展覧 会について
村田 朋泰 Tomoyasu Murata
“Omens”
この個展では、映像作品「松が枝を結び」 とインスタレーション作品「White Forest of Omens」を中心に展示している。映像 作品「松が枝を結び」は、前作「翁舞 / 木ノ花ノ咲ヤ森」、 「 天地」に続くシリーズの三作目となり、震災をテーマにしている。 映像作品では、今展のタイトルとなっている前兆が重なり合ってできているが、気づくものもあれば、気づかないものもある。 目 に見えるもの、そうでないものもある。 このように、二つの対になるシーンを象徴的に織り交ぜ、 日本列島と日本人のアイデンテ ィティとの関係性を示唆することで、信仰の歴史を改めて認識し、移りゆく自然の豊かさと厳しさを受容し、自然を敬い、恩恵 に与る 「日本人」の姿の一端を表現している。
映 像 作品 松が枝を結び A Branch of a Pine Is Tied up 2017, HD Video / Stereo sound, 16min32sec
ス ト ーリー 津波で引き裂かれた双子 スノードームは、現在と過去を結ぶ 現在と過去を行き来しながら、死者は記憶を取り戻していく 月と太陽が重なり、過去と現実がつながる うさぎ男は、記憶を取り戻した少女を黄泉の世界に導く。
タ イ トル 松が枝を結び このタイトルは、万葉集にある有馬皇子が歌った和歌から引用した。 岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び ま幸(さき)くあらばまた帰り見む 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る 万葉の時代、松は身近な樹木であり、幸を願う松として歌われていた。歌にあ る岩代は紀温泉に向かう途中(熊野古道)にあり、松の見える海岸に面している。 道中の松の枝を結ぶのは、旅の安全を祈る当時の習俗であり「無事であったら、 この松をまた帰ってきて見よう」という歌である。 また、「結び」は神霊や霊魂に深く関わる語である。折口信夫は「結び」の本義 は「水を掬 ( むす ) ぶ」という用語に示されるもので、「或内容のあるものが外 部に逸脱しないようにした外形的な形」であると説いた。今日のおみくじを木 の枝に結びつける習俗は「結び」の呪術伝統の名残である。こうした今も残る「祈 り」の風習を作品に象徴的に用いている。
コ ン セプト 二つで一つ 映像作品では、今展のタイトルとなっている前兆が重なり合ってできているが、気づくものもあれば、気づかないものもある。 目に見えるもの、そうでないものもある。 また、その兆候の中で、 「 陰陽」 「あの世とこの世」 「 一卵性双生児」 「 断層と断層」 とい った二つで一つとされるモチーフで構成されている。 これらのモチーフは、 日本人にとっての「感情、記憶、信仰」を表している。 物語は断層同士がぶつかり合い巨大な力によって生まれる現象と、双子の女の子の心理的現象を同時に描いている。 他にも作品の中で、スイッチをつけたり消したり、二枚の写真が重ねあったり、 2つの岩の
間に祠があったり、双子の勾玉
が登場したり、見えるものと見えないものがあったりなど、二つの対になるものシーンを象徴的に織り交ぜている。
登 場 人物 双子の女の子 今回の映像作品では、前作の『天地』に続き、双子が主人公として登場する。 作品中、登場する人形の素材を変えることで「生と死(現在と過去)」を表現し ている。 顔の表情が曖昧な石の女の子(陶土で制作)は「記憶を失った死者」、表情のあ る双子(石粉粘土で制作)は「生者(過去の記憶)」として登場し、 「死後の幸せ」 とは「記憶を取り戻した姿(生者としての姿で黄泉の国に向かう事)」として結 実させている。
真脇の
神
今作品では、
神を亡くなった少女を黄泉の世界へ導く神として登場させてい
る。うさぎは、 「白
神社」や「白
神」「白
明神」などに見られるように、 「白
」として伝わり、『古事記』にも登場する。 また、
神がつけているお面は石川県の真脇遺跡から出土した土製のお面をモ
チーフにしている。このシリーズでは「お面の歴史」を
るというもう一つの
側面もあり、この日本最古のお面と言われている真脇の土面をつけることで、 その始まりを示唆している。
双子の母親 双子の母親の登場シーンは短いが、暴力的で強い印象を残す。これは、双子と 母親の関係を短い時間で明確に表現したいと思ったからである。母親は明らか にネグレクト(育児放棄)をしており、その顔は若く可憐な女性を表す小面を つけているが、表情は怒りに満ちている。 神話学者のカール・ケレーニイは、「童子神」について「母親によって遺棄され た捨て子、孤児のイメージ」を考えている。また、ユングの「幼児元型」は母 親によって遺棄された幼児の恐怖と、そこからの精神的救済というテーマにも とづいている。これは、不動明王とその脇侍である二人童子を思い起こさせる。 母親をネグリストとして描くことで、この不動明王や童子神を示唆的に描きた かった。
漁師 漁師は、津波で亡くなった人たちの象徴として、登場させている。彷徨う双子 の少女よりさらに表情に乏しいのは、成仏できず、魂だけ残されている状態(地 縛霊)を表現している。少女に対し、「カタカタ」と音を立て、その場から立ち 去るよう警告している。
シンボル スノードーム スノードームは、前作「天地」から登場する重要なアイテムである。この作品では、 「断層同士がぶつかり合い巨大な力によって生まれる現象」と「双子の女の子の 心理的現象」をつなげる役割として登場させている。この「小さな山」である スノードームと、双子の女の子が山道を登る途中に空を見上げた時の「大きな山」 を対比させている。 この構造は入れ子になっていて「山(スノードーム)を見ている姿」と「山(実 際の山道から二人は空を見上げる)から見ている姿」いわば「見る見られる」 関係を表すことで「生と死(生者の視点と死者の視点)」がパラレルに描けると 考えた。
双子の喧嘩 双子のスノードームを取り合う喧嘩のシーンは、衝突を表している。これは、 岐阜の長滝白山神社の花奪い祭り ( はなばいまつり ) という取り合い、奪い合い のお祭りをモチーフとしている。日本列島は、断層と断層がぶつかり合いを繰 り返すことでできた。このシーンでは、それを暗に表現している。
金環日食 月と太陽が重なり合うことでできる金環日食は、神秘的な天文観測ゆえに宗教 と結びつく側面がある。しかし、私はこの二つが一つに重なる瞬間の「光の輪」 が現れる姿と、双子を重ねることで、人と自然とのつながりを表現したいと考 えた。
岩の祠 熊本県の不動岩をモチーフとしている。不動岩は、5 億年以上も前の古生代(オ ルドビス紀)の『変はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の形すらで きていない時代のものである。 不動岩をモチーフにとして使ったのは、長い歴史を象徴するためである。また、 祠として用いることで、あの世ととこの世の「境」を表現しようとしている。
カタツムリ 狂言の演目は「山伏」と「蝸牛」が同一として表現される話だが、漢字の「蝸牛」 は「肉と骨が分離した虫」という意味で、肉と骨の分離は「あの世とこの世の 中間に浮遊する」霊媒師の瞑想状態(片方の目を瞑る)と重なる。霊媒師があ の世とこの世をつなごうとする行為は山伏も同様であり、本作でも暗示させて いる。スノードームの上を 川の星群はカタツムリの
う姿は、空を
うようにも見える。西欧では天の
った跡として捉えている。
ミ ニ チ ュア作品 “Miniature Shrine” 2018
Mixed media
H.10.5 x W.8.0 x D.13.0cm
作中に、岩でできた祠が出てくるが、これは、熊 本県の不動岩をモチーフとしている。不動岩は、 5 億年以上も前の古生代(オルドビス紀)の『変 はんれい岩』からできたもので、まだ日本列島の 形すらできていない時代のものである。 不動岩をモチーフにとして使ったのは、長い歴史 を象徴するためである。また、祠として用いるこ とで、あの世ととこの世の「境」を表現しようと している。
“Offering” 2018
Mixed media
H.27.3 x W.26.5 x D.30.0cm
『Offering』は、お供え物という意味で、映像作 品の中では少女と漁師が出会うシーンでお供え物 のみ登場する。日本では縄文人がカワウソの習性 である獲ったものを並べる行為(獺祭・だっさい) を天へ感謝している行為として始まったと考えら れている。また、カワウソは縄文の言語と近いと されているアイヌ語で「エサマン」といい、シャー マンにあたる「saman」から由来している。 この作品では、神社と一緒にお供え物を置くこと で、供えるといことについての歴史を表現した かった。
ミ ニ チュア作品 “The Twonscape from Distance View” 2018
Mixed media
H.7.0 x W.30.0 x D.26.0cm
私は震災時に、津波に襲われた街並みの映像を 見て強い衝撃を受けた。遠景から撮影されたそ の風景の小さな家々が津波にどんどん飲み込ま れていくシーンは、今も鮮明に覚えている。そ の遠景の街並みの記憶を記録しておきたいとい う思いで制作した。
“Biting off / Fried” 2018
Mixed media and water Apples :
H.27.3 x W.26.5 x D.30.0cm x 7p Eeggs :
H.27.3 x W.26.5 x D.30.0cm x 22p
この作品では、ほんの少しの時間の経過を記録している。また、映像作品全体でのモチーフとなっている「二つで一つ」 のシンボルとして、そして二人が一つを分かつ合うシンボルとして制作した。
イ ン ス タ レーション作品
White Forest of Omens 2018, Mixed media, H.154.0 x W.273.0 x D.334.0cm
コン セ プ ト 映像作品では、前兆が示唆した出来事の起きる前と起きた後、その「境」を描いているが、インスタレーション作品であ る『White Forest of Omens』は、その「境」という漢字から着想を得て制作をした。 何年か前に夜の森の中で声だけを頼りに空間を感じるワークショップをおこなった。参加者は真っ暗な森の中を各々自由 に移動しながら、誰かの名を呼ぶ。暗闇のどこからか呼ばれた人の返事が聞こえる。呼ばれた人はまた別の人の名を呼び、 返事を待つ。移動距離が長くなるにつれ、だんだんと遠くなる声。やがて名前を呼んでも返事がなくなる。空間とそれに 伴う共同体は少しずつ喪失していく。このような体験から「境」という漢字に「音」が含まれているのは、古代、音の届 く限界が集落範囲と考えられていたのかもしれないと思った。 「境」は「鏡」という漢字にも共通した意味が含まれている。「鏡」の「竟」は〈さかい目〉を意味し、 「明暗の境目を映 し出す銅製のかがみ」の意だと漢和辞典にある。また、古来より日本人にとって現実世界と鏡の中の世界が左右逆転して いるように見えることから「鏡の前にいる世界はこの世、鏡の中の世界はあの世」という解釈もある。 『White Forest of Omens』では、この森での経験を、ミニチュアの森を用いて再現しようと試みている。白い森に鎮座す る小高い岩から
かに拍子木の音が聞こえてくる。拍子木は、木で作られている為、古くから場所を知らせたり、危険を
知らせたりする際にも用いられていたと考え、前兆の一つとして盛り込んでいる。木々は音の響きに呼応し、大地に走る 亀裂や生き物の軌跡を示す。鏡を境とし、実像と虚像をつなぐ作品を目指した。
お面 作品 Face as Boundary 2018, Mixed media, H.33.5 x W.53.5 x D.6.3cm
コ ン セプト 2011 年から制作している「翁舞 / 木ノ花ノ咲クヤ森」、「天地」、そして今展で発 表している「松が枝を結び」において「境」は大きなテーマである。今展の映 像作品では、前兆が示唆した出来事の起きる前と起きた後の「境」を描き、イ ンスタレーションでも実像と虚像をつなぐ「境」の表現を試みている。この 15 翁 面 おきなめん
個のお面で構成される「Face as Boundary」も、タイトルの通り「境」として の役割を持つお面に注目して制作した作品である。
この作品では、大きく分けて 2 種類のお面をミニチュアで再現した。1 つは伝統 芸能である能に用いる翁面、小面、般若面などの能面である。もう一つは、縄 文時代より宗教的儀式や儀礼、神事などに用いられた現存する真脇の土面や、 竃神(かまどがみ)のお面である。 真 脇の土面
コ ンセプト このようにお面の歴史を見ていくとその長さが伺える。古来よりお面を着ける ことは神格が宿るとされているが、これは五穀豊穣を祈る能の演目である翁舞 にも通ずる。室町時代の能作者、金春禅竹は、 『明宿集』において、翁は太陽、月、 星の三つの光りであり、それを象徴するのが「翁舞 / 式三番」であると述べている。 太陽・月・星宿とは宇宙であり、それを司る神が「宿神」だと説いた。柳田國男 は「サ」音は「岬・坂・境・崎」のように地形や物事の先端・境界を表す古語、 空間や物事の境界にかかわる霊威を表す言葉・神と考え、「宿神」とは「この世 翁舞 / 木ノ花ノ咲ヤ森
とあの世を繋ぐ精霊」と解釈した。翁はまさに、あの世とこの世の「境」を行 き来するものなのである。このことから、私は「翁舞」を今シリーズのプロロー グとし、全作品に通じるものとして用いた。 一方、古代より宗教的儀式など用い、神として有名なお面に「竃神」がある。「竃 神」は家の火所である炉やかまどの神の総称で、日本各地に存在する。東北、 北陸では「なまはげ」「あまめはぎ」と言った醜い顔をしたお面を、かまどの近 くの柱に飾る風習がある。「かまどを分ける」は分火を意味するが、 は火を起こし料理する縄文時代まで は
竃神
神の起源
る。そう考えると、真脇で出土したお面
神の原型とも想像できる。
宮城県牡鹿郡牡鹿町の竃神「カマガミサマ」はお面と祝い棒の組み合わせで祀 られる。「柱と面の組み合わせ」を具現化した遺跡に「ママチ遺跡」があるが、 標柱に面をつけた状態であったことが推測される。また、 「牡鹿」という地名は、 海の幸である「牡蠣」と山の幸である鹿を古代人が同一に考えられていた名残か、 牡蠣で作られた面のようなものも出土している。 牡蠣は、牡の字がなくても意味が通じるが雌雄同体のカキにあえて「牡」の 字をつけたのは、牡蠣が岩礁に左殻 ( 膨らんでいるほうが下 ) で付着するため、 日本では古来、イザナギ・イザナミの男女神による国生み神話のように、陽 ( 男 ) 神左旋、陰 ( 女 ) 神右旋と関係しているのかもしれない。
なまはげ
宮城の牡鹿半島と秋田の男鹿半島は同等の意味を有していることから、交流 の名残があるのだろうか。牡鹿の沼津貝塚からは、千島アイヌの木製面に似て いる土製面が出土している。 こうして、お面の歴史を
り、「縄文時代の面出土」と「今日まで継承されたに
各地の祀りや土着信仰」との共通性が見受けられ、強く興味を引かれた。また、 お面の造りや意味などを通じて、土着信仰に長い時間をかけて仏教信仰が合わ さり再構成された神仏習合の過程を見ることができ、神事を伝承していくにあ たり「お面」の役割の重要性を伺うことができる。 今回、この作品を制作するにあたり、再現が可能なものを選んだ。これは、過 去に制作したインスタレーション作品『家族デッキ』のように移ろいゆく景色 を記録しようとした試みと同様に、記録していきたいという想いが強かったか らだ。古代では、動物の皮や植物などの有機物でできたお面もあったとされる。 これらを想像して制作することは可能だが、あえて今回の作品には、含めてい ないのは、この再現性を大事にしたかったからである。