春 号 2 015
韓国の文化と芸術
特集
韓国近代絵画の先駆者たち
韓国近代絵画の 先駆者たち
vol. 22 no. 1
ISSN 1225-4592
韓国のイメージ
燃燈 高く舞い上がり 心に咲く花 キム・ファヨン
金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員
韓
半島の春の便りが一番先に届くのは南の海に点々と散ら
ばった島々だ。
2月の終わり、青い海を背景に暗い緑色に光る木の
美が人間を照らす内面の光となって完成する。 闇と煩悩で満ちた心が釈
の智慧で明るくなり、温かな愛情
が光のように広がっていく、全世界が釈
の慈悲と智慧で満たさ
葉の間に、深紅の椿の花が黄色い花粉を吹き出しながら咲き始め
れるようにという意味で作られた蓮花模様の堤燈が『燃燈』 だ。
た心もときめき始める。つづいて、朝鮮時代のソンビたちに愛さ
緑色、紅色に色づけた韓紙を折り重ね、先を丸めて作った蓮花
る。それに呼応するように、冬の間、ぎゅっと閉じ込められてい れた樹齢数百年の梅の古木が芽をふく。
3月の終わりから4月の初めには、子らと庶民の友の黄色いレ
ンギョウとサンシュユ、ピンク色のツツジが出番を待つ。しかし、 はやる気持ちとは裏腹にまだまだ春は遠い。待ち望む春は道端の
両脇にたたずむ木々の梢に、光が炸裂したかのように芽吹き咲き
乱れる桜とともに始まる。
しかし春の絶頂はクロフネツツジの咲く5月の初め、お釈
さ
まの誕生日の堤燈行列にある。自然が育んだすべての春の花々の
幼い頃、祖母は釈
生誕日には突然仏教信者となった。 黄色、
型の燃燈を竹棒に付けた。そして燃燈を手に 20 里も離れた遠い
道のりを歩いて山奥の古寺に参った。
その後、 私にとって祖 母について行ったあの遠い道のりは、
花々が咲き乱れる祭りの道、最も燦爛たる春の道となった。祖母
が捧げたあの燃燈の中に込められた祝福と愛情が私の心を青空
の高い高いところへと押し上げてくれたからだ。
炎の消えた燃燈が一握りの灰となれば、いつの間にか季節は
夏、春はまるで白昼夢のように消え去ってしまう。
韓国の文化と芸術 1
特集
韓国近代絵画の先駆者たち 特集 1
04
激動の歳月の中、芸術魂を開花させた韓国の画家たち
キム・ヨンナ
特集 2
08
08
キム・ファンギ、超越の風景と崇高の美学
12
イ・ウンノの精神世界
パク・ミジョン
特集 3
文字、記号、人間を水墨で表現
モク・スヒョン
特集 4
18
パク・セングァン、韓国の彩色画の星になった画家
パク・ヨンテク
特集 5
26
44
22
パク・スグン、時代の憂鬱を叙情に昇華させた 「国民画家」
チェ・ヨル
文化遺産の継承者
26
韓国伝統の
衣 · 食 · 住を守る
遠くの目
52
わずかな経験 齊藤歩
チョン・ジェスク
グルメを楽しむ 近代のランドマーク
32
生まれ変わった公演芸術の
54
もっとも特別な食べ物
メッカ、明洞芸術劇場
ノ・ヒョンソク
フォーカス
36
「ヨウカー」の急増
パク・チャンイル
58
その光と影
40
あなたのためのキムチの食べ方 ベン・ジャクソン
ライフスタイル
セルフィースティック 症候群
キム・ボラム
韓国大好き
キムパプ
もっとも大衆的で
ク・ボングォン
62
韓国文学の旅
ラルゴ
闇から光に 向かう道
オン・ザ・ロード
44
島の人々の素朴な人生の歌 巨文島
クァク・ジェグ
32
チャン・ドゥヨン
『光のドーム』 趙海珍
特集 1 韓国近代絵画の先駆者たち
激動の歳月の中
キム・ヨンナ
金英那、国立中央博物館長
芸術魂を開花させた韓国の画家たち
西洋画が初めてアジアに紹介されたのは、19 世紀末から 20 紀初にかけてだ。日本の統治下にあったため、主 に日本から入ってきた新文化の一つだった。世界の絵画の流れは急変し、様々な思潮や表現技法が流行する 中、韓国もその例外ではなかった。近代から現代におよぶ絵画史の幾筋もの流れの中で、近代性と共に韓国 の情緒をそれぞれ固有の方法で表現しようとした巨匠たちの努力が、韓国の絵画をリードしてきた力だった。
当
時の新聞「大韓毎日申報」 は 1916 年、キム・グ
ァンホ(金観鎬)の『日暮れどき』が日本の公式
美術展「文部省美術展覧会」で入選したことを
大きく報じた。しかし、絵の中の二人の女性が裸婦だ
ったため、作品の写真は載せられなかった。東アジア の絵画は、伝統的にインクや筆で描く風景画や肖像画
などが中心だったので、女性のヌードは全く新しいジャ
ンルだった。また、平凡な個人の肖像画や生活像など が絵のテーマになり始めたのも、新文化の西洋画がア
ジアに紹介された 19 世紀末から20 世紀初だった。特
に裸婦を描いたヌード画の登場は、儒教社会の韓国で はショッキングな出来事だった。朝鮮総督府が文化政
策の一環として1921 年に始めた朝鮮美術展覧会でも、
ヌード画は「理解のない一般人の不道徳な興奮を触発
する恐れがある」 との理由で、新聞には写真が載せられ
なかった。しかし、西洋画や彫刻を手がけた美術家の 間で、ヌードデッサンは基本的な美術教育の一つと認
識され、1930 年代には抽象画が試みられるほど韓国
の近代美術の幅が広がっていった。
日本留学画家がリードした韓国近代絵画の 黎明期 韓国では1910 年から1945 年までの日本の統治下で、 正式な美術学校がつくられることはなかった。したがっ
キム・グァンホ『日暮れどき』1916 年、キャンバス・油彩、 127.5 127.5c m 、東京 芸術大学所蔵。キム・グァンホ( 1890 ∼?)は、この作品で日本の文部省美術展覧会 に入選し、韓国の新聞で大きく報じられた。だがヌード画は当時、韓国の社会的な 倫理観に反するという理由で、作品の写真は載せられなかった。
4 Koreana 春号 2015
て、絵を学ぼうとすれば、ほとんどは日本に留学するし
かなかった。ペ・ウンソン (裵雲成、1901 ∼ 1978 ) 、イ
・ジョンウ (李鍾禹、1899 ∼ 1981 )、チャン・バル (張勃、
1901 ∼ 2001 )などヨーロッパやアメリカに留学した美 術家もごく少数いたが、どこか海外に行くにも、まずは 日本のパスポートが必要だったため、ほとんどは日本へ の留学を選んだ。
黎明期の日本への留学は、主に東京美術学校 ( 東
京芸術大学の前身 ) だった。その後、1930 年代から
は私立の日本大学、帝国美術学校(武蔵野美術大学
と多摩美術大学の前身 )、文化学院などにも留学し、 日本でグループ活動や展示会に参加する画家も出てき た。そうした人たちは、韓国に戻ってから学校で教え たり展示会を開くことで、次世代を育てた。当時、東
京で絵を学んだ画家は、ほとんどがある程度、経済力
のある家柄だったため、絵を売らずに学校で教えるだ
けでも暮らしていけた。彼らは、新しい芸術に取り組
んでいることを誇りにしていた。過去の職業的な画員
(朝鮮時代の図画署の官吏)は、社会的な地位が低か
った。だが、海外で正式に西洋の美術教育を受けた
者が現れると、状況は多少なりとも変わった。そうし
た人たちにとって、芸術家とは特別な才能を持った者
であり、「孤独な天才」だった。おそらくロマン主義以
降、続いてきた西洋のエリート意識が影響したのだろ
1 2
う。そのため韓国の近代美術の黎明期も、日本への 留学組がリードしていたといえる。
西洋画への多くの悩みと実験の時代 1945 年の日本の統治からの解放は、右翼と左翼
の対立へと続き、南北分断の混沌と朝鮮戦争の時代
には、韓国の画家はほとんど活動できなかった。その 後、1955 年頃に戦争の衝撃から少しずつ立ち直り始
めた。その頃の美術界は、日本だけでなく美術全般の 国際的な動向に関心を傾けるようになった。日本の統
治 下 で も 活 躍 し た パ ク・ ス グ ン( 朴 寿 根、
1. チャン・バル『キム・デゴン神父像』1920 年、60.5 50cm、キャンバス・油 彩、カトリック大学校典禮博物館所蔵。チャン・バル( 1901 ∼ 2001 )は敬 なカトリック信者で、聖画の制作や聖堂の建設、終戦直後の美術教育に 大きな功績を残した。キム・デゴン (金大建) は、韓国で最初のカトリック神 父で 1846 年に殉教した。 『 友人の肖像』1935 年、62 50cm、キャンバス・油彩、 2. ク・ボヌン(具本雄) 国立現代美術館所蔵。ク・ボヌン( 1906 ∼ 1953 )は、フォーヴィスム(野 獣派)の影響を受けた洋画家であり彫刻家、美術評論家でもある。この絵 のモデルは、親友の夭折した詩人イ・サン。イ・サンの未亡人キム・ヒャンア ンは後にキム・ファンギと再婚し、二人の天才的な芸術家のパートナーとし て20 世紀の韓国文化芸術界に美しい物語を残した。
1914 ∼ 1965 )らは、戦後の厳しい状況の中、米軍部 隊で肖像画を描き、さらに米軍に作品を売って生計を 立てていた。比較的余裕があった画家の一部は当時、 美術界のメッカとされたフランスに留学した。その代 表的な画家は、イ・ウンノ( 李応魯、1904 ∼ 1989 )、 キム・ファンギ (金煥基、1913 ∼ 1974 )、キム・フンス (金興洙、1919 ∼ 2014 )、クォン・オギョン(権玉淵、 1923 ∼ 2011 )など、主に日本の統治下でも活躍した 重鎮だった。当時は海外留学する画家が新聞で報道 されるほど、社会的な羨望の的だった。 フランスへ渡った画家は、そこで多くのことを見て 学び、「どのように西洋人とは違った西洋画を描くの か」真剣に悩んだ。イ・ウンノは、アンフォルメル(非定 型の芸術)を目にして、キャンバスに韓紙をちぎって貼 り付ける方法を選んだ。キム・ファンギは、韓国的なテ ーマと感性の表現に関心を寄せた。 一方、1950 年代の若い美大生は、そうした画家 とは異なる新しい世代だった。ほとんどが戦後に設立 されたソウル大学校や弘益大学校などの美術学部の出 身で、アカデミックな人物像や風景画を描いて、国が
韓国の文化と芸術 5
© Lee Ungno / Lee Ungno Museum, Daejeon, 2015
1. イ・ウンノは 1962 年、ポ ール・ファッケッティ・ギ ャラリーで初めての個展 を開 いた。 写 真 中 央 に 並 んで 立 っているの は、 笑 顔のイ・ウンノと韓 服 姿の妻パク・インギョン (朴仁京) 2. 西ドイツの新聞ノイエプ レッセ は 1959 年、 フラ ンクフルトで開かれたイ・ ウンノの水墨画の展示を 絶賛した。イ・ウンノの肖 像は、当時の記 者 が 描 いたもの
1
過去の職業的な画員(朝鮮時代の図画署の官吏)は、社 会的な地位が低かった。だが、海外で正式に西洋の美 術教育を受けた者が現れると、状況は多少なりとも変 わった。そうした人たちにとって、芸術家とは特別な才 能を持った者であり、 「孤独な天才」 だった。おそらくロ マン主義以降、続いてきた西洋のエリート意識が影響 したのだろう。そのため韓 国の近 代 美 術の黎 明 期も、 日本への留学組がリードしていたといえる。 2 3
3. パリを歩くキム・ファンギ と妻キム・ヒャンアン。キ ム・ファンギはパリでの創 作 活 動中、 芸 術 精 神の ルーツを自覚し、それを 外部の世界に噴出させる 方法を会得した。 4. パク・スグンは朝鮮戦争 後、 米 軍 部 隊で肖像 画 を描き、米軍に作品を売 って生計を立てていた。
© Park Soo Keun Museum
© Whanki Foundation / Whanki Museum
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6 Koreana 春号 2015
主催する展示会で賞を取ることに満足しなかった。戦
争の残酷さを経験した彼らの望みは、格式からの自由
だった。その当時、韓国に紹介されたアメリカの抽象
表現主義やヨーロッパのアンフォルメルの運動は、ま
るでそれまでの全てのルールを無視したように激情的
かつ強烈な筆使いで、若者の心を捉えた。抽象的な
表現主義は、筆で絵を描く伝統的な画家にも影響を
及ぼし、筆を使った抽象的な表現に突き進ませた。彫
クォン・オ ギ ョン『 夢 』 1960 年、キャンバス・油 彩、73 100c m、 国 立 現代美術館所蔵。 クォン・オギョン( 1923 ∼ 2011 )は、日本とフラ ンスで絵画を学んだ重鎮 で、 東 洋 的 な 幻 想と神 秘を西 洋 的な感 覚と技 法で表現した。
ッド・ヘアらの作品を紹介し、韓国でアメリカ絵画への 関心を呼んだ。例えば、キム・ファンギは日本の統治
下で日本で教育を受け、 1956 年から1959 年までフラ
ンスに3年間とどまり、帰国してから弘益大学校の教
授として在職していた。そうした画家もアメリカに渡る
ほど、新しい現代美術の中心になりつつあるアメリカ
の絵画界への関心が高かった。
アメリカは、その後しばらくの間、現代美術の中心
刻家もブロンズや木の写実的な作品から離れ、新しく
として多くの韓国人留学生が学んだ。ニューヨークの
刻を実験した。当時は戦争直後で、
人学生が相当数、在籍している。しかし 1980 年代に
登場した溶接の技法を使って、表現主義的な鉄の彫
に入ったという点も影響している。
鉄が簡単に手
グローバル時代の美術創作活動と交流 美術家は 1960 年代からヨーロッパを離れ、新しい
プラットやパーソンズなどの美術学校は、今でも韓国
入ると、留学生の目的地は再びドイツやイギリスなど 多彩になっていく。留学生の姿勢も、西洋美術の一方
的な受容というフレームから脱して、交流レベルへと
変化している。アメリカやヨーロッパは、いまや新しい
美術活動が展開されたアメリカに目を向け始めた。ア
ものを学ぶ場所というよりも、グローバル時代に必要
国の再建を支援していた。もちろん農業、医学、教育
代以降、韓国では光州ビエンナーレなど多くの国際的
メリカは、朝鮮戦争への参戦をはじめ多くの分野で韓
などに比べれば、芸術分野への支援は相対的に微々た
な経験の場の一つと見られている。なぜなら1990 年
な展示が行われており、海外の美術はもはや漠然とし
るものだった。だが、 1957 年に徳寿宮美術館で開か
た好奇心や憧れの的ではないためだ。むしろ異なる国
北西派のマーク・トビー、モーリス・グレイヴス、デヴィ
と考えられるようになったのだ。
れた『アメリカ現代絵画彫刻8人展』などが、アメリカ
への留学は、活動のフィールドを広める手段の一つだ
韓国の文化と芸術 7
特集 2 韓国近代絵画の先駆者たち
キム・ファンギ 超越の風景と崇高の美学
パク・ミジョン
朴美亭、煥基美術館長
1
キム・ファンギは、繊細で洗練さ れた造形言語で叙情性あふれる芸 術世界を確立した、韓国の現代抽 象美術の先駆者だ。多彩な造形 実験によって完成した作品におい て、 魂と永 遠を歌う詩 的 精 神 は、 幾筋もの月光と日光のこだまであ り、未知の世界への憧れでもある。
「燦
然と輝く旗が、空にはためく胎夢
(懐妊の夢)」を証明するかのよう に画家になった樹話キム・ファンギ
(金煥基、1913 ∼ 1974 )は、20 代から抽
象美術の道を歩み、韓国のモダニズムをリ ードした。美術だけでなく文学など文化・芸
術全般への深い関心と多彩な交流は、芸
術家としての人生をさらに豊かにしていった。
何よりも、芸術的な同志であり運命のパー
トナーとなる妻キム・ヒャンアン(金郷岸)と 出会うきっかけになった。キム・ヒャンアン は、キム・ファンギの創作活動を全般にわた
って支持し、絶対的な影響を与えただけで なく、彼の芸術世界を研究・整理し展示・出
版することで世界に紹介した。キム・ファン
ギの死後、煥基財団を設けて遺作を保存し、 民族の文化遺産として残そうとした。また 煥基美術館を設立し、芸術家の支援と文 化芸術環境の向上にも貢献した。
8 Koreana 春号 2015
1.『 10-X-73 #322 Air and Sound II 』 1973 年、264 208cm、綿布・油彩 2.『 Immortal Natures( 永遠なものたち)』 1956 ∼ 1957 年、128 104cm、 キャンバス・油彩
2
芸術の本質と芸術家の挑戦
キム・ファンギは、芸術に関する限り妥協を知らない人物だっ
た。韓国内の安定した地位と名誉を未練なく捨て、原点から再ス タートを切るという心構えで、世界の美術の激戦地パリとニューヨ
極の目的に切り込み、崇高と超越の美学を目指してニューヨーク
に渡った時期、いわゆる「ニューヨーク時代( 1963 ∼ 1974 )」だ。
この時期は、多彩な造形実験の過程で自然を感じて探索する観照
と客観の視点を得て、それによって作品を造形的に完成させてい
ークへ向かうほど不屈のチャレンジ精神の持ち主だった。彼は、 った。 描こうとする自然対象物の解体と内面的な表現が「実像と虚像を
超越した新たな事実」と信じ、1940 年代後半に仲間と共に「新写
自然を歌う
場で率直に自分自身を発見・表現することであり、それが世界の舞
青年期を過ぎ、抽象のパターンに自然物を融合させて独創的な画
実派」を結成した。芸術家が追求すべき本質は、自由な芸術の現
台で生存・共存する道だと考えた。
キム・ファンギの作品は、アバンギャルドと抽象美術に傾倒した
面を構成する方法へと変化していった。山と月、梅、壷などを主
キム・ファンギの作品世界は「自然を歌う造形詩人 」、あるい
な素材に、自然を歌い自然と調和しようという東洋的な思考と叙
二つに分けられる。前期は、創作のルーツを求めて表現方法の模
韓国の伝統文化と古美術の美しさを発見し、骨董品や書画などを
は「永遠を称える吟遊詩人」と呼ばれるが、1963 年を境に大きく 索に没頭した青年期、具現の志向性に忠実な「新写実派」グルー
プの活動時期、芸術家としてのアイデンティティーと芸術の本質へ
情性豊かな造形美が込められている。キム・ファンギは、早くから
収集した。その中でも 「タルハンアリ (月壷の意)」 という白磁の大き
な丸い壷にとりわけ愛着を持ち、趣味の域を超えて、作品世界に
の探 求を一 貫して進めた「 パリ時 代( 1956 ∼ 1959 )」、そして
も大きな影響を及ぼした。完全抽象に至る前の作品には、韓国の
の試みは、この世の中を自然の視点で解釈し、自然と一体になる
する造形要素としてしばしば登場している。抽象に至ってからも、
1963 年にサンパウロ・ビエンナーレに参加するまでだ。その時期
ことだった。そして後期は、初心に返って芸術家が追求すべき究
自然と伝統的な器物が、自らのアイデンティティーと詩精神を象徴
作品の簡潔な線は白磁の優雅で抑制された線を、そして素朴でほ
韓国の文化と芸術 9
1
2
生きた細胞のように視覚の中で増殖する一つ一つの点は、キム ・ファンギが生み出した瞑想の一片だ。 強烈な太陽エネルギー の流れ、きらめく星座が瞬くリズムであり、 巨大な都市の夜景、 懐かしくも美しい山と川、 会いたい人たちの顔だ。 永遠にその 深さを計り知れない深海と宇宙の姿でもある。
1. 創作活動中のキム・ファンギ。韓国の伝統文化と古 美術に関心を持ち、骨董品や書画などを収集した。 とりわけ 「タルハンアリ (月壷の意)」 に愛着を持ち、趣 味の域を超えて作品世界にも大きな影響を及ぼした。 2. キム・ファンギは、1963 年からニューヨークで創作 活動を行った。この時期に代表的な技法の点画が生 まれた。
のかな色調は、白磁の淡泊で澄んだ色を連想させる。格調ある線
覚し、それを外部の世界に噴出させる方法を会得した。パリで生
と消滅をモチーフとした構想と抽象がおのずと共存している。彼が
の真の価値を持ち続けることだと気づいたのだ。彼ならではの青
あり、韓国の自然を象徴する表現媒体だ。また万物の根源である
ーを象徴する素材を再解釈した傑作が、その時期にパリで誕生し
と淡泊な色調の面が幾重にも重ねられた画面には、自然物の生成
好んだ多彩な青色も、画面をさらに叙情的で幻想的にする要素で
肯定と陽性のエネルギーの形跡でもあり、生命の象徴として画面
のテーマを浮き彫りにしている。
自然主義的な造形性の追求は、パリ時代にも自らの情緒的・芸
術的なアイデンティティーを確認し、芸術の本質を見出す道しる
存できる力は、作品の表面にはなく、本質や韓国的な詩的精神
色を基に山と月、鳥、壷、梅など韓国の自然とアイデンティティ
た。このようにキム・ファンギのパリ時代は、熱情と熾烈さがチャ
レンジ精神のエネルギーを受け、さらに満ち足りた創作の時間に なった。
べになった。彼はパリで世界的な巨匠の作品に接して、その作品
永遠を歌う
ていた詩的メッセージが何なのか悩むことになる。1957 年にパリ
レに韓国代表として参加し、名誉賞を受賞した。世界から集まっ
術は、何一つ変わっていない。ここに来て感じたのは、詩的精神
心 地ニューヨークで自らの芸 術を点 検することにした。よわい
から強力な詩的メッセージを感じ、自らが作品を通じて語ろうとし
から知人に送った手紙には、当時の心境が現れている。「私の芸
だ。芸術には歌が込められるべきだと感じている。巨匠の作品に
キム・ファンギは 1963 年、ブラジルのサンパウロ・ビエンナー
た画家と作品に出会い、もう一度、初心に返って世界の美術の中
五十のことだ。彼は、自由な雰囲気と創作エネルギーがあふれる
は、全て強力な歌がある。今まで私が歌ってきた歌が何だったの
ニューヨークで、自らの芸術が進む方向について悩んだ。そして、
に来て気づいたわけだ」。
き進む。当時のニューヨークは、 20 世紀で2度の世界大戦を経
か、ここパリに来て具体的に分かったのだ。明るい太陽に、パリ キム・ファンギはパリでの創作活動中、芸術精神のルーツを自
10 Koreana 春号 2015
新しい環境と状況に正面から向き合い、再び芸術的な挑戦に突
験し、世界から様々な人種と文化が集まった複合的な環境であり、
全ての人が共感できる客観的な視点と開かれた視線が支配してい
た。「ニューヨーク派」 の抽象表現主義の画家が見せたように、共 通の志向点に向かって各自異なる方法で接近する多彩な芸術的
性格があった。
キム・ファンギにとってニューヨークは、画家として生き残るた
めに克服すべき恐ろしい戦場ではなく、好奇心と憧れを刺激する 新たな場所であり、自らが追い求める「点」へのモチベーションを
湧き起こさせる所だった。また、韓国のように社会的な活動を無
理強いされなかったため、完全に画家として邁進できる自由と創
作の空間だった。世界の芸術がしのぎを削るニューヨークという
環境は、自然への愛着と感動をキャンバスに表現してきた彼が、
叙情性豊かな具象表現から一歩進んで、より普遍的な共感が得
られる絵画を追求できるように、新たな視点を与えた。彼の作品
世界は、内容だけではなくフォームの観点からも、躊躇なく造形
的な変化を追い求めていった。様々な材料と数多くの画面構成の
実験によって具体的な自然物の姿が消えて、非常に凝縮された点、 線、面で構成された抽象へと変化したのだ。
1950 年代のドローイングから時おり現れ始めた点と線の造形 実験は、 1960 年代後半に本格的な点画として現れるまで、様々 な空間構成の実験として続いていた。凝縮的な構成と青色が中心 だった画面は、点、線、面など純粋で本質的な造形の基礎要素 を通じて、さらに普遍的で内密な詩情の世界へと深まっていった。 山月抽象、十字構図、色面抽象、点画などの形態的な試み、あ るいはパピエマシェ(張り子)、オブジェ、コラージュ、新聞紙に 油彩のような多様な材料の実験から、独創的な創作活動の多彩 な展 開を目にすることができる。 1970 年 代に入ると、 点、 線、 面の構成を本格化した画面が現れて、最終的には画面全体が点 で埋められたいわゆる 「全面点画」の世界に至り、深みと繊細さが 増した感動的な画面を誕生させた。生きた細胞のように視覚の中 で増殖する一つ一つの点は、キム・ファンギが生み出した瞑想の 一片だ。強烈な太陽エネルギーの流れ、きらめく星座が瞬くリズ ムであり、巨大な都市の夜景、懐かしくも美しい山と川、会いた い人たちの顔だ。永遠にその深さを計り知れない深海と宇宙の姿 でもある。
芸術によって、芸術と共に
『どこで、どんな姿でまた会うのか』 シリーズ( 1970 ) や 『宇宙−
「 16-VII-68 #28 」1968 年、177 128cm、キャンバス・油彩
の濃度を薄く軽く透明にすることで、まるで韓紙や布にほのかで
自然に滲み広がる水墨画のような効果を加えている。それは東洋 的な情緒で物性を克服することで、肉体を離れて魂へと、物質世
界から精神世界へと、さらには現実を超えて時空を超越した永遠
と無処の概念に近づくためだった。彼が芸術によって理解しよう とした自然と人間と宇宙の摂理といえるだろう。
キム・ファンギが創作活動を通じて悟ったのは、「 芸術の中で
芸術によって芸術と共に」進む道が、最も完全な芸術家の道だと
ユニバース』 ( 1971 )などは、全面点画の真骨頂であり、韓国の
いう点だ。現実の中で芸術と共にし、闘争して実現しようとする
プルシアンブルーなど青い色調の深みと神秘さによって描かれた
らない超越の領域だ。「 超越の美学 」として感動を与え、自らの
だ繊細な色の点の陰影は、時空を超えて永遠に近づいていく。そ
世界だ。
然、人、芸術など生きてきた時間が、観照と超越的な瞑想の中
線で自然を歌ったとするなら、ニューヨーク時代のキム・ファンギ
現代美術を代表する傑作だ。セルリアンブルー、ウルトラマリン、 作品の世界は、芸術家が生みの苦しみと共に到達しなければな 瞑想的な空間、そして画家が異国で感じた喜怒哀楽を刻み込ん
れは、無意味に描いた点ではない。一つ一つの点は、出会った自
に刻み込まれたものだ
キム・ファンギの点画作品は、彼が追求した詩的な精神世界
魂を火種として創作熱を燃やすことで達することができる崇高な パリ時代のキム・ファンギが、詩的精神に基づいた観照的な視
は、冷たい都市文明の中で発見した新たな自然、形而上学的な
空間に向かう内面の世界を切り開いていく純粋な叙情を表した。
が、現実を超えて想像の域にまで昇華された結果だ。そのために、 このように生まれた彼の作品は、限りない感動を与え、私たちの
キャンバスに油彩という西洋の画材と技法を用いながら、絵の具
そばで今でも息づいている。
韓国の文化と芸術 11
特集 3 韓国近代絵画の先駆者たち
モク・スヒョン
睦秀炫、 ソウル大学校奎章閣韓国学研究院・客員研究員
文字、記号、人間を水墨で表現 イ・ウンノは、墨竹 ( 墨一色で描いた竹の絵 ) から始まり『人間』シリーズに至るまで生涯にわたって紙と墨を手 にし続け、戦後はヨーロッパを中心に世界の舞台で活動した先駆的な画家の一人だ。紙と墨を用いた作品だ けでなく、キャンバスに油彩、パピエ・コレ(張り紙)など様々な技法を活用し、版画、彫刻、陶画に至るまで 幅広く創作活動を行った。その結果、1万点に及ぶ膨大な作品を残し、抽象美術において一時代を築いた。
イ
・ウンノ( 李応魯、1904 ∼ 1989 )は 55 歳だった 1958 年、 てたわけではなく、自身の根幹をしっかりとした基盤と考え、アン 大学教授として韓国の画壇で築いたゆるぎない基盤を捨て
て、パリに向かった。その後、南北分断が生んだ政治的
な事件であるいわゆる「東ベルリン事件」の際、スパイ容疑で収監
フォルメルを吸収した。事物から形状を取り払った書芸( 書道 )、 墨と紙だけで万物の理を表した水墨の世界を基本精神として、戦
争の惨禍による衝撃と苦痛という内面を描こうとしたのだ。つまり、
された 1967 年から1969 年までの3年間を除いて、1989 年に亡く
その時代の画家の内面に、共に分け入ったといえよう。
で過去と現在、東洋と西洋を行き来し、他にはない独自の作品世
幼い頃から習ってきた書の字を解体する活動は、非定型化という
なるまでパリを中心に世界の舞台で活動した。イ・ウンノは、そこ 界を作り上げていった。
止まることない実験
イ・ウンノが向かったパリの画壇は、アンフォルメル(非定型の
しかしイ・ウンノは、アンフォルメルの枠にとどまらなかった。
点でアンフォルメルと通じるものがある。だが、紙と漢字という独
自の素材を基にして、形式的な実験を止めなかった点が異なって いる。1960 年代の創作活動は、紙を手でちぎって貼り付けるパピ
エ・コレ (張り紙)やコラージュと水墨を合わせ、事物を解体・表現
芸術) がブームになっていた。イ・ウンノは 1962 年、著名な評論家
する抽象化へと続いていった。コラージュでちぎって貼った紙は、
での『イ・ウンノ、コラージュ』展によって成功裏にデビューを果た
って一つの画面として再構成されることもある。また、紙の上に綿
などパリに渡って活動していた世界各国の画家から、表現の新た
マチエールを作り出している。水墨の抽象において、その要素は
イ・ウンノは、当代の韓国の代表的な書画家・海岡キム・ギュジン
は人間の形状のように見えることもある。イ・ウンノ自身は、この時
て川端画学校、本郷絵画研究所、松林桂月の元で写実性に目覚
イ・ウンノには、パリで成し遂げたものがもう一つある。1964
ジャック・ラセーニュの紹介で、ポール・ファッケッティ・ギャラリー
し、アンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ザオ・ウーキー な道を発見した。
(金圭鎮) から墨竹を学び、1935 年から1945 年まで東京に留学し
非定型的だと考えることもできるが、解体された字の画や要素によ
をつけて立体性を持たせることもあるが、紙と綿が調和した独特の
一種の記号として、時には木、山、動物の形状のように、あるい 期の作品の傾向を 「写意的抽象」 と呼んでいる。
めた。その後、1940 年代後半から1950 年代には水墨を抽象的
年 11 月にパリの東洋美術博物館のセルニュスキ美術館に東洋美術
他の画家が、同じ素材の絵を描いている間、彼は水墨がその時代
への強い関心が芽生え始め、ヨーロッパのモダニズムを融合させ
に変化させ、パリでアンフォルメルに出会った。水墨を根幹とする
の美術と肩を並べる道を模索した。しかし、それまでの自分を捨
12 Koreana 春号 2015
学校を開設しことだ。その時期のヨーロッパでは、東洋の精神性
た韓国の画家イ・ウンノの絵から東洋の精神を学ぼうとしたのだ。
© Lee Ungno / Lee Ungno Museum, Daejeon, 2015
『 寿 』1972 年、 274 132c m 、 韓紙・墨、コラージュ。イ・ウ ンノの 1970 年 代 の 文 字 抽 象 作品は、輪郭において明確な 記号の構成が際立ち、構築的 な傾向を帯びている。
韓国の文化と芸術 13
1
イ・ウンノは晩年まで、この学校で筆と墨の使い方、水墨画の技法
と余白の使い方などを指導し、およそ 3000 人の教え子を育てて東
に動く姿を描いている。1980 年代の『人間』シリーズは、1980 年
の光州民主化運動をはじめとする韓国の民主化運動を群衆の姿と
洋的な思惟と造形言語をヨーロッパに伝えた。
して形象化したものだ。巨匠が晩年に到達した人間への深い省察
韓国現代史の暗い自画像
韓国への深い愛情と共に、苦痛に満ちた郷愁が込められている。
イ・ウンノの生涯で最も苦しかった時期は、1967 年に韓国の情
が見られる。こうした絵には、政治的な理由で彼自身を遠ざけた イ・ウンノは 1977 年、パリで活動していたピアニストのペク・ゴ
報機関が企てたいわゆる「東ベルリン事件」によってスパイの疑い
ヌと映画俳優ユン・ジョンヒ夫婦の北朝鮮による拉致未遂事件に妻
だろう。この事件は、ヨーロッパに住んでいた韓国の留学生や文
この事件によって、故国に戻って静かに絵を描きながら余生を過
で韓国に送還され、1967 年から1969 年まで収監されていたとき
が関わったとして、再び韓国の画壇から遠ざけられることになる。
化芸術家らが、北朝鮮側と接触したことから起きた。イ・ウンノは、 ごすという長年の望みは、かなわぬものとなった。彼は、1958 年
朝鮮戦争の際に北朝鮮に義勇軍として連れ去られ、韓国に戻るこ
とができない息子の消息を確かめるために東ベルリンを訪れたこと
まで故国の画壇で 30 年以上にわたって活動し、その後ヨーロッパ
で注目を集め認められたが、 韓国でさほど知られていないのは、
が問題になった。イ・ウンノは、刑務所で筆を使うことが許され、 そうした南北分断という時代背景の影響が大きい。 食事の醤油、味
、ご飯粒、木の弁当箱などを利用しておよそ
文字抽象から人間へ、トーテムから書体的抽象へと変わりはし
300 点の作 品を残した。小さく縮こまった自分自身の姿を描い
たが、彼は竹の絵を描き続けた。東ベルリン事件以降の竹の絵
まった「一つの黒い点」のようなこの作品は、他のどの作品よりも
の主なテーマである人間は、実は生涯にわたって描いた竹の葉で
た『自画像』シリーズは、そのときに描かれた作品だ。黒い墨が固
自分自身の内面をアンフォルメルでうまく表現しているのかもしれ ない。彼は後日、そのときの経験を人間と歴史へのさらに深い省 察へと解釈していく。
文字抽象から人間へ、トーテムから書体抽象へ イ・ウンノの 1970 年代の作品は「書芸的抽象」と呼ばれる。解
体した文字を集めることで、意味が込められた絵という東洋絵画
の本来の精神を復活させたのだ。この時期の抽象は、1960 年代
の作品に比べて、輪郭において明確な記号の構成が際立ち、構築 的な傾向を帯びている。一方、既存の書芸を現代的に解体・変形
は「踊る竹の葉」になり、人間の動きへと転換された。1980 年代
あり、自然であり、人であり、歴史でもある。『 群像 』での人は、 一定のリズムを刻みながら動いている。だが、その一つ一つを見
てみると、それぞれの動きは全て異なっている。それでも、彼らは
どこかへと一緒に向かっている。その数多くの人の中に、まさに私 たち、「私」 がいるのだ。
韓国政府が、1988 年に民主化運動の波に乗り、北朝鮮に入
った画家の解禁を行ったことで、イ・ウンノも復権した。1989 年に なってようやく本格的な回顧展が開かれるようになり、それを機に 韓国の画壇はイ・ウンノを再発見する。彼は展示期間に韓国を訪
れる予定だったが、1989 年 1 月 10 日、まさに最初の回顧展がソ
させた書芸を用いて、さらに新しい作品を発表した。例えば、記
ウルで始まった日に、心臓まひによってパリのとある病院で息を引
て再構成した 『周易』 などが代表的だ。
か記念展と回顧展が開かれ、忠清南道・大田にはイ・ウンノ美術館
号で表現された『周易』の六十四卦を、逆に形状を持った漢字とし
き取った。韓国ではその後、彼への深い愛惜と賞賛を込めて何度
シリーズに代表される。 が、故郷の忠清南道・洪城にはイ・ウンノ生家記念館が設けられ、 1980 年代の作品は『人間』または『群像』 その生涯と作品世界を称え続けている。 1960 年代から人間の姿を形象化してきたが、この時期には特に 巨大な画面に墨で数百・数千人が列をなすように、時には踊るよう
14 Koreana 春号 2015
2
1 9 8 0 年代の主なテーマである人間は、実は生涯にわたって描いた竹の葉であ
り、自然であり、人であり、歴史でもある。『群像』での人は、一定のリズムを 刻みながら動いている。だが、その一つ一つを見てみると、それぞれの動きは 全て異なっている。それでも、彼らはどこかへと一緒に向かっている。その数 多くの人の中に、まさに私たち、「私」がいるのだ。 1, 4. 大田の都心にあるイ・ウ ンノ美 術 館は、イ・ウン ノの 芸 術 世 界 を広く紹 介するため 2007 年にオ ープンし、 多 彩 な 学 術 活動と展示を行っている。 2. 『 群 像 』1986 年、167 266cm、韓紙・墨 3. イ・ウンノは 1964 年、パ リのセルニュスキ美術館 に東洋美術学校を開設し て筆と墨の使い方、水墨 画の技法と余白の使い方 などを 指 導 し、 およそ 3000人の教え子を育てた。
3
4
韓国の文化と芸術 15
神秘的な感性と 幻想的な色彩に込められた 魂の魅力 - 朴 賢と千鏡子
それぞれの生涯、夢見た世界、そして造形論理も全く違うが、20 世紀韓国の女性美術史において魅力的な魂 として末永く残る画家が二人いる。パク・レヒョン( 朴 賢、1920 ∼ 1976 )とチョン・ギョンジャ( 千鏡子、
1924 ∼)だ。二人は、東洋の伝統美術である水墨彩色画の分野で革新を起こし、女性の神秘的な感性と幻 想的な色彩を自在に操って、20 世紀の韓国の絵画史に大きな足跡を残した。
パク・レヒョンは、平安南道・鎮南浦の出身
だが、幼い頃に全羅北道・群山に移り住ん
で育った。20 代になると、画家という夢を 果たすため日本の東京女子美術専門学校
に進学し、在学中に朝鮮美術展覧会で最
高賞を受賞して将来が約束された。パク・
レヒョンの作品世界は、大きく三つに分け られる。第一に、韓国ならではの自然を素
材に、西洋のキュビスム(立体派)の技法
で面を分割する幾何学的な構成の作品だ。 第二に、昔の硬貨の束や座布団など民俗
的なモチーフが持つ形を抽象化していく非
具象絵画。第三に、織物を切って画面に 貼り付ける浮き彫りのオブジェの連作だ。
パク・レヒョンが追求した主題意識は単
純でない。素材だけなら、前近代の韓国
の伝統的な自然と女性を主に描いた画家と
いえる。だがそれよりも、西欧のモダニズ ムを受け入れて画面の線、面、色を革新
し、造形自体に関心を示した実験型の画 家だった。パク・レヒョンは、東洋と西洋
1 16 Koreana 春号 2015
© Woonbo Foundation
2
3 『The Origin B 』 1. パク・レヒョン 1972 年、50.5 37cm、メゾ チント・エッチング , 国立現代 美術館所蔵。パク・レヒョンは、 西欧のモダニズムを受け入れ て画面の線、面、色を革新し、 深遠な造形世界を築いた。 2. パク・レヒョンと夫で画家のキ ム・ギチャン (金基昶)。自宅の アトリエにて ( 1977 年作) 3. 自身の『美人図』 について説明するチョン・ギョ ンジャ 4.『私の悲しい伝説の 22 ページ』 1977、紙・彩色、43.5ⅹ36cm ソウル私立美術館所蔵チョン・ ギョンジャは、自然と人間を融 合して女性ならではの繊細で華 やかな幻想的世界を描いた。
4
の出会いによる東西融合の道を歩んだ芸術家だ。特に 50 代になっ
る「夢幻の時代」を迎えたわけだ。チョン・ギョンジャの主題は「妖
た結果だ。織物の浮き彫りに朝鮮時代の硬貨をつるしたのは、伝
な世界「幻想の女性天国」を実現した。特に遠近法を無視し、事
試みだった。さらに、淡々とした色彩、繊細な質感、荘厳な構図
さを増し、華やかな色調を洗練された筆遣いで描くことで妖艷か
て始めた織物の浮き彫りは、生活の中の女性性を美術に取り入れ
統と現代、女性の日常と労働、市場の息遣いを融合しようという
を極めて節制された筆遣いで描くことに成功している。それによっ
て画幅は神秘的な空間になり、非常に洗練された品格を持ち得た。 チョン・ギョンジャは、全羅南道の高興半島に生まれ、 18 歳
艷な女性性」で、自然と人間を融合して女性だけが持ち得る特別 物を画面全体に散らす朝鮮伝統の多視点構図を用いることで神秘
つ優雅な気品を表現した。
パク・レヒョンとチョン・ギョンジャは、互いに異なるテーマと造
形を追い求めたが、人間と事物を自らの論理、感性、想像によっ
で日本の東京女子美術専門学校に進学し、在学中に朝鮮美術展
て自由自在に変化させて再構成したという点で、よく似た芸術家
だ。チョン・ギョンジャは、対象を忠実に描写することに重点を置
女性ならではの感性で再構成することで独自の様式に到達した。
覧会で入選した。戦後は美術教師を務めながら、画家の道を歩ん
いていたが、1950 年代の韓国戦争後に大きな変化を見せる。戦
争が、30 代の女性画家の芸術世界を大きく変えていく。そのとき
から、現実と夢の中で発見した素材と色彩を大胆かつ自由に描く
ようになったのだ。華やかな装飾性と果てない想像の神秘さに至
だ。パク・レヒョンは、戦後の美術史の論理に忠実に従いながら、 チョン・ギョンジャは、当代の美術史の論理を拒否したが、女性だ
けが持つ本能的な感覚と幻想的な想像力を華やかに発揮すること
で、他には真似できない特別な様式に至った。まさにこの点で、 二人の画家は同じ道を歩んだといえよう。
韓国の文化と芸術 17
特集 4 韓国近代絵画の先駆者たち
パク・セングァン 韓国の彩色画の星になった画家 パク・ヨンテク
朴栄沢、京畿大学校教授、美術評論家
18 Koreana 春号 2015
『明成皇后』1984 年 330 200c m、紙・彩色パク ・セングァンは 1980 年代 に入り、仏教、巫俗(シ ャーマニズム)、歴史人 物画などへの探求を基に、 独自の様式を見せ始める。
馴染みのない西欧の画風のが登場し、国としては日本の統治による苦痛と混沌の時代。そ んな中、非常に異例的で例外的な歩みを見せた画家パク・セングァン。彼は、絵画を通じ
て韓国的な独創性やイメージに秘められたスピリチュアリティ(霊性)を見出した、20 世紀 を代表する韓国の東洋画家だ。
韓
国は、20 世紀になり西欧の美術が入ってきて程なく、日 本の統治という特殊な状況に置かれた。他律的な近代化
の中、韓国の伝統を受け継がない美術の歴史が刻まれて
いくしかなかった。当時の韓国の画家は、伝統的な絵の世界と新
たに受け入れた西欧美術との関係の中で、自主的な道について考
え「民族美術」を探求した。しかし一方では、伝統的な絵画への 無知と卑下、西欧美術への盲目的な憧れと受容もあった。数千年
の歴史を持つ韓国の伝統美術の中に秘められた神話的なスピリチ
ュアリティ(霊性)と宗教的な呪術性の力を失い、さらに西欧美術
の形跡を模倣・上塗りしていった。これが韓国の近現代美術史の
主な流れだったことは、否定できないだろう。そうした混沌の中、 他にはない創作の道を切り開いた画家もいた。パク・セングァン
(朴生光、1904 ∼ 1985 ) こそ、その最たるものだ。
画風の基礎を固めた日本での修学
パク・セングァンは、慶尚南道・晋州の中流階級の農家に産ま
れ、10 代初めまで書堂( 村塾寺子屋 )で漢文を習った。その後、 晋州第一普通学校と晋州農業学校で新式教育を受け、1920 年に
日本に渡って美術の勉強を始めた。1923 年には京都市立絵画専
門学校に入学し、日本画・京都学派の巨匠の竹内栖鳳をはじめ村
上華岳、土田麦僊などそうそうたる画家の下で2年の課程を終え
た。しかし正式な学生ではなく、研修生という資格で絵を教わっ
たものとみられる。
当時の日本は、文化全般にわたって西洋の文物をできる限り
受け入れ、多彩で自由に躍動するいわゆる大正デモクラシーの時
代だった。京都の画壇では、新しい日本画への自由な試みが活発
に行われ、日本近代美術史において 「百花斉放」 つまり一斉に花開
く時期だった。そうした雰囲気は、当然パク・セングァンにも大き な影響を与えたはずだ。彼が学校で習ったのも、写生実主義を忠
実に守り、対象の形態と組織を正確に絵に納める技量を養って、
デッサンの技法を厳格に鍛えることだった。彩色は、強烈で力強
い画風を特徴とする東洋画の北宗画系統を継承していた。このよ
うな教育によって、彩色画の様式の根幹を固めていったのだ。
彼は 1926 年に絵画専門学校を修了し、東京へ向かった。この
とき 22 歳で落合朗風の門下生になり、新しい学びの道へと進んだ。 落合朗風は在野派画家で自由な芸術を志し、画面を平面化する
が、斬新な造形力と明るく澄んだ色彩で遠近感を表現する極写実
主義系統の新しい日本画を創り出した新感覚派の画家旗手だった。
韓国の文化と芸術 19
1
パク・セングァンは、明朗美術研究所に所属して明朗美術展などに
終えて故郷に戻る。すでに二人の息子の父であり、中年といえる
出品し、画家として活発に活動した。1930 年には朝鮮で開かれ
年齢だった。しかし、故郷での暮らしは貧しくつらいものだった。
の翌年には東洋画部に 『菜圃』を出品・入選した。東洋画と西洋画
日本に渡った理由について 「自分自身を試してみるため」だとし、次
はそれほど意味がなかった。当時の絵は写実的であり装飾的でも
したい。そんな意欲で描いている。韓国や日本など特定の国に限
た第9回朝鮮美術展覧会の西洋画部に 『素描』 を出品・入選し、そ を行き来していたわけだ。実際にそうしたジャンルの区分は、彼に あり、柔らかい彩色彩で主に描かれている。
韓国と日本を超越した「東洋」の表現 パク・セングァンは 1945 年 1 月、25 年にわたる日本での生活を
20 Koreana 春号 2015
彼は 1974 年に再び日本に渡り、東京で創作活動を始める。再び
のように話している。「私は、日本というよりも東洋を全身で表現
らず、アジアの一員としての思想を込めた東洋画を描こうと思う。 その表現の場所が、やむを得ず日本画の中にあるだけだ」。
パク・セングァンは 1975 年、東京だけで3回、そして大阪、名
古屋でそれぞれ一度、個展を開いた。日本で長期滞在するための
パク・セングァンは、 韓国の伝統的な美術に溶け込んでいる色 彩と図像の力、メッセージと画面構成の絶妙な調和、 大胆なス ケールを躊躇なく取り入れ、 他の誰にも描けない絵を完成させ た。 巫俗画や仏画などからインスピレーションを得て、 強い原 色と太い輪郭による原始的な描法を用いた。 それによって絵の 中に呪術的な力を吹き込み、 何よりも創作活動の中で巫俗、 仏教、 民間信仰などを融合させ一つに紡ぎ出したイメージの聖 座を表した。
2
経済的な努力だったが、作品の販売は思
い通りにいかなかったようだ。結局、1977 年に東京での生活を終えて、完全に韓国
に戻った。すでに生涯の大部分を日本で過
ごしていた。まさにこの点が、韓国画壇で アウトサイダーになるしかなかった理由で
1.『 巫 女 』1981 年、 136 136cm 、紙・彩色。 パク・セングァンは、 巫 俗画や仏画などからイン スピレ ー ション を 得 て、 強い原色と太い輪郭によ る原 始 的 な 描 法を用い ることで、絵の中に呪術 的な力を吹き込んだ。 2. パク・セングァンは、 近 代日本の彩 色 画の影 響 を受け、韓国に戻って孤 独 な 晩 年 を 過 ご す が、 情 熱 的に創 作 活 動を行 った。
もある。
る原始的な描法を用いた。それによって絵の中に呪術的な力を吹
き込み、何よりも創作活動の中で巫俗、仏教、民間信仰などを融 合させ一つに紡ぎ出したイメージの聖座を表した。特に深い関心
を持った巫俗は、民衆の無意識と深く絡み合い、生活と根底でつ ながっている。
彼の絵は、破片化したイメージの無作為的な羅列、圧縮的で
変形したイメージで構成されている。強烈な装飾性によって遠近
の原理からも解き放たれたような絵には、平面と並置の技法が同 時に用いられている。西欧美術の遠近法は、人間中心の視線の反
映であり、平面を克服するためにイリュージョニズム ( 目を惑わす
ためのだまし絵的な技法 ) の中で考案されたものだ。反面、東洋
画で重要なのは、絵の基本的な条件である平面性を尊重し、その
韓国の東洋画は 1945 年の終戦後、日本の統治を清算するため、 中で人間の精神的な活力が刺激されるイメージを描くことにある。
彩色画を無視・卑下していた。日本の統治下で日本的な彩色画が
パク・セングァンは、装飾性が強い平面的な画面の上に、時空を
画系統の水墨画だけを代案とし、全ての彩色画を遠ざけたのは不
で深遠な世界を築いている。特に異質的なイメージを一つに統一
広まり、大多数の画家がその影響を受けていた。その反動で文人
合理なことだった。特にパク・セングァンは、日本画の影響を強く
受け、彩色画を描く上に、韓国ではあまり知られていなかったた
め、韓国の画壇からほぼ排除される雰囲気だった。しかし疎外感
と孤独感が、むしろ彼ならではの個性あふれる創作活動を可能に した決定的な要因になったのは、非常に皮肉なことでもある。
韓国伝統絵画の力と価値をよみがえらせた線と色 パク・セングァンは 1980 年代に入り、仏教、巫俗(シャーマニ
超越した物体を自由に解き放った。一見、稚拙に見えるが、独特
し、ダイナミックな空間を作り出すオレンジの線が、非常に独創的 な様式の要素だ。
パク・セングァンは、伝統の意味を単純に外形的な図像の素材
と考えず、真の意味と精神、イメージの呪術性を復活させる方向
で絵を完成させた。それによって初めて、韓国の民画、巫俗画、 仏画の価値がよみがえり理解された。彼の絵を通じて、忘れられ
ていた韓国の絵の真の力と内容と用途が息を吹き返したのだ。
パク・セングァンは、長年にわたる貧困と孤独の中でも、一貫
ズム)、歴史人物画などへの関心と探求を基に、固有の様式を見
して独自の作品世界を表現していった。韓国現代美術の記念碑と
け、民画、幀画(仏画)、古美術品から素材を得るようになったの
るような絵、仏画、民画、巫俗画などから自由に借用した素材と
国の美術界では、1970 年代後半から伝統の継承という問題が持
時の画壇は、彩色画といえば美人画や花の絵を機械的に繰り返し
せ始める。「韓国的な美感の近代的な変奏」 という独自の目標に向
は、当時の画壇の風潮とある程度、関係があったとみられる。韓
なる彼の絵は、全て 1980 年代に誕生している。強烈な彩色が踊
模様が調和した彩色画は、前例のない祝福のような絵だった。当
ち上がり、民画、巫俗画、幀画への関心が高まっていた。そうし
描くだけだったため、大きな衝撃を受けた。それ以降、多くの画
パク・セングァンの絵画技法が、そうした絵に歩み寄りやすかった
墨と伝統的な素材中心の絵から一歩踏み出すことになった。
た時代の流れの影響に加え、彩色による写実的な表現を重視した
からだ。
家が彼の絵を受け入れ、1980 年代中頃の韓国の東洋画壇は、水
パク・セングァンは当時 80 歳を目前に控えていたが、あふれ出
彼は、韓国の伝統的な美術に溶け込んでいる色彩と図像の力、 す多数の絵に多くの人が驚いた。しかし、喉頭がんのため 82 歳で
メッセージと画面構成の絶妙な調和、大胆なスケールタッチを躊
躇なく取り入れ、他の誰にも描けない絵を完成させた。巫俗画や
仏画などからインスピレーションを得て、強い原色と太い輪郭によ
他界してしまう。努力の成果をさらに引き出し、それを享受すべき
ときに、突然の死を迎えたのだ。しかし、長くはない時間に描き残 した絵だけでも、彼の存在は星になったと十分にいえるだろう。
韓国の文化と芸術 21
特集 5 韓国近代絵画の先駆者たち
チェ・ヨル
崔烈、美術評論家
時代の憂鬱を 叙情に昇華させた 「国民画家」
独学で画家の道に入り、絶えざる修練によって、飾り気の ない質朴の美、遼遠なる古拙の美に至ったパク・スグン。
誰も手にできない「宇宙の秘密」に近づいたパク・スグンな らではの様式、それは当代の韓国美術が到達した最高の 造形の境地であり、一時代を築いた高貴な様式だ。
パ
ク・スグン (朴寿根、1914 ∼ 1965 ) は 1965 年、まだまだ
レーの望みは、少年パク・スグンの希望になった。彼は、ミレーの
前の 1957 年、大韓民国美術展覧会に応募し落選すると
の中に生きる素朴な人たちの日常をありのまま描こうとした。
これからという時期に 51 歳で世を去った。それよりも8年
いう苦 杯をなめている。もちろん、その前に数回入 選しており、
1955 年には大韓美術協会展で国会文公委員長賞を受賞したほど 画壇で認められていた。ところが、突然の落選…。彼は涙を流し た。さらに合点がいかないのは、2年後の 1959 年には同展覧会 の推薦画家となり、1962 年には審査委員にもなっている点だ。も ちろん、全て応じて受け入れている。 小学校卒の独学の画家パク・スグンが、国展の推薦画家と審 査委員まで務めたのだから、肩書だけ見れば当時の画壇のトップ にいたことは確かだ。だが、実際に画壇の支配勢力のそうした行 為は、愚弄に近いものだった。大の大人の涙は、そうした行為へ の耐性から生まれた、善良な心の反応だった。その耐性は結局、 肝硬変、白内障、腎臓炎、肝炎へとつながってしまった。生涯続 いた生活苦、そして強力な派閥による韓国の画壇組織は、出身校 も人脈もないパク・スグンを絶えず苦しめ、あまりにも早く命を落 とさせてしまった。
日常を描く画家にあこがれて
野山を歩き、農家で働く女性や山菜を採る近所の人など田舎
のありふれた風景を好んで描いた普通学校(当時の小学校)の少年
パク・スグンは、フランスの画家ミレーの絵を見て「ミレーのように 立派な画家になりたい」という漠然とした夢を描いた。自分が見た
ものを率直に、しかしできる限り立派に表現したいと願った画家ミ
22 Koreana 春号 2015
世界に迷いなくのめり込み、ミレーのように故郷の自然の風景とそ パク・スグンは、そうした純粋で熱い願いにも関わらず、苦し
い暮らし向きによって美術の教育をまともに受けられず、一人で 習作を続けた。そして、18 歳で当時の美術家の唯一の登竜門だ
った朝鮮美術展覧会に入選した。その後、専業画家の道を歩ん
だが貧しい生活は続き、結局 1953 年から米軍犯罪捜査隊と米8 軍PX (購買部) で肖像画と環境美化の絵を描く仕事を始めた。看
板屋と冷たくあしらわれながら貯めたお金で、当時ソウルの郊外
だった昌信洞に何とか粗末な家を得た。そうした中、アメリカ大
使館の政務参事官の夫人マリア・ヘンダーソン、アメリカ人のマー
ガレット・ミラー、そして画商兼収集家のセリア・ジマーマンと出会
った。彼らの後援は、パク・スグンの晩年において最も大きな力に なった。
珍しくもない個展さえ一度も開いたことのない 48 歳のパク・ス
グンに、初めての展示会の機会を与えたのも、彼の作品に心から
賞賛と支持を送ったのも、韓国ではなくアメリカの人たちだった。
平沢の在韓米空軍司令部が、1962 年に 「パク・スグン特別招待展」
を開催したのだ。軍の部隊の図書館で開かれた展示ではあったが、 パク・スグンにとって初めてであり最後の個展だった。
ひたすら一人で切り開いた画家への道 国展に落選した翌年の 1958 年、サンフランシスコで開かれた
米ユネスコ委員会主催の東西美術展とニューヨーク・ワールドハウ
© Gallery Hyundai
1
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© Park Soo Keun Museum
1.『コンギ(石な子)遊びを する少女』 1960 年代、22 30cm、ハードボード・ 油彩 2. パク・スグン、妻キム・ボ クスン、長女(第二子) イ ネ。1959 年に自宅の板 の間にて
パク・スグンには、受け継ぐ師 も伝統もなかった。自分のした いことを探す自由があった。出 身校を背に画壇政治を行えない 状況だったが、そうした考えす らなかった。江原道、ソウル、 平壤を転々として苦しい生活を 続ける中、ひたすら一人で画家 の道を切り開いていった。画幅 に込めたいものを一途に描き、 苦しくとも美しく生きる隣人の 姿を飾り気なく残した。
韓国の文化と芸術 23
1. 『赤子をおぶった少女』1953 年、28 13cm 、キャンバ ス・油彩 2. 2002 年に江原道・揚口の生家跡につくられたパク・スグン 美術館。花崗岩を積み上げた外観は、パク・スグンの絵 の質感を象徴的に表現している。 3. 『帰路』1965 年、20.5 36.5cm、ハードボード・油彩
1
2
スギャラリー主催の韓国現代絵画展に、パク・スグンの作品が出品
されたというニュースが伝えられた。翌 1959 年には国展の推薦画
家になり、朝鮮日報主催の第3回現代作家招待展にも招かれた。 海外での展示によって、韓国内の壁を突き破ったわけだ。西欧を 追いかけていた 20 世紀の韓国社会の悲しい自画像だ。
しかし、パク・スグンが既存の画壇の流れに従わなかったため、
得られた結果でもある。彼には、受け継ぐ師も伝統もなかった。
自分のしたいことを探す自由があった。出身校を背に画壇政治を 行えない状況だったが、そうした考えすらなかった。江原道、ソウ
ル、平壤を転々として苦しい生活を続ける中、ひたすら一人で画
家の道を切り開いていった。画幅に込めたいものを一途に描き、 苦しくとも美しく生きる隣人の姿を飾り気なく残した。
日本の統治下にあった 1930 年代、多くの若い画家が「朝鮮郷
土色」という各種大会の審査基準を思い浮かべながら、それを目
標に絵を描いた。その頃のパク・スグンは、生活苦に悩まされる 20 代初めの画家の卵だった。最高賞を夢見るより、ただ落選しな いことを願うだけだった。画壇ではひとりぼっちで、寂しさを訴え るすべもなかったが、 1940 年になって初めて画家らしい画家と出 会うことができた。平安南道の道庁の社会課書記(下級公務員) と して就職し、チェ・ヨンニム (崔栄林、1916 ∼ 1985 )、チャン・リ ソク (張利錫、1916 ∼)、ファン・ユヨプ(黄瑜燁、1916 ∼ 2010 ) に出会ったのだ。さらに、その年に結婚して長男も産まれ、薄給 でも安定した生活ができた。パク・スグンにとって、このときから 1944 年までが最も幸せな時期だったと思われる。彼はあらゆる苦 しみを、変わることないパートナーであり、唯一のモデルだった妻 のキム・ボクスンと耐え抜いた。
現代の都市感覚
パク・スグンは 「伝統を完全に現代的な都市感覚へと消化」 した
画家だ。彼自身も、農村から都市に生活のよりどころを移し、郊
外を転々としてようやく定着した。その作品の素材も、過去から現
在、古典から現代へと移ってきた。評論家イ・ギョンソン(李慶成、
1919 ∼ 2009 )は「パク・スグンが、画一的で陳腐になりやすい郷
24 Koreana 春号 2015
3
土をテーマに描きながら、それを安っぽい地方趣味におとしめず、 の石塔や石仏などから、えも言われぬ美しさの源泉を感じ、造形
清く高い民族の叙情詩にまで昇華させたのは、彼の力量の賜物だ。 化に取り入れようと努めていると話している。1962 年には、自身
力量というより、飾り気ない人間性の現れなのかもしれない。ま
た作品の素朴さは、どんなに長く描いても、あくまでもアマチュア
の作品と画法について次のように述べている。
「最近、私が描く手法は、象徴的でありながら印象的であるこ
という生理的な体質から湧き出た結果でもある。彼の作品には、 とを追求し、美しい画面を描こうと努力しています」。彼が象徴し 技術や技巧に侵されていない原始的な健康さが宿っている。そう
ようとしたもの、それは 「時代の生き様」 ではなかっただろうか。都
や環境が自然に生み出すものだ」。
の素材へと変化していく。新たに取り入れ始めた都市の郊外の生
ュア画家から始まり、無意識のうちに日本の統治下における郷土
なった。パク・スグンの関心は、いつの間にか「美しさの源泉を感
した画家は、単に個人の努力によって生まれるのではなく、時代
パク・スグンは、アカデミックな理論や技術とは無関係なアマチ
性の追求を創作のテーマとするしかなかった。1930 ∼ 1940 年代
の初期の作品は現在ほとんど残っていないが、図版の写真として 残っている作品は、多くが曲線中心で細心にして朴訥さが見て取
市と戦争を体験したパク・スグンにとって、郷土性や素朴さは象徴
活像さえも、石仏の中に消えた神話と伝説のように象徴の素材に
じる造形化」、あるいは 「美しい画面」 に移っていたのだ。
パク・スグンは、資本主義化した都市の雰囲気を画幅に込めて、
堅固な様式化を追求した。戦後の画幅は、誰にも真似できないほ
れる。1940 年代からは厚い絵の具と太い輪郭を用い始め、明暗
ど前衛の中心にあった。単に独歩的な境地を超え、軽快さと真
なった。1937 年の水彩画『春』 の構図をそのまま用いた 1940 年代
論家イ・ギョンソンは「灰色を主とした白と黒、そして所々に用いら
と構図の面から対象を描写しようという再現の意志がいっそう強く の油絵『ナムル(山菜)を採る女たち−春』、1940 年代後半の作品
と推定される 『碾き臼を く女』 などがそれに当たる。
1950 年代の中頃になると、絵に様式化の傾向がはっきりと現
れ始める。対象の平面化、輪郭の単純化と直線化が際立ってくる。
1954 年の『臼を搗く女』、『洗濯場』、1962 年の『木と二人の女』 などが代表的な例だ。特に絵の具を幾重にも重ねて、でこぼこし た表面を規則的な布の織り目のように作っていった。伝統的な花 崗岩の石造物の質感まで再現するに至ったのだ。彼は当時、韓国
さだけで「当代最上のモダンな様式」に事もなく到達したのだ。評
れる青緑色が、愁い満ちた造形空間に星のように輝いている。こ
の堅固な構造の上に、単調だが洗練された、かすかな独自の色彩
を一つ一つ加えていった」 と説明している。
パク・スグンは、日本の統治に続き戦争と資本主義の中で苦し
い生活を送ったが、死後とても高く評価され、多くの韓国人が最
も愛する 「国民画家」 になった。彼は原始と文明、郷土と都市、写
実性と抽象性、そして伝統と近代性の境界で清らかな叙情を生み
出し、ついには遥かなる涅槃の世界に至ったのだ。
韓国の文化と芸術 25
文化遺産の継承者
韓国伝統の 衣 · 食 · 住を守る チョン・ジェスク
中央日報文化部記者
韓国家具博物館のチョン・ミスク館長は、数百年間にわたる韓国伝統の衣・食・住の 痕跡を守り、それをきちんと整備して人々に紹介して来た。彼女が守ってきたのは
まさに韓国人の魂だ。
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韓国の文化と芸術 27
韓
国家具博物館のチョン・ミスク館長はいつも 帽子をかぶっている。手には木綿の軍手をは
めていることも多い。彼女が屋外で日差しを
浴びながら仕事をしている証拠だ。ソウルの古くから
の高級住宅街(城北区城北洞 330 − 577 )にある博物
館は、 7000 平方メートルもある敷地の隅々までチョ
ン館長の目が行き届いている。草木の1本、小さな石
の置物の一つ一つが一見無造作に点在させただけの
庭であるが、彼女の真心と見識の高さで、見る者を 飽きさせない。1995 年にチョン館長が韓国家具博物
1
館の礎石を築いてから 20 年。長い間、ごく一部の仲 間内だけに公開されてきた韓国伝統の衣食住の宝庫
「高校生の時に奨学金をもらいアメリカのテネシー州ナ ッシュビルに交換留学生として行きました。現地の子達 が『あなたは何を食べて、何を着て、どこに住んでるの 外交使節が主な観覧客 か』と尋ねてきました。アジア人がまだ珍しかった時代 韓国家具博物館は最近マスコミにたびたび登場し ている。2014 年7月にパク・クネ大統領と中国の習近 でした。彼らが一番興味を示したのが韓国の衣食住で 平国家主席夫妻が国賓午 のために訪問した後、特 した。考えてみれば自分の祖先の暮らしについてよく知 に有名になった。数年前から外国の貴賓がソウルを訪 れた際に一番見たいというソウルの名所となっている。 りませんでした。それで帰国するやすぐに古家具を集め 始めました」 駐韓外国大使館員の夫人たちが韓国を学習する為に訪 が、固く閉ざされていたその門が開かれ、大衆に少し
ずつ近づいてきた。
れる必修コースとしても名高い。外国のスターも殺人
的なスケジュールの合間をぬって足を運ぶ。2013 年に
ここを訪れたアメリカの俳優ブラッド・ピットは「アメイ
ジング!」と叫んだという。彼にソウルに行ったらぜひこ の博物館に行くようにと勧めたのはマーサ・スチュワー
トだった。「カリスマ主婦」と言われているマーサ・スチ
ュワートは韓国の伝統木製家具、その中でも小盤 (ソ バン、一人用のお膳 ) に魅せられ 「韓国人は家具に自然
を閉じ込め身近において楽しんでいるようだ」と感 し
たという。
廃家となる危機に していた伝統韓屋 10 軒を全国
から移し、それぞれの格に合わせてきちんと建て直し、 消えつつあった朝鮮時代の木製家具 2500 点を収集し
たこの博物館には、簡素ではあるが薄汚くはなく、粋 ではあるが金満趣味ではないアンティーク家具が所狭
しと並んでいる。2011 年CNNはここを「ソウルで最も 美しい博物館」だと紹介した。チョン館長はこの仕事を
始めた動機を次のように語る。
「私の実家の両親は私に韓国人としての自負心を与
えてくれました。家には昔の古家具がたくさんありまし
野 党の指 導 者として活 躍したチョン・イルヒョン博 士( 1904 −
1982 )だ。母は末娘に生前、三つのことを常に言い聞かせていた という。本をたくさん読むこと、お金ができたら旅行をどんどんする こと、能力があれば国と隣人のために他人が気付かず、していなか ったことをすること。チョン館長は読書と旅行で眼目を育てた後、 母が遺言のように残した三つ目の任務に取り掛かった。 そしてもう一人実際に家具博物館を開くのに物質的な援助をし てくれたのが舅だった。1960 年代の大学生の頃から集めてきた古 家具の保存がいろいろな事情で限界に達し、ソウル市に寄贈しよう かと舅に相談したところ、博物館を建てて直接管理すればよいだろ うと、城北洞にある金の卵のような土地を提供してくれたのだ。チ ョン館長の夫の実家は今では数えるほどしか残っていない朝鮮時代 の上流階級の別荘の一つ、城楽園を所有している。韓国家具博物 館はチョン館長と婚家の合作品だといえる。
た。伝統美に幼い頃から目を向けさせてくれたのです。
ティジュが一番好きだという 「頑固な」館長
いました」
ティジュ( 米びつ)だ。米のような穀物や多様な食べ物を貯蔵し、
動家だったイ・テヨン博士( 1914 − 1998 )。そして尊
卓子、飾り棚 )やチェックウェ( 冊櫃、本を保管する箱 )、ソアン
牛のように休みなく働いていた母のようになりたいと思
チョン館長の母堂は韓国初の女性弁護士で人権運
父は外務部長官をへて国会議員となり軍部独裁時代に
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チョン館長が一番好きな木製家具は主婦たちの手垢の滲んだ
物を保管するのに使われた台所用の家具だ。サバンタクチャ (四方
(書案、机)、ムンカップ(文匣、文箱)など古風で品があり、手の
1. チョン・ミスク館 長はこ の 20 年 間、 精 魂こめて 韓 国 家 具 博 物 館を立ち あげ、 韓 国の伝 統 的な 衣・食・住の遺産を保存 することに全力を傾けて きた。 2. 韓国の伝統家具はより余 裕ある生活空間を確保し、 視覚的に負担を与えない ようにシンプルに製作さ れている。そのため壁面 の余白はもちろん、置か れた空間のなかで他の器 物とも競わずに自然だ。
韓国の文化と芸術 29
2
1 2
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た時代でした。彼らが一番興味を示したのが韓国の衣
食住でした。考えてみれば自分は祖先の暮らしについ
てよく知りませんでした。それで帰国するやすぐに家具 を集め始めました。すると韓国のものに対する自尊心
が膨らみはじめました。現代美術の美観に負けないほ
どに素晴らしい芸術魂と美意識が私たちの昔の家屋や 家具、衣服にあふれていたのです。それが消えつつあ
ると思いあせりました」
3
「第3のルネッサンス」のために
チョン館長は最近、全国の伝統書院を勉強してい
る。現場にでかけて長老たちとも会う。玉山書院では
所蔵品をいちいち調査して清掃計画も立てた。4月に 書院の再現イベントを開く為だ。韓国は今、教育体系
が崩壊し今後この国がどんな風になっていくのか憂慮
1. 韓国家具博物館は韓国 の伝 統 家 屋の雰 囲 気と 家 具の趣を十 分に味わ えるように、 10 人 以 内 の 観 覧 客 がガイドの 案 内に従い観覧することを 原則としている。 2. 伝 統 韓 屋 10 棟でできて いる韓 国 家 具 博 物 館に は朝 鮮 時 代の木 製 家 具 2500 点が展 示されてい る。 3. 庭 園の片隅の低い塀が 四 君 子( 梅、 菊、 蘭、 竹 )、亀の模様で装飾さ れている。
込んだ木製品の多い中なぜあまり見栄えもしないティ
ジュなのか。
「 私の一番の自慢はティジュなんです。ティジュは
される。「危機に
着している」とチョン館長は心配す
る。そして彼女はその解決策の一つが書院にあると考 えている。
「この 100 年間、私たちは外国をモデルにして生き
家の片隅、人の目に付かないところにそっと控えていま
てきました。若者は皆、大企業に入社することだけを
健康を守ってくれる一番の家庭用品でした。『ティジュ
あるでしょうか?私たちの価値観を変えない限り今後、
すが、いろいろな穀物や食べ物を管理して家族の命と から人情が生まれる』という言葉、『ティジュの底が見
えるとご飯の味がさらにおいしくなる』という比喩もあ
目標にしています。そんな精神状態でこの国に未来が
必ず後進国に負けてしまうでしょう。全国に書院が
670 ヵ所、郷校が 230 ヵ所あります。その書院の一つ 一つがヨーロッパの名門大学に負けない学問の産室で です。それでうちの博物館のシンボルロゴにもティジュ した。しかし私たちはそれをあまりにも簡単に忘れてし を使っています」 まいました。書院一つと中・高等学校を一つずつ結び チョン館長の「ティジュ論」は彼女の人生哲学でも つけ、まず子供たちに清掃をさせ、その精神を学ぶよ ある。インターネットで予約を受けつけて、週5日間に、 うにすべきだと思います。書院をきちんと整備すれば 一度に 10 人以内の人数しか案内しないという頑固な 文化観光として活用することも出来ます」 チョン館長が心を砕いているもう一つの計画は「城 観覧原則は自分の役割を黙々と果たしているティジュ 北 洞プロジェクト」だ。ソウル市と城 北 区が城 北 洞 に似ている。「敷居の高い博物館」という不満の声もこ を 「伝統衣食住クラスター」に育成することにした背景 んな原則から生じた誤解だ。大勢で訪れたのでは韓屋 の趣や家具の美しさを十分に味わうことができないの にはチャン館長のアイデアと情熱があった。城北洞は 世宗大王の時代から朝鮮の王妃たちが桑の葉を摘ん で、きちんと知って楽しめるようにとガイドと共に見て で、機織を再現した先蚕壇があった由緒深い場所だ。 回るようにした結果だ。 仏教の寺院と伝統料理のお店など、観光資源が豊富 ガイドに従い観覧動線に沿って博物館を一回りす で、韓屋の家々も集中している。澗松美術館などの博 ればこの「ティジュの頑固さ」を十分に理解できる。私 物館もいくつかあり、美術館も新しく生まれている。こ たちが当然知っていると思っていた韓屋から多くの再 こにシルク博物館、ユキ・オンギ(真鍮・ 器)博物館、 発見があるのだ。徹底して人間中心に作られ、自然を 民画博物館、八道飲食博物館などを建てて博物館村 抱いて暮らせるように設計された韓屋がどれほど素晴 を作るのが今のチョン館長の夢だ。 らしい家だったか、自然と頷くようになる。チョン館長 「 1400 年代の世宗大王、1700 年代の英・正祖時 は 10 代の後半に経験した外国留学生活が韓屋の価値 を発見する契機になったと回想する。 代がともに 300 年間隔で国の文物を復興させています。 「 高校生の時に奨学金をもらいアメリカのテネシー いまや300 年が過ぎて2000 年代になり第3の文芸復興、 州ナッシュビルに交換学生として行きました。現地の ルネッサンスの兆しが見えます。韓国家具博物館は小 子達が『あなたは何を食べて、何を着て、どこに住ん さいですがそんな大きな流れを作り出す力になっている でるのか』と尋ねてきました。アジア人がまだ珍しかっ と信じています」 るではありませんか。ティジュは働く人の頼もしい味方
韓国の文化と芸術 31
近代のランドマーク
1
生まれ変わった公演芸術のメッカ
明洞芸術劇場
ノ・ヒョンソク
盧亨碩 、ハンギョレ新聞記者
20 世紀の明洞(ミョンドン)はソウル一の繁華街だった。今では、有名 デザイナーのブティックも芸術・文化人たちの行きつけの居酒屋、喫茶 店、音楽鑑賞室なども見当たらなくなったが、明洞は依然として人々で 賑わっている。この街で韓国近代史を象徴するランドマークは明洞聖堂 だ。ところで、その聖堂隣のカトリックセンターから南大門路に至る 1k m 弱の明洞通りを中心部の方へ歩いて行くと、最も大きい交差点に 出る。その交差点の角に、周りの建物とは一線を画し一際目を引く、も う一つの近代建築物がある。それが明洞芸術劇場だ。
32 Koreana 春号 2015
1. 地 上 4 階、 地 下 1 階 の 建物、明洞(ミョンドン) 芸 術 劇 場の建 築当時の 名 前は明 治 座で、日本 人 が 主に利 用した映 画 館 だった。 東 京 から来 た建築家・玉田橘治が当 時日本で流行っていたル ネサンスとバロック調の 折衷様式の劇場建築物 をそのまま持ってきて設 計したものだ。 2. かつて、この建物は金融 会社に売却され、用途が すっかり変わってしまった こともあったが、文化芸 術界の粘り強い保存キャ ンペーンの結果、既存の 建物の外観をほぼ維持し た 500 余席規模の劇場と して蘇った。
2
明
洞芸術劇場は、正門が建物の東側の角にあるのが特徴
治が当時日本で流行っていたルネサンスとバロック調の折衷式劇
に 装 飾 さら れて おり、 そ の 上 部 は4 階 ま で 扶 壁 柱
1920 年代から本町一帯はショッピングと娯楽で代表される
だ。正門の真上の部分は、バロック調の人造石で帯状
( b u t t r e s s ) で装飾されてある。整然と並んでいる長方形の窓と
場建築物様式をそのまま移行し設計したものだ。
近代消費文化が初めて入って伝播された本拠地だった。京城に来
楕円形の文様を凸状に刻み付けた扶壁の柱が調和をなして流麗
ていた日本の資産家や文化芸術家たちは 1930 年代、明治座付近
とくに、両サイドの南側と東側の壁には、アーチ型の窓が整然と
をすごし社交を楽しんだ。亡国の悲しみの中にあっても近代文化
美さを持ち合わせたこの建物の外観を見れば、だれでも自ずと文
も次第に明治座付近に集まり、この一帯は自然に京城を代表する
割を担っていたこの建物はこの 80 年の間明洞と歴史を共にして
路 ( チュンムロ ) あたりにも黄金座(後の国都劇場)、若草劇塲(後
な雰囲気を醸し出す。建物の角面をドーム型にしたのも目を引く。 の喫茶店、うどん屋、日本料理店、西洋式レストランなどで余暇 並び、モダンな雰囲気の優雅な建築美を漂わせる。円熟味と優
化関連施設だと推測できる。一時、韓国公演芸術の中心的な役 きた。
に対する憧れを隠し切れなかった朝鮮の有識者や文人、画家たち 文化通りとして位置づけられた。 韓国人がジンゴゲと呼んだ忠武
のスカラ劇場)、中央館(中央劇場、現在の中央シネマ)などの映
画館や演劇専用劇場が相次いで登場し、新しい文化景観を作り出
した。明治座は 1945 年の解放後、国際劇場に名前が変わり、そ 激動の歳月の中でも揺るぎない文化芸術の産室 明洞芸術劇場は、日本植民地時代の 1936 年に建築された。 の後、市公館(市立劇場)から国立劇場時代を経て、公演芸術の 産室となった。1946 年には解放後最初の本格的な劇映画の崔寅 当時、日本式の名前で本町と呼ばれた明洞の一等地の 500 余坪
に約1年間にわたる工事の末、地上4階、地下1階の鉄筋コンク
リート構造の建物が姿を現した。建築当時の名前は明治座で、日 本人が主に利用した映画館だった。東京から来た建築家・玉田橘
奎(チェ・インギュ)監督の『自由万歳』を上映し、大勢の観客が押
し寄せた。さらにここで、1948 年韓国最初のオペラ公演『椿姫(ラ
・トラヴィアータ)』がプリマドンナ・金慈璟(キム・ザギョン)主演で
韓国の文化と芸術 33
1. 塔屋のあった屋上部には、二箇所に扇状のガラスと金 属版を扇状に置盾し、その中に芝生を敷き、くつろぎ の空間を演出した。 2. 劇場の内部は、観客と俳優の目線の差を最小限に抑え、 客席と舞台の間の距離を縮めて、俳優と観客が一つに 溶け合う雰囲気を作り出すように設計し直された。
1
亡国の悲しみの中にあっても近代文化に対する憧れを隠し切れなかった朝鮮の有識者と文人、画 家たちも次第に明治座付近に集まり、この一帯は自然に京城(現在のソウル特別市)を代表する文 化通りとして位置づけられた。 舞台化された。韓国戦争(朝鮮戦争、1950 − 53 )で明洞の半分
1973 年国立劇場が、南山(ナムサン)のふもとの奨忠洞(ジャ 以上が灰と化したが、この建物は明洞聖堂とともに無事生き延び ンチュンドン)に新築した建物に移転するまでここは劇作、演出 た。施設の一部が破壊されてはいるが、すぐ修理されて戦後 1950 の大家たちと数多くの名俳優たちの主要活動舞台だった。さらに、 韓 国の政 治 史で忘れられない出来 事が 起きた現 場でもあった。 年代には演劇、オペラ、映画、舞踊、国楽(韓国伝統音楽)、国 劇など、ほぼすべての主要公演が絶え間なくここで披露された。 1955 年自由党の独裁に対抗した民主党の結党大会が開かれてお 劇場周辺のトルチェ喫茶店、銀星(ウンソン)酒店、東方(トンバ り、 翌 年 韓 国 最 初 の 進 歩 政 党 の 進 歩 党 もここで 結 党された。 ン) サロンは、当時を代表する文化芸術家たちの溜り場の役割をし、 1956 年民主党の党大会の際には張勉(チャン・ミョン)副大統領 その時代に韓国の文化史を作り出したと言っても過言ではない。 が 何 者 か に 銃 撃 を 受 けたりもした。 国 立 劇 場 が 移 転した 後、 劇場内にあった市立劇場が 1962 年に光化門 ( クァンファムン ) 市民 1975 年この建物は金融会社に売却され、用途が一変する数奇 会館に移転した後、明洞芸術劇場は 11 年間名実ともに大韓民国 な運命にさらされた。最大 1000 席を超える劇場が姿を消し、一 の国立劇場として全盛期を享受した。 夜にして金融会社の営業場になったのだ。これに追い打ちをかけ るように建物の家主は 1994 年建物を撤去し、高層ビルを建てる 構想を発表した。しかし、由緒ある文化名所を再生させるべきだ 80 年間の明洞の歴史そのもの 34 Koreana 春号 2015
2
という文化芸術界の粘り強い保存キャンペーンの結果、 2003 年
歴史の象徴、思い出の貯蔵庫としての建築物
2009 年6月、 500 余席規模の明洞芸術劇場が市民のもとに帰っ てきた。この建物は 80 年間近い歳月を、公演文化の本場という 立ち位置で、ファッション、金融の中心、観光の中心へと、時代 の流れとともに変貌していく明洞の歴史を黙々と見守ってきたわ けだ。 劇場の外形はほぼそのままだが、内部は換骨奪胎の過程を経 た。会場の舞台を包む空間は、「文化を盛って再生する大きな器」 というコンセプトで設計されたもので、リフォームの際に最も力を 注いだ箇所の一つだ。客席と舞台自体を昔の建物の空間から分離 し、文化を発する新しい空間として独立させる趣旨を反映している。 趣旨はよかったが、劇場内部のロビーの構造と舞台、客席など昔 の面影は全くなく、すっかり変わってしまった。この建物が抱える 意義深い歴史と多様なストリーを考えると残念極まりないことだ。 塔屋のみあった屋上には、花びらを重ね合わせた形の置 を、中 に芝生を敷いて人口庭園も造った。復元された明洞芸術劇場は、 原型が大きく毀損されているため、登録有形文化財に名を連ねる ことはできなかった。
下すのは難しい。1935 年東京浅草通りに建てられた大勝館をそっ
政 府 が 建 物 を買い 入 れ、4年 間 余 のリフォーム 工 事 を 経 て、
明洞芸術劇場の建物自体は、建築的価値において高い評価を
くりそのままコピーした 「偽物」 と批判する建築歴史学者もいる。し かし、韓国の近代建築物に限っては、誰がどのような様式で設計
したかというよりは、建物を中心にどのような出来事が起き、それ
が後代にどのような影響を及ぼしたかがもっとも重要である。その
ような観点からすれば、明洞芸術劇場は韓国近現代文化史のみな
らず、政治的・社会的に数多くのストーリーが盛り込まれた場所だ
ということに注目すべき建築物である。2009 年多くの論争と紆余
曲折の末、この建物が演劇専用劇場として再開館を果たした際に、 文化芸術家たちの間で大きな歓迎を受けた。しかし、この建物に
内包された 80 年間の歴史を私たちが振り返ってみて教訓を得られ
る痕跡がきちんと保存できなかったことはとても遺憾なことだ。植 民地支配と戦争、経済的厳しさの中でも、この劇場の周辺は大勢
の文化芸術家たちが集まって噴き出す情熱とエネルギーに満ちて いた。生まれ変わった明洞芸術劇場がこのような貴重な遺産の象
徴として、思い出の貯蔵庫として美しく進化していくことに期待を 寄せる。
韓国の文化と芸術 35
フォーカス
「ヨウカー」の急増 その光と影
キム・ボラム
韓国経済マガジン記者
昨年1年間に、1億人の中国人が世界中を歩き回った。韓国は単一国家
としては最大の人波、中国人観光客 600 万人時代を迎えている。ソウル の観光スポットの明洞(ミョンドン)や南大門(ナムデムン)市場、清渓川( チョンゲチョン)の街中で中国語を耳にすることは珍しくなくなり、中国語 の看板や案内文をかかげた店の姿も今では見慣れた風景となった。
36 Koreana 春号 2015
これまで 大 多 数 の中 国 人 観 光 客が韓 国を訪れ る主な目的はショッピン グだった。現に彼らは空 港の免 税 店や市 内の免 税店、デパートで高級ブ ランド品を買い求めたり、 明 洞( ミョンドン )、 東 大門(トンデムン)などで 低 価 格 製 品を大 量に買 いあさった。
中
国の国家観光局によると、昨年出国した中国人たちの目 的地は香港、マカオ、韓国の順だった。マカオと香港が
いずれも中国の特別行政区であることを考慮すれば、海
外観光地としては名実ともに韓国に最も多くの中国人観光客が訪
れているわけだ。最近になって韓国に向かう中国人がさらに増えて
ちは空港や市内の免税店、デパートで高級ブランド品を買い求め
るのみならず、明洞、東大門などで低価格品を大量に買いあさっ
たりもする。ヨウカーが韓国で購入した品目は、化粧品、衣類、 食料品、漢方薬材の順となっている。ヨウカーの購買力に支えら
れ、韓国の高級ブランドメーカーはもちろん、東大門市場まで売
きたのは、大陸で湧き起こる韓流ブーム、地理的に近い距離、香
り上げを伸ばしている。観光収支も2年あまりで黒字に転じた。い
様々な要因がちょうどうまい具合にかみ合っているためだ。
と観光産業を支える重要な柱として位置づけられている。このよう
港の中国人訪問客数の規制と中国と日本の冷え込んだ関係など、 つの間にかヨウカーは、観光客のレベルを超えて韓国の流通業界
韓国観光産業の新たなエンジン、ヨウカー
にヨウカーの急増によるプラス効果の朗報が伝えられる一方で、 暗い一面の話もよく耳にする。一部の低価格パッケージ商品を売
韓国を訪れる中国人観光客が急増し、韓国内の観光産業と内
りにする旅行会社が、ショッピングの実績を上げやすくする形で旅
まっていることから、彼らを通称する言葉として「旅行する顧客」を
んしゅくを買うなど、ヨウカーを単に「購買力の高い顧客」としての
需市場に弾みがついている。中国人観光客の存在感が日増しに高
意味する 「ヨウカー(遊客)」 という新造語も登場した。韓国観光公
社の調査によると、ヨウカーの旅行活動にショッピングが占める割
合はなんと 82.8%に上る。韓国観光の主な目的がショッピングで
ある観光客の数が圧倒的に多いことをうかがわせる。ヨウカーた
行コースを組み、観光客が購入するように仕向けるプログラムでひ
み見るということだ。韓国文化をきちんと知らせ、経験できるよう
に努めるより、「ヨウカー=ショッピング」 という前提の下で画一化
した旅行サービスを行い、金 少なくない。
けにしか目がないと指摘する声も
韓国の文化と芸術 37
中国人観光客は、観光、ショッピング中心 の従来型旅行パターンから脱し、韓国のラ イフスタイルを楽しめる場所ならばどこにで も足を運ぶ。このようなフリー観光への変 化から、韓国の若者たちの間でホットプレイ スな梨泰院(イテウォン)、新たなトレンドス ポットの新沙洞・街路樹通り (カロスキル)そ して韓国人しか知らない町のマッジブ(おい しい店)などでフリーツアーを楽しむ中国人 観光客たちに出会う機会も次第に増えてき ている。
1
1. 色とりどりの旗をなびかせ、ソウルの主要観光スポット に向かう観光パターンから「旗部隊」と呼ばれていたヨ ウカーの観光スタイルにも変化の風が吹いている。 2. 韓国でいろいろな変わった経験をしてみたいと思うヨウ カーへ、新しい観光コンテンツの一つとして、台詞なし に動作とダンスを披露するノンバーバル公演が浮上して いる。写真は、ノンバーバル公演『ジャンプ』の公演チ ームが特別街頭公演をしている様子だ。
一味違う経験に目を向け始めたヨウカー
覧したヨウカーだった。実際、韓国を個人で訪問するヨウカーた
韓国でよりさまざまな一味違う経験をしようとする動きが始まった
る、中国の韓遊網( www.hanyouwang.com )で自ら各種の公
そうした中、最近ヨウカーたちの間で変化の兆しが見られる。 ちが韓国についての旅行情報を最も多く得ていることで知られてい
のだ。演劇やミュージカルなどの公演を通し、韓国文化を体験し
ようとするヨウカーが増えていることも顕著な現象の一つだ。とく に、無言で体の動きや踊りを披露するノンバーバル公演がヨウカ
演チケットを事前に購入して訪問するケースが増えている。ヨウカ
ーの旅行先がソウルに限らず、地方にまで次第に拡大していること
も注目される。個性的な旅行を好む若いヨウカーたちの間で始ま
ーたちの間で人気を博している。 K − P O P、テレビドラマのように
った変化だ。新たに浮上したところは済州島(チェジュド)、
語で新たな韓流のジャンルを開拓している。このような公演観覧
済州島と江原道は、恵まれた自然景観のほか、新しい施設のリゾ
も必須コースとして新たに定着している。厨房で起きるエピソード
備えているため休養地としてのステータスを高めている。
有名スターの人気に頼らず、無言劇という長所を生かし、身体言
は、口コミで評判となり、ヨウカー向けのパッケージ観光商品に
をユーモラスに描いたノンバーバル・パフォーマンス 『NANTA』 の
山
海雲台(プサン・ヘウンデ)、江原道 (カンウォンド)などだ。このうち、 ートとテーマ博物館、娯楽施設、ショッピングセンターなどを兼ね
制作会社である P M C プロダクションによると、昨年中国の祝日の
リアルな韓国が経験できる旅行へ
ヨウカーが占めたという。1000 万観客突破記念イベントで当選し
ばれる団体観光客がソウルの観光名所だけを見て回るパッケージ
連休期間にソウル明洞にある NANTA 専用館の客席の 80%以上を
た『NANTA』の 1000 万番目の観客も昨年 12 月 29 日の公演を観
38 Koreana 春号 2015
観光パターンにも変化が起きている。いわゆる「旗部隊」と呼
ツアーから体験を重視するプライベートまたは小グループ旅行へと、
2
ヨウカーの観光スタイルが変化している。フリーツアー客の数も増
えたが、観光の質も高くなっている。2、3回数次で韓国を訪れ るリピーターヨウカーが少しずつ増え、明洞や免税店ショッピング
しなければならないフリーツアー客は、団体旅行客よりずっと不便
な思いを強いられている。地方の場合、公共交通のシステムを補
完し、案内シグナルや旅行情報が盛り込まれたアプリケーションな
のようなお決まりのコースだけでは、新し物好きなヨウカーたちの
ど、韓国語が分からなくても使用できるコミュニケーションツール
ルの変化から、韓国の若者たちの間でホットプレイスな梨泰院 ( イ
始めた旅行会社も少なくない。パッケージ商品を好まないヨウカ
心をつかむことは難しいからだ。ヨウカーのこのような観光スタイ
テウォン )、新たなトレンドスポットの新沙洞・街路樹通り( シンサド
の開発が早急に求められる。ヨウカーの誘致に向けて本腰を入れ
ーたちのため、エアテルパッケージ商品を開発し、医療、ウェディ
ン・カロスギル )、そして韓国人しか知らない町のマッジブ(おいし
ング、在来市場ツアーなど、テーマ別のフリーツアー商品を発売
増えてきている。ヨウカーたちのこのような変化は、実は世界的な
の多様な趣向と変化の動きに着目する必要がある。単にヨウカー
い店)でフリーツアーを楽しむ中国人観光客に出会う機会も次第に
旅行トレンドと脈絡を同じくするものだ。単に観光スポットを見て
回る旅行スタイルから抜け出し、地元住民との交流を重視する傾
するなど、多岐にわたり取り組んでいる。何よりもヨウカー―たち の購買力にばかりこだわって目先の利益を追求するより、韓国を 訪れた大切なお客さまをもてなすという心構えで彼らに好印象を与
向がヨウカーたちの観光パターンにも影響を及ぼしている。ヨウカ
えられるように、韓国ならではのストリー性を盛り込んだ充実した
韓国の観光インフラやサービスは依然後れを取っているのが現状
するように工夫を凝らし、一貫性のある関心と投資で彼らを迎え
ーたちがこのように大韓民国の津々浦々にまで入り込んでいるが、 観光商品の開発が欠かせない。ヨウカーたちの来訪が着実に継続
だ。現に宿泊、移動、観光地の選択、食事などをすべて自ら手配
なければならない時だ。
韓国の文化と芸術 39
あなたのための キムチの食べ方 韓国大好き
ベン・ジャクソン フリーランス寄稿家 / チョ・ジヨン 写真作家
韓国文化の紹介ブログ『 Eat Your Kimchi 」がここ4年の間に、巨大な帝国として成長した。 スタジオが入居しているソウル弘大(ホンデ)通りのあるビルの側面に、パッと目につくEYV のロゴが大きく掲げられている。ビルの裏手の駐車場には、どこからでも目につく「 E a t
Y o u r K i m c h i 」のロゴが塗装されたハッチバック起亜(キア)自動車が見える。近くには EYK 言語教育サイトの「 Talk to Me in Korean 」とのコラボレーションで、2014 年8月に オープンした 「 You Are Here Café 」がある。一体何が起こったのだろうか。 40 Koreana 春号 2015
シモンとマルティナ・スタ スキ夫妻は外国人に不慣 れな韓国生活をユーモア を交えながら、韓国の大 衆文化をユニークなスタ イルで紹介する動画をユ ーチューブ・チャンネルに 載 せて、 国 内 外の視 聴 者の心を掴んだ。
ソ
ウルで発刊される英文雑誌の表紙を飾る写真を撮るため、 が 241,033,279 回だった。ストスキ夫妻は、このような大成功に
E Y K の創業者・シモン( S i m o n )とマルティナ・スタスキ
( Martina・Stawski )夫妻がポーズをとった。夕日を背景
に3D 眼鏡をかけてポップコーンを食べながらソウルの西にあるノ
ウル公園のベンチに座っている姿だ。その当時、この果てしなく肯
定的なカナダ人カップルは、不思議な愛犬スパージとともに新しく
自らも驚きを禁じ得なかった。「 本当に理 解できないんですよ。 人々がどうして僕たちの動 画に興 味をもつのか 」とシモンは言
う。「本当に不思議ですね。私たちはただ動画を作って楽しんでい るだけなので」とマルティナも付け加えた。二人は、インタビュー
中にもバランスの取れたカップルだった。二人ともウィットに富ん
独創的なスタイルのビデオブログに情熱をかたむけていた。彼ら
で情熱的だが、決して相手を支配しようとしない。二人は、自然
に構成して紹介する作業だった。とても相性の合うカップルが心置
的な二人の関係が成功秘訣の要因のようだ。あるファンは、両親
が出会った韓国文化の不慣れな面目をユーモアを交えながら絶妙 きなく行動する様を見せる動画は、直ちに世界の視聴者たちを虜
にしてきた。シモンは、ウェブサイト「 E a t Y o u r K i m c h i 」とユー チューブチャンネルを開発するため、思い切って英語講師の仕事
を辞めた。マルティナは、なお彼の「シュガーママ」 (富裕女性)と
して生徒たちに教えながらお金を稼いでいる。
「火の湖」に魅了
に冗談を交わしたりしていつも楽しそうに見えた。実際に常に肯定
が不仲の家庭で育った経験やギクシャクしている男女関係とは対 照的なこの幸せなカップルを見るだけで慰められると言う。
マインドコントロール
名声、特にネット上での名声というのは気まぐれで短命なもの
だ。ところが、ほかの人たちであれば、今ごろ暗礁に乗り上げてい
るはずだが、ストスキ夫妻は依然として見事に人気の波でサーフィ
スタスキ夫妻の韓国との縁は、2008 年仁川(インチョン)国際
ンしている。この波が手におえないほどの規模の大波になったにも
ったが、すでにほかの講師の仕事を得た後だった。カナダの両親
かい冗談は、冷たく固いコンピュータの「大量高速処理」という岩
空港に到着してから始まった。英語講師として韓国に来るようにな
は、北朝鮮が韓国を「火の海」にするといった当時の脅威によって
かかわらずだ。ところが、動画を見せてくれる彼らの明るくて心温
盤に基づいている。自らを 「コンピュータ・オタクの変わり者」 と呼ぶ
恐怖を抱いていた。「後に私たちは北朝鮮が海や湖、または火の
シモンは、持続的にモニターし、人々が好きな映像がどんなものな
は言い、「破壊的な兵器が液体であるわけですね」とシモンがいた
るか数値を分析する。EYK は、これを踏まえて自分たちの映像制
ルは韓国人が好きなスンドゥブ(純豆腐)チゲを食べる姿を撮って
類された映像を見る。韓国のインディーズ音楽を紹介する日曜日
ような比喩を好んで使うということがわかったんです」とマルティナ ずらっぽい口調で付け加えた。家族を安心させるため、このカップ
両親に届けた。そのように動画を一つ二つと撮り始め、今では 2000 本くらいになった。食べ物からK − P O P に至るまで、ファン の質問に応じてあらゆるものをカバーしている。この夫妻がターゲ ットにした視聴者は、家族のみならず英語講師の仲間たち (誰も教 えてくれない韓国の洗濯機の使い方やゴミの分別方法のような実 用的な情報を盛り込んだ動画を作って提供した)、韓国について 興味のある一般人、そしてシモンとマルティナのファンになった人 まですべて含むようになった。 「私たちが撮った動画を初めて見た人を覚えてます。名前はス ティーブでイギリス人だったんです。彼が電子メールで自分も富 川 ( プチョン ) に行くことになったと言って、あれこれ聞いてきたん です。もしかして、『 アンチ英 語スペクトラム 』( A n t i E n g l i s h Spectrum) ってご存知ですか。韓国で働くネイティブ英語講師を 攻撃する悪名高い韓国人の集いです。私たちは、彼の メールが 外国人に見せかけてこのグループが送ったものだと思いました。私 たちが作った動画に関心を寄せる人がいるとは思わなかったから です。私たちを家の外に誘い出して殺すのかもと思ったわけです。 幸い、彼は殺人者どころか、イギリスから来たさっぱりとした気性 の男性だったんです」 とシモンは語った。 動画のアクセス数が次第に増え、いつの間にか大台を超えた。 E Y K スタジオには、アクセス数十万人超過達成で、ユーチュープ が公式に授与した賞も目につく。この文を書いている時点で、彼 らが使用する3つのユーチューブチャンネルを合わせたクリック数
のか、退屈してほかのものに乗り換えるまで時間がどれくらいかか 作を調整する。現在、ファンたちは毎週6つのカテゴリに従って分
の「 K Crunch Indie Segment 」か ら 土 曜 日 の「 Wonderful
Treasure Find(WTF) 」まで多岐にわたっている。WTF では、滑 稽で珍しい製品や物に対する感覚を十分に発揮して発見したもの を紹介する。例えば、ハローキティー足暖炉と理想的な爆弾酒(焼 酎とビールの混合酒)を作れるように最適なビールと焼酎の含量が 表示された焼酎グラスといったようなものだ。ユーチューブ映像は、 短くて強力なインパクトを与えるのに対し、ウェブサイトはより掘り 下げた内容で構成されている。
国際的な名声
7年が経った後、彼らのファンはものすごく増えた。このカップ
ルは、何回となく海外ツアーをした。ヨーロッパに2回、オースト
ラリアやシンガポールなどを旅行した。アメリカツアーも視野に入 れている。「感激的ながらも混乱してます。僕たちがイベントを企
画すれば、あるファンは何時間も列を作って待っています。去年、 僕がコーヒーショップをオープンする前にスタジオの訪問イベント
を行いましたが、そのイベントに参加するためオーストラリアから 来た人もいました。私たちがメルボルンを訪問した際のイベントに
参加できなかったので、今度こそぜひ参加しようと思いを決して来
たというのです」
話を聞いて驚いたが、このカップルのツアーが提供する内容を
見れば、なぜファンがそれほど熱狂するのか頷ける。「私たちが忘
れていたのは、7年の間、韓国で映像を作ってきたということでし
韓国の文化と芸術 41
「そのような観点から、まるでリアリティー番組みたいですね。人々は私たちが韓国語もわからな いまま右往左往して、好きでもない韓国料理についてレビューするのを見守ってきたんです。私は 最初はバナナミルクとソーセージ、そしてトッポッキの屋台で売られているオデンが苦手だったん ですよ。しかし、5年経った今では「これまでに食べたものの中で最高!」と言って触れ回るほどに なったんです。このように私たちが変化して、成長していくのを人々は見てきたわけです」
た」 とマルティナは言う。「人々が私たちの映像とともに成長したわ
う。祖国の文化と隔離されていた彼らは、人目をはばからないカ
自分自身が成長しながら私たちの成長過程も一緒に見てきたんで
れた。
人々は私たちが韓国語もわからないまま右往左往して、好きでも
人になろうと躍起になっている人たちで一杯だ。これに対して、マ
けです。高校時代から始めて、大学入学を迎えるようになるなど、 ナダ・カップルが韓国文化になじむために四苦八苦する姿に魅了さ
す。そのような観点から、まるでリアリティー番組みたいですね。 ない韓国料理についてレビューするのを見守ってきたんです。私
は最初はバナナミルクとソーセージ、そしてトッポッキの屋台で売
られているオデンが苦手だったんですよ。しかし、5年経って「今
までに食べたものの中で最高!」と言って触れ回るほどになったん
世の中は名声という滑りやすい大理石の壁を登るように、有名
ルティナとシモンは思いもよらず、膨大な規模の献身的ファンのお
かげで人気を得たケースだ。2012 年にスタスキ夫妻は、スタジオ
をオープンするため4万ドルの資金調達のため、クラウドファンド・
ウェブサイトのインディゴゴ (Indiegogo) にこの募金を呼びかけた
です。このように私たちが変化し、成長していくのを人々は見てき
ところ、7時間足らずで目標額を達成した。「夜に募金の呼びかけ
ました」。シモンは、オンライン・メディアが視聴者とずっと近い関
標値がもう達成されていたんです」とマルティナが言う。彼らが今
たわけです。私たちの髪の毛、体重、スタイル、すべてが変わり 係を結ばせると付け加えた。「カメラがすぐ手前にあって、僕たち
を掲載して寝床に入ったんですが、翌朝目を覚めたら私たちの目 大きなビーンバッグチェアに座って話しているスタジオは、E Y K の
はレンズを見ながら人々と話します。たまには特定の人の名前を
オンラインコンテンツを実体として具現化したように見える。一見
るやり方だから、既存のメディアでは見られない共同体のような感
な感じがするが、奇抜なアイデアに満ちている。輝く星の銀河系
公開的し呼んだりもするんですね。ライブでおしゃべりをしたりす
表面的には派手でイミテーションの髭をつけているかように作為的
じを与えるんです」
で装飾された寝室があり、スタンディング・デスク(マルティナ
時のことです。私たちの母校トロント大学でイベントを開きました」
と言う)、 EYK のインディゴ・クラウドファンドの寄付者の名前が書
講義を受けた空間で人々が私たちを見ていて、私たち自身が舞台
売り場を通じて販売されるあらゆるグッズで一杯だ。複数の壁は、
「不思議な感じがしたのは、私たちの故郷の都市をツアーした
とマルティナが話を続ける。「同じ空間だったんですね。私たちが
は「座りっぱなしは、タバコを吸うように健康に良くないんですよ」
いてある壁面が目につく。また、ほかの部屋には E Y K オンライン
に立っていることが本当に奇妙な感じがしました。私たちの両親が
ファンからもらったプレゼントと手紙と絵でぎっしりと詰まっている。
誰が EYK のキムチを食べるか?
スポンサー企業からの協賛 駐車場にある「 E a t Y o u r K i m c h i 」自動車は、E Y K の進化を 示すもう一つの主要な物差しだ。2014 年5月に道路を走り始めた
来ていて、シモンの両親は最前列に座って感極まって涙しました」
外国人たちが韓国のメディアに頻繁に出演する。外国人だとい
う理由から彼らが韓国語を話すと、「素晴らしい芸のできる猿のシ
この車は、起亜自動車に1年間以上粘り強く協賛を働きかけて勝
たり、東海(トンヘ)を「日本海」と言ったりしてスキャンダルに巻き
は並大抵のものではありません。ブロガーやユーチューブの利用
ョー」効果のため有名人になったりもするが、それも不倫が発覚し 込まれる寸前までだ。ところが、シモンとマルティナによる動画の
アクセス数を見れば、彼らはこのように型に嵌ったような視聴層と
ち取った結果だ。「大手企業に私たちが認めてもらったという思い 者たちは、韓国ではまだあまり認められていないのが現状です。
ほかの国とは異なりますね。彼らが適法な会社から認められてい
はかけ離れていることがわかる。「僕たちの映像を見る視聴者のう
ないので、協賛を受けることが容易ではないんです」とマルティナ
は最も高い数値のグループが 20 歳から29 歳の間で、その次が 13
人公たちが韓国の随所を旅行するのに役立っている。「自動車が
ち、98%が海外に居住しています。75%が女性です。年代として
歳から18 歳です。国別には、アメリカが5%、カナダが 10%、イ
ギリスが9%、そして東南アジアの順です」 とシモンは説明した。フ
ァンの多くの人がアメリカの小さい都市に住んでいる韓国系だとい
42 Koreana 春号 2015
は説明する。この起亜自動車は、E Y K ビデオにたまに出演し、主
映る映像をすべて起亜自動車に送ります。そうすると、私たちの自
動車の利用方法にとても満足されますね。私たちは、ごく普通に
製品の特長を紹介するが、すべてがどれだけ素晴らしいかを褒め
シモンとマルティナが韓 国の代 表 的な夏の風 物 詩「 冷麺 」の食材と味わ いを生き生きと説明して いる。
称える月並みな公告はしないんです」 とマルティナは強調する。
E Y K の歴史の中でこれまでに成し遂げたもう一つの主要な成
果は、このカップルの世界ツアーと昨年オープンした、スタジオか
ら遠くないところにある「 You Are Here Café 」カフェだ。カフェ
のメニューには、シモンとマルティナが直接開発したものもある。
ミルクシェイク、ズッキーニブラウニー、そして健康食のパワーボ ールがそれだ。もっとも興味深いのは、カフェにビデオブースを設
けてあるということだ。そこでお客さんは自由に自分を表現し、論
争となった多くの争点について自分たちの意見を録音できる。韓
国語と英語いずれも可能で、 E Y K には字幕作りに携わるボランテ
ィアたちが常に待機している。
未来
すでに4年前にシモンとマルティナは、冒険のための新しい開
拓地として日本に目を向けていた。ところが、韓国でにわかに人気
が出始めたため、日本への進出はしばらく棚上げにしていた。しか
し、いよいよ今年、『 Koreana 』のインタビュー直後に日本へ行く
ことになった。ヨーロッパ動画の人気ぶりを見れば、ファンたちが
この夫婦の姿に熱狂していることが読み取れる。彼らの人気が必
ずしも韓国と結びついているとは限らないということだ。「本当にそ
うなのか楽しみにしています」 とマルティナは言う。
ここ7年 間の歳月が 彼らをどのように変 化させたのだろう
か。「 僕は以前の僕が、純粋で即興的だったことが懐かしいです。 今は、僕たちがアップロードするすべてのものについて、とことん
考え尽くさなければならないんです。大勢のファンと視聴者に映像
がいかに見えるか神経を尖らせているんです。だから、何か目新し
こととか、新鮮な気持ちになることが難しいんですね」とシモンは
言う。しかし、だからといってアイデアが 枯 渇したわけではな
い。「僕たちには、二人のビデオエディターがいますが、もっと多
くのエディターが必要なんですね。まだまだやりたいことが山ほど あります。時間がもっとあればと思うほどですよ」とシモンは最後
に意欲を語った。ぎっしり詰まった平日のスケジュールを使いこな
し、強力なインスピレーションを提供しながら、絶え間なく新しさ を探し求める E Y K は、これからも未来に向かって成功の一途をた
どるものと思われる。
韓国の文化と芸術 43
44 Koreana 春号 2015
オン・ザ・ロード
巨文島 島の人々の 素朴な人生の歌
クァク・ジェグ 郭在九、詩人 李 九 写真
すべての浦への入り口は陸地の一番端に下がってい る。旅人も浦の渡船場に至ると、これ以上進めない。
ところが、漁り船にとってはまさにその地点が旅の最 初の出発点になる。なんとも不思議なことではない か。人間の足取りが終わるところから旅は再び始まる のだ。
韓国の文化と芸術 45
十
数年前、私は 40 代後半から50 代にさしかかる年齢のころ、
海辺の村々をさすらった時があった。当時、民宿の手配
がままならないと町の公民館に立ち寄って老人たちに一
晩泊めてもらえないかと尋ねた。すると老人たちは快く「もちろん、
いいですよ」 と応じてくれた。明るく笑いながら手を差し出す老人た
ちの、その手を握る感触―遠くの都市の工場や市場を渡り歩いて、 再び故郷の町を訪れる客でもあり、もっぱらここが宇宙の中心だ
と信じて故郷の海辺で漁をしたり、海藻をとったりして、人生の年
輪を積み重ねてきた手でもありうる。ガサついていながらも穏やか
な感触の手、それは一人の人間が生涯経験した悲しみと懐かしさ、 夢と挫折の入り混じったイメージだ。あの町からこの町へと渡り歩
いていた時代―その都度たどり着いた先には必ず渡し場があった。 そこでポンポンポンとエンジンの音を響かせながら波しぶきをあげ
てどこかへ旅発つ漁り船を見守っていると、突然胸を締め付けられ
るような感じがした。そして日が沈む時まで渡し場の片隅にしゃが
み込んで入り江を去る船と戻ってくる船を眺めていたら、再び穏や かな気持ちになってきた。
海を抱く三つの島 麗水 ( ヨス ) で私を乗せて巨文島 ( コムンド ) へ向かう船の中で胸 がときめいた。麗水は、人口 30 万人くらいの港町だ。2012 年に この港町で国際海洋 E X P O が開かれた。それだけこの港が美しさ を内包しいるが解る。E X P O が開かれたその年、私は数人のヨー ロッパの友人たちと麗水の小さい海辺の町を歩き回ったが、その 中にフランスのニースから来たエリックという友達がいた。彼の職
業は軽飛行機の操縦士だった。彼は故郷・ニースの海辺をとても
愛しており、一生その海岸線とともに暮らすことを視野に入れて軽
飛行機の操縦士になったという。麗水市華陽面柯亭里を通った際
に、彼が私に話しかけた。「この海は、私の故郷ニースみたいです ね。まだ、文明に汚染されてない時代のニースに」
巨文島は、麗水港から114.7km 離れた海上国立公園だ。東島、
西島、古島の3島が丸く集まり、ちょうど卵のように見える。3島
内の地域は、道内海(ドネヘ)と呼ばれるが、いずれも古い歴史を 持つ町で構成されている。3島の外壁が荒波を防ぎ、その内側は 波が穏やかなので昔の人々は巨文島を三湖と呼んだ。三つの島が
集まって形成された湖という意味だろう。
1845 年イギリスの軍艦・サマラン号の航海記によって初めて島 の存在が世に知られたとされる。避難港として最適のこの島を彼 らは、ポートハミルトンと命名した。当時、イギリスの海軍事務長 官の名前にちなんで名づけた。当時、清もこの島に目をつけ、丁 汝昌(ていじょしょう)が率いる軍艦を送ったという。彼らが「菊花 発」と書いて筆談をしようとしたが、だれもその意味が分からなか った。町の人々が学識経験者のところに駆けつけてその文言を見 せると、その学者は干し柿一箱を渡すようにアドバイスした。清の 軍艦が着いた時は、町のいたるところに菊の花が咲き乱れていた 秋だった。「菊花発」が「島に菊の花が美しく咲いたんですね」の意 味だということを伝え、学者はその文言の旨をよみ、干し柿を贈る ように言ったのだ。学者は提督らと筆談を交わし、学者の経綸に
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1
1. 巨文島は全羅南道(チョルラナムド)麗水港から南 側に 114.7 ㎞離れた海上国立公園だ。同島の東島 と西島の漁村を行き来する巡航船は、島の人々にと ってかなり重要な交通手段だ。 2. サバ漁は巨文島の漁民たちの主な生産活動だ。ここ を訪れる観光客は、海から水揚げされたばかりの新 鮮なサバの刺身や真心のこもったサバの煮つけが味 わえる。 3. 全羅南道の無形文化財1号の「巨文島舟歌」は、漁 民たちが漁をしながら歌った労働歌で、漁師のつら い暮しの哀歓がそのまま盛り込まれている。
2
3
韓国の文化と芸術 47
1
深く感動した彼らが、島の名前を巨文島と呼び始めたと伝えられ
る。巨文島とはその学者が住んでいる島という意味で、この優れ
た儒学者の名前は金劉(キム・ユ)という。清の人々は以前、この
島を巨磨島(コマド)と呼んでいたが大きい岩で囲まれた島という
意味だ。
1885 年4月 15 日、イギリスは3隻の東洋艦隊を派遣し、巨文
島を不法占領し、イギリス国旗を掲揚した。砲台を築き、陣地を
1. 西島最北端のノクサン灯台に向かう 1 k m の散策路は、広い草原に探訪 路がきちんと整備されていて、巨文 島徒歩旅行の醍醐味とされる。 2. ツバキの花の開花がピークを迎える 2月、西島の水越山(スウォルサン) の小道を歩いてみたら、花が丸ごと ポトリと散ったツバキの花がうずたか く積もった魅惑的な風景に出会える。
構えて戦線を仮設した。イギリス軍による電線の仮設で、巨文島
の住民たちは、国王が居住する景福宮を除き、民間人の町では初
めて電気の明かりを目にすることができたので近代化の断片を認識 するきっかけとなった。ロシア艦隊の南下を警戒するためという名
分を掲げたが、これは厳然たる国際法違反だった。19 世紀後半、 巨文島は列強の勢力争いの渦中に巻き込まれた格好だったが、当
時の惰弱な朝鮮政府は、不法占領を承知しながらもこれといった
2
抗議の一つもできなかった。1887 年2月イギリス軍は撤退したが、
ロシア海軍が巨文島に進入しないという条件が受け入れられた後 のことだった。巨文島には、当時死亡した3人のイギリス水兵の墓 地が残っている。
巨文島の漁師を守るシンジキ人魚
巨文島の海辺の宿に荷物をほどいてからすぐに西島のトレッキ
ングに出かけた。3島のうち、一番大きい島である西島の北側の
端にはノクサン灯台があり、南側の端には巨文島の灯台がある。
灯台トレッキングと呼ばれるほど、このコースには西島里、ビョン
チョン里、徳村里(トクチョンニ)のような町が位置しているが、 人里と海辺沿いの山道を交互に通り抜ける間に悩みや苦しみが紛
れるような気がした。ノクサン灯台路に向かう道の随所に緑色の 網のようなもので覆われた畑が目に入った。畑仕事をしている女
性に尋ねてみたらヘプンスク(ヨモギの一種)という。巨文島の特
産物で、自然の海風にさらされて澄んだ香りとコクのある風味が
特徴で、スープにしたり、葉っぱを乾燥させてお茶を作ったりする
という。灯台路に上る直前、海洋公園で人魚の像を見た。シンジ
48 Koreana 春号 2015
私が小さい入江の村で、窓のある家に宿をと るのは、波の音を聞くためだ。昼夜 、春夏秋 冬を問わず、たとえ寒い冬の日でも私は窓を 開けっぱなしにして波の音を聞きながら眠る。 幸い、韓国の宿はオンドル構造だから、私の この趣向がさほど無理ではない。
キまたはシンジケと呼ばれる巨文島の人魚は、色白の肌に黒いロ
い愚直な友達のことだから、韓昌勳は彼の話を全面的に信用した
ングヘアをしているが、月の明るい夜や未明に現れ、絶壁に石を
と書いてある。シンジキ人魚の話が愛おしい人生の夢物語であれ
台風から救ってくれたりもするという伝説がある。陸地から遥かに
現実生活の苦しみを露呈する物語に違いない。龍形象の絶壁と神
はないだろう。巨文島で生まれて幼年時代を送った小説家・韓昌勳
・コースの醍醐味と言える。天涯の崖に沿って海を眺めながら進む
巨文島の過去の風物を温かく描き、彼の幼馴染みから聞いた鬼の
し、トンネルのようにも見える。人々は、この道を恋人の道と呼ん
投げつけたり、音を立てて船員たちが暗礁を避けるようにしたり、 ば、釣り針に噛みついて水からあがってきた水鬼の話は、極めて 離れた島の町に美しい人魚の伝説が一つくらいあっても不思議で
(ハン・チャンフン) は、小説『海もたまには島の陰をのぞき込む』 で 物語が興味を引いた。漆黒のような夜、島の脇に位置するノダル
仙岩を通り抜けて巨文島の灯台路に向かう道は、このトレッキング
道の果てにツバキの森が続く。森の道は、洞窟のようにも見える
だりもするが、愛する恋人同士が手をつないでツバキの花に囲ま
カンに夜釣りに出かけたが、何か強烈に釣り糸を引くものがあった。 れた森の道を歩く姿を想像するだけでも嬉しくなる。森の道は、 釣り糸を引き寄せて釣れたものを引揚げると、女が釣針に噛みつ
落ちたツバキの赤い花と森の中を飛び回る鳥たちのさえずりが明
友達は必死になってその水鬼と戦ったという。ものすごく力が強か
て、何と愛おしい象徴なのだろう。灯台は、暗い夜の海を明るく
けてこちらに目を向けていた。女が友達に近づいて襲い掛かった。 るい感じを与える。その道の一番端に灯台が待ち受けているなん ったんだな。学校もろくに通えなかったが、嘘一つついたことのな
照らす。道に迷う船がその光を目印にして手を振りながら再び方
韓国の文化と芸術 49
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向を見出すことができる。1905 年開灯した巨文島の灯台は、今
1. 三つの島が屏風のように風と波を防いでくれる状態に置 かれた巨文島の内海は、静まり返っていて穏やかだ。 2. 巨文島は、590 余世帯に 1,400 余人の島民が暮らしてい る小さい島だ。よそ者である旅人を快く迎えてくれる島の 人の優しい微笑みのおかげで心が和んでくる。
では引退してわびしい姿で立っている。 2006 年新築した高さ 33 mの灯台が傍らから新しい光をまき散らす。15 秒に一度閃光を浴
びせるこの灯台は 42㎞の外海でその光を見ることができる。
母の子守歌に似た波の音 2
日が落ちると埠頭のほとりの小さい民宿を訪れて一夜を過ごし
た。宿を決める際に私がこだわる一つの条件がある。海に面した
窓―大きさにこだわらず、ガラス面が白く濁っていても構わない。
ただ窓が一つがらんとした壁にかかっていれば良い。私が小さい
な入り江の町の窓のある家に泊まりたいと思うのは、波の音を聞く
ためだ。昼夜、春夏秋冬を問わず、どんなに寒い冬日でも私は窓
を開けっぱなしにして波の音を聞きながら眠る。幸い、韓国の宿 はオンドル構造だから、私のこの趣向がさほど無理ではない。私
にとって夜の波の音は母の子守歌のようなものだ。波の音は、私
の体内の D N A のように密かに母の子守歌を呼び出し、母が私を 膝の上に抱えて歌ってくれた美しい思い出を導き出す。ほかの人た
ちも同じだろう。子守歌を憶えている人たちは、自分の夢をずっと
愛する人たちであり、そのような人々が集まって暮らす巨文島は、
これまでずっと温かく平和なところだったはずだ。
50 Koreana 春号 2015
美しい島、巨文島旅のルート Gimpo International Yongsan Station Seoul Airport
Yeosu Airport
Yeosu EXPO Station Yeosu
Geomundo Jejudo
Airway High Speed Railway Expressway
ソウル→麗水 自動車
ソウルから麗水まで4時間くらい
かかる。盤浦洞(バンポドン)のセントラル
アマチュアバンド 「灯台」 と詩を愛する母親 巨文里の公民館で町のバンドに出会ったの
は幸運だった。去年、町の住民たちが集まって
結成したこのバンドの名前は「 灯台 」だ。まだ、 公の公演はないが、練習するその情熱だけはど
のプロバンドにも勝るとも劣らない。合わせて
13 人のこのバンドが美しかったのは、彼らがい ずれも町の住民で、昼は各自生業に携わり、夜 になると集まって練習し自分たちの夢を育んでい くということだった。 Kはバンドの団長でドラムを叩く。建築家 兼デザイナーで巨文島に建物を建て、室内のイ ンテリアをする。中学校時代にドラムを叩きたい と思っていたが、今になってようやく夢を叶えた わけだ。42 歳のPは、バンドの末子でメインボ ーカルを務めている。昼は巨文島に2台しかな いタクシーの運転手をしている。『旅行に出かけ ましょう』のような歌を楽しく歌い、観客の間か ら歓 声が 上がった。Yは民 宿を経 営している。 陸での事業の失敗が重なって深刻なうつ病を患 ったが、巨文島に定着してから3年で健康を取 り戻したという。再び日常生活をきちんと送るこ とができるようになったが、これこそ巨文島の風 と日差しと波の音が与えたプレゼントだろう。彼 はベースギターを演奏する。Jのサックスフォン 演奏は素晴らしかった。 32 年間の兵役歴にふさ わしいベテランの面貌が彼の演奏に溶け込んで いた。 ギターを奏でるTとの出会いには温かいも のがあった。麗水の会社に通ってしばらく故郷 の町に寄ったという彼が私に聞かせてくれた話を 綴る。26 年前彼が軍隊生活をしていた際に、母 親が彼宛てに手紙を送った。その手紙に母親は 詩一編を書いたが、その詩がほかならぬ私の詩 だったそうだ。 彼は重ねて私の名 前を確 認し、 彼と私は記憶の彼方にある手を一つずつ差し出 して握手をした。彼の母親は学生時代文学少女
Kimpo シティーターミナル ( hticket.co.kr Yongsan Station )で高 International 速バスを利用すると4時間 Seoul 15 分かかる。午 Airport 前5時 30 分から 30 分おきに運行する。料
金は一般バスは 20,700 ウォン、優等バス
だった。夜通し詩集を読み、そのように読んだ
は 30,800 ウォン。
自分に手紙を書いた時は、今の自分の年齢より
まで直行で行くコースは1日9回、運行時
その夜、私は民宿の窓をいっぱい開け放
隔で運行している。詳しい内容は韓国鉄道
詩のうち一編を息子に書いて送ったのだ。母が
一つ若い時だったと彼は言った。
して寝床についた。波の音が母の子守歌のよう に静かに聞こえた。夜が明けるとTの母親に会え
ると思うとなかなか眠れなかった。40 年間以上
の歳月を詩を綴りながら送った。私が書いた詩
が人々の心の中に一匙の魂の糧になることを望ま
ないわけではないが、そのような詩が私にあるか
KTX
龍山(ヨンサン)駅から麗水 E X P O
間は3時間 40 分がかかり、大体2時間間 で確認できる。 公社( korail.com )
航空
大 韓 航 航 空とアシアナ航 空が金
浦−麗水を1日3∼4回運行し、価格は曜
日によって異なるため、航空会社のホーム ページであらかじめ確認したほうがいい。
と聞かれると答えられないようだ。夜が明けると 彼女に聞いてみよう。どの詩を書いて息子に送っ
たのか。もし私の詩の中のある一編が追い詰め
Yeosu Passenger Terminal
られた人には魂の糧になったかもしれないと思っ
たら、この 40 年間の人生が水の泡のように空し
Yeosu
いことばかりではなかったような気がした。
船に乗って西島に渡り、Tの母親に電話
を掛けた。「詩を書くクァク・ジェグです。お目に かかりたいと思いますが」真心を込めて暖かく声
をかけたら、彼女の声が聞こえた。「私はもうす
Geomundo
By Ship
っかり老いぼれたお婆さんですよ。若い時代は
麗水旅客船ターミナル→巨文島
ギをとって、海で海藻をとって時間を過ごしてい
覧船が午前7時 40 分、午後1時 10 分の1
詩が好きだったんですね。今は裏山の畑でヨモ
ます。今はすっかり老い込んで恥ずかしくて顔を
麗水旅客船ターミナルから巨文島行きの遊 Jejudo
日2回出港し、巨文島旅客船ターミナルか
合わせないんですよ。胸が詰まってきた。私はそ
ら午前 10 時 30 分、午後3時 50 分に回航す
向に従ったほうがよいと思ったからだ。一筋の
の船便の料金は 72,200 ウォン。
の日、Tの母親に会えなかった。ただ彼女の意
魂の糧になりえた詩一編が得られるかもしれな
いという夢は消え去ったが、心だけは温かった。
る。片道の所要時間は1時間 26 分、往復
気象状況などにより運航ダイヤに乱れ
が生じるので、予め麗水旅客船ターミナル
若い時に詩を読んで、年をとりヨモギをとって、
の代表番号( 1666-0920 )で確認したほう
に戻る船首で西島を眺めながら手を振った。十
けられていないが、麗水市庁のホームペー
彼女の人生は温かいものといえるだろう。麗水
が良い。外国人向けの島案内サービスは設
年が経つと、私が今の彼女の年齢になるだろう。
ジ( y s t o u r . k r )にアクセスすれば、英語、
りしめたい。
約された巨文島の情報を閲覧できる。
その時、もう一度巨文島を訪ね、彼女の手を握
中国語、日本語、フランス語にそれぞれ要
韓国の文化と芸術 51
遠くの目
わずかな経験 齊藤歩
さいとう・あゆみ、ソウル大学校人文大学助教授
ソウル以外の経験は本当に乏しい。最初に出かけたのは水原だった。 民藝研究で有名な浅川巧さんが愛した場所ということで、秋夕に一人 で出かけた。強い日差しの下で「これからどうしようか」とひとりごちな がら華城を歩いたことを思い出す。その冬には南漢山城に出かけ、済 州島の大きな光景に圧倒された。
私
がソウル大学校に赴任してから二年半が過ぎた。アジア 言語文明学部というところで主に日本の古典文学を担当
しているが、まだまだ試行錯誤の連続といっていい。今
回は勤務についてではなく、いくつかの小旅行を中心に綴ってみよ
うと思う。
実家が福岡であるのに、私の韓国体験は 2012 年 5 月に大学に
来たのが最初だった。玄界
を越えて 1 時間しかかからない。こ
の隔たりが言葉をはじめ様々な文化の違いを生んでいるということ が不思議に思われるほどだ。
最初に 「韓国に来て一番印象的なことは?」 と聞かれて、バスか
ら見た高層アパートのことを答えた。まだ東日本大震災の感覚が
生々しい頃で、「韓国には地震は無いのですか?」と尋ねると、そ
の先生はいやにはっきりと「ありません」と断言した。「私たちは日 本の人はよくあんな所に住んでるなと思いますよ」。確かに、東京
に帰ると「あ、いつグラッと来ても不思議ではないんだな」と思って 緊張する。
高層アパート群はソウル風景の大きな要素だが、街の表情は
本当に多様だと思う。北村の韓屋はもとより、鐘路を少し入った
若干離れた繁華街である。日本の商店街がショッピングモールに
押されて寂しげなのにくらべて、健康的な活気に満ちている。ただ、
わずか二年でも、また冠岳区の大学街でも移り変わりは激しい。
日本で「オリンピックの頃に行きました」という方に会うと、全然違
っていただろうなと思う。
ソウル以外の経験は本当に乏しい。最初に出かけたのは水原だ
った。民藝研究で有名な浅川巧さんが愛した場所ということで、 秋夕に一人で出かけた。強い日差しの下で「これからどうしようか」
とひとりごちながら華城を歩いたことを思い出す。その冬には南漢
山城に出かけ、済州島の大きな光景に圧倒された。 (*写真 1−3 )
翌年の春には仁川の中華街に遊んだ。日本から恩師が見えて、
昔の留学生の方々−現在は教授として活躍中−が案内して下さっ
た。色々説明してもらいながら現地を歩くのは興味深い体験であ
る。それにしても、4 月 14 日にチャジャンミョン発祥の地に出かけ
るとはタイミングがよすぎではなかったか。博物館のおばさんが笑
いをかみ殺しているように感じたのは気のせいか。「元祖」の店は 確かにひと味違っていた。
その年の秋夕は坡州に出かけて、統一展望台やヘイリ藝術村
小路などでもタイムスリップしたような感覚におそわれる。大通り
を訪ねた。「北」に接するのは初めてである。韓国の方がどのよう
も言えない懐かしさを感じた。南山の漢江側の、
なだらかな山の稜線と静かな水面を眺めるだけである。
よりも一本内側が面白い。落星垈の市場を見つけたときはなんと 瓦造りの住宅
が建て込んでいる丘なども子どもの頃に見た絵本の記憶に通ずる
ものがある。
韓国の方としては汝矣島や江南のオフィス街を見てほしいのだ
ろうと思うが、私の好みは大学路や弘大、新村のような都心から
52 Koreana 春号 2015
な思いでこの風景を見ているかを想像することはできない。自分は
去年の 5 月には、再び恩師と同窓生とで安東へ一泊旅行した。
陶山書院と河回マウルは、ともに大きく曲がった川の流れに面して
いて詩的な風景が広がっている。途中の高速道路も合わせて、韓
国の田舎を見るのも初めてだった。ソウルの江南に戻ってきて、そ
の隔たりに驚いた。
7 月には、母と兄を迎えたのだが、自
分自身がソウル、 韓 国のことを知らない。
大学・中央博物館・漢江クルーズ・江華島・
王宮を案内したのだが、どこに行くべきな
のか、どこが「韓国らしい」のかわからない。
もちろん全てが 韓 国らしい、のだと思う。 そして、これは飜って日本の古典・文化を 紹介する自分の仕事にはねかえってくる問
いかけになるのだろう。
この小文の締め切り直前には公州と扶
余へ行って来た。日本と交流の深かった百
済の古都である。公山城の上から見る錦
江は『日本書紀』に記されている「白村江」
である。千三百五十年前「水に赴きて 死
者衆し」という合戦が行われた故地に身を 置くのは特別な経験となった。扶余の文化
団 地 には 王 宮 や 寺 院 が 復 元されている。
歴史を偲びながら新しい場所を訪ねるのに
は精神的な手応えがある。今度は陸路で
慶州・ 山まで行って、船で福岡へ帰省し
たいと思う。
まだ自在に一人旅はできない。水原を
除いて全部、学生や同窓生のお世話にな
っている。誠に申し訳ないのだが、お陰で
旅先で土地の味を楽しみながら一献するこ
とができる。この辺で「韓国の味」について 書いておくべきだろう。
韓国に来て「自分は辛いものに強いの
1
2
3
1. 水原 2. 南漢山城 3. 済州島
だ」 ということに気がついた。なんでも美味
しく食べる。学生との集まりでは、サムギ
ョプサルやカルビが多くなるから、気心の 知れた少人数ではコプチャンやスンデで一 杯やることが多い。困るのは一人で飲む店
がないことで、学生に「先生は一人でお酒
を飲みに行くのですか?」と聞かれ「日本で は、店に行ったら友達がいるんですよ」 とい
うと、「どうして始めからみんなで行かない のですか?」と返されてしまった。酒友の
面々を思い出して、待ち合わせて出かける
様子を考えると、ちょっとおかしい。
本当にわずかな経験しかない。しかし、
最初の新鮮な感覚はすり減ってしまってい
る気もする。そういう時は 「まだ何も知らな
いじゃないか」と自分に声をかけて日々暮ら
していこうと思う。
韓国の文化と芸術 53
グルメを楽しむ
パク・チャンイル 朴賛逸、シェフ
チョ・ジヨン 写真
もっとも大衆的で もっとも特別な食べ物 遠足の朝に母の作くってくれた懐かしいキムパプから、ふところ事情が寂しい時に嬉しい 1000 ウォンの超低価キムパプ、そして最近のウェルビングブームに乗った高価なプレミア ムキムパプまで。味も値段も背景もさまざまな韓国を代表する大衆的な食べ物、キムパプ を紹介しよう。
母
てもご飯粒と具がぴたっと収まらない。それで普
は幼い私によく「おつかい」をさせた。今、
段よりもずっと気を使ってご飯を炊いていた。ふっ
私が調理師になった理由は母の食料品の
お遣いのおかげかもしれない。料理という
のは、どんな材料が必要か、よい材料とは何か、価格
は適当かを一つ一つ考えながら食材を準備することから始ま
くらと炊き上がったご飯に塩で少し味をつけ、傷まな
いように酢を少し加えれば、キムパプ用のご飯が出来上
がる。その次に中味の具の準備だ。早朝、4時か5時頃だっ
るが、私は鼻たれ小僧の頃からそういう経験を十分に積み重ねて
たろう。薄焼き卵を作って細長く切り、ほうれん草と人参を炒める
たいほど気分が良かった。翌日には美味しいキムパプが食べられ
見ていた。
ま揚げ、ソーセージなどの具材とともに海苔を2帖買ってきた。お
苔を敷いて、その上にご飯を均等に伸ばし、準備した具材をご飯
海苔が高価で手に入りにくかった時代、海苔はそのままで食べて
このとき力が強すぎても、弱すぎてもいけない。キムパプを切り分
苔からは海の香りがした。
という事態が生じる。これは韓国人が「あきれてしまうような状況
遠足の日の最高のお弁当
最後はよく巻かれたキムパプを、刃先のよく尖った切れ味の良い
きたというわけだ。海苔を買って来てと言われた日は、飛び上がり るという期待に胸を膨らませてほうれん草、人参、タクワン、さつ
香ばしい匂いで家族は眠りから覚め、母のキンパプ作りの手元を 一番面白かったのはキムパプを巻くところだ。巻きすだれに海
つかいの帰り道密かに海苔の端っこをちぎって口に入れたりもした。 の真ん中に えておき、力を調節しながらクルクルッと巻いていく。
遠足の日の朝、母のキムパプ作りはご飯を炊くことから始まっ
た。水気が多いとキムパプの形がうまく整わず、かといって固すぎ
54 Koreana 春号 2015
けるのもまた難しい。下手をすると「キムパプの脇腹が飛び出す」 を描写する時の笑い話」としてよく使うほど、大変な出来事なのだ。 包丁に水をつけながらトントンと切っていく。母の切ったキムパプ
はいつも一口では口に入りきらないほど大きかったものだ。
© Baruda Kim Sunseng
もとても美味しかった。そして汗をかいた手にそっと貼りついた海
キムパプは海苔にご飯と 野菜などの具をのせて丸 く巻 いた 食 べ 物 だ。 最 近はキムチ、ツナ、チー ズ、煮干、しょうゆ漬け など、 様 々な 材 料 が 使 われている。
韓国の文化と芸術 55
キムパプの由来は日本から来たのか、それとも 昔からこの地に伝わる固有の食べ物だったのか については未だに論争が続いている。日本式の 巻き寿司や太巻き寿司が植民地時代、あるいは それ以前の開港期に伝わったのだという人がい るかと思えば、韓民族は昔から海苔を食べてき たので、海苔でご飯を包んで食べるのは当然の ことだと主張する人もいる。
1
キムパプが全く美味しいと感じなかったのは、雨のせいで遠足
が中止になり講堂や教室に集まって、この美味しいはずの弁当を 食べた時だった。教室には草木の匂いも五月晴れの日差しもなか
ったからだ。
キムパプ、味も形もさまざま
キムパプの辞書的な定義は「海苔にご飯と野菜などの具をのせ
て丸く巻いた食べ物」だ。キムチ、シーチキン、チーズ、カタクチ イワシ、しょうゆ漬けなどの具を入れて多様な味をだす。形も、ご 飯を三角形にして海苔で巻いたら三角キムパプ(おにぎり)、子供
が一口で食べられるくらいに小さく巻いたらコマキムパプ、具を海
1. キムパプ作りは見ているだけでも楽しい。特に色とりど りの食材をご飯の中心に整えておき、巻いていく光景 は食欲をそそる。 2. 最近、新たに登場したプレミアム・キムパプはキムパプ が庶民の食べ物だという既成概念を破り、目新しい味 と店内のおしゃれなインテリアでアピールし、特に若者 の間で大きな人気を集めている。
という話が伝わっている。
では韓国人はいつからキムパプを食べ始めたのだろう。キムパ
プの由来が日本から来たのか、それとも昔からこの地に伝わる固
有の食べ物だったのかについては未だに論争が続いている。日本 式の巻き寿司や太巻き寿司が植民地時代、あるいはそれ以前の開
港期に伝わったのだという人がいるかと思えば、韓民族は昔から
海苔を食べてきたので、その海苔でご飯を包んで食べるのは当然
のことだと主張する人もいる。
国内第1号の水産学博士であるチョン・ムンキ博士の『朝鮮の
水産』という本には、朝鮮の海苔の歴史は二百年前に全羅南道莞
島でパンリョム(方廉)という漁具に海苔が付いて育っているのを 苔で巻いてその上からご飯を巻いたらヌードキムパプというように、 見て養殖を始めたと記録されている。この本はキムパプの元祖論 最近ではキムパプの種類もいろいろだ。全国的にも人気のある地 争とは関係無しに海苔の養殖だけは韓国で自発的に始まったとい 方の個性あふれる異色キムパプもある。慶尚南道忠武(統営の昔
の地名)で始まった忠武キムパプが最も代表的なケースだが、普 通のご飯を海苔で巻いて大根キムチのカクテキとイカの唐辛子和
えのような辛い付け合せと一緒に出すのが特徴だ。港町の忠武ら
しく、時間に追われる船乗りたちに配慮した食べやすいキムパプだ
56 Koreana 春号 2015
う点を強調している。これより前、1640 年代の人物であるキム・ヨ イクという両班の功徳碑が全羅南道光陽にあるが、そこには 「丙子
胡乱(清国による朝鮮侵略戦争)の際に義兵として活躍し、仁祖の
代に海苔を養殖して村を豊かにした」と書かれている。世宗大王の 時代に作られた『慶尚道地理誌』と成宗の時代に編纂された『東国
2
興地勝覧』 にも海苔が紹介されていることから見て、海苔は養殖を
汁やキムチまで一緒に出してくる店もある。とにかくこの超低価格
始める前から韓国人の食卓に登場していた海の食べ物であったこ
キムパプは経済的に苦労をしている多くの人々にとって非常にあり
慶尚南道河東には海苔の養殖に関する有名な話が伝わってい
それとは反対に「プレミアムキムパプ」もある。体に良い新鮮な
とが分かる。
る。 300 年前に蟾津江で貝を拾っていたお婆さんが大きな木片を 拾ったところ、この木に海苔がたくさんくっついていた。それに着
がたい食べ物であることは間違いない。
無農薬食材を使い「ウェルビング料理」だとアピールして高価な値
段で販売されているキムパプだ。「 皇帝キムパプ 」と非難したり、
眼し、竹に海苔をつけて海に突き刺して育てたと言う話だ。これ
ずる賢い商法だと批判する人もいるが、一方ではキムパプが常に
廉価のキムパプ対プレミアムキムパプ
あるレストランでキムパプを楽しむ事だってできるという考え方は
は 「支柱式」 と言われる最も古くからある海苔の養殖方法だ。
キムパプは学校の遠足や家族で出かけるときに食べるご馳走だ
安い食べ物だとは限らないではないかと主張する人もいる。庶民
の食べ物だという固定観念を破って洒落たインテリアの雰囲気の
斬新だ。しかしどれだけ多くの人が 5000 ∼ 6000 ウォンの高価な
ったが、今や最も安くて誰もが知っている庶民の食べ物となった。 キムパプを楽しむ心と経済的な余裕があるかは疑問だ。今後プレ キムパプ1本の値段は最も安いもので 1000 ウォン、これは普通の
ミアムキムパプが、超低価格キムパプに対する対向と新たなグルメ
価格を常に分析しているが、市中で売られている1本 1000 ウォン
過ぎた日、栄養豊かな健康食だったキムパプの位置を再確認する
ライスの値段よりもさらに安い。私は調理師なので料理の材料と の超低価格のキムパプはどうやって利潤をあげているのか常に疑
問だ。ただのご飯一杯でも普通の食堂で 1000 ウォン以上受け取
っているというのに、様々な調味料と海苔、具をいれて、中には
に対する渇望が生み出した一時的なトレンドに終わるか、あるいは
意義深い試みとして記憶されるかはまだもう少し見守らなければな
らないようだ。
韓国の文化と芸術 57
ライフスタイル
セルフィースティック
症候群
昨年、「セルフィースティック」 (自撮り棒)が多くの消費者調査で今 年のヒット商品として選ばれた。1mまで伸びるスティックの先端に
携帯電話を固定した、セルフィー(自撮り)のための補助機材が突然 最高の人気商品として浮上した背景には、韓国の高いスマートフォ ン普及率と活発な SNS 文化にある。 ク・ボングォン
具本権、ハンギョレ新聞・人間とデジタル研究所長
最
近、韓国を訪れた外国人観光客たちが考える「 韓
より格好いい写真撮影のアングルを与える。これがセルフィ
会社が外国人観光客 466 人を対象にアンケート調
残り24 の発明品リストがワイアレス充電、アップルウォッ
国で最も風変わりな風景 」は何か。昨年、某旅行
ースティックの持ち味だ」 と紹介した。
査を行ったところ、回答者のうち、 48%が韓国で一番変わ
チ( A p p l e W a t c h )、3D プリンター、ブラックフォンなどの
を上げた。現に、最近景色のいい観光地はもちろん、市内
れたということが一層興味深い。これは革新的な技術の発
ることができる。アンケートに応じた豪州出身のある外国人
だ。セルフィースティックのアイデアは、1983 年日本で初め
った風景として「セルフィースティックを利用した写真撮影」 のいたるところでもセルフィースティックの利用者を簡単に見
は、「長い棒を手に腕を伸ばして写真を撮っている人たちの
先端技術製品だという点で、セルフィースティックが選定さ 明品と言うよりは、新しい文化現象の象徴物により近いから
て登場し、1985 年米国で正式に特許登録されたものとされ
姿は、ほかの国ではなかなか見られない風 景 」と答えた。
る。遅いシャッター速度の写真を撮る際に、手ぶれを防止す
服装姿の都心のサイクリング族」、「色鮮やかなアウトドアウ
許内容は現在とさほど変わらない。ここ30 年間の間、大衆
( 因みにそのほかの韓国の変わった風景としては、「 独特な ェア姿の韓国観光客」、「 寒暖の差の大きい天気」などの順
となった)
旅行必需品として浮上
実はセルフィースティックの流行は韓国に限ったことでは
ない。米国の時事週刊誌『タイムズ』も、セルフィースティッ
クを 2014 年最高の発明品 25 個のうち一つと選定した。『タ
るモノポッドがセルフィー用に進化したもので、アイデアと特 的な需要層に出会えなかっただけだ。
韓 国 で セルフィースティックが 目につき 始 めたの は、
3∼4年前からだ。初期の頃は、スマートフォンを棒につけ
てポーズをとる姿に違和感を感じたが、腕を伸ばして 「イケメ
ン角度(顔写真がきれいに見える角度)」の自撮りに、類まれ な超広角と臨場感を提供する長所が確認され、若者を中心
に一気に人気商品として浮上した。自撮り棒は、特に旅先
イムズ』は、「 2013 年がセルフィーという新造語が出た年だ
で脚光を浴びている。自撮りでは、同時に収めにくい背景と
けられた年だった」とし、「新しい市場が生まれ、多くの会社
だ。
ルフィースティックについては、「利用者の腕の長さを超えて
か」と赤の他人に頼む煩わしさが無くなり、いつでもどこでも
ったとしたら、2014 年はセルフィーが文化現象として位置づ
がセルフィーに必要な機材を作り出している」と説明した。セ
58 Koreana 春号 2015
同行者たちを一つのフレームの中に収めることができるから 一人旅の旅行者にとって、「写真を撮っていただけません
セルフィースティックは 腕を伸ばして「 イケメン な角度( 顔写真がキレイ に 見 えるようにする 角 度)」の自撮りをするのに、 超 広 角と臨 場 感 のある 長 所 が 好まれ、 若 者を 中心に一 気に人 気 商 品 として浮上した。
韓国の文化と芸術 59
1
好きな場所と撮りたい画角を選んで自分で撮影できる
自由が得られた。韓国でセルフィースティックが大衆化
された決定的な契機として、バックパックの海外旅行
をテーマにしたテレビ番組『花より青春』を挙げる向き
もある。出演した芸能人たちがセルフィースティックを 活用しながら旅の行程を楽しく愉快に収める姿が電波
自分の顔がもっときれいに写るように撮るのが自撮りの 本領だが、本質的にその目的は自己満足よりは関係作 りにある。いわゆる「共有のための自撮り時代」が到来 した。
で流れ、旅行の必需品として急速に広がった。
韓国のセルフィーステック・ブームの背景
韓国でセルフィースティックが爆発的な人気を呼ん
だ背景を、より具体的に見てみよう。まず第一に、I T 大国の韓国のスマートフォン普及率は、未来創造科学
部によると79.4%で、世界一を誇っているが、これは
O E C D 諸国の平均より4.6 倍も高い( 2014 年ベース)。 最新型高価な L T E スマートフォンの普及率も、55%を 超えてこの分野もやはり世界トップを記録している。ユ ーザたちの一日平均スマートフォンの使用時間は3時 間 39 分であり、その中で S N S の利用時間が一番長い と調査された。韓国でセルフィースティックの人気が断 トツに高い現象は、他のどの国の人たちよりも韓国人 がスマートフォンとS N S を多く利用するところによるも のと分析できる。 第二に、韓国人は最新の流行をいち早く受け入れ て享受する。いつも新しいものを探し求め、これを熱 狂的に消費する特性がある。多くのグローバル企業が 韓国を一種の新製品の市場を占うテストケースとして 見なしている理由もここにある。本格的なグローバル 市場進出に先立って、韓国市場で消費者たちの反応と 成功の可能性を占う場合が少なくない。映画や大衆歌 謡、ベストセラーのような文化商品も、ブームの波に
60 Koreana 春号 2015
1. 海外バックパッカーを素 材にしたテレビ番組『 花 より青春 』に出演した芸 能人たちが、セルフィー スティックを利用して旅 行の過程を楽しくて愉快 に収める姿 が 電 波で 流 れ、 旅 行 の 必 需 品とし て急速に広がった。 2. 自撮りが特に旅行先で脚 光 を 浴 び る 理 由として、 同時に収めにくい背景と 同行者たちを一つのフレ ームの中に収めることが できるからだ。
乗ると一気に「大ヒット」となり、若い女性の服装やヘ
アスタイル、メイク方法のような個人的な趣向も、支
配的な流行によって作られる場合が多い。このように
流行に敏感な情緒がセルフィースティックのブームを巻
き起こしたと言っても過言ではない。
三番目の背景は、韓国人が外見に高い関心を持つ
傾向にある。若者の強い自己表現欲、外見磨きとセル
フィースティック・ブームは相互に深くかかわっている。 その最たる例として、2013 年イギリスの 『エコノミスト』 は、国際整形医学会の報告書を引用し、人口対比整
形手術比率において韓国が世界一位と報告している。
また 2013 年イギリスの 『フィナンシャル・タイムズ』 の報 道によると、世界の男性用化粧品市場でも、韓国は全
体の 20%を記録し一位となった。
米国精神医学会は、 「自撮りSNSに載せることにより、
自己満足にひたり他人との親密感を高めようとする現象
を「 selfitis 」と定義した。自分の顔がもっときれいに写る
ように撮るのが自撮りの本領だが、本質的にその目的は
自己満足よりは関係作りにあるのだ。いわゆる「共有のた
めのセ自撮り時代」 が到来した。セルフィースティックはま
さにこの時代が作り出した創作品に他ならない。
2
韓国の文化と芸術 61
韓国文学の旅
作家評
闇から光に向かう道 チャン・ドゥヨン 文学評論家
チョ・ヘジン(趙海珍)の小説にはラルゴ( largo )と いう言葉がよく似合う。「きわめてゆるやかに、非常 に豊かに」チョ・ヘジンの小説は的確な単語となめら かな文章でゆっくりと、決して途切れることなく事実 を語り継いでいく。目新しい素材や発想に依存しす ぎたり、ユーモアとウイット、アイロニーを頻繁に使 用するような類の小 説ではない。 緻 密に計 算され た「ゆるやか」さが集まり、積み重なり、小説の結末 に至ると非常にずっしりとした感情の余韻を残すこと に成功している。このような点でチョ・ヘジンの小説 は人間の人生と日常の断面を繊細、そして鋭利な視
線で掴み取る短編小説の美学的な本能に忠実に従っ ていると言えよう。
作
品『 光のドーム』も「ゆるやか」さの要素でい
っぱいだ。それはこの小説の導入部から鮮 明に現われている。ニューヨーク空港に到着
したばかり、入国審査へ向かって歩いていく 「ボク」が
しばし歩みを止めるところから小説は始まる。それぞ
れの行き先に向かって忙しげに歩いていく人々で賑わ
うニューヨークの空港は現代の都会の人間の日常を 集約的に取り出した象徴的な空間だ。主人公は「 急
ぎ」のど真ん中で歩みを止めて突然「ゆるやか」な時間
に向かっていく。「ボク」が歩みを止めたのは窓の外に 降る雪のせいだ。空港の滑走路を覆っている雪は空
から音もなくゆっくりと地上に降りてくる『ゆるやか』な 結晶体だ。「ボク」はゆっくりと舞い降りてくる雪の速
度に合わせてしばし歩みを止め、そのような「ゆるや
か」な時間の中で多忙な日常を抜け出し、過去の記憶
の中の遙かな風景と遭遇することになる。そこから小
説はゆるやかではあるが決して放棄することのない粘
り強さで過去の秘密に向かって進んでいく。
そのとき「ボク」の耳元に蘇る記憶の中のメロディ
ーもまた限りなくゆるやかだ。誰が歌った歌なのか、
題目が何かも分からないまま、ただ一日中口ずさんで
しまうようなそんな歌、他の人には聞こえない自分の
耳にだけ聞こえてくる歌だ。小説の中の主人公もかす
かなメロディーを一つ思いだす。そのメロディーは「長
い歳月を通り越して」遠い、遠い過去の遙かな記憶
に「 ボク」をゆっくりと導いていく。「 小さな寒い部 屋」 「日曜日の雪の積もった運動場」 「薬品の臭いが鼻
を突く病室」のような場所に導くメロディーに従い「き
62 Koreana 春号 2015
わめてゆるやかに、非常に豊かに」続く歩みがこの小 説の叙事的なリズムを形成する。
「 ゆるやかな時間 」の中で始まる叙事的な流れは、
用意周到、綿密に計算された暗示と緩急巧みに調節
された展開、そしてよく練られた構成によりいろいろ な複合的な意味を産出する。ゆるやかで、落ち着い
た、時には敬
ささえ感じさせる独特な雰囲気の中
で、小説は一織り、一織り丹精を込めた職人の手仕
爛さを見せてくれる。このとき「ボク」と他者の間の共感は非常に
ゆったりとした重い躊躇の過程を経ることになる。主人公の「ボ
ク」はその誰かのそばに行き傘でも差しかけてあげようかと一瞬思
うが、一つの傘の下で二人の間に立ち込めるであろう沈黙が負担
になり止めてしまう。「ボク」は共感や疎通を干渉だと認識し「他
人の個人的な事情を生半可に共有したくはなかった」と告白して
いる。このようなゆっくりとしたつらい過程は他人との真の疎通を するにはいかに深く、堅固な真実が要求されるかを私たちに物語
事を連想させる手つきで進んでいく。小さな手がかり
っている。
たもう一度人間の存在と人類文明に対する洞察への
程だ。細やかな隠喩の技法で展開するストーリーを追っていくと、
を集めて感
を生み出し、そのような感
が集まりま
手がかりとなる、一連の過程を一つに結びつけたのが
この小説だ。
まず第一に、この小説は
解きの過程だ。忘却の
渦を飛び越え、過去の真実と対面しようとする主人公
の努力に我々読者は喜んで同行する。一つずつヒント が与えられ、「ボク」はそのヒントを長い間、静かに見
つめる。そのヒントはほとんどが「もっと時間がたった 後で、雪の降る運動場にポツンポツンと刻まれた足跡
のように一歩ずつゆっくりとボクに近づいて来た」記憶
の向こうから聞こえてくるメロディーは本人が望んでも
第三に、この小説は人間に求められる偉大さが何かを知る過
私たちの無関心のせいで世の中から疎外され寒くて暗い部屋に幽
閉された他者の姿が現われる。それは個人的な次元である時も
あり、歴史的な次元の時もある。どちらにしても大切なことは彼
らが寒くて暗い部屋から脱出できるように一筋の光を渡してあげ
ることだ。人を生かすこと、すなわち『 光のドーム』を与えること は「だれでもできるものではない偉大なこと」であると同時に「誰で
もでき、またしなければならない人間の義務 」なのだとこの小説 は静かに主張している。
小説の中の主人公はこう語る。「 足跡の中に光が入っている。
光をいっぱい乗せた小船のようじゃない」私たちの周辺には、い
すぐに分かるものではなく、自然と少しずつ、そして
つでも、どこにでも光がある。ただその光を見つけるためには真
ロディーが「 長い間、ボクの心の一部を占めていたこ
ばならない。「 躊躇 」を飛び越える勇気が必要だ。そのような努
ゆっくりと近づいてくるものだ。それで「ボク」はそのメ
実を回復しなければならず、他人に向かって手を差し伸べなけれ
とにゆっくりと気付く」のだ。
力を通してその「小さな光」は私たちの周りの孤独で、疎外された
する過程だ。周辺の疎外された人々に言葉をかける
やかで豊かな声で他人にむけた真実の疎通の可能性を語っている。
第二に、この小説は他人に対する真の理解に到達
方法と、それを契機に一筋の光が差し込む瞬間の燦
人々を護衛する「偉大な光」となることができる。作家はそのゆる
そしてそれがこの小説が言おうとしている人間の倫理だ。
韓国の文化と芸術 63