その日も普段と変わらず、少年は、男と一緒にテレビで野球中継を見ていた。 といっても少年は野球に全く関心がなかったので、裏番組のバラエティを見た いなぁと思いつつ、夕飯の焼き魚を
の先でほじくっていた。ごひいきのチー
ムが優勢にせよ劣勢にせよ、極端な点差の試合になると、男はいつもチャンネ ルを変えた。どうやら男は、特段野球が好きというわけでもないようだった。
少年と長老
01
少年は、男がひいきするチームを応援するふりをしながらも、 内心、回の表と裏ごとに攻撃側のチームを応援していた。点 がたくさん入り、テレビのチャンネル権が回ってくればそれ で良かったのである。少年は、野球というのは不思議な競技 だなといつも思っていた。ピッチャーは、球を打たれたくな いはずのに、打ちやすい所に投げているし、キャッチャーは、 股間の近くで指をぶらぶらさせている。そのことについてと
男はテレビを見ながら、少年に、野球の試合のチケットを取 った、と言った。長老にプレゼントするというのだ。少年は 飛び起きた。きっと今頃も長老は隠れ家で野球を見ているは ずだ、と少年は思った。
尋ねると男はいつも笑ってくれた。
少年は、夕飯を食べて眠くなったので、ちゃぶ台のそばでそ のまま横になった。テレビを眺めたり、天井や壁を眺めたり した。
壁には、まん丸い時計と大きなひまわりの絵がかけられてい た。少年は、〇と□の物があるなら、△もあればいいのにな、 と起きているのか寝ているのか分からない思考を続けた。
少年と長老
02
男は、リモコンを手にして、テレビの音量をすこし下げ、電 話をかけた。
電話の相手は長老である。電話口では、近々長老の隠れ家に 遊びに行く旨だけが伝えられたようだった。少年は、この にテレビのチャンネルを変えた。
少年は男に連れられて、車で長老の隠れ家に訪れた。
隠れ家の前には、小さな川があった。川幅は、広い所でせい ぜい4,5メートルで、深さも5、60センチメートルとい った所だろう。川岸では、近くの別の隠れ家に棲む人間が、 勝手に自分の庭のようにして、花を植えたり、野菜を育てた りしていた。少年は、その川で釣りをすることにした。他に 釣りをしている人の姿を見かけたことはなかったが、カモは よく飛んできていたので、魚もいると考えたのである。
針に練り
を付け、川に投げた。ちなみに少年に釣りの知識
はなかった。しかし、1時間待っても、二時間待っても、魚 隠れ家には昔、たくさんの人が住んでいたらしく、いくつ かの部屋は、手つかずのまま残っていた。
は釣れなかった。釣りをしてくると言い残して、隠れ家を飛 び出してきた手前、一匹も釣れずに帰るのは少年の小さな自尊 心が許さなかった。川岸の地面は雑草が生い茂り、湿っていた。 座ることも憚られたので、少年は、川の中の様子に目を凝らし ながら、我慢して突っ立っていた。
そういえば、バケツを持ってくるのを忘れたなと自分の 愚かさについて考えていると、突然、大きな声が聞こえた。 「ヘビだ!」 隠れ家は、たいそう古い家で、ところどころ床は傾いてい たし、天井も驚くほど低かった。男はジャンプして梁に頭 をぶつけたことがあると教えてくれた。玄関を入ってすぐ、 左の壁の靴箱の上方には、晴耕雨読と書かれた色紙が飾っ てあった。それが長老のモットーだったのである。 少年と長老
03
さっきまで庭の手入れをしていた人間が、少年の方へ走っ てきていた。ヘビがいたらしい。少年は怖くなって即座に 釣りをやめ、隠れ家に戻った。長老と男は、何かを話して いたようだが、少年が来ると話すのをやめてしまった。少 年は、長老と男に「へびがいたから釣りは、やめた」と伝 えた。
長老は、よくおならをした。いつも座っている座椅子から 、すっと立ち上がって居間を出て行ったかと思えば、すぐ に戻ってくることが何度かあった。少年は、トイレにして は早すぎるし、散歩にしては短すぎると思い、長老が席を 外した時、あとをつけてみた。
少年は、居間を出てすぐに廊下でかわいい音とともに放 屁をし、U ターンをして戻ってくる長老の姿を目撃した のだった。長老は一言「田舎の香水だ」と言ってのけた。
しかし、長老は、夜が来ると必ず、門を閉め、鎖で結んだ。 少年は、長老が一体なにをおそれているのか、なんの為に 鎖を結ぶのか、分からなかった。
隠れ家のあらゆる窓や、引き出しは、どれも長老しか開け られなかった。一見、
穴が付いていない引き出しも、な
ぜか開けることができなかった。少年は、立てつけが悪い のかと思い、一生懸命に引き出しをひいたが、びくともし なかった。
夜。隠れ家の入り口の門は、閉じられる。暗くなると長
不思議に思い、引き出しの周りを注意深く観察していると、
老は玄関から外に出て隠れ家の庭の入口にある門を鎖で
少年は、側面に釘が刺さっていることに気が付いた。釘の
結んだ。塀と門は、少年の目線ほどの高さしかなく、大
頭をつまむと、すーっと釘が引き抜けるのである。長老は、
人であれば、ひょいと飛び越えられそうな低いものだっ
あらかじめ錐で穴を開け、その穴に釘を差しこむことで、
た。門が閉じていようが開いていようが、それが鎖で結
簡易的なロックを施していたしていたのである。
ばれていようがいまいが、侵入者から隠れ家を守れるよ うには思えなかった。 少年と長老
04
長老は道路に出て車が来ないか確認しながら、軽く肩ほ どまであげた手を前後に動かして、オーライ、オーライ 玄関の引き戸も、一般的な
の他に、釘をさす穴があっ
た。長老は隠れ家中に改造を施していた。
とサインを送っている。車はゆっくりと車庫から道路へ と出た。
長老は、隠れ家をより貧相に見せたがった。夜、寝る前 には、隠れ家の外に置いてあるビールケースやベニヤ板、 ごみ箱をわざわざ窓の周りに立てかけて並べた。貧乏そ うに見せるためだと長老は、少年に聞かせた。少年は、 そもそもこの田舎街に泥棒がいるのだろうかと思ったが 黙っておいた。
男は、そこで一度ハザードランプをつけ、車のウィンドウを 開ける。「じゃあ、また」という男の声に対して、長老はうな ずくだけだ。助手席に乗った少年は、長老に向かって、バイ バイと手を振った。
数日後、男と少年は、家に帰ることにした。男は仕事に 戻らなければならないし、少年も学校がある。家の門を 閉めるときと、家の周りにベニヤを並べるとき以外、ほ とんど隠れ家の外に出ない長老だったが、少年が帰ると きは、きまって見送りに家の外まで出てきてくれた。男 と少年の二人は、狭い車庫に収められた車のドアをほん の少しだけ開けて、体を横向きにして車内へすべりこま せる。 少年と長老
05
長老も手を振りかえした。少年は気付く。 長老の手の振り方、左右じゃなくて、ぐるぐるだ。
長老は手首から中指を突き抜ける軸を中心にして、手のひ らをツイストさせるように手を振っていたのである。少年 はまねをして手を振り返した。
隠れ家では、長老がそわそわしていた。男と少年が無事に 家に着いたか、身を案じていたのである。外が暗くなり、 長老が日課の過度な戸締りをしているところで男から連絡 があり、無事に家に着いたと聞いた。長老は安心して風呂 に入った。
長老の隠れ家から、男と少年の住む家までは、車で3時間 ほどかかった。隠れ家を出発したのが午後4時ころだった。 窓から見える景色はだんだんと夜の色になっていく。少年 は、ふと野球のチケットのことを思いだし、男に
いた。
長老は喜んでいたかを尋ねたのだ。男は、ゆるやかに曲が る高速道路が伸びる先から視線を変えないまま、答えた。 「行かないって。体力も無くなっちゃったし、疲れるから、 いいんだって。」
数か月後のある夜、長老から電話が来た。体調がすぐれな いとのことだった。男は、次の日に様子を見に行くと伝え た。少年はテレビを見ていた。
少年はなんと言ったらいいか分からなかった。 「そっかぁ」としか言えなかった。
少年は、高速道路が好きだった。綺麗な景色ではないの かもしれなかったけれど、どこまでも道が続いているの と、ただただ繰り返される反射板や道を照らす電灯、普 段より遠くまで見える景色、自分でもよくわからないい ろいろが重なって、好きだった。 少年と長老
06
翌日の朝、男が駆け付けた時には、長老はもう動かなかった。 布団に入って眠りながら天国へ旅立っていったようだった。
少年はそれを男から電話で聞いた。突然の事に驚いたが、 なぜかそれほど悲しくなかった。
葬式が一通り済んだ。隠れ家を作った長老は、 この世に居なくなった。
少年は長老がいつも座っていた座椅子に座ってみたりした。 少年は次の日、電車で隠れ家へ向かった。
別に『座るな』と言われていたわけではなかったけれど、あ まりにいつも長老がそこに座っているので、一度座ってみた かったのだ。少年は、そこで一冊の日記を見つけた。
ハードカバーの分厚い日記だった。日記は3年日記という、 隠れ家に警察が来た。病院外で亡くなった場合、警察 を呼ぶ必要があるとのことだった。警察は長老の体を 入念に調べ、男にいくつかの質問をし帰っていった。 少年は、もし男が
罪で逮捕されたらどうしようと心
配に思ったが、そんなことは起きなかった。 少年と長老
07
三年ぶっ通しで使うことができるタイプの日記で、一ページ が一日分なのだが、そのページが大きく三段に分かれており、 一年目、二年目、三年目、と一年後の同じ日にちに、同じペ ージに書きこむ形式のものだった。それは、長老が亡くなる 前日の日付まで、一日も欠かすことなく、黒のボールペンで びっしりと埋められていた。
日々、様々な事に迷う。無駄に迷う。 その時に聞こえるのは、自分の中で囁く誰かの声である。 天使と悪魔なのか、神と仏なのか、はたまた違う誰かなのか、私の中に誰かの声が、確かに聞こえる。 一体、こいつらはなんなのだ。私はこの正体を探るべく、 そして、それを理解するべく、形を与えるために精神世界にダイブする。 そこにあったのは、数々の記憶が集まってできた、自分の精神の柱であった。 亡くなる前の数日分は、ぐちゃぐちゃで判別不能な個所があ ったり、狭いスペースの中で、同じ文章が何度も繰り返され ていたり、文章を書くことができなくなっていたことが後か ら分かった。
少年が隠れ家に遊びにきたこと、新聞が来なくて問い 合わせの電話をしたこと、お昼のワイドショーでやっ ていたニュースのこと、段々外が冷え込んできたこと、 そして、長老の好きな野球チームの勝敗やその点数、 監督への文句が連なっていた。
その日を境に、少年はどこかに居なくなってしまった。 そのことには、誰も気が付かなかった。 おしまい
少年と長老
08
少年と長老
09