Koreana Summer 2015 (Japanese)

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夏号 2015

韓国の文化と芸術 特集 夏号 2015 vol. 22 no. 2

伝統市場

韓国の市場:ロマンチックなかつての情景; 夜明けの眠りを覚ます人々: 私の市場物語

ISSN ISSN 1225-4592 1975-0617

www.koreana.or.kr

vol. 22 no. 2

市場、その歴史と進化


韓国のイメージ

Water our digital edition by Magzter. Issues are


暑い夏に 熱をもって熱を制す

参鶏湯 サムゲタン

キム・ファヨン

金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

統的な韓屋の前に人々の列ができている。みんな袖の短い夏の服

を着ている。

真夏に何のお祝いだろう。

屋根の軒先に大きく書かれた看板がこの人々の期待を雄弁に物語ってい

る。「参鶏湯」の専門店。ここの代表的な料理はもちろん参鶏湯だ。大門の 横のムクゲの花が描かれた四角い表示は、この食堂が国から公認された模

範飲食店であることを物語っている。人気の食堂だ。しかし韓国の参鶏湯

の専門店はここだけではなく無数にある。

「参鶏湯」は名前のとおり鶏肉と高麗人参を入れて茹でた料理だ。しかし

本当はそんなに簡単ではない。若鶏を1羽、もち米、高麗人参、ナツメ、

ニンニク、エゴマの粉など、好みに合わせてさまざまな材料が動員される。 食べ物と薬を同一の枠の中で考えてきた韓国人の伝統的な信念が作り上

げた料理の中の一つが参鶏湯だ。必須アミノ酸の多い鶏肉。高麗人参は体

内の酵素を活性化して新陳代謝を促進し、疲労回復を助ける韓国の特産物

だ。ニンニクは強精剤、 栗とナツメは胃を保護しながら貧血を予防する。

それで韓国人はたくさん汗をかいて気力が衰えやすい暑い夏の夏バテ解消に、 熱をもって熱を制する料理の一つとして、グツグツと煮えたつ参鶏湯を食べ

てきた。

養鶏技術の発達した今日では、季節に関係なくヒヨコを孵化させるが、

「若鶏」 昔は春に孵化したヒヨコが夏には 500gほどの中位のヒヨコ、つまり

になると、そんな柔らかい鶏肉で夏の暑さに打ち勝つことのできる栄養食を 作ったのだ。一年の中で最も暑くなる土用の丑の日に参鶏湯を食べるとい

う食文化は、冷蔵庫の普及した 1960 年代以降に生まれて流行した。一年中、 いつでも楽しめる栄養たっぷりの参鶏湯は今や韓国人が大好きな四季を通

じたメニューとなった。

日本の小説家村上春樹は彼の小説で「参鶏湯は朝鮮最高の食べ物」だと書

いており、以後、日本人が韓国に来ると必ず食べていくという食べ物が参鶏

湯となった。そして今や、その後に続いて中国人観光客が列をつくっている。

それで夏になると参鶏湯の専門店の前の列がさらにどんどん長くなるのだ。


発行人 編集理事 編集長 編集諮問委員

柳現錫 尹錦鎭 金鍾徳 裵炳雨 崔寧仁 韓敬九 金華榮 金英那 高美錫 宋惠眞 宋永萬 emanuel Pastreich Werner Sasse 監修者 嘉原和代 坂野慎治 翻訳者 金明順 朴美貞 クリエイティブディレクター 金三 金貞恩、盧倫永、朴信恵 編集 李栄馥 アートディレクター 金智賢、李成基、葉蘭敬 デザイナー 編集 金熒允編集会社 韓国ソウル特別市麻浦区西橋洞 385-10. 秋思軒ビル 3 階 Tel : 82-2-335-4741 Fax : 82-2-335-4743 www.gegd.co.kr 印刷 三星文化印刷 韓国ソウル特別市城東区聖水洞 2 街 278-32 Tel : 82-2-468-0361 ~ 5

Koreana ホームページ http://www.koreana.or.kr 価格 韓国内:6000 ウォン 韓国外:9US ドル 定期購読料:詳しくは『 Koreana 』 80 ページをご参照ください。

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編集長からの手紙

いつの時代にもありうる物語

「若い時分はこんな物売りはできなかったよ」。全南求礼の市場の道端に座板

を広げて腰を下ろし、売り物を並べてお客を待っていたおばあさんが言った。 おばあさんが山や野原で摘んできた山菜を売り始めたのは、子育てが終わり、 自分も年を取った後であった。おばあさんは「ここに来ると周りのおばあさん とおしゃべりもできるし、小遣いも稼げるし、いいんだよ」と言って微笑む。 摘みたての山菜を山積みにしながら、しゃべっているおばあさんの日焼けして 皺の深くなった顔が笑っている。

市場はどこも世間話でにぎわう。今季夏号の特集「市場 、その歴史と進化」

では、韓国の市場にまつわる物語を紹介している。市場にある人々、品物、地 域性、そして移り変わる市場模様など。この特集の編集は大変な作業であっ

た。市場を調べるために現場へ行き、記事を作成し、相応しい写真を選んだり する作業は煩雑を極めた。

しかしコリアナ編集のために払うべき努力と守るべき原則は、自画自賛に陥

らず、現場をリアルに描写することである。相互の文化交流では、もっとも地 域的なことが、ときとしてもっとも普遍的であることを、いつの時代にも変わ らないものがあることを我々はと信じているから。

このような物語を異なる9か国語で世界中の読者に伝えることはとても難し

いことである。私たちの目標はどのような文化圏や言語圏であっても、「でき る限り正確な翻訳」を提供することである。このような目標で毎回コリアナを 編集することは大きな問題だけではなく、関係者全員にとってやり甲斐ある挑 戦であると思われる。この夏号では伝統市場や他の記事を通して愉快で心あた たまる韓国物語を楽しんでいただきたい。

韓国の文化と芸術 夏号 2015

掲載された記事は筆者の個人的な意見で あり、『 Koreana 』や韓国国際交流財団の公 式見解ではありません。

1987 年 8 月 8 日文化観光部 -1033 で登 録された季刊誌『 Koreana 』はアラビア語、 インドネシア語、英語、スペイン語、 中国語、ドイツ語、フランス語、ロシア語でも 発刊されています。

日本語版編集長 金鍾徳

『市日』 ファン・ヨンソン(黄栄性)、1982年、 キャンバス・油彩、38×45.5cm。 日除けを張った露店と商人など田舎の 五日市の様子が、細やかな色調で情感 豊かに表現されている。

Published quarterly by The Korea Foundation 韓国国際交流財団 ソウル市瑞草区南部循環路 2558 外交センタービル


文化遺産の継承者

消え行く旋律をたずねて

34

鄭在淑

アート、レビュー

23

40

許しと和解の鎮魂クッ 演劇女優ソン・スクの「オモニ」 金寿美

オン・ザ・ロード

潭陽、古い森を歩きながら、 人生が伝説の延長線上に あることを悟る

38

44

郭在九

20

43 グルメを楽しむ

特集

市場、その歴史と進化 特集 1

韓国の市場 ダイナミックな 生活とロマンの舞台

ムック 韓国のスローフード 朴賛逸

54

エンターテインメント

Webドラマは、ドラマ市場の 主流になれるか

04

テーマ市場の繁栄と衰退 タイムトラベルへのいざない

韓国文学の旅

12 遠くの目

時をこえて

李潤鼎

特集 3

夜明けの眠りを覚ます人々 私の市場物語

22

箕輪吉次

李明娘

特集 4

市場 地域文化の中心地へ

58

魏根雨

李昌起

特集 2

54

28

朴恩英

44

52

悲しみの向こうにある 光と希望に向かって叫ぶ 張斗寧

『窓の向こうは冬』 崔恩美

60


城南の牡丹(モラン)市場。 4日と9日に開かれる五日 市で、ソウル近郊の都会の 人たちに人気。950 の店に は平日でも 10 万人が訪 れ るほど規模が大きい。

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特集1 市場、その歴史と進化

韓国の市場

ダイナミックな生活と ロマンの舞台 イ・チャンギ

李昌起、詩人・文学評論家

安洪范 写真

韓国の伝統的な市場は、村と村がつながり、人と人が出会う場所だ。遠くへ嫁に行った娘の話を聞くのも、額 に汗して作った農産物を必要な日用品と交換するのも市場だった。このように韓国人の暮らしの基盤だった市 場が、姿を消そうとしている。今では、きれいで品揃えのいい大きなショッピングセンターやスーパーで買い物 をする。私たちは、そこで情緒や思い出を買えるだろうか。

べての伝統には有効期限がある。韓国は 5000 年とい

農夫が売ったり交換したりする品物で、早朝からいっぱいになる。

歴史は、それよりもずっと短い。新石器時代の衣食住

担いでいく。何人かは陳列台を準備して絹布、麻布、腰紐、よ

う長い歴史を誇るが、受け継ぎ守っている伝統文化の

の文化などは、誰も伝統とは思わない。またその昔、唐でも流

行したという高句麗の羽毛の付いた鳥羽冠(チョウグァン)や幘

籠に入れたニワトリやブタ、草履や麦わら帽子、木の匙などを そ行き用の靴、絹の糸、手鏡、鏡、タバコ入れなどを売る」。

最初の文は、ゲーテ( 1749 ~ 1832 )が書いた『イタリア紀行』

(さく)のような折風帽(チョルプンモ)をかぶって自慢する者もい

9月 17 日、ヴェローナ」の一部である(ヴェローナ の「( 1786 年)

50 ~ 60 年前のものであり、韓服や韓屋も朝鮮時代中期以降の

韓国を訪れたイザベラ・バード ( 1831 ~ 1904 )が書いた『朝鮮紀

ない。 今、 韓 国 人 が 伝 統 の 味 だ と考える食 べ 物 は、 わずか

ものがモデルになっている。

は、ジュリエットが住んでいた街)。二番目の文は、 19 世紀末に 行』の一部で日清戦争直後、開城から平壌に行く道すがら立ち寄

それでは、韓国の伝統的な市場とは、どういうものだろうか。 った黄海道の鳳山(ポンサン)市場を描写したものだ。どこが同

その伝統とは何だろうか。二つの文から探ってみよう。

じで、どこが違うのだろうか。

旅人の目に映る市場の風景

期 待を裏 切らない。リゾートのきらめくサファイアブルーの波、

ンニクやタマネギが無造作に積み上げられる。人々は、一日中

ィで彩られた都 市の裏 通りといった写 真に魅 せられた観 光 客

んかが始まったりして、終始声を上げて笑う。気候は穏やで食べ

アドバイスによって好奇心旺盛な遺伝子を刺激され、あっさりと

「市の立つ日には、各広場に野菜や果物がいっぱい並び、ニ

声を張り上げ、お喋りしたり歌を歌う。そうしているうちに、け 物は安いため暮らしやすく、たくさんの楽しみが、そこかしこに 散らばっている」。

この二つの文は、洋の東西を問わず人々が思い描く市場への

空と陸が織り成す壮大な夕焼けの秘境、色とりどりのグラフィテ は「1日くらい旅先の平凡な市場を回ってみては?」という高尚な 忙しい日程を変えてしまうだろう。

「 普段は静かでうつうつとしている村は、市の日に一変する。 農業の発達による市場の拡大

色とりどりに賑わい、人の波が寄せては返す。市場へ行く道は、

この豊かな敍情が今日の市場の伝統だと考えるなら、その伝 韓国の文�と芸� 5


統的な市場の始まりは 18 世紀頃と見るべきだろう。研究者によ

農業技術が普及し、小麦への依存度が低くなり、代わりにトウ

ると、韓国の市場は 17 世紀末から 18 世紀初に全国に広がった

モロコシやジャガイモが主な作物となっていく。そのような環境

しない民間の手工業が発展し始める。取引が頻繁になり、規模

市場の発達を後押しし、多くの物と人でごった返す豊かな市場と

という。まず、その時期に農業生産が大きく増え、続いて農耕を が大きくなるに従って、貨幣経済が発達する。それに伴って自然

と居住地も広がり、村も増える。朝鮮時代の地方の市場「郷市

(ヒャンシ)」は、一日に歩いて往復できる 30 ~ 40 里(1里は約

400 m )ごとに立ち、5日ごと開か れる五 日 市 は 19 世 紀 初に

的な要因は、農業をはじめ多くの産業の革命的な変化とともに

いうロマンあふれる記憶を人類に植え付けたのだ。

私がソウル暮らしに挫折し、何の縁もない京畿道・利川の長湖

院(チャンホウォン)に流れ着き、農業を営む人たちの間に紛れて、

にわか作家として暮らし始めて 20 年になる。最初はよそ者ぶっ

1000 カ所を超えていた。「褓負商(ポブサン)」という行商人の組

て市場を「視察」していたが、今ではすっかりスウェット姿で、手

そうした社会の変化をもたらした背景には、気温の変化があ

いビニール袋を提げて、あちこちぶらつくようになった。そうして

織が登場したのも 18 世紀中頃だ。

る。いわゆる小氷期が終わったのが、ちょうど 18 世紀。ヨーロ

ッパの事情も同じだ。生産性の低下でひどい飢饉に苦しんだヨ

ーロッパが、食糧需給の安定を取り戻したのも 18 世紀。新しい

にはきな粉をまぶしたヨモギ餅や手づくり豆腐の入った大きな黒

偶然会った隣町の奥さん連中と、冗談交じりのあいさつを交わ

すようになって久しい。

1 求 礼(クレ)市 場の鍛 冶 屋。 職 人 は、 今でも火床で焼いた鉄を何度も金槌 で打って、かま、爪くわ、草取りかま などの農具を作っている。 2 竜仁(ヨンイン)市場の魚屋。周りに アパート団 地と大 型スーパーができ、 伝統的な五日市も一時は活気を失っ たが、住民の市場活性化運動のおか げで、最近は勢いを取り戻している。

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陸路と水路が交わる場所に市が立ち人が集う

市場だ。黄海から入ってきた塩や干魚などが、安城と竹山を経

昔の賑わいとは比べものにならないが、それでも長湖院市場

て内陸に供給された。すでに 100 年前から安城の特産物だった

谷、安城郡・竹山からわざわざ買い物に来る人も多いため、活

規模がどれほどのものか察しがつくだろう。長湖院も漢江の支

集散地で、 1930 年代にはすでに汽車が通り、銀行に米豆市場

は水かさが増し、塩とアミエビの塩辛を積んだ帆船が入ってきた。

は他よりも規模が大きい。店も多く、驪州市・占東、陰城郡・甘

気にあふれている。有名な利川米の産地であると同時に穀物の ができたという伝統が今につながっている。

田舍にある市場の規模を知るには、いくつかの条件を見ると

良い。一つ目は、川があるかだ。韓国は山が多く、陸路よりも

真鍮製の器を売る店だけでも 50 軒以上あったというから、その

流である清渼川が流れている。水量は少なく見えるが、梅雨に 帰りには米などの特産物を積んで、漢江でソウルに向かった。

川の水がなくなる渇水期でも、常に船が出入りできる最後の

船着場を「可航終点」と呼ぶ。清渼川を 20 ㎞ほど下ると牧渓(モ

水路の方が時間もかからず安全だった。そのため、陸路と水路

ッケ)の船着場に出る。ここが漢江水運の可航終点だ。牧渓の

院市場から 30 ㎞ほどの距離にある安城(アンソン)市場は、黄海

きた数十隻の黄布帆船で賑わいを見せていた。そうした品物は、

ソウルへの要所なので、技術者や商人が絶えず集まる代表的な

積んだ船が着くときに臨時で立つ市で、たいていひと月に3度開

の拠点となる場所に立つ市場は、たいてい規模が大きい。長湖

の牙山湾や平沢を流れる安城川に沿って水路があり、陸路でも

船着場は長年、仁川港で塩や干魚、塩辛、日用品などを積んで

朝鮮半島南側の内陸各地に売られていった。牧渓市場は、塩を

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かれ、市が立つと数日の間続いた。当時は船で働く人だけでも

た。長湖院の牛市場は、嶺南地方(慶尚道)から出発して聞慶

ちていたという。

いと隣近の仲買人でごった返した。牛市場に釜をかけて火をた

いの羅州(ナジュ)市場と栄山浦(ヨンサンポ)市場、錦江沿いの

匂いが早朝、道を急ぐ人たちの食欲をそそる。牛市場はほとん

数百人に上り、船着場とつながった牧渓市場はいつも活気に満

蟾津江沿いの求礼(クレ)市場と河東(ハドン)市場、栄山江沿

江景(カンギョン)市場、洛東江沿いの亀浦(クポ)市場が、陸路

と水路の拠点に立つ大きな市場だった。

二つ目は、牛の市場だ。牛の商人は、普通5頭ほどの牛を

売る牛飼いが5~ 10 人で「牛商隊(ウサンデ)」を組んでいた。で

セジェの峠を越え、忠州(チュンジュ)市場を経てやってきた牛飼

けば、出てくるのは肉のスープ。釜から漏れる湯気と香 ばしい

どが消えてしまったが、長い歴史を誇る有名なクッパ(スープご 飯)店や焼肉店は、今なお受け継がれて人々を笑顔で迎えてい

る。

きるだけ近い道を移動する普通の商人とは違い、牛商隊は遠回

貪官汚吏を追い出して独立万歳を叫ぶ

この牛商隊がとどまって牛市場が開かれてこそ大きくなる。この

りの人たちを1カ所に集める役割は依然として残っている。農閑

りしても坂道を避けながら市場から市場へと移動した。市場は、 牛市場の周辺に並ぶ飲み屋は、市場に欠かせない見どころだっ

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伝統的な市場は、物を売買する機能こそ低下しているが、周

期なら売買する物がなくても、市の立つ日には必ず出かけてみ


1 城南・牡丹市場のポン菓子屋。ポン という音とともに、米やトウモロコシ などの穀物を膨らませたポン菓子は、 郷愁を誘う懐かしいお菓子 2 潭陽の竹物市場で、手作りの箕(み) を並べて客を待つおじいさん。竹物 (竹細工)市場は、プラスチック製品 と中 国 製 品 による需 要 減 少で 1980 年代中頃から次第に姿を消し、今で は竹製品の店が並んでいる。

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1

竹とともに生きる人々 竹物市場物語 キム・ヒョンジン

金賢真、フリーライター

五日市が開かれる日、潭陽(タミャン)を訪れた。今ではその

名残は見られないが、 1980 年代中頃まで、ここは全国で最も

大きな竹物(竹細工)市場だった。当時は、竹で作れない日用

品はないほどだった。遠足や行楽のとき、プラスチック容器に 入れた海苔巻は傷みやすいが、竹の容器なら時間が経ってもお

いしく食べられた。竹には殺菌作用があり、通気性が良くひんやりしているため、冷蔵庫のような 役割もするという。

竹物市場が開かれていた時代には、全国津々浦々から人がやってきた。買付人は、朝7時から

開かれる市に合わせて、近くで1日泊まって早朝から出かけていったという。腕の良い職人の作っ

た品物は、市が開くと同時に売り切れるほどの人気で、先を争って買い求めた。その時代、品物

を大量に仕入れる買付人が貨物トラックを借りたため、潭陽では一時、運送業も栄えた。だが、

プラスチックの登場により、竹物市場はいつの間にか消え去ってしまった。

竹を薄く細く割り、しごいた竹ひごで編んだ箱は、物入れに丁度良い。染色した竹を編んだ「彩

箱(チェサン)」は、たいへん優雅だ。ソ・ハンギュ(徐漢圭、 1930 ~)先生は竹の敷物を作ってい

たが、屋根裏で祖母の嫁入り道具の彩箱を見つけ、その技術を取り戻そうとした。それが契機に なって、今では重要無形文化財第 53 号の彩箱匠となった。

しかし実際のところ、職人は竹製品の未来が明るいものではないと感じている。手間隙を考え

ると全く割に合わず、政府の支援もあまりないからだ。ソ・ハンギュ先生には一定の補助金が支給

されているが、4人家族の最低生活費にも及ばない。彩箱の教育・伝授を担当しているキム・ヨン

グァン(金永寛)氏は、浮かない表情で言う。「支援金よりも、国が一定の量を買い上げてくれたら いいのですが…。私たちは物を作るのに忙しくて、マーケティングや販路の開拓には手が回りませ

ん。政府が彩箱を市民の皆さんに広めてくれたら、支援金より何倍も助かります」。

竹博物館の前でチンソン工芸を営む竹工芸職人のパク・ヒョスク(朴孝淑)氏も、5歳の時から

竹工芸に携わってきた夫と、心を込めて竹細工を作っている。しかし、彼女は子供に継がせた

いとは 思 わない。「 先が見えないのでは、 継がせられません。私が大 変 なのは 構いませんが、 未来がないのに跡を継ぎなさいとは言えません」。涼しげな竹製品を見ていると、かつて賑わっ

ていた竹物市場が思い浮かぶ。美しさとは何とはかないものなのだろうと、思わず目をそむけて

しまった。

韓国の文�と芸� 9


市の立つ日に出かければ、ニュースでは知ることのできない世の中の動きが分かる。世の中の動 きといっても、誰それが耕運機ごとあぜ道から転げ落ちて怪我をしたとか、どこそこの娘が嫁入り 前に子を生んだというようなものだ。そこに酒でも入ろうものなら、政治について文句を言い始め るのがお決まりだ。そうした議論に花を咲かせる市場のアゴラの機能は、時には途方もない社会 的反響を起こしもする。

る。今でも田舍の人たちの大きな暇つぶしの種だ。韓国には「人

が市場へ行くと言えば、種の入ったかごを背負ったまま付いてい

く」ということわざがあるように、そこまでして行きたいものなの だ。

市の立つ日に出かければ、ニュースでは知ることのできない

そうかと思えば、市場は民衆の遊びの場でもあった。市場が

新たに作られたり移される場合、それを知らせるために市を開

いたのが、いわゆる露天で品物を売る「乱場(ナンジャン)パン」 だ。朝鮮相撲、網引き、双六のようなユンノリ、農楽・仮面劇や

曲芸などを披露する男寺党牌(ナムサダンペ)ノリなど、あらゆ

世の中の動きが分かる。世の中の動きといっても、誰それが耕

る民俗的な遊びが行われ、行き交う人たちの目を引いた。

嫁入り前に子を生んだというようなものだ。そこに酒でも入ろう

市場は環境への配慮と市場の近代化という名分によって分離さ

うした議論に花を咲かせる市場のアゴラ(広場を指すギリシア語)

賑やかな市場が主な舞台だった五広大(オグァンデ)ノリ(仮面舞

運機ごとあぜ道から転げ落ちて怪我をしたとか、どこそこの娘が

ものなら、政治について文句を言い始めるのがお決まりだ。そ

の機能は、時には途方もない社会的反響を起こしもする。

全羅北道の井邑と新泰仁の間にあるマルモク市場は、 1894

年にチョン・ボンジュン(全琫準、 1855 ~ 1895 )が腐敗した役人

しかし今や、水路は水利事業と高速道路によって途絶え、牛

れている。集会やデモは、市場よりも役所の前の広場で行われ、

劇)やタルチュム(仮面舞)のような演戯は、都心にある設備の整

った劇場で手厚い待遇を受けている。

消費者の要求によって、市場の衛生環境や駐車施設は以前よ

の圧政に苦しむ農民とともに蜂起した場所として有名だ。この

りもずっと良くなった。しかし、田舍の市場の見どころや面白み、

が、韓国人の心に韓国近代史の重要なひとこまとして刻まれて

に観光地がある市場や特産品を扱う市場は、それでも良い方な

東学革命(甲午農民戦争)は失敗に終わり、多くの無念を残した

いる。

天安の竝川(ピョンチョン)市場は、日本の統治に立ち向かっ

た独立宣言書と万歳運動を記念する場所とされている。1919 年

3月1日から全国各地で万歳運動が起き、竝川でも市の立つ日

食べる楽しみは薄れ、品物の量や質も昔より劣っている。周り

ので、伝統的な市場を生かす方法が全くないわけではないよう だ。

春は裏山で採った山菜、秋は菜園で収穫した農産物を頭に載

せて出かける。お馴染み同士並んで座り、持ってきたものを市場

には多くの群衆が集まって独立万歳を叫んだ。当時、韓国を統

の片隅でこぢんまりと広げる。人間観察を楽しみ、小遣い稼ぎ

死傷者が出た。そのときに万歳運動を主導し、獄死したユ ・グァ

を売る老婆の楽しみも、いつかは消えてしまうのだろう。迷いと

治していた日本の警察は、銃剣でそうした運動を阻み、多くの

にもなるが、時には根無し草のような辛さも味わう。こうして物

ンスン(柳寛順、 1902 ~ 1920) は、今日ではジャンヌ・ダルクに

さすらいという自由を手に、行く末を決めかねている若い旅人に、

川に柳寛順烈士紀念館が建てられ、天安に独立紀念館が設けら

の冗談と温かな視線…。私たちは、いつまで失わずにいられる

例えられ、韓国独立運動のヒロインとして崇められている。竝 れたのも、竝川市場の万歳運動と無関係ではない。

10 KoreaNa 夏号 2015

そんなことは何でもないというように投げかける、この賢者たち のだろうか。


鎮川(チンチョン)市場で ナムル( 山菜 )を売るお ばあさん。 春 の 五 日 市 では、近くの野山で採っ た山菜を売るおばあさん も多い。

韓国の文�と芸� 11


テーマ市場の繁栄と衰退 タイムトラベルへのいざない 特集 2 市場、その歴史と進化

イ・ユンジョン

李潤鼎、京郷新聞週末企画部記者

シム・ビョンウ 写真

特定の品物を扱う「テーマ市場」には、取引の機能だけでなく、庶民の苦楽、時間と国境を行 き来する物語が込められている。昔ながらの市場は、旅を夢見る者とって時空を超えるおすす めスポットだ。 12 KoreaNa 夏号 2015


「腰

を痛めたときには、ムカデがいいらしい。お婆

ちゃんと一 緒 に市 場 へ 行くよ」。30 年 ほど前、 崩れた塀を直していたおじは、ひどく腰を痛め

てしまった。病院へは行ったものの、全く起き上がること ができなかった。そこで祖母は、腰に良いという薬をあ

ちこち探し求めた。10歳にもならない私を初めて京東(キ

ョンドン)市場に連れていったのは、祖母だった。

薬令市の代名詞、京東市場

市場は活気にあふれていた。普通の市場のように、い

ろいろな物を売るたくさんの店が、クモの巣みたいに広が

っていた。その中心は薬材を売る店だ。変わった名前の

さまざまな形をした漢方薬の原料が、種類ごとに並んで

いた。祖母はその中から乾燥ムカデを見付けた。まるご

と乾燥したムカデには、たくさんの足がまるで毛みたいに 付いていた。店の人は、祖母が選んだムカデを念入りに

臼で砕いた。小さなカプセルにつめられる粉状のムカデ。 献身的な祖母のおかげだろうか、はたまたムカデが効い

たのだろうか。おじは数カ月後、元気な姿で職場に復帰

した。

子供の頃のことを思い出そうとすると、なぜか京東市

場が浮かんでくる。韓国の市場の存在感は、ここ数十年

で薄くなっている。大型のショッピングセンターやスーパ

ーがあちこちにでき、インターネットでショッピングすれば

クリック一つで何でも家まで届けてくれる。そんな中、京

東市場は、昔ながらの市場の伝統を守っているのだろう

か。

およそ 300 年の歴史を持つソウルの薬令市・京東(キョンドン)市場には 1000 もの店があり、漢方の薬剤ならほとんど手に入る。

韓国の文�と芸� 13


ソウル地下鉄1号線の祭基洞(チェギドン)駅。路地に入ると、 ら江華の家内制手工業として発展した。高麗時代にモンゴルの

何ともいえない漢方薬の匂いが漂ってくる。頭上には「ソウル薬 令市」の看板が堂々と掲げられている。ここから東大門区の祭基 洞、竜頭洞、典農洞一帯、約 10 万㎡にソウル薬令市場、京東

侵入で江華島が臨時首都になった 39 年間、王室と官僚のため

に最高級の花紋席が作られた。朝鮮時代には『世宗実録』 『林園

経済志』 『喬桐郡邑誌』など多くの文献に江華の花紋席について

新市場、京東旧市場、京東ビル、ハンソル東医宝鑑などがある。 記録されている。実学者ユ・ドゥッコン(柳得恭、1748 ~ 1807 ) 薬令市の歴史は、朝鮮第 17 代国王・孝宗(ヒョジョン)の時代

は『京都雑誌』に「それなりに良い暮らしをしている両班(特権階

ため、王命により年に2回、春と秋に開かれたが、単に薬材流

民族性を奪おうとした日本も、花紋席は高い品質を認めて奨励

(在位 1649 ~ 1659 )までさかのぼる。全国の漢方薬を集める

級)の家では、花紋席を使っている」と記している。統治の中で

通の拠点というだけでなく、困っている人たちを助ける機能もあ

した。江華花紋席は、夏は通気性が良く、冬は冷気を防ぐ。ま

うための治療所が4カ所、王命によって設置されていた。衣食に

花紋席市場の面影を求めて江華に向かった。花紋席体験村が

った。漢陽(現ソウル)には朝鮮時代、貧しい人や病人などを救 事欠く民に食べ物や着る物を配り、病んだ人たちを治療した場

た、つやが簡単に消えず、丈夫で長持ちする。

ある江華郡・松海面・堂山里と花紋席文化館がある陽呉里を訪れ

所だ。興仁之門(東大門)の外側にある現在の安岩洞ロータリー

た。陽呉里のハン・チュンギョ(韓忠教)先生が約 130 年前、朝

どだが、敷地が確認されているのは、薬令市にほど近い普済院

まな模様を生み出した。花紋席の模様は、朝鮮中期まで主に龍、

の普済院(ポジェウォン)、弘済洞の弘済院(ホンジェウォン)な だけだ。

しかし、日本の統治が終わる頃、薬令市は

危機に直面する。独立運動の拡大を阻むため

に、日本は人・物・情報の交流が活発な薬令市

を強制的に閉鎖したのだ。活気を取り戻した

のは戦後、 1960 年代に入ってからだ。清凉里 駅と馬場洞市外バスターミナルを中心に、漢 方薬を扱う商人が一人、二人と集まって、自

然と市場が形成された。全国の漢方薬は現在、 薬令市を通じて約3分の2が流通されている。

30 年以上ぶりに訪ねた京東市場は、その歴

史にふさわしく活気に満ちていた。ソウル薬令

鮮王室の求めでオシドリ、山水、卍模様、民話などからさまざ 虎、不老長寿を象徴する十長生などで、一般の家庭では無地の

薬令市の歴史は、朝鮮第 17 代国王・孝宗(ヒョジョン)の時 代(在位 1649 ~ 1659 )までさかのぼる。全国の漢方薬を 集めるため、王命により年に2回、春と秋に開かれたが、 単に薬材流通の拠点というだけでなく、困っている人たち を助ける機能もあった。漢陽(現ソウル)には朝鮮時代、貧 しい人や病人などを救うための治療所が4カ所、王命によ って設置されていた。衣食に事欠く民に食べ物や着る物を 配り、病んだ人たちを治療した場所だ。

市には、祖母が買った乾燥ムカデをはじめウシガエル、栗の渋

白い物が使われていた。

は「昔ほど繁盛しているわけじゃないけど、やっぱりここが韓国

間4万9千点が生産されていた。当時は江華の農家の3分の1

皮、山椒、月見草など珍しい薬材があふれている。ある店主

華やかな模様の花紋席は、 1980 年代まで江華島だけでも年

一の薬令市ですからね。最高級の漢方薬がそろっていますよ」と

に当たる約4千の家が、花紋席に携わっていた。しかし 1990 年

鮮半島で発達した中国医学系の医術・薬学)の歴史を紹介する韓

を運営するコ・ミギョンさんは「花紋席を作るより、都会に出て給

果物、魚などを扱う市場につながっている。漢方薬の匂いに体

は江華の五日市でも、花紋席市場が別に開かれていましたが、

言う。薬令市の向かい側にある東医宝監タワーには、韓医学(朝

代に入ると、目に見えて減っていった。堂山里で花紋席体験場

医薬博物館がある。迷路のように伸びる路地を進むと、 野菜、 料をもらった方がもうかるから、やめてしまったんですよ。以前 が癒され、賑やかな市場に心も弾む。

消えゆくテーマ市場

京東市場のように今でも昔のままに賑わっているところもある

取引がどんどん減って、今では全く開かれなくなりました」と言う。 江華で花紋席を作っているのは、今では 10 軒ほどに過ぎない。

このように特産品を主に扱う「テーマ市場」は、紆余曲折を経

てきた。今でも名品とされる晋州市・金谷面の竹谷麻布(チュッ

が、歴史から姿を消していった市場も多い。江華島(カンファド)

コクサンベ)は、晋州五日市などで主な商品として扱われていた

1990 年代に姿を消した。花紋席は、主な材料にイグサに似た

麻織物の伝統は、 1590 年代から 400 年以上続いてきた。「キル

の 伝 統 工 芸 である花 紋 席(ファムンソク、 花ござ )の 市 場 も、 が、今では村の麻布展示館でしか見られなくなった。竹谷里の 莞草(ワンゴル、カンエンガヤツリ)を使い、高麗時代の中頃か 14 KoreaNa 夏号 2015

サム」という言葉は「糸を紡いでそれを織り、布を作ること」を意


1

1 ソウル 踏 十 里 は 1980 年 代 以降、ソウル各地に散らば っていた 140 ほどの古美術 商が集まり、骨董品街にな っている。 2 朝鮮戦争当時に始まった釜 山・宝 水 洞 の 古 本 屋 通 り。 毎年 10 月には「宝水洞古本 屋通り文化行事」が開かれ、 釜山の代表的な文化・観光 スポットとして脚光を浴びて いる。

韓国の文�と芸� 15 2


1

16 KoreaNa 夏号 2015


味している。麻の茎から取り出した繊維を細く裂き、より合わせ

で何でもそろうトッテギジャン(闇市)の国際市場ができた。忠武

すべて女たちの仕事だった。金谷面では、 30 ~ 40 年前まで村

利(チャガル)が多いためチャガルチ市場と呼ばれるようになった。

農家だけが伝統を守っている。80 歳を超えた作り手は「こんな

小さな露店に客を呼び込むおばさんたちも、昔ほどではなくなっ

て糸にして、布を織って染色するという大変手間のかかる過程は、 洞にある宝水川の河口には、海産物を取引する市場ができ、砂 を挙げて機織りをしていたが、 2015 年現在 20 世帯に満たない に大変な仕事は、子供や孫にはさせたくない」と言う。それで

場所を移してきれいに整備されてからは、モンペにエプロン姿で、 た。それでも、チャガルチ市場は釜山の象徴に変わりない。近

も「麻布で孫に服を作ってやると、着心地がいいって喜んでくれ

くの宝水洞は、古本屋通りとして有名だ。国際市場の近くの通り

らね」と、丁寧に織られた麻布を撫でる。

は現在、かわいらしいブックカフェや色鮮やかなグラフィティアー

てね。だから、大変でもやめられない。麻の服は本当にいいか 牛を売買した牛市場も、同じ運命をたどっている。1918 年末

の調 査によると、 当 時の家 畜 市 場 は 全 国で 655 カ所もあった。

で、リンゴの箱に古本を並べて売買したのが始まりだ。宝水洞

トが加わり、フォトスポットとしても注目を集めている。

時代の流れに逆らうテーマ市場もある。ソウル踏十里(タッシ

そんな全国の牛市場は、今ではなくなってしまったり、規模が小

ムニ)の古美術商店街は、できた当時の 1980 年代そのままの姿

に有名だった清道(チョンド)牛市場も、東谷(トンゴク)五日市

出て大通りから少し入ると、朝鮮時代に男性がかぶったカッ (冠)

さくなったりして、昔のような風景は見られなくなった。全国的

を残している。ソウル都市鉄道5号線・踏十里駅の1・2番出口を

の1カ所が残るのみだ。1930 年代にできた東谷五日市は、清

から陶磁器、木の器、民具、古書画、外国で競り落とされた古

五日市の牛市場は 1959 年に始まり、 1998 年から清道畜産業協

人は古いものを求めて仁寺洞を訪れるが、本当に古い物に興味

道の商圏の中心として 1960 ~ 70 年代に大いに賑わった。東谷

美術品まで、博物館にあるような骨董品が並んでいる。多くの

同組合に移管・運営されてきた。2010 年には電子せりシステム

があるなら踏十里に行くべきだ。1980 年代に清渓川、阿峴洞、

道谷洞牛市場や馬場洞肉屋街などのように、昔の賑わいを思い

十里に集まっている。

ている。

会のチョン・セヨン(千歳栄)事務局長は「『骨董』は、骨を煮込ん

が導 入され、すっかり様 変 わりしている。牛 市 場の跡 地には、 忠武路、黄鶴洞などから移ってきた 140 ほどの古美術商が、踏 起こさせる牛肉のクッパ(スープご飯)など味自慢の店だけが残っ

朝鮮戦争後に生まれた新たなテーマ

すべてのテーマ市場が、衰退の道をたどっているわけではな

い。朝鮮戦争の後、新たな市場も生まれた。戦時中、釜山は

最大の避難先だった。全国から集まった人たちが、狭い地でひ

しめき合いながら暮らしていた。米軍の軍用物資と釜山港に入っ てきた品物が活発に取引され、南浦洞一帯には家電から衣料ま

古美術品は骨董品と呼ばれる。社団法人ソウル踏十里古美術

で深い味わいを出す中国の食材を指すそうです。古い物から新

たな意味を見出すという意味があるのでしょう」と説明する。ま

た「 骨董 」は古代中国では、 がらくたを指す俗語だったという。

手垢がついて古ぼけた物だが、時間が経つと希少価値が生まれ、 美術史的な意味を持つ。そうして骨董品は、古美術へと生まれ 変わるのだろう。踏十里古美術商店街を歩けば、時代と国を超

えるタイムマシンに乗った気分になれるはずだ。

1 慶尚南道・陜川畜産業協同組合の家畜市場。かつては五日市の規模を測る目安と された牛市場。電子せりなど近代的な管理システムの導入で、今では昔の面影は ない。 2 江華島の花紋席(ファムンソク)市場。花紋席は、染色した莞草(ワンゴル、カンエ ンガヤツリ)を編んだ花ござ。美しいだけでなく、蒸し暑い夏を快適に過ごせるた め、韓国で長らく愛用されてきた。

2 韓国の文�と芸� 17


1 2

知っていれば楽しさ倍増-ソウルの市場 キム・ヒョンジン 金賢真、フリーライター

南大門市場

南大門(ナムデムン)市場は朝鮮王朝初期の 1414 年、漢陽都

食べてお腹を満たす番だ。国籍を問わずいつも人でごった返して

いる南大門市場の「モクチャコルモク (うまいもの通り)」を代表す

城の南の正門近くで始まった。その後 1911 年、親日派の官僚ソ

る食べ物は、何といってもカルチジョリム(太刀魚の煮つけ)だ。

を設立し、今のような市場へと発展した。1922 年には所有者が

と、他の食堂もそれ真似たため、今ではすっかり「カルチジョリ

ン・ビョンジュン(宋秉畯、 1858 ~ 1925 )が朝鮮農業株式会社

30 年ほど前、ある食堂で出した太刀魚の煮つけが人気を集める

日本人になり、 1936 年には朝鮮総督府訓令によって中央物産

ム通り」へと発展している。おいしい太刀魚を食べようと南大門

日本の商人の独占によって韓国人の店は減り、何とか残ってい

歴史が長いだけに紆余曲折のストーリーも特別な南大門市場

市場に名称が変わるなど、紆余曲折を経てきた。その当時は、 市場を訪れる人が後を絶たない。 た店は塩川橋の方へ追いやられた。1945 年の終戦後、日本が

は、明洞、ロッテデパートとも近く、これからも外国人旅行者に

撤 収すると韓 国 人 が戻ってきて活 気を取り戻し始 めたものの、 最も人気のある市場であり続けるだろう。

1950 年6月に起きた朝鮮戦争の影響で商取引はすべて中断して

しまった。1968 年と1975 年には大きな火災が起き、中心部は ほぼ全焼した。

敷地面積4万 2225 ㎡に 58 の建物、 9265 の店鋪数を誇る南

大門市場は、代表的な品物を挙げられないほど取り扱っている

東大門市場

お値打ちなプチプラ愛好家におすすめの東大門(トンデムン)

市場。ここは一般の客だけでなく、業者も利用する。深夜営業

の衣料卸売り専門商店街は、午後8時にオープンする。深夜の

商品が多く、品揃えも豊富だ。子供服、婦人服、紳士服などを

0時頃になると、韓国各地から貸切りのバスでやってきた衣料品

民芸品、土産物、輸入品、日用雑貨、さらにメガネやカメラま

が見られる。外では、彼らが乗ってきた大型バスがずらりと並ん

売る衣料商店街をはじめ台所用品、家電製品、アクセサリー、 店の買付人が、大きな包みを肩に担いだまま値引き交渉する姿 で「ないもの以外すべてある」というジョークもあるほど、バラエ

ティーに富んだ品物を売っている。

いろいろなものを見て回って満足したら、次はおいしいものを

18 KoreaNa 夏号 2015

でいる。そんな様子を見ていると、ソウルでここだけが目を覚ま

しているような錯覚に陥る。東大門市場は、韓国だけでなく東

南アジア、南米、ヨーロッパ、ロシアなどの外国人バイヤーや


3

1 南大門(ナムデムン)市 場の韓服店。韓国の伝 統 衣 装・韓 服 は、 時 代 によってデザインと色合 いが少しずつ変わってき た。 2 東大門(トンデムン)ファ ッションタウン。大きな 商店街が 31、昔ながら の 市 場 が 10、 新しくで き た 卸 売 商 店 街 が 13、 複合ショッピングモール などが8、 店 舗 数 はお よそ3万、そこで働く人 は 10 万人に上る。 3 広 蔵(クァンジャン)市 場。広 蔵 市 場 は、さま ざまな庶 民の味 を楽し めるだ けでなく、 衣 類、 布 地、 食 品、 化 粧 品、 工 芸 品 など 600 ほ どの 店がある。 4 芳山(パンサン)市場の アロマキャンドル店。最 近のアロマキャンドルブ ームに乗って、その材料 を扱う店 が大 幅 に増え ている。

4

観光客にもよく知られた名所だ。

薬キンパプ(海苔巻)」などが人気で、平日でも買い物客や観光

代的なショッピングセンターからなる巨大な複合市場。ここは日

なら、広蔵市場に足を運んでみるといい。きっといい思い出にな

鐘路4街と清渓4街から始まり東大門近くまで続く市場と、近

客で賑わっている。肩肘張らない韓国の庶民の味を楽しみたい

本統治期には「ペオゲ市場」とも呼ばれていた。1905 年に東大

るはずだ。

以降いくつかの大規模なファッション・ショッピングセンターが造

芳山市場

ンと呼ばれるようになった。ここでは衣料だけでなく、生地や服

パン、各種DIYや手工芸品の材料だけでなく、ラッピング用の

ーが、世界のファッションシーンを目指して熱情を燃やす場所で

おすすめの市場。各種材料を両手いっぱい買い込んで幸せに浸

門市場と商標登録され、韓国初の近代市場となった。1996 年

られ、東大門ショッピングタウン、または東大門ファッションタウ 飾資材など服作りに関する品々が充実している。若いデザイナ

ソウル旧都心の中心にある芳山(パンサン)市場は、製菓・製

包装資材も豊富だ。ホームベイキングなどに関心がある人には

もある。

っても、財布に優しい。クリスマスやバレンタインデーのシーズン

広蔵市場

いだ雰囲気になる。最近女性に人気のアロマキャンドル作りに

正式名称は鐘路広蔵(チョンノ・クァンジャン)伝統市場で、運

営している株式会社広蔵は、 1904 年に設立された韓国で最も 古い企業の一つだ。清渓川3・4街にあった広橋と蔵橋の間に市

には、制服姿の女の子や若い女性がやってきて、瞬く間に華や 必要な材料が充実していることでも知られる。

食 べ 物を買うと入 れてくれる袋や紙 箱のような包 装 資 材 も、

ほぼここで手に入る。芳山市場は、近くの乙支路一帯で印刷業

場があったことから、この名前が付けられたという。以前はビン

が発達しているため、小規模印刷に特化した市場でもある。包

題で持ちきりだ。ピンデトク(緑豆チヂミ)、コギジョン(肉チヂ

ズなども早く安く作れる便利な場所だ。ここは他のテーマ市場と

テージ品が手に入ることで有名だったが、最近ではグルメな話

ミ)、チャンチククス(にゅうめん)、ユッケ、テグタン(タラのスー プ)、そして一度食べたら中毒になることから名付けられた「麻

装資材はもちろん営業に必要な各種印刷物、飾り額、販促グッ 違って主に業者が対象で、営業は午後6時までになっている。

韓国の文�と芸� 19


『そばの花咲く頃』 イ・ヒョソク 李孝石

次は李孝石( 1907 ~ 1942 )の短編小説『そばの花咲 く頃』の中で、五日市を渡り歩く行商人を描写してい る場面である。この小説の日本語訳は大村益夫・長 璋吉・三枝寿勝の編訳『朝鮮短編小説選』 (下) (岩波 文庫、1984 )に入っている。

場の市は、はなから上がったりで、日はまだ高いのに

ら、いつものことなのにホ・センウォンは決まって胸が高鳴るの

市場はもう人影もまばらで、露店の日除けの下でも暑

だった。

い日差しがじりじりと背中を焼いている。村の人たち

若い時分にはまめに稼いで小金を貯めたこともあったが、町

は、おおかた帰った後で、売れ残った薪売りが通りをうろうろし

内でうら盆の祭りが開かれた年に、派手に遊んで博打をしたとこ

ていたが、石油の一瓶か魚の2・3尾も買えば間に合うこの連中

ろ三日ですっからかんになってしまった。

を当て込んで、いつまでも店を広げていることはない。汚らしい

ロバまで手放すところだったが、そればかりは心が痛んで必死

ハエの群れもうるさいヤブカも煩わしい。あばた面で左利き、反

に思いとどまった。結局、元の木阿弥で行商を続けるしかなか

物売りのホ・センウォンは、とうとう相方のチョ・ソンダルに声を

った。ロバを引いて町から逃げ出した時には、お前を売らない

かけた。

でよかったと道端で泣きながら背中をさすったものだ。借金をつ

「たたむとするか」

くり始めると、小金をためようなどとは思いもよらず、どうにかこ

「それがいい。蓬坪(ポンピョン)の市じゃ、一度だってまとも

うにか食いつなぎながら市から市へ渡り歩いた。

に売れたことなんてありゃしない。あしたの大和(テファ)の市で、 ひと儲けしたいもんだ」 「今夜は、夜通し歩かないとな」 「月が出るだろうよ」

派手に遊びはしたものの、女一人ものにできなかった。女と いうのは、冷たくつれないものだった。生涯縁のないものと我 が身を嘆いた。そばにいるのは、いつも変わらぬロバだけだ。 だが、たった一度きりの初めての出来事は忘れることができ

じゃらじゃら音を立てながらチョ・ソンダルがその日の勘定をす

ない。後にも先にもない一度だけの妙な縁。蓬坪に通い始めた

るのを見て、ホ・センウォンは杭から広い日除けを外し、広げて

若い時分のことだが、それを思い出す時だけは生きる喜びを感

あった品物を片付け始めた。

じる。

(中略) 五日ごとに開かれる市の日には、月よりも正確に村から村へ渡 っていく。生まれは清州だと自慢げに話していたが、国に帰った

「月夜だったが、どうしてそんなことになったのか、今考えても まるで分からりゃしない」 ホ・センウォンは、今夜もまたその話を持ち出すもようだ。チョ

ことはなさそうだった。市から市へ渡る道すがらの美しい自然が、 ・ソンダルは相方になって以来、耳にたこができるほど聞かされ 彼の懐かしいふるさとだ。半日も歩いて市の立つ村におおかた

てきた。かといって嫌な顔をするわけにもいかない。ホ・センウ

近づいた頃、気の荒いロバがひと声高く嘶(いなな) くと、ことさ

ォンは素知らぬふりで、ただただ繰り返す。

らそれが夕暮れ時で、明かりが夕闇の中でちらちら揺れる頃な 20 KoreaNa 夏号 2015

「月夜の晩には、そんな話が似合うもんさ」


イラストレーション キム・シフン

チョ・ソンダルの方を振り返ってはみたが、もちろん気の毒に

「俺を待ってたわけじゃないが、かといって他の男を待ってた

思ったからではなく、月明かりに感動したためだ。欠けてはいた

わけでもねえ。娘は泣いていたのさ。おおよそ見当はついたが、

が十五夜を過ぎたばかりの月は、柔らかい光を心地よく降り注

ソンさんとこはその頃えらく暮らしに困って、家の物も売りに出そ

いでいた。大和までは 80 里の夜道で、峠を二つ越えて川を一

うって時でな。家のことだから、娘だって当然心配だったんだろ

つ渡り、野原と山道を歩いていく。道はちょうど長い山腹にさし

う。いいとこさえあれば嫁にもやるんだが、 死んでも嫌だって

かかっていた。真夜中を過ぎた頃だろうか。死んだような静けさ

な……。だが娘ってのは、泣いてる時ほど情にほださるものは

の中、生き物のような月の息遣いが手に取るように聞こえ、大豆

ない。 初めは驚 いたようだったが、 心 配 事ごとがある時ほど、

やトウモロコシの葉が月明かりにひときわ青く濡れていた。山腹

なびきやすいものなのか、そうこうするうちに、ねんごろになっ

は一面そば畑で、咲き始めた花が塩をふりまいたように快い月

て……。考えてみりゃあ、怖いほど出来すぎな夜だったよ」

明かりに映えて、息がつまるほどだ。赤い茎は漂う香りのように

「堤川だかへ逃げていったのは、次の日だったかな」

はかなげで、ロバの足取りも軽い。道は狭く、三人はロバに乗

「次の市の時は、一家そろって姿を消した後さ。市は噂で持ち

って一列になって進んだ。鈴の音が軽やかにそば畑の方へ流れ

切りで、飲み屋にでも売り飛ばされるのがいいところだろうって、

ていく。先頭のホ・センウォンの声は、一番後ろのトンイにはは

娘のことをああだこうだ言ってたもんだ。堤川の市を何度も探し

っきり聞こえなかったが、彼は彼で心地よいすがすがしさに、寂

回ったんだが、娘の行方はさっぱりさ。娘とは初めが仕舞になっ

しくなかった。

ちまった。それからってもの、蓬坪が気に入って、人生の半分も

「 市の立つ、ちょうどこんな夜だった。 宿屋の土間ってのは、 通い続けているわけだ。人生の半分かけても、忘れられるもん 蒸し暑くて眠れたもんじゃない。真夜中に一人起き上がって、川 に水を浴びに行ったんだ。蓬坪は、今もその時分もおんなじさ。

じゃない」 「 運が良かったな。そんな果報、めったにあるもんじゃない。

見渡す限りそば畑で、川辺はどこもかしこも白い花。砂利の上

たいていこぶ付きになって、心配事も増えて、考えただけでもぞ

で脱いでもよかったが、月があんまり明るいんで、水車小屋に入

っとする……。だが、老いぼれるまで市を回って暮らすのも、こ

ったんだよ。不思議なこともあるもんで、そこでばったりとソンさ

たえるからな。俺は、この秋で足を洗うとするよ。大和あたりに

んとこの娘に出くわしたわけさ。蓬坪じゃ一番のべっぴんでな」

小さな店でも構えて、家族を呼ぶつもりだ。年柄年中渡り歩くの

「定めってやつだな」 そういうことだと返すと、言い渋るように、しばらくタバコをく

は、並大抵のことじゃない」 「昔のあの娘にでも出会えれば、一緒にでもなるんだが……。

ゆらせるばかりだ。赤紫の煙が香っては、夜の気配に溶けていく。 俺は死ぬまで、この道を歩いて、あの月を眺めるさ」 韓国の文�と芸� 21


特集 3 市場、その歴史と進化

夜明けの眠りを覚ます人々

私の市場物語

イ・ミョンラン

李明娘、小説家

安洪范 写真

どこよりも早く一日が始まる場所。活気あふれる市場では、さま ざまな物語を持つ人たちが、同じようでいてそれぞれ違う人生を

歩んでいる。その日に売る果物で季節を感じる果物市場の商人は、 商売敵でありながらも家族のように寄り添い合って生きている。

は永登浦(ヨンドゥンポ)で生まれ、そこにある青果物卸売市場で育っ

た。一時期、果物屋をしていたこともある。ある日のこと、仕事をし

ていると、一人の男が私の前に立ちはだかった。靴底がすり減ったビ

ニールっぽいスニーカーに、腕の辺りに真っ黒な染みが付いた古いカーキ色の ジャンパー。その男は、どうすれば仲買人になれるのかと尋ねた。すると、私

のそばにいた市場の仲間が次々に答えた。

「ここでかい? ずぶの素人でも大丈夫さ!」

「ここで仲買人になりたいなら、大学を出てないとだめですね。難しいですよ」 全く正反対の答えに、男は面食らったようだった。その後、この話は市場の語

り草になった。

だが、その答えは二つとも正しい。私が生まれ育った永登浦青果物市場には、

小学校も出られず無学な人から、大学で博士号を取った人までさまざまな人が

いる。それだけに暮らしぶりも千差万別だ。それでも皆に共通するのは、その

日に入ってくる果物によって生活が決まるという点だ。それは誰でも同じなのだ。

イチゴが入ればそれを売り、モモが入ればそれを手入れし、スイカが入れば何

時間もそれを積んでいく。だから、市場で働く者にとって最も重要なのは、その

日ごとにどんな果物が入ってくるかということだ。市場では季節の感じ方も他と は違う。イチゴが入ると春、スイカが入ると夏、ミカンが入ると冬が始まる。そ

うやって季節を繰り返し、同じ器でマッコリを回し飲みしながら、一緒に年を重 ねて生涯をともに過ごす。

「みんなの子」として育つ市場の子供たち

私は、市場で働く人たちの子供として育った。学校のテストで一番になって帰

ると、 母 が営 む食 堂でご飯を食 べていたおじさんたちが、 100 ウォンだとか

1000 ウォンずつ小遣いをくれた。公園で夜遅くまで遊んでいると、通りかかった

近所のおじさんにこっぴどく叱られたりした。どこの家の子ではなく、市場全体 22 KoreaNa 夏号 2015

江西(カンソ)農産物卸売市場の青 果物卸売店。入ったばかりのスイカ を皮の厚さや熟れ具合によって選別 している。


韓国の文�と芸� 23


の子という認識なのだ。

市場の子供たちは、早朝から親と一緒に市場に行かな

ければならない。まだ歩けない子は果物の空き箱を寝床

にして、泣いたり笑ったり、ぐずったりしながら、大人の

仕事が終わるのを待つ。歩き始めた子供たちは、市場を

縦横無尽に駆け回る。母親のそばに座っていたかと思う

と、目を離した隙にそこのバナナ屋に行き、バナナ屋に いたかと思ったら、すぐに売店の奥へとちょこまか走り回

る。やんちゃで何をしでかすか分からないから、大人はい

つも目が離せない。時には、かごに盛っておいたモモを 一つ取って逃げたり、値の張るハウスミカンの箱からミカ

ンをくすねて、叱る間もなく食べてしまったり…。それな

のに市 場の人たちは、 悪さをする子 供を叱るどころか、 埃まみれの小さな肩をぎゅっと抱きしめる。皆が果物を売

って生計を立て、互いに大変なのは分かっているからだ。

市場の子供たちは、親に手をかけてもらうことはなく、

市 場 を遊 び場 にして走り回る。そうして遊 び疲 れたら、

店の奥に無造作に置かれたリンゴ箱に入って静かに眠る。

これが市場の子供たちの一日だ。だからなのか、どんな

にやんちゃなことをしても、果物箱の中ですやすやと眠っ

ている子を見ると、憎たらしさは吹き飛び、毛布をそっと かけてやりたくなる。

子供の頃、私がビニール袋を売る店で商品をぐちゃぐち

ゃにしたり、値の張るハウスミカンを食べたりすると、市

場のおばさんたちは、目を吊り上げて叱ってみせた。で

も、私が「うんち、うんち」と言いながら顔をしかめると、

トイレに連れていってくれる。転んで泣いていると、起こ

してアイスクリームを買ってくれる。名前入りの黄色いT ーシャツを着せてくれる…。それは皆、市場のおばさん

だった。だから私にとって、市場のおばさんは皆お母さ

んで、私は皆の娘なのだ。今の市場の子供たちも昔の私

のように、父・母の日になると市場のおじさん・おばさん

江西農産物卸売市場のせりは、果物と野菜に分かれている。果物は深夜2 時半から、野菜は午後8時半から 30 分単位で行われる。

24 KoreaNa 夏号 2015


彼らの市場物語

3万2千、3千! 5千、8千、9千! 4万!」

者が詰めかけている。男の背くらいに積み上げら

互いに負けじと指を突き上げる。

せり人が 40 個入りを3万ウォンから始 めると、

夜も明けぬうちに、共同販売場の前に仲卸業

すぐに良い品物を安く買おうと意気込む商人が、

れたリンゴの箱。その前で「いち、に、さん、し、

「さあさあ、4万いないか。3万9千で 702 番!」

ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう!」と手やり と呼ばれるサインで数字を示したり、入札の品を 確かめたりする人で慌ただしい。仲卸業者が全

せり人が足で台をドンドンと踏み鳴らす。落札

されたという意味だ。このせり人は、品物が落札

されると、足を踏み鳴らして表現する。落札時の

員せり台に並んで、リンゴ箱を見下ろしている。 パフォーマンスだけでなく、口上もせり人ごとに 今日は固定せりから始まるようだ。

せりには固定せりと移動せりがある。前者は仲

違う。このせり人は「あー、3万!」というが「さあ、

また3万!」とも言い、「カックン、カックン、カッ

卸業者が全員せり台に並んで、陳列台を通過す

クン、3万!」と言うこともある。それぞれが言い

カキのように長持ちするもの、移動させても大き

うだ。

仲卸業者とせり人が品物に沿って移動しながら行

30 箱! あ ー、 7 千! あ ー、 8 千! あ ー、

る見本を見ながら行われる。主にリンゴやナシ、 やすい言葉、口をついて出る表現で叫んでいるよ く痛まないものを扱う。後者は、品物を動かさず われる。主にイチゴや熟柿、ブドウのような痛み

やすい果物を扱う。

「ちょっとどきな」

「どうして同じ物ばっかり競り落とそうとするん

だ?」

「永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、80 個入りが

9千!」

せり人の口上に、商人たちは大忙しだ。商人

ごとに、必ず買わなければならない品物は違う。

果物問屋は、主にどんな品物を買うかによって、 三つのタイプに分けられる。一つ目は、価格はい

人ごみに割って入る人、リンゴ箱を開けて手に

くらになろうが、品物が良ければ商売する。二つ

ンゴ箱の前は、てんやわんやだ。押し合いへし合

最後は、とにかく安さ、安ければ手早く買ってい

取って品定めする人…。仲卸業者が押し寄せるリ

目は、良くも悪くもない品物 ばかりを主に扱う。

い、足を踏まれ、押し出されてしまう人もいる。

く。

10 箱!」

売商の中で、得意先が一番多いのは、どのタイ

「永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、50 個入り 威勢のいい声が響く。今日のアナウンスは、荷

下ろし担当のパクさんだ。せり人がせりを始める 前に、どこの誰の物で品目は何か、何個入りが

ではちょっと、ここでクイズを一つ。そうした卸

プ?

正解は、三つすべて。

卸売は、品物が良いからといって、お得意さん

どれだけ入ってきたのかなどを前もって伝える。 が多いわけではない。良い品物だけを売る小売 特別な技術は必要なさそうに見えるが、誰でもで

商は、おのずと良い品物を扱う卸売商を訪ねる。

でも、役職が班長以上で、声が良くて頭の回転

品物を扱う卸売商と取引する。また年中、マクワ

きるわけではない。荷下ろし担当のベテランの中 の速い者3~4人が交互に務める。

「あー、永川のイ・ボクスンのアオリンゴ、50 個

入り10 箱!」

飲み屋の店主は、値段も手ごろで状態も悪くない ウリでもリンゴでも品目や相場に関係なく、一箱

3千ウォン以上の品物は絶対に買わない商人は、 夏でも冬でも安い物を扱う卸売商の前に台車を

台の上のせり人が、アナウンスの声を受けて、 押していく。

もう一度繰り返す。リンゴ箱の後ろに立っている 仲卸業者は、腕抜きをして、手首のマジックテー

プをしっかり締める。

今日も、市場の夜明けは慌ただしい。せりが

終わると、すぐに一日分の品物を持って、息つく

間もなく店に帰っていく。そんな商人の背には、

「 あ ー、 3 万! あ ー、 3 万 1 千! あ ー、 希望があふれている。

韓国の文�と芸� 25


26 KoreaNa 夏号 2015


市場の商人は、同じ器でマッコリを回し飲みしながら、一緒に年を重ねて生涯をと もに過ごす。血のつながらない者同士だが、親兄弟よりも親しく生きる…。そんな永 登浦市場が私の故郷だ。

の胸に手作りのカーネーションを飾るのに忙しくしているかもしれない。

血のつながらない者同士だが、親兄弟よりも親しく生きる…。そんな永登浦

市場が私の故郷だ。しかし、そんな故郷も今は変化の波にのまれ、永登浦を離

れて少し郊外にある江西(カンソ)市場へと移ってしまった。市場で果物が取引さ

れていた共同販売場は、一時期ある政党の本部だったが、今ではショッピング

モールとして生まれ変わるために工事が進められている。

「いつ何が起こるか分からないのが人生」

場所を移しても、商人は相変らず早朝から市場に出て果物を売り、生計を立

て子育てもしている。昔も今も「いざとなったら何でもする」と「いつ何が起こる か分からないのが人生」という言葉を繰り返しながら…。否定的な言葉のように 聞こえるかもしれないが、市場の人たちの生き様を見ていると、この言葉の本 当の意味が分かる。

市場で働く人の中に、チェさんと呼ばれるおじさんがいる。お金には縁がなさ

そうな人相をしているが、実は市場で一番もうけている人だ。もともと電気技術

者だったが、アジア通貨危機で職を失った。そんなある日、果物でも落ちてい

ないかと市場をぶらついていたところ、仲買人の一人が自分の店の前で小売り

でもしたらどうかと、無条件で場所を貸してくれたのだ。その後、チェさんは「い

つ何が起こるか分からないのが人生」が口癖になった。いつ何が起こるか分から ないから、いい加減に生きるというのではない。明日は何が起こるか分からな

い人生だからこそ、今日も一生懸命生きようという意味だ。

市場には、チェさんと同じくらい有名な人がもう一人いる。それが「いざとな

ったら何でもする」という言葉の生みの親「ダンボールお婆さん」だ。このお婆さ んはダンボールを拾いに来ると「これ、持っていってもいいでしょうか」と丁寧に

承諾を得る。ダンボール箱の中にゴミや腐った果物などが入っていたら、持って

きたゴミ袋に入れて、きちんと持ち帰る。その行動一つ一つが、いかにも品があ

る。どう見てもダンボールを拾い歩く人のようには見えないと言うと、お婆さん はにっこり笑い、こう答える。

「いざとなったら何でもやらないと…」

永登浦(ヨンドゥンポ)青果物市場。 明け方の卸売りだけでなく、 昼間 も小売りをしているので、質の良い 果物を買いに来る人が絶えない。

いざとなれば何でもできる人。人生の一寸先は闇だということをあまりにもよ

く理解しているため、与えられた今日という一日を誰よりも誠実に生きる人。誰 より早く起きる人…。そうした人たちが集まる場所、それがまさに市場なのだ。 今日もまた一日、市場の早い朝が彼らとともに始まっている。

韓国の文�と芸� 27


市場 地域文化の中心地へ 特集 4 市場、その歴史と進化

パク・ウニョン

朴恩英、フリー編集者

シム・ビョンウ 写真

薄暗い灯り、不衛生な陳列台、狭苦しい道…。これが市場の一般的なイメージだろう。市場は、昔の地域社 会では中心地だったが、しだいに客足は遠のいていった。しかし今、落ちぶれてしまったその地に、再び明る い光が差している。新進作家と若い店主が、市場に関心を持ち始めたのだ。きらめくアイディアと若い情熱に よって、過去の光栄を取り戻した市場を訪ねる。

国の文化体育観光部は 2008 年

たのは、起業を夢見る若者に安く貸し出

から 2013 年にかけ、市場の活

すようになってからだ。市場に若い客を

クトを推進した。市場本来の意味を見つ

ランスで造形芸術を専攻した店主が運営

プログラムを作ろうという事業だ。文化

行をして収集したものを売る店。大学で

性化のために門前成市プロジェ

め直し、それぞれの市場の特徴に合った

体育観光部の関係者は、このプロジェク

呼び込むには、若い力が必要だった。フ

するデザイン小物の店。月に1度海外旅

代替医療を勉強した治療師の健康診断室。

トによって市場が地域の文化芸術空間に

それ以外にカクテルバー、タコス店、定

になったと評価している。一方、その過

青年モールが話題になり、従来の市場

変貌し、今では若い人たちも訪れる名所

食屋など、店の種類もさまざまだ。

程を見守った人たちは「 見せかけだけで、 の売上げも 10 ~ 20 %ほど伸びた。毎週 成果ばかり追いかけていた」と言う。しか

金曜日と土曜日の午後6時から 12 時まで

たのは確かな事実だ。若者が少しずつ市

販売だけでなく、小規模の展示会や公演

し、このプロジェクトが良い影響を及ぼし 場に関心を持つようになり、若者ならで

はの文化を反映した市場を形作っている

からだ。

などの文化行事が催され、老若男女を問

わず誰もが楽しめる今までにない市場に

なった。南部市場は、今や韓屋村ととも

に全州のおすすめ観光スポットになってい

文化芸術空間へと生まれ変わる市場

る。

ブ)市場にある青年(チョンニョン)モール

新進作家との共生を選んだ商人

せないほどホットな場所だといえる。経

アメリカ・ニューヨークのソーホーやチェ

代表的な成功例が、全州の南部(ナン

だ。南部市場は、今や全州では絶対に外

工場や賃貸マンションなどが密集する

営に行き詰まり一つ二つと空き店舗が増

ルシー、中国・北京の大山子 789 芸術区

の商店街。そこが明るさを取り戻し始め

りられる場所を求めて移り住んだ。その

えたことで、暗く沈んでいた南部市場2階 28 KoreaNa 夏号 2015

開かれる夜市では、食べ物や手工芸品の

などは、お金のない若い芸術家が安く借


1 新堂(シンダン)創作アーケードにある若いアーティス トのアトリエ。ソウル市は、新堂地下商街をリモデリ ングして若い芸術家に提供し、すたれた商店街に活 気を与えている。 2 全州・南部(ナンブ)市場の2階にある青年(チョンニ ョン)モール。他にはない色とりどりの品物は、個性 を重視する若者の間で大人気になっている。

1

2

韓国の文�と芸� 29


青年モールが話題になり、従来の市場の売上げも 10 ~ 20%ほど伸びた。毎週金曜日と土曜日の 午後6時から 12 時まで開かれる夜市では、食べ物や手工芸品の販売だけでなく、小規模の展示 会や公演などの文化行事が催され、老若男女を問わず誰もが楽しめる今までにない市場になった。 南部市場は、今や韓屋村とともに全州のおすすめ観光スポットになっている。

影響で周辺にはショップやギャラリーがで

ていた。

ただ別場のイベントや公演を楽しむだけ

も増えて地域文化が形作られた。ソウル

が活性化した例として外せないのが、光

が市場に腰を落ちつけてくれたことで客

泰院などが、それに当たる。芸術家のア

年に光州ビエンナーレのキュレーターだ

場が賑わっているだけでもうれしいのだ。

きて人が集まり、カフェやレストランなど では弘大、カロスキル(街路樹通り)、梨

新進作家と商人の出会いによって市場

州広域市の大仁(テイン)市場だ。 2008

だ。それでも市場の人たちは、若い作家

層が若くなり、しばらく忘れられていた市

ったパク・ソンヒョン(朴珹玄)氏は、芸術

ソウル麻浦区・延南洞にある東震(トンジ

る。そんな 公 式 が 市 場 に適 用されたら、 作家に市場の空き店鋪をアトリエとして

失って放置され、近くの店が倉庫のよう

トリエが集まる街は、 ほどなく人気の街

になるという公式のようなものが存在す

が暮らしに溶け込むべきだと考え、新進

ン)市場は、ずいぶん前に市場の機能を

どうなるだろうか。

使うことを提案した。商人も安価で提供

新堂(シンダン)創作アーケードという若

家と苦楽をともにして得た最大の収穫が、 に活力を吹き込んだのは、文化と市場に

に使っていた。注意していなければ思わ

黄 鶴 洞 のソウル 中 央 市 場 の地 下 には、 してくれた。こうして 30 人余りの新進作

ず通り過ぎてしまうほど小さく静かな市場

い工芸家やデザイナーのコミュニティーが

2010 年 以 降ひと月に2度 開か れている

関心のある若いプランナーとデザイナー

商店街として賑わっていたが、市場を訪

しむ文 化 空 間 が ほとんどな かった 街 に、 日市では、捨てられた木材で家具を作る

っていた。ソウル市は 2009 年、ここを補

いっぱいに飾り付け、体験イベントを増

イベントが行われている。おかげで周り

年夏には、大仁市場に創作スタジオがオ

やレストラン、本屋、アトリエ、ギャラリ

示など、若い作家の活動がさらに活発に

のエリアとなっている。

場の古株の商人と交流するために、地上

たデビューの場として積極的に活用され

デザインで殻を打ち破った蓬坪市場

たり、市場でイベントを開いたりした。そ

しかし、期待とは裏腹に、店の収益に

場は、地方自治体の積極的な取り組みと

に 1000 人ほどが訪れるが、市場で買い

代表的な例だ。数百年もの間、全国で最

ある。元々は 1970 年代に作られ、地下 れる人が減り、いくつかの店鋪だけが残

夜市「別場(ピョルチャン)」だ。何かを楽

たちまち噂が広がった。売り場を遊び心

修・改装してアトリエとして提供した。2

やし、規模は2倍近くに成長した。2013

ザイナーは家賃や管理費を心配すること

ープンし、アートフェアや作品の競売・展

けに留まってはいなかった。ソウル中央市

なった。市場が彼らのアトリエとして、ま

坪あまりの小さな空間だが、入居したデ なく、創作に没頭できた。だが、地下だ

に上がったのだ。店の看板をデザインし

うしたイベントは、観光客に焦点を合わ せていることが多いが、彼らのイベントは

ともに働く商人との交流に重点が置かれ 30 KoreaNa 夏号 2015

たのだ。

は大きな変化がなかった。週末には1日

だ。去年から開かれている東震市場の七

若い作家らと商人によるワークショップや

の街も息を吹き返した。最近ではカフェ ーなどが軒を連ね、弘大近辺で最も人気

江原道・平昌郡の蓬坪(ポンピョン)市

商人・企業の協力によって変貌を遂げた

物をする客は多くないからだ。観光客は、 も大きな市場の一つとされてきた蓬坪市


1 光州・大仁(テイン)市場のアクセサリー店。市場が 若いアーティストの創作と販売の場になり、訪れる 若者も増えている 2 ソウル黄鶴洞のソウル中央市場。新堂創作アーケー ドのアーティストとの交流によって、市場が装いを新 たにしている。

1

2

3

韓国の文�と芸� 31


場。今でも 70 以上の店鋪が並ぶ常設市

場があり、2日と7日の五日市には 100

人以上の商人が集まって市場を守ってい

た。小規模事業者のための店舗リニュー

アルや経営改善プログラムなどを支援す

品のストーリーを載せた小さな看板をか

けた。江原道庁は、このプロジェクトの

る現代カードの「ドリーム実現プロジェク

ために店主に対して、商品の原産地や価

のだ。現代カード・デザインラボは、 江

コーディネートなどについても教育を行っ

自立できる持続可能なシステムを作ろう

り方で商売して来た人たちだ。数回の教

かし、観光地やイ・ヒョソク文学館からわ

くてもできること」を考えた結果、五日市

えられなかっただろう。新進作家ととも

閑散としていた。

改善を図ることにした。農産物は緑、水

は 広 報イベントや 文 化 行 事 が 多くない。

る。蓬坪は、市場を渡り歩く行商人の人

ト」によって、市場を活性化しようとした

短編小説『そばの花咲く頃』の舞台として

原道庁とともに市場本来の機能を発揮し、 た。しかし何十年もの間、自分なりのや

生や苦楽を描いたイ・ヒョソク (李孝石)の

も有名だ。そのため、ソバの花が咲く9 月になると観光客でいっぱいになる。し

と努めた。 「新たに何かを作ったり加えな

ずか 100 m のところにある蓬 坪 市 場 は、 になくてはならないテントを利用して環境 江原道庁は、 蓬坪市場 など地域の市

1

32 KoreaNa 夏号 2015

育だけでは、それまでの慣習を簡単に変

に運営する他の市場とは違い、蓬坪市場

産 物 は 青、 衣 料 は 紫、 食 べ 物 はオレン

しかし、長い歴史を持つ市場と地域の人

色を変え、店には店主の顔写真と店や商

魅力だ。

場の未来について思案に暮れていた矢先、 ジのストライプなど、業種ごとにテントの 現代カードの力を借りることを思い付い

格の表示だけでなくディスプレイやカラー

たちの素朴で飾り気のない姿こそ大きな


「市場に人が集まり、 資本の力が押し寄せてきた」

「全国で唯一の芸術市場という自負」

キム・チェラム 金彩藍、全州南部市場・青年モール・ポッタリ団代表

チョン・サムジョ 鄭三曹、光州大仁市場・別場総監督)

青年モールにあるポッタリ団は、南部市場に活気をもたらす

大仁市場では現在、約 20 グループの若者が市場で店鋪を運

ため、多彩なイベントを企画する集まりだ。「地域の文化ターミ

営している。そうした活動によって特に去年から、市場を訪れる

ブランドのセレクトショップ運営、ワークショップ開催などの活動

年ここで商売してきた人たちも、そのような変化にかなり好意的

ナル」というビジョンの下、フリーマーケットの企画・運営、地域

をしている。しかし、最近市場に人が集まるようになると、あち

こちから資本の力も押し寄せてきた。市場1階とその周辺にはフ

ランチャイズの店が増え、長年続いてきた店が商売できないこと

客層が目に見えて若くなり、全国的に知られるようになった。長 だ。若い店主は「全国で唯一の芸術市場」を育てていくことに誇

りを感じ、市場と芸術、店主と新進作家、若い店主が共存する 芸術市場として、この先も活発に運営していけるよう取り組んで

もある。もろ刃の剣のように避けられない結果かもしれないが、 いる。 残念なことだ。

2

「フリーマーケットは、 新進デザイナーのデビューの場」 ソン・ユンギ 宋潤気、Susurrus 代表兼デザイナー

イギリスでファッション・アクセサリーのデザインを学んで帰国

し、自身のブランドを立ち上げた。昨年、ソウルの上岩洞で開か

れたフリーマーケットに初めて参加した。以後ソウルや釜山など

全国各地でフリーマーケットに参加して、ブランドを広めていっ

た。そうして6カ月ほど経ったある日のこと、現代百貨店のマー

チャンダイザー(MD)から新進デザイナーのポップアップストア

に出店してくれないかという依頼が舞い込んだ。今ではソウルと

大邱の主な百貨店に出店するほど、立派なブランドに成長した。

フリーマーケットは、新進デザイナーにとって単に物を売るだけ でなく、格好のデビューの場になっている。

3 1 新堂創作アーケードの画家 のアトリエ。2坪ほどと小さ いが、若いアーティストが芸 術に没頭するには十分だ。 2 全州・南部市場の青年モー ルの夜。運営主体のポッタリ 団 によって、 毎 週 土 曜 日 に 音楽会やフリーマーケットな ど多彩なイベントが行われて いる。 3 光 州・大 仁 市 場 の 商 店 街。 市場のアーティストが店の出 入 口 に絵 を描 いて、 道 行く 人たちの目を引いている。 4 ソウル大学路のマルシェ。ソ ウルの代表的なフリーマーケ ット・マルシェは、生産者と 消費者との出会いの場。若 い生産者に自分のブランドを 知ってもらう大切なチャンス でもある。

4 韓国の文�と芸� 33


文化遺産の継承者

消え行く 旋律をたずねて チョン・ジェスック

鄭在淑、中央日報論説委員兼文化 専門記者

趙志映 写真

MBCラジオのチェ・サンイル(崔相一)プロデューサーは ジャーナリストというよりは韓国民謡の収集家であり、研 究者というほうが相応しい。M B C での 25 年間は『韓国 の旋律をたずねて』全国津々浦々を歩き回った日々だっ た。停年を1年後に控えた彼に残されたもの、それは 生涯をかけて収集してきた民謡1万8千曲だ。 彼は今、韓半島を越えてアジアの民 謡を収集することに、第2の 人生の夢を託している。

34 KoreaNa 夏号 2015


自分の家の寝室を改造して作った資料室で録音資料を聴いて いる崔相一 P d 。彼は新しく録音してきた資料を聴く瞬間が一 番幸せだという。

韓国の文�と芸� 35


1 2

©MBC

1 村のおばあさんたち 慶尚北道高霊郡パクシル村の おばあさんたちが民謡の録音 を終えた後、庭に出て農楽を 楽しんでいる。MBCの民謡 取材チームが訪れた村ではい つもこんな風景が見られる。 2 草刈り 江原道三陟の山の中腹にある 畑で昔していたように草を刈 りながら「草刈りの音」を録音 している。このように草を短く 刈って積み重ねておけば、畑 の有機肥料となる。化学肥料 が使われだしてからは見られ なくなった光景だ。 3 モンゴル西部ホブド地方の草 原で遊牧民の歌を録音する場 面 アジア大陸を飛び回り、各国 の民謡を思う存分録音するこ とが崔 相 一 P d のこれからの 夢だ。

36 KoreaNa 夏号 2015


相一プロデューサー( 58 )の声は多くのラジオリスナー

に親しまれている。一日に2、3回は聞こえてくる彼の

太く、温かい声は、時間をかけて熟成した味噌のよう

に確かな味がある。「韓国の旋律をたずねて。この旋律はどこど

こ村の今年 80 歳の誰々さんが、うず高く積まれた稲むらから稲 の束を降ろしながら歌う民謡です」

1991 年に最初の放送が流れてから 24 年、 8160 回の放送と

いう長者記録も打ち立てた『韓国の旋律をたずねて』は太くてよく 通る彼の声がなければ、もうとっくの昔になくなっていたかもし れぬ番組だ。口から口へと伝わる口承民謡の一節を 40 秒に圧

縮して放送する「スポット」形式の番組は時間は短いながら非常

に強烈な伝播力で、聞く人の胸に飛び込んでくる。

3

消えゆくものへの郷愁

「京畿道驪州の田舎者の私がソウルに来たのは小学校5年生

の時でした。なんでもパルリパルリと急がなければならず、人と

「 頭の中のもやもやとしたものが消え去った瞬間でした。私の

すべき仕事が見えたという気がしました。しばらくの間、労働組

合の仕事をしてから、再び現場に復帰し、その時に企画案を出

競争しなければならない都会の気質が私には合いませんでした。 しました。ずいぶん前に聞いた『アラリ』が耳元で聞こえていまし 子供の頃から屋根裏部屋に閉じこもったり、ロウソクを灯してぼ

ーっと部屋の中で遊ぶのが好きでした。1970 年代後半の大学生

た。だんだんと忘れ去られていく土俗の民謡を探す番組を作ろう

と。それが1週間に1度放送された週末番組の『韓国民謡大典』

の頃、江原道原州の農村へ農業活動に行った際に、あるお婆さ

でした」

やまびこのように長い間響き渡り、心に残りました。それが土俗

を作りたくなった。ある先輩が企業の協賛を受けてキャンペーン

文化放送に入社した彼は1日単位でめまぐるしく変化する日

広告主となり『韓国の旋律をたずねて』が誕生したのだ。直接原

んが畑の草取りをしながら歌っていた歌が耳に刻まれ、それは 民謡『アラリ』だったことは、ずいぶん後になって知りました」

仕事に慣れると今度は、より強力でインパクトのある民謡番組

をしてみてはどうかというアイデアを出した。そして製薬会社が

常が肌に合わず、分秒を争う放送の周期にも適応できなかった。 稿を書き、進行までするようになると、だんだんと度胸もついて、 何かを積み重ねていくことの好きだった彼は、空中に揮発して

アドリブの言葉も入れられるようになり、内容はさらに充実して

る仕事を欲した彼はラジオFM所属の音盤資料室の司書となっ

4 回放送されるようになった。1年単位で放送の内容をCDに記

しまうような放送が嫌だったのだ。長い呼吸、こつこつと蓄積す て蟄居した。音盤形式がLPからCDに変わろうとしていた時期 だった。彼は資料室に積み重なっていたあり

とあらゆる音楽を手当たり次第に聴いていっ た。数百枚に過ぎなかった国楽の音盤もすべ

て席巻した。そんな中で彼を驚愕させた音盤

があった。アメリカへの初期の移民たちから 聞き取った記録音盤で全 50 巻 だった。彼は

200 年の歴史しかない国がこのような証言を

残していることに驚き、アメリカ人の周到さに 感動した。

いった。公益面で高い評価を得ると聴取率も高くなり、1日に3、 録し、そのCDを公共機関や大学の関連学科に寄贈すると、放

民謡は口から口へと伝わる一種の労働の歌であり、民衆の 暮らしの歌だ。口承されるので変化の速度も遅く、地域の 特色もよく保存されている。単調ながら胸に染みわたり、 素朴ながら深い意味を含んでいる。辛い労働をする時には 自らを励まし、隣人と酒を酌み交わしながら口ずさむもの なので逞しい歌が多い。歌を歌う人々の顔から苦痛が消え、 歓喜があふれるのを彼は幾度も目撃してきた。

韓国の文�と芸� 37


送局でもこの番組の意味を理解し積極的な支援をしてくれるよう

になった。

たり。そんな生き生きとした情にあふれた共同体の精神が土俗 民謡の歌詞には染み込んでいる。

専門の歌手が歌う大衆歌謡的な民謡とは違い、土俗民謡は口

民謡は時代と暮らしの宝庫

から口へと伝わる一種の労働の歌であり、民衆の暮らしの歌だ。

登山好きだったので、1年の半分以上を地方出張に費やす生活

いる。単純ながら胸に染みわたり、素朴ながら深い意味を含ん

機械にも親しんでいた。民謡収集が主に野外や防音の効かない

交 わしながら口ずさむものなので逞しい歌 が多い。歌を歌う

彼の欲求は果てしなかった。新製品が出れば必ず買い求め、マ

撃してきた。

全国各地を歩き回り民謡を収集する日々が続いた。もともと

口承されるので変化の速度も遅く、地域の特色もよく保存されて

も苦には ならなかった。時 計 屋をしていた父に似ているのか、 でいる。辛い労働をする時には自らを励まし、隣人と酒を酌み 厳しい環境のもとで行われる為、性能の優秀な録音機に対する イクは直接改造して使っていた。民謡収集チームは崔相一PD以

人々の顔からは苦痛が消え、歓喜があふれるのを彼は幾度も目

「 私が民謡の収集を始めた 1990 年代の初めには土俗民謡を

外にもエンジニアが二人、記録と写真係がそれぞれ一人ずつ、 伝え聞いたお年よりが一人、二人と亡くなる時期でした。あせり 研究員一人、運転手の合計7人のチームで構成されており、全 員がマイクロバスに乗り移動した。

「 冗談で、私が死んだら祭祀には最新の録音機と十分に充電

したバッテリーを供えてくれと言ったこともあります。今でも時々、 現場で録音できていないのに気付かず、放送の直前に気付いて 絶望する夢を見ることがあります」

民謡紀行は考古学の発掘に通じる点がある。老人たちの頭の

中に保存されている民謡が解き放たれると、その時代の生々し

い生活史が自然と現われる。大きな村に行くと村の公民館にお 年寄り20, 30 人が集まって、後から後からたくさんの土俗民謡

を歌ってくれる。昔の共同体文化を歌を通じて聞いていくような

ものだ。親しい人を招いて、 素 朴 な酒の肴 にマッコリを傾 け、 農作業が終わり気分が良ければ、相撲をとったり、宴会を開い

崔相一 P d の資料室にある各種打楽器と鐘と鈴。彼には目に見える世界よりも耳に 聞こえる世界がより身近だ。

38 KoreaNa 夏号 2015

ました。彼らが亡くなってしまったら、民謡も失われてしまうので

すから。後で大まかに計算してみたところ、 120 の市と郡の 900

あまりの村を回って延べ2万人に会い、1万8千曲の民謡を録音


しました。もう少し始めるのが遅れていたら、たぶんこの半分も

に多数の民謡の記録が保存されている。これらがどんな形で私

収集できなかったことでしょう。私が会った人々は大部分が 70 代

たちの前に再び姿を現すのか、楽しみだ。そこは音盤全集の資

に亡くなっていたという方もいました」

注:キムチの甕の並んでいる場所)のようだ。北韓の土俗民謡音

以上でしたから。録音・採集から数ヵ月後に再び訪ねた時、すで

アジアの土俗民謡をたずねて

停年退職まであと1年を残して、彼は第2の人生を設計に忙

しそうだ。聖公会大学で『韓国の民謡、韓国の文化』 『韓国の伝

統文化の潜在力』というテーマで講義をし、本を書くための資料

料が熟成しながら新たな出番を待っているチャンドク台( 訳者

源3千曲を苦労して集めてだした『北韓民謡全集』のように、ク

ローゼットの中の音源も新たな衣装を纏い登場する日が来るこ

とだろう。

「これからはアジア各国の奥地に行き、彼らの伝統音楽と民謡

を収集する計画を立てています。アジアの少数民族の音楽も同

の整理に忙しい。民謡収集の集大成として一種の民衆自叙伝形

じように消え去ってしまうのではないかと心配です。誰かがこの

画した『盤楽、その男の音盤物語』公演に出演し、民謡に関す

それらの民謡も、韓国の民謡のように消滅してしまうかもしれま

放送局からそれ以上保管できないと言われた様々な録音テープ

て続けて行きたいと思います」

式の歌い手列伝を書こうとしているのだ。『韓国文化の家』が企

る話を聞かせたりもしている。北漢山のふもとにある彼の家は

の貯蔵庫に変身中だ。寝室のクローゼットの中には服の代わり

貴重な人類文化を記録しなけれ ばなりません。今の速度だと、

せん。一人の力では難しいのでチームを組んでプロジェクトとし 彼は新しい道路が通るのが一番怖いという。アジアの奥地を

歩き回りながら新しい道が通り、自動車が行き来するようになる

と、必ず伝統は崩壊し、民謡は消えていった。だから今や、私

のもの、あなたたちのものだといって黙って見ている時ではない

というのだ。韓国もアジアの一員として他の国、他の民族の文 化を理解し、共に歩んでいくべきだという。

「 中国では祭りや宴会の時に若者たちも土俗民謡を歌います。

今 20 代の若者層がこれから数十年は歌い続けるでしょう。中国

のミャオ族(苗族)の乙女たちの歌う飛歌は鳥の飛び上がる姿を 歌で描写しています。ラオスでは踏み臼を搗きながら歌う労働歌

が依然として歌われています。こんな旋律を録音できると、本当

に幸せです。こんなに面白い仕事を、他の人々はなぜしないの

か不思議でたまりません」

彼は家にある膨大な量の資料を整理し、誰でも活用できるよ

うなデータベースを作ることに希望をかけている。そうやって仕 分けをしたら、土俗語の宝の倉庫である民謡から取り出して民

謡辞典をつくる考えだ。国語辞典にも出ていないそんな単語と 語彙を明らかにすれば、韓国語はさらに豊かな言語になるだろ

う、想像しただけでも胸が躍ると言う。

「地球レベルで記録しよう。それが今、私の夢見ている世界で

す。私は音楽を聞いていると自然に笑みがこぼれます。それだ

けではありません。音楽を聴いていると、今歌っている人の顔の

表情まで浮んできます。無駄な人生などありません。生きている 人間の言葉、民謡から学んだ真理です」

韓国の文�と芸� 39


デビューから 50 年以上たつ韓国を代表する演劇俳優の 孫淑。李潤澤がシナリオを書き演出した演劇『オモニ』 の主人公として彼女は 15 年間舞台に立ち続けてきた。

40 KoreaNa 夏号 2015


アート・レビュー

許しと和解の鎮魂クッ 演劇女優ソン・スクの

「オモニ」 キム・スミ

金寿美、演劇評論家

韓国の現代史を全身で受け止め生きてきた一人の女の 70 年の人生を描いた演 劇『オモニ(母)』。この作品を通じて私たちは男女の愛と執着、家族間の愛憎と 和解というテーマと出会い、一方では人間の生と死の意味と価値を考えてみる ことになるだろう。

作家・演出家のイ・ユンテク(李潤澤)の長期公演作

母の悲しい心情にも思いをはせている。貧困と戦争で二人の子

作家ベルトルト・ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供た

生の秘密を生涯胸に秘めて生きる悲しさは歳月が流れても到底

品『オモニ(母)』は韓国の演劇界では、よくドイツの劇

ち』、またはロシアの文豪マクシム・ゴーリキーの長編小説『母』 と比 べられる。『 オモニ』は 1996 年 に初 演され、その後、 劇

供を失い、他の女が産んだ子を自分の息子として育て、その出 癒されることがない。家族を養うことなく生涯あちこち放浪した

挙句に死んだ夫の霊魂は周辺をさ迷い、簡単にあの世にいくこ

団「演戯団コリペ」が 1999 年に再演してから 15 年間、ほとんど

ともできずにいる。片や死んだ息子のことを忘れられない母は

(孫淑)が 50 代で初めてこの作品の主人公をつとめて以来、 70

いる。毎晩夢の中に出てきた夫と仲直りし、息子の為の鎮魂クッ

毎年公演されてきた作品だ。韓国を代表する演劇女優ソン・スク

代となった今でも依然として『オモニ』として舞台に立っていると

いう点でも意味深い作品だ。

骨壷の中に遺骨の粉を入れて生涯、それを枕元に置いて生きて

(巫俗の儀式)を行った母は思い残すことのないさっぱりした表情 でこの世を去る。

『オモニ』の劇作家で演出家でもある李潤澤は、自分の母をモ

実際の人生をモティーフとしている

デルとしただけでなく、劇中の人物と事件もまた母が聞かせてく

いう強靭な男性性と家族に対する無限の犠牲という女性性だと

地時代に貧農の娘として生まれ、植民地時代、独立、戦争とい

世の中のすべての母の普遍性は家庭の安全と平和を守ろうと

れた話をもとに再構成したと語っている。彼の母は日本の植民

言える。それで私たちは母を中性的な存在として把握することが

う受難の時代を全身で受け止めて生きてきたので、母の家族史

少なくとも女性としてのアイデンティティがはっきりしていた乙女

こんな風に回想している。「母の話は生きている私たちの母国語

いをはっきり口に出せた時代には彼女たちもまた自由で幸福な

らわれなかった。いわゆる新教育を受けられなかったので、韓

は彼女たちからその時代の痕跡を拭い去ってしまった。

だ。」 ( 李潤澤「生きているあいだは毎日お祭り」1999 )

多い。しかし李潤澤は『オモニ』で中性的な性質を帯びる以前の、 はまさに民族の受難史でもあった。李潤澤は自分の母について 時代を重要な出発点としている。自分の名前で呼ばれ、好き嫌

一人の女性として存在していた。しかし母という大きく重い名前

作家は歳月が過ぎ、意地悪で無愛想な慶尚道のオモニにも恥

じらいのある 17 歳の少女時代があったこと、一生忘れられない

だった。むしろ文字を知らなかったために文語体の硬い形態にと

国伝統の想像力とリズムとイメージをそのまま保有していたの 新教育を受けられなかった李潤澤の母は「生涯、胸に秘めて

生きてこなければならなかった密かな自分の話」を物書きの息子

初恋の甘酸っぱい思い出があることを思い出させてくれる。さら

に聞かせたという。毎日繰り返される話にうんざりした息子は智

を学ぶ機会さえ与えられず、生涯それを胸に秘めて生きてきた

の話しを聞いていた息子はそれ自体が演劇の素材となると直感

に女性に対する差別が一般的だった時代に、自分の名前三文字

恵を絞り、母に録音機をプレゼントした。ある日、録音された母 韓国の文�と芸� 41


する。 「ただの、ありきたりの」母の話が本物の演劇となったのだ。 初演はキム・ミョンゴン(金明坤)が演出し、ナ・ム二(羅文熙)

が出演した劇場トンスンホールの公演だった。初演から4年後の

1999 年に李潤澤は「オモニの話」を直接演出する勇気を出した。 彼は自分の母が暮らしていた密陽を空間的な背景として再設定

した後、密陽出身の女優ソン・スク(孫淑)と手を組んだ。作品

の中には韓国の伝統的と演戯的な要素がちりばめられている。 機織、ろくろ、伝統婚礼、チョマンジャクッ(招亡者クッ)、サム

ルノリなどが適材適所に配置されているだけでなく、演劇は生と 死、過去と現在の間を自由に行きかう。おかげでストーリーは

一人の女の人生に過ぎないが、作品の幅は一つの国の歴史と文 化が溶け込んで、広がりを見せている。

世紀末の憂鬱で不安な気運の中で人々は母の力が必要だった

のかもしれない。チョンドン劇場で幕を開けるや公演は1週間で 1 2

客席がいっぱいになり、その後2ヶ月間高い客席占有率を持続し

て成功を重ねた。

孫淑のオモニでなければならなかった理由

ソン・スク(孫淑)は私たちがよく思い浮かべる温かくて、ふっく

らとした、穏やかなイメージのお母さん女優ではない。彼女は

痩せた体躯で声も小さいうえに、姿勢もまた固く、都市的で知

的なイメージが強い。そんな彼女に李潤澤は性格も荒く、方言

もきつい慶尚道の母の役をさせた、その理由はなんだろう。

©Street Theatre Troupe

李潤澤にとって韓国近代史を生き抜いてきた母の人生は消極

的で防御的なものだった。植民地の貧しく、力もない母であっ

た彼女たちは腹をすかせた子供たちのために砂糖水を求め、古 1『オモニ』2004 年COEXアートホールでの公演場面 オモニの辛い昔話を聞いて涙を流す嫁(キム・ソヒ) 2『オモニ』1999 年 チョンドン劇場での公演場面 息子(キム・ハクチョル)と楽しそうに話をしているオモニ 3『オモニ』2015 年 明洞芸術劇場での公演場面 戦争中、飢えて死にかけている息子(キム・アヨン)を胸に抱いて絶叫す るオモニ

い毛布の一枚を手に入れるためにぺこぺこした。ブレヒトの『肝

っ玉お母とその子供たち』での肝っ玉母さんは戦争の中で息子を

失い、生になお一層執着しながら強靭な執念と積極的な意志を

示すが、李潤澤の母は戦火の中で失った息子の霊魂が哀れで、 生涯、枕元において守り通す消極的で防御的な姿だ。

孫淑の痩せた体つきとか細い声はこのような母を表現するの

にピッタリだ。淡白なトーンの声音と仕草からは逆説的に井戸の

ように深い悲しみが伝わってくる。格調ある女優が淡々と吐き出

す慶尚道方言はまったく予想できなかった人間味を感じさせる。

「私はあの世を信じない。あの世に行きどんな想に生まれ変わろうと、私は私のことが分からない だろう。それでも私は前世を信じる。人間が生きていくには前世というのがある。胸の奥にしまい 口にはできない歴史、それが転生だ。だから、私たちはみんな、今、来世を生きているのではな いか。真昼に、これもすべて来世だ」 42 KoreaNa 夏号 2015


演劇人生 50 年間、 150 余本の作品に出演した孫淑はあるインタ

ていくには前世というのがある。胸の奥にしまい口にはできない

ったらオモニ だけしている」と笑っていた。

きているのではないか。真昼に、これもすべて来世だ」

はすぐにモスクワのタガンカ劇場に招待された。そしてこの作品

昼のように明るく輝いている理由は知りたい。それが辛い時代の

で『オモニ』はより一層有名になり、孫淑は初演当時「これから

らなければならないということだ。暗闇なしに光の存在を知るこ

作品との縁は格別だ。

態を知ることもできず、消滅なしに生成の価値を知ることもない。

ビューで「春香も、ジュリエットもやったことがないまま、年をと チョンドン劇場の公演を終えた後、演戯団コリペの『オモニ』

でその年の百想芸術大賞で主演女優賞を受賞した。そのおかげ

20 年間力を注ぐ作品としてオモニを選んだ」と誓ったほど、この

太初にすべては一つだった

『オモニ』のセリフの中にこんな言葉がある「私はあの世を信じ

ない。あの世に行きどんな想に生まれ変わろうと、私は私のこ

とが分からないだろう。それでも私は前世を信じる。人間が生き

歴史、それが転生だ。だから、私たちはみんな、今、来世を生 死にゆく先が地獄であれ天国であれ関係ない。ただ現在が真

悲しい歴史、胸に秘めた過去の記憶のおかげだということを知

とができないように、痛みのない喜びもなく、死なくして生の実

太初には一つであったそれらがこのように『オモニ』という名前で 互いを理解し、和解する。骨壷にいれて生涯傍らにおいていた 息子たちを結局川に流してやり、亡霊となって現われた夫には

晩御飯を作って差し出しながらも、大したおかずがないことを心 配していた母の教えはまさにこれだったのだろう。

3

©Myeongdong TheaTre Choi yong-seok

韓国の文�と芸� 43


オン・ザ・ロード

風の吹く日の竹綠苑(チュクノグォン)。「竹の本場」 潭陽(タミャン)では、いたるところで1年中緑の竹を 見ることができる。

44 KoreaNa 夏号 2015


潭陽

クァク・ジェグ 郭在九、詩人

李翰九 写真

古い森を歩きながら 人生が伝説の延長線上にあることを悟る

潭陽(タミャン)は、竹林の間を吹き抜ける風、澄んだ水、温かい日光の本場だ。家々の裏庭に竹が育 つ土地、人々はその竹を切って彩箱(チェサン:竹を編んで作った籠)を作って、その中に娘の嫁入り道 具を入れて送り出した。また潭陽はあずま屋の本場だ。谷間の風道にあずま屋を建てて、人生に陰り が見えてくると、身と心を休めた粋人の想いが我々を誘う。 韓国の文�と芸� 45


生 の 節 目 で 選 択 を 強 いら れ る 運 命 の 瞬 間 が あ る。 風に囲まれたような山を背景にこぢんまりとした小学校が一つあ

1989 年の春、私は7年半の教員生活に終わりをつげ

た。1日 24 時間のすべてを詩に捧げるために。教える

る小さな町だった。小学校からチャイムの音が聞こえた。果てし なく平和なチャイムの音につられて学校のグラウンドに足を踏み

かたわら詩を書くこともできたが、専業作家の道ではなかった。 入れた。子供たちがボール遊びや縄跳びをしたりしながら駆け 妻の手にわずかな貯金と退職金を握らせながら、「3年だけ時間

回る姿をぼんやりと眺めていたら、ふとグラウンドの一角に目が

入れてくれた。夫婦ともども当もなく世の中の流れに身を任せる

木を抱え込むのが見えた。子供たちが木を抱えながら笑う姿が

敦煌(ドゥンホワン)と樓蘭(ロウラン)にも行ってきたので傍から

一緒に木を抱きかかえたいと思った。子供たちが教室に戻った

をくれないか」と言った。ありがたいことに妻は私の提案を受け

格好となった。3、4ヶ月くらいまでは何とかやってきた。中国の

見ると派手な無職生活だった。しかし、半年が過ぎて、また1 年が過ぎたあたりから物事は変わり始めた。まず、通帳の貯蓄

が半分に減った。詩集を4冊出版したことはあるが、1年に発表

留まった。10 人あまりの子供たちが両手をつなぎ合って一本の

明るくて気持よかった。子供たちのそばに行き、私も子供たちと 後、一人でじっと抱えてみた。樹齢6百年をこえるケヤキ。高さ

26m、直径 8.31m 。天然記念物 284 号。木はかっこ良く何より

も木陰が広かった。木を抱きかかえると瞬時に心が限りなく安ら

できる詩はせいぜい5本程度なのでその原稿料を全部集めても

いでくる。その後、気が落ち込むたびにその木を見に行ったある

家族が1年間生活していけるところは地球上のどこにもないはず

朝の太祖・李成桂(イ・ソンゲ)が新しい国を建国するために、全

20 万ウォンにもならなかった。そのお金で子供一人を含む3人 だ。学校を辞める時の自信とは裏腹な寂寞感に襲われて、自分

にできることなんて、何にもないように思われた。

日、町の老人に木にまつわる伝説を聞かせてもらった。朝鮮王

国の運気が強い地を捜し求めて祈りを捧げていたときに、この 町に立ち寄って町の裏側にある三人山(サムインサン)で祈りを終

そんな時、私は歩いた。私が住んでいた光州(クァンジュ)市

えた後、植えた木がこのケヤキだという話だった。伝説はそれ

りたっては足の向くまま気の向くままにぶらついたものだ。ぶら

に入った。一国の王朝を建てたいという大きな夢を抱いたある

は山に囲まれていたが、私は市内バスに乗って郊外の終点に降

つく間に風も吹き、花も咲き、雨粒がちらついた。そのように立

ち向かった時間が心の中に穏やかな川水一つを作った。その川 岸に腰を下ろして詩を書き、本を読み、音楽を聴いていたら一 日が経ち、日が暮れるとそっとその場を離れて家に帰ってきた。

運命のケヤキとの出会い

当時、私は 潭陽の寒峙(ハンジェ)という町を歩いていた。屏

を受け入れる人の心に新しい夢模様を刻む。私は老人の話が気

人物が精誠を尽くしたところ。詩を書いて世の中を生きていきた

いという切望する私の夢が彼の伝説の真っただ中に位置してい

るような気がした。

無職生活3年目。いよいよ通帳残高が底をついた。ある夕暮

れどきに私は再びこのケヤキを訪れた。そのケヤキをじっと抱い

ていたら、今は亡き母の声が聞こえてきた。母は私に祖母の話

をした。祖母は、子供を 12 人産んだ。母はその中の9番目だっ

1

46 KoreaNa 夏号 2015

1 瀟灑園(ソセウォン)のあ ずま屋。韓屋(ハンオク) の扉は持ち上げる開放型 となっているた め、 暑 い 夏日に風の通り道を作っ てくれる。 2 無等山(ムドゥンサン)の 谷水を引き込んで岩の間 を流すようにした瀟 灑 園 は、自然の中で世の中の 道理を考えた朝鮮時代の 士人たちの理想郷をうか がわせる。


2 韓国の文�と芸� 47


1

2

48 KoreaNa 夏号 2015

3

1 竹 綠 苑( チュクノグォ ン)の竹林を歩く夫婦。 真 夏 にも竹 林の中 は 涼しい 空 気 が 立 ち込 めている。 2 潭 陽 の 人 々が 楽しむ 竹蒸しご飯。竹を切っ て作った器の中に米を 入れて蒸す。 3 重要無形文化財第 53 号 の 彩 箱( チェサン) の職人・徐漢圭(ソ・ハ ンギュ)。竹を薄く割っ て染色して作る彩箱は、 非 常 に手の込んだ 貴 重な細工品だ。


た。第2次世界大戦の真っただ中、日本軍の招集を逃れて子供

たちはみんなバラバラになった。祖母は毎日未明の祈りを捧げ た。町の裏山の中腹に小さな泉があったが、毎日早朝その若水

旅をして、自然と森、人々の暮らす生活を見たいと思うならば、 真っ先に潭陽の官防堤林に足を運ぶことをお勧めする。

を汲み、町の神木のケヤキの元で子供たちの安寧のため真心を

竹林を吹き抜ける風の音、竹林で聞く牡丹雪の音

から二つの大きな光が閃いた。虎だった。祖母は慌てずにおも

の竹林を散歩することもできる。昔から潭陽の人々は、自宅の

をお守りください」と、虎に向かって落ち着き払った姿勢で祈りを

が、それは神様が宿る竹という意味だ。風が吹くと裏庭の竹林

普段通り精誠を捧げて祈ったという。真心を尽くせば必ず奇跡が

降る日に竹林で聞く牡丹雪の音を最高の詩情と思った。木の葉

込めて祈った。ある未明、泉で水を汲んでいたら向かい側の森

むろに立ち上がって、「山神様のお恵みによってうちの子供たち

林道前の枝川を渡ると、「竹綠苑(チュクノグォン)」という名前

裏庭に小さな竹林を造った。彼らは竹を特別に「神竹」と呼んだ

捧げた。すると何事もなかったかのように平然とケヤキに戻って、 から聞こえる風の音はサラサラと、人々の心を清らかにし、雪の 起こる。小学校時代、母は祖母の話をしながらそのように言った。 に落ちる雨音が聞き取れるならば、あなたは竹の葉にしんしん

その日、帰宅して私は一編の童話を書き始めた。

小さい雀一羽が成長して、あらゆる敵を打ち破って雀の王国を

建てるという筋の童話だった。新しい王国を建てるというモチー

フは朝鮮の太祖・李成桂から借用したもので、大きな金色のケヤ キは雀王国のシンボルだった。半月で童話

が出来上がった。私はこの童話原稿をある 出版社に送った。何の対策もないままに第

2子が産まれ、同じ日に童話『 雀の雛・チ

ク』が 世 の 中 に出た。 本 は 重 版 を重 ねて、 私はその印税で小さいマンションを購入し

た。怖さを吹き飛ばして、専業作家の生活

も延長できた。これはいずれもこのケヤキ

との出会いによるところが大きい。

ハンジェ村から水北面を経て潭陽邑(タミ

ャンウプ)への道のりは、メタセコイア街路

樹が鬱蒼と茂っている。メタセコイア並木通

と降る牡丹雪の音も聞くことができる。その牡丹雪の音を聞きな

がら、人々は竹ですべての生活用品を作って、長い冬を過ごした。

30 ~ 40 年前には韓国の竹細工品のほとんどが潭陽で生産され

たと言っても間違いではないだろう。 潭陽の人々は、竹の器

にコメを入れて蒸した竹蒸しご飯をよく食べて、お酒も竹の香り

人生に行き詰まったとき、私は潭陽の田舎道を歩いた。数百 年の樹齢を誇る老巨樹に涼しい木陰を与えられて、人生の曲 がり角を曲がるたびに夢に向かって挑戦し続ける勇気を与えら れた。チシル町のあずま屋と瀟灑園(ソセウォン:韓国の伝統 様式が息づく朝鮮時代の代表的な民間庭園)を眺めながら、 人間の最も根源的な人生の夢は、自然だということにも気づ いた。自然こそがわずか一瞬たりとも憎めない人生の朋友な のだ。潭陽の道すがら私は人生が伝説の延長線上にあること を悟った。

りは、潭陽のランドマークだ。一見ヒマラヤ山脈のモミの木のよ

を生かし醸した竹桶酒を楽しんだ。春には竹の子にタニシを混

が萌える。秋になって葉が黄金色に変わる頃、大勢の人々がこ

9月潭陽では、世界竹祭典が開かれる。世界の竹で作った民芸

うに見える落葉広葉樹のこの木は、冬に葉が落ちて、春に若葉

の並木通りを訪れて、写真を撮ったり、カタツムリのようにゆった

りと歩いたり、恋人たちは2人乗り自転車を楽しんだりもする。

官防堤林(クァンバンジェリム)は、潭陽邑を貫通する林道の

ぜて酢和えをした竹の子刺身は、酒の肴の最高品だ。2015 年

品が一堂に会する祭典だ。

官防堤林と竹綠苑を歩いてお腹が空くと林道の一角にある素

麺食堂街に立ち寄って、一杯の素麺を食べるのもおすすめポイン

名前だ。全国の数多くある林道の中でも、風景の美しさは断ト

ト。素麺は韓国人が好きな庶民的料理だ。特別な具なしの麺に

しりと立ち並んでいる。一本一本の木が町の神木になれるような

素麺はあっさり味でとてもおいしい。一杯の素麺と竹桶酒一杯を

ツだ。樹齢2百年から4百年にもなる老巨樹 430 本あまりがぎっ 品格を兼ね備えた樹木が一同に集まって、人間の住む世の中を

朝鮮伝統醤油を溶かしたカタクチイワシの出汁をかけて食べる 飲みほして、目の前に広がるメタセコイアの並木通りに沿ってあ

覗き込むような姿は温かくて美しい。1648 年当時、潭陽府使(プ

てもなく歩く旅は、韓国旅行の醍醐味と言える。潭陽邑内の紙

にも潭陽府使が2回目の植樹を行ったといわれる。ケヤキとエノ

ン姓の女性がチョン家に嫁に行った。子供を産む前に夫がこの

国美の典型を見せている。もし、あなたが1ヶ月間韓国を歩き

がら暮らした。成人した息子は、ある日未明、母が台所でスカ

サ・朝鮮王朝時代の地方官)が初めて木を植えており、 1854 年

キ、ムクノキのような落葉広葉樹が風になびく林道の姿は、韓

砧里(ジチムリ)の旧名は孝子里(ヒョザリ)だった。この町のハ

世を去り、妻は日雇いの仕事をし女手一つで忘れ形見を育てな 韓国の文�と芸� 49


潭陽への行き方 金浦空港

潭陽郡昌平面(チャンピョンミョン)のサムジネ町。「スローシティ」に 指定されたサムジネ町には、昔の面影を残した伝統的家屋と路地が 石垣でつながっている。

龍山駅 ソウル

タミャン

ソウル→潭陽

潭陽

ートを乾かしている姿を目にする。翌日の夜、息子

光州駅

高速道路

KTX

航空便

自動車

乗用車を利用すれば、ソウルから潭陽まで 3 時

間 30 分くらいかかる。ソウルから潭陽までは約 300km。

高速バス

ソウル盤浦洞(バンポドン)に位置したセン

トラルシティターミナル( hticket.co.kr )で高速バスを

利用すれば、潭陽まで3時間 45 分かかり、午前8時 10

分から3時間おきに1日4回運行する 列車を利用する場合

1) KTX:龍山(ヨンサン)駅から光

州 (クァンジュ) の松亭 (ソンジョン) 駅まで1日 22 回、光

州松亭駅まで2時間くらいかかり、約 30 分おきに運行す

る。光州松亭駅を降りて、光州総合バスターミナルに移 動した後、潭陽行きバスに乗り換える。

2) ムクンファ号(木槿)、ITX セマウル号:龍山駅から光州 駅まで運行する。列車によって4時間―4時間 30 分くら いかかる。詳しくは韓国鉄道公社( KoraIl )のホームペ ージ( korail.com )で確認できる。光州駅前から潭陽の 竹綠苑(チュクノグォン) 、瀟灑園(ソシェウォン)などへ 行くバスに乗れる。 航空便

大韓航空( koreanair.com )とアシアナ航空

( flyasiana.com )が金浦(キムポ)-光州航路を運行。大

韓航空が1日2回、アシアナ航空が1日3回運行する。 料金は曜日によって異なり、航空会社のホームページで 確認、予約できる。

は母の跡をつけたが、母は隣町の寺小屋の先生であ

る男やもめにこっそり会って、未明に戻ってくるため

スカートの裾が露に濡れていたのだった。翌日息子

は、母が歩いていく林道の草をきれいに刈って、母の

スカートが濡れないようにし、二人が一緒に暮らせる

ようにした。町の人々がそのことを知って、町の名前 を孝子里と名付けた。

サムジネはスローシティに指定された町だ。好奇

心旺盛なあなたが名前だけ聞いてこの町を訪れたら、

ややがっかりするかもしれない。町の長い石垣を除

けば、ここがスローシティ精神とどのように結びつく

のか理解できないはずだからだ。大規模な韓屋(ハ

ンオク:韓国伝統家屋)はにわか作りの感があり、民

宿や飲食店の姿はどう見てもゆっくり、静かに生きて

いく人々の姿とはかけ離れている。スローシティに指

定されずとも、昔の姿をそのまま残しているならば、あなたは快くこの町で 一晩泊まって行って良いだろう。

澄んだ渓谷に設けられたあずま屋

南面(ナムミョン)のジャコクリは、潭陽郡の最南端に位置した町だ。チ

シルという旧名が懐かしいこの町は、無等山(ムドゥンサン)の麓に位置して

おり、澄んだ水が絶え間なく奏でる谷間に、東洋画に見られる詩情深い楼 亭が位置している。環碧堂(ファンビョクタン)、獨守亭(トクスジョン)、醉

歌亭(チガジョン)、息影亭(シクヨンジョン)などが隣り合う町の松江亭(ソ

ンガンジョン)や俛仰亭(ミョニャンジョン)のようなあずま屋と調和をなした

潭陽の地図

佇まいは、静かな朝の国のシャングリラと呼ぶに値する。私が学校を辞め

竹緑園

メタセコイア街路

ハンジェ村

市外バスターミナル 韓国竹博物館 息影亭 瀟灑園

てぶらぶら歩いていた時、このあずま屋は真昼に立ち寄ってセミの声を聞き ながら昼寝をするのにぴったりだし、ひらひらと舞うシジミチョウを眺めな

がら数行の詩を書く上でも居心地良い場所だった。その中で私のお気に入

りのあずま屋は息影亭だった。影が一休みできるところ。すべての生命あ

るものは影を持つ。光がなかったり、生命がなかったりすると影は存在し ない。息影亭の主人は、自分の存在を、熱望を、叶わぬ夢を休ませたか

ったのだろう。朝鮮王朝時代、権力から遠ざけられた士人たちが、山深く 水の澄んだここチシルで、詩と風流を楽しむことしかなかった現実が息影

亭という名 前に表 れている。詩 一 本やりの生 活をしたいと思ったその日、 50 KoreaNa 夏号 2015


私の夢も結局は命の影をしばらく休ませたいと思ったことなのか

もしれない。

た。その中でも白眉は断然谷水の音だった。朝目を覚ましたら、 朴氏はすでに森の鳥のさえずりに心酔していた。「よく眠れまし

朝鮮中期の文人・鄭澈(ジョン・チョル、 1536-1593) は、ここ

たか」と声をかけたら、霽月堂の水の音があまりにも清らかだっ

ク)』、『星山別曲(ソンサンビョルコク)』のような美しい歌詞を書

ができたと話された。今は亡き朴氏は、星になって、瀟灑園で

の 星 山( ピョル メ )町 に 泊 まって、『 思 美 人 曲( サミインコ

たのでなかなか寝付かれず、未明にようやく浅い眠りにつくこと

いた。その歌詞の中心には自分を見捨てた王に対する懐かしい

の一夜を懐かしく思うかもしれない。

凄然たる寂しさの中で悩みが深まる内面を歌ったものがある。

色調の花は、神仙の庭園に咲く花のようだ。鄭澈は、サルスベ

気持ち、降り注ぐ星の光が山をなしたかのような自然の美しさと

ここ谷のサルスベリは初夏から秋まで咲く。赤と青の混ざった

あなたはこれから瀟灑園に足を運んでみるのも良い。息影亭

リが咲く谷川の水を紫薇灘(ジァミタン)と呼んだ。潭陽歩く旅の

瀟 灑 園 は、 朝 鮮 中 期 の 士 人・梁 山 甫( ヤン・サンボ、 1503-

百年前の朝鮮士人の歌だったということを考えると、なんて不思

を園林の中に引き込んで、主人が寝起きする「雨上がりの空の青

人生行き詰まったとき、私は潭陽の田舎道を歩いた。数百年

から瀟灑園までカタツムリの歩き方で歩いても1時間かからない。 最後にあなたの目の前にひらひら揺れるこの花びらの一つが数

1557) が造成した園林だ。無等山のある斜面を流れ落ちる谷水

くて澄んだ月」という意味の霽月堂(チェウォルタン)と、旅人が

議なことだろう。

の寿命を誇る老巨樹が涼しい木陰を提供してくれ、人生の曲が

泊まる別棟の「雨上がりの日差しの間を吹き通る風」という意味

り角にさしかかるたびに、夢に向かって挑戦し続ける勇気を与え

通し主人と旅人の夢とともに清らかに流れていく。15 年前、私

様式が息づく朝鮮時代の代表的な民間庭園)を眺めながら、人

の光風閣(クァンプンガク)の間を流れるようにした。谷水は、夜

てくれた。チシル町のあずま屋と瀟灑園(ソセウォン:韓国の伝統

は小説家・朴婉緖(パク・ワンソ、 1931-2011 )氏一行とともに、 間の最も根源的な人生の夢は自然だということにも気づいた。

梁山甫氏子孫の配慮で、 光風閣で一夜を過ごしたことがある。 自然こそたった一瞬たりとも憎めない人生の朋友なのだ。潭陽 夜もすがら月の光がよかったし、竹林に吹く風の音が清らかだっ

の歩く旅先で私は人生が伝説の延長線上にあることを悟った。

韓国の文�と芸� 51


遠くの目

時をこえて

箕輪吉次

みのわ・よしつぐ、慶熙大學校外國語大學 敎授

学生とよく旅をした。智異山などの山にも登った。ほぼ全国を旅した。朝鮮通 信使関係のものを書くようになってから、普段は忘れているのだが、まだ行っ たこともないのに、脳裏から離れない地名がいくつかあった。

ウルオリンピックの前の年に赴任した。大学の周辺は山と田畑だけで、夜は、空から星 が降りそそぐようであった。

学生に恵まれたと、つくづく思う。着任した日、宿舎に多くの学生が待っていた。みな

日本語で話しかけ、とりわけ、たくさん日本語で話しかけてきた学生が、自分の日本語はどうか

と尋ねたので、下手ですと答えた。今から思うと、こういう場合、日本人としては別の言い方を

するのではないかと思うのだが、なぜであろうか、私は感じたまま、率直に答えた。清音が強

い音で、発音が聞きとりにくかった。本人は傷ついたであろう。その学生には、卒業後、何度 も会う機会があり、ある時、その時の話しをして、あやまった。

また一人の学生は、翌日からほとんど毎日私の傍らにいて、生活をともした。暫くして、髪の

毛を切らなくてはと思い、その学生に床屋に連れて行ってくれと頼んだ。ところが、彼は床屋は

ダメですといい、美容室に行きましょうと言った。美容室に行くのが、当時の日本では、女性だ

けであったこともあって、男がなぜ美容室に行かなければいけないのかと、押し問答の末、結

局、連れて行ってはもらえなかった。さらに髪の毛が伸び、さすがに、美容室でもどこでいいか

ら行って、切らなければと思いはじめた頃になって、学内に学生用の床屋があるのにようやく気

が付いて、そこに連れて行ってもらった。美容室に行こうと彼が言ったことの意味を知ったのは、 なおしばらくしてからである。10 年ほど前、学内に美容室ができたので、今はそこに通っている。

美容室で女子学生を見たことがない。

今はあまり飲まないが、前はコーヒーが好きだった。インスタントではなく、本当のコーヒー

が飲みたくて、他の学生に相談した。コーヒーが飲めるところはないかと。なにごとか、深刻

に考えているようだったが、ある日の夜、行きましょうということで、麓の町に行った。インスタ

ントコーヒーであった。なぜ夜なのか、それが分かったのも、しばらくしてからである。ことばを

訳しただけでは、意が通じない。ことばには、文化や社会、歴史が内包されていると、実感と

して知った。今は、学内にも、大学の周辺にも、コーヒー専門店がたくさんある。

学生とよく旅をした。智異山などの山にも登った。ほぼ全国を旅した。朝鮮通信使関係のも

のを書くようになってから、普段は忘れているのだが、まだ行ったこともないのに、脳裏から離

れない地名がいくつかあった。朝鮮通信使ゆかりの韓国内の地である。1682 年、通信使一行は、

旧暦11 月 11 日、聞慶を発ち、聞慶鳥嶺を越えて安保に至った。峠を越える前、龍湫の滝で休

憩をした。その時、通信正使である尹趾完が李錫予に命じて岩に詩を書かせた。従事官朴慶後

も五言絶句を書いたという。その時の詩を刻むなどして、今に残っているかもしれない。いつか、

その地を訪れてみたいと思っていた。 52 KoreaNa 夏号 2015


1

2

1 釜山龍頭山 館守家に通じる石段 2 草梁客舎 記念碑(蓬莱初等学校内)

大邱で学会があった時、同僚や学生と聞慶鳥嶺を訪れた。第一関門から渓流沿いに登ると、

復元された交亀亭の近くに滝があり、岩肌に龍湫と刻んであった。詩は残ってはいなかった。お

そらくは、渓流の水を筆に含ませ、岩肌に書いただけなのであろう。墨で書いたとしても、一雨

降れば、消えてしまう。それより上には登ることはしなかったのだが、あるいは復元された交亀

亭よりさらに登ったところの滝であったのかもしれないと、今になって思いはじめている。せめ

て、峠まで登ったならとも思うが、しかし、後日の楽しみでもある。詩そのものは、金指南が 使行録に書き留め、今に伝えられている。

倭館があった釜山の龍頭山公園周辺には、しばしば行くことがある。昨年、冬、学会の翌日、

古館のあった東区区庁から龍頭山まで学生とともに歩いた。草梁客舎の跡だという蓬莱初等学

校にも立ち寄ったのだが、記念碑を見つけることはできなかった。日曜日で門は鎖されていた。

1 月、平日、妻とともに釜山に行き、蓬莱初等学校を再び訪れた。学校の守衛さんに尋ねたと

ころ、校内、門の脇に記念碑があるという。校内に入る許しを得て、ようやく目にすることがで きた。客舎の近くに訳官の詰め所があって、言葉を学ぶため、雨森芳洲が毎日のように通って いたのだと思うと、感慨深いものがあった。

海が荒れると波をかぶることもある道だった。その道を、龍頭山周辺に豆毛浦から倭館が移

転した 1678 年から200 年近くもの間、訳官も、対馬の通詞も、毎日のように通っていたのである。

立場を異にし、時に紛糾することがあっても、交渉が途切れることはなかった。互いに率直に 意見の交換をしていたようである。

海は埋め立てられた。道も広く整備され、昔の面影はない。江戸時代の絵図、明治以降の

地図、絵葉書などの写真、埋め立て図や現在の地図を見くらべても、昔のことは何一つはっき

りしない。1954 年冬の大火災以降、公園周辺が整備され、一帯は大変貌を遂げた。今残って いるのは、館守家に通じる石段だけのようである。

かつて陸の孤島のようであった大学から、乗り換えることもなく電車一本でソウル市内に行け

るようになった。市内に入ると駅は地下である。目印になるような建物があるはずもなく、西も 東もわからない。案内表示なしには地上に出ることすらできない。地上で、自分の足で歩いた

所は、赴任した当初に一度しか行ったことのないところでも、今でも確実に覚えていて、ほとん

ど忘れることがない。実際に行けば、何もわからないだろうが。

散策した葡萄畑や水田、星が降り注ぐ夜空は記憶の中にしかない。大学の前は、巨大な街と

なった。卒業生も、赴任した当時の私の年齢をとうに越えてしまった。歳月は流れたのに、会

えば、お互い、昔のままである。人は、私にとって宝である。

韓国の文�と芸� 53


グルメを楽しむ

パク・チャニル

朴賛逸、料理研究家、コラムニスト

安洪范 写真

韓国の スローフード

ムック(澱粉をゼリー状に固めたもの)は思い出の食べ物だ。幼い頃、外祖母がソバの実で作ってくれたメミル ムック。胡麻油と醤油で合えただけでも、その香ばしく淡白な舌触りは今でもはっきり覚えている。大人になっ て民俗酒店でマッコリのつまみとして食べたドングリで作ったトトリムック、18 世紀の朝鮮王、英祖が党派間の 勢力均衡を図ろうとしたタンピョン政策と関連して、歴史の時間に学んだタンピョンチェ(蕩平菜)。最近になり、 このムックが再び私たちの暮らしの中に戻ってきた。ウェルビングの熱風と、思い出に浸りたい熱望に乗って返 り咲いたムック、健康と思い出の一石二鳥だ。

1


2

1 トトリムックは山で拾ったド ングリの皮を剥いで乾燥させ て粉にし、さらに再び水につ けてふやかし弱火で長 時 間 煮詰めて、冷めて固まったら 出 来 上 がりという非 常に手 間のかかる工程を経て作ら れる。カロリーが低くタンニ ン成分が脂肪の吸収を抑制 する効 果 が あるというので、 最近ではダイエット食品とし て人気を集めている。 2 緑豆の粉で作るチョンポムッ クは昔、王室や貴族の家の 祝いの膳に上がった貴重な 食べ物だった。

族間の食文化の違いから時として、 「もっけの幸」なことがある。今は遠い昔の話になってしま

ったが、西洋のいくつかの国ではナマコを食べないので東洋の移民たちにとって、もっけの幸

いと捕り放題の時期があった。ワラビやドングリも同様だった。欧州でもドングリを良く見か

けるが、自然を損なわない範囲で韓国人にとってドングリは非常に魅力的な食材となったものだ。私も 外国に住んでいたときに、村の裏山でワラビを採ったり、ドングリ拾いをした経験がある。

ムックは冷えたら出来上がり

ムックはドングリやソバ、緑豆などの材料の澱粉が固まる性質を利用して作る。西洋料理ではこのよ

うな食感を出したい時には、ほとんどの場合、動物性の材料を使う。魚の骨や動物の副産物からコラ ーゲンゼリーを抽出するのだ。フランス料理のパテやテリーヌ、そして多彩な前菜料理と菓子にはゼラ

チンが使われる。ムックは材料だけ見ればその他の炭水化物と似ているが、出来上がりが全く違うので その味も異色だ。例えば、緑豆でクッス(麺)料理も作るが、緑豆がムックになると全く違った形態と食 感を持つことになる。ムックは固める時にその形態を様々に変化させることができるので、その料理は

さらに立体的に変身する。

ムックとは平凡な粉を高級料理に変える魔法のような技術だと言える。ムックと西洋のゼラチン料理

には一つだけ共通点がある。材料が冷えると固まるという物理的な性質が利用されている点だ。韓国

のムック料理はムックを切って調味料で味付けをして食べる。しかし西洋ではゼラチンは透明なので中 に何かを詰めれば視覚的にも美しく、食感も良いので、中に何かを詰める方式が使われている。

真冬の思い出-メミルムック

私は子供の頃に何種類かのムック料理を食べたことがある。都市で暮らしていたのでムックを直接作

って食べることはあまりなかった。ムックは非常に大変な労働を伴う料理だ。ドングリのムックであるト

トリムックを例にあげると、ドングリを拾ってきて蒸し、一つ一つその皮を剥いてから水につけてその渋

みを取る。その際に水を少なくとも 10 回以上取りかえてタンニンを出来るだけ除去する。そしてそれを 乾燥させて粉にする。この粉がムックを作る材料になる。「ムックを作る」と言う言葉は、腰が折れるほ

どかまどの火を絶やさないように立ってかき混ぜるという意味でもある。固まって味をつける段階に至

るまでには、本当に長い時間と複雑な工程が必要だ。それで我が家ではムックは主に買って食べるこ 韓国の文�と芸� 55


パク・モグォル(朴木月)は『寂寞な食欲』という詩の中でメミルムック (そば寒 天)を「淡白で香ばしく、崩れていても素朴で礼儀正しく、田舎の祝い事の 日に八角膳にのり、娘の嫁ぎ先の両親をもてなすもの」と詠っている。それ でいてマッコリとの相性もピッタリだと言っている。ムックはマッコリのよう な民族酒にも良く合う、軽くても腹持ちの良い、民衆の食べ物だった。

とが多かった。冬の夜長にお腹が空いてくると夜食として、ソバの実で作ったメミルムックを食べた。冬

の夜に「メミルムック!」と売り歩く行商人の声が聞こえてくると私は父のために、すぐに上着をひっかけ、 買いに飛び出して行ったものだ。凍てつくように冷たい冬の夜、だいたいは学費の足しにしようという 大学生らが行商をしていたので、父はときにはお釣りももらわずに学生たちを励ましていた。メミルム

ックは庭に埋めた甕の中で熟した、ちょっと酸っぱくなったキムチと一緒に食べた。

私の記憶ではトトリムック(ドングリのムック)は都市ではそんなに見かけるような食べ物ではなかった。

トトリムックは 1970 年代までは非常に「田舎臭い」食べ物だった。私が始めてトトリムックを口にしたの は大学時代、当時流行していた民俗酒店や「学士酒店」 (大学生が主要顧客)でのことだった。70 年代

末から 80 年代の初めにはこのような需要を受けて偽のトトリムックが登場した。ドングリの粉をほとん

ど使わずに、色と食感だけを真似て作られたものだ。ドングリの粉をほとんど使っていないので値段が

安く、そのためトトリムックは当時、若者たちに非常に人気のメニューだった。悪徳なるも美徳となりう

るということだ。

庶民の友-メミルムック、貴族の祝い膳 -チョンポムック

緑豆の粉で作られるチョンポムックも最近ではトトリムックのようによく見かける。しかしチョンポムッ

クは昔、大金持ちや貴族の家の祝いの膳でしか見られないような非常に貴重な食べ物だった。伝わる ところによると朝鮮時代の英祖(在位期間 1724-1776 )が四色党派の争いを調整しようという意志を込

めて臣下に食べさせたのが「タンピョンチェ(蕩平菜)」という名のチョンポムック料理だったという。タン

(蕩)とは倒すという意味で、ピョン(平)も切って平らに整えるという意味なので、混迷する政局を正す

1 ムックの主 材 料であるドン グリの粉、そば粉、緑豆の 粉と色をつけるのに使われ るクチナシの粉 2 メミルムックを細く切り、下 味をつけて炒めた牛肉、セ リ、海苔を二杯酢で合えた タンピョンチェは 昔 は 肌 寒 い春の夜に食べた料理だ。 3 トトリムックやメミルムック に軽く味をつけたものをご 飯にかけて、そこに水を注 いで食 べるムックパブはも ともと山の多い内陸地方で 庶民が食べていた素朴な料 理だ。

1

56 KoreaNa 夏号 2015


という意味だった。しかしこの話の信憑性はそれほど高くはない。『朝鮮

王朝実録』や、そのほかの王朝の記録物にはそのような内容は出てこな

い。とにかく王家や高官たちの食膳にチョンポムックが上ったというこ とだけは確かなようだ。

前述したメミルムックは高級料理のタンピョンチェとは正反対に位

置するものだ。メミルムックは、簡単に手に入るそば粉を使って手早

く料理して食べた庶民の食べ物だった。ソバは今は小麦よりもはる かに高い穀物になってしまったが、朝鮮時代には手軽に手に入る食

材だった。朝鮮時代には小麦は生産量が極めて少なく、富裕層だけ

が食べられるものだった。それに対してソバは粉食の核心だった。ソ

バは強い生命力でどんな貧弱な悪条件の土壌でもよく育った。焼畑農

業の山間部でも栽培が可能で、ひどい日照りや極寒の寒さにも強く、

飢饉を救う作物として庶民の飢えをしのいでくれた。ソバは水車や挽き

臼などでその皮を剥き、粉にして水を加えて熱し、冷ましさえすればムック

になった。

料理研究家ハン・ボクジン教授の著書『私たちが本当に知っておかなければな

らない飲食 100- 2』の「ムック料理」の章には詩人パク・モグォル(朴木月)の話が出

てくる。朴木月は『寂寞な食欲』という詩の中でメミルムック(そば寒天)を「淡白で香ば

しく、崩れていても素朴で礼儀正しく、田舎の祝い事の日に八角膳にのり、娘の嫁ぎ先の両

親をもてなすもの」と詠っている。それでいてマッコリとの相性もピッタリだと言っている。

最近になりムックが再び全盛期を迎えている。すぐに満腹感を味わえ、カロリーが低いのでダイエッ

2

ト効果が大きいと言われているからだ。ムックは味付けに塩分をたくさん使いさえしなければ、非常に 健康に良い素晴らしい食べ物だ。私の両親の故郷は慶尚北道の内陸地方だ。海が無く、栽培する畑の

作物もあまりなく、料理文化も発達していない。そんな田舎の郷土料理にムックパブがある。昔はこの

地方でだけ食べられていたと言われるムックパブが最近では全国的に人気を集めている。トトリムック

やメミルムックを調味料で味付けし、ご飯を少し入れて水を注ぐだけの、いたってシンプル、簡単素朴

な料理だが、最近ではむしろウエルビング時代にピッタリの食べ物だと脚光を浴びている。素朴さ、そ れで尚更好ましいムックの特性はどこか韓国人の情緒に通じるような気がする。

3


エンターテインメント

年2月、地上波放送局の K B S は、ダウムカカオ(韓国

米国ではすでにフルドットコム( www.hulu.com )が人気テレビ

の巨大IT企業)が運営する韓国2位のインターネット

ドラマの全体バージョンあるいは、編集バージョンをサービスし

向けた MoU を締結した。その後、公開されたラインアップの『恋

れるドラマを意味する。あえて比較すると、ネットフリックスで放

検索ポータルサイト・ d a U M とW e bドラマ育成事業に

たりもしたが、韓国の W e bドラマはもっぱら W e b だけで提供さ

『プリンスの王子』にはそれぞれアイドル 愛探偵シャーロックK 』と

映されたオリジナルシリーズ『ハウスオブカード』と似たような概

ールズデイ)のユラなどが主役を演じる。K B S 側は、今年1年

う概念を一気に大衆文化のキーワードとして位置づけた『 後遺

昨年1年間で 10 本以上の作品が公開されて新しい映像メディア

感を持ち合う男女』などがポータル検索サイト2位の daUM を通

グループ・InFInITe(インフィニット)のソンギュとgirl's day(ガ

念だ。2014 年1月、まだ名前も馴染んでいない W e bドラマとい

間 だ けで 10 本あまりの W e bドラマを制作すると明らかにした。 症』と 『恋愛細胞』、『看書痴列伝』などが naver を通じて、『好

として注目を浴びた W e bドラマは、今では地上波でも積極的に

じてそれぞれサービスされた。

このように急激に成長できた秘訣は何か。

症』は W e b 漫画を原作とした作品にふさわしく、交通事故の後

取り組むほど市場でその価値が認められている。W e bドラマが

20 分あまりの短いランニング・タイムにもかかわらず、『後遺

Webドラマとは、文字通りWeb 上で放映されるドラマのことだ。 遺症で超能力を持つようになった少年の話をテレビドラマより簡

Webドラマは、ドラマ市場の 主流になれるか ウィ・クヌ

魏根雨、Web マガジン 『 IZe 』記者

ドラマといえばまず思い浮かぶのはテレビドラマ。ところが、もっぱら P C やスマートフォンのみで見れるドラマ が登場する。まさに Webドラマ( web dramas または web series )だ。2014 年1月、韓国最大手のポータ ルサイト・NAVERに韓国初の W e bドラマ『後遺症』が公開され、4週間で再生回数 350 万回を突破した。次 いで、『ずば抜けた器量の女性』と 『恋愛細胞』などが高い再生回数を記録し話題となった。2014 年、もっとも 目に見えて成長したこの新しいメディアは、果たして韓国の大衆文化市場をどのように再編するのだろうか。

1 1 ソ・カンジュン、パン・ミナ主 演の『最高の未来』。2 0 1 4 年 10 月 28 日初放送。 NaVer TVcast 放送 2 チョン・ウヒ、アン・ジェホン 主演の『ずば抜けた器量の女 性 』。2 0 1 4 年 8 月 5 日初放送。 NaVer TVcast 放送 3 キム・ヨングァン、サンダラ・ パク主演の『 Dr. Ian 』。2015 年 3 月 29 日初放送。 NAVER TVcast 放送

©samsung


潔かつ吸引力のあるストーリー仕立てになっている。さらに、韓

主にインターネットの vod(ビデオオンデマンド)サイトを利用して、

いたユン・ソンホ監督は、 S B S の恋愛リアリティー番組『チャク

用してコンパクトに編集されたビデオクリップを楽しむ。実はポ

国の代表的な独立映画監督として才気あふれる作品を制作して

(ペア)』をパロディ化したコメディ『好感を持ち合う男女』でテレ

ビでは見られなかった現実的な恋愛感情を生かした演出を披露。

このように面白くて気軽に楽しめる W e bドラマの人気は、モバイ ルプラットフォームならではの特性によるところが大きい。

自分が好きな時間に目当ての番組を視聴し、 10 代はスマホを利

ータルサイトよりお尻に火がついたのは放送局だ。

新しい市場はコンテンツの発展をリードするだろうか

Webドラマは、既存のコンテンツ・プラットフォームのモバイル

市場に対するアクセス、そしてスマートフォン・ユーザのニーズを

手のひらサイズのTVモバイル・デバイス

満たす上で最適のコンテンツといえる。そのため、市場が速いス

現在、韓国はスマートフォンとインターネットの普及率で世界

ピードで成長している。9 人組ボーイズグループ・Z e : a「帝国の

公衆無線 l a n スポット( W i - F i スポット)があり、スマートフォン

W e bドラマはまだその可能性が検証されていない舞台だったと

トップレベル。ソウルの主要な地域では誰でも無料で利用できる にコンテンツをダウンロードしながらストリーミングで再生できる

子 供たち」のキム・ドンジュンが『 後 遺 症 』で主 役 を演じた時、

したら、今では W e bドラマは多くの人気アイドルたちが主演デビ

最適なネットワーク環境を実現している。韓国の W e bドラマは、 ューする舞台になるほど注目されている。2n e1 のサンダラ・パ

このようなネットワーク環境に支えられて急ピッチで成長できた。 クは、モデル出身俳優のキム・ヨングァンとともに『 d r . I a n 』に 現在、1話あたりのランニング・タイムが 20 分くらいの短い W e b

ドラマは、スマートフォン・ユーザのニーズにぴったりのコンテン

出演し、サムスングループ制作の、累積クリック数 1,000 万件の

大台を突破した『最高の未来』には、 g i r l ' s d a y の珉娥(ミナ)

ツだ。消費者のコンテンツ消費がモバイル中心に再編される流

が出演した。同名の n a v e r・W e bトゥーンを原作とした『恋愛

はない。ここ 40 年間、もっとも影響力あるメディアだったテレビ

ム・ウビン)などのトップスターたちが出演して話題となった。

代となった。今まではケーブルチャンネルや総合編成チャンネル

これからは大手キー局もインターネットに再編されるメディア市

放送する新聞社系チャンネル)と競合してきたが、今ではモバイ

していかなければならない。果たして、従来のコンテンツ市場の

の主要ターゲット層である若い視聴者たちの T v プラットフォーム

ザのニーズに応えられるだろうか。これから彼らが作り出す Web

れは、 P C 中心にサービスしていたポータルサイトだけの課題で

も、もはやモバイル市場を視野に入れなければ生き残れない時

(総編・ケーブルテレビ・IPTv など地上波以外のメディアを使って ル市場が手ごわい競争相手として浮上したからだ。さらに、 C M 離れが日増しに進んでいる。20 ~ 30 代の視聴者たちは、今は

2

細胞』には、主演ではないが、張赫(チャン・ヒョク)、金宇彬(キ そのため、 K B S の W e bドラマ進出には象徴的なものがある。

場で生き残るためには、 W e b 基盤コンテンツへ事業領域を拡大

生産者たちはモバイル向けに特化されたコンテンツを望むユー

ドラマがその行方を占う決め手になるに違いない。

3

©soyworks

©kirin production


韓国文学の旅

悲しみの 向こうにある 光と希望に 向かって叫ぶ 作家評

チャン・ドウヨン

張斗寧、文学評論家

チェ・ウンミ(崔恩美)の小説には悲しみがたくさん詰まって いる。小説『とても美しい夢』では、「人生は苦しい悲劇の

現場であり、日常は悲しみに耐える過程だ」と作家は書い ている。巨大な砂嵐がまきおこり、濃い黄砂の埃が襲い掛 かってきて息をすることも難しいほどの状況で、しばし目を 瞑ってみると夢の中では死んだ人間たちが後から後から声

をかけてくる幻想に襲われる。しかし悲しみの中でも小説 の中の登場人物たちは海を自由に遊泳する鯨を夢見る。人 生という苦痛のど真ん中から一歩も抜け出せないという虚 無と挫折。それにも関らず人生は美しいものだと夢見て一 時もやすむ事はできない、彼女の小説はそんな希望が並存 する世界だ。

60 KoreaNa 夏号 2015


「窓

の向こうは冬」にも悲しみがいっぱ

いである。主人公の男は甘い夢を

見る。まっすぐ見上げることができ

分離されており、それぞれの温度差が大きいことを示している。欲望

の対象はそれが禁止されているが故に、なお一層誘惑的でもある。

従兄弟の妻に対する主人公の視線に家族関係というタブーが重なり、

ないほど陽光がきらめく日差しの中に一人の

よりやるせない様相を帯びる。彼と彼女の間はガラス窓で仕切られ

て、しばらく幸福感を味わう。しかし、彼はし

彼は彼女に近づこうとする、しかし彼がそれほどまでにも望んだ

女性が現れる。彼は瞬く間に彼女に魅了され

おり、彼女に近づきたい彼の欲望は増幅される。

ばらくして夢から覚める。夢から覚めた彼は

彼女の存在は触れることのできない一種の幻影のようなものだ。彼

ないという事実を認めざるを得ない。とてつ

ないが、彼はそんな勇気を出すこともできない。彼は美しい彼女を

切望したが、決してそこに到達することができ もなく美しい夢。だからより一層、悲しく、や

るせない。

女は窓の向こうに座り、こちらのどこかを

女に近づくためには二人を仕切っているガラス窓を割らなければなら 求める自らの欲望を抑制する。

なぜ彼はガラス窓を割ることができずに二重三重の悲しみに包ま

れているのか。小説は父の自殺という家族史的な悲劇を根本原因と

見つめていた。湿気でいっぱいの窓ガラスの

して示している。彼の父が自ら命を断とうと農薬を飲んだ理由に対し

背をもたれたまま考えにふけるように視線を

て父がいかにひどい苦痛の中で死んでいったのか、それによる家族

表面から水滴が流れ落ちていた。女は座席に

外に向けていた。水 滴が女の額と顎の線と、 首筋を流れていった。女は密閉された窓の中

ては説明が不足しており、残念な気がするが、主人公の回想を通じ の心理的な打撃がどれほど大きかったかは十分に伝わってくる。問

題はその悲しみが今も強烈な影響力を行使し、残った家族は未だに

で情事を交わした後のようでもあり、外で起

その余波から自由ではいられないということだ。なによりも父から受

る人のようでもあった。

大きさと深さを象徴的に表わしている。

きている事件を無心に目撃しながら通り過ぎ 彼は女を密かにのぞき見る、そしてエロチ

け継いだ股間の痒さのひどい苦痛は主人公が抜け出せない悲しみの 股間の痒みを治療するためには陽の光が必要だ。彼女がトルチャ

ックな想像をめぐらす。このとき、女に向かう

ムという美しい伝統的な装身具を頭に刺すときに、彼女の顔からこ

後に写真の中の女と職場の同僚として接する

めには冬にならなければならない。彼女が乗った通勤バスの窓の外

主人公の視線は明らかに覗き見を連想させる。 時に、「悪さをしていて見つかった子供のよう

に、彼女と目が合うと落ち着かなかった」と述 べていることからも分かる。

ガラス窓は主人公が女をのぞき見る通路の

役割を果たしているが、同時に二人のいる空

間を分離する役割もしている。ガラス窓がくも

り、霜が付くのはガラス窓の中と外が完全に

ぼれた華やかな笑顔のような陽の光が必要だ。また痒みの治療のた

に吹きつける寒波の冷たい大気ならばカビの恐ろしい繁殖をしっかり

と抑えることが出来る。陽の光と冬があれば。- 結局、彼女を求

めることは自分を押さえつけている悲しみから抜け出そうというもが

きなのだ。

悲しみは簡単に克服することはできない。「カビはこの世の中で繁

殖力が最も強い生物」だと医師が指摘したように、悲しみもまた簡単

に治癒されることはない。彼は勇気を出して彼女に向かって手を差し 伸べようとしても、繰り返し手はすべり、そのたびに床を叩きながら 泣いているのかもしれない。そうではあるが、このような事実が完全

な絶望につながるものではない。彼女がグループウェアに残した文

のように地球は音もなく回っている。地球は回っているから、いつか

は夏が過ぎ、冬が来るだろう。その頃には悲しみもカビも何とか耐え

られるようになるかもしれない。それでこの小説は悲しみの向こうに 到達しようとする努力と意志、そして希望に関する物語なのだ。

韓国の文�と芸� 61


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韓国のイメージ

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春号 2015

韓国の文化と芸術 特集 春号 2015 vol. 22 no. 2

伝統市場

韓国の市場:ロマンチックなかつての情景; 夜明けの眠りを覚ます人々: 私の市場物語

ISSN ISSN 1225-4592 1975-0617

www.koreana.or.kr

vol. 22 no. 2

市場、その歴史と進化


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