様な活動と文化的な指標が、未 来の韓国文化の礎石になるだろうと の所信を現実に具現させているもっ とも伝統的でしかも未来志向的な音 担当している。国楽博物館は、主に 小中学校の生徒たちの文化教育の場 として、あるいは外国人のための韓 国文化の探訪の地として愛好されて

の宗家としての位置を固めるためで あると言える。

A'

いる。現在、国立国楽院には宝物ク ラスの古楽譜および楽書と楽器、公

資料の開発など、幅広い分野を渉猟 している。 一九九五年以降、国楽研究室では、 国楽博物館の常設および企画展示を

ヲ・

る。国立国楽院での新国楽演奏は正楽 演奏団が担当しているが、音楽演奏の 専門性を生かすため、正楽演奏団と創 作音楽演奏団が分離されなければなら ないとの主張が提起されて久しい。の みならず、過去において外来音楽の受 容に積極的であったし、それをしまい には韓固化して、韓国文化の遺産とし て蓄積した例のように、西欧および外 国音楽の受け入れにいっそう果敢に接 近してこそ、国楽が﹁過去の音楽 ﹂ か ら抜け出し、新たな次元に入っていく ことができるとの見解もあって、国立 国楽院が開拓する新たな国楽の世界が

公演活動を企画し、演奏団と舞踊団の

どのように展開されるか期待される。 公演 ・教 育・研究が中心 軸 をなす 国立国楽院の活動

議を通して公演を企画し運営してい

内外国人のための多様な教育プログ ラムと、年平均三十日の海外公演お よび講習を担当しており、その一方

国楽振興課では教師および学生、

マ 匂 。

運営を引き受けている。現在、各演奏 団と舞踊団は芸術監督を中心に運営さ れているが、掌楽諜は芸術監督との協

主に演奏団の公演活動を通じて国楽 の伝承を担当してきた国立国楽院は、 一九八O年の末に大きな変化に見舞わ れる。外形的には国立国楽院が瑞草洞 に全体規模四万三百十九平方メートル (一万二千二百十七坪)の独立した建 物を持つようになっただけでなく、既 存の公演機能のほかにも国楽の研究と 教育を並行させることのできる体制が

17

世見抜来国 界解け敢立 カ ミ も 出 国 ど あ し 受楽 、け院 の 、 手 庁 A 埼 玉 よ れ 西 つ 国 た な て区大 二 ム 岡 . お 展国 次 、 開楽元そ よ 、び 3 、~ 院に れ が ノL 国 ト タ る 開 つ楽国 かおてが音 期す い「楽 待 る く 過 を ~ 新 、 園 ' 去 れ た と の る なが音 国 で楽 楽 さ L一 の る か と ら の




九八八年のソウル・オリン

それはまた韓国の伝統音楽の主体的

れになお一層世界の人々が一緒に共感

かしい韓国固有の芸術文化として、そ

西 洋 で は わ ず か 五O 余 年 前 で さ え

外国人の目に映った韓国の伝統音楽

A

な継承と聴衆の底辺拡大のための必須

も簡単に﹁印包括出回のEZ問自室己白内﹂

ピックは文化オリンピック

文化芸術として世界の舞台に送り出さ

と紹介してあり、あたかも韓国音楽

﹃ハーバード音楽辞典﹄(一 九 四 四 ) の韓国音楽を説明する項目に、いと また、韓国人の心の底に敷かれてい

ここでは、国楽が世界の音楽の中で

ねばならない時期に至ったのである。

し、共有することのできる韓国伝統の る文化鑑賞的な色彩を、伝統音楽のル

過程ともいえる 。

ーツに拡大解釈することができるよう

として開催されたため、国

内外に韓国伝統文化の優秀性を集約的 に示すことができた。そして、それを

一 一

契機に韓国伝統音楽の質的な変化と転

が中国音楽と同じように見倣されて いた。このように韓国音楽が中国音

楽と同じだと書くほどに不正確な判

占める位相と、これから先の国楽の世 立国楽院や各種公演団体などの海外活

界化の可能性などを探るとともに、国 動の方向と方法を筆者なりに提示して

っ 存。 国楽を、消滅の危機から保護するた

断を下したのはラビンナックの﹃音 楽百科事典﹄(一九二二)で、 M. ヵ

な意識の幅にまで広げられる契機にな

めの文化財としてではなく、環境と次

みようと思う。

た、二一世紀を控え、国際化時代と文 べき座標と求心点を設定しなければな

化競争時代において韓国音楽が志向す

元が著しく変わってきた今日、実に輝

換点の模索へと我々を駆り立たせ、ま

らないといった雰囲気を成熟させた。


l

pp泊式的mcZの 己

1988年のソウルオリンピ ック開幕式で、 の吹打隊の演奏場面

際、実際の韓国音楽に基づかず文献

ーラントが﹃韓国音楽﹄を記述した

。 り、理解する ことができたのであ った

であることが耳を通してすぐに分か

や日本の音楽 と はまったく異質のもの

で あ り 音 楽 学 者 で も あ っ た 田辺 尚 雄

かつて一九一一一年 、 日本の物理学者

的な調査だけを基礎にして記述した のに起因するものと言える。すなわ -

と褒め称えつつ﹁韓 国 の雅楽は艶麗な

はあたかも人間世界と天上の 仙 界をつ なぐような神秘な旋律の連続である﹂

は、韓国の雅楽を耳にして﹁この音楽

﹃増補文献備考﹄の楽考のような古文

る花のように美しい舞楽を完成し、高

ち宮 ・商 ・角 ・綴 ・羽な ど 漢 字 から なる五声の名称と中国の楽器を多数

献 を 根 拠 に 、 韓 国 に は ﹁ 中 国 楽器が

尚で優雅な音楽と共に実に光輝燦然た

包含している﹃高麗史﹄、﹃楽学軌範﹄、

きわめて多い﹂と紹介したところか U

ら こ う し た 結 果 が も た りされたもの

は今 日においてみるに、完全に独自的

るものがある﹂、﹁要するに韓国の音楽

しかし韓国の伝統音楽が海外に紹介

で貴重な存 在 であり、当然 、世 界の文 化財だと 言わ なければならない﹂と激

だと考えられる。 されたのは 、 一八八四年、米国の H.

N. アレン公使の取り持ちにより、韓 国の宮中楽人十人余りが米国のボスト

る東邦人の含蓄性があり、深奥なる愛

は﹁韓国古楽器の流暢な韻律はいわゆ

一方、中国の音楽評論家である柴齢

賛した。 たのがその草分けである。その当時の

ン博覧会で、韓国の伝統音楽を公演し 新聞の音楽評論には﹁韓国の音楽は東

的 な 文 芸 の 気 風 を 露 に し て い る 。現 代

慕の情操思念を表現していて、超現実 洋的な古い音楽で大変な価値がある﹂ と書いてある。 その後、 一九 二九年に

に流行している愛情歌曲と 比較してい

ずれがより芸 術的な 価 値のあるものな のかは自ずから明らかなことであ

一九五0年代以降、韓国の伝統音楽

も米国での公演があった。 が録音テlプ や LPレコードなどによ

る ・・・ 。 また、西洋音楽やインドの 仏教音楽から受ける感じとは異なっ

であるアラン ・ホバネスは﹁荘厳で雄 大な郷楽は美しい音程を持っていて、

また、米国の有名な現代音楽作曲家

な情感を十分に感じ取ることができ る﹂と評している。

て、東邦民族を 代表する宗教観と神的

り西欧の学者たちに紹介されるにおよ び、直接、生の音楽を耳にした学者た ちに よ って 、韓国音楽が中 国や日本の 音楽とはまったく異なるものだという ことがはじめて認識され、これが世に 知れわたるようにな った 。 二律名が漢字で表記されていたため、

な音楽であり、そのメロディーの自由

.世界でもっとも表出的かつ荘厳で自由

文献から見れば、五音階の名称や 十 中国の音楽と同じものだと認識された

さと神秘性においては、類を見 出だす

だ け で あ り 、 日 帝 の 植 民 地時代には、 韓国音楽が日本の音楽の一種であるか

楽である ・・・﹂と賛嘆した。

ことができない。これは心と霊魂の音

のように伝えられただけで 、実際にそ の音楽を耳にすれば、韓国音楽が中国

2 1


し、英国のケンブリッジ大学で﹁韓国

韓国に来て韓国の音楽理論を勉強 が、実際にはそうでもないようであ る ・・・ 。韓国音楽は西洋の現代音楽

中国の 影 響 を 受 け た と い っ て は い る

の拍子 が多いの に比べ、この両国の 中

音楽にはこ拍子または四拍子など偶数

きる。そうした現象は、中国や日本の

らなる音楽構造から見つけることがで

きた。

喜ば せよ うとする 祭儀 的 かつ祝祭 的な 音楽が民衆の間で長い間受け継がれて

く優雅で威厳があり、洗練されていて

な感情描写である。宮中音楽は限りな

きわめて豊富な多様性 、すな わち広範

たい特色は、宮中音楽と民俗音楽など

て次のように記述したことがある。日 く、﹁韓国音楽の 中でも う一つ指摘 し

論文を書いて博士学位を取ったジヨナ サ ン ・コンディッ トは韓国音楽に つい

う・・・。楽器、衣装など色彩の調和

地理的な条件を 云々するに先立って一 つの歴史的な瞬間になるだろ

秘的な音楽を聞かせてくれた喜びは、

キ め る ・ ・ ﹂ ・れ西欧人に、 このように神 ﹁われわ

﹃ 保太平之曲﹄ や千年 前 の大吹 打 がま さに今日の現代音楽でありその模範で

これは現代音楽で ある。五百余年 前の

音程と微分音的な変化として引き下ろ

が流暢な点である。第三に韓国特有の

ている。第二に歌の場合、歌詞の 一文 字に幾つかの音がくっついていて旋律

﹁長短﹂という言葉は リズ ム を 意 味し

を表していて律動的である。そのため

短い拍子の対照を通じて流麗な曲線美

ある 三拍 子の リズムが多いの と深 い関 係があるといえよう。すなわち、長く

間に位 置している韓 国音楽には 奇数で

きたのである。

化に編入され洗練される過程を経てき ながら今日の伝統音楽文化を形成して

して基層音楽文化に波及する 一方、基

ば、上流社会の音楽文化が沈降文化と

きたとも言えるであろう。言い換えれ

に民衆の音楽的な力動性を集約させて

術性 を追求しながら洗練を 重ねてきた

宮中の音楽が上流層の保護の下に芸

。 韓国音楽、 に大きな脅威を感じさせ る

品位があ り、真撃 でしかもきわ めて美 しい 。反 面、民俗音楽は情緒的であ り

音楽の源 一四五01 一六O O﹂という

情熱的である。宮中音楽に長い伝統が と神秘に満ちた 音楽の美しい変 化 やそ

すとか深く揺らぐとか転がす装飾的な

け継がれてきた以上のような特性を世

れに伴う演奏形態の変化を追求してい

今日、世界の音楽文 化が、音の素材

ができる。音楽は自然に 対する恐れと

きた東洋精神の具現であるということ

それは 人間と自然との合一を試みて

アジア各国の中で、韓国の国立国楽

き 彫 り に し な け れ ば な らない と考え る 。

の普遍性の 中 に韓国音楽の特殊性を浮

る点で、韓国の伝統音楽が、綿々と受

の多様性と新たな音体系の組織 化とこ 音の変 化が多いという点である。 こうした特性があいま って全体的な

界に幅広く伝えることによって、音楽

真の価値に対する客観的な評価とその 印象を 探ってみるため のものである。

自然に対する願いから始められたとい

たに違いない・・・﹂ このように長々と外国人たちの論評

る 。

生成構造を持っていて 、俗にい う即興 的 な要素が多いという感 じを与えて い

層の音楽文 化 が上昇文化として上層文

とすれば、民間の音楽は、踊りととも

あるように、民俗音楽 にも やはり根の

の多様 性 を 初 めて 味 わ う 聴 衆 た ち は 、 一つの 悦惚とした 芸術の極致を味わっ

深い伝統がある。その違いを言えば、 民俗音楽はより大衆に浸透していて初

を並べ立てたのは、外国人の日に映っ

﹃ 寿 斉天﹄という楽曲は典型的な宮中

しかし、いまだに韓国の伝統音楽の

めて聞いても理解しやすく 、 反面、宮 中音楽はそれを聞き分けるこ と ができ ればできるほどその深さと真意を理解

た韓国の伝統音楽の歴史的、芸術的な

音楽で音響自体もきわ めて印象的で威

することができるのである。例えば

厳があり 、強烈 ではあるが真の味を 聞

じて韓国音楽の国際化に多くの貢献を

院のような国立の機関として、自国の

祭儀に注目し 、 またその祭儀から音楽

してきたのは事実である 。 し かし これ

然と人間の合一を感ずる よう にす るも

こと に対する悟りの表現なのである。 音楽の究極的な目標は、 このよ うに自

踊 りを兼ね 備え 多様な展 開を成就す る

喜ばせようとする行為として、音楽は

国立国楽院演奏団の中に海外演奏団が 常設機構として設けられ、歌舞の錬磨

することである。そうするためには、

あると考える。

織的か つ体系的な計画 を立てる必要が

からは、もう 少し長期的な視 点から組

まず、世界の名だた る音楽祭に参加 のである。 韓国ではきわめて遠い昔から自然を

これまで国立国楽院が海外公演を通

伝統音楽を保存発展させる音楽機関を

われわれの生きた音楽文 化を 感じ取る

が始められたことに対する再認識の発

う原初的 な考えに立ち戻るのである。 こと ができるいろいろな視 聴覚資料の 製作および普及が捗々しくない状況で

露なのである。人格体としての自然を

真の姿を伝えるこ と のできる外国語の 文献が途方もなく不足している。また 、

き分けるためには 何回も 重ねて聞い て みなければならない ・・・ 。韓国 と西

ある。今後多くの努力を必要とする部

持 っている国 は希である 。

洋の音楽を対 比して 考 え るとき、韓国 音楽は非常にゆっくり したテン ポと 同

分である。

自然に対する恐れを克 服し、 自然に 対する祈願を成就しようとする心から

るが、西洋音楽にはそのようにゆっく

楽句と三句または五句のような音数か

的で あろうか。きわめて簡単に説 明す るなら 、第一に不均等な長さを持っ た

と比較してみるときどういう点が特徴

世界の音楽における国楽の位相 韓国音楽は隣国の中国や日本の音楽

時に非常に早いテンポを兼ね備えて い りしたテンポの音楽はない ・・・。韓 国 音 楽 は 自 然 に よ り 近い感じであり、 西洋音楽は人工的な感じである﹂と評 した。 そのほか ドイツ のデ ・ヴ ェル 卜 やフ ランスのラ ・モンデおよびラ ・フィガ ロなど著名な新聞評でも ﹁韓国音楽が

2 2


要がある。したがってこれに伴なう制

画し、実験を通じて洗練美を備える必

明、舞台装置などに新たなプランを企

はもちろん、衣装、小道具、音響、照

中心となって群小の室内楽団や独唱・

言葉をかえて 言えば、国立 国楽院が

むと同時に、この広報戦略にも力を注 がねばなるまい。

そうした人的資源を確保し、研修を積

を巡回する企画が必要であろう。また、

ド・フェスティバルにも各大学の学生

また、ユネスコのの円 ohhのワール

いことだと思う。

充の関係を維持するのがさらに望まし

のも良いが、国立国楽院のマスタ ープ ランを中 心に各団体が有機的な相互補

いう点を勘案して、もう少し積極的か

いる韓国音楽の普及を期待していると

立った特性があり、ずば抜けて優れて

の多くの音楽評論家や学者たちが、際

ればならず、それにもかかわらず世界

が韓国の音楽だという点を反省しなけ

ん、破格 的な予算 の支援がこれに伴う

度的な裏付けが必要であるのはもちろ

演奏団と舞踊団を活用して多くの場所 に随時参加することができるようにし

を実施する必要がある。このためには

っ組織的な広報計画を樹立し海外公演

独奏者の海外公演に対するマネージメ ント ・システムを開発するのが望まし

また、大規模の公演作品を開発する

べきであろう。

するため、多くの機関の協力体制が有

これを制 度と予算の面で積極 的に支 援

国楽人の皆の衆知を集めねばならず、

機的に組織されるのを望む。

結論的にいって、アジア各国中、中

なければなるまい。

に比べ相対的によく知られていないの

園、インド、日本、ィ、メドネシアなど

韓国国際交流財団でも年に一、二回

iv

に各団体が個別に海外公演を実施する

海外公演を実施しているが、そのよう

のはもちろん、小規模の室内楽団、あ るいは 個人の演 奏会 、独唱会などを企 画して、世界有数の室内楽公演場や有

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名な大学との連係のもと、世界の各国 ︿印

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23


グ〆I-d、

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常に新しく 真撃な試みがなされて民る睡で、ち場さ。今年の国楽院の 品 11~ ' 1 ¥ ¥ 会 活動に対す む 文材をも平 に薗立国楽院の一 日を再構成じてみた。

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ソウルの郊外、牛眠山の麓にぽつんとある芸術の殿堂からもかなり歩いて

行かなければならない所にある国立国楽院の中庭はひたすら静かなだけである。

1 4 0 0 年余りの悠久の歴史の中に孤高にたたずむかのように見える所なあるが、

み~ .~

A曜 日 朝 九 時 三 十 分 。 静 か な

iEi だけだった国立国楽院の前

- 一の広場は子どもたち の遊び 場に変わる。不慣れな手つきでケンガ リ (鉦)、太鼓、チ ン(銅鐸)を持っ

て打 ち鳴らす合奏が騒々しく 、片方で はフlプ、こま回しなどの遊びが盛ん

に行われている。 遊びに疲れてくる頃になると、子ど

もたちは 礼楽堂(中央公演場)に集ま ってくる。 民謡を習う時間で ある。名 唱・柳美里氏(二七才) がおしゃべり に忙しい子どもたちの視線をつかもう

と脂汗をかく。

﹁ さあ 、私に ついてやってみなさい。 アリ アリ ラ ン ス リ ス リ ラ ン ・・・﹂、何人 かの子どもに何小節 かずつ受け答えさせてみるが、外れた 声が必ず混ざっていて、 柳氏 の小言は

子ど も た ち の 笑 い 声 に 埋 も れ て し ま う 。

毎週土曜日に開かれる﹁青少年土曜

文化探訪﹂という行事の 一場面である。 プ ログラムは子どもや青少年たちが興 味を失わないように徹底的に参加者中 心に組 み立てられている。伝統文 化を よく知らない青少年たちに宮中音楽、 民俗音楽、タルチユム(仮面の踊りて

パンソリ、 サムルノリなど の十二のプ ログラムが 解 説 と 共 に 準 備 さ れ て い

る。伝統遊 戯、民謡学習、 公演観覧 、 国楽博物館観覧、懇親会までやり終わ

ると いつの 間に か昼休みになる 。韓国 伝統の音に、 小生意気 な子どもたちも 興に乗り興奮のまま家へ帰る。

午後 二時、国楽院演習室 。二 十四カ 国から来た百 二十名の駐韓外国人らが

24


ヤグム(韓国琴)、舞 踊 の 中 か ら 各 自

韓国の伝統楽器と踊りを通してひとつ にな っている.チヤング(長鼓)、カ

様である。

めとし各国大使館職員と家族がおり、

講習生の中にはインド大使夫人をはじ

を毎年開院している 。 国楽院文化学校 で 時 調 と 歌 曲 を 学 ん だ 全 秀 換 (二九才、 大学院生)は ﹁ パンソリはとても難し

楽理論と実技を教える国楽院文 化学校

国立国楽院はまた一般人のために国

また教授、学者、言論入、学生など多

昨年までに七ヵ国九五人が参加した。

の趣 向 によって選択した科目を毎週 土 曜日に無料で受講する﹁駐韓外国人の 不慣れな英語であるが、いろいろな

そうなので、時調を選んだが、最高の

ための国楽講習﹂の時間である。 固から集ま った外国人は講師の話が 全 部分かるようである。いろいろな 髪 の 色の外国人たちがあぐらをち ゃんとか 名人たちに直接師事できてうれしかっ

修が進められている。土曜国楽研修は 民謡、短箭 、 チヤングなどの三つの実

五ミ ~

けなくて、脚を伸ばしたり、横座りし

同じ 時 間、カヤグム 班 では﹁アリラ ン﹂演奏が真っさかりである。頭角を

る。学校の授業に支障を与えないよう に授業が早く終わる土曜日の午後に講

九才)が示範演奏をするや 、皆の感嘆 の声が沸き上がる。

習するのである。よ って遠くは江華島、

技科目を集中講習し、国楽教育に役立 つように構成されたプログラムであ

午後 三時。先生のための土曜国楽研

裕の真髄を感じたいなら時調を 一度習 ってみたら﹂と薦める 。

た ﹂ 、 ﹁ 昔のソンビたちが持 っていた余

と外国人国楽教室 ( 下)

てチヤングを 町く。チヤング班のアメ l

の亡

勺﹀一司式的mcZ

リカ人の口ナ ・キム(四八才 ・英語講 師)は﹁カヤグムと舞踊は少し退屈だ

青少年土曜文化教室の学生 ( 上)

現した日本留学生のハマダ ・ア ヤ (一

からチヤングを選んだ﹂と語る。

けど、サムルノリとパンソリは好きだ

育プログラム を運営してい る

国立国楽院は九 三年から外国人を韓 国に招いて国楽講習をスタートさせ、

2 5

国立国楽院では国楽の活性化のため に各種教


く続いている常設公演プログラムとし

土曜常設国楽公演は韓国内で最も長

情で鑑賞している。

集まり、 時 には笑い、時には真剣な表

んだプログラム 冊子 が韓 国語の他に英 語でも用意されている。

観覧客のために全公演の解説を織り込

広げる舞台を見せている。また外国人

演奏団と舞踊回が出演して多彩に繰り

八作 品ずつを国内最高級の 目立 国楽院

料を 展示した国楽の生きた教育の場で

感じるこ とができ るように国楽関連資

韓国音楽の歴史と文 化 をひと目で見て

九五年にオープンした国楽博物館は

ZO否pp

て、毎回満席 であり、 固定観客を確保

仁 川 から来る先生もいる。チヤングと 短箭を学びながら講 師の 言葉の 一言一 言を聞き逃さず、熱中する姿は試験準

している。観覧料も一般六千ウォン

りながらも動 的で ある。ガラス館と 中

備をする学生のように真塾である。 午後五時からは礼楽堂の舞台で、す

国楽院の忙 し い一日は終わる。 国立国楽院の公演は国楽に関する多

央ホi ルに物静かに展示されている国

楽器などの静的な姿、そして音響や映

竹軒室などを揃えている。 博物館の全 体的 な雰囲気は静的であ

を展示した中央ホ l ルをはじめ、国楽 史室 、楽器展示室、古文献室、名人室、

ある 。 国楽博物館には大きい打楽器類

でに一六年間ずっと続いてきた土曜常

(約六百円)、二十四才以下は三千ウォ

様な品々がある国楽博物館観覧動線と

六時 三十分まで国楽のあらゆるジャ ンルを 織り 込んだ公 演が行われ、国立

設国楽公演が始まる。ちょうど人間文

民俗楽、パンソリ、サムルノリ、宮中

担なく行って見ることができる。正楽、

自然につなが っている。

ン(約三百 円)と高 くなく、誰でも負

化財祭典中であり、名人たちが繰り広 げる処容舞(仮面をつけた五人の男が

にわたる百作品余りを選定して、毎回

舞踊、創 作 音 楽 な ど 国 楽 の 全 ジ ャ ン ル

と国楽名人たちの遺品を集めて展示する名人室 ( 左下)

人にいたるまで多様な階層の観客らが

国立国楽院教育プログラムの中のひとつである教師研修(上)

舞う宮廷舞踊)の舞台が行われている 中 、 家族単位の観客から青少年 、外国

国楽博物館展示室、国楽発展のために献身した金法; 朱先生を記念する竹軒室 ( 右下)

26


Z05pp

むことができる動的な姿とが見事に調

像などを通して好きな音と 映像を楽し

数々を展示した所である。そして音響

められた楽器や衣装、文献や愛蔵品の

めとして音楽の開始と終わりに使わ

身した大家、 竹軒・金 瑛沫の遺 品と業

二階には近 代国 楽の発展のために献

いる。

映像室ではスライドやビデオなどの映 和している 。 中 央 ホ l ル で は 宮 中 音 楽 と 祭 礼 音 一 像資料を直接鑑賞できる ようになって

れる祝 散 、 そ し て 多 様 な 模 様 の 大 き

は国楽関連図書を閲覧できる国楽資料

績を展示した 竹粁室があり 、 その横に

楽演奏に使われる編鐘と編碧をはじ

な太鼓など華麗な楽器の数々が視覚

国楽博物館ではこのような常設展示

室が設けら れてい る 。

の他に毎年 73二回の特別展示会を行

の歴史を見渡し、その根を確認する

的に圧倒す る。国楽史室は韓国音楽

﹃世宗実録楽譜﹄、六百余年 前 のもの

所である 。圏 内 最古の楽譜である

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。 と推定され る編碧な ど が 目 を 引 く 楽 器 展 示 室 に は カ ヤ グ ム 、コ ムンゴ、 ヘ グ ム な ど 五 三点 の 国 楽 器 と い ろ い ろな国の民族楽器が展示されている。 特にこの展示室にはボタンを押して

なく、また大衆の中に飛び込んでいこ ﹃大楽後譜﹄、﹃時期舞譜﹄などの音楽

ない作業の 中で未来 の歴史を 作 ってい っているのである。

国立国楽院は今 日もそうした、た ゆみ

。 くる。それがまさ に国立国楽 院であ る

っていて 、 国 楽 器 に 対 す る 理 解 に 役

過去 の伝 統を守 りながらその 中に安 住せ、す、絶えず国楽を現代の 空気の 中 で息づけようとする作業を 止 めること

を新設する計画である。

感じることができる体験コ ーナーなど

っており、今後は実際に韓国の音楽を

国楽史室(中)

うとする努力を惜しまな い所。次 々に 意欲的で新しい企画の数々が溢れ 出て

一四 種 類 の 楽 器 音 が 聞 け る よ う に な

古文献室(下)

立 つ 。 古 文 献 室 で は ﹃ 楽 学 軌 範 ﹄、 と 舞 踊 に 関 す る貴重な 過 去 の 文 献 と 楽譜、そして宮中の宴を絵に描いた 名人室は国楽名人などの芸術魂が込

扉風などを見ることができる。

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一階展示室の大型楽器(上)


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ロパート ・プロパイン

ドゥラム大学音楽学科教授

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、家 の 事 年 ソ イ に 円覚寺の正門 を運んできて国立国楽院の正門に した (1963年 ) の 。徴 化 取 は の 韓 合 私や卓な、リズ入 ・う 一 兵 し 得 ハ は 国 を学越要韓をの国し えうと韓ナが「書私たの幸たくり人属べち緒さたし│偶学と は者し素国聴出したそて意に国ム、見 の。 ー 運。このはにト 二 にれ時たバ然を同 じがての伝かるたつれく味なにで私 0 か命下 児私と地世なナ十訓、期。│か学し め私親う統せ古。たかれだる行はがまれ令士(のはに域界りム五練両主当ドらぶま との切ち 音て レそ ー ら た と と く な ベ 包 書官たうそな にの、に人を親官時大だこぶ す選での楽もコし九少 教いこく卜ごたには っ ちのつ行残十配は受は只は学つとへ

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る外国人学者には、国立国楽院ほど重

要な所はない。国立国楽院の最近の英

. つ は﹁zsgと の 語名のうちの 一 E・ gE

EdSF-EEaEZ﹂である

司担任 2口 出 ご 0

が、外国の学者にはここはむしろ﹁ゴ昂

(これは、初期の名である﹁2205 一

E552 という名の方が知られている

zn ζ55EC 口 伺﹂から取ったもの g日E

である)。

一九六0年代後半、ソウルで友人に

会うのに一番人気の場所は﹁秘苑﹂の

正門前だった。時折、ムンサン米軍部

隊からここまで来たりした。道の反対

の敷地の中を覗いたりしたことを思い

側に渡り、雲泥洞の昔の国楽院の建物

の姿が全然似つかわしくないことを

出す 。だが 、韓国語もわからず、自分

(韓国の伝統的な雰囲気に米軍の軍服を

着ている姿など)自分でも感じていた

ったし、公演を見ることもなかった。

ので、実際にそこでは誰にも会わなか

しかし、韓国語を習い、ハ ーバ ード 大学で音楽学課程を卒業し、一九七三

いぶ変わっていた。国楽院は雲泥洞の

年に再び韓国を訪れた時は、状況はだ

伝統的な建物から南山の現代的な国立

と続いている多くの友情を結んだ。だ

劇 場 の 建 物 に 移 転 し て い た 。そこに足 繁く通いながら、現在に至るまでずっ

のとは言えなかった。施設は、院長が

が、国楽院の立 地 は、それほどよいも

使う小さな部屋、音楽家と研究者のた めのもう少し大きな部屋が一つ、そし て小さな練習室一つが全てだ った。た

は全て、現代的で金のかかった西洋ス

まに公演がある時は、小ホ ールを利用 する程度だった。国立劇場の他の施設

28


たら、伝統音楽家に与えられた劣悪な 環境にため息をつくこと、ぐらいだった。

楽機関(五世紀に設立)を前身として

こうした人々を知っている私自身も幸 せだと思う。 国立国楽院は、驚くほど古い国立音

に至った彼ら音楽家の﹁献身﹂だった。

タイルの一般演劇の制作と上演に当て られており 、我 々ができることとい っ

その後、ここに載せた写真に見られ るように、実に多くのことが変化した。 国楽院は世界のどの固にも劣らぬ水準

の活動を 眺める時、真っ先に思 い至っ たのは、物理的な施設よりも、信じら れないほどの辛苦を経て今日実を結ぶ

の施設を持つに至った。事務室、研究

えさな建物と日々広がりつつある国楽院の活動を

B j もめる日寺、 真 っ 先 に 忠 い 至 っ た の は 、 物 理 的 な 施 設 よ り も 、

信じられないほどの辛苦を、径て、 今 日 実 を 結 ぶ に 至 っ た イ皮ら音楽家の 「 占 え 身 」 だった

いる。 同機関は、 公演を 通じ朝鮮王朝 の時から伝えられてきた宮中音楽の重 要な遺産を保存してきた。十九世紀末、

2 9

室、多くの公演ホ ー ル、講義室、図書 館、博物館等々 ・・・ 。だが、この大 きな建物と日々広がりつつある国楽院 ZOR 司﹀

1963年鍾路区雲泥洞に移転した国立国楽院の正門(上)と演奏室外観(下)


ルで注目を浴びたのが、国立国楽院か

年の二回聞かれた。このフェスティバ

ら派遣された音楽家であった。特に、

北京から来た若い(ほとんどが十代)

の演奏者が今だに伝統そのままの衣装

演奏家が、韓国の公演を鑑賞し、韓国

を着、長い歴史を持つ古式ゆかしい楽

器を奏するのを見て驚いていたのを覚

では韓国と中国の音楽家の間で互いの

えている。公演が終ってから、舞台裏

考えを披露し 、プ レゼントを交換して いるほのぼのとした一時があ った。当

そして、西洋化の猛烈な攻勢さえをも

山に避難する危険で混乱した中でも)、

次世界大戦、韓国戦争(ソウルから釜

問でも続いた。宮中音楽の伝統は第二

似たような決断が次世代の音楽家の

が、一 一一一七年、 金が宋に侵略してき

記録によれば、このタイプの中国楽器 は、中国音楽においても珍しい楽器だ

たものが韓国楽器となったのである。

にこれをモデルにして新しく制作され

世紀の初め頃、北宋から輸入され、後

とって、国立国楽院で行われている公

滞在も長くはいられない外国人学者に

に度々は来れない状況で、その少ない

て思い出に浸ることがある。

今もその時のドゥラム音楽祭を回想し

時だった。国楽院にいる友人と私は、

時はまだ両国の政府が敵対関係にある

耐え、生き残ることができた。国立国

た時、全て破壊されたという。私を含

演教育プログラムを充分に利用できる チャンスもないため、収集してきた資

西洋で経歴を積まねばならず、韓国

楽院で現在奏されている音楽公演を見

楽院に残っているのが本当に八五O年

に韓国で今でも使われているものと同

は破壊されておらず、その外形は実際

いる)。この叢書のおかげで、音楽学者

集録し、現在三十 二巻まで出版されて

ある資料である(百三十以上の史料を

国音楽学資料叢室百一 ﹄は 、非常に価値の

料に多くを依存することになる。こう した分野においても、国楽院の優れた

ある時、韓国人がどれほど素晴しい

一であるという研究結果が出た。そし

発刊された伝統音楽史料の復刻本﹃韓 精密さで彼らの音楽遺産を保存してき

て、その音律もまた、現在韓国で使用

実績と努力は立証される。国楽院から

たか、はっきりとわかる機会があった。

近中国で発刊された本によれば、十 二

生き残れないだろうと思われた。

韓国人であろうが外国人であろうが、

世紀当時のオリジナルの中国楽器が 実

一 O年の日帝植民地支配の下、王室自

されているものと一致するという

打ち勝ち生き残ることができたのか、

体が廃され、宮中楽人の状況はさらに

それを見た者はいかなる者でも感嘆せ

は韓国音楽史の重要な史料に直接接す ることができる。その中でも、一四九 楽学軌範(朝鮮時 三年に発刊された ﹃

に奉仕してきた機関の存続は言うまで

一部の音楽家の

私が 一九七八年、イギリスのドゥラ ム大学で教鞭を取ってすぐの頃、私の

した状態にあったため、主に宮中音楽

ひどくなった。だが、

ざるを得ない ﹁ 編鐘 ﹂ という楽器があ る 。 ﹁ 編鐘﹂は、 ニ疋した音程に調律さ

代の音楽解説書)﹄は、同時代の中国の 資料よりも立派な楽器図版や有用な情

もなく、伝統音楽自体が次の世紀まで

驚樗に値する献身(当時、音楽家とし

れたいくつかの小さな鐘が一セットに

任務のうちの 一つはドゥラム東洋音楽 祭の 組織を手伝うことだ った。 ドゥラ

載せられた楽器の製造と演奏技法に関

一九

て残っていた者さえ 一握りしかいなか った)と 、 一、二名の影響力ある日本

なった楽器で、多くの宮廷音楽に使わ

ム東洋音楽祭は、一九七六年に初めて 開かれ、その後一九七九年と 一九八 二

の下で音楽活動を続けることができた。

報が収められている。そして、ここに

いわゆる﹁李主職雅楽部﹂という機関

人の学者の支援に力を得、宮中楽人は

れ、視覚的に公演をリードする。韓国 音楽史を見ると、この﹁編鐘﹂は十二

信じられないくらいである。

めた懐疑論者は、現在の韓国の国立国

ると、その特出した楽器と衣装そして 微妙な音楽的内容、またこんなにも繊

うことに疑いを持っていた。だが、最

前の中国の楽器と同じであるのかとい

西洋列強が貿易と市場拡大を行うこと に主たる関心を注いでいた時期、韓国

の演奏家たちが堪え忍んできた苦難に

細で完壁な音楽が、どうやって今世紀

いる楽器の編鐘

は外国との関係に激動の時期を迎えて

(下)韓国音楽の伝統継承をよくあらわして

いた。朝鮮は、貧しい国であり、混乱

(上)国立国楽院で制作された各種の国楽音盤

3 0


同様に、国立国楽院は伝統音楽の楽

する記述は、十五世紀当時のヨーロッ パの資料よりも素晴しいとさえ言える。 地にまで 普及され音楽に命を吹き込む ための教育用ビデオ資料もある。最近 に伝統音楽を保存、発展させているか ﹂ という難しい問題にどのように対処し ているのか見解を聞くため、外国の学 者を招いた場であった。私の論文は、 一九八0年代と 一九九0年代にあった 韓国伝統芸術の運命の劇的転換を扱っ

した。 一九九四年、私は政府後援によりハ

て紹介する機会が 多く与 えられた 。一 九九四年のベトナムの姿は、私が 一九 六七年に韓国を初めて訪れた時の姿と

たものであり、論文発表とそれに続く 討論で国立国楽院の活動と成果につい

ノイで聞かれた会議で﹁伝統対現代化﹂ というテl マにより小論文を発表する ため、ベ トナムを訪れる機会があった。 ベトナム人が自分たちの伝統音楽の未 来に対し関 心を持ち 、他国では﹁ いか

では、国楽院の興味深く心魅かれる資 料がインタ ーネット・ウェブにも登場

譜を韓国的記譜法(十五巻)と西洋式 五線譜(現在まで 二十七巻)で各々採 譜して発刊した。これは、宮廷音楽 ・ 民俗音楽をひっくるめ、韓国内や海外 の学者が韓国音楽を分析し解釈す るの に非常に役に立ついい資料とな ってい る。こうした大規模な発 刊作業以外に も、美しいイラストで組まれた伝統楽 器の紹介パンフレットから古楽書の学

非常に似ており、私は、時を遡り、自

分を韓国に引き寄せた当時の状況に戻 ったかのような感銘を受けた。

国立国楽院は、このように注目すべ き生産的な機関として、韓国伝統文化

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の復元と保存、学術的研究に重大な役 割を担 っている。伝統音楽の演奏家が これまでず っとそうしてきたように、 これからも伝統公演芸術への不断の献 身を続け、国楽院の使命を 貫い てくれ ることを願うばかりである。

コムンゴの演奏のための楽譜、この楽譜は 17世紀頃、制作されたい くつもない

術的翻訳(漢文体をハングルの平叙体 に翻訳したもの)に至るまで、かなり

材網割程-渉五構内一矧事前調也

の量の単行本を出している。今では国 楽院から発刊された資料を入手せずし

・ 青

て韓国伝統音楽を研究しているとは誰 もいえないほどになった。

L- 叫 す11 ロ

また、国立国楽院は、この数十年間 のレコーディング技術の急速な発達に 刺激され、数え切れないほどの録音を 行った。現在、ソウルのレコード庖で

密 主

は、一人あるいは数人の国楽院のメン

L

バーにより最高の技術で録音されたた くさんのレコードやディスクが売られ ている 。 特に宮廷音楽の録音は、決定

後九

版だといえる 。 それは、伝統が停滞せ ず常に発展することを証明している。 民俗音楽のレコードやディスクもまた、

需先

書一昨品燃 宥免時期犬山符替庁指依後m w

貴重な資料である

1 &

1 1

索時調。姐向者叫が漫犬葉重ええ

~Ilよ

え絃可被也

~11実

非常にいいものが多く、国楽院が全ジ

油火大中京

ャンルの伝統芸術を包括する方向に領 域を拡大していることがうかがえる。 国立国楽院はまた、全国で使われる 教育資料を製作するなど、学校におけ る伝統音楽教育を進めることにも手を 広げている 。 前述したような刊行物や レコ ード、ディスク以外にも、遠く僻

31

主島

田 r




醸し出したりあする。したがって、東

め、一夜で紹介するプログラムを用意

ろいろなジャンルの公演存二堂に集

関わっでいる僧舞・・・、主催側はい

仏教及、びシャーマニズムの意識と深く

かなる連関性を持たせることができる

ルの芸術を混ぜた十余りの公演に、い

されるこのように互いに異なるジャン

は際立っても、一方では不調和が憂慮

独特なリズムに対してどのような反応

化、そして捕らえがたい踊りと音楽の

自分たちの視角と距離のある韓国文

しくもあるヨーロッパの観客たちが、

常幸﹁

一体となった韓国公演を行うにはこの

を見せるのか、はたしてあらかじめ予

主催側は韓国文化がきちんと紹介さ れていない点を勘案し、単純性中心の

想できるだろうか。

﹁人間文化財﹂たちの公演がどのよう

のだろうか。特徴と性格がそれぞれ異

に調和をなしていくのか、異国趣向が

なり、ともすれば相反することもある

どのようにすれば数千年の伝統を誇

した。これはほとんど挑戦に近い困難

る韓国民族の文化の 一部分だけ抜草し

韓国文化の特徴にその基礎をおいた二

さが伴ったということが想像できる。

精妙ぞ洗練された宮中音楽、田舎の祭

強いながらも新しさを好む 一方、気難

部構成で進行される公演を準備した。

て短い時間に要約できるのか。多様性

うえない場所ではなかったかと思う。 以前はエリート階層の 専有物だった

実 ︿ 洋思想の基礎治なす三つの要素 切 地、人)の調和を基に、踊りと音楽が

点 、

りやマダン(見せ物や演芸の場となる ところ)で聞かれた軽快な打楽器演奏、 ℃﹀召︿印mCZ のと

﹂ 、 第 一部は静中動 ﹁平穏の中の躍動 性 第二部は﹁格のある自由﹂という主題

で舞台を仕立てた。意外にもこの公演

では西欧芸術、すなわち古代ギリシャ

悲劇が神話を通じて調和するように統

合した美と芸術の神であるアポロの

﹁秩序﹂と、ブドウ酒の神であるディオニ

ソスの﹁陶酔﹂との深い関連性を見つ けることができた。アポロ神の慎重さ

と節度に次いでディオニソス神の熱狂 が ﹁ 韓国の夕べ﹂を自然に飾りたてた。 第 一部 は 古 典 的 で 知 的 な 面 が 際 立

ち、第 二部は活気あふれる律動的な彩

色が濃厚であ った。静かにゆっくりと

まま幕を下ろした。間々には現代舞踊

始まった公演は軽快で迫真感に満ちた

と音楽を挿入、公演に適切な呼吸と新

しい視線を与えてくれた。これはたと

ても、伝統にその根を下ろしてこれを

え現代性が時には破壊と切断を意味し

を立証したわけである。

通じて新しく息を吹き返すということ

完壁に統制され抑圧されたエネルギ

ーで統 一した﹁平穏の中の躍動性﹂は、 宮中音楽と舞踊の多様な面を見せ、シ ャーマニズムの儀式であるクッ(亙祭)

から由来した僧舞につながっていつ

34

尋.


のために村の入口に高 く立てた朱塗りの棒) をテ アビニョン公演の時、ソッテ(科挙に及第した者

安淑善のパンソリ公演(上)

ーマとして舞台に設置 した ( 右)

と広場で聞かれた現代舞踊とサムルノリ公演(下)

た。精神と感性が最高の状態で交感し、

本質的に呪術的な 一人舞の僧舞は 、太 古から人間の内面に内在されたエネル

ギーを踊りで昇華させた。この踊りは

激烈な調和を通して舞と太鼓を結合さ

せる。現在の韓国社会に明確に現存し、

複合宗教の様相を浮かび上がらせてい

るシャーマニズムは韓国人の生に重要

意外にも神秘的かつ非合理的なタッチ

な瞬間を 一つ 一つ結びつけながら、現 代的な高度成長を成し遂げたこの固に

﹁格のある自由﹂という題目どおり

を加味する。

即興性と自由さが際立っていた第 二部

はパンソリとそれに、歩調を合わせる

太鼓の音でその幕を上げた。完壁に喉

音処理されたこの語り劇は大衆的かっ

調刺的な要素が色濃く、観客の笑いを

引き出し、時にはスペイン南部地方の アンダルシア音楽を連想させた。最後

に即興的な面が多くの比重を占めたソ

ルチャンゴ、アンジユンバン三道農楽、

サムルノリのパンクツは律動的な催眠

状態に入っていき二部の感じを伝え

た 。 美しく異色で 、革新的だと 三宮んる韓

国週間公演は現代音楽と踊りが 加味さ

れた雰囲気の 中 、伝統芸術を舞台に上 げながら成功裏に幕を下ろした。

今まで、アビニョンフェスティバル

に招請された様々なアジアの国家と同

じく、今回の韓 国週間での行事は公演

芸術分野の交流を活性 化させる契機に

な る だ ろ う と 信 じ る 。 現 代 創作物を主

とするアビニョンフェスティバルは逆

説的に伝統を通して普遍性に至るとい

うことを見せてくれた。

' a

3 5


朝鮮王朝の儒学伝統と

- 安閑周

成均館大学名誉教授

36


4 F A の機能までも合わせて担うところにあ る 。

。 る原動力とな った

約 一世紀 が経 過 した 光海 君 二年 ( 一六

学校から始まり、天下の是非の 判断 が

成均館文廟を中心に儒教の教 化 が行な

とす る先賢に対する祭間の場 所で ある

儒教の開祖である先聖、孔子を始め

。 材養成の機能の 三 つということであ る

能 は教 化の機能と公論 主導の機能と人

学統が尊崇する鄭夢周を崇拝し、公論

高いものだ った。成均館の儒生も士林

教政治理念の定立にまで繋がる次元の

夢 周 に 対 す る 尊 崇 は そ れ が 朝 鮮朝の儒

二君の 論理 が強く作用しているようで ある。 し かし、民 間 の士 林学統での鄭

な機能を果たした。 ここ で注目 す べき ことは性 理学の理

も成均館の儒生の公論主導がその大き

一 が文廟に祭られるに至るが 、こ の一 時に

栗 また粛宗 七年 (一 六 八 二 に 李 現 ( 谷)、成濠(牛渓)の 二人 の学者 ( 賢)

校は人材を養成する機関で

学 校の公論にまかされるべきである

われ、この成均館の文廟に韓国の儒教

この こと を整理すると、成均館の機

。 と中国の明末から清の初期の人であ﹂ る 黄 宗 義 は ﹃ 明夷待訪録﹄の﹁学校編﹂ で述べて いる。 ところで、それに先ん 学者のうち誰を共に祭るかを決定する

O年)には金宏弼(寒陪一堂)、鄭汝昌 高麗時代 の忠 臣に対する新たな 王朝 一 (一室)、組光祖(静庵)、李彦迎(晦菰 岡 )、 の政権次 元での尊崇行為にはどう して も﹁忠臣は 二君に 仕え ず 退 渓 )の 五賢が文廟に祭られ、 ﹂ と いう不事 計 李混 (

じ て 朝 鮮 朝 初 期 の 鄭 道 傍 (三峰)は学

論深 化 が儒生の上疏文に表れていると

、一 J ある。しかし、それだけで λす t一 なく 、 天下を治 める手段が っ

校を﹁人 倫を明 らかにし 、 人材を 養成

主導の機能を持っていた成均館の儒生

経過に決定的な影響を及ぼした。

想的な政治)の具現に主眼が置かれて

ある道学の理論深 化、即ち ﹁至治﹂ ( 理

の系統)にまず 言 及したのも 、中宗 三

から越 光祖(静庵)ま での道統 ( 道学

出席拒否)と空館(成均館 から 自主退

また、成均館の儒生の捲堂(一種の

を儒生の上疏文を通しても推し測るこ とができる点である。

いた道学の 内容である 性理 学的理論 深

化(道 学の学 問的深化)へ の展開 様相

九 年 (一五 四四 )に 辛 百齢、仁宗元年

統論が確立し、前述した鄭夢周(圃隠)

またその後、奇大升(高峰)によっ て朝鮮儒学初期の道学の学統、即ち道

ころである。朝鮮王朝の儒学の伝 統で

過程で成均館儒生の公論主導の機能は 儒学伝統の形成に決定的作用をするか

極めて大きい 。 この過程が朝鮮王朝の

いまから六百年前の 二二 九 八年(朝

する機能を持つ教化の根本﹂と﹃朝鮮

鮮朝太祖 七年)、現在の成均館大学校の らである。 朝鮮王 朝 の儒学伝統は道学という言

経国典﹄(一三 九四)で規定した 。

キ ャンパスに建てられ た成均館の社会 葉で表す こと ができ 、道 学に 内包 され ている 儒教政治理念の 中 には儒教の正

の上疎文は結 局、中 宗十 二年 ( 一五 一 七﹀に鄭夢周を文廟に祭る ことにした

るに、成均館の 設立の 目的 は勿論 、朝

的機能を 考察 す るため 、 二 つの学校論 を提 示したが 、 これらのこと から 考え

明論的 名分論と重義軽 利という公 儀的 民本思想が含まれて いる 。

去すること)は専制君主制度の下での

人聞社会の倫理を明らかにするという 意味

鮮朝の国立大学として国家に有用な人

(一五四五)に 朴瑳など成均館 の儒生の

37

。 上疏文であ った

学んだ明倫堂、明倫堂の懸板で「明倫」は

朝鮮王朝初期 の士林学統は高 一 躍末の 忠 臣、鄭夢周 (圃隠) から始まり 、越 光祖(静庵)に 至るまで大学者に受け

である

1 ¥¥i 、 、 、、 、

に見られる﹁君主に間違いがある時は

(右頁)大聖殿

材の養成がその設 立 目的 の一つなのは

ところにある

公論を貫き通すための権力への集団的 抵抗だ った。 これは ﹃ 孟子﹄(万章下) 朝鮮王朝に入り 、 最 初 に 圃 隠 が 文 廟 に祭られたのが 一五 一七年、これ より

(上から )図書館である尊経閣、 儒生たちが

確かだが、より根本的には国家に政治

幾能までもオ旦う しての 4

問を研究し、物事の理を 論理的に 考え

社会公論を主導する立場と

継がれ、民間で相互自 由 に討論し、学

の役割と是非を判断する

理念の 教 化 を通じた 化 民成俗、即ち社 会改革の旗手としての役割と是非を判

的に社会政革の旗手として

断する社会公論を主導する立場として

成均舘の設立の目的は根本


たことは多くが指摘するところだが、

が国王や官僚 の意識の中に内在して い

古典 大学時代と近代大学時代に分類で きる。

とな っていた時代だ った。この時代は

の元を去る﹂という言葉がその精神 的

八年から 一四九四年までの建学期で、

諌め、何 回諌 めても聞かなければ君主

朝鮮建 国 の理念であり、仁 、義 、 礼 、 智に集約される儒教を基に 、こ の様な

この期 間を 通じて成均館は 制度を整備 し、運営施策を確立することにより国

三期に分 けられる。第一 期 は 、 二 二九 教化、公論 主導、人 材養成の 三 つの重 要な機能を果た し てきた成均館は、大

立大学としての 体制を 完成 し た。第 二

古典大学時代は、開校元年である 一

不可能 であったが、朝鮮 王朝世宗 から 哲宗時代にわた って、捲堂や空館が百 二十五回もあ ったということが成均館 の儒生 が国家社会に占めている 比重の 大きさを表している。儒教の民本思想

学としてのその歴史をたど ってみると

いて成均館の儒生の 言論は士林公論の

写真は昌 慶宮で再現された科挙試験の光景である

言論開放と公論政治を繰り広げるにお

(上)成均館の儒者たちは科挙試験を通して国家の官吏として抜擢された

背景にな っている。﹃孟子﹄に見られる 他の 言葉﹁繰り返し諌めても聞かなけ

近代大学時代に分類できる

三九八年 から 甲午改革 があった 一八九 固までで 、伝統儒学が主要教育の内容

その歴史をたどってみると古典大学時代と

所在という観点から台諌や侍従の言論

重要な機能を果たしてさた成均館は、 大学としての

より重視されることもあった。

F m mO I力O ﹂O ノ、 ~4 T oi 亙 ニの様な教化、 z 、c{可ゴニー コr 、人 材 養 点 の 三 つ の

イ需教を基に、

し 、 智に集約される 義 、 ヰ 朝鮮建国の理念であり、

星聖雪

、 までの展開は逆謀(謀反)とみなされ

~

れば君主を変える﹂という﹁易位﹂論

, 〆

(下)成均館建設600周年記念行事の中のひとつである王世子の入学式

一四九五年から一七二四年まで

F m mO ﹂O i司O

期は、

は壬辰倭 乱 (豊臣秀吉の侵略)により

の停滞期である。この時 期 に成均館は 燕山 君の遊宴所に転落し 、純祖時代 に

消 失 す る な ど の 波 乱曲折を 経験した。 第 三期 は、 一七 二五年から 一八九 四年

までの復興期である。この時期は英 ・

正祖の政治的かつ文芸的復興期を迎え

て成均館の教育が活気を取り戻した時

期で、実学者によ って 様々な改革論が

提起された時期でもあ った。全体的に、

38


統を形成した時期で、この時代の韓国 格させた。しかし、この明倫専 門学校 は 一九四四年に明倫錬成所に改編され、

た後、

れは東洋で類例のない六百年の長い歴

かるように成均館大学校の歴史は韓国

現在に至るまでを振り返ってみて分

的なものは無条件に悪いという反動主

のみならず、東洋の大 学発展史におい 最上という偏狭な民族優越主 義 も、ひ て ま さ に 独 歩 的 位 置 を 占 め て い る 。 そ - いては昔のものは無条件によく、現代

主義を標携しない 。自分たちのものが

しかし、成均館大学校は決して国粋

古典大学時代は韓国精神史の偉大な伝 儒学者の 学問は東洋全体を通して見て あまつさえ最高教育機関としての威厳

設置し、さらに明倫専門学院に変更し 一九 三九年に明倫専門学校に昇

近代大学時代は 一八九五年から現在

義も、どちらも成均館大学校の目指し ているものではない 。成均館大学校は

最も独創的儒学思想を発展させた。

の独歩的位相は東洋文化の暢達に大き

史のためだけではない 。成均館大学校

りの価値と特徴を持っているように、

を失 った。この期間中、成均館は事実

く寄与した点と韓国文化の伝統を確 立、保存、発展させることに力を入れ

韓国人の固有の文化や伝統もそれなり

上 、 最 高 の 国 立 大 学 としての地位を失 ぃ、後に成均館大 学校の設立によりそ の正統性が受け継がれるまで日帝によ

てきた結果、民族精神の産室として確

西欧的なものや現代的なものがそれな

って統制された 。第 三期は一九四五年

までを称する 。 この時期に成均館大学 校は ﹁ 修己治人﹂の儒教理念を基にし、 西欧から流入した多様な学問分野を導

の民族開放から今日に至るまでの時期

の価値と特徴、そして香りを持 ってい るという相互尊重の 姿勢を堅持してい

入、教授することによって近代的な総 合大学として成長し、現在に至ってい

固たる位置を占めているところにあ る。 近代化の波 が韓国社会を始め、東

である 。 この時期に成均館大 学校は近

C

る。 この時代もまた 三期に分けられる。 第 一期は 一八九五年から 一九 一O年ま m c z の

h u ﹀召︿印

ド 凡 均 館 大 学 校 は 世 界 化 の 波 に 乗 っ て升来思想

と判、反が押し寄せてくる中でも氏族精神と

え化の保存、 発 展 に 浮 身 の 努 力 を 注 い で き た 。

まさにそっいうところが韓国の精神史と

大学の発展史において点均館大学校が独歩的

経学科が設置され、歴史学、地理学、

錫九(尚子峯)先生などの努力を基に総

代 総 長 で あ る 金 昌 淑 ( 心 山 )先生、李

る正統私学としての位相を確立するこ とになる。 一九四五年の解放以来、初

方、民族精神の伝統を継承、発展させ

存、発展に海身の努力を注いできた。

せてくる中でも民族精神と文化の保

の波に乗って外来思想と制度が 押し 寄

ある。しかし、成均館大学校は世界化

捨て、 一方的に西欧的制度と教科内容 だけを採択したのは既に周知のことで

洋に押し寄せてきて、ほとんどの大学 が固有 の伝統 的教科課程を 惜し みなく

紀は成均館大学校が韓国精神の揺藍で

るために総力を傾注している。 二 一 世

韓国を代表する世界的な大学に発展す

を迎え、新たな跳躍を準備している。

今年、成均館大学校は創設六百周年

寄与することに繋がるという確信を持 っている 。

展させるのが人類文化の多様な発展に

位相を占めている理由なのである

数学など各種の講座が設けられた。同

合大学に昇格、その後、各分野別の学

まさにこういうところが韓国の精神史

の中の大学に雄飛する時期となること

あり、人類共栄に大いに貢献する世界

日数、

一八九五年国王の勅令で 三年制の

る。韓国固有の文化と制度を保存、発

時に、教授任命制、入学試験制、卒業 試験制が実施され、学期制、年間授業

の学校施設の具備と拡充、世界の名門

部と犬学院の分離、改編、新設と各種

と大学の発展史において成均館大学校

代的総合大学としての面白を整える 一

一週間の講義時間数が策定され

が独歩的位相を占 めている理 由 なので

でで、成均館が近代的な大学として発

るなど制度上の近代的改革が断行され

を受け継いだ世界の中の大学として生

大学との活発な交流などを通じ、伝統

ある。

足した時から韓日併合までの時期であ る 。

た。第二期は一九一 O年の韓日併合か

まれ変わっている。

を確信している。

ら一九四四までの受難期である。日帝 は 一九 一O年経学院の中に明倫学院を

A

3 9


ARTIST O F KOREA

; 映画評論家, WK INO~ 編集 長

-鄭聖一

いて 彼の映画に

彼は試行錯誤の大家である。だから彼

付けるところはまさにこの 地点である 。

本 映 画の枠を 打 ち 破 り 、 や っ と 韓 国 映

のは 、 まさに 植 民地 時 代 に 始 ま っ た 日

林権沢監督が韓国映画に行き着いた

t・晶、 画はほかのあらゆる芸術と同 はあたかも生まれついたような芸術 的

画が始まった 一九五O年の後半である。 そしてそれ 以降 、 彼 は た だ の 一 度 も 韓

l n吋ノ じように、それ自体の領域が nHHノ作り出す歴史と現実の中に全

り出している冒険家たちの分類ではな

感 受 性 を も っ て 瞬 時 に 新 た な 映 画を作

国映画産業の 制 度 圏 の 制 作 村 と い わ れ

で創作する芸術家の想像の羽に乗って

ている忠武路のほかに目を逸らすこと

的 に 根 差 し て い な が ら 、 同 時 にその 中

い。彼自ら韓国映画産業だといってい

史をそっくり自分の映画の中に抱え込

る市場の巷の中で戦い、そして時には して放棄せず、その中で自分が話すこ

上空飛行をするものである。それは映

とのできる映画的な話法の修辞学を見

むようになったのである。 林権沢は 、 彼 自 身 が 繰 り 返 し て 告 白

彼 自 ら 傷 を 受け 、 そ れ で い な が ら も 決

抜け出すことができないという意味で

出していく人物である。そして彼は自

しているように 、今 日 の新たな 映 画世

る。その 一つ は 映 画 が 自 ら の 土 壌 か ら ある。すべての映画は自らの自律性を

分 自 身 の 映 画 を 作 っ て い く 過程が、そ

画を 二つ の 視 線 で 眺 め る よ う に 仕 向 け

獲得しようとするが、同時にそうした

れ 自 体 で 韓 国映 画 が 自 分 の 声 音 を 見 出

なく映画を作った。そのため彼が望む と望まぬとにかかわらず韓国映画の歴

すべての努力は自らに与えられた市場 内 でのみ 可能 な も の で あ る 。 そ れ ゆ え

林権沢監督は彼自ら韓国映画産業だと

いう市場の巷の中で戦い、 そ し て 時 に は 彼 自 ら

傷を受け、 そ れ で い な が ら も 決 し て 放 棄 せ ず 、

その中で白分が話すことのできる映画的な

だと言った。反面、もう一つは、今や

ちが呪われた紳の中におかれているの

できた 。 植 民 地 時 代 に 始 ま っ た 映 画 の

うのではない。

人物である。これは決して誇張して言

し て い く 過 程 と そ っく り 重 な り 合 う 彼 自 ら の 歴 史 性 を 獲 得 す る よ う に な った

て山に入ってしまい、林権沢は母の里

と進んでいった。韓国戦争が勃発する やいなや、父同はパルチザンに同調し

南韓での彼の家族は予測された破局へ

いたのではない。分断以後、彼の父母 が社会主義者として活動するに及んで 、

話法の修辞学を見出していく人物である

その中から進んで抜け出し自己の方式

多くはほとんどなくなってしまい、日

で育った。彼にとってその数年間は凄

惨な記憶となった。南と北の織烈を極

代のように映画を愛して映画に行き 着

の芸術を作り出そうとする、すべての 芸術家たちのあらゆる抵抗的な試みで

本映画の枠の中でそっくりそのマイナ

め た イ デ オ ロ ギ ー の争いは、林権沢に

ブレヒトは、資本主義時代の芸術家た

ある。それは 一種の戦略である。また、 カントだったなら、それを互いに分け

ス 遺 産 を 受 け 継 い だ 。 そ れ を や っと初 め て 抜 け 出 し た の は 一九 四 五 年 の 解 放

何か間違っているということを教えて

韓国映画は、日帝の支配下で初めて

ら れ た 先 験 性 の 構 図 を 統 一さ せ る 上 位 能力といったことだろう 。

以後のことである 。 我々が韓国映画で林権沢監督を位置

40


く れ た 。 戦 争 は 一九五 三年分断によっ て終りを告げ、智異山で活動していた パルチザンたちは順を追って掃討され

助 手 の 仕 事が 任 せ ら れ 、 彼 に 注 目 し た 鄭昌和監督が演出部に招き入れた。彼 は本 当 に 監 督 を し て み た い な ど と は 夢 に も 思 わ な か った 。 し か し 彼 は い つ で て彼の最初の映画を監督した。

も最善を尽くし、そして二十五才にし

であった林権沢は周りの人々から後ろ これは彼の映画人生を聞く決定的な

らば﹄であった。

一年 に 発 表 し た 戦 争 映 画 ﹃ 豆満江よさ

一九六

に分類され監視の対象になり、高校生

た。 そ し て 父 母 は 山 か ら 下 り て き て 転 向した。しかし彼の 家 庭は要注意人物

指を 差 されることに耐えられなか った 。 彼はある日、夜を選んで家出をした。 契機とは一言えなか った 。 彼 は 真 に 生 き る た め の 戦 い に 一生 懸 命 で あ った。こ

を叫んだ。芸術とは彼にとっては者修

し かし 戦 争 の 痛 手 は 四 方 に 満 ち て い た し 、 彼 に は 行 く と こ ろ す ら な か った 。 に乗 った 彼 が 降 り た と こ ろ は 釜 山 で あ った。 そ し て そ こ で 米 軍 部 隊 か ら 流 出 リオを制作者が望む通り興行のために

こで 負 け れ ば 自 分 は 滅 亡 す る ん だ と い う 思 い で 毎 日 の よ う に レ デ ィ ー -ゴー

した軍靴などを受け売りして飢えを凌 い だ 。 何 の 希 望 も な か った し 、 す で に

る林権沢監督に映画を任せた。時代的

何ら不平なしに映画作りに熱中してい

なんの 心 積 も り も な く や み く も に 列車

人 生 は 終 幕 を 告 げ た 感 じ で あ った 。 十 八才の 少年が 空 き 腹 に 毎 日 の よ う に 酒

に考証されていない史劇映画、やくざ

のみ映画を作り上げた。商売人たちは

に過ぎた考えであり、与えられたシナ

をあおり手が疲れてしきりに手のふる える症状を来したと 言 えば、その絶望

者 を ヒ ー ロ ー に し た ア ク シ ョ ン 映画、

恥 ず か し い も の で あ った。しかし、彼

一貫 性 も な か った し 、 完 成 度 に お い て も 、 こ の 時 期 は 彼 に と って こ の 上 な く

喜 劇 物 や ト ロ イ カ 俳 優 た ち の メロ ドラ

の大きさは推して知るべしと言えよう。 彼はま った く 偶 然 に ソ ウ ル か ら 映 画

マにいたるまで、手当たり次第に作ら れたこの時期の映画は、これといった

そしてその人々と共にソウルに上京し

撮影のため釜山に来た人々と会った。 た。それは映画を作るためではなく、 ただソウルに行けば新たな仕事にあり

はそのように動かなかったとすれば、

に 五 十 篤 の 映 画 を 作 り 、 六 九 年 の 一年

恐らく食い繋ぐことさえ不可能であっ たかもしれない 。 彼 は 十 年 の 聞 に 正 確 間には 十 一篇の映画を作り上げた。

つ け る だ ろ う と の 期 待 か ら だ った。そ れが一九五五年のことだった。映画制 作 の 現 場 は 彼 に と って 珍 し い も の で あ った し 、 彼 は 小 道 具 の 仕 事 を 引 き 受 け てそこら中を飛び回った。スターたち

一九七 一年 の あ る 日

は遥か向こうの照明の下にまばゆい姿

林権沢監督は、

いう思いが初めて頭の中に閃いたと告

突 然 、 自 分 自 身 の 職 業 が 映 画 監 督だと

で立っている人々であり、彼はこなた で 小道 具 を 求 め て あ っ ち こ っちへ 跳び

白している。彼はまさに初めて職業に

歩いた。当時の韓国映画の現場は未だ 役割の分担がはっきりしていなかった

対する責任を感じたのだった。そして このことが、人々に偽りだけを並び立

ので、彼は人々の命令するがままにす べての 仕 事 を や り こ な し た 。 彼 に 撮 影

41


自分よりも年の若い新しい世代が思 い が け な く 現 れ て き て 作 品 を 作 ってい るときなど、彼は内心、自分はこのあ たりでこのような状態のまま終わりを 告げるのではないかとの焦燥感に駆ら

てていてはいけないと考えさせ始めた のだった。それで彼は、初めて己に対 する自意識を持って﹃雑草﹄という映 画を作った。多分五十 一本目の作品で あるこの映画は、彼の最初の作家映画

時代を舞台に自分を守り通していくあ る朝鮮人の老人に対する日本青年の視

の姿に刻み込まれた分断の歴史をたと え た ﹃ チ ヤ ツ コ ( 片 方 の 潰 れ た 鼻 )﹄ (七八)、そして解放直後のイデオロギ ー闘争の中で﹁ヒューマニズム﹂とは なにかと問い掛ける﹃旗のない旗手﹄ などは驚くべき力で自分の声を映画の 息吹の中に盛り込んでい った。 彼の作 品のそうした場面は次第に長くなりな がら、編集をしていない画面が彼の考 えを悠長に流れていくように盛り込ん でい った。 彼は決して 美 しい画面を作

らなか った 。 そ の 代 わ り に 林 権 沢 監 督 は 、 自 分の作品の 登場 人 物 た ち の 内 面 を覗いてみるためにあらゆる努力を必 死に傾けた。彼に、もし後輩たちがあ なたの映画から学ぶ点があるとしたら そ れ は な ん だ ろ う か と い った 質 問に、

な表 情 は 、 我 々 に は 織 烈 な 八0年代を

切 り開いて行く予 告編のように見えた 。 彼 は こ の 映 画 を 撮 る こ と に よ って自ら の通過儀礼を行いそれを体験したので

ある 。 韓国映画界の劣悪なシステムの 中で、それ自体を 事 物化した 一篇 の映 画を通じてそれらをそっくり抱え込み ながらも、その中で我々のイメージは なんであるかを探しだすのに成功した。

た った 一言 で﹁顔﹂と 答 えているのは まさにそうした理由からである。 林権沢監督の七十六本目の作品﹃回受

彼は商業映画監督としての自分のスタ イルを作るのに十年かかり、そして再 びこれを打ち壊すのに十年を要したの

歩進んで、朝鮮時代の両班家で息子を 得るため迎え入れたシパジ(種受け) の悲劇を描くような形を借りて、死者 が生けるものを支配する儒教伝統の息 詰 ま る ほ ど の 根 強 い 矛 盾 を 扱 った﹃シ パジ ﹄ で 、 ペ ニ ス 映 画 祭 の 女 優 主 演 賞 を萎受延にもたらした 。 彼は今日韓国 で生きていく姿の周辺を次第に遠く巡 りながら、時には時間を遡り、時には その場に止まりながら、我々に近代化

た﹃チケット﹄(八六)でほとんどその 頂点に 登 り詰めた。そしてそれから 一

体と 霊 魂 が 破 壊 さ れ て い く 過 程 を 苛 酷 な自然主義とでもいう態度で描き上げ

を要求する﹃キルソトム﹄(八四)でベ ルリ ン映 画 祭 に 招 待 さ れ 、 ま た 東 海 岸 の片隅の喫茶庖で四人の女性たちの肉

の中で、逆にそれが韓国映画を作り出 す力だという事実を我々に悟らせた。 彼は分 断の苦 痛を 一滴 の 涙 も な し に 憤 怒の心で盛り込みながら、我々に省察

身が根 差 し て い る そ の 地 の 空 気 を そ っ くり吸い切った。彼は数限りない失敗

である。 彼は何処にもない自分の映画を探し 求めてい った 。 そ れ で い な が ら も 彼 自

茶羅 ﹄ は 彼 の 映 画 芸 術 の 中 間 決 算 で あ る 。 一九八 一年に作られた この映画は、 金聖東の禅 小説を映画化したもの だが 、

の中における終始 一貫 した彼らの厳粛

の 姿 を 見 出 す の で あ る 。 鄭 一成撮影監 督の痛みが惨んでいる多くの風景と、 全茂松と安聖基の二人の主人公の禅問 答のような対話で続けられていく旅路

この映画の作品としての意志はま った く林権沢監督のものである。彼は 山寺 か ら 降 り て き て 俗 世 間 を 旅 行 す る 二人 の僧侶の姿から、世の中の声に耳を傾 けながら、その中で世の中を生きて行 く道理を悟っていこうとする自分自身

創造する者だということを我々に悟らせてくれた

自分の時代を生きていく哲学の思惟を

いわれるその疎ましい落とし、穴から抜け出し、

映画芸術作品を作り出すことが芸術至上、玉美と

時にはその場に止まりながら、

林権沢監督は、 時 に は 時 間 を 迫 り 、

族譜﹄(七七年)、 三0年間互いに 線 ﹃ 追 い つ 追 わ れ つ 生 き て い く 二人の老人

故郷への道﹃往十里﹄(七五年)、日帝

れたりした。しかしそうした中でも、 生活の土台が根こそぎにされた人々の

だとい っても 差 支えなかろう 。 しかし この映画は完 全 に見捨てられた 。 劇場 主たちは背中を向けたし、観客たちは だれも観にきてくれなかったし、批評 家たちは口をつぐんだ。彼は自分自身 を振り返らねばならなか った。嘘偽り を並べたとき人々は彼を歓迎したが、 彼が真実を語るや皆が顔を背けたので ある。彼は人々が自分を嘘つきとして のみ歓迎するという 事実 に、身 震 いの するほど悲惨な自分の社会的姿を目に したのであった 。 七0年 代 の 維 新 政 権 は す べ て の 表 現 の自由に対し弾圧を加えた 。多 数 の 映 画会社がた つた 二十 の 映 画 会 社 に 強 制 的に統・廃 合 さ れ 、 韓 国 映画は 二重 の 検閲の下に瀕死の状態であった。多く のシl ンが勝手にカットされ、また大 部分の映画は国籍のないアクション映 画でなければ、ハイ・ティーンのロマ ンス、あるいはセマウル(新しい村作 り)映画か反共映画だった。林権沢監 督はきわめて緩慢に自分自身を乗り越 えようと試みた 。 そして非常に粘り強 く自分の身にこ、ひりついている商業映 画の癖を切り取 って いった 。彼は 何度 も失敗したが、それにもめげず再び自 分自身を修正してい った。このように 彼は失敗を恐れない人物でもある 。 そ うした中で彼はある種の映画的な流行 や一時的な騒ぎを引き起こすこともな く ひ た す ら 自 分 自 身 を 探し続けてい っ た。

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のプロジェクトは何か間違 っていると いう事実を目覚めさせてくれた。そう

探 し 出 し て い く 人 で あ った。 彼が目に 見えるものではなく我々の心の中に潜 んでいるイメージを探し求めていくと き、そのため心の中に耳を傾けようと した瞬間、韓国の伝統の音に関心を巡 らせたのは 当然 な こ と か も し れ な い 。 彼 の 九 十 三本 目 の 映 画 ﹃西便制﹄(九 二一)は単にパンソリ(韓国伝来の湖南 地方の民謡)に耳を傾けたからではな

することによ って林権沢監督は、映画 芸術作品を作り出すということは芸術 至上主義といわれるその疎ましい落と し穴から抜け出し、自分の時代を生き ていく哲 学 の思惟を創造する者だとい う ことを悟らせてくれた。 しかし、それは同時に彼を手に余る

前であ った と す れ ば 陳 腐 な 感 傷 主 義 に

けることだと考えたのである。ともす ればこれは陳腐なものに映るかもしれ ない。しかし彼が追求するのは永遠に

中を生きていく法と礼について問い掛

d

林椛沢監督の映画は、しかしながら通

たものを 気付かせてくれた。 映画は人々に悟りを与えることはで きるが、 世 の中を変えるものではない。

れば相対的な立場の政治学ではない。 彼は我々が近代を生きてきながら失っ

変わらないものである。それは一時的 な流行にとらわれた 美 学 か 、 さ も な け

陥 る の を 恐 れ る あ ま り 、 節 制 と簡略な 描写を通じて省略していたものを、今 では 喜 んで 受 け 入 れ て い る 。 そ れ は 彼 自 身 が 生 を 振 り 返 っ て み る ことのでき る年に至 ったという 意 味でもある 。 そ れを﹃祝祭 ﹄ (九六)で見せてくれる。 この映 画 における主人公はすでに 亡 くな った 母 で あ る 。 長 い 問 、 痴 呆 症 で 家 族たちの 重 荷にな っていた母が死去 するや、各地方に散在して住んでいた 家族たちが 一堂に会し葬式を執り行う。

く、それを近代のプロジェクトの中か ら守り通すために、なぜ女性の肉体が 不具 に な ら ね ば な ら な い の か と い う 憐

り込まれている 生 の 断 層 と 構 図 を な す 歴 史 が な ん で あ る か を 描 き 出 す 一つの

り 一遍の映画ではない 。 もう 一度繰り 返して言うが、彼の映画は韓国映 画 が 持 っている弱点をそ っくりそのまま抱 え込んでいながら、それらの弱点の基 盤の上で、我々が表現することのでき るイメージがなんであり、 ・ その中に盛 うすることによ って初めてここで林権 沢 監 督 は 、 彼 が 長 い 間 、 心 か ら 願 って きていた世の中、比白が互いに愛情を持

そして、これまでい . ろ いろな理由から 反目しあ っていた家族が死者の前で 初 めて 互 いに和解し合う 。 それはすでに 世を去 った 者 か ら 残 さ れ た 人 々 へ と 引 き継がれる生に対する知恵である。そ

戦いへと引きずり込んだ 。次第に自分 の映 画の重みがい っそう重くなりなが ら ﹃アジエアジエパラアジ エ ﹄ ( 八 七 ) と ﹃ アダ ダ ﹄ (八八)は 一種 の 形 式という鎧を無理に着せられたように 側 の 情 緒 が 我 々 を 本 当 に悲痛にさせる のである。パンソリを学ぶ学生から名 唱へと変えて、録音しながらサウンド の分身としてその精神を盛り込み、そ して汲み上げていくソファの声はその まま目が潰れていく民衆の姿に対する 絶唱である 。

する我々の鏡でもある 。 林椎沢は映画 を通じて、この地で大人にな っていく 方法を諭してくれる人物である 。 車 '

世界である 。 そ れ は 同 時 に 近 代 を 通 過 って出会い抱き合うことのできるヒュ ー マ ニ ズ ム の 思 惟 に 到 達 す る 。 彼は多 くの試行錯誤の末、何よりも重要なの は人間らしく生きるため、我々に世の

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我々がもっとも驚くことは、林権沢 監 督 が そ の ど こ に も 止 ま っていないと いう 事実 である 。 彼 は 自 分 自 身 の 映 画 から漂っていたその重みを次第に和解 のほうに移してい っている。彼は 一頃

(上から )チャ ッコ (1978)、シバ ジ (1987 )、

見えた 。 彼 は 脱 出 す べ き 必 要 が あ り、 いかなる非難にもかかわらず、 一九 三 0年 代 の 鍾 路 の 親 分 で あ っ た 金 斗 漢 の ﹁若かりし頃の闘争﹂をまるで活動写 真 的 な 面 白 さ で 描 き 上 げ た 三部作 ﹃将 軍の子﹄を作った 。 そしてこの 三篇の 映 画 は 林 権 沢 監 督 の 九0 年代を聞くも のであ った。 多くの人々はこの 三篇 の 映 画 を危機の合図として受け入れた。 しかし彼は、常に失敗を通して自分を

太白山脈 ( 1994)、西便器J I( 1993)




、.寸 EAF山 々 が ぼ ん や り と 見 え 隠 れ

E ヨ﹁河﹂

統社会においては山を西洋の人々のよ うに征服する対象と考えるのではな

最も大きな理由は、おそらく韓国の伝

いろ説明することができる。そのうち

する。ある時はそんなふうに霧がかか いるためだと言えるであろう。山には

く、ほとんど畏敬の対象として考えて

と雨を降らせたりもする。そしてその には災いは山から来るものだからそれ

山神がいると信じている人が多く、時

がかかっている。霧の中に

ったかと思えば、またきれいに晴れ上

二tF、 , く山が幾重にも重なり、霧

がり、またある時はその霧がしっとり 雨が冬の間は雪に変わったりもする。

いる。しかし三、四日も天と地の区別

の表情に白い喜びの微笑みが浮かんで

雪は災いである。雪の降り始めは人々

四日天地が真っ白になるようにおおう

三、四時間しんしんと降っては止んで しまう雪は冬の祝福である。しかし 三、

る。)そのため韓 国 で は 山 の 高 原 地 帯

対する場合が多いということでもわか

者だけでなく

路を作ろうとすると、環境問題の関係

言 える。例えば最近でも 山 を削 って道

漠然ながらも未だ受け継がれていると

祈りを捧げたりもした。(そんな面は

を妨げてほしいと 山神の霊に定期的に

もつかないほど雪が降り続くとその表 には村というものがほとんどない。

λ 普通の人々までもが反

情はだんだんと灰色の恐怖の表情に変 わる。韓国で雪のたくさん降る地域の ひとつが大関嶺とその周辺の高原地帯

メートルの白頭山であるが、 二千 メー

に達すると足元に広がる山の峰々のは

ある海抜約八0 0メートルのその頂上

せると大関嶺に出る。江原道平昌郡に

時間ほど車を走ら ソウルから東に=一

線にほとんど達して太白 山脈につなが

満 で あ る 。 白 頭 山 からは狼林山脈が南 へと伸びており、南北を横切る三八度

り、ほとんどの 山 は海抜千メートル未

ト ル を 越 す の は こ の 山 一つだけであ

韓半島で最も高い山は海抜 二七四四

である。

るか向こうに東海岸の青い海が見え

る。その太白 山脈は俗に韓半島の背骨 と呼ばれているが、それほど大きくな

る。大陸性の気候と海洋性の気候が 出 会うその高原地帯は気候の変 化 が著し

い幾つかの 山脈とつながり、韓半島の

幹と 呼 んで親しんでいる。この名前は

くつもの 山脈からなる大 山脈を白頭大

最南端のタンクツ(﹁ 地 の果て﹂の

ろった平地はそれほど多くはない。そ

流れる渓流にそった平地に大部分の村 と 田畑がある。しかしそんな条 件 のそ

地理学的には存在しないが 、 ただ韓半

韓国はその国土の七O %が山で占め

'LV

のため韓国人が自分の土地を所有しよ

意 一全羅南道海南郡)で海に出会って 終わる。韓 国 の人々はこの複合的ない

うとする欲求は格別といえる。にもか

島が民族の霊 山 である白頭 山 で南と 北 に 一本の幹となってつながっていると

られている。その山と山の聞の谷聞を

かわらず、多くの 山 の頂や 山肌は 開墾

意 味 を込めてそう呼んでいるのであ

いう 点 に統一を熱望する民族 主義 的な

されてはおらず、ほとんどが自然その ままに残されている。その理由はいろ

あいだに凍 りついた氷を割 っている 。(左)明太の身に 染み込んだ塩気がきれいに抜け ると乾きや

(左上)海でとれた明太を流れる川の水の中に一日ほ どつけて おいて取り出そうとしてい る。夜 の

す くなる 。明太は1 阜頭ではらわたなどの内 臓を全部取り出した後 、 大関嶺渓流で運ばれ る 。 十分に

洗われた明 太を川から引き上げてい る 。 ( 上)明太は寒い所で約 2ヶ月ほ ど乾かすと 賞太 にな る

明太の身が凍っ たり 溶けたりす るあ いだにふく らんで柔 らか くておいし くなる

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ある。そのためこの山脈は一般的に韓

物が軒を並べはじめ、そこで昔から伝

アムやアパートのような大がかりな建

して旅館や食堂だけでなくコンドミニ

の近くの横渓里を流れる横渓川の周辺

りがよくなるのである。大関嶺の頂上

塩気がとれてはじめて生太の干し上が

も塩気がきれいに抜けることになる。

きれいに洗われるだけでなく、何より

おかずとしてスープにもするし、また

の人々には好まれている。食事の時、

干したこの魚は、脂っ気がなく味が淡 泊なだけでなく生臭さがないため韓国

黄太、一般的には明太とも呼ばれる

どの太白山脈に妨げられ、その東と西

不便だった頃は平均八0 0メートルほ

けることになる。その昔、まだ交通の

骨にそって、一つの地域を東と西に分

ヨンテ)と呼ぶ。黄太も生太を干した

れる生のタラを干したものを明太(ミ

ある。一般的に生太(センテ)と呼ば

(ファンテ)と呼ばれるタラの 一種が

例えば大関嶺の名 産 品の 一つに黄太

川周辺の道路が広がり舗装され、横渓

何年も前の話になってしまった。横渓

はよく見られた。しかしそれもすでに

につけておいた生太をつまみ出す風景

カチカチに凍った川面を割ってその中

には黄太を干す棚がたくさんあった。

立場に立って書いたおもしろい詩であ

詠んだものがある。詩人自らが明太の

としてもなかなかである 。

その身を裂いてあえて食べたりもす る。それだけでなく裂いた身は酒の肴

その白頭大幹の真ん中に太白山脈が 半島の背骨と呼ばれたりもしているの はの姿が失われはじめてきた。

わってきた生活方式やその土地ならで

る 。

である。北から南に伸びてくるその背

の風習や方言などは全て異なってい ものという点では同じであるが、干し

マ 匂 。

楊明文という詩人の詩の中に明太を

た。太白山脈のくびれた内側の何カ所 た時の色合いが他の所で干したものと

-エジプトの王のように

ミイラになった時

ある寂しがり屋で貧しい詩人が

夜も更けて詩を書きながら

焼酎を飲む時

彼のつまみになってもいい

ちぎりちぎって私の体は

彼の詩になってもいい

なくなってしまっても

私の名だけは残 っているだろうから

の時間が一気に三時間に短縮されるこ

七日もかか った という。ところが 一九 七五年に嶺東高速道路が建設され、そ

った。その昔、ロバに乗って行き来し ていた頃はソウルから大関嶺の峠まで

乾いても身は柔らかく色合いも黄色っ ぽくなるのである。これがまさに黄太

らんだりする。その結果として完全に

過程を通じて明太の身が収縮したり膨

たり溶けたりを何回も繰り返す。その

寒い所では三ヶ月ほど干す過程で凍っ

は異なり味も異なる。大関嶺のような

残つてはいる。そんなことを知らない

ったのである。但し他の場所で洗って きたものを干すだけの場所はいくつか

加えて干し棚のあ った場所にコン ドミ ニアムのような大きな建物が立ち並 び、干し場もほとんどなくなってしま

って 川の水が汚され、生太を洗うこと ができなくなったためである。さらに

それよりも多くの人が集まるようにな

できなくなったという理由もあるが、

江原道ではジャガイモがたくさん栽培

うなものが多く栽培される。もともと

イモやトウモロコシ、そして白菜のよ

いる。 冬以外の季節、高原地帯ではジャガ

冬魚を加工する意外な風景を目にする 喜びは今やほとんど消え去ろうとして

現在はほとんどが他の場所に移されて

まりとれず遠く北太平洋まで出かけて

そんな魚だが、韓国の東海岸ではあ

明太、明太と・

とになった。その頃から大関嶺周辺の

で、もちろん値段もかなり高い。 海から運ばれたばかりの生太は埠頭

若い世代がその道をスキーを担いで頻

考えているためだと言えるであろう

対象と考之るのではなく、 畏 敬 の 対 象 と し て

おいては山を西洋の人々のように征服する

その最もえさな理由は、 お そ ら く 韓 国 の 伝 統 社 会 に

ほとんどが自然そのままに残されている。

韓国の多くの山の頂や山肌は開墾されてはおらず、

川の土手も高くな って、そんな ことが

かに東と西を行き来する険しい山道が あるのだが、そのうち最も重要なのが の大関嶺がある。その大関嶺の東と西

大関嶺の道である。江原道平昌郡にそ は気候も異なる。冬を例にするなら、 嶺東は海に面していて暖かい海洋性の 気候であるが、西側は大陸性の気候な ので大変寒い。その性格の異なる二つ の気候が大関嶺で出会う。そのためこ こでは霧が深く立ちこめる日が多く、 雨や雪が多く降る 。 高 い 所 で は あ り な がら平らな場所が多く集落が形成され る要素は持っているが、そんな気候の

リゾート地も作られていったのであ

ではらわたを取り出した後、横渓川に

繁に行き来している。

ためにあまり多くの人は住んでいなか

る。その後、経済発展の一つの結果と

移して川の流れに一日ほどつけてお

めた。そして徐々にスキ│場のような

加工されている 。大関嶺の高原 地帯で

とってきたものが多い。そんなものは

して、都会の多くの人々が集まって休

く。そうしておくことによって生太が

高原地帯は農場や牧場にと開拓され始

暇を過ごす所として有名になった。そ

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された。江原道の人々に﹁ジャガイモ 岩﹂というニックネ ームが付 けられて がある。それは白菜や大根を漬けて発

ジヤンと 呼ばれる年 中行事がある。そ の頃になると大関嶺の高冷 地 をはじめ

いるほど、 他 の地方よりジ ャガイ モ栽 培が盛んなのである。そして中でもジ ャガイ モの生産量が多いのが大関嶺一 帯なのである。この辺はまた 、高冷地 の野菜も多く栽培されている。気温が 全国各 地 で栽培された白菜は、ひと株 ひと株、人の手で丁寧に抜かれ、トラ

酵させた キムチ である。そのため白菜 と大根の需要はかなり多い 。冬の 初め、 韓国の各家庭では冬の間貯蔵しておい て食べるだけのキムチを漬け込むキム

平 地 よ り も 摂 氏 二度 か ら 三 度 低 い た め、成長は若干遅いが病虫害が少なく ックにきれいに積み込 まれて 全国の大 小様 々な都市に 売られていく。そして その白菜は、産業の現場に移住してい った若い農夫や農夫の子どもたちがキ

も 一応納得がいく。しかし産業が不況 に陥って賃金がもらえないだけでなく 大量に解雇されて失業者にな ってし ま

ムチを漬けるために高い金を 出 して買 うのである。産業が盛んで賃金の高い 時は野菜の値段が上がり、そのため高 い金を出して買わざるを得ない悪循環

畑仕事に適している。高冷地で栽培す る野菜としては主に白菜があるが、一 昔前のように自分の畑を家族総出で耕 していたころのスケー ルとは 様相がか なり異なる。ほとんどが何万坪単位で 白菜を栽培するため多くの資本がかか る。そのためいわゆる伝統的な意味で の農夫はそんな膨大な 畑仕事はできな い。従って都会に住む資本のある人々 がそんなスケールの大きい農業を営 む。しかし資本を持っている人々も実 際農業を営むということではかなりの 困難が伴う 。その 先ず 一番の壁が人手 不足である。韓国が農耕社会から産業 社会に移行していくなかで、多くの人 が都会に移ったため農村には働き手が あまりいなくなったのである。まして 大関嶺のような高原 地帯はもともとあ まり人の住んでいなかった所である。 白菜の栽培は機械ではできない、人の 手 間 のかかる 畑仕事のため、手間賃金 をたくさん払いながら都会の人々を農 場まで連れてきて、帰宅時間になると また車で送っていくというおかしな形 の農業にな ってしま った。生産費の上 昇はすなわち農産 物のコ ストアップに つながる。 韓国人にはなくてはならないおかず

大関嶺一帯の、一口向原地帯は美しい 。 丁 、 その霧が消え遠く 、 、カ っルこ/ι ・刀 日

そして吹雪く時でさええ関嶺は美しい

と音をたてながら白い肌を見せる時、

安材の

道端の白樺の木の葉が風に揺れてサラサラ

そして近くに控える山々が輪郭を現した時、

( 上)高原地帯の斜面にはきれいな渓流が流れる 。 このようないくつもの小

( 左)天気が良い時は大関嶺の山原に上がると東に遠く青い;毎が見える

さな渓流が合わさり、良い川の形態をそなえた横渓川となる。渓流は農業

をはじめ、いろいろなことにとても大切に使われる

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つ ル ﹂ 、 そんな悪循環は耐え難い苦痛と して作用するのである。今、韓国はい

ろいろな理由で経済事情が悪い状態に 陥っている。そのため多くの企業が休 業状態になったり従業員を減らす段階 に至 ったりしている。にもかかわらず 今のところ都会の産業現場に移住した 農村出身の人々が、再び農村に帰 って 来るような兆しは見えないでいる 。 大関嶺 一帯の高原地帯は 美 しい 。緩 やかな稜線が優雅にカlブを描く風景 は韓国でそんなに見られるものではな い。 夏、霧のかかった時、その霧が消 え遠くそして近くに控える 山 々が輪郭 を現した時、道端の白樺の木の葉が風 に揺れてサラサラと音をたてながら白 い肌を見せる時、そして吹 雪く時でさ

行くと平地になり、その平地にどんと

え大関嶺は 美 しい 。山嶺の向こう、幾 重 にもくねりくね った峠の道を下 って

厚な人々が住んでいる由緒ある都市で

構えた江陵市に出る。気候のように温 ある。大関嶺の頂上からはるか遠くに 見えた青い海にその都市は接している 。 しんどい仕事を終えた後に続けざま にさ ら に 困 難 な 事 にぶ つか る こ と を ﹁ 山越えまた山﹂という韓国のことわ ざがある 。 韓 国 人 の 多 く が 不 安 に 思 う のはおそらく目の前に見える山ではな く、その山の向こうの目には見えない もののためであろう。 山 を越えると、 時には平地、時には海が出ればと願う 。 という山を越えて平らで広い平地の平

韓国人の多くは厳しい韓国の経済危機 和な海辺に到達することを切実に願 っ ている 。 あたかも大関嶺を越えた時の ように 。

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LI ↑ 占

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国は過去に遡れば遡るほど

ゴ ー 占 川 を利用した運送の比重が l陸地のそれより大きくなる。 ﹂ ド 陵地 の運送は車、汽車などの新しい運

近道である狭い山道を利用した。その 結果、荷車の普及が不振で陸運が水運 に比べて効率的という意味で一層遅れ をとらざるを得なかった。 智異山は農業生産の中心 地 である全 羅道と慶尚道の境界に位 置する。その 地域 一帯の産物が全国各地に広がるこ とができたのは智異山の麓である全羅 北道鎮安郡白雲面の八公 山 に源をもっ

て任実郡雲岩面に至り、現在は葛漕貯 水池に達している 。婚津江 は淳昌郡赤 城面で(数点)樹川、南原郡金池面谷城 邑の境界で萎川、そして谷城面梧谷面 の鴨緑で宝城江と合流し、そこではじ めて東に曲がって南海の潮水に通じ る。そして 川は再び智異山の南にそ っ て全 羅道と慶尚道の境界を作りながら 南海に入る 。 朝鮮後期の実学者である李重換が書 いた﹃択里誌﹄によると韓国で最も肥

えた土地は全羅道では南原と求礼であ るとされているが、その中でも求礼は

蜂津 江を通じて魚と塩の利益を得るこ とのできる所であり、人の最も住みや

すい所ということであった。 嶋津江の 下流にあたる河東 から求 礼 に上 ってくるまでの重要な渡し場はシ 、 ンパンチヨン 、新月、 嶋津、 卜ル卜 ミ ハゴル、ケチ、ソクパウ、コムドゥ、

花開などであるという 。 これらの渡し場は渡河地点であると

があって、この他に常に聞かれている常設市

嶋津江の水路があ ったためである 。始 津江は馬霊面を経ながら沖積地を作つ

宝城と繋がっている

れる定期市場とこれと共に聞かれる家畜市場

送手段が登場し、それに伴う道路、鉄 道などの諸般施設が出そろうまでは主 に馬の背に載せたり、背中に背負 った

, , ノ

h μ' F

同阿川バ川 、

求礼郡には毎月 3の日と 8の自に定期的に関か

りなどの手段による徒歩運搬の水準に とどま っていた 。徒歩運搬の場合、韓 国では 山脈と山を越えてはじ めて互い に繋がる地域が多いため、ほとんどが

全羅道と慶尚道の問にはえさな山脈が横初っていて、 幡市ロ津江の、河口まで到達するのが大変な全羅道の 屋物の大部分は忠清道に行く。 慶尚道と全羅道の 生、 二 つの地域の関係を見ると、 か な り 前 か ら

河束、 九陽、

場がある

慶尚道の晋州、 山清、 成 陽 と 全 羅 道 の 雲 峰 、 南原、

) 1 ]

任、実、 全 州 が 地 理 的 に 繋 が っ て お り 、

少 ;

52


53


いう機能以外に全羅道と慶尚道地域で とれる産物を集散する中間拠点でもあ る 。 全羅道の南西部では 木花、木綿、生 糸、紬類が生産され、全羅道の東北部 では麻布、紙類、煙車が生産され 、内 部の平野では米が、海岸の島では塩と 海産物が生産される。この内、米は主 に釜山に行きその代わりに明太(すけ とうだら)やニシンなど、北海岸の魚 がソウルと平安道 地域の商人た ちによ って釜 山を経てここまで運ばれた 。 河 東の河口から上がってくる塩はこの地 域に集散された後、陸路で運送された。 全羅道の木綿は忠清道と京畿道まで運 ばれた。全羅道と慶尚道の聞には大き

食塩と海苔 、明太、タラな どの海産物を載せ、下る時 には求礼、成陽、山清、河 東などの 山村 で生産される 木物(木器類)、生竹(海 苔を干す簾を作る材料)を 載せた。 一方、臆津江の川辺には 陸路も形成されたのだが、 この道路は荷車が通えるほ どの広い道であ った 。 求礼郡内には定期市場が 三つに常設市場 が一つ、そ して求礼邑の定期市場と開 始の日が同日の家畜市場が

な山脈が横切っていて、蜂津江の河口 まで到達するのが大変な全羅道の生産 中 め っ ち。

一つあ り、全て公設市場で ある。求礼邑の定期市場は たいてい 三日市と八日市で

余人、移動商人五O余人、利用者 三五

O余人程度である。 山洞面 の院村市場 は山洞面の院村里一 O 一!二番地にあ り、一九五六年七月一五日に二日市、 七日市として聞かれた。敷地 一O 八 二 坪、建物 一 二坪、取引額 二七六万ウ

燕谷市場は現在の土旨面燕谷寺の入口

一商人三O ォン、固定 余人、移動商人六 O余人、利用者三五 O人程度である。

の燕谷 川 の川辺に 立 ったものと推測さ れる。日帝時代に求礼邑│南原聞の道 路が拡張、開設され、光義面煙波里に

煙波市場と山洞面院村里に院村市場が 新設された。 求礼 一帯の特産物は嶋津江でとれる 鮎と智異山で栽培される雀舌茶及びタ

て、一九六 四年一 O 月一日に五日市、 十日市として開かれていたが、一九八 九年に閉じられた。敷地七四五坪、建 物一一九坪、十 一問、家畜を除いた 一 日の取引額は 一五五万ウォン、固定商

の予算で開かれた。市場の管理権限は 求礼邑の村長にある 。 土旨面の土旨市 場 は 士 旨 面 九 山 里 二 O 八番地にあっ

八・四坪六七聞で、 5千万ウォン余り

時代の進上口聞は夏は生 の鮎、 秋は塩漬 けの鮎であった。 柳 筆 業 (一八六六1 一九四四)は朝 鮮末期から日帝時代にかけて求礼郡五 美洞に住んでいたこの地域の有志であ る。彼が書いた﹃紀語﹄(一八九八1 一九 三六)という日記を見ると求 礼市 場に関する記事が出てくるが、市場の

シナケツギョ、カムルチ、フナ 、 スナ モグリ、ハヤ、ナマズ、ウナギ、カニ、 スッポン、カワニナなどがある。朝鮮

する。蛤津江や 一帯の河川でとれる淡 水魚としては鮎、鯉、ボラ、コウライ ニゴイなどがあり、そのほかスズキ、

ラの目、ワラビ、桔梗の根、タケノコ、 智異山の山菜、山菜買などである。木 器、真織の器など、それに養蜂も該当

人は二 O余人、移動商人は四 O余人、 利用 者 二O O余人であ った。光義面の 煙波市場は光義面煙波里八四四番地に

一九O九年五月 二八日一日本人の憲 兵 一人と韓国人の憲兵四人が来たので

引額は七六O 万ウ ォン 、固定商人 一五 O余人、一般の利用者一二 O O余人で あった。家畜競売市場は 一九七九年 一

た。市場の規模は敷地六二二O坪、建 物 二 二 八 ・八坪、二ハ六間である。 一五年前のある統計によると 一日の取

付近に 、一九五九年一月 一 一 一 日には現 在の位置である求礼邑鳳東里に移動し

ータリー 及び農協付近で市 が立ったが、場所が狭いので、解放後、 現在の常設市場の場所及び中央劇場の

二月に求礼邑鳳東里から現在の場所に 移った。当時、牛の売り買いの件数は

ある。一九五六年四月 十 一日に一日市、 六日市として聞かれた。敷地 一四 一六 坪、建物 一四 二坪、店舗五軒、取引額 は千五百万ウォン余り。固定商人 二O

機能と信用取引の慣行などを窺いみる ことができる。

平均二一 O頭(牝牛が七O%)、豚は 百頭程度であった。 求礼邑の常設市場は一九七六年八月 一三 日に敷地 一O 一九 坪 、 建 物 五 五

日帝時代までは求礼邑ロ

物の大部分は忠清道に行くのである。 慶尚道と全羅道の 二 つの 地域の関係を 見ると、かなり前から慶尚道の晋州、 山清、成陽と 全羅道の雲峰、南原、 任 実、全 州が地理的に 繋が っており、沙 川、河東、光陽 、順 川、{玉城と 繋がっ ていることがわかるが、これを理解す るためには二つの道をさえぎっている 智異山が山道と嶋津江の船道で繋がっ ている こ と を 理 解 し な け れ ば な らな tuv

村の故老たちの口述によると解放前 までは 川 におよそ五O尺もある帆かけ 船が河東の河口から花開市場まで、通 ぃ、時間はざっと半日かかったという。 河東の河口から光陽湾まで出ると動力 船が待機していて、これによって収集 された物資が麗水や 三千浦、忠武、釜 山まで供給された 。船が 川を上 る時は

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三 千浦、 志式、 釜 山 ま で 供給さ れた

﹁ 看 市物種記 ﹂があるが 、これを 見る

一束 一九個 一首

前中、ま たは午 後だ け使用す る場合 と で各々異なり 、後者の場合 は半 分だけ 。 一日の 使用料 金 は庖舗 の場 受け 取 る i

の亡

﹁ 市 ﹂ の情趣が 残っ て いる 求礼 の定 期 市 場 は いま だ健在である 。 車 '

トン未満の場合は 一台当 たり 四百ウ 一 一ン 、耕運機や牛馬車 の場合 は 二百ウ ォ ォン 、リヤカーは 百ウ ォンである。 付近 の常 設市 場 とは 異なり 、田 舎の

半 (一七五束) 合、等級に従 って四 百ウォンから六百 三円八十銭 ウ ォン 、露庖の 場合 は 二百ウ ォンから 。 野菜や穀 物を、 車 三百ウ ォンにな る 現在の 求礼市 場 は常設市場と定期市 。 求礼市場には家畜市 場 を利用して売る場合は積載 量が二 ト ン 場が共存す る があ り、市 の立つ 日が河東 の家畜市場 以上 のトラックの場 合 は 五百 ウォン 、 の 日 (二日と 七 日) の翌 日ということ 日

だ から 、 互い に連 結 している 。定期市 場の場所代は 一日中使用す る場合 と午

勺﹀一司式M mc Z

5 5

と当時 の求礼市 場で買 った品物とそ の 。 値段を知ることが でき る

U工 工︿︿﹀ZR mとZI豆 ﹀Z

タケノコなどが主に売り買いされる(右頁、上)

二 一

求礼市場では求礼一帯の特産物である智異山の山菜と山菜英、

市場で 酒を 買 って接待した 。

こ れ に よ っ て 収 集 さ れ た 物 資 が 尻 7J < . や

一尾 七五 銭 水 大 口 エイ 三尾 七十銭 シロ 十 尾 五十銭コノ 二十銭 幾魚 一升

九l 湯湾まで出ると動力船が待機していて、

一 月 二五日 一村 の清 国 一九 二六年 二 人 の経営 す る双 和商屈で 昨 年 の乙丑年 に買 った冬服 の代金十 三ウ ォン 十 五銭 のうち十 円を集金していった 。 一九 二七年 二月二八 日 一 一昨年(乙 丑年) の冬に 村 の双 和 屋青屈 でつ け で

時間はざっと半日かかったという 。 河束の河口か ら

三円三十 銭 黄 夙 , ノ リ ン 、 ノ 二、 八銭 たまご 三八銭 円 ブタ

50尺 も あ る 帆 か け 船 が 河 東 の 河 口 か ら 花 開 市 場 まで通い、

買っ た品物 の代 金のうち残金の 三円を 支払 った。 この家庭の文書の 中には 一九 二O年 一月 一四日 の冠 礼 の時に作 成 し た

村の故老たちのロ述によると解放前までは川におよそ




った。この過程ですべての堆積物は、 ゆ っくりと堆積岩に変化していく。そ の後、この部分がその地域の造陸運動 や造山活動の影響を受けて隆起し、海 水面より高くなると上部の地層から浸 食されて、次第に削られていく 。浸食 され続けて、恐竜の足跡が残された地 層のすぐ上の部分の地層面まで削られ ると、恐竜の足跡が再び露出して、 我々の目に触れることになる。 恐竜の足跡は、恐竜の骨格の化石か らは得られない恐竜に関する多くの情

にわた っている 。竜脚類の後ろ足の足 跡は、約十センチの小さなものから約 一メ ートルにいたるものまでが発掘さ れている。 恐竜の足跡の足の指の形によ って 、 その恐竜が草食なのか、肉食なのかを 区別することができる。鳥脚類は 三本 の足の指がすべて 同じように短くて太 く、足の爪の形が鋭くない点から見て ppb 穴絹CZ のIC

草食だ ったと思われる。獣脚類の足跡 は足の指が長く、いかにも力強そうで、 また足の爪の形が非常に鋭くて尖 って いる点から見て、草食恐竜を攻撃する のに使われたと推測される。竜脚類の 前足と後ろ足の足跡は、足の指の輪郭 がは っきりしておらず、足の指が短く、 足の爪も鋭くないところから草食であ ったと考えられている。

恐竜の歩行列から、恐竜の歩き方や どれくらいの歩行速度だ ったかを推定 することができる。鳥脚類と獣脚類の

歩行列は大部分が直線的だが、竜脚類

の歩行列は大きな S字型を描いている ことが多い 。歩行列に見られる歩幅を 利用して歩行速度を計算することがで きる。その結果 、 その恐竜がゆっくり

と歩いたのか、速く歩いたのか、また

は走 っていたのかがわかる。 一般的に 獣脚類の歩幅は、同じ大きさの足跡を

持つ鳥脚類や竜脚類よりもはるかに広 い。つまり、獣脚類の歩行速度は鳥脚

社会生活についてもいろいろなことが

報を我々に与えてくれるため、その研 究は恐竜研究に寄与するところが大き い。 恐竜の体の化石が発見されない地 域から多くの恐竜の足跡が発見されれ ば、その地域には恐竜が棲息していた

わかる 。 鳥脚類のある恐竜は、多くの 発掘地で常に数十頭が群をなして同じ

類 や竜脚類に比べて速く、彼らを攻撃 できたであ ろうと推測される。 恐竜の足跡と歩行列からは、恐竜の

ということがはっきりする。韓国では 数多くの恐竜の足跡が発見されている

方向に歩いていく歩行列を残してい る。このことから、彼らは大きな集 団 を作って社会生活をしていたものと推

によ って生じた凹凸が非常にわずかな ものであるために、足跡だとは気づか

を推測させる。 恐竜の足跡の保存状態は、種々様々 である 。 これは恐竜が歩いた当時の河 川や湖周辺の堆積物の種類と状態によ って、恐竜の足跡の保存状態にも大き な差が生じるからである。恐竜の足跡

場所の近くに鳥脚類の巣があ ったこと

定される 。ある発掘地では、何頭かの 獣脚類が同じ方向に速い速度で走 って いく足跡を残している 。 また、別の発 掘地では、鳥脚類の大きな足跡と一緒 に約十センチほどの長さの子どもの恐 竜の足跡が発見されたが、これはその

にもかかわらず、恐竜の体の化石はほ とんど発掘されていない。 ある恐竜の足跡の形とその足跡の歩 行列は、その恐竜の種類、大きさ、行 動、そして社会活動に関する情報を 我々に提供してくれる。韓国で発掘さ れた恐竜の足跡は、大きく分けて三種 類に分けられる 。三 本の足の指がフォ ークのように平行に並んでいる鳥脚類 の足跡と、真ん中の足の指を中心に左 右の二本の指が広がった形の獣脚類の 足跡、そして、脚の指の輪郭が鮮明で はなく、楕円形の前足と後ろ足を持つ 竜脚類の足跡である。これら 三種類の 足跡は、それぞれ様々な大きさを持っ たものが発掘されている。鳥脚類の足 跡 の 長 さ は 約 十1 六 十 セ ン チ に わ た り、獣脚類の場合は約十i 四十センチ

58


を残しているだけの足跡もある 。 その

るし、足の爪の部分だけが多少の凹凸

ずに通りすぎてしまいそうな足跡もあ

て、これも新種として確認、報告され

を持 った 鳥 の 足 跡 が 大 量 に 発 見 さ れ

地域で先のものと異なる大きさと形態

た 。

最近では、慶尚南道晋州市付近で約

一方で、比較的は っきりとした凹占が 生じて、鮮明な形の足跡として残って

跡とともに発見された 。 ここは、現在 までのところ世界最大の中生代の鳥の

る鳥脚類の歩行列では、歩行列の前方

ったとしても、恐竜の体重 によ って足 跡の深さは千 差 万別になる 。 また、あ

年前に、水掻きを持 った鳥の足跡が 二

年越しで進められている。ここでは数

南道海南郡で白 重紀前期の恐竜の足跡

くはまりすぎて深さが約四十センチに も達し、足の爪の輪郭がま ったく残 っ

年には韓半島の西南部に位置する全羅

にある足跡ほど足跡の深さが次第に深

足跡の発掘地である。また、一九九七

ていないものもある。恐竜が踏みつけ てい った足跡の下の堆積物が均質であ

くな っていたが、これは恐竜が歩いて

の時期のものとしては世界で最古の水

種類発見されており、研究の結果、そ

が発掘され、現在、その発掘作業が 二

いた方向に向か って、堆積物に 含 まれ る水分が段々と多くな っていたことを

とが確認、報告された。これまでの発

掘作業の結果、約五百個の恐竜の足跡

掻きを持 った鳥の足跡の新種であるこ

韓半島南東の嶺南地方に分布する数 千個の堆積岩からは、これまでに少な

が、翼竜の足跡としては世界でも っと

示している。

くとも約 三百カ所の地層面から恐竜の

ここで発見された恐竜の足跡はおもに

と数十個の 翼 竜 の 足 跡 が 発 見 さ れ た

足跡が、また四十カ所の地層面から鳥

も大きい足跡であることが確認され、 また発掘地の規模も世界最大である。

の発掘地である慶尚南道古城郡の海岸

の足跡が発掘されたと報告されてい る。 この地域内での恐竜の足跡の最大

のは少しだけ発掘された。

鳥脚類のもので、獣足類と竜脚類のも

めていかなくてはならない。

A'

ために、全力を尽くしてその保存に努

のような世界的に誇りうる天然資源を 今後とも人類の子孫たちに伝えていく

くの足跡からよくわか る。我々は、こ

って共存、棲息するのに適した気候風 土であ ったことが、彼らの残した数多

と水鳥、鴨、そして翼竜が長期にわた

巨大な湖が存在し、多くの種類の恐竜

このように、中生代後期の白重紀に あたる 一億四千万年前の嶺南地域には

地域からは、厚さ約百五十メートルの 堆積岩の 中 の約二百カ所の地層面から 約 三千個の恐竜の足跡が、また約 三十 カ所の地層面から約五百個の鳥の足跡 が発掘された 。 この地域を詳しく調査、 研究した筆者は、この地域で発見され た恐竜の足跡を形態学的に全部で十 二 種類の足跡に分類した。韓半島での鳥 の足跡は、 一九六九年に初めて慶尚南 道成安郡内で発見され、世界で二番目 の新種として確認、報告された。また、 一九九O年には 慶 尚南道古城郡の海岸

59

五千個の鳥の足跡の化石が、恐竜の足

( 左上)はっき りと浮き出た鳥脚類の足跡

いる例も多い 。珍しい例では、足が深

EE∞mOZ の衰亡

( 右、右上)丸い足の形をした竜脚類の足跡



は、香木を削って香炉に灰と火種を詰

とも四十歳以上の人々の思い出の中に

多くの人々の思い出の中に、少なく

たものである。数多くある樹木の中で

類の持つ長い香料の歴史とともにあっ

う﹁アロマ﹂や﹁ハーブ﹂にあたる人

香辛料であったばかりでなく、今でい

ギとニンニク自体、強い芳香剤であり

神話の檀君の母)が食べたというヨモ

史と強く結びついている。熊女(檀君

の中に残っている部分である。韓国人

の言い伝えが、そのまま韓国人の生活

えている桓雄の神檀樹と熊女のヨモギ

のである 。 これは、韓国人が神話と考

モギを煮出した水で体を拭き清めるも

ん﹂ と呼ばれる風習がある。これは、 香木を煮出した水で頭を拭き清め、ヨ

遺体を清めて経雌子を着せる際の﹁れ

と達する﹂と 言 い、﹁香をたきながら祈

が立ちのぼり、その精髄は神聖な場へ

墨胡子は香を見て、﹁これをたけば香り

療にも広く使われていたことがわかる 。

王の病を治したとされ、香が病気の治

中国の梁の固から衣服とともに香が送

は死んで初めて、生前に神話だと否定

治療だけでなく、祈祷の際の媒介物と

建国神話と韓国の香

め、細かく削った香木の 一片をその中 に投げ入れて、青い煙と香りに包まれ も、韓国民族の祖先たる桓雄(檀君の

していた歴史の中に帰 っていくのであ

られてきたが、この香で墨胡子が内親

ていることだろう。香と 言 えば普通は

ながら長い儀式を行った光景が刻まれ

願すれば、必ず霊験あらたかであろう ﹂ と述べた。この記録から、香が病気の

てこの大地に降りてきたのか。ここで

して使われていたこともわかる。

父)は、なぜわざわざ神檀樹をった っ

る。香木とヨモギこそは、韓国人の祖

る簡略な祭杷)のことを思い浮かべる

先を象徴する香りだからである。祭記

新羅時代の香の文化の名残りは、

神檀樹の檀とは臼憧、紫檀、栴恒の壇 であることを思い起こす必要がある。

祭記や茶礼(陰暦の節目などに行われ 人が多い。実際、先祖の祭把や茶礼の

様々なところに残 っている 。 一般にエ ミレl の鐘と呼ばれている聖徳大王の

際には、多くの供物は供えられなくて 現(号は栗谷)が著した﹃撃夢要訣﹄

に携えた飛 天像が残されているし、慶

神鐘には、蓮の花の形をした香炉を手

も香だけは必ずたいたものである。李 の祭儀抄によれば、他のものは供えら

の文化を偲ばせる資料である 。さらに、

香、香木片、心香片も同じく新羅の香

て、仏国寺の釈迦塔から発見された乳

新羅には様々な材質と形の香炉が存在 していたことをよく示している 。 そし

見された臓石で作られた香炉の蓋は、

あ ったことが伺われる 。 雁鴨池から発

像からは、新羅時代の香炉が青銅製で

州の断石山磨崖仏群に見られる香供養

れなくても陰暦の旧正月、冬至、月の 一日、十五日に行う茶礼では香をたく べきものとされている。我々と先祖の 出会いの場である茶礼には、常に香が 。 あ った 香という字は、稲という意味を持つ 禾の字と日からなっている。稲が実っ ていくときのにおいが﹁香﹂の字の字 意であると 言 うが、古文献を見ると きぴ

イスラム文化圏から輸出された品目の

中にこうした香木があ ったことからも、

壇はオノオレカンバの木とも解釈でき

新羅の香の文化が大変水準の高いもの であ ったことがわかる。この伝統はそ

﹁黍﹂の字と ﹁ 甘﹂からなっている。黍 を甘くするには発酵させなくてはなら

で香をたくのは、太古の昔に神檀樹を った って桓雄がこの世に降りてきたよ

のまま高麗に引き継がれ、中国や東南

は天と地、そして人間を融合させる仲

一つとなる役目を果たす。つまり、香

である。これは天と地、そして人聞が

るが、神庖樹が香りのよい木だ ったと いう点にはまったく異論はない。さら

たことを示す 一つの例である。もちろ ん、妙香山の位置については諸説があ

族が香りのよい木を神檀樹と考えてい

とともに始まる。仏教がまだ新羅の国

歴史的には、香の文化は仏教の伝来

在しているのである。

に、香は神話ではなく、歴史の中に存

いう日本側の記録は、韓国人の香の文

たのも四百年前の朝鮮の人であったと

た香の加工技術を持 っていたことがわ かる。また。日本に線香の製法を伝え

アジアから香の原材料を輸入して香や

一般的には香りのよい木の意と

うに、香りの力で 天と地存こ つとした という言い伝えを再現しようとする、

るが、

降神の風習に由来している。このよう

考えられている。また、桓雄がこの世 に降りてきたという山の名が妙香山で

う。欝凶己酒は、神を招降するのに用い

あると伝えられていることは、韓国民

ない。この黍で作った酒を欝国酒とい

のような国の大きな行事で使われる酒

る降神酒で、今日でも天祭や宗廟祭礼

介役を果たすものである。 香は神とこの大地を結びつける宇宙

に、この香木と韓国人を結びつけるも

教となる以前の十九代納砥王の時代、

うした事実から韓国人の先祖が卓越し

香油を作り、それを再輸出したが、こ

樹でもある。韓国の香の歴史は、今日

う 一つの例として、葬礼の儀式の中で

歴史の中の香の文化

神話として記録されている韓国の古代

6 1

香をたく器


建て、土寸を建立し、仏画を描いて食べ

た世界を作り出すために、彼らは塔を

という仏教的来世信仰である。そうし

して通用するのは、重いことも重いが、

が、埋香によ って作られた香が沈香と

ともと水に沈んだ重い木という意味だ

作られる香は沈香ではない 。沈香はも

などが使われた。これらを俗に沈香と も言うが、厳密に言うと埋香によ って

伺わせるものに、

しい世の中を迎えて、これを建設する

共同経済における中心役割を果たすも のであ った。この契の原型を探ってい

物と衣服を喜捨し、それと同時に香を

化の水準の高さを間接的に伝えるもの くと、香徒という独特の集団に行き当

土の中に埋める埋香という儀式を行っ

である。 一九九二年に出土し

何よりも韓国人の香の文化の水準を たる。 香徒の一冗々の意味は﹁香りのよい 一

た百済大香炉がある 。龍と鳳風が人間 世界と神仙世界を包み抱く意匠のこの

それ以上に沈香のようなも っとも香り

高い香に変わ ってほしいという願いが

た 。 ここで注目すべきことは、香を土に

込められているからである。したが っ

団 ﹂ 、 ﹁ 香をたくことを伝えるための 一 団﹂、あるいは﹁香りの高い 一生を送る

埋める埋香儀式である。香を士の中に 埋めるというのは、 一種の香木を熟成

香炉の堂々として秀麗な姿は、百済文 ために努力する一団 ﹂などと解釈でき るが、これは自発的に構成されていた

た香の煙がこの世に再び立ちのぼれ

化のまさに真髄ともいうべきものであ り、その出土は韓国人の香の文化の水 ため、行政編制や生産共同体とはま っ

させる過程と見られるが、朝鮮時代の

ろう。

教の代 表 的文化遺産であると言えるだ

表であるとすれば、この埋香は民衆仏

香という独特な精神的文化遺産を残し た。八万大蔵経が貴族の仏教文化の代

経という有形の文化遺産とともに、埋

に埋めたのである。高麗λは八万大蔵

とを夢見て、高麗の人々は香を土の中

新しい世の中でこの沈香がたかれるこ

が生まれた。つまり五百年、千年後の

ば、新しい世界が聞かれるという信仰

て、韓国では、土の中に埋められてい

準を 一気に引き上げる役割を果たした。 たくその形態を異にし、社会的変動に

そして字に込められた設都たる忠いが言葉に尽くせぬ

上 に 字 を 書 く。 その心の内で茶の香りと墨の匂い、

香 を 一 片 た い て 茶 を 飲 む 。 墨を擦って、 白 い 紙 の

人間世界と神仙世界を支えている龍と、 それ全体を抱き込むような鳳恩の姿は、 深く根づいた情緒である天と地、そし て人間の融和した世界を表現している 。 また、香炉に刻まれた山の峰々の聞に 香の煙が流れ降りてくる様を想像して みると、まさにそれは韓国人が夢に見

調 和 を な す 。 我々の香は、

た神仙境が目の前に繰り広げられるよ うだとも言えるだろう。考え方によっ

中 に 長 い 余 韻 を 残 し て 漂 う 。 大日をたく人々はまた、

﹂のように静詮な融和の

ては、香がたきこめられた場こそが、 韓国人が夢に見る世界なのではないだ

二.生活の中 に香の文化を根づかせ た 朝鮮時代 香の包み紙からはよい香りがすると いう 。 これは、何を抱えて生きていく

自らを燃やして周囲を清める香に似て、

生活百科事典である﹃閏閤叢書﹄にも、

ということを意味する。韓国人の祖先

ろうか。

香を壷に入れて土の中に埋めておくと 一種のえも 言われぬ香りがすると記さ

を共同で行ったり、あるいは構成員が

﹂の世を香り高いものにしたいと願っている したが ってその姿が様々に変わること はあ っても、香り高く生きていこうと

れている。こうしてみると、長い間の

一 - 香り に満ちた心を大地 に埋める香徒 韓国の独特な生活文化の中に契とい

するその本来の在り方には何らの変化

うものがある。井戸の清掃や造林事業 金銭やそれに相当する反物や穀物を

もなかった 。 ある意味では、非常に早

観察を通して香木が自然に変質するこ

と海水が出会う海辺で行われたと推測

香徒の埋香儀式は、奇妙なことに淡水

見いだしたものと思われる 。 ところで、

い生き方を堅持していくということに

清風にそよぐ蘭に似て、物事に動じな

とである。それは、朝露を吸い上げ、

と呼んでいる 。言 い換えれば、ソンビ は蘭を胸に抱いて生きていくというこ

はソンビ(土人)の住む家を指して ﹁ 蘭馨之室﹂、つまり蘭の香りのする家

のかということは、それくらい重要だ

各々持ち寄って共通の目的の下に働く

い時期に結成された社会奉仕団体であ

たが、新羅の金庚信将軍の花郎道の組

るとも三守える。香徒の構成員としては 僧侶と 一般信徒がその主流をなしてい

される 。 この時に埋める木としては香

とを発見し、香木を熟成させる方法を

のが契の原型であったとすれば、今日 で言 う契とは、銀行がまだ 一般的では 盤に、まとまった金を作り出すための

織である龍華香徒が記録に表れる最初

木はもちろんのこと、松の木、楢の木

なか った時代に構成員同土の信頼を基 信用金庫的役割を果たしてきた。そう した意味で、契は血縁や地縁を利用し

の香徒である。この龍華は、弥勅信仰 と深く結びついている。弥勅信仰は新

通じる。そうしたソンビが昔から風雅

て作られる場合が多く、意を同じくす る人々が作り出した 一種の地域社会の

62


な噌みとして挙げたのが香をたくこと、 茶を飲むこと、そして絵を壁に掛け、 花を活けるという四芸である。 香は祭 記 の席に限らず 、我々が心を 清め ようとする場でたかれた。書物を 読むときは、その書物を著した聖人と 対座しているように読むべきとされた。

香の芳香油の成分が精神の集中を助け るのを読書生活に生かしたものと考え

読書の際に飛んでくる虫を追い払い、 炉と銅炉、鉄で作られた香管にいたる まで、いろいろな形をしている 。朝鮮

香炉も瓦炉、青磁や白磁で作られた香

な塊にしたものを片香といい、細かい 粉 状 に し た も の を 粉 香 と い う 。また 、 丸薬のように 丸 くしたものを丸香、小 さな円錐形に作ったものを角香といい、

称が異なる 。香木を 削 った ように小さ

込められた霞郁たる思いが言葉に尽く せぬ調和をなす 。我々の香は、この よ うに静誼な 融和の中に長い余韻を残し て漂う。香をたく人々はまた、自らを

て、白い紙の上に字を書く。その心の 内で茶の香りと墨の匂い、そして字に

ている。 香を一片たいて茶を飲む。墨を擦っ

ておくものを別に線香と言って区別し

に立ててたくのではなく、横にしてた くので臥香といい、葦や細い竹に付け

蚊取り線香のような渦巻き状のものを 巻香という。さらに我々が普通目にす る棒状の香を線香という。ところで、 この線香を東南アジアでは我々のよう

られる。実際、沈香や白檀のような香

から香を作るこ之ができる。白檀、紫 値、沈香、丁香、木香など、数多くの 芳香性を持つ漢方薬の材料が香材にな

三つに分けられる。動物性の香材とし て有名なものには廓香があり、植物性 香材では植物の根から枝、蔓、葉と花 に至るまで、芳香油を持つものすべて

材は植物性、動物性、そして鉱物性の

香を作る材料を香材という。この香

ふさわしい趣の伴月香を、また茶を飲 むときには線香をたいたといい、一日 を通して香に親しむ生活だった。

特に、彼の﹃五州術文長筆散稿﹄に記 されているように、朝には清々しい香 りの漂う玉乳香をたき、夕刻には月に

時代の実学者である李圭景(号は五州) は、一年の四季を通じて趣に富んだ香 を楽しんだソンビのうちの一人である。

の材料は、今 日 のア ロマセ ラピ ー でも 精神の集中を助けるものとしてよく知 られている。 このような効果もあ って、韓国のソ 重要視されるようにな っていく。﹃朝鮮 王朝実録﹄の世祖五年の記録を見ると、 美希顔と萎希孟兄弟の父である美碩徳 の日常が次のように描かれている。﹁J

ンビの読書生活で香はいつとはなしに

の文献的記録である中国の宋代の洪郷 が著した﹃香譜﹄には、﹁﹃陳書﹄に記 職にあつて 仕事のことを考える時には 治世の方法が周密であり、私宅にあっ

そのために心を込めて香をたき、精神 を集中させて書物を読むのがソンビの 読書生活だった。これを﹁焚香読書﹂ というが、これについて書かれた最初

して日く、与之敬は字を思曜といった が、その人となりは人情に厚く泰然と

あざな

して、勤勉で親孝行であった。数え五 歳の時、﹃孝経﹄を読むときには必ず香

はなかった﹂と。この記録からも韓国

ては座右に書物を置いて香をたき、端 正に座っていたが、その姿は静誰で平 安そのものであり、栄誉を求めること

をたき、きちんを正座していた﹂と記 されている。こうした生活ぶりは美し いものとして記録され、およそ書に親

燃やして周囲を清める香に似て、この 世を香り高いものとしたいと願ってい る。香のたかれた空間で、しばしその 心に触れてみてはどうだろうか。

63

のソンビの文 化 の中でいかに香が重要 なものであったかを推し量ることがで きる。その香は紫檀、沈香、水沈香 、 安息香、海南香など種々様々である。

る。また、樹液の固まったものである 乳香や竜脳もよい香材となる。こうし た香材は、作られた形によ ってその名

である

れは香をかいで心 を落ち着かせ るという 意味

しむ人々の問では 、書物 をひもとくた びに香をたくことが当然とされた。こ

また、香の形も纂香、線香などがあり、

松葉を置いて「一心」という文字を 書く。 こ

れは香が、 よ こしまな思いを払うのに 役立ち 、また殺虫にも効果があるため、 勺﹀b-︿ m 印 c Z のと

( 上から ) r 心」と刻まれた粉香に火の付いた


土の中に風の中に花聞く忍苦の歳月

イ七、

・ 李畑 権

TRADITIONAL ARTISAN

グ fシ

3J

詩 人 文 化 遺産研究所長

瓦屋根の先の望瓦 ( 上) 軒丸瓦(中 )

唐草瓦(下)などの瓦で飾る

rAA I .~

: J

64



可﹀司式的mCZの自己

puIAA 国 文 化 に 内 在 し て い る 美 し さを一言で言い表すとすれ JH ト円寸 ば 、 そ れ は 曲 線 の 美 し さ だ

ゴE 主 ろう。吉岡麗青磁や朝鮮白磁の大査に見 られるそのゆったりとした、ふくよか な暖かみを感じさせる線や、途切れそ うになりながらも連綿と続く哀切な調 べを持つパンソリの旋律、そして、生 の暗聞によどむ哀しみを夕暮れの 川 の 流れのように穏やかにときほぐしてみ せる厄払いの舞やテグムと呼ばれる横 笛の音は、もっとも韓国的な曲線の美 を持った芸術である。 なぜ我々の祖先は彼らの生の論理を このような曲線の表象によって形象化 し、その 中 に心の慰めを見だそうとし たのであろうか。それは 、多分に韓 国 民族が代々その中で暮らしてきた風土 的な環境に由来するものと思われる。 老年期の地形が作り出した山と岩の姿 にしてもそうだし、春夏秋冬の四季の 移り変わりもすべて曲線のイメ ージそ のものである。また、つらく苦しかっ た歴史の流れに巻き込まれ、飲み込ま

れそうになりながら生きてきた人々の 心根が、い つしか小 川 のほとりのさざ れ石のように丸みを帯びてきたのは当 然のことかもしれない。 このような曲線の美学からなるもう 一つの 代表的な韓国文化がまさに建築 であり、その 中 でも瓦葺きの韓国家屋 の線であろう。純 朴 の一言に尽きる藁 葺きの屋根の線に比べ、一段と大らか で、躍動感にあふれたその表情で韓国 のイメ ージの一端をなす耳葺き屋根の 美しさは、古風な瓦の風格によ って支 えられている部分が大きい。

鮮時代には別瓦署を設置して全国の瓦 職人を集め、瓦の大量生産を行ってそ の普及を図り、ソウルには瓦葺きの家 が粁を連ねるようにな った。しかし、 瓦葺きの家は、今日のように誰でも建 てて住めるというものではなかった。 官庁や士大夫の家のような両班たちは 豪壮な 瓦 屋根の家を建てて 住 みもした が、一般庶民の家はいつまでたっても 藁葺きのままだった。瓦職人たちにし

は、腰の折れ曲がりそうな貧しさと空 腹、そして切なさが隠されていること を決して忘れてはならない。 全羅南道長興郡安良面茅嶺里の﹁安

瓦が韓国で初めて作られたのは、漢 の武帝が衛満朝鮮を滅亡させ、漢四郡 を設置した紀元前二世紀頃と思われる。 三国時代に入って、韓 国 の瓦文 化 は繊 細な文様と洗練された美意識によって その全盛期を迎えるが、新羅が盛んだ った頃には慶州 の家という家がすべて 瓦葺きで、家が煤けるのを防ぐために 炭を使ってご飯を炊いたという記録ま で残っている。

良伝統韓瓦工場﹂の韓亨俊氏は、瓦作り

ても同様だった。生涯を通じて手足を 腫れ上がらせて瓦を作りはしたものの、 肝腎の自分たちが住む家は今にも倒れ そうなあばら屋だった。他人の家の窯 に火を入れ、来る日も来る日も働きな がら、寝るのは野宿という身の上だっ たのである。それゆえ、我々が 古色 蒼 然とした昔風の家が持つ建築美から感 じ取る豊かで優雅な曲線の美学の底に

高麗時代には青磁の瓦が登場し、朝

にその一生を捧げてきた人である。十 一 才の時に瓦作りの職人のもとに住み込ん で以来、七十の坂を迎えた今日に至るま で、およそ六十年になんなんとす る歳月

を土の中に埋め、瓦だけを焼きながら生

きてきた。大儲けを期待できる仕事でも なく、名を挙げたり、人に尊敬されるよ

うな仕事でもなかった。それこそ、見栄 えのしない、もの作りに徹した道だった

が、彼はどのような巡り合わせなのか 、 倦むことなくこの仕事に徹してきた。 彼とともに仕事をしてきた瓦作りの職 人たちが、時流に乗って洋瓦やセメン

ト瓦のような新しい製品へと業種の転

換を図り、それなりの儲けを手にした ときでも、彼は依然として手の掛かる 伝統瓦だけを 作 り続けた。歳月が流れ、 昔ながらの製法できちんと焼かれた伝 統瓦が影を潜めてしまった頃となって

初めて、人々はあたふたと韓亨俊氏の もとを訪れ、国の重要無形文化財第九

一号という 仰 々しい看板を 掛けてい っ たのである。 しかし、彼が人間文 化財になったか

66


ていうものの、それでもようやく自分

が是が非でもやめてくれと口をそろえ

は体力が衰えて、土をこね 、棒で 叩く のが辛くなってきたため、子どもたち

焼き上げているだけである。この頃で

で日がな一 日土をいじり 、黙々と瓦を

い。相も変わらぬ草屋のような瓦工場

らといって大きく変わった点は 何もな

建てたもので、韓亨俊氏はここでざっ

その当時の工場長と韓氏の叔母の夫が

瓦工場﹂と名付けられたこの瓦工場も、

嶺里に落ち着いたという。﹁安良伝統韓

つ建てられぬわけがない ﹂ 、一緒に世の 中 に出てみようということで現在の茅

な簡単な屋根さえあればできるんだか ら、どこに 行 ったって草屋の 一つや 二

りの場所なんぞ、雨漏りのしないよう

の回りのものをまとめて、﹁こんな瓦作

ない。人はもちろんのこと、瓦作りの

月の流れを示すようなものがま ったく

る。そのせいか、彼の作業場には、歳

いう理 由 で人間文 化財となった人であ

のものをもっともよく保存していると

つ。

ざと隙間だらけに作つであるのだと 言

通しが良くなければならないので、わ

やかに微笑みながら、瓦作りの場は風

穫が終わるとまず士探しに出かける 。

す。そのため韓氏は、秋の田んぼの収

瓦作りにと ってよい士とは、粘 土質 で砂が適度に混ざった田づらの 土 を指

質の士に恵まれていたからである。

土地にとどまり、耳を焼き続けてきた

る。五十年以上もの歳月の問、

とは、よい土を探すことだと考えてい

韓亨俊氏は、瓦作りで 一番大切なこ

韓亨俊氏は 、 そ の 瓦 作 り の 製 法 が 昔

のも 、もとをただせば茅嶺里 一帯が良

一つの

の腕を認めてくれた 世 の中に感謝して、

v

この身が動く聞は最後まで手を休める

土 をすくい取 った田んぼには二毛作の

作業場の様子にしろ、伎われている道 具にしろ、どれも昔ながらの姿を保 っ

麦の代金を渡して土を買う。田づらの

を叩く棒、軒丸瓦や軒平瓦の五型、た

土 はまず上層部をすくい取り 、 その 下 にある良質の土だけを掘り 出すが、普

麦を植え 付 けることはできないので、

人間文化財が働く瓦工場なのだから、

る先瓦の型、火の 中 の瓦を掴む手ん棒

ている 。木製の土をこねる鋤や鍬、土

それなりに大きい、何か大層な伝統の

なる 。

だけを焼きながら暮らしてきたことに

と勘定しても五十年を越える歳月を瓦

韓亨俊氏が瓦作りを始めたのは、十

つもりはないと言う。 一才の時のことだった。父親が病に 倒 れて家運が傾き、食べていくのも大変 ようなものが感じられる雰囲気を期待

にな ったので 、宝城に住む母方の叔母

通は土の色が黒いか、あるいは 黄 色 っ ぽいものが良質のものとされる 。 黒い

してここを訪れたのだが、実際に訪れ

など、数え上げれば 三五種類を越える 様々な道具類はみな、かつての瓦作り

の家に行き、叔母の夫の下で瓦作りを 学び始めた。助手として住み込み 、 手

てみると施設といってもヒキガエルの

作ると強度の高いものができ 、 また 黄 色 っぽい土は砂が混じ っていて強度の

土は砂が混じっておらず、これで瓦を

間賃の代わりに寝起きさせてもらいな

目の良いところなどどこを探してもな

点では多少劣るが、瓦の収縮の調整が できる。

の線 にそ ってかけらができる

に線を 引いてお く 。 瓦が焼かれ るときに 、 こ

い、その泥だらけの道具類とともに、

と鬼瓦の形に切り取 った後 、 固まる前に内側

つきっきりで見 守 る仕事や土をこねる

( 上から)瓦の型 をとる枠に入れて各々 平瓦

秋口に準備しておいた土を冬の聞は

り取 って、まん べんなく 水を 塗っ て、 これを

の職人たちが使い込んできたものばか りである 。持ち 主 に似て洗練された見

がら仕事を身につけていったが、はじ

家のような窯が 一つと、土の煉瓦を乱 雑に積み上げて作 った倉庫のような粗

彼は七十の老躯にもかかわらず、今日

寝かせておき、次第に暖かくなってく

よく乾かす

めの頃は主に窯に火を入れて、これを

末な建物があるだけである。鍛冶屋の 家に包丁がないという 言葉があるよう

も達者な姿で瓦作りの作業場で日々を 過ごしている 。

67

に、瓦の工場には苔むした瓦屋根など ないんですねという 言葉に、韓氏は穏

さに積み上げた後 、 土が固まる前に針金で切

といった苦しい作業を一手に 引 き受け てや った 。 そ う こ う し て い る う ち に 八・ 一五の解放を迎え、叔母の夫が身 勺﹀訂式的m cZ c のl

( 右頁上から)よ くこねられた土を瓦の大き


勺﹀豆︿印mCZ 亡 i

ると作業を始めるのだが、まず抗の中 から掘り起こした土に水をまいて一晩 寝かせてから作業に入る。

これもまた口で 言 うほど簡単な作業で はない。瓦が乾きすぎたら湿度を調節

伝わるように、火の回りを遮るような

の床から天井まで火気がまんべんなく

たを閉め、もっとも敬慶な心持ちで祭 記を捧げるという仕事が残っている。

いく。この時、気をつけることは、窯 しなければならないし、また乾かした

一連 の作業を終えると、今度は窯のふ

箇所を作らないことである。こうした

どの大きさにまとめて 、高さ 一メート ル、長さ八メートルほどに積み上げる。

を被せてやらなければならない。

後では夜露や霜に当たらないように藁

り、瓦が収縮してしまって、これまで

乾燥させる作業が終わった瓦は、窯 一つ分の量になるまで倉庫に集めてお

の労力が水泡に帰す可能性もある。そ

ク(塀の面の意)の全羅道での方言で

き、窯に火を入れる日が決まると瓦を 窯の中に整然と積み重ねる。火を 一度

のため、瓦作りの職人たちにとって窯

ある。

のだが、窯の床から天井まで雄瓦(軒

入れる度に約千 三百枚程度の瓦を焼く

の火入れはもっとも気を使う作業であ

火入れを誤れば、窯のガスが爆発した 固くなる前に針金を使って切り分け、 平瓦は平瓦ごとに、たる先瓦はたる先

この過程を三回繰り返して 豆粒ほどの

タムラクの形にまとめられた土は、

瓦ごとに木製の瓦型に入れて形を整え

う言葉があるように、この作業は並大

いう意味で、標準語で言うタムビョラ

(中左)これを取り出す職人の韓亨俊氏

これをタムラク積みという。タムラク とは土を塀のように高く積み上げると

(下)瓦作りに良い田畑の士、粘土質と砂が適当に混ざり黒い光を帯びている

ると同時に、生計のかかづた最高の腕

抵の仕事ではない。粘土質で砂が適度 に混ざった土を水とこね合わせながら、

瓦作りの職人たちの聞に﹁瓦作りの 仕事の半分は土をこねることだ﹂とい

(上)完成した瓦が作業場前の庭に置かれている

丸瓦、夫瓦)、雌瓦(軒平瓦、女瓦)、 たる先瓦(瓦当)の順序で積み上げて は瓦場に移されて、日干しにするが、

るが、これらの瓦を水瓦という。水瓦

小石まで選り分けて取り出さなければ ならない。 その次は、 よく叩いた土を瓦の幅ほ

小石を見つけだすのがこの作業だが、

(中右)窯の中に焼き上げられた瓦がきちんと置かれている

68


pp司穴印mCZの﹄巴

の見せ所でもある。 け口に焚き付けの火をくべるところか

と のない 人のように、古びた道具類が

歳月は流れようともあまり変わるこ

常にこの瞬間の喜悦を待ち望みながら 過ごしてきたと 言う。

が、韓亨俊氏は瓦作 り五十年の歳月を 、

ら始まる。これはゆっくりと窯を温め

窯の火入れは、窯の 両 脇 に あ る 火 付

てやり、生乾きの瓦を乾かすという役

作り出した数々の瓦、それは昔な がら

現代の瓦に 比 べて 耐久性に優れ、天候

の姿を保っている。そして 、不思 議な

割があるが、陶磁器の窯での強火での 焚き付けと同じ働きをする。そして、 初火、中火、上火、強火の順で温度を 上げていく 。初火は火の熱がどの瓦に

の変動に対してもすばらしい適応力を

つるつるして 見た目は いいが 、冬期の 厳しい寒さには弱く、凍って割れてし

ことにこの韓亨俊氏が作り出す瓦は、

大切で、中火は水気を含んでいる瓦の

もまんべんなく回るようにする こと が

持 っている。反対に自動 化された機械 によ って大量生産される現代の瓦は、

まい、捨てられるものも数知れないと

くるまで火勢を保つ。上火と強火にま でいくと、瓦 がきれいに燃 え上が った

色が灰色からほんの少し赤みを帯びて

銀色に変色するが、この時、火の当番

いう 。 しかし、ざらざらして、見た目

もよくない伝統 的 な瓦は、凍 って割れ るようなこともなく、 雪や 雨が 浸透す るようなこともない 。 なぜなら、これ

りと吸い取り 、空 が晴れ 上 がれば少し

らの瓦は 雪や雨 が降れば水気をた っぷ

の者はすばやく瓦窯の火 付け口を 黄土 の土で塞いでしまう 。 そうすると 、真 っ黒な煙と薪の中のありとあらゆる成

窯を塞いでから四日後に窯の戸を開

分が自然の刺薬とな って、瓦の表面に 付着して瓦特有の色合いが生まれる 。

ずつ蒸発させる自然の生命力を持って いるからである。韓亨俊 氏はその 秘密

けると、中には灰色をした瓦が整然と 積み上げられたままその姿を現す。こ

を、瓦が息づいているからだと語っ た。

A'

の時の 心情 は、産室で生まれたばかり の我が子を見るときのような気持ちだ

ざらざらして、 見 た 目 も よ く な い 伝 統 的 な 瓦 は 、

これらの 瓦は

次 っ て 割 れ る よ う な こ と も な く 、 雪 や 雨が 浸 透 す る よ う な こ と も な い 。 な ぜ なら、

雪 や 雨 が降れ、ば水気 を た っ ぷ り と 吸 い 取 り 、

空、 が 晴 れ 上 が れ ば 少 し ず つ蒸,発さ せ る 白 然 の 生 命 力 を 持 っ て い る か ら であ る

69


KOREAN NATIONAL TREASURE

荘厳

申 霊 童 のネ 国立中央博物館美術部長

-李源福

韓国 に おいてこのように美しい鐘が造り上げられた基盤は、 :青;愛で会も粋なイ言イt p 、芸 術 的 な 感 受 ) 1 生 、

そ し て ミ れ を 造 り 上 げ、 るための科学の

裏 付 けが あ っ た ミ と を 見 過 ご す こ と は で き な い

71i 鐙 と も い わ れ て い る 聖 徳 大

レ l の鐘または奉徳寺の ‘‘ ミ

かに見える。

てさして大きな意味を付与しなかった

は周知の事実である。 第 三十三代の 聖

少 否 定 的 な 意 味 に 使 わ れ る の が 一般

﹁風采のある背丈 ﹂ を 指 し て 称 す る ﹁ ホ ウ ィ デ ﹂ と い う 言 葉 は ﹁ホウ ィデ は 大 き い が 甲 斐 性 が な い ﹂ と 多

王 神 鐘 は 新 羅 第 三十 五 代 目

徳王 (?1七三七、在位七O 二1七三

に甘くない者はいない﹂とか﹁背の

的である。同じように﹁背の高い者

、ヤ

七)は圏内政治の安定を基盤に新羅を

﹁背の高い者は内実がない﹂など大き

高 い 者 に ひ 弱 じ ゃない者はいない﹂、

の王である景徳王の時代に造られたの

国際的な国家に発展させた王で、こう した彼の功徳を追慕するため、彼の死

な背丈を褒めたたえるよりは背丈の

後四十年ほど過ぎた七七一年、 王 の子 孫たちにより製作された。 m の IC

ることのできる国内でもっとも大きな

慶州を訪ねれば博物館の庭で必ず見

か、今日の韓国人は祖先が成し遂げ

の 韓 国 人 の 実 像 で あ っ た 。 そのせい

り笑う言葉がさらに多いのも、過去

大きな人の行動が徽密でないとか噺

勺 ﹀ 泊ヤ ︿ 印 とZ

鐘。だれかが大きさについて正確な数

さくそして少なく認識しているのか

値、とくに重量を問えば答えに窮して

もしれない。今日まで覆い隠された

た文化力量について、時たまその実 一九九七年八月に行われた精密

像に対し鈍感であり、実際よりも小 たが、

O 尺(三・ 三三 m )、 重 さ は 二 五 ト ン と 伝 え ら れ て き 調査によれば、高さ 三 ・三六 m,直径

ているものなどは、度重なる外侵に

まま、か細い息遣いをしながら残っ

よって失われたものと比較するなら、

二・二 mに重量が一八・九トンと確認 しかし、韓国人の祖先は大きさについ

され、もう一度その雄大さに驚嘆した。

しまう。その高さは一

聖徳大王神鐘の表面に彫られた飛天の美しい姿

70


重の も神党にもけれるないしいはき鐘はれ大こる挙るじのも感韓王石雲ま のそ 要 機 し 事 鐘 鐘 知 ち で 自 が い る た う な さ に こ て 王 で 。す も 得 中 、 じ 国 宮 仏 両 」 荘 で れ 視能か実が(らろあ体ましも意のいをつれいの紹そるのるで韓らのががやを厳あら し で し で も 釣 れ ん る を ま 、 の 味 が 。誇 い ま る 神 介 の こ も こ 荘 園 れ 千 、 、 龍 指 と う は

223;品:AZT22S553ZZて一号 Zt ぷ2 3堅妥は t ff自主空 2 2

そ音さ も)るま戸た在、思っていこのこ国含聖はでくでと化し の、 L 大 の 古 で 2だ そ あ え て 大 と と 大 の 人 ま 徳 こ き 列 き 感 財 て 表す先 面な立き中代 にわつ なで東 t .\<:j.'\ -~Cγィ"'"二二一三 - ~~"_c~_,I.!", ご r 三盟 登ちて も、洋 J J t ; ; 場仏党 の聖の 仁 , . ~圃圃圃・圃園田園圃圃圃圃・‘ " しの鐘 で徳青 ~盟国圃圃園田園圃圃圃邑 , .~ た仏の あ大銅 「一一一一十一. . 彊冨園田園置圃圃・圃・・・圃圃・圃・・ト 流音第 る王製 I 属 A望聖理軍冨田園園田園圃圃園圃・・圃圃圃・・・l 1 麗をー ののの I I J 福宮謹輯.璽園田盟国田園圃圃・・・・置圃圃圃圃圃l ]

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ー や:1 l

角 に も 満 た な い も

も全体の器形が与える視覚、柔らかな

様など凸紋様の美しさ、それに何より

な飛天(天を飛び舞う仙女)や唐草模

おいて ﹁ 朝鮮鐘﹂との学名で称される ようになった。

たのである。そのため東洋の党鐘史に

な形のものをすぐさま造り上げていっ

元の国のものとは区別される、独自的

このように美しい鐘を造り上げた基

瓶の形に似た外形の輪郭線、九つずつ

盤は、清澄で純粋な信仰、芸術的な感

科学の裏付けがあ ったことを見過ごす

形をした点などがその特徴としてあげ

ことはできないであろう。その上この

の蓮の花で表現された乳そして下の部 分すなわち鐙口が花びらのように八等

その昔、仏教が誕生したインドにも

鐙には六三O字の銘文があって、王の

八等形になった鐘口。ぱっと咲いた蓮華と唐草文で飾られている

受性、そしてこれを造り上げるための

あったし、中国古代の古銅器の中で礼

(上)鐘のすぐ下の底は丸く掘られ、鐘の響きを高める、(下)花びらのように

の 一

が里宮石。が はのに仏た大 る長比にとき か城べ比えく ににてべ、厳 小比韓韓中粛 さべ国国固な くてのののさ

られている。

式に使われた楽器である鐘や鉦、銅鐸

が祈願されていて、今日の我々がある

功徳と全民族の福楽と国家太平の意志

のは先祖の懇切な祈願のおかげであ っ

を求めるのが一般的である。韓国の文

たと感じさせるのである。

などに仏教寺院で使われた究鐘の始源

化類型がそうであるように、党鐘も淵

A'

源は他国にあるが、これを受け入れて 7 1

aa 圃園田園・・

長のの窟い規 城万王のう模


KOREAN MYTHOLOGY

羅の王になりたいとは思わなくても、

新羅の黄金冠はこの上なく美しい。新

る。いや、王冠の造形それ自体がすでに

﹁宇宙構成論﹂に基づいて成り立ってい

の、あるいはそれよりもずっと以前の時 代の人々の ﹁コスモロジ│﹂、すなわち

を極め、その光彩は目もあやに輝いて いる。

かという観念を包括しているのが、まさ

宙全体がどのように構造化されているの

宙のあるべき姿である。天と地を含む宇

図形神話

その黄金冠に限って言えば一度、ぐらい

宇宙構成論であると言ってもよい。

宇宙構成論とは言うまでもなく、ある

頭に載せてみたいと誰しも思うのでは ないか。それ、ぐらい、その造形は華麗

ところで、新羅の黄金の王冠が神話

民族が、またはある種族が描き出した宇

だと言ってもすぐには納得してもらえ

の神話と合いまって、ある民族、あるい

に宇宙構成論である。これは宇宙発生論

はある種族の創造神話を形成している。

ないだろう。王冠はあくまでも﹁レガ の栄華を、そして威厳を表すものと 一

リア﹂、つまり王権の象徴であり、王国 般には考えられており、それ以外に神

らもわかるように、神話のなかの神話と

この 二つの兄妹のような性格を持った神 話はご次神話﹂と呼ばれていることか

みなされるべきものである。

るため、創造神話としての性格は備え

ところで、韓国の上古代の神話は、 王朝の形成を物語る ﹁ 王権神話﹂であ

ていない。少なくとも 言語によって表 現された韓国の上古代の神話は、宇宙

しているとすれば、それは王冠が言語に

を失っており、現存しない。 したがって、王冠が宇宙構成論を反映

発生の神話と宇宙の構成に関する神話

しかし、新羅の黄金冠は図形あるい

ないからである。

よって伝承されてきた本格的な神話より も 一層重要な神話であると言っても差し

支えないことになる。これは、韓国神話

言語で表現されたものよりもはる

論において非常に重要なことを意味して いる。

かに重要な神話

のものが神話的だったということであ

新羅の王たちは、神話を頭に戴いてい たのだ。これはもちろん、彼らの王冠そ

い。だが、絵画が物語るということを

新羅の黄金冠は何よりも当時の新羅人

するのも難しい。

の内容が盛り込まれていることを否定

否定する人がいない以上、絵画に神話

や図形がそのまま神話となるのは難し

される物語である。したがって、絵画

神話とは原則的には言語によって表現

はその立体形、すなわちその造形によ って神話を物語るいわゆる﹁ 図形神話﹂、 または ﹁ 造形神話﹂である。もちろん、

を表現しているようにはなかなか見

にユ

これはもちろん 新羅の王たちは、 手中話を頭(こ戴いていた。

õ~6

の . 、 ~

仁済大学国文科教授

-金烈圭

手ヨ三

彼らの王冠そのものが神話的だったということである 神話の力を得て王権が形点され、 神話に由来する

理念によって王国が統治されているということを その王冠は無言のうちに物語っている

72


話に由来する理念によって王国が統治さ

る。神話の力を得て王様が形成され、神 同様に彼らは鹿、あるいは鹿の角に対す

│﹂と呼ばれる世界樹を持っているが、

族は部分的に一部で﹁シャl マン・ツリ シベリアのシャーマニズムでは、鷲を

の羽を指して新羅王冠の三体と言っても よいであろう。

れはもともとは鳥が人間界と天上界を結

後世の韓国の民俗の信仰には村の守護 神とみなされる鳥たちが登場するが、そ

回れるからだけではなく、神またはシヤ

されている。鳥が宇宙空間を自由に飛び

以上、新羅の 黄金の王冠を飾っている

ぶものと信じられていたためである。

れているということを、その王冠は無言 る信仰も有している。 その上、彼らの中の一部はその﹁シヤ

!マンの霊魂とともに 宇宙旅行もできる

はじめとして鳥は代表的な宇宙の動物と

のうちに物語っている。 新羅の黄金冠は、精巧に左右対照に作 である。鹿の角で飾られているという点

l マンの冠﹂を鹿の角で飾っているほど

三体の隠された正体が、ある程度わかっ ていただけたであろう。王冠の上部に隣

ころに木が立っている。漢字の﹁山﹂、

られている。その真ん中、中心となると

宙構成論を伺い知ることができる。

り合って配列されたこれら三体を垂直に

大地の奥深くから天上にいたるまで、こ の世界の中心部分に 一本の宇宙樹がそび

配列し直してみると、そこに新羅人の宇

から地上まで導いてきたものと信じられ

初の祖先、あるいはシャ l マンを天上界

え立っている。この樹をったって神々は

と考えられたためである。それだくでは

ている。また、新羅では使者としてのあ

天地の聞を往来する。人間たちはおのれ

なく、鳥、その中でも鷲はその種族の最

シベリアの原住民の 一部は、鹿を﹁大

らゆる務めを果たすものと信じられてい

の思いをその樹に託して天上に伝える。

では、新羅の王冠とシベリアの原住民の

木と言っても普通の木ではなく、世界樹、 地の動物﹂と考えている。よく知られて いる通り、鹿は真冬の雪に覆われたシベ

の羽だけで飾られた冠を被っており、彼

た。シベリアの 一部のシヤ│マンは、鳥

こうして、人間はどっしりとした住を中

冠の聞に大差はない。

あるいは宇宙樹と言われるものである。 リアの平原で冬を越し、動き回るほとん

らの冠が新羅の王冠と酷似していること

いるように見える図形がスカンである。

でもある﹁イグドラシル﹂がそうである

北欧神話で最高神とされるオデ ィンの樹 ど唯 一の﹁冬を知らない動物﹂、すなわ

を示している。

あるいは﹁出﹂の字が上下に重ねられて

ように、世界の中心にそびえ立ち、その ち﹁常春の動物﹂である。このことだけ でも鹿は信仰の対象となるに十分なのだ

てくると、人々はその木の根もとで宗教 的な儀式を捧げたと伝えられている。神

天界の神がこの木をったって地上に降り

の木のことを﹁神壇樹﹂と呼んでいた。

樹である。新羅以前に存在したもっとも 古い韓国の王国である ﹁ 古朝鮮﹂ではこ

れる度に再生させるがゆえに、大地の論

象とされ、また鹿は木に似た角を春が訪

仰の対象となり得るのである 。角は復活、

しく角が生えてくるという事実からも信

つれて晩秋には角が落ち、春になると新

ミの世界の中心部分に 一本の宇宙樹がそびえ

天地の問を往来する。 メ、問たちはお

忠いをその樹に託して天上にタえる

一部の隙もなく建造された宇

びやかな物語なのである。畠'

宇宙に対して抱いた理念についてのきら

羅人の華麗な宇宙設計図であり、彼らが

このように、新羅の黄金の王冠は、新

だろう。

住みやすい楽園へと変容させていくこと

恵みを一身に受け、人間の世界をさらに

の角の偉容を誇 っている。彼は、大地の

世界樹の根もとのすぐ横では、鹿がそ

間を構成することになる。

つめ合い、お互いに通じ合う聞かれた空

うして、天上界と地上の世界は互いに見

してまた、神の意思を人間に伝える。こ

様を一つ 一つ神に伝えるのであろう。そ

その鳥は世界中を見渡しながら、その有

の枝に一羽の宇宙の鳥がとまっている。

その世界樹のはるかな高みにある一本

ある。

宙という﹁巨大な家﹂に安住できるので

心とする、

はるかな天上から大地にいたるまで、

根は地下の世界へと、またその枝先は天 が、その上、鹿は、季節の移り変わりに

壇樹は、天上界の神が人間を治める祭壇

みなされ、信仰の対象とされた。

理をその体内に内包する神秘的な存在と

リアに求めることができるが、シベリア

新羅の黄金冠の真ん中に世界樹が立 ち、そのすぐわきに鹿の角が、そして、

大 地 の 奥 深 く か ら え 上 に L、たるまで、

上界へと広がる木がまさに神話的な世界

の中心だった。韓国では、後世になって

で鹿が大地の動物として敬われているの

れることの由来は、このように遠くシベ

韓国人にとって鹿茸が神秘の霊薬とさ

あるいは再生の力を持つゆえに信仰の対

村ごとに奉る神壇樹を﹁ソナンナム(村 の守護神が乗り移っている木の意ごと 世界の中心であり、この世界の支え

呼んでいる。 となっている世界樹が王冠のちょうど

くつかの理由によるものである。

は、まさにこれまで述べてきたようない

真ん中に位置しているのは当然のこと であろう。

そのまたすぐ横に鳥の羽がある。このよ

樹と鹿の角と鳥の羽

のシャーマニズムと比較するうえでよい 資料となる同種のシャーマニズムを信仰

うに隣り合っている世界樹と鹿の角と鳥

この樹をったって神ヤは 立 っている。

新羅の王冠では、世界樹のすぐ横に鹿

しているシベリアの様々な原住民、例え

7 3

の角の形をしたものが立っている。韓国

ばツングl ス族や満州族、また古アジア

は る か な え 上 か ら 大 地 に L、たるまで、


C u rren ts

くの未来学者たちは一一一世紀をさし このような点から、初めて開かれた九八慶 州世界文化エキスポの意義は大きいと言うし

算できないほどだと言う点である。

F d

tU9﹀ て﹁文化 の世紀﹂と言う。国家ある ノて いは民族間の優劣が経済力や軍事力 かない。行事の期間は九八年九月十 一日から 十一月十日までの 二カ月間に過ぎなか ったが、 文化の重要性を思い起こさせてくれる初めて

いというのである。しかし何よりも重要なこ とは国家間あるいは民族問の葛藤と対立を克 服し、同時に和合を誘導することのできる唯 一の媒体が文化であり、その価値はお金で換

創造の過程を映像にしたアートショ ーを含め、 国内外の十 二名の有名アーティストの映像シ

エキスポ会場で真っ先に目につくのは﹁新 しい千年の微笑館﹂である。ここでは 世界的 なビデオアーティス ト白南準氏が伝承、融和、

された六つの会場とユネスコが定めた世界文 化遺産である仏国寺をはじめとし、慶州市街 地一円で多彩に開かれた。

随行事、公式行事、別途行事など全部で六つ の分野で行われ、全世界四十八カ国七千人が 参加した。各分野別の行事はエキスポに準備

って、昔のものをよく保存し、幅広い交流を 通して新しい文 化 の創造に努力しようという 意味を込めた。行事は映像、展示、公演、付

世界文化エキスポの主題も、開催地が慶州 である点に着眼し、﹁新しい千年の微笑﹂と決 められた。副題は行事の意味を具体化した ﹁伝承、融和、創造﹂と決め、世界が一つにな

においては燦燭たる新羅文化を花咲かせた千 年の古都という点で、それなりの意味を求め ることができる。

で決定される今日とは違って、優秀な文 化 を どのくらい保有しているかが重要な尺度とな るというのである。文化に対する予測の中で

- 白承睦

『京郷新聞』記者

もう一つの注目に値することは、近い将来明

訪ねて

の試みであ ったという点で意味が大きい。開 催地である慶州が世界史ではシルクロ ー ドの 東の終着の地であるという点で、また韓国史

エキスポを

らかに一つの産業分野に発展するであろうと いう点である。文化を通しての経済的な 利 益 が、他のどんな分野を通して得たものより多

9 8慶州、│ 世界文化

ppb式 的 mcZの 亡 l

行事会場の入口

74


Currents

J

喜日吋 μ 昌E 聖監E韮 土 ー 届 ド 日 2 5高72 . :

l i I 璽望盟璽酪盆凶込4 内角有官

世界文化エキスポはこのような独特の内容 とともに、先述のように世界で初めて試みら れた文 化大フェスティバルという点に他の国 際行事との違いがある。国際化あるいは世界

特に、政府の積極的な支援なしに地方自治団 体の力量で世界的な行事を聞いたということ が、行事運営過程で物足りなさがあるなしに かかわらず注目に値する。

世界 文化エキスポはこのような点で、今後 開かれる数多くの国際行事の 一つの モデルと

なるであろう。国家聞の相互経済的な利益の ための行事であれ、親睦と交流拡大のための

ものであれ、世界が注目し、全国民の関心を

世界文明館、記念公演の模様

きる行事企画がとても重要である。

引くだけの独自性がなければならないという ことを、文化エキスポは見せてくれた。勿論、 お金がたくさんあれば盛大に国際行事を行う ことができる。しかし、行事の効果はお金が 多い少ないによ って決まるものではない。 I M F時代であることを考慮し、最小限のお金 を使いながら最大限の効果をあげることので

(上から)旗広場、世界風物広場、

化と あえて 叫ば なくても、このような行事を 行う過程で自然に世界は韓国を知ることがで き、また韓国も世界を知ることができる。も う一つ、他の行事と異なるのはエキスポが一 回きりで終わるのでなく、これから 二年に 一

度の割で続けられるという点である。大部分 の国際行事が単発的に終わり、行事の効果を まともに得ることができないまま予算だけを 浪費する例を私たちはたくさん見てきた。従 って、継続性のある行事を企画し、不足な点 を次の行事の時に補っていきながら世界的な 行事に発展させていく 、 というエキスポ主催 者慶尚北道の意図は大変望ましいと言える。

7 5

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いろいろな行事会場

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『朝鮮日報』記者

- 李忠一

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C u rγeπ

大 韓 民 国 50年

私たち の 物 語 展

展示場 1階の片方の壁全体を飾 った大韓民国 50年大型年表。建国から 最近までの主要事件が網羅されている

﹃ 激動変の韓国現代史 どの固にも現代史はある。しかし、この現 代史という 言葉 に対してそれぞれの国の国民 が感じることはみな違うだろう。 植民地 支配

を経験した国、そしてその以後、高度経済成 長を成し遂げた国であればあるほど、その感

慨はひとしおであろう 。特 に韓国は日本から の独立 (一九 四五)と 建 国 (一九四 八)、冷戦 )、四・ の激戦地となった韓国戦争(一九 五O

)、朴正照軍事政権の 登場 一九革命 (一九六O ご 九 六 一)、民衆抗争の挫折と全斗燥政権の 登 場 (一九八 一)、そしてついに成就した民主

化 闘 争 (一九 八 六 ) と ソ ウ ル オ リ ンピック (一九 八八)、三 十 二年ぶりに再び発足した文 民 政 権 (一九九 三)など、絶えず訪れ る挫 折 と闘争の末にや っと安定を得た。経済 的には

戦争の廃境から立ち上がり、いつしか侮るこ とのできな い東洋の 大 国に成長した 。 自 ら考 えてみても信じられないほど韓国の現代史は 激動そのものであった。

五千年の韓国の民族史で、最も躍動的な時

iu u F Jの物語 -w

期であ った 過去五O年を誇張することなく総 整理した﹃大韓民国五十年 ・私たちの物語展﹄ が、八月 十 五 日に、韓国 の有名な日刊誌 の 一

つである﹃朝鮮日報﹄主催でソウルにある ﹃芸術の殿堂﹄において聞かれた。十月六日ま

で行われた﹃私たちの物語展﹄は百人を越え る専 門家と展示企画チ ー ムが 、 二年 間準備し 収集した五百点の展示物と二千点の写真と映

76


Currents

像資料、三百点の貴重な文書を一カ所に集め た 。 展示物を各階毎に簡単に紹介してみよう。 一階には現代史五O年の重要事件を記録した 高さ八メートル、長さ四十五メートルの大型 年表とタイプライター、たばこ、公衆電話、 自動車、人工心臓、六四 M Dラム、装甲車な ど、メイド・イン ・コリア 一号の現物が展示 されている。政府樹立と韓国戦争、そして五

0年代に使用されていた各種の文書と兵器及 び生活用品の実物などもある 。二 階は経済発 展を成し遂げながらも長期化した軍事政権と ひどい貧富の差など葛藤が続いた 一九六01 一九八七年、そしてソウルオリ ンピック以後 最近までの発展の姿と事件と暮らしぶりを、 やはり実物中 心 の資料で再現した。三階には 現代、 三星 、大字など韓国の代表企業の歴史 と製品を紹介した企業館。五01七0年代の 庶民の暮らしぶりを写真に撮ったように再現 した人形展が行われた。 一予想以上の人出

a

例のないことである。入場客は大部分が家族 連れで、年寄 りから 孫までの =一 代 が 一緒にく ることも多かった。ソウ ルと首都 圏はもちろ ん、忠清道や江原道などから二1 四時間 も車 を走らせてきた観覧客も少なくなか った。金 、 び 大中大統領をはじめとする政 ・官 ・財界 及 宗教界の要人たち、そして全斗燥、鹿泰愚元 大統領も訪れた。

聞 きたのだよ このような爆発的な人気の理由は何なのか。 韓国人は未来だけを見つめ過去を振り返って みる余裕がなかった。今日の不自由もあえて

﹃私たちの物語展﹄は、政府樹立五O年記 念 日 の八月一五 日開幕後、押し寄せてきた人 出は予想をはるかに超 えていた。平 日でも 一 万人を超えたし、週末と休日には二万人以上 も押し寄せる大盛況であった。展示館の一日 の適正観覧者数は三千人、その三 l 七倍がや ってきたので、休日には 一時間以上も並んで 待たなければ入れないほどだった。有料であ

目を背けて暮らした。五O年はおおよそ二世

国お父さん、お母さんはこうやって生きて

ることを考慮してみるなら韓 国展示文化史上、

代に当たる 。 長くも短くもないこの期間に、 韓国では全てのものが、あまりにも速く、そ して大きく変わった 。 その結果、親が子供に、

そしてまた親にな った彼らが、また自分の子 供たちに、恥も誇りもきちんと説明すること

ができなくな ってしま った。 また、熱心に話 してみても子供たちにはほとんど理解ができ なか った。 知らぬうちに苦痛を伴った情緒と

断絶の長い時間の壁 。 それが取り払われたよ うな喜びのためではなかっただろうか。年寄 りたちは自らの自分史を回顧し、中壮年は、

貧しかったけど温もりが感じられた幼い頃の 記憶を思い起こし、子供はお母さんお父さん

の昔の日記帳を読むような、家族みんなの時 間旅行とな ったのである 。

そうそう、あの時は本当にこんなのを使 っ ていたね 。今 頃の子供たちは、あんなものあ げてももらわないだろうよ。これが、お母さ んやお父さんがその昔、お前たちくらいの時、

勉強していた教科書 なんだ よ。あれが韓国戦 争の時、北韓軍が使っていた足伽だよ。逃げ られないように足につけておいて機関銃を一 つ持たせただけなんだ。本当にひどい戦争だ ったんだよ。お父さんが幼いころはどの川に

がいのある明日心配肝かて

も魚がいくらでもいたんだよ。田舎に行かな ければ澄んだ 川 がない今とは違っていたね。 展示館のあちこちで一日中こんなささやきが 聞こえた。

恥劃川

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好奇心い っぱいに熱心に説明を聞いている

77

-咽〆切


Currents

子供たちの手を取りあれこれ説明をして 出て きた大人たちは、重い荷を下ろしたかのよう にさっぱりとした表情をしていた。だが、一 方では何かもどかしさも感じる。そうだ。 我々は五O年をこのように生きてきた。しか し、果たして、それが最善の道だったかとい う疑問のためである。 韓国人は現在を I M F時代と呼んでいる。 経済政策の失敗により始まった外貨不足のた め、国際通貨基金からお金を借りて使ってい る現実を指したものである。急増する失業、 金融界の構造調整と企業の統廃合による労働 紛争、急速な景気悪化で倒産した多くの中小 企業と、だれかれなしの所得の下落に、社会 全体が戦争のような痛みに悩まされている。 当然、少なからぬ虚脱感の中に落ち込んで いる。先進国に向けて半世紀を狂ったように 走 ってき たし、また成果も得た。しかし、私 たちが直面した I M F時代と言うこの結果は 何を 言わんとしているのか。多くの人は 、私 たちが先進国の概念を誤って認識していたた めではないかと思っている。先進国の豊かさ というのは、物質と精神が同時に充たされな い ことには不可能だとい うのである。社会の

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潤滑油ともいえる神の配慮、良心、人間愛の ようなものが壊されて、もうこれ以上、身動 きが取れなくなったということである。 過ぎ 去った五O年、これらも厳然たる私たちの物 語であったのである。そして、これこそ 、 こ れからの五O年、新しく書いていかなければ ならない私たちの物語の主題なのである。

(上) 3階企業館 LGコーナーでコンパ

ニオンが子供たちにシリコンプリマと いう先端素材を紹介している

いながら米を入れるために藁を編んで

(中)一人の子供が農夫に教えてもら 作った袋のかますを作っている

(下) 50~60 年代に使われた各種生活 用品の数々 。 ほんの 20~30 年前によ

く使われていた物であるにもかかわら

ず、見たことも聞いたこともないとい う青少年たちが興味深 くながめている

78


C urrents

' U I二 国演劇協会は昨年、大々的に世界演 劇祭をやり遂げた底力を土台に、今 JiE 主

JHrη 寸 年からは毎年秋に開催する﹁ソウル 演劇祭﹂を﹁ソウル国際演劇祭﹂に拡大、改 編した。国際的なフェスティバルというのは、 できていないと企画しにくいものである。ソ

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元々自国の文 化 の力量が国際的な水準に到達

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ウル国際演劇祭を例年化したということ自体

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﹁m O カO m ﹂ O

が、韓国の演劇の質的な成長を立証してくれ ソウルは世界で演劇公演が最も活発に行わ

る 。 れている都市の一つである。毎日、大学路を 始めとしたソウル全域で二十1 三一十編の公演 が行われている。量的にこれを超えたり同じ

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ソウル産業大学教授

ぐらいの都市をあげてみるならニューヨーク、

﹁ソウル国際演劇祭﹂は、少なくともアジア地

囲内の公式の参加作中、特に目を引いた作

域の最も盛大な国際演劇祭となるだろう。

品では劇団﹁演戯団コリペ ﹂ が 公 演 し た 李 康 自 作 、 李 潤 津 演 出 の ﹃感じ 、極楽のような﹄

﹁芸術の殿堂﹂が企画した﹃李康白演劇祭 ﹄で

をあげることができる。この作品は上半期に

初演されたが、私たちの時代の最高の作 家と

演出家の出逢いであり、負けず劣らずの論争

を生んだという点で注目された。李潤揮は原

作で重複されるセリフを切り取るかわりに身

体的表現に全力を傾け、これに対して作家は

作品の意味が正しく伝わ って いないと激しい

不快感を表したのである 。 これはまさに ﹁ 文

学的演劇﹂対﹁演劇的演劇﹂という演劇の本

質の問題だと言えるのであるが、その結果は 二人にと って共 に満足のいくものだ ったよう

に思える。 李潤津は李康自の執効な哲学的かっ、観念

的な言語 の聞に﹁言葉の力﹂を 再発見したし、 また李康白は華麗なスペクタクルと美しい身

身体の言語﹂を新たに認識 体的表現の中に ﹁ したからである 。 李 潤 爆 は 、 特 に 作 品 の 中 に

登場する数多くの仏像を俳優たちの身体の演

技で表現することにより、見えない仏の大慈

大悲な心を舞台の上に顕現させ感動を生ん だ 。

﹂ が公演 した張ソヨン作、 劇団 ﹁演友舞 台 李潤津脚色、雀蓉勃演出﹃金治国氏、気が狂

う﹄は、統 一問題をとてもコミカルに形象化

し芸術性と大衆性という こ匹のうさぎを捕ら

7 9

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キムミ

演劇評論家 ,

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の評ウ 万 テ 編 上

9 8ソウル 国際演劇祭

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C urrents

カフェを開き、公演が終わ った後、 俳優たちと演劇関 係者たち、そして一般の観

ある。文芸会館の前に青空

い自体が韓国の同族相争う状況を隠喰してい ることが分かる。二人が区別できる徴表は性

の演劇のもう一つの中心として浮上すること を期待したい。

考慮するに値する。﹁ソウル国際演劇祭﹂がフ ランスのアビニヨンフェスティバルやイギリ スのエジンパラフェスティバルのように世界

たのであろうが 、今後、積極的に海外観客誘 致を模索しなければならない。まず、近くの 日本とか中国を対象に演劇観覧と観光を一つ のパッケージ商品として結びつけるやり方も

国際演劇祭であるにもか かわらず外人観客たちが、 あまり目につかないのも残 念であった。試演初年であ るだけに広報が足りなかっ

マダン劇などの行事らが盛 大に添えられればと思う。

風景が、それでもお祭りの 雰囲気をもり立ててくね た。潜在的な観客たちの関 心を誘導できる大道劇とか

客たちが一緒になって杯を 交わす和気あいあいとした

いは左側に傾いているということは、右翼と 左翼に傾倒したイデオロギーの対立を象徴し てもいる。統一という重い主題を、徹底した 喜劇 性で包んだこの作品は、抱腹絶倒する笑 いのなかでも真面目に統一への熱望を熱く呼 び起こさせる。 このほかにも 中 堅作家、 朴常隆の小説を演 劇化した劇団﹁ミチユ﹂の﹃じりじり照りつ ける日差し﹄と、どん底の庶民たちの哀歓を

ン﹄は 、 九八果 川世界マダン劇大祭 典 の閉幕 公演として招請され作品性が認められ、再び ﹁ソウ ル国際演劇祭﹂に招請された 。ボス ニア

コミカルに描いてい った劇団﹁神話﹂の﹃地 の果てに立っと海が見える﹄などが観客から 愛された。 海外の公式参加作品としてはフランスの ﹁ 芸術劇場﹂の﹃ロンド ゥル記者の地球村報告﹄、

見事に表現した。ものすごい高さの 竹馬に乗 り、黒マント姿と骸骨の仮面に、巨大な旗と むちを容赦なく振り回す俳優たちの威圧的な 姿は、観客たちをあっという聞に戦争の恐怖

内戦を素材としたこの作品は、東欧圏の暗欝 な時代状況を凄惨で残酷なグ ロテスク美学で

イタリアの﹁口 l マ現代劇場﹂の﹃ガチャン﹄ 、 スロベニアの﹁リユブリヤナ国立劇場﹂の ﹃人生は夢﹄、ポーランドの﹁ビウロ ・ドゥロ ジ劇団﹂の﹃悲運のカルメン﹄などが注目さ れた。 特に野外舞台で公演された﹃悲運のカルメ

『感 じ 、 極 楽のような~

器であるが、金治国氏の妻でさえこれを見分 けることができない。ここで性器が右側ある

れになった双子の兄、金平天氏であることが 明らかになる。ここで双子の兄弟の離別と争

の中に追い込む。 ﹁九八ソウル国際演劇祭﹂

( 下)

えた。どけちな金治国氏は、ある日、新聞を 読んでいて自分も知らない内に通帳から十八

『 流浪 の歌~ ( 右)

は、お祭りの雰囲気を引き 立てる付随行事が多彩に準 備されなかった点が残念で

『金治国氏 気 が狂う~ (左)

億ウォンが引き出され、北緯同胞助け合い募 金に寄託されている事実を知る。好余曲折の 末、これを企んだのが幼いとき北韓で生き別

公式参加作品

80


C urren ts

韓国詰誰の 現代的変容 - 朴 来卿

韓国文化交流研究会長

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めさせる契機となった。﹃韓国詰譲の現代的変

容展﹄(一九九八年八月 一四日1九月 三日東亜

ギャラリー、文 化 日報ギャラリ ー)は、この

ような現実的な状況下で韓国譜諮の今日の姿

を伝統と比べ、どのように変貌したかという

点を確認する場とな った。さらに、この展示

会が強調しているのは、韓国の過去の文化と

を、美術を 中 心にして通時的な脈を探してみ

芸術のなかに豊かにその場を占めている詣誰

る。なぜならば、このように重要な韓国固有

ようということで、そこに第 一の強調点があ

文 化 の 一つの実体が、今まで展示会の形式で 同じ席に集められ紹介されたことがないから

である。 二番目の強調点は今日の知的、批判

的芸術表現に詰誰がどのような姿で共存され

ているのかという点に集められている 。絵画、

彫刻、写 真、設置など様々なジャンルの作故 ( 逝去)、重鎮、中堅 、青 年作家など、 世代聞

に差違がある代表的な作家二 二名の作品五 三

点が、この展覧会に出品された。これらの作

家の作品は大きく 三 パートのグループに区分

され、今日的な詰諺の互いに異なる様相が見

えるように展示された 。

利 、 第 一のグループは 、李臆魯、成在然、金基李日鍾、雀永林、張旭鎮、李満益、呉潤、柳ジ

ョンホなどの作家群で、擬人化した動物の滑稽

な像や愚かな人間性が叙述的な 内容で表現され

ており、伝統的な諮誰の美感をなしている場合

である 。とくに金大壁の記録的な 写真作品が、 韓国の伝統的な造形物の譜諺像をよく見せてく

8 1


Currents

れている。欠点の多い愚かな人間を、人間同士 抱きいだく表現や、さもなければ誇張された滑 稽なチャンスン(村の守り神として村の入り口 に立てておく男女一対の像)の石像や木像で、

( 下)

三番目のグループには、白南準、下鍾夏、 安昌鴻、弔ア東天、金尚淑、丁卜沫、金ボム、 そしてレーザーを使う奈美賢の作品がここに

性の単位の連結のなかに、これを逸脱する異 質 的な 単位を待入することで、再び遊戯的、 遊泳的な特性の譜諺性を高める例が含まれて いる。

く、全体的に主潮をなす現代作品に、私たち は新しい現代的な詰諺を発見することとなる。 第 二のグル ープには 、遊戯的か つ幾何学的 パターン作業をする洪承恵の秩序整然な反復

染み込んでいるのが事実であるからである。 しかし、このような譜諺的美感が部分ではな

詣諺として表れるが、伝統とまったく関係が ないわけではない。例えば、伝統水墨画や書 のある部分にこれと同じような諮護の美感が

李 日 鍾の『女~

韓国人の泰然とした気概を譜諺的に見せてくれ る例がここに属する。 二番目のグル ープでは 、抽象性が加味され た遊戯的な本能が、詰諺の核心をなしている 例を見せてくれている。もちろん伝統的な韓 国の水墨画や文字に、ソンビ(在野の学者) たちの筆先からの譜諺的な筆遊びが、まった く発見できないわけではないが、簡潔ながら も生命力ある現代の揃象的な水墨画から新し い詰諺美を探すことができる。このグループ に属する徐セオクの作品には、彼の譜諺に対 する深い洞察が、これと同様に簡潔性と生命 性をもった抽象的な水墨世界を繰り広げてい る。一方、束いっぱいに染められた木綿製の 手袋(木綿の糸で編んだ手袋)の変形で構成 された鄭ギョンヨンの繊維の設置作品には、 対話するように噴く指さきがおどける遊戯的 な詰諺性を見つけることができる。また、静 かな済州島の夜の海に浮かぶ大 小に揺 らめく 漁火が遊戯的、遊泳的なイメージを高めてく れる蓑煩雨の写真作業がある。 もちろん泰然とした韓国人の気概が、誇張 された表現から表出される陶磁器やチャンス ン同様の民俗美術に見ることができるように、 伝統的な諮諺的表現方式が第一、グループに継 承されているのと同様に、第二グループにも、 もの静かな精神的余裕が滑稽な表現をもち、

白 南準の『スマイラー~ ( 右)

属する。 白 南 準 の ﹃ ス マ イ ラ l ﹄、﹃健侃﹄ には、彼のビデオ作品全体に見るこ とのできる批判的、風刺的な特性の

底面に敷かれた韓国的諮諺が、この 小型オブジェ作品にも純粋に現われ ているということを確認することが できる。下鍾夏の政治的風刺作品

﹃ドンキホ ーテ以後 │独裁者﹄、安昌 鴻の社会的風刺作品﹃花豚﹄、﹃マダ

ムとアーティスト﹄、金ボムのアイ ロ ニカルな作品﹃身重のハンマー﹄、

﹃煉瓦の壁﹄、そして安東天の力とそ の力を無力 化させ る力の機転のきい た風刺的反轄の設置作品など、現代 作家の知的、批判的な作業のなかに歴史の底 流に流れている韓国的諮諺のおどけた容貌が、

同様に精鋭化された作業のなかに埋もれてい ることを確信することができる。丁卜株が追 跡する人間と欲望の関係を凄切に込めた風刺 作品﹃虎﹄にも、譜誰的滑稽の余裕が画面全

体を覆っている。 一方、現実空間を幻想的演 出空間に変貌させ、参与者の体験空間へと変

zd自己円﹄がある。また、 換させた金尚淑の﹃ 爆発する地球を象徴化した画面上に、デジタ ル化されたレーザーの赤い点の運動が、停止 と動作位置の変更を継続する金尚淑の﹃地球 の身振り﹄がある。これらの表現方式や媒体

ていることを伝えてくれている。

A'

の差異にもかかわらず 、現代作家の作品に同 時代的な共感性、そののなかに詣諺が含まれ

82


忠北大学考古美術史皐科教授

韓国の美術 パク ウ ノ フ ア

・朴思和 出品されている全ての作品が様式的特徴、技術革

美術の主要領域に分けて紹介している。展示会に

彫刻、金属工芸及び装飾美術、絵画の四つの韓国

に絶頂に達した真景山水画の伝統に関する深い研

水画に基づいた想像の風景の代わりに実際に存在

山水画﹄は韓国特有の山水画様式として、中国山

﹃伝統的美術様式と事実的描写・朝鮮王朝の真景

八景図画風 一メトロポリタン美術館所蔵の二点の

究である 。梨花女子大学の金紅男教授の﹃安堅と

する韓国の風景に対する描写を擁護し、十八世紀

作品説明の前に掲載されているさ25Eコ大学の

新そしてその作品の歴史的意味についての短い解

ジヨナサン・ B -ウエスト教授の﹁韓国史概観﹂

説を添え、カラー図版で紹介されている。

タン美術館は、初めて韓国美術品の展示だけのた

一九九八年六月九日にニューヨークメトロポリ めの常設館を開館した。二二点の国宝を含め、主

四四O l 一四七O推定)の山水画様式を分析して、

山水画に対する接近﹄では朝鮮前期の一番有名で

メトロポリタン美術館が所蔵している二点の山水

多くの影 響を与えた画家である安堅(活動年代一

このカタログには学界をリードする六人の韓国

的、社会的背景を説明してくれる。 美術史学者が執筆した学術論文も載せられてい

画を様式的比較に基づいて安堅のものと推定して いる 。 ロンドン大学の朴英淑教授は﹃メトロポリ

が今回の美術作品が作られた重要な地理的 、政治

九九九年一月まで続く 。 国立中央博物館を始めと

る。これらの論文は筆者の各々の専攻を反映して、

要言論で穏国美術の最高作品として大きく報道さ

する韓国、日本、米国の主要公共・私設研究機関

韓国美術の重要な作品の白黒図版を添え、韓国美

れたこの新しい韓国ギャラリーの開幕展示会は一

クションから厳選された今回の展示会は、一九八

とメトロポリ夕、ノ自体が保有している最高のコレ

タン美術館の韓国美術コレクション﹄でメトロポ

こ十年ぶりに米国で韓国の傑作品が包括的に紹介

ウル大学安輝溶教授の﹃韓国山水画の起源と発展﹄

金理那教授の﹃韓国仏教彫刻の伝統と変形﹄、ソ

芸術 一新石器時代から朝鮮王朝まで﹄、弘益大学

貢献でもある。そして、至って細心の注意を払い

この本は東アジア美術史において大変価値のある

の特色と美しさを包括的に紹介している 。 また、

つとして﹃韓国の美術﹄は西欧の読者に韓国美術

英語で出版された数少ない韓国美術書籍中の一

リタンの韓国美術コレクションを紹介している。

されるものである。

は陶磁器、仏教彫刻史そして絵画史の重要な数々

制作され、質の良い判型に優雅なデザインと紙面

国立中央博物館の鄭良諜館長の﹃韓国の陶磁器

術史研究における最新の成果を紹介している。

﹃韓国の美術﹄はメトロポリタン美術館の韓国

の発展について研究成果を完壁にそして深く紹介

を巡回した﹁韓国美術五千年展﹂以後、おおよそ

0年代の初めに米国といくつかのヨーロッパ諸国

ギャラリー開館と併せて出版された。この本は五

している。

構成 、 が読む人の目を楽しませてくれる 。

一二頁のカタログで、この展示会に出品されてい

韓国精神文化研究院の李成美教授が執筆した

る新石器時代から一九世紀までの鵠韓国美術史上、 意味のある百点の卓越した作品を 、陶磁器、仏教

83


Events & E xhibits ルディの『リゴール レ 卜』、プ ッチー

害 し、旅順監獄絞首台で最後をむかえ

ニの『ラボエム』など 3 本のオペラを

るまでの一代記を描いたこの公演は、

共同制作し公演した。

市立劇団の 団員たちを始め、金甲沫、

漫画 第 2図 書 則 猿 画 祭 り

今回のフェスティバルは徹底した公

張民虎、朴正子、全茂松などの俳優た

開オーディションを通して選ばれた声

ちが大挙出演、ソウル市立ミュージカ

楽家たちが一番大衆的なオペラ 3 本を

ル団、舞踊回、 合唱団、国楽管弦楽団

1 9 9 6年漫画都市として選定された江原

毎日交代で公演するという方式であっ

の団員たちも出演し演技と踊り、国楽、

回春川 道春川市で昨年に引き続き第 2

たが、このように何本かの作品を一定

合唱を披露した。

期間公演するオペラシーズン運営は、 東洋ではどの国でもしたことのない新 しい試みであっ た。組織委員会はこの

映画

専門展示、映画祭イベントなど 5 つ の分野、 2 6の各種プログラムが準備さ れた今回の祭りの重要行事に は全国子

フェスティバルを韓国の代表的文化商 品として設ける企画もたてている。

漫画祭りが 1 0月 1 0日から 2 5日まで三千 洞水辺公園一帯で開催された。

第 2図 書 則 国 際 フ ァ シ タスデイザク映画祭

供創作漫画公募展、人気漫画作家招請 展、カートン企画展示展、アニタウン 館、企業広報館などが設けられ、デジ

総倫劇『六韓国人 安 室 根a

タルアニメー ションの新技術展示及び 説明会と創作アニメーション制作説明 会、学術行事などが催された。また、

安重根義士の一代記を演劇と音楽、舞

漫画描き大会、フェ イスペインティン

踊などで織りなした総体劇『大韓国人

グ、マルチメディア映像ショー、子供

安重根』が 1 0月3 0日から 1 1月4日まで

の遊び場なども設けられた。特に史上

世宗文化会館大講堂で公演された。脚

初の北朝鮮の漫画映画上映及び漫画本

本金義卿、演 出表在淳 、映像鄭秀雄、 E ~予ー函「古玉石可証日可否石面Eヲ五五τ一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一寸宵百3

音響金ボルレ、音楽金永東など各分野

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の鋒々たる専門家たちで構成されてい

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る今回の公演は、ソウル市立劇団が建 国5 0周年記念及び市立劇団特別作とし . 第2 回富川国際ファンタ ステ ィック 映

て準備した舞台である。 教育者であった安重根が独立運動に 身を捧げ、満州で日本の伊藤博文を殺

画祭が 1 2 月1 8日から 1 2月2 3日まで京畿

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道富川市の富川市民会館、富川体育館、

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カ所で開催される。 三井福祉会館など6

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数々の圏 内未公開作を中 心に開かれ る今回の映画祭には「富川チョイス」、

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「ワールドファンタスティ ツクシネ マJ 、「ファンタスティック短編選」、

の展示を始め、日本、フランスなど 5

「 テーマ企画展」の 4 つの部門に 8 0 本余

カ国の作品を見 ることのできる国際映

りの世界の映画が参加する 。今度の映

像館が設置され、さらに ω~70年代の

画祭はマニア用フ ァンタスティック 映

漫画房(漫画を読むことのできる庖)

画部門と家族単位の観客層を対象にし

の面影を漂わせる思い出の匝を運営し

た一般部門に分けて開催される 。

たりもした。 組織委員会と春川市は来年からは こ の漫画祭りをより世界的な漫画映画祭 に拡大、発展させる計画である。

84


Events & Exhibits 年ぶりに美術館として本来の姿をとり

美術

もどした。国立現代美術館は徳寿宮の 西館に約 6 4 0坪規模 の現代美術館分館

『治{喝を見 3目 ・氷室・彩色薗 a 展

を日月中旬 に開館し、『再びたどる近 代美術』という主題の開館記念展を開 催した。 旧韓末、李王家美術館として開館し た徳寿宮の西館は、 一時は国立現代美 術館として使用されたが、 1 9 8 6年に果

川の新美術館建築により、その後文化 /〆

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財管理局などの政府機関庁舎として使 われてきた。 今回の開館展には金仁承、庫寿鉱、 窪徳休などの個人所蔵品のために実物 を鑑賞することの難しかった数々の名 作を始め、最近新しく注目を受けてい る近代絵画草創期の重要美術家たちの 未公開作品 1 2 0余点が展示された。徳 寿宮現代美術館分館はこれから近代美 術を中心に、 一つの生動感ある展示空 間として活躍する予定である。

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1 8世紀後半から 2 0世紀前半までの韓国

題に安輝溶、鄭馨民ソウル大学教授の

の近代美術を顧みる『近代を見る目・

学術講演会があり、 10 月 16~1 8 日には

水墨・彩色画』展が果川国立現代美術

5 0年代の韓国映画 4 本が上映された。

館で 9 月4日から 1月4日まで関かれた。

なお、この展示は来年、彫刻展、工芸

今回の展示は昨年の油画展に引き続い

展、建築展へと続く予定である 。

て企画されたもので、安中植、越錫雷、 李象範、下寛植、金股錆、金基利、張 遇聖、朴生光など 8 0余名の作家の作品

1 2 0余点が展示された。

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伊芸術の橋室a の~べラ

フェスティパ J I J 政府樹立 5 0周年でもありオペラ5 0周 年を記念するオペラフェスティパルが

『手竃びたど3 治 代 美 術a 展

1 1月5日から 2 9日まで芸術の殿堂オペ ラ劇場で開かれた。芸術の殿堂と金慈 オ讃ラ団、韓国オペラ団、ソウルオペ ラ団など 9 つの民間オ ペラ団総連合会

この展示と 一緒に付帯行事として 9 月5日には『伝統の継承と変革』を主

公演

ソウル徳寿宮の西館である石造殿が 1 2

が集まり、ビゼの『カルメン』、ヴェ


韓国国際交流財団の

海外での フエローシッフ・フログラム 韓国研究に対する支援

韓国国際交流財団は、毎年実施している韓国研究フエローシップお よび韓国語フエローシップを次にようにご案内いたします。 韓国研究フェ口 一シッフ。 韓国国際交流財 団は 、 人文社会科学および芸術 分野での韓国関係研究者

韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の開設などを行なう場合、 これを支援しております。人 文 ・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムにつ いて支援申請を受け付けております。 ①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 1日で、選抜の結果および支援 上の申請のしめ切りは該当年の 5月3 額については、同年 1 1月3 0日までに 申請者に通報いたします。 上記の「海外での緯国研究に対す る支援」および「韓国国際交流財団 のフエローシ ッフ。・ フ。 ログラム」の 申請書および案内書は、韓国国際交 流財固または現地の韓国公館で求め られます。申請書および案内などに ついてのお問い合わせは、下記の住 所宛にご連絡願います。 韓国国際交流財団韓国研究支援チーム

1 4 7号 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函2 電話。 8 2 2 -7 5 3 3 4 6 4

5 72 0 4 7・ 2 0 4 9 F A X :8 2ふ 7

KOREAFOCUS

韓国語フェロ ーシップ

( コリア・フ ォーカス) 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生 ・学者 および適格の専門家に対して韓国語フエローシップを提供し、 6~12 カ

月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講できる機会を与えております。 フエローシップを与えられる ことが決まった方には、韓国内の大学の うちの一つ の韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授 業料と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の 申請書を作成のうえ、該当年の5 月3 1日までに韓国国際交流財団に提出 月3 1日までに通報いたします。 してください。選抜の結果は同年8 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛に ご連絡願います。 義国国際交流財団人士交流チーム

1 4 7号 大韓民国ソウル特別市中央郵逓局私書函2 電話。 8 2ふ 7 5 3・6 4 65

F 必 〈 ・8 2 ふ7 5 7 2 0 4 7・2 04 9

( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌KORE AFOCUS (コリア ・フォーカス) を刊行しております。「コリア ・フォ ーカス Jは日本の皆様に韓国関連 の情報を提供して韓 日両国間の理解を深めていく ことを目 的としており ま す 。 同財団は「コリア ・フォーカス」が日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「コリア ・フォーカス Jは、日本語版のほかに英文版 KOREAFO CU S も刊行しておりますが、同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌などの刊行物から翻訳、記載した ものです。 「 コリア ・フォーカス」が取り上げて いる記事は、韓国の政治 ・経済 ・社会・ 文化などの各分野と 、韓国関連の国際問 題にわたっており、このほか韓国に関す る重要な資料と主な事件の日誌も掲載し ております。したがって、韓国の時事問 題に関する情報性記事が幅広く盛り込ま れていて、韓国の現実に リアルに接して いただけるに違いありません。

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