パタゴニア Fall 2021 Journal

Page 1




ここにご紹介するのは、自己発 見と回復の物語、深い悲しみさ えも乗り越え、多くを経験して きたひたむきな本質の物語です。 大胆さ、傷つきやすさ、謙虚さ、勇気など、偽る ことのできないものを共有し、熱烈な(ときには強 情ともいえるほど)希望にあふれた物語を集めまし た。村全体を失うという事態に直面しているアラ スカ州ニュートックの村人は、入植者がやって来る はるか以前に北極圏の先住民族が理解していたこ とを、私たちに思い出させてくれます。しばしば過 酷な北極地方の環境を生き抜いてきた彼らは、自 然に打ち勝つためには苦闘するのではなく、自然 と共生することを学びました。私たちの故郷であ るこの素晴らしい地球を救うために懸命に取り組 むことは、悪い旅ではありません。愛する場所と 人びとを守るために力を合わせることは本当に喜 びです。それが真実であることを私たちは知って います。

〔前の見開き〕バーモント州イースト・バークを囲む山稜に 差し込むやさしい光が、そこに吹きつける風速 22 メートルの 風をまやかす。ライダーのブルックス・カランは、茂った木々が 壁となり、最悪の風から守られていたが、近くの火の見やぐら からこれを撮った写真家は、嵐の猛威を存分に経験した。

〔右〕バーモント州バーク・マウンテンの「ルード・アウェイク ニング」は、何十年も「DH トレイル」としてだけ知られていたが、 2018 年に人気となった映画のワンシーンで「エンデューロ・ ワールド・シリーズ」チャンピオンのリッチー・ルードとともに 紹介され、彼を称えて改名された。著名なトレイルビルダーの ナイト・アイドがその撮影のために元のトレイルの大部分を改修。 それから 3 年が経っても、彼の特徴的な石組みはそれまでと同じ ように美しい。しかし世界的な評判をよそに、ブルックス・カラン のような地元の人たちにとってはここはいまも「 DH トレイル」だ。

写真:Dave Trumpore

04


目次 06 魔法の国 14 故郷は開かれた場所 22 野生に生きた人生 26 粘土によって形づくられるもの 38 ヴィダ・イ・アレグリア 46 精神を独立させる 54 北緯 60° 56' 34" 西経164° 37' 46" 68 雪は語る 76 森の中の雪は良い 84 沈みゆく太陽の子 92 衣類の居場所 98 より高い見地へ 106 未完の仕事




08


文 ライアン・ダンフィー

写真 デイヴ・トランポア

魔法の国 あらゆる感覚を刺激する反逆的なニューイングランドでのライディング。 ニューイングランドの夏空を独占してきた太陽が次第に低くなると、この地方 にあるほぼすべての木は、日照時間が短くなるのに合わせて葉を落としはじめる。 葉は栄養分を生成するのが負担になり、身勝手な木は、冷酷にも、夏じゅう緑 一色に酔わせてくれていたクロロフィルの合成を断つ。まもなく落ち葉は森の地 面を覆い、彼らを見放した樹幹の栄養となるべく謙虚に朽ちていく。 だがカバノキ、カエデ、オーク、アッシュ、ヒッコリーなどの葉が、大人しく冬 の安眠に就くことを拒むひとときがある。いたずらに美しいこの瞬間、それぞれ に反逆的なありとあらゆる色彩で、自己の存在を見せびらかそうとするのだ。 遠くからでは、こうした色のコントラストは視覚的なものでしかない。しかし地 球の表面を二輪のタイヤで突き進むと、移りゆく季節は感覚の全ベクトルを刺激す る。低下する気温と肌寒い湿気が、ふたたび土を潤す。木々は恵みを落としはじめ、 カエデの赤やオレンジの葉が毛羽立った帯のように土を覆う。頭上に揺らめくさま ざまな黄色や黄金の天井は、気候に負けるまでポプラやニレやシラカバにしがみ つく。秋の青空は夏の青空よりも鋭く澄み、日没前の 2 時間は景観にさらなる活 力を与え、琥珀の結晶のような光が黒い影を背景に浮き上がらせる。誰の目から 見ても悲惨としかいいようのないびしょ濡れの日々でも、灰色の雨がパレットの色 彩を刺激的に引き立てる。そして気まぐれな 10 月の雪が散らつけば、もはや考え る余地はない。そこにあるのは骨の髄まで感じられる、本能と畏敬だけ。

〔前の見開き〕トレイルの問題は、速度を上げて 吹き飛ばすだけ。ニューハンプシャー州ノース フィールドの郊外で、落ち葉が詰まった排水路を 一掃するエヴァン・ブース。

〔左〕10 月には珍しく、雪が 30 センチ積もった バーモント州バーク・マウンテン。ジョー・ カヴァラロは黄色とオレンジの落ち葉の上の パウダーにスキーでターンを刻んで朝を始め、 夢のような土質の山麓の斜面でのバイク ライディングでその日を終えた——これぞ まさに季節の混沌の満喫。

〔上〕湿った土、ところどころにローム、そして 微かに埃も混ざったこのタイヤが、完璧な ニューイングランドでの極上の日を語る。

09


タイヤは地面の変化をひとつひとつ事細か に伝える。雨のなかでさえ、カエデやカバノキ の葉の絨毯は驚くほどのグリップ力を与えてく れる。薄い葉は地面とタイヤを密着させ、重 い空気のなかに漂う腐葉土の匂いを嗅ぎなが ら、陽気な気分でのんびりと進むことができ る。それが合間の晴れの日で一気に乾き上が ると、今度はオレンジや黄色の川へと飛び込む ことになる。見えなくなったトレイルを感じなが ら、タイヤの下でポップコーンが弾けるような 音の交響曲に耳を傾ける。トレイルが黄金の 池に沈んだかと思うと、カーン!と、前輪のリ ムが落ち葉に埋もれた花崗岩に激突する。そ の瞬間に体はハンドルバーの上を飛び、手と肩 と胴が木の根の上に放り投げられるが、その 衝撃はカバノキの落ち葉のクッションが和らげ てくれる。 よくあるやっかい者はオークだけ。葉をつけ たままでいる最後の種族であり、それがばらま く硬い葉やどんぐりの山は、ともに足場を妨害 する歩兵隊だ。その手強さに、シーズンを早め にお開きにしてしまう者さえいる。しかしそれ は、他の者にとってはたんに賭けを面白くする 理由でもある。滑って尻をつく最初のコーナー はオークの葉が濡れて押し固められているのか、 あるいは乾き切ってどんぐりだらけなのか。仲 間は猛烈な歓声を上げて走りつづけるのか、自 分と同じように尻を泥まみれにするのか。 しかしその賭けに勝てば……来たる冬を乗 り越えるのに十分な楽しい思い出ができるだろ う。お気に入りのトレイルの土埃を吹き飛ばす 風。タイヤの跡を縁取る、明度を失いながらも まだ美しい秋の落葉。バイクが地面と戯れる 音に満ちた、平和な 11 月の冷たい空気に包ま れた穏やかな午後。 いずれにしても雪は訪れ、春は何か月も先。 無駄にする時間はない。 ライアン・ダンフィー はメイン州ポートランドの出身。 冷たい水でのサーフィン、ハードパックでのスキーマウ ンテニアリング、とてつもなくテクニカルなマウンテン バイキングを好む、口が悪い変わり者たちの一員として、 気楽に暮らしている。

〔右〕アメリカ北東部の典型的なスキーの町である バーモント州ストウは、毎秋ハイカーや紅葉狩りの 人たちが押し寄せる。その人混みから離れる術を 知っているのがアニー・ヘンダーソンのような地元 の人たち。適切なトレイルを選べば、最も混雑する 日でさえそこを独り占め。

10




〔左〕メイン州の 11月の雨の日に、北東部流の 「黄昏のレンガ路」を縫い進むコリンヌ・プレヴォ。

〔上〕10 月のニューハンプシャー州

山でバイクライディング(あるいはクライミング、ランニング、自然観賞)

北部では、衣替えをするのは木だけ

をするとき、私たちはしばしば先住民族の土地へとつづく道をたどります。

ニューイングランド地方のトレイルの感触は 10 月から

ではない。野生のブルーベリーの

私たちが楽しみ愛する、このような場所の本来の守り主であった人びとに

11月にかけて毎日のように変わり、落ち葉の絨毯は

低木は緑から鮮やかな真紅へと色

感謝を捧げます。そのような土地から彼らを追い出して排除するという

つねに色を変えながら地面を覆うため、慣れ親しんだ

を変え、さらに彩りを加えて熟れた

不正を認識します。この物語に掲載している写真は、アベナキ族の人びと

トレイルにもまったく新しい感覚を与える。

果実を落とす。

の未譲渡地で撮影されました。

13


文 リオ・レイクショア

写真 マイケル・A・エストラーダ

故郷は開かれた場所 足元のトレイルはいかにして私たちをそこにいさせてくれるか。



ウォーミングアップから道路を離れてトレイルに 踏み込むまでの走りは、必然的に単純なものから 複雑な走りへと導かれ、私の歩調のリズムは自然 と調和し、声をそろえて叫ぶようになる。それは まるで、母なる地球が鍛えられた足と古代の大地 を完全に融合させることで、より高い意識を生み 出すかのようだ。私は邪魔しない。意図されたと おり、私はすべての一部にすぎない。 その瞬間においては、私が黒人であることすら 関係ない。私はただ周囲の世界に属しているだけ。

できる手段となった。つねに二歩先を見て、予測 できる危険も実際の危険も回避するのだ。そして すぐに気づいたのは、すべてを見据える力は自然 を理解する力としてより適しているということだっ た。それは人類が支配する世界において有益な、 恐怖を生存する力へと変える進化のプロセスであ る。私たちが生存本能に頼らないようになった昨 今、意識することを強いられない人たちは、その 代わりにただ現状に満足するようになってしまう のかもしれない。

イングルウッドで過ごした幼少期について語る とき、私は気を遣う。出身を恥じるつもりはない。 社会はとっくに州間高速道路 10 号線以南の地域 に醜いイメージを抱いている。私が主張したいの は、その責任はその地域の住民にはないという ことだ。それはただ、ある考えが根強くはびこる 環境に人びとが存在してきた結果であるに過ぎな い。アメリカには「レッドライニング(赤線引き)」 と呼ばれる、特定地域の住民には融資をしない という差別を組織的に行ってきた恥ずべき歴史が ある。ロサンゼルスもその例外ではない。かつて は肥沃な土地が豊富だったサウス・セントラルは、 コンクリートで舗装され、産業化が進み、型には 母がいてくれなかったら、私がこのような自然 められた夢の郊外となるはずだった—— 白人層に のトレイルに安らぎを見出すことは決してなかった 見捨てられるまでは。のどかだったこの地域は油 だろう。母は私に教えてくれた。一見差別的に思 田や高速道路、そして当時成長していた航空産業 える場所にある、私が存在するに値するという感 に縛られて、黒人の人口が増えつづける住宅地と 覚を。黒人社会には、 「ここは白人の」として、あ なり、不動産王にとっての経済的な魅力を失った。 る種の場所を避ける傾向がある。これを口に出す 彼らにとってこの郊外は、黒人によって「汚され ことは、黒人は存在すべきではないと言っている た」夢となり果てたのだ。黒人たちは互いを信じ ようなものだ。私の母はこの言葉を口にしたこと 合い、健全な地域社会を築こうと懸命だったが、 はない。 この郡がそれに興味を示して支援することはな 母親というものは、子どもが元気がなくなって かった。保健や教育に関する乏しい政策、悪化す いるのに気づく特別な能力を備えている。その る経済と社会的基盤などのせいで、現在でも苦し 理由がわからなくとも、解決法がある場合もある。 い闘いはつづいている。サウス・セントラル・ロサ 母は私をサウス・セントラル・ロサンゼルスから引 ンゼルスや似たような場所にある栄養不足の地域 きはなし、アップルバレーから 160 キロ東に位置 には、素晴らしいアウトドアを利用する手段もほ するモハーヴェ砂漠の南端部へと移らせた。母の とんどない。こうした要因が自然の場所とつなが おかげで、私は自分の存在を実感することがで る機会をさらに少なくし、遠ざけてしまう。 きた。イングルウッドの不安定な環境で育った私 ハイ・デザート(高地砂漠)は、類まれな感覚を は、意識を尖らす必要があった。その結果、私は 与えてくれる。人間の過失や汚染に対して高ぶっ いまでも周囲を意識することに敏感だ。生き抜く た私の意識を澄んだ平静な心の新たな発見に変え ために起こったことが、砂漠に住みながらも利用 足元につづくトレイルと調和することへの熱い 思いは、私をさまざまな感情に没頭させつづけよ うとする。不確かな感情の混沌に巻き込まれなが らも、開かれた地形が私をトレイルに引き戻しつ づけてくれる。最初はあれほど脅威的に思えたト レイルランニングの場所が、最も自由を感じられ る場所になるなんて不思議なものだ。それが道 路のない広大なモハーヴェ砂漠であろうと、グリ フィス・パークの人目につきにくい自然であろうと、 太陽の降り注ぐバーダゴ山地であろうと。ひとつ を除いて、すべてがカリフォルニア州ロサンゼルス の私の質素な家からすぐのところにある。

〔前の見開き〕遠くに天文台を臨むグリフィス・パーク。ガブリエリーノ/トングヴァ族、フォート・モハーヴェ・インディアン族、 サザン・パイユート族、ミッション・インディアン系サンマニュエル族は、現在「南カリフォルニア」と呼ばれる地域に何千年も 暮らしてきた。この物語の写真は、私たちの多くが今日ランニングを楽しむこの公園を形成する彼らの未譲渡地で撮影されました。 〔右〕ランニングは人生の燃料。

16


17



その瞬間においては、私が黒人である ことすら関係ない。私はただ周囲の 世界に属しているだけ。 たのは、そんな静寂な乾いた土地だった。私は漆 黒の夜空に輝く星を見上げ、その瞬間に自分の存 在の小ささを理解すると同時に、宇宙とその壮大 な未知の世界への畏敬の念を抱いたことを思い出 す。頭上の空がこれだけの感覚を与えてくれるの なら、足元に広がる大地は何を明らかにしてくれ るのだろう。そのとき私は探求心に火をつけ、大 地が与えてくれるものに対する尊敬と自信を得た。 現代的な交通手段が限られる距離と広い空間 という場所に生きることで、自分が生まれつき有 していたものの価値を見出した。私は走るために 生まれてきたのだ。 大地と私の身体の絆は固く結ばれたが、その新 たな情熱に没頭する能力に影響しかねない、外的 要素にも気がついた。反抗的な思春期には耳を 傾けようとはしなかったものの、確実に感じ取っ ていた恐怖。非常に残念なことに、大人になって 通常の白人傾向の場所で過ごす時間が多くなるほ ど、それらの恐怖は現実味を帯びてきた。その ような空間に足を踏み入れた私は、ちょっとした 視線や嫌悪的な発言のような、他の人間が作り出 す不快感にさらされた。そのような発言は、いっ たいどの時点で実際に行動に移されるのだろうか。 それを考えるのは激しく恐ろしい。 私は自分が愛するものと、暴力の可能性とのあ いだで苦悶する。それは私が踏みしめる土との特 別な絆を忘れるほどで、自分は少数派でしかない 場所にいる黒人であるという現実に、一気に引き 戻される。言葉を交わすことなく軽く頷くだけで 意識が共有できるランナーは、こうしたトレイル にはいるのだろうか。現代版『Negro Runner’ s Green Book( 黒 人ランナーのためのグリーン ブック)』はあるのだろうか。 私は何千キロもの距離を走ってきたが、嫌な経 験をしたのは数えるほどだ。それなのに、その数 少ない経験で自分を典型的な犠牲者に陥れ、ト レイルから追い出されて街へと戻ってしまう。そ れは観察力の鋭い体系的なイデオロギー、もしく は象徴主義からくる。黒人はスポーツ界で評価さ れているが、それは他者が黒人に定めた場所に限 られている。そのような場所でさえ、そこが安全 ではないことは、社会が繰りかえし証明している。 その事実が私の健全性にとって心理的に弊害とな

り、恐怖心や社会の誤解を克服することを妨げよ うとする。 私はメディアが描写してきた、アウトドアという 場所に属すべき典型的な人間像を無視することを 選んだ。それは紛れもなく黒人の存在を消去した 物語だからだ。私はこうした場所で堂々と、頭を 高く上げて地に足をつけ、その描写を一歩一歩変 えていこうと思う。私がトレイルに姿を現すことで、 私のあとにつづくランナーたちのために足跡を残 し、それが次々と波のような効果を起こして、最 終的には私たち皆の不安を癒す。 母なる自然は不動であり、私たちは間借りして いる居住者に過ぎない。自然がどの人間に属す るのかなど、自然には関係のないことだ。むしろ、 私たちが自然に属し、自然の一部であることを理 解すべきである。自然のなかを走ることで私たち は人間であることから自由になり、それは人間が 創り出した場所や属するという考え方、また所有 権や所有物という概念とは無縁だ。自然、その バランスの複雑さ、循環、複雑に織りまざる要素、 そしてそこに住むすべての生物たちが共存するの を観察することで、逆境にあっても人間として生 き残る能力について多くを学ぶことができる。 大人になるために長い歳月と距離をかけた私 は、最初の故郷であり、現在の居住地でもあるイ ングルウッドへの理解を深めるようになった。自 然というこの母親は機能不全に陥っているにもか かわらず、私に自己の不安と向き合い、山や谷を 克服するエネルギーへと変える勇気を与えてくれ る。私がここに存在することを自覚できるように と。山頂から見渡せば、私のような人間もこうし た場所に存在することがはっきりとわかる。その 景色を得るためには、もっと高いところへ登るし かなかった。 リオ・レイクショアは父親であり、作家であり、ランナー。 トレイルランニングは人間の活動であるという概念を育ん でいる。

〔左〕全力で駆ける朝。 〔次の見開き〕ジュシュア・ツリー国立公園のライアン・マウンテン・ トレイルにて。カリフォルニア州トウェンティナイン・パームズ

19





野生に生きた人生 リック・リッジウェイの最新の本。 リック・リッジウェイは彼の回顧録『Life Lived

Wild: Adventures at the Edge of the Map

(野生に生きた人生:地図の端にある冒険)』 (パタ

ゴニア・ブックス出版)の冒頭で、彼が数々の冒険 に費やした時間をすべて合わせると、5 年以上もテ ントで暮らしたことになると語っています。 「そして

そのほとんどが、世界でかなり辺鄙なところに立て た小さなテントのなかだった」と。これは自慢では なく、たんなる説明です。高山にいるときも故郷の

海沿いで家族と過ごしているときも、そうした年月

を通して、 「本当に大切なことと、そうでないことを 区別する」ことを学んだと彼は書いています。ただ

し、最終的にそのどちらがどちらであるかは、読者 に委ねています。

彼の冒険の旅のいくつかは当時ニュースとなり、

その功績はいまでも知られています。アメリカ人初

の K2 登頂を達成した登山隊のメンバーであり、知 られているかぎりでは、ボルネオ島の端から端まで

を直につないで初横断した人物であり、それまで外

国人が訪れたことのないチベットの遠隔地をはじめ

て 480 キロメートルも歩いた人でもありました。遠 征の規模はこのように大きくても、リックは K2 の

標高 7,000 メートル地点で出会った蝶や、チベット で一瞬見た野生のミミキジの姿など、静かな驚きも 見落としませんでした。

『Life Lived Wild』のなかで最も印象深いのは、

旅の仲間たちの存在です。そこにはパタゴニア創業

者のイヴォン・シュイナードや、ザ・ノース・フェイ スの共同創業者として知られ、南米の環境保護に 貢献したダグ・トンプキンスなども登場します。な

かには旅から帰らない仲間もいます。リックはその 誰に対しても、誠実さと率直な優しさをもって接し ます。そして彼らがともに経験した野生地を守ると いう決意を通じて、彼自身の情熱を見つけます。

1978 年 9 月、酸素補給なしに登頂を遂げたアメリカ人初の登山隊 のメンバーとして、ダプサン(K2)の山頂 8,611メートル地点に 到達したリック・リッジウェイ。「いつか年老いたら、この瞬間を 思い出したくなるはずだ。だからよく覚えていろ、大切なこと だから」と、リックは自分自身に言い聞かせた。 John Roskelley

23


思い出はときに映画のようで、物語の流れより も、場面の方が記憶に残っていることがある。 氷瀑を通るルートを確立したクリスとジョナサンと私は、ある朝、 ベースキャンプから次のキャンプ地まで装備を運び、引きかえす前 にそこで休憩を取った。まだ朝早い時間帯で、私たちは目の前に 広がるクンブの谷を眺めていた。片手にはロー・ラの峠が高くそ びえ、そこから風下へ向かってたなびく雲が、まるで北欧神話の ヴァルハラ宮殿にかかる旗のように見えた。周囲の山々から風が 吹き下ろしていたが、私たちが座っていた場所は風から守られてい た。ジョナサンは無口で、クリスは落ち着きがなかった。クリスは バックパックに手を伸ばしてハシシの塊を取り出し、パイプに詰め て火を点けた。するとジョナサンは自分のパックからカメラを取り 出した。両手でカメラを持ち、肘を膝に固定させると、銅像のごと くピクリとも動かずにロー・ラの峠を写真に収めた。

「僕がこれまでに撮った山の写真のなかで最高の1枚だと思う」 と、彼は静かに言った。

その 4 年後、ジョナサンの妻が額縁に入れたその写真をくれた。 私はそれを机の上に 45 年間飾っている。色褪せてしまってはいる ものの、まだジョナサンのサインとサンスクリットの六字大明呪の マントラは読める。その写真を見ると、ときどきあの朝の私たち 3 人のことを思う。野生という世界の威厳を自分の目で見るという 恩恵に、それぞれのやり方で感謝していた 3 人のことを。私たち はその後何年経ってもはるか彼方の高い山々を登る情熱を失うこ とはなかったが、生きているのは私だけだ。人生の重荷を吹き飛 ばすかのようなクリスの豪快な笑顔や、得ることへの執着や失う 恐怖を避けることを学んで育った、その生き方を反映させていた ようなジョナサンの微笑みを忘れることはない。 ——リック・リッジウェイ著『Life Lived Wild』より抜粋

〔上〕仏教徒だったリックの親友ジョナサン・ライトは、滞在させてもらったシェルパの家 で低い梁に頭を強打してから、人生の不都合を笑い飛ばすことを学んだと語った。

Rick Ridgeway


1989 年、パタゴニアのセロ・デ・ラ・パス(リックによると「小さなフィッツロイ」のような山)へのクライミング遠征の旅程の一部、 シーカヤックでの移動中に採取したムール貝で栄養をつけるイヴォン・シュイナードとダグ・トンプキンス。悪天候に行く手を阻まれた 日がつづくにつれて、貝殻の山はどんどん高くなっていった、とリックは回想する。 Rick Ridgeway

25




文 アテナ・スティーン

写真 フォレスト・ウッドワード

粘土によって形づくられるもの 次の世代に受け継がれるプエブロの伝統。 母が亡くなる数週間前のこと。彼女は私を起こし、マドリッド・ メサに行かなければと言った。心臓が弱っていた母は、これが最 後の機会だと悟っていた。私たちは簡単な昼食を用意し、母の家 の扉を閉めた。この小さくもかけがえのないアドベの家は、ニュー メキシコ州北部のサンタクララ・プエブロに彼女が孫(私の息子) のベニトとオソと一緒に建てたものだ。 両親は長年を費やして、マドリッド・メサに広がる大空の下に 2 つの小さな小屋を建てた。父の小屋は木材、母の小屋は泥を使っ ていた。彼らにとって、四輪駆動車でないとたどり着けない険し い道の先にあるこのメサは、俗世間の多くの問題を忘れて自由に なることのできる魔法の場所だった。 でこぼこした地面を通るたびに母の顔が苦痛にゆがむので、急 勾配の坂を上る前に休憩を取ることにした。すると、1 台のピッ クアップトラックがメサから降りてきた。トラックが私たちの横で 止まると、母はその運転手が数週間前に出会ったばかりの、新 しい隣人となるらしき土地所有者であることに気づいた。このと きはパートナーと訪れ、彼らの本宅があるアメリカ東部に戻る前 に、別荘を建てる場所の様子を見ていた。私たちは彼らに別れを 告げ、メサの上へと車を走らせた。 いつものように野ネズミやガラガラヘビや風による被害がない かを確認してから、太陽で温められたアドベの空間に入った。母 は即座にベンチの上に横たわり、遠くにそびえる山を見つめて、深 呼吸した。母は山が南向きの窓のちょうど真ん中にくるように設 計していた。 「中心を築く」ことの大切さは母がつねに気にしてい たことで、私もそれを意識するよう教えられた。すべての古代プ エブロ遺跡が世界の中心であることを意識して、選んで築かれて いたように。

移動の疲れが癒えるにつれて、母の沈黙のなかに長く引っかか る不安を感じ取ることができた。彼女は新しい隣人がどういう人 なのか、そして彼らの建物が作り出すかもしれない空間の不均衡 さについて恐れていた。すると、ある啓示を受けた—— ベニトなら できると! そうだ、完璧だ。私の息子は彼らの家を建てることが できる。彼なら何をどうすべきかを知っている。そして何よりも重 要なのは、メサへの深い敬愛とつながりを基礎に建てることがで きる。ベニトには間違いなく「中心を築く」ことができる。 でもどうやって彼らと連絡を取ればいいのだろう。電話番号ど ころか名前すら知らず、次にいつ彼らが戻ってくるのかもわからな い。すると、またしても素晴らしい解決策を思いつく。ボトルメー ルである! 子どものように興奮した私たちは、手紙を書き、それ を入れるのに適したボトルを探した。それから戸締りをして小屋を あとにすると、道の脇に積み上げられた石の上に手紙入りのボト ルを残そうと向かった。 それから 2 週間後、母は息を引き取った。だが亡くなる前に、 隣人から連絡があった。彼らはボトルを見つけたのだ。飛行機で 母の葬儀に駆けつけてくれた彼らは、そのあとベニトと彼らの新 しいアドベの家について話し合った。ベニトがメサで作業をはじ め、粘土を集めているのを見た私に、昔の思い出がよみがえった。 それは 8 歳のベニトがここを訪れたときのこと。母はベニトにコ テと粘土の漆喰が混ざったものを手渡すと、何もない壁に向かっ て言った。 「やってごらん」 アテナ・スティーンの母は、ニューメキシコ州のサンタクララ・プエブロで育っ た。アテナは粘土を使ってアドベを建造する方法を母から学び、模様と質感 と色彩の豊かな壁と機能する形を結びつけて、彫刻的な空間を創り出す情熱 を受け継いだ。みずから創設した非営利団体〈ザ・カネロ・プロジェクト〉を通 じて、アテナは質素で技術を要せず費用もかからない建造方法を共有し、人 びとと文化と自然から成り立つ地域社会を築く取り組みをつづける。 これらの写真は、ニューメキシコ州にある 19 のプエブロのひとつ、ケワ(サントドミンゴ)

〔前の見開き〕豊かなテロワール:かび臭いような土と植物の根の深い香りは、

28

プエブロ族の未譲渡地で撮影されました。さまざまな国から入植者が到来したにも

粘土とシルトを日干しすると乾いた藁の芳しさに変わり、すっきりとした

かかわらず、そこで土地と水を守りつづけているプエブロの人びとからは、私たちが学ぶ

石のような仕上がりで、アドベの自然な構成が生まれる。

べきことがたくさんあります。


〔上〕「8 歳の私がメサを訪れたあるとき、祖母がコテを差し出して言ったんです。 『やってごらん』って」と語るのはベニト・スティーン。 「何かをするとき、まるで骨にしみ込んでいたかのように感じることはあるものです」 〔下〕「私の先祖は代々、粘土とともに生きてきました。土を扱う彫刻家や建築家として」とベニトは言う。 「母方の親戚のほとんどはサンタクララ・プエブロに住んでいて、何かしら粘土に関わっています」

29


〔上〕「土台のために石を、屋根のために木を、壁のために土を集めます。そうやって土地と私たちをつなげるのです」とベニトは言う。 〔下〕「私のルーツはニューメキシコ州サンタクララ・プエブロにあります。まばらな木々のあいだを縫って大地から建物が浮かび上がる場所です」 と語るのはアテナ。「プエブロの起源説には、人も大地から浮かび上がってきたと伝えられています。私たちの言語、テワ語にある「ナン」という言葉には、 土という意味も、私たち人間という意味もあります。ナンは壁、屋根、漆喰、床を構成します。すべての人びとが建造作業の一部を担うのです」

30


ジェナ・ポラードとベニトがはじめて会ったのは 4 年前、コスタリカでのティンバーフレームのプロジェクトに参加したときのこと。ベニトからこのプロジェクトへの 誘いを受けた彼女は、ミネソタでのすべての仕事を中止して車で建造現場に駆けつけた。「アドベに関する道具のリストや手引きなどはもらいませんでした」 と回想するのはジェナ。「その代わり、私も靴を脱いで、ベニトの真似をしてつま先で粘土と水と藁を練り混ぜ、一貫した粘度に仕上げるために セイウチのように丸まった粘土の塊をシートの上に広げました。コテでアドベの壁に粘土の漆喰を流れるように塗る彼の手さばきも真似しました。 彼が壁に水を足したり、漆喰の質感の滑らかさをコテで適度に押しながら説明するたびにメモを取りました」

31


「成長するにつれてわかるようになったことは、芸術と建造には違いがないということです」とベニトは振りかえる。 「母が家に手を入れるのを見ていると、壁で失敗しても、それを滑らかに彫ったり、構造を曲線で包み込んだり、 窓のまわりにシンプルなデザインを刻んだりして、内からも外からも美しく見えるようにしていたからです」

32


「ベニトは石、粘土、砂、藁を、自分の体と心の延長のような方法で扱います」とジェナは言う。 「彼はそのような素材を住むことのできる空間に変える物質的な流れについて考えることには時間をかけず、 そのなかにすでに存在するものに命を吹き込んでいるようです」

33




〔前の見開き〕「アドベやティンバーフレームなどの 自然な建造物の核心は、知識の伝承にあります。 それが世代を越えて伝えられる場合もあれば、 新たな友との共有によって伝えられる場合も あるでしょう」とジェナは語る。「ベニトと私は、 夏から初秋にかけて比較的隔離された世界で 過ごし、作業をしてきました。笑いや物語の伝承、 あるいはただふざけて過ごした時間のエネルギー が、私たちの創った空間に貢献しているのです。 そして粗大ゴミから見つけたソファに腰を下ろし ては、毎日夕陽を眺めながらあらゆることに ついて語り合いました」

〔右〕起源の循環。「母が、母の曽祖母に聞いた ことがあるそうです。大きな割れ目が入った家を なぜ直さないのか、と」とアテナは思い出す。 「すると曽祖母は母の前で指を横に振って言った そうです。 『あなたは心配しなくていいことよ。 この家は役目を果たしたの。長いあいだ手入れを してもらって、愛されて、何度も直されてきた。 だからいまは大地へ、それが生まれたところへ 還るときなの』」

36



文 ミゲル・フェルナンデス・ペレス

写真 エイミー・カムラー

ヴィダ・イ・アレグリア パタゴニア プロビジョンズのタイセイヨウサバは、 スペイン北部に古くからつづく漁村、サントーニャ の沖で捕獲され、ミゲル・フェルナンデス・ペレス から調達しています。



午前 4 時にサントーニャの港に来ると、あたりはまだ真っ暗で静まり かえっています。カモメもまだ眠っています。船は全長 40 メートル弱 と比較的小さく、6 ~8 人が乗れるほど。乗組員はだいたい父と息子、 あるいはいとこやおじなどの家族だけです。

何年も前にチョウザメなどの魚種の数が減りはじめ、私たちは持続可 能な方法で漁をしなければならないことを学びました。さもなくば最大 の敗者となるのは自分たちだからです。もう何年も水産資源を守る方法 でやってきたいま、漁場は大いに安定しています。

寒いし、眠いのですが、すぐにすべての準備を整えなければなりま 協会は地元の漁師の面倒もみます。サントーニャを含むスペイン全 せん。そしていざ海へ! 他の漁船と無線連絡を取るのは極めて重要で、 域の漁師協会であるコフラディアは、500 年以上にわたり漁師を守り、 もし前日にある特定の場所でサバが見つかったことがわかればそこへ 仕事の質を改善し、協力しあうよう漁師をまとめてきました。私たちの 向かい、そうでなければサバを探しながら沿岸を移動します。 コフラディアは魚のせり、その支払い、買い手への受け渡し、そして 港の職員や設備(箱から荷台、秤、手押し車、コンピューターまで)を 船 長が舵を取るあいだ、誰かがコーヒーを淹れて朝食を作り、別 の誰かが釣り糸とリールを確認して、すべての準備を万全に整えます。 まとめています。また、漁船に必要なあらゆる公式書類の処理という 大仕事や、方針を改善するために公共漁場の管理者との交渉などもこ シーズンはじめの 2 月はたいてい雨ですが、最悪なのは風です。ひど なしています。 い荒波になると船が転覆しかねないため、そんなときは自宅にとどま ります。

漁場にたどり着き、空が明るくなってきたら船を減速させ、一定の間 隔で釣り針を付けた糸を仕掛けます。それぞれの釣り針の上にはサバ の好物である甲殻類を模した小さな赤い毛糸を結び、生き餌は使いま せん。釣り針は大型の成魚だけを狙うものを使います。生殖前の小さ なサバを捕獲するのは将来的な個体数に弊害をおよぼすからです。釣 り針はサバだけを捕獲し、鳥やウミガメやその他の種に影響を与えるこ ともありません。私たちは、思い出せるかぎり昔から、この方法で魚を 獲ってきました。昨今では魚の群れを包囲する巾着網を使う漁師もいま す。注意深く責任をもって使えば混獲を最小限に抑えることは可能で すが、釣り針と糸だけを使う方法にはおよびません。あらゆる魚種と周 辺の生態系にとって真の脅威となるのは、航路にあるすべてを捕獲す るトロール網です。

大漁の日にはサバの群れが、まるで水を射る銀の矢のごとく炸裂し ます。魚が糸に当たりはじめると、大急ぎでリールを巻き上げます。こ れぞまさにヴィダ・イ・アレグリア! 漁師にとって「人生の喜び」の瞬間 です。魚を船縁に引き寄せると、金属製の棒で釣り針から魚を外します。 そしてすばやく魚を容器に並べ、船倉で冷蔵します。 ほんの数時間で漁獲規定量に達することもあります。遠いところで 漁をすると地元以外の港で水揚げすることになり、そんなときは町で夕 食を食べて船で眠ります。家に帰りたいのはやまやまですが、海に逆ら うことはできません。私たちにはしたがうことしかできないのです。

40

いまでは息子たちも漁に出るようになりました。私は彼らに海を愛し、 尊敬することを教えてきたつもりです。海は私たちにすべてを与えてく れますが、ひとたび怒らせたら移り気で危険な存在です。漁師は決し て自信過剰になってはいけません。漁は命がけの仕事だからです。また 金儲けのためにあと先を考えず、海からすべてを搾り取ろうとする輩に 屈服してはならない、ということも伝えてきました。 きちんと伝わったかどうかはわかりませんが、そう願っています。

ミゲル・フェルナンデス・ペレス は 14 歳のときから父と祖父とともに漁に出は じめた。やがて弟と共同で自分たちの船、ヌエボ・サルバドル・パードレ号を 購入し、船長になった。2011年にはサントーニャ漁師協会会長に任命され、 現在は息子アドリアンがヌエボ・サルバドル・パードレ号の船長となり、もう 1 人の息子ルイス・ミゲルはヴィルゲン・デル・プエルト号の船長を務める。ミゲ ルとサントーニャの漁師たちを特集したパタゴニア プロビジョンズの映像『サバ の調達』は YouTube または PatagoniaProvisions.jp でご覧ください。

〔前の見開き〕スペインのビスケー湾でタイセイヨウサバを引き上げる家族操業の漁船。 沿岸から数キロ沖でサバが大きな群れを成して泳ぐこの漁場は、オランダの〈グッド・ フィッシュ・ファウンデーション〉に厳しく監視されている。 〔左下〕からまった釣り糸を解くセサル・サンブラーノ。 〔右下〕サバの好物である小さな甲殻類を模した赤い毛糸。生き餌は不要。


各漁船が仕掛ける糸は通常 4 〜 8 本で、それぞれの糸が一度に釣り上げることのできる魚は数十匹。 良好な日にはほんの数時間で漁獲規定量に達することもある。

41


42


小さな魚を食べよう 海洋食物連鎖の下位に位置する軟体動物や小型魚は、往々にして個体数が豊富であるた め、海から急速に姿を消しているマグロやメカジキのような大型魚とは異なり、商業捕獲の 圧迫に耐えることができます。他の生物の「餌」となるこのような魚は、人間の食用にも最 適です。健康に有益なオメガ 3 脂肪酸、タンパク質、ビタミン、ミネラルが豊富なうえ、あ る種の大型捕食魚に比べて蓄積有害物質が大幅に少ないからです。 私たちは数年前にスペイン北部のガリシアの冷たくきれいな海で養殖されるプリプリの ムール貝を選び、EU オーガニックムール貝の製品ラインの販売を開始しました。つづいて、 やはりスペイン北部から 2 種類の美味しい小型魚を発売。タイセイヨウサバはしっかりとし た肉感とまろやかな風味で、マグロの代用としても最適です。新発売のスパニッシュ・ホワイ ト・アンチョビはより新鮮な風味で、塩気と生臭さの強い「ピザ用」アンチョビよりもほのか な味わいです。これらの漁場は 3 つともオランダの〈グッド・フィッシュ・ファウンデーション〉 が厳しく管理し、何世代にもわたって海を中心に生計を立てている家族が収獲しています。 パタゴニア プロビジョンズのムール貝、サバ、スパニッシュ・ホワイト・アンチョビ をはじめ、拡がりつづける、責任ある方法で供給された食品のコレクションは、

PatagoniaProvisions.jp でご覧ください。

〔左〕容器に並べて船倉で冷蔵するため、獲れたての魚をすくい上げるセサル・サンブラーノ。 〔上〕パタゴニア プロビジョンズのスモーク・サバを欧風ライ麦パンに載せ、粒マスタードとハーブを添えたオープンサンドイッチ。 〔次の見開き〕「海からすべてを搾り取ろうとする輩に屈服してはならない」

43






精神を

独立させる 文化、覚醒、主体性について語るユピック族の哲学者。 文 マアルック・ウォーレン・ジョーンズ


Ellange(エランゲ) :覚醒すること。その記憶が永遠に残る最初の体験をすること。 ellanguq(エラングッ ク) :彼は覚醒した / Maaten-gguq ellanguq mat’umun nunakegtaarmun tanqircetqapiarluni camek-llugguq cali nalluami yuucini-llu nalluamiu murilkessiyaagpek’nani / 彼女が輝かしく美しい世界を自覚し

たのは、そのときだったという。まだ何も知らず、自分が人間であることさえ知らなかった彼女は、じっくり と見ることをしなかった。

——ユピック・エスキモー辞典第二版(スティーブン・A・ジェイコブソン編纂)より

私は自分が覚醒した瞬間を覚えています。それはアラスカ州ノー ムの外れ、フォート・デイビスにあるベン爺さんの小屋で、漫画 を読みながら眠ってしまったときでした。近くにはノーム川が流れ ていました。母は、私は子どものころサンタの本で、独学で読み 方を覚えたのだと言いましたが、そんな記憶はありません。でも 『リバーデイル』のことはよく覚えています。 (いつもアーチー・コ ミックに鼻をうずめていた私のことを、ベン爺さんは「コミック」と 呼んだものです。アーチー・コミックは異質な世界、ゆくゆく私が 住むことになる世界への窓口でした。)

ものです。そして個性の必然的帰結が自由であるとすれば、覚醒 の必然的帰結は責任であり、その責任は重大です。

ラジオからは、ユーリズミックスの「ヒア・カムズ・ザ・レイン・ アゲイン」が流れていました。

おじはアメリカ先住民の行動規範について私に教えようとする こともありました。それは古くからの知恵のようなもので、長老や おじやおばや親戚から聞くこともありました。しかし私が最も興味 をもっていたのは、ユピックの信条と体制でした。

その曲は私の夢の一部になっていました。まるで赤色のレンズ を通して見ているかのように、すべてが赤く染まっていました。私 は永久凍土が融解して形成されるサーモカルストの縁にいました。 下の方の層が皮膚のように剥がれ落ちていき、私はアーチー・コ ミックのキャラクター全員と一緒に、その縁を取り囲んでいました。 サーモカルストを中心に、万物がぐるぐると回りはじめました。 曲は流れつづけ、私は回り、アーチーのキャラクターたちも回り、 私たちは一緒にぐるぐると回りつづけました。そしてそのとき、眠 りから覚めました。 その小屋のことは覚えていて、あのとき自分がどこにいて、誰で あるかもわかっていました。夢のなかの曲は知らない曲でしたが、 —— 私 いまでも鮮明に覚えています—— エラングック(ellanguq) は覚醒したのでした。それは独自の覚醒、私だけにしか認識でき ない誕生日のようなもの。あの瞬間より前の記憶もありますが、そ れらは静止画か動画のコマのようなものです。自分に関するさまざ まな話を聞いたのでその背景から過去を思い出すこともできますが、 自分が誰であり、どこにいて、何をしていたかを認識できる最初の 記憶はあのときです。あの瞬間、私は覚醒したのでした。 覚醒はユピック文化の中心的な信条です。それは唯一の信条で はありませんが、アメリカ文化の中核を成す個性のように重要な

〔前の見開き〕ユーコン・クスコクウィム・デルタの冬。

「この部分は、犬と何ら変わりないんだ」と、私の体を示しなが らおじは言いました。 「『ユウヤラック(Yuuyaraq)』とは、神の 姿に似せて作られた自分自身の一部を発展させることを意味して いる」 おじはユピックの伝統的な信条を私に唱えていました。筋 肉を鍛えるのと同じように精神と魂を成長させることについて語り、 考えるべきことと考えるべきではないことに注意するよう、私に忠 告しました。

赤ん坊はまだ覚醒していません。妻のサーシャと私は、昨年 4 歳になった息子のマユックはまだ覚醒していない、ということに同 じ考えです。 マユックはたいていは理解できることを話し、読むふりをし、家 族やお気に入りのキャラクターらしき絵を描きます。何度も何度も 映画を見て覚え、おもちゃを使って場面やシナリオを克明に再現し ます。しかしまだ覚醒していません。覚醒のときはまもなく訪れる ことでしょう。 覚醒した人とは、意思疎通の取り方が変わります。いったん覚 醒した人には、現時点ではできない方法でものごとを教えること ができるようになります。もちろんそれまで学んでいなかったわけ ではありませんが、それまでは私たちがすることを観察し、まねし ているだけです。私たちの言葉やその意味は解析できないものの、 私たちの行動には注意を払っています。 私の知るかぎり、覚醒する時期はひとりひとり異なります。私 の長男は赤ん坊だったころのことを覚えています。3 歳のとき、母 親の胎内の様子を話しました。マユックはまだ覚醒していないので、 自分の行動に責任をもつことはできません。伝統的なユピックの

〔左〕アラスカ州アンカレッジのすぐ外、チュガッチ山地の近くに

数千年にわたりユピックの故郷として存在してきたアラスカ

あるターンアゲイン・アームで、凍った沼地に立つ著者。ここは秋に

西部のこの地域は、全米最大級の河川デルタ地帯である。

ブラッククロウベリー(ガンコウラン)の実を摘み、冬にファット

Andrew Burton and Michael Kirby Smith

バイクに乗るのに格好の場所。 Ash Adams(協力 Sarah Pulcino)

49


母は兄弟姉妹たちとその世界で育ちました。 おじは「たったいまツンドラから出てきた ような気がするときがある」と言います。 社会では、子どもに対して決して声を荒げたり腹を立てたりしませ ん。それは私が目指すことです。 自分の文化を学べば学ぶほど、それが昔ながらの世界観だけで はないことに気づきます。覚醒の過程は、一生涯を通して起こる ものです。 ユピックはすべてに魂「イインルック(iinruq) 」があると信じます。 人間の魂は「アネルネック(anerneq) 」と呼ばれ、それは息吹を 意味します。人の名前と特徴は、その人を名をもつものの種類に位 置づけ、また多くの名前や特別なあだ名をもっている場合もありま す。現代でもさまざまな文化で、公式な証書であるかないかにか かわらず、複数の名前をもつ人は少なくありません。ユピイット(ユ ピックの人びと)は先祖にちなんだ名前をつけ、私たちはその名 前と先祖の特質を受け継いでいきます。私の名前はマアルックで、 誰の名前の繰りかえしなのかはわかりませんが、何度も何度も使 われてきた名前です。どれほど昔に遡るのかもわかりませんが、古 くからの名前です。言葉そのものはもはや使われず、そして私が尋 ねたかぎり、その意味を知る人もいません。しかしそれがどこに由 来するかはわかっています:マミエ・セトン。私が死んだら誰かが この名前を受け継ぐでしょう。私は人間の連鎖の一部であり、生 と死のなかで築かれた命と関係性の連鎖の一部なのです。 その次にあるものは人の精神です。精神は行動するための情報 のしくみであり、世界に関する一連の想定であり、行動のために 蓄えて利用する規則と形式です。これには私たちが同調する物語 も含まれます(私たちはなぜここにいるのか、どうやって来たのか、 など)。精神は重要なものであり、自分の行動を支える公理的な 仮定に注意することも大切です。こうした仮定の多くは経験から ではなく、誰かから教えられるものです。 人の体は物質界につながる節点であり、魂と精神の媒 体で す。体は驚くべき道具ですが、体はあなたのすべてではありません。 不運にも指を 1 本失ったとき、指と一緒になくなるのはあなたのど ういった部分なのでしょうか。残るのは誰なのでしょうか。 あなたはあなたの思考や精神でもなければ体でもありません。 これは私たちイヌイットの、自分自身や他人の見方を反映していま す。あなた自身もあなたと関わる人たちも、思考や行動そのもの ではなく、思考や行動の発信元なのです。これは決定的な違いで す。なぜならそれにより「人」がその言動や行動から切りはなされ るからです。 思い出せるかぎり昔のことを振りかえってみてください。最初の 記憶でなくとも、幼いころの記憶でかまいません。あれは誰だっ

50

たのか。もちろん別人に見えることもありますが、それはあなたで す。いつでもあなただったのです。変化しているのは私たちの情 報のしくみ、つまり経験と内在的な枠組みであって、あなたがあ なたである核心部は変わらないのです。 「エラングック (覚醒した)」 というのはあなたの成長の出発点であり、自分自身と周囲の世界 に対する覚醒は生涯を通して進展しつづけます。いまの自分や自 分の理想にそぐわない、かつての思考や行動に覚えがあるでしょ う。精神は変わることができ、変わるものなのです。イヌイットが もっている人の概念はこれを認め、成長の余地を作ります。 かなり長いあいだ、私は夢に出てきた曲を間違って記憶してい ました。あるときシャワーを浴びているとあの記憶が強烈によみ がえり、その曲が聞こえてきました。あわててシャワーから出ると コンピューターの前に座り、YouTube でユーリズミックスを検索 しました。リストの最上位にあった「スイート・ドリームス」を聞き ましたが、シャワーで曲を鮮明に聞いたばかりだったのですぐに違 うと気づきました。そして次の曲を聞きはじめると、前奏の時点で すぐにこの曲であることがわかりました。 「また雨が降る、思い出 のように頭上に降り注ぐ」 長いあいだ忘れていた記憶がよみがえってきました。同世代の 大半の子どもがそうであったように、私たちは長い夏の日も短い 冬の日もノームのあちこちを当てもなく散策しました。春は野草を 集め、野鳥の卵を探しに行きました。海岸ではサーモンを獲る網 を仕掛け、母と父が魚をさばき、塩水に浸けてから日干しにしま した。いくつもの棚にのったサーモンは涼しい沿岸の風で乾かし ました。兄弟もいとこたちも私も、食べられると教わったものはす べて食べました。野生のセロリは苦味が強く、めったに使わない 小道には背の高い草のなかでナグーンベリーがひっそりと生えて いました。ジリスを巣穴に追いやると、別の穴から頭を出して私た ちを叱るように鳴きました。 普通の子どもと同じように学校にも通いましたが、冬のあいだも 野外での遊びはつづきました。氷の穴からトムコッドを釣ったり、 網を仕掛けてタラバガニを獲ったり、アザラシの脂をバターのよう にして食べたりしました。ベーリング海を見渡すノームの岩の防波 堤の後ろには、商店や飲み屋が並ぶフロント・ストリートがありま した。私たちは小遣いがあると駄菓子屋に行き、それから海岸沿 いの氷の塊のあいだを飛び跳ねたりして遊びました。猟師はアザラ シやセイウチなどの獲物をもって帰宅しました。こうした場面のど れもが、私の身近にいるほとんどの人たちのありふれた日常でした。 私の父方の先祖はグウィッチンです。エドワード・チャールズ・ ジョーンズの家族はフォート・ユーコンとネナナの出身です。私は ベアトリス・オブライアンの子として、1977 年に生まれました。実 の父親が名づけるのを待つよう指示したので、母はしばらく待ちま した。しかし彼は現れませんでした。母は私が彼のような歩き方、 話し方、笑い方をすると言いましたが、会ったことは一度もあり ません。


おばやおじたちは、私が赤ん坊のころから私のことを「ミス ター・ジョーンズ」と呼びました。私のユピックの名前はマアルッ クですが、やがてはウォーレンという英語の名前を与えられまし た。ウォーレン・リチャード・ジョーンズ。母を守る小さな戦士と してウォーレン、私が生まれる前に死んだ父方のおじにちなんでリ チャード、そしてフォート・ユーコンに暮らし、私の父方の曽祖母 メアリー・ロデリックと結婚した白人の先祖フランク・チェスター・ ジョーンズから取ったジョーンズです。フランクの兄弟はネナナの 初期の白人入植者でした。 母方はナパリャーミウト出身のユピックです。フーパー・ベイと いう湾に流れ込む潮汐沼地であることから、それが村の英語名と して使われています。私はイヌピアックである継父の家族と一緒に ノームで育てられました。ノームはベーリング海沿岸に位置し、長 いあいだ人びとが暮らしてきた「シトナスアク」として知られる場所 です。のちにゴールドラッシュで有名になり、1900 年の国勢調査 では人口が 12,000 人に上りました。ノームはキング島の学校が 閉鎖され、その住民の多くが移住してきた場所でもあります。現 在はおもに先住民の町ですが、それ以外の人たちのかなり大きな 共同体もあります。 私たちがマタヌスカ・スシトナ・バレーのデナイナの土地に入植 者が作った、活気ある小さな町パーマーに移住したのは 1980 年 代後半でした。私は森や山や氷河や川で思春期を過ごし、ここで 育ったいとこたちから、すっぱくて美味しいスグリの実を森のどこ で見つけるか、また夜の畑からウサギのようにニンジンやキャベツ を盗むことなどを教わりました。パーマーは道路網につながって いて、アラスカで最も人口の多いアンカレッジから車で近いことも あり、ノームとは地理以外の面でもずいぶん異なりました。 ここでは、私は他の面であまりうまくできませんでした。文化的 な変化は家族皆にとってむずかしかったのだと思います。ですがバ レーは住み心地のよい環境や体験を提供してくれました。それで も、私は高校 1 年生と 2 年生のときに停学処分を受け、そのころ は周期的に施設にも入りました。3 年生と 4 年生の成績は良かっ たものの結局中退し、その後一般教育修了検定を受けて合格し、 コミュニティカレッジに進学して数学を専攻しました。夏場は缶詰 工場や波止場や漁業関連の仕事をし、冬場は万能クロスやマジッ クペンを売りながらあちこち旅してまわりました。1990 年代後半 になると、荷物をまとめて仲間 2 人と一緒に車でシアトルに行き ました。最初はパイク・プレイス魚市場で働きました。ワシントン 州で大学を卒業するつもりでしたが実現せず、やがて私は妹から 海兵隊に入隊するよう勧められました。 継父、妹、そして私は海兵隊に勤務した経歴があります。私は 軍隊の適性試験で高得点を得たのでいくつかの選択肢を与えられ ましたが、歩兵を志望しました。危険な任務に就きたくて入隊し たので、ロケット弾を発射したり、手榴弾を投げたりしたかったの です。それで第 1 軽装甲偵察大隊の兵士に落ち着き、2002 年か

ら 2006 年まで勤務しました。そこでは多くを学び、全米から集 まった善良な男女とともに働きました。また数人の真の戦士に出 会い、彼らの下で軍務に就きました。彼らは真の戦士精神を教え てくれたばかりでなく、戦争を美化しないことや戦う理由を教えて くれました。 妻に出会ったのはそのころでした。ロサンゼルスのパーティ会場 に入ってきた美しいアルゼンチン人の女性に、私の目は釘づけにな りました。海兵隊を退役してアラスカの大学に通うようになってか らも、彼女と長距離恋愛をつづけました。その後 2 人でシアトル に移住することを決め、そこで最初の子どもが生まれました。私 は学業をつづけましたが運命のめぐり合わせで、妻の仕事と私た ちの生活を現在 4 人の子どもと一緒に暮らす、アンカレッジに戻 すことになりました。 この 12 年間私は専業主夫として子どもの面倒を見ています。当 時妻は私よりも良い職に就き、当面の見通しも明るかったからで す。私は大学に通い、できるだけベビーシッターを頼まずに済む ようすべての講義を週 2 回で受講できるスケジュールを組みまし た。そのため政治理念の授業を多めに受けることになりましたが、 それらは予想以上に興味深く面白いものでした。 自分が誰であり、どこから来たのかについて、より深く探求す るようになったのはアラスカに戻ってからでした。植民地制度の歴 史を学び、先住民女性に対する暴力の蔓延の実態と規模に関す る授業や、教会が地元地域に小児愛者をもたらした暗い過去につ いての授業を取りました。また自分の家族からも、彼らが見て経 験した証言を聞きました。教会は多額の和解金を支払いましたが、 子どもやその家族が受けた傷を和らげることにはなりませんでし た。おばの話を聞き、そのようなことを許した教会と先住民族の 人びとに対する一般社会の態度に、私はやり場のない怒りを感じ て涙しました。 大学ではプラトンやアリストテレスを学び、アメリカ合衆国憲 法を分析しました。数々の観念の種を論議し、そこには私たちが 疑問も抱かず受け入れている私有財産のような、たんに概念のう すっぺらな正当化でしかないと私が考えるものもありました。最終 的には西洋哲学や思想家を高く評価するようになりながらも、そ れらの多くのことについてユピック独自の観念があることにも気づ きました。そして私が知るかぎり、私たちの観念にはあらゆる分 野で西洋哲学と同じように、またはそれ以上の正当性がありました。 ユピックの統治体制は西洋のそれとは大きく異なります。その ため先住民族に出会った単純な入植者や探検家は、そこには統 治体制がまったくないと考えました。私たちの社会は非集中的な 体制で、開拓地や定住地は分散していました。誰もが行動規範を 理解し、ユック(人間)ひとりひとりが、自分も他人も「ユウヤラッ ク」の法と体制にしたがうことに責任をもっていました。 「ユウヤ ラック」は北方に暮らし、北方の教訓を学ぶ人たちによって培われ

51


た何千年もの知恵の産物であり、この土地はここで過ごしたすべ ての人にとって偉大なる美と深淵な精神的つながりの場所です。 私たちは世界を入れ子構造の多元的共存だと考えました。世界 は「魂」の住処であり、すべてのものに「魂」があります。物質界 とそのすべての法も存在しましたが、それらはより大きな構想、つ まり物質界を支える「霊的宇宙」の一部に過ぎません。 「魂」とい う言葉はユピックを説明するのに最も近いかもしれませんが、厳 密にすべてを含んでいるわけではありません。すべての物質には 存在感があり、大なり小なりその意志を宇宙に広げます。山はそ の完全な存在に意志があり、山に登ったり山の上や周囲で暮らし たりする私たちは、山が占める領域に示される山の意志を理解し ます。ユピックは山には意識があり、どのように扱われるかをみず から認識すると考えました。 アラスカで大学に行ったことで、他の地域にはない見解と機会 を得ることができました。連邦主義者に関する論文も反連邦主義 者に関する論文も読みました。私は〈ファースト・アラスカンズ・イ ンスティテュート〉のガバナンス・フェローとして、人間が世界を構 築した方法を探索し、概念と着想はどのように体制と機構へと展 開するのかを学びました。そしてもしユピックの統治体制と機構

ことを明白に示しました。私は現在 44 歳で、先祖が生きた人生 と背景を理解し、その視点から教訓と世界観を見ようとしていま す。いまではばらばらになってしまったかつての世界の遺物を体験 したことがあるのは、私の一族ではおばとおじたちだけになりまし た。彼らの話を聞くとき、情報の時代、ソーシャルメディアの時代、 情報がすさまじい速さで(そしてデマはさらに速く)流れる時代に 生きることが、彼らにとってどれほど不可解であるか、私には想 像もつきません。私自身でさえ、人間の能力では追いつけないほ ど大量の情報に圧倒され、自分は未来の世界に暮らしているので はないかと感じることがあるのですから。 私の存在は「ヌナ(nuna)」、つまり土地と深く結びついていま す。初期の探検家は、この土地で人びとが暮らしているのを発見 し、驚きました。私のごく最近の祖先が地面から現れて彼らを迎 えたような土地だからです。母は兄弟姉妹たちとその世界で育ち ました。おじは「たったいまツンドラから出てきたような気がする ときがある」と言います。 私の頭のなかにある知識の大半は、出どころがさまざまです。 実体験や文献や植民地の歴史的記述に基づくものもあれば、ヒッ チハイカーや酔っ払い、そして企業のリーダーや、おばやおじの

山はその完全な存在に意志があり、山に登ったり山の上や周囲で暮らしたりする 私たちは、山が占める領域に示される山の意志を理解します。 が独自に展開していたら、現代社会でどのように映るかを考えは じめました。私の覚醒はさらに発展していきました。 先住民以外の講演者から文化や関わりの欠如をテーマとした講 演を聞いたこともあります。これは驚くべきテーマでした。それま での私はどのように西洋文化に対応するかを学び、大学では西洋 文化の歴史と起源を学ぶことに大半の時間を費やしていたのです から。ところが講演者はその存在自体を否定しているのです。彼 らは西洋文化に対する無知を強調しているだけではなく、存在し なかったと言っているのです。これは文化とその意味を探求する 私の旅のはじまりとなり、私がおもに取り組んでいる文化の保存 と復興の重要なテーマとなりました。食や芸術なども文化の重要 な一部ですが、文化とはそれを超越するものです。人びとはビー ズ手芸の様式や食料保存の方法をめぐって争ったり死んだりして きたわけではありません。これらは、より根本的なものを表して います。 私は恵まれた環境で育ちました。土地から教訓を学んで、幼少 時代に私の世界観を築きました。歴史を読んでいた私は、先祖の 世界をうまく理解できないことはわかっていました。また曽祖父 の時代の物語は、私には再現できない世界に彼らが存在していた

52

話から得た知識もあり、その分野のいくつかは交差します。そし て彼らの多くは、自分の知識はいまの世界においては重要ではな いと、過小評価しています。 宣教師がやって来るずっと前から、私たちは神のような存在に ついて理解していました。自分たちが住んでいた環境、厳しい教 えを受けた環境から得た理解があったのです。それゆえ、私たち は喜びや滑稽さにも満ちあふれているのです。世界はすでに厳し く、私たちはそれを認識しています。私の文化が築かれたるつぼ は変化しており、おそらくそれは良い方向に向かっています。しか し世界はまったく同じ教訓とともにそこにありつづけるのです。 マアルック・ウォーレン・ジョーンズは〈アラスカ・ヒューマニティーズ・フォーラ ム〉のアラスカ・サーモン・フェローで、 〈ファースト・アラスカンズ・インスティ テュート〉の前ガバナンス・フェロー。北方哲学に傾倒し、北方周極独自の原 理を研究している。受賞歴のあるジャーナリストであり、出版歴のある詩人で もあり、4 人の子どもを育てる専業主夫でもある。

〔右〕アラスカ州ニュートックにあるジェイモン・トムの家の外に吊るされたタイヘイヨウ セイウチの牙。ニュートックの村人は食料の大部分を狩漁で採集し、セイウチもそれらの ひとつ。 Andrew Burton and Michael Kirby Smith



北緯

60° 56' 56 34 34"

アラスカの村ニュートックに住むユピック の人びとにとって、気候変動は抽象的な 概念ではありません。それにより、足元 から土地を奪われ、故郷からの移住を 余儀なくさせられているからです。

54


西経 164° 37' 37 46" ニュートック 人口:360 写真 アンドリュー・バートン& マイケル・カービー・スミス

ユピック族はアラスカの村ニュートック 周辺の土地で何千年ものあいだ狩漁をし ながら暮らしてきましたが、ニュートック が定住地となったのはそれほど昔のこと ではありません。1950 年代、アメリカ 合 衆国政 府のインディアン事務局が管 轄する学校を建設するために資材を運ん でいた荷船が、それ 以上内陸へ操 舵で きなくなったために着岸し、建築材料を 降ろした場所がニュートックでした。ユ ピック族は伝統的に、季節ごとに土地を 移動する生活を送っていましたが、連邦 政府は凍結する冬のあいだ彼らが過ごす この河口の湿地帯に学校を建てることを 決め、それにしたがわない場合は拘禁刑 を科すという脅しのもと、ユピックの人 たちに、ニュートックに定住して子どもた ちを教育するよう強要しました。それ以 来、ベーリング海沿岸部の三角州に造ら れたこの小さな村は、永久凍土の融解、 川岸の侵食、インフラの崩壊を何十年も 目にしてきました。しかも、ニュートック は移住が必要とされている 30 以上もの 先住民族の村の、ほんのひとつでしかあ りません。私たちはどうしたら、すでに この国に存在する根強い不公平性と不正 が気候変動によって加速しつづけるのを 防ぐことができるのでしょうか。ひとつ の国として一致団結し、より公正な未来 への移行を求めることができるのでしょ うか。気候変動のせいで移住を迫られる 最前線のコミュニティのリストは増える 一方です。希望がもてるのは、正義のた めに闘おうとする人たちのリストも増え ていることです。

55


極寒の冬のあいだ、長老であり村の女族長であるバーニス・トムは屋内で植物を育てる。

56


氷の盾か、地形図か? かつてニュートックはハロウィンのころは真冬だったというのに、オライオン・スチュワートは 地球温暖化により晩秋でもまだ凍りきっていない池から、この美しい氷を取ってくることができた。

57


ここは北極に程近く、満月が冬の短い 1日の貴重な遊び時間を延ばしてくれる。

58



極地の混乱:傾いた電柱はニュートックの インフラが湿地に崩壊しつつあることを 示す兆候のひとつ。

60


61


北極地方のハーブである「ツンドラ茶」を摘むアルバーティナ・チャールズ。ニュートックの K–12 制(幼稚園年長から高校 3 年生までを含む アメリカの教育制度)学校でユピック語を教えているアルバーティナのように、ほとんどのニュートックの住民は狩漁採集したものを食べる。

62


〔上〕村はずれの池で友だちと一緒に泳いだあと、自分だけの充実した時間を楽しむジョジーン・ジョージ。 〔下〕村人は春から夏にかけて野鳥の卵を集める。ニングリック川沿いで親鳥に放置された巣で見つかった このようなカモメの卵は、鶏卵に比べて卵黄の色も味も濃い。

63


伝統的なユピック族の歌と舞踊とドラムを、他の若者たちと毎週練習するジョアン・デイヴィッド。この地方では 100 年以上前に 宣教師によって禁止されたものの、ユピック族はいまも地域の集会や祭りや祝日の前にこうした儀式を行っている。

64


ジョニー・ジョンは兄弟姉妹とカモの雛の世話をして 2019 年の夏を過ごし、育てた成鳥を野生に放した。

65


放水管の端で凍ったニュートックの K–12 制学校の排水。村人は学校の新鮮な水をおもに地元の池から引いているが、 2019 年にはニングリック川による侵食が進んだため、給水管を移動させなければならなかった。

66


冬の氷点下 18 度のニングリック川は無害で美しい隣人。しかし気候危機によってますます急速に融解する永久凍土は、 川の解氷を村の存続に関わる脅威に変える。かつて 1 キロ半も離れたところにあったニングリック川は、現在では村の端で岸を洗っている。

67


文 マヤ・アントン

写真 メイソン・マション

雪は語る ブリティッシュ・コロンビア州沿岸の先住民族 Sk wxwú7mesh(スコーミッシュ)の言語で、 ¯ ¯ バックカントリースキーのための新たな 言葉を創造する。




Ta néwyap

皆さん、こんにちは

Tiná7 chan tl’a K’ík’elx en ¯ ¯ Úxwumixw iy¯ St’á7mes Úxwumixw

私はポート・メロンとスタワマスの村 の出身です

Chen kw’enmántumiyap 皆さんに感謝します

大地に立つとき、私は Sk wx wú7meshulh sníchim(スコーミッシュ語) ¯ ¯ で考え、話します。太古からこの土地と水に命を宿し、息づいている 言葉です。この言葉で、私たちの最も古い祖先である岩や植物と理解 し合うのです。

Ta né w yap.(皆さん、こんにちは。)Nilh lha e nts. 私の名前はマ ヤ・アントンです。Tiná7 chan tl’a K ’ík ’elx en Úxwumixw iy St’á7mes ¯ ¯ ¯ Úxwumixw,(ポート・メロンとスタワマスの村の出身ですが、)現在は Elk sn Úxwumixw(ポイント・グレイの村)に近いブリティッシュ・コロ ¯ ンビア州バンクーバーに住んでいます。Lhik ’ chen wa ímesh xwech’shí7 ¯ ta án’ us walh tim’ á. 私は絶えず 2 つの世界を行き来しています。スコー ミッシュ語で考え、人とは英語で話します。スコーミッシュ語で夢を 見ますが、人にはその夢を英語で説明しなければなりません。これが きっかけとなり、私のすべての要素を包み込んでくれる故郷を探すよう になりました。そして見つけたその故郷は、森のなかにありました。朝 日が海に反射するのを眺めたり、スキー板に乗って山を舞い降りたりで きる森に。 私は mák a7(地面に積もった雪)の上で、なめらかな音をたてながら ¯ スキーを滑らせます。息づかいは荒く、鼓動は早くなります。U ni na! En stl’i7 kwins iy’ ími7. 皆が追い越していきます。シールを付けたスキー で飛ばしていきます。A 地点から B 地点へと。いつも急いでいます。 Eshán’ melh as wa ts’áyx tsut ta xwelxwalítn? 私たちはペースの速い世 ¯ 界で暮らしています。明るくなるにつれて、ざわめきは大きくなります。 Welh an úyum ta slúlums ta sníchim-cht kwis chet wa níchim. でも私た ちのスコーミッシュ語は、ゆっくりと語られる言語です。だから時間を かけて、深く考えてから話します。 私はどうしたらこの矛盾する2つの世界のバランスを保つことがで きるのでしょうか。 〔前の見開き〕Nexwnéwu7ts(内陸へ移動し)、

Átl’ka7tsem(入り江に入り込む)。スコーミッシュ ¯

私たちは登りつづけます。ときどき立ち止まり、Nch’k ay’(マウント・ ¯ ガリバルディ)を一望できる瞬間に感謝します。祖先と、今日の私たち にとって神聖な場所。伝承にある大洪水が起きたとき、私たちの祖先 であるスコーミッシュの人びとがカヌーをつなぎ留め、種族を守ったと 伝えられている場所です。スコーミッシュの伝承は、この風景のなかに 刻み込まれています。こうした物語は風に乗り、谷を抜けて山を越え、 レッドシダーの木々の下に辛抱強くとどまります。あなたにも、私たち の祖先の声は聞こえるはずです。速度を落として、ゆっくりと進めば。 今日は山で過ごすのに素晴らしい日です。An ay ’ílem ti stsi7s. 私は 祖 先 の ことを 考 え ま す。Éncha welh nes imesh kw’en swa7wa7am’ ? 彼らも私と同じ道をたどったのでしょうか。Éncha welh nes paymwit? 尾根にたどり着いた私たちは、滑り降りる準備をはじめます。私は身の 引き締まるような、清々しい空気を吸い込みます。Txwnch7am’ kwins yétsen ti na7 tk wi Sk wx wú7mesh? 私は呼吸をしながらスコーミッシュ ¯ ¯ ¯ 語で呟き、自分の動きを自分自身と木々に語りかけます。私たちの仲間 は、滑りはじめる前に笑顔を交わします。An chen esxwíxwik ti stsi7s.

¯

バックカントリースキーに自分の言語を取り入れようとすると、相当す る言葉がないことに気づきます——少なくとも、いまはまだ。シール登

高、スキーブーツ、雪崩、パウダー、あるいは「ヤバい」という言葉さ え、スコーミッシュ語にはありません。それでも、スコーミッシュ語を 話す次の世代がこの現代の世界に合う新しい言葉を創るまでのあい だ、この場所は心を開いて待ってくれているはずです。長老たちがこう 言うのを聞いたことがあります。成長なくしては、すべて死に絶えてし まうのだと。スコーミッシュ語は私たちのようにつねに成長と進化をつ づける、息づく存在です。そのなかに埋め込まれているものは、この 世界に対する私たちの理解です。先住民族の言語を復興させる重要な 鍵は、新しい言葉を創造することにあります。

〔左〕Skwx wú7meshulh stélmexw(スコーミッシュの人びと)が祖先から受け継いできた未譲渡の土地で、máka7

¯ ¯

¯

(地面に積もった雪)を kixkítsut(滑る)著者のマヤ・アントン。バックカントリースキーヤー/スノーボーダーとして

¯

¯

の町とハウ・サウンドを見渡すブローム・リッジ。

山を旅しながら楽しむとき、私たちはしばしば先住民族の土地を訪れる部外者でしかありません。そのような地域で

ブリティッシュ・コロンビア州

私たちは、跡を濁さず立つ鳥のように軽い足取りで、敬虔に学び、恩返しができることを願います。

71



〔上〕5 羽の skewk( ’ カラス)が空を舞い、1 羽のカラスは stsek(木)の na7 ta(上に)とまっている。

¯

¯

¯

スコーミッシュ文化には創造主といたずら好きの精霊の両方を想起させるカラスにまつわる物語が多く存在する。 〔左〕syik(雪)をまとって高くそびえる 2 本の stséktsek ta xápay’ay(レッドシダーの木)。

¯

¯

¯

¯

マヤは言語の保存だけでなく、Skwxwú7meshulh stélmexw(スコーミッシュの人びと)が使ってきたシダーのような、

¯ ¯

伝統的な資源について理解を深めることも重要と考えている。彼女は最近はじめてレッドシダーの樹皮を使って帽子を織った。

73


これは長い過程です。時間と経験と専門知識を要 します。私たちの祖先が創り出した語根や接頭辞や 接尾辞を知るには、先入観を捨てて学ぶことが必要 です。 けれども、これは何も新しいことではありません。 ただ、私たちの世代に順番が回ってきただけのこと です。骨の髄まで染み込んでいるこの言語を話すと き、私は孤独ではありません。共有された言葉のひ とつひとつに、祖先の過去と現在と未来を背負って いるからです。だからスキーをしているとき、スコー ミッシュ語が口からあふれるとき、ビンディングやス キーやスノーボードなどを表す言葉を創ろうとして いるとき、それは愛する家族と故郷に手紙を書いて いるかのようです。

キーのおかげです。スコーミッシュの言語を学ぶこ とは、より良い明日を信じることであり、新しい言 葉を創ることは、その言葉を私の場所と、そしてあ なたの場所のためにそれを現実のものにすること です。An ha7lh n sk wálwen kwis na ínexwaxw tin ¯ sníchim.( 私の言葉を読んでいただいて幸せです。) Chen kw’enmántumiyap.(皆さんに感謝します。)

マヤ・アントン は故 郷のブリティッシュ・コロンビア州 ス コ ー ミッ シ ュを 拠 点 に 活 動 す る、Skwxwú7mesh ¯ ¯ Úxwumixw(スコーミッシュ・ネーション)の若者。生涯 を通じてスコーミッシュ語を学ぶとともに教え、大地に基 づいた教育と言語の復興に情熱を注ぐ。地域主体の団体 〈Indigenous Women Outdoors〉も創 設し、 アウトド 世界のすべてはつながりを元に存在しています。 アで大地とのつながりを求める部族内の女性やノンバイ ナリーのメンバーを支援している。 私が大地と良いつながりを保ってこられたのは、ス

An ha7lh n skwálwen kwis na ínexwaxw ¯ tin sníchim 私の言葉を読んで

いただいて幸せです

2つの世界

Skwxwú7meshulh sníchim ¯ ¯ Ta néwyap Tiná7 chan tl’a K’ík’elxen ¯ ¯ ¯ Úxwumixw iy St’á7mes Úxwumixw Elksn Úxwumixw ¯ máka7 ¯ Nch’kay’ ¯ Skwxwú7meshulh stélmexw ¯ ¯ An ha7lh n skwálwen kwis ¯ tin sníchim na ínexwaxw Chen kw’enmántumiyap

スコーミッシュ語 皆さん、こんにちは 私はポート・メロンと スタワマスの村の出身です ポイント・グレイの村 地面に積もった雪 マウント・ガリバルディ スコーミッシュの人びと 私の言葉を読んでいただいて 幸せです 皆さんに感謝します

〔右〕silxwm(タンタラス山脈)の上空に浮かぶ skekích(満月)。

¯ ¯

スコーミッシュの伝承によれば、猟師と猟犬はそこで岩に姿を変えてしまった。

74




森の中の雪は良い ニセコの新谷暁生が語る、雪崩とカヤック遠征と (文字通り)生きるためのルールについて。 文 新谷暁生

10 年ほど前、ニセコの花園ハーモニーリゾートで開かれた K2 スキーのイベントのゲストとして、ワイオミングのジャクソンホール からコーキー・ワードが来た。コーキーは当時ジャクソンホールス キーパトロールの隊長だった。彼はその集まりに少しとまどってい るように見えた。スキービジネスの未来を語るイベントなのだから 参加者は洒落たビジネスマンや冬季スポーツをリードする著名な 男女、そして地元の議員などだ。私もなんとなく居心地が悪かっ たが、きっとコーキーもそうだったのだろう。そもそも私たちが取 り組む安全の問題は経済活動の阻害要因でしかない。投資家や 経営者は安全への投資を抑えたいといつも思っている。私とコー キーは賑やかなパーティの片隅で用心深くこの問題を話しあった。 彼はニセコにもコース外滑走のルールがあるのを知って驚いて いた。そして「ジャクソンホールもルールを作ったが、お前はどれ くらい時間がかかったのか」と尋ねた。私が「20 年くらいだ」と答 えると、コーキーは笑って「こっちは 30 年だ」と言った。 「毎朝、 なだれ情報を書くのは仕事か」とも聞かれた。 「酒代とタバコ銭く らいにはなるよ」と答えた。私はこれに費やす時間とその対価は考 えないようにしている。コーキー同様、私はボランティアではない。 仕事としてこの問題に取り組んできた。 ジャクソンホールではコーキーはロープをくぐる「無法者」の追 跡が 30 年つづいたという。無法者を捕まえて説教するのがコー キーの仕事だった。しかしあるとき考えを変えた。 「コース外を滑 らせよう。あの生意気なガキどもを死なせないためにも彼らが納 得するルールを作り、それを守らせるほうが良い。勝手は許さな いが自由は尊重しよう」 彼は無法者に根負けしたのではない。そ れは長くこの問題に取り組んだコーキー・ワードの結論だった。 私は 1974 年、27 歳のときに札幌からニセコモイワに来て森を 拓き小屋を建てた。それまでは北海道の山を年中登っていた。冬 の日高や大雪、知床や利尻に入り、夏には道のない沢を登った。 夢はヒマラヤに行くことだ。夢がかなったのは 1969 年だ。私は

写真 二木亜矢子

横浜から船でネパールに旅立った。当時の若者が皆そうだったよ うに、私もヒマラヤに憧れていた。しかし夢だけでは生きられな い。生きる糧を得なければならない。それで日本に帰り山小屋を 始めることにした。金は勿論なかった。ボッカや土方で金を作っ た。工場でも働いたがすぐにやめた。チャップリンの映画のようだ からだ。私は歯車にはなれなかった。 ニセコモイワの宿泊者の多くは学生や子供だ。朝の食事を出し たあと、学生たちと滑った。道具は皮の登山靴と山スキーだ。ス キー靴は買えなかった。雪が解けると地元の農家の手伝いをし た。イモや野菜を分けてもらい、イワナを釣って暮らした。農家 の家や倉庫の棟上げには腰袋にカナヅチとノミを入れ、祝いの一 升瓶をぶら下げて出かけた。おかげで少し大工仕事の腕が上がっ た。こんな暮らしをつづけながらも、1978 年にはカラコルムのバ ツーラ 2 峰登山隊に参加した。 80 年代に入りニセコで雪崩事故がたびたび起こるようになった。 リフトが山頂直下まで延びたことで、新雪を滑る人が一気に増え たからだ。事故はおもにニセコ町側の沢で起こった。私は役場に 頼まれて捜索を手伝った。やがて事故のたびにその指揮を任され るようになった。他に経験者がいなかったからだ。 1991 年 1 月、吹雪で減速運転中のアンヌプリゴンドラに乗り、 先行者のトレースをたどってアンヌプリ大沢に入った若者が死ん だ。この日、吹雪が雪を風下に吹き溜めることによって出来るスラ ブ、つまり吹き溜まりが急速に発達していた。成長中の吹き溜ま りは不安定だ。少しの衝撃で亀裂が走り、厚いガラスが割れるよ うに瞬時に破壊して雪崩を起こす。私はこの日もなだれ情報を各ス キー場に送った。しかし役に立たなかった。山小屋のおじさんの 言うことに耳を傾ける人は、今もそうだが当時も少なかった。これ は日本最初のスノーボーダーの雪崩死亡事故だった。 今日のニセコの事故防止はパトロールの熱意に負うところが大 きい。彼らには雪崩事故の経験とニセコを訪れるゲストの命を

ロッジ・ウッドペッカーズのドアを通ってきたスキーヤーは数知れず、 イヴォン・シュイナードもそのひとり。そのドアに彼が「C」と記した のは 1985 年のこと。そのロゴはのちに「幻のダイヤモンド C」と 呼ばれるようになった。

77


〔上〕50 年近く前に建てられた新谷のロッジには、 いまだに鍵は必要ない。地元に生息するキツツキに ちなんで名づけられ、外装は周囲の森の色調に 合わせられている。

〔左〕ロッジ内の壁には著名なアルピニストの 三浦雄一郎のような、日本の伝説的な登山家たち に敬意を捧げる写真が飾られている。

〔右〕山間の小さな町ニセコで暮らしている新谷だが、 彼の経験と知識は北海道をはるかに超えている。

78



雪崩は自然現象であり、そこに人がいなければ事故は 起きない。私が情報を出す目的は人びとに考える きっかけを提供することだ。 守ってきたという自負がある。隊長が良け れば 若いパトロールも成長する。事故が ニセコのパトロールを育てたといえる。私 は冬のあいだ毎日彼らと話す。一方でパト ロールの仕事はゲレンデの安全管理であ り、コース外の救助は本来の仕事ではな く、救助は警察や消防が行うものだという 意見がスキー場と世論の間に根強くある。 しかし冬の捜索は一刻を争う。すぐ救助 に向かえるのはパトロールしかいない。警 察の救助隊の到着を待っていては助かる 命まで無くしかねないのだ。 林野庁は公式にはスキー場からのコース 外滑走を認めていない。ゲートを設けてス キー場外を滑ることを条件付きで認めたニ セコルールはあくまでも特例であり、国も 現行のきまりを変えるつもりはない。役所 にとって雪崩問題は小さなことだ。彼らに は原発や環境、医療問題など取り組むべ き課題が山ほどある。現状で問題はしの げるのだからと、これ以上この問題に深入 りしない。たとえ総理大臣が雪崩が重要 な問題であることに賛意を示したところで、 国が仕組みを変えないかぎり出先の役所 は慣行に従うしかない。あらゆる問題で日 本はこの体質の弊害に晒されている。雪 崩のような小さな問題でも真摯に対応して くれる人が役所にいたら、現場はもっと楽 になるのにと思う。 ニセコには5つの会社がそれぞれ別々の スキー場を開いている。利害がぶつかる各 社が雪崩の問題では歩調を合わせている。 ある意味それは奇跡に近い。過去の苦い 体験とそこから生まれた危機感がそうさせ ているのだろう。しかしそれは風化し始 めている。事故が減れば危機感も薄れる。 ニセコが独自のルールを設定していること から、外国人や一部の日本人は欧米との

80

比較でそれを問題視する。ニセコルール は完全ではない。しかしこれはこの土地 の実情を踏まえて議論し、時間をかけて作 られたものだ。 私は事故のたびに現場に出た。雪崩捜 索は重労働だ。雪崩のデブリはアルミス コップでは歯が立たないほど硬い。出始 めのころの雪崩用ショベルはすぐに折れ た。当時は捜索用ビーコンも普及していな かった。遭難者は時間を経て雪の中に体 温を出し尽くす。そしてまわりの雪を解か し、やがて凍る。2日目以降に発見され る遺体は全身ザラメ氷で覆われ、まるでツ タンカーメンの棺のようになっている。 ほとんどの事故は悪天候の中で起こる。 そんな日にはスキー場から外に出さなけれ ば良い。2007 年以降、私は毎朝なだれ 情報を書く。内容は雪の降り方とリスクに ついてだ。リスクは千差万別だ。風の強さ と向き、標高と降る雪の量、気温等すべ てが同じではないからだ。私は天気図をは じめ各種気象図と、山に置かれている 6 か所の自動観測測器のデータを見る。灯 台のデータもある。海は障害物がないの で気圧配置を正確に反映する。等圧線は 嘘をつかない。それから雪上車で山に上 がり、現況と見比べてリスクを考える。 ニセコルールの考え方に納得する人は確 実に増えている。ネットでの「ニセコなだ れ情報」へのアクセス数は毎日 5000 件 を超える。用心すればそう簡単に事故に は遭わない。この当たり前の考えを理解す る人が少しずつ増え始めている。そもそも 安全な山などない。雪崩は自然現象であ り、そこに人がいなければ 事故は起きな い。私が情報を出す目的は人びとに考える きっかけを提供することだ。

ここに来てから 50 年近い。私は大勢の 人に出会った。なかでもパタゴニアの創業 者、イヴォン・シュイナードとの出会いは 忘れられない思い出だ。彼をガイドしたの は、1985 年冬のことだ。ファーストトラッ クをゲストに譲るのが 私たちのポリシー だ。それでイヴォンに最初に滑るようすす めた。私は若いころにヒマラヤのシェルパ の生き方からそれを学んだ。イヴォンが 無事に滑り降りたのを見届けてから私も 滑り出した。イヴォンは登山靴で滑る私を 「アーミービンディングチャンピオン」と褒 めてくれた。彼はモイワの雪と白樺の森 を気に入ってくれた。それは私がニセコな だれ情報で良く使う「森の中の雪は良い」、 というフレーズに当てはまる日だった。 その夜イヴォンは小屋のノートに「better than Colorado powder」と書いた。イ ヴォンが冗談で C とマジックで書いたドア は今も使っている。幻のダイヤモンド C だ。 それからイヴォンは私をパタゴニア本社に 誘ってくれた。1986 年のチャムラン遠征 のあと、私はカリフォルニア州ベンチュラ に行き、ボブ・ジャレットのウッドショップ で家具とハンガー作りを手伝った。それら は今もどこかで使われているだろうか。 私は冬の仕事が終わると 5 月から知床 半島でカヤックガイドをする。対岸には国 後島が 30 キロを隔てて横たわっている。 そこは戦 後 75 年以 上も、ロシアに占領 されたままだ。漁民は島が帰るのを願い、 この過酷な海で漁をつづけている。私も また 30 年間にわたりこの海を漕ぎつづけ てきた。半島は日本では稀な原始景観と 生態系を保っており、2005 年に世界自然 遺産登録地となった。


ニセコルール 1.

スキー場外へは必ずゲートから出なければならない。

2. ロープをくぐってスキー場外を滑ってはならない。 3. ス キー場外では、安全に滑走するために、ヘルメットと 雪崩ビーコンの装着が最低限必要と考える。 4. ゲートが閉じられている時はスキー場外に出てはならない。 5. 立 入禁止区域には絶対に入ってはならない。 なお、捜索救助、調査活動は除外される。 6. 小学生のみのスキー場外滑走を禁止する。

〔上〕ニセコのバックカントリーへのゲート脇に立つ新谷。ここを通過するため、 スキーヤーやスノーボーダーたちは毎朝列を成して待つ。 〔右〕すべてはパウダーを指して。山と温泉はもちろんのこと、なによりもその 素晴らしい雪のため、世界中から人びとがニセコを訪れる。

81


海は怠け者の私に合っている。なにより も空気が濃い。荷物はカヤックが運んでく れる。海も山も同じ冒険のフィールドだが、 座ったままある種危険な遠隔地で冒険が 出来るとは何と素晴らしいことか。英国の 登山家ビル・ティルマンもそれで海に転じた のだろう。もっともティルマンは帆船で私は 手漕ぎ舟だが。私は 1996 年からホーン岬 を 2 度まわった。ティルマンのヨット、ミス チーフの足跡をたどり、パタゴニアのカル ボ・フィヨルドに彼のキャンプ地を探したこ ともある。私は知床での経験を身に付けて パタゴニアやアリューシャン列島へと出かけ た。アリューシャンはカヤックとアリュート 文化が生まれた土地で、2000 年代以来、 この列島に 7 度の遠征を試みた。 海は危険だ。ときに山以上に恐ろしい。 知床にはヒグマが多いが私はそれよりも海 のほうがはるかに怖い。そして人はもっと 恐ろしい。 海で私たちは外来者だ。知床で私たちは よそ者であり、そこにはお互いに折り合いを 付ける知恵が要る。行く先の不安を取り除 くのはそこを訪れる私たちの責任だ。住む 人に不安を与えてはならない。相手の身に

82

なって考えること。それが私たちの自由な カヤック行を保証する。 1969 年、ネパールの山奥でチベット難 民の家族と暮らしたときのことを思い出す。 中国の迫害を逃れてヒマラヤを越えてきた 人たちだ。彼らの願いはいつかダライラマ に拝謁することだ。家族は毎日経を唱え、 ヤクの乳を搾りバターとチーズを作ってい た。私も子 供たちとともにヤクを追った。 そのときの少年が年月を経てダライラマの 住むインドのダラムサラにいることを最近 知った。願いがかなったのだ。 私たちはダライラマ 14 世が 話されたよ うに目の前の仕事に真面目に取り組まなけ ればならない。法王はそれがやがてチベッ トと世界を救うことにつながると言われた。 しかし大多数が思考せず体制に盲従すれ ば、人が本質的にもつ狂気や悪が、やがて 私たちの中に現れる。そして凶悪なものの 出現を許す。考えなければならない。無知 であってはならない。ニセコの雪崩問題な どは小さな問題だ。だが私はこの土地に住 む者の責任として、これを放置できない。

〔左上〕この地域にある多数の天然温泉の ひとつから眺めるニセコアンヌプリ(左)と ニセコモイワ(右)。

〔右上〕新谷はニセコなだれ情報を書く前、 気象データを確認して雪上車で山に入る。 そして明るくなった窓の外を不安げに眺める。

〔右〕ニセコを象徴するダケカンバの森の中で この朝最初のターンを刻む新谷。

新谷暁生 は北海道札幌市の出身。北海

道 だけでなく、ネパール、パキスタン、 中国、アンデスなどの山々を登る。シー カヤックガイドでもあり、知床半島をは じめ、世界の辺境の海をめぐる。 私たちはこの物語のフィールドである北海道が 過去にアイヌ民族の生活圏であったことを 確認し、先住アイヌ文化に敬意を表します。


2021.01.23 Saturday ニセコなだれ情報 第 46 号 0625 弁慶岬北 7m 神威岬北 3m 気 圧 1025hPa 波高 1.1m

の推移から全体の雪崩リスクは低い。各ゲートは朝から開けられる

花 園 1000m-12.2 度 北 北 西 4.5m 花 園 720m-9.8 度 北 北 西

見込み。亀裂が各所に開いている。特にノールの陰にある亀裂は

1.2m モイワ 800m-9.5 度北 北西 3.8m アンヌプリ -12.5 度

見えないので危険、頭から落ちれば自力では上がれない。

西 北 西 3.3m 湯 の 沢 1100m-12.0 度 北 北 西 1.5m 水 野 の 沢 トップ -11.0 度北北西 3.6m 倶知安アメダス -7.5 度北北西 0.9m

雪は素晴らしく良いが天候急変に注意。等圧線が狭まればすぐに

積雪深 152cm 気圧 1025.5hPa モイワベース -9 度 12 時間降雪

吹雪く。鉱山の沢に入ることは奨めないが、滑るならフォールライ

10cm 結晶雪おだやか。

ンを。昔スコット・シュミットはここを 3 ターンで滑っている。谷 は雪崩の走路となる。谷底にいてはならない。ヘルメットの着用と

標高 800m 以上西側にふきだまり 200cm 発達し朝までに安定。

ビーコンの携行を勧める。これらの道具は自分を守るだけでなく仲

雪庇は相変わらず不安定、刺激で大きく破断する。観察と各データ

間の命も守る。良い週末を。




86


沈みゆく太陽の子 奪われた未来の美しいかけらを救うため、 あらゆる困難を覆したある女性の旅。 幼いロビーにはじめて会う。リビングルームに散らばる色とりど りのブランケットとおもちゃに囲まれて腹ばいになっている。私を見 るとにっこり笑い、よだれまみれのゲンコツを口に入れる。ワシン トン州ウィンスロップの外れにあるストローベイルハウスの窓からは 雪に覆われた丘が遠くまで、幾重にもつづくのが見える。生後 6 か 月のロビーは体をくねらせてハイハイしようとするが、それにはまだ ちょっと早い。飼い犬のリディックとオビーはクンクン匂いを嗅いで ペロペロと舐め、そのたびに声を立てて笑うロビーの口からは絶え 間なくよだれが垂れて、犬の毛がくっつく。ロビーは素朴な田舎の 一軒家に住む、健康な男の子だ。 2 月の土曜日の朝、ノース・カスケード山脈の東の麓に太陽が 完全に顔を出す前にもかかわらず、ロビーのママであるステフ・ベ ネットは準備に忙しい。39 歳のステフは、平日の日中は〈REI〉の シニア・プラニング・アナリストとして働き、夜は〈ノース・カスケー ズ・マウンテン・ガイズ〉のオペレーション・マネージャーとして働 く。予定はびっしり詰まっているが、ステフは自分たちが暮らす小 さな地域の積極的なメンバーで、ボランティア活動にも好んで参 加する。今朝はクロスカントリースキー大会の手伝いだ。トゥイス プ、ウィンスロップ、マザマの町のあるメソウ・バレーといえばノル ディックスキーだ。広々とした土地に数百キロメートルものトラック がつづくのだから、当然といえば当然だ。ステフはコーヒーを片手 に、床で遊んでいるロビーに目を配りながら、数時間ロビーをベ ビーシッターに預ける準備をこともなげに、でも急いで進める。ス テフは茶色の長い髪と澄んだ緑色の目をした、元気のいい長身の 女性である。幼い息子を見つめる彼女の笑顔はドアの外に広がる 風景ほどに大らかで野生的だが、そこには悲しみがある。その表 情のすぐ下に見える深い悲しみと、そこから立ち上がった固い決意。

文 ミッチェル・スコット 写真 パリス・ゴア

ある、この新たなエリアの探索に乗り気だった。イアンはセッティ ング・サン・マウンテンの北西面のツリーランに狙いを定めていた。 前日も同じメンバーでスキーツアリングをしていて、ステフはこの 日は長めのランニングに出かけたかった。だがイアンの決意は固 く、反対しづらかった。 「イアンはいつでも人の少ない穴場に行くの が好きなタイプだったわ。仕事でもプライベートでも人とは違うやり 方を選んだの」とステフは言う。長身で活動的で何ごとにも熱心な 冒険家のイアンは、マザマの学校で環境教育者として働いていた。 ステフとイアンは一緒に家を買ったばかりで、その夏に結婚して落 ち着き、人生をともに歩む話をしていた。2 人が心に描いたのは野 外で多くの時間を過ごし、ゆくゆくはそれを子どもと共有する家庭 だった。 スノーモービルで 20 分ほど行ったところで、4 人はセッティン グ・サンの頂上まで 3 時間の尾根の登りを開始した。ステフは新 雪や、本領を発揮する恋人や、周囲の広大な原生地域に魅了さ れ、いつものリズムに乗りはじめた。ステフとイアンは登りながらア ファメーションの言葉を送りあった。それは前の年に彼らが日課と して築いた習慣だった。 「私が、イアンが私のパートナーでいてくれ て、私の戯言を我慢して聞いてくれることに感謝していると言うと、 イアンは、私がいつも先を登ることと、ピーナツバターとジャムを 塗るのに私がパンをトーストしてあげることに感謝していると言っ たわ」と、ステフは冗談めかして言う。2 人はシール登高をつづけ、 フクロウに殺されたウサギらしきものの横を通り過ぎ、雪に穴を掘 るライチョウという、それまで見たことのない光景も目にした。そ の場面はいまではステフの脳裏に焼き付けられている。

その前の数週間は乾燥していて気温が低く、積雪はやや不安定 だった。4 人は経験豊富なバックカントリースキーヤーとスノーボー *** ダーで、地元の積雪状況や地形を熟知していた。その週末もピッ 2018 年 3 月 4 日、ステフは 3 人の連れ ——以前〈K2 スポーツ〉 トチェックを繰りかえしたり雪庇を崩したりして積雪の安定性を調 に勤務していたときに知り合ったフリーランス写真家のパリス・ゴア、 べたが、太平洋岸北西部のところどころに潜んでいるとされる、埋 パリスの友人で 2 日前に出会ったばかりのスティーブン・エッティン もれた弱層の兆候はまったくなかった。4 人が滑降開始地点に立 — — ガー、そしてステフの最愛の人、イアン・フェア とともにスキー ち、パリスが最初に滑ることにした。パリスは雪崩が起きそうな斜 ツアリングをしていた。薄曇りの冬日で気温はマイナス 7 度前後。 面を斜滑降で注意深くスキーカットし、100 メートル弱を滑降して、 雪質は良く、日ごろからスキーエリアとして使われ「セッティング・ 木々が密集している場所で止まった。そして仲間に無線で 連 絡 サン・マウンテン(沈みゆく太陽の山) 」として知られる尾根にいた。 し、斜面はいい感じだと伝えた。イアンはステフに行くかと聞いた 4 人とも滑ったことのないはじめての場所だった。ステフが「パウ が、彼女は前の日にイアンより先に滑ったので順番を譲った。イア ダー狂ヒッピー」と呼ぶ凄腕のイアンは、マザマから約 11 キロ、カ ンが滑りはじめて 4 つ目のターンを刻むと、斜面全体が崩れ落ちた。 ラスならブラック・パイン・ベイスンを越えてひとっ飛びのところに 「すべてが音でわかった。破断面もはっきりと見えた。時計を見て

〔前の見開き〕ワシントン州の奥地、ノース・カスケード山脈のセッティング・サン・マウンテン の頂上に掲げられた祈祷旗。イアン・フェアが最後のときを過ごした場所と、彼が想像だに

〔左〕父の死から 15 か月後に生まれた小さなロビー・ベネット。 母ステフ・ベネットの腕に抱かれ、明るい未来を見つめる。

しなかった忘れ形見の誕生を記念している。ノース・カスケードは先住民の多様な部族の 故郷であり、訪問者である私たちはその土地への多大な感謝と称賛を表します。 87


『大丈夫、15 分でイアンを見つける』と思ったのを覚えてる。頭は とても冴えていて、叫んだり泣いたりした覚えはない。完全にアド レナリンが出まくっていたのね。そのとき木々が折れていく音が聞 こえた。大木が小枝のように折れる音が。イアンがまだ死んでい なくても、彼は間違いなく死ぬだろうと思ったのはそのときだった。 すぐにそう思ったわ」

チ)、幅 70 メートルだった。雪崩はイアンを狭いシュートに引きず り込み、直径 15 センチの木々をなぎ倒しながら、240 メートル近 く滑り落ちた。雪崩の最下部付近の雪の上で、パリスがイアンを見 つけた。 「体の位置を見た時点でわかったの」と説明するステフの声 が震える。 「イアンの体がどれほどの破壊力を受けたか。体を仰向 けにすると、彼は衝撃で死んだのが明らかだった」

〈ノースウエスト・アバランチ・センター〉の事故報告記録によると、 携帯電話は圏外でつながらず、衛星電話も持っていなかった。時 その雪崩の破断面は厚さ 30 〜 140 センチメートル(平均 71 セン 刻は午後 1 時 15 分を回ったところだった。スティーブンは心肺蘇

88


生法を約 15 分間つづけた。午後 1 時 44 分、な んとか 911 番につながった(アメリカでは電波塔 が緊急通報を受信した場合、それが契約者の通信 網でなくても中継するよう法律で義務づけられて いる)。それから 3 人はイアンの体を運ぶ方法を考 えたが、すぐにそれは自分たちがさらに大きな危険 にさらされることだと気づいた。ショックで気は動 転していたが、それでも動かなければならないとわ かっていた。彼らは断腸の思いで、イアンの体を 残していくことを決断した。雪が降った場合を想定 して GPS 座標を記録すると、イアンの黄色い帽子 を近くの木の上に掛け、救助を求めて歩きはじめた。

には安全な状況ではないと判断した。 「通常、雪 崩が発生したら、雪の下で生きているかもしれない ので、とにかく体を探します」と語るのは、郡の検 死官であり捜索救助隊員でもあるデイヴィッド・ロ ドリゲス。 「しかし周囲の斜面は不安定で、雪は激 しく降っており、あたりは暗くなっていました。ス テフは私たちをさらなる悲劇の危険にさらしたくな いと言い、イアンがすでに亡くなっていたことはわ かっていたので、彼の遺体は翌日に回収することに しました」 3 人はスノーモービルでトラックのとこ ろまで戻ると、ギアを積んでステフとイアンの家に 戻った。そこにはすでに友人や家族が集まっていた。

イアンを残していく決断を下す前には、しかしな がら、一般的とはいえないやりとりがあった。まっ たく思いも寄らないようなことだ。事故の 10 分後、 ステフは動かないイアンの手を握り、数か月後に 医学部に進学することになっていたスティーブンに 向かって尋ねた。 「イアンの精子を回収できると思 う?」と。 「頭が混乱して、何て言ったらいいのかわ からなかった」とスティーブンは振りかえる。 「すぐ にその場から離れなければならなかったのに、ス テフの言葉に強烈な印象を受けた。あのときのス テフにとって、大切なものすべてが詰めこまれた言 葉だった。イアンを失うことは、自分たちが描い た未来を失うことだったんだから」 そしてステフに とっては、そのとき将来別の誰かと一緒になること など考えられず、イアンの死はつまり、自分が母親 になる可能性を失うことを意味した。

事故の翌朝、ステフと数名の友人は太平洋岸 北西部中の IVF クリニックに電話をかけはじめた。 イアンの遺体が雪ですばやく冷やされたのは幸い だった。その日の午後、ヘリコプターから吊るした 担架で収容されたイアンの遺体は、検死官の遺体 安置所で冷蔵保管された。ステフと仲間はイアン の精巣を取り出して精子を回収し、ステフに体外 受精してくれるクリニックを探した。

***

自分らしさを披露する「パウダー 狂ヒッピー」。とことん自由な 精神の持ち主だったイアン・ フェアが、亡くなる前日に自分 の裏庭ノース・カスケードで 何よりも好きだったパウダー の斜面を舞い降りる姿。

死後の精子の回収(PSR)は、まだ新しく論議も 多い。これは死亡した男性から精子を抽出する処 置で、研究室で女性の卵子を精子と受精させ、子 宮内に戻す体外受精(IVF)に使うためにしばしば 行われる。この死後受精の処置はフランスやドイ ツなどの国では禁止され、イギリスでは生前に書 面による同意が必要だ。アメリカでは PSR に関す る具体的な連邦規制がないため、その実施は上昇 傾向にある。同国内の PSR 処置は、1980 年代は 3件だったが 1990 年代に 15 件に増え、2010 年 から 2014 年にかけては 130 件を超えた。これは 時間的制約のある処置で、死体から健康な精子を 回収する時間枠は死後約 36 時間とされる。そし て倫理的に曖昧な領域であることから、処置を拒 む医師が少なくない。 ステフとパリスとスティーブンはまだショック状 態にあったが、帰るルートも複雑な雪崩地形を進 むため、集中力を保ちつづけなければならなかっ た。やがて、スノーモービルで下る途中で捜索救 助隊に会ったが、イアンの遺体を無事に回収する

彼女たちは全米の 60 以上のクリニックに電話 をしたが、処置を施してくれるクリニックは 1 軒も 見つからなかった。そしてイアンの死後 3 日目の 朝、ステフはシアトルの北東、ワシントン州カーク ランドにある POMA 不妊治療クリニックのクラウ ス・ウィーマー医師にめぐり会った。ウィーマー医 師自身もバックカントリースキーヤーで、ステフは 彼が「スキーの仲間は互いに助け合うもの」と言っ たのを覚えている。医師はイアンに PSR 処置を施 し、成功すればステフに体外受精を行うことに同 意した。しかし時間は迫っていた。このパズルを 完成させる最後のピースは、離婚して長いこと経っ たイアンの両親のボブとスーザンが署名した宣誓 供述書だった。イアンとステフが子どもを欲しがっ ていたことを知っていた彼らは、イアンの精子を贈 り物として正式に提供することにすばやく承諾して くれた。 すでにイアンの死から 72 時 間が 経 過し、36 時間という定められた時間枠を大幅に超えていた。 イアンの精巣を取り出して梱包し輸送するという作 業を、即刻行わなければならなかった。 ステフと検死官は処置を施す医師(現在も匿名 を希望)を手配した。しかしステフによると、その 医師は「処置の仕方についてまったく知識がなかっ た」そうだ。 「POMA に電話をして男性生殖器専 門科医と連絡を取ろうとしたけれど、彼は電話に 出なかった」とステフはつづける。 「それで『緊急』 のフラグを付けて e メールを送ると、幸い昼食か ら戻ってきた直後にそのメールを見て、すぐに電話

89


そしてイアンを失って胸が張り裂けそうな悲しみに対処し、 妊娠しようというストレスを解き放ち、これが最後と 決めた3 度目の体外受精で、ステフは身ごもった。 をくれて。そして彼は検死官と担当医師に電話で手順 を説明しながら処置を進めたの」 ウィンスロップからシアトルまでの直行ルートのハイ ウェイ 20 号線は冬場は道路が閉鎖される。ノース・カ スケード山脈を越えて「イアンの小包」 (と、ステフは 呼んでいる)をできるだけ速く運ぶために、友人の友人 であるクレイグ・ハワードがシングルエンジンの飛行機 で飛んでくれることになった。冷やされたイアンの「子 宝を授ける可能性」が入った赤と黒の小さな医療用クー ラーボックスは、まるで移植を待って鼓動する心臓を思 わせた。クレイグは悪天候の予報が出ていたシアトル を避け、ワシントン州クレエラムに着陸する手配をした。 急場しのぎの管制塔となった、ステフから要請を受け た別の友人がそこでクーラーボックスを受け取り、大急 ぎでカークランドへと運んだ。ついにイアンの小包がク リニックに届き、精子が抽出されて冷凍されたのはイア ンの死から約 96 時間後のことだった。それでもイアン の社交的な心は健在で、 「このすべてのいきさつで笑い をこらえるのに苦労したよ」とパリスは言う。 「イアンも 大笑いしただろうな、絶対に」 PSR を利用した出産には数々の倫理的および法的疑 問が浮上し得る。提供者は本当に同意したといえるの か。人は他人の体に対する権利をもつのか。子と母親 にはどのような法的権利があるのか。その子には亡く なった父親の財産を相続する権利があるのか。父親を もたない子は不利か。受精方法のせいでその子が社会 的汚名に苦しむのではないか。悲しみに暮れる母親に この決断を下すことはできるのか。PSR および不妊治 療の経済的な支障は考慮されるべきか ——。 でもステフは何の疑問も抱かなかった。POMA 不妊 治療クリニックの医師は、イアンの精子の状態を考慮 すると妊娠の可能性はかなり低いことをステフに告げた が、それでも生存能力のあるいくつかの精子を抽出し た。難しくて高額な体外受精に 2 度失敗しても、ステ フはあきらめなかった。そしてイアンを失って胸が張り

裂けそうな悲しみに対処し、妊娠しようというストレス を解き放ち、これが最後と決めた 3 度目の体外受精で、 ステフは身ごもった。あらゆる不可能を乗り越えた妊娠 12 週目の超音波検査で、いつもの担当者ではない助 産婦に「精子の状態を考えると赤ちゃんの鼓動を聞く のはこれが最後になるかもしれないから、録音しておき ますか」と聞かれたときも、ステフは前向きだった。そ して 2019 年 7 月 26 日午前 12 時 32 分、3,232 グラ ムのロバート・スティーブン・ベネットが誕生した。1 年 半前に亡くなった実の父親から、10 本の手の指と 10 本の足の指を受け継いで。

*** イアンはワシントン州西部でわずか 1 週間で発生した (州史上最悪ともいえる)雪崩の 6 人目の犠牲者だった。 36 歳だった。 ステフのガレージには看板がある。毎年イアンを偲 んで開くパーティの看板だ。はじめてステフに会ったこ ろ、 「イアンは人のために何でもするタイプだった」と彼 女が言ったのを覚えている。 「それが彼自身の喜びでも あったの」 いまこのとき、その人がいないという虚しさ を感じずにはいられない。家のなかには、大きな青い 瞳を輝かせてパウダーを蹴散らしたり、フライフィッシ ングをしているイアンの写真がある。ここではまだイア ンの存在を感じることができる。ロビーもいつか同じよ うに感じるのだろうか。 ミッチェル・スコットはブリティッシュ・コロンビア州ネルソンを

拠点とするライターでありエディターで、 『Kootenay Mountain Culture Magazine』の共同発行者。彼自身も熱心なバックカン トリースキーヤーであり、2 人の息子の父親である。

〔右〕ステフはワシントン州ウィンスロップの外れにある家で、喜びの結晶 である小さなロビーと暮らす。2018 年 3 月の運命の日にパートナーは 失ったかもしれないが、みずからの強い意志、結束の固い仲間たちの 支援、そして現代科学のおかげで、彼女はひとりではない。

とてつもない悲しみに包まれていたステフとイアンの親友や家族の多くは、最終的にこの話に励まされたと感じた。ステフがこのことを話そうと 決心したのは、他の人にも希望を与えたかったからだ。「 PSR があらゆる人の悲しみを和らげる打開策になるわけではないけれど、仲間たちの 理解と愛と強い意志は、絶望の淵にあるときもたくさんの光をもたらしてくれる」と彼女は言う。

90



衣類の居場所 クローゼットが私たちについて語っていること。


写真 フランソワ・ルボー

ブルックリン・ベル

少なければ、 少ないほどいい 「このクローゼットにはまだ余裕があるけれど、簡素 なままにしておきたいんです」と語るのは、デザイナー であり、アーティストであり、スキーヤーであり、パ タゴニアのマウンテンバイク・アンバサダーでもあるブ ルックリン・ベル。 「私自身が何をするかによって、所 有する服の量が決まるような気がします」 2 種類のスポーツを両立するアスリートの多くは、ク ローゼットが衣類でいっぱいになりがちでしょう。でも ブルックリンは、モノは少ない方が機能的だと語ります。 「これが私の思考みたい」 それぞれの衣類には目的が あり、新しいものが欲しくなったら、他の何かと交換 するようにしています。 「すごく狭いところに住んでいるので、ここに何を持 ち込むか、とても気を使います」と、言います。 「ここ は自分が自分に帰り、回復し、落ち着きを取り戻すと ころ。それを保ちたいんです」 ブルックリンのクローゼットのなかに「意外」なもの はありませんが、彼女独自のアートワークを施したマウ ンテンバイク用ウェアは明らかに他にはないものであり、 彼女の故郷である太平洋岸北西部に影響されたことは 間違いありません。面白いことに、それは彼女が所有 する古い衣類にも言えることだそうです。 「私の夏服はみんな長持ちしています。というのも、こ こじゃ夏はないようなものだから」と、説明します。 「ほ とんど着ることがないので、よい状態のままなんです」 けれどもブルックリンが感謝しているのは、クロー ゼットの中身ではありません。まずクローゼットがある こと自体に、そしてそのクローゼットを埋める衣類を 選べることに、感謝しています。 「私にとっては、この 場所を持てるということが大きな特権なんです」と、言 います。 「モノをより少なく所有しながらも、質の高い モノを選ぶことができる。これも特権です」 ブルックリンと彼女の大切な場所である、1平方メートルの クローゼット。ワシントン州べリンハムにて。

写真家のフランソワ・ルボー にとって、パンデミックは被 写体とつながる新しい方法を見つける機会をもたらしてく れました。他の人と直接会うことができなくなった彼も、 現在盛んに利用されるようになったテクノロジー、Zoom に頼るようになりました。

93


ソミラ・サオとその一家

クローゼットって?

全長 15 メートルのトリマランで世界を旅する 8 人家族が所有する衣類は、 どのくらいあるのでしょうか。その答えは、十分なだけ。

ソミラと彼女の夫、そして 1 歳、2 歳、5 歳、8 歳、11 歳、13 歳の子ども 6 人のサオ一家にとって、新しい衣類を手に入れるかどうかの判断基準は、皆 が濡れずに心地よくいられるかどうかです。 「ここで私たちはイワシの群れみ たいに暮らしています」と笑うのはソミラ。 「だから必要なものしか持ちません。つまり、家族全員、最低限必 要な水着とショーツと T シャツだけ」 この法則が機能する秘訣は、移動式の物干し竿にあります。バケツでさっと洗ってはそこに干し、乾いた服 を着ているうちに、洗った服が乾くわけです。 「これが私たちのクローゼットみたいなものです。このラックに は私たちが持っている服の半分が干せます」そして子どもが 6 人もいれば、急な成長期でもないかぎり、新し い服を買う必要はほとんどありません。 「私たちはこのライフスタイルに合う服しか着ないので、長年ずっと皆 で服を着回してきました」と、ソミラは語ります。 「3 人目ともなればかなりくたびれてしまうけど、できるだけ 繕って長持ちさせています」

大海原に浮かぶ実質 0 平方メートルの 型破りなクローゼットで「ブラブラ」する ソミラとおちびちゃん。

94

一家にとって最も便利で長持ちしているアイテムのひとつは、ブラックホール・ダッフル 120L。航海中や 夜の寒さ対策用の家族全員の冬服を収納するクローゼットとして、アマ(サイドフロート)に収納しています。 「衣類はたくさん持っていないけど、というか、たくさん持っているものなんてないんですが、そこが気に 入っています。おかげで延々と洗濯に追われることもなく、家族一緒により楽しい時間を過ごすことができま すから」


約 1.5 平方メートルのクローゼットに

ラヒーム・ロビンソン

スペースを 共有する

上品に並ぶラヒームのワードローブ。 ニューヨーク州ヨンカーズにて。

クリエイティブディレクター、映像作家、モデル、旅行番組の司会者、そしてク ライマーでもあるラヒーム・ロビンソンの生活は、つねに忙しく、仕事は多岐にわ たります。一方彼のワードローブは、主として一色に統一されています。それは黒。 「僕のクローゼットの意外なアイテムは、オレンジ色で揃えたランニング用ショーツ とフワフワのミッドレイヤー」彼はそう認めます。 「運動するときはこれを着ること が多いです。そのときだけですね、色鮮やかなものを着ているのは」

昨年、ラヒームと彼のパートナーは 10 代の娘を連れてパンデミックに襲われる 都会から逃れようと、ニューヨーク市のブルックリンから引っ越しました。 「タイミ ングがよかった」と彼は言います。 「市内からたった 20 分ほど北に、静かな場所を見つけました。しかもいま までの2倍の広さで、駐車場とバルコニーも付いていました」 2 枚扉のクローゼットを真ん中で仕切り、パートナーと半分ずつ使っています。ラヒームは色については簡 素に(あるいは無彩色に)しておきたいそうです。 「30 枚の衣類をつねにローテーションさせて着ています」 と言う彼が、2020 年に唯一クローゼットに追加したアイテムはブランドストーン製のブーツだけ。 「去年はほ とんど何も要らなかったから」が、その理由です。 「着るものとその買い方は、いつも決まっています。そして、 手入れをすれば長いあいだ着つづけられるものしか買いません」 何でも屋であるだけでなく、何でも達者なラヒームは、彼の人生の道のりは前向きというよりも、上向きであ ると語ります。 「親指に『climb』というタトゥーを入れています。それはもちろんクライミングのことでもあるけ れど、物事についての僕の視点でもあります。人生とは旅路であり、僕にとってそれは登ることだからです」

95


エアラと彼の詰め込み式

エアラ・スチュワート

ダッフル 生活

クローゼット。ハワイ州 オアフ島にて。

「予報にない大雨が降ったんです。どこからともなく突然!」と、昨冬にオアフ島を襲っ た洪水について語るのはエアラ・スチュワート。 「降雨量がゼロから一気に 100 まで上昇 しました。川という川が氾濫して、ハレイワから島の東部まで鉄砲水が発生しました」 エアラが友人の持ち物を高所の牧草地に移すのを手伝っていると、彼の部屋が浸水した と連絡が入ったそうです。 「部屋から全部出さなければと思って、家に戻りました。さいわ い僕の荷物は、みんな高いところに積み上げてありました」

パタゴニアのサーフ・アンバサダーであるエアラは、その優しく控えめな物腰と、冬に 最高のスウェルが押し寄せるノースショアのパイプラインでスタンディング・チューブを決 める姿で、よく知られています。アンバサダーとして、おもに着用するのはパタゴニア製品ですが、新しいウェア を注文しようという気にはあまりならないと言います。 「できるだけ長く使えるようにしています。古くなってきた シャツは、庭仕事やハイキングや夏のサーフィンのときに着たりして。それに数年前くらいの服はまだ新しく、十 分着られますよ」

エアラの「クローゼット」は、友人のガレージに積んだブラックホール・ダッフル。 「これが、僕が持っている 服の全部」と、彼は微笑みます。 「最小限にしています。シャツが 10 枚ぐらい、ボードショーツが数枚、あとは レインジャケットと寒いとき用のウェアぐらいですね」 そのなかには大切なジェリー・ロペスの T シャツもある。 「口髭を生やしたジェリーの顔と、その下に『Going Left』という文字が入ったものです。あの T シャツはパイプ のコンディションがいい日のために取ってあるんです。レフトに行くぞって気持ちになれるから」と、彼は笑います。 「でもあれを着て最高のバックドアの波に乗ったこともあるから……ライトも行けちゃうんですよね!」

96


0.3 平方メートル(+ 0.1 平方メートルの隠し スペース)の広さにしては、「猫のパジャマ」

レイチェル・G・クラーク

より狭い場所で、 無駄をより少なく

並に素晴らしいレイチェルのクローゼット。 カリフォルニア州サンタバーバラにて。

レイチェルが幼少期を過ごしたカリフォルニア州ベンチュラが山火 事「トーマス」に襲われたのは、2017 年のことでした。彼女は3日間、 実家が焼けずにあるのかわからないままでした。 「おそらく思い出のも のはすべて燃えてしまっただろうと覚悟していました」と、彼女は語り ます。 「ある意味あの山火事がきっかけで、自分のクローゼットを整理 する気持ちになりました」 消防隊が家を守ってくれたものの、その経 験により、レイチェルにとって重要なものは何かを教えられていました。 「大切なのは、猫のエマだけ」と、彼女は笑って言います。 「実際、他 には何も要りません」

今日、レイチェルは自身に課した衣類契約を守っています。 「必要なのは、1 種類につき 1 枚ずつだけ」と、彼女は説明します。 「それ以外のものはすべて、喜んで使ってくれる人に譲りました。本についても同じ考えです」 彼女が新しいものを購入するときは (ここしばらくはしていないそうですが) 、自分との契約上、何かを手放さなければなりません。でも、その契約は誰が監視するの でしょうか。 「エマが毎晩クローゼットを点検します。前足で扉を少し開けて、規則が守られているかたしかめてくれます」 レイチェルがその契約を守ることができているのは、狭いクローゼットのおかげであり、色選びもその一役を担っています。 「青 と花柄、中間色が私のお気に入りです」とレイチェル。 「同系色であれば、数が少なくてもすべてがうまく合うから」 彼女のクロー ゼットにある意外なアイテムは、エクストラタフ製のフィッシング用ブーツ。これも多機能性を重視する彼女の姿勢を表しています。 「フリーダイビングに行くときにボートで使うのですが、雨の日は長靴としても履きます。きっと生涯連れ添ってくれるはずです」 文 サキアス・バンクソン(ブルックリン) 、レイチェル・G・クラーク(ソミラ)、モーガン・ウィリアムソン(ラヒームとエアラ)、 ジェフ・マッケルロイ(レイチェル)

97



より高い見地へ クライミングが彼らにふさわしい ことを見いだす。 ドリュー・ハルシーは手にした携帯電話の Google 検索で、 「太っ た人にクライミングはできるか」と入れてみる。この疑問は、先週彼 が妻のサラと映画『フリーソロ』を見て以来、こだわっていたことであ る。ドリューはこのスポーツに完全に魅了されてしまった。しかしこの 映画でも、そのあと彼が見た多くの YouTube の動画でも、彼と同じ ような人が登っている様子は見られなかった。テネシー州ナッシュビ

ル近郊にあるクライミングジム〈ザ・クラッグ〉の外にとめた車のなかで、 彼は不安に感じていた。挑戦したいという彼の熱望は、体の大きさに よって砕かれてしまうのではないか、と。Google は役に立たなかった。 そしていま、彼はジム内の受付カウンターに立ち、そこにいるスタッフ に同じ質問をする。 「僕に、これ、できますか? その、つまり、太った 人間にもできるか、という意味で」 それは 2019 年のことだった。その 2 年後、ドリューとサラは、ケン タッキー州レッド・リバー・ゴージの中心部を通るくねくね道を、 「ファ ニー」と名づ けた 愛 車( 水色のストライプが入った白の 1993 年 製 ダッジ・ラム B250)で飛ばしていた。岩壁のラインがぼんやりと見え はじめ、車のフロントガラスが朝露で濡れる。ドリューははじめて 5.8 のルート「ザ・ビーズ・ビジネス」のリードに挑み、初のチムニーである 5.7 の「ドラゴンズ・マウス」では、その名にふさわしい怪物との果敢 な奮闘を見せた。サラは前回の旅で完敗したスラブを登りきり、笑顔 でチェーンにクリップする。岩場では他のグループと情報を交換し、完 登した古い課題に代わる新しい課題に目をつけると、車に戻ってその 1 日をビールで締めくくる。 彼らはクライマーだ。

*** その人が誰で、どういう人間であるかということを表すものは不変 のものではなく、私たち自身が作り上げるものである。 「クライマー」と いうと、どうしてもある種の体型と優れた能力のイメージが切りはなせ ない。けれどもこの作り上げられたイメージが多くの人にとって障壁と なり、向き不向きの先入観を強めてしまう。

〔左〕サラ・ハルシーはクライミングの世界とそれが与えてくれる自信が 大好きだが、この業界は体の大きな女性にもっと多様なギアやウェアを 提供できるはずだ、とすぐに認識した。「男性用のウェアを着てジムに 行くのは、必ずしも自信につながることではないですから」 〔次の見開き〕ケンタッキー州レッド・リバー・ゴージにある 5.7 の スラブを慎重に登るドリュー・ハルシー。「勝手にいろいろ思い込む人 もいます」とドリュー。「僕の体型を見て、初心者だと思うんですよね。 それか、登れないだろうって」

文 リシェル・キンブル&オースティン・シアダック 写真 オースティン・シアダック

あなたがクライミングについてほとんど何も知らない、と想像してみ てほしい。そして、スポーツ用品店に足を踏み入れる。超健康体のア スリートのポスターがそこここに貼られ、並んでいる服はどれも自分の ものより 5 サイズ以上小さく、マネキンですら鍛えられた腹筋の持ち主。 「『私に合うハーネスはどのサイズですか?』なんて、聞きにくいもの です」と、サラは自身の経験から語る。靴のサイズが 27 センチの彼女 は、探すのは男性用の売り場。ドリューにとっては、自称「がっちりし た体格」に合うサイズの服を選ぶのが大変なこともわかっている。パタ ゴニアを含む多くのアウトドアブランドで、彼の選択肢は限られている からだ。 「そのとき私たちが見たもののなかには、私たちがクライミン グで使えるものは、まったくありませんでした」と、サラは振りかえる。 そのような状 況にひるむこともなく、 彼らは『Sport Climbing: From Toprope to Redpoint』や『Mountaineering: The Freedom of the Hills』などを読み、ホームセンターで角材を 1 本、アイフック を数個、チェーンを 2 本購入。リビングルームのテレビ台にバンジー コードで手作りのアンカーを設置し、毎晩アンカーの回収の練習をし た。やがて自信をつけた彼らは、 〈ザ・クラッグ〉を訪れる人たちと過 ごす時間も増えるようになった。知り合いがやがて友人になり、そう した友人が、ジムから岩場へと安全に移行する技術を教えてくれた。 ジムの外でクライミングをした最初の何回かのある日、ドリューは トップロープで登ったことのある人ならほぼ誰もが経験する事態に 陥った。動けなくなってしまったのだ。次のムーブは不可能に思え、次 のボルトは遠すぎて手が届かない。どうやってもそれ以上の高さに進 めなかった。恥ずかしさとともに落胆し、サラに降ろしてもらった。だ がその過程で新品のクイックドローを外し忘れていた。 荷物をまとめて家に帰る途中、ドリューはインスタグラムでメッセー ジを受け取った。彼らのクイックドローを回収してくれたジムの知り合 いが、それを届けたいというのだ。ドリューとサラは驚きとともに感謝 の念に包まれた。 「私たちはずっと、仲間を切に探し求めていたんです」とサラは言う。 彼らはボーリングやランニングやウェイトリフティング、そして幼少時に 多くの時間を過ごした教会など、いろいろと試したものの、どこもしっ くりこなかった。しかしクライミングには違う感覚があった。誰もが自 分自身でいるためにそこに集い、同じように自分自身でいようと集まっ てくる他の人たちを寛容に受け入れる人たちだった。 「クライミングでは、 ただそこにいるだけでいいんです」とサラ。 「実際のところ大切なのは クライミングだけじゃなく」とドリューも加える。 「それを取り巻く環境 です。クライミングの合間の楽しい時間が大切なんです」

***

99




クライミングを学ぶサラとドリューにとって、ギアが彼らのような体型のユーザーを 想定しているかどうか、とくに気になっていた。「私たちがはじめたころは、私たち みたいなクライマーはいなかったから、 『もし墜落してもこのロープが支えてくれるよ。 ギアは壊れない、大丈夫だよ』という保証はなかったんです」

102


クライミングは彼らが体を動かすのに前向きな方法だと、

「オンラインで友人たちとのとても大きなネットワークが

ドリューとサラは言う。それは瞑想的な空間と、

できました。全国どこに行っても泊まらせてくれて、

自己管理のためのはけ口を作り出してくれる。

一緒に登ってくれる仲間がいます」と言うのはドリュー。

ドリューはソーシャルワーカー、サラはメンタルヘルス・カウンセラー として働くが、それらはやりがいがあると同時に、精神的な消耗が激 しい職業でもある。困窮している人を助け、受け入れるのはむずかし い仕事だ。ドリューにとって、大きな不安や困難に包まれたときの癒 しは食べ物である。サラは大学生のときに体重を減らすようにと医師 に言われたが、実質的なアドバイスは何ももらえなかったため、食べ 物が禁止されている図書館でできるだけ過ごすように勉強の時間割を 変えたと言う。そんな場面を切る抜けるうえで、クライミングは 2 人に とって健全なストレスの発散方法となってきた。 「私たちの体型が劇的 に変わったわけではありません。でも精神的にも身体的にも健康にな りました」と、サラは言う。 「それに日常生活でも、より困難なことをこ なせるようになりました」

いるピザ屋〈ミゲルズ〉での出来事。あるルートについてリードできる かどうかを話していたドリューの声を耳にした経験豊かなクライマーが、 発破をかけてくれたのだ。 「彼は僕が 5.4 のルートに挑戦することを、 まるで彼自身が 5.12 に挑むかのように興奮していました。そのおかげ で自分にとても自信がもてたんです」

ドリューがクライミングをはじめたばかりのころの思い出で気に入っ ているのは、レッド・リバー・ゴージでクライマーのたまり場となって

を見て、他の人も同じだと、彼女は気づきはじめた。ある女性がしてく れた話を、誇らしげに語ってみせる。 「その女性は、クライミングをす

ドリューとサラが見つけ、いまではその成長に貢献する集まりは、デ ジタル世界にも広がっている。ドリューが失敗や成功を収めた短い動 画を共有することからはじまったインスタグラムは、互いを励まし合う 場として、急速に変わっていった。 「ある人がオープンに自己の弱点について語ると、他の人も自己の経 験を共有する勇気をもつことができます」と、サラは言う。影響力の強 いクライマーが体のイメージや精神の健康状態について話し合う様子

103


るような体型じゃないとご主人に言われたそうですが、私の動画を見てこう言ったんです。 『私はやるわ、何と言われようと!』って」 彼らはハーネスの買い方やクライミングの基礎の学び方など、簡単なことについて意見 を求められる。 「ドリューとサラのオンラインでの存在はたくさんの扉を開け、いままで考 えもしなかったような挑戦に取り組みやすくしてくれています」と言うのは、 〈ザ・クラッグ〉 のマネージャーであり、彼らの友人でもあるジョーダン・ホリー。 「私たちのクライミングの 世界には、それが必要です。私たちがクライマーに抱く因襲を打破する人が必要なんです」 サラとドリューにはいまだに居心地の悪いときがある。とくにロープやクイックドローを 満載したバンで岩場に到着し、彼らがクライマーであることを聞いて驚く人の反応を目に するときだ。それでも 2 人は、よりハードに登ることや、意味ありげな目で見られること への絶え間ないプレッシャーを感じることなく、ただ楽しむだけのクライマーでかまわな いということを、他の人たちに伝える気が満々だ。サラは言う。 「私たちがクライミングを はじめたころにはなかった、その声となりたいんです」

〔下〕自宅のガレージのお手製の壁で セッションを楽しむドリューとサラ。ともに クライミングの世界に足を踏み入れたことで、 彼らの信頼関係はさらに強くなった。 〔右〕「クライミングの世界に変革を起こし つづけたいと思っています」と言うのは ドリュー。「ひょっとしたらその変革が クライミングの世界を育てつづけて、 さらに多様な集まりになるんじゃないかな」

私たちは、この物語の写真が撮影された 地域の伝統的な守り主であるチェロキー族、

オースティン・シアダックとリシェル・キンブル は、ワシントン州のカスケード山脈を拠点にクリエイ ティブ活動を展開する。

104

チカソー族、ショーニー族の人びとに感謝 を捧げます。






未完の仕事 より責任あるジーンズを製造することにおいて、 私たちの仕事に終わりはありません。そしてもちろん、 本当に汚い仕事は皆様におまかせします。 昨年の秋、コロナ禍のビデオ会議でパタゴニアのメンズ・ スポーツウェア&サーフ製品ラインを監督するマーク・リトル が、年季の入った 1 本のジーンズを披露しました。製品チー ムが 2015 年にデザインして以来、マークはこのジーンズを 2 年半、ほぼ毎日はいていたと。ライターでありスポーツウェア &キッズ部門のエディターであるレイチェル・G・クラークに、 そう自慢げに告げました。 マーク:これは仕事着で、部屋着で、旅行着でもあるんだ。 2 年半のあいだに洗ったのはたぶん 5 回。 レイチェル:えっ、たった 5 回しか洗ってないの? マーク:うん。 レイチェル:どうやって……というか、どうして? マーク:パタゴニアが採用した新しい染料の特徴で、でき たてのジーンズはなんとなく紫色っぽかったんだ。このジー ンズは普通のジーンズのようにはき込んで色落ちさせたりビ ンテージ感を出せるようにはならないと、製品チームは考え ていた。それで僕は、そうじゃないことを実証しようと思っ たんだ。 レイチェル:冷凍庫で凍らせることもしなかったの? マーク:うん、吊るして風を通して乾かすだけ。でもいまで もかなりきれいだよ。 レイチェル:本当に? マーク:うん、だってまだうちの奥さんに家から追い出され てないからね。

文 レイチェル・G・クラーク

マークは微笑んで、個性豊かな濃淡のあるライトブルーの 色合いや、酷使されてできたいくつかの穴や、かぎ裂きや染 みを見せてくれました。それは 16 キロメートルの自転車通勤 や長時間労働といった日々の使用と、多くの旅で得た勲章で した。ドロミテで日の出を拝み、ロンドンの街を歩き、飛行 機でパリへ飛び、ジョン・ミューア・ウィルダネスでハイキング をし、東京と京都でのディナーでも、このジーンズは一緒で した。 1998 年にはじめてジーンズの製造を手がけて以来、デニ ム製品の製造は山あり谷ありの道のりでした。パタゴニアは ジーンズにオーガニックコットンを使用した最初のブランドの ひとつでしたが、インディゴ 染色の過程で発生する廃棄物 や、エネルギーを大量消費する仕上げ加工など、デニムの製 造における環境的および人的コストについて多くを学びまし た。たとえ一般的なコットンに代わってオーガニックコットンと いう責任ある素材を選択しても、デニムが汚いビジネスであ ることに変わりはないのです。それで私たちは製品ラインか らジーンズを外すという決断を下したのち、仕事に戻りました。 2015 年にようやく自慢できるジーンズが完成し、販売を再開。 オーガニックコットンを使用しつつ、フェアトレード・サーティ ファイドの縫製を採用し、新たに水とエネルギーの使用量を 削減する「アドバンスト・デニム」という硫化染料による工程 を取り入れたものでした。 従来のデニム製造では、一般的に10 ~15 の槽を並べて 染料液に糸をくぐらせます。使用済みの溶液は処理後(また は未処理で)水路に流され、そしてまた槽に染料液が入れら れます。新しい染色工程では、再利用可能な槽が 1 つ必要 なだけで、従来の染色によるデニムに比べて水の使用量を 79%、電力消費量を 20%、二酸化炭素排出量を 25%削減 することができました。ところが、この染色方法には大きな 問題が 1 つありました。それはデニムが紫がかった色合いに 〔前の見開き〕フィギュア 4 を披露するキャシー・カルロ。 テネシー州ストーン・フォート Chris Vultaggio 〔左〕8,000 キロメートル以上の距離をこのジーンズで旅し、さらに 記録更新中のマーク・リトル。毎日の通勤の往復 16 キロメートルを 含め、2 年半近くずっとはきつづけた。 Tim Davis

109


「そのような仕上げ加工にたずさわるのは、パタゴニアの価値観とそぐわない のです。僕にとってジーンズは歩く日記のようなものです。僕がやったように 偽りなくはき込めば、ジーンズは体になじみ、体の一部となります。着る人に 自分のジーンズを自身で『仕上げ』てほしいのです」 マーク・リトル なり、色落ちしにくいために、従来の方法で染色したジーンズのよう にはき込んでなじませるのが難しいかもしれないということでした。

なく、長持ちする丈夫な生地となる繊維の混紡を見極めたいと思い ました。

ある過程から有害なものを取り除くと、新たな問題が発生するこ とは多々あります。環境への影響と製品の品質および寿命のバラン スをどう取るかは、デザインチームとパタゴニアがつねに直面する最 大の課題です。紫色のジーンズを作りつづけても、着用者がジーン ズを好みの色合いにしようと、マークのように 2 年半も毎日熱心に はくとはかぎらないことはわかっていました。つまりジーンズは十分 に愛されず、着用されることなく終わるかもしれないということです。 また、ジーンズは誰もがクローゼットに入れている定番であり、1 本 がいかに長持ちするかが真に責任あるジーンズの決め手となり、毎 日着用できる見た目の良さと、ずっとはきつづけられる耐久性が欠 かせないこともわかっていました。

「炭素排出量に関していえば、最も責任ある素材はリサイクル・ コットン 100%です」と語るのは、パタゴニアの素材開発を率先する サラ・ヘイズ。 「でもウェアを長持ちさせ、廃棄物の流れに入れたく ないのであれば、リサイクル・コットン 100%ではバージン繊維との 混紡素材に比べて耐久性に欠けます。それで私たちは、炭素排出量 の削減とコットンの端切れの再利用とリジェネラティブ・オーガニッ ク農業の利点を比較検討し、品質を損なうことなく最大限に改善で きる混紡素材を選択しました。だから皆さんはこのジーンズをずっと はくことができます」

何年も染色の実験を繰りかえしたのち、私たちはようやく答えを見 つけました。それは水を必要としない、泡を使う新たなインディゴ 染色溶液でした。これによりエネルギーと水の使用量を抑えながら、 従来のブルージーンズに近い色を実現することができました。一連 の染料液に糸をくぐらせる代わりに、泡沫染色は素材に直に施すこ とができるので、液体に浸さなくても色が染み込みます。染め上が りは見事に鮮やかなダークブルーで、着用者は日常的に使用してとき どき洗濯すると、自然にはき込んだ風合いになります。ところで不思 議に思うかもしれませんが、パタゴニアのジーンズは 1 色しかありま せん。それにはまた理由があります。 「ほとんどのジーンズは(ライトブルーやただのブルーも)最初は ダークブルーなのです」と言うのはマーク。 「新品でもはき込んだよう な見た目にするために、大量の化学溶液で洗ったり、ストーンウォッ シュしたり、わざと裾を少し破ったりしているんです」 このような工 程は染色後に行われるため、さらに多くのエネルギーと水が無駄に なります。国際固形廃棄物協会が委託した 2013 年の報告による と、環境コストが高いうえにジーンズの寿命を大幅に縮めるこの工程 は、しばしばジーンズの製造において最も有害であることを示してい ます。 「仕上げ加工は生産サイクルのなかで最悪の損害を与える工程 で、生地の強度を半分以下に落とし、ジーンズの寿命を縮めます」 とマークは付け加えます。 このダメージ仕上げ加工をしないこと、その作業を着用者にまか せることは、これまでもこれからも、私たちにとって重要です。 「その ような仕上げ加工にたずさわるのは、パタゴニアの価値観とそぐわ ないのです。僕にとってジーンズは歩く日記のようなものです。僕が やったように偽りなくはき込めば、ジーンズは体になじみ、体の一部 となります。着る人に自分のジーンズを自身で『仕上げ』てほしいの です」と、マークは語ります。 次の課題は、素材の再考でした。私たちは 1998 年以来オーガ ニックコットンを使用していますが、さらに環境への影響が最も少

110

サラによると、現時点で可能なかぎり最も責任ある素材として最 終的に選んだのは、リジェネラティブ・オーガニック・サーティファイ ド・パイロット・コットン 78%、リサイクル・コットン 20%、ポリウ レタン 2%の混紡素材です。 「長年培った独自のデータは、オーガニックコットン、あるいはリ ジェネラティブ・オーガニック・コットンとリサイクル・コットンの混紡 素材は、温室効果ガスの排出量と水の使用量の削減に関して素晴ら しい組み合わせであることを示しています」と述べるのは、パタゴニ アの環境研究者、ステファニー・カーバ。 「エネルギーと水を節約す ると同時に農業を営む地域を支援する最善の方法だと考え、その実 現を目指しました」 最後の問題は、影響力でした。デニム産業の大手ではない私たち が、デニムの製造方法を世界規模でどう改善できるのかということ です。 「とりあえず、実践可能であることを示すしかありません。パタゴ ニアに送りかえされてくることのないジーンズを作ることが可能だと いう、最終的な目標をもちながら」と語るのは、パタゴニアの素材開 発者、ニコラス・ハートリー。 「いまから 40 年あるいはそれ以上のち に、お尻のポケットに財布の形が残るほどしっかりはき込まれて年季 の入ったパタゴニア製ジーンズが、その個性からネットオークション でいまの価値以上で売られるのが私の望みです」 多くのデニムブランドが直面する量産にともなう困難や従来のビ ジネスモデルの制約を受けない、たしかな興奮と好奇心がパタゴニ アのデニム開発チームにはあります。まるで大人がデザインする遊 び場のような雰囲気が漂います。染めないデニムも、いつか実現す るかもしれません。混作を利用したリジェネラティブ・オーガニック・ コットンやインディゴにも、取り組んでいるところです。何かに構う ことなく、今後に向けたあらゆる改良ができそうです。 「これは現時点で私たちが知るかぎり最高のデニムです」と、パタ ゴニアのライフ・アウトドア事業を率いるヘレナ・バーバーは言いま す。 「そして私は楽天的なので、ちょっと先にはさらに良いものがあ るだろうと信じています」


「少年時代から楽器を弾いていて」と語るのはマーク。「自分はバンドマンになるだろうといつも思っていたけど、結局その道には進まなかった」 Tim Davis

111


「 僕には濡れた手をジーンズで拭く

という悪い癖がある。だからその あたりが擦り切れやすいんだ。

少なくとも僕が手を洗うってこと はわかってもらえると思うけど」

「 自転車のサドルでかなり

破けてきた。それが致命傷

だった。そこがほつれだした とき、このジーンズの寿命

は限られていると悟ったよ」

「 膝の穴は、しょっちゅう職場で

床に膝をついて製品をチェック したり、愛犬たちと遊んだとき に開いたものだと思う」

写真:Tim Davis

112


このジーンズを洗わないで 自分の衣類の影響を抑えるためのマーク・リトル方式。 1 枚の衣類が環境に与える影響の大部分は、繰りかえさ れる洗濯と乾燥によって起こります。これはデニムに関し てはとくに深刻な事実です。なぜなら濡れたジーンズを 乾燥させるためには、多くのエネルギーを要するからです。 だから自分のジーンズがどれほど「グリーン」であるかは、 それを着用する人にも大きな責任があります。ここにご紹 介するマーク流の 5 つの方法は、電気や天然ガスや水の 消費量を抑えると同時に、ジーンズを長持ちさせることに も役立ちます。そしてこれは、皆様にもできることです。 洗わない:汚れた部分だけたたき洗いして、自然乾燥 させるか、冷凍庫でひと晩凍らせる。 洗う場合はより良い方法で:どうしても洗濯しなければ ならないときは、洗濯機ではなく、常温水で手洗いする。 吊るして干す:乾燥機を使うしか方法がないときは、 高温に設定しない(低温のみ)。 修理する:新しいものに買い替える前に工夫する (たとえばカットオフショーツに仕立てるなど)。 譲る:自分が使わないのなら、誰かに譲って、新たに 活用してもらう。

〔次の見開き〕必需品のみ携帯。Austin Siadak

113




パタゴニアの本社とサービスセンターは、チュマッシュ族、ワショー族、パイユート族、ショショーニ族の人びとの故郷である未譲渡の土地(現在ではカリフォルニア州ベンチュラ、 ネバダ州リノとして知られている地域)にあります。私たちの今日の暮らしと憩いの場となっているこうした地域から、先住民族の人びとを追い出し、虐殺し、抹消しようと試みた 歴史の不正を、私たちは認識します。彼らの過去と現在と未来を築く、土地の祖先や共同体の長老および他の部族民たちに敬意を捧げ、私たちはファースト・ネーションズが みずからを定義するための権利を支援します。故郷である地球を救うための取り組みは、先住民族の人びととの相互協力を誓ってこそ成功するものと私たちは信じます。

〔表紙〕秋の夕日がバーモント州バーク・マウンテンに口づけし、最も背の高い木々の梢——とひとりの小さな人間——を紅葉のなかに照らし出す。太陽が沈むとともに 山頂から下りはじめたジェイク・インガーにとって、冬が訪れる前の夕焼けのライドのひとつひとつは、たとえ暗い帰り道になってもやる価値がある。 Dave Trumpore カタログの不要な郵送 お引越しされた場合は、旧住所と新住所をお知らせください。万一このカタログ が誤配されたり、複数お受け取りになった場合、あるいはカタログ郵送の停止をご希望の方も、フリーコール 0800-8887-447、ウェブサイト pat.ag/cs までご連絡ください。

100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%使用の FSC®〈森林管理協議会〉 認証紙に印刷しています。このカタログの製造には 1 本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは 25 年以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%に切 り替えたのは 2014 年のことです。

100% PCW

This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet ®, a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; Fair Trade Certified™, a trademark of TransFair USA DBA Fair Trade USA; and FSC® and the FSC® logo, registered trademarks of the Forest Stewardship Council, A.C. Patagonia® and the Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. Other Patagonia trademarks include, but are not limited to, the following: Black Hole® and Patagonia Provisions®. © 2021 Patagonia, Inc.


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.