日本語版
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隙 'R E制 A I R{号 、
韓国の美
モシ( 苧麻) 夏にモシ( 苧麻、ちょま) の韓服を涼しげに着こなした
モシを織るには非常に熟練した高度な技術が必要で、また
女性からは、形容しがたい優雅さと端正さが感じられ
時間も長くかかるため、高価な貴重品とされてきた。 中国や日
る。モシは韓国の伝統的な生地で、通風しがよく、さ
本でもモシ( 苧麻) は生産されているが、韓国のものは特にその
らつとした触感は昔から夏の生地の代表格とされてきた。苧麻
品質の良さは昔から広く知られている 。記録によれば、韓国で
草の表皮に手を加えて糸を取り出し手織りにするが、モシで作
はすでに統
られた服は洗えば洗うほど艶が出て色も白くなり、着れば着る (918~32)
(68~935) (1392~0)
ほど深い味わいを増すという。主に韓服の生地として、チマ( ス
えることなく続き、近隣諸国との重要な貿易品目の一つになっ
カー卜) や卜ゥルマギ( 外套) 、チョコリ( 上着) などに使用されて
ていた ・ という 。現在でも忠清南道韓山はモシの主要栽培地とな
きたが、最近では寝具やカーテン、アクセサリーなど現代的な
っており、この地方でとれる細く美しい細苧麻は特に韓山モシ
感覚に合わせた製品にも用いられている。
と呼ばれ全国的に有名な特産品である。凶
く │ or
e a na
韓国の芸術および文化
V o l.
14 ,No .
2
夏号 2 0 0 7
発行 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区瑞草2洞 1376- 1 Tel : 82- 2. 3463・5684 Fax: 82.2. 3463. 6086
www. kf . or.kr 発行人 任農準 編 鶴理事 朴 準 九 編 集長
金鍾徳
編集諮問委員 崖俊植 韓敬九,韓明照,金華柴, 金文換,金英那,李湊培 1
広告 C NC a d ソウル市江南区論岐洞 202 T e l : 82- 2- 51 1-6口0 1
Fax: 82- 2- 511- 6010 編集 金告を允編集会社
ソウル市麻浦区西橋洞 398- 1 T e l : 82.2・335・4741 Fax: 82- 2- 335・4743
w w w.gegd. co. kr 印制 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水 2街 274- 34 T e l : 82- 2- 469-0361- 5 Fax: 82- 2- 461-6798
韓国の干潟 8
生きている命の地、干潟 李夏石
Koreana ホームベージ hltp: !I www. koreana. or. kr @ 韓国国際交流財団 2007 ( Koreana) に掲載されているすべての記事 の著作権は韓国国際交流財団に帰属し、 著作権法により保護されています.
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( koreana@kf .or.kけか F A X ( 82- 2 3463・ ゃ
14 韓国の干潟の特徴と干潟に棲む生き物 高哲換
6086) で転載許可を申請してください. ( Koreana) の記事を引用したり、非営利目 的で使用する場合にも ( Koreana) からの 転載である ことが分かるよう にクレジッ
20 干潟とともに暮らしていく人々 白竜海
26 今韓国の干潟で何が起こっているか 金敬j原
トを明示してください。 掲載された記事は筆者の個人的な意見で あ り、( Koreana) や諸国国際交流財団の公 式見解ではありません。
1987年 8 月8 日文化観光部叶 1033で登 録された季刊蕊 ( Koreana) は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています.
30
文化フォーカス
韓国における地域文化センターの現在 「中心のような地方」から「地方のような中心」へ│ 李東淵
36
インタビュ一 挙期玖
ヴ ェネチアに向かうポストヒューマンのジキル博士│ 林勤唆 P
韓国の西海岸と南海岸には広い干潟が 発達している。干潟は地元住民に豊富な
42
一生を竹簾とともに歩んできた匠 │李欧怜
海の幸を提供すると同時に海洋生態系の 循環を行う重要な天然資源である。 写真は 韓国の干潟としてラム サール ( RAMS AR) 条約に登録されている順川湾の
光 景. ( 写真ソ・ホンガン l
巨匠 鐙大周
48
傑作/ 名品
甘山寺弥軌菩薩と阿弥陀仏 │釜友邦
52
文化イベント・レビュー 2007アルコアートフェアー
韓国美術、国際美術市場に進出│ 成河笑
58
韓国再発見
フィリップ・ティ口、韓屋を愛する北村の隣人 │李修珍
62
世界の中の鶴国人
白建字、鍵盤の上の求道者│ 柳泰衡
66
74
オン・ザ・ロード
昌寧、希望の息づく「悠久なる原始の未来 J
I 裳漢奉
料理
ユスラウメで作るさわやかな夏のデザー卜│ 回照貞
78
速くの巨
韓日文化交流の現場で │小林直人
80
暮らし
83
樟国文学の旅
韓国人の避暑文化: 新避暑風俗図で暑さを凌ぐ │柳 敏
林哲佑 イデオ口ギーの暴力に立ち向かう作家たち │金 亨 中 父の地│ 翻訳筒井真樹子
8 Koreana I 夏号 2007
夏号 2007 I Koreana 9
瞳罷磁器語睦趨霊翠揖冨翻畠E
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10 Koreana I 夏号 2007
夏号
2007 I Koreana 11
12 Koreana I 夏号 2007
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--.._ ム? ー 主
中 干潟とは海岸に形成された地形で、満ち潮 玄 の際には海水で見えないが、引き潮の時に 言 は陸地として現れる砂や泥からなる平らな 有 海底のことである。泥からなる広い相原也 ベ令 いう意味から韓国ではゲツポル ( get beo l) と F 呼ぶ。英語には潮汐によって干潮 ( l ow t i de) の際に現れる平らな地という意味から rt i dal f l aUと呼ぶ 註一口ツノt の北海沿岸は特に千 3が発達しているが、 この地域では干潟を
F
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r Wadder SeaJ 、ドイツでは r Wil t t enmeer J と 一
呼ぶ。 』ー
ー
-
"
韓固め西海岸に干潟が発達している。韓国 m の干潟の長さは約 2500k同である、北朝鮮の 可 内 の l重るため、南北を合わ 干 潟 は 約 3000kl l Iに せるど約 5500k前にのぼる 。 ドイツば約 6000 附の干潟が、オランダには約 3000k前の干潟 が発達している 。オランダ・デンマーク・ . ~ ドイツ3国の干潟をワッデン海干潟という。 ' 韓国の 干潟はその規模と生態的特性からみ て、世界的に有名なワッデン海の干潟に比 ,
J 韓国の干潟は B千年の歴史をもっている。
B 千年といわれるとかなりの歳月と思われる
に過ぎない。地球の歴史が 45億年であるか ら 、 8 千年という時間は地球の歴史を 24時間 にたとえば、最後の 1秒に当たるほど短い。 ところがこれだけの時間の間にあれほど大 量の泥が海に堆積したことを見ると、陸地 から削られた土の量の多さが想像できる。
夏号 2007 I Koreana 1 3
1 4 Kor eana I 亙号 2007
干 潟 町 時 く 潮 汐 の 吋 し くて堆積物がた まる沿岸地域 に形成され る。韓国は西海を 含む黄海の 平均水深が45 メートルに過ぎず、また海 岸に近づくにつれだんだん傾斜が緩やか になるため、 干潟の形成 には最適の条件 をもっている。海岸の海底傾斜度は、仁 川地域の江華島みたいに外海に広がる 地 域の場合は、 11550から 1/1 000程度の範囲 内だが、忠清道の加露林湾の ように半閉 鎖形内湾の場合は 1/1 500 から 1/ 2500程度 の範囲であり、全羅南道の成平湾のよう な閉鎖型内湾は約 1/ 2500の範囲内にある。
干潟形成の条件 韓国の西海の平均潮差は、全羅道か ら仁川の方に北上するにしたがってだん だん大きくなるが、木浦は 3. 1 メートル、 群 山は5. 3 メートル、仁川は7. 3 メートル である 。仁川か ら北朝鮮の方に 北上する と潮差 (tidal range: 干潮と満潮との海水面 の高さの差) は再ひ、小さくなり、鴨緑江下 流に 至つては約 5 メートルに減る。世界 的には平均潮差によって 4 メートル以上 2~4
れば中潮差環境、 2 メートル以下であれ ば少潮差環境に分類される。この分類に したがって韓国の干潟は大潮差環境の環 境干潟として分類される。 陵地から流入される浮遊物質の量は ハンガン( 漢江) が約 l 千万トン、錦江が約
6百万ト ン、鴨緑江が約 5百万トンであ る が、これら 3 つの 川 の約 2 %に過ぎない 。 ところがこれら浮遊物質が西海周辺海岸 3~5m
きるのに充分な 量である。黄海に流入さ れる浮遊物質のほとんど は中国の黄河と 長江から流れてくるが、黄河が年 10億ト ンで、長江が年 5 億トンである。ところ が黄河に流入してくる浮遊物質のほとん どは溺海湾に堆積し、黄河には約 1 0 %だ けが入ってくる。 川を通じて海に流れていく浮遊物質 夏号
2007 I Koreana 15
は潮汐 (ti de) の働きに合わせて動きながら
側に位置した京畿道には、約 840kni にの
沿岸または外海の方に運ばれるが、潮汐
ぼる干潟が広がっているが、ここが韓国
全 羅 北 道 沿 岸 は セ マ ン グ ム ( Sae-
と地形によってその程度は変わる。浮遊
の干潟の約 3 5 %に当たる。京畿道の典型
mangeum) 干潟で有名だ。セマングム干潟
物質は潮流とともに移動しなが ら砂の粒
的な干潟といえば、江華道の南端と永宗
は約 400kni 達する韓国最大の干潟である。
子はすぐ堆積し、泥の粒子は潮流の弱い
島北端に広がる干潟である 。 ここは外海
万頃江と東津江河口を含めた非常に肥え
ところまで流れ出て堆積する。潮流は外
につながる干潟であるため、沙泥質( 砂と
た干潟だが、現在は 33kni にのぼる防潮堤
海と水路で強く、海岸近くや閉鎖された
泥が混じった土質) で形成されている場合
によ って塞が っている 。 1992年に始ま っ
海岸では弱くなるのが一般的だが、こう
が多い。底棲動物( 海底に緩む動物) のほ
た防潮堤工事は 2006年に終わり、干潟を
した違いによって、砂は外海と水路に堆
とんどがゴカイで、 80種類余りが棲息し
農地として開墾するプロジェクトが計画
積 し、泥は海岸の陸地に近いところに堆
ている。
されている。約 250種類の 底棲動物が記
分布する。
積する。その ため、同じ干潟とい って も
忠清道沿岸には約 340kni の干潟が発
録されており、 70種類余りのゴカイが報
海岸近くは泥の干潟が、海につながる中
達している。加露林湾がもっとも典型的
告されている。なかでも多い生物が員類
間地帯には泥と砂が混じった混合干潟、
な干潟で、約 100kni の広さを持つ内湾干
であり、底棲動物の生物量 ( bi omass
外海には砂の干潟が形成される。また、
潟である。湾の入り口は約 2kni に過ぎな
る地域内に棲息している 生物の現存量)の
外海に開かれた地形では砂の干潟が、閉
い半閉鎖性内湾であり、泥が発達してい
約 90 % を占め る。生物領は生態量の重さ
鎖された地形では泥の干潟が形成されや
る。底棲動物としてはゴカイがも っとも
であり、約 1平方メートル当り 100g( 100g1
すい。
多くて 70 種類以上が報告されていて、西
ぱ) である。シオフキ ( Sur f cJ a m 学名 :
海 チ ョ ウ セ ン キ カ ゴ (s nai 1 学名
Mact r a v 巴neri f ormis) とバカガイ ( hen cl am
地域別干潟の特徴 韓国で干潟が発達した西海の一番北 16 Koreana I 夏号 2007
U m-
あ
boni um t homasi ) とホソウミニナ ( Bati l l ari a
学名: Mact r a chi nensi s) がそれぞ、れ約 100固
cumi ngi ) などが約 50固体1m 程度の密度で
体 1m 程度の密度で棲息している 。典型的
な沙泥質干潟で、特に貝類の多い干潟で
があり、また二枚の皮で覆われている軟
あり、水産物としてはオオハマグリ( 大蛤)
体動物) である。 干潟の周辺に住む漁民に
がよく獲れる。
とっては、魚類よりはこの二枚貝類がよ
全羅南道は干潟の面積が一番広いと
り重要な所得源になるという。韓国では
ころで、干潟の総面積が 1, 000kmに達する。
二枚貝類を干潟に出て、草取り鎌で直接
リアス式海岸で、海岸線が複雑で島が多い
獲るため( これを「素手漁業」という) 、地
ため、景観が美しい。干潟は主に荏子島と
元住民なら誰でも簡単に収獲できる生物
成平海岸に発達している。島と内湾に取り
である。韓国の干潟で獲れる代表的な二
固まれたところに干潟が発達しており、そ
枚貝類としては、アサリ、シオフキ、そ
のほとんどが泥干潟である。 150種類余り
してアゲマキガイ( 学名
の底棲動物が報告されており、 50種類以上
const nct a、長いナイフの形をしているた
の 軟 体 動 物 が い る 。 優 占 種 ( domi nant
めJ ack Kni f e貝とも呼ばれる) がある。こ
sp巴cies) はジョンミッ ( Muscul i sta senhausi a)
の3種類の員はみんな淡白な味のうどん
とアサリ ( mani l a c l am 学 名 : Rudi t apes
やカルグッス( 韓国式うどん) などの汁を
phi l i ppi narumである。
つくるダシとして使かわれる。これらの
Si nnovacul a
員は遅い春から夏にかけて繁殖し、秋に
干潟に棲む生物 微細藻類は干潟に棲む底棲動物の餌
幼い固体が生育するのが普通だが、寿命 4~5
となる植物である。韓国の干潟はどこも
アゲマキガイは泥干潟に生息する代
この微細藻類が棲息していて、特に泥干
表的な二枚貝類である。干潟の水路や陸
潟に多い。微細藻類のほとんど珪藻類
地に近い水路の傾斜面が典型的な生息地
( di at om) で あ る が 、 大 き さ が 1 0 μ m
1 7 サりは韓国の干潟に生息する典型的な二枚貝類で
ある。 しかし、 1990年代から始まった干拓 プロジェクトの進行とともにその収穫量は 大幅に減った。 2 全羅南道に広がる干潟の面積は 1000平方キロメートル にも及ぶ。 また 150種類以上の底接動物が報告されて おり、その中には50種類以上の軟体動物が 含まれている 。
1O
4~5
( mi cromet er) 程度で非常に小さい。大き
と成体になり、約 10センチまで育つ。京
いものであっても長いだけであって、幅
畿道の華城干潟で調べて結果、 l ぱ当た
~20m 10~5
2 . 7kg
物である 。 この植物の皮は碇酸質で、透
察された。 団体の数と成長ぶりを計算し
明であるため、光を受けて光合成を行う ロ
てみたら、 1年間の生産量は 3kg/ ばであっ
碓酸質の皮には外部から水や栄養分を吸
た。漁民にとっては重要な所得源になる
い取る穴がある。この穴の形が列を成し
水産資源といわざるをえない。
ているものもいれば、放射線の形をして
アサリは砂や混合干潟であれば、韓
いるものもいて、その穴の形で種類を識
国の干潟のどこでもみられる典型的な二
別する。韓国の干潟ではこれら植物から
枚貝類である。幼い固体は砂の多い水路
生産される第一次生産量はワッデン海
の傾斜面に棲息するが、成体になると干
( Wadden S 巴a) 干潟に劣らない。
潟の上部まで上ってくる。収穫量を増や
干潟がもっ重要性といえば、限りな
すため、水路で幼い固体を獲り干潟の上
く広がるユニークな景観に、干潟に生息
部に撒いて成体の密度をわざと高める方
する様々な生物が生態的に重要であるた
法も使われる。この方法も 一種の養殖と
め、生態学習の場や観光資源として重要
いえるが、餌を与えず自然そのままの状
であるためであろう。さらに地元住民が
態で置いておくので一般的な魚類養殖と
水産生物を収獲する所得源であることも
は違う。このような養殖の場所からは 1
欠かせない。
rri 当たり 300個体のアサリが獲れる。年
干潟に棲む水産生物は主に魚類と二 枚貝類 ( Pel ecypoda: 両側に二枚の外套膜
間生産量に換算すれば 1. 2kg/ 程度になる。 シオフキもアサリみたいに砂または 夏号
∞
2 7 I Koreana
17
1 干潟の持つ有用性は、広大な干潟の景色は無論の事、
干潟に生息する多種多様な生物の生態学上、 重要な意味を持っていることである。 2- 5 干潟は地元住民 にとっては、水産物を得て所得をあ げる大切な生活の場となる. 設国の干潟か ら収穫される代表的な水産物であるアサ リ、 シオフキ、オオハマグリ、そしてアゲマキガイ . 6 干潟の真価を渡り鳥はよく知っている. 干潟は、 遠い道程を飛んできた渡り鳥 l、 こ 疲れた羽を休める 場所と十分な食物を提供する.
混合干潟で見られる典型的な韓国の干潟 水産生物である。 1m' 当たり 200 固体、
0. 6kg程度が獲れる 。 アサ リに比べて棲息 量は少ないが、非常に早く成長するため、 年間生産量 は 1m' 当たり l .4kg にのぼる。 庖頭価格はアゲマキガイ、アサリ、シオ フキの順に低いことも、シオフキの早い 成長が理由であろう。これらの二枚貝類 は 1980年代に最大の収穫量を記録してい た 。 1980 年代にはシオフキが年間約 l 万 トン、アサリは約 2 万 トン、アゲマキガ イ は 約 l 千トン程度を漁獲していたが、
1990年代半ばからは干拓プ ロジェ ク 卜が 本格化するにつれて、漁獲量も大幅に減 ってしま うた 。
干潟保全のための代案 干潟に関する韓国の国家プロジェク トが干拓から保全の方向に変わり始めた のは 2000年に入ってからの ことで ある。 これま では国民の多くが干潟の重要性を 認識できず、干潟は干拓して農事を行う ことがいいと 考 え ら れ て き た。しかし
1980年代半ばから干潟の生態界に関する 様々な科学レポートが報告され、また始 華湖とセマングムのような大掛かりな干 拓による環境破壊の弊害が知れるにつれ て、干潟を保全しなければならないとい う市民キャンペーンが活発に展開され
18 Kor eana I夏号 2007
た。ヨ ー ロ ッ パ の ワ ッ デ ン 海 ( W adden
の生態界に対する認識の向上である。こ
S ea) 干潟の保全政策が国内に紹介された
れまで指定された干潟保全地区は、保全
第叩国ラムサール条約国会議の開催
ことも、 干 潟 保 全 に 向 け た 認 識 を 促 し
地区当たりの単位面積が非常に小さいう
第 1日 間ラムサール条約国会議が 2008年に韓国
た 。
え、また広い地域に点在していてお互い
の慶尚南道で開催される。「 環境オリ ンピy クJ
1990年代半ば以降 これまでの約 15年
に連結されていない。これは指定の過程
と呼ばれるラムサール条約国会議は、 2008年
間、西海の干潟を保全するために科学者
において地元住民の反対に直面した結
10月 28 日から 11 月4 日までの 8 日間 、 ラムサー
や市民団体、マスコミなどによる取り組
果、プロジェクトを縮小せざるを得なっ
ル条約 に登録されているウポ沼( 牛浦) のある
みが行われた結果、今や干潟の保全が国
た事情を鑑みても、干潟保全地区をベル
昌寧一帯で開かれる予定で、計 144 ヵ国の代表
家政策の一つの柱となった。韓国の環境
ト化する必要がある 。 つまり弱い保全の
や環境関係の国際機関、それ にNGOの代表ら
部は 1999年に洛東江河口、 2006年にハン
形としてまず広い地域のベルト化、つま
など、合わせて 2千人以上が参加する会議であ
ガン河口をそれぞれ湿地保護地区として
り干潟グ リーンベルトとして指定して核
る。ラムサール条約 (ramsar conventi on 国際
指定しており、海洋水産部は 2001 年に全
心的な保全内容を 一部選定 してこそ、保
湿地条約) は 1971年にイラン (Iran) のラムサ
羅南道務安干潟、 20 02年に全羅南道の珍
全の理論に合致できるのである。
ルにおいて、世界的に重要な湿地やそこに生
保全政策がより円滑に進められるた
息する動植物の保全を促し、湿地の適正な利
筏 橋 干 潟 、 京 畿 道 蛮 津ー 長峰島干潟を、
めには国 民の認識向上や、地元住民に利
用を進める ことを 目的として開催された会議
2007年には全羅北道 コムソ( 熊沼) 干潟を
益をもたらせる、より実質的な手段も一
で作成された。 同会議の締約 国になるために
それぞれ湿地保護地区として指定した。
緒に講じられるべきである。すでに実施
は、一力 所以上の湿地がラムサール湿地リス
さらに海洋水産部は 2004年から準備して
されている 干潟体験場や順川湾や務安干
ト に登録されていることが条件となっており、
きた干潟保全関連上位法律である「海洋生
潟保護地域の訪問者センターなどの運営
韓国は江原道の麟蹄郡 にある大巌 山竜沼が初
態界の保全と管理に関する法律」を 2006年
も改善されなければならない。さら に体
めて登録され、次 に昌寧牛浦沼が二番目に登
10 月に公布し、干潟の生態界保全政策を
験のプログラムも、干潟を歩きながら貝
録された。慶 尚南道は会議の開催期間中に、
力強く進めるための具体的な手法を講じ
を採ってみる単純な内容ではなく、干潟
江原道麟蹄郡大巌山竜沼を始め、 非武装地帯
た。海洋生態界の管理および保全計画づ
の価値 と重要性を教える真の意味の生態
( D MZ)
くり、海洋生物の保護、海洋生物の多様
教育といった、より充実した内容のプ ロ
の生態界と、地元のユニークな文化が連携さ
性保全、海洋資産の管理などの内容を盛
グラムを開発する必要がある。そのため
れた観光コースを開発・運営する計画である。
り込んだ同法律が成立 したことで、今後
には、地元大学の専門家の積極的参加は
干潟保全 に関する国家プ ロジェクトがさ
もちろん、地元住民も参加できる協議体
らに活発化することが期待されている。
制を構築し、干潟の保全が地元住民の利
島干潟、 2003年に全羅南道順天湾と宝城ー
ところがさらに重要なことは、干潟
の湿地と牛浦沼など、 圏内 の主な湿地
益となるケースを作ってほしい。 凶 夏号
2007 I Koreana 19
i
ーー園田- ー『
時司・「司" - ' 胴r r - 司司司・- ・-
干 潟 の も つ 一 番 の 価 値 は 浄化機 能
各地域で獲れる生物は地域と季節に
であろう。干潟に生息する数多
よってそれぞれ違う。これは採集の時期
くの生物が陸地で人聞が使い捨てた有機
によ ってその生物の値打ちが変わるため
物を最終的に 分解してくれるのだ。しか
である。干潟の生物と地元住民の活動時
し、韓国人にとって干潟はさらに大きな
期をみると、地域・季節ごとに一定のパ
意味合いを持っている空間である。韓国
ター ンが見られる。たと えば、 寒い北風
の人々には干潟の生物を食料とする固有
の吹く真冬に陵地の生物は深い眠りにつ
の食文化があるためである。世界的にみ
く。しかしこの時期に干潟では、ある 目
て干潟の生物を食料として利用する国は
的のため、深い海から浅い干潟に移動す
あまり ない。特にタ コ 、 員、ナマコ 、ユ
る生物がいる。犬の生殖器に似てい るこ
ムシ ( Ur巴chi s
とから「ケブル( 訳注 : ケは韓国語で犬の
unicts
2~4cm
1O
~
15cm
)
ことである) J と呼ばれるものである。近
な生物 を生で食べる食文化をもっている
頃、韓国人に体にいいと知られて、その
国は韓国だけ である。韓国人にとって干
値段が急騰している生き物、その形も名
潟はまるで食品貯蔵庫のようなものだ。
前もほとんど馴染みがない。赤みを帯び
都会で は安くて質の良い高タンパク質の
ていて、一見前後の区別 がないように見
食品が手にはいりやすいが、干潟で生き
えるこの生物は d溢虫動物に属する種で、
る漁民にと っては干潟が所得水準を上げ
冬が繁殖時期 であるのが特徴である。夏
られるありがたい生活空間であるのだ。
の聞は潮下台( 平時は水に浸かっている干 潟とつながる海) で体が大きくなり、成熟
潮汐に合わせて生きていく 干潟に依存して生活する人々は、海
した冬に浅い海に上がってきて、砂浜に
i UJ 字型 の 穴 を 掘 って 身を隠す。 この行
水の潮汐 (ti de ti me) を熟知していなければ
動は繁殖のための行動であるが、実際真
ならない。干潮 (I o w ti de) の際に海水が引
冬にケブルの穴を掘ってみると、雄と雌
いた所に現れた広い干潟こそ彼らの仕事
が一緒に入っている場合が多い。ケブル
場なのだ。ただ、再び潮が満ちてくる ま
はこの穴の入り口に砂を詰めて小さな噴
での限られた時間の仕 事場である。干潟
火口の形をした構造物を作るが、人々は
に潮が満ちてくると 明日に 持ち越しにな
この形をみてケブ、ルが入っている穴を 探
る。潮は月の引力に よ って一日に 2 回ず
しあてる。ケブルは一年 中採取できる生
つ、引き潮と満ち潮が交叉するが、 この
物ではないが、値段が高いため 真冬 には
変化を毎日 記録し体系化 させたのが潮汐
地元の漁民にはかなり儲けのいい獲物と
の潮時である。海辺に住 む人にとって潮
なる。
時は時計と同 じだ。しかし潮時が指す時 間は一定ではなく常に変わる時間であ
干 潟の生物で春 窮期 を 凌 ぐ
る。毎 日一時間ぐら い遅くなるのだ。 そ
ケブルだけでなく、干潟の漁民にと
のため漁民たちはこの潮時に合わせてあ
って少な くない収入源となる貝がある。
る時は夕方に海に出る こと もあれば、あ
貝は火を 通して 食べるのが一般的である
る時は未明に海に出る こと もある。 干潟
が、白蛤は生で食べられる数少ない貝の
の人々は干潟の幸を採集して子供を教育
一つであ る。独特の香りと甘い味がある
し、結婚させ、マイホ ームを建てて素朴
ため、貝の貴族と呼ばれる。しこしこと
な 生 活 を営ん できた。 こうし た 干 潟 の
した歯ごたえと甘い味が独特 の香りに 相
人々の暮らしぶりを垣間見ると、さぞか
まって、美食家には堪えられない味だ。
し面白い話が多いことだろう。
生の貝が食べられる時期は気温の低い冬
22 Koreana I夏号 2007
1 早春になると 身の詰まった貝が干潟に満ちる。 2 ポルベを引きながら干潟で貝を拾う漁 民たち。 重い貝の運搬 には底が広〈、長いポルベが 打ってつけの移動手段である.
夏 号 2007
I Kor eana 23
24 Koreana I 夏 号 2007
1- 2 漁民にとって干潟は生計を立てるための暮らしの場である。 干潟に生息する貝やユムシなどの生物は、地元住民に とっては重要な収入源となる。
保寧マッド・
フェスティバル
場が旬である。韓国南部の全羅道地方で
いい薬を総称して「参」という言葉をよく
海水浴場の開場シーズンになると、忠清南道
は、この白蛤を生で食べる貝という意味
用いる。人参が大抵の病を癒していた時
保寧の大川海水浴場ではユニークなフェステ
から「生蛤」とも呼ぶ。
期に生まれた風習と思われる。特に山の
イバルが閑かれる。マッドをテーマにした観
だが、実は貝は庶民の哀歓が渉んで
奥で自生する山参ぱ死んだ人も生き返る」
光客体験型イベントである保寧マッド・フェ
いる生物でもある。農耕社会であった昔
と言われるほど、その薬効に対する強い
スティバルである。フェスティパルが関かれ
の韓国社会では春になると長い冬の問貯
信頼があった。その山参が山に生息する
る保寧には、 136キロメ
蔵しておいた穀物も底をついてしまい、
ものであるとすれば、海にもそれに比肩
海岸線にしたがって細かいマッド干潟が広が
「ボリッゴゲ( 春窮期: 秋に収穫した食料が
するものがあるが、それがナマコである。
っている。そのマッド成分を分析してみたら、
底を尽き、小麦はまだ、十分成長していな
「山には山参、海にはナマコ」ということ
多量の原赤外線が放出され、皮膚美容にいい
わざもここから由来している。このよう
ミ ネ ラ ル ( mi n e r a l ) ・ ゲ ル マ ニ ウ ム
む時期、ボリは小麦の韓国語) J という苦
に体によい食品として、時には薬として
( ger mani um) ・べン卜ナイト ( bent oni t e) など
しい時期があった。この時期になると内
使われる生物が干潟に生息するナマコで
が含まれていることがわかった。このマッド
陸の農家では、大事にしまって置いた種
ある。韓国の干潟に生息する生物のなか
を利用して、{ 果寧市ではマッド化粧品を開発
まで食べ尽くすほど貧困な生活を送って
でもっとも値の張る生物がタコである。
し、マッド・フェスティパルを企画すること
いた。ところが海辺の事情はまったく違
タコは食べ方もさまざまで、蒸して、妙
によって、保寧地織の干潟と質の高いマッド
う。面白いことに早春になると、干潟は
めて、茄でて、和え物としても食べる。
を知ってもらおうと取り組んでいる。
ふっくらとした身がついた員でいっぱい
ところが、韓国では生で食べるタコを最
フェスティバル期間中は、きれいな干潟から
になる。干潟の住民たちは潮が引いた干
高の食べ方とする。外国では嫌われる食
採取したマッド・パウダ
潟に出て、ザルいっぱい貝を拾うことで
品を生で食べるほど、干潟は長い問、我
用した面白い内容の体験 イベン卜が次々と関
空腹の苦しさも自然に解消できた。昔か
が民族と深い縁を結んできた生活空間で
かれる。大型マッド湯とマッド人間ずネキン、
ら韓国では「海辺には物乞いがいない」と
ある。
マッドマッサージ、マッドハードル走り、マ
5~6
トルにもおよぶ長い
( mud powder ) を利
言われていた。苦しい時期を凌いでくれ
干潟はもてるすべての物を人間に捧
ッド刑務所などである。また干潟克己演習、
た代表的な貝はヘン・クラム ( hen c l am) と
げる。母親が限りなき愛情を自分の子供
干潟マラソン大会、干潟スキー大会など、さ
いう種で、一部の地域では空腹から解放
に注ぐように。干潟の存在は自然の恵み
まざまな干潟体験プログラムも設けられてお
してくれたという意味から 「解放員」とも
であり、また神様の祝福である。干潟の
り、観光客の足を集めている 。 このフヱステ
呼んでいた。
生物を食料として利用していた固有の食
ィバルは 19何年から開催されていて、毎年7月
文化を持っている我が民族にとって、干
中旬頃スター卜して4 日間聞かれる。最近、外
潟はどの国よりも大きな価値をもっ広大
国人観光客も増えている。
母のような慈しみの地 生で食べる代表的な海生物はナマコ ( sea c uc umber )
な生活空間である。凶
である。韓国社会では体に 夏号 2007 I Koreana
25
26 Koreana I 夏号 2007
士 主 主 国 に お け る 干潟生態系の理解と 干阜保全糊の歴史をひもとくと、 その過程はあまりにもダイナミックで興 味深い。干潟の干拓プロジェクトを巡る 論争は、始華湖( 韓国の京畿道安山市・ 始興市・華城市にわたって形成された人 工湖) で発生した深刻な水質汚染が環境 問題として社会的に知られたのをきっか けに、セマングム干拓プロジェク卜( 万 頃江・東津江河口の干潟を開発するプロ ジェクト) に反対するキャンペーンを経 て、市民運動はピークを迎えている。こ うした活動は、韓国の干潟生態系の保全 か開発かをめぐる葛藤の発端と社会的コ ンセンサスづくりに向けた、これまでの 10年間の過程を理解するための良い見本
になる。しかし、依然として開発か保全 かの問題は大きな課題として残ってお り、今も長項( J anghang) 干潟を取り巻く 論議と葛藤は続いている。
今も続いている開発 干潟は海洋生態系と陸地生態系の間 で緩衝的機能を果たしている。形成過程 と生態系的な機能からみると、陸地と海 としての役割を同時に果たしているの だ。そのため干潟は長い問、多様な生物 の宝庫であると同時に地元住民にとって は暮らじの場であった。 韓国の干潟は東アジアとオセアニア 大陸聞を渡る水鳥には、重要な移動ルー トであると同時に棲息地であり、また海 洋生態系の母体であり、多様な生物を扶 養するところである。朝鮮半島の干潟と 中国の溺J 海湾と東南海岸を結ぶ黄海沿岸 の干潟は、世界 5 大干潟の 一つであり、 地球的レベルでの保全と管理が求められ るところである。ところがこれほど重要 な干潟生態系の価値が、開発後に初めて 認識されるようになったのは大きな矛盾 である。干拓によって干潟が乾いてしま い、姿を消した後、ようやくその価値が 認識されたのだ。 夏号
2007 I Koreana 27
1 干拓プロジェヲトによって、干潟の生態系に対する
関心が高まり、これ以上干潟を破壊してはいけな いという声も高まった. 生態系の宝庫であり 地元住民の暮らしの場である干潟の開発と 保全を巡った論議は今も続いている。 2 地元住民が干潟て' 怒った収穫物を持って 家に帰っている .
干拓地の淡水湖 (f reshwater lak 巴) の水
始華湖に隣接した華城湖は、始華
要性を認知し、暗黙の内に国民のコンセ
質汚染が社会的な論議となった始華干拓
湖の水質問題を目の当たりにしながらも
ンサスを少しずつ得る ようになった。干
地は、 10年が過ぎた現在も依然として開
2002年 3 月に最後の水防ぎ( 海水の出入り
潟という 生態系は保護 して持続可能な状
発と保全との問で葛藤が続いている。始
を防ぐこと) 工事を強行した。 5年が経過
態に保全すべきであるという認識が広ま
華湖の水質問題を解決できなかった韓国
した現在、華城干拓地も淡水湖の確保を
ったのである。しかし、韓国政府は 2006
政府は、水門 ( f l oodgate) の解放に踏み切
通して農地造成という本来の目的すら達
年4 月 に 防 潮 堤 の 水 防 ぎ 工 事 に 踏 み 切 っ
り、海水を入れるしか手がなかった。い
成できないまま、防潮境tide embankrnent )
た 。
かなる手立てを講じても始華湖の水質問
の補強工事と干拓地内部の土地利用計画
干潟生態系の重要性に対する社会的
題を解決できないことを政府が認めたの
づくりという名の下で着々と開発が進め
認識が広まっているにもかかわらず、セ
である。結局、淡水湖を造成して農業用
られている。
マングム‘ 干拓事業が強行された理由はど
水と 工業用水として使うという本来の目 的は達成できなかった。しかし始華干拓
1960~7
干潟生態系のもつ 重要性
経済発展を目指して始まった開発の論理
地の開 発作業は今も進められている。干
セマングム干拓事業は、理性的に考
が韓国社会のすべての政策決定と執行を
拓によって既に乾いてしまった干潟を先
えれば到底理解できない結果である 。セ
左右してきた結果であろう。それは韓国
端産業団地 ( multi t echno val l ey) や農業用
マングム干潟を守るために多くの人が干
社会の経済発展が土木と建設を中心にし
地、都市用地として使うという計画を立
拓反対キャンペーンを繰り広げ、また宗
た開発に他ならなかった。大規模な干拓
てている。また水門は解放したものの、
教 団 体 の 代 表 ら は 60 日以上にわたって 3
地が計画されて始ま った当 時は、経済発
海水の出入りが円滑ではないため、海水
歩 l 拝( 三歩歩いて一 回拝む仏教儀式) の苦
展のための開発の論理が支配的な時代で
流通を兼ねた世界最大規模の潮力発電所
行を行った。結局韓国の最高裁判所にま
もあった。
も建設している。干潟の生態系を破壊し、
で持ち込まれた裁判の過程で明らかにな
さらに公共用として使われる国家所
地域コミュニティを分裂させた始華干拓
ったのは、複雑に入り組んだ利害関係で
有の干潟を、干拓を進める開発の主体が
地という巨大な怪物には、開発という名
あり、環境問題をめぐる論議は韓国社会
所有権を持つように土地利用計画を改定
の下で現在もとてつも無い予算がつぎ込
全 体 を 巻 き 込 ん だ 葛 藤 の 中 心にあ った。
したことによ って、不動産投機 につなが
まれている。
こうした過程の中で、 干潟の生態系の 重
ってしまった。このように干潟という雄
28 Koreana I 夏号 2007
大な自然生態系は、巨大な不動産として
ゃく干潟の重要性を理解するようにな
る。開発はここしばらくそのまま進めら
の価値を持ち、開発過程の中で犠牲にさ
り、変化に向かつて進もうとしているの
れると思う 。そして干潟の保全と復元の
れてしまったのだ。
だ 。
旗を掲げるためには、まず開発の論理に
始華湖干拓事業、華城干拓地の問題、
国土の三面が海に固まれた半島国家
立ち向かうための理由をきちんと発言し
そしてセマングム干拓事業は、間違いな
が海と干潟に依存するのは当たり前であ
なければならない。干潟生態系の価値を
く水質汚染と環境破戒を引き起こし、そ
ろう。ところが過去数十年問、干潟に依
理解している人はどれほどいるか、人々
して開発か保全かを叫ぶ国民の間で鋭い
存して暮らしてきた多くの人々は、経済
が干潟と共存する道を選ぶかどうかによ
対立を生んだ。しか し、こうした対立の
発展を目指した開発に翻弄されて、暮ら
って干潟の運命は変わってくるだろう。
過程で干潟生態系の重要性を認識する前
しの場から追いやられてしまった。そし
もはや干潟のもつ生態的価値は、過去の
向きな結果も生まれたが、 . 一方では韓国
て主不在の干潟は干拓という開発の論理
問題から現在と未来の課題と化してしま
社会の開発中心の経済発展計画に比べ、
で売られていった。これは干潟の悲劇の
った。一つ興味深いことは、このような
干潟の生態的価値はまだまだ注目されて
始まりであり、韓国社会の激動の歴史の
対立とは関係なく、人々は今も干潟から
いない。最近チャンハン干潟の埋め立て
物語りでもある。
獲れる水産物を好んで食べ、子供たちは
をめく守って、韓国政府はこれ以上干潟の
現在韓国の干潟には保全 と開発をめ
埋め立てを進めないという立場を明らか
ぐる新しい利害関係が形成されつつあ
干潟で楽しい時間を過ごしているという 事実である。凶
にした。ところがこれまでの開発の過程 で疎外されていた地域社会は、自分達の 利益を確保してほしいと強く反発してい る。これまで韓国社会が成し遂げた経済 成長と発展の過程を考えれば、開発と保 全の狭間で開発を求める側の肩を持つこ とは、ある意味では当然な結果であると いえる。
開発か保全か これまでの 10年問、干潟をめく手って 繰り広げられた韓国社会の論議と葛藤 は、これまで経済発展の名の下で破壊さ れてきた干潟の生態系を見直すき っか け をつくった。現在も依然として大小の規 模で干潟の開発が進められているが一方 では干潟生態系の価値を認めて保全 ・復 元に向けた動きも活発になっている。以 前は開発の主体であった政府ですら、今 は干潟生態系の保護に向けた政策を打ち 出している 。干拓 という開発中心主義か ら干潟の保全 ・復元をめぐる新しい利害 関係が形成されつつあるのだ。これは環 境に対する社会的認識の向上やこれ以 上、干潟を破壊してはいけないというコ ンセン サ ス に よ る 結 果 で あ る と 恩 わ れ る。韓国社会は始華湖とセマングムの干 潟の破壊という高い代償を払って、ょう 夏号
2007 I Koreana 29
文化フォーカス
韓国における地域文化 センターの現在 「中心のような地方」から「地方のような中心」へ 最近、韓国の地域文化センターの躍進が際立つている。 これら文化センターは、一様に地元住民の文化に対する ニーズに応えながら、中央集権的な芸術行政の方向を 変えることに取り組んでいる。 イ・ドンヨン ( 李東淵、韓国芸術総合学校
伝統芸術院教授)
• a-E
判 事 h
EE
I4京市屯
, ‘
1 1
1 議政府芸術の殿堂は、地域住民に完成度の高い多様な
ジャンルの公演を提供できる ように努めている. 2 2006年 8 月に公演 されたサンクベテルプルグ ・
アイ スパレ工図 ( 51. Petersbur g 5t at e Ice s a Uet) の 来詰公演( シンデレラ ( Cinder ella) ) 、ノプラ ノ曹秀美 υ 5 umi l と 3 2 7年 4 月に公演さ れた
∞
。
ヨハン・シ ュト ラウス (J ohann 5trauss) オーケスト ラ の( 春のワ ルツ ( waltz of sp円 ng))
何年に地方自治制がスター卜し
中でも議政府芸術の殿堂は毎年 5 月に議
されている。
政府国際音楽フェスティパル ( Ui j eongbu
てから、地方都市や首都圏の各 都市は相次いで文化財団を設立 し、複合文化コンサー卜ホールを建設し
新しい文化インフラ
Mus i c T h巴at 巴r Fest i val ) を開催して、 レ
2000年以後建設された大田文化芸術
& Art s
Cent 巴r) 、
ベルの高い室内劇や屋外劇、ストリー卜
た。 「文芸会館」、「芸術の殿堂」という名
の殿堂 ( Daej eon Cul t ural
で 1995年以降建てられたコンサートホー
清州芸術の殿堂 ( Cheongj u Ar t s Cent er ) 、
ターは開館 1年 3 ヵ月で観客数 100 万人を
ルは、現在 100 ヵ所を超える 。 このよう
議 政 府 芸 術 の 殿 堂 ( U リe ong bu Ar t s
突破し、新しい文化の拠点として浮上し ている 。
劇などを披露 している 。城南ア
トセン
に各地方都市が大型複合文化スペースの
Cent er ) 、安山文化芸術の殿堂
建設に走った背景には、地方自治体の権
Cul t ure & Ar t s Cent er) 、城南アートセン
ところが、 いくらモダンな文化施設
力を誇示する菌もあるが、結果的には中
ター ( SeongnamAr t s Cent er ) などは、不
を建てたとしても 、質のいい公演プログ
央集権的な芸術行政から疎外されていた
充分な地元の文化インフラに対するニー
ラムの安定的な供給と地元住民の参加、
地元住民が多様な文化プログラムを享受
ズに応えており、レ ベルの高い芸術環境
そして公演芸術関係の専門家の育成が伴
できるようになったことは前向きに評価
づ く りに欠かせない基盤になっている 。
わなければ、真の意味の地域文化都市と
( Ans an
夏 号 2007
I Kor eana 31
は言いがたい。複合文化スペースが地域
から一日も早く脱却して、新しい運営マ
を次いで誘致することが多い。いつまで
文化環境の改善に必要な条件だとすれ
インドを取り入れなければならない。そ
もこのような安易なやり方に依存してい
ば、文化プログラムの充実や専門家の育
うでければ既存の成功に寄りかかり、グ
れば、地域文化センターはソウルや海外
成、市民の参加も欠かせない要素である
ローパル公演芸術だけに依存することに
の大都市で行われている公演のトレンド
からだ。
なるだろう。
化の拠点になるためには何が必要である か 。
を模倣する衛星施設に陥ってしまう。肝 心なことは、地元の公演企画専門家らが、
それでは複合文化スペースが地域文
ユニークな企画と市民参加 第二に、競争力のある地域文化セン
長期的計画のもとに独自の公演プログラ ムを開発することである。地元の特性を
第一に、重要なのは、各地域の特性
ターにするためには、独自の企画力を培
反映させた公演を積み重ねることで、地
を反映させて、文化面のアイデンティテ
って、時代のトレンドを反映させたプロ
域文化センターは地元住民に支持され、
ィを確立することである。各地域の文化
グラムを開発することが重要である。概
集客率を高めることになるだろう。
公演はソウルなどの大都市の公演政策や
して地域文化センターは国際的に既に評
第三に、地域文化センターは文化教
プログラムをそのまま模倣することが多
価されている大型公演だけを誘致したが
育の担い手として、地元住民が参加でき
い。このような既存の古い運蛍スタイル
り、ソウルで公演された主要プログラム
る多様な教育プログラムを提供しなけれ
1 2006年 6 月に城南アートセンクーで行われたモンタル
ボ エ ル ビ ウ ェ [ Mont aLvo- Hervi eul ダ ン ス カ ン パ ニ の 公演。 2 城南アートセンターは患近、首都閣における文化の 中心地として急浮上している。 3 パレリ ナ力ン・スジンとドイツのシュツットガル・ ト・バレエ団 I The St ut t gart 8al l et) の来韓公演←じゃじ ゃ馬ならし。城南アートセンター会館一周年を記念す る公演であった。 4 2006年に開催された第一回城南国際舞踊際 I Seongnam Danc e Festi val 2006) 0 テマは「環境とダンス」 だった。
32
Kor eana I 夏 号 2007
夏号
2007 I Koreana 33
1 世界的にタップダンスのブームを巻き起こして話題と なった公演、〈タップ・ドッグズ ( TAP DOGS) ) 1Jl 2005年 12月に安山文化芸術の殿堂で披露された。
ばならない。通常、地元住民が自分の町
2 2005年に開館した安山文化芸術の殿堂は地域公演会場 の先端をいっている。
り、複雑な手続きが必要な場合が多い。
3 大国文化芸術の殿堂で去年 5 月に行われたルーマニ
地域文化施設が地元住民のものになるた
ア ・オラデア ・フィルハーモニー交響楽団 CRomani a Or adea St at e Phi l har moni c Orchest ra) の来韓公演。 4 2003年に開館した大国文化芸術の殿堂は、グロ
パル
な公演に止まらず‘ 地元の文化フェスティバルまで披 露 している。
34
Kor eana I 夏 号 2007
となるだろう。
にある文化センターを利用するにあた
地域文化の発信地を目指す ところが、施設とプログラムが充実
めには、市民自らが観客の立場に止まら
していても地元住民に歓迎されない施設
ず、パフォーマーとして舞台の上で活動
であれば、良い公演会場とはいえない。
できるようにしなければならない。例え
その意味で最近建設されている大型文化
ば、地元の小中学生や芸術同好会員が住
センターが、このような常識に基づいて
んでいる地域の文化会館で、様々な公演
建設されているのかどうか疑問である。
を開ける機会を提供するやり方である。
それぞれ地元住民の文化ニーズに応える
最後に、地域文化センターは、地域
ことを目標に立ててはいるとは思うが、
住民が中心となり、住民自ら長期継続的
内容の伴わない公演プログラムも少なく
な顧客となる住民参加型施設にしなけれ
ない。充分な広報やマーケティングもな
ばならない。城南アートセンターの好例
いまま、大都市の公演プログラムを地域
で、観客が集まり座席の占有率が上昇し
に誘致するところがまだまだ多い。
たのは、シーズン・チケット制度を導入
地域に文化センターができた初年度
し公演情報の広報に取り組む一方、観客
には、大都市のプログラムと比較しても
プールを増やしたためである。地域文化
遜色のない公演プログラムの企画が多く
センターが地元住民に愛される地域文化
見られた。ところが時間の経過とともに、
の発信地として成長するためには、より
満足できる公演プログラムに出会う機会
多くの市民が足を運ぶことが肝心であ
が減ってきて、今後よいプログラムの提
る。十分な事前計画のもとでシーズン・
供が持続できるかどうか分からないとこ
チケット制度を活性化させ、観客の取り
ろが多い。また、大型公演を企画して文
込みに向けた多様な広報戦略に取り組む
化センターの運営に役立てることだけが
努力は、地域文化センターの活性化の礎
良い解決策ではないと言わざるを得な
い。 もちろん、国際的な公演プログラム の誘致そのものには問題はないが、公演 企画の方向がそこに偏ってしまうと、前 述したように国の衛星公演会場に陥って しまう恐れがある。 各地域の文化センターがグローパル 化を目指しながら地域に定着するために は、レベルの高い公演プログラムの企画 と共に、地元の文化芸術教育を活性化す る発信地として成長すべきであろう 。公 演観覧 も良い文化芸術教育に相違いない が、多様な文化教育のプログラムの開発 に取り組んでこそ、各地域の文化センタ ーが地元の公演インフラとしてさらに発 展できると信じてやまない。凶
夏号
2007 I Koreana 35
インタビュー
李畑玖 ヴ、エネチアに向かう
ポストヒューマンのジキル博士 イ・ヒョング( 李畑玖) は 2006 ヴェネチアビエ ンナーレ、韓国館で単独展示をする最初の アーチス卜である。 1995年にヴ、ェネチアに 韓国館が誕生して以来、一人のアーチストが 展示館を独占するのは今回が初めてだ。 イム・グンジュン( 林勤竣、a k a 異情友、美術デザイン評論家)
イ
アン・ホンボム( 安洪範、写真家)
1 門附 96 川川恥 ω 6恥 小 9 ト刊 川 伽 →) 山悶叫月配に閣開一臼
ヒヨげ川九一( 浮判李刊畑玖 工ネチアビエンナ
レでで、韓国を代表するア一チス卜だだ、 。
195
(1932~06)
で 25番目に作られた国家館だが、ここを一人の作家が独占するのは 今回が初めてだ。 彼は、まるで秘密生体実験部隊の研究室のように見える恐ろしい空 間を作り出し、奇怪な光学装置を展示することで知られている 。最近では 漫画のキャラクターの骨格を作る「ホモ
アニマトス ( Homo Ani mat us) J の
連作を発表しているが、それらはどれもかわいくて、そして奇妙だ。その おかげで現代美術にあまり興味のない人々の関心を引き寄せいている。 彼が自身の作品である「光学ヘルメッ卜 (opti cal hel met ) J をかぶり ニューヨークの街を歩いている映像記録を見ると、彼の頭は 4倍くらい 大きく見える。道行く人々は「何のいたずらだい ? J といった表情を浮 かべてクスクス笑っている 。 ブラックユーモアで武装した若い芸術 家の突然のパフォーマンスに冷たい大都会の人々の表情も一瞬だが 武装解除される。 当代の文化を深く扱う A級の現代美術家が人々を 笑わせることは珍しい。 精巧に組み立てられた奇妙な形の骨の彫刻作品はまるで新 しく発掘された化石のように見える 。 これを見た国内外の若者 の反応は「漫画キャラクターが絶滅でもしたのつ J I超リアルな ディテ
36
Kor ea na I夏 号 2007
ルに驚きました J Iすごくかわいいけど、一瞬ぞっと
r
, 同
1 ( A01) . 2005. 紙の上に鉛室 、 長 インク、 マー カ一、
一炉
c
. _ _ .1
F
PI 1 2e
m 司日川れ H
!11t
11
C ~ "
アヲリJ !, . 10 9 X 79 cm ( Anas Animatus D) . 2006. 合成樹脂、アル ミニウムス ティッウ、 ステンレ ススチ ルワイヤ 、ス プリ ング、 油絵具、 52X 30. 5 X 3 3 c m 3 (Lepus Ani matus) . 2005 - 2 6. 合成樹脂、 アル ミニ ウムスティック、ス テンレススチールワイ ヤ一、スプ リング、油絵具、 11 1X 60 X 70 cm 2
∞
しました。面白くて不思議な感じ」などなど 大衆文化の歓迎を受けているこのような仮想の化石の発掘 作業は、実は長時間の労働を要する苦役だ。 「今日、肉体がどの ような新しい文化的次元で再編されているのか」を問いかけてい お蜘d 今‘
t, . ."
三 ¥てJjh 二 号
す坦 ゐd
a - 叶j <
る作家の主題や意識もそんなに単純なものではない 。 しかし 人々は素直に反応する 。 明らかに、 このエセ科学者のアーチス卜には特別な魅力が
¥
あるのだ。
、 、
以下はイ・ヒョングとのインタヒ、ユー内容だ。
t..戸 偽 副 包
J"._
: :~ ~
\
長 子
su
イム・夕、ンジュン( 以下
林)
韓国館は展示しにくい空間だと
悪名高いのですが、 いかがですかっ イ・ヒョング( 以下
李)
よ く知られていることですが、 まず
位置がよくありません。規模も小さく、何よりも展示しに くい建物ですよね (笑 l ¥) 。 林
どこの国の展示館が一番、お好きですか ?
李
もちろんドイツ館とイギリス館でしょう 。
林
「狭い展示館に何人もの作家が同時に展示をするのはコミ ッショナーの倣慢」だという批判がありますが、これまで韓 国館のコミ ッショナーは複数の作家を指名することを意に 介しませんでした。ですから圏内の美術関係者は今回のア ン・ソヨン( 安昭如) コミッショナーの英断に非常に驚 くと ともに拍手を送りました。 いつ頃韓国館の作家として単独 指名されたという知らせをもらったんですか?
李
非公式的に知ったのは去年の 10 月初めです。
林
今回の展示に対する感慨は作家、コミッショナ
共に格別
だと思いますが。 李 そ う で す。私は学生時代の 1997年に韓国館の作家のアシス タン卜としてヴェネチアに来たことがあり 、 アン・ソヨン コミッショナーは韓国館がオープンした 1995年の開館展示、 韓国現代美術特別展「虎の尾」のキュレーターでした。 林
白南準さんが生前に推進していた「第 2韓国館」の建設はまだ 具体化されずにいますが、万一それに相応するギャラリー め設立が行われるなら、アン・ソヨンキュレーターの手で 誕生するのではないかと信じる美術関係者がたくさんいま す( 笑い) 。一方、今回の展示でイ・ヒョングさんが韓国館
38 Koreana I 夏号 2007
に再び特別賞の栄誉をもたらすのではないかと言う期待を 口にする人々も少なくありませんが。 李作家は最善を尽くして創作し展示するだけです。賞をもら 林
ているうちに、自然にここまで来ました。 林
最初にパフォーマンスをしたのはいつ、どこでですか?
李
大学 4年の時に授業中にしたのが最初です。その後もいろい
えれば、もちろんうれしいですが( 笑い) 。
・・ 、科学者の扮 ろとパフォーマンスを続けてきましたが・ ・
身体の比例を可視的、物理的に変形させる着用可能な光学
装をして演技をしたのは 2004年のサムジレジデンスのオー
オフジエクチュアル (The Obj 巴ct ual s) J
プンスタジオが最初です。その後は主要な展示のたびにパ
装置を展示した「ザ
の連作と工セ考古学的な態度で漫画キャラクターの骨格を 類推した く ホモ
アニマ卜ゥス ( homo amni mat us ) ) の連作は
フォーマンスを行っています。 林
すべて展示する計画だと聞きましたが。 李今回は二つの連作が再びつになるスト
クション風でもなく、かといって医学スリラーやヌワール ( noi r : 暗黒街) 風でもなく
リー展開をする
予定です。全般的に新しく展開する実験室の雰囲気が強い マンスを進行する予定なので展示最
非常に異色なんですよねー ・ 。
李僕は冗談半分で僕の創作の核心は「ヤメなんだ」と言うんで す( 笑 L ¥) 。
と思います 。特にオープ二ング展示では光学ヘルメットを 着用したまま .1¥フォ
科学者の扮装と演技の与える感じが正確なサイエンスフィ
林
「ヤメ J の語源は日本語の「闇( やみ) J 、つまり暗いというこ
終日まで体力を管理することが重要だと思います。
とですよね( 笑 L ¥) 。 これまで「ホモアニマティス ( h o mo
ポス卜・ヒューマンのジキル博士が自分の実験室とともに
amni mat us ) J の連作は何点制作されましたかっ制作期間も
ヴェネチアに登場するのですね?
相当かかりますよね つアシスタン卜の数も非常に多いと伺
李
ヴ、エネチアに支社を作るというわけです( 笑 L¥) 。
いましたが。
林
学生時代、何がきっかけでこのような創作を始めたのです
林
李
李
習作を除いて、国立現代美術館の i 2004若さの模索」展に出
かっ
品したのから数え始めれば円セットの計 14点」になります。
もともと突然変異、観相学、骨相学など人体に基盤をおい
最初は一つの作品を完成するのにおよそ 1年と 7、8 ヶ月くら
た変形に関心がありました。あれこれ研究しながら実験 し
いかかりましたから、少し苦労しました。 もともと手のか
事
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1- 3 ( H K LA B-WR Perfor mance) ,2004 ,ソウル Zip
スベ
ス、聞かれた設置美術プロジ ェク卜
4 顔 の 形 態 変 型 作 業 ( Pi nk- H1 ) , 2003 ,
デジタルプリント 120 X 150 cm
4
林
かる作業なのでアシスタン卜の助けをずいぶん借りていま
球と骨格が互いに重なってしまうんです。特に眼球を包む
す。最近は多いときで 10人、最低でも 5人体制で作業をして
ソケ ッ トは互いにつながっているので眼球同士重な うてし
います。 ウo ェネチア現地には 3人が同行します。 このような
まいます。眼球部の次に問題となるのが脊椎です。漫画キ
創作環境はアラリオギャラリーの支援がなければ考えられ
ャラクターに変身させる過程で 3 頭身や 4 頭身にするなど、
ないものです。
歪曲がおこります。また 4本足の動物が人間のように直立す
骨格を作る材料の名前は正確には何ですか? 本当に骨のよ
るので当然変化の幅が大き くなります。3番目は手と足の関
うに見えてかなり実感がわくんですが。頭蓋骨の表面にあ
節です。特に前足は手に変えて関節を減らさなければなら
る小さな穴まで繊細に描写しであるのを見て、感嘆したア
ないので、結局嘘の範囲が大き くなります。面白いのは多
ーチス卜も少なくありません。
くの晴乳類の前足は指が5本、後ろ足は指が4本だというこ
李材料はポリウレタンと硬質プラスチックです。最近では新
とです。でも 醤歯類( リス、ねずみなど) はだいたい前足と
しい材料も少し使ってみょうかと研究中です。実は最初は
後ろ足がすべて 5本なんです。普通は漫画にする過程で一つ
呪術的な意味で骨粉を少し入れていたんです( 笑い) 結果が
ずつ少な くして手の指は 4本、足の指は 3本にします。 しか
変わるのではなく、ただの気分ですよ 。結局は動物の骨と
し不思議なことに「卜ムとジェリ
人の骨を折衷させて「本物ではないものの、話になるように
本なんです。
見える仮想の結果 J を作るのですから 。そしてディテールは
李
それは実に面白い話ですね。 「ホモアニマティス」の連作で
微細気泡を活用して周辺に繊細に穴を開けるなど、どうし
ジエリーに続いてデビュ
ても手がかかります。やはり「神は細部に宿る
ターはいますか?
( God il ves
in detai l ) から。 」
林
林
李
は足の指が 2
」のジェリ
を準備中の新しい動物キャラク
まだいません。かわりに最初の創作の「ホモ
アニマティス J
やはり折衷をしていると「詐欺をしなくてはならない瞬間」
をその問、 蓄積してきた技術で再びきちんと制作し直して
が来ますよねつ
います。今回のヴ‘ ェネチアでは中間制作過程の形態で展示
そのとおりです。 いくらうまく計画された漫画キャラクタ
する予定ですが、あとで完全に組み立てれば「ホモサピエン
ーでも本当に骨をいちいち計算して設定しているのではな
ス ( Homo sapiens) J と名付けたいと思います。
いので、結局は私が折衷案をひねり出す場合が多いんです。 シーズンごとにキャラクターの大きさが変わるのはもちろ ん、場面別に変わったりもします。 アニメ
ターも人です
林
ビク卜リア風の建物の自 然史博物館で展示すればかっこい いですよ。
李チャンスがあればエ
ル大学のピボディーミュー ジアムの
から 。
ようなところで展示してみたいと思ってます。事実、自然
林
特に変なのがどの部分ですか?
; 寅出の芸術」 が支配する空閉じ 史博物館もよ く見れば全部 1
李
第ーが眼球部分です。最も誇張された部分なので大部分眼
ゃありませんか( 笑 l ¥) 。凶 夏号 20071 Kor eana
41
超大用 一生を竹簾とともに歩んできた匠 チョ・デヨン( 越大用) さんは、昔ながらの方式で竹簾を作り続けている匠だ。 数千本の細い竹ひごを編んで作る彼の簾には、忍耐と情熱で歩み続けてきた彼の 人生がそのまま投影されている。 イ・ミンニョン( 李岐怜、フリーライター)
ぷ 〉 I
チュ・ビョンス( 朱柄秀、フリーライター)
からおよそ 130 年前の朝鮮第 25 代王、哲宗 ( 1831 ~
1863) の時代。慶尚南道統営で武科( 朝鮮時代の武官 を選ぶ試験) に合格した人がいた。男は官位に就くの
「韓国の簾 は単純に家の中だけで使用されたのではありま せん。 臣下が大妃( 先主の妃) などに謁見する時に目隠しとして 使われたのが御簾 、 また、王の行幸や貴婦人の外出の際の力ゴ
を待つ聞に、普段から作り置きしていた竹簾を王様に献上した。
や嫁入りの花嫁が乗る力ゴにもかけられていました。 またソン
王は繊細で美しい簾を見て非常に感嘆し、たいそう喜んだとい
ビたちが亭子( 東屋) で過ごす時には部屋の間仕切りとしても利
う。 このことは家門の慶事となり、男の子孫は代々、竹簾 を作
用されました」
る技術を受け継いでいくようになった。王様に竹簾を献上した (1392~0)
男こそが、重要無形文化財第 114号簾 匠チョ・デヨン( 越大用、 (1603~895
)
1950~)
が統営に設置されていたので各種の手工業製品と共に発達した
抱いて竹簾 を作っているというチョ・デヨンさんは、今も曾祖
代表的な工芸品だという 。統営の町は統制営にさまざまな軍事
父や祖父、そして父がしてきたとおりに、竹を採取し、 整え 、
用品を供給する前線基地の役割を果たしていたため、力ッ( 官帽) 、
編んで簾を作り続けている。
螺銅漆器、竹簾などのさまざまな手工業が発達した。 日本や中 国にも竹簾 はあるが、韓国のものは雰囲気が違うと彼は強調す
目差しは防ぎ、風は通す 竹簾 は細く割いた葦や竹を編んで作る力リゲ( 日よけ、仕
る。 「同じ竹簾でも韓国のものは中国や日本に比べて落ち着つ
切り) だ。力リゲを部屋の入り口や窓にかけると、日差しは防ぎ、
いた風情と雰囲気をかもし出します。特に私の作る簾は竹ひこ
風は通すので暑い夏に特に重宝された。 また、暗いところから
を簿く 繊細に削り、模様を編みこんでいくのが特徴です」
明るいところ、つまり部屋の中から外を見ることが出来るとい
日本の竹簾 は模様がなく、害JI り箸の太さほどもある太いも
う特徴があるので、家の中だけで生活しなければならなかった
ので硬い感じがするという 。 また中国の竹簾 は糸のように細い
昔の女性たちに愛用されてきた。簾 は王様から庶民にいたるま
竹をねじって編むが、編む時から模様を入れるのではなく全部
で誰でも使用していた暮らしの痕跡だと、チョ・デヨンさんは
編み終わった後に絵を描くのだという 。
語る。 夏号 2007 I Koreana
43
4 4 Koreana I 夏号 2007
竹簾を作る過程 1 竹を 4等分にした後、上皮と中身の部分を除去する。 1カ月くらい乾燥させると竹は 変色しなくなる. 2 直接考案したコムスェで細い竹ひごを作る過程。大きさの違う穴を順番に通過させ O.5~7m
.
3 竹ひごが整 ったらシジャクデ( 太い竹の台) を作り本格的に竹簾を編む準備をする。
4 木綿糸を巻いたコドゥレ( 投げ玉) は普通、粘土や鉛の固まりを韓紙でくるんで作る.
∞
5 出来上がった竹簾。 2 0本の竹ひごを使い、 3カ月の時聞を要する (185 X 135cm) 。
5
忍耐と情熱が必要な作業
帯び始める。こうして作られた竹は時間が経っても変色せず簾
簾の名手と言われた父や祖父の技をそのまま受け継いだチ
を編むのに最適だ。竹の準備ができたら簾を編むための細い竹
ヨ・デヨンさんだが、子供の頃からいつも目にしていた竹を新
ひごを作る。
たな視線でとらえたのは 1971 年の 20歳になった年だった。入隊
「細い竹ひごを作るために“ コムスェ" を利用します。これは
を数日後に控えたある日、気持ちを落ち着かせようと何気なく
丸い形をしたステンレス素材の鉄板に穴をいくつも開けたもの
竹ひごをつかんで手を動かし始めた。竹ひごはあっという聞に
で、それぞれの穴の大きさが違います。ここに約 1センチの厚さ
一つの竹簾になり、ついでに市場に行き出来上がった竹簾を売
の竹を通せば穴の大きさの薄い竹ひごができます。この作業を 3、
ったところ予想外に評判が良かった。その後、除隊してから本 格的に竹簾の世界に踏み込んでいった。
4
0.5~7
j
竹ひごを調えたあと糸をかけるコドゥレ( 投げ王) とシジャ
チョ・デヨンさんが竹簾を編む過程はまさに至難の道だ。
クデ( 太い竹の台) を準備する。次に竹ひごを一つずつシジャク
良い竹簾を作るためにはまず材料から厳選しなければならない
デに置き、コドゥレの木綿糸をかけて編み始めるのだ。普通、
が、竹は 12 月から 1月の聞に 1年分をまとめて準備する。休眠期
竹簾一つを製作するのに 2000本の竹ひごが必要で、材料の準備
の竹を使うと虫がつきにくいからだ。
期間を除いて編むだけでも 3力月ほどかかるというから、忍耐と
「昔はキセルや矢などを作る細竹を使用しましたが、除草
情熱なしには手をだせない仕事だ。
剤l の使用で細竹がなかなか手に入りません。最近は真竹( 高さ 20
メートルに達する大きくて太い竹の一種) を使います。真竹はい くつもの作業過程を経なければなりませんが、色が良いのでそ れなりの長所があると言えます」
作るほどに奏でる情熱 自らを匠だと考えたことはないが、竹簾に対する彼の情熱 は 1年 、 2年と月日を追うごとに、作るほどに深まっていった。
竹を四等分にして上皮と身の部分を除去する。その次にお
竹簾を作りながら常に創意工夫の精神で、より薄く繊細な竹ひ
よそ 1 ヵ月くらい朝露にぬらし日干しにすると竹は薄い黄土色を
ごを作る方法の「コムスェ」を考案し、竹簾に模様入れを編み出 夏号
2007 I Koreana 4 5
した。昔は墨で直接描いていた模様を糸で直接編みこみ始めた
った。
のだ。亀模様と網模様を利 用して最初は「寿 J r福」のような一つ
「昔は簾がどこの家にもあり、誰でも作ることのできる生
の文字を編みこみ、その後、「大韓民国 J r所願成就 J r寿福康寧 J
活必需品でした。今は家の構造が変わり、アパートが多くなっ
のような複雑な単語を編みこんでいった。文字が長くなり、模
たので簾は昔ほど見られなくなり本当に残念です」
様が複雑になるほど時間と努力も何倍も必要になる 。仕事は以
一生を竹簾一筋に歩んできたチ ョ ・デ ヨンさんは、伝統工
前より 2、3倍手聞がかかるが、出来上がった作品を見直した時
芸品を求める人が少なくなっている昨今の世相の寂しさを、末
の満足感で情熱は尽きるところを知らない。
息子の越英 ( 29歳) さんに簾匠の仕事を伝授することで癒してい
このような情熱が実を結び 1990年の韓国伝統工芸伝承大震
る。昔の人々の暮らしの痕跡であり、伝統文化の一部である竹
では「亀甲紋簾 J で文化部長官賞を授賞し、 1995年には「双喜字亀
簾をただの 日よけとして眺めるだけでなく、竹簾を使うことで
甲紋簾」で大統領賞を 受賞するなど、華麗な授賞歴が続く 。
昔の人々の暮らしに思いをはせる契機になればとチョ・デヨン
そして 2001 年にはついに重要無形文化財に指定されるに到
さんは願っている。凶
竹簾に編みこまれた亀などの文様。文様を入れることで仕事は以前より 2、3倍 手間がかかるが、出来上がった品を見直し た時の満足感もそれだけ大きくなる。
4 6 Koreana I 夏号 2007
固には 4世紀後半に中国から仏教が伝わったが、 6世紀中頃になってはじめて仏像を製作した。仏教 が国教として認められるまでかなりの時間が必要であったためである 。初期の仏像は金銅と塑造の 鋳造よって作られていたが、すぐ花商岩の仏像製作に変わった。韓国にはインドや中国のように砂 岩や石灰岩の山はない。そのため石窟寺院が発達しなかったわけだが、韓国にとって唯一の素材は花商岩だけ であるといっても過言ではないだろう 。 花商岩は硬度が強く、粒子が粗 くて繊細な彫刻品を作るのは難しいため、彫刻家からは敬遠されていた 素材であった。 しかし韓国人はこの素材に挑戦し石仏を創り出した。花筒岩の粒子は様々な色を帯びているた め、印象派の点描法のような効果を出す。全体的には美しい白色系を帯びる花商岩の仏像は岩石モのものの色 を生かすため に彩色は全く施されていない。
華麗で温厚な美 (68~935)
千年の問、新羅の首都であった慶州の宮城( 宮殿) の南側で発見された 2つの石仏は、例外的に光背の後ろに銘 文が残っている 。 この銘文の内容は古代の歴史書から確認されている 。 この 2つの石仏が甘山寺「弥軌菩薩」と 「阿弥陀如来J である。弥革力菩薩立像の光背の後ろにある 22行 381 字の銘文は、仏像を作った動機がしたためら れてあり、当時の社会の文化像を研究する上で非常に重要な資料を提供している。 この銘文によるとこの仏像 (
702~3)
)(
18年 ( 719) に王の機密事務を担当していた行政最高機関である 執事省の侍郎( 副総理 652~
)
と阿弥陀仏を建てたが、中でも弥軌菩薩は母親を偲んで建てたものである 。 キム・ジソンは自然に親しみ荘子の悠々自適な暮らしに憧れていた。また仏教を重んじ執着のな L¥( 無着) 心と真理を求めて、 67歳に官職から灘れ田舎へ帰った。その後また官職に戻ってきたが、すべてを超越した心 に変わりはなかった。因って彼は、 自身の財産を俸げて慶州に甘 山寺を建てた。甘山寺建立の目的は、国王以 下すべての親族と衆生の済度と成仏を祈念するためであった。 4 8 Koreana I 夏号 2007
』 ・ -
弥軌菩薩、高 さ270センチ‘ 国宝第8 1号、 国立中央博物館所蔵
夏号 2007
I K oreana 4 9
二つの仏像は似ているようで、それぞれ独特の個性を もっている 。華麗で官能的な弥軌菩薩像は女性的である。 一方、純一で謹厳な阿弥陀如来像からは男性的な 風貌が感じられる 。
ー ・ ..... .-..・ ‘
--・ .. '‘
50 Koreana I 夏号 2007
大きな蓮の葉の形をした光背( 蓮花形光背) に高浮彫( 形や形相を表した肉が非常に厚く表現された浮き彫 り) の弥勅菩薩像と、その蓮台はそれぞれ違う石でイ乍って立たせた。頭に被った宝冠は高くて華麗であり、宝 冠の上の宝警には小さな仏様が彫られている。耳には大きく華麗な耳飾をつけ体躯や御手にも美しい装飾が 施されている。さらに長い理格帯( ょうらくたい) が膝あたりまで届き華やかで荘厳な仏身である。 胸には条用( 胸を横切る飾りの帯) があり、天衣は両手を通して体躯の両側に華麗に流れ落ち、下の部分は 光背( 身光) に浮き彫りにされている。スカー卜は両足に密着し足の輪郭が目立つ。スカー卜の襲は全体的に幾 層にも重なり、両足の間で裳がジグザグと図式的に施され天衣のような髪は装飾性が強い。ゆったりとした穏 やかな御顔や体躯は官能的な姿勢をとっている。光背は頭光と身光にそれぞれ三つの帯で縁取りがなされてい て、その周りには菩薩の精神と体躯から発散する霊気文 ( auspci ous spi ri t-pattern) がある。 この仏像は非常に華麗で官能的であり様々な飾りからは異国的な趣が強く感じられる。この仏像はイン ド・グプタ期 ( Gupt a period 5~7
)
の石仏として韓国仏教の彫刻歴史研究において貴重な資料となっている。
単純さの中の謹厳さ 阿弥陀如来の光背の後ろにも弥軌菩薩と同じような内容で、 21 行 391 字の銘文が刻まれている。ところが 銘文の最後の部分には、聖徳王 19年 ( 720) にキム・ジソンが世を去り阿弥陀如来像を作るという内容がある。 それによると、キム・ジソンは 719年に母親のために弥軌菩薩を作り、父親のためには阿弥陀如来を作る計画 を持っていたが、仏像の製作途中で亡くなったため、 720年に完成した阿弥陀如来像に彼の冥福をも祈ること になったのである。 阿弥陀如来像は厳しい表情で隈想しているかのように見えるが、右手を上げて親指と人差し指を合わせ て説法印( 仏様が初めて説法する時にとる手の模様) をとっている。体躯全体に両肩を覆う袈裟が密着していて、 豊かな体躯の曲線に沿って衣の繋が表現されている。つまり、法衣をまとっていても体躯の線が露になってい るわけだが、こうした様式も基本的にインド・グプタ様式の影響を受けたものである。 光背は弥軌菩薩の光背よりもっと華やかである。複雑で華麗な弥軌菩薩の光背が単純に表現されている のに比べて、阿弥陀如来像は全体像が単純な創りであるため、光背により強い装飾性を持たせてある。頭光と 身光は三本の帯で縁取りがなされ、縁の聞には様々な花の模様が刻まれていて、その周りに雲の模様をした霊 気文がある。甘山寺にある 2体の石仏は 720年前後に作られたため、思想的・様式的な見地からその存在意義は 非常に大きい。銘文に彫刻家の名前がないのは残念だが、 8世紀初頭に既に花商岩の石造技法が高度に発達し ていたことが分かる。こうした石造技術を基 lこ8世紀中頃、偉大なる傑作である石窟庵が誕生したのである。 石窟庵は花岡岩を使って人工的に築造した石窟であり、内部の空間には本尊仏である釈迦如来仏像を中 心に菩薩像、弟子像、天王像など、 39体の仏像が彫刻されている。新羅時代の最盛期に製作された最高傑作と 評価されている作品であり、 1995年に仏国寺とともにユネスコの世界文化遺産に登録された。I > t
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夏号 2007
I Koreana 51
文化イベント・レビュー
区日 ~
2007アルコアートフェアー 韓凶美術、
(lil I際 美 術 市 場 に 進 出
2007 アルコアートフェアーが 2 月 15 日から 19 日までスペインのマドリッドで聞かれた。韓国が
主賓国として参加したことで、尚一層意義深くな った 2007 アルコアートフェアーをご紹介しよう。 ソン・ハヨン( 成河英、( 月刊美術〉記者)
画まJ
.
・-
軍
1 グオン・キスの作品 ( Run Run Run) 、設置 、 2007 2 グオン・オサンの作品 ( Error) . 138 X 118X 185cm. 2005- 2006
3 ノ・サンギュン( 蓮尚均) の作品 (仏陀 ( For the Worshi pers) ) 、設置、2007
1 チェ
ウラムの作品 (Yari et al Ur banus Femal e) 、 197X 216 X 142c m,2005- 2006 2 20077 ルコアートフェアーに参加したス ペインの ルイス・アデランタド ( Lui s Adel antado) 画廊の ブース 3 チ・ヨンホの作品 ( Mutant ) 、タイヤ、木、強化発砲 スチ ロール、125 X 110 X 110c m,初日6 混合材料‘
エ
ル グ レ コ ゴ ヤ 印 ミ 一 一 大
することでアジアの現代美術に積極的な関心を示し、次期主賓
美術館の一つであるプラド美術館を有するス ペイン。
国にはフラジルを選定、アジアと中南米の現代美術に対する特
美術大国スペインのマドリッドで聞かれるアルコ( ス
化をさらに固めていこうと言う意欲が読み取れた。
ペイン国際現代アートフェア- ARCO・F 巴ria Int 巴rnaci onal de
新進芸術家に注目するというアルコの意欲は「プロジェク
Art e Cont empor aneo) は今年で 26 回目を迎える 。アルコはスイ
卜展」と「フラックボックス展」に特にはっきりと表れていた。
スのパーゼルアートフェアー ズアートフェアー
(Art Basel ) 、イギリスのフリー
( Fri eze Art Fai r) ,フランスのフィアック
( FI AC) 、アメリカのア
「プロジェクト展J はヨ
ロッパとアメリカのキュレーター? 人が、
新しい媒体を利用した新進芸術家の創意的な作品を 40 の画廊を
ショー ( Ar mor y Show) とともに
通じて発掘紹介するという企画だ。また「ブラ ックボックス展」
世界五大アートフェアーの一つに数えられる現代美術の展示即
はヨーロッパ諸国の先端技術を利用したビデオアート、インタ
売会だ。毎年およそ 20万人の観覧客が訪れるが、国王がア
ラクティブを紹介するものだ。
モリ
ト
フェアーのオープニングを直接主管するなど、スペインの文化 政策に対する積極性を示す代表的な文化芸術イ ベン卜となって いる。
韓国人ア ーテイストの活躍 若い芸術家に対する期待と成果は韓国の画廊も例外ではな
特に今年は韓国がアジア諸国の中では初の主賓国に選定さ れ、韓国の美術と文化を欧州市場に紹介する絶好のチャンスと
かった。韓国は
般プログラムに参加した4つの画廊( ガナアー
トギャラリー,国際ギャラリー、
ドゥルアートセンタ一、アラ
なった。またこれまで国家レベルでの大規模な文化交流がなか
リオギャラリー) 以外に、主賓国特別館での展示には 14の画廊が
ったスペインとの聞に積極的な文化協力の場ができたという点
参加し、歴代の海外アートフェア一史上最大の売上を記録した。
でもその意義は大きかったといえる。 2月 14 日のオープンセレモ
15 の画廊、 90 人のアーテイス卜が参加して 320 点 、 24億ウォン
二ーにはス ペイン国王ファン・カル口ス一世と韓国の慮武絃大
を販売したのだ。アルコの公式開幕前日の 2月 14 日のオープンセ
統領大統領夫妻が出席し国内外の取材陣のスポ ッ トライトを浴
レモニーでは世界各国のコレクターと画廊の関係者が韓国の作
びた。
品に好感を示していた。 孤独な現代人の自画像を表現したチョン・ソンミョン( ソ
アルコだけの差別化戦略
ン画廊) の彫刻が5万ユ一口で売れ、ノ・サンギ‘ ュン( 蓮尚均、ギ
2007 アルコは 29 カ国から 271 の画廊が参加した。アルコは
ャラリーシモン) の「仏陀( For the Worshi pers) J は6万5千ユー口 、
これまで伝統的にスペイン語圏の現代美術をアメリ力、欧州市
べ・ビョンウ( 裳嫡雨、ガナアートギャラリー) の松の木 4 点は 1
場に紹介する役割を果たしてきたが、ルデス・フェルナンデス
点あたり 6万ユ
(Lourd巴5 Fernandez) が組織委員長になってからは
大革新が進
ク・ヨンドク画廊) 、超リアリズム主義のアン・ソンハ( ガナア
められている 。彼は新進芸術家をテヒ、 ユーさせる基盤を作ると
ートギャラリー) 、チ・ヨンホ( ガナアートギャラリー) 、 ソン・
口で売れた。韓紙作家のハム・ソプ( 威隻、パ
いう計画に従い、他のアートフェアーとの差別化を試みており 、
ヒョンスク( 学古斎) など、何人ものアーテイス卜の作品が完売
その結果作品の水準を高めるのに成功したという評価を受けて
となった。特に巨大な金属の触手が動くチェ・ウラム( ギャラリ
いる 。世界的な A 級画廊の参加は少なかったものの、新進芸術
ーイン) の作品、チ・ヨンホ (ガナアートギャラリー) の廃タイア
家に焦点を当てて一定水準を維持していた。圏内外の美術関係
で動物の頭を形象化した作品、グオン・オサン( アラリオギャラ
者は一様に「パーゼルのような A 級アートフェアーではないもの
リー) の写真設置、グオン・キス( 朴麗淑画廊) の作品が大きな関
の、その水準はなかなか高 く、今後発展の可能性の大きい美術
心を集めた。
市場だ」と語っていた。
スペインの画廊で取り扱う作品の平均価格が 1万ユー口( 約
スペインおよびス ペイン語圏の画廊の参加を維持しなが
1200万ウォン) であることを考えると、韓国の作品の中でも相当
ら、さらにアジア圏の画廊の流入を通じて新しい販路を模索し
数が 1万ユ一口を越える価格で取引されたことは非常に喜ばしい
たことも、今回の特徴だ。アルコは今年、韓国を主賓国に選定
ことだといえよう 。販売成果も重要だが、より大きな成果は韓 夏号 2007 I Koreana
55
線展」は塔建築の特長をそのまま生かしており 、 イ・ヨンベク 、キム・キラ( 金奇羅) 、チョン・ ウニョンなど、 10 人の作家が参加して都市性をテ ーマにしたいろいろな作品 が展示された。マドリ ッ ド市が新し く複合文化センターに改造中の昔の巨大 な屠殺場インター メディア ( I nt er medi ae) でも展示が 行われた。アートセンタ
・ナビ (Art cent er NABi )
とイ ンターメディアが共同で企画したメディア・アー 国の若いアーテイストの可能性が世界市
ト ・ プロジェク卜の「ミンパク」は韓国のメディアアーチス
場で認められたということだ。今回の行事を通
卜とス ペインの大学生 50余人が一緒に合宿してワークショ ッ
じて海外の画廊や美術館から韓国のアーテイス卜に対する個展
プと展示を行い、新しいインターフェースプロセスを示すとい
や作品貸出の誘いや問い合わせが相次ぎ、作品の追加注文など、
う も の だ 。 そ の 他 に も カ サ ・ 工 ン セ ンデ ィダ ( L a Ca s a
販売以上の結果が出たといえる。
ュチョ j レ(安 歪 Encendi da) 公共芸術セン ターで関かれたアン・ギ、 哲) の r49の部屋」展、シルク口芸術院 ( Ci rcul o de bel l as Art es) の 招きで韓国の伝統空間デザインを紹介したチュ・ミョンドク( 朱
多彩な主賓園行事 期間中、韓国は主賓国の 資格でマドリ ッ ドを中心にス ペイ
明徳) の写真展「記憶の肖像」 、ア ジアの文化的な伝統を紹介した
ン全土の文化 機 関や展示場などで「コレア・アオラ ( C 0 r e a
r 2006光州│ ビエ ンナーレ への道程」 、スペイン住宅省が提供した
Ahor / Kor ea No w) J というテーマで 7 つの主賓国特別展や公演、
展示ス ペース ・アルケリア (Ar quer i a) で開かれた韓国デザイン
映画祭など、 多様な行事を開催した。 これまでヨーロッパでは
展「リセット」も大きな反響を呼んだ得た。
韓国は分断国 家 、 または IT 強固という表面的なイ メージだけが
韓国は 2007アルコの準備過程で、画廊および出品アーテイ
強かったが、今 回の主賓国特別行事では韓国の歴史や伝統、現
ス卜の選定をめ 引 くって、アルコの組織委員会と 摩擦があったが、
在がさまざまな形で紹介され、スペインの人々が韓国の文化芸
結果的にす べての行事を無事成功させた。 2007 アルコの価値は
術に触れる絶好の場となった。アルコアートフェア
韓国美術界の現状を確かめ、 さらに未来を予測する契機となっ
開幕を前
後 して聞かれた展示作品の中の白眉は何といっても「白南準展」
たことは、今回 のイベン卜の大きな成果だったと言えよう 。凶
だった。マドリ ッ ドに位置す るスペインの巨大通信社テレポニ カ (Tel ef oni ca) の展示場で開かれた「幻想的でハ イパーリアルな 白南準の韓国ビ ジ ョン ( Na m J une Pai k' s Vi si on of Kor eaFant ast i c and Hyperr eal ) J は韓国の主要美術館 と企業、個人のコ
レクション 86点をー同に集めたもので、 ビデオアー卜の巨匠白 南準の芸術世界を感じさせるのに十分な展示だった。 さらにス ペインの有名な美術館であるレイナ・ソフィア美術館の 4 階では メディアアートの歴史を一目で見ることの出来る「メディアア ( 196
3~
1986)J
イン現地の関心の高さを実感した。 異色の場所で聞かれた企画展も自についた。水の貯蔵庫と して使用されていた塔を展示会場に改造した力ナル・デ・イザ ベル ( Canal de I sabel ) で聞かれた「代案空間若い芸術家たちの視 56 Koreana 1夏号 2007
1 主賓国の特別行事は、韓国美術を紹介す る意義深いプ
ログラムだった. ビデオアーチス 卜白 南準の作品 〈 疎通運送〉 、 設置、 657 x 160x 250cm 2 スペイン現地で 『 韓国社会のとてつもない圧力を表現し たJ という 評価を得たアン・ギュチ ョル( 安歪哲) の 作品 ( 49の部屋〉
1- 3 スベイン住宅省が提供した展示スペース・ア ルケリア (Arqueri al で開かれた韓国デザイン 展{ リセット}
4- 5 メディ 7 ・7 ー卜・ プロジェク 卜似ミンパヲ〉 は、韓国のメディアアーチス 卜とス ペインの 大学生 50余人が一緒に合宿してワークショッ プと展示を行い、新しいインタ フェ スプ ロセスを示したものだ
フィリップ・ティロ 韓屋を愛する北村の隣人 ソウルの歴史と情趣がそのまま残っている北村の韓屋で暮らすフランス人、 フィリップ・ティ口さん。韓国人にも敬遠されている韓屋での 生活を選んだ彼の話を聞いてみよう。 イ・スジン( 李修珍、フリ
ライタ ) アン・ホンボム (安洪範、写真家)
は現一一在しない行政区域
hunt i ng) 会社、コン・フェリ・インターナショナル ( Korn Ferry
である。実際に北村は嘉会洞 ( Gahoe- dong) ・斎洞
Internati onal ) の副社長である。 22年前韓国に来たときから彼は
( J ae- dong) ・桂洞 ( Gye- dong) . ・三清洞 ( Samcheong-
韓屋での生活を望んでいた。長い夢が実現したのは 2003年のこ
dong) をまとめて呼んでいた歴史の中の地名である。清渓川│
と。北村にある家で彼は始めて韓屋の住人となった。 当時彼は、
( Cheonggyecheon) と鍾路 ( J ongno) の北側にある町という意味か
城北洞にある 180坪 ( 595ni ) 規模の家に住んでいたが跨躍なく北
北
山川)
村に引っ越した。 (1392~0)
ちは主に北村に住んでいたが、職場である宮殿に近くて出勤に
「韓屋に住むまでにかなり‘時聞がかかってしまったわけで
便利だったためである。北村の反対側にある南山 ( Namsan) の辺
すが、まず韓国で外国人が住宅を所有するのが難しく、また職
りには南村という町もあったが、ここには主に官職に就いてい
場近くに韓屋が残っているとは考えもしなったためです。 ソウ
ない両班( ヤンパン
ルは 600年を超える歴史をもっ古都ですが、昔の姿を保全するよ
朝鮮王朝時代のよ流階級) が住んでいた。
りは開発と発展の方向により力を入れていたようです。幸い
韓屋での生活を夢見る
2000年からソウル市の北村保全プロジェク卜がスター卜し、不
2007年ソウル、北村と南村には韓国の伝統住宅である韓屋 ( Hano! く) の密集地である韓屋マウル ( Hano! くvi l l age) がある 。南
思議なことに開発の嵐が過ぎ去った北村には 多 くの韓屋が残っ ていましたね」
村には人が住んでいない反面、北村には今も人々が住んでいる。 共に歴史の流れを見守ってきた村だが、南村は時聞が過去に停 止したままであるが、北村では今日も人々の物語を歴史のなか
伝統的で現代的な空間 初めて彼が住み始めた韓屋はいつでも人が生活できるよう
に刻んでいるのだ。 現在 920棟余りの韓屋が、狭くて迷路のよう
に改造された家だった。韓屋に引っ越した感激を胸に抱きつつ
な路地裏に建てられている北村は、過去と現在を結ぶ懸け橋と
彼はすぐ 2番目の韓屋を物色し始め、ほとんど崩れかかった今の
なっている 。 フランス人フィリップ・ティ口 ( Phi l i ppe Ti raul t)
家と出会った。それから 6 ヶ月間の改築を経てティロさんの 2番
さんが住んでいる韓屋も北村にある 。
目の家、 29坪( 約 96ni ) のス ペースは彼だけの空間になった。
フィリップ・ティ口さんはアメリカ系のリクル
ト( head
「いい建築家と出会ったのが幸いでした 。改築の期間中、 夏号 2007 I Koreana
59
建築家との話し合いに明け暮れ、また工事が行われていた 6 ヶ月
な超高層 ビルの林が広がりモ ダンなソウルとのコントラストが
間、毎朝毎晩ここに足を運んでこの家が美し く完成していく姿
すばらしい。窓枠をフレ
を見守っていました。忘れられない光景でしたねJ
ているようだ。
ムにして時間という歴史の写真を見
垂木の材料である松の木のキメが蘇り、新しく製作した窓 格子は窓ガラスという現代的な材料が取り入れられた。添え付 けのタンスをつくり、外にあったトイレは現代的なものに作り
北村の暖かい隣人 「私のベッドルームの天井を遮るあの曲がった松の木を見 て ください。室内に自然を取り入れたアートといえるでしょう 。
直して家の中に設けた。 「私が今住んでいる韓屋は昔ながらの韓屋ではありません。 またそうすることもできません。それは私が西洋人であるため
雨の目 、 リビングの床に座っていると 、軒を伝って小さな庭に 落ちて くる雨水の音がとてもロマンチ ックに聞こえます」
ではな く 、 今は 21世紀だからです。現代というライフスタイル
彼が感じた韓屋の魅力はこのように細かいところにある 。
を取り入れた韓屋でなければ、人々の生活空間として受け入れ
韓国という固と人々から伝わって くる感じも閉じようである 。
られないためであります。私は韓屋の美を保ちながら、現代的
ティ口さんは韓国人に対して「何かを感じさせて くれる人々 j と
な居住様式としても遜色のない空間を作りたかったんです。 さ
いう 。彼は、韓国の文化と歴史から感じられる強いアイデンテ
らにメンテナンスも重要ですね。幸い、 ソウル市が北村保全プ
ィティは、フランスがドイツやイギリス、イタリアと完全に違
ロジェク卜を実施していて、 5年ことに メンテナンス費用として
う文化的アイデンティティを確立したことと似ていると考えて
3千万ウォンを支援しているので問題ありません」
いる 。また彼が会ってきた韓国人は感情豊かで好奇心が強 く親
こじんまりとした彼の韓屋は腕のいい職人の手が入りまる
切であった。以前日本 lこ7 日間出張した際に、誰も話かけて くれ
で手工芸品のような空間である 。ベッ ドルームとリビングが一
なかったことで当惑してしまった事を思えば、街中で出会った
つずつ、 トイレと小さな台所が適当に配置されている 。 リビン
見知らぬ韓国人たちと 、彼と友情を築いている北村の隣・ 人 は心
グの窓ガラス越しに見える北村とソウル都心の風景は彼の
が温か くなる人々である。
番
好きなところ 。すんなりとした屋根の連なる低い韓屋の群れ。 緩やかな稜線の山が目の前にあるかと思えば、すぐ傍には巨大
60 Koreana I 夏号 2007
ティ口さんは韓屋が単なる居住空間にとどまらず、文化的 アイデンティティが体験できる場所であると信じている 。彼に
T 暮らしやすい空間として生まれ変わったフィリップ・ティ口さんの韓屋の居問。
2
3
4 5
6
霊木や韓紙( 韓国伝統紙) 、古家具で伝統的な趣を生かしながら、モダンな家具を 取り入れて生活上不便がないように工夫を凝らした。 隣と接した塀にも気を配り、小さな花壇 に竹を植えた。 韓国の伝統模様を取り入れた塀。緩やかな曲線とまっすぐな直線が調和した 韓国らしいスタイルが完成した。 庭の 角には石材の民芸品が置いてある。間接照明が暖かな雰囲気を醸し出す。 彼の韓屋には時間と情熱を注いで収集した骨董品と古家具がきれいに配置されている。 フィリップ・ティロさんが最近集めている木材のコッデゥ 。 葬儀の時に喪輿( 死体を墓地まで運ぶ道具) に飾る韓国の伝統的な彫刻品である。
フランスの伝統住宅と韓屋の違いを聞いてみたら、「サイズ」と 193~)
いう答えが返ってきた。単純な大きさの差のほかにも違いはあ
す。パリで「民画 ( mi nhwa) J というギャラリ
るだろうが、文化的アイコン (i co n) として比較することには無
す 」
も運営していま
理があると解釈できる。ティ口さんの実家は 300年を超えた新古
彼の韓国文化の精髄に対する解釈は鋭いものがある。彼は
典主義 ( neocl assi ci sm ) スタイルのマンションである。彼の両親
「テクニックよりは感情にこだわり、極めて単純な数回のタッチ
はパりから 250 キロ離れたアンジェ ( Anger) の口ワール渓谷
だけで力と美しさを表 E見すること」が韓国らしい美しさという。
(Loi re VaLLey) の3千坪の敷地に美しい庭のある古い家に住んでい
「ソウルに長く滞在している外国人の友達のなかには北村の存在
るという。そんなところで幼年時代を過ごしたことを聞き、今
すら知らない人がまだ多いですね。伝統住宅が集まっているこ
彼が韓国で古い伝統住宅に住んでいる理由が分かったような気
の町は車を駐車することもままならないほど、路地も狭いとこ
がする。
ろですが、意外とグ口
パルなところですね。私のお隣のなか
には英語で自由に対話できる人も結構います。上手なフランス
韓国の美術晶を蒐集する
語で私と対話する人もいますよ」
彼の家には韓国の様々な古家具や 13世紀の陶磁器、 19世紀
聞かれたチョッマル( 一、二枚の板を横に敷いた縁側) の間
の水墨画、それに現代画家の絵画作品が至る所にある。父親も
に垣間見える空を隣の屋根が幾何学的に分割している。小さな
絵に優れた才能を持ち叔父も専門的な芸術家であると言われる
庭には木製のテーフルも置いである。町のパスをよく利用する
と、美術に対する彼の感覚と趣味は生まれつきのものではない
という北村の住民ティ口さんは、夏になると蚊取り線香に火を
かと思われた。もちろん韓国文化に対する愛情と芸術的な眼目
つけて、その木製のベッドに横になり空の星でも数えるのだろ
があってこそ、彼の芸術的趣向が完成されたことは間違いない
う。韓国が面白くないと感じた時はいつでも韓国を離れるとい
だろう。「韓国のアート作品はとてもすばらしい。私のコレクシ
うティ口さん。しかし変化に富んだ韓国での生活はこれまで 22
ヨンは現代絵画を代表する作家であるキム・チャンヨ) [ ,( 金昌烈、
年間、一度も退屈にさせなかったと言いながら、彼は大きな笑
192~)
(
1938~)
(
いを見せてくれた。四
夏号
2007 I Koreana 61
世界の中の韓国人目
│
目 白建宇
鍵盤の上の求道者│
ペク・コヌは韓国を代表する世界的なピアニストである 。 全曲演奏主義で有名な彼が、今年i R l 月に韓国の「芸術の殿堂 J において、ベートーべンのピアノソナタ 32 曲の全曲を . 演奏する長丁場のコンサ一卜を繰り広げる。 リュ・テヒョン( 柳泰衡、( 客席〉 編集長)
1
「宣言 問表する世界的なピロト 国 ですか」と聞かれたら、私は践踏する . iii ことなく、ぺク・コヌと答えるだろう 。. おそらく他の誰かに聞いても同じ答えが返ってくる . だろう 。ぺ ク・コヌD mI l は、韓国芸能界を代表す . る女優であった夫人よりも愛されているピアニス卜 . である 。数年前、デッカ・レーブル ( Dec c a l abel : イギリスに根拠地を置いている世界的なレコード会 . 社) で、ベートーベンのピアノ・ソナタの全曲を録音 . するという長 γ 場の演奏をなし、 2枚目の全集サイク . ル・レコードまでリリースして話題となった。 ぺク・コヌはソウル生まれて、、 8 歳の時からピ . アノを習い始めた。父親はバイオリンを母親はオル . ガンを演奏するなど、 f皮は音楽的な環境の中で育つ . た。彼の父親は、完壁な芸術を創造するためには東 . 洋と西洋を知らなければならないという信念の持ち . 主であった。f皮が渡米したのも、東洋の価値観をも . って西洋の文化に接するべきであるという父親の持 . 論による結果であった。 ペク・コヌは韓国で中学校を卒業した年の 1961 年にアメリカに旅立った 。ニューヨーク芸術高等学 . 校 Ne w Yor k Art HI h School を経てジュリアード . 音楽院で学んだ。その後、i l ' Z di l 年にラフ . マニノフ Ser el Vasl l yevi ch Ra c hma nmov ピアノ協 . 奏曲 3番でニューヨークカーネギー・ホールにおいて . デヒューを果たした。 Levent ri t t 大会やナウムベルク .
.lIiiiil
コンクールで次々と入賞し頭角を E見し . il'
lo~
(Busoni)
.
勝した。3年後の m歳 ( 1972) の時、ニューヨークのア . リス・タリー・ホ ル ( Al i ce Tul l y Hal l ) で‘ ラヴェル . llll ' i ' . NW$ l W1、 、 フ ラ ン ス の 作 曲 家 ) の . 全曲を演奏 して大きな反響を呼んだ。 当時のニュー .
:r
ヨーク・タイムス (1I i4V-
~.m1
1iD .""'ij. iJ m_L
のラヴェル専門 . -t: i.
#L i.þ
.
189~ 1972 フランスのピアニス卜として作曲家) や . ワルター・ギーゼキング[ l ' l I ' I I l 巴 r Wi l hel m Gi eseki ng 、. iIWJð2w.~)
大家達もこのような大胆なことを試みた例がない 。. ところが「若手ピアニスト、ぺク・コヌは大きな賭け . に挑戦し大きな成功を収めた。優雅で華麗な彼の; 寅 . 奏は最初から最後まで美しかった J と評価された。. それから! ' l Cl年後、故国の韓国でラヴェル全曲コンサ . ートを聞いた。 2 回の休憩時間 ( I nt er ml ssl on をはさ . みm寺聞を超える演奏会であった。 ペク・コヌはi I ' . M年からラヴェルをはじめ一人 ・ の作曲家を徹底的に追及する演奏活動を続けてきた。. サティ ( Er i k Al l r ed Lesl i e Sat i 巴) ・ドビュッシIf4ti11m' D" l#i i " !巴D 巴bus s y) ・プーランク ( Fr anci s Poul enc ) . ムソルグスキー Mode s t Pet r ovl c h ・プ口コフィヱフ ( Ser gei Ser geevi c h Pr okol i ev) ・リスト ( Fr anz v on Ll szt ・パートック . ( Bar t ok Bel a) ・モーツアルト ( Wol l gang A ma d e o
「悠久なる原始の未来」 然からの大きな贈り物として、牛浦沼、火旺山、 どがある。 さらに国宝級の文化財まで散在し、 ペ・ハンポン( 襲漢奉、詩人) アン・ホンボム( 安 洪 範 、 写真家)
ソウ j レ
- 昌寧
6 8 Koreana I 夏号 2007
山
)1 ト 一 一 一 れ を 感 じ た
作用によりその水は決して腐ることはない。水深が
のも束の問、何時しか木立は緑を増す。 山
浅いのでわずかな風にも水面がさざなみ立ちその色
はますます高くそびえ立ち、 )11 はさらにそ
は潤んでいるかようだ。牛浦沼の底には冬を越した
の水かさを増して力強く流れていく 。慶尚南道昌寧
植物などの有機物が長い歳月の聞に堆積しており、
郡は、地理的には慶尚道の中心部に位置しており、
歩くとスポンジのように感じられる 。
洛東江がまるで腰を曲げたように蛇行しているとこ
牛j甫沼の水面は浮草やヒシ、
トチカガミなどの
ろだ。そこには「韓国生態系の子宮」と呼ばれる牛浦
植物で覆われている 。陽の光を浴びて舷しく輝いて
沼があり、韓国唯一の山焼き行事とドラマの口ケ地
いるこれらの植物を見ていると、まるで数千、数万
として有名な火旺山、そして硫黄温泉の釜谷温泉が
反の緑の絹織物を水の上に敷き詰めたようだ。沼の
ある 。国宝級の文化財が散在している天恵の文化観
端が見えなくなるほど青々と果てしなく広がってい
光地として脚光を浴びている昌寧は自然と人聞が調
る。広さ 70 万坪、 231 万平方メートル! 韓国最大級
和しながら暮らしている故郷だ。
の原始沼だということを実感する 。展望台に上り沼 を眺望すると 、アオサギにシラサギ、カルガモにパ
牛浦沼、生態系の子宮
ンなどの幾種類もの渡り鳥の群れがのんびりと餌を
山が多く平野の少ない韓国では、沼はあまり見
ついばんでいる 。数羽が四方の山々を背景に優雅に
慣れないだけにミステリアスで人々の想像力をかき
大空を舞い、限りなく穏やかな光景が広がっている。
たてる 。牛浦沼は 1998年 3 月、水鳥の生息地となる
展望台から降りて堤防に沿って歩いていくと、
湿地を保護する国際湿地条約( ラムサール条約) に登
アシとオギが群落を成している 。沼の浅いところに
録された国際的な生態保護地域で、 2008年には環境
はウキヤガラ、マコモ、フトイが群生している 。渡
オリンピックと呼ばれるラムサール条約締結国会議
り鳥と水生昆虫はこのような湿地の植物を天敵から
がここで開催されることになっている。
身を守る隠れ蓑にしているのだ。根元を沼に浸した
沼は常に水がよどんでいるが、水生植物の浄化
ままのヤナギとネコヤナギは原始の雰囲気を醸し出 す。沼の植物と木々の群落は生命体の宝庫であり、 生存拠点であり、棲家なのだ。
韓国最大の原始沼である牛浦沼は、生きた自然史博物館だ。 そしてここでは人間も純粋無垢な自然の一部にもどれる生命体の故郷だ。 2008年にはここで環境オリンピックと呼ばれるラムサール 条約締結国会議が開催される。
牛;甫沼は牛浦、木浦、沙旨浦、ジョクジボルの
4つの沼からなる 。これらの大小の沼が集まり牛浦沼 という大きな湿地帯を作り出している 。 この大きな 湿地帯の生態系の歯車は 1億 4千万年という悠久な年 月をかけて絶えることなく回ってきたのだ。それは これからも繰り返されることだろう 。微生物と水生
夏号
2007 1 Koreana 69
植物、タニシに魚、そして鳥・・ 、 ・ 350余種に達する
して味わえたとは
これらの食物連鎖は今も円滑に続いている 。牛 j甫沼
ただ驚くばかりだ。
0
が「生きている自然史博物館」、「原始の自然の宝庫」
1 その知恵と科学的な思考にただ
その隣にある万玉亭公園に行くと、そこには真 興王拓境碑( 国宝第 33号) がある 。新羅の真興王の時
と呼ばれている所以だ。 このむせかえるような濃緑の夏が頂点に達し、
(
540~76)
561
その勢いが一息つく頃は、全身にとげをまとったオ
朝鮮半島に現存する碑石の中で最も古いものだ。 昌
ニパスの花が咲き 、 ミズアオイも負けじとその頭を
寧地域の比火伽耶併合を記念して立てられたものだ。
高 くかか げてあどけない紫色の笑顔と香りを沼中に
視線を移すと昌寧斥和碑と昌寧客舎が目に入る 。 昌
運んでくるだろう 。牛; 甫沼では人も純粋無垢な自然
寧斥和碑は朝鮮末期の高宗 8年 (1871 年) に大院君が西
の一部になれるのだ。
洋の帝国主義勢力の侵略を警戒するために全国各地 に立てた碑石の中の一つだ。 昌寧客舎は数回にわた
祖先の魂と出会う
り解体移転を余儀な くさ れたため、今では壁はすっ
牛浦沼をあとにして昌寧の市内に入る 。心身 に
f;青い水J
が流れ込んできたせいか身体が軽い。郡庁
を過ぎると昌寧石氷庫( 宝物第 310号) が見える。半地 (1392
~
かり無くなり、木で‘ できた黒色の骨組みだけが残っ ている。鉄釘を使わない三、四百年前の建築技術が 見事だ。 述亭里東三層石塔( 国宝第 34号) は荘重明快な気
1910) の氷の貯蔵庫だ。断熱材やフロン、塩化メチル
風のある石塔だという評価を受けている。この塔の
なと、 の冷却材が無かった時代に、真夏にも氷を保管
相輪部は欠けていてすでに無いが、仏国寺の釈迦塔
70
Koreana I夏号 2007
と比べられるほどの気風が感じられる 。製作時期も また仏国寺の釈迦塔とほぼ同じ頃と推定される。東 塔という名称は述亭里には 2基の石塔があり、それを 区別するために便宜上つけたものだと言われる。 校洞古墳群( 史跡第 80号) はまるで小高い丘がい くつも連なっているようだ。青い芝生が巨大な封墳 を覆 っている 。 この古墳群は非火伽耶時代の王族の 墓だと言われている 。古墳群のすぐ横には昌寧博物
012点をはじ 館があるが、ここには非火伽耶の遺物 1, めとして多くの遺物が展示されており、別館は古墳 の復元館になっている。
火旺山と火旺山城 火旺山は四季を通して登山客が絶えない。春に はつつじが満開になり山全体が桃色に染まり、夏に 存 l 、l才つつ L がポ慌にえより凶令 4本かピンクに
は渓谷の滝とその清方JI な水しぶきが心まで冷たく濡 らしてくれる 。秋にはその頂上が数万の黄金色のス スキで輝き 、稜線は紅葉で彩られる 。そして冬にな れば純白な冬景色が登山客を誘惑する 。 また隔年の
~':. 火H 王山城(
IごI t 、石で作られた城郭がある。
- ~ 'l lc. れる L 同2 . 600 メートルの、の城郭' 士、
Ei 主 主 の ι 浦安を・見つめてきたり予約な要衝た〉た
冬にはススキ野原を焼き払う山焼きの行事が韓国で 唯一開催されている。 昌寧邑から 15 キロメートルほど離れた桂城面の 玉川│ 渓谷の方から火旺山に登ると新羅時代の古葬JI 観 竜寺に出る 。 この寺の薬師殿と大雄殿、竜船台石造 釈迦如来坐像などは、すべて宝物に指定されている 文化財だ。 大雄殿に入り参拝をしてから火旺山の頂上に向 (1546
~
1615) の 代記を扱ったドラマ「許凌」で使われたセッ
トが保存されており、ひっそりと登山客を迎えてく れる 。火旺山は「許凌 J だけでなく、最近国民的な人 気を博したドラマ「朱蒙」をはじめとして「大長今 J I商 道J など、数多くの時代劇のロケ地となったほど風光 明娼な山だということだ。 しばらく行くと、城壁に固まれた火旺山城に到 (1592~8)
輝かしい戦功を建てた山城だが、頂上には竜池と呼 ばれる山上の池が3つある。岩清水に立ち寄り 、乾い た喉を潤してから下山を始めると眼下に霊山村を見 渡す。慶尚南道の中でも最初に 3.1 独立運動( 日本の 植民地支配に抵抗して 1919年3 月 1 日に起きた抗日独 立運動) が始まったところだ。毎年3 月 1 日にはこれを 夏号
2007 I Koreana 71
記念するために r3. 1 民族文化祭」が 4 日間にわたり行 われる。 3.1独立運動は日本に強制的に奪われた主権 を取り戻そうという民衆の自発的な非暴力抵抗独立 運動だ。インドにガンジーがいるなら、韓国には昌 寧の民衆がいた。
文化の香りの中に 霊山といえば自ずと知れた重要無形文化財第 25 号の「霊山ソモリテギ( 牛頭争い) J がある。松の木を つないで牛の形にし、その上に大将、中将、小将を それぞれ乗せて、各蒋を背負った人々が相手のソモ リと組み合い、互いに力を競って相手側を押し倒し、
昌寧は伝統文化がよく保存されている。 民俗芸能の「霊山ソモ J テギ( 牛頭争い) J は現在も毎年実施されており、 村の入口には村の守護神である石のチャンスンが立っている〉 また 1500年前の古療群は昌寧のルーツを示す貴重な文化遺産た。
∞
72 Kor eana I 夏号 2 7
相手チームの将軍を落とせば勝ちという民俗芸能だ。
されている温泉地域の入り口に入るときれいに整備
無形文化財第 26号の「霊山綱引き」も霊山地方にだけ
された道路、 j京を誘う街路樹が観光客を迎えて くれ
伝わってきた特有の民俗芸能だ。 150 メートルあまり
る。宿に着き温泉に入ると 夏の暑 さと旅の疲労 が い
の巨大な「雄綱 J と「雌綱 J を作り東村と南村の住民
っぺんに吹き飛んでしまった。
が互いに力を競い合う 。個人主義が当然視される今 の時代にあっては貴重な共同と団結の祭りだ。 旅の最後は釜谷行きだ。釜谷が全国的に観光地
昌寧には大自 然からの大きな贈り物が 3つもあ る。「韓国生態界の子宮」と言われる牛浦沼と火旺山 、 そして釜谷温泉だ。それに国宝級の文化財まで散在
として有名なわけは皮膚病、胃腸病、神経痛、血圧、
しているというのだ か ら、 まさに自 然 と文化と 人間
婦人病などに卓越した効果があるという硫黄温泉が
の暮 らしが調和した町。そうだ。天恵の幸運に恵ま
あるからだ。温泉と聞くと心はすでに釜谷に飛んで
れた畠寧は希望の息づ く「悠久なる原始の未来」なの
いった。釜谷は宿泊と休養、娯楽、スポ
ツの 4大施
だ。凶
設 を備えた全天候型の観光地だ。観光特別区に指定
夏号
2007 I Koreana 73
料理
九 ・ ふ 手J
品川付
や
わ
さ
る
作
でト メ一 ウザ
J
一フ ア
スの
ユ夏
果物のゼリーといえば、西洋のものを想像しがちだが韓国にもこれに似た グァピョン( 果片) というデザー卜がある 。ユスラウメで作る夏のデザート 、 エンドゥピョンとエンドゥファチ工を紹介しよう 。 チョン・ヒジョン ( 田県貞、淑明女子大 学 校 韓国飲食研究所 諮問教授) ぺ・ジェヒョン (装宰亨 、 写真家)
エンドゥピョンのような果片は、 色彩が美しいのでお祝いの膳に使われ、 宮中でも王様のデザートとして愛用され てきた。エンドゥファチェは陰暦 5J=l 5 日の端午の節句の飲み物だった。
ユ…ド 一ウ 一 …
U h な 木 だ だ 、。3月下旬から 4月上旬にかけて白や淡紅色の花が咲き 、6月に赤い実
をつける 。その実は丸くあまずっぱいが主成分は糖質だ。食品凝固材として使用され るペクチン成分も含んでいるので、ゼリー状にするには最適だ。酸味を出すのはひン ゴ酸とクエン酸だが、 この有機酸は疲労回復に効果があるというので、昔の人々は特 に夏にユスラウメをよく食べた。 しかしユスラウメはその大きさに比べて種が大きい ので種をとる時に果肉を痛めないようにするのが難しい。それでファチェ( 花菜・韓国 式フルーツポンチ) を作る時にはユスラウメの形を保つようにするのがポイン トだ。
プルンとしたゼリーのような口あたり ユスラウメ( エンドゥ) は三国時代( 高句麗、百済、新羅が4世紀から 7世紀中頃 にかけて朝鮮半島を 3分して争っていた時代) から非常に大切にされてきた実だ。ユス 1 ~
2
本のユスラウメの木があったものだ。ユスラウメで作る食べ物としてはエンドゥピョ ンとエンドゥファチェが代表的で、ゼリ
やジャム、エンドゥ酒などもある。
エンドゥピョンに関する文献としては 1670年に書かれた「飲食知味方」と 1815年に 出た一種の女性生活白書である「閏閣叢書 」 、そして 1800年末に書かれた料理本の「是議 全書」などがある 。また、その後出版された多くの料理の本にもエンドゥピョンは紹介 されている 。 グァピョン( 果片) とは酸味のある果汁に砂糖を入れて煮込み、さらにでん粉を入 れて固まらせ、器に入れて冷ましてから適当な大きさに切って食べる料理で伝統的な デザー卜の一つだ。果片に使用する果物はイチゴ、スモモ、柚子、五味子、ぶどうな どだ。西洋の貯蔵食品の中でジャムやゼリー、フランス料理のデザー卜であるコンフ ィチュ
ルも果片とほとんど同じ方法で作られる。
違う点があるとすれば、それは西洋のものに比べて韓国の果片は貯蔵性が落ちる ということだ。西洋の果物ゼリーは果汁に動物性のゼラチンを入れて固めるプルンと した質感の食べ物だが、韓国の果片は植物性のでん粉で固めてつくる食品だ。植物性 のでん粉はいろいろな種類の植物から得ることができるが、もっとも良い質感を出す のは緑豆からとったものだ。昔の人々はこの緑豆を何段階もの過程を経てでん粉にし、 夏号
2007 I Koreana 75
その凝固作用を利用して果片を作った。デザートというと西洋の果物ゼリーを思い浮 かべがちだが、韓国にも果片という美しいデザートがあるのだ。
色彩の美しいデザート グァピョン( 果片) は甘酸っぱいその昧が一番だが、色彩もまた非常に美しいデザ ートだ。エンドゥピョンのような果片は色彩が美しいのでお祝いの膳に使われ、宮中 でも王様のデザー卜として愛用されてきた。季節の果物を利用して作り食後に食べる。 果片はどんな果物を使うかによってその呼び名が違って くる。ユスラウメを使え ば赤色のエンドゥピョン、柚子を使えば黄色の柚子片になる 。キウイのような青い果 物を使って果片を作ることもできる 。特にユスラウメは有機酸と ペクチン成分が多い ので、昔から最も多く愛用されてきた果片の一つだ。 しかしジャムやゼリーのように 果肉を長く煮ると色が落ちてしまうので作る時には格別の注意が必要だ。 さわやかな飲み物であるエンドゥファチェは地方によって代々伝わってきた方法 が少しずつ違う 。エンドゥファチェは陰暦5 月 5 日の端午の節句の飲み物だった。種を とったユスラウメを蜂蜜に浸けてから砂糖水か蜂蜜を溶かした水に入れたり 、または ユスラウメを細か くつぶしてからざるで漉して、その果汁を砂糖水の代わりにし たりもする。そのようにすればただユスラウメを浮かべるよりも はるかに香りの濃い飲み物を作ること が出来る 。また五 味子の汁を水で薄めてユスラウメを浮か べる方 法もある 。ユスラウメが無い時にはチェ り を使っても同じ方法でエンドゥ ピョンやエンドゥファチェを作 ることが出来る。凶
エンドゥピョン
材料と分量 ユスラウメ 2 1/ 2カップ、7.1<3 カップ( 果汁用) 、砂糖 1カップ、 緑豆のでん粉 1/ 2カップ、 7.1< 1/ 2カップ( でん粉を溶くのに使用) 、 塩小さじ 1/ 8、蜂蜜大さじ 2。 * チェリーを使う時 チ ェ リ - 200g (1 カップ程度) 、水 1/ 2 カップ( 果汁用、チェリ ーと水を合わせた絞り果汁が 2 1/ 2カップになるようにする) 、で ん粉 1/ 2カップ、水 1112カップ( て、んぷんを溶かすのに使用) 、 砂糖 1/ 2カップ、塩小さじ 句、蜂蜜大さじ 2。
エンドゥファチェ
作り方
1 ユスラウメのへたを全てとり、鍋に水を入れて茄で、ユスラ ウメが柔らかくなったらザルに移して漉す。 ( 種をとる) 2 ユスラウメの果肉と、ユスラウメを漉した汁と水をあわせて 2 1/ 2 カップくらいになるようにして底の厚い鍋に砂糖を加え て煮る。長時間にわたり強火で煮たりせずに弱火でゆっ くり と煮立てる。 3 緑豆のでん粉カ ップ1/ 2 1こ水カップ 1/ 2を入れ、固まらないよう によく混ぜ合わせてから、鍋の中のユスラウメの汁に少しず つ加えながら混ぜ合わせ煮立てる。煮立ったら中火にし、泡 が出たらとり除く 。 4 煮詰めながら、少しずつ様子を見て、ゼリー状になったら弱 火にして蒸らすようにする。粘り気と潤いが出れば四角い器
材料および分量 ユスラウメカップ2、 松 の 実 大 さ じ 1、水 3 カップ、砂糖 1カ ップ
に盛って冷ます。厚さが 2 センチほどになるように入れて冷 ますと、切りやすくて形も美しく仕上がる。 5 食べやすい大きさに切って器に盛る。
作り方
1 よく熟したユスラウメをよく洗い、果肉をつぶさないように 気をつけて種をとる。 2 鍋に水 3 カップと砂糖を入れて煮立ててから冷ます。 3 種をとったユスラウメのうち半分は水を少し入れて、ミキサ ーで細か くする。果肉が荒ければさらにザルで漉して果汁だ けを利用する。 4 大きなボールなどの器に残りのユスラウメを盛り 2で準備し た砂糖水を入れて松の実を浮かす。 * ユスラウメをミキサーにかけず種だけとり砂糖水につけてか ら、砂糖水や五味子汁にそのまま浮かべてもよい。
夏号 2007 I Koreana
77
速くの目
韓日文化交流の 現場で 交流とは相手に対する互いの【関心】が第一歩で あると思う 。また交流とは商談同様、互いに立 場や違いを認識し尊重することにより現実の溝 を埋める【継続の努力} でもある。
往来しこれまで主として国際ビジネスの現場から韓日関
こばやし・なおひと ( 小林直人独立行政法人国際交流基金ソウル 日
係を継続してウォッチして来たが、最近つくづくと 「 会話
本文化セ ンタ一所長)
私
は昨年同
国 際 交 流 基 金 ソ 州 日 本 文化センタ
一 ( The J apan Foundation,Seoul) に着任 した 。 1970 年代後半から約30年 、 4回の韓国駐在を含め日本との聞を
と食事J が両国の相互理解 ・相互信頼関係増進の [要] では ないかと感じている。私自身元来が日本の総合商社マン であり、「会話と食事j が趣味でもある。昨年着任早々 8 月 にソウルで交通事故後に遭い、この両方と もを禁じられ た2 ヶ月の聞は本当にもどかしい毎日であった。 さて、投資 ・貿易と言った商談の場でも、文化 ・学 2~3
Cofe
e Breakがあり、
半日経てば通常当事者間で会食・パ ーティーが 開催され る。それらは決して「単なる気分転換」だけが目的ではな く、重要な本商談 ・本交流そのものの一部であると思う。 本商談 ・本交流では表に出ず世話役に徹していた人たち も参加して会話 と食事が行われる。そこで は相 互理解の ための「言葉」や「通訳j の重要性が再認識され、更に双方の 「 立場や考え方」の違いも関係者に幅広く再認識される。 様々な話題が飛び交い、双方の伝統文化 ・大衆文化・ 企 業文化 ・生活文化などの経験が コミュニケーションの基 本となって彩を添える。そして食事が進むに連れ、互い に楽しみながら食文化 の違いにも気づき、新鮮な疑問や 関心が投げかけら れ る 。 今年2月、国際交流基金ではソウルにおいて「韓日食 文化交流」をテ ーマとし、日本料理講演会 ・料理講習会 ・ 韓日料理漫画家対談 ・料理漫画原画展示会 ・料理漫画映 画や T V ドラマ上映会など一連のイベントを実施した。 料理、すなわち 「 食文化J は人類誕生と同 時 に始まり、
7 8 Koreana I 夏号 2007
発展してきた文化であり、民族・地域によって明らかな差がある。韓国と日 本は地理的に隣国同士であり、様々な面で類似点・共通点を持っているが、 また互いに全く異なる相違点をも持っている。まさに食文化もその両面を持 っていると言える。韓国や日本で犬や鯨の肉を食べるのは世界的に見て例外 かも知れないが、それもまた伝統として受け継がれて来た現実でもある。
。' e
今回の「食文化J イベントを主催したことで私には2つの驚きと関心が生ま れた。 I つは韓国人の味覚である。
司、 h
日本最大の料理学校である辻調理師専門学校から今回講師の先生方を招 聴した。同校には外国からの留学生も多く、奨学金制度もあるとのことだが その留学生の 8割以上が韓国からと聞いて驚いた。更に驚いたのは、講習会を お願いした川本徹也先生から「日本人を含む全学生の中で、微妙な味の違いが 判別できるのは間違いなく韓国人ですJ という話を聞いた時だ。私自身は長年 これまで韓国料理を食べて来た経験から辛い韓国料理の味の中に甘いとも何 とも言えない味の深さを感じていた。韓国料理は辛いだけと 一般的に言われ 勝ちだが、私の味覚に今回少しでも客観的なデータの裏づけが出来たのかも しれない、と内心喜んだものだ。 2つ目の関心は、韓日の受け止め方の違いである。 今回料理をテーマとした人気漫画『将太の寿司( 韓国語翻訳出版名: Mr. 寿
• )~(:
Mr . Macchan) ~(:
)~
大介先生を招鳴した。先生の記者会見を聞いていて驚いたことは、日本で『将 太の寿司』は「正義の主人公J が対立する相手に勝つ構図が少年漫画週刊誌で人 気を博した。ところが韓国では同じ漫画I f ' Mr 寿司王』を読んで、も人気の秘密は 「親子の情」、「兄妹の』情」だ、と聞かされて先生自身も驚いたそうだ。 会見のあとで、 I KTの李容国( イ・ヨンギョン) 社長が、漫画I f ' Mr . 寿司王』 を全役員に読むよう指示することになったのはどうしてですか j とお尋ねする と、先生からは「顧客満足だったそうです」との意外な返事がかえってきて更に 驚いた。李社長は社内の会議で「漫画の主人公が顧客の口に合わせるため、ゆ るぎない成長を試みたように、われわれも顧客の求めるものを見出すため引 き続き成長しなければならない j と撤を飛ばしたという。こんなところでも食 文化と企業文化がつながっていたのだ。極めて興味深い話である。 交流とは相手に対する互いの[ 関心] が第一歩であると思う。また交流とは 商談同様、互いに立場や違いを認識し尊重することにより現実の溝を埋める [ 継続の努力】でもある。そして- _ E L 合意・達成・理解の[ 感動】が生まれれば、 心の交流・信頼感に繋がる。それは時間がかかってもいつか必ず[ 蘇る] もので あり、互いの関係が確固たるものになっていくと確信している。 私は現在このように韓日文化交流の現場に身を置くことができて大変嬉 しく感じている。そして、多面的な文化交流、多層的な人的交流という真の 韓日交流が一層発展していくよう、ソウル日本文化センターの「役割J や「場」を 更に考え、活用していきたいと考えている。凶
夏号
2007 I Koreana 79
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1 8月は多くの人が夏の休暇を楽 しむバカンス シーズン. 韓国の場合‘ 8 月初めから中旬までが夏休みのピークであり、 海水浴場は最も人気のある避暑地である. 2
夏休みといっても皆が山と j揮を訪れるわけではない。人であ ふれる避暑地を避けて休みの問、ユニークな公演会場を 訪れる人々が増えている. ( 居昌国際演劇フェスティパル)
3 青鶴 ,同キャ ンプ場では、子供た ちに韓国の伝統文化と礼儀を
学ぶ機会を提供 してい る 。
長
い 一 例 蒸 一 山 人 々 附 プ ランに忙しくなる。気温が 30度を超える 8 月初旬から 中旬までが韓国のバカンスシーズンのピ
クである 。
同じ時期に夏休みをとる人が多いため、高速道路が車で埋め尽 くされても大々の心は夏旅行への期待で弾む。中でも一番の人 気スポットは海水浴場と渓谷だ。シーズンになると皆一斉に海 や川を訪れるため海水浴場や渓谷は文字通り「人山人海」になっ てしまう。
人気のスポットは海水浴場 ソウルに住むユ・チャンレ( 柳昌峡) さんの家族も去年、東 海岸の鏡浦台海水浴場で夏休みを過こ、した。ユさんは「すごい人 の波に最初はひ、 っくりしましたね。砂浜のビーチパラソルは数 え切れないほどでしたが、それでもっと思い出になりましたね。 多くの人々の中でにぎわいながら楽しむ方がいいでしょう」と積 極的だ。
今日のような避暑文化といえば「濯足」 くらいだった。濯足
ユさんの家族は海辺にテントを張って家族みんなで食事を
とは、自然風景のよい山や川を訪れて渓流などで足を洗って野
作った。時々特別な料理にもトライした。小学生の 2人の子供は、
遊びゃ休憩をとる遊びのことである。韓国の歳時風俗を紹介し
出前で海辺まで届いたピザとチキンに歓声を上げた。周辺の飲 ~(1849)
食屈が夏場のかき入れ時をにらんで、数年前から海辺まで出前
谷で人々が濯足を楽しんでいたという記録が残っており 、昔の
サービスを始めたおかげである 。海水浴場の人気の高さは統計
人々の避暑文化を垣間見ることができる。
でも確認できる 。 2005年には東海岸におよそ 2840万人の避暑客 が集まり過去最高を記録し、また西海岸の海水浴場にも 2400万 人が訪れた。 中でも釜山地域が最高の人気スポットであった。
余裕とスローの美学 ところが最近、韓国の避暑文化にも変化が見られる 。単に
海雲台海水浴場に 1270万人、広岸海水浴場に 930万人が訪れるな
遊びながら時間を過ごしていた消耗的な休暇よりは、心身とも
ど、釜山にある 7つの海水浴場に 3500万人が集まった。
に余裕を求める旅に意味のある経験を求める人々が増えている 。
友達同士で訪れるケースもあるが、ほとんど家族連れだっ
何の変哲もない日常から逃れて、静かな山寺などで疲れ切った
た。韓国では夏休みの期間は一週間くらいで、人々は短くても
心身を癒すテンプルステイ ( Templ est ay) も人気だ。数日間山寺
充実した休暇を過ごすための工夫を凝らし、家族旅行を優先す
を訪れて心の憩いを得て随行者としての日常生活を送るテンプ
ることになる 。普段は忙しくて子供と過ごす時間の無い親とし
ルステイは、真の自分自身を探す参禅の時間であると同時にお
ては、子供に忘れられない思い出を作ってあげ家族の愛情を確
寺の文化が体験できる良い機会となる。こうした流れに合わせ
認し合う絶好の機会にするためだ。
て多様な内容をもっ文化遺産踏査と体験学習プログラムが登場
面白いことに、昔の韓国には現在のような避暑文化はなか
している 。親と子供が一緒に全国の文化遺産を見て回り、その
った。 まるで皆で約束したかのように同じ場所に向かつて一斉
歴史的意味を考えてみたり伝統文化を体験するプログラムに参
に移動する夏休み。韓国は伝統的な農業社会であったため、仕
加したりする。
事と休みをきっちり区分しがたい文化であったのだ。農事に疲 れると周辺の渓谷や川で暑さを凌 ぐだけだ、った。
「江陵船橋荘伝統文化体験」がいい例だ。船橋荘は朝鮮時代 に建てられた伝統家屋であるが、一般の人にも公開されている。 夏号 2007 I K oreana
81
1 真っ白い水吹雪をあげながら楽しむラフティング(raft れg) は
ピリ ッとしたス リルが体験できる. 2 まぶしい 日差しと新鮮な空気の中で レ ル・パイウ (ral bKe) を楽しむ家族遼. ペダル匂e也1 ) を漕ぎなが らレールの上を 走るレール・バイクは、夏休みを楽しむ家族らに特に 人気がある。
ここでの参観者は「ソッテ( 立木・民間信仰でめでたいことやお祝
に夏を過ごすのがいいと思います」と言い切るチャンさん。
いの意味を込めて立て長い竿 ) J をつくり、茶道を学びながら祖 先の粋と知恵を体験し文化遺産の大切さを実感する。
暑さを楽しむ旅行
また農村の特性を生かした伝統テーマパークも都心の人々
バカンス文化の変化を受けて、 これまで避暑地として人気
が注目するプログラムである 。高層マンションて-育った子供た
ナンバーワンだった海水浴場も変化を模索するようになった。
ちにとって自然は常に遠い存在になりがちだ。 こうした子供た
避暑客の足を止める方策として、東海岸には図書館が登場した。
ちが親子連れでテーマパークを訪れて川辺で魚を獲ったり伝統
バカンスシーズンになると、本を積み込んだ 2台のバスが海水浴
的な遊びを経験したりする 。伝統的な食べ物を味わっ たり直接
場を巡回し、
農業を体験してみるのも楽 しい。伝統テーマパークでは、自然
用している 。 このパスを利用する人々は、心身の疲れるを取る
日百人以上が冷房が効いたこの海辺図書館を利
とともにスローライフを生きている純朴な人々や心豊かな農民
と同時に知的好奇心まで満たそうとする避暑客である。また休
に出会える 。
暇を利用してボランティア活動に取り組む人々も現れている 。
文化がある都心の休暇
案している 。つまり、夏休みの一日目はボランティアとして過
行楽地として有名な江原道は最近、 r3 ・1 ・2キャンペ しかし、バカンスシーズンだといって、皆が山や; 毎を訪れ るわけではない。最近は都心の中で避暑を楽しむ人も増えてい
ン」を提
ごし 、残り二日間を江原道で休暇を楽しんでもらうという内容 である。
る。彼らは一斉に同じ方向に移動する手間や、避暑地での煩雑
さらに、海水浴場の切り札といえば、海辺フェスティパル
さが苦手な人々である。その代わりに彼らは文化があるユニー
と公演である 。水遊び以外にも様々な楽しみ方を提供する試み
クな公演会場を訪れる。韓国国立中央劇場で聞かれる「熱帯夜フ
であるが、人々の反応もよい。 j毎雲台海水浴場では人気歌手の
ェスティパル」のような都心フェスティパルの情報をまめにチェ
コンサー卜や海辺舞踊際を聞いて、避暑客に感動や楽しい時間
ックすれば、無料で 国楽コンサー卜やロ ック・ コンサー卜が楽
を提供している 。多大; 南海水浴場で聞かれる釜山国際ロック・
しめる上に映画も見られる。 いいこと尽くしと言えるだろう 。
フェスティパル ( Busan Internati onal Rock Festi val ) は、真夏の
また都心のホテルで夏休みを過ごす人々も増えている 。 ほ
夜をさらに暑くさせるホットなコンサートである。内外の有名
とんどのホテルはシーズンに合わせて普段の料金より 3、4割安
ロック・バンドが繰り広げる熱い公演を鑑賞しているうちに、
い宿泊プランを用意している。そのほとんどが家族連れに狙い
避暑客らは熱帯夜すら忘れてしまいロック・ミュージックの魅
を定めたパッケージプランである 。親子一緒にサラ夕、を作った
力にとっぷり浸かることになる。
りワインについて勉強するプログラムもあれば、散策路を子供
この頃、韓 国人の避暑文化が多様化して いるのは週 5 日制
のための生態体験場に作り変える木テルもある 。京畿道竜仁に
の影響 も大きい。従業員 100人以上の企業を対象に週 5 日制が導
住むチャン・へウォン( 張恵原) さん家族も去年、ソウルのある
入されて早一年。今や、より充実した余暇の過ごし方に関心の
ホテルで夏休みを過ごした。 「ホテルのプールで子供と一緒に泳
ある人々が増えている 。避暑文化も例外ではない。単に暑さか
ぎパーでは夫とビールを飲みました。 スパでは溜まった疲れも
ら逃れるための旅行ではなく、暑さを楽しむ旅行が一つのトレ
取りました。わざわざ遠い所まで足を伸ばすより近い所で快適
ンドになっているようだ。国
82
Kor eana I 夏号 2007
林
チョル
宇斤
ゥ 佑
韓国文学の旅
仁ヨ
イム・チョルウ( 林哲佑) の作品世界を構成する二つの軸は 光州民主化運動と南北分断の問題だ。 この 27年間、彼は叙情的な文体で 韓国現代史の桂桔とイデオロギーの暴力性を告発してきた。
作家評
イデオロギーの
暴力に立ち向かう作家たち キム・ヒョンジュン( 金亨中、・文学評論家、朝鮮大学校教授)
士三! _ . . 国の 1980年代は 1979年 10月26 日、独裁者朴正
になったからだ。光州民主化運動がその後の社会変革
すヒ午照の死と共に始まった。当時の市民と知識人
運動に与えた影響ははかりしれない。社会変革と階級
にとって彼の死は20年間にわたった独裁政治を終息さ
の問題、アメリカとの問題、南北分断の問題など、
せる絶好のチャンスだと思われた。しかし同じ年の 12
1980年代を通して社会変革を渇望する市民が悩み、主
月12 日、全斗燥が主導した軍事クーデターは国民のこ
張するようになる重要な主題のすべてが、光州民主化
のような民主化への熱望に冷水を浴び、せ、当然のこと
運動を契機として、より明確に、そして大衆に浸透す
として全国各地で全斗換の強制執権に反対するデモが
るようになる。その後、社会運動はより組織的になり、
相次いだ。全斗換率いる新軍部は国民の民主化に対す
人々は目的意識を持つようになる。国家権力の抑圧は
る熱望が強くなると戒厳令を宣布、 - それに伴い翌年の
依然として存在したものの、その抑圧がなくなること
5月には大部分の都市で民主化のデモは小康状態に陥
を求める人々の渇望の方がさらに強くなっていく。そ
った。しかし一つだけ例外の都市があった。光州だ。
してその結果が 1987年6月10 日の市民抗争となって表
それでなくとも 一種の見せしめとしてのスケープ
れる。もちろんぞの後の数年間は、また軍部出身の大
ゴートが必要だ、った新軍部は急速、光州、│ に空輸特殊戦
統領の独裁治下を経験することになったが、どちらに
闘団を派遣する。こうして始まったのが 15 .1 8光州民主
しても大統領選挙に直接選挙制度が導入され、 1992年
化運動J だ。もちろんM1 6 と戦車で武装し、組織的な
には最初の文民政府とよばれる金泳三政権が誕生した
訓練を受けた軍隊に、他の地域から完全に孤立した状
のだ、った。林哲佑の文学世界の出発点が、この 1980年
態だ、った光州市民が勝てるわけはなかった。 5月27 日
代初頭の光州体験だ。
の早朝、全羅南道道庁にたてこもった市民軍に対して
林哲佑の作品世界、特に初期の作品の大部分はど
無差別の鎮圧が行われ、それと共に 5月抗争は幕を下
んな方式であれ 1980年5月の光州民主化運動の体験と
ろした。 10 日間に 2000人余りの市民が自分たちの税金
関連がある。例えば「不妊記」や「死産する夏」のような
で成り立つ自国の軍隊によって刀と銃で無慈悲に虐殺
作品を読んでみると、作品の舞台となる都市がアレゴ
されたのだ。韓国現代史上、最悪の国家暴力として記
リー的に処理されているとはいえ、光州│ であることは
録される事件が光州で起きたのだ。
間違いない。光州民主化運動当時、作家林哲佑が光州
しかし其の後、歴史家たちは光州民主化運動の敗
の全南大学英文科の学生であったことを考慮すれば、
北だけを見ているわけではない。光州民主化運動は、
これはもはや当然のことなのかもしれない。彼は当時
韓国社会の民主化を切実に願っていた知識人と学生、
亡くなった人々に対する罪の意識で今でも苦悩してい
市民に一種の澗れることのない泉の役割を果たすよう
る非常に良心的な作家だ。同じ都市に暮らしていた隣
8 4 Koreana I 夏号 2007
人や兄弟、友人が軍人の刀と銃により無差別に殺害さ
社会での完壁な民主主義と自由の実現は難しいという
れる光景を見て、その中で生き残った者、それも繊細
のが、彼ら韓国知識人社会の常識とも言える考えなの
な魂の持ち主である作家が感じたであろう罪の意識と
だ。それで林哲佑の世代の作家たちは南北分断問題に
怒り、絶望はたぶん想像以上のものだろう。以後、林
特別の関心をもち、分断が韓国社会に与える悪影響を
哲佑の作品世界は長い問、その罪の意識から抜け 出せ
小説 の形で、表現しようとしてきた。もちろん分断の起
ないでいる。そしてその罪の意識による長い間の苦闘
源には朝鮮戦争があるのだが、林哲佑が光州体験とと
が生み 出した 結果が、 1997年に完成した大河小説「春
もに分断の問題を常に自己の重要なテーマにしてきた
の日 J だ 。 「 春の日 J は 1980年以後、韓国 の作家を圧迫
のもそのような理由からだ。
してきた“ 借りがある" という意識、コまり光州民主化
彼らの世代は分断を直接体験した世代ではない。
運動を総体的な見地から描いた長編大河小説を書かな
そのため彼らの作品では分断の問題は自分の口を通じ
くてはならないという大きな宿題を果たした力作なの
てではなく、上の世代である母や父の口を通じて語ら
だ 。
れる。短編小説「尖の地」は林哲佑の分断小説の系列の 光州抗争の体験とともに林哲佑の文学の大きな底
中で も初期の代表作だ。 -この作品で作家は自分の世代
流を形成するのが故国の分断だ。もちろん、林哲佑は
の体験と父母世代の体験を並べて展開するという 二重
朝鮮戦争 (1950""' -' 1953) を直接体験した世代ではない。
構造をとっている。
彼は、いわば戦争2世に属する世代だ。それは林哲佑
作家が狙っている効果は比較的明白だ。全く違う
を含めた現代の作家の大部分が、戦争と関連した悲劇
時代の経験だが、母を生涯にわたり縛り付けでいる束
的な事件に母や父を通して接しているということでも
縛と自分を縛る束縛の聞に大きな違いは無いという事
ある。そのような理由で朝鮮戦争に対する彼らの姿勢
実、私の現在と母の過去が実は互いにからみあってい
は戦争を直接体験した世代に比べると 二重構造となっ
るということの確認だ。たとえ世代は違っても母はア
ている。
カ( 共産主義者) にされてしまった父の記憶から抜け出
彼らは朝鮮戦争と南北分断が自分が属する社会に
すことが出来ず、彼自信もまた、訓練中に発見した遺
今でも直接的な影響を与えているにことには共感す
体にからまっていた鉄条網のように分断の束縛から自
る。韓国の現代史で国家権力は、 「北には韓国社会を
由にはなれないでいる。林哲佑は朝鮮戦争と南北分断
虎視耽々と狙っている赤い( 共産) 政権が存在するのだ」
の事実が昨日のことではなく、まさに今日のことなの
として思想と言論と集会と結社の自由を抑圧し制限し
だという現実をそのような二重構造を通じて表現した
てきた。そのため分断の矛盾が解決されない限り韓国
かったのだ。 凶 夏号 2007 I Koreana
85
韓国国際交流財団 ソウル特別市瑞草区瑞草 2 洞 1376- 1( 外交センタ 瑞草郵便局私書箱 2 2 7号 〒 137- 863 w w w kf. or kr
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Koreana
目
内)
目
韓国国際交流財団が発行する季刊誌 r Kor eanaJ は 1987年に創刊されて以来、韓国の伝統文化と現代の多様な文化芸術 全般を紹介し、海外での韓国に対する理解と認識を深めるのに寄与しています。また韓国の社会文化をよりくわしく紹介 するために、各号ご とにテーマを選定し特集記事を組んで、います。その他、現在の文化界の懸案、文化芸術界の主要人物、 韓国の生活様式、文化財、自然と生態、文化作品など、多様な分野の記事を掲載しています。 購読料( 航空郵送料を含む)
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r Kor ea FocusJ は韓国の政治、経済、社会および文化と主要な国際問題の理解に役立つ資料を、国内の主要日刊紙、学 術誌に掲載された記事、論文の中から厳選して月間 WebZi ne と季刊雑誌の形で発刊しています。 1993年の創刊以来、
r Kor ea FocusJ は海外の有数な研究機関および大学で、緯国学の振興および国際社会での韓国社会に対する理解と認識 を深めるために寄与しています。 購読料( 航空郵送料を含む)
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1年 韓国
( 各号 US $ 5 ( 送料別途) で購入可能)
Korean Cul tural Heri t age Fragrance of Korea
r Kor ean Cul t ural Heri t ageJ は、これまでに発行された r Kor eanaJ の記事を主題別に再編集して発刊した全 4 巻の 英文単行本で、各主題別にさらに詳しい記事と多様な写真 を掲載しています。( 1 巻: 韓国の伝統美術 想と宗教
3 巻: 韓国の工芸芸術
2 巻: 韓国の思
4 巻: 韓国人の生活文化)
定価 ・US$40( 送料別途)
rFragrance of Korea: T he Anci ent Gi l t - Bronze I ncense Bur ner of Baeki eJ は、造形美において東アジアの古代金 属工芸の最高峰だと評価されている百済金銅大香炉( 国宝第 287号) の英文版図録で、図版 110ページと「百済金銅大香 炉の工芸史的意義 J r文化の原動力と多様性: 博山炉から百済金銅大香炉まで J r扶除陵山里寺祉J など、の 小論文 30ペー ジで構成されています。 定価
US$25( 送料別途)