蓮ハ平和の象徴也(大賀一郎博士 書)
昭 和 三 十 八 年(1963年 ) の秋 、日 中 戦 争の贖 罪と して、中 国への平和使節に、大賀ハスの実100個と共にこの標語 を 托 かくまつじゃく し、中国科学院院長の 郭 沫 若 氏に贈った。(大賀博士80才)
1|大賀一郎博士追憶譚
地元庭瀬城址に里帰りした大賀ハス
大賀一郎博士 追憶譚
目 次
吉備大賀ハス保存会会長 坂本 宏子 … …… 岡山市長 大森 雅夫 … …… 岡山県議会議員 太田 正孝 …… … 岡山市立吉備中学校校長 吉田 万里子 … … 岡山市立吉備小学校校長 有國 肇 … …… 岡山市立吉備東幼稚園園長 藤井 多恵 …… … 岡山市立吉備西幼稚園園長 山 田 千鶴子 … … 和歌山大賀ハス保存会 阪本 尚生 …… … 町田市大賀藕絲館施設長 小木 曽文典 … …
… ………………
76 74 73 72 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61 60 57 56 54 52 50 47 41 38 37
式典 …… ………………………………………… 阪本尚生氏講演 …… …………………………… 展示 …… ………………………………………… 直筆資料 …… …………………………………… 大賀藕絲館所蔵品 …… ………………………… 阪本尚生氏所蔵品 …… ………………………… 色紙 …… ………………………………………… 掛け軸 …… ………………………………………
… ………………………
顕彰活動開始(平成五年) …… ……………… 没後 年遺品展(平成七年) …… …………… 顕彰碑を建立(平成八年) …… ……………… 庭瀬城址に大賀蓮を植栽(平成九年) …… … 吉備和歌百選発刊(平成十一年) …… ……… 生誕120年祭(平成十五年) …… ………… 吉備大賀ハス保存会設立(平成二四年) …… 庭瀬城址大賀蓮改善作業(平成二四年) …… まちかど博物館出展(平成二四年) …… …… 地域との交流(平成二五年) ……………… … 保存会パンフレット(平成二六年) …… …… シティミュージアム講座(平成二七年) …… 吉備中学校「大賀ハス新聞」 (平成二八年) … 大賀ハス保存会会報(平成二八年) …… ……
大賀一郎博士顕彰活動
大賀博士追憶展
30
ごあいさつ
… ………………
大賀家について …… …………………………… 少年期 …… ……………………………………… 青年期 ………………………………………… … 壮年期 …… ……………………………………… 初老期 …… ……………………………………… ★米ライフ誌 …… ……………………………… 老年期 …… ………………………………………
大賀一郎博士の略年譜
大賀蓮の発掘から開花まで…………… 妙蓮の研究……………………………… 当麻曼荼羅の研究 … …………………… 山陽新聞の記事から … ………………… 母校の校友会雑誌への寄稿…………… 千葉の大賀ハス展冊子…………………
32 30 26 25 24 22 20 18 16 15 14 13 12 11 10 9 8 8 7 7 6 5 4
発刊によせて 吉備大賀ハス保存会会長 坂本宏子
数 多い資 料から 、大 賀 家は徳 川 初
友人知人の著書「偲び 草」「 うた 子 姉 を 憶 う 」中で 、う た 子 夫 人の
伸べたのだと思います。
産 を 取 り 上 げ た な ど 多 様 な 思い
人柄については、研究熱心でやさし
ます。
期 頃に始 ま る と 記 載 さ れて お り
吉 備の地は、犬 養 木 堂 翁はじめ 野崎広太氏、公森太郎氏など 多く
出を 語っています。
島さ れた 思いの満 州でハスの実 を
博 士の著 書「 私の半 生 涯の思い 出」 には、郷里岡山 を 離れてから遠
く 芯の強い方で 、東 伏 見 宮 家のお
偉 人 を 輩 出していま すが、世 界 的
岡山市北区の吉備地域は、倉敷 市と隣接する位置にあり、撫川城 址と板倉藩の庭瀬城址を 有し、旧
植 物 学 者の大 賀 博 士の顕 彰 痕 跡
年から 郷 土 史 家 、連 合 町 内 会 、観
史ある町です。
山陽道に古民家を 数多く残す歴
光 協 会とと もに話し 合いを 重 ね、
開花させ、 アメリカ、 ヨーロッパを 旅
が ないこ と を 残 念に思い、平 成
〝住み良い町” として世帯 吉備は 数が近年急速に増加しています。
多くの方々にご 尽力いただ き まし
余の 展 示 品 と 講 演 会 で 盛 大に開
に 「 満 州に渡 り 、不 義に勝って楽 土
し 、満 州 事 変 直 前に東 京に帰った
昔から 吉 備 地 域の人々は、農 耕 を 中心に穏やかな暮らしを 続けて
と経緯を 記している。 しかし、結び
き ま した。大賀一郎博士も 東山の
た。 そ して平成 年 月、念願の 「 没 後 周 年 遺 品 展 」を 百 二 十 点
裾野に広がる豊饒の地で農家の長 男と して誕 生し ま したが、七 歳の
意の中、東京に帰り、伊能忠敬の伝
れ満州 を 去った」 と 記している 。失
15
11
習 字で飾ら れ 、多 くの来 場 者で賑
も 会場内は、生け花と 盆栽、写真、
今は
に出たことに刺 激 を 受け 、自 分 も
歳で奮起し 旅 大 賀 家の墓 地があり 、博 士の墓 石
た井戸跡が残っていま す。近くには
す。
わいましたことに感謝しており ま
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歳 、遅 くはないと 念 願の曼
記 を 読み、忠敬が
鳴らんこと を … 」と 友 人の句が刻
も 残 さ れているが 、川 入 村に初 代
の感 状があり 、大 賀 家 系 図や記 録
の感状と大賀勘太夫宛の豊臣秀吉
昭和 年当時岡山大 藤井駿氏 ( 学 教 授 の)史 料に、大 賀 家には、永 禄四年大賀駿河守宛ての尼子義久
糸 を 探してみると 、博士は本意 を
で、大 賀 博 士の研 究と 人々を 繋 ぐ
これらの顕彰事業を 進めてきた中
館で開 催 す ることができ ま した 。
士 追 憶 展 」を 、新 築 し た 吉 備 公 民
開花し、平成
一郎博士の理想郷である安寧秩序
の日か 「蓮ハ平和の象徴也」 の大賀
いが込められていま す。そしていつ
顕彰事業に一応の区切り を 付け たこの記 念 誌は、 年 間の熱い思
へ繋げる取組を 行っています。
年
歴 史に名 を 刻 む 先 駆 者 を 生 ん だ吉備地域 を 多くの住人は誇りに
が土 着した 時 代は不 明だが、豪 農
通し 、真理 を 重んじた 生涯清貧の
ら筆を 置き ます。
の社会出現到来に思いを 馳せなが
整 備によ り 、純 粋 種の大 賀ハスが
郷 氏で あ り 金 融 資 本 家 と して も
人 生でした 。温 厚 篤 実であり なが
思い、子ども達にも語り継ぎ 、未来
貸出 をしていたことから、享保、安
ら頑固な までの探究心の迫力に多
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月には 「大賀博
永の頃が全盛で幕末に至るまで備
その頃の心境を 語っています。
荼 羅とハス糸の研 究 を 始めたと 、
50 中南部の豪家 を 誇った。しかし、明
顕彰事業も 時 を 経て、平成 年 から始まった庭瀬城址ハスポットの
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くの人々が博士に信頼の手 を 差し
まれています。
の裏には 「ふただび 復活のラッパが
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を 開かんとしたが、夢あえ な く 敗
時、逼塞した 家 を 離れ市内に移転
表と 講 演 会という 内 容で、 回と
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催し ま した 。 続 く 平 成 年 月 の「 生 誕120年 祭 」では、歌の発
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消えていま すが、川入の生家にあっ
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し ま した 。今は往 時 を 偲ぶ風 景は
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治 維 新から 衰 退の一 途 を 辿った 。
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坂本宏子 発刊によせて
吉備大賀ハス保存会 会長
大賀一郎博士追憶譚|4
記念誌発刊をお祝いして 岡山市長 大森 雅夫
刊をお祝いして」
祝辞「大賀一郎博士顕彰記念誌発
た3粒の古 代ハスの実 を 発 見 し 、
約2000年 前の泥 炭 層から たっ
す。
けた精力的な活動 を 展開され、皆
彰並びに大賀ハスの保存・継承に向
学 者で あ る 故 大 賀 一 郎 博 士の顕
吉備大賀ハス保存会におかれま しては、平 素から 、世 界 的 な 植 物
方々に親 し ま れ る と と もに、大 賀
その後、大賀ハスは、今日まで故 郷である吉備地域を 中心に多くの
ハスと命名されました。
と して掲 載 さ れるとと もに、大 賀
誌に 「 世 界 最 古の花・生 命の復 活 」
から祈念申し上げます。
ま す ま すのご 健勝とご 多幸 を 、心
終 わりに、吉 備 大 賀ハス保 存 会 のさらなるご発展並びに皆様方の
翌 年 、そのう ち 一つの開 花に成 功
様 方の熱 心 な お 取 組に対 し 、改め
ハス観 蓮 茶 会や 遺 品 展 、顕 彰 碑の
土・岡 山の発 展 と 市 民の地 域への
て深く敬意を 表する次第です。
建立 など 、様々な 顕彰事業も 行わ
さ せ たエピソー ド は 大 変 有 名 で
大 賀 博 士は、明 治 年に現 在の 岡山市北区川入に生誕さ れ、岡山
れてまいりました。
愛 着と 誇り を 育む 取 組に、一 層の
の地で幼少期 を 過ご さ れま した。
す。
皆 様 方には、このた びの記 念 誌 発 刊 を 契 機と さ れ 、今 後と も 、郷
岡山市長 大森 雅夫
このた び 、『 大 賀 一 郎 博 士 顕 彰 記 念 誌 』が 発 刊 さ れ ま すこ と を 、
東 京 帝 国 大 学に進 学 さ れた 後は、
岡 山 市と し ま しては、地 域の皆 様が、大 賀 博 士 をはじめ郷 土の偉
お 力 添 え を 賜 り ま す よ う お 願い
アサガオやハスの研 究にご 尽 力 さ
人の存 在 を 知 り 、顕 彰 していくこ
心からお慶び申し上げます。
れ、 このことは、博士が生涯を 捧げ
とが、吉備地域のみならず、全ての
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申し上げます。
ら れ た 古 代ハスの研 究へとつなが
市民、 とりわけ次代 を 担う子ど も
その鮮やかな紅色 をした古代ハ スの開 花は、同 年アメリカのライフ
る基礎となりました。
た ちの、地 域への愛 着や 誇 り を 育
む良い機会になると考えておりま
5|大賀一郎博士追憶譚
博 士の数 あるご 功 績のう ち 、昭 和 年に、千葉県検見川において、 26
大賀一郎博士追憶展を訪ねて思うこと 岡山県議会議員 太田 正孝
うこと
大 賀 一 郎 博 士 追 憶 展 を 訪 ねて 思
しい花 を 咲かせ続けていこ うと 思
育成している大賀蓮の淡紅色の美
功で、地元では、庭瀬城址のお堀で
長の講演もあった。 この追憶展の成
大 賀 一 郎 博 士の功 績 を もっと もっ
要 なのではないか。そのためには、
から発信していくことの気概が必
り 刻み、世界平和 をこの故郷岡山
という 言 葉 を 私た ちの胸にしっか
岡山県議会議員 太田 正孝
いを 強くしたのだ。
と 多くの人に伝 えていかなければ
す。
の 『 大 賀 一 郎 博 士 顕 彰 記 念 誌 』 ご 出 版 、誠におめでと うご ざいま
月定例
国 内 外に 友 好 親 善の た めに 根 分
し た 地 元の動 きの他に、大 賀 蓮は
取り上げた。
岡山県議会で、後楽園の大賀蓮 を
カ 所で 栽 培 さ
周 年の 際に
賀一郎先生の 「蓮ハ平和の象徴也」
ナショナリズムが世界各地 現在、 で 台 頭 して きているが 、今こ そ 大
られる。
りにな り 、平 和 交 流につな げてお
ナム、 カタール、 アメリカなどにお配
だ 。そ れに加 えて、 ミャンマー、 ベト
郷 中 国で 再 び 根 を お ろ さ せ たの
は、2、 000年 間の時 を 経て 、故
日中平和友好条約
すために汗 をかかれ、 2003年 、
民 党 幹 事 長は、大 賀 蓮 を 中 国に戻
さ らには、先ほど 紹 介 し た 阪 本 祐二先生を 恩師に持つ二階俊博自
れ、大輪を 咲かせたとも聞く。
杭 州 、武 漢 な ど
100粒 を 送った 中 国では、北 京 、
まら ず、大 賀 博 士ご 自 身が蓮の実
いる 千 葉 市 だ 。そ し て 、国 内に留
阪 本 会 長の和 歌 山 、市の花と して
が あ る こ と を 知った 。代 表 格 は 、
蓮 を 保 存 育 成 しよ うと す る 動 き
け して 送 ら れ た と こ ろで も 大 賀
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大賀博士の想いが世界中に広が ること を 心から願う。
な ら ないと 思い、昨 年の
ま た 、私自身も あらためて大賀 博 士の功 績 を 調べてみたら 、こ う
何 年か前のこ とで す。東 大の赤 門 を く ぐ ると 、故大賀一郎博士の 名前が入った幟がはためいており、 その店 を 覗くと 、資生堂と 東京大 学がコラボレーションで、博 士が発 見した「大賀蓮」 の香り をテーマと し たオリジナル商 品が 置かれてい た。 大 賀 博 士は 岡 山 市 北 区 川 入 生 ま れで 、 1951年 東 京 大 学 検 見 川 厚 生 農 場で 発 掘 さ れ た 古 代 蓮 の実 を 発 芽 さ せることに成 功し 、 続けて 、淡 紅 色の美 しい花 を 咲か せたのだ 。この古 代 蓮は何と 二 千 年前のもので、博士の名前から「大
れた。ゆかりの品の展示のほか、弟 子であった阪本祐二氏のご 長男和 歌山大賀ハス保存会の阪本尚生会
10
25
賀蓮」 と名づけられたのだ。 大賀博士の地元で生ま れ育った 私と しては、今 も 東 京 大 学でその 名前 を 轟かせ続けていること をと ても誇らしく思えた。 その博士の功績 を 語り 継いでい こ う と 、昨 年 月 日 、博 士の地 27
元吉備公民館で、追憶展が開催さ
11
大賀一郎博士追憶譚|6
郷土愛は悠久の時を超えて 岡山市立吉備中学校 校長 吉田 万里子
郷土愛は悠久の時を超えて 岡山市立吉備中学校校長 吉田 万里子
大 賀 一 郎 博 士 没 後 年の節 目 である 平 成 年に、吉 備 中 学 校 一
収 を してくれたこと 、病に倒 れた 博士を励まそうと多くのお見舞い の手紙 を 届けてくれたことに対し
れる。私はいつも郷里が懐かしい。」
かと 思 う と 、老いの目に涙がこぼ
私のこ と を 思っていて く れている
て、「 子ど も た ち もが、 こん なにも
回おかやま 新
が高く評価されました。
思いがよく 表現されていること 等
まとめた作品です。郷土 を 愛 する
を も とに、手 書 きで 一 枚の新 聞に
活 動 紹 介 な ど を 調べ学 習 や 取 材
の偉 業や 功 績 、大 賀ハス保 存 会の
長会会長賞 を 受賞しました。博士
聞コンクールで栄 え ある 岡 山 県 市
賀ハスをみながら、 これからも 、地
ま した。庭瀬城址に美し く 咲く 大
る 気 持 ちに大 き な 感 動 を も らい
思 う 温かい気持 ちと 、郷土 を 愛 す
いる 吉 備 中 学 校 生 徒 た ち の 人 を
私は、大 賀 博 士や 大 賀ハスを と おして、時 を 超 えて受け 継がれて
と記されています。
す。故郷岡山や吉備 を 懐かしむ 思
がら 力 を 注いでいき たいと 思って
ど も を 育てていくことに、微 力 な
が博士の研究費のためにと 廃品回
郷に寄 す 」と 題した 記 事があり ま
61
います。
域 を 愛 し 、地 域から も 愛 さ れて 、 このハスのよ うに自 立 していく 子
聞」 が山 陽 新 聞 第
人が 作 成 し た「 大 賀ハス新
50
今から さかのぼること 年 前 、 昭和 年の同新聞には、博士が 「故
5
年生
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いと 共に、当 時の吉 備 中 生 徒 た ち
大賀一郎博士の功績を後世に
岡山市立吉備小学校 校長 有國 肇
の偉人について調べ、想いを 感じ取
にも 、五 年 生の子ど も た ちが地 域
り 、そ れ を 保護者に発信 する 活動
をこれからも 大切にしていき たい
力いた だいていることに心から 感
吉 備 大 賀ハス 保 存 会の 皆 様に は、貴 重 な 大 賀ハスの保 存にご 尽
と思います。
生氏のご 講演 を 拝聴 す る 中で、大
謝いたし ま す。今 後と もよろし く
この度 、大 賀 一 郎 博 士 追 憶 展に 参 加 さ せていた だ き 、数々の博 士
賀 博 士が多 くの人から 親し ま れ、
ゆかりの品 を 拝見したり 、阪本尚
尊敬されていたことや、 ハスの研究
お願いいたします。 ことができ ました。
に込められた想いを 改めて感じる
吉 備 小 学 校では、毎 年 五 年 生が 総 合 的 な 学 習の 時 間「 発 信 し よ
う ! わ た し た ちの吉 備 」で 、大 賀
一 郎 博 士について調べたこと を 模
造紙やパソコンでまとめ、学習発表
会で保護者に向けて発表していま す。
受け 継 ぎ 、後 世に伝 えていくため
『蓮ハ平和の象徴也』博士が残さ れたこの言葉に込められた想いを
7|大賀一郎博士追憶譚
6 31
大賀一郎博士の功績を後世に 岡山市立吉備小学校 校長 有國 肇
岡山市立吉備東幼稚園 園長
藤井 多恵
土愛が育ま れているこの吉備学区
に、今も 生き 続けていることに、壮
存 会のブログで 、庭 瀬 城 址に大 賀
スが あって 毎 年 開 花 していること
発 見!』と 称 え ら れている 大 賀ハ
地 元に大 賀 博 士 という 偉 大 な 植物学者がいて、地元に 『世紀の大
岡山市立吉備西幼稚園 園長 山田 千鶴子
博 士の古 代ハスが 植 え ら れ 、毎 年
を 、幼稚園の子ど も た ちや保護者
大 賀 博 士の功 績 を 讃 えて 式 典 を 企 画 さ れ た 保 存 会の方 や 広 報
花 を 咲かせる ために、地 域の方が
に知って も らいたいと 考 え るよ う
大なロマンを 感じます。
大 切に育てていらっしゃる 姿 を 拝
岡山市立吉備東幼稚園 園長 藤井 多恵
聞にまとめられた吉備中学校の生 徒達、皆様の熱い思いが重なり合っ
見 し ま し た 。今 年 度 、吉 備 学 区の
大賀ハスを 見に行ってみよう!」 と
思うようになりました。
いう 気 持 ちになってほしいなぁと
にな り ま し た 。そ して 、「 そ う だ 、
う!」 と決意しました。
け ま した。その大賀ハスが、深い郷
開 花につながったことに感 銘 を 受
くの人の心 を 動かし 、大 賀ハスの
大 賀 博 士の情 熱や粘り 強 さが、多
せることも 、大変困難だった中で、
2000年 以 上 前のハスの実 を 発掘すること も 、その実 を 発芽さ
庭 瀬 城 址の 大 賀ハス を 見に 行 こ
仲 間 入り を した ものの、ま だ 大 賀
さ れ る 吉 備 地 区の方 、大 賀ハス新
が植えられているのが目に入った。 式典でも 感じた。保護者や子ど も 達 、教 職 員と 共に地 域の宝 物 を 大
ている こ と 地 域の 素 晴 ら し さ を
切に守っていきたい。
ら 枯 ら さ ないよ うに育てている 」 と 教 え ら れ た 訳が 、後になってか
「 大 賀ハスと 言って 大 切 な 蓮 だ か
ら分かった。 庭 瀬 城 址 を 訪 れた 時に、かわい い蓮の花 を 見 付けた 。幼 稚 園の花 た。
と同じであること を うれしく思っ 幸運にも 、大賀一郎博士記念式 典に参 加 さ せていた だいた 。二 千 年も 前の実 を 発見して、発芽と 開 花に成 功 し 、その種 子が 全 国に広 まっていることや研究意欲旺盛 な 大 賀 博 士の生 き 方に感 銘 を 受 け た。
ハス を 見ていない私は「 来 年 度は
大 賀 一 郎 博 士 追 憶 展に行 か せ ていた だいた 後 、吉 備 大 賀ハス保
山田 千鶴子
四月に吉備東幼稚園に赴任した 時に、門を 入った所の鉢や水槽に蓮
岡山市立吉備西幼稚園 園長
大賀一郎博士追憶譚|8
おもいを受け継ぐPart II 和歌山大賀ハス保存会 会長 阪本尚生
2003年に開かれた 大 賀 一 郎 生 誕 120年 記 念 式 典で「 お もいを 受 け 継
和歌山大賀ハス保存会 阪本尚生
大賀一郎博士追憶展に寄せて
おもいを受け継ぐPartⅡ
うで すが 、大 賀 蓮にまつわ る 問 題 を 解
が300年は欲しいと言っておられたそ
いただき ました。大賀博士は生前、寿命
がって来ていることなども話題にさせて
析技術の進展で新たな 問題も 浮かび上
うか。大 賀 蓮の真 偽についてもDNA解
味 を 持っていただけたのではないでしょ
うとはしなかったでしょう。
めることがなかったら、範型 を 形にしよ
真偽論争で心身を すり減らし死期を 早
範型が形づくられていたようです。父が
ぷり 浸けら れ 、無 意 識 下に大 賀 一 郎の
で何もわからぬま ま大賀ワールドにどっ
自身そのこと を 感じておられたのかも
くことはそ う 簡 単ではな く 、大 賀 博 士
かし真偽論争については完全に決着がつ
ド を 冠 し た 商 品 までで き ていま す。し
らく 大賀博士の高潔な 人格と 深い学識
聞 く こ とはあ り ま せんでし たが 、お そ
で す。父の口から その出 会いについては
生 物 学 を 教 えに来ら れていていたよ う
んでいて、そこに大賀博士が講師として
に臨時的に設けられた 教員養成所で学
思っています。
が、 でき るだけ解決の目途 をつけたいと
残 さ れ た 時 間 も そ う 多 く あ り ま せん
ア研究では解決が難しい問題です。私に
な 真偽問題 も 出てきていま す。 アマチュ
として 発芽させ、 "The Oldest Flower" 世 界 を 驚 愕 さ せた 株と 遺 伝 的に 100% 同じ 株が今も 存在 するのかという 新た
く東京農林専門学校(現東京農工大学)
に魅せられたのだと想像します。
卒 業 後 郷 里に戻 り 地 元の 高 校 教 員 に就 き 、教 育 活 動に勤 し む と 共にライ
大 賀 一 郎や 大 賀 蓮についてよ り 多 くの
とだけでも 問題山積です。そのためには
人々に知っていただきハス研究の裾野 を
いる。」 と述懐されていま すが、ハスのこ
大 賀 博 士とは手 紙のやりと りで交 流は
広げることが何より 肝要なことではな
フワーク を 学 問にも 求めていたのも 大
細々ながら続いていたようです。当初は
重篤な病から回復した昭和
年頃から
な様のご尽力に期待しております。
テーマを 絞りあぐねていたようですが、 いでしょうか。吉備大賀ハス保存会のみ
寄生蜂や海岸性の野生ギクの研究 など
賀 博 士の影 響 だと 思いま す。卒 業 後 も
ケヤキ並木の事など、問題は山積みして
博士は晩年、「なお学はすてられない。 ハスの事 、 マンダラの事 、古 代 織 物の事 、
私の父祐二と大賀博士との出会いは、 いたとはいえ ま せん。ま た 、大賀博士が 大 学 生 時 代でし た 。父は終 戦 後 間 も な
知れません。
60
ぐ」 というテーマをいただいてお話しさ
大 賀 蓮が発 見 さ れて 年が過 ぎ 、現 在ではハスの代名詞と なり 、東大 ブラン
せていただき ました。私のような者がみ な 様 を 前にお話し する 資格があるのか 少々自 信が あ り ま せんで し たが 、大 賀 先 生の故 郷の人々に要 請 をいた だ くこ とはたいへん 光 栄 なことと 思 われ ま し たし 、 テーマに何かしら心に響く ものが あ り ま し たので 、お 請 け す るこ とにし ま した 。仕 事の合 間にコツコツと 集めた 大賀博士の資料 を 自分なりにまとめて お 話 し す ることにし ま し た 。今でこ そ ご く 普通ですが、 PC・プロジェクターの プレゼンは当時珍しく、道具持参の講話 だったこと を 覚えています。 大賀博士の学問遍歴 を 私如き 者がお 話しすることは、大賀大山脈 をコンパク トデジカメで撮 影 す るよ う な もので す が、大賀博士の詳しい伝記も な く 、また 大 賀 蓮についての成 書 も ない状 況でし たので、 ピンぼけ解像力不足の誹りは免 れ ないの を 覚 悟で 、私 な りにま と めた 大賀一郎の簡単な学問遍歴と大賀蓮発 見 経 緯に絞ってお 話 し さ せていた だ き ました。
分根が父にとっての蓮事始めでした。
地に招 聘 す ることや 大 賀 蓮の当 地への
ハスに焦 点 を 絞 り 、大 賀 博 士 を 御 坊の
35
大 賀 博 士 才 台 後 半 、最 晩 年の頃で し た 。当 時 、私は小 学 校に入った ばかり
9|大賀一郎博士追憶譚
この 年間で入手 今回はその続編で、 した 新た な 情 報 を 盛り 込みま した 。特 に2005年から2008年にかけて東 ねたことについては、吉 備の方々にも 興
京府中市の大賀博士縁の地や人々を 訪
70
13
し
大賀藕絲館への想い 町田市大賀藕絲館 施設長 小木曽 文典
う ぐ
ぐうし
大賀藕絲館への想い 社会福祉法人まちだ育成会 町田市大賀藕絲館 施設長 小木曽 文典
昭 和 年 、大 下 元 町 田 市 長が大 賀 博 士の姪の湯 浅 咲 子さんから 大 賀 博 士の
年7月 、 3名の障がいの
55
現在では 名のご 利用者が生き 生き とした表情で通われ、蓮の実、茎や繊維
文章があります。
こと を 祈ら ずにはいら れ ない。』という
のすばらしい働く 場として確立さ れる
( 障がい者 )を 受け 入 れて 、この人 た ち
館の活動が年と共に発展し、 多くの館生
大下元町田市長の著書、〝一人ひとり の命 を 〟 の中に、『 やがてこの大 賀 藕 絲
た。
ある 方々が通うところから始ま り まし
絲 館は、昭 和
袋 を 考 案してく だ さ り 、町 田 市 大 賀 藕
障がい者の働 く 場と して藕 絲 織りの香
著書『ハス』 の本を 紹介されたことから、
53
の製品に加工し、販売をしています。
を 、お手玉、根付、お菓子、 コースター等
61
大賀藕絲館を 創ってくださった方々の 想いは、今 まで携 わって く だ さった 方々 のおかげで、着実に進められていると 感 じております。 私は、法人内の異動により3年前に大 賀 藕 絲 館 施 設 長に着 任いた し ま し た 。 障がい者施設と蓮という位置付けは、全 国的にみても稀です。 このような文化が ある施設に異動してき た事に大き な 使 命感 を 持 ち 、 この大賀藕絲館が今後、 よ 館 を 守って き て く だ さった 諸 先 輩 方の
り発展していくために、今まで大賀藕絲 想いを 大 切にし 、古 き 良 き 伝 統 を こ れ から も 伝 えていく 事が 出 来 る 様 、邁 進 したいと思っています。
大賀一郎博士追憶譚|10
大賀博士の偉業を辿る。 11|大賀一郎博士追憶譚
大賀一郎博士の略年譜
大賀一郎博士の略年譜
景五郎
大賀家家系図
大賀家
次良右衛門
一七七七 安永六年七月一五日
喜右衛門
光蔵
官五郎 延宝七年七月二六日 一六七九
良作 文化七年三月二二日 一八一〇
一八〇四 文化元年五月一一日
寛文五年八月五日 一六六五
武右衛門
「備中大賀家文書について」 戦国武士の流れ を 汲む家筋。徳川中期には、豪 農として栄えた。年貢米 を 担保に金融事業。他藩 に大賀蔵あり。大名は御用金 を 献納させ、代償と して士格、苗字帯刀 を 与えていた。明治維新の変 革で、武士階級の没落。
佐助 安永六年九月 一 五 日 一七七七
一七二九 享保一四年八月八日
喜右衛門
一八二六 文政九年七月四日
富三郎
孝次 宝暦三年八月五日 一七五三
亀三郎
久太郎
綱太
大賀一郎博士の父・大賀綱太氏…義海 ぎ(かい )
高 野 山で修 行し 、阿 闍 梨の称 号 を 得ている 。 高野山にお墓がある。
熊二郎
明和八年八月二六日 一七七一
一郎
大賀一郎博士追憶譚|12
一家は岡山市仁王町四十七に移転。 はじめて内村鑑三氏 この頃友人から「東京独立雑誌」を 借りて読み、 の名を 知った。 県立岡山中学校(現、県立朝日高等学校)卒業。 チフスに罹り、進学を 断念。
明治十六年四月二十八日生まれ (弟誠三の三男:栄一を 養子に迎える) 明治十八年九月十八日生まれ 明治二十年四月二日生まれ 後小林姓 明治二二年六月一七日生まれ 後西沢姓 明治二十四年十一月二十四日生まれ 母の里(足守) の瀬川家を 継ぐ 明治二十六年八月十三日生まれ 岡山へ 明治二十九年一月九日生まれ 明治三十一年二月二十二日生まれ 父の実家河本家を 継ぐ 明治三十二年十一月四日生まれ 神門家を 継ぐ 明治三十四年六月二十九日生まれ 明治三十七年四月二十四日生まれ 明治四十年七月二十五日生まれ 後山本家継ぐ
大賀一郎博士の兄弟姉妹(九男三女) 長男:一郎 二男:隆治 長女:福 二女:歌 三男:貞吉 四男:亀次 三女:秀 五男:勝吉 六男:誠三 七男:信七郎 八男:潔 九男:明
写真提供:脇本郁夫氏
少年期
四
八
七
十一
賀陽郡庭瀬尋常小学校に入学。 一 家は岡 山 市 東 田 町 七 十 二に移 住 、父は米 穀 商 を 営む 。又 新 小 学 校 (後 深低小学校) に転入学。
西暦 年号 月・日 年齢 事 項 一八八三 明 治一六年 四 月二八日 〇 旧 岡 山 県 賀 陽 郡 庭 瀬 村 大 字 川 入 字 小 西( 後 都 窪 郡 吉 備 町 小 西= 現在 岡山市北区川入) に十二人の弟妹の長として生れる 。(父:綱太 二十三才母:と免十九才)
一家は岡山市仁王町五十九に移転。 岡山県立尋常中学校入学。(明治三四年県立岡山中学校と改称)
岡山尋常小学校を 卒業。岡山高等小学校入学。
十六
十二 十四
一八八八 明治二一年 四 月一日 一八九〇 明 治二三年 九 月 一八九二 明治二五年 三 月 一八九五 明 治二八年 三 月 一八九六 明 治二九年 四 月一日 一八九七 明治三〇年 四 一八九九 明 治三二年 十 一月頃
一九〇一 明 治三四年 三 月十八日 十 七
13|大賀一郎博士追憶譚
生家の前で
大賀一郎博士の略年譜
青年期
一九〇五 明治三八年 七 月十日 九月
二二
事 項
妻うたとともに
岡山基督教会において、宣教師ペギー師により受洗入会。 上京、第一高等学校二部に入学。 内村鑑三氏宅に、聖書の講義を 聴きに通った。 瀬川浅之進(叔父) の学資援助はじまる。 第一高等学校卒業。
塩尻うた(塩尻精八の姉)三十一才と結婚。 第八高等学校教授に任ぜられる。
第八高等学校講師に任ぜられ名古屋に赴任。
瀬川浅之進(叔父) の援助切れる。
つづいて大学院に入学。 東京帝国大学理科大学植物学科を 卒業。 卒業論文は 「アサガオの細胞学的研究」 であった。同時に 「ハスの受 精現象について」も研究をはじめた
二二 東京帝国大学理科大学植物学科に入学。 引き続いて内村鑑三氏に師事した。 二四 「 の報で一時帰郷。 ハハシス」 二六
一九一〇 明治四三年 六 月十一日 二 七 一九一一 明 治四四年 一 月四日 二七 七月二二日 二 八
一九〇七 明 治四〇年 一九〇九 明 治四二年 七 月
西暦 年号 月・日 年齢 一九〇二 明治三五年 一月九日 十八 九月 十九
大賀一郎博士の略年譜
第八高等学校教授時代 学生とともに
写真提供:時任氏
大賀一郎博士追憶譚|14
秋
九月二〇日
ハスの研究の始まり
大 賀 博 士は空 気 中で生 きているのは、 150年が限度と推定される。
大英博物館所蔵のハスの実
横浜を 出帆、米国に向う。天(洋丸に乗り込み妻と共に渡米 ) ジョンズ・ホプキンス大学におもむき 一年間植物生理生態学 を ・ リビングストン教授の指導の許に研究。
野口英世、高峰譲吉の二人から研究の励まし を 受けた。
四一 ボ イス・トムソン植 物 研 究 所に招かれ 、約 半 年 滞 在 し 研 究 す る。 四二 エ ール、 ハーバード、 ワシントン等各大学を 歴訪する。 欧州に渡り、 ロンドンの大英博物館にて同館収蔵の古ハス及び 古種子の発芽試験を する。
南満州鉄道の教育研究所員時代
の冬に欧州に渡 大正十四年(1925) り、 ロンドンの大 英 博 物 館に行 き 、 150 年前のハスの種子が生 きていたという 文 献(1850年に蒐 集 後 、丁 度150年の 種 子の発 芽に成 功 )を 見て 、その実 を 出 して も らって 試 験 を してみたが 、すでに それは死んでいた。
「アサガオの細 明治四十二年(1909)、東大の卒業論文は 胞学的研究」 であったが、 この卒論のテーマを 指導教授であっ た 藤 井 健 次 郎 先 生にいた だ きにあがった 時 、 いくつかのテー マが並べら れた 中に、『「ハスの受 精 現 象 」を 書いて見てはいか が』、 といわれたのが、脳裏にハスということの入ったのが始ま りであった。 この先生の下で副手をつとめたが、一 卒業後大学院に入り、 年あまりたって後、先生に推されて、当時新設されたばかりの 名古屋の第八高等学校の教授として赴任(七年間) した。
三八 妻 うたが 「すみれ図譜」を 出版する。 四〇 社 命による 米国への留学のため、妻うた を 同伴、大連 を 去る 。 このと き 、普蘭店の古ハス実千個持っていく 。藤井健次郎先生 のすすめで、 これまで研究した種子の長寿に関する論文 を ま とめることになり、出帆を 延ばし専心これに打ち込む。
年齢 事 項 三三 南 満洲鉄道株式会社の教育研究所員として大連に赴任。 ふらんてん 三四 南 満 洲 普蘭店の泥炭地(深さ4、 5尺) から古蓮実 を 採集、本 格 的に研 究 をはじめた 。研 究に用いたハスの実は一 万 五 千 個 以上。(殆ど全部に発芽能力があった)
壮年期
西暦 年号 月・日 一九一七 大 正六年 二月二十日
八月二四日
一九二一 大正十年 不明 一九二三 大 正十二年 六 月一日
一九二四 大 正十三年 不 明 一九二五 大 正十四年 不 明 十一月一五日
「古ハスの実について」講演する。 四五 高 松宮殿下の御前にて 四六 生 涯の恩師内村鑑三歿す。
15|大賀一郎博士追憶譚
十月二七日 三月二八日
四三 奉 天教育専門学校教授に就任、満鉄社員の教育に当る。 一九二六 大 正十五年 六 月四日 一九二七 昭 和二年 四月二〇日 四四 東 京帝国大学より理学博士の称号 を 受ける。学位論文「南満 洲普蘭店産の生存古蓮実の研究」。 一九二八 昭 和三年 一九三〇 昭 和五年
写真提供:時任氏
B E
大賀一郎博士の略年譜
四月
不忍池の古ハス 3(00年ハス ) から採集(深さ2、 3尺~4、 5尺) した実の総 昭和十年(1935) 数は、 1万個に上る。(ほとんど全部に発芽能力があった) 同 年 七 月 二 十 四 日に不 忍 池での観 蓮 会のあとで、牧 野 富 太 郎 先 生立ち会いのもと、報道陣に対してハスの開花無音無声 を 発表した ところが、天下の大問題と なり 国の内外で喧々囂々、投書が東西各 新聞の社会欄 をにぎ わした。「あの日から27年間、開花無音で戦っ たが、執念深い日本人という日本人には、 とても まだ勝てない。」(大 賀博士談) 「外側から1枚 ずつ1分間に1 位の静かな 速さで咲 く花びらに音などあるはずがない。」(大賀博士言)
年齢 事 項 四八 南 満洲鉄道株式会社を 退職する。 十五年振りに大陸を 離れ東京に戻る。
五二 蓮 花の開花時における有音・無音の確認のため、上野不忍池弁 天 堂において観 察 実 験 を 行 う 。 こ れ を 期に以 来 、毎 年 上 野 不 忍池畔で観蓮会が開催され現在に至っている。(牧野富太郎博 士も 立 ち 会 う )
五一 東 京女子大学講師を 辞任する。 五一 長 年の念願であった 当麻曼荼羅の拝観が許さ れ、意欲的にこ の研究を 進める。(最初は十五円払って拝観した)
東京女子大学講師を 依嘱される。 東大農学部植物学教室及び自宅にて研究を 続ける。 五〇 東 京府淀橋区上落合一の四六八に居を 定める。
初老期
四月 八月二八日
七月二二〜二四日
一九三三 昭 和八年 不明 一月
cm
六月五日
一九四三 昭和十八年 一 五九 父 、大賀義海が大僧正の位を 授けられる。 月 一九四四 昭 和十九年 八 月三〇日 六一 東 京農林専門学校講師を 依嘱される。 一九四五 昭和二十年 五月二五日 六二 上 落合の住家、戦火のため焼失する。 六月一日 東京都北多摩郡府中町新成区八九三一に転居する。 六二 父 、義海岡山にて歿す。(八五才)
一九三四 昭 和九年 一九三五 昭 和十年
西暦 年号 月・日 一九三二 昭和七年 二月四日 三月
大賀一郎博士の略年譜
大賀一郎博士追憶譚|16
古ハス実 の 年 代 とラジオ・ カーボン・テスト 1951 年の 暮 れに 大 賀 博 士 は、 当時来日していた米国カリフォ ルニア大 学 古 生 物 学 教 授チェニー 博 士に会い、検 見 川 出 土の古 材カ ヤの材 二 片 約1ポンド を 托 し 、 シ カゴ大 学 原 子 核 研 究 所のリビ ー 博 士によ る 埋 没 年 代 調 査( ラ ジ オ・カーボン・テスト)を 依頼した。 1953年5月 日 、よ うや く チェニー 博 士からの書 簡 を 受 け 、 古ハスの実が3075年±180年 というテスト結果を 得た。 博 士はしかし 控 えめに2000 年前とした。
六九 府 中ケヤキ並木鳥瞰図完成する。 二千年ハスがはじめて開花。(千葉市伊原茂氏宅にて)
米国カリフォルニア大学チェニー教授に、検見川出土の 古材カヤの埋没年代調査を 依頼する。
国 内 外に報 道 さ れ 、十 一 月 十 七 日 付 米 国ライフ誌に 「世界最古の花・生命の復活」 として掲載される。
20
千葉県下総町滑川 ( 1200 年ハス)の 発 芽に成功 昭 和 七 年(1932)、水 路 工 事 中に1200年 前のつぼ ( や よ い 式 土 器 )が で た 時 、 その中にハスの実が一 升 ばか り あった 。みん な 捨てて、 1つ だけ 記 念に残していたハスの 実を 大場磐雄先生(国学院大 学) にもらいうける。 昭 和 年(1950)初 夏 、 発 芽に成 功 す る も 数 日 後 枯 死 す る 。(この時 博 士は大 き なショック を 受 け2~3日 眠 れなかった)
千葉県滑川出土の古ハスの実(約千二百年前) の発芽 に成功する。(数日後枯死)
年齢 事 項 六七 関 東学院大学教授に就任。 鳥取大学非常勤講師を 依嘱される。
六七 千 葉県検見川の泥炭層から約二千年前の古ハスの実 の最初の一粒を 得る。(三月三日より掘り始めた)
初老期
不明 六月一日
西暦 年号 月・日 一九五〇 昭 和二五年 四 月
一九五一 昭 和二六年 三 月三〇日
25
五月九日 六八 検 見川泥炭層出土の古ハスの実の発芽に成功する。 七月二〇日 と「国華」誌上に発表、約 「当麻曼荼羅は綴織である 」 六十年にわたる絵画説・織物説 をめぐっての学界の論 争に終止符を 打つ。
一九五二 昭 和二七年 六 月 七月一八日
一一月
17|大賀一郎博士追憶譚
写真提供:時任氏
大賀博士とR. W. Chaney博士
大賀一郎博士の略年譜
三木淳氏撮) (写真は1952.7.19に
月3日号 米ライフ誌1952年11
大賀一郎博士追憶譚|18
初老期
八月五日
年齢 事 項 六九「 二千年ハス」をドイツ・ハンブルグ市国際園芸博覧会の依頼により同市あ てその蓮根を 空輸する。
八月二三日
九月二九日
東京都府中市本町五丁目九四三二(後住居表示変更寿町二丁目八の四) に移転(府中市の有志により提供された)。 これが機と なり府中大賀会が 誕生。
七〇 分根された大賀蓮が千葉市公園の弁天池で五花ばかり咲く。 がハンブルグ市において開花する。 「二千年ハス」 ハンブルグ市より「自由なるハンザ同盟市ハンブルグ名誉賞」を 受ける。
一一月一六日
不明
七一 千葉県の天然記念物に指定され、「大賀蓮」 と なる。 の作成に着手。 「府中市ケヤキ並木の樹高の測定とスケッチによる横観図」 鳥取大学非常勤講師を 辞任する。
西暦 年号 月・日 一九五三 昭 和二八年 四 月一四日
一九五四 昭和二九年 六 月八日 九月
19|大賀一郎博士追憶譚
ハンブルグ国際園芸博覧会で咲く大賀ハス
ご夫婦で喜ぶハンブルグ名誉賞
大賀一郎博士の略年譜
老年期
四月一七日
三月二日
一九五七 昭 和三二年 一 月一一日
年齢 事 項 七二「 布目文の研究」を「古文化財の科学」誌上に六回にわたって執筆する。 滋賀県守山町田中常尚氏より妙蓮について出張調査の依頼を 受ける。
滋賀県守山町に妙蓮の跡 を 訪ね、爾来八カ年間に廿数回往復し調査研 究をかさねる。
妻うた歿す。(七十五才) 「二千年ハス」を 岡山後楽園に移植のため帰郷、池田厚子夫人によって御 手植えされた。(千葉公園で育っていた七本のハス)
七四 郷 里岡山県吉備町において高木町長以下町民による「大賀一郎博士後 援会」 が結成される。
十月 十一月一四日
一九五八 昭 和三三年 一 月八日
妙蓮が金沢持明院より故地近江守山町田中に請来されるも成功せず。 妙蓮を 府中市中央公園と自宅の小池に移植する。 七六 妙 蓮が府中において開花する。 府中ケヤキ並木横観図とその説明書完成する。
蓮の実会誕生。府中市の婦人が中心と なり同会より月々研究費 を 贈ら れる。
二月二八日 四月一八日 一九五九 昭 和三四年 七 月二六日
十月一八日 七四 元 警視総監吉永時次氏により高野山に亡父義海の墓碑が建つ。 十二月一二日 日 本 植 物 学 会 七 十 五 周 年 記 念 大 会( 東 大 教 養 学 部において開 催 ) にて 五十年以上会員として貢献した 十七氏と 共に小倉会長より 感謝状と 記念品が贈呈される。
七三 府 中市文化財専門委員として同例会において「馬場大門ケヤキ並木の 愛育・保護・保存について」 と題して発表する。
四月二〇日
西暦 年号 月・日 一九五六 昭 和三一年 一 月 二月八日
大賀一郎博士の略年譜
大賀ご夫妻
府中の書斎にて
大賀一郎博士追憶譚|20
五月一六日
七七 東 京都多磨霊園にて亡妻うたの納骨式を 挙げる。 七八 紫 綬褒章授与される。
近江守山町田中の妙蓮が移植成功し約七十年振りに故地大日堂池に 開花する。
七九「当 麻曼荼羅について」を 脱稿する。 八〇 皇 居の池にハスを 植える。 皇太子殿下にハスのお話をしてハスを さし上げる。
の実百粒 を 中国科学院々長郭沫若氏に 「蓮ハ平和の象徴也」 「大賀蓮」 という標語と共に贈った。 が千葉県検見川の古ハス実発掘の地(東大総合運 八一「 大賀蓮発掘記念碑」 動場内) に建てられる。
八二 勲 三等瑞宝章が授与される。 午後九時十五分東大病院において歿する。(特旨を もって正五位に叙せ られる)
昭和三十五年「話せばわかる」の碑を揮毫(吉備小学校校庭)
年齢 事 項 西暦 年号 月・日 一九六〇 昭和三五年 四月二九日 七七 孫文蓮の播種を 行う。(五月三日発芽) 十月八日 の除 郷里の先輩、犬養木堂翁記念のため揮毫した「話せばわかるの碑」 幕式が翁の生地(吉備小学校) において挙行さ れる 。(現在は吉備公民 館に移転)
八月
一九六一 昭和三六年 二 月一二日 一一月三日 一九六三 昭 和三八年 二 月 五月一二日 秋
一九六四 昭 和三九年 七 月一八日
府中市の自宅において脳軟化症のため倒れる。
十月八日
キリスト教婦人矯風会館(東京都新宿区) において司式鈴木俊郎、委員 長篠遠喜人、喪主大賀栄一のもとに告別式を 挙行する。
都立府中病院に入院する。
四月二九日
東京都多磨霊園に葬る。
六月一五日
郷里岡山県都窪郡吉備町立吉備中学校においてキリスト教による町民 告別式が挙行される。司式藤沢武義、委員長高木潤、喪主大賀栄一。
六月二〇日
十月四日
吉備町小西、大賀家先祖代々の墓所に亡妻うたと共に葬る。
十月九日
※年譜の作成に当たっては 「蓮ハ平和の象徴也」を 参考・引用しました。
十月九日
武蔵境病院に転院する。 八一 東 京大学附属病院中尾内科に移る。 ハス約二十種が千葉県検見川東大園芸実験場、都立神代植物公園等に 移植される。
21|大賀一郎博士追憶譚
十一月七日 一九六五 昭 和四十年 二 月二一日 四月一八日
現在は吉備公民館前に移転
検見川遺跡出土の丸木舟(昭和22年10月)
1 古ハスへの想い
大賀蓮の発掘から開花まで 年 3 月3日 発 掘開始 ⬇ 3月 日 最 初の一粒発見 千葉県滑川から出土した約1200年 前の古ハスの実 を 、発芽 する も 枯死させ てし まったショックから 、再 び 古ハスの実 を 得たいと考えた大賀博士は、千葉市の 東京大学検見川厚生農場の泥炭地から、 草炭採掘時に丸木舟と共にハスの果托が 出たこと を 想起した。(草炭:戦中・戦後 の燃料不足を 補った)
枯れた果托との出会い
3
検見川厚生農場を訪ねる
昭和 年(1950)秋頃、丸木舟出土 の場所をたずねて東大の検見川厚生農場 (農場管理人高野忠興氏) に行く。
高野氏は、地元新聞社、県、地元の小中 学 校へ協 力のお 願いに奔 走 し 、県からの 補助金6万円も調達できた。
この時 、博 士は1万 円 を 所 持 し 、こ れ で 掘って も ら え ないか、地 元の人に協 力 し て も ら え ないか 等 、高 野 氏に相 談 し た。
25
昭和
⬇ 5月9日 発 芽 ⬇ 年 7 月 日 開 花
⬇ 4月6日 続 いて二粒発見
30
18
昭和
2
井ノ頭の自 然 文 化 園の中の武 蔵 野 郷 土館に丸木舟が陳列してあり 、その脇に ハスの果托の枯れたのがあった。 郷 土 館 研 究 員 吉 田 氏 → 発 掘に携 わっ た 甲野勇慶応大学講師 を 訪 ねる → ハ スの実は (バケツ一 杯 以 上 あった )一つも 残ってなかった。 甲 野 先 生の 調 査 で 、かい( オ ール )の 文 様 が 石 器 で 彫 ら れ た も のと 分 か り 、 2500年 前と 判 定 さ れたが、博 士は少 なめに2000年とした。
高野忠興氏
26 27
4
発掘
が始まる
当 初 一 週 間 の 予 定 で 、昭 和 年 (1951) 3月3日 発 掘 を 開 始 。十 畳 程 (4メートル四 方 ) の広 さから 始 ま り 、最 後は人がひと り 入 れ る 程の広 さ しか な く、 バケツで泥水 を 汲み出した。(泥炭層 が軟弱なため木の枠を 入れながら掘る)
26
古ハス発見のための発掘風景(昭和26年3月)
大賀一郎博士追憶譚|22
発見
6 発芽
三つの実の
5月6日 、府 中 市の大 賀 博 士 宅にて発 芽処理が行 な われ、三日後の 月9日に 発芽 を 開始。 3つの実 を 発 芽 さ せたが 、 その中の2つは枯死した。
発掘に協力する地元小学生(昭和26年3月)
最初の一粒
3月 日、高野氏は、作業がほぼ一ヶ月 になることも あり、博士の了解 を 取り付 けて、穂積組に明日( 日)限りで終わり にしようと連絡に行った。 6月 最初に発見した 実が順調に伸び、 日 、千 葉 県 農 業 試 験 場に移し 、網 室の コンクリートのポットにて育成する。(3つ とも千葉県農業試験場で管理)
7 開花
最初の
4月7日に、千 翌 昭 和 年(1952) 葉 県 農 業 試 験 場のポットから 、大 賀 博 士 立ち会いのもと掘り上げられた。 千葉県農業試験場(現・農林総合研究 センター )と 、東 大 検 見 川 農 場( 現・東 大 検見川総合運動場)、及び 千葉市公園弁 天池の三箇所に分根した。
27
東 大 検 見 川 農 場の分だけ を 地 元 畑 町 の伊 原 茂 氏の庭に移し 、古い醤 油 釜に田 土 を 入 れて育てていたが、その年の7月 ~ 日にかけて開花、 これが初の開花 と なる。 18
5
しかしその直後の夕方5時ご ろ、花園 中学校の西野真理子さんのフルイに一粒 の実がかかった。 作業は継続されることとなり、その後 4月6日 、千 葉 県の太 田 教 育 長( 岡 山 県 吉備町出身) の見ている前で、 さらに二粒 の実が篩い出された。
大賀蓮の名称
6月8日、千葉県の 昭和 年(1954) 天然記念物に指定されたときに、「大賀蓮」 の名称がついた。
発見までの日数と費用
には 千 葉 市の ま た 平 成5年(1993) 「市の花」 に制定されました。
29
(現・総合運動場) から 東大の検見川農場 ハスの実3個を 発掘し た が、調査日数40 日 、費 用は約50万 円 、人は延べ2, 500 人を使った。
23|大賀一郎博士追憶譚
出土層
大賀博士と伊原茂氏(昭和27年7月)
21
大発見の日の集合写真(昭和26年3月)
31
出 土 層は表 土2尺 、泥 炭 層13尺 、青 泥 (あおどろ)層(沼の底土) 1尺。
17
30
5
作成に当たっては、 「ハスと共に六十年」 と 「蓮ハ平和の象徴也」 を参考・引用しました。 写真は千葉市立郷土博物館から提供していただきました。
妙蓮の生態
妙蓮の研究 1
昭和
妙蓮はいつ頃からあった?
妙蓮は八重咲で花の数が2~ 個、花 弁の数が2千 枚から5千 枚 ぐらいあ る 。 この珍 妙 な る 蓮 花は印 度から 支 那 そ し て日本(近江の国(滋賀県)田中村の大日 池) に伝わったと云われている。
2 その大 日 池に室 町 時 代(1336年 ~ 1573年) の初期から珍しい蓮の花(妙 蓮と 呼 んでいた )が 数 百 年の間 、咲 き 続 けて来たが、 1895年(明治 年)頃、枯 れ絶えてしまっていた。
金沢市の持明院の妙蓮
年~
4 田中家に残された古文書 を調査
2月8日 、滋 賀 県 昭 和 年(1956) 守山町の田中常尚氏より妙蓮について出 張調査の依頼 を 受けて以来、現在田中家 に残されている二箱の小長持に詰め込ま れた、山な す古文書 を 博士は一々たんね んに目 を 通 さ れ 、妙 蓮の推 移 、形 態 等 を 解明され天下に発表される。(72才)
移植
5
持明院の妙蓮を 田中村に
2月 日 、金 沢 持 昭 和 年(1958) 明 院より 故 地 近 江 守 山 町 田 中の大 日 池 に請来されるも成功せず。(74才)
妙蓮を府中に移植 4月 日 、府 中 市 昭 和 年(1958) 中央公園のひょうたん池と自宅の小池に 移植する。(74才)
6
28
日 、府 中に
18
26
3
31
33
33
7月 昭 和 年(1959) おいて開花する。(76才)
7
田中村の大日池に開花
8月 、近 江 守 1963年( 昭 和38年 ) 山 町 田 中の妙 蓮が 移 植 成 功 し 大 日 池に 開 花 す る 。( 最 初の植 付けから5年 後の こと)(80才) 妙 蓮は近 江の国( 滋 賀 県 )田 中 村から 加賀の国(石川県)金沢へ、そ れから越中 の国( 富 山 県 )福 野の安 居 寺( あんご じ ) へ、そして武蔵野府中へ、最後に先生のお 手もとから近江へと推移した。 博士のご尽力によって近江妙蓮 を 数百 年の伝統ある大日池に再び開花復元(昭 和 年) し、此の間約10年余の久しきに 亘り研究された。 38
31 34
12
28
妙 蓮が 金 沢 市の持 明 院という 寺にあ ること を 博士が知って、調べたところ、も ともとは明治初年(1870年)頃に近江 の田中村の田中源兵衛氏の家から金沢へ もっていった ものであることがわかった 。 ( 大 正 年(1923) 3月に国の天 然 記 念物になっている) 12
妙蓮
作成に当たっては、 「ハスと共に六十年」 と 「蓮ハ平和の象徴也」 を参考・引用しました。
大賀一郎博士追憶譚|24
た
い
ま
ま
ん
だ
ら
た い ま ま ん だ ら
3
当麻曼荼羅を拝観
昭 和 年( 1935)、長 年の 念 願 で あった当麻曼荼羅の拝観が許される。(こ の時博士は 円払っている)
4
研究の発表
つづれおり
この曼 荼 羅は藕 昭 和 年(1951)、 絲織ではな くて、絹糸 を 用いて織られた
自宅の書斎にて
※ 博 士の研 究は、古 代ハスの実からハス へ、 ハスからハス糸へ、 ハス糸から 曼 荼 羅 へ、曼 荼 羅から 織 物へ、織 物から 糸へ、糸 から繊維一般へとひろがった。
綴 織(平織) であることを明らかにした。 (68才)
26
当麻曼荼羅とは
26
1 ちゅうじょうひめ
15
ハス糸で 織ら 1200年 あ ま り 前に、 れた物、(藕絲織(ぐ うしおり)) といわれ
年
10
※曼荼羅(まんだら) とは、仏教の世界観を表現した絵画、又は阿弥陀さまの浄土の 姿を現した物といわれている。大きさは、方一丈3尺(約4メートル角)。
ていた 。( 中 将 姫 が1日で織ったと さ れ る伝説がある)
研究の開始
〜
25|大賀一郎博士追憶譚
2
昭和
作成に当たっては、 「ハスと共に六十年」 と 「蓮ハ平和の象徴也」 を参考・引用しました。
昭 和7年(1932)、牧 野 富 太 郎 先 生 (日本の植物学の父) の指示により 、当麻 寺( たいまでら )( 奈 良 県 ) の曼 荼 羅の研 究を 始める。(48才)
当麻曼荼羅の研究
7
山陽新聞の記事から
昭和31年4月18日山陽新聞朝刊
平成14年9月24日山陽新聞で紹介
大賀一郎博士追憶譚|26
山陽新聞社提供
昭和31年4月18日山陽新聞朝刊
昭和32年1月19日山陽新聞朝刊
27|大賀一郎博士追憶譚
山陽新聞の記事から 昭和40年6月16日山陽新聞朝刊
昭和40年4月29日山陽新聞朝刊
大賀一郎博士追憶譚|28
山陽新聞社提供
昭和40年6月16日山陽新聞朝刊
29|大賀一郎博士追憶譚
母校の校友会雑誌への寄稿 岡山朝日高等学校校友会雑誌「烏城」106号
大賀一郎博士追憶譚|30
岡山県立岡山朝日高等学校提供 大賀一郎博士は、昭和25年から35年まで 8篇(106号、107号、108号、 109号、111号、113号、114号、115号)に寄稿されました。
31|大賀一郎博士追憶譚
千葉大賀ハス展の冊子より
大賀一郎博士追憶譚|32
千葉市立郷土博物館提供
33|大賀一郎博士追憶譚
千葉大賀ハス展の冊子より
大賀一郎博士追憶譚|34
千葉市立郷土博物館提供
35|大賀一郎博士追憶譚
千葉市立郷土博物館提供
千葉大賀ハス展の冊子より
大賀一郎博士追憶譚|36
大賀一郎博士顕彰活動 37|大賀一郎博士追憶譚
大賀一郎博士の顕彰活動
顕彰事業準備委員会発足 1993年
平成5年
平成五年度 大賀一郎博士顕彰事業準備会発足
地 区 内の 用 水 路に 群 生 していた 大 賀 ハスが平成三年に全滅。そこで地元の町 内会や婦人会、商工会などの代表で組織 し た「地域活性化推進実行委員会」 の有 志が 立 ち 上がり、平成三年に「顕彰事業 準 備 委 員 会 」を 発 足 。地 元 が 生 ん だ“ 偉 人 ”を 顕 彰し 、大 賀ハスを 復 活さ せ よ う と動き始めました。
平成2年7月22日山陽新聞朝刊
大賀一郎博士追憶譚|38
1994年
平成六年七月二四日 千 葉 県 府 中 市は 、大 賀 一 郎 博 士 が 昭 和 二 〇 年 六 月から 昭 和 四 〇 年に死 去さ れ る まで 在 住し た 所で 、市 内の「 郷 土の
39|大賀一郎博士追憶譚
森公園 修景池」 で、大賀ハスが大切に育 てられています。
千葉県府中市の郷土の森公園 修景池にて (板野・網島・阪本)
千葉県府中市に視察研修(板野・網島・阪本) *助成金申請に奔走 平成六年七月十七日 「第一回大賀ハス観蓮茶会」開催 ばら園にて (平成八年までつづく) RSK *中国の胡弓演奏(中国留学生)、琴演奏と野点席 来賓+来園者=500人以上
第一回大賀ハス観蓮茶会
千葉県府中市に視察 RSKバラ園で観蓮茶会 平成6年
平成7年
没後30年お墓参り
1995年
平成7年6月15日 博士の遺品展を前に小西に墓参する
平成7年6月16日山陽新聞朝刊
大賀一郎博士追憶譚|40
平成七年六月二四、二五日 没後30年遺品展開催 吉備公民館にて 1階ロビー、大集会場 講演 長島時子氏「大賀一郎博士を 偲んで」 *展 示 物=地 域の知 人 、友 人 、新 聞 報 道により 市 内 各 地、千葉県からも、一〇〇点余 来場者=三〇〇人以上(二日)
41|大賀一郎博士追憶譚
没後30年遺品展 1995年
平成7年
吉備公民館始まって以来という参加者で、立見席が出るほどでした
平成7年
没後30年遺品展
1995年
大賀一郎博士追憶譚|42
平成7年
1995年
43|大賀一郎博士追憶譚
没後30年遺品展
平成7年
没後30年遺品展
1995年
(森安昭雄氏提供)
蓮の形の香盒(大賀栄一氏提供)
科学論文選集
大賀一郎博士追憶譚|44
平成7年
没後30年遺品展
1995年
平成7年5月21日山陽新聞朝刊
45|大賀一郎博士追憶譚
大賀蓮の植栽準備 1996年
平成8年
平成八年五月 に自宅前の休耕田 を 借りて植栽した大賀蓮の蓮根苗 を 、庭瀬城址に移 前年(平成七年) 植のため掘り返す。土地提供者 脇本元紀氏(岡山市北区川入)
千葉視察での大賀蓮を植栽、掘り起こし
大賀一郎博士追憶譚|46
平成8年8月6日山陽新聞岡山・東備版
県議、市長、市議、大賀栄一氏、地域代表で序幕
テレホンカードを製作
47|大賀一郎博士追憶譚
平成八年八月十日 顕彰碑建立・除幕式 「蓮ハ平和の象徴也」を 刻んだ顕彰碑を 岡山市北区川入小西 田(の一部 に)建立 土地提供者 大賀敏明氏(岡山市北区川入) コール黄薇、他 参加者 県議、市長、市議、大賀栄一氏、小西町内会、吉備支所、 碑製作者に市より感謝状
中央が大賀栄一氏
顕彰碑建立 1996年
平成8年
平成8年
大賀ハスの里復活を
1996年
平成8年10月1日山陽新聞朝刊
平成8年8月30日山陽新聞朝刊
大賀一郎博士追憶譚|48
平成9年
鳥取農業試験場に視察研修
1997年
大賀博士墓所
岡山県
大賀博士生家跡
御崎神社
大賀博士顕彰碑 岡山市
吉備線 県道真金
山陽新幹線
犬養木堂記念館
吉備中学校
吉備小学校 県道 162 号線
清山神社
庭瀬城址 (大賀蓮植栽)
49|大賀一郎博士追憶譚
本線
山陽
JR 庭瀬駅
平成九年二月二十七日
吉備の地に大賀蓮 を 栽培 するにあたり 、鳥取農業試験 場に視察研修。
農業試験場の方の説明を聞く (参加者=熊代連合町内会長、田渕支所長、清野、小林、坂本、他2名)
庭瀬城址に大賀蓮を植栽 1997年
平成9年
平成九年五月十日 庭瀬城址に大賀ハスを植栽 庭瀬城址の整備に取り組む 庭瀬城址保存会と吉備地区地域活性化推進 実行委員会が、三月から城址の堀の浚渫を 行って、 ヘドロ (厚さ約一メート ル)を 除去し、 コンクリート製の下水管 を 利用した直径約一・七メートル、 高さ 約一・七メートルのポットを 七基設置。休耕田で栽培していた大賀蓮 の地下茎約三十本を 住民約四十人で植え付けた。
平成9年5月11日山陽新聞朝刊
大賀一郎博士追憶譚|50
平成9年
観蓮茶会
1997年
象鼻杯(茎を通ってお酒が流れてくる)
51|大賀一郎博士追憶譚
平成九年八月〜 庭瀬城址にて観蓮茶会 平成十一年八月 ・第2回(裏千家) 毎年300人前後でにぎ わった 第1回(表千家)
荷葉杯(蓮の葉にお酒を注いで飲む)
大賀博士終焉の地、府中市でも観蓮会を続けている。
吉備和歌百選 発刊 1999年
平成11年
平成十一年三月三十一日 吉備和歌百選 「悠久」 発刊 市内一般公募・150首ほど 本冊と別冊 選者は、公民館講師
記念冊子と和歌集「悠久」
大賀一郎博士追憶譚|52
平成11年
吉備和歌百選 発刊
1999年
平成11年5月12日山陽新聞朝刊
53|大賀一郎博士追憶譚
生誕120年祭 開催 2003年
平成15年
大賀一郎博士生誕 120年祭開催 吉備公民館にて 講演 阪本尚生氏(阪本祐二氏の子息・和歌山大賀ハス保存会 会長) = イメージソング発表会 岩 =井ゆき子氏(音楽家) 演題= 「おもいを 受け継ぐ」 公民館華道クラブの生け花、呈茶席 ※生誕百二十年祭を もって、坂本弘子発起人及び実行委員長の顕彰事業を 一時休止。
平成十五年十一月二十九、三十日
大賀一郎博士追憶譚|54
平成15年
生誕120年祭 開催
2003年
大賀一郎博士生誕120年祭記念CD
イメージソングのCD作成 題「朝のひかりの中で」 作詞・作曲 大阪の歌手 岩井ゆき子さん
55|大賀一郎博士追憶譚
吉備大賀ハス保存会、設立。 2012年
平成24年
平成二十四年三月 「吉備大賀ハス保存会」設立 平成9年に庭瀬城址内堀のコンクリート鉢7基に大賀ハスが植付けられたが、 植付け後15年が経過した 鉢には、大賀ハスではない八重の蓮や白色の蓮 な どが咲くようになっていた。 そこで平成 年、浅野秋夫氏ら有志が立ち上がり、交雑 を 改善する為の強い 思いで仲間に呼びかける。 平成二十四年二月二七日 で、「大賀一郎博士と 大賀ハスについて」 吉備公民館主催講座「吉備・陵南学」 と題してお話(浅野秋夫)
平成24年2月7日山陽新聞朝刊
24
吉備大賀ハス保存会は、 この吉備地区 で生 ま れ た 大 賀 一 郎 博 士 が 発 見さ れ た 大 賀ハス を 保 存・育 成 す る と と も に、大賀一郎博士の功績を顕彰し後世 に伝えていく事を目的とします。
吉備・陵南学「大賀一郎博士と大賀ハスについて」
大賀一郎博士追憶譚|56
平成24年4月11日山陽新聞朝刊
平成24年7月26日山陽新聞朝刊
平成二十四年四月五日 庭瀬城址の堀に大賀ハスの根茎の植え替え作業に着手 平成二十四年四月十日 植え替え作業 以後メンバーが手入れを 続ける
57|大賀一郎博士追憶譚
庭瀬城址の大賀蓮改善作業 2012年
平成24年
2012年(平成24年) 4月の状況 その他の6 鉢②に丸型ポリ容器3個を 設置し、 鉢は容器未設置。
庭瀬城址お堀内の大賀ハス鉢配置
庭瀬城址大賀蓮改善作業 2012年
平成24年
⑥ ⑤ ① ⑦ ④ ③
弁財天
②
庭瀬城址 (清山神社)
2013年(平成25年) 4月の状況 コンクリート鉢7基 全て容 器 栽 培( 丸 型4基 、 角型3基) にした。 大賀蓮の系統 を 維持した種レンコンを 和歌山 大 賀ハス保 存 会から 分 根 して頂 き 、鉢 ①に植 付 ける。
大賀一郎博士追憶譚|58
2014年(平成26年) の状況 7基 全てが 大 賀 蓮の系 4基 を 角 型 容 器にし 、 統を 維持した蓮根になる。
2015年(平成27年) の状況 7鉢全て前年と同じ
2016年(平成28年) の状況 コンクリート鉢に残っていた交雑された蓮が淘 汰 さ れたことが確 認で き たので、 6基の鉢 を 容 器栽培からコンクリート鉢に戻した。鉢③は保存 育成鉢として、大型の角型容器栽培 を 継続して いく。
59|大賀一郎博士追憶譚
庭瀬城址大賀蓮改善作業 2012〜2016年
平成24〜28年
2012年
お墓参り 地元まちかど博物館への出展 平成24年
平成二十四年六月十五日 大賀博士の命日には、毎年墓参を 続けています。 平成二十四年十一月四日 吉備・陵南ま ちかど 博物館に出展。大賀蓮クイズで「特製カラー 栞」 や資料を 配付。
命日には毎年欠かさず墓参
吉備・陵南まちかど博物館に出展
特製カラー栞
大賀一郎博士追憶譚|60
和歌山の大賀ハス保存会メンバーと
徳島のグループと
61|大賀一郎博士追憶譚
平成二十五年一月三一日 「大賀ハスを 語る会」開催 吉備公民館にて 平成二十五年四月七日 和歌山大賀ハス保存会(第5代会長:阪本尚生氏)を 訪ねて 平成十五年 の大賀一郎生誕120年記念事業の時に、阪本尚生さんが講演されてから のお付き 合いで、会員5名で和歌山に行き 、大賀ハスの系統 を 維持した蓮 根2本を 頂いてき ました。 平成二十五年七月十六日 徳島から来客。地元の大賀蓮愛好家グループと徳島県埋蔵文化財センター の方を 、庭瀬城址にご案内し、大賀蓮を 見て頂き ました。
「大賀ハスを語る」座談会
和歌山、徳島、 そして地元との交流 2013年
平成25年
平成26年
保存会パンフレット作製
2014年
平成二十六年十月 (三折り)を 作製 吉備大賀ハス保存会のパンフレット 大賀蓮の絵はがき を 作製
吉備大賀ハス保存会の活動を知ってもらうための三折りパンフレット
大賀蓮の絵はがきを作製
大賀一郎博士追憶譚|62
平成26-27年
岡山シティミュージアム講座
2014-15年
2000年前の古代ハスを開花させた世界的な植物学者 お
お
が
い ち ろ う
大賀 一郎 「二千年ハス」 発掘~開花まで
①古ハスへの想い (67才) 昭和25 (1950) 年夏
この年6月、千葉県滑川(1200年ハス)の発芽に成功するも枯死させた無
念から、再び古ハスの実を得たいと強く考えていた博士は、千葉市の東 大検見川厚生農場の泥炭地から草炭採掘(戦中・戦後)時に、丸木舟と共
にハスの果托が出たことを想起した。
②千葉県検見川厚生農場を訪ねる (67才) 昭和25 (1950) 年秋
早速、丸木舟出土の地をたずね、検見川厚生農場に行く。 この時、博士は 手持ちの僅か1万円を持って管理人の高野氏に発掘作業を依頼。氏は博 士の熱意に打たれ、地元新聞社、県、小中学校へ協力依頼に奔走し、県か
ら補助金6万円の調達にも成功した。
③発掘が始まる (67才) 昭和26年 (1951年) 3月3日
地元小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得て、 当初一週間 の予定で発掘開始。バケツで泥水を汲み出しながらの難作業だった。
④最初の一粒発見 昭和26年 (1951年) 3月30日
調査は困難をきわめ、翌日で打ち切りと決めた日の夕方5時、花園中学校 の西野真理子さんのフルイに一粒の実がかかった。後日(4月6日)、千葉県
の太田教育長(岡山出身)の見ている前でさらに2粒の実がフルイ出された。
⑤三つの実の発芽 (68才) 昭和26年 (1951年) 5月9日
大賀博士宅で3つの実を発芽させたが、 そのうち2つは枯死した。
⑥最初の開花 (69才) 昭和27年 (1952年) 7月18日
翌年、発芽した蓮を分根したが、そのうち千葉市の伊原茂氏宅の古い醤 油釡で育てたものが、 ついに大輪の花を咲かせた。
⑦大賀ハスの名称 (71才) 昭和29年 (1954年) 6月8日
千葉県の天然記念物に指定されたときに、 「大賀ハス」 の名称がついた。
大賀博士顕彰碑 (岡山市北区川入) 平成8年8月10日建立
大賀博士の絶えざる研究への熱意
博士の研究は、古代ハスの実からハス→ハスの糸→ハス糸の「まんだら」 →織物→糸→繊維一般へと発展していった。 また妙蓮(八重咲きで花の数が2~12個、花弁の数が2千~5千枚ある) と いう珍しい蓮が、 滋賀県の大日池に室町時代初期から咲き続けていたが、 明
治28年頃に枯れ絶えていた。 その妙蓮を昭和38年に再び開花復元させるな ど、 博士の研究への熱意は、 最後まで衰えることを知らなかった。 大賀一郎博士略年譜
「ハスは平和の象徴なり」
この標語を昭和38(1963)年の秋、 大賀ハスの実100粒と共に中国への 平和使節に托し、中国科学院院長の
明治16(1883)年 4月28日
岡山県賀陽郡川入村小西(現・岡山市)に、
12人弟妹の長男として生まれる。
明治34(1901)年 3月
18歳 岡山中学校(岡山朝日高等学校) を卒業する
明治35(1902)年 9月
19歳 郷里岡山を出て第一高等学校に入学。 (内村
が、チフスに罹り進学を一時断念。
鑑三と出会い生涯の師と仰ぐ) その後東京帝
国大学、同学士研究科(大学院相当)へ進み、 院では植物細胞学を専攻。
かくまつじゃく
明治43(1910)年 6月
27歳 第八高等学校(名古屋)の講師として赴任。翌
<個人蔵>
大正6(1917)年 2月
34歳 南満州鉄道の研究員として大連へ赴任。古ハ
郭沫若氏に贈った。 (大賀博士80才)
年に生物学教授となる。
スの実の研究に没頭。
大正12(1923)年 8月
40歳 欧米に留学、4年を過ごす。
昭和27(1952)年 7月18日 69歳 二千年ハスを開花させる。 このニュースは国 内外に報道され、同年11月17日付の米国ラ
イフ誌に掲載された。
昭和29(1954)年 6月8日 71歳 千葉県の天然記念物に指定され、 「大賀ハ ス」 となる。
昭和31(1956)年4月17日 73歳 池田厚子夫人によって 「大賀ハス」が、岡山後 楽園に御手植えされた。
昭和36(1961)年 11月3日 78歳 紫綬褒章を授与される。
昭和40(1965)年 4月29日 82歳 勲三等瑞宝章を授与される。 6月15日
午後9時15分 東大病院において歿する。
編集:吉備大賀ハス保存会
岡山シティミュージアム展示ポスター
岡西公民館にて 「大賀博士と二千年ハス」講座
63|大賀一郎博士追憶譚
平成二十六年六月七日 「第26回ミュージアム講座」 岡山シティミュージアムで 「大賀博士と古代ハスを 後世に伝える」講師:坂本宏子(吉備大賀ハス保存会会長) 平成二十七年六月九日 「大賀博士と二千年ハス」講座 講師:坂本宏子(吉備大賀ハス保存会会長) 岡山市立岡西公民館にて
岡山シティミュージアム講座
平成二十八年一月二一日 地元吉備小学校の総合学習で大賀博士と大賀蓮についてのお話し。 平成二十八年二月二十日 が、山陽新聞の 「お 地元の吉備中学校の生徒が製作した「大賀ハス新聞」 かやま新聞コンクール」 で 「郷土賞・岡山県市長会会長賞」を 受賞。
吉備小学校で総合学習
大賀ハス新聞 2016年
平成28年
大賀一郎博士追憶譚|64
平成28年
大賀ハス保存会会報発行
2016年
平成二十八年七月 大賀ハス保存会 会報発行
平成28年7月15日山陽新聞朝刊
65|大賀一郎博士追憶譚
地元の偉人を知ろう
大賀博士追憶展 …二千年前の古代ハスを開花させた世界的な植物学者
11月27日(日)
H28年
場所:吉備公民館 10:00~16:00
大賀一郎博士追憶譚|66
大賀博士追憶展
平成二十八年十一月二七日 大賀博士追憶展開催 吉備大賀ハス保存会では、大賀博士の没後50年 を 機に、吉備公民館で「大賀一郎博士追憶展」を 開催し ました。 コール黄薇の皆様による「朝 式典では、多くの関係者にご来場いただき 、阪本宏子会長のあいさつに続き 、 の光の中で」 の合唱や、吉備中学校の生徒さんによる「大賀ハス新聞」 の発表
開会・来賓紹介 コール黄薇のみなさんによるコーラス 「朝のひかりの中で…」 吉備中学校生徒による 「大賀ハス新聞」発表
式 典
67|大賀一郎博士追憶譚
講演「想いを受け継ぐ」 講師 阪本尚生 氏 和歌山大賀ハス保存会会長の阪本尚生氏は、大賀一郎博士に師事した阪本祐二氏のご 長男で、 現在、 和歌山で大賀ハスの保存育成活動を 続けられています。 生前の博士との思 い出や保存活動等の、興味深いお話を 聞かせていただき ました。
講 演
大賀一郎博士追憶譚|68
大賀博士追憶展
平成28年11月30日山陽新聞朝刊
展 示 69|大賀一郎博士追憶譚
額 色紙
切手など アルバム 蓮の香水など 封書・葉書 書籍 ミニ衝立
正義純愛 誠は天の道也
敷物新聞社元専務 封書7点、葉書9点 光は小西から
吉備小学校 蔵 吉備小学校 蔵 森安秀子様 蔵 脇本郁夫様 撮影 岡本泰典様 蔵 江田伸司様 蔵 黒川由美子様 寄贈 脇本元紀様 蔵
大賀博士直筆の資料
大賀一郎博士追憶譚|70
大賀博士追憶展
71|大賀一郎博士追憶譚
大賀藕絲館より 額縁 初心不可忘 科学論文集 色紙(額入) 色紙(巻物)
し
大賀藕絲館より
う
ぐ
写真5枚 藕絲織 香袋
社会福祉法人まちだ育成会東京都町田市
大賀一郎博士追憶譚|72
大賀博士追憶展
鷗友学園版「ここ を 掘ればハスの実が出る−大賀ハス由来−」 「ここ を 掘ればハスの実が出る」 についての阪本祐二宛手紙2枚
「これからだ 裸一貫 われは立つ」 大賀ハス発掘碑建立 会計報告書 賛助者ご芳名
大賀一郎異臭年記念会レジメ 「蓮の実」大賀蓮発見60年記念誌
記念手ぬぐい 蓮の実会宛て大賀博士の領収書
南原繁挽歌 「蓮ハ平和の象徴也」
大賀文庫目録 改訂版
阪本尚生様より 書籍 書籍 はがき 手ぬぐい
領収書 リーフレット 冊子
冊子
冊子
掛け軸
手紙
The Lotus Quest
大賀蓮世界に花開く 東京大学検見川総合運動場四十年誌
大賀ハス発掘碑除幕式での感謝のことば
スクラップブック 蓮の実会新聞記事等綴り スクラップブック 大賀博士随話 スクラップブック 大賀博士書簡 東京大学総合運動場内「ハス発見記念碑」 書籍
拓本 リーフレット
書籍
蓮の実会作製 蓮の実会作製 蓮の実会作製 蓮の実会 蓮の実会
蓮の実会
73|大賀一郎博士追憶譚
書籍
阪本尚生様より
うくるより与うるは幸福也
はちすば
蓮葉の にごりにしまぬ こころもて 何かは露を 玉とあざむく
大賀先生 二千年蓮
於 後楽園咲初観蓮会 写生による 尚裏に 大賀博士足型有り
於 後楽園鶴鳴館二千年蓮咲初の朝
大賀博士 足型
為 西岡創美君靴寄贈申出有り故 大賀先生大いに喜ばれたり
蓮の水彩画(色紙包み)
大賀博士直筆の色紙
吉備公民館 蔵
凡て人にせられんと おも う事は 人にもまた その如くせよ
みづからの 目あやしみし ありし日を かの国人も くりかえしおり
生命かけて 積みかさね来し この業や 人ごとならじ わがことならじ
蓮の水彩画(表面) 裏面
大賀一郎博士追憶譚|74
大賀博士追憶展
雄々しかれ 我すでに 世に勝てり
ありがたや めぐみめぐまれて 我者生く
偉大なり 欅並木は 天に満つ
75|大賀一郎博士追憶譚
むさし府中は ついにメッカと なりたるか
わがみより けやき並木の 下 く だる
願くは いのちながらへ 外国に わが日の本の 業示さばや
大賀博士直筆の色紙
目黒武彦様 蔵
瑞蓮入皇居 昭和三十八年五月二日
目黒武彦様 蔵 阪本尚生様 蔵
五十年 ほころび初めし 梅の花 甲午(昭和二十九年)初春
五十年 ほころびそめし 梅のはな 昭和乙未(三十年)仲秋
とほき国に わが花ひらき人々は おどろきの目 見はりてみたり 昭和乙未(三十年)仲秋
阪本尚生様、目黒武彦様、脇本元紀様および吉備公民館 蔵の掛け軸を一同に展示しました。
掛軸
脇本元紀様 蔵
脇本元紀様 蔵
脇本元紀様 蔵
和敬清寂 昭和三十二年仲秋
これからだ 裸一貫 われは立つ 昭和戊戌(三十三年)元旦
吉備公民館 蔵
大賀一郎博士追憶譚|76
大賀博士追憶展
みづからの 目あやしみし ありし日を かの国人も くりかえしおり 昭和乙未(三十年)仲秋
秋高佳風月 昭和乙未(三十年)仲秋
貧に勝ち 病に勝ち 老にかち 死にかつてこそ 生くる甲斐あり 昭和乙未(三十年)仲秋
巳牛未 申年(二十九年)正月元旦 訪 小西二友
みめくみは われにあまねし この秋は 吉備のふり家に 友と子と立つ 昭和二十八年十一月五日 小西の墓を 訪ひて
里を 出でて 六十二年をへたる今日 とものなさけに 一夜あかせし 昭和二十八年十一月詩句 小西にとまりて
77|大賀一郎博士追憶譚
脇本元紀様 蔵
脇本元紀様 蔵
脇本元紀様 蔵
脇本元紀様 蔵 脇本元紀様 蔵 脇本元紀様 蔵
吉備公民館 蔵
大賀一郎博士追憶譚|78
吉備公民館 蔵
79|大賀一郎博士追憶譚
千葉市立郷土博物館提供
大賀一郎博士追憶譚 平成29年(2017年)4月30日 発行 発行人 吉備大賀ハス保存会 (事務局:岡山市立吉備公民館内)
発行所 有限会社坪井技研 助成 吉備観光協会 ISBN978-4-9908867-3-8 C0004 Y1000E
大賀一郎博士追憶譚|80