2019 Koreana Spring(Japanese)

春号 2019

韓国の文化と芸術 特集

近代の韓国

20世紀初頭の韓国 貞洞、近代に向けた夢と挫折の余韻 天才文人が残した近代の遺産 近代の扉を開けて飛び出した女性 ポピュラー音楽、絶望の中で咲いた花 開化期、そして 100 年後

近代化への道

VOL. 26 NO.1

ISSN 1225-4592

韓国のイメージ

春のお花見 キム・ファヨン

金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

1 KOREANA 春号 2019

韓

国人の情緒を最もよくあらわしている言葉が「興(フ

© NewsBank

ン)」と「恨(ハン)」だ。「興」は、世の中の気運と 人間の内なるエネルギーが出会った時に起こる喜び

と遊戯の衝動だ。「恨」が下に沈殿する否定的な流れだとすると、 「興」は上に吹き上がる肯定的なエネルギーだ。 「興」が表出した現象が春を楽しむお花見だ。３月になると、せ っかちな人々は窓辺に行き外を眺める。そして３月が終わるころ、南 の方から本格的に花便りが届く。済州島と釜山と鎮海でつぼみがほこ ろんだというニュースとともに、お花見列車と市外バスが増便され、 人々は浮き浮きと旅行の計画をたてる。花見客が好きな春の花は何と いっても桜、その次が梅、そして山茱萸（サンシュユ）の花だ。 春の花見祭りは３月の中ごろ、全羅南道光陽の梅花マウルから始 まる。蟾津江の川辺には眩しいほどに梅の花が満開となり、白い花に 雲の壮観さを見ようと、毎年全国から百万人以上の行楽客が押し寄せ る。しかしやはりお花見の絶頂は、４月初めの鎮海の軍港祭だ。これ は1960年代初めに始った桜祭りだ。日本の植民地時代、軍港だった鎮 海には多くの日本人が暮らし、彼らは多くの桜の木を植えた。しかし 光復後には、日本の帝国主義の象徴だといわれて、ほとんどの桜の木 が抜かれてしまった。しかし、韓国海軍司令部内の桜だけは残り、今 でも花を咲かせている。その後、王桜の原産地が日本ではなく済州島 だと明らかになり、再び桜を植える運動が始まった。今では春になる と、鎮海の市街地は桜の花一色に染まり、そこを埋め尽くす花見客の 頭上に花吹雪が舞い散る。 鎮海に負けず劣らず有名なのが、慶尚南道のファゲ十里の桜の並 木道だ。1930年代に新しい道路ができた際に植えられた1200株の桜 が、今ではすっかり老木となり、美しい花を咲かせている。ファゲ市 場から雙磎寺に続く蟾津江に沿った桜並木は、花のトンネルとなり、 まるで夢の宮殿のように人々を陶酔させる。当然のことながら、その トンネルの下の道は、全国から押し寄せる花見客の車で悲鳴をあげて いる。ここだけではない。ソウルをはじめ全国の都心も春に誘われ花 に酔う人々でいっぱいだ。ソウルヨイドのユンジュン路、石村湖、求 礼、慶州普門湖、釜山海雲台のタルマジ（月見の丘）なども花見の名 所だ。 統計によれば、韓国人10人のうち９人が春になると花見に出か け、７人が１日以上かけて遠くまで出かけるという。その中の少なく とも一人は桜前線に沿って海を越えて日本にまで行く。韓半島の春は 短くて儚い。４月中旬には桜は散り始めて、いつの間にか初夏の匂い がしてくる。短い春の浮き浮きとした気分を満喫した行楽客が去った 後には、ゴミの山が出来ている。それは春の華やかな花と楽しい祭り が残した「恨」の一端なのかもしれない。

＜編集長の手紙＞

未来のために歴史を記憶する

発行人

李是衡

編集長

金鍾徳

編集理事

100年前、韓半島全域の韓国人が主権国家の市民として自由を闡明するた め、街頭に出て太極旗を振りながら「独立万歳」を叫んだ。1919年３月１日 正午、ソウルと他６都市で始まった平和デモは全国に広がり、２カ月間続い た。朝鮮総督府は、この非暴力運動に暴力で対応した。 統計の出所によって違いはあるが、長い間歴史学者が信じてきた資料に よれば、約200万人が万歳運動に参加し、7500人が死亡、1万6000人が負傷 し、4万6900人が逮捕された。多くの人々が柳寛順（ユ・グァンスン）のよう に残酷な拷問に耐え切れず、監獄で死亡した。銃撃に対抗して故郷で万歳デ モを導いた後、逮捕された18歳の柳寛順は、「祖国のために捧げる命が一つ しかないのが残念だ」と言い残し、亡くなった。 ３・１独立運動を契機に中国上海に臨時政府が設立された。独立運動家 たちの努力は、韓国が第２次世界大戦後に独立を成し遂げるまで、国内外で 外交と武装闘争を続けた。この過程で、独立に向けた活動は、世界のいたる ところに韓国人ディアスポラが形成されるのに一役買った。それだけでな く、３・１独立運動の非暴力精神は、植民の抑圧に平和的な手段で抵抗する よう他のアジア諸国にインスピレーションを与えた。 独立運動100周年を記念して『コリアナ』は、100年前の韓国を振り返 る。特集「近代化への道－20世紀初頭の韓国」は、主に芸術と文化に焦点 をあわせる。特集に掲載された物語は限定的ではあるが、特に芸術家や作家 が絶望の時期に生じた変化の流れに、どのように対応してきたのかを調査し た。歴史を記憶するのは、現在の問題解決に必要な知恵を得て、過去の過ち を繰り返さないためだ。

日本語版編集長 金鍾徳

金成仁

編集諮問委員

韓敬九

Benjamin Joinau

鄭德賢

金華榮

金英那

高美錫

那秀昊

宋惠眞

宋永萬

クリエイティブディレクター 編集

尹世鈴 金三

池根華、盧倫永

アートディレクター

金志姸

監修者

嘉原和代

デザイナー

金銀惠、金南亨、葉蘭敬

翻訳者

坂野慎治

金明順

編集

朴美貞

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格

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『徳寿宮』 キム・ボム 2010年、キャンバスにアクリル 162×130cm

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掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『Koreana』や韓国国 際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア

ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。

特集

近代化への道－20世紀初頭の韓国

04

特集 1

貞洞、近代に向けた夢と挫折の余韻 ソ・ヨンヒ

14

特集 2

天才文人が残した近代の遺産 ソン・ソクチェ

36

インタビュー

挑戦を楽しむ 映画音楽監督タルパラン イム・ヒユン

40

韓国大好き

ヘグム（奚琴）に魅せられた 若きトルコ人 チェ・ソンジン

44

オン・ザ・ロード

正祖王につき従って 華城への道を歩く イ・チャンギ

52

二つの韓国

今日の平壌を伝える キム・ハクスン

22

特集 3

近代の扉を開けて飛び出した女性 キム・ジヨン

28

32

特集 5

開化期、そして100年後 チョン・ドキョン

特集 4

ポピュラー音楽、絶望の中で咲いた花 チャン・ユジョン

56

日常茶飯事

靴を繕い、磨いて得る幸せ キム・フンスク

60

遠くの目

100年のノスタルジア 中村八重

62

エンターテインメント

韓国型ゾンビの誕生 チョン・ドキョン

64

料理物語

海苔、うま味と栄養の結晶体 チョン・ジェフン

68

韓国文学の旅

書くことへの警戒と魅惑の間で チェ・ジェボン

『鎌が吠えるとき』 キム・ドッヒ

特集 1 近代化への道－20世紀初頭の韓国

貞洞

近代に向けた夢と 挫折の余韻

ソウルの旧市街地に位置する徳寿宮。 正殿は、伝統的な様式の殿閣と20紀初 に建設された西洋式の建物に囲まれて いる。朝鮮第26代国王・高宗は1897 年、徳寿宮で大韓帝国を宣布し、活発 な外交を展開した。しかし、強制的な 日韓併合条約によって1910年に主権を 奪われた。

4 KOREANA 春号 2019

ソウルの旧市街地に位置する貞洞（チョンドン）は100年ほど前、大韓帝国（1897～1910）の短い 歴史を見届けた歴史的空間だ。大韓帝国は、朝鮮王朝が近代国家へと生まれ変わるために宣布した 国号。そこには、伝統と近代が共存する新しい皇宮・慶運宮（現在の徳寿宮）を囲むように、西欧 列強の公使館が立ち並んでいた。事実上、韓国初の国際外交タウンだった貞洞は、近代的な教育機 関、病院、商店などが建てられ、急激に流入してきた西洋文明の展示場でもあった。 ソ・ヨンヒ 徐栄姫、韓国産業技術大学校近代史教授

© 徳寿宮管理所

韓国の文化と芸術 5

貞

洞は100年ほど前、アメリカ、イギリス、ロシ

扱う商店が立ち並び、その一帯は程なく近代西洋文明の展示場

ア、フランスなど各国の公使館が先を争うよ

になった。貞洞は、当時の人たちにとって「近代」と「西洋」

うに建てられ、「公使館区域」や「公使館通

を代表するイメージだった。

り」と呼ばれるようになった。多くの国が当時としては大規模 屋（韓国の伝統家屋）に公使館を開設した。その建物は、今も

近代国家の始まり

アメリカの大使官邸に残されている。

等な外交関係を樹立して、殖産興業と富国強兵によって近代的

な洋風の建物を建て、自国の力を示した。だがアメリカは、韓

大韓帝国は、清と日本の影響から抜け出し、西欧列強と対

公使館の周辺には、西洋人が利用するホテルや商店などが

な主権国家に生まれ変わろうとした。大韓帝国は1897年、その

建てられ、自ずと外国人街が形成された。朝鮮王朝の首都・漢

出発点として中国中心の東アジア秩序から離れ、国際法が支配

城（現在のソウル）に住む西洋人は、ほとんどがその周辺に集

する国際社会の一員になると宣言した。西欧の公使館や外国人

まっていた。そこに住んだ最初の西洋人は、初代駐朝米国公使

住宅に隣接した貞洞の慶雲宮に、新しい皇宮も造った。

のルーシャス・ハーウッド・フットだ。彼は1882年に締結され

新しい皇宮には、伝統的な様式の殿閣以外に、西洋式の建

た米朝修好通商条約によって特命全権公使として翌1883年に朝

物も多数建てられた。開明君主を目指した高宗（在位1863～

鮮を訪れ、貞洞にある閔妃（高宗の妃）の親戚の家を買い取っ

1907）は、大韓帝国の近代化への意志を表すため、洋館の建築

た。それが最初のアメリカ公使館となった。

に積極的に取り組んだ。伝統的な様式の正殿・中和殿が、伝統

外国人が集まり住むようになると、新しい風景も生み出さ れた。米国公使館の隣には、米国北長老教会と米国北メソジス

の権威の象徴だとすれば、新しく取り入れられた西洋風の建物 は近代を象徴し、皇帝の宮殿を華やかに彩った。

ト監督教会の宣教地が設けられた。その宣教師が運営する培材

そうした建物の中で、現在の米国大使官邸に近い重明殿

学堂、梨花学堂、儆新学校など近代的な教育機関や病院も開設

は、皇帝の書斎として造られたものだ。1901年の火災以降、２

された。華やかな洋風の建物だけでなく、珍しい西洋の物品を

階建ての洋館として再建された。1904年４月の慶運宮大火災の

1

2. アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレン（右か ら４人目）の招きで各国の公使がアメリカ公使館で会 議をした後、撮影した記念写真（1903年）。アメリカ 公使館は、貞洞に設けられた最初の外国公使館で、他 の国とは違い伝統的な韓屋を用いた。 3. 1920年に出版された『李王家記念写真帖』の高 宗。高宗は、海外列強による内政干渉の中、自主的な 近代国家建設に努めたが、1907年に日本によって強制 的に退位させられた。1907年の純宗の即位後に断髪し ている。 6 KOREANA 春号 2019

2

© 国立古宮博物館

1. 1911年に完成した石造殿の１階中央ホールで、日 本の官僚と写真を撮る英親王（前列中央）。英親王 （李垠、1897～1970）は、大韓帝国最後の皇太子。 石造殿は、高宗が高官や大臣、外国使節に会うために 用いられた。その後、日本統治時代に美術館、終戦後 には米ソ共同委員会の会議場として使われた。2014年 に元の姿に復元され、大韓帝国歴史館になっている。

列強の公使は、日本の保護国になっ た大韓帝国を去り、外交タウンだっ た貞洞も衰退し始めた。高宗は新し い皇宮・慶運宮を貞洞に建て、外交 に力を入れたが、期待していた列強 の支援は全くなかった。

後は、高宗の日常的な生活の場として使われた。1905年９月、 アジアを訪れる中で大韓帝国にも立ち寄った米国セオドア・ル ーズベルト大統領の娘アリス・ルーズベルトも、この建物の２ 階で高宗に謁見し、１階で洋式の昼食をもてなされた。当時、 高宗は大韓帝国へのアメリカの支援を期待し、アリス・ルーズ ベルトを手厚く迎え、この建物の廊下で撮った自分の写真を贈 った。しかし、アメリカは桂・タフト協定によって日本への支 持を決めていた。 一方、日本統治時代に取り壊された惇徳殿は1902年、高宗 の即位40周年の式典を国際的な行事にしようと、外賓の接待用 に建てられたものだ。結局、式典は中止されたが、ルネサンス とゴシックの様式を融合させた２階建ての洋館は、後に皇帝の 外国人接見や燕尾服姿の高官による社交の場として使われた。 現存する徳寿宮で最大の洋館は、石造殿。1900年にイギリ

3

© ソウル駅舎博物館

ス人の総税務司ジョン・マクレヴィ・ブラウンの発議によって 建設が進められ、上海で活動していたイギリスの技師ハーディ ングによって設計された。高宗は財政が厳しい中でも、大韓帝

イギリスの旅行家イザベラ・バードは、1897年出版のベストセ

国の近代性を示す雄大な新古典主義様式の石造殿に大きな期待

ラー旅行記『朝鮮紀行』で、ドラマチックに変わる街並みに驚

をかけていた。だが、ようやく完成したのは、日本の統治下に

きを表している。

置かれる直前の1910年６月だった。 ど、首都の道路が拡張された。そして、初めて市民のための公

外交戦略の中心地

園も設けられるなど、都市改造事業も進められた。駐米公使館

教の宣教師、西欧出身の外交官や旅行家などと幅広く接触

で働いていた漢城判尹（漢城の行政・司法を司る官職）イ・チ

し、誰よりも早く西洋の文物と情報を取り入れた。また、宮

ェヨン（李采淵）が、アメリカのワシントンD.C.をモデルに新

殿に電気と電話を引き、コーヒーとシャンパンを楽しむな

しい都市計画を立てた。電車、電気、電話、水道などの都市基

ど、西洋の生活文化にも親しんでいた。ドイツの皇帝と同じ

盤施設を整える事業は、高宗が内帑金（手元金）を出資した漢

ような服装で各国の外交官に接見し、西洋式の宴会やフラン

城電気会社が担当した。最初の電車は1899年、西大門（ソデム

ス料理でもてなした。

大韓帝国の時代、慶雲宮を中心に放射状に道が造られるな

高宗は1880年代に開化政策を進めた当時から、キリスト

ン）から清凉里（チョンニャンニ）まで東西を結ぶ形で開通し

高宗は、宮殿での外国人接待のため、駐韓ロシア公使の親

た。電車の登場は、アジアでは京都に次いで２番目と東京より

戚のドイツ系女性アントワネット・ソンタグを雇用した。彼女

も早く、多くの関心を集めた。1900年には都心の鍾路の通りに

は、高宗から下賜された貞洞の土地にソンダクホテルを建て

街灯がともされ、夜の街を明るく照らした。朝鮮を４回訪れた

て営業を行った。高宗は近代化政策を進めるため、政府機関の

韓国の文化と芸術 7

大韓帝国は国際条約においても1899年に万国郵便連合に加 盟し、1903年にはジュネーヴ条約の加盟国となった。国際紛争 の平和的な解決を図るために世界各国の代表が集まった1899年 の第１回ハーグ平和会議には参加できなかったが、1902年２月 には大韓帝国名義の参加申請書を提出し、日本による国権侵奪 に備えた。 日露戦争が勃発する直前の1904年１月21日、大韓帝国は中 国のチーフー（芝罘、現在の煙台市）で世界に向けて中立宣言 を打電した。この宣言は、高宗の腹心イ・ヨンイク（李容翊） が指揮し、宮内官がフランス語教師のエミール・マルテルとベ ルギー人顧問の協力の下、宮殿で作成したといわれている。中 立宣言文をフランス語に翻訳したのは、駐韓フランス公使館の 代理公使ヴィコント・ド・フォントネーで、チーフー駐在のフ 1

ランス副領事がそれを打電した。しかし、この戦時中立宣言に

2

もかかわらず、日本はロシアとの開戦に踏み切ると同時に、朝 鮮半島に数万人を派兵して不法に軍事占領した。国際社会は、 日本の国際法違反行為を黙認した。 イギリスは第２次日英同盟によって、アメリカは桂・タ フト協定によって、むしろ日本を支持した。アメリカのルー ズベルト大統領は、日露の講和を仲介するために両国代表を 自国のポーツマスに呼び、そのポーツマス平和条約によって 1906年、アメリカ人として初めてノーベル平和賞を受賞し た。日露戦争で勝利した日本は、アメリカ、イギリス、ロシ アから大韓帝国に対する権利を承認され、1905年11月に大韓 帝国に保護条約の締結を強要した。高宗は最後まで条約を承 認せず、日本の特派大使だった伊藤博文が大韓帝国政府の各 大臣を脅迫したため、この条約は国際法上無効に当たる。し かし、日本は急いで国際社会に条約を公布し、大韓帝国を保

© 韓国コンテンツ振興院

護国とした。

国権侵奪の現場

高宗が慶運宮にある重明殿で伊藤博文から保護条約の締結

高位顧問官から電気、電車、電信、鉱山、鉄道の技術者まで約

を強要された当日、宮殿と塀を挟んだ米国公使館の副領事ウィ

200人の西洋人を雇用した。彼らは大韓帝国政府の諮問に応じ

ラード・ストレートは、重明殿の前庭が銃剣を持った日本兵

て、西洋の制度や文物を伝えた。だが、それぞれ自国の利害を

で埋まっていたことをはっきりと目撃している。しかし、保護

代弁し、互いに競争する関係でもあった。彼らはほとんどが貞

条約が発表されると、アメリカは最も早く公使館の閉鎖を決め

洞に住み、外交官や宣教師と共に大韓帝国の外国人コミュニテ

た。その他の公使館も、保護条約の締結と同時に、直ちに引き

ィーを形成していた。

上げることを決めた。その中で、ロシアと軍事的な同盟関係だ

当時、近代国際社会の一員になるため外交に多くの努力が

ったフランスは、最も遅く公使館を閉鎖した。列強の公使は、

払われ、貞洞が公式・非公式の対外活動の中心となった。朝鮮

日本の保護国になった大韓帝国を去り、外交タウンだった貞洞

王朝は1887年、アメリカのワシントンD.C.に初めて常駐外交官

も衰退し始めた。高宗は新しい皇宮・慶運宮を貞洞に建て、外

を派遣し、ロシア、フランス、イギリス、ドイツなどヨーロッ

交に力を入れたが、期待していた列強の支援は全くなかった。

パの国々に特命全権大使を送って、常駐外国公館を設置した。

貞洞は、「国力が弱ければ列強に頼る」外交では独立主権を守

また高宗は1896年、側近のミン・ヨンファン（閔泳煥）をロシ

れないという厳しい国際社会の現実を如実に物語っている。

アのニコライ２世の戴冠式に特使として送り、1897年にはイギ リスのヴィクトリア女王の即位60年式典にも派遣した。

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それにもかかわらず、高宗は国際社会に訴え続けた。アメ リカとロシアに特使を派遣し、親書を送って支援を訴えた。保

護条約が強圧的に締結されたため、国際法上無効だと主張した

位を強要した。高宗が望まないにもかかわらず、皇太子への譲

が、列強は目を向けなかった。高宗は、駐韓米国公使だったホ

位を求めた場所も重明殿だ。大韓帝国の最後の皇帝として即位

レイス・ニュートン・アレンを通じて、アメリカが列強と共に

した純宗（在位1907～1910）は、日本によって朝鮮王朝時代の

朝鮮半島問題に介入するよう要請したが、返事はなかった。ま

宮殿である昌徳宮に移り住むことになる。退位を強いられた高

た、高宗は信任していたアメリカの宣教師で教育者のホーマー

宗だけが、徳寿宮と名前が変わった慶運宮に残り、幽閉生活の

・ハルバートを通じて、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシ

中で1919年に逝去した。その高宗の葬儀は、国を取り戻すため

ア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国の

の民衆の大規模なデモにつながった。

９カ国の元首に親書を送ろうとし、大韓帝国の問題をハーグの

これにより、大韓帝国の誕生と共に新しい皇宮として造営

常設仲裁裁判所に提訴しようとしたが、全て失敗に終わった。

された慶雲宮は、住む者を失った。日本は、宮殿の敷地を大幅

高宗は最後に、1907年に開かれた第２回ハーグ平和会議に

に縮小して多くの殿閣を取り壊した。高宗が生活していた重明

特使を派遣した。高宗とその腹心が重明殿で、イ・サンソル

殿は、外国人のための社交クラブとして貸し出された。外賓接

（李相卨）、イ・ジュン（李儁）、イ・ウィジョン（李瑋鍾）

待のための洋館だった惇徳殿は、撤去された場所に子供のため

の３人による平和会議特使団の派遣について話し合った。ロシ

の公園が造られた。日本は1930年代、徳寿宮の公園化事業を進

アを経てハーグに到着した大韓帝国特使団は、44カ国が集まっ

める際、中和殿や石造殿などいくつかの殿閣だけを残して、多

た平和会議に参加できなかったが、会議を取材する世界のメデ

くの建物を取り壊した。大韓帝国の自主権と国の品格は、日本

ィアに向けて日本の不法な国権侵奪を訴え、大韓帝国の独立を

によって根底から傷つけられ、貞洞の時代も幕を下ろした。

支持するよう働きかけた。しかし、列強は再び大韓帝国の問題

貞洞は、近代国家に向けた大韓帝国の夢と挫折に彩られて

から目を背けた。ただ、ハーグで大韓帝国特使団を支援したア

いる。だが、その歴史の現場は今や西洋人の街ではない。それ

メリカ人のホーマー・ハルバートは、最後まで韓国を愛した人

から100年後、グロバール・メガシティーになった韓国の首都

物として、後にソウルの楊花津（ヤンファジン）外国人墓地に

ソウルで、由緒ある中心地となっている。貞洞は現代の韓国人

葬られた。

にとって、賑やかな都心にあっても、古い宮殿の石垣に沿って

日本は1907年７月、ハーグへの特使派遣を口実に高宗に退

静かな趣を感じさせる散策路として有名だ。

© getty images

3

1. 重明殿は1899年、皇室図書館として建て られたが、1904年から高宗の執務室と日常生 活の場として使われた。重明殿で1905年、日 韓保護条約（第二次日韓協約）が結ばれ、日 本によって大韓帝国の外交権が奪われた。現 在、徳寿宮の西側の離れた場所にある。 2. 日本の歴史学者・小田省吾が、1938年に 出版した『徳寿宮史』に収録されている重明 殿。1925年の火災後の改修によって、２階部 が大きく変わっている。

3. 徳寿宮の石垣道は、賑やかな都心にあって も静かな趣を感じさせる散策路として有名。 左側が徳寿宮の裏門につながる道、右側がア メリカの大使官邸。 韓国の文化と芸術 9

三・一運動の起点、塔谷公園 大韓帝国が市民のために造ったソウル鍾路の塔谷公園。今では高齢者の憩いの場として有名だが、 朝鮮の民衆が1919年３月１日、日本の国権侵奪に抵抗する挙国的な独立運動を始めた場所でもあ る。全国各地でおよそ２カ月にわたって非暴力デモが行われ、日本の武力鎮圧によって多数の犠牲 者が出た。多くの人が拘禁されて辛酸をなめたが、市民が歴史の主人公である民主共和制の起点と なった。また、植民地支配下にあったアジアの国々の民衆運動にも影響を及ぼした。

1

「万民共同会」という民衆集会が1898年、独立協会によって鍾路

（チョンノ）で何度か開かれた。1894年の甲午改革によって身分制

度が廃止され、白丁（ペクチョン、朝鮮時代の被差別民）出身でも演 説できるほど社会の認識が変わったためだった。集まった人たちは、 皇帝の居所である慶運宮の正門前に押しかけ、数回にわたって上訴し た。塔谷（タプコル）公園は、そうしたときに人が集まる場所だった のだろう。

市民のために開かれた空間

塔谷公園は、高宗（在位1863～1907）が1896年から積極的に進め

た都市改造事業の一環として、多くの人が集まる鍾路に市民のための 空間として造られた。この公園の敷地は、円覚寺址を民家が取り囲ん

10 KOREANA 春号 2019

2

© 韓国コンテンツ振興院

でいた場所で、今でもその寺の塔が残っている。公園の名前も、その

塔に由来している。高宗は、1902年の即位40周年記念行事を大々的に 準備する中で、塔谷公園に八角亭を建てた。その八角亭で、市民のた めの洋楽演奏会が韓国で初めて開かれた。

ドイツ人のフランツ・エッケルト（1852～1916）は、皇帝の即位

40周年記念行事のために侍衛連隊軍楽隊の指揮者として招かれ、楽隊 を指導して皇帝の誕生日に演奏した。その際、ドイツから買い入れた アーチ型の公演舞台を設置し、定期的に洋楽演奏会も開いた。この定 期演奏会には、西洋の国歌や民謡をはじめ、韓国初の国歌『大韓帝国 愛国歌』も演奏された。

『大韓帝国愛国歌』は、フランツ・エッケルトが1902年に皇帝の命

により作曲したもので、西洋式の音階とリズムに韓国的な情緒が盛り

込まれている。この曲は祝日、皇室の行事、学校などで演奏され、太

って大衆的な民族運動に発展した。

トは、その功によって大韓帝国の勲三等太極章を授与され、死後ソウ

して近代のもう一つの歴史を開く広場になった。階級社会から抜け出

皇帝を助け、この世に権勢を永遠ならしめたまえ」という内容で、大

であり、抗日独立運動が始まった場所でもある。その影響で、同年４

極旗と共に大韓帝国の臣民の愛国心を鼓舞した。フランツ・エッケル ル楊花津（ヤンファジン）の外国人墓地に葬られた。「上帝（神）は 韓帝国が1910年に日本によって強制的に併合された後は禁止曲になっ た。しかし、その後もハワイ、中国、ロシアなどに亡命した独立運動

ソウルで初めて市民のために造られた近代式の塔谷公園は、こう

し、近代的な市民として歩み始めた民衆が、大衆演説会を開いた公園 月に中国・上海に大韓民国臨時政府が建てられた。

家の間で、歌詞と旋律が少しずつ変わりながら歌い続けられた。

幽閉された皇帝の葬儀

高宗は日本によって強制的に退位させられ、徳寿宮（以前の慶雲

宮）に幽閉された後、1919年１月21日に急逝した。日本に監視されて いた高宗の突然の死を巡って、日本による毒殺説が広がった。３月３ 日に予定されていた葬儀に参加するため、全国各地から多くの人が京 城（現在のソウル）に押し寄せた。

３月１日に高宗の大輿（国葬に使う駕籠のような輿）を運ぶ予行演

習が行われた。その日、京城医学専門学校の学生ハン・ウィゴン（韓 偉健）が塔谷公園の八角亭に上がって、学生代表として「独立宣言

書」を朗読した。それに続いて、数多くの公立・私立学校の学生が大 々的な抗日デモに参加した。追悼のために徳寿宮の正門前に集まって いた人たちも、学生のデモ隊に合流して「大韓独立万歳」を叫んだ。 これが、日本統治時代に最も大規模（全国各地）で激しかった三・一 運動の始まりだ。三・一運動は、海外からの亡命者、留学生、宗教指 導者など知識人を中心に進められたが、学生のデモや市民の参加によ

1. 1919年１月21日に逝去した高宗の葬列。日 本による毒殺説が広がり、三・一運動の導火線 になった。

2. フランツ・エッケルトが、大韓帝国侍衛連 隊の軍楽隊と塔谷公園の八角亭で演奏会を終え た後、撮影した記念写真（1902年）。前列中 央で中折れ帽をかぶっているのがエッケルト。

3. 三・一独立宣言書は1919年３月１日、民族 の代表33人が朝鮮の独立を宣言した文書。同日 正午の塔谷公園での宣言書朗読から、全国的な 万歳運動が始まった。

3

© 独立記念館

韓国の文化と芸術 11

植民地近代化の象徴、群山 日本は、朝鮮一の穀倉地帯である湖南（全羅道）で生産された米を日本に運ぶため、群山港を積極 的に活用した。そのため、群山は日本による経済的収奪の現場になったが、皮肉にも植民地近代化 を象徴する都市でもあった。

全羅北道最大の港・群山（クンサン）は、美しい川筋に沿って、肥

えた田畑が限りなく広がっている。その群山は日本統治時代、代表的

1

な米の搬出港だった。朝鮮から日本への米の輸出は、1876年の日朝修 好条規によって始まった。それは、米や雑穀の無制限輸出入と無関税 貿易という一方的な不平等条約だった。後になって問題の深刻さに気 づいた朝鮮は、条約を改正してようやく穀物輸出禁止令を出したが、 日本はそれに対して何度も抗議して賠償金を要求した。

朝鮮が輸出した米は、日本の新興工業地域で働く労働者の安価な食

糧になった。日本はそうした労働者が工場で大量に生産した機械製綿

布を朝鮮に輸出した。このようにして開港から日本統治時代まで約30 年にわたり、韓国と日本で農産品の米と工業製品の綿布を交換する貿 易構造が形成された。そうした貿易構造は、朝鮮半島を日本の食糧倉 庫に、そして資本制度による商品市場に追いやった。

米収奪の現場

その結果、朝鮮では食糧が常に不足し、米の値段が跳ね上がった。

農家では、春窮期（食糧が足りない春）に青田売りで米を安く売り払 ってしまい、秋の収穫期にも米が不足していた。そのため貧農層や都 市貧民（零細商人など）は、物価の上昇によって生活がさらに苦しく

なった。1894年に湖南（全羅道）から全国的な抗争へと広がった甲午 農民戦争（東学党の乱）も、開港後の日本への米の輸出とそれによる 農民層の没落が背景にあった。農民軍は「外国の商人が勝手に内地に 入って、商行為をできないようにしてほしい」と訴えた。

大韓帝国政府は1899年、関税収入の増加を期待して群山を開港し

た。群山地域は朝鮮時代にも漕倉（税金として徴収した穀物の保管・ 輸送のための倉庫）があり、漕運（水運）の中心地だった。群山は開 港後の一時期、客主（仲買、宿泊）や商会社（客主の組合）などが栄 えていた。富国強兵と殖産興業を進めていた大韓帝国は、客主など一 部の商人に営業特権を与える代わりに、彼らの財政を頼りにした。群

© 群山近代歴史博物館

12 KOREANA 春号 2019

© 群山近代歴史博物館

2

山港で活動していた客主は、皇室の財政を司る宮内府に税金を払う代 わりに営業特権を得て、近代的な会社への発展を図った。

しかし日露戦争以降、日本は侵奪を露骨化し、大韓帝国の近代化政

策は中断した。日本の統監府が置かれ、日本人が本格的に朝鮮半島に 押し寄せ始めた。群山港の朝鮮人の客主は、組合や会社を立ち上げて 日本の商人に対抗したが、資金面で相手にならなかった。さらに、併 合後は総督府が客主を規制し、朝鮮人の商会社は群山港から消えてし まった。

その結果、群山港を拠点に錦江、万頃江、東津江流域では、多くの

土地が日本人の地主のものになった。その日本人農場で生産された米 穀が、日本輸出用として群山港に大量に集められた。さらに、周辺地 域で生産されて群山港に集まった米も、全て「群山米」と呼ばれた。

朝鮮総督府の統計によると、1914年の朝鮮の米輸出量のうち、群山が 40.2％、釜山（プサン）が33.5％、仁川（インチョン）が14.7％を占 めていた。

群山一帯は、かつて土地の８割が日本人の所有だったほど、日本人

大地主の農場が広がっていた。そうした日本人農場は藤本、大倉、三 菱など日本の大資本が介入して、利潤を求める企業型農場として運営 された。その結果、朝鮮人の小作農民は、そこで働くことになった。

近代の歴史遺跡

一方、群山は植民地近代化を象徴する都市でもあった。米を効率

的で速やかに搬出できるよう、早くから近代的な交通網が体系的に造

られた。韓国初のアスファルト道路（全州・群山間26番国道）が1908

3 © yeomirang

1. 群山港の第三次築港起工記念 の「米の塔」（1926年）。この 塔には、米800俵以上が使われ たという。1933年まで続いた工 事によって、米25万俵を保管で きる倉庫３棟が建設された。

2. 1910年代の群山港で、日本に 送る米を運ぶ役夫。日本は、韓 国の小作制度を利用して、米と 労働力を収奪した。1899年に開 港した群山は、穀倉地帯の湖南 （全羅道）の米を日本に運ぶ拠 点港になった。 3. 日本統治時代、１万人近い 日本人が暮らしていた群山の旧 市街地には、当時の日本家屋が 100軒以上残っている。そうし た家は現在、宿泊施設やカフェ などになっており、映画のロケ 地としても脚光を浴びている。

なぐ鉄道も建設された。その鉄道

は、主な日本人農場ごとに駅が設け られ、港まで米を運搬できるように した。また群山港は、潮の満ち引き が激しい西海岸の特性を考慮して、 浮き桟橋も設置された。港の周辺に は、朝鮮の米を日本人が好む白米に する精米工場が建てられ、造り酒屋 もできた。

今も群山地域には、歴史を物語

るものが数多く残っており、都市全 体が近代歴史博物館ともいえる。そ の中には、日本人が住んでいた高

級住宅、日本人のための寺院だった 東国寺、そして日本人が運営してい た朝鮮銀行と十八銀行などの建物が ある。また、日本統治時代には畳敷 きの映画館もでき、活動写真や演劇 が楽しまれていた。今でも毎日のよ うに観光客の行列ができる有名なパ ン屋「李盛堂（イソンダン）」も当 時、群山に住んでいた日本人の好み に合わせたものだった。

年に日本によって造られ、1912年には益山（イクサン）と群山港をつ

韓国の文化と芸術 13

特集 2 近代化への道－20世紀初頭の韓国

天才文人が残した 近代の遺産 近代という変革期は、社会全体とその構成員を荒波の ようにのみ込んだ。特に、日本の統治につながった朝 鮮半島の近代は、鋭い感性と知性を持つ文人にとって 過酷な時期だった。彼らは貧しい日常や病と闘いなが ら、それぞれの方式で時代を証言した。 ソン・ソクチェ 成碩済、小説家

1 1. 短編小説『夕立』（1933年）でデビューした 当時のキム・ユジョン（金裕貞）。農村を舞台 にユーモアと風刺の効いた小説を残している。 2. パンソリ（民族芸能）の名人パク・ノクチュ （朴緑珠、1906～1979）は1924年、コロンビ アレコードで初めてレコードを収録した後、多 くのレコード会社から数十枚のレコードを出し た。小説家キム・ユジョンが熱烈にアタックし た相手としても有名だ。

3. イ・サン（李箱）は1929年、京城高等工業学 校・建築科を首席で卒業し、建築家として活動 する一方、翌年には初の長編小説『12月12日』 を月刊誌に連載して文学活動を始めた。多くの 詩と小説を残し、自意識の強いモダニズム的な 傾向を見せた。 4. 詩『お姉様』（1926年）でデビューしたパク ・テウォン（朴泰遠）は、1930年代の代表的な モダニスト作家。初期には主に詩を書いたが、 1930年代から小説が中心になった。写真のパ ク・テウォンは当時、東京で流行していた髪型 （おかっぱ）をしている。 14 KOREANA 春号 2019

2

3

4

韓国の文化と芸術 15

国の伝統と文化には、常に笑いと風刺という

韓

「京城モダニスト」で、自分の人生をまとめた作品『終生記』

「金脈」があった。近代文学期にその黄金を

（1937）では「僕は稲を見たことがない」と述べている。また一

掘り出した稀有な小説家キム・ユジョン（金

時期、朝鮮総督府で建築家として勤務していたこともあり、京城

裕貞、1908～1937）は、豊かな大地主の２男６女の中で７番目

という都市空間と建築物を作品の素材とした。彼は朝鮮人として

に生まれた。彼の作品は、ほとんどが農村を舞台にしているた

の民族的な自覚が強く、日本に強い抵抗感を持っていた。そのよ

め、農村出身の土俗的な情緒を持つ作家だと思われることが多

うな意識は、日常的に韓服（伝統衣装）を好んで着ていたことか

い。江原道の春川に近い山裾のシルレ村で生まれたものの、実

らも分かる。妻のピョン・ドンニム（卞東琳）は、イ・サンに初

際には幼い頃からソウルで長く暮らしていたため、疾風怒濤の

めて会った時、栗色のトゥルマギ（外套）を着ていたと回想して

ような激情、浪漫、恋愛を経験した都会の文人とほとんど変わ

いる。また結婚当時、韓服を着ていると日本の警察官に尋問され

らなかった。好きな作品としてジェイムズ・ジョイスの『ユリ

ることをとても嫌っていたと話している。このような証言は、ボ

シーズ』（1922）を挙げ、走る車の中でロマンスを経験したこ

サボサの髪にパイプをくわえたデカダンスな姿、特有の奇異な行

とがあるとも告白している。

動、過激な逸脱とは程遠く感じられる。

キム・ユジョンとイ・サン（李箱、本名は金海卿、1910～ むように、ソウルで幼年期と青年期を過ごした。その二人を比

京城の若い芸術家

べると、興味深い点がいくつもある。

とがある。彼の父は、名門の両班（朝鮮時代の支配階層）の家

1937）は同じ時期に、ソウルの旧市街地に位置する景福宮を挟

キム・ユジョンも「朝鮮の服」を日常的に着ると話したこ

イ・サンは、大韓帝国が国権を失った年に、景福宮の西にあ

系で、景福宮の南東にある雲泥洞に100間もあるような広大な

る仁王山の麓、西村で生まれた。彼は1920～1930年代の京城（現

屋敷を構えて、春川とソウルを行き来しながら生活していた。

在のソウル）を風靡したモダニズムの絶頂を経験した典型的な

７歳の時に母を、９歳の時に父を亡くした後、ソウルの家の近 くにある斉洞公立普通学校を４年で卒業し、徽文高等普通学校

1

に入学した。その学籍簿には「家族11人、兄弟２人、財産５万 ウォン、性格は質朴、背は５尺」と記録されている。ほとんど の財産を相続した長兄は、この頃から散財し始めた。キム・ユ ジョンは、２年生の時に吃音矯正所に通い、落第して４年生に 進級できなかった。 徽文高等普通学校に在学中、後に有名なパンソリ（民族芸 能）の名唱（歌の名人）となるパク・ノクチュ（朴緑珠）に一 目ぼれしてラブレターを送り、熱烈にアタックした。パク・ノ クチュに拒まれると、その弟を通して自分の声を録音したレコ ードやプレゼントを送り続けた。自殺を図ったパク・ノクチュ が入院した病院を訪れて、プロポーズもした。しかしパク・ノ クチュは、自分は妓生（芸妓）で、キム・ユジョンは学生だっ たため、「私は男を信じないから、期待なんかしないで、帰っ てほしい」と言った。その翌日、パク・ノクチュの家の前に、 号泣するキム・ユジョンの姿があったといわれている。 彼は延禧専門学校（延世大学校の前身）の文科に入学した が、無断欠席して除名処分され、その後、普成専門学校（高麗大 学校の前身）に再び入学した。しかし失恋の後、ごろつきとみだ りに交わり、賭博や酒など好き勝手に暮らして体を壊してしま う。その結果、肋膜炎が肺結核に進み、療養生活を送る中、農村 の立ち遅れた環境を改善しようと夜学を開設して住民に教え始め た。失恋の絶望に加えて、慢性的な肋膜炎と痔が重なり、廃人の ような生活をしていたが、結局故郷に帰ることになる。その頃か © 金裕貞文学村

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ら小説を書き始め、高校時代の友人で小説家のアン・フェナム （安懐南）の手助けで、1993年に短編小説『山里の旅人』を文芸 雑誌に発表して小説家の道を歩むことになる。

1. キム・ユジョンは、1929年に高等 学校を卒業した後、上から２番目の姉 キム・ユヒョンと暮らした。写真左が キム・ユジョン、中央が姉のキム・ユ ヒョン、右が甥のキム・ヨンス。 2.『友人の肖像』 ク・ボンウン（具本雄） 1935年、キャンバスに油彩 62×50㎝

親しかった画家ク・ボンウンが描い たイ・サンの肖像画。イ・サンの反 抗的な内面と気質が、うまく捉えら れている。

© 国立現代美術館

2

疾風怒濤の激情

中央日報に連載された時、挿絵を描いている。また、パク・テ

イ・サンは、画家ク・ボンウン（具本雄）、小説家パク・

ウォンの結婚披露宴の芳名録の１ページ目には、結婚後なかな

テウォン（朴泰遠）と生涯、友人であり続けた。特に、隣町で

か会えなくなることを心配して「面会拒絶は絶対反対」と記し

生まれ育ったク・ボンウンとは「せむしの画家」と「肺病の

た。パク・テォンは、イ・サンを主人公にした小説『愛欲』

変わり者詩人」とで仲が良く、有名でもあった。イ・サンとい

（1934）も残している。

うペンネームをつけたのも、妓生のクムホンに出会ったのも、

イ・サンとパク・テウォンは、1933年にソウルで作られた

喫茶店「チェビ（ツバメの意）」を開いたのも、職場を得たの

文学団体「九人会」のメンバーとして共に活動した。九人会と

も、全てク・ボンウンのおかげだった。パイプをくわえたイ・

いう団体名は、メンバーが何度か変わっても常に９人だったこ

サンを描いた『友人の肖像』の作者もク・ボンウンだ。イ・サ

とに由来する。理念にとらわれない純粋な芸術を求めたこの団

ンの妻ピョン・ドンニムは、ク・ボンウンの継母の妹だった。

体には、優れた中堅作家と最高の新人作家が参加したため、文

その妻は、後に画家キム・ファンギ（金煥基）の妻になって、

壇でも認められた。結局３～４年で解散してしまうが、それぞ

キム・ヒャンアンに改名する。

れ個性的な創作活動を通じて、近・現代文学史において豊かな

イ・サンは、小説家パク・テウォンとも親友だった。パク

土壌となった。

・テウォンの中編小説『小説家仇甫氏の一日』（1934）が朝鮮

韓国の文化と芸術 17

貧困と肺病の中で

ち切られた詩『烏瞰図』（1934）、何もすることがなく退屈

キム・ユジョンは、日本によって夜学が強制的に閉鎖され

な日々を送る主人公を通して、近代の知識人の矛盾した自意

てから仕事がなくなり、病状も再び悪化して、いたずらに時間

識を描いた短編小説『翼』（1936）などが挙げられる。日本

を過ごすようになった。相続した財産がほとんど底をついたた

統治時代を生きる知識人の不安定な内面に踏み込んだイ・サ

め、叔父や姉の家を転々としていた。その頃、ソウルに住んで

ンと、農村社会の疲弊した現実を主な素材にしたキム・ユジ

いた２番目の姉は食堂に、キム・ユジョンは創作にそれぞれ専

ョンの作品世界は、大きく異なる。それでも二人は、互いの

念するようになる。アン・フェナムに励まされながら原稿を書

芸術の心を理解していた。さらに、イ・サンはキム・ユジョ

き、生計を立てるという覚悟で努力を重ねた。

ンを素材にした短編小説『キム・ユジョン』（1936）を残し

彼はデビューから２年後の1935年１月、朝鮮日報と朝鮮中

ている。その小説の中で「帽子をポイっと投げ捨て、トゥル

央日報の新春文芸にそれぞれ『夕立』と『大当たり』が選ば

マギもマゴジャ（重ね着する上着）もサッと脱ぎ捨て、両袖

れ、一躍文壇の注目を集める新人作家になった。そして、九人

を捲り上げて拳では敵の頬を、足では敵のまたぐらを撃破す

会に入ったキム・ユジョンは、既存のメンバーだったイ・サン

るも、勢い余って尻もちをついてしまう希有の闘士がいる。

と知り合う。二人は共通点が多かった。まずイ・サンは、天罰

キム・ユジョンだ」と述べている。

でも下ったかのような肺結核に常に苦しめられており、キム・

キム・ユジョンは1936年の春、病状が悪化した際、医師か

ユジョンも同じ病気を患っていた。キム・ユジョンが幼く両親

らこの秋を越せないと宣告されても、酒を飲み続け、連日徹夜

を亡くしたように、イ・サンも叔父のところに養子に出され

で原稿を書く生活を続けた。その後、夏にはソウルの貞陵の近

て、実の親と離れて暮らしていた。また、二人とも貧困にあえ

くにある山の庵で療養した。酒とタバコをやめ、規則正しい生

いでいた点などから、絆を感じるようになった。

活をすると、病状は一時好転した。その時、イ・サンはキム・

イ・サンの代表作としては、朝鮮中央日報に連載された

ユジョンを訪ねて、心中を持ちかけたといわれている。しか

ものの、あまりにも難解だと読者から非難を浴びて連載が打

し、キム・ユジョンは胸をはだけて、骨と皮だけになった胸を

© 金裕貞文学村

18 KOREANA 春号 2019

月刊誌『朝光』（1935年12 月）に発表したキム・ユジョ ンの短編小説『春春』（左） は、小作人の婿養子と義父と の葛藤を喜劇的に描いた小 説。その後、同誌（1936年 ５月）に発表した『椿の花』 （右）では、思春期の少年少 女の心理をユーモラスに描写 している。

日本統治時代を生きる知識人の不安定な内面に踏み込んだイ・サンと、農村社会 の疲弊した現実を主な素材にしたキム・ユジョンの作品世界は、大きく異なる。 それでも二人は、互いの芸術の心を理解していた。

見せ、「明日への希望が、メラメラと燃え上がります」と断っ

と呼ばれる盛り上がりが中心になっている。彼の短編小説の登

た。イ・サンは、苦しそうに息をするキム・ユジョンを見つめ

場人物は、ほとんどが実在の人物をモデルにしており、小説の

「僕は日本に行きます」と別れの挨拶をすると、キム・ユジョ

舞台も当時の人口の大部分を占めていた農村だ。そのため、当

ンは大泣きしたという。

時の様子が目の前に広がっているように感じられる。

致命的な病に苦しみながらも、キム・ユジョンは２～３年

彼の小説は、1930年代の日本統治下の農村社会の暗い現実

間、まさに残りの命を燃やすように創作に没頭した。その結

を顕微鏡のように描写する自然主義的な細密画だ。叙述は戯画

果、短編小説約30編、随筆約20編、長編小説１編、翻訳本１

的で土俗的だが、その中心には、生きるためには最低限の倫理

冊を残した。彼は1937年３月18日、アン・フェナムへの手紙で

さえ投げ捨てざるを得ない支配下の朝鮮社会、さらにその大部

「僕は日々消えていく。もう、うまく起き上がれなくなってい

分を占める農村の悲惨な現実がある。

る。夜には不眠症で、つらい時間を恨みながら横たわってい

『春春』は単純な恋愛小説ではなく、小作管理人と小作人

る」と切迫した状況を述べている。それでも「僕は本当に立ち

の搾取関係が背景にあり、『金を掘る豆畑』は一見ユーモラス

上がりたい。今の僕は、病魔と最後の談判をしている。今すぐ

だが、友達や夫婦が殴り合いのけんかをし、一向に良くならな

お金が必要だ。そのお金がないのだ。僕は100ウォンをこしら

い絶望的な現実を描いている。『夕立』では、夫が賭博に必要

えてみようと思う。友人のことを思って、どうか助けてほし

な金を得るため、村の有力者に対して妻が売春するように勧め

い」と生への執着を見せた。

ている。

キム・ユジョンは、そのお金で鶏と蛇を買い込んで、煮込

『太陽がぎらぎら』では、難病を治してお金までくれるとい

んで食べようとしていた。そうした回復への切実な思いを見せ

う噂だけを信じて、夫は病気の妻を背負子で担いで家を出る。

たが、返事を受け取る前の３月29日早朝にこの世を去った。そ

だが、妻のお腹には亡くなった赤子がいるという診断を受け

して、約20日後の４月17日に、イ・サンも東京の病院で肺結核

る。さらに、病気を治すのになぜ金がもらえるんだと病院から

によって息を引き取った。イ・サンの肺を診断した日本人の医

言われ、家に帰っていく物語だ。死んでもお腹を切ることはで

師は「この患者には、肺と呼べるようなものがほとんど残って

きないから、早く家に帰ろうという妻は、借りた米と洗濯の心

いない」と話したという。不遇な二人の天才作家は、20代とい

配をし、夫はそれを遺言のように聞きながら、ギラギラと照り

う若さで次々と他界した。

付ける太陽の下、再び妻を背負子で担いで黙々と歩いて帰る。

日本統治時代、農村と都市の下層の現実

が描かれている。治る見込みのない肺病によって喀血しなが

キム・ユジョンの主な作品としては『金を掘る豆畑』、

ら、小さな部屋で一文字一文字、鉛筆で原稿用紙を埋めていっ

『春春』、『椿の花』が挙げられる。この３作品にはユーモア

た作家の状況を思い浮かべると、とても切なくなる。彼の作品

の要素が多く、魅力的な方言と土俗的な単語がうまく調和して

に表れているユーモアは外形に過ぎず、本質的には当時の農村

いる。予想外の展開とどんでん返し、猥談と俗語をうまく用い

と都市の下層の人々の悲惨な現実が反映されている。そのよう

ることで、誇張と滑稽、愚かに見えるとぼけぶりの裏で、そこ

な現実を生きる作家にとって、その悲惨さや残酷さこそ、命を

に隠された賢明さと鋭い風刺を表現している。何よりも文章が

賭けて掘り出すべき「金脈」だった。キム・ユジョンは、誰よ

面白く、当時の田舎の風景に密着した目線で生き生きと叙述し

りもよく知っていたのだ。

ている。

その他の作品にも、当時の悲惨な生活と悲劇的な社会状況

「あなたは、この世に何を残したいですか」という雑誌の

キム・ユジョンは生前、パク・ノクチュの主なレパートリ

インタビューに、彼は「そうですね。色々ありますが、おそら

ーだった『興甫歌』と『春香歌』の台詞を暗唱できるほど好ん

く結核菌以外には何も残らないんじゃないでしょうか」と答

で聞き、寝ている間もユクチャペギ（全羅道の民謡）を聞くの

えた。しかし、満月のように「フワッと空高く浮かび上がり、

が嫌ではないと話していた。彼の小説には、パンソリの豊かな

そこで一生老いていきたい」と話したこともある。その言葉通

ユーモアと音楽性が溶け込んでいる。文章や台詞も口語体を超

り、彼の作品は鮮やかに輝く満月となり、韓国近代文学の地平

えて「口演体」とでもいえるほどで、「興」や「シンミョン」

を明るく照らしている。

韓国の文化と芸術 19

には、同じようにやることのない人た

ちがお茶を飲んだりタバコを吸いな がら、話したり音楽を聞いたりしてい た。ほとんどは若者で「薄暗くまだら な明かりの中、それぞれの憂鬱と苦悩 を訴えている」ように見える。仇甫は 頭の上にかかっているある画家の絵を 見て、西洋かせめて東京にでも行く金 さえあれば、きっと幸せになれるだろ うと考える。 1

喫茶店）。店主は画家で、２階はアト リエ、１階は喫茶店として使われた。 毎週金曜日にはビクターレコードの新

仇甫（クボ）は今日も正午に、相も変わらず大学ノートとステッキを手 に家を出る。「別に行くあてもない」彼が翌日の深夜、家に帰るまでの 道のりを描いたパク・テウォン（朴泰遠、1909～1986）の中編小説『小 説家仇甫氏の一日』は、メタフィクションの性格を帯びた自伝的作品と して広く知られている。パク・テウォンは1909年にソウルで生まれ、朝 鮮戦争中の1950年に北朝鮮に渡って創作活動を続けた後、1986年に亡く なった。この小説は1934年８月から約１カ月間、朝鮮中央日報に連載さ れた。その挿絵は、パク・テウォンと共にモダニズム文学を リードした詩人イ・サン（李箱、1910～1937）が描いてい る。パク・テウォンと仇甫の内面世界が交差する道筋に沿っ て、当時のソウルの近代的な都市風景をたどる。 日も、そんな母の心配をよそに家を出

り返してきて朝鮮銀行の前で降りて喫茶

て和信商会（1931年創業の韓国初の百

店に入る。午後２時の喫茶店には、同じ ようにやることのない人たちがお茶を飲 んだりタバコを吸いながら、話したり音 楽を聞いたりしていた。

植民地都市の憂鬱な青春

仇甫の母は、東京に留学までした

る。行くあてもない彼は、線路を渡っ 貨店、当時の京城で最も高い建物）を じっと見つめて中に入る。そこでエレ ベーターを待つ子連れの若い夫婦を目 にして、うらやましく思う。ふと自分 はどこで幸せを見付けられるのかと自 問する。

鍾路の通りに出た仇甫は、行くあ

のに、26歳になるまでまともな職に

てもなく電車に乗って東大門まで行

子がとうてい理解できない。仇甫は今

りて喫茶店に入る。午後２時の喫茶店

就けず、結婚もせずに物書きをする息

20 KOREANA 春号 2019

き、折り返してきて朝鮮銀行の前で降

2 3

曲を流し、画家の個展や詩人の出版記 念会も開かれたため、多くの芸術家が 集まった。パク・テウォンも参加した 純文学の小さな集まり「九人会」の会 員にとってもアジトだった。

金を追う者

店を出た仇甫は、京城府庁の方へ

歩いていき、徳寿宮の大漢門を見つめ

© 韓国コンテンツ振興院

鍾路の通りに出た仇甫は、行くあて

の近くにあった楽浪パーラー（1931年

開店、京城で初めて韓国人が経営する

小説家・仇甫と 1930年代のソウルを散策

もなく電車に乗って東大門まで行き、折

仇甫がコーヒーとタバコを頼んだ

喫茶店は、現在の小公洞で朝鮮ホテル

て「貧弱な昔の宮殿は、人を憂鬱な気

「前面がガラス張りで異色」なこの喫

人たちの中しばらく呆然とする。そし

ッキングにハイヒールを履いて鍾路を

分にさせる」と考え、忙しく行き交う て、普通学校時代の友人に偶然会って 喜ぶが、みすぼらしい格好の友人が冷 たく挨拶だけして去ってしまうと、残 念で寂しく思う。

仇甫は気晴らしのため、人が集ま

茶店で、客はお茶を飲みながら、スト 行き交う女性を窓越しに眺めていたと いう。仇甫は、そこで友人を待つ間、 東京留学中に恋した女学生のことを思 い浮かべる。

喫茶店を出て、友人とソルロンタ

る京城駅の待合室に足を運ぶ。しか

ン（牛の肉や骨を煮込んだスープ）を

い」人波の中で、老いて病んだ女性、

再び一人で歩く。10歳の子供は春の歌

し「人の温情など誰からも感じられな 地方から来た商人、他人を探るような 怪しい男を目の当たりにし、乖離と悲 しみを感じて、かえって大きな孤独を 募らせる。彼は、評論家や詩人のよう な文人でさえ一攫千金を夢見る「黄金

狂時代」に生きているという事実を思 い起こす。そこでも中学校時代の同級

食べてから別れた後、光化門の通りを を歌い、二人の酔っぱらいは肩を組ん で愁心歌（悲しい旋律の韓国民謡）を 歌いながら、そばを通り過ぎる。角帽 をかぶった学生と若い女性が肩を並べ て通り過ぎると、仇甫は二人の愛を祝 福する。

街で友人の甥に出会った仇甫は、

生に偶然会うが、質屋の息子で教養な

スイカを買い与えて、再び友人との待

と一緒にいるのを見て、二人が肉体と

かう。その途中、電報を配達する郵便

ど全くない。その同級生が美しい女性 金銭を交換して、それなりの幸せと快 楽を分かち合っていると決め付ける。

その後、詩人で新聞社の社会部で

記者をしている友人に電話をかけて、 喫茶店で会う。その友人は、金のため

に毎日強盗殺人や放火の記事を書いて いるとぼやいて、仇甫の小説について

ち合わせ場所である楽浪パーラーに向 の自転車を見て、自分宛ての１枚の電

報を手に感動したいという衝動を感 じる。それから、数千枚の葉書を買っ て、喫茶店の隅のテーブルで友人に手 紙を書く自分の姿を想像して、しばし 悦に入る。

4 1. 朝鮮中央日報に1934年８月から連載されたパク・テウォンの中 編小説『小説家仇甫氏の一日』に、詩人イ・サンが描いた挿絵。

2. 小説に登場する和信商会は1931年創業で、韓国初の近代的な百 貨店。現在の鍾路の交差点にあったが、1987年に道路の拡張に伴い 撤去された。 3. 京城駅（旧ソウル駅舎）は、1900年に10坪ほどの木造建築で建 てられたが、利用客の増加によって1925年に地下１階、地上２階へ と建て替えられた。当時は、東京駅と共に代表的な大型建築物だっ た。2003年には高速鉄道の駅舎が新築され、旧ソウル駅舎は公演 や展示会を開催する複合文化空間として使われている。 4. 東京美術学校を卒業した画家イ・スンソク（李順石）が、1931 年に開店した楽浪パーラーは、現在の小公洞で朝鮮ホテルの近くに あった。京城（現在のソウル）のモダンボーイがよく訪れるアジト でもあった。

も論評する。二人はジェイムズ・ジョ

深夜の鍾路の街

店を出る。その友人は、すぐに夕食の

イオリニストのミッシャ・エルマン

酒不感症」。仇甫は、それがある種

込む。仇甫は、その友人が生活を持っ

スキーの「感傷的なワルツ」を静かに聞

状はそれぞれ違っても、世の中の全

イス（1882～1941）の話をしてから

ために家に帰ると言って、電車に乗り ているから自分とは違うと理解しよう とする。

黄昏の孤独

仇甫は、寂しさを感じつつ鍾路の

交差点の辺りをぶらつき、鍾路警察署 の前を通り過ぎて、小さな喫茶店に入 って店主を探す。店主は友人だ。店主

仇甫は喫茶店に入り、隅の席でバ

（1891～1967）が演奏するチャイコフ

く。その時、店で仲間と高価なビールを 飲んでいた生命保険会社の外販員が、彼 に気付いて同席を勧める。仕方なく一緒

店を出ると深夜２時の鍾路の街

どその時、ドアを開けて友人が入ってく

ふと仇甫は、寝るに寝られず自分を待

ると、一緒に店を出る。

貧しい詩人と貧しい小説家の二人

イ・サンが、恋人で妓生のクムホンと

模な社交場・カフェエンジェルと推

喫茶店）。当時の雑誌の記事によると

ないと主張する。

は、雨が降っているにも関わらず、依

換算する彼らに不快感を覚える。ちょう

は、互いに憂鬱な気持ちを抱えて、

1933年から２年ほど経営したチェビ

ての人が精神病の患者なのかもしれ

に座った仇甫は、小説まで貨幣の価値に

は外出中だが、すぐに戻ってくると聞

いて、座って待つことにする（詩人

の精神病だと言い、もしかしたら症

鍾路カフェ（当時、有名だった大規 定される）で酒を飲む。だが、友人 は酒を飲んでも味が分からない「飲

然として多くの人が行き交っている。 っている母の「小さく、寂しく、悲し い顔」を思い浮かべる。それから「ま た明日」と挨拶する友人に「明日から 物を書く」と答えて、急ぎ足で家に向 かう。家を出る時には自分の幸せを探 していたが、いつしか母の幸せを考え ながら。

韓国の文化と芸術 21

特集 3 近代化への道－20世紀初頭の韓国

近代の扉を開けて 飛び出した女性 男女の社会的な役割を区分・差別した儒教的な禁忌と束縛から抜 け出し、西洋式の教育を受けた一部の新女性は、身を挺して近代 を生きる時代の象徴だった。彼女らは、服や髪型で新しい風俗を 生み出し、男性と対等な権利を行使して、自分が選んだ男性と恋 愛・結婚するという自由を夢見た。しかし彼女らは、しばしば悲 劇的な運命を迎えた。 キム・ジヨン

金芝英、大邱カトリック大学校国語教育科教授

22 KOREANA 春号 2019

外出さえままならなかった朝鮮の 女性にとって、近代は教育の機会 と共に、自分の意志で行動する権 利をもたらした。しかし、そうし た権利を思いのままに行使できた わけではない。新思想によって新 しい生き方を求めた新女性は、多 くの場合、非難や挫折に遭った。

韓国の文化と芸術 23

代韓国の代表的な風刺小説家チェ・マンシク（蔡萬植、1902

近

した。入学を希望する学生が大きく増えたため、

～1950）は、汽車でのある女性との出会いを描写した短編で

全て受け入れられなくなったのだ。それでも、社

文壇にデビューした。その小説は1924年『新しい途へ』とい

会全般において女学生数が多かったわけではな

うタイトルで著名な文芸誌に掲載された。これといったストーリはなく、た

い。朝鮮総督府の統計によると、1923年の中等学

だ走る汽車の中で「白い肌に涼しげな服装の女学生」と何度も目が合ったと

校の女学生数は公立・私立７校を合わせて1370人

いう、今では何の変哲もない状況だけで構成されている。しかし当時は、若

だった。これは女性の全人口の0.6％ほどで、中

い男性が見知らぬ女性の近くに座って、長い時間を過ごすことは極めて異例

等以上の教育を受ける女学生は、それよりもはる

だった。そのため、そうした経験を与える汽車という近代的空間は、小説の

かに少ない0.03％に過ぎなかった。

素材になるほど特別だったのだ。さらに、その女性は、日常ではあまり出く わすことのない「新女性」だった。

このように極少数に過ぎない女学生は、世間か ら大きな注目を集めた。その後、程なくして「新

主人公の青年は、その女性について「チョクサム（単衣の上衣）も白

女性」という名前で、新しい集団的なアイデンテ

く、スカートも白く、肌着も白く、膝まで上げた靴下も白く、白粉をつけた

ィティーを持ち始めた。新女性は、何よりも見た

顔も白く、ただ先の尖った踵の高い靴と、おしゃれに緩く編んだ艶めかしい

目から目を引いた。短いスカート、ヒールの高い

髪だけが真っ黒だった」と描写している。当時は社会的に少数だった女学生

靴、黒い傘、流行に合わせて変わるヘアスタイル

と間近で２回ほど目が合っただけで、ときめく心を隠せない青年の心情描写

で、アイデンティティーを表した。衛生と活動性

に、当時の文壇はデビューという栄誉を与えた。その小説が発表された1920

のために韓服（伝統衣装）のスカートをふくらは

年代前半、女学生との出会いは珍しくて特別な「事件」だったのだ。19世紀

ぎまで縮めた黒い筒状のスカートと白いチョゴリ

末から20世紀初めの開化期の朝鮮半島を舞台にした最近の人気テレビドラマ

（上着）は、梨花学堂や貞信女学校など多くの

『ミスターサンシャイン』では、主人公の両班（朝鮮時代の支配階層）の娘

学校が制服とし、当時の女学生の象徴だった。黒

が、チャンオッ（顔を隠すために頭からかぶる衣被）を脱ぎ捨て、西洋人の

い傘は、それまでのスゲチマ（衣被）の代わりに

女性教師の学堂で英語を学ぶ。しかし、女性が学校に通うことは、1910年代

顔を隠すために使われたが、徐々に明るい色の洋

まで極めて珍しいことだった。

傘に変わり、アクセサリーの一つになった。洋傘

汽車で出会った女学生

だけでなく靴、靴下、ベルト、マフラー、ハンカ チ、メガネなどの小物が流行に合わせて変わり、

韓国初の近代的な女性教育機関である梨花学堂が、1886年にアメリカ人

新女性の社会的な身分や地位を物語っていた。

宣教師によってソウルの貞洞に設立された。しかし、1910年代まで学生の募

特にヘアスタイルは、新女性を規定する重要

集は難しかった。教師が「娘さんや姉妹をどうか学校に通わせてください。

な物差しになった。髪全体を丸く膨らませ、後頭

無料で勉強を教えます」とお願いして回っていたほどだ。しかし、1919年の

部で丸く結った形が牛糞のようで「セトン（牛

三・一運動に梨花学堂の学生が積極的に加わったことが知られ、状況が一変

糞）モリ（髪）」と呼ばれた日本式の庇髪（ひさ しがみ）、それを改良したトレモリ（編んだ髪を

© オール・ザット・ブック

頭の上に巻いた髪型）、そして1920年代半ばに再 び流行った韓国伝統のテンギモリ（三つ編み）、 タリコクチと呼ばれた入れ髪など、髪型も様々に 変化した。さらに、大胆な短髪を女性解放のシグ ナルと考える女性も現れた。短髪は経済的、時間 的、衛生的な利便性によって新女性に支持された が、「髪が命の女性の美しさを奪った」という理 1.『二八青春』（1926年）は、大成書林の 発行人で編集者だったカン・ウニョン（姜 殷馨）の大ヒット恋愛小説。その当時、自 由な恋愛が新しい風俗として広がり、恋愛 をテーマにした小説が広く流通していた。

2.『春の調べ』 キム・インスン（金仁承） 1942年、キャンバスに油彩、147.2×207㎝

1

24 KOREANA 春号 2019

第21回朝鮮美術展覧会（1942年）に出品さ れたキム・インスンの代表作。２枚の大型 キャンバスにチェロの演奏を鑑賞する新女 性を描いている。

由で、眉をひそめる男性も少なくなかった。 このように新女性は、自分の目にも他人の目 にも特別に見え、他とは違う人生を生きること で、自らを「旧」と区分される「新」として確立 しようとした。筒状のスカートと先の尖った靴 は、単なる装いではない。自分の意思で恋愛し、 ピアノのある文化住宅で新式の家庭を築き、夫と 対等な権利を行使して、新しい思想で未来世代を 教育しようという新女性の願いが込められた文化

2 © Bank of Korea

的象徴だった。 しかし当時の社会は、彼女らの望みを簡単に肯 定し受け入れたわけではない。女学生の数が大き

教科書ではない雑誌や書籍を持っている場合は、届け出るようにした。ま た、下宿は風紀を乱すという理由で寮を強く勧め、さらに手紙のやり取りま で厳しく制限した。

く増加し、新女性の服装が話題になるにつれ、非

「風紀紊乱」という曖昧な言葉が流行ったのも、ちょうどその頃だ。派

難の声も上がった。当時の新聞や雑誌は、彼女ら

手な服装をしたり、カフェや飲食店に通ったり、授業をサボって映画を見に

の「ぜいたくと見栄」を強く批判した。その頃、

行くのも、風紀紊乱に該当した。最も危険な風紀紊乱は、男女の交際だ。親

靴１足の値段が米２俵に相当したので、着飾るた

の許可なしに男子学生に会ったり、付き合うことは退学に当たる「悪行」と

めの費用が実際に少なくなかったのも事実だ。

規定された。女学生は、精神的に弱く未熟なので、衝動と誘惑から守るべき

憧れと非難

だという考えが、全ての規律の根底にあった。そうした考えは、女性は性的

1920年代半ば以降、学校だけでなく街中、音

女学生を厳しい規定でコントロールしようとした理由は、新女性に象徴

楽会、講演会、劇場、公演など公の空間に女性が

される近代が、相対的に華やかで可視的だった点とも関係している。1920～

進入した。このように女性の活動範囲が広がる

1930年代の朝鮮半島の知識人は、自らの力で近代国家の建設に失敗し、植民

と、学校側は厳しい規律を設け、女学生をコント

地的な近代化に従属するなど、屈折した人生を生きるしかなかった。そのよ

ロールした。許可なしに活動写真を見に劇場に行

うな状況で、新女性の求める理想と人生は、周辺の暗い現実とはかけ離れて

ったり、音楽会に行くことを禁止した。出かける

いた。女学生への憧れと非難という二重性には、近代国家の建設において主

際は、家族や他の学生と同行しなければならず、

体になれなかった知識人男性の二面的な感情が隠れている。彼らにとって女

な純潔を守るべきだという男性中心の観点に根ざしていた。

韓国の文化と芸術 25

筒状のスカートと先の尖った靴は、単なる装いではない。自分の意思で恋 愛し、ピアノのある文化住宅で新式の家庭を築き、夫と対等な権利を行使 して、新しい思想で未来世代を教育しようという新女性の願いが込められ た文化的象徴だった。

学生は、近代性の象徴であると同時に「放漫で下品な偽物の近代」という危

性と同棲することは、至極正当な社会的実践だっ

険で不純な象徴でもあった。

た。結婚せずに同棲する女性は「第二婦人」とも

恋愛と自殺

呼ばれた。そのような風潮は、新女性と旧女性の

近代以前の朝鮮社会で、結婚はあくまでも親によって決められ、個人が

現実と理想の明らかな不一致を目の前にし

自分の意思で配偶者を選ぶことは全く不可能だった。英語「love」の翻訳語

て、若者はより激しい情熱で、自我の純粋性を確

として日本から入ってきた造語「恋愛」は、当事者の自発的な意思による西

認しようとした。高まった期待と激情は、自殺と

洋の結婚方式を広める語彙として、爆発的な反応を引き起こした。恋愛は、

いう過激な行動に走らせた。1920年代半ばから流

親が仲介する結婚を拒み、自分の意思で配偶者を選ぶ新しい風習として、あ

行のように広がった「情死」の裏には、そのよ

る種の社会的なブームを巻き起こした。それは貧富、貴賤、学識の違いを超

うな事情があった。1923年にネズミ駆除剤を食べ

越した高貴な感情と見なされ、若者が自らを人生の主体と認識する観念的な

て、愛する男の膝の上で息を引き取った23歳の女

行動原理になった。そのため、恋愛の実践が啓蒙的な人生の実践と同一視さ

性「カン・ミョンファ事件」が、新聞と雑誌で大

れる独特な状況が生じた。

きく取り上げられた。妓生（芸妓）のカン・ミョ

両方に苦痛を与えた。

しかし、恋愛という新思想に接し始めた頃、多くの若い知識人は、すで

ンファは、大金持ちの息子チャン・ビョンチョン

に過去の慣習によって親が決めた女性と結婚していた。彼らは親が決めた女

と恋に落ちたが、彼の家族に強く反対されて自ら

性との結婚を拒否して、自分が選んだ女性と暮らしたいと考えた。その結

命を絶ったのだ。チャン・ビョンチョンは一時

果、学校内に「離婚同盟会」という集まりが作られ、婚姻無効化運動まで繰

期、彼女と共に日本に逃れたが、留学生仲間から

り広げられた。望み通り離婚できない場合、自分が選んだ女性と同棲するこ

韓国人の名誉を汚すと非難されたこともある。そ

とも多かった。恋愛と自由な結婚が、啓蒙的な人生を実践する一つの方法だ

のチャン・ビョンチョンも、程なく彼女を追って

という信念が確立された以上、彼らにとって糟糠の妻を捨てたり、好きな女

同じ方法でこの世を去った。カン・ミョンファの 名は、恋愛の純潔な精神を称える代名詞と して人々の胸に深く刻まれた。二人の物 語は、その後数十年間いくつかの小説にな り、歌や映画にもなった。 1926年に下関から釜山に向かう船で玄 界灘に身を投げ、共にこの世を去ったキム ・ウジンとユン・シムドクは、カン・ミョ ンファ事件よりもセンセーショナルだっ た。二人は当時29歳で同い年。キム・ウジ ンは、東京で芸術を学ぶ朝鮮半島からの留 学生が1920年に作った劇芸術協会の発足メ ンバーで、近代演劇の先駆者だった。ユン ・シムドクは、韓国初のソプラノ歌手とし て名声を博した名士だった。すでに多くの 浮名を流した音楽会のスターと、妻子持ち の有名作家の心中には、非難が寄せられ 1

© スピア女子高等学校

26 KOREANA 春号 2019

た。妓生のカン・ミョンファとは違い、ユ

1. 三・一運動で収監された後、出所記念の写 真撮影をするスピア女学校の学生。スピア女 学校は、女学生の近代的な教育のため、1908 年にアメリカ人宣教師ユージン・ベルによって 全羅南道・光州に設立された。女学生数は全 国的にも多くなかったが、大部分の女学生が三 ・一運動に積極的に参加した。 2. 早稲田大学・英文科を卒業したキム・ウジ ンは、大学生の頃から戯曲を書いて演劇を演出 した。自殺した1926年に書いた『難破』は、 儒教的な家族構造の中、西欧の思想を身に付 けた若い詩人が没落していく過程を描いた自伝 的な作品。

3. ユン・シムドクは、韓国で初めて西洋音楽 を専攻した女性声楽家で女優。京城（現在の ソウル）で開かれる多くの音楽会の出演依頼 を受けるほどのスターだった。ヒット曲『死 の賛美』は、かなわぬ恋に絶望し、死を決意し て書いた歌詞だといわれている。

2

3

© 中央日報社

ン・シムドクに対する人々の視線は好意的でなか

実の問題にぶつかり、死という歪んだ形で主体性の絶頂を迎えたのだ。

った。 指の対象になろうが、叶わない恋による若い男女

未完成の夢

の相次ぐ心中は、大きな社会問題となった。1920

（1979）で、幼い「私」は新女性になれという母の望みと強要に悩まされ

年代半ば以降、１日に３～４件が新聞で報道され

る。「新女性って何？」という私の質問に、母はまず見た目を描写する。つ

ることもあった。これは感情の自由に対する若者

まり、新女性とは「チョンモリ（髪を後ろで束ねてかんざしを挿す髪型）の

の願いが、劣悪な環境にぶつかることで生じた悲

代わりに庇髪をして、ふくらはぎが出る黒い筒状の膝丈スカートを履いて、

劇的な結果だ。その当時、恋愛をテーマにした作

ハイヒールにハンドバックを持ち歩く女性」というものだ。髪に紅色のテン

品が、大きな関心を集めて広がりを見せていた。

ギ（リボン状の布）をつけて黄色のスカートを履き、コッシン（花柄の伝統

そうした韓国の初期近代小説は、その頃の若い男

的な履物）を履きたい幼い娘にとって、どうにも気に入らない服装だ。私は

女の死の多様な様相を描いている。例えば、イ

もう一度尋ねる。

不憫と憧れの視線を受けようが、非難と後ろ

パク・ワンソ（朴婉緒、1931～2011）の自伝的小説『母さんの杭』

・グァンス（李光洙、1892～1950）の『ユン・グ

「新女性って何をするの？」

ァンホ』（1918）では報われない想いによって、

今度は少し困ったような表情で、母は次のように答える。

ナ・ドヒャン（羅稲香、1902～1926）の『幻戯』 （1923）では間違った選択の罪滅ぼしのため、パ

「新女性は、たくさん勉強して、世の中の道理を何でも分かっていて、 自分が決めたことは好きなようにできる女性よ」

ン・ジョンファン（方定煥、1899～1931）の『そ

日本統治時代の末期、針仕事で子供を勉強させるという一念で、田舎か

の日の夜』（1921）では恋人の裏切りによって、

らソウルに移り住んだ母が夢見た娘の未来は、そのようなものだった。朝鮮

それぞれ死を選んでいる。

社会が近代という西洋の文物に初めて接し、生活と認識の激変を経験した当

死は、恋愛という理想の前で、自我の純粋性

時、古い慣習を捨てて閨房（女性の部屋）を出た女性が希望し夢見た未来

を証明する方法だった。さらに、理想と現実の不

も、そのようなものだったのかもしれない。ようやく日本の支配から解放さ

一致にあらがう強力な抵抗の表れでもあった。若

れ、戦争の惨禍を経て、目まぐるしい経済成長と共に社会的発展を成し遂げ

者は、完全な愛という理想とは遠くかけ離れた現

た今、女性の現在はその母の夢にどれほど近づいたのだろうか。

韓国の文化と芸術 27

特集 4 近代化への道－20世紀初頭の韓国

ポピュラー音楽 絶望の中で咲いた花 © 聞慶市イェッキル（昔の道）博物館

20世紀初頭、韓国に入ってきた海外のレコード会社によって商業用レコードが発売され、そ のレコードを聞くための蓄音機が日常生活に浸透することで、ポピュラー音楽が韓国で本格 的に広がり始めた。初期のポピュラー音楽は「ジャズソング、漫謡（コミックソング）、新 民謡、流行歌（トロット）」という四つのジャンルに分かれ、当時の社会状況や情緒を反映 していった。その音楽が、現在のK-POPの強い基盤になっている。 チャン・ユジョン 張攸汀、檀国大学校教養学部教授

18年の韓国のポピュラー音楽

20

半島において、流行した歌が全くなかったわけでは

界で最も大きな話題は、B T S

ない。例えば、韓国を愛した外国人として知られる

（防弾少年団）だった。BTSは

アメリカ人宣教師で教育家のホーマー・ハルバート

記録をいくつも更新し、韓国だけでなく世界のポピ

は、韓国で発行された最初の英語雑誌『The Korean

ュラー音楽の歴史まで書き替えた。その中でも、１

R e p o s i t o r y』の1896年２月号において「K o r e a n

年間に２枚のアルバムが「ビルボード200」で１位

Vocal Music」というタイトルで『アリラン』の歌

になったことは注目に値する。韓国の歌手として初

詞と楽譜を紹介している。彼はアリランについて

めてで、外国語のアルバムとしても最初の記録だ。

「韓国人を代表する歌であり、韓国で最も人気のあ

最近、B T Sをはじめ多くのK-P O P歌手とその歌

るご飯のような歌」と説明している。当時、ホー

が、海外から熱狂的な支持を受けている。まさに隔

マー・ハルバートが紹介したアリランは「旧アリラ

世の感がある。100年ほど前に主権を奪われ、悲し

ン」で、現在よく知られている「本調アリラン」と

みと自嘲の中でポピュラー音楽が生み出された頃に

は異なる。それでも、当時のアリラン人気をうかが

は、誰も予測できなかっただろう。

い知ることができる。

蓄音機と商業用レコード

前にも、その時代の人たちから愛された歌は存在し

ポピュラー音楽は「大衆」という概念と共に、

ていた。しかし、それらの歌が、現在のようなポピ

近代と同時に始まった。もちろん、近代以前の朝鮮

ュラー音楽と区別される点がある。初期のポピュラ

28 KOREANA 春号 2019

このようにポピュラー音楽が本格的に登場する

アメリカ人宣教師で教 育家のホーマー・ハル バートは、口伝されて きた『アリラン』を初 めて五線紙に記録し、 民謡の楽譜集の制作・ 普及も行った。

ー音楽は、レコード産業と密接な関連があり、最先

例えば、1926年に朝鮮サッカー団を率いて上海

端のメディアを通じて登場した。その商業用レコー

を訪れた全羅道の大地主の息子ペク・ミョンゴン

ドの究極的な目的は、利潤の追求にあるため、ポピ

（白命坤）は、ジャズの楽器と楽譜を買って帰り

ュラー音楽は芸術作品であると同時に商品でもあ

「コリアン・ジャズバンド」を結成した。えてして

る。その点で、ホーマー・ハルバートによって取り

享楽的なジャズソングは、1920年代末の都会の男女

上げられた『アリラン』は、ポピュラー音楽のカテ

の代名詞だった京城（現在のソウル）のモダンガー

ゴリーには属さない。

ルとモダンボーイの間で大流行した。そのような風

韓国のレコード産業は1907年、アメリカのコロ

潮は、映画やレコードの影響が大きかった。しか

ンビアレコードが初めて商業用レコードを発売する

し、必ずしも好意的に見られていたわけではない。

ことで始まった。コロンビアレコードは、京畿名唱

当時ある知識人は、ジャズブームについて「モダン

（歌の名人）ハン・インオ（韓寅五）と妓生（朝鮮

ガールとモダンボーイが格好つけて尻を振って踊

の芸妓）チェ・ホンメ（崔紅梅）の歌を録音して発

る」と批判した。しかし、レコード会社に所属する

売した。それに続いてビクターレコードも、韓国の

『静聴』 キム・ギチャン （ 金基昶）1934年 絹本彩色 159×134.5cm

キム・ギチャンは、 1930年代の近代的な西 洋風の家庭を描くため、 近くに住む医師の手入れ が行き届いた応接室を借 りたという。キム・ギチ ャンの初期の作品で、師 のキム・ウノ（金殷鎬） の日本的な彩色画から影 響を受けている。

伝統音楽を収録した。その後も、当時名の知れた名 人のレコードが相次いで発売された。その当時のポ ピュラー音楽の普及において、革新的な役割を果た したのが蓄音機だ。1920年代の後半に朝鮮半島でラ ジオ放送が始まる前、西欧の新しい文物の蓄音機が 上流社会の日常に浸透し、音楽の発展と大衆化に大 きく貢献した。

ジャズソングとモダンボーイ、モダンガール

ほとんどの新しい文化と同様に、韓国の近代ポ

ピュラー音楽も、外来文化が既存の文化と競争した り共存する中で生まれた。韓国のポピュラー音楽 は、大きく三つの音楽の影響を受けたといえる。韓 国の伝統音楽、西洋の音楽、そして日本の音楽だ。 この三つの関係は複雑に絡み合っていて単純ではな いが、相対的にどの音楽の影響を大きく受けたかに よって、初期の韓国のポピュラー音楽はそれぞれ異 なるジャンルへと発展していった。 韓国のポピュラー音楽は「ジャズソング、漫 謡（コミックソング）、新民謡、流行歌（トロッ ト）」の四つのジャンルに分けられる。最初から明 確な区分があったわけではないが、ポピュラー音楽 が本格的に登場した1930年頃から、時おり歌のタイ トルの上にそれぞれのジャンルを表示することもあ った。 その中で、まずジャズソングは今の概念と大き く異なる。当時は、アメリカのジャズだけでなく、 西洋のポピュラー音楽の影響によって生まれたポピ ュラー音楽やラテン音楽などを全てジャズソングと 呼んでいた。それまで韓国の人たちは、賛美歌や軍 楽隊で西洋の音楽と楽器に接していた。その後1920 年代の中頃から西洋の音楽の影響力がいっそう強く なり、ジャズブームが起こった。 © 国立現代美術館

韓国の文化と芸術 29

演奏者の中には、西洋のジャズミュージシャンをモ デルに、正統なジャズ音楽に取り組む者も少なくな かった。 1920年代末のジャズブームによって、1930年代 からジャズソングと呼ばれるポピュラー音楽が本格 的に登場した。最初はアメリカのジャズ・コーラス グループ、ザ・ミルス・ブラザーズの『ダイナ』な ど西洋や日本で流行った歌のカバーが多かった。 1930年代半ば以降は『喫茶店の青い夢』のようなオ

もし韓国が日本の支配を受けていなかった なら、文化や音楽も大きく変わっていただ ろう。だからといって、日本のポピュラー 音楽の影響だけで、韓国の近代ポピュラー 音楽を説明できるわけではない。文化とい うのは非常に複雑で流動的であるからだ。

リジナル曲も登場した。

社会風刺

漫謡（コミックソング）は、音楽の形式的な分

ってしまうが、一方では田舎の親父の失敗に同情

類よりも、歌詞が重要だ。漫謡という言葉は、主に

してしまう。近代という海で漂流している自分の

二人で面白い話をする漫談から生まれた。漫謡は漫

姿と重なるからだ。また、1939年にコロンビアレ

談と同じく、滑稽な歌詞で構成されている。漫謡の

コードから発売された『でたらめな大学生』は、

笑いは、ユーモアなものと風刺的なものに分けられ

恋愛とビリヤードに夢中になって学校にも行かな

る。前者が同情の笑いだとすれば、後者は批判の笑

い隣の家の大学生を風刺した歌だ。単に隣の大学

いだ。また、前者が温かい笑いだとすれば、後者は

生だけでなく、そんな学生全てを風刺したものと

冷たい笑いだ。

いえる。特に、この歌は社会風刺によって笑いと

1950年代から1970年代まで長く流行した『ソウ

教訓を与えたという点に意味がある。政治的な抑

ル見物』という歌の原曲は、1936年にカン・ホン

圧や検閲が厳しい時ほど風刺技法が発達すること

シク（姜弘植）が歌った『愉快な田舎親父』だ。

を考えると、日本の抑圧や収奪に耐えていた人た

この歌は、初めて汽車に乗ってソウルに行った田

ちの現実がうかがえる歌といえよう。

舎の親父が、様々な出来事に出くわす様子をユー

新民謡は、名前の通り新しい民謡という意味

モアで描いている。歌詞を聞いていると思わず笑

で、自生的なポピュラー音楽といえる。従来からあ

京城放送局（JODK）で 初めて放送されたコリア ン・ジャズバンドの演 奏（1929年夏）。1920 年代、京城（現在のソウ ル）を中心にジャズブー ムが起こり、同バンドは 1925年に結成された。 1926年２月には朝鮮日報 の後援で結成公演が行わ れている。 30 KOREANA 春号 2019

© 東国大学校・韓国レコードアーカイブ研究所

1

る音楽や民謡の一部を借りて、 伝統的な要素を継承しようとし © 韓国コンテンツ振興院

た。リフレイン、伝統的な楽器 の伴奏、伝統的な唱法などを駆使 し、様々な方法で既存の音楽の要 素を盛り込んだ。特に、ナ・ウンギ ュ（羅雲奎）監督が1926年に撮った映画

2

3

『アリラン』の主題歌が当時、大流行した。こ の歌から、初期の新民謡の様相をうかがい知ること ができる。

ばれるようになり、伝統的なポピュラー音楽として

つらい人生の慰め

定着して人気を得たのは、1960年代のことだ。日本

1930年代の半ばになると、妓生から転身したポ

が伝統的な音楽として位置付けられるようになった

ピュラー歌手が大挙して登場する。妓生学校や券番

のだ。つまり、日本の演歌は「作られた伝統」とい

（妓生組合）で踊りと歌の教育を受けた妓生は、

える。

が国のアイデンティティーを確立する過程で、演歌

「準備が整った芸能人」だったともいえる。特に、

韓国でトロットは、日本の影響を受けたため、

伝統的な唱法を駆使した元妓生の歌手は、新民謡で

長く軽視されてきた。それにもかかわらず、トロッ

頭角を現した。当時のポピュラー音楽の聞き手は、

トは多くの人から愛され、今まで強い生命力で生き

他のジャンルに比べて相対的に「朝鮮の匂い」がす

残ってきた。韓国でトロットがポピュラー音楽のジ

る新民謡にとりわけ熱狂した。その影響で、1933年

ャンルになったのは、1950年代以降と推定される。

にレコードの録音に参加した妓生ワン・スボクは、

日本統治時代に生まれたトロットが、当時だけでな

教養雑誌『三千里』を発行する三千里社による「レ

く今でも歌い続けられているのは、トロットにつら

コード歌手人気投票」で女性歌手部門１位になった

い人生と情緒が反映されているからだ。故郷を離れ

（1935年）。

て暮らすつらさを描いた『他郷暮らし』、日本への

現在トロットと呼ばれる歌も、この時期に登場

消極的な抵抗を表現した『木浦の涙』は、韓国人の

した。当時は単に流行歌と呼ばれていた。これらの

琴線に触れる代表的な流行歌だった。泣きたい気持

歌は、ほとんどが日本のポピュラー音楽の影響を

ちを代弁する存在が、当時の人たちにとって大きな

受けたため、２拍子、短調、５音階が特徴だ。し

慰めになったのだろう。

かし、そうした影響を与えた日本のポピュラー音楽

自発的・主体的でなかった韓国の近代は、絶望

も、実際には日本固有のものとはいえない。日本は

の別名でもある。しかし、絶望の中でも生活や文化

早くから、音楽をはじめ西洋の文化を積極的に受け

は続き、現代のポピュラー音楽の基盤ともいえる歌

入れてきた。その過程で西洋と日本の音楽が融合し

になった。韓国のポピュラー音楽は、近代の暗闇の

て「演歌」が生まれた。当時は日本でも、演歌では

中、つらい心を慰めることで咲いた美しい花なの

なく流行歌と呼ばれていた。その流行歌が演歌と呼

だ。

1. 1907年にコロンビアレ コードが発売した初の商業 用レコードのうち、ハン ・インオ（韓寅五）の京 畿雑歌（俗謡）を収録した 『Corean Song』。片面だ け録音されている。 2. 1935年にオーケー （Okeh）レコードが発売 したイ・ナニョンの『木浦 の涙』は、日本統治下の韓 国人を慰め、今でも広く愛 されている。 3. オーケー（Okeh）レコ ード専属歌手３人による 『娘合唱』（1940年）。 オーケーレコードは1932 年、韓国人によって設立さ れた最初のレコード会社 で、多くの人気歌手を生ん だ。

韓国の文化と芸術 31

特集 5 近代化への道－20世紀初頭の韓国

開化期 そして100年後 朝鮮は、1876年の日朝修好条規による開港から、儒教的な秩序の崩壊と共に急激な社会の変化を伴う開化期を 迎えた。それから１世紀が過ぎた今、韓国は文化的なグローバル化の荒波の中で、第２の開化を迎えている。 100年前の外部の圧力による受動的な開化が、日本による統治につながった屈辱とは異なるものだ。新開化期を 迎えた韓国の文化的な潜在力は、デジタル・ネットワークを通じて能動的に開花している。 チョン・ドキョン 鄭徳賢、大衆文化評論家 32 KOREANA 春号 2019

韓

国の大衆文化コンテンツを象徴する2018年のハイライト は、人気テレビドラマ『ミスター・サンシャイン』だ。 このドラマはアメリカ、フランス、日本の艦隊が相次い

で押し寄せ、開港を迫った19世紀末の朝鮮を舞台にしている。当時、そ うした勢力から国を守るために戦って命を落とした名も無き義兵にスポ ットライトを当てて、深い印象を残した。しかし、このドラマが大きな 意味を持つ理由は、西欧の新文物が流入したことで朝鮮社会が経験した 亀裂、様々な階層での意識変化が、義兵の闘争と共にバランスよく描か れている点にある。 もちろん、これまでにも開化期を扱った映画やドラマはあったが、ほ とんどは日本への抵抗に関する内容だった。それに対してこのドラマは、 漢陽（現在のソウル）の街に建てられた西洋式のホテル、フランスのパ ン屋、日本の居酒屋、洋装店などが再現され、そこで繰り広げられる近 代式の労働や恋愛といった日常が描かれている。特に、名門の士大夫（両 班）の娘である女性主人公は、破格といえる行動を見せる。大胆な性格の 女性主人公は、家同士が決めた婚約者がいるにもかかわらず、それを拒否 して、ユジン・チョイと恋に落ちる。ユジン・チョイは、奴婢だったがア メリカに密航して海兵の将校になり、漢陽駐在の公使館に派遣された人物 だ。また、賤民の猟師から射撃を人知れず教わり、銃を持って親日勢力を 狙撃するスナイパーとしても活動する。このように人に決められた人生で はなく、自ら開拓して人生を選ぶ女性主人公を通して、視聴者は主体的で 能動的な開化期の女性像を見出すことができる。

新開化期に求められるコンテンツ

『ミスター・サンシャイン』には、もう一つの象徴性が秘められてい

る。それは、このドラマの時代背景から100年ほど経った今、デジタル・ネ ットワークによってつながる文化的グローバル化時代に求められるコンテ ンツの定形だ。この作品は、制作費として約430億ウォンが投じられ、放送 開始前に制作を終えていた。韓国の零細なドラマ制作システムでは、想像 もできなかっただろう。それを可能にしたのが、総制作費の７割を投資し

© 朝鮮日報

1

1. ニューヨーク国連本部・信託統治理事会の会議場で開かれ たユニセフの新しい青少年アジェンダ「ジェネレーション・ アンリミテッド（無限の可能性を秘めた世代）」の発表行事 で、BTS（防弾少年団）を代表して演説するRM（2018年９月24 日）。世界の青少年に「自分自身を語ろう」というメッセージ を送り、大きな反響を呼んだ。 2. ソウル蚕室オリンピック主競技場で2018年８月に開かれた BTSのコンサートを収めた映画『BTS World Tour: Love Yourself In Seoul』のワンシーン。『Burn the stage: The movie』に続く ２作目のBTSコンサート・ドキュメンタリー映画で、2019年１ 月26日に95カ国3800スクリーンで同時公開された。

2

© ビッグヒットエンターテインメン

韓国の文化と芸術 33

大韓帝国の末期をコンセプトにしたレトロな写真を撮影 する大邱・山格洞の写真館。2017年のオープンから爆発 的な人気を呼び、ソウルと釜山にも進出した。若い人た ちのレトロ・トレンドを代表するホットプレイスとして 有名だ。

「新開化期」に差しかかっているのだ。 そのような観点で『ミスター・サンシャイ ン』を見ると、このドラマの時代背景が意味深 く思われる。グローバル市場には、それにふさ わしいコンテンツが求められる。開化期という 時代背景は、韓国の歴史を基にした特殊なテ ーマであると同時に、海外の視聴者も普遍的に 理解できる魅力がある。韓国の開化期が生み出 した自由、平和、恋愛へのロマンチックな願い は、国籍や人種を超える普遍的なテーマなの で、視聴者層と共感を広げることができたの だ。 開化期は、激しい文化の衝突が繰り広げら れる特殊な時期で、想像力を働かせるのに最適 だ。例えば、ウエスタンのジャンルを韓国なら ではの方式で解釈したキム・ジウン（金知雲） 監督の『グッド・バッド・ウィアード』も開化 期が舞台で、重層的な時代が許容する想像力に © Studio Sankyeok

よって映画の面白みと完成度が高まった。その ため、今後グローバル市場で注目を集める文化

たグローバル・プラットホームのネットフリッ

コンテンツは、朝鮮半島において近代への扉が開かれた開化期を舞台にす

クスだ。その結果、韓国と同じタイミングで世

る可能性が高いだろう。

界の人々が視聴できるドラマが作られたのだ。

新しいグローバル・スタンダード

今後、韓国のドラマコンテンツの制作・消費方 法も、完全に変わっていくだろう。

現在、新開化期の様相を見せている端的な例は「BTS（防弾少年団）」

今、韓国の大衆文化コンテンツ制作業界

だ。短期間でグローバル・アイドルグループへと成長したBTSは、すでに新

は、転換期を迎えている。すでに視聴者は、ネ

開化期の重要なアイコンになっている。この７人組のボーイズ・グループ

ットフリックスやユーチューブなどグローバル

は、国と民族と言語を超えた「ARMY（アーミー）」と呼ばれる世界的なフ

・プラットホームを通じて、全世界で生産され

ァンクラブでも有名だ。ユーチューブなどグローバル・ネットワークのニ

るコンテンツをリアルタイムで共有している。

ーズに応え、世界的なブームを巻き起こした秘訣は、踊りと音楽という人

このような状況の中、韓国の文化ビジネスは、

類共通の資産だ。

グローバル市場に向かうか、あるいは国内市場

興味深いのは、BTSブームと衝突した前時代的な反発が存在する点だ。

にとどまるか、判断・決断しなければならない

日本の一部の右翼団体が、B T Sのメンバーのジミンが着ていたTシャツを

34 KOREANA 春号 2019

新開化期のグローバル・ス タンダードには、国や地域 など前時代的な概念を超 え、人類が共有・共感で きる価値が盛り込まれてい る。対立や競争よりも、そ の枠を超えた自由、平和、 共存の価値だ。

「原爆Tシャツ」と呼んで、嫌韓感情のターゲットにした。彼らは、紅白歌 合戦のような日本の人気番組に韓国のアイドルを出演させてはいけないと 主張した。しかしBTSは、IT時代のグローバル・ネットワークを通じて全世 界にファンがおり、前時代的なテレビ番組への出演はそれほど重要ではな い。一部の日本の右翼の反発は、グローバル時代の文化環境において時代 錯誤だと知らしめ、日本のBTSファンを刺激することで結束を強めることに なった。 つまり、こうした出来事によって、新開化期に求められる新しいグロ ーバル・スタンダードの存在が確認されたのだ。新開化期のグローバル・ スタンダードには、国や地域など前時代的な概念を超え、人類が共有・共 感できる価値が盛り込まれている。対立や競争よりも、その枠を超えた自 由、平和、共存の価値だ。BTSの全世界のファンは、自発的に次のような広 報を行った。「ジミンが着ていたTシャツは『原爆Tシャツ』ではなく『光 復（解放）Tシャツ』で、平和を象徴している」。そうした動きは、グロー バルな価値とは何かを物語っている。

2018年に大ヒットしたテレビドラマ『ミスター・サンシ ャイン』の公式ポスター。大韓帝国時代の義兵にスポッ トライトを当て、能動的な女性像を表現している。西洋 式のホテル、パン屋、洋装店など近代的な建物や日常も 興味深く描かれた。

ニューメディア時代の挑戦

私たちは今、グローバル時代の独特な文化を消費することで、新開化

期の変化を目撃している。イギリスのロックバンド「クイーン」のボーカ ルだったフレディ・マーキュリーの人生に焦点を当てた映画『ボヘミアン ・ラプソディ』が昨年、韓国で巻き起こしたブームも良い例だ。この映画 は、これまでヒットした音楽映画の記録を全て塗り替え、クイーンの 本場のイギリスよりも大きなブームになった。その理由として、座っ て受動的に鑑賞するだけでなく、一緒に歌って楽しむ「シング・アロ ング上映（応援上映）」という新鮮で独特な鑑賞文化を挙げることが できる。 今やコンテンツは、創作者が作って需要者が完成させるものだ。 BTSの公演がファンの合唱で完成するように、『ボヘミアン・ラプソデ ィ』という音楽映画も観客の熱い反応で完成する。新開化期の文化消 費は、このように国や言語を超え、それを受け入れる集団によって新 たな意味を持つ。 一方、放送によってスターになった芸能人が、今度はニューメ ディア・プラットホームのクリエイターに挑戦する逆転現象も起き ている。グローバルな文化環境では、人気芸能人よりも大図書館、 ベンツ、シンニムなどスター・ユーチューバーの方が、大きな影響 力を持っている。最近、ユーチューブで有名になったクリエイター がテレビや広告に登場し、それとは逆に芸能人が個人放送に挑戦し ている。これは、旧メディアからニューメディアへの権力の移行を 物語っている。 IT時代のニューメディアが生んだデジタル・ネットワークは「グロ ーバル文化の時代」という新開化期をもたらしている。韓国で100年ほ ど前に迎えた開化期の経験を踏まえると、現在の新開化期における選 択は、重大で明確な事案だ。すでに扉は開かれており、向かうべき道 もはっきりと見えている。韓国の文化を守ると同時に、グローバルで 普遍的な価値を目指さなければならない。それが、新開化期を迎えた

©スタジオドラゴン

私たちの挑戦だ。

韓国の文化と芸術 35

インタビュー

挑戦を楽しむ

映画音楽監督タルパラン 常に新しいジャンルの先頭に立ってきた大衆音楽家タルパラン。彼の現在の立ち位置は映画音楽の世 界だ。1997年に彼を映画音楽の世界に導いた最初の作品『悪い映画』以降、彼は絶え間なく独創的 なサウンドデザインを通じて、注目される成果を成し遂げてきたが「まだまだ満足していない」と、 今なおあふれる意欲に満ちている。 イム・ヒユン 林熙潤、東亜日報文化部記者 安洪範 写真 36 KOREANA 春号 2019

ルパラン（本名：カン・キヨン、姜基英）

タ

監督デビュー作となった。しかし、２年後の『嘘』の作業に至

は、いつも「革命」を伴ってくる。かつて国

るまでは、鍵盤の前に座ると漠然としていました。ピンクフ

内最高のヘビーメタルバンド、オルタネイテ

ロイドの音楽で作った映画『スリーウィメン／この壁が話せた

イブのメンバーだったが、その後、電子音楽DJに転向し、ま

ら』やヴァンゲリスが音楽を担当した『ブレードランナー』に

もなく韓国映画界のなくてはならない作曲家の列に加わった。

深く感銘したMTV世代として、ミュージックビデオを熱心に観

「パランタル（青い月）」の側面を見るために、彼の仕事場の

たことはあったが、映画音楽に関する専門的な知識はほとんど

ある京畿道坡州に向かった。

なかったからだ。

個性的な芸名をもつこの音楽家は、一人もしくは同僚のチャ

「エンニオ・モリコーネがどうで、ハンス・ジマーがどう

ン・ヨンギュ（張英圭）監督と共に、21世紀の韓国映画の独創

だというような話にもあまり関心がありませんでした。それに

的なサウンド風景を作り上げてきた。『甘い人生（2005）』、

当時の韓国の映画音楽には、これといった体系がありませんで

『グット・バット・ウィアード（2008）』、『哀しき獣

した。頼れるものも無いまま、ただ当たってくだけました」。

（2010）』、『暗殺（2015）』、『哭声：コクソン（2016）』、

しかし荒野の無法者が一人ぼっちのわけがない。その頃、

『毒戦（2018）』－彼が音楽を担当した映画の目録は多く、作

タルパランには幸い同じような境遇、同じ年代の放浪者の群れ

品も充実している。その熾烈な戦いが繰り広げられた仕事場

がいた。パン・ジュンソク（方俊錫）、チョン・ヨンギュ、

は、楽器で囲まれた小さな要塞のように見えた。正面には巨大

イ・ビョンフン（李炳勳）は、「ユ・アンド・ミ・ブルー（ U

なスクリーンの壁掛けテレビがあり、テレビを見上げることの

& Me Blue）」、「エアブプロジェクト」、「トマペム（トカ

できる要地はコンピュータと大きなキーボードが占領してい

ゲ）」などのバンドでそれぞれ活動しながら、韓国のインディ

る。それをさらに羽のように守備しているのが、アナログ・シ

音楽の前衛を形成していた。1990年代後半にタルパランは、彼

ンセとモジュラー・シンセ、フェンダー・ジャガーモデルを含

らと「ポクスンア（桃）プロジェクト」という集まりを作っ

めた何台ものエレキギターとベースギターなどだ。タルパラン

た。「ポクスンア（桃）」とは特別な意味もなく付けた名前だ

の音楽の歴史は、この中のべースギターから始まった。

ったが、この‘ルーズな桃園の決意’は、21世紀の韓国映画音

「韓国ロックの伝説シン・ジュンヒョン（申重鉉）先生の 息子、テチョル（大澈）とは高校時代からの友人でした。お互 いの実力を知っていたので、一度一緒にやってみようと意気投 合しました」。

楽に新鮮な花を咲かせる健康的な土壌となった。

放浪者の群れ

「当時はインターネットも発達してなくて、お互いに必要

ロックの伝説

な部分についての情報を共有しながら自然に会っていました。

彼らが1980年代に率いていたロックバンド「シナウィ」

もう一つの共通点は、当時の韓国映画音楽界のありふれた音楽

は、二人以外にもキム・ジョンソ（金鍾書）、イム・ジェボム

に対する不満でした。今、振り返ってみるとみんな映画界に少

（任宰范）、ソ・テジ（徐太志）のような大物ミュージシャン

しずつ足を踏み入れていたので、批判的だったのでしょう。と

を輩出し、韓国の大衆音楽に深い足跡を残した。

にかくそんな考えが、とどのつまりは創作に向かう肯定的なマ

タルパランは自らを“すぐに飽きてしまう性格だ”と言

みんな、特別なものが好きだという点では通じていましたが、

インドに転換できたのだと思います」。

う。シナウィ以降、彼は先駆的なモダンロックバンド「H2O」

健康な土は美味しい実をもたらす。タルパランに転機が訪

に飛び込み、1990年代の半ばには、前衛的なロックで歌謡界

れた。キム・ジウン（金知雲）監督と作業をした映画『甘い人

に衝撃を与えた「ピピバンド（PPPB）」にいた。さらにすぐに

生』が、スペインのシッチェスで開催されたカタロニア国際映

「ピピロンスタキング」を経て、ついにはＤＪに転向しテクノ

画祭で音楽賞を受賞したのだ。

とトランス音楽の先鋒に立った。こうしてみると、すぐに飽き

「金監督から電話が来て賞を取ったと言われましたが、最

てしまうという彼の自己評価は的を得ているようにも見える。

初は何の冗談を言ってるんだと思った記憶があります。それ程

「ピピバンドの２枚目のアルバムに『悪い映画』という歌

に突拍子もないことでした」。

があるんですが、その曲を聴いたといってチャン・ソンウ（張

桃プロジェクトのメンバーのチャン・ヨンギュとは、その

善宇）監督がたずねてきました。同じタイトルの映画を作って

後も一緒に仕事を続けている。満州を背景にしたいわゆる『キ

いるのだが、音楽を作ってくれないかということでした。深く

ムチウエスタン』ジャ

考えもせずに、分かったと答えました。そのときは金になるか らと受けたようなものです。映画音楽家になろうとは思っても いませんでした」。 そうやって1997年作『悪い映画』がタルパランの映画音楽

タルパランが京畿道坡州にある自分のスタジ オで仕事をしている。彼は「音楽が映画より 先走ってはいけない、映画の中に自然に溶け 込むものをデザインしなくてはならない」と 言う。

ンルを開拓したアクシ ョン映画『グット・バ ット・ウィアード』の 音楽も彼との共同作業

韓国の文化と芸術 37

© CJ ENM

実ではないんですね。決められた法則などないんです」。 10代から30代まで、ヘビーメタルからテクノまですべての 分野に手をつけた幅広いキャリアが、いつの間にかタルパラン にとって豊富な栄養素となっていた。彼の話のように「映画と は状況に従い、いくつものスタイルを生み出すことができるか ら」だ。 彼の仕事場の右側の壁には公共の建物でよく見かけるよう な、時間が秒単位で表示されるデジタル壁掛け時計がかかって いる。6：32.06PMと真っ赤に発散するゴシック体の数字は、空 間全体を掌握する独裁者のように見えた。 「毎回大変ですよ。自分の個人的な作業なら、何か良いア イデアが浮かぶまで待っていればいいのですが…映画は締め切 1 2

りがあり、封切り日がありますから、アイデアが浮かばないと 無理をしてでも完成させなくてはならないんです。結局はどう にか、何とか出てくるものですが。作業の過程自体は並大抵 ではありません。非常に大変な仕事なんです。それがつまらな く、性格に合わずに結局放棄した友人も何人もいました。映画 音楽を作っていて過労で倒れた友人も見ました。私は苦痛より も楽しさの方がより大きかったんです。一つの映画を終えたと きに、何かをやり遂げたという感じが好きなんです。やればや るほど面白くなりました」。

作品ごとに新たな挑戦

３段に重ねたアナログシンセサイザーの後ろにはアップラ

イトのピアノが１台置いてある。一見楽器というよりは人体解 剖図に似ていた。正面の部分をはずしてハンマーと弦があばら 骨のようにすっかり現れている。様々な音を実験するための映 © Next Entertainment World

画音楽家的な装置だ。そのピアノの上にトロフィー３個が並ん でいる。大鐘賞と青龍映画祭で受賞したトロフイーだ。その一 つには『哭声コクソン』と書いてある。タルパランはチャン・

だった。二人は当時、演出のキム・ジウン監督の呼び出しで、

ヨンギュと共にホラーとスリラー、現実と超現実、巫俗と殺気

中央アジアのウイグル地区に向かった。

が奇妙に入り混じったこの映画に、芸術的なサウンドデザイン

「現地の市場で売られている粗悪なカセットテープを買っ

を精巧に溶け込ませた。

て、それを聞きながらウイグル音楽に親しみました。中東音楽

「映画は２次元じゃないですか。すべてのものは平らなス

と似ていますが、やや他の音階を使っていました。市場で買っ

クリーンで起きます。だが観客にそれを立体的な経験として、

た弦楽器と打楽器も録音に使用しました。エンニオ・モリコー

すなわち現実として受け止めさせるためにサウンド効果も一役

ネ風のマカロニウエスタン・スタイルに東洋的な音階を混ぜて みたんです」。 『哀しき獣』、『京城学校：消えた少女たち』、『暗 殺』… タルパランの前にはそれ以降、韓国の近現代史と東ア ジアという耳慣れていながらも見慣れぬ時空間が宿題として投 げかけられた。 「映画的な装置として当時の音楽をどうしても使わなけれ ばならないこともあります。しかし、そこにとらわれてはいな いです。他の方法でも映画が出そうとする雰囲気をかもし出 し、その時代を説明できるからです。いずれにしても映画は現

38 KOREANA 春号 2019

1. 日本植民地時代の満州の荒野を背景にした韓国版ウエスタ ン映画『グット・バット・ウィアード』（2008）では、強烈 な印象を与える音楽で観客を魅了した。特にニーナ・シモンの 1964年度のヒット曲『Don’t Let Me Be Misunderstood』を、ウ エスタン風のテンポの速いラテンダンス曲に編曲したタイトル 曲が深い印象を残した。 2.『毒戦』は、2018年の上半期に公開された韓国映画の中で、 最も大きな話題と興行成績を残した作品だが、登場人物の内面 世界を音楽が見事に表現していたという評価を受けた。タルパ ランはこの作品で、韓国映画製作家協会賞と青龍映画賞の音楽 賞を受賞した。

「映画的な装置として、当時の音楽をどうしても使わなければならないこともあ ります。しかし、それにとらわれてはいません。他の方法でも映画が出そうとす る雰囲気をかもし出し、その時代を説明できるからです。いずれにせよ映画は現 実ではないんです。定められた法則などないのです」 買っていると思います。『哭声』に対する海外の評論家の文章

業する次の作品が彼の要求を充足させるだろうか。

の中で、音楽の空間感を指摘した部分がありました。そうなんで

ハングルを創製した世宗大王の物語を扱ったソン・ガンホ

す。設置美術水準ほどではありませんが、観客が受け止められる

主演の『ナラマルサミ』と、互いに異なる時間に生きている二

水準で妥協しながら、サウンドアート的な要素を添加してみまし

人の女性が、一通の電話でつながったことで起きる話を描いた

た。いつかはこのような試みを必ずしてみたいと思ってたんです

スリラー『コール』が、封切りを待っている。彼は『コール』

が、幸いエネルギーあふれる映画に出会えました」。

に新しい試みをしてみたと語ってくれた。新しい挑戦はもっと

タルパランはこの映画に、リゲティ・ジェルジュのよう

ある。彼としては最初のテレビドラマの仕事となるネットフリ

な現代音楽家が使う音響クラスター技法を注意深く導入し

ックス制作の、朝鮮時代のゾンビ映画『キングダム』シーズン

た。

２がそれだ。

「歪曲から来る波長があります。音と音をねじって新しい

「シーズン１を事前に見ましたが、なかなか面白かった

音響的な要素を作り出すのです。このような効果を出すため

です。観客動員の圧迫感がないので、ネットフリックスとの

に、主にアナログ・シンセとモジュラー・シンセを使用しまし

仕事は監督にとっても演出意図を生かすことのできる良いチ

た」。

ャンスです。したいことをやってみるチャンスとなるでしょ

このような観点からタルパランが最近最も関心をもってい

う」。

た映画音楽家が、去年亡くなったアイスランドの作曲家ヨハン

彼はいったん、作業に没頭すると食欲がなくなってしまう

・ヨハンソンだ。『ボーダーライン（2015年）』の頃からヨハ

のだと打ち明けた。疲れたらビタミンをたくさん飲むよりは散

ンソンに注目していたという。

歩をする。「何も考えずに歩いているとアイデアが浮かんでく

「映画の暴力的な要素を表現する際に、音響的な歪曲を

ることが多い」と言う。映画音楽家として現在の大衆音楽と純

利用しますよね。現代音楽に関する知識が全くない一般の観

粋音楽の流れを知らなければならない。それで雑誌とインター

客でさえ、直感的に感じるように表現したものです。ヨハン

ネットを通じて様々な音楽に接することも怠らない。2017年若

ソンの実験が凄い理由です。彼の他の作品『メッセージ』も

いインディバンド「シリカエケル」のリミックス作業に喜んで

そうです。そのような実験は、単純な音響効果を超えて音楽

参加したのも、彼らの音楽を前から知っていたからだ。いつか

的に使用されたことは非常に興味深かったです。最近、海外

は自分の名前でアルバムを出したいという気持ちもあるが、ま

でこのような試みがあるのは事実です。マーベルのスーパー

だ具体的な計画はない。当分の間は映画音楽に専念する考えだ

ヒーロー映画にもそのような効果がちらっと出てきますが、

からだ。韓国映画界のためには良いニュースだ。

ヨハンソンの作業レベルには及びません。サラウンドからド

月の裏面

ルビーアトモスまで劇場の立体的な音響システムを十分に利 用した映画は、韓国にはまだありません」。 タルパランはヨハンソンが、まだ一度も会ったことのない 同僚か友人のように感じられるという。それで彼の死がとてつ

この質問は最後までとっておいた。口の中で吟味していた

からだ。タルパランという面白い名前はいったいどこからきた のか。

もなく悲しいという。年齢も同じくらいで、本人がいつもした

「ピピバンド時代のことです。ある日、空を見上げたら実

かった作業を、大胆に商業映画で先頭にたって実践してきた人

にきれいな満月だったんです。月はいつも片面だけを見せてい

物だったからだ。

ますよね。それで見えない裏側もあるわけです。見方によれ

タルパランの最近作は『毒戦』と『ドアロック』だ。『毒

ばニセモノのようでもあります。私もあの月のように面白いと

戦』は、また青龍映画賞の音楽賞を受賞し、観客の異例な要求

興味を感じてもらえるような人になれたらいいなと思ったんで

でCDのOSTアルバムも発売された。スリラー恐怖映画の『ドア

す。ただ月と言っても、面白くないじゃありませんか。感覚の

ロック』では、旋律よりは音響的な要素を多く加えてみた。し

良いパラン（ブルー）を付けてみました。発音が面白かったん

かし、まだ完璧と言えるほどの満足感はない。それでは今年作

です。ハハハ」。

韓国の文化と芸術 39

韓国大好き

ヘグム（奚琴）に 魅せられた 若きトルコ人 急激な変化を受け止めることは決し てたやすいことではない。しかしジ ェブデット・タム氏は、短期間に二 度にわたって、そのような経験をし た。先ず彼は、韓国でコンピュータ 工学とＩＴを勉強するために、故国 トルコを後にした。そして次に、専 攻を韓国の伝統音楽に変えたのだっ た。このような変化は、根気と忍耐 力、そしてゲストとして訪れた国へ の愛着なくしては不可能だろう。 チェ・ソンジン

崔成鎮、韓国バイオケミカルリビュー編集長 河志権 写真

40 KOREANA 春号 2019

命の女神が微笑むように、誰にでも人生の転

運

彼の家族だった。当然家族は、６人兄弟の末っ子の彼が韓国で

換期が偶然の一致で訪れるという。ジェブデ

工学を学んだ後に、お金を稼げるエンジニアになることを期待

ット・タム氏の場合もそうだった。ソウルの

していた。音楽の勉強それも見知らぬ異国の楽器を専攻すると

町を歩いていてそんな奇跡が起きたのだ。孤独を感じて歩いて

聞いた時には 、父親が最も怒ったという。

いた彼は、道端の楽師が演奏するメランコリーなヘグム（ 奚 琴）の音色を耳にした。 「当時の私は19歳でしたが、悲しくて寂しくてトルコの家 族のことばかり考えていました。ところが、韓国の伝統弦楽器 が私のために泣いてくれているように感じたのです」と彼は振 り返る。 見慣れぬ異国の楽器との偶然の出会いが、彼の人生の方向 をリセットしたのだ。

「最初父は１カ月以上、私と口をききませんでした。私の 決心をきちんと分かってもらうまでに３年かかりました。父は 私が一生懸命勉強して大学で奨学金をもらうのを見てようや く、だんだんと許してくれるようになりました」。 彼が韓国のテレビに出た後、父親の不安は完全に消え去っ たという。「父は私がトルコを韓国人に紹介することを、とて も誇らしく思っています」。 父だけではなく他の家族も今や彼を熱烈に応援している。

数学から音楽に

しかし、トルコは韓国から遠く離れており、家族からは精神的

た。それで彼はエンジニアを志し、韓国でコンピュータ工学と

もいる。

情報技術を勉強するつもりでいた。しかし、2012年に韓国に到 全然関係のないところにいた。ソウル大学校韓国伝統音楽科に

韓国の支援者たち

入学してヘグムを専攻することにしたのだった。

ウル大学校のヤン・ヨンスク教授だ。「ヤン教授には学部の学

トルコでのジェブデットは、数学英才クラスの学生だっ

着した彼は１年間の韓国語学習の授業を終えたあと、ＩＴとは

な支えしか受けることができない。その空白を埋めたのが韓国 の知人たちだ。中には彼にとって韓国の父母のような存在の人

そのうちの一人は、ジェブデット氏の指導教授でもあるソ

いったいなぜ、異国の古い伝統楽器にそれほど魅せられた

生だった頃、いろいろと助けていただきました。さまざまな面

のか？ 楽譜さえ読めなかった19歳の青年を魅了したヘグムの

で助けていただきましたが、ご飯も食べさせてくれました」と

魅力とは？

彼は話を続けた。「うちの科では毎年３人の学生がヘグムを専

「自分でもその理由が正確にはわかりません」とジェブデ

攻します。私は他の二人の韓国人学生に追いつくのに必死だっ

ット氏は率直に認めた。「たぶん、僕自身は気づいていません

たのですが、そんな私に先生方がいろいろと配慮してください

でしたが、心の中に音楽に対する想いがあったのだと思いま

ました。それで成績も４点満点の3.2点をとりました。ヤン教

す。ヘグムを最初に見たとき、トルコの似たような楽器のサズ

授はお母さんのような方です。先生がいなければ勉強を終える

（saz）を思い出しました。とにかくヘグムの音色を聞けば聞

ことはできなかったかもしれません」。

くほど、どんどん好きになっていきました。音色が悲しく切な

ジェブデット氏は「韓国の父」の存在も語った。彼が夜Ｄ

く胸を打ち、時にはユーモラスにひびく音、言葉では言い表せ

Ｊとして働いていたクラブの経営者だ。彼はジェブデット氏が

ない音色でした」。

身体の具合が悪い時に、お粥と果物を持って家まで見舞いに来

ヘグムは単純な楽器だ。二本の弦と木製の胴体と棒状の細

てくれた。また、家賃をきちんと払っているか、他の経済的な

くて長い首で出来ている。楽器を膝の上に立てて演奏するが、

助けが必要ではないかなど、彼を心配して電話をかけてくると

王宮だけでなく、田舎の裏庭でも演奏され、韓国の伝統音楽

いう。

として永い間親しまれてきた。楽器の製作には、木、鉄、絹、

遠い異国から来たこの若者を助けたいと韓国人たちが思う

石、竹、瓢、泥、皮の８つの材料が使われる。それでヘグムは

理由は何か。インタビューの間中、気持ちの良い微笑を浮かべ

８つの音だという意味の「八音（パルム）」とも呼ばれる。ま

るジェブデット氏は、誰からも好感を持たれる人物だ。しかし

た俗称として「ケンケンイ」とも呼ばれるが、それはその高音

何よりも、自分の目標を成し遂げるために常に最善を尽くし、

の音色を擬声化したものだ。

勉強と仕事に情熱をもって積極的に取り組むその姿勢に、人々

ジェブデット氏の突然の専攻変更に誰よりも驚いたのは、

は感動を受けるのだ。彼は時間を浪費することはない。昼間は ヘグムを練習し、作曲を学び、夜にはクラブでDJの仕事をして

奚琴演奏家タム・ジェブデットは、韓国 の大衆音楽にはアイデンティティが欠如し ていると指摘する。トルコの音楽家がトル コの伝統楽器を現代音楽によく用いるよう に、Kポップの作曲家も韓国の伝統音楽の 要素に注目して欲しいという。

いる。 外国の伝統音楽を学びたいという若者に、例えば、トルコ の伝統楽器を学びたいという韓国の若者に、どんなアドバイス ができるかという質問に、彼は他の何よりもまずその国の文化 を学ぶこと、最善なのはその文化を愛することだと答えた。

韓国の文化と芸術 41

「まず人々の考え方、人々の精神を理解しなければなりま せん」。 ジェブデット氏が、11人の外国人からなる多重言語バンド の「ハングル」に加入した理由もそのためだ。英国、スペイ ン、トルコ、日本から来た音楽家も含めたこのバンドは、様 々なイベントで公演しているが、まず自分の母国語で演奏した 後、韓国語で演奏するという。「ハングル」というのは韓国語 の文字の名称でもあるが、バンド名は「ハングク（韓国）」の 「ハン」と「グローバル」の「グル」を組み合わせたものだ、 つまり「韓国文化を伝えるグローバルなアーティスト」という 意味だ。 ジェブデット氏は現在、およそ50人の外国人が所属するエ

「私は昼間勉強し、 夜には仕事をしなくて はなりません。克服し なくてはならない障害 もたくさんあります。 しかし、自分の決定を 後悔したことは一度も ありません」

ンターテイメントエージェンシーのエフエムジ（ FMG Foreign Manpower Group)に所属している。彼は韓国のテレビやラジオにも 出演しているがレギュラーではない。

兄弟の国

地理的な距離と文化的な差異にもかかわらず、韓国とトル

コは長い間、互いを「兄弟の国」と考えてきた。何よりも朝鮮 戦争の際、トルコ軍が国連軍として参戦したためだ。 ジェブデット氏は、韓国とトルコにはいろいろな共通点が あると考えている。「たとえば、両国の言語は同じ文章形態 （註：主語述語の語順が同じ）をしていますが、これは韓国人 とトルコ人の論理的な思考が似ていることを意味しているのか もしれません。それに西洋人とは違い、韓国人とトルコ人は家 に入る時に靴を脱ぎます。またトルコ人は、特に男性はすぐに 興奮しますが、10分も経たないうちにけろっと忘れてしまいま す。韓国の男性のように」。 何よりも両国の伝統音楽が似たような雰囲気をそなえてい ると彼は言う。「韓国の歌のようにトルコの歌にも哀れで悲し い、叶わぬ恋を嘆く曲が多いんです。戦地に出かけた夫を想う 妻たちの歌のようなものです。もちろん韓国のようにたびたび 外国の侵略にあい、支配されはしませんでしたが、トルコの歴 史にも戦争は多かったんです」。 両国の伝統音楽の音階や楽譜は違う。それでもジェブデッ ト氏は、最終目標として韓国とトルコの音楽を組み合わせた曲 を作りたいという。 韓国に恋したのか、万一そうならその理由が何なのかとた ずねると、彼は少し恥ずかしそうに、こう答えた。 「韓国を愛せずに、どうして外国人が韓国と韓国の文化を 深く理解しようと努力できますか」。 ジェブデット氏は、韓国で出会ったほとんどの人々が自分 に親切だったので、韓国で暮らして大きな問題に出会ったこと はなかったという。しかし一度だけトラブルにあった。それ はあるクラブの主人が、およそ百万ウォンの給料を払ってくれ なかったことだ。「大部分の韓国人が外国人居住者に親切です

42 KOREANA 春号 2019

タム・ジェブデットは奚琴 が、自分の音楽に対する情 熱と演奏者としての潜在力 を目覚めさせてくれたと考 えている。

が、外国人を怖がったり、警戒する傾向があります。特にお互 いに知り合ったばかりの段階ではそうです」と言い、ジェブデ ット氏は多くの韓国人に潜在する外国人嫌悪症を示唆した。 彼自身は韓国人の友人や同僚と仲良くしてきたが、韓国に 来て間もない外国人たちは、非常に大きな問題に直面している ように見えるという。韓国人の生活方式になれる以前には特に そうだ。「私は韓国で勉強したり、働くことを望んでいる外国 人には、言葉を先に学ぶようにアドバイスします。他の国でも そうですが、ここでも仕事を探すには韓国語の出来る人と、そ うでない人では大きな差がありますしね」。 これに関連してジェブデット氏は、韓国政府が無料あるい は安い受講料の韓国語講座を提供してくれればと提案する。さ らに彼は、韓国政府の多文化政策を賞賛するが、プログラムが より実用的で、来たばかりの外国人が韓国文化と生活方式に早 く適応できるような内容にして欲しいと付け加える。「いつも そうですが、最も大きな問題は経済的なことです。仕事を見つ けてビザの期間を延長することです」と彼は言う。

音楽家として韓国で生きるということ

「韓国で音楽家として生きていくことはたやすくありませ

ん。韓国で音楽を専攻する大部分の学生は、家が裕福そうに見 えます。私は昼間は勉強して夜は仕事をしなくてはなりませ ん。克服しなければならない障害がたくさんあります。しか し、自分の決定を後悔したことは一度もありません」。 ジェブデット氏は韓国の大衆音楽も好きだが、時に韓国人 の文化活動において、韓国人としてのアイデンティティが欠如 しているのではないかと思うことがある。彼はトルコ建国の父 ムスタファ・ケマル・アタテュルクの言葉を引用した。 「自分の歴史と文化を知らない民族の未来は暗い」 彼はトルコの伝統楽器のサズを現代音楽に使用するトルコ の音楽家たちを例にあげた。 「K-POPの作曲家たちが自分の作品にフュージョンというジ ャンルで、韓国伝統音楽の要素をもっと取り入れても良いので はないかと思います」。 クラブのDJの仕事をパートタイムでしているが、彼は酒を あまり好まない。「トルコはご存知のようにイスラム国家で す。それで私たちは酒をあまり飲まず、食べ物を選ぶ時にも非 常に注意を払います。豚肉を食べるのは禁じられています。そ れ以外は韓国の食べ物はほとんど問題がありません。経済的な 理由や他の理由で外食よりは直接家で料理をして食べることが 多いんです」。 ５年後にはどこにいると思うかという質問に対してジェブ デット氏は、その頃にはもう少しましな音楽家になっていたい と答えた。彼が現在歩んでいる道をそのまま突き進めば、2025 年頃には、私たちは外国人が作曲した最初のヘグムソナタを聞 くことができるだろう。

韓国の文化と芸術 43

オン・ザ・ロード

正祖王につき従って 華城への道を歩く

44 KOREANA 春号 2019

ソウルから南に約20㎞の距離にある水原（スウォン）市は、人口約120万人を擁する京畿(キョン ギ) 道庁の所在地である。京畿道で一番大きな都市でもある水原の旧都心を取り囲んでいる華城 （ファソン）は、朝鮮後期建築の白眉とされる。1997年ユネスコ遺産に登録されたこの城郭は、 李氏朝鮮の第22代国王チョンジョ（正祖、在位1776～1800）の哲学がそのまま 溶け込むように 緻密な設計で造られた。何よりも準備段階から完工に至るまでのすべての過程が記録に残ってい るということが、その価値をさらに高めている。 イ・チャンギ 李昌起、詩人・文学評論家 安洪範 写真

韓国の文化と芸術 45

95年春、朝鮮の王都・漢陽（ハニャン）

17

えた。11歳で父親の悲劇的な死を目の当たりにしたチョンジョ

は、全国から押し寄せてきた見物客でに

は、「針のむしろに座るように恐ろしく、卵を積んだような危

ぎわっていた。一時的に夜間の通行禁止

うい」歳月を「ドスンドスンと靴音を立てながら、慎んだり、

を解除し、数カ所に臨時のテントも張ったが、彼らを受け入れ

恐れたりする様子もなく」14年の忍耐の末、王位に就いた。即

るにははるかに不足していた。それに付け込んだ商売もでてき

位の初日チョンジョは、自分がサドセジャの息子であることを

た。見物客の目的はただ一つ。国王の行幸を近くから見ること

明らかにした。

だった。朝鮮朝廷は全国各地に張り紙をして、これを広く知ら

水原・八達山（スウオン・パルダルサン）から南方向に10

せており、近くから王を見ることを認めた。一生の間に一度あ

㎞ほど離れた花山（ファサン）には、その名にふさわしく12の

るかないかの機会だった。王を見ることは、光を見ることと同

つぼみ模様の石と屏風石で華麗に飾られた父サドセジャの陵墓

じだと思われていたため、当時この人込みを「観光民人」と呼

がある。この敷地はもともと、水原の都護府（古代の辺境統治

んだが、今は「観光」という言葉はツーリズムを意味する。

機関）のあった所で、その後数百年間、朝鮮王陵の明堂として

王の親孝行

注目された。チョンジョは1789年、水原都護府の跡地に京畿道

1795年２月９日の朝７時頃チョンジョは、昌徳宮（チャン

した後、顕隆園（ヒョンリュンウォン）へと昇格させた。さら

ドックン）の正門・敦化門（トンファムン）の前で、母ヘギョ

に父親の冥福を祈るため、近くに寺院も建てた。父サドセジャ

ングン（恵慶宮）洪氏を迎える儀式を執り行ってから、馬に乗

の死から33年後、母洪氏の初詣が初めて行われた。

って出発した。１㎞に及ぶこの王の行幸の目的地は華城だっ 由は、チョンジョの親孝行にある。この華やかな行幸の目的

蘇らせた200年間の記憶

は、母ヘギョングン洪氏の還暦を兼ねて父サドセジャ（思悼世

く見られる儀礼的な政治行為であるが、チョンジョの今回の行

子）の墓参であった。政治勢力間の陰謀と対立の狭間で翻弄さ

幸はいろいろな意味で特別なものだった。まず、規模の面で朝

れ、精神的に追い詰められた父サドセジャは結局、反逆の濡

鮮建国以来最大のものだった。８日間の巡幸のために動員され

れ衣を着せられ1762年27歳の時、実の父親であるヨンジョ（英

た人数は計6000人、投入された馬だけで1400頭だった。予算も

祖）の命によって、米櫃に閉じ込められたまま８日後に息絶

過去最大の10万両（約70億ウォン）に上った。母洪氏が乗る輿

た。今も多くの韓国人がこの歴史の一場面を心に刻む最大の理

46 KOREANA 春号 2019

・楊州（キョンギド・ヤンジュ）にあったサドセジャの墓を移

国王の「行幸」は、近代以前の北東アジアの王朝国家でよ

の製作には、各分野の職人120人が携わっており、2785両（約 ２億ウォン）の費用がかかった。今日自動車の生産量でトップ を走る韓国でも、まだこれほどまでに高い車を生産したことは ない。このように行事の細目がうかがい知れるのは、この行幸 に関する膨大な規模の記録のおかげである。 その一つが『園幸乙卯整理儀軌』（国王の華城行幸記録） である。８冊に編纂されたこの本は、行事を主管した臨時官庁 が発行した記録物で、儀式の顛末が記してある。特に、随行 員たちが行進する様子が描かれた63ページの班次図（バンチャ ド）は抜群だ。この絵図は、風俗画の大家キム・ホンド（金弘 道、1745～1806?）の指揮の下、そうそうたる画員たちが共同 で描いたものであり、記録としての価値はもちろん芸術性にも 優れている。もう一つは、８曲の屏風で作られた「華城隆幸 図」（ファソンヌンヘンド）である。八日間の壮観さを描いた この屏風には、完工した華城全体の姿が詳細に描かれており、 行幸の翌年に完成したものと推定される。押し寄せる人波を統 制する兵士たち、団体観覧の若い儒生たち、喧嘩の仲裁に割り 込む男、その隙間から垣間見られる飴売りなどの姿が身近なも のとしてリアルに描写されている。 それから200年後の1993年に出版されたイ・インファ（李 仁和）の小説『永遠なる帝国』は、多くの人々に当時の記憶を 蘇らせた。チョンジョの毒殺説をモチーフとした同小説がベス トセラーになり、これを原作とした同名の映画が相次いで制 作された。その後、水原の華城がユネスコ世界文化遺産に登録

『華城陵幸図』 キム・ドクシン（金得臣、1754～1822）他 1795年頃、絹に彩色、各幅151.5×66.4㎝

1795年正祖（チョンジョ）が、還暦を迎えた母・恵慶宮洪氏（ヘギョング ンホン氏）と共に、父・思悼世子（サドセジャ）の墓参りに行き、還暦祝 いを行った様子を記録した絵。８日間の行幸を８つの場面で構成して盛り 込んだ。図画署（国家事業の記録を絵画に残す仕事をする宮中の部署）の 画家数人で描いたものと推定される。精巧な描写と華やかな彩色が宮中絵 画の格調高さを見せる一方、当時の各界層の人物及び風俗をリアルに表現 した記録画の白眉である。

ⓒ国立故宮博物館

韓国の文化と芸術 47

チョンジョは、三日間ここに滞在して父親の墓参りをし、官吏採用の科挙試験を 行い、昼夜を問わず軍事訓練を参観し、母親の還暦祝いを開催し、地元の老人た ちのための宴会を催した。

されると、チョンジョが残した記録物を要約・整理して解説し

標ぼうすると同時に自分の統治力を強化するという、高度な政

た本が出版された。またモノクロ木版画の班次図も彩色復元さ

治的パフォーマンスとして遠出を活用した。

れ、高級文化商品として出版されたりもした。これを機にチョ

最も厳しい道のりは、漢江（ハンガン）を渡ることだっ

ンジョは、朝鮮王朝のルネサンスを率いた改革君主としてのス

た。直接船に乗って渡るか、渡船橋を造って渡るといった二つ

テータスを取り戻した。長年の間に忘れられていた国民感情で

の方法があるが、チョンジョは渡船橋を選んだ。問題は、数百

ある「聖君の思い出」を呼び覚ましたのだ。

隻の船を動員しなければならず、その工事期間が長いため、

チョンジョのための渡船橋

船主たちの生業に多大な支障をもたらすということだった。そ

チョンジョにとってこの道は初めてではなかった。父親の

と、それがチョンジョの目標だった。チョンジョは父親の墓の

墓を移してから毎年の墓参も今回で六回目だ。このように頻繁

引っ越しから得られた経験を踏まえて、川の幅と船の高低、つ

な遠出には、もう一つの意図があった。大勢の軍事が動員され

なぎ方など、15項目についての指針作りを指示し、体系的なア

るということから、彼らの訓練状態と首都圏の防衛体制を点検

プローチと設計を求めた。時間をかけ綿密に練られた『舟橋節

する機会となり、同時に軍事の移動を通じて新しい道と橋を造

目』（1793）という冊子が完成した。これを基に1795年２月、

るなど、道路整備事業の効果もあった。チョンジョは親孝行を

11日間という短期間に機能と外見の優れた渡船橋が完工した。

のため短期間に最小の費用で、安全で美しい渡橋を建設するこ

1

48 KOREANA 春号 2019

1. 京畿道華城市（キョンギド・ファソンシ） に位置する隆陵(ユンヌン）は、朝鮮第22代王 の正祖の父・思悼世子（サドセジャ、1735～ 1762）と生母・恵慶宮洪氏（1735～1816）が 合葬された陵墓である。 2. 思悼世子と恵慶宮洪氏の墓・隆陵は、つぼ み模様の石、ボタンとハスの花模様を刻んだ 屏風石などで華やかに飾られた。この墓から は、王座に就けず早死にした父親の墓を最大 限王陵に相応しく工夫した正祖の親への思い がうかがえる。

2

チョンジョが利用した渡船橋の場所に、1917年最初の近代的人

華城の北門を経て、水原の官衙に着いた。着工から１年が経過

道橋である漢江大橋が竣工した。それから100年が経った今日

した華城の城郭は未だ工事中であった。チョンジョは水原を華

まで漢江に建設された橋は計31橋である。

城に改名し、行政単位を昇格させて5000の兵士を擁する親衛隊

渡船橋で優雅に漢江を渡ったチョンジョは、既存の南泰嶺

・壮勇営（チャンヨンヨン）を設置した。水原はソウルの南側

（ナムテリョン）を越えて果川（カチョン）へ向かう道の代わ

を行き来する際の重要な通り道であるため、ソウルの外郭の防

りに、チャンスンべギを経て始興（シフン）に行く新しい道を

衛体制を固めるという大義名分があった。

利用した。距離はあまり変わらなかった。ただ、馬に乗って５

華城は、名実ともに難攻不落の最新式の城郭だった。ただ

行、多い時で11行の列をなして行進したので、道の幅がその分

し、設計を担当したチョン・ヤギョン（丁若鏞、1762～1836）

広くなければならなかったが、山道を造るよりは平地の道を造

が、平地に城を建て、水路と十字路を造り、人的・物的交流が

る方が簡単だったからだ。その代わりに、始興への道は大小の

円滑に行われる多目的新都市を計画したことからすると、華城

小川が散在しているため、より多くの橋を建て架けなければな

の要塞化がチョンジョの唯一の目的ではなかったようだ。チョ

らないといった短所もあった。チョンジョの選択により二つの

ンジョは、４日間ここに滞在して父親の墓参りをし、地域の人

道の運命が変わった。始興道は、その後も拡張され続け、朝鮮

材を登用するため科挙試験を行った。さらに、昼夜を問わず軍

の10大路として、今日ソウルの中心部と南部地域を結ぶ国道１

事訓練を参観し、母親の還暦祝いを行い、地元の老人たちのた

号線の幹線道路となった。その一方、かつて賑わっていた時代

めの宴会も開いた。これによりチョンジョは、行幸の準備期間

を彷彿させる古びた酒幕（チュマク、旅籠に当たる）のある南

で１年、父サドセジャの墓を移転した期間からすると６年、王

泰嶺は、旧道に衰退してしまった。

位に就いてからの期間まで合わせると20年にわたる焦燥の時間

華城築造の目的

を経て、彼の思惑通りに構築した空間で、自分が現し強調した

敦化門から出発した行列は始興で一泊し、翌日の夕方頃に

いと思っていたすべてのことを完璧に具現した。 外周5.7㎞、高さ4.9～6.2mの城壁で構成された華城の城郭

韓国の文化と芸術 49

は、遠出の翌年である1796年秋に完工した。大きく豪華な４大

しかし彼の時代には、すでにカトリック教と陽明学はもち

門と華城で一番高い八達山（パルダルサン）の頂上にある西将

ろん、実学の名前で18世紀西洋の科学技術が押し寄せていた。

台（ソジャンデ）、四季折々に美しい趣のあるスリュパンファ

性理学にはもはや先行する学風や価値観はなかった。彼が取り

亭 と華虹門（ファフォンムン）、さらに華城独特の石と煉瓦

組む近代化は、このような不安と不確実性の中にあった。彼は

造りの、３カ所に建つ空心墩（コンシンドン、望楼）を含む、

いわゆる「愛民精神」で時代の変化と適切に妥協しようとし

40余りの防御施設物のすべての工事が２年６カ月で完了したの

た。チョンジョは行幸のたびに、文字の読み書きができない百

だ。現在の華城行宮（ファソンヘングン）は、日本植民地時代

姓と直接会って、平均85件の苦情を処理しており、華城工事に

に毀損され、病院や警察署や学校として使われていたものを

携わった建設作業員に冬は衣服を、夏は暑さを凌げる薬剤を授

2003年に修復したものだ。チョンジョは華城の建設に関するす

けた。工事報告書には、建設作業員の名前と住所、労働日数、

べての工程を、工事記録報告書『華城城役儀軌』（ファソンソ

賃金までをきめ細かく記録した。行宮と新作路を造るため、民

ンヨクウィグェ）にまとめた。

家を撤去しなければならない時には十分に補償をしており、凶

チョンジョによる近代化

作年には工事を取りやめた。

私は、なぜチョンジョは華城を建設したのだろうか、彼は

を絶対化する文化的な力で百姓を囲い込んだが、身分差別によ

君主としてどのような国を作りたかったのか、という素朴な疑

る対立を抑えられず、「個人の発見」という近代精神を読み取

問を抱いたまま、彼の足跡を追い続けた。私がたどり着いたの

ることはできなかった。チョンジョは華城の建設が王室の陵墓

は親孝行、性理学に対する該博な知識と価値観を基にしたガラ

を保護し、行宮を守るためだということを随時強調しており、

ス張りの行政、そして強力な王権に支えられた徳による政治を

始興路に新たに造った萬安橋（マナンギョ）も、多くの人々の

行い、百姓から称えられる王朝国家の君主といった、よくでき

期待とは異なり、チョンジョにとっては父親の墓参りのための

たストリーだった。彼が残した文集である『弘斎全書』（ホン

石橋としての価値が重要だった。一世代前のヨンジョ（英祖）

ジェゾンソ）や他のテキストがこれを裏付ける。

時代の学者シン・ギョンジュン（申景濬、1712～1781）が、

彼は百姓に対して恵みを施したい気持ちと、性理学の価値

水原観光案内図 46km

ソウル 水原

1 長安門 （チャンアンムン） 3 華城・西将台 （ファソン・ソジャンデ）

4 5 隆陵(ユンヌン）龍珠寺(ヨンジュサ） 50 KOREANA 春号 2019

2 華虹門 （ファホンムン）

1

2

3

4

5

華城で最も美しい建物とされる訪花随柳亭 （パンファスリュジョン）は、四季折々の美しい風景で 大勢の人々に愛されている。「花と柳を求めて楽しむ」という意味のこの東屋は、風流ながらも軍事 的監視の目的を兼ねており、石材と木材が調和をなして精巧な建築美を誇る。

© Topic

『道路考』（ドロゴ、1770年）の序文で明らかにした「道とい

繊維産業の中心地となった。今日、半導体大手・サムスン電子

うのは主人がなく、もっぱら道の上にある人が主人（路者無主

が水原に位置しているのも、このような地理的なメリットを見

而惟在上之人主之）」という考え方にも及ばなかった。これ

据えた決定だ。

が、今日の「国民情緒」に支えられて、近代とチョンジョを強

1997年４月、ユネスコから調査官として派遣されたニマル

引に結び付けようとする意見が浮上する際に、歴史学者たちが

・デシルバ（Nimal de Silva）教授は、『華城城役儀軌』のコ

最も困惑する部分である。

ピーを手にしていた。城郭の建築物の様々な形態に魅了された

華城の完工から４年後の1800年、チョンジョの突然の死と

彼は、この膨大で詳細な資料に改めて感心した。この義軌は、

ともに、物事はすべてチョンジョ以前の時代に後戻りしてしま

わずか200年間の歴史の中で破損と修復を繰り返してきた華城

った。親衛部隊の壮勇営は廃止されて、華城は再び平凡な地方

が、ユネスコ文化遺産登録への決定的な役割を果たした。これ

の小都市になった。人々は、華城という名前の代わりに水原を

は、今日韓国社会がチョンジョをどのように見ているのかをう

より好んだ。それから100年後にソウルと釜山（プサン）を結

かがわせる。彼が残した記録の真実性が、王朝と民国、近代と

ぶ鉄道が水原を経由するようになった。水原の西方の歴史的外

前近代、個人と国家の意味を改めて思惟する手がかりとして未

郭と南門の八達門から水原駅を結ぶ道路沿いに、新しい市街地

だ輝いているからだ。

が形成され道庁所在地となった水原は、再び注目される都市と なった。このような地理的要因で水原は朝鮮戦争の最大の激戦 地の一つになり、都心と華城のかなりの部分が爆撃と火災で破 壊される被害を受けたが、戦後は韓国経済成長の主軸になった

韓国の文化と芸術 51

二つの韓国

今日の平壌を伝える 最近、北朝鮮の実像を紹介する本がソウルで出版された。自らを「ピョンヤン巡回特派員」だと紹 介する在米フリーランス、ジン・チョンギュ（泰千圭）記者の『平壌の時間はソウルの時間と共に 流れる』は、生々しい写真と豊富なインタビューを通して、今の北朝鮮を伝えている。 キム・ハクスン 金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 河志権 写真

52 KOREANA 春号 2019

洋では北朝鮮をよく「隠遁の国」という修飾

西

2000年の南北首脳会談の際には取材のために直接北朝鮮を訪れ

語で呼んでいる。最近の非核化交渉で北朝鮮

た。特に2000年の「6.15南北共同宣言」の際には、金大中大統

問題が新たな局面を迎えているが、依然とし

領と金正日国防委員長が握り合った手を掲げてにこやかに笑っ

て統制が厳しくしかれ訪問さえ自由にできず、社会の全貌を正

ている姿を直接カメラに収めた。

しく知ることができないからだ。それで世間の人々は北朝鮮に

2001年にアメリカに移住し、そこで暮らしてきた彼が17年

対して、国際社会の厳しい制裁により経済発展は低迷し、人民

ぶりに訪れた北朝鮮で最も驚いた変化は、自動車と携帯電話だ

は極度の生活苦にあえいでいるという通念を抱いている。

った。平壌冷麺で有名な食堂「玉流館」の前には客待ちをする

このような固定観念とは違い、ジン・チョンギュ記者の『平

タクシーが常に10台ほどは並んでいた。タクシーは外国人や政

壌の時間はソウルの時間と共に流れる』（タコス出版）は、私た

府高官だけのものだという先入観とは裏腹に、利用客は主に一

ちの知らない今の平壌の姿を伝えている。ジン記者は2017年10月

般の市民だった。車の数が少なくガランとした道のど真ん中で

から今年の７月まで４回にわたり北朝鮮を訪れ、40日間北朝鮮の

交通警官が手旗信号をしていた平壌に、今では信号が無くては

住民250人にインタビューし、取材した内容と写真をこの本に収

ならないほどにたくさんの自動車が走っていたのだ。

録した。言わばこの本は、北朝鮮がこの何年かの間にどれだけ、

「以前は想像もできなかった光景でした。平壌市内だけで

そしてどのような変化をとげたかを物語っている。またこの本

も6000台以上のタクシーが走り回っており、タクシー会社も

は、ムン・ジェイン大統領が夏の休暇に読んだという３冊の本の

５、６社はあるということでした」。

中の１冊だということでも話題になっている。

タクシーに乗り運転手、北朝鮮では運転員と呼ばれる男性

南北関係が断絶していたこの９

にたずねたところ、「タクシーは主に地下鉄やバスの停留所の

年間、韓国のジャーナリストによ

無い路地まで行く人々が利用している」という答えが返ってき

る北朝鮮取材は不可能だった。しか

た。自家用車をもたない人々が徐々にタクシーを利用するよう

し、アメリカの永住権を持つ韓国人

になったため、ラッシュアワーには若干の交通渋滞も起きると

フリーランス記者であるジン・チョ

いう。

ンギュ氏は、北朝鮮当局と信頼関係

もう一つ彼を驚かせたのは、依然として情報と移動が統制

を築き平壌はもちろん、元山、マシ

される社会であるにもかかわらず、北朝鮮の携帯電話の利用者

ク嶺スキー場、妙香山、南浦などの

数が500万人に達するという事実だった。平壌市内で携帯電話

様子を比較的自由に写真に撮ること

で通話をしたり、写真を撮る姿はもう珍しい光景ではなくなっ

ができた。

ていた。 ジン記者が平壌取材中に一番驚いたのは、想像していたよ

自動車と携帯電話

りもはるかに開放的なインターネット環境だった。平壌国際空

ジン記者は自らを「平壌巡回特

港でWi-Fiでインターネットを利用しながら彼は、国際空港だ

派員」と称しているが、それには理

から可能なのだろうと考えた。しかし、彼が泊まった平壌ホテ

由がある。1988年言論自由守護闘争

ルでもインターネットを自由に使うことができた。だれにでも

により解雇された記者が主軸とな

許される状況ではないだろうと思いながらも最初は信じられな

り、国民株募金の形で創刊された

かったという。

『ハンギョレ』新聞に加わったジン 記者はその年、板門店で開かれた軍

「必要な資料を検索したり、アメリカや韓国の知人といつ でもメールのやり取りをすることができました」。

事停戦会談などを取材しながら北朝

平壌からのメールを受け取ったソウルの人々は、「本当に

鮮とかかわりをもつようになった。

北朝鮮から来たメールなのか」とびっくりしていたという。一

以降、1992年の南北高官級会談と

度仕事で急きょソウルにメールを送り、返事を待っていたのだ

© Jin Chun-kyu

平壌の主体思想塔から見た西平壌地域のチャンジョン通りの様 子。高層アパートが立ち並ぶここは2012年に完工した。 韓国の文化と芸術 53

「アメリカをはじめとする国際社会は、もう少し経済制裁を加えれば、北朝鮮は すぐに両手を上げて降伏するだろうと考えていますが、北の現在の姿を見て、 そんな判断は間違っているのではないかと思いました」

が、いくら待っても返事は来なかったという。後で知ったのだ

パートが立ち並び、資本主義国家の街を連想させた。金正恩

が、相手はメールを受け取ったものの本当に平壌から来たもの

労働党委員長が意欲的に開発したという新市街地の黎明通り

か、もしかして監視されているのではないかと心配して返事を

のビル群は、ムン大統領平壌訪問の際の車両によるパレード

送らなかったという。彼の本、『平壌の時間はソウルの時間と

の背景にも映っていた。

共に流れる』も、平壌からソウルの出版社とメールで連絡を取

ジン記者は平壌にピザ店舗が６軒もあることも確認し

りながら出版の最終作業をしたという。

た。外国人観光客のための食堂ではなく一般市民のための食

信頼に基づいた取材

堂だという。萬景台区域の祝典洞にある「イタリア料理専

昨年から今年にかけて、ジン記者が直接その目で確認し

で、ジン記者が訪れたときには300坪にもなる広い空間に空席

た平壌市内は、新築の高層ビルが立ち並び、昔に比べてはる

がないほど多くの市民がつめかけ、ピザやスパゲティを食べ

かに華やかになったように見えた。特に倉田通りは、外国人

ていたという。

門食堂」は、2008年平壌に初めてオープンしたパスタ専門店

が「ピョンハッタン（ピョンヤンのマンハッタン）」とか

平壌で撮った写真の中で最も貴重なのは、一般市民の住宅

「リトルドバイ」と呼んでいるほどだった。また主に科学者

内部の様子だという。北朝鮮でサルリムチブ（住宅）と呼ばれ

が居住している未来科学者通りには、高層アパートと高級デ

るアパートを取材する機会があったが、北朝鮮の関係者は彼に

1. 平壌大劇場から公演の観 覧を終えて出てきた平壌市民 が、並んでタクシーを待って いる。 平壌市内だけでも6000 台以上のタクシーが稼働中だ という。

1 © Jin Chun-kyu

54 KOREANA 春号 2019

2. 自身の著書『平壌の時間は ソウルの時間と共に流れる』 を手にしているジン・チョン ギュ（泰千圭）氏。この本に は彼が2017年10月から2018年 7月の間に、4回にわたって北 朝鮮を訪れて取材した内容と 写真が掲載されている。

「外部の人間としては初めての取材」だと教えてくれた。彼が 訪れたのは高層アパートの集まっている黎明通り地域だった。 2017年に完工したばかりのアパートは、再開発以前に住んでい た人々に先ず最初に入居する資格を与え、主に近くに勤めてい る住民が住んでいるという。 ジン記者の訪問した家にはベッド、ガスレンジ、冷蔵庫、 電気炊飯機などがあり、韓国の中流家庭と似たような生活環境 だった。事前に連絡してたずねて行ったが、わざわざ新しい家 財道具を運びこみ華やかに飾りつけたという印象は受けなかっ たと彼は話す。 平壌では家の大きさを坪数ではなく、西洋式に部屋の数 で計算するという。部屋が二つの家、三つの家、四つの家な どというように家の大きさを区分するのだ。部屋の数は家の 主人の権力関係や社会的な地位で決定されるのではなく、扶 養家族の人数で決まるという。黎明通りにあるアパートの１ カ月の住宅使用料は240ウォンで、韓国のお金に換算すると 2700ウォン程度だという。実際の価格というよりも、象徴的 な料金だと考えたほうが妥当だろう。ジン記者は「高層アパ ートの場合、エレベーターの管理者が別にいて目を引いた」 と言う。北朝鮮では省エネのために電気料は徴収するが、水 道料は払わないという。 今回の訪朝取材の期間中、彼を案内した案内員はいたが 「平壌市民の間に混じって自由に話をして取材し、撮影した写 真や映像もなんの検閲も受けなかった」と言う。北朝鮮当局が 彼に要求したことは、「金日成首席と金正日国防委員長の銅像 の写真は、全体が完全に写るようにしてほしい。建設労働者と

2

薄汚れた老人の姿は撮らないで欲しい」というのが全てだった という。

文化的な統一に向けた努力

これまで世間に公開されてきた北朝鮮関連の本と写真は、

として「偏見なしに見て伝える」という信念を持っている。

主に外国人記者が取材したものだった。しかし彼らは言葉が通

彼は慎重に言葉を選んでこんな話しをした。ある方面から

じないため、仕方なしに「観察者」の立場から接近する他な

「平壌の特別な一面を北朝鮮全体の姿のように話すのは困

く、おのずと限界があった。ジン記者はそのような限界を突き

る」と批判する声も聞こえるが、「韓国のソウルと地方の差

破りたかった。人々の間に混じって、よそ行きの顔ではなく、

のようなものだと受け止めるのが、賢明な判断ではなかろう

感情や考えまで撮りたいという思いで取材に臨んだ。

か」と彼は主張する。

北朝鮮取材に格別な使命感を抱いている彼は「境界人」

彼は「アメリカをはじめとする国際社会は、北朝鮮にも

平壌常駐特派員が長い間の夢だった彼は今、2019年開局予

う少し経済制裁を加えれば、すぐに両手を上げて降伏するだ

定の「統一テレビ」を設立することに余念がない。彼が準備委

ろうと考えていますが、北の現在の姿を見て、そんな判断は

員長をつとめる「統一テレビ」とは、南と北が共に楽しめるよ

間違っているのではないかと思いました」と言う。平壌市民

うな歴史や自然ドキュメンタリー、グルメ関連の番組などを制

は単に衣食住を解決するという段階を超えて、国際社会が考

作し、北の映像の著作権を確保して放映するケーブルテレビ

えているよりもはるかに多様な消費生活をしていた。特にジ

だ。彼は「統一テレビ」を準備している自分の心境をこう述べ

ン記者は、北朝鮮の核問題で北朝鮮とアメリカが鋭く対立し

ている。

ていた昨年の10月にも「平壌は戦争準備に突入しただろうと

「南と北が様々な文化コンテンツを交流し、同一性を回復

いう世の中の憂慮とは違い、穏やかな日常を維持していた」

していくことで、文化的な統一を早めるのに大きな役割を果た

と証言する。

すことが出来るでしょう」。

韓国の文化と芸術 55

日常茶飯事

靴を繕い、磨いて得る幸せ かつてソウルの街角ならどこでも見かけられた靴磨き屋が、徐々にその姿を消し、今では探すことさえ難しくな ってしまった。古いアパート団地の駐車場に、小さなコンテナの靴磨き店を構え、30年以上も一人で守ってきた キム・ソンボク（金成福）さんの日常は、単調ではあるが平穏だ。 キム・フンスク 金興淑、詩人 河志権 写真

56 KOREANA 春号 2019

キム・ソンボクさん（左） は1986年、ソウル市玉水洞 のアパートの商店街の駐車 場にコンテナで作った小さ な靴磨き店を開き、今でも 日曜日以外は毎日ここに出 勤している。

生最初の運・不運は両

人

していた少年は、不良のような頭をした

親にかかっている。ロ

人間の目にとまり「チクセ」として働く

ベルト・ベニーニ監督

ことになった。「チクセ」とはソウル駅

の映画『ライフ・イズ・ビューティフ

近くの事務所を回って、靴磨きを頼む靴

ル』に見られる絶妙な両親は、戦争さえ

を集めてくる人間のことだった。それ

も楽しいゲームにそらすことで、子ども

が、彼が靴とめぐり合う縁となった。

が生き延びるという奇跡を起こしたが、

しかし「チクセ」は長い間できる仕

反対に子どもの人生を戦場にしてしまう

事ではなかった。３年ほどして辞め、そ

父母も少なくない。靴磨き店の主人ソン

の後は新聞売りやガム売りなどをした。

ボクさんの幼い頃は、不運なことに戦争

そうして家族もいないソウルで一人暮ら

のようだった。

しをしていると、たちの悪い友達も増え

彼の故郷は韓半島の最南端、いわゆ

ていった。真面目に生きていこうとして

る「タンクッマウル(地の果ての村)」と

も、そういう友人たちがやって来ては誘

呼ばれる全羅南道海南だ。貧しい農夫だ

惑するので、なかなか思い通りにはいか

った父は賭け事好きで、そんな夫のせい

なかった。そんな時に、彼を支えてくれ

で母は塩と魚を売って何とか７人の子ど

たのが幼い頃に近所に住んでいたイ・ユ

もたちを育てていた。そしてソンボクさ

スク（李柳淑）さんだった。彼女も10代

んは９歳のときにGMCトラックから落ち

の末に上京していろいろな職に就きなが

て左足をひどく痛めてしまい、そのせい

ら必死に暮らしていた。お互いの身の上

で生涯、障害を背負って生きていくこと

を誰よりもよく理解できた二人は２年ほ

になった。

ど交際し、ソンボクさんが23歳でユスク

「幼い頃から車を直すのに関心を持

さんが20歳のとき結婚した。

っていました。ある日、稲を運ぶトラ

「うちの妻みたいな人間はいませ

ックが故障して、その修理をしているの

ん。結婚式もあげずに暮らしてきました

を見ていたら、運転助手がやって来て、

が、もし生まれ変わったとしても、また

手伝ってくれれば乗せてやるというんで

一緒になりたいです。これまでの長い歳

す。それで品物を運んでトラックに積ん

月、妻も私のように一生懸命に働いてき

で、そしてエンジンをかけてあげたんで

ました。家の壁紙貼り、工場のミシンが

す。ところがエンジンがかかると、約束

け、家政婦など。休みなしに働いてき

を守らずにそのまま行ってしまおうとし

て、今でも縫製の仕事をしています」。

たんです。それでトラックの後ろにしが

ソンボクさんは結婚後、靴磨きと修

みついたんですが、結局走るトラックか

繕の仕事にだけ専念し、1986年満35歳

ら転げ落ちてしまいました」。

のときに、ソウル市城東区玉水洞のア

長い歳月が経った今、彼は「たくさ

パート団地内にある商店街の駐車場の

んの靴を磨いたり、修繕したりしなが

片すみに、小さな靴磨き店を開いた。

ら心の平安を取り戻しました」と笑っ

それから今日まで30年以上、日曜日以

た。

外はいつも一坪ほどの四角いコンテナ

一人で上京した少年

製の自分の店に出勤する。雨が降って

幼い頃、村の大人たちはソンボクさ

も雪が降っても、朝９時には店を開 け、夕方６時に閉める。

んに「その脚では農業はできないが、

ソンボクさんは賭け事好きだった父

ソウルに行けば何とか食っていけるだろ

とは違い、責任をもって家長の役割を

う」と上京を勧めた。その言葉を信じ家

しっかり果たし、二人の娘を大学まで

を出て一人で上京した。その時彼はまだ

行かせた。そして娘たちは結婚し、今

12歳だった。ソウル駅に到着しても、ど

では三人の孫のおじいちゃんだ。彼の

こに行けばよいのか分からずにウロウロ

生活は戦場を抜け出したが、その一日

韓国の文化と芸術 57

は依然として軍人のように規則的で忙

まりいませんし、私も年をとって大変な

収入がはるかに多かったものですが、今

しい。毎朝６時半に起床し、自家用車

ので、オートバイで取りに行くことはし

では収入の半分は修繕で稼いでいます

で家から30分の店に出勤するのが日課

なくなりました」。

よ」。

となっている。

2005年に公務員の服装自由化が実施

彼はお客がいないときには散歩をす

靴磨きの暗い未来

され、それと共にスーツを着なくても良

るように近所を歩く。同じ場所で33年間

い文化が社会全般に拡がり、革靴を履く

靴磨きをしているので、どこに行っても

「店を開いた頃は、靴１足の磨き賃

人も段々と少なくなり、それとともに靴

知り合いばかりだ。彼が不在中に店に客

は1500ウォンでしたが、今は4000ウォン

磨きの店も閑古鳥が鳴くようになった。

が来ても心配は無い。お客は店のドアに

です。物価の上昇に比べれば安いほうで

「いまや子どもも大人も皆、運動靴

書かれた彼の電話番号に連絡するから

す。昔はオートバイにカゴをつけて靴

のような楽な靴を履いています。ですか

だ。ソンボクさんは健康が許す限り、今

を集めに行くほど仕事も多かったもので

ら靴磨きをすることもありません。もち

のように毎日店に出て働いていきたいと

す。20年くらい前までは仕事が多くて、

ろん未だに一週間に３、４回靴を磨くと

いう。ただ一つだけ残念な点があるとす

朝７時に出勤して一日中忙しく働かなけ

いう常連さんもいますが、多くはありま

れば、靴磨きの未来が明るくないという

ればなりませんでした。磨かなくてはな

せん。それに最近は歩き回る人が余りい

ことだ。

らない靴が店の前に20足ずつ積んであり

なくなりました。みんな車に乗って移動

「この仕事は私たちの世代で終わっ

ましたから。おかげで二人の娘を大学に

するので靴が汚れることもありません

てしまうでしょう。若い人たちの中にこ

行かせることができ、暮らしも楽になり

し。道もアスファルト舗装がされてきれ

の仕事を学ぼうという人さえいませんか

ました。しかし、最近は靴を履く人もあ

いになりましたしね。昔は靴磨きで得る

ら」。 ソンボクさんの話のように靴磨きは もうすぐ無くなってしまうかもしれな

1

1. 仕事の多かった昔は靴磨き で得る収入がはるかに多かった が、最近では靴磨きをする客の 数が減り、靴の修繕で得る稼ぎ が多いという。 2. キム・ソンボクさんは靴に クリームを塗った後、布に水を 少しつけて磨いていく。そうす ることで深みのある光沢がで るからだが、このような方法 を「ムルグァン（水光沢）」 と言う。

い。長い間、この国の人々の足を包んだ チプシン（わらじ）が消え去ったよう に。近代以前、この地に暮らす大多数の 人々は、ワラを編んでつくるチプシンを 履き、お金のある人は革製の履物を履い ていた。革靴やコムシンを専門に修繕す るシンキリョチャンス(靴修繕家)は、19 世紀末に登場したものと見える。ソンボ クさんが生まれ育った1950年代、田舎の 市場や都市の片すみにはシンキリョチャ ンスがいて、穴があいたり、裂けたコム シン(ゴム製の履物)に接着剤を塗ったあ

ソンボクさんの話のように、靴磨き屋は もう無くなってしまうかもしれない。長い 間、この国の人々の足を包んできたチプシ ンが無くなってしまったように。 58 KOREANA 春号 2019

と、熱い鉄を押しつけて再び履けるよう にしてくれた。20世紀初めの近代化とと もに洋靴が広く普及し、コムシンはだん だんと僧侶や刑務所の囚人、田舎の老人 だけが履く履物となり、シンキリョチャ ンスの仕事もその大部分が、革靴の修繕 屋となった。そのシンキリョチャンスの 末裔であるソンボクさんが、靴磨きの未 来を心配している。

素朴でも楽しい人生

「新聞売り、ガム売り、喫茶店の厨

房掃除、東大門市場の服売り場でのラベ ル貼りなど、ありとあらゆる仕事をして きました。理髪の技術も５年間習い、昌 信洞の小さな縫製工場で婦人服を作る仕 事もしましたが、長い間座っていると足 が痛いので辞めました。いろいろな仕事 の中で靴磨きが一番あっていたと思いま す。幼い頃に障害者となった身ですが、 この仕事では十分に役立ってくれまし た。私は盗みもできず、事務はさらに難 しく、遊ぶのも嫌いです。いつでも何か 仕事をしなければいられないという性格 なので、この仕事が私にはピッタリなん です」。 彼の一日は年中変わらない。違うこ とと言えば、夏には７時半に店を閉め、 冬には６時に閉めるという差があるだけ だ。人々を行楽にかきたてる春のお花見

2

でさえも、ソンボクさんをコンテナボッ クスから連れ出すことはできない。もし かすると、彼には行楽自体が必要ないの

教会に行きますが、そんなに熱心では

運を幸運に変えてくれる鍵が、まさに

かもしれない。12歳で故郷を離れてソウ

ありません。私は楽しく暮らしていま

「シン（履物）」だからだ。

ルに来て以来、彼の人生はいつも食べて

す。気に食わないことがあってもあま

韓国語では罰と福を与えてくれる神

寝るところを探し求めて見知らぬ土地を

り気にしませんし。他人にやる物もな

と人々が履く履物、どちらも「シン」

さまようという、非自発的な旅のような

く、もらう物もなく、他人の顔色を気

と発音する。「神(シン)がいるのかいな

ものだったからだ。彼はソウル25区の区

にすることもありませんから。そのせ

いのかは定かではないが、自分が履いて

の数だけ引越しをしなければならなかっ

いか皆さん、私が年よりも若く見える

いるシンは確かだ。神(シン)を信じない

た。彼が住んだことのない区は一つか二

と言ってくれます」。

で、自分のシンを信じろ」という言葉も

つのみだ。

ソンボクさんの辛酸だった過去の話

ある。数多くの靴を修繕したり、磨いた

「仕事中はお客が多いと気分が良

しを聞いていると、韓国の童話『コンジ

りしながら幼い頃の不遇から抜け出し、

く、お客が少ないときはひと休みし、

ュィとパッジュィ』と外国の童話『シン

平穏な家庭の家長となったキム・ソンボ

家ではテレビを見ながら寝たり起きた

デレラ』が思い浮かぶ。過酷な運命にさ

クさんの口から、いつしか「ライフ・イ

りを繰り返し、家族と食事をする、そ

らされながらも、善良な主人公は最後に

ズ・ビューティフル！」という言葉が飛

れで十分ですよ。日曜日になれば妻と

は幸せになるというこの古典物語の、悪

び出しますように。

韓国の文化と芸術 59

遠くの目

100年の ノスタルジア 中村八重 なかむら・やえ、韓国外国語大学校日本語大学教授

い昔と思われることは、実は日常

遠

（しかも毎日違う）ドレスに目を奪われていたのは

の中にある。日本帝国主義の時代

私だけではなかったようだ。西洋の文物が取り入れ

でもある1920，30年代がソウルの町

られ始めた時代、ホテルに集うモダンガールとモダ

の中で注目されている。最近、復古的趣味が若者の

ンボーイたち。現在、彼らの服装を真似た洋服を来

間でブームだそうだ。「ニュー」と「レトロ」をあ

て、古くて新しい街益善洞を歩くのが10代、20代の

わせて「ニュートロ」と言われている。その聖地と

間でブームなのだそうだ。

されるのが益善洞である。鍾路３街駅の北側、益善

ソウルの古い町として知られる乙支路も、若

洞はこの数年の間に、1920年代に建てられた古い韓

者の間で見直されているそうである。先日、知り

屋を改装したカフェやレストランが立ち並ぶ街にな

合いにおしゃれなバーに連れて行ってもらった。

った。日本から来た友人を連れて行くたびに新しい

乙支路の印刷所街の中、表に目立った看板もない

店ができていて、いつも若者でいっぱいなことに驚

薄暗いビルの、本当にこんなところにあるのだろ

かされる。

うかと思われる古めかしい階段を半信半疑で登る

益善洞付近には、「京城」という名を冠したレ

と、古い家具を生かした雰囲気のよいバーがあっ

ンタル衣装屋がある。この店から、ワインレッドの

た。客のほとんどは若者で、みな写真を撮るのに

レトロなロングワンピースとクラシカルなスーツに

余念がない。一体どうやって見つけて来るのかと

身を包んだカップルが出てきて、散策に出かけてい

思ったが、当然ながらSNSで見つけるとのこと。ま

く。ワンピースの人は花や網の付いたヘッドドレス

さに「インスタ映え」全盛の時代である。流行に

を付けていたり、スーツの人は渋めの帽子をかぶっ

敏感な、こうした若者世代の消費トレンドがニュ

ていたりする。この服は「開化期衣装」と呼ばれて

ートロというわけである。

いる。2018年にヒットしたtvNドラマ『ミスターサ

ただし、ニュートロのさす範囲は広い。7080と

ンシャイン』の影響だという。このドラマは1900年

いわれる7，80年代の学生服など懐かしさをさそう

代を舞台として、幼少期にアメリカに逃げたのち米

数々のモノ、8、90年代に流行したパッケージのお

軍将校となって朝鮮に駐屯する主人公（イ・ビョン

菓子なども全部そうだ。見渡すと、90年代風のファ

ホン）と、義兵として活動する名家の令嬢（キム・

ッションに見える若者が少なくないことにも気づ

テリ）との恋愛を描いたものである。巨額を投じた

く。消費トレンドといってしまえばそれまでかもし

映画のような美しい映像が話題を呼んだ。

れないが、若者の間で古いものは新しいという感覚

実は、ヒロインの華麗な韓服よりも、助演のホ テルの女主人（キム・ミンジョン）が着る美しい

60 KOREANA 春号 2019

である。しばらく前の、彼らが経験したことのない 時代は、新しくてカッコイイと感じるのだろう。

益善洞のカフェ

旧花郎台駅

流行は繰り返す？ そういえば、大学生の頃、

る一部路線が廃線になり遊歩道となった。季節ごと

母親にブーツを買いたい旨を陳情すると「私が若か

の花が美しく、地元住民の憩いの場として愛されて

りし頃に履いたのがある」と、押し入れに大事にし

いる。また、この線路に面した住宅の一階は、次々

まっていた黒のロングブーツを引っ張り出してくれ

におしゃれなカフェや洋菓子屋などに衣替えして、

たことがあった。あなたの履いているミニスカート

今や若者やカップルが集ういわゆる「ホットプレイ

もみんな私の娘時代に流行したのよと、なぜか鼻高

ス」の様相である。

げだったのを思い出す。

私は、廃線直前にソウルに越してきて、たまに

少し古い時代を経験した人にとって、古いもの

しか通らない列車を見たのも数回ほどで、そのあと

は懐かしき時代のノスタルジアを喚起する。時に、

の数年間放置されゴミが散乱する暗い空間だったの

自分はそれを知っているという、ほんのり優越感を

を覚えている。それから３年半ほどソウルを離れて

加味して。ニュートロを楽しむ若者は、そんなこと

帰ってくると、明るく様変わりしていた。

はお構いなしなのだろう。自分たちの経験したこと

この遊歩道の東の端には廃駅になった旧花郎台

のない古いものでも自分たちの文化として、楽しむ

駅がある。京春線開通時に泰陵駅として開業した古

力に長けているのかもしれない。

い駅舎で、登録文化財に指定されている。これも再

日本の要素を含んだ近代から90年代までを、幅

整備され、中は資料館になっている。この駅と鉄道

広くニュートロとして消費する若者を、歴史認識が

は帝国日本の時代に生まれたが、7，80年代に多く

浅いなどと批判するだろうか。北村や景福宮でレン

の人が利用していたのでこの時代を懐かしむ展示が

タルされている韓服を「本物の」韓服ではないと批

してある。

判する意見もあった。だが、古いものの新しい解釈

住宅街を走る廃線レールは帝国主義も載せた

は批判だけにさらされるべきではないのではない

が、7，80年代の人々の心も載せた懐かしき古いも

か。暗黒だったと思われがちな、日本帝国主義が猛

のなのだ。10年ほど前に列車が走っていたことを知

威をふるっていた時代さえも、彼らは軽々と自分た

っている私にとっても、懐かしさの対象でさえあ

ちが楽しむものにした。

る。近代の記憶は日常に埋もれ、今や散策をする人

帝国の記憶を含んだ古いものは、私の身近なと

たちが意識化することはない。100年前の近代は、

ころにもあった。私の住む家の近くには廃線レール

時代を貫いて日常の風景の中に溶け込んでいるので

を残して整備された数キロにわたる遊歩道、「京春

ある。

線森の道」がある。京春線は1939年に開通したもの で、近年複線化にともなって住宅街を縫うように走

韓国の文化と芸術 61

エンターテインメント

たいてい現実的なテーマを好む国内の映画観客 の傾向からすると、最近話題となっているゾンビ コンテンツの反響は目新しい現象である。特に 若い観客から人気を得ているこの手のドラマや 映画は、一つのジャンルとして位置付けられてい るというにはまだ早いが、解釈や表現方法のユ ニークさから、一部の海外プロデューサーたち の関心を集めている。

1

© Netflix

韓国型 ゾンビの誕生

2

チョン・ドキョン 鄭德賢、大衆文化評論家

© Next Entertainment World

62 KOREANA 春号 2019

れまで多くの韓国の映画ファンは、ゾンビ映画を少数のマニアだ

こ

ものについての再解釈である。映画は朝鮮

けが楽しむＢ級ジャンルとして認識してきた。そのせいか世界の

のある港に停泊していた外国商船で初めて

映画ファンから完成度の高い映画として評価された『アイ・アム

発生したゾンビが、王が居住する宮殿にま

・レジェンド』（2007）が、韓国では観客動員数246万人に止まった。さらに、

で広がるという設定。この映画のあらすじ

ブロックバスター級のゾンビ映画『ワールド・ウォー Z』（2013）も、約530万

は無能な王が、実権を振り回す臣下の機嫌

の観客動員数に止まった。そんな中で2016年、ソンビ映画に対する韓国観客の

をうかがって危機にきち ん と 対 処 で き な

認識を一変させた話題作が登場した。観客動員数1,150万人を突破した『釜山行

い。混乱に付け込んで王位簒奪を試みる臣

き』は、いわゆる「韓国型ゾンビ映画の誕生」の幕上げを告げ、海外からも関心

下の思惑に対抗するため、清から帰ってき

を集めた。

た王子が世の中を救うという内容だ。

風変わりな解釈

と権力者の対比である。この映画は、朝鮮

この映画が大成功を収めたのは、ゾンビを解釈する独自の視点によるとこ

を脅かす存在は、飢えに苦しみ襲いかかる

ろが大きい。『グエムル-漢江の怪物』（2006）以降、『ヨンガシー変種増殖』

ゾンビではなく、歪んだ欲望に囚われた権

（2012）、『風邪』（2013）と続いてきた韓国のパニック映画は、きちんと対処

力者だというメッセージを投げかける。ゾ

できない政府システムに対する批判的な観点を盛り込んだ手法が、観客の共感を

ンビが貧しい百姓のもう一つの名として再

呼んだポイントとなった。『釜山行き』も、ゾンビの拡散を効果的にコントロー

解釈されたわけだ。

『猖獗』で目立つのはゾンビ化した民衆

ルできない社会システムに代わって、市民たちがゾンビとの闘いに打って出ざる を得ない状況を描いている点では、さほど変わらない。

ゾンビを飢えに苦しむ百姓としてとらえ た見方は、2019年１月ネットフリックスを通

ところが、この映画に登場するゾンビたちは、どことなく可哀相な存在のよ

じて世界に配信されたキム・ウンフィ（金

うに描かれている。最初は完全に異質な「他者」として登場し恐怖心を煽るが、

銀姫）作家のドラマ『キングダム』にもつ

やむを得ない状況によりゾンビと化してしまった「我々の一部」なのかもしれな

ながる。金作家は、この作品について「全

いということに気づき、観客は彼らを憐憫の対象としてとらえることになる。ま

体的なテーマは飢えだと決めてからシナリ

さにこの部分が「韓国型ゾンビ」というユニークな特徴である。

オを書いた」と明らかにした。2018年11月８

『釜山行き』には、韓国の現代史がオーバーラップする。映画の舞台である

日と９日、シンガポールのマリーナベイサ

釜山行きKTX列車は、右肩上がりの成長を遂げた「スピードコリア」を象徴する

ンズでネットフリックスが新作オリジナル

空間として受け止められる。密閉された列車内を群れをなして移動するゾンビ

コンテンツ17作品を紹介するイベント「See

は、民主化を求めて街を埋め尽くした市民たち、2002年日韓ワールドカップの沿

What's Next: Asia」が開催された。その

道の応援者たち、さらには軍部独裁時代の軍人たちの姿がゾンビに重なって見え

場でこのドラマの第１話と第２話が紹介さ

る。

れ、一般に配信する前からアジア地域の記

ゾンビを違う観点で再解釈しようとした試みは海外映画にもあった。『ウォ

者たちから良い反応を得た。また、シーズ

ーム・ボディーズ』（2013）の主人公「ゾンビＲ」は、偶然に出会った美しい少

ン１が配信される前にシーズン２の制作が

女・ジュリーを他のゾンビたちから必至で守るキャラクターとして描かれる。こ

始まった。ネットフリックスの創立者兼CEO

のような新しい視点は、ゾンビ映画の実質的な元祖と言えるジョージ・Ａ・ロメ

であるリード・ ヘイスティングスは、「韓

ロ監督の1968年作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』以降、ずっと続いてき

国で作られたこの作品が世界で人気を博す

たゾンビ映画の典型的なプロットとは一線を画している。これは他者を差別的な

ると確信する」と評価した。

視線で見ていた20世紀の考え方から脱し、共感と包容の目で見る21世紀型の考え 1. 世界的な動画配信サービス大手 Netflix （ネットフリックス）が、今年１月公開 したドラマ『キングダム』は、韓国国内 より海外でより人気を集めた。背景に登 場する朝鮮の自然風景、宮殿と城郭な ど、韓国の伝統的な空間が海外ファンの 興味を引いた要因とされている。 2. 2018年10月に公開された映画『猖 獗』（チャングォル）は、興行成績は芳 しくなかったが、韓国伝統の時代劇とゾ ンビを融合させたことによって、韓国型 ゾンビ映画の幕開けとなった。

ネットフリックスが韓国型ゾンビもの

方を示しているものといえる。

『キングダム』に投資する理由は、この作

飢えに苦しむ百姓のもう一つの名

品が持つフュージョンの要素が、同社が目

2018年に公開された映画『猖獗（チャ

ゾンビという普遍的なジャンルの中に韓国

ングォル）』は、ゾンビを登場させたもの

ならではの解釈と情緒を溶け込ませたこの

の、朝鮮時代を背景にしたという点でユニ

作品に注目する理由である。さらに、この

ークな企画だった。この映画は、まず「韓

観点はグローバルコンテンツ市場に、韓国

服を着たゾンビ」という風変わりな見所が

の作家やプロデューサーたちがどのように

ポイントである。ところが、そのような視

参入すればいいかについてのヒントになる

覚的な背景より興味深いのは、ゾンビその

かもしれない。

指す政策と相通じる面があるためだろう。

韓国の文化と芸術 63

料理物語

海苔 うま味と栄養の結晶体 長い間、韓国人の食卓で重要な位置を占めてきた海苔は、味もよく栄養価も高い食品だ。また、マグ ロと共に韓国の水産物輸出の１、２位を争う品目でもある。かつて「black paper」と呼んで、海苔 を食べるのを躊躇していた西洋人の間でも、今では栄養豊かでカロリーも少ないことから、スナック としての人気が高まっている。 チョン・ジェフン 鄭載勳、薬剤師、フードライター

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64 KOREANA 春号 2019

いしい物は誰でも知っているという言葉がある。海苔にピッタリ

お

き、炒めた野菜といっしょに麺の上にのせ

当てはまる話だ。アマノリ属(Porphyra)に属する海草は、およそ

て具にしたり、ごま塩といっしょに握り飯

70種類に達するが、これらの海草が育つ地域では大方、これを食

の上にふりかけて食べたりもする。細かに

材として使用している。おいしいからだ。

砕いた海苔に調味料をまぶしてつくるキム

ウェールズ、スコットランド、アイルランドの海辺でも岩にくっついた海苔

ジャバンも人気のある家庭料理だ。もち米

をよく見かける。ラヴァーブレッド(laverbread、海苔パン) という料理は「ウ

の粉を水で溶いたものを塗って油で揚げて

ェールズ人のキャビア」というニックネームがあるほど美味しい料理で、今もそ

作るキムブカクはスナック菓子として食べ

の地方の人々の朝食に欠かせないメニューとなっている。小さく切った岩海苔を

る。生海苔や乾燥海苔に水を加え、煮て味

長時間煮込んでペースト状にし、オートミールの粉をつけてベーコン脂で揚げて

をつけたあと、ごま油やエゴマ油を落とし

作る海苔パンは、一般的なパンとは全く形態が違う。たぶん海沿いに住む人々が

て食べるキムクック（海苔汁）も同様に美

主食とする食べ物なので、そのような名前がついたのだろう。

味しい。

韓国では紙のように薄く延ばして乾燥させた海苔でご飯を包んで食べる。乾

日本でも紙のように乾燥させた海苔をよ

燥海苔を弱火でさっとあぶったり、ごま油やエゴマ油、またはオリーブ油を塗っ

く食べている。特に海苔は巻き寿司を作る

てから塩をふって焼いたりもする。紙のように薄い海苔を口の中に入れ噛みしめ

重要な材料の一つだ。厚く焼いて四角に切

ると、カサッカサッという音が食欲を刺激する。その他にも焼き海苔を細かく砕

った海苔をラーメンの上にのせて食べる場 面もよく目にする。一方中国では、丸くて

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平たい座布団型に乾燥させた乾燥海苔の塊 をはがして、汁物や炒め物の材料として使 っている。

うま味の三重奏

韓国のユーモアに「汁料理に海苔の粉を

入れたら反則」という言葉がある。それだ け海苔には料理の味を良くする力があると いう意味だ。実は、海苔には美味しい理由 がある。食べ物のうま味を出す代表的な成 分は、M.S.Gとして知られている「グルタミ ン酸」、核酸系調味料といわれている「イ ノシン酸（IMR）」、「グアニル酸（GMR）」 の三つだ。東洋ではうま味をだすために、 主にネギと昆布を、西洋 料 理 で は タ マ ネ ギ、ニンジン、トマトを使うが、これらに はM.S.Gがたくさん含まれている。イノシン 酸は牛肉、鶏肉、鶏ガラ、煮干などに豊富 に含まれており、グアニル酸はしいたけ、 ポルチーニ茸、アミガサタケのようなきの こ類に多い。 そして海苔にはグルタミン酸、イノシ

1. 海苔は国内で最も多く採取され、消費される海藻類 だ。色が黒く光沢があり、焼いた時に青色に変化するも のが上等品だ。紙の形に乾燥させた海苔は普通100枚を 一つに束ねて販売されている。

2. 海苔は韓国人が最も好きなご飯のおかずの一つだ。乾 いた海苔にごま油やエゴマ油を塗ったあと塩をさっと振 り弱火で焼いて、適当な大きさに切ってご飯を包んで食 べる。最近ではオリーブ油も使われている。 韓国の文化と芸術 65

これら三者が合わさることによって、作り

豊かな微量栄養素

出されるうま味の三重奏は足し算ではなく

42％、炭水化物が36％含まれているが、たんぱく質の供給源としては量的に十分

掛け算だ。イノシン酸一つを加えるだけで

ではない。一日に乾燥海苔１枚（３ｇ）を食べても一日のたんぱく質の必要量の

も、グルタミン酸濃度の1/60水準で十分うま

２％にしかならない。しかし、海苔にはビタミンやミネラルのような微量栄養素

味を感じることができる。それにグアニル

が豊富だ。土に根を張って育つ陸地の植物に比べて、海藻類のミネラル含有量は

酸まで加われば、味の相乗効果はまさに爆

およそ10倍に達する。

ン酸、グアニル酸のすべてが入っている。

海苔は栄養構成の面でもすばらしい食材だ。乾燥海苔にはたんぱく質が

発的だ。だから海苔はまさにうま味成分の

海苔はβ-カロテン、ビタミンＣ、ビタミンＥだけでなく、菜食中心の食事に

結晶体といえる。それだけではなく海苔に

不足しがちなビタミンＢ12と鉄分、オメガ３脂肪酸が豊富だ。また他の海藻類に

は様々な遊離糖(free sugar)まで含まれてお

比べて含有量は少ないものの、欠乏を補うに十分なヨウ素も含まれている。昔、

り、甘く深い味わいとなる。

イギリスでは海苔が薬草のように扱われていたが、それもこのような理由から

「根が岩にくっついているが、枝はな

だ。ウェールズ地方の母親たちは「ダービーシャーの人々のように喉を腫らした

く、岩の上に広範囲に広がっている。色は

くなければ、ラヴァーブレッドを食べなければならない」と子供たちに教えたと

紫黒で味は甘く良い」

伝わる。海産物の摂取が不足しがちだったイギリス内陸のダービーシャー地方の

韓国最初の海洋生物百科事典といわれる

人々が、ヨウ素不足による甲状腺腫を患うケースが多かったために生じた話だ。

チョン・ヤクチョン（丁若銓、1758～1816）

最近では、海苔に豊富に含まれる糖類成分・ポルフィランの機能性に関する

の『玆山魚譜』に出てくる紫菜に関する説

研究も活発に行われている。ポルフィランは海苔の細胞と細胞の間を埋めている

明だ。長く幅広い葉の先の部分が根っこの

物質で、引き潮の時に海苔が生き残れるように保護する役割を果たしている。海

ように岩にくっついて育つ赤黒い色の紅藻

苔は主に潮の干満差が大きな沿岸に生息している。満潮時には冷たい海水から自

類の紫菜、海苔の形と色彩、味に関する描

分を守らなければならず、干潮時には紫外線と空気にそのまま露出するという過

写だが実に正確だ。成長の早い海苔は表面

酷な環境の中で生き残らなければならない。このときにポルフィランは水分を維

にきらきら輝く潤いがあり、葉緑素、カロ

持し海苔の細胞が乾燥しないよう細胞壁の柔軟性を維持し、干満の両極端な環境

テノイド、フィコビリンのような色素が光

下でも生存可能にしてくれる。

を吸収することで赤黒い色を帯びる。火で

この成分が人の腸内に入ってくると、食物繊維として作用し癌の発生率を抑

焼くと熱に弱いカロテノイドとフィコビリ

え、免疫調節の役に立つことが明らかになった。また干潮時に紫外線に露出して

ンは破壊され葉緑素だけがそのまま残り、

受ける酸化ストレスから自らを保護するために作られる海苔の中の様々な抗酸化

隠れていた緑色が現れる。

物質も人体に有益な効果があると期待されている。

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66 KOREANA 春号 2019

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海苔にはグルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸のすべてが含まれている。 これら三者が合わさることによって、作り出されるうま味の三重奏は足し算 どころか掛け算クラスだ。 人口養殖技術の開発

© Topic

このように海苔は味と栄養面ですぐれた食品だが、現在のように養殖して

食べられるようになったのは、さほど昔のことではない。海苔の養殖は基本的 に自然環境にそった方法だ。すなわち、海苔が岩や貝殻について育つのを利用 して、海苔の胞子を牡蠣の殻や木製のすだれ（海苔網）につけて干潟に差して おくのだ。固定した支柱に海苔網を広げて満潮時には潮につかって成長し、干 潮時には、空気中に露出するような支柱式養殖は、岩海苔が岩にくっついて育 つのと同じ原理だ。17世紀頃に韓国、日本、中国の遠浅の海でこのような方法 で海苔の養殖が始まったというが、長い間、海苔の種を育てる育苗方法が分か らず苦労していた。 夏には消えていた海苔がいったいどのようにして、秋の終わりの頃になる と再び姿を表すのかが分からず、自然に現れる海苔の殻胞子を待って種を得て 使うほかなかった。しかし、1949年にイギリスの藻類学者のキャスリーン・メ アリー・ドリューベーカーが、海苔の生命の周期を研究し、それまで別の種だ と考えられていたConchocelis roseaという藻類が、実は海苔の生涯周期の中

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の一つの段階であることを明らかにした。海苔の人工採苗に画期的な突破口が 作られたのだ。彼女の研究のおかげで海苔養殖の生産性は驚くほどに向上し、 海に依存していた採苗が陸上でも人工的に可能になった。日本の九州熊本の宇 土市には、海苔の大量養殖を可能にしたドリューベーカーを「海の母」と呼ん で、彼女の功績をたたえる記念碑を建っている。 その後、海苔網に胞子を付着した後に冷凍保管し、必要に応じて海に設置 する冷凍網方式が開発され、それ以降はより安定した大量の養殖が可能になっ た。以前には潮の干満の差が大きい沿海での支柱式養殖だけが可能だったが、 浮きをつけて海苔網をかける浮遊式養殖が開発され、遠海でも養殖できるよう になり、おかげで生産量はさらに大きく増えた。だが依然として海苔養殖は、 大きな労力を必要とする過酷な作業である。 韓国は日本、中国とともに世界の三大海苔生産国であり、輸出量で は両国をはるかに上回っている。韓国で生産された海苔はヨーロッパ、ア メリカ、アフリカなど世界100カ国あまりに輸出され、「海の半導体」と 呼ばれる。

一年中、人気の食品

海苔の上にご飯を薄く広げて、その中央に各種調理した野菜と細長く切っ

たタクワン、ハム、卵焼きをのせて巻いて食べるキムパブは、韓国人がもっと も好きな昼のメニューであり、人気の高いおやつだ。ピカピカとつやのある真 っ黒な海苔で包んだご飯と様々な具材が口の中で合わさり、妙味を作り出す。 キムパブを食べる度に、現在私たちが食べている食べ物は、世界の人々が長い 歳月をかけて、知識情報を共有し、共助によって作り出された賜物だという事 実に感動する。海苔はそれで尚いっそう美味しい。

ⓒ 宮中飲食研究院

1. 支柱式養殖は潮の干満の差が大きい沿岸地域のみ可 能な方法だが、 浮きをつけて海苔網をかける浮遊式養 殖は、遠海でもできることで海苔の生産量を大きく増加 させた。

2. 養殖した海苔は普通、11月末から翌年の２月まで何 度も採取して乾燥させるが、最近はたいてい工場の乾燥 機で乾燥させている。陽の光に当てて自然乾燥させた伝 統方式は、人手が多くかかるのでだんだんと姿を消しつ つある。 3. キムパブは、海苔の上にごはんを薄く広げて、その 上に和えたほうれん草、細長く切って炒めたニンジン、 タクワン、牛肉のひき肉を炒めたもの、卵焼きなどをの せてから丸く巻いて作る海苔巻きだ。最近は好みに合わ せて材料や形も実に多様だ。 4. 春になって海苔が古くなり味が落ちた時には、もち 米の粉を水で溶いたものを塗って、油で揚げて作るキム ブカクにして食べる。

韓国の文化と芸術 67

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