夏 号 2013
韓国の文化と芸術
仏教寺院で修行生活
夏号m2013 n o . n2o . 2 sum er 2012vo l.vo20 l. 26
特 集
仏教寺院で自己発見 自分探しの修行空間-テンプルステイ 寺院「自分」を探す人たちの修行空間 寺院が目覚める光と音 普通の人々の寺院体験
v o l. 20 n o. 2
ISSN 1225-4592
発行人
柳現錫
編集理事
全南鎭
編集 金熒允編集会社
編集長
金鍾徳
ソウル市麻浦区西橋洞384-13
監修者
嘉原和代
Tel : 82-2-335-4741
編集諮問委員 裵炳雨
Elisabeth Chabanol
韓敬九
金華榮
金文煥
金英那
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宋惠眞
宋永萬
Werner Sasse
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6086)で転載許可を申請してください。 『Koreana』の記事を引用したり、非営利目 的で使用する場合にも『Koreana『からの 転載であることが分かるようにクレジッ トを明示してください。
韓国の文化と芸術 夏号 2013
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韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル
妙香寺(慶尚北道漆谷郡)の大雄殿で、 仏像の後ろの壁を飾る「新世代仏画」 の一部。伝統的な仏画は仏様や菩薩 を厳粛に描くが、新世代仏画は現代 人の様々な姿を仏像に投影している。 (ムン・ボンソン作)
禅修行を象徴する竹篦(しっぺい)。右手で柄を持ち、割れた部分を左の手のひらに当てて音を出す。 その音が参禅の始まりと終わりを告げる。© 河志權
平和と慈悲への希望 2500年前にインドで生まれた仏教は、東北アジアの文化と精神世界に計り知
提供することで、2002年のワールドカップの期間に定着して以来、観光商品と
れない影響を与えている。この影響はマハヤナ・大乗仏教によって及ぼされた。
して根を下ろしている。そこで韓国仏教も活気を取り戻すようになった。中国
所謂、大乗仏教は基本的に世界化運動であって、衆生を自己省察に導くという
仏教が共産主義統治で活力を失い、日本仏教は世俗化したが、韓国仏教は相変
よりは僧侶個人の哲学的解脱を重視するテラバタ・小乗仏教と対比される。韓
わらず真理を求め、喜んで苦難の道を歩もうとする若い禁欲主義者に人気があ
国の仏教は三国時代に中国を通じて入った。唐時代の初期、中国の最高権力者
る。韓国仏教の真面目な求道者たちは、大衆が自分自身を発見するのに役立つ
は<大方廣佛華嚴經>の翻訳と悟りの境地に至る禅を通して仏教を伝播しようと
ことで、世界に平和と慈悲のメッセージを発信できるという希望を持っている。
した。このような思想は今日まで韓国の僧侶たちの修行根本となっている。近 年、韓国仏教は由緒ある道場でテンプルステイの機会を一般人に提供している。 テンプルステイ・プログラムはお寺が国境を越えて外国の訪問客に現場体験を
日本語版編集長
金鍾徳
特集 仏教寺院で修行生活
04 12 18 24 30
特集1
寺院「自分」を探す人たちの修行空間
文泰俊
特集2
寺院が目覚める光と音
裵炳雨 7
特集3
普通の人々の寺院体験:を空にして得るもの
劉澈相
特集4
雲門寺の庫裏
キム・ヨンオク
特集5
大雄殿:象徴、仏像、仏画
ブライアン・ベリー
38 42 48
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文化フォーカス
急変する漫画の世界で健闘する韓国漫画
パク・インハ
インタビュー
「春川マイムフェスティバル」パントマイムのパイオニア、柳鎭奎
金重孝
巨匠
莞草のキャンバスに花を描く草藁匠 韓順子
朴炫淑
48
46
54 58 56
アート・レビュー
創作ミュージカル「パルレ(洗濯)」ソフトな社会告発の力
朴補渼
オン・ザ・ロード
青山島のスローライフ
姜濟尹
64
ブック・レビュー ナ・スホ
韓国仏教の精髄: 心に向かう6つの道 韓国: 不可能な国 (“Korea: The Impossible Country”) 英語圏読者のための仏教修行の指南書 韓国仏教の精髄: 心に向かう6つの道 (“The Essence of Korean Buddhist Practices:6Ways to the Heart”) 近代アメリカの大使夫人が見た韓国 朝鮮からの手紙 (“Letters from Joseon”)
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66 68 72
遠くの目
男と女の愛憎物語 ‐道成寺説話の展開‐
林雅彦
グルメを楽しむ
辛くて熱い「シウォナン」ユッケジャン
芮鍾碩
韓国文学の旅
この悪夢は誰のものなのか? 魚秀雄 『イヴァン・メンシュコフの踊る部屋』 李章旭
特集 1 仏教寺院で修行生活
寺院
「自分」 を探す人たちの 修行空間
前3時、僧侶の木魚で寺院は目覚める。朝の勤行の前に寺院
かる。寺院の勤行は早朝、午前11時、夕方に行われる。勤行は、四つ
を清めるための儀式が、道場釋(行道)だ。道場釋は、まずお
の仏具・法鼓、雲版、魚板、梵鐘を鳴らすことから始まり、悟りを開
堂を回り、儀式を担当する僧侶が大きな仏殿にロウソクをともして焼
いた偉大な師を賛嘆して、仏の教えが込められた経を唱えて心の奥深
香する。そして、澄んだ水を仏前に供えて、読経を始める。僧侶は木
くに刻む儀式だ。
午
魚を叩いて念仏を唱えながら、寺院を一回りする。その木魚の音に よって、深い眠りについていた宇宙のあらゆる存在が目覚める。木魚 は弱く叩き始めて、次第に強くなっていく。命ある全ての存在が、驚 くことなく、ゆっくりと目を覚ますように。 寺院にいる僧侶と信者は、目を覚ますと朝の勤行の準備にとりか
4
出家修行者の道 僧侶は出家した修行者だ。参禅して経典を学んで正しい法を実践 し、智慧を求める。そうして智慧を得て、全ての世人の人生を正しく 導く存在でもある。自ら智慧を得て、その智慧を大衆に伝えるのだ。 韓国の文化と芸術
インドの詩人であり修行者のカビールは「花を見に庭園に行くなかれ。あなたの体の中に、満開の花咲く庭園 がある」と歌った。私たちの心が美しく咲いた花なのだから、己に立ち戻って自分自身を信じるように諭して いる。仏教の悟りも同じだ。人々は今日も、自分の中にある庭園を見つけようと、寺院におもむく。そこで 1日過ごす人もいれば、一生過ごす人もいる。 ムン・テジュン(文泰俊、詩人、仏教放送プロデューサー)| 写真 : 朴寶夏, 安洪范, 河志權, 羅相昊
世俗の生活を離れた修行者は、あらゆる煩悩・妄想を払うという 意味で、髪とひげをそる。そして、3着の服と鉢盂(器)だけで新しい
雲門寺の講院(檀林)で学ぶ1・2年生の学人僧の勉強部屋であり宿舎でもある 「清風寮」。その開かれた扉から見た経典講義の様子。棚にきれいに並べられた 鉢盂(器)が、左端の扉から見える。
人生を始める。まず、明らかな智慧を持つ師から教えを受ける。およ そ6カ月から1年間、炊事、まき割り、畑仕事などの作務をしながら、 修行者に求められる基本的な素養を身に付ける。 修行者は、守るべきことが多い。生き物を殺さない、盗まない、 淫らな性関係を持たない、嘘をつかない、酒を飲まない。その他にも、
を与えても受け取らない、施しを受けたものしか食べない、布施さ れた食べ物が少量でも余分に欲しがらない。そうした数百の教えは、 清々しい水のように人の心と体のけがれを洗い流してくれる。
定時以外に食事をしない、化粧や装飾品で身を飾らない、ゆったりし
修行者は、伝統的な仏教の教育機関である講院(檀林)で学ぶ。由
た寝台で眠らない、金銀を受け取らない。さらに、誰かが新しいもの
緒ある大きな寺院は、そうした教育機関を備えている。修行者は、そ
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1
こで経典を学び、仏教の儀式について習う。 修行者が集まって共同生活する寺院では、修行者ごとの役割が、
禅は、正しいか間違っているか、良いか悪いか、自己と他者、有と無、 大と小、これとあれ、行くことと来ることなど、相対的な区別や価値
とても具体的に決められている。例えば、鐘を打つ者、お茶を入れる
判断を捨てることによって、根本や本質に到達しようとしている。そ
者、ご飯を炊く者、おかずを作る者、まきを割る者、修行者を教える
の切実な疑問とは、根源的な問いに当たる。公案を用いて集中的に疑
者、過ちを戒める者、儀式を進める者など。
問を持つことで、動いたり止まったり、座ったり横になったり、話し たり黙ったりする日常生活そのものが、参禅の生活になるように導い
参禅修行
ているのだ。
経典によると、修行者は満月へと満ちていく月のようであるべき
出家しない多くの在家仏教徒も、看話禅の修行によって、あらゆ
だという。次第に丸く豊かになっていく月のように、智慧の光を育む
る分別と操作、妄想と是非などの心を断ち、清く正しい心に立ち戻っ
べきだという意味だ。そのための修行のうち、最初に行うものが参禅
て、己の本来の姿が仏であることを見いだそうと努力する。
だ。心を安らかにし、心の濁りを澄ませて、己の自性が仏であること
韓国の代表的な仏教団体である曹渓宗だけでも、毎年2000人以上
を悟るために努力する。参禅修行の際は、話をしてはいけない。一切
の修行者が、1年に2回ずつ3カ月の安居に入る。寺院からの出入り
横にならず、昼夜を問わず参禅する修行者も多い。
を禁じて、ひたすら参禅修行をする。安居の伝統は、インドに由来す
煩悩や妄想に捉われた心を澄まして動揺から逃れるため、公案を
る。インドの出家修行者は、初めは1カ所に留まることなく、各地を
用いる看話禅は、韓国の仏教の代表的な参禅だ。公案とは、本質に到
巡りながら修行していた。ところが、雨の多い雨季には、地面から小
達するための問答だ。例えば「父母未生以前の本来の面目は如何に」、
さな生き物が這い出して踏んでしまう恐れがあるため、寺院に留まっ
「犬に仏性はあるか」など。公案を与えるということは、公案を心の中
て修行するようになった。それが安居になったのだ。仏教が中国・韓
心に置くことを意味する。公案を用いて切実に疑問と向かい合う看話
国に伝えられると、寒い冬にも1カ所に留まって修行するようになっ
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韓国の文化と芸術
1. 海印寺の学人僧が学ぶ朝の看経 (経典講義) 2. 参禅修行。参禅とは、心の濁り を澄ませて、己の自性が仏である K or e aことを悟るための努力 na ı 夏号 2013
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2
1. 松広寺の僧侶の雁行。修行者は 境内を移動するとき、常に一列に なって歩く。 2. 麻谷寺の門を出る、背嚢を背 負った僧侶の後ろ姿 1
経典によると、修行者は満月へと満ちていく月のようであるべきだという。次第に丸く豊か になっていく月のように、智慧の光を育むべきだという意味だ。そのための修行のうち、最 初に行うものが参禅だ。心を安らかにし、心の濁りを澄ませて、己の自性が仏であることを 悟るために努力する。
た。
ランティアをする修行者も多い。
韓国の仏教の夏安居は現在、陰暦4月15日から7月15日まで、冬
修行者の修行には、念仏修行もある。念仏とは、仏について考え
安居は陰暦10月15日から翌年1月15日までだ。この2度の安居が終
ることを意味する。仏を考えるということは、仏の名、仏の姿、仏の
わると、修行者は各地を回って、安居の修行の成果を一般の人たちに
心について思い巡らすことだ。仏の行いについて、仏の素晴らしさに
伝える。ストイックな生活を通じて、また自分自身との激しい戦いに
ついて、仏が世人に与える利益について考える。そうして仏を自分の
よって得た修行の成果を一般の人たちと共有し、ひいては仏の教えを
心に思い描き、尊敬する心を持って、自分自身も仏になるために努力
伝える。経典ではそうした修行者の施しを、一般の人たちが川を渡れ
しようと心を決めるのだ。念仏の対象は、阿弥陀仏などの仏以外に、
るように橋をかけたり船を作ることに例えている。最近は、安居が終
観音菩薩や地蔵菩薩など菩薩も含まれる。
わっても寺院で修行を続ける修行者もかなりいて、社会福祉施設でボ
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それ以外に、仏の説いた経典を読んで覚える看経修行がある。仏 韓国の文化と芸術
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の言葉を正しく捉え、その教えによって己の心を澄ませる。経典を読
行いが、この食事をいただくに価するものか、恥じ入るばかりだ。し
むのだが、実際には己の心の中に向かって学んでいく修行だ。仏の説
かし欲を捨て、心身を養う良薬として、悟りを開くために、この食事
いた経典を凝縮した言葉や一節を覚える呪力修行もある。呪文を唱え
をいただく」。五観の偈と呼ばれるこの偈頌によって、食事が整えら
ることで、過去の業を消して心を清める。そのような修行は、ねたみ、
れるまでの過程に感謝し、さらに熱心に修行しようと意志を固める。
愚かさ、憤りなど濁った自性を清めて仏のような存在になるだけでな
食事の際には、いつも同じ鉢盂を使い、わずかなおかずを食べて残さ
く、死後に苦しみのない安らかな世界へと生まれ変わるために行われ
ないのが、韓国の仏教における古くからの伝統だ。
る。
在家仏教徒の道 食事の節制 韓国の仏教において、食事は特に注目すべき対象だ。修行の身な
出家せずに世俗に生きながら修行する仏教徒は、仏、仏の教え、 そして修行者を尊敬して帰依することを約束した人たちだ。在家仏教
ら食事にも原則がある。身体を保つために最低限必要な食事をとる。
徒は、寺院を訪れて信徒として基本的な教育を受けて仏弟子となり、
好きなだけ食べるのではなく、常に足りない程度に食べる。そのた
新しい名前(法名・戒名)を授かる。また、日常生活において守るべき
め、1日1食のこともあり、修行者は正午が過ぎると何も食べないこ
指針も示される。さらに、仏の教えを説く集まりに1カ月に数回、定
ともある。一般的に、修行者は朝食におかゆ、昼食にご飯、夕食にわ
期的に参加する。1泊2日のテンプルステイ(宿坊)体験や3カ月ほど
ずかな食事をとる。
の短期出家によって、僧侶と同じ勤行・生活を経験することもある。
食事の前には、次のような言葉を唱える。「この食事がどうしてで
在家仏教徒も公案、念仏、読経や誦経(暗唱)、呪文の復唱・暗記
きたか。食事が整うまで、どれほどの人々の働きがあったのか。私の
などの方法で修行するが、最も多いのは礼拝修行だ。礼拝とは、仏の
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1. 夕方の勤行を知らせる法鼓が、浮石寺に響き 渡る。 2. 山寺の黄昏は、夕方の勤行の声と共に闇に包 韓国の文化と芸術 まれていく。
2
前で床に伏せることを意味する。つまり礼拝には、己を低めて相手を
があったなら、すぐさま告白して悔い改め、二度とそのような悪行を
尊敬する心が込められているのだ。礼拝には、胸の前で手を合わせて
しないと言明する。雲が晴れれば月が現れるように、悔悟(改心)に
腰をかがめるもの、両膝・両肘と額を床につけるものなどがある。礼
よって清らかな心を取り戻すことができると考えているのだ。仏教に
拝は、同じ動作を繰り返すことで己を無にする。すなわち、肉体的な
おいて心とは本来、生じることも消えることもなく、その本来の姿は
動きによる心の修行といえる。修行は、礼拝の回数によって108拝、
空だとされている。したがって、心を休めるということは、感覚的な
1080拝、3000拝などがある。
快楽を求めず、穏やかで平和な心を保つことを意味する。それは、自
寺院に通う信者は、魚などの生き物をもともと住んでいた場所に
分自身を扱うことだといえる。自分の体と口(言葉)と心(意中)を制御
放すこともある。そうした行為は、施しと生命への慈しみを実践して
するのだ。己をうまく制御して得た静けさは、明らかな智慧をもたら
いるといえる。亡き人の魂を良い所へと導く儀式も行う。亡くなった
す。仏教では、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行為、
人の生前の悪行、恨み、他の人との悪い関係などを払い、その人が良
正しい生活、正しい努力、正しい心構え、正しい集中によって、苦し
い所に生まれ変われるように力添えするためだ。そうした儀式は、死
みをなくすことができると考える。それによって、修行者は布施の完
を終わりと考えず、新しい人生へのつながりとする世界観に基づいて
成、持戒の完成、忍辱の完成、精進の完成、禅定の完成、智慧の完成
いる。生と死を分けないのが、仏教の時間観であり生命観だ。
に達すると教えている。 人の体は老いて枯れ、病も避けられず、いつかは死に至る。また、
雲が晴れれば、月が現れるように 仏教の教えは、心を休め、世の中に役立たせる点にある。心を休 めるということは錯覚、妄想、欲を捨てることを意味する。もし悪行 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
世俗的な欲望は人間の心を燃やし尽くす。仏教の修行の目的を一言で 表すなら、そうした苦しみをなくし、安らかな楽しみを得ることにあ るといえよう。(翻訳:坂野慎治)
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特集 2 仏教寺院で修行生活
寺院が目覚める 光と音 写真 : ペ・ビョンウ(裵炳雨、写真家)
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韓国の文化と芸術
風にゆらめく松広寺の竹林
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松広寺・大雄殿での朝の勤行。五体投地は、 両膝・両肘と額を床につけて礼拝する。拝礼とは、 肉体的な動きによる心の修行だ。
ま
だ夜が明ける気配のない深夜。松が広く生い茂った松広寺で、木魚の音が静 寂を破る。次いで読経が、静かで柔和ながら荘厳に響き渡る。法鼓、梵鐘、
魚板、雲版の四つの仏具が、その後を追う。百筋の音でもあり一筋の音でもあるよ うに散っては集まる幽玄な僧侶の勤行が、天と地の間で静まり返っていた寺院に広 がると、次第に光を呼んでいく。やがて夜が明けてくると、まずは鳥が光に答える。 そして、木の枝が風に揺れ始める。森がゆっくりと音を響かせていく。古刹の屋根
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韓国の文化と芸術
に日が差し、松がゆっくりと眠りから覚める間、竹が光と風に揺らめく。あらゆる 命が、思い思いに生きた声で答えていく時間。 朝の日差しは、寺院の庭と裏庭の木々や小鳥だけでなく、とても小さな命まで全 ての声を引き出す。声を出せない木や草の代わりに、鳥がしきりにさえずりながら、 羽を広げて伸びをしているのだろうか。暗闇の中で静まり返っていた音が、こうし て光と共に溶け込むように降り注ぐ。そして、青く澄んだ空の下、青い木々が、潮 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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松の茂った曹渓山(全羅南道順天)にある松広寺
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の満ち引きのように波打ち始める。風の中で会っては別れ、情感あふれる心の音を 響かせる。 昼が過ぎ、光が空を横切って西に傾くと、寺院の庭は見ほれるほど美しい夕焼け に染まる。もう一度、全ての命の心を目覚めさせる仏具の音が広がり、夕方の勤行 の声が深く響くと、遠い尾根から徐々に広がる夜の闇が古刹を抱いていく。(翻訳: 坂野慎治) K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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特集 3 仏教寺院で修行生活
普通の人々の寺院体験 心を空にして得るもの 3時起床。闇を晴らすかのような法鼓と梵鐘の音に、意識を目覚めさせて参加した朝の勤行と108拝。米一粒、粉トウガ ラシひとつ残さない鉢盂供養。瞑想。素足での山歩き。寺院での1泊2日はとても特別な経験だった。 ユ・チョルサン(劉澈相、旅行作家)| 写真 : 河志權, 安洪范
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韓国の文化と芸術
テ
ンプルステイ(宿坊)プログラムは、大きなかごに携帯電話、財布、タバコなどを差し出す ことから始まった。携帯電話が没収される前、残された最後の通話は1分間。思い思いに
家族や恋人に短い別れのあいさつをしたり、やり残した用事を済ませる人たち。続いて僧服に着替 え、ぎこちない様子で座っている参加者。その前でプログラムの指導役の僧侶が、寺院での生活で 求められる基本的な決まりを説明する。最も重要なのは「叉手」と「雁行」ようだ。 「おなかの下の方で、手を重ねてそろえることを『叉手』といいます。お寺の中を移動するとき は、常にこの姿勢をしてください。歩くときは、雁のように一列になります。これを『雁行』といい ます。薄氷を踏むように、いつも注意を怠らないという心がけと姿勢を持つのです」。 薄氷を踏む…。ともすると、今までの日常が薄氷だった。一歩踏み外せば深い深い崖があるこ 桐華寺のテンプルステイで、浮屠庵の 縁側で休む参加家族
とを忘れていたり、あるいは無理にでも見えないふりをして、平穏無事な大通りであるかのごとく、 あくせくと駆け抜けてきた人生だったのかもしれない。
五体投地 参加者が全国各地から集まってくるため、テンプルステイの日程は、どの寺院でも午後から始 まることが多い。そのため初日の午後は、比較的プログラムに余裕がある。まずは、僧侶との茶談 会でぎこちない僧服に体をなじませる。数百年にもなる泰華山の松林で「松風の道」を楽しむ芳しい 散策は、夕方の供養(食事)の前に適度な空腹感をもたらしてくれた。 ビュッフェ式夕方の供養の後「五体投地」を習う。朝の勤行の練習だ。まず両膝と両足をそろえ てひざまずき、正座の姿勢で体をかがめて額まで床につける。ほとんどの人は、テレビでは何度も 見てきたものの、やってみるのは初めてだ。チベットの仏教でよく見られる、手足を伸ばして伏せ るものだけが五体投地だと勘違いしていた。カトリックの司祭叙階式の際、神父になる人が十字架 の前で床に伏せるのも、仏教の五体投地と大きく違わないのかもしれない。 「お寺では礼拝をたくさんする」という僧侶の言葉は本当だった。床に敷かれた座布団は、膝と 肘の当たる部分だけが、はっきりと擦り減っているものが多かった。礼拝は、己を無限に低める行 為であり、驕り、見栄、不安、恐れに隠れている自分の真の姿を見いだす過程だという。 寺院では寝るのも修行だ。横になって行う禅。静かに横になり、下腹に手をそろえて、吸って は吐く息を静かに感じる。そうして自分の心の中を見つめるのだ(観心)。自分の心の中から、どん な思いが浮かんでくるのかを…。僧侶は、静かな山寺の闇の中で無数に湧き起こる俗世の煩悶を無 理に払わず、ただ見つめろと言う。 寝床についた瞬間から、翌朝の供養までは何も話さない「黙言(無言の行)」。他の人と手や目で やりとりしてもいけない。自分の心をじっと見つめるのだ。どこからか軽いいびきが聞こえてき た。
朝の勤行 午前3時3分。闇を晴らすかのような魚板の音に目を覚ます。誰に促されるでもなく、一人二 人と起きてきて布団をたたみ、鐘の前に集まる。誰も何も言わず、目配せもしないまま…。僧侶は、 雲版を打ち、法鼓の前に立つ。人の背よりもはるかに大きい太鼓を叩き、まだ闇の中で眠っている 天地万物を揺さぶり起こす。夜の空気をかきわけるように響く法鼓の音は、寺院を屏風のように包 み込んでいる泰華山にぶつかってこだまする。極楽橋の先にあるモミの木の上には、月がまだ明る く浮かんでいるが…。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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33回の梵鐘の音を聞きながら、一列の雁行になって大雄殿へ向か う。短い勤行の後、僧侶の竹篦(しっぺい)の音に合わせて、108拝を
テンプルステイでの修行。参加者は五体投地(1)、塔の周りを回る堂々巡り (2)、鉢盂供養(3)など寺院の儀式を学びながら、内面で自分自身と 向き合う貴重な機会を得る。
行う。僧侶は礼拝の間も心を見つめるように話し続けるが、息が上 がって腰と膝が痛くなり、何も考えられない。思ったよりも早く108 拝が終わったので正座をしたが、やはり苦しい姿勢のため心を澄ます
過ぎて霊栄殿を回り、天王門を通って、渓谷にかかる極楽橋を渡る。
のは容易でない。
すると、毘盧遮那仏を安置した大光宝殿、その上に大雄宝殿が姿を現
勤行の後、ふらつく脚を踏みしめて、寺院のそばの薬水(湧き水)
す。仏に1日3度の勤行を行う場所だ。テンプルステイ参加者の生活
まで散策。やはり黙言。渓谷を渡る飛び石を越え、アシの茂った道を
の場は、大光宝殿のそばにある。あちこちに重要な文化財がある麻谷
通っていくと、この世の命が徐々に目覚める声が聞こえてくる。都会
寺は、渓谷、山、松・桜の林、お堂、仏塔が描く一服の仙境のようだ。
にいるときとは比べものにならないほど、とても小さな刺激にも体と 心が反応するようだ。
鉢盂供養 昼食は鉢盂供養。寺院では食事も修行だ。僧侶の竹篦の音に合わ
お堂巡り
せて合掌する。それぞれ大きさの違う鉢盂(器)が四つ重なっているの
いつのまにか辺りが明るくなってきた。山寺は鳥の声であふれて
で、それを並べる。一番小さい鉢盂に、皿を洗うための水をあらかじ
いる。「タタタタタタッ」という変わった音が、あちこちから聞こえて
め入れておく。汁物、ご飯、キムチなどいくつかのおかずを自分が食
くる。遠くの工事現場で、道に穴でも掘っているドリルの音だろう
べるだけ盛る。
か。だが、その音の主はすぐに分かった。子供のころマンガでしか見
食べる前に、先ずすることがある。最初に、適当な大きさのキム
たことのないキツツキだ。音の主を探そうと目を凝らしてみたが結
チを一つ選んで、汁でよくすすいで、茶碗に付けておく。話し声だけ
局、木をつつく姿は見つけられず、飛び去る後ろ姿を目にしただけ
でなく、箸が器に当たる音も出さないように注意しながら、食事をす
だった。
る。食べ終えたら茶碗に水を入れ、最初にすすいでおいたキムチでご
朝の供養の後、やっと話すことが許される。その時間、私たちは 僧侶の案内で、千年の古刹・麻谷寺を見て回った。 麻谷寺は、山の中よりも渓谷の中にあるという表現が似合うほど、
飯、汁物、おかずの器をきれいに拭き取る。そして、そのキムチを食 べて、器を洗った水を飲む。だが、それで終わりではない。あらかじ め準備しておいた皿を洗うための水で、もう一度器をきれいにする。
渓谷と調和をなしている。太極模様(S字)を描くように流れる泰華川
その水は3分の2ほどを桶に捨てて、米粒や調味料が残っている水は
の両側にある。一方は、修行の場で小ぢんまりとしている。もう一方
飲む。
は、礼拝の場で雄壮だ。これこそが他の寺院にはない麻谷寺の特徴 だ。入場券売り場を過ぎると、すぐそばに寺院が見える。それなの に、渓谷をかなり上がっていかなければ、寺院の正門・解脱門と二つ 目の門・天王門にたどり着けない。仏塔がいくつか並んでいる場所を
エピローグ プログラムは参加するグループの性格によって少しずつ異なるが、 私が参加したプログラムで最も記憶に残っているのは、初日の「心の
ソウル
アクセス 忠清南道 公州市 寺谷面 雲岩里 麻谷寺 (www.magoksa.or.kr) ソウルから:京釜高速道路の天安分岐点で天安・論山高速道路へ進み、正安インターチェンジで降りて604番地方道路を
武盛山
15分ほど進むと、左に麻谷寺の看板。
麻谷寺
天安JC 正安IC 公州
七甲山
施設 テンプルステイを行っている寺院は、ほとんどがテンプルステイ用の生活空間を設けている。寺院によって差があるが、 麻谷寺は優れた施設が整っている。精進料理のビュッフェ食堂、近代的なシャワールーム、水洗トイレなどがそろって いる。寝室は男女別の大部屋。部屋は暖房が効いており、布団も清潔だ。5人ほどに分かれて寝室を利用できる金山寺 や来蘇寺に比べると、大部屋が不便に感じられるかもしれない。 (大韓仏教曹渓宗・韓国仏教文化事業団による全国テンプルステイ案内の英語ウェブページ http://eng.templestay.com/)
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高速バス 市外バス
韓国の文化と芸術
「テンプルステイに参加するとき『何かを得よう』 という欲は捨ててきてください。捨てたものが 多いほど、多くのものを得ることができます」 1
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2 © 韓国仏教文化事業団
正視」と二日目の「素足での山歩き」だ。「心の正視」は、参加者が簡単
遠足に来た子供のように笑ったりはしゃいだりして、ゆったりと歩く。
に自己紹介した後、最もつらかった経験、今切実に望むことなどを率
平坦な道とデコボコの砂利道が交互にあるが、つらいとも感じず、心
直に語る時間だ。よく知らない人同士、互いに心の奥深くにある話を
と呼吸のバランスを取りながら自然との一体感を感じた。
淡々とする時間を通じて、実際には自分自身の心を見つめることにな る。「素足での山歩き」は、泰華山の登山路を2時間ほど裸足で歩いて 参禅する。しかし終始、厳粛なだけではない。決められた区間を参禅 した後、それまで話すことのできなかった胸の内を語り合い、まるで
寺院での一夜を終えて、最後の門を出てくると、申し込みのとき に聞いた話が思い出された。 「仏教の特徴は『制限がないこと』です。それを『空』ともいいます。 前提や条件など一切なく、誰でも受け入れます。テンプルステイに参 加するとき『何かを得よう』という欲は捨ててきてください。捨てたも のが多いほど、多くのものを得ることができます」。 30年以上積もり積もった心のホコリを全て払うためには、これか
1. 通道寺のテンプルステイでの「森の中の瞑想」 2. 金山寺のテンプルステイでの「お茶作り体験」 3. 勤行は、テンプルステイの参加者が厳かに行う最も重要な日課
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らどれほど多くの夜を寺院で過ごせばいいのだろうか。ともかく、 近々にまた来ようと誓った。(翻訳:坂野慎治)
韓国の文化と芸術
ソウルでの寺院体験 華渓寺 水踰交差点にほど近い寺院だ
の竹篦に合わせた禅体操、黙言、108拝も
が、一柱門から趣がある。寺院の入口に
体験できる。テンプルステイの最後には、
当たる一柱門を過ぎると、カシワ、ニレ、
僧侶とお茶を飲みながら、公案に関する即
ケヤキが、すがすがしい木陰を豊かに作
問即答も行われる。
っている。屏風のように包み込む三角山 のふもとで小川を見ているだけでも、心
電話:02-3672-5945
が安らかになる。高麗の僧侶・坦文が10
アクセス:地下鉄4号線・漢城大入口駅
世紀に創建した古刹で、仏堂や梵鐘など
の6番出口で2番か3番のマウルバスに
が伝統と歴史を物語っている。テンプル
乗って先蚕壇址前で下車、徒歩5分 (www.
ステイ参加者は、狭い大雄殿の代わりに、
kilsangsa.or.kr)
境内の入口近くにある大寂光殿で勤行を 行い、国際禅院の4階で参禅体験をする。
奉恩寺 超高層ビルが立ち並ぶ江南地
主に外国人修行者が利用するため、参禅
区の三成洞にある千年の古刹。統一新羅 の縁会国師が8世紀に創建し、朝鮮時代
中心の日帰りプログラムだけが用意され ている。勤行、作務、参禅、散策など、 修行者の日課をありのまま行うのが特徴。
聖母マリアを思わせる吉祥寺(ソウル市)の 観世音菩薩像
には僧科の試験(科挙)が行われた由緒あ る寺院だ。大雄殿から板殿に続く土の道
特に、渓谷沿いの小道を歩きながら公案を解く散策は、参加者
を歩いていくと、大きな弥勒大仏を安置した弥勒殿があり、願
に好評だ。
をかける人も多い。板殿の先にある小道を行くと、テンプルス テイを体験できる禅院がある。プログラムは1泊2日で、参加
電話:02-902-2663
者が10人以上なら、いつでも開催される。毎週木曜日の午後2
アクセス:地下鉄4号線・水踰駅3番出口で2番のマウルバス
時からは、手軽に寺院体験ができる3時間コースのテンプルラ
(コミュニティバス)に乗って華渓寺前で下車、徒歩5分(www.
イフ・プログラムも運営されている。内容は、鉢盂供養、参禅、
hwagyesa.org)
勤行、拓本など。外国人を対象としたテンプルステイとテンプ ルライフでは、円滑な進行のために仏教知識と外国語に通じた
吉祥寺 城北洞の都心の住宅街にある吉祥寺は、開かれた寺
仏教徒がボランティアで参加する。
院だ。仏様を見上げて、長い長い階段を上がる必要もない。ケ ヤキの老木を3~4本過ぎると大きな広場があり、極楽殿が見
電話:02-545-1448
える。大雄殿の裏に回ると、寮舎(僧房)と真影閣(2010年の入
アクセス:地下鉄2号線・三成駅6番出
寂まで同寺院の精神的支柱だった法頂僧侶の真影を安置したお
口から100メートル直進すると
堂) に続く、短いが美しい小道もある。ソウル市内を包み込むよ
ASEMタワーがあり、
華渓寺
うな北岳山の絶景が、左右に広がっている。そのため、散歩が
その向かい
吉祥寺
てら訪れる人も多い人気のスポットだ。全国各地にある千年の
側が奉恩寺の
古刹とは違い、妓生(芸者)だった店主が晩年、有名な高級飲食
正門 (www.
店を布施して、1995年に建てられた。テンプルステイは毎月、
bongeunsa.org)
奉恩寺
最後の土曜日に定期的に行われている。参禅が中心の1泊2日 のプログラムで、1日8時間以上座禅をして公案を解く。僧侶 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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特集 4 仏教寺院で修行生活
雲門寺の庫裏 雲門寺は、修行者の日常において生産的な労働の重要性を強調した「一日作さざれば一日食らわず」 という教えを静かに守り続けてきた。200人近い僧侶の毎日の供養から農作業まで、学人僧が一手 に引き受けている。 キム・ヨンオク(フリーライター)| 写真 : 河志權, 羅相昊
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韓国の文化と芸術 1
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寺
院には、一柱門と呼ばれる伝統様式の建築物がある。世俗か
の必修過程を終えるため、学人僧は4年間寺院で一緒に過ごしなが
ら寺院に入るとき、最初に通る門だ。一柱門と名付けられた
ら、経典を読んで様々な儀式について学び、修行者としてはるかなる
理由は、門の屋根を支える柱は二つだが、一列に並んでいるからだ。
道を歩むための基礎を築く。学人僧の日課は、分刻みといえるほど
「この門を通る者は、世俗の知恵を全て捨て、ひたすら真理のみを求
厳格に決められている。午前3時の道場釋(行道)に始まる朝の勤行
める心で精進しなければならない」という意味から名付けられたと考
が終わると、朝の供養(食事)までそれぞれの居所で入禅(自習)を行
える人もいる。雲門寺は、韓国南部の慶尚北道・清道に500年前に建
い、午後2時から2時間の授業を受ける。夕方の勤行の後は日課を終
てられた寺院だ。ここにも一柱門はあるが、この大きな尼寺の実質的
える夜9時前まで、講院の伝統的な学習方法である論講方式の授業と
な一柱門は、寺院の入口にまっすぐ高く伸びている広い松林だ。この
翌日の予習をする。ある学人僧が笑って話した。「ここでは1分間に
松林は、目の前で見ているだけでも、煩悩が自ずと払われるほど快い。
8万4千(仏教で数の多さを表す言葉)種類のことができるんですよ」。
この寺院を偶然通りかかった際、灰色の僧服姿の尼僧が松林を歩く姿 を見て、あまりにも深い印象を受けたため出家を決めた人が実際にい
世界の仏教史において、現在まで韓国の仏教が守り伝えている伽 藍(寺院)の守護と修行の精神は、格別なものがある。特に尼僧団は、 規模においても厳格な修行精神においても、人類の卓
たほどだ。
越した文化遺産に例えられるほど貴重な遺産だとい
韓国の尼僧団と雲門寺
える。そのため韓国の尼僧団は、世界の尼僧団の一員
経典の教育と研究が行われている雲門寺には、現
としての責任も求められている。もちろん雲門寺も
在およそ200人の僧侶がいる。その中でも学人僧(僧
例外ではない。
科大学の学生)は、およそ150人。雲門寺は、韓国に
新羅のとある僧侶が、虎踞山の渓谷のそばにある
ある五つの比丘尼講院(檀林)だけでなく比丘講院を 合わせても学人僧が最も多い。 雲門寺が守ってきた伝統的な講院の特徴は、24時 間修行ができるという点だ。正式な僧侶になるため K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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1.2. 雲門寺の学人僧によるウルリョク(共同作務) 3. 雲門寺の入口にある松林
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禁輸洞に小さい庵を結び、修行の末に悟りを開いて寺院を創建した。
た。弟子たちが仕方なく農具を戻したときに、百丈が残した言葉だ。
西暦557年のことだ。雲門寺の歴史は、そうして始まった。現在、雲
チシャ、フダンソウ、ナス、フクベ、キュウリ、ヒマワリ、ダイコン、
門寺の会主(最も位の高い僧侶で代表者)は明星僧侶。もともと比丘の
ダイコンやハクサイの花茎、ホウレンソウなどは、百丈が1年に4回
寺院だった雲門寺に、比丘尼のための講院が設けられたのは1958年
に分けて植えるように言った作物だ。雲門寺で育てている作物は、今
のことだ。明星僧侶は1970年に講師(教授)として赴任し、1977年か
でもそうしたものと大きく違わない。百丈の精神をこのように静かに
ら20年間、住持(住職)や講主(教育の責任者)として数多くの学人僧の
守り続けているという点でも、雲門寺は韓国の他の寺院とは異なって
教育を行ってきただけでなく、多くの建物を新築・改築して寺院の発
いる。
展に貢献した。
鉢盂供養 農作業
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寺院での行いで、修行の意味が込められていないものは何一つな
寺院の主な食材は、自給自足が原則だ。毎日200人分近い料理の準
い。仏前での勤行に次いで、象徴的で最も意味深いものが鉢盂供養
備は、早春の農作業から始まる。農作業は2年生の役割だ。秋の収穫
だ。寺院の全ての僧侶が、袈裟と法衣をきちんと着て、大きな部屋に
で忙しいときには、ウルリョク(共同作務)の時間が1日に5時間を超
集まって座り、沈黙の中で供養(食事)をする。儀式は、竹篦(しっぺ
えることも多い。
い)の音によって進められる。大きさが異なる四つの鉢盂(器)に料理
禅院の組織と教団の制度を集大成して、中国の仏教をインドの仏
を盛って、食事を始める。食事が終わると、水で鉢盂を洗い流してそ
教と差別化した百丈懐海(720~814)は、修行における生産的労働の
の水を飲む。これを何度か繰り返して、鉢盂がきれいになったら手ぬ
必要性を強調するだけに留まらず、その意味を自ら実践した。百丈は
ぐいで拭き、重ねて布で包む。並べられていた四つの鉢盂は、供養が
「一日作さざれば一日食らわず(一日不作一日不食)」という有名な言葉
終われば再び一つになる。この儀式によって修行を始めた者が学ぶ徳
を残した。ある日、老境に入っても農作業をやめない百丈の健康を心
は、平等、質素倹約、清浄、節制、六和などだ。僧侶は毎日、供養の
配して、弟子たちが農具を隠した。すると、百丈は食事をとらなかっ
前に「この食事がどうしてできたか」で始まる五観の偈を唱えて、供養
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韓国の文化と芸術
の意味を心に刻む。山中の真理は山中に留まらない。心を込めて作ら れた精進料理とそれを食べる作法の鉢盂供養が、韓国だけでなく世界 中の人たちから関心を集めているのは、そうした儀式の教える意味が 深くて大きいからだろう。
庫裏 庫裏(厨房)は、3年生の学人僧に任される。供養は、寺院の外部 から手を借りず、学人僧だけで力を合わせて毎日準備する。庫裏の責 任者は、院主(監寺。衣食住を統括する総務役)。別座(典座)は、院主 を手助けしながら、献立を決めて料理を作る。菜食の献立で不足しが ちなタンパク質の主な供給源になる豆腐は、手作りするのが難しい。 信者が手作りの豆腐を布施してくれることもあるが、ないときは市場 で買ってくる。だがモヤシは、水を何度もやらないと根が多くなるの で、寺院で作っている。 朝の勤行が終わる4時から朝の供養の6時まで、庫裏は目が回る ほど忙しい。台所の竈王神に礼拝するのは、韓国で寺院でも一般家庭 でも長らく伝えられてきた風習だ。竈王神が家庭から厄を払って、家 族の健康を守ってくれると信じてきたためだ。料理を作る場所をどれ ほど大切にしてきたのか、この儀式からうかがい知ることができる
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だろう。雲門寺では僧侶が厨房に入る前に、水で口をゆすいで手を洗 い、竈王神に礼拝する。1カ月に一度、陰暦の末日の朝には、最も歴 史の長い建物である金堂のかまどの前で、礼を尽くし竈王仏供を行 う。そして、邪気を払う意味がある赤いアズキの餅をせいろで蒸し て、竈王壇に捧げる。 全ての僧侶が参加する朝の供養は鉢盂を用い、昼食と夕食は、一 つの膳に6~7人が座って食事をとる。別座が年配・先輩の僧侶から 受け継いできた献立の原則は、五辛(ニンニク、ネギ、ニラなど5種 の野菜。匂いが強く辛いため修行を妨げるとされる)を避けて、でき れば旬の食材を使い、味付けは薄めにして、調理に油をあまり使わな いという点だ。油をあまり使わないという原則は、少し緩やかになる 日がある。1カ月に3回ある削髪の日だ。煩悩の象徴である髪をそる ためには、激励が必要なのだろう。アズキ・クリ・ナツメ・松の実な どが入ったおこわ、キノコ・コンブだしのワカメスープ、揚げたキク ラゲの甘酢あんかけ、多彩な野菜と春雨を炒めたチャプチェ、サツマ イモを揚げて砂糖で煮つめた大学イモなど、油を使ったおかずが並べ られる。
1. およそ200人の僧侶が修行する比丘尼講院(檀林)でもある雲門寺 2, 3. 学人僧による庫裏 (厨房)での作務。お茶の葉を干し(2)、 竈王神が見下ろす台所で火をおこして釜でご飯を炊く(3)。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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山中の真理は山中に留まらない。心を込めて作られた精進料理とそれを食べる作法の鉢盂供 養が、韓国だけでなく世界中の人たちから関心を集めているのは、そうした儀式の教える意 味が深くて大きいからだろう。
献立は、寺院の畑の作物と布施の食材で決められるが、伝統的な
伝統と現代化
料理ばかりではない。低学年の学人僧は、朝の供養も十分に喉を通ら
きれいに並べられた醤油や味噌のかめは、寺院の美しい風景の一
ないことが多い。消化しやすい軟らかい料理でも同様だ。出家以前と
つだ。日差しを受けて輝く大小様々なかめは、味噌、唐辛子味噌、醤
は全く異なる日課の影響も大きい。寺院の全ての僧侶が参加するウル
油、柿酢、塩など、その中身と醸造日の書かれた札が一つ一つかけら
リョクの日になると、作務の合間に麺類、餅、パンなどの軽食が出る
れている。味噌玉麹を作ったり寺院の大きな行事でスープやご飯を炊
こともある。空腹を紛らわすのは容易でない。そんなときには、布施
くのに使われる大きな鉄釜も、目も見張るものがある。味も姿形の美
の餅を切って甘辛く煮たトッポッキも作る。小麦粉のドウを使わず、
しさも、素早く手軽に料理する今風の厨房とは比べ物にならないほど
ご飯でピザも作る。ご飯をたっぷり敷いた上に残りの野菜をのせるの
素晴らしい。
で、西洋のピザよりも分厚い。
寺院のそばの川沿いに建てられた倉庫にも目を奪われる。低温冷
一緒に暮らしているため、風邪など感染力の強い病気がはやると
蔵庫のある倉庫には、学人僧が毎年、何千株も漬けるキムチや粉トウ
大変なことになる。そういうときは、秋に収穫して干しておいたコウ
ガラシなどが保管されている。秋に収穫して干したトウガラシ、ダイ
タケ・モヤシ・ダイコンなどの熱いスープを飲む。シナモン茶やショ
ズ、ゴマ、エゴマ、カボチャ、五味子、そして山や野原に自生する薬草、
ウガ茶も風邪に効く。伝統的な方法として、モヤシと飴を数日間、暖
山草、サンショなどの香辛料は、風通しの良い倉庫に保管する。ダイ
かい場所において、その黄色い汁を飲んで風邪を治す寺院もある。寺
コン、青トウガラシ、ツルニンジン、梅の実、レンコン、キノコ、エ
院で「茶」といえば、茶葉だけではない。寺院の畑や山でとれたアマド
ゴマの芽などを醤油、唐辛子味噌、酢に漬けた漬物を保管する涼しい
コロの根、ダイコン、キクイモ、ナズナ、ナツメなども干して煎じた
場所もある。それらは全て清潔に管理されており、雲門寺の厨房のあ
り、お湯で沸かして飲む。
り方を物語っている。農具、長ぼうき、野菜かご、座椅子、長靴など
「米一粒の布施の恩を量るなら、その重さは七斤になる(一米七
意外な物も一列に整頓されている様子は、見る者を微笑ませ、厳粛な
斤)」といわれる。庫裏の生ごみは、落葉、雑草、おがくず、灰、東
気持ちにもさせる。「己の足元をよく見よ(照顧脚下)」という教えは、
司(お手洗い)の排泄物などと混ぜて1年ほど発酵させると、畑の肥
お堂の前できちんそろえられた白いゴムの下履だけでなく、そうした
料になる。
場所でも実践されている。
1. 味噌玉麹作り。寺院で使われる味噌や醤油を作る 工程の一つ 2. 朝の鉢盂供養。沈黙の中で行われる厳格な修行 1
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韓国の文化と芸術
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しかし、寺院のそうした風景が、現代社会の流れに逆らってどれ
うが、実質的に雲門寺を取りまとめているのは住持の一真僧侶だ。一
ほど続いていくのかは分からない。時代の変化に伴って、宗教団体が
真僧侶は、学人僧に華厳経を教える教授でもある。雲門寺の取材の
学人僧に求める科目も大幅に増え、出家者は年々減っている。出家者
日、用事があってソウルに行っていた一真僧侶の帰りを待っていた。
の平均年齢も今では30歳台後半と大きく伸びている上に、出家前に労
夕方に戻ってきた一真僧侶は、市場に寄ってきたから少し遅れたと
働する力を鍛えたことがないため、供養の準備も6000坪にもなる畑の
言った。私は驚いて聞いた。「住持が買い物もなさるのですか」。一真
農作業も手に余るほどだ。雲門寺でも新しい厨房を用意しており、じ
僧侶は笑って「住持にも、いろいろあるんですよ。私は祖室(指導者)
きに移る予定だという。新しい厨房には、伝統的な釜の代りに近代的
ではなくて、院主(総務)のような住持だからです」と答えた。一真僧
なガス炊飯器が備え付けられ、食器洗い機もある。学人僧が作ってい
侶は、伝統は守っても度が過ぎてはならないと考えている。問題は避
た献立も、外部(俗人)の栄養士に任せようという意見もあるという。
けて通らず、現実的に解決すべきだという信念を持っており、気さく
寺院での様々なことは、年配の僧侶やそれぞれの責任者と話し合 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
で先進的だ。(翻訳:坂野慎治)
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特集 5 仏教寺院で修行生活
大雄殿
象徴、仏像、仏画 韓国の寺院の大雄殿は例外なく、仏様や菩薩以外にも多くの護法神や仏弟子、さらには地元の民間信仰 の神様まで集まっている華やかな神殿だ。そうした仏神は、繊細に彫刻された仏像や精魂を込めた仏画 などで再現されており、見る者を霊的に感化して究極的には悟りと極楽の境地へと導く。 ブライアン・ベリー(仏画師)| 写真 : 安洪范, 朴寶夏, 河志權
「A
-SPICE! もう、うんざりだ。頭文字は、いいかげんにしてくれ!」 。 あなたは、こんなふうに声を上げるかもしれない。
毎年、1千万人以上の観光客が訪れるテンプルステイ(宿坊)プログラムが脚光を浴びており、 韓国のいくつかの有名な寺院は、さらに多くの外国人から関心を集めている。だが、特に大きな寺 院では、時には頭がくらくらするほど多くのお堂、仏像、仏画、そして付属施設がある。それに接 した外国人は、寺院を訪れる前よりも、さらに困惑したままプログラムを終えていく。
Aは雰囲気(英語のAtmosphereから) 地元の仏教信者でも観光客でも、寺院を訪れる目的は、その全てを一度に理解するためにある わけではない。もちろん、直感的に素早く理解できる人もいるだろうが…。訪問の目的は、むしろ 外部とは異なる雰囲気やそれぞれの寺院の独特な感覚に浸り、ただ座って瞑想したりストレスを解 消したり、あるいは仏様に供養したりすることにある。世界のどの宗教の寺院でも同じだろう。 寺院の細部にまで好奇心を持つのは、概して海外からの訪問客か、その国に住んでいる外国人 だ。そうした好奇心を満たすため、まずは世界の宗教の寺院の共通点について考えてみたい。その 上で、韓国ならではの特徴を知ることが、韓国の寺院を少しでも分かりやすく理解する方法だ。 まず、全ての宗教の寺院は、それ自体が独特な雰囲気を持っている。その雰囲気は、寺院の建 築様式から影響を受けることが多い。イスラム教の寺院のまばゆいほど美しいドーム、途方もなく 大きなプロスタントの教会、カトリックの大聖堂の高い天井、宇宙の子宮を内包しているような仏 教の寺院。それら全てが、それぞれの宗教の寺院の独特な雰囲気を醸し出す一つの要素になってい る。 多くの場合、芸術品も雰囲気を醸し出すのに欠かせない存在だ。以前、仏像だけがあって仏画 のない新しいお堂を訪ねたことがある。シンプルで優雅だったが、少なくとも私には、どこかむき 出しな感じがした。もちろん、禅の瞑想家には気に入られたに違いないが…。その2カ月後、私が 泉隠寺(全羅南道求礼)極楽殿の 「阿弥陀後仏幀画」 (1776年作、宝物924号) 阿弥陀如来が極楽浄土で説法する 姿を描いている。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
もう一度訪れたときには、お堂に仏画が安置されて完全に異なる世界になっていた。温かく活気が あふれて魅惑的だった。私たちは、そのような華やかな色彩の芸術品を通じて、韓国の寺院の大雄 殿をいっそう理解する。仏像などの芸術品が、多くの訪問者の目を引く。
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スパイス(SPICE)で味覚を刺激 話を頭文字に戻そう。今度は、スパイス(SPICE)で味覚を刺激する。一般的に建築、彫像、絵 画などの宗教芸術は、雰囲気を醸し出すだけでなく、その他にも様々な目的がある。つまり、神聖 にし(SanctifyのS)、保護し(ProtectのP)、インスピレーションを与え(InspireのI)、慰め(Console のC) 、そして最後に教訓を与える(EducateのE) 。こうして、SPICEになるわけだ。世界のどこへ行 くにしても、スパイスだけは覚えておこう。 韓国の寺院には、本当に多種多様な仏像と仏画がたくさんある。それらの目的を解析すれば、 どんな宗教の寺院を訪れても、理解がはるかに容易になるだろう。例えば、大雄殿の須弥壇に安置 されている仏像は、寺院を神聖にしている。仏様や菩薩を描いた仏画も同じだ。仏像と仏画は、保 護してインスピレーションを与え、慰めと教えをもたらす。その他の仏画は、戦略的に大雄殿の両 側にある神衆壇と霊壇に安置されている。そうした仏画も、インスピレーションを与えて教えをも たらすなど、それぞれに役割を果たしている。
須弥壇 大雄殿(本尊は寺院によって多少異なる)は伝統的に 長方形で、前面と両側面に扉がある。前の扉は、高僧 と祭壇のお供え物を運ぶ僧侶が使用する。 須弥壇は、お堂の中央に設けられており、そこに安 置された仏像と上段の仏画は、修行者にとって畏敬と 礼拝の対象になる。この須弥壇には、仏様や菩薩の他 にも香と香炉、燭台、米や果物など様々なお供え物が 置かれる。 小さめで人間大の仏像は、一般的に瞑想を修める 禅仏教の影響を受けている。大きな仏像は、大乗仏教 の華厳経の影響であり、強調によって畏敬とインスピ レーションをもたらす。仏像を支えるように重要な役
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割をするのが、その後ろにある仏画で、普通は須弥壇 1. 鳳停寺(慶尚北道安東)大雄殿の須弥壇 その右に、護法神の仏画を安置した神衆 壇が見える。 2. 124の護法神が描かれた海印寺 (慶尚南道陜川)の仏画の一部。護法神は 様々な表情をしている。 3. 水月庵(ソウル市城北区)霊壇の 「甘露幀画」
の仏像を投影している。例えば釈迦仏が中心にあるなら、須弥壇の後ろの仏画も、釈迦が大乗仏教 の重要な経典である法華経を説く姿が描かれており、その周りを護法神、菩薩、仏弟子などが囲ん でいる。阿弥陀仏(無量光仏)を描いた仏画は、阿弥陀仏像の後ろにあるという具合だ。須弥壇の前 には説法のための壇があり、1日に3回行われる念仏の際に経典を置く小さい机もある。 韓国の須弥壇の仏画は、驚くほど多彩だ。多くの仏画は数百年前のもので、いくつかは国宝や 重要文化財に指定されている(韓国の国宝や重要文化財のうち約80パーセントは仏教関連)。研究 と後世のため、全国の曹渓宗の寺院にある仏画を写真で記録した10年にわたるプロジェクトが、40 冊の『韓国の幀画(仏画)』として仏教文化財研究財団から出版されている。
神衆壇 大雄殿の両側面には、神衆壇と霊壇が向かい合っている。壇の位置は、寺院によって違うこと もある。この二つの壇の重要な要素は仏画であり、仏像が置かれることは少ない。 神衆壇の仏画は、朝鮮時代(1392~1910)の仏教弾圧によって生まれた。それ以前の護法神は、
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韓国の文化と芸術
国を守護する役割を担っていた。外部からの侵入を防いで国を守るため、全国各地に建てられた塔 にも彫られていた。だが儒教が力を得ると、仏教的なものは寺院に限られるようになった。そのた め、国を守護する盾としての仏教的な概念と機能は、寺院、仏法、修行者の保護という意味に限定 されていった。護法神の絵は、そうした保護の概念を表現する新しい方法として盛んになり、発展 してきたのだ。そして、それらの絵は、最も興味深い寺院の仏画の一部になった。 最も大きな神衆壇の仏画は、一般的に104の護法神を表している。海印寺のものは、例外的に 124だ。 104より少ないものが多く、寺院の大きさに合わせて決められる。そうした仏画は、バラ モン教の影響を大きく受けている。実際に仏教は、バラモン文化の中で生まれた。仏教によると、 全ての神々と天部の神は、仏に救いを求めたという。シヴァの息子であ る若いスカンダ(韋駄天)が、護法神の中心として真ん中に描かれており、 羽のついた帽子をかぶっている。スカンダが本来、バラモン教で戦争の 神として鎧を身に付けていることから、朝鮮時代に変容したものだ。光 背を負ったインドラ、ブラフマー、時には目が三つあるシヴァが、その 上に描かれている。そうした点が、護法神の仏画を興味深くさせている。 インドの文化と宗教が、中国を通じて韓国に入ってきた痕跡がうかがえ るからだ。韓国の護法神の絵には、大きさに関わらず、韓国の人なら誰 もが好きな三つの絵が含まれている。立派なひげをたくわえた龍王、竈 王(台所の神)、山神だ。 ここで興味深いエピソードを一つ。初の外国人仏画師を目指して門人 となった私は、好奇心と熱情を傾けて、できるだけ多くの情報を収集し ようとした。まだ知られていない伝統を外部に伝え、国際的な仏教研究 を活性化するべきだという義務感を持っていたのだ。私は、護法神の仏 画に出てくる104の神々の正体を突き止めて、その名を翻訳しようと決心 した。だが、情報を得るのは簡単ではなかった。人々は無関心で「そんな ことを調べて、どうするつもりだ?」という反応だった。そこで、自力で 華厳経などの重要な資料を研究しようと計画した。 そんなある日、夢を見た。 私は夢の中で、霧に包まれた明け方、大雄殿の庭をほうきで掃いてい た。すると突然、スカンダがお供を連れて霧の中から現れた。あまりに 驚いたが、礼を尽くして「どうして、私のところにいらしたのか」と尋ね た。するとスカンダは、とても慈悲深く「仏画の人物を全て知ろうと苦労
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せずともよい。皆を一つの集合体と考えよ」とおっしゃった。そして、ス カンダとそのお供は、一斉に背を向けて霧の中に歩いていった。 翌日、今は故人になられた仏画の師である萬奉僧侶に、工房で夢のことを話した。師は、大き く口を開けたまま、目をゴルフボールほどに見開いた。そんな驚いた表情のまま何分か過ぎた後、 師は、こちらに体を寄せて小さな声でおっしゃった。「護法神の正体を知ろうとしない方がいい。
1. 海印寺の八相図(釈迦の生涯を描いた 絵)のうち、6番目に当たる「樹下降魔相 (降魔成道相)」。釈迦が菩提樹の下で悪魔 をはねのけて、悟りを開く姿が描かれて いる。 2. 海印寺の大雄殿の丹青と壁画
ご自分の名前が繰り返し唱えられることを望まないようだ」と。 そうして、私の研究プロジェクトは幕を下ろした。 神衆壇には、時として仏画以外の絵もかけられる。例えば、長寿を象徴する北斗七星や大蔵経。 あるいは珍しい例として、寺院に山神堂がない場合は山神の絵など。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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私たちは、華やかな色彩の芸術品を通じて、韓国の寺院の大雄殿をいっそう理解する。仏像 などの芸術品が、多くの訪問者の目を引く。一般的に建築、彫像、絵画などの宗教芸術は、 雰囲気を醸し出すだけでなく、その他にも様々な目的がある。
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韓国の文化と芸術
霊壇 神衆壇の向かい側の壁にある霊壇は、葬礼と薦度斉(供養法事)に使われる。大きな寺院は、そ うした目的のために冥府殿を設けていることもある。霊壇の目的は、去る者と残された者を慰める ことにある。また、非常に教育的でインスピレーションを与える機能もある。
1. 妙香寺の新世代仏画(ムン・ボンソン 作) 2. 妙香寺の新世代仏画「パソコンする仏 様」 (ムン・ボンソン作)。横になってパソ コンを見る現代人の日常が、仏像に投影 されている。
追悼祭は、他の宗教でも伝統的に行われてきた。仏教における追悼祭の目的は、霊魂を段階的 に高い存在へと導いて、最終的に解脱の境地に到達させることにある。これは死後二日目に始ま り、死亡日を含む七日後、その後は七 日ごとに祭祀を行い、四十九日目には新しい存在に生まれ 変わる四十九斉(四十九日) を行う。それ以降は、1年後と2年後に祭祀を行うことで、合わせて10 回になる。その先は、それぞれの家庭の裁量による。家に良くないことが起きた場合、万が一にも そうした不幸をもたらし得る成仏できない先祖の霊を慰めるため、いつでも薦度斉を行う。 一般的に霊壇の中心的な仏画であり、驚くべき絵として、永生を象徴する「不死の霊薬」がある。 こちらの仏画も、数百年前にさかのぼる。基本的な構図は、下の3分の1は地獄、動物、餓鬼、人 間、巨人など知覚のある存在の段階。中間は、高い存在へと向かう薦度の儀式。上部は、最も高い 段階である仏様と菩薩の境地、すなわち悟りと極楽の境地を描いている。 絵の中で真っ先に目を引くのは、とても大きな二人の餓鬼。下部の中心であり重要な描写とし て、人間の欲望を象徴している。人間の領域は特に興味深く、非常に韓国的な特徴を見せている。 朝鮮時代の日常生活を描写しており、曲芸、娯楽、酒宴、踊り、市場、格闘、囲碁、ムーダン(巫女)、 そして苦しみの中にいる人たちのユーモアと風刺が描かれている。そうした絵から、当時の服飾や 社会生活をうかがい知ることができる。聞いたところによると、現代の仏画師の中には携帯電話、 スーツ、自動車、パソコン、高層ビルなど、現代の生活を代表する物や状況を描く者もいるという。 もちろん、歌手サイのホース(馬)ダンスを描いたという話は、まだ聞いたことがないが…。霊壇に は、その他に「極楽九品図」など様々な仏画がかけられる。 華やかな色彩と宇宙的な模様で彩られた丹青は、様々な形のハスの花を表している。見る者を 楽しませ、仏法の修行にインスピレーションを与えて、極楽を暗示し、お堂の内外を美しく完成さ せる。お堂の外を彩る丹青は、極楽を見においでと手招きしているようだ。一方、お堂の中の丹青 は、様々な教訓的な絵で壁、垂木、梁、天井を彩っている。 こうして見ると、スパイス(A-SPICE)は、それほど悪くはなさそうだ。(翻訳:坂野慎治) K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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文化フォーカス
急変する漫画の世界で 健闘する韓国漫画
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第40回アングレーム国際漫画フェスティバルの「デジタルで遊ぶ」展に於いて、韓国はウェ ブトゥーンに代表される韓国ならではの独特のデジタル漫画のあり方を紹介する特別展を 開き、世界の漫画市場の未来を提示した。 パク・インハ(韓国漫画特別展キュレーター、青江文化産業大学校教授)
今
年初め、フランス南部のアングレーム市にあるサンマーシャル広場で開かれた375㎡(約113坪)規 模のアングレーム国際漫画フェスティバルの展示場の壁面に「漫画を超えて(Au-delà de la bande
dessinée)」というタイトルが貼られていた。韓国の特別展のタイトルである。 10年前に同フェスティバル で「韓国漫画のダイナミズム」というテーマで主賓国(Guest of Honor)特別展を開催して、当時まだヨーロッ パではほとんど知られていなかった韓国漫画の魅力を披露した韓国だが、今回は「韓国漫画」の代わりに普 遍的漫画を意味する「バンド・デシネ(bande dessineé)」を前面に打ち出した。 10年前にこのフェスティバルで、韓国は生まれたばかりのデジタル漫画を紹介するにとどまったが、そ れから10年間で、デジタル・プラットフォームという新しい体系では当時は想像もできなかった大きな変
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韓国の文化と芸術
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化があった。したがって、今回の特別展では他の国では見当たらないデジタル・プラットフォームを用い た漫画体系に注目した。「デジタルで遊ぶ」というサブ・タイトルで用意したウェブトゥーン展示のことで ある。フラッシュ技術やHTMLタギングを活用して動きや音響効果を取り入れた漫画や、スクロール方式 に適した新しい表現が見られた作品、そして、専門家や市民が参加した作品を選んで大型モニターやタブ レットPCを通じて鑑賞できるように工夫されていた。
第40回のアングレーム国際マンガ フェスティバルで開かれた「韓国マ ンガの巨匠展」に参加した二人の代 表作である主人公のキャラクターた ち。イ・デゥホの〈イム・コッジョ ン〉の主人公(左側)とキム・ドンファ の〈キーセン(妓生)物語〉 (下)に出て くる主人公たちのキャラクターであ る。
「デジタルで遊ぶ」 フランスの観覧客らは画面の中のお化けが突然、後ろを振り向いたり(「奉天洞お化け」)、「ディンドン ~」という呼び鈴の効果音が挿入されていたり(「騎士道」)、漫画の途中に突然アニメが登場する(「コンスタ ンツ物語」)など、韓国のウェブトゥーンが提案する新しい表現方法を思う存分楽しんでいた。 特に団体で展示館を訪れた青少年の反応が熱かった。アングレームに近いアリタングから生徒たちを引 率してきたアンヌ・マリ(40)さんは、「パソコンの画面の中で縦軸に続く漫画を見たのは新しい経験だっ た。映画を見るような臨場感があり子供たちはもっと楽しんでいるようだ」と話していた。 デジタルを通じた新しい読書経験を提案するウェブトゥーン展示について、フランスの〈l'Express〉は「世 界で初めて韓国が作って、韓国に割り与えられたこの空間に対する好奇心を刺激するウェブトゥーンが、 断然際立つと紹介した。 実際に出版漫画大国であるフランスでも、だんだんデジタル漫画に対する関心が高まっている。昨年5 「デリツテゥン (Delitoon.com) 」 がオープンした。 月にフランス語圏初のウェブテゥン・ポータルサイト フランス語圏最大の漫画出版社であるカステルマンの編集長で、デリトゥーンの運営も任されてい るディディエ・ボルグ (45) さんは 「ヨーロッパでも自分のブログなどにウェブ漫画を披露する若手作家 が多い。その中で優れた作家たちがデリトゥーンで連載を始めた。これは韓国のウェブトゥーン・システム に倣ったもの」 と語った。さらに3月からは、同サイトで韓国のウェブトゥーン作家の作品も紹介されている。
急変する漫画体系 韓国の漫画は過去10年間の間に、従来の出版プラットフォームの縮小や新しいデジタル・プラット フォームの拡大という劇的な変化を経験してきた。その変化は見方によっては、非常に激しいもので あったり、あるいは春雨に濡れていくように自然に進められた。激しい変化を経験させられた人々と は、出版プラットフォームの縮小のあおりで連載誌面が無くなった雑誌・単行本プラットフォームの 参加者たちであったり、市場ごと無くなってしまった漫画ルームの関係者たちであった。一方プラット フォームの変化に順応した人々は一般読者たちだった。一般の読者たちは自ら消費しやすいPCやスマ ホをもっていつでも消費が可能なデジタル・プラットフォームを選択した。 その結果は実に大きなものであった。韓国は世界で漫画の主要な消費国になった。ウェブ(web)と 漫画(cartoon) を組み合わせた新造語であるウェブトゥーン、つまりインターネット漫画がデジタル・ プラットフォームを基盤に急成長したためだ。インターネット利用実態調査(放送通信委員会と韓 国インターネット振興院)によると、韓国の全世帯の中でインターネットにアクセスできる世帯の 割合は2002年49.8%から2012年には82.1%に増えた。 2012年7月現在、3歳以上の国民のインター ネット利用率は78.4% 。年齢別に見る10~20代のインターネット利用率は99%を超える。さらに、 6歳以上の人口の63.7%がスマホ及びスマート・タブレットなどのスマート機器を持っている。 韓国人のほとんどは日常生活の中で、超高速インターネットにアクセスして情報を得ている。 ただ、インターネット・ユーザの73.5%がネイバーというポータルサイトを、そして20%はダ K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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「コミック・ジャーナル」は韓国漫画映像振興院が韓国の漫画読者向けに製作したモバイル・ アプリケーションである。韓国漫画映像振興院が選定した「韓国漫画名作100選(Korea Comics 100 Anthology)」のリストや簡単な紹介などは英語にも訳されている。
ウムというポータルサイトを利用する点は面白い。ネイバーとダウムというポータルサイトのシェアが 93.5%にものぼる。このシェアを維持するために、ポータルサイトは様々な情報を「無料」で提供している が、その無料コンテンツの中には韓国人が日常的に消費しているウェブトゥーンが含まれている。 2000年 以来10年間、着実に成長してきたウェブトゥーンは2012年12月現在、週間単位の更新が、ネイバーが145 回、ダウムの漫画の中の世界は108回アップデートされる。二つのポータルサイトに連載されているウェブ トゥーンだけでも毎週、計253回の新作が掲載される。オフラインで発行される漫画雑誌に10~15作が連 載されるのが普通だが、最大25冊、最小17冊に当たる量の漫画が提供されているわけだ。 手軽に漫画を消費できる環境が整ったことをうけて、漫画を創作する人々も増えた。現職の警察官、教 師など、専門職に就いている人々が自分の話を漫画を通して伝えている。例えば、〈ポル・ストリー〉は「ポ リス・ストリー (Police Story) 」 の略語であり、2007年に連載し始めたキョン・ヒョンジュ警長の個人的経験 を描いた漫画は、大衆的に人気を得て、警察庁の公式ブログである 「ポルインラブ」 に連載されることになっ た。また、SERIの〈受験生トゥーン〉は先生になるための国家試験を準備する自分の経験を描いた漫画だ。 その後、国家試験にパスして先生になった彼は、教師の生活を描いた 〈セム・トゥーン〉 を連載している。
韓国漫画に漫画の未来を視る さらに今回の韓国漫画特別展にはフランス語に翻訳され、読者から愛されてきたイ・ドゥホとキム・ド ンファの作品世界に対する探求(「韓国漫画の巨匠」展)と、2000年代以降に登場した作家主義が見られる13 人の作家の紹介(「新しく見て語る」展)を通して、伝統に基づいた新傾向も紹介された。作家の内面や古い
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韓国の文化と芸術
1. アングレーム市内の真ん中に位 置したサンマーシャル広場(Place Saint-Martial)で開かれた韓国マン ガ特別展の展示館。「漫画を超えて (Au-delà de la bande dessinée) 」と いうハングルのタイトルがかかって いた。 2. 今回の特別展に参加した作家た ちが現場で描いたアングレームの風 景が日替わりに展示された。関心を もって眺める観覧客たちの姿
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記憶を打ち明けたり、漫画家としての自分と向き合ったり、家族関係に執着したり、歴史と向き合ったり、 隠された現実をドキュメンタリー形式を借りて探求するなど、実に多様な見解が見受けられた。フランス の観覧客に独特な感情を与えた韓国の文芸主義漫画作家たちが見直される機会になったことが、現地の反 応から分かった。いくつの作品は現地への輸出契約にまでつながった。 漫画を欧米ではcomics、フランス語ではbande dessineéと言う。そして、1990年代以降、日本の漫画は 日本語の発音通りに 「マンガ (manga) 」 になった。韓国の漫画はスタイルが似ていたことから、外国で 「マン ガ」と呼ばれた。ところが、2003年第30回のアングレーム国際漫画フェスティバルへの参加がきっかけと なって、韓国漫画の著作権が海外に輸出されることになり、 「漫画 (Manhwa) 」 という独自の用語を世界に向 けて積極的に発信することになった。その取り組みの結果、過去10年の間に、世界の漫画市場で韓国漫画 (Korean comics) を指す用語として漫画 (manhwa) が受け入れられるようになった。例えば、カン・ドハの 「グレート・ギャツビー」、「ロマンス・キラー」、キム・ドンファの「黄土色物語」、カン・プルの「タイミン グ」 、 「アパート」 などを 「Hanguk」 というブランドで出版してきたフランス語圏最大の漫画出版社、カステル マン (casterman) にしても、 「韓国漫画 (bande dessinée coréenne) 」 と漫画 (manhwa) という用語を併用して いる。 今回の韓国漫画特別展は「韓国の漫画」ではなく、「バンド・デシネ」をタイトルとした。今日、デジタル 化しつつあるメディアとしての漫画の未来像を提示することに韓国はうってつけであり、韓国漫画の現在 を通して「普遍的」漫画の今日と明日を見通すという企画意図がうかがえるタイトルであった。 今年3月、「コミック・ジャーナル」の登場によって韓国の漫画は内外におけるデジタル流通と読者層の 拡大に向けた新しい足場を確保した。「コミック・ジャーナル」は韓国漫画映像振興院が開発した韓国漫画 の読者のためのモバイル・アプリケーションである。名作から最新作にいたるまで、様々な漫画レビュー、 新作情報、漫画家のインタビューなどの内容が盛り込まれていて、ウェブトゥーンの作家たちのソーシャ ル・ネットワーク・サービス(SNS)にも簡単にアクセスできる。さらに、韓国漫画映像振興院が選定した 「韓国漫画名作100選(Korea Comics 100 Anthology)」のリストや簡単な内容は英語でも紹介されている。 韓国漫画はこれからも「普遍的」漫画の未来を切り開いていくことができるのか。これは「デジタルで遊 びながら」育つ新世代の肩にかかっている。(現場スケッチの一部は中央日報のイ・ヨンヒ記者の記事の内 容を引用している) (翻訳:趙祥恩) K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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インタビュー
春川マイムフェスティバル パントマイムのパイオニア 柳鎭奎
マイム劇「空手」の一場面。クッを する巫女のように両手に包丁を手 にしたユ・ジンギュが「空手来 空手去 是人生」の言葉を全身で 表現している。
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韓国の文化と芸術
毎年5月になると、湖畔の都市・春川は祝祭で賑わう。パントマイミストのユ・ジンギュ (柳鎭奎)さんは「春川マイムフェスティバル」を25年に渡って支えてきた。彼の舞台が観光 客と一体化することで発展してきたのだとしたら、このフェスティバルは「市民浸透型」の 祝祭として進化を重ねてきた。 キム・ジュンヒョ(金重孝、啓明大学教授、演劇評論家)| 写真 : 安洪范
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68年、ドイツ人のパントマイミスト ロルフ・シャレ(Rolf Scharre)の韓国公演を見た一人の高 校生は一言の言葉も発せずに2時間の間観客を虜にしたその公演に深い感動を覚えた。大学の獣
医学科に進学したこの青年は1971年に劇団「エジェット」のワークショップに参加し、それからは学校の勉 強は放り出しひたすらマイム専門の俳優の道を歩き始めた。サロンの舞台に立った1989年5月、彼が中心 となりソウルの「空間小劇場」で第1回韓国マイムフェスティバルを開いた。それが現在まで25年間続いて おり、今や韓国の代表的な祝祭であると共に、世界的な祝祭となっている。彼の個人史イコール、韓国マ イムの歴史だと言っても言い過ぎではない。
マイム、それ以後 金重孝:2009年の「赤い部屋」は柳鎭奎の作品世界が“マイム、それ以後”になる信号弾だったと記憶して います。続いて「白い部屋」 「黒い部屋」など、一連の色彩のある部屋シリーズを33年に渡って発表しまし た。連作シリーズを企画した意図は何だったんですか? 柳鎭奎:「部屋」シリーズをすることになった契機は実はおかしなことでした。あまり知られていない話 ですが---昔から悩んでいました。それまでは舞台で体だけで見せるマイムをしてきたとしたら、これから は別の方法を考えるべきではないかとの悩みでした。ちょうどその頃、交通事故にあい6ヶ月以上入院す ることになりました。手術をした後なので身動きのとれない状態で「この状態でマイムをするにはどうすれ ば良いか?」を考えました。そして「自分が動けないなら観客を動かせば良い」というアイデアがひらめきま した。退院して劇場ではない展示場(寛勲洞仁寺アートセンター)で「赤い部屋」を発表しました。観客が1 分に1人ずつ入場し、数個の空間を順に通り過ぎ最後の部屋に座っている私と出会うことになります。観 客は行為者であり、同時に観察者にもなるわけです。私はやってきた観客にご苦労さまでしたという意味 でお茶とワインを勧め一緒に飲みました。「赤い部屋」は一言で言って“舞台とは公演者が観客に何かを見せ る場所ではなく、決められた時間と空間の中で何かを一緒に悩み解決する空間”だという概念を「部屋」を媒 介にして具現化した設置公演でした。「部屋」シリーズはその延長線にあります。考えてみると私のマイム の世界が進展した決定的な契機には身体的な不自由さにあったことになります。 1997年に脳腫瘍の診断を 受けたときもそうでした。「自らの我執と欲望の塊により脳腫瘍が生じたんだ」という反省の中で病を治療 し、自らの欲を空にする作業として『空手』 (1998)という作品を発表しました。
春川の地に根を下ろした理由 金:ソウル生まれで、マイムの活動もソウルで行っていたのが突然春川に移りましたよね? 柳:1970年の初めから10年間、マイム作品を一生懸命に発表しました。そして自分のしていることが「虚 しい」と思うようになりました。意味の無い行為はやめて平凡に生きたかったんです。それで1981年に春 川に行き牛を育てました。多いときには38頭の牛を育てていました。政府が畜産奨励金を支援してくれた 時だったので可能でした。しかし牛肉価格の暴落が起きました。それで畜産業を辞めて江原大、翰林大の K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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1 今年の春川マイムフェスティバルは 「市民浸透型」にするという計画に従い スタッフと一緒に現場図面を見ながら 相談するユ・ジンギュ芸術監督 2. 春川の都心に水爆弾を破裂させ、 フェスティバルの幕開けを告げる 「あっ!水ラジャン」は体を清めると 言う意味もある。 3. 2010春川マイムフェスティバルの 閉幕公演の場面
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前にカフェを開きました。 1987年末、私が劇団「エジョト」で活動をしていたときに非常に熱心な 文化部の記者の方が春川までたずねてきて「韓国のマイム界の1世代ではないか、貴方が今マイム の世界に戻ってこないと韓国からマイムが無くなってしまう」と言って、またマイムを始めるよう に勧めてくれました。そのおかげで1988年に復帰公演を行うことができました。この公演で5人 のパントマイミストがまた集まり、せっかく集まったのだからとマイムを公演のジャンルとして認 めない風土を変えるようなマイムフェスティバルを始めることにしたのです。第1回「韓国マイム フェスティバル」開催の背景です。そうして2回目から春川に舞台を移して現在まで続いているの です。 金:春川マイムフェスティバルは英国のロンドンマイムフェスティバル、フランスのミモスマ イムフェスティバルと共に世界三大マイムフェスティバルと言われていますよね。 柳:ロンドンマイムフェスティバルが劇場中心で行われ興行面を追及するとしたら、フランス 南部の小都市で行われるミモスマイムフェスティバルは多彩な空間を活用する芸術中心の行事で す。それらと比較すると春川マイムフェスティバルはナンジャン(乱場)が中心となる祝祭です。夜 を徹して乱場のドンちゃん騒ぎをする祭りなのです。マイム公演だけではなく、多彩なスタイルの 公演をしていることも春川マイムフェスティバルの特徴です。このような特徴が西欧のマイムフェ スティバルとは違う点です。ロンドンとフランスの二つのフェスティバルの芸術監督が春川マイム フェスティバルにやってきたことがありました。あまり期待しないで来たのか、フェスティバルの 規模を見て非常に驚いていました。フェスティバルの期間、空間、参加団体の作品数と内容の多様 さに驚いていました。フェスティバルに参加した外国のマイム団体や個人の芸術家の口を通じて噂 が広がり自然と世界的なマイムフェスティバルの一つになったのだと思います。 金:春川マイムフェスティバルの成長過程と主要プログラムについて教えてください。 柳:第1回から第5回まで「韓国マイムフェスティバル」という名称で開催していました。少数の 団体がマイムを公演ジャンルとして認めてもらうために努力していた時期だったので、主にマイム
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韓国の文化と芸術
というジャンルを大衆に知らせるのに注力していた時期でした。6回からは春川マイムフェスティバルと 名称に変えて国際規模の行事に変身しました。ちょうど、韓国に「国際」という修飾語のついた祝祭が増え 始めたときでした。それで「祝祭」という側面にスポットを当てるようになりました。祝祭とは一種のナン ジャン(乱場)、ドンちゃん騒ぎの場なので、それをフェスティバルの核心としたのです。それで夜を徹し ての「トッケビナンジャン」、19歳以下は入場禁止で進行する「狂った金曜日(Friday Night Madness)」、都 心の繁華街で水爆弾を爆発させる「アッ!水ラジャン」などを作るなど、マイムフェスティバルの形態を変 化させる、いろいろなプログラムを試みました。それから「狂わなくちゃ祝祭じゃない(Festival! Must be crazy)」がフェスティバルのスローガンとなりました。マイムに限られた祝祭から、身体を使った多様な表 現様式に参加団体と芸術家の枠も広げました。そうしているうちに国内外900余りのアーティストと100余 の公演団体、そして1000人のボランティアが参加するマイムの祝祭として成長したのです。今年も5月19 日の正午に春川中央路で「あっ!水ラジャン」の水爆弾でフェスティバルの幕を開けます。今年の開幕作は ベルギーのレバレセドラベ劇団の「捨てられた王」です。 2012年のアビニョンフェスティバルで初演され大 きな反響を巻き起こし、アジアでは今回が初演です。
春川の文化アイコンとなり 金:今年のフェスティバル開催会場の選定過程で内紛が起こり、辞意を表明したと聞いていますが。
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韓国の文化と芸術
「春川マイムフェスティバルはナンジャン(乱場)が中心となる祝祭です。夜を徹して乱場のド ンちゃん騒ぎをする祭りなのです」
柳:3月に会場の問題が起きました---。辞意は認 められずまた復帰しました。新しいチャレンジのため にナミソム(南怡島)に会場を移そうという過程で春川 市がブレーキをかけてきました。それでフェスティバ ルのアイデンティティ問題が台頭しました。地域経済 のための祝祭か、それとも芸術性と真のナンジャンを 追求する祝祭か---、その過程で「春川の祝祭なのか、 柳鎭奎の祝祭なのか」と言われてしまいました。それ で問題解決のために芸術監督を辞めると表明したので す。 金:マイムフェスティバルがそれだけ春川の強力 な文化アイコンになっていたので生じた事件だったよ うに感じましたが。 柳:25年間続いてきた春川マイムフェスティバル の現実です。 1995年に祝祭の名称を変更した時から 春川市が積極的に後援をしてくれました。しかし春川 市は国家の財政支援規模に従いマッチファンド形式で 祝祭を支援してくれる後援機関にすぎず、祝祭の主催 機関ではありません。祝祭を成功させるためには開催
2 © 春川国際マイムフェスティバル
空間や財政条件が非常に重要ではありますが、そのような根本的な問題がその間、放置されたままだった こともあり南怡島側の提案を受けたのです。しかし結局、春川でそのまま開催することになり、祝祭とし ての性格を強化するという良い結果を得ることができました。 金重孝:今後の計画は? 柳鎭奎:個人的にはすでにマイムという枠、形式から抜け出したと考えていますが、周囲では既存のマ イムと同一なものと見る傾向があります。「赤い部屋」の公演を準備していた頃の話ですが、“柳鎭奎は今後 マイムをしない” という報道資料を作って配布したところ、マスコミでは “柳鎭奎は今後、マイムをしないと いうマイムをする”と記事にしたほどです。たぶん私がなにをしても、既存のマイムの枠で私を評価するこ とでしょう。しかし私はこれからも観客と交感できる新たな方法を模索するつもりです。春川マイムフェ 1. 韓紙の後ろに裸で立ったユ・ジ ンギュがまるで影絵劇のようなパ フォーマンスをしている。彼は技量 よりは精神的な自由のマイムを目指 している。 2. 19歳以下入場禁止で行われる 「狂った金曜日」の一場面。2012年の 参加作のシュバカプロダクションの 設置作品「黒龍劇場」
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スティバルを祝祭らしい祝祭としてリードしていく努力も怠らないつもりです。サッカーの韓国サポー ター 「赤い悪魔」 にも現れているような韓民族のお祭り気質をナンジャンに昇華させていきたいと思っていま す。海外の公演団体やスペクタクルな作品を招くことよりももっと重要なことは私たちの体の動き、私たち のマイムを発展させることです。例えば、都市のど真ん中で行う 「あっ!水ラジャン」 を浄化のための体を清 めるナンジャンにしていくことなどが、私の方向性を物語っていると言えます。 (翻訳:金明順) 2013春川マイムフェスティバル公式サイト http://www.mimefestival.com/main.asp
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巨匠
韓
国は比較的小さな国だが多様な気候と地形
かな色模様が花のように美しいことから、昔から
的な要素を備えているので植物の種類が
このような名まえで呼ばれてきた。
豊富で、長い間米作を中心とした農耕文化を作り
質の良い莞草を選び、いろいろな段階を経て
上げてきた。そのため草と藁で作る工芸品「草藁」
一つの工芸品に仕上げるまでには60万回くらいは
が発展してきた。莞草、コガマ、チガヤのような
手をかける必要があるというほど、手間のかかる大
草類と、稲、麦、小麦、粟などの穂をとった残りの茎
変な仕事だ。そのため多くの職人は花紋席か生活用品のどち
である藁を利用し、花茣蓙、箱、簾、篭など、いろいろな生活用品を
らかに力を注いでいる。しかしソウル特別市の無形文化財第16号、草
作ってきた。その中でも莞草で作った茣蓙「花紋席」は夏の代表的な生
藁匠ハン・スンジャ(韓順子)さんは花紋席と生活小物の二つの分野を
活用品だった。莞草で作った茣蓙は肌に当ると涼しく、通気性も良い
共に扱っている。
上に、適当な弾力もあるので座敷文化にピッタリだった。 莞草は弾力面では稲藁と同様で、涼しさでは竹に負けないうえに、
莞草、私の運命
滑らかさと丈夫さでは稲藁に勝っている。それは稲藁は毛羽立ちやす
今年67歳になる韓順子さんは莞草の名産地としてはもちろん、そ
く、硬い竹は長い間座っているにはあまり適当とはいえないからだ。
の工芸品で名高い江華島で生まれ育った。彼女の5代前の高祖父は江
莞草工芸の技術は大きく分けて、手だけで編んでいく方法と器具
華の出身で大地主だったが、莞草を扱う技にも優れその技術は曽祖父
を利用する方法の二つがある。手で編む方式では箱、篭、座布団など
に受け継がれた。男たちがしていた莞草工芸が女たちに伝授されたの
を製作する。器具を利用する方法にはチャリトゥルと呼ばれる茣蓙編
は3代目に引き継がれてからだった。韓順子さんの祖母がその父から
み用の器具に莞草をかけて生糸を結んだコドレッドルという石を垂ら
技術を受け継ぎ、さらに韓さんの母に、そして5代目の彼女へと技術
して作業をしていく「チャリ方式」と、トットゥルと呼ばれる器具に横
が伝承されてきたのだ。韓順子さんには息子が二人いるが、二人の息
糸をかけて長い針に通したチャリ石を入れながら筬で押さえて整えな
子は共に母の跡を継いで草藁匠の道を歩んでいる。つまり、韓家の草
がら編んでいく「トッチャリ(トゥンメ)方式」がある。「チャリ方式」
藁匠の命脈はまた男性の手に戻って受け継がれたことになる。
だと縦糸が表面に現れ、「トッチャリ方式」だと縦糸は中に隠れるのが
韓順子さんは5、6歳の頃から祖母や母の仕事を見ながら莞草で
特徴だ。「チャリ方式」で有名なのは仁川広域市江華島で作られるコッ
遊んでいた。小学校の夏休みの工作の宿題に莞草工芸品を作って提出
チャリ、花紋席だ。色々な色に染色された莞草で編みこんでいく鮮や
すると、それを見た小学校の先生たちはその出来栄えに驚き褒めてく
莞草のキャンバスに花を描く 草藁匠 韓順子 花茣蓙と藁工芸の名人、ハン・スンジャ(韓順子)さんは5、6歳の頃から祖母と母の仕事を垣間見ながら育ち莞草 に触れていた。そして20歳の頃から本格的に莞草工芸の道を歩み始めた。世界各国で作品展を開き、英国の大英博 物館、ローマのバチカン博物館などにも彼女の作品が所蔵されている。 パク・ヒョンスク(朴炫淑、フリーライター)| 写真 : 安洪范
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韓国の文化と芸術
花紋席を編んでいるハン・スンジャ草藁匠。 生糸の1本1本に 「コドレッドル」と呼ばれる 石を縛り付けて垂らし、この石を莞草の前 後に動かしながら編みこんでいく。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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れたという。子供心にも莞草を手にしていると気持ちがウキウキして
たが、おかしなことに、体はどんなに辛くてもこの仕事自体が嫌いに
きたという。サクサクとした莞草の手触り、その草の臭い、何よりも
なったことは一度もありません。今でも莞草を思いっきり編んでいる
心の中で思い描いた物がやがて目の前に形となって姿を現すときの、
ときが何よりうれしいです。莞草は私の運命です」
その満足感に魅了されこの道に入ることになったという。しかしそん な娘を母は心配した。昔から花紋席を作る仕事は「病気作りの仕事」
莞草を直接栽培する理由
と言われるほど、じっと一日中座ったままでする辛い作業だったの
彼女が作る莞草工芸品の糸目は整然としていて美しい。莞草を
で、母はかわいい長女にそんな辛い仕事をさせたくはないと思ったの
キャンバスにして編み出す模様はその配置や構図が自然で淡白だ。既
だ。しかし彼女は20歳になる頃から本格的に莞草工芸を始めた。1
存の莞草工芸技法に木の造形美を合わせた草木接合技法など、さま
男5女の妹弟の中で誰も家業の莞草工芸を習おうとはせず、彼女だけ
ざまな技法を創案するなど、並々ならぬ努力をしてきた。このよう
が“なぜか惹かれて、ただ好きで”莞草工芸を続けてきたという。 20
な努力と技術が認められ1987年伝承工芸大展で大統領賞を受賞した。
代の半ばに結婚しソウルに引っ越すときにもチャリトゥル、コドレッ
1992年には労働部と産業人力管理公団が選定した大韓民国藤竹細工
ドルのような花紋席の製作道具は持参したという。「女は腕がいいと
芸部門の名匠に名前が上がったが、女性としては初めてのことだっ
人生が辛くなるものだ」と止める母の心配などには耳も貸さなかった。
た。 2003年には伝統工芸産業発展に寄与した功労で石塔産業勲章を
そんな彼女が莞草工芸職人の道を歩き始めて早50年にもなろうとし
受けた。また世界各地で作品展を開き、英国の大英博物館、ローマの
ている。若い頃は今よりも注文する人も多く、作品展にもたびたび出
バチカン博物館にも彼女の作品が所蔵されている。彼女の作品が一番
品して、目が回るほど忙しかったものだ。
と言われる理由を尋ねた。
「今も一日に少なくとも6時間は作業をしています。一日中あぐら
「工芸品なのでデザイン性と実用性が兼ね備えてなければなりませ
をかいてじっと座ったまま作業をするので、この仕事をする人たちは
んよね。そのためには原材料が良くなくてはなりません。いくら腕の
関節炎や脊椎疾患などにかかるものです。私も61歳と62歳のときに
良いコックでも新鮮な食材が無ければ何の意味もありません。莞草の
両方の股関節を手術しました。母の心配の意味がようやく分かりまし
生命はちらっちらっと映る青色です。莞草を束にして日差しに当てて
彼女は昔話に出てくる子供のように無垢な韓国 人の心を花紋席の上に表現するのが楽しいとい う。それで莞草で伝統模様を編むこともするが 「トラがタバコを吸いウサギが隣で火をつけてや る」、「子供たちが星を捕りにいく」というような 模様も作っている。 1
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韓国の文化と芸術
乾燥させるのですが。その時の色の抜け具合によって落ち着いた青色 が出てくるのです。その工程が実に手間のかかるものです。それで簡 単に早くできる機械乾燥の誘惑に落ちやすくなります。たまにお客様
1. 草藁匠ハン・スンジャさんは自分の作品の材料となる莞草を直接育てて貯蔵 している。その工程で機械乾燥や漂白剤などは絶対に使わない。 2. 莞草を手で編んで作った篭のセット。染色した莞草で吉祥模様などを入れて 装飾してある。
の中にもその青色は何かの染みではないかといって、真っ白にして欲 しいと言って来る方がいます。それで漂白剤を使う職人もいます。私
登り窯で焼いた粉青沙器についた炎の跡のように莞草の青色も生き生
は良い品を作るために直接莞草を育てて貯蔵しています」
きとしてくる。美的な理由だけでなく、耐久性のためにも漂白剤処理
一年生植物である莞草は高さが2mにまで大きくなる。茎の表面 が柔らかく光沢があり丈夫だ。春に水をはった田んぼに植えて陽暦の
はしない。漂白剤は莞草固有の繊維質の強度を弱化させるというのが 彼女のこだわりへの説明だ。
8月頃に収穫する。収穫した莞草は3つに裂いて乾燥させた後、精 練、脱色、乾燥、染色などの工程を経るが乾燥させるときには夜は夜 露を浴び、昼には太陽の日差しに当てるようにし、その 工程を3、4回繰り返す。韓順子さんはソウ ルと故郷を行き来して莞草を直接育て
忍耐だけではダメだ 韓順子さんは自分の故郷の江華を代表する花紋席に 高いプライドを持っている。花紋席は1232 年に高麗が蒙古に抵抗するために江華
ている。農薬をたくさん使った莞草
島に都を移した時に開城から移住し
は大きさは大きくても見かけ倒し
た住民が副業として作り、それが
で耐久性に欠ける。彼女は農薬を
島全体に伝わったものだ。その後、
使わずに水質が良く、水量が豊
花紋席は江華島の特産物として根
かな田んぼを選んで莞草を
を下ろし今日に至っている。
植える。太陽の日差しに
新羅時代にはすでに花紋席
干す作業をすることで、
の生産を担当する官庁が
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韓国の文化と芸術
あり、高麗時代には花紋席の美しさが周辺国家にも広く知れ渡り、外
2、3人が一緒に機械の前に座り作業をしてもそれでも10日から15
交的な交流に花紋席は高麗人参と同じくらい重要な貢物として使用さ
日はかかります。縦横15㎝に高さが8㎝の果器一つ作るのにも一人
れたという。
で3日はかかります。小さな力の入れ方の差でも間隔が狭くなった
滑らかで丈夫でほのかな青色と米色でできている花紋席は尊い席
り、離れたりしてしまえばそれまでなので、そうなったらほどいてま
に使われた。大切なお客様を迎えたり、祭祀を行うなど、礼儀を正す
たやり直します。繊細で正確な技術が必要です。昔、大人たちは根気
証明として敷かれた。また新婦の婚礼用品としても必ず入っていた。
がないと花紋席を編むことはできないと言ってましたが、私はそれだ
新婦は二つの花紋席を準備し、一つは舅と姑への贈り物とし、もう一
けでもダメだと思います」
つは自分たち若夫婦用として使った。耐久性の良い花紋席は代々受け 継がれて使われている。
韓順子さんは根気とはある目標に向かい現在の大変さに耐えて我 慢することだが、莞草工芸の工程一つ一つにこめられた妙味に気付か
花紋席はチャリトゥルに莞草を横に置き、140個ほどの生糸の1本、
なければ根気も役にたたないという。最初は根気だけでしていても莞
1本に、コドレッドルと呼ばれる石を縛り付けて垂らして、この石を
草を一すじ、一すじ編んでいきながらうまくできたときの莞草の感覚
莞草の前後に動かしながら編みこんでいくのだ。連続的な花模様のパ
を指先で覚え、頭で考えた模様を形にして作り出す喜びを知らなけれ
ターンが繰り返されているかと思うと、突然美しい模様が飛び出して
ばならない。特に彼女は昔話に出てくる子供のように無垢な韓国人の
くるような洒落たデザインにするには基本設計をしっかりしなければ
心を花紋席の上に表現するのが楽しいという。それで莞草で伝統模様
ならない。富貴栄華を願う文字や、鶴、鴛鴦のような吉鳥類、龍、虎
を編むこともするが「トラがタバコを吸いウサギが隣で火をつけてや
のような動物、梅花、牡丹、蝶などが生き生きと表現されている。花
る」 「子供たちが星を捕りにいく」のような場面も表現している。その
紋席は熟練した職人が一日中、手を動かしても30㎝ほどしか編むこと
喜びの力で彼女は北村にある彼女の工房「コドレッドル」で一日中作業
ができない、韓順子さんの作った縦210㎝、横300㎝の大きさの十長
をする一方、昌徳宮敦化門前の伝統工芸伝承空間「ソウル無形文化財
生模様の花紋席はそれ一つに1ヶ月かかったという。
敦化門教育展示場」で花紋席の製作実演もしながら多忙な毎日を送っ
「もともと手間と時間のかかる仕事なので、花紋席一つを編むのに
ている。(翻訳:金明順)
1. 花紋席は座式文化の韓国で部屋や板の 間に敷く高級な工芸品として継承され発 展してきた。 2. 韓順子さんは嫁ぐ際にも自分の手に馴 染んだ「コドレッドル」を花嫁道具として 持参した。北村にある彼女の工房の名ま えも「コドレッドル」だ。昔は石を使った が、現在では金属製品を使用している。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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アート・レビュー
創作ミュージカル「パルレ(洗濯)」 ソフトな社会告発の力
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韓国の文化と芸術
「パルレ(洗濯)」はスター俳優も、華やかな舞台装置も無しに8年間の長期公 演を続けている小劇場創作ミュージカルだ。洗濯紐に干された洗濯物で互い の事情を推し量る隣人同士が経験する社会的な差別、障害、外国人労働者な どにまつわる哀歓。これがロングランを続けているこの韓国の創作ミュージ カルの主な内容だ。 パク・ボミ(朴補渼、ハンキョレ新聞記者)
3月
14日、創作ミュージカル「パルレ(洗濯)」の13次の公演がソウル大学路のアート ワンシアターで開幕した。 2008年から公演を続けてきたハクジョングリーン
小劇場が閉鎖となり、このミュージカルも新たな劇場に舞台を移して公演を始めた。劇場 は変わったものの公演の面白さと感動はそのままだ。江原道の田舎から上京してきて5年 目の、書店で働く「ソ・ナヨン」が主人公で、彼女が暮らす家の大家である古紙回収のおば あさん、ナヨンの恋人となるモンゴルからやってきた移住労働者の「ソルロンゴ」などが主 要登場人物だ。
声高な告発よりも穏やかな訴えを 韓国のミュージカル界で「パルレ(洗濯)」は「地下鉄1号線」とよく比較される。「パルレ (洗濯)」が登場する9年前の1994年に大学路で初演され、10年間の長期公演で大きな関心 を集めた「地下鉄1号線」はドイツの作家ボルカ・ルードビッヒの原作を韓国的な状況に合 わせて脚色したロックミュージカルだった。延辺から来た娘「ソンニョ」の目に映ったソウ ルの人々の姿を描いている。失職した家長、家出した少女、恐喝団、偽の伝道師など、韓 国社会の恥部とも言えるような人物群像にスポットをあて、演劇界を越えて社会全般に 多くの話題を残した作品だ。それに比べて「パルレ(洗濯)」は「地下鉄1号」と社会問題を直 視するという点では同じ線上にあるが、その方式が違う。声高な鋭い告発よりは落ち着い た穏やかな訴えを選んでいる。「温かさ」 「愛らしさ」 「慰めになる」などの言葉は「パルレ(洗 濯)」を語るときによく登場する修飾語だ。このミュージカルはソフトで優しい口調で8年 という長い間、韓国の観客たちに語りかけてきたのだ。 ソウルの片隅の寂れた町がこのミュージカルの舞台だ。坂を長いこと上らなければたど り着かないこの小さな町に暮らす人々は非正規労働者、移住労働者、零細自営業者、古紙 回収の老人などだ。劇の初っ端に、狭い部屋に引っ越してきたばかりのナヨンが田舎の母 に電話をする場面があるが、母に対する切ない思い、申しわけなさなど、誰でも共感でき る感情を媒介に観客たちの心を劇の冒頭から鷲掴みにし、劇に没入させる演出は見事だ。 続いて生理休暇、不当解雇、賃金の滞納、移住労働者に対する差別、障害者に対する認識 創作ミュージカル「パルレ(洗濯)」の主人公で、ソ ウル生活5年目のソ・ナヨン
など韓国社会の恥部がえぐり出される。このように深刻な社会問題を扱いながらもウイッ トにあふれた台詞と洗練されたユーモア感覚が、重たく憂鬱になりがちな舞台を救ってい る。そして軽快で味のある台詞は、このミュージカルの大きな魅力となっている。
洗濯の象徴性 経済的に社会の下層階級という以外に何の接点も無いように見える隣人たちをつなぐの K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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1
はこのミュージカルの題名でもある「洗濯」だ。洗濯紐はこの舞台の主 役であり、慰安の対象となる社会階層を如実に表すための装置となっ ている。急激な都市化が進む韓国で中産層の最もはっきりした象徴は
1. 隣人と親しくなっていくモンゴルからの 移住労働者のソルロンゴ (右側) 2. 屋上に洗濯を干しながら、恥ずかしそうにナヨンの手をつかむ ソルロンゴ
アパートだ。アパートに暮らしているかどうか。さらには「どこのブ ランド」のアパートに住んでいるかが最近の韓国ではその人の階級を
うな昨日を落として、埃のような今日をはらい、しわくちゃになった
計る尺度となっている。このミュージカルに登場する洗濯紐はアパー
明日にアイロンをかけます。よく糊のきいた明日を身にまとい今日を
ト暮らしのできない庶民層の住居環境の象徴だ。日差しの温かい日曜
生きていきます」という歌詞は洗濯から連想される慰安と希望のメッ
日にオンボロ住宅の屋上に上がり鼻歌を口ずさみながら洗濯物を干す
セージを韓国語の美しさを生かして詩的に表現したすばらしい文章
ことは逆説的に言えば、アパートに住めないからこそ享受できる特権
だ。作曲家のミン・チャンホンは、歌詞が分からなくても物語の内容
でもある。
や主人公の感情が十分が伝わるような美しい音楽を作曲してくれた。
洗濯と洗濯紐という素材は公演の台本と演出を担当した作家チュ・
一部のスター俳優による興行パワーや巨額の豪華な舞台装置に依
ミンジュ氏の大学時代の経験から生まれたものだ。彼もまた主人公の
存した大劇場ミュージカル中心の韓国のミュージカル界で、8人の出
ナヨンのように地方で生まれ育ち、今はソウルに暮らしている。記者
演陣(ダブルキャストを含めて14人)に制作費9億ウォン(13次公演基
とのインタビューで彼は2000年代の初め、大学に通っていた頃、自
準)の低予算ミュージカル「パルレ(洗濯)」の成功は驚くべきことだ。
分の住んでいた家には洗濯物を干す場所が無かったので、近くに住ん
2005年4月、ソウルの国立劇場で初演されたこの小劇場ミュージカ
でいた友人の家の屋上の洗濯紐と日差しを「借りていた」と語った。た
ルは去年12月2000回公演を突破した。 2008年から大学路に移り長期
ぶん当時彼は洗濯物を干しながら今日を肯定し、希望の明日を夢見て
公演をしながら大邱、釜山などでの地方公演も平行してきた。現在の
いたのだろう。「パルレ(洗濯)」に登場する人々の姿、主人公の職場で
累積観客動員数は32万に達している。特別な宣伝もなしに100席前後
ある書店の描写、詩の好きな主人公のナヨンなどに創作者の個性と経
の小劇場で地道に作り上げた成果だ。批評家の評価も高い。初演した
験が反映している。このミュージカルの与える深く強烈な共感の力は
2005年には韓国ミュージカル大賞で作詞賞と脚本賞を受賞し、2008
そこからきているような気がする。
年には外信記者賞を受けた。歌詞は最近中学校の教科書にも掲載さ
ナヨンの独唱曲の「パルレ(洗濯)」の「私は洗濯をしながら染みのよ
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れ、その文学性が認められている。 韓国の文化と芸術
日本の観客も共感
「パルレ(洗濯)」は去年、日本のミュージカル専門誌『ミュージカ
感動は隣国日本にまで伝わり反響を呼んでいる。去年の2月と5
ル』が選定した「今年のミュージカルベスト10」にその名が上がった。
月、そして8月に日本の大阪と東京などで4回の公演を行い、公演の
日本進出後、直接韓国を訪れこのミュージカルを観覧する日本人観光
たびに数百席の劇場が埋まるという大きな成果があがった。スター俳
客も増えている。それに対応し製作社は舞台の両サイドにモニターを
優や華やかな装置無しにストーリー自体の良さで勝負する小劇場創作
設置し歌の歌詞の日本語字幕を流している。
ミュージカルが国境を越えて観客と疎通したのだ。製作社の明朗シア
劇の最初と後半に登場人物が互いに「ソウル暮らし、何年目?」と
タースバクのチェ・セヨン代表は「日本も就職難や非正規労働者の問
たずねる場面が出てくる。家賃のために引越し、生活が苦しくて何度
題が深刻になり、移住労働者問題も昔からの社会問題だ。それでこの
も貯金を崩し、特別な理由も無しに解雇され、何度も転職しながら生
ミュージカルを見ると自分たちの生活とオーバーラップする部分を感
きていくのが劇中の人々の人生であり、また公演を見に来た観客の人
じるようだ」と述べている。
生でもある。この問いは「東京暮らし、何年目?」または「ニューヨー
ミュージカル評論家ウォン・ジョンウォン順天郷大学教授は日本
ク暮らし、何年目?」など、都市の名前さえ変えれば、その社会の大
の観客の熱い反応の原動力について「個人の人生に対する意志と、隣
多数の人々にそのまま通じる質問だ。そしてその質問が含む痛みは
人あるいは共同体との疎通を表した作品だからだろう」と分析してい
「私は負けない」 (ナヨン)、「私はいつまでも健康に暮らすんだ」 (おば
る。そして「観客一人一人の人生を振り返り、慰めを与えてくれる歌
あさん)という元気の良い答えにより新たな希望に昇華される。社会
の歌詞もこの作品の特別な魅力」になっていると述べた。韓国よりは
の痛みに触れながらも怒りよりは勇気で、冷たい視線よりは温かな心
福祉や社会のセーフティーネットがよく構築されていると思われる日
で接近しようというこの作品は公演芸術としてもすばらしい完成度を
本でもこの作品の内容に共感する人々が多いということは、「リスク
見せている。「パルレ(洗濯)」はまさに2000年代の韓国ミュージカル
社会」である現代社会で雇用の不安と都市生活の病巣は今や普遍的な
の最も輝く作品の一つだ。(翻訳:金明順)
テーマととなっていることをもう一度立証したと言えるだろう。
「私は洗濯をしながら染みのような昨日を落として、埃のような 今日をはらい、しわくちゃになった明日にアイロンをかけます。 よく糊のきいた明日を身にまとい今日を生きていきます」
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オン・ザ・ロード
青山島の スローライフ 青山島では草を食む牛の後をついて歩くことができる。島を一周するうちに出合う暮らしの場面は独特で、風景は美しい。 カン・ゼユン(姜濟尹、詩人、プレシアン人文学習院「島学校」校長)| 写真 : 安洪范
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韓国の文化と芸術
「青
山島の姉さん、お米三斗も食えず嫁に行く」というのは莞島地方に伝わることわざである。幾つもの島 からなる莞島郡の中でも、特に青山島は米が貴重な地域であった。そのため、昔、莞島の娘たちは青山
島に嫁ぐのを嫌がっていた。もちろん、当時は他の島でも白いご飯を食べるのは難しい時代だった。私の生ま れ育った甫吉島も莞島の島であるが、幼い頃、米飯を食べた記憶はほとんどない。米飯は正月やお盆、祭祀の 日だけ口にできる食べ物だった。自分の住んでいる島よりもお米のない青山島に嫁ぎたくないのは当然であろ う。米がお金の役割を果たしていた時代、いや、米がお金よりも貴重だった時代の話である。 そんな青山島でお金より貴重な米を生産する水田がクドゥルジャン水田であった。典型的な山岳地形である 青山島では平地はほとんど見当たらない。干潟もなく、海の中に寂しく浮かんでいるこの島は、干拓で水田を 作ることも不可能だったため、工夫したのがクドゥルジャン水田である。お米を求めていた島民の念願からで きた水田だ。そのクドゥルジャン水田が今年初め、韓国の国家重要農業遺産第1号に選定された。ところで、 クドゥルジャン水田は農業遺産ではなく、農業の神話と呼ばれるべきかもしれない。
歩いて一周 全羅南道莞島郡青山面の本島である青山島までは、莞島邑から船で50分かかる。莞島から済州道を結ぶ航 路の途中に位置する。面積は33.3㎢、最高峰は島の南側にある高さ385mの鷹峰山である。ニューヨークのマン ハッタン(Manhattan 87.5㎢)の半分足らず、ソウルの汝矣島(8.35㎢)の3倍ぐらいの大きさである。青山島が 世に知られるようになったのは、1993年にパンソリという韓国の伝統文化遺産が改めて注目されるきっかけと なったイム・グォンテク監督の映画〈西便制〉のおかげである。青山島でこの映画が撮影されたため、その美し い風光が知れ渡り、〈春のワルツ〉を始め、様々なドラマや映画のロケ地として有名になり、人々が訪れるよう になった。 しかし、この島がこれまで有名になった理由は他にある。 2007年12月、世界スローシティー連盟が韓国の5 つの他の地域と共に青山島をアジア初のスローシティーとして認めたのだ(現在韓国のスローシティーは合わせ て10カ所に増えた)。さらにその後、済州道のオルレ道の影響で青山島にも「スロー道」と呼ばれる青山麗水道 というトレッキング道が設けられ、旅行客が押しかけるようになった。スロー道は計11のコース、42.195kmの 長さで、トレッキング・コースとしては長い方ではない。しかし、海岸沿いに島をゆっくり一周しながら出合 う美しい風景のおかげで、この島はすっかり全国的な名所になった。 ところで、私は真冬の青山島を歩くことを勧めたい。白菜、ちしゃ、ニンニク、ほうれん草が道端で育つほ ど、青山島の冬は穏やかだ。厳しい冬の寒さに耐えて芽生えた麦が青さを増していく野原を眺めながら、花咲 く季節ではないが、静かに歩くことができる。
1. 米を大事に思う島の人々の念願からで きたクドゥルジャン(オンドル石)水田。 青山島のクドゥルジャン水田は韓国で国 家重要農業遺産の第1号に選定された。 2. 西便制道の丘から眺めた海岸沿いの村 や海の風景 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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千年の神殿
幕を下ろした。魚が獲れなくなると、漁船も人々も去っていった。
さて、ここでスロー道をたどって青山島を歩いてみよう。スロー
1973年には135000人もの人口を抱えていたが、今ではわずか2千人
道は旅客船が停泊する道清里村から始まる。道清里の漁船の船だまり
ほどに減ってしまった。青山島は再び静かな島に戻った。現在、島の
では、数人の漁民たちが昆布の養殖の準備に追われていた。ワカメ養
住人たちは漁業ではなく、アワビや海苔、ワカメの養殖に頼って生活
殖に使われていたロープを引き上げて手入れした後、そこに昆布の胞
している。
子をつける。養殖された青山島のワカメと昆布のほとんどはアワビの 餌に使われる。青山島ではアワビの養殖が収入源である。
道清里を通って道洛里東口井の道を歩く。東口井は17世紀に、初 めてこの村に住み始めた人々が掘った泉である。世の中のすべてが凍
昔、道清里はサバの市場として有名な所だった。その市場を波市
てつく真冬にも、この泉の水は凍ったことがないという。数百年もの
と呼ぶが、海の上の市場を意味する波市は魚類を取引するために開か
続いた泉の味は歴史の味である。村の人々はこの泉に頼って暮らして
れた臨時の市場だった。青山島にサバの波市が立つと、道清里に船具
いただけに、それは生命の泉である。今日はこの道を行く人があまり
店や酒屋、食堂、旅館、床屋、銭湯、時計屋など、臨時の店ができ、
ない。旅人にとってはラッキーである。歩きは体の運動であると同時
船員たちを相手に商売が行われた。サバ釣り船は一度海に出ると、数
に精神の運動でもある。静まり返った中、ただ歩くことに集中してい
十万匹のサバを獲った。運搬船では到底さばけないほどの量になる
ると、いつの間にか自分の内面と向き合っている自分自身を発見する。
と、一部は海に捨てたりもした。道清里の沖合いはサバの腐る匂いで
これまで聞こうとしなかった心の声が聞こえてくる。これが思惟の始
頭を悩ませていた。住民たちはサバをもらってきて塩漬けにしたりし
まりである。思惟こそ歩く行為が与えてくれる貴重なプレゼントであ
た。それでも余った分は魚肥(堆肥)にした。漁獲量の減った現在、サ
るわけだ。
バ堆肥のことは昔話になった。 青山島のサバ波市は1960年の中ごろ、サバが減少してしまったた
丘に登ると、映画〈西便制〉の場面に出てくるくねくね道が現れる。 しかし、この道でもっとも美しい風景はコンクリートで舗装されてし
め姿を消した。その後を継いだのがサワラの波市である。しかし、
まった「西便制道」ではない。麦畑の真ん中に立っているドラマのセッ
乱獲によってサワラも無くなり、1980年代中ごろに青山島の波市は
ト場でもない。堂里のダンジップ(神堂)である。西便制道の入り口
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韓国の文化と芸術
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の松の林、石垣に囲まれている古い建物が堂里のダンジップである。
ジップは神聖な場所である。そのため、ダンジップの前は棺の輿など、
一千年の間、島の人々にとって信仰の聖なる場所であって、島を守る
不浄なものは通れなかった。馬や輿に乗っていた人々もダンジップの
守護神を祀っていた神殿。これこそ生きている文化財である。ところ
前では降りなければならなかった。堂里の村人は現在も毎年、正月の
が、人々の目にはドラマのセット場しか入らなくて、見向きもされな
三が日に丁寧な祭祀を行う。以前は一年間、もっとも清らかな生活を
い。キリスト教の流入によって、韓国の土俗信仰が迷信として認識さ
営んだ人を祭主に推したが、今は村の首長が祭主の役割も果たしてい
れ、無視されてきたためだ。
る。祭祀の関係者は祭主を含めて5人ぐらいになる。関係者として選
ダンジップはハン・ネグ(韓乃九)将軍を祀った神殿である。口承
ばれると、15日前から喪家を出入りしたり、性生活をしたりする不浄
によると、韓将軍は新羅時代、清海鎮のチャン・ボゴ(?~846)大使
な行為は禁じらなければならない。祭祀を行うために向う途中、誰か
の部下だった。韓将軍は青山島を守って、住民らの信望は厚かった。
と会ったら、家に戻って体をきれいに洗って出直すほどの厳しさだっ
韓将軍が老いて亡くなると、島の住民たちは石のお墓を作って、その
た。
傍にダンジップを建て守護神として祀ってから一千年が過ぎた。小さ な島に千年も続いた神殿とは驚かされる。しかし、人々にはこの神 殿の価値が分からない。外国の古い神殿や教会に歓声を上げながら、 我々の土着的な神の神殿の存在には気づいていない。神殿であるダン
1. 菜の花と青麦の畑、それに石垣の道が作り出す美しい「西便制道」 2. 青山島邑里の東側にある道路際に残っている南方式のドルメン(左側)と磨崖 石仏が陰刻された下馬碑 3. 映画「西便制」の主人公の衣装を着て映画の一場面を再現するパフォーマンス を見物する観光客たち K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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ソウル
ソウルから青山島までの道のり ソウルで莞島邑までは、一日4回、高速バスが運行される。5時間はかかる。時間を節約するため には、深夜の高速バスに乗って光州まで行き、市外バスに乗り換えれば、朝早く莞島に着くことが できる。鉄道を利用する場合は、光州または木浦で降りて市外バスに乗り換えて莞島まで移動すれ ばい良い。莞島のバスターミナルから莞島港の旅客船ターミナルまでは、車で3分、徒歩で20分か かる。莞島邑内の海岸道路に沿って移動すれば、天然記念物である常緑樹林と水産物市場を見物す ることもできる。莞島から青山島まで運行する船のダイヤは季節によってよく変更される。青山農 協のホームページで確認できる。島旅では海の天気がとても重要だ。出発の前に天気予報を確認し てから出発しなければならない。
光州 木浦
船のダイヤ: 青山農協 http://www.cheongsannh.com/ お天気の問い合わせ: 061-131(英語、中国語対応)
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莞島 青山島
往復旅行バス 高速バス 市外バス 鉄道 旅客船
韓国の文化と芸術
典型的な山岳地形である青山島では平地はほとんど見当たらない。干潟もなく、海の中に寂 しく浮かぶこの島は、干拓で水田を作ることも不可能だったため、工夫したのがクドゥルジャ ン(オンドル石)水田である。お米を求めていた島民の念願からできた水田だ。
クドゥルジャン水田と草墳
稲藁でわらぶきを編んで棺を被った。藁は十分朽ちている。子孫たち
この道沿いの村々、清渓里と復興里、院洞里にクドゥルジャン水
は藁を青い網で被せた後、ナイロン製の紐でまた編む。屋根には松の
田がある。農耕社会が始まって以来、これほど切実な農事の遺物はま
木の枝が所々置かれている。簡単に腐らない松の葉っぱの機運で厄除
たとない。 16世紀から始まったクドゥルジャン水田は築台を積み上
けをするためだろうか。そよ風が松の林を通り過ぎる。
げて平地を整えた後、水田の土に広くて薄い石を敷く。その上に土を
お墓の主もこの山のどこかに住処を設けることになるだろう。埋
塗って防水処理を施した後、土を被せ水を入れて水田にしたのだ。ま
葬は草墳を作ってから3年が過ぎなければならない。風水の専門家に
た、水田の下に排水路を設けて水を無駄にせず、他の水田に使用し
吉日を教えてもらって埋葬するが、その歳に吉日がないといわれれば、
た。実に、農民の知恵が盛り込まれた水田である。いまや、米の値段
また3年待つことになる。昔、ある草墳の主は十数年も埋葬されずに
がラーメンより安い時代になったが、青山島で水田は依然として大切
いたと聞く。陸地ではとっくに無くなった二重の葬儀が南西海の島で
なものだ。
受け継がれてきたのは、島という閉鎖的な空間で行われる信仰行為と
青山島は石と風の国でもある。サンソ里と東村里は青山島でも石 垣の原型が一番よく保存されている村である。風の強い島の塀は陸地
無関係ではない。しかし、他の島でもこの風習はほとんど消えてしま い、草墳が見られるのは青山島が唯一である。
とは違って、土は入れず石だけで積
世界的に見ても、未だこの世とあ
み上げた垣である。島や海岸沿いの
の世の間は川で隔てられていて、亡
家々はすべてこのような強い垣であ
くなった人は川を渡っていくと信じ
る。この石垣は風を遮断する防御塀
ているところが多い。アフリカのヨ
ではない。いくら丈夫であっても、長
ルバ族の元老たちは、冥土への川を
い歳月の間、強い風を防ぐことはでき
渡るためにカヌーに埋葬される。島
ない。そのため、島の人々は風を防ぐ
の人々にとって海はこの世の暮らし
ための石垣を築かなかった。その代
を営むためだけではない。昨日は島
わりに風を分散させて通らせるため
を飲み込むかのように険しかった海
の垣を積み上げた。石の間を土で埋
だったが、今日は打って変わって穏や
めず、隙間を残したのはそのためだ。
かである。海とは常に暮らしをつな
風と人々の間に成立した平和協定の
げてくれる生命の海であると同時に、
賜物。青山島の石垣は風の通路であ
生とのつなぎを切ってしまう死の海
る。
でもある。この世の中を渡る時にも、
クジャン里の前山はどこの家の山
またあの世へ渡るにも船が必要にな
であるだろう。一基の草墳が土の上
る。生と死を分ける生死の海。島の 人々はその海を渡るための連絡舟と
に浮かんでいる。草墳とは皮肉が風 化した後、残った骨だけを集めて埋 葬する二重の葬儀である風葬のため に作った臨時の墓である。その墓の 姿は草で屋根を上げた船に似ている。 K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
2 1. 夕日に染められたクドゥルジャン水田と海。海の向こうに莞 島が見える。 2. カタクチイワシを蒸して干す作業に追われているグッファ里 のミョルチ (カタクチイワシ)マク
して草墳を使っていたのではないだ ろうか。今日も、青山島クジャン里の 前山には一隻の白い舟が浮かんでい く。(翻訳:趙祥恩)
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『韓国: 不可能な国(“Korea: The Impossible Country”)』 ダニエル・チュードル著、320頁、22.95ドル、バーモント: タトル出版社 (2012)
ダニエル・チュードル(Daniel Tudor)は現在「エコノミスト」誌の韓国特派員である と同時に「ニューズウィーク韓国版」の巡回特派員である。昨年彼が書いたこの本で、 「韓国と北朝鮮の関係」、「英語教育のブームが韓国社会に与えた影響」、「韓国で起きて いる多文化主義の傾向は何を意味するか」、「現代韓国における女性の位置」など、現代 の韓国が抱えている重要な質問に対する答えを提示している。 本を開く前からタイトルが読者の好奇心をそそる。なぜ韓国が「不可能な国」なの か。著者はこの質問に対して二つの答えを提示している。まず韓国は繁栄するどころ か、生き残ることすら不可能に見えたが、目覚しい経済発展とともに、軍部独裁から 民主主義へと急激に転換するという二つの奇跡を成し遂げた。一方で、韓国社会は 人々に成功に対するプレッシャーを与えすぎているが、韓国社会で成功するために達 成しなければならない目標はいろんな意味で達成するのが不可能であるということだ。 この本は先史時代から朝鮮戦争(1950~1953)にいたるまでの韓国の歴史を簡単に概 観することから始まる。数ページにもならない内容だが、全体的な内容の基礎となる。 最初の部分では現代の韓国社会を支えている6つの柱、つまり土着信仰、仏教、儒教、 キリスト教、資本主義、民主主義を紹介している。伝統的な宗教・思想の柱が二つの 現代思想的柱と一緒に取り上げられていることが目を引くが、この組み合わせは適切 であるようだ。著者は4つの伝統的信仰体系を単純に説明することから一歩進んで、 これらが現代韓国思想にどのように継続的影響を与えているかについて、非常に興味 深く鋭い視点から議論を進めている。 第2章では「情」や「ハン(恨)」など、時には翻訳しづらい「韓国特有の」概念を、第3 章では政治、職場、結婚産業、英語教育の分野などから提起される韓国社会の持つ現 代的話題を、第4章では生活空間に対する態度、郷土飲食、映画、大衆音楽、深夜の 飲酒文化から見られるライフスタイルと文化現象を、最後の第5章では民族主義と多 文化主義、韓流と韓国文化の輸出、同性愛に対する態度の変化や女性の社会的地位の
ブック・レビュー
韓国文化に対するイギリス人特派員の探求
変化など、韓国のアイデンティティに関する様々な考え方を取り扱っている。 10ページ前後の短い内容だが、それぞれ説得力のある小論 (essay) であり、特に第3章と第4章はテーマの一貫性よりは読者に配慮 して下位の目次を構成したように見える。つまり、内容として一 つのストーリを述べているのではなく、一連の短い挿絵を通して 大きな絵を見せようという試みなのだ。こうした構成のメリット は、どこから読んでも理解しやすい点である。もっとも、全体の 内容を合わせれば、その意味は各部分を合わせたものより大きい。 多様で短い文章を通して、この本は一言では説明しきれない韓国、 複雑で様々な色合いをもっている韓国を見せている。現代韓国と そのルーツへ導く指南書としての役割を忠実に果たしている。
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ナ・スホ(那秀昊、韓国外国語大学校 通訳翻訳大学院教授)
英語圏読者のための仏教修行の指南書
近代アメリカの大使夫人が見た韓国
『韓国仏教の精髄:心に向かう6つの道(“The Essence 『朝鮮からの手紙(“Letters from Joseon”)』 of Korean Buddhist Practices:6Ways to the Heart”)』 ロバート・ネフ 編著、431頁、19000ウォン、30.00ドル、ソウル: ソン・ゼホン 著、ホン・ヨンジュ 訳、ロス・チャンバス 監修、 ハ・ジグォン 写真、192頁、20000ウォン (18.00ドル) 、ソウル: ブ ルグァン出版部、韓国仏教宗団協議会 (2011)
(2012) ソウル・コレクション
「アメリカの大使夫人の目に映った19世紀の韓国」というやや長い サブタイトルのついたこの本は、朝鮮半島を支配する外国の勢力が中
この本は韓国仏教を英語圏の読者に紹介す
国から日本に変わり、結局は朝鮮が隣国の支配をうけることになっ
るための3部作シリーズの2作目の本である。
た19世紀末の韓国を独特な個人的観点から見ている。著者の旅路は
2009年に出版された最初の本、『韓国仏教』は
1894年から1897年まで、アメリカ大使として朝鮮に赴任したジョンM.
概論書としての役割を果たしていて、2013年
B. シル(John M. B. Sill)の手紙コレクトの出版本を目にしたことが契
に出版された3作目の本、 『韓国仏教の美との
機となった。ミシガン大学校にマイクロ・フィルムとして保存されて
出会い』は韓国の仏教文化遺産を紹介してい
いる750余ページの分量のシル家族の手紙の研究を通して、韓国の歴
る。今回紹介する2番目の本、 『韓国仏教の精
史の厳しい時期が読み取れる。
髄:心に向かう6つの道』は話頭を掲げて瞑想 に取り組む看話禅、念仏、呪力、講経、写経、
この本には「大使の奥さん」サリー・シル(Sally Sill)の手紙だけで なく、彼女がリウマチで文章が書きづらかった時期の1894年に関す
お寺など、韓国仏教を構成する6つの修行方法に焦点を当
る部分では、実の妹のリリーさんの手紙もかなり載っている。外交上
てている。この本は韓国仏教の歴史やお寺以外のことにも関心を持っ
の公文書や西洋の重要人物たちの私的書簡とともに、二人の手紙は公
ている外国人訪問客に対して水先案内人の役割を果たしている。
式の歴史記録とはまた違う、当時の多彩な様子を見せてくれる。日清
この本はタイトルからも分かるように、韓国仏教の中心的な修行
戦争や明成皇后の殺害事件、高宗の俄館播遷(訳注:身辺に危険を感
方法について書かれていて、その内容も実際的である。その一方で、
じた高宗が秘密にロシア公館に移り住むことになった事件)など、歴
一種の瞑想にも似た印象を与える。「家への帰り道(A Way Home)」と
史的に重要であり、またよく知られている事件について記録された手
いうタイトルの前書きでは、「家」という概念を直観的で鮮やかなイ
紙を読むと、アジアという地域に慣れていない西洋人家族の新鮮で興
メージで表現した後、読者をそこへ導くことを約束する。その次に、
味深い視線がよく現れている。さらに、当時のソウルの米大使館で起
故郷の春を描写する歌の歌詞が続く。そのイメージは故郷に対する韓
こっていた日常の姿も伝えている。
国の伝統的概念と期待に基づいているため、韓国の読者により受け入
本に掲載されている多くの写真と絵を通して、100年以上前のソウ
れやすく、十分感動的である。かなり具体的で実際的な内容でありな
ルが生々しく見られる。本のあちこちにシル家族の生活に重要な役割
がら、この本は平和で瞑想的な雰囲気を保持しているため、本を読む
を果たしていた歴史的人物たちに関する簡略な伝記も載っていて、こ
行為そのものが修行のように感じられる。
の説明により人物像がさらに理解しやすい。もちろん、こうした要素
思索的な前書きを読むと、読者たちは 「あなたの心はどうか」 という
を一つにまとめているのはロバート・ネフの巧みな解説に負うところ
質問を受けることになる。この質問は人間の苦痛を肉体の病ではなく、
が大きい。彼は手紙の内容を理解する上で必要な背景を説明しながら
心の病として認識する話しにつながる。こうした病は欲、怒り、愚か
も、あくまでもそうした機能は手紙文の引用に注意を払っている。
さという三つの毒心からくるものだが、仏教の修行こそが、それら毒 に対する解毒剤であり、心の病に対する究極の治療法であるという。
この本に書かれている期間は長く はないが、まさに韓国の国権喪失につ
このように仏教を概観した後、6つの修行方法に関する内容が続
ながり、様々な感情が錯綜する時期で
く。それぞれの章は修行方法に関する説、仏教の教理においてその修
もある。この本は個人的な視点の記録
行方法の原理をめぐる議論と歴史的な概観、現代に入って韓国で行
が、他の歴史本や公式の記録が伝える
われている修行の内容、修行方法に対する段階別の案内などの構成に
ことより、もっと現実的に物事を伝え
なっている。さらに、各章の最後の部分は、反省と省察ができるよう
得ることを証明している。(翻訳:趙
「案内者からの思索」という詩的な内容で締めくくられている。
祥恩)
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遠くの目
男と女の愛憎物語 - 道成寺説話の展開 87年晩秋の東鶴寺では、私のライフワークである絵解き(絵画を解説・説明する行為)に接 し得た。尼僧が大雄殿外壁に描かれた「釈迦八相図」を解き語ってくれたことは、まるで昨 日のように解明に覚えている。 はやし・まさひこ(林雅彦、明治大学教授)
東
アジアの説話画(ストーリー性のある絵画)に関心を抱いていた私が初めて渡韓したのは、1987年3月 下旬だった。勤務校の在外研究者としてソウルに約1年滞在することとなった。その間、韓国全土の
寺院を150余り訪れることが出来た。 87年晩秋の東鶴寺では、私のライフワークである絵解き(絵画を解説・ 説明する行為)に接し得た。尼僧が大雄殿外壁に描かれた「釈迦八相図」を解き語ってくれたことは、まるで 昨日のように解明に覚えている。 私は35年程前から絵解き研究に取り組んできたが、本稿で取り上げる和歌山県日高川町鐘巻・道成寺に 古くから伝わる「道成寺縁起絵巻」上下2巻の絵解きは、“男と女の愛憎物語”のひとつである。 ほ
け きょう げん
き
むろ のこ おり
この道成寺説話の最古は、1100年代に書かれた『大日本国法華経験記』下巻に収められた「紀伊国牟婁郡悪 やも
め
女」である。即ち、若い僧と老僧の二人連れが態野参詣に向かう途中で牟婁郡のある寡婦の家に泊めてもら う。この若い僧に懸相した寡婦は、夜中に忍び寄ってきた。僧は困惑して、参詣の帰りならば必ず言う通り にすると約束するが、2、3日経っても僧たちは戻ってこない。そのことを知った寡婦は大きいに怒って自 室に籠り、やがて大毒蛇となって僧を追い掛ける。日高川を渡り、道成寺の釣鐘の中に隠れた若い僧を鐘ご と焼き殺した、という話である。 この説話は、後に『今昔物語集』巻14の「紀伊国道成寺僧、写法花救蛇語」にも採用された。前掲書ととも に、僧と寡婦の名前・僧の出身地・時代が明記されておらず、いわゆる安珍・清姫という氏名がそろって登 場するのは、はるか後の江戸時代、並木宗輔の浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』まで待たねばならなかった。 『法華験記』と『今昔物語集』のタイトルを較べてみると、前者はヒロインに注目し、後者は道成寺僧の法 華経書写供養により救済したと解釈する。この説話の受け留め方が編者によって異なることに、読者は気が 付かれたことと思う。しかしながら、両書とも結果的には道成寺僧の供養で成仏したとある。 げん こう しゃく しょ
道成寺説話は鎌倉時代に至ると、当代仏教説話集の集大成ともいうべき『元亨釈書』巻19にも見える。舞 台を鞍馬寺とし、僧の名が「安珍」と明記された。また室町時代には、能の「道成寺」も作成され、巷間に知ら みど
し
れるところとなったのである。因みに、今年(2013年)は、巳年にあたり、都内では3月にシテ方3流によっ て相次いで上演されたのだった。
66
韓国の文化と芸術
火焔で鐘もろとも僧を焼く大蛇
この時代、絵巻としても登場する。これとは別に、新羅僧を描いた「華厳縁起絵巻」 (「元暁絵」3巻・「義湘 ひもと
絵」3巻、13世紀初期成立)中の「義湘絵」巻3を繙 くと、中国の地で修行を終えた義湘が新羅へ帰ろうとした 時、それを知った善妙という女性は大変なショックを受けたが、ただちに海中に身を投じて大龍となり、義 湘の乗った船を背負い、無事に新羅へ送り届ける場面が描かれている。江戸時代以降、「道成寺縁起絵巻」は 「華厳縁起絵巻」とは比較考証され、論じられている。 だい
ご
み
め
よ
じょう
え
ところで、「道成寺縁起絵巻」は、「醍醐天皇廷長六年八月」に奥州から見目能き、浄衣を着た僧が態野参 よめ
がちゅうし
詣すべくやってきたと、年代・僧の出身地及び女性が「娵」と記している。また、“画中詞”と呼ばれる登場人 せりふ
物の科白や場所の説明文が絵画部分にたくさん書き込まれている他、当時の参詣者の服装も描かれていて、 うしろ
さ
興味深い。下巻冒頭には、本来の“縁起”が若干記されてはいるが、その後は絵画に多くを割いている。クラ りゅう づ
くわ
イマックスは、若い僧の隠れた釣鐘を発見、龍頭を啣えて三巻半して鐘もろとも僧を焼き殺す場面であろう。 江戸末期や昭和4年(1929年)に作成された絵解き台本、現行の絵解き実演にあっても、ここの部分を強調し ている。 や
しろ ひろ かた
屋代弘賢『道成寺考』中の「道成寺考附録」によれば、「華厳縁起絵巻」の善妙は善心ゆえに大龍となって義 湘を助けたが、類似構想の「道成寺縁起絵巻」は、ヒロインの心を「悪念に作りかへ」たものだと分析している。 川柳にも「あんちんは因果な所へかくされる」など多数の句が詠じられている。 近代以降も多くの文学者が道成寺説話を取り上げている。思い浮かぶままに列記するならば、島崎藤村 『若菜集』 『春』 ・中里介山『大菩薩峠』 ・三島由紀夫『近代能楽集』 ・有吉佐和子『日高川』 ・中上健次『鳳仙花』など かぶら ぎ
かいのしょうただおと
こうへい
がある。画家に眼を転ずると、鏑木清方をはじめ、甲斐庄楠音・森田曠平などが道成寺説話を画題として描 出している。中でも、小林古径「清姫」 (8図)は、美術史学をして“日本語の究極の美”だと絶賛せしめた。 駈け足で道成寺説話の展開を眺めてきたが、私は、このような男と女の愛憎物語こそ、時代を超越して、 あけ がらす はや
文学・絵画の永遠のテーマではないか、と思うのである。近・現代の名説教僧・暁烏敏ですら、現実生活の 中でこの呪縛から解き放されなかったことが、思い起こされてくる。
K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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グルメを楽しむ
辛くて熱い「シウォナン」 ユッケジャン
© yoanna
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熱くて辛いユッケジャ ンとご飯。真夏の暑さ に打ち勝つためのバラ ンスのとれた栄養食だ。 韓国の文化と芸術
ユッケジャンは真夏に冷たい食べ物で弱った体を補強し、肉類と野菜を一度に 摂取できるのでバランスのとれたメニューだ。暑さに打ち勝つための、熱くて 「シウォナン(爽やかな)」韓国人の夏の郷土料理だ。 イエ・ジョンソク(芮鍾碩、漢陽大学経営学部教授、飲食文化評論家)
韓
国人は真夏の暑さに打ち勝つためによく熱いスープ料理を食べる。暑さが最高頂に達 する7月と8月の三伏(日本の土用の丑の日)の頃になると、全国あちこちの食堂で汗
をぽたぽたたらしながら熱いスープを口に運び「シウォナダ(爽やかだ)」と連発している韓国人 を見かけることだろう。このような習慣は熱を熱でもって治すという意味の「以熱治熱」だとい うが、大部分の外国人にはこの習慣は、理解できない文化のようだ。最近ある放送局が行った 調査によれば、韓国に居住する外国人が一番理解できない韓国人の夏の文化が「以熱治熱」だと いう答えだった。調査に答えた1000人の外国人の中の52%が暑い真夏に熱いスープ料理を食 べている韓国人を理解できないと答えている。アメリカ人やイギリス人も夏になると野外で炭 火をおこしてグリルやバーベキューを楽しむが、室内で(最近は大部分エアコンがはいり涼し いことは涼しいが)熱いスープ自体を楽しんでいる韓国人の夏の食事方法は確かに独特だ。
体内バランスを維持する熱いスープ 韓国人の以熱治熱は陰陽五行の哲学に基づいたものだ。陰陽五行は非常に奥の深い東洋哲 学だが、人体と食べ物の観点から簡単に説明するとバランスの維持を意味している。夏になる と暑いので人々は冷たい食べ物で体温を下げようとする。しかし冷たい食べ物を食べ続けると 体が冷たくなり消化力も衰え、虚弱な体になってしまう。それで熱いスープを食べて体を中か ら温かくして体のバランスをとろうというのが東洋医学の理致だ。以熱治熱の論理はヨーロッ パや南米、インドなどの地で代替医学両方として広く使われている同種療法の原理に一脈相通 じるものがある。同種療法は患者の辛い状態と同じような辛さを人為的に誘発し、自然治癒能 力を高め自らの力で治癒する方法だ。 韓国人が夏によく食べる熱い料理の中でも一番ポピュラーなものがユッケジャンだ。サン ゲタンも韓国人が夏によく食べるスープ料理だが、ユッケジャンは熱いだけでなく、口が燃え るほど辛いので、つかの間の間、夏の暑さを忘れさせてくれるのだ。
バラエティ豊かな牛肉のスープ料理 多様なユッケジャンの料理方法を標準化して簡単に説明するなら次のとおりだ。牛肉(主に 胸肉)をたっぷりの水に入れ、長ネギ、にんにくなどの香辛野菜とともにじっくりと煮込んだ あと、肉は取り出して手で細かく裂き、スープは冷まして固まった脂肪を取り除いておく。裂 いた肉は茹でた里芋の茎、ワラビ、茹でたモヤシなどの山菜類と一緒に唐辛子粉、唐辛子油、 ニンニク、胡椒などで味付ける。この味付けした野菜と肉をスープにもどし、長ネギを加えて 煮立てる。じっくり煮込んだユッケジャンにご飯を入れて食べれば、他のおかずは要らないほ K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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牛肉(主に胸肉)をたっぷりの水に入れ、長ネギ、にんにくなどの香辛野菜とともにじっ くり煮込んだあと、肉は取り出して手で細かく裂き、スープは冷まして固まった脂肪を 取り除いておく。裂いた肉は数種類の野菜と一緒に味付けをしたあと長ネギとともに スープにもどしてまた煮立てる。
ど味もボリュームも満点だ。 19世紀末の料理の本『是議全書』に出ているユッケジャンは牛肉以外にもアワビやナマコな どが入っており、今のユッケジャンとはだいぶ違ったものであったことが分かる。そして1940 年に出たソン・ジョンギュ(孫貞圭)の『朝鮮料理』のユッケジャンは現在のものとほとんど変わ らないので、その頃に今日の形態に落ち着いていたことが分かる。ユッケジャンは通夜の席の 弔問客の接待用に良く使われるが、これは簡単に接待できる栄養食という現実的な側面から広 く広まったと言えようが、最初は赤いスープが雑鬼を追い払うという呪術的な意味合いもあっ たと言われている。 ユッケジャンはテグタン(大邱湯)、タロクッパブなどの傍系の料理も多い。この二つの料 理は慶尚北道にある韓国第3の都市、大邱と密接な関係がある。作家であり史学者の崔南善 (1890-1957)は、1946年に出版された『朝鮮常識問答』でユッケジャンを大邱の有名な郷土料理 だと指摘しているが、それが大邱湯だ。大邱は盆地にある都市なので、真夏には猛暑となる。 その痛くなるくらいの暑さに耐えるために誕生したのが大邱式のユッケジャン、大邱湯だ。大
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© yoanna
韓国の文化と芸術
邱出身の食品史学者・李盛雨教授は「大邱湯はソウル式のユッケジャンのように肉を小さく裂 いて上に載せるのではなく、肉を塊のままでじっくり茹でて肉が柔らかく溶けるように なるまで煮込むものだ」と書いている。また小説家の金東里は幼い頃に食べた大 邱式のユッケジャンについて「ぼんやりと覚えているのは一種の牛肉のスー プだが、青唐辛子とコショウと長ネギが実にたくさん入っていたと記憶 している」と記述している。 しかし大邱湯という名称の由来については諸説がある、日本の植民 地時代に大邱ではユッケジャンを大邱湯と読んでいたというのが定説の ように言われているが、一方では大邱の人々には全然知られていなかっ た料理だという主張もある。言論人の趙豊衍(1914-1991)は『ソウル雑学辞典』 (1989年出版)で「1930年代初めのソウルで大邱湯が典洞(公平洞)のテヨン館という 料理屋で初めて出された。これはユッケジャンとほとんど変わりがないも
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のだが、ネギを一段と多く入れてあるのが特長だ。大邱の人々 の食べ物なのかと思ったが、その地の人々は知らないとい うので純粋に創案された料理で、名称だ」と書いてい る。また日本の植民地時代であった1929年に刊行さ れた雑誌『別乾坤』には「大邱湯は本名がユッケジャ ン」であり「今では大きく発展して本場の大邱から ソウルに進出した」という一文が載っている。こ のような事実からみたとき大邱湯という名前は大邱 式のユッケジャンがソウルに上京した際に、ソウルの ユッケジャンと差別化するために作名されたものではな © yoanna
いかと考えられる。面白いことには現在、大邱の有名なクッパ ブ店の中で大邱湯という名称を使っている店は一軒もない。
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タロクッパブはもともとスープにご飯を入れて出していた大邱ユッケジャンをお客の要請 に従いスープとご飯を別々に出したところ、それが名前になったものだ。韓国料理の作名はだ いたいが材料と調味料の名まえ、料理法が交じり合って出来ているのが通例だが、タロクッパ ブは料理を出す方式が名称となった珍しいケースだ。いずれにせよ重要なことは辛いユッケ ジャンを食べれば暑さを吹き飛ばすことができるということだ。 ソウル麻浦の「ヨクチョン会館」と苧洞の「ピョンネオク」は辛いユッケジャンで有名で、乙 支路3街の「朝鮮屋」は大邱でも珍しい大邱湯を固守している店だ。大邱では「イエッチプ食堂」 がユッケジャンで有名で「クギルタロクッパブ」は60年間の歴史を誇るタロクッパブの元祖と して知られている。ソウルでは蚕院洞の「江南タロクッパブ」で大邱の味を味わえる。(翻訳;金 明順)
1. ユッケジャンにいれる材料は家ごとに違う。まな板の上の材料はキノコの風味を強調したユッケジャン のための材料だ。モヤシ、平茸、エノキ、ワラビ、長ネギ、シイタケを準備した。キノコは伝統的なユッ ケジャンには入れない材料だ。 2. さっと湯がいた野菜とじっくり煮込んでから細かく裂いた牛肉 3. 火の通った材料に唐辛子粉、唐辛子油、ニンニク、胡椒などで味をつけてから、味がよくしみこむよう に手でよく練った後2~3時間おいておく K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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韓 国 文 学 の 旅
作家評
この悪夢は誰のものなのか? オ・スウン(魚秀雄、朝鮮日報文化部文学担当記者)
前に作家イ・ジャンウク(李章旭)に初めて会った。
は死んだのか、死んだのならどんな死に方だったのか、生きて
出版社「文学トンネ」が主催する「若い作家賞」の授
いるのなら本当に自殺旅行に出かけたのか、最後まで確かめる
賞式でのことだった。当時すでに彼は「若い作家」という修飾語
ことができない。またメンシュコフの部屋にある事物がどうし
にはあまり似つかわしくない42歳という年齢だった。その日
て動くのか、6階で誰が踊りを踊っているのか、あるいはそう
の受賞者は合計7人だったが、李章旭が最年長だった。文学ト
でないのかも分からない。
3年
ンネはこう説明した。「この賞の審査対象は登壇年度を基準と して、登壇10年目までです」
イヴァン・メンシュコフの話を「僕」に聞かせてくれたのは アンドレだ。「僕」は交換留学生の身分で1994年にもサントペ
作家・李章旭は1994年に詩人としてデビューしていたが、
テルブルグに来たことがある。その時、アンドレは29歳だっ
小説家としては2005年、長編小説『カルロの愉快な悪魔たち』
た。今は寿司屋でアルバイトをしているというアンドレは夜に
でデビューした。そしてこの処女作で第3回文学手帳作家賞を
は小説を書いている。それも恐怖小説だ。そして有名な小説家
受賞した。人々はその日、小説家李章旭に年齢資格の限界まで
のイヴァン・メンシュコフが自分の友人だという。アンドレの
毎年「若き作家賞」を狙うようにと勧めた。そしてその激励のせ
話を聞けば聞くほど、サントペテルブルグの夜が深まれば深ま
いだけでもあるまいが、彼は翌年にも若き作家賞の受賞作家と
るほど、「僕」は不眠と幻覚に悩まされる。
なった。 短編小説『イヴァン・メンシュコフの踊る部屋』には「自伝小 説」という解説がついている。しかし自伝小説といえば普通は
読者の理解を助けるために、李章旭がこの小説に付け加え た、2007年に書かれた日記形式の「作家ノート」の一部を紹介 しよう。
一人称の主人公の真剣な自己告白を思い浮かべるものだが、こ の小説はまったく違う。むしろ何を言いたいのか分からないほ
夜、僕はロシアのサントペテルブルグのある共同住宅に
ど、曖昧でぼんやりした叙述で一貫している。作家は何かを隠
座っている。階の重厚な木造のドアを押して中に入ると薄暗
したまま読者がそれに気付くのを期待して書いた小説とでも言
く、かび臭いにおいのする階段を上らなければならない古い建
うべきか。
物だ。玄関は重たい真鍮の鍵で3つの鍵穴をあわせてドアを開
この小説には主人公の「僕」、主人公が泊まっている家の主 であり作家のイヴァン・メンシュコフ、その部屋を紹介してく
けるようになっており、古びた椅子に座っていると階段のギー ギーという音が玄関の隙間から入り込んでくる。
れた友人のアンドレ、この三人が登場する。文学評論家のキ ム・ファヨンの表現を借りるならば「この三人はすべて虚構の
この都市にはチョコレート博物館がいくつかある。そこで
製造者たち、すなわち恐怖小説家」であり、「玉ねぎの皮のよう
はチョコレートで作られた革命家レーニンに会うことができ
に後から後から皮をむくように接近していくこの小説の中心に
る。販売用なので旅行者たちは甘いレーニンを味わうこともで
はイヴァン・メンシュコフの恐怖小説『夢』が配置されている」
きる。チョコレートで作られたレーニン。いや、レーニンとし
たぶんイヴァン・メンシュコフは幻影だ。いや、実は実存
て作られたチョコレート。社会主義を材料としたポップアー
人物のようでもある。読者は彼が実際に存在するのか、あるい
ト。または一時は不可侵の崇高なシンボルだったものの喜劇的
72
韓国の文化と芸術
詩・小説、評論のすべての分野で活動している作家 イ・ジャンウク(李章旭)は「幽霊の住みついた家」を
な反転だ。
作家はその家に20日ほど滞在したようだ。その家を出た瞬 間を李章旭はこう語っている。
背景にしながら実に知性的な物語を作り出す作家だ。 階段が木造ではなく、石でできているのに気付いた。石の 階段は頑丈で、堅固で、静かだ。それでは夜の間聞こえてきた イ
ジャン
ウク
李 章 旭
あのギーギーいう音は何だったのだろう。僕の夢にしみ込んで きたその音はどこから来たというのか。斧を持って階段の踊り 場に立ちぼんやりと僕を眺めていたラスコリニコフはどこに 行ったのだろう。
作家の散文と小説を一緒に読むと、ぼんやりとではあるが 李章旭の悩みと疑問が読み取れる。 小説で読者は資本主義の波がソビエトの地に襲い掛かり、 そして去って行ったことを知る。反体制作家だったメンシュコ フは大衆的な恐怖小説の作家に変身し、無神論者のアンドレは 寿司屋のアシスタントマネージャー兼恐怖小説家になってい る。匿名の「僕」もまた、幽霊なのか実存なのかが定かでないメ ンシュコフとアンドレに関する疑惑に取り付かれており、彼ら と大して違わない。文学評論家のノ・デウォンの言葉を借りれ ば「資本主義をあんなにも憎悪していたのに、気がついてみれ ば実は自分自身が株式投資家だったという話。過去の自分を自 ら裏切る酷い悪夢」だというのだ。 作家・李章旭は1968年生まれの典型的な386世代 (この用語の 使われた1990年代に30代で、1960年代生まれの、80年代の民主 化運動を経験した世代) だ。資本主義を克服しようとしたものの、 今や資本主義の最前線で必死の綱渡りをしている40代の友人や先 輩・後輩たちを目撃し、書けることと、書けないことの境界で、 彼はこんな物語をつむぎ出したのではないか。それも古くかび臭 く陽の差さない19世紀式のサントペテルブルグの共同住宅で。読 者はあまり信頼できない一人称の主人公の叙述に従い小説を感覚 的に体験しながら 「僕」 の混乱と疑問に参加するほかない。 この小説のクライマックスは幽霊の恐怖に取り付かれた主 人公の「僕」が青い光に満ちたメンシュコフの部屋でいつの間に か知らないうちにタップダンスを踊っているシーンだ。ソウル から数千キロも離れたその地で彼が踊るタップダンス。わけの 分からない恐怖に取り付かれたまま新自由主義の最前線で生き ている読者もこのタップダンスに自分自身を投影することにな るだろう。(翻訳;金明順) K or e a n a ı 夏 号 2 0 1 3
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韓国のイメージ
ここはいったい何をするところ?/あの中には何があるの?/誰が住んでいるの?/何か見えるかい?
狭い狭い扉の隙間から覗き込んでいる子供たちの目は好奇心に満ちて輝いている。 見えるものは何もない。しかし扉の向こうに広がる無限の空間が究極の質問を投げかけてくる。 「私は何者なのか」 子供たちの背の届かないところに大きな扁額がかかっている。「瀛洲禅斎」。意味の分からない漢字が四 文字、その画数も多い。神仙の住む深い 山の中の参禅の道場という意味だ。扉の右側の柱にはまた二文字 「禅院」とある。参禅するところという意味だ。
「私は何者なのか」-参禅の空間 キム・ファヨン(金華榮、文学評論家、 芸術院会員) 写真 : 安洪范
それでも子供たちの好奇心は止まない。それ で赤い扉にもう少し簡単に書いて貼り付けた。 「ここは修行精進する禅院なので立入を禁じる」。
扉の中に一度足を踏み入れた人々は、質問に対する答えが心の中に湧き起こり振動するまで外に出ること はない。内部と外部が出会う扉。世俗と禁欲が音も無く互いに押したり引いたりする赤い扉。 韓国の10大仏教寺刹の一つである「梵魚寺」はこの国の第二の都市・釜山の郊外の金井山の山裾にある大 きな寺だ。7世紀のある日、王が山の頂上にある大きな岩の下の金色に輝く泉で天から降りてきた魚が遊 んでいる夢をみて建てたといい、寺の名まえを「梵魚寺」とした。その寺の中にこの禅房がひっそりとある。 僧侶たちがその中で禁欲の修行のために勇猛精進中だ。 「私は何者なのか」 質問は太鼓の音のように響き渡り周囲の空間を高揚させる。 扉の隙間から覗き込んだ子供たちはその太鼓の音を聞くことはない。扉から離れる子供たちの純真な心 こそがまさに質問に対する答えかもしれない。(翻訳:金明順)