大陸哲学と解放 サイモン・クリッチリーに聞く
“Continental Philosophy and Emancipation” In Julian Baggini, Jeremy Stangroom (eds.) New British Philosophy: The Interviews. Routledge, 2002.
内容 イントロダクション ...........................................................................................3 インタビュー ......................................................................................................5 哲学にたどり着くまで ....................................................................................5 分析哲学と大陸哲学──カントに始まる ........................................................6 懐疑主義,ニヒリズムの脅威 ..........................................................................7 社会的な参与 ..................................................................................................8 大陸哲学は相対主義か ....................................................................................9 杘ϩ
ニヒリズムに応接する .................................................................................. 11 「進歩的な近代主義」と「反動的な近代主義」 ............................................ 12 哲学の専門化 ................................................................................................ 14 科学主義と蒙昧主義 ...................................................................................... 15 ヒューモア──日常生活の現象学 ................................................................. 17 Selected Bibliography ................................................................................... 19
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イントロダクション
カール・マルクスの墓には, 『フォイエルバッハ・テーゼ』からとられたこんな 碑銘が刻まれている: 「哲学者たちは世界をいろいろ解釈してきたに過ぎない; しかし,問題はそれを変えることだ」──この文の前半は,哲学にまつわるあ りふれた見方を反映している.つまり,哲学はなによりも抽象的で自己言及的 な企図であり,人々の生活だとか,その社会・政治的な条件について言うべき ことをもたない,という見方だ.文の後半では,この事実よりも哲学はさらに まずいところがあることが示唆されている. 哲学というのは人々の生活を特徴づけるいろんな関心事から切り離されたも のだ,とするかぎり── そうした関心事が実存的・社会的・政治的のいずれであ るにせよ ──そういう哲学はかなり歴史的・文化的に特殊な現象だ.このこと
は,英米哲学の特定の種類にみられるものではあるけれども,哲学全般につい ѩ쁆ꂗ ط てはあてはまらない.たとえば,古代ギリシャ哲学にとって中心的だった問題 は,倫理と善き生き方だ.また,まったく別の例をあげるなら,現代の中国で は,哲学者たちが台湾をめぐる「1つの中国」政策について提言してきたし, 新経済政策を理論化するのに一役買ってきた. サイモン・クリッチリーによると, 「大陸哲学」として知られるようになった .... 哲学の伝統を定義する 特徴とは,社会的・政治的な現実に周到に関与している ことだそうだ.大陸哲学の目指す目標は,個人と社会両方の解放にある. 大陸哲学の範疇に括られる主要な人物を何人か考えてみれば,この解放の アジェンダ
議題 はかんたんにみてとれる.カール・マルクス── 代表的な革命の思想家 ─
─の場合は,興味深い.マルクスの著作がすべて適切に哲学に分類できるかど うかには議論の余地がある.彼の初期作品はまちがいなくヘーゲル
[1770-1831]
と青年ヘーゲル派の考えに入れあげてできた産物ではあるのだが,後期の仕事 は批判的な政治経済学の線にずっと近い.とはいえ,大陸哲学の地勢に彼が与 えた影響は否定しがたい.たとえば,彼の考えはただの偶然とは言いがたいほ
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ど多様な思想家たちにとって重要視されてきた.ゲオルク・ルカーチ,マック ス・ホルクハイマー,テオドール・アドルノ,ハーバート・マルクーゼ,ジャ ン=ポール・サルトル,モーリス・メルロー=ポンティ,ルイ・アルチュセール, ピエール・ブルデュー,アントニオ・グラムシといった人々がそうだ. この点で,英米哲学の現状との対比が鮮明となる.この 200 年間で 〔マルク スに〕比肩しうる哲学者は〔英米系の伝統には〕1 人もいないといっていいだろう.
.. さらに,革命的な実践(人間の活動ないし行為)という考えをみずからの哲学の
中心に据えた哲学者が英米哲学の伝統で〔マルクスに〕比肩しうる役割を演じた こともない,というのもおそらく確かなことだろう.英米哲学には社会的・政 治的な関与の感覚など皆無だと言ってはおそらく単純にすぎるのだろうけれど, そういった関与がこの伝統の中心を占めてはいないことは明白だ. 解放と大陸哲学に関するかぎり,社会的・政治的な解放との関わりで話が済 むわけではない.個人の解放という問題もある.ここではフロイトがもっとも 重要な人物だ.少なくとも始めのうちは,彼の関心は,ヒステリーと結びつい た苦しみを和らげるのに使える技法を発展させることにあった──これがのち ٦ に精神分析となる.フロイトの解放の展望は限界のあるものだった.というの
も,彼の見解では精神分析にできるのはせいぜい人々の苦しみを通常の水準に もどすことだけだったからだ.彼にとって,人間の窮状は人間の条件の本質だ. けれども,彼の考えは他の思想家によって取り上げられ,より広い射程を与え られた.たとえば,ヘルベルト・マルクーゼは「過剰抑圧」(surplus repression) な る概念を使って,支配階級の抑制は無意識に根ざしていると論じたてた.彼の 主張によれば,社会革命はリビドーのエネルギーを解き放ち,それによってよ り幸福で平穏な人間社会がつくり出されるのだという. もちろん,大陸哲学については他にもさまざまなストーリーを語れるだろう. たとえば,ジャック・ラカン,ミシェル・フーコー,ジル・ドゥルーズ,ジャ ック・デリダといった思想家たちの仕事にポストモダニズムの哲学が姿を見せ ているのに注目してもいい.けれども,どういうストーリーを語るにしても, 批判的で事態に関与する活動としての哲学という関心のあり方はかわらず見出 されるはずだ.かくして,サイモン・クリッチリーは主張する,大陸系の伝統 の基本的な概念地図は 3 つのタームに要約できる:批判・実践・解放に.
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インタビュー
哲学にたどり着くまで
大陸哲学と呼ばれる分野に携わっている人たちのあいだでは,文学への関心を もっていてそのうち哲学にたどりついたというひとが珍しくありませんね.こ れはあなたにもあてはまりますか?
ええ.わたしは,イギリスとヨーロッパの文学をやるつもりで 1982 年にエセ ックス大学にきました.当時はモダニズムに夢中で,それに,詩人になりたい と憧れてたんです.問題はわたしが大した詩人じゃあなかったことですが.大 学に入ると,そこで教えられる文学と文学理論に幻滅しました.と同時に,哲 学のコースをとっていて,それで達した結論は,単純に言って,哲学を教えて ٦ۓ る人たちは,文学や政治学やフランス語や社会学を教えてる人たちよりもずっ
とスマートだってことでした.そっちに興味をそそられたわたしは,その年度 のコースがおわったときに哲学に乗り換えました.当時,ものすごく幸運なこ とに,何人かのすばらしい哲学者たちに教わることができました.その人たち はみんな,恐縮している学部学生と話をするだけの時間をたっぷりもっている ように思えたんです.ロベルト・ベルナスコーニ ーンスタイン ッフィ
(Robert Bernasconi),ジェイ・バ
(Jay Bernstein),オノラ・オニール (Onora O’Neill),フランク・チオ
(Frank Cioffi)
といった人たちですね.当時もいまもすぐれた学部です.
大学に入る前は,どんな種類のものをお読みでしたか?
わたしはね,ペンギンのモダン・クラシックスの洗礼をうけていたんですよ.そ れで,ニーチェをたくさん読んでいったあと,陰気なモダニストの小説をてん こもりやりました.サルトル,カミュ,カフカはわたしにとってものすごく大 事でした (カフカはいまでもそうですが).それに,ジョイス,ベケット,フラ
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ン・オブライエンも.それでごく早いうちから実存主義に関心をもつようにな っていました.大学で哲学を学ぶのも1つの選択だと気がついてからは,その 筋の必読書を読み始めました──ラッセルの『哲学の諸問題』とか,エイヤー の『哲学の中心的諸問題』とかね.正直なところ,こういう本からはあまり多 くのものを得てはいないのが実状なんですけどね.
そうすると,つねづね分析系の思想家よりも大陸系の思想家の方にずっと共感 をもっておられたわけですか?
そうだと思いますね,ええ.わたしにとって,哲学は実存的なコミットメント をとりあつかうものでないといけないし,哲学する人は血も肉もある人間だと いう事実に向き合うものじゃないといけないんです.それに,歴史的・社会的・ 政治的な問いも検討しないといけない.ああいうのを大陸哲学と呼ぶのだとあ とで知りましたが,わたしにとっては,ごく早いうちからこれまでずっと,英 米哲学よりもこちらの方がずっとそういった問題に適しているように思えたん です.後期ウィトゲンシュタインには変わらず関心を持ち続けてきましたし, ٦ۓ
フランスで書いた修士論文はハイデガーとカルナップの詳細な比較研究ですし ね.
分析哲学と大陸哲学──カントに始まる
広い視野からみて,こうした哲学の2つの伝統をどう区分されますか?
そうですね……区分の仕方は1つきりというわけでもないんですが,わたしの 場合,カントまでさかのぼるんですね.19 世紀の文脈,とりわけヘーゲルとニ ーチェの仕事を抜きにしては大陸哲学はわからないと思います.だから,少な くともそこまでさかのぼる必要があります.19 世紀後半のフッサールとフレー ゲから始めるのは── 『分析哲学の起源』でマイケル・ダメットがこの策をとっ ていますが ──よくないですね.それはそれで面白いし,得るところもあると
言えばそうなんですが. カントには 2 通りの読み筋があります.まず,カントの認識論的な読み方で,
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これは,超越論的演繹論の成功とヒュームの懐疑に対するカントの応答の成否 いかんにおおいに関係しています.こういうカントの読み方から始めた場合, 英米系で続いているタイプのカント論議に合流することになります. カントのもう一方の読み方は大陸系の伝統を方向づけるもので,『第三批判』 で立てられた諸問題の観点に立ちます.カントに続くマイモンやヤコービたち, あるいはドイツ観念論者たちが感じたのは, 『第三批判』でカントは一連の二律 背反── 純粋理性と実践理性,自然と自由,認識論と倫理 ──を確立したものの, そうした対立を取りまとめる単一の統一原理は提示しそこなった,ということ です.だから,ドイツ観念論は,その原理を提示しようとする試みの連続とみ なせるわけです.つまり,フィヒテの〈主体〉,ヘーゲルの〈精神〉,初期シェ リングや 19 世紀後期から 20 世紀初期のドイツ哲学における芸術,ニーチェの 〈力への意志〉,マルクスの〈実践〉,ハイデガーの〈存在〉が,そこからでて くる.これらはどれも,その問いに答えようとする試みなんです.
懐疑主義,ニヒリズムの脅威 x
もうひとつ付け加えると,大陸系のカント以後の伝統で核心問題となってい るのは,ハーマン
(Hamann)
が最初に提示した問いで,こんな形をとります: 「カ
ント的な形式をとる理性の批判があるとしたら,当然,理性がみずからを批判 することになるほかない.では,理性がみずからを批判するほかないとするな ら,どうすれば理性の批判が懐疑主義に終わらずにすむのか?」
私の見解で
は,19 世紀の初期から── 厳密にはヤコービ以来 ──今にいたるまで大陸系の 伝統を駆動してきた問題とはニヒリズムの脅威なんです.
そうすると,理性じしんが── 啓蒙の企図の推進器が ──みずからのよって立つ 基盤を懐疑する,ということになるわけですね.実存的な参加や政治的な参加 などをとおして考えよ,という要請は,部分的にではあれ,この啓蒙の企図の 帰結に関連しているんでしょうか?
ここでの基本的な問題は,アドルノとホルクハイマーのいう「啓蒙の弁証法」
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です.啓蒙という,理性と人間の合理性の優越性を信じる立場は,歴史のなか で転倒をこうむって,その正反対のものに成りはてるわけです──つまり,ア ウシュヴィッツの野蛮にね.理性と啓蒙の擁護には,価値あるものすべての土 台を掘り崩すニヒリズムと共謀しかねないあやうさがあります. .. 大陸系の哲学者たちにとって,これは哲学的な問題であるとともに,社会 .... 歴史的な 問題でもあります.ヘーゲル以来,体系的な哲学の問いは社会-歴史的 な探求に結びつけられずにはいない,という事実をみれば,ここでも分析系と 大陸系の相違が一貫してあらわれていると言えるでしょう.この観点をとると, 哲学・歴史・社会の区分は瓦解しはじめます.この観点で考えると,問題はこ うなります: 「理性の優越を啓蒙主義的に擁護するとして,それでは,植民地主 グ
ー
ラ
ー
グ
義の暴力にはじまって世界大戦・強制労働収容所からボスニアやルワンダまで, 現に起こったことをどう説明しようとするのか?」
社会的な参与 鋰ٜ
社会的な参加という考えには,何かあやういものがありますね.社会的な参加 のもたらす結果が望ましいとみなされうることになるとは限らない,というこ とですからね.たとえば,国家社会主義に対するハイデガーの関与があげられ ます.哲学者たちが社会的に関与しているとして,彼らが好ましくない企図に 関与しようとしている,という懸念はないでしょうか?
その懸念はありますね.それに,馬鹿げた行動方針・悪しき行動指針を哲学者 が擁護している事例はたくさんあります.ご存知のように,フレーゲは猛烈な 反セム主義者〔≒反ユダヤ主義者〕でした. 〔分析系のフレーゲが一方にいるとして,他 方で〕 大陸系をみても,ハイデガーの哲学と政治は相互に結びついていますし,
『存在と時間』で彼が個人と集団の真正性に与えた説明と彼が 1933 年に国家 社会主義に関与したこととの間に内在的な関連があるのは間違いのないことに 思えます.サルトルは,多くの論点を支持して疑わしいことをたくさん言いま したが,同時に,人種の問題については英雄的なまでに筋のとおった立場をと りました.大陸系の哲学者たちはそういう失敗をしてきたわけです.フーコー
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はイラン革命を擁護しましたね.あれをきっかけに,一部の人たち,とりわけ フランスの思想史に携わっている人たちは,知識人という範疇全体を疑問視す るようになりました. 「知識人」というのは,哲学の素養をもった日常生活の評 論家のことですね.そうなると,こういう議論がでてきます.いわく, 「哲学者 たちはまちがった関与をしてしまったのであるから,彼らはそういう関与をす るべきではなく,みずからの専門の仕事に従事して政治から身を離すべきなの だ」というわけです.わたしは,これに断固反対です.哲学者がよき主張を擁 護している反例だってたくさんあるんですよ.このことについては,いい例が ハーバーマスのような人物ですね.一世代にわたって,彼のジャーナリスティ ックな介入はドイツの世論形成にとって決定的なものとなってきました.それ に,フランスの教育改革に関するデリダの政治的見地や,その他さまざまな主 張に対する彼の支持表明は,いいと思いますね.私の考えでは,哲学者はいま よりも公共の知的問題に関わる必要があるし,また,いまよりも専門での評価 にとらわれなくなる必要があります.
大陸哲学は相対主義か
琠٨
外から大陸哲学をみている人たちにとって心配なことといえば,比較的に洗練 されていないとはいえよくある見解で,こういうのがありますね.つまり,大 陸系の哲学者たちはみんな真理が言説に相対的だという考えを認めていて,だ からこの伝統においては特定の政治的介入の善し悪しに関する考えは,その考 えを唱えている当の哲学者が奉じる特定の哲学的な図式に完全に制約されて 生まれると考えられている,という見解です.
大陸哲学に関する誤解で途絶えることのないのが,その相対主義の問題です. わたしの説では,大陸哲学は 1870 年代にヤコービの思想から始まっています. カント流の理性批判は,すべての現実経験は主観に依存しておりしたがって主 観相対的であるとすることによって,相対主義の堤防を開きかねないと彼は考 えたんですね.ですから,大陸系の伝統は,わたしのみるところでは,相対主 .... 義の脅威に応接する ことにかかわっています.しかも,その応接に際しては普
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遍主義を擁護するわけです.この逆説は,デリダのような思想家においてもっ とも鮮明になります.つねづねデリダは相対主義者だとみなされていますが, はじめから一貫して彼の哲学的な見地は相対主義の批判をひとつの主題にして います.彼は,フッサールからこの批判を取り出してきました.デリダの後期 の著作では,ますます明示的に規範的な普遍主義の擁護,正義が脱構築不可能 だという信念の擁護へと彼が移行しているのがわかります.正義はすべてに先 んじる価値であって相対化されえない,と言うんです.こうした事態は,大陸 哲学の系統ぜんたいに典型的なものであり,その意味で大陸哲学は相対主義の 脅威を前提にふまえています.また,この脅威に対抗するに際して前提とされ るのは,批判的に厳正でしかも人間解放の観念に結びついた哲学を産み出すこ とをもってしようと望むことです.
デリダについてはそのとおりですが,それでも他の大陸系の哲学者を 〔相対主 義者として〕名指すことは可能ですよね.たとえば,ブルーノ・ラトゥール (Bruno Latour)
がそうですし,あるいはフーコーにもいくつかそういう文章がありま
琠٨[ 1] で彼は野蛮な刑罰を終わらせるのは すね──たとえば『規律訓練と刑罰』
よいことだという考えからほど遠いところにいますが,そこには相対主義の主 題が見て取れるように思えます.また,英語圏で大陸哲学がどう受け入れられ てきたかを指摘することもできます.とりわけ英語圏の文学理論と批判理論で は,徹底的な相対主義が好んで信奉されています.これは問題ではないです か?
問題ですね.ただ,そういうたぐいの相対主義をとっている人たちは,歴史の 忘却にもとづく誤解をしてしまっているんだと思います.わたしのつもりとし ては,じぶんのやっている仕事の一部は,哲学の近代性とその持続的な意義と を人々に思い出してもらうことにあるんですよ.デリダやハーバーマスのよう な思想家たちは,カントの伝統からはじまるこの 200 年のストーリーと関連づ けたときにもっともよく理解できます. ですから, 〔大陸哲学を〕相対主義で告発するのは見当違いであり,普遍主義は 1
邦訳『監獄の誕生―監視と処罰』(新潮社,1977 年).
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少なくとも論争の場ではあって,私見ですがそちらのほうが擁護されるべきも のです.ただ,大陸系の伝統に属す哲学者にも相対主義者はいます.ボードリ ヤールが一例です.それで言えば,わたしはこの伝統を総体として擁護してい スピン
るわけではなく,この伝統に特定の解釈・特定の 見解を与えているんですね. 大陸系の伝統の少なからぬ部分が論じたてている見地のなかには,わたしから みてつまらないものや擁護できないものや単にまちがっているものがあります.
ニヒリズムに応接する
ニヒリズムの問題に移りたいと思います.著書の『ヨーロッパ大陸の哲学』で, ニヒリズム問題にどう応接するかについては自分なりの考えがあるとお書き ですが,細かくは言っておられませんね.ニヒリズムについて,どういうふう にお考えですか?
ニーチェにとって,ニヒリズムとは至高の価値を引き下げることです.このこ とは, 「神は死んだ」という彼の表現と関連づけて考えてもいいですね.至高の 琠٨
価値である神は引き下げられた,もはや信じ得ないものに成り下がってしまっ た,というわけです. ニーチェの洞察の独創性は,神の死が人間の進歩によって引き起こされたと するところにあります.だからこそ,例の狂人は「神は死んだ,我々が殺した のだ」と言うんです.我々が近代とよぶ歴史の一時代は,神の死,至高の価値 の引き下げに到ります.そこで問いはこうなります. 「至高の価値が引き下げら れたというのなら,では,どうすれば引き上げなおされるのか?
生きる意味
の問いへの答え方について,プラトン的/キリスト教的な筋書きが失われてし まったのだとして,では,我々がじぶんたちの手でこれに答えるにはどうすれ ばいいのか?」 ニーチェの思想は,こちらが圧倒されるほど,ニヒリズムの歴史的・哲学的 な状況にどう答えられるかということにこだわっています.そして,彼は永遠 回帰の概念でこれに答えます.全世界がまったく無意味だということを受け入 れてその考えを繰り返し肯定できるのなら,そのひとは全世界の無意味さにひ
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としいのであり,もはや絶望に陥ることはありません.だから,超人とはどん な人物かというと,何か新たな偶像を奉じることなく永遠の反復を受け入れう るひとなんですね. これがニヒリズムに応接するひとつのやり方です.けれども,わたしの考え はこれとちょっと違います.ニヒリズムのニーチェ流モデルとあの永遠回帰の 肯定は,あまりに英雄的で,あまりに孤独で,日常生活の他愛ない細事からあ まりにかけ離れているように思います. 『ごく些細な,無に等しいほどの』(Very Little, Almost Nothing)
でわたしが示そうとしたのは,哲学・文学の伝統にはニヒ
リズムに対して4つの答えがあり,それらはすべてそれぞれのしかたで間違っ ている,ということです.そして,わたしはニヒリズムに対する第 5 の応答を 提示しました.これを要約すると,ある公式になります. もしニヒリズムが意味の崩落の脅威だということであれば,わたしの見地か .. らすると,その無意味さは,達成 として,日常生活との関係を変容させる偉業 として,受け入れるべきなんです.ニヒリズムに対するわたしなりの答えは, 生きることの問題に対して大きな形而上学的な答えの無意味さを受け入れるこ 琠٨
とです.これは,絶望の勧めなどではまったくなくて,ありきたりであたりま えな,それでいてしばしば不可解な日常生活の瑣末事へ立ち戻ることの呼びか けです.この考えの支えに何人かの思想家をもちだしました.とりわけ,スタ ンリー・カヴェル
(Stanley Cavell)
です.とはいえ,ニヒリズムへの応接でわた
しが反英雄的英雄にしているのは,サミュエル・ベケットなんですね.わたし は, 「三部作」を長々と論じることで,こうした日常的なものへの指向が,どう して悲劇的世界観にではなくて喜劇的世界観に到るのか,どうしてベケットの ヒューモアの苦々しい笑み,あざけりの笑み,せせら笑いに到るのかを示そう としています:『勝負終わり』(Endgame) でクロヴがハムに「きみは来世って信 じるかい?」と言うと,ハムがクロヴに「おれのはいつもそいつだよ」と返す, そういうヒューモアですね.
「進歩的な近代主義」と「反動的な近代主義」
ニヒリズムに対する近代の進歩的な反応について,興味深い発言をしておられ
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ますね.これは「哲学と社会学が相互に相手を豊かなものにしあうことへの信 憑によって方法論的に特徴づけられる」とのことです.ニヒリズムに対する近 代の進歩的な反応をどういうものとみておられますか? また,一般的に言っ て,哲学は他の学問分野の方法と着想を取り込むことで得るものがありそうだ とお考えですか?
ニーチェ流のニヒリズム思想を追究するには,2 つのやり方があります.それ ぞれ進歩的な近代主義・反動的な近代主義とわたしは呼んでいます.これら 2 つの応接は次の形をとります:反動的なニヒリストは──たとえばハイデガー やシュペングラーのような思想家,それとおそらくはウィトゲンシュタインも そうですが──近代の西洋文化を哲学の観点から解釈し,この文化に欠落を見 出します.なぜかといえば,この文化は退廃的で愚劣化していてヨーロッパ文 ナ
チ
ズ
ム
化の頂点を知らずにいるからだ,というわけです.この高慢な「 ワシの巣」の 視座は,民主主義や平等その他の懐疑に到ります. 進歩的な近代主義は,ニーチェ思想にそれと別の仕方で耳を傾けます.哲学 者の課題とは,無意味さに応接するのに人間解放の観点をもってすることであ ٪ り,また,啓蒙の理念が近代世界にあってひずみをきたしているとしても,強 制収用所とホロコーストを知りつつも,なおこの理念を掲げて辞さないことを もってニヒリズムに応接することだ,進歩的近代主義はそう信じます.ウェー バーやフランクフルト学派に見出せるのが,この伝統です. いまおっしゃった,哲学と他の学問分野の関係についての質問は面白いです ね.フランクフルト学派にとって,哲学とはある問題の名前であって,たんに 問題の解決の名前ではありません.哲学とは概念的抽象化の言説であり,これ は資本制社会における商品化と労働の抽象化といわば共謀するものです.です から,フランクフルト学派にとって,哲学とは,解放を阻む知的・社会的組織 の一部なんです.そうすると,哲学的な諸範疇は社会分析と結び付けられねば ならないし,逆もまたしかりで,社会分析は哲学を知らなくてはいけない,と いうことになります.これはつまり,社会学的・経験的な洞察なき哲学は空疎 だ,ということです.そして,もし哲学的な視野だけから社会を判断すれば, 反動的な近代主義者に成り果てるでしょう.もちろん,哲学なき社会学もまた
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盲目です. つまり,大陸系の伝統を他から区別するもう 1 つのことは,哲学がさまざま なかたちで不毛化しているとみなされる,そのあり方なわけです.また,哲学 は哲学以外の言説に結びつけられないといけません.大陸系の伝統において公 理にもひとしいのは,哲学はみずからの外にあるものごとに結びつけられると いうことで,初期シェリングとドイツ・ロマン派の美学,キルケゴールのキリ スト教,マルクスの政治経済学,フロイトの精神分析などなど,どれをとって もそうですね.
哲学の専門化
分析哲学が他の分野を受け入れるのに乗り気でないのはどういうわけだと思 われますか? 専門化のすすみ具合と何か関係があるかもしれないとお考えに なりますか?
たしかに哲学はプラトンに始まって以来つねにアカデミー── 思考の正規学校 ٪ ──と結びついてきましたが,専門化は近年の現象ですね.これは悲しむべき 現象だと思います.アメリカ哲学会の東部年次部会をのぞいてみれば,このこ ミート・マーケット
とが具体的にはっきりしますよ──あれは 肉体市場〔コネ探しの社交場〕ですよ. この専門主義は哲学者を他の学問分野から隔離して,その怠惰な傲慢・独りよ がりを助長します.哲学者のなにがいちばん嫌かといえば, 「聡明なる哲学者の じぶんは他の誰からも学ぶべきものなどない」と考えているところですね.そ ういうひとには何度となくお目にかかります.わたしとしては,哲学者は,認 知科学者からだけじゃなくて法律家・歴史家・人類学者その他じつに大勢から たくさんのことを学ばないといけない,そう言いたいですね.もし他の学問分 野と文化から閉じこもるなら哲学はやがて死滅するでしょうし,もっと言えば 延命するに値しないものになるでしょう.もし外との対話にみずからを開くべ くさらに努力しなければ,哲学は閉店休業になるおそれがありますね.
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科学主義と蒙昧主義
ちょっと話題はかわりますが,あなたは,現象学の方法をとりいれて,人間主 観と人間の間主観性の問題にかかわっておられますね.それはひとつには「科 学主義」とあなたが呼ぶものの問題を克服する道を提示するからであるように 思えます.この問題をどういうものだとみておられますか?
わたしの考えでは,哲学には── そしてより一般的には文化には ──2 つの有害 な傾向があります.それぞれ, 「科学主義」 ・ 「蒙昧主義」と呼ぶことにしましょ う.科学主義とは,あらゆる現象は自然科学の方法によって説明されうるとい う信念であり,したがってすべての現象は因果的な説明が可能だとする信念で す.これはイギリスのような科学的文化で明白にはびこっている傾向で,自然 化のさまざまなプログラムをとおして専門的な哲学を支配しています.このよ スレット
スレッド
うに,現代哲学におけるひとつの 脅威,そしてひとつの系統は,科学主義です. 蒙昧主義というのは,科学的な説明が公共圏で主流を占めていることに対す る反動に他なりません.蒙昧主義は,知的にも文化的にも問題含みです.何が ٪ おきるかと言えば,科学主流の文化に対する反動として,科学を拒絶するわけ です.理解はできますが,これは見当違いですね.こういうのをわたしは「X ファイル・コンプレックス」と呼んでいます. 「科学は何もかもを説明しようと するが,それは間違いであって斥けられねばならない.なぜなら,真実はそこ にあるが,しかしそれは科学が因果的に説明できるような形をとっていないか らだ」というような心情ですね. 「Xファイル」の番組では,毎回,2 とおりの 説明がでてきます.ひとつは因果的・科学的な説明で,もうひとつは因果的で はあるものの不可解な因果関係です. 「Xファイル」では,正しいと判明するの はいつもこの不可解な因果関係の方ですが,どういうものなのかいまひとつ理 解しきれません.神秘なんですね. このように,科学への反動で科学を投げ捨てて蒙昧主義をよろこぶ文化的傾 向があるわけです.そこで現代哲学をわたしなりに診断するなら── これはカ リカチュアにすぎませんが ──最悪の場合として,分析哲学には科学主義への傾
向があり,それと釣合うかのように,大陸哲学には蒙昧主義への傾向がある,
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というふうにみています.どういうことかというと,大陸哲学では,因果的な いし因果めいた効能をもつかのようにみせかけた「ひとつの大きなもの」によ って何もかもを説明しようとする傾向があるんです.例としては,フロイトの 「死の欲動」,ハイデガーの「存在」,ラカンの「現実界」,フーコーの「権力」, レヴィナスの「他者」,デリダの「差延」その他たくさんあります.これは有害 な傾向だと思います.ひとつの大きなものがあるのではなくて,たくさんの小 さなもの,心そそる小さなものがあるんですね.これを記述するのが現象学の 仕事です. そこでわたしとしては, 「ひとつの大きなもの」を奉じない大陸哲学の論を張 りたいわけです.こういう考えの筋道は,後期フッサールに見られますし,ハ イデガーやメルロー=ポンティもその影響を受けています.フッサールの最後 の手稿は『ヨーロッパ諸科学の危機』でした.彼がいう「危機」とは,科学主 義の危機です.科学主義は彼の言い方だと「客観主義」で,これは,現象の背 後に客観的な原因を見出すことであらゆることを説明しうるという考えである とともに,外的世界どころかなお悪名高いことに人間主体にさえも科学的心理 ٪
学によって適用される技法でもあります.科学主義の致命的な間違いとフッサ ールがみなしたのは何かというと,科学主義は主観的・間主観的な領域を見過 ごしている,ということです.その領域を彼は「生活世界」と呼びました.自 然科学の実践は,生活世界の実践に寄りかかり従属しているのであり,後者は 前者に自然主義的に還元されえない,というわけです. 科学主義と蒙昧主義の双方が見過ごしているのは,単純な社会的分別,この 世界での理論以前の生活です.社会的な分別に必要なのは,因果的もしくは因 果めかした仮説ではなくて,ある形の現象学です.わたしの最小限度のモデル で言うと,現象学の関心は,いくつもの観察をとおして私たちのまえにあらわ れる現象を明晰にし整理しなおし,事物に関する態度変更をつくりだすことに あります.これは相当に反動的なウィトゲンシュタイン流の立場ですが,これ は正しいわけですからもう一度ここに注意を向ける必要があります. わたしにとって,現象学というのは,わたしたちが存在しているこの社会的 世界を明らかにする暗示を集める方法です.再記述の技法なんです.その文化
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的問題は,こういう形の社会的説明では不十分に感じて,舞台の裏でありとあ らゆる「大きなもの」が糸を引いてるような大仕掛けの因果的仮説をどうやら わたしたちは切望しているらしい,ということですね.
ヒューモア──日常生活の現象学
近況に話をうつしましょう.いまはどんなことに取り組んでいらっしゃいます か?
最近は,初期ハイデガーで四苦八苦しています.これはそう遠くないうちに小 さな本になる予定です.けれども,主な計画は,ヒューモアについての本を書 くことで,仮に『ヒューモアについて』という題をつけています.奇妙な題に 聞こえるでしょうけれど,たんにヒューモアについておしゃべりをするのでは なくて,いくらかでも哲学をやってみるつもりです.この対談でもいくらか言 及しましたが,私の基本的な主張は,ヒューモアは日常生活についての搦め手 からの現象学を与えてくれる,ということです;現象学は,わたしたちの存在 ٪
の状況を記述する方法であり,最良の場合には,どうすればその状況を変えら れるかを示してくれます.ジョークは,いま言った意味での暗示の例ですね. わたしにとって,ヒューモアとは,実践をとおしてあらわれる哲学なんです. 精巧な形式の深い思考が日常生活のうちに埋め込まれていることがいかに多い かを,現象学は示してくれます.そういう生活について批判的で思慮深い構え をとる能力なんですよ,社会関係とその関係にもとづくあらゆる実践を理解し, それらが他にどういうものでありうるか想像できる,というのは.ですから, ヒューモアというのは,現象学流に記述的・批判的・解放的な哲学的実践をよ く例示するものなんですね.ウィトゲンシュタインが,哲学書はジョークの形 ですべて書かれうると真面目に言ったのは,まさにこの理由からだと思います. ヒューモアに関してもうひとつ面白いのは,これが「すてきに不可能な対象」 とわたしが呼ぶものだという点です.ヒューモアについて教わるのに,哲学者 は不要です.思想よ消え去れ! というわけです.そこで,この本が示そうとし ているのは,わたしたちはすでにヒューモアのはたらきを知っているのであり,
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あとはただ適切に前景化する必要があるだけだ,ということです.大事なのは, ヒューモアの具体例を使うこと,そして,そうした事例に哲学の仕事をたくさ んやらせること,理論の負荷をあまりかけずにそういった事例そのものに論証 をさせることです.事例は,ジョークでも文学の引用でも映画の場面でも何で もかまいません.つまりは,これまでにじぶんがやってきたのよりも,もっと 直接的な書き方をしようというわけです.これはきっと大成功になると確信し ています.
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Selected Bibliography On Humour, Routledge, 2002. Continental Philosophy: A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2001; 邦訳『ヨーロッパ大陸の哲学』(岩波書店,2004 年).
Ethics-Politics-Subjectivity: Derrida, Levinas and Contemporary French Philosophy, Verso, 1998. A Companion to Continental Philosophy (editor), Blackwell, 1998. Very Little…Almost Nothing, Routledge, 1997.
サイモン・クリッチリー
(Simon Critchley)
現職: ニュースクール大学大学院教授(アメリカ) エセックス大学非常勤教授(イギリス)
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