Koreana Winter 2017 (Japanese)

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冬号 2017

韓国の文化と芸術 特集

江原道

ISSN 1225-4592

VOL. 24 NO. 4

険しい山河と 人々の物語 東海岸に昇る太陽を見よ、山と川と海が聞かせ てくれる江原道の物語、江原道の冬を楽しむい くつかの方法、澄んだ自然の恵みが育む生活の 拠り所、束草海岸の失郷民村の切ない郷愁

江原道


韓国のイメージ

韓国の屋台は馬のいない

「布帳馬車」 キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員


「1

964年の冬をソウルで過ごした人なら誰でも分かるだ ろうが、夜になると現れる一杯飲み屋-オデンとス ズメ焼と3種類の酒を売っており、凍りついた街を

襲う冷たい北風にはためく布帳を持ち上げて中に入るようになっ ており、中ではカーバイトランプの細長い炎が風に揺れ、染色し た軍用ジャンパーを着た中年の男が酒を注ぎ、酒の肴を焼いてい る。そんな飲み屋で、その夜、私たち3人は偶然出会った」。 これはキム・スンオク(金承鈺)の有名な短編小説『ソウル、 1964年の冬』の冒頭の書き出しだ。 韓国の「ポジャンマチャ(布帳馬車)」は、アメリカ西部開拓 時代の幌馬車と違い、馬もおらず、走りもしない。移動手段では なく、通りを歩いていて気が向けばすっと入って飲んだり食べた りしていく街頭の飲み屋、屋台なのだ。移動手段との共通点があ るとすれば、布帳がかけられていることと入りやすい道端に立っ ているという点だけだ。 夜になると現れるこの道端の飲食店は、この国の都市風景にな くてはならないものとなっている。今や小説の中に登場する貧し かった1964年の姿とは違い、メニューも多様になった。オデンは もちろんコムジャンオ(ヌタウナギ)、タッパル(鶏の足)、豚 カルビ、スンデ(腸詰)、天ぷら、トッポッキ、ウドンなど多彩 だ。1960年代の名物スズメ焼は今はなく、カーバイトランプの炎の 代わりに電球が灯っている。朝鮮戦争の名残の染色した軍用ジャ ンパーの代わりに、ブルージーンズにカジュアルジャケット姿の 若者たちをよく見かける。 テレビドラマでは失恋や事業の失敗で傷心した男性主人公が一 人で焼酎を飲み、偶然その横を通りがかった女性主人公が、すっ かり酔いつぶれている彼を介抱し慰める。そしてそこからドラマ の新たな展開が…という瞬間「次回につづく」という字幕。 それだけお客が即興的に気軽にやってくる道端のビストロは、 この国の人々の胸を揺さぶり郷愁を呼び起こす。しかし、この道 路を占拠する営業は大部分が不法だ。それでときどきポジャンマ チャ(布帳馬車)が建物内部に入っているという奇異な合法的な 現象も生じる。まさにポジャンマチャには韓国現代史の哀歓がし みこんでいる。 © HANKHAM


<編集長の手紙>

江原道の芸術と現実

発行人

李是衡

編集長

金鍾徳

編集理事

軍事政権が韓国社会に暗い影を落としていたころ、若い芸術家たちは抑圧

編集諮問委員

韓敬九

の人々は息を殺して彼らの絵画を鑑賞したものである。1980年代の民衆画家で

金華榮

さえ、ファン・ジェヒョンが江原道の炭鉱村に永住を敢行したことを過激的な

金英那 高美錫

行動と考えた。

宋惠眞

9月初め、『コリアナ』特集記事の取材チームは江原道を探訪する過程で

宋永萬

朴壽根美術館を訪問することになった。ちょうどファン・ジェヒョンの作品が った。 明るい山間都市の楊口に設立された朴壽根美術館の展示会で、炭鉱や鉱 夫を描いたファン・ジェヒョンの作品を発見したのは予想外の収穫であった。 彼の絵には歓びや畏敬を呼び起こすものがあった。朴壽根美術賞は1950年代と 1960年代初め、貧しい韓国社会で一貫して、純朴な隣人と風景を描写した朴壽 根を記念して制定された賞である。 今回の表紙は何故ファン・ジェヒョンが初めての受賞者に選ばれたかを静 かに雄弁している。謙遜と正直な二人の画家は、全く違う材料を使っているに もかかわらず、絵の質感がよく似ている。二人とも作業のつらさばかりでな く、それぞれの思いと感覚を表現するために最も効果的な材料と方法を選んで いる。われわれはファン・ジェヒョンを再発見し、江原道の中心である太白市 でインタビューをした。彼はその地で画家として、地域共同体の一員となって 活躍している。 今回の特集「江原道-険しい山河と人々の物語」は、江原道の山と川、海 が織りなす物語である。江原道は雪岳山、雉岳山、五台山、太白山など山が多 く畑作が主流をなし、地下資源が豊富である。江原道の険しい山々と美しい海 は人々の暮らしに大きな影響を与えたが、今やこうした自然環境が魅力ある観 光資源となって、2018年2月には平昌で冬季オリンピックが開催されることに

裵炳雨

那秀昊

崔寧仁

される民衆の側から工場の労働者や農民の生き方を超写実的に描写した。当時

展示されていたが、朴壽根美術賞の初めての受賞者となった祝いの展示会であ

金光根

監修者 翻訳者 クリエイティブディレクター 編集

アートディレクター デザイナー

Werner Sasse 嘉原和代 坂野慎治 金明順 朴美貞 金三

池根華、盧倫永、朴道根

金度潤

金智賢、金南亨、葉蘭敬

編集

金熒允編集会社 04035

韓国ソウル特別市麻浦区楊花路7-44. 秋思軒ビル3階 Tel : 82-2-335-4741

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なった。 日本語版編集長 金鍾徳

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韓国の文化と芸術 冬号 2017

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「山を枕に、山を布団に」

ファン・ジェヒョン 1997~2005、キャンバスに土と混合材料、227.3×162.1cm

『Koreana』の記事を引用したり、非営利目的で使用する場合にも 『 Koreana』からの転載であることが分かるようにクレジットを明示 してください。

掲載された記事は筆者の個人的な意見であり、『 Koreana』や韓国国 際交流財団の公式見解ではありません。

1987年8月8日文化観光部-1033で登録された季刊誌『Koreana』はア

ラビア語、インドネシア語、英語、スペイン語、中国語、ドイツ語、 フランス語、ロシア語でも発刊されています。


© Pyeongchang county

特集

江原道--険しい山河と人々の物語

04

特集 1

東海岸に昇る 太陽を見よ イ・チャンギ

14

特集 2

山と川と海が聞かせてくれる 江原道の物語 イ・スンウォン

40

文化遺産の継承者

極細の線で 無限の禅を追求する カン・シンジェ

44

アートレビュー

掛仏 その華やかな荘厳さに魅了されて ユ・ギョンヒ

50

オン・ザ・ロード

千の路地に立ち上る りんごの花の香り クァク・ジェグ

20

特集 3

江原道の冬を楽しむ いくつかの方法 チェ・ビョンイル

26

32

特集 5

束草海岸の失郷民村の 切ない郷愁 ソン・ヨンマン

特集 4

澄んだ自然の恵みが育む 生活の拠り所 イ・ビョンオ

58

エンターテインメント

ネットフリックスが変えた 流通システムのあり方 チョン・ドクヒョン

60

韓国と私

遠くの目

保坂祐二

62

66

ライフスタイル

列車の旅で味わう アナログの魅力 パク・サンハ

70

韓国文学の旅

匿名の空間 コンビニの寛容と冷淡 チェ・ジェボン

料理物語

子守唄「島の赤ちゃん」で おなじみの牡蠣 グォン・オギル

『 私はコンビニに行く』 キム・エラン


特集 1

江原道-険しい山河と人々の物語

東海岸に昇る

太陽を見よ 高い山と険しい峠が幾重にも重なり、青い東海岸になだれ込む。美しい風景が、厳しい生活と 切なく重なる。韓国人の心に描かれる江原道の姿だ。ダンコウバイの花の鮮烈な香り、 月明かりに咲き乱れる白いソバの花、心ときめく東海岸の日の出…。見たことはなくても、 江原道 (カンウォンド) を象徴する馴染みある光景だ。小説や歌で十分、経験してきたからだ。 イ・チャンギ 李昌起、詩人、文学評論家 安洪範 写真

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韓国の文化と芸術 5


のかな照明、素朴な舞台でギターを弾く歌手 が歌い始める。ピーター・ポール&マリーの 『500マイル』という曲だ。騒々しい雰囲気が

一瞬にして静まり、徐々に歌声に引き込まれる。沈黙と暗闇の 中で感情を抑えようとする人もいれば、何人かはすでに涙を拭 いていた。ユーチューブで見たアメリカの小都市のカフェの様 子だ。 歌とは物語の圧縮であり、拡張でもある。アメリカの人た ちは、ある流れ者が家族と故郷を懐かしむ郷愁の歌から、鉄道 建設、南北戦争、大恐慌、大量失業に要約される近代史の明暗 を圧縮し、それをアメリカ人の普遍的な情緒へと拡張させて鑑 賞していた。 1曲が終わるまでの短い間、国籍と文化が異なる人々が互 いに理解し共感することは、それほど珍しいことでも難しいこ とでもない。偏見さえ持たなければ…。今回のテーマは江原 道。そういうわけで、まずはハ・ドッキュ(河德奎)が作詞・ 作曲し、ヤン・ヒウン(楊姬銀)が歌った『寒渓嶺』という曲 をお薦めしたい。

金剛山へ向かう道

地形的に見ると、江原道(カンウォンド)はヨーロッパの

スイスと比べられる。スイスの国土は、ほとんどがアルプス 山脈に覆われている。江原道は、朝鮮半島の南北に伸びる白 頭大幹(ペクトゥデガン)の真ん中にある金剛山(クムガン サン)から太白山(テベクサン)までに当たる。農業が生活 の根幹をなしていた時代、周りを山に囲まれた江原道は、そ れほど住みやすい場所ではなかった。朝鮮後期の人文地理書 『択里志』に「土地が非常にやせていて砂利に覆われている

2

ため、種一斗を撒いてわずか10斗余りを収穫する」と記され たくらいだ。今も事情は変わらない。そうした環境により、 政治・社会的に抑圧された人々にとって、江原道の山間部は 身を隠すのに最適だった。 国が現物で税金を徴収していた時代を考えてみれば、そ の状況はさらによく分かるだろう。江原道には税穀(税金と して納める穀物)を保管する倉庫が2カ所あったが、規模だ けでなく、それを運ぶ船の大きさや数が、他の地域に比べて 非常に少なかった。それだけでなく、嶺東地方で徴収した 税穀は、必ずその地域で使うように例外として規定されてい た。さらに17世紀には貢物を現物から米穀に統一し、各戸に 課された税金も、土地の規模による大同法が施行されたこと で、その機能は大幅に縮小された。農地がないか零細な農民 の負担が減らされたのだ。 山遊びを精神修養の手段としていた儒者が統治していた時 代、江原道は金剛山へ向かう道に過ぎなかった。残念なことに 今は休戦ラインの北にあるが、金剛山は中国の詩人・蘇軾(蘇 1 東坡)が「一生に高麗の金剛山を一度見ることが私の願いだ」

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小説家イ・ヒョソク(李 孝石、1907~1942)の生 家がある蓬坪(ボンピョ ン)。彼の小説の背景の ようにそば畑が広がって いる。蓬坪では毎年、そ ば花が白く咲く9月にな ると、イ・ヒョソク文化 祭りが開かれる。


と述べたほど名の知れた名山だ。しかし、高麗の人なら誰もが

関連文献もいくつかある。

行けるような場所ではなかった。ロバや輿に乗って遊覧するた

朝鮮後期に書かれた作者未詳の紀行歌辞(詩歌の一種)

めには、少なくとも4人以上が付き添わなければならず、開京

『東遊歌』には、遊覧の途中に目にした江原道の下層民の貧し

(現開城)から1カ月ほどかかったため、相当な財力がなけれ

い暮らしが細かく描写されている。

ば夢見ることすらできなかった。

「鉄原からここに来る途中、ゆっくり見て回ると/山水は

それにもかかわらず、金剛山遊覧への熱気は冷めやら

幾重にも重なり、人家はまれで/固い砂利に覆われているた

ず、それぞれの理由であきらめざるを得ない儒学者や文人墨

め、鍬で畑を耕し/酒屋には油がなく肥松で灯をともし、部屋

客が後を絶たなかった。そのため、金剛山遊覧記は、韓国の

の隅に土で煙突と竈を造って、ようやく火をつける」。

紀行文学において最もありきたりな素材になり、内容も山勢

フランスも19世紀のナポレオンの時代、極貧層が85%

と景観への常套的な描写と主観的な感想が主流をなした。18

に達したことを考えれば、その時代の困窮は江原道だけの

世紀の文人画家カン・セファン(姜世晃)が「山に登るのは

話ではないだろう。しかし、日本統治時代の20世紀初め、

人として最も高尚なことだが、金剛山を見物するのは最も低

ある作家の目に映った江原道の困窮は、一般的なものでは

俗なことだ」と非難した理由をうかがい知ることができる。

なかった。

韓国の文化と芸術 7


『三釜淵』(『海岳伝神帖』より) チョン・ソン(鄭敾)、1747年、絹 本淡彩、31.4×24.2㎝ 朝鮮時代の儒者にとって、江原道は 金剛山へ向かう旅路の一部に過ぎ なかったが、時には美しい風景が旅 を遅らせもした。画家チョン・ソン (鄭敾、1676~1759)も金剛山に向 かう途中、鉄原(チョルウォン)に ある三釜淵の滝に魅せられて絵を残 している。

© Kansong Art And Culture Foundation

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ダンコウバイの花とソバの花

よる収奪がピークに達した日中戦争の翌年のことだ。

小説家のキム・ユジョン(金裕貞、1908~1937)は代々、

特筆すべき点は「人間がいくら卑しくて醜くても、文学は

江原道・春川のシルレ村に住む豊かな家の末息子として生ま

それを美しく見せる魔力を持っている」という彼の文学論が、

れ、ソウルと春川を行き来しながら育った。ソウルでエリート

「内鮮一体」を強調した日本の強い圧迫から逃れたという事実

コースを歩んだ彼が、50戸ほどのシルレ村に戻ってきたのは22

だ。そのような理由で、多くの人が韓国文学の傑作として挙げ

歳の頃だった。その間、大きな変化があった。両親が早くに亡

るイ・ヒョソクの『そばの花咲く頃』が、彼の初期の現実主義

くなり、代わって家を守っていた兄が、道楽三昧で財産を食い

と万年の純粋の間で、どこに位置するのかよく考えてみる必要

つぶした直後だった。生活費や学費など仕送りが途絶え、失恋

がある。

した上に突然病気にまでかかっていた。そんなキム・ユジョン がシルレ村に戻ったのは、故郷に先に戻っていた兄を訴えて、 財産を受け取ろうという狙いもあった。

「道はちょうど長い山腹にさしかかっていた。真夜中を過 ぎた頃だろうか。死んだような静けさの中、生き物のような月

しかし、身も心も疲れ果てた彼を慰めてくれたのは、わず

の息遣いが手に取るように聞こえ、大豆やトウモロコシの葉が

かな遺産ではなく、早春になると錦屛山を黄色に染める「ツバ

月明かりにひときわ青く濡れていた。山腹は一面そば畑で、咲

キ」(ダンコウバイを指す江原道の方言)、その中で「生活の

き始めた花が塩をふりまいたように快い月明かりに映えて、息

誇張や虚飾なしに、生まれたままに素朴でたくましく」生きて

がつまるほどだ。赤い茎は漂う香りのようにはかなげで、ロバ

いく純朴な故郷の人々、特に江原道の女性だった。

の足取りも軽い」(『そばの花咲く頃』より)

故郷の自然と人々に囲まれて、次第に元気を取り戻した彼 は、家の近くの丘に小屋を建て、村の青年を集めて夜学を開い

江原道の人々は、キム・ユジョンの故郷シルレ村に「キム

た。彼はある日、村の女性から自分の家に数日間泊まって突

・ユジョン文学村」を造り、イ・ヒョソクの生家がある蓬坪面

然姿を消したトゥルビョンイ(ジプシーのように転々としなが

には「イ・ヒョソク文学館」を建て、その文学と人生を称えて

ら酒と愛嬌を売る女)の話を聞いた。その時に聞いた話を基に

いる。

『山里の旅人』という初めての作品を完成させた。彼は、時代

水路、雪路、そして高速道路

の痛みを語る覚悟で作家の道を歩み始めた。 そして、シルレ村で出会った男たちをモチーフにした。例

江原道の峠道は、多くが標高1000mに達する。高い山から

えば『妻』では、儲からない農業より妻をトゥルビョンイとし

始まった江原道の水路は、ほとんどが漢江につながる。漢江は

て働かせて、ぜいたくな暮らしをしようと夢見る男。『金を採

1930年代まで、江原道の険しい陸路の代わりに、高山地帯の林

る大豆畑』では、1年間苦労して何俵かの大豆を得るより金を

産資源を運ぶ手段として使われていた。北側に位置する麟蹄

採る方が賢いと考える男。『夕立』では、借金と凶作によって

(インジェ)と楊口(ヤング)の木材は北漢江に、南側に位置

裸一貫で逃げ出し、住みやすい場所を探そうと、若い妻の手を

する旌善 (チョンソン)、平昌(ピョンチャン)、寧越(ヨンウ

引いてあの山この山を越えて放浪する男。そうした人間のいや

ォル)などの木材は南漢江に集められ、筏にして運ばれた。麟

らしさをありのままに描いて戯画化することで、韓国近代文学

蹄から春川(チュンチョン)まで1日、春川からソウルまでは

を発展させた。

7~15日ほどかかった。その水路で筏を操る筏師は、江原道ア

キム・ユジョンの文学が、日に日に疲弊していく農村生活

リランの曲調に歌詞を変えた『筏アリラン』を歌うことで、労

は、日本の支配による収奪と小作農化という構造的な矛盾によ

働の疲れと退屈さを紛らわせた。この筏には時おり、ソウルに

るという作家の洞察から始まったとすれば、イ・ヒョソク(李

送られる楊口や方山の上質の薬草や薪なども載せられた。

孝石、1907~1942)は時代が厳しくて危うい時ほど、現実から 離れてさらに審美主義的な世界を構築した。

北漢江は、ソウルの塩船が行き来するなど、春川とソウル を結ぶ重要な交通路でもあった。税穀船も当然この水路を利用

イ・ヒョソクは江原道平昌郡蓬坪面の出身で、エッセイ

した。北漢江の水路が途絶えたのは、水力発電のためのダムが

『落ち葉を燃やしながら』で、落ち葉が焦げる匂いから煎り立

いくつか造られ始めた1940年代の初めだ。北漢江の水路が途切

てのコーヒーの香りを感じ、冬になればクリスマスツリーを飾

れた代わりに、江原道にも電気が入ってきたわけだ。舟唄を歌

りスキーを始めようなどと記している。これは、日本の支配に

いながら筏が列をなして進んでいた麟蹄の内麟川では、いつか

韓国の文化と芸術 9


江原道を横切る全ての道が東海岸につながるように、 韓国人にとって東海岸は単に東にある海ではない。 それ自体が一つの宗教だ。

らかラフティングを楽しむ若者の歓声が山びこのように響いて いる。 江原道の水路が、あらゆる面で利益をもたらしたとすれ ば、雪路は交流を拒否する非生産的な道といえる。膝まで埋ま る江原道の雪道を歩くということは、「涙と共にパンを食べ る」ことよりも切実で悲壮だ。その道は苦行を前提にした修行 の道であり、回帰の道でもある。ファン・ソギョン(黃晳暎) の『森浦へ行く道』という小説では、産業化によって流れ者に なった3人の主人公が、森浦という未知の場所を探して雪道を さまよう。従軍慰安婦の少女の人生を収めた映画『雪道』で は、麟蹄の雪の積もった白樺の林道と大関嶺の限りなく続く峰 々が、少女の帰り道の背景になっている。そこには、このよう な意味が含まれているのだ。 1971年に板橋から原州、セマルまで一部が開通したの に続き、1975年にはセマルから橫城、平昌、江陵に向かう 嶺東高速道路が完全に開通し、江原道の山道は一年を通し て都会の人々の登山道へと変わっていった。ちょうどその 頃、軍事地域として出入りが制限されていた東海岸の一部 の海岸も、海水浴場として開放され始めた。1970年代の若 者は、映画『馬鹿たちの行進』の挿入曲、ソン・チャンシ ク(宋昌植)の『鯨狩り』をアコースティックギターをか き鳴らしながら声を張り上げて歌ったものだ。その曲のハ イライトは「さぁ、旅立とう東海岸へ」だ。夏休みになる と、曲がりくねった線路を走る鈍行列車に乗ったり、真っ すぐ伸びる高速道路をバスで走ったりして、簡単なキャン プ道具を担いで東海岸に向かうのは、当時の若者にとって 最高のぜいたくだった。 韓国のウインタースポーツの中心になった龍坪(ヨンピ ョン)スキー場が、雪の積もった大関嶺に完成したのは、嶺 東高速道路が開通した翌年だ。去年の夏、このスキー場の頂 上で2018年の平昌冬季オリンピックの成功を祈る記念式典が 行われた。

10 KOREANA 冬号 2017

江原道(カンウォンド) の東海岸には、美しい日 の出の名所が多い。韓国 人にとって東海岸は単な る海ではなく、歴史の意 味を振り返る崇高な空間 であり、日常から抜け出 して自由を体験する憩い の場でもある。


東海岸へ向かう道

歌手ハン・ヨンエ(韓栄愛)は2016年12月、延べ200万人

れらの曲が発表された時期と関連がある。これは、歴史の皮肉 といえるだろう。

以上が参加したろうそく集会に招かれて、特有の低くかすれた

江原道を横切る全ての道が東海岸につながるように、韓国

声で「見よ、東海岸に昇る太陽/誰の頭の上で燃えているのか

人にとって東海岸は単に東にある海ではない。それ自体が一つ

/血のにじんだ闘争の流れの中で/尊い純潔さを得た我々の上

の宗教だ。それを理解してこそ、次のような人たちの切実な

に」で始まる『我が国、我が同胞』を歌った。

思いに気づき共感できる。大関嶺(テグァルリョン)、寒渓嶺

1970年代にこの歌詞を書いたのは、民主化運動における代

(ハンゲリョン) 、彌矢嶺(ミシリョン)など白頭大幹 (ペク

表的な体制抵抗歌謡として歌われた『朝露』の作曲家キム・ミ

トゥデガン) の峠道を越えて東海岸に立った瞬間、おのずと胸

ンギ(金敏基)で、当時は大学生だった。『鯨狩り』の歌詞を

のつかえが下りて、心を締め付けていた日々の鬱憤が晴れ、自

書いたのは、新人作家として高い人気を博していた小説家チェ

由を満喫する人たち。初日の出を見るために、夜を明かして嶺

・インホ(崔仁浩)だ。嶺東高速道路が経済を発展させた産業

東高速道路を走り、東海岸に集まってくる人たち…。調律は終

化の象徴であろうが、開発独裁の産物であろうが、偶然にもこ

わった。そろそろ歌を聴く時間だ。

韓国の文化と芸術 11


江原道に「文化」のイメージを吹き込んだ 平昌大関嶺音楽祭 リュ・テヒョン 柳泰衡、音楽コラムニスト

1. ザウルベク・ググカエフの指 揮でセルゲイ・プロコフィエフの 『三つのオレンジへの恋』を公演 するサンクトペテルブルクのマリ インスキー劇場管弦楽団とオペラ 団(アルペンシアミュージックテ ントにて)。イタリア・ヴェネツ ィア出身の劇作家カルロ・ゴッツ ィの同名の寓話を基にしたこのオ ペラは、2017年の平昌大関嶺音楽 祭で韓国初公演された。 2. 2017年の平昌大関嶺(ピョ ンチャンデグァンリョン)音楽 祭「著名演奏家シリーズ」でダ ーヴィト・ポッパーの『鎮魂歌 Requiem』を演奏するチェリスト のチョン・ミョンファ、ルイス・ クラレット、ローレンス・レッサ ー(左から)、ピアニストのキム ・テヒョン。

1 © Gangwon Art And Culture Foundation

12 KOREANA 冬号 2017


国際音楽祭として知られる平昌大関嶺音楽祭は2004年、

龍坪リゾートで初めて開かれた。アメリカのアスペン音楽 祭をベンチマーキングし、演奏と教育が融合した夏の音楽 祭として企画された。アスペンは、かつて銀鉱山として栄

えたが廃坑された人口約6000人の小さな町だった。それが 1949年に音楽祭を始めて以来、名実共にアメリカを代表す る音楽イベントの街になっている。

これをモデルに、ジュリアード音楽院のカン・ヒョ(姜

2

孝)教授とインターナショナル・セジョン・ソリストが中 心になって音楽祭の準備に取り掛かった。最初は、あまり 良い環境ではなかった。演奏会場のヌンマウルホールは専 用施設でないため、観客にきちんと音を伝えるためにはマ イクの増幅に頼るしかなかった。さらに、音楽会が開かれ る龍坪リゾートで他のイベントが同時に開催され、最初の

しっかりと根付いている。今年は特に、ベンチマーキング に訪れた国公立の芸術団体の姿が多く見られた。

平昌大関嶺音楽祭は、優れたプロの演奏者と音楽学校

頃は剣道大会場から聞こえてくる気合の声に観客が驚くこ

が、車の両輪のようにバランスよく役割を果たしている。

しかし、標高7000mの高地での避暑と公演を兼ねた平昌

緒に公演を見たり食事をしたり散歩をし、時にはカフェで

ともあった。

大関嶺音楽祭は、毎年テーマを変えて次第に音楽ファンを 引き寄せた。国内外の音楽界から注目を集めるテーマを選

学生は巨匠のマスタークラスを受講するだけではなく、一 出くわすこともある。

チョン・ミョンファとチョン・ギョンファ、この二人の

び、毎年一貫性のある音楽プログラムを構成した結果だ。

芸術監督の存在も功を奏した。彼らはレパートリーの選定

な業績を残した。2010年にはクラシック専用ホールのアル

いスポンサーから後援・協賛を受け、それをうまくアレン

古典の名曲から実験的な現代音楽まで紹介し続け、音楽的 ペンシアコンサートホールが開館し、ようやく演奏を余す ところなく鑑賞できる環境が整えられた。その年には、著 名な演奏者シリーズが、全公演・全席完売という記録も残 した。毎年、巨匠と呼ばれる演奏者や教授が参加し、全世 界の優れた音楽学生の参加も徐々に増えてきた。

2011年の第8回からは、チェリストのチョン・ミョ

とアーティストの配置に大きな役割を果たした。素晴らし ジするのも、平昌大関嶺音楽祭が築いてきたノーハウだ。

今回はヤマハのピアノを40台も置いて、アルペンシアのあ ちこちで練習することができた。航空会社、あるいはコー ヒー焙煎のテラロサなど江原道の企業も、音楽祭を後援し ている。

2016年2月からは、平昌冬の音楽祭も開催されている。

ンファ(鄭明和)とバイオリニストのチョン・ギョンフ

オリンピック特区事業の一環として江原道と文化体育観光

的なネットワークが十分発揮された音楽祭は「光になっ

冬の音楽祭は、チャイコフスキー国際コンクール受賞者の

ァ(鄭京和)が共同芸術監督を務めている。彼らの国際 て」をテーマに、約3万5000人という過去最高の観客を集

めた。さらに「巡回音楽会」など、観客参加型のプログ ラムも増えている。

今年の平昌大関嶺音楽祭は『ヴォルガの舟歌』をテーマ

にロシア音楽を扱い、2012年にオープンしたミュージック

部が主催し、江原文化財団が主管している。第1回の平昌 独奏、室内楽の協演、さらにジャズシンガーのナ・ユンソ ン、ギタリストのウルフ・ワケニウスなどジャズミュージ シャンが参加することでジャンルが広がり、さらに身近に なった。

平昌冬の音楽祭には、スキーに来て音楽会があることを

テントでのオペラ公演が象徴的だった。やむを得ず室内楽

知り、公演会場を訪れる人が多かったため、現地でのチケ

規模オペラ公演を行えるほど成長したのだ。副芸術監督の

音楽祭によって、「澄んだ環境」と「文化」という二つの

中心のコンサートから始まった音楽祭が、ハード面でも大 ソン・ヨルム氏をはじめ若い音楽家が深いアンサンブルを 奏で、世代や国籍の異なる演奏者の織り成すハーモニーが

ット販売が予想を上回った。平昌大関嶺音楽祭と平昌冬の キーワードが、江原道のイメージとして記憶されることに なるだろう。

韓国の文化と芸術 13


特集 2

江原道-険しい山河と人々の物語

14 KOREANA 冬号 2017


山と川と海が 聞かせてくれる

江原道の 物語

江原道(カンウォンド)は山と川と海があるため、この 三つの地形的な特性に根ざした特有の文化環境がある。 江原道に由緒ある寺院が多いのは、深い山が多いためだ。 山里の人生の苦楽が込められたアウラジ舟唄は、 筏を浮かべた川と共に流れてきた。 イ・スンウォン 李舜源、小説家 安洪範 写真

旌善(チョンソン)のアウラジでは、太白の三水 嶺と黄柄山に源を発する二つの流れが合流する。 韓国の代表的な民謡「旌善アリラン」の発祥の地 でもあり、昔から江原道の深い山の木材を運ぶ有 名な水路だった。

韓国の文化と芸術 15


原道が昔から多くの人に愛されてきた理由 は、山と川と海を一緒に見られるからだ。夏 にはこの上なく美しい海。冬には山々に降り

積もった雪。秋の紅葉も、韓国で最初に始まって徐々に南へと 進み、ここから全国に広がる。 江原道は、白頭大幹(ペットゥデガン)が背骨のように貫 く朝鮮半島の東に位置しているため、ソウルから行く場合、大 関嶺を越えるか、さらに北側にある陳富嶺や弥矢嶺を越えなけ ればならない。あるいは南の方に曲がって、太白と正東津を経 て江陵 (カンヌン)市 に向かう列車もある。もっと南から東海 岸に沿って国道7号線を走り、三陟、東海、江陵を経て高城 (コソン)郡に続く道もある。 江原道は、白頭大幹の主軸をなす太白(テベク)山脈を境 に、嶺東と嶺西の二つの地域に分けられるが、冒頭で説明した のは嶺東地域だ。春川、華川、楊口などが位置する嶺西地域は さらに広い。嶺東が山と海の地だとすれば、嶺西は山と川の地 といえる。そのため、同じ江原道でも太白山脈を境に東と西で は、自然環境から大きく異なる。

朝鮮半島の背骨・白頭大幹

韓国の全て山と山脈の中心は、太白山脈だ。太白山脈には

高い山が多い。休戦ラインの向こうにある金剛山(クムガンサ ン)をはじめ、雪岳山、五台山、2018年に平昌冬季オリンピッ クが開かれる加里王山、民族の霊山と呼ばれる太白山など、標 高1500mを超える山々が連なっている。 それらの山に比べると、大関嶺(テグァンリョン)は低く 感じられる。それにもかかわらず、大関嶺が全ての峠道の最高 峰に挙げられるのは、太白山脈に遮られた嶺東と嶺西をつなぐ 代表的な関門であるからだ。道を造るのが難しかった昔、両地 域を遮っていた障壁に初めてできた道が、標高832mの大関嶺、

江原道 北朝鮮

平壌 ソウル

韓国

金剛山

雪岳山

東海

束草

江陵

平昌

旌善 太白

16 KOREANA 冬号 2017

太白山


江原道(カンウォンド)の深い山には、渓谷を渡る所が多く、 様々な形の橋がある。五台山の五大川にあるソプタリ(柴の 橋)も、その一つだ。

つまり江陵(カンヌン)と平昌(ピョンチャン)の間にある大

井里で夏を過ごしたという。いつも伝説のように感じていた金

きな峠だ。そのため、大関嶺は山であり、峠であり、また門で

剛山だが、2000年代の初めに東海から出る船で一度だけ行った

もある。

ことがある。その金剛山への道がいつまでも続くと思い、また

白頭大幹の稜線には村がない。山が険しいためだろう。し かし大関嶺一帯は、山地ではあるが高原状の地形が広がってい

続いてほしいと願ったが、再び途切れてしまった。

関嶺に初めて登った。白菜と大根の広い畑を見て、一度も行っ

寺を抱く深い山

たことがなく、写真でも見たことのない北朝鮮の蓋馬高原を思

サン)が韓国第一の名山になった。壮大な蔚山岩も圧巻だが、

い浮かべた。おそらく高原という言葉のためだと思うが、当時

紅葉が色づいた雪岳山の趣には「ここから韓国の秋の炎が燃え

大人が大関嶺のことを「非山非野」と呼んでいた理由が分かる

広がるのか」と思わず嘆声がもれる。

る。初夏から秋まで高冷地野菜に覆われる。私は17歳の頃、大

ような気がした。

休戦ラインによって南北に分断された後、雪岳山(ソラク

山が深ければ当然、寺院がある。昔から儒教文化が盛んだ

白頭大幹の北に位置する金剛山は、思い浮かべるだけでも

った江陵に大きな寺はないが、雪岳山の奥深い所に僧侶の万海

切なくなる。亡くなった私の祖父は毎年、金剛山のふもとの温

(ハン・ヨンウン、韓龍雲)が長く過ごし、韓国仏教の改革案

韓国の文化と芸術 17


今もアウラジでは、夏になると筏祭りを開いて、筏の上 でアリランの公演を行っている。アウラジを舞台にした 歌には、数多くの苦楽が込められ、水の音と共に歌も流 れていき、忠州 (チュンジュ)を過ぎて楊平トゥムルモリ で北漢江に出会う。

を示した白潭寺と新興寺がある。五台山(オデサン)には、月精

池、漢江の水源として知られる倹龍沼がある。本流の長さが

寺と上院寺もある。月精寺は、朝鮮戦争の際に建物が全て焼け

514kmに至る民族の生命線・漢江は倹龍沼に源を発し、他の谷

落ちたが、庭には焼け残った高麗時代の八角九層石塔とその前

の水流を集めて旌善(チョンソン) へと流れる。そして、もう

で塔に向かって祈る石造菩薩坐像がある。また上院寺では、一

一つの水流である松川が、黄柄山に源を発して旌善の南側へと

人の僧侶が命をかけて朝鮮戦争から守り抜いた韓国最古の銅鐘

流れる。この二つが合流する地点が、アウラジだ。アウラジと

や木彫文殊童子像など、貴重な文化遺産に出会える。

いう言葉も、二つの水流が出会って混ざり合うという意味だ。

この文殊童子像にまつわる説話が、実に興味深い。朝鮮の

アウラジで合流した二つの流れは、景観をさらに美しくしてい

第7代国王・世祖(在位1455~1468)は、深刻な皮膚病を患

る。旌善は、山が多いが土地が肥えて水も豊富なため、昔から

い、全国の湧き水を探し回っていた。上院寺の谷川で体を洗っ

豊かな自然に恵まれて風流を楽しんだ場所だ。アウラジの筏の

ていたところ、文殊童子が現れ、背中をこすって病気を治して

船着場は、江原道の山奥の木材を南漢江に乗せて、漢陽(現ソ

くれたと伝わっている。この話は、寺院の壁に仏画として描か

ウル)の麻浦まで運んでいた。

れている。この文殊童子像は、世祖の娘・懿淑公主が男児を授

今もアウラジでは、夏になると筏祭りを開いて、筏の上で

かるように祈るため、近くの文殊寺にまつられていたが、いつ

アリランの公演を行っている。アウラジを舞台にした歌には、

からか上院寺に移されたという。

数多くの苦楽が込められ、水の音と共に歌も流れていき、忠州

太白山脈の主峰は1567mの太白山で、昔から韓国の三神山

を過ぎて楊平トゥムルモリで北漢江に出会う。北漢江は金剛山

とされてきた。朝鮮の第6代国王・端宗(在位1452~1455)

に源を発し、麟蹄(インジェ) 、楊口(ヤング) 、春川(チュ

が、叔父の世祖によって廃位され、寧越の山中で死を迎えた

ンチョン) を過ぎてアウラジに流れ込む。

後、白馬に乗ってこの山に入り、山神になったという伝説が伝

北漢江と南漢江を合わせると、非常に大きな規模になる。

わっている。歴史的な名所としては、朝鮮王朝実録を保管して

川は自然の恵みだ。江原道の上流域に限らず、この川が流れ込

いた史庫、浄岩寺の裏手にある水瑪瑙塔が挙げられる。太白山

むソウルや京畿道の人々も恩恵を受けている。ソウルと京畿道

から小白山脈が分岐し、それに沿って江原道と慶尚道は地理的

で1500万人が漢江の下流域に住んでいるが、上流でその水を使

・文化的に分けられる。

うのは80万人に過ぎない。しかも工業用水ではなく、全て生活

川は自然の恵みであり贈り物

用水と農業用水として使われ、非常にきれいな水が下流域の都

太白山脈は、東の急斜面が東海岸につながり、西の緩や

韓国人にとって、海といえば青い波が押し寄せる東海岸

かな傾斜は漢江と洛東江の水源になっている。太白市の三水

だろう。その中でも多くの人が訪れるのは、江陵の鏡浦海岸

洞には、三水嶺という名の山がある。その名の通り、西海岸

だ。近くの正東津も日の出で有名だ。週末には、多くの人が

に流れ込む漢江、南岸海に流れ込む洛東江、東海岸に流れ込

東の海から昇る太陽を見に押し寄せる。小さな無人駅だった

む五十川の分水嶺が、この三水嶺だ。この山の頂上に雨が一

正東津駅は最近、ソウルの真東にある海岸で日の出を見るた

滴降ると、それが跳ねて三滴になり、それぞれ東海岸、西海

めに訪れる人で、1日に26回も列車が止まるほどにぎやかな

岸、南岸海に流れ込むという笑い話のような説話が伝わって

だ。実際のところ、東海岸の日の出はどこで見ても壮観だ。

いる。

特に江原道の最北端にある休戦ラインの鉄条網から見る日の

三水洞には、長さ510.36㎞の洛東江の水源地である黄池

18 KOREANA 冬号 2017

市への贈り物のように流れ込んでいる。

出は、切なくも壮大だ。


休戦ラインの鉄条網から見る日の出

の南大川に戻ってくる。

日の出に劣らず、東海岸の美しさに心を奪われるのは、漁

襄陽からさらに北上すると、東海岸の水産基地といえる束

船の浮かぶ夜景だ。不夜城は一般的に大都市の夜景を指すが、

草(ソクチョ)市に辿り着く。かつて海水が冷たかった時代に

それよりもまばゆい光景がある。甲板に無数の集魚灯をともし

は、スケトウダラ漁船が港を埋め尽くしていた。地球温暖化

たイカ釣り漁船が、数百隻も漁をする海の夜景。遠く大関嶺な

によって水温が上がり、寒海性魚類のスケトウダラはほとんど

どから見ても絶景で、海の近くで見ても素晴らしい。

捕れなくなったが、今でも束草は東海岸の水産基地としての役

海上の徹夜作業も、その光のように美しくて崇高だ。私が

割を果たしている。もっと北にある高城(コソン)郡も、巨津

江陵で中学・高校に通っていた頃、炭鉱の子供は、いつも学費

(コジン)、大津(デジン)、我也津(アヤジン)などの港ご

を早めに支払った。農村の子供は、それぞれの台所事情によっ

とに、そして季節ごとに埠頭は漁船でにぎわっている。

て支払い、漁村の子供はイカがたくさん捕れる時期に滞納して いた学費を一括で支払った。

そこからさらに北上すると、金剛山への入口辺りで、朝鮮 半島は南北に分かれている。民間人が出入りできるのは、統一

江陵から海岸に沿って北に進むと、襄陽(ヤンヤン)郡

展望台までだ。今はほとんど忘れられているが、終戦前まで

だ。襄陽は漁業の町ではないが、秋にサケの群れが遡上する南

襄陽から金剛山を経て元山まで東海北部線が走っていた。しか

大川がある。その南大川の上流から指の大きさほどの稚魚が東

し、休戦ラインによって途切れてしまい、線路も取り払われて

海岸に出て、遠い海に向かって長くつらい旅に出る。そして3

いる。いつか再び金剛山につながる線路が敷かれる日を思い描

~4年後に大人の腕よりも大きいサケの群れとなって、北太平

いてみると、統一展望台から眺める北の海岸線の風景が、いっ

洋からベーリング海やオホーツク海を経て、生まれ育った襄陽

そう胸に突き刺さる。

五台山(オデサン)の代 表的な寺院・月精寺(ウ ォルジョンサ)にある11 世紀の石造菩薩坐像。寺 院の庭には現在、訪問客 のための複製品が元の場 所に置かれている。実物 は、寺の中にある博物館 で見ることができる。

韓国の文化と芸術 19


特集 3

江原道-険しい山河と人々の物語

江原道の

冬を楽しむ いくつかの方法 朝鮮半島で冬を楽しむなら、江原道がうってつけだ。スキーなどウインタースポーツだけでな く、雪景のトレッキングも楽しめる。さらに世界的に知られつつある冬のイベント・華川ヤマ メ祭りなど、多彩なイベントが開かれて愉快な体験ができる。 チェ・ビョンイル 崔昺一、韓国経済新聞・旅行レジャー専門記者 安洪範 写真

20 KOREANA 冬号 2017


太白山(テペクサン)の頂上 には三つの天祭壇があり、そ の一つが将軍壇。毎年元旦に は多くの人が初日の出に祈願 する。太白山は、登山口から この将軍峰まで4時間ほどか かる大変なコースだが、霧氷 が美しい冬山の登山コースと して人気だ。

© Gangwon provincial Office, Korail Tourism Development

韓国の文化と芸術 21


験が、訪れる人を夢中にさせるだろう。

キングだろう。その妙味を忘れられず、去年の大雪の日を見計

(ファチョン)を冬の観光スポットへと生まれ変わらせた。こ

らって、喜び勇んで太白山(テベクサン)に向かった。

のイベントは毎年1~2月に華川川一帯で開かれ、今や韓国を

の季節も十分魅力的だが、江原道 (カンウォン ド) へ旅行をするなら、何といっても寒い冬が

普段から趣味で釣りをしているなら、江原道・華川で冬の

一番だ。冬の江原道の真髄を味わう最も魅力

釣りを楽しむのも良いだろう。華川は古くから厚い氷が張るた

的な方法は、自然の美しさを全身で感じられる山歩きやトレッ

め、氷上レジャーが発達している。特にヤマメ祭りは、華川

春になると鮮やかなピンクのツツジが咲き乱れ、夏と秋に

代表する冬のイベントにとどまらず、日本の「札幌雪祭り」、

は名も知らぬ野花がひときわ美しい太白山だが、最もまぶしい

中国の「ハルビン氷祭り」、カナダの「ケベック・ウィンター

瞬間は、やはり純白の霧氷が咲く冬だろう。身をさす寒さの

・カーニバル」と共に世界4大雪祭りともいわれている。11年

中、登山道の脇に咲いている霧氷が風になびき、まるでアユの

連続で訪問客数が100万人を超えており、韓国の教科書にも載

群れのように見える。そんな絶景は、冬の山歩きでしか見られ

るほど有名になった。2011年にはアメリカのCNNが、華川ヤ

ない。しかし、足首まで埋もれる雪をかき分けながら、太白山

マメ祭りを「7 wonders of winter(冬の七不思議)」として

の頂上まで約4km。夏なら2時間で十分登れる距離だが、雪の

紹介した。

積もった冬なら4時間はかかる。「カルタク峠」と呼ばれる区

祭りの期間中、ヤマメの氷上穴釣り、ヤマメのつかみ取

間は、息が上がる頃に、ようやく越えられる。もちろん、苦し

り、ソリなどを楽しめ、捕ったヤマメはイベント会場の近くの

いばかりではない。天祭壇さえ越えれば、その後は緩やかな道

店で調理して食べることもできる。ヤマメは古くから高級魚と

が続いている。

され、栄養が豊富なため中国では神仙が好んだと伝わってい

真冬でも絶えず流れる汗が、冷たい風に乾いていく。ちょ

る。日本では、皇室献上品とされた。祭りの間「神仙の住む世

うどその頃、森の隙間から白頭大幹 (ペットゥデガン) の稜線

界に案内する灯」をともす仙灯文化祭も開かれる。静かな夜、

が見え始める。霧氷で始まった冬の山歩きは、頂上に近づくに

星の光が降りそそぐ華川川一帯と市場に、きらびやかな仙灯が

つれて、イチイの群生地に変わる。身を切るような冬の風に耐

かけられて夜空を照らす。

えて毅然と立っているイチイは、葉の落ちた幹の中に、程なく

華川ヤマメ祭りより規模は小さいものの、平昌マス祭りも

芽吹く青い命を宿している。そのため、昔の人はこのイチイの

人気だ。平昌(ピョンチャン)の五台川で毎年1月末から2月

群生地を「生きて千年、死んで千年を生きた」と表現したのか

末までに開かれ、開催期間がかなり長い。マスの氷上穴釣り、

もしれない。

マスのつかみ取り、マスの家族釣りといった人気プログラム以

太白山の雪景に負けず劣らず、雪の日の平昌・月精寺も素晴 らしい。一面、雪の原。足跡一つないモミの木の道を歩いていく

外にも、氷ソリ、スノーラフティング、ボブスレー、氷の列車 など多彩な楽しみが待っている。

と、辺りが静まり返る。静寂という言葉だけでは物足りないほど

マスはちょっとした要領さえつかめば、誰でも2~3匹は

の静けさ。まるで雪が全ての音を吸い込んだかのようだ。早朝、

簡単に捕れる。冬から春にかけて最もおいしく、焼き魚は香ば

足を速める僧侶の袈裟の下に、再び雪が降り出す月精寺の風景を

しくて淡泊で、刺身は柔らかい中に歯ごたえがある。平昌は

見たなら、江原道の冬を半分ほど味わったといえよう。

養殖マスの里だ。1965年に平昌で初めてマスの養殖が始まった

日々のストレスを吹き飛ばす冬のイベント

が、朝鮮後期の実学者ソ・ユグ(徐有榘)は、魚類学の書『蘭

冬の山歩きに自信がなければ、多彩な冬のイベント期間に

め松魚(ソンオ)と呼ばれ、東海岸の魚類の中で最も味が良

江原道を訪れるのも良い方法だ。毎年1月に開かれる太白山雪

い」と述べている。そのため、昔は冷たい川風に瀬が凍り始め

祭りのハイライトは、壮大かつ繊細で、時代を反映した見事な

ると、大きなハンマーで川の岩を持ち上げて驚いたマスを捕

雪像だ。そこでは、韓国最高レベルの雪像アーティストが匠の

り、食事をしたという。つまり平昌マス祭りは、昔の貧しい生

精神で作り上げた作品に出会える。2018年1月には平昌冬季オ

活をイベントへと昇華させたものだ。

リンピックを記念する様々な雪像が展示される予定だ。 スリル満点のビニールソリゲレンデ、子供に大人気の氷の滑り

汽車旅のロマンが与えるもう一つの楽しさ

台もあり、家族や恋人が和気あいあいと話せるイグルーカフェ

ことだ。列車に乗った瞬間、肌をさすような寒さも、ロマンチ

もある。家族連れなら、太白山の民宿街にある松林で行われる

ックになるからだ。快適な座席に身を委ねて、窓越しに雪景色

犬ぞりとスノーモービルの体験もお薦めだ。シベリアンハスキ

を眺めていると、体は温まり乾いた心は潤う。列車が素朴な無

ーが引くソリに乗って雪原を疾走すれば、日常のストレスから

人駅に止まるたびに、童心に返らずにはいられない。

雪祭りだからと言って、雪だけを楽しめるわけではない。

解き放たれた気分を味わえる。雪と氷をテーマにした多彩な体

22 KOREANA 冬号 2017

湖漁牧志』でマスについて「赤身が鮮明で松の節に似ているた

冬の江原道の真髄を味わうもう一つの方法は、列車に乗る

いつか冬の汽車旅に出た日のことだ。多くの人が上気した


東海岸に沿って走 る観光列車「海列 車」。乗客が海を見 やすいように、座席 が階段のようになっ ている。

© Korail Tourism Development

顔で、三々五々プラットホームに集まっていた。凍った道での 運転や満員電車での出勤などは忘れて、12月から2月まで運行 される「環状線・霧氷列車」に乗り込んだ。ソウル駅を出発し て、杻田駅、承富駅、丹陽駅を経て霧氷の咲く峡谷を見て回る 日帰りツアーだ。 ソウルから少し離れるだけで、都心とは違う雪景色が目の 前に広がる。屋根に、田んぼの畦に、小川のほとりにどっさり と積もった雪が心に染みる。その風景の中をゆっくりと進む列 車。列車が動けば、雪も飛び散る。久しぶりに友人と向かい合 って海苔巻きやおやつを一緒に食べていると、昔の汽車旅の思 い出がよみがえってくる。どれほど時間が経ったのだろう。窓

屋根に、田んぼの畦に、小川のほとりに どっさりと積もった雪が心に染みる。そ の風景の中をゆっくりと進む列車。列車 が動けば、雪も飛び散る。

の外はいつの間にか雪深い山里を通って、誰もが嘆声をもらす 霧氷の世界だった。 最初の停車駅は、江原道・太白の杻田駅。標高855mで、韓 国の駅で最も高い場所にある。8分かけて4.5㎞の浄厳トンネ

韓国の文化と芸術 23


1975年に韓国で初めて造られ平昌 の龍坪(ヨンピョン)スキー場。 冬のレジャースポーツのメッカ だ。冬の初めにスキー場がオープ ンすると、数多くのスキーヤーと スノーボーダーが全国から集まっ てくる。

ルを通り過ぎると、杻田駅が現れる。駅の名前は、大きなハギ

煎のドリップコーヒー店が大幅に増えている。

の木が育つ所に建てられたという意味で、年間の平均気温が低

江陵で自家焙煎のコーヒー店として有名なのは、何といっ

く、冬がとても長い地域にある。列車は約20分間、杻田駅に停

てもボへミアン・パクイチュコーヒー工場だろう。オーナーの

車する。その合間にプラットホームに降りると、冷たい空気が

パク・イチュ(朴利秋)氏は、江陵が現在のようにコーヒーの

頬をなでた。

メッカになる上で大きな役割を果たしたコーヒーの名匠だ。在

コーヒーと共に味わう江原道の冬

日韓国人のパク氏は、韓国のバリスタの系譜において4人の名

冬の風景にぴったりの飲み物は、やはり温かいコーヒーで

移住したため、唯一の現役だ。江陵でカフェを開き、教え子を

はないだろうか。数年前から江陵がコーヒーの聖地になったと

育てながら、江陵のコーヒーブームを巻き起こしたといっても

聞いていたが、にわかには信じられなかった。だが江陵に行っ

過言ではない。

匠に挙げられる。その中で二人は亡くなり、一人はアメリカに

て、コーヒーに関するものなら何でもあることを知ってから、

江陵のドリップコーヒーのもう一つの名所は、テラロサ・

ようやく理解できた。コーヒー博物館だけでなく、コーヒー農

コーヒー工場。日韓ワールドカップが開催された2002年にオー

場、コーヒー工場まであるのだから。2009年からコーヒー祭り

プンした。コーヒーの世界的な産地であるエチオピアやグアテ

も開かれ、これなら「コーヒーのメッカ」と呼ばれてもおかし

マラまで行ってコーヒー豆を買い付けてくるなど、コーヒーへ

くないだろう。江陵にあるコーヒー専門店は、現在およそ200

の深い愛情が感じられる。

店。そうした店が生み出す付加価値も、年間2000憶ウォンを超 えるという。

また、江陵市内の溟州洞にあるボンボン・バンアッカン (粉屋)もお薦めだ。ここは元々、粉屋だったが、今ではコー

江陵へのコーヒーツアーは、名前が江陵港に変わって間も

ヒーの香りであふれている。コーヒー体験をしながらコーヒー

ない安木港から始まる。「コーヒー海岸」と呼ばれる安木海岸

の専門書も読める空間が目を引く。それらのコーヒー専門店が

は、その名の通り刺身店よりコーヒー店の方が多い。そこで

江陵のコーヒーの質を高めた主役だとすれば、コーヒー文化を

は、コーヒーの自動販売機も海辺に立ち並んでいる。自動販売

広げたのは韓国で初めて商業用コーヒーを生産したコーヒーカ

機のインスタントコーヒーの味は、どれも一緒だと思うかもし

ッパー・コーヒー博物館だ。

れないが、自動販売機ごとに材料や配合が違い味も少しずつ差

江原道で山登り、汽車の旅、冬の釣りなど多彩なイベン

があるという。以前は100台ほど自動販売機が並んでいたが、

ト、そしてコーヒーまで楽しむことができれば、その年の冬は

今は十数台だけがかろうじて残っている。その代わり、自家焙

「温かかった」と言ってもいいだろう。

24 KOREANA 冬号 2017


江原道の東海岸の中ほどにある江陵(カンヌン)は、歴史

的な人物が多く生まれた街で、古い文化遺跡も多い。その古色 豊かな江陵が最近、コーヒーのメッカと呼ばれ、予想だにしな かった新たなアイデンティティを加えつつある。

発端は、コーヒーの自動販売機だ。1980年代、江陵の中心

部から外れた安木 (アンモッ) 海岸にインスタントコーヒーの自 動販売機が何台か置かれ、とてもおいしいと噂になった。この 自動販売機のコーヒーを飲むために、わざわざ安木海岸を訪れ る人もいたほどで、自動販売機も数十台に増えた。2001年に

なると、今度は3階建てでガラス張りのコーヒー専門店ができ た。スレート屋根の家が立ち並ぶ漁村に、大都市でしか見られ ないような洗練されたコーヒー店ができると、多くの人は首を かしげた。コーヒーといえば、インスタントコーヒーに砂糖と クリーミングパウダーを入れた甘いものだったため、コーヒー 本来の香りがあふれるコーヒー専門店の味は、馴染みのないも

1. 江陵(カンヌン) の旺山面(ワンサン ミョン)にあるコー ヒー博物館のチェ・ グムジョン館長。コ ーヒーカッパーの代 表でもあり、コーヒ ー文化を広めること に使命感とやりがい を感じるという。

2. 2000年代の初めに 江陵港と安木(アン モッ)海岸にできた コーヒー専門店が、 今では200店にまで 増え、全国的に有名 なカフェ通りになっ た。そのため、江陵 はコーヒーの街とも 呼ばれている。

1

のだった。値段も、自動販売機よりはるかに高かった。

昔ながらの薄暗い茶房(喫茶店)でコーヒーを飲んでいた人

は、全面ガラス張りで外からよく見える場所で、誰がコーヒーを

2

コーヒーの街へと生まれ変わる江陵 飲むのかと考え、すぐに潰れると予想していた。しかし、その予

には、チェ代表夫婦が長らく収集してきた世界各国の珍しいコ

すると、その周りにもコーヒー専門店が建てられ、今では安木海

めの多彩な体験プログラムも行われている。

想は外れた。1年もせずに、行列ができる人気店になったのだ。 岸だけでなく、その一帯にコーヒー店が立ち並んでいる。全国か

ーヒー器具や資料が数多く展示されている。また、訪問客のた 「農場を見に来たお客さんが、どんなに探してもコーヒー

らこのカフェ通りにやってくる人が急激に増え、江陵の人たちは

の実がないと不満げに言うんです。赤く熟した実がたくさんあ

安木海岸に最初にできたコーヒー専門店は「コーヒーカッ

豆は焙煎することで黒っぽくなりますが、そのお客さんは、コ

家でもドリップコーヒーを入れるようになったという。

パー」。現在、江陵に6店舗を構えている。コーヒーカッパ ーのチェ・グムジョン(崔芩禎)代表は、江陵がコーヒーの

るのに、どうして見えなかったのかと不思議でした。コーヒー ーヒーの実も元々、黒いと思っていたんですよ」。

チェ代表は、そんな話をしながら「コーヒーは今や韓国の

街になった理由について「コーヒーの名匠、パク・イチュさ

代表的な嗜好品ですが、まだまだ正しく知られていません」

また江陵市が毎年、コーヒー祭りを開いています。そうした

のコーヒー博物館も、コーヒー文化を広めるためのチェ代表

んが早くから江陵に店を出して、コーヒー工場もあります。 様々な要因が重なって、相乗効果を上げているのでしょう」 と話している。

とも話している。12月中旬、江陵市内にオープンする二つ目 の努力の一環だ。

コーヒーカッパー1号店のオープンから、いつしか16年。

しかしその主役は、何といってもチェ代表だろう。彼女は

そこでコーヒーを飲んだ恋人が、今では夫婦になり子供の手を

木で農場を始め、今ではコーヒーの苗木を譲る立場になってい

何も手を入れずに昔のままの姿を保っている。誰かの思い出を

2000年代の初め、済州島で譲り受けた20本余りのコーヒーの

る。また韓国で初めてコーヒー博物館を建て、コーヒー文化を 広めている。旺山面(ワンサンミョン)にあるコーヒー博物館

引いてやってくる。いすも古びて、床もきしむが、チェ代表は 壊したくないからだ。その思い出を懐かしむ人たちが、またコ ーヒーを飲みに江陵を訪れる。

韓国の文化と芸術 25


特集 4

江原道-険しい山河と人々の物語

澄んだ自然の恵みが育む

生活の拠り所

26 KOREANA 冬号 2017


江原道は、山岳地帯がほとんどを占め、気温も韓国内の他の地域に比べて低いため、高 冷地農業、牧畜業、林業などを中心に発達してきた。そして、道内ならどこでも見られ る美しい山と川、長い海岸線に沿って広がる澄んだ海を資源とした観光産業も、地域経 済の柱となっている。 イ・ビョンオ 李炳旿、江原大学校・農業資源経済学科教授 安洪範 写真

岳山(ソラクサン)、雉岳山(チアクサ ン)、五台山(オデサン)、 太白山(テベク サン)

地形と気候は、それぞれ異なった暮らしの風景を形作る。 韓国で最も北にある江原道(カンウォンド)は、気候が比較的 寒く、山が多い。江原道は全面積の81%が山で覆われており、 韓国の全国平均63%よりかなり高い。果てしなく続く山岳地形 は、江原道の人々の暮らしに大きな影響を与え、その地域なら ではの特色ある産業構造が生まれる要因となった。 朝鮮半島の中部や南部の耕作地は、畑より水田が多いか、 田畑が同じくらいの割合だ。しかし、江原道は山が多いため畑 作が主流で、地下資源も豊富だ。また雪岳山、雉岳山、太白山 のように国立公園に指定された山が多いので、観光産業が発達 している。このように豊かな自然に恵まれた江原道は、首都圏 から1~2時間の距離にあるため、秋には紅葉狩り、冬にはス キーやソリを楽しむために、多くの観光客が訪れている。こう した自然環境が、2018年2月に開催される平昌冬季オリンピッ クの誘致を成功へと導く下地になった。 しかし、山が江原道の全てを物語っているわけではない。 江原道のアイデンティティを形成するもう一つの柱は、澄んだ 東海岸の海だ。東海岸に住んでいる人にとって、海は生活の拠 り所だ。

江原道(カンウォンド)では、地形的・気 候的な特徴により、高冷地農業が発達してき た。標高600~800mほどの高地で白菜や大根 などが栽培され、全国の市場で90%以上を占 めている。 韓国の文化と芸術 27


1

涼しい中山間地域で発達した高冷地農業

どを干した干葉は、栄養が豊富なことで知られているが、

つの道(県に相当)のうち慶尚北道に次いで2番目に大きい。

た味で特に有名だ。

江原道の面積は1万6,874㎢で、全国土の17%を占め、九

江原道楊口郡亥安面にあるパンチボール村の干葉は、優れ

反面、人口は約155万人と全国の3%に過ぎず、済州道に次い

ほとんどの韓国人は、食事の際に必ずキムチを食べる。そ

で2番目に少ない。その中で、農家の人口は17万6000人と江原

のため、キムチの主な材料となる白菜と大根の需要が非常に多

道の総人口の11%を占め、全国平均の5%よりはるかに高い。

い。江原道の高冷地農業地帯は、夏から秋まで全国で消費され

江原道では、地形的・気候的な特徴により、畑作農業の中

るキムチの材料のほとんどを供給している。収穫量が少なけれ

でも特に高冷地農業が発達してきた。標高600~800mほどの高

ば価格が大きく上昇し、多ければ急激に下落する傾向を見せて

地で行われる高冷地農業は、食糧が不足していた時代に全国か

いる。

ら集まってきた火田民(焼畑農業を行う農家)が山を開墾する

しかし、高冷地農業は持続可能性という観点からみると、

ことで始まった。初夏から秋まで、広大な山の斜面に広がる緑

様々な問題を抱えている。高い山を開墾した急傾斜の畑で行わ

の野菜畑は、この上なく壮観だ。

れるため、梅雨に土壌が流出し、農薬が河川に流れ込むことも

高冷地野菜は、早春に種をまいて夏の間に育て、8月

ある。また、価格変動が激しい点を利用して、投機が行われた

下旬から9月下旬に出荷する。他の地域では夏の気温が高

りもする。そのため、傾斜が急な畑は森にして、環境に優しい

くて栽培が難しい野菜が、平昌(ピョンチャン)、江陵

農業を行うべきだという声も出ている。

(カンヌン)、旌善(チョンソン)、太白(テペク)のよ

最近は気候変動によって麦、リンゴ、柿、桃など、元々こ

うな山岳地帯から出荷されるため、全国の市場で絶対的な

の地域であまり馴染みのなかった農作物の栽培面積が増えてい

優位を占めている。主な作物は白菜、大根、キャベツ、タ

る。一方で、種子産業の高い付加価値に着目し、最近はジャガ

マネギ、ニンジン、ジャガイモなどで、農業環境が良くな

イモや雑穀の優良な種子を開発するために、自治体レベルで条

い中山間地帯の農家の主な収入源になっている。その中で

例を制定して積極的に支援している。また、新たな戦略作物と

白菜は、全国の市場における占有率が93%にも達し、ジャ

して注目されている花卉、メロン、アスパラガスなども、高冷

ガイモも32%を占めている。一方、大根と白菜の葉や茎な

地で栽培されている。

28 KOREANA 冬号 2017


2

恵まれた自然環境が最高の品質へ

江原道の森林面積は1万3,716㎢で、全国で最も広い。し

かし、ほとんどの山は傾斜が急で岩も多いため、優れた木材を 生産できるような環境にはない。最も多く分布している樹木は

1. 韓国の在来種である韓牛は、5月末から11月中旬まで草 地で放牧し、その他の時期は畜舎で穀物飼料を与えて育て る。江原道の韓牛は、特に風味がよく肉質が軟らかいことで 有名だ。

2. 麟蹄郡龍垈里(インジェ-グン・ヨンデリ)にあるスケト ウダラの干し場。スケトウダラは冬の間、雪が多くて風の冷 たい露天で干すと黄金色になる。肉質も軟らかくなり旨味が 増す。

松と広葉樹で、主な林産物としては松の実、マツタケ、山菜な どがある。 特に襄陽郡(ヤンヤン-グン)で生産されるマツタケは、

になると草地で放し飼いにする。草、水、空気がきれいで寒暖

韓国最高の品質を誇る。襄陽のマツタケは1kg当たり60万ウォ

差の大きい自然環境が、脂肪率を高め、肉質が軟らかくて風味

ンで、他の地域より何倍も高値で取引されている。1等級のマ

の良い高級肉を作っている。横城、平昌、洪川で生産される韓

ツタケは、長さが8cm以上で、傘が完全に開いていないものを

牛は、全てトップブランドだ。その中でも平昌韓牛と平昌の大

いう。良いマツタケは、樹齢20年以上の松が自生する7~10合

関嶺韓牛は、香港に輸出されている。

目で、風通しが良く地面に松の葉が積もった場所に多い。襄陽 多い恵まれた山地といえる。襄陽のマツタケの中でも最高級品

全国に流通する干しスケトウダラの生産地

は、ほとんどの場合、採取後にすぐ冷蔵梱包されて航空便で日

で多くの魚が捕れるという点だ。その中でイカが最も多く、ホ

本に輸出される。

タテガイやホヤの養殖も盛んだ。以前はスケトウダラがたくさ

には、そのような地形がたくさんあるため、良質のマツタケが

江原道の地形的な特徴の一つは、海岸線が長いため、近海

一方、江原道で行われている主な畜産業は、韓牛、養豚、

ん捕れたが、最近は水温の変化によって、ほとんど水揚げされ

養鶏だが、韓牛は全国の7%、養豚は4%、養鶏はわずか3%

ない。そのため、江原道環東海本部の水産資源研究院では、ス

に過ぎない。江原道の韓牛は、高級肉の割合が86%で、全国平

ケトウダラの稚魚を放流して回復を図っている。

均の84%よりやや高い。持続的に品質を改良してきた結果でも

スケトウダラは古くから韓国人に愛されてきた魚で、様々

あるが、自然の地形と気候も一役買っている。韓牛は、ほとん

な加工や調理をして食べてきた。鍋やスープにして食べたり、

ど畜舎で穀物飼料を与えて育てるが、草がある程度伸びる時期

あるいは干したり焼いたりして食べることもある。卵は塩漬け

韓国の文化と芸術 29


朝鮮半島の中部や南部の耕作地 は、畑より水田が多いか、田畑 が同じくらいの割合だ。しか し、江原道は山が多いため畑作 が主流で、地下資源も豊富だ。

マツタケは、襄陽郡 (ヤンヤン-グン) の代表的な特産品 で、日本への輸出も 多い。

にして明太子に、内臓などは塩辛にする。スケトウダラがたく

ーン・ツーリズムは最近、都会に暮らす人が農村を訪れ、川魚

さん捕れた時代には、束草市で明太子を大量に生産し、日本に

捕りや農産物の収穫・加工などを体験する形で行われている。

も輸出していた。

農産物の収穫体験の場合、観光客が入場料を払って一定の量を

スケトウダラを冬の間、冷たい風に干すと、肉質が軟ら かくなって長い間保存できる。干すと黄色くなるため、韓国

その場で食べたり、かごに入れて持ち帰ることができる。また 加工品体験では、主に餅、豆腐、ソーセージなどを作る。

では「ファンテ(黄太)」と呼ばれている。特に麟蹄郡龍垈

江原道の農村で開かれる様々な祭りも全国に知れ渡り、グ

里(インジェ-グン・ヨンデリ)では、スケトウダラを竿にぶ

リーン・ツーリズムを後押ししている。夏の華川(ファチョ

ら下げて干す光景が有名だ。現在はロシアからスケトウダラ

ン)トマト祭り、秋の横城(フェンソン)韓牛祭りなどが、多

を輸入して加工しているが、全国に流通している干しスケト

彩でユニークなプログラムで多くの観光客を集めている。

ウダラの70%以上が、麟蹄郡龍垈里や大関嶺で加工されたも のだという。

美しい森に点在する森林保養施設も、主な観光地だ。例 えば、横城郡にある国立横城の森チェウォンは、専門的な森

スケトウダラを干すのに最適な場所は、冬の夜に気温が氷

林福祉サービスを提供している。春川(チュンチョン)市の

点下10℃以下になり、風が強くて積雪量が多く、昼には日差し

江原道立花木園、山林博物館、森の体験場なども、都会から

が強い所だ。そのような場所で凍っては溶けてを繰り返し、長

訪れる観光客や学生に森林の価値を説明し、自然学習の場を

い時間をかけて乾燥することで黄金色になり、肉質が締まって

提供している。また各地域に自然休養林があり、インターネ

旨味が増す。韓国では、干しスケトウダラ数匹を常備している

ットで申し込みさえすれば、誰でも森の中でゆっくり休んだ

家が多い。酔って帰ってきた夫のために妻が翌朝、干しスケト

り散策したりできる。その他にも、三陟(サムチョク)市の

ウダラのスープを作るためだという。

郊外にある道渓邑新里の山里・ノワ村は、地域の伝統的な家

四季折々の観光が楽しめるリゾート

屋であるノワ(板葺き)屋根の家を観光商品として開発し、

澄んだ山と川が美しい江原道は、地理的に首都圏に近いた

江原道には現在、グリーン・ツーリズムを行う町や村が約

め、家族連れや友達同士でグリーン・ツーリズム(農山漁村で

170カ所もあり、全国の19%を占めるほど高い数値だ。年間観

の滞在型活動)を体験できるスポットとして人気が高い。グリ

光客数は約230万人と推計されている。

30 KOREANA 冬号 2017

脚光を浴びている。


食生活の欧米化と簡素化が進んでいる現在、農村で好んで

食べた昔の料理は、あまり見かけなくなった。そうした中、江 陵(カンヌン)市の郊外にある韓定食店「ソジチョガトゥル

(鼠池草家の庭)」は、伝統的な献立や調理法を受け継いでお り、たくさんの観光客が訪れている。

チェ・ヨンガン(崔永玕)氏が1988年に長年の経験を基

に、思いを込めて開業してから今年で20年目を迎える。この 店は、江陵市農業技術センターが指定した「伝統韓定食1号 店」であり、農村振興庁が指定した「農家マッチプ(美味し い店)」でもある。食堂として使われている伝統家屋の裏手

には、昔の建築様式がそのまま残っている築200年の古宅があ り、今でも一家がそこで暮らしている。ここには、チェ・ヨン ガン氏の夫の祖父で、朝鮮末期の名高い儒学者チョ・インファ ン(曺仁煥)先生の痕跡が随所に残っている。

チェ氏は今も「訪れた人には、母のような慈悲深い心で、

宗家夫人の心で昔の 農村料理を再現

一方、チルサンは7月初旬に数回にわたる草取りが終わっ

た後、その働き手を招き、中間決算を兼ねてお礼の気持ちを伝 えるために開いた宴席の料理だ。チルサンの「チル」は、かつ て手伝ってくれる働き手を「チルクン」と呼んだことに由来す る。その時のご馳走として、畑仕事で疲れた気力を養い、暑い 夏を元気に過ごせるよう、栄養豊かな料理が用意された。

もし、招かれた働き手の中に二十歳を迎える青年がいれ

常に変わらぬ態度で接するように」という夫の祖父の言葉を胸 に、客を迎えているという。この古宅には、そうした意味を込

ば、宴席の幹事をする農家の大人に伝えて、成人式を行って一 緒に祝った。

今では、モッパプやチルサンなどが一風変わったメニュー

めた「如在堂」という扁額がかかっている。

になったが、農業が暮らしの根幹をなしていた伝統社会では、

ン(働き手の膳)」、「ソンニムサン(客膳)」、「セサドン

け合って生きていく暮らしの一部でもあった。

店のメニューは「モッパプ(田植えのご飯)」、「チルサ

マンナヌンナル(相舅に会う日の膳)」、「サウィチョッセン

1年間の農作業における自然な流れであり、周りの人たちと助

イルサン(婿の初誕生日の祝い膳)」などコース名も独特だ。 その中でモッパプとチルサンは、今では見かけなくなった典型 的な農村の料理で構成されている。モッパプは、かつて大きな 農家で田植えをする時に、働き手に出された食事だ。手で田植 えをした時代には、多くの働き手を必要とした。そのため、近 所や隣村の人に頼んで、一緒に作業を行うことが多かった。田 植えが行われる農家は、一般的に20~30人分の昼食と夕食を用

意した。小豆飯、ワカメスープ、熟成キムチ、豆腐、ワカメの 揚げ物、シルトク(小豆蒸し餅)、ペクソルギ(蒸し餅)など のご馳走をこしらえて、酒と一緒に出した。

チェ・ヨンガン氏が運営する江陵郊外の韓 定食店「ソジチョガトゥル(鼠池草家の 庭)」。主なメニュー「チルサン」は、チ ェ氏一家が代々、村の働き手をもてなした 体に良く種類も多い宴席用の料理

韓国の文化と芸術 31


特集 5

江原道-険しい山河と人々の物語

© Eom Sang-bin

束草海岸の失郷民村の

切ない郷愁 32 KOREANA 冬号 2017


休戦ラインに近い雪岳山を背にして、東海岸に面する束草市は、1945年 の終戦直後に朝鮮半島が南北に分かれた際、北緯38度線よりも北側にあっ た。しかし、1953年の朝鮮戦争の休戦によって、軍事境界線の南側に置か れ韓国領となった。ここには今も、朝鮮戦争中に北朝鮮を逃れた失郷民の 暮らす村が残っている。 ソン・ヨンマン 宋永万、図書出版ヒョヒョン代表取締役 安洪範 写真

朝鮮戦争中に北朝鮮か らの避難民の臨時の住 まいが造られた、束草 (ソクチョ)の海辺に あるアバイ村。住民は 帰郷の夢を果たせない まま、数十年生きてき た。その間、居住環境 や交通手段が大きく変 わり、仕事も変化して いる。

韓国の文化と芸術 33


ュン(金義俊)会長は、故郷の話が出ると、

心に刻んだ北の故郷の住所

感情がこみ上げてくるようだ。今年9月のあ

詰工場を経営していたおかげで、キム会長の家はかなり裕福だ

る日の夕方、咸鏡道(ハムギョンド)の郷土料理で有名なシン

った。しかし、人民軍にとって有産階級は粛清の対象でしかな

ダシン(新多信)食堂のテラスで会ったキム会長は、年齢を感

かった。キム会長の家族が北から南へと国境を越えざるを得な

じさせないほど若くて活力にあふれていた。

かった理由が、そこにある。

草(ソクチョ)の新浦邑民会のキム・ウィジ

今は北朝鮮領の咸鏡南道北青郡新浦邑で、祖父が大きな缶

キム会長は「5歳の頃だったので、はっきりと覚えてはい

父が亡くなる前、キム会長の手に握らせた1枚の地図。キ

ませんが、あの日の様子だけはよく覚えています」と、戦争当

ム会長は、財布から色あせた1枚の紙を大切そうに取り出し

時のことを思い浮かべた。キム会長の家族は、父の兄弟7男1

た。そこには故郷の村が細かく描かれている。新浦2区港旅館

女が皆、北から南へと国境を越えることに成功した失郷民だ。

の向かい側、漁業組合の右側に「我が家」という文字がはっき

興南撤退から1年ほど経った1952年1月のことだ。新浦を出発

りと見える。大通りの向かい側にある新浦3区には、人民軍の

した3隻の船が南下したという。250人が約80人ずつに分かれ

中隊本部がある。紙の片隅には「咸鏡南道北青郡新浦邑二区

て乗った3隻の船が、馬養島沖を通っていた。しかし不幸にも

七二七番地、電話331」と書かれた達筆な漢字が、今も鮮明に

1隻は、人民軍の砲撃で沈没してしまった。ここまで話したキ

残っている。おそらく今は使われていない住所と電話番号だ

ム会長の言葉が、震えて消え入った。

が、キム会長はいつも財布にこの紙を入れて持ち歩いている。

「その船に乗っていた人は、寒波まで押し寄せて、おそら く犠牲になったでしょう。生き残った人は、釜山まで行って、 すぐ故郷に戻れるという言葉だけを信じて、ここアバイ村に来 たのですが、それからもう65年が経ってしまいました」。

統一されたら真っ先に、この紙を持って故郷の家を訪れたいと いう。 江原道襄陽郡に属していた束草は、1942年に邑に昇格し た。当時の人口は、せいぜい4000~5000人。興南撤退の際に南

「アバイ」とは「父」あるいは「年長者」を意味する咸鏡

部まで行って、再び北部に戻ってきた避難民をはじめ、休戦ラ

道の方言だ。アバイ村という名前には、北の故郷で海の仕事を

インによって南北に分かれる前に、陸路で南下した高城や通川

適度にしながら生きていた男たちが、朝鮮戦争後、必死に育ん

など北部江原道と咸鏡道の人々が、束草に押し寄せてきた。南

だ村という意味が込められている。

と北が押したり押されたりする厳しい戦闘の中、戦線が北緯38

1. アバイ村の住民が好んで食べる故郷・咸鏡道(ハ ムギョンド)の料理が有名になると、専門料理店もで きて、全国から観光客が集まるレストラン街になっ た。

1

34 KOREANA 冬号 2017

2. ケッペを引くキム・ウィジュン氏(咸鏡南道北青 郡新浦邑出身)。ケッペは、アバイ村と束草市内をつ なぐ交通手段だったが、橋ができた後は、主に観光客 の人気スポットになっている。


2

度線よりも北に入り込んでいたため、水産業が盛んな束草海岸

封筒を作ったり縄を編んだりして青草中央市場に納品するな

に避難民が次々と集まってきたのだ。その中で相当な数が、咸

ど、糊口をしのぐために何でもやらなければならなかったアバ

鏡南道出身だった。

イ村の人々の生命線だった。

彼らは当初、米軍が駐留する共有地に、カニの甲羅にも似

そうした中、アバイ村の一風変わった料理が口コミで徐々

たバラックを適当につなげた穴倉のような場所で過ごしてい

に広がっていった。ちょうどその頃、この村を背景にした韓国

た。腰の高さほど地面を掘って、何とか雨風を防げるテントの

のテレビドラマ『秋の童話』が大きな人気を集め、そのおかげ

ような所もあった。2~3カ月後に故郷に戻れると言われたた

で昔、咸鏡道の村の祭りなどでよく食べたアバイ・スンデ(腸

め、しばらくの間、雨風さえしのげれば十分だと考えていたの

詰め)、カレイの刺身入りの冷麺、スケトウダラの刺身入りの

だ。そのようにして集まった人が、2000世帯にも達した。男性

冷麺などが全国的に有名になった。村の女性によって綿々と受

は粗末な伝馬船で漁をし、女性は港に座って採れた魚を網から

け継がれてきた咸鏡道料理の店が、雨後のタケノコのようにで

外して、その魚で口を糊する時代だった。

きた。 豚の大腸に大根の干葉、豚ミンチ、牛の血の塊、ニンニ

人気ドラマの舞台

ク、味噌などを詰めたアバイ・スンデは、一瞬にして都会の人

東の海につながる青草湖(チョンチョホ)の砂州にあるア

々を虜にした。束草沖でスケトウダラが大量に捕れた時代に

バイ村にも変化が訪れた。束草港が浚渫され、水路ができたの

は、旬のスケトウダラの方が人気だったが、今では姿を消して

だ。その時に登場したのが、ケッペ(渡し船)だ。ケッペは、

遠い昔の話になってしまった。咸鏡道の料理は甘くてしょっぱ

韓国の文化と芸術 35


く、都会の若者は、その刺激的な味に魅せられる。旅行中のウ

やる勢いだ。

キウキした気分には、甘くてしょっぱい料理がぴったりだ。そ

束草4区だったアバイ村は、今や青湖洞(チョンホドン)

れがロシア産のスケトウダラであれ、遠洋イカであれ、情熱の

という正式な地名が付けられている。しかし、常住人口は大き

味覚は原産地を全く意に介さない。

く減少し、わずか240世帯ほどが村を守っている。第1世代の

アバイ村の生命線は、ケッペから橋に変わった。アバイ

「アバイ」は60人ほどしか残っておらず、第2~3世代は第二

村を横切る雪岳大橋と錦江大橋は、夜になると見事な夜景を

の故郷である束草に定着している。束草の人口のおよそ10%に

見せてくれる。ケッペは押し寄せる観光客を乗せるため、よ

当たる8000人ほどが、咸鏡道出身だ。

り大きくて便利な船に替わる予定だという。筏のように広く て平たいケッペは、乗客がワイヤーロープを引っ張らなけれ

毎年、春に開かれる「失郷民文化祭り」は、そのテーマに 物悲しさが漂う。

ばならないが、それがかえって盛り上がる。アバイ村の変化

「時間も消せない故郷の春」

は、それだけではない。最近、束草中央市場は思いもよら

正月や盆になると、いつものように訪れる故郷への思い。

ず、タッカンジョン(鶏肉の甘辛唐揚げ)の屋台で賑わって

今や慣性的な反芻の中でただ懐かしんでは、すぐに忘れてしま

いる。アバイ・スンデよりも刺激的な味のタッカンジョンの

うという失郷民。もしかすると、帰ることのできない故郷への

屋台がずらりと並び、近いうちにアバイ・スンデを隅に追い

諦めを強いられているのかもしれない。

36 KOREANA 冬号 2017


正月や盆になると、いつものように訪 れる故郷への思い。今や慣性的な反芻 の中でただ懐かしんでは、すぐに忘れ てしまうという失郷民。もしかする と、帰ることのできない故郷への諦め を強いられているのかもしれない。

思い出、夢、そして希望

と沈みかけていた。半日近く走り続けたため、バスも私たち一

筆者の高校時代に国語を教えていた「東海岸の詩人」ファ

行もすっかり疲れ切っていた。周りはすでに暗く、霊琴亭の灯

ン・グムチャン(黄錦燦、1918~2017)先生の故郷が束草だ。

台にも明かりがともっていた。そこから再び杆城へ向かうロー

先生は決まりきった教育より、生徒が人文的な感性を育めるよ

カルバスに乗って、橋岩里に着いた頃には、海辺も入り江も全

うに留意していた。先生は時々、故郷である束草沖の詩情につ

て暗闇に包まれていた。崖の上の松の間から吹いてくる海風の

いて話してくれた。終戦前に東京留学から戻って、咸鏡北道城

音だけが響いていた。

津でしばらく過ごしたため、咸鏡道の方言が混ざっていた。そ

私にとって海といえば、教練服(高校での軍事訓練服)を

んな先生の海の物語は、当時10代だった幼い私に詩の朗読のよ

着て何度か見に行った仁川の海が全てだった。それまで海のイ

うな温かみを感じさせた。当時、古典文学の授業で習っていた

メージは、磯の匂いが混じったセピア色でしかなかった。たま

朝鮮中期の文人チョン・チョル(鄭澈)の『関東別曲』は、通

たま太陽に照らされて、一瞬光る青っぽい色だけが記憶に残っ

川(トンチョン)の叢石亭(チョンソクジョン)、高城(コソ

ていた。実際に西の海は、黄海だと学んだ。テレビも制服も白

ン)の三日浦(サミルポ)と清澗亭(チョンガンヂョン)の優

黒のモノトーンの時代。そのせいか、翌日の明け方に崖の上に

れた景色を歌ったもので、時空を超えて神秘さがさらに増して

ある天鶴亭の屋根と大きなしだれ松の間から見た青のあらゆる

いた。しかし、当時の私にとって束草と雪岳山は「彼岸の世

スペクトルは、感動そのものだった。美術の授業で学んだ単調

界」だった。泰白山脈の向こうにある遥か遠い地だったのだ。

なブルーは、どこにもなかった。東海岸から遠くかなたにある

1970年代初めの大学時代、中間テストが終わったある春の

南太平洋、大西洋、そして地中海は、どんな色だろうか。20代

日のことだ。昼頃、束草出身の友達と一緒に東馬場ターミナル

前半だった私の想像力は、すでに海を渡っていた。

で束草行きのバスに乗った。寒渓嶺をくねくねと曲がって束草

ソウルへの帰り道は、近代文学の舞台のような景色が次か

ターミナルに着いた頃には、太陽が弥矢嶺の向こうにゆっくり

ら次へと現れた。ソウル行きのバスは、1日せいぜい2~3 便。バスは前の車が舞い上げる白い砂埃をかぶりながら、杆城 に向かって北に伸びる砂利道をガタガタと音を立てて走ってい った。入り江の一つもない一望千里の砂浜に沿って走り続け る。雪岳山と金剛山の間にある海岸は比較的素朴で、天下の絶

束草市の北西にある永郎湖(ヨンランホ)は、新 羅時代に武術を磨いた4人の花郎(新羅時代の青 年組織)が景色を楽しんだことから名付けられ た。今でも多くの人が、美しい風景を楽しみにや ってくる。

景の間で一休みしているように思えた。陳富嶺を越えるソウル への帰り道は、半日どころか1日がかりだった。お尻が痛くな るほど体が絶えず揺れ動き、焦げたような匂いが鼻をついた。 元々、陳富嶺の向こうにある束草と高城は、北緯38度線よ

韓国の文化と芸術 37


戦後に意図せず突然引かれた軍事境界線が、朝鮮戦争で休戦ラ

やっと身近になった束草

インになって襄陽(ヤンヤン)まで進んだため、その地域の人

は、蔚山岩の圧倒的な光景もまともに見られないほどだっ

々は離散の悲しみを抱いてきた。失郷民の町・束草は、白頭大

た。その下にトンネルが掘られたことで、束草はより身近に

幹のあちこちにトンネルを掘って高速道路ができるまで、訪れ

なった。中年になって訪れる雪岳山(ソラクサン)は、全て

るには相当な覚悟が必要な見慣れぬ地だった。

の渓谷と峰に懐かしい趣がたたずんでいて、胸がいっぱいに

りも北にあり、なかなか行くことができなかった。しかし、終

30代半ば、思い切って車を買った。そして、季節が変わる

彌矢嶺(ミシリョン)の曲がりくねった急勾配の古い道

なる。

たびに東海岸に沿って統一展望台までつながる国道7号線を走

彌矢嶺の入り口にある禾岩寺を訪れた。雪岳山の禾岩寺で

った。小学校に入った子供に分断の現実を見せたくても、その

はなく、金剛山の禾岩寺だという。先日訪れた高城の乾鳳寺

当時はほとんど不可能だった。休戦ラインには常に張り詰めた

も、金剛山の乾鳳寺。乾鳳寺は金剛山に近く、かつて金剛山と

緊張感が漂っていた。統一展望台から見下ろせる外金剛と三日

雪岳山の全ての末寺を擁していた大寺なので納得できる。だ

浦の風景は、かなり時間が経ってから一般人でも見られるよう

が、彌矢嶺のすぐそばにある寺まで金剛山に属しているという

になった。最北端の村・明波里で昼食にジャガイモのチヂミと

のなら、雪岳山と金剛山は一つにつながっていると見て間違い

マッククス(そば粉の冷たい麺料理)を食べた後、大津から巨

ないだろう。

津に出て、再び南に引き返すことしかできなかった。

説話でも関係が深い。最近何度も訪れた雪岳山のふもと

しかし、子供に分断の現実を見せるのに、花津浦はうっ

にある永郎湖も、外金剛の三日浦と関わりがある。新羅時代

てつけの場所だった。潮の流れによって漂砂が堆積して湖沼

に四仙と呼ばれた4人の花郎(新羅時代の青年組織)が、金

を形成する潟湖の見本であるため、現場学習にもぴったり

剛山で修練を終え、徐羅伐(新羅の都、現慶州)で行われる

だ。さらに、朝鮮半島の近現代史における対立が凝縮された

武芸大会に参加するため、山を下りていた。永郞、安詳、

李承晩初代大統領と金日成国家主席の別荘が近くに残ってい

南郞、述郞の4人だ。その中で永郞が、ポム(虎)岩のそば

る収復地区(朝鮮戦争のよって得た北緯38度線よりも北にあ

で、風一つない水面に映る蔚山岩に心を奪われ、武芸大会の

る地域)でもある。加えて、休戦ラインが北側に入り込んで

ことなどすっかり忘れて風流を楽しんだことから、永郞湖

いるため、数十年もの間、緊張が続いてきた。ある女子大学

(ヨンナンホ)と名付けられたという。北側にある高城の三

の夏季保養所があり、厳しい中でも若い兵士が胸をときめか

日浦という地名も、この4人の花郎が風景に魅せられて3日

せもした。花津浦(ファジンポ)は二律背反の海岸、両極端

間泊まったことに由来する。

が混在する海岸だった。

周囲7.8kmの永郎湖畔を歩く。桜が咲き乱れる春の散策路

1. 東海岸の最北端にある高城(コソン)の非武装地帯。 そのすぐ南にあるDMZ博物館では、平和と生態をテー マにした展示をいつでも見ることができる。

1

38 KOREANA 冬号 2017

2. 花津浦(ファジンポ)は、朝鮮戦争の前まで北朝鮮の 指導者・金日成が家族と共に夏の保養地として利用して いたため「金日成の別荘」とも呼ばれている。今は朝鮮 戦争で壊れた建物を再建して、北朝鮮に関する展示館と して利用している。


2

を一人でぼんやりと歩くのも良い。初夏に青々と生い茂ったケ

かで、夜遅くまで賑わっている。派手な雰囲気や様々な食べ

ヤキの下、ポム岩の周りを大切な人とおしゃべりしながら歩い

物を楽しみたいなら、青草湖の周りを歩くのも良いだろう。永

ても良い。しばらくして日が暮れ、湖畔にシルエットを浮か ばせる蔚山岩を目にすると、まるで仙境にいるかのような気分

郎湖畔のコマリンヨットに乗って、海への出入り口を抜け、沖 合の鳥島を一周する1時間のヨットツアーもお薦めだ。青草湖

になる。千年前の永郞も、きっとその仙境に迷い込んだのだろ

からエキスポタワーの向こうに見える雪岳山の稜線は、スマー

う。蔚山岩に縄をくくりつけて、どこかへ持ち帰りたいという

トフォンで適当にシャッターを押しても作品になる。アバイ村

想像から「束草」という地名が生まれたという。つまり蔚山岩

から雪岳大橋越しに見る、青い空に浮かんでいるような大青峯

は、束草の原点といえよう。

は、感嘆詞さえうまく付ければ素晴らしい詩になる。それが雲

さて、再び青草湖(チョンチョホ)の話に戻ろう。青草湖 はきらびやかだ。繁華街に囲まれて、車も船も人も看板も華や

一つない寒い冬、雪に覆われた雪岳山なら、ぞくぞくするほど 圧巻だ。

韓国の文化と芸術 39


文化遺産の継承者

極細の線で

無限の禅を追求する 仏教の経典を書写する写経は修業の一つの手段であり、青磁、仏画と共に高麗時代の仏教文 化を代表する一つの軸だった。しかし、仏教を排斥した朝鮮によりこの600年間、伝統がほ とんど断絶されてしまった。伝統写経の技能伝承者キム・ギョンホ(金景浩)さんは、そん な高麗写経の命脈を受け継ぎ、創造的な継承を試みている。 カン・シンジェ 姜信哉、フリーライター 安洪範 写真

40 KOREANA 冬号 2017


先から表れる線が、極小の世界へ入り込んで

置くを繰り返すとまた1週間、10日、長いときには1カ月にな

いく。彼は1㎜の中に5~10個の微細な線を乱

ってしまうこともありますね」。

れることなく描き込んだ。1㎜に過ぎない仏

彼には奥歯がほとんどない。極限に達する緻密な作業は、

の顔に目、鼻、口をきちんと描いていくほどだった。だから

身体のいろいろな部分にひどい緊張感を強いるが、作業期間中

2㎜の空間に経典の一文字一文字を書いていくことなどは、朝

は治療のために病院に行くことなど、自分自身が許さないから

飯前だ。

だ。制限と節制の基準はより過酷だ。食べ物をたくさん食べる

そんな精緻な作業ではあるが、筆は止められない。金粉と

ことも、睡眠不足でもだめだ。体のわずかな乱れが心を乱すか

膠を混ぜた材料は3~5秒で筆先で固まってしまうからだ。そ

らだ。写経をする前にはたとえ小さな物でも持ったりしない。

の間に筆の毛1~2本が0.1㎜の中の正確な地点を通り過ぎな

まちがって手が震えることもあるからだ。そして、そのきわめ

ければならない。息を整えることもできない。息をつぐ刹那の

つけが作業環境だった。 「私の作業室の温度は35度から45度の間です。35度を越え

瞬間に線が乱れてしまうからだ。 自分の作品を広げてキム・ギョンホ韓国写経研究会名誉会

ないと膠が固まってしまうからです。湿度は70~90%に合わせ ています。そうでないと金の発色がよくないからです。不快指

長は語った。 「1㎜が1㎜に見えるならば線は描けません。1㎜の空間

数が頂点に達する日に作業をするのが一番良いということです

が5㎜、1㎝に広がらなければなりません。そうなるまでには

よ。汗まみれで夜を明かし、一日に8時間から10時間作業をし

短くとも2、3日かかります。一旦作業が始まれば一日でも

ます。それを半年、長いときには10カ月ほど続けるときもあり

休んではいけません。一日遊べば翌日の作業がうまくいきませ

ます」。

ん。そうなると不安になりますよね。不安になり筆を掴んでは

そんな歳月を20年。だからキム・ギョンホさんの写経は 「経典を書き写す」という小さな枠にはおさまらない。彼の写 経は限界への挑戦そのものだ。一人の人間が肉体的・精神的な

『華厳経普賢行願品 変相図』紺紙金泥、 18.3×36cm 国宝第235号の三星美術 館リウム所蔵高麗時代の 「紺紙金泥大方広仏華厳 経普賢行願品」変相図を キム・ギョンホさんが精 密に再現した作品

限界を克服することであり、人間が筆先で掌握できる空間の限 界を超えている。「作業する人間」の時間で人間をどこまでク リアできるか、それでひたすら作業にかける時間の純度をどこ まで高めることができるか、その限界にチャレンジすることも あった。

単純な再現を超えて創造的な継承に

「高麗時代の伝統的な写経製作は国家的な事業でした。写

経を担当する国家機関がいくつもあったほどで、そこで作業を する人だけでも300人はいました。高麗時代の人口が300万人で その中の300人ですから、現在の大韓民国の人口5000万に当て はめればその数は5000人になるというわけです」。 彼は仏教文化が燦爛としていた13-14世紀の高麗を21世紀 に召還した。初期の写経は教理教育と伝播のための経典の筆写 のみに終わっていた。それが印刷術が普及し、筆写に取って代 わったことで写経は信仰行為や修行の手段に近くなり、以降、 墨の代わりに金と銀を材料に使用した金銀字経が発達し、写経 は仏教芸術の極致となった。釈迦が説いた仏法を最も尊く、真 心をこめて受け止めるための努力と実践だったわけだ。当時の 燦爛とした高麗の写経文化は中国に写経の専門家を100人ずつ 派遣するほどで、その専門技術はずば抜けていた。高麗仏画、 高麗青磁にも劣らない芸術性と完成度を誇っていたのだ。しか し、抑仏崇儒を支配理念にした朝鮮王朝時代を経て高麗の写経 文化は消え去っていく。 彼は高麗の伝統写経の命脈を受けつぎたくて写経を始めた という。そしてさらに、単純な再現を超えた創造的な継承を望

韓国の文化と芸術 41


小さなものを見落とすと 世の中には特別なものはない。

んだ。漢文でできた経典の文字はハングルに書き直し、文字と

できるという。紺紙も見ればすぐに言い当てる。紙の質を判断

共に配置された変相図(経典の内容を圧縮して表現した絵)も

するだけでなく、筆がどれだけ耐えうる紙なのかも見極める。

新たに修正し、再創作した。もちろん写経の基本は書道であっ

500字も書かないうちに筆が使えなくなってしまう紺紙もある

たし、彼は1cm内で筆画を自由に駆使できる経歴50年の書道家

という。

だ。しかし写経はいろいろな領域が合わさり、書道を越えた境 地となった。

彼は作業台の上の59本の筆についても詳しく説明する。直 線用の筆、曲線用の筆、0.1mm用の筆、0.2mm用の筆、国産の金

「経典の内容を理解しないことには絵は描けません。仏教

を扱う筆、日本製の金を扱う筆など、それぞれに用途が違うと

を知らなくてはなりません。いろいろな荘厳要素を付け加える

言う。大きさも太さも同じ筆でも用途ごとに使い分けている。

には仏教史はもちろんインドから中国、韓国へとつながる仏教

彼に無作為に選んだ筆の性質についてたずねた。

美術の変遷の過程までも熟知しなくてはなりません。新しい表

「筆をイタチの毛で作ると言うじゃないですか。しかし本

現の根拠がなければならないからです。関連研究や専門家が皆

物のイタチの毛なのか、毛が生え変わる前の春の毛なのか、毛

無なので、伝えられてきた遺物を一つ一つ訪ね歩き、作品を準

が生え変わった後の秋の毛なのか、尻尾の毛なのか、胴体の毛

備するたびに50種類以上の資料を検討して確認しながら内容を

なのか、足の毛なのかによって、その差は無限です。その差を

構成しています」

すべて知っていないと筆を選ぶことはできません」。 何についてたずねても、彼は一言で要約することはしなか

道具と材料に対する慧眼

った。筆について完璧に話すまでは、筆が何であるかを見せて

見宝塔品』を広げた。法華経の一つの題目である「見宝塔品」

法を尋ねたときもそうだった。

彼は5年前に完成させた作品『紺紙金泥7層宝塔―法華経

くれることもしないという具合だ。金粉と膠のついた筆の使用

を濃い紺色に染めた紺紙に金で描いたこの作品は、縦の長さは

「野球のボールをストライクゾーンに投げるとき、直球で

7.5cmに過ぎないが、横の長さが6m 63㎝に達する大作だ。長い

まっすぐに投げるときがあるかと思えば、下に少し抜ける変化

紺紙の上に塔463個をずらりと描き、その塔の層ごとに経典の

球を投げることもあり、フォークボールを投げることもあるで

内容を一字ずつ書いていった。表紙には太極旗とムクゲを唐草

はないですか。状況に応じて使う必要があるということです。

文でつなぎ荘厳さを表した。100ウォン硬貨くらいの大きさの

『球をどう投げるか』という質問に簡単に答えることはできな

ムクゲには金色の実線が2万5千個も通っている。彼はこの作

いということです。私は表現する線によって金の濃度、金粉の

品を「伝統と現代を交差させ溶け込ませた独創的な表現」だと

量、膠の濃度の調合を毎回変えています。その調合の数は数百

説明する。

以上です。頭の中に詰め込まれた経験的なデータを、手が即興

写経の書体について語りながら、仏教美術と伝統文様、そし て現代的なイメージまで、次から次へと話題の領域を拡大させる 写経の専門家とは… 彼は話したいことが山ほどあるという。 「高麗時代には文字を書く人、変相図を描く人、それぞれ 別々にいました。線の担当者は線だけ描いていました。金粉の

的に取り出せなければ最高の作品を作ることはできません」

人生の極意とは

インタビューの間中「最高の作品」という言葉を何度も繰

り返していた彼が、「老い」という限界を語った。

製作から膠の製作まですべて分業になっていました。その昔に

「金儲けには別に興味はありません。しかし、誰かが好き

は300人に分かれてしていた作業を今、私一人でやっているん

なようにしてよいから、3年間で生涯最高の作品を作ってみろ

です」。

という提案をしてきたら喜んですると思います。人類の歴史に

そのおかげで道具と材料に対する慧眼が備わった。彼は伝 統写経に使われる金の発色状態を見ただけで製作年代を言い当 てることができるという。彼の話によれば13世紀、14世紀、14

残るような最高の作品を生み出すことができるでしょう」。 しかし「実力が頂点を過ぎているのでは」という質問に は、こんな答えが返ってきた。

世紀後半、そしてそれ以降の朝鮮の作品は金の濃度と発色の状

「30歳でまだ現役で滑っているフィギュアスケートのキム

態がそれぞれ異なり、自分はそのわずかな差を見極めることが

・ヨナ選手を想像してみてください。オリンピックで金メダル

42 KOREANA 冬号 2017


仏教伝統写経の技能伝承 者キム・ギョンホ(金景 浩)さんが細筆を手に作業 に集中している。彼の作業 台の上には直線用の筆、 曲線用の筆、0.1mm用の 筆、0.2mm用の筆、国産 の金を扱う筆、日本製の金 を扱う筆など、それぞれに 用途の違う59本の筆が置 かれており、人間の肉体的 ・精神的な限界を克服する 熾烈な彼の作業世界を物語 っている。

をとった時のようにはできないでしょう。最高の技術は体力と

を害することはありません。心も同じです。ありとあらゆ

関連があるんです。0.1mmの間隔を空けなければならないこの

る考えが魚の群れのように通り過ぎますが、それが私の澄ん

線が、今ではたまにくっついてしまうことがあります。5年前

だ心を乱すことはできません。平常心、静けさそのもので

には10個のうち9個以上の線が0.1mmもずれなかったというの

す」。

に…」。

学生時代に僧侶になろうと夜行列車に3度も飛び乗った

心身を極限に追い詰めてまでもそのように完全に掴みたか

が、そのたびに全国の寺刹を探して息子を連れ戻したという彼

ったのが「最高」という言葉だったようだ。しかし努力と意志

の父の逸話がオーバーラップする。その時代を考えながらもう

だけでは乗り越えられない「老い」という限界を前にして彼は

一度たずねた。仏教で写経は「公徳を積む行為」として代弁さ

すでに考えを整理したようだった。

れるが、作業を繰り返していると「宗教的な特別な経験」をす

インタビューにさえ熱心な彼を今更ながら見つめる。頑

ることもあるのかと。

強で平穏な顔、その奥に潜んでいる心は本当に安寧なのだろ

「あえて言うなら、私が息をしていることよりも特別なこ

うか。0.1mmの線に乱れのない場所を与えることに長い時間の

とが世の中にあるでしょうか。この空気の中の酸素が私の体に

間、彼はどんなことを考えてきたのか。その途方もない没入の

入ってきて、出て行くことが一番神秘でしょう。それが奇跡で

時間に考えの片鱗ほどは通り過ぎただろうか。作業室の沈黙は

す。その些細なことを見過ごしてしまえば、この世の中に特別

ストレスと意志の熾烈な争いの緊張感なのだろうか。あるいは

なことは何もありません」。

筆だけが人生を超越した境地の顕現だろうか。作業の時間に耐

「写経」という文字にとらわれて、そこまで見ることのな

える彼の心境についてたずねた。しかし答えは明後日の方向か

かったキム・ギョンホさんの人生の極意がそのときになりよう

ら来た。

やく明らかになった。4時間の間、終始一貫して金粉を精製

「正気ではないそんな状態ではありません。1級水を連

し、20分ごとにきちっとした姿勢で筆を初心のように扱い、写

想してください。澄んだ水が絶え間なく流れており、その中

経に没頭する彼を改めて見つめた。たしかに禅は寺の中だけに

で魚が自由に遊んでいます。しかしその魚たちが水の透明さ

咲くのではなかった。

韓国の文化と芸術 43


アートレビュー

掛仏

その華やかな荘厳さに 魅了されて 国立中央博物館は企画展「華麗な荘厳に魅了され」で、慶尚南道固城の玉泉 寺に伝わる掛仏を一般に公開した。4月25日から10月22日の期間、国立中央 博物館の12回目の掛仏展である今回の展示では、観覧客のだれもが巨大な 図像に驚き圧倒され、さらにその華麗な彩色に魅せられた。 ユ・ギョンヒ 柳京熙、国立中央博物館学芸研究士

面を圧倒する仏がある。丸い後光に囲まれた 仏は法衣をまとい、世の中と遭遇する。仏の 隣には炎の宝冠をつけた二人の菩薩が、如意

と蓮の花のつぼみを手にして仏に仕えている。黒い夜空、実を

『玉泉寺掛仏』1808年、絹に彩色、1006×747.9cm 慶尚南道有形文化財第299号の玉泉寺掛仏は一般的な「霊山 会上図」とは違い、釈迦牟尼仏とそれに仕える菩薩を画面の 中央に配置するという圧倒的な構図が特徴だ。

いっぱいにつけた蓮花が空の中央で咲き誇るとき、二人の尊者 は両手を合わせ、円光の中の小さな仏たちは雲にのって降りて くる。

よれば、この寺に伝わっていた昔の掛仏が破損してから久しい

三尊の仏・菩薩と二人の尊者、6つの仏はいったいどんな

ので再び作る計画をたて、寺に所属する僧侶たちと信者たちが

縁で出会ったのだろうか。仏を眺める観覧者の視線は仏画の下

力を合わせて新しい掛仏を造成したとある。しかし10mを越え

段に記録された物語「画記」へと向かう。

る掛仏の製作は簡単なことではなかった。

1808年慶尚右道晉州牧蓮花山に位置する玉泉寺で新たに掛

まず掛仏の土台となる20幅の絹を準備しなければならず、

仏が造成された。寺刹に伝わる記録の「玉泉寺掛仏画成記」に

朱、緑、白の顔料をはじめ、尊く貴重で高価な金も必要だっ

44 KOREANA 冬号 2017


© National Museum of Korea

韓国の文化と芸術 45


た。かくして、僧俗の人々130人余りの直接的・間接的な施主 を通じて、ついに一幅の掛仏が完成したのだった。

ところで玉泉寺の掛仏には説法を聞くために参席した多 くの信者たちの姿は画面にはない。主人公である釈迦牟尼仏

長大な仏・菩薩の絵は、画記には「霊山会上図」と記され

と彼に仕える文殊・普賢菩薩、そして釈迦の弟子である迦葉

ている。霊山会上図とは、ゴータマ・シッダールタ王子が6年

尊者と阿難尊者を画面にいれ、この説法を賛嘆する6人の仏

間ありとあらゆる苦行と瞑想を通じて真理を悟った後、インド

を描くことで、釈迦の霊鷲山説法を象徴的に一つの画面で表

の霊鷲山でその悟りを説法した時の説法会を記録した絵だ。

現している。

© National Museum of Korea

46 KOREANA 冬号 2017


錯視を念頭において描いた構図

横7.5m、縦10mのこの巨大な仏画は、博物館1階の壁面

葉はすでに老いた僧侶であり、阿難は幼い僧侶だ。年を超越し

に展示できず、2階と3階の二つの階にまたがってかけられ

た弟子二人は両手を合わせて三尊に敬拝している。小さな円光

た。下の階から見上げる視線は、掛仏がかかっていた寺刹の実

の中の6人の仏は、別世界から霊山会上を証明するために来た

際の儀式を想像させた。掛仏は本来、野外の儀式で使用された

のだろうか。雲の中で手を合わせている6人の仏の後ろには真

仏画なので遠くからでも見ることのできるように、歳月とと

っ暗な夜空、その下には蓮花が咲いている。

仏の頭上では迦葉尊者と阿難尊者が手をあわせている。迦

もにどんどん大きく作られるようになった。かくして寺刹の入

釈迦牟尼仏、文殊菩薩、普賢菩薩、迦葉尊者と阿難尊者、

口、一柱門にたどり着いた信者たちは空に突き当たるようにそ

他方仏の連続が合わさり一幅の仏画を形成しているのだ。荘厳

びえる巨大な仏と出会うことになった。

なドラマ1篇の鑑賞が終わるころ、私たちは拝む対象となった

一方2階からこの巨大な仏を鑑賞するためには、頭を返ら して見なければならない。下から見上げることで、錯視を念頭

仏を眺める。そして自然と頭をたれて、両手を合わせる。

ができる。主人公の釈迦牟尼仏を二人の菩薩に比べて大きく描

太陽と月を彫った掛仏函

き、上段部に位置する迦葉尊者と阿難尊者は小さく、そして6

う。掛仏函だ。今回の展示では掛仏と共にそれを保管する掛仏

人の仏はさらに小さく描いた。そうすることで掛仏を眺める人

函も展示された。このような大きな掛仏と、その掛仏を保管

々は上段に位置する人物たちと主体である三尊の間の距離と空

しておく掛仏函を動かすことは明らかに大規模な仏事だったろ

間を錯覚することになる。

う。紐で縛った掛仏函を担いで大雄殿をでていく僧侶10人余り

において描いた画僧・華岳評三の構図と同じ感覚を感じること

より近くで仏・菩薩を見るために3階に上ると、ようやく 掛仏の登場人物を正面から見ることができる。仏の円満な相好

さらに視線は掛仏の下のほうに置かれた大きな木箱に向か

の姿が描かれている。彼らは野外の儀式が行われる広い庭に向 かうのだ。

と知恵の象徴の頭の肉髯、その真ん中の地平線に登る太陽のよ

つづいて掛仏函の表面についている薄く刻られた金属版を

うに聳え立つ髯珠、そして穏やかに染み渡る尊い気運が天に昇

詳しく見てみよう。箱の中央には金属版の中に梵字が透刻され

っていくようだ。片方の肩を露わにした仏の胸には巨大な卍が

ている。赤い色の梵字が古びた木箱に命を与える。その左右に

描かれており、赤い袈裟に施された蓮花紋と龍紋、唐草紋など

は丸く刻られた円形版に文字が彫られている。太陽を意味して

が仏の服を華やかに彩っている。

いるのだろうか。「日光」と透刻された文字の隣には木の模様

再び視線を左右に落として菩薩を眺める。知恵と実践の文

を打出して描いている。よくは見えないが木は高句麗壁画古墳

殊・普賢菩薩である。華麗な炎が描かれた金色宝冠をかぶり、

角抵塚に描かれた木を連想させる。日が開く伝説の木をその隣

まるで釈迦の息子ラーフラにでもなったかのように仏と同じ顔

に彫ったのだ。

をしている。文殊菩薩が握っている長い枝の先には萬事如意を

それだけではない。半月模様に切り、木目を露出させた円形

象徴する如意が描かれており、普賢菩薩は蓮の花のつぼみを握

板には「月光」という文字を透刻した。太陽と月を象徴するイメ

っている。そして菩薩たちは宝冠と同じくらい華麗な首輪と腕

ージと文字を掛仏函に彫ったのだ。そのアイデアには驚かされ

輪など煌びやかな瓔珞を着用している。そのように赤緑の饗宴

る。このように精魂をこめた職人はどんな人だったのだろう。親

が終わりを告げる頃、菩薩たちの服の中に物語が描かれる。白

切にも函の内部には、えてして忘れ去られる彼らの名前が書かれ

地の上に青華で描かれた絵の中のウサギは臼をついており、リ

ていた。晉陽牧の金業発、鉄城邑の金潤泙とある。彼らは寺の近

スはブドウに向かって飛び上がっている。また如意珠を口にく

くに暮らしていた金属職人だったのだろう。この職人たちが熟練

わえた鶴はまるで神仙の世界から舞い降りたようだ。仏の物語

した腕前で精巧な装飾をほどこしたことで、ややもすると地味に

の中に伝説まで組み込まれているのだ。

なりがちな木造掛仏函の完成度を、一段と高めた。

『童子像』1670年、岩に彩色、高さ44cm(左)、47.3cm(右) 十王と判官を補佐する役割をすると伝わるこの童子像は、17世紀 に玉泉寺冥府殿での仏事の際に作られた。

韓国の文化と芸術 47


48 KOREANA 冬号 2017

© National Museum of Korea


掛仏は本来、野外の儀式で使用された仏画なので遠くからで も見ることのできようにと、歳月とともにどんどん大きく作 られるようになった。そして寺刹の入口、一柱門にたどり着 いた信者たちは、空に突き当たるようにそびえる巨大な仏と 出会うことになる。

掛仏と共にやって来た童子像

る。龍頭で装飾された大きな椅子に座って高い冠をかぶった閻

今回の展示には掛仏とともに玉泉寺の他の文化財もソウ

魔大王が亡者の罪を審判している。官服を着て頭には日と月が

ルにやって来た。一緒に展示された『童子像』は高さ44cm、

彫られた冠をつけ、髯をなでながら考えにひたっている姿だ。

47.3cmの大きさで、高さ10mに達する掛仏とでは比べ物になら

亡者の罪が大きいのだろうか。

ない。しかしその意味は格別だ。1670年玉泉寺で冥府殿の仏事

彩色した雲で区画された画面の下段は生前の罪業を現す業

が行われたが、当時、壬申倭乱と丙子胡乱で死んだ朝鮮の人々

鏡と亡者の罪を記録する録事がある刑罰の場面だ。地獄には前

の魂を慰労しなければならなかった。辛い人生を過ごし、戦乱

世の罪を照らし出す鏡がある。髪の毛を掴まれた霊魂を鏡の前

の中で亡くなった亡者が極楽浄土に行くことを祈らなければな

に連れて行くと、斧をもっている人物と向かい合う。亡者には

らなかったのだ。それでこの寺の冥府殿には冥土の世界で出会

生きている命を奪った殺傷の罪があったという意味だ。自分の

う10人の十王の彫刻像を作り、彼らの世界を絵にして具体化し

順番を待っている他の霊魂も捕縄につながれたまま業鏡を見上

た。童子像はこの冥府殿での仏事の際に一緒に作られたもの

げている。閻魔大王を補佐する判官と録事は閻魔大王が審判を

で、石を彫って作り、その上に彩色してある。

下す前、判決が記録された亡者のリストを広げて業鏡に照らし

100年後の1777年に冥府殿を増築するときにこの童子像も再

て罪業を書きとめている。紙の余白はまだ記録されていない罪

び彩色された。まだ鮮明に残っている色彩が童子たちの姿を生

が残っていることを、そしてこれから受けなければならない審

き生きとさせている。十王と判官を補佐する役割をする童子は

判があることを暗示している。

頭を一つにまとめて後ろに流しており、襟のまっすぐな直領を

今回の展示で最後に紹介する作品は、玉泉寺の庵の一つで

着ている。手に持った動物は尊い鳥の鳳凰と極楽鳥だ。地蔵信

ある蓮台庵に所蔵されていた『百泉寺地蔵十王図』だ。冥土の

仰の経典によれば、地獄の童子は亡者のごく小さな善行の記録

世界の救世主である地蔵菩薩と10人の王、判官、録事など、あ

を漏らすことはなく、わずかな悪行も一つ残らず記録している

の世を構成する人物を描いた仏画だ。

という。従って彼らは善童子、悪童子と呼ばれていたという。

画記によれば、この絵は1737年百泉寺の兜率庵に奉安され

童子像の後ろには地獄の様子が仏画に繰り広げられてい

た。玉泉寺がある古城から遠くない慶尚南道泗川にある寺だ。 寺刹の勢いが強くなった18世紀頃、玉泉寺の僧侶たちは近くの 泗川と晋州地域を行き交った。この仏画は当時玉泉寺の僧侶 たちの幅広い活動範囲を示している。落ち着いた色調と繊細な 筆遣い、人物の顔面に使用された墨のぼかし効果から仏画を描 いた画僧の優れた技量が感じられる。また十王の魂と衣服の部 分、判官が手にしている経本に使用された金糸で画面は落ち着

『十王図(第5閻魔大王図)』1744年、麻布に彩 色、165×117cm 宝物第1693号に指定されているこの仏画は地獄 の様子を描いており、18世紀朝鮮時代の冥府殿の 仏画の典型だといえる。

きの中に輝きをみせている。 今回の展示は深まる秋、玉泉寺の掛仏の燦爛たる仏・菩薩 の世界と、その中に込められた仏の悟りと意味を考えさせられ た時間だった。

韓国の文化と芸術 49


オン・ザ・ロード

千の路地に立ち上る

りんごの花の香り 大邱(テグ)はその名の通り「大きい丘」の上に数多くの路地が入り組んでいる都市であ る。路地には、それぞれ異なる歴史や物語が秘められている。パリのモンマルトルを思い起 こさせる青蘿(チョンナ)丘と韓国初期のキリスト教建築を象徴する桂山(ケサン)聖堂のよう な洋風建築物は、韓国の近代文化の趣がきちんと保存されている博物館に他ならない。 クァク・ジェグ 郭在九、詩人 安洪範 写真

50 KOREANA 冬号 2017


大邱(テグ)は一時期、丘全体が白いり んごの花で覆われれるほどりんご畑が多 く、最も美味しいと大邱りんごは全国的 に人気が高かった。しかし最近では、地 球温暖化の影響でりんご栽培地域が北の 方に移動し、大邱ではりんご果樹園が見 かけられなくなった。

韓国の文化と芸術 51


7歳の時の出来事である。その時私は修学旅行中だ

1

刷路地、コプチャン(ホルモン焼き)路地、カルビ路地のよう

った。高校卒業前に、国内の由緒ある場所へ旅行す

な名前が併記されていた。「千の路地」とそこににじんでいる

ることは、当時の生徒たちにとって最も胸がときめ

暮しの物語を、都市観光テーマとして掲げた人々の想いが温か

くことだった。私たちの修学旅行先は新羅の古都・慶州(キョ

く感じられた。

ンジュ)だった。 に入った。季節は春、りんごの花が満開だった。バスの窓を開

韓国近代史が記録された路地

けると風が吹き込んできて、あちらこちらに白い花びらが舞っ

る。青蘿は「青いツタ」を指す言葉である。ここには学校や

ていた。そのとき初めて「花の雨」という言葉が世の中に存在

キリスト教会、病院など、韓国の近代洋風建築が立ち並んで

していることを知った。バスは花の雨の中をしばらく走って慶

いる。当時は馴染みの薄いこの建物の赤い煉瓦の色にツタの

州に到着したが、私は慶州の古跡よりもりんごの花が風に舞う

葉の緑が映えて人々の目を引いたに違いない。大邱の人々が

丘の街の風景のほうが、記憶に焼き付いている。その丘の街の

ここを「モンマルトルの丘」と呼んで大切にしているゆえん

名前が大邱(テグ)だった。

であろう。

バスが慶州に着く前にりんごの樹が果てしなく続く丘が目

地元住民が「青蘿(チョンナ)丘」と呼ぶ小さな丘を登

かなり時が経ったにもかかわらず、私にとって大邱は依

大邱出身の作曲家・朴泰俊(パク・テジュン、1900~

然としてりんごの花の香りとして思い出される。丘ごとに白

1986)は、『友達想い』という歌曲を作ったが、これには世間

い花が咲いており、花の樹の間に家々が点在していたので、

にあまり知られていない逸話がある。彼は信明(シンミョン)高

詩的な趣が深く感じられたようだ。あれから45年、大邱は大

校に通っていたある女子高生に片思いをし、その胸中を時調

きく様変わりしている。人口250万人の都市になり、りんご果

(定型短詩)詩人・ 李殷相(イ・ウンサン、1903~1982)に

樹園は地球温暖化の影響によってほとんど見かけられなくな

伝えた。その話を聞いた李殷相が恋心を作詞し、1992年にこの

った。

歌が生まれることになった。

「近代路めぐり、千の路地に千の物語」

「青蘿丘のような私の心に/百合のような私の友よ/君が

大邱のダウンタウンに足を踏み入れた時、このような標

私の心の中で咲くと/すべての悲しみが消え去る」という歌詞

語が目に付いた。この標語が印刷された立て看板が標識のよう

は、初恋に悩む数多くの韓国人の胸を打った。国民歌曲が誕生

に路地の入り口あたりに立っていたが、そこには靴下路地、印

したのだ。

1

52 KOREANA 冬号 2017


1. 1910年ごろ建てられたスイッツァ家の 庭園には、アメリカから最初に韓国に持ち 込まれたりんごの樹の子孫木が生育してい る。この古宅に住んでいた宣教師・スイッ ツァ氏は、近くの「恵みの庭園」に埋葬さ れた。 2. 1902年にゴシック様式で建てられた桂 山(ケサン)聖堂は、大邱で最初の洋風建 築物であり、韓国初期のキリスト教建築様 式をよく見せている。

一方、この丘の上には19世紀末、韓国を訪れた宣教師たち が住んでいた住宅が三軒立っている。その中のスイッツァ家 の庭園には、1899年アメリカから最初に韓国に持ち込んだりん ごの樹の子孫木が生育している。東山(トンサン)病院の初代 院長だったアメリカ人・ジョンソン博士がミズーリ州のりんご の樹の苗木を持ち込んで植えた。オリジナルの樹を見ることは できないが、その木の子孫が生き残って大邱りんごの元祖にな ったということを考えると、歴史の深さを改めて思い知らされ る。大きめのスモモサイズの赤りんごが愛らしかった。 「90階段の街」あるいは「3・1万歳運動の街」と呼ばれる

2

小さな階段は、青蘿丘と市街地をつなぐ路地の役割をする。 1919年3月1日、韓国の民衆は日本の侵奪に抵抗し、全国的に 独立運動を繰り広げたが、当時ここの学生たちは森の中のこの 路地を通って市内に出かけて独立万歳を叫んだ。日本の警察の 目をかわすため、男子学生は商人の服装に変装し、女子学生は タライを手にパルレト(公共の屋外洗濯場)へ行くふりをした という。 この階段を下りて大通りに出ると、向かいに桂山(ケサ ン)聖堂が見える。1902年に建てられたゴシック様式のこの聖 堂は、大邱最初の洋風建築であり、韓国に現存する最古の聖堂 の一つでもある。折りよくミサが執り行われているところだ った。神父様の声とステンドグラスの窓から差し込む日差しが 暖かくて気持ちよかった。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、

韓国の文化と芸術 53


1

1984年5月5日「韓国カトリック103位列聖」のミサを捧げた 聖堂だ。最初に聖堂が建てられた時、82年後に法王がミサを執 り行うとは誰しも想像できなかったであろう。

名前ほど長くない路地「ジンゴルモク」

桂山聖堂のすぐ隣の路地の中ほどに民族詩人・李相和(イ

・サンファ、1901~1943)の故宅がある。 今は他人の土地 奪われた野原にも春は訪れるだろうか 私は日差しを体いっぱいに浴びて 青い空、青い野原が出会うところへ 分け目のような畦に沿って夢の中をさ迷うといわんばかり に歩く

54 KOREANA 冬号 2017

1. 大邱・薬令(ヤクリョン)市場は、歴史を1658年にま で遡るほど韓国南部の地域で最も大きい漢方製剤市場で ある。最盛期には日本と中国はもちろん、アラビア商人 までも集まってくる国際市場だったという。

2. 防川(バンチョン)市場には、ここで幼少時代を過し た歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間があ る。32歳で早世した彼の歌と人生を反映した壁画が路地 に沿って続き、彼を追悼するために訪れる観光客の足が絶 えない。


薬材卸売商が集まっている古典的な 路地に、最近おしゃれなインテリア で室内空間を演出したコーヒーショ ップが立ち並び、若者と旅行者の足 を向かわせている。漢方薬の匂いと コーヒーの香りが共存する、風変わ りな香りの街並みなのだ。インドの ヴァーラーナシーやモロッコのフェ ズでもこのような街は滅多にお目に かかれない。

とフェズの場合、平凡な庶民たちの住居地がぎっしり立ち並ん でいるのに対し、ジンゴルモクは大邱の上流階級であるソンビ (学者)が住み着いたからだ。 ヴァーラーナシーを初めて訪れた時のことである。当時、 私はヴァーラーナシーの「迷路地図」を描くという目標で、火 葬場へ向かう路地の入り口に入った。モンスーンの雨で幅1m 前後の狭い道が泥だらけになり、悪臭を放っていた。火葬場へ 向かう葬列が5分に一度の割合で棺を運んできたが、シヴァへ のお祈りの音が陰鬱に感じられた。牛はなぜこれほどまでにま たどれだけ多いかというと、牛が群れをなして路地の中にぞろ ぞろと歩いてくると、壁に体をくっつけていても牛とすれ違う ほどだった。その日、私は迷路地図の製作という夢を諦めた。 荒々しいヴァーラーナシーは自分の浅い旅行歴では手に負えな いと思ったからだ。

在来市場で感じる幸せ

ジンゴルモクを通って薬令(ヤクリョン)市場へ足を運

ぶ。ジンゴルモクから徒歩で10分の距離にあるこの路地を大邱 の人々は、「ヤクジョンゴルモク」と呼ぶ。入り口を入ると、 漢方薬を煎じる匂いが立ち込める。「この道を歩くだけで万病 が治る」という大邱住民の言葉からは、この空間に対する自負 が滲み出ている。 西洋人が神秘的に感じる漢方薬治療の要は香りだ。薬剤が 持つ固有の香りで体内から病気を追い払うのだ。そのような意 味でここに暮らす人々は幸せだ。風邪気味だったり、胃もたれ を感じていたりすると、漢方薬の匂いを嗅ぎながら1~2時間 くらいヤクジョンゴルモクを歩くだけでも症状が好転するから だ。なんて幸せなんだろう。ここが薬令市になったのは、1658 年春と秋の2回薬剤市場が開かれてそれ以来、伝統になった。 最盛期には日本と中国はもちろん、遠くはアラビア商人まで集

このように始まる李相和の詩、「奪われた野原にも春は訪 れるだろうか」は、自由と独立に対する夢を切望していた当 時、韓国人の心を打った。日本帝国主義が、この詩を載せた文 学雑誌『開闢』を廃刊に追い込んだことからも、どれだけ彼の 詩を脅威に感じていたかが伺える。 道はすぐジンゴルモクにつながる。ジンゴルモクとは大邱 の方言で「長い路地」を意味する。生粋の大邱人たちの間で は、「そこで待ち合わせしよう」と約束する際の「そこ」と は、当然のごとく「ジンゴルモク」を指していたという。とこ ろが、名前とは裏腹にジンゴルモクは、思ったほど長くない。 一度足を踏み入れると道に迷いがちなインドのヴァーラーナシ ー旧市街や、ユネスコの世界文化遺産であるモロッコのフェズ 旧市街地とは大きく異なる。これはおそらく路地を生活の基盤 にしていた彼らの身分と関係があるようだ。ヴァーラーナシー

2

韓国の文化と芸術 55


まってくる国際市場だったという。 薬材卸売商が集まっている古典的な路地に、最近おしゃれ

早世した歌手・金光石

防川(バンチョン)市場は朝鮮戦争当時、詰め掛けてきた

なインテリアで室内空間を演出したコーヒーショップが立ち並

避難民とシリャンミン(失郷民)が集まってできた市場であ

び、若者と旅行者の足を向かわせている。漢方薬の匂いとコー

る。最盛期には1千軒余りの店舗があったということから、こ

ヒーの香りが共存する、風変わりな香りの街並みである。ヴァ

こは戦争から逃れてきた人々の数奇な人生の物語がひしめいて

ーラーナシーやフェズでもこのような街は滅多に見られない。

いたに違いない。ところが、この市場は衰退の一途を辿り、貧

もしあなたが香りに特別な感覚のある旅行者ならば、この路地

しい人々が集まって生計を立てる、ありふれた平凡な市場に変

をぜひ訪れてほしい。

わっていった。

在来市場で感じる幸せは、希望する商品を値引き交渉しな

しかし、最近この市場を再生させたいと願う人々が志を

がら購入するところにある。イスタンブールのグランバザー

一つにして歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間

ルで経験した出来事が思い浮かぶ。15世紀にできたその市場で

を作った。3~4人が肩を並べて歩くと隙間がないくらい狭

は、5千軒余りの店舗があらゆる種類の生活用品を売っていた

い路地に、金光石の歌と人生を込めた壁画が描かれ、彼が残

が、すべての商品から伝統の香りがした。日常用品、家具、衣

した言葉と歌詞が刻まれた。彼の歌を歌う野外コンサート会

類、絹、銀の工芸品、カーペットなどの様式が中世のデザイン

場が設けられ、ストリートライブをする歌手たちの歌声が路

と文様を保っていた。

地の中に響き渡る。 故金光石は、今でも韓国で最も愛される歌手の一人であ

私はそこで手作りカーペット一枚を買った。荷物を持ち歩

る。彼が作って歌った曲は、軍部独裁政権と権威主義政権時代

くのが嫌いな私は、店主にこのカーペットが韓国にきちんと届

の韓国人の心を慰め、辛さをを紛らわす癒しの歌だった。二十

けられるということが信頼できれば購入すると言ったら、彼が

歳の青春を迎えた若者らは、彼の歌『二等兵の手紙』を歌って

金庫の中から古い契約書の束を取り出した。驚くべきことに、

軍に入隊し、『30歳の頃に』は三十路になったすべての人々が

この書類は15~16世紀のものであり、契約書の紙面に骸骨の絵

愛唱する歌になり、『ある60代老夫婦の物語』には、長く苦労

とともに「破ると死ぬ」という恐ろしい文言が刻まれていた。

してきた前の世代の切ない姿が溶け込んでいる。

見た途端にその契約書が信頼に値すると思った。私が韓国に戻 った半月後、カーペットを詰めた小包が我家に届いた。

大邱観光地図

防川市場の路地で生まれた金光石の音楽と人生を称える計 画は成功を収めており、今では全国から彼を称える人々が相次

八公山カッバウィ

ソウル

290km

大邱 ジンゴルモク アンジラン・コプチャン通り アプサン展望台

56 KOREANA 冬号 2017


いで訪れている。金光石フアンにとって、この路地は聖地とな ったといっても過言ではない。32歳で早世した彼の人生と音楽 に憐憫の情を覚えるのは韓国人だけではない。東南アジアや中 国、日本の旅行者たちの姿もよく見かけられる。 日が暮れて夕食をとるため、アンジラン・コブチャン通り に出向いた。案内地図に書いてある「青春の路地」という表現

防川(バンチョン)市場には、ここで幼少時代を過し た歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間が ある。32歳で早世した彼の歌と人生を反映した壁画が 路地に沿って続き、彼を追悼するために訪れる観光客の 足が絶えない。

客で賑わう食堂に一人で入って一人ご飯をする勇気が湧いてこ なかった。「一緒に来て食べて、飲んで、話して、愛しなさ い」がこの市場の世界観でもあるかのような気さえした。

に惹きつけられた。青春の時代を切なく思わない人なんていな

地図で校洞(キョドン)「トッケビ(鬼)夜市通り」が目

いだろう。今が青春の人々は、お互い手を携えてこの通りに集

に入った。よし、こっちへ行こう。そこに行けば寂しいトッケ

まっており、青春があっという間に過ぎてしまった人々は、昔

ビたちと一緒に夕食を食べることができるかも知れない。もし

を懐かしんで集まってくるだろう。

かすると、子どもの頃おとぎ話で見たトッケビと友達のように

路地に入った途端、驚いた。羊や牛のコブチャン料理を売

会えるかも知れないと思ったら、自ずと気分がよくなった。大

る店がこんなに多いなんて!おそらくこの市場通りは、コブチ

邱は路地でつながる都市だ。果てしないその物語の中から、ふ

ャン料理を売る通りとしては世界最大規模だろう。ところが、

ーっとりんご花の香りが立ちのぼった。

韓国の文化と芸術 57


エンターテインメント

年5月に公開された

にするシネコンは、アナログ式観賞方式

世界加入者数はおよそ1億400万人に上

『オクジャ』は、映画

を最適化し、映画を観る方式を独占して

っている。これを見ると、この会社はデ

館での上映と世界中の

きた。因って、これらの複合映画館は、

ジタル方式の動画を配信するニューメデ

ネットフリックス・メンバーへの同時配

新たに登場したデジタル方式を自分たち

ィアプラットフォームのように見える。

信を試みた韓国初の映画である。ところ

の事業基盤を揺るがす重大な脅威と受け

ところが、ネットフリックスは単に流

が、同映画はこのような特殊な上映方式

止めざるを得なかった。しかし、一方で

通のためのプラットフォームだけではな

のため、韓国はもちろん海外でも論争を

は「シネマコンプレックスが制作と流

く、影響力のあるコンテンツ制作会社で

巻き起こしている。カンヌ国際映画祭で

通、配布まですべて垂直系列化して独占

もある。その最初の一歩が、2013年放送

は、同作品のノミネートに異議を唱える

・寡占を強固なものにする現況の中で、

された政治ドラマ『ハウス・オブ・カー

場面も見られた。

デジタル方式の観賞の方が多様性の視点

ド』で、1億ドルを投資して制作した。

から考えるとずっとましだ」という見方

ネットフリックスはこのドラマが大成功

もある。

を収め、コンテンツ制作会社として確固

ネットフリックスが変えたもの

たる地位を築いている。前述した映画

このような疑問の声には、ネット動画 配信サービスで観られる映画に対する抵 抗感が潜んでいる。映画には1988年公開の 『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュ ゼッペ・トルナトーレ監督)で主人公「ト

「ネット(net)」と「映画(flicks)」

『オクジャ』には、韓国映画史上最大の 制作費である5千万ドルを投資した。

ネットフリックスが変えた 流通システムのあり方

最近、奉俊昊(ポン・ジュノ)監督の映画『オクジャ』の公開を巡る対立は、変化している映像消費のあり方を 端的に表している。映画館の公開とオンライン・ストリーミング動画配信は、映画をどこで観るかという上映方 式の問題を超えて、映像コンテンツの制作と流通にまで徐々に影響を及ぼしている。 チョン・ドクヒョン 鄭德賢、大衆文化評論家

ト」が感じていたアナログ的感性が不可欠

の合成語が会社名であるネットフリック

ネットフリックスがもたらした革新

だと考えいる人々は、「そもそも、ネット

スは、1997年DVD宅配サービス企業として

のうねりは、単にオフライン映像コンテ

で配信される映画を本物の映画と呼べるも

スタートしたが、今では世界最大手のオ

ンツの流通の仕組みをオンラインに変え

のか」と疑問を抱いている。

ンラインストリーミング配信会社として

ただけに止まらない。デジタル流通から

韓国で『オクジャ』の封切り当時、シ

位置づけられている。韓国では2016年か

派生する数多くのデータを分析してオン

ネマコンプレックス大手3社が一斉に上映

らサービスを開始し、誰でも月額7.99ド

デマンド型サービスを可能にしたから

のボイコットを決定したのも同じ理由から

ルを支払って加入すれば、ネットフリッ

だ。たとえば、ゾンビジャンルの映画や

だった。結局、同映画は韓国の大部分の映

クスが配信する映画・ドラマなどが楽し

ドラマを多く観た加入者に類似ジャンル

画館を掌握しているシネコンでは観られな

める。一定額を支払えば、サービス期間

のコンテンツを集めて提供するといった

くなり、一部中小映画館で観るか、ネット

中にはホットな米ドラマはもちろん、ハ

仕組みだ。

フリックスに加入してオンラインで観るし

リウッド映画も見放題であることが、同

かないようになってしまった。

社のセールスポイントである。

これはコンテンツが多すぎていちいち 確認しながら選択するのが難しいユーザー

ここで注目すべきは、同映画の変わ

2017年7月に発表された韓国コンテ

に、キューレーションの利便性を与えてい

った上映方式が引き起こした「過去」と

ンツ振興院の「ウィークリーグローバ

る。今後はユーザーの要望を読み取り、そ

「未来」との衝突だ。巨大資本を後ろ盾

ル」25号によると、ネットフリックスの

れに応えたコンテンツを勧める仕組みに変

58 KOREANA 冬号 2017


ルーハンは「メディアはメッセージだ」 という有名な言葉を残した。メディアが 変わると、その外形だけが変わるのでは なく、その内容も変わるという意味だ。 インターネットという新しいメディアが 登場し、結局そこに収まる映画も変化は 必至だ。現在は、同一のコンテンツを映 画館に収めるか、それともインターネッ トに収めるかを巡る対立であるが、将来 的には最初から映画館用の映画とネット 用映画が異なる企画で制作される可能性 が高い。 既存の映画館も体験型テーマパーク のような形態に次第に変化する様子が 見られる。これらは「映画をなぜ必ず 映画館で観なければならないのか」と いう質問に新しい技術力で答えている 格好だ。一方で、ビンジ・ウォッチン グ(一気に見る)が一つの新しいコン テンツ消費方式になる可能性も高い。 忙しい現代人が決まった時間にテレビ ドラマを見ることは難しい。そこで週 末や休暇期間にこれまで見たかった映 オンラインとオフラインの両方にて公開された 奉俊昊監督の映画『オクジャ』は、映画とTVの コンテンツを制作し配布する過程で、既存と未 来の方法が如何に衝突するのかを表している。

像コンテンツを一気に見る人が多い。 いったん、加入すれば見放題のコンテ ンツ流通システムは、ビンジ・ウォッ チングに最適化されたコンテンツ開発 にも影響を与えるだろう。 最近ネットフリックスは、韓国で人

わったのだ。このように科学的なデータに

新しいプラットフォームを作る動きも現

気ドラマ作家の一人である金恩熙(キム

基づいて制作したコンテンツは、ユーザの

れている。ネットフリックスにコンテン

・ウンヒ)の新作『キングダム』を制作

ニーズにより的確に対応できるので、成功

ツを提供していたディズニーや21世紀フォ

している。映画に続いてドラマ市場にも

する確率がグンと跳ね上がる。

ックスのような会社が、最近になってス

本腰を入れている様子だ。これは力量あ

新たな流通システムがもたらす変化

トリーミングサービスを強化しているこ

る作家たちの作品がオンライン流通網を

ともこのような取り組みの一環である。

通じて世界にいくらでも紹介できるとい

実際『オクジャ』の、映画館とスト

ネットフリックスが作り出した新しい映

うことを示唆する。作家をはじめとする

リーミングでの同時公開は、インターネ

像流通システムは、ますますライバルを

コンテンツ制作者にとって大きなチャン

ットが生活の中に溶け込んでいるデジタ

増やし、将来のコンテンツ流通システム

スであると同時に挑戦でもある。

ル時代の今、新たな文化消費のパターン

として徐々に位置づけられている。しか

この頃、韓国のコンテンツ制作者の

を浮き彫りにしている。今は摩擦が起き

し、このような革新的な選択は、いつも

間では、「私たちもネットフリックスの

ても、結局この仕組みが定着するであろ

既存のシステムと衝突する。そして、そ

ようなサービス事業に参入しなければ」

う。私たちの未来が突然デジタルからア

の衝突によって事実上混乱するのは他な

という声が上がっている。そうして初め

ナログへ逆戻りすることはないからだ。

らぬ大衆である。技術革新も大事である

て外国勢に振り回されずに、韓国のコン

いずれにせよ今後、大衆文化の流通シス

が、その変化を受け入れなければならな

テンツを韓国のプラットフォームに載せ

テムの主流になる可能性が高い。

い大衆に対する配慮も必要である。

て世界に流通させることができると信じ

現に最近コンテンツ制作会社の間では

メディア論の大家マーシャル・マク

るからだ。

韓国の文化と芸術 59


遠くの目

韓国と私 保坂祐二 ほさか・ゆうじ、世宗大学校教授

が韓国のソウルに住み始めたのは

日本のネット右翼たちが私を「元々在日韓国人だっ

1988年だった。私は高校時代にラジ

た人間が韓国に帰っただけ」などとネットに書き込

オから流れる韓国放送の流れるよ

んでいるというが、私の家は先祖代々日本人であ

うな美しさに魅了された思い出がある。当時は韓国

る。保坂という名前は本来は穂坂だったそうで、先

放送が東京でも聞けたのである。それだけでなく北

祖は藤原氏である。しかし保坂の先祖は源平の戦い

朝鮮の放送も入ってきた。同じ民族だというのに北

で平氏側について敗北し、一族は東に移動して、一

と南の放送での言葉の印象がずいぶん違うので、当

部は日本の中央にある山梨に住み着き、残りは北国

時はとても不思議な感じがした。

の秋田まで移動したという。そのため今でも山梨と

私は幼いころから、在日韓国人が大変優秀だと

秋田には保坂を名乗る人たちが多い。山梨には保坂

いう思いを持っていた。それは日本で有名なスポー

村まである。そして私の父方の祖父母は、秋田から

ツ選手や芸能人には在日韓国人が非常に多かったか

東京に上京してきた。そして私の先祖に当たる藤原

らであり、私は幼心になぜ日本人以上に彼らはすば

氏は百済系であるとも言われる。そういう意味で、

らしい記録を残すのか、という疑問を持つようにな

私は千数百年ぶりに韓国に帰ってきた百済の遺民な

っていた。そして後に私は、差別を乗り越えようと

のかも知れないという思いを持つようになった。

彼らが必死になって努力したから、彼らはすばらし くなったのだと思うようになった。

私は高麗大学校の大学院で日本の植民地時代の 朝鮮、台湾、満州に関して研究し、博士号を取得し

また私は大学時代に偶然、日本人による朝鮮の

た。さらにその延長線上で私は、独島領有権問題に

明成皇后殺害事件を知るようになった。そのとき私

関しても研究を始め、韓国内では独島研究者として

は、もし日本の皇后が外国人に殺害されたなら、日

知られるようになった。また現在、日本軍慰安婦問

本はその国を決して赦さないだろうと思った。そう

題に関する研究も始めている。これらの研究を通し

立場を変えて考えてみることによって、韓国人が日

て感じることは、日本と韓国が歴史的な問題を克服

本に抱く思いは簡単ではないだろうと直感した。そ

して良きパートナーとなってほしいという切実な思

の思いが一つのきっかけとなって、私はいつか韓国

いである。

に行き、韓国人から直接話を聞きたいと思うように

韓国には、日本が敗戦して韓国を去った際に残

なった。その準備に、私は1980年から日本で始まっ

していった20万冊とも言われる書籍が存在する。私

たNHKのハングル講座を聞き始めた。また日本で販

の博士論文は、主にそういう植民地時代の日本の書

売されていた韓国語の教材をすべて購入して、韓国

籍を研究した結果である。ソウル大学校や国立中央

語を勉強し始めた。

図書館など、日帝時代から在ったところにそういう

機会が訪れてソウルに渡った私は、高麗大学校

日本の書籍が多数保管されている。それらの資料で

の語学堂に通い、韓国語の勉強を本格化した。最近

研究した私は、研究を続けるためには韓国に残るこ

60 KOREANA 冬号 2017


特別講義のサイン会

韓国には、日本が敗戦して 韓国を去った際に残してい った20万冊とも言われる書 籍が存在する。私の博士論 文は、主にそういう植民地 時代の日本の書籍を研究し た結果である。ソウル大学 校や国立中央図書館など、 日帝時代から在ったところ にそういう日本の書籍が多 数保管されている。

地方講演にて

とが最善と考え、韓国国籍の取得を真剣に考え始め た。また2002年日韓ワールドカップの際に日本と韓 国が本当に良く協力し合ったため、これを見た私は 今後日韓の壁はますますなくなっていくだろうと思 い、韓国国籍取得を最終的に決意した。もちろん韓 国という国が本当に好きになっていたからでもあっ た。そうして2003年8月に韓国帰化の許可を得て、 今まで約14年という歳月が流れた。韓国に来てから は約29年になる。 この29年間に、韓国に対する私の思いは大きく 変化してきている。最近良く思うことは、韓国の地 理的な位置である。韓国は大陸勢力と海洋勢力のぶ つかる沿岸地域に属している。日本は海洋勢力であ るため、他の海洋勢力との連帯を考えれば、国家戦 略の立案はそれほど難しくはない。しかし韓国は沿 岸勢力として、常に大陸と海洋の両勢力に挟まれて いるため、国家戦略の樹立がそれほど簡単ではな い。昨年から今年にかけて行われた韓国の政権交代 という劇的な変化を見ながら、私は韓国民主主義の 成熟した姿と同時に、韓国という国の地政学的な位 置からくるさまざまな難しさを目のあたりにしてい る。そして今、私は、韓国という国と北も含めた韓 半島の平和を守るために、私なりの立場で努力して いくことが大変重要な事であると考える。韓国の内 部的な葛藤を根本的に解消し、韓半島の平和のため になすべきことを考えて実践していくことこそ、こ れからの私にとっての要になるだろうと最近強く感 じている。

韓国の文化と芸術 61


料理物語

子守唄「島の赤ちゃん」で おなじみの 牡蠣

西洋では「海のミルク」、韓国では「海の人参」と呼ばれる牡蠣は、世界的に多くの人々に愛されてい る食べ物だ。塩辛にジすれば長い間ご飯のおかずの心配をしなくてもすみ、それ以外にも牡蠣ジョン、 牡蠣入りスープ、牡蠣ご飯など、さまざまな調理法で食されている。栄養豊かで海水の汚染も防いでく れ、いろいろな面で有益な食材だ。 グォン・オギル 権伍吉、江原大学校生命科学科名誉教授

62 KOREANA 冬号 2017


「島

の赤ちゃん」は韓国人なら誰で

circumvolans、クマバチ)のような生物の名前も似

も知っている子守唄だ。赤ちゃ

たような作名方式だ。

んが牡蠣を獲りにいった母さん

韓半島沿岸に生息する牡蠣は3属10種に分類さ

を待ちながら一人眠ってしまう様子が目に浮かび、

れる。これらは海水と淡水が交わるところや、満ち

大人になった後でも長い間、心に残る美しい子守唄

潮と引き潮が出会う潮間帯から海面下20mあたりに

だ。その一方で、海岸沿いに暮らしていた先史時代

生息する。牡蠣の殻は他の貝のようになめらかでは

の人々が、食べて捨てた牡蠣の貝殻が積もって墓の

なく、鋭くごつごつとして鱗のような模様をしてい

ようになった貝塚もあり、子守唄だけでなく歴史の

る。前述のとおり牡蠣は殻が二つの二枚貝だ。また

中にも牡蠣は存在する。私自身もまた然り、貝や巻

足が斧に似ているところから斧足類(Pelecypoda)

貝、カタツムリなどを扱う軟体動物学を専攻してい

と呼ばれたりもする。満ち潮の時には海水に浸か

るので、牡蠣とは切っても切れない縁があると言え

り、引き潮の時には空気にさらされる海岸線の潮間

るだろう。

帯でとれる牡蠣は、引き潮の時には右殻がぎゅっと

海辺で研究材料の採集をしていると、牡蠣とりを

閉じて、満ち潮の時にはすーっと開く。

している女性たちをよく見かける。自然と親しくな

牡蠣はエラで呼吸と接食をする。エラでガス交

りいろいろな話を交わすようになるが、そんな世間

換、すなわち息をするのはもちろんプランクトンや

話をしながらでも彼女たちは一時もその手を休めよ

有機物をろ過して食べる浄化接食(filter feeding)

うとはしない。

をしている。一個の牡蠣が1時間に5リットルもの

日に焼けた褐色の手で休みなく岩についた牡蠣

海水を浄化しており、窒素成分を含めた有機物質、

をとっている島の女たちをじっと見ていると、その

燐酸、プランクトン、細菌をろ過して海水が汚染さ

すばやい手さばきにこちらの目が回ってしまいそう

れる富栄養化を防ぐ。だから牡蠣は存在自体が環境

だ。普通の人には絶対にできないことだ。先が丸く

に優しい生物なのだ。

カーブした鉄の鉤を手にして、牡蠣の閉じた口から 刺して取り出し器に入れる。そんな動作に無駄な動

成人病の予防に一番良い食品

きがなく、一瀉千里にてきぱきとこなす様子はまさ

していろいろな料理に使われる牡蠣は、香りが一品

に達人の域だ。

だが栄養素も豊富に含んでいる。昔から西洋では牡

刃先を入れて貝柱を切り、上の殻を開けて白い身を

伝統的な韓国料理でオリクルチョッをはじめと

2枚貝の片方は岩にしっかり付着しているが、

蠣を「海のミルク」と呼び精力材だといわれてきた

それを左殻といい、上部のほうを右殻といって、こ

が、韓国式に言えば「海の人参」というわけだ。形

ちらのほうにややふくらみがある。牡蠣はまた他の

もそうだが実際に牡蠣には男性ホルモンのテストス

言葉でクルチョゲ、ソックル、ソッファ(石花)な

テロンの合成に必要な亜鉛が一杯含まれている。そ

どと呼ばれる。これらの名前の中で意外に思えるの

して無機塩類のセレン、鉄分、カルシウム以外にも

が石花だ。海岸の岩に石の花が咲くという意味なの

ビタミンAとB12、Dがたっぷり入っている。

か。しかし遠くから見ると、片方の殻を剥がされた

さらに牡蠣は高血圧、脳卒中、動脈硬化、肝臓

白っぽい左殻が黒っぽい一枚岩にびっしりと付着し

病、癌のようないろいろな成人病を予防するのに一

ている様はまるで岩に咲いた花のように見える。

番良い食品だ。牡蠣は生食することもあるが、牡蠣

呼吸と接食で環境を保護する牡蠣

ソース、和え物、牡蠣ご飯、韓国式お好み焼き、ス

海辺の岩や石にくっついている天然の牡蠣は

る。またキムチにも牡蠣を入れる。「牡蠣を飲むよ

「オリクル」といい、それを漬けた塩辛がオリクル

うにする」という韓国のことわざがあるが、これは

チョッだ。ご飯泥棒と言われるほど美味しいオリク

何かをする時ためらわずにすんなりすることを意味

ルチョッは、その名前を聞いただけで韓国人は唾が

する。牡蠣は身がプルプルしていて歯の弱いお年寄

出てくるほどだ。ここで「オリ」という言葉は「オ

りも簡単に食することができる。

ープ、蒸し物などいろいろな調理方法で食されてい

リダ(幼い)」「チャクダ(小さい)」という意

このようにさまざまな調理方法で誰でも簡単に

味だ。オリヨンコッ (Nymphoides indica、ガガブ

食べることのできる牡蠣ではあるが、年中生で食べ

タ), オリヨチ(Prosopogryllacris japonica、コ

ることはできない。西洋ではカレンダーにJanuary,

ロギス), オリホバクポル(Xylocopa appendiculata

February, Septemberのように名前に「R」の字が

韓国の文化と芸術 63


1個の牡蠣が1時間に5リットルの海

入っている月には、生牡蠣を食べても安全だと言 われてきた。反対に「R」の入っていない5~8月

水を浄化し、窒素成分を含んだ有機物

は、毒性のある産卵期であるうえに海水に何種類も

質、燐酸、プランクトン、細菌などを

のビブリオ菌、サルモネラ菌、大腸菌などが繁殖し ているので、火を通さないで食べると食あたりを起

ろ過して海水が汚染される富栄養化を

こす。

防ぐ。だから牡蠣はその存在自体が環

人口が増えるにつれ天然ものの牡蠣が需要に追い つかなくなり、そのため最近では養殖の牡蠣をたく

境に優しい生物なのだ。

さん食べるようになった。牡蠣の稚貝(spat)は1年 で長さが7cm、重さが60gくらいに育ち、2年後には 10cm、140g以上になり、その後はぐっと成長が遅く なる。牡蠣は普通5~8月頃に受精、産卵して幼生 の時期を海に浮遊して過ごした後で、小さな稚貝と なり岩や石、他の牡蠣の殻に付着し成長する。

真珠はたかだか炭酸カルシウムに過ぎない

牡蠣の養殖はほとんどが、太い綱に死んだ牡蠣

の殻をたくさんつけて水面下に垂らして育てる垂 下式だ。統営を中心とする南海岸は冬温かく、潮 汐の干潮差が少なく、島が多いため波が静かで垂 下式の牡蠣の養殖にぴったりだ。干潟の広い西海 岸では平たい岩の間に投げ捨てる投石式と網の袋 に稚貝を入れ、平たいところに乗せておく水平網 式で育てている。 投石式と水平網式で育てた牡蠣は、天然ものの 牡蠣のように夏には真夏の太陽に照りつけられ、冬 には身を切るような寒風を受ける。このような過酷

1

1, 2. 香りが良く栄養豊かな牡蠣。生 牡蠣は醤油や酢コチュジャン(唐辛 子味噌)につけて食べ、その他にも 牡蠣飯、牡蠣スープ、牡蠣チョンな どさまざまな方法で調理される。牡 蠣飯は牡蠣以外にもいろいろな食材 を入れて炊き、出来上がったご飯の 上に薬味醤油をかけて混ぜ合わせて 食べる。

2

64 KOREANA 冬号 2017

3. 干潟の広い西海岸で育った牡蠣 は、日差しと風に繰り返しさらされ るので、常に水の中に浸かって育つ 南海岸の牡蠣にくらべて味も食感も 良い。


3

な環境におかれた生物は万一の場合に備えて、身全

や牡蠣に吸い込まれて貝殻と外套膜の間にはさまれ

体にさまざまな特殊な栄養素をいっぱい貯め込む。

ることがたまにある。そういうときには外套膜から

それで常に水の中に浸っている南海岸の垂下式より

それらを無毒化しようと真珠の成分が分泌され、そ

は、西海岸の潮間帯の干潟でとれる投石式と水平網

れが幾重にも重なっていく。何年にもわたって真珠

式の牡蠣がより美味しい。植物も野生種は環境の悪

層の構成物質がその異物に重なると天然産の真珠に

条件に耐えようと特別な植物化学物質を十分につく

なる。

りだすので、大事に手をかけて育てた栽培種よりも

これに倣って厚い淡水貝の殻を小さく切った後、

健康に良いというのと同じことだ。人も同様で若い

砕いて作った丸い小さな粒を、海の真珠貝や淡水貝

頃に苦労して成功した人はだいたい人間味にあふれ

の殻と外套膜の間に挿入して真珠を作る。これが人

て、情の厚さが感じられるものだ。それで「若いと

工真珠だ。しかし真珠がいくら貴いといえども、顕

きの苦労は買ってでもしろ」といわれるのだ。

微鏡でのぞいて見ればただの炭酸カルシウムの塊に

牡蠣と真珠貝は非常に近い関係で牡蠣からでも真 珠が生まれる。何かの拍子に寄生虫や異物が真珠貝

過ぎない。ダイアモンドが固い炭素の塊に過ぎない のと同じようにだ。

韓国の文化と芸術 65


ライフスタイル

列車の旅で味わう アナログの魅力

66 KOREANA 冬号 2017


世代の思い出の中の列車は、おおむ ね三つのシーンに登場する。一人一

決められたレールにそって予定通りに走る列車は、旅 の手段として不便なときがある。途中で気に入ったと ころに出くわしても、立ち止まったり目的地を変えた りして、新しい道に向かうという逸脱を試みることも できない。それでも最近、列車での旅行客が爆発的に 増加している。この不自由で古典的な交通手段を再び 見直すことになったのには理由がある。 パク・サンハ 朴山河、トラベル専門フリーライター アン・ホンボム 安洪範、写真家

人の切ない事情に溢れていた軍隊に

入隊するための入営列車、ガヤガヤうるさい話し声 と煙草の煙でいっぱいの、大学時代のMT(新入生 のオリエンテーションと歓迎会を兼ねた合宿)の鈍 行列車、そして故郷へ向かう人々でごったがえして いた帰省列車。 そんな列車が今や全く違った姿を見せている。 まず速度競争で自動車を追い越し、高速道路を走る 乗用車よりも速い高速列車が登場した。空港から市 内までの移動時間などを考慮すれば飛行機よりも速 く、そして便利なのが列車だ。しかし列車の変貌は 速度の魅力にだけ依存しているのではない。今では 旅行に特化したさまざまな列車が全国津々浦々を疾 走しているのだ。韓国の山脈地帯を走る「白頭大幹 峡谷列車」、南道の海岸地帯を走る「南道海洋観光 列車」、民謡アリランの故郷として有名な「旌善ア リラン列車」、西海岸を走る「黄海金色列車」な ど、その名前から目的地と旅行の特色がいっぺんに 分かる10余りのテーマ観光列車が、今この時間にも 多くの旅行客を乗せて韓半島の隅々を走っている。 テーマ観光列車だけではなく、2007年夏から 販売をはじめたパス型の鉄道旅行商品「ネイルロ (明日に)」は、発売初年度に8000枚が売れ、3 年後には5万8000枚を販売するほどの人気商品と なっている。

列車の旅の長所

観光列車として開発された旅は短いもので1時

間、長いものは2泊3日の日程となっている。その 時間を通して人々は何かを感じ何かを得るために、 楽な自動車ではなくプラットホームに向かう。人々 は観光列車にスローな魅力を発見する。時速100kmの 自動車や300kmの高速鉄道からは絶対に見ることので きなかった風景が、車窓の外にあることに気付いた 瞬間、昔の記憶をたどり、日常では経験できなかっ た思惟の世界に入っていくことになる。すなわち列 車の旅は、何よりも情緒と感性を持続的に刺激する 観光列車「ヘラン (Haerang)」が海沿 いを走っている。 「レールの上のク ルーズ」と呼ばれ る「ヘラン」は最 上級のもてなしを 提供する。

点で他の旅とは区別される。さらに運転のストレス からも開放されるので、誰かに犠牲を強いることな く、申し訳なく思う必要もなく旅ができるというの も長所だ。 サービス提供者のさまざまな配慮も一役買ってい る。テーマ観光列車の場合、チケット一枚で多彩な

韓国の文化と芸術 67


旅行地をもれなく楽しむことができる。2013年に開

マスの雰囲気をたっぷり味わうことができる。2013

通した中部内陸循環列車と白頭大幹峡谷列車は、99

年の韓国・スイス修交50周年を記念して、汾川駅と

日で利用客が10万人を突破するほどだった。普段行

ツェルマット駅を両国の鉄道旅行の代表列車駅に定

くことの難しい山奥の村に列車で行くことが出来る

めて姉妹駅となったからだ。

ようになった点。それぞれの駅にストーリーがある という点も人気の秘訣だ。

Vトレインの「V」は 「V a l l e y」の略字で、 名前のように切り立った崖の間を走る。汾川から養

一方 、2014年に運行を始めた平和列車は、年間

源-承富-鉄岩まで往復するこの赤い列車は、温か

600万人ほどが訪れるDMZ(非武装地帯)をより特

くて優しい感じがする。この列車を通して今や姿を

別に見ることのできる手段として知られ人気を呼ん

消した鈍行ビドゥルギ号の姿を思い出すこともでき

でいる。2008年に運行を始めた「ヘラン」は、パリ

る。窓ガラスが薄く列車が動くたびに振動でガタガ

とイスタンブールを行き交うオリエント急行にも負

タいう騒音がむしろ心地よい。エアコンの代わりに

けず劣らず、贅沢な施設と質の高いサービスを提供

ゆっくりと回っている古びた扇風機もまた、過去に

し、韓国を代表する特別列車となっている。

タイムスリップするのに一役買っている。

感嘆の声さえ忘れさせる秘境

美しい」と詠んだ詩人ナ・テジュ(羅泰柱)の声が

2013年に運行を始めた中部内陸循環列車Oトレイ

聞こえてくるようだ。そのせいだろうか。風景も一

ン(O-train)と白頭大幹峡谷列車Vトレイン(V-train)

つ残らずじっくり見て欲しいというように列車の速

は、筆者が一番お勧めする列車だ。Oトレインはリ

度は遅い。嶺東線の両元駅で10分ほど停車するのだ

スのように可愛いい形をしており、 Oトレインの

が、ここでジョンに添えられる一杯のマッコリは、

「0」は「One」の略字で、江原道・忠清北道・慶尚

どんな山海の珍味よりも旨い。

この列車に乗っていると、「じっくり見てこそ

北道の内陸地帯を一つに結ぶという意味だ。ソウル

私がこの列車に特に愛着を抱く最大の理由は、

を出発し忠州を通り堤川-栄州-承富-鉄岩まで行

全国のどこにもない素晴らしい風景が見られるか

く。列車は1号車から4号車までの4両編成で、そ

らだ。そして全国の駅のなかで一番美しいと言える

れぞれ春夏秋冬の季節をコンセプトにしている。3

承富駅に停車するからだ。この駅は列車が深い奥地

号車には家族席とカップル席があり、向かいあって

に、森の中にいることを体感させる。この秘境を発

座ったり、集まって仲良く座って行ける。また車内

見した瞬間、感嘆の言葉さえ忘れてしまうだろう。

では、乗務員が列車に関するクイズやナンセンスク

多彩なサービスと特化された施設

イズを出して、時にはプレゼントももらえる。 0トレインは江原道と慶尚北道の境界線にある簡

2015年観光列車に異色の座席が誕生したという

易駅の汾川駅からVトレインに乗り換えることもで

ニュースが聞こえてきた。西海岸の金光列車(W e s t

きる。汾川駅に降り立つと、冬でもないのにクリス

Gold Train)には独特な座席、すなわちオンドル床室 がある。オンドルに座って、あるいは横になって旅 することができるように配慮されたものだ。このよ

2014年に運行を始めた平和列車は年間600万 人ほどが訪れるDMZ(非武装地帯)を、よ り特別に見ることのできる手段として知られ 人気を呼んでいる。2008年に運行を始めた 「ヘラン」は、パリとイスタンブールを行き 交うオリエント急行に負けないほどに、贅沢 な施設と質の高いサービスを提供する韓国を 代表する特別列車となっている。 68 KOREANA 冬号 2017

うな座席がある列車は世界中どこにもないだろう。 田舎の暖かい広間のような部屋に横たわり、天然 のヒノキ枕に頭を乗せていると、土俗的な情緒に浸 ることができる。さらに歩き疲れてぐったりした体 の疲れをとるための足湯室も準備されている。硫黄 の匂いのする道高温泉の温泉水に足をつければ、ど んな疲れもすっと消えていくだろう。干潟と夕陽を 楽しむのにも絶好の列車だ。 世界で最も特別な場所、DMZ(武装地帯)に行 くことのできる平和列車(DMZ-train)は、特に外国人 旅行者に人気がある。京義線の都羅山安保観光を楽 しむことができ、臨津江駅で降りて都羅展望台と第 3トンネル、都羅山平和公園などを見て回る。また


徒歩やモノレール観光とも連携している。京元線は ソウル駅を出発し、白馬高地駅に到着した後、昔の 労働党舎と鉄柵線の道など鉄原安保ツアーを体験で きる。 一方で、恋人たちが愛用する列車もある。2007 年7月に都市通勤列車の統一号を3両編成のミニ列 車に改造して開通したのが、海列車(Sea Train)だ。

1

海列車は地中海にも負けないほどの美しい東海の海 の色にどっぷり浸れる列車だ。正東津を出発し、墨 湖-東海-湫岩-三陟海辺-三陟駅などを往復する が、湫岩駅で降りてロウソク台岩を見物するのもお 勧めだ。 海列車はそれぞれの車両にコンセプトがある。 1、2号車は二列の椅子が海に向かって階段式にな っており、劇場に座って海を鑑賞している気分にな る。海を主題にした一篇の映画を観ている感じだ。 3号車は座席が向き合っていて、一行でよもやま話 に花を咲かせることができる。海列車には特にプロ ポーズルームも備えられていて、海を眺めてプロポ ーズをすれば成功率100%を保証するという。しか し何よりも海列車の面白さは、DJが乗客のリクエ ストを読み上げ、リクエスト曲が流れる車内放送に ある。

「レールの上のクルーズ」と呼ばれる列車

数多くのテーマ観光列車の中で多くの人々がいつ

か必ず一度は乗ってみたいという列車がある。レー ルの上のクルーズと呼ばれるヘラン(Haerang)だ。ヘ ランは「へ(太陽)と共に」という意味で乗客はわ ずか54人。6人の乗務員が最高のサービスを提供して くれる。 列車内のスイートルームはゆったりとしたベッド

1. 観光列車「ヘラ ン(Haerang)」が 海の上を走ってい る。「レールの上 のクルーズ」と呼 ばれる「ヘラン」 は最上級のもてな しを提供する。 2. 旌善アリラン列 車は江原道の山岳 地帯を横切る観光 列車で、美しい自 然の中の風景を満 喫できる。 3. 中部内陸循環 列車「O トレイン (O-train)」はソ ウルを出発して忠 清北道-江原道-慶 尚北道の主な名所 を巡ることができ る。車内はカップ ルや家族が心行く まで楽しめる構造 になっている。

2

3 © Korail Tourism Development

はもちろん、応接室も別についている。食堂車では いつでもビールやワインなどの酒類と茶果を楽しむ ことができる。停車する駅の地域特産物で調理した 最上級の料理も味わえる。乗務員たちのマジックシ ョー、伽耶琴、アカペラ公演など多様なプログラム が繰り広げられ、走る列車の中から眺める日没と日 の出は特別な経験となるだろう。ただし、ヘランの

国どこでも旅行できるので、夏休みや冬休みを迎

2泊3日コースのお値段は244万ウォンからなので、

えた大学生に比較的安い値段で冒険まじりの旅行

高価すぎるという声もでるだろう。

を提供している。またネイルロパスは駅近くの宿

年をとったら乗れなくなる列車もある。満29歳

泊施設や飲食店などの割引券など多種多様なクー

以下の内国人が利用できるネイルロ(R a i l路)がそ

ポンも一緒についてくる。29歳を越えたとガッカ

れだ。7万ウォンのこのパスを購入すれば7日間

リすることはない。一般列車の立ち席と自由席を

K T Xを除いたすべての列車の立ち席と自由席を

3日間6万5000ウォンで、自由に利用できる、ハ

好きなだけ利用できる。自由に列車を乗り換え全

ナロパスがあるからだ。

韓国の文化と芸術 69


韓国文学の旅

作家評

匿名の空間 コンビニの寛容と冷淡 コンビニはいろいろな作家の作品で空間的背景となってきた。キム・エラン(金愛爛) の短編小説『私はコンビニに行く』もまた題目に直接表れているように、コンビニと そこを利用する人々の関係についての考察がこめられている。今日の時代像を象徴す るコンビニを媒介として、個人のアイデンティティが不在の冷淡な匿名性について物 語っている。 チェ・ジェボン 崔在鳳、ハンギョレ新聞記者

ム・エランは2003年、大学生を対象として新

この小説は主人公の暮らしに占めるコンビニの割合を端的

設された第1回テサン大学文学賞を受賞して

に要約する文章で始まる。つまり、コンビニが暮らしの一部と

文壇にデビューした。1980年生まれで受賞当時

して不可欠な場所だという事実を物語っている。そしてこの文

23歳だった彼女は、1980年代生まれの作家群の登場を告げる先

章は小説の最後で若干変わって繰り返される。「そして」から

頭走者だった。2017年現在、韓国文壇ではっきりした流れを形

「そしておかしなことに」に変わるのだが、このような変形は

成している「ヤングフェミニスト」系列の作家のほとんどが、

コンビニに対する主人公の認識の変化によるものだ。その変化

1980年代の中頃に生まれており、キム・エランとわずか5、6

の過程を説明することがこの小説の中味だと言える。

歳しか離れていないが、彼らとの間にはなぜか世代の差のよう

「起源の分からない伝説のように」ある日ふいに現代人の

なものが感じられる。キム・エランはデビューが早かったこと

日常となったコンビニ。主人公の目にコンビニが印象的なのは

もあるが、それだけ早熟な作家だった。

そこを経営したり、利用する人々が「互いを見分けることはで

『私はコンビニに行く』は作家がデビューした年に発表さ

きない」という事実にある。現代の都市生活の大きな特徴でも

れ、2005年に出版された彼女の最初の短編集『走れ、父さん』

ある匿名性が保証されているのだが、それは主人公に肯定的に

に収録されている。昨年の日本の芥川賞受賞作である村田沙耶

迫ってくる。コンビニの店員はたいていそこにやってくる人々

香の長編『コンビニ人間』が、24時間営業のコンビニで18年間

の私生活についてたずねたりしない、そんな態度は実に寛大に

アルバイトをしている独身女性を主人公にしているのとは対照

感じられる。匿名というのは場合によって肯定的でもあり、否

的に、キム・エランの小説はコンビニを利用する女子大生の目

定的でもあるが、主人公は一旦は肯定的に考える。しかしそれ

を通してその空間を観察している。前者はコンビニの中から、

が必ずしもそうではないという事が、小説が進行するにつれて

後者は外から眺める視点を選択したというわけだ。

明らかになっていく。 主人公の暮らす大学街の住宅団地の近くにはコンビニが3

「私はコンビニに行く。多いときには一日に何度も、少な

店舗ある。最初のコンビニの社長は客に必要以上に親切だ。

くとも週に一度はコンビニに行く。そしてその間に、私には必

「必要以上に」親切だということは、彼が客に気安く接するあ

ず何かが必要になる」

まり私生活に関する事細かな質問をして、自分は客についてよ

70 KOREANA 冬号 2017


く知っているという態度をとることを意味する。そのような親 切心が負担で煩わしい主人公はそのコンビニに足を向けなくな る。匿名性という期待を裏切ったコンビニに対する主人公の復 讐だと言える。主人公が真夜中に夜食を買っていた屋台もまた 似たような理由で不買の対象となる。 二番目のコンビニが主人公から嫌われるようになったの は、コンドームをめぐるささいな騒動のためだが、そこの主人 の立場からすれば、多少言いがかりだと思うかもしれない。ど ちらにしてもそうやって最後に残ったコンビニ、キューマート が主人公のお気に入りとなる。主人公がコンビニに期待すると おりにそこのアルバイトの青年は、計算に必要なこと以外の不 必要な言葉は一切口にしない。そうかといって不親切なわけで もない。青年は機械的な程度に挨拶をきちんきちんとしてく る。主人公が知る限り「キューマートの世界は『いらっしゃい

© Paik Da-huim

ませ』と、『ありがとうございました』の世界」だった。 しかし主人公はこのような考えが錯覚であったことを遠か らず知ることになる。コンビニを利用する自分の私生活と個人 情報がどうしようもなく知られてしまうからだ。主人公が買 う品物を根拠としてコンビニの店員は、彼女の食生活と住居環 境、家族関係と故郷はもちろん、生理の周期までも確認したり 推測できる。これは些細なことと言えば些細な発見だが、小説 の流れが大きく変わる転機となる面白い場面だ。 コンビニで完璧な匿名というのは不可能だということ。意 図しようがしまいが、ある程度私生活と個人情報の露出は避け られない、という事実が確認できれば匿名性をめぐるコンビニ

が、逆に匿名性の罠に落ちてしまったのだ。一人でクール

の店員と客である主人公の関係に逆転だと言えるようなことが

で、賢いふりをしてきた主人公が自分の仕掛けた罠にかかっ

おきる。

てしまうのだ。主人公には申し訳ないが実に痛快に迫ってく

主人公は「彼は私の専攻についてたずねたりはしない。私

る場面だ。そして小説は最終に向かっていくが、予想外にこ

は私の専攻を彼に言いたい」と感じたり、「電子レンジでレト

の小説の最後に最も大きな事件、つまり事件らしい事件が配

ルトご飯が回っている1分30秒の間、あるいはソウル牛乳が回

置されている。

っている20秒の間、何も言わない彼が私は気になりだした」と

これまで述べてきたように小説の最後は、導入部の文章を

告白したり、挙句の果てには「私はあなたについて知っている

少しだけ変更した文章で処理されている。その文章に至るため

事は何もない」と判断する。女子大生である主人公がアルバイ

にこの小説の主題意識をこめたいくつかのエピソードとそれに

トの青年に異性としての好感を抱いたのだろうか。いや、それ

かかわる主人公の考えが展開する。コンビニが保証する匿名性

よりは情報の不均衡を解消し、一方的な関係を正そうという意

の賞賛でスタートした小説が、反対に匿名性の不作用と弊害、

志の表れだと考えるべきだろう。

その残忍さを指摘することで帰結する。「そして」と「そして

このように事態が大きく一度方向を変えたのに続いて小

おかしなことに」という簡単に見える文章の連結表記の間には

説の絶頂に該当する事件が起きる。皆が都心にでかけて住宅

匿名性をめぐるこのような深い認識の変化が含まれている。主

地は閑散としていたクリスマスイブの夜、知り合いの誰かに

人公は再びクールに語る。

急に何かを頼まなければならない事情が主人公に生じたの

「あなたがもしコンビニに行くのなら周囲をよく見回して

だ。悩んだ末に彼女が考えついたのは、そのコンビニのアル

みなさい。あなたの隣の女がコンビニで水を買うとき、それは

バイトの青年だった。彼はこの住宅街で主人公を知る何人に

薬を飲むためのものであり、あなたの後ろの男がコンビニで髯

も満たない人の一人だった。しかしコンビニの青年が自分を

そり用の刃を買うとき、それは手首を切るためのものであり、

知っているという主人公の考えはいかに大きな錯覚だったこ

あなたの前の少年がトイレットペーパーを買うとき、それは老

とか。コンビニの匿名性を賞賛し、そのような匿名性の「約

いた老母の尻をふくための物かもしれないということを。あな

束」をたがえたコンビニの店長らに「復讐」してきた主人公

たはときどき思い出しても良いし、そうでなくても良い」

韓国の文化と芸術 71


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The Translation Delusion by Tim Parks

Interview with Nobel laureate Le ClĂŠzio

Book Reviews & Excerpts


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‫‪KOREAN CULTURE & ARTS‬‬

‫الثقافة والفنون الكورية‬

‫‪Koreana Magazine (1987 ~ 2017) www.koreana.or.kr‬‬ ‫موضوع‬ ‫العدد‬

‫محافظة كانغوون ‪ ...‬أرض اجلبال واألساطير والذكريات‬

‫املجلد ‪ - 13‬العدد ‪ - 4‬شتاء ‪2017‬‬

‫‪· Special Feature‬‬ ‫‪· Cultural Focus‬‬ ‫‪· Heritage‬‬ ‫‪· Art Review‬‬ ‫‪· People‬‬ ‫‪· Travel‬‬ ‫‪· Entertainment‬‬ ‫‪· Lifestyle‬‬ ‫‪· Literature‬‬

‫روعة شروق الشمس فوق بحر‬ ‫الشرق‪ ،‬قصة محافظة كانغوون‬ ‫في جبالها وأنهارها وبحرها‬

‫‪· Food‬‬

‫محافظة كانغوون ‪...‬‬ ‫أرض الجبال واألساطير والذكريات‬

‫املجلد ‪13‬‬ ‫العدد ‪4‬‬


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