翻訳:ジョン・ライオンズ「直示と主観性=主体性」

Page 1

John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

直示と主観性=主体性 Loquor, ergo sum?

1

ジョン・ライオンズ

この論文の題には「主観性=主体性」なる用語が使われているうえに,それ が「直示」と対になっているから,読者はバンヴェニストの有名な論文 (1958) の内容の一部と題名とを想起することだろう.もっと一般的に言うと,この 題名は,バンヴェニストだけでなく,彼の影響下にある多くのフランスの言 語学者たち(cf.

クリステヴァ他, 1975)に特有の視座へと,これから本稿が述べる

内容を結びつけてくれる.その視座は,ソシュール以後の現象学的構造主義 とでも呼ぶのが適当だろうか.副題について:この句で言わんとしているこ とは,このあと説明する.さしあたっては,バンヴェニストの主張をあえて デカルト風に(または反デカルト風に)言い直しただけのものとでも考えていた だいて構わない: 《まさしく言語において,そして言語によって,ひとりの人 間は主体として立ち上げられる;なぜなら,ただ言語のみが,現実の中に─ ─実在するその現実の中に──「我」の概念を基礎づけるがゆえにである.》 (バンヴェニスト, 1966, p.259).さらには, 《人間が生まれるのは,自然において

ではなく文化においてである》(バンヴェニスト,

1974, p.24) とある.あわせて読

んでみると,これら 2 つの引用文に表明されている人間と言語に対する態度 は,今日の英語圏の言語学者・論理学者・言語哲学者たちがほぼ共通してと っている態度に鋭く対立するものだ 〔とわかる〕. ここでみておくといいことがある.たまたまビューラー (1934) も直示に 1 John Lyons, “Deixis and Subjectivity: Loquor, ergo sum?”, in R. J. Jarvella & W. Klein eds., Speech, Place, and Action, John Wiley & Sons, 1982.

1


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

関する独創的な著述でこれを扱っているのだが,バンヴェニストが扱ってい る主体性の観念は,フランスとドイツの伝統的な哲学で枢要な役割を果たし ている.実証主義的に解釈された ‘objectivity’ 〔「客観性」〕 と対比されたため に,このごろ英語の‘subjectivity’には,少なくとも大衆的な用法においては, 軽蔑的な含みが加わった (cf.

Williams, 1976, pp.259-263).しかし, 〔「主体性」を意

味する〕 フランス語の‘subjectivité’やドイツ語の‘Subjektivität’は,必ずしも

そのような軽蔑的な含みを伝えるものではない.本稿で「主体性」が「客体 性」と対比される場合,日常の英語でよく匂わされるような,あやふやさや 事実との不一致という軽蔑的な含みをもたせることは意図されない: ‘subjectivité’や‘Subjektivität’と同じ意味だと理解されたい. さらに,‘subject’〔「主体」〕 という用語についてもメタ言語的なコメントを 加えておくべきだろう.フランス語の ‘sujet’ と ‘subjectivité’ とのつながり に比べると,この語は当該の語義において ‘subjectivity’ と密接に関係して はいない.哲学的な用法では,‘the subject of consciousness’〔「意識主体」〕や, あるいはもっと専門的な著述で言われる ‘knowing subject’〔「知る主体」〕(cf. x Popper, 1972)といった連語が残っている.けれども,英語圏の言語学者の手持

ちの用語に ‘speaking subject’〔「話す主体」〕 はない.その点,フランス語圏 の言語学者はちがっていて,‘le sujet parlant’〔「話す主体」〕 をあたりまえに 知っていて,しかも始終使っている.さらに,フランス語圏の言語学者は,‘le sujet de l’énonciation’(発語行為の主体) と ‘le sujet de l’énoncé’(発話された ことの主語)とを区別するさいに造作もなくこれら 2 つの伝統的な語義を手繰

り 寄 せ ら れ る . そ れ に 対 し て , 英 語 圏 の 言 語 学 者 が ‘the subject of the utterance’〔 発話の主体/主語〕という句を使って話し手あるいはより一般的に 発語の行為者を指呼しようとしても,ことさらにあいまいな言い回しをして いるという印象はまぬかれがたい.さきに私がソシュール以後の現象学的構 造主義と呼んだ潮流に属すフランスの言語学者たちは,‘sujet’ にあるこれら 2 つの語義の区別──そして根底にある両者の相互依存性──を使って,た いそうな戯れ=語呂合わせをやった(cf. キュリオリ

(Culioli)

トドロフ, 1970; クリステヴァ, 1971) ;また,

や彼の後続者たちは,彼ら独自の用語と表記の枠組み内

で両者の区別と相互依存とを定式化しようと目下試みているところだ (cf.

2


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

ュリオリ他, 1970; デスクレ, 1976).こうした著作の多くでは

‘sujet’ の 2 つの語義

どうしに紛れもないあやふやさがあり,このあやふやさは,いくぶん日常的 なフランス語でも ‘sujet de l’énonciation’〔「発語の主体」〕 と ‘s’énoncer’〔「表 現される」〕 とがそれぞれ通用することによって容易になっている.そういう

しだいであるから──あるいは,そうであるとしたら(言語学者たちの理論は彼 ら の 日 常 の メ タ 言 語 に よ っ て か な り の 程 度 ま で 影 響 さ れ て い る と 私 は 思 う : cf. Rey-Debove, 1978) ──こういった言語学者たちがこれまで労力を注いできた

主体性という現象の重要性や彼らがこれについて述べてきた多くのことの正 しさを否定しようとは思わない.それどころか,本稿のぜんたいは,いま言 及した著作とその精神の多くをともにしている. では,本稿の論脈で ‘subjectivity’ が意味するのは,どういうことか.言 語を問題としているかぎり,この ‘subjectivity’ という用語で言及されてい るのは,自然言語がその構造と通常の作用の仕方において発語の行為者によ る彼じしんと彼の態度と信念の表明=表出のために提供する,その仕組みの ことだ.このように定義してみると,この主体性=主観性の性質はまったく 無害なものに見える.なんといっても,私たちの知っているかぎり,人間の

自然言語がその使用者たちにみずからを指呼したりみずからの意見を伝えた りすることを可能にしている点は誰も否定しないだろう.そうしてみると, ある点で自然言語に主体性=主観性の特性があることは誰も否定すまい.こ こまでに定義づけた主体性=主観性は,指標性

(indexicality)(cf. バーヒレル, 1954)

に他ならない;普遍的に受け入れられていることとして,日常の言語行動で なされる発話で指標性の特性をももたないものなど,仮にあるとしてもわず かだ.とはいえ,主流の英米系言語学・論理学・言語哲学における標準的な 指標性の取り扱いは,主体性=主観性の特性を正当に論じられていない.私 がこのように断定する意図を説明しよう. 英語の動詞 ‘express’ は文脈に応じて再帰的にも非再帰的にも使うことが できる (伝統文法でいう「再帰的」の意味で).同じことは,いくつかのヨーロッ パ諸言語のほぼ同等の動詞をメタ言語的に用いた場合についてもあてはま る : フ ラ ン ス 語 の ‘explimer’ , ド イ ツ 語 の ‘ausdrücken’ , ロ シ ア 語 の ‘vyskazatj’ などなど.さらに,英語では (ただし,文法構造のちがいに関わる理

3


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

由から,すべてのヨーロッパ言語で可能なわけではないのだが) 動詞 ‘express’ のあ

とに再帰形と非再帰形の直接目的語 2 つを等位にならべても齟齬を生じさせ ない:cf. 前段に出てきた‘the locutionary agent’s expression of himself and of his own attitudes and beliefs’〔「発語行為者による彼自身と彼の態度・信念の表 現」 ;この場合は‘(of) himself’が再帰形の目的語で‘(of) his own attitudes and beliefs’ が非再帰形の目的語にあたる〕.

VP express NP himself

ここで名詞句が 2つ等位接続 されている ▼

NP and

NP his own attitudes 図=訳者作

等位に結ばれてできた名詞句が齟齬をきたしていないと感じられるという x

事実から,再帰用法も非再帰用法も (目下のメタ言語的な文脈において) この動 詞の同じ語義に関わっていることがわかる.この点に関して,‘express’ は他 に何百とある英語の他動詞に似ている:cf. Bertrand Russell’s barber shaved himself and everyone in the village at least once a week〔「バートラ ン ド ・ ラ ッ セ ル の 床 屋 は 自 分 自 身 と 村 の 全 員 の ヒ ゲ を 週 に 最 低 一 回 は 剃 っ た 」〕 の

‘shave’.けれども,意味論の観点からすると,英語の ‘shave’ とこの統語的 特性を有する他の動詞との間には重大なちがいがある.たしかに命題 ‘X expresses himself and his beliefs, attitudes, etc.’〔「X は彼自身と彼の信念を表 明する」〕 には齟齬がないものの,一般にこれは冗語的 〔「腹痛が痛い」のように 意味的な重複がある〕 だと受け取られるだろう:自己の表明とは自分の信念や

態度などの表明または外在化にほかならない.これを言い換えてもっと形式 的に要点を述べればこうなる:統語的に再帰形の ‘X expresses himself ’ は 統語的に非再帰形の命題のおそらくは開集合を連言または選言で結んだもの であり,そこには 〔たとえば〕 ‘X expresses his beliefs’ や ‘X expresses his attitudes’ や ‘X expresses his feelings’ や ‘X expresses his personality’ や

4


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

‘X expresses his emotions’ などが含まれる.

X expresses his beliefs AND/OR

X expresses himself

=

X expresses his attitudes AND/OR

X expresses his feelings AND/OR

X expresses his emotions AND/OR

・ ・

何によって人格が成立し,また一人称で指示される主体的自己と三人称代 名詞や固有名詞や確定記述で指示される客体的とのあいだにいかなる存在論 的関係が成り立つのかという厄介で哲学的に論争を呼ぶ問いに,立ち入るつ もりはない.ここで私が立てたい論点は,たんに,ここにはひとつの問題が あってこれを言語学者は解けないかもしれないがみずからの関心事に関連し ていることは認識しておかねばならない,というだけのことだ.現代の英米 ꑘ٨ 系言語学・論理学・言語哲学をこれまで支配し続けているのは知性偏重主義 的な先入見であり,言語とは命題的な思考を表明するための道具であり,そ れに尽きないにしても,本質はそこにあると考える.この先入見をはっきり 示しているものとしては,カッツ (effability principle)

の擁護やルイス

(1972, pp.18ff.)

(1972, pp.205ff.)

による 陳述可能性原則

による平叙文以外の扱い,問

いを発したり命令を下すことのできない言語は存在するかもしれないとして 確言のできない言語など思いもよらないという趣旨のダメット された論証,チョムスキー

(1966, 1968, 1975)

(1972)

の保持

のデカルト主義的ないしネオ・デ

カルト主義的合理論,普遍的思考言語──その構造はほぼ自然言語のそれと 同型であるとされる──が存在するという主張のフォーダー

(1978)

による定

式化をはじめ,他にも多くの影響力ある著述があり,これらは広くさまざま な問題に関して大いに異なることもあるにせよ,いずれも言語の非命題的・ 非確言的な要素にはまったく注意を払わないか,その重要性を軽視する.そ うすることによって,彼らは主体性の現象を正当に扱いそこなっている.発 話においてなされる話者による彼自身の表現は,一連の命題の確言に還元さ

5


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

れえない.それら一連の命題すべてを再定式化するにせよ,その場合にも, 客観的または超越的な参照点をもつ中立的メタ言語によって失われたり歪曲 されるものは必ずでてくる. 本稿の副題「発語する,ゆえに我あり?」は,主体性の現象に着目するも うひとつのやり方を示唆するよう意図されている.疑問符をつけているのは, この句に要約された主張に私が全面的に賛同しているわけではないことを示 すためだ.発語行為者が発話においてみずからを表明することの言語上の結 果について私が言わんとすることは,もとのデカルト主義の「我‐考える」 (cogito)

を「我‐発語する」(loquor) に置き換えて得られる特定の主観主義が妥

当かどうかによって決定的に左右されるわけではない.ここで,もとの Cogito, ergo sum が英語では誤訳されているのが通例であることに触れて おくのは有益だろう:これは ‘I think, therefore I am’〔「考える,ゆえに我あり」〕 ではなく ‘I am thinking, therefore I am’〔「考えている,ゆえに我ある」〕と訳さ れるべきなのだ.自己意識の疑えなさですべての知識を基礎づけるデカルト の試みの成否をどう判断するにせよ,彼の「我‐考える cogito」の適用は, ꑘ٨ 考えるという行為のさなかで考える主体が自身を意識しているということに

立脚している.ラテン語もフランス語

(Je pense, donc je suis)

も現在時制の進行

相と非進行相の区別や非完了と非-非完了の区別を文法化していない.しかし, 英語にはその区別がある;そして,これからみるように,進行形にするか非 進行形にするかの選択は,少なくとも一定の場合には,発話に話者が主観的 に関与している度合いまたは様態に左右される.デカルトの Cogito に総称 的または習慣的な解釈〔「考える」〕を与えると,デカルト主義的な見解をおお いに誤って伝えることとなる.私の Loquor, ergo sum? も同様だ:その妥当 性がどうであれ,訳すなら「語る,ゆえに我あり?」 〔‘I speak, therefore I am?’〕 ではなく「語っている,ゆえに我あり?」〔‘I am speaking, therefore I am?’〕 と すべきである. あくまで冗談半分でなら発語の主体主義/主観主義

(locutionary subjectivism)

とでも呼べるこの主張を擁護する手立てを探したり解釈したりできそうな方 法はいくつかある.まったくもって自明なことだが,一方のプラトンになら うにせよ他方の行動主義にならうにせよ,思考が内言であるかぎり デカルト

6


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

的主観主義は発語の主体/主観主義に他ならない.さらに,ヒンティッカ (1962)

が指摘するように,デカルトの Cogito にはどこか遂行発話めいたと

ころがあって,だから,デカルトの論証に説得力を認めることは自身が考え ていると内観で自覚することに左右されるばかりか,一人称代名詞 ‘I’ の論 理を理解する能力を前提もするのだ:遂行発話の理解,あるいはより一般的 に一人称代名詞の論理の理解は,日常会話における我 ego と汝 tu の── 話し手と聞き手の──役割交替の経験から得られる. あるいは,実存主義または現象学的構造主義 (両者には多くの共通点がある) の観点から発語の主体主義/主観主義の主張を擁護する途をさぐってもよい だろう.その場合,個人は彼の棲まう世界と多様で弁証法的な関係にある, と論じることとなる.いわく,考え知覚する自己すなわち主体は,潜在的に は遺伝的特質によってそして現実には文化への適応によって話す主体 (i.e.発 語行為者)となったことの帰結として,そのようなものとなる──ひとつの自

己,現にそうであるような自己となる.バンヴェニストじしんもこのような 見解をとっていたようだ:

現象学的に考えるか心理学的に考えるかはお好きなようにしていた だくとして,この《主体性》は言語の根本的な特質のひとつが実在化 したものにほかならない.《我》とは《我》と言う者のことだ.ここ に私たちは《主体性》の基盤をみる.《主体性》は《人称》という言 語的な地位によって定まるのだ . 〔Or nous tenon que cette “subjectivité”, qu’on la pose en phénoménologie ou en psychologie, commme on voudra, n’est que l’émergence dans l’être d’une propriété fondamentale du langage, Est ‘ego” qui dit “ego”. Nous trouvons là le fondement de la “subjectivité”, qui se détérmine par le statut linguistique de la “personne”〕(バンヴェニスト, 1966, pp.260)

しかし,もちろんこれは哲学的に問題含みの見解だ;そして,すでに述べた ように,人格の同一性の観念に関わる深く面倒な問題群に私は巻き込まれた いと思わない.

7


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

また本稿は,デカルトや彼の後続者たちを悩ませた認識論的な諸問題にも 関わらない. 「発語している,ゆえに我あり」のスローガンはおそらく哲学的 な根拠にもとづいて擁護しうるだろう,しかし私がこれを使ったのは主とし て修辞的な効果を狙ってのことである:つまり,言語学におけるデカルト主 義的またはネオ・デカルト主義的な知性主義への反定立をあえて意図したも のなのだ.ここで論じている発語の主体=主観主義には,次の点のみが想定 される:(1)「自己の表明」という用語は字義どおりに解されるべきもので あり,理論上は一群の命題の確言に還元し得ない;(2)言語の使用と構造に おいて,話し手が (より一般的には発語行為者が) みずからを表明する主観的な 要素と一群の伝達可能な命題を含む客観的な要素とが区別されるべきである. 想定(2)が論じられている場合に限っては,穏当な主張として,2 点が言え る.第一に主体的=主観的なものと客体的=客観的なものとの区別は絶対的で はなく段階的なものであるということ,そして第二にここで客体的=客観的 と記述されているものはもともと間主観的であり,だから言語は私が想定し ている以上に主体性=主観性を染み込ませているということ.たしかにそう かもしれない.しかし,ここでは想定(1)と(2)が含意する以上-以外のよ り過激な発語の主体=主観主義を擁護してはいない.想定(2)に関連して私 が立てるさらなる問いは,さまざまな自然言語はそれぞれ使用者に課す主体 性の度合いにちがいがあるかどうか,というものだ.なじみの言語の日常経 験とあまりなじみのない諸言語について言語学者が公表した記述とをみると, この問いへの答は肯定であるように思われる. ここまでで,指標性には言及したが,直示性

(deixis)

に触れていなかった.

もちろんこの両者は密接につながっている.パースの用語「指標」は,〔類義 の〕 文法・哲学用語──伝統的なものと現代のものをあわせて──のなかの

ひとつにすぎず,これらはすべてなんらかの点で指差しの観念にもとづいて 「指し示し」(ostensive) などがそうだ. いる: 「直示」, 「指示詞」 (demonstrative), ビューラー (1934) から「直示」という用語の現代的な使い方がはじまった のだが,彼は一般に指示語=指し示しのことば (Zeigwörter) と命名語=名指し のことば(Nennwörter)とを区別する.前者を信号

(signal),後者を象徴 (symbol)

という.指示語に関するビューラーの語り口は指標性に関するパースの語り

8


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

口とよく似ている;ビューラーは表出機能 (Ausdruck) を信号ではなく徴候 (symptom)

に関連づけているという事実はあるにせよ,彼は一貫して主体性の

観念を参照している (cf.

とくにビューラー, 1934, pp.299ff.) のみでなく,さらに直

示の表出的・主体的な性質をもはっきりと主張している ( ビ ュ ー ラ ー ,

1934,

pp.102ff.).じつのところ,ビューラーの立場はここで私がとっているものと

じつに近い.たんに主体性と直示との相互依存に関してのみでなく,より一 般的に似ているのだ: 「すべての言語記号が象徴としての性質をもたねばなら ないという言語理論の公理は,あまりに狭すぎる 」〔Das sprach-theoretische Axiom, dass alle Sprachzeichen Symbole derselben Art sein müssen, ist zu eng〕(ビュ ーラー, 1934, p.107).

もちろん,象徴的表象 (Darstellung) の観点からのみ言語の意味すべてをあ つかおうという一部言語哲学者の試みに反対したのは,ひとりビューラーの みというわけではない.ブラック

(1968, p.127)

が述べているとおりだ: 《20 世

紀の言語研究に顕著な特徴は,言語の「非-認知的」側面が果たす中心的かつ 決定的な役割が,美学・倫理哲学・教育・政治といったさまざまな分野でま すます理解されるようになってきたことである. 》 この点と関連して,ブラ

ックは哲学者や心理学者たちが立ててきた区別のいくつかに言及しており, そのなかにはビューラーの三輻対も含まれ,これをブラック

(1968, p.150)

「発話の表出・提示 〔 =表 象 〕・力動 〔 =喚 起 〕 の諸相ないし次元」( Ausdruck, Darstellung, Appel) と呼んでいる.ブラック本人は述べていない論点なのだが,

ビューラーの図式はラッセル

(1940)

の提示したものにじつに似ているという

ことは指摘しておいてよいだろう.ラッセルは言語の機能として次の 3 つを 区別しうることを理解していた:(i) 事実を表示する機能 (cf. ビューラーのい う Darstellung〔表象〕);(ii) 話し手の(心理的な)状態を表出する機能(cf. Ausdruck 〔表出〕) ;(iii) 聞き手の(心理的な)状態を変化させる機能(cf. Appell〔喚起〕).

ラッセルがこの三項図式を出したのは,たとえば I am hot〔「私はあつい」〕 のような,感覚述語を含む一人称の発話の論理的特性を論じていたときだ. このような発話は,彼に言わせると,事実を表示する 話し手の感覚を表出してもいる

(Darstellung)

と同時に

(Ausdruck).話し手の感覚を表出する役目を果

たしているかぎりにおいて,こういった発話には私が主体性と呼ぶ特性があ

9


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

る;〔他方で〕 ある特定の人物があつい 〔と感じている〕 という命題を提示また は伝達するかぎりにおいて,客体的に真か偽であるよう意図されているわけ だ.英語にはこのような発話の主体性を明白に文法化したものはないものの, 日本語にはあるようだ.黒田

(1973)

はラッセルの論じた認識論的問題にはっ

きり言及しつつ,こう述べている.すなわち,I am hot の日本語訳は,ふつ う,形容詞的な形式〔「あつい」〕を用いるのに対して,You are hot や John is hot は ‘hot’をあらわす動詞的な形式 〔「あつがっている」〕 を用いた訳とな る,というのだ 〔「あなたは/ジョンはあつがっている」;黒田 1973: 378〕.その一 方で,I am hot を動詞的な形式 (おおよそ英語の進行相にひとしいもの) を使っ て訳すと,2 種類の我または自己に同時に言及する発話ができあがる:すな わち,主観的で事柄を経験している内的な自己と,客観的で事柄を観察して いる外的な自己とに言及するのだという.しかしこれは,黒田が文法・認識 論・語りの相互連関に専念して書いた近年の一連の論文で示されている日本 語の構造に関する事実のほんの1例にすぎない (cf.

黒田, 1973, 1974, 1975).

ここで,主観的な経験する自己と客観的な観察する自己との区別と,特定 の文体とりわけ自由間接話法においてこれら2つの自己指示を組み合わせる

可能性とに注意を促したい(cf.

バンフィールド, 1973).たしかに英語は

I am hot

や You are hot などのような事例においては主観的視点と客観的視点との 区別を文法化してはいないかもしれないが,他の場合にはそのような文法化 があるのだ.たとえば,この点に関して次の 2 つには明瞭な意味の対比があ る:

(1)

I remember switching off the light

(2)

I remember myself switching off the light

これらのうち,(1) は,個人的で伝達不可能とならざるをえない経験への通 常の主観的なモードでなされる指示を例示している.他方で,(2) はたんに 文法構造で下記の

10


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

(3)

I remember you switching off the light

に近いのみでなく,この (3) と同様に,経験されたことではなく観察された 何ごとかを報告しているものとして解釈されうる.例 (1) と (2) それぞれの 真理条件が同一ではないことは,こんな出来事を考えればはっきりする── 話し手はその出来事を映画のなかでみたことがあるかもしれないのだが,し かしそれについて主観的な経験の記憶をもつことなどありそうにない,その ような出来事だ:e.g. I remember myself being born は I remember being born とくらべて,正しい報告となる見込みが高い.さて,黒田

(1973)

によ

れば I am hot を形容詞的な形式ではなく動詞的な形式で日本語に訳すと〔= 「私はあつがっている」〕,主観的な経験する内的自己〔=あついと感じている経験者〕

の指示に加えて,観察している客観的な外的自己 〔=話し手〕 の指示がなされ る効果が生じる.英語においても,それと同じ効果が,語りとして意図され た発話で,一人称ではなく三人称の主語をもった経験の分詞構文にあらわれ ることがある.たとえば,

(4) He remembered switching off the light

を自由間接話法で使って,2 つの視点から心的な状態または出来事を適切に 報告することができる.〔ひとつは〕客観的に報告している自己 (話し手また は語り手) の視点であり,これが過去時制と三人称代名詞 〔を選択すること〕 の

理由となっている.〔もうひとつは〕 過去時制で指示されている時点における 「私はスイッチを切ったのを覚えている」という真理の視点である.このあ と英語の時制と相の範疇における非対称性について私が述べることは,この 経験的な視点と非経験的な視点との区別に依拠する.これは日本語における 一見いくぶん異なった現象を解説して黒田が述べていることにじつに近似し ている.このことを私は心強く思う. (1) と (2) を例に経験されることと経験されないこととの区別を解説した. ここでさらに,その 2 文と下記とを対比させて,命題的なものと非命題的な ものとの区別を解説したい.

11


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

(5)

I remember that I switched off the light.

この (5) と (1)-(2) とのちがいは,(5) の方は原則として補文の命題内容が 記述している出来事を話し手が経験も観察もしていない場合に使える,とい う点にある.たとえば,話し手は,じぶんが夢中歩行しているあいだにスイ ッチを切っていたことをあとになって確かな人から教えられ,ちょうど他の ことでも命題の形式で伝えられた事実 〔たとえば報道など〕 を信じて覚えるの と同じように,このことを信じるようになり記憶に貯蔵した,という場合も ありうる. 経験されることと経験されないことの区別は,非命題的なものと命題的な ものの区別と同一視されるべきものではない.この点の認識は必須である. というのも,本稿で私はこれら 2 つの区別に依拠して議論を展開することに なるからだ.それと同時に,強調したい点がある.経験されることは経験さ れないことよりも主観的な記述の様式であるから,命題的な記述ないし報告 の様式は,非命題的なものよりも客観的である.ここで主張しておきたいの は,言語ごとで課されたり許容される客観化の度合いがさまざまに異なるか

もしれないということ,そして,命題化は客観化の一種であるということだ. 英語のさまざまな種類の動詞に続く補文の統語論と意味論には,ここで立ち 入らない.動詞 ‘remember’ は,それがとるいくつかの構文とそれらのあい だに成り立つ伴立関係において, 「経験的」対「非経験的」〔の対立〕と「命題 的」対「非命題的」〔の対立〕 によって意味されることを,はっきりと例示し ている.(5) は (2) も (1) も伴立しないのだが,(1) は (2) を,(2) は (5) を 伴立する.そうしてみると‘remember’をどんなときにも ‘know’ や ‘think’ などと類比されうる命題態度の動詞とみなしたくなる.〔しかし〕 英語の意味 構造を正しく取り扱いたいなら,この誘惑に抗わねばならない. いまでは広く受け入れられていることとして,日常の言語行動で送信ない し伝達される情報の多くは断定されているというよりは含意されており, (「含意」のもっとも広い意味において) 含意されることはしばしば発話の直示的

な特性に決定的に左右される.我々のよく知るあらゆる種類の事例は,一般 に直示的な現象とみなされる主体的な値〔意味〕が与えられる.ビューラー

12


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

本人も,ブルーグマンの立てた論点を取り上げつつ,過去の出来事の語りに おける「私」(ich) 直示の演劇的な二次的用法に言及している(ビューラー,1934, p.85).バンヴェニスト (1958)

もまた,主体性を幅広く取り上げるなかで,時

制と二人称のさまざまな用法を論じるとともに,顕在的遂行発話 2 や命題態 度の挿入動詞 3 の使用にみられる主体的な要素を指摘している.英語では特 定の場面で‘come’ではなく‘go’が選ばれることを挙げてもよいだろうし (cf. Clark, 1974),ドイツ語で

hin-〔「あちらへ」〕と her-〔「こちらへ」〕とが使い

分けられることを挙げてもよいだろうし (cf.

Berthoud, 1979, pp.90ff),呼びかけ

の代名詞的形容詞やニ人称代名詞となってもいいところに共感を込めて一人 称の指示を組み入れることを挙げてもいいだろうし (cf. Why are you crying? Have we lost our dolly then?〔「どうして泣いているの?お人形さん亡くしたの?」〕),

一方の直接の語りや他方の間接的な談話から自由間接話法を区別するさまざ まな現象を挙げてもいいだろう (バンフィールド,

1973).ここで許された紙幅で

主体的な直示の射程におさまる事柄すべては論じることはおろか例示するこ とも不可能だろう.ここでは 2 種類のいくぶん異なった現象をとりあげよう. 1 つ目は様相

(modality)

に関わり,2 つ目は時制と相に関わる.

様相に関するかぎり,主観的なものと客観的なものの区別は長らく認識さ れ て は い る の だ が , 言 語 学 者 た ち は し ば し ば こ れ を 認 識 様 相 (epistemic modality) と義務様相

(deontic modality)(または根源様相 (root modality))の区別と

混同している.後者もまた確立されたものではあるが,前者から独立した区 別である.発話に与えられた様相が主観的なのか客観的なのか,また,認識 的なのか義務的なのかという点は,その言語面あるいは韻律的・パラ言語的 な側面からはよくわからないこともあるとはいえ,すくなくとも特定の言語 に限っては,これら 2 つの区別の妥当性と相互の独立性を立証するのはたや すいことだ (Lyons, 1977, pp. 7877-849).

2 訳註:顕在的遂行文 (explicit performative) とは,発語内行為をあらわす遂行動詞が明 示されている文のことで,たとえば “I order you to be quiet!” がこれにあたります. 反対に,そうした動詞が明示されていないものを原初的遂行文 (primary performative) と 言います:たとえば “Be quiet!” がこれです.(例はいずれも Monty Python and the Holy

Grail, 1974 から.) 3

訳註:たとえば “There were no other applicants, I believe, for that job” のように挿 入されている動詞のこと.この ‘I believe’ は挿入的離接詞 (parenthetical disjunct) と も呼ばれます.

13


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

たとえば,下記を見てみよう:

(6) You must be very careful.

この例文は,一方で義務解釈と認識解釈とにあいまいであり,また他方で主 観的解釈と客観的解釈とにあいまいである. 文脈ぬきでは客観的な義務解釈の方が優勢ともなりうる (cf. Halliday, 1970, p. 326);しかし,しかるべき文脈においては,4

ついずれの解釈も認められる.

客観的に解すると,(6) は事実について断定しているものと受け取られよ う:その様相は,義務的であれ認識的であれ,断定された命題内容の一部と なる.その命題内容には真偽がある.主観的な義務解釈のもとでは (6) は指 令的 〔な発語内行為〕 となる;主観的な認識解釈のもとでは,いくぶん緩和さ れた意見や推論の言明となる. 「意志」と「判断」という伝統的な用語を使う なら,一方の場合には発語行為の(そして発語内行為の)行為者はじぶんの意志 を表明し,他方では判断を表明していると言ってもいい.このように定式化 すると,(6) のような発話の主観性は,それにふさわしい解釈において,た

しかに本稿で問題にしているのと同種の主観性だとはっきりわかる. 主観的な様相を取り除かれた平叙文を話し手が発話しても単純な定言的断 定をなしえない言語がある,というのは確立された事実だ.そのような言語 のひとつにヒダーツァ語 (スー族の一言語) がある.この言語では,5 つある 様相の不変化詞のうち1つが必ず言明に含まれる.それぞれの不変化詞は, 話し手の態度またはコミットメントの度合いを表現するか,伝達される命題 にある証拠についてなにかを示すことをその機能としている (セイドック&ツウ ィッキー, 近刊;マシューズ, 1965).これ以外の,様相に関して無標な平叙文を有す

る言語には,ヒダーツァ語ではあきらかにその使用者たちに表現が義務づけ られている主観的情報と同じ種類のものの表現を可能にしている,随意的だ があまり多用されない一組の不変化詞がある:ドイツ語はそうした言語のう ちでも我々に馴染み深い一例だ.ドイツ語の様相の不変化詞を不足なく英語 に訳すのは,悪名高いまでに困難もしくは不可能だ.ある程度までであれば, ドイツ語が不変化詞で表現すること,とりわけ口語的な使用域で表現するこ

14


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

とは,英語では抑揚で表現される (cf.

Schubiger, 1965).しかし,ドイツ語は,

抑揚の代わりにではなく,抑揚に加えて様相の不変化詞を用いているのだ(cf. Bublitz, 1978, p.39).おそらくあらゆる話し言葉で,主観的な認識様相は,文法

的に符号化されているかいないかに関係なく韻律によって符号化されている. ここで述べておきたい一般的な論点はこうだ.主観的な様相を帯びた発話 は,様相なき平叙文に翻訳したり言い換えたりはできないし,また,そのよ (多かれ少なかれ思うとおりに主観性を付け加える抑揚や随意的な様相 うに試みても, の不変化詞をもちいずには)〔もともとの〕 言われた内容に過不足を生じさせずに

はいない.フランス語でいくつか特定の文体に関して成り立つ,ある対比に ついて考えよう.その対比とは,様相について無標とみなされうる直説法の 平叙文と,いわゆる引用の条件法

(conditionnel de citation)

の平叙文との対比で

ある.このような関連で言及されることはあまりない──おそらく文体に関 して制限があり条件法の特別な用法と考えられているため──にもかかわら ず,フランス語の引用条件法の意味はトルコ語やブルガリア語の証拠法 (evidential mood)

や推測法

(inferential mood)

に似ている.あまり馴染みのない言

馐ϩ 語ではなくフランス語の構文を例に挙げる利点は,私が述べることがより広

く理解されるだろうという点,また,もし反証可能だとすれば,より明瞭に 反証されるであろうという点にある.理解すべき重要な点は,問題の構文は 多くの言語でみられる一群の現象全体に典型的なものだということだ. 下記の文は,適切に解釈された場合,引用の条件法を例示する:

(7)

Le premier ministre

serait

malade.

[首相]

[BE-条件法]

[具合が悪い]

4

「首相の具合は悪いらしい」

ここで言いたいのは,この文は英語に過不足なく訳せないし,フランス語で 言い換えるにしても serait を 〔直説法の〕 est に置き換えた平叙文にはでき ない,ということだ.しかし,タルスキー

(1956)

の普遍性原理が教えるとお

り,当然この文には英語だけでなくどの自然言語にも翻訳可能な字義的意味

4

訳註:このカッコとグロスは訳者が加えたものです.

15


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

があるにちがいない,と主張する人がいるかもしれない.では,その字義的 意味とはどんなものか?もっと言えば,隠喩的解釈と非隠喩的解釈とにはっ きりとあいまいなわけでもない表現に関して「字義的意味」なる用語が意味 するところはなんだろうか?例 (7) の基本的な条件法の意味 ( The prime minister would be ill〔首相は具合が悪いだろう〕) とされるものからいわゆる引用

の解釈を派生させるいくらかもっともらしい方法を考え出して,それを正当 化するのにあれやこれやの基底的な後件を措定することなら,いくらでもで きる.しかし,それで翻訳の課題がどれほど進むだろうか?字義的意味の問 題は無関係とみなして脇にやるとしても,(7) の適切な解釈の英語 〔日本語〕 訳として,次のようなものが提案されるかもしれない:

The prime minister is reported to be ill〔首相は具合が悪いと伝えら れている〕

The prime minister is thought/believed to be ill〔首相は具合が悪い と思われて/信じられている〕 ٖ

We (are given to) understand that the prime minister is ill〔私た ちは首相の具合が悪いと理解する(方に傾いている)〕

大なり小なり近似的な翻訳は,ほぼ際限なく提示しつづけることができるだ ろう.こうした英訳はどれもフランス語原文が文脈によって含意はするかも しれないがじっさいには言っていないことを何か付け加えている,と私は言 いたい. さらに,一言語内部 〔のパラフレーズ〕 と言語間 〔の翻訳〕 に関して,真理条 件の同一性をもって完全な意味論的同義の基準とするならば,2 つの問題に 直面する:第一に,真理条件に関して (7) は

(8)

Le premier ministre

est

malade.

[首相]

[BE-直説法] [具合が悪い]

「首相の具合は悪い」

16


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

と明瞭に異なっているわけではなく,また第二に,前の段落の最後にならべ た英訳はすべて真理条件に関してお互いに異なっているし,例 (7) と (8) の いずれとも異なっている.これらの問題の第二点は,例 (8) ではなく (7) の 訳として次の訳文を採用すれば消去されるだろう:The prime minister is reportedly ill 〔伝えられるところでは首相は具合が悪い〕,あるいは The prime minister is, reportedly, ill〔首相は,伝えられるところでは具合が悪い〕 でもいい だろう.しかし,やはりこれらは (7) よりも明示的である.というのも,命 題「首相の具合が悪い」が間接的な伝聞の事柄だということをたんに含意す るにとどまらず,(挿入表現によってではあるものの) そうと言っているからだ. 引用の条件法

(le conditionnel de citation)

という名称で一般に知られているもの

の,それを用いた発話の命題内容がそれ以前に 〔他の誰かによって〕 断定され ているかどうかに関係なく,これは使うことができる.これの役目は,伝達 される命題の真理に対する発語内行為者の証拠の面で制限されたコミットメ ントを表現することにある.トルコ語の推測法 (cf. Lewis, 1967, p.122) や適切な 文脈におけるドイツ語の ‘sollen’(Der Premierminister soll krank sein〔首相は具 合が悪いらしい〕)のように,これはある種の主観的な認識様相を表現するのだ. ٖ

この種の証拠の認識様相は,英語では叙法のちがいとして文法化されては いない.ただし,‘must’ と ‘will’ の推測用法にはフランス語の引用条件法(や トルコ語の推測法) に重なるところがあり,また,一群の法動詞相互の対立が

語彙的というより文法的である.そのかぎりにおいてなら,多くの他の言語 でもっと明白に文法化されているのと同様に,英語でも証拠の認識様相が文 法化されていると言える.The prime minister must be ill が (7) の過不足 ない翻訳となるのは,ごくかぎられた文脈でのことでしかない.そして,す でにみたように,The prime minister must be ill には主観的解釈と客観的 解釈の両方がある.客観的に解釈した場合,これは発言動詞や命題態度動詞 (とくに ‘know’)の補文に使える;さらに断定的な条件文の前件〔=if 節〕に使

うことすらできる.主観的な認識様相は,いかなる種類であれ,純然たる間 接話法の構文には持ち込めない (cf.

バンフィールド, 1973, p.7).そうした構文は,

伝達動詞や命題態度動詞の作用域内にあるものすべての客観化/客体化を前 提する;そして,この客観化/客体化は認識様相と義務様相のいずれをも発

17


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

話の命題内容の一部 (i.e. 発話された文の真理条件に影響するもの) にするのだ. ここまでの (7) をめぐる議論から,ひとつの一般的な論点がでてきた.す なわち,ある言語ではたんに含意または示唆することだけを許されたり義務 づけられる事柄を,別の言語でなら言うことができたり,さらにはそう義務 づけられることもあるのだ (cf.

レカナティ, 1979, pp.131ff).さらに,言語どうし

には,細部にかぎらずもっと大局的にも,様相の客体化または命題化に関し て相違点があるようだ.それどころか,世界の諸言語の大多数において,客 観的な認識的可能性や義務論的可能性 〔=許可〕 の存在を話し手が断定するこ とは不可能であるのかもしれない (cf.

ライオンズ, 1977, pp.841-849).このことに

関しては確信をもちにくい.というのも,言語の語彙的・文法的な資料がゆ るすかぎりの微妙な意味の理解をもって十分に深く記述された言語はわずか しかないからだ.しかし明らかに確かなこととして,文法家たちは,あまり 馴染みのない言語やよく研究された文学言語の構造をじぶんたちの母語に無 意識のうちに同化させてしまうことが多く, 〔逆に〕馴染んだ言語と馴染みの ない言語の構造の相違を無意識にせよ故意にせよ誇張することはそれより少 ٖ なかった.(こう言っているものの,おおまかにウォーフ主義〔言語相対論〕とでも呼

んでよさそうなものの行き過ぎに私が無自覚というわけではない:言語学者たちが参照 する記述文法の大半はウォーフ主義的な視点にはほとんど影響を受けていない.) そう

であってみれば, 〔いろんな言語の〕文法で主観的様相の観念は頻繁に喚起され ても客観的様相はごくまれにしか喚起されないということからみて,証拠に よって支持されるのは,認識的なものも義務的なものも主観的様相は自然言 語に普遍的であるのに対して客観的様相はそうでない,という主張の方であ ろう. 英語では疑いなく多様な構文でそうできるように,平叙文の動詞的な要素 において様相の客観化ができる言語ですら,発語内行為者による認識様相の 客観化は,義務様相の客観化に比べて,日常言語においてはるかにまれだ. (このことによって,主観的/客観的の区別と認識/義務様相の区別が混同されがちな 傾向が説明されるかもしれない.) たとえば,It may rain〔雨が降るかもしれない〕

だけでなく It is possible that it will rain〔雨が降ることがありうる〕(この文は その動詞的要素の語彙的・文法的な構造に関するかぎり,客観的な認識様相の表現にと

18


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

くに適しているように思われるだろうが) も,様相なき命題 ‘It will rain’〔雨が降 る〕 について話し手が真偽の主観的な査定を表現するのに使われうる. 5

文の意味全体を真理条件の観点から形式化しようと現在試みている言語学 者は,It may rain の客観的様相の解釈はおろか,It is possible that it will rain〔の客観的様相の解釈〕すらをも,それぞれの主観的な様相の解釈より基本 的なものとして扱う方におそらく傾斜しているだろう.ここで争点となって いるのは,経験的に確認されうる事実の問題ではなくて,多少なりとも正当 化されうるメタ理論的な方針の問題だ.It may rain に客観的な認識様相の 解釈が与えられうるという事実によって,その意味が形式的な真理条件意味 論の射程内に入ってくるのだ. このような観点からの意味論の形式化が「すでに哲学と論理学ではかなり 進んで」おり, 「 もし言語学者がよく確立されたこの理論を取り入れられたら, 意味論における彼らの仕事が大量になしとげられるだろう」(Smith

& Wilson,

1979, p.151) ということが正しいとして,ここで思い出しておかねばならない

のは,形式意味論でこうした技術的な進歩をなしとげた哲学者と論理学者た ٖ

ちが携わってきたのは,大部分において,言語の使用の全域についてではな くて,哲学的な意義のある問題の注意深い議論における言語の使われ方につ いてだったという点だ:すなわち,推論の妥当性,倫理学と美学の基礎,言 語によって指示される対象の── もしくは指示されるように見える対象の ─ ─存在論的な位置づけ,などなどがそれにあたる.言語学者や論理学者によ る主観的様相の客観化が拠り所としているのが「文の基本的な機能は真か偽 の言明をなすことにある」という見解であるかぎり,これはオースティン (1946) のいう記述主義の誤謬に帰せられうる.その点で,これは形式意味論

者による遂行文やトークン再帰的な発話の扱いに類比できる ( Lyons,

1977,

p.744). 5

NB. ここでどうして It may rain とペアで It is possible that it will rain がでてく るかと言いますと,ライオンズの頭の中では後者の方が相対的に客観的な表現だという 前提があるためです.言い換えれば,It may rain の客観的認識様相の意味をパラフレー ズで言い表したら It is possible that it will rain になる,ということです.さらに,It will rain には認識様相がないとライオンズは考えています (これは「雨が降る-だろう」ではな く「雨が降る」とでも訳すべき文です).この It will rain を It is possible that~に埋め込 むと,「話し手による真偽の主観的な査定」が表されることになる;そして,主観的な要 素であるからには真理条件的な意味論には捉えられない──このような思考のすじみち をライオンズはたどっています.

19


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

しかしここでこう問われるかもしれない──このことは直示とどう関係す るのか? 答えは,話が直示のもっと主観的な次元におよぶと様相と直示の間 にはっきりした線引きをするのはとても困難となる,というものだ.一見し たところ,時制という直示的な範疇はあきらかに認識様相から── 少なくと も概念のうえで ──区別されうるようにみえるかもしれない:時制は時間指

示の問題であり認識様相はそうでない,というわけだ.ウォーフ ピ語動詞の報告形・期待形・普通形

(nomic form)

(1938)

はホ

とみずから名づけたものを分

析している.この古典的分析を読めば,こうした動詞の形式が英語では時制 のちがいによって訳し分けられることとなるものの,しかし時制範疇の伝統 的な区分におさまらないという事実に,我々はただ驚くばかりである:これ らの形式が参照するのは過去・現在・未来の区分ではなく, 「 妥当性の諸領域」 の区分なのだ. 「叙法」という用語を伝統どおりに様相の文法化をあらわすも のとし,そしてホピ語動詞の形式が認識様相の相違らしきものをあらわすの であれば,そのかぎりにおいて,報告形・期待形・普通形は叙法であって時 制ではないこととなる.しかしながら,叙法と時制との相違を誇張するのは 安易だ.英語のいわゆる時制すべてには,いやそれどころかインド・ヨーロ ٖ ッパ諸言語の時制すべてには,ウォーフがホピ語の定義的機能とみなしたも のと密接に対応する機能がある.さらに,インド・ヨーロッパ諸言語のこう したより明白な様相的機能を,正規どおりかどうかはともかくとして,基本 的でないものとしてあつかうとしても,なお,インド・ヨーロッパ諸言語の 叙法と時制とを機能や形式の面で画然とわかつのはつねに可能というわけで はない (Lyons, 1968, pp.309-310). 時制が時にのみ関わるという伝統的な見解は,とりわけ,英語については Joos

(1964)

によって,より広範な諸言語についてはヴァインリッヒ

(1964)

よって,ゆさぶられている.この点に関連して 2 点述べておいてよいだろう. 第一に,英語やそれ以外のヨーロッパ系言語の時制形式それぞれに一組の一 般的な意味

(Gesamtbedeutungen)

を見つけようとしても,過去・現在・未来の

伝統的な観念に見出される見込みは薄い.他方で,時制の時間用法すらをも 認識様相の範疇内に組み込んでしまうこともできよう(Lyons, 1977, pp.810-820). 時間指示の観点による時制の伝統的定義が保持されうるとすれば,それは,

20


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

基本的意味

(Grundbedeutungen)

と非基本的な意味

(Nebedeutungen)

との区別を

妥当なものとみなして前者から後者を派生させる意味理論の埒内においての みである.時制に関する限り,これら 2 つの見解のいずれかをとるのでない としたら,時制の時間用法と非時間用法との直観的に明らかな関連を説明し ないままにしておくのを選ぶこととなる.同じ議論は,空間や時間の観念に よって定義される他の直示的範疇で,しかもさらに主観的な用法も認められ ているものについても立てられる.個人的には,一般的意味 (Gesamtbedeutungen)

という考えよりも,基本的意味という考えの方に魅力を感

じる;そして,時制とは定義により直示的な時間指示を文法化した範疇だと する伝統的な見解を受け入れる用意が,私にはある. 第二点として, (時制と時間的直示との関連が本質的であるかたんに偶有的であるか はともかく)時制の時間的機能の方が,認識的な妥当性に関わる非時間的機能

よりも客観的である.ただし,直示的な時間指示に時制を使う点ではよく似 た言語どうしでも,時制の客観化に関してはちがいがある.たとえば,時制 は英語では発言動詞の埋め込み補文の命題内容の一部となりうるが,ラテン ٖ 語ではそうはいかない.もし,伝統的な定義での時制が特定の言語において

〔ある主観的な意味要素の〕客観化の結果として生まれたものであり,他の言語

ではそのような客観化がなされていないのであるならば──客観化の度合い が言語によって異なるのであるならば──ウォーフの記述したホピ語は英語 よりもこの点に関して主観性の色合いがずっと濃いのだ.しかし,そうした 相違は,一方には時制があって他方にはないと言ってみても適切に特徴づけ たことにならない. ここで主観性の観念との関連で時制と相に話を移そう.一見したところ, 叙法と様相と同じく相もまた,本稿の扱う話題には関係がないようにみえる かもしれない.じつは,主観性の観念は相に関する理論的な議論に頻出する (とりわけ,相と動作相 (aktionsart) とを区別する論者が取り上げている).しかし,

時制とは対照的に,相は非直示的である;また,主観的様相ともちがって, 相は発話の命題内容の一部となっている.とはいえ,多くの言語で叙法が時 制という直示的範疇と重複・融合しているように,相もまた時制と融合して いる──とりわけ,その主観的な基礎が明白ないわゆる二次的時制と重複・

21


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

融合している (cf.

Lyons, 1977, pp.689-690).ここで問題にしているのは,時制と

相との関係そのものではなくて,時制と相とが結びついている言語において はその組み合わせに制約があるのがふつうであるという事実だ:すなわち, 言語体系それ自体の制約と,その体系を話し手が使用する際に絶対的ではな いにしても統計的に課せられる制約がある.ここで私が言いたいのは,こう した制約はランダムであるとか偶発的というには程遠いということだ:これ らを説明するには,より主観的な描写の様式あるいは視点とあまり主観的で ないそれとの区別を持ち出し,そのいずれかの選択をさまざまな種類の談話 で通例となっているものに結びつければいい. 適切にも時間の輪郭として記述されているもの (Hockett,

1958, p.237) と伝統

的に相とされているものとの関連は,かりに存在するとしても,時制と時間 指示との関連よりもいっそう問題含みだ.ここでも再び,一般的意味と基本 的意味についてのメタ理論的な方針の取り方しだいで,論者のとる見解が部 分的に決まってくる.本稿のとる見解は,時制と同様に相にも基本的意味が あって,そこから基本的でない意味が様々に派生される,というものだ;そ ٖ して,以下で参照する諸言語における相の基本的意味は,時間的輪郭の相違

によって定まる. ヤーコブソン

(1932)

がロシア語の動詞範疇の分析を示して以来,プラーグ

学派流の有標性概念をロシア語やスラヴ系諸言語に限らずより広範に適用す るのは当たり前のことになった (Comrie,

1976; Friedrich, 1974). 〔しかし〕 意味的

な特定性と統計的な少なさという意味での有標性が時制と記述様式に相対的 であることは,あまり注意されていない.たとえば,完結相

(perfective)

は,

ロシア語や他のスラヴ系諸言語における完結/非完結の対立で有標な要素だ と一般にみなされている

(cf. Ridjanovic, 1976, p.75).しかしながら,過去時制の

語りでは疑いなく非完結相の方が完結相に対して有標である.同様に,フラ ンス語の書記言語においては単純過去(passé simple)に対して半過去

(imparfait)

が有標であり,ラテン語においては歴史的完了相 (i.e. 非一次的な時制の一致で の完了相) に対して非完了相が有標であり,英語においては単純過去 (simple preterite)

に対して過去進行相が有標だ.英語の分析に関するかぎり,形態の

みを判断の根拠にして言うなら,非進行形に対して進行形が有標であるのは

22


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

もちろん当然のことではある.しかし,ここで指摘すべきことは,英語にお いて真の現在時指示をともなう発話では,状態動詞を除くすべての場合に進 行形こそが無標の選択となるということだ.〔よって〕 英語において進行相が 進行/非進行相の対立で意味論的に有標な要素であるとは,さらに留保・修 正を加えずには到底言えない. 英語進行形の基本的意味はどんなものかについては,これまで大いに議論 されてきた.ここで,英語進行形は,持続性をあらわす点でスラヴ語の非完 結相とラテン語(および古典ギリシャ語)とロマンス系諸言語の非完了に似てい るものの,しかし英語進行形の方は動態すなわち時間的輪郭の非同質性をあ らわす点で異なっている,と想定する. 〔英語進行形の〕意味のうち,この後者 の要素こそ,進行相で状態動詞の生起が通常制限されることを説明し,また, あまり普通ではないがしかし完全に容認可能ないくつかの用法に多くの論者 が結びつけてきた非基本的な意味の一部を説明するものだ:cf.《限られた持 続時間や不完全さ,[…] 描写の鮮明さ,感情の色合い,強調といった,進行 形に結びついた付随的意味や含蓄》(Quirk

et al. 1972, p.93).認識しておくべき

ٖ 重要点は,ここでいう「通則的」が「文法的な」や「容認可能な」というこ

とを意味してはいないということだ;そして,この意味で「通則的でない」 は「非容認可能な」どころか「通常とちがう」すらも意味しない. 「通則」(norms) は,言語体系を構成する規則

(rules)

とはちがう.一般に通則は遵守されこそ

するものの,破られることもある.そして,ひとたび通則として認識された ものの違反がそれじたい通則とならないかぎり,通則からの逸脱は特別な効 果をもたらす. 本稿のはじめに言及した現象学的構造主義の学派を代表する人物たち,な かでもとくにキュリオリや彼の影響下にある人々は,話し手が発語行為に関 与した痕跡を発話の表層構造に残すものとみなせるさまざまな相の使用に注 意を促した(《語る主体による操作の痕跡》(une trace d’une opération due sujet parlant): cf. Culioli et al., 1970; Fuchs & Rouault, 1975; Desclé, 1976).Adamczewski (1974)

はこの視点から英語進行形の機能について興味深い分析を提示している.私 なら通常と違う特別な用法とする進行形の特定の用法について彼が言ってい ることは,ここで私が述べることと密接に対応している.ただ,彼は相とい

23


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

う範疇にいかなる時間的基礎をも認めない一般的意味の観念によって分析し ており,経験的な描写様式 6 と歴史的な描写様式 7 と私が呼ぶ区別(Lyons, 1977, p.688) をつけない.この区別こそが,さまざまな言語の相体系にある空所と

非対称性の説明と,相の有標性が時制のちがいに相対的なことの説明をもた らす,と私には思える. ここで私が立てているような区別は,べつに私ひとりがはじめて認識した わけではない.これに似たものとしては,一方にバンヴェニスト (1959) の いう語り

(histoire)

と談話

(1968; cf. Kuroda, 1974, 1975)

インリッヒ

(1964)

(discours)

の区別が,そして他方にハンバーガー

のいう語り

による語り

(Erzählen)

(Erzählen)

と評言

と言明

(Aussage)

(Besprechen)

の区別やヴァ

との区別がある.

いま言及した論者たちは,それぞれが立てている二項対立の使い方について およそ完全な合意からは程遠いところにいる;また,それぞれの用語法の相 違には,たがいの視点がまったく異なっていることが映し出されている.し かし,いずれの論者も他方の範疇と対立させられる語りの範疇をもっている ことはわかる.そして,語りではない範疇は語りの範疇よりもいろんな点で ٖ 主観的となっている.いま言及した 3 つの二項対立は,いずれもそのままで

は受け入れられない,というのが私の見解である:談話には,語りも評言も, あるいは言明も,含まれる.もしバンヴェニストのいう談話の観念が,音声 言語の優位の信念によってあまりにせまく限定されているというのであれば, ヴァインリッヒやハンバーガーによる語り/評言や語り/言明の対立の定式 化もまた彼らの文学への関心によって影響されていると言っていい. 「 歴史的」 対「経験的」という私自身の二項対立が力点を置いているのは,直截的な語 りの相対的な客観性と,個人的経験の描写に結びついているより強い主観性

6

NB. 「ここでいう「歴史的」という用語で言わんとしているのは,主観的な関与は最 小限におさえ無感情に出来事をその継起した順番どおりに語ることである.明らかにこ の描写の様式は静的・非直示的・客観的な時間のとらえ方に関連している.」(The term used here, 'historical', is intended to suggest the narration of events, ordered in terms of successivity and presented dispassionately with the minimum of subjective involvement; and this mode of description clearly relates to the static, non-deictic, objective conception of time.) (Lyons 1977: 688)

7

NB. 「他方で, 「経験的」という用語で言わんとしている描写の様式は,じぶんが描写 している出来事に個人的に関与している何者かによって提示されるようなものである. この様式は,動的・直示的・主観的な時間のとらえ方に関連している.」 (The term 'experiential', on the other hand, is suggestive of the kind of description that might be given by someone who is personally involved in what he is describing; and this mode is no less clearly related to the dynamic, deictic, subjective conception of time.) (Lyons 1977: 688)

24


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

との対立である. では,ここで歴史的なものと経験的なものとの二項対立を目下の問題に適 用してみよう.ただし,上記の論者の一部とは違って,時制と相が基本的意 味において時間と関係している点を否認するつもりはないことを念頭におい ていただきたい.問題だと述べられていたことのいくつかの要素は,以下の ように簡潔に要約できる:

(i)

多くの言語(フランス語,ロシア語,トルコ語,古典ギリシャ語,ラテン 語など) には,一般に持続性とされているものに関わる相に関し

て,過去時制にはあって現在時制にはない対立がある (cf.

Lyons,

1977, p.688). 〔たとえば〕英語において進行/非進行の対立は過去と

現在両方の時制のどちらにも存在しているが,それぞれの時制で, 進行形が非進行形と意味の上で対立する仕方が異なる:現在の状 況を記述しようというとき,話し手は It rains today〔今日は雨が 降る〕 と It is raining today〔今日は雨が降っている〕 のどちらかを ٖ 選択する余地はない.それに対して,過去の状況を記述する場合

には It rained yesterday〔昨日は雨が降った〕 と It was raining yesterday〔昨日は雨が降っていた〕 のどちらでも選べる.

(ii)

有標性の観念は,さまざまな述語クラスの相特性(動作相 (Aktionsart) ) と時制とに相対化されねばならない.たとえば,It

rains today は It is raining today に対して有標である一方, 〔進行形の〕John is being British は〔非進行形の〕John is British

に対して有標である.しかし,It rained yesterday が (少なくと も直截的な語りにおいて)It was raining yesterday に対して有標で

ないのはたしかだ.ここでの要点は,有標性が意味論的な観念で あるかぎり,そこには選択が含意されるということだ.フランス 語の単純現在やロシア語の非完結現在が(相の範疇内で)有標かど うかなどというのは意味をなさない.それに,It is raining の意 味分析においては《進行形に結びついた付随的意味や含蓄》 (Quirk

25


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

et al. 1972) を探し求める必要もない.そうする必要があるとすれ

ば,それは John is/was being British,そしておそらく It was raining yesterday について分析する場合だ.

(iii)

描写様式もまた特定の相の有標性に関連する.直截的な語り (histoire, Erzählen)においては,出来事の時間順序をあらわしたり

語りの進行をあらわすのに用いられる相の方が,対立するものの うち文体的に無標な要素となっている:英語の単純過去,ロシア 語の完結相,フランス語書き言葉の単純過去がそうだ.それと対 照的に,対立するもののうち有標な要素はその機能が時間的なも のであるかぎり,持続する状態や過程を背景として提示する役目 を果たす.この背景があることで,前景化された語りを進行させ る継起的に並べられた出来事が浮き出ることとなる.歴史的な描 写様式では,したがって,無標・有標の形式それぞれがもつ語り に時間の輪郭を与える機能がどちらも利用される;そしてこの機 能において有標な形式は必ずしも経験的な様式への切り替えを ٖ 合図したり「付随的な[…]含蓄」を導入したりはしない(cf. It was raining when I got up this morning).非文学的な日常の用法におい

ては,歴史的な描写様式(または語り)は,主として,過去に起き た出来事を並べ立てるのに使われる.英語の単純現在が顕在的遂 行文 (cf.

Reid, 1970, p.157) やスポーツ実況などで使われることは,

この形式のそうした用法にあるのが経験的ではなく歴史的な機 能であることによって,共時的にではなくとも通時的に,説明が つく.ともあれ,いま現在起きている出来事や過程の描写にもっ とも特徴的に用いられるのが経験的な様式であることに疑いは ない.

(iv)

経験的な様式は,話し手がいま現在感じたり知覚していること─ ─そうしているかもしれないこと──を記述する点で,より主観 的である.状況は,たがいの順序にしたがって提示されず,また, 一方が他方を背景に前景化されることで時間的な輪郭を与えら

26


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

れることもない.瞬間的な出来事 (cf. It’s fallen down) であれば 起きたばかりのこととして話し手により提示され,また,たいて いそうであるように,瞬間的でない出来事 (cf. It is raining) であ れば発話の時間の始めと終わりをこえて拡がっているものとし て提示される.そうであってみれば,経験的な様式において持続 相と非持続相との対比の必要がなく,歴史的な描写様式と過去の 出来事の語りとの特徴的なつながりに関して多くの言語で持続 /非持続と対立が過去時制では発達しているが現在時制ではそ うでないことは,なんら驚くにあたらない.

これらは問題の要素であるとともに,その解決の要素でもある.すでにみ たように,さまざまな言語の相体系に見出される間隙と非対称性は,バンヴ ェニスト

(1959)

やヴァインリッヒ

(1964)

その他の論者たちが示唆したとお

り,2 つの描写様式の相違を持ち出すこととで説明される.当然,そのうち の一方はより主観的であり,他方はより客観的である.ここで,直示と主観 性に関して残されている論点がもうひとつだけある.それは,話し手には, ٖ 記憶の中であれ想像の中であれ,発話状況とは異なる参照点へとみずからを 投射することができ,そしてその参照点から,あたかもいま起きているかの ように状況を経験的な様式において描写することができる,ということだ. それどころか,話し手は,同時に二重の参照点をとって 2 つの描写様式を混 交させることもできる.さきに見たように,John remembered switching off the light は,歴史的な 〔描写の〕 構造 〔John remembered~〕 に経験的な補文 〔switching off the light〕 を埋め込んでいる.そしてこの構造には第二の参照

点が隠れており,その参照点から,明かりを消す出来事が経験的に描写され る.つまり,このようなことだ:「t1 において,ジョンはある出来事を想起 した,その出来事は,もし t2(それが起きたとき) において彼が描写していた なら I am switching off the light〔私は明かりを消しつつある〕 と述べて描写し たであろう.」英語やその他の言語では,さらに明白な事例が自由間接話法 (discours indirect libre, erlebte Rede)

にみられる.疑念の余地なく証明されたこと

だが,この文体のもつある特性は,直接・間接話法のいずれからも区別され るとともに両方に関連してもいる (cf.

Weinrich, 1964; Hamburger, 1968; Banfield,

27


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

1973; Kuroda, 1973, 1974, 1975).とりわけよく知られたこととして, 《自由間接話

法は,時間・場所副詞の直近・現在のもの,たとえば now, here, today な どを直接話法で起きるときのまま保持する.[…] 間接話法の「離れた」形式 (e.g. then や there) には変化しない》 (Banfield, 1973).他方で,時制や人称代

名詞の指示対象は,一般にふつうの間接話法・自由間接話法のいずれにおい ても同じ原則に支配されている.よって,

(8)

John was coming tomorrow

のような文は,tomorrow の指示〔時間〕に関して,2 つのいくぶん異なっ た解釈をもつことがある.一方の解釈は必ずしも経験的な描写様式に関わら ない (ただし発話文脈しだいではそうなることもあるかもしれない);しかし他方は 関わる.いずれの解釈でも,was coming はパーマー

(1974, p.38)

のいう認識

的時制を示す.これにより,表現された命題の妥当性は t0 (発話時) に先立 つ時に限られることになる.しかし,認識的時制は認識様相と同じように客 観的にも主観的にもなりうる.おそらく下記の場合にそうなるように ( cf. ٖ Palmer, 1974, p.38),

(9)

Yesterday John was coming tomorrow.

もし tomorrow が発話の日の翌日を指示すると解釈されたなら,経験性や別 人の意識への主観的投射の観念を喚び起こす必要はない (文脈によってはなに か他に理由があってそうすることになるかもしれないが).しかし,tomorrow の指

示時間に関する限り,もし (8) が以下の

(10) John said/thought ‘I am coming tomorrow’

あるいは

(11) He/she said/thought ‘John is coming tomorrow’

28


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

のように解釈されたなら,その発話全体は明らかに自由間接話法の構文でな されていることとなる.その意味をどう分析するにせよ,客観的に異なりし かも時間的に順序づけられた 2 つの参照点に加えて,2 つの異なる意識すな わち話し手ともうひとりの人間(なにも話し手のオルタエゴである必要はあるまい) を喚起する必要がある.さらに,そのもうひとりの意識に話し手みずからが 投射されていると措定もしなければならない.例 (8) の真理条件は──どん なものであるにせよ──こちらのより主観的な解釈において (10) や (11) と異なっている: (8) は,命題「ジョンは明日来る」や「私は明日来る」が, そのようなものとして,話し手がみずからを結びつけている意識主体によっ て明示的に念じられたことを── ましてや確言されたことなどを ──確言は しない.それどころか,適切に,かつ真なるものとして (8) が発話されるた めには,この was coming の時制により指示される時間において,言語的に 符号化された命題はひとつも〔誰かに〕念じられている必要などない.これを 含む複数の理由 (その多くは直示に関わる:ここでは言及されないさらなる複雑な事 柄がある)により,通常の直接話法に対する文体的変異にすぎないものとして

自由間接話法を取り扱うのは,不可能に思われる.よりいっそう明白なこと ٖ として,ふつうの間接話法の変異として取り扱うこともできない (cf. Banfield, 1973).

その混交した特徴から明らかに自由間接話法とされるものは,統語的・意 味的に他から区分されるわけではない.このことがひとたび是認されれば, 自由間接話法の特徴を示さないにも関わらず多くの文が発話の文脈しだいで しばしばそのようなものとして解釈されることがみえてくる.これは John was coming にも成り立つ.非過去の直示的副詞類がないにもかかわらず, この文は (8) と同じように時間指示についてあいまいであり,言語によって は 2 つの異なった訳文が与えられることだろう. この論証の最終段階は,さらなる事実の認識にかかっている.それは,煎 じ詰めれば時制は時間指示を成り立たせるその基本機能においてすら主観的 なのだ,という事実である(ただし,言語によっては,客観化されて命題内容の一部 となることもある).別の場所で私がアウグスティヌスの時制理論と呼んだもの,

すなわち「過去・現在・未来はすべて (記憶・観察・予測において) 経験的な現

29


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

在にある」(Lyons, 1977, p. 821) という理論は,この観察にもとづいている.直 示の推移とともに話し手は主観的にみずからを他人の意識へと投射できるの だから,彼はまた,想像や記憶の中で自分自身の別の意識状態へとみずから を投射させられもする:i.e. 推移した経験的現在への投射である.このとき, 話し手は経験的な描写にふさわしい相を使うのだが,それに加えて,一定の 時制を選んで過去や場合によっては未来へと推移がなされたことを示す.こ うして,暗黙にせよ明白にせよ,発話には 2 つの直示的な参照点ができる. 経験的な現在を転移させられる── もしくは,ある経験のうちに別の経験を埋 め込められる ──というこの可能性によって,多くの言語にある持続相の有 〔他の形式より〕もっと生き生きしているとい 標な用法がいくつか説明される:

う点が記述されてきた用法のことだ.フランス語のいわゆる絵画的な半過去 =非完了

(imparfait pittoresque)

は,この点に関してずいぶんと議論されてき

た:一方でフロベールその他の 19 世紀自然主義派の作家たちがこれを体系 的に使い,他方でもっと最近の著述になるとこの半過去がふつうの叙述的な 半過去を侵蝕していること──その結果として意味的な有標性を失いつつ─ ─について,いくつか理由が提示されてきた (cf. Weinrich, 1964, pp. 166-167; Reid, ٖ 1970, pp. 162-165).

本稿はこれ以上この問題に立ち入らない.また,直示が主観化されている 領域は様相・時制・相以外にもあるが,これも論じない.ただ,はっきりさ せておくべき点がひとつ残っている.それは,ここで私がだしている見解よ りもっと根源的=急進的な見解を採る可能性のことだ.本稿の冒頭で言及し た現象学的構造主義者たちには,そちらの方が気に入るかもしれない. 私が採っている見解では,様相は基本的に主観的であり,言語によって程 度は異なりつつも客観化されることがあるものの,しかし直示の基本機能は, ことばで指示されたモノや状況を発話文脈の時間-空間的な原点へと──い ま-ここへと──結びつけることにある,とされる.周知のとおり,この原点 は自己中心的であり,この点は直示について語るひとの誰もが合意している. しかし,この自己中心性は必ずしも本稿の言う意味において主観的ではな い:空間と時間は外在的な世界の客観的な次元として扱われることもあり, その場合,話し手と聞き手は他の手ごろな大きさの物体と同じようにこの次

30


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

元に位置づけられ,相互に関連づけられる.この観点からすれば,話し手が 発話の時と場所を参照点の一部として用いるかどうかは利便性の問題という ことになる:原則を言えば,べつに話し手は,まわりの物理環境にあるもの なら固定していても可動的でもその時空間的なありかを 〔参照点として〕 使っ てもかまわない. (限度はあるものの,当然ながらいろんな言語でこれは実際に起きる. その場合,指示代名詞の指示には川や山脈,太陽の位置などが組み込まれる.しかし, 私の知るかぎり,そうした言語には自己中心的な直示もかならずあるものだ.)

最後に,時空間的な直示の座標を基本的に客観的なものとして扱うことに は,おそらく妥当な理由はひとつもない──ただひとつ,私が言う一階の名 詞類を二階・三階の名詞類よりも基本的なものとする方へと私をいざなうの と同じ存在論的な偏見への執心をのぞいては (cf. Lyons, 1977, p. 466; 1979).この 偏見はあからさまにアングロサクソン流経験論の残響だと言えばそうかもし れない.徹底的に主観的な直示の理論の方が,これまで私が採り続けてきた 説よりも明らかに包括的であろう.私の説は,先ほど述べておいたように, 必然的に基本的機能と派生的機能の区別にもとづくものである. ٖ

References

Adamczewski, H. (1974) BE + ING revisited. In S. P. Corder & E. Roulet (eds.), Linguistic insights in applied linguistics. Paris: Didier.

Banfield, A. (1973). Narrative style and the grammar of direct and indirect speech. Foundations of Language, 10, 1-39.

Benveniste, E. (1958). Les relations de temps dans le verbe francais. Bulletin de la Societe de Linguistique, 54, 69-82. Reprinted in E. Benveniste (1966), q.v.

Benveniste, E. (1959). Les relations de temps dans le langage. Journal de Psychologie, 51, 257-265. Reprinted in E. Benveniste (1966), q.v.

Benveniste, E. (1966). Problème de linguistique générale. Paris: Gallimard.

31


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

Berthoud, A. C. (1979). Projet d'étude 'La déixis en tant que problème d'apprentissage': Etude de quelque verbes de mouvement. Travaux du Centre de Recherches Sémiologiques, University of Neuchatel, 33, 77-99.

Black, M. (1968). The labyrinth of language. New York: Praeger. British editions: London: Pall Mall, 1970; Harmondsworth: Penguin Books, 1972. (Quotations and page references in the text are from the Penguin edition.)

Bublitz, W. (1978). Ausdruckesweisen der Sprechereinstellung im Deutschen und Englischen. Tubingen: Niemeyer.

Bühler, K. (1934). Sprachtheorie. Jena: Fischer.

Clark, E. V. (1974). Normal states and evaluative viewpoints. Language, 50, 316-332.

Comrie, B. (1976). Aspect. London: Cambridge University Press.

Culioli, A., Fuchs, C. & Pêcheux, M. (1970). Considérations théoriques à

propos

du

traitmement ٖ

formel

du

langage.

Centre

de

Linguistique Quantative, University of Paris VII.

Desclé, J.-P. (1976). Description de quelque opérations énonciatives. In J. David & R. Martin (eds.), Modèles logiques et niveaux d'analyse linguistique Paris: Klincksieck.

Friedrich, P. (1974). On aspect theory and Homeric aspects (Indiana University Publications in Anthropology and Linguistics; Memoir 28 of International Journal of American Linguistics). Bloomington, Ind.: Indiana University Press.

Fuchs, C. & Rouault, J. (1975). Towards a formal treatment of the phenomenon of aspect. In E. L. Keenan (ed.), Formal semantics of natural language. Cambridge: Cambridge University Press.

Halliday, M. A. K. (1970). Functional diversity in language as seen from a consideration of modality and mood in English. Foundations of Language, 6, 322-365.

Hamburger, K. (1968). Die Logik der Dichtung. Stuttgart: Klett.

32


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

Hockett, C. F. (1958). A course in modern linguistics. New York: Macmillan.

Jakobson, R. (1932). Zur Struktur des russischen Verbums. In Charisteria

Guilelmo

Mathesio

Quinquagenario,

Prague.

Reprinted in J. Vachek (ed.), A Prague school reader in linguistics. Bloomington, ind.: Indiana University Press, 1964; also reprinted in E. P. Hamp, F. W. Householder & R. Austerlitz (eds.), Readings in linguistics II. Chicago: Chicago University Press, 1966.

Joos, M. (1964). The English Verb. Madison, Wisc.: University of Wisconsin Press.

Kuroda, S. Y. (1973). Where epistemology, grammar and style meet - a case study from Japanese. In S. Anderson & P. Kiparsky (eds.), Festschrift for Morris Halle. New York: Holt, Rinehart & Winston, 1973. French translation in Kuroda (1979), q.v.

Kuroda, S. Y. (1974). On grammar and narration. In C. Rohrer & N. Ruwet (eds), Actes du colloque franco-allemand de grammaire ٖ trasformationelle. Tübingen: Niemeyer. French translation in Kuroda (1979), q.v.

Kuroda, S. Y. (1975). Reflexions sur les fondements de la theorie de la narration. In J. Kristeva, J. C. Milner, & N. Ruwet (eds), Langue, discours, société: pour Emile Benveniste. Paris: Seuil. English version in T. van Dijk (ed.), Pragmatics of language and literature. Amsterdam: North Holland, 1976.

Kuroda, S. Y. (1979). Aux quatre coins de la linguistique. Paris: Seuil.

Lewis, G. L. (1967). Turkish grammar. Oxford: Oxford University Press.

Lyons, J. (1968). Introduction to theoretical linguistics. London: Cambridge University Press.

Lyons, J. (1977). Semantics, Vols 1 and 2. London: Cambridge University Press.

Matthews, G. S. (1965). Hidatsa syntax. The Hague: Mouton.

33


John Lyons (1982) Deixis and Subjectivity

Palmer, F. R. (1974). The English verb. London: Longman.

Quirk, R., Greenbaum, S., Leech, G., & Svartvik, J. (1972). A grammar of contemporary English. London: Longman.

Récanati, F. (1979). La transparence et l'énonciation. Paris: Seuil.

Reid, T. B. W. (1970). Verbal aspect in modern French. In T. G. Combe & P. Rickard (eds.), The French language: studies presented to Lewis Charles Harmer. London: Harrap.

Ridjanovic, M. (1976). A synchronic study of verbal aspect in English and Sebo-Croatian. Cambridge, Mass.: Slavica Publishers.

Sadock, J. & Zwicky, A. M. forthcoming. Sentence types. In S. Anderson, T. Givón, E. Kennen, T. Shopen, & S. Thompson (eds), Language typology and sytactic field work.

Schubiger, M. (1965). English intonation and German modal particles: a comparative study. Phnetica, 12, 65-84. Reprinted in D. Bolinger (ed.), Intonation: selected readings. Harmondsworth: Penguin, 1972.

ٖ

Smith, N. V., & Wilson, D. (1979), Modern linguistics: the results of Chomsky's revolution. Harmondsworth: Penguin.

Tarski, A. (1956). Logic, semantics, and metamathematics. London: Oxford: Oxford University Press.

Weinrich, H. (1964). Tempus: Besprochene und erzählte Welt. Stuttgart: Kohlhammer. French edition, Le temps. Paris: Seuil, 1964.

Whorf, B. L. (1938). Some verbal categories in Hopi. Language, 14, 275-286. Reprinted in B. L. Whorf, Language, thought and reality. Cambridge, Madd.: MIT Press, 1956. (池上嘉彦=訳のウォーフ『言語・ 思考・現実』は抄訳であり,この章は訳出されていません)

34


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.