2019 Koreana Winter(Japanese)

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韓国の文化と芸術

100 創刊 記念 冬号 2019

創刊100号記念

特集

釜山

詩と熱情の港町 釜山、一編の詩で揺らめく 国際交流をリードしてきた港湾都市 避難首都の記憶

釜山

VOL. 26 NO. 4

ISSN 1225-4592


韓国のイメージ


韓国人の冬を告げる キムジャン キム・ファヨン 金華栄、文学評論家、大韓民国芸術院会員

供の頃、赤く燃え尽きた紅葉の、枝先の数枚の残り葉が寂しそうに 秋風に揺れるころ、一家総出で冬の準備に奔走しはじめた。畑から 葉のぎっしり詰まった白菜を収穫してきて、庭に積み上げる。そし

て、半分に切った白菜を黄色い中身が見えるように大きな器に並べて塩を振る。 キムジャンが始まると、家中に辛い唐辛子の臭いが立ち込めた。 キムチは韓国人の食卓を代表するシンボル、さらには韓国文化のアイコンでも ある。冬の間ずっと、野菜を新鮮な状態で貯蔵して食べるために、昔の人々が考 案した韓国固有の発酵食品だ。乳酸菌が豊富なキムチは、発酵する間に様々な種 類の独特な味が生まれる。 白菜を塩漬けにすることで、新鮮さをそのまま維持しながら、塩水の酵素が白 菜の繊維質と化学反応を起こして発酵が始まる。大根の千切り、ニンニク、ネ ギ、唐辛子粉、塩辛、イカ、松の実など、多様な植物性・動物性の食材が一つに なって作り出す味付けタレのヤンニョムは、キムチを完全な貯蔵食品に昇格させ る。出来上がったキムチは甕に移し替えられて、土の中に埋めて保存し、寒い冬 の間にわたって取り出して食べる。今では、家の中に置かれたキムチ専用冷蔵庫 に保管して、いつでも食べることができるようになった。 キムチの種類は、地方やそれぞれの家庭の伝統によって異なり、その種類は200 以上にもなるという。キムチの材料で最も多く使用される白菜は、19世紀の末頃 に中国から入ってきて改良された品種だ。一方、キムチの味付けに使われる唐辛 子を使い始めたのは18世紀の中頃からだ。1988年のソウルオリンピックの後、キ ムチは世界的な食品として脚光を浴び、2000年以降には輸出が始まった。そして 2013年12月、キムジャン文化はユネスコ世界無形文化遺産に登録された。 だが今や、家庭で直接キムチを漬ける代わりに、合成樹脂の袋に入れられた真 空パックのキムチをスーパーマーケットで買ってきたり、インターネットで注文 して配達してもらう世の中になった。しかし、未だにキムジャンの季節になる と、キムジャンを行なった庭で、空を見上げて「あーん」と大きく開けた口の中 に、叔母がひょいと入れてくれた漬けたばかりの白菜キムチを、ほおばったあの © イメージトゥデイ

頃が懐かしい。


<編集長の手紙>

発行人

『KOREANA』日本語版100号記念-1988年から2019年まで 季刊『KOREANA』日本語版が100号を刊行することになった。日本語版は1988年 春号から99年春号まで刊行し、その後休刊となったが、2006年春号から復刊して いる。その間、もっぱら韓国の文化と芸術を紹介し、韓日文化交流を深めること に邁進した。まさに「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」 という心構えで、翻訳と編集を続けてきたと思う。ひとえにご支援くださった読 者の皆さんとKF・翻訳・監修の尽力に、心から感謝のお礼を申し上げたい。 今回の特集号で釜山を取りあげたのは、来年の、朝鮮戦争勃発70周年を迎える にあたって、タイムリーな主題であるからだ。釜山は朝鮮戦争の間、臨時の首都 として国連軍の命綱の役割を果たし、破壊的な葛藤の中で韓国が生き残る重要な 役割を果たした。釜山の港と飛行場を通じて必要な支援物資と増援軍が到着し、 兵力と装備、軍事物資が補給され、敵を圧倒することができた。釜山は当時、韓 国で最小限の貨物を扱える唯一の港だった。今日では、貨物量から数えると世界 で6番目に大きな港となった。 1950年6月25日、北朝鮮が正当な理由もなく38度線を越えて韓国を侵略したこと で朝鮮戦争が始まった時、韓国の軍隊は北朝鮮の圧倒的な攻撃を防御することが できなかった。米国は韓国を支援するために直ちに介入したが、韓国軍と米軍は 後退し続け、釜山防衛線の後ろで最後の抵抗をした。 釜山の防衛線は、韓国の南東に釜山港を含めて国土の10分の1に該当する地域 をめぐる230キロメートルの戦線であった。より脆弱な西側の防御線は洛東江とほ ぼ重なった。国連軍が9月15日、仁川に上陸するまでそこで、韓国軍と米軍、そし て少数の英国軍が北朝鮮人民軍に抵抗して6週間以上激しい戦闘を繰り広げた。 1443年、朝鮮通信使の書状官申叔舟(1417-75)は、釜山と対馬経由で京都に 滞在した。晩年に王命を奉じて撰進した『海東諸国紀』日本国紀「国俗」には、 「男女と無く皆其の国字を習う」とあって、仮名文字の流布について述べてい る。また臨終の際は、当時の成宗王に「願わくは国家、日本と和を失うことなか れ」という遺言を残したという。この逸話は、彼が如何に韓日両国の文化と教 育、外交、和平を大事にしていたかを物語っている。『K O R E A N A』の編集を通じ て、韓日の文化交流を大事に考えた申叔舟の思いを持ち続けていきたいものであ る。

日本語版編集長 金鍾徳

編集理事

李根

金成仁

編集長 金鍾徳 編集諮問委員

韓敬九

鄭德賢

Benjamin Joinau

金華榮 金英那

高美錫

宋惠眞

那秀昊 宋永萬 尹世鈴

クリエイティブディレクター 金三、金信 編集

池根華、盧倫永

アートディレクター 金志姸

デザイナー 金南亨、葉蘭敬 監修者 翻訳者

嘉原和代 坂野慎治

金明順

張蕙先

編集

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 価格

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韓国の文化と芸術 冬号 2019

© 韓国国際交流財団2019

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Published quarterly by THE KOREA FOUNDATION

55 新中路 西帰浦市 済州道 63565、韓国 外交センタービル

http://www.koreana.or.kr

『赤い山』

チェ・ソヨン (崔素栄) 2019年、デニム キャンバス 46 × 46㎝

『 Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場

合にも『Koreana』からの転載であることが分かるようにク レジットを明示してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『 Koreana』 や韓国国際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』

はアラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、 ドイツ語、フランス語、ロシア語でも発刊されています。


創刊100号記念 祝賀メッセージ

04

祝賀メッセージ 1

普段見えないこと 西岡 達史

05

祝賀メッセージ 2

『KOREANA』刊行100号に寄せて 山崎 宏樹

創刊100号特別寄稿

08

特別寄稿 1

日韓関係の底力 加藤 剛

10

特別寄稿 2

1980年前後のころ- 李仲燮(イジュンソプ)・孔玉振(コンオク チン)、そして佐藤泰志 小嶋 菜温子

06

祝賀メッセージ 3

海峡をこえて

薩摩焼 十五代 沈壽官

07

祝賀メッセージ 4

Koreanaから伝わってくる香り 福田 隆眞

12

特別寄稿 3

大嘗祭の「標の山」と「山台」のこと 伊藤 好英

14

特別寄稿 4

ソウルの市場で風物をめでる 小澤 康則

16

特別寄稿 5

秋のソウルで考えたこと 鈴木 彰

特集

釜山-詩と熱情の港町 18

特集 1

釜山、一編の詩で揺らめく キム・スウ

44

インタビュー

30

特集 2

国際交流をリードしてきた港湾都市 パク・ファジン

52

オン・ザ・ロード

都市に自然を持ち込む

あらゆる故郷の名は、 「密陽」

48

60

イム・ヒユン

韓国大好き

境界人の暮らし チェ・ソンジン

イ・チャンギ

エンターテインメント

時代劇映画における事実と虚構 イ・ヒョウォン

36

特集 3

避難首都の記憶

チェ・ウォンジュン

62

韓国文学の旅

戦争がもたらした傷と希望 チェ・ジェボン

密茶苑時代 キム・ドンリ


祝賀メッセージ 1

普段見えないこと

西岡 達史

にしおか・たつし 在韓国日本大使館 公報文化院長

大中大統領が日本大衆文化開放を始めた1998年を契機に、日韓間の文化交流 や市民交流は劇的な進展を見せ、昨年は一年間の日韓間の人的往来が1000万

人を突破、日本でも第三次韓流ブームが起こるまでになった。しかしながらその後、 日韓関係が厳しい局面に入り、2019年後半からは多くの日韓交流事業が中止や延期に 追い込まれている。 そんな中、日本公報文化院の近年の目玉行事の一つである「日韓フォトコンテス ト」を、今年も無事に終えることができた。韓国人が日本で撮影した写真、また、日 本人が韓国で撮影した写真を応募してもらい、優秀作を表彰、応募者たちが交流会で 自らの作品や経験について語り合う。今年は韓国から日本への旅行者が激減した時期 に当たり、応募作品数は例年より大幅に減少したが、協力企業や団体の変わらぬ協力 を受け事業を継続できたことは何よりであった。 日韓の各地で行われる交流事業が多く延期や中止に追い込まれる厳しい時期だから こそ、それまで気づかなかったことが見えてくる。嫌韓や反日を叫ぶ人たちが目立つ 一方で、日韓交流の大切さを確信し、地道に尽力している人たちが、両国の各地にい る。こんな時だからこそ両国の将来のために、決して交流を止めてはならないと、海 峡の向こう側にいる仲間と連絡を取り合いながら、粘り強く青少年交流や文化交流事 業に取り組む人たちが如何に多いことかと、新たな出会いを経験するたびに驚かされ る。両国間で草の根の交流活動に取り組む人がこれほどまでに多い二国間関係は、世 界中見回しても日韓関係をおいて他にはないだろう。新しいことではないから「ニュ ース」にはならないが、見逃してはならない大事な事実である。 普段私たちは、彼らの信念に思いを寄せることもないが、こういう厳しい時だから こそ改めて、このような人たちの活動こそが日韓関係のかけがえのない資産であるこ とを思い起こす。私たちはこのような日韓交流活動の支援を、韓国国際交流財団とと もに行ってきた。これからもますます、国民同士の相互理解の深化に向け、ともに活 動を継続していきたい。

4 KOREANA 冬号 2019


祝賀メッセージ 2

『KOREANA』刊行100号に寄せて

山崎 宏樹

やまざき・ひろき 国際交流基金ソウル日本文化センター前所長

『K

OREANA』刊行100号、おめでとうございます。日本を含む世界に韓国文化を 紹介し文化交流の必要性を説いて来られた『KOREANA』が100号を迎えられ

たことを心からお祝い申し上げます。 私事で恐縮ながら、かつて私は国際交流基金の季刊誌『国際交流』の編集を担当し ていたことがあり、2003年に100号を刊行しましたので、今回同じく100号刊行の場に 立ち会えることに感慨を感じています。その意味では『国際交流』は『KOREANA』の先 輩に当たりますが、『国際交流』のほうは既に紙媒体ではなくなってしまいました。 『KOREANA』は世界9カ国語に翻訳され、現在も紙媒体で発行されていますので、編集 のご苦労を思えば頭の下がる思いで一杯です。ただし、『国際交流』は『遠近』から 『をちこち』へと形を変えて引き継がれ、現在はウェブマガジン『をちこち W o c h i Kochi』としてオンライン(https://www.wochikochi.jp/)で公開されていますので、 ぜひ、そちらのほうもご一読いただければ幸いです。 私自身ソウル日本文化センター所長としては『KOREANA』に対し2015年から18年ま で何度か「遠くの目」に寄稿させていただきました。国際交流基金は韓国国際交流財 団さんと同様、世界との文化交流を推進していますので、所長として日韓文化交流の 必要性を訴えてきたつもりです。せっかくの機会なので過去の記事を読み返してみる と、日韓の人的交流の拡大や韓国で子供たちが積極的に日本語や日本文化を学んでい る姿について書かせていただいていました。しかしながら、2019年になってから日 韓関係はより厳しい局面を迎えており心が痛みます。一方で現在の厳しい状況にもか かわらず、S N Sの世界では日韓共に若い世代が相手国の文化に好感をもって活動して いることが伺えます。日韓交流の未来は若い世代が確実に担っています。これからも 『KOREANA』と『をちこち Wochi Kochi』が良きライバルとして切磋琢磨し、それぞ れが日韓両国の若い世代の道標となるような、そんな雑誌になっていくことを願って います。

韓国の文化と芸術 5


祝賀メッセージ 3

海峡をこえて

薩摩焼 十五代 沈壽官 ちん・じゅかん

「日

本人に韓国人の気持ちが全て分かるはずがない。」と、僕の友人の韓国人は 言う。同時に僕は「韓国人に日本人の気持ちが全てわかる筈がない。」と、

応える。 でも、この会話が示すものは、互いにある程度は分かる、という事でもある。 互いの事を知ろうとする事は大切な事だし、我々にとって当たり前のことが、時と して彼らには当たり前で無い事は良くある。全ては分からないが、その中で違いを面 白く感じ、自分達に無い感性に驚く。時にそれが自分にとり、かけがえのないものに 感じられて、彼らのアドバイスで幾度も救われた事もある。 その度に、その感性を生み出した彼らの歴史を思う。 コリアナがその架け橋になってくれている事に、とにかく感謝です。 韓国サイドの情報発信に対して、日本からの韓国への発信は明らかに不十分だと感 じている。 活字媒体、映像媒体の正しく、愛情に満ちた相互発信を密にする事は、得体の知れ ない歪んだSNS情報と権力に擦り寄る既存メディアとの狭間にあって、人々に本来の落 ち着きを与えてくれる。 同じような、感情の湿り気を共有する我々は必ず力を合わせられる。 政権の色は変わる。流れ行く景色の様なものだ。移りゆく景色ばかりに目を奪われ る事なく、「寄り添う」という不動のスタンスを大前提として、友情を深めていきた い。 夏目漱石の「草枕」の冒頭の言葉を引用したい。 「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかく人の世 は住みにくい」 理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり、情を重ん じれば、どこまでも感情にひきずられてしまう。という意味だ。 改めて、長年の不断の努力に心からの敬意と感謝を捧げます。 ありがとうございます。 6 KOREANA 冬号 2019


祝賀メッセージ 4

Koreanaから伝わってくる香り

福田 隆眞

ふくだ・たかまさ 山口大学理事・副学長

K

OREANAの100号の刊行を心からお祝い申し上げます。同時にこれまでの通算25年 にわたる関係者の皆様に敬意を表します。私は貴誌の編集をされている金鍾徳

先生と初めてお会いして10年近くになろうとしております。その間、KOREANAを送って いただきました。どの記事も興味深く、私の知らない分野の紹介に新鮮な想いを抱い てきました。 韓国と日本は長い歴史の中で深い繋がりを有しています。その関係は濃厚で、隣人 としての友情を通して、様々な交流の様態を採ってきました。その関係の上に文化が 交錯し、相互に影響をしながら似て非なる所産を創出してきました。 この機関誌は誠にお洒落なデザインとレイアウトです。表紙の絵やデザインも毎 回、関心と興味を満たしてくれます。表紙を並べて見ているだけで韓国を瞬時に訪問 したような気になります。もちろん、各号の記事も関心のあるテーマが扱われてい ます。執筆者はその道に長けた方々がされており、文章も分かり易く、私が知らなか った韓国の文化の状況が見えてきます。どのページにも写真が効果的に配置されてお り、視覚で理解することも楽しみの一つです。 私の専門はアジアの美術と教育を対象としています。貴誌の採り上げる美術は幅広 く、絵画、書、デザイン、工芸、文化財、彫刻、映画、ドラマ、ファッション、など の伝統的なものから現代の流行まで扱っていることに驚かされます。企画と編集に携 わっている人の教養と今日的センスに敬服させられます。 デジタル通信が日常的に当たり前になった現今、紙媒体の貴誌は本としての意味が あります。ページを捲ることで次々と文化のシーンが現れてきます。創刊号から100号 までの内容は、文化が螺旋状に広がっているように想像します。バックナンバーのど れを取り上げても今もって新鮮に感じられます。あらゆる角度から「韓国文化」が伝 わってきます。色や形だけでなく香りまでも伝わってきます。 今後のご発展を心から祈念しています。

韓国の文化と芸術 7


特別寄稿 1

日韓関係の底力 加藤 剛 かとう・たけし 国際交流基金ソウル日本文化センター所長

「こ

んな時期の赴任となって本当に大変ですね」 2019年8月に国際交流基金ソウル日本文化セン

ターに着任した私が、赴任前、赴任直後によく聞いた言葉で ある。

た私たちも、彼らに「ソウルは安全だから安心して」とは言 うものの、彼らがソウル滞在中に嫌な思いをしないかと、内 心不安だった。 せっかくの機会なので「日韓交流おまつり」本番前に、

日韓間の外交関係は2018年後半以降あまりよくなかったが、

ICHI☆ITAのメンバーが韓国の高校生と交流する機会を設け

私が着任する直前あたりから、両国間の摩擦がさらに大きく

た。日本語の授業を行っている木洞高校と音楽専攻のソウル

なってしまった。不安な気持ちを抱えての赴任となった。

実用音楽高校の2校である。

そんな不安の中、赴任後初めて迎えた大きなイベントが

木洞高校では日本に関心のある生徒に集まってもらって、

「日韓交流おまつり 2019 in Seoul」(2019年9月1日開催)

日本語も交えながら一緒にゲームをしたり学校の食堂で一緒

だった。ここで日本と韓国の高校生たちから、思いがけず勇

に昼ご飯を食べたりして交流した。

気をもらうことになった。

ソウル実用音楽高校とは「日韓交流おまつり」で合同演奏

日本の高校生は、兵庫県伊丹市立伊丹高校の吹奏楽部のみ

をすることになっていたので、その練習をしつつ、合同で模

なさんで、通称ICHI☆ITA。ICHI☆ITAは、「ジャパンスチュ

擬授業を行なったり、韓国の高校生にソウルの街を案内して

ーデントジャズフェスティバル」の上位常連校で、「日韓交

もらったりして交流した。

流おまつり in Seoul」を盛り上げてもらうために、国際交 流基金がソウルに派遣したのである。

感動的だったのは、どちらの高校でも、ICHI☆ITAのメン バーが学校に到着した時に、あちこちの窓から手を振って歓

「このような時期だからこそ交流しに行く価値がある」

迎してくれたこと。交流の場でも、韓国の高校生から積極的

伊丹高校の校長先生が勇気ある決断をしてくださったので

に話しかけてきてくれたり、連絡先を交換したりして、短い

伊丹高校の韓国渡航が実現したものの、日韓両国の国民感情

時間にたくさん交流してくれた。生徒たちのそのような交流

まで悪化してしまった時期の渡韓なので、生徒たちも保護者

の様子を見て、我々大人の不安が一気に解消した。思いがけ

も不安でいっぱいだったと思う。ソウルで生徒たちを出迎え

ない光景に、涙が出そうになった。

8 KOREANA 冬号 2019


1

1. 伊丹高校と木洞高校の交流の様子

2. 伊丹高校とソウル実用音楽高校の交流の様子

ICHI☆ITAの3年生にとっては、「日韓交流おまつり」本 番の演奏がICHI☆ITAのメンバーとして最後の演奏だった。 公式行事の特別プログラムとなったソウル実用音楽高校との 合奏は、とても素晴らしかった。 ICHI☆ITAのメンバーからは帰国後に、次のようなコメン トが届いた。 「ニュースで見る韓国と、自分の目で見た韓国は全く違っ ていました。校長先生が言っていたように、関係が悪い今行 ったことによって、たくさんのことを学べました」

2

熱い関心を語り、自分の夢にとって今の日韓関係は影響しな いと語ってくれた。 外交・政治とは関係のない文化イベントとはいえ、この時 期に日本関連イベントを韓国で行っていいのか、悩むときが ある。実際にできなくなったイベントもある。日韓関係が良 好な時にはそのようなことはないのだから、いろんな人から 言われたように、今は「大変」なときなのかもしれない。 一方で、私は着任後、韓国でたくさんの文化人、日本研究 者、日本語教師、日本語学習者と出会って、勇気をもらい、

「最初、韓国に行くことに不安を感じていましたが、現地

励まされ続けている。不安を感じながらの着任であったが、

の人達はとても優しくて、親しくしてくれたので、とても安

固い絆の基盤が日韓の間にすでに存在していること、若い世

心できました。このつながりを忘れずに、広げられるように

代の交流に大きな希望を見出せることを、身に染みて再確認

なりたいです」

する機会を得た。このような時期だからこそ、日韓関係の底

高校生たちのおかげで、赴任直後の不安な時期に勇気をも らい、直接交流することの大切さを再確認することができた。 その後も、いろんな場面で勇気をもらっている。 例えば、韓国の高校の日本語教師の集まりで、ある先生が 「高校生たちの日本への関心は、このような時期にあっても 少しも揺らいでいない」と話してくれた。 また、国際交流基金が実施する韓国高校生のための訪日研 修に応募した高校生の面接で、生徒たちは皆、日本に対する

力を見ることができたと感じている。 日本と韓国は近い。 両国間の移動にかかる時間は少なく、金銭的な負担も他の 国へ行くことと比べれば大きくはない。時差もない。直接交 流にとってこれ以上の好条件はない。 両国間にいろんな課題があることは事実であるが、先人が 築き上げた日韓関係の底力を継承しつつ、有意義な交流の場 をたくさん創っていきたい。 韓国の文化と芸術 9


特別寄稿 2

1980年前後のころ -

李仲燮(イジュンソプ) 孔玉振(コンオクチン) そして佐藤泰志 小嶋 菜温子 こじま・なおこ

立正大学文学部教授・立教大学名誉教授

誌は1988年(昭和63年)、オリンピックの年に創刊さ

古代・旧都の遺跡、各種博物館あるいは個人コレクション。

れたと聞く。30年にわたる本誌の歩みに思いを馳せ

本格的な古美術店、仁寺洞や清渓川高速道路脇にあった日本

ながら、つい昔の想い出にふける自分がいる。私事にわたる

関連書籍の古書店街(これらは後年、よく利用することにな

が本誌の金ジョンドク編集長(韓国外国語大学名誉教授)と

った)……。「必ずこの地にもう一度来たい、いやきっとこ

は、本誌創刊の6年前の1982年(昭和57年)、氏が東大大学院

の国に住むことになるだろう…」との予感を強く抱いた旅で

・秋山虔ゼミに留学して来られた時以来の知己。縁あって韓

あった。

国と日本を行き来するなかで、さまざまな出会いに恵まれた

その二年後の1983年(昭和58年)3月、大邱(テグ)市の啓

ことは、ささやかな人生の心の糧だ。以下では、本誌創刊よ

明大学人文学部日語日文学科に専任講師として赴任。民主化

りずっと前、1970年後半から1980年半ばごろまでの追憶のい

宣言の前年、1986年(昭和61年)2月に帰国。三年間、待望の

くばくかを、スクラップ・ブックに眠っていたポスターとと

韓国暮らしが実現できたのは幸いだった。そこでの想い出を

もに呼びおこしたく思う。

二つだけ。

まず1980年代前半の話から。わたくしの初渡韓は、金編集

テグでの二年目の1984年、孔玉振の病身舞の公演を観た。

長と出会う一年前。1981年(昭和56年)冬、光州事件の翌年

孔玉振氏の、弱き者への愛情の発露さながらに、迫力に満ち

であった。かの柳宗悦氏のご子息である柳宗玄先生が、御茶

た舞台は衝撃だった(ポスター①)。その数年後に日本公演

の水女子大学の哲学科(西洋美術史)の大学院ゼミで韓国ツ

もあり、感銘を新たにした。孔氏のパフォーマンスは差別論

アーを企画された。美術については門外漢だが、幼少から韓

争を引き起こしたとも聞いたが、病気だけでなく、性愛や排

国に憧れていたわたくしも運よく同行できた。

泄といった表現のタブーを跳ね飛ばす、エネルギーに満ち溢

まだ夜間通行禁止下であったが、扶余・慶州・ソウルの三 都をめぐるツアーは、柳先生肝いりのゆえに充実していた。 10 KOREANA 冬号 2019

れた存在感には圧倒されるばかりであった。孔氏の生き生き とした笑顔は今も脳裏に焼きついている。


もう一つは、李仲燮。同じく1984年、韓国生活にも慣れて きたころ。一人でソウルへ深夜高速バスで向かい、徳寿宮の 国立現代美術館へ立ち寄った(たしか南山の中腹にあった映 画振興公社で開催された、「タルドンネの人々」など韓国映 画の連続上映を観に行ったついでであった)。そこで出会っ たのが、李仲燮の絵「夫婦」「闘鶏」――その二幅の絵を前 に、ただ立ち尽くしていた。この画家の「牛」を描いた絵な どは知っていたが、これらの絵は初めて見た。パステルカラ ーの柔らかい色調が印象的な点では一脈通じながらも、テー マ性ではまったく対照的で鮮烈だった。この画家のことがと

1

ても気になったので、評伝本を買い求め、韓日のあいだに引 き裂かれた画家とその家族の悲話を知った。その翌年(1985 年)、ソウルで李仲燮展が開かれるとの告知を、購読してい た新聞(『東亜日報』)で読み、ソウルのギャラリィへ(ポ スター②)。子供たちや夫人への絵手紙などもふくめて、画 家の人生にさまざまに思いを馳せながら、韓日の重苦しい歴 史を噛み締めたことでもあった。 最近のことだが、2014年(平成26年)に、映画「ふたつの 祖国、ひとつの愛―-イ・ジュンソプの妻」が東京・中野で上 映された(ポスター③)。その初日、李仲燮氏の夫人がご高 齢をおして会場にお見えになり、司会者に促されてフロアに 向かって一礼された上品な佇まいに、深い感動を禁じえなか 2

3

った。 最後に日本での、忘じがたき邂逅のこと――上述の初渡韓 よりもさらに古く、1970年代も半ばあたりに遡る。実は本稿

1. コンオクチン公演、1984年6月13日、テグ市民会館大講堂 2. イジュンソプ未公開作品展、1984年5月10日~6月9日、 ソウル東崇美術館

3. 映画「ふたつの祖国、ひとつの愛ーーイ・ジュンソプの妻」 2014年12月13日~12月28日上映、東京:ポレポレ東中野 4. 映画「そこのみにて光輝く」、2014年4月19日~、全国上映

の執筆にとりかかろうとしていた、ほんの数週間前に、ある 質問を受けた――小説家・佐藤泰志との交流があったかどう か、あったとすればどういうものであったか、と。佐藤泰志 は『きみの鳥はうたえる』『そこのみにて光輝く』『海炭市 叙景』などの作品で知られ、それらを含む4作品が映画化さ れたことでも話題を呼んだ作家である(ポスター④)。惜し まれることに、生前は芥川賞の最終候補に5回も残りながら ついに受賞することのないまま、1990年(平成2年)に自死 を選択された(享年41歳)。 その佐藤さんにわたくし(と夫の勝原晴希:駒澤大学教 授)がお会いしていたのは、われわれがまだ二十代半ばごろ のこと。1970年代も中葉の、わずか一、二年のあいだのこと だった。文学に憧れて創作の真似事に耽る我々に対して、 佐藤さんは数歳年上にすぎないにもかかわらず、すでに「本 物」の作家として遥か高みに屹立していた。それでも我々の 胸底に刻まれているのは、佐藤さんの静かで鋭いまなざしに 浮かぶ、微かな笑みであるのだが……。 いずれも茫漠とした想い出の片々ではあるが、過ぎさりし 時を懐かしむのには十分だ。追懐の愉しみにお導きくださっ

4

た、『KOREANA』誌に深甚より感謝申し上げたい。 韓国の文化と芸術 11


特別寄稿 3

1

大嘗祭の 「標の山」と「山台」のこと このように国家行事に使われた重要な装置である「山台」であるが、実はその 形態や目的を実感できる視覚資料は乏しく、その最初の一つが発見されたのが、 今からほんの20年前の1999年であった。 伊藤 好英 いとう・よしひで 藝能学会会長

1.『奉使図』第7幅(中国民族図書館善本部所蔵、遼寧民族出版社版より)

2.『整理儀軌 39 城役図』の彩色画「落成宴図」(フランス フランソワ・ミッテラン国立図書館所蔵 高麗大学校博物館編『朝鮮の宴会と遊び(조선의 연회와 놀이)』より)

12 KOREANA 冬号 2019

2


年11月14日の夕方から15日の未明にかけて、皇居・東

北京の中央民族大学に保管されている。「山台」のもう一つ

御苑に設けられた祭場で大嘗祭大嘗宮の儀が行われ

の重要な視覚資料は、2016年にフランスのフランソワ・ミッ

た。前回の平成の大嘗祭は平成2年(1990)であったが、その

テラン国立図書館所蔵のハングル本『整理儀軌39城役図』の

翌年の8月に私は初めて韓国の地を踏み、以後さまざまな縁が

中に発見された彩色画「落成宴図」である。「山台」の視覚

重なってこれまで日韓の芸能の研究を続けることになったの

資料が韓国内にはほとんどなく、この二つの国外の資料によ

で、この二つの大嘗祭に挟まれたほぼ平成の時代と重なる期

って「山台」の実態がようやく明らかになってきたというの

間が、私と韓国との長い蜜月の時間ということになる。それ

が実情である。「山台」とは何かを考えるために、以下その

はおよそ「Koreana」1号から100号の発行の時期と重なり、ま

二図を紹介してみよう。

たそのことが象徴するように、この期間は言ってみれば、日

図1が『奉使図』「第7幅」である。場面は、使臣一行入京

韓の文化交流が活発に行われるようになった両国の歴史の中

前の客舎の庭で、一行を歓待するために催された種々の演戯

でも奇跡のような幸福な30年間でもあった。この流れが令和

を描いたものである。画面右端手前に描かれた岩山の造り物

の時代にさらに前進して豊かな結果をもたらすことを切に願

が「山台」である。岩山の中にはほぼ等身大の人形が飾ら

うものであるが、この一つの節目に、両国関係の予祝の意味

れ、頂上にはこの山がいわゆる神の「標山」であることを

を込めて、大嘗祭の「標の山」と性格を同じくすると考えら

証する「旌斗旗杆」(升と旗の竿)が取り付けられている。

れる韓国の「山台」について若干の話をしてみたい。

庭で行われている皿回し・軽業・仮面戯・綱渡りなどの演戯

今はなくなってしまったが、かつての大嘗祭には「標の山 (ひょうのやま)」と呼ばれる大きな山形の作り物が設けら

は、人形戯を伴うこの「山台」と密接な関係を保ちながら使 臣一行をもてなしているのである。

れ、曳き山として北野の斎場から大嘗祭場まで京都の町を曳

図2が彩色画「落成宴図」である。華城城郭の落成を祝っ

かれたり、置き山として大嘗宮の前に設営されたりした。折

て、正祖20年(1796)に華城行宮の洛南軒で開かれた宴会の図

口信夫は、「標の山」は本来神の「標山(しめやま)」で、

で、一番手前に二つある楼閣状の構造物が「山台」である。

祭りに訪れる神の重要な居場所であると考えた。この「標の

天井部と側面に松の枝をたくさん付け、周囲に布幕を垂らし

山」自体、実際の神降臨の山を模した一種のミニチュアであ

てある。演戯の空間は二つに分かれ、天幕を架けた一段高

ると言えるが、それがさらにミニチュア化したものが、結婚

くなった場所で行われている宮中芸能(呈才)と、「山台」

式その他の宴会の時に飾られる島台とか洲浜とか呼ばれるも

が設けられた庭で行われている虎舞・獅子舞・仮面戯などの

のである。そしてこの大小のミニチュアはともに、聖人や聖

民間芸能とが別々に描かれている。最も興味深いのは、柱で

獣などを配して愛ずめき神聖な空間を現出している。

支えられた高床式の「山台」の上に四人の男女に扮した仮面

韓国の「山台」も、重要な国家的行事の際に仮設される山

仮装の演戯者がいて、そのうち二人がまさに「山台」から梯

形の造り物で、やはり「曳き山」式のものと「置き山」式の

子を伝って庭上に下りようとしている場面である。「山台」

ものとがあった。高麗王朝や朝鮮王朝では、年末になると王

と演戯者との密接な関係を、これほど解りやすくわれわれに

宮の門前などに「山台」を設置し、その周囲では全国から呼

示してくれる資料も珍しいのである。楼閣の松が、この「山

び集められた民間芸能者による多種多様な演戯が繰り広げら

台」の「標山」としての性格を表わしていることは言うまで

れた。それは「山台雑劇」「山台儺戯」と呼ばれ、儺(鬼遣

もないであろう。

い)の目的を持つものであったが、儺の時期以外にも行い、

大嘗祭の「標の山」には、はたして演戯が伴っていたであ

特に中国から冊封使を迎えたときには国家の威信をかけて盛

ろうか。「標の山」の数少ない視覚資料の一つである鷹司家

大にこれを執り行なった。「朝鮮王朝実録」には、この使臣

伝来の「大嘗祭図」の「標の山」の周囲には演戯者の姿は見

をもてなすための「山台儺戯」において、どの役所がどれほ

えない。だが、その代りに山の前に天老や西王母、仙桃を盗

どの人員を動員して「山台」を作ったか、また芸能者の管理

む童子・麟・鶴の像などが飾られている。また、この「標の

をどのように行なったか等についての具体的な記述がある。

山」は大嘗宮の前に置かれたものを描いているが、先に述べ

このように国家行事に使われた重要な装置である「山台」

たように、このような「標の山」が北野から京の町をにぎや

であるが、実はその形態や目的を実感できる視覚資料は乏し

かに曳かれた時代は長く、それは音楽を伴う一つの祭りの風

く、その最初の一つが発見されたのが、今からほんの20年前

流でもあった。「標の山」は、「山台」と同様の演戯との親

の1999年であった。英祖元年(1725)に中国使臣として朝鮮を

和性を十分に持つものでもあったのである。

訪れた阿克敦がその見聞を描いた画帖『奉使図』の中の一図 に「山台」が描かれていたのである。この画帖は、現在中国

韓国の文化と芸術 13


特別寄稿 4

ソウルの市場で 風物をめでる 小澤 康則 こざわ・やすのり 韓国外国語大学校日本言語文化学部教授

国旅行の魅力の一つとして市場(シジャン)があげら

毎日は必要ない、という様な場合は定期的に「ジャン」が立

れる。ソウルにある市場と言えば、誰もが知ってい

つ。日本語で言う「市」のこと。そして、市が立つ場所を

る南大門(ナンデムン)市場(シジャン)と東大門(ドンデムン)

「ジャント」と言う。普通は、その地域の広場的な場所に市

市場。ご存知の方も多いとは思うが、まず簡単に韓国の市場

が立つ。地方都市などでは、常設の在来市場もあるのだが、

について説明させていただく。韓国の市場には卸売りと小売

さらに5日おきに五日市(オイルジャン)を立てたりもす

がある。卸売りのことを韓国語では「都売(トメ)」と言う。

る。最近若者に人気の牡丹(モラン)市場などがその例だ。ま

ちなみに小売は「小売(ソメ)」で日本と同じ漢字を使う。だ

た、ソウル市内の団地などでは、特定の曜日に団地の駐車場

から、南大門市場や東大門市場は韓国を代表する都売市場と

などで市が立つたりする。月曜日は○○団地、火曜日は□□

いうことになる。

団地、などという具合になる。いわゆる七日市(チルイルジャ

南大門や東大門は総合市場でもあるのだが、それとは別 に、一つに特化した専門市場と言うのもある。地下鉄1号線

ン)だ。これなども団地生活者にとってはかけがえのない、便 利な巡回市場であろう。

「祭基洞(チェギドン)駅」のすぐ近くにある京東(キョンド

ところで、「ソウルの市場で風物をめでる」わけなのであ

ン)市場。その市場の中に薬令(ヤクリョン)市場と呼ばれる一

るが、風物をめでるためには地下鉄1号線の「新設洞(シンソ

角があり、韓方薬専門市場として知られている。また、水産

ルドン)駅」で降りてもらわなくてはならない。新設洞駅は1

市場として有名な鷺梁津(ノリャンジン)も、魚好きには一度

号線の他に、2号線聖水(ソンス)支線、そして牛耳新設(ウイ

は訪れたい所であろう。

シンソル)線の三路線が乗り入れている。少し迷うかもしれな

一方、市民が普段の買い物をする場所の一つに在来(ジェレ

いが、10番出口から地上に出てみよう。新設洞の駅から地上

ェ)市場がある。いわゆる小売市場だ。ソウル市内でも、大抵

に出てみて、先ず感じることは、元気な高齢者が多いという

の駅のそばには、その地域の地名を冠した市場が存在する。

ことであろう。全くの私見ではあるが、1号線沿線では元気

ただ、流通の近代化が在来市場の衰退化をもたらしているの

な高齢者をよく見かける。鍾路(チョンノ)3街、東大門、東

も事実である。

廟前(ドンミョアプ)等々。新設洞駅も高齢者が闊歩している

市場を常設するほどには人口規模が大きくない、もしくは 14 KOREANA 冬号 2019

地域に属している。その元気な高齢者たちの流れに沿って歩


1. 路上市場。古本、韓方薬から家具まで。いろいろな物が売られて いる。 2. 中古玩具。愛好家にとってもマニアックな韓国玩具があるかも。 3. 奥の建物が「風物市場」。その手前右に体験館がある。

4. なぜか日本の郵便ポストが。評価価格は大が30万ウォン、小が20 万ウォン。

1

2

3

4

いていけば、ほんの数分で「ソウル風物(プンムル)市場」へ

ると、1階には古着や中古雑貨、骨董品などの、2階には革

と到着する。ここが、今回の目的地である。ちなみに、韓日

製品・衣類、工具、趣味・生活品などのコーナーがあること

辞典を引いてみると、韓国語の風物は「①風物;景物.②銅

になっている。しかし、そんな説明より実際に現場を歩いて

鑼・鉦・太鼓など農楽に用いる囃子道具の総称.」と出てく

もらうのが一番だろう。一人でも、友達同士や恋人同士で

る。確かに風物市場の周辺は農楽(ノンアク)が似合いそうな

も、家族連れでも、大いに楽しむことができる。また、広さ

喧騒に満ちている。と言って、風物市場は農楽のための市場

もコンパクトにまとめられているので、大規模市場のように

ではない。品良く言えば骨董品市場であり、その実体は中古

闇雲に歩く必要はなく、それこそ適正規模での愛好品(写真

品市場、悪い言い方をすればガラクタ市でもある。以前は東

3)や珍品(写真4)の散策を楽しむことができる。

大門のほうにあった中古品商店街が清渓川(チョンゲチョン)

館内には「青春(チョンチュン)一番街(イルボンガ)」とい

の復元工事にともなって、この地に移ってきたと言う。現在

う復興調のコーナーもある。日本ならさしずめ「昭和一番

は「ソウル風物市場」と言う建物を中心に、館内市場(写真

街」と言ったところであろうか。また、市場食堂(ジャントシ

1)と、その周辺の路上市場(写真2)とから構成されてい

クタン)を模した飲食コーナーも設置されている。骨董品探索

る。

に疲れたら、そこでマッコリにピンデットクなど、いろいろ

風物市場へと通じる小路を入っていくと、入口脇に小さな

なジャント料理でエネルギーを充填しよう。体験館で指導し

スペースが設けられている。「伝統文化体験館」である。体

てくれた方の話によると、11時から5時ごろまでがお奨めタ

験館には「韓紙体験」、「生活体験」、「服飾体験」、「遊

イム。早すぎたり、遅すぎたりすると閉まっているお店があ

戯体験」と言ったコースがあり、いろいろなプログラムが準

るとか。

備されている。筆者も韓国伝統仮面のストラップ作りを無料

韓国料理でつい食べ過ぎた昼下がり、腹ごなしをするには

で体験させていただいた。材料費がかさばるものは有料とな

もってこいの空間だと思うのだが。ちなみに、案内図には記

っているが、家族や恋人同士で体験するのも、旅のいい思い

載されていないのだが、ちょっと目立たないところに18禁の

出になるだろう。

コーナーがあったりもする。まさに風物である。

風物市場の建物は二階建てとなっており、館内案内図によ 韓国の文化と芸術 15


特別寄稿 5

秋の ソウルで考えたこと 鈴木 彰 すずき・あきら 立教大学文学部教授

ソウルでの日々

南原市と丁酉再乱

うことなく滞在先として韓国を選んだ。幸い、韓国外国語大

酉再乱(日本では一般的に文禄・慶長の役と呼ぶ戦争)に関

学校の日本研究所に受け入れていただけることになった。

わる説話・口碑伝承の調査・収集を続けている。将来的に

勤務先の在外研究制度を利用できることになったので、迷

ここ数年、韓国の研究仲間と協働しながら、壬辰倭乱・丁

そして2020年11月の末となり、ソウルに滞在して2ヶ月

は、日本や中国などに伝わるものを含めた総合的な研究と問

が経過した。これまでにも学会参加や小旅行のために韓国を

題提起をめざしている。そうした課題ともかかわって、この

訪問したことはあり、今年の8月にもソウルを拠点として3

滞在中に全羅北道南原市を再訪したいと考えていた。

週間過ごしたのだが、数ヶ月単位での滞在は初めてである。

11月初旬、日本から釜山経由で現地入りした知人とも合流

30年前、日本の古典文学に心惹かれていた学生のころの私

し、史跡や博物館などをまわった。K T X南原駅のホームに降

には、海外に留学するという選択肢は存在しなかった。だか

り立つと、ただちに蛟竜山が視界を覆う。いつも、この山に

らこそ、この在外研究をとおして、かつてできなかったこと

は懐かしさのようなものを覚え、その偉容をしばしのあいだ

の真似事をしてみたいという思いがあった。帰国したあとに

仰ぎ見てしまうのはなぜだろう。

は、2019年のこの時期にはソウルで暮らしていたという実感 がわいてくるだろうか。

萬福寺址、南原邑城城壁、萬人義塚、そして蛟竜山城。そ れぞれの地を歩きながら、戦乱のあとに過ぎ去った時間の重

少しずつ顔見知りも増えてきた。ふらりと立ち寄るコンビ

さを思わずにはいられなかった。とりわけ、今回初めて訪れ

ニエンスストアの店主の方とは、路上でも会釈しあう間柄に

た、1964年に現在の位置に移される前の萬人義塚があった

なった。こちらに来てから知り合った韓国の学生や、世界各

場所は印象的だった。丁酉再乱で亡くなった多くの人々の遺

地からソウルに来ていた若者たちが、私の誕生日にこっそり

体がここに埋葬されたと伝えられている。旧南原駅の西にあ

ケーキを用意してくれたこともあった。いっぽうで、日本と

る、「萬人義塚遺址」と書かれた標柱が建てられ、白い柵で

の地理的な距離を痛感させられもした。当然のことながら、

六角形に囲まれた空間がそれである。そこは本来、南原邑城

離れたところにいる人とのやりとりには限界があり、もどか

の北側城壁の内側に面した地点であった。

しい。そうした日常のなかで、日本にいたときには感じられ なかった自分の心の起伏と向き合った 2ヶ月であった。 16 KOREANA 冬号 2019

また、旧南原駅の北側では、近年南原邑城の北門の遺構が 発見され、今でも発掘が続いていた。隣接して見つかってい


1.「萬人義塚遺址」背後に蛟竜山が見える 2. 南原邑城北門址の発掘現場 3. 南原邑城の城壁

1

2

3

る北側城壁の遺構と併せて調査を進め、2027年までの10年を

有形・無形の文化財には、それ自体にそれぞれの物語と歴

かけて、旧南原駅周辺を「萬人公園」として整備する計画ら

史が伴うようになる。これらはいずれも、丁酉再乱という

しい。貴重な遺構がどのように保存され、活用されるのだろ

400年以上前の戦乱を見つめ直し、語り継ぎ、考え続けよう

う。また、そこでどのような物語が語り出されることになる

とする地道な営みである。

のだろう。そのゆくえに注目している。

戦争は武力をもって戦うことだけではない。そして、その

手の届く距離

終わりは誰かが決めるものではない。ある意味では、壬辰倭

南原市を象徴する朝鮮時代の物語『春香伝』にちなんだ春

この戦争はさまざまな記憶となって、各地で生きる人々の

香テーマパークの一角にある南原郷土博物館では、2017年秋

心に多様な形で刻み込まれ、世代をこえて更新され、韓国で

に「丁酉再乱と南原城戦闘」展を開催している。そのときに

も日本でも中国でも西洋でも、今なおことあるごとに社会の

編集・刊行された充実した図録には、この企画に託された関

表面に浮上してくる。だからこそ、忘れてよい戦争、考えな

係者の方々の思いが詰まっている。また、南原文化院では、

くてもよい過去はない。人類が通り過ぎてきた過去から目を

この戦乱の被虜人で、日本に墓がある一人の女性が南原出身

背けることなく、いっぽうで今を生きる人々の終わらぬ思い

である可能性を探っているとのことであった。

にたがいに寄り添いながら、未来を語り合うための道を長い

乱はまだ終わっていないのである。

ちなみに、この南原訪問と同じ時期、ソウルの国立中央博

目をもって探し続けたい。私にとって、壬辰倭乱/文禄・慶

物館では、「日本京都興聖寺所蔵 四溟大師遺墨特別公開」

長の役に関する文学的研究とは、そのための思考と模索の過

展が開催されていた(10月15日~11月17日)。四溟大師惟政

程である。

(1544∼1610)は、壬辰倭乱で義兵活動をするとともに、戦

ソウルで生活してみて考えたのは、SNSやE-mailや電話の

後交渉で日本を訪れて功績をあげた人物。日本の興聖寺が所

ありがたさではなく、まずは手の届く距離まで歩み寄れるこ

蔵する5点の遺墨を、博物館でこのように揃って見られる機

との、他に代えがたい大切さであった。

会は、日本ではおそらくない。ちなみに、このとき展示され た四溟大師の肖像画(東国大学校所蔵)は南原郷土博物館の 図録にも掲載されている。 韓国の文化と芸術 17


特集 1 釜山-詩と熱情の港町

釜山 一編の詩で揺らめく 韓国最大の港湾都市であり、ソウルに次いで2番目に大きい釜山(プサン)は、見るもの・ 食べるものに恵まれた観光地で、数多くの文化・芸術イベントが開かれる祭典の街でもある。 それは、長い年月をかけて、地理的な条件が培った開放性と混在性によって生み出された釜山 の魅力だ。海に面した都市の想像力と感受性が、釜山ならではの躍動感で輝いている。 キム・スウ 金守愚、詩人

18 KOREANA 冬号 2019


海雲台(ヘウンデ)の海水浴場は毎年、夏になると1千万人以上が訪れる韓国最大の避暑地だ。 また四季を通じて、海岸沿いの散策路や多彩な施設が多くの人を魅了する人気観光地でもある。 最近は高層の住居・商業複合施設が建てられ、豪華な居住地としても関心を集めている。 © 釜山観光公社

韓国の文化と芸術 19


五六島(オリュクト) 海雲台海水浴場

20 KOREANA 冬号 2019

水営湾(スヨンマン)ヨット競技場

UN(国連)記念公園 広安大橋


古書店街 広安里海辺

影島(ヨンド) 映画の殿堂

釜山港大橋

甘川(カムチョン)文化村 臨時首都記念館

チャイナタウン

チャガルチ市場

© アン・ホンボム(安洪範)

韓国の文化と芸術 21


の海から南の海まで約300キロに及ぶ釜山の海岸線は、繊

る釜山の夜景は、見逃せないロマンだ。

細で強靭だ。東の海の濃紺の海流は、南の海に流れ込む

さらに釜山には、60余りの深い入り江がある。入

と穏やかな表情に変わる。自然からの贈り物である叙情

り江は、川が海と出会い、混じり合う場所だ。水平

的な曲線に沿って、長きにわたり、多くの人が移り住んできた。その

線が緩やかに広がる入り江で楽しむ釣りも、特別な

ように海岸に心と体をゆだねた人たちは、海の感受性と想像力の中で

感性を醸し出す。市街地近くの入り江にある海女村

生まれ育った。

で、年配の海女さんが採ってきたシーフードをその

釜山での一日は、いつでもどこでも贈り物のようだ。海水浴場と入

場でさばいた海の恵みは、この上ない喜びだ。

り江が多く、入り江が多いだけに漁村と灯台も多い。美しい釣り場や

また、美しく巨大な橋は、眩しい線を描きながら

魚市場も、いくつもある。世界的な港湾や埠頭があり、岩の絶壁と海

市街地から外れた海を横切る、愉快なドライブを約

を横切る橋も数え切れないほどだ。そのため、人が釜山を夢見る形式

束してくれる。広安(クァンアン)大橋、釜山港

も、釜山が人を呼び寄せる声も様々だ。

(プサンハン)大橋、南港(ナマン)大橋を次々と

釜山の多彩な顔

走っていくと、釜山の南端に位置する松島に着く。

韓国で最も賑やかなビーチ・海雲台(ヘウンデ)をはじめ、釜山に

港。そこでは、入港や出港する汽船が泊まる美しい

は眩しいほど白い砂浜が広がる七つの海水浴場がある。一番東には林

錨泊地にも出会える。そこからさらに車を走らせて

浪(イムラン)海水浴場、西側には100年の歴史を持つ韓国初の海水

乙淑島(ウルスクト)大橋を過ぎると、釜山の西の

浴場・松島(ソンド)や世界最大の落照噴水(音楽と照明の噴水ショ

端までたどり着く。

ー)で有名な多大浦(タデポ)海水浴場がある。 雲台(モルンデ)など濃紺の海に洗われた奇岩・絶壁も、見る者を待

混在性と創造的な個性

っている。原始性を保った絶壁は、それぞれ固有の森を持っており、

る。そのため、海の前に立つと、誰もが自分だけの

その森には珍しい動植物が数多く生息している。青い森から望める海

波に出会い、自分に必要な想像力を授けられる。海

は、さらに深く美しい。その美しい海の上で遊覧船からのんびり眺め

は、若者にとっては心躍る青春であり、寂しい人に

そこは、巨大なクレーンとコンテナがひしめく釜山

それだけではない。二妓台(イギデ)、太宗台(テジョンデ)、没

海は、様々なイメージで私たちに語りかけてく

とっては恋人だ。辛い人には人生の根源を、怒って いる人には包容を教える。労働者には人生のよりど ころ、作家には物語の宝庫、船長には長い旅路だろ う。また、悟った人には順理であり、学ぶ人には胸 の高鳴りとして迫ってくる。朝には髪をなびかせる 女の子だったが、夕方にはしわが深く刻まれたお婆 さんの手のように映るのが海だ。 新石器時代の遺跡がいくつも残っていることか ら、釜山の漁村の歴史はかなり長いことが分かる。 海岸線に沿って形成された漁村では、様々なシャー マニズム、麻姑(地母神)信仰、龍王信仰の風習

1. 1986年に竣工し、1988年に正式オープンした水営湾ヨット 競技場。1986年と2002年のアジア競技大会、1988年のオリン ピックでヨット競技が開催された。

2. 釜山湾の入口にある五六島は、六つの大きな岩からなる島 で、昔から釜山の象徴とされてきた。国家指定文化財・名勝第 24号の灯台島には灯台守がいるが、その他は無人島だ。

1

© イメージトゥデイ

22 KOREANA 冬号 2019


2

© 釜山広域市(撮影:クォン・ジョンウク)

が今も守られている。そうした静かな漁村は、大都市に成長するにつ

た。釜山の海は、そうした長い歴史を通じて、開放

れ、多くの人が暮らす生活の場へと様変わりした。特に釜山は、近代

性と包容性を身に付けてきた。海外からの移住者ま

において激しく揺れ動いた。日本統治時代には、関釜連絡船が汽笛を

で受け入れて異文化が混じり合い、その過程で釜山

鳴らす出港地であり、朝鮮戦争では、全国各地から押し寄せる無数の

は混在性を獲得した。様々な文化がるつぼのように

難民が荷物を下ろした涙の到着地でもあった。ベトナム戦争への派遣

共存する混在性こそ、真の「釜山精神」といえる。

部隊も、数多くの遠洋漁船も、ここを発ってここに戻ってきた。

混在性とは、寛容さでもある。あらゆる辛い時代

多くの人が波のように押し寄せると、釜山は、その居場所や食料を

を黙々と耐えてきた力は、寛容さにある。この寛容

用意しなければならなかった。そのたびに、この街は全てを与えてき

さが、民衆性を生んだ力であり、釜山の民衆文化を 韓国の文化と芸術 23


多くの人が波のように押し寄せると、釜山 は、その居場所や食料を用意しなければなら なかった。そのたびに、この街は全てを与え てきた。釜山の海は、そうした長い歴史を通 じて、開放性と包容性を身に付けてきた。

発達させた。釜山のダイナミックで創造的な民衆性は、伝統的な遊び の文化をはじめ、ポピュラー音楽、映画、祭典など大衆文化に力を与 えた。

海が教えた想像力

サントンネ(貧しい山村)は、釜山のもう一つの情緒だ。屋根と屋

上の貯水タンクが重なるように立ち並ぶ「山腹道路」から海を見下ろ すと、釜山の別の一面が見えてくる。朝鮮戦争と産業化を経て都市は 巨大化し、貧しい人はバラックを建てるために山に入った。 私は、影島(ヨンド)のサントンネから眺める夜の海が忘れられな い。そこで生まれた私は、ひび割れた窓ガラス越しに釜山の海を見な がら育った。ある日、夜の海に巨大な船が停泊していた。その船が夜 の海に落とした明かりは、どれほど美しかったことか。まるで金糸・ 銀糸を四方八方に投げ散らしているかのようだった。ある日、その船 は出港し、そのそばに新しい船が泊まっていた。私は、世界の広さと 深さをそうして学んだ。私が詩人として生きているのも、バックパッ カーとして世界を歩き回ったのも、海が教えてくれた想像力のおかげ だ。 貧しい山の斜面から眺める海は、果てしなく遠く深かった。辛い人 生を背負ったサントンネから眺めると、海は開くべき扉のようなもの だ。釜山において海は、無数の扉の役割をする。その青い扉は、常に どこかに向かって開かれている。人々はその扉を通して人生を切り開 き、夢を切り開いていく。太平洋、そして大西洋へと…。

ダイナミックな文化都市

釜山において海は、待つものではなく、自分の手足で開くべき創造

的な扉だ。この青い扉が開放してくれる海の情趣の中で、ダイナミッ クな祭典が繰り広げられる。釜山国際映画祭をはじめ、釜山ビエンナ ーレ、海美術祭、釜山国際ロックフェスティバル、釜山国際演劇祭、 韓国海洋文学祭などがあり、中には海外で名声を得ているものもあ る。 各地区の祭典も多彩だ。チャガルチ祭りでは、龍神祭や魚の霊を慰 める魚慰霊祭が行われるなど、海を生活の基盤としてきた釜山の長い 24 KOREANA 冬号 2019

釜山の南側の海岸近くにある影島は、面積が 14.15㎢の小さな島で、朝鮮戦争の際には、全国 から集まってきた避難民が仮設の住居で暮らして いた。2011年に空き家や廃屋をきれいに改修した ヒンヨウル・マウル(白い瀬の村の意)が広く知 られるようになり、映画やドラマのロケ地として 有名になった。急傾斜の崖の下にある長さ3㎞ほ どの海岸の散策路では、海の向こうに日本の対馬 が見える。


© 釜山広域市(撮影:クォン・ギハク)

歴史を思い起こさせる。海雲台砂祭りは、国内外のアーティストが参

た。それは様々な分野において、独立芸術や批評文

加して、様々な砂の像を公開している。花火大会は毎年、秋の夜に広

化など多元的な非主流文化・芸術につながり、釜山

安里の海を幻想的に彩る。波の生き生きとした動きが見られるイワシ

のアイデンティティーを確立する創造的な力になっ

祭り、五つの海水浴場で同時に行われる海祭りなど、海をテーマにし

ている。

た数多くの祭典が、一年を通してロマンと興味をかき立てる。

今日も釜山の海は、金波銀波に寄せては返す。そ

また、龍頭山(ヨンドゥサン)公園で誕生したBボーイ(ブレイク

の美しい煌めきは、絶え間なく揺らめく小さな波紋

ダンサー)は、熱情と野生という釜山の気質を見せてくれる。釜山精

を抱いて、深く温かく、そして力強く響く一編の詩

神を育んだこのような気質は、釜山の文化を民衆的な力に進化させ

になる。 韓国の文化と芸術 25


ジーンズで描いた温かい風景画 キム・スウ 金守愚、詩人

ェ・ソヨン(崔素栄)氏は、釜山の風景の美

かったのです。大学2年生の時に擦り切れたジー

学を独特な素材で表現するアーティストだ。

ンズを素材にして、次第に大きな作品へと発展さ

海、山、雲、道を全てジーンズの生地で情感たっ

せてきました。

ぷりに描き出す。青い布が作り出した街は、温も りを感じさせる。

1 © 連合ニュース

まず、古いジーンズの生地を素材にした理由は何 ですか。 ジーンズは老若男女、誰がはいても魅力的で す。世代や貧富の格差を超えて、どの国や地域で もジーンズをはいている人がたくさんいます。も ちろん、高級ブランドもありますが、実際にはジ ーンズに階級などありません。それで、私はジー ンズ一つで世界とつながることができると考えま した。また、海、山、家のような自然に近いテー マを手作り感のある生地で表現することが、楽し

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26 KOREANA 冬号 2019

釜山を最もうまく表現するアーティストと評価 されていますが、釜山の特徴は何だと思います か。 何といっても海です。私は故郷の釜山をとても 愛しています。一日中歩き回っても、行きたい場 所がたくさんあるのが、この街の魅力です。山、 川、海どこに行っても、温かく迎え入れてくれま す。私は幼い頃、海雲台の砂浜でよく遊びました が、水平線の無限の青色が、昔からとても好きで した。私の創作活動は繊細で複雑ですが、穏やか で素朴で情感あふれる作品を作りたいと思ってい ます。大好きな、あの海みたいに。

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最近、社会において非常に複雑で暴力的な面があ ります。今の時代を生きる人にとって、最も必要 な価値は何だと思いますか。 自分自身をしっかり守ることだと思います。自 分らしさと言えるでしょうか。他の人にとって は、つまらなくて小さなものだとしても、自分ら しさを守ることが一番大事です。自分を大切にす る人は、他の人も大切にします。自分の世界を持 ってこそ、日常の表情が輝きます。「私にもでき る。やればできる」と感じる瞬間が、私は幸せで す。学校の入試でも個展でも、自分にできること をやり遂げた時の達成感が、自分の世界につなが るのだと思います。 おそらく、そうした考えのおかげで、心の力を感 じさせる作品ができたのだと思います。先日、韓 国国際アートフェアでの展示が終わりましたが、 今後の計画を教えてください。 しばらく旅行に行ってくる予定です。それか ら、ヨガ、瞑想、菜食、山登りなどをしながら、 人生の質を追求していきたいと思います。私にと って物や名誉は、それほど重要ではありません。 成果や評判に振り回されず、自分らしく生きてい く方法をゆっくり考えています。

1. チェ・ソヨン(崔素栄)氏は、絵の具でなくジーンズ を主な素材として、キャンバスに故郷・釜山の姿を描き 出す。ジーンズ・コラージュ作品は十数年前、20代の頃 から香港のクリスティーズのオークションで、すでに数 億ウォンで落札されていた。 2. 空を開ける』2019年、デニム、キャンバス 73×53.3㎝

3.『うまいもん通りⅡ』2014年、デニム、キャンバス 116.5×91㎝ 4. 影島大橋Ⅱ』2013年、デニム、キャンバス 160×81.5㎝

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韓国の文化と芸術 27


イ・スー・ミー(Say Sue Me)は、釜山で活動する

す。そのような点で、私たちはかなり大きな特権を与え

サーフ・ロック系のグループだ。チェ・スミ(崔

られていると思います。

守媄、ボーカル、リズムギター)、キム・ビョンギュ (金秉奎、リードギター)、ハ・ジェヨン(河載栄、ベ ース)、カン・セミン(ドラム)の4人が、2012年に釜 山の南浦洞(ナムポドン)でビールを飲んでいるうちに 意気投合して結成したバンドだ。つい最近まで広安里 (クァンアンリ)の海辺のスタジオで練習し、釜山地域 のバーなどで演奏していたが、今では世界中を飛び回っ ている。2枚目のアルバムを制作中に他界したカン・セ ミンに代わって、現在イム・ソンワンがドラムを担当し ている。

広安里の海が、セイ・スー・ミーの音楽にどんな影響 を与えましたか。 作曲や演奏をしていると、見えない壁にぶつかる瞬間 があります。そんな時は、すぐに広安里の砂浜に行って 散歩をしたり、フライドチキンとビールを持っていっ て砂浜で一休みしたりします。どの分野でもそうだと思 いますが、創作活動で最も重要なのは、情緒的な換気で

バンドを結成する前に、それぞれのメンバーが影響を 受けたミュージシャンやロールモデルは誰ですか。 それぞれのメンバーが言うまでもなく、全員、ペイヴ メントとヨ・ラ・テンゴの影響を受けました。この前、 ヨ・ラ・テンゴに会ってから、さらに尊敬するようにな りました。 他の地域と比べて、釜山のインディーズシーンの強み は何だと思いますか。 流行に流されない独自のカラーだと思います。他のバ ンドの音楽や現在のインディーズシーンの傾向などにと らわれずに、自分たちの音楽を続けています。 エルトン・ジョンによってセイ・スー・ミーの「Old Town」が紹介された時、どんな気分でしたか。 最初は、どれほどすごいことなのか実感さえできませ んでした。後で番組を探して聞いてから、やっと喜びと

「エルトン・ジョンが、私たちの曲を? その時は実感がありませんでした」 リュ・テヒョン 柳泰衡、音楽コラムニスト

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1 © 連合ニュース

誇らしさが一気にこみ上げてきました。

2 © Hung Shu Chen

た。韓国も公演文化が活発になって、親子で来るような

曲を作るプロセスは、どうなっていますか。 まず、ビョンギュさんがデモ曲を録音してメンバーに聞 かせた後、良いと思う曲にはスミさんが歌詞を付けます。 その後、仮録音をしながら編曲して、曲を仕上げます。 海外からの招待で公演をして、何を感じましたか。 私たちが公演した都市では、ほとんどが週末だけでな く平日にも観客が集まりますし、老若男女を問わず幅広 い世代が見に来る点も、韓国とは大きく違うと思いまし

観客が増えるといいですね。

今後の計画について教えてください。 10月の初めに新しい曲が発売されました。「Your Book」、「Good People」の両A面シングルです。その曲 を世界の各都市で演奏することになりました。12月3日 から13日までカナダのトロントをはじめ、アメリカのシ カゴ、サンフランシスコ、シアトルなどで公演する予定 です。来年には3枚目の正規アルバムが発売される予定 です。

1. 2018年3月に米国テキサスで開かれた世界最大の音楽の祭典「サウス ・バイ・サウス・ウエスト(SXSW)」で公演するセイ・スー・ミー(Say Sue Me) 2. 2019年3月に台湾の高雄で開かれたメガポートフェスティバルで公演 するボーカル兼リズムギターのチェ・スミ氏

3. 左からファーストアルバム『We've Sobered Up』 (2014)、EP(ミニ) アルバム『Big Summer Night』 (2015)、セカンドアルバム『Where We Were Together』 (2018)、両A面シングル『Just Joking Around / B Lover』 (2018)、EPアルバム『Christmas, It's Not A Biggie』 (2018)、両A面シング ル『Your Book & Good People』 (2019)

© Electric Muse 提供

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韓国の文化と芸術 29


特集 2 釜山-詩と熱情の港町

国際交流を リードしてきた港湾都市 釜山(プサン)は、古代から周辺国と活発な交流を続けてきた街だ。中でも、日本との往来が最 も多かった。文禄・慶長の役(1592~1598年)の後、17世紀初頭から両国の平和の象徴「朝鮮通信 使」一行が出発した港でもある。釜山の国際交流の歴史は、今も力強く続いている。 パク・ファジン 朴花珍、釜慶大学校史学科教授

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鮮半島の南東端に位置する港湾都市・釜山 (プサン)は、日本と朝鮮海峡を隔てた国 境都市であり、大陸と海洋を結ぶ交通の要

衝だ。釜山港は韓国の輸出入の玄関口として、釜山地 域だけでなく韓国の経済に大きな影響を与えている。 ユーラシア大陸の起点でもあり、北東アジアの物流に おいてハブ港としての潜在力も非常に高い。 釜山は、韓国の輸出入コンテナの60%以上を取り扱 っている。釜山港湾公社の統計資料によると、2018年 の釜山港のコンテナ取扱個数は2166万3000TEU(20フィ ートコンテナ換算)で、2017年に続き世界第6位を記 録した。 釜山の海洋交流史は、遠く古代にまで遡る。海辺の 村「多大浦(タデポ)」という地名が、日本の歴史書 『日本書紀』(720年)に「多大羅原」や「多々羅」な どと記されている。つまり釜山は、有史時代の初期か ら日韓の通商や交流の拠点だったのだ。

古代北東アジア交易の中心

13世紀の韓国の歴史書『三国遺事』にも、古代の釜

山における海洋交流の痕跡が残っている。金官伽耶 (1~6世紀)を建国した首露王が、インドの阿踰陀 国(サータヴァーハナ朝)の王女・許黄玉を妃にした という神話だ。許黄玉にまつわるエピソードは、金海 (キメ)の首露王陵にある双魚文(二匹の魚を向かい 合わせた文様)によって、神話でなく史実だと受け止 められている。学界では、双魚文はインド文明と深い 関係があるため、許黄玉のインド渡来説の証拠として いる。 伽耶の海洋交流は、インドに限られた話ではない。 釜山など慶尚南道で見つかった伽耶の多数の遺跡や遺 物が、それを裏付けている。例えば、5世紀初頭に前 期伽耶連盟が解体し、多くの伽耶人が日本に渡って鉄 や須恵器の生産技術を伝えたことで、日本の古代文明 の成立に影響を与えたものと推測される。 前期伽耶連盟の中心地・金海は、その地名からして © 釜山広域市(撮影:チョン・ウルホ)

1876年の日朝修好条規(江華島条 約)に よって朝鮮王朝が初めて開 港した釜山港は、現在、世界6位 のコンテナ取扱個数を誇る国際的 な貿易港だ。2014年4月に竣工し た釜山港大橋は長さ3368mで、釜 山港との円滑な物流に寄与してい る。

鉄の生産が盛んだったことを表している。伽耶の多く の連盟国家は、美しい南海(ナメ)の海辺や洛東江 (ナクトンガン)の周辺に位置し、豊富な鉄の生産に よって北東アジア交易の中心に発展した。中国の漢王 朝以降、多元化した北東アジア社会において、伽耶は 地理的に日本と中国大陸を結ぶ要衝だった。また、 北東アジアの国々の海路が交差する交易路に位置し、 その海路によって自国の豊富な鉄を周辺国に供給でき た。 韓国の文化と芸術 31


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© アン・ホンボム(安洪範)

『日本書紀』には、百済の近肖古王(在位346~

並んでおり、華僑のための学校もある。

375年)が、4世紀半ばに倭国に鉄鋌(鉄板)40枚

このチャイナタウンは、朝鮮後期(17~18世紀)に釜山港の埋め立

などを贈ったと記されている。鉄鋌は当時の重要な

てや海関(税関)の敷地工事などのために入ってきた清朝の人たちが

生産素材で、これを加工して各種の鉄器類を作っ

定着したもので、現在は3~4世の華僑が住んでいる。韓国に住む華

た。鉄鋌は百済、新羅、日本の墳墓でも発見されて

僑は、最初は自国の支援によって釜山に定住したが、朝鮮戦争の後、

いるが、特に伽耶地域で数十点が出土しており、副

釜山に入ってきた人も少なくない。

葬品だけでなく貨幣や鉄器など様々な用途で使われ

しかし、釜山駅が1953年に大火災で焼失し、近くにあった風俗街が

ていたことが分かる。

チャイナタウンに移されてから、大きな変化が生じた。その後、1992

チャイナタウンと倭館

年の中韓国交正常化に伴って、1993年に釜山市と上海市が姉妹都市提

形成されたチャイナタウンが、今も残っている。釜

開催されている。

釜山には、清朝の領事館開設(1884年)によって

携を結び、活気を取り戻した。この提携を記念して、1999年に「上海 通り」となり、2004年からは毎年「チャイナタウン特区文化祭り」が

山駅の向かい側にあるチャイナタウンには、中国人

一方、釜山には朝鮮時代に日本人が居住していた「倭館」もあっ

が経営する飲食店や中華食材店、両替所などが立ち

た。朝鮮王朝が、高麗末期(14世紀)から頻発した倭寇の取り締ま

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りや日本との外交・交易のため、開港地に設けたもの だ。1407年に釜山の釜山浦と鎮海(チネ)の薺浦(チ ェポ)に倭館が開設され、1426年に蔚山(ウルサン) の塩浦(ヨムポ)が加わって「三浦倭館」と呼ばれ た。しかし、1544年に統営(トンヨン)で日本人によ る略奪事件が発生し、釜山浦の倭館だけが残された。 日韓の交流は、1592年に始まった文禄・慶長の役に よって断絶していたが、江戸幕府初代将軍の徳川家康 が戦後処理を行って、国交が回復した。それに伴って 倭館が再び造られ、朝鮮後期の釜山浦倭館には500人近 い日本人男性が居住していた。特に、17世紀後半に開 設された草梁(チョリャン)倭館は総面積が約10万坪 で、生活、交易、使者の宿舎などの施設があった。倭 館の建築は朝鮮側の負担で行われたが、建物の内部は 日本の建築様式が取り入れられ、畳が敷かれていた。 倭館の外には日本人の出入りを監視する施設もあった が、倭館内では着物姿で帯刀していたので、朝鮮の小 さな日本人街だった。

文化交流の起点

日韓両国は、古代から幾多の戦争によって、関係が

円満でない時期も多かった。しかし、江戸幕府は200年 以上、朝鮮通信使を通じて朝鮮王朝と平和な関係を築 いていた。朝鮮通信使は、 文禄・慶長の役の後、江戸 幕府と朝鮮王朝が国交を回 復し、朝鮮から12回にわた

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って日本に派遣された善隣 外交使節団だ。こうした隣 国の平和な文化交流は、世 界の歴史においても非常に

1. 釜山駅の向かい側にあるチャ イナタウンは、1884年から形成さ れ、今でも華僑が多く暮らしてい る。観光客が絶えない釜山の名所の 一つでもある。『三国志』の登場人 物やストーリーを素材にした壁絵 も、興味深い見所だ。

珍しいといえる。 韓国の市民団体・釜山文 化財団と日本のNPO法人・朝 鮮通信使縁地連絡協議会が 2014年から共同で推進した

2. チャイナタウンの入り口にある 「テキサス通り」には、外国の船員 のための土産物店やクラブが並んで いる。釜山港に外航船が到着する と、外国人船員でにぎわう場所だ。

3. 豆毛浦(トゥモポ)に倭館があ ったことを知らせる案内板。朝鮮王 朝時代、慶尚道の海岸地域には日本 人の住む倭館が数カ所あった。この 倭館は1607年に造られて70年ほど 続いたが、草梁(チョリャン)倭館 の開設に伴って閉鎖された。

「朝鮮通信使に関する記録 -17~19世紀の日韓間の平 和構築と文化交流の歴史」 は、2017年にユネスコの世 界の記憶に登録された。そ の資料は、韓国側が保管す る63件124点と日本側が保管 する48件209点で構成されて 3

© ネイバーブログ「甘い日のおでかけ」

いる。これはユネスコの世 韓国の文化と芸術 33


朝鮮通信使の規模は、400~500人に及ん

規模な行列だった。

だ。一行は、漢城(現在のソウル)から

は、西欧列強によって開国するまで鎖国していたの

江戸幕府も、一行を手厚くもてなした。江戸幕府

釜山まで向かい、外交活動の準備状況、

で、朝鮮通信使の訪問を大きな祝い事と捉え、歓迎

天候・風向きなどを見ながら釜山に滞在

幕府の上層部だけでなく武士、庶民、商人、農民ま

した。朝鮮海峡の海が荒いことも多かっ たためだ。

行事を盛大に行った。朝鮮通信使への関心は、江戸 で非常に高かった。 日本人は、朝鮮の文人との交流を栄誉とし、使節 団の宿舎を訪ねて、詩文の唱酬・批評、書画、揮毫 などを求めた。そのため、通信使一行は非常に忙し く、そうした依頼に応えるため、寝る間も惜しんだ という。そのような様子を収めた記録が現在、日本 と韓国の各地に数多く残っており、絵画資料も多 い。当時の江戸幕府の文人は朝鮮の文化を大いに受

界の記憶において釜山初の登録であり、日韓両国の共同登録としても

け入れ、それが江戸の文芸の発展に大きく寄与した

初めてだ。また、両国の市民交流によって進められた点も重要な意味

と評価されている。

がある。

その当時、日本で刊行された問答集が百数十冊に

朝鮮通信使の規模は、400~500人に及んだ。一行は、漢城(現在の

上り、朝鮮の文人や官吏も帰国後に優れた視察報告

ソウル)から釜山まで向かい、外交活動の準備状況、天候・風向きな

書を数多く残したため、当時の日本を研究する上で

どを見ながら釜山に滞在した。朝鮮海峡の海が荒いことも多かったた

貴重な資料になっている。現在の韓流ブームに匹敵

めだ。通信使一行は海神祭を行った後、航海に適した日を選んで、6

する文化交流だったといえよう。

隻もの船で永嘉台(ヨンガデ)の船着き場から出発した。

その出発点が、港湾都市・釜山だ。今も釜山は、

一行は対馬に上陸し、東海道五十三次を経て、目的地の江戸へ向

東アジアや東南アジアとの文化交流や多彩なイベン

かった。その時に動員された人足は約33万8500人、馬は7万7645頭

トで、国際都市としてのアイデンティティーをしっ

(1711年の第8回)に上ったという。現在の基準で見ても、非常に大

かりと受け継いでいる。

『槎路勝区図』より「釜山」 イ・ソンリン(李聖麟、1718~ 1777)、1748年、紙本淡彩 35.2×70.3cm 『槎路勝区図』は、図画署(朝鮮 王朝の図画の官庁)の画員イ・ソ ンリンが1748年、朝鮮通信使一行 が釜山を出発して江戸に到着する までの様子を記録した絵画。30幅 の景観が描かれている。朝鮮通信 使の行程を描いた絵画としては、 韓国で唯一

© 国立中央博物館

34 KOREANA 冬号 2019


人と人の間に橋をかける ロイ・アロク・クマール 釜山外国語大学校教授

山では2019年11月25~26日、韓・ASEAN特別首脳会議が

才能によって釜山に貢献しており、そのうち1万2000人が留学

開かれ、活気にあふれていた。この会議は、韓国と東

生だ。その中で最も大きな共同体の一つが、ASEAN諸国の人た

南アジア諸国連合(ASEAN)との対話国(ダイアログパート

ちによるものだ。釜山社会がそうした移住者をさらにスムーズ

ナー)30周年を記念するもので、第1回韓・メコン首脳会議

かつ機能的に受け入れるためには、市民の積極的な参加が求め

に先立って開催された。このような平和と繁栄のための論議

られる。ASEAN文化院は、互いのためになる共存に向けて、外

は、各国の首脳による対話が文化外交も強化することを物語

国人住民・学生が積極的に参加するよう主導的な役割を果たし

っている。つまり、対話による「1+1」は、2よりも大き

ている。

な効果を得るということだ。

民間部門の相互交流 釜山のASEAN文化院は、以前は遠く感じられた地域への文 化的な想像力・関心を高めるなど、民族間の交流精神を象徴 する機関だ。ASEAN文化院の多彩なプログラムは、東南アジ ア諸国の伝統的な衣服や料理の紹介から言語・文化プログラ ムの開催まで、活発で意義ある対話の場として草の根レベル で文化・外交的な絆を強めている。ASEAN文化院は、ASEAN10 カ国の教育機関や専門機関と協力して、民間部門の交流も促 進してきた。 国際都市・釜山は、多彩な住民の統合も図っていかなけれ ばならない。現在、約6万5000人の移住者が、各自の技術や

また都市外交は、全てのグローバル都市が重視する課題だ。 釜山広域市と釜山国際交流財団は、国際的なマインドを持って 人的ネットワークで地域をつなげるなど、この課題に取り組ん できた。そうした活動は、単なる姉妹都市提携を超えて新しい 領域へと拡大しており、全世界の人々との協力を強化しようと している。 釜山のグローバルな認知度は近年、能力向上のための教育訓 練プログラムによって、大きく上昇している。2019年には開発 途上国援助のための国際機関であるコロンボプラン・スタッフ カレッジ(CPSC)によって、ネパールの医療技術専門家20人か らなる代表団が釜山に派遣され、ヘルスケア能力開発教育など 人的資源の向上が図られた。2020年には財務と銀行の分野で、 同様の代表団が派遣される予定だ。釜山は2019年の一年間、ス マート農業、漁場開発、心肺蘇生(ラオス)、交通安全(エク アドル)などの分野で教育訓練を誘致した。

韓国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の関係樹立30周年を記念する特別展「ASEAN工芸 -伝統の進化」が開催される釜山のASEAN文化会館に観客が訪れている。この展示会 は2020年1月15日まで続く。

グローバルな認知度 釜山はこの4年間、都市の潜在的な経済力とユーラシア大陸 との文化的な関連性を知ってもらうため「ユーラシア市民大長 征(遠征の意)」を行ってきた。中国、モンゴル、ロシア、 ポーランド、ドイツの5カ国・10都市を訪れた2019年の行程に は、二つのミッションが加えられた。独立運動100周年を記念 して、三・一独立運動の歴史的な痕跡を巡ること、そして1989 年のベルリンの壁崩壊から、朝鮮半島の統一という難しい課題 について学ぶことだった。 また、釜山国際交流財団が運営するグローバルセンターで は、移住者や外国人居住者の支援のために情報と通訳(13言 語)を提供し、法律、移民、労働、国際結婚、家族関係、税金 など多くの分野で専門的な相談も行っている。 グローバル化が時には逆風にもなる激動の時期に、釜山の経 験は、新たな観点を与えるだろう。釜山は、国や文化間の距離 という認識を再構成させ、開かれた心と創造的な企画によって 架け橋の役割を果たしている。

韓国の文化と芸術 35


特集 3 釜山-詩と熱情の港町

釜山の南西に位置する甘川洞(カムチョンドン)は、1950年 代半ばに太極道の信者が山の中腹に移り住んだことで生まれ た集落だ。山裾に沿って段々に連なる家々、迷路のような路 地が、独特な風景を見せている。

36 KOREANA 冬号 2019


避難首都の記憶 朝鮮戦争が1950年6月に勃発すると、釜山(プサン)は大韓民国の臨時首都に なった。その後、休戦協定によって戦争が終わり、1953年8月15日に政府が再 びソウルに戻るまで、実施的な首都の役割を果たした。臨時首都の政府庁舎と して使われた当時の慶尚南道庁の近くには、難民が大挙して押し寄せ、いつ終 わるかも分からない他地での暮らしを始めた。今でも当時の哀歓・苦楽の痕跡 が残っており、その歴史を思い起こさせる。 チェ・ウォンジュン 崔元僔、詩人、東義大学校生涯教育院教授 アン,ホンボム 安洪範、写真

© 釜山広域市(撮影:チョン・ウルホ)

韓国の文化と芸術 37


山(プサン)が首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市になっ

首都として朝鮮戦争という国難を克服した釜山につ

たのは、韓国の現代史の悲劇と密接な関係がある。朝鮮

いて、その重要性と歴史性を知らせている。中に入

戦争は、様々な面で釜山を急激に拡大させる決定的なき

ると、等身大のイ・スンマン(李承晩)大統領のろ

っかけになった。朝鮮戦争直前の1949年に約47万人だった人口は、釜

う人形、当時を再現した執務室などが展示されてい

山が臨時首都になり、避難民が逃れてきたことで急激に増加した。休

る。その他にも、当時使われていた物品、生活ぶり

戦から2年後の1955年には、多くの避難民が定着し、人口が100万人

がうかがえるバラック、避難学校、国際(ククチ

を超えた。そうして、釜山は大都市になったのだ。

ェ)市場の露店の模型などを見ることができる。

避難民は、臨時のすみかで生計を立てなければならなかった。釜山 そうした哀歓・苦楽を代表する場所だ。そこには、乳飲み子に母乳を

山腹道路

飲ませる若い母親、ポン菓子売り、背負子にもたれて一休みする労働

け多い。総延長が65キロも及ぶため、釜山は「山

者など、避難民の像が設置されている。そうした像からも、この場

腹道路の街」とも呼ばれている。避難民が住む場所

所が労働と休息の境界だったことが分かる。階段の下の方は日雇い労

を求めて、山の斜面にシートや板で小屋を建てたた

働者、ガム売り、埠頭の荷役など労働の空間で、上の方はシートや板

めだ。毛細血管のような道に沿って小さな家が立ち

で造った仮説の小屋が立ち並んでいた。避難民は、つらい労働の合間

並び、家と家の間には迷路のような路地が入り組ん

に、この階段でうたた寝をしたり涙を流したりしたのだ。

でいる。そこでは、つらい生活が送られていた。物

駅と釜山港に近い中央洞(チュンアンドン)の「40階段」周辺は、

釜山には、山の中腹を通る「山腹道路」がとりわ

また、影島(ヨンド)大橋にも、朝鮮戦争のつらい記憶が残ってい

悲しい情景が思い浮かぶ場所だが、今や時代は変わ

る。避難民にとっては、貧しさよりも家族の安否が分からないこと

り、多くの観光客が訪れるようになった。その中で

が、大きな苦痛だった。誰もが約束でもしたかのように、この橋の欄

も代表的な場所が、甘川(カムチョン)文化村だ。

干に離れ離れになった家族について貼り紙を貼り、涙を流しながら再

釜山大学校病院の前から甘川峠の方向に登ってい

会を待ち望んだ。釜山の南部にある影島は1934年、影島大橋によって

くと、右側に家々が階段状に立ち並んでいる。新興

陸地とつながった。影島大橋は、韓国で初めて島と陸地を結んだ橋で

宗教・太極道の信者が、朝鮮戦争の際に移り住んだ

あり唯一の跳橋で、釜山を象徴する建造物だった。そのため、避難民 はそこで家族と再会する日を指折り数えて待ったのだ。

戦時中の臨時首都

そして、東亜(トンア)大学校の石堂(ソクタン)博物館は、釜山

が臨時首都だったことを証明する場所だ。この建物は、日本の支配 下で慶尚南道庁が晋州(チンジュ)から釜山に移されたことに伴い、 1925年に竣工した。釜山が港湾と交通の中心であるため、日本が統 治の効率化のために道庁を移転したのだ。朝鮮戦争の際には、臨時首 都の政府庁舎として使われ、休戦後に再び慶尚南道庁になった。その 後、道庁が昌原(チャンウォン)に移されると、釜山地方裁判所とし て利用されるなど、韓国近現代史の政治的・社会的変化の中で荒波に もまれてきた。そのため、この建物は2002年に登録文化財(近代文化 遺産の中で保存・活用の価値の高さから、政府が指定・管理する文化 財)第41号に指定された。2009年からは東亜大学校の博物館として歴 史教育の場になっている。 一方、釜山が臨時首都だったという史実とその意味を記念するた め、最近になって整備された通りもある。東亜大学校の富民(プミ ン)キャンパスと臨時首都記念館を結ぶ「大韓民国臨時首都記念通 り」では、当時を思わせる様々な像や当時の電車を見ることができ る。 臨時首都記念館は、日本統治時代に慶尚南道知事の住居として建て られ、臨時政府の期間には大統領官邸として使われた。現在は、臨時 38 KOREANA 冬号 2019

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© 釜山文化財夜行


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1. 朝鮮戦争の勃発後、釜山が臨時首都に なった際に大統領官邸として使われた建 物。1920年代半ばに日本人の道知事の官 舎として建てられ、1984年に臨時首都記 念館となった。現在は一般公開され、釜山 の現代史を振り返る施設として活用されて いる。

2. 北朝鮮からの避難民夫婦が朝鮮戦争の 際、路地の木造建物の軒下にダンボールを 敷いて、米軍部隊の古い雑誌、古物商から 集めた各種古本を売り始めたのが、宝水洞 (ポスドン)古書店街の始まりだ。1960 ~70年代には70以上の店があったが、現 在は40ほどの書店が新刊書と古書を扱って いる。 3. 中央洞(チュンアンドン)40階段は、 仮設の住居で暮らしていた避難民が毎日、 桶で水を汲みに上り下りした場所だ。当時 の避難民の像が設置されている。

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韓国の文化と芸術 39


は、ここを「汽車村」とも呼んでいた。夜になると、ルーフィング屋

トッテギ市場

根(米軍のルーフィングという油紙を使った屋根)の家の窓から明か

避難生活を余儀なくされていた。そうした苦しい状

りが漏れた。これを遠くから見ると、水平に連なる家々が夜汽車のよ

況でも、希望を捨てずにたくましく家族を養ってい

うだとして付けられた呼び名だ。まるでおもちゃのブロックを積み上

けたのは、市場のおかげだった。大切な食事を与え

げたように家が隙間なく建てられ、色とりどりの屋根が異国情緒を漂

てくれた釜山の市場は、それぞれに多くの記憶が刻

わせている。

み込まれた場所だ。特に、国際市場や富平(プピョ

ことで太極道村が生まれ、甘川文化村の原型になった。釜山の人たち

避難民は、不慣れな街で、毎日が不安で重苦しい

街のどの方向に行っても、路地と路地、急な階段と階段がつながって

ン)カントン市場(缶詰市場の意)は、第二次世界

いる。路地は家々を横に結び、階段は路地を縦に結ぶ。現在は都市再生

大戦後には戦時中の日本の物品、朝鮮戦争の際には

の一環として、従来の街並みを保存しながら、随所に公共の美術作品を

米軍の部隊から密かに持ち出された生活物資を露店

設置して、文化芸術村へと生まれ変わっている。ル・モンドやCNNなど

で売っていたため、トッテギ市場(雑多な市場の

海外のメディアでも紹介されたほどだ。

意)とも呼ばれていた。

40 KOREANA 冬号 2019


釜山には、山の中腹を通る「山腹道路」がと りわけ多い。避難民が住む場所を求めて、山 の斜面にシートや板で小屋を建てたためだ。 毛細血管のような道に沿って小さな家が立ち 並び、家と家の間には迷路のような路地が入 り組んでいる。そこでは、つらい生活が送ら れていた。

発祥地としても有名だ。釜山のさつま揚げが生まれた場所であり、朝 鮮戦争中には釜山テジクッパ(ご飯入り豚骨スープ)も作られた。ま た、米軍部隊の残り物でお粥を作って売ることもあった。「クルクリ 粥」、「国連汁」とも呼ばれ、プデチゲ(ソーセージなどが入った辛 味鍋)の元祖ともいえる。ソーセージやハムなどが入っていて、避難 民にとっては重要なタンパク源だった。

UN(国連)記念公園の墓地には、朝鮮戦争で戦死し た国連軍の遺体が眠っている。国連軍の司令部によ って1951年4月に完成した。21の参戦国の国旗と国 連旗が一年を通して掲揚されており、国内外から多 く人が参拝に訪れる。

古書店街

宝水洞(ポスドン)の古書店街は、約150メートルにわたる狭い路

地に、約40軒の本屋が立ち並び、朝鮮戦争当時は全国最大規模だっ た。戦時中、九徳山(クトクサン)周辺や宝水洞の裏山、影島などに はシートや板で仮説教室が造られ、大学生が授業を受けていた。「戦 時連合大学」と呼ばれ、文教部(日本の旧文部省に相当)がソウルの 複数の大学を統合したものだった。そのため、学生の通学路だった宝 水洞の路地は往来が絶えず、自ずと書店街が形成された。 戦争によって出版事情はさらに厳しくなり、教科書だけでなく一般

国際市場は、様々な国からの救援物資が並べら

図書もなかなか手に入らない時代だった。そのため、本を売り買いす

れ、かつては韓国のファッション・文化の発信地で

る古本の露店が賑わい定着したのが、現在の宝水洞・古書店街の始ま

もあった。何でもあって国際的だという意味で、そ

りだ。当時の知識人は、涙をのんで大切な希少本を売り、食料品を手

のような名前が付けられたという。韓国初の公設市

に入れた。そうして集まった本によって、この地域は釜山の知識と文

場・富平カントン市場は、戦後の軍需品が闇取引さ

化を象徴する通りになったのだ。

れた場所だ。朝鮮戦争の際には米軍が釜山に駐屯し

UN(国連)記念公園は、戦争の記憶をダイレクトに呼び起こす場所

ており、そこから缶詰が密かに持ち出されて露店で

だ。朝鮮戦争によって命を落とした国連軍の墓地で、イギリス、トル

取引された。市場で米軍の物資を売り買いする人は

コ、カナダ、オーストラリア、オランダなど11カ国2297人の戦死者が

「ヤンキー商人」と呼ばれていた。彼らは、米軍と

眠っている。ポーランドのアウシュビッツや広島の平和記念公園のよ

共に暮らす女性から受け取った酒、タバコ、食料品

うに、戦争を乗り越えて今日を生きる全ての人に、平和の大切さと自

などを売って、かなりの利益を得た。

由の価値を伝えている。UN記念公園の周りには、世界の融和と人類の

富平カントン市場は、釜山を代表する食文化の

平和・安寧を祈るUN平和公園、UN彫刻公園、UN平和記念館もある。 韓国の文化と芸術 41


戦争が生んだ 郷土料理 釜

山の人に「釜山の郷土料理は何か」と聞くと、ほとんどの人が迷わずテジクッパ(ご飯 入り豚骨スープ)とミルミョン(小麦の冷麺)と答えるだろう。しかし、そうした釜山

を代表する料理は、歴史がそれほど長いわけではない。朝鮮戦争の頃に新しく定着したから だ。それらの料理は、様々な地域からの避難民の食文化を取り込む中で生まれた。

ミルミョン

ミルミョンは、北朝鮮からの避難民が故郷の冷麺を懐かし み、その当時は貴重だったそば粉の代わりに援助物資の小麦

粉で作った料理だ。そば粉の冷麺が、小麦粉の冷麺に変わった結果といえる。

冷麺の半値で食べられたミルミョンは、最初は「冷麺の代用」というイメージが強

かった。冷麺を食べるお金がなかったり足りない時に、冷麺1杯の値段で二人分食べ られる料理だった。その後、釜山の料理の特徴である辛味と塩味を基にしたすっきり と豊かな味わいで調理されるようになり、ミルミョンは釜山の郷土料理になった。

ミルミョンは店ごとに少しずつ違うが、牛骨、野菜、漢方薬剤のスープを軽く凍

らせ、小麦粉とでんぷんの麺を入れる。冷麺のようにムル(水)ミルミョンとピビム (混ぜ)ミルミョンに大別される。薄い氷の浮いたスープをかけるムルミルミョン

は、やわらかさと適度な歯ごたえがあって爽やかだ。ピビムミル

ミョンは、釜山の人たちの気質を表すような赤唐辛 子の粉に、ネギ、ニンニク、タマネギなど をみじん切りにしたタレも入れて、

かき混ぜて食べる。甘辛い味は

「以熱治熱(熱をもって熱を 制す)」によって暑さを吹 き飛ばす夏の楽しみだ。

© 釜山広域市

42 KOREANA 冬号 2019

釜山の郷土料理・ミルミョン(小麦 の冷麺)は朝鮮戦争の際、北朝鮮から の避難民によって生まれた。 小麦粉にでんぷんを混ぜて麺を作り、冷たいス ープをかけて食べる。


テジクッパ(ご飯入り豚 骨スープ)は、全国各地 から集まってきた避難民 の様々な料理を取り込 んで、釜山の郷土料理に なった。豚骨のスープに 茹でた豚肉とご飯を入れ て、合わせ調味料を加え て食べる。

© 釜山広域市

テジクッパ

釜山を代表するもう一つの料理・テジクッパ は、豚骨のスープにご飯を入れ、茹でた豚肉を

たっぷり乗せたものだ。好みに合わせてニラ、ニンニク、青トウガラシ、タ マネギ、キムチなどを混ぜて食べると、体が温まりお腹も満たされる。

現在の釜山のテジクッパは、様々な地域の食文化が反映されている。も

ともと釜山のテジクッパは、スープ、茹でた豚肉、ご飯を一つの器に入れた 料理だった。しかし、避難民が定着する中で、いくつもの地域の食文化を取 り込んでいった。

まずスープは、白いスープ、白く透明に近いスープ、澄んだスープなど

様々だ。白いスープは豚骨を煮込んだもので、濃厚で風味豊かだ。済州(チ ェジュ)のモムクク(海草入り豚骨スープ)や日本の九州地方の豚骨ラーメ ンに似ている。白く透明に近いスープは、豚の頭と内臓を煮込んだものだ。 釜山の基本的なテジクッパで、北朝鮮からの避難民によって作られ、深いコ クと旨味がある。澄んだスープは、赤身肉だけを煮込んだものだ。慶尚南道 ・西部のテジクク(豚肉のスープ)に由来するもので、あっさりしている。

釜山のテジクッパは、種類も多い。豚肉だけが入ったテジクッパ、茹で

た豚肉とスンデ(豚の腸詰め)が入ったスンデクッパ、豚の内臓が入ったネ ジャン(内臓)クッパ、茹でた豚肉と内臓が入ったソッコ(混ぜ合わせ)ク ッパ、茹でた豚肉・スンデ・内臓が入ったモドゥム(盛り合わせ)クッパ、 ご飯とスープが別々に出てくるタロ(別)クッパ、茹でた豚肉・スープ・ご 飯が別々に出てくるスユクペクパン(豚の茹で肉定食)、ご飯の代わりに麺 が入ったテジククスなどがある。これらの料理は、様々な地域の豚肉料理が 釜山で「テジクッパ」として定着したことを意味している。

韓国の文化と芸術 43


インタビュー

都市に自然を持ち込む

1. ガーデンデザイ ナーのオ・ギョン アさんが、江原道 束草にある自宅の 離れ「オ・ギョン アガーデンデザイ ン研究所」から外 を見ている。

放送作家オ・ギョンア(吳京兒)さんは、30代後半に、それまでの仕事を 辞めて突然英国に旅立ち、エセックス大学で造園設計を学び博士の学位を とった。彼女自身が健康で幸福に暮らすために選択した第2の人生だっ た。彼女は最近、高層ビルが密集している都心に庭園をつくり、人々を情 緒的にケアする仕事に大きな生きがいを感じている。 イム・ヒユン 林熙潤、東亜日報文化部記者 ハ・ジグォン 河志権、写真

44 KOREANA 冬号 2019

1

2. 研究所の内部。 ここで彼女は不定 期的に、受講生に ガーデンデザイン と園芸について教 えている。


「1

2

か月ぶりに帰ってきたらもう滅茶苦茶。どうし よう」 アフリカのケニアで働いている娘さんを訪れ

ていた間、長期間家を空けていたガーデンデザイナーのオ・ ギョンアさんは、家に到着するとすぐにガーデニングの準備 にとりかかった。江原道束草にある彼女の家の庭は、660㎡ほ どの土地に100種類余りの植物が育っている。どんな植物があ るのかとたずねると彼女は、韓国語と外国語の固有名詞をす 彼女の家の離れは「オ・ギョンアガーデンデザイン研究

オ:はい。私は庭のある家で育ちました。季節ごとに違う 花が咲き、つるバラが塀の上を這っていました。ガーデニン

所」の講義室になっている。ここで彼女は不定期で受講生に

グの仕事に興味を持ったのは、結婚した後でしたね。放送局

ガーデンデザインと園芸について教えている。かといって

から帰ると、リビングにカバンを投げ出してすぐに庭に飛び

彼女は、一般の人々にささやかな趣味を教えるだけの人物で

出しました。夫からは「放送の仕事をしているときにはピリ

はない。彼女は2013年、順天湾国際庭園博覧会の「シード・

ピリしているけど、庭にいるときには表情も口調も優しくな

バンク・ガーデン(Seed Bank Garden)」を造成したのに続

る」と言われました。その時に第2の職業として、ガーデニ

き、最近では京畿道にある大型のショッピングモールの屋上

ングと関連した仕事を探してみようと思いました。漠然とイ

庭園の設計を担当するなど、大規模なプロジェクトも手がけ

ンターネットで検索をしていて、ガーデンデザインについて

ている。

知りました。学生時代に作文ではもらえなかった賞を美術で

自分が健康で幸せでいられる仕事

はたくさんもらっていたので、好きなガーデニングの仕事に

らすらと語りだした。

イム・ヒユン:以前はラジオ作家をしてらしたとか。

オ・ギョンア:大学で仏語仏文学を専攻しました。卒業し てすぐに放送の仕事を始めて、出産休暇を除いて1989年から

デザインまで加わると考えたら、こんなにぴったりの仕事は ないと判断したんです。それですぐにイギリスの学校に願書 をだしました。それが38歳の時でした。

2005年まで休みなく働きました。

イム:たやすい決定ではなかったと思いますが、いざやっ てみてどうでしたか。

に目を向けた、そのきっかけは何ですか。

かりの娘を連れていきました。英語が下手で銀行に口座一つ

イム:2003年にはMBC放送演芸大賞の「今年の作家賞」も受 賞されましたね。キャリアの頂点で突然ガーデンデザイナー オ:多い時には、A4の用紙410枚ほどの分量の放送原稿を 毎日書き続けていたので、精神的な消耗がとてもひどかった

オ:勉強自体は性に合っていましたが、本当に想像以上に 大変でした。夫を韓国に残して、一人で小学校を卒業したば 作るのにも冷や汗を流し、子供を学校に行かせ、そのケアを する仕事まで加わり、毎日毎日がひやひやドキドキの連続で

んです。体の調子も悪くなり、蓄膿症と頻繁な咳など、あれ

した。朝、目を覚ますたびに、今日はどんな事件が起こるの

これ軽い病気に度々かかっていました。そんなある日、車を

だろうと心配していました。英国暮らしの7年間は私の人生

運転して麻浦大橋を渡っているときに、汝矣島の上空に真っ

で最も大変な時間でした。

黒なスモッグがかかっているのを見ました。その時、歳をと っても健康で幸せに暮らしていける仕事をしたいと思ったん です。

イム:それがガーデニングの仕事ですか

イム:ガーデンデザインの勉強は、実際にしてみてどうで したか。

オ:最初は植物に関する理解が不足していたので、デザイ ンをすることはできませんでした。それで教授と話し合い1

韓国の文化と芸術 45


「都市には蜂や蝶がいないのではなく、 私たちの都市での暮らし方が、彼らの 接近を妨げてきたのです」

1

© ワン・ギュテ

年間、インターンの経験をすることにしました。世界で一番 歴史の古い植物園で、ロンドンのキューガーデンにインター ンの庭師として入りました。その1年間は今でも私にとって 最も大きな財産です。志願して熱帯植物から野外標本植物ま で様々な部署を回りながら働きました。その時に、水のやり 方から、病害虫の防止、剪定の仕方まで現場ならではの経験 をすべてしました。

オ:ガーデンデザイナーは、一般的な庭師とは全く違いま

2

す。建築家の領域である建築物以外の空間全体を設計する職 業です。灌木と草本の数、植物の色のコントラスト、木の葉 の質感などを考慮して、建築的物性と植物の物性が美しく調 和する空間をデザインします。必要な場合には鉢植えや彫刻 デザインも直接依頼したりもします。居住全体にわたって、 広範囲な空間デザインをする職業だと思ってください。

情緒的な満足のための空間

イム:最近は講義もされていますが、受講生たちは主に何

に関心を示しますか。

3

46 KOREANA 冬号 2019

© 月刊 韓国庭園

イム:ガーデンデザイナーは、庭師や造園師とは違う職業

ですか。


オ:植物を枯れさせないで育てる方法についての質問が 多いですね。植物は育てる人の失敗以外にも多くの原因で 枯れてしまいます。家庭で植物を育てたいと思う人は、枯 れてしまうのではないかと心配するのではなく、とりあえ ず始めてみてください。韓国は植物の値段が本当に安いと 思います。

イム:しかし多くの韓国人は都市に、それもアパートに 暮らしています。そんな環境で植物を育てること自体が贅

ことは必要です。

楽しい計画

イム:旅行に行けばその土地の有名な庭園を見て回りますか。

オ:ええ、もちろんです。飛行機を予約する際に、できるだけ そのような都市を経由して行くようにしています。今回ケニアに 行くときにも、ちょっとタイのノンヌット・トロピカル・ガーデ ンに立ち寄りました。有名なリゾートに行っても海は見ずに、庭

沢なのではありませんか。

園だけ見てきたこともありました。

ーネットの書き込みを見れば、人々の情緒が鋭くトゲトゲ

オ:京畿道加平の「アチムゴヨ樹木園(朝の静かな樹木 園)」、江原道春川の「ジェイドガーデン」、慶尚南道南海の

しくなっているのが分かります。世界精神医学会でも庭園

「ソミ庭園」、巨済の「ウェド(外島)」など、たくさんありま

での作業を強力に薦めています。土の上に小さな芽が顔を

す。特にソミ庭園は、韓国ではめったに見られない草本植物を中

出すのを見ると、ヒーリングホルモンが体内で生成される

心に構成された英国式の庭園なので私もよく行きます。もちろん

といいます。子供が最初の一歩を踏みだしたときに、その

韓国の伝統庭園も素晴らしいです。全羅南道潭陽の「瀟灑園」や

姿をみた両親から出てくるのと同じ成分です。英国では数

莞島郡甫吉島の「洗然亭」、慶尚北道英陽の「瑞石池」のような

年前に、医師協会が公式に「ガーデニング処方」を認めま

ところです。

オ:絶対にそんなことはありません。植物は私たちの精 神を健康にするのに絶対に必要なものです。最近のインタ

した。これは1週間に2回、1日に2時間ずつ庭で作業を することで、鎮痛剤や神経安定剤を何粒か飲むよりもはる

イム:国内でおすすめの、特色のある庭園はありますか。

イム:庭園を観覧するとき、どんな点に注意をすればもっと楽 しく観ることができるでしょうか。

る植物もたくさんあります。室内で育てる植物は基本的に

オ:まず全体的な色感と色の調和から見てください。白とピン クだけのパステル調の色合いで庭園全体が構成されているところ

亜熱帯や砂漠の気候で育つ種類が多いのですが、葉の大き

もありますし、いろいろな色が鮮やかに混ざり合ったカラフルな

いゴムの木や観音竹のようなものがこれに含まれます。

色彩を主題にしているところもあります。もっと深く観察したい

かに良い効果をもたらすということです。室内で育てられ

イム:最近では京畿道の大型ショッピングモールで、屋 上庭園のデザインをされたとか。最近は屋上庭園が流行し ているようですね。

オ:植物を少し植えただけで蝶や蜂がどこに隠れていた のか飛んできています。ですから都市には蜂や蝶がいない

なら、植木鉢の色まで観なくてはなりません。また花の無い、葉 の質感だけで個性のある演出をしたりもしますし、形態でもしま す。例えば、丸い系列の花だけを集めて球体の彫刻と組み合わせ るという演出です。

イム:庭園が印象的に描かれていた映画がありますか。

てきたのです。最近では商業空間に庭園を導入して顧客か

オ:そうですね。私は主にS F映画を見るのですが。そう だ、ピーター・グリーナウエイ監督の「T h e D r a u g h t m a n’s

ら好評を得ているケースが増えています。庭園が最も切実

Contract」は、韓国では「英国式庭園殺人事件」という題目がつ

なのが都心のビル密集地域です。そんなに狭い空間に人々

いていましたが、間違いです。背景となった国は英国ですが、そ

が密集して暮らしているのですから、情緒的に不安になる

こに登場する庭園は典型的なバロック様式のフランス風庭園でし

のもわかりますね。空地スペースだけでも自然を取り戻す

た。

のではなく、私たちの都市の暮らし方が彼らの接近を妨げ

1. オ・ギョンアさんが、ソウル光化門のKTビルの前に放置されてい た古いコンテナを改造して作った庭園が、都心の市民の憩いの場となっ ている。

2. 江原道束草の中央産婦人科病院の建物の中に作られた庭園。日差し の全く差し込まない場所なので、ワラビやコケのような陰生植物とタマ ノカンザシのような日影でも育ちやすい植物を厳選してデザインした。 3. ハナ金融グループとコラボして、2014年ソウルリビングデザインフ ェア―に出品したアートガーデンスペースのスケッチ

イム:今後の計画があれば教えてください。

オ:今年は外部への出張がとても多かったので、来年は束草で もう少しゆっくり過ごしながらガーデニングをもっと楽しみたい です。今年オープンした庭園カフェ「ザ・シェード(The Shed)」 も完全な姿に整えたいと思っています。子供たちのための本も書 いてみたいです。童話でありながら若干の園芸の常識が入ってい るシリーズを計画中です。大人になった後で、園芸について習っ たのでは遅いですから。

韓国の文化と芸術 47


韓国大好き

「近

くて遠い国」というフレーズで韓国と日本は

に、むしろ文化的な衝撃を受けるほどだという。

長い間、お互いを修飾してきた。芸術家であ

東京で生まれた坂部さんは、日本の中部地方に位置する名

る坂部仁美さんもまた、これに同意する。彼

古屋近郊の小さな海辺の町で育った。1996年、中学1年の時

女の眼に両国は、世界の隣国同士の関係性に比べてまったく

に両親とともに韓国に来た。ソンファ芸術中・高等学校を卒

異質に映る。これは何よりも両国の国民性から起きている。

業し、大学で現代美術とデザインを学び、ソウル大学校大学

坂部さんが日本に帰らない最も大きな理由は、両国の差異

院でデザイン学博士号をとった。

性にある。日本のほうが韓国よりも現代美術の歴史がより長

坂部さんは、大学時代に出会ったIT業界に務める韓国人

く、芸術に対する大衆の関心がより大きいにも関わらずだ。

男性と結婚し、2010年と2015年生まれの二人の子供がいる。

「韓国に比べれば、日本ははるかにより安定的で予測可能

上の子が生まれた後、彼女は子供向けの本の挿絵を描き始め

な社会です。ほとんど変わらないでしょう。片や韓国は非常

た。数冊の絵本を出版し、各国で展示会も開いた。コンピュ

にダイナミックで、活力にあふれています」と彼女は言う。

ータで描いたきちんとした線よりも、手書きの温もりのある

「日本は一つの出来上がった社会として、その独特さを示

線が好きな彼女の作品は、もこもことした柔らかな形と、幼

しているのだとしたら、韓国は、日本よりも世界に向けてさ

いころの思い出を蘇らせるような、多彩な風景が描かれてい

らに開けており、外国人とも仲良くできるようです」

る。

「私は日本があまりにも閉鎖的で窮屈さを感じますね」彼

自らを「境界人」あるいは「周辺人」だと呼んではばから

女は、日本で暮らしていたらたぶん仕事はしてはいないだろ

ない坂部さんは、今の時代には多様な技術が要求されている

うと言う。「私の友人たちを含めて大部分の日本女性たちは

と言う。「マルチタスキングが求められるこの時代に、私に

韓国女性に比べて、状況をあるがままに受け入れ内面化し

できる仕事の範囲を確定しようと努力しています。不確実な

て、仕事をしようという動機づけが足りない気がします」

未来が新しい挑戦をするように強要するんです」 「もし私が画家として、デザイナーもしくは挿絵画家の中

根を下ろす

の一つの職業に没頭していたなら、今よりずっと容易かった

根深い反感とともに日本に対する韓国人の複雑な感情を考

かもしれません。主題を一つに絞って様々な観点から勉強す

慮するとき、韓国に暮らしている日本人ならば不便さを感じ

ればよいのですから。しかし、一つのことに集中できる状況

る点もあるかもしれない。しかし、日本よりも韓国にとりわ

ではないとして、私自身を発展させ続けていくためには、ほ

け長く暮らしている坂部さんは、気楽に考えている。今で

かの領域を探し求めることになります」

は韓国社会により慣れてしまい、故国の日本を訪問したとき

坂部さんがもっとも関心のあるテーマは、「記録保管」す

境界人の暮らし 坂部仁美(さかべ・ひとみ)さんは十代前半に、両親とともに渡韓した。今では、 故国日本よりも異国韓国でより多くの時間を過ごしたことになる。彼女は韓国で過 ごした期間を、芸術家として教授として、様々な境界を行き来しながら、常に最善 を尽くした。 チェ・ソンジン 韓国バイオケミカル・リビュー 編集長 ホ・ドンウク 許東旭、写真

48 KOREANA 冬号 2019


啓明大学校 Artech Collegeで視覚デザインを教えている坂部仁美さんは、子供の絵の挿絵 画家としても活発に活動している。夏休みや冬休み、授業が終わった後の時間を使い、 研究室で絵を描いている。 韓国の文化と芸術 49


なわち現在を保存することだと定義する。人々と日常、例え

このような違いにも関わらず坂部さんは、自分の子供たち

ば服のパターンのようなものが、彼女が好きなテーマだ。大

が韓国人の血をひいていることを幸いだと考える。日本の子

邱大学校視覚コミュニケーションデザイン科の助教授であ

供たちに比べてより挑戦的で、堂々と現実に根を張り、変化

る彼女は、大邱を「韓国の名古屋」と呼ぶ。この二つの都市

に対して前向きの態度を見せているからだ。韓国的な方式に

が、それぞれの国で占めている歴史的・産業的な重要性が互

なれた彼女は日本を訪問すると、ときどき当惑してしまうこ

に似ているからだ。「学校で最善を尽くして学生たちに教え

とがある。「日本社会はそれなりの規則を固守し、人々はそ

ようと思っています。学生たちをサポートするために、私の

のような基準から抜け出すことを恥だと考えます。そのよう

強みをどのように活用すべきかを、常に悩んでいます」と彼

な面では韓国の方がやや開放的で、国際的だと言えます」

女は言う。 には、自分の絵と挿絵に専念する。彼女が好きな画家はアン

似ているようで違い、違うようで同じ

リ・マティスだ。このフランスの画家の、楽しい気分にさせ

と坂部さんは、この問題は政治だけで解決することはできな

てくれる溌剌とした雰囲気が好きだという。

いと言う。韓国人の知人たちは、韓日戦のサッカー試合が行

冷静な現実

われると、私の子供たちがどちらの国を応援するのかと尋ね

現在の韓国と日本の関係は、日本の戦時徴用工賠償問題に

強調する。「私たちは共に生きていく隣人です。個人は隣人

対する合意がなされず、さらに悪化した状態だ。辛い記憶と

が嫌なら、ほかに引っ越すこともできます。しかし、国と国

こみあげてくる怒りは潜在化し、常にぎくしゃくした両国の

はそうはいきません」

彼女は夏休み・冬休みはもちろん、講義が終わった後など

現在、両国が直面している外交的な葛藤に対して質問する

るが、坂部さんは国際関係は勝敗のつくスポーツとは違うと

関係が、最近になり難局を迎えている。坂部さんが高校時代

坂部さん家族が日本を訪問するときには、子供たちが両親

に韓国史を習った時の教師・学生ともども、日本人を「チョ

の家の近くの学校に通えるように考慮している。一方に偏っ

ッパル」と呼んでいた。

た狭い考えが偏見を招くので、子供たちが文化的な多様性を

韓国と日本は不幸な歴史のせいで、他国における隣国同士

身に着けるのが重要だと信じているからだ。

のようになるのは難しいと坂部さんは考えている。「私を含

坂部さんは将来に対して大きな抱負はもっておらず、現在

めて韓国で長い間暮らしている日本人は、一種の原罪意識を

の仕事を持続できることを希望するだけだという。「私は様

持たざるを得ません」

々な境界を行き交ってきました。将来もそうするつもりで

彼女は20年以上も暮らしてきた国で、ときどき異邦人だと

す。それが私には弱点として作用することもあるでしょう

感じると認める。「一般化するのは難しいですが、多くの日

が、境界人の位置は利点となることも、多々あるんです。と

本人が韓国人を荒々しいと思っている一方で、韓国人は日本

きどき、弱者に見える人々が成功して活動しているのを見か

人が正直に感情を表現しないと思っています。私の考えで

けるではありませんか。私自身をそのようなダークホースだ

は、韓国人と日本人それぞれ敏感になる部分に国民性の違い

と考えたいんです」

があるようです」。彼女は両国の“世代間の関係性”を例に

「私たちはみんな誰かとつながりたいと思っており、大小

あげる。「韓国人たちは年齢を非常に重要視します。韓国で

の共同体と社会を成しています。他の人に自分のことを知っ

は年齢のいった店の主人が、お客が幼いという理由できちん

てほしいと思っています。違うようで似ている、同じようで

と接しないことがよくあります。半面、日本では大学教授も

違う私たち」と、ご自身の絵とエッセイ『そのように人生は

学生たちに対するときに礼儀正しくしようと努力します」

きちんきちんと』のカバーの裏に坂部さんは綴っている。

50 KOREANA 冬号 2019


「私たちは共に生きていかなければな らない隣人です。個人は、隣人が嫌い なら他のところに引っ越すこともでき ます。しかし国はそうはできないでし ょう」

1

1, 2, 3. 2019年夏に出版された『おばあちゃんの家が大好き!』は、 ひとみさんの子供たちが日本の祖母の家で経験したことを描いた絵 本だ。子供たちの思い出とひとみさんの温かな絵がピッタリあって いる。

2

3

韓国の文化と芸術 51


オン・ザ・ロード

あらゆる故郷の名は

「密陽」

密陽(ミルヤン)は、人口10万8千人余りの小さな内陸都市だが、長い歴史を有 する交通の要衝でもある。釜山(プサン)広域市から北西に約47キロほどの距 離にある密陽は、ソウルからだと車で4時間余りかかる。都心を貫いて流れる 川の周辺には、旧石器時代の住居跡や鉄器時代の遺跡、朝鮮後期の儒林の根拠 地に至るまで、長い歴史の息吹が宿っており、人足が絶えない。 イ・チャンギ 李昌起、詩人・文芸評論家 アン,ホンボム 安洪範、写真 52 KOREANA 冬号 2019


密陽市北西に位置しているウィヤン池(別名:陽良地))は、約63,000平方メートル規模の貯水池で、 新羅時代に灌漑用水の供給のために築造された。近くにカサン貯水池が造られて以来、本来の機能を 失ったが、1900年に建てられた東屋・宛在亭周辺の風光に恵まれており、観光客を引き寄せている。 韓国の文化と芸術 53


る映画を想い起させる都市がある。李滄東(イ・ チャンドン)監督が、2007年に公開した『密陽』 (Secret Sunshine)という作品を思い浮かべる人

が多いだろうと思われる。この映画を紹介するインターネッ トの記事には、いまでも女優のチョン・ドヨン(全道嬿)の演

「おじさん、密陽ってどういう意味か知ってますか」 「意味? 意味なんてどうでもいいんだよ。ただ、暮らして いくだけさ」 「漢字で秘密の「密」に日差しの「陽」だから『秘密の日 差し』いい意味でしょう?」

技力に「鳥肌が立った」というコメントが付きまとう。チョ

主人公は交通事故で夫を亡くし、幼い息子をつれて夫の故

ン氏はこの映画で第60回カンヌ国際映画祭女優賞に輝いた。

郷である密陽に向かうのだが、密陽に差し掛かった所で車が

映画のオープニングには、次のような会話が出てくる。

故障し、整備工場に牽引されていく途中だった。

「おじさん、密陽ってどんなところなんですか」

「旅の途中ですか」

「密陽がどんなところだと? 何というか...景気は最悪

「いいえ。密陽で暮らすために来たんです」

で、ええと…それに…ハンナラ党の都市で、釜山の近くにあ って、釜山の方言が使われていて、ちょっと早口で。人口は 15万くらい、ああ、最近は減少して10万くらいかな…」 54 KOREANA 冬号 2019

「暮らす」ためにやってきたその密陽で、彼女の幼い息子 は誘拐され、殺害される。 暮らすために集まってきた人々が村を成した所、彼らの人


2

1. 全国の伝統的な楼閣の中でも最も古い楼閣として挙げられる嶺南楼は、密 陽江の傍にある崖の上にそびえ建っている。楼閣の内部には扁額が掛けられて いるのだが、朝鮮時代の著名な文人墨客が、その風景を絶賛した数多くの文と 文字が書かれている。 2. 嶺南楼の横には枕流閣が、階段式の回廊で繋がっている。

1

生を取り巻く条件が、常に平凡な一人の人間の幸せと運命を

う意味もあるが、川の名前に使われているのは「川の北」を

支配する所、ある人には希望を与えるが、ある人には受け入

意味するのだそうだ。北には山を、南には水を臨んでいるの

れ難い苦痛を抱かせ、一日も早く抜け出したいと思わせる

でどれほど日当たりがいいだろうか。

所。でも、ほとんどの人はどうすることもできないまま日々

密陽の地名に関する最も古い記録は、3世紀ごろの中国の

を暮らしていく所。ならば、あらゆるの都市の名は密陽なの

史書である『三国志』に見ることができる。この本に言及

かも知れない。

されている「ミリ(彌離)」という国名は、古代朝鮮語である

川の都市

「ミル」を中国の昔の漢字に変えて表記したものである。古

密陽は川を挟んでいる。この不変条件は、密陽の昔と今日

だから「秘密の日差し」という地名の解釈は、イ・チャンド

を創り上げている。川は東に何度も曲がりくねりながら南に

ン監督自身も述べているように、恣意的な詩的認識に過ぎな

流れ、洛東江と合流した後、南海に流れ込む。この川が密陽

い。

代朝鮮語の「ミル」は、水または水の神で龍を意味する。

江である。密陽の中心街はこの川の北側に位置する。「密

密陽江の周辺には、現在を生きる人々と昔この地に住んで

陽」という地名にある「陽」という漢字には「日差し」とい

いた人々の痕跡が共存している。2001年に完成した密陽ダム 韓国の文化と芸術 55


北側の丘陵には、工事中に発掘された2万7000年前の後期旧

金海地域に建てた加羅国と連合して、500年間、伽倻(カヤ)

石器時代の遺跡がある。これで、密陽に人が住んでいたこと

連盟の一員として朝鮮半島の鉄器文明を導いた。

を立証できる時期は3世紀以前に遡る。一方、密陽江河川の

密陽江を挟んでいる村の中には、「鉄が出る谷」という意

沖積地には、新石器時代と青銅器時代の遺跡が散在する。近

味を持つ「金谷」という地名が2カ所ある。興味深いこと

くに小学校があり、高速道路がすぐそばを通る琴川村には、

に、この二つの村ではいずれも製鉄の遺跡が発掘されてい

青銅器時代の水田の遺跡がある。山中の穴蔵から肥沃な河川

る。上東(サンドン)面にある金谷村とその周辺には、鉄を

近くの地に移り住むまでに、数万年の歳月がかかったのであ

熱する時に出る副産物の鉄くずが山ほど積もっている。また

る。家の跡地は、自然堤防の上にあり、畑は家の跡地があっ

三浪津邑の金谷村では先だっての道路工事中に、製鉄炉から

た場所のすぐ下、水田はそれよりも更に低いところにある。

廃棄場に至るまで一連の製鉄過程がすべて発掘された。密陽

当時の人々は、春になると石の鋤で土を耕し、キビやトウモ

江周辺には以前から風化や浸食によって、川沿いに大量の砂

ロコシなどを植え、収穫した穀物は櫛目文土器に保存して寒

鉄が堆積していたのである。

い冬を乗り切ったのだろう。 挫折も喜びも、今の私たちより先に感じたであろう人々

このような考古学的な発掘から、密陽が周辺国はもちろん 日本と中国にも鉄を輸出し、加工した鉄を紐で縛って貨幣の

の、このような素朴な生活の痕跡の上に「秘密の日差し」が 降り注ぐ。彼らが守ろうとしていた大事な価値観は何処かに 消えて久しい。

鉄器文明の都市

川底から出土した舟の構造を見ると、昔の人々が川を上り

下りしながら漁をしていた姿が思い浮かぶ。彼らにとって舟 は、風の力を利用し、あらゆる道具を駆使して作られた科学 的で先端の技術文明だった。おそらく彼らは、密陽江と合流 して海に流れる洛東江に舟を漕いでいたのだろう。彼らはそ の冒険と進取の気性で、新たな北方移民勢力が洛東江下流の

1. 天台山のふもとにある父恩寺は、200年頃、金官伽倻の第2代の王である居 登王が、父親の首露王を称えるために建てたと伝えられる古刹である。ここか らは、曲がりくねった密陽江に架けられた洛東大橋と三浪津橋が見下ろせる。 2. 万魚寺は1世紀頃、金官伽倻の始祖である首露王が建てたと伝えられてお り、密陽の地元の住民にとって仏教の聖地である。境内には12世紀に造られた ものと推定される三層石塔がある。 3. 万魚寺周辺のノドル地帯(小石が広がっている地帯)には、万魚石と呼ば れる黒い石が山ほどある。龍神に付いてきた数多くの魚の群れが石となったと いう伝説を持つ万魚寺は、学術・景観的価値が高く、天然記念物第528号に指 定されている。

1

56 KOREANA 冬号 2019


暮らしのために集まってきた人々 が村を成した所、彼らの生活を取 り巻く条件が、常に平凡な一人の 人間の幸せと運命を支配する所、 ある人には希望を与えるが、ある 人には受け入れ難い苦痛を抱か

2

せ、一日も早く抜け出したいと思 わせる所。でも、ほとんどの人々 はどうすることもできないまま日 々を暮らしていく所。

3

ように使用した弁韓(紀元前後から4世紀にかけて洛東江下

いる。しかし、この二つの寺に関する口碑伝承は、その時期

流に居住した三韓の一つ)が、12国からなる部族国家の一つ

を伽倻の成立初期へと導く。「首露王が万魚寺を創建する

として活躍したことが推測できる。この弁韓が後に、「鉄の

際、落成式に出席した僧侶たちが父恩寺に泊った」という伝

王国」と称される伽耶連盟へと発展し、新興勢力である新羅

説からすると、仏教伝来の始まりは1世紀頃まで遡る。許皇

と併合して資源と技術を提供し、新羅が強力な古代国家に発

后と共に古代インド王国から渡ってきたと伝えられる婆娑石

展する土台になったことは明らかである。

塔について、『三国遺事』には「この地域では見かけない石

仏教の都市

だ」と記されている。このような論議とは別に、新羅仏教が

朝鮮半島の他の地域のように、密陽にも美しい山河の景色

新しい世界を切り開くうえで、伽耶仏教が多大な貢献をした ことに疑問の余地はない。

を誇るところには、必ず寺が建っている。中でも、現地の人

伽耶文化は、その特有性と影響力が高く評価され、新羅時

々から重んじられている寺は、父恩寺と万魚寺である。父恩

代はもちろん朝鮮時代に至るまで、その文化を称える行事

寺からは、黄昏の密陽江を見下ろすことができ、万魚寺は、

が開かれた。今日までその行事は続いていて、10月には「告

寺の前の渓谷に黒い岩塊流が広がっていて、独特の景観を誇

由祭」が行われた。10月には「告由祭」が行われた。これ

る。密陽の住民にとってこの二つの寺は、伽耶仏教の聖地で

は2020年3月1日まで開催される国立中央博物館の特別展、

もある。

『伽耶本性-剣と絃』の展示のために、婆娑石塔を金海(キム

歴史書には、新羅に先立つ5世紀頃、金官伽耶の始祖と伝

ヘ)の首露王妃陵からソウルへと、移動を知らせる祭祀であっ

えられる首露王の夫人・許皇后の冥福を祈るために王后寺を

た。この祭祀に、地域の政治家など有力者が参列したという

建設した時から、伽倻が仏教を公式に受容したと記録されて

ことは、その子孫や地域住民にとって「許皇后」の話が単な 韓国の文化と芸術 57


る伝説ではなく、歴史として人々と共に生きていることを裏 付ける。密陽市内に「伽倻」の名がついている商店が多いの もその証拠の一つだ。

嶺南大路の都市

嶺南大路は、首都の漢陽(ハニャン)から朝鮮半島の最南東

端にある東莱(トンレ)を結ぶ道で、朝鮮時代の最も代表的な 陸路として知られる。千年以上利用してきた海路に代わっ て、密陽がこの道の経由地になったということは、色々なこ とを示唆する。まず、朝鮮半島内に統一された国家体制が維 持され、周りの郡県だけでなく中国にも、安定的に早く行 き来できる道が確保されたということである。また、国際的 には元の衰退以降、日本の国力が強力になったことを意味す る。これは倭寇の跋扈(ばっこ)につながり、活発だった朝鮮 半島の水運は、彼らの横暴でほぼ麻痺事態に至る。朝鮮の陸 路の確保は、このような苦肉の策の結果でもあったのだろ う。 この嶺南大路は壬辰倭乱(文禄の役)当時、倭軍の攻撃路と しても利用された。釜山浦から攻め入って東莱城を陥落させ た後、橋頭堡を確保した倭軍が梁山を通過して密陽の官軍と 対峙した所は、三浪津邑にある鵲院関。ここは東莱とソウル を結ぶ交通と国防の主要関門だ。しかし、わずか300人余りの 兵力で1万人を超える敵軍を食い止めるには力不足だった。

密陽観光案内図

位良池 1 (別名:陽良池)

1

2

3

2 載藥山

嶺南楼

3 表忠寺

密陽江

密陽ダム

4 万魚寺の石塔

父恩寺 4

5

350km

洛東江 58 KOREANA 冬号 2019

ソウル

5 三浪津橋

密陽


密陽江下流にある五友津(オウジン)渡し場は、朝鮮時代まで税穀船が行き来 していた水運の要衝であり、租税として納めた穀物を貯蔵する漕倉もあった。 しかし近代に入ってから、線路が造られるようになり、平凡な渡し場となって しまった。

学問と徳行を称える礼林(イェリム)書院がある。

渡し場と鉄道駅の都市

漕運制度が復元されて、三浪(サムラン)里に漕倉が建て

られ、再び税穀船が運航するようになったのは、国際情勢が 安定して税金を現物の代わりに米穀に統一して収める納税制 度がある程度定着した18世紀半ばからである。嶺南大路と繋 がっている水運で命脈を保っていた三浪里は、館員と船主の 事務室と倉庫、酒幕、宿屋、店舗などで賑わっていたのだろ う。しかし、このような繁栄も1905年に京釜(キョンブ)線 鉄道が開通し、三浪津に鉄道駅が建設されると同時に終焉を 迎えることになる。殆どの場合、線路は嶺南大路沿いにつく られた。そのため、三浪里は再び平凡な渡し場に戻り、三浪 津駅は邑の中心として繁盛し始めた。 三浪津駅は、近代文学初の長編小説である李光洙(イ・ク ァンス、1892~1950)の作品、『無情』(1917年)にも登場す る。彼にとって汽車は、自分の運命を自ら開拓する近代的な 人間を描写する小説的な装置だった。一方、金廷漢 (キム・ ジョンハン、1908~1996)の短編小説『ドゥイッキミ渡し場』 (1969年)に描写されている三浪津のイメージは、また違う。 倭軍はこの道のおかげで18日後には漢陽まで占領したのであ

彼は「ドゥイッキミ渡し場は、三浪津をさらにさかのぼった

る。

洛東江の上流、支流の密陽江が本流と合流するところにある

せめてもの慰めは、密陽出身の僧侶である四溟堂(サミョン

ので、とりわけ水が澄んでいる。そのせいで、秋口から雁や

ダン、1544~1610)が2000人の僧兵を集めて、倭軍が占領した

鴨の群れがたくさん集まって来る」と描写し、同時にこの渡

平壌(ピョンヤン)城奪還のための戦闘に参加するなど、多く

し場を「従順な民とその子どもたちが徴用だの、実際は日本

の地域で大きな戦功を上げたということである。戦いが終わ

軍慰安婦の女子挺身隊だの」といった様々な理由で渡った悲

った後は、宣祖の特使として派遣され、京都で行われた徳川

劇の場所として認識している。

家康との会談で講和交渉を締結し、捕虜3000人の朝鮮人を連

密陽の三浪津は、詩人吳圭原(オ・ギュウォン、1941~

れ戻すことに成功した。密陽邑城へ向かう道には、四溟堂の

2007)の故郷でもある。彼にとっての故郷は二つの顔を持って

銅像が立っていて密陽江を見下ろしている。

いる。一つは13歳の時に亡くなった母の顔であり、もう一つ

一つ興味深い事は、先進技術文明を有し、海洋志向的かつ

は父の顔だ。母の顔は「いつも平和と安らぎが漂っている」

多文化的な社会システムを享受していた密陽が、嶺南大路に

「眠りたい、夢見たい」「子宮のような存在」なのだが、父

編入されてから100年足らずで、儒教国家を標榜した朝鮮の新

の顔は「不和と窮乏の根源」だった。彼はこの心理的な葛

たな求心点である士林派の本場になったという点である。15

藤を解決することができず、中学生の頃に故郷を離れて以

世紀後半、新進士大夫として中央政界に進出した密陽出身の

来、父親のいる故郷を一度も訪れなかった。彼は「故郷とは

金宗直(キム・ジョンジク、1431~1492)とその弟子たちは、

子宮を持っている母親の体のようで、その子宮の中の自然の

官僚勢力に対抗し、高官の不正はもとより王の方針をも批判

言葉と子宮の外の現実の言葉を抱えている時間的な空間」で

し、義理と実践を強調する新たな政治勢力の中心となった。

あり、「その境目に私が立っている」と述懐している。なら

密陽府北(プブク)面には金宗直の生家と墓をはじめ、彼の

ば、あらゆる都市の名は密陽なのかも知れない。 韓国の文化と芸術 59


エンターテインメント

時代劇映画における 事実と虚構 韓国における歴史ドラマは、大河からミニドラマに至るまで、 主要なジャンルとして定着している。そのような状況下で演出 家や監督は、再三にわたり、広く知られている歴史上の人物や 出来事に変化を加えて、創作を試みる。しかし、想像の翼を 広げすぎると、観客はこれを容易に受け入れようとしない。 イ・ヒョウォン フリーランス、作家 1 © CJ EN M

ングルの創製を詳しく描いた

て今も語り継がれている。しかし、こ

を陣頭指揮した世宗(セジョン)大王

映画『わが国の語音(原題:

のような映画やドラマは、その人気に

を演じるなど、興行成功のための条件

ナラッマルサミ)』 は、今

劣らぬほどに議論の対象になってい

はすべて揃っていた。ソン・ガンホは

年7月末に公開されると同時に、ボ

る。それは、学校で教わった内容や、

韓国芸能界で最もギャラが高く、俳優

ックスオフィスランキング2位に輝い

よく知られている歴史的事実・人物を

としても人々から尊敬されており、

た。『アラジン』、『ライオン・キン

歪曲しすぎるからである。

また、アカデミー賞を主催する「映画

グ』、『スパイダーマン』のようなハ

映画『ラスト・プリンセス 大韓帝国

芸術科学アカデミー(A M P A S)」の会員

リウッド大作映画と競争しなければな

最後の皇女(原題:德惠翁主)』(2016)

に選ばれた初の韓国映画人でもある。

らなかった状況下で、驚くべき成績だ

は、興行収入実績である程度成功を収

今年の5月、カンヌ国際映画祭で大賞

った。しかし残念ながら映画は、残念

め、主人公役を演じた俳優にも賛辞が

を受賞した『パラサイト-半地下の家

ながら映画は、翌週には8位に順位が

集まったものの、非難の的になった。

族(原題:寄生虫)』でも突出した演

下がり、ついにはランキングから完全

朝鮮の翁主である德惠(大韓帝国皇帝

技力を披露した彼にとって、今年は最

に姿を消した。

高宗の王女)の伝記的事実があまりに

高の年になった。去る2014年に公開さ

ところがその後、「飛ぶようにチケ

も誇張・歪曲されたというのが、その

れ、大きな成功を収めた映画『使徒』

ットが売れる」という代わりに、韓国の

理由だった。朝鮮王朝末期を背景とし

でも彼は、朝鮮の王として出演し、大

最も偉大な創造物の一つであるハングル

た『ミスター・サンシャイン』(2018)

衆の人気と評論家たちの賛辞を得てい

を、独特な観点から取り上げたというこ

も、大ヒットしたテレビドラマだった

る。すなわち『使徒』の脚本家の一人

とで、激しい論争に火がついた。

が、その人気ゆえか俎上に載せられ、

であったチョ・チョルヒョンが、『わ

事実と歪曲の問題

歴史的事実を歪曲したという指摘を避

が国の語音』では監督を務め、ソン・

けることができなかった。

ガンホと再会している。

時代劇は、ちょくちょく韓国の映画

大きな期待が寄せられたものの、悲

やドラマに登場する定番のジャンルで

惨な結果に終わった新作映画『わが国

ある。『鳴梁(ミョンリャン)』(2014)が

の語音』は、韓国の観客が、信じよう

聖君を貶めている

歴代最高の収益を上げた映画ならば、

としないことを示している。当映画

された世宗大王は、様々な議論を巻き起

『大長今(テチャングム)』(2003)は、

では、韓国の有名俳優であるソン・ガ

こした。これまで大半の作品での世宗大

海外に輸出された大ヒットドラマとし

ンホが、15世紀前半にハングルの創製

王は、臣民が知識を得る機会を公平に与

60 KOREANA 冬号 2019

ソン・ガンホ主演によって新たに解釈


3 1, 4. 2012年に公開された作品 『光海、王になった男』は、歴史 を虚構し、想像力を膨らませると いう試みに観客が共感し、興行成 績上位ランクインに成功した。 2, 3. 2019年夏、公開前から大き な期待を集めた『わが国の語音』 は、歴史を過度に歪曲したとの非 難を免れず、観客の冷淡な反応を 受けた。

2

4

© Megabox Plus M

えたいという希望と愛民精神で、ハング

かに超えている。さらに、彼は自ら倫

厳しい宮中の掟や複雑な外交儀礼を学

ルを創製した聖君として、その偉大なる

理的尺度となって道徳的な発言をし、

ぶために必死で頑張る滑稽な姿のシー

業績が描かれてきた。民主的かつ容易に

王を批判することも辞さない。王に立

ンから始まる。しかし、だんだんと主

アプローチできる文字体系の考案は、重

ち向かう僧侶役には、俳優のパク・ヘ

人公は大胆になり、抑圧されている臣

要な業績だったのだ。それまで使われて

イルがキャスティングされた。『德惠

民のために着々と大変革を推し進め

いた漢字は、あまりにも複雑で一般の臣

翁主』など、ヒット映画に何度も出演

る。

民には学ぶことが難しく、厳格な階級社

したことのあるパク・ヘイルのキャス

凡人でも機会さえ与えられれば、暴

会だった朝鮮時代において、一部の知識

ティングには、相互補完かつ対立関係

君より優れたリーダーになれるという

階級だけが享受できる専有物だったから

にある二人の主役を同時に際立たせよ

メッセージが、この映画を成功に導い

である。

うとする製作者側の努力が反映されて

たカギに他ならない。さて、『わが国

いるのだろう。

の語音』に対して評論家たちは、対照

てはいるものの立証されていない噂な

フォーカスのシフト

的な二人の人物を併置した脚本は、娯

これまでの韓国映画史に、権力者に

だと説明している。しかし、僧侶シン

どに、フォーカスされている。映画で

立ち向かって真実を告げることも辞さ

ミが図々しくも王を責めるシーンは、

は、シンミ僧侶がハングル創製の主軸

ない映画や、フィクション的人物の登

カタルシスを呼び起こしたのではな

として描写されている。片や世宗大王

場がなかったわけではない。韓国映画

く、歴史的意識から観客を不快にさせ

は、文字体系を熱心に指示し、創製に

で興行収入歴代10位の『王になった男

たようである。上映する前に「伝えら

おける全過程を慎重に監督する人物と

(原題:光海、王になった男)』(2012)

れている訓民正音創製説のうちの一つ

して描写されているのである。結局、

は、17世紀の君主・光海を「王子と乞

を、映画で再構成しました」と告知し

見物人に過ぎない存在に格下げされて

食」をモチーフに描いているが、今で

ていたにもかかわらずである。主流の

いる。映画では、シンミ僧侶が文字の

も議論が分かれている。韓流スターの

エンターテイメントが歴史から得られ

音声的な組み合わせのために、実際

イ・ビョンホンが暴君・光海の役と、

るインスピレーションは、無限なのか

に点と線を使用するという独特な構想

暗殺の脅威に対処するための王の影武

もしれない。しかし実際には、観客が

をした人物として描かれている。しか

者・平民の一人二役を演じた。映画

情緒的にどこまで容認できるかという

も、彼の実力は言語専門家の領域を遥

は、卑しい道化師が王に成りすまし、

解釈には、限界があるようだ。

ところが『わが国の語音』では、視 点が世宗大王ではなく、ハングル創製 に関与した僧侶や、ある程度知られ

楽的な観点に基づいて製作された作品

韓国の文化と芸術 61


韓国文学の旅

作家評

戦争がもたらした傷と希望 朝鮮戦争当時、大韓民国の臨時首都だった釜山は最も安全な避難先となり、戦争直前にはお よそ47万人だった人口が84万人にまで膨れ上がった。当時の釜山を中心に描かれた文学作品 を特に「避難文学」と呼んでいるが、そこには避難生活の苦労と絶望、虚無意識などととも に、生存への強烈な意思が込められている。 チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンギョレ新聞記者

950年6月から1953年7月まで3年余りの間続いた朝

条件にこの南の都市へと移動し、食料と住居など基本的な生

鮮戦争は、同民族間に深い傷跡を残したが、感性の鋭

存問題に素手で立ち向かわなければならなかった。釜山に到

い作家たちは、同族相争う戦争を通じて経験した挫折

着した彼らの中には行くあてのない人々も多く、山裾にとり

と痛みを、多くの文学作品に残した。特に、韓中国境まで北

あえず雨風をしのげる程度のバラックをたて、一日も早く戦

進していた韓国軍と国連軍が中国軍の参戦で退陣し、1951年

争が終わってソウルの家に戻れる日を待ち望んでいた。平壌

1月初め、ソウルを捨てて再び南に後退した「1.4後退」

出身で南に逃げてきた作家キム・イソク(1914~1964)の短

は、いわゆる「避難文学」と呼ばれるいくつかの小説や詩の

編『冬眠』(1958)には、そんな状況を「一日中北の方から

モチーフとなった。東海岸側にある北朝鮮の都市興南でおき

吹いてくる風は、荒野のど真ん中に立っているバラックを煩

た1950年末の民間人撤収作戦を扱ったキム・ドンリ(1913~

わしいとでもいうように、あばら家の塀をなぎ倒し、トタン

1995)の短編『興南撤収』(1955)とコン・ジヨン(1963~

屋根を吹き飛ばしながら吹き荒れ、我々の部屋に攻め込んで

現在)の長編『高く青いはしご』(2013)、そして北朝鮮元

きた」と描写している。

山出身で、朝鮮戦争の際に南に逃げてきた作家イ・ホチョル

かすかな縁をたよりに、他人の家に世話になって過ごすの

(1932~2016)の短編『南の地の人、北の地の人』(1996)

も大変なのは同様だった。やはり北から逃げてきた作家フ

などを挙げることができる。

ァン・スンウォン(1915~2000)の短編『曲芸師』(1952)

しかし「避難文学」の範囲をもっと精密に設定すると、そ

は、自叙伝的な作品で作家自身が家族とともに大邱と釜山で

れは1.4後退を前後して、ソウルを離れて大邱や釜山に根

経験した居候の哀歓を、非常にリアルに描いている。ファン

拠地を移した人たちを扱った作品を指す。特に朝鮮半島の南

・スンウォンの家族は、大邱と釜山で知人の家に厄介になる

東の端に位置する港湾都市で、ソウルに次ぐ第2の大都市釜

のだが、その家の家族の露骨な蔑視と圧迫により追い出され

山には数多くの避難民が集まり、その日暮らしの厳しい生活

たり、あるいは追い出される危機に見舞われる。住む家のな

を続け、そのような極限の状況は作家たちも例外ではなかっ

い家長の悲しさ、そしてそんな状況の中で、もみじのような

た。

手で金を稼ぎに行かなくてはならない幼い子供たちに対する

避難民たちは事前の対策など事実上皆無の状態のまま、無 62 KOREANA 冬号 2019

申し訳なさからファン・スンウォンは、自分の家族と家長で


ある自身の身の上を曲芸団とその団長に比喩している。 「ただ願うのは幼いピエロたち、お前たちが今後、それぞ れ自分の曲芸団を持つようになる頃には、どうかお前たちの 幼いピエロたちと一緒にこんな舞台と曲芸を繰り返すことが ないことを願う」 一人で北から逃げてきたイ・ホチョルは、釜山で埠頭労働 者を皮切りに製麺所の職工、警備員などをして金を稼ぎ文学 © Encyclopedia of Korean Culture

の勉強を続け、当時の経験を生かした短編『脱郷』(1955) で文壇にデビューした。「一夜の宿を借りた貨車は、翌日の 夜にはもうどこかに行ってしまい無くなっていた。一晩のう ちに何度もこの貨車、あの貨車と移らなければならなかっ た」というこの作品の導入部も、避難民の不安な住居状況を 端的に表している。 作家 金東里

もう一人の北出身の作家ソン・チャンソプ(1922~2010) の短編『雨降る日』(1953)もまた、1.4後退の時に釜山 にやってきて、あばら家を借りたドンウクとドンウクの兄と 妹の身の上を、ドンウクの友人であるワングの視線で描写し たものだ。小説全編にわたって降り続く雨が兄妹を閉じ込 め、苦しめる現実を象徴している。片方の足が不自由なドン ウクは、幸いにも絵の才能があり米軍相手に肖像画を描き、 もらった金で兄妹が糊口を凌いでいるが、結局はその仕事さ

「前後に死と別れをおき、左右に流浪 と期限を率いていても、知った顔、 一杯のコーヒーがあれば楽しい」

えも出来なくなり、小説の最後には貯めていた金をすべて詐 欺に騙し取られ、兄妹は住んでいた家も追い出され行方不明 になる。この作品には、避難民の暮らしをリアルに描きなが

また似たような方式で自殺を選び、当時の避難先での文化人

らも人生の根源的な不安と悲劇性という実存主義的な情緒

たちの暗澹たる状況と心理をうかがうことができる。

が、根底に流れている。

主人公のイ・ジュングは、1.4後退の前日である1月3日

この頃の釜山を背景にした代表的な作品を選ぶ際に欠かせ

にソウルを離れる最後の列車にのり、まる1日かかってよう

ないのが、キム・ドンリの短編『蜜茶苑時代』(1955)だ。

やく釜山に到着する。釜山で彼は、ソウルから来た芸術家の

この作品は、特に当代の文化人を名前を少しだけ変えて登場

集まる光復洞の2階にある茶房「蜜茶苑」をアジトとして友

させ、釜山避難時代の社会性と文壇の雰囲気がともに味わえ

人の文化人たちと会い、寝床、食事、酒をなんとか解決して

る。文学評論家キム・ビョンイク(1938~現在)の著書『韓

いく。小説の中の登場人物たちがほとんど実在の人物である

国文壇史』によれば、この小説の主人公イ・ジュングは、小

ように、蜜茶苑もまた実際に光復洞ロータリー付近にあった

説家イ・ボング(1916~1983)だ。1950年代にはいろいろな

ものだ。キム・ビョンイクの『韓国文壇史』は、その空間を

文化人がソウルの明洞に集まり、ほとんど毎日のように酒杯

こんな風に説明している。

をあげていたが、イ・ボングは酒に酔っても乱れることのな

「光復洞の文総(全国文化団体総連合会)事務所の2階に

い高尚な態度を維持し「明洞の伯爵」というニックネームが

あるこの茶房は、当時行くあてのない文化人たちのたまり場

あった。チョ・ヒョンシクは評論家チョ・ヨンヒョン(1920

となっており、消息の分からない同僚たちの連絡場所であっ

~1981)、キル女史は小説家のキム・マルボン(1901~1962)

たり、仕事をする場の無い作家たちの事務所でもあり、とき

がモデルだ。釜山が地元の詩人チョ・ヒャン(1917~1985)

には詩話展も開かれる展示場でもあった」

と小説家オ・ヨンス(1909~1979)は、この作品ではそれぞ

「前後に死と別れをおき、左右に流浪と期限を率いていて

れチョン・ピロプとオ・ジョンスとして登場する。小説の最

も、知った顔、一杯のコーヒーがあれば楽しい」と主人公は

後で失恋の痛手と生存に対する不安が重なり、睡眠剤を飲ん

独白する。このように茶房「蜜茶苑」は、苦痛と試練の中で

で自殺する若い詩人パク・ウンサムは、チョン・ウンサム

も互いに力となった同僚愛を象徴する空間であり、小説『蜜

(1925~1953)を名字だけ変えたものだ。小説には出てこな

茶苑時代』は、辛く切迫した時期に文化人たちが経験した哀

いが、もう一人の若い詩人チョン・ボンレ(1923~1951)も

歓を記録した一種の報告書だとも言える。 韓国の文化と芸術 63


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25,000ウォン

3年

75,000ウォン

2年 1年

1

東南アジア

2年 2

ヨーロッパと北米 3

アフリカと中南米 4

3年 1年 2年 3年 1年 2年 3年 1年 2年 3年

50,000ウォン US$45 US$81

バックナンバー* (1冊當り) 6,000ウォン US$9

US$108 US$50 US$90

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ENCHANTING SHORT STORIES FROM KOREA

RU SS IAN

Korean Contemporary Short Stories, published by the Korea Foundation. Selections from Koreana, Korea’s flagship magazine on art and culture. Enjoy these literary gems in Indonesian, Russian, Thai and Vietnamese!

TH AI

VIE TN AM ES E

2017 ENGLISH

2018 RUSSIAN

IND ON ES IAN

(2n de dit ion )


“If you want to know a country, read its writers.” Aminatta Forna, The Memory of Love (2011)

READ KLN, READ KOREA Reading a country’s literature is one of the best ways to gain insight into its culture, values and perceptions. Korean Literature Now is the world’s only English-language quarterly that brings you the best of Korean fiction, poetry, interviews, book reviews, essays, and more. Become better acquainted with Korea and its literature through KLN.

@KoreanLitNow Inquiries: koreanlitnow@klti.or.kr

www.KoreanLiteratureNow.com


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