パタゴニア Spring 2023 Journal

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大地と水を守る喜びを見出し、 その美しさ、広大さ、 不思議さを享受しよう。

ともに力を合わせれば、 危険な状況にある コミュニティを助け、 驚くべき回復力のある

私たちの故郷を救い、 火星へ逃げることなど 忘れるだろう。

私たちは皆、「次」のためにいる。 友よ、あなたは?

白化の危機に瀕しているクサビライシ は、海洋保護区で守られた海域では より早く回復するという可能性を 示している。オーストラリア、グレート・ バリア・リーフ David Doubilet

次は癒し。次は人力。次は団結。

次は子どもたちのためにそれをより 良く残す。次はターンの共有。次は シンプリシティ。    次は行動。 次は愛する場所を守る。次は知られ ていないことのために。次は回復力。 次は体制を改革する。次は目標に 向かって前進する。次は癒し。次は 人力。次は団結。次は子どもたちの ためにそれをより良く残す。次は ターンの共有。次はシンプリシティ。 次は行動。次は愛する場所を守る。 次は知られていないことのために。 次は回復力。次は体制を改革する。 次は目標に向かって前進する。次は 癒し。次は人力。次は団結。次は 子どもたちのためにそれをより良く 残す。次はターンの共有。次はシン プリシティ。次は行動。次は愛する

次は?

パタゴニア50周年

私たちは未来に目を向けて50周年を迎えます。私たちの会社の 新しいオーナーシップ・モデルは、資本主義を再考し、地球を破 壊するのではなく、私たちが生み出す資産が地球の回復と保護に 役立つようにするものです。私たちの故郷である地球を救うことに ついての新たな語り手と物語が登場します。カゲロウのような生き 物たちのために時間を割いてください。そして私たちは100周年 を迎えられるのでしょうか。

6 私たちの英雄 海を私たちの守り主にする。

18 海でつながる 2023年公開予定映画の内側。

22 サンゴに救われるもの 海に潜りつづける科学者安部真理子。

30 ヒリシャンカ ジョシュ・ワートンがペルーで夢見た課題。

46 ひとつになって マウンテンバイクが和解の象徴となるとき。

56 「永遠の化学物質」に別れを告げる PFOSにも、PFASにも、PFCにも、 PFOAにも。

62 なんにもムダにしない このクルーにとって、オルカの糞は黄金。

66 ジッパーが閉まらなくなったら ラジオペンチを入手してください。

太陽光ゾーン。フロリダ・キーズ Chris Ross

68 リムゥへの帰還 チュマッシュ族のトモルで大海原を渡る。

74 ハッチはどこへ行った? 虫がいなければトラウトもいなくなる。

84 布による自由 インドの職人が手織りの伝統以上に 守るもの。

88 森と文明 受賞歴ある書籍をパタゴニア・ブックス が再版。

94 アファリン!やったね! アフガニスタンからの脱出とヨセミテ でのクライミング。

104 ごまかしがないショット ゲイリー・レジェスターの目を通した 1970年代のパタゴニア。

116 次はゴーイング・パーパス 地球が私たちの唯一の株主。

私たちの 英雄

海への私たちの扱いを正せば、 海は私たちの気候を癒す

手助けをしてくれる。

文 アヤナ・エリザベス・ジョンソン博士

渦巻く世界からの眺め。 押し寄せる波の上に鎮座する、 密林に覆われたタヒチの山々。

皆さんは、砂に足を埋め、はじ めて海を見たときのことを覚えてい ますか。その海が、どんなに広く 青かったかを。どれほど素晴らし く魅力的だったかを。まだ子ども だった私は、波の魔法からすぐに 砂と貝殻へ目移りしてしまいました。 当時の私にとって海は……理解す るには少々大きすぎたのです。両 親に泳ぎ方を習ったときの教訓は、 「海には決して背を向けない」とい うものでした。油断すれば叩きつ けられたり、あるいはもっと悪い 事態になりかねないから、と。大 人になり、海洋生物学者として気 候解決策の研究に重点的に取り組 むようになると、海の力に対する私 の敬意は深まるばかりでした。で も同時に、懸念も高まりました。

今日現在までに、海洋環境の 66パーセントが人間の行為によっ て変貌しました。海は石油流出、 農業、工場、プラスチックなどに よって汚染され、沿岸生態系はエ ビの養殖やリゾート開発のために ブルドーザーで均されています。乱 獲は魚の個体群を激減させ、ま た深海は採鉱のために掘り起こさ れる危機に瀕しています。海水は 温度と酸性度を増し、それが魚を

両極へと追いやり、サンゴ礁を劣 化させ、地域社会を破壊するハリ ケーンを激化させています。さらに ゆっくりと着実に迫る大惨事が海 面上昇です。

これらは書いている私にも、そ して読む人にとっても、思わず嘆 息が漏れてしまうほど威圧感のあ る現実です。私たちがそれらすべ てに注意を払い、食い止める努力 をしなければならないことに間違 いはありません。でも化石燃料か らの脱却、正当に調達される再生 可能エネルギーの拡大、何トンも

の炭素隔離、沿岸経済の支援、持 続可能な食品システムの創造など のために、私たちには海が与えてく れる解決策を理解する必要もあり ます。実際、海を利用したあらゆ る解決策を組み合わせると、世界 の気温上昇を摂氏1.5度に抑える ために必要な、温室効果ガス排出 量の削減目標の21パーセントが可 能になると言われています。海を 被害者、あるいは脅威としてのみ 見ることから、海を英雄として正し く認識しなおすことに、私たちは 明らかに遅れをとっているのです。

トンガでフリーダイビングをするキミ・ワーナー。 Perrin James

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数多に広がる解決策

私たちは、海の癒しの力に背を向けてはなり ません。私たちの多くは、海が心を癒してくれ ることをよく知っています。乱世がつづくいまは とくに、それをもっと利用するべきかもしれませ ん。でも、私たちは気候の安定に役立つ海の能 力についてはあまり理解していません。海はこ れまで温室効果ガスに閉じ込められた過剰熱の 90パーセント以上を吸収してきました。このこ

とがなければ大気は現在よりも摂氏36度ほど 熱くなっていたでしょう。海はまた、化石燃料の 燃焼によって放出された大気中の二酸化炭素の 約30パーセントを吸収してきました。でもその 結果、水温が摂氏0.88度、酸性度は30パー セント上昇し、海洋生物にとって生息しづらい場 所になってしまいました。

汚染と大気の温暖化を軽減するとともに、海

は再生可能な洋上発電を生み出す素晴らしい潜 在能力を秘めています。いま現在は風力が主流 ですが、ゆくゆくは波や潮なども利用されること になるでしょう。例として、米国のエネルギー需 要の3分の1は洋上風力発電で賄うことのでき る可能性があります。30パーセント以上ですよ。 この代替エネルギーは汚染を引き起こす化石燃 料から迅速に移行し、石油流出による経済的お よび生態的な破壊を撲滅するための重要な要素 となります。

でも同時に、技術的な方法だけを頼りにする 傾向は抑えなければなりません。自然や光合 成はすぐに活用できる解決策の大きな一環です。 沿岸の生態系は防波堤などの建造物よりもたい てい安価で効果的に海岸線を保護します。また 食料の確保を強化し、沿岸地域の経済を支援し ます。世界の海洋経済は控えめに見積もっても 1.5兆ドルの価値があり、これは2030年まで に2倍になり、3,100万のフルタイム雇用を支 えると予測されています。そのすべてについても う少しお話しましょう。

漁獲量を減らして より多くの場所を守る

完全に保護されている海洋が全体の3パーセ ントに満たないという事実ほど、海がいかに尊 重されていないかを端的に示すものはありませ ん。それは痛ましいだけでなく、生態系の完全 性と生物多様性の維持に必要なのは30〜50 パーセントの保護という、科学者が推奨する数 字からはほど遠いものです。

陸上の国立公園と同様に、海洋保護区(MP A)は人間の有害な活動から海の生き物が回復 するための、安全な避難場所となります。とくに より広域で規制が厳しい海洋特別保護区(すべ ての漁獲が禁止されているMPA)では、保護区 内だけでなく境界線の外にも多くの利益をもた らします。最近のメタ分析の結果は:

MPAの設定を普及させることは気候変動を 減速させ、気候変動にともなって予測される 窮状(食料安全保障の低下や海面の上昇など) の一部を緩和し、生物多様性の喪失を抑え、 地球の生命維持装置を支える重要な生態学的 過程の保護を助け、さらに温室効果ガスの排 出が制御されたのちの自然の回復の見通しを 向上させる可能性のある、コスト効率の高い 方法である。

ここに掲げられた5つの勝利を、ぜひ目にした いものです。

そこで3つの例が思い浮かびます。南カリフォ ルニアでは出漁区域を35パーセント縮小した MPAで、その6年後に周辺海域の総漁獲量が 225パーセント上昇しました。MPAには壁がな いため、境界内で魚の個体数が回復すると、そ こから泳ぎ出す幼魚や成魚の「波及効果」により、 境界外の漁獲量も増加します。

メキシコのバハ・カリフォルニアでは気候変動 による酸素欠乏がアワビの大量死を引き起こし

スリランカの南海岸でアタリを待つ漁師。この漁法は スティルトフィッシング(竹馬漁)と呼ばれ、漁場が 混んで競争が激しくなった第二次世界大戦後に はじまった。今日の曲芸技に移行する前の初期の 漁師たちは、難破船を足場にして釣ったという。

ましたが、海洋特別保護区のより健康な生態系 内ではアワビの個体数がより早く回復しました。

またオーストラリアのグレート・バリア・リーフ での調査では、高水温によるストレスに起因して 白化したサンゴ礁が保護区内ではより早く回復 したことを示しています。MPAは変化する海洋 状況に対する海洋生物種や生態系の回復力を強 化します。このことは気候危機の現状を考慮す ると極めて重要です。

海洋特別保護区が唯一の解決策というわけで はなく、それだけでは十分でもありません。乱 獲や生息地破壊や汚染に終止符を打ち、もちろ ん気候変動にも対処する必要があります。また、 管理権の地元先住民族への返還や政府と先住 民族の自治体による共同管理も、海洋保護の重 要な鍵となり得ます。

そして、海の3分の2を占める広大な公海が あります。沿岸からも人間が暮らす場所からもは るか遠くにある、誰も「所有」しないこうした海 域は、ほとんど管理されていない状態にありま す。公海漁獲の禁止は非常に重要で、すでに実 践されているべき対策です。今年、国連はその 目標を成し遂げる公海条約の通過に近づきまし たが、可決は実現しませんでした。この努力は 今後も継続されなければなりません。

海の30パーセント以上の保護と公海漁獲の 禁止が極端すぎると思う人は、魚の個体数の約 94パーセントが乱獲、または最大持続漁獲量 に達するまで捕獲されている、という現実を考 慮してみてください。レーダー、ソナー、ヘリコ プター、偵察用飛行機など戦争のために開発さ れた技術が、残存している魚を見つけて捕獲す るために使われています。天然の魚は乱獲のせ いで子孫を残すことに追いつきません。それで も約30億人の人間がたんぱく質の主要供給源 として魚介類に頼っています。釣る魚がいなけれ ば、釣りの仕方を教えても意味がありません。

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ラッパーのビギー・スモールズは貧困の象徴と して、「夕飯にイワシを食わなきゃならなかったこ

とを忘れるな」と歌いました。イワシは、いまま さに私たちが食べるべき魚です。マグロのように 個体数が50パーセント以上(クロマグロに関し ては2016年に97パーセント)激減した最上位 捕食魚ではなく、この小型ながらもオメガ3を 豊富に含む多産な魚を食べるのです。それは美 味しいだけでなく、さらに良いことがあります。

海を再生させる養殖

厳しく規制された広海域の保護と同時に、漁 獲に代わる養殖も実践しましょう。ここで言うの は水を汚染し、何トンもの餌を要する工業化さ れたサーモン養殖のことではありません。食料

安全保障と持続可能性のための未来には、海 岸線に海藻と貝類の養殖場が点在する構図が理 想です。環境再生型養殖では、水中に垂らした ロープにムール貝が、海底の網の中に牡蠣やア サリが、そしてそれらすべてのあいだに昆布がし げります。

海上養殖における先駆者のブレン・スミスが パタゴニア プロビジョンズの映画『The Ocean Solution(海の解決策)』で説明するように、環 境再生型養殖は肥料も淡水も餌も必要とせずに 行われます。光合成と貝の構造を利用すること でそれは養殖場は何トンもの炭素を吸収し、無 数の野生生物の生息地を生み出して、世界中で 最大5,000万もの雇用機会を創出する気候解決 策となります。1エーカー(約4,047平方メート

ル)の海はほんの5か月ほどで最大10トンの海 藻と25万個体の貝類を生産することができます。

海藻は人間の食物として栄養価が非常に高い だけでなく、特定の海藻を家畜の飼料に配合す ると、メタン(強力な温室効果ガスの一種)の排 出量を50パーセントも削減することができます。 海藻はバイオプラスチックやバイオ燃料にも使用 可能という真の万能素材でもあります。

沿岸生態系の修復

海藻の魅力からズームアウトして全体を見てみ ると、沿岸生態系はその重要性が十分に評価さ れていません。これらの生態系をかき乱すこと により、進行中の炭素隔離が阻害され、すでに 貯留された炭素が再放出されます。毎年、劣化

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または破壊された沿岸生態系から最大10億トン の二酸化炭素が放出され、そのうえ強力な温室 効果ガスであるメタンも大量に放出されます。炭 素を「吸収」するはずの生態系が「放出」を重ね るというこの驚くべき現象は、私たちがバルブを 逆にひねっているからです。

東南アジアでは広大なマングローブ林が小エ ビ養殖のために整地されました。2004年の津 波で最も深刻な被害を受けたのはマングローブ が取り除かれた地域の住民でした。致命的な洪 水に対する自然の防壁がなかったからです。ミ シシッピ・デルタも同様で、2005年に発生した ハリケーン「カトリーナ」以前に、ルイジアナ州 南部ではすでに4,900平方キロメートルの湿地 が消失し、嵐の勢力を緩和するのに十分な湿地 が残っていませんでした。またニューヨーク市は かつて40平方キロメートル以上の湿地に囲まれ、 そこには牡蠣が豊富に生息していました。でもこ の沿岸都市は前世紀までに85パーセント近くの 沿岸湿地帯を失い、いまでは大部分が保護され ておらず、野生の牡蠣礁は存在しません。それ でも残されたわずかな湿地帯は、2012年のスー パーストーム「サンディ」で1.4億ドルに上ったか もしれないという洪水の被害を防ぎました。貧 困層や労働者階級の人びと、とくに有色人種や 借家住まいの人びとは不釣り合いにも最も大きな 嵐の被害を受け、10年後のいまとなってもまだ その傷跡から立ち直っていません。

コミュニティが緑色の基礎構造(自然)の代 わりに灰色の基礎構造(コンクリート)を選択す ると、そこには桁外れな費用がかかります。沿 岸生態系は往々にして洪水や嵐に対する防護を、

防波堤よりも優れた効果かつ低予算で提供しま す。沿岸生態系を傷つけず、修復すれば、それ が私たちを守ってくれるのです。

危険な場所からの移動

地球温暖化にともなう水温の上昇のせいで勢 力を増す非常に強力な嵐は、いまではよくある 現象となっています。より激しい風雨や勢力に加 え、気候変動に起因して、嵐の時期は長くなっ ています。2022年、ハリケーン「フィオナ」と 「イアン」はカリブ海地域に大打撃を与え、100 人以上の死者を出し、数億ドルの損害を与えま した。このような嵐は、すでに不利な立場にあり、 そもそも復興のための資産が少ない有色人種や 貧困層、労働者階級の地域にとってはとくに壊 滅的です。嵐は社会格差および経済格差を深め、 増幅させます。

被害を受ける同じ場所を再建しつづけること には意味を成しません。海を制御できるなどと 考えるのはまったくの思い上がりで、必然に対し ての計画を拒むのは事態を悪化させるばかりで す。これは嵐による被害に関してだけでなく、海 面上昇においても同様です。

氷が解けるにつれて、海は拡大します。海水が 温まるにつれて、海は膨張します。地球全体の 海水位はこれまですでに20センチメートル上昇 し、今世紀末までにさらに1メートル以上高く なる可能性があります。これにより沿岸地域か らの大規模な人口移動が起き、数百万人もの気 候難民が生まれます。たとえばバングラデシュ は、世界の炭素排出量のわずか0.4パーセント しか排出していないにもかかわらず、2050年ま

水深が浅く荒々しい海で育つ ブルケルプの海中林は、海洋生物に 避難場所を提供し、荒波を緩衝する ことで海岸線の保護に貢献する。 ブリティッシュ・コロンビア州 バンクーバー島 Eiko Jones

でに国土の17パーセントが沈没すると予測され、 2,000万人が移住を迫られます。ルイジアナの アイル・ド・ジャン・シャルルとニューヨークのス タテン・アイランドのオークウッド・ビーチでは、 すでに地域全体が移動させられたケースもあり ます。そして次には、ニュートック(パタゴニア・ フィルムズのドキュメンタリーで取り上げられた 村)をはじめとするアラスカの先住民族の村々、 マイアミの一部、ノースカロライナとサウスカロ ライナの一部(アフリカ系アメリカ人が設立した 最初の町であるプリンスヴィルを含む)がつづき ます。

私たちは危険な場所から移動する地域を支援 する公正な方法を見つけるとともに、かけがえの ない沿岸地域の一部に別れを告げなければなり ません。そしてそれが起こったとき、私たちには 失ったものに哀悼を捧げ、変化に順応する方法 が必要です。

海の正義を追求する

海洋保護を考えるとき、最初に頭に浮かぶの は魚、イルカ、クジラ、サンゴ礁、そして南洋 の離島などではないでしょうか。でも海洋保護 とは人に関する課題であり、さらに正義の問題 でもあります。

有色人種や貧困層、労働者階級からなる地域 はしばしば、海洋資源の利用から除外されてい るか、最も荒廃して汚染された場所に追いやら れています。彼らは気候変動や汚染からの影響 を直に受けるにもかかわらず、その原因にはほ とんど加担していません。海洋保護、復元、気 候解決策の進め方を考えるとき、私たちは海の

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環境再生型養殖では、水中に垂らしたロープに ムール貝が、海底の網の中に牡蠣やアサリが、 そしてそれらすべてのあいだに昆布がしげります。

正義についても考えなければなりません。海洋保護 にどう取り組み、海洋気候解決策をどう実践するか、 それが非常に重要です。

最近では、私が共同で率いる栄誉を与えられた 「オーシャン・ジャスティス・フォーラム」がその目的 に向かう取り組みとして挙げられます。アラスカ先 住民の昆布養殖家から、ニューイングランドの漁師、 カリフォルニアのラテン系女性サーファー、ハワイの 先住民、メキシコ湾の黒人まで、数々の多様な沿岸 地域を代表する18の団体で構成され、海洋政策の 中心に正義を位置づけるための一連の指針と優先 順位を決定します。18団体が満場一致の政策綱領 を打ち出すというのは、小さな奇跡とも呼べる偉業 です。(現在ではさらに40以上の団体がこのフォー ラムに加盟しています。パタゴニアは初期に参加し た団体の1つです。)それは極めてシンプルに要約 することができます。

公正かつ公平な海洋政策の必須項目:

1. 海と海が万物に与える利益の保護

2. 海洋汚染によって沿岸地域にかかる過剰負担 の緩和

3. 海および海に依存する地域を維持する経済 の奨励

4. 海から正当な手段で供給される再生可能 エネルギーの推進

5. 災害対応と適応投資における社会的一体性 の優先

これが、海の正義という未来へたどり着くための ロードマップです。海が劣化したあらゆる原因には 胸がつぶれる思いで、それにともなう影響はじつに 膨大です。でも、この記事のはじめを思い出してく ださい。海は解決策にあふれています。海は深刻な 脅威にさらされていますが、同時に立ち直る力を秘 めています。断固とした公正な政策、地域社会の行 動、そして企業の役割の遂行により、海は炭素を隔 離し、海岸線を守り、再生可能エネルギーを生み出 し、栄養価の高い持続可能な海産物を提供し、何 億もの善良な仕事を支援しながら気候解決策の中 核的要素となり得るのです。

じつのところ、私たちは海が受けるべき敬意を 払ってきませんでした。そしていま、私たちはこの現 状を変えなければなりません。健康な海は食料安全 保障、経済、文化、そして私たち自身の健康に欠か せません。海のことを考えずに気候危機問題に取り 組んでも、どうにもならないのです。

機知に富んだ海の気候解決策と海の正義に向 かって、進みませんか。

アヤナ・エリザベス・ジョンソン博士は海洋生物学者、政策 アドバイザー、非営利シンクタンク〈アーバン・オーシャン・ ラボ〉の共同創設者、そしてパタゴニアの取締役会の一員。 このエッセイはジョンソン博士が過去に書いた3つの文献、 「What I Know about the Ocean(私が海について知って いること)」(『Black Futures』掲載)、「To Save the Climate, Look to the Oceans(気候を救うためには、 海に目を向けよう)」(『Scientific American』掲載)、 2021年の「Ocean-Based Climate Solutions Act (海に基づく気候解決策法)」のための議会証言から引用。

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〔右ページおよび次の見開き〕Ray Collins
海のことを考えずに気候危機問題に 取り組んでも、どうにもならないのです。

パタゴニア・フィルムズ

〔上〕チリ領パタゴニアの人里離れた位置、突出した海岸線、 スウェルへの露出という要素の組み合わせにより、多くの サーフィンの可能性が生まれる。ここで新たに発見された ブレイクで波を滑り降りるのを披露するラモン・ナバロが 示しているように。 Pablo Jiménez

〔右〕漁師の息子として生まれたら、 その精神は生涯変わらない。

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海でつながる

産業規模の養殖用生け簀を 廃止する闘いに参加する ラモン・ナバロ と、彼が その道中で出会った優々たる波。

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「僕たちにはこのメッセージを伝える義務がある。 カウェスカルの共同体はまだ生きていることを、 人びとに知ってもらうために」 ラモン・ナバロ

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今年公開予定の新映画では、チリの活動家でありパタゴニアで長年 サーフィン・アンバサダーを務めるラモン・ナバロが、チリ南部のカウェ スカル国立保護区へと旅します。その目的は、地元の先住民族の共同 体が祖先から受け継ぐ土地と水域を守る闘いに参加すること。これはパ タゴニアが2023年に優先して取り組む海洋保護の取り組みのひとつで もあります。

「僕たちにはこのメッセージを伝える義務がある。カウェスカルの共同 体はまだ生きていることを、人びとに知ってもらうために」とラモンは語 ります。「この場所を守ることに尽力する義務がある。ここは、国立公園 になるべき場所だ」

この旅でラモンは、「ヘウォルパクス」ことレティシア・カロに出会いま す。〈コミュニダデス・カウェスカル・ポル・ラ・デフェンサ・デル・マール (カウェスカルの海を守る共同体)〉の広報担当者であるレティシアは、

南米の最南端に位置するパタゴニア地方で行われているサーモンの養殖 を監視しています。ここは何千年ものあいだ先住民族が暮らしてきた場 所でしたが、19世紀に到来した西洋文明によって彼らの文化は破壊さ れてしまいました。この地域の先住民族のひとつであるカウェスカルの 共同体は影響が少なかったとはいえ、その生き様は大きく変化しました。 レティシアの父親ドン・レイナルドは、かつて魚が豊富だったこの水域で 伝統的な漁業を営んでいましたが、サーモン養殖産業によって海は汚染 されてしまいました。「もうそこで漁はできません」とレティシアは言いま す。「何も釣れないのです」

〔左〕いまでは魚を釣るためには、ドン・レイナルドはさらに 遠くへと出漁しなければならない。この写真のようなサーモン 養殖場が、かつてカウェスカルの家族を養ったこの地域の 大部分を占領しているからだ。 Daniel (Dani) Casado

「この水域は『保護区』という限られたレベルの規制しか適用されない から、サーモン養殖産業はここでも操業することができるのさ」とラモン。 「だから、地元の共同体はこの水域一帯も国立公園に指定して、この産 業の拡大を防ぐために必要な、より厳しい保護を得ることを求めている んだ。15年前まではよく言われていたよ。チリはラテンアメリカで最も きれいな国だって。でもそれは本当じゃなかった。いまでは、汚い言葉 を使って悪いけど、クソだらけで身動きがとれないほどになっている」

現在、カウェスカル国立保護区内には、少なくとも58の養殖生産施 設があり、新たに60以上の建設が申請中です。その大部分は「持続可 能なサーモン養殖」を売り文句にする〈ノヴァ・オーストラル〉が所有し ていますが、同社はこの産業にまつわるサーモン養殖のスキャンダルや 事故の歴史に無関係ではありません。〈ノヴァ・オーストラル〉は養殖施 設内のサーモンが異常な速度で死んでいたにもかかわらず、その数字を 公開せずに虚偽の報告をしていたことで有罪判決を受けています。現在、 同社の施設の約半分が処罰の対象となっており、捜査が進められている ところです。

「この道は自分で選んだわけではありません」と、レティシアはキャン ペーンについて語ります。「これは義務です。父を見て、何かしなければ いけないと感じます。私たちは父から教わりました。何よりもまず大切に すべきなのは、尊厳だということを」

〔上〕「私たちの考え方では、海なしに 世界を想像することはできません」と、 レティシア・カロ(ヘウォルパクス)は言う。

Daniel (Dani) Casado

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文 瀬戸内千代(せとうちちよ)

写真 垂見健吾(たるみけんご)

サンゴ

救われる

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生き生きとしたサンゴの造形美が見られ、 色とりどりの魚たちがにぎやかに泳ぎまわって いるはずのサンゴ礁の海、その現在と未来とは。

夏の余韻が残る日差しが降り注ぐ秋の朝、ダイバーた ちを乗せた漁船が港を出た。港から10分ほどのポイント に着くと、彼らは海底に降り、ゆっくりと移動しながら生 き物たちに目を凝らす。そしてBCジャケットにぶら下げ たクリップボードを手に取りながら、記録用紙に鉛筆を走 らせる。ここは沖縄本島の西100キロメートルに位置す る久米島。ダイバーの多くはこの海とともに暮らす漁業者 やダイビング・ガイドだ。彼らは「リーフチェック」と呼ば れるサンゴ礁のモニタリング調査をしている。

「もうちょっとキレイかなと期待していたけれど、やはり、 ここもかなり白化していましたね」と静かに話すのは、調 査を終えて船に上がった安部真理子さん。

安部さんは公益財団法人日本自然保護協会に所属する 理学博士で、サンゴの研究者である。ここ透明度が高い 久米島の海は、かなりの深さまで太陽光が差し込み、水 深30~40メートル近くでもサンゴが生息できるという。 この日ダイバーたちが調査したのは水深10メートルと3 メートルの比較的浅い場所で、本来であれば一面に元気 なサンゴが広がっていてもよい場所だ。しかし海底は見 渡すかぎり岩場がつづき、生き生きとしたサンゴの姿はほ とんどなく、ひっそりとしていた。生物多様性の宝庫であ

もの

るはずのサンゴ礁の海はいま、数十年前とは様変わりし ている。

リーフチェックとは、いわばサンゴ礁の健康診断だ。米 国UCLA研究所内リーフチェック財団の本部が定める国 際基準のルールおよび手法にしたがって行うサンゴ礁の 調査で、現在は102の国と地域で14,000回以上実施さ れている。調査では、指標となる生物の有無や、白化した サンゴや病気のサンゴの割合、船のアンカーなどで傷つ けられたサンゴの被害状況、サンゴに絡み致命傷を与え るかもしれない漁網ごみの存在などを記録する。その結 果はデータベースに蓄積され、科学研究や政策決定の基 礎データとなる。リーフチェックはまた、科学者と地元住 民がともに継続的にサンゴを見守るという啓蒙も目的と なっており、人為的なサンゴの被害の軽減も期待できる。 安部真理子さんは、リーフチェックが世界中で動き出 した1997年に日本での立ち上げに携わり、それ以来25 年間にわたり、日本国内のサンゴ礁の海に潜りつづけて きた。さらにリーフチェックの現場を統括する「チーム リーダー」と、調査の精度を担保するために海洋科学者か ら認定を受けた「チーム科学者」を養成するリーフチェッ クコーディネーターでもある。

日本は北に流氷が、南にサンゴ礁が広がる非常に豊かな 水域をもつ。とくにサンゴ礁については、沖縄を中心 とした亜熱帯域に有するだけでなく、温帯域にもサンゴ 群集が成立しているなど、世界的にも多様なタイプの サンゴ礁生態系が存在する。豊かな生物多様性を育み、 私たちに多くの恩恵をもたらしてくれるサンゴ礁生態系は、 しかしながら脆弱性が高い生態系としても知られており、 そのため気候変動や同時に進行している海洋酸性化など の影響により、とくに保全の必要性が高い生態系の ひとつとして国際的に認識されている。

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幼少期の安部真理子さんは生き物が好きで、セミの幼虫や青虫を喜んで飼うような子 どもだった。学生時代は生物学や生化学を学び、大学院で微生物を研究するようになっ たが、研究者になってからも研究対象でない生物にも興味が尽きなかった。そして研究 室で顕微鏡をのぞく日々のなかで、このままでは自然がなくなってしまうという危機感を 募らせていた。そんななか、自然保護NGOに転職後、転機は1995年にやってきた。

「シドニーに赴任した同僚をたずねたとき、体験ダイビングではじめてサンゴ礁を見た んです」 職場の要請で国内でのリーフチェックの立ち上げを担当することになったのは、 その2年後だった。

現在の地球は6回目の大量絶滅が進行中で、過去最高速度で次々と生き物が絶滅し ている。山火事や暴風雨の増加といった陸の異変や、それにともなう生物の減少は目に 見えるが、じつは、どの分類群よりも際立って危機的な状況にあるのが、海のなかに生 きるサンゴである。IPCCの「1.5度特別報告書」(2018年)は、産業革命前からの地球 の平均気温上昇を1.5度に抑えられても、70~90パーセントのサンゴが失われると警 告している。2020年時点で、世界中でなんらかの指定のもとで保護されている海は全 体のわずか8パーセントに過ぎない。科学者はそれでは不十分だと言う。いまや100万 種以上の動植物の絶滅が迫っており、それは人類にも影響をおよぼす。2022年12月 カナダのモントリオールで開かれた国連生物多様性条約締約国会議(COP15)では、生 物多様性の損失を食い止めて回復させるネイチャーポジティブに向けて、各国は2030 年までに陸域と海洋の少なくとも30パーセントを自然保護および保全の対象とする 30by30の目標が採択された。

サンゴは海の熱帯雨林とも呼ばれ、地球の生態系で重要な役割を担う。木々と同じよ うに二酸化炭素を吸収して酸素を排出し、炭素の貯留をも果たす。けれども大気中の二 酸化炭素が増えると、温室効果で海水温が上昇するだけでなく、過剰な二酸化炭素が海 水に溶け込むことで海洋酸性化が進む。熱すぎる海も、アルカリ性が弱まった海も、炭 酸カルシウムで骨格をつくる造礁サンゴには生きにくい。加えて漁業や開発行為、富栄 養化など、人間の経済活動により、サンゴには複合的なストレスがかかっている。サンゴ が弱ると、共生している褐虫藻が抜け出し、骨格が透けて「白化」する。いったん白化し ても褐虫藻が戻ってくれば回復可能だが、光合成によって栄養を補給してくれる褐虫藻 が戻らなければ、サンゴは死んでしまう。

生きているサンゴは粘液を分泌し、それをついばむ魚、エビやカニ、ヒトデなどを養っ ている。元気なサンゴの骨格は、生き物たちのすみかにもなっている。透明度の高い熱 帯および亜熱帯の海はプランクトンが少なく、サンゴがいなければ高い生産力は望めな い。死んだサンゴはボロボロと崩れてしまい、生き物たちが隠れられる場所も少なくなる。 生き物は、サンゴがあるからこそ繁殖し、誕生し、幼生期を生き延び、また繁殖して命を つなぐ。豊かで元気なサンゴは広大な地形を創出し、多種多様な生物を育むことで、私 たちの水産業や観光業を支え、さらに波を静穏化することで、津波などの減災にも役立 つ。サンゴは人類、そしてサンゴ礁生態系に依存するすべての生命の礎だ。

サンゴをしっかりと守っていくためには、科学的な知見をもつ専門家が必要だ。だが そもそも世界的な傾向として、サンゴ礁を見ることができる学者が足りていない。リーフ チェックの規定でも科学者の同行が必要だが、フィールドに出る科学者自体が少ないう え、導入当時の国内のサンゴ研究者コミュニティは極端な男性社会でもあり、協力者ひと りを見つけるのにも四苦八苦していた。

日本の海の状況を国際的な基準で把握するため、1997年に日本国内でのリーフチェック 立ち上げに関わり、以来コーディネーターを務めながら地元の人たちがみずからの海を 守れるよう市民科学の実現を目指し、サポートをしてきた安部真理子(左上)。

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「もう自分が専門家になった方が早いのでは?と思ってしまって」と、 安部さんは苦笑いする。

そうしてWWFジャパン(公益財団法人世界自然保護基金ジャパン) を退職後、オーストラリアのジェームズクック大学院修士課程に留学。 それから琉球大学でアザミサンゴの多様性を研究し、博士号を取得 した。東京からやって来た安部真理子さんは、琉球大学在学中の6 年間で、地元沖縄の人たちと率直に話ができる関係を築くことができ、 それは現在の活動や地域との連携にも役立っているという。

日本は南北に連なる400以上の有人島から成る島国である。流氷 が漂う北海道から、造礁サンゴが生息する南西諸島まで、豊かな海 が広がる。とりわけ北緯26度付近に散らばる沖縄諸島は、エメラル ドグリーンにきらめく海とサンゴ由来の白い砂浜に囲まれ、観光立国

リーフチェックの参加者は地元の漁師、漁業者、ダイバー、行政、NPO/NGO、 マリンレジャー事業者などさまざま。年に一度を目標に、頻度は少なくとも定期的に 継続して調査をすることを目指す。こうした沖縄の浅瀬のサンゴは、水がきれいで 透明度が高く、紫外線を含む日光が届きすぎるゆえに、白化もしやすい。

を掲げる日本にとって重要だ。なかでも辺野古・大浦湾沿岸域一帯は 豊かな生物多様性が証明され、「ホープスポット」として認定されてい る。ホープスポットとは、生物多様性が豊かな場所を指す「ホットス ポット」という用語に対して、とくにホープ(希望)を強調した概念で、 海洋学者のシルビア・アール博士が2009年に提唱し、2022年10 月現在、世界で144か所の海域がホープスポットに認定されている。 世界の海はひとつにつながっているので、とりわけ重要な海域を効果 的に保護できれば、その「希望の海域」から大量の卵や幼生が流れ 出て、各地の海を豊かにできる可能性を秘めている。安部真理子さ んがその認定に大きく貢献し、日本初のホープスポットとなった辺野 古・大浦湾には、5,000種以上の生物の生息が確認されていた。

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サンゴ礁は海の多様な生物の命を育む場として 重要な役割を担っている。世界のサンゴ礁の 総面積は地球表面のわずか0.1パーセントに 過ぎないが、確認されている生物種は9万種を 超え、海洋生物の4分の1がサンゴ礁に生息して いる。多くの生き物が暮らし、二酸化炭素と酸素 の循環も行うサンゴ礁はまさに「海の熱帯雨林」だ。

日本は世界的にみるとサンゴ礁の分布北限域に 位置する。とくに沖縄県近海には色鮮やかで 美しいサンゴが生息し、その数は日本に広がる 造礁サンゴの約80パーセントに上る。しかし ながら南北に長い日本では、近年の海水温上昇 により、南では高水温による白化現象、北では サンゴの分布域の北上といった異変が見られる。

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サンゴ礁の衰退を招く大きな原因のひとつとされている 大規模な白化現象は、1980年代以降、急激に増加した。 日本では2007年の夏に高水温による大規模な白化が 起こり、環境省の調査によると、石垣島と西表島の間 にある日本最大規模のサンゴ礁である石西礁湖の70 パーセント以上が死滅。またつづく2016年には90 パーセントもの造礁サンゴが白化したと報告されている。

調査ではサンゴの保全に必要なのは気候変動対策だけ ではないことも示されている。森林の伐採や開発に よる破壊や、陸域からの赤土や土砂、汚染物質の 流入による攪乱、また過剰な利用等の人為的な脅威 も含めた原因により、サンゴ礁生態系が劣化している。 さらには、劣化したサンゴ礁の生態系は回復しにくい という問題も指摘されている。

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サンゴはまた島を守る砦でもあり、魚介類や海藻を与えてくれる食料庫で もある。沖縄では、死んだサンゴの骨格も建材となって暮らしを守り、子ど もたちに安全な遊び場を提供し、芸術活動や祭礼の場ともなって琉球文化 を築くなど、人びとの心のよりどころとなってきた。だがこれらはすべてサ ンゴの健康度に頼っている。

「台風は海水をかき混ぜてくれるので、水温が下がってサンゴが復活する ことがあります。令和4年の台風第14号のあとも、かなり白化していた沖 縄本島や奄美大島のサンゴ礁に潜ったら、少しずつ褐虫藻が戻ってきてい るのがわかりました」と安部さんは話す。「台風は恵みでもあるんです。台風 は畑の害虫を飛ばしてくれて、打ち上げられた海草は農家が肥料に使ったり していました。もちろん強すぎる台風は歓迎できないし、最近は台風の進 路が変わり、進路からそれた南の八重山海域などでは白化が進行して、ほ

一方では近年の海水温上昇に対応し、日本の温帯域でサンゴ分布が北へ と拡大する「サンゴの北上」という現象も起きている。南から黒潮や対馬暖 流が流れる日本近海ではとくに顕著で、種によっては1年に14キロメート ルも北に分布を移していたと報告されている。世代を重ねながらサンゴが北 へ北へと逃げられるなら安心かと思いきや、「サンゴだけ北上しても、サン ゴ礁の生き物たちがみんな北に行けるわけではありません。フランスの研 究者は、クマノミは真っ先に温暖化の影響を受けて姿を消すと予想していま す。新しい場所に適応できないし、決まった共生相手のイソギンチャクも 一緒に移動できるわけじゃないですからね」 海水温の上昇は簡単には止ま るわけもなく、絶望的な気分にもなる。だが、希望もある。日本のサンゴ 礁は条件に恵まれ、とくに多様性が高い。

「このあたりには、いろいろなものが流れ着くんでしょうね。サンゴ種の 同定ができる研究者に、『オーストラリアには、1本のダイビングで、しかも 陸に近いところで、こんなに多くの種が見られる場所はない』と言われまし た。日本のサンゴ礁は、箱庭みたいにいろいろな種類のサンゴがちょっと ずつあるんです。海流に乗ってフィリピンあたりから豊富なサンゴの赤ちゃ んが流れ着く可能性があるうえに、定着できる地形も多いんですね」 つま り、いったんサンゴが死滅した場所でも、海の環境が改善すれば、サンゴ 礁がよみがえる確率が高いということだ。

「サンゴのためにできることは、まだあります」安部さんはつづける。「サ ンゴは普段健全な状態であれば、多少のことには耐えられるんです。逆に つねにダメージを与えていたら、ちょっとした水温上昇で死んでしまいます。 ですから陸域の開発はもちろん、海域の埋め立ても、できる限り減らすの

がいいんですね。沖縄の農家の人も赤土の流出を防ごうと、サトウキビ畑の まわりに特定の植物を植えるなど努力されています。観光客にもできること はあります。沖縄の離島は下水処理施設が整っていないところもあるので、 合成洗剤やシャンプーを石鹸にしたり、ヘアケア剤を植物性のオイルに替え たり、連泊するなら清掃やタオル交換を断るとか」 小さなことのようだが、 結局は、そういうことの積み重ねなのかもしれない。

「アジア諸国や日本は、浜から海に入ったらすぐにサンゴ礁です。人びと がそれだけサンゴ礁とともに暮らしているということです。それが気候変動 でどんどん失われていくことになると、暮らしや文化そのものが脅かされま す。なんとか止めていきたいと思います」 安部さんは穏やかな表情ながら、 きっぱりと言い切った。

海の近くで暮らす人でも、日常的に海のなかを観察できる人はごく限られ ている。「海と陸はつながっていますが、その陸地で農業を営む多くの人た ちはあまり海に入ることはありません」 また、海に慣れ親しんだ海人(うみ んちゅ)の研ぎ澄まされた目も海洋生物学者のそれとは視点が異なる。安 部真理子さんは調査のためひんぱんにサンゴ礁の海を訪れる。冷静にサン ゴ礁の状態を見ることのできる科学者が必要だからだ。それでも、当然な がら把握できないことのほうが多い。

「毎日、毎週、見ている人でないと気がつかない変化があるはずなので、 地元で海を見る人が貴重なのです。だからこそ、市民が科学する目を後押 ししたいのです」 見守るべきサンゴ礁に対して、担い手の数は足りていな いため、調査ができていないサンゴ礁はまだまだある。

近年、都市に住んでいる私たちも気づかぬふりは無理というほど、気候 変動に起因する自然災害が激甚化し、その頻度も増している。大気中の増 えすぎた二酸化炭素濃度を減らそうという世界の約束もいまだ果たされず、 サンゴ礁をはじめとする海洋生態系の状況はますます厳しいものとなってい る。そのようななかで、安部さんは利害が対立する厳しい現場と粘り強く向 き合いながら、さまざまな意見交換をして妥協点を探り、仲間と力を合わ せて一歩一歩前に進んでいる。

安部真理子さんに熱い活動の原動力を問うと、「やっぱり、現場を見てい るということだと思います」と簡潔な答えが返ってきた。「そして地元の方の、 変えたい、という気運に背中を押されてもいます。すべての活動は、こちら 側ではなく、その土地で暮らす方たちの動きを応援するものです。それぞれ ができることをして、一緒に守っていきましょう、というスタンスです。少人 数で社会を変えていくのは大変なことだけど、そういう熱意がある方々と手 を組んで、ずっと活動してきました」

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ぼ絶滅してしまっています」
「毎日、毎週、見ている人でないと気がつかない
変化があるはずなので、地元で海を見る人が 貴重なのです。だからこそ、市民が科学する目を 後押ししたいのです」

たまに冗談を言って場を和ませることはあっても基本的 に口数が少ない安部さんが、声をもたない自然の代弁者と なっている。海に潜る科学者として、現場の視察と調査を つづけ、生き物たちの現状を陸の私たちに伝えてくれてい る。私たちが守っている海に、私たちは守られている。海 を守る安部真理子さんもまた、海に癒されている。

「サンゴを見ると、ほっとします。海に行くと、心が落ち 着くんです」

瀬戸内千代は、海をテーマに取材・執筆・編集をつづける 海洋ジャーナリスト。幼少期に両親のふるさと瀬戸内海で 海の生き物に魅了され、青春期は素潜りに明け暮れ、 海辺のラボでは海洋動物生態学者たちの熱意に圧倒され、 海について伝える仕事を志す。2007年に環境ライター として独立。趣味は旅と水泳。

現場のサンゴを見ることのできる 数少ない学者として、フィールドを 基盤に活動をつづける理学博士で ありサンゴ研究者の安部真理子。 生物多様性の維持のため、生涯を かけてサンゴの保全と再生に尽力 しながら、文字通りサンゴととも に人生を生きている。

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ヒリシャンカは子どものときに夢見た ような山ではないが、クライミングに 数十年を捧げたいまの僕が思い描く、 理想的な山だ。美しく技術的に難しい 山の典型でありながら、気まぐれな 面も秘めている。あるときは天候の 安定したわりと歓迎的な山、またある ときは暗く湿った威嚇的な山に見える。 この写真を撮ったとき、僕らは太陽が じきにヒリシャンカの気性を明るく してくれることを期待していた。

文 ジョシュ・ワートン

写真 ドリュー・スミス

ヒリシャンカ

コルディエラ・ワイワッシュでのハードなアルピニズム。

2022年7月、ヴィンス・アンダーソンと僕はペルーのヒリシャンカ にある未完のイタリア・ルート「スエルテ」を山頂まで登った。2003 年当初に稜線まで登られたこのルートは5.13a、M7やWI6といった 難しさで、さらにはヴィンスの言うところの「サイケデリックな雪の登 攀をたくさん」要求される。

はじめてヒリシャンカへと旅したのは2015年。新たに父親となっ た僕は、ヒマラヤに要されるような時間や経費やロジスティクスとい うハードルのない、挑戦しがいのあるテクニカルな登攀を秘めた大き な山を探していたからだ。ヒリシャンカにはありとあらゆる類まれな難 しいフリー登攀があり、クライミング以外の危険度は低く、アメリカ からは比較的短時間で費用もそれほどかからずに取り付ける。もちろ ん山は僕の惚れ込みには無頓着だから、かなりの反撃で迎えてくれた。 2015年と2018年に悲惨な状況で敗退させられ、2019年にはなん とかあと少しというところまで到達。そしてついに昨年、条件と天候 とチームの力すべてがひとつになった。

ヒリシャンカはコルディエラ・ワイワッシュにおける最後の未登の 6,000メートル峰だった。トニー・エガー率いるオーストリアチームが 1957年に初登を達成。(そう、例のセロ・トーレの論争で知られるト ニー・エガーだ。)当時のクライミングの装備を考えると、彼らの登攀 は並外れたものだ。クランポンはすべてストラップオン式の柔軟なも

ので、傾斜のきつい氷はカットステップで登らなければならなかった。 とはいえ、60年以上前のオーストリア人による初登時に撮影された写 真から察するに、当時幅が広く傾斜のゆるい雪の尾根だったこの山の 上部は、傾斜のきつい複雑な氷のルーフ、マッシュルーム形状の雪、 小さな岩のギャップの数々へと変貌したようだった。

これは僕のやった登攀のうちで山への気候変動の劇的な影響が痛 いほど明らかに見てとれた、最初のものだった。7年にわたる4度の ヒリシャンカへの旅で、山の基部までに歩く氷河もルート上の鍵とな る氷の量も減り、上部の氷のルーフは劇的に後退して脆い岩がより広 範囲に露出していた。これはある部分では登攀を困難に、ある部分で はより容易にしたが、とても急速に変化が起きていることはつねに明 白だった。2019年に山頂直下まで到達したこと、そして僕のペルー への旅が山の溶解と密につながっているという事実から、そこに戻る ことが正当化できるのかについて自問した。最終的にはこのプロジェ クトが抗い難いことが判明したが、その経験で自分自身の行動に変化 が起きた。僕はクライミングのために旅することを減らし、自宅により 近い場所で刺激的な目標を探すことに決めた。また、再生可能な放牧 地でかなりの時間をボランティアに費やした。それらは十分ではない。 だが何らかの意味はある。

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気候変動がルートを変えるなか健在する

稜線上部の雪の状態はとてもよかった。

2015年はじめてのヒリシャンカへの旅では、 この写真に写っている僕の約100メートル下で、 胸まである不安定な雪に阻まれて敗退した。

今回の僕は、ペルーの山々ではお決まりの 悪名高きシュガースノーのホラーショーを 恐る恐る待っていたが、それは訪れなかった。

しかしこのセクションは比較的簡単に登る ことができたものの、下降時のライン探しは 困難だった。「登ったり降りたり、そして微妙な トラバースをたくさん繰りかえした」とヴィンス

は回想する。「暗闇と登頂後の疲労のせいで 登ったトレースを忠実に辿って降りるのは難しく、

いくつかの氷のルーフと岩のバットレスを危うく 間違った方角へと降りかけたこともあった」

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〔左〕ヴィンスはことに山で耐え忍ぶことを含めた 数々のことに卓越しているが、幅跳びもうまい ことを証明した。アプローチでこの川をどうやって 渡ろうかと僕らが思案しているとき、彼はどう

すべきかを正確に知っていた。「俺の52歳の足で まだできるなんてすごいぞ!」と叫びながら。

その一方、膝の手術を3度も経験していた僕は 対岸にはおよばなかった。

〔上〕ヴィンス(サングラス姿)と僕は、氷のルーフ と上部の雪稜を通過するベストなルートを探る のに多くの時間を費やしたが、実際にそこに行く まではすべてが推測だ。けれども昨年、僕らは はじめてドローンで頂上稜線を前もって調べること ができた。山頂までの最後の部分は思ったよりも 困難に見えたが、チームのビデオグラファーの 一員だったクリス・アルストリンは「心配するな、 ドローンで見る傾斜は10度増しだ」と言った。 幸運なことに、彼は正しかった。

〔右〕ギアを準備する僕。パッキングに大切なのは 絶対に必要なものだけに削ることと、士気を高める ために肉体的な安らぎをもたらしてくれるものを 1つか2つ忍び込ませることだ。極小の歯ブラシや チョコレートのひとかけらは不快なビバークや ビレイでは特別なご褒美となる。僕とヴィンスの 長年の経験を合わせたおかげでパッキングは比較的 シンプルだったが、軽量化とそれにともなう苦痛の バランスをとるのはいつもややこしい。

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嵐が到来しはじめた全39ピッチの 3ピッチ目。この山の下部はステファノ・ デルーカ、パオロ・ストッピーニ、 アレッサンドロ・ピッチーニのイタリア チームが2003年に打ち込んだボルト のおかげで、フリークライミングには 比較的安全だ。山岳地域でボルトを 打つことは一考に値する倫理的問題を もたらすが、この場所における偉大な クライミングのいくつかを可能にしたこと は疑いようがない。「この壁の下部に おけるロッククライミングは格別のもの で、世界のもっとアクセスしやすい場所 にあったなら、それ自体がクラシックな 登攀としての人気を容易に得ただろう」 とヴィンスは言う。「多くのピッチで難解 かつテクニカルな動きが求められる、 鋼鉄のごとく硬い、手の切れるような 石灰岩だった」 Josh Wharton

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〔上〕3ピッチ目を登ったあと、ヴィンスのところ まで懸垂下降する。「あれが俺のマジ顔だ」と ヴィンスは言う。「俺はいつも真剣な顔をしてる と言う人が多いが、この写真を見るまでは信じ なかった。息子の1人が最近、『マジ顔』の 持ち主は9人に1人しかいないってどこかで 読んだと教えてくれた。ってことは、俺は ラッキーなんだろうな!」

〔右〕気候変動はペルーの山々で氷と雪を急速に 解かしている。わずか7年でルート上の最も簡単 なセクションは大きく変わっていた。2015年の 初のトライでは、僕らはこの写真に写っている 最初の氷のルーフを巨大な氷柱経由で容易に 回避し、2つ目の氷のルーフではスクリューを 使って人工登攀した。2022年に成功した登攀 では、最初のルーフを5メートルの脆い岩経由 で登らされ、2つ目はこの短く険しい氷のルーフ まで到達するのに2ピッチのロッククライミング を要した。トニー・エガーとシグフリード・ユング マイヤが1957年のギアでこれほどテクニカルな 氷のルーフを登ることができたとは到底思えない が、歴史的な写真を見ると1950年代にはこの ルートにこうしたルーフは存在せず、かつては 堅固な氷河の一部だった。

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このレッジは垂れ下がる氷柱と頭上の 巨大な氷のうねりによって非常に印象的 だが、最初の氷のルーフ下にあるこの ビバーク地は実際にはありがたい平らな 地形だ。少し削っただけで快適な一夜の 睡眠を取ることができ、上から落ちてくる 氷塊などからも守られていた。これらの ルーフは氷の後退によって作られ、何千年 ものあいだ氷河に覆われていた脆い岩を 剥き出しにしている。僕らが挑戦していた 数年間でどれだけ氷河が後退したのかを 考えると、ヴィンスはこれらの氷の「眉毛」 ですら数十年で消えてしまうのではと 想像する。ヒリシャンカは僕の生涯の あいだにロッククライミングのみの山に なってしまうかもしれない。

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〔上〕南東壁を3分の1登った場所の簡単なトラバースを リードするヴィンス。このトラバースで、この山の最も危険な 部分である険しい氷のガリーに到達。太陽が壁の上部に 当たると、ガリーに落石を放つ。この朝、ソフトボール大の 岩が僕の肩に当たった。幸運なことに、ここがこの山で 重大な危険をもたらす可能性のある唯一の場所だった。 Josh Wharton

〔左〕偶然にもカナダのクライマー、アリク・バーグと クエンティン・ロバーツが東面の新ルートに挑むために ヒリシャンカに来ていた。ベースキャンプで彼らと過ごした ヴィンスと僕は、登攀の計画についての調整などはして いなかった。だから僕の数分後にアリクが尾根を越えて姿を 現したときの驚きを想像してみてほしい。ヒリシャンカは 20年も登頂されていなかったというのに。僕らの1時間 以内に彼らが到達したとしても驚くべき偶然となったはずで、 両チームにとって互いの5分以内に登頂したことは本当に すごいことに感じられた。僕らは満面の笑顔で挨拶を交わし、 彼らが僕らのトレースと懸垂アンカーに沿って下山できる 幸運に安堵した。

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〔上〕僕がアルピニズムで最も愛することのひとつは、 それが生み出す絆だ。旅の道中で、ベースキャンプで、 そして登る時間をともに過ごすことは、人生の他の 場面ではなかなか見つけられない深い友情と関係を 育ててくれる。アルピニズムは他のクライミングの ジャンルと違い、個々の力を合わせることのみが最善 につながる真のチームスポーツである、という点で 特異な存在だ。

〔右〕これまで毎回ヒリシャンカを去るときは、どう すれば山頂に到達できるのかというあれこれで頭が

いっぱいだった。このときには、僕の心はやっと平穏に なり、深い満足と感謝の念とともに歩くことができた。 ヴィンスはうまく言ったものだ。「この山を登ること そのものの細かな部分や親密さだけにフォーカスして きた。そうやってきたからこそ、ようやく山の他の面 の光や美しさにより深く気づくことができるんだ

――つまり僕が好きな、眼下に広がる山の影や谷に」

僕らが山頂を去ったあと、下山には終わりがないよう に感じられた。ルートを読み間違え、ロープが絡まり、 ベースキャンプから疲れ切った重い足を引きずり、 バスまたバスを乗り継ぎ、飛行機、そして運転。

それはまるで6日間連続で懸垂下降していたように 感じられた。私道に車を入れ、妻と娘をがっしりと 抱きしめたときにようやく、下山が真に終わったと 感じた。

ジョシュ・ワートンは家族と、そして 「ソー・ザ・デストロイヤー」という名前の マキャベリアンなレグホーンが率いる6羽 のニワトリとともに、コロラド州エステス・ パークに暮らす。

ヴィンス・アンダーソンは3人の男の子の 「トラッドな父親」役を務め、ガイドサービス である〈スカイウォード・マウンテニアリング〉 を自営しながらコロラド州グランド・ジャンク ションに暮らす。

ドリュー・スミスはあらゆる場所、そして どこでもない場所でカメラを手にしながら、 泥にまみれて幸せに暮らす。

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文 ライアン・スチュアート

写真 ライアン・クリアリー

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ひとつ

ブリテッシュ・コロンビアにある小さな山間の町で、

トレイルを使って過去の傷を癒し、2つのコミュニティ の橋渡しをしようとしている1人の女性。

ロスト・レイクのトレイルは、ウィスラーにやって来るマ ウンテンバイカーたちのお目当てではない。ウィスラーは ブリティッシュ・コロンビア州のコースト山脈にたたずむ人 口14,000のリゾートタウン。その近隣にあるウィスラー・ マウンテンバイク・パークでは、幅の広い砂利道や曲がり くねったシングルトラックに、巨大なテーブルトップや高々 とそびえるバーム、そしてサスペンションがボトムアウトす るほどのドロップオフなどが散りばめられている。ここが 世界で最も著名なバイクパークであることに疑いの余地は ない。

だがサンディ・ワードが今日ここにいる理由はまさに、 初心者トレイル(難易度システムで「グリーン」とされて いるトレイル)を走るためだ。7月のある木曜日の朝、地 元の水遊びに人気の湖を囲むベイマツやベイスギの木陰 のなか、サンディは子どもたちのグループを引率している。

トラックが通れるほど広いトレイルでウォーミングアップを したあと、細く曲がりくねったトレイルへと進み、そこで 子どもたちにコーナリングのレッスンをする。5人の子ども たちは、彼女の言葉を一語も逃すまいと耳を傾ける。

サンディと同じように、彼らは皆リルワット・ネーション の部族民である。ロスト・レイクはリルワットとスコーミッ シュ・ネーションの伝統的領土にある。サンディはできれ ば子どもたちの自宅から自転車で移動が可能な圏内、つま りウィスラーの32キロメートル北にあるペンバートン・バ

レーで教えたいという。その方がより多くの子どもたちが このスポーツを体験し、少なめに数えたとしても、5,500 年という長いあいだ祖先が歩いてきた場所とつながりをも つことができるからだ。「大地と人びとはひとつ」というの は、リルワット・ネーションの信条である。

残念ながら、ペンバートンは「マウンテンバイクをはじ めるには最も難しい場所の類」でもあるとサンディは言う。 「グリーンのトレイルがないんです。だからウィスラーまで 来なきゃならなくて」

サンディはこうした子どもたちにこのスポーツを紹介す ることで変化をもたらしたいと考えている。短期的には、 ペンバートンのトレイルを乗りこなせるようになってもらう こと。長期的には、このスポーツに対する愛を植えつける こと。そうすることで、サンディはマウンテンバイクと先住 民族の共同体の架け橋となり、トレイルやバイク、そして 努力して得た信頼を通じて、この谷の団結を助けている。

ブリティッシュ・コロンビア州ペンバートンの北に 位置する岩だらけのトレイル「ザ・シックネス」は、 マウント・カリーの町の上の高原の端をなぞるように 走る。ここはリルワット・ネーションの現在の中心地で あり、2,200人以上の部族民の大部分が暮らしている。 これは、マウント・カリーと山麓を流れるバーケン ヘッド・リバーを眺めながら、ザ・シックネス上部の ロックフェースのひとつを縫い進むサンディ・ワード。

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ロクサンヌ・ジョー リルワット・ネーション

サンディの母親は、幼少期に強制的に寄宿学校へと送られた。これは先住民 族文化から隔離することで子どもたちをカナダの主流社会に「同化」させようと、 政府によって義務的に設けられた寄宿学校制度である。1880年代から1997 年まで公式につづけられたこの制度は、子どもたちを強制的に家族や共同体か ら引きはなし、彼らの言語を使うことを禁じた。そこでは虐待が横行し、その被 害は長いあいだ消えることのない傷となって残った。寄宿学校を経験した人びと は、みずからを生存者と呼んでいる。

サンディはペンバートンのすぐ東にあるリルワット・ネーション居留地で育った ものの、リルエット語もリルワット文化についても学んだことはなく、友だちのほ とんどはペンバートンとウィスラーの白人の子どもだった。だが18歳になるこ ろ、先住民のティーンエイジャーにスノーボードを教えるプログラム〈ファースト・ ネーションズ・スノーボード・チーム〉に招待され、参加した。

ここでの経験はサンディの人生を変えるきっかけとなった。彼女はやがてウィ スラー・ブラッコムでスノーボードのインストラクターとなり、ロッククライミング やスプリットボードもはじめるようになった。リルワットの伝統的領土でシール登 高やハイキングをしていると、それまで感じたことのなかった土地とのつながり を感じたという。けれども実際にリルエット語とリルワット文化を学びはじめたの は、長期にわたる国外での旅から戻った2018年のことだった。

「どこへ行っても、その土地の先住民族文化や歴史を学ぼうとしました」とサ ンディ。「1年半の旅生活からペンバートンに戻り、最後の丘を越えて谷が視界に 入ったとき、胸騒ぎがしたんです。『私はどうして自分の文化をよく知らないのか しら?』って」

彼女は手を休ませながら、僕にこの話を語っている。ペンバートンのすぐ南を 走るこのトレイル「ランピーズ・エピック」の半分あたりまで、僕たちはブレーキ をかけっぱなしで乗りつづけていたからだ。ランピーズはペンバートンの代表的 なトレイルで、リボンのように曲がりくねったダートに、花崗岩のみごとなロック フェースや適度な木の根にこぶし大の石、たまのバームが次々と現れる。ロック フェースを掴むか剥がれるかの瀬戸際のタイヤの音や、サスペンションが動く音 が僕の耳を支配する。

とくに傾斜のきついセクションを走り抜けて、グリーン・リバーを見渡すことの できる高台で休憩する。マウント・カリーとしても知られるズィルの北壁が一面 にそびえ立ち、太陽に照らされた山頂があらゆる方角へと裾野を広げているのが 見える。だが、サンディの目に映るのはそれだけではない。

「あの山々には」と彼女は言い、その山間にある谷を指差す。「クタームチ(夫)、 シシュカ(伯父)、シャクチャ(従姉妹)、シェマーム(妻)というように、家族を 構成するリルワットの名前がついているの。どうしてなんでしょうね。私の祖先 にとってこの地域は何を意味していたのかしら。彼らはこの土地をどう使ってい たのかしら。トレイルにいると、こんなふうにいろいろと考えさせられるんです」

***

翌日、サンディは小さなグループをマウント・マッケンジーへと導いた。トレイ ルヘッドの駐車場から砂利道を進み、「シュクウェンクウィン」と呼ばれる上りのト レイルへと入る。シュクウェンクウィンはリルワットの言葉で野生のジャガイモを

意味する。この地域で伝統的に収穫されてきた重要な食物である。シュクウェン クウィンはこの谷ではじめてリルワットの正式な祝福を受けて造られたトレイルだ。 このトレイルの開設儀式が行われたのは、サンディがはじめてマウンテンバイ クを手に入れた2018年。スノーボード教室の生徒でもあったオーストラリア人 の友人が帰国する際、彼女の上等なマウンテンバイクを置いていってくれたそう だ。「あれは最高のチップでした」とサンディは言う。

サンディはマウンテンバイクの経験はなかったものの、その贈り物を受け取っ たことでウィスラー・マウンテンバイク・パークのパスを購入した。そして〈ペン バートン・オフロード・サイクリング・アソシエーション(PORCA)〉が主催する 女性イベントに参加し、友好的かつ支援的な女性メンバーたちとともに彼女の祖 先の領土であった土地を走った。

しかしスノーボードやロッククライミング、そしていまやマウンテンバイクを学 ぶにあたり、サンディが出会った女性のインストラクターやガイドはごくわずか だった。そのなかに先住民族の女性はもちろんいない。彼女は地元にいても自 分が場違いな場所にいると感じることがあった。リルワットの共同体のなかには、 彼女が「白人のスポーツ」をしていると口にする人もいたからだ。

2020年に〈インディジネス・ウィメン・アウトドアズ(IWO)〉というアウトド ア団体に参加すると、自分が属する場所を見つけたというサンディの感覚は高 まった。近隣のスコーミッシュ・ネーションのマヤ・アントンによって2017年に 創立されたこの団体は、先住民族の女性のためにハイキングやバックカントリー スキーやマウンテンバイクなどのアウトドアアクティビティを企画し、そのすべて が先住民族の女性によって先導されている。

「これらのスポーツに新しい人びとを招くというよりも、先住民族の女性たちが そのスポーツのリーダー的存在となれるよう支援することが目的です」とサンディ は説明する。

彼女はまずIWOのバックカントリースキーやスノーボードのプログラム開設に 助力し、周辺の山々へとイベントを引率しはじめた。それからバイクの技術が上 達するにつれて、IWOのマウンテンバイクのプログラムも担当するようになった。

「IWOのイベントに参加したときにはじめて、アウトドアコミュニティとのつな がりを感じることができました」と話すのは、スコーミッシュ領内に住むイエロー ナイフ・ディネ・ファースト・ネーションのミシェル・ロボ。「参加した他の女性た ちと、過去の痛みを共有できたんです。彼女たちは皆、私の生い立ちをわかって くれました」

ミシェルいわく、最大の違いは態度だそうだ。トリックの成功を意味するスト ンプや全力疾走を意味するクラッシュ、リップ、シュレッド、チャージなどの専 門用語を勢いよく並べ立てられると、初心者は敷居が高く感じることがある。そ してトラウマがある人にとっては、それが本人のものであろうと両親や祖父母か ら引き継がれたものであろうと、そのような攻撃的な言葉使いは辛い経験を思い 出させることもある。

サンディはそうした文化で育ったわけではないが、心に傷を負った人を見てきた し、優しいアプローチが最善であることも知っている。僕はマッケンジーでそれ を目にした。シュクウェンクウィンのトレイルを登り終え、「ラジオ・タワー」とい

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「もしマウンテンバイカーがいなかったら、 この場所を知ることはなかったでしょう」

〔上〕ペンバートンの南に位置するトレイル 「ランピーズ・エピック」から少し外れたところに ある、シーシュクトン(リルワットの伝統住居)の 遺跡の前で立ち止まるサンディ。ペンバートン・ バレーの季節は凍結した長い冬から乾燥した 暑い夏まで驚くほど多様だ。屋内の温度を快適 に保つため、シーシュクトンの大部分は地中に 造られ、木の幹や枝を使ってテントのように 屋根が組まれていた。

〔右〕〈インディジネス・ライフ・スポーツ・ アカデミー〉のインストラクターとして、

大きく踏み出すことは小さくはじめること を意味すると知っているサンディ。

ブリティッシュ・コロンビア州ウィスラー

〔左〕機能的かつ美しい手作りの髪留めは、 サンディにとっては日常のライド用キットの必需品。

〔上〕ランピーズ・エピックはペンバートンで 最も愛されているトレイルのひとつで、それは ハンドルバーが何度も当たり、樹皮が剥がれ 落ちた木の様子からもわかる。

〔下〕ペンバートン周辺の急傾斜のトレイルを 下るには、ラインに対してだけでなく、自己の 技量に対しても覚悟を決める必要がある。ここで ザ・シックネスの苔に覆われたロックフェースを 下る前に一時停止しているのは、リルワット・ ネーションのダービー・アンドリューズ。

うトレイルへと下りはじめるところだった。グループの他の メンバーは起伏する10メートルほどの花崗岩をスムーズに 下っていったが、シャイラ・ウォレスはそこで固まっていた。 リルワット・ネーションの一員であるシャイラは、ペン バートンで開催されたサンディのIWOバイクキャンプに 参加した昨年、マウンテンバイクをはじめたばかりだった。 「あのころの私は悪戦苦闘していました」と、シャイラはペ ダルを漕ぎながら僕に話してくれた。「とても辛い時期で した」

ずっとマウンテンバイクをやってみたかったし、もっと祖 先の土地で過ごしてみたかったけれど、シャイラにはバイ クを買う余裕はなかった。サンディは彼女がキャンプに参 加できるようレンタルバイクを手配し、のちには古いバイク を譲ってコーチをつづけた。ライディングを重ねたシャイラ は精神的にも安定していき、アート活動にもふたたび取り 組みはじめることができるようになったという。「マウンテ ンバイクのおかげで頭のなかがすっきりして、余裕ができ たんだと思います」と彼女は振りかえる。

「シャイラには道を踏み外す可能性もありました」と、サ ンディはあとになって話してくれた。「マウンテンバイクの おかげで、彼女は人生を取り戻したんです」

他のメンバーがラジオ・タワーの花崗岩を下ると、サン ディは急いで戻ってきて、シャイラに優しく手ほどきをし た。応援はするけれども、無理に背中を押したりはしない。 シャイラが下まで降りきると、歓喜しているのはどっちだ かわからないほどだった。

このような瞬間は、サンディが子どものためのマウンテ ンバイクのプログラムをはじめるひらめきになったという。 彼女はファースト・ネーションズ・スノーボード・チームか ら改名した〈インディジネス・ライフ・スポーツ・アカデミー (ILSA)〉の協力を得て、2021年と2022年に子どもの ためのマウンテンバイクキャンプを企画した。2023年 の夏も開催できることを願っている。地元のバイクショッ プがレンタルバイクを寄付として提供してくれることとなり、 コーチへの給与は助成金で賄う。あとはウィスラーまで子 どもたちを送る交通手段を見つけなくてはならないが、真 夏の平日の朝にはそれが難しい。「何としてもシャトルバス が必要なんですけど」とサンディはため息をつく。

サンディはペンバートン・バレーにもグリーン級のトレイ ルを造ることを支持している。それはリルワット・ネーショ ンが目標として掲げている、より多くの部族民たちが大地 を訪れ体を動かす、ということにもつながるからだ。しか しマウンテンバイカーでない人にとって、トレイルマップは ぐちゃぐちゃの落書きにしか見えない。リルワット領内を 縦横上下にめぐる、160キロメートルを超える150本以 上の落書きである。そしてそのほとんどは中級か上級とラ ンクづけされている。 「彼らにはなぜこれ以上トレイルが必要なのかがわから ないのです」とサンディは言う。けれどもマウンテンバイク

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を楽しむリルワットの子どもたちの数が増えれば、初心者トレイルの必要性に両 親や叔父叔母も賛成するようになるだろう。先住民族の学校では、すでに文化 遺産の土地へのハイキングを子どもたちに奨励している。

「ハイキングもバイキングもそんなに違いはありません」とサンディは主張する。 「どちらも、新鮮な空気を吸って、体を動かして、大地を満喫し、自分たちの文 化とつながることに意義があります。だからハイクでもバイクでも関係ないはず です」

情熱を共有することで相互理解は深まるものだから、より多くのリルワットが トレイルを愛するようになれば、近年ペンバートン・バレーで暮らしはじめた住 民たちとの共通点を見つけることができるだろう。その変化はすでに起きている。

リルワット・ネーション、PORCA、スコーミッシュ・リルエット地域、ビレッジ・ オブ・ペンバートン、そして〈ペンバートン・バレー・トレイル・アソシエーション (PVTA)〉が共同で、2020年のペンバートン・バレーのレクリエーション用トレ イル基本計画を打ち出し、ネーションとPVTAはリルエット語を使ってトレイル を改名している。

「クリーム・パフ」というトレイルにまつわるストーリーはこの変化の好例だろ う。マウンテンバイカーたちは数十年かけてペンバートンにトレイルを造ってきた が、シュクウェンクウィンができるまでは、誰も地方政府やリルワットに許可を 得ることなどはしなかった。リルワットは歴史上一度も領土を譲渡したり条約に 調印したことはない。そこは法的にはリルワットの土地であり、どのような開発 に関しても彼らの同意が必要だ。

あるとき、1人のバイカーがそのクリーム・パフと呼ばれるトレイルに生えてい た苔を剥がしたところ、出産する女性の姿が彫られた岩が発見された。

その岩はリルワットには「バーシング・ロック(出産の岩)」と知られ、現在は 「アッフルムフ(聖なる場所)」と呼ばれている、と語るのはマウンテンバイカーで ありリルワット・ネーションの土地資源コーディネーターであるロクサンヌ・ジョー。 口述歴史によれば、かつて女性はマウント・マッケンジーをその絵が刻まれた岩 まで歩き、そこで出産したと伝えられている。この偶然の発見は、2つのコミュ

ニティの摩擦の原因ともなった。ネーションのなかにはトレイルの閉鎖を望む人も いたが、これを好機ととらえたのはロクサンヌだった。

「もしマウンテンバイカーがいなかったら、この場所を知ることはなかったで しょう」と彼女は言う。「私たちの文化遺産に対する意識がマウンテンバイカーの あいだで高まってくれれば、私たちの文化そのものに対しても敬意を払ってくれ るのではないでしょうか」

結果、トレイルはバーシング・ロックを迂回させ、PORCAとPVTAによっ て周囲にフェンスが施されたことでトレイル閉鎖の要望の声は消えたが、依然と してしこりは残った。サンディはマウンテンバイクをはじめてから、リルワットの なかにはバイカーに対して好意的ではない人もいるということに気がついた。と くにPORCAがトレイル整備のイベントを企画して、ネーションを招待しなかっ たりしたときなどだ。

「サンディは、マウンテンバイカーとネーションの架け橋になってくれました」と、 PORCAの事務局長を務めるブリー・ソーラクソンは言う。

サンディとブリーは一緒になって、PORCAがどのようにリルワットと包括的な 関係をもち、敬意を払うべきかを考え、ネーションをイベントに招待したり、資 金集めのイベントを共同で行ったりしている。PORCAはすでに州政府にトレイ ルの許可を遡及申請していたので、ネーションにも許可をもらうためにリルワット と活動をはじめたのだった。

これまでのところ、州とネーション両方の許可を得たトレイルはひと握りしか なく、やるべきことはまだまだある。例を挙げれば、2022年春にPORCAが クリーム・パフを含むエリアでバイクレースを企画したが、多くのバイカーたちが バーシング・ロックの脇を通り抜けることに対して、ネーションからは憤慨の声が 上がった。

「アッフルムフにさらに多くの人が訪れるようになれば、損害が加えられたり軽 視される可能性が高まります」とロクサンヌは言う。「そしてペンバートンの人口 が増えるにつれて、地元の人びとは保守的になりがちです」

〔左〕ペンバートン・バレーの上空で薄暮の 最後の光をつかまえるズィル(別名マウント・ カリー)。伝説によると、北西稜に沿って 最も際立つ岩は2人のリルワットの猟師が 姿を変えたもので、3本の雪崩の跡は 山を滑り降りる巨大な双頭の蛇によって 刻まれたという。

〔右〕サンディにつづいてランピーズ・ エピックのロックフェースを下るライアン・ スチュアート。ペンバートンのトレイルは このような岩がいたるところに存在し、 それらを乗りこなすことはブリティッシュ・ コロンビアのマウンテンバイカーには 不可欠なスキルの一部である。体重を 後ろにかけ、目はラインから離さず、 そして何があろうとも、リアブレーキを ロックさせないこと。

PORCAはすぐにレースのルートを変更したが、トレイ ル閉鎖の声は再燃した。その緊張が少し和らいだのは、の ちにネーションがマウンテンバイクのコミュニティを支援す るという声明を出したときだった。

「これには重要な意義があります」とブリー。「彼らとの 信頼関係が少しでも築けたという証しだからです」

別の実例として挙げられるのは、マッケンジーのトレイ ルヘッドのすぐ南にできたペンバートン・バイク・スキルズ・ パーク。これは地元政府とPORCAの提携によって実現し、 僕がこの町に滞在する最終日にオープンを迎える。リル ワットの太鼓によってその場所は清められ、リルワットとペ ンバートンの議員がテープカットの前に演説を行い、ジャン プエリアやパンプトラックやスキルパークは、さまざまな祖 先をもった市民たちでいっぱいだ。その誰もが笑顔で、同 じ場所を楽しんでいる。

*** 僕がペンバートン・バレーを去る前、サンディが最後のラ イドに連れていってくれた。スコットランド人、フランス人、 カナダ人2人、そしてリルワット・ネーションの女性2人と、 サンディのILSAプログラムに参加したティーンエイジャー 2人が一緒だった。じつに多様な面々から成るこのグルー プは、息を荒くしてトレイルを押し進み、クリーム・パフへ の分岐点を通り過ぎる。まだ微妙な問題のため、このトレ イルは避けることにしたのだ。そして絶景がボーナスとして 待つ、ジェットコースターのようにロックフェースがつづくト レイルの1つ、「ザ・シックネス」の頂点を目指した。僕た ちは順番を譲り合い、お尻をずらすほどの急斜面を無事に 下っては、互いに喝采を送った。 このトレイルの途中に、リルワット・ネーションとバーケ ンヘッド・リバーをまっすぐ見下ろせる場所がある。サーモ ンが遡上するこの重要な川は氷河に覆われた山へとつづい ている。リルワットの領土のど真ん中だ。

「バイクが連れていってくれる場所が大好きです」とサン ディ。彼女はこの景色のことを言っているのだろう。だが、 いま僕の目に映るのはそれだけではない。

カナダ出身のフリーランスライターであるライアン・スチュアートは、 現在バンクーバー島のコモックス・ファースト・ネーションの伝統的 領土で暮らし、働き、遊ぶ。彼の職業における2つの特権は、 マウンテンバイク、クライミング、ハイキング、パドリング、スキー を「仕事」と呼ぶこと、そして彼の遊び場となる場所について、 そこを故郷とする人びとから学べることである。

ブリティッシュ・コロンビア州ペンバートンでのある土曜日のライド で、ローム質のコーナーを一緒に駆け抜けるキリアンとスティーブの ダン=アンドリューズ兄弟。彼らはこの1か月後にウィスラーで開催 された2022年ディープサマー・フォト・チャレンジで競い、写真家 のジェレミー・アレンと組んでインディジネス・ライフ・スポーツ・ アカデミーに寄付するための資金集めに貢献(そしてその取り組み への賞品として2人とも新しいバイクを獲得)した。

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「永遠の化学物質」 に別れを告げる

ついに実現したPFCフリーまでの道のり。

そして、ここまで長い時間がかかったその理由。

文 アーチャナ・ラム

〔左〕PFCフリーのギアも、 フィールドとラボの両方で 他のパタゴニア製品と同じ 厳しいテストに合格しなければ ならない。ブンデスマン透水 試験機を利用していつでも雨を 降らせ、耐水性を評価できる。

Tim Davis

〔右〕カリフォルニア州

ベンチュラにあるパタゴニア の研究開発施設「ザ・フォージ」

で、PFCフリーの生地サンプル を検討する素材エキスパート のアーロン・オーダー、 ローレン・ウッドワード、 ローラ・ホック(左から右へ)。

Tim Davis

パタゴニアのデザイナーと素材エキスパートの計 8人が、カリフォルニア州ベンチュラにあるパタゴ ニアの研究開発施設「ザ・フォージ」で、3メートル 四方のテーブルを囲んでいます。ミシン、3Dプリン ター、かがり縫いミシン、数巻のテープ、何箱もの ジッパー、スナップ留め、エラスティック、ラベルな どのそばに、何反もの生地が天井まで積み上げら れ、そしてビッグ・サー・ブルー、ジン・グリーン、 アズキ・レッドなど、あらゆる色が勢揃いしています。

でも8人が注目しているのは、ベトナムから到 着したばかりの、新素材で仕立てられたスキー/ スノーボード用ジャケットの試作品です。これは、 パタゴニア初のパーフルオロやポリフルオロ化合物

(PFC)を含まないDWR(耐久性撥水)加工の防 水性製品となるべき素材。PFCは撥水加工や焦げ 付き防止加工の調理器具でよく知られている合成化 合物ですが、同時に川を汚染し、発がんの危険性 を高め、環境 そして私たちの体内 に無期 限に残留します。

ついに問題解決の勝者を得たのかもしれません。 素材開発担当者がジャケットに水をかけます。水は 予想どおり玉状になります。

それから、染みとなりました。

「まさに『ガックリ』の瞬間でした」と言うのは、パ タゴニアの素材サプライヤー品質マネージャーのマ リンダ・シェフ。2018年5月のその日にチームが目 にしたのは、生地に染み込んだミシンの残留潤滑油 によるかなり大きな油染みでした。ジャケットが乾 いているときは見えませんでしたが、その特定の化 学的性質では水が当たった箇所が染みになりまし

た。ミシンの潤滑油を避けることは、私たちに解決

できる問題ではありませんでした。しかしこの新た なDWR加工を解明することは必須でした。なぜ

ならPFCフリーの加工は、フッ素化合物と同等の 撥油性をもたないからです。「振り出しに戻るような 感じでした」とシェフは語ります。

より優れたDWR加工への旅路において、この 失望は私たちがようやく現状にいたるまでに経験し た数々のひとつに過ぎません。現在パタゴニアの DWR加工を施した生地は、66パーセントがPFC フリーです。

2024年までには、ウェーダーを除くパタゴニア 製品に使用するすべてのDWR加工がPFCおよ びPFASフリーになります。ウェーダーは2025年 にPFCフリーになる予定です。その目標は、最も 早いものでは2021年に有効となった米国のカリ フォルニア州、コロラド州、メイン州でのPFAS使 用制限と一致し、そうした制限は欧州連合でも提案 されています。(パーフルオロアルキル化合物および ポリフルオロアルキル化合物の略称であるPFASは、 広範なフッ素化合物を表す最新用語です。パタゴ ニアの「PFCフリー」のギアとは、それがPFASフ リー、PFOSフリー、PFOAフリーであることも意 味します。)

私たちが現段階にたどり着くまでに、15年以上 の歳月を要しました。シェフと同僚たちは、完成と 呼べる日は近いと言います。その一方で、まだ完 成しないのかと言う人もいます。確実に言えるのは、 機能性に妥協することなく「PFCフリー」に切り替 えるのは想像以上に困難で、その過程で私たちは 謙虚にならざるを得ない重要な教訓を得たというこ

とです。

PFC、PFAS、PFOS、PFOAは、いずれもフッ 素化合物を表す略語です。1950年代にはじめて製 造されたこれらの化学物質は、分子構造はわずか に異なりますが、非常によく似た機能を提供します。 丈夫で、耐熱性、撥水性、そして撥油性を備えてい るため、調理器具の焦げ付き防止加工や防汚カー ペット、食品包装、泡消火薬剤などに多用されてき ました。この丈夫なフルオロカーボンはパタゴニア のようなブランドの大半の化繊製品の撥水加工に使 用されてきました。防水性ギアにおいては、水を遮 断するメンブレン(バリヤー)にも使われています。

PFCは性能が高く、ギアでは素材に強力に結合 されているため、着用においては危険性はありませ ん。衣料品に関しては、主問題は製造工程にあり ます。化学物質が水や食品を汚染する可能性があ るのです。最終的にその製品が捨てられたとき、フ ルオロカーボンはリサイクルを困難にし、土壌や水 に影響をおよぼしかねません。そしてPFCが「永 遠の化学物質」と呼ばれる所以は、何千年も残留 するかもしれないからです。

いま現在も、この化学物質はあなたの体内を流れ ているかもしれません。ある研究によると、米国の 全人口の98パーセントの体内にフルオロカーボンが 存在するそうです。それは、発がんの危険性の増加、 ホルモンの破壊、免疫の低下、生殖への影響にも 関連があるとされます。1999年にこれらの化学物 質をウエストバージニア州パーカーズバーグで製造 してきたデュポンに対する訴訟が起こると、PFC は世界的な注目を集め、また2019年にはこの訴 訟を映画化した『Dark Waters』が公開されました。

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環境面では、PFCの製造は温室効果ガスの放出 を増加させ、土壌と空気と水質に大打撃を与えます。 さらにPFCは移動するため、米国本土ではハクト ウワシや魚の体内で発見され、またアラスカのホッ キョクグマやフェロー諸島のゴンドウクジラにも確 認されています。

PFCのあらゆる危険性を考慮すると、パタゴニ アのギアにそれを使用しつづけるという選択肢は あり得ませんでした。そこで2006年、私たちは PFOA(当時最も普及していたフルオロカーボン)フ リーDWR加工の調査に着手し、2015年にPFC フリーDWR加工の研究開発の実験を開始、そし て2019年に最初のPFCフリーDWR加工を施し た製品を発表しました。私たちは確実に前進しては いましたが、少々の疑念があったことは認めざるを 得ません。

テレビ番組『Last Week Tonight』でパタゴニ

アやその他のブランドについてジョン・オリバーが訴 えたとおり、「これらの企業は今後数か月もしくは 数年のうちに、自社製品からPFASを完全に排除 することに取り組んでいると主張している。真実で あってほしいとは思うが、これまでにも同じ主張は 何度も聞いていて、いまだにこの有様だってのはど ういうことなのか」。

***

切り替えを待ちきれなかった私たちは2016年、 当時フルオロカーボンの中で最も有害とされていた C8(長鎖PFC)から、それよりは害が少ないよう に考えられていたC6に移行しました。しかしまも なくC6も、決して環境への影響が軽いものではな いという新たな研究が発表されました。

「結局C6にもフルオロカーボンが含まれている のです」とシェフは説明します。「分解されるまで の時間が少し短いだけのプラスチックのようなもの です。当時の業界ではC6への切り替えが主流で、 パタゴニアの契約工場でも実現できた方法でした。 いま思えば、あのときによく考えて何かをすればよ かったのです。あれは言わば『遺憾な代用』だった のです」(これは化学者がよく使う用語で、有害な 化学物質を同じように有害な物質に(しばしば意図 せずに)置き換えることを意味します。スティングが 『アナザー・デイ』で歌っているように、「毒と良薬 を見分けるのはときとして難しい」のです。)

C6の失敗後、ローラ・ホックをはじめとするパ タゴニアの化学者たちは、さらなる遺憾な代用を避 けるべく、PFCフリーの化学を徹底的に研究しまし た。ホックにはその研究との接点がありました。彼 女は子どものころ、デュポンに勤務していた父親と パーカーズバーグに住んでいたのです。「楽しい思い

出じゃないけど、そこの水を飲んで育ったことは事 実よ」とホックは言います。

ときには他のアウトドアブランドが、PFCフリー の化学に関してパタゴニアに先んじているように見 えることもありました。しかし現実は、製品が破け たり、縫い目がずれているなど数々の不具合があり、 結局フッ素加工に戻らざるを得ませんでした。PFC フリーの成功例も多少はありましたが、外的要素に 確実に耐えることを要する最高レベルの製品に使用 できるものではありませんでした。

私たちが使うPFCフリーの精密な化学は、素材 と製品と使用目的によって異なります。パタゴニア では通常、炭化水素(例としてポリマーやワックス) またはシリコンをベースにします。自信のもてる代 替化学を見つけた時点で、私たちはDWR加工を 施す製品の上位5種類(ナノ・パフ・ジャケットな ど)に試しました。

ひとつの解決策が万能型というわけではありま せんでした。ナイロンに効果のあるPFCフリーが、 ポリエステルには効果を示さない場合もあります。 また、私たちが試していたのは撥水性だけではあり ません。粉をふいたようになっていないか、縫い目 はずれていないか、摩耗の問題はないか、そして 見た目はどうかなども重要でした。油染みができた PFCフリーの試作品の体験から、パタゴニアの品 質管理チームは、縫製と仕上げ加工については工 場と共同で取り組まなければならないことを学びま した。いまでも私たちは、染みや油に対する化学の 影響を比較するテスト方法を模索しています。

ラボでの課題ばかりではなく、パートナー企業か らの抵抗もありました。ナノ・パフ製品のPFCフ リー化への準備が整ったとき、この新たな加工に要 するさらなる時間と経験を理由に、私たちのサプラ イヤーは移行を拒否しました。またラボでは効果を 示したものの、フィールドでの実用に耐えなかった 加工もありました。

「パタゴニアでは製品を保証しています。だから 新しい化学を製品に使用するだけして、不具合が生 じるかもしれないとわかっていながら世に送り出す わけにはいきません」と言うのは、パタゴニアで環 境リサーチを担うカーバ。「ラボでもフィールドでも 機能するという保証が必要なのです。それが、PFC を含まない機能的で丈夫な化学への切り替えに、 何年もかかった理由です」

パタゴニアのPFCフリーDWR加工済み製品を 含むすべての防水性製品は、パタゴニアの厳格な H 2 Noパフォーマンス・スタンダードを満たさなけ ればなりません。これは、長持ちする防水性機能と 透湿性を保証する製品だけを認めるために、意図

的に厳しく設定された基準です。製品はラボでの検 査に合格したのち、スキー/スノーボードの時期に 世界各地でテストされます。重要な発見はこのよう なフィールドテストから得られます。チーズバーガー を食べた手をパウダー・タウン・ジャケットで拭うと、 手についていた油は染みとなり、ジャケットを洗う まで取れません。また「ウェットアウト(浸透)」と呼 ばれる現象では、生地の外側は濡れているように見 えても、内側と着用者はまったく濡れていないこと もあります。これらは適切な手入れと修理で修復可 能な、許容範囲内の代償です(補足記事を参照)。

そして2019年秋、パタゴニア初のPFCフリー DWR加工済み製品(パック・レイン・カバーなど) が実現すると、数々の成功を収めはじめました。2

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年後にはパタゴニア初の100%PFCフリーのテク ニカル製品として、アルパインクライミングのための デュアル・アスペクト・ジャケット&ビブという快挙 を達成。お客様が望む「防水性」の定義を満たしな がら、シェル表面と内側のメンブレンの両方をPFC フリーに切り替えることは、さらなる革新とテスト と時間を要する非常に高いハードルでした。そして この2023年春シーズンは、パタゴニアの用心棒的 存在であるトレントシェルがついにPFCフリーのレ インジャケットとしてデビュー。これにより、パタゴ ニアのDWR加工を施した生地の66パーセントが PFCフリーとなります。

しかしこれは、私たちの会社だけに関与するこ とではありません。サプライヤーや工場と協力して

PFCフリーへの移行を優先させることは、業界全 体に顕著な変化をもたらすことにつながります。 シェフはあるサプライヤーが彼女のチームに言った ことを覚えています。「工場がパタゴニアのPFCフ リーの化学を使用しはじめたら、ブランド側からの 依頼の有無にかかわらず、他ブランドの防水性ギア にも使用する」と。2016年にC6の使用を止めよ うとした際にサプライヤーが示した抵抗を考えると、 これは大勝利だと言えます。

2024年までにウェーダー以外は100%PFCフ リーにするという目標への最後のひと押しは、最も 厳しい挑戦となるでしょう。ウェーダーなどのテクニ カル製品の化学は最も難解で、さらにコロナ禍の 影響を受けたサプライチェーンの問題もあります。

〔上〕スコットランドでパタゴニアが催したクライミングのイベントにて、アルパイン製品のフィールドテスト中。 Jason Thompson

清潔なシェルは幸福なシェル

泥、体からの脂、日焼け止め剤、煙などはすべ て、DWR(耐久性撥水)加工に影響する要素 です。シェルには歳月とともに「ウェットアウト (浸透)」が発生するかもしれませんが、濡れた ように見えるからといって実際に着用者が濡れ るわけではありません。PFCフリーのメンブレ ン(お手入れ不要)により、ギアの防水性は維 持されます。しかし水を玉状にしてウェアから 弾くDWR加工は、適切にお手入れすることで 恩恵を受けられます。シェルが長持ちするよう、 そのお手入れ方法をご紹介します。

• 防水性ギアの洗濯は機能性を保つのに重 要です。防水性シェル専用洗剤を使用する か、通常の洗濯洗剤を使用しすすぎを2回 行ってください。

• 熱を加えることは撥水性を回復させるため の不可欠な方法のひとつで、乾燥機の使用 は自然乾燥よりも効果的です。通常、最適 なのは中温またはパーマネントプレス(中低 温)の設定です。シェルは少なくとも30分 間、あるいは完全に乾いて温かくなるまで 乾燥機にかけてください。

• シェルが水を玉状にして弾かなくなったら、 PFCフリーの撥水剤を試してください(オ ンラインまたはアウトドアギア専門店の多 くで購入可能)。どちらかといえば、スプ レー式よりウォッシュイン式の方がより効 果的です。

「機能性に妥協しないことを確認する必要があり ました。だから私たちの進みはゆっくりでした」と、 シェフは語ります。「素材と化学の完璧な融合に達 するために、ウェアを完全に再デザインすることも ありました。でもいまは、シャンパンを開けられる 日を待つだけです」

アーチャナ・ラムはパタゴニアの責任あるビジネスに 関するマネージング・エディター。

このQRコードを読み取り、 パタゴニアのPFCフリー製品を ご覧ください。

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PFCフリーへの道のり 約20年にわたる私たちの旅路における

画期的出来事と失敗。

防水性ギアを疎水性にする物質である フッ素化合物が、私たちの健康を脅かして いることが研究により明らかになり、 PFOA(当時最も一般的に使用されていた フルオロカーボンの一種)不使用のDWR (耐久性撥水)加工の調査に着手。

PFCフリーのDWR 加工の研究開発に着手。 呪わしくも、C6が同等に有害で あるという研究結果が浮上。

これぞ化学者が呼ぶ「遺憾な代用」で、 「永遠の化学物質」を永遠に排除する、 という決意を強めることに。

防水性化学の分子構造を 長鎖のC8(最悪の種類と みなされていたPFOAや PFOSなど)からC6へ 移行開始。

グリーンピースが汚染化学 物質の使用に対してナイキ とアディダスを取りあげ、 「デトックス」キャンペーンを 展開。パタゴニアは名指しは されなかったものの、問題 の一部であることを自覚。

C8よ、さらば。長鎖 フルオロカーボンから、 (一見すると)害が少ない C6への移行を完了。

パタゴニア初のPFC フリーDWR加工を 施した一連の製品 (パック・レイン・ カバーなど)を発表。

2006 2009 2011 2015 2016 2017 2019

パタゴニア初のPFCフリー

(表面の加工と内側のメンブレン の両方における防水性で実現)の テクニカルギアとして、デュアル・ アスペクト・ジャケット&ビブと、 マイクロ・パフ・ストームを発表。

〔右〕調子は上向き。 地元ニューハンプシャーの 「ジョーズ(WI5)」を登る パタゴニア・アンバサダーの マイカ・バーハルト。

ラインアップは増加。改良 されたトレントシェルを含む、 H2Noパフォーマンス・ スタンダード採用のアルパイン・ レインウェア製品のすべてが 100%PFCフリーに。

2021 2022 2023 2024

目標にまた一歩近づく。パタゴニアの オールマウンテン・シリーズのスノー 製品と、DWR加工を施す非防水性 製品のすべての生地とトリムが100% PFCフリーに。これらの量を合わせると、 DWR加工を施すパタゴニア製品の66 パーセントがPFCフリーとなる計算。

全製品100%PFCフリー/ PFASフリーに到達すること を目指す年。構造の複雑な フィッシング用ウェーダーは その最後となる予定。2025年 にご期待ください。

〔左下〕標高の高いシャークトゥース・トレイルで、 雨に降られつつ呼吸を整えるスティーブ・ファスビンダー とジェシー・スカランティノ。コロラド州ラプラタ山脈

〔中下〕パタゴニア初の100%PFCフリーの アルパインクライミング用テクニカル製品となった デュアル・アスペクト・ジャケットは、シェル表面と内側 のメンブレンの両方にPFCフリーの代替素材を使用。

〔右下〕素材と重力のテスト。山上のアーチから懸垂 下降するウォーカー・ファーガソン。ワイオミング州

アブサロカ山脈北部 Beau Fredlund

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なんにも ムダにしない

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糞を嗅ぐ美徳。

わたしのことは「エバ」と呼んでね。 「鯨犬エバ」とか「いい子」と呼ばれても返事をするわ。わたしは 7歳のピットブル/コーギー/ジャックラッセルテリアの雑種。いま はワシントン州サンファン諸島付近のセイリッシュ海をセーリング中 なの。ついさっき自然愛好家のともだちから、数頭のオルカ(キラー ホエールとしても知られてるけど)の目撃情報が入ったところ。さあ、 わたしの出番よ。

波が打ち寄せるたびに、アザラシやらネズミイルカやら昆布やら の香りが漂うけど、それらに興味はないの。わたしが探しているの はウンチ。これがこの4年間、減りつづけるサザンレジデント・キ ラーホエールの個体群を研究するチームの要員として、わたしが誇 りをもって取り組んでいることよ。この仕事は、2009年からワシン トン大学で鯨類の研究をしているデボラ・ガイルズ博士が率いるも の。みんな彼女のことをガイルズと呼んでいるけど、わたしはママっ て呼ぶわ。

人間のことは大好きだけど、彼らの嗅覚はわたしのに比べると さっぱりね。わたしの超敏感な鼻は、1キロ半先の水面に浮かぶオ ルカの糞だって嗅ぐことができるの。サンプルの採取としては、いち ばん非侵略的な方法でしょ。ママが言うには、ここのオルカたちは わたしの助けを必要としているんだって。

セイリッシュ海を故郷とするサザンレジデント・キラーホエールは、 J、K、Lというポッド(家族単位の群れ)から構成されていて、個々 のオルカを名前で識別できるふたつしかない個体群のうちのひとつ なの。レジデント(住民)というあだ名の由来は、サーモンが産卵の ためにカナダのフレーザー川に戻ってくる5月から10月にかけてセ イリッシュ海を訪れるのが、キラーホエールのこれまでの通常行事 だったから。

でも、そのパターンは変わってきているわ。サーモンが減ってい ることと、船舶による汚染や人工的な化学物質が流出していること などで、オルカは餌を求めて他の場所へと移動せざるを得なくなっ て、その結果、個体数に影響が出ているの。そのせいでサンプル採 取は難しくなるけど、わたしにはもってこいの挑戦よ。

文 デニス・チュジノヴィック 写真 アンドリュー・バートン

ワシントン州を拠点に探知犬として働く7歳のエバ。 彼女は自負する「優秀な」嗅覚を使って、サザン レジデント・キラーホエールの糞を嗅ぎ分ける。

わたしは最初から〈ワイルド・オルカ〉の一員だったわけじゃないけ ど、いまとなっては運命だと思ってる。ママの妹がカリフォルニア州 サクラメントの路上でわたしを見つけたのは、2015年のこと。あん なに寒い思いをしたことはなかった。その年の暮れには、ママがわ たしを養女に迎えてくれて、絶滅危惧種の動物の糞の嗅ぎ分け方を 犬に教える訓練プログラムに参加させてくれたの。それから何回か 試験を受けて、優秀な探知犬だってことが主任トレーナーに認めら れたのよ。まあ、わたしには朝飯前のことだったけどね。

〈ワイルド・オルカ〉での仕事ではわたしは船首に立つことが多い から、自分でもタフだとは思ってるけど、さらに強くなれる何かがあ るのはいいわ。たとえば仲間のデニスからもらったゴーグルとか、パ タゴニアのパフ・ベストとか。デニスは地元のWorn Wearのリペ アチームと一緒にデザインして、ダウン・セーターやナノ・パフ・ジャ ケットのあちこちの部分を縫い合わせて作ってくれたのよ。おやつを 入れるための、こんなかわいいポケットも付いてるんだから。

海で働きはじめた最初の年は、数十ものオルカの糞を見つけたわ。 それ以来100を超えるサンプルを追跡してきたけど、そのひとつひ とつからママは妊娠やストレスレベル、汚染物質の特定や食生活な どが探知できて、何がサザンレジデントの個体数に影響を与えてい るのかがわかるらしいの。よく言ってるわ、「たったひとつの糞のサ ンプルを見つけるのは、宝の山を掘り当てたようなものよ」って。

いまこの海域に残っているサザンレジデント・キラーホエールは 73頭だけ。わたしたちが集めるデータは、これ以上オルカが減るの を防ぐためにとるべき行動を、地元の共同体や議員に示すために使 われるんだって。政府、草の根団体、人間、そして犬、わたしたち みんなの協力が不可欠なの。わたしの海のともだちが力強く生きて、 群れの数を増やせるように。わたし流に言わせてもらえば、みんな の「足助け」が必要なのよ!

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〔上〕現在世界で生き残っているサザンレジデント・キラーホエールは 73頭のみ。船舶による汚染などの要因が個体数に影響をおよぼしている。

(NMFS許可番号26288/ワイルド・オルカ提供)

〔左〕〈ワイルド・オルカ〉の科学研究ディレクター、そしてエバのママ でもあるデボラ・ガイルズ博士は、サザンレジデント・キラーホエールの 保護活動に13年を費やしてきた。この非営利団体はエバが嗅ぎ分けた データを利用して科学に基づいた政策を提言しながら、オルカの個体群 とその生態系の復元を目指している。

〔右〕私たちのギアが修理不可能となったとき、通常の場合はリサイクルに 回されるが、デニス・チュジノヴィックは着古されたナノ・パフ・ジャケット

とダウン・セーターをエバのためのベストにすることをひらめいた。

「これには何かロマンチックなものが秘められています」と言うのは、 パタゴニアの助成金プログラムで〈ワイルド・オルカ〉の研究を知ったデニス。

「これらのジャケットは人間を温めるために使われていたものです。それが いま、重要な仕事をしているエバを温めるために活躍しているなんてね」

デニス・チュジノヴィックは、パタゴニアのシアトル・ストアで 環境コーディネーター兼スタッフとして働き、過去6年間そこで 環境プログラムを拡大させてきた。また、パタゴニアのLGBTQ+ コミュニティの機会均等を保証するため、社内のリーダーシップと 緊密に取り組みながら、〈ウィンター・ワイルドランズ・アライアンス〉 では役員も務める。趣味は太平洋岸北西部でのスキー、バード ウォッチング、ハイキングなど。

イラスト ザ・ファー・ウッズ

ジッパーが閉まらなくなったら 壊れてもお払い箱にはしないでください。

ボタン、スナップ、テープといった留め具は、ウェアやギアに使用され、 それぞれの役割を果たします。しかし110年の歴史を誇る工学の驚異 ともいえるジッパーは、外的要素に対して不可欠級な保護をしてくれます。

だからジッパースライダーを壊してしまったときなどに備えて、一般的な 修理方法を知っておくことはとても重要です。それはまた、ギアを遊ば せつづけて埋立地行きにさせないための、最も容易な手段でもあります。

その方法をご紹介しましょう。

コイルジッパーのスライダーの直し方

コイルであるかどうかの確認:エレメントがコイル状に なっているジッパーは、パタゴニア製品に最もよく使われて いるものです。スライダーの裏側または先端にCかCNか RCZの印が付いています。

正しいサイズの確認:これらのジッパーのサイズには 3号、4.5号、5号があります(この番号はスライダーの 裏側または先端に記されています)。

道具:エンドニッパー、ラジオペンチ、目打ち、ピンセット、 新しいジッパー止め、新しいスライダー *

その他の修理については Patagonia.jp/repairs で ご覧いただけます。

* ご不明な点がありましたら、お近くのパタゴニア直営店または パタゴニア・カスタマーサービスまでお問い合わせください。 スライダーがジッパーから抜け出ないようにするために 付けられている「ジッパー止め」部分を取り外します。 エンドニッパーの先をジッパーテープの端に合わせます。 ゆっくりとニッパーをひねりながらジッパー止めの半分まで を切り、ジッパー止めの下半分を取り除きます。残りの上部 のジッパー止め部分はニッパーまたはピンセットで取り除き ます。(ジッパー止めが金属製の場合は、ニッパーや目打ちを 使ってツメ(尖った先端)を折り曲げ、スライダーを外します。) 「 The Far Woods(ザ・ファー・ウッズ)」はソニヤ&ニーナ・モンテネグロ 姉妹のクリエイティブ・コラボレーション。修理の達人である彼女たちは、 『 Mending Life』のイラストレーター兼共著者。

ジッパー止めを取り除いたら、 壊れたスライダーをジッパーから 取り外します。(やや強く引いて 取り外す必要があるかもしれ ません。)適切な代替品を探す ため、取り外したスライダーは 捨てないでください。 取り替え用のスライダーをジッパー に通します。(ここでも少し力が 要るかもしれません。)ジッパーが 開閉するか、確認してください。 もしジッパーテープがほつれていて スライダーが入りにくい場合は、 端を瞬間的に焼いて溶かせば 通しやすくなります。

新しいジッパー止めを用意します。正しいサイズの 代替品(3号、4.5号、または5号)を、ツメのあいだ のスペースに、コイルが収まるように置きます。ツメが 2つある方は生地側に、ツメが1つある方はコイルの 外側先端になるように置いてください。ツメをジッパー テープに向かって押し通し、ウェアの生地の外側に 突き出るようにします。ラジオペンチや目打ちを 使って、ツメを慎重にジッパーテープ側に 折り曲げます。そして残り2つのツメを ジッパーの端側に折り曲げます。 これでジッパーはまた機能し、 新品よりもずっとよくなりました。

リムゥ への

星明かりから日の出へ。夜明けの子午線を渡って海原を 航行するトモルの「ダークウォーター・パドラー」たち。

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帰還

50年の歳月をかけた大航海。

語り アラン・サラザー(プチュック・ヤイアック) 文 ジェフ・マッケルロイ

10時間にもおよぶパドリングのあと、私たちはサ ンタクルーズ島の着岸予定地までまだ3キロメートル 以上も沖にいた。サンタクルーズ島はカリフォルニア 沿岸部からおよそ48キロメートル離れたところにあ る。トモルにはかなりの水が溜まっていて、いくら漕 いでも一向に進まない状態が30分はつづいた。力 のかぎり海流に逆らい、パドルを深く差し込んで漕 がないと、前に進まなかった。私の先祖たちはいか に素晴らしい船乗りだったかと、そのときはっきり理 解した。祖先チュマッシュ族のように、強く、勇敢で、 知識豊かであること。それがいま、私たちが目指し て力を合わせていることだ。

私たちは1万3千年以上前からつづく海洋文化で ある。領域はカリフォルニア州モロ・ベイ周辺のセン トラルコーストから、南のマリブまで広がる。270キ ロメートルを超える素晴らしい海岸線、そしてその沖 に浮かぶチャンネル諸島 ――

アナカパ島、サンタク

ルーズ島、サンタローザ島、サンミゲル島 は、す

べてチュマッシュ族の領域だ。そして私たちは何千 年ものあいだカヌー建造の達人でもあり、その評判 は板張りの航海用船「トモル」で知られている。

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私は海で育ったわけではない。1951年にカリフォルニア州ロサンゼルス 郡にあるサンフェルナンドの街で生まれた私が、祖先の故郷である沿岸部 にたどり着くころには、人生のほとんどが過ぎていた。私の父はアメリカ 海兵隊員で、タタヴィアム族とチュマッシュ族の血を継いでいた。父は、私 と3人の兄弟がインディアン(当時使われていた用語)としてのアイデンティ ティーを守ることをかたくなに望み、私たちの出生証明書にも「インディア ン」と記録されることを主張した。やがてより内陸のセントラルバレーに移 ると、そこでは私の両親は数少ない異人種夫婦だった。6歳になったころ、 誰かが自分のことをじろじろと見ているのは、私の肌の色が違うからだと気 づくようになった。

1957年の夏のこと、兄と私は髪をモヒカン刈りにしていいかと父に尋ね た。なぜならそれが私たちがテレビで見た唯一の勇敢なインディアン戦士 だったからだ。メイン・ストリートの床屋の前で撮ったモヒカン刈りのサラ ザー兄弟の写真はいまでも持っている。それにはどこかポップな雰囲気も 漂っていた。そして父はこう言った。「ケンカを売ったりするなよ。でも、売 られたケンカからは逃げるな。自分が信じることのためには闘うんだ」 私 はそうやって育てられた。それが先住民族の誇りだと言ってもいい。

10代のころベイカーズフィールドに移り住んだ私は、そこで成人としてほ とんどの人生を過ごすことになる。結婚して、家族を養うために左官や少 年院の刑務官として働いたのもこの街だ。私は映画『怒りの葡萄』からその まま出てきたような人たちとともに育った。「ダストボウル」時代にオクラホ マからカリフォルニアへの移住を余儀なくされた人たちの多くがべイカーズ フィールドに落ち着いたからだ。このときの移民には、チョクトー族、チェ ロキー族、チカソー族を祖先とする人たちも含まれていた。そして30代を 迎えると、私はより積極的に先住民族の人たちと関わりをもつようになり、 インディアン・ヘルス・サービスを含む複数の先住民族団体に携わった。

休暇を取っての家族旅行は、ベイカーズフィールドの暑さから逃れてベン チュラの海沿いで過ごすことが恒例だった。そこまでの毎回のドライブで、 州間高速道路5号線(I-5)を州道126号線まで降りてくると、ちょうど シックス・フラッグス・マジック・マウンテン遊園地の脇あたりで、私はいつ も肝の奥底に何か不思議なものを感じていた。それを説明づけることがよう やくできたのは20年が経ち、人類学者ジョン・ジョンソン博士とともに自 分の家系について調べはじめたときだった。博士はサンフェルナンド伝道院 からの記録を取り寄せ、私の祖先が2つの村に属していたことを突き止め た。チュマッシュ族のタプ村(シミバレーのタポキャニオン)と、タタヴィ

アム族のチュガヤンガ村(I-5と126号線のインターチェンジにあるキャス ティーク)である。あのとき腹のなかでじわじわと沸き立っていたのは、私 が故郷へ帰るときの感覚だったのだ。 ***

およそ1万年前に最後の氷河期が終わると、溶解する氷河が海水を温め て海面が約120メートル上昇し、海岸線はその以前より何キロメートルも内 陸にまで後退した。現在ベンチュラやサンタバーバラから見えるチャンネル 諸島は、かつてはサンタロサエと呼ばれる1つの大きな島で、海面上昇以 前はサンタロサエ島は陸から6キロメートルほどしか離れておらず、現在の カヤックに近い小型の葦舟でも簡単に渡ることができたようだ。しかし海 面上昇後はその距離が開き、海流も強くなった。チュマッシュ族の長老たち、 歴史学者や人類学者、そしてカヌーに詳しい人たちの意見に基づくと、チュ マッシュ族は7千年ほど前からより大きな板張りの船を造りはじめた、とい うのが私の理論だ。本土の村から島へと人びとを運び、サメやメカジキなど の大物を捕獲するため、より大きく強い船体が必要になったのだろう。

トモル建造者(のちにスペイン人によって「トモレロ」と呼ばれるようにな る)は非常に高度な技術をもった職人で、部族のなかでも尊敬される地位 にあった。彼らは大嵐のあとに岸に打ち上げる大きな流木を集め、カリフォ ルニア北部やオレゴンから漂流してくる丈夫なレッドウッドを好んだ。次に、 鯨の肋骨から削り出した楔を叩き石で丸太に打ち込んで割る。そのように 丸太を割ることで現在の2×6や2×8の木材のような長い板を作ること ができ、それをサメの皮でやすりがけしてから2.5〜6メートルの長さに 切っていった。

たいていは最も長く厚い板を底に使い、短い板は舷となる。トモル建造 者は「ヨップ」と呼ばれる固形のタール、またはアスファルトを松ヤニと溶か し混ぜた接着剤のようなのもので板を貼り合わせていく。タールは今日でも 南カルフォルニア一帯で自然に滲み出す物質だ。タールが乾いたら、アメリ カアサなどの植物繊維から作られたひもで板を縛り合わせる。1艇のトモル を作るのに、途方もない量のひもが必要だったという。

1769年以降、カトリックの宣教活動によってチュマッシュ族の人びとは 奴隷化され、伝道施設での労働を強いられた。若いチュマッシュの男女は 鍛冶屋や牧場使用人、コックやメイドにさせられ、同様に私たちの生態系 に関する伝統的な知恵、そしてトモルに関する知識も、世代を越えて継承 されることはなくなってしまった。1850年代が過ぎるころには、チュマッ シュ族は板張りのトモルを造るのをやめてしまっていた。

***

1995年、離婚から数年を経た私は、仕事とチュマッシュ族の人びととの つながりを求めてベンチュラに引っ越すことを決めた。その1年後、サンタ バーバラの自然史博物館と海事博物館の職員から、3艇のトモルを建造す るための助成金プロジェクトを指揮しないかともちかけられた。私は発足し たばかりの〈チュマッシュ・マリタイム・アソシエーション〉の創立メンバー として、最初の数回のミーティングでこの博物館の提案を取り上げ、共同で このプロジェクトを進めることを決定した。私はチュマッシュのコミュニティ

〔上〕「祈りや捧げ物は、トモルの航海には 毎回欠かせない」とアラン・サラザー。

「すべてのものを清めることが重要なんだ、 パドルでさえもね」 Tim Davis

〔左下〕チュマッシュの清めの儀式に おいて神聖な要素であるペリカンの羽根 (tsqap’ihew)、セージ(xapš ǝx)、 そしてアワビ(qaš ǝ)。 Tim

〔右下〕「私たちのトモルは非常に底が深く、上板から床まで60センチ以上ある」と サラザー。「左右の水面に届く十分な高さを保つためには、ひざまずいてパドリング しなければならない。パドルは3メートルを超えるダブルブレードのもの。トモルを 漕ぐためには、多大な腕力とバランスと持久力が必要だ」 Tim

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に属する人びと、サンタバーバラ地域の祖先の 土地で育ったその多くの人に敬意を払い、プロ ジェクトの指揮をとるのではなく、参加するとい う形を選んだ。

1997年、私はメカジキを意味する「エリエッ ウン(‘Elye’wun)」という名のトモルを造るた め、チュマッシュ族とその支援者で構成された 小団体に参加した。そして名誉なことに、エリ エッウンをサンタバーバラ港に進水させる最初 のクルーの一員となることができた。それから 4年間、私たちはフラットウォーターや沿岸で パドリングの訓練に励み、3メートルのパドルで チーム一丸となって漕ぐことや、船を安定させ るためにどれだけの土嚢を船底に載せるのかな どを学んだ。2001年9月、ようやく私たちは チャンネル・アイランズ港からチュマッシュ族が 「リムゥ」と呼ぶサンタクルーズ島への海峡を横 断する準備ができた。

2001年9月8日、午前3時45分に出航。 私は船長と3人の漕ぎ手たちを背後に、トモ ルの先頭に座った。チュマッシュの先祖たちは 何千回も経験したことなのだろうが、私たちが 暗闇のなかに漕ぎ出すのはこれがはじめてのこ とだった。星空の下でのパドリングは私たちに とって精神的な覚醒であり、あの早朝の経験か ら最初のクルーのことを「ダークウォーター・パ ドラー」と呼ぶようになった。

その日、海域を横断するのに11時間かかっ た。海流と向かい風は私たちが想像していたよ りも強く、トモルには25センチもの水が溜まっ ていた。私たちは漕ぎ手1人と土嚢6袋をサ ポート船に移すことを決断した。エリエッウン は軽くなり、最後の数キロメートルは安全に進 むことができた。その夕方、友人や家族や支援 者たちに迎えられ、祖先の故郷リムゥで、150 年以上ぶりのチュマッシュの力による横断を 祝った。

〔右〕チュマッシュ(Tšumaš)という語は 貝殻のビーズでできた貨幣(’ałtšum)から 派生したもので、「貝貨を作る人びとの場所」 を意味するミチュマシュ(Mitšumaš)、つまり 現在のサンタクルーズ島の住民のことを指す。 今日のチュマッシュ族の人びとはこの島を リムゥ(Limuw)と呼び、アナカパ島は アニャパ(ʔanyapax)、サンタローザ島は ウィマ(Wima)、サンミゲル島はトゥカン (Tuqan)として知られている。

〔下〕「この12年間、『ムプタミ(古代の夢)』 と名づけられたサンタイネズ・チュマッシュ族 のトモルを漕いできた」と語るサラザー。 「太陽、流星群、星座、動物の精霊などを 称え、アワビ貝の象嵌をトモルの耳に施す ことが慣例となっている」 Tim Davis

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ハッチは どこへ 行った?

気になる水生昆虫の減少。

文 スティーブン・ソートナー

映画のような晩夏の夕暮れの光が、 ミズーリ・リバーの早瀬の上を飛ぶ トビケラの群れを照らす。この川は 吹雪のようなハッチと、それを狙う 大型のトラウトで知られている。

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トラウト・フライフィッシャーは、 「イブニングライズ」についてうや うやしく語る。それは水の冷た

い川が豊富な水生昆虫を自然界 と分かち合う、神秘現象だといっ ても過言ではない。あたかもドラ マと美と性と死を盛り込んだ劇舞 台のようなその様子を目の当たり にするのは、フライフィッシング における最高の壮観のひとつだ。

それは太陽が沈みかけ、空が 黄金に変わるときにはじまる。薄 明光線が空中で求愛のダンスを するカゲロウの成虫たち――サル ファー、ドレイク、マーチブラウ ンなど の透き通った羽を照ら す。ゴールデンストーンフライは 羽を広げて重たそうに動きまわる と、川面に腹打ちして卵塊を落と す。水面のすぐ上では、トビケラ が竜巻のごとく旋回する。

ツバメはまるでオキアミを食べ るザトウクジラのように大きく口 を開けたまま、ジグザグやバレル ロール飛行を展開する。ムシクイ、 レンジャク、ネコマネドリは、そ れぞれの獲物に目をつける。鳥

たちは、止まり木から飛び立って は動きの鈍い不運な虫を捕まえ る。トンボも巡回している。カゲ ロウの群れに横から飛び込んだ トンボがその1匹をかっさらうと、 体を食べられてしまったカゲロウ の一対の羽だけがヘリコプターの ように下降する。

そしてトラウトに合図がかか る。ライズがはじまった最初のう ちはためらいがちだが、疲れ果 てた虫たちが水面で産卵を終え て死んでいくにつれ、魚の数と 勢いは増してくる。そこでキャス ト。フライは水中に吸い込まれ、 魚が飛び上がる。リールが唸る。 辺りが薄暗くなると、さらに大き な魚が舞台に上がってくるように なる。リールはさらに高い音を 奏でる。魚というよりは家畜が飛 び込んだような音を立て、水しぶ きが上がる。ヘッドランプを点け てトラウトをリリース。ランプを 消すと暗闇が訪れ、ついに終幕。

エンドクレジットを流すならこの ときだ。

アイダホ州ヘンリーズ・フォークでの1日の 終わりに、さらにねばってキャスティングを 数回繰りかえすミリー・パイニ。ほとんどの アングラーが去ってからしばらく経った川 では、しばしば活発に羽化する水生昆虫と それに貪りつくトラウトを見ることができる。

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カゲロウとのご対面。カゲロウの成虫は 大きな複眼と短い触角をもつ。幼虫から 羽化するとカゲロウの口は退化して餌を 食べることができない。その代わりに、 トラウトの空腹を満たす好物となる。

昨年6月、私は地元のデラウェア・リバーのイースト・ブ ランチでお決まりの岩に座り、このパフォーマンスを待って いた。日差しは和らぎ、川の水は涼しく流れ、舞台準備は 完璧だった。私の背後ではムシクイとツグミが期待満々に さえずっていた。だが、何かが欠けていた。虫だ。もちろ ん、何匹かのカゲロウや黒いトビケラが水面のすぐ上を幽 霊のように漂っているのは見かけたが、積乱雲級である はずの虫の行動は霞にも満たなかった。たしかにトラウト は水面のそこかしこに姿を現し、私はスパークル・ダンを 使って、イースト・ブランチの規制内である16インチ(約 40センチ)の野生のブラウントラウトをなんとか釣り上げも した。それでも間違いなく、何かがおかしかった。

そしてそれは、はじめてのことではなかった。むしろ、し ばらくつづいていたことだ。

ここ数シーズンのあいだ、私が20年近く釣りをしてきた 川のこの辺りで、水生昆虫の羽化が減少しているのには気 づいていた。ハッチが起きてトラウトが水面から姿を現す 日もないわけではない。そんな日は、この世はすべて正常 だという気分になる。しかしたいていの場合は、ハッチの 一貫性と継続時間は大幅に落ちている。3週間にわたるヘ ンドリクソンの羽化は不規則な1週間半に減り、並外れて 豊富ではないがいつも予測可能で安定していたマーチブラ ウンは、いまでは所々にちらほら現れるだけ。吹雪のよう だったトビケラのハッチもほんの粉雪程度に降格した。最 近では、岩に座った私は肩をすぼめてひたすら待ってはみ るが、結局ふてくされて暗闇のなかを車へと戻るだけ。まる で恋人に振られたかのように。

こうした現象には別の川でも気づいていた。ペンシルベ ニアのブロッドヘッド・クリークでのサルファーのハッチは 以前はあまりにも密集していて、まるでマットのように川面 を覆って流れる本物の虫たちに、フライで張り合うのは到 底不可能というほどだった。しかしいまやそれも散発的に 起きるのがせいぜいで、かつて流域全体のどこにでもいた カゲロウの姿は乏しくなっていた。

だがもしかすると、問題は虫ではなく私自身なのかもし れない。ここ数年間、地元の川でたまたま運とタイミング が悪かったんじゃないか。釣りの常套句のように、「昨日こ こに来れば釣れたのに」ってことだ。たぶん私も、昨日ここ に来ればよかったんだ……2015年からずっと。そこで私は ソーシャルメディアに投稿し、他のアングラーたちも虫の活

動不足に気づいているかどうかを聞いてみた。それに対す る返信は、手応えのあるものだった。

「カゲロウのハッチははるかに減ってる気がする。アッ パー・デラウェア流域で親父と一緒に釣ってた1980年代 には、ハッチは雪が降ってるみたいだった……でもそんな 現象はもう見ない」

「フーサトニックでの待望のヘンドリクソンのハッチは、 ほぼ皆無となってしまったようだ」

一方で、私が目にするのとは相反する回答もあったが、 それにも注意書がついている。「ペンズ・クリークじゃシー ズン中ずっとしっかりハッチがあるよ。古株たちに言わせ ると昔ほどじゃないらしいけど……」

やがて、米国環境保護庁に勤務するという科学者の個 人アカウントから、いちばんよくまとめられた回答が届いた。 「全米の多数の流域で見られる現象ですが、それが不鮮明 な流域もあります。残念ながら、生態学的および文化的に 重要なこれらの水生昆虫に関して、基本的な質問に答える ための精密な観察は実施されていません」。

昆虫の世界的減少に関する科学情報は、この不鮮明さ を裏づけている。2017年にドイツの科学者チームは、現 地の自然保護区における昆虫の75パーセントの大規模消 滅を記録した驚くべき調査結果を公表した。これをもとに 『ニューヨーク・タイムズ』は、「虫の黙示録到来」という記 事を掲載した。この記事は、ドイツでの27年来の昆虫の 減少と比較する基準値となるべき過去の証拠の欠落に留 意しながらも、手がかりとなり得る長期間忘れられていた データを寄せ集める取り組みがなされたことを説明し、そ の他の地域でも科学者は昆虫の減少に気づいていると指 摘した。その約3年後『サイエンス』に掲載された調査で は、10年ごとに陸生昆虫が9パーセント減少した一方、 水生昆虫が11パーセント増加していることを明らかにした。 しかし、これは世界各地の既存の調査を再調査した「メタ 分析」であり、独自のフィールド調査を新たに実施したもの ではない。執筆者たちは、水生昆虫の増加は湖や川がきれ いになっている一般的な傾向、または気候変動に関連する 栄養素の増加によるかもしれないと言っている。対象範囲 は同様に広いものの、より限定的な調査もあった。2019 年のある報告書は、世界の昆虫の40パーセントが今後 20〜30年で消滅し得ると述べた。しかしこの調査はおも に蝶、蛾、蜂、トンボ、甲虫を考察して達した悲惨な結論

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スティールヘッドフィッシャーがダム反対派でなければ ならないのと同じように、トラウト・フライフィッシャーは 昆虫賛成派でなければならない。

だった。科学者のなかには全体的な証拠に欠け るとして、この結論に異議を唱える者もいた。そ して2年前『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』 に掲載された、レーダー観測を使ったより詳細な 調査では、ミシシッピ・リバー上流とレイク・エ リー西部盆地のヘキサジェニア属のカゲロウの 年次羽化が半減していたことが究明された。 ***

自分が育った地元や、毎夏キャンプに行った 場所を思い浮かべてほしい。あるいは、祖母の 家の玄関灯はどうだろう。そこにたかっていた 蛾、ホタルやキリギリスなどを覚えているだろう か。それらは昔に比べて少なくなっているだろう か。『ニューヨーク・タイムズ』の記事に引用され たひとつの基準は、車のフロントガラスに虫が衝 突する「スプラッター効果」で、それが減少傾向 にあるというものだ。玄関灯の基準を使った個 人的な見解では、ニューヨーク州北部の森にあ る私の山小屋の電灯のまわりを渦巻いていた虫 の大群は、近年では弱々しい少数に減ってしまっ た。かつてオオミズアオ、セクロピアサン、ポリ フェムスなどの大型の蛾は夏に数回現れる素晴 らしい光景だったが、いまでは1年おきに1回 現れるかどうかだ。これはプロの評論の対象と なる科学か、と言えばそうではない。しかし、昆 虫学者が観察している現状には間違いなく合致 している。

アマチュア養蜂や蝶の収集を除けば、フライ フィッシングほど直接虫に頼り、虫を崇め、虫を 称えるアウトドア活動はない。アングラーはうき うきしながらマニアックに虫の学名を覚え、独自 のスラングさえ作る。イソニキアバイカラー(別 名スレート・ドレイク)は「アイソス」、トリコリ トデス属は「トライコス」、さらにクールに呼び たかったら「トライクス」、前述のヘキサジェニ アは短縮して超カッコいい「ヘックス」という具 合に。以前には「BAETIS」というバニティ・プ レートを掲げた車を見たことがある。これはブ ルーウイングド・オリーブが属するコカゲロウ の学名だ。私たちはさまざまな水生昆虫ごとに、

それぞれの羽化ステージにマッチしたフライを苦 心して巻く。たとえばエッグ・レイイング・カディ ス、マーチブラウン、サルファ―・ダン・イマー ジャーといったフライだ。そして目当ての川の

目当てのハッチに合わせて休暇を取る。グリー ン・ドレイクが現れる5月末の「バグ・ウィーク (昆虫週間)」にキャッツキルで宿を予約したり、 サーモンフライのハッチの時期にマディソン・リ バーのプールを独占しようと考えたりしているな ら、せいぜい頑張ってくれ。もしもまとまった数 のハッチがなかったら、フライフィッシャー、と くにトラウト・フライフィッシャーはゴルフでもは じめた方がいい。

ここで一旦フライフィッシングは脇に置こう。 水生昆虫に依存するその他の糸を手繰り寄せは じめると、事態はかなりゾッとするものとなる。 北米のトラウトフィッシングに適したほとんどの 川では、春や秋に渡り鳥が脱皮中のカゲロウ、 休息中のトビケラやカワゲラを捕らえたり、そし て言うまでもなく毛虫や尺取り虫や油虫をついば む姿が見られる。渡り鳥のなかにはこの季節の 恵みを大いに利用するため、アンデス山脈とい う遥か彼方からやってくるものもある。もしも鳥 がいなくなれば、自然の害虫管理者であり種子 散布者である重要な存在を失うことになる。そ うなれば、森が病気や侵入生物種の影響を受け、 炭素隔離は低下し、水域を守れなくなることを 予期しなければならない。この減少に蜂が加わ れば授粉など、生態系に貢献するその他の機能 も失われる。言い方を変えるなら、パッとしない ヘンドリクソンのハッチはもっと恐ろしい何かの 予言かもしれないのだ。

では、私たちにはいったい何ができるのだろう か。じつのところ、虫の減少のたしかな原因はわ かっていない。それでも、殺虫剤の広範な使用 は他の要因と相まって減少に関与することが知 られている。PNASの調査の執筆者たちは、ヘ キサジェニア属のカゲロウの消失を、気候変動 による水温の上昇にともなう溶存酸素の低下と、 農場からの肥料の流出が発生させる有毒藻の発 生に関連づけている。

ディナーはまだ。アイダホ州スネーク・ リバーのヘンリーズ・フォークで、 脱出速度に達した幸運なブラウン・ ドレイク。 Jeremiah Watt

殺虫剤と肥料に関しては大規模農業を非難で き、また非難すべきである。しかし、自分の家 の庭についても考えてほしい。私が住むニュー ジャージーの郊外では芝生管理業者が幅をきか せ、毎年春になると肥料をどっさり落とし、雑草 であろうと昆虫であろうと(その多くは有益であ るにもかかわらず)「有害生物」駆除として除草 剤や殺虫剤を撒き散らす。これに炭素を噴き出 す強力なリーフブロワーと軍用級の芝刈り機を 加えれば、生息環境への徹底攻撃だ。皮肉にも 芝生管理業者を雇う家庭の多くは電気自動車を 運転し、ソーラーパネルを設置しているのだか ら、ここには明らかにズレがある。ところで、私

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の郊外の家の玄関灯はまったく惨めなもので、最も蒸し 暑く、最も虫が多いはずの夜でさえ、ほんの1〜2匹の 蛾と、道に迷った数匹の羽虫が飛びまわっているだけだ。 すべての家庭に芝生があるわけではないが、ある場合は 芝生管理業者を見限って、熊手やバッテリー駆動の手押 し芝刈り機を使うべきだ。それか、芝生の代わりに自生 植物の種を撒けば、自然と雑草に負けない庭になる。そ してタンポポの花は、蜂や蝶にとっては季節初めの食べ 物であり花粉源でもある。

都会に住んでいるのなら、オーガニック食品や無農薬 野菜を購入することも昆虫支持を示すひとつの方法だ。 そしてもちろん、自然保護に賛成票を投じるなど、個人 のカーボンフットプリントを削減できるあらゆる機会は、 もしカゲロウに口があったなら笑顔をもたらすことだろう (ちなみにカゲロウの成虫には口がない)。

光について言えば、『バイオロジカル・コンサベーショ ン』という学術雑誌に掲載された2020年の調査で、街 灯からガス井の炎まで夜間の人工光が無数の昆虫を破滅 している可能性が指摘されている。ガソリンスタンドや ショッピングセンターにずらりと並ぶ高出力の蛍光灯や、 郊外の住宅の屋外照明の増加が、虫たちに打撃を与え ているかもしれないのだ。トラウトが生息する川の近くの 人工光は、昆虫を交配と産卵という重要な職務から引き 離している(生物学的保存の研究に関する『スミソニア ン』の記事は、路上の反射光によりカゲロウは水上では なくアスファルト上で産卵していることに言及していた)。

翌朝、電灯のまわりには死んだ虫が積み重なっている。

コンビニエンスストアの看板を延々と周回してエネルギー を使い果たした結果だ。たとえコンビニのオーナーでは ないとしても、私たちは就寝前に家の玄関灯を消し忘れ ていないだろうか。

このすべては、古き良き時代を懐古しながら涙をフ ロータントで乾かそうとしている、ほんの数人のフライ フィッシャーの悲観論でしかないのだろうか。ではネバー シンクに目を向けてみよう。それはキャッツキル山地の 最高峰であるスライド・マウンテンを水源地とし、デラ ウェアまで100キロメートルあまりを流れる名高いトラウ トフィッシングの川だ。ドライフライの先駆者だったセオ ドア・ゴードンとエドワード・ヒューイットは、1世紀以 上前にここではじめてキャストしたという。噂によればか つてはグリーン・ドレイクのハッチが見られ、その動き の鈍い大型のカゲロウを狙って、川中のありとあらゆる トラウトがライズすることで有名だった。しかしこの川も 明らかにダム建設や森林破壊、土地開発の犠牲となった ようだ。5月下旬から6月上旬にかけてネバーシンクで 釣りをしていると、「コフィンフライ」と呼ばれることもあ るグリーン・ドレイクの成虫(スピナー)を数匹見かける かもしれない。夕暮れどきに上流へと飛んでいくグリー ン・ドレイクの長く白い腹部が、黄昏の薄明かりに輝い て見える。だがそれももはや、鳥やコウモリ、トラウトや フォールフィッシュ、クモやトンボが健康な川のご馳走に

ありつく本来の「ハッチ」には見えない。残存のドレイク は過去からの幻影に過ぎない。死んだ虫が飛んでいるよ うなものだ。

保全生物学者は個体の健康が個体群密度に直接左右 されるという「アリー効果」に注目する。リョコウバトは 種として存続するために、数十億という文字どおり莫大 な個体数を必要とした。乱獲と原生林の皆伐で個体数 が一定値を下まわると、リョコウバトは数十年におよぶ 死のスパイラルに陥った。やがて最後のリョコウバト かつて北米そしておそらく地球上に最も多く存在した鳥

は、1914年に動物園で死んだ。圧倒的な個体数と いう強みが存続の戦略だと思われる数々の昆虫のハッチ が、すでにその臨界点に到達しているかどうかはまだわ からない。

人類には昆虫の減少を覆すことができるだろうか。フ ライフィッシャーは生来楽天的だ。キャスティングは1回 ごとに希望の物理的発現であり、自分が結ぶ新たなフラ イのどれもが確実に暗号を解く「選ばれしもの」だと信じ る。私たちはこの楽観主義を擁護活動、少なくとも個人

の行動に転換し、各自の虫殺しのフットプリントを削減 しなければならない。スティールヘッドフィッシャーがダ ム反対派でなければならないのと同じように、トラウト・ フライフィッシャーは昆虫賛成派でなければならない。

「トライコスを救え」をトレンドにしよう。春が来たら、私 はまたイースト・ブランチの例の岩に向かう予定だ。虫 たちが戻ってくることをこれまでどおりに期待して。もう 言ったとは思うが、ハッチがはじまり、ムシクイがさえず り、トンボがブンブン飛び交い、トラウトがライズする 世界は美しい それは、闘って守る価値のある場所だ。

スティーブン・ソートナーは独習のフライフィッシャー、 サーフキャスター、バードウォッチャー、自然保護活動家、 アマチュア博物学者。釣りに関する3冊の著書をもち、 『The New York Times Magazine』や『The FlyFish Journal』などに記事を執筆。

ディナーの時間。アイダホ州シルバー・ クリークで、食欲旺盛なレインボー トラウトから逃れ損ねた不運な イトトンボ。 Nick Price

ここで一旦フライフィッシングは脇に置こう。

水生昆虫に依存するその他の糸を手繰り寄せ はじめると、事態はかなりゾッとするものとなる。

布による自由

ふたたび重要となる インドの自立の象徴。

文 アーチャナ・ラム

写真 サラ・オットー

〔左〕インディゴ染料の桶に浸された 手紡ぎのオーガニックコットンの糸。

インド、バガサラの染色工房にて。

〔上〕カディを作るために使われるチャルカの糸車は、1900年代 初期のインドで瞬く間に独立の象徴となった。この道具の形象は かつてインドの旗にも描かれていたことがある。

マハトマ・ガンディーの遺志は、しばしば物の形で記憶にとどめられています。

彼が身にまとった質素なドーティは、貧困にあえぐインドの共同体との近親関 係を築くための、熟考した上での方法でした。食物 そして、その不足 は、イギリスの植民地支配に抵抗するガンディーの「クイット・インディア」運動

の一環として、それを象徴するハンガーストライキの中核にありました。また塩は、 塩税への抗議として約400キロメートルにわたって展開されたデモ行進のきっか けとなりました。こうしたモノ(物品)は、それぞれに非暴力抗議の象徴でした。 しかしガンディーによると、そこには彼のイデオロギーとインドの独立への道の りを要約する最善のモノがありました。ガンディーは次のように述べたと報じら れています。「私にとって、糸車ほど重要なものは政治の世界には存在しない」

彼が意味したモノは「チャルカ」という、繊維を糸に紡ぎ出す手動の機械の ことで、その糸から「カディ」と呼ばれる布(伝統的にコットンから作られた軽 量で通気性のよい生地)が作られます。ガンディーは行動主義を展開していた

1900年代初期、それを何世代にもわたって受け継がれてきた工芸から、イン ドのコットン収穫を長年搾取してきたイギリスの植民支配者たちに対する抵抗 の道具へと生まれ変わらせました。カディはインドの人びとの自立への道となり 得るものでした。(ガンディーがカディ職人たちを「自由の戦士」と呼んだ、とい う伝承すらあります。)

200年近くにおよんだ支配ののち、イギリスは1947年についにインドから 撤退し、インド政府はカディをより公式に認めるようになりました。1956年に はインド中の家内工業とその多くの製造者協同組合を統制するため、「カディ村 落産業委員会(KVIC)法」が制定されました。今日もつづくその工芸は、地方 共同体の小さな工房や職人の住居で、大半は女性によって営まれるのが典型 です。

その歴史と技巧、それにまつわる労働者のための社会的および財政的機会は、 カディ職人と協働することについて私たちが最も興奮しているものです。そして 約6年にわたる開発を経て、私たちは初の手織りのカディ・コレクション(天然 染料を使用したオーガニックコットン製のメンズ/ウィメンズ用ウェア)を発表し ました。これらのウェアはインドのグジャラート州内の村々に在住する117人の 職人たちによって作られました。インドで栽培および収穫されたオーガニック コットンを100%採用することからはじまるパタゴニアのカディ素材は、金属製 のチャルカを使って手作業で紡がれ、工場で裁断および縫製される前に、天然 のインディゴを用いて手作業で染められています。

「カディは社会的責任の物語における新たな一歩です」と言うのは、パタゴニ アのライフ・アウトドア部門を率いるヘレナ・バーバー。「それは、ファストファッ ションの世界で失われた、製品と人間の触れあいを大切にすることです」

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手作りの衣料品は、いくつかの点ではファストファッションの対極にあるかも しれませんが、そのサプライチェーンにおいては最低賃金、児童労働、危険な 労働条件など、多くの同じ問題に蝕まれる可能性をはらんでいます。正しいサプ ライヤーを探しはじめた時点で、私たちにはこれまでの典型的な審査過程がこ の種の小規模生産には適していないことがわかりました。形式化されていない 労働環境は、書面による記録はほぼ皆無で、しばしば分散されているからです。 そうした体制がないことは必ずしも意図的ではなく、それが何十年にもわたって 行われてきた経営方法なのです。

「コンプライアンスに関して何も要請された経験のないこうした下請け業者に 対して、いま突然に、賃金の設定や児童労働の監視など、すべての履行につい ての審査を受け入れるようにと、あなただったらどうやって説得しますか」と問 いかけるのは、パタゴニアの素材開発部長であるサラ・ヘイズ。「往々にして最

難関なのはコンプライアンスではありません。難しいのは慣習と先入観を変える ことです」

私たちが確認したかったのは、職人たちに安全で公平な条件と長期的な支援 を提供するという、私たちの目標に沿ったサプライチェーンのパートナーと組ん でいるということでした。そこで私たちが協力を求めたのが、職人の福祉を保証 して世界的な手作り経済に透明性をもたらすための認証表示を創り出した〈ネス ト〉という非営利団体です。

「異なる文化的環境では、家庭あるいは工芸ベースの仕事は従属的な労働と みなされています」と語るのは、ネストのエグゼクティブ・ディレクターを務める レベッカ・ヴァン・バーゲン。「ネストのエシカル・ハンドクラフト・プログラムが 事業主に教育しているのは、人は何世紀にもわたって家で仕事をしてきたという 事実について、そしてそれはいまだに彼らの基本的経済と労働に対する公平な

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賃金を得るという人権のうちにある、ということです。手仕事を営 む労働者たちは、彼らが資格を与えられるべき保護について、必ず しも知識があるとはかぎりません」

パタゴニアがはじめてネストとパートナーを組んだのは2015年、 「ネスト・エシカル・ハンドクラフト・プログラム」が2017年に正 式に発足する前に、その形成を助ける創立ブランドの一員としてで した。職人業者のほとんどはコンプライアンスの訓練を受けたこと がないと知っていたネストは、監査過程に入る前に行う18〜24か 月の教育/トレーニングプログラムを考案しました。要求されてい る基準値を満たす業者は、「ネスト・シール」を獲得し、それには 「労働者の権利とビジネスの透明性」「児童擁護および保護」「公 正な報酬と待遇」「健康と安全」「環境への配慮」という5つの部 門にわたり、合計100条のコンプライアンス基準があります。

パタゴニアは、ネスト・シールに適した候補者を探し出すことに は苦労しませんでした。インドにおける私たちの長年のサプライ ヤーである〈アルヴィンド〉株式会社は、約10年前の2013年から KVICに導かれた協同組合〈ウドヨグ・バーティ〉と協働でカディ のデニムを作りはじめました。アルヴィンドもこの非公式の経済に、 よりしっかりとした体制と公平性を融合させることを期待していま した。私たちがネストのプログラムについてもちかけると、彼らは ブランドとサプライヤー、そして政府と職人の足並みを揃えるため に力添えをくれました。

アルヴィンドは2019年、最初の評価で監査に合格するという異 例の成功を収めましたが、監査後も関係はつづきます。ネストはそ の影響を測るために毎年、「労働者福利」ツールを使って選出した 職人と労働レベルの調査を実施します。昨年の調査では、ネスト によってインタビューされた女性職人の100パーセントが、手仕事

の収入で子どもの正規教育を支えることができると答え、94パー セントがこの雇用機会のおかげで家庭での意思決定権が増したと 感じています。職人たちが通常優先事項としているのは新居や教 育や医療です。労働者たちは定められた時給ではなく、生産高で 給与を受けるため、それぞれのスケジュールで子どもや家事の面倒 を見るという柔軟性をもつことができるのです。

しかしアルヴィンドのサステナビリティ部長であるアビシェク・バ ンサルが説明するように、歴史的そして感情的な重要性にもかかわ らず、時代は変わり、それにともなって関心も変わります。10年ほ ど前、カディの需要は落ち込み、たとえ政府の努力をもってしても、 この生地のことが忘れ去られてしまう可能性がありました。それに 生産の山と谷が重なって「大成功か大失敗か」の状況に陥り、多く の職人を安定した給与のない生活に置き去りにしました。

現在では、KVICを通じて更新された政府からの援助とともに 企業やネストのような団体からの支援を受け、大都市に出稼ぎに 行くのではなく、地元のカディ経済に参加する傾向が若者たちに認 められるとバンサルは指摘します。

「これを産業レベルに拡大するのではなく」と、彼はつづけま す。「フルタイムの職人を支援し、彼らに透明性と関心を与えながら、 徐々に技術を向上できるようにすることが大切です」

何世紀にもわたるこの昔からの伝統が、今日いかにしてこれま で以上に重要となっているかには、もうひとつの要因があるとバン

サルは言います。それは、環境フットプリントの削減です。機械動 力によって紡績された一般的な製品と比較すると、パタゴニアの 2023年春シーズンのカディ・コレクションの製造における炭素排 出量は34〜38パーセント低く、これはこの生地の手紡ぎ技術の 賜物です。

「カディには360度からの視点があります。生活の視野から、芸 術と伝統の視野、そして環境的な視野まで」と、バンサルは語りま す。「その影響は目に見える人間の影響にとどまらず、この国の社 会経済的な環境にまでおよびます。生産に時間をかけるという理 念に戻り、それがいまだに持続可能であることを世界に示している のです」

アーチャナ・ラムはパタゴニアの責任あるビジネスに関する マネージング・エディター。

〔左〕カディを作るために使われるコットンの糸を紡ぐ職人。

インドのグジャラートにあるこの工房は、この伝統工芸を支援して 維持するためにインド政府によって創設された、ウドヨグ・バーティ というカディの協同組合によって運営されている。

〔下〕手染めのコットンの糸はインディゴ染料の桶の中で何度も返され、 デニムの豊かな藍色になるまで浸される。

パタゴニア・ブックス

森と文明

文 ジョン・パーリン

『A Forest Journey』は、「人間は木材を求めつづけるのに、木々に対しては何の気遣いもしない」 という厳しい現実を露にする。命を分け与えてくれる木々のあらゆる恩恵にもかかわらず、私たちは 1万2千年以上にもわたって彼らを切り倒し、焼き払ってきた。地球にかつて存在した木々の半数 以上は伐採され、二人挽きノコギリによって切り株となり果てたこのベイスギも、その例外ではない。 カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州コルテス島 David Ellingsen

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1983年、新しい本の執筆に取り組むある教授に協 力するため、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の古 典学科に雇われた私は、これで自分は作家として知らな かった、財政的に円滑な未来に突入するのだと期待しま した。この教授と私はかつて太陽光による古代の家庭暖 房に関する草分け的な論文を共著し、アメリカ考古学研 究所の年次総会で発表したことがありました。また私の 最初の著書 同じく太陽光建築に関する本 のため に資料を研究していたときにも、私はあるひとつのテー マに気づきました。それは、家庭暖房を太陽エネルギー に切り替えることは、いつの時代も、木の不足とともに 生じたということです。木は少なくとも青銅器時代から 19世紀以降まで、ほぼあらゆる社会において主要燃料 であると同時に建築材でした。複数の言語による過去の 声を通じて、私は木の豊富さと欠乏がどのように文明に おける文化、人口動態、外交問題、経済、政治、技術 を形成したかを学びました。そしてこのような話は、書 き残さなければならないと思いました。

新しい職について3〜4か月の私が図書館で忙しく過 ごすあいだ、共同研究者である教授はつねにオフィスに 留まり、大型の学術書にどっぷり浸かっているように見 えました。ある日私が半開きのドアからオフィスに入って 教授に近づくと、なんと彼は研究に必要な文献を調べて いるのではなく、巨大な本のページに挟んだ漫画を読ん でいました。その後まもなく、私は仕事もお金も働く場 所も、そして眠る場所すらもない状況に陥りました。あ る友人が研究をつづけられるようにと好意で裏庭を提供 してくれて、そこに寝泊まりするようになりました。

金銭面はさらに悪化し、私はホームレスの人にゴミ箱 のあさり方を教わりました。それでも私は、漫画発覚事 件で一時的に行き詰まった研究をつづけました。図書館 で木材、木、オーク、マツ、モミを意味するアラビア語、 ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語、メソポタミア語を 学び、それらを古典語の辞書でどうやって調べるか、木 材や木々に関する記述を古代の原本上でどうやって探す

かを学びました。同情の念を抱いたセム語の教授は、私 が取り組んでいた楔形文字を翻訳してくれました。かつ てカリフォルニア大学サンタバーバラ校で参考図書司書 をしていたリーゼロッテ・ファハルドも、計り知れないほ どの助けとなってくれました。リーゼロッテはヒトラー支 配下のドイツから亡命したのち、最終的にカリフォルニア にたどり着き、やむない流浪のあいだに複数の言語を習 得した人物です。私たちは親交を深め、リーゼロッテは フランス語、オランダ語、ドイツ語の学術用語の翻訳を 手伝ってくれ、私は彼女のために夕食を作りました。 雨の日は寝泊りしていた庭の角材に乗せたキャンパー シェルの張り出しの下に避難しました。また、私の研究 の重要性を確信していたもうひとりの天使のような女性 は、洗濯室に机とコンピューターを設置してくれ、その おかげで昼夜ワープロで原稿を書くことができました。 一方、そこまで確信をもってくれなかったのは出版 社で、私の手元には原稿却下の通知が積み重なりまし た。そんなある日、友人の家で太陽エネルギーに関する ワールドウォッチ研究所の論文を見つけました。開いて みると、そこには私の著書『A Golden Thread』から の引用が最初にありました。説明が必要かと思いますが、 ワールドウォッチは20世紀後期、世界屈指の影響力を もつ環境シンクタンクで、創設者兼代表のレスター・ブ ラウンはこの組織同様に著名な人物でした。そこで一瞬、 捨て鉢で大胆な考えが頭をよぎりました。翌朝レスター・ ブラウンに電話をして、私の新著『A Forest Journey』 を出版するスポンサーになってもらおうと考えたのです。 成功が手近にある気がしました。しかし私の電話を受け た秘書は、「レスター・ブラウンは多忙な方です」と言い ました。「折り返しの電話には2〜3か月かかるかもしれ ません」すべての希望は消え、私は絶望に陥りました。 するとその5分後に、電話が鳴りました。機械的に受 話器を取ると、電話の向こうにいたのはレスター・ブラウ ンでした。最終的に私の本は、ブラウンの出版社であっ たW.W. Nortonから出版されることになりました。 『A Forest Journey』のソフトカバーがめでたく出版 されたのち、私は5年間執筆活動を休止して子育てに 専念しました。はっきり言って、乳幼児の世話と仕事は 両立できません。幼稚園に入ったころ、我が子は近くの

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私たちはこのたび、人と木の歴史を 深く追究したジョン・パーリンの
『A Forest Journey』を再版します。
その本が最初に出版されるまでは、 叙事詩のような道のりでした。

カリフォルニア大学サンタバーバラ校にある放課後のプログラムにも参加す るようになりました。プログラムの一環として、大学は授業が終わる時間 に合わせてオレンジ色のバスで子どもたちを迎えに行き、午後6時までそ

こで過ごすことを許可していました。子どもたちはキャンパス内で自由に遊 び、海洋生物学のラボにある触れ合いタンクでウニやウミウシやナマコや カニなど、太平洋岸の潮溜りに生息するさまざまな生物を手にしたり、礁 湖の近くで海鳥を眺めたり、ジムでロッククライミングの壁を懸垂下降した

りなど、好きなことを存分に体験させてもらえました。5時45分になると

私は仕事を終えて子どもを迎えに行き、そこからバス停まで歩いて、私た

ちが住む町への高速バスに乗りました。

バスがフリーウェイを飛ばすあいだ、小さな男の子があご髭を生やした 体格のいいお父さんとの会話に夢中になっている姿は人目を引きました。 ある日、いつもだいたい同じバスに乗っていたひとりの教授が、私たちの 立っているすぐ横の席に座りました。彼は私たちに気づき、やがて太陽 電池とその可能性について話を交わすことになりました。また別の日には、 なぜ私が太陽エネルギーに精通しているのかと聞いてきました。そこで私 はこの課題に関する研究をして2冊の本を書いたことを伝え、BBC(英国 放送協会)による『A Forest Journey』の書評のコピーがバックパックに 入っていたことを思い出したので、それを教授に手渡しました。3週間後、 彼は私を昼食に誘いました。そしてその席で『A Forest Journey』を買っ て読んだことを告げ、「私がこれまでの生涯で読んだ本のトップ5に入る」 と言ってくれました。その後、私と息子は教授の家に定期的に招待される ほど彼と親しくなりました。

その2年後、この教授はノーベル物理学賞を受賞しました。それから 私は大学の科学系学科のために気候変動に関する会議を催すよう教授か ら依頼を受けました。その翌年には彼の推薦で大学に雇用され、光と太 陽電池の関係についての科学的な思想の進化に関する映画のための調査 および脚本の執筆を依頼されました。最終的には、カール・セーガンのテ レビ番組『Cosmos』のプロデューサーのひとりが参加し、モンティ・パイ ソンで有名なジョン・クリーズがその映画のナレーションを担いました。ロ サンゼルスのダウンタウンで育った少年の行く末でこうしたことが起こった のは、すべて彼が木についての本を書いたからです。

〔右上〕パーリンが自著を『A Forest Journey』と名づけたのは、 現存する世界最古の文学作品『ギルガメシュ叙事詩』の重要な エピソードに由来する。それはギルガメシュと彼の兵士たち

(つまり私たちの祖先)が、原生林に足を踏み入れて破壊したこと の最初の記録であり、その歴史は幾度となく繰りかえされつづけ、 いまなお終わる気配はない。 Heritage Image Partnership Ltd | Alamy 〔右下〕カリフォルニア州サンタバーバラの自宅周辺で、光り輝く オークの老齢樹に囲まれて座る著者。パーリンは人間の息子の父で あると同時に、木の文明動態に関する知識の祖父でもある。彼との 会話は複雑な文献を読んでいるかのようで、脳の許容量以上の情報 をもたらす。だが人間の脳が木々に忠誠を誓うときの美しさには 畏敬の念を抱かされる。

ジョン・パーリン

はカリフォルニア大学サンタバーバラ校の物理学客員教授。 複数の著書がある。最も誇りにしているのは息子を育てたこと。

『A Forest Journey』(邦訳『森と文明』安田喜憲・鶴見精二訳、晶文社)

〔左〕木と争うのではなく、愛を育むのだ。 好奇心をもった人間の手が触れる、 樹齢800年のベイマツ。 Jeremy Koreski

文 ローレン・ドローネー・ミラー

写真 ミヤ・ツドメ

アファリン!

〔前の見開き〕カリフォルニア州ヨセミテ国立公園 で登るために必要なクライミングギアとツールの 進化について、クライミングレンジャーが催した プレゼンテーションを受けながら、いろいろな 種類のカムを手に取ってみるミナ・バクシ、 ハニヤ・タヴァソリ、スグラ・ヤズダニ。

〔上〕エルキャプ・メドウお決まりのポーズを とる女性たち。首をそらせ、金色に輝く 花崗岩に目を細め、来たる体験に想いを 馳せながら。

〔右〕ダフ・ドームのガイド・クラックを 登りながらハイタッチを交わすミナとハニヤ。 カリフォルニア州トゥオルミ・メドウズ。

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やったね!

ヨセミテに集うアフガン女性 たちが、そこでのクライミング に見出した故郷とのつながり。

7月下旬、私はヨセミテ国立公園の東側境界の すぐ外にあるデイナ・プラトーに向かい、グレイ シャー・キャニオンを登っている。小さな滝をあち こちにしたがえて渾々と流れる川の脇を歩いている のだが、その水音が激しすぎて、スグラの声を聞 き取るには彼女に近寄らなくてはならない。スグ ラは2021年8月15日のことを話す。その日はい つもと同じようにはじまった。朝起きて、アフガニ スタンのカブールへと出勤したと言う。「そしたら」 と彼女はつづける。「皆、家族から電話がかかっ てきたの。タリバンがカブールを制圧したって」

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タリバンは5月以来、米軍の撤退と同時に国 中の地域の占拠を少しずつ進めていた。すでに 多くの州都がタリバンによって攻撃され、8月 13日にはヘラート、カンダハル、ラシュカルガー が制圧されていた。8月14日にはさらに7つの 州都市が陥落。しかし国内の農村部の情勢悪化 が勢いを増しても、カブールでの暮らしはさほど 変わらなかったとスグラは言う。それも大統領の アシュラフ・ガニーが国外へ逃亡するまでは、の 話だが。そして8月15日、武装集団がカブール に押し入り、その翌日には報道官によって戦争 の終結が宣言された。つまり、タリバンの勝利 ということだった。

スグラ・ヤズダニは幼少期のほとんどを難民 としてパキスタンで過ごしたが、2018年に家族 とともに故郷のアフガニスタンへの移住を果たし た。つねにスポーツを愛していた彼女は、女の 子を対象にクライミングやハイキングを教える団 体〈アセンド〉のことを友人から聞くと、すぐにク ライミングに興味をもった。スグラはアフガン女 性としては比較的自立した生活を送っていたが、 山でのクライミングは普通の女の子にとっては常 識を超える行動だった。「それは家族の期待に も反することでした」と彼女は言う。最初は父親 には隠そうとして、許可書は姉に署名してもらっ

たが、2回目の山への旅のあとにはそれ以上隠 しきれなくなっていた。しかし最終的には父親 は納得し、いまではクライミングが彼女の可能性 を広げたことを誇りに思ってくれている。「クライ ミングをするたびに、強くなれる気がするの」と スグラ。「何にでも立ち向かっていける気がする。 この大きな山を登れるなら、って」 ***

マリナ・レグリーが2014年にアセンドを創立 した当時、彼女はクライマーではなかった。国際 関係学で紛争解決を学んで修士号を取得したの ち、10年間アフガニスタンでNGOやNATO、

ガイド・クラックで女性たちをサポートする メルリン・ヴェヌゴパル(ビレイ)とミシェル・ペレット。

軍とともに情勢の安定化に携わったマリナは、 その後、新世代のアフガン女性たちを力づけて リーダーに育成したいという夢を抱いて、大学院 へ戻るためにアメリカに帰国した。それからアフ ガニスタンの山々での体験を思い出した彼女は、 クライミングがそれにうってつけの場であること に気づいた。クライミングとは「強さと決断力そ のもの。境界を押し広げるアフガン女性になる ためには、タフになる訓練をしなければ」とマリ ナは語る。その2年後にハーバード大学のケネ ディ・スクール(公共政策大学院)を卒業し、行 政学修士号を取得するとふたたびアフガニスタ ンへ。2021年の春には新たなスポーツセンター を建設していたアセンドには、毎年何十名もの 女性が入会するようになり、設立以来から数え ると200名以上の女性がプログラムに参加して いた。しかしアセンドはその後まもなく、プログ ラムが崩壊していくのを目の当たりにすることに なる。

2021年の夏には、スグラの精神力が試され るときが訪れた。もし新タリバン政権が以前の ものと同じであれば、彼女が愛することはすべ て許されなくなる。彼女を含めすべての女性た ちは、タリバン支配下では不自由な生活を強い られるだろう。スグラはクライミングもしたいし、 自転車に乗り、学校に通い、仕事もつづけた かった。8月が終わるころには、これ以上アフ ガニスタンにはいられないと悟った。パニックに 陥ったスグラはマリナに連絡を取ると、すべてを 打ち明けた。家族とともに1週間以上も家に閉 じこもり、外出を恐れて過ごしていた彼女たちが 望むのは、国外逃亡であるということを。

いまここヨセミテで旅の4日目を迎えたスグ ラにとって、カブールを囲む山々は地球の反対側 にあったとしても、山にいることが安らぎをくれ る。深い渓谷、猛々しい岩の頂、ハイ・シエラ の残雪が、彼女に故郷を思い出させていた。

***

タリバンの急速な権力掌握はアセンドには予 想外だった。「もしタリバンが政権で重要な役割 を果たすことになれば、私たちも少し方向修正を

しなければならなくなるとは思っていました」と 語るマリナ。「ただ、彼らによる完全な支配は予 期していなかったし、ましてやあのようなスピー ドで起こるとは」 クライミングを通じて自立性 を表現することで女性たちが暴力の対象となる ことを、マリナは恐れた。殺される可能性だけ でなく、もし生き延びたとしても、結婚を強制さ れ、教育やスポーツの夢を絶たれることになるだ ろう、と。

スグラやアセンドの参加者の国外逃亡は、マ リナのような外部の団体からの協力なしでは不 可能だ。マリナと彼女の少人数のチームは休むこ となくその手段を探った。この小さな団体にとっ て、クライミングトリップやスポーツプログラムを 計画することから複雑な移民手続き業務への突 然の移行は、目が眩むようだった。「それは本来 の私たちの仕事ではなかったし、やりたい仕事 でもありませんでした」とマリナはつづける。「で もタリバン政権による制圧の酷さが明確になっ た時点で、即決断しました。団体に所属する女 の子たちの反応が決め手になりました」 マリナ は急いで米国国務省からアセンドに対する承認 を取り、次のステップを女性たちに伝達した。そ してクライミングのコミュニティも動員できること を願って、チームは雑誌『アルピニスト』に連絡 を取り、アフガン女性たちが直面する危険につ いて語られたオンライン記事を8月に掲載した。

マリナのチームの援助があっても、スグラや他 のアセンドの女性メンバーたちが国外逃亡できる という保証はなかった。マリナは彼女たちが単 独で旅する方が、成功する確率は高いと知って いた。「カブールやアフガニスタンを去ることは とても困難でした」とスグラ。「カブール空港は タリバンの手中にあって、誰も空港に入れなかっ たから」 タリバンによって検問を受け、男性家 族が同行していないのを発見されたらどうなる かという不安を抱えながら、マザーリシャリーフ への危険なバス移動を経たスグラとチームメイ トは、空港へ近づくためだけに1か月を費やし た。そのあいだには、あきらめて戻るべきかと考 えることもあった。でもようやく航空機が動きだ すと、移住を希望する多くのアフガニスタン難民

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〔上〕キャンプ4にあるヨセミテ・サーチ・ アンド・レスキューのサイトでキャンパス ボードに挑むハニヤ。

〔下〕クライミングに関しては妹のラビア・ フセイン(右)が姉のバトゥール・ベヘナム (左)の足取りをリードする。ここでは エルキャプ・メドウでくつろぎながら ヨセミテの醍醐味を満喫中。

〔右〕この旅のグランドフィナーレとなった、 スワン・スラブ・ガリーの2ピッチ目を 進むスグラ。

とともに、彼女はついにカタールの米空軍基地にたどり着くことがで きた。アセンドは移民を受け入れてくれる国を見つけては、プログラ ムの参加者、スタッフ、家族など134名のメンバーを援助した。彼女 たちの行き先はチリ、アイルランド、デンマーク、ドイツ、ポーランド、 カザフスタン、カナダ、そしてアメリカなどにおよぶ。スグラはカター ルで1か月待機したのち、2021年10月にアメリカに到着した。最後 のアセンド会員の移住が完了したのは、2022年の9月のことだった。 アメリカに移住したアセンド会員30名のうちスグラを含む5名は、 12月にはノースカロライナ州ローリー/ダーラム地域に落ち着くこと となった。アセンドのミッションに強く賛同するクライマーのグループ がスポンサー・サークルとして支援してくれることになったのだ。スポ ンサー・サークルとは新しく設立された行政プログラムの一貫で、公 式な移住支援団体ではなく、小さなグループが個人的に生活支援を 提供するというものである。移住後はアセンドのボランティアである アン・マクローリンや彼女の夫トム・ドリューズが、積極的にあらゆる 面で支援を提供している。大学への願書や、就職活動、複雑な健康 保険の書類関連を手伝ったり、またできるかぎりひんぱんに山やクラ イミングジムへの送迎の段取りをつけるなどのほか、アンは地元のジ ムに掛け合って、アフガン人クライマーの会員費を無料にしたり仕事 の紹介などもしている。

***

スグラが最初にマリナに助けを求めたころ、つまり彼女たちがアメ リカに移住する何か月も前のことに話を戻そう。雑誌『アルピニスト』 のアセンドについての記事が、ヨセミテ・サーチ・アンド・レスキュー

(YOSAR)のメンバーであるジャック・クレイマーとミシェル・ペレッ トの目に留まった。彼らはアメリカの飛行機に必死でしがみつくアフ ガン人たちの痛ましい映像を目にして、アセンドの女性たちのなかに もアメリカに来ようとしている人がいるのではないかと推測した。ク ライマーとしてできることは少ないかもしれなかった……が、アセンド の女性たちも、彼らと同じようにクライマーなのだ。ミシェルはジャッ クが「一緒に登ろうって誘えばいいじゃないか!」と言ったのを覚えて いる。「それほど単純なことだったのよ」とミシェル。そこで彼女は同 じくYOSARのメンバーであるメルリン・ヴェヌゴパルに、アセンドの 女性たちをクライミングのコミュニティで歓迎したらどうかと提案した。 そして彼女たちを迎えるのに、ヨセミテ以上の場所があるだろうか。

ミシェルとメルリンの展望は単純なものだったかもしれないが、そ れからの10か月におよぶ計画は簡単には進まなかった。幸運にも、 ミシェルとメルリンは困難や複雑な状況に臆する人間ではない。困 難な場所へと足を踏み入れようとする意欲と情熱こそ、彼女たちが YOSARに参加するようになった本来の理由だったからだ。 2022年7月のある日曜日、8名の若いアフガン人クライマーがカ リフォルニアに向かって飛行機に乗った。スグラ、ハニヤ、バトゥール、 ラビア、ミナ、ライハナ、ライハナの弟マンスール、そして家族への 危険を配慮して名乗ることのできないもう1人が、夕刻ヨセミテ国立 公園に到着した。旅の疲れはあるものの、息を呑むようなバレーの壁

に一様に興奮していた。山火事の煙で何週間もこの旅の決行は危ぶまれた が、奇跡的に煙は消え、ワウォナ・トンネルからはバレーの壮大な景色を 見渡すことができた。このイベントを手伝おうと集まったミシェルとメルリ ンの仲間には、ガイドやクライミングレンジャーや他のYOSARメンバー、 そして元YOSARメンバーであり長年の友である私自身も参加した。彼女 たちが計画のために何か月も費やし、私たちの誰もが待ち焦がれていたこの 旅に胸を躍らせていた。 ***

1週間にわたる旅での最初の朝、まだ午前9時だというのに、バレーの 花崗岩の岩壁からは熱が発せられている。空気にはオークの葉の甘い香り が漂い、笑い声があちこちに響いている。私たちは道路脇にある人気の岩

場「スワン・スラブ」でウォーミングアップ中だ。完璧なハンドジャムの習得 から、日に灼かれたつるつるの岩肌にシューズのラバーを効かせることまで、 ヨセミテで必要なスキルを皆が練習できるようにサポートメンバーがトップ ロープを設置している。今回ここにいる女性たちの技術レベルはさまざま で、なかにはアメリカ移住後に本物の岩を登るのはこれがはじめてという人 もいた。

この旅は笑いに包まれていた。冗談を言ったり、皆を歌ったり踊ったり させるハニヤ・タヴァソリは、その中心的存在である。彼女は過去1年の 困難な状況を話すことで、誰かを沈んだ気持ちにさせたくないのだ。ただ、 自分の経験してきたことをわかってくれる人が周囲にいるだけで癒されてい る。ハニヤは家族とともにアフガニスタンを脱出できた、数少ないアセンド のクライマーの1人である。彼女の一家はミネソタに移住し、他の女性たち

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からは遠いところにいる。この秋からミネアポリ スの学校に通えることを楽しみにしているが、母 国語をしゃべる機会は少なく、友人に会えない 寂しさは隠せなかった。

この旅に参加した女性のほとんどは、タリバ ン政権の支配下で危機が迫っているアフガニス タンでは、民族的にも宗教的にも少数派のハザ ラ族である。(この旅のあとの2022年9月には、 アセンドの女性たち数名が通っていた教育セン ターがタリバンによって爆破された。)彼女たち は多くのアフガン人によって使われるペルシア語 系のダリー語を話すが、タリバンはパシュトー語 しか公用語として使わない。1996年から2001 年までつづいた前タリバン政権ではパシュトー 語が強要されていたため、多くのアフガン人はダ リー語がふたたび禁止されるだろうと見込んでい る。彼女たちがダリー語で話したり歌ったりする のを見て、私はミシェルとメルリンが真に築いた ものが何であるかに気がついた。この旅は、彼 女たちがアメリカのクライマーと出会う機会であ ると同時に、さらに意義をもつのは、彼女たち が母国語を話し、生活が激変してから1年以上 も会えなかった友人たちと再会するための場所と なった。

「アファリン!やったね!」絶え間なく互いを励 ましつづけ、ルートの合間に岩場に満ちるのは 歌声だ。

午後になると暑さは限界に達していた。花崗 岩の黒い部分は熱すぎて、登ることは困難だ。

ミシェルとメルリンにとって7月のヨセミテ・バ レーでの生活とは、マーセッド・リバーで泳い でくつろぐことでもある。アフガン女性に水泳 の経験はほとんどないが、彼女たちはヨセミテ・ フォールズ下の天然のプールではしゃぎ声を上げ ながら水遊びを楽しんだ。

やがて私たちは背の高い松林の木陰にある心 地よいキャンプ場に戻る。ミシェルがギターを取 り出すと、どこからともなく皆がバンドを組みは じめる。ライハナがギターを手に取ってかき鳴ら し出すと、ハニヤは指揮者を演じる。彼女たち が自国の民謡や歌謡曲を歌うころには、カラス までが集まって聴き入った。こうしたキャンプ場

での合唱はなじみのある光景だが、ここで飛び 交う彼女たちのダリー語だけが、戦争によって 引き裂かれた故郷から何千キロも彼方にいると いう現実を思い起こさせる。

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スワン・スラブでウォーミングアップした翌日 は、より難しいルートが待ち受けるダフ・ドーム を目指して標高を上げた。夏のトゥオルミ・メド ウズは爽快で、暑さから逃れることができて皆 ほっとしている。車からの短いアプローチは自撮 りでたびたび中断される。ダフ・ドームの東壁 からは、フェアビュー・ドームが道路の向かい側

に、そして奥にはカシードラル・ピークが見渡せ る。ヨセミテ・バレーのそびえ立つ岩壁に堂々た る威厳を感じるならば、トゥオルミはそれとは対 照的な広々とした開放感を与えてくれる。

水曜日はクライミングシューズをしまい、デイ ナ・プラトーへとハイキングをすることにした。 しばしば野生の花に見とれながら、渓流の脇を 登っていく。スグラがアフガニスタン脱出の過程 について語りはじめたのは、このときだった。台 地の端まで歩き、人気のクライミングルートであ るサード・ピラーの頂上に立つと、歩いてきた草 原は瞬時に眼下へと遠ざかった。岩壁は険しく 劇的であり、モノ・レイクは眩い光を放っている。

この旅の発案を助けたジャックは記録役とし て参加しており、今日はサプライズを袖の下(正 確に言えばパックのなか)に隠し持っていた。何 時間も高地をハイキングしてやっと頂上にたどり 着いたジャックは、子どものような笑顔で凧を バックパックから取り出した。

けれども彼はすぐに重要な部品である中心 の支柱がないことに気づく。そこで私たちが YOSARで培ったスキルを活かし、あるもので なんとかしようと考える。やがて皆がまっすぐで 強い棒を探しに出たが、標高約3,300メートル にある台地では、数百メートルも下に生えている 木々以外には、見渡すかぎり1本も見つからな い。それでもなんとか低木を見つけると、最善 を尽くして貧弱な棒をテープで凧にくくりつけた。 見た目はバカバカしいほど情けなかったものの、 それを飛ばせてみる気は満々だった。

ジャックがラビアに糸巻きの引き出し方を見 せ、スグラに凧を渡す。期待は高まっていたけれ ど、冒険野郎マクガイバー的なその場しのぎの 凧が実際に飛ぶなんて誰も思ってはいない。し かし、空へ放り出された凧は、皆の驚きととも に高々と舞い上がる。

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旅の最終日に私たちは4つのチームに分かれ、 それぞれ違うルートをたどってスワン・スラブを 登り、頂上で待ち合わせることにした。何人か にとっては、これがはじめてのマルチピッチ・ク ライミングでもある。この1週間の栄光を祝う にふさわしい締めくくりだ。岩は熱くて指先が火 傷するかと思うほどだったが、彼女たちの集中 力と決意は揺るぎない。どれだけ日焼やけして 汗をかいても笑顔を絶やすことはなかった。頂 上に到達すると、彼女たちはアフガンのポップ ミュージックを携帯電話から流して歌い踊る。そ してハーフ・ドームと眼下に広がるバレーを見渡 す。先週の山火事の煙が今夜にも吹き戻ってくる だろうが、いまこの瞬間、空は真っ青に澄み渡っ ている。

笑ったり踊ったりする皆を眺めているうちに、 この集まりは私が過去にクライミングをしたなか で最大の女性グループだということに気がつい た。私のクライミングの経験はいまだ男性が大 部分を占める世界にある。だからこの数年間は 私たちの前身となった女性たちの物語に光を当 てようと、ヨセミテの女性クライマーの歴史を記 録してきた。これほど多くの女性たちに囲まれ、 女性が企画して先導した旅に参加できたことが、 私にとってどれほど意義深いかということのすべ てをアセンドの仲間に伝える。けれどもそこで同 時に気づいたのは、アセンドを通じてクライミン グをはじめた彼女たちには、女性以外とクライミ ングをする経験はなかったということ。「クライミ ングは女性のスポーツ」だと、彼女たちはきっぱ り言い切る。

ドキドキしながらスワン・スラブで 懸垂下降をはじめるハニヤ。

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私が2018年にはじめてYOSARに参加したと きは、同僚男性のボディランゲージを真似していた。 感情を漏らさない固い表情で、腕を胸の前で組み、 足を広げて立つ。どこへ行くにも、このマッチョな 姿勢でいた。私のクライミング人生は10年近くの あいだ、少なくともある部分において、自分自身を 証明するためにあった気がする。もっと真のクラ イマーになれるようにと、マニキュアやジュエリー を身につけたりするような自分が女性らしすぎると 思っていたことはやめた。私の「真のクライマー」 像は男性だったことに気づかずにいたのだ。

アセンドのクライマーたちにとって、女性でいる ことはさまざまな意味をもつ。それは教育のために 闘うこと。それは自分たちの家族とともにとどまる か、故郷を去るかという、難しい決断を下すこと。 そして勇敢であり、強くあること。つまり、クラ イマーであるということを意味する。

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アセンドの女性たちが経験してきたこの1年半の 激動は、想像を絶する。彼女たちは現在のアメリ カでの安全な暮らしに感謝するとともに、自分たち の家族を恋しく思いながら、難民であることの意 味を理解しようと必死だ。大学に通いはじめた人も いれば、複雑な出願手続きの最中という人もいる。 家族とともに生活する人もいれば、自身の家族を築 こうとしている人もいる。ライハナとマンスールとミ ナは、ローリーで一緒に暮らすアパートを見つけた ばかりだ。そしてその全員が、亡命申請の次の手 続きを待っている。アメリカへは人道的臨時許可と いう確実性に欠ける法的身分で入国したため、彼 女たちの未来はいまだ不安定なままである。

アセンドはアフガニスタンでこれからのプログラ ム展開をどうすべきか模索中だが、マリナとチーム は勢いを失っていない。活動をパキスタンへと広げ て足を運び、1週間かけて地元の指導者や組織者 やクライマーとのミーティングを重ねたのち、アセ ンドのミッションはそこでも熱心に受け入れてもらえ ると判断した。

デイナ・プラトーの頂上で凧を上げるラビア。

木の枝をテープで貼り付けた凧が飛翔する様子は、 まるで小さな奇跡のよう。カリフォルニア州シエラ・ネバダ

スグラにとって、当時アセンドに入会することは 小さな決断だった。だからまさかクライミングが タリバンから逃れることを助け、故郷の山々から 11,000キロメートル以上も離れたカリフォルニアで コミュニティとつなげてくれるなんて想像すらしな かった。そして花崗岩を見て、異国に親近感が湧く ことになろうとは、思いもよらなかったはずだ。

この旅はクライミングのコミュニティの最もよい 点を象徴したものだった。それは、アセンドの女性 たちのような人びとをヨセミテに招くために何百時 間も費やしてきたコミュニティ。飛行機代や、レン タカー、キャンプ用品や食料の寄付などで、この 計画の実現を可能にしてくれた人たち。ビレイや荷 物運び、送迎のために集まってくれた人たち。お 気に入りの岩壁や、「秘密」の川遊びのスポットや、 隠された憩いの場所を共有してくれた人たち。ただ 空に舞うところを見る楽しみのためだけに、バック カントリーに凧を持ってきて、間に合わせの棒をく くりつけて飛ばそうとした人たち。

ミシェル、メルリン、ジャックにとって、この旅 は他のクライマーとつながり、彼女たちを歓迎した いという単純な願望から生まれたものだ。ハニヤの ようなアフガン女性は、クライマーであることでコ ミュニティとつながることができたのだ。それがた とえ地球の反対側であったとしても。「コミュニティ にいれば、私はよそ者ではなくなります」と彼女は 言った。「それは、孤独じゃないってこと」

ローレン・ドローネー・ミラー の初著書となる『Valley of Giants: Stories from Women at the Heart of Yosemite Climbing』は、2022年バンフ・マウンテン・ ブック・コンペティションのクライミング文学賞を受賞。 彼女は現在カリフォルニア大学バークレー校の ジャーナリズム大学院に在籍中。カリフォルニア州 ビショップで夫と保護犬とともに暮らしている。

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ごまかし

写真とキャプション ゲイリー・レジェスター

1974年、当時ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・ デザインの学生だったゲイリー・レジェスターは、授業の課題を仕 上げるため、シュイナード・イクイップメントでじゃまにならないよ うに撮影をさせてもらっていました。1週間かけてあれやこれやと ショットを収めていくうちに、創業当初の従業員たちと仲良くなっ たゲイリーは、その後も時折ここを訪れては彼らの成長を記録し つづけるようになりました。ゲイリーと彼がそこで出会った友人た ちはまた、パタゴニアが商業的な写真から、よりジャーナリズム 的な方法にたどり着く過程を、知らず知らずのうちに助けていまし た。「笑顔のモデルに間違って着せたウェア」という大失敗を経験 しながら、その協働が私たちの必要としていたスタイルを作り上げ たのでした。それは私たちの創業者イヴォン・シュイナードが呼ぶ ところの、「リアルな人間がリアルに取り組んでいる様子をとらえる 『ごまかしがないショット』」という方法です。

私たちは創業50周年を祝うにあたり、みずからに問いかけます。 私たちは何を持っていき、何を置いていくのか。パタゴニアの写真 部にとって、その答えは明確です。それは、私たちの写真における 原則を貫くこと。次の50年はリフレームではなく、さまざまな背 景や経験をもった視覚芸術家たちの非公式なギルドを育てるとい う新たな取り組みです。本物に対する審美眼をもった、そして初代 アートディレクター兼写真編集者だったジェニファー・リッジウェイ が呼んだ「正しい心構え、正しい精神」をもったアーティストたちの 開拓です。それは未来のゲイリー・レジェスターと言ってもよいで しょう。

「私たちは魔法を放つ写真が好きです」とジェニファーは記して います。「これを言葉にするのはむずかしいけれど、ある種の像に は構図を超えた精神があります」

ハイディ・ヴォルプ パタゴニア写真部長

クリスティン・マクディビット(現姓トンプキンス)がシュイナード・イクイップメントで 発送係としてアルバイトをはじめたのは、まだ高校生だった10代のとき。その後 イヴォン・シュイナードが創業したパタゴニアで、1979年には当時29歳のクリスが 初代CEOとなる。彼女は1993年までその任務をつづけ、夫のダグ・トンプキンスと ともにチリの環境保護活動を率先するために退社。彼女たちの団体〈コンセルバシオン・ パタゴニカ〉はチリとアルゼンチンで11の国立公園の設立を助け、56,656平方キロ メートル以上の原生地を守ってきた。いつも裸足で働いていたティーンエイジャーに しては上出来の出世である。

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ない ショット

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〔左〕姉のクリスにつづいてシュイナード・ イクイップメントに雇われたロジャー・ マクディビットの最初の仕事は、鍛冶工房で 「ボンボン(広いクラック用のアングルピトン)」 のリベットを打つことだった。「ロジャーは 若いながらもビジネスに対する洞察力を 発揮した」と書いたイヴォンは、彼を工房から 小売運営に異動させ、それから卸売運営、 やがては専務に任命。1979年にクリスが 専務兼CEOとして就任すると、ロジャーは 製造管理に携わった。ロジャーはカタログに 掲載する製品写真のモデルとして駆り出される こともあった。回収された木材を店舗の空間 のデザイン要素として使う、というのは彼の アイデアで、以来その伝統は守られている。

〔右上〕1970年代後期のエクストリームスポーツ 短編映画『The Edge』の撮影中、イヴォンを フォローするキャロル・カーシャ。このショットを 収めるため、写真家のゲイリー・レジェスターは (シュイナード・イクイップメントの)トム・フロスト とチャールズ・グロースベックの撮影班に加わり、 アブミとアセンダーにぶら下がって上から撮影した。 カリフォルニア州ヨセミテ国立公園

〔右下〕シューナーズ(シュイナード・イクイップ メント製クライミングシューズ)とスタンドアップ・ ショーツでスタイリッシュに逆立ち技を決める ビル・ボーンブレイク。カリフォルニア州 オーウェンズ・バレー、バターミルク

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毎週のスタッフミーティングでの、キャッシュフロー に関する緊迫した討議。イヴォンが着ている ストライプのラグビー・シャツは、初代パタゴニア 製ウェアの一種であるとともに、金銭問題の原因 でもあった。見るに耐えない書類を手にしている のは当時の製造マネージャーだったイヴォンの兄 ジェフ・シュイナードで、妻の馬に数百メートルも 引きずられたことから負傷した脚は1年近くも ギプスが取れなかった。足元に子どもを寝かせて いるのはストアマネージャーのテックス・ボシアー で、トレードマークだった古着のオックスフォード シャツ姿。シャツが汚れると古着屋に寄付し、 そこでまたきれいなシャツを買うというのが彼の 習慣だった。腕組みしているのは卸売マネージャー を務めていたイヴォンの甥ヴィンセント・スタンリー で、ミーティングはいつもこれほど陰鬱だったわけ ではない、というのが彼の証言である。

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〔左〕初期のシュイナード・イクイップメントとパタゴニアの カタログでは、社員や友人や家族が製品のモデルを務めた。 この写真はマウント・シャスタのホース・キャンプ小屋で 雪嵐に何日も足止めを食らったあと、ゲイリーの弟 デイヴィッド・レジェスターがエッゲ・ダウン・エクス ペディション・ジャケット、マウンテン・スペクタクルズ、 ダハシュタイン・ミットを身に着けている姿。背後に 立つゲイリーの妻ジョニー・レジェスターは、エッゲ・ デラックス・ジャケットで寒さ対策をしている。

〔上〕雪遊びほど最高の仕事はない。 ロック・クリークでオフピステを楽しんで いるのは、キャンプ7の営業担当者 でありパタゴニアの友であったブルース・ フランク。カリフォルニア州ビショップ

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ここでカタログ撮影のためにエクスペディションウェイトの寝袋のモデルを務めているのはシエラのクライマー、 ダグ・ロビンソンと犬のバッファロー。ダグはこの写真の2年前、シュイナード・イクイップメントのカタログ創刊号 にチョックとクリーンクライミングについてのエッセイを書いたことでよく知られている。1972年のその記事の 著名な序文は「それを表す言葉が存在する。その言葉とは『クリーン』である」だ。ピトンの製造と販売からの 離脱は「私たちが長年のあいだに踏み出していく、環境保護への最初の大きな一歩だった」と語るのはイヴォン。

「ピトンは事業の柱だったが、私たちは同時にみずから愛する岩そのものを破壊していた」

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タトル・クリーク・アシュラムで感謝祭を祝う同僚と友人たち。

七面鳥とワインを含むすべてのご馳走はバックパックで運ばれた。

1974年、カリフォルニア州ローン・パイン周辺

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パタゴニアの卸売マネージャーだった ヴィンセント・スタンリー。雪に慣れて おらず、足の冷えを癒す薬を服用中。 カリフォルニア州オーウェンズ・バレー、 バターミルク

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次は ゴーイング・ パーパス

「私たちは株式公開ではなく、 存在意義に向かっている。

パタゴニアは自然から 価値を絞り出す代わりに、 私たちが生み出した富を、 すべての富の源を守る ために使う」

イヴォン・シュイナード

〔上〕サーモンが君臨する場所。デナイナ族の人びと は、アラスカ州ブリストル湾の上流域にある178 平方キロメートルの土地の保全地役権を受け入れ、 キングサーモン・リバーへ流れ込むこの無名の支流 のような、サーモンの重要な生息地の保護を促進 している。Holdfast Collectiveはその地役権の 購入に貢献した。 Ian

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昨年9月、シュイナード家は、一度決めたら後戻りすることのできない意 志を固め、パタゴニアの所有権を〈Patagonia Purpose Trust(パタゴニ ア・パーパス・トラスト)〉と〈Holdfast Collective(ホールドファスト・コレ クティブ)〉に譲渡しました。Purpose Trustはパタゴニアの会社としての 価値を固定化し、501(c)(4)非営利団体であるHoldfast Collectiveはそ の収益の一銭一厘までを環境危機と闘うために使います。

これは斬新ながら、パタゴニアにとっては自然なものです。事実、私たち が私たちの存在意義に向かうことへの最初の数歩は2012年1月、パタゴ ニアがカリフォルニア州で初のベネフィット・コーポレーションとなったとき に踏み出されました。

ベネフィット・コーポレーション(Bコープ)となることには良い理由がた くさんありますが、パタゴニアにとって鍵となったのは、私たちの価値観を 事業定款に掲げる機会が得られることでした。Bコープになることで、私 たちのステークホルダー(利害関係者)である社員、お客様、コミュニティ、 そして自然への忠誠が明確になりました。それはまた、シュイナード家以外 のいかなる個人や団体に株が売却される場合も、売上を膨張させたり、会 社を空洞化させたり、利益を懐に入れたりといった資本主義にありがちな策 略を防ぎ、会社の価値観を保持するための仕組みを創り出しました。そうし たリスクを最小限に抑えるため、私たちは会社の定款や価値観にいかなる変 更を加える際にも、株主の100パーセントの投票決議を要することを確約 しました。

社会的および環境的危機の緊急性を感じていたパタゴニアは、2018年 に「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という新たな 存在意義を取り入れました。昨年2022年の所有権の構築は、その誓約を 永久的に満たすこととなります。

現在Patagonia Purpose Trustが所有するのは会社の2パーセントで すが、すべての議決権付株式を保有します。一方Holdfast Collectiveは 会社の98パーセントとすべての無議決権株式を保有しています。無議決権 株式には経済的価値がありますが、意思決定権はありません。議決権付株 式には経済的価値と意思決定権の両方が含まれます。

パタゴニアは毎年売上の1パーセントを環境保護に取り組む草の根の 非営利団体に寄付しつづけます。この誓約は私たちの事業定款の一部と なっています。Holdfast Collectiveは既存のイニシアチブ(1% for the Planetの加盟更新などを含む)に取って代わるものではなく、そのための 資金と緊急性を増幅する役割を果たします。

「最初の50年で私たちがもたらした最大の影響は、どのようにビジネス を営むか、ビジネスを営む方法を改善するにはどうすればよいかにありま す」と言うのは、パタゴニアのCEOライアン・ゲラート。「そして多くの点 で、それはいまでも求められている最大のニーズです」

所有権の転換後も、パタゴニアはその製品を支える最高質のサービスを 提供するために最善を尽くしつづける、とゲラートは語ります。そしてこの 新しい編成を機能させるためには、会社は成功しつづけなければなりません。 「私たちの創業者は、さらに大きな影響をもたらす機会とともに、新たなス タートラインを私たちに与えてくれました。これから、それをうまくやってい くのは、私たちです。」

すべての超過利益をHoldfast Collectiveに譲渡すると いうパタゴニアの動きにつづいて、グレッグ・カーティスはそ の善意を素晴らしい結果に変えました。新たに組織された同 非営利団体のエグゼクティブ・ディレクターに就任した彼は、 早々にパタゴニアの友と力を合わせてアメリカの中間選挙に おける闘いに身を投じ、土地および水域を保護するための一 連の機会を追求しました。「パタゴニアの慣習的な理念のひと つに、『決意を固め……それから見つけ出す』があります」と言 うグレッグ。「私たちはHoldfast Collectiveとともに非常に 大きな決意を固めました。そしてそれ以来、私たちは解決策 を見つけ出しつづけています」 2022年9月以来発足した取 り組みには以下があります。

ニューヨーク州北部で、Holdfast Collectiveは〈ノース イースト・ウィルダネス・トラスト〉とパートナーを組み、アル ゴンキン公園とアディロンダック公園をつなぐ生物多様性のた めの回廊を約5.7平方キロメートルにわたって確保。

中間選挙期間中、鍵となる激戦州のネバダ、ペンシルベニア、 ジョージアで、気候擁護を支援するキャンペーンを展開。 世界最果てのアルゼンチンのミトレ半島で、〈トンプキンス・ コンサベーション〉をはじめとする多数の団体が33年にわ たって力を合わせてきた闘いに加わり、4,850平方キロメー トル以上の土地と海洋を永久に保護するという勝利を獲得。 〈ティンシェッド・ベンチャーズ〉のマネージング・ディレク ターであり経営企画を担当するアーシャ・アグラワルからの 情報に基づき、Holdfast Collectiveはアラスカ州ブリスト ル湾のデナイナ族の人びとと保全地役権を共同作成。これは サーモンの産卵に重要な3つの川を守りながら、デナイナ族 には土地と川への利用の継続をもたらし、企てられているペ ブル・マインへの道路建設は禁止するもの。

「一般的な他の慈善団体とHoldfast Collectiveとの明ら かな違いは、私たちにはパタゴニアが何十年もかけて築いて きた歴史や関係や専門知識があるということです」とグレッグ は語ります。「この文化を活かしつつ、この取り組みを独自の 新しい方法で拡大できることは、ここでの真の魔法です」

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決意を固め、それから見つけ出す。

パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォルニア州 ベンチュラ、ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。私たちの今日の暮らしと憩いの場となっているこうした地域から、先住民族の人びとを追い出した歴史 の不正を私たちは認識し、ファースト・ネーションズがみずからを定義するための権利を支援します。大量絶滅を回避して故郷である地球を気候危機から救うための 取り組みは、先住民族の人びととの相互協力を誓ってこそ成功するものと、私たちは信じます。

〔表紙〕本誌の前半の数ページを優雅に飾るレイ・コリンズの写真は、崖沿いを泳ぎながら撮影されることが多く、個々の波が彼の作品の焦点となっている。 オーストラリア、ニューサウスウェールズ州サウス・コースト Ray Collins

〔裏表紙の内側〕2022年9月のパタゴニア最優秀社員となったイヴォン・シュイナードは、ティエラ・デル・フエゴに差しかかるときはいつもご機嫌。12月、 アルゼンチンはパタゴニアの先端域を新たな公園(イヴォンが寄贈した土地を含む)と海洋保護区に指定した。ここはかつて彼がブラウントラウトを釣るために 塩とパン、そして調理のために火を起こすマッチだけを持参したバックカントリーの地。そのディナーはこの写真が撮影された前夜に供された。

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100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙100%使用のFSC®〈森林管理協議会〉認 証紙に印刷しています。このカタログの製造には1本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは25 年以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙100%に切り 替えたのは2014年のことです。

火星ではない

This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet ® a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; Fair Trade Certified™, a trademark of TransFair USA DBA Fair Trade USA; FSC® and the FSC Logo®, registered trademarks of the FSC International Center; and Velcro®, a registered trademark of Velcro Industries B.V. Patagonia® and the Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. Other Patagonia trademarks include, but are not limited to, the following: H2No™, Micro Puff ®, Nano Puff ®, Patagonia Films® and Stand Up™ © 2023 Patagonia, Inc.
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