「過去に何度もトーレス・デル・パイネを 訪れているけど、この岩塔群を目にした ときの気持ちはずっと変わらない」と言う ニコ・ファブレス。「なんて場所なんだ!」 Drew Smith
「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」の31ピッチ目。
傾斜の強い7cのフィンガークラックのタフな オンサイトトライの末に、血だらけでやや落胆 気味のショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコール。
ほんの6週間前に肘を故障した彼は、このときも まだ持久力を完全に取り戻してはいなかった。
チリ、トーレス・デル・パイネ国立公園 Drew Smith
目次
嵐を乗り越える
トーレス・デル・パイネ国立公園での ビッグウォールとの苦闘。
M10アルパイン・シェル クライマーの意見が一致するギア。 ファンホッギング 飽くなき冒険を追求する者たち。
シール登高という芸術 登りのトレースは、自己表現。
ペースを保つ
長距離ランナーをサポートすることが もたらす2つの勝利。
1974年のPCT
マカロニ&チーズなしでは語れない思い出。
着ることについてのストーリー アンバサダーたちが惚れ込んだ最愛のギア。
1日の仕事
リノにあるパタゴニアの倉庫で日ごとに 行われる修理。
私たちのパワー 投票という難関を越えるために、私たちに できることを呼びかけるジェーン・フォンダ。
息をする権利 きれいな空気のために地元で闘う活動家。
私たちの気候に対する取り組みは 十分なのか 企業としてのみずからの努力に対し、 現実的になることの必要性。
グリーン違い 触れたすべての川を破壊するダム。
ユーレックス・ウェットスーツ 樹液がウェットスーツになるまでの旅。
古い地球に響く若い声 世界中の若者から集められた詩や散文。
生命がはじまる場所 アラスカで危機に瀕するたくさんの命。
嵐を乗り越える クライミングにおける
最悪の条件下での最高の報酬とは。
〔上〕南米パタゴニアの「ライダーズ・ オン・ザ・ストーム」の4ピッチ目で 悪天候に見舞われたショーン・ ヴィラヌエバ・オドリスコール。
〔右〕敗退前にビレイポイントで ロープを束ね直す。ギアを良い状態 に保つために、嵐の到来に備えて 万全を期すことが重要だ。
〔前頁〕ルートへ向かうニコ・ ファブレスとショーン、そして ここには写っていないシーベ・ ヴァンヘ。「岩塔へ近づくにつれて、 自分がちっぽけに感じられる」と 言うのはニコ。
文とキャプション ニコ・ファブレス
写真 ドリュー・スミス ドリューのカメラのレンズに映し出され た光景は、僕らの状況がいかに常軌を 逸しているかを物語っている。シーベ はハンギングビレイで震えているはずだ。
彼は1時間以上も僕をビレイするために 待っていた。ショーンが僕と同じように 凍てついたクラックから氷をかき出して いるのが見える。僕は登る代わりにナッ トツールで氷を打ち砕いている。僕らは もう11日間この壁に取りついていて、こ の7日間は天候の回復を待っていた。こ こ南米パタゴニア、「ライダーズ・オン・ ザ・ストーム」の23ピッチ目にいる僕ら の行く手には、ハードなクライミングが まだたっぷりと待ち構えている。この ルートをフリー化できるかどうかの唯一 のチャンスは、どれだけ苦しみに耐えら れるか次第ではないかと思いはじめて いる。いまでは、氷を叩いているのは、 もはやピッチを登りやすくするためでは なく、体を温かく保つためだ。僕はいっ たいここで何をしているんだ。
僕 のクライミング歴はもう数十年になるが、こんな状況でク ライミングをするなど、考えたこともなかった。気温は氷 点下、風は吹き荒れ、岩には氷が詰まっている。手袋をはめ ていても指の感覚はほとんどなく、足の感覚は皆無。とはいえ、 次の嵐が来るとさらに2日間ポータレッジに足止めを食らうこと になりかねない。それが説得の材料となって、僕らはトライする ことにした。失うものは何もないだろう、と。
ひとつひとつのムーブ、そしてプロテクションをどう設置する かを頭の中で反芻し、あらゆるリスクを想定する。前向きな気 持ちで自分を奮い立たせようとするが、悪天候、露出感、そし てチームメイトの沈黙が、僕の疑念をますます大きくする。
この場所にいた20年近く前のことを鮮明に覚えている。当時 は、その経験がのちの18年にわたる僕のクライミング人生を形 成することになるとは、まったく思いもしなかった。まだ20代 前半で、高山のビッグウォールを登ることに夢中になりはじめた ころだ。まるでお菓子屋にいる子どものように冒険に飢えていた ものの、経験はまったく未熟だった。その僕もいまでは40代の 既婚者。クライミングはいろいろな面で上達したものの、このよ うな山岳地域での判断ミスや予想外の危険が深刻な結果を引 き起こすことも目の当たりにしてきた。
若いころは僕は認識が甘かったのか、それともたんに怪我を あまり恐れていなかったのか、それはわからない。けれども久 しぶりにここに戻ってくると、以前よりもずっと危険を意識するよ うになったことに気づかされる。後退することを昔よりも容易に 受け入れることができる。世界中のビッグウォールを登ることで 得た迫力ある経験のおかげで、僕は素晴らしい人生を手に入れ た。でも、それを失うことをこれまで以上に恐れている気がする。 「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」に戻ったいま、僕らはそのフ リー初登に挑んでいる。このピッチは最も傾斜が強いうえ、非 の打ち所がない黄金の花崗岩に走る極細のシンクラックを突破
午後11時、嵐が迫るなか、 ようやくキャンプに戻ってきた。 進展が遅く、長い1日となったが、 ポータレッジの中から夕食の匂い が漂ってくる。すぐにでも中に 入りたいが、まずはハーネスに 装着したギアを外さねば。
朝の通勤中のショーン。
する必要があり、とりわけ手こずった記憶がある。ルート上 部へと抜けるための核心となるピッチで、フリーで登られるこ とは稀だ。どのホールドも重要きわまりなく、むき出しの壁 でパタゴニアの壮大な景観の上空800メートルにさらされな がら、滑らかな岩肌を登っていく。これは僕にとって完璧な ピッチの定義だ。少なくとも、氷を削り落としていないときは。
重圧が肩にのしかかるのを感じる。見込みは薄いものの、 今日先へ進めるかどうかは自分にかかっていることは承知し ている。ショーンの平然とした態度からは、彼の感情は読み 取りにくい。彼はまだ、本当に今日登れると信じているのだろ うか。素手で難度の高いムーブをこなし、この氷が詰まった クラックを登る様子を想像する。掃除したばかりのホールド がことごとく雪しぶきに覆われていくと、絶望的な状況であ ることは認めざるを得ない。「尋常じゃない」と言うしかない。
ショーンは僕の方に向き直り、手短にこう答えた。「ここま で来たんだから、絶対にトライしないと。コンディションを良 くすりゃできる」そして氷の除去作業をつづける。
彼は正しかった。自分たちの行動に疑念を抱いても意味 はない。疑念を打ち明けることで、少し同情してほしかった のかもしれないが、こういうときに共感されると余計なことを 考えてしまいがちだ。ショーンはそのことを知っていた。僕 らは精神を強く保つ必要があった。登るタイミングが訪れた ときに備え、脳を遮断して氷をかき出す作業に専念すべきだ。
寒さが和らいだり、風が弱まったりする根拠はどこにもな かったが、それでも、もう1日ポータレッジに閉じこもるより はここにいるほうがマシだった。
何年ものあいだ、自分の快適ゾーンを抜け出して困難に 挑むモチベーションはどこから湧いてくるのだろうと考えてき た。自分ひとりだったら間違いなく断念していただろう。だけ ど、ここにいるチームメイトと一緒なら、もっと深く追求でき る。皆、同じ夢を共有しているからだ。
2時間後にはピッチが整備され、ようやくトライできる状 態になった。トップロープを張ってムーブの最終確認をしな がらウォームアップを行い、指の感覚をできるだけ鈍らせる。 極寒の状況では、それが指の力を最大限に発揮するための 最善策だ。指先に血流が戻ると、あまりの痛みに吐き気がこ み上げてくる。激痛が治まったあとは、指のしびれを少しだ け長く我慢できる。核心部のシークエンスを何度か反復する うちに、ホールドがわずかに湿り、風が弱まってきたことに 気づき、かすかに希望が湧いてきた。
シーベの待っているアンカーまですばやく下降する。ギア をラックにセットし、頭の中で各ムーブをリハーサルしてい るあいだ、全員がそれぞれの配置につく。セルフビレイを解 除すると、心臓の鼓動が全身に伝わってくる。興奮のあまり 序盤のいくつかのムーブでは震えすら感じたものの、先へ進 むにつれてペースをつかみ、流れに乗った。
岩は凍てついているが、各ムーブを練習通りにこなしなが ら、すばやく登っていく。核心部に差しかかるにつれ、指 先の感覚がなくなりはじめた。そしてこれまでで最難と思わ れる試練に直面したまさにその瞬間、僕のクライマーとして の30年の経験が突如として実を結んだ。一緒に登っている シーベとショーン、そしてドリューのエネルギーを感じる。指 の感覚を失いながら、ムーブごとに全身の力を振り絞って対 応する。核心最後のキーホールドはふたたび雪をかぶってし まったが、指をねじ込んで力のかぎりを尽くした。指先は何 も感じないのに、ぶら下がっていられることが奇跡のようだ。 そこから少し簡単になったコーナーを登れば、ピッチの終了 点に到達できる。アンカーにロープをクリップすると、安堵 感が全身にほとばしる。まだあと18ピッチ残ってはいたもの の、ビレイポイントでショーンとドリューとハイタッチを交わす と、下からシーべが祝福の雄叫びを上げた。リードしたのは 僕だが、皆自分のことのように嬉しそうだ。そしてある意味 そうだった。そのおかげで、この経験全体がより充実したも のになったのだから。
ベルギー生まれの ニコ・ファブレス はパタゴニアのアンバサダー。
25年以上にわたり、音楽とクライミングへの情熱を調和させてき た。彼が地球の最果てのビッグウォールで限界に挑み(そして、音 楽活動のための最高の舞台を見つけてきたのも)、その情熱のおか げである。
〔左〕僕にとって完璧なピッチの定義というべき 23ピッチ目。ルート上部への魔法の通路のごとく、 どのホールドも絶妙に配置されている。
〔右〕すべてが凍てつき、寒さは厳しかったが、 数日以内に天候がさらに悪化することはわかって いた。僕らは少しでも先へ進むことにした。
めずらしく太陽が顔を出した 夢のような朝、次の試練に 備えるショーン。
〔左〕23ピッチ目でホールドに付着した 雪と氷を取り除きながら「ここで何を しているんだ?」と自問。これほど寒い 状況で、これほど難度の高いフリー クライミングに挑戦しようとは考えて みたこともなかった。
〔下〕外で嵐が吹き荒れているとき、 内なる自己以外に行く場所はない。
〔右〕「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」 の30ピッチ目を登るショーン。 前傾した美しいフィンガークラックは、 このルートの最後の核心ピッチにあたる。 問題はかなり上部に位置することと、 クライミングに適した条件が揃うことが めったにないということだけ。寒すぎると 登れず、暖かすぎるとクラックが滝と 化してしまう。
寒すぎることは明白だったが、ショーンは 譲らなかった。気温は少なくとも氷点下5度 ほどだったはずで、僕らはビレイポイントで 体を温めるのに必死だった。ショーンが壁に 取りついてからわずか数メートル後、手足の 感覚を失ったまま格闘する彼の叫び声が 聞こえた。まるで命がけで取り組んでいるか のように、叫び声はどんどん大きくなって いった。彼はそのほんの数メートル先で 墜落し、ようやく寒すぎることに同意した。
〔上〕初登者たちの残置物。「ライダーズ・ オン・ザ・ストーム」は1991年にクルト・ アルベルト、ベルント・アルノルト、 ノルベルト・ベッツ、ぺーター・ディートリッヒ、 そしてヴォルフガング・ギュリッヒが初登し、 VI 5.12d A3とグレーディングされた。
〔右〕岩壁での生活は質素だ。寝て、 登って、食べて、用を足して、本を読んで、 音楽を奏でる。他に何が必要だろう。
山頂からの懸垂下降。 「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」 は東壁にあるため、このように 岩塔の影を見渡せることは稀だ。 天候はつねに西から東へと 移り変わり、影が見えるという ことは好天の到来を告げている ということ。
私たちはどのようにそれを作ったのか
アルパイン・シェル M10 文 マイリー・フン
写真 ドリュー・スミス
パタゴニアのフィールドテスト・コーディネイターであるケリー・ コーデスは、猫の群れをまとめるような厄介な役目も果たさねば なりません。アスリートやギアマニアやダートバッグといったメン バーにフィードバックを催促し、取りまとめるという仕事には苦労 がつきもの。だから新しいM10シェルに関する彼のレポートはと ても印象に残っています。初期のM10シェルを使用したことのあ るクライマー皆が回答し、それぞれがほぼ同じようなことを言って いたからです。要するに「M10を復活させろ、いじくり回すな」と いうことでした。「ちょっと驚いたよ、クライマーって意見が一致 しないものだから」とケリーは言います。
2010年の発売当時から、M10はパタゴニアのデザイン理念を 体現していました。つまり、それ以上取り去るべきものは一切あ りませんでした。ピットジッパーもハンドウォーマーポケットもな く、クライミング特有の動きに自由に対応するデザインは、あらゆ るアルピニストが必要としていた軽量でかさばらない防水性/透 湿性レイヤーでした。
「『すばやく身軽に動く機能』が悪天候対応型プロテクションと ひとつになったのははじめてのことで、真に大きな課題に取り組む クライマーのために作られたものでした」と回想するのは、アンバ サダーからアルパイン製品ラインのマネージャーに転身したケイト・
ラザフォード。「それまでそんな製品はなかったし、やっと私たち の希望が聞き入れられた気がしました。とてもスペシャルな瞬間 でした」
しかしその数年後、私たちがM10で目指していたことは、す でに達成されたように思われました。「世界で最もタフなアイスク ライマー50人全員がM10を1枚ずつもっていて、さらにもう1 枚欲しいという人はいなかったから」とケイト。
2018年、クライミングというスポーツにおける他の要求を模索 するなかで、M10は製品ラインから姿を消しました。しかし、そ の地位を引き継ぐ製品はなく、代替の製品が必要になりました。
超軽量なアルパイン・フーディニ・ジャケットは、あるフィールドテ スターに言わせれば「ゴミ袋を着てるみたいなもの」。スーパー・ フリー・アルパイン・ジャケットについては、「シール登高とスキー 滑降が主な目的で、クライミングはおまけというアスリートにはい いかも」と。端的に言えば、アルパインクライマーは、ポケットや ジッパーやパーツなど、重量が増えるものを正当化する気にはな らないということ。「誰もがM10に何を求めているかは明確だっ た。そもそも最初に皆が気に入った理由はそこにある。必要なも のは全部備わっていて、余計なものは一切ない」とケリーはつづけ ます。「完全なレースカー、フェラーリみたいなものなのさ」 〔左〕「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」の23ピッチ目の核心部に向かう ニコ・ファブレス。レッドポイントトライの長い1日の終わりだったが、 ここ数日ではじめて天候がもち、チームは前進しつづけることを決めた。 パタゴニア、トーレス・デル・パイネ国立公園
ほとんどのホールドが雪と氷に埋もれていたにもかかわらず、 「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」の25ピッチ目を完登する ショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコール。
M10を復活させるにあたり、私たちは素材をもっと改良でき ることを知っていました。2024年のM10ストームは、2021年 にデュアル・アスペクトのシェルに初採用されたテクノロジーで 悪天候への対応力と透湿性に非常に優れた3層構造の生地を さらに軽量化し、PFC/PFASを意図的に使用せずに作りまし た。また、M10アノラックにカーバッテリーの技術を取り入れて います。衣料品に使われる多孔質メンブレンのほとんどは化学 的に製造され、溶剤に浸すことを要され、それにより生成され る孔の大きさは不規則です。しかし自動車メーカーが開発したナ ノ多孔質メンブレンは機械的に製造され、素材を引き伸ばすこ とで均一な極小の孔を生成します。M10アノラックに採用した Xporeナノ多孔質メンブレンは、そうしたカーバッテリー用のメ ンブレンと同じように作られているため、一貫した大きさの孔が 雨や雪の浸入を防ぎながら、汗や熱は逃すことができます。だ から刺激の強い化学物質を使用することなく、透湿性に非常に 優れた防水性素材が実現したのです。
「型破りなテクノロジーを他の業界からアウトドアへと導入する のはエキサイティングなことです」と言うのはケイト。「高山という 環境は、こうした類の革新の実験場なのです。高い山でそれが 機能するなら、他のスポーツのコミュニティでも使えるはずです」 とはいえ、M10のストーリーで最重視されるのは動きやす さ。完全防水性素材は一般的に伸縮しないため、シェルにおい てはウェアのパターンがとくに重要になります。テクニカル・ア ウターウェア・デザイナーのエリザベト・エルファは、シニア・パ ターン・エンジニアのジェイミー・レッドファーンとともに時間を かけて、ダンスからアイデアを得ました。
「私はクラシックダンスの訓練を受けた経験があり、まずダ ンサーとして考えることがほとんどです」と語るのはエリザベト。 「踊っているとき、動きやパフォーマンスを妨げるものがあっては なりません。クライミングに挑戦したときも、ダンスの動きを使 いました。だから着心地や見た目も似ているのがいいと思いま す。苦労なくやり遂げ、美しい流れで動けるように」 それから クライマーたちの脇の下の写真と何か月もにらめっこをし、エリ ザベトとジェイミーは脇の下のまちのデザインを完全に変えまし た。それにより元祖のM10よりも動きやすく、裾のずり上がり もほぼないというのは、最もうるさいフィールドテスターたちでさ え納得しました。
エリザベトとジェイミーのデザインに対する融合的な取り組み 方は、新しいM10ファミリーの随所に見られます。M10ストー ム・ビブの、ベースレイヤーに手が届くようジッパーのない伸縮 性の開口部はサイクリング用ビブから。M10ストーム・パンツ の4ポイント・ガセットは、柔術着からヒントを得ました。「M10 は焦点を絞った製品だが、動きやすさの概念を拡大して考えて みたことで可能性が広がった、というのはじつにイケてる」とケ リーは説明します。「より大きな世界に目を向けて焦点を当てな おすというのは、最高のデザイナーたちの成せる技だ。」
「パタゴニアが他とは違う多くの点のひとつは、新しいアイデア はどこからでも生まれるということ」とジェイミーはうなずきます。 「良いものでありさえすれば、特定のグループの人から生まれる 必要はありません」
マイリー・フンはパタゴニアのクライム部門のマネージング・エディター。
「ちょっと驚いたよ、クライマーって意見が一致しない ものだから。M10については満場一致。必要なものは全部 備わっていて、余計 なものは一切ない」 ケリー・コーデス
「シェルにしてはとても静かで、シェルを着て いるような感じがしない。とくに登っている あいだは、動いたり止まったりするのがより 自然で、透湿性もかなりいいし、絶対に暑く ならない」
アン・ギルバート・チェイス
「腕と肩のパターンは驚異的! どんなに がんばって腕を頭の上に伸ばしても、裾が ずり上がることはない。この製品で達成した ことが何であれ、このパターンは殿堂入り にするべきだ。そしてパタゴニアのすべての シェルの基準にすべき。素晴らしい」
ケリー・コーデス 「このジャケットはとても気に入っている。 とくに生地が最高」
ソニー・トロッター 「アイスクライミングとミックスクライミング に使ってみたけど、すぐにお気に入りの ジャケットになった」
ドルテ・ピエトロン
「スキーツアリングにもこれで行くのが 楽しみ。私のナノエアとダウン・ セーターの上に快適にフィットする のも嬉しいわ」
ジャスミン・ケイトン
「フードはヘルメットありでもなしでも ピッタリとフィットする。ついにカットを 極めたみたいだね、脱帽!」
ジョン・ブレイシー
「ダブルのチェストポケットが大好き、 イエーイ! 配置と容量もバッチリみたい。
腕を頭の上に伸ばせる(クライミング中 にはたくさんやる動き!)点は、これまで 着たハードシェル・ジャケットのなかでは おそらく最高だと思う」
コリン・ヘイリー
「以前の230グラムに対して、今回のは 298グラム、ちょっと重くなったのには 気づいた。長めのカットはナイス。
旧バージョンはクライミング中に腕を 伸ばすとき、ハーネスからずれて はみ出ないようにするのが大変だった から。増えた重量は胴部と袖に加えた 生地からくるのかな。でも素晴らしい! M10が復活して本当に嬉しい!」 ヴィンス・アンダーソン
「これはウェールズの山の天候下で 登るにはもってこいのジャケットと なるだろう」
エマ・トワイフォード
M10アルパイン・ シェル製品は こちらへ
ファンホッギング fun hog (noun) fun hogs (pl) fun hoggin’ (verb); alt. phun hog: 〈名詞〉飽くなき冒険者〈複数形〉飽くなき冒険者たち 〈動詞〉飽くなき冒険をする〈同義語〉飽くなき冒険を追求する 学名phunhoggopithecus(ファンホッゴピテクス)属。パンゲア大陸全域にわた る以下の場所――岩場、ポイントブレイク、トレイル、高山の頂、砂漠、密林、酒 場――などで見られる、穴ぐらに棲んだり高所に登ったりする性質をもつ水陸両生 の哺乳類の総称。単独または群れでの行動を繰りかえし、興奮のエネルギーが高 まる場所などに出現する傾向がある。大きなスウェルで立ち込める波しぶきのなか や、完璧な砂岩のスプリッタークラックから現れたり、登った跡が見当たらないの に稜線に立ち、滑降の準備を整えて待機している姿などが、その例として挙げら れる。最初にその目撃が記録されたのは1968年のアルゼンチン。イヴォン・シュイ ナード、ディック・ドーワース、ダグ・トンプキンス、クリス・ジョーンズ、リト・テ ハダ・フロレスが、セロ・フィッツロイの山頂で「Viva Los Fun Hogs」という旗を 掲げた。少なくとも1人の地元民が、「その『スポーティな豚肉』って誰だ?」と尋 ねていたという言い伝えがある。ファンホッグは老子の教えを想起させるが、その 道を指し示すだけで、最も簡単な道を選ぶことはなく、つねに自己の力を頼りにす る。その名の通り、セットの波に向かって甲高い声を上げ、ヒヅメでVサインを作 る。ルートのリードやファーストトラックを他者に譲ることを厭わない。だが、先に 行くことを躊躇する者がいれば、その機会はすかさず手に入れる。繁殖行動はキ ノコに類似し、エンドルフィンや笑いや生命エネルギーといった伝染性の胞子を風 に乗せて送る。ファンホッグはドラムサークル、採餌、高山の湖での水浴び、そし て太陽で温まった花崗岩の上での長い昼寝などから滋養を得て、さらなるすべての お楽しみに備えることができる。
コロラド州ボルダーでのクライミングやカリフォルニア州トラン カスでのボディサーフィンに導かれ、1986年からパタゴニア に携わってきたマイク・ロジャースは、そこでハングドッグやバ ジャーをデザインし、現在はファンホッグのイラストを描いてい る。妻のディアドラとともにアリゾナ州プレスコットに在住。
シール登高 文 リア・エヴァンス
シール登高をしているときは、考える時間がたっぷりとあり ます。シール登高は動的瞑想であり、何時間ものあいだゆっく りと集中しながら単純な運動を繰りかえすことで、解き放たれ た意識が自由にさまよいます。
私はこの10年間、シール登高で先頭を引いたり、人の後ろ につづいたりしながら、自分のあとをたどる人に思いを寄せる ことに、数えきれないほどの時間を費やしてきました。それぞ れのトレースは、目印と同じように、それを描いた人の動機や 山に対する姿勢が秘められています。つねに自分のルート取り が適切かどうか自信がなくて自問しつづけるような、自分を意 識しすぎる人もいれば、正確さや効率を計算して登る人、ある いは効率などお構いなしに頂上への最短ルートを狙う人もいま す。そして、ただ登るのではなく、地形とのダンスを楽しむよう に自己を探求する実存主義的なアプローチを取る人もいます。
さまざまなトレースを見れば見るほど、そこには共通のスタイ ルやテーマが存在することに気づくようになりました。私は雪 に覆われた山をキャンバスに、トレースを付けるライダーたちを アーティストに見立てました。彼らの作品があちらこちらに描 かれた風景は、まるで厳寒のアートギャラリーのように思えます。 そんなアーティストたちをご紹介します。
かけがえのないキャンバスの例を挙げるとすれば、それはブリティッシュ・ コロンビア州セルカーク山脈にあるロジャーズ・パスだろう。ここでは2人 のアーティストが、こんもりとした丘が連なったような斜面に気分屋が 描いたような筆さばきでラインを描いている。 Bruno Long
「技術者」 トレースを付ける人のなかで最もよく知られ、最も感謝されるのは、お そらくこのタイプでしょう。物理学を駆使してすべてのキックターンを計 算し、より大きな論理に向かって一歩一歩進んでいく。彼らの多くはガイ ド業に就いていたり、バックカントリーに関する高度な知識をもっている ことが多く、地形や天候、雪崩の可能性などを考慮してシール登高します。 身体的にも鍛えられ、相当な距離を進みますが、不用意にエネルギーを 浪費するようなことは決してありません。つまり効率性を重視し、(少なく とも、次に雪が降るまで残るくらい)長持ちするトレースを残します。
「前もって計画することで、より良いトレースを付けられます」と言うの は、ACMGのスキーガイドであるアダム・ゾック。「いつも、かなり安全 な場所にトレースを残すようにしています。僕が滑るその日のためだけで なく、2週間後、3週間後にやって来る経験の浅い人たちがトラブルに遭 わないための、より安全で役に立つ選択肢になる、そうした手助けがで きるトレースになるよう心がけています」
「僕がいちばん楽しんでいるのは、メンタルな 挑戦。とんでもない地形に出くわして、 なんとか楽なルートを見つけることほど 好きなことはない」 ——アダム・ゾック
うまくシール登高することは、パウダーを楽しむ機会を増やすことにつながる。 一定の角度を保ち、長めにトラバースすることで、登りが楽に感じられるようになる。 つまりそれは登り返し、そしてまた次の登り返しにも、十分なエネルギーを残せる ということだ。ブリティッシュ・コロンビア州レベルストーク Ryan Creary
「 調査隊」 「調査隊」が付けるトレースは生来の好奇心を満たしてくれま す――これは独創的なラインなのか、ただ蛇行しているだけな のか。意図的に何かを探しているのか、あてもなくうろうろして いるだけなのか。「調査隊」にとってシール登高は、滑降ルート の可能性を調べ、地形を探り、シールを使って登る技術の限界 を試すものです。目的に応じてすでにあるトレースに出入りする のもよくあることで、効率のためなら動物が歩いた跡も利用し ますが、たくさんの寄り道や回り道は、それを追う人には謎と なるかもしれません。
「じつは私、目的地に着きたくないんじゃないかっていうト レースを付けてるのよ、ってよく冗談を言います。だらだらと長 く曲がりくねった、のんきなラインを」と言うのは、バックカン トリーでの調理を専門とするシェフのセリーヌ・ルシアー。「で も曲芸的なキックターンや機敏に動くのも楽しいから、他のス キーヤーが良かれと思ってターンする場所を削っていたりする と、ちょっとがっかりすることもあるわ」
「シールで登ってきたトレースの形状を 見て、他の人たちの心中での変化を 推測するのを楽しんでいます。
まるで探偵になった気分よ」
セリーヌ・ルシアー
日の出とともに始めて、日の入りとともに締めくくるティム・ハガティ。 ブリティッシュ・コロンビア州モナシー山脈 Ryan Creary
ユタ州ワサッチ山脈のリトル・コットンウッド・キャニオン は、極上のバックカントリーの地形に事欠かない。しかし、 ソルトレイク・シティに近いということは、ノートラックを 獲得するための競争が激しいということ。 Lee Cohen
「とにかく やっちゃえ派」 この「とにかくやっちゃえ派」の威勢のいい人は、興奮とフワ フワの雪に駆り立てられます。そのジグザクのトレースは、稲 妻のようであり、上に向かって放たれたレーザー光線へと化し ます。一般的に、この手のトレースを付ける人は、できるだけ 早く目的地に着き、時間通りに仕事に戻らなければならない人 か、もしくはただ誰よりも先にノートラックの夢のパウダーにあ りつきたい人たちだったりします。この急傾斜のトレースを追う 人は心拍数が上がり、ベースレイヤーが汗まみれになって後悔 することになります。
「結局のところ、登るために来るんだ」と言うのは、ブーツ フィッターであり大工でもあるブライアン・コールズ。彼の登り のトレースは容赦なく急です。「山にいるのは、そこで独特な 経験をし、自分を駆り立て、仲間と楽しむため。一歩前に進む ごとに、魂を満たしてくれる」
「シール登高でトレースを刻むのは、 期待と興奮で目がくらむような感じ。 まるで誰もいないビーチにきれいな 波で乗り上げるような感覚だ」 ——ブライアン・コールズ
地形に耳を傾けると、効率よく登るトレースを付けられるだけでない。
大地に跡を残すのではなく、それを引き立てることにもなる。この写真は、 スプリットボードで登りながら地形の起伏に思いをめぐらせるフォレスト・ シアラーの姿。カリフォルニア州レイク・タホ近郊 Cole Barash
「スピリチュアル・ ウォーカー」 この禅的なトレースを付ける人は、ルート取りを直観的な旅路として とらえます。それは地形の起伏に沿って舞い、板を滑らせること。彼 らは山の声に耳を傾け、自然に身をゆだね、母なる大地と自分自身の 心、体、魂とのつながりを深めていきます。ツアリングには精神的側 面と身体的側面があり、彼らはその違いをよりよく理解するためにみず からを追い込みます。
「トレースがあると、心は自由にさまようことができます。複雑な地 形にトレースを付けるときは、無数の微調整に対応できるよう、あらゆ る地形の微妙な変化に神経を集中させています」と語るのは、写真家 であり作家のマシュー・タフツ。「その最中でも、流れやリズムを見つ けたとき、つまりまさに地形とダンスをしているとき、大地から互恵的 なエネルギーを受けることができます。それは爽快で感覚を鋭く刺激 し、地に足をつけ、魂を養うことが一度にできる体験です」
「ルート取りは、つながりを感じるための最良の方法のひとつになり得る。それには、耳を傾け、観察し、理解することを要するからだ」
カナディアン・ロッキーの山奥で 1,500メートルの滑降を 繰り広げる著者。 Steve Ogle
すべての絵画を気に入るわけではないように、すべてのシール登高の トレースが万人の好みに合うわけではありません。しかし、問題はそこ ではないのです。ツアリングは、日常生活でやるべきことに埋もれた自 分、真の自分と向き合う時間を与えてくれます。それは、文章をつなぐ 言葉のあいだに打たれたスペース、息継ぎをする瞬間のようなものかも しれません。
アリストテレスは「芸術が目指すものは、物事の外見ではなく、内面 にある意義を表現することである」と説きました。恋愛の化学反応のよ うに、私たちはトレースとそのトレースがもつ意図に惹かれます。トレー スの価値を決めるのは私たちがすべきことではなく、トレースを付けた アーティストとそのアプローチを理解し、評価することです。
結局のところ、どのトレースも同じように山の恩恵を授けてくれます。
そしてそれぞれは、唯一無二であると同時に無常でもあります。やがて 次の嵐がそれらのトレースをすべて消し去り、次のアーティストが目印を 残すための真っ白な雪のキャンバスが残されます。
プロスキーヤーのリア・エヴァンスは、〈Girls Do Ski〉キャンプと地域のアップ サイクル祭〈Re-Fest〉の創立者で、ブリティッシュ・コロンビア州レベルストー クに在住。
ペースを 保つ 文 リサ・ジュン
写真 ブレンダン・デイヴィス
最初に転んだとき、トムの体はもう何時間も前か ら硬直状態だった。彼は「2001年ウエスタンステ イツ100マイル(約160キロメートル)・エンデュラ ンスラン」の約85マイル(137キロメートル)地点 にいて、私は最後の約20マイル(32キロメートル) を彼と一緒に走っていた。24時間以上トレイルにい て、彼の筋肉は体が左に傾くほど、ひきつっていた。
岩や木の根や窪みに当たって足元がぐらつくたびに、 バランスを崩して転倒してしまう。私はそんな彼の 体を起こし、右腕を地面に向かって引いて、まっす ぐに立たせる。そうやって、私たちはまた、一緒に 走り出す。
私たちをつないでくれたのは、ある共通の友人 だった。トムはペーサーを必要としていた。レース の一部を一緒に走り、食料や水の補給を助けて効 率よく走ることができるようにしたり、悪い冗談を 言いながら楽しいパートナーとなる人を。私は、そ の夏の終わりに開催される、数日にわたるアドベン チャーレースのトレーニングのために、長距離を何 日も走るトレーニングを必要としていた。私は29歳、 トムは64歳で、私たちは34歳もはなれていてお互 いについてほとんど知らなかったことは、問題では なかった。
ペーサーの仕事はランナーを走らせつづけることだけではない。 「ネバー・サマー100K」でエイミー・マルコヴィッチに重要な スイカを手渡すリサ・ジュンは、その好例。
夢を追う人たちを 何度も助けることで 自身を成長させる あるランナー。
その報酬として私が得た ものは、友情、コミュニティ、 目的意識、一歩踏み出して 自分よりも大きな何かの一部
になる機会など、はるかに 大きなものだった。
それに突き動かされないで いることは不可能だった。
そして、それをまたやりたい と思う衝動を抑えることも。
私は62マイル(100キロメートル)地点のフォレストヒル・エイドス テーションでトムを待ちながら、私のしつこいジャンパー膝が彼の足手 まといになるのでは、と心配していた。私のせいでペースが落ち、次の ペーサーに彼を引き継ぐ前に失格になるのではないかと。でも、その夜 に砂埃を上げて走り出すと、私の痛みも、新しいランニングパートナー であるということのぎこちなさも、あっという間に消えていった。
トムと走る時間が長くなるにつれ、私は自分の体を感じなくなった。 膝の痛みは消えていた。私は自分の任務だけに集中し、トムにはエイ ドステーションを素通りさせた。私は彼のウォーターボトルに水を補給 し、行動食をつかむと、彼に追いついた。カットオフまであとわずかの ところで、食事休憩を取る余地はない。私は走りながら頭のなかでタイ ムを計算し、次のエイドステーションに少しでも早く着き、失格になら ないよう、彼を励ました。トムがウエスタンステイツに挑戦するのは今 回が3度目で、彼がどれほど完走を望んでいるかが痛いほど伝わって きた。もし彼に私の左半身を譲ることができたなら、きっとそうしてい ただろう。
彼がレースの制限時間に間に合わず、94マイル(151キロメートル) 地点で失格となったとき、私たちはふたりして泣いた。でも帰りの飛行 機では、私は窓に頭をもたせかけて、確かににんまりと笑みを浮かべ ていた。大好きなスポーツを経験する新しい方法を見つけたのだ。そし て、またこの役目を果たすことを誓った。
***
次の機会は3年後の夏に訪れた。新しい友人ダーシーのペーサー をすることになったのだ。彼女は意図せず私を威圧する傾向があった。 彼女がある冬のアドベンチャーレースで私を打ち負かしたのが出会い だった。その後、私はダーシーが住むコロラド州ボルダーに引っ越した。 それ以来、何度か一緒に走ったことはあったが、この午後のセッショ ンはそんな彼女にとってはその日2回目のセッションであることは確か だった。
「レッドヴィル100」の76マイル(122キロメートル)地点で、日没後 まもなく、ダーシーは私と合流した。彼女は第3位につけていた。私 はそこからゴールまでペーサーを務めながら、彼女についていけるかど うか緊張していた。エイドステーションを出るたびに、私のストレスは 募った。給水パックは十分に補充したかしら、行動食は足りるかしら、 次のエイドステーションまでの距離計算は正確だったかしら……と。
「手袋をちょうだい」とダーシーが言ったのは、夜更けに高山の空気 が凍えるほど冷たくなったときだった。私はストライドを乱すことなく、 背負っていた彼女のパックをくるりと体の前に移動させ、なかのギアを かき回した。片方が見つかった。ホッとして、それを彼女に手渡した。 のろまな新入社員の私は、永遠にも思えるほど引っかき回したあげく、 やっともう片方の手袋を見つけ、彼女がそれをはめるのを手伝った。
私たちはターコイズ・レイクの周辺を走り、背の高い松の林のあいだ から月の光がきらめく水面を垣間見た。私は前を走り、夜の暗闇のな かでダーシーを導いた。やがて町へ向かう3.5マイル(5.5キロメート ル)の上り坂に差しかかると、遠くで発電機の音がするのが聞こえた。 ゴールだ。ダーシーを確認しようと振りかえると、私たちの背後に2つ のヘッドランプが見えた。確かに女性の声が聞こえた。
ランナーは個人としてトレイルレースに出場するが、 チームとして完了する。マルコヴィッチ(右)が空の ボトルと満タンのボトルを交換するあいだ、ジュン(左) は彼女のシューズの交換を手伝い、マルコヴィッチの母 (上)は行動食の注文を取る。
私はペーサーを務めると、よい気分になることに気づいた。
……ブラッドのチームの一員として見つけたコミュニティは、
まさに私が必要としていたものだった。私は自分が 完全で、バランスがとれていて、有用な人間に感じられた。
「追いつかれるわ」と私は彼女に言った。ダーシーは何も答えなかった。
私はもう一度振りかえった。そしてもう一度。
「それ、やめてよ」とダーシーは言った。私は彼女をイラつかせていた。 でも、もし私が彼女だったら、イラつかせてほしいはずだと思い込んだ。 その後のことはそのときになんとかすればいい。
私は何度も後ろを振りかえっては、ペースを上げつづけた。ダーシーは 私がいなくてもペースを速めることはできただろう。でも私はプッシュし つづけ、彼女もついてきた。
そのレースのあと、ダーシーがもう午後のランニングに誘ってくれるか どうかわからない期間がしばらくあった。私はこの町で一緒に走ってくれ る新しい人を見つけなければならないのだろうかと思った。ペーサーとし ては成功したはずなのに、友人としては失敗したのかもしれないと思い悩 んだ。私たちが深い絆で結ばれ、友情を築くために必要だったのは、一 緒に走った時間と距離だけだったということが、あとになってわかった。
私はカルマ(業)を信じない。私がトムやダーシーのペーサーを務めた のは、別の機会に恩返しをしてほしかったからではない。私は彼らに食 料や水や精神的な支えを提供し、彼らが付いてきやすいように前を走り、 彼らの後ろからヘッドランプで道筋を照らしたかもしれない。でも、その 報酬として私が得たものは、友情、コミュニティ、目的意識、一歩踏み 出して自分よりも大きな何かの一部になる機会など、はるかに大きなもの だった。それに突き動かされないでいることは不可能だった。そして、そ れをまたやりたいと思う衝動を抑えることも。
***
数年前、私は友人であり隣人でもあるブラッドのために、14マイル (22.5キロメートル)のペーサーを務めようとレッドヴィルに戻った。彼の 家族と私は100マイルコースの62マイル地点にあたる、ツイン・レイク スの高山の谷で日没を迎えたブラッドのことを心配していた。午後9時、 ブラッドは19時間走りつづけていた。彼は標高3,840メートルにそびえ るホープ・パスの峠と、私たちがやきもきしながら待つキャンプ場の駐車 場のあいだのどこかにいるはずだった。
私が最後にレッドヴィルに参加してから数年のあいだには、いろいろな ことが起こった。まずはパンデミックが本格化した。その直前、私の父 と母が3か月のあいだに立てつづけに亡くなった。その悲しみだけでなく、
そのあとの途方に暮れるような手続きに奮闘していた私に、ある賢明な 友人が勧めてくれたのは、誰かのために何かよいことをする、というもの だった。「そうすることで、自分の状況に対する気持ちを晴らしてくれるこ ともあるから」と言われた。私はそうした、そしてそれはその通りだった。
私はペーサーを務めると、よい気分になることに気づいた。2人の子ど もを育てながらも未だ冒険に憧れがあり、両親ともにこの世を去って埋め がたい心の痛みを残していた人生のこの時期、ブラッドのチームの一員と して見つけたコミュニティは、まさに私が必要としていたものだった。私 は自分が完全で、バランスがとれていて、有用な人間に感じられた。こ のレースでダーシーのペーサーを務めてから20年近くが経ち、私は誰か のゴール達成を手助けすることは、私自身がゴールを達成するよりもやり がいのあることだと思うようになった。
午後9時半、上下に揺れるヘッドランプがブラッドの汗だくの顔を照ら し出した。私たちはアウトドア用チェアや、クーラーボックスや、コンロや、 食料とギアが念入りに整頓されたプラスチック容器などでいっぱいの休 憩所に彼を導き入れ、そこに座らせ、ソックスを履き替えさせ、ラーメン を食べさせた。ツイン・レイクスを出発する制限時間の午後10時の数分 前、ブラッドは立ち上がり、周囲に集まった人びとの歓声とベルに送られ てまた走り出した。
この100マイルレースの最初の62マイルは、ブラッドが単独で走っ た。ここからは私が一緒だ。私は彼のパックを受け取り、自分のパック の上に乗せた。おなじみの役目に戻った私は、コロラド・トレイルのシン グルトラックへの短い急勾配の坂を喘いで上りながら、彼の動きを見極め た。アスペンの梢の上で満月が踊り、真夜中近い漆黒の空を照らしてい た。私たちはリズミカルな足音を、ブラッドがここまでのレースで分かち 合った物語のBGMにしながら、暗闇のなかへ一緒に踏み込んでいった。 私たちはパートナーとして調和した。
私は自分の任務に真剣に当たった。45分ごとに、歯で開けたエナジー ジェルをしっかりと、でも優しくブラッドに手渡し、彼がそれを完食した のを確かめると、そのゴミを引き取る。30分ごとに、塩タブレットを渡 し、私の給水パックのチューブか彼の給水フラスクからの水でそれを飲み 下させる。自分が水を飲むときは、彼も十分に水を飲んでいるか確認す る。下り坂や平地は軽やかなペースに、上り坂は力強いペースにする。 彼を励ます。前向きにさせる。良きパートナーでいることに努める。14
マイルを走り5時間が経った午前3時頃、私はブラッドを 次のペーサーに引き継いだ。私たちが稼いだ時間は45分。 私は満足して眠りに就いた。
ウルトラマラソンは馬鹿馬鹿しいほど大変だ。ブラッドは 残念ながらその年、ゴールまであと数マイルというところで 失格してしまった。しかし翌年8月、彼は再びレースに戻る。 そして私も。
ツイン・レイクスで待機するあいだ、私は2人用テントの なかで1日を過ごした。真っ昼間で騒々しいにもかかわらず、 読書、食事、昼寝、執筆、そしてさらに昼寝。各ランナー のサポートチームやペーサー、犬、発電機、アナウンサー の声や音が飛び交うせわしない場所の真っ只中で、私はま どろんだ。
私はものごとの側面を区別して、相互に影響をおよぼさ ないようにするのが上手くなった。両親は生きていた最後の 数年間を、カリフォルニア州サンディエゴの認知症ケア施設 で過ごした。両親との面会中はそのことがすべてで、それ が終わると海に飛び込み、ブリトーとビールでごちゃ混ぜの 感情から立ち直った。ボルダーの自宅に帰ると、そのすべ てを忘れようとした。
ブラッドのペーサーを務めるまでの丸1日、私はエネル ギーを温存し、自分自身に集中した。出発の時間になると、 ヘッドランプを着け、エイドステーションで2人分の予備の 行動食をもらい、1年前に一緒にスタートしたのと同じ急坂 の上で彼に追いついた。
14マイルを走った午前2時、私はブラッドを次のペーサー、 ダーシーへと引き継いだ。その約6時間後、ブラッドがフィ ニッシュラインに向かって突進する姿を見たとき、私たち全 員が喜びの叫び声を上げた。
太陽がなくても大丈夫。とくにペーサーがいれば、 トレイルで真っ暗な時間に立ち向かうことになっても、 会話や冗談で元気を与えてくれる。昼から夜への 移行も順調なジュンとマルコヴィッチ。
年の 1974 PCT アメリカで最も象徴的な トレイルのひとつを 回想する。
文 キャリー・ベック
写真提供 ジーン・オーデット&リック・ベック
アパラチアン・トレイル(AT)とパシフィック・クレスト・トレイ ル(PCT)の両方をスルーハイクした両親の動機を完全に理解でき ているかどうか、私はわからない。私の母(両トレイルを完歩した 最初の女性)はその功績を謙遜し、たいしたことではなかったと言っ てのける。当時は社会の激動とベトナム戦争の真っ只中だったから、 そう思えたのかもしれない。でも、私にとってそれはいつも、驚く べき偉業に思えた。
両親のトレイルの話は何時間でも聞いていることができる。風 変わりなトレイル仲間や、危機一髪の場面や、食べ物へのこだわり (クラフトのマカロニ&チーズはまるで黄金のようだったとか)といっ た話を楽しく聞いた。そうした話とそれを記録した何千枚もの写真 が、ハイキングやバックパッキングに対する私の最初の情熱を育ん だ。15歳のとき、はじめて数日間のバックパッキングの旅に出たと き、私は母が1970年代に使っていたケルティのフレームパックを背 負い、それと同年代の彼女のパタゴニアのハイキング用ショーツを 履いた。それから何年も経ち、私のギアは変わったが、バックカン トリーで過ごす時間への愛は変わらない。
山での決定的な体験は、私たちのはるか彼方にまで影響を及ぼ すことがある。それは次世代へと波及し、彼ら自身の物語を見つけ るための道を歩むきっかけとなる。これはトレイルが私の家族に与 えてくれたものだ。そして、私の両親の古い写真が、これを読むあ なたにもそうであってほしいと思っている。 ハイ・シエラの雪の多い年、めずらしく乾いた岩のセクションを進む ジーン・オーデット。1974年の春、このあたりの山の積雪は 6メートルにも達した。オーデットとリック・ベックと仲間たちは、 雪がまだ歩けるくらい硬い早朝によくハイキングをした。
〔左〕PCTのいくつもの沢を渡渉するために、 オーデットとベックはしばしばブーツを脱ぎ、 裸足よりも足元がしっかりする「靴下足」で 渡った。これはトレイル仲間のジョン・ローズが、 カリフォルニア州内のサーモン・リバーを渡って いるところ。「ジョンはいつもバックパックに玉子 を1ダース入れていた」と語るのはオーデット。 「そしてATをハイキングしているときは、 ビルケンシュトックのサンダルを履いていたわ」 〔上〕ひとたびトレイル仲間になれば、いつも トレイル仲間。オーデットとベックは、1972年の ATでビリー・テイラー(写真)と出会った。その 2年後、彼らは驚いたことに、ギアショップの 記録帳で、自分たちのすぐ前にビルの名前を 見つけた。やがてトレイルで出会えた彼らは、 残りの行程を一緒に歩いた。「1974年当時は 誰も『トレイルネーム』なんてもっていなかった」 とオーデット。「私たちハイカーのコミュニティは 小さくて、トレイルで他のハイカーに会うことは めったになかった。最終的に、1974年にPCT を踏破したのはたったの12人だったわ」 オーデットはそのなかで唯一の女性だった。
〔右〕限られた予算内でスルーハイクをするための ヒント:太陽で熱くなった歩道は乾燥機の代わりと してよく機能する。カリフォルニア州モハーヴェの コインランドリーの前で、洗濯物を乾かすあいだ、 次の行動プランを練るベック(左)とジム・アイラー ストン。町での最優先事項はいつだって、郵便局 留めにしてあった食料の小包を回収し、モーテルを 探してシャワーを浴び、一番近くのバーで「本物の」 食べ物にありつくことだった。
〔上〕トレイルで最高の職人技を披露するアイラーストン。 「彼は一眼レフカメラのレンズ2つと、グレープナッツの箱 とヒモを使ってこのサングラスを作ったの」とオーデット。 間が抜けた見た目ながら、シエラをハイキングする際の 雪目防止には不可欠なギア。
〔右〕PCTでは、柄の長いアイスアックスは雪上の安全対策以上に 役立った。「高い所にある峠からの下りでスタンディンググリセード したとき、アイスアックスを舵の代わりに使って大はしゃぎしたわ」 とオーデット。「アイスアックスは、休憩中にバックパックを立て かける支柱にもなったし、用を足すための穴を掘るのにも最適な 道具だった」
〔上〕眺めのよい部屋。ハイ・シエラのキャンプで夕食 (まちがいなくクラフトのマカロニチーズ)の支度をする オーデット。「天気がいいときは、いつも星空の下で 寝ていたわ」と彼女は言う。
〔右〕1974年3月31日にメキシコ国境からPCTを 出発したオーデットとベックは、1974年9月26日に カナダのトレイルの終点にたどり着いた。天候は寒く、 雪が降りはじめたばかりで、オーデットは複雑な感情に 包まれたのを覚えている――家に帰れることへの嬉しさと、 その経験が終わったことへの寂しさ。「たくさんの思い出 が詰まった旅だった」と彼女は言う。「いいこともあれば、 そうでないこともあった。でもいつも面白かった」
着ること ストーリー 3人のパタゴニア・アンバサダーが、 彼らのお気に入りのウェアと、 それにまつわる刺激的な思い出に ついて語ります。 についての
着ることについてのストーリー
“ “ もはやパッチだらけに なりつつある ジャケット。 アン・ギルバート・チェイス
私は山で過ごす時間が長いから、自分に必要な装備が何なのかよくわかって いる。使えるとわかると、そればかり。だって心配事がひとつ減って、それ以外 のもっと重要なことに集中できるから。
このマイクロ・パフ・ジャケットは2017年にサンプルとして送られてきたもの。 私たちパタゴニアのアンバサダーは、ギアが必要な機能を果たすことを確認する ために早い段階でサンプルを受け取る。鮮やかな赤地に青いジッパーのこのジャ ケットの第一印象は「カッコイイ」。試しに何度か日帰りの登攀で着てみると、温 かいだけでなく通気性も発揮した。
それからはパキスタン、ネパール、インド、アラスカ、カナダなど、おそらく ほとんどの遠征に連れていった。パートナーとともに登ったデナリ南壁のビッグ ルート、「スロヴァク・ダイレクト」にも持っていった。初挑戦では悪天候のため 敗退し、2度目に完登を果たしたルートだ。標高6,000メートルを超えるデナリ は、当然のことながら寒い。普通ならグレードVII・ダウン・パーカのようなもっ と厚手のものを持っていくのだろうけど、私はマイクロ・パフを選んだ。そのあ いだほぼずっと震えっぱなしで過ごすことになったけど。でもいま振りかえると、 「うわ、あのでっかいルートを、大げさなジャケットを着ないで登ったなんて信じ られない」って感じ。
私はときどき、文字通りマイクロ・パフの中で暮らす。アラスカでは岩壁で過 ごした3日間、一度も脱ぐことはなかった。これを入手して以来、洗濯したのは たぶん4回ぐらいかな。洗わないけど、干している。でも、パッキング時にはか なり注意を払う。カムやピトンなど鋭い物のそばには詰めないように気をつけて いるし、外側にくくりつけたりしない。ジャケットに、これまで酷使した以上に 負担をかけたくないから。それがこれまで何年も長持ちしている秘訣だから。
修理はすべて済ませてある。クライミング中にできた破れや、岩で擦れたとき にできた裂けなど、小さなものばかり。パッチはそんなときに大活躍。昨秋のネ パールでは、たぶん1時間くらいかけて、パッチを貼った。もはやパッチだらけ になりつつあるジャケット。
自分がそれを着た写真を見るたびに、その登攀や遠征の思い出がよみがえっ てくるウェアがある。そういう遠征は、とくに成功して最高の登攀だったとき は、感無量になる。でもその感覚はすぐに消えてしまう。このジャケットを着る と、そんな素晴らしい思い出がよみがえる。だから文字通りボロボロになるまで 着るつもり。手放せない。私にとっては安全な毛布のようなもの。
「(私のジャケットは)大遠征について来るだけじゃない」と語るアン。
「地元の冒険や、刺激的で魅力的なすべての旅にお供してくれる。 そして食料の買い出しに行くときも、もちろん誇りをもって着る」 Jason Thompson
着ることについてのストーリー
“これはただのランニング 用ブラじゃない。私の すべてなの。……思い出 が詰まっている。 “ ジェン・シェルトン
どの女性にもお気に入りのスポーツブラがあることは万国共通。いわば相 棒で、身に着けるもののなかで最も親密なもの。それはいろいろなことを教 えてくれる。「ああ、今日はきついわ。そろそろ生理がはじまるのね」なんて ことも。
クロスオーバー・ブラは私の「着るか死ぬか」的な存在。これほど強い絆 で結ばれているものは他にはない。スポーツブラは、あらゆる場面を一緒に 乗り越えてくれるけど、1日の終わりには不快で耐えられなくなるから、おか しな愛憎関係よね。レースが終わったら、シューズよりも何よりも、いちば ん最初に脱ぐ。とにかくこの濡れたものを私の体から離してちょうだい!って 感じ。普通の人はまず靴を脱ぐか、顔を洗うか、のどちらかもしれないけど、 私の場合はいつだってブラを外す。スポーツブラは目が離せなくて面倒だけ ど、かわいくてたまらない第一子のようなものかもしれない。
私は暑くなると首から冷やすから、背中でしっかりと交差するブラが必須 なの。これはもう15年か、それ以上使っている。エリートランナーからシン グルマザーになって変化した体のなかで、胸は唯一大きくならなかったから、 起きている時間の大半を山の上で走っていた25歳のころと同じように、いま でもフィットする。
胸骨のあたりのほつれたところはテープを貼っただけ。穴もあいちゃったけ ど、もし1枚しかウェアをもつことができないとしたら、このスポーツブラを 選ぶと思う。パタゴニアはもう作っていないし、思い出が詰まっている。
妊娠後期で2つのフォーティーナーズ(標高4,000メートル以上の山)を 登った。またやるかどうかはわからないけど、とにかく歩きはじめて1キロ半 ぐらいで息が苦しくなった。当時、私の体は大きくなっていたから、キツく感 じた。しかも、妊娠中は肺活量が日ごとに減っていく。トレイルのまだ低い 地点だったから、私はブラを脱いで、ブラなしで歩きつづけた。でも、妊娠 中のおっきなおっぱいにとってはとんでもないこと。一緒に登っていた友人 が「荷物、持ってあげようか」と聞いてくれたけど、私は「いや、このブラな しでは登らないわ。一緒に行くの」と言って、ブラの入ったバッグを担ぎつづ けた。
このブラは、基本的にあらゆるランニングやスキーを一緒にやってきた。 日本にも行った。キリマンジャロにも、モンブランにも登った。脚を骨折した ときは、一緒に入院した。病院では処置の前にこのブラも切られそうになっ たけど、「折れているのは脚なのよ、このブラは絶対に切らないで!」と言い
ジェン・シェルトンにとって、それまでのスポーツブラはすべて「2本のストラップが 付いたガードル」だったという。クロスオーバー・ブラが登場し、それを身に着ける と、背中でしっかりと交差して、低めのカットが通気性を促進し、ひとつの塊として 入れ物に押し込められたような胸の感覚を解消してくれた。 Ash Adams
張った。オリンピック代表選考会にも、結婚式にも着けていったわ。 これはただのランニング用ブラじゃない。私のすべてなの。
デザインしたのは、私の良き友でもあるジェニー・ジュレック。彼女 はかつてパタゴニアのデザイナーだった。彼女は私のことを考えて作っ てくれたの。少なくともそう言っていた。
このブラは、私とデザイナーがはじめて獲得した勝利のように感じ た。私がアンバサダーのチームに加わった当時は、男性の意見ばかり だった。新製品のデザイン会議には長い日数が費やされ、製品に関し ていろいろ意見を出しても、男の人たちの声にかき消されてしまう。ス ポーツブラの話がもち上がったとき、彼らは「時間を無駄にしたくない から、それは昼休みにでも話そう」という感じだった。
だから私はクリッシー・モールと一緒に、スポーツブラについて話す ために昼食を抜いたわ。彼女がこの製品を真剣に取りあげてくれる唯 一の人だったから! でもいまでは、男性たちもスポーツブラについて 熱く語るようになったわ。だって、おっぱいの話が嫌いな人なんてい ないでしょ?
James Lucas
着ることについてのストーリー “使えるモノを 持っているのに、 なぜさらに 買うのか。 “ エディ・テイラー 必要なものだけ買い、それ以上は買わないようにと育てられてき た。ブランド品を着る習慣は幼いころからなかったし、クライミング をはじめたときも、持っているものを着るだけで、最先端のウェアな どは買わなかった。でもあるとき友人がこう言った。「パタゴニアの 製品はいいよ。一度買えば、もう買う必要はないから。壊れたら修 理してくれるし、何事にも時間と研究を惜しまない会社だから」 僕は試しに1着買ってみた。それはR1フーディで、たしか2014 年のことだったと思う。クライミング用かどうかは関係なく、はじめ て買ったブランド品だった。最初の4年間は、これだけを着てクライ ミングをした。温かくて軽かった。臭くなったら洗濯して、また着つ づける。手入れはとくに何もしていない。1着買えばずっと長く使え るという考え方が、僕がパタゴニアの製品を買い、使うようになった 理由だ。
僕にとってはじめてのビッグウォール、ヨセミテのマウント・ワト キンスはR1で登った。バガブー・スパイアでも着た。はじめて南 米に行ってアコンカグアに登ったときも持っていった。でもユタの キャッスル・バレーで継続登攀をしていたとき、ひどく破いてしまっ た。「ファイン・ジェイド」と「コー/インガルズ」と「ハネムーン・チム ニー」を登って、写真を撮るためにスマホを取り出して、それをしま おうとしたら、ジッパーが壊れていた。体がやっと入るほどの狭さの チムニーをずり上がったりずり下りたりしていたから、ジッパーを壊 してしまった。でも2回修理してもらって、それ以来ずっと活躍して いる。
新しいR1も持っているけど、この最初のがいちばんよくフィット するし、色も気に入っている。僕はそれほど感傷的でもないし、モノ に執着もない。でも同時に、すでに持っているものがあれば、新し いものを買う意味はない。使えるモノを持っているのに、なぜさらに 買うのか。
1日の 仕事
200 件
ネバダ州リノの修理施設で 毎日行われる修理の平均件数 54 人
修理技術者 ダウン・セーター
最も修理件数が多い製品カテゴリー 183 メートル 繁忙期に毎週使われる生地 穴あき
最も多い修理
修理よりも買い替えに 価値をおく文化のなかで、 できるだけ長持ちする ようにモノを修理すること は、私たちが知る最も 急進的な行為のひとつです。
パタゴニアは1970年代から修理を行っており、 1998年にはネバダ州リノの配送センターに修理 施設を開設しました。当時35人ではじめたこの 部署も、いまでは北米最大の衣料品修理施設 のひとつとして、115名を擁するまでに成長しま した。日本のリペアセンターとアムステルダムの 提携修理施設とともに、私たちの世界的なネッ トワークは毎年およそ10万点の製品をよみがえ らせています。
その数の約半分を占めているのはリノ。破れ たジャケット、焦げた袖、ダウンの羽毛が抜け 出た寝袋など、修理をするのは大変で複雑な手 仕事です。しかし、このチームにとっては楽しく もあり、誇りでもあります。
「同僚にジャケットを見せては、『この変わり 様を見て!』って言うんです」と話すのは、リノ で働く修理技術者のダイアナ・リンコン=マガナ。 「ウェアを生き返らせることに携わることができ て、お客様がそれをまた着ることができる。そ れは私にとってすべてです。これは、愛情あふ れる務めです」
私たちの 2019年に「ファイアー・ドリル・フライデー(消火訓練の金曜日)」 と称して毎週行われた抗議デモで、他の活動家約10名とともに、 合衆国議会警察に逮捕された当時81歳のフォンダ。 Bill Clark
パワー 活動家であるかぎり政治家に怒りつづける であろう私が、それでも投票する理由。
文 ジェーン・フォンダ
シントンDCにある留置所に足を踏み入れた私は、後ろ手に手錠がかけ られたままでした。独房は寒く、壁は病院のような緑色に塗られ、その 日の朝、私が抗議デモに着ていった赤く丈の長いトレンチコートとはまったく 対照的でした。そのわずか数時間前、私は何十人もの活動家とともに、非暴 力直接行動を行ったとして、合衆国議会警察に逮捕されたのです。私たちの グループにはさまざまな世代や、経歴や、人種や、所得階層の人たちがいます。 でも、気候危機に対する行動を要求するという目的は同じでした。
それは2019年のことで、当時アメリカ政府は、半世紀も前から化石燃料か らの排出物の危険性を知っていたにもかかわらず、いかなる包括的な気候政 策をも実現させることができていませんでした。その後数年で、多くのことが 変わりました。私たちは地球規模のパンデミックを経験し、ついに、アメリカ 合衆国史上最大の気候支出法案である「インフレ抑制法」が連邦議会を通過 しました。それでも、数多くのことがいまだ何ら変わっていません。気候災害 は激化し、化石燃料ロビイストたちは、製油所や工場やパイプラインがさらに 多くの共同体に害をもたらしているにもかかわらず、選出された議員たちに融 資をつづけています。
この原稿を書いている2024年、私たちの未来に何が待ち受けているかは、 私には予測できません。でも、ひとつわかっているのは、歴史や科学が示す ように、住みよい未来は手に届くところにあるということ。この未来は、政治 家のキャンペーンの公約に左右されるものではありません。たとえ現在の体制 にどれほど幻滅していたとしても、私たち皆が投票しつづけることにかかって います。そして、政治家たちの責任を追及する社会運動の力にかかっている のです。
信じてください。私は1970年からずっと、公民権、ベトナム戦争反対、性平 等、先住民族の主権、そして気候正義のために、抗議してきました。その経 験から学んだことがひとつあるとすれば、ある朝目が覚めて突然善悪の違い に気づく政治家など、どこにもいないということ。むしろ、ひとたび政治家に なった彼らに、正しいことをするよう圧力をかけるのが社会運動です。それが、 「政治的に不可能なこと」が「政治的に不可避なこと」となり得る核心なのです。 「インフレ抑制法」をもってしても、私たちの気候は破滅の道を進んでいま す。2024年は現時点ですでに過去最高の暑い年となっており、それは世界中
で甚大な洪水、山火事、猛暑を引き起こす要因です。私たちが化石燃 料の燃焼をすぐに止めなければ、気候危機は2050年までに私たちの 経済に年間38兆ドルの損害を与えることになるでしょう。さらには私た ちの生態系が依存している生物多様性を消滅させ、食料や水のような 基礎的資源をめぐる世界的紛争を引き起こすでしょう。そしてその一方 で、この国のいたるところで、とくに有色人種、黒人、貧困層、労働者 層、先住民族の人びとが、製油所やフラッキング現場、稼働中の油井 に囲まれて、飲料水や料理、あるいは入浴のための安全な水がないな どのために、ひどい苦しみを強いられています。
これを読んでいるあなたは、化石燃料による汚染は自分の身や地域 には直接の影響はない、と思っているかもしれません。しかしそれは 間違いです。なぜなら汚染物は、低所得者の共同体の境界線にはとど まらないからです。私たちは皆、化学物質と煙のスープのなかで暮らし ているのです。〈クリーン・エア・タスク・フォース〉によれば、石油ガ ス産業からの排出によって、昨年はアメリカ全土で1,400万人ががんの 危険にさらされたといいます。〈アメリカがん協会〉は、私たちの約40 パーセントが生涯のうちにがんを発症すると予測し、今年だけで新たに がんという診断が200万件以上、下されると見込まれています。
にもかかわらず、私たちの健康を守り、気候を冷却するために危険な 排出を削減するどころか、この国は正反対の方向に進んでいます。私 たちが選出する多くの人間が、化石燃料産業からお金を受け取っている からです。2023年、ビッグオイル(巨大石油企業)は政府の役人を操 るためのロビー活動に1億3,300万ドル以上を投じました。この民主主 義における抜け穴のせいで、科学者たちが必要だと言っているエネル ギーの移行に見合った法律が通らないのです。
住みよい未来を望むのであれば、気候運動の要求を聞き入れる政治 家を、政府のあらゆるレベルにできるだけ多くおくべく、選出すること が必要です。しかしいま現在、連邦議会の大多数の共和党議員と一部 の民主党議員は、化石燃料関係者たちから献金を受け、その要求を聞 き入れつづけています。そして州政府においては、無数の化石燃料弁 解者たち、私が「油まみれの民主党員」と呼ぶ輩が、石油ロビイストた ちを引き連れて州議会や首都DCを走りまわっています。これを野放し にしておくわけにはいきません。化石燃料を支持する政治家と交渉を試 みたところで、何もはじまらないからです。
これを読んでいるあなたは、きっと気候危機に関心のある人でしょ う。一般市民の多くも、そうでしょう。〈ピュー研究所〉の調査によれば、 アメリカ人の半数以上が気候変動を重大な危機であると考え、3分の 2は再生可能エネルギーの生産に対する政府の援助を支持しています。
もはや問題は、気候危機が深刻であることを多くの人びとが納得するか ということではなく、この懸念を抱く絶対多数の人びとが確実に行動す るかということなのです。
民主主義は気候に対する行動を起こすための最大 のツールです。〈リーグ・オブ・コンサベーション・ ヴォーターズ〉(英語)をご覧ください。 行動を起こそう
だから私はここに、3つのお願いを掲げます。
まず、有権者登録を確認し、投票の計画を立ててください。
手始めに、気候に関する立候補者の経歴をじっくりと調べてください。 〈リーグ・オブ・コンサベーション・ヴォーターズ〉のような、長年活動 してきた環境保護団体の多くは、どの議会候補者が気候政策に関する 確かな経歴をもつかについて、投票者が確認するのに役立つ得点表を 提供しています。〈オープンシークレッツ〉のような無党派の団体からは、 どの候補者が化石燃料産業から献金を受けているか、またどの候補者 が信頼できるかを知ることができます。
投票用紙の下の方に名を連ねる「ダウンバロット」の候補者やレファレ ンダム(国民投票事項)について、よく知っておくことも重要です。私の 政治行動委員会〈ジェーン・フォンダ・クライメートPAC〉では、投票者 にダウンバロットの選挙戦についての関与を促し、準備を整えてもらう ことに重点をおいています。というのも、現在、気候のための力強い活 動が盛んに行われている場所はそこだからです。市議会、管理委員会、 郡幹部、市長などは皆、ここで重要な役割を果たします。
つぎにお願いしたいのは、今後2か月のあいだ、投票運動でボラ ンティア活動を行うことです。
訪問したり、電話をかけたり、手紙を書いたり、メッセージを送信す るなどして投票者への呼びかけを行うことや、投票所で立会人になると いった投票運動のためのボランティア活動は、選挙への関与を促すた めの最も重要なステップです。そこであなたの声が最大の効果を発揮 し、あなたのたった1時間が、さらなる票の獲得につながるかもしれ ないのです。つまり、何千人ものボランティアが一緒に力を合わせれば、 勝利を獲得するために、鍵となる選挙の流れを変えることができるので す。ですから、活動に使える時間が1時間でも週末全日でも、そして 内向的な人でも、あるいは私のように外向的でも、忘れずに参加してく ださい。
そして、もっと良いのは、友人や家族にも一緒に参加するよう呼びか けること。私はいま、投票に行くよう、自分のネットワークにいるすべて の人に対して大量のeメールやメッセージを送信したり、電話をかけた りしています。今年の選挙は私たちの存在に関わるものであり、民主主 義(たとえ私たちの民主主義のように不完全なものであっても)かファシ ズムかの二者択一なのだと。抗議票も、無投票も、あり得ないのです。 最後のお願いは、誰が選挙に勝とうとも、因習を打破するために 大規模で非暴力の圧力をかけつづけ、ともに行進しつづけること です。
その重圧に押しつぶされそうになったら、思い出してください。抗議 は、私たちの要求を聞き、それに応えようとする耳があるときに機能し ます。だからこそ、投票が非常に重要なのです。私たちが選ぶ政治家 を好きになる必要はありません。必要なのは、科学と一般市民の懸念 の両方に耳を傾け、そして行動する勇気のある政治家だけです。
ジェーン・フォンダ
は俳優としてだけでなく、活動家としても高く評価されてき た経歴をもつ。彼女が2022年に発足させた〈ジェーン・フォンダ・クライメート PAC〉は、化石燃料産業の政治的同盟を倒すことに焦点をおいている。
1970年11月、ベトナム戦争反対の講演ツアー中に、カナダのトロント空港で飛行機から降りるフォンダ。 この翌日、オハイオ州クリーブランドで合衆国警察に逮捕されることになる。 Boris Spremo
子
息をする 権利 この11月のアメリカで、あなたは気候変動対策に投票しますか。 それとも、あなた自身の命が危険にさらされるまで待ちますか。
文 ナレリ・コボ
写真 ギャレット・グローブ
どものころ、安心して息ができる、と感じたことは一度も ありませんでした。毎日、母と私は南ロサンゼルスのアパー トの窓をしっかりと閉め切り、外の空気が少しでも中へ入り込ま ないようにしていました。外は腐った卵の匂いのする空気が充 満していて、チェリーやグアバ、柑橘類やチョコレートなどの合 成芳香剤でごまかしていました。
私たちの自宅の前の道路をはさんだ向かい側、ロサンゼルス 市の中心部には、地下で操業している油井がありました。ゲー トに閉ざされ、見た目には何でもないような産業地区のこの隣 人は、私だけでなく地域全体の健康を毒で冒す無言の怪物で した。
石油掘削から10メートル足らずのところで育った私は、幼少 時代を奪われ、将来にも暗く長い影を落とされました。私はこ の不正な行為を表現するための法律用語や科学用語をすべて 知っているわけではないかもしれません。でも、自分自身の経 験は知っているし、化石燃料産業が私の人生を取り返しのつか ないほど変えてしまったことも理解しています。
掘削がはじまったとき、私は9歳でした。それから数か月も しないうちに大量の鼻血が出るようになり、自分の血で喉を詰 まらせないよう、椅子に座って眠らなければならないほどでし た。10歳になると動悸と身体の痙攣がはじまり、数週間心臓モ ニターをつけ、母は私の弱った体をあちこちに連れて行きまし た。同時に、私の家族は三世代全員が喘息を発症しました。
カリフォルニア州だけでも、3百万人近くの住民が稼働中の油 井やガス井から1キロメートル以内に住んでいる、という憂慮す べき現実があります。なかでもロサンゼルスにあるイングルウッ ド油田は、国内最大の都市油田のひとつです。私が育ったよう な地域はしばしば「犠牲ゾーン」と呼ばれ、低所得世帯や有色
〔左〕低廉集合住宅の室内に佇む活動家のナレリ・コボ。
幼少時代の彼女はここで病に冒されながらも、道路の向かいで 操業するアレンコ社の油井を閉鎖させるために乗り出した。
人種が汚染産業に近接して暮らし、白人や他の裕福な人種より も著しく大気汚染にさらされています。このような状況の地域で 暮らす黒人やラテン系の住民は、慢性的な吐き気、鼻血、呼吸 器疾患、がんのリスクが高まることが証明されています。これが、 環境的人種差別です。
私が幼かったころ、このような用語や統計は知りませんでした。 でも自分の共同体を愛していた私は、私たちが攻撃されている ことは実感していました。だから立ち上がり、反撃したのです。
9歳のとき、私と母は一緒に戸別訪問をはじめ、近所の人た ちに私たちと同じような症状があるかどうか尋ねました。結果 は明らかでした。油井が稼働する前は、近隣の何十もの家族は 健康でした。しかしいま、私が知っていた子どもたちは救急処 置室に入院し、幼少時代のすべてを失っていました。
この当時のある日に経験した、忘れられない思い出がありま す。4年生だった私はカトリック系の小学校から母と一緒に歩い て帰宅する途中で、石油掘削現場のゲートが開放されたままに なっているのに気づきました。その光景が信じられなかった私 たちは顔を見合わせ、衝動的にその敷地内へと駆け込みました。 そこで現場作業員に出くわしたのですが、彼は私たちを温かく 迎え入れると、見学ツアーに招待したのです。その数分後には、 私たちは暗いトンネルへと狭い梯子を這い下りていました。まず 低い振動音が聞こえ、それから突然、21列の稼働中の油井が 目の前に広がりました。そこで作業員が誇らしげに語ったのは、 油井はあまりに強大な圧力のもとに稼働しているため、彼と同 僚たちは爆発の可能性を防ぐために、10〜15分ごとに特殊な バルブを手動で緩めなければならないということでした。それ から彼は、私に手土産を渡しました。それは石油と水の入った瓶。 そして「水と油は決して混ざらないんだよ、覚えておいてね」と 言いました。
上院法案1137のような法律は、罪のない人びとの 命を守り、私のような子どもたちにとって生死を 分ける意義をもたらします。 ここを見学して、私は悪夢を見たような感覚に陥りました。私の共 同体は一瞬のうちに消滅してしまうかもしれない……それなのに誰も 気にかけてはいないのだ、と。それからの数か月間、私は15分おき に時計を眺めては息を止め、「あのおじさんがバルブを開けてくれま すように」と独り言を呟きました。そしてその瞬間が何事もなく過ぎる たびに、作業員が私たちのことを忘れないでいてくれたことに感謝し ました。しかしこの経験により、それまで以上に油井を閉鎖させたい という私の決意は固まりました。
私は学生、親、祖父母、先生、保健推進者、同じカトリック教会 に属するメンバーなど、何千人もの地域住民で構成される組織を作り はじめました。私たちは皆でサウス・コースト大気質管理局(South Coast Air Quality Management District)に苦情を申し立て、市 の集会に出席し、市役所での公聴会で発言し、自分たちで大気サン プルを収集しました。
共同体として、私たちは3頭の怪物と闘いました。それは石油産 業と、油井が操業する土地を貸し出したロサンゼルスのカトリック大 司教区と、そして有色人種をつねに傍観者扱いする壊れた規制体系 です。私たちは自身が専門家となり、みずからを守らなければなりま せんでした。
最初の症状が現れてから数年も経たないうちに、私はフルタイム の活動家になっていました。学校のダンス会には参加せず、会議に 参加するために旅をし、都市での石油採掘を廃絶するために環境的 人種差別について語りました。すべてをこなしながら、自分の体調も 管理しました。活動家としての私の道のりは、自分が生き残るための 闘いとしてはじまりました。そしていま、それは自分自身のためよりも、 はるかに大きな意義へと発展しました。化石燃料産業の手によって 健康危機に苦しまなければならない人を、これ以上出さないことです。
州内各地を訪れるうちに、私たちと同じような状況に直面する共同 体に次々と遭遇しました。そして彼らとも力を合わせ、市全域や州全 域の環境正義の同盟に加わることで、私たちの声はさらに強くなって いきました。2013年、道路の向かいにあった石油企業はついに掘 削を閉業し、2020年には油井の封鎖と廃止を命じられました。さら に2022年には、ロサンゼルス市は油井およびガス井の新設を禁止し、 既存のものも20年以内に段階的に廃止することを定めました。
私がこれを書いている2024年、カリフォルニア州の新たな上院法 案1137が有効となります。これは新しい油井やガス井と、人びとが 生活する住宅、職場、学校、公園、教会や寺院といった場所のあい だに975メートルの緩衝地帯を設けるというもので、さらに既存のも のに対してもより厳しい安全規制を要求します。
〔左上〕アメリカ国内最大の都市油田のひとつである、ロサンゼルス南部の イングルウッド油田で稼働するポンプジャック。この巨大な敷地の8キロ メートル以内に、100万人以上のロサンゼルス市民が在住する。
〔右上〕いまから10年以上前、当時10歳のコボがアレンコ社の石油掘削 現場で作業員から「手土産」としてもらった、石油と水が入った瓶。
しかしこのような大勝利を祝う一方で、私は気候危機の要因と同じ 化石燃料の燃焼が毎日人びとを毒しつづけ、推定では世界中の5人 に1人の死因が、石油とガスの排出による大気汚染であることを知っ ています。そして私のような生存者にも、深い傷痕を残すことも。
それは新型コロナウイルスの世界的大流行がはじまる直前、私の 19歳の誕生日の1か月後のことでした。「あなたはがんです」という 恐ろしい診断を受けたのは。ステージ2の、希少で侵攻性の高い生 殖器系のがんで、私は生殖機能か命かという決断を迫られました。3 回の手術、8回の処置、3回の化学療法、6週間の放射線治療を乗 り越えたのち、がんはなくなったと断言されました。
上院法案1137のような法律は、罪のない人びとの命を守り、私の ような子どもたちにとって生死を分ける意義をもたらします。しかし企 業はこうした法律を阻止するために、あらゆる手段を投じます。過去 2年間に「ビッグオイル」と呼ばれる大手石油企業が上院法案1137の 阻止に費やした額だけでも、6,000万ドルにのぼります。私たちのよ うな共同体は、黙らせ、見捨て、無視することができるものだと、外 部の人間から見なされています。それでも私たちは、きれいな空気を 吸うという基本的な人権を守るための揺るぎない決意を原動力として、 歴史的な気候変動対策を推し進めます。
私たちは自己の命を救うために闘いつづけますが、それは自分た ちだけではできません。私たちの声を聞いてくれる、そして大気汚染 や増加する気候危機の脅威から私たちを守るために、手助けをしてく れる政治家が必要です。彼らを選出するのは私たち市民であり、彼 らを落選させることができるのも私たち市民です。
今年の11月、あなたが投票用紙に記入する場所がどこであれ、気 候危機の影響を直接を受けている罪のない人びとのことを思い出して ください。窓から油井を眺める9歳の少女や、新たに診断された喘 息に苦しむ80歳のおばあちゃん、がんの治療と高校生活を両立して いる10代の若者のことを考えてください。
私たちとあなたには、それほど違いはありません。私たちは皆、同 じ空気を吸っています。私たちは皆、同じ地球に住んでいます。あな たの家族が危険にさらされるのは今日ではないかもしれませんが、私 たちが化石燃料産業に責任を負わせないままでいれば、それが起こ るのは明日かもしれません。前進の道は明らかです。この11月、気 候変動対策のために投票してください。あなた自身の命が危険にさら されるまで待つことは、しないでください。
現在23歳のナレリ・コボ は活動家であり、演説家であり、がん克服者。彼女 はロサンゼルスの都市油田掘削に終止符を打つための功績を認められ、2022 年にゴールドマン環境賞を授与された。
〔左下〕ケネス・ハーン州立レクリエーションエリアに隣接する都市油田の前に 立つコボ。1.5平方キロメートルに広がるこの公園は、何世代ものコボの家族が 数十年にわたって訪れてきた場所。
〔右下〕コボの母モニク・ウリアルテが掲げているのは、アレンコの地下油井の 横に立つ当時10歳の娘の写真。
行動を起こそう
最前線の共同体を支援する ためにできること(英語) をご覧ください。
がんの診断にもかかわらず、コボは上院法案 1137を守るために、最前線の共同体と 政治のリーダーたちを組織しつづけてきた。
私たち 対する 気候 の に 取り組み なのかは十分
カーボンニュートラルでは 十分ではない。その代わりに 私たちはしていることがある。
文 ヴィンセント・スタンリー
先日、私たちはある写真に衝撃を受けました。それは、パタゴ ニアの生地を製造する工場のボイラー室の近くにある、空っぽの小 屋の写真でした。その小屋には、毎朝、ダンプトラックから山積 みの石炭が運びこまれるのだと。そして一日の終わりには、その石 炭はすっかり燃焼されてしまうのだとも。つまり私たちが販売する 衣類にはその石炭の一部が含まれているのです。
私たちが正しいことをしても、結局はそれだけでは不十分である ことを学びます——スポーツウェアに使用するコットンを従来のコッ トンからオーガニックコットンへ切り替えたり、ウェットスーツのネ オプレンをユーレックス天然ラバーに切り替えたりしたときも。コッ トンの栽培から有機リン酸化合物を取り除くことはできても、再生 型農法の実践を導入するまでは、水を大量に消費する作物が土壌 を劣化させつづけることに変わりはないのです。
しかし、有害な化学物質に「ノー」と言う最初の一歩は重要です。 それによって、次にやるべきことに目を向けることができるからです。
私たちは約15年をかけて、自分たちが行うことだけでなく、私 たちのサプライチェーンがパタゴニアの名のもとに行うこと、すなわ ち労働者への賃金や待遇、水の浄化、化学物質の処理、排出物 の対処などといった、産業的影響を考慮するようになりました。
パタゴニア製品の製造で排出される温室効果ガスは、二酸化炭 素換算で年間約225,000メトリックトンになります。これは1年間 に約50,000台のガソリン車を運転するのに相当します。排出量の
向こう側へ越えるか、屈するか、何もしないのか。 ピジョン/ハウザーのコルに向かう途中で思案する アン・ギルバート・チェイス。カナダ、バガブー山群 Mikey Schaefer
うち、輸送によるものはわずか4%で、91%は原料の段階で発生 します。52%は工場で発生し、そのほとんどは糸を生地に織り上 げる過程で生じます。
なぜそんなに? 貨物列車1両分の石炭は約100トンで、発生す る二酸化炭素はその重量の2倍の200トンとなります。このトン数 は仮説的なものではなく、現実であり、しかも付加的です。パタゴ ニアのサプライチェーンで燃焼される燃料の約80%は天然ガスで、 これも温室効果ガスを放出します。私たちが燃やすもので、空は日 に日に重くなっていくのです。
***
2018年、パタゴニアは2025年までにカーボンニュートラルにな る、という目標を掲げました。私たちは石油を原料とする化繊と同 等の高い機能性を提供しながら100%リサイクルされたポリエステ ルとナイロンを開発するために、懸命に取り組んできました。
しかし、すぐにやって来る2025年までにカーボンニュートラル を達成するためには、植林や湿地保護を支援するといった、温室 効果ガスを削減すること以外の活動となる、カーボン「オフセット」 の購入も必要でした。(オフセットは、裕福な業界が貧困な国々で 関与や同意を得ることなく金儲けの手段として使えるとして、当然 のことながら物議を醸しています。)私たちはみずからの排出を責 任ある方法で削減するため、カーボンオフセットの購入を断念しま した。その結果、化石燃料の重荷が私たちに残ることになりました。 77
私たちが正しいことをしても、結局はそれだけでは 不十分であることを学びます——スポーツウェアに 使用するコットンを従来のコットンからオーガニック コットンへ切り替えたり、ウェットスーツのネオプレン をユーレックス天然ラバーに切り替えたりしたときも。
地球温暖化を摂氏1.5度以内に抑えるためには、2030年ま でに世界的な温室効果ガス排出量を45%削減し、2050年まで にネットゼロに到達する必要があります。(ネットゼロとは、会 社のサプライチェーンから発生する炭素を可能なかぎり削減する ことであり、オフセットを購入してカーボンニュートラルを達成 するよりも直接的な目標です。)
排出量を削減するために、パタゴニアは再生可能な電力を燃 料とする工場と取引する必要があります。そのような工場は多く はありません。だから私たちは信頼のおけるサプライヤーが化 石燃料から再生可能燃料に切り替えるのを援助する必要があり ます。
私たちは今年、3社のパートナーとともに、エネルギーとカー ボンの徹底監査に資金援助を行う試験的プロジェクトを開始し ました。これは、切り替えに最適な施設を見極めるのに役立ち ます。その後、技術的な実現可能性の検討を行い、私たちの 財政的支援を特定し、カーボンの排除と責任の実証について合 意する予定です。
経過を計測し、評価したことを実証するのは、私たちがこ のプログラムを拡大するうえで極めて重要です。私たちは毎年、 主要な新しいプロジェクトを展開したいと考えています。それ ぞれのプロジェクトでパタゴニアの排出量を約10%ずつ削減し、 2030年までに現在の排出量を55%、2040年までに90%削減 することを目標とします。これは「科学に基づく目標設定イニシ アチブ」に沿うものです。
***
パタゴニアは50年の歴史の大半において、しばしばつまず きながらやり方を変えることによって、私たちが誇れることでは ない何かを減らしたり、排除したりできることを、幾度となく発 見してきました。最初の一歩を踏み出し、また次の一歩を出す のです。
しだいに、私たちは危害がおよびそうになる兆候をより早い 時点で、しかも石炭で黒ずんだ空っぽの小屋を捉えた1枚の写 真のような見過ごしがちな何かから、発見することを学びまし た。私たちはより積極的に、より慎重に行動するようになりまし た。工場と協力して化石燃料から再生可能燃料への切り替えを 進めることで、確実なペースで排出量を削減し、同時にビジネ スの成長を総体的なフットプリントから切り離すことに役立たせ、 他のパートナーやアパレル業界全体が採用できるような模範と なるプログラムを作りたいと考えています。
人類が直面している最悪の脅威は、私たち自身が排出させた ガスで空を沸騰させていることです。地球温暖化は、私たち自 身を含むすべての動物種の食糧調達能力を脅かします。地球温 暖化は、最も被害を受けた場所に住む最も貧しい人びとに、徒 歩や船で故郷を去ることを強います。そして私たちは、相互に 依存しあう種が失われていく速度の増加や、土壌の生命力の低 下や水不足など、同規模の関連問題にも直面しています。
経済活動を奮い立たせることは、パタゴニア自身の、そして すべてのビジネスの汚点を一掃する鍵です。しかし私たちが必 要だと考えることは、他にもたくさんあります。製品のクオリ ティ、耐久性、修理可能性は、私たちが作る製品の実用性を高 め、そのフットプリントを削減するために不可欠です。よく作ら れた製品は、最初の持ち主の所有年数を越えて長持ちするはず であり、第二、第三の持ち主へと受け継ぐことができるはずで す。そしてついに寿命を迎えたら、製品は捨てられるのではなく、 新しいものを作るために再利用されるべきです。
もうひとつの循環型社会とは、「あるビジネスのゴミが別のビ ジネスの原料になる」というもので、とくに構築環境、プラス チックや梱包、水使用などの世界では、資源保護にとってます ます重要となるでしょう。
自然を基盤とした解決策(再生型オーガニック農業、アグロ フォレストリー、湿地保護)では、工場からの排出量を削減する ことはできませんが、その他のあらゆる面で、すべての生き物 と人類の生息地として、私たちの故郷である地球を救うために 役立ちます。汚染や温室効果ガスの排出を含む環境への影響 は、デザインや製造の段階で決まります。しかしそれによる被 害は、森や庭の土や町を流れる川など、特定の場所に現れます。 パタゴニアには、ビジネスとして、具体的な被害を抽象的に正 当化することに対抗するために、お客様やより大きなコミュニティ と協力すること、そして市民として私たちが生きる場所の健康を 守ることが不可欠です。
ハイスラ・ネーションの指導者であるジェラルド・エイモスは、 こう言いました。「私たちがもつもっとも大切な権利は、責任を 負う権利である」と。責任とは、負担を減らしたり、より効率よ く分散したりすることではなく、人間の主体性、意志の力、活 気の源、つまり私たちが大切にしているもの、私たちが目にする もの、私たちが気にかけるものに応じる権利です。環境危機に 対して見て見ぬふりをせず、それらを直視することは難しいかも しれません。しかし、責任を負う権利をもつ以上、人間がそこ から目を逸らすことは不可能です。
私たちには、故郷である地球を愛し、そこに暮らす権利を取 り戻すことができます。その運命を、自分たちよりも権力があ るように見える者たちに委ねるのではなく。事態が崩壊しはじ める前に破滅への衝動を克服するための時間は10年ほどです。 いまこそ、真剣に行動するときなのです。
インドでコットンを育てるこのプラティバ農園のように、 再生型農法を実践する農場では、害虫対策としてマリー ゴールドをコットン作物の間に植える。 Hashim Badani
グリーン 違い すべてのダムは汚い。 それを改善しようとしても、 事態を悪化させるだけ。
文 スティーブン・ホーリー
夏のあいだずっと、レイク・ビリー・チヌークは、 まるでセント・パトリックス・デーのシカゴ・リバー のような緑色をしている。アイルランド発祥を祝し て「ウィンディ・シティ」ことシカゴで毎年催される にぎやかなお祭りとは異なり、オレゴン中央部のデ シューツ・リバーのラウンド・ビュート・ダムに堰き 止められた大きな貯水湖の生々しい緑色は、同州 最大の電力会社がクリーンなエネルギー源だと主張 するダムの背後に溜まった、濁った不幸の象徴だ。
1955年、当時アメリカで過熱していたダム建設 がピークに達したとき、オレゴンはその勢いを抑え ようとした。デシューツ・リバーにダムを造るという 連邦の許可に異議を唱え、同州は米国連邦動力委 員会を告訴したのだ。このダムはのちに建設され た3つのダムの最初の1つで、デシューツ・ベイス ンのサーモンとスティールヘッドの行き来を遮断す るものだった。オレゴン州はこの法廷闘争の初回に 勝利したが、電力関係者たちはその判決に対して 上訴を申し立て、この訴訟は米国最高裁判所に持 ち込まれた。つづく判決では、1964年のラウンド・ ビュート・ダム建設や、遡上する魚の個体数を維持 するための努力の放棄によって、この砂漠地帯の水 域の大部分をサーモンの棲めない環境に変えてし まったことに対して、有罪が宣告された。ポートラン ド・ジェネラル・エレクトリック(PGE)は、現在カ スケード山脈の発電所から人口密度の高いウィラ メット・バレーへと電力を送っている。
PGEとウォーム・スプリングス居留地の先住民 族連合は、これら3つのダムを共同所有し、それ が複雑な状況を生み出している。レイク・ビリー・ チヌークには3本の川が流れ込む。クルックド・リ
バーとミドル・デシューツ・リバーは上流からの農業 排水で汚れているが、メトリウス・リバーは川が本 来そうであるように清浄で冷たい。まずは汚れてい る方のクルックドとミドル・デシューツの2本の川に ついて説明しよう。貯水湖は水文学的ヒートシンク (放熱板)である。この熱に肥料を加えれば、水中 温室となる。リンや窒素を豊富に含む農業排水は、 水生環境に取り込まれると緑を育てる魔法を発揮し つづける。その結果、藻類ブルームや他の光合成 植物侵入種が繁殖し、そのなかには有毒なものも ある。ダムによって堰き止められた温かく汚染され た水は、大量のメタンを吐き出して気候危機をさら に加速させる、クローバーのような緑色をした毒シ チューとなる。
さて、今度はきれいな川について語ろう。ダム建 設後の50年間、約160キロメートルを自由に流れ、 デシューツ・リバーの救いとなっているのがメトリウ ス。3本のなかで最も清らかな川だ。活断層、火 山活動、その後の巨大な地下水の動きという奇跡 的な組み合わせによって、この川は氷のように冷た く、澄んで生き生きと流れている。トラウトを釣る フライではなく、オリーブかライムを浮かべて飲み たくなるほどだ。そしてレイク・ビリー・チヌークの 腐った毒カクテルのすぐ上流で、デシューツの本流 へと流れ込む。
メトリウスの恵みには、それを裏づける科学があ る。冷たい水は凝縮するため、温かい水よりも重い。 ダムがあるにもかかわらず、デシューツ・リバー下流 は50年ものあいだ、全米屈指のトラウトフィッシン グの渓流として数えられていた。年間の平均水温 10度を保つメトリウスの流れは、貯水湖の底に沈み、
源流からレイク・ビリー・チヌークまで47キロメートルを流れるメトリウス・リバーは、湧き水が豊富で透明度が高い。 1988年に国立原生景観河川に指定されたデシューツのこの支流は、釣るのが難しいことで有名なレインボートラウト をはじめ、ブルトラウト、コカニーサーモン、マウンテン・ホワイトフィッシュの故郷でもある。 Mike Putnam
ダムの利水放流バルブがこの純粋な良水を下流へと送り込む。2010年以 前のデシューツを知る人なら、誰でも思い出すことができるだろう。玉砂 利が敷き詰められた河床の上を時速8キロのボートで漂うと、まるで空を 飛んでいるような感覚に陥るほど澄み切っていた。釣りはとても素晴らしく、 ここでそれを表現するにはどんな言葉をもってしても足りない。
2005年、PGEはデシューツ・ダムを50年間運営しつづけるライセンス を取得した。長いあいだ放置されてきた魚の遡上経路を提供するという 要件を満たすため、同社は技術的な修正と巧妙なマーケティングの組み 合わせにあらゆる手段を講じた。PGEはウェブサイト上で、調査結果に 矛盾があるにもかかわらず、水力発電は「排出フリー」である、と主張して いる。PGEが所有しているものも含め、貯水湖は必ずメタンという形で温 室効果ガスを排出することを強く示唆する科学的研究が増えている。メタ ンは二酸化炭素よりも破壊力が大きく、大気中に熱を閉じ込める度合いは 28倍も高い。米国環境保護庁(EPA)によると、藻類ブルームが繁殖して 水質が悪い貯水湖では、メタンの発生量がさらに多くなる傾向があるとい う。レイク・ビリー・チヌークでは何年も前から有害な藻類が発生している。 PGEと水力発電業界は何十年ものあいだ、ダムは経済的に成功が見込め るエネルギー源であるという偽りのシナリオを推し進めてきた。しかしそう ではない。
ホラ話ではなく本当の魚の話をするなら、サーモンとスティールヘッドの ための解決策を考えよう。PGEとウォーム・スプリングス居留地の先住民 族連合は、約1億1千万ドルを投じて、「選択取水タワー」と呼ばれるルー ブ・ゴールドバーグ的に複雑怪奇な装置を開発した。その利害関係者へ の売り文句は、「あたかもダムが存在しないかのように」だった。PGEが デシューツを管理できるようになると宣伝されたこのタワーは、1年のうち 8か月間、貯水湖の表面からデシューツの下流約160キロメートルにある、 かつては自由に流れていた清浄な水流に病的な緑色の水を送り込む。そ の結果、ダムはまだまぎれもなくそこに存在しているのだということを思い 知らせることになる。
貯水湖の底の冷たいきれいな水から、温かく汚れた上層の水への変換 は、魚道の修復の名のもとに行われたが、これは惨憺たる失敗に終わっ た。タワー計画は14年間の操業で、かろうじて2,000匹のスティールヘッ ド、チヌークサーモン、ソックアイサーモンをダム上流に通過させた。この 数をタワーの費用で割ってみれば、これらの魚は地球上で最も高価なサ ケ・マス類に違いない。
タワーに費やされたすべての金銭と技術的専門技術の割には、このダム 上流でのサケ・マス類の野生復帰はいまだにトラップ&ホール・プログラム である。魚はホースでタンクローリーに吸い込まれ、ダムを迂回して川に戻
「祖父や曽祖父が見て 以来、そのような姿を 見たことがなかった川が、 自由になったのを目の 当たりにしたのです。 開かれた門から、馬の 群れが自由に走り出す のを見るような感覚 でした」
——ヤカマ族長老 デイヴィス・ワシーンズ
サーモンの自撮り。エルワ・リバーのダム撤去プロジェクトが完了してから10年、 ここに写っているチヌークの成魚と稚魚のように、スティールヘッドやサーモンが 歴史的な産卵場所を取り戻すことに成功している。
John McMillan
される。魚の遡上を助けるものがトラックであるなど、滑稽と しか言いようがない。カナダヅルを湿地からツンドラへ送迎す るのに、ジャンボジェット旅客機に乗せたりはしない。
2023年、このプロジェクトで遡上した春季のチヌークはわず か19匹。さらに悪いことに、オレゴン州立大学とオレゴン州 魚類野生生物局の最近の共同研究によれば、川の下流を汚染 している水が、春に遡上するチヌークにとって致命的なセラトノ バ・シャスタと呼ばれる寄生虫を多面的に増やしているという。 サーモンを救うためのタワーが、サーモンを殺しているのだ。
デシューツ・リバー・アライアンスのコミュニケーション・マ ネージャーである私にこのようなプロジェクトが失敗するたびに 希望を与えてくれるのは、魚に対する緩和策は魚と川の修復策 とは違うという教訓だ。電力会社の存在理由は魚を救うことで はない。概して、彼らはそれが下手くそだ。
「緩和」という言葉には、ある考え方が含まれている。それは 「何かの酷さ、深刻さ、痛みを軽減する行為」である。それは、 私たちや私たちが愛するものを破壊する行為に対して、おとな しく寛容であることを意味する。川と魚に関わる問題において、 私たちは「すべてのダムは汚い」ことを認識する必要がある。そ してさらに重要なのは、その知識に基づいて行動を起こすこと。 そして、いかなる類の汚染に対して「緩和」する一方で、その 原因を取り除くことを何もしないのは一種の狂気である。魚の 最高の孵化場とは、健全な河川システムのことだ。
もうひとつ私に希望を与えてくれるのは、ダム撤去という河 川修復の極致のような、河川域の生態系だけでなくそれ以上 のものを修復してきた水域プロジェクトが増えつつあることだ。 背筋がゾクゾクするようなクラマス・リバーの4つのダム撤去 にともない約800メートルにわたって再構築される河道。ダム 撤去後のエルワ・リバーでのサーモンの初収穫。こうしたプロ ジェクトは、何百とある他の似たようなプロジェクトと同様、何
十年もの努力の結集の賜物である。そうしたプロジェクトは、 たとえ致命的な危機に直面しても、自然には回復力があること への信頼を取り戻した。そして同じくらい重要なこととして、古 くから慣れ親しんできた、人間同士が切に必要としている生命 力に満ちた信頼をも回復させたのである。
私にとって、この春シーズンのテーマのひとつはつぐないで ある。四半世紀にわたり、水にまつわるあらゆることを書いて きたなかで、私が目の当たりにした歓喜のイメージは、ホワイト ウォーターの急流でも大物の魚でもなく、「顔」だった。
メトリウスと地形的に近いのは、私の自宅から数キロメート ルはなれたホワイト・サーモン・リバーである。2011年、コン ディット・ダムが撤去され、それを祝う群衆のなかに、ヤカマ 族の長老であり当時コロンビア部族間警察署長だったデイヴィ ス・ワシーンズがいた。ダムの基部の爆破された穴からホワイ ト・サーモンが力強く飛び出してきた瞬間、ある写真家が彼を 撮った。その写真には、両手に頭を埋めたワシーンズ氏の姿 が捉えられていた。「私は涙が出ました」とワシーンズ氏はその ときのことを回想しながら電話で語った。「祖父や曽祖父が見 て以来、そのような姿を見たことがなかった川が、自由になっ たのを目の当たりにしたのです。開かれた門から、馬の群れが 自由に走り出すのを見るような感覚でした」
ホワイト・サーモンが迎え入れる川岸の木々が増え、その 木々に昆虫が棲み、川に棲む魚の数が順調に増えていく様子 を眺めながら、私はこの写真とワシーンズ氏のことを思い出す。 彼をあれほどまで感動させたのと同じように、私の故郷である デシューツの水域がダムのない野生の状態でついに自由になっ たとき、私もまた間違いなく喜びとつぐないの涙を流すだろう。 そして、窮地に陥った川を愛するすべての人に、そのような喜 びの涙を流してほしいと願っている。
スティーブン・ホーリー著 『Cracked』 (英語)はこちらへ
適度な風がこの気まぐれなブレイクを生き生きとさせ、 風力タービンをも回転させる。西アフリカの海岸沿いで 秘密のスポットにこっそり現れるカイル・ティアマン。 Al Mackinnon
私たちはどのようにそれを作ったのか
ユーレックス・ ウェットスーツ 文 モーガン・ウィリアムソン
写真とキャプション ハシム・バダニ
スリランカのヤティヤントタの丘にひっそりと抱かれたパナワッテ・エ ステートは、パタゴニアのユーレックス・レギュレーター・ウェットスー ツに使用する天然ラバーを調達する場所です。1900年代初頭からつ づくパナワッテは、スリランカ初の茶農園のひとつでした。ときは流れ 1992年、スリランカのケラニ・バレー・プランテーションズ社が、3つ の農業気候区にまたがる12,950ヘクタールを超えるアグロフォレスト リー農園での、茶やゴムやココナッツやシナモンの生産を監督すること になりました。農園は生物多様性と生態系の完全性の保護を最優先と しています。
私たちがウェットスーツを作りはじめたのは約20年前のこと。他の サーフブランドと同じように、パタゴニアのウェットスーツもネオプレン 製であり、石油に由来するその素材の製造過程では大量の有毒物が排 出されていました。そこで2008年、私たちは極寒の波で使用できる ネオプレンと同様の機能性はそのままに、悪影響を減らしてウェットスー ツを製造する方法を模索しはじめました。
研究開発にほぼ5年を費やしたのち、私たちは最終的にユーレック ス社とパートナーを組み、2012年に最初のユーレックス・ウェットスー
ツを発表。それはグアユールという植物由来のラバーをネオプレンとブ レンドしたものでした。そしてその数年後、ヘベアの木から採取された 天然ラバーを使いはじめました。
しかし残念なことに、天然ラバーにはそれなりの環境への影響が 存在します。ヘベアは商品価値の高い作物であるため、多くの熱帯の 国々では、ヘベア農家が雨林を切り開き、焼き払い、水域を干拓と 分水で変貌させ、有害な枯葉剤を使用して在来種の地被植物を除去 し、耕作地を広げてきました。パタゴニアが使用する天然ラバーが森 林破壊に加担していないことを確認するため、私たちは森林管理協議 会(FSC)と協力関係を築き、パナワッテ・エステートのように価値観 を同じくするパートナーを見つけました。
私たちのウェットスーツは、ヘベアの森の根元からはじまり、そこで 天然ラバーとして地元の労働者によって採取され、海で終わります。そ してそのあいだは、フェアトレード・サーティファイドの工場で作られま す。次ページ以降では、ユーレックス・レギュレーター・ウェットスーツ の純然たる姿をご紹介します。
〔左〕広大な土地に広がる農園もあり、それらはいくつもの川や丘や村を縫って、 小さな道路網でつながっている。そのすべてから、ゴムの木の栽培だけでなく、 共同体や学校など、農園における生命の複雑なタペストリーが見えてくる。
〔上〕ゴムの木から樹液を採取するには、樹皮を少しだけ 削り取る繊細な技術が要される。そこから滴る樹液は、 木の幹にくくりつけた容器に集められ、工場でその日の 採取量の綿密な計量と計測がおこなわれる。
〔右〕パナワッテ・エステートで採取に従事するラジェシュワリ。 ゴムの木の樹皮に残る樹液を取り除き、新鮮な樹液の採取 の準備をする。貯まった樹液は慎重にバケツに入れられ、 工場へと運ばれて、加工処理される。
工場の上層階でユーレックスのシートを 空気乾燥させるラジェシュワリ。これは 生産工程における重要なステップ。
〔上〕工場での加工処理における最終段階のひとつ。 ユーレックス天然ラバーのシートはロール状に巻かれ、 小さな四角にカットされ、輸送準備に入る。
モーガン・ウィリアムソンはパタゴニアのサーフ部門の マネージング・エディター。
ハシム・バダニは、ムンバイ市を記録に収めることと、 アジア各地の職人や農村と協働しながら、そうした 人びとの物語に関心が向けられることに時間を割く。
「私たちの最新のウェットスーツは、ウェットスーツの リペアチームとデザインチームの力強い協働の結果です。
修理のデータにより、
シーム部と裾の切り替え部 の問題は明らか で、私たちはその
必要性に 「修理のデータを掘り下げること により、シーム部の致命的な問題 を突き止め、スーツの設計を 再デザインすることができました。 シーム部への負担を軽減し、 接合部が長持ちするようにした のはその例です」
——バディ・ペンダーガスト ウェットスーツ修理技術者
「アップデートされた素材には原料 染めのリサイクル・ナイロンが 含まれ、よりソフトな肌触りで 伸縮性に優れ、快適さと耐久性 も飛躍的に向上しました」
——マッケンジー・ワーナー
素材開発者
「目標は、最も耐久性のある ウェットスーツを作り、環境に 与える不必要な悪影響を最小限 に抑えることです」
——ギャレット・ジョーンズ ウェットスーツ・デザイナー
対処しました」
——アンドリュー・ラインハート 製品開発者
——ギャレット・ジョーンズ
「Ririジッパーに替えたことで、 腐食しにくくなり、ジッパー スライダーの破損が減りました」
——バディ・ペンダーガスト 「完全なブラインドステッチ仕上げ により、以前のリキッドシームに よる接合に見られたひび割れが 解消されました。また、さらに 伸縮性も向上し、修理にかかる 時間も短くなりました」
「シーム部の破れを防止するため、 裾の切り替え部を取り除きました。 また、脚の下部にS字型にカーブ させたシームを加えることで、 負担と足首の破れを軽減し、 スーツの脱ぎ着を容易にしました」
——アンドリュー・ラインハート
一見早めのエントリーで、大きくなるばかりの 冬の波に挑むレア・ブラッシー。
ポルトガル、マデイラ Al Mackinnon
古い地球 に 響く 若い声 この星の氷河は太古からつねに変化しつづけている。しかし現代の この瞬間、人間の目に留まるほどその変化は急速だ。次ページ以降 で紹介する、私たちの美しい世界のあらゆる場所に暮らす若者たち が書いた文集には、スイスのユングフラウヨッホから見た融解する 氷河「アレッチ」の消滅に関する詩も含まれている。 Yang Lin 世界中の若い作家たちが、非営利団体〈ライト・ザ・ ワールド〉に感化され、詩や散文などを通して、気 候危機に瀕した惑星での生活が彼らにとってどのよ うなものかを、私たちに伝えようとしています。ハー バード大学によって創立されたこの団体は、月次コ ンテストやワークショップ、コミュニティづくりなど を通じて、13歳から19歳までの若者たちを対象に、 文章を書く技術を上達させるための支援をしていま す。そうして集めた文章を複数のジャーナルとして発 行したり、パブリック・ラジオ・インターナショナル と協働で特集を組んだり、100回以上の作文コンテ ストを開催したり、20万点以上もの作品を出版して きました。最近の「クライメート・ライティング・アワー ド(気候作文賞)」には、33か国の若者から応募が ありました。ここでは新旧を問わず、次世代の活動 家である作家たちの作品から、私たちのお気に入り を集めました。
10月にはめずらしく涼しいある夕方、私は家のコンクリートの小さな 庭を囲むレンガの壁に腰かける。夕焼けが静かに黄昏へと色褪せ、 空一面にはひんやりとした雲が波紋を広げていく。私のかたわらには ライター。小さな白いロウソクが棚の上でバランスをとりながら、 弱々しい炎で消えゆく陽光に抗っている。ロウソクを外へ持ち出した のは、この街に捧げたい言葉のない祈りがあるから。車が通り過ぎ、 グリーンアノールが木塀を這い上り、プランテンの葉がざわめき、 重く湿った空気に一世紀も前の昔話をささやくとき、暗くなりかけた 空へと祈りが沸き上がっていくのが聞こえる。まるで風にさらわれた 遠い歌を追いかけるように、両腕を大きく広げてひたむきに走り つづける子どもを見る。そしてつまずき、波が凪いでいくリズムの なかに倒れてしまうのを。私は祈る。その子どもが泳げるように なることを。私は願う。私のロウソクが、雨のなかで踊るこの街に、 私の人間の声では伝えられない言葉で語りかけてくれることを。 そして私のロウソクが、猛進するその夜の子守唄となることを……
そしてまた明日 沈みゆく街は目を覚ます。
——オリヴィア・ライマン アメリカ合衆国 「沈みゆく街からの祈り」より抜粋
海面上昇に対する沈思と反応を写真に収める という包括的なプロジェクト「FloodZone」 からのイメージ。「マイアミでの生活はほろ苦い」 と言うのは写真家のアナスタシア・サモイロワ。 「楽園のように見えるし、そうも感じる。でも、 唯一しっかりと根を張っているのはマングローブ の木だけです」 Anastasia Samoylova
潮の重さ やわらかな海水がくしゃくしゃの ペットボトルにぶつかると、海鳥たちは はばたきながら、打ち寄せる波に まぎれた新鮮な宝物から、きらめく赤い チョコレートの包み紙を、嬉しそうに つまみだす。高く舞い上がれば舞い上がる ほど、その赤は警告の色を失っていく。
別の明るい岸では、ハエたちが黒い喪服に 身を包み、漁網のオレンジ色の死装束に くるまれた、その結び目によってまさに 息の根を止められたエイを埋葬するために 群れ集う。朝の喧騒は高まりつづけ、 正午になると、弔いの声は海を溺れさせる ほど大きくなる。煌めく波のすぐ下の 海では、1匹の半透明の青いクラゲが ポリ袋の横で脈打つ。太陽に照らされた その神々しい姿は、まるで天使が 舞い降りたかのようにきらきらと輝き、 腹を空かせたウミガメは、それを間違う ことなく仕留める。銀色の波のひとつ ひとつの運命は、孤独な反逆にむなしく 身を捧げ、その水塊へと戻ること。でも、 見てみよう。結集した波が何をするのか、 月が引いた潮がどのように岸に抗議し、 夜明けに手つかずの海岸をプレゼント するのか、それがどのように砂浜を 形づくるのかを。
——サシンディー・スバシンヘ スリランカ
気候変動の影響は、全体的な排出物にほとんど寄与していない人びと にも及んでいる。インド南西部の沿岸にあるケララ州では、いま、 侵食された海によって無数の家屋が住めなくなっている。人びとは、 より生活に安全な場所を求めて大規模な移住をしている。 KR Sunil
私の街で
私の街で
高層ビルの屋上に寝そべって 夜空を見上げれば、 自分がまだ取るに足らない 存在であることを、 うろつき燃え盛る星々が 証明してくれるだろう。
私の街で
都市と山を隔てる海にかかる橋を 車で渡れば、
橋を支える梁ではなく、
荒々しく無秩序に打ち寄せる波を見て、 不思議に思うだろう。
私の街で
木と金属とレンガの家から 海岸を眺めながら歩けば、
水が足や手や魂を拝み、 接吻しようとしていることを 自慢したくなるだろう。
私の街で
高速道路の向こうの空に そびえ立つ送電塔に気づけば、
その寂しい通りにエメラルド色の蔦が、 堂々と、電気のことなど知らず、 だがそれを生きがいに、
繁茂しているのに気づくだろう。
私の街で
浜辺に立ち、海に沈む太陽と、 その背後に立ち並ぶビルを見れば、 薄れゆく赤い陽光が、 ガラスの窓や金属の梁を 金箔で覆っているように見えることに、 同感するだろう。
——ヴァニ・ダドゥー インド ムンバイの「女王の首飾り」と呼ばれる マリン・ドライブは、夜に高台から眺めると、 真珠のネックレスのようだ。そこは象徴的な 場所であり、遊歩道沿いにはあらゆる階層の 人びとが集う。インド Avani Rai
皆へ
(そしてとくに未来へ)
時計の針が 時を刻むのを聞け 花に終わりが訪れるまで そしてこの世界を乗っ取るすべての草にも 書くのを辞めるんだ 自分の声は内に秘めておけ そのリズム リズムはきっと止まる 壊れた時計の向こうを眺めながら 地獄に飛び込んでいることを知る 座るんだ ただ鐘の音を楽しめ
アーネム・ランドのくすんだ空、沈む太陽、 濃い赤土。そして詩的沈思が生まれる瞬間。 オーストラリア、ノーザンテリトリー準州 Renae Saxby
この詩が そよ風を守ると思っているのか 暗く鬱蒼と茂ったオークの森を守ると いがみ合うのが好きな蛇たちは ヒスを起こす 止めようとしているんだ こんなことはしないでくれ
感情を 恐れを 信念を書き記せ それらを紙に刻み込め 他者がしばしば見つめる深淵と闘え 光を楽しむんだ この星たちが放った光を
——ライダー・ケレオパ オーストラリア
フォトエッセイストのマット・アイクは、記憶、家族、コミュニティ、アメリカの情勢 に関する長期的プロジェクトに取り組む。バージニア州マディソンにあるこの道は、 彼の「バード・ソング・オーバー・ブラック・ウォーター(黒い水の上の鳥の歌)」 シリーズからの写真。 Matt Eich
「若木の夢」より抜粋 私の古い農家のそばに、2本のカエデの木が高々とそびえ立つ。
それは、いまは忘れられた誰かの結婚のしるしであり、 知られざる愛の象徴だった。子どものころ、私はその枝に登ることに 果てしない時間を捧げた。そしていまでも、その下に横たわり、
青々と茂る暗示的なその葉を見上げ、ネコマネドリが飛び交い さえずるその場所を見上げることほど、完璧なことはない。 いいものではないか、彼らの影で生きるのは。
私たちの存在意義は 私たちよりも大きな存在とともにいること。
——デイヴィッド・ファリス アメリカ合衆国
アレッチ 変化の空気は舌に鋭い それは私の息を砕き 唇の間に亡霊を引き寄せる 思考は凍りつき 親指の上で解け 滑らかな石の上を滑っていく 太陽の光は苦く
ゆえに雲はそれを噛み砕き 灰色の痛みのない何かにして吐き出す 私は氷河に聞かない
死をどう感じるかと 白旗を振るための白はない 氷は空からタペストリーを織り出す 未来の糸は縫い目で細くなる 岩の斑紋は生身の肌のように刺さり 澄んだ水に輝く——
実体のない傷
それがどれほど辛いことなのかは聞かない 代わりにアレッチを吹き抜ける風を眺める 同じように美しくなりたいと願う 谷間の手袋
山には水晶の電車 一歩一歩を記憶する
それがどこまで深く雪のなかに沈むのか ひとつひとつがかすかな鼓動であり、夢のささやき 石でできた心を目覚めさせるための ——ディヴィヤ・ヴェンカット・スリダー スイス
アルプス最大の氷河に別れを告げる。 1900年代初期以来、アレッチ氷河は 20%近くの氷塊を喪失した。スイス Davor Rostuhar
アラスカ最大のカリブーの群れのひとつであるポーキュパイン・カリブー群は、 毎年、ブルックス山脈の北にある安全な海岸平野で次の世代を出産する ために、ある推定では最長約2,400キロメートルにもおよぶ長旅をする。 何千年ものあいだ、みずからを「カリブーの人びと」と呼ぶグウィッチン族は、 ポーキュパイン群の移動経路に沿って生活を営み、食料、資源、そして 伝統文化をカリブーに頼り、崇拝してきた。
生命が はじまる場所
採鉱や掘削などの自然資源採取活動があらゆる 生命を脅かしているアラスカで、この土地を 久しく故郷としてきた多様で豊かな野生生物を、 写真家のフロリアン・シュルツが記録します。
嵐の気配はさまざま。交尾期になると、群れを率いるリーダーとしての地位を 確立し、それを守るために、支配的なジャコウウシの雄たちが激しい対決を 繰り広げる。それは、巨大な角の強さが支配権を得る決め手となる、真っ向から の闘いに発展することもある。ここでシュルツは、雌の群れの端で1頭の雄が 競争相手を睨みつけるのを目撃した。猛烈に寒いこのような厳しい状況にも 耐えるよう、ジャコウウシは驚くべき強さとともに進化を遂げてきた。氷河期を 生き抜いた彼らは、「キビュート」と呼ばれる内側の厚い毛によって守られており、 それは羊のウールの8倍も温かい。
文 アーチャナ・ラム
写真 フロリアン・シュルツ
グウィッチン族の人びとは、アラスカ北部の海岸 平野にあるカリブーの出産地を「イイジック・グ ワッツァン・グワンダイイ・グードリット(生命が はじまる聖なる場所)」と呼びます。
ここでは、生命がさまざまな形で次々と誕生 します。北極圏国立野生生物保護区、ブルック ス山脈、北極圏の扉国立公園、そして不名誉に も搾取資本主義のもとに名づけられた「国家石 油保留地」を含めて総計202,340平方キロメー トル以上に広がるアラスカ北部は、北方林、河 川、潟、ツンドラ、丘陵、そびえ立つ氷河、海 岸平野からなる巨大な宝石箱であり、地球上で 最も生物多様性豊かな北極地方のひとつです。
グウィッチン族とイヌピアット族の人びとは何千年ものあいだ、この土地と そこに棲む多様な動物たちと、神聖な相互関係を築いてきました。ホッ キョクグマ、ジャコウウシ、オオカミ、クズリ、ホッキョクイワナなどに加え、 200種以上の鳥類が世界中からここへ繁殖のために渡ってきます。とくにカリ ブーは、グウィッチン族の歴史にとって不可欠な存在です。4万年以上ものあ いだ、彼らはポーキュパイン・カリブーの群れとともに移動し、カリブーは彼 らにとって食料となるだけでなく、文化とのつながり、そしてこの傷つきやす い土地を次の世代のために守ろうとする力を与えてきました。
アラスカ全土の先住民族の共同体は、採取産業から彼らの故郷を守るた めに何十年も闘ってきました。しかし永久保護の保証がない現在、保護区を はじめとする重要な生態系は依然として危機にさらされたままです。掘削や 採鉱、そして不安定な気候といった脅威が、アラスカの人びとや動物に迫り つづけています。そしてとくに選挙が行われる今年、その懸念が募ります。
「この地域を不毛の地として切り捨てようとする産業とは対照的に、私は野 生生物とその土地の代弁者でありたいのです」と言うのは、アンカレッジを拠 点とする写真家のフロリアン・シュルツ。彼は2000年からアラスカの野生生 物を記録しつづけています。「動物たちは、北極圏にじつに多くの声明をもた らしているのです」
シュルツはこの15年間に撮影した数々の写真で、これらの美しく、愛すべ き獣たちが、野生のままに行動する姿を紹介してくれます。
アーチャナ・ラム はパタゴニアの責任あるビジネスに関するマネージング・エディター。
25年以上にわたり、フロリアン・シュルツは自然を対象にした写真への情熱と、地球 上に残された最後の野生地を支援する大規模な保護活動の様子を追いつづけてきた。
ホッキョクグマは、主食源であるアザラシを狩るために 海が十分に凍結するのを待ち、2か月以上も陸地に 取り残されることがある。アメリカ地質調査所が 2014年に公開した科学者の研究結果によると、 ボーフォート海南部のホッキョクグマは2001年から 2010年のあいだに40%も減少した。今年発表される 次の推定も、おそらく同じように深刻な数となること が予測されている。
チュクチ海の氷上で休憩中のミツユビカモメたち。 英名「キティウェイク」はその鳴き声に由来するもので、 この種の鳥たちは群れ集うことを好む。繁殖期には 巣と巣がくっつくほどになる。しかし、1989年の エクソン・バルディーズ号原油流出事故のような大惨事 によって海洋環境が汚染されると、海岸に生息する鳥の 食料源は劇減し、そのコロニーも必然的に縮小する。
カリブーにとって長く過酷な旅を価値あるものに しているのは、この一面のワタスゲのような、 海岸平野の上質でタンパク質が豊富な食料だ。 長い冬を越したカリブーは栄養を補給し、 体力をつけ、生まれてきた子どもに飲ませる 乳のためにこうした植物を必要とする。
アラスカ北西部の春の雪解けのころ、ハクガンが営巣のために 帰ってくる。しかし今日では、雪解けが通常よりも早く訪れ、 ハクガンたちの飛来も早くなっている。そのため雛と生息数は 増える一方で、増え過ぎると他の動物の食料源の不足につながる 可能性もある。
ユトゥコック・リバーでウォーターフロントの部屋に泊まれるのなら、 長時間のフライトの甲斐もある。この地方を古くから繁殖地としてきた ツンドラハヤブサは、速さと機敏さだけでなく、危急種を保護するため の法律の力を象徴する。第二次世界大戦後、ハヤブサの激減は広範に およぶ農薬の使用に関連づけられてきた。その例として、DDTは鳥の 卵殻の形成を害して薄く壊れやすいものにし、その影響を受けて生まれた 卵は早期に割れてしまう。アメリカ合衆国が1973年に絶滅危惧種法を 制定して農薬の使用を厳しく制限すると、ハヤブサの生息数は北極圏 だけでなく他の地域でも回復した。
ユトゥコック・リバー上流域では、北極圏西部のカリブーと 子どもたちが、過酷で危険な川渡りを試みる。「私は妻の エミルとともに、ユトゥコック沿いで何日もキャンプをして いました」と語るのはシュルツ。「ある朝突然、カリブーたちが 川を渡ろうと前進するのが見えたんです。それは何時間も つづき、さらにたくさんのカリブーが続々とやって来ました。 カリブーはオオカミやクマに狙われやすいため、川を渡るとき はいつも奮い立ちます。多くの場合、群れは川岸で準備をし、 十分な数が集まると、突然一斉に水の中へ飛び込んで 泳ぎ出します。彼らの鳴き声が、あたり一帯に響きわたります」
〔上〕クズリは、マーベル・コミックのウルヴァリンより もレアな存在。「かれこれ20年以上、探検と野生動物 の写真や動画の撮影を行ってきましたが、クズリを 見た回数は片手で数えられるほど」とシュルツが 言うのは、この腐肉食動物のこと。持久力に優れ、 ほぼ単独行動で、広大な(雌は最大334平方キロ メートル、雄は約1,550平方キロメートルもの) 縄張りをもつことで知られている。「この写真は、 自然界で最もなぞに包まれた生き物が姿を見せる、 ほんの一瞬の証です」
〔右〕ブラウンベア(グリズリー)がソックアイサーモンを見るように、誰かに 見られているところを想像してほしい。シュルツがこの巨漢に遭遇したのは、 アラスカ南西部ブリストル湾の水域の中心にあるレイク・イリアムナで数日 キャンプをしたのちのこと。「クマの狙いが私ではなくてホッとしました。でも、 その存在を間近に感じ、謙虚な気持ちになりました」 北極圏と同じように、 このサーモンの本拠地は、何千年ものあいだこの土地とつながってきた動物たち や先住民族の共同体にとって極めて重要である。また北極圏同様、この魚の 未来も危機に瀕している。2023年1月、米国環境保護庁(EPA)はこの水域に 破壊的な影響をおよぼすであろうペブル・マイン計画を阻止した。しかしこの 勝利にもかかわらず、採取との闘いは勢いを増しつづけている。2024年3月、 アラスカ州知事マイク・ダンリービーはその決定に対し、7千億ドルの賠償額を 求めて連邦政府を訴えた。その2か月後には、アラスカ州連邦下院議員メアリー・ ペルトラが「ブリストル湾保護法」を提出。この法案は、EPAの拒否権と同域 での採鉱の永久禁止を連邦政府の力で後押しするものである。
北極圏以外の土地でも、シュルツは人間が野生動物の生息地を制限すると 何が起こるのかを目の当たりにしてきた。アラスカのデナリ国立公園で オオカミの群れを数週間観察したあと、彼は食べ物を求めて公園の外へ 出ざるを得なかったオオカミが殺されていることを知った。オオカミの 群れは広大な土地を必要とするため、たとえ大きな国立公園であっても 彼らに十分な広さではない。「オオカミの喪失は、彼らの社会的構造の 力関係に影響するだけでなく、生態系に連鎖的な影響をおよぼします。 「栄養カスケード」を通して捕食動物の数から植生にまで変化をもたらす 可能性があるのです。そのため保護区の周囲に緩衝地帯を作り、野生 動物のコリドー(回廊)を設けて保護区同士をつなぐことが不可欠です」
「とくに夏の数か月は、北極圏の生命はあふれんばかりに栄えます」 とシュルツは説明する。「6月初めには雪が降るかもしれませんが、 1〜2週間で野草の花が咲きはじめ、ワタスゲの白い綿毛の海に なります」 夏はまた蚊の季節でもあり、その数は温暖化にともない 危険なまでに上昇しつづけている。蚊の群れは何千何万という数に 達し、カリブー1頭から1日最大240ミリリットル近くにもなる血を 吸う。危害はそれだけでなく、その絶え間ない襲撃に悩まされる カリブーたちは川のような植物の少ない地域へと追いやられ、 彼らのエネルギーは消費され、子どもを育てる能力が脅かされる。
〔表紙〕「ライダーズ・オン・ザ・ストーム」での15日目、この日の行動食を探すパタゴニア・アンバサダーのショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコール。 これはニコ・ファブレスとシーベ・ヴァンヘとともに、同ルートのフリー化に初挑戦したときのこと。チリ、トーレス・デル・パイネ国立公園 Drew Smith
クライマー、サーファー、トレイルランナー、アングラー、スノーライダーとしてこよなく愛する場所において、私たちはしばしば訪問者という存在でしかありません。
パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォル ニア州ベンチュラ、ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。先住民族の人びとと相互関係を築くことは、皆が共有する故郷である地球を回復させる ための、私たちの取り組みの一部です。
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