秋 号 2012
韓国の文化と芸術
無 形 文 化 遺 産
vo l. 19 n o . 3
特 集 秋号 2012
21世紀の無形文化遺産; 人類の無形文化遺産の保存と韓国の役割; 匠の技による崇礼門の復元;食文化と伝統
ISSN 1225-4592
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無形文化遺産 世界遺産になった 韓国の人間文化財
発行人 編集理事 編集長 監修者 編集諮問委員
金宇祥 全南鎭 金鍾徳 嘉原和代 裵炳雨 Elisabeth Chabanol 韓敬九 金華榮 金文煥 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 Werner Sasse
編集 金熒允編集会社 ソウル市麻浦区西橋洞384-13 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 ソウル市城東区聖水2街274-34 Tel : 82-2-469-0361~5 Fax : 82-2-461-6798
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掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、〈Koreana〉や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。 1987年8月8日文化観光部-1033で登 録された季刊誌〈Koreana〉は英語、中国 語、フランス語、スペイン語、アラブ語、 ロシア語、ドイツ語でも発刊されています。
Koreana Internet Website http://www.koreana.or.kr
韓国の文化と芸術 秋号 2012 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
灌仏会を控えたソウルの曹渓寺では、 大雄殿前のエンジュの木に提灯が鈴な りだ。旧暦4月8日には毎年、釈迦の 誕生を祝い幸せを祈る「燃灯会」が行わ れる。新羅時代から伝えられてきた「燃 灯会」は現在、提灯行列など多彩な行事 からなる「燃灯祝祭」へとつながってい る。「燃灯会」は今年、重要無形文化財 122号に指定された。 ©崔恒永
韓国の無形文化遺産と人間文化財
今日、世界各国では無形文化遺産の保存のために、国境を越えた取り組みが 行われています。無形文化遺産は古びて不必要なもの、もう息絶えたものでは なく、その国の伝統文化であり命脈をつなぐ文化であります。韓国は、急速な 近代化の過程で無形文化遺産の伝承の危機に比較的早く気付き、保存に努めて きました。 韓国は無形文化遺産の保存に大きな誇りを持っている国であります。1962年 1月、世界で2番目に文化財保護法を制定し、無形文化財保護のための努力を 重ねてきました。2003年にはユネスコが採択した無形文化遺産保護条約を11番 目に批准し、無形文化遺産として共同登録1件を含む14件登録されました。
「秋号」では綿織物、輪図、小木、陶器、螺鈿、綱渡り芸能、宗廟祭礼楽、宮 廷料理などの無形文化財保持者たちが地道に自分の道を歩んでいる様子を紹介 します。韓国の人間文化財は技芸だけではなく、師から仕事に対する真摯な姿 勢と正しい生き方も受け継いでいます。彼らは「近道はない。正しい道しかな いんだ」 、 「職人は物を売るすべを知らない。ただ作ることしか知らない」 と言っ て、伝統文化を守っております。 日本語版編集長
金鍾徳
特集 無形文化遺産
04 12 16 22 30
特集1
7
21世紀の無形文化遺産
朴炫淑
特集2
人類の無形文化遺産の保存と韓国の役割 特集3
世界遺産になった韓国の人間文化財
宋惠眞
無形文化財保持者の手によって復元される国宝1号・崇礼門
李光杓
特集5
食文化と伝統
芮鍾碩
36
文化フォーカス
韓国最南端の都市、麗水のエキスポへのチャレンジ
42
アート・レビュー
韓屋端面の進化
48
60
16
特集4
36
52
韓敬九
宋寅豪
韓国大好き
韓国と世界をつなぐ「実在的な橋」 那秀昊
世界の中の韓国人
42
常にチャレンジするアーチスト、梁彗圭
高美錫
ブック・レビュー ユン・ビッナ, 金成哲, キ・ヘギョン
子供と大人が一緒に読む童話 『庭を出ためんどり』 ポーランド語版 ハングルを学びながら料理をする 『韓国の家庭料理』
54
「デジタル時代における展示図録」
62
遠くの目
64
エンタテインメント
66
ライフスタイル
70
韓国文学の旅
成熟社会への協力―文化交流に何ができるか
本田修
婚活ドキュメンタリー、リアリティ番組「チャッ」の人気
自然休養林で過ごす山中生活
柳精烈
小説家になった田舎のパン屋の息子 『ニューヨーク製菓店』 金衍洙
魚秀雄
黄鎮美
66
梁善姫
特集 1
21世紀の無形文化遺産
彼らが受け継いでいるのは技芸だけではない。彼らは、師から譲られた正しい生き方を受け継いでいるのだ。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 徐憲康
20歳で嫁いで学んだ綿織物 セッコルナイの人間文化財:ノ・ジンナム
ノ
・ジンナムさん(魯珍男、重要無形文化財28号)は、昔から村の女性による綿織物が盛んで、質の良さで有名だっ た羅州セッコルマウルの綿織物「セッコルナイ」の人間文化財だ。彼女は、20歳で羅州に嫁ぎ、義母から綿織物の
すべてを学んだ。それから60年の間、義母から譲られた織機でセッコルナイを織ってきた。そして、義母キム・マネ(金 晩愛)氏を心から尊敬している。義母は腕だけでなく、美しい心によって人間文化財になったのだと昔話を聞かせてくれた。工場で大量生産さ れる化学繊維によって伝統的な綿織物が貴重になっていた1965年、セッコルマウルでも、昔ながらの方法で綿織物を織る家は3軒しか残って いなかった。その年、伝統服飾研究家のソク・チュソン(石宙善)博士がセッコルマウルを訪れた。ソク博士が最初に訪れたのが、義母の家だっ たという。服地を買いたいというソク博士に、義母は、綿織物の市場もなくなり商売もできなくなりそうだから、ただで持って帰って熱心に研 究してほしいと言った。しかし、それはできないとお金を払おうとするソク博士、それを断る義母……。そんな微笑ましいやり取りを思い起こ し、ノ・ジンナムさんは愉快そうに笑った。他の2軒は、高値で服地を売ろうとしたり、辛い作業を思い出したくもないと追い返したという。 それから3年間、義母を数回訪ねたソク博士の検証によって、義母キム・マネは1969年に人間文化財になった。
4
韓国の文化と芸術
宇宙の原理に沿った作業 輪図匠:キム・ジョンデ
「宇
宙の理に逆らえる者などいない」 60年間、伝統的な羅針盤・輪図一筋に生きてきた輪図匠キム・ジョンデさん(金鍾垈、重要無形文化財第110号)。
キム・ジョンデさんは、24の軌道(輪)からなる精巧な輪図を穏やかな笑みで見つめながら、それぞれの軌道には45億年にわ たる地球の変化と物質循環の原理などが全て込められていると話してくれた。キム・ジョンデさんは「この仕事は一生をか ける価値がある。金にならなくても守ってくれ」という伯父の言葉の通り、3代目として家業を受け継いだ。そして、その跡を長男が継ごうとし ている。輪図に正確な軌道を描き、陰陽、五行、八卦、十干、干支など4千字を彫るという極めて難しい作業を終えたとき「腕の中で宇宙と出 会う喜び」を感じると言う。キム匠はこう語る。「この輪図に込められた奥深い宇宙と、この世界の理には驚かされるよ。神妙な方法を悟ったわ けじゃない。理に従うってことだ。近道はない。正しい道しかないんだ。道じゃなければ、進んじゃいけない」
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木を植える大工 小木匠:ソル・ソクチョル
大
工は、大木と小木に分けられる。木で家を造るのは大木、窓・戸・家具など家財道具を作るのは小木の仕事だ。 今年で87歳になる小木匠ソル・ソクチョルさん(薛石鉄、重要無形文化財第55号)は70年間、木で家具を作ってき
た。全羅南道長城郡長城邑鈴泉里にあるソルさんの家は、一風変わっている。1階は住居で、作品の展示場を兼ねてい る。2階は跡を継ぐ三男の工房で、3階はソルさんが宝物庫と呼ぶ木材の貯蔵庫だ。訪れた人は、様々な種類の木、その木が家具になる過程、 完成した伝統家具に触れられる一石三鳥の機会が得られる。ソクさんは、木材の貯蔵庫に特別な思い入れがある。良い木があれば何を差し置い ても訪ねていき、手に入れてきた。そのため木材の貯蔵庫には、樹齢千年のケヤキから数百年のイチョウ・キリ・カキの木などが数十年間、乾か されている。ソルさんは、樹齢の長い木をこうして長い間乾燥させてこそ、美しい木目が生まれ反ることもないと言う。また10数年前から木 を植えている。故郷の長城邑鷲岩里では、ソルさんの植えた800株のキリが育っている。ソルさんは、木材の貯蔵庫で木目の美しいイチョウを 何度も撫でながら、こう語った。「この手で植えた木が美しく育って、後世の大工によって新しい命を吹き込まれたらと思うんだよ。そうして 作られた家具が主と出会って、代々受け継がれる大事な家財道具になれば、他に望むものはない」。その穏やかな笑みには、深い響きがあった。
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韓国の文化と芸術
丹誠と根気で結って組んだ花 メドゥプ匠:チョン・ボンソプ
「人
生は辛い方が良いんですよ。楽な人生なんて、人生と言えますか」 70歳になるメドゥプ匠チョン・ボンソプさん(程鳳燮、重要無形文化財第22号)は、両親の跡を継いでメドゥ
プ(組紐)の道を歩んできた。チョンさんの娘も、その跡を継ごうとしている。メドゥプとは、色とりどりの糸をより合 わせて三つ以上の紐を作り、それを編んだ組紐で作られる多彩な飾り紐や房だ。メドゥプは、一度始めると夜を明かすことも多く、腕がしびれ て指先がひび割れて血が出ても、途中でやめることができない。1本の糸を切らずに組み続けて房を完成させるまで、糸を半分に折って長さを 合わせ、2本の糸をより合わせるという作業を数百回繰り返す。すべての過程で寸分の狂いも許されない。直径2㎝の小さな房でも、260回余り 作業を繰り返す。ノリゲ(衣装小物)を一つ作るのにも10日はかかる。チョンさんは、そうした仕事を50年以上続けてきた。
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胸を熱くする打楽五重奏 陶器匠:キム・イルマン
ト
ーントーン、パンパン、パタパタ、タンタン、トンットンッ。ある日の早朝、京畿道驪州梨浦マウルの陶 器匠キム・イルマンさんの工房で、入口から聞こえてきた音が忘れられない。工房のドアを開けると、そこに
広がる情景が胸を打った。最近では電動ロクロが伝統的な足踏みロクロに取って代わっているが、貴重な伝統ロクロが 五つも6斗(約110リットル)の壷を乗せて、リズムよく回っていた。よくこねられた棒状の土を一つずつ輪積みにして、足でロクロを回しなが ら、たたき板で叩き締めをする5人の陶器匠。その音は、今まで聞いたことのないほど、とても愉快で清涼感あふれる打楽五重奏だった。父の 叩き締めの音はトーントーントーンと長く余韻が残り、息子の叩き締めの音はトンットンットンッと節度があって、その息子の息子の叩き締め の音はパンパンパンと力に満ちていた。70歳になるキム・イルマンさん(金一万、重要無形文化財第96号)と壮年の息子3人、そして20代の年長 の孫息子は、全国から集めた良質の土で陶器を作り、江陵の赤松だけを使って伝統の窯で5日間焼く。作品の半分は捨てるというこだわりも、 8代にわたって受け継がれている。キム・イルマンさんは、陶器職人が頭でっかちになれば、手さばきが鈍くなって仕事にならないため、二人 の息子を小学校にだけ通わせたと言う。息子は、そんな父親を恨むことなく、今でも尊敬し続けている。
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韓国の文化と芸術
記憶の中の父ソン・ジュアン 螺鈿匠:ソン・バンウン
「父
の螺鈿の腕は、圧倒的でした。当時、伝統的な螺鈿漆器の本場で、私の故郷・統営では、ほとんどの職人が経験 を積むと社長になって、職人を雇って螺鈿工場を経営していました。ですが、父は他の人の下で、いつまでも
道具を手に現役を続けました。父の後輩が、父よりも先に無形文化財保持者になったという新聞記事を目にしたとき、 私は怒りを抑え切れませんでした。『父さんは、どうして後輩に負けたんだ? 自分の名前を知らせないとダメだ。狭い工房で必死に働いたと ころで、誰も分かっちゃくれない』。すると、父はこう答えました。『職人は物を売るすべを知らない。ただ作ることしか知らない人間なんだ』 若気の至りで言葉の意味を十分に理解できませんでしたが、73になって父の言葉を噛み締めてみると納得できます。職人が仕事をするときに、 白木がいくら、漆がいくら、貝がいくら、真鍮がいくらと計算し始めれば、まともな仕事はできません。『これはいく らだから、その分だけ力 を入れればいい』という物を売る人間の計算が、心を乱すからです」。父の生き様と作品を積極的に紹介した息子ソン・バンウン(宋芳雄)さんの 努力によって、1979年に79歳という高齢で父ソン・ジュアン(宋周安)さんは重要無形文化財第54号クヌムジル(切貝法)匠になった。統営で詩画 展を開き、詩人を夢見ていた若き日のソン・バンウンさんは、父の跡を継いで螺鈿匠(重要無形文化財第10号) の道を歩んでいる。
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© 朱棅秀
綱渡り師は風を恐れない 綱渡り芸能保持者:キム・デギュン
地
上3m、宙に浮いた一筋の綱にサッと乗るチュルガァンデ(綱渡り師)。見る方はハラハラドキドキだ。そこに 風が急に吹き付ければ、綱渡り師は、なすすべもなく揺さぶられる。綱渡り師は、片手に握った扇子でバラン
スを取ろうと、精神を集中させる。風が吹くたびに「おおっ。目もないはずの風がグルグル回って、芸人をもてあそぶ とは!」などと面白おかしく話す。9歳のころ伝統的な綱渡りを習い始めて、今年で45歳。綱渡り一筋に生きてきた綱渡り芸能保有者キム・デ ギュンさん(金大均、重要無形文化財第58号、綱渡り芸能保持者)。綱渡りは、綱の上で行われる43種の技芸、綱の下の広場で行われるオリッ クァンデ(道化師)の漫談、そしてピリ(縦笛) ・テグム(横笛) ・ヘグム(胡弓) ・チャング(鼓) ・プク(太鼓)の三絃六角の演奏が合わさった総合芸術 だ。観客と演者のコミュニケーション・共感が重視され、大きく一つになることで興に入る。綱の上で観客と心を交わす瞬間が最高に幸せだと いうキム・デギュンさんは、こう語る。「風が吹いたからといって、綱渡り師は綱渡りを躊躇しません。条件が悪い中で綱に乗るとき、心の片隅 には『この世の友たちよ。俺も風の中で綱を渡っているんだ。風の吹かない人生なんて、どこにもありゃしない。一筋の希望を持ち続けよう』と いう心意気もあるんですよ。だから、綱渡りは心を分かち合う場なんです」。キム・デギュンさんは、野外公演場を埋め尽くした観客を迎え、再 び綱に乗った。
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韓国の文化と芸術
© 李圭哲
「興に入れば、この世の心配事なんぞ全部吹き飛んじまうよ」 ティべンノリ人間文化財:イ・ジョンスン
今
年2月の初め、全羅北道扶安郡の蝟島には雪が30cmも積もり、島を覆い尽くした。雪のため山に登れるか心配 する若者の話などお構いなく、一人の踊り手が一団を率いていく。祭壇のある村の山に向かって、肩を揺らし
ながら興に入り、先頭を切って進むのは、齢80を控えたティべンノリ(チガヤ船遊び、重要無形文化財第82-タ号)の人 間文化財イ・ジョンスン(李宗順)さんだ。蝟島面大里で生まれ育ち、若い頃はイワシ漁船の船長だったイ・ジョンスンさんは、故郷とティべン ノリに大きな誇りを持っている。「チガヤの船にカカシと一緒に全ての厄を乗せて、あの海の真ん中に流してしまうのさ。こんなに良い考えは ない。それに天地神明に祭を捧げるんだから、村中の人たちの心が清められて浮かれてくるんだ」とイ・ジョンスンさん。その言葉通り、ティべ ンノリは、村中の人が積年のわだかまりを解いて心を一つにし、1年の安寧と豊漁を祈る村の祭だ。高齢の芸人は、楽しくて仕方がない様子だ。 驚いたことに、飛び跳ねるように踊るイ・ジョンスンさんは最近、肋骨が折れて脚の手術も受ける大怪我をし、片方の膝には軟骨もないという。 早朝から夕方近くまで続く祭の間、休むことなく一団を率いた。大変そうだと尋ねると、イ・ジョンスンさんはニッコリ笑って秘訣を教えてく れた。「興に入れば、この世の心配事なんぞ全部吹き飛んじまうよ。だから、痛みなんて感じないのさ」 (翻訳:坂野慎治)
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特集 2
人類の無形文化遺産の 保存と韓国の役割 世界各国では現在、無形文化遺産の保存のために、国境を越えた取り組みが共同で行われている。韓国は、 急速な近代化の過程で無形文化遺産の伝承の危機に比較的早く気付き、保存に努めてきた。こうした点か ら、韓国はこの問題において、非常に独自的で重要な国際貢献ができると考えられる。 ハン・ギョング(韓敬九、ソウル大学校自由専攻学部教授・文化人類学者)| 写真 : 徐憲康
無
韓
国は、無形文化遺産の保存について大きな誇りを持っている。韓国は、日本による植民地支配、朝鮮戦 争、学生革命、軍事クーデターを経験しながらも、1962年1月に文化財保護法を制定し、世界で2番目
形
に無形文化財保護のための体系的な努力を始めた。もちろん問題点もあったが、このような制度がなかったな ら、高度経済成長と急激な都市化の中で、韓国社会は多くの無形文化遺産を失っていただろう。考えるだけで
文
も、恐ろしいことだ。こうした経験から、韓国は1993年にユネスコ執行委員会に人間文化財制度を提案し、こ
化
れが採択されたことで、ユネスコの無形文化遺産保護に大きく貢献した。
遺 産
無形文化遺産保護の先進国 韓国は、2003年にユネスコが採択した無形文化遺産保護条約を11番目に批准し、ユネスコ・アジア太平洋無形 文化遺産センターの設立承認を2009年に受け、2011年に設立した。韓国では現在、無形文化遺産として共同登 録1件を含む14件が登録されている。 特に2009年11月に開かれた東アジアの共同文化遺産に関する国際会議(ユネスコ韓国委員会・江陵市開催)で は、江陵宣言によって無形文化遺産の共同登録の意味と重要性を唱え、韓国がユネスコと共に国際的な支援と 協力に率先して取り組むことを求めている。こうした成果は、国ごとの登録の順次制限、緊急保護一覧表の作 成と共同登録の強調という国際的な流れをリードした点でも意味が大きい。
ユネスコ無形文化遺産 ユネスコの無形文化遺産は、文化と文化遺産に対する国際社会の認識と態度を根本から大きく変えてきた重 要な事業だ。また文化の多様性の保存・認識向上、平和定着において大きな可能性を持つ、極めて重要な事業で もある。しかし文化への偏見・理解不足、偏狭な民族主義、国家間の行き過ぎたプライドの衝突などによって大 きな誤解と議論が生まれており、さらには緊張と対立まで起こるという残念な状況も発生している。 ユネスコの無形文化遺産は、何よりも人類学的な文化の概念を幅広く取り入れ、それ以前までは相対的に低 く評価されていた非西欧社会の文化遺産の重要性を認識する契機になったという点で大きな意味がある。また 文化の本質は、文化的産物よりも文化的実践と象徴行為にあるという認識の深化をもたらした。さらに無形文 化遺産の主体が、国でなく個人・集団・共同体だと明示した点も注目に値する。 こうした無形文化遺産の概念によって、非西欧社会の文化的な地位が高まったという事実は特に重要だ。西 欧の膨張とあいまって、西欧文化は非西欧文化に比べて合理的で価値があり優れていると認識され、非西欧文
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韓国の文化と芸術
© 金永光
化は非合理的で劣等だと主張・認識された時期もあった。そうした中 で「ユネスコが行った最も成功した事業の一つ」と評されてきた世界遺 産さえも、西欧中心でエリート文化中心だという批判を受けた。な
鷹狩りは、ユネスコ無形文化遺産では初めての複数国にわたる共同登録。 2010年に韓国、アラブ首長国連邦、ベルギー、フランス、モンゴルなど11カ 国の遺産として共同登録された。上の写真は、韓国の鷹狩り技能保持者 パク・ヨンスンさんによる鷹狩り。下の写真は、2011年9月3日に スイス・ロカルノで開かれた鷹狩り大会
ぜなら、世界遺産条約(1972年)が文化遺産の定義を「顕著な普遍的価 値」を有するものとし、いわゆる「偉大な」歴史的建造物などが文化遺 産に多数登録され、その半数以上をヨーロッパが占めたからだ。その 結果、そうした建造物を多数有する国は文明国で、そうでない国は相
で、非西欧文化が相対的に萎縮・喪失し差別を受けたが、差別の対象
対的に劣るという認識が広がったため、いわゆる「偉大な」遺跡を持た
は他にもあった。近代的なものに比べて伝統的なもの、男性文化に比
ない国には虚脱感をもたらした。
べて女性文化、エリート文化に比べて民俗文化、そして有形文化に比
ユネスコの世界遺産事業さえも、結果的にこのような「持続的な文 化的差別」につながったことは皮肉といえよう。産業化と都市化の中 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
べて無形文化も差別を受けてきた。 そうした状況を問題視し、ユネスコ総会では1989年に「伝統的文化
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及び民間伝承の保護に関する勧告」を採択して、伝統と民俗の保存を 求めた。また、1993年には韓国の提案を受け入れたユネスコ執行委員
洋琴の演奏。四角い木の板に金属の絃を張った打弦楽器で、中世ヨーロッパに 始まり、長い時間をかけて世界各国に広まった。韓国には朝鮮時代の後期に 伝えられ、伝統的な器楽合奏に欠かせない楽器となった。
会の決議に沿って、ユネスコ事務総長が加盟国に人間文化財制度を設 置するよう促した。これは、韓国の無形文化遺産保護の発展を物語る 上で、非常に大きな意味を持つ。なぜなら、韓国の文化財保護法と 制度は日本のものを大いに参考にしているが、国中心的な「人間国宝
然として一つの文化遺産を一つの集団が有するという仮定から脱却で
(Living National Treasure)」という日本の用語に比べて、少数民族・信
きずにいるため、共同の文化遺産への配慮不足から国家間の摩擦を引
仰・地域などを包括する「人間文化財(Living Human Treasure)」という
き起こす恐れもある。
韓国の用語が国際的に通用しているからだ。 その後、1998年に「人類の口承及び無形遺産の傑作」の基準が定めら
生きた無形文化遺産
れ、2003年の第32回ユネスコ総会で加盟国による激論の末、ついに無
無形文化遺産に関する大きな誤解の一つは、古びて不必要なもの
形文化遺産条約が採択された。この条約は、無形文化遺産の保護にお
という認識だ。もう一つの大きな誤解は、今では誰も楽しまず、受け
いて極めて価値ある進展であり、実に大きな意味がある。しかし、依
継ぎもせず、活かしもしない、つまり息絶えたものという認識だ。ま
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韓国の文化と芸術
無形文化遺産に関する大きな誤解の一つは、古びて不必要なものという認識だ。もう一つの 大きな誤解は、今では誰も楽しまず、受け継ぎもせず、活かしもしない、つまり息絶えたも のという認識だ。無形文化遺産は、伝統文化であり生きた文化だ。
た、無形文化遺産には原形があり、原形はありのまま保存しなければ
特定の無形文化遺産の起源と所有を争う事態も生じている。ユネスコ
ならず、もし保存できなければ、無形文化遺産は壊され失われたとい
の無形文化遺産が、平和の定着どころか、かえって一部の国では他国
う認識もある。やはり、これも大きな誤解だ。
への敵対心と緊張を招くという結果まで起きているのだ。
無形文化遺産は、伝統文化であり生きた文化だ。無形文化遺産は、
こうした状況は、国の境界を越える無形文化遺産、すなわち「共同
共同体と集団がそれぞれの環境・自然・歴史の相互作用によって絶え
の」無形文化遺産の重要性と文化遺産全般に対する省察を求めている。
ず再創造してきた様々な知識・技術・公演芸術・文化的表現などである。
共同の無形文化遺産は、国民と国よって形成される近代の国際社会に
産業化と都市化によって資本主義と商品経済が浸透し、多くの伝統的
おいて、文化の普遍性と特殊性に関する議論に基づいて、文化をどの
なものが消えつつあるが、「創造的な多様性」は人類にとって極めて重
ように考えるのか深い省察と反省を促すという点で非常に重要だ。ま
要だ。急速な近代化の過程で一時は無視され過小評価された多くの文
た国民・国家内で、個人と共同体と国との関係、ひいては国民と国の
化遺産が、改めて注目を集めている。先端技術や知識との融合、また
相互の関係を考える重要な機会にもなる。
は生活様式の変化によって、伝統が今までにない形で登場したり変化 している。
ユネスコは2003年の条約によって、複数国登録(multinational submission)として共同の無形文化遺産という概念を取り入れてはい
また、一般的に原形だと考えられているものも、実際にはある特
るが、複数の国にわたる文化遺産はいまだに例外とされている。文化
定の時期に達成した完成度の非常に高い形態や方式に過ぎない。無形
遺産は一つの国または集団のものという仮定が、あまりにも根深く広
文化遺産は、基本的に状況によって絶えず変化するものだ。観光資源
く受け入れられているからだ。
としての利用や販売を根本的に控えるべきだとは思わないが、基本的
こうした中、江陵端午祭の登録を巡って微妙な摩擦を経験した韓
な性格を損なう過剰な商品化には警戒しなければならない。しかし、
国が、共同の無形文化遺産に関する理論的な開発、そして国際的な共
原形の保存にばかり執着すると、創意性を削いで適応を妨げ、結局は
同登録の支援・協力に努めることは、非常に重要だ。江陵宣言は、ま
無形文化遺産の剥製化を招く恐れがある。
ず無形文化遺産の複数国(多数の共同体)への分布は例外ではなく、む
従って、無形文化遺産の保存とは、果たして何の保存なのか思案・
しろ無形文化遺産の根本的な存在形態の一つだという点を強調してい
省察する必要がある。現在の状況を正確かつ詳細に記録する作業と共
る。そして、共同登録は今後、無形文化遺産登録制度が注目すべき方
に、過去の状況を復元する作業も大切だ。だが、人口構成の変化や使
向であり、制度の中核になるべきだと主張している。最後に、韓国は
用可能な物質の変化など、様々な要因を考慮した無形文化遺産の現代
無形文化遺産、特に国民・国の境界を越えて存在する無形文化遺産の
的な適応方法も検討すべきだろう。
発見と研究に力を注ぎ、国際的な共同登録に関する理論的な開発に努 めなければならないと述べている。
国の境界を越えて ユネスコの無形文化遺産は、西欧中心の認識を改めさせ、文化の
韓国は、歴史的に他国と活発に交流しながら、独自のアイデン ティティーを保ってきた。特に近代国家の建設過程では、植民地支配
多様性の保存と文化間の理解に大きく貢献したが、無形文化遺産が国
と戦争という試練を受けた。そして韓国が経験した急速な近代化は、
民・国家間の威信争いの道具と見なされるなど、新たな問題も起きて
無形文化遺産の緊急保護・保存・活用などに関する深い省察と議論の基
いる。登録できる少数の国が、多数の無形文化遺産を登録し続け、さ
となっている。韓国は、文化遺産の保護において、非常に独自的で重
らには端午祭のように、自民族中心主義的な傲慢・偏見・誤解のために
要な国際貢献ができると考えられる。(翻訳:坂野慎治)
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特集 3
世界遺産になった 韓国の人間文化財 ユネスコの無形文化遺産には、消失の危機に瀕している世界各国の伝統を保存する 緊急保護の意味が込められている。この緊急保護は、韓国にどのような 効果をもたらしているのだろうか。 ソン・ヘジン(宋惠眞、淑明女子大学校教授)| 写真 : 安洪范, 徐憲康
無
「1 0
年前までは、この音楽をこんなにたくさん演奏するようになるとは、思いもよりませんでし た。祭礼のときに1年に2回。それ以外には外国の貴賓が参加する国レベルの大きな行事、国
形
立国楽院の特別演奏で5~6回演奏するくらいでしたから。今は、想像もできなかったくらい忙しい日々 の連続です」
文
“この音楽”とは、「重要無形文化財第1号・宗廟祭礼楽」のこと。話の主人公は、この分野の準保持者
化
チェ・チュンウン(崔忠雄、1941~)さんだ。チェさんは、1977年に宗廟祭礼楽を学び、1984年に保持者候補
遺
になった。その後、宗廟祭礼楽の主な楽器である編鐘(雅楽打楽器)の奏者として、30年以上の長きにわた
産
り宗廟祭礼楽の保存・継承の中心となってきた。さらに、この分野の人間文化財保持者が皆、他界してし まった1990年代後半からは、宗廟祭礼楽について最も詳しい最高のベテランとして保存会の会長を務めて きた。そんなチェさんが興味深そうに教えてくれた話には、無形文化遺産登録による宗廟祭礼楽の変化が 表れていた。 韓国の無形文化財がユネスコの無形文化遺産に登録され、伝統的な公演芸術界に新たな動きが起こっ ている。重要無形文化財制度が1964年に施行され、多くの無形遺産の価値と重要性が叫ばれてきた。その 後、宗廟祭礼楽が2001年に初めて無形文化遺産(正確には人類の口承及び無形遺産の傑作)に選ばれたこと で、当事者である人間文化財保持者だけでなく全ての韓国人に、以前とは比べようもないほどの関心を呼 び起こした。さらに様々な公演芸術が「世界タイトル」を得たことで、その分野の継承者の活動は明らかに 変化している。
活発になった伝統音楽公演 宗廟祭礼楽は、朝鮮の歴代の王と王妃が祭られている王家の霊廟・宗廟で、祭祀のときに演奏する器 楽・歌・舞踊を合わせたものだ。だが実際には、伝統音楽の中でも一般の人たちには馴染みの ないマイナーなものだった。1964年に重要無形文化財第1号に指定されたほど歴史
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宗廟祭礼楽の編鐘の奏者であり、その保存と 継承の中心となってきたチェ・チョンウンさん氏
伝統を保存・継承するだけでも大変な責務だと考えていた人間文化財(日本での人間国宝に相 当)が、今では各自の継承内容について、どこが世界的に注目を集めるのか、何が特徴なの か、どのように内在する価値を広めるのか、包括的に考えるようになった。
的・芸術的な価値は証明されているが、朝鮮王室の祭礼音楽であったため、日常 的に見て聞いて楽しむ機会はほとんどなかった。特別な見識や趣味を持つ少数の 人が、その秘密めいた美しさを知っているだけの難しい音楽だったのだ。 しかし、無形文化遺産登録によって様々な変化が表れた。まず、それ まで一度もなかった「礼楽舞台」が実現した。宗廟祭礼の舞台化には宗 廟大祭の保有者が難色を示したが、無形文化遺産登録という名分が 保持者を公演会場に向かわせた。国立国楽院の大きな会場で、演奏 と祭礼が融合した荘厳な公演として2003年に初演された『永遠の音 -宗廟祭礼楽』は、伝統公演芸術の精華と評されて斬新で特別な公 演として定着した。また、大規模な「礼楽パフォーマンス」と 1
して新たに注目を集めたことで、さらに多彩な企画公演が試 みられた。その結果、この分野の人間文化財保持者を奔走さ
1. アン・スクソン名唱のパンソリ公演 2. ソウル奉元寺の霊山斎
せることになった。 その延長線上に、伝統公演芸術振興財団が2007年に企画した『伝統ナヌム(共有)音楽会』の『韓国音楽の 再発見』がある。無形文化遺産に登録された内容を親切丁寧に解説し、体験型公演として構成したことで、 一般への認知度を高めた。音楽家は、一般的な楽曲の演奏だけでなく、楽器の音色の特色が分かるデモ演 奏をしてほしい、観客に歌を教えて一緒に歌おうという企画者の求めに対して「演奏だけでいい。どうし て、そんなことまでさせるんだ?」と初めは不満げだった。しかし、程なく伝統芸術を一般の人に理解して もらい普及させるという目標に共感して、積極的に協力するようになった。 その結果、宗廟祭礼楽は観客の満足度が最も高い公演の一つとなった。祭礼以外には公演会場として使 用できなかった宗廟で、常設の公演ができるようになり、宗廟は文化体験の必須コースとなりつつある。 その他にも、仏教の霊山斎、江陵端午祭のクッ(巫女の祭祀)なども、総合的な公演として無形文化遺産の 人気レパートリーとなっている。こうした流れを受けて、この分野の人間文化財も頻繁な公演が日常的に なりつつある。
歌曲継承者の新たな模索 しかしながら、無形文化遺産に登録されたからといって、全てが新たな全盛期を誇っているわけではな
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韓国の文化と芸術
い。例えば、継承が十分でない歌曲について考えてみたい。登録前に比べて公演の数は多少増えたが、依 然として苦戦を強いられている。そのため、この分野の人間文化財保持者であるキム・ヨンギさんは、どう すれば歌曲も宗廟祭礼楽、パンソリ(唱劇)、綱渡り、江陵端午祭のように一般の人たちの関心を集められ るのか腐心している。 「無形文化遺産に登録された声楽曲の中で、何が歌曲と似ているのか知りたいと思います。他の国にも 芸術歌曲の伝統があることは間違いありません。そうした歌が現在、どのように継承されているかを知れ ば、歌曲の継承と活路を摸索するのに役立つはずです」 私はこの話を聞いて、キム・ヨンギさんの心の中に大きな変化が起きていることを知った。以前は、伝 統を保存・継承するだけでも大変な責務だと考えていたが、歌曲の新たな継承方法を模索するためには、世 界の無形文化としての観点から考える必要があると気付いたのだ。つまり、各自の継承内容について、ど こが世界的に注目を集めるのか、何が特徴なのか、どのように内在する価値を広めるのか、包括的に考え るようになったというわけだ。私は、こうした考えが歌曲の継承にどれほどの効果をもたらすか見守りた いと思う。 韓国の無形文化財の無形文化遺産登録は、これまでかろうじて伝統を受け継いできた人たちに、新たな K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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© 朴寶夏
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© 朱棅秀
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1. 景福宮・慶会楼での綱渡り公演 2. パンソリの創造的継承者として 国内外の舞台で活躍中の歌い手 イ・ジャラムさん
誇りを抱かせている。私が出会った名人たちは、ほとんどが名刺・プロフィール・各種公演の紹介に必ず「登 録」と明記し、継承活動への関心を促す姿勢も一層堂々たるものになっている。 第2回核セキュリティサミットがソウルで開かれた後、2012年3月29日の夜。朝鮮の王宮だった景福宮 の慶会楼で、会議の参加者のための公演が行われた。そこで愉快な綱渡りを披露した名人は、自己紹介で 「皆さんは韓国の文化財、さらには世界の文化財であるこの私の公演を見られるのですから、こんなに幸せ なことはない」と軽口をたたき、観客は快い拍手で彼の誇りに応えた。
パンソリの創造的継承 一方で若い芸術家は、伝統芸術を活発に再創造している。伝統的な技芸を忠実に磨き上げた後、一歩進 んで新たな創作の道を歩んでいる芸術家が少なくない。パンソリも例外ではない。歌い手のイ・ジャラムさ んは、5歳でパンソリに入門し、未来を嘱望されてきた。ソウル大学校国楽科に在学中、最年少で最長時間 パンソリを歌い切り、ギネスブックに登録されるなどの活躍をしてきた。そして現在、世界の人たちとさ らにコミュニケーションを図るため、創作活動を成功裏に続けている。イ・ジャラムさんは「パンソリは大 好きだけど、いつまでも20世紀以前の音楽ばかりを演じてはいられない」と、朝鮮の『春香歌』の代わりに ドイツの劇作家ブレヒトの戯曲『セツアンの善人』を『四川のうた』としてパンソリで歌い上げる。太鼓の調 子に合わせて一人で歌うパンソリに幾人かの俳優と演奏者を加え、適切な演出によって舞台芸術としての 多彩さと共感度を高めている。イ・ジャラムさんは『セツアンの善人』を歌ってはいるが、耳に届くのは紛れ もないパンソリだ。熱情的な唱法、興味深い風刺や比喩、昔の唱者らのユーモアある声の美学を十分に駆 使して、パンソリの新たな未来を切り開いている。イ・ジャラムさんの『四川のうた』は2007年の初演以来、 国内の多数の劇場に招かれて再演されている。海外の公演企画者が集まるソウル・アートマーケット「パム スチョイス(PAMS Choice)」では開幕作となり、ヨーロッパのフェスティバル企画者を魅了した。 イ・ジャラムさん、2011年に再びブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』に挑戦して、『四川のうた』を超 える成果を収め、2012年にも国内外の舞台で活発に演じている。多様性を求める公演企画者は、無形文化 遺産の継承者の中から、二人目三人目のイ・ジャラムさんが育つことを期待している。(翻訳:坂野慎治) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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© LG Art Center
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特集 4
無形文化財保持者の 手によって復元される 国宝1号・崇礼門 崇礼門の復元は、様々な分野の無形文化遺産が一つになって行われる大規模な事業だ。 伝統技術と匠の精神の結晶といえよう。長きにわたる継承があったからこそ可能だ。 イ・グァンピョ(李光杓、チャンネルA経営戦略室チーム長、ジャーナリスト)| 写真 : 徐憲康
無 形 文
炎
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たちは、時おり腰を伸ばして汗を拭く。目にしなくなって久しい鍛冶屋の風景に、ソウルの都心で再び出
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が揺らめく火床で、鉄の塊を真っ赤に熱する。次は、金床の上で鉄塊を金槌で叩いては水桶に入
会えるとは…。
れる焼き入れ。鉄を叩く音が、カンカンカンと大きく響き渡る。鉄塊を叩いては焼き入れする男
産
片手にのみ、もう一方の手に金槌。石工のその手の中で、白い石のかけらが飛ぶたびに、重く粗い花 崗岩から整った形が現れていく。それらを重ね上げて、再びのみで仕上げる。石を打つと、都心のビルの 谷間に澄んだ音がさわやかに鳴り響く。 そうして、城郭が積み上げられていく。壮麗な木造建築の屋根に瓦を葺くと、軒が扇のような線を描 く。木造の楼閣には、色鮮やかな丹青(彩色)が美しい姿を現す。 国宝1号・崇礼門(南大門)の復元現場の様子だ。旧正月の連休も終わろうとする2008年2月10日(日曜 日)の夜、放火による火災が起きた。崇礼門は、石垣の上にあった2階建ての木造楼閣が消失してしまっ た。しかし、その不運を乗り越えて、本来の凛々しい姿を取り戻す復元作業がたけなわだ。 崇礼門の復元は、火災現場の収拾・調査・発掘・設計などの準備を経て、2010年2月に始まった。復元は、 楼閣の部材の解体、部材の実測と再使用の判断、城壁の復元、木造楼閣の組み立て、瓦葺き、丹青の彩 色、扁額の設置の順で進められ、2012年12月に完成する。 崇礼門の復元は、全ての工程で伝統的な方法を貫いている。瓦と鉄を昔ながらの方法で作り、木と石 を削るのにも、現代の電動工具ではなく伝統の道具のみ野見を使用する。チェーンソーの代わりに斧との こぎりを使い、かんな・ちょうななどで木材を仕上げる。そのため、復元の現場には鍛冶屋が設けられた。 文化財庁は、韓国の鉄鋼大手ポスコに依頼して朝鮮時代(1392~1910)と同じ成分の鉄塊を作り、崇礼門の 金具や道具を作った。 崇礼門の復元には、各分野の重要無形文化財の技能保持者である名匠が、幾人も参加している。代表 的な匠としては、重要無形文化財第74号大木匠のシン・ウンスさん(申鷹秀、70)、第48号丹青匠のホン・ チャンウォンさん(洪昌源、57)、第120号石匠のイ・ジェスンさん(李在珣、石彫刻、56)とイ・ウィサンさん (李義祥、石構造物、70)、第121号翻瓦匠のイ・グンボクさん(李根馥、62)、第91号製瓦匠のハン・ヒョン
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崇礼門・楼閣の木造工事を指揮した 大木匠シン・ウンスさん
1. 電動工具を使わず、伝統的な工具で一つ一つ仕上げた 木造工事を細やかに点検する大木匠シン・ウンスさん 2. 石匠イ・ジェスンさん石匠の指揮による城壁の復元
ジュンさん(韓亨俊、83)などだ。
大木匠による木の確保 大木匠は、最も適した木を選び、伐採と十分な乾燥を経て、用途に合わ せて成形する。その木を柱や大梁にして、木材を組み合わせて丈夫な空間を 作る。シン・ウンスさんは、誰もが認める韓国最高の大木匠だ。1962年に崇 礼門の改修に加わって以来50年間、この道一筋に生きてきた。 1
シンさんが崇礼門の復元で最も気を使ったのは、良質の木を探すこと だった。大規模な伝統建造物を造るためには、何よりも木が大切だ。シンさ
んは「歴史を考えながら、木に接している」と言う。丈夫で反りがなく、直径1メートルをゆうに越える松 を探すのは、並大抵のことではない。伝統建築の木材には、江原道襄陽から慶尚北道蔚珍までの太白山脈 で育った樹齢200~300年の赤松が最適だ。今回は、江原道三陟市で伐木した赤松と市民から寄贈された松 によって、崇礼門の楼閣の木造工事を終えた。
石匠による城壁 木造工事と共に、城郭を築く作業も進められた。今回は、日本によって1907年に取り壊された崇礼門の 左右の城郭の一部(東側53m、西側16m)も復元される。崇礼門は単独で存在するのではなく、朝鮮時代の 城郭都市・漢陽(現ソウル)都城の正門だったことを思い起こさせるためだ。そうしてこそ、崇礼門の存在意 義が十分に理解できる。 城壁を築くのは、石匠の仕事だ。城壁の工事は、石選びから始まる。朝鮮時代に漢陽都城の城郭に使わ れた花崗岩と、外観や成分の似た石を選ぶ必要がある。石匠イ・ウィサンさんは、最適な花崗岩を京畿道抱 川市で探し当てた。 採石した大きな花崗岩は、まず必要な大きさに切り出す。現代の電動工具できれいに切り分けずに、伝 統的な石割りの技法が用いられた。花崗岩の表面にくさび用の穴を開け、そこにくさびを打ち込んで石を 断ち割る。そして、復元現場の鍛冶屋で作った昔ながらののみで、表面を整える。こうして加工した石を 運んで積み上げるのも、全て伝統的工法を守っている。 石工は、1970年代の中頃から現代的な道具を使っている。伝統建造物の復元でも、石の仕上げに現代の 道具を使ってきた。しかし、今回の崇礼門の復元作業では、伝統的な道具だけを用いている。石を削るの みは、今では先端に工業用ダイヤモンドが埋め込まれている。ダイヤモンドの先端は鋭く硬いため、あま
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韓国の文化と芸術
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崇礼門の復元は、様々な分野の無形文化遺産が一つになって行われる大規模な事業だ。 伝統技術と匠の精神の結晶といえよう。長きにわたる継承があったからこそ可能だ。
4 1. 切れ味の落ちた工具が手入れされる崇礼門の鍛冶屋 2.3. 翻瓦匠イ・グンボクさんが指揮した2万2千枚もの 伝統瓦による瓦葺き 4. 全て人の手によって作られ、伝統的な薪窯で焼かれた瓦
り磨り減らない。しかし伝統的なのみは、先がすぐに丸まってしまう。常に鍛冶屋が二人ほどいて、手入 れしなければならない。 そのため今回の作業は、2倍の労力と2倍以上の時間がかかった。だが石工は、そうした苦労を快く受 け入れている。イ・ウィサンさんは、こう語る。 「現代の道具は鋭くて硬いから、それで石を扱うと表面はきめ細かくなるけれど、とても鋭く仕上がり ます。それに比べて、伝統の道具で石を仕上げると、石材の表面がぐっと軟らかくなるんです。人間的だ というわけです。大変で時間もかかりますが、そうすべきなんですよ」 。
瓦作りと瓦葺き 木造工事が終われば、屋根に瓦を葺く番だ。そのためには、まず製瓦匠が瓦を作らなければならない。 これは製瓦匠ハン・ヒョンジュンさんの仕事だ。 ハンさんは、2011年10月に忠清南道扶余の韓国伝統文化大学に、朝鮮時代の伝統的な瓦窯3基を復元し て瓦を焼いた。70年以上瓦を作ってきたが、今回は今までにない気持ちで臨んだと言う。ハンさんは、扶 余で瓦窯に火を入れたとき「政府は機械で作った瓦で復元すると思っていたが、伝統の瓦を葺けるとは、た だただ嬉しい限りだ」と目頭を熱くした。 伝統的な瓦窯は、日本の植民地支配の中で姿を消していった。火災で失われた崇礼門の瓦は、工場で 作った機械製の瓦だった。伝統的な瓦は、機械製に比べて細かい気孔が多く密度が低いため、外部の温度 の変化によって破損しにくい。また、重さも機械製に比べて2~3割ほど軽く、伝統的な木造建築物に適 している。 伝統の瓦は、人の手によって1枚ずつ作られ、薪の窯で3日以上焼かれる。機械製の瓦は、ガス窯で表 面を焼いて色付けするため、色が濃すぎて人為的な印象を与える。しかし伝統の瓦は、薪火によって自然 な色が出るため、ほんのりと柔らかな銀灰色になる。 この原稿を書いている6月末、崇礼門の復元現場は、伝統の瓦2万2000枚を葺く作業の真っ最中だっ た。瓦を葺くのは、翻瓦匠イ・グンボクさんの仕事だ。門楼2階の屋根に丸太などを架けて屋根土を敷き、 瓦を乗せる。生石灰を混ぜた屋根土は雨がもれず、木を食べるシロアリを防いで建物を保護する。イさん 3
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1. 朝鮮初期の丹青様式の復元を指揮する丹青長の ホン・チャンウォンさん 2. 2008年の火災以前の崇礼門 3. 復元された崇礼門の扁額
は「セメントの寿命は100年だが、生石灰は1000年も持つ」 と言う。 職人が屋根の軒から棟まで行ったり来たりしながら、丹精込めて瓦を葺いていく。ここで大切な
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ことがある。地震だ。イさんは「地震が起きても、瓦が落ちてはいけない。伝統的な鉄のくぎと銅の 針金で、瓦を垂木に固定している」と説明してくれた。屋根を牝瓦で覆い、牝瓦の間に屋根土を盛って牡瓦 を乗せていく。
丹青匠 丹青も始まった。丹青とは天井・柱・壁などの木材に、青・赤・黄・白・黒を基本に色とりどりの模様や絵を 描いたものをいう。丹青は、部材の保護という実用的な目的だけでなく、建築物を荘厳にする象徴的な効 果もある。 丹青匠ホン・チャンウォンさんの率いる丹青チームは、すでに内部の丹青を始めており、10月には外部の 丹青も終える予定だ。丹青が施されているということは、崇礼門の復元が仕上げの段階に入ったことを意 味する。ホンさんの経歴は、43年に及ぶ。景福宮勤政殿、昌慶宮明政殿、徳寿宮中和殿などの宮廷だけでな く、全国の主な寺院の丹青も、ほとんどが彼の手によるものだ。ホンさんは「韓国、中国、日本の中で、韓 国の丹青が最も美しい」と胸を張る。色が澄んで鮮やかな上、模様が緻密で多彩なためだ。丹青の匠として 最も力を入れているのは、朝鮮初期の建築物という点から、当時の丹青の様式を復元することだ。 韓国の丹青の歴史を振り返ると、高句麗(BC37~668)や高麗(918~1392)の時代には、全体的に華やか で赤色が多く使われていた。しかし、朝鮮時代には儒教の質朴な文化によって、赤色が多少減って緑色が 強まる。華々しさが抑えられたわけだ。ところが、朝鮮中期の壬辰倭乱(文禄慶長の役)の後、再び赤色が 強くなり、朝鮮の末には非常にあでやかな丹青に変わっていった。 崇礼門の最後の丹青は、1988年に施された。その際も、朝鮮前期の模様に朝鮮中後期の色調だった。ホ ンさんは、今回の復元で赤色を抑えて緑色を強めることにした。これによって、多少淡白で素朴な雰囲気 の崇礼門になるだろう。 崇礼門の火災は、確かに残念で恥ずかしい出来事だった。だが火災の現場では、現代の名匠たちが黙々 と流す汗によって、伝統の無形文化遺産の復元と継承が誠実に行われている。これこそが、崇礼門復元の 真の意味だ。(翻訳:坂野慎治) K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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特集 5
食文化と伝統 私たちは、どんな伝統をどのように保存・継承すべきなのだろうか。 食については、とりわけ難しい課題だ。 イェ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学校経営学部教授・食文化評論家)
無 形 文 化 遺 産 © 宮中飲食研究院
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韓国の文化と芸術
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伝
統は、絶えず変化し続ける。特に経済、その中でも供給の変化に敏感な食の伝統は、さらに急速に 進化する。韓国は、アジア大陸の東の隅で外部からの侵略を受けながら国を維持してきたため、食
の変化が他の国よりも急速で、その時々に見合った伝統を築いてきた。
1. 再現された朝鮮時代の王の食膳 2. 九つに仕切られた器に盛られた 野菜や肉などを中央のミルジョン (小麦粉の薄焼き)で包んで食べるク ジョルパン(九折坂)
肉食の歴史 例えば、韓国の肉食の歴史を振り返ると、伝統の変化をたやすく見て取れる。歴史学者によると、韓国 人の祖先は、ユーラシア大陸の広大な草原で平和な遊牧生活を送っていた遊牧民だ。遊牧民 の中でモンゴル系ツングース族の一派が次第に東に移動し、平野のある華北で農耕を 始め、満州南部に入って韓民族の主流となる東夷族、いわゆる貊族を形作ったという。 貊族は華北の農耕民族に比べ、生活において家畜に頼る割合が大きく、肉の扱いにも 慣れていたはずだ。貊族の肉料理・貊炙が、韓国のプルコギ(焼肉)の原形だと考えられ ている。 しかし、韓半島に農耕が定着して仏教が伝えられると、韓国の先人の食生活は、遊牧 民の食生活から徐々に変化して肉食は下火になった。仏教が三国時代の4世紀後半に伝え られると、肉食は公式に禁止され、韓国人の肉の扱いもつたなくなった。その後、韓国の 先人が肉食の伝統を取り戻したのは、高麗(918~1392)末に韓半島を占領したモンゴル人の 影響からだ。日本侵攻まで目指していたモンゴル軍は、高麗で牛を徴収しようとしたが、牛が少なく思い 通りにならなかったため、済州島に牧場を作って牛を育てた。肉食を禁忌としていた高麗の人たちが、牛 肉を食べる契機となったわけだ。それ以降、韓国の先人は次第に牛肉を好むようになっていった。 朝鮮時代(1392~1910)には朝廷で随時、牛の屠殺禁止令を出し、専門の役所を設けて取り締まりも行っ た。しかし十分に守られず、一般的に牛肉を好む食習慣が定着した。このように牛肉を重視する習慣は、 豚肉を避ける結果を生んだ。19世紀の文献には、豚肉は健康を損なうという記録が多数あり、漢方医が薬 を処方する際に豚肉は食べないよう促すほどだった。豚肉は長らく禁忌とされたが、現代になって劇的に 変化した。 韓国政府が1970年代、企業型の養豚事業を積極的に推奨した結果、豚肉の供給量は急増した。韓国の 人たちは2000年代になって、30年前の実に10倍以上の豚肉を消費するようになった。そうした中、昔はな かった「サムギョプサルグイ(豚バラの焼肉)」というメニューが登場し、瞬時に最も人気のある韓国料理の 一つになった。 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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1. 昔はヨルグジャタン (悦口子湯)と呼ばれたシンソルロ(神仙爐) 2. 慶州で宗家の祭祀に集まった家門の人たちの食事
キムチの進化 このように、食の伝統は絶えず変化を重ねている。長きにわたり 伝統を受け継いできたが、中身は常に変わっている食べ物も多い。例え ば、世界中で最も代表的な韓国の食べ物といわれているキムチだ。キムチ の起源は、三国時代(4世紀初~7世紀中)よりも昔にさかのぼる。その種類 1
は実に200種にもなるキムチ。キムチといえば、多くの人が真っ赤に漬けられた
一株の白菜キムチを連想するだろう。しかし、その歴史はわずか100年ほどに過ぎない。三国時代のキムチ は、カブ・ナス・ニラなどを塩だけで漬けたものだった。統一新羅(676~935)と高麗の時代になると、キュ ウリ・セリ・タケノコなど、より多くの野菜を塩漬けするようになった。そして、1700年代の初めにキムチに 唐辛子を入れ、塩辛も使うようになって、本格的な進化を始めた。1800年代の末には結球するハクサイが 持ち込まれ、現在のようなキムチになったのだ。
韓定食の登場 このように食の伝統は、時には驚くほどのスピードで変化する。一方では、私たちが正しく守るべき伝 統について、十分に理解していないこともある。現存する料理の本は、最も古いもので朝鮮後期の作だ。 宮廷料理の記録も、18世紀以降のものしかない。その短い間にも、韓国の食は絶えず進化してきた。代表的 な宮廷料理ヨルグジャタン(悦口子湯=シンソルロ、神仙爐)も、1795年から100年余りの間に残された記録 を見ると、全て材料が少しずつ異なる。現在、無形文化財として伝えられている宮廷料理も、朝鮮王朝が 倒れた後、一般に知られたものであり、極めて一時点の宮廷料理に過ぎない。最近では多くの人が高級な 韓国料理だと考える韓定食も、過去の両班(貴族階級に相当する)の膳立てとは程遠い。 韓国では本来、一人ずつ別々に膳を出す「ウェ床」が原則だった。だが、朝鮮王朝が凋落した20世紀初 め、宮廷料理が市中の料理店に知れ渡ると、大きな膳にまとめて料理を乗せる「交子床」になった。その後 の西洋化の影響で、最近では多くのレストランで一品ごとにサービングするコース料理にまでなっている。 また近頃、食卓に上る食材は、一昔前にはなかったものが多い。例えばブロッコリー・セロリ・パプリカな どだ。プデチゲ(鍋料理)やLAカルビなども、昔の人たちは見知らぬ料理だろう。 最近、飲食業界では「韓食の世界化」が大きな話題だ。ある地域の固有の料理を世界化するなら、外国の 人たちの好みに合わせる現地化なしには、決して成功できない。そうした過程で、韓国の伝統を損なうこ ともあり得る。先賢は温故知新を大切な教訓としたが、私たちは、どんな伝統をどうやって正しく理解し、 どのように保存・継承すべきなのだろうか。難しい課題だ。(翻訳:坂野慎治)
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現在、無形文化財として伝えられている宮廷料理も、朝鮮王朝が倒れた後、一般に知 られたものであり、極めて一時点の宮廷料理に過ぎない。最近では多くの人が韓国料 理の代表だと考える韓定食も、過去の両班の膳立てとは程遠い。
2 © 李東春
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July 2012 East Asia Builds Its Talent Arsenal
April 2012 Reading The Cards in Northeast Asian Debt
January 2012 Asian IT at a Crossroads: Where is it headed?
To learn more visit www.seriquarterly.com.
October 2011 Aging Asia & the Silver Industry
July 2011 Building Bridges for Future Growth
April 2011 China Rising and the Future of Northeast Asia
January 2011 Tensions Rise, Unification Hopes Remain
October 2010 The Emergence of G20 and Korea’s Role
文化フォーカス
韓国最南端の 都市、麗水の エキスポへの チャレンジ 1993年に開催された大田エキスポ以来、韓国で開催される二回目の 万博である「2012麗水世界博覧会」が5月12日から8月12日まで全羅 南道麗水で開かれた。世界106カ国が参加した今回のエキスポに於い て、各国の環境型海洋産業の未来のビジョンが提案された。 ヤン・ソンヒ(梁善姫、中央日報論説委員)
韓
国人の誰もが麗水を知っていて、行ったことがあるというわけではない。 朝鮮半島の最南端に位置した麗水は人口30万人に満たない小さな海岸都
市である。ただし、麗水ならではの特筆すべき歴史をもっている。おそらく韓国 人なら、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の戦いで朝鮮海軍提督、李舜臣将軍が守った海 域として、名将とともにこの麗水の名を記憶しているはずだ。ここには壊れたゴ ブッソン(亀船)を修理していた修理廠(ドック)があり、当時の海軍本部であった 鎮南官もある。 韓国の南海岸は数多くの島々とリアス式海岸で成り立っているため、どこまで も美しい景観が広がっている。中でも麗水が、最近内陸の人々の関心を集めるよ うになったのは、ヨスから船で40分ほどの距離にある金鰲島に、以前は朝鮮時代 の鹿牧場があり、民間の出入りが禁じられていたが、徒歩旅行のコースが設けら れたためである。島の外郭を取り囲むこのコースは「崖道」と呼ばれ、その名にふ さわしく嶮しい崖っぷちに沿った8kmに及ぶ道を歩くという、美しくも心許な いコースである。下の方に目をやると、遥か谷底深くに切り立った崖があり、前 方には青い海と多島海の風景が広がり、吹いてくる潮風を体感しながら歩く体験 コースがとてもユニークだと口コミで知れわたったのだ。
海上のエキスポ そして、2012年にエキスポ(5月12日~8月12日)の開催で、さらに麗水に人々 の関心が集まることになった。1851年に蒸気機関車が初めて公開されたイギリス
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国際館のエキスポ・デジタル・ギャラリー。国際館を貫く長い回廊を 通る観覧客を慰労するために、天井に設置されたドーム型の超大型 LEDディスプレイでは、様々な“海の物語”が披露された。
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のロンドン・エキスポ以来、これほど小さな都市で開催されたエキスポはなかった
1に過ぎない。だが、関係者の宿所や外郭の駐車場など
という点でも人々の注目を集めた。麗水エキスポが掲げた「生きている海、息づい
のサービス施設まで合わせると、面積は10倍の271万㎡
ている沿岸(The Living Ocean and Coast)」には深い意味がある。もともとエキス
に達する。
ポは人類が達成した新技術を紹介し合うことで、各国のパワーを誇るイベントで
麗水エキスポ会場の大きな特徴は四方どこからでも南
ある。しかし、この小都市、麗水で開かれたエキスポから発信されたメッセージ
道の海が見えることだ。目の前に広がる青い海と、此処
は違う。地球面積の7割を占める海。その沿岸に頼って生きていく人間の暮らし
彼処に浮かぶ大小の島々もエキスポの会場の延長線にな
を理解し、自然と共生する方法を見つけようという目的がある。海は文明の疎通
る。会場の埠頭にはクルーズ船が停泊し、世界各国から
ルートであり、人類の暮らしの場であり、また人類が守るべき資産でもある。地
の科学探査船がエキスポ会場に入り、各島からは旅客船
球温暖化と海の汚染問題が地球規模の問題になっているこの時に、海と人間の暮
が観覧客を会場まで運んだ。
らしについてじっくり考えてみようというのが麗水エキスポのテーマである。
内陸から列車で来る人々は高速列車を降りて駅舎を出
開催にあたって、麗水エキスポの会場が海上に建てられたことも特筆に値す
ると、そのままエキスポの会場へと直行できる。ここで
る。麗水新港付近を埋め立てて、25万㎡にもなる敷地を造成してその上に展示館
最初に目に入ってくるものは、巨大な双子の円柱型のパ
を建設するのに2年半をかけた。その敷地規模は2010年の上海エキスポの4分の
イプオルガンである。もともとは港の周辺にあったセメ
38
韓国の文化と芸術
1. 巨大なツィン・モニュメント「スカイ・タワー」。円筒型 のサイロをパイプオルガンと淡水施設としてリサイクル した建物である。 2. 天井にドーム型のスクリーンを配置して、3Dの映像を 上映した韓国館2館
2
ント貯蔵庫である円柱型サイロをパイプオルガンと淡水施設にリサイクルしたも
暮らしの空間としての海がそこにあった。
のである。このパイプオルガンは一定の時間になると演奏がはじまり、また演奏 したいと申し込めば誰もが演奏でき、その音色は船の汽笛に似ている。また、パ イプオルガンの隣にある淡水化施設では、海水から作った淡水を一杯もらって飲 んでみることもできる。 会場の中に入ると、海と建物が調和をなしている様子が一目で理解できる。国
106カ国の参加国 今回のエキスポには106カ国が参加した。毎日、参加 国の日を決めてその国の文化イベントが繰り広げられ、 地球村の人々が一緒になって楽しめる場が設けられた。
際館に続く天井には長さが218mに達するLEDディスプレイが設置されていて、そ
さらに、各国の展示館では「海との共存と活用、そして環
の画面から鯨と魚が遊泳する映像に圧倒される。目の前の海と頭上の海とが一体
境を理解して正しく守ろう」という明確なメッセージが発
化をなす。テーマ館は海上に浮かんだ人口島の建物で鯨の形状をしている。また
信された。
K-POPなど、文化コンサートが繰り広げられた舞台ディオ(The-O)は海上に浮か
韓国は二つの展示館を設けたが、第一館は巨大な三面
び、海水が舞台のカーテンになったり、水のスクリーンに映像が上映さたり、水
のディスプレイが配置され、一方第二館には天井にドー
煙を立たせたり演出効果をもたらした。麗水エキスポ会場での海は、疎通の場で
ム型のスクリーンが配置された。第一館では三面が海に
あり、居住スペースであり、文化であり、休息や娯楽でもあった。まさに人間の
面した半島国家の海で暮らす人々の姿や沿岸の風景が映
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組織委員会は麗水エキスポの精神を盛り込んだ「麗水宣言」を発表した。海洋環境の汚染や魚 族資源の枯渇など、日に日に深刻さを増している海洋問題を解決するため、地球規模の課題 に共同で取り組もうというメッセージが盛り込まれている。
し出され、第二館ではエネルギー資源としての海、輸出港としての海、淡水化産
の厳しい寒さにあちこちで悲鳴が上がり、北極熊の衣装
業など、韓国の海洋産業に関する様々な姿が紹介されていた。
を着たコンパニオンたちが人々を抱いてあげるサービス
アメリカ館は「海について人類は5%しか知らない。地球の未来は海を理解し
も提供された。その部屋から出てくる人々の髪の毛には
て開拓することから始まるべきだ」という内容のデジタル・メッセージを発信して
いつの間にか白い霜がかかっていた。海洋技術館は公演
いた。ロシア館は北極海の探査など、北極開発を中心に構成され、アラブ首長国
と演劇、映像が調和したパフォーマンスの中で、海の海
連邦(UAE)は海を汚染するプラスチック製ゴミについて警告する内容を盛り込ん
藻を使ってプラスチックと生地を作る技術などが紹介さ
で評価された。
れていた。
テーマの伝え方も様々であった。巨大なディスプレイやデジタル映像を通じて
麗水エキスポに対する外国のマスコミの関心も大き
メッセージを伝えたり、パフォーマンスやショーの形を通して伝える国もあった。
かった。フランスのル・モンド誌は5月16日付けの記事
特に人気のあった気候海洋館には北極の気温を体験できる氷の部屋があった。そ
で、「韓国の宝、全南に新たに灯が灯された」というタイ
40
韓国の文化と芸術
トルで、エキスポがきっかけとなって知った韓国南道の秀麗な自然景観を紹介し
車場からはエキスポの会場や市内へアクセスしやすいよ
た。アメリカのCNN放送も「今年見逃してはならない所」として麗水エキスポを最
うに無料で公共バスを運行した。115億ウォンもの予算
初に取り上げた。
が投入されたが、激しい渋滞もなく快適な環境づくりに 役立ったと評価されている。キム・チュンソク(金忠錫)麗
期待と成果 ところが、麗水エキスポの興行成績は芳しくなかった。首都ソウルから遠く離
水市長は「エキスポへの挑戦を通じて、小さな都市も国際 レベルのイベントが開催できるという自信を得た。何よ
れた南道の中小都市である上に、エキスポ組織委員会が施設などのハードウェア
りも麗水の存在を世界にアピールできるいい機会だった」
の構築に追われたため、広報活動が手薄になったことが原因と指摘された。閉幕
と語った。
まで半分を残した時点で、入場者数は一日平均5万人程度に集計された。当初は
組織委員会は特に注目すべき成果として、麗水エキス
開催期間中、1千万人以上の入場者を予想していたが、隣接した中国からの観光客
ポのスピリッツを盛り込んだ「麗水宣言」と「麗水プロジェ
誘致が特に思い通りにいかず、結果はそれに届かなかった。
クト」を取り上げている。「麗水宣言」は海洋環境の汚染と
12兆ウォンの予算が投入されたイベントとしては寂しい成績である。10兆ウォ
魚族資源の乱獲などで脅かされている海洋問題を解決す
ン近い予算は交通インフラ構築に費やされた。ポスコ製鉄所のある光陽と麗水は
るため、地球挙げての取組みを引き出すことが狙いであ
距離的には近いが、湾で遮られていたため迂回しなければならなかったが、今回
る。また、「麗水プロジェクト」は途上国の海洋関係の研
8.5kmに達する李舜臣大橋が海を渡って建設され、10分で行けるようになった。
究を支援するプロジェクトでもあり、組織委員会側はエ
さらに、7万9000人の雇用創出効果をあげ、全国的には12兆ウォンの生産誘発効
キスポの収益金などで100億ウォンの基金を立ち上げる
果と5兆7000億ウォンの付加価値を予想している。
計画である。(翻訳:趙祥恩)
麗水市はエキスポ期間中の交通問題を解決するため、外郭に駐車場を設け、駐
1. 韓国の企業館の中のデウ造船海洋ロボット展示館。 水族館の中で泳泳ぐロボット魚のフィロ 2. 国際館のノルウェイ館。観覧客はサイバー航海を通して、 21世紀におけるバイキングを体験することができた。
2
アート・レビュー
韓屋端面の進化 建築と陶磁器の専門美術館であるクレイアーク金海美術館の開 館6周年を記念した企画展として開かれた「現代韓屋展」は、伝 統的な韓屋の進化と今後の可能性に対し複数の建築家の探求内 容を展示したものだ。 ソン・インホ(宋寅豪、ソウル市立大学建築学部教授、ソウル学研究所長) 写真 : 金海美術館
1. 韓屋の屋根をモチーフにしたペク・スンホの 作品「総合次元‐塔」
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2. チョ・チョング作「西大門韓屋」の本棟の 模型が飾られている会場のロビー
韓国の文化と芸術
「現
代韓屋展」を鑑賞する前に、その前提となる韓屋の美と価値に
定される。そのため韓屋の最も基本的な条件は木構造方式だと言え
ついて次の四つの側面から説明しておこう。この展示が目指
る。韓屋は木を整えて柱を立て、梁をかけ、その上に屋根の軒の荷重
した韓屋の進化と拡大作業を理解するうえでも役立つに違いない。
を支えるための小累(小さい突っ支い)、檐遮(軒庇)、垂木などの要素 を組み合わせて建てた家だ。
歴史建築物としての韓屋の特徴
第二に、韓屋はオンドル部屋とマル(板間)、台所と庭で構成され
第一に、韓屋は組法(Structure)と輪郭(Contour)が一体化した建
る有機的な建築(Organic architecture)だ。オンドル部屋とマルは互
築物だ。土を多く使い、使用される部材の端面(切り口の面)が大きい
いに対照的な空間だ。天井板があり韓紙で仕上げた内密な内部空間で
ため力強く、勇壮な形態を備えている。韓屋の伝統的な組立式木構造
あるオンドル部屋に比べてマルは垂木が露出しており、壁材も木構造
はカン(間)を基本単位として構成されている。韓屋の内部空間はカン
と壁の仕上げが露出し、庭に向かって開かれた外形的な空間だといえ
を基に構成され、屋根の形態もまた木構造の外面積の結果によって決
る。そしてこの二つの空間はその中で営まれる生活様式も規定してい
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1
2
1.「韓屋の批判的進化」テーマ館の内部 2. キム・ジョンホン作「鉄骨造栱包」栱包は屋根の軒端の重さを支えるために 柱頭などに木を組み合わせて作られる升組みのこと。大規模な建築構造物を 作るために韓屋の伝統的な材料である木材ではなく鉄材で製作されている。 3. チョ・チョング作「羅宮」の模型
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韓国の文化と芸術
る。それは床に座って本を読み、食事をとり、床の上に横になって眠
い代わりに断熱と防水性能を向上させた乾式屋根工法が普遍化してい
り、敷居によりかかって座り外の風景を眺めるというスタイルだ。一
る。温水の床暖房システムと空気調和方式が導入され、内部空間は機
方、火を使う台所は基壇よりも低く作られており、上部には高床が作
能的な空間となった。環境に優しい住宅としての長所を維持しなが
られている。このような空間が庭を中心に有機的に構成されている。
ら、工学木材と板ガラスなどの新しい建築材料を使用する作業も試み
第三に韓屋は自然材料で作られた環境に優しい建築物だ。主な構
られている。工事費を合理的な水準まで引き下げるために、プレカッ
造材である木の他に土、石、紙、鉄など、自然の材料が使われる。韓
ト方式のような機械化も併行している。
屋はこのような自然材料の特徴を生かして、整えながら使用する。役
その中には建築家の創意的な作業もあれば、官庁主導で造られて
割と性質に合わせて大雑把に整えられた部材と精巧に整えられた部材
いる韓屋団地もある。国土海洋部の支援で韓屋の技術形式と工事費節
が使われている。またその質感は触覚で味わうことができる。
減のための国家レベルの研究開発事業も進行中だ。文化体育観光部で
第四は、匠の手作業で完成する工芸建築だということだ。韓屋の
もいろいろな韓屋振興事業を推進中だ。2008年には韓国ナショナル
形式は規範的だが形象は柔軟だ。韓屋は基本方式を基にして大工、石
ツーリスト主催で最初の海外韓屋展示会が開かれ、2011年には国家韓
工、瓦工など、いろいろな分野の職人の技術が合わさり完成する。ま
屋センター主管の第一回韓屋建築賞の授賞式が、2012年には第一回韓
るで巨大な木製家具のようでもある。
屋写真公募展が開かれた。 「現代韓屋展」 (2012年3月24日から8月26日まで)はそのような韓屋
展示の背景
の進化の延長線上にある。
21世紀に入り韓屋は上記の組立構造、空間、材料、匠の技、とい
建築と陶磁器の専門美術館であるクレイアート金海美術館の上半
う四つの範疇でそれぞれ変化と実験が進行中だ。例えば、土を使わな
期の企画展として開かれており、現代都市韓屋の代表的な建築家だと
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3
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言える4人の建築家と設置美術家、写真家が出展している。題目が物
類型よりも平面と端面、平面と外観が緊密に連携していることは、前
語っているように、韓屋を歴史建築の類型としてではなく、建築家の
にも述べた。例えば部屋の奥行きを8尺から12尺にすれば、柱の太
創意的な作業として現代的な視点でとらえようという展示だ。
さはもちろん上部の構造体系が変わり、その結果、立面比例も変わっ
そのため展示された建築作品は昔のものを再現した伝統韓屋では
てくる。ㄱ字型やㄷ字型の平面の場合、角の部分の構造も念頭に置か
なく、すべて新たに設計された創新韓屋だ。韓屋を定型として作業す
なければならない。展示会場に設置された韓屋の模型とパネル、写
るものの、参加した建築家たちは敷地とプログラムに合わせて空間を
真、美術設置作品は観客にそのような韓屋の実際を理論ではなく実体
創意的に構成し、輪郭を調整しながら作業を続けた。韓屋は他の建築
として詳しく観察できる機会を提供している。
展示会場1階の入口を入るとチョ・チョング氏の2010ベニスビエンナーレ国 際建築展出品作の「西大門韓屋」が目に入る。観覧客はその韓屋の内部空間を のぞいたり、広い板間のマルに座って展示場の壁にかかる写真家ユン・ジュン ファン氏の写真「慶南の韓屋」を鑑賞している。
1. チョ・チョング作「西大門韓屋」の 高床の板間の模型 2. ファン・ドゥジン作「無無軒」模型
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1
韓国の文化と芸術
2
展示内容
的な韓屋生産体系の基盤となるものだ。
建築家キム・ジョンホンが「閉鎖性と解放性の二重的構造を備えた
慶州に建てられた最初の韓屋ホテル「羅宮」は建築家のチョ・ジョン
韓屋に対する空間的な再解釈」と呼んだ南山韓屋は丘陵地に造成され
グの作品だ。 ㅁ 字型の韓屋管理棟と中庭、回廊、広く大きくとった
た韓屋の茶屋だ。傾斜にそって階段を上りながら眺めると南山の稜線
庭、ㄷ字型の連立韓屋と湯船のある深い庭など、多様な韓屋の類型と
と緑が背景に広がっている。地形によく合った端面構想を持つ韓屋
庭で構成されている。それぞれの庭が性格と形象を違えて造成されて
だ。
おり、それに従って端面を構築し、小さな都市のような韓屋の集合体
建築家ファン・ドゥジンのエル韓屋は典型的なソウル北村の都市韓 屋だ。規模は小さいものの門に面した外庭のサランマダンと、ㄷ字型
としてのホテルを設計した。このホテルと「西大門韓屋」など、彼が設 計した多様な作業を実物作品と映像と模型で見ることができる。
に囲まれたアンマダンという中庭のある韓屋住宅だ。平面と端面が
今回の展示では韓屋の建物の特徴と美しさはその端面で完成する
実用的に構成されており、地下に作られた書斎はこの家の大きな自慢
という事実が確認できる。そして、その端面の差を通じて観客は現代
だ。中庭とマル(板間)の端面を利用して扇形の窓を設置することで、
韓屋の創意性と進化の程度を具体的に確認することができる。
平面は規範的であるが、力動的な空間となった。
さらに韓屋の屋根をモチーフとしたペク・スンホ作家の設置美術作
建築家キム・ヨンミが1対1の大きさの模型で展示したモジュール
品、慶尚南道地域に現存する朝鮮時代の韓屋の現在の姿を撮った写真
韓屋では韓屋の存在感が感じ取れる。柱の高さと柱の間隔、梁を支え
家ユン・ジュンファンの写真も加わり、観覧客は韓屋に対して多角的
る部材の幅と柱の太さ、収蔵の幅、窓戸の大きさと窓の桟の材料にい
な視点からの観察が可能になる。観覧客は今回の展示を通して現代住
たるまで、基本のモジュールに従い立体的に決定されている。このよ
宅に暮らしながら放棄したもの、忘れてしまっている大切なものに気
うな韓屋モジュールシステムは韓屋美学の基本的な原理であり、合理
付かされるだろう。(翻訳:金明順)
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韓国大好き
韓国と世界をつなぐ
「実在的な橋」 ロイ・アロック・クマル(Roy Alok Kumar) 教授が初めて韓国を訪れたのは1980年3月のこと。 政府奨学金生としてソウル大学校で国際政治と外交を勉強することになったのだ。 彼は今年1月に韓国に帰化した10万人目の外国人として韓国で有名になった。 ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校通訳翻訳大学院教授)| 写真 : 安洪范
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韓国の文化と芸術
イ教授は23年間教えていた釜山外国語大学校にある彼の研究室に我々を案
でした。忠誠心を分けることはできません。むしろ強く
内した。彼は現在、現代インドの政治、経済、文学、メディアなどを教え
なるばかりですね。私が100%韓国人であり、0%イン
ているが、本棚にびっしり差し込まれている韓国語書籍から韓国に対しての高い
ド人であるのか、それとも半分韓国人で半分インド人で
関心が窺える。彼の物語は30余年前、彼が韓国で暮らし始めた1980年という激動
あるかという問題ではありません。国籍は変わったもの
の時代から始まる。
の、私は100%韓国人であると同時に100%インド人です」
ロ
と説明してくれた。それは、彼の能力を自分自身はもち
「私のガラパゴス島」 なぜ韓国に来たのかという質問に対してロイ教授は、「ここは私のガラパゴス
ろん、韓国のために最大限活用できるのかに対する問題 だった。彼は自分と韓国、そしてインドとの関係を形容
島です」という変わった答え方をした。「韓国は比較するのにうってつけであり、
するためにカルマブミ(kharmabhumi)とジャンマブミ
また進化的過程もよく見られる所です。この短い期間にこのような大きな変化が
(janmabhumi)というインドの概念を引用して説明した。
見られる所は他にありません。私はここに来たことを一度も後悔したことはあり
「カルマブミは職場のある所、つまり仕事場です。そして
ません」
ジャンマブミは生まれた所です。もちろん、私はインド
1980年は光州の市民が韓国の軍部独裁に抵抗して光州民主化運動を起こした年
で生まれ育ったが、韓国は何かをやっている場所です」彼
である。韓国政府は軍隊を動員してデモを鎮圧したが、既に政府には崩壊の兆し
は自分のやるべきことをやるため、つまり彼の業(カル
が見え始めていた。光州民主化運動を皮切りに1980年代が終わってもデモが続き、
マ)に従って韓国国民になることを決心した。
結局は民主的選挙による政府が発足した。しかし、この一連の出来事はインド人
もちろん韓国国民になることと完全な韓国人になるこ
の若者ロイ・アロックが勉強のために韓国に来た当時は、遠くの希望のように思わ
とは違う。ロイさんはその違いをよく理解している。彼
れた。
にとって韓国人という概念は他の韓国人とどんな関係を
「私は今も1980年の状況を妊娠末期に例えて話します。妊婦にとって、どんな
結んでいるかという問題と密接な関係がある。「私が韓
赤ちゃんが生まれてくるか分からなくても、出産を遅らせることはできない。完
国人と同じ言葉で話しているのか。韓国人と話す時、う
全な不確実性の中に潜んでいる期待感、明日は今日よりはいいだろうという希望
まくコミュニケーションが取れているのか。それが自分
が当時はありました。私はそれを目撃することができました」
にとってのチャレンジでした。韓国人になる前に私は、
彼はその潜んだ希望と期待感について長々と話した。当時、時間の経過ととも
より良よい韓国人になれることを自らに証明したいと思
にデモも頻繁になったが、1980年のデモはある瞬間集まっては突然解散するフラッ
いました。ただ、どんな社会にも限界はあります。した
シュ・モップ(flash mob)に似ていて、長くとも5分程度で、鎮圧される前に1、2
がって、私が韓国の国籍を持っているからといって、そ
分以内に終わってしまうのが普通であった。軍部独裁の権威が厳しかった時は希
れが他の韓国人と同じだということを意味しません」
望が影を潜めていた。「生まれて初めて戦車を見ましたよ。ソウル大に行けば、正 門の前に二台の装甲車が止まっていて、運動場にも二機のヘリコプターがあり、 後門にもあったそうです」と当時を回想し語った。
インドの多文化主義から得た教訓 ロイ教授は韓国社会が「韓国人」と「外国人」を厳しく区
1988年に開催されたソウル五輪は特に韓国にとっては大きなターニングポイン
分けする理由を韓国の歴史に求める。「韓国の歴史は非常
トになり、それをきっかけに韓国は外に向けて門を開くようになる。民主化に向
に線形的です。線形的な歴史を有する文化の問題は、競
けた大きな流れは止めることが出来ず、結局韓国を巻き込んだ。しかしそれは暴
争が激しいと同時に人種にこだわることです。したがっ
風の荒波が岩にぶつかるのではなく、静かな波が絶えず海辺に押し寄せてくるよ
て、「あなたのことが分からない人は、あなたを外国人
うにやってきた。1992年、ついに韓国は30年ぶりに初めて軍人出身ではない大統
だと思います」。このことが私にはショックでした。イン
領が誕生した。国際政治を学ぶ学生としてロイ教授は、民主化がそれほど平和に
ドでは外見が違っても、誰も外国人だとは思わないから
進められたことに驚いてしまったと言いながら「政治的変化がそんなにもスムーズ
です。たとえ、「違う」と表現することはあっても「間違っ
に行われるとは思いませんでした」と付け加えた。
てる」とは言いません。ところが韓国では違うだけではな
それから20余年が過ぎて、ロイ教授は人生の大半を過ごした韓国の国民に
く、間違っているとみなされます。このような理不尽な
なった。決心するのは簡単なことではなく、時間もかかりました。しかしそれ
ことが起きています。韓国の線形的歴史によってプライ
は、人々が考えるような理由からではなかった。「忠誠心の問題ではありません
ドは非常に重要は概念になっています。プライドの強い
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所には先入観があるはずです。そして、そんな先入観は時にはプライドより浮き 彫りになったりします」と説明してくれた。
なければなりません」 ロイ教授は彼の文化的背景のおかげで多文化主義とい
「このような線形的歴史を考えれば、韓国で多文化主義に進む道のりが人々の
う概念に対して独自の見解を持つようになったと思う。
望む通りの平坦な道ではないと思うべきだろう」。ロイ教授は身振り手振りで話し
インド人は心から多様性を受け入れたと言う。彼は笑い
続けた。「私はこの言葉そのものが気に入りません。それは多文化主義ではなく他
ながら「多文化主義は我々のDNAの中にあります」と付け
の文化を韓国化することです。しかし、これも変わりつつあります。韓国社会に
加えた。DNAというのが一日にして成り立ったものでは
は急速に変化できる潜在力が潜んでいるだけに、他の社会、特に日本よりも早く
ないように、インドの多文化主義も長い歴史を有してい
変化するかもしれません」
るため、数千年前のアショーカ王国の時代にそのルーツ
現代韓国における多文化主義のもつ重要性が増すにつれて、多文化主義を正し
を見つけることができる。当初、征服者のアショーカ王
く定義することも重要である。ロイ教授は多文化主義の定義について苦慮してき
は帝国の建設が目標だったが、戦場を視察していた彼は、
たが、二つの側面から定義することにいたった。まず、空間的側面である。「私が
自分がもたらした死と破壊の現場を目撃して、戦争の代
名前を変えなかったことに気づいたでしょう」と切り出した。韓国人の名前はほと
わりに平和を追求すると決意した。彼がその平和を表す
んど短くて三文字からなる場合が多い。ところが、ロイ教授の名前は韓国語で七
象徴として選択したのは四獅子石柱(四頭の獅子像が載せ
文字、間まで含めると九文字であるが、このため行政的な書類の用紙の場合、名
てある石の柱)だが、これは平和には力がなければならな
前を書く空欄が足りない。彼の給料明細書に書かれている彼の名前はただ「ロイ」
いが、その力が独り占めしてはいけないことを意味する。
である。しかし、医療保険証には「クマル」と書かれている。彼は「これは自分が
彼はこれこそが核心であると言いながら、「我々は獅子の
常に強調していることの一つですが、韓国社会は他国の人にも空間を与えなけれ
ように共に暮らさなければなりません。これが社会平和
ばなりません」と話す。彼は韓国的空間に無理して合わせるために改名するより
に対してインドが持っている概念です。これはかなり古
は、韓国社会が彼に必要としている空間を与えるべきだということに気づくこと
い概念ですが、今も有効だと思います。我々は人を自分
を願っている。
とは違う獅子として受け入れるべきであって、彼らの心
多文化主義は時間的側面からも定義することができる。ロイ教授にとって多文
を傷付けてはなりません。人間とは自尊心にこだわる存
化主義は先を見据えた未来志向的なことである。「私は韓国に住んでいますが、或
在じゃないですか。自尊心を傷付けてはいけない、これ
いは、とある人がアメリカに住んでいる理由はというと、そこに未来があると信
は私は常に主張していることです」と強調した。
じているからです。そこに過去があるためではありません」彼は今の時代は、特に 教育分野に限って言えば、若者たちが地球の反対側で勉強するかもしれない未来
1980年代に見られた変化と同様、 今日も変化が起きて いると、ロイ教授は国際結婚のことを例にとって語った。
を夢見て勉強している時代になったと見る。「どうして後戻りしなければなりませ
「つい最近まで国際結婚は他人の問題だと思われがちでし
んか。誰かが多文化主義的な人であれば、その彼の主義を認めるべきです。彼を
た。ところが今や、外国人が自分の娘婿、あるいは嫁に
単一文化に無理やり引き入れようと戻してはいけません。多文化家庭を韓国化す
なることも考えられますね。抽象的だった問題が具体性
るのではなく、韓国社会の世界化に取り組むべきです。まず、皆に空間を与えて、
を持つにつれて、変化は避けて通れません。自分の問題
もしその二つの空間がぎくしゃくする時は、お互いが衝突しないように気をつけ
にすべきです。他人の問題だと考えてしまえば、それ以
1. 授業中に学生の発表を聞いて評価する アロック・クマル・ロイ教授 2. 研究室で学生たちと話し合うロイ教授。 彼は学生らに世界の反対側に行くかもしれない 未来に備えて勉強するように語りかける。
50
2
インドの文化を韓国に紹介すると同時に、韓国の文化をイ ンドに発信することに取り組んできた。彼はチェ・インフン (崔仁勲)の小説『広場(The Square)』をヒンディー語に翻訳 出版しているが、それがインドで紹介された初めての韓国 小説と言う。
1
上興味が湧きません。この現象が今、韓国で起きています」
を交わした多くの作家たちは、この作品が非常に感覚的 なところが良いと言ってくれました。感覚的というのは、
韓国と世界を結ぶ「実在的な橋」
自ら考えるように導くという意味です」
ロイ教授は自分の周囲で起きる変化を傍観するだけでは物足りず、その変化の
しかしロイ教授は、彼が韓国社会に貢献していること
主役になるために力を尽くす。彼は韓国とインドを文学でつなぐ架け橋としての
は、彼の仕事より彼の存在そのものだと考えている。「自
役割を果たしている。彼の韓国語教育修士号の論文は、非ヨーロッパ人として初
分の仕事も重要ですが、自分自身を認識することがもっ
めでノーベル文学賞を受賞したインドの哲学者であるラビンドラナート・タゴール
と重要です。私は先生という職業をもっていると同時に
の韓国語翻訳に関する研究である。彼はタゴールに対する誤解を正すために論文
勉強している。人々は私に韓国とインドの経済関係にお
を書いたわけだが、これからはタゴールの作品を自ら韓国語に翻訳したいと考え
いてどんなことをしているかと聞いたりしますが、それ
ている。「韓国で紹介されているタゴールの作品のほとんどが英語からの翻訳であ
は私の仕事ではなく企業人の仕事です。韓国とインドの
り、ベンガル語から韓国語に翻訳されたものはありません。私はベンガル人であ
間に核協力があるんですかですって?それは政治家の決
るだけに、この仕事に適していると思います」
める問題です。もちろん私に出来ることもあります。私
インドの文化を韓国に紹介すると同時に、彼は韓国の文化をインドに紹介す ることにも尽力を尽くしている。彼はチェ・インフン(崔仁勲)の小説『広場(The
は高速道路にある橋になるよりは、私の存在だけでも橋 になれる実在的な橋になりたいのです」
Square)』をヒンディー語に翻訳した。「インドで初めて紹介された韓国の小説で
その願いは銀行の申込用紙に長い名前を書けるみたい
す。私は『広場』という作品が当時の韓国社会を物語っていて気に入りました。理
に簡単なことなのかもしれない。おそらく、韓国は他の
念的論争から個人的な葛藤まで全てのものが物語に含まれています。そして、作
人々のために、更なるスペース(様々な意味で)を持つよ
家の言語表現が非常に詩的であったのが最も好きな点です」と彼は言う。この小説
うになるだろう。その時まで、ロイ・アロック・クマル教
はインドでも好評を得た。「インドにも似たような分裂があります。インドに住
授は境界線を押しやって、自分のための空間を設けて、
んでいるムスリム(イスラム教徒)がパキスタンよりも多いにもかかわらず、宗教
真の意味での多文化主義をもたらすことに力をつくすだ
によって人々が分裂しているため、インドの人々もこの作品に惹かれました。話
ろう。(翻訳:趙祥恩)
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51
世界の中の韓国人
常にチャレンジするアーチスト、
梁彗圭
ヤン・ヘギュ(梁彗圭)は2009年ベニス・ビエンナーレに続い て、2012年の「ドクメンタ13」でも大胆な二重奏を連想させる設置 作品を披露し、世界の現代美術界にその存在を強くアピールしている。 コ・ミソク(高美錫、東亜日報論説委員、美術専門記者)
52
韓国の文化と芸術
ドイツのカッセル中央駅に設置されたヤ ン・へギュさんの新作「進入:脱―過去時 制の工学的振り付け」と本人
長
い間放置されていた貨物駅舎に幅2mの黒いブラインドが列を成して簡易屋根にぶら下がっている。 まるで廃墟の風景ように見えるがらんとした鉄路の上のブラインドは、静けさを破るような甲高い騒
音を伴って、開閉を繰り返す。誰かの指示に合わせて踊っているかのように上下するブラインドの動きによっ て、プラットホームの向こう側の風景が少し見え隠れする。長さが45mに及ぶ大型ブラインドを設置した作品 は、SF映画に出てくる未来の機械生命体のように脅威的で冷徹さをもつ。軍事パレードやカードセクションの ように一糸乱れず作動するブラインドが20世紀を支配した専制主義社会を連想させるからだ。 ドイツ中部の小都市カッセルで、6月9日から9月16日まで開かれた第13回ドクメンタでは、ヤン・ヘギュ (梁彗圭、41歳)さんの新作「進入:脱―過去時制の工学的振り付け(Approaching: Choreography Engineered in Never-Past Tense)」が展示された。今回初めて動く設置美術にチャレンジした彼は、ブラインドにモーターを 装着した後、自らが開発したソフトウェア・プログラムで作動する技術を試みた。
ブラインドの群舞 「初めてここに来た時、場所から放たれる強いパワーの虜になってしまった。近代社会はユートピアに対す る楽観的な見方に基づいて「より多く、より早く、より良く」だけを追い求める産業化の道を歩んできた。過去 の産業的栄光と今日のみすぼらしい現実が対比される駅を見ながら、産業化は依然として我々が苦慮しなけれ ばならない進行形の課題であることを言いたかった」 ヤンさんは先進国から途上国にいたるまで「近代化」を経験し、あるいは現在経験している人類共通の体験 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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1
や記憶を、強烈な視覚的表現を通して表しているのだ。一時は繁栄したが、今は廃れてしまった貨物駅舎 のイメージと絶妙に調和している彼の作品は現地で熱い反応を得た。ドイツの美術雑誌、『アート』によっ て「ドクメンタ優秀作品20選」の一つに選定された他、共営放送のARDニュースでは注目すべき作品として 紹介された。 カッセルで会った彼は「ブラインドに付いているモーターとそれをコントロールするコンピューターシ ステムの間をつなぐ言語が必要になり、チームの同僚たちと一緒に開発した。作業期間は延びたが、“動 作”に関する研究そのものに意味があった」と話した。
自ら脚色し、演出した一人芝居の舞台 5年おきに開催されるドクメンタは世界最高の権威を誇る現代美術フェスティバルである。今年は55カ
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韓国の文化と芸術
1. ヤン・へギュさん自ら脚色・演出したモノドラマ 『死に至る病』の一場面 2. 三つの光源彫刻グループ「トーテム・ロボット」
国から150人のアーチストが参加した。ソウルとベルリンを拠点に活動しているヤンさんは、韓国のアー チストとしては1992年のユク・グンビョンさんに続き、20年ぶりにムン・ギョンウォン(文敬媛)、チョン・ ジュンホ(全浚晧)チームとともに招待された。ヤンさは現地調査の折に発見した貨物駅舎のスペースを活 用した設置作品と共に、6月7日にはマルグリット・デュラスの同名小説を自らが脚色・演出した一人芝居、 「死に至る病」をカッセル州立劇場で公演するドクメンタの舞台で華やかなデビューを果たした。 カッセル・ドクメンタは国際美術界で、社会批判的なテーマや革新的な作品を展示することで有名だ。 「美術オリンピック」とも呼ばれるベニス・ビエンナーレが国家観と受賞という競争システムを通じて大衆的 認知度を高めてきたこととは対照的な道のりを歩んできた。軍需産業の中心として第2次世界大戦当時、 連合軍の空襲で廃墟と化したカッセルは1955年に、画家のアーノルド・ボーデのリードでドクメンタを立 ち上げて以来、現代美術の首都に生まれ変わった。 ナチ政権の下で行われた反人類的行為に対する省察からスタートしたドクメンタは、社会の変化を導く 芸術の役割を真剣に考える美術イベントである。しかし、いくら商業的に成功したアーチストであっても、 簡単には参加できない夢の舞台でもある。その舞台でヤンさんは重いテーマと完成度の高い作品を通して 自分の存在をはっきりと印象づけた。 ヤンさんは常に新しいことにチャレンジするアーチストである。ジャンルの垣根を越えて舞台演出を試
2
みた点も注目に値する。一人芝居として一度だけ上演された「死に至る病」はフランスの女優ジャンヌ・バリ バールが小説を朗読し、動く照明や映像、扇風機のような簡単なオブジェで、愛の不可解さを表現したス テージングのプロジェクトだった。500人余りが出席した公式の記者会見で、この作品について具体的に 触れたドクメンタ13のキャロライン・クリストフ=バカルギエフ総監督は彼の公演を見に来るなど、彼の 作品に対して高い関心と信頼を寄せた。
日常の神秘な瞬間 ヤンさんは国際舞台で活動する同年代の韓国作家の中でも、際立だった活躍を見せてきた。彼は2009年 ベニス・ビエンナーレの韓国館の代表作家として参加して「凝結(Condensation)」展を披露し注目を集めた。 当時の展示会でも彼は、普段よく使われている素材のブラインドを用いた設置作品を発表した。開きと閉 じという二重性を持つブラインドで半透明の空間を作った後、扇風機と香りの噴射機を使って風と香りで 内部の空間を満たす作業だった。観覧客が自由に作品に近づけて、ブラインドの向こう側を見ながら風と 香りを体感できるなど、感覚的体験を提供して好評を得た。 彼は哲学的事由に基づいた概念美術を目指す。ベニスの時であれ、カッセルの時であれ、彼の作品は抽 象的でまるで未完の完成品のように見える。ブラインド、洗濯物干しハンガー、折り畳み式椅子、扇風機、 電球など、私たちが日常の中で目にする物を詩的に演出した設置作品がほとんどである。ところが、彼の K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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彼の作品は抽象的でまるで未完の完成品のように見える。ブラインド、洗濯物 干しハンガー、折り畳み式椅子、扇風機、電球など、私たちが日常よく使って いる物を詩的に演出した設置作品がほとんどである。ところが、彼の作品のも つ不確実性と曖昧さが観客の自由な解釈と感性的反応を刺激する。
作品はその不確実性と曖昧さをもって、観覧客の自由な解析と感性的反応を刺激する。 徒手体操でもしているかのように様々な“姿勢”をとっている洗濯物干しハンガーは笑いを誘い、扇風機 と温風器を集めておいた設置作品を見て、熱くて冷たい風にさらされる観覧客たちは、喜びと悲しみを併 せ持った愛の二局面性を思い浮かべる。世界と暮らしを新しい視線で見つめさせる情緒的パワーを持って いる。あるインタビューの中で彼は「毎日見ていた物が、突然違って見える時がある。現象は同じだが、真 新しく心にしみてきたり……そういう瞬間こそ、日常における非常に神秘な瞬間である」と話していた。輝 く日常を発見しようが、現代人の存在方式や政治的問題に首を突っ込もうが、作家は既成観念を乗り越え て自分だけの観点を提示することで、静かな衝撃を呼び起こすのである。
世界をさまようノマド・アーチスト 2003年にソウルで開かれたヘルメス美術賞の展示会の開幕式典で、ヤンさんは顔に髭を生やして登場 し、人々の目を引いた。「髭のあるモナリザ」の複製画を描いて、人々が褒め讃える伝統と権威を侮るマル セル・デュシャンのように、彼は自分の体を使った作品で美術界をあざ笑う大胆なパフォーマンスをやって のけたのだ。さらに2006年には、仁川にある空き家で韓国では初めて個展を開いた。観覧客が招待状に書 かれた秘密番号で鍵を解除して、捨てられた家に一人ずつ入って観覧するという風変わりな展示会であっ た。持ち主のいない部屋に置かれた扇風機、数字が分からない時計、壊れた鏡の欠片などを通して、過ぎ 去った時間の跡を省みてもらうための作業であった。 たまに国内でも活動をしてきたが、彼にとって主な舞台は海外であった。ソウル大学校彫塑科を経てド イツのフランクフルトの美術学校を卒業した後、彼は18年間世界のあちこちを放浪しながら「ノマド(放浪 者)作家」として暮らしている。現在はソウルとベルリンを往来しながら活躍しているが、アーチストにア トリエを提供するレジデンシーのプログラムを利用して、イギリス・日本・フランス・オランダ・ドイツなど を行き来しながら、安住することなく熾烈に活動してきた。彼は「趣味で美術をやっているわけはでない以 上、死ぬ物狂いでやるしかない。自分を甘やかした瞬間つまづいてしまう。常に危機感を抱きながら作業 している」と言う。 仕事と生活を区分せず、毎日挑むように作業に取り組んできた時間が蓄積されて、彼は世界各国の美術 館やギャラリーで次々と展示会を開いた。アメリカのミネアポリスのウォーカー・アート・センター(2009 年)、ニューヨークのニューミュージアム(2010年)、オーストリアのブレゲンツ美術館(2011年)に続き、 今年秋にはイギリスのテートモダン美術館の企画典に参加し、またドイツのミュンヘン美術館のメイン ホールでは、大掛かりの新作も披露する予定である。また、ニューヨークのグッゲンハイム美術館と現代 美術館、ドイツのハンブルク美術館もヤンさんの作品を収蔵している。世界的に名だたる美術館は彼の作 品からどんな魅力を感じたのか。パリのシャンタル・クルゼルギャラリーの代表であるクルゼルさんは、 「ヤンさんは哲学的な態度で作品にアプローチし、韓国文化の要素と世界の普遍的要素を組み合わせて新し いエネルギーを生成する優れたアーチスト」と評価した。 彼はなお一層重い責任感と自己複製を拒否する熾烈さで自分自身に活を入れる。 「人々が自分をどのよう に評価するのかは、二の次の問題。一歩前に進んだか、二番煎じじゃないか、自分自身知っている。一貫性 と境界の拡張の間いで悩むのが私の仕事である。常に手綱を緩めるわけにはいかない」 (翻訳:趙祥恩)
ヤン・へギュ作「一連の壊れやすい配列―声と風」 2009年第53回ベニス・ビエンナーレの韓国館の代表 作家として参加し、披露した「凝結」展の設置作品 の一つである。
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Gateway
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Korea
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Korean Culture and Information Service
子供と大人が一緒に読む童話 『庭を出ためんどり』
画としても制作された。卵を産み続け ても自分で育てることができない鶏は ついに養鶏場を脱出し、捨てられたア
ポーランド語版、ファン・ソンミ作、チェ・ソンウン訳
ヒルの卵を拾って大事に育てていく。
Kwiaty Orientu 出版社、 210頁、値段 26.67 zł (ポーランド通貨)
ところが、そのアヒルは自分の外見と
ファン・ソンミ(黄善美)の長編童話『庭を出ためんどり』は2000年に
違う母から離れて独り立ちを試みる。
出版されて以来、現在も韓国の読者に読まれ続けているステディセ
この本には韓国人が大切に思う情緒で
ラー童話である。勧善懲悪の公式にとらわれることも、明るくて楽し
ある母性愛や希望、自由などがふんだ
い雰囲気だけを追求することもしないこの風変わりな物語はアニメ映
んに盛り込まれている。
ユン・ビッナ(読書新聞記者) キム・ソンチョル(金成哲、デウ証券社会貢献団事務局長) キ・ヘギョン(国立現代美術学芸研究士)
ハングルを学びながら料理をする 『韓国の家庭料理』 韓国の家庭料理45選、デウ証券社会貢献団編集、図書出版ブギ、 164頁、 12000ウォン
ブック・ 正しい食べ方に関する内容も含まれている。 この本はもともと、2000年代に入ってから外国人、結婚移民、帰化 人が急増する韓国社会において、多文化家族とその子女たちが韓国社 会に適応して根を下ろすように手助けしたいという企画から始まっ た。それで、統計庁の資料に基づいて韓国に住んでいる外国人、帰化
「一般家庭で作るのが難しい大層な料理は要りません」。この本の
人、結婚移民、多文化家庭の数を推計して、上位10位の言語である
企画段階で韓国に暮らしている多文化家庭の外国人主婦たちが強調し
英語・ドイツ語・フランス語・日本語・中国語・モンゴル語・ベトナム語・
た意見である。一方で、ひとつまみ、じっくり煮込むなど、理解に苦
インドネシア語・タイ語・フィリピン語などの10カ国語で出版された。
しむ韓国料理の用語について詳しく説明してほしいという注文があっ
最初は必要な所に無料で配っていたが、この度本格的な出版物として
た。
再出版された。
『韓国の家庭料理』は韓国に居住する外国人留学生や商社の駐在員、
また、料理を作りながらハングルも覚えられるようにハングルも
特に韓国人と結婚した外国人に役立ててもらうために、外国語と韓国
併記している。例えば、ベトナム語になっている料理法がハングルで
語を併記して、45種類の韓国の代表的な家庭料理を紹介した料理本で
も説明されている。そのおかげで、外国人自ら本を読みながら料理を
ある。我々が普通食べているご飯、おかず、チゲ、スープなど、基本
作ることも出来、また夫や姑さんが自分の妻や嫁さんにプレゼントし
的な食べ物からパーティ料理、各地域の変わった
て、一緒に本を見ながら料理が出来るわけだ。
料理、おやつなど、様々な韓国料理の調理方法が
制作には淑明女子大学校韓国飲食研究院、写真作
紹介されている。さらに、韓国人にお馴染みの料
家のヨ・サンヒョンさんの才能を寄付してもらって行
理材料、調理道具、買い物の方法、韓国料理の計
われ、翻訳は韓国外国人労働者支援センターを通して
量方法、おいしいご飯の炊き方など、韓国料理を
翻訳者を介し行われた。尚、印税は全額多文化家庭の
作るに必要な基本的な情報や韓国の食べ物文化や
ために使われることになる。
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韓国の文化と芸術
1995年に登壇したファン作家は貧しかった子供時代、日が暮れる
wiosne 2012)」に選ばれた。まだ韓国の本がまだまだ珍しいポーラン
まで学校に残って童話を読んでいたという。その頃の影響なのか、
ドで挙げたこの成果は、この童話の持つ人類の普遍的なコンセンサス
ファンさんは童話だからといって、美しくなければならないことは必
を改めて認識させてくれた。
ずしも必要ではなく、子供たちも生きることの厳しさや別れの悲し
アメリカではペンギン・クラシックを通じて出版される予定だが、
さ、そして死に対する恐怖感も学ぶべきだと言う。この童話の悲しく
童話が伝えようとする内容の深さやテーマを考慮して、企画の段階か
て独特な結末は現実を美化することなく、ありのままを童話に書いた
ら児童向けではなく大人向けの童話に位置づけられたことに注目した
と作家は語った。
い。アメリカに続いてイタリアの出版社Bompianiからも出版される。
『庭を出ためんどり』は2003年日本を皮切りに世界の読者たちと出 会った。ポーランドでは 「2012年春、最高の本(Najlepsza ksiazka na
さらに、フランス、中国、ベトナム、台湾、タイなどにもこの童話の 版権が販売された。
レビュー 「デジタル時代における展示図録」 国立現代美術館 「今年の作家」 デジタル図録
作家のインタビューなどが盛り込 まれている。実はこの展示会は1995年から2010年ま でに開催された、国立現代美術館「今年の作家」展の総まとめ展示会で
展示会の開幕が近づいてくると、猫の手でも借りたいほど忙しく 立ち回ることになる。中でも、徹夜をしてでも手が抜けないこととい えば、図録に関する仕事であろう。「永遠に残るのは図録だけ!」とい う話はキュレーターの間でよく聞かれる。 伝統的な形式の図録の場合、絵画や彫刻などのジャンルの作品の 記録が主流だったが、時間と空間の概念の加わった映像、設置作品、
あり、過去16年間に選定された23人の作家たちの代表作を紹介して いるこのデジタル図録は、韓国の現代作家の総集編といえる。 「国立現代美術館デジタル・パブリッシング・キャンペーン」という タイトルで行われたこのデジタル図録プロジェクトは、2012年4月に アメリカのニューヨークで開催された「国際メディア革新賞」の銀賞を 受賞した。
パフォーマンスなどの作品が増えるにつれて、鑑賞する側とより有効
インターネットが整備された地域であれば、世界のどこからでも簡
にコミュニケーションを図るために、展示内容を記録する方法につい
単に国立現代美術館のアプリケーションをダウンロードして、このデジ
て悩むことになった。従来の図録の制作方法では、新しく浮上する
タル図録を鑑賞できる。デジタル図録で作品に接近しながら、ズーム機
ジャンルの作品の特性を伝えることに無理があるからだ。特に90年
能を用いて部分を拡大して鑑賞することもできる。
代以降、韓国の現代美術の主流となったジャンルをクロスする多元的
しかし、まだ開発の初期段階であるだけに、解決すべき問題もま
芸術の場合は、1~2カットのスチル写真だけでは作品の全てをうま
だまだ多い。インターネットを基盤としているのデジタル図録は紙の
く伝えられないからである。
図録に比べて、著作権や肖像権の問題が非常に厳しい上、現在配信
そんな中折りしも、現代メディアの発展の賜物である 『デジタル・マ
サービスも、アイパッドのタブレット端末にだけしか行われていな
「預言者日報」 と共に我々の方に近づいてき ガジン』がハリーポッターの
い。さらに、時間性をもっと効果的に伝えるためには、それ相当の量
た。映像イメージのシーケンスを通じて、時間性を盛り込むことに限
の映像ソースが前提にならなければならない。
界を感じていただけに、動画が見られる 『デジタル・マガジン』 は魔法の 世界のように、時間性の加わった図録制作の可能性を示唆してくれた。
以上の課題があるにもかかわらず、デジタル図録はアナログの時 代から、魔術師のように、写真を動かしたり、図録が話かけてくる未
試験的に出版された現代美術館の『今年の作家』のデジタル図録に
来社会へと我々を導いてくれる。また、韓国の作家たちに世界の舞台
は、国立現代美術館が2011年8月9日から10月30日まで、果川本館
で活躍してもらおうと国立現代美術館が設けてくれた「今年の作家」展
で開催された『今年の作家、23人の物語1995~2010』展示内容と解説、
の本来の趣旨を促し実現させるための画策でもある。(翻訳:趙祥恩)
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遠くの目
成熟社会への協力 文化交流に何ができるか 日本は成功も失敗も含めて豊富な事例や研究実績をもち、韓国は後発の利を活かした最先端の制度設計と迅速な政治的決 断力をもつ。何よりも両国の社会や文化は世界全体でみると、かなり近い。日韓は、双方が成熟社会に向けて国のグレー ドを高めるための最適のパートナーとなり得るのである。 ほんだ・おさむ(本田修、国際交流基金ソウル日本文化センター所長)
「文
化交流で歴史問題を解決できると思
月以上にわたって上演された。〈親の顔が見
いますか?」ソウルのある大学で日韓
たい〉と題する畑澤聖悟作のこの演劇は、学
の文化交流について講演したとき、教授のお
校でいじめに遭って自殺した生徒とその親、
ひとりから質問を受けた。
教師の姿を描いた作品だが、まさに韓国の現
年間500万人近くが両国を行き来するな
実社会を照らすものとして大きな反響を呼
か、日本では韓流ドラマやK-POPは当たり前
び、ノベライズや映画化の話も出ていると聞
になり、韓国語能力試験の受験者数もこの10
く。
年で3倍近くに伸びた。韓国でも日本の小説
老人性認知症への対応も、日韓両国に共
が書店で平積みになり、学生街では日本風居
通した課題である。急速な少子高齢化と核家
酒屋が次々と開店する。それでも、島の問題
族化が進む韓国で、日本の介護保険制度に相
や慰安婦の問題は一向に解決の目途が立って
当する「老人長期療養保険制度」が施行された
いない。それどころか、問題が大きくなりつ
のは2008年。導入にあたっては、日本の制度
つある。
が参考にされた。新たな制度を社会に定着さ
日本を抜いて中国が世界第二の経済大国
1
せるため韓国各地で開催されているセミナー で、日本の劇映画が上映された。松井久子監
となり、震災や政治の混迷など暗いニュース が続く日本にはもう希望はないと考える学生や親たちが増えたため
督〈折り梅〉である。自分の親が年老い、認知症となったときの家族の
か、東日本大震災以降、韓国では日本語を学ぶ人の数が大きく減少し
苦悩と生き方を描いたこの作品は、国境を越えて、老いの病と向き合
ている。昨年秋ソウルと釜山で開かれた日本留学説明会では来場者が
う人の心を伝える「教材」となっている。〈折り梅〉は国際交流基金の
前年より35%も減ってしまった。韓国のこれからのパートナーは日
協力により全国90余りのセミナーで上映されたが、そこでの評判が
本ではなく中国だ、と声高に叫ぶ政治家もいる。確かに、貿易・観光
きっかけとなり昨年9月、韓国の映画館で一般公開され、現在も自主
ともに中国を最大の顧客とし、ASEAN・米国・EUなど世界各国と次々に
上映が続いている。
FTAを結ぶ韓国にとって、日本の重要性は相対的に低下したといえる だろう。だが、国や地域の関係は、経済だけではない。 この夏、ソウル中心部の劇場で日本の作品が韓国の劇団により1か
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高度経済成長を経て、産業構造や社会状況が変わったいま、再び 急成長を成し遂げることは難しい。社会の成熟度を増し、安心して生 きていける質の高い社会をどう実現するかが次の大きな課題となる。 韓国の文化と芸術
2 1. 老人性認知症と向き合う家族の心を描く劇映画〈折り梅〉 2. ソウルで開催された「日韓欧多文化共生シンポジウム」
こうしたポスト高度成長の社会をアジアで最初に経験し、解決策を模
らが参加する「日韓欧多文化共生都市サミット」 (本年1月・東京、10月・
索しているのが日本である。少子高齢化、社会福祉、経済格差、自殺
浜松)に発展し、来年は韓国での開催も検討されている。また、韓国
の多発、地方の過疎化、環境保全、エネルギー確保、防災対策。成熟
ではこれらの動きをきっかけに「全国多文化都市協議会」を創設する準
社会に向けたこれらの課題は、いずれも日韓両国が共通して直面する
備が進んでおり、その対応の速さに日本の関係者からは驚嘆の声が上
問題である。日本は成功も失敗も含めて豊富な事例や研究実績をも
がっている。
ち、韓国は後発の利を活かした最先端の制度設計と迅速な政治的決断
日韓が共に抱える課題の多さは、協力・連携の可能性の大きさでも
力をもつ。何よりも両国の社会や文化は世界全体でみると、かなり近
ある。多様な連携は、信頼関係のネットワークを広げ、協力が生み出
い。日韓は、双方が成熟社会に向けて国のグレードを高めるための最
す成果は、同じ課題に悩む国際社会への貢献ともなる。
適のパートナーとなり得るのである。
「文化交流で歴史問題は解決できないと思います」教授の質問に私
外国人住民の増加による「多文化共生」も日韓に共通する重要課題
はこう答えた。政治の問題を解決するためには、政治の力が必要であ
である。人口減少を前に海外から新たな人材を迎えることは今や両国
る。しかしながら、政治の決断は国民の後押しがあってこそ可能とな
の現実となっている。昨年夏、国際交流基金は韓国多文化学会と協
る。協力と信頼の輪を広げ、両国関係の厚みを増すことで、困難な過
力して「日韓欧多文化共生シンポジウム」をソウルで開催した。これ
去の問題を相対的に小さくしていく。それが結局は、日韓両国のため
は、外国人定住者の増加による文化的多様性を都市の活力や成長の資
になる。文化交流にできること、文化交流がなすべきことは小さくな
産として活かそうとする欧州に学び、日本や韓国の都市のあるべき姿
いと信じたい。
を探ろうとするもので、ソウルのシンポジウムは日韓欧の自治体首長 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
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エンタテインメント
婚活ドキュメンタリー リアリティ番組 「チャッ」の人気 「チャッ(訳注:カップル)」は人生の伴侶を見つけたがっている一般の人々が出演する テレビ番組である。限られた生活空間の中で一週間合宿しながら、対象者を探索し 絞り込んでいく過程をドキュメンタリータッチで追う番組である。 ファン・ジンミ(黄鎮美、映画評論家)
「チ
ャッ」は元々2011年1月2日に放送されたSBSスペシャル番組「自分は韓
に相手を探すことと、参加目的がはっきりと示されてい
国人だ-チャッ」の三部作中、第一部の「私もチャッがほしい」がベースと
る。出演者たちは背番号の書かれたユニフォームを着て、
なっている。文化的なテーマが主流であった週末の深夜番組「SBSスペシャル」が
名前の代わりに男子1号、女子2号などと番号で呼ばれ
新年特集として組んだ同番組は、その実験的な形式で話題を呼んだ。12人の未婚
る。入所初日は初対面の印象だけでお互いのことを探り
の男女を人里離れた場所に集め、簡単な遂行すべき課題と自由時間を通して、彼
合う。二日目からは自己紹介などを通じて、職業などの
らの間で恋愛感情が芽生えカップルが誕生する課程を観察するという設定であっ
具体的情報が公開される。初日に感じた異性としての魅
た。恋愛という甘味な話題で展開されているにもかかわらず、妙に冷静で落ち着
力に経済・社会的能力などの要素が加わり、好感度の行方
いた声のナレーションは、視聴者をユニークな人類学的考察であるかように感じ
も分からなくなる。番組のスタッフはカップルになるた
させた。まるで動物たちの営みを生々しく見せてくれるドキュメンタリー「動物の
めの機会を数回提供して、感情の推移を観察する。
王国」のように、ホモサピエンス(その中でも韓国人種)の雌と雄がお互いにどう惹 かれてカップルになるか、その有様をみせてやるという狙いがあったようだ。
もちろん、“パートナー探し”が思い通りに運ぶとは限 らない。一人の女性に数人の男性が求愛したり、その反 対の状況が繰り広げられたりもする。誰にも選ばれず自
「愛情村」の一週間 二カ月後、その企画は正式の番組に発展した。3月23日に初放送された
尊心が傷つけられる人も続出する。出演者らは自分の魅 力を最大限発揮しながら相手のことを探索し、好きな異
「チャッ」の形式に変化はあまりなかった。12人の男女が(男女の構成は7対5人、
性に対して積極的にアタックしていく。数回にわたって
または6対6人) “愛情村”に入所し、一週間にわたってその生活ぶりを撮影しなが
アプローチの機会が与えられ、その都度目指すお相手も
ら、彼らに感想をインタビューした分量を含めた編集を2~4回(1回が65分)に
変わる。自分の感情に確信がもてない状態のなかで、微
分けて放送する。“愛情村”には12綱領が張られてある。第一綱領には結婚を前提
妙な探りあいを繰り返しながら、お互いの感情を確認し
たりする。スタート地点から異性を惹きつけることに失敗して、誰からも関心を
一方、出演者らにまつわる噂も絶えない。出演者らの
示されない人もいれば、滑り出しは悪くなかったものの、相手の選定に失敗して、
過去や身の上に関する情報がネットで流されたり、本当
誰彼と闇雲にアタックし、結局徒労に終わってしまうケースもある。
に相手を探すのが目的ではなく、芸能界への足がかりや
生活を共にするので、同姓同士の神経戦もかなり激しい。一人の女性を巡っ て、最終決定の瞬間まで張り合う場合もあり、時には駆け引きや暗黙の談合まで
ビジネスの広報が目的で出演したという論議を呼ぶ場合 もある。
も行われる。周囲から当然カップルになるだろうと予想されていた二人が結ばれ
即物的なマッチングシステムで結婚相手を見つけてく
ないケースも多く、カメラアングルの外で愛情を育んでいた想定外のカップルも
れる結婚情報会社が繁盛するこのご時世に、あえて地上
誕生したりする。
波放送に自分の顔や個人情報まで公開しながら相手を探 す意図をいぶかしがる向きもある。人の恋愛を見物しな
進化する婚活番組
がら面白がる視聴行為そのものが一種の覗き見であると
仲人の役割をするテレビ番組は以前にもあった。その代表格として1994年に初
いう批判の声もある。
めて放送された「愛のスタジオ」は、未婚の男女が出演して、簡単な問答やゲーム
しかし、お手軽な恋愛が巷にあふれているこの時代
をしながらお互いのことを探り合い、カップル誕生までの過程を見せてくれる番
であっても、依然として自分の伴侶を見つけられず悩む
組だった。大学生らの“ミーティング(合コン)”がそのままスタジオの場に移動し
人々は多い。晩婚化の流れや個性の多様化によって即席
たような内容だった。振り返れば、この程度の単純な過程を通して自分の相手を
なマッチングシステムでは、相手を見つけるのは難しい
見つけることができると考えられたことが不思議な気がする。最近の男女関係は、
との声も多い。だとしたら、彼らにカップルづくりに投
当時とは比べられないほど開放的になり、紹介ティング(紹介+ミーティング)、
入できる環境を提供するプログラムは大いに役に立つの
ブッキングなど、即興的で積極的な出会いのチャンスが増えた。したがって、ス
ではないか。相手を見つけたいという出演者の思いがだ
タジオで1~2時間程度会って、簡単な会話を交わしただけで実際のカップルに
んだん募るにつれて、視聴者らの感情移入の度合いも高
発展できると信じる出演者や視聴者はまずいないだろう。ならばもっと時間と場
くなる。いわば、40才近くになった年配者や、一度も恋
所を深化させた婚活番組をと、 「チャッ」が登場した所以である。
愛をしたことがない人々や、再婚相手を求めている人々 の出演する番組を編成した時にはじめて、番組の真価が
想定外のカップル
わかるというものだ。
「チャッ」の主な視聴者層が若者に限られているわけではない。幾多の文学作品
これまで三百人を超える男女が“愛情村”に登場した。
の中やドラマで描かれてるような恋愛物語を、3~4回の放送に凝縮し見せてくれ
出演者同士で結婚して妊娠したカップルも誕生した。こ
るこのテレビ番組から視聴者は恋愛心理の原型を発見したり、自分の好みや恋愛
のカップルは再婚者特集の時の出演者で、番組の中では
経験と照らし合わせて教訓を得たりもする。よって、スターが出演するわけでも
それぞれ他の人とカップルになったが、放送後に解消し、
ないのに、また平日の深夜番組にもかかわらず、人々の間で話題になったのだ。
出演者同士の会合を通じて現在の相手と縁を結んだとい
毎回放送が終わるたびに、ネットのポータ
う事実のもつ意味は重い。カメラに映し出されないとこ
ルサイトには出演者らを指す単語
ろでも人の感情は絶えず生成され、突き動かされる。放
が検索語ランキングに登場
送は暮らしの一場面だけを映し出すにすぎず、我々の暮
する。
らしは放送後にも続く。(翻訳:趙祥恩)
ライフスタイル
自然 休養林で 過ごす 山中生活 韓国初の国立自然休養林は、1988年に大関嶺と有明山にオープンした。現在は全国に36カ所あり、 オープン当時は5万人程度だった利用客数も、2011年には286万人へと25倍も増加した。 リュ・ジョンヨル(柳精烈、旅行ライター)
最
近、キャンピングにはまったというソン・ジョンアさ んは、週末になると自然休養林を訪れてテントを張
る。そよ風を感じながら昼寝をしたりコーヒーを飲みながら 読書を楽しむ。自分だけの休息の時間である。
休息とヒーリングの空間 ハーバード大学の教授で、ピュリッツァー賞を2回も受賞 した生物学博士のエドワード・ウィルソンさんは「バイオフィ リア(biophilia)」仮説で、人間は遺伝子の中に森と自然の中で 生きたいという本能をもっていると主張する。我々の心と体 は森の鼓動を感じるだけでも、ストレスから開放されて心理 © リソム・フォレスト
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韓国の文化と芸術
© リソム・フォレスト
忠清北道提川朴達の自然休養林の周辺にある私設リゾートのリソム・フォレストと、その森の中で瞑想する人々
的に安定した状態になるという。
しながら、森の持つ治癒能力を知ってもらうために取り組んでいる。
会社勤めのリュ・テヒョンさんは、幼い時からリュックを背負って 渓谷や山を訪れていたほど、自然の中で過ごすことが好きだったとい う。彼は結婚後も妻と子供を連れて自然休養林をよく訪れる。澄んだ
お手ごろな値段の宿泊施設 筆者も最近、森と出会うために蔚珍に行った。泊まりは通高山自
きれいな水でしか生息しないザリガニ、チョウセンサンショウウオ、
然休養林を利用することにした。ソウルから蔚珍郡までは約350km、
ワスレグサ、イワギク、セキチクなど、森の中を埋め尽くしている生
洛東静脈を横断する国道36号線を走って佛影渓谷に向かった。道路
命体を見るだけでも、子供にとってはい良い勉強になると信じてい
が舗装されて10年余りしか経っていない山中の道路で、以前はアク
る。彼は子供と一緒に裸足で山道を歩いたり、巨木を抱え込んだりす
セスし難い僻地の一つであった。内陸の奥深い所にあって、人の出入
る。
りがまったく無かったため、本来の自然環境を保全することができ
国立自然休養林管理所では、休養林の特性に合わせてそれぞれ ヒーリングの森を造成し、様々な山林ヒーリング・プログラムを運営 K or e a n a ı 秋 号 2 0 1 2
た。静かな山奥にこもって、自分だけの時間に浸るには最適の場所で ある。
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通高山の一日は鳥たちのさえず
ある芳台山自然休養林をお勧めした
りで始まる。軽く朝食をとった後、
い。ここには韓国最高といわれる原
散歩に出かけた。散歩には日の昇る
始林があり、秋の紅葉はこの上なく
頃や午前中が適している。森から
美しい。夏の暑さが懐かしい人々の
生成されるフィトンチッドがこの時
ためには、渓谷の涼しい二段滝とノ
にもっとも活発になるからだ。果
ラック(訳注:広いという意味)岩が
たして濃い森の香りが胸の奥まで満
ある。また9月までは、周辺の内麟
たしてくれた。これまで見向きもし
川でラフティングも楽しめるため、
なかった小さな草花も目に入ってく
レポーツの好きな人々にとっては
る。細い山道に並行して続く谷に下
うってつけの場所だ。
り、靴を脱いでズボンをたくしあげ
次に江原道横城郡には、ユニー
て水遊びを楽しんでいると、心の中
クな体験のできる青太山自然休養林
のわだかまりも消えていくようだ。
がある。青太山は李朝鮮を建国した
国立自然休養林はいい事尽くし
イ・ソンゲ(李成桂)が自らその名を
である。まずお手ごろな料金で泊ま
揮毫をしたほど、優れた景観を誇る
れる宿泊施設がある。どこの休養林
1
山である。人工林と天然林が調和し た国有林模範の団地で、鬱蒼とした
にも基本的に「森の中の家」とキャン ピングができるキャンプ場がある。また、休養林の森や山は韓国で
クヌギ山林浴場は人気が高い。また、6本の登山路や健康に良い山道
100の名山として数えられるほど、素晴らしい景観が見られる。さら
もあるため、人々は各々の体力と好みに合わせて散歩が楽しめる。毎
に、芝生の広場、修練場、野外教室、木材を扱う木工芸体験館など、
年9月になると、横城の特産物といえる韓牛祭りも開かれるため、特
森を全身で体感できる施設が設けられている。
に秋に人々に愛される所以である。 三つ目の江原道江陵市にある韓国初の国
36カ所ある休養林をすべて利用してスタンプをもらえば、全
立自然休養林である大関嶺自然休養林は、 山林庁(林野庁)が選定した韓国3大美林の
国にある国立自然休養林を2年間無料で利用できる「名誉休
一つであり、紅葉と松の木に取り囲まれて
養林人」の資格がもらえる。今年5月30日に初めて名誉休養
いる。特に家族連れに適した自然学習体験 場が充実しているため人気がある。休養林
林人が誕生した。
の中では、炭の釜を利用して直接伝統的な やり方でクヌギ炭を作ってみることも可能
通高山自然休養林のある通高山は松の木の中でも名高い金剛松や
だ。さらに、周辺には大関嶺の羊の牧場から大関嶺博物館に続く昔な
様々な広葉樹で森が形成されている。透き通って見える渓谷水が花崗
がらのコースや仙子嶺の昔の道など、トラッキングに適した道が多
岩にぶつかって作り出す谷の風景は水墨画のように美しい。さらに、
い。
登山路や自然森の観察路があって、ゆっくりと散歩することもでき る。また海水浴や温泉めぐりも楽しめる。通高山自然休養林から佛影
競争率の高い宿泊予約
渓谷の下流である王避川に沿って歩いていけば、望洋亭海水浴場に出
最近、国立自然休養林管理所では休養林を訪問する度にスタンプ
るが、ここから遠くない所に韓国唯一の天然温泉である徳邱温泉があ
を押してくれるが、そのスタンプの数にしたがって特典が与えられる
る。
「休ツアー(Tour)スタンプ」制度を運営している。36カ所ある休養林 のスタンプをすべて押してもらえば、全国にある国立自然休養林を2
秋にお薦めの休養林 秋に特にお薦めの自然休養林もある。まず最初に江原道麟蹄郡に
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年間無料で利用できる「名誉休養林人」の資格が得られる。今年5月 30日に、初めての名誉休養林人が誕生した。その主人公は釜山に住 韓国の文化と芸術
2 1. 慶常北道蔚珍郡佛影渓谷。通高山自然休養林に近い。 2. 京畿道加平郡雲岳山の自然休養林で巨木を抱え込む子供たち
むハ・ヨンジュさんで、昨年9月に仕事をリタイアした後、奥さんと
ショップも業務の延長として、平日に行われるので予約にも問題はな
一緒に休養林を訪れるようになったという。
かった。シンさんは「空気がきれいで、酒を飲んでも簡単に酔わない」
ところが、休養林の人気が高いだけあって、休養林を利用するた
と言い、「朝起きてゆっくりと散歩できたこともとてもよかった。夕
めには高い競争率に勝たなければならない。全国にある休養林の宿泊
食のバーベキュー食べながら、職場ではなかなか出来ない話も胸を
施設の規模は、300余棟750室余りであり、2人部屋から18人部屋まで、
割って対話ができた」と体験を語った。
合わせて一日に約4300人が宿泊できる。しかし、需要に比べて施設
森では大人はもちろん、子供たちもリラックスできる。森の中で、
の数はまったく足りない。そのため、インターネットによる予約制で
木の名前を覚えながら何気ない会話を通して、子供と親の間に忘れら
運営されている。特に夏場のシーズンである7月14日から8月25日
れない思い出ができる。自然の中で湧き起こる情緒的交換、それこそ
までは抽選で利用客を選定する。他の期間は、毎週水曜日に6週間後
自然休養林からの一番大きな贈り物ではないか。
の客室が予約できる。もっと多くの人々に休養林を楽しんでもらうた
京畿道軍浦市山本に住むキム・チャンギュさんは、「森の中では、
めに、一回の申し込みで最大3泊4日までの予約に制限されている。
家では話せなかったことも自然に話せる」と言い、「家族とたっぷり対
都心で次長職にあるシン・ドンフンさんは昨年の夏、会社のワーク
話できること、そして愛する人々と一緒に自然を感じながらきれいな
ショップを切り盛りすることになった。それまでは主に個人が運営す
空気が吸えるのが自然休養林の持つ大きな魅力」と手放しで森を賛美
るペンションを利用していたが、今年は自然休養林を選んだ。ワーク
した。(翻訳:趙祥恩)
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作家評 韓 国 文 学 の 旅
小説家になった 田舎のパン屋の息子 オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)
「故
郷の小都市、金泉の風景をたびたび思い出すが、あの頃
侶曰く「青 年は何の本を読んでいるのかな?」これに対しキム・ヨ
は完璧だった気がする。蒋介石の写真と台湾の風景の
ンスは「ランボーの詩集です」と答えた。すると老僧侶は「青年、
写ったカレンダーがかかっていた南京飯店を覚えているだろう?
十年だけそんな風に一生懸命やってみなさい。そうすればきっと
今もあの頃のことはすべて思いだすことができる。当時の金泉の
大成するだろう」キム・ヨンスはその言葉を聞いて「きっちり10年
町にあった、それぞれの商店の歴史は鏡を覗くようによく知って
だけ書いてみよう。そうすれば何とかなるだろう」という思いを
いる。もちろん暴力と怒声と生存への必死のもがきが、どうして
固めたという。
なかったと言えよう?しかしその人々は少なくとも他人に迷惑は
彼の幼年期の写真を何枚か見たことがある。一枚は幼いキム・
かけないという考えはもっていた。最近のように他人が失敗すれ
ヨンスが三輪車に乗っている写真だ。後ろには「ニューヨーク製
ば、それを踏み台にして成功しようなどということは考えなかっ
菓店」の看板が見え、家の前で撮ったもののようだ。少年は、い
たのではないか。私にはあの当時の人々が生き生きとした生物の
や幼児は無垢な笑顔を見せている。日差しをよけるためのブラ
ように感じられる。時間は絶え間なく回転する自転車のペダルの
インドが下がり、窓には1970年代スタイルの文字で「高級洋菓」
ようで、もうその記憶さえも昆虫の抜け殻のようにだんだんと見 慣れぬものになっていくが、あの頃だけは私にとって最も完璧な 時間だったような気がする」
まだ若かった母はその当時、一銭でも稼ごうと幼い息子にも パンをそうそう食べさせはしなかった。そのため売り物になるよ
上記の内容は、韓国現代文学を代表する 作家の一人であるキ
うな形の整ったパンは絵に描いた餅で、袋に合わせて均等な規格
ム・ヨンスが、故郷の友人であり文学の友でもある詩人ムン・テ
に切った残りの「きれっぱし」、つまり切り捨てられたカステラ程
ジュンに話した内容だ。彼の自伝小説『ニューヨーク製菓店』につ
度が少年キム・ヨンスの口に入った。切り残しの部分の売れない
いて語る際に欠かせないことが二つある。一つは1970年代生まれ
パン。他人にあげるには形が良くないものの、そうかといって捨
の作家特有の世代感覚。もう一つは慶尚北道の中でも特に「陸の
てられないパン。作家は「アンパンとクリームパン、メロンパン
孤島」のような小都市金泉のもつ地域的な特殊性だ。この二つが
とアンドーナッツとドーナッツ、食パンには飽きなかったもの
微妙に絡まり、そしてはじき合いながら存在しており、それこそ
の、この切れ端には飽きてしまった」と言っている。腐る直前の
がキム・ヨンス文学の根源だと言える。
切れ端は家で飼っていた犬のものとなり、その犬もしばらくする
「ニューヨーク製菓店」は実際に金泉駅広場にあったパン屋の 名前で、彼の両親が経営していた。詩人ムン・テジュンの証言に よると、青少年時代のキム・ヨンスは放課後店番をしながらラン
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「ホットココア」と書かれた紙が貼ってある。
と切れ端には見向きもしなくなった。作家いわく。「どっちにし ろ人生なんてそんなものさ。過ぎれば飽きてくるのだ」 個人的な話だが、作家キム・ヨンスと私は同い年だ。同い年と
ボーや黄芝雨の詩集を読んだり、定期購読していた文学雑誌を読
いうことは同じ世代の経験と記憶を共有しているという意味だ。
んでいたという。こんなエピソードがある。
1970年代に生まれ、80年代に幼年期を過ごした韓国の少年たちに
雪の降る日に練炭ストーブの横で詩集を読みながら店番をし
はまだ「好みの分化」という概念はなかった。みんなが似たような
ていた彼のところに、一人の老いた僧侶がやって来たという。僧
大衆文化を共有し消費した。まず小学校に入りカラーテレビに初 韓国の文化と芸術
© 白多欽
キム
ヨン
ス
金衍洙 東仁文学賞審査委員会は2003年、小説家キム・
めて接した。少年たちはキム・イル(訳者注;大木金太郎)のプロレ スと漫画映画「鷲の5兄弟(訳者注:科学忍者隊ガッチャマン)」に 熱狂した。中学高校時代にはポップ音楽の洗礼を受けた。このよ うな幼年期と青少年期の共通の経験のおかげで、筆者も切れ端を 飽きるほど食べることはなかったものの、あの当時の切れ端に象 徴される欠乏と充足の挿絵には自然と共感できる。 作家のデビューは1993年。最初は詩だった。すぐその後に長 編『仮面を指して歩く』で小説家としてデビューした。詩から数え
ヨンス(金衍洙、1970-)の小説集『私がまだ子
ればもう20年になる。多様なスペクトラムの作品を休み無く発表 してきたが、この作家に対する修飾表現の一つにはこんなものが
供だった頃』を受賞作に選定し、その選定理由
ある「1970年代生まれの世代の特殊な体験と位相に焦点を当てな がらも“喪失の時代”を生きる個人の微妙で苦悩に満ちた自意識の
を「作家は個人の具体的な体験に一石を投じて、
瞬間を明敏な感覚と温かな文体で表現してきた」 「ニューヨーク製菓店」は思い出と空想が一つになった自伝小
同心円的な波紋を引き起こす方法で韓国の現代
説で、彼の精神的な起源を示す作品だ。作品の最初に書かれてい るように、彼はこの小説を鉛筆で書いた。自分の素顔であるだけ
史を掘り起こすという特別な道を開拓した」と
に、より手作業的な過程が必要だと考えたようだ。 新聞で読んだと、彼がこんな話をしたことがある。
評している。『ニューヨーク製菓店』はこの小説
「4歳の息子がスマートフォンのゲームをしていてFailが出た と喜んだ。Failがどういう意味か分かるのかと尋ねると、『失敗』
集に収録された自伝小説だ。
だと答えた。それで失敗が何なのかと尋ねたら『もう一度するこ と』と答えた」 キム・ヨンスの小説の魅力についていろいろな意見があると思 うが、私の考えるこの作家の作品の魅力とはこういうものだ。彼 の小説は読み終わると「失敗」は「もう一度すること」と同意語に なってしまうのだ。嬉しく有難い気持ちになる、実に温かい小説 だ。(翻訳:金明順)
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韓国のイメージ
目
を突き刺すような夏のまぶしい日差しの中で麦は黄色く実っていた。果てしなく続く麦畑の中に一 筋の道が消えていく。麦畑の片隅でヒナゲシが真っ赤な血をポタポタとたらしながら鋭い日差し
に頬を打たれて色褪せている。畑の長い畝にはラベンダーの花が紫の色深まって丘陵を越えていく。高い 木々が取り囲んだ農家に深い影を落としている。 道の果てには小さな村の広場。噴水からは冷たい水があふれ出ており、人々はテーブルの周りに座り緑 色のサイダーを飲みながら雲を見ている。空を仰ぎ見ながら立っている老いたプラタナスの街路樹は道を 暗い葉の影で覆っている。私がその下を通り過ぎると影は私の体の上
秋、外から風景の 後姿を見る キム・ファヨン(金華榮、文学評論家 ・芸術院会員) 写真 : 崔宰英
に点々と降りてくる。私が通りすぎると穴の空いた葉の影は再び道の 上にそっと横たわる。 そうやって良く慣れた他国の夏を私は旅人となって長い間彷徨っ た。道を歩きながら花と麦と大きな木と噴水と農家を横から、あるい は下から眺めた。私は彼らの隣に、そして彼らの中にいた。私は風景 の一部になっていたのだ。
そして故国に帰ると、そこはもう秋。「空から見た国土」の写真一枚。影も無く、真裸で横たわる野原。 花も散って、葉も落ちてしまった。鳥も人々も去っていった。野原はすべての装身具を取り去り服も脱ぎ 捨てて抽象となり一人残った。宇宙のある秋の日、まだ星の光が到着しない午後、秋の日の野原はそう やって黒人の乙女の結んだ髪の毛のように空の目の下に広がっていた。あの世からこの世を見るように初 めて見た風景。後姿でなければこんなにも見慣れぬわけがない。そんなことも知らずに私はこの世の夏を わけも無く歩き回ってきた。そして家に帰り、ふと風景の外に立っている自分を発見したのだ。今や私は 追放された霊魂の目で旅立った体の後姿を眺めるように、遠いあの野原を眺めている。この国に秋はそん な風にやってきた。(翻訳:金明順)