Koreana Spring 1999 (Japanese)

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コリアナ 韓国の芸術と文化

V o.112. NO.1

1999年 春 季 号

ISSN 1225-4592


笑顔がこぼれるおしゃれな空間

私は韓国の口ツテで、ステキな笑顔を見つけてきました。 日本語の上手な販売員の親切で行き届いたサービス、 地下鉄と連結された便利なロケーシヨン、 1300坪余りの広々とした居内、 それに400以上の豊富なブランドと 20屈もの有名ブティックで 心ゆくまでショッピンク、を楽しめるから。 でもロッテの楽しみは、それだけじゃありません。 垢すり工ステやコージャスなサウナのあるホテル。 屋内テーマ/ ' ¥ ークの口ツテワールド・アドベンチャーと 湖に浮かぶおとぎの島マジック- アイランド。 韓国 5000年の歴史が一目でわかる民俗博物館。 短い旅行を充実させてくれる施設が、たくさんあるからです。 欲張りな私に満足を与えてくれるワンダフルスペース、

ONL Y LOTTE DUTY FREE S HOP

韓国レストラン

釜山シアタ レストラン

崩 明t ロザデ箆税唐 ~P!'R.

ロザデ釜山箆税唐


I mU T Y OF KORE A

、 -圃 ‘

花紋 トゥルチュモー ↓ 工m 豆己印 明 O司 m﹀ZmZ mczO R EU06m司之

韓国固有の衣装には洋服とは違いポケットがない。ゆえに韓 国人の先祖は手に持って歩く物は風呂敷に包んで持ち歩き、ま

たよそに出かける時には必要な物だけをチユモニの中に入れて 持ち歩いた。チユモニは日本の巾着のようなものである。はじ

めは実用性中心の単純な形のチュモニを使ったが、徐々に装飾 的な要素が加えられきれいに刺繍されたり、そこに 小さな珠を ともに縫いつけたりして装飾を加えた。このようにして身分の

上下、男女の別によ って異なる装飾方法が使われ多綴な形 のチ ユモニが残された。 チユモニは慶び事を運んできたり、福を込める入れ物として考

h h

¥

h 担

・ があったが、これは亥日にチユ h モニを身につけると一年中魔物 、 を払いよけ、福が訪れると信じら 、 れていたからである。また子供に は米、胡麻、粟、小豆などの穀物を

つ赤い紙に包んで入れたチユモニを 宗親(王の親戚)たちに贈る風習

えられ 、昔から贈り物用としてよく使われた。ゆえに年初にはチ ユモニを互いに贈り物としてやりとりしたりもした。宮中で は正月の初めの亥日に煎った豆を一粒ず

F

開E 司画 摂圃

R 量島

A-

されている 。縁取り には赤色の布を重ね合わせて仕上げ、これ に合わせて紐も赤色である 。チユ モニの口は五つにたたんで、 両方から入れ違いに組を通し、両端には菊の花模様の結び目を つけて装飾してある。

可 鎗園瞬 入れたチユモニを結んであげて幸福を 、 唱 陰EE、 祈願した。そ れだけでなく、満 一才の誕 EEE l l a a a臨臨場 生日や還暦の祝いにもチユモこを贈るのが ー通例であり、また新妻が結婚後初めて実家に行 って 帰 って来る と自分で作 った孝行チユモニを嫁ぎ先の両親 や祖 父母に贈ったりしたが、これを福チユ モニと 言った。 上の絵は実用性と美しさを兼ねた ト ゥルチユモニで、一般的 に最も よく持たれたチユモニである。百字模様の薄緑色の絹地 に菊をはじめ梅、蓮華などの花模様がひと目ひと目丁寧に刺繍

国語 踊輔

骨 量

19世 紀、 9 X 8.5c m

日本の読者の皆様へ

コリ アナ 日本語版は、 1988年以来、 日本の読者の皆様に韓国の文化と芸術について紹介 して参りま したが、

この度、非常に戎念ですが、国際通貨基金の管理体制の下、財政難のため に今回の

春季号をもちま して休刊 する ことになりま した。 この間のご購読とご声援に対 し心より深く感謝中し 上 げます。


カバー・ストーリー

韓国の若者文化をリードする

大学路

1960年代、ソウル大学校 文理大学が位置し形成さ れた大学路は、当時の若 者たちの精神的な飢えを みたす「文化の街 J であ った。こ んにち新しい若

4

者ーたちで埋め尽くされた

回永動

継ぎ、演劇、音楽、美術

大学路の文化と人 々

この街はその伝統を受け などの各種公演や展示が

12

韓国の演劇の 中心地 李侯男

途切れることなく続く

大学路

「文 化 芸術のメ ッカ J と して位置づけられてい

18

る。コ リアナでは 2 1世紀 を導いていく主役である

韓国の若者文化と 意識構造

これら若者たちの文化と

韓駿相

意識構造を、彼らの文化

24

の象徴である大学路を通

韓 国 の 若 者 新 しい韓国人

じて考えてみる。

グ レ ッ グ ・プラッ ト

26

THE 20THCENTURY INRETROSPECT

韓国社会の近代化 とその歪み 鄭範談

コリアナ Inl ernel Websi l e

32

INTERVIEW

建築家

柳春秀

金煉旭

38

J

コリアナの写真と英文の要 約記事を Internet Websi t e

(htt p://www. kofo.or.kr/kdata. ht m)でご‘覧 になれます。

TRADI TI ONAL ARTI SAN

聞 慶 の 沙 器 匠 金正玉

李鯛権

42

ONTHEROAD

済州南端の春

委運求

48

MARKETS

龍 山電子商街 金美 ll!

E(orea Foundati on 君主 号 号 刈 ] . J i I. 吾 川 喧


W 1 2, No. 1 S PRI NG 1999

KOREANA

51

L1VI NG

韓国女性の砧の美学 許 東華

コリアナ

54

CUISINE

1999年 春 季 号

春のナムル

韓国国際交流財団の季刊誌

韓福 真

発行人

李廷

58

韓国国際交流財団理事長

NATURE

生きている東江

編集理事

鄭鍾 文

表聖欽

66

編集長

金泰

NATI ONAL TREASURE

定価

600円

呉受桓のパリメ グ画廊招待展と 韓国画壇

発行所

韓 国 国 際 交 流財 団 大韓民国ソウル特別市瑞草郵便局 私答箱 227号

李祭夏

編集デザイン

ART SPACE KOREA

大韓民国ソウル特別市錘路区新橋洞31

. 電話: 82-2-734- 7184 . F.心( : 82-2-737-9377 r K OR E A NA ( コリ アナ ) J は務国国際交流財団が発

行している季干I11主です. 版権はす べて本財団側にあ り、本財団の許諾なしに転車 寵 ・複製することは禁じ られておりますのでご了承下さい。

! ; 冒裁の記事 ・論文の内容は、本語; また、本語,t の編集者または本財団の意見ではあ りません。

1033号

印刷所

三 星文化 印 刷 株式 会 社 ソウル特別市城東区撃陽洞 167-29

. 電話 : 82-2-468-0361づ

金刑国

悲劇と追憶のアルバム . 『美しき時代』

. ~: 82ふ 3463-5684 . FAX : 82-2- 3463- ω86

1987年 8月 8 日 登録 叫 1999年 3月 7 日 発行

昇雨

mM 盲 六

写 国 韓

アート・ディレクター

李源複

金 陪 歴一

金 光 彦 ・金 文 ; 換 ・金 畑 園 沈在籍・李亀烈・李種 爽 緯明照

鄭散の『金剛全図』

6R U川W一コ日長 翰

編集委員

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匡璽 匝 盟E

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チヨンスンフン

東亜日 報文化部記者

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黄色いイチョウの葉が敷きつめられ

大学路を見よ

シアタ ー、映画 館、画廊などが五Oカ 所にもおよぶ名実共に文化の街となっ

トセンター﹂などが次々とでき、演劇

﹁大学路﹂や複合文 化空間の﹁東崇アー

生たちがここに集まりサムルノリや農

は島山)先生が起こした興士団青年会

と呼ばれた。独立運動家の安昌浩(号

﹂ 0年代 中盤 、大学路は﹁ 風流マダ ン

うに政府から特別な支援を受けていな い零細小劇場が密集している所だが、

﹁国立劇場﹂や﹁芸術の殿堂﹂のよ

メラを担いだ外国人たちも一緒に溶け

結果、大学路の﹁マロニエ公園﹂はカ

楽などを演奏し、韓国の伝統的な共同

を中心に、伝統文化に関心の高い大学

る秋,白い雪が彫刻作品の上に積もる たのである。

み合う。街のあちこちで感じることの

に粘り強い﹁自生カ﹂がこの大学路文

競争を通じてのみ生き残る雑草のよう

込んで、韓国の伝統的な踊りや歌を楽 しむことができる名所となった。

大学路の中心は ﹁マロニエ公園﹂で ある。お金が一銭もなくても通りの彫 刻作品や人々の多様な姿を見物して半 日を過ごすことができる所である。無

﹁マロニエ公園 ﹂ は野外楽士たちの 小さな 天国である 。 マロニエの木陰で は十年あまりサックスホl ンを吹いて

が、舞台の前に置かれた小さな募金箱

きたおじいさんやギタ│歌手の﹁六絃 と五線﹂は大学路の有名人である。 公園中央にある野外舞台では週末の

る老人や孤児、それに障害者たちを助

金を集め、お腹を空かせ疎外されてい

などが複合的に繰り広げられる生きた

ス、占い 師の道端人生相 談、路上バス ケットボール、各種のパフォ ー マンス

守る人々の足は途絶えない。歌も良い

雪が吹きつける冬でも彼らの公演を見

集まりである。暑い夏でも降りしきる

年あまり活動している無名歌手たちの

する。﹁愛の歌﹂は八九年に結成され十

います。掃除のおじさんも少しの間休

十一才)は﹁街の歌は万人に開かれて

らである。 ﹁愛の歌﹂の代表である許松氏(三

ける﹁愛﹂を実践しているチl ムだか

に聴衆たちが少しずつ入れてくれたお が順に出てきて人々に歌をプレゼント

午後になると﹁愛の歌﹂チーム十七人

文化公園である。 週末になると歩行者天国となった八

名歌手たちの歌や大道芸、アマチュア 画家、青少年たちのヒップホップダン

体文化を蘇らせようと努力した。そ の

できる自由と実験精神の熱気。ここに

化の特徴である。

そして小劇場の﹁本郷﹂、﹁マロニエ﹂、

マロニエ公 園

一歩足を踏み入れる と、どんな恥じ ら いも体面も忘れるようになる。﹁大学路

ランセ(泉のほとりの青い鳥)劇場﹂、

瓦の壁が大学路の象徴的な建物の色と して定着した。﹁興土団﹂、﹁セム卜lパ

術会館﹂が建ち並ぶようになり、赤煉

L

0年代末1八0年代初めにかけて始ま る。﹁文芸振興院﹂と﹁文芸会館 、﹁美

文化の名所として大学路の歴史は七

ャンルの壁が崩れ新しく生まれる、あ たかも文化の絡鉱炉﹂のような所だ。

は美術、音楽、公演など、あらゆるジ

エ公園﹂は天気や季節に関わ りなくい つも華麗に着飾った若い恋人たちで混

冷え冷えとした冬。大学路の﹁マロニ

韓国 の若者文化を知りたいなら

田承動

.A.I' ・・ 圃

﹁学林茶房﹂、﹁マロニエ喫茶庖﹂なども 七0年代から続いている老舗である。

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大学路の中心にあ る 「マロニ工公園」では週末になると無名 歌手やコ メディア ンたちが各種公演 を繰 り広げ る

んで行ったり、腕を組んだ恋人たちも 一緒に歌って行ったり 、近所のち びっ

子たちも遊んで行ったり ・・・ 。街の 一歌で織りなされる人の間の偶然な出会 いの数々。実にロマンチックじゃあり ませんか﹂と語る。

﹁マロニエ公園﹂の﹁文芸会館﹂の 前庭は無名のコメデ ィアン、青少年ダ ンスチームの自由舞台である。週末ご

とに 三1 四百人を 集めて 街のギャグを 繰 り 広 げ る 安 孝 相 氏 (三十 二才)は十

年目を 迎えるここの最古参である 。途 切れ る こと のない機知 に富んだ話や歌 を続け、休 日を楽しみに来た恋人たち を呼び出して﹁海老せん﹂や﹁ひとつ

抜き ﹂などのいくつかのゲームをさせ ながら聴衆を笑わせる。彼と共に活動 する友人の 金哲民氏(三十 三才)は M B C放送局の正式コメディアンとして デビューしたりもした。

その周辺はフランス・パ リ の﹁モン マルタンの丘﹂を連想させる路上画家 たちの場所である。美大卒業生や会社

員出身など、 多様な 前職を持 った路上 画家たちは鉛筆、木炭 、 パステル、油

絵、水彩画などを利用し山門像画を描く。 恋人たちゃ赤ん坊と 一緒に遊びに来た お母さんなど、家族単位のお客さんが

主な顧客である。対象人物の特徴を生 かして五分1十分内に絵を描くので山円 像画にはスピード感、繊細さ、荒削り な感じなど、大学路の躍動感のある即 興的な雰囲気が共に 含 まれている 。 こ

こで絵を描いて 十 一年 目を迎える画家 の 金 相 実 氏 (三十八才)は﹁絵も絵だ が人を見物するのがおもしろくてここ

にやっ て来 る。大学路 に入り込むと自

5


風巨場で 服 を脱いでもお互い気に 止 め ないそんな感じだ﹂ と語る。

由さゆえに重力がなくなる感じがする。 機械 的な動作 の中 で十代 特有の活気あ ふれる 群舞 や空中 で 一回転するタンブ

ーム﹂は大学路の新しい主人公である。 グ ループ﹁ C Cクラブ﹂の リーダであ る 李 某 君 (十九才) は﹁ 誰かに命 じら

大学路でもっとも影響 力 のあるダンス

﹁マロ ニエ 公園﹂の野外公演場では アングラが総出演した独立芸術祭の異

つ の巨大 同時に開かれた去年の秋 、 一 な公演場となっ た大学路の週末はこの ' ように始まっ た。

一年文 化﹂の生きた歴史 まる韓国の﹁青

が行われたりもした。 大学路は 七0年代 のギタl文 化に始

フェではビールや コーヒ ーを飲む客た ちの聞に混じ って予告なしに演劇公演

色舞台が大学路を沸き立たせ、野外カ

れてするのではなく 、皆がみずから好 きで踊るのだ﹂と語った。 大学路と青年文化

リング、頭を 地面につけて逆立ちをし たままコマのように回るダンスなど 、

﹁ マ ロニエ公園﹂は昔の大学時代の ロ マンを思い起こす 三十、四十代の夫婦も たくさんここを訪れるが、依然として華 妙技に 近 いダンスに感嘆の声と拍手が さく烈する。 だら つとしたヒ ップ ホ ップ;ズボン を はいて頭をいろいろな色に染めたこれ

東崇ア ー トホー 、 ﹁ 土曜日午前 二時 ル﹂。立ち見席までぎ っしりと埋ま った 六百人あまりの観客が奇声と共に身 体 るのもわからな を揺さぶり、夜が 明け. いでいる。大部分が深い 眠りに落ちて

ロックレコード」

らの青少年ダンス 、グ ループはテレビに は出 ていないが、 百1 二百人ずつの女

ある「学林茶房」と「バ

麗に着飾った若者たちが ここ にや って 来 る主力部隊である。特に 過重な受験勉強 に疲れ切っている青少年たちも、大学路 にやって来ればスト リートバスケットボ ールやダンスを楽しんだりして思いきり

(下) 同じ建物の上と下に

子中高生の フ ァンたちを 引き連 れるほ どで、青少年たちのア イド ルとなって

( 中)

r学林茶房 J

の内部

である。反抗と 実験精神 で代表される 青年文 化は最近 のアングラバン ドにま でつなが っている。 一時、反体 制歌手として﹁朝露 ﹂な 歌手、金 どの歌で若者文化を主導した .

セ劇場 J

遊ぶことができるのである。 公園の片隅でカ セ ットレ コーダのボ リュームを思い切り上げて数十人が 一

いる金曜 日 の夜十 一時、ミュージカル ﹁ハード ロック カフェ﹂の深夜公演が開 かれるここには昼夜の区分がない。﹁ソ 独立芸 術祭﹂が ウル国際演劇祭 ﹂ と ﹁

にある「セムトーパラン

いる。ソウ ル の代表的な公演場である 瑞草区の﹁芸術の殿堂﹂の前庭まで進

( 上) 展示場と公演場が共

出し、ダンスの腕前を見せつけている。

る大学路通り

緒にな ってラップ音楽に合せてヒ ップ

大学路の古い名所 ;

ホ ップダンス を踊る﹁青少年ダンスチ 日m O ﹂ O カO

( 左) 彫刻l が展示されてい

6


敏基氏。彼が作曲した﹁常緑樹﹂は最

十代たち七十人あまりが集まってこのカ フェを作り、若者文化を引き継いでいこ うとする各種 コンサートや文化イベン ト を用意している。 弘益大前から始ま ったアングラ文 化 が ﹁地上 ﹂への本格 的 な進出を試みた 所もソウル東崇洞大学路である 。マ ニ アたちだ けが 熱狂する 地下 の暗いクラ ブから 抜け 出し、ア ングラバン ドは大 学路の野外舞台や﹁イチゴ小劇場﹂や

カフェ﹁東崇洞で﹂は 別名 ﹁三八六 世 代 (三十代で 八0年代に大学生だ った六 0年代出生者ごと呼ばれる三十代 のた

﹁ ライブ劇場 ﹂や﹁バ ロック 乱場﹂など の公の舞台の上で人々と 出会う。大学 路の有名なレコード庖である ﹁ バ ロッ クレ コード ﹂ は大学路の音楽文化をリ ードしてきた。九六年にジャズカフェ ﹁ 千年間も﹂を開いたのに続き九八年八

近大韓民国建国五O周年記念 海外 広報 ビデオ の主題歌に選定されたりもした。 大学路で主にミュージカルを公演する ﹁学展 小劇場 ﹂を運営する金氏は﹁大学 路は多様な文 化 のソフ トウ エアが育つ 苗代だ﹂と語る。

めの カ フェ。韓国の三十代は 一生懸命仕 事をして成功した既成世代と豊富な物質 に恵まれ自由奔放なX世代と の間でサン ドウイ ツチのように ﹁ 挟まれた世代﹂と 呼ばれ、アイデンティティに深刻な威嚇 を受けている世代である。 このような三

月には五百席規模の﹁バロック乱場﹂ という舞台を作った。この舞台では 一 ヶ月に一度ずつモダンロックからハー ドコア、ヒ ップホップから テクノミュ ージ ック までとあ らゆるジャン ルのイ ンディlバンドのための企画 コンサー トを開く 。入場料も五千ウ ォンほど と 安く、アングラ公演が陽の目を見るこ との できる場所である。

ブ公演まで開けるカフェが多く、複合

文化空間 の役割を果たし ている。 特に大学路のカフェ村は室内外が水 準の高い壁画で装飾された所が多く、 美大生や写真家たちに人気である。大

ョンを語る。 ライブカフェ﹁千年間も﹂はソウル で新しいジャズの名所として浮び上が

学路のカフェ 村 の三O軒あまりの庖舗 に壁画を描いた画家 、昔 一 女 致 奉 氏(四十 二才)は ﹁ 大学路の建物は今後十年以 内に巨大な壁 画タウンに姿 を変え 、現 代美術 の流れを知ること ができる象徴 的 な場所になるだろう﹂と大きな ビジ 大学路周辺のカフェ 村は広い 室内空 間と特色ある室内外の装飾で屈指のデ ート 場所であり、新婚夫婦などのウェ

った文 化空間である。一部と二部に分 れて一日四時間繰り広げられるラ イブ

異色のカフェ村と文化空間

ディング写真の撮影場所としても脚光 を浴びている。また 美術展示場にライ

7


クールジャズにいたるまであらゆる種 類のジャズを一度に鑑賞できる。シ ン ・グワアンウン 、イ・ジョ ンシ夕、

公演にはスタンダード、モダンジャズ、

芸品が企画展示されている。常設アー トショップでは八千ウォンから百万ウ

螺鋼漆器、高麗青査など、世界的な工 芸伝統を持っている韓国の匠たちの技 術を垣間みることができる現代創作工

を展示する特異なギャラリーである。

マ ロニエ公園﹂をぶ 公演や展示場、 ﹁ らついて疲れた人はレス ト ランに立ち 寄り、様々な味の料理を選んで食べる ことができる。韓国の伝統的な焼き肉 料理を味わうことができる﹁賂 山ガl

されている。

ォンにいたる多様な生活工芸品も販売

イム ・フィスク、キム ・スヨルなど有 名ミュージシャンたちの密度の高い演 奏はもちろんクlル、ウェーブ、プリ ントのような新鋭ジャズバンドの演奏 まで多彩に繰り広げられる。特にユ・ ボクソンの神技に 近い打楽の 実力は惚 れ惚れするほどである。ここで主に演 奏していたジャズバイオリニス ト のユ

lジン朴と﹁イパネマの娘﹂をハスキ

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この他にも大学路には韓国初代大統 領の李承晩大統領の遺品が展示されて いる﹁友堂記念館﹂や﹁鶴 山図書館﹂、 ﹁東崇美術館﹂、﹁産業デザイン包装セン ター﹂など行ってみる価値のある展示 場が多い。 大学路情報 大学路では国際演劇祭や独立芸術祭、 愛の演劇祭り、ソウル映画祭、国際労 動映画祭など、各種演劇祭と映画祭が 一年中途切れることがない。大学路で 公演されるすべての演劇に関する情報

は文芸振興院前の﹁チケットボックス﹂ に行けば求めることができる。ここで 劇場の略図とポスターを見て、見たい 公演を見つけた後チケットを購入すれ

劇祭に参加するすべての演劇を選んで 見ることができ、料金は 一般観覧料の 半分程度の八千ウォンである 。 演劇愛好家の集い﹁ハジエマウル﹂

はパソコン通信(ち出と巴と隔週で発 刊される﹃文化公演消息﹄を通して演 劇やコンサートの情報を提供する。ま たインターネット﹁大学路文化広場﹂

J

( Z二 g o 吾 宅老垣念日一 吾 ・ では各種公演 ・5 やカフェ村に関する情報を提供する。

新村l弘益大前 ソウル市西大門区新村は韓国の代表的

な大学街である。延世大、弘益大、梨花 女子大、西江大などの名門大学が密集し ている新村ロータリー付近はかなり以前

から若者文化の中心地であった。

八0年代の大学街は﹁政治的な反抗 ﹂ の中 心地だ ったが、九0年代の大学街 。 は﹁文化的な反乱 ﹂ の中心地とな った 現在、歓楽街と機変わりした新村は大 演劇祭の中で特に大学路の四Oあま りの劇団が集まり繰り広げる﹁愛の演 劇祭り﹂は最も古い行事である。公演

の中の 一つだが 、反対に商 業的な大衆 文化に対する 挑戦も活発に行われる所

学街の中でも消費性向 が最も強い地域 収益金の中の 一部は飢えに苦しんでい る北朝鮮の子供たちを助けるのに使わ れる。﹁愛のチケット﹂を購入すれば演

ばしし

「クラフトスペース木金土 J 、( 下) 上が ら見

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唱﹂ 引

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、メキシコ料理専門庖﹁エルパソ﹂ デン ﹂ ベトナムの伝統料理がおいしい﹁ラウ ジエ﹂、 イタリ ア料理専 門屈﹁ガピアノ ピウ﹂と﹁ロl マの休日﹂、元祖インド、 スリランカのカレl の味を楽しむこと ができる﹁張﹂、米国ウエスタンスタ イ ルの室内装飾にやわらかくておいしい ステーキが有名な﹁ゴ ールドラッシュ﹂、 日本うどん専門庖﹁亀城庵﹂など、世 界各国の料理を好みに応じて選んで楽 しむことができる。

た大学路の街

ーボイスで熱唱する女性歌手、 チヨン ・マルロは大衆的なス ターにもなった。 ﹁文芸振興 院 ﹂は美術、音 楽、ミュージカル、演劇など が観覧できる総合芸 術公演場 である。七 百十席の大劇場と 二百席の 小劇場を備えた﹁文 芸会館﹂(電話七六O 四六一 四 二)と 一年中、有名作家たち の美術作品が展示されている - ﹄ ﹁美術会館﹂(電話七六O l四 川 六O 二)がある。﹁美 術会館﹂ 二階の資料センターは休息空間の役割 と共に各種美術品目録 、公演ビラ、資 料、記念品などを購入することができ る空間である。 素晴らしい建築美を誇る露出コンク リートの建物﹁大学路文化空間﹂の三 階には工芸専門ギャラリー ﹁クラフ ト スペース木金土﹂(電話 七六四│ O七O O) があり、ここは公演を待つ人々が 約束場所として多く訪れる所である。 ここは木と金属と土で造られた物だけ

( 上) 通りの画家、( 中) 工芸専門展示場の

8


また新村は韓国で 一番有名な女子大 である梨花女子大があるせいか、新村 はフェミニズム運動が活発に行われる

化された既成文化に挑戦するのが新しい 大学文化の傾向である。

である。

世大 学校では総長 杯インターネ ットゲ ーム大会が開かれたりもした 。 反面、華やかなネオンサインやカフ

る。このような熱気に続いて最近、延

トゲl ム宮きである 。大学生 たちがイ

である。 弘益大前はアングラ文 化 のメッカで ある。毎夜テクノ ・ジルバ、国楽メタ ル、ヒ ップホップやパンク 、ロックな

コア ﹂がパンク音楽﹁ラブ ソング ﹂の 公演を始めると、彼らは舞台前に迫り 出してきた 。パンク音楽の爆発的な音 律と反抗的なメッセージに心酔した彼 らはヘッドベンイング(頭を前後に激 しく揺さぶる動作)をし、足を鳴らし て演奏に反応した。弘益大前の用語で ﹁クラブ﹂というライブ公演場の雰囲気

アングラ文化のメ ッカ弘益大前 ソウル市弘益大付近の 地下ライブク ラブ﹁スペングル。 ﹂ 十代後半i 二十代 中盤の七十人あまりの客たちの熱気で 盛り上がっている。ロックバンド﹁コ

めるために書店の空いている空間を学 生たちのためのセミナー室に開放し、 ﹁深夜映画上 映会 ﹂を開催するなど、複 合文化空間として姿を変えている。

ンタ ーネットを 利用して資料を探した 新村地域の多様なカフェ や文化空間に はアングラバンド、独立系映画、ロック、 りリポートを送る所としても利用され ジャズ、 ヘビーメタル、推理小説、アニ るが 、ネットワークゲーム 、 シミュレ メーション 、 コンピュータ ーゲlムなど、 ーションゲl ムなどの華やかな最先端 若い﹁マニア﹂たちが集まって来る。各 ゲームを楽しむことができる所である。 種の破壊と実験を通して商業化され大衆 二十 四時間営業しているので居眠りし ながら夜を明かす学生たちも数多くい

所でもある。今年の春には新村でタバ コをくわ えた三十人あまりの女性たち

ェなどの明かりに比べて﹁今 日 の本﹂、 ﹁新村文庫﹂などの書庖は苦戦を免れな いでいる。最近、若者たちの関心を集

が通りを歩いて﹁女性の喫煙権保障﹂ を主張するデモが繰り広げられたりも した 。女性専用カフェ﹁ラブリス ﹂で は女性主義の文化の集まり﹁魔女﹂の パフォ ー マンスや女性ロッカーたちの 公演が行われる。魔女は新村の劇場や カフェでエイズを素材とした演劇と女 性の性的差別に反対するパフォ ー マン ス﹁∞27ha﹂など 、女性に対する偏見 を破るための各種文 化公演を繰り広げ ることで話題を集めている。 最先端の流行の街、新村 新村の七O%は若いカップルである。 ファッションはもちろん新しい流行商 品がソウルで一番最初に広まり始める 所 である。 コー ドレス電話機を利用し たカフェでの会話を楽しむ大学生たち 、 プリクラの前で友人同士で仲良く写真 を撮って思い出を作る姿が容易に目に つく。 この頃 、新村の大学生たちに最も人 気を 呼んでいる空間は ﹁ インターネツ


θ

10


売り場

( 右頁上) 弘益大前にある

書 庖兼カフェ 。 本 も 読 め 場になることもある

お茶も飲め、時には討論の ( 右頁中) 美術大で有名な 弘益大前は所々にこのよ が飾られている

うな学生たちの美術作品

しての特性と先を行 く文化 に按しよう とする芸 術 人が集まる 街だという点が ﹁ アングラ文 化﹂が自生力を備え ること

グ ループ)だけでも 約 五十1 百あまり ある。独立系レコー ド制 作会社の ﹁ イ ンディl﹂の金鍾輝室長は﹁大学 街と

所ほどで、ここを中 心 に活動するア ン グラ ロ ックグループ (別名イ ンディ │

弘益大前のライブクラブは約十五カ

なっている。

ンス音楽 一辺倒である韓国レコー ド市 場に多様性を吹き込む新たな活力素と

﹁紫雨林﹂、﹁ポケベルバンド﹂などのス ターロ ッカーたちをたくさん輩出して きたここのロッカ ーたちは、 青少年、ダ

音楽の数々が実験されている。すでに

ど自分流に作 ったいくつかの ﹁ 非主流﹂

名な梨花女子大前の大型

のできる背景だ ﹂と説明した。 美術大学として有名な弘益大前は韓 国のどの大学街よりも個性が強い若者 たちが集まる所である。破れたジ│ン

した所である。西洋式パーティー文 化

いうスタンデ ィングカ ルチャーが定着

衣類屈が最も多く集まっているファッ

共存してきたが、九0年代に入り文化

街 と し て の 機 能 はほとんどなくなっ

た。代わ りに輸出用衣類、化粧 品ディ スカウント 広、ミニア クセサリー底、 靴屋、キャラクター専門店、フ ァッシ

金のない大学生たちも簡単に腹ごしら えができ、ビ lル一 、 二本 と音楽で十 分に楽しむことができる雰囲気である 。 たらふく食べることよりは文 化 を楽し

ット﹂の 柳 承烈社長は ﹁ 弘益大前は 多 少気難しく頑なな趣向の 美大生の街と して出発したが、今は年齢に関係なく

く押しかける 所 である。若い女性たち がここに多くやって来る理由は流行の

ほどで、十代、 二十 代の女性が最も多

ここは女性の 比率が八三%に達する

ョン 小物庖など、女性 ファッション製

デザイン、広告、映画、ファッション

発源地であるからである。ヘアピンだ

む若者たちが多いからである。テクノ シ テ ィ !・ビ 音楽の専 門レコ ード庖 ﹁

ファッション﹂はある。けれどもそこ

京 氏 (二十九才)は ﹁ ソ ウルの富裕層 が行き来する狩鴎亭洞にも﹁キツチユ

などを仕事にしている セ ンスある人々 の街である。このような人の構成が

した 。

品を販売する小規模店舗がここを占領

の住 人たちは高級 品を古物ように作っ たり外国製 品を使うのに 比 べてここの

﹁少数文化﹂が息づく余地を作る﹂と説

ファ ッション通り梨花女子大前

現もここで起こる。

など、ファッションの新しい業種の 出

けを専門に扱うヘアピン専門店、スト ッキ ング 、マタニテ ィードレ ス専 門庖 梨花女子大前は圏内で面積当たりの

A-

価﹂ を活用するという点で異なる﹂と 一 諮った 。 弘益大前のカフェは ﹁立っ たまま飲

。 聞 μIU#

キ ツチユ 文化は本当の﹁中古品 ・中低

ここに 三十年近く住んでいる ﹁三百 三日間の新婚旅行﹂の著者である 宣賢

である。

アクセサリー屋や服屋で売 っている 主 要品目もまさにキ ツチユフ ァッ ション

れる。路 地ご とに深く入り込んでいる

行き来する若者たちの代表的な服の着 方は﹁キツチユファ ッション﹂と 言わ

ら下げられたアクセサ リー 類、後ろで

ゲーム室

ズ 、 伸びたセー ター、思いのままにぶ

日の本」、( 下) 急速に広ま

ション街である。ほんの八0年代まで は大学生たちが楽しむ居酒 屋や カフェ

っているインターネ ッ ト

もそれなりに場所を占め、大学文化が

を維持する古い本屋「今

から由来した﹁立 って遊ぶ文 化﹂は韓

( 上) 新村の大学街の知性

国の伝統とはかなり異なる。ここはお

ブクラブの公演模様

ひとつに束ねられた 髪 ・・・。 ここを

ちの舞台になる地下ライ

んで、立 って騒いで、立 って踊る﹂と

11

( 右) ファ ッション街で有

( 右頁下 ) アングラ歌手た


中央日報文化部記者

a ~

. F

韓国の演劇の中心地

イフナム

李侯男

~

( 左) 各種演劇の案内ポスターが貼られている掲示板前で自分が見 る演劇を選ぶ楽しみもなかなかである ( 左上) 三つの小さな公演場からなる「東崇アートセンター」

12


映画を象徴する地名と 言 え

‘.リウッドといえばアメリカ h

Jノ るが、いざロサンゼルスの ハリウッド街でアメリカ映画のムー ドに浸ってみようとしてもそれはそ う容易なことではない。﹁ハリウッド﹂ という名前のためにこの街を訪れる 観光客がかろうじてその気分が味わ えるのは十数分たらずのチャイニー ズシアター前の有名な俳優の手形と サインを直接確認することぐらいで はなかろうか。 アメリカの演劇とミュ ー ジカルを 象徴する 地名 で あ る ﹁ ブ ロ ー ド ウ ェ

くほど劇 場 の看 板が目に入 ってくる 。 最近のビ ッグヒ ット 作 ﹃ ラ イ オ ン キ ン グ ﹄ か ら い ま だ 公 演 中 の ﹃キヤ ツ ト﹄まで。 しかしブ ロー ド ウ ェ イ で 見 る こ と のできる公演がアメリカの演劇、ニ ューヨークの演劇の全てと考えるの は 大 き な 誤 解 で あ る 。 オ フ ・ブロー ド ウ ェ イ 、 あ る い は オ フ オ フ ・ブロ ー ド ウ ェ イ と い う 言葉 が あ る 理 由 が ここに中める 。 ﹁ オフ ・ブ ロ ー ド ウ ェ イ ﹂ と い え ば ラ マ マ 劇 場 や ジ ョ セ フ ・パフ ・パ ブ リ ッ ク ・シ ア タ ー の あ る イ ー ス ト ・ビレッジの周辺が思い浮かぶ。 しかしこれらの劇場のある付近の 具体的な地名として限定するには ﹁ブロードウェイの外 ﹂ の演劇が包括 する意味はあまりにも広範囲である。 韓国でもソウルの﹁忠武路﹂

﹁ 大 学 路 という地名は、それぞれ映 ﹂ ﹁忠 画と演劇を象徴する地名である 。 武路﹂はこの周辺に密集していた映 画会社の多くが江南に移り、ここを

中 心 に し て 都 心 に集 中 し て い た 映 函 館 が ソ ウ ル 全 域 に散らばり 、 ここも 名前だけの象徴になってしま った 。

と こ ろ で 、 こ の よ う に 一つ 一つ考 えてみると、緯国の演劇を象徴する

たということから大学路と呼ばれて

地 名 で あ る 大 学 路 ほ ど 現 実 の場所と その 象 徴 的 な 意 味 が 一致 す る 所 は な い よ う で あ る 。 現 在 は 冠 岳 山 の麓に 位置する韓国の名 門 、 ソウル大学校 文理大学の キ ャンパスの跡 地 であっ

いるこの街の流動人口のうち、大学 生の割合はそう多くない 。 学 校 と 家 から の脱出口を求めて出てくる 青 少 年 や各 種 飲 食 庖 や 酒 場 の 主 人 を 除 い た残りの ﹁ お と な ﹂ の 中 で 、 単 一類

13

イ﹂はそれでもまだましである。大 部分の通りが垂直に交差するマンハ ッタ ン で 南 北 に 斜 め に 細 長 く 抜 け る 道。 そ の 中 で も 四 十 番 街 の 辺 り を 歩 いていくと左右に演劇やミュージカ ルのファンでなくともすぐに目につ


型 と し て 最 も 多 く の 比重 を 占 め て い

最も韓国的な同性愛の葛藤にして描き

泰錫の芝居を見ることができる。白

歌 劇 を 見 る な ら ﹁ 学 展 小劇 場 ﹂ が

さをこうして報いているの である。

公演してくれたことに対する有り難

つの 作 品 は そ ろ っ て 韓 国 の 観 客 に ﹁私の話、私たちの話﹂として受け入

つの作品を誕生させている。この二

当時の大演出家が直接舞台に上げて

と黒を対 比させる無彩色の舞 台衣装、 シャーマニズムの儀式でも行うかの

有 力 で あ る 。ブ ロ ー ド ウ ェ イ や ウ エ ストエンドの大型ミュージカルとは

れられることに少しの無理もなく翻

大胆な象徴を舞台の上に導入する呉

ように 二、 三十 名 の 出 演 陣 が 一つ に なって動く強烈な振り付けが例外な

異なる、スケ ー ルは小さいが韓国ス タイルのミュージカルが舞台に上が

案された。﹃ 地下 鉄 一号 線﹄は韓国と

.上げている。 ﹁学展 小劇 場 ﹂ の 翻 案 劇 の 作 業 は

く劇的な満足感を提供する。幕が下

る。現在公演中なのは﹃義兄弟﹄で、

が、何の演劇を見ょうかと迷う観客な

関・ 係 、 ~

.圃

ら九O %はそのまま大学路に足を向け ればよい。ソウルにあるおよそ五十の

ゃ・ 、・ ー 、 一

中 国の修交以後、自 由 に行き来でき るようになっ た朝 鮮 族 (中 国 内 の朝

鮮族)をあたかも二等市民のように 馬鹿にするようになった韓国の人々

に は 、 少 々 耳 障 り で は あ った だ ろ う が、すこぶる軽快な話であった。﹃モ

スキ ー ト ﹄ は 誰 も が 大 学 教 育 を 受 け な く て は な ら ず 、 そ の た め 中 ・高 校 時代を全て受験準備の犠牲にせざる

を得ない韓国の教育環境と政治に対

す る 風 刺 を 同時 に 浮 き 彫 り に し た 作

品である。

金敏基氏が 、 最近のある調査で韓 国人の最も好きな歌に選ばれた﹃常

緑樹﹄の作曲家であるという事実、

う少し面 白 く 見 ら れ る だ ろ う か 。 必

そして七 ・八0 年 代 の 軍 事 独 裁 政 権 時 代 に は 彼 の 歌 が 禁 止 曲 で あ ったと いう事実を 知 っ た ら 、 彼 の 芝 居 が も 観客ならなおさらである。演 出家でも あり翻案家でもある金敏基 氏 の手並み

ず し も そ う と は言 い 切 れ な い よ う で ある。事実、金氏の手腕は翻案だけ

事にすり替えられているからである。

編曲することにより 一層 輝いている。 小劇場の 制 限 さ れ た 設 備 と 彼 自 身 が

や、九0 年 代 の 若 い 世 代 が 思 わ ず 足 で リ ズ ム を と る よ う な ロ ック音 楽に

でなく外国語の歌詞がごく自然な韓

で鉄鋼都市リバプl ルの労 働者と資本 家の間の対立が、六 ・二五韓国戦争直

国語の歌になるようにした歌詞付け

加えて双子の息子に正反対の運命を授 けるしかなかった 母親の哀れな 心境を

した韓国社会の近代 化 の過程の話に見

後の釜 山 の逃避時代から始まり、労働 者の安い賃金を背景に高度成長を謡歌

気づくにはかなり困難が伴うであろ う。そのような違いは韓国語がわかる

今回が初めてのことではない。 ド イ ツの音楽劇をべ│スにしてすでに二

である)観客がみな席を立った後ま

こ の 作 品 は ラ ッセ ル の ﹃ 義 兄 弟 ﹄ が 原 作 で あ る が 、 た と 丈 ロ ン ド ンのウ

るのが演劇 関係者であるという。 何の映画を見ょうかと迷う観客な ら、ソウル全域の映画館とプログラム

公演場のうちの 三十あまりが大学路に あり、これを割合にすればざっと六 でウロウロしていれば、この舞台の

少.

年目

台と衣装を見てすぐこれがあの作品と

青目

の時間表を確かめる必要があるだろう

O %であるが、この三十あまりの公演

り ( 実 際 は こ う い った 小 劇 場 に は 幕 はない。芝居が終わったという意味

場はソウルにおける演劇公演の主導的

の秋 、 デ ビ ュ ー し た ば か り の 新 人 作

家 の 有 力 な 登 竜 門 の一つである。旦︿

た・ ち・ が・

エスト エンド で こ の 作 品 を 見 た 観 客 学 展 小劇 場 ﹂ の 舞 がいたとしても ﹁

て 伝 統 的 な 演 劇 の ス タ イ ルが 一つ に 入り混じっている。二週間あまりの つかの 間 の公演をし て幕 を 下 ろ す 若

家の作 品を演出して話題に上ったり もした。毎年 、韓国の大手新聞社が

瞬 間 、 舞 台 の 強 烈 な 印象は一層エス

手の演出家や作家の 作 品も少なくな いが、劇場の名前を信じて行けば期

主催し、一月一日付けの新聞にはそ の当選作を発表する新春文芸は、詩

の演劇が韓国の演劇の現状である。

待どおりの演劇に出会えるロングラ ンの レ パ ー ト リ ー を 掲 げ て い る 小劇

であれ 小 説 で あ れ 戯 曲 で あ れ 、 ま た は評論であれ、韓国における新人作

実 験 的 な 色 彩 と 商 業 的 な色彩とそし

場も少なくない。 最近名前を変えた小劇場﹁アルン

泰錫 氏 は 自 分 の 新 春 文 芸 の 当 選 作 を

してきたこの年老いた大家が、昨年

グジ﹂(旧名 一星座 小劇場)では、作 品 ご と に 例 外 な く 韓 国的 な 色 合 い と

者目

演 出 家 に 直 接会えるかもしれない。 彼の小柄で少年のような姿に接した

・・ 予

役割を果たしている。 ここから韓国の演劇の現実を見る

L

、-

7

~

、 .

た・ と・

め・ て・ 出・ て・ く・ る・

ザばれているこの街には学校と家からの

で.

ソウル大学校え理大学のキャンパスの

と・ か. ‘ ー ら ・ 大・ 、 、. 宇. 5各. と・ 3 市 ' パ

目 が 始 ま る 。 世 宗 文 化会館、芸術の 殿堂などソウルを代表するような公

ぁ ・ つ・

〆 ト ー・ ・

演場はもちろん大学路にはない。し かしこのようなスケールの大きな公

z 出・ ロ・ を・ --

演場でスケールの大きなミュージカ ルではない演劇の舞台が設けられる のはごく稀な イ ベン ト で あ る に 過 ぎ ない。韓国の演劇の現状はせいぜい

司 、 .

カレ ート す る の で あ る 。 演 劇人生の ほ と ん ど を 自 作 の 戯 曲 の 演 出 で 一貫

一一、三百席の大学 路の 小規 模 な 演 劇 の類に過ぎないためである。小劇場

・ t也・

月 、 .・ 尼

14


ベルではないことは事実であるが、

芝 居 を 始 め て か ら の 短 い キ ャ リ アの ため、まだ大 作 を披露するだけの レ ﹁学展 小劇場 ﹂の公演が 面白く期待に 値するということも事実である。 今年の秋、彼が企画している四つ 目の翻案作品は発表前からすでに期 待 を 集 め て い る 。五0 年代の ト ニl 賞の受賞作である﹃ブリガーデン﹄ の骨組みを応用し、韓国の上古史の 話を上演しようとしているのである 。 公演中の『義兄弟』

詩 人 の 金 芝 河 氏 が 脚 本 を 一緒 に 手 掛 けるということも話題になっている。 一九 八 一 年 に 国 際 詩 人 会 か ら ﹁ 偉大 な 詩 人 賞 ﹂ を 受 章 し た 彼 は 、 七 ・八

0 年 代 の 独 裁 と 真っ 向 か ら ぶ つ か っ た抵抗 詩人 と し て 長 い 獄 中 生 活 を 送 り 、 そ の 後 、 後 遺 症 で 一時、{子が書 けなくなるほどに健康を害した。こ の金芝河 氏 が、九0 年 代 以 来 自 ら の 新 た な 関 心事として浮き彫りにして きた生命思想と東アジアの伝統に対 す る 思 い を こ の作 品 に 織 り 込 む も の 大学路の若々しい新鮮な試みに接

と期待されている。

るマロニ エ公 園 と 隣 り 合 わ せ の 文 芸

し た け れ ば 、 大 学 路 の ど 真 ん 中 にあ

はこの劇場の大劇場より小劇場の方

会館がお勧めの劇場と言える。話題 から生まれる。小劇場で上演される 作品は 一作 あ た り の 公 演 期 間 が 長 く て二 週 間 あ ま り な た め 、 急 が な け れ ばならない。この小劇場の長所は客 の空間を自 由 に 活 用 で き る と い う 点

15

席 が 固 定 さ れ て お ら ず 、 従 って舞台 である 。 演 出 家 た ち は 時 お り 客 席 を 二列に向かい合わせに配置しその聞の

大学路で現在公演中の各種演劇と小劇場、( 左側から時計四り

lこ) w 魚男』、この演劇が公演中の「アルングジ」 、大学路の若 く 新しい試みを見せてくれる「文芸会館小劇場」、「学展小劇場」で


ない、( 左下) I 演友小 劇場」の

何の演劇を見ょうかと迷う観客なら九十%は そのままえ学路に足を向ければよい ソ ウ ル に あ る お よ そ 五 十 の 公 演 場の うちの三十あまりが大学路にあり、

入場券を販売しているので歩き

『チルスとマンス』、( 右下) I アリ

ラン」の『初恋』

空間を舞台に したり、 地下公演場へと '降りて行く 階段 で俳優たちに演技をさ せてみせるなど 、多彩な 想像力を発揮

する。商業性とはほど遠い実験的な公

この劇場の運営団体が民間ではなく、

演がこの劇場を好んで利用するのは、

文芸振興院という公共機関であること から、大学路のどの劇場より賃館料が

演 劇 的 な 実 験 に置き換え、当代の政

活躍した劇団演友舞台は、八0年代当 時の既存の演劇の伝統的な叙事構造を

がある。﹁演友 小劇場 ﹂を 舞台にして

を引 いているのである。 ﹁恵化洞一番 地﹂からもう少し入っ て行くと、八0年代の韓国の演劇にお いて欠かすことのできない演友小劇場

大学路の 未来に通 じるものとして関 心

う実験こそ 、 そのレベルはどうであれ 、

出家たちにとって代わった 。彼らが 行

りの大学路の中 心人物たちである。劇 場の主人は九七年の初めに三十代の演

ビョンフンなど、四十代に入 ったばか

﹁演劇実験室﹂という名の 同人制の 劇場を始めたのは李潤沢、金亜羅、李

力になっている。

様にここも貸館 料 が安いというのが貧 しい演劇家たちにとっては 何よ りも魅

件は大学路の 小劇場に比べれば取るに 足りないが 、文芸振興院の小劇場と同

りの客席の数をはじめとして劇場の条

会うことのできる所である。百席あま

番地﹂もまた若々しく新鮮な試みに出

ろに、恵 化洞ロ ータリ ー の向 かい側に 隠れるように位置している﹁恵化洞 一

安いというメ リ ットのためである。 大学路の核 心とは言えないが、成均

「チケ ッ トボ ックス」は大学路で

この三十あまりの公演場はソウルにおげる

公演されるほとんど全ての演劇

館大学校の方へ少し歩いて行ったとこ

の『教室イデア、 』 ( 左上) ここの

演劇公演の、玉導的役割を果たしている

( 右上) I 恵化洞 1番地」で公演中

回ってチケ ッ トを求める苦労が

16


代に入 って﹁演友小劇場 ﹂ で育った演 出家や俳優たちがそれぞれ異なるジャ めている。 このように多様な顔が共存する大学

する。ここ何年かの聞にはテレビのコ メディアンたちのギャグショ ーが大学 路の新たな商業的興行として成功を収

とは全く縁のない無知な通行人を誘惑

ンル、異なる舞台に進 出していくこと により、演友小劇場自体は多少貧弱に

治 ・社会的な現実を直接的な素材にし た演劇を舞台に上げた。しかし 九0年

なってしま った。 現在、韓国の映画界 において最も知的な俳優と 言われてい る文盛根が主演をつとめた﹃チルスと 路が演劇の中心地にな ったのは 二十年 足らずのことである。その前の中心 地 は明洞であ った。 明洞は華麗な光を意 味する街そのままに年々商業の中心地 に変貌し、今は﹁貧しい﹂演劇の公演 場は夢見ることもできない、ソウルで O 0 01司 日m ﹂

最も地価の高い土 地 になった。最近 ﹁ 倉庫劇場﹂が明洞の片隅にオープン

毎増え続ける 。 こうなってくると脱大学路を夢見る のも無理はない。八0年代の初めから ﹁サンウリム小劇場﹂が位置している 弘益大入口の周辺もその代案のうちの 一つにな っている。舞踊の公演場とし て出発した﹁創舞ポスト劇場﹂と新た にオlプ﹁ンしたシアターゼロ﹂がこ の 付 近 の 演 劇 公 演 場 の 軸 に な ってい る。 しかしこの辺 一帯もまた小劇場と は比較できないほど多くの飲食庖と酒 場がひしめいている 。

あるが、おもしろいのは果 川と大学路

めた直径十メ ートルの大型劇場で毎年 秋になると野外劇の舞台を設けてい る 。 秋は祭の季節である。二十数年の歴 史を持つ﹁ソウル国際演劇祭﹂も開か れるが、九八年に二回目を重ねた﹁果 川マダン大祭﹂も開かれる。マダン劇 大祭の舞台はソウルの衛星都市果川で

思い切って脱ソウルを夢見る演劇家 もいる。祝祭劇団﹁舞天 ﹂ は京畿道安 城の片田舎の小さな村にあり、畑を埋

いるということではソウルでも指折 り の地域である。大学路の零細 小劇場が 端ぎ声を上げるほど賃貸料は上がり、

展しているということである。大学路 は明洞のような金融街、高層 ビルの街 ではないが、飲食店や酒場が密集して

問題は大学路もまた明洞のように発

演劇に関 心 のない通行人の足並みは日

し、明洞時代の脈を再び継ごうと努力 してはいるのであるが。

「サンウリム小劇場 」

マンス﹄、黄芝雨の詩を実験的な台詞 使いで演 出した﹃鳥たちもこの世を捨 てるのか﹄などは八0年代の演劇ファ ンの記憶に新しい 。 一九七0年代の大学街から吹き始め た伝統演戯に対する関心は九0年代の 大学路にも残 っている。八0年代に 一 大旋風を巻き起こしたマダン劇がそれ である 。 マダン劇の主な素材にな って いた政治・社会的な問題意識は世の中 が変わるにつれ多少薄らいだが、観客 が生活の中で感じる問題を演劇にする という精神とサムルノリの リズム、そ して伝統的な舞踊の振りなど、韓国的 な演戯のテクニ ックを俳優の演技の基 本に考えた点はアリラン小劇場の作品 などにいまだに生き残っている。 大学路にもまた商業劇の最も低俗な 形態が共存する。俗に﹁裏通り ﹂ の演 劇と言われているのがそれである。女 主人公の性的な葛藤と冒険が主だ った ストーリ ー であるこういった演劇もま た一日に五、六回公演されながら客を 集めている。 一般の公演でやりくりの きかなくなった大学路の小劇場が一つ 二つ潰れていく中でも 、 こういった裏 通りの演劇は信じる信じないは別にし て連日﹁満員御 礼﹂の 札 が下 がり演劇

は地下鉄の四号線で四十分の距離でつ ながっているとのことである。九 七年 に韓国で開催された世界演劇芸術協

.会 の 総 会 は 地 下 鉄 四 号 線 を フ ル に 利 用し て 大 学 路 と 果 川 を 行 き 来 し な が ら演劇を鑑賞することのできた最高

。 の機会であ った ソウルという大都会の中に韓 国 の 人口の四分の 一が集ま ってひしめき

合 って い る よ う に 、 狭 い 大 学 路にひ しめき合う韓国の演劇に観客たちは 時おりめまいすら感じる。 ﹁ 実験 ﹂ と いうサブタイトルのついた舞台が登

場することもあるが、登場人物の 一 挙 一動 に 起 承 転 結 を 考 え た 叙 事 中 心 の演劇の伝統色が強いことも観客に 物足りなさを感じさせる点の一っと 言 うことができそうである 。 商業劇 に対する 二分 法 的 な 思 考 の 強 い 演 劇

家に出会うことも頭の痛いことと言 え そ う で あ る 。 大 学 路 の 演 劇 家 たち は﹁いい演劇日観客が入らない演劇﹂ と は っ き り と 言 い切りはしないが、 観客が集まる演劇に対しては疑わし い視線を送る節がある。しかし、こ ういった言葉は何の役にも立たない。 週 末 の 午 後 、 大 学 路 に 一 度 行 ってみ

るといい。掲示板ごとに旗のように 翻る演劇のポスター、ヒップホップ ダンスを踊る場所を探して、でなけ れ ば ス ト リ ー ト バスケッ ト をする場

所 を 探 し て ウ ロウ ロ し て い る 十 代 や 公演を終えて舞台化粧を落としたば

かりの演劇俳優が肩をぶつけ合って すれ違う、この具体的な空間ほど観

客をウキウキさせるところはソウル の他のどこにもないからである。 畠マ

17

脱大学路を標携して弘益大前に移っ た


延世大学教育学科教授

題を社会悪だと考え 、彼 等の 問題を、 予 防 よ り は 治 療 を 通 じ て 解 決 す るの

している大人たちは、若者たちの問

文化 の生け賛の羊と見なす視角があ る。しかし、若者たちの問題を指摘

成 世 代 の 文 化 に対する 抵 抗 スタ イル と 見 な す 視 角 と 、 彼 等 の 文 化 を成人

な っ た 観 点 は 、 若 者 た ち の 文 化 を既

通用す る 観 点 と 言 えよう 。 こ れ と 異

者 た ち の 文 化 を社会 問 題 の 類 型 と し て眺める観点であり、最も一般的に

ことさえある。こうした視角は、若

反する反文 化的 なものと見なしたり、 甚 だ し い 場 合 に は 、 彼 等 の 文 化 が社 会的に最も問題になるものと見なす

は、彼等の文 化 を既存の社会構造に

造 と は か な り 異 な る 文 化 と 価 値 観の もとに生きている。ゆえに大人たち

今日の若者たちの特徴 今日の若者たちは、既存の社会構

韓駿 相

ハンジユン サン

早E手 1五E

に汲々しているのが実情である。実

際に若者たちの 問題 は 、 彼 等 が 未 来

の社 会 を リ ードし て い か ね ば な ら な い主役だという 点 できわめて重要で ある。しかし彼等に対する偏狭な視

角は、問題を解決するよりもむしろ

は、彼等に対する理解不足という決

悪化 さ せ て お り 、 世 代 問 の 葛 藤 を 増 幅させている。こうした問題の始発

定 的 な 問 題 が 作 用 し て い る 。それで は 一 体 若 者 た ち の 文 化 はどのような

特 徴 を 持 っている の だ ろ う か 。 彼 等 はどのように考え、生きているかに

関するこれらの質問に真撃に答える

ことができねばならない。 若者たちの文 化 は、基本的に社会

の既 存 文 化 を 根 本 的 に 一つ 一つ新し く再構成しようとする解体の性 向 を

持 っている。 解 体 主 義 的 な 考 え 方 は それらのすべてのものを一つも残さ

18


解 体 主 義 は基 本 的 に 既 成 世 代 が 一様

え や観点とはは っきりと区分される。

ず打ち壊してしまう破壊主義的な考

は消費文化に慣れており、彼等のこ

人たちである。そのため彼等の文化

は可能な限り経済的自立を願う自律

を経験したこともあるが、それより

いて個人別に相対的な心理的剥奪感

第 三に、今日の若者たちは、教育

に追求しようとする既存のアイデン

的には精神病棟や監護機関と異なる

ティティ体系を分解しようとする立

いる、生の内容と知識の形態を通じ

大 人 た ち が 自 分 た ち の 利 害 関係の維 持 の た め に 自 然 のうちに 受 け入れて

こ と の な い 学 校 で 最 小 限 十 二1 十六

うした性向は大衆文化をリードして いく巨大な源泉とな っている。

て徽密に行使している権力の自己正

場をとる。今日の若者たちはまさに

当 化 、 そ し て 権 力 と 知 識 の連 携 の 鎖

合には反社会的なものとして焔印を

たものであるよりも街の中で作られ

めて反 学 校 的 な も の で あ り 、 彼 等 が 享 有 す る 文 化 は 学 校 か ら も た りされ

彼等の抵抗は執助なほどに続けられ ている 。 彼 等 が 作 り 出 す 文 化 は き わ

たのである。そのため学校に対する

年 問 、 い わ ば 約 四 千 三百八十日以上 を競争的に生きなければならなか っ

を 徹 底 的 に 断 ち 切 ろ うとしている。 若者たちのこうした性向は、大人の

押されてしまうことさえある 。 こうした若者たちの問題を理解す

ているものである 。

視角からは問題視され、甚だしい場

るためには、彼等がどのような特徴

h

を持っているかを探ってみる必要が

政治社会化が十分に成されていない

圏にとっては政治的な失敗作として、

第一に、今日の若者たちは、政治

強調される高度消 費社会で暮らすよ

れた画一化と単一品種の大量生産よ

日の若者たちは産業化時代に強調さ

には転換期にある者たちである 。今

第四に、今日の 若 者 た ち は 社 会 的

脱制度的な政治勢力と見なされてい る。 今 日 の 若 者 た ち は 政 治 的 な 民 主

は既存の大人たちが持っていない創

うになった存在である 。 また、彼等

ある 。

化の虚と実、政治的な抵抗の成果と

対して組織的に対抗するというより

し 深 い 不 信 感 を 持 って お り 、 こ れ に

く 知 って い る 世 代 で あ る 。 彼 等 は 政 治で代表される既成世代の文化に対

握することができる 。 第五に、今日の若者たちはコンピ

者たちだという点で彼等の属性を把

体が十代の後半から二十代初めの若

の大衆文化を生産、消費している主

担当している生産者でもある。今日

り は 、 多 品 種 の 少 量生 産 と 個 性 化 が

挫折という二つの相反した結果をよ

は脱制度的で意識的な郷掃を送るこ

ュータ文化に非常に慣れ親しんでい

に豊鏡な世代である。絶対貧困から

の機能がそうであるように、数多の

る世代である。彼等はコンピュータ

意性を基盤に、新たな文化の生産を

第二に、今日の若者たちは経済的

とによ って 大 人 の 文 化 を 簡 単 に 否 定 し去 っている 。

抜け出した世代で物質的な豊鏡につ

19


手 に や り お お せ る こ と は ほと んど無

今日、韓国の青少年たちが自分勝

性 向 を発見し得ないという点で、 二

化 の可能性に 向 け た 文 化 的 な 逸 脱 の

者の文 化主体に何ら影響力を及ぼす ことができずにいる。新たな若者文

人々である。

若者たちの問題を強権で代表される

十 一世 紀 の 転 換 の 社 会 の 中 で 、 我々

策 は ま さ に こ こ に あ る 。 すなわち、 治 療 策 で 癒 す よ り は 、 文 化 政策を再

い。彼等のやっていることと言えば、

社会状況と情報を飽さることなく迅 ている。こうした若者たちの行動は

速かつ完壁に処理し得る能力を持っ

大 人 た ち が い ず れ も 統 制 することの

が旧態依然として体験しなければな

検討し、彼等が息抜きできる憩いの

らない文 化的 な 惰 性 の 姿 に 気 も 心 も

場を作ってやる根本的な予防策が必

できるものばかりである。そのため

したがって彼等は自分たちの世代の

政治 家 や 教 育 者 た ち が 彼 等 の 逸 脱 と

結果本位であり、興味本位である 。 要だと言えよう。

い。いろいろと有害な環境に満ちた

戦いを交わすべきほどのものではな

が、それは若者たちが償うべきもの

す っかり抜 け て し ま い そ う に も な る

もかかわらず、コンピュータが持っ

感覚に合った価値観を持っているに

多くの人々は若者たちの文化と彼

若者文化と社会環境

ではないという点に新たな回答と可

ている短所をそのまま持ち合わせて

能性を見 出 すことができる。彼等を

いる。すなわち中間的な思考や中庸

空間の中でさまよっている若者たち

うに圧迫し、それに従うように強要

等の考え方や行動に問題があると騒 ぎ立てているが、韓国の若者たちの

である。この点は範囲を拡大させて

たちの文化の排池物や淳ではないの

的な 判 断 を 十 分 に 下 し 得 な い 。その ため若者たちは即興的であり、忍耐

なんと言っても大人たちに比べれば

そのような境 地 に 追 い 込 ん だ の は 若

心根の正しい人々である 。彼等のや

している虚弱な文化環境である 。 海の中で自由に泳ぎ回つ 同 ていた鮫

者たち自身ではなく、彼等をそのよ

若 者 た ち の 文 化 を把 握 す る の は 難 しい。彼等の文化と生の姿はこうし

韓国の若者文化全般に当てはめてみ 。 ても結論は同じであ る

水 を 飲 ま せ な が ら 彼 等 に 向 か って鯉 になれと要求している大人たちの文

か ら と 言 っ て 若 者 た ち の 文 化 が大人

た評価を拒否しているのかもしれな

っている こ と は 大 人 た ち の 目 か ら 見 れば信頼し難く、甚だしい場合には

現実の文化環境や社会教育環境な

が 、 大 人 た ち の 文 化 , 政治、教育の 犠牲になっているのは事実だが、だ

い。絶え間なく新しい物を作り出そ

ど は 、 青 少 年 文 化 の新たな可能性を

文化は頼もしいばかりである。今日 この社会で生きて行く若者たちは 、

うとする若者特有の創造性と自らの

目を覆いたいほどのものもなくはな

化的 な 野 蛮 性 に 若 者 た ち が 怒 り を む

を知らないという 批判 に直面する。

エネルギーを発散しようとする欲望

聞き、それをリ ー ドしていくべき若

に 、 毎 日 の よ う に 町 の 中 の 小 川 の廃

は、既存の社会秩序と正面から背馳

いが、それにもかかわらず彼等は未 だこの社会でもっとも信頼すべき

したりする。若者たちの問題の解決

20


なし

き出しにしていると見なければなら

らない。

総体的な戦略として活用できねばな

は 、 韓 国 の 若 者 文 化 の発展のための

的な行動を通じてもたらされた結果

ならねばならない 。 若 者 た ち の 具 体

大人たちの文 化 の残り浮だとか汚物 だと罵倒するのは断固として排撃し

るのは否定できないが、若者文 化 が

既 成 世 代 の 文 化 によ って抑 圧 さ れ 傷 ついて古くいびつなものになってい

中毒ややくざ文化からもたらされた

少年たちが犯す逸脱や非行は 、薬物

少 年 た ち を 除 い た 大 多 数 の 一般 の 青

されたものである。彼等を一般の青 少年犯罪者だと決め付けるよりも、 韓国の若者たちの非行と逸脱問題 つ も り は な い 。 実 際 に 十 代と 二十 代

が 深 刻 だ と い う 点 を 強 引に 否認する

彼等を非人間 的 な入試訓練のために 傷つきいびつになった精神健康の悪

なければならない。

ものではなく、入試中毒からもたら

は過保護を受けている一部階層の青

各種の文 化空間 が若者たちに、そ の 何 か を 十 分 に 尽 く し 与 え 、 彼等を

新たな形に発展するためには、そし

また若者たちの文化がこの社会で

完壁に育てようとするならば、若者 たちと彼等を必要以上に拘束してい る文 化 の 権 力 関 係 を 新 た に 作 り 出 さ ねばならない。数多の団体と文 化空

必要である。そうした視角の変化と

う な 点 を 例 に 挙 げ て 青 少 年 問 題をも っと も 深 刻 な 社 会 問 題 だ と 考 え て い ることも事実である。しかし、火の

る ば か り で あ る 。 若 者 た ち の 文 化を 否定的にしか見ない人々は、このよ

少なくない。彼等の立場からすると、

っ て 犯 さ れ る 雑 多な 非 行 な ど を 必 要 以上に断罪しようする人々の主張が

がもっとも望ましいことである。

化 した青少年たちだと見なし、彼等 のための新たな文化対策を設けるの

者 文 化 が 大 人 た ち の 文 化 の生け賛の

若者たちは問題をはらむしかない善

の 犯 罪 率 は 年 を 追 っ て 増 加 しつつあ

ある。若者たちと権力集団との聞に

羊だと決めつける認識から脱皮しな

ないところに煙が立つはずはない。

導の対象であるのみである。韓国の

とそれに基づいた文化発展の政策が

正しい関係を結ぶということはそれ ほど容易なことではないが、各種の

いわば学校から隔離され、社会から

韓国の場合、きわめて少数の青少年、

若者たちに関する研究に、なになに

てその文 化 が こ の 社 会 で 自 分 の 機 能 を発揮するためには、なによりも若 者たちの文 化 に対する聞かれた視角

文化空間が文 化 の場としてその機能

ければならない。必要であれば、大 人 た ち が 使 い 捨 て た 文 化 的 なものの

指導対策、保護方策、実践方策など

間といわれる権力機構は、どのよう な理由であれ青少年を抵当にして彼

を発揮するためには、若者たちの権 利を重視してやり、彼等から信頼さ

残 り 浮 が 若 者 た ち の 文 化であ るとい

も 冷 遇 さ れ て い る 青 少 年 た ち の 一部

等の利害関係を追求していく集団で

れ得る文化発展の方向からまず探し

う視角から果敢に脱皮しなければな

と、学校には無関心であり社会的に

それにもかかわらず若者たちによ

出さねばならない。こうした文化の

ら な い 。 も ち ろ ん 今 日の 若 者 文 化 が

文 化政 策 を 考 え て み る た め に は 、 若

発展対策は若者たちのためのものに

21


, ョ

尤 斗 非 T 正 文 開 な ー 、 yフq亡. の展者 策か カf れ よ ネ土す た ム -z;ミ、 る ち 必 た の た 要視 も で で 角 元ーキ介T 自 め 又 あ と 者分にイじ ミ る そ た の は、 カ , 、 れ ち 機 ー 、 の 能そ の 土 基え を し ネ づ 化 発 て 会 L、 に 揮 そ で た対す の新 えす る えた イ じ る たイじな め が形 発 展 は、 の

22


の接尾語が使われているのはこうし た認識と流れを共にする。このため

ているということに自ずからうなず

論理から彼等を保護しなければなら

そのような犠牲である生け賢の羊の

文化 の 補 助 物 と し て い か な る 可 能 性 も見られなくなる。若者たちの文 化

よ って若者 た ち を 社 会 の 片 隅 に 押 し 込 めておくだけだとすれば 、若者文 化は 大 人 文 化の コピ ー で あ り 、 大 人

くのである。若者たちが大人の商い の助けになると考えられれば過多な

若者たちが大人の社会 、経 済 、政治、 文化の犠牲だと言い張る主張になっ

ほど礼讃を受けることもあるが、彼

ず、実践的には、出来る限りの非行

ければならない。

a

に対する予防と治療、そして安定に 対する国家的な保障策が設けられな

を蘇生させるためには、理論的には

等に対する強欲がなくなりかけた と きには、容赦なしに社会の不良とし しかし、こうした生け賛の論理に

て罵倒するのが常である。

23


、 た。はっきりしたことはわからないが、

った。けれども、この目障りな 四人組が、 もうとっくにひと騒ぎ終えてきたこと

だ、ようやく宵の八時になったばかりだ

こと を確信するようになった。 このよう な多少奇妙で、すぐにも心配の種になり

い韓国の若者像を代表するものではない

. F る夏の土曜日の宵の口のこと Lμdrdだ った。いつも混み合ってい 、/・、 る地下鉄の恵化駅で 下りたと

は、誰の目にも明らかだった。 私が三年問、韓国で暮らしながら目に

夜ともなると若者たちの人いきれでむん むんする文化と娯楽のメッカ、ソウルの 大学路として知られる、この有名な蜂の

つある非常に奥の深い反文化革命の、時 には無謀な、時には破壊的でもある表面 的な現象に過ぎないのだ。 歪んだ六十年代の雰囲気でいっぱいの

一九九九年 の韓国の若者たちの姿 ・ 黄色、緑、紫に染められた髪やピアスや

騒々しい江南、そして、私が暮らし、 仕事をしている大学路にいたるまで、

韓国を訪れた多くの観光客は、若者 たちの溜まり場として知られるソウル の様々なところ ・ ・ ・明洞のファ ッシ ョン街のブティックから新村 の盛り場、

若さに満ちあふれ、快活な新しい精

を内包した健康的な文化革命のシグナル と言えるのだ。

ヒップ ・ ホ ップな服装 の奇妙な混在に象 徴されるこれらは、実は韓国と、さ、 b にはこの世界の在り方に対する深い意味

鳥の尾羽のようなヘアスタイル、ギャン グスタl ・ラップとイギ リス風の、ある いは、これでもかとばかりにだぼだぼの

こうした光景を目にするかもしれない。

ュージック、身体のあちこちに穴をあけ

で肝を潰すようなヘビlメタル・ミュ ー ジックはもちろんのこと、外国映画、ジ ャズ、パンク、パンクロック、ラップミ

も抱いていない。 今日、多くの韓国人は、青少年犯罪の 増加、青少年の家出と自殺の増大、高校 での問題点と暴力沙汰、途中で自主退学 する学生たち、シングルマザl、がさつ

地がさらに素晴らしい国になっていく だろうということに、いささかの疑念

た変化だけではなく、私はこの分断の

そして、このような光景は、韓国の若 者が統制から抜け出し、豊一かさと新し

が、実際にはこの激動する世紀の転換期 に人生と愛、そして国家を論ずる新し

的な大学で教鞭を執りながら、私は大学 路の街角で目にしたような若者たちの姿

く手にした自由、また突然訪れた独立 の中で浮かれているような 印象を強く 与えるかもしれない 。実際、韓国の若 者は、アメ リカの大学で世間知らずの 新入生が、彼らにとって初めての親睦 パーティーを楽しんでいるときのよう な振る舞い方をする。 しかし、もう 一度、よく考えて見ょう。 一学年の卒業生の 七八 %が短期大学や 四年制大学に進学する韓国の名門高校 で、また、これまで二年問、韓国の代表

神と洗練された新世界がゆっくりと、 しかし確実に近づいている韓国は、﹁静 かな朝の国﹂という、今の韓国にはあ まり似つかわしくない名前とは異なる 面を見せるようになるだろう。そうし

巣のような渦巻きの中では、決してそう 珍しくもない事件だ。

そうな事件は、今、韓国の底流で進みつ

この哀れな魂の持ち主は学生かもしれな いし、息の詰まるような職場にがんじが らめにされたごく普通の酔っぱらいに過 ぎないのかもしれない。別の言い方をす れば、彼は韓国のアインシユタインかビ

きだった。人ひとりをなんとか肩 一にか つぎ上げ私の方に突進してくる若者を ル ・ゲイツ、あるいは気分のいいのに任 せて、一杯、また一杯と杯を重ねすぎて 酔いつぶれてしまった、今韓国で急上昇 中の多くの若い 実業家の一人であったか もしれない。 彼の可憐な従者が ・・-彼は間違 いな く、善きサマリア人であるに違いない

苦しんでいる友人を急いで地下 鉄駅の床に下ろそうとした瞬間、その哀 れな友人の口から突然、黄色い吐潟物が 吐き出され、背負 ってい た友人の背中と あたりの床を汚してしまった。私が吐潟 物の跳ね返りを避けて通ろうとしたと き、粋にめかし込んで、どぎつい赤いル ージュの唇に、髪を赤く染めた二人の (彼女らもほろ酔い加減と見えた)﹁いか れ者﹂が、慌ててポケット ・ティッシュ を取り出して、彼らにとってかけがえの ない友達のあごを拭いてやっていた。ま

してきた数多くの事件の中の一つである この多少感傷的なメロドラマは、週末の

避けるため、私は歩みを緩めなければ ならなかった。 彼の背には、酔っ払って泥酔状態にな った友人の身体が、まるで獣 の死体の よ うに覆い被さっていた。その友人の腕は、 十月のウィスコンシン州のピ ック アッ プ ・ト ラックに戦利品のように積まれ た、運の悪い鹿の前足のようにぶらぶら

と揺れていた。それほどしっかりと持ち 上げられているとも見えない、同門同と皮ば かりのように見える彼の足は、イギリス のポップ ・ミュージックがアメリカに上 陸してから彼の地で流行した六十年代の ファッションを連想させる身体にぴっち りとしたビ ート ルズ風の上着の下にだら りと垂れ下がっていた。 ヘアスタイルはと言えば、その青年の 長くて組みたいなオレンジ色の髪の毛は 額の上にかぶさり、さらりと光るイヤリ ングをつけた耳のあたりを覆い隠してい

24


コミ ック漫画などの 現象を見て純真さを 失った若者たちに対する憂慮から嘆くこ

あ、口にするのも嘆かわしい!)日本の

ること、入れ塁、濃い化粧、そして(あ

権が打倒されるまでは不可能なことでは

海外旅行や留学は、

いる)、海外旅行や留学じ憧れている。

ほとんどは(私は毎日、数百人と話して

最近、私と言葉を交わす韓国の若者の に、それは明らかに既成世代の不手際と 尊大さのせいだと語った。

韓国の若者たちの中の何人かは授業で私

はそんなことはおくびにも出さないが、

かを選択する自由 、 そして彼らを背後

な小説、どんな詩、どんな 漫画を読む

現在、韓国で実際に起こっている現象 教育に慣らされ、やっとの思いで暮らし

科書と高圧的な政府宣伝に満ちた 一方的

無理矢理に覚え込まされる無謀乾燥な教

ワークではもちろんのこと、クラブ、サ

の韓国の社会・環境・消費者運動ネット

多くの若者が、今まさに誕生したばかり

まま勝手で、あるいは冷淡なように見え るかもしれないが、実際にはそれ以上に

韓国の若者の多くが目的を失い、わが

業を選択し、自分自身の事業を始めた

する自由を望んでいる。彼らは自ら職

音楽、そして専攻について、自ら決定

性愛者として生きていくこと)、服装、

タイル、生き方(同性愛者、または異

な政府の検閲なしに 、自 分たちの見た い映画を選択する自由。

作り、音楽を作曲し、雑誌と詩と小説を

でビジョンを描き出し、ソフトウェアを

場で活発に活動している。多くの場合、 彼らは回、信思深く、用心深い。かつての世

がっており、呆れるほどお節介な両親

それに加えて、彼らは自分のヘアス

は、過去何世代にも渡って経験してきた

ークル、ボラ ンティア組織、教会など の

から監視している時代遅れで 近視眼的

としきりだが、実は彼らは重要なことを なかったが、たいへん難しいことだった。

処罰と監禁の軍部統治時代、独裁的かっ い韓国人は徐々にではあるが、自らの手

てきた彼らの両親とは違って、多くの若

うに)、昔ながらのやり方で物事を運び、

一 九 八九年に独裁政

見落としている。

の韓国の若者が家と学校で虐待されたよ

垂直的統制と家父長的な支配時代(多く

人を処罰した時代が、ついに個人の自由 熱心に読むようになってきた。

ている。だが、その爆発は、ほんとうに

ああした事件のようなものになって現れ

土曜日の夜、地下鉄の恵化駅で目にした

のだが、その一つが先に述べたような、

その爆発は多彩なかたちを取っている

て、正統性をそなえた真の改革家である

大した母国を心 から望んでいる。彼らは、 改革の意思を持った新しい大統領とし

そして、おそらく、女性の権利のより拡

らの大多数は清潔で、自由で、公正で、

に憤滋ゃるかたなく失望したあまり、彼

のあらゆる面にはびこっている不正腐敗

うな大企業、そして 事実上、 社会と政府

膨れ上がった官僚組織、マフィアのよ

と文化を遠ざけることなく、受け入れた が っている。そして、言うまでもなく、

から待ち望んでいる。彼らは異なる民族

て支持しており、北韓同胞との統 一を心

れている現在の改革の流れを熱意を持っ

彼らの多くは、韓国全体で繰り広げら

未来に対し、真塾な姿勢で臨んでいる。

取り巻く環境、そして彼らが分かち合う

自身の生き方と愛、彼らの友人、彼らを

的かっ進歩的な若者と同じように、彼ら

代のように権力や金や統制に対してでは なく、国際社会で活躍しているより現代

とした思いやりのある彼は、未来の家

多少無鉄砲で自覚に欠けてはいるが、 それにもかかわらず友人を介抱しよう

覚していようといまいと、新しい韓国 人だからである。しばしば羽田を外し、

ならば、彼らもやはり、彼ら自身が自

国に有利な解釈をしたいと思う。なぜ

らず私は心の底から彼らに、そして韓

あるには違いないが、それにもかかわ

あの若者と 仲間の 姿は、多分に今日の 韓国ではあまりにもありふれた光景で

新しい韓国人と呼ぶ 理 由 だ 。 恵化駅の

を。そして、これこそが、私が彼らを

偶者を選びたがっている 。彼らは新し

ことほ

今日、韓国の若者は昔と比べて、 一般 的にずっと率直だ。彼らは好奇心が強く、 自己主張はもっと強く、はるかに開放的

靭かつ健康的であることを、そして、

い日々に 向かっている 。酔いつぶれた 不運な若者が、実際には創造的で、強

庭人として、また社会人として正しい

い韓国を熱望している。よりよい韓国

長くて暗い冬の後の、遅ればせながらの

の流れに取り残され、慢だらけでぼろぼ

金大中を受け入れた。また、彼らは時代

彼ら自身の文化を再定義し、再形成しよ うとしている。彼ら自身のやり方と彼ら

の強要に束縛されることなく自らの配

という爽快かつ新鮮きわまりない爆発に

春の訪れであり、韓国人に とっては数世

ろになった韓国経済に、新鮮な息吹を吹 き込もうとしていりる多くの新しい企業家

自身の言葉で。

取って代わられたことに他ならない。

紀に渡って抑圧されてきた個人としての 人間の精神に対する奇妙に荒っぽい、そ

を尊敬している。さらに 一歩踏み込んで

であり、厳格な儒教文化の様々な制約の

J

して活気にあふれた言祝ぎなのである。

みると、若い韓国人の誰もが、誰が、そ

道を歩んでいる。新しい夜 明けと新し 民主主義という形の政治的な自由では

より平和で繁栄し、成熟した新しい韓

何よりも彼らは、自由を望んでいる 。

さらに、彼らは何を望んでいるのだ ろうか。 ついて、実によく精通している。それは、

済崩壊の危機に陥れたのかということに

の真の愛国者たちが苦闘の末、すでに 知的な、そして文化的な自由だ。どん

手に入れた。彼らが望むのは精神的な、

はいられない。

国が誕生するその日を心より願わずに

A-

ない。それは、彼らの両親の世代の中 巨大で、ど こにでも首を突っ込む﹂I M F (国際通貨基金)でもない。家の中で

日本とアメリカの陰謀でも、金融投機家 のジョ ージ・ソロ スでも、あの ﹁倣慢で、

して何が﹁韓国株式会社﹂を全体的な経

を享受している。また、彼らはたいへん

中で育 ってきた彼らの両親には決して許 されることのなかった、個性的な生き方 想像力が豊かで、革新的かつ創造的だ。 我々は韓国の美術、科学、音楽、経済、 にそうしたことを見出せる。

文化、社会、そして政治などあらゆる面

25


T H E 2 0 T H C E N T U R Y I N R E T R OS P E C T

ミレニアム特集の趣旨 20世紀が幕を下ろそうとする現在は、今世紀の軌跡を省察するの に適した時期であろう。今世紀の前半に植民地支配を受け、そして

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1945年に解放を迎えた韓国は、その後、約半世紀にわた って「近代 化j に全力投球し 、5000年の歴史の韓国社会に類例のない変化と成

《 む p,

果をもたらしたが、過去半世紀に対する省察は国内外において意味 のある探索に違いない。 急変した過去を返り見るのは、 21世紀の韓国を探ることができる 最も確実な鏡でもある。 過去半世紀にわた って成し遂げた韓国の成 就は一言で「圧縮的近代化 j であ った。西欧において 200年にわた り成し遂げられた近代化の道のりを短期間で歩んできたという点に おいてそうである。西欧の近代化を模倣した韓国の近代化は何より も産業化に着眼し、 一大成功を収め、これを土台にしてついに政治 的民衆化の本軌道にも進入した。政治と経済の大変革は何よりも中 産層に経済的余裕と政治的意識化を誘発する ようになり 、社会的構 成とその力学も また多次元化 を経験し た。変化は変化を生む。文化 の世俗化ないし大衆化も過去半世紀の間に大きく拡がった社会変化 の一つである。 この企画は過去半世紀に韓国人が深く感じ入り、彼らに拡がった 発展的指向と成就を政治 ・経済 ・社会 ・文化の分野に分けて点検 し 、 これを通して21世紀を見通すことのできる教訓を得ようとする ものである。 編集者注

-

-

同色

A

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十世紀後半の韓国社会の変

チョン ポ ム モ w p u首 n 穴 翰林 大学 碩座 教授 祐実主車-言

一 化 はま こ と に 驚 異 的 で あ 一 り、激動に満ちたものだ っ た。 五 千 年 の 悠 久 の 歴 史 に 照 ら し て

み て そ の 感 を深 く す る こ と は 言 う に

及ばず 、 極 度 の 社 会 的 沈 滞 期 であっ

一般 に 発 展 、 あ る い は 近 代 化

た朝 鮮 王 朝 末 期 と 日 本に よ って 占 領 されてい た 三十 世 紀 前 半 に 比 べてみ

ると、

と 言 わ れ て い る そ の 変 化 の目覚まし さが 一層鮮明 になる 。

歴 史 的 に 見 て 長 期 に わ た って絶対

的 貧困に 哨 い で き た 社 会 が 、 こ の 五

十 年 間 で一 人当 り の 国 民 総 生 産 一 万 ドルを 達 成 し た こ と にしろ 、 アパー

ト な ど 影 も 形もな かったソ ウ ルをは じ め と す る 各 都市 に 今 で は 無 数 の 高 層アパートが 林 立していることにし ろ 、 そ う し た 事 実 を よ く 物 語 ってい る。 ま た 昔 は 、 恋 人 同 士 が 外 で 手 を つ な い で 歩 く な ど も って の ほ か だ っ

たのに、今では互いに寄り添い 、抱

き 合 っ て 歩 く 男女 の姿など 特 に珍し

-

26


くく、変化の歩みが遅いという仮説

るものほど変化は少なく、変わりに うした仮説を前提に、これまでの社

事実は、韓国社会のほとんど奇形的

六十万の人口が集中しているという

的現象としては、絶対的貧困から抜

この五十年間で最も目を引く社会

豊かさの実現

くの人口が集中する貧民街をも生み 出した 。さらに、﹁ 他人は私のことを

に都市は様々な混雑をもたらし、多

会の集中を意味する。しかし、同時

経済、文化、教育の面での権力と機

ていた五大河川がどれもひどく汚染

けだし、様々な豊かさを実現させた

知らず、知ろうともしない﹂匿名性

くもなくなった。さらには澄み切っ

ている。また、表層的なものが変化

祖先崇拝の観念は今でも根強く残 っ

ことが挙げられる。経済発展によっ

表している。都市化は政治、行政、

とも 言える 中 央 集 権 的 な 体 制 を よ く

会変化の様相を重点的に概観してみ よう。

ンティティに対する脅威だとはあま

しても、人々はそれを自己のアイデ

て 百 ド ル 未 満 だ っ た 一人 当 り の 国 民

を帯びた都市の生活は開放感と同時

にさほどの時間は要しなかったが、

り考えないが、深層的なものが変化

に、一方では疎外感や孤独感を生じ

だ。伝統的な韓服を洋服に替えるの

すると、強い脅威と抵抗を覚えると

総生産が一万ドルに達した社会には、

田畑にイナゴの姿を見かけなくなっ

現象、構造、精神 こうした社会的変化を概括的に回

豊かさを実感させる様々なものがあ

され、空からはヒバリの姿が消え、

顧・省察し、その未来図を描くため いう仮説も含まれている。洋服を着 たからと言って ﹁ 韓国人﹂でなくな

てしまったのも、この五十年間に起 きた変化だ。

に、まず社会構成要因を現象的・構

の手段として羅列的に区分したもの

るまでほとんどの世帯に電話、冷蔵

自動車の洪水であふれ、農村にいた

の間に十五センチも高くなり、道は

に よ り 十 一才 の 児 童 の 平 均 身 長 は こ

ふれでいる。栄養と衛生状態の改善

きし、体験を通して充分に承知して

ものであることは、我々も直接見聞

の環境汚染と引き替えに達成された

豊かさは、また、目を覆うばかり

させている。したがって、都市には 犯罪も多く、精神的疾患も多い。

造的・精神的という三つの要因に分

ではなく、三層の同心円をなし、図

庫、テレビがあり、デパートには豪

いる。その実状についてここで詳細 に述べる必要はない。ただ、それが

c 勺﹀訂式印mcZ のe

式化することのできるものだ。

華な商品がふんだんに並べられ、都

には高速道路が行楽客のマイカーで

心には高 層 ビルが、郊外には高層ア パートが、ぎっしりと建ち並び、休日

り一層深刻な様相を呈しており、ま

の狭い韓国では環境汚染の弊害はよ

世界的な現象であるとはいえ、国土

け、こうした変化を検討してみたい。 これらの三つの要因は、単に便宜上

すなわち、 一番 外 側 の 表 層 の 円 に は、いわば社会の外観をなす比較的 れる。例えば、林立する高層アパー

た環境汚染と環境破壊はおそらく

とらえやすい多くの社会現象が含ま トや姿を消したヒバリ、失われた澄

はどれも五十年前には想像もできな

埋め尽くされ・・・。こうした光景

我々の子孫に対する最大の犯罪であ

ろうということをここで繰り返し述

かった、実に隔世の感といった新し い現象だ。

の円には、喰えて言えばその社会の るとは思わないが、﹁外来思想﹂の直

んだ川などがそれに当たる。中間層 骨格をなす様々な構造、組織、制度

きた。まず、豊かさを実現した産業

くの問題点を抱え、これを露呈して

っ て も 持 ち こ た え て い く ことができ

集中し、その経済構造が将来にわた

高 度 経 済 成 長 の 過 程 で は ﹁いかな る手段を使っても﹂、 ﹁ 速く﹂、﹁高度﹂ に成長、膨張していくことに関心が

べておきたい。 人が多い。さらに、表層の変化が速 く進むのに対し、それに歩調を合わ

化の過程で急激な都市化が進行した。

などがくる。社会階層、家族制度、 経済構造、選挙制度などだ。そして、

せて進むべき深層の変化は、変化の 速度が遅いがゆえに衝突と摩擦を引

都 市 化 率 は 五 十 年 間 で 約 二十 % か ら

ほとんど奇跡的に実現したこうし た豊かな社会は、豊かさとともに多

き起こしゃすく、多くの社会問題を

輸入には、強い脅威と抵抗を覚える

発生させるという仮説もここに含ま れている。例を挙げれば、中間層に

前には約七十万であったと推定され るソウルの人口は、 一九九五年現在、

一番 中 側 の 深 層 に は 頭 脳 と も 言うべ

でにある種の社会変化の、ダイナミズ

重層のシステムとみなす見方は、す

導入された民主主義制度と深層に依

圏に全人口のほぼ半数に近い千八百

約千六十万人へと膨張し、また首都

一つの社会をこうした同心円的な

仰などの精神的要因が存在している 。

きその社会の価値観、意識構造、信

ムに関するいくつかの仮説を内包し

は、衝突を繰り返す場合が多い。こ

然として残っている封建的な考え方

八十%へと、ほぼ逆転した。五十年

ている。すなわち、外側にあるもの ほど変化が多く、変わりゃすく、変

一日 で も 早 く 終 わ ら せ る こ と を 自 慢 していた地下鉄公社、しかし開通式

れなか った。 地 下 鉄 工 事 を 短 期 間 に

るような安定性と柔軟性を備えてい るかについては、さほど関心が払わ

化の速度も速いのに比べ、内側にあ

27


のその日に何十カ所にもわたって水 大 移 動 と 混 合 、 そ し て 共 通 の 貧 困な

意識の拡大、韓国戦争による民族の

解 放 と 同 時 に も た ら さ れ た 民 主主 義

どが伝統的な班常階級の名残りを 一 社会 掃し、その代わりにいわゆる ﹁

とも言える。政財界の癒着、日常茶 に名を借りた﹁タコ足式﹂膨張、企

飯事となった腐敗構造、事業多角化 経済的地位﹂によって決定される社

漏れしていた工事の実態がその象徴

欠陥はついには国際通貨基金による

業の過剰な負債比率など、構造的な

要因の下で形成された大衆階層であ

十%が自らを中産層だと見なしてい

ある調査によると、韓国人の約八

一層の拍車をかけることになった。

左右する教育機会の膨張、か、これに

会階層構造が形成されるようになっ た。 そ し て 、 こ う し た 地 位 を 大 き く

豊かさ自体は祝福でもあり得るし、

金融支援という破綻を招いた。 また禍ともなり得るとは、すでに経 有史以来、人の人生の最大の目的は

を中産層だと考えている、こうした

済学者のケインズが述べたところだ。 富の獲得であり続けてきた 。 そして、 その富が得られてから後に、 ﹁ 金﹂よ

主観的な評価の背景には、経済発展

うのが彼の主張、だ。拝金主義、守銭

多少なりとも暮らし向きが良くなっ

のおかげであらゆる人々が前よりは

ると 言 え よ う 。 ま た 、 大 多 数 が 自 ら

るというが、彼らは前述したような

は目的喪失に陥る可能性があるとい

りもも っと 生 き 甲 斐 と な り 得 る 別 の 何らかの目的が生まれなければ、人

奴、にわか成金の自に余る暴挙など

たという事実があると思われる。し

人々の意識と風習には、依然として

期に非常に薄められたとはいえ、

よる政治制度の近代化)によって廃 止された。しかし、続く日本の占領

の 一八 九 四 年 の 甲 午 改 革 ( 改 革 派 に

統的な班常(両班と常民)と呼ばれ る階級制度は、形式上では約百年前

韓国社会を大きく分割していた伝

多元化した社会構造

い問題として残っている。

解決の道を探り続けなければならな

上昇欲、すなわち出世欲から発する ものだ。したがって、韓国の親たち

求と 言 う よ り は 、 社 会 経 済 的 地 位 の

うなある種の教養、学識、人格の追

出世欲だと 言 わざるを得ない。韓国

韓国の教育熱は教育というよりは、

釈することができる。厳密に言うと、

国際通貨基金の管理体制の下で、よ り一層明らかになりつつある 。 特筆すべき韓国の教育熱の高さも、

ゆっくりと進んでおり、それが特に

る貧富の差がもたらす﹁相対的剥奪 感 ﹂ に よ って 、 こ の 社 会 の 両 極 化 が

かしその反面、次第に拡がりつつあ

に見られる、いわゆる物質文明にお

この階級意識がかなり残っていたと

ける価値観の転倒、価値観の危機と いう問題は、今日でも豊かな社会が

言えるだろう。班常意識がほぼ完全

は教育の内容よりは、﹁看板﹂の方に

の教育熱は 一般 に 美 化 さ れ て い る よ

同じく社会階層構造という視点で解

になくなったのは解放後のことだ。

日mL OOI20


特有の 一流 大 学 入 学 競 争 の 原 因 が あ る。 こ の よ う な 看 板 至 上 主 義 の 教 育

関 心 があるに 過ぎ な い 。 こ こ に 韓 国 団 体 が 標 傍 す る 一見 ﹁ 大 義 ﹂ のよう なものが、実は私 利追求のための仮 面に過ぎないことが多いからだ 。 そ

心も併せ 持 っていなければならない。

では、真の教育成果の達成に限りが

趨勢、特に結社の自由が保障されて

近代 化 のもたらす 一つの必然的な る舞いにも 、 成 熟 が 求 め ら れ て い る のだ 。

増幅しつつある 。 特殊関心集団の振

れだけ 社 会 は 多 様 な 生 産 的 総合体で あるよりは、極端化した葛藤のみが

ある。 それが韓国教 育 の問題点だ。

いる民主社会での 一つの必然的な趨

で多元 的 な 世 論 を 形 成 し 、 圧 力 団 体 韓国は約五十年前の解放まで、長

民主という制度

勢は 、 数 多 く の 様 々 な 社 会 団体の 出 現 で あ り 、 それらが 社 会 の 多 種 多 彩

る勢 力と な る こ と だ 。 経 済 団 体 、 労

と な り 、 あ る 分 野 で の 関 心 を追求す

に建国、憲法で自由民主主義という

いこと王 朝 、 そして植民統治という 制 度の 下 に あ っ た 韓 国 は 解 放 と 同 時

り、各種の学会、弁護士協会、体育

働組合 、 学 生 連 合 な ど が こ れ に 当 た

物質、又明における価値観の転倒、 価値観の危機という問題は、 今日でも豊かな社会が解決の 道を採り続けなければならない問題と

理念と 制 度を採択した。 これに伴い 、 諸 般 の 法 律 も 制 定され 、 三 権 も 分 立

して残っている 会 な ど の 専 門的 団 体 や ﹁ 経 実 連 ( 経 民主 済実践 民主 連合)﹂ 、 ﹁ 参 与連隊 (

権は実質 的 には独裁政様であ ったし、 鹿 泰 愚 政 権 、 金 泳 三政 権 も そ の 名 残

李承晩政権 、朴正照 政 権 、 全斗換政

いる。しかし、現代社会でこれらの

う言葉は意味深長な複合語、だ。﹁民主﹂

りをかなりの部分で 引きずっていた。 実のと こ ろ 、 自 由 ・民 主 主 義 と い

集団が 円滑 に そ の 役 割 を 果 た そ う と すれば 、 本当に 社 会 全 体 の利 益 をも 追 求 し よ う と す る よ う な 一般 的 な 関

ぞれ 一つの 特 殊 関心 集 団 を 形成 して い る 。 す な わ ち 、 それぞ れ の 集 団 の 利 益 を 伸 ば そ う と い う 意 思 を 持 って

し、政党も作られ、数多くの選挙が 行われた。しかし、 これ ま で 韓 国 が

に不調和が潜んでいる

市 民参与連合)﹂、 ﹁ 緑色連合﹂などの 市民団体もそうだ 。

景 。 しかし、その内部奥深く

真の意味で自由民主主義国家であ っ たと言う 者 はほとんどいないはずだ。

( 下) 近代化の足跡があらゆる

これらの様々な社会団体は、それ

ところに見られる ソウルの全


り、﹁自由﹂は言論、思想、良心など

普通選挙をその定義の根幹としてお

う効能の精神は、韓国の伝統社会に

的市民精神﹂だ。﹁なせばなる ﹂ とい

ち、それは﹁効能の精神、合理の精

ミナ │ で 、 政 治 学 者 の パ イ は ﹁近代 性の五大精神﹂を主唱した。すなわ

は主に普通選挙、それも不正のない

人権の自由をその根幹としている。 し か し 、 実 際 に は 不 正 に よ って、ま

根強い﹁八字所関﹂と呼ばれる運命

神、革新の精神、参加の精神、普遍

たは不正とまでは言えなくとも、あ りとあらゆる権謀術数と政党聞の結 託によって﹁民主的﹂に多数によっ

論的な考え方とは対照をなすものだ。 思考と行動を道理に基づいてなすと

するケースは国外でいくらでも見い

と、また責任を伴う参加の精神は責

いう合理の精神は迷信、情実、権柄 ずくな伝統社会の非合理的なやり方

て選出された政府が、少数派と国民 の 人 権 を あ ら ゆ る 手 段 を 使 って際問 だ さ れ る し 、 そ う し た ケl スを我々

遵法精神は自由民主主義のもう 一 つの根幹である。﹁遵法﹂の欠けた

いと 言わざるを得ない。

資 産 と 見 な す べ き だ 。 ただ問題は、

ものではなく、むしろ絶対に必要な

運用していく上で決して障害となる

なる意見は、近代民主社会を適切に

て行く。こうした集団の多様で相異

における閉鎖的な血縁・地縁主義と

家族主義、郷党主義などの伝統社会

統 主 義 と 、 ま た 普 遍 的 な 市. 民精神は

ながらのものを盲目的に固守する伝

新しいものを求める革新の精神は昔

任を負わない服従と反抗の習性と、

﹁ 無法 ﹂ で は 、 独 裁 社 会 も 民 主 社 会 も 支 え ら れ な い 。 したが って、独裁を

異なる意見を聞いて理解しようとす

も国内で経験した。制度としての自 由民主主義は普通選挙以上のものだ。

﹁打倒 ﹂ す る の も ﹁ 無 法 ﹂ によるが、 民主社会を破壊するのも﹁無法﹂に よる。 前 者 は 正 当 化 が 可能 であって

る開放性があるのか、ないのかとい う点だ 。 そうした開放性がなければ、

体的に述べれば、自分の家族ではな

て も 、 そ の 人 物 に 対 す る 人 間的配慮 が存在することを意味する。多少具

まず、人権尊重の精神が何よりも 大切だ。これは、どんな人間であっ

れる。

き精神、または倫理の成熟が求めら

そこでは、いくつかの基底となるべ

も 、 後 者 は 正 当 化 できないというの は明らかだ。問題は、民主社会にな

集団の問には意地の張り合いのよう

な意見発表を許容する寛容の精神と、

て 意 見 の 相 違 を 折 衝 、 調 整 に よ って 取りまとめていこうという姿勢が奪 われ 、 反 目 と 摩 擦 の み が 生 み 出 され

な鎖国的 ・閉鎖的 派閥意識が生まれ、 ま た 韓 国 特 有 の ﹁ 地 域感情﹂によっ

に 対 し て も 、 人 間 的 ・人 道 的 配 慮 が

無 法 な 行 動 を 豪 傑 視 ・英 雄 視 し 、 合

的 行 為 で あ った 長 い 歴 史 が 、 我 々 に

き精神的要因の変化がいったいどれ

ず 、 そ う し た 変 化 に 伴 って起きるべ

上の非常に多くの変化にもかかわら

化はなかなか起きないことを見てき た。実際問題として、これまでの社 会現象上の変 化 、 あるいは社会制度

は最も深層的な要因であり、その変

が同心円的な構成を持っていること を確認し、その中でも精神的な要因

本稿のはじめで我々は一つの社会

よい対照をなす。

い 他 人 に 対 し て も 、 主 従 ・親 子 ・夫

っても、ややもすれば無法手段によ

各種の集団とその構成員の聞に自由

対しても、多数派ではない少数派に

婦 ・友人 ・兄 弟 姉 妹 で は な い 他 人 に

っ て 問 題 を 解 決 し よ う とす る傾 向 の あることだ。日本の占領下で、また 独裁体制の下で ﹁ 無法﹂こそが愛国

充分に存在することを意味する。

対しても、我々の味方ではない他人

我々には伝統的家族主義のためか 、

くらいあったのかということについ

と い う 効 能 の 精 神 は 、 六 、 七0 年代

る。 開 放 性 と い う 点 で も 、 我 々 は ま だまだ遅れている 。

の﹁セマウル(新しき村)運動﹂の

理 化 する習性を残したせいなのか、 韓国社会には遵法精神の成熟がなお

﹁三綱五倫﹂の範囲 内に限 られた倫理

近代化の精神

精神に 他 な ら な い 。 し か し 、 い ま だ

ては、その判断はそう簡単なことで なせばなる﹂ はない。例を挙げると、 ﹁ 発展、または近代化へ 向 けた熱気

観のためか、多数決原則の生半可な

開放性というのも、自由民主主義

に 満 ち あ ふ れ 、 論 議 も 活 発 だ った時

国会議員候補も含めた大多数の人々

が、占い師を訪れるのは日常茶飯事

一層求められる。 で 求 め ら れ る も う 一つの精神的 基調 だ。前述したように、近代化されつ つある民主社会では、必然的に各種 の特殊関 心集 団 が 多 様 化・ 多 元 化 し

期 に あ た る 一九 六 五 年 に 高 麗 大 学 で 行われた﹁近代化﹂に関する国際セ

解釈のためか 、 またはたびたび繰り 返された外国勢力の侵略に起因する 身内以外の者に対する不信感のため か、あるいは目先の 利 益を優先しや すい集団主義のためか、こうした意 味での人間尊重の精神がまだまだ弱

30


数多くの情実人事、不正事件、暴力

た法的に処理されてはいる。しかし、

だ 。 多 く の こ と が 道 理 に則って 、 ま

とする姿勢は、時として再び閉鎖的な

統にのみアイデンティティを求めよう

なことなのかもしれない。しかし、伝

洗礼 を受けた韓国社会にとっては必要

経済発展それ自体のためにも全体論

また 、 いまや世界はなお一層のこと、

ら下す自己評価も高くはなり得ない。

なく、むしろ蔑視の対象となり、自

を伴わない経済大国は成金と変わり

治的発展 、 文 化 的 発 展 、 道 義 的 発展

展の狂想曲に踊、りされて、人間によ

厳然と分けるいわゆるコアカルトの 分 割 ﹂ に よ っ て 合 理 化 され 、 経 済 発

発展の彼方に 韓国社会は二十一世紀になってさ

こうした社会発展に対する全体論

その 一例だ。

繁 栄 の 必 須 要 件 だ と し た 福 山観察が

した世界へと変質しつつあるといっ た観察も 可能 だ。﹁信頼﹂ こそが国家

的なアプローチを必要とする、そう

人間の平和に満ちた共存を象徴する

二十 一世 紀 の 哲 学 は 、 む し ろ 自 然 と

すら禽かされている。国土の狭い韓 国では 、 これはも っと深刻な問題だ。

れ 、 他 の生物が幾何級数的に滅亡す

る無慈悲な自然破壊が極限まで行わ

然 に 対 す る 関 心 を引 き起こさずには おかない 。精神と物質、 ﹁ 精神 ﹂ を持 った 人 間 と ﹁ 精神﹂のない自然とを

の成熟にはまだほど遠いというのが

的デモを目にする限り、合理的精神 傾 向 に 火 を つ け る 危 険 性 を帯びてい る 。

はその変 化 が望ましい方向へと進ん

らに変 化 し 続 け て い く だ ろ う 。 我 々

的なアプローチの基底には、特に社

一幅の 山 水 画 の よ う で あ る べ き な の

無数の新しい試みが行われてきたが、

実 感 だ 。 技 術 、 学 術 、 芸術の分野で

でいくように望んでいる。今日、 二

かもしれない。

る だ け で は な く 、 い ま や 人 間 の生存

人の 物 ま ね に 過 ぎ ず 、 ﹁ベンチャー﹂ 的 な 新 し い 創 意 的 事 例 はほとんどな い。 多 く の 人 々 が 多 く の こ と に 参 加 十世紀の末を迎えて韓国は国際通貨

が 改 め て 意 識 す べ き 三 つの関心事項

会 変 化 を主 導 す る こ の 社 会 の 指 導 層

それらの大部分は実は昔のもの、 他

しようとし、実際に参加しているが、 基金の管理体 制 という未曾有の試練

人 間 の 関 心 は ま た 自 ず と 、 その暮

の次に合理 的 で事実的な 思 考 が 支 配

配 し て い た 数 千 年 間 の 信 仰 時代、そ

ると、人間の生活を宗教と教条が支

渡る近世史上の一国家としての韓国

史は省略して、これまで約二百年に

愛し、これを守り、育て、立派な国 にしていこうという関心だ。長い歴

らしの社会的基盤である国家に対す

が あ る こ と を こ こ で 述 べ た い 。 すな

る関 心 を も 含 ん で い る 。 そ れ は 国 を

のかもしれない 。 つ ま り 、 豊 か さ だ けが突出して、それと同時に成熟し

した近世数百年間の理性時 代 となり、 そして経済発展の論理が支配的だ っ

世界の精神史を非常に単純に分け

わち人間に対する関心、自然に対す る関心、国家に対する関 心だ 。

ていくべき政治的、文 化的、精神的、

た 最 近 の 約 百 年 間 は こ の 二十 世 紀 で

のではなか った 。 鎖 国 、 党 争 、 腐 敗 の 朝 鮮 王 朝 末 期 が 一一世紀近く続き、

の姿は、さして自慢できるようなも

と精神の希離した状態のせいと言え

道 徳 的 な 面 は未成熟なままという、 韓国社会のアンバランスで、豊かさ

一辺 倒 の 経 済 主 義 に し か 目 を 向 けよ うとしなかったことに対する報いな

にさらされている 。 これは見方を変 えれば、これまで貧困脱出の流れに の って 、 ほ ぼ 半 世 紀 近 く を 高 度 成 長

それに 伴 う べ き 責 任 意 識 は ま だ ま だ 希 薄 だ 。 依 然 と し て 普 遍 的 な 市 民精 神よりは学閥主義、 地 域 主 義 、 縁 故 近代 化 精 神 の 成 熟 に は 、 ま だ ほ ど 遠

主義、家族主義が根強く残 っている。 いのが現状だ。これまでにそれなり の精神 的 変 化 が あ っ た こ と は 事 実 だ では、意外にも伝統的な精神的傾向

が、同時に表面的な現象の変化の陰 がさほどの変 化 も見ずに連綿と続い ている場合が多い。 一見したところ矛盾しているようだ

るかもしれない。いまや韓国は、偏

の浪漫主義 、 社 会 主 義 、 実 存 主 義 な どの思想で主唱されてきた。二十 一

心の目覚めは、すでに十九世紀から

す る 関 心 が 支 配 す る 人 間 時 代 が幕を 開け、また開かなければいけないと

幕 を 閉 じ 、 二 十 一世 紀 に は 人 聞 に 対

建設しなければならないという今後

ど れ も 、 自 己 陶 酔に浸ることなく、 他 国が心から 仰ぎ 見 る よ う な 国 家 を

でなされる﹁粗雑な ﹂経 済 発 展 一 辺 倒であ った 半 世 紀 、 こ う し た 事 実 は

それに続いて 日本 の 植 民 地 支 配 が 約 半 世 紀 、 解 放 に 続 く 国土 分 断 の状態 狭な発展の概念を超越しなくてはな らない。

世 紀 は そ う し た 人 間 的 関 心 が社会思

我々が進むべき道を指し示している 。

が、近代 化 の過程で起きる一つの傾向 として﹁伝統への回帰﹂という現象が ある。 近代 化 の進展は 、あれこれ様々 な伝統 的、精神的支柱の崩壊を意味し

したが って 、 二十 一世 紀 に 入 って 韓 国 が 目 指 す べ き 方 向 は 、 経 済 一辺

潮の主流となり、またそうならなけ

人間の暮らしの自然的基盤である自

人間 に対する関心は 、 当然ながら

らである 。

A-

が半世紀、さらに否定的自己評価ま

ている。精神的支柱の欠如は、人々に 精神的に空虚な思いと、さらにはアイ

倒 の こ れ ま で の や り 方 ではなく、全 体論的な社会発展だ。経済だけでは

ればいけない。 ﹁先進国﹂とは見なしてくれない。政

豊かだからと言って 他 国は韓 国を

主張したい。人間に対する新しい関

デンティティの喪失さえ感じさせる。

こうという姿勢だ。事実、経済的に

な く 、 政 治 、 文 化、 教 育 、 道 徳 的 発 展 を 全 体 的 に バ ラ ン ス よ く 図 ってい

したがって、人々は精神 的支えとなり 、 依存できるような ﹁ 昔ながらのもの﹂ の占領によるほとんど半世紀に及んだ

を探し始める。そうしたことは、日本

なぜならば 、 そ れ こ そ が 我 々 の 子 孫 の 生 活 の 基 盤 と な る べ き と こ ろだか

﹁韓国 史 の中断 ﹂を経験し、解放後に 怒濡の如く流れ込んできた外来文 化 の

31


独りで六ヶ月という長い時間をワl

据え、 一つの構造的合理性によって韓 国建築の可能性を拓きつつある。

世界観と道教的自然思想をはじめとす る直観的哲学と創作実験をその基礎に

する真の卜l タリストとして、仏教的

の精神を今に伝える建築家、柳春秀 (五十 三歳)。彼は韓国建築界をリー ド

らない。我々の伝統、昔ながらのもの を今 日 の状況に合わせて現代化し、 そ

きるような見識を持っていなくてはな

きし、感じ、分析し、 判断 し、選択で

がゆえに、建築家は多くのことを見聞

の集合体ではなく 、暮らしの質を高め、 新しい環境を創り出す総合芸術である

家がトl タリストとして自分の役割に 忠実な専門 家である ことは確かだ 。建 築は単に機能と技術を結びつけただけ

芸術的かつ実用的な家を造る人。建築

ない。人類に貢献するような創造的で

だと言い切ってしまうには何か物足り

す ,

r v ノ い。単純に家を設計する人

hlLE築 家 と は 何 か 。 こ の 質 問 は ﹂43寸-簡 単 そ う で 、 な か な か 難 し

I NT E R V I E W

キムヨンウク

金煉旭

本 誌 副 編集 長

﹀ M bRm 日c zのと

( 上) 2002年ワールドカッフ。 が聞かれる上岩洞ワールドカ

ップサッカー競技場鳥鰍図

( 左) 膳の上に食べ物を載せる八角盤を置いてその上を凧で

覆った絵。彼が競技場を設計する前に描いた一種のアイデ

( 右) 人里離れた廃校に作った柳春秀の作業室

ィアスケッチである

32


ルドカップ・メl ンスタジアムの基本 設計に打ち込み、これを完成させた彼 の創造の産室を訪れる記者の心は我知 らずときめくものがあった。それは、 韓国現代建築の父と呼ばれた建築家、 故金寿根氏の秘蔵の弟子であると同時 に、その跡を継いで常に韓国現代建築 に話題を提供してきた第 一級の建築家 に会いに行くという喜びでもあ った。 慶尚 北道奉 化郡石浦面の深い 渓谷に固 まれた盤野は、韓国でも有数の奥地の 一つだ。ソウルを出て七時間後に到着 したその地は、漆黒の聞に包まれてい

せば届くような近さで、その美しさは

たが、金の指輪が無数に降ってくるよ うな夜空い っぱいの星が、我々一行を 歓迎してくれた。松の木の上に冴え冴 えと浮かんでいる 三日月が、手を伸ば 喰えようもない。まったく人の手垢が ついていない自然そのままの 山奥の村 だ。彼は四年前からこの村の廃校を借 り、住宅として使われていた古びた農 家を改築して作業室としている。重要 なプロジェクトがあると一人でここを 訪れ、また休日に知人と共に心身を癒 やす場となる この村。学校が休 みにな ると若い建築家の 卵たちがこ の廃校に 集まって、ワークショップを開いたり もしている。 建築家の作業室は、最小限の空間の みを生かした素朴な造形からなってい る。一切手を加えずにいる古ぼけたま まの外観とは反対に、生活空間として の内部は最大限便利なような工夫が凝 らされている。やや 低めの 天井のオン ドル部屋、素朴な窓格子に障子紙が張 られた品の良い 明かり取りの窓、それ

に似つかわしい韓紙の張られた柔らか な光沢の白い壁など、彼の他の作品か ら感じ取られる雰囲気がここにも感じ られる。平素の彼の持論そのままに、 空間を形作る壁と床と天井自体が簡潔 で素朴であればあるほど美しいという ことを強調してい るかのようだ。非常 に大きなガラス窓を通して、家の前の 庭いっぱいに枝を広げた樹齢五百年の 堂々たる松の木が、まるで一幅の東洋 画のように目に映る。外部の造形まで もごく自然に取り込んでいるかのよう だ。彼の語るよい家とは、自然環境に 溶け込んだ造形。したが って彼は、こ の作業室 はよい 家、だと跨路うことなく ロにする。悟りの境地に達した建築家 の言葉の ように聞こえ る。彼の作業室

の机の上には、ようやく産みの苦しみ から脱したワールドカップ ・メーンス タジアムの設計案が置かれている。仕 事に打ち込んでいるときは寝食を忘れ るほどだという彼の創造の苦しみが偲 ばれる光景だ。 ﹁スポ ー ツ関係の設計の経験は数多 くありますが、何度や っても新しさを 感じます。それほど、建築というのは 骨の折れる、複雑で難しい作業なので すが、 ﹃生活を 盛る器﹄に 加 えられた 美しさと現代技術の先端が使われる実 験台としての魅力には、汲めども尽き せぬものがあります。それが歳月を経 つ の時代を象徴するものとなり て 、 一 得れば、建築家としてこれ以上の喜び はありません。﹂

世界中の人々の耳目を集め る二0 0 二年のワー ルドカップ・メーンスタジ

アムの設計を終えた彼は、自らを最も 幸福な建築家だと考えている。この時 代に生まれて、世界中の人 々の祭りの

場となるオ リンピ ックとワ ールドカ ッ プのスタジアムを設計するという機会 に恵まれたからである。メインスタジ アムは競技場本来の機能を充分に満た しつつ、韓国の美を全世界に知らせ る ことに力点を置いている。竹編みの強

靭な構造と軽い韓紙で作られた四角の 盾型の凧の形に想を得たワールドカッ

プ・メ インスタジアムは、中に立 って 見ると、まるで韓国のどの家庭にも

ある小盤と 呼ばれ る伝統的な 小さな お膳の上に、八角盤と呼ばれる八角

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に区切られ、その中に食べ物を盛り

いなくてはならないと信じている。上 岩洞のワールドカップ ・メインスタジ アムは韓国民族の情緒、技術力、韓国

つける器をなにげなく載せたような

示す二十一世紀の韓国の象徴となるべ き造形物を 作 るのだという点に焦点が 合わされた。伝統に想を馳せつつも、

き出そうという作家の意思が強く反映 された作品、だ。

最新技術を結集させ、どちらか一方に 偏るごとなく、普遍的な建築言語を引

のアイデンティティに採ることができ

一 つ にまとまろうとする空間、ガラス繊維 の材質で作られた防牌鳶と帆掛け船の

る人も等しく韓国の情緒を感じ、

﹁スタジアムの中に いる人も外にい

普遍的な世界観と論理が基本になって

彼を支えるバックボーンだ。彼は常に 創造的な韓国人という自信感の上に、

る。五千年の歴史を持つ韓国こそは、

建築家としての彼の底力は、韓国人

つけている。

ガイア │-エ ン ジ ニ ア ス の 社 員 た ち は ﹁ 柳 の凧(何百-mER)﹂という名を

指してアメリカのエンジニア会社の

文化の過去と現在、未来への設計図を

( 1985)

形状になっており、空から見ると、 屋根が韓国伝統の防牌鳶と呼ばれる

ウルオリンピ ック体操競技場、 8 8 ソウ ルオリンピ ック体操競技場の設計図面

凧の形にな っているのだが 、 こ れ を

彼の作品の数々( 上から) 寒渓嶺休憩所 ( 1979) 、景福宮地下鉄駅舎( 1978- 83) 、8 8 ソ

34


形をした屋根は、障子紙のような効果 を醸し出すはずです。夜間にサッカ ー の試合が真つ最中のスタジアムを上空 から眺めれば、まるで障子紙を通して ほのかな光が漏れてくるような、平和 そのものといった雰囲気が感じられる でしょう。それを﹃金サツカ(朝鮮時 サ y力 代末期の放浪詩人。笠を被り全国を放 浪した)﹄の笠だと言ってもいいし、 空に浮かんだ防牌鳶だと考えて下さっ ても結構です。﹂ 彼はメインスタジアムがどのみち、

に遠い過去に完壁な建築物を想像した この国に生まれた建築家らしい、意味 深い力作として、期待に充分応えてく れることだろう 。漢 江の帆掛け船と防 牌鳶を連想させるスタジアムの屋根は、 ちょうどシ ドニ ーのオペラハウスが海 とヨ ットのイメー ジを持ち 、 シド ニー 港の代表的なシンボルとなっているよ うに、漢 江の シンボルとして、さらに は未来の韓国の文化遺産としての確固 たる評価を受けることになるだろう。 建築的空間は、人間存在の基本的な 空間ではないだろうか。ああだこうだ と言ったところで、人間のために建て られる住宅や体育館、ホテルなど、人

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韓国人の情緒と伝統と誇りが込められ たこの時代を代表する建築物になるだ ろうという自負心を持っている。すで

( 上から) 三下里住宅 ( 1986) 、江村休憩所 ( 1989)


聞を入れるためのあらゆる建築物には 芸術性以前に人間のための社会的・人 文科学的分析がまず求められる。スタ ジアムで選手たちと観客がどこから入 場し、選手はどこで練習するのかとい う問題、ホテルの場合、従業員と客が ぶつからないようにする動線の研究か ら厨 房 のゴミを何時にどこで処理する のかなど、普段なら特に気にすること もない些細な問題に至るまで、それを 使う人間の立場に立って考慮する必要 がある。どんな建築物であっても、創 造的な芸術として昇華させるために、 徹密なスケールに対する感覚と見識が 必要とされる。そこにさらに建築家の 構造工学的な態度が加味される。柳春 秀の建築が高い評価を受けている理由 一九七O 年に漢陽大学の建築科を卒

がそこにある。 業してから、 二九年間建築家としての 道を歩んできた柳春秀。彼が郷土性の 濃 い 地 域 的 情 緒 を 現 代 的 言 語に形象化 するのに長けた建築家であるのは、そ の幼児体験に負っている部分が大き い。彼は慶尚北道奉化郡物野面で 一人 息子として生まれた。特に金持ちとい うわけではなか ったが、それなりに裕 福な家庭だった。幼くして父から習っ た漢文と書道は、その後の彼の建築世

態度を基調としていることである。い

くら素晴らしい概念と組織的な空間を

された 一つの建築物を暗示する一つの

端緒であるとでもいうように、彼は勾

ルの訓練と綿密なディテールの感覚や

て、十センチにこだわる繊細なスケー

見識なしには、結局のところ素晴らし

分割、統合する能力があるからといっ

く建っている我々の伝統建築のよう

ない。傾斜のある土地の上にさりげな

に、彼は多様な層位の造成を利用して

い建築にはなり得ない。木造構造を使

る﹂という逆説が、彼にとっては当た り前のことのようだ。

よい建築物が生まれ出る可能性があ

す。﹁土地の条件が悪ければ悪いほど、

もの、長いものと短いものが一つに調

洋の雰囲気を創出し、高いものと低い

したものだ った。八十六階と六十八階

は、陰陽思想を唱えた老子思想を表現

の 二 つのタワーが連結され、東洋と西

一寸の隙間も徒や疎かにはで

特に、彼の建築言語で一貫している きないという物差しに対する徹底した

思考は、

和した姿で設計された。彼に栄光をも たらしたこのプロジェクトは、しかし、

に雄大なものだったこのプロジェクト

の注目を集めた。規模からしても非常

ワlプロジェクトでも、ふたたび世界

シ ョンで当選した中国海南の八六八タ

になった。また、国際公募コンペティ

築家として一躍その名を知られるよう

と と も に 金 賞 を 共 同 受賞 し 、 国 際 的 建

リンピック体操競技場で師の故金寿根

リオ国際建築賞﹂において、ソウルオ

一九八八年に世界のハイテク建築物に 授与される最高の賞である ﹁ ク ォトナ

家としては最初に海外進出も行った 。

くの作業をこなしてきた。韓国の建築

国の有名な建築家や技術者と共に数多

での歳月で圏内はもちろんのこと、外

彼は建築家として歩んできたこれま

魂を伺い知ることができる。

隅々に 一寸の狂いも許さない彼の職人

ールトン・ホテルにいたるまで、その

ら比較的スケールの大きなリ ッツ・カ

特別賞を受賞した﹁サムハリ住宅﹂か

みた彼の代表作で、韓国建築家協会の

って、伝統的な現代住宅の可能性を試

内・外部的空間の造形要素を使いこな

配をなす大地を平地に整地したりはし

か術はにて号め ら者芸駆建三の でで術ら築 習

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 圃・ ・ ・ 園 田 ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ー ー ー ー ー ー ーーーーー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー でかホ面ビい溶 完もテにスたけ 成知ル建工寒込

界に大きな影響を及ぼした。特に絵を 描くのが好きだった彼の夢は画家とな ることだ った。高校時代には慶尚北道 内の写生大会で大賞を受賞している。 彼のスケッチの技術の優れていること

の生ツ地エ現のに仏り分れ年さ入と哲つ並的機進のけ密学利あ満建と科のし的のの 形か・をリし体目教所自た聞な学仏学たみ感はまでがな、なり足築を学でて感に造 状さカなアよ験を思と身もの山前教をか以覚、ずすな論物空まをは知者す、覚な形 がれ i らやうが開想なのの体寺に的形ら上と生建 J く理理問せ得、らで。途だつ的 そてルさ江と、 なあ建中け: て創 れい卜ず村心白 か り 築 で を い. 造 白るンにサを然 つ 、家絶信るの 体の・斜 l 砕に 圃 圃 圃 圃 圃 圃園 圃 圃 圃 圃 圃 圃 圃 た技と望じ主た

高 官

は、建築界でも広く知られている。今 でも彼は旅行する際には必ずスケッチ ブックと筆を持っていくのだが、それ

: 2E 芸品登校品目ら 2142 塁ぁ民主高在 日言語需品 EFt i Tf 222 雇 れなてリ渓みかとつ精だ験に故思成だの理ま築 てと数のんら美しあ家れ家 性は などらア嶺、さ自て神。か龍郷索す。白工れを彼は計学創。れしよるでるに「の今 いのれ、サ調れ然い世今らもにはる彼后系つ選がな算な出生るさうとあ人な自よで 。作たま│ 和たのる界で得 つ あ、自のぷ統きん美らのどは活のだ。いるがろ分うは

36


中国側の経済的事情によって途中下車 の憂き目を見なければならなかった。 世界スポーツ建築学術 一九九O年の ﹁ 大会﹂など、海外で開かれた建築学術 会議の 招聴講師 として名の知られる よ うになった彼は、香港、スペインなど の建築雑誌でも特集を組んで紹介され ている。

は、その後、独自の斬新なスタイルで 韓国建築界の先頭を切ってきた建築家 一九八六年の 金寿根の 他界以降、彼 は彼を慕う十名余りの同僚を連れて

して実践してきた創造的で 、挑戦への 飽くなき闘争心に満ちた生まれつきの 建築家なの だ。

を聞かせてくれた故金寿根との 出会い

柳春秀をして生まれ変わらせるほどの ものだった。 一時 期、彼自身、﹁あの

﹁空間﹂という 川を渡り、﹁異空﹂とい う﹁もう一つの空間﹂に根拠 地 を据え た。漢字では様々な意味を内包する ﹁切30ESE2﹂は、ソウル南方の冠岳

空間を経ずして、どうして韓国で建築 をするといえるのか﹂と自問を繰り返 したように、彼は ﹁ 空間﹂という金寿 根の大きな垣根の 中 で十年余りにわた ってその若さと創作と情熱を燃やし続

ら、大きくは都市や国土の空間構造に

建築哲学を信じてついてくる職員たち が、彼とともに日々研鑓を積んでいる 場所だ。﹁伝統と現代 的 な技 術 を基調 に、実質的で 美しく 、よりよい空間を

創出することによって環境 ・都市 ・建 築文化の質を向上させたい﹂という ﹁異空﹂の宣言は、常に新しい作品を

生みだし、今回の二 O O二年のワ ー ル ドカ ップ ・メー ンスタジアムでもその 真価 を遺憾なく発揮することだろう。 ﹁大型プ ロジェクトを手掛けてこそ、 真の建築家と言える﹂という彼は 、韓 国スポーツ建築の第一人者だ。オリン

ピ ック体操競技場をはじめとして、原

州 の維縁体育館、釜 山総合運動場の野 球スタジアムなどの大 型プ ロジェク ト はみな彼の手になるものだ。韓国の建 築家としてこれほど栄誉に輝いた作家

も珍しい。けれども、決していつも栄 光に輝いていたわけではない。だが、 彼は苦痛の最中にあ ってそれを楽とす

る仏教的世界観を身につけた楽天家 だ。﹁泰 山 が い く ら 高 い と 言 っ て も 、

空の下にあることにかわりはない。﹂ どれほどの絶望 的 な状 況にあっても 、

心の持ち様によ っていくら でも克服で きるというのが彼の人生哲学だ。建築 がもともとは使う者、つまり自分では

ない他人のための利 他 の行為であると はいえ、自分のためのろくな家など 一 軒 もない徹底した無所有の建築家、柳 春秀。天命を知ると言われる五十の年

A-

を越えて、なお純粋な童心に返り、ゴ ム鉄砲を飛ばしながら建築よりもずっ と面白いと天 真欄漫に笑う彼が、なに ゆえこれほど美しく見えるのだろう か。

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誰にも一生を通じて忘れられないよ うな運命的な出会いがあるように、彼 にも建築家としての彼の生き方にとっ

868タワー

山 の麓から舎堂洞の丘の頂にかけてそ の偉容を誇っている。﹁建築家は室内 のほんの小さな茶碗の形や色合いか

(下) 柳春秀

けた 。し かし、すでに故人とな った 師 とは別人であり 、時代も違い、新しい

( 左) 中国海南の

いたるまで 把握できるような見識を備 えていなくてはならな い﹂という彼の

双竜地球館

自分自身の道を歩いて行くほかない。 かれは、﹁建築家は図面で勝負すべき だ﹂という師の言葉を作品の中で徹底

93大回世界博覧会

て見逃すことのできない重要な出会い があった。﹁建築は質だ﹂、﹁洗練され ていない建築はあってはならないもの だ﹂と若き日の彼に建築家 としての目

( 右頁)


T R A D I T I ONA L A R T I S A N

聞慶の沙器匠

詩人、文化遺産研究所長

李畑擢

Jpg︿m 印c zのと

問慶陶磁器は他と比べ、 土俗的ながらも素材、な味わいを

栄州

イ谷に沙器の玄としてよく知られている 。 問慶沙器の

- 安東

- 英陽

放ち、 庶民が主に使った器が主流をなし、

故郷、 観音里沙器村は、 300年経った窯があり、

その歴史を迫れば、 7 代 に わ た り 陶 磁 器 を 作 っ

作っていた 。 金聞慶は 、 分 院 の官窯に抜擢され て行く時、家族全員を同伴して行っ たが 、こ の 家 族 の 中 に 、 ち ょ う ど 泥 遊 び を 習 い 始 め て い た 九 つの息子が

に王室で使う器を専門に引き受けて

聞慶の観音里窯で腕がいいとの噂が 流れ、官窯である分院窯に引き抜か れていったが 、 分 院 は 宮 闘 で あ る 司 饗院に属する陶磁器製造工場で、主

白磁の査を作り 、名をはせてい た。 彼は本来、聞慶出身で、名前を雲照 とい った 。 聞 慶 と い う 呼 称 は 分 院 時 代 、 彼 が 聞 慶 出 身 だ ったこと から 付 けられた別名である。 四十 歳の頃、

昔 、 金 聞 慶 と いう沙 器匠 がい た 。 今 か ら 約 百 年 前 、 朝 鮮 時 代 最後の官 庁窯である京畿道光州郡分院里窯で

ってきた輝か し い家業 と出 会う こと ができる。

慶沙 器 の故郷 、 観 音 里 沙 器 村 は 、 聞 慶 邑 か ら 二 十 里 ほ ど 月 岳 山 渓谷を 上 ったと ころに、まさに 俗 世 最 後の 村 のごと く 淋 し く 位 置 し てい る 。 ここ に三百年経 った 窯 が あ り 、 ぞ の 歴 史 を遡れば、七代にわたり陶磁器を作

がらも素 朴な味わ いを 放 ち 、 庶 民 が 主に使 った器が主 流 を な し 、 俗 に 沙 器の窯としてよく知られている。聞

が朝鮮時 代 に 庶 民 が 使 っ た 器 を 焼 く 民窯の中心地だったという事を知 っ ている人はそれほど多くはない。 聞慶陶磁器は他と比べ、土俗的な

ー , 尚道に入 って最初の郡であ る聞慶は、 小白山脈を往来 'i目 〓 出 仁kb 一するセ ジエという大きな峠 の下に位置している。しかし、 ここ

A ' r

てきた輝かしい家業と出会うことができる

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いた。この子が、後日、父の腕を受 け継ぎ、現在までも聞慶で最高をい く沙器大匠として多くの人々の話題 にのぼり、よく知られている金教寿 氏である。 一八八三 年 、 国 が 傾 く と 分 院 窯 は 民間人の手に渡り、日本からどっと 価格の安い倭沙器(日本の沙器)が 流入し、朝鮮の白磁は没落の道を転 がり落ちるだけだった。朝鮮人なら ば、誰もが好んだ質素で質朴な世界、 丘の上にぽっかりと浮かぶ月のよう な柔らかな情が感じられる、この清 楚な世界がその跡形をひそめて久し かった 王朝の没落と共に倒れていった朝 鮮白磁の最後の運命を見届けた金聞 慶父子は、分院付近の民間の沙器工 場に就職し、しばらくは賃稼ぎをし たが、故郷の地へと帰ってきた。国 は滅びてしまい、司饗院の沙器匠と いう官職をしたからといって、誰一 人、認めてくれる訳もない、みすぼ らしく住びしい帰郷だった。 先代の窯を再び訪ね、土をこね、 ろくろ 鱗櫨を回し、赤々と燃える薪の火を

庶民たちが使った大鉢系の質の低い 沙器の器を大量に生産する水準に落 ちていった。誰かに干渉されたり、 見栄えを気にして作った器ではない ため、形が悪く、雑な姿だった。だ が 、 聞慶セジ工の食器は、これが、 たとえ形の悪い大鉢といえども、色 からして違っていた。分院で磨かれ た優れた技能が溶け込んでいたから で あ る 。 そ の 上 、 閉 慶 の 観 音 里 一帯 は大沙器の胎土となる砂土、白土、 粘土がどこにでも散在しており、深 い山 里 の た め 檎 も 豊 か で 、 窯 場 は 天 恵の条件を持っていた。 しかし、日帝が、沙器庖を中心に おきた民間手工業の復興を、ただ見 守っていることはなかった。茶碗ま で、すべてを日本のものに代えるた め、全国各 地に 倭沙器工場を建設し、 朝鮮人は許可を受けずには窯を運営 できないようにした。表面的な名分 は山林破壊を防ぐためというものだ ったが 、 実 の と こ ろ は 朝 鮮 の す べ て の産業を彼らが握ろうとする手立て が九つ# 。

余カ所で盛況をなしていた聞慶の沙 器庖は、この時、すべて門を閉める ことになり、観音里の入り口のファ

弥勤里から観音里を経由し、ハヌ ルジエの下のチユンジエまで、三十

感じられなくなった。幸いにも、彼 の心許なさは成長していく息子が頼

受け、かろうじて命をつないでいっ た。この悔しい月日を堪えながら、

焚きつけはしたものの、金聞慶は器 づくりの仕事に以前のように喜びを

もしく守ってくれていた。圏内で最 高をいく匠たちと共に肩を張り合い、 腕を研ぎ、磨いた金聞慶父子の帰郷

金 聞 慶 は 七 十 歳 に な った年、観音里 チユンチヨムの壊れかけた窯の横で 目を閉じた。彼の息子、教寿氏は 黙々とファンジョンモリ沙器工場で

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ンジョンモリ沙器工場だけが許可を

で、聞慶の沙器工場は、その後、成 長期を極めることになる。高級沙器 の名声を保っていた分院の官窯が解 体されるなか、朝鮮の白磁文化は、

御所丸、 1 3 X 8 c m


働き、そして解放を迎えた。解放後、 金教寿氏は火をおとした父の窯に、 再び火をくべた。当時はちょうど供

一九 八 六 年 、 伝 承 工 芸 大 展 に 茶 腕 と

-粉 青 壷 を 出 品 し た 。 と こ ろ が 、 期 待 とは裏腹に彼の作品は末席にもあが

減るほどやってきたが、誰も自分の

器づくりの仕事なら、指紋がすり

れず、見事に落選した。

器の空きがあり、大鉢の需要は爆発

出した鍛器と海を渡っていった倭沙 的だった。そのおかげで、沙器を焼

作 業 に 視 線 を 一度 も 向 け て く れ な い という思いと、同時に彼は深い挫折

洋銀製の鍋とプラスチック容器が登

し か し 、 一 九 六O 年を前後して、

と懐疑を味わった。この時、正玉氏

。 の中の人々に見せてやりたか った 常器と称する、鉢、大皿、中鉢、

この昔の技術をそのまま継承し、世

皿、鍾子(卓上用の小さな器)、深鉢、 本人は もちろん国

いが堂々と入賞を果たした。消え去

工芸大展に出品し、大きな賞ではな

深大皿、鉢などを焼き、翌年の伝承

つ 、 二 つと門を閉め、そして最後に は金氏 一家 の 窯 だ け が 残 る こ と と な

場し、観音里の沙器窯は、再び下り 坂になった。立ち並んだ沙器屈が 一

の頭をよぎったのが伝統という言葉 だった。祖父と父がとどろかした、

ることもできた。

くための傾斜した火田畑を買い入れ

金教寿氏は、この ように日本人が注文す

った。 それでも、この窯が廃業の危機を 免れられたのは、 一九 六 五 年 、 韓 日 会談が聞かれ、日本人観光客が行き

っち。

勇気を与えてくれた。その後、正玉

﹃泉が深き水﹄の発行人である韓彰盛 氏が、聞慶まで訪ねて来て、多くの

ってしまった昔の記憶が込められた

その上、遺産で譲り受けた土地は、

内の顧客さえ、

りながら、窯を守り、

農地としては三人の兄弟が懸命に働

や雑器など、忘れられた器を再現し

氏は記憶をたどり、ハメが作った常器

来し始めてからである。彼らは、こ の辺郡な谷間に引きこもり、生涯を

き取った。そして、父が去った跡を

年、七十九歳のとき観音里で息を引

いても苦しいところであった。こう

この器を伝承工芸大展の一角で発見 した文化財の専門委員、堂内庸海氏と

沙器づくりの仕事で食いつないでき た無名の匠人たちの指先に、自分た

三人 の 息 子 の 中 で 末 っ 子 の 金 正 玉 氏 が継いだ。

して、正玉氏は聞慶邑の道路脇に新

始め、八八年と八九年の伝承工芸大

足が途絶え、窯に火

ちが国宝としてあがめている井戸茶

しい窯を構え、活路探しに乗り出し

る茶碗と幾種の雑沙器を作 一九七九

碗の分身を発見したのである。井戸

現在、観音里に分家し、聞慶の入

た。やはり、観音里の山間よりは交

ため、井戸茶碗、粉青沙器の模造口問、

彼は当時、生計が扱々としていた

通が便利で、人々の目によくつくと ころにいてこそ、客を迎え入れるの にいいだろうという考えだ った 。

質の胎土に青い光がうねり、紬薬の

朴で淡泊な器で、若干荒らそうな砂

された大鉢の残影を紡例とさせる純

をくべることさえできなくな

った朝鮮の庶民たちが使った大鉢だ

茶碗とは、壬辰の乱の時に奪ってい

り口、陣安里で嶺南窯を運営してい る金正玉氏は、観音里の沙器窯の最

った。この月並みな器が、日本では

ねで窯仕事を習い、高校三年で退学 した十八歳の時からは、すっかりプ

漆器、白磁、そして、おまるや植木

貴族階級の茶碗として使われ、富と

ルレコに座り込み、土をこね始めた。 十 軍での服務三十カ月を除いて、 =一

鉢の類まで手当たり次第に焼き、生

ように成形した模様と似つかわしく

質感、そして、 一気 に 書 き 散 ら し た 草紋などは、さっぱり大きく広がる

名誉の象徴となり、神のようにあが

二歳 の 時 ま で 父 の 下 で 仕 事 を 習 い 、 父の腕を引き継いでいるとの称賛が

計を立てていった。そうするうちに

だけで、死んでも思い残すことはな いというほどだった。韓国人には、

は、﹁朝鮮時代末期、地方の窯で生産

犬の餌碗のように粗末に使われてい

広まった。しかし、父が亡くなり、

自分の腕を認めてほしいと思い始め、

後の世代である。演垂れ時代から、 父の後片づけを手伝い、見ょう見ま

展で続けざまに特別賞を受賞するほ どの好評を受けた。この時、審査を 引き受けた鄭良諜先生と丙庸海先生

た黄土色のみすぼらしいこの平鉢が、 彼らには、このうえなく崇高で真似

父の名声を聞いて訪ねてきていた日

められた。ある人々には触り、みる

のできない美の世界として迫ったの である。

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民芸的な趣をかき立てる﹂と評して よく乾かした松の薪が炎の中に投 げ入れられると、蛇の舌のような、

っ #。

埋めいていた。畠マ

始めた。暗閣の中でみても、この器 には聞慶の土と水と風、そして金氏 一家の家業が白い木綿の服のように

み終えると、その盃に小白山脈の上 に浮かんでいる満天の星が降り注ぎ

業が舷しく熟している。祭把の膳の 上に供えられた盃の濁酒を分けて飲

ちょろちょろとした火の手が窯を飲 み込むかのごとく燃え上がる。この 火の手の中には、金氏一家の長い家

くれた。百年という歳月の歴史、い や、彼の先祖七代の祖父から数えれ ば二百年続いてきた金氏二家の伝統 が 、 よ う や く 世 に 光 を 見 せ た のであ る 。 その後、正玉氏は 、 九一年には陶 芸部門初の名匠という称号を受け、 さ る 七 月 に は 重 要 無 形 文 化 財 一O 五 号沙器匠として指定を受け、いわゆ る人間文化財となった。これを記念 し、窯で焼き出した金氏二家の器が、 ソウル出品を目前にしている。今日 もまた、正玉氏はこの窯で寝ずに火

朝鮮の庶氏たちが使った大鉢が、 日本では音ハ族階級の茶、碗として使われ、

( 下) 沙土茶碗( 井戸) 、 15 X 9 c m

富と名誉一の象徴となり、 神 の よ う に あ が め ら れ た

( 上) 金正玉の沙器匠の窯

あ る 日 本 人 た ち に は 触 り 、 見るだけで、

の と

死んでも思い残すことはないというほどだった

( 右) 粉青沙器粉粧文瓶、 16 x 17c m

を焚き、穴から器が焼けるのを窺っ ている。彼の姿はまるで修道僧のよ うに高潔にみえ、言葉に詰まってし ま った 私 は 面 白 く も な い 質 問 を 締 め くくるために、お父上が最後に残し た言葉が何だったかを尋ねた。彼は、

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黙々と自分の影となり、家業を引き 継いでいる息子の環植氏(三十歳) に火をもっとくべろと言い、﹁いくら 運を授けられずに産まれたとて、才 能がないとて、 一生 懸 命 に 働 き さ え すれば、よそ様に飯を賄ってもらう ことはない ﹂ という 言 葉だ ったと語


萎運求

済州南端の

O N T HE R OA D

写真作家

韓半島の春は南の方からやって 来る 。 手章半島の西南端から 88 マイルほど詩存れたところに島がひとつ j手 か ん で い る 。 その島、; 斉 川 島の

南 側 の j与 岸 に 花 が 咲 く と 、 こ の 国 にも春が訪れ始めたミとになる 他のものとは異なりこの水仙のコロナははっきりしてい て美しい。小さいが、西洋のものと同じ形態だ。このよう な形状の水仙は美しいゆえに人々の手で多く摘み取られ 今ではあまり見かけられない

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↓ .

LIA占半島の春は南の方からやっ ゴE 占 て 来 る 。 韓 半 島 の 西 南 端 か rE寸 lら八十八マイルほど離れた ところに太平洋の終止符のような島が

ひとつ浮かんでいる。その島、済州島 の南側の海岸に花が咲くと、この国に も春が訪れ始めたことになる。しかし、 その春が韓半島の中部地方までやって 来るにはひと月ほどの時間がかかる。 韓半島の冬は長く厳しい。そのため 人々は春が来るのを首を長くして待ち 望んでいるのである。 済州島の南側の海岸の暖かい所では 実は冬の季節にも花が咲いている。海 菊(ダルマギク)のような花は秋の初 めに咲いて秋の終わりに散るものであ るが、暖かい所に咲いた花は冬になっ ても散らずにそのまま花を残してい る。また、タンポポなどの場合は済州 島によく見られる石塀のすき間、すな わち風のあまりあたらない所に咲いて は散り、散っては咲いて冬のさなかに も元気いっぱいその根をはっている。 とはいっても冬は冬、タンポポは警戒

る野菜としてではなく観賞用として、 四月に菜の花が咲くまでの問、観光客 の目を楽しませるために栽培されてい るのである。 済州島の南側の海岸の暖かい所には

たのが冬の聞に育って、冬の終わりに

仙はないという意味である。ところが 済州島の南側のあちこちには未だ冬の

咲く。水仙がその中の代表的な花であ る。韓国で出版されている何種類かの 植物図鑑には水仙は地中海が原産地の 花ということだけで分類されている。 それは韓国には野生あるいは自生の水

このような花の外にもまだ何種類かの 花が冬の終わりから春の初めにかけて

花を咲かせる。緑の葉と黄色い花が群 れをなして咲き、その花は、索漠とし

心の強い見虫のように首をうなだれて 地面にぺたつと寝そべっている。野生 ではないが、タンポポよりはその隣の 白菜の方がよっぽど堂々としていて姿 も華やかである。白菜は秋に種をまい

た冬景色の中で新鮮な春の生命力と新

訪れを告げる。この水仙は栽培用に植 えられたのではなく、畑の畦道や済州 島独特の積みあげられた石の聞に野生

うちの二月の初め頃から水仙が群れを なして咲き乱れ、真つ黄色の花が春の

春の希望を表すような明るい色彩を放 って目に舷しい。また、この白菜の花 は済州島のかの有名な菜の花にも似て いる。そのため済州島では白菜は食べ

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の花を咲かせているのである。一般的 な名称は 水仙 であるが 、済州島 の島 民 にはこの土 地 の方言でマルマノンと 呼 ばれている。マ ル マノンという言葉は 古 語である と同時 にその文字 は今 は使 われていない昔の文字で表記されてい る 。 この古語に使われている母音は今 は消滅して しまっているが 、済 州島に はその 化 石 の よ う な 発 音 が 残 っ て い る。マルマノンと発音するとき、本土 の人 々には 到底出 す ことので き ない ﹁ ア﹂と﹁オ﹂の中間にあたる音で済

より玉ねぎの 根 にそっくりである)。 と ころが 、 その花 は西洋では ナル シス である )。従っ て済州 島は 大 きな火 山 (現在は死火 山 である)ひ と つと溶岩

島で二番目に高く韓国では最も高い 山

生 活 に 虐 げ ら れ た 悲 し み の 地 であっ

からできた島と言える。済 州島の平均 気温は 十四・ 六度 で冬の最 も気温の 低 い時でも 四 ・ 七度である。そのため高 さに従って温帯、暖帯、寒帯性の温度

済州島は西洋の人々に はケルバル ト 島 とし て知 られた島 であ るが、太 平洋 で発生して 北上する 台 風の通り道でも ある。そのため台風で難破した船がこ

た こと から 、こ の地 の人 々は﹁喜び は砂 粒 ほ ど だ が 試 練 は 岩 の よ う に 大 きい島 ﹂ と 言 っ た り も し た 。 そ ん な 島が 今 では韓 国 で最も 異 国的 な 風 景 を誇る美しく快適な観光地 となった。

トと呼ばれ 、水面に 映 る自分の姿に我 を忘 れてながめているうちに 川に落ち て溺れて 死んでし まう美 少年ナ ルシソ スがこの 花 になって咲いたというギ リ シャ神話に出てくるあの花である。 同

今で こ そ世 界 的 な 観 光 地と して 開 発され国際空港もある交通の便 利 な 島であるが、五十年、ぐらい前までは

になる ため千 七百 数種 にもの ぼる多様 な植物が棲息している。さ しづめ植 物 の宝島いうと ころである。

じ花 でも西洋 では自 分自身への陶酔 を 指し、韓国では馬の 餌 を指す。それは 済州島からギリシャまでの実際の距離 ほどには るかにかけ離れてい る。 西洋 と東洋はそれほど距離があるのであ る 。

の島 に流され てくる こと が よ くあっ た。記録に残っている、 初めて韓国の 地に上陸した西洋人はビンリl (窓里 伊という漢 字 の発音での み記録が残っ ている。当時は韓国人がまだア ル ファ

多い

寂 実 とし た 地 で生 活の苦 し い辺 境で あった。朝鮮王朝時代には罪を 犯し た政治 犯 を 島 流 し に し た 遠 い 遠 い 島

花。このような形状の水仙が済州島に 最 も

済州島に ついて より詳しい 説明 をし た方が話が早そうである。済 州島は前 述した通り韓半島の西南の端の港であ

花の中に黄色いコロナが複雑にできた水仙

州島の人々は発音している。 ある慣習や 文化 はそれ以上伝播 して いく所のない辺境に定着して残ること が多い。それは最も低い所に水がたま

さく色も 薄 い黄色である 。この花が咲き始め

ベッ ト を知 らなかった時代 である。従 って 本 来の 名前 や国籍 はわからない ) であったが、それは一五八二年のこと

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の西洋人であった。その後も 何度か済

に群がって咲いている

であっ た 。一 時期モ ンゴ ル 人が侵 略 して彼らの領土になった時代もあり 、

( 右下) 済州島の水仙は西洋のものより花が小

である。彼は波に 打 ち寄せられて済 州 島に 漂着する とす ぐ 中国に 押送さ れた が、ともかく韓国の地を踏んだ初めて

人々がマルマノンと呼ぶ水仙があちらこちら

る木浦 から八 十 八 マイ ル離れ たと ころ にある太平洋に浮かぶ島である。海岸

ているが、低い丘の向こう側に見える 漢祭 山

また日本の人々が数繁く行き来した。

の頂上には多くの雪が積もっている

州島 を経て 西洋 人が韓国に入っ て来 た。その中で最も有名な人物は﹃朝鮮

ると 韓国に春が訪れる

そのためその 辺境、 寂 棄 と した 地に は 韓 国 語 だ け で な く モ ンゴル語や日 本語の 化 石 も 残 っ て い る 。 そ れ ゆ え 言 語 の宝島 と も 言 える。 し かし 、過 去 、 この島はありとあらゆる苦しい

( 上から) 済州島の南の海岸の町にはそこの

線は二百五十三キ ロメー トル、広さは 一万八 千百八 十 六平方キロ メート ルで ある。韓国で最も大きい島であるが、 国土面積の二%に 過ぎない。この島の 真ん 中 には海抜 千九百五十 メー トルの 漢撃 山 が位置している(この 山 は韓半

出来た島だと言える 。下には緑の植物が育っ

、 るのと同じ こと である。ど この国で も 文化 の中 心に おいては言語と文化がは やく変わるものであり 、中心から遠く 離 れ ている 辺境 では変 化が遅いもので ある。済州島に残っているマルマノン と言う古語の発音もその一 例 である。 そのマルマ ノンは 馬 の ニンニク と いう 言葉である(その根は ニン ニクと言う

( 右上) 済州島は;毎抜 1 9 5 0 mの漢撃 山ひとつで


はハクサイの花が舷しく咲いている春である。この花

咲いていたというととの証拠になる。 朝鮮王朝時代に水仙が咲いていたと いう確かな証拠がもう一つある。朝鮮 王朝時代の有名な書芸家金正喜(号は 秋史)先生(一七八六1 一八五七)が 八年三ヵ 月 の 間 (一八 四O九月 二日1 一八四八年十二月六日)済州島の大静 賂(ハメルの 一行が漂着した所)で島 流しの生活をしたということは広く知 られている。彼は済州島のよくない環

という詩がある。 それからざっと百五十年の歳月が流

青い海、 青い空に愁いをまかせ 水仙との縁は 到底断ち切ることもできず くわの先で掘り起こされて 捨てられた見るにも哀れなおまえを 静かな窓辺に置いてきょうも育てる

境と条件の下で五十五才を越えた年に もかかわらず勉学に勤しみ、いわゆる 秋史体と呼ばれる彼独特の格調高い美

マ菊が冬でも咲いている

く繁殖しているのである。それはも ちろん済 州島 の あ ち こ ち に 造 景 の 目 的で人為的に栽培された水仙とは確

( 下) 韓半島の 2 月は冬である。しかし済州島の南の海岸

しい書体を完成した。それだけでなく、 その地で彼が残した絵の中で最も有名 で、おそらくこの世で最も寂しい風景

( 左頁) 済州島の海岸の風の少ない所では秋に咲くダル

かに区 別できるも のである。前述し た通り済州島には済州島固有の言葉 (我々はそれを済州島方言と呼んでい

地べたに伏せている

画ではないかと思われる﹃歳寒図﹄を 描きもした。彼がここで綴った詩の中 には驚くべきことに水仙の花を詠んだ ものが何編かある。そのうちのひとつ

幹がまったくない。そして警戒心が強い昆虫のように

る)で水 仙 を 指 す マ ル マ ノ ン と い う 名詞がある。その言葉は陸地ではす でに消滅してかなり経つ朝鮮王朝時 代の古語である。従って少なくとも 朝鮮王朝の時代から水仙が済州島に

は観光客のために咲か.せたものである

にや って来たオランダ人﹄という本を 書いて韓国を西洋に初めて紹介したハ メル というオラ ンダ人であった。彼は 中国から日本に向かう途中で難破した 船の船員六十四人のうちの生き残 った 三十六人の同僚と共に 一六五 三年八月 十六日の夜明けに済州島の南側の海岸 にある大静豚に上陸した。当時の韓国 は 世 界 を ま だ 知 ら な い 時 で あ ったた め、漂着した西洋人を再び国外に出さ ない慣習を作った。そのため彼らは十 三年も 抑留され続け、 二ハ六六年の八 月三O 日、日本に脱走して故国オラン ダに帰ることができた。その本の著者 であるハメルはその難破した船の書記 であった。彼は書記としての役割を忠 実に果たし、十 三年間の抑留生活とそ の当時の韓国の状況について比較的詳 しい報告書を作成した。それが西洋に 韓国を初めて紹介したことになったの である。済州島は 地政学上、西洋と最

再び花の話に戻ろう。前述した通

も早くそして頻繁に接触した島であ る 。 り水 仙 は 韓 国 の植 物 図 鑑 に は ﹁ 地中 海沿岸が原産地である観賞植物﹂と だけ記録されている。これは韓国の 地 には水 仙 は 自 生 し な い と いう意味 である。言うならば済州島で育って いる千七百種あまりの植物のひとつ ではなく、園芸用などとして栽培さ れているという意味である。ところ がどう し た こ と か 済 州 島 の南 側の海 岸のあちこちに、特に前述したハメ ルの 一行 が 波 に 打 ち 寄 せ ら れ て 漂 着 し た 大 静 の 海 辺 に は 水 仙 が季節ごと に自分の力で咲いては散り、限りな

( 上) 冬にも咲くタンポポは冷たい風を避けるために花


てられた石の山の上でもしっかり根を はって生きている 。水仙は見た目は貴

美しさをもっ水 仙 ではあるが、放り捨

捨てる。しかし 一見か弱そうに見える

る水 仙 をくわの先で掘り起こし皆いっ しょくたにして畑の畔の向こうに投げ

静周辺のニンニク畑では、繁殖してい

はその昔も今も変わらない。今でも大

れた済州島の大静に咲く水仙の身の上

る。しかし済州島のサボテンはある

じことではないか﹂ということであ

﹁もしそれが合っているなら水仙も同

一致させている。私が考えるには

のではないか﹂ということで意見を

下ろし、長い歳月をかけて繁殖した

に乗ってやって来たサボテンが根を

ンは韓国の植物学者の間では﹁潮流

うに見える年老いた背の高いサボテ

い。にもかかわらず自生しているよ

るサボテンは韓国には自生していな

か、それとも格下げであろうか、これ

(野生の水仙を観賞植物と呼ぶのはそ の花の立場からみれば昇格といえよう

いと大した関係はないかもしれないが

立場からいえば認められようとられま

認めなければならないのである。花の

当然韓国の自然に自生する植物として

水仙とは少々異なる済州島の水仙は、

運んだためであろうか。

に育つことのできる種や根を互いに

だけであるが、水仙は比較的広い地

特定の場所にその直系の群れがある

が・ ・ ・)

また人間の立場での問題ではある

従って水仙は、地中海の沿岸原産の

い生命力を持っている。ゆえに水仙の

族のようだが、下僕のようなたくまし

風にも負けず、春ごとに咲き、真つ黄

花は今でも済州島のあの吹きさらしの

いつも風の吹く野原、済州島の大 下僕のようにたくましい生命力をも

静の海辺に美少年のように、しかし

そして何よりも東洋のいくつかの園、

げて死んだり日照りにひからびて死

域に少々違った姿をした二つの家系

特に中国と韓国と日本には同じ植物 が多く分布している。それらははる

にもしない 、 水 仙 が 今 年 も ま た 新 春 の 喜 び を そ の 真 つ 黄 色 の 花で告げる

が数多くの家族をしたがえている。

ある。

か昔はひとつの大陸で繋がっていた

のである。

そのどの花よりも先に告げているので

国の植物学者の関心を引くことができ

ためか、あるいは獣や風または波の

色の花で畔や野原を飾り新春の喜びを

なかったのか不思議である。しかしと

ようなものが似かよった気候の地域

A-

って、それでいて決して 川に身を投

もかく水仙は厳然と韓国領土である済

そんな水仙の花がいかなる理由で韓

州島の大静の地に自分の力で育ち花を

水イ山を指すマ/ レマノンという名詞

咲かせ繁殖しているのである。水仙は

朝鮮王朝時代の古語である

る。それはヨーロッパの品種より花の

がある 。 そ の 言 葉 は 陸 地 で は

地中海 が原産 地であるとは いうものの 中国南方の地方にもたくさん育ってい

見られる水仙は中国の水仙と色合いも

すでに消滅しでかなり経つ

黄色が薄く 花びらも 小さい 。済 州島に

おそらくはるか昔に、海の台風の道を

花びらの形も似かよっている。それは

の大静の海辺に打ち寄せられたのでは

通り波に乗って中国の海岸から済州島

って来たオランダ人﹄を書いたハメル

ないであろうか。あたかも﹃朝鮮にや とその一行のように。 済州島の北西の方向にある翰林の 近くの海辺には年老いたサボテンの 群れがある。もちろん熱帯植物であ

; 斉州島には済州島固有の言葉で


MA R K E T S

E 号2I

目J

キムミギョン

金美麗

ハンギョレ新聞生活科学部記者

( 下) 龍山電子商街全景

( 左頁) コンビュータ専門売り場


ていない雰囲気が目立つ。しかし、

手で組み立てようとする コンピュータ マニアならここを訪れるのが良かろ

新 館 ・ 別 館 等 三つ の建物 二万坪に八 百余りの匝舗がある。 地下 一階はコンピュータ ー介二般部 品売場である。コンピュータを自分の

農 水産 物の卸商店の 主 人 で あ る 。 そ のためだろうか、まだ何となくむさ 苦しくてせかせかしていて整理され そんな点が龍 山 電 子 商 街 の 妙 な 魅 力 でもある。

龍山 電子商街の歴史 韓 国 の 電 子 商 庖 街 の 一 番 地 として あげられる龍山電子商街の歴史はそ

商庖 と販売用品 龍山電子商街には、電子ランド、

う。また、ゲ 1 ムと関連したいろいろ な製品も購入することができる。 一階 は家電専門庖と通信事務機器、嫁入り 道具専門の電 化製品庖、 二階は国内外

山駅周辺のこの場所は、各地方から 首都ソウルに運ばれてきたあらゆる

んなに長くはない。 一九 九 九 年 、 今 年で十一年目である。十年前まで龍

種類の青果物の集合地である農水産 卸 市 場 で あ っ た 。 白 菜 、 大 根の匂い

ターミナル電子商街、那鎮商街、元 暁商街、善仁商街、電子タウン等の 六つの商店街に七千八百余りの庖舗 が集まっている。ものすごい規模で

鉄一号線の龍 山 駅と直結していると いう 地 理的好条件のため人気が高い。 四 百 余 り の 庖 舗 中 二百 余 り の 庖 舗 が コンピュータとその関連機器ソフ ト ウエア等を販売している所で、残り

タ ー と 外 国 製 オ ー デ ィ オ ・ビ デ オ 製 品専門商庖街として知られている。 ターミナル電子ショッピングは地下

人の目を楽しませてくれる。 ターミナル電子商街はコンピュ ー

体 験 と レ イ ザlボl ル館(サバイバ ルゲl ム ) に 分 か れ て い て 、 訪 れ る

関かれている﹁イベントプラザ ﹂ が ある。﹁アミューズ 21﹂は仮想現実

にあるイベントホ ー ルに行くと良い 。 仮 想 現 実 体 験 館 で あ る ﹁アミューズ 2 1﹂ と 食 堂 、 そ し て 各 種 の 行 事 が

出す力を充電したいのなら新館六階

ータに関連した製品と事務通信機器、 文具 、書籍等が、五階には総合家具売 場がある。 少し休んでから再び貿い物に乗り

いる。そしてやはり、四階もコンピュ

のオ ーディオ ・ビデオ売場、三階はコ ンピュ ータ専門売場とな っている。コ ンピュータと関連したソフトウエア、 ハードウエアの部品や器具を販売して

の漂っていたこの場所が、わずか十 余年の聞にコンピューターと家電製 品がびっしりと並ぶ所に変貌したの である。龍山電子商街ができる前の

J

九暁商街、 日主ロトャ商街、 電 子 タ ウ ン 等 の 六 つ の

龍 山 電 子 商 街 に は 、 電子ランド、 タ ー ミ ナ ル 電 子 商 街 、

T FH 1 2 J lLヨ﹂寸 F3 男3 -E・ 対 ﹁

、育、居街に七千八百余りの、居舗が集まっている

a-

、L 、 、LJ 各、商、居街ごとにそれなりの特徴があり、 、 f f と

り商的な性格が強い。しかし、電子 ランドは一般消費者層を狙い、デパ ート の よ う に 便 利 で 気 楽 な 雰 囲 気 の ショッピング空 間 を 備 え た 。 本 館 ・

どんな製品を買うかによって訪れる 商庖街が違 ってくる。 電 子 ラ ン ド は 龍 山 電 子 商 街 の 一番 代表的な商庖街である。龍山電子商 街が当初、卸売り商庖街的な性格を 持って誕生しただけに、未だに卸売

ある。各商店街ごとにそれなりの特 徴があり、だいたいどんな目的で、

んな目的で、 ど ん な 製 品 を 買 う か に よ っ て 訪 れ る 、商 、 居荷が違ってくる ソ ウ ル の 電 子 商 店 街 一番地は鍾路の 通りにある世運商街であった。龍山 は電気製品物資の流動量が増え、政 府が半強制的につく った市場である。 初 期 に は 、 政府が 一方 的 に つ く った 市場ということもあって、当時、電 子商店街の 一番 地 で あ っ た 世 運 商 街 の商人たちが入居を拒否し、売場が 空いたままという事態が長い間続い たりもした。 今も電子ランド、那鎮商街など代 表的な龍 山 電子商街の主人は、昔の

49


は 大 部 分 外 国 製 の オ ー デ ィ オ ・ビデ オやゲ ー ム機 ・電 子 機 器 等 を 販 売 し 棟の二つの棟に千二 百余 庖 舗がある。 単 一商 庖 街 と し て は 国 内 最 大 規 模 の コンピュ ー タ 商 店 街 と し て あ げ ら れ

とに注意しなくてはならない 。 善仁商街は二十一号棟と二十二号

る。コンピュ ー タ 製 品 を 販 売 す る 届 舗は七百庖余りであり、残りは電

ている 。 電 子 ラ ン ド の よ う に 一 般 消 費 者 を 対 象 と す る 小売 商 店 街 と し て 電子ランドよりも大体価格が安いし 、 すぐ隣の善仁商街に比べて現代的建 気 ・電 子 製 品 ゃ あ ゲ ー ム 機 、 ア マ チ ュアハム等の各種の通信機器を販売 している。善仁商街もやはり卸中心 商店街として龍山をはじめ、全国の 電子商庖 街 に製 品 を 供 給 す る 中 間 卸

AF U

日m0 ﹂0 12O

--E -

仁商街に寄るのが基本コ ー スである。

元暁商街は電気照明庖舗が密集し

土曜 日 に 破 格 的 な 割 引 価 格 で 販 売 す る土曜 市 場 も 立 ち 寄 っ て み る 価 値 が ある。 ている五号棟とコンピュ ー タ製品を 販 売 し て い る 六 、 七号棟で成り立っ ている。特に元暁商街の電気照明白 J

舗のきらびやかな明かれ は、やや索 漢に見えやすい龍山電子商街の雰囲 気を 和 ら げ て く れ る 役 割 を 果 た し て いる。主に 、 企 業 の 顧 客 を 対 象 に 大

用品 ・家電製品を、 B棟 の 一 、 二 階 は 家 電 製 品 を 、 三 、 四階はコンピュ

規模な取引をしている卸売商店が大

売商がたくさん集まっている所であ る。最近は一般消費者たちもコンピ ュータのグレ ー ド ア ッ プ の た め に R A Mボl ド 等 の 部 品 を よ く 買 い に 来 る。若い層の 中 で も コ ン ピ ュ ー タ 初 歩者ほ電子ランドを、コンピュータ マ ニ ア は 善 仁 商 街 を 訪 れ る と 言わ れ るほどである。 ま た 、 龍 山 電 子 商 街 は初めて 中 古 P C委 託 販 売 を 始 め 、 中 古 P Cの取

ータ 製 品 を 販 売 し て い る 。 一 般 消 費 者よりも元暁商街のように企業単位

電 子 タ ウ ン は 家 電 製 品 ・コンピュ ー タ だ け で な く 家 具 ・厨 房 用 品 等 も 販売し、嫁入り道具専門商庖街の性 格を担う。 A棟 は 家 具 ・嫁 入 り 道 具

部 分 で あ る 。 よ って 一 般 的 に コ ン ピ ュー タ 製 品 の 価 格 が 他 の 商 庖 街 に 比 べて安い。

引 を 活 性 化す る の に 充 分 な 役 割 を 果 たした。中古製品を購入するなら善

の購入をする顧客がよく訪れる所で ある。

インターネット龍山 電 子商街 龍山 電子商街と関連した全ての情 報を 一つの場 所 に 集 め た イ ン タ ー ネ ッ ト サ イ ト ﹁ 龍 山 ネットワーク﹂

(言明ミきさと・苫8 ・ 5 が最近開かれた。 今やっとハングルサービスを英文サ ービスに替えた時点であるため組雑 で は あ る が 、 龍 山 電 子 商 街 を 一目で 把 握 す る た め に は こ れ ほ ど 好 都合な

A-

が 一 目 で わ か る 。 こ こ で 大 体 の検討 をつけてから 出 発 す る の が よ い。韓 国人でもコンピュータマニアでなけ れば龍 山 電 子 商 街 に 入 っ て か ら 暫 く の聞は迷うのだから。

で整 理されている。 地図の部分をクリ ック して見ょう、 各商店でどんな品物を売っているか

ているし、商庖の略図、交通情報、 各商庖で売っている商品が箇条書さ

ものはない。龍 山 電子商街で行われ ている各種のイベントニュースも出

専門売 り場 、 ソフトウェア 専門売り 場

物であるため特に学生たちがよく訪 れる。 那鎮商街は建物は古びているが念 入りに歩き回ってみると龍山の真の 姿を見ることのできる場所と言えよ う 。 家 電 製 品 、 コ ン ピ ュータ、音響 機器、事務機器等、各種電気電子製 品を総て網羅している千四百七十庖 舗 が ぎ っ し り と 並 ん で い る 。 十号棟 と 十 一 号 棟 は 電 気 資 材・ 照 明 器具 ・ 電線 ・コ ンピュ ー タを 、 十二号棟と 十 三号 棟 は 照 明 器 具 ・事 務 機 器 ・ゲ ーム機を 、 十 五 号 棟 は 事 務 機 器 ・ゲ ー ム機を、 十七 号 棟 と 十 八 号 棟 は 家 電製 品・ コンピュ ー タ を 、 十 九 号 棟 と二十棟はオーディオ製品と部品、 カl ステレオ等を販売している 。 那 鎮 商 街 は 本 当 は 一般 消 費 者 を 対 象にし た商 庖 街 では な い。全 国 の家 電 小 売 商 や デ ィ ス カ ウ ン ト ショップ 等を主な対象とする卸中心の商庖街 である。それだけ、うまく利用すれ ば安い 値 段 で 品 物 を 購 入することの できる 利 点 が あ る 。 卸 売 の 場 合 、 工 場価格よりも十%安く販売する。韓 国で一番安い家電製品が販売されて いるというわけだ。勿論、驚くほど 安い 値 段 の製 品 は大部分ダン ピ ング 製品である 。 このダンピング製品は アフターサ ービ スをろくにしてもら えないという問題点があるというこ

( 上から) 電子製品専門売り 場、照明機器

50


韓国女性の

隣の家の砧の音 夜が更ければ更けるほど高く ずいぶんと眠たかろうに 鶏が鳴いても止むことがない 仲の良い嫁どうし なんだかんだと家族の話に花咲かせ

砧を支えておく砧台とホンドケ。このように砧を傾け

るように支えておいてホンドケに服地を巻いて砧棒で

叩くとホンドケが自然に回転しながらまんべんなく叩

砧砧 砧打ちつつ 肩の上で遊んでいる オノオレカンバの叩き棒

けることのない音楽的な調べである。 砧を打つ女性の姿を擬声語で描いた 京畿道揚平の民謡がある。

どちらにしても砧の音はたいへん 音楽的である。長方形の砧の上に生 干しのキャラコや木綿の生地を折り 畳んで、二人で向かい合って両手に 叩き棒を持ち、リズムをとりなが ら 砧を打つ音は、どんな打楽器にも負

くのが慣例であった。砧で不満や苦 痛を解消し耐え抜くようにという親 心から発した配慮であった。

がはじめて訪ねる時は砧を持って行

言った。堪えきれない心の苦痛を砧 を 打 つ こ と で 耐 え 抜 く と い. う意味で ある。嫁に行った娘の家に里の父親

けるようになる

夫の冬服を真心込めて作れたら 身も心もどれほど嬉しかろうに 相変わらずの貧しい暮らしに

砧を打つことを俗に﹁忍苦砧﹂と

い音にしないために作り上げた言葉 かもしれない。砧にまつわる禁忌も 多い。﹁砧に腰をかけると夫に追い出 される﹂とか、﹁娘が砧に座ると嫁に 行って姑に苛まれ、息子が座ると妻 の母親に可愛がってもらえない﹂と か、﹁砧を枕にして寝ると結婚がまと まらない﹂とか、﹁口が曲がる﹂と言 われた。すべて大事にする心と美し さに関連し、吉祥を追い求めた表現 である 。

からは日常生活の勤勉さと和やかさ、 そして安定感を読み取っていたので ある。ひょっとしたら耳に聴きづら

く声、本を読む声、砧の音があげら れている。赤ん坊の泣く声というの は代を次ぐ子孫への心強さ、本を読 む声は精神位界の豊かさを、砧の音

昔から韓国では三喜声といって三 つの喜ばしい声と音に、赤ん坊の泣

今着ている服はボロになってはいないだろうかと心を痛めつつ いやいや手にする頼まれものの他人の絹の服を 夜通し打ち合う砧の音

る。砧は韓国固有の布の手入れの仕 方で、布のしわをのばしてきれいに

た詩人であり国文学でもあ どった梁住東(詩人・国文学 者・英文学者)の詩﹃砧の音﹄であ

、 。 は も う 故 人 に な って しま っ

↓7

韓国刺繍博物館長

立準

わ 東 ホ 許

するため、布をホンドケ(砧で布を 打つ時、布を巻き付けておく丸い棒) に巻き付けて砧の上に置き叩き棒で 打つのである 。 砧の音はたいへんリズミカルであ る。砧はほとんどが秋や冬に服の生 地や布団カバーの生地などをきれい にするためのもので、砧の音は秋に なると家の中から路地へと軽快に響 きわたる。幼い頃は砧の音を子守歌 にし、ちょっと目を覚ますとまたそ の音に耳を澄ました。夜が更けても 砧の音は止むことがなかった 。 トントントン、タンタンタン、ト ki 、/、々ノ々ノ、ノ々/、/・. 、/kt

51

、 、 ノ L I V I NG

E 竺士士士士? 司


さでも果報者よな ら生まれる音の美しさを調査研究する

紙のようにパサツパサツと音が出るほ

っ て 、 毎 朝 屋 上 に 上 が って 三 百あま

いるうちに、 針仕事の資料を蒐集して、

いないため、その音を正確に表現す

どもが木琴を叩くようにしばらく叩

ン、テン、チエン、ポッ、トン・

き続けた。音楽的な素質に恵まれて

韓民族は特に白い色を好んだという

砧を打つ布を巻き付けるホンドケと

に並べ 叩 き棒で 叩 いてみた。 何とも い え な い 良 い 気 分 で あ った 。 幼 い 子

ある日、砧をいくつか選んで一列

り、置き場所を移し替えたりした。

r

りの砧を 十 ぐ ら い ず つ 裏 返 し に し た

朝鮮時代の後期までは、どの家にも

今はほとんど消え去っているが 、

閏房七友には入らないが、服を作る

砧が 一つ 二 つ は 置 い で あ っ た 。 し か

話は聞いた こと がない。

どである。

飛び回る

資料の目的で砧を蒐集してい るという

くるくる

嫁つ子の手首で くるくる にあたって必需品であ った砧は布を打 ってきれいに整える道具であったのだ

か 、 叩 いた時の響きが澄んでいるな どとは思いもしなかった。ところが

理由で、汚れやすく洗濯の回数も多か

し幼い頃は砧をながめても美しいと

の面を保護するために裏返しにして が、それ 以上 の機能も持っていた。

砧は使い終わるとすべすべの表側 おくのだが、その様子はちょうど動 物が寝そべっているように見える。 例えば城郭や蚕の繭などの形を連想

裏 側もまた い ろ い ろ で 個 性 に あ ふ れ 、

ることはできないが、砧が奏でる音 色 は そ れ ぞ れ 違 っていた。タッ、タ

呼ばれる棒や、砧を掛けておく枠や 、 動 か な い よ う に す る 縄 や 、 麻で編ん

だ敷物などが必要になり、結局それ

いう意味においても砧が研究対象に

角 ・徴 ・羽 ﹂ と い う 五 音 に 分 類 で き るような気がした。ふと伝統楽器と

あ っ た な ら 五 百 あ ま り を 全 部 叩 いて 韓 国 独 特 の 音 階 で あ る ﹁ 宮 ・商 ・

できた。音楽に対する専門知識さえ

はなく、砧を作る時に選択された音 を聞いているのだということが実感

砧を打つ時に仕方なく耳にする音で

個性あふれる音が響いた。わずか数 十 を 叩 い た だ け で あ った が 、 こ れ は

様のある石で作った砧、花模様を彫刻して

った。おまけに気候も寒い 地域と いう ことで冬は風を防ぎ保温を考慮しなけ

て防風の機能を高めたのである。韓国

らの中でも美しいものを集めるよう

しい作品、小さな箱を作る時の材料に使う紋

ればならなかった。そのため布を 叩 い

の服はそのまま洗うのではなく 一度ほ

たと伝えられるもので精巧な紋様がある珍

させる。実際、四本の脚とふっくら

刻の美しいものだけを選んで数百を

どいて洗わなければならないのだが、

になったのである。 あまりにも砧が多くなりすぎて家

られている烏石( 黒石) の砧、宮廷で使用され

した腹にへそまで彫った砧もある。 おく時のことを配慮して彫刻を施し

集め家中の空間という空間に所狭し

仕立て直す時、糊をきかして砧で打て

の中では保 管しきれなくなったので 、

いろいろな砧( 上から) 珍しいハングルが彫

重さを軽くするほかにも、裏返して

と積みあげて観賞している。

ば繊維が拡散してまんべんに糊がきき

模様が彫刻されているものやきれい な 絵 が 描 か れ て い る 砧 は 家 の 中 に置

( 左頁) 昔の絵に描かれた砧を打つ姿

た と い う の も あ る が 、 澄んだ音を 出

間房の各種工芸品を蒐集するにあた って、どうしても砧が必要であ った 。

いて布の表面がスベスベになることよ

防風の効果が高まるのである。糊がき

色を塗って飾った砧

すために彫刻したりもした。砧を 叩 いてみるとその音色は砧によって多 種多彩である。地方によってあるい は家ごとに好みの音があり、打楽器 の音を選ぶように独特な音を出すた 半生かけて韓国の伝統的な閏房文

めに彫刻したとも思われる。 化 の資料を蒐集して来たが、とりわ け砧に限つては伝統の石彫刻物とい

しかしこれほど数多くの砧を集めよう

う考え と 民 間 人の 打 楽 器 と い う こ と を常に頭に置きながら、ひたすら彫

とは自分自身も想像できなかった。ざ

おいた。そのため手垢のついたテカ

き、残りの三百ほどは屋上に上げて り、汚れがつきにくく、洗う時も糊と 一緒に汚れが落ちるため洗濯もしやす

っと数えただけでも五百は越える。 時 たま誰かが数十個集めたなどという明

亡持? 苧j】 テカの砧が酸性の雨に打たれ傷つい たり欠けたりしてしまったこともあ

[でで く布をあまり傷めない。し っかりと砧 を打 った 服はパリッとしてツヤもあり

, _ '"~-

を聞いたりもするが 、美学的な資料と して、すなわち姿や形、そしてそこか

「4 二; 】

52


色合いも美しい砧が一つあった。文

た 。 ﹁八紘一宇﹂という文字が刻まれ

なりはしないかという思いがよぎっ

角くて側面は適当に削ったような、

を直接見ることができたのだが、四

のだった。機会があってその砧の石

ったので博物館に寄贈したというも

れ考え私なりの解釈をしてみた。

たが、そんなものは見たことがない と い う 返 事 で あ った 。 そ れ で あ れ こ

たちに時おり尋ねてみたりもしてみ

画風の絵が描かれた砧もあり、学者

きものが多い。ところが、中には民

るわけだが、 こ の よ う な 角 度 か ら 砧 ' は改めて貴重な美学的資料として評

態と線から韓国独自の美が発見でき

と絵画的な意味を再び探り、その形

きことである。そのため砧から彫刻

価されなければならない。

どこにでもあるありふれた、それほ

れた砧もある。おそらく廃墓しなが

ど美しくないものであった。内心、

砧 売 りが 何 も 描 か れ て い な い 砧 の 石を積みあげて売っていた。その側

の家という意味で、宇宙の中に自分 芸術に関連していながら美的感覚は

字通り四方と四隅の宇宙の中の一軒

ゼ口ではないかと思わず舌を打った。

中で砧を打ち、そこから響いてくる

平凡な女性も宇宙観を持って生活の

本に唯一残っている砧だと言うこと

く、その舞踊家が話していたのは日

しか接することができないだけでな

ところが、日本では砧は文学の中で

奥さん、うどん一杯分のお金でその

にひと声かけるのである。﹁ちょっと

を買いに来た庶民の身なりをした女

に貧しい三文画家がでんと控え、砧

遣いである 。

て使ったのであろう。涙ぐましい心

来ておき、先祖を懐かしんで砧にし

ら先代の碑石は捨てずに家に持って

中には死んだ人の人的事項が記さ

て込められているという表現である。

と自分の 家 と 家 族 と 砧 な ど が 調 和 し

ではなかろうか。

何年か前に筆者が日本で直接体験 した出来事は多くのことを考えさせ

は言うまでもない。

美しさ自体で世界の人々驚かすこと

れる特有の文化である。従って砧は

ろ う か 。 国 ご と に 各 々 の 文 化 がある が、砧などは韓国と日本にだけ見ら

を使用した。砧ひとつにもきれいに

たことから、できる限り美しいもの

その家の自尊心のようなものであっ

需品であり、貴重な家財道具の一つ であった。家具は実用性だけでなく、

残っていなくなるのではなかろうか。 砧は 家の 中 に な く て は な ら な い必

韓国でもどうしょうもない砧さえも

だった。他人事ではなかった。この 先一世紀も過ぎたら、日本のように

せて去っていく。

を示し、描き賃をやって砧を頭にの

まで付けて素晴らしい砧に仕上げる のである。女はこれに満足げな表情

で美しい民画を描き、朱色の墨で色

なら悪い話ではないので女は喜んで 承諾する。三文画家はさっさと石筆

砧にきれいな絵が描いてもらえるの

砧にきれいな 絵 を 描 い て あ げ る け ど 、 どうだい﹂いくらにもならない金で

して何より実用的に多くの意味と文

楽的にあるいは彫刻や絵画的に、そ

のことを感じ取ってくれることを。

た。 誰 か が 国 立 中 央 博 物 館 に 行 って 私たち夫婦が 寄贈した砧を見て多く

った。そして一つの願いをかけてみ

の砧をこのほど国立中央博物館に贈

限り美しいものを使用した

自 尊 心 の よ う な も の で あ っ た こ と か ら 、 でミ﹂る

つであった 。 家具は実用性だけでなく、 その家の

い必需品であり、 貴 重 な 家 財 道 具 の

砧は{永の世ーになくてはならな

美しい音色の 世界に陶酔していたの 砧ほど韓民族にふさわしい情緒と 文化が凝縮されているものも珍しい。 のほど文化の核心が染み込んでいる

事 実 、 身 近にあ ってよく使われるも ものである。よく言われることでは あるが、空気と水がその代表的な例 である。筆者はその事実を確認する たびに快哉を叫んでしまう。風呂敷 がしかり、生活民具もしかり、韓紙 の工芸品までもそろってしかりであ ともすれば、砧は韓国人にとって

る 。

る。かなり知られている日本の女性

彫刻を施した後、模様を描き彩色し

砧に描かれた絵の中にはかなりの 水準を思わせるものも多い。驚くべ

っているのである。

A-

化 的 な 価 値 を 持 つ砧について、より 深く広い研究をしてくれることを願

そして、また誰かが、このように音

家の 中 で 保 管 し て い た 五 百 あ ま り

舞踊家が筆者をつかまえて砧につい て熱心に話しかけてきた。その話と

た、華麗な貴族趣向のものとおぼし

どのような意味を持っているのであ

いうのは自分の家に砧が一つあった のだが、とても美しく貴重なものだ

53


1

月が過ぎるとすぐに立春を

迎えるが、この時から日当

A

二月令には山菜はまだ早いが、野原 の菜を掘り 起 こし食べよう。イヌヤク シソウ、苦菜、羊蹄、タカヨモギ、ヒ メニラのキムチ、ナズナ汁は牌胃にお

正月令には襲の葱と芹を積み肥に載 せかければ、見た目にも瑞々しく五辛 菜をうらやむものか・

豊富で蛋白質やカルシウム、鉄分など の無機質が多く含まれているア ルカリ 性食品で健康に良い。 韓国人の先祖たちが月ごとに歌った 歌である﹃農家月令歌﹄中には、

質が多く含まれている食品が助けとな るが、それには春の旬のナムルが持っ てこいである。春の菜はビタミン Cが

めるようになる。人体の生理的機能の 調節には栄養素の中にビタミンと無機

ナムルを食卓に上げることができる。 春になると私たちのからだも寒い冬の 季節を送り 出し、大きく伸びをして旬 のさっぱりとした口当りの食べ物を求

一ll﹂ たりの良い所に生える春の

TE﹃

‘ ‘

C UI S I NE

翰林 専 門 大 学 伝 統 調 理 科 教 授

いしくしみわたる ・ 三月令には前の 山 に雨が上がると、 肥えた香菜を掘り出してこい。オケラ、 タラノキの芽、ワラビ、ゼンマイ、キ キョウ、オア リ存二部は縛って吊り下 げ、残りは和えて食べ ・ というようにナムルの材料が月ごとに 出てくる。 朝鮮時代の風俗を記した﹃東国歳時 記﹄には立春のときに進 山菜として京 畿道の山奥の地方の畿狭六口巴から早春 に築葱、山芥子菜、辛甘 革、芹の芽、 大根の芽などの五辛盤が宮中に進上さ れ、民家でも互いの土産をやりとりす るとある。山芥子菜は早春の雪が溶け る頃、地中 から芽生え出る草の芽だが、 湯がいてチヨジャン(辛子酢味噌)で 和えるとピリ ッと辛くておいしく、ま た、当帰の芽は穴蔵で育てたもので、 マゲ 形が昔の韓国男性の銀の監差しに似て いて蜂蜜をつけて食べるとおいしいと 言われた。このような風習は 昔 から中 国より韓国に伝えられてきた。 いろいろな春のナムルをご飯にのせ

ヤン(辛子味噌)をのせてよく混ぜて

ら存在した。一方、農家で田畑や野良 で仕事をしていて間食として麦飯を器 , に入 れ ていろいろな野菜とコッチユジ

食べた野飯もビビンパの一つのル ー ツ だと言える。

味覚をよみがえらせてくれるのに十分

んだ記録が残っている。 柳晩恭の﹃歳 時風謡﹄(一八 九五)には﹁葱の芽は青 く、芥子菜は黄色く、いろいろなナム

料が変わる。特に春に旬のナムルを入 れて春の香りが詰まったビビンパを詠

ビビンパは漢字で 書く と泊董飯とな るが、泊は﹁乱れるの泊﹂で董は﹁混 ぜご飯の董﹂を意味するので、いろい ろな材料が入り乱れて混ざっているご 飯という意味である。今は年中ビビン パを楽しめるが、季節ごとに入れる材

であると思われる。ビビンパは特に食 べるものがないとき、おかずとご飯が 一個のどんぶりに入っていて一食とし

ルを陳設(祭把などのときに食べ物を 膳に整えること)したお膳が香しい。 ご飯は泊董飯となり、苦味が加わると、

酒を捧げ、当然柏葉酒となるものよ﹂

という 一節が 出てくる 。 春のナムルの代表的なものは、ナズ ナ、ヒメニラ、苦菜、タラノキの芽、

タカヨモギ 、忍ぶ草、羊蹄(ギ シギシ) などを挙げることができるが、大 抵 は 茄でてナムルとして和えたり味噌汁に 入れる。

ナズナ

いる子孫が食べるのでまさに神人共食 となる。このような祭杷のあと、食べ

である。韓国をはじめとする温帯に広

ん草と呼ばれる十字花科の一 t二一年生 の植物で 、高さは十1十五センチで 、 茎に は毛があり、根は十1十五センチ

ナズナは三月頃の葉が堅くなる前に 刃物の先や尖った金属で根元から 掘 り 出す。ナズナは 三味線草またはぺんぺ

るビビンパの風習は、はるか遠い昔か

くなった先祖に供えた食べ物を生きて

韓国人の先祖は昔から山神や洞祭、 時祭などを家から離れた所で行った。 祭に参加した者全員がもれなく直会 (祭叩の後供えものをいただくこと)を しなければならないので、器を一つず つ渡して、そこに供えられた飯、ナム ル、ジヨ(直)など、い ろいろな祭僕 房二緒に入れるので、食べる時は自然 に混ぜて食べるようになる。直会は亡

て簡単に食べるのに手軽で、誰にでも 好まれる食べ物である 。最近食堂で出 されるビビンパはチシャの葉、大根の 和え物、キュウリの和え物などの生野 菜が入っているが、以前のビビンパは ユツケ(肉 刺身)を除いては生ものを まったく入れなかった 。

て混ぜて食べるビビンパも春の季節に

Jレ

54


く分布しているが 、畑 や 田園の土手や野辺でよく 育つ。ナズナにはたくさ んの種類があり、漢名で は斉菜と三号ノ。ナズナに はビタミンが多く、他の 菜に比べて蛋白質とカル シウムがたくさん含まれ ている。漢方では牌臓を 丈夫にし、利尿、解毒、 止血、水腫などに効果があると言われ る。ナズナは黄ばんだ葉はとり、きれ

ており、特殊な成分としてニンニクに 含まれているア リイ ンとアリシンが入 っている。ヒメニラを掘り出す時は小 さなスコップで丸ごと深く土を掘り返 して大きい ヒメニラだけ選び、小さな ものはそのまま土をかぶせておく 。掘 り出した ヒメ一てフの外側の葉を取って よく手入れしてきれいに洗う。ヒメニ ラは貧血をなくし、肝臓の働きを助け、 動脈硬 化を予防する効果があると言わ れる 。 子粉、醤油、ごま塩、

やわら かいヒメニラはそのまま唐辛 ﹄ ¥ 、

一司/ 噌鍋に入れるとおい しい。細かく刻んで 水を多めにして溶か

と和え、また太くて 辛味のあるも のは味

-- J/ LIt 臨 調列/ j ごま油を入れてさっ

聞Fd

/

4〆 仁

J'

した小麦粉に混ぜて ヒメ一てフのミルチヨ ク(小さなお好み焼きのような食べ物) を焼く。プチンゲ(韓国風お好み焼き) やジ ョンユオ(魚の入 った小さなお好 み焼きのような食べ物)そして手作り 豆腐やスン ド ゥブ(押し固めていない 豆腐)を食べる時、細かく刻んだヒメ

に合せて使う。( 左から) ナス‘ ナ、タラノキの若芽、ヒメニラ 、苦菜、忍ぶ草の和え物

いに手入れしてさっと湯がき、ナムル にもしたり汁物にも使う。やわらかい ナズナは生で味付けして和えても良く、

るのがおいしい。その他にナズナでお

少し竪くな ったものは葉と根を分けて 別 々に湯がいて器に添えて盛ると一種 類のナムルだが、二つの味を楽しむこ とができる 。 ナズナ汁は貝や干海老を 入れて コチユジャンを溶かし入れて煮 粥も炊いたり、また小麦粉を溶かした 水に混ぜて焼いたり揚げたりもする。 ナズナや青い葉のナムル類はコチュジ ヤンを入れたりもするが 、味噌を 混ぜ て和えるとも っとおいしくなる 。 ヒメニラ

ニラを入れた薬味と一緒に食べると春 の訪れを告げる香りを思いきり楽しむ ことができる 。 #吉常 -A

苦菜はナズナと似ていて、 縁 にノコ ギリの刃のような長い葉があるが、業 の茎に白くザ一フザラした毛が出てい て、根を折ると白い粘液が出てくる。 特に苦菜は苦味が強いために付けられ

55

ヒメニラは百合科に属する多年生の 野菜である 。韓国では野や山、どこで でもよく育つ。早春に 畑とか畦道に群 がっている。うろこ形の塊茎が大きい ほど辛味が強く、下にひげ根がある。 類似した種にはアララギ 、ヤ マ ニラ、 漢撃ニラ、ヤマネギなどがある 。漢名 では野蒜 、小 蒜と言う。成分中 にカル シウムとビタミン AとCが多く含まれ

ナムルはその種類によって生のまま、または湯がいて和えたり 、薬味もしょう油 、唐辛子味噌 、味噌を各々に合うナムル


た名前で、よくイヌヤク シソウと混 同されるが、 イヌヤクシソウは葉がな めらかでナムルよりはキ ムチにして食べる。

ヤンを入れて赤く和えたりする。また はごま油でさっと妙めてコチユジャン と味噌 と胡 麻塩を入れて味がよく 付 く ようによくもんで和えてもおいしい。 そしてチョンポムク ッ (緑豆の澱を煮 て冷やしてところでん状にした食品) の和え物である蕩平菜を作る時 、 タカ ヨモギを混ぜると香りが良く苦味もほ んのりとよく合う。

扱 まラノがたいが芽てウけラは 。ゎのの て十はてな芽ま木科 すノキくタしつがくス食ノ針栓れ王芽冗ほ他いがをり、に をキのとラいい開るでベキ桐のて」はつどのるら食にウ属 か の 芽 き ノ 。て か 人らのの木きと昔てを菜。芳べなコし ぶ幹はれキ 山 いず 工れ芽若はたしかい縄のタしるるギて

春にたくさん食べると 夏バテせず、熱、胸焼け、 胃腸病 、 悪療を治める。

; 51 2i Z23 品kFZZ ? 24 ね号室せ Rf f S4

苦菜を掃き砕いて汁にし て飲むと顔と睦の黄ばみを取り除いて くれる。根がよく張っているものを選 んで煮て、何度か水を取り替えながら 苦味を抜いた後、調理する。苦菜を塩 水に漬けてキムチにしても珍味である 。 タカヨモギ タカ ヨモギは畦 や川辺などの湿 った 所で育つので、他の菜とは異なり春の とても早いうちから 出 てくるのでわざ わざ温室で裁培しない。ヨモギの種類 だが、葉の形が全く異なり雑草に見え るので見逃しゃすい。早春に根元から 抜いて茎と葉は捨てて根だけを食べる

うので生より茄でてよく売られる。茄

が、強い香りがする。タカヨモギは掘 り出して一日過ぎても硬くなり、色が 黒っぽくなったり 、すぐに腐 ってしま でたタカヨモギは黄金色の外皮をサツ マイ モの茎をはがす ようにひと皮はが して芯がしっかり している根は切っ てしまい、もう一 度湯がいて短く切 る。湯がいたタカ ヨ モギ は 塩 で 味 付 けして酸っぱく和 えたり、コチュジ

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タ ラ をどいののて丸 裁 る は 芽 と が . 4 省海亀』 植 こ な 芽 タ 短 々 山 培 が 四 と り 、翌匡望室逗議担? 雪. . ._ ・留重孟認乞富 る 韓 │ 青 に ラ い と の を 、月 言 わ 漢 ? 主諺管翠Z五選圃咽・圃園園圃' 植 国 たル色 比 ノのしタすことわけ字 ~ 後ハにベキがて弓るの五れ刺で 司 苧 巷F は白 タ生 、ウ な て の 香 い ? の 頃 月 る が は 水 スる青芽りて年ではの。多木てらるや類ラいががなラす を内。 黒は も 早ビ少白い頭大「。紐とノ香、、どノる やの裁い裁良事の春ニし生の菜切山タ司はキりほ春のキタ つ土培が培く色芽キ│ のすでとに菜ラ束異のをろの十、ラ

せて保温すると、しばらくして若芽が 一つの 幹から 四1 五回採 出始めるが、

タラノキの芽は食べる時はまずよく

取できると 言われる。タ ラノキの芽の 栄養価は 他 の菜に比べて蛋白質が非常 に多く 含 まれており、これを構成する アミノ酸の組成が良い。そしてビタミ ンAとCが多く含まれていて、カルシ ウムと繊維質の含有量も多い。

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司 、P辺 ︿ 印

パは春に落ちた食欲をそそるのに良い

い味があってこれらをのせて混ぜたビビン

青色がまだらとなり黒くなる。タラノ キの芽の香りを最高に楽しもうとする なら湯がいたものをチョ コチユジャン

手入れして湯がかなければならない。 堅い木質部を 切り取り赤色の皮をはが して鍋に水をタップリ沸かし、塩を若 干入れて湯がいてからすぐに冷たい水 ですすいですくい上げる。湯がき足り ないまますくい上げると、冷えた後に

春のナムルはそれぞれの特有な香とほろ苦

56


(唐辛子の酢味噌)につけて食べ、ま たナムルにするなら湯がいたものを裂

いてコチユジヤンの 味付 けで和える。 タラノ キ の芽の串焼きは湯がいたタラ

ノキの芽と 味付 けし た牛肉とを かわる がわる大串に刺し 通して小 麦粉と 卵 の 衣をかぶせて油で焼く。

忍ぶ草

忍ぶ草は百合科に属するが、韓国全 国の 山と野原の多少湿った所に集まっ て自生する多年生の草である。忍ぶ草 は萱草または忘憂草(忘れ草)と言わ

れるが、幼い葉はナムルにするが、ノ プナムルまたはノルプナムルと言われ

る。葉も食べるが、咲いていない奮は 乾かしたものを黄花菜と言って、昔の 食べ物の本の野菜料理には欠かさずに

入っている材料であった。中国では錦 針菜と言い、また忍ぶ草の根に息子を

産む霊験があるされ、昔息子のいない 女たちが身に着けて歩く風習もあり宜

男草とも 呼ばれた 。 忍ぶ草をナムルにするならお湯でさ

っと湯がい て和えたり、また味噌汁に 入れたりもする。春のナムルの中では 苦味がなく甘みが多くてやわらかくて なめらかである。忍ぶ草の成分の 中 に は特殊な薬理作用が あって 、利 尿、解熱 、 鎮咳鎮痛に効果があ

って 、 貧 血 や出来物 の治療剤としても 使 われる。花を酒に漬

けて作った酒は滋養 強 壮剤 で疲労回復に 良い。 畠マ

@

G診

@

•••••••••••••••• • • • • • • • • ••••• • • • • •••••• • • • • •• • • • • •• • •••••••••••••••••••••••• •• • • • • • • 苦菜のナムル 材料及び分量

( 4 人分)

ら残り薬味もよく混ぜて湯がいた忍ぶ草を入れて

< 作り方>

よくもんで和える。

@ヒメニラはヒゲ根を切り取り、きれいに手入れ して洗い 、水気を取り去り 、3センチの長さに切

若菜・・・・・・・・・・ 3 0 0 g 味噌・・・・・・・・・・大さじ 2

C

~ - 7

コチュ ジャン・・・・・・大さじ 2

材料及び分量 ( 4 人分)

る。球根が大きいも のはたたくか薄く切

タラノキの芽・ ・・・. . 3 0 0 g

る 。

ニンニクのみじん切り・- 大さじ 1/2

コチュジャン・・・・・ ・大さじ 2

@ 材料の薬味をよく

ごま油・・・・・・・・・大さじ 1/ 2

酢・・・・・・・・・・・大さじ 1/2

混ぜてそれにヒメ二

ごま塩・・・・・・・・・大さじ 1/ 2

砂糖・・・・・・・・・・大さじ 1/ 2

ラを入れて軽 く混ぜ

ネギのみじん切り・・・・小さじ 2

て和える。

ネギのみじん切り・・・・大さじ 1

< 作り方>

ニンニクのみじん切り ・- 小さじ 1

@苦菜は側根をとってよく手入れしてお湯で湯が

ごま塩・・・・・・・・・大さじ 1/2

いてからすくい上げ、水気をしっかり切って4セン

ごま油・・・ ・・・・・・大さじ 1/2

ナズナのナムル 材料及び分量

( 4 人分)

ナズナ・・・・・・・・ ・5 0 0 g

チほどの長さに切る。太い根は斜め切りにする。 @材料の味噌とコチュジャンをよく混ぜてから残

< 作り方>

コチュジャン・・・・・・大さじ 2

り薬味もよ く混ぜて湯がいた苦菜を入れてよ くも

@タラノキの芽はやわらかくて厚めのものを選ん

味噌・・・・・・・・・・大さじ 2

んで和える。

で、先の部分に包丁で十字を入れて沸いたお湯に

ネギのみじん切り・・・・小さじ 2

塩を若干入れて茄でた

ニンニクのみじん切り・- 小さじ 1

忍ぶ草のナムル

後、冷たい水ですすいで

ごま塩・・・・・・・・・小さじ 2

(4 人分)

すくい上げ、水気を切る。

ごま油・・・・・・・・・小さじ 2

材料及び分量

太いタラノキの芽は 2 、3

忍ぶ草・・・・ ・・・・・ 3 0 0 g 味噌・・・・・・・・・・大さじ 2

に切り分ける。

< 作り方>

コチュ ジャン・・ ・・・ ・大さじ 2

@材料のコチュジャンに

@ナズナは手入れして黄ばんだ葉はとり、太いも

酢と砂糖とみじん切りし

ネギのみじん切り・・・・大さじ 1

のは半分に裂いて;沸弟いたお湯で 葉は別に湯がいて水気をしつかり切つて4センチ

ニンニクのみじん切り・- 大さじ 1/2

たネギとニンニクを入れてチョコチュジャン( 唐

ごま油・・・・・・・・・大さじ 1/ 2

辛子酢味噌) を作って苅でたタラノキの芽を入れ

の長さに切る。

ごま塩 ・・・・ ・・・・・大さじ 1/2

てよく和える。

@材料の味噌を器にのせて、残りの薬味を入れて よく混ぜた後、湯がいたナズナを入れてよくもん

ヒメニラの和え物

< 作り方>

@忍ぶ草をきれい手入れし沸いたお湯に ii を若干

. /

57

材料及び分量

(4 人分)

入れてさっと湯がいた

ヒメニラ・・・・・・. . 2 0 0 g

後、冷たい水ですすい ですくい上げ、水気を

醤油・・・・ ・・・・・・大さじ 2 酢. . . . . . . . . ・・大さじ 1/2

しっかり切って長けれ

砂糖・・・・・・・・・・大さじ 1/2

ば半分に切る。

唐辛子粉・・・・・ ・・・大さじ 1/2

@材料の味噌とコチュ

ごま塩・・・・・・・・・小さじ 2

ジャンをよく混ぜてか

ごま油・・・・・・・・ ・小さじ 1

で和える。


,, ,

~



る。それゆえ、川は保護されなければ

命はこの地球の乳を飲んで生きてい

川は地球 の青い乳腺だ。あらゆる生

漢江の源流としての東江

となる。

つという意味を持ってすなわち漢江

﹁大きな一つの川﹂(ハンは大きい、一

り、両水里でさらに北漢江と 出会い、

つが合わさってやや大きめの流れとな

台山のウトンスに源を発する流れの二

cxooz のム﹁

ならない。汚染されても、破壊されて

ハ/ガン

もならない。人間が生きていく上で、

水里と呼んでいる。この両水里から寧

二 つの流れが 出会うという意味で、両

北漢江と南漢江が合流する地点を、

人類の歴史の源は、すべてこの川か

越にある八視の渡し場までを南漢江と

川は絶対に必要な存在だ からである。

インダス、そして黄河のような世界回

ら始まった。ナイル、メソポタミア、

いう。ここからさらに遡ると、また別

視の渡し場もまた、 二 つの流れが合流

の川の名 がつけられているからだ。八

する地点であり、ここから川の流れは

あるというのは、決して偶然ではない。 川はどの国でも、どの民族にとっても

大文明の発祥地がすべて河川の流域に

なくてはならぬ、天から授けられた贈

再び 二股に分かれる。

を持つ韓民族を支える乳腺として、有 史以来、今日に至るまで 一度も干上が

の 一つが漢江だ。漢江は五千年の歴史

っていく。一方、東江は 寧越から 東側 の方に旋善、太白と遡っていく。だが、

四一 1 一四五七)の流刑地として有名 な清冷浦、 平昌を経て 、五台山へと遡

は西江となる。西江は寧越の左側を流 れる川で、端宗(李朝六代の王。 一四

寧越市内を中心として東は東江、西

り物であり、人聞が根を下ろして暮ら していく拠り所である。

ったことがなく、ただの 一度も韓民族

韓半島に授けられた最大の天の恵み

を喉の渇きで苦しめたことのない川

このように川は大きな 一つの流れを

から佳水里に入るまでの流れを指して い 甲 つ 。

ので、東江とは正確には八視の渡し場

住水里でまた別の流れと合流している

漢江は江原道の太白山脈にその源を

だ 。

れ込む、全長五百十四キロに及ぶ川だ。

作るために、数限りない小さな流れが

発し、首都ソウルを横切って西海に流

の大きな流れとなり、大韓民国の首都

集まってできている。小さな流れが集

漢江は北漢江と南漢江が合流して一つ ソウルを横切る。ソウルはこの川を中

原道楊口を経て、華川、春川、加平を

北漢江は金剛山にその源を発し、江

肩を寄せ合って暮らしている。

かわしい集落があり、そこでは人々が

どの川もその名にふさわしい役割を果 たしている。川岸にはそれぞれに似つ

まって大きな流れとなり、大きな川に も小さな川にもそれぞれ名前があり、

流れ、両水里に至り、ここで南漢江と

それは自然と人間が 一つになって暮 らしている風景だ。人間は自然と 一体

心として江南と江北の 二 つの区域に分 かれている。そして、この川を中心に 韓国人は ﹁ 漢江の奇跡﹂を成し遂げた。

合流する。南漢江は太白にある金台 山 の幽谷、倹龍沼に源を発する流れと五

60


然の理だが、この漢江の流れの一部を

の営みができるようになる。それが自

になって暮らしてはじめて、自然な生

水画を思わせる美しさである。

こうに望む山裾は、さすがに 一幅の山

一方は 荒々しい急流だ 。しか し、川向

された最後の自然の宝庫とな っている。

水明の 地 であり、おそらくこの地に残

に、今なお人間の手垢に染まらぬ 山紫

んでもう一つの峰がそびえているが、

している 。この 糸のような流れをはさ

は糸のように細い流れが 一筋、湧き出

向 かって蛇立しており 、 その 山裾から

音が響きわたってきそうな様子で天に

という名にふさわしく、今にも馴帆の

川向 こうに見える山は、その噺夙峰

しかし、人聞は時として自然の法則

これが万支山だ。どちらの山も高さは

F

を無視し、自然を征服することでより 素晴らしい成果が挙げられるという錯

なす東江流域はその地理的条件を背景

覚に陥りやすい。その結果、東江の自

てはそう高い方ではないが、その 山裾

では 川 の流れがうごめいており 、 まる

七百 メートルほど で、江原道の 山とし

め、ダムを建設しようというのだ。も

っていて 、 双方まったく譲る気配を見

やすく 川沿いに遡 って行けるようなと

みよう。だが、東江は 口で 言うほどた

東江は東南 川と朝陽江が合流する 地 点から始まる。この先からは、これま

らだ。

がある。本格的な東江の探検はこれか

る炭坑の 村 から流れてくる 川だけに、 その流れまでもが黒っぽく見えるとき

流である東南川は、会口北から古汗に至

里を横切 って 流れてくるもう一つの支

のある佳水里の村が現れる。この佳水

八キロほど下っていくと、小さな学校

うな無人の地のようだ。こうした道を

のの、人の住むところとは思えないよ

しも東江に ダムが建設され、流れが堰 き止められたなら、東江に残る神秘的 な自然美は永久に失われてしまうだろ 東江にダムを建設すべきだという

う 。 人々は、将来予想される水資源の枯渇 に備えて、水を貯水する必要があると 言う。 ダムの建設を阻止すべきだとい う人々は、東江を自然のままの姿で残 し、環境破壊を防ぐべきだと き EJ。ど

せていない。 では、東江に何があるゆえに、東江

ちらの主張もどこまでも平行線をたど

を守れとこれほど声高に叫ばれるの

でのような狭い道さえもなくなる。道

があったとしても、それは河 川敷の砂 の上を走る耕転機の道があるだけだ。

一時停車してや っと車がすれ違える ほどの道幅なのに加え、切り立った絶

砂利 の 河 原 と 葦 原 が 続 く こ う し た 道

らだ。

壁が今にも崩れ落ちてきそうな、はら

を運転していくにはなかなか手強い道

はらするような道だ。その下を、太白

である。東江の魅力は、まさにそこに

道路がないがゆえに、自然がそのま

いる。片側は扉風のような岩壁、もう

は、オブロードを楽しむ冒険家にとっ てはお説え向きだろうが、一般人が車 ればならない。旋善の 村 から平昌方面 に向 けて 七キロ の地点 に広 下橋という 橋がある。橋の扶で川岸の方に折れ曲

と大関嶺から流れてくる松 川 の二つの 川が合流した朝陽江が勢いよく流れて

山脈か ら臨渓を経て流れてくる臨渓 川

ころではない。 川沿いの道路がないか 一目東江

﹂れが東

で山 々が 川 の水に足を浸して、足を洗 い清めているような感じがする。 飛び飛びに人家が散在してはいるも

目前に迫っている。この東江を堰き 止

をするのに良い所で有名だ

然環境と無垢の美しさの失われる日が

がっている 田舎道があるが、 江をたどる唯 一の 道だ。

( 右側) 東江はラフテ ィング( 急流下り)

ま保たれている東江 ・・・ 。東江をた どるには、江原道旋善から出発しなけ

か。東江とは、どんなところなのだろ うか。東江が消え去る 前 に 、

をこの目に納めておこうという人々 。 で、東江は突然、観光名所とな った 東江をたどって 近い将来、水没するかもしれない危 機に瀕している東江を 川伝いに遡って

61

4-


ある。誰でも行けるというような道で はないからこそ、自然がそのまま残さ れているのである。 こうした河原の道を行くと、佳灘と いう集落が現れる。煙突から煙が立ち のぼり、牛 小屋では子牛が鳴き、 畑 か らは薬草の香りがする集落、だ。村を 過 ぎると、これまでまっすぐに流れてい

るために 村人は総出で作業をする。こ うした作業を通じて一体感が生まれ、 隣人愛が培われる。今となっては、ほ とんど消えてなくなってしまった風景 ふたたび流れは大きく、ぐるりと弧を

だ 。

にボンピョンという集落がある。川向

描いていくが、ずっと曲がったその先

と思えるが、またしても無人の野が続

うやく人の 住むようなとこ ろに 出たか

けられ、夏になると流されてしまって

こうとこちら側を結ぶ木の橋が架けら れている。この木の橋は冬の問、だけ架

にしようとでもするかのように、川向

そうであるように、人々が離村して新

もある。しかし、田舎の学校がどこも

結氷するという氷の谷があるところで

達すると、雲時小学校が見えてくる。

人家のまばらな地域を経て雲時里に

なってくる。

ってきて、それに合わせて道も険しく

く。次第に 川は深くなり、 川面 も波立

こうにも集落が見える様子からは、よ

る。また再び、無人の野を流れる川を

た川 の流れが、 一回り大きく曲線を描 く。対岸には広々とした河川敷が広が

どれぐらい、やってきただろうか。

たどっていく。 川向こうに下 美という名の絵のような

跡形もなく失せてしまう。村と村を結

入生がいないため、閉校となる日も近

村が現れ、この 一幅の絵を完壁なもの

ぶ唯一の道であり、架け橋であるこの

斜のきっい山道となり、高城トンネル

いという。車が通れる道はここから 傾

村の裏山には雲時鉱山があり、夏にも

橋を渡って、 川向 こうの村人は外界に 出て くることができる。この橋を架け c 印x oOZ の・F

東江流域 には現在まで何と 250カ所あまりの洞窟が確認され、これらはほとんど壊れて

( 右側から )1度に) 今は絶滅の危機に瀕した赤 コウモリ 、白竜洞窟の大型石旬、レ ースのよ

いない状態で保存されており、学術的な資料 として も価値が高い

うに美しい石旬のカーテン、珍しく発見されたドンジュルグルヤスデの集団棲息地

62


を過ぎると、そのまま新東へと下るよ うになっている。 東江に沿って進もうとすれば、 ・ ここ から は 一切の文明 の利器 が使えなくな る 。 川はここから泊々と、ひとり流れ ていくことを望んでいる風情である。

起こさせずにはお られない。 冒険心に富んだ若者たちは 、この峡 谷でラフティングを楽しんでいる。浩 然の気が自然と湧いてくるような地

切り立つような 川 の両岸の石の壁は 、 韓半島の 川が生み出した最も芸術的な 峡谷であり、自然に対する畏怖の念を

の難所であり 、熟練の筏乗りたちさえ も恐れたという区間が、まさにこの地 点であったというほどの荒々しい流れ

そりと隠れた場所にある。 白龍洞窟は白望紀に形成された神秘 的な原始鍾乳洞で、 一般に は公開され ていない研究保存地域である。洞窟の

O号に指定された白龍洞窟がある 。 こ の洞窟は 、気軽に訪れてきた人々には 容易にその姿を現さないような、ひっ

である。 車が通れる 道か らはずれ、 山太極水 太極と称される曲がりくねった 川 の流 れを何回かくねくねと曲がりながら下 っていっ たところに天然記念物第二六 だ。 ここは、昔は筏を組んで材木を運 搬した木材の道だったが 、今ではアウ トドアスポ ー ツを楽しむ場となってい る。江原道の材木は筏に積んで漢陽 (今のソウル)まで運ばれ、宮殿の造 自龍洞窟と魚羅淵

(八百 二十 二メー トル)と 川 のこちら 側にそびえ立つ神扉山(六百八十七メ

営や高貴な人の瓦屋根の家の建築材料 として使われたが、江原道から筏に乗 って漢陽へと 向 かう 水路の中でも 最大

東江の真骨頂はここから始まる。 川 向こうにすつくりとそびえる白雲山

ートル)の聞を勢いよく流れていく渓 流は、これまでのゆったりとした流れ とは違って、猛々しいことこの上ない。

63


中には、これまで発見されていなか っ た数十種の洞窟生物と洞窟水生昆虫が 棲息しており、学界の重要研究資料と なりうる学習の場でもある。奇々怪々

寧越地域は石灰石が多く分布すると

な形をした鍾乳石と石街が太古の神秘 をうかがわせる。 いう地理的特性に加えて、洞窟が無数 にあるところである。東江一帯に散在 している洞窟だけでも白龍洞窟、青龍 洞窟をはじめとして数十もあると言わ るが、いまだ発見されていない洞窟ま

れる。その中には有名無名のものがあ でも合わせると、おそらく数百の洞窟 があると見て間違いないだろう。 このように天然の洞窟が散在してい る東江にダムを建設して流れを堰き止 て水没してしまい、永久に失われてし

めれば、東江の自然は一朝にしてすべ まうというのがダム建設に反対する 人々の主張だ。創造主が授けてくれた 最も偉大な贈り物である自然を、被創 造物の人聞が破壊してはならぬという の反対なのである。また、もし東江に

主張である。自然保護論的な立場から

た水が毛細血管のように絡み合い、縦

ダムを造ったりすれば、堰き止められ

を伝わって一滴残らず漏れてしまうの

横無尽に張り巡らされたこれらの洞窟 ではないかと言う地質学者もいる。よ

いくら環境保護論者たちが反対した

り実質的な科学に根拠を置いた反対意 見である。 ところで 、 また学者たちが反対したと

の常だ。どの園、どの地域でもこうし

ころで、 一度やる と決めたからには工 事関係者の方がはるかに優勢なのは世

64


て東江のダム建設の行方はどうなるの

た現象 は同じようなものだが、果たし

この白龍洞窟を過ぎ、 川 の流れに沿

か、その帰趨が注目される 。 ってもう一度大きくカ lブを 切ると、 東江の水宮にも喰えられる魚羅淵があ る。魚羅淵という名は 、 ﹁魚が躍り上 がって遊ぶ様が、まるで絹を広げたよ うにきらきら輝く﹂と形容される景色 に由来するというが、﹁水半分、魚半 分﹂と言われるほど魚が多いところで ある。魚の種類も非常に多く、今では 滅多に見かけることのできなくなっ た、例 えばキコウライケツギョやコウ ライギギなど のような稀少魚類の生息 地でも ある。このような魚はただの魚 ではなく、人と言葉を交わす特別な魚 だ 。 魚羅淵の魚にまつわる伝説は一つや 二つではないが 、端宗哀史に絡んだ話 が有名である。幼くして王位を追われ た端宗は寧越での配所生活の後、死罪

亡 の・

憤激のうちに亡くなった端宗の、せめ

流れである。この東江を大切に思う 様々な市民 団体が、東江の自然破壊に

遺産と自然環境がそのまま残っている

勺﹀泊穴回一川 CZ

て霊魂を慰め、神 仙 として記ろうとい

うとするような﹂形勢であり、その行 方が注目される。

了され、そこを去ろうとしなか った。

ゅうと流れている。そして 、以 前にも 増して自然の神秘について我々に語り

で、この運動はまるで﹁卵で岩を砕こ

動を繰り広げているが、工事を強行し ようとする国側の意思は非常に強固

が様々な方法で東江を守ろうという運

このほかにも、各種の環境保護団体

して亡くなった霊魂は天に昇ることも

う一編の大叙事詩が込められた話であ

る。﹁東江を愛する文 化芸術 人の集ま り﹂を結成した金垣氏(建築研究所広

の宣告を受けて亡くなるが、怨みを残 かなわず、黄泉路をさまよって、つい

場代表)は、﹁東江は数億年の歳月を

ともかくも 、人間が容易には近づけ

し、芸術を通じて建設計画の撤回を推

かけてくる。

a進しようとしている。

建設計画は時代錯誤的なもの﹂と主張

反対して積極的な運動を展開してい

る。魚羅 淵 のある巨雲里満池の渡し 場 から寧越方面に向かって十五キロ、寧 越市 内 が見える 川辺 に錦江亭がある。

な い よ う な 奥 地 に位置していたため

か。端宗はそのまま魚羅淵の光景に魅

に魚羅淵にたどりついた。ああ、この 世にはかくも美しいところがあったの

錦江亭の下で東江の青い流れは再び弧

かけて自然の作り出した 山水 の調和し

これを見た魚たちがみな進み出て、﹁王 様、こ こで 、こ んなふうに過ごしてお

東江はこのように有形、無形の文化

同名 の落花巌と 三千人の宮女たちのこ とが思い出され る場所である。

た素晴らしい景観と、自然の生態系の

で有名だが、この岩壁だけでも 17カ所の洞

を描くが 、端 宗が亡くなると彼に仕え ていた侍女たちがここへ来て身を投げ

窟が確認された

・ 。 に、その秘境を守り得た東江・ ・ 東江の青き流れは今日も静かに、ゅう

( 右側) 東江流域は数多くの洞窟があること

る空間﹂であると語り、﹁政府のダム

やす く見つけることができる

多様性が昔ながらの姿で保存されてい

茂った木立や絶壁に見られるだけでなく、

て自決したということから、この地を

石の隙間の小さな草一束、 野花一本にもた

落花巌という。百済の都 、扶徐にある

られる場合ではありません。神 仙 とな って、太白 山 にお戻りになられるべき 方が、ここで 、 このようになさってい てもいいものでしょうか﹂と申し上げ て、王を太白山にお連れ申し上げた。 事実はどうであれ、この言い伝えは

65

( 上) 東江が有する神秘な自然の姿は川辺の


ある力が私を包み、私自身

の絵の前に立つと神秘的な

いていた時代で、多方面にわたり民

政治、経済、社会、文化が、全て輝

時期であることは周知の通りである。

と区別が 一層 目立つと舌守える 。

細 に 調 べ て み る と 共通点 よ り は 相 違

る。青い色が与える、生成と発生の

のをまた、強い力を感じるようにな

多くの画家たちが 出現した。

術的な素養が高く、締羅星のごとく

族的特色が目立った。国王もまた芸

られやすい。しかし、食べ物が違う

た時期であった。あたかも朝鮮初期、

世宗時代の繁栄と匹敵する復興が英 ・ 正祖時代に達成された 。 政 治 、 経 済 、

社会、文化、すべての分野において華

麗を極め、絵においても観念 山水から 抜けだし、韓国の山河を画幅におさめ

た実景 山水 と息づかいや体臭が感じら

れる周辺の人物を画いた風俗画などや

っ九九。

極写実主義の動物画も非常に盛んにな

まさに、この時期に韓国の山河を画

幅に収め空前絶後の境地を開拓した巨

匠がソンビ(士人)画家 ・鄭 散 (一六 七六1 一七五 九)である。彼は韓国の

まで筆をはなさなかった鄭散は、六十

画聖と呼ばれている 。八 十歳を超える

歳近くで自分の世界を築き上げ大画家

﹃金剛全図﹄は 画家 が 五 十 九歳の

としての面貌をはっきりと見せた 。

時の一七 三 四 年 に 描 い た も の で 、 彼

の代表作とされる名品である。さら

に 、 国 宝 第 二百十七号に指定され、

より声 価 高 め た 。 金 剛 山 一 万 二千峰 をまるで飛行機から見おろしている ような術鰍法で展開させてい る 。 前

いので 中 国 の 絵 の 単 純 な 複 製 物 と み

場する人物の服飾が韓国のものでな

よって堂々とした絵が創出されたの

堂々とした時 期 に堂々とした画家に

筆線で よ ど み な く 駆 使 し 、 完 熟 期 に 入 った 老 練 な 腕 を 見 せ て く れ る 。

景 に 土 山 を そ の 後 ろ に 骨 山 を 力強 い にも拘わらず、韓国の場合、朝鮮は

も、いた って当然の帰結だ言える。

一見 中国 の 絵 の 一 つ の 亜 流 か 模 倣 と 考 え

陽の運気が与える旺盛な気のせいか、

ように絵においても構成、構図、画 風 、 筆 致 、 全 て に お い て は っきり と

五百年を超えたし高麗もまた五百年

られる素 地 も な く は な い が 、 先 に 言

このよ うに韓国の 山 河 を 画 幅 に 収

とも呼ばれる韓国の昔の絵は、

方向としては東側であり五行の中の

した相違点がうかがえる。画面に登

毅然として正大であり、形勢とか

国は地政学的に中国から強い影響を

近 い 期 間 王 朝 が 堅 持 さ れ て き た 。韓

め、更に、筆致とか技法においても

せてくれるためであろう 。 威勢が相当なものを堂々としている と言 い、そのうえ後ろめたさがない

朝鮮後期は多方面にわたり韓国の特

及したいろいろな側面から明らかに 区別され相違点が歴然としている。

入による徹底し た破壊 を通して痛烈な 自己反省と、これを克服するためのた ゆまない努力が予想以上に可視 化され

画において実景 山 水画は、何物にも

とを遺憾なく見せてくれる。朝鮮絵

真似 の で き な い 独 特 の 画 風 を 達 成 し ており、朝鮮の絵の堂々している こ

の余波は韓国にも及んだようで、興

類似した部分も否定できないが、詳

徴が目立 った時期である。異民族の侵

受 け て お り 、 実 際 に 中 国王 朝 の交替

朝 鮮 王 朝 に あ って 、 多方面にわたっ て正々堂々としていた時代が初期の 聖君 ・世 宗 ( 一 四 一八1 一四五O )、 後 期 の 英 祖 (一七 二四1 一七七六)、 正 祖 (一七七 六1 一八OO) の治世

亡盛 表 の 周 期 に お い て 似 たような時 期 がなくもなかっ た 。 ま た 韓 国 の 文 化 は 、 同 じ漢字文 化 圏である中国と

とき、正々堂々としていると言う。

木に該当するので、東方に位置した 韓国民族の無限な成長の可能性を見

百年を超えることがなかった。それ

」 ー

歴史上多数の王朝が交替しはした が、東西を問わずその周期は大 体 三

絵においても 同じである。東洋画

限りなく雄々しく強くなる

国立中央博物館美術部長

鄭散の NA T I ONA L T R E A S U R E

ヂ 、

66


比べられないほどの価値あるもので、 これを達成した鄭散は非常に貴重な

である 。 一

鄭 散 が 残 し た 金 剛山 の絵の全てが その大きさの知何にかかわらず、

全 てにおいて秀でていることで初め 南北分断で、過去五十年間行けな

て可能な事実でもある。 か った金剛山旅行が現 実 とな った今、 夢でだけ描いていた美しい金剛山を

しているような術轍法で展開させている 。 前景に土山をその後ろに骨山を力強い

画家であることに議論の余地はない 。 るが、これは何よりも彼が達成した

彼 の 代 表 作 と さ れ る 名 品 で あ る 。 金岡JI 山 12000峰 を ま る で 飛 行 機 か ら 見 お ろ

様に 堂 々 と し て い る こ と を 確 認 で き

実 景山水で描いた鄭 散 の金剛 全 図は 、

『金剛全図 J は 画 家 が 59歳 の 時 の 1734年に描いたもので、

何 よ り も 自 分 の ア イ デ ン ティティ 固有色の深い独自性に因るものであ る。 だ か ら と い って 地 域 的 な 土 俗 美

ネ怠

鄭数の『金剛全図』、湖巌美術館所蔵、 130. 6 X 94. 0c m

より一層堂々たる姿で強い感動をか

いてこそ、更には堂々たる天才性を

筆線でよどみなく駆使し、 完 熟 期 に 入 っ た 老 練 な 腕 を 見 せ て く れ る 。 堂々と

に対する正しい認識を土台に、韓国 の 山 河 に 対 す る 愛 情 と 誇 り を 担 って もし出してくれる。

A '

に止まるものではなく、格調と器量、

した時期に堂々とした画家によって堂々とした絵が創出されたのも、

土台にしてはじめて可能な絵の世界

会 官 庁

' Z手を守山何人品咽 柑

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砂 者 g 勾

67

﹄骨片品川 相円 ふ 肋 つ

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す仰い伐没 タイ小必

いたって当然の帰結だ言える

~

22


キムハ ン

金翰秀 朝鮮日報文化部記者

一つおかしなことはこの女性の髪型である。

萎大爽の『ヌ ード』

個人コレ クタl六O余名から借りて来た 作品で準 備したものである。国内写真展史上類例がないほ

まった展示会であ った。 この展示は﹁九八写真映 像の年組織委員会﹂が国内外の 二五カ所の機関と

まり、その外にも 一八六0 年代に外国の写真 作家 たちが撮影した開港前の朝鮮、特にソウルと江華

写真機﹂の原理を説明した﹁漆室破膿眼﹂から始

等、記録として私たちの写真史を見せてくれる貴 重な 作品が並 べられ た 。 しかし、この展示の長所は写真専攻者が喜ぶよ 一般人たちが写真を うなこのような作品以外に、

ず、国立中央博物館から借りてきた八道の住民た

しろ、歴史的な流れと主題別の構成で展示場全体

った。

私たちの生活の 一部分として感じられるような実 物作品を提供したというところにあると思う。ま

残してきた足跡を体感するのに充分であった。む

ないというところにこの展示の魅力がある 。 それ ゆえ、 一般人も個別作品を通して私たちの写真が

﹁歴史﹂という単語から感じられる堅さが見られ

ど力を入れて取り組んだものであるが、通常の

展示はまず、朝鮮王朝末の実学者たちが﹁針穴

~

島等の風光、書芸家である呉世昌の父親の呉慶錫 と金締秀が各々中国と日本で撮影した肖像写真

の殿堂の 美術館で開かれた﹁韓国写真歴史展 ﹂ は このように 一般人の目に触れにくか った珍しくて 貴重な写真資料千四百点余りの作品が一カ所に集

昨年の十 一月 二十日 から 十 二月十九日まで芸術

では思いつかなかったのであろう。

で服は脱いだものの結い上げた髪をほどくことま

代に撮 影されたヌl ドで ある。後ろ姿という こと

の毛を結 っている。この写真は 一九 二01 三0年

ロングヘア l が似合いそうな写真の中の女性は髪

だが、

1 4 a n i u た ま ま 裸 身 の後ろ姿で立っている。

7川/酔 豊 満 な 女 性 が 両 腕 を 空 に 向か って伸ば

L、 、 、 の 細 い 校 が 広 が っ て い る 丘 で 、 一 人 の

J

が 一つ の設置作品のように飾られており、私たち の写真史の流れを把握しやすいよう構成されてあ

305X46m 1920~3

Rev i ew

直竺

韓国写真歴史展は国内写真展史上

寸唱和巾の

類例がないほど力を入れて取り

征、んだものであるが、

﹁歴 史 ﹂ と い う 単 語 か ら 成 心 じ ら れ る

比られないというと 竪さが 日

ころにこの展示の魅力がある

ちの人物写真がそれである。ある村の夫婦が胸に

番号票をつけ二人並んで立っている写真を見ると ﹁ な ぜ 罪 人 の よ う に 番 号 票 を つ け て 写 真 を撮 った

のか﹂という疑問がわいてくる。写真が撮影され

た時期は一九一一年、朝鮮総督府が首都ソウルを

はじめ各地の朝鮮住民の人類学的な側面までをも

写真で残そうとしたと思えば 、 写真さえも侵略に

利用されたという事実を感じとることができる。

少し時代が 下 って 一九二0 1三0 年代の写真館の

向 像 写 真 ・ 記 念 写 真 を 通 り 越 し 、 伝説の舞姫、在 承喜がチマの裾を両手で少しつまみ上げ、微笑み

を浮かべている 一九 三O 年の作品の前に立つと誰 も が 知 ら ず の う ち に 嘆 声 を 上 げ る 。 また、ダムか

68


1963

~

ら流 れ落ちる さわやかな水しぶきや、 上着を 脱 い だ少年たちを撮影した 一九三八年の朝鮮日報﹁納 涼写真 展﹂入選作、そして、ある家族の 一九 六O 年の結婚写真から一 九九 一年までの家族写真 、 子 供を 生んで育 て、そ の子 供 が大き くなって家 庭 を 持ち 、孫ができるという過程を時間帯ごとに編集 した記念写真を見ると 、 敢 え て 写 真 史 と 言 及 し な くとも﹁写 真 の記録性 ﹂ を自然に感じることがで きる。 展示場 二階の一つの側面の壁全体を 埋 めている 朱耀翰 、 呉相淳 、虚天命 、朴古石、窪鉱培等の五 ーナーや、南珍 、 羅勲児 、丁允 姫等、芸能人たち

0 1六0 年代の姿を撮影した ﹁韓国人の山門像﹂ コ の肖像 写真も一 般的 なデ ィスプ レー方法の 代 わり に上下に数多く飾 ってあるため、まるで学校の卒 もう 一つ この展示の長所は、今までいわゆる芸

業アルバムを連想させたりもした。 術 写真からは 白眼 視されてき た広 告写真まで含め 一九 六01 七0年代を韓国で た という点である。 過ご し た 人 な ら 誰 で も 肌 で 感 じ る こ と の で き る 、 ﹁真露 焼酎﹂、 ﹁ ﹁オ│ラン C﹂ 金 福酒 ﹂、﹁東洋ナ イロ ン﹂等の 広告 写真やカレンダーに載せられた 写真が、一九 世紀 末の 記録写真と肩を並べて 扱 わ それ以外にも、写 真の 歴史を取り扱 った展示に

れていたのである。 ふさわしく八 ・一五光復、六 ・二五(韓国戦争 )、 四・ 一九 (学生革命)、 五 ・二 ハ (光州事 件) 等、 試 練 の 多 か った 韓 国 の 現 代 史 を 記 録 し た 報 道 写 真。一 九 一 0年 代 の新式結婚式の場面等の風 物 写 真。一 九 二0 年 代 に す で に 始 ま って い た 最 近 の ﹁ 作 る﹂写真に 至 る実験 的 かつ 芸術的 写真の 流れ まで 、 この展示 は ﹁写真﹂ と関連 したほ と んど全 ての試みを芸 術 の殿堂の 美術館 一 'Et--二 2 階にいっぺ

69

んに集めた 。 それにもかかわらず この展示が退屈

A-

さや堅苦 し さ を感 じさせなかったのは、 忠実 な資 料収集と セ ン スあ るデ ィ スプ レー 技法の 調和のお かげであろう。

年 日 本 朝 日 国際サロン 355 X 2 79 m m

609m

8X

50

4 1

192~

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3 m

X 20

146

~

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1945

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坐竺


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直竺 キムヒョング y

金畑国 ソウル大学環境大学院教授

)、

1) 呉受桓の『静寂』

1998、362 X 227cm

TT工 一 間 パリのメグ画廊で招待展を開いた。

:Il 家呉受桓が 昨年十一月 一日から 一カ月

I 一L メグ画廊 所 属 工 房 で 制 作 さ れ た 版 画 十

点と油絵十五点を展示したものである。 メ グ 画 廊 は 世 界 各 地 の 天 才 画 家 た ち が 二十世 紀の初めに現代美術のメッカであるパリに続々

と 集 ま り 、 胎 動 し た い わ ゆ る ﹁エコ ー ル・ド ・ パリ ﹂ 時 代 が 第 二次 世 界 大 戦 の 戦 雲 で 幕 を 閉 じ る 一九 三0 年代末に開かれた著名な画廊である。 画廊の名声は画廊が取引している美術家と直結 されるもので、このような点でメグ画廊は断然 独歩的な存在である。メグ画廊が管理した美術 家を並べてみると、そのまま西欧現代美術の歴

史 に な る 程 で あ る 。 ブ ラ ク 、 カ ン ジ ス キl 、シ 、 ジヤコメティ l 等 が メ グ 画 廊 ャガール、ミ 口 を 通 し て 世 界 的 美 術 家 と な った 。 特 に 、 フ ラ ン

ス外の有望美術家をパリ画壇に紹介した点が秀 で て い た 。 米 国 の 彫 刻 家 カ ル ダ l 、スペインの

彫刻家ゴンザレスがそのようにして世界の美術

70


、、

o

界に知られるようになった。

それだけ、メグ画廊の招待展はそれ自体が画家

にとって大きな栄誉である。権威ある美術賞受賞

に引けをとらない、いやむしろそれを上回る栄誉

である。美術賞は作品性に着眼し、画廊招待展は

は限定された専門家の目で識別されるものである

作家の作品性プラス商品性を重要視する。作品性

が、商品性は、専門家の目を参考とした水準級の

の方が重要な尺度になりえることもある。近代美

多数の コレク ターたちから好評を得なければ可能 ではない。それゆえ、作家の力量はむしろ商品性

はじめた時からだという点で、作家の作品性は画

術の胎動は、美術行為が余技ではなく生業になり

廊が重要視する商品性に懸かっていると言っても

過言ではないであろう。

呉受桓のメグ画廊招待展は何よりも画家個人の

栄誉であるが、彼の作品活動の土壌となった韓国

画壇にもプラスとなった﹁事件﹂である。現代美

術は十八世紀以来の人類文明を作り上げた近代性

の美術的成就であるが、美術の近代性は西欧の方

から第一次世界大戦以後になって本格化していっ

た。しかし、近代美術の韓国上陸はそれよりも半

世紀遅れ、韓国民主化の重要転換期となった一九

六O年の学生革命の頃である。先覚の韓国人画家

たちが日本植民統治時期の一九三0 年代に日本へ 留学に行き、初めて近代美術に触れたが、それは

パリに留学した日本の画家たちが受容したものを 再受容したに過ぎなかった。しかし、このような

機会も束の問 、日 帝から解放された韓国に起こっ

た 国 土 分 断 ( 一 九 四 五 年 ) 、 韓 国 戦 争 ( 一 九 五0 1 五三年)、独裁政治のような思いもよらない程

やっと、一九六O 年の学生革命をきっかけに自

の社会災難が渦巻き、 近代性 の代表的栄養分であ る 自 由 主 義 が こ の 土 地 に 根 を 下 ろす暇がなかっ た 。

ーデターは自由主義を表面的に再び眠らせるかの

由主義が開花した 。一 九六 一年に発生した軍事ク

71


ように思わせたが、軍部政権が全力投球した経済 成長の成功は外観的には国民個人に経済的余裕を もたらし、内面的には自意識を刺激したこととな り、自由主 義 は後 戻りできない時 代 の大勢 とな っ た 。 芸術家は 時代思潮 の尖兵である 。自由主義の 価

値を先に看破した芸術家 たちが自我拡大に没頭

した結果、韓国 美術も遅れ馳せながら学んだ近 代 性 の 具 現 に 加 速 度 が か か った 。 現代 的 美 術 教

育が拡散され、全国の都市に数百個の画廊がで き、いわゆる美術産業が成長産業としての位置 を固める。韓国の経済が短期間に類例のない高 速 成 長 を 記 録 し た と い う 点 で ﹁ 圧縮的産業化﹂ の世界的な 例 と し て あ げ ら れ る の と 比 肩し 、 呉 受 桓 の メ グ 画 廊 招 待展の意味も、 美 術 界 も 韓 国 の画家がついに世界の画壇の中 心都市に堂々と 紹介されるぐらいに圧縮 的 発展を記録したとい 呉 受 桓 の 画 風はい わゆる 抽 象 表 現 主 義 に属す

うことである。 る。この画風は絵画の近代性に根をはり開花した ものである。 絵画の歴 史が 示しているように 近代

主ハ受桓が抽象表現主義の画家として世界の 画壇に登場した背景には西欧の

先端画風から刺殺を受けた 升側から生まれた要因も少なく はないが、 韓 国 の え 化 伝 統 に よ る

内側から生まれた要因の 、万がえさいように忠われる

_zム ;.: _ -~\;

性 が導入される 前は画 家の目に見える対象を模写 的に描く方法が主であ った。 しかし、 二十世紀 の が強調される。それゆえ、感度の高い表現性、対

初め頃からは画家が主体的に把握し、眺める視覚 象を構造 的に把握す る明澄性 、技 法の直接 的 な簡

~

ー-

明性 が特徴である 近代性 は表現主義 、構造 主義の ような 多くの 流派を作 るにいたるが 、特に 表 現主 義はさらに物象よりも心象の方をもっと強調しな がら抽象表現主義 に発展する 。 呉受桓が抽象表現主義の画家として世界の画 壇 に 登 場 し た 背 景 に は 西 欧 の 先 端 画 風 か ら 刺激 を受 け た 外 側 か ら 生 ま れ た 要 因 も 少 な く は な い が、韓国の文 化伝統による内側から生まれた要 因の方が大きいように思われる 。内側から生ま れた要因の 一つは呉受桓が若い頃、 一時 期 書道 に 精 進 し た という 事 実 で あ る 。 韓 国 書 道の 表現

~

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Rev i ew

直竺?

・ ・ ー , 一 ー

72


対象は未だに漢字が大部分であるが、教育を受 けた韓国人が読み書きのできる漢字は代表 的 な 象 形 文 字 である 。 物 形 を 造 形 し た 文 字 で あ る た め、漢 字は それ自 体 で物形 の抽 象 化 と い う わ け だ 。絵の 中 に 漢 字 の 造 形 性 も 映 す 呉 受 桓 が 、 国 内 の批 評 家の 聞 で、書 画 一休の 原 理 に そ って生 成 さ れ た 韓 国 伝 統 美 術 の 現 代 化 に 一番 成 功 し た 作家として評 価されているのもそのためであ る 。 もう 一つは 、 韓 国 の 伝 統 美 術 に あ ら わ れ る 抽 象 絵 画 的 な 試 み に 目 を 凝 ら し て 見 た結 果 で あ る 。 前世界の原始 美術において必ず噴い 抽象 性 が確認できる よ う に 、 韓 国 の 伝 統 美 術において も抽象的造形方式は引き継がれていた。 十 五世 紀 に 作 ら れ た 粉 青 沙 器 や、 韓 国 の 根 の 深 い 葬 墓 文 化 において大きな比重を占めている碑石の頭 今回のパ リ 招 待 展 に 出 品 し た 呉 受 桓 の 作品は

部がその例に属する。 雲 門 シ リ ー ズ で あ る。雲に 門 が あ る か ど う か は 普通の人たちには知るすべもないが、韓国の精 神 史 に 少 な か ら ず の 影 響 を 与 え た 中 国 の 禅 仏教 の有名な禅僧雲 門 の行跡が彼の絵の精神を 探 る ヒ ントになりそうである。空に浮かんでいる月

水墨線 はこのような韓国伝統美術の抽象的造

や流れる雲のような自然は、八王て徳性を備えて のと FP司RMmcz

呉受桓( 上) がその作品において主に表現する

おり、互いに争ったり矛盾したりすることがな

形方式を引き 継 いでいる( 下)

いと言うのが禅僧の教えである。それゆえ 、 画 家 も 次 の よ う な こと を よ く 言う。 ﹁自然との調 和を通して虚空と同じ大自由の理想世界に 到達 し よ う と す る ﹂ の が 画 家 の 指 向 点 で あ り 、 ﹁画 家 に で き る こと は 見 る 人 の 想 像 力 を 自 由 に 解 放 さ せ 、 宇 宙 の無 限 な空 間 で遣 遥 させる ことで あ マ令﹂シコ

呉 受 桓 の 作 業 は 自 然 を 援 用 し再現して自然の美 徳を拡大しようとすることである。無 心 に水 が流 れ花が咲くと ころに自然の有 心 があるように 、 呉

A-

受桓の有 心 の絵の世界は結局は自然の無 心 に帰る ことを渇望している 。

73

1998、362 X 2 2 7 c m

~

()

Rev i ew

型竺?


七 三 ム

、 , ....

悲劇と追憶のアルバム

ノ¥ 、

小説家

李祭夏

ム 光模監督の﹃美しき時代﹄は、一九五 A〓 ﹃耶土子T'0 年 代 の 韓 国 の あ る 田 舎 の ひ っ そ り と 一ノこ し た 美 し い 山 野 と 、 そ の 中 で 生 き る 人々の姿を慎ましやかに 描 いている映画である。

ひっそりとした美しい田舎だといっても、それ

はこの映画の全体的なトーンからくる表面的な印 象であるだけで、画面を子細によく見、その中で うごめく人々と彼らが伝える話からすると実際に

は全くそうでない ことに気づかされ る 。 よく知ら れているように、一九五0年代は﹁韓国戦争(一 九五0 ・六 ・ 二 五 ご が 起 き 、 国 連 軍 の 参 戦 、

九 ・二八失 地 回復、中共箪の介入、 一 ・ 四後退、 休戦協定、そして分断が決定的とな った最も 悲劇 的な時代だ った。三年 以上も続いた動乱で国土は

廃嘘となり、しかも同族同士が互いに敵にならな ければならなかった凄惨な戦争であり、 ・ どこに静 かで美しい田舎が残っていただろうか。それでも、 その頃を懐かしむ、この映画の表面的な 卜l ンは

このように静かだ 。 この 映 画が、私たちの目を特 に引く理 由 もここにある。

李光模監督は、﹁大人たちが経た、この厳しい

時代を 一度じっくり と顧みるために、ちょうど古 い記念アルバムを掘り起こすように ﹂ この映画を 作 ったと語った。監督 自らが明らかにしているこ のようなモチーフには、様々な意味と考えなけれ ばならない問題が込められている。その 一つは、 類のない激動と悲劇の時 代 を﹁古い記念アルバム

を掘り起こすように静かに﹂描こうとした本来の 理由である。ここには 、一 つの時代をより冷静に 客観的に傍観しようという監督の積極的な意志と 美学が関連しているようにみえる。いまだに韓国

映画は、ある時代とその荒波を描こうとする時、 決まって自分自身が直接関わった問題のように。ひ

ったりと近 くに視線を 据え、興奮と誇張をため ら わなかった。その結果、映画は主観に偏り、より 合理的な秩序と説得力を失ってしまうのが常だっ た。いわば、互いに知っている者同士がチバンク

74


のこのような致命的な弊害を誰よりも痛感してい たようだ。

る逆効果を引き起こす。李光模監督は、韓国映画

実通りには伝えず、往々にして事実を歪曲さえす

あったということである。騒音と誇張は事実を事

理由もなく、わいわいがやがやとしているだけで

製作全般に費やした誠意と努力は封切り前から話

映画製作にかかる長い期間も驚嘆に値するが、

とでも証明されている。

画の常識をまったくはずれた十 一年にもなったこ

色合い修正作業等、この映画の製作期間が韓国映

場面が現れるまで数限りなく繰り返された撮影と

昇華させようとする監督の心労と焦燥は、十分な

のアルバム同様に追憶に変え、これを再び芸術で

された。

九八年韓国映画界が収めた最大の収穫として記録

祭で受賞と称賛を受け、韓国映画の位相を高め、

術貢献賞、ハワイ映画祭大賞など、各種目際映画

プリ、ギリシャ・テサルロニl ケ映画祭最優秀芸

賞、第十八回フランス・ペルポール映画祭グラン

際シナリオ・コンテスト金賞、東京国際映画祭金

追跡してきた李光模監督の﹃美しき時代﹄は、国

力の結果なのだろうか、人間の生の軌跡を執助に

(家の中での亙の儀式)でも開くような姿で、

もう 一つ は 、 こ の よ う な 主 観 的 な 視 線 を 抑 制

題となっていた。芸術的完成度のための執効な努

A-

して得られる様々な効果、だ。村人から追われ、 るこの映画は、このような切迫した騒動さえも、

ラを握っている、( 上) 村人たちの一時的な平和を象徴する運動会の場面、( 下) 全編を通 してクローズア

井戸の中に隠れた国家反逆者の捜索作業で始ま 実に本の中の一枚の挿絵のように静かに見せる だけで過ぎていく。 三度 の 食 事 を 手 に 入 れ よ う と、あるいは洗濯物の軍服一着を泥棒に盗まれ たため、進駐していた外国軍人にどうしょうも なく体を提供しなければならなかった村の女た ちの姿や、米軍にくっつき何とか家族を養って きたが、品物をこっそり横流ししていたことが ばれ、袋叩きと赤いペンキを浴びる屈辱を受け、 な数々の衝撃的な場面も例外ではない。これら

李九模監督は、

﹁大人たちが経た、 この

殺しい時代を

一度じっくりと

頗みるために、

ちょうど古い記念

アルパ ム を 掘 り

起 こ す よ う に ﹂ この

映画を作ったと語った

ップされる場面は少年が母親の売春を巨撃するこの場面のみである

首をうなだれたまま帰ってくる家長、このよう

ても静かな場面処理がなされていて、むしろも

全てが他人事のようにかなりの距離を置き、と どかしいほどである。そして、声を殺したまま 進められる村の大人たちのこのような悲劇的な 一片 の 絵 に 、 汚 れ な く 無 邪 気 に 遊 び 回 り 、 い ま だ夢を忘れずに育つ子供たちの生活とその世界 が入り交じり対比されている。言ってみれば、 こ の 全 て を ま る で 遥 か 昔 の 追 憶 の よ う に 一つの 画面に収め、偏ることも、不足することもなく 見せようと、おそらく監督はこのような技法を 用いたのであろう 。 カメラをできるだけ遠くに構え、一つの画面の 中に全てのことを細密に収めようとする、いわゆ る ﹁ロング・テイク﹂というこの技法は、俗にい うアートフィルムを指向する監督たちが好んで使

( 右頁) この映画では主にこのようにロングテーク技法を通して遠い距離から事物を観察するよ うにカメ

かった方法でもある。戦争と悲劇の年代を遥か昔

75

Rev i ew

空竺?


J OURNE Y S IN K OR E A N Ll TERATURE

F ﹂O IO 司 mmO

;周 60年代以後、 経 済 成 長 の 平 行 現 象 と も 言 う べ き 大 量 生 産 は え学界にも波及し、指折りの作家たちが競って旺盛な生注力を 発揮した。 そ の よ う な 大 勢 の 中 で 在 薪 は 節 制 と え 乙 を 特 徴 と す る 寡作の道を選択することにより、 最 も 輝 か し い 批 評 的 ス ポ ッ ト の 対 象 と な り、 また J思 慮 深 い 読 者 た ち の 惜 し み な い 賞 賛 を 受 け て き た


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ユ ジ ヨシ ホ

一つの参考事項に

うことは確かであるが、彼女の特異 な文学的履歴はその説明になるとは

した。母校のフランス文学科の教授

ディラスに関する論文で学位を獲得

行きプロパンス大学でマグリット・

スやミルラン・クンデラの作品がそ

紀後半の代表的な作家であるマルケ

る の は 不 可 能 な こ と で あ る 。 二O 世

延世大学国文学科教授 文学評論家

言えないものの、

柳宗鏑

﹃おまえはもうこれ以上お

家、窪命の作品には長編 まえではない﹄を始めと

ことにより、最も輝かしい批評的ス ポットの対象になってきたし、また

己を特徴とする 寡 作の道を選択する

当時の韓国では非常に挑戦的で逸脱 した行動であった。)韓国有数の名

学 校 の 女 生 徒 が 職 員 室に 行 って教 師 に異議を申し立てるということは、

気をかいま見ることができる。(小

私たちは彼女の只ならぬ批判的な鋭

異議を申し立てたという自己述懐に

うに検印を押す教師を姉と一緒に職 員室を訪ね 、 真 面 目 に そ し て 厳 粛 に

をしてこない同級生に子牛に行うよ

っていたという。 小学 校 の 時 、 宿 題

三年、ソウルの住宅街で生まれた荏 おは、幼い時、漫画家になる夢をも

韓国戦争が休戦で終わった一九五

賞を受賞、短期間の内に韓国の代表

短編﹃ハナコはいない﹄で李箱文学

仁文学賞を受賞し、また九四年には

二年に短編﹃灰色の雪だるま﹄で東

作家は四十歳を目前にしていた。九

れ た 中 編 ﹃ 音 も な く 一枚 の 花 び ら が 散り﹄を処女作として発表した当時、

一九八O 年 の 悲 劇 的 な 光 州 反 軍 部 蜂起事件を背景にし、後に映画化さ

まっただ中にいたときであった。

文学媒介者としての精力的な活動の

ス語翻訳、文学理論の紹介のように

学の韓国語翻訳や韓国文学のフラン

のように外国文学教育、フランス文

ら 、韓国小説のフランス訳を試みた。 彼女が作家として出発したのは、こ

紹介したり翻訳したりするかたわ

状態に入 っていく。しかし、それま

八0 年 代 後 半 の 軍 政 終 息 と 共 に 小 康

を帯びるようになった。この運動は

てきた。果ては時間が経つにつれ、 だんだん激烈になり地下運動の性格

って運動と抵 抗 の や り 方 も 当 然 違 っ

する対応であっただけに、時期によ

はその時その時の権力層の行動に対

ちの行動および、影響圏内を指称す

に対する反体制運動を略称して運動

に絶頂に達した学生中心の開発独裁

に始まり七0 年 代 に 伸 張 し 八0 年 代

特 殊 な 含 み の 言 葉 が あ る 。 六0 年 代

韓国には運動とか運動固とかいう

主 題 探 求 が 彼 女 の 一番 の 長 所 で あ る ことは疑う余地がない。

うであるように、個々の作品に前作 の残像を許さない厳格な自己管理と

になった彼女は、当代の文学理論を

を受けてきた。それは似かよった自

思慮深い読者たちの惜しみない賞賛

門 中 学 で 文 学 サ ー ク ル を 作 った彼女 は、大学で韓国文学を専攻し、また

た。雀命の作品世界を簡単に要約す

的 な 作 家 の 一 人 と し て 浮かび上がっ

はなると思う。

せ 、 必 要 な も の は 何 一つ欠かすこと

﹃小説の意味構造の分析﹄という評 論が文学誌に載り注目を受けたりも

し 、 中 編 ﹃ 音 も な く 一枚 の 花 び ら が

なくまた不必要なものは容れないと いう崖命の徹底した作家意識に対す

した。しかし、間もなくフランスに

己模倣的な繰り返しを拒否し、各々 の作品で新しい主題と接近法を見

競って旺成田な生産力を発悟得した。そ のような大勢の中で崖命は節制と克

行現象とも 言 う べ き 大 量 生 産 は 文 学 界にも波及し、指折りの作家たちが

ある。六0 年 代 以 後 、 経 済 成 長 の 平

散り﹄、そして 二十 編 近 く の 短 編 が

る社会的な酬いであった。反時代的 だとまで言われた崖命の作家精神が

る言葉が運動圏である。反体制運動

と呼び、この運動に加担した人物た

非常に独歩的かつ異質的であるとい

77

J¥ ノ


る意味に対して何も明らかにならな

結果的には話し手も、安や金のよう

調は、感傷的でもなく悲痛でもない。

加えてくれる。 暗欝な時代を回想する話し手の語

しまっては、この作品に含まれてい

楽大学中退生である安が指揮すると

い。運動の渦が去った後、運動家た

る。﹁文化革命会﹂の指導者格の音

ちの問では治外法権的暗黙のうちの おりに宣伝物の印刷を手助けしてい

でには運動圏は少なくとも知識人た 共感を得たことは事実で、これを扱

に対する 一抹 の 懐 か し さ の 語 調 が 餓

配は全然ない。この淡々とした過去

な人たちに善意を利用されただけの

味からすれば、この作品の意味は重

た話し手は、印刷所の長椅子で背を

層的である。話し手が自分自身ある

死した金喜真や話し手の生き方を、

った文学作品は大体知識人層の暗黙 山雀命の作家的名声を確固たるもの の検挙と会員の逃避で解散し、話し

もあった。文化革命会は安など幹部

より悲痛にそして悲劇的に作り上げ

被害者であるが、恨むとか悔恨の気

にした﹃灰色の雪だるま﹄は、この

いは、自分名義の旅券所持者の餓死

読者に強烈に呼びかけてくる。構成

ちがどのように暮らしを立てていっ たのかということはこの作品の重要

運動圏に対して暗黙の批判と懐疑的 手はある日、安の紹介状を持って自

を知らせる新聞記事に接することか

な関心事ではない。言葉の厳密な意

視線を投げかけた最初の文学作品だ 炊の部屋に訪ねてきた金喜真という

上でもごく普通に見える細かいこと

丸めて寝ながら毛布を首まで掛けて

と言っても過言ではない。萎賀遠と

のような出発である。ここでは推理

ら作品は始まる。初めから推理小説

が全て機能的に作動し、政治と組織

くれる安に人の温もりを感じたこと

いう名の四十代の女性が主人公で 一 女性を幾日聞かくまってやる。安の 同 志 で あ り 愛 人 で あ った 金 は 、 話 し

がソポクレスの﹃オイディプス王﹄

的共感を反映していた。

人称の話し手であるが、語調は年相 手名義の旅券に写真だけを取り替え

の冷酷な非情性というモチーフが間

応にいくらか懐疑的で落ちついてい る。話し手の回顧は、期間満了にな

をとらない暗黙の伝言の意味は、深

違 い な く 現 れ る 。 明 示 的 な 伝 言 の形

術は表に顕すというアドルノの言葉

長でイデオロギーは覆い隠すが、芸

った自分名義の旅券所持者がニュー

在九刈の作、一家的名声を確固たるものにした

ミの運動因に対して暗黙の

作品の重要な魅力は、その文体に

を隠に想い起こさせてくれる。

るのは文体である。新世代の文章で

も現れている。文学と非文学を分け

文体の重要性が漸次薄れていっては いるが、屋街はその重要性を復元す

家庭教師のアルバイトをしながら貧

革命会に話し手が実際に加担したの

切符で渡米する。五年間続いた文化

た偽造旅券と会社が購入した飛行機

手は若かりし日を回想するが、この

ことはもちろんのことである。話し

が推理劇だという意味のものである

できない秩序にだらだらと身体をま

も瞬間的な放心のように、何か拒否

に迫りくる破局を感知していながら

え学作品だと言っても迫、言ではない

批判と懐疑的視線を投げかけた日夜、初の

﹃夜色の雪だるま﹄

ヨークのセントラルパークで死体で 発見され、死因は衰弱による餓死と いう短い新聞記事が発端になる。話 し手は 二十 年 前 の 若 か り し 日 の こ と を思い浮かべる。未亡人になった母 親の国際結婚とアメリカ行きで、叔 母の家に居候として暮らしていた話 し手は、家族の手術費用にとこしら えてきた叔母のお金を持ち出して家

民街で自炊生活をしていた話し手

かせていながら人は生の羅針盤の向

のように人は運命を作るのか。充分

るのに一役買っている。﹁ああ、こ

は、禁書を求める人の連絡場所を訪

回顧は整然と継時的に展開されるの

きを変えてしまうのかもしれない。 しかし、それもやはり一つの選択な

ではない。私たちの意識の中で記憶 の流れがそうであるように、時間上

は三カ月に過ぎなかった。二十年後、

の秩序を破り自由に連想の波に乗っ

金喜真はニューヨークで餓死し、安 は有名な民衆芸術家として活躍中で あ り 、 話 し 手 は 一度 き り の 愛 に 裏 切

一つ の 拠 点 に な っ て い る 印 刷 所 で 働 くようになる。局外者であったため

のだ﹂、このような文体は時に翻訳 的な粗野な文体だとする批判を受け

時には疑いをかけられたりもした

話し手の過去の再構成に同じく参加

たりもした。しかしそれは皮相的で

ている。そうすることにより読者に するよう導く。この再構成は場合に

て田舎で暮らしている。 俗説に従うと﹃灰色の雪だるま﹄

なめらかな文体が捉えることのでき はいわゆる後日談文学の範鴎に属す

られ、今は引退した学者の助手とし

に翻訳していた話し手は、地下運動

ない緊張と真実性を含んでいる。仮 る作品である。しかし、そう言って

よっては読者に再読させ、新しい発 見を呼び起こさせる知的興味を付け

が、暇あるごとにドイツ語で書かれ

に対して愛の渇望が入りまじった羨 望のような好奇心を持つようにな

たイタリアの歴史家の著書を韓国語

ねたのがきっかけになり、運動圏の

出、そして上京し大学に進学する。

ま [

78


に翻訳的だとしても雀命の文体はバ ル卜・ベ ン ヤ ミ ン が 言 う と こ ろ の ﹁外国語の手段を通して自身の母国 語を拡大し深化させる﹂種類の翻訳 的文体だとするのが正しい。 ﹃灰色の雪だるま﹄の中で最大の 犠 牲 者 で あ る 金 喜 真 と 話 し 手 ・萎賀 遠が女性であるというのは、決して 偶然ではない。何でもないように見 える普通の日々が、みんな精巧な意 味の相互作用のまっただ中にある。 男性優位および、男性中心の社会秩 序の 中 で 、 ど う し て も 女 性 が 一 番 大 きな犠牲者になるしかないというこ とを強力に示唆している。このよう な女性主義観点は﹃ハナコはいない﹄ でも用意周到に内に込められている

うことを格別に注視しなければなら ないと思う。 ﹃お父さん監視﹄も、いわゆる分 断の悲劇を扱ったとして関心を引い

う設定自体が大変劇的である。父親

た話題作である。北に越境した父親 と 遺 児 同 然 の 末 子 が パ リ で会うとい の北への越境で社会的監視と制約を 受けた息子は、その苦痛から逃れる ために国外居住を選択し、植物研究 所の研究員として暮らしている。 (雑草を研究しているといっても雑 草は植物学の概念ではないから自分 の生き方を卑下して言っているので あろう)。生まれて初めてのこの親 子の奇異な巡り会いが引き起こす心 理的困惑と葛藤と究極的な相互理解 は、特長である推理小説的展開、徹 密な構成、こくのある文体の中でも う 一度 読 者 た ち を 虜 に す る 。 こ の よ うな特徴は窪布の総ての作品に共通

な特徴で、格別な直接性を持ってい る 。

が、佳命の作品の中に遍在する重要

李箱文学賞受賞作である﹃ハナコ

しているが、重要なことは彼女が主 題上の繰り返しを試みることがない

A-

文章の中で書いている。ここでの憐 慨はニ│チエが言った﹁美しい軽蔑﹂ としての憐聞でなく 、苦 痛 を 共 に す る と い う 意 味の 崇 高 な 同情である。 雀命の小説の美徳はこのような同情か ら由来すると言えるのである。

﹁ 私 に た った 一つ だ け 長 所 が あ る としたら、それは多分、世の中に対 する憐欄の視線であり、それはこの 時期に形成されたものであることは 確かである﹂と寵命は過去を回想する

ということである。従って彼女の総 ての作品はその度毎に一つの新しさ で迫ってくる。

は い な い ﹄ も 高 い 評 価 を受けた秀作 である。都会の暮らしでの人間関係 の根本的な皮相性を詩人金光圭は ﹁ 私たちは ぶつかっただけで一度も 会ったことがない﹂という印象的な 題で掘ったことがある。ぶつかった だけで真実に出会ったことがなかっ たから﹃ハナコはいない﹄というこ とを、ベネチアを背景にして鍛密に 構成され場面の回転が速いこの短編 で握命は彼女特有の説得力を発揮す る。男性たちの欲望とか性的遊戯、 幻想が媒介になってぶつかったた め 、 ま す ま す ハ ナ コはい るはずがな い。多くの評論が この部分を見逃し ているが、ハナコが女性であると言

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韓国国際交流財団の フエローシッフ ・フログラム 韓国国際交流財団は、毎年実施している斡国研究フエローシップお よび韓国語フエローシップを次にようにご案内いたします。 韓国研究フ ェローシップ 韓国国際交 流財団は 、 人文社会科学お よび芸術 分野での韓国関係研究者 に対してフエローシップ を提供しております。こ のプログラムは、海外の 学者お よび適格の専門家

海外での 韓国研究に対する 支援 韓国国際交流財団は、海外の大学、研究所などで韓国に関する研究 や韓国語講座の 開設などを行な う場合、これを支援し ております。人 文 ・社会科学 ・芸術分野のうち下記の項目に該当するプログラムについ て支援申請を受け付けております。 ①韓国学、韓国語など韓国関連講座の開設及び拡大。 ②韓国学研究の大学院生並びに教授に対する奨学金または研究費支援。 上の申請のしめ切りは該当年の 5 月31 日で、選抜の結果および支援額 については、同年 1 月30 日までに申請者に通報いたします。 上記の 「 海外での韓国研究に対す る支援」および「韓国国際交流財団の フエロー シッ プ ・ プログラム」の申請 書および案内書は、韓国国際交流財固 または現地の韓国公館で求められま す。申請書および案内などについての お問い合わせは、下記の住所宛に ご連 絡願います。 韓国 国際交流財団緯国研究支援チ ーム 大韓民国ソウル特別市瑞草郵逓局私書函

227号 電話 。82-2- 3463-56 12

FAX : 82ふ 3463-6075

韓国語フェ口一 シップ 韓国国際交流財団は、韓国語学習を希望する海外の大学院生・学者 6~1

2

月間、韓国内の大学で韓国語講座を受講できる機会を与えており ます。 フエローシップを与えら れることが決まった方には、韓国内の大学のう ちの一つの韓国語講座を受講することができ、受講期間中には、授業料 と所定の滞在費が支給されます。申請ご希望の方は、所定様式の申請書 を作成のうえ、該当年の 5月31 日までに韓国国際交流財団に提出してく ださい。選抜の結果は同年8月31 日までに通報いたします。 申請書および案内などについてのお問い合わせは、下記の住所宛にご 連絡願います。 韓国 国際交流財団人士交流チ ーム 大韓民国ソウル特別市瑞革郵ill 局私書函227号 電話 82-2-3463-5613

FAX: 82-2-3463-6075

KOREAF OCUS ( コリア・フォーカ ス)

( 韓国の時事問題関係隔月刊誌) 韓国国際交流財団は、隔月刊誌 KOREAFOCUS ( コリア ・フォーカス) を刊行しております。「コリア ・フォーカス J は日本の皆様に韓国関連 の情報を提供して韓日両国間の理解を深めていくことを目的としており ま す 。 同財団は「コ リ ア ・フォーカス j が日本の皆様にとって韓国に関する 有益な参考資料になるものと信じます。 「 コ リ ア・フォーカス J は、日本語版のほかに英文版KOREAFぽ US も刊 行しておりますが、 同誌の記事は韓国の主な新聞、時事関係雑誌、 学術誌 などの刊行物から翻訳、記載したものです。 「コリア・フォーカス j が取り上げてい る記事は、韓国の政治 ・経済 ・社会 ・文化 などの各分野と、韓国関連の国際問題にわ たっており、このほか韓国に関する重要な

KORE A F OCUS璽 軍

資料と主な事件の日誌も掲載 しておりま す。したがって、韓国の時事問題に関する 情報性記事が幅広く盛り込 まれていて、韓 国の現実にリアルに綾していただけるに違 いありません。

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