路傍の文化財rev8

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陵南にある石碑を訪ねて・ 発 行 吉備まちづくり研究会 編集者 庭瀬かいわい案内人
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 2 –

私達は「庭瀬かいわい案内人」開設以来、多くの方から様々なことを学びました。知らない事柄も多くあり、 毎月勉強会を開いてお互いの知識の向上をめざしています。

これまで例会で取り上げた事をまとめ、案内の補助教材としたいと考え、今回は「碑文」としました。

神社を鳥居、手水鉢、社殿を備えたものとして数えると、この地域には20を超える社があります。

神社の内外にある記念碑は、戦争や水害の惨禍と復興の記録を直接知ることができ、手水鉢等の寄進者の名 前や年号からその時代の状況が想像できます。

手始めに17社の神社について調べ、碑文は次のものから読み取りました。

燈 籠 竿石と基台に名前、屋号、奉納年月日が刻まれている。

手水鉢 石は水を入れる最適な素材で、寄進者の名とその年代が刻まれている。

鳥 居 規模が大きく最も築造費が掛かり、多くは「講」等の共同体で建てている。

柱や笠木の底面(舟木)に建立年月日と寄進者の名前がある。

神社以外では

地神・水神・牛神など 道路や神社に建て土地や水の自然にお祈りをした。

いと思います。

平成22年11月に「吉備・陵南にある石碑を訪ねて=路傍の文化財」第1編、第2編を「戸川・板倉時代研 究会」の協力を得て発刊してから4年。未熟な我々なので調査不十分な点も多々あり、そのうえ3〜4年の短い 期間の内にも消滅・移転などがあり、改定の必要性が見られるようになりました。

この度「吉備まちづくり研究会」の協力を得、その後地域の皆様の協力を得て、会員が収集した情報を補填 した「改訂版」を発行することといたしました。

浅学未熟な我々、内容も不十分なものではありますが、皆様のお目にかけることにより、御指摘、御指導を頂 き、より内容の濃いものとできることを願い、刊行を決意しました。

再々版にあたって

初版から暦がひと巡りしました。その間、開発で撤去されたものもあれば、地元民の努力で移設・再建された

路傍の文化財

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記念碑 周辺地域の大きな出来事を記録した。 題目石 日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を刻んだもので当地には多く見られる。 無縫塔 僧の墓で卵塔ともいう。  この度の調査区域の中で調査未了部分があるので、追加調査を継続して行き、内容のある説明に役立てた
平成22年11月3日 再版にあたって
今後の御叱咤、御指導を心よりお願いいたします。 平成27乙未年10月
ものも多数あり、我々の関わったわずかな間の変化を見るにつけ、400年以上前から残り続けた石碑群にいっそ うの感慨を禁じ得ません。この度「吉備まちづくり研究会」のご協力を得て、追加調査、修正等を反映させ、より 内容を充実させた改訂版を発行することができました。関係各位に感謝申し上げます。 令和4壬寅年10月 庭瀬かいわい案内人(50音順) はじめに 会長 香田 清治 井上 靖子 上森 剛 太田 英子 曽我 博之 中島 悦夫 中村せつ子 俣野 堅 村岡 昭雄 脇本 三哢 和気 美紗子 荒木 功(故人) 高橋 浩郎(故人) (編集)坪井 慈朗

はじめに 3

案内地図 6 年表(石碑と時代背景) 12

弁財天、八幡宮、稲荷宮をお祀りしている社

稲荷宮、八幡宮、光明竜王をお祀りしている社 撫川4 23 106

太神宮 伊勢神宮の天照大神の分霊をお祀りしている社 庭瀬707 113 八幡神社(大坊) 庭瀬の日蓮宗信徒の神社 庭瀬8 66 118

妙見社 北極星を神とし、災難の除去、延命を祈願 平野3 75 122 薗﨑神社(延友) 大吉備 津彦命の重臣をお祀りしている社 延友 前場地内 125 稲荷神社(撫川) 撫川地域の人々が商売繁盛を願い祀った神 撫川16 6近隣 129

新宮社跡 吉備津 宮の摂社として、吉備武彦命を祀った社 川入1288近隣 131 八幡神社(大内田) 誉田別命他二柱の神をお祀りしている社 大内田557 135 花尻八幡宮 応神天 皇を祭神とし、建武年間に勧請した社 花尻57 141 白石八幡宮 石清水八幡宮を勧請した社 白石3 76 143 瀬戸稲荷神社 航行の安全を祈願した社 邸内7 76 146 天満宮(大内田) 十二ヶ郷用水の霊験あらたかな社 大内田 148

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 4 –目 次 名称 概要 所在地 庭瀬八幡神社・吉備護国神社 旧庭瀬 郷の総鎮守 川入1165 16 須佐之男神社 撫川、中撫川の日蓮宗信徒以外の神社 中撫川502 47 撫川八幡神社 撫川、中撫川の日蓮宗信徒の神社 中撫川5 51 57 天満天神社 菅原道真をお祀りしている社 西花尻 279 67 御﨑宮 大吉備 津彦命のお墓守護の社 西花尻129近 70 天神社 菅原道真をお祀りしている社 東花尻525 73 御崎神社 吉備津 神社の末社として創建 川入小西 78 三十番神社 日蓮宗が選んだ30柱の神々の社 川入146 81 若宮八幡宮 応神天 皇、須佐之男命をお祀りしている社 庭瀬 中田地内 85 荒神社 作物、火の神などをお祀りしている社 中撫川 中島地内 88 住吉神社 海の神・住吉大社の分社 中撫川 狭 川 91 清山神社 庭瀬藩主板倉家の藩祖をお祀りしている社 庭瀬8 28 96 弁財天
庭瀬8 27 103 三神社
【第一編】神社の石碑

川入(新宮参道)

川入(観音堂・前堂)

念仏石 川入( 大賀博士の墓地内)

納所

地水神 川入(三十番神社門前脇) 177 題目石 川入公民館隣 178

地神・牛神 中撫川田中邸隣 179

題目石 福井公民館南 180

地水両神 庭瀬(板東邸前) 181

題目石・無縫塔 中田公民館 182

三玉宮 中撫川(腰折様) 184

題目石 中撫川(三十番神) 188 題目石 中島公会 堂・荒神社の隣 190

題目石・地神・水神 大橋妙見宮・地蔵堂 191 地神・牛馬神 高田(青井氏宅前) 193

出雲様(撤去) 下東 194

題目石 下東 195 水神 吉備小学校南 196

牛神・火除神 栄町公民館脇 197 地神 庭瀬 200 観音堂 平野(観音堂町内) 201

題目石・無縫塔 平野(妙見社東法界様) 203 題目石 庭瀬駅西踏切南

路傍の文化財– 5 –名称 所在地 向庵大師堂跡 大内田 250 地神 福富公民館北 252 坂崎出羽守供養塔 白石 254 西向道標 西向 255 定杭道標 定杭 256 本町道標 庭瀬本町遊園地内 257 大橋道標 大橋中之町公民館前 258 狭川道標 住吉町内 259 下東道標 下東城之内公民館前 260 大内田道標 大内田 261 毘沙門天・道標 平野 262 延友国境石 久米(境目川沿い) 263 役行者碑 大内田天満宮近傍 265 大内田牛神 大内田天満宮近傍 265 中正院題目石 栄町 266 目 次 題目石について 151 【第二編】題目石等の石碑 名称 所在地 題目石 東花尻 おそっさま 153 牛神 東花尻 うしがみさま 155 記念碑 東花尻 157 題目石 東花尻 158 釣鐘 正法寺 160 題目石 西花尻本村の「地神さま」 161 題目石 西花尻奥谷の「ほうかいさま」 163 題目石 月心坊跡(西花尻下の池西の山中) 167 地水両神 八幡(新幹線側道北側) 168 地神 川入(東山参道脇) 169 念仏石
170 念仏石・道標
171
175 牛神・地神・常夜灯
176
205 題目石・水神 庭瀬駅 東踏切南西 206 題目石・石燈籠 庭瀬駅 東踏切南 207 地神・牛馬神 庭瀬駅 東踏切東 209 題目石・地水両神 延友公民館西側 211 題目石 大内田ふれあい広場内 212 題目石 関戸 213 常夜灯ほか 関戸 214 日車大明神 西向 216 地神・燈籠・手水鉢 定杭公民館 222 常夜灯 吉備公民館(旧西向) 224 常夜灯 大橋(大橋中之町公民館) 230 常夜灯 高田橋東堤 233 常夜灯 庭瀬(信城寺境内) 235 常夜灯 庭瀬港跡 237 常夜灯(撤去) 平野(観音堂町内) 239 修堤碑・忠魂碑 吉備西幼 稚園内 240 題目石・道標 花尻(半鐘場跡) 243 荒神様と千蔵坊阯 大内田 246 常夜灯 大内田 248 大蔵坊無量寺阯 大内田 249
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 6 –案内地図 庭瀬駅 川入 東山 西花尻 東花尻 花尻 花尻あかね町 花尻ききょう町 花尻みどり町 納所 西向 定杭 大内田 中撫川 庭瀬 高田 関戸 延友 白石 白石東新町 白石西新町 平野 u !1 !0 !2 !3 念仏石 地水両神 念仏石 御崎神社 念仏石!4牛神・地神・常夜灯 地神 y t q w re t o u i 題目石 %0 %6 題目石 題目石題目石 y 題目石 題目石 天神社 牛神 記念碑 釣鐘 御﨑宮 r 天満天神社 q !5 !6 !7!8 @0!9 @1 地水神 題目石 地神・牛神 題目石 題目石 地水両神 題目石 庭瀬八幡神社 吉備護国神社i w 三十番神社 須佐之男神社 e 撫川八幡神社 o若宮八幡宮 題目石・無縫塔 @2 @3 題目石 @4題目石・地神・水神 @5 地神・牛馬神 @6 題目石 出雲様 @7 水神 牛神・火除神@8@9 #0 地神・水神 #1 題目石 題目石題目石 常夜灯他 #4 #2 三玉宮 !0荒神社 !1住吉神社 !9 稲荷神社 !4三神社 !2 清山神社 !3 弁財天 !5太神宮 !6八幡神社 観音堂 #3 #5 #6 題目石・無縫塔 題石・水神 題目石・石燈籠 #7 地神・牛馬神 #9#8 $0 日車大明神 $1 地神 常夜灯 常夜灯 常夜灯 道標 常夜灯 修堤碑 常夜灯 常夜灯 $2 $3 $4 $5 $9 $6 $7 $8 題目石・地水両神 !7 妙見社 !8薗﨑神社 川入・納所地区 撫川・庭瀬地区 大内田地区 花尻地区 平野・延友地区 @0新宮社跡 @1 @5 八幡神社 天満宮 役行者碑 @2 花尻八幡宮 @3白石八幡宮 供養塔 荒神様と千蔵坊趾 向庵大師堂 大内田常夜灯 大蔵坊無量寺跡 @4瀬戸稲荷神社 %5地神 %1 %2 %3 %4 %7 道標 %8 ^8 道標 %9 道標 道標 ^0 ^1 道標^2 道標 ^3 ^6 地神^7 毘沙門天・道標 国境石 ^4 ^5 道標 道標
路傍の文化財– 7 –川入・納所地区へ 西花尻 東花尻 花尻 妙伝寺 東花尻公民館 花尻あかね町公園 花尻ききょう町公園 白石東新町公園 西花尻公民館 西花尻 ちびっ子広場 帝釈天 帝釈天正法寺 立成寺 花尻 花尻ききょう町 花尻みどり町 白石 白石東新町 白石西新町 花尻あかね町 q rew t u i y y t r 題目石 題目石題目石 題目石 題目石 天神社 牛神 記念碑 釣鐘 御﨑宮 天満天神社 %0 @2 題目石 道標 花尻八幡宮 %0 @2 題目石 道標 花尻八幡宮 %6 @3白石八幡宮 供養塔
川入 東山 納所 中撫川 庭瀬 納所公民館 東山公民館 小西村公民館 犬養木堂記念館 福井公民館 川入公民館 真如院 !1 !0 !2 !4!3 o !5 !6 !7!8 u q i w e @0念仏石 地水両神 念仏石 御崎神社 念仏石牛神・地神・常夜灯 地神 地水神 題目石 地神・牛神 題目石 庭瀬八幡神社 吉備護国神社 三十番神社 須佐之男神社 撫川八幡神社 新宮社跡 道標 撫川・庭瀬地区へ 花尻地区へ
路傍の文化財– 9 –詳細案内地図 撫川・庭瀬地区 西向 定杭 中撫川 庭瀬 庭瀬 高田 犬養木堂記念館 福井公民館 中田公民館 中国学園大学 吉備中学校 川入公民館 文 文 吉備小学校 吉備公民館 三十番神 高田公民館 大橋中之町 公民館 住吉公会堂 福富公民館 本町公民館 定杭公民館 観音院 信城寺 不変院 松林寺 西向自治会館 文 !5 !6 !8 !7 !9 @0 @1 %5 @2 @3 @4 @5 @6 @7 @8 %9 %8 %7 $1 $2 $3 $4 $5 $6 $7 i w e o !0 !1 !9 !4 !2 !3 !5 @4 !6 地水神 題目石 地神・牛神 題目石 地水両神 題目石 三十番神社 須佐之男神社 撫川八幡神社 若宮八幡宮 題目石・無縫塔 題目石 題目石・地神・水神 地神・牛馬神 題目石 出雲様 水神 三玉宮 地神 荒神社 住吉神社 稲荷神社 瀬戸稲荷神社 三神社 清山神社 弁財天 太神宮 八幡神社 日車大明神 地神 燈籠・手水鉢 常夜灯 常夜灯 常夜灯 常夜灯 常夜灯 平野地区へ 川入・納所地区へ 大内田地区へ 修堤碑 $9 道標 道標 道標
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 10 –定杭 大内田 撫川 関戸 %1 %3%2 荒神様と千蔵坊趾 %4 向庵大師堂 大内田常夜灯 大蔵坊無量寺趾 地神 @1 #8 #9 $0 題目石 題目石 常夜灯他 八幡神社 @5天満宮 撫川・庭瀬地区へ 役行者碑 大内田ちびっこ広場 ^8 地神 ^9
路傍の文化財– 11 –詳細案内地図 平野・延友地区 庭瀬駅 東花尻 撫川 庭瀬 庭瀬 関戸 延友 平野 平野 吉備中学校 陵南幼稚園 陵南コミュニティハウス 文 栄町公民館 長野公民館 延友公民館 不変院 @9 #0 #1 #4 #2 #3 #5 #6 #7 ^5 ^5 ^5 #9#8 $0 $8 !6 !7 !8 牛神・火除神 地神・水神 題目石 題目石題目石 常夜灯他 八幡神社 観音堂 題目石・無縫塔 題目石・水神 題目石・石燈籠 地神・牛馬神 常夜灯 題目石・地水両神 国境石 国境石 国境石 ^5 ^4 国境石 毘沙門天・道標 妙見社 薗﨑神社 花尻地区へ
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 12 –石碑と時代背景 庭瀬の出来事庭瀬藩 1699 1713 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 1602 1730 ⇒ ⇒ 6 年号 文禄 正保 慶安 寛文 延宝 貞享 承応 明暦 万治 享保 元文 寛保 延享 3 正徳 4 5 天和 元禄 10 文禄の役(秀吉の朝鮮出兵) 慶長の役 5 3 19 元 ⇒ 井上有景 永禄 元亀 2 9 三村家親 三村元親 ⇒ ⇒ 1627 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 1669 1674 1679 ⇒⇒ 代官所 1684 久世重之 代官所 松平信通 3代 安宣 4代 安風 1721 1692 1687 1677 1582 1575 西暦 3代 勝興 かつおき 昌信 2代 まさのぶ 板倉藩 初代 重高 しげたか 戸川藩 達安 初代 正安 2代 関ヶ原の合戦 題目石 無縫塔(卵塔) 地神(地水神を含む) 水神 牛神(牛馬神を含む) 記念碑 凡例 災害状況(吉備町誌 p118~) 成羽城主三村家親庭瀬城築城 秀吉備中高松城水攻め 備前備中大雨洪水「・・・平野村、延友村「床の上三尺四尺(水の)入らざるはなし」・・・」 旱害 「・夏ひでり、凡そ六十日ばかり照り続きたるゆえ、五穀実り悪しく 1559 1566 1592 1591 1600 1597 1715 1718 1719 1720 碑の種類 141637 天草島原の乱 5 21712 3 鳥居 石燈籠 手水鉢 碑文のある場所等々 天正 寛永 元和 慶長 宝永 寛延 5 4 5 1746 12 17 20 1729 1732 1735 3 三神社 弁財天 大神宮 須佐之男神社 おそっさま 東花尻うしがみさま 撫川八幡神社 1700 板倉重昌討死 庭瀬八幡神社 念仏碑(川入吉備津参道) 太神宮 川入公民館隣 弁財天 東花尻(おそっさま)題目石 本町常夜灯 薗﨑神社 記
路傍の文化財– 13 –石碑と時代背景 1806 宝暦 天明 寛政 享和 ⇒ 1785 1784 ⇒ ⇒1803 ⇒ 文化 天保 弘化 嘉永 安政 文久 慶応 明治 21865 4 1832 1848 1858 1869 版籍奉還 勝成 勝全 勝弘 大洪水 6~7月大干ばつ 大水 4代 11代 10代 9代 勝貞 8代 7代 勝資 6代 勝もと 5代 勝喜 かつやす 備前備中大雨洪水 備前備中大雨洪水 明和 天保の大飢饉(七年「五穀登らず八月に至りて飢饉ますます甚だしく・・) 天保の大飢饉(八年「窮迫の度合いますます加わり・・・) 天保の大飢饉(4年は冷害、6年気候不順、大火) 6~9月大洪水、大風雨、大水 7月 大風 5~7月大干害 (翌7年にかけて)6~7月大干ばつにみまわれる。 天明の大飢饉 3~8年にかけて 「・・・気候不順夏作秋作皆無庶民困窮す・・・」 元 6 10 13 1751 1756 1761 1763 1766 1769 1771 1777 1783 1786 1787 1788 1792 1793 1794 1796 1798 1799 1805 1808 1809 1810 1811 1813 1814 1815 2 5 6 7 8 10 11 12 2 3 5 6 7 10 13 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 2 3 1845 1846 3 4 5 6 7 1850 1851 1852 1853 1854 2 3 4 7 8 9 10 12 1855 1856 1857 1860 1875 1876 1877 0879 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 1843 1819 1820 1822 1823 1824 1827 1830 1801 1804 元 4 3 6 7 8 4 5 6 8 10 11 3 6 8 8 岡山大水 備中大風雨 文政 元 治 万 延 安永 かつすけ かつさだ 庭瀬八幡神社 若宮八幡宮 大神宮 西花尻本村 庭瀬八幡神社 瀬戸稲荷神社 弁財天 庭瀬八幡神社の狛犬 東花尻おそっさま 東踏切南 若宮八幡宮 大橋妙見宮、延友公民館 清山神社×3 庭瀬駅西踏切南側 庭瀬駅東踏切南 三十番神社 天満天神社 清山神社の狛犬 三神社、信城寺 川入御崎神社 西花尻本村 妙見宮東 中田公民館北側 川入公民館東、西踏切南 撫川城北側太鼓橋の架橋 妙見宮の鳥居 荒神社脇 下東 鳥居(荒神社)、石燈籠(納所76、栄町) 燈籠(三十番神社)、常夜灯(高田の堤防上) 住吉神社造営 新宮社 妙見宮、薗崎神社、大橋妙見宮、中田公民館 妙見社参道、手水鉢(御崎神社) 荒神社脇、牛神(中撫川514) 天神社 須佐之男神社の狛犬 新宮社参道の石燈籠(天金神社) 荒神社 住吉神社 妙見社 清山神社 41868 1871 観音堂通り 千手寺参道 題目石(福井公民館、中田公民館)、鳥居(大神宮) 手水鉢(新宮社)題目石(三十番神社脇) 三玉宮 中田公民館 大橋公民館 日車大明神 御崎神社 庭瀬の出来事庭瀬藩年号西暦碑の種類 碑文のある場所等々
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 14 –石碑と時代背景 明治 大正 昭和 平成 311956 58 8 1983 1996 太平洋戦争敗戦 忠魂碑(吉備西幼稚園) 三十番神社の石燈籠、薗崎神社の狛犬 頌徳碑(吉備護国神社) 忠魂碑(吉備護国神社) 天神社本堂改築寄付者 御﨑宮(西花尻)改築記念碑 岡山護国神社の従軍碑(犬養毅) 天満天神社の風致保存碑 薗﨑神社三百年記念碑 吉備地区戦没者追悼記念碑(岡山護国神社) 修堤碑、常夜灯(足守川堤防修理記念) 13 15 19 26 29 1880 1882 1886 1893 1896 37 38 41 43 44 45 1904 1905 1908 1910 1911 1912 8 10 11 12 4 5 9 16 20 1919 1921 1922 1923 1929 1930 1933 1941 1945 西花尻・奥谷 福井公民館 (荒神社 川入公民館 庭瀬の出来事庭瀬藩年号西暦碑の種類 碑文のある場所等々 記 記 記 記 記 記 記 記 記 記

神社の石碑

路傍の文化財– 15 –第一編 神社の石碑 【第一編】
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 16 –第一編 庭瀬八幡神社・吉備護国神社 庭瀬郷の総鎮守(北区川入1165) 1
路傍の文化財– 17 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 1.配置図 祭神 誉田別命(第15代応神天皇) 息長帯姫命(神功皇后) 玉依姫命 ほんだわけのみこと おきながたらしめのひめみこと たまよりひめのみこと  ~  玉垣ほか 鳥居 鳥居 1 石燈籠 2 寄進者の碑 (転倒中) (横転) 朱の鳥居 吉備護国神社参道 吉備護国神社 恵比寿神社 道通宮 稲荷神社子安神社 土塀修繕寄付者名 狛犬 歌碑・句碑 歌碑(不読) 句碑(土筆坊) 歌碑・句碑は、X の位置の土中に 埋め込まれた。深さGL-100cm 山林寄付者名 日露戦役従軍者 注連柱 玉垣 玉垣 吉備護国神社→ 3 石燈籠 5 石燈籠 0神鐘(鐘楼) 手水舎 戸川家寄進の手水鉢 延宝五年(1674) 九郎稲荷神社 定書 6 石燈籠 7 石燈籠 4 常夜燈  (板倉勝志家臣の寄進) 8 石燈籠  (3代藩主板倉勝興の寄進) 9 石燈籠 Å Å 玉垣 ´ 本殿基壇の銘板 ˝ Ô ˆ  Â Ò Ó 玉垣 Ï ı Ø Ø ˜ 玉垣Ç 玉垣Î 昭和40年代まであった土塀 倉庫 社務所拝殿 随神門 神門 幣殿 本殿 X ±0m -5m -9.9m -10m 1~0 常夜灯ほか

創建 860 延長2年 甲申 8月14日 同左 924 64 永延2年 戌子 7月27日 8月6日 987 63

寛徳2年 乙酉 5月12日 同左 1045 58 長治2年 乙酉 3月16日 同左 1105 60 承安4年 甲牛 8月15日 8月19日 1174 69 文永2年 乙丑 8月14日 同左 1265 91 応永11年 甲申 4月10日 4月15日 1404 139 文明6年 甲牛 2月10日 2月13日 1474 70 天文23年 甲寅 2月13日 2月15日 1554 80

甲戌 6月10日 6月14日 1634 80

辛巳 11月26日 11月28日 1761 127

祈願して難を除いたと伝えらている。中古から「厄徐八幡」と尊称し、遠近からの参詣者が多い。

旧庭瀬藩主板倉氏・戸川氏から祭祀費の寄進を受けていた。享保年中社殿改築のとき板倉氏が寄進した。

昭和11年から社殿の改築修理を起こし、同14年に完成した。明治39年神饌幣帛料供進神社に指定された。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 18 –第一編 庭瀬八幡神社 2.神社史 2008年4月の例会で配布された資料による由緒書きは次の通りです。 (戦前、戦後で記述の違いを比較) 鎮座地 川入八幡西1165番地 祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命 由緒 当社は貞観二年庚辰宇佐八幡宮を勧請して創建し、その後備中守藤原宗弘、藤原良之に命じて祖神天児屋根命を合祀せしめ 同年良之をし神主に任ず。天慶五年(942)壬寅三月十五日伊勢代神をも合祀せる由伝う。 明治十三年四月前祀掌中尾喜代丸の上書に祭神品陀和気命天照大神天児屋根命とある。 其の後の造営の沿革を記せるに 主祭神 応神天皇 神功皇后 玉依姫命  例祭 10月17日 境内地 989.7坪 主要建物 本殿 幣殿 釣殿 拝殿 斎殿 絵馬殿 摂末社 稲荷神社 恵比寿神社 祖霊社 道通宮 若宮八幡神社 氏子数 300人 崇敬者 300人 由緒改革 若宮八幡神社、祖霊社とも移転してこの境内に無い。記録の訂正前に発行されたのだろう。 改修(上棟) 正遷宮 西暦 前回工事からの年数 貞観2年 庚辰 8月14日
寛永11年
宝暦11年
(本文の年代のみ抜粋略記) かのえたつ ほんだわけのみことあめのこやねのみこと 資料1(太平洋戦争以前に編纂)出展不詳 資料2(太平洋戦争以後に編纂)出展不詳 村社 この部分追記 八幡神社 旧村社 岡山市川入1165 八幡神社 庭瀬八幡神社の神社史 社職沿革を記せる件に  貞観二年藤原良令奉職以来累代奉仕せしが良令之二十一代の孫良三病死の折から(承応年間)庭瀬藩主戸川氏日蓮宗帰依に よりて庭瀬村不変院を以って当社の別当職として良三の三男平太を宮守とす。その後維新の改正によりて明治三年四月平太夫の孫中 野清麿を当社の祀掌に補せらる。庭瀬藩主戸川家板倉家において、累代崇敬せし神社なり。 永宝五年正月二品良尚親王染筆社号「八幡宮」の額(縦2尺 横1尺3寸5分 装いに八幡宮の文字)一面社蔵せり。 境内坪数 727坪 氏子数 453戸 創建は仁徳天皇の御代である。備中誌及び吉備津神社旧誌によると、仁徳天皇の御宇勅命によって、吉備津神社の末社として創建せら れた。 和気清麻呂公が宇佐に下向の際、山陽道で道鏡の一味が追跡してきたのを、神吏の猪数十頭が追っ払ったという故事によって、世人は 厄除守護の神として崇敬した。古代には神社前は海であったので、貿易船等が神社前を航行するとき、座礁したり、難破したときに、神前に
路傍の文化財– 19 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 3.戸川安風奉納の手水鉢 手水舎 戸川安風奉納の手水鉢 1670 580 手洗鉢 国富源右衛門戸川新右衛門戸川重左衛門 平右衛門 岡 五郎左衛門 岡 辰之助 延寶五年 丁 巳歳 八月吉日 施 主 戸川家四代藩主安風は、延宝7年(1679)に江戸屋敷で死去、享年9歳。これにより庭瀬藩は断絶となった。 おなじ延宝5(1677)年正月に良尚親王の筆になる社号「八幡宮」の額も奉納され社寶となっている。 鳥居の額束の文字がその書体である。 寛文九年(1669)の侍帳から 役回りと石高 名 前 役回り 石高 備  考 戸川 又左衛門 家老 950石 戸川 源兵衛 家老 500石+120石預かり 国富 源右衛門 物頭 550石 戸川 新右衛門 物頭 300石 戸川 重左衛門 江戸家老 300石 角南 平兵衛 弓組 300石 岡  五郎左衛門 馬廻り 250石 岡  辰之助 馬廻り 250石 家老 5名 物頭 2名 弓組 1名 馬廻り 15名 手水舎
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 20 –第一編 庭瀬八幡神社 4.常夜灯 庭瀬家中 奉寄進 天明三年十一月十五日 昭和三年八月 昭和三年八月 高橋始之郎 高橋始之郎 玉島町上成 一金弐百円 秋田秀穂 昭和七年三月 玉島町上成 一金弐百円 秋田秀穂 昭和七年三月 左側面 正面 南面 東面西面 南側 南側 右側面 2560 1100 250 260 2180 天明三年(1783)三代勝興の終わりに奉納されたもの。 秋田秀穂 寄進の碑 ※秋田秀穂 株で財をなし、戦後は海産物問屋を経営した庭瀬出身の篤信家。  昭和十三年の本殿造営工事には多額の資金を個人で寄進し(予算2万3千円の内1万円を寄附した)、また 昭和三十四年、太平洋戦争で供出された神鐘の改鋳では市内では最高額の寄進をするなど郷土に尽くした。  現在の鐘は平成2年に鋳込まれた戦後2代目の物である。 寄進者 高橋始之郎はいかなる人かは分からない。 ①鳥居脇の石燈籠 天明三年(庭瀬家中 寄進) ② 寄進者の碑 ③ 昭和の燈籠 (転倒中) 常夜灯
路傍の文化財– 21 –第一編 神社の石碑 石段(上段)両脇 ④常夜燈(藩内有力者の寄進) この基台に左の銘がある。 明和三年丙戊=1766年 西側の常夜燈 東側の常夜燈 明和三年丙戊 常夜燈 奉寄進 右願主 永代為油料河入村内宮下田壱反六畝高弐石五斗平野村内新道 奉寄進永代為油料河入村内宮下田壱反六畝高弐石五斗平野村内新道 畑壱畝弐拾  五歩高壱斗八升   以上発起世話人永井彦次郎 野崎太平次近藤義兵次永井安之助佐藤孫次郎吉田孫兵衛難波源次郎難波長兵衛 近藤此右衛門野崎 傳兵衛 住野 平蔵林  助七平松 弥八郎田地世話人佐藤 助衛門高畠 多 七井上 新兵衛安井 藤三郎武南 紋兵衛 氏子中秋九月吉日建之 神門脇の常夜灯 この燈籠は明和3年(1766)四代藩主板倉勝志 の時、氏子の有力者が寄進したもの。 常夜燈の寄進は石燈籠とその光源用の菜種油を 採集するための田畑を同時に寄進している。 田地は川入村宮下の1反6畝(≒1600㎡)、石高2 石5斗6升と畑地は平野村新道の一畝25歩(≒ 181㎡)、石高1斗8升4合を併せて寄進した。 南面 南面 西面 西面台座(北面) 東面 2,470 庭瀬八幡神社 4.常夜灯
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 22 –第一編 庭瀬八幡神社 4.常夜灯 風呂屋口  風呂屋口  享保二一丙辰暦 奉寄附正月吉祥日 享保二一丙辰暦正月吉祥日 當社日参講中 當社日参講中 十月吉日 十月吉日 氏子中 氏子中 北面 西面 南面 拝殿前東側 拝殿前西側 北面 西面 南面 ⑤⑥⑦ 拝殿前広場の石燈籠 ⑤ ⑦ ⑥ 奉寄附奉寄附 享保五庚子歳 享保五庚子歳 年代:享保二十一年丙辰暦(1736)三代庭瀬藩主 板倉勝興の時代 寄進者:當社 日参講中 特徴:竿の中ほどが破断し補修してある。 年代:享保五庚子歳(1720)二代庭瀬藩主 板倉昌信の時代 寄進者:風呂屋口氏子中 特徴:素材石は豊島石(角礫質凝灰岩) 加工は容易だが風化し易い。破損部補修あり。北側に少し傾いている。(要補修) 氏子が講で奉納した燈籠。 ⑤⑦の燈籠は風化し、基礎も傾き転倒寸前である。 ⑦の本殿右側設置の燈籠は転倒し、部材は分散している。 竿は鐘楼前の踏石になっている。 石材が豊島石である理由は何か?(加工性のよさだけか?) 年代:不明(記載無し)享保年間のものと同様に見える。 寄進者:東平野村中 特徴:石は豊島石(角礫質凝灰岩) 土中に埋もれているため、文字のある竿の表面は損傷していない。 (一対の両方とも転倒)天保年間より前の時代のものと思われる。 奉寄附 東平野村中 奉燈東平野村中 世話人多兵衛 世話人多兵衛 惣左エ門市良左エ門 惣左エ門市良左エ門 ⑦
路傍の文化財– 23 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 4. 常夜灯 正面 西側 納 奉 平面図 左側面 拝殿西側 拝殿東側 右側面 庭瀬板倉家三代藩主勝興が奉納したもの。 勝興が藩主になって20年目、この地に初めて赴いた時の物である。 五代藩主勝喜が創建した清山神社の石燈籠に比べ優雅さはないが重厚で力強い。 寶暦元年未歳 十二月吉日 石灯籠 従五位下板倉摂津守 源勝興 宝暦元年=1751 2,560 1,100 1,100 ⑧ 拝殿前 板倉勝興奉納の石燈籠
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 24 –第一編 庭瀬八幡神社 4. 常夜灯 年代:不明 寄進者:□ 六左衛門 特徴:やや古風な形態である。 天保の改修以前に作られた物ではないか。 本殿両脇に設置 北面 西面 南面 ⑨ 本殿両脇の石燈籠 本殿西側 本殿東側
路傍の文化財– 25 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 5.鐘楼 ●初代神鐘 創建から明治10年代 日蓮宗不変院が八幡神社の別当職を務めていたので題目が鋳込んでいた。            神仏習合 鋳造年月日不明 ●初代修正 明治10年代から昭和18年頃 明治2 年の明治政府令により題目を削除した。           神仏分離 昭和18年頃 太平洋戦争の戦時供出により砲弾となって消えた。 ●2代目 昭和34年から平成2年まで 戦後の再鋳造 ●3代目 平成2年から現在 寄進者は明記されていない 撞木 ※寄附金の多くは米国移民の人々によった。 神鐘の変遷 神 鐘 昭和三四己亥年十月秋大祭吉辰日 再鋳奉懸奉賛会 八幡神社平和の鐘 冶工三和梵鐘鋳造所 氏子崇敬者除災諸願成就五穀豊穣商売繁盛 平和の鐘 平成二年五月再鋳奉懸冶工京都市岩澤の梵鐘株式会社 厄除八幡神社氏子崇敬者除災諸願成就 五穀豊穣 商売繁盛 寄進者金参萬五千円 鈴木鉄野 同 同 鈴木松造 金壱萬参千円 岡山市 秋田秀穂 金壱萬円 国富こみか 同 東京都 秋田貞夫 同 倉敷市 佐野嘉内 同 吉備町 平松禎三郎 同 同 脇本猪三男 同 同 渡辺清次 ① ① ④ ④ ② ② ③ ③ 八幡神社平和の鐘 氏子崇敬者除災諸願成就 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 神鐘(鐘楼)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 26 –第一編 庭瀬八幡神社 玉垣ほか 手水舎ラインの玉垣 石段(下段) 本殿基壇銘板 土塀基礎の銘 石段(下段) A F G IK D B C H JL E
路傍の文化財– 27 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 6.玉垣 忠治郎藤三郎 多五郎文 八喜治郎辛右エ門 音兵衛岩治郎松 蔵新 吉文太郎平之浜中松屋 善兵衛 山藤屋 喜 助 □□□平八郎 才五治忠五郎藤 蔵 髙畠修二沖増次岩田宗平 香川嘉保國富一太 有松霊峰牧千太郎 社掌 佐野祷吾 氏子總代□□□髙橋忠三郎御松寅太郎 多五郎文 八喜治郎辛右エ門 音兵衛岩治郎松 蔵新 吉文太郎平之浜中松屋 善兵衛山藤屋 喜 助□□□平八郎 昭和年間改修天保二年築造 階段{33段(下段)+30段(上段)} 南面西側 2,360 6,170 6,300 奉寄進 忠治郎藤三郎 奉寄進 福智庄次郎 奉寄進 奉寄進 才五治忠五郎藤 蔵 奉寄進 → N 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 随神門 手水舎ラインの玉垣(南面西側)A 玉垣の種類と大きさ 親柱 270mm角×1,500mm高さ 中柱 180mm角× 700mm高さ 子柱 130mm角× 700mm高さ 使用材:万成産御影石 No. 2〜10の柱は創建時のものではなく、後年取り替えた。 A B の子柱の彫りは他に比べて浅く線が細い。 創建時のものとは異なる。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 28 –第一編 ← 10,960 10,972 濱田屋 曾 平 濱田屋 竹三郎 中野屋 豊 助 中野屋 半 六 中野屋 富五郎 都 屋 仁兵衛 今保屋 彦兵衛 松 屋 笹 平 木掘屋 熊 蔵 川野屋 久右エ門 岡 屋 助左エ門 宝満丸 嘉五郎 中 屋 荘 八 高松屋 信三郎 松 屋 治 八 森 屋 理兵衛 今 屋 幸兵衛 平野屋 松三郎 平松屋 増三郎 早島屋中田屋 糸 庭瀬屋 助八郎 岩 屋 久 吉 永野屋 作四郎 丸 屋 文五郎 加名屋 永 蔵 中 屋 理兵衛花尻屋 仙 吉田 町 又兵衛 同  氏子中今治屋 長右エ門 田 町 藤兵衛 同  代五郎今保屋 金 蔵中村屋 幸 吉 天保二年辛卯 福智屋庄次郎 奉寄進 福智屋 庄次郎 福地屋 重兵衛 濱田屋 治三郎加津女熊之助 本嶋屋 七良兵衛 今保屋 修 助 備前屋 卯 七 柾 屋 捨 吉 周匠屋 仙右エ門 中 屋 吟 蔵 岩見屋 長五郎 上仁屋 貞四郎辰之歳男酉之歳女申之歳男 福知屋 宇兵衛同 人 福智屋 幸次郎高畑多七郎 新 八治 八理 吉 岡田屋 新三郎 奉寄進 奉寄進 庭瀬町 世話人 N 東面 随神門 庭瀬八幡神社 6.玉垣 手水舎ラインの玉垣(南面東側)B 柱No. 112〜114 「きびのさと」に記録が無いが、現在ある銘。 柱No. 138〜140 「きびのさと」にある名前。現在は無銘。 127は無い。(きびのさと)
路傍の文化財– 29 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社  6.玉垣 随神門 神門 東平野村 N 中田村 平野村 中田村 太田傳四郎 同 惣右エ門 同 今村屋 同 久米蔵 同 (または新助) 同同 久四郎 同 吉田多平 同 吉治郎 同 音右衛門四郎兵衛 同 長五郎 同同 庄治郎 同 近藤倭佐エ門 同 常右エ門 同 佐右エ門 同同 直治郎 東平野村 同金右衛門 卯年女 亥歳男 同人取次 卯年女 申年女 同 六治郎 同 七右エ門 同同同 忠治郎浅右衛門 同 金次郎 同 佐太夫 同 長五郎 同同 金太夫 同 長三郎 同 五郎吉馬之助久兵衛 同 傳治郎久米吉 同 奉寄進 ■太田傳四郎と始(元)四郎  北面上段の再建委員太田傳四郎の娘婿が始四郎である。(基壇H-2 には元四郎とある)元四郎の妻八千代は一子宋次郎をあげたが、母子と も先没し、後妻として会津藩の国老であった手代木勝任(後に岡山区長 《現在の市長》となった)の長女元枝を娶った。その二男が収である。  収は山一証券(株)の社長となったが、昭和13年に会社経営に失敗し 欠損を生じた。その責任をとり服毒自殺した。収は母方の会津気質を受け て大の負けず嫌いの性格で、祖父勝任に似て眼光鋭く、意志強固、明敏 細緻な性格であったという。(きびのさとNo.26から)  勝任の弟佐々木只三郎は、近江屋事件の首謀者といわれている。 近江屋事件:京都の醤油屋近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が殺害された事件。 会津藩士 只三郎 手代木 香川県高松市在住 京都見廻組々頭 坂本龍馬、中岡慎太郎を殺害した寺田屋事件の首謀者 山一証券(株)社長(株)清水組技師長 佐々木 只三郎源四郎 元四郎 (始) 傳四郎 登美子 八千代 登茂江 収 稔 直 石段東側(下段)の銘C
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 30 –第一編 庭瀬八幡神社 6.玉垣 随神門 天保二年辛卯仲秋 発起人 中田村目代 金右エ門 庭瀬町組頭 貞四郎 北面 西面 勘定奉行 郡奉行 郡代 代官 大庄屋 庄屋 組頭 百姓代 五人組 目代 年寄 東面 藩役人 村役人 伊兵衛 同 久 平 田丸屋 多兵衛 同 安左エ門 同 田丸屋 吉左エ門 長野屋 勘治郎 同同 竹太郎紋 吉森川氏 同 又 六定 八 同 甚 七 同 長 七元右エ門 同 源治郎 同 川野屋 為 治 同 喜四郎 太田屋 孫太郎 同 平治郎 同 藤四郎宇 吉 中田村 長左衛門 金右衛門 久兵衛八左衛門 中田村吉井屋同 岩津屋 甚右エ門 七兵衛 弓削屋 同 中村屋 清 吉 玉井屋 久四郎 同 民 蔵 同 坂田屋 長五郎 尾上屋 理 吉 同 備前屋 宗 八 内田屋 金 蔵安太郎 同 国 蔵熊治郎 同 茂太郎岩治郎 同 松野屋 民治郎 同 小野屋 金 平 花尻屋 仲 蔵 同 金次郎 同 今津屋 宇三郎 松 屋 仁右エ門 同 内田屋 冨 吉 同 長 蔵岩 蔵 同 嘉兵衛 同 冨 八 奉寄進 奉寄進 随神門 神門 東平野村 N 中田村 平野村 中田村 石段東側(上段)の銘D
路傍の文化財– 31 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社  6.玉垣 随神門 北面 随神門 神門 東平野村 N 中田村 平野村 中田村 同 弥四郎岩太郎観音堂 同同 山口屋 同 中田屋 吉五郎 同 吉田屋 儀右エ門 同 治右エ門 同 庄 助 善 蔵 同 金十郎 同 治 助蔵 同 新 蔵 同 弥五郎弥 助 同 幸太郎 市 蔵 同 蔵 同 音 吉 梅 吉 同 音五郎 新 屋 喜四郎 今村屋 八太夫 西村忠右エ門 永松屋 八右エ門 風呂屋口 熊代氏 原 氏 同 音兵衛久米太 同 兼太郎 庄兵衛 同 鍛冶屋 藤兵衛 同 北国府屋 久米治 同 勘治郎 蔵 同 喜兵衛 同 稲葉屋 音 吉 甚 蔵 金五郎 同 松兵衛 同 見吉屋 吉兵衛 同 新五郎 岩田屋 助 同 熊治郎 吉 同 長五郎 同 代 豊久繁 久 理 奉寄進 奉寄進 天保二年辛卯仲秋 石段西側(上段)の銘E
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 32 –第一編 庭瀬八幡神社  6.玉垣 南面 随神門 神門 東平野村 N 中田村 平野村 中田村 奉寄進 奉寄進 野崎熊太郎平野村 周左エ門 同 官 治助三郎 同 平野屋 三治郎萬 蔵 同 新左エ門 同 仙 松吉 平 同 与兵衛金 蔵 同 沖分庄屋 四郎七 同 伊兵衛源五郎 同 市太郎亀 吉 同 兼 吉 同 仙太郎弥四郎 同 吉 蔵甚 八 同 伊三郎 同 栄 吉源 吉 同 久 助弥三郎 同 宗三郎 同 兵 吉源 蔵 同 源四郎 同 野崎助四郎 同 大黒屋 喜三郎林 蔵 同同 仲 蔵光 蔵 同 嘉四郎與四郎 同 久治郎 同 三河屋 松三郎文 蔵 同 平野屋 紋 六 同 杢右エ門弥  吉與左エ門 同 福山屋 嘉 蔵 濱 屋 清 七 同 蔦 屋 萬治郎 同 文 吉 加納屋 吟 蔵 同 光 屋 音 七 花 屋 忠 蔵 同 喜多屋 理兵衛吉兵衛 同 源治郎 同 左 吉和 七定 吉 同 熊 蔵 同 備中屋 傳 吉喜 八 忠治郎藤三郎 石段西側(下段)の銘F
路傍の文化財– 33 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 7.本殿再建に伴う寄進者名簿 基壇上部(西面) 本殿 幣殿 基壇上部(東面) 基壇上部(北面) 北面 金六圓 佐藤興右エ門 同五圓 太田牧太郎 同五圓 千原増右エ門 同五圓 太田 孫市 天保二 辛卯歳 永井彦治良 松田宗右衛門 御本殿扛起 并修繕佐野祷吾犬養 薫有松霊峰牧千太郎 総代并建築委員 髙橋忠五郎 香川嘉保御船重太郎 髙畠修二沖 増次岩田宗平國富一太 昭和十二年 五月吉日 脇本 愛敬髙畠多三郎太田傳四郎井上光五郎  奉寄進 金廿五圓 神田地利巻 金 六十銭  氏子中 金三十九圓   氏子中 金廿五圓 髙畠金三郎 槻一本 髙木廣三郎 金拾圓 髙橋 梅吉 同五圓 吉田愛三郎 同五圓 髙橋 忠七 同五圓 林 桟次郎 同五圓 金谷長十郎 同五圓 熊代徳三郎 同五圓 大森留二郎 金廿五圓 氏子中 金拾圓 兼安延次郎 同五圓 深井槙三郎 同五圓 牧野 長造 同五圓 佐木 常吉 同五圓 桐野 紋吉 岡山市内田町 故中田村 庭瀬旧邸内故庭瀬町 金七圓  氏子中 同五圓 栗田 常吉 金三圓  氏子中 同拾圓 沖 嘉三郎 同六圓 沖 虎太郎 同五圓 沖 涌五郎 同五圓 沖 岩次郎 同五圓 沖 亀三郎 同四圓  氏子中 同六圓 國富 若松 同五圓 國富藤三郎 同五圓 國富 文吉 同五圓 國富 関造 金拾三圓  氏子中 金拾六圓  氏子中 同六圓 國富 新蔵 同三圓 國富源次郎 同五圓 國富 音造 金六圓  氏子中 同廿五圓 太田元四郎 同拾五圓 太田宗一郎 同拾五圓 深井金三郎 故風呂屋口故長野故片宿故両観音堂故西平野故東平野 三十銭七十銭七十銭 四十五銭五十銭 四十銭三十銭 明治十二 己 十一月吉旦 人起発建再 ˆ Ô ˝ Ó-1 Ó-3 Ó-2 Ó-2 Ó-1Ó-3 天保2年(1831) 中田村 目代 金右衛門 庭瀬町 組頭 貞四郎 明治12年(1879) 賀陽郡庭瀬村 戸長 脇本 愛慶 髙畠多四郎 賀陽郡平野村 戸長 太田傳四郎 井上光五郎 昭和12年(1937) 髙橋 忠五郎 香川 嘉保 御船 重太郎 髙畠 修二 沖  増次 岩田 宗平 國富 一太 世話人、発起人の変遷 ※戸長=明治5年4月、太政官布告によりそれまでの庄屋,名主、年寄りを「戸長」に任命した。 H I H H -1 -2 -3 基壇下部 本殿基壇の銘板G H I J
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 34 –第一編 庭瀬八幡神社 8.土塀修繕神額所建築工事寄附人名録 土塀北面 側溝 寄附人名録 神田池利 一金拾八圓 故庭瀬町氏子中 一金四拾圓 髙畠多七郎 一金弐拾圓 髙木廣三郎 一金 八圓 高橋伊三郎 一金 七圓 吉田愛三郎 一金 五圓 髙橋長七郎 一 同 小郷槇太郎 一金 四圓 坂井 通之 一 同 林 新之助 一金三圓五十銭 馬場支店 一 同 西野常治郎 一 同 矢吹 修正 一 同 藤田熊太郎 一金 弐圓 林 頼之助 一 同 岩月久太郎 一 同 永原 藤浩 一金十四圓 旧邸内氏子中 御本社 土塀總修繕神饌所建築 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録K K 土塀は神社建築には異質な構築物であると思う。 勧請元の石清水八幡宮には、荘重な土塀があるとか。この八幡神社の土塀は、こ れを模したと思われる。 この碑には、明治33年に土塀と神饌所を540円余(現在の1,500万円程度)か けて修繕したとある。 漆喰塗りの土塀は、石造りの玉垣に比べ、建設費、維持費ともに負担が大きい。 およそ20年前に塗り替えられた正面の白い塀とは対照的に、左奥の土塀は崩壊寸 前である。 明治25年度の賀陽郡庭瀬村の予算総額は2,191円で、そのうち助役給料が66円 とある。540円は当時の村の年間予算の25%に当たる。 -1
路傍の文化財– 35 –第一編 神社の石碑 一金 五圓 横溝貞吉 金三円五十銭 渡邊要次郞 一金 貳圓 目黒亀二郎 一金六十四圓 故中田氏子中 一金 五圓 牧野 長造 一金 四圓 佐々木ゆう 一金 三圓 牧野 友吉 一 同 角田犬之助 一 同 桐野 紋七 一金貳円廿銭 御船萬吉 一金貳圓 伊丹 杢次 一 同 深井峰太郎 一 同 柴岡 六吉 一 同 田中菊 一 同 岸本亀太郎 一 同 松尾 馬吉 一金六円十銭 故風呂屋口氏子中 一金 貳圓 小池熊太郎 一 同 平松喜三郎 一 同 大熊 勘七 一 同 木村 五平 金三円五十銭 故片宿氏子中 一金 四圓 國富 万吉 一金 三圓 國富 □吉 一 同 國富 若松 一金貳圓 國富八十四郎 一金廿一圓 故西観音堂氏子中 一金三圓 木本 惣吉 一金貳圓 和気萬壽太 一 同 太田 利助 一 同 井上元五郎 一 金六円八十銭 故長野氏子中 一金拾円 沖 喜三郎 一金五円 沖 惣平 一 同 沖 寅太郎 一 同 安井萬亀次 一金四圓 安井常次郎 一 同 沖 岩次郎 一 同 林 重造 一 同 沖 篤次郎 一金貳圓 安井興四郎 一金拾四圓 故西平野氏子中 一金五圓 國富源治郎 一 同 國富寅三郎 一金三圓 関 儀三郞 一 同 太田茂太郎 一 同 大森三次郎 一金貳圓 太田三五郎 一 同 太田 鶴平 一 同 小野 伸造 一金 五圓 横溝貞吉 金三円五十銭 渡邊要次郞 一金 貳圓 目黒亀二郎 一金六十四圓 故中田氏子中 一金 五圓 牧野 長造 一金 四圓 佐々木ゆう 一金 三圓 牧野 友吉 一 同 角田犬之助 一 同 桐野 紋七 一金貳円廿銭 御船萬吉 一金貳圓 伊丹 杢次 一 同 深井峰太郎 一 同 柴岡 六吉 一 同 田中菊 一 同 岸本亀太郎 一 同 松尾 馬吉 一金六円十銭 故風呂屋口氏子中 一金 貳圓 小池熊太郎 一 同 平松喜三郎 一 同 大熊 勘七 一 同 木村 五平 金三円五十銭 故片宿氏子中 一金 四圓 國富 万吉 一金 三圓 國富 吉 一 同 國富 若松 一金貳圓 國富八十四郎 一金廿一圓 故西観音堂氏子中 一金三圓 木本 惣吉 一金貳圓 和気萬壽太 同 太田 利助 同 井上元五郎 金六円八十銭 故長野氏子中 一金拾円 沖 喜三郎 一金五円 沖 惣平 一 同 沖 寅太郎 一 同 安井萬亀次□ 一金四圓 安井常次郎 一 同 沖 岩次郎 一 同 林 重造 一 同 沖 篤次郎 一金貳圓 安井興四郎 一金拾四圓 故西平野氏子中 一金五圓 國富源治郎 一 同 國富寅三郎 一金三圓 関 儀三郞 一 同 太田茂太郎 一 同 大森三次郎 一金貳圓 太田三五郎 一 同 太田 鶴平 一 同 小野 伸造 土塀西面 庭瀬八幡神社 8.土塀修繕神額所建築工事寄附人名録 「太田始四郎」は、全寄附金額の一割近くを一人で負担している。 その財力は何か? 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録K K K K K K -1 -2 -2 -3 -3
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 36 –第一編 山林寄贈者名 一金拾圓 東平野氏子中 一金四拾圓 太田始四郎 一金廿八拾圓太田宗一郎 一金五圓 太田孫市 一金三圓 佐藤 勝一 一金貳圓 大森 重吉 一 同 太田曾之七 一 同 澤田猪真治 一 同 太田利三郎 一 同 太田松次郎 一 同  國富 忠吉     社掌一金七圓 佐野 祷吾     神子一金七圓 浅野 来  氏子総代 太田始四郎 髙畠多七郎太田宗一郎     世話方連名 故本町 髙木久太郎三宅 要造髙橋伊三郎吉田愛三郎 旧邸内 八代 来町田理喜治目黒亀三郎横溝 貞吉 八幡山山林寄贈者一、壱反五畝 佐藤勝一  一、壱反一、五畝一、五畝一、五畝 沖 宗春 一、五畝一、貳畝十八歩 國富源 一、貳畝 西平野氏子中 一、貳畝 太田鉄五郎 一、貳畝一、貳畝 太田三治郎 一、貳畝 太田鵜三郎 一、貳畝 木村栄太郎 大正四年四月 世話人 國富源三郎平松喜三郎 故中田 森 巳之助佐藤 近造長野 友吉伊丹 杢次 故風呂屋口 森安辰次郎小池熊太郎平松喜三郎 故片宿 國富 若松 故観音堂 野﨑 傳七木本千代吉井上光五郎 故長野 安井興四郎沖 寅太郎 故西平野 野上 金吉野﨑 増吉國富源治郎 故東平野 太田 孫市阿部 六造吉田安治郎  明治三十三年旧八月 故本町 髙橋長太郎 故平野 太田三次郎 八幡山山林寄贈者一、壱反五畝 佐藤勝一 一、壱反一、五畝一、五畝一、五畝 沖 宗春 一、五畝一、貳畝十八歩 國富源 一、貳畝 西平野氏子中 一、貳畝 太田鉄五郎 一、貳畝一、貳畝 太田三治郎 一、貳畝 太田鵜三郎 一、貳畝 木村栄太郎 大正四年四月 世話人 國富源三郎平松喜三郎 一金拾圓 東平野氏子中 一金四拾圓 太田始四郎 一金廿八拾圓太田宗一郎 一金五圓 太田孫市 一金三圓 佐藤 勝一 一金貳圓 大森 重吉 一 同 太田曾之七 一 同 澤田猪真治 一 同 太田利三郎 一 同 太田松次郎 一 同  國富 忠吉     社掌一金七圓 佐野 祷吾     神子一金七圓 浅野 来  氏子総代 太田始四郎 髙畠多七郎太田宗一郎     世話方連名 故本町 髙木久太郎三宅 要造髙橋伊三郎吉田愛三郎 旧邸内 八代 来町田理喜治目黒亀三郎横溝 貞吉 故中田 森 巳之助佐藤 近造長野 友吉伊丹 杢次 故風呂屋口 森安辰次郎小池熊太郎平松喜三郎 故片宿 國富 若松 故観音堂 野﨑 傳七木本千代吉井上光五郎 故長野 安井興四郎沖 寅太郎 故西平野 野上 金吉野﨑 増吉國富源治郎 故東平野 太田 孫市阿部 六造吉田安治郎 明治三十三年旧八月 故本町 髙橋長太郎 故平野 太田三次郎 土塀西面 庭瀬八幡神社 8.土塀修繕神額所建築工事寄附人名録・山林寄贈者 土塀總修繕 神饌所建築 工事寄附人名録 八幡山 山林寄贈者 K L L L 1. 住所の中で、故本町の「故」とは何の意味か? 2. 旧邸内の「旧」の意味は? K K K K K -6 -6 -5 -5 -4 K-4
路傍の文化財– 37 –第一編 神社の石碑 和歌の文字が読めない。 宮司のお話しによれば、その昔、 碑の建っている周辺は公園だ ったとのこと。 「神の御座所であるこの八幡 山の紅葉は美しく…」と感じられ る雰囲気がある。 詠み人 不明 建てた人 不明 設置年 不明 文字読めず 詠み人 上田土筆坊 建てた人 ホトトギス同人有志 設置年 昭和50年10月吉日 放生会 陰暦8月15日に行われる儀式で 仏教の不殺生の思想に基づいて とらえた生き物を山野に放つ。 歌碑・句碑は、平成25年12月、建物の下の土中に埋め込まれた。 歌碑 句碑 歌碑 句碑 国富公園 神□まに八幡の□□ 花もみじ う□□□□ 句ひ□りけり 土筆坊 松風の 梢をわたる 放生会 庭瀬八幡神社 9.歌碑・句碑 10. 絵はがき 昭和12年発行の絵はがき 歌碑・句碑M
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 38 –第一編 吽形(随神) 阿形(随神) 御○○者 世話方 兼安長五郎 町町□ 享保20年(1735) 文政05年(1822) 元治元年(1864) 「 隨神門の座像」の銘 随神壱組再興 文政五 壬 午年再興 享保廿 乙 卯年初發 年再興 壬 午文政五 元治元 甲 子再三興 惣氏子中惣氏子中近藤了融野崎浄悦 野崎為三郎 太田徳蔵脇本小平太野崎今左衛門大供通之筋 同弟子正兵衛如泉小笹屋治兵衛如雲佛師小笹屋治兵衛作 元治元 甲 子四月吉日年 庭瀬八幡神社 11.随神門像  随神とは「神の意のまま」、平安時代以降、貴族の外出時に警護のた めに随従した近衛府の官人。神道では門守神、寺院の仁王門に同じ。 この隋神像は享保20年(1735)に新設された。87年後の文政5年 (1822)に近藤了融が二度目の像を設置し、その45年後、元治元年 (1864)に氏子が総出で新像を設置した。 (左)文政5年(1822)、再建した時の像の胎内に納められていた札。元 治元年(1864)四月九日、再々興して小笹屋治兵衛が納入した。 納入したのは 小笹屋治兵衛如雲・弟子の正兵衛如泉である。 仏師・京都今出川寺町西入 人見平七。 (右)明治31年(1898)、前回に続き三度目の修理をした。 随神門 神門 文政05年(1822) 元治元年(1864) 明治30年(1897) 座像の「胎内納め札」 銀□商人見平七正時小笹屋治兵衛如雲 ※いずれも阿形(左側)に収納されていた。 表 再参工 岡山市桶屋町佐々木長十郎方 岡野豊造 同市上出石町 岩井繁吉 戊十月吉日 表 随神尊再興之 ヲ 文政五 壬 午年再興 ヲ 元治元暦 甲 子年四月九日 大供通之筋 小笹屋治兵衛作 正兵衛如泉 同弟子 京都今出川寺町西入 家内安全家運長久 明治三拾壱年 家内安全裏 裏 85×197mm 104×184mm 随神門座像N
路傍の文化財– 39 –第一編 神社の石碑 庭瀬八幡神社 12.棟札 1金壱萬圓寄附 秋田秀穂 發起願主  工事請負者 在京城 浅口郡黒崎村 浅口郡黒崎村小原 英田郡巨勢村 屋根師井上信義 基礎工事者 屋根工事者 石工長 工事設計者 平松要次郎 赤木武夫増田猪之七 吉田鹿一 藤沢芳政中塚良和岡部蔵夫 犬養 菫有松霊峰牧千太郎佐野嘉内 賛助員 犬養嘉一板谷俊治林 十造西本清人西野常次郎 堀家愛兄堀家愛子沖 彌五郎 岡崎観是脇本千珂良渡辺要次郎 片岡才五郎 壁村寛重片岡義賢笠石隆秀横山観清吉田貞雄 吉田杢次高橋福次郎 高木博太高木章次高畠実太郎竹村鉄之助 田熊規矩男 田中久代難波源吉難波謙治難波壽子村木宗左衛門 熊代榮五郎 熊代武平黒澤玄善八代眞喜治山上初次郎 矢吹景秀 矢吹孝秀安井半次郎 安井 熊山下利幸増田猪之七 秋田龍観 赤木武夫赤木是観有松シカノ 坂井磊介桐野初次郎 桐野信義 木村芳一郎三宅保次郎平松要次郎 森安繁太森安伊之吉 森安金八 守屋護一杉藤淳慶 小宮山直造 西高次郎 井上秀太郎井上直一浅田 一山本角造山本 武濱田定衛小林継次 向所利逸小野勝三中原博之岡部國太郎 林 武夫見村宣之助 三澤義雄 高橋忠五郎御船重太郎 高畠修二沖 増次 岩田宗平香川嘉保 国富一太 目黒信夫沖 忠夫 井上鵜三郎井上幸次郎 伊丹幸吉林 十造林 勝次郎 西村岩次郎千原清左衛門 太田三次郎太田千代造 沖 忠夫吉田啓治 吉田佐之助吉田鹿一竹村鉄之助坪井重太郎 中桐三次植松傳八 圓富岩次郎国富嘉野吉 栗田孫市安井半次郎 安井猪八松田榮太郎 深井和三郎 遠藤賢吾赤木武夫浅野亦七青山彌左衛門坂井磊介 目黒信夫水船宇次郎 柴岡六吉平松要次郎人見良一守屋譲一 関 福次郎 氏子総代建築委員 會計係 世話人 監督者 桑原可寛 工匠長 岩根要一 副工匠長 眞田昌美 昭和十一年十二月十四日上棟祭執行 發起願主 秋田秀穂 旧庭瀬藩主子爵板倉家金壹封御寄附 請負者 在京城 浅口郡黒崎村 英田郡巨勢村 屋根師 基礎工事者屋根工事者 石工長 工事設計者 平松要次郎 赤木武夫増田猪之七 吉田鹿一 三澤義雄藤沢芳政中塚良和岡部蔵夫 犬養 菫有松霊峰牧千太郎佐野嘉内 賛助員 犬養嘉一板谷俊治林 十造西本清人西野常次郎 堀家愛兄堀家愛子沖 彌五郎 岡崎観是脇本千珂良渡辺要次郎 片岡才五郎 壁村寛重片岡義賢笠石隆秀横山観清吉田貞雄 吉田杢次高橋福次郎 高木博太高木章次高畠実太郎竹村鉄之助 田熊規矩男 田中久代難波源吉難波謙治難波壽子村木宗左衛門 熊代榮五郎 熊代武平黒澤玄善八代眞喜次山上初次郎 矢吹景秀 矢吹孝秀安井半次郎 安井 熊山下利幸増田猪之七 秋田龍観 赤木是観赤木武夫有松シカノ 坂井磊介桐野初次郎 桐野信義 木村芳一郎三宅保次郎平松要次郎 森安繁太森安伊之吉 森安金八 守屋護一杉藤淳慶 小宮山直造西高次郎 井上秀太郎井上直一浅田 一山本角造山本 武濱田定衛小林継次 向所利逸小野勝三中原博之岡部國太郎 林 武夫見村宣之助 高橋忠五郎御船重太郎 高畠修二沖 増次 岩田宗平香川嘉保 国富一太 目黒信夫沖 忠夫 井上鵜三郎井上幸次郎 伊丹幸吉林 十造林 勝次郎 西村岩次郎千原清左衛門 太田三次郎太田千代造 沖 忠夫吉田啓治 吉田鹿一竹村鉄之助坪井重太郎 中桐三次植松傳八圓富岩次郎 吉田佐之助国富嘉野吉 栗田孫市安井半次郎 安井猪八松田榮太郎 深井和三郎 遠藤賢吾赤木武夫浅野亦七青山彌左衛門坂井磊介 目黒信夫水船宇次郎 柴岡六吉平松要次郎人見良一守屋譲一 関 福次郎 氏子総代建築委員 會計係 世話人 監督者 桑原可寛 工匠長 岩根要一 副工匠長 眞田昌美 どちらも高さ190cm×幅27cm 本殿の棟札は二枚製作され右側が掲出されていた。 最初に秋田秀穂の寄進のもとに始めたが後に板倉家の寄付があり、作り直したと思われる。 現在は別の棟札が収められている。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 40 –第一編 庭瀬八幡神社 11.狛犬 狛犬O 西面 南面 南面 北面 平成九年十二月吉日 天保十 己 亥 年八月吉日 氏子中氏子中 755 760 1000 760 970 970
路傍の文化財– 41 –第一編 神社の石碑 吉備護国神社 御祭神 吉備町関係戦没者の英霊  終戦により公祭慰霊の不可を憂い、吉備町関係の国家公共に尽くして死没せられた霊を慰めようとして、八幡神社境内 神社祖霊社を昭和21年に設立して慰霊の祭典をしていた。  昭和21年10月21日、祖霊社を吉備護国神社と改称し独立神社とした。そして遺族を氏子として現在に至っている。昭和46 年3月25日承認された。  御影大日尊の鳥居 松林寺太神宮(庭瀬707)から移設したもの。(詳細は117頁) 岡山市北区西花尻1108(庭瀬八幡神社の隣) 山陽新幹線 八幡神社 吉備護国神社忠魂碑 戦没者追悼記念碑 従軍碑 手水鉢 鳥居 九郎稲荷神社 日露戦争没従軍者 注連柱 頌徳碑 (岡山県神社庁の資料による)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 42 –第一編 吉備護国神社 日露戦没従軍者 注連柱 関福次郎太田庫太林 猪平□□□治和気春治 草野 英行 町 金谷弥三郎坂井 保夫中山萬治郎國富 新助 杉本 甚吉平松富次郎風早吉三郎田中才次郎吉田英三郎 風呂屋口 □□ 歳男赤松 三吉森谷竹治郎國富清三郎平松為太郎 佐野 祷吾 当社世話人 國富源治郎國富 若松 明治三十九年四月穀旦健之國富 萬吉國富岩太郎平松正治郎深井峰太郎 昭和十三年六月吉日 昭和十三年□健之 栄町氏子中 者起發 明治三十七八年日露戦没従軍者 北面 奉獻 氏子中 南面 奉獻 氏子中 南面 穀旦=吉日 明治37年(1904)甲辰 手水鉢奉納 1600 1700 1800 1900 2000 日露戦争 戸川藩板倉藩 石灯籠① 石灯籠② 石灯籠 日露戦争没従軍者 注連柱 日露戦争  明治37(1904)年2月10日〜明治38(1905)年9月日露戦争に出征した氏子20名 の兵士をたたえた記念碑と思われる。  明治44年建立の日露戦争「從軍碑」には、出征した吉備郡庭瀬町の若者につい て「⋯ 而戦死傷死病死及蒙重創者各二人 ⋯ 蒙賞者凡一百五人 ⋯」とあり、町 内の若者111人が出征し、その内の20名が八幡神社の氏子だった。
路傍の文化財– 43 –第一編 神社の石碑 吉備護国神社 忠魂碑 都窪郡吉備町戰没者芳名 岡﨑松太郎大西 梅藏脇本 鹿造武南 嘉吉髙塚辰五郎難波改三郎永井 庄八中山浚三郎増田□左衛門前田市五郎遠藤 静大江口 武一阿部孫一郎斉藤勘四郎森安民次郎 昭和三十一年十月 吉備町軍友会 犬養健 敬書 忠魂碑 犬飼 金藏石原 信一西山 信夫岡﨑  冠小野 秀男大塚清□藏田中常太郎髙嶋 清志中桐 照雄難波 康次野上 歳一草野 俊則楠田金太郎楠田 甚一安井  斉山口 英一松本 □一松本 玉男小山 文造遠藤 壽之青井 □吉浅沼 種敏浅沼  正桐野 隆昌光畑 正志光畑 典治平井 忠治平井 茂男森安 始衛栗坂 利市中村 宗典澤田 保一松下  茂阿部 兼市 忠魂碑芳名 裏面 北清日清日露戰支那事変 犬飼 達志岩田 定雄犬飼  甫犬飼 康男犬飼孝太郎犬飼  博犬飼  誠池下 正直板野 四郎板野杢三郎井上 孟郎池上 一美池田  曻石田  勉石田  寛林  新作林  虎一林  貞一波勢 武敏二宮 正二西川 浪治 堀  芳雄冨山 公一奥原  茂太田 正六太田 静雄太田亀太郎小田  茂太田 禎一岡﨑 忠志大守 直義岡﨑  弘岡﨑 清男岡﨑 時雄岡﨑 定夫岡田  毅大原 敏雄太田 源一太田 繁男小野  逸太田 孝雄太田  清太田 愛治太田吾作夫大賀  昊脇本  務脇本  稔片岡 正史加治 博之川上 貞男糟谷 義傳金平伊三男亀山 經正兼松 真一吉田  博横溝貞太郎吉田 信行髙木 元市田中 文夫髙木  貢髙木  稔平  信孝多田 敏男髙橋善太郎髙塚  堅曽我  粋袖岡 三雄坪井 一夫坪井 米造次田  愈坪井  昇坪井 鉄志難波郁之助永井 正吾中桐 強兵難波 太郎難波馬佐男難波 茂夫中山 亀雄難波 力男難波 猛男難波 健二難波 朏忠難波 進吾難波 静夫中尾 三三中尾弥喜三中川 義末難波  勇宇野 芳夫宇野  直内田 正志内田 章男宇野 秋男 宇野  勇内田 弥一野上 満男野上 栄一國富 三郎熊代  要草野 英正熊代浅次郎熊代 清己楠田 太郎山﨑 康夫安い 重郎安井  弘山西 数雄安井 顯正安井喜代八安井  右安井  武安井熊太郎矢尾 常夫矢吹 嘉男山根 岩男八木 忠吉安田 賢次九川正一郎牧野 輝治松本長太郎増田 邦夫増田  彰前原  忠前原五爲男松永 敏雄丸川 政一真鍋 順三深い 順一國府 愛一上坂舜一郎上坂 鷹志小山  勇小山 金栄公森 靖治江尻 益太荒木 郁生赤松 辰夫阿部 光雄阿部 國光阿部 重平 七五三一 荒木  隆荒木  徹荒木  修荒木 唯男荒木 忠司浅沼 正志浅沼 寛市浅沼 正明浅沼  均浅沼 作治浅沼 喜一佐藤 近司澤田 房太佐藤 軍一佐藤 健二佐藤 裕治木村 隼雄桐野  實木村静太郎三宅 精市宮本 信二光畑 静夫光畑 史朗 平松 一行光畑  稔白神 定章柴田 一夫平松 己章平松 勘次平松 義昌平川 敏己平松 哲夫平松 春夫森  達男森 昌士郎森  繁雄森 千鹿志森  勝昌森  幹春森安  楙森安 繁美森安 克太森安 因彦森安 常信森安 正秀森安 三歳森安  潔森安 次郎森安 岩男森安 正樹森安 一爾森安 時男森代 四郎森谷 義一菅野 正照鈴山  明鈴山 亟党吉田 義夫水谷 定男大月 初太道久 正一髙畑 正幸中島 美二中西 役一竹内  淨木山 昌三小田 茂信中島  豊瀧川 柏治平井 輝夫三宅 信義中村 武史大月 嘉市宮  清一杉山  繁藤本 末夫坪井 種次守谷  章守谷  茂数田 知正原  弘文髙嶋 松男猪俣 守一西本 清七難波 昌孝小林  晋三浦謹一郎上原 正一冨山  宏鈴山 忠夫難波壽恵夫太田 輝一西村  仁犬飼 敏雄岡田 延一髙橋 義一澤田 凖二脇本  操 東亜戰 英霊:大東亜戦争における吉備町戦没者の慰霊顕彰 高さ約10m・コンクリート造。「忠魂碑」の文字は元法務大臣犬養健の筆。下部に日清戦争以来各戦役に従軍し忠烈悲愴な戦 死をした勇士の氏名を銅板に刻み列記している。もと吉備小学校内にあったものを、校舎建て替えに伴い移転した。 忠魂碑
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 44 –第一編 吉備護国神社 戦没者追悼記念碑 英霊:大東亜戦争における吉備地区戦没者197柱の慰霊顕彰 戦没者追悼記念碑は、終戦50周年(平成八年三月)の追悼式の際にこの場所に建立された。 平成八年三月 吉備軍友会 難波 鹿夫難波千代吉岡崎 光治岡崎  威難波 清一高原 武一岡崎登美夫岡崎  操桐野 鹿造難波  毅岡崎金次郎大森恵美夫冨岡 賀一向崎 義夫中桐 都善吉田  清太田 良三野崎 勝嘉友光  正小坂 秀夫小田 収蔵安井 梅夫永井 勇二国富 欣一太田 正雄横畑 昌訓枝松 輝二西山 公博安井 正明岸  一二野崎  武浅沼 政一冨山卓志郎種村 邦雄太田素太郎林  杆一安井 昂三安井  隆西 喜久次沖 弥太郎上坂  進宗津 重男林   登森安 璋次岩田 博之 目黒 三男杉原 義男太田 頼王岸部 喜助熊代 末吉香川 正三野上  勇大月 正光西本 清久大沢 有一荒木 克己寺坂 大助吉田  弘熊代 栄一風早 栄吉高木 正夫岡本 孝雄小橋  完犬飼 虎雄肩山賢二郎則武 春清高木 彦吉増田  勉脇本  勇脇本  堅根岩 浅猪脇本 鉄男根岩  実脇本  要大賀 敏明森  實真山根 太郎脇本 一郎増田幸四郎片岡 義賢森安 六郎中村  苗森安 義治森安 芳正森安 始男宮本 継男森安  覚大賀 繁男大賀 一夫熊代 房男 大西 芳雄内田 秀夫熊代  寛吉井 直樹久山 憲一難波 将春片岡善太郎大西 武夫太田 正二熊代  明中田 唯志中谷 尚史難波 照彦中野 保治山口 義夫松永 末治栗原 隆治荒木  勝内田 円一荒木 梅治中村知恵男難波 三郎三宅 克甫中野 文男桑原 勇男松本 一正次田 克己曽我 三郎曽我 四郎坪井 喜一次田  司黒岡 義夫平川 良一難波 欣一大江 康雄荒木 定夫荒木  豊吉田  勝荒木 亮郎柴田 義雄荒木 潤身荒木 正司荒木 行幸江国  篤三宅 孝之 池上 正志太田 正美中野 熊雄安藤  豊大原 廉平中野 光平太田  毅森   清太田 庄一小野 亀鶴俣野 清志森   醇太田 里志太田 孝平岡本弥寿夫太田 佳晴岡本耕一郎太田  昇岩崎 照雄山瀬 喜禄浅沼志津男浅沼  明平松 一二浅沼 悦郎沢田 悦治光畑 薫次犬飼多三郎堀 新十郎坪井 卓弥大森  勢林  金一中川 清一長谷川謹一平松小三郎光畑 伍一光畑 勝男坪井 秋男中尾一太郎鈴山 一男中野 為一中尾 庄七鈴山善太郎 戦没者追悼記念碑 裏面 吉備地区戦没者 追悼記念碑 平成八年三月 橋本龍太郎
路傍の文化財– 45 –第一編 神社の石碑 甲辰乙巳之役岡山縣吉備郡庭瀬町壮丁属第五師団従 征露国而戦死傷死病死及豪重創者各二人其陀従軍矢 死夷険一節凱旋録功蒙賞者凡一百五人鳴呼諸子同長 胥議建碑以図不 来請予銘予嘉其用心之敦也乃為之 日露戦役戦没者 陸軍主計監正五位 草野 英行 勲三等功三級陸軍歩兵曹長勲七等功七級 深井政太郎 仝   軍曹勲七等 中山萬治郎 仝  仝 仝 國富 新助 仝  伍長勲 七等功七級 森 治右衛門 仝  仝  勲八等 本多 有眞三 仝  上等兵勲七等功七級 根岩興右衛門 仝  仝  勲七等 水島 千代次 仝  仝  仝 安井 辰三郎 仝  仝  仝 高木 繁四郎 仝  仝  勲八等 坂井 保夫 仝  仝 野﨑 官治 仝  一等卒勲七等功七級 國富 嘉之吉 仝  仝  勲七等 林  竹蔵 仝  仝  仝 守谷 竹次郎 仝  仝  勲八等 熊代 金吉 仝  仝  仝 板野 留吉 仝  仝  仝 野﨑源四郎 仝  仝  仝 関本 宇八 仝  仝  仝 高木 労太郎 仝  仝 佐藤 長七 陸軍二等看護長勲七等功七級 野﨑 二郎 陸軍二等靴工長勲七等 難波連太郎 陸軍騎兵一等卒勲七等 桐野 鹿造 仝  仝   勲八等 関 福太郎 陸軍砲兵軍曹勲七等功七級 太田 久七 仝  上等兵勲七等 吉田榮三郎 仝  仝  仝 平松要次郞 仝  仝  勲八等 和氣 春治 仝  仝  仝 有松武太郎 仝  一等卒勲七等 小橋孫左衛門 仝  仝 板野岩吉 仝  仝  勲八等 難波初三郎 仝  仝 大西 要造 仝  仝 熊代六三郎 仝  仝 林 猪平 仝  仝 永井伊三郎 仝  仝 田口 喜作 仝 森 恒太郎 二等卒 牧野 勝治    仝 眞野鹿次郎 仝 井上小四郎 仝 難波 仙造 仝  仝 森安 新八 仝  仝 犬養興四郎 陸軍砲兵軍助卒勲八等 熊代兵太夫 仝      仝 國富岩次郎 仝      仝 大西伊三郎 仝 安井玄之助 仝 吉田三之助 陸軍歩兵一等卒勲八等 森 初太郎 陸軍工兵軍曹卒勲七等 桐野清次郎 仝   上等兵 間野 寅吉 仝   一等卒勲八等 加治緊太郎 仝   仝  仝 森安春三郎 陸軍輜重輸卒勲七等 永井竹三郎 仝     仝 佐藤 三郎 仝     仝 大西又三郎 仝     仝 風早吉三郎 仝     勲八等 難波 粂次 仝     仝 丸川虎次郎 仝     仝 久保伊勢七 仝     仝 平松爲太郎 仝     仝 森 勝次郎 仝     仝 槌田 滝三 仝 勲八等 吉田 杢治 仝 仝 三宅 芳樹 仝 仝 太田 登一 仝 仝 飯塚實太郎 仝 仝 犬養兵次郎 仝 仝 高木常右衛門 仝 仝 大西 久吉 仝 仝 森安勘次郎 仝 仝 森安廣太郎 仝 仝 森安鳳太郎 仝 糟谷喜五郎 仝 本 音助 仝 吉井 関造 仝 松□ 淺松 仝 野﨑初二郎 仝 石川 一 仝 秋山 一太 海軍一等兵曹勲七等 森安龍三郎 太田菅太郎 謹書  石工 木村榮次郎 仝  勲八等 熊代 末松 仝 仝 岡﨑猪太郎 仝 仝 岡﨑喜一太 仝 仝 高木 庄吉 仝 仝 大森善次郎 仝 仝 永井森三郎 仝 仝 赤松 三吉 仝 仝 金谷弥三郎 仝 仝 平松冨次郎 仝 仝 磯島 清吉 仝 仝 久保田安五郎 仝 仝 太田 庫太 仝 仝 渡邊 巌 二等卒勲六等 小島 馨 仝 仝 高塚 善吉 仝 仝 國富清三郎 仝 仝 西村 新造 仝 仝 杉本 甚吉岡﨑善十郎赤木喜六郎脇本 榮治田中□次郎 故陸軍歩兵上等兵勲七等 武南 嘉吉 仝 仝 勲八等功七級 岡﨑松太郎 仝 仝 仝一 仝  高塚辰五郎 仝 仝 仝  仝 阿部孫一郎 仝 仝 仝 永井 庄八 仝 一等卒勲七等 中山俊三郎 北清事変戦役者 故陸軍歩兵上等兵従八位 脇本 鹿造 故陸軍砲兵輸卒 増田興左衛門 日清役戦役者 故陸軍歩兵一等卒 難波改三郎 仝   仝 森安民次郎 故陸軍砲兵一等卒 大西 梅造 碑軍從 裏面 吉備護国神社 戦役従軍者 從軍碑 英霊:日清・日露・北清戦役等戦歿者の慰霊顕彰 同 従軍者の顕彰 高さ3200×幅1350mm 撰文:犬養 毅 謹書:太田菅太郎 石刻:木村榮次郎 日露戦争の戦没者慰霊のため 明治44年4月吉備小学校(当 時庭瀬尋常高等小学校)に建碑。 裏面に日露戦没者6名 北清事変戦没者2名 日清役戦没者3名 及び日露戦従軍105名を列記 (きびのさとNo.47より) 吉備小学校の増改築に伴い、護 国神社に移転された。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 46 –第一編 吉備護国神社 頌徳碑 頌徳碑  凶弾に斃れた駐在所勤務の巡査を顕彰した碑。 故眞野辨作君ハ赤磐郡高陽村ニ生レ此ノ地吉備町 巡査駐在所ニ在勤シ忠實勤勉民衆ノ敬慕深ク 終始銃後治安ニ任シ範ヲ埀示セシカ偶々昭和 十五年五月八日未明部内永井竹次郎方ヲ襲フ 兇漢ト闘ヒ銃彈ニ殪ル壮烈哉官ハ巡査部長トシテ功勞 章ヲ賜フ嗟君ノ生涯四十九赤誠輝ク功績ハ千古 皇紀二千六百一年二月八日ニ傅ヘ皇国ノ鎮護タルヘシ  倉敷警察署長地方警視従七位勲七等 光岡義當撰              石材寄付者 福島明治 頌徳碑 裏面 900 700 頌徳碑 1900920 1360 奥行470 390 2000
路傍の文化財– 47 –第一編 神社の石碑 須佐之男神社 撫川、中撫川の日蓮宗信徒以外の神社(中撫川502) 2
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 48 –第一編 須佐之男神社 神社のいわれ 須佐之男神社のいわれ 境内の碑文からこの氏子士出或の当時の状況を考えてみた。 地元の方のお話では、主に真言宗の信徒がお参りをした。 例祭など神社の行事は下社(八幡神社)と全て同日に行われる。 同程度の社を並立させていたのは領主戸川氏の政策だろう。 (岡山県神社庁の資料による) 旧社格 村社 鎮座地 岡山市北区中撫川502 氏子地域 中撫川、撫川 ■由緒  往昔、吉備中山に大吉備津彦命鎮座後、十握剣を宝物として彼の社に納めた。寛喜年中(1229〜1232)に彼の社が回禄の 際、御剣を此の地に遷して奉斎した。御剣を彼の社に奉遷後、御剣の縁に依って須佐之男命天照大御神を跡地に祭った。後、 須佐之男神・櫛稲田姫・大穴牟遅神を祭って上社とした。  寛永年中(1624〜1644)社号を疫神社とし明治2年現在の社名とした。社殿は寛永6年(1629)、元禄3年(1690)9月、天保6年 (1835)8月に夫々再興している。昭和31年8月、本殿炎上。同54年6月に本殿を改築した。 ■御祭神 建速須佐之男命

この神社の特徴は、特定の権力者の氏神ではなく、領主的存在者 と住民の協力によって、祀られた神様であると考えられることです。したがっ てはじめから地域の神様であったことです。

創建以来「疫神社」と呼ばれていましたが、明治2年の神仏分 離令により「須佐之男神社」に改称されました。

中撫川遺跡の発掘調査から考えられることは次のとおりです。

1. この当時(13世紀)すでにこの地方は発展しており、領主的 勢力者があり、神社創建の知識と資力を持っていたと考えられる。

2. この当時都への貢物を納品しており、京都との交流があり、八 坂神社の分身を受けることが容易であったと考えられる。

3. 吉備津神社の火災から年月を経ているが、当時は何れの神社 仏閣も長い年月を要し、建立再建をした。

4. 真言宗と須佐之男神社

時代は撫川知行所初代領主戸川達冨(みちとみ)の治世で、こ

宗の宗徒の神社として神事をつかさどった。

れ以外の宗派の対立は容易には解決せず「真言と法華」の関係 は継続している。二つの神社があることは不合理なので一体化の努 力はなされている。たとえば祭礼の同一日時実施、釣鐘の同時再鋳、 社号記念碑の同時建立など融合の努力は続けられている。

5. 創建の時代

境内参道の中ほどに「享保三年(1715)に奉納された燈籠二 基と手水鉢があり、おそらくこの時期に建立されたのであろう。鳥居に は銘が刻まれていないが同時代のものと思われる。

【額束に「明治十六年癸未年二月吉日難波政則三男壬牛之年」 の記録がある。神仏分離令により今までの「疫神社」から「須佐 之男神社」に改め掲額したものである。】

拝殿の入口上部に「明治十五年(1882)壬午本宮、幣殿、 拝殿新造営)の奉納額があり、創建以来160年以上経過している。 したがって、それ以降少なくとも一度は改築していると考えられる。

昭和三十一年(1956)八月に本殿を焼失した。現在の本殿は 昭和五十六年(1981)六月に改築された鉄筋コンクリート製の建物 である。本殿周囲の玉垣も焼け残った南側以外はコンクリートで改築 された。火災により優雅な歴史ある本殿と寄進者の銘が消えた。

鐘楼の創建は「文政六癸未(1823)三月吉良日 別当観音 院奉建立」とあった。今から186年前の建物である。

本殿の北東5メートルにある稲荷神社はその燈籠の銘に「享保 十一年(1723)九月吉辰」とあり、疫神社本殿造営の八年後にま つられた。社務所、井戸など整った施設があった。

6. 環境の整備

社殿の南側にある玉垣の石版に寄進者名が刻まれている。社殿 の東側20〜30mに法万寺川(板倉川)が流れ、降雨期には付 近の水田は冠水し、遊水地となる湿地帯であった。境内の法面保 護のために、延長百間余りの石垣を寄進した。

山県内の遺跡では最多になる。

路傍の文化財– 49 –第一編 神社の石碑 須佐之男神社 神社の由来 須佐之男神社の由来 撫川の須佐之男神社の由来は定かではないが、次の伝承が最も信 憑性がある。康平4(1061)年11月、吉備津神社が火災で炎上し たとき、現在地付近に仮宮を建ててご神体をお祭りしていました。そして 康平7(1064)年、備中守藤原定綱が吉備津神社を再建し、ご神 体は本殿に還られ、仮の宮の建物だけが残りました。そこでこの地の有 力者が、京都の八坂神社(ご神体は須佐之男命)から分身を受けて きてお祀りをしたと伝えられています。中撫川遺跡の発掘調査によりこの 伝承の信憑性がさらに高まりました。
の神社は真言宗金華山観音院が奉仕したので、法正山信城寺(日 蓮宗)が別当として奉仕していた(撫川)八幡神社にたいし、真言
明治四年の神仏分離まで領主の庇護の下にあった日蓮宗と、そ
石板によれば、文久三年(1863)、93人の氏子が現在の金額 に換算して3千万円余りを寄進した。なかでも吉岡屋、吉見屋など 廻船問屋がその約半額を、特に袖岡新助は全体の1割を寄進して いる。庭瀬が水運で繁栄していたことがわかる。また石板の銘は高度 な技巧を持った石職人の技が作った傑作である。 7. 狛犬  嘉永四年(1851)に氏子20名が狛犬一対を寄進している。備 後尾道の石工嶋居勘十郎の作で、後足で子狛犬をあやす姿が珍 しい。 参考(山陽新聞平成15年9月1日朝刊)  中撫川遺跡発掘調査の詳細 網用おもり大量出土!  岡山市教育委員会が発掘調査している川入・中撫川遺跡(岡山市 中撫川)で31日までに、鎌倉時代(13世紀後半)の1個500g近 い"特大級"の漁業用のおもり(土錘)が大量に出土した。一帯が 同時期から発達した鯛網漁などの漁業基地だったことを示す資料とし て注目されている。  土錘は粘土の素焼き製。ラグビーボールをやや平らにした形で、 平均して長さ11cm、幅7cm、厚さ5cm強の大きさ。遺跡から出土 する土錘としては最大クラスな上、今回の300個を超える出土数は岡
土錘の大多数は両側面に幅2cm、深さ1cmの溝があり、縄を結 んで網に取り付ける形式。同タイプの大型土錘は考古学、民俗学的 な研究から、瀬戸内特有の鯛しばり漁法に代表される袋網系の錘と 想定されている。当時、川入、中撫川遺跡は「吉備の穴海」と呼ば れた内湾の沿岸部に立地。土錘とともに中国製の高級磁器も出土し ていることから、発掘担当の草原孝典・岡山市教育委員会文化財保 護課主事は「都などへの貢納品にもなった鯛漁を足がかりに発展した 領主勢力がいたのだろう」とみている。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 50 –第一編 須佐之男神社 配置図 玉垣碑その1 注連柱その1 注連柱その2 石燈籠No.1 石燈籠No.3 石燈籠No.5 玉垣碑その2 手水鉢 鳥居 鐘楼 石燈籠No.2 燈籠 明治四十五年五月 発起人 岡本今蔵 井戸施主  安原俊造 安藤岩二郎 安藤信 右エ門 玉垣の銘 稲荷神社 狛犬 拝殿 社務所跡 本殿 仮殿 井戸 190 600 (嘉永四年辛亥二月奉納) (享保三戊戌年九月吉日奉納) (享保十一丙午年九月吉日) (昭和31年再鋳)百度石 狛犬 石燈籠No.4 石燈籠No.6 神社名碑 26000 54000 拝殿前石段袖壁 西面 奉 昭和三十二年十月吉辰寄贈者 奉賛會 西面 献 両神社釣鐘再建記念 東面南面 奉 昭和三十年春季祭   江口モト  江口モト都窪郡清音村大字軽部都窪郡清音村大字軽部  次田直蔵撫川町大字下撫川 次田直蔵撫川町大字下撫川 北面 献 大正元 壬 子年十月十七日献之 2900 3600 4500 1500 1660 160×180 300×320 170×190 注連柱その2 注連柱その1
路傍の文化財– 51 –第一編 神社の石碑 須佐之男神社 狛犬の台座 参道の左側(西側) 参道の右側(東側) 参道の左側(西側) 参道の右側(東側) 西面 南面 北面 北面 西面 納奉 880 1100 1065 嘉永4年=1851年 嶋居勘十郎 作 嘉永辛亥四月吉日 □ 平兵衛 同 庄五郎 吉岡屋庄吉小西屋栄蔵吉見屋善吉吉岡屋粂治郎 下撫川村東分 願主難波始治 曽我弥左衛門 仙左衛門□左衛門 六太夫 志□兵衛 徳十郎浅次郎富治郎 柳左衛門 仙三郎久米七  石工 嶋居勘十郎久之は、江戸時代後期、尾道の人。尾道浦は瑠璃山、愛宕山、大笠山に囲まれ巨石が折り重なり、石材に囲まれ、水運に よる搬出も容易で、中世初頭から荘園米の積出港として豊かな港町経済を担っていた。  主に備後地方を中心に燈籠、狛犬の傑作を残しているが、遠くは山口県、島根県、姫路市内にも彼の作品が残っている。  太平の世となり備後の石工は城郭建設が無くなり、優れた技術を寺社・民生に発揮した。この狛犬の寄進者は多くの廻船業者が名を連ねて いる。 「阿吽の形相で子を守る獅子を彫った一対の狛犬は珍しい」と氏子の人が話していた。

石垣の総延長は約160m、寄進された総延長は107.5間で一致しない。間数は何を あらわしているのか、高さも加味されているのか? 単純に長さだけの表示ではないようだ。

玉垣は倒壊したため、再度組み直したと思われるが、柱の組立順序が倒壊前後で違っ ているため、「きびのさと」に記載されているものと異なる部分がある。

破損したものは新たに作り直し、再建時の寄進者の名を刻んだ。残材は本殿北側に集 積されている。板状の碑文は、かなり高度な技能者が刻んだと思われる。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 52 –第一編 須佐之男神社 玉垣碑その1
南面左側その1 奉寄進 所司利男吉岡屋新助吉井久善 鳥越平兵衛 同   藤吉 同    善吉 郎三六同郎三元川撫下吉卯西同吉榮川撫下郎次金同郎三源川撫下 煙草屋三国屋橋本屋 狹川町 千代藏 文左衛門 同人  同   長次郎 千賀二 利右エ門 同 伊勢太郎同  文兵衛同    見助 同     髙 勇 難波祐三郎 同にわせ屋 同 岡山市撫川岡山市撫川世話人組頭 南面左側その2奉寄進 難波政則 吉三同郎次傳川撫下 郎三松 同藏徳川撫下助之石 向西 弥左エ門 文治郎巳年女 同   重吉 同   石助 重太郎弥五郎同人    興之七 同    文吉 宗右エ門 同   助太郎 松次郎 同   茂四郎 難波定右エ門 林 享平 幸原 富士夫 幸原文武曽我三郎西川 勝 世話人 同 栗坂屋世話人組頭 昭和54~55年に取替え 栗坂屋=西向にあった料亭 昭和54~55年に取替え 下撫川大橋町下撫川大橋町 103 102 101 100 99 98 97 96 95 94 93 92 91 90 89 88 87 86 85 84 83 127 126 125 124 123 122 121 120 119 118 117 116 115 114 113 112 111 110 109

愛南町一本松に「まんのうやお長」さんのお墓があり、位牌には「文化十年九月晦日

まんのやお長」 とある。この人は女性遍路で、巡礼の途中行き倒れになりここに埋葬された。毎年8月16日には「まんのや踊り」という盆 踊りをして霊を慰め、地域の方々に手厚く守られている仏様である。今まで不明であった生国に、200年経って里帰りさせて あげたいと地元の関係者が考えた。

この話が、岡山市教育委員会を通じて当会に問合せがあった。 「きびのさとNo.68」によると、万能屋はもと讃岐塩飽(しあく)諸島の出身で、いつ頃撫川へ来たのかは知れないが、かな りその道に名を知られた宮大工で、傍ら料理店を開いていた。観音院の墓碑に「文化十二乙亥年六月十一日 満んのうや かよ」の墓石があった。(今は整理され現存しない)

私たちの調査では、松林寺の太神宮本殿の玉垣に「天保十四癸卯秋八月 万納屋 和三郎」の銘があり、また須佐 之男神社の玉垣には「文久三年九月 万納屋 儀助」の銘がある。この碑は文化十年(1813)九月のお長さんの死から 50年経っている。

これ等の屋号は何れも「万納屋」と書かれており、類似の名前もなく一族と思われる。 2012年8月10日(金)記 同年8月22日 山陽新聞に掲載

路傍の文化財– 53 –第一編 神社の石碑 須佐之男神社 玉垣碑その2 南面右側その1奉寄進 吉岡屋庄五郎 奉寄進 世話人 勘太郎 吉岡屋庄五郎 吉三郎平 藏清次郎佐 吉藤 藏 世話人茂左エ門同   郎三治同松幸同吉卯川撫下郎三助同松庄同郎次彦川撫下 狹川町同同同同狹川町大橋町同同同同 下撫川児島屋 文久三癸亥年 九月吉辰惣兵衛磯  助万  吉定右エ門勇左エ門 定杭氏子中世話人 世話人 吉岡屋小三郎 袖岡新助同人 娘 十七吉 壱間半 平瀬屋 文治郎 万納屋鳥羽屋鳥羽屋箕島屋 安太郎儀 助治兵エ榮 吉彦兵エ庄兵エ初治郎重太郎 大 橋 吉岡屋児島屋西尾屋吉杢屋宗津屋岡島屋水島屋高田屋 吉見屋吉岡屋吉岡屋児島屋瀬口屋大黒屋児島屋日畑屋 源五郎 孫右エ門 喜十郎吉兵エ友太郎 袖岡庄五郎 粂治良 康右エ門 惣兵エ清三郎 山口亮平 嘉三郎佐治郎 壱間半 中川屋高田屋 千代藏平 藏増 吉氏子中 下撫川 弐間半壱間半 髙同同東髙同同 難波経徳難波政義喜右エ門勇右エ門 六良右エ門 多治郎 八右エ門 同同同同同同同同同同 亦左エ門 久兵衛新 六兵治郎甚太郎石太郎岩太郎万三郎和三郎興四郎興 八清 吉新 助藤 市万 藏清三郎 太田新助 榮次郎菊次郎六太夫藤四郎 同同同同中妹尾川 同 土佐屋 南面右側その3 南面右側その2 奉寄進 御石垣施主 八浜屋道具屋栗坂屋八浜屋 九三郎六治郎常 藏伊三郎さ と重 吉平十郎冨三郎吉 藏安 吉 西 向 文久3年=1863年 80 79 78 77 76 75 74 73 72 71 70 69 68 67 66 65 64 63 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 ■大橋 万納屋 儀助について 2012年(平成24年)8月、愛媛県南宇和郡愛南町の岩井義晴(72)さんの問い合わせにより、次の事が分かった。
備中戸川領なつ川
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 54 –第一編 須佐之男神社  石垣寄進者名簿  文久癸亥三年九月吉辰(1863) No. 柱 枝番 村 名 字 役割 屋号 姓 名 石垣幅 備考 1 35 挟川 新助 拾間 2 36 挟川 庄五郎 八間 3 33 挟川 吉岡屋 小三郎 六間 4 20 定杭 中川屋 千代蔵 五間 5 24 中島 新助 参間 6 38 挟川 吉岡屋 粂治良 参間 狛犬の寄進 7 37 挟川 吉見屋 善吉 参間 狛犬の寄進 8 4 下撫川 高 喜右衛門 参間 9 5 下撫川 高 定七 参間 10 25 中島 中島 万吉 参間 11 6 下撫川 東 勇左エ門 弐間半 12 1 下撫川 政義 弐間 13 2 下撫川 経徳 弐間 14 59 西向 玉屋 常蔵 弐間 15 3 下撫川 高 文八 弐間 16 21 定杭 定杭 平蔵 弐間 17 23 定杭 定杭 氏子中 弐間 18 22 定杭 高田屋 増吉 壱間半 19 7 下撫川 高 六良右エ門 壱間半 20 52 大橋 魚屋 伊兵 壱間 21 40 挟川 児島屋 惣兵衛 壱間 22 41 挟川 瀬口屋 清三郎 壱間 23 42 挟川 大黒屋 惣吉 壱間 24 58 西向 玉屋 九三郎 壱間 25 53 大橋 平瀬屋 喜平 壱間 26 54 大橋 万屋 文治郎 壱間 27 34 挟川 吉岡屋 小三郎娘 壱間 28 39 挟川 吉岡屋 康右エ門 壱間 29 8 下撫川 高 多治郎 壱間 30 9 下撫川 高 八右エ門 壱間 31 10 下撫川 高 亦左エ門 壱間 32 11 下撫川 高 久兵衛 壱間 33 12 下撫川 高 新六 壱間 34 13 下撫川 高 兵治郎 壱間 35 14 下撫川 高 甚太郎 壱間 36 15 下撫川 高 岩太郎 壱間 37 26 中島 中島 百助 壱間 38 27 中島 中島 三蔵 壱間 39 31 福居 民蔵 壱間 40 51 大橋 磯助 壱間 41 43 1 挟川 亮平 半間 42 43 2 挟川 飴屋 喜助 半間 43 55 1 大橋 魚屋 安太郎 半間 44 48 1 挟川 岡屋 定吉 半間 45 44 1 挟川 児島屋 嘉三郎 半間 46 46 2 挟川 児島屋 庄吉 半間 47 45 1 挟川 幸屋 佐治郎 半間 48 61 西向 蔦屋 重吉 半間 49 44 2 挟川 繋屋 定助 半間 50 48 2 挟川 中屋 宇助 半間 51 47 1 挟川 西尾屋 孫衛門 半間 No. 柱 枝番 村 名 字 役割 屋号 姓 名 石垣幅 備考 52 61 西向 八浜屋 平十郎 半間 53 45 2 挟川 日畑屋 宇吉 半間 54 55 2 大橋 万納屋 儀助 半間 宮大工 55 46 1 挟川 吉岡屋 源五郎 半間 56 47 2 挟川 吉埜屋 末吉 半間 57 16 1 下撫川 高 石太郎 半間 58 16 2 下撫川 高 万三郎 半間 59 17 1 下撫川 高 和三郎 半間 60 17 2 下撫川 高 與四郎 半間 61 29 1 中島 中島 菊次郎 半間 62 29 2 中島 玉蔵 半間 63 30 1 中島 妹尾川 六太夫 半間 64 30 2 中島 妹尾川 藤四郎 半間 65 32 1 福居 重蔵 半間 66 32 2 福居 十七吉 半間 67 50 3 挟川 魚屋 友太郎 壱/3間 68 56 2 大橋 魚屋 栄吉 壱/3間 69 49 3 挟川 岡島屋 芳蔵 壱/3間 70 49 1 挟川 紙屋 喜十郎 壱/3間 71 62 2 西向 栗坂屋 末蔵 壱/3間 72 57 2 大橋 新地 初治郎 壱/3間 72 50 2 挟川 高田屋 仙吉 壱/3間 73 60 西向 玉屋 六治郎 壱/3間 74 60 西向 玉屋 伊三郎 壱/3間 75 62 1 西向 道具屋 富三郎 壱/3間 76 56 1 大橋 鳥羽屋 治兵衛 壱/3間 77 56 3 大橋 鳥羽屋 彦兵エ 壱/3間 78 60 西向 中屋 さと 壱/3間 79 62 3 西向 八浜屋 安吉 壱/3間 80 57 1 大橋 万屋 庄兵エ 壱/3間 須佐之男神社 玉垣碑名一覧表 No. 柱 枝番 村 名 字 役割 屋号 姓 名 石垣幅 備考 81 50 1 挟川 水島屋 吉兵衛 壱/3間 82 57 3 大橋 箕島屋 重太郎 壱/3間 83 49 2 挟川 宗津屋 喜助 壱/3間 84 18 1 下撫川 高 與八 壱/3間 85 18 2 下撫川 高 清吉 壱/3間 86 18 3 下撫川 関戸 新助 壱/3間 87 19 1 下撫川 東 藤市 壱/3間 88 19 2 下撫川 東 万蔵 壱/3間 89 19 3 下撫川 東 清三郎 壱/3間 90 28 1 中島 中島 八蔵 壱/3間 91 28 2 中島 栄治郎 壱/3間 92 28 3 中島 嘉七 壱/3間 93 86 鳥越 平兵衛 №87,88,89同人 94 98 難波 祐三郎 95 119 難波 定右エ門 №120同人 96 127 下撫川 難波 政則 親柱 100 112 1 大橋町 魚屋 弥五郎 101 112 2 大橋町 魚屋 重太郎 102 95 1 扇屋 見助 103 95 2 扇屋 友八 104 116 1 大橋町 栗坂屋 文吉 105 116 2 大橋町 栗坂屋 宗右衛門 106 93 糀屋 文兵衛 107 67 世話人 児島屋 惣兵衛 108 74 挟川町 世話人 児島屋 茂左衛門 109 92 2 炭屋 多蔵 110 92 1 煙草屋 善吉 111 94 玉屋 伊勢治郎 112 100 玉屋 常蔵 113 110 下撫川 玉屋 重吉 114 104 1 下撫川 坪屋 長次郎 115 75 大橋町 世話人 土佐屋 弥吉 №77 79同人 116 76 大橋町 土佐屋 嘉吉 117 111 下撫川 中屋 石助 118 96 1 庭瀬や 高 119 96 2 庭瀬や 勇 120 105 挟川町 橋本屋 利右エ門 121 101 福屋 民蔵 122 104 2 下撫川 三国屋 千賀二 123 69 挟川町 吉岡屋 庄五郎 №70同人 124 80 挟川町 吉岡屋 庄五郎 親柱 125 83 吉岡屋 新助 親柱 126 63 下撫川 世話人 勇左エ門 127 64 定杭 世話人 定右エ門 128 65 中島 世話人 万吉 129 66 大橋 世話人 磯助 130 68 定杭 世話人 勘太郎 氏子中 131 71 1 挟川町 音吉 132 71 2 挟川町 吉三郎 133 72 1 挟川町 清次郎 134 72 2 挟川町 平蔵 135 73 1 挟川町 藤蔵 136 73 2 挟川町 佐吉 137 81 1 下撫川 卯吉 No. 柱 枝番 村 名 字 役割 屋号 姓 名 石垣幅 備考 138 81 2 下撫川 幸松 139 81 3 下撫川 治三郎 140 82 1 下撫川 彦次郎 141 82 2 下撫川 庄松 142 82 3 下撫川 助三郎 143 90 世話人 藤吉 組頭 144 91 1 下撫川 元三郎 145 91 2 下撫川 金治郎 146 99 1 下撫川 栄吉 147 99 2 下撫川 西 卯吉 148 102 千代蔵 149 102 文左衛門 150 106 下撫川 世話人 弥左エ門 組頭 151 107 1 下撫川 源三郎 152 107 2 下撫川 金治郎 153 108 大橋町 文次郎女 154 109 下撫川 巳年女 155 114 世話人 與之七 組頭 156 115 1 下撫川 傳次郎 157 115 2 下撫川 三吉 158 117 1 大橋町 助太郎 159 117 2 大橋町 松次郎 160 118 1 大橋町 茂四郎 161 118 2 大橋町 熊蔵 162 123 1 下撫川 徳蔵 163 123 2 下撫川 世話人 松三郎 164 128 西向 石之助 165 122 幸原 富士夫 昭和の人 166 124 幸原 文武 昭和の人 167 125 曽我 三郎 昭和の人 168 84 撫川 所司 利男 昭和の人 97 126 西川 勝 昭和の人 98 121 林 享平 昭和の人 99 85 撫川 吉井 久善 昭和の人
路傍の文化財– 55 –第一編 神社の石碑 須佐之男神社 玉垣の銘  東、西、北側の玉垣は、本殿焼失のとき破壊さ れた。玉垣はコンクリート製で再建され銘は無い。 創建時のものは南側のみ。 年代不詳 国境を越えての婚姻も一般的だったようだ。 奉寄進鳥越平兵衛奉寄進難波祐三郎母 奉寄進横田盛貞 奉献石燈籠 東 岡山紙屋町 難波太兵衛大工屋久左エ門 下撫川 西 享保五庚子歳 享保五庚子 = 1720年 かのえね 北 南面 西側 東側 No.1 中野屋 安原登興 難波純一郎長女 九月吉日 同苗茂登 備前竹原村 安原登興 同同同同同同 玉垣の銘 (本殿の南側) 拝殿前石段袖壁 燈籠(竿)の銘 (参道) 疫神社奉献燭 東西 岡本保八郎 荒木藤左エ門光豊 享保十八癸巳 = 1733年 みずのとみ 北 南面 No.2 享保十八年九月吉日 奉献燭 東 享保三戊戌九月吉日 享保三年 九月吉日 西 疫神社 享保三戊戌 = 1718年 つちのえいぬ 享保三戊戌 = 1718年 つちのえいぬ 北 南面 No.3 No.5 疫神社奉献燭 東西 荒木十郎兵光重 北 南面 No.4 享保四九月吉日銘なし 享保四己亥 = 1719年 つちのとい 奉献石燈籠 東西 難波姓 南面 No.6 袖岡粂二郎長女 赤松満勢
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 56 –第一編 須佐之男神社 百度石ほか 享保三九月吉日 戌戊 正面敷石廿七枚 明治廿九年八月吉旦 難波常造 北面 東面 北面西面 西面 東面南面北面 南面 南面 百度石 須佐之男神社 維持平成四年十月吉日健之 奉寄進 岡本仲男中島逹夫太田佳晴 奉寄進 維持平成四年十月吉日健之 奉寄進 岡本仲男中島逹夫太田佳晴 疫神宮天下泰平 五穀豊穣 両社宮奉賛会発起者並世話人 備後国新市甼 髙田鋳造所作 昭和三十一丙申年仲秋再建 鉢水奉 社神疫 須佐之男神社 1060 415 3300 2210 1200 4000 2450 540 □240 □150 450 240 手水舎 手水舎 鳥居 百度石 鐘楼
路傍の文化財– 57 –第一編 神社の石碑 撫川八幡神社 撫川、中撫川の日蓮宗信徒の神社(中撫川551) 3

際、御剣をこの地に遷して奉斎した。御剣は彼の社に奉還後、御剣の縁に依って天照大御神須佐之男命を跡地に祭った。後、 天照大御神を祀り下社とした。

寛永年間(1624〜1644)に八幡神・春日神を勧請して八幡神社と改号した。

慶長の頃(1600年前後)再興し、元禄15年(1703)にも再興し現在に至っている。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 58 –第一編 撫川八幡神社 神社の沿革 八幡神社の沿革 八幡神社と須佐之男神社 両神社が並存している理由について 『きびのさと」No.71 p−5(昭和39年8月発行)には次のように書かれている。 旧社格 村社 鎮座地 岡山市北区中撫川 551 氏子地域 中撫川、撫川 ■由緒  往昔、吉備中山に大吉備津彦命鎮座後、十握剣を宝物として彼の社に納めた。寛喜年中(1229〜1232)に彼の社が回禄の
■御祭神 品 ほんだわけのみこと 陀和気命・天照大御神・天 あめのこやねのみこと 児屋根命  天和三年(1683)に撫川5000石を知行した初代領主達冨は、領内に国家鎮護の神が無かったので、八幡の大神を勧請して 氏神として崇め奉った。(八幡山の八幡神社の分霊を祀り正八幡宮と尊称した。) はるか昔の10世紀頃に本地垂迹説に基づいて神仏は一帯であるという習合から神社は社僧を置いて社務を掌らしめた。  この下の宮は日蓮宗の法正山信城寺が別当として奉仕してきたのである。  創建については境内の燈籠に正徳四年(1715)の銘があるので、それ以前、戸川氏が転封してから30余年の間に建てられたこ とは確実である。  上の宮も創建については何も文献が無く明確を欠くも社前の燈籠の軸石に享保三年(1718)の年号が刻まれているので、下の 宮よりも年代が浅いが大体同じぐらいに建てられたものと推定される。上の宮は真言宗の金華山観音院が奉仕した関係上宗教 的に分れて神事が行われ永い年月の間に日蓮信者と他の仏教徒とが自然に分離し、ついに今日見るような宗教別に二つの氏神 が存在するという変則になったのである。  思うに創建当時戸川氏は日蓮宗の大檀那にして権勢の上にあって他宗を排斥するかの態度(信仰者も勿論)を示した事がそ の原因となって他宗を刺激した結果「信仰の自由」の立場から宗派別に氏神を祭祀するようになったと想像せられる。 (岡山県神社庁の資料による)
路傍の文化財– 59 –第一編 神社の石碑 玉垣その1 玉垣その3 鐘楼 手水鉢 須佐之男神社へ 狛犬狛犬 神社名碑 鳥居 石燈籠石燈籠 本殿 時芳神社 寄宮 妙見宮 拝殿 玉垣その2 21m 61.6m 撫川八幡神社 配置図 狛犬 石橋 狛犬
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 60 –第一編 撫川八幡神社 玉垣その1 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 北面 奉寄進 赤木万雄 横田庄三郎盛貞 奉寄進 中尾屋源八 奉寄進 久米屋伊助 献 世話人 京城 太田佳晴 新 町 金左エ門妹尾屋 善 蔵中尾屋 喜 助 岡山市撫川 坪井康吉         岡山市撫川 妹尾屋 桶 屋 定十郎 □□や 松之助川入屋 吉蔵 定杭  角常 狭川町  善助 川入屋 同    惣助 中尾屋 同    助五郎 中浜屋 同    多喜治 久米屋あらき屋 同    春 吉 庭瀬屋 ゆきや 大内屋 同    利兵衛 同    吉 助 家根屋川入屋 同   定右エ門同   増五郎同   亀太郎同   豊 吉 大供屋 同   安五郎 山田屋 同   文 吉 才楽屋 同   清兵衛同   岩 吉 大橋町  仲 蔵 同    津田氏新 町 金左エ門 狭川町  吉兵衛 定杭  長右エ門 同 同 木島屋 久三郎 新田屋 八十八 同   屋 松之助 山田屋 喜代八 同同 今出や 儀 助 本 屋 里 栄 中村や 三五郎 現金や 半左エ門 同 大工  惣十郎 同   杢 蔵 同 初三郎音 吉 同 甚 六多 吉 同 弁左エ門 吉三郎 同 佐伯屋 岩 蔵 川入屋 嘉 助 同 のぶや 善兵衛 花尻や 友 吉 同 見付屋 吉四郎 角 屋 う た 南面 柱の本数は破損により取り替えられ、創建当時のものではない。 No.27, 28は昭和後期に取り替えられた。 No.27 赤木万雄 食品会社社長 No.28 坪井康吉 畳表製造会社社長
路傍の文化財– 61 –第一編 神社の石碑 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 奉寄進 中撫川 同 太田安兵衛 六右エ門 長十郎 奉寄進 奉 世話人 昭和十八年十二月吉日 中撫川 清兵衛 喜三衛門 多五郎 下撫川 同 多五郎 同 佐 吉 弥 八 同 六三郎 多 助 中嶋源 吉 同 長太夫 福居喜三右エ門 和 介 要 助 茂 市 同 久左エ門 宇三郎 同 徳右衛門 喜四郎 俣野庄右衛門 下撫川 文左衛門 同 与平治 伝 吉 同 嘉右エ門 浅 吉 同 三次郎 久 吉 同 要 蔵 安五郎 同 平 吉 新 吉 同 善 七 同 勘 助 庄五郎 同 蔵 金次郎 同 甚 吉 北面 南面 鳥居の銘は、笠木の下面に刻まれている。 正徳5年=1715年 寛永→正徳→享保  庭瀬藩主戸川安風の弟達冨が、早世した安風の名跡を 相続し撫川知行所の初代領主となっていた。玉垣も鳥居と 同時代の築造ではないか? 撫川八幡神社 玉垣その2・鳥居 鳥居 奉寄進鳥居惣氏子中繁昌 正徳五 乙 未 年四月吉祥日行□髙橋長太夫 同 髙橋善七郎 3450 4000 2750
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 62 –第一編 撫川八幡神社 玉垣その3 107 106 105 104 103 102 101 193 192 191 190 189 188 187 南面 南面 101の東面 192の東面 本殿 奉寄進 植木藤四郎 奉寄進 氏子中 奉寄進 難波興平 大阪順慶町四丁目 下撫川東 新 町 奉寄進 太田多治郎 福 富 東 町 江本千代女 福狭川町 富 佐伯屋場所太田幸右エ門 同 同 氏子中 同 氏子中 同 氏子中 同 氏子中斧田猶次兼次 本殿 159 158 157 156 155 154 153 152 151 150 149 148 147 146 145 144 143 142 141 140 139 138 137 136 135 北面 北面 下撫川東 川入屋見 世 中尾屋高田屋 仙 蔵 奉寄進 狭川町  安次郎木下孝三郎津田 和孝 同同 平野屋同  喜 助斧田猶次兼利 和  吉太田惣右エ門 同  和  吉 友右エ門 大橋町 亀太郎 同同同同大橋町 吉次郎 同 子供中 同同 同 □□や内 琴 吉 鳥羽□ 小 鶴 □□や内 八千代 □京屋内 小八重 かご屋内 小 光 伊世屋内 小 金  大町 泰 純 住田屋 民次郎 庭瀬や内 小 徳 園田や内 小 寛 大橋丸や 甚 吉 新  町 き よ 魚屋内 小ひ文せ 以 伊 野加 津 伊勢太郎 六三郎
路傍の文化財– 63 –第一編 神社の石碑 撫川八幡神社 玉垣その3 135 134 133 132 131 130 129 128 127 126 125 124 123 122 121 120 119 118 117 116 115 114 113 112 111 110 109 108 107 西面 西面 本殿 奉寄進 奉寄進 吉岡屋又三郎 中撫川 太郎左エ門 佐伯屋場所佐伯屋場所 梅次郎 佐伯屋 佐伯屋 狭川町勝 蔵 児島屋橋本屋 狭川町 宇兵衛万三郎 橋本屋 伊平衛 中 屋 芳 助 奈加屋 金 助 松 屋 定十郎 花 屋 文兵衛 吉岡屋 庄五郎 吉岡屋 新 助 吉岡屋 徳之助 信 屋 一平兵衛 大内屋 平兵衛 小原屋 藤 蔵 同同同同同同同同同 同同同同同同同同同同同同 本殿 187 186 185 184 183 182 181 180 179 178 177 176 175 174 173 172 171 170 169 168 167 166 165 164 163 162 161 160 159 東面 東面 No.186 現在空白(昭和39年7月まで存在した銘) 「きびのさと」No.74から転載 奉寄進 紋次郎 奉寄進 太田 健次郎 和 助熊次郎  同  八兵衛地利禾以調之   右 同   同   同  同  同定杭  角 常右エ門太田三造 土佐屋 弥 吉喜 助 佐伯屋 藤吉郎 芳野屋 孫 助 西向屋 孫右衛門 下撫川東 平之助 中撫川 磯井幸四郎  福井 太田宇三郎  福井 太田千代治  福井 太田 傳吉  福井 太田孫三郎  福井 太田亀治郎  福居 民 蔵   同 喜 八 くらしき魚屋 藤三郎 難波祐三郎 ヲ
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 64 –第一編 撫川八幡神社 玉垣碑銘一覧表 八幡神社  石垣寄進者名簿  正徳五年(1715) No. 柱 枝番 村 名 役割 屋号 姓名 備考 職業 1 26 7 世話人 □□や 松之助 2 152 1 大橋町 □□や内 八千代 3 152 2 大橋町 □京屋内 小千重 4 150 1 大橋町 □庄内屋 琴喜 5 37 定杭 あらき屋 長右衛門 旅籠・料理屋 6 46 新町 家根屋 定右エ門 旅籠・料理屋 7 151 2 大橋町 伊世屋 小金 内 旅籠・料理屋 8 52 1 大橋町 今出や 儀助 旅籠・料理屋 9 136 狭川町 今屋 安次郎 10 53 2 大橋町 現金や 半左エ門 旅籠・料理屋 11 40 狭川町 大内屋 吉兵衛 12 130 狭川町 大内屋 平兵衛 13 56 大橋町 大内屋 安五郎 14 156 1 大橋町 大橋丸や 甚吉 旅籠・料理屋 15 154 大橋町 岡田や 小寛 内 旅籠・料理屋 16 26 5 世話人 桶屋 定十郎 17 151 1 大橋町 かご屋 小光 内 旅籠・料理屋 18 39 2 定杭 角屋 うた 19 157 1 定杭 角屋内 小ひ文 旅籠・料理屋 20 51 大橋町 神歳屋 松之助 21 41 2 挟川町 川入屋 喜助 22 153 大橋町 川入屋 吉次郎 23 26 6 世話人 川入屋 吉蔵 24 30 挟川町 川入屋 惣助 25 50 大橋町 川入屋 仲蔵 26 185 芳野屋 孫助 27 62 久米屋 伊助 28 35 狭川町 久米屋 春吉 旅籠・料理屋 29 164 福居 くらしき魚屋 藤三郎 30 157 2 定杭 栗坂屋 せ似 旅籠・料理屋 31 122 狭川町 児島屋 宇兵衛 32 1331 狭川町 小原屋 藤蔵 33 58 大橋町 才楽や 岩吉 34 41 1 狭川町 佐伯屋 岩蔵 35 114 佐伯屋 梅次郎 興業 36 120 狭川町 佐伯屋 勝蔵 興業 37 184 佐伯屋 藤吉郎 興業 38 105 1 佐伯屋 場所 39 108 佐伯屋 場所 40 115 佐伯屋 場所 41 139 2 狭川町 住田屋 民治郎 42 29 狭川町 妹尾屋 善助 43 26 3 世話人 妹尾屋 善蔵 44 54 大橋町 大工 亀太郎 45 148 大橋町 大工 亀太郎 46 61 1 大橋町 大工 惣十郎 47 60 大橋町 大工 豊吉 48 55 大橋町 大工 増五郎 49 61 2 大橋町 大工 杢蔵 50 146 新町 髙田屋 友右エ門 51 149 大橋町 玉屋 伊勢太郎 52 182 土佐屋 弥吉 53 150 2 大橋町 鳥羽口 小鶴 54 26 2 世話人 中尾屋 喜助 55 141 狭川町 中尾屋 喜助 56 44 狭川町 中尾屋 源八 57 32 狭川町 中尾屋 助五郎 58 34 狭川町 中尾屋 多喜治 59 53 1 大橋町 中村や 三五郎 旅籠・料理屋 60 125 狭川町 中屋 芳助 61 126 狭川町 奈加屋 金助 62 186 西向屋 孫右衛門 63 33 狭川町 新田屋 八十八 64 154 庭瀬や 小徳 旅籠・料理屋 65 38 庭瀬屋 利兵衛 66 36 1 狭川町 のぶや 善兵衛 旅籠・料理屋 67 124 狭川町 橋本屋 伊兵衛 68 123 狭川町 橋本屋 万三郎 69 36 2 狭川町 花尻や 友吉 旅籠・料理屋 70 128 狭川町 花屋 丈兵衛 71 140 1 狭川町 平野屋 伊野 72 140 2 狭川町 平野屋 加津 73 52 2 大橋町 本屋 里栄 東屋? 74 134 狭川町 信屋 芳兵衛 75 127 狭川町 松屋 定十郎 76 33 狭川町 水島屋 久三郎 77 39 1 定杭 見付屋 善四郎 78 155 大橋町 見世 子供中 旅籠・料理屋 79 51 大橋町 山田屋 喜代八 80 57 大橋町 山田屋 文吉 81 43 狭川町 ゆきや 吉助 旅籠・料理屋 82 129 狭川町 吉岡屋 庄五郎 廻船業 83 132 狭川町 吉岡屋 新助 廻船業 84 133 狭川町 吉岡屋 徳之助 庄三郎事 廻船業 85 135 狭川町 吉岡屋 又三郎 廻船業 86 24 1 下撫川 赤木 三吉 87 27 撫川 赤木 万雄 88 167 中撫川 磯井 幸四郎 89 107 1 植本 藤四郎 八幡神社  石垣寄進者名簿  正徳五年(1715) No. 柱 枝番 村 名 役割 屋号 姓名 備考 職業 91 168 福井 太田宇三郎 92 193 2 福富 太田多治郎 93 172 福井 太田亀治郎 94 173 福井 太田健次郎 95 104 1 福富 太田幸右エ門 96 181 福井 太田三造 97 143 福居 太田惣右エ門 98 169 福井 太田千代治 99 170 福井 太田傳吉 100 171 福井 太田孫三郎 101 2 1 中撫川 太田安兵衛 102 139 1 狭川町 大町泰次郎 103 142 斧田猶次 兼利 104 192 斧田猶次 兼次 105 137 木下考三郎 106 19 1 下撫川 佐藤順蔵 107 11 佐藤要助 108 103 1 狭川町 髙塚多喜 109 138 津田和孝 110 42 狭川町 津田 No.138? 111 28 坪井康吉 112 165 難波祐三郎 113 101 4 大阪 順慶町四 難波興平 114 13 俣野庄右衛門 115 12 1 丸川茂市 116 26 2 横田正三郎 盛貞 117 19 1 下撫川 吉田彦蔵 118 17 1 下撫川 三次郎 119 4 2 中撫川 六三郎 120 2 2 下撫川 六右エ門 121 16 2 下撫川 浅吉 122 8 2 福居 宇三郎 123 47 2 新町 音吉 124 26 8 定杭 世話人 角常 125 16 1 下撫川 嘉右エ門 126 22 1 下撫川 勘助 127 7 福居 喜左衛門 128 25 3 福居 世話人 喜左衛門 129 9 2 福居 喜四郎 130 183 2 喜助 131 49 2 新町 吉三郎 132 163 2 福居 喜八 133 156 2 大橋町 新町 きよ 134 45 新町 金左衛門 135 23 2 下撫川 金次郎 136 26 4 新町 世話人 金左エ門 137 161 福富 熊次郎 138 5 1 中嶋 源吉 139 3 1 中撫川 佐吉 140 23 1 下撫川 幸蔵 141 22 2 下撫川 庄五郎 142 20 2 下撫川 新吉 143 24 2 下撫川 甚吉 144 48 1 新町 甚六 145 25 2 中撫川 世話人 清兵衛 146 59 大橋町 清兵衛 147 21 下撫川 善七 148 25 7 下撫川 世話人 仙蔵 149 147 下撫川 東 仙蔵 150 48 2 新町 多吉 151 25 1 福富 多五郎 152 25 4 福富 世話人 多五郎 153 4 2 中撫川 多助 154 163 1 福居 民蔵 155 121 中撫川 太郎左エ門 156 1 中撫川 長十郎 157 6 1 中嶋 長太夫 158 180 定杭 角 常右エ門 159 15 2 下撫川 伝吉 160 9 1 福居 徳右衛門 161 162 福富 八兵衛 162 47 1 新町 初三郎 163 17 2 下撫川 久吉 164 8 1 福井 久左エ門 165 14 下撫川 文左エ門 166 20 1 下撫川 平吉 167 25 6 下撫川 世話人 平助 168 166 下撫川 東 平之助 169 49 1 新町 弁右エ門 170 159 福富 紋次郎 171 18 2 下撫川 安五郎 172 3 2 中撫川 弥八 173 18 1 下撫川 要蔵 174 15 1 下撫川 余平治 175 144 中島 和吉 176 10 福富 和介 177 25 5 中島 世話人 和助 178 160 福富 和助
路傍の文化財– 65 –第一編 神社の石碑 丸川□□□□ 西面 東面南面北面 正八幡宮天下泰平 五穀豊穣 両社宮奉賛会発起者並世話人 備後国新市甼 髙田鋳道所作 昭和三十一丙申年仲秋再建 2260 奥行2440 撫川八幡神社 鐘楼・手水舎 昭和31年11月4日再興奉献 銘は「正八幡宮」 手水舎 鐘楼
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 66 –第一編 撫川八幡神社 その他 石燈籠4基+(1基火袋欠損) 正徳5年(1715年) 妙見宮 時芳神社・寄宮 社名碑 石燈籠 社名碑 八幡神社 維持平成四年十月吉日健之 正徳五 乙 未 年九月 正徳五 乙 未 年九月 奉寄進 岡本仲男中島逹夫太田佳晴 維持平成四年十月吉日健之 奉寄進 岡本仲男中島逹夫太田佳晴 2210 1650 450 240
路傍の文化財– 67 –第一編 神社の石碑 天満天神社 菅原道真をお祀りしている社(西花尻279) 4
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 68 –第一編 天満天神神社 配置図 創 建: 年月日は不詳である。 祭 神: 菅原道真 15世紀ごろ、吉井大和守がこの地への移住に際し、氏神として奉斎したとされる。 この地 域には吉井姓の子孫が多く在住している。ある子孫の話では先祖は播磨から来たと言い伝えられているとのこと。 大和守がいかなる人かはわからない。 石灯籠は寛政八年(1795)、手水鉢は文政五年(1822)年に奉納されている。 記念碑: 風地保存碑 大正8 年に風致地区に指定されて事業をした時の記念碑。 寛政八年( 1796) 本殿 拝殿 風致保存碑 文政五壬午年(1822) 手水鉢 鳥居 燈籠 文政五壬午年
路傍の文化財– 69 –第一編 神社の石碑 天満天神神社 寄付者名簿 天満天神社の寄付者名簿 (風致保存碑) 裏面 名簿詳細 風致保存碑 篤志者芳名 都窪郡撫川町大字新ヤシキ 一金拾五円 太田銀次郎 一金拾五円 難波彦四郎 一金拾二円 江尻安次郎 仝 吉井照太郎 仝 吉井弥市 仝 一金拾円 赤木喜太郎 仝 水島清吉江尻丈助磯島城太郎熊代多賀次水島久馬男 一金十円 磯島清吉 仝 中田篤雄磯島仙吉磯島留次郎 江尻梅吉 発起者一金五十七円 西組講中 一金五十三円 中組講中 一金五十二円 奥田講中 一金四十二円 飛谷講中 世話人 太田光造中田一雄中谷喜代治太田兵吉近藤政次磯島利吉 熊代弥九郎難波春三郎 吉井興平水島寿一郎森安興一郎熊代俊太郎水島千代治 森 惟門 難波武雄難波金五郎 者 米 帰 代惣神氏員 委 大正八年五月建之  風致保存とは? 風致地区とは、大正8年(1919)に制定された都市計画法において、都市内外の自然美を保存するために創設された制度。 村の有志が、この宮を中心に自然の景観を保存し村民の安息の場にした。  帰米者とは? 明治30年代以降、アメリカへの農業労働者として出国し帰国した人。   ・・・国策としての(ブラジル移民)は明治41年の笠戸丸に始まる。 大正8年(1919)風地保存の事業を行った際、アメリカ帰りの人6名が世話役をしている。 近隣の地区からも、同時期に農業労働者として渡米した人たちが多い。 近くの例では  ※1 東花尻の天神社の記念碑には、15名の在米の氏子の名がある。  ※2 庭瀬八幡神社の鐘の寄進者9名のうち高額寄進者の上位3名は在米者である。     (昭和34年鋳造の鐘に鋳込んであったが、現在の物は平成になって再鋳され、寄進者名は書いて無い。)  ※3 薗崎神社(延友)の鐘の寄進者 等々 この地域では現在でも、渡米した成功者の話が多くの集落で伝えられている。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 70 –第一編 御崎宮 大吉備津彦命のお墓守護の社(西花尻129近) 5
路傍の文化財– 71 –第一編 神社の石碑 御崎宮(西花尻)神社の由来・配置図  この碑は天保の頃(1830年代)、 この集落の為に犠牲となった僧の怨 霊を鎮める為、明治になって建てられ、 毎年祭祀した。 銘の意味は「怨んで退いてゆく僧を 祭る」と云う意味らしい。 創建:延喜年間 祭神:吉備武彦命 来歴:  醍醐天皇の延喜年間(900年頃)、大吉備津 彦命の御墓守護の社として創建されたという。 屋根瓦の紋は「丸に五七の桐」。誰の紋か? 社号の額は美術愛好家の氏子の手によった。 難波 佐久男 書  森安  毅 刃 150 980 180 2590 2230 祭塔 祭塔 手水鉢線香台 鳥居 燈籠 記念碑 鳥居 拝殿入り口の社号の額 本殿 拝殿 社号の額 塀 ← 0 5m 床面 難波佐久男書 森安  毅 刃 難波佐久男書 毅 刃 奉納碑 土塀が崩落している。 本殿 拝殿 社号 僧怨退祭塔 11段 22段 18段
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 72 –第一編 御崎宮(西花尻)記念碑ほか 奉 □ 神 線香台 手水鉢 奉納碑 随神門に掲げた寄附者名 檜板(幅2m×高さ25cm) 天保六年(1835) 明治四三年(1910)建之 文政五年(1822)築造 東面 西面 明治四五年(1912)築造 念紀築改 念紀築改 一金十円 近藤政次郎吉井照太郎吉井 弥市 江尻丈助矢尾卯三郎江尻実五郎 矢尾富次 一金五円 赤木喜太郎 総 代 難波傳次郎矢尾六三郎 矢尾福造 氏子中 一月一日 明治四十三年 記念碑 燈籠 碑文詳細 改修寄附者芳名 金弐拾五円 矢尾 嘉文 一金拾五円 藤原 香 一金拾弐円 山形 房吉 一金拾弐円 吉井 弥市 一金拾弐円 吉井 照太郎 一金拾弐円 難波 傳□ 一金 拾円 江尻 実五郎 一金 拾円 矢尾 君□□ 一金 拾円 森安 七十□ 一金 八円 江口 金□□ 一金 八円 森安 静太郎 一金 五円 江尻 兼□□ 一金 五円 富山 安太郎 一金 五円 矢尾 福□ 一金 五円 吉井 澤□□ 一金 五円 近藤 佐太郎 一金 五円 近藤 辰之□ 一金 五円 吉井 始太郎 一金 五円 森安 儀一 一金 四円 内田 兵吉 一金 四円 吉井 関造 一金 四円 矢尾 重吉 一金三円五十銭 江尻 丈助 一金 三円 難波 彦四郎 一金 三円 赤木 林□□ 一金 三円 赤木 久次郎 一金 三円 森安 静□ 一金 三円 矢尾 益太郎 一金 弐円 内田 キヌ 一金 弐円 吉井 丹次郎 一金 弐円 熊代 政□ 一金 弐円 吉井 初治 一金一円五十銭 熊代 磨志夫 一金一円 赤木 長十郎 一金一円 曽我 義男 一金一円 内田 岩吉 一金五円 昭和九年五月磯島 勇太郎 昭和9年(1934)設置 明治四五寅年 納 奉九月立之若連中 文政五 午 壬 年 矢尾一□   建之 造立之 天保六未 己 年 氏子中
路傍の文化財– 73 –第一編 神社の石碑 天神社 菅原道真をお祀りしている社(東花尻525) 本殿 鐘楼と土俵 6
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 74 –第一編 随神門 次頁に続く 本殿 鐘楼土俵 5 600 00 500 手水鉢 石灯籠の竺石(倒壊している) 0 5m 高さ(道路面)+約25m 参道の石燈籠より以前に寄進されたようだ。 寄進の年月不明 拝殿 A 天 満 宮 150 550 豊島石の石灯籠の竺石 祭神:菅原道真 創建:徳川家光の時代(1630年頃) 道真の座像が一対、阿吽の像である。 築造碑 旧登山道(山王大権現へ至る) 一金壱百萬円也 奉 納 大賀芳夫 妻 森安延五郎 々 豊 吉 々 貞太郎 々 貞 治 々 伊之吉 々 太 一 昭和八年十月 岡山市三門 田中石工所 昭和三十五年四月施工 N 富神社総代 32段 24段 15段 A断面 倉庫 昭和三十九年四月吉日 天神社 神社の由来・配置図1

創建について

昔、備前領尾上の丘に菅原道真公を祭祀していた小宮を東花尻

礎石もありこの丘は天神山と呼ばれている。

創建時は西側の山王さまを経由し山道を登り参拝した。「山王さ ま」は天神様の100m手前にある。その後、百八段の石段が作られた。

路傍の文化財– 75 –第一編 神社の石碑 天神社 神社の由来・配置図2
村民の願いによってこの地に勧請したと云われている。尾上の宮跡は、
※山王様:本地垂迹説で天照大神を現す。 山 旧米穀倉庫所在地 在米氏子寄附の碑 天神社本堂改築寄附の碑 道路面±0 のぼり竿台 道路 常夜灯 鳥居 38段 10段 4段 0 5m
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 76 –第一編 天神社 本堂改築寄附の碑・常夜灯 附寄子氏米在 裏 表 裏表 天神社本堂改築寄付の碑 在米氏子寄附の碑 常夜灯(左右一対) 右のみ 右のみ 安永六丁酉年(1777年) この石灯籠は基台が3段あり、ほか神社の燈籠より高くて大きい。 高くする理由はなにか? 明治41年(1908)の本殿改修工事に渡米している氏子15名から寄附を受けた。寄付者の総 数は72名、うち在米者は15名である。寄付金543円のうち、在米者は4割を寄附している。 2600 1680 1050 同年十月建之 附寄築改堂本社神天 八月吉祥日 安永六 丁 酉 天 二十五円 中村仙次郎 十一円 森安藤五郎 二十二円 森安藤次郎 仝 森安源次郎 仝 大賀三次郎 森安房次郎 二十二円 森安久次郎 仝 森安佐源次 二十円 大賀 安吉 仝 森安 友吉 仝 森安伸太郎 仝 森安 馬吉 仝 森安常次郎 森安品次郎 仝 森安完一 三十円 森安三五郎 二十五円 森安万次郎 二十円 大賀浅二郎森安 忠七 十六円 大賀 亀吉 十三円 中村 治平森安 豊吉 仝 大賀得三郎 十一円 大賀 造吉 十 円 森安遠三郎 九 円 森安先太郎 七 円 佐藤仁十郎大賀安八郎 六 円 森安 増七 一 円 森安 円次板野六三郎 四円五十銭 森安 茂平 四円五十銭 森安清十郎 四 円 大賀 浅造板野 浅吉森安泰三郎森安春三郎森安 亀太森安伊三郎 三円五十銭 森安桂次郎則武 国造森安吉平次佐治久次郎森安曾平治大賀 直造 二円五十銭 川上 定作 二 円 森安六三郎森安千代吉 一円五十銭 大賀 キタ森安恵一郎森安風太郎 一 円 上民 新吉 四 円 大賀仁三郎 七十銭 森安 作治 五十銭 森安 健一 金籠篭一対 横内 桂吉 十 円 山本十五郎 他出氏子 大工棟梁 三 円 藤田 吉野 大 阪赤税 絹子 笠 市 二 円 原 伊之吉 立 川富田 増七 妹 尾林  照 西阿知小川 源吉 高 松森本 幹郎 今 村犬飼小三治 田 中吉木 矢代 宮 内平□ □□ □ 満□□ □ □ □ 牟 佐 五 円 信徒中 西花尻 板野シゲノ光田 鶴吉 白 石 藤田キミエ 福 井 四 円 竹内久次郎 七日市 三 円 沼辺 嘉吉 古新田 三 円 沼辺 嘉吉 古新田撫 川 □川 □之 三 門 森安芳太郎 森安忠七板野六二郎森安徳二郎 大賀 亀吉大賀 庄造森安 澄吉大賀茂次郎森安定五郎 代惣子氏 員委築改
路傍の文化財– 77 –第一編 神社の石碑 天神社 梵鐘 近隣にある神社の鐘は戦後14~5年で再鋳再建している。 この神社は9年で再建している。 ② ③ ④ ① 天満天神宮 天下泰平国家安穏 五穀豊穣氏子繁栄 昭和二十九年甲午年四月再鋳都窪郡吉備町大字東花尻 梵鐘の銘 屋船豊受姫神屋船久々能知神 手置帆負神 天神社鐘楼殿釣鐘再鋳竣成奉告祭 金山姫神 森安太一 板野信治 森安金八 森安朝清 中村兼次郎 茂 金山彦神宮司 佐野光正 彦狭知神 鐘楼の棟札 昭和二十九年掲げる
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 78 –第一編 御崎神社 吉備津神社の末社として創建(川入小西) 大賀一郎博士 顕彰碑  大賀一郎博士は、2000年前の古蓮の実からの発芽を成功させた理学博 士。神社の近傍に、大賀博士の偉業を讃える顕彰碑があります。 7

境内の南側に用水路を隔てて、大正6年頃まで荒神様と稲荷 神社が祀られていた。御崎神社を結ぶ橋の手前に鳥居があった。

路傍の文化財– 79 –第一編 神社の石碑 御崎神社 神社の由来・配置図 ↑ 御立橋の親柱 (御立橋架け替えで 不要になった欄干の親柱) 手水鉢 地神・水神・牛神 → 歌碑 0 5m 道   路 鳥居 だんじり倉庫 掲示板 (昭和初期まであった) これらの社殿は大正6年頃まであった。 (現状は畑) (梵鐘は太平洋戦争の為に供出された) 鳥居の笠木のみ移設 大賀博士顕彰碑 荒神社 稲荷神社 史跡の碑 燈籠 (公民館を兼ねる) 拝殿 手水鉢 鐘楼 倉 庫 本殿用水路 火の見櫓  この神社は吉備津彦命の随神犬養健命を祭神とする吉備津 神社の末社である。明治43年「神社合祀令」により吉備津神社 の本宮社に合祀され、その社殿跡に「御崎神社址」の碑が建て られたが昭和23年に再建、造営された。(碑は不要となった)  創建の時代は文化の頃、庄村の日幡宮から勧請したと記録に ある。手水鉢には文化五年(1808)と刻まれている。 社号は先導役の随神犬養健命の先導の御先が転訛し御崎と なった。
その笠木が保存されている。  境内にある「御立橋」の碑は観音堂の北西にあった橋の欄干 の親柱で、昭和の拡幅工事で不用になり記念保存している。「小 西」とは境川の西、「かわにし(川西)」が転じて「小西」となった。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 80 –第一編 御崎神社 燈籠ほか 左 右 南面北面 1150 200 850 1000 東面 1070 350 2270 西面 歌碑 森 氏 願 主 脇 本 氏 族 願 主 脇本氏族 森氏     1950 (この碑は意味が無い) 大賀氏造之文化五辰年氏子中  大賀氏造之   氏子中文化五辰年 明治四十三年七月 明治四十三年 太田富□ 太田富□ 文化5年(1808) 明治43年(1910) 奉納の年代は不明。 脇本氏、森氏一族により奉納された。 脇本氏は高松の合戦の時、毛利勢の援軍として参戦した津和野城主吉見正頼の一族で、 その後板倉村近くに「脇本」を名乗り土着した。 元は用水路を隔てた土手の上にあった。 手水鉢 史跡の碑 本殿前の燈籠 地神・水神・牛神 御立橋の親柱 みたちばし御立橋 御崎神社址 大正六年春建之 犬飼健命後裔 犬養毅敬書 産土の神を うぶすなのかみを とおとむみやしろに うじがまごころ ささぐたまがき 尊む御社に 氏が真心 さゝぐ玉垣 読み人しらず
路傍の文化財– 81 –第一編 神社の石碑 三十番神社 日蓮宗が選んだ30柱の神々の社(川入146) 8
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 82 –第一編 三十番神社 神社の由来・配置図 戸川達安が八幡神社から分霊。水門守護の番神。 祭神:30 柱の神々  三十番神は、神仏習合の信仰で毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のこと。 日蓮宗では不参不拝の精神から寺自体が全国有名な神を一日一神として30 神を祀った神社といわれている。  最澄が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗や法華宗(法華神道) で重視され、法華経守護の神とされた。これは京都に日蓮宗を布教する為に比叡山の三十番神信仰を取り入れた。 用水路 稲荷神社 用水路 玉垣造営 昭和九年 本殿 拝殿 南側(横倒しになっている)北側 東面南面 0 5 橋の入り口の標柱 燈籠① 燈籠① 鐘楼 燈籠② 燈籠③ 手水鉢 発起人世話人 若連中 犬飼武右エ門 氏子中 N
路傍の文化財– 83 –第一編 神社の石碑 三十番神社 燈籠・鳥居・手水鉢 奉 寄 進 900 530 2260 2730 2158 2158 屋根、額とも木製 享和元年辛酉(1801) 文政十三年庚寅(1830) ※12月天保改元 手水鉢 燈籠① 燈籠② 燈籠③ 鳥居 文政十三庚寅四月吉日 文政十三庚寅四月吉日 昭和九年二月 昭和九年二月 諦 諦 享和元年 辛 酉 八月吉日
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 84 –第一編 三十番神社 梵鐘 大哉法器甦祖啓蒙松籟和音下達奈落暁破耽夢夙設時鐘精進積功時光急流 の鐘楼は傾き崩潰せ争中政府に献納しそ前の梵鐘は大東亜戦 んとす仍て医師高木諦この氏子痛くこれを嘆く氏子一同日本国の安梵鐘を寄進し以て 泰と繁栄を祈る 川入氏子中宣学虔中須聴懸龍涛声応響上通梵宮夜與慰休警告今有解怠零終疾水不及 銘 白 三十番神社備中国吉備町川入昭和四十五年十月十八日再鋳 昭和四十五年十月十八日再鋳 平和の鐘 三十番神社備中国吉備町川入平和の鐘 梵鐘の銘文 梵鐘 ① 740 1200 ① ② ② ③ ③ ④ ④ 憧木の位置
路傍の文化財– 85 –第一編 神社の石碑 若宮八幡宮 応神天皇、須佐之男命をお祀りしている社(庭瀬 中田地内) 9  本殿は日吉造りの赤銅張り屋根で、技巧を駆使した壮麗な造りの社殿 である。往時、社領は広く鳥居は50m程先に設置され、参道が続いていた。  現在では、近隣の宅地化により境内が狭くなり、昔の石材が境内の周 辺に散乱している。 拝殿
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 86 –第一編 若宮八幡宮 神社の由来・配置図 三寶荒神 祇園牛頭天王 拝殿 道 路 宇野佐久衛門 宇野佐久衛門 0 5m 寶暦六年八月十五日(1756年9月9日) 手水鉢の銘 手水鉢 鳥居 燈籠 祇園牛頭天王三寶荒神 進寄奉 寶暦六 丙 子 年 八月十五日 寶暦六 丙 子 年 八月十五日 若宮八幡宮 祭神: 牛頭天王 (須佐之男命)祗園精舎の守護神。祇園神という祗園信仰の神。 神仏習合では薬師如来の垂迹であり、須佐之男の本地とされる。 若宮八幡宮 (仲哀天皇,神宮皇后、応神天皇) 三宝荒神 (法の守護神) 創建: 不明 (八幡神社を分祀した)(真言宗の信者が多いという) 板倉の御用人田丸屋新吉が京都の祇園神社に参詣し分霊をいただき祭祀した。
路傍の文化財– 87 –第一編 神社の石碑 若宮八幡宮 玉垣 牧野正男 亥□歳男 操 勇 風早政一 岡 福井鶴治郎 勇 犬飼嘉一 田中猪七佐々木敏夫 岡本榮吉 深井権吉 南面 南面 本殿 石燈籠 東面 東面 御船重太郎 深井権吉 奉献深井権吉 御船義夫 弘 猛 佐野祷吾深井美代子 深井和三郎 武南光五郎 伊丹幸吉 谷口太六坪井重太郎 平松さえ 廣井真吉 井上幸次郎小串ひさし 物部忠一 物部忠一 柴岡長藏 西面 西面 北面 北面 難波嘉太郎 宇野義子 宇野幾治 宇野千加 福岡岩作森田君子 妹尾春久 髙橋八太郎平松爲太郎 佐々木 勇 森本甚吉矢尾勝司 熊代榮五郎 風早嘉源治 吉田長次郎 片山政治 林 奉寄進 氏子中發起人武南源七郎 阪東徳太郎 深井権吉 柴岡六吉 深井権吉 奉献深井権吉 奉寄進 發起□屋 伊八郎 昭和八年十月 世話人 柴岡六吉深井和三郎武南光五郎御船重太郎 天明八年=1788年 燈籠の銘 天明八年三月
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 88 –第一編 荒神社 作物、火の神などをお祀りしている社(中撫川 中島地内) 10
路傍の文化財– 89 –第一編 神社の石碑 荒神社 神社の由来・配置図 題目石 樹木 社殿 社殿 0 5m N この擁壁(石垣)南面に寄進者名が刻まれている。 祭神:地域の守護神と屋敷神( 火の神、作神など)の信仰対象 手水鉢 手水鉢 鳥居 燈籠 燈籠鳥居 12370 龍宮海 牛 神490 800670 → 奉寄進氏子中 2235 2400 1900 270 150 北面(裏) 嘉永五年(1852)秋 天保四年(1833) 氏子中 龍宮海 天保四 癸 巳 年六月吉日 天保四 癸 巳 年六月吉日 嘉永五年子秋 山地村惣兵衛 750 荒神宮
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 90 –第一編 荒神社 手水鉢・寄進者銘 社新築 氏子中 明治廿九年 申二月 仝  千 智難波 小三郎仝  與兵造光畑 儀三郎仝  幸次郎仝  福次郎仝  周次郎荒木 寅 治仝 吟 造仝 三次郎仝 伊三郎仝 常 蔵 水 嗽 北面 西面 南面東面 同  嶋村平太良同  坪井 五八半間 難波六治良半間 三宅 忠平同  袖岡庄五郎壹間 袖岡小三郎 下撫川 半間 荒木 傳造壹間 荒木源七半間 坪井 万吉壹間 難波 常造同  難波 喜代造 徳芳村 三間 難波定五郎 一間半 岡政 治良 同  荒木兵治良 仝難波 粂吉 仝難波 伊三郎 仝難波 利七 仝難波八右エ門 仝中嶋 久平仝仝仝仝 仝 仝 仝 仝仝 仝仝 仝仝 仝仝 丑五月建焉明治十年丁 手水鉢側面の銘 南側石垣側面にある寄進者銘 鳥居の東側 袖岡 新介は三代袖岡守信 袖岡小三郎は袖岡利秀 明治十年(1877) 鳥居の西側 仝  利三郎平川 源 吉仝  其 吉曽我 島 吉内田 平次郎平松 富二郎児島 忠 吉今岡 治 郎 二間 袖岡 新介同  山口 亮平同  森本 總平壹間 小池 唯治一間半 難波 平藏 一間  難波 藤作 同  平川 多吉同  金光 定吉壹間 曽我 磯助半間 次田石之助 半間 難波 利平 仝 同  難波政五郎 仝 半間 木下 傳藏   中嶋貳間 太田 萬吉 仝 壹間 森 小三郎 仝 同  太田 嘉七 仝 同  太田桂治良 仝 同 平松繁右エ門 仝 半間 太田 芳松 仝 同  太田 又吉 仝 同  太田 八造 仝 同  太田五郎平 仝 同  平松榮治郎 仝 同  松本 芳蔵 仝 同  佐藤 興吉 仝 同  中嶋 庄吉 世話方壹間 荒木岩太郎  下撫川村 仝 半間 荒木與四良   定杭同  荒木彌五良 仝 同  平川 源吉   西向壹間 難波伊三郎 仝 壹間 荒木幸治良半間 児嶋 忠造  大橋 仝 同  太田 利吉   中嶋同  太田菊治良   仝貳間 太田 三造   仝同  太田 百造 650 450 460
路傍の文化財– 91 –第一編 神社の石碑 住吉神社 海の神・住吉大社の分社(中撫川 狭川) 11
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 92 –第一編 住吉神社 神社の由来・配置図 隣 家 社殿 道 路 掘割 道路 由加神社 稲荷神社 恵比寿神 木野山神社 ③ ④ N 水神 天保十一年(1840) 境内には燈籠、玉垣などの壊された 部材が散乱している。 燈籠の銘 燈籠 (2022年現在撤去されている) 拝殿① ② 1,150 火の見櫓 消火栓 天保十一年 子十一月 燈奉 屋岡吉 南面 北面 鳥居 大明神 天保年間に廻船問屋吉岡屋新助守端が大坂・住吉神社の分霊を祭 祀し、私家の海路の守護神として社殿を建てた。 今は吉岡屋の手を離れ、狭川町町内会で維持管理している。 当時は南側の掘割は巾5m程度あり船が行き出来たが、道路拡幅の 為埋め立てられた。
路傍の文化財– 93 –第一編 神社の石碑 住吉神社 その他の神社 嘉永4年(1851) 天保12年(1841) 祠の恵比寿像は風化し剥落している。 天保十二辛丑年 六月吉日 天保十二辛丑年 六月吉日 諸人快楽五穀成就国家安全天下太平吉岡屋新助 吉岡屋新助 守昌繁売商 西面 東面 立建界心庵光貝 立建界心庵光貝 北面 石工徳松 石工徳松 ④ 木野山神社 祭神:大山祇命 流行り病に霊験あらたか。 ③ 稲荷神社 商売繁盛の神様 ① 由加神社 厄除けの神 ② 恵比寿神 商売繁盛の神様 「貝光庵心界」は応徳寺の住職 恵比寿神はイザナギ命、イザナミ命の第3子。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 94 –第一編 2540 2700 13 1 1 11 1 13 11 44 本殿 北 南 東 西 中島廣太綱島清□多田加太郎荒木正雄吉田敬一郎袖岡六三郎袖岡小三郎中島保蔵 113 13 袖岡静太袖岡武夫 西 主施袖岡屋新助 1 11 44 北東← 世話人 児島屋宗兵衛 南 本殿玉垣の銘 天保9年=1838年 住吉神社 玉垣
路傍の文化財– 95 –第一編 神社の石碑 住吉神社 吉岡屋について 呼 び 名 備   考本 名 吉岡屋庄五郎 庭瀬八幡神社(玉垣) 天保2年(1831) (狛犬) 嘉永4年(1851) (旧)撫川大橋常夜灯 慶應4年(1868)安政6年(1859) 文久3年(1863) 撫川八幡神社住吉神社(玉垣) 道標(住吉神社前) 須佐之男神社(玉垣) 須佐之男神社 明治10年(1877) 19001800 1815 1861 荒神宮天保11年(1840)頃 碑の場所と寄進者(○印) 吉岡屋康右衛門 吉岡屋庄吉 吉岡屋粂治郎 初代庄五郎 吉岡屋庄五郎 袖岡 茂登 袖岡 粂治郎 粂治郎長女 二代… 袖岡 徳之助吉岡屋庄三郎 四代元吉岡屋 袖岡 利秀吉岡屋小三郎 五代 袖岡 守信 袖岡 守端 袖岡 覚築吉岡屋新助 新助 新助 初代 二代 三代 中吉岡屋 吉見屋善吉 六三郎を後に善吉と改名 吉岡屋新助, 新介及び庄三郎、小三郎は同一人物 庄五郎、庄吉、康右衛門の生没年不詳 二代、三代庄五郎の生没年は不明 撫川領内の神社( 須佐之男、八幡、住吉、荒の各神社)の玉垣に435名の寄進者の名前がある。 このほか、庭瀬領内の太神宮( 松林寺境内)の玉垣に吉見屋善吉、善吉母の名がある。 碑文の中の「吉岡屋」 吉岡屋の系図 撫川八幡神社の玉垣 須佐之男神社の玉垣 康右衛門 吉岡屋 文久元(1861) 清一郎 真壁郷より移住、吉岡屋と号す。 天保十(1839)年 文久三(1863)年9月 「きびのさと」№38、99から (遠祖は相模国) 備中真壁郷溝口の郷士 袖岡四郎左衛門安之 吉岡屋新助は二代袖岡守端 吉岡屋庄三郎徳之助は利秀? 吉岡屋小三郎は利秀、娘は里與、登與 袖岡新助は二代袖岡守信 文化11年(1815)没 三代 元吉岡屋 中吉岡屋 文政2年(1819)没 五代 大正14年(1925)没71才 正平 六三郎善吉 里與 岩五郎 登與 六代 明治5年没 七代 明治16年没 安政14年(1859)没 芝次 東吉岡屋 源五郎 明治17年(1884)没65才 雄蔵経男 ⑨⑧⑦⑥⑤④③ 明治14年(1881)没71才 文久元年(1861)没47才 角吉見屋 寛政9(1797)~ 茂登 延享3年(1746)没 二代初代 小三郎 曾右衛門小三郎 寛政11年(1799)没明和6年(1769)没 明治15年(1882)没  柳 康平 粂治郎 吉岡屋 慶應2年(1866)没 多賀 庄五郎 天保11年(1840)没 小三郎 小三郎 静太 四代 天保9年(1838)没51才 小三郎亀吉 甚三郎 小三郎 利秀 小三郎 徳之助小三郎 小三郎曾右衛門 覚築新助 守端 守信新助 長女 新助 吉岡屋 九代 八代 ぶ ん 大正5年(1916)没41才 昭和20年(1945)戦死 吉岡屋 小三郎同人娘 新 助 奉寄進 御石垣施主 狭川町 吉見屋又三郎 狭川町 小原屋 藤 蔵 信 屋 芳兵衛 吉岡屋 徳之助 庄三郎事 吉岡屋 庄五郎 袖 岡 庄五郎 吉見屋 善 吉 吉岡屋 粂治良 吉岡屋康右エ門 児島屋 惣兵エ 瀬口屋 清三郎 大黒屋 惣 吉 山 口 飴 屋 喜 助 児島屋 嘉三郎 繋 屋 定 助 幸 屋 佐治郎 日畑屋 宇 吉 吉岡屋 小三郎同人娘 袖 岡 袖 岡 庄五郎 吉岡屋 粂治良 吉岡屋 康右エ門 吉岡屋 庄五郎 吉岡屋 新 助 吉岡屋 徳之助 庄三郎事 同 大内屋 平兵衛 同 吉岡屋 同同同
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 96 –第一編 清 すがやま 山神社(庭 にわせ 瀬城址) 庭瀬藩主板倉家の藩祖をお祀りしている社(庭瀬828) 12
路傍の文化財– 97 –第一編 神社の石碑 A A部側面 ※柱の銘 玉垣の中柱は他の部分に比べ作りが粗い。 明治の移転で新たに作ったもののようだ。 このお社は創建時、邸内の東南の庭園にあったが、明治の初頭にこの地に移転した。 祭神: 板倉内膳正重昌、主水正重矩 創建:寛政五年(1793)五代藩主勝喜 鳥居、燈籠、手水鉢には寛政五年(1793)、狛犬は享和四年(1804)の銘がある。 保存樹(クスノキ) 保存樹(イチョウ) 玉垣は吉備の三郡の大庄屋が寄進した。 「備三郡」とは? B 4501035 献備三郡 大庄屋 御用達 寛政五癸丑年 十二月吉辰 ※ ないぜんのかみしげまさ もんどのしょうしげのり かつやす 句碑 手水鉢① A 本殿 手水鉢② 鳥居 拝殿 B 燈籠③ 燈籠① 狛犬 堀 清山神社 神社の由来・配置図 旧庭瀬藩大手門は移築され、立成寺 (東花尻439)の山門となっている。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 98 –第一編 句 碑 手水鉢① 手水鉢② 庭瀬城址・清山神社と句碑の句について 上田土筆坊 ………………… 清山神社の宝物の一つに、後陽成天皇御震筆の和歌の色紙一葉がある。 板倉内膳正重昌拝賜とあり。 後陽成天皇御製  ほしあえぬ袖を人の問うまで空蝉のなく音やよそに杜の露 即ち、「後陽成天皇が天正十五年に皇位につかれた。 当時豊臣秀吉は関白になった。今を距てること二百 六十五年である。今年嘉永六年の冬更にこの帝の叡 なり将軍職を秀忠に譲ったが依然として幕府の実権いものである」と、慶長十年徳川家康は六十四歳に慮の程が明らかに表されている。庫中のうちで珍し を握り、朝廷の権威を押さえる政策を強く執ってい たので、後陽成天皇はいたく慨嘆されたのである。 (宇垣武治編著「清山神社宝物要記」参照) 後陽成帝の露けき御宸翰 土筆坊  句碑の句は、清山神社の宝物を拝観した際に詠ん だ作品の一つである。 空蝉御歌之記一人王百九代聖主奉称與 後陽成院     則 天正十五年  御即位正親町帝   御子距今暦数二百六十七稔也當時豊臣秀吉為関白此  帝宸翰  不堪於今年嘉永癸丑冬更拝特明庫中之於為珎也失恐惶因而陳此件旨趣恐惶因而陳此件旨趣  書いたの添書き)(十代藩主勝全が 後陽成帝 の 露 御宸翰土筆坊  土筆坊は俳誌「若あゆ」の主宰。「若あゆ誌友建之 平成四年十月」とある。 土筆坊の句碑は庭瀬八幡神社にもあるが清山神社の句は情緒的である。 句の意味は 句の背景は  清山神社に、藩祖重昌が後陽成院より拝領した御宸翰(天皇直筆の文)が保管されている。(宝物目録の②)  御陽成天皇の在位期間は秀吉、家康の執政時期であった。豊臣秀吉は天皇の権威を利用し政権の定着を図るため、家 康は朝廷の権威抑制し、天皇の行為は多くの制約をうけ政治的に不本意な在位であった。 殊に家康は天皇の権能である即位や譲位、元号の改元、官位叙任権などまで幕府主導とした。 そこで、天皇の不満は信頼の篤い京都所司代板倉重矩の言葉に救いを見出したのであろう。 或る日、展示された御震翰を拝見しました。その歌を見ると帝が耐えた労苦がし のばれ寂しさと悲しみにが思いおこされます。 「つゆけし」 秋の季語で、悲しく涙がちであるの意。 神社創建時に奉納されたもの 明治8年(1875)奉納の手水鉢。 明治八年五月吉祥日 保田恒義保田臣孝野崎庄□町田成□宮田□□関原□□ 西面 南面 東面 北面 献奉 寛政五 癸 丑  九月吉辰 西面南面 森  又四郎     ○○中田要右衛門谷口清左衛門高橋惣左衛門稲垣 和□ 宮本直□    ○○ 清山神社 手水鉢・句碑
路傍の文化財– 99 –第一編 神社の石碑 清山神社 燈籠・鳥居ほか 社号の額 拝殿に掲げてある社号 きびのさとNo.13に詳細。 家老渡辺要次郎奉納の燈籠 鳥 居 寛政五癸丑年(1793) 寛政五 年九月吉辰 献備東西家中 みずのとうし 燈籠③ 燈籠①  この燈籠はこの地域で最も優美なものの 一つである。特に基台から傘まで多角形を多 く用いている点が特異である。  銘は通路側に刻まれている。(多くの場合は前面か側面にある) 備東西家中の意味は?  渡辺要次郎は、川野屋高木久太郎の二男 で、家老渡辺家の養子となり家督を継いだ。 11代藩主板倉勝弘が明治維新の後、 爵位を受けて書き残した額。 清山神社 正四位子爵源勝弘敬書 奉納 還暦記念昭和九年渡辺要次郎 2230 柳 高木久太郎 川野屋(醤油醸造) 渡辺寿吉信元 要次郎 要次郎 阿曾村林家(老舗鋳物師)の娘 献 燈 寛政五 癸 丑 年十二月 2590 寛政五年(1793) 6角形 8角形 6角形 癸 丑
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 100 –第一編 →次頁に詳細重昌碑 板倉の系図 清山神社の祭神 延享元年( 1744)伊勢亀山から転封 伊勢亀山 かつしげかつまさかつひろ かつさだ かつすけ かつもと 陸奥白河藩主桑名藩主 しげまさ しげのり かつおきかつひろ 九代将軍 かつゆきかつよし 初代二代三代 初代二代三代 四代五代六代七代八代 九代十代十一代 阿部正信 板倉勝俊勝顕 阿部正信 安藤信由 吉宗宗武定信貞永 備中松山藩備中庭瀬藩 伊勢崎藩主 陸奥福島藩主 陸奥福島藩 武蔵岩槻藩 三河深溝陣屋 京都所司代 京都所司代 周防守 京都所司代 伊賀守 内膳正 陸奥磐城平藩主 紀州徳川家   家康の曾孫)  八代将軍 備前岡山藩主 重昌・重矩 重矩重良 重宣重高昌信勝興勝志 清山神社創建 勝成勝全 利隆光政 ※1※1 ①③ ②  陸奥福島城主板倉勝長 ① 、備中庭瀬 領主板倉勝喜 ② 、三河深溝地頭板倉勝 宦③の3名で寛永15年の島原の乱で討死 した藩祖重昌の顕彰碑を原城内に建てた。  寛永15年(1638)、板倉重昌は深溝藩 一万五千石の領主で、全体を指揮する為 には(特に九州の諸大名を動かすには)、重 量感に欠けているといわれていた。 備中松山藩 勝静の財政改革 ・財政改革(山田方谷による財政再建を実施) ・産業振興(たたら製鉄による鍬,釘の生産) ・行政改革(大阪蔵屋敷の廃止、上下共々質素倹約・・・) → 7年間(嘉永3~安政4)で20万両の負債完済 この金は幕府の長州征伐の軍資金となって消えた。  **真剣に財政再建に取り組み実現した藩は備中松山、米沢藩等少数しかない。**   大方の藩は踏み倒した。 重矩 11代勝弘 寛文5年(1665)老中 4代将軍家綱を補佐 8年(1668) 京都所司代 10年(1670)再び老中 12年(1672)下野烏山城主 13年(1673)57歳で死去 備中松山藩征討 明治元年( 1868)備前岡山藩に合流し本家備 中松山藩征伐に参加。 享保元年(1716) 家 重 吉宗の人口調査 2,654万人 は実子   は養子 清山神社 板倉家の系図
路傍の文化財– 101 –第一編 神社の石碑 清山神社 板倉重昌碑 島原の乱で重昌が討死を遂げた原城内に建立された石碑。 高さ1610mm×幅1053mm×奥行515mm 写真提供:長崎県南島原市観光協会 寛政9年(1797) 裏面 前面  重昌の死後四十三年の延宝九年(一六八一)に孫重道の依頼で建立を計画し、林整宇(林羅山のひ孫)の碑文を彫った。 従五品内膳正板倉重昌碑       整宇林 直民甫撰 志士仁人無求生以害仁有殺身以成仁也夫生死者天也命也倫生全身者君子所恥見危致命者君子所 取也是以欲立義行道母論難易欲立身者名無顧利害也従五品内膳正板倉重昌者武林剋楚也大考従四品拾遺伊賀権守勝重大兄従四品羽林周防権守重宗父子相継任京兆尹保護 禁廷美誉芳声戴在口碑也重昌自幼奉仕 東照大神君視国事其性剛彊直廡温恵闊達歴任 台徳公大献公恩眷不翅寛永十四年丁丑肥前国高来郡賊民蠱感耶蘇拠有馬村原古城蜂起蟻同事達江府 大献公悉使西州候伯士林誅伐之殊命重昌薫其師監其事重昌携令嗣重矩即時進発入其地巡視郭塁 邑土屡出奇計明年正月元日重昌突馳奮戦勇気赳甲冑砕戈折遂死之年五十一惜哉痛哉重矩追跡震 撃竭力労心嗚呼勝敗命也 翟 義死千賊軍袁燦死干石頭忠憤義気干古不磨亦是同日之談也不幾賊兵 五万石高大門 楣 庇其子従四品重道継封済美今 峴 山堕涙 碑乎請詞干余乃叙要概旦係之以銘銘曰  延宝九年辛酉九月 一月纉先志以戮力建石勒文云 南樓關其寧書 従五品内膳正板倉重昌碑
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 102 –第一編 清山神社 宝物目録 ① 一、清山神社縁起書 一巻 寛政四年十二月 吉備津神社藤井高尚の撰文 ② 一、後陽成天皇 御宸筆 一葉 板倉内膳正重昌拝賜 年月不詳 ③ 一、 後光明天皇御宸筆 鎧櫃の「前」の一字 板倉主水正重矩拝賜 年月不詳 ④ 一、 板倉内膳正重昌自筆の書翰 年月不詳 一巻 ⑤ 一、 肥前島原陣跡板倉内膳正重昌の碑文 故大学頭林氏の撰文 関其寧の書 石摺 ⑥ 一、 同右 再建の碑文 一幅 森岡氏の撰文 関克明の書 文化十一年五月 落成。 ⑦ 一、 東照神君(徳川家康)画像景文筆 年月不詳 一幅 ⑧ 一、 板倉家旧領地 上州伊香保温泉之記 一巻 寛文七年八月 野間柳谷撰文 ⑨ 一、 備前岡山藩主池田光政 真筆 一幅 董仲叙の語「義利道功」 年月不詳 ⑩ 一、 寛永十四年十二月板倉重昌肥前国島原一揆追伐 在陣中幕府より下された奉書 一巻 ⑪ 一、 板倉内膳正重昌 辞世 一幅 寛政十五年正月 肥前国島原にて出陣の朝揮毫のもの ⑫ 一、 板倉主水正重矩嫡男重良の夫人自筆 梅の花 一巻 画並びに和歌 寛文七年八月 野間氏抑谷の撰文 ⑬ 一、 神号の額 神道長官占部良連真筆 一面 寛政六年戌 欅板 内法二尺 ×横一尺 ⑭ 一、 神鏡 一面 右二品は本殿に安置 ⑮ 一、 錦陣羽織  ⑯ 一、 具足 一領 ⑰ 一、 太刀鞘付 寛永十四年 肥前国島原に重昌佩用、朱皮包 四歩一 芝引鉄 小柄 ⑱ 一、 金采幣柄 一杖 ⑲ 一、 紅葉山神廟の古瓦 一枚 ⑳ 一、 雉尾の差物 一枚 ㉑  一、 陣羽織 一具 ㉒  一、後光明天皇より拝領の硯箱 内膳正重矩が拝領した「鳴門」の銘の金蒔絵の硯箱 年月不詳 ㉓  一、右皇太后より御菓子を副え賜る蘆の御菓子器 一個 寛文十年二月 ㉔  一、明正天皇(女帝)より拝領の花器 一個 草花を副え拝領  寛文十年四月 ㉕  一、白鞘の太刀 一振 無銘    年月不詳 ㉖  一、鞆鮫 鉄鍔 緑頭 一箱 東園大納言の書翰 女院様お付の局の書翰   ㉗  一、老中より令達の書状 壱拾七通 一箱 ㉘  一、甲冑添書 一箱  鞘務革緑沈記 一箱 ㉙  一、徳應院様親筆(勝資) 一箱 ㉚  一、光永院様真筆書翰(勝志) ㉛  一、永寿院様真筆書翰 (勝興) 一、源光院様御碑銘一箱(重昌) 一、春光院様真筆書翰  一、勝弘公、勝成公両方の書 清山神社の宝物目録 出典 「きびのさと」 第13号 昭和三十四年七月一日 清山神社の宝物とは  祭神重昌・重矩の恩賜の御物や板倉 家の家宝等。重良の正室比佐の力が大 いに貢献している。福島板倉藩の板倉神 社に倣った。(時代も分野も規模も異なる が)冷泉家の時雨亭文庫にも似ている。 ② 後陽成天皇御宸筆の和歌 ⑯ 具足
路傍の文化財– 103 –第一編 神社の石碑 弁財天 弁財天、八幡宮、稲荷宮をお祀りしている社(庭瀬827) 13
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 104 –第一編 手水鉢 鳥居 鳥居 花壇 手水鉢常夜灯 本殿 拝殿 (現在は祭礼用の倉庫) 秋葉宮 蓮池 西本留清書 庭瀨城址 くろがねもち 大賀ハス 燈籠① 燈籠② [大賀一郎博士と大賀ハス]の説明板 [庭瀬城跡]の説明板 昭和四十三年六月 植松伝八建之 ※1~3の石材はかつての使用材の再利用品で溝やほぞ穴の跡がある。 永谷氏 ※1 ※2 ※3 弁財天 神社の由来・配置図 これ等の碑文は三代藩主板倉勝興の在位中に建てられている。 祭 神: 南側は弁財天(学芸の神)、八幡宮(武勇の神)、稲荷神(農業の神)を合祀。 北側の祠は秋葉宮(防火の神)でその扁額の裏に天保7年(1836)の銘があった。 この島に弁財天が祀られており、「弁天島」と呼ばれる。 創 建: 寛文年間(1661〜1672)の庭瀬城絵図に記載されており、板倉以前に創建である。 燈籠は享保20年奉納が最も古く、三代藩主板倉勝興になってからである。 束や柱は手の込んだ造り(八角形)で造作も江戸期の様式のものが残っている。 拝殿の入り口上部には3枚の額が掛けてある。 秋葉宮: 扁額には「天保七丙申歳五月」の銘があった。【天保7年(1863)、きびのさと】 社殿は桧皮葺で鞘堂が懸かっている。 軒瓦の紋は戸川(梅鉢)、板倉(左三つ巴)共にある。
路傍の文化財– 105 –第一編 神社の石碑 弁財天 額・燈籠ほか 室町時代の末ごろ(約四〇〇年前)備中 に築城した。付近の地名から芝場城とも呼松山の三村元親は備前の固めとしてこの地であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事 達安が入り(1602)古城を拡げ城下 町をととのえた。 元禄十二年(1699)板倉氏の居城とな り明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらし た堀もよく残り、沼城の典型を示している。 は現在、吉備公民館に収蔵) 拝殿の入り口にある額 石段脇の常夜灯 本殿前の石燈籠① 本殿前の石燈籠② 拝殿の中の額 八幡宮弁財天 正一位出世稲荷大明神 正一位出世稲荷大明神 535 1930 拝殿床面 稲荷宮弁財天 永代常夜燈 明和八 辛 卯年五月吉日 奉寄進 奉寄進 寛延三 庚 午 年 六月吉辰 享保二十 乙 卯 三月吉日 明和八(1771)辛卯年五月吉日 寛延三年(1749) 1430 1430 享保二十年(1735) 拝殿の入り口上部には3枚の額が掛けてある。( 受け金具2枚分あり) あその北側のお社は「秋葉宮」。 この説明板は現在の「撫川城」を本丸、この「庭瀬城」を二の丸とする 本来の「庭瀬城」の説明板である。 芝場城は足守川右岸にあった城の名称。 (この城は永禄10年、宇喜多直家の重臣戸川平右衛門秀安により落城。) こうげじょう 庭瀨城址 岡山市庭瀬
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 106 –第一編 三 さんじんじゃ 神社(撫 なつかわ 川城址) 稲荷宮、八幡宮、光明電(竜)王をお祀りしている社(撫川423) 14 撫川城址は、野面積みの石垣を持つ古城で「岡山県指定史跡」第一号として指定され、周囲に幅15mの豪池をめぐらしている。 城址内の三神社は、明治になって旧領主戸川氏によって造られた。
路傍の文化財– 107 –第一編 神社の石碑 横田盛展はいかなる人か? 撫川八幡神社の玉垣に横田(正三郎)盛貞とある。 享保3年(1718)頃の人盛展はその子孫(天保の初期の人) 享保17年(1734)は大飢饉の年だった。 戸川撫川知行所は二代達索の治世で、 飢饉により年貢を例年より半減し、 幕府に借金を仰ぎ、商人に金策を頼むなど 窮迫した財政状態だったという。 その中で、寄進した太田さんはどんな人か? 文化二 乙 丑歳 (北面にある)2840 3460 文化二乙丑歳(1805) きのとうし …六代戸川達義の時代 みちよし 井戸 手水鉢 手水鉢 燈籠 鳥居 鳥居 大手門 0 5m 享保十七 壬 子年四月 三神社 鉢水奉 850 700 太田 □介 享保十七年(1734) 撫川城址公園 この公園用地は撫川城址の土地所有者で 付を受けたものであり公園開設に当たっ以上五氏の相続者の方々から岡山市が寄ある岡田全殿 佐藤瀧江殿 難波斐太殿   森下亀三郎殿 坂田壽平殿 ては「撫川城址を守る会」の宮田和正殿  昭和六十年六月 岡山市長 松本 一坪井邦太殿をはじめ、逢澤潔殿ほか多くの方々のご尽力によるものである。 公園名称碑 南面 北面 奉寄進 横田盛展 三神社 配置図 扁額

地(都宇郡下撫川村・中撫川村・日畑村、賀陽郡庭瀬村) 5000石があたえられ、旗本として戸川氏嫡流の名跡を継ぐこと になった。

その後幕府によって庭瀬村(領地と陣屋)が召し上げられ た際、「古城」と呼ばれていた撫川城址を中心に新たに陣屋 を構えることになった。庭瀬村の替地として賀陽郡三田村、小

田郡宇戸谷村、川上郡ニケ村・九名村・大津寄村・高山

村等があたえられ、以後明治維新を迎えるまで8代にわたって この地を支配した。

達冨時代に作成された「撫川陣屋絵図」には、当時の 陣屋の様子が克明に記されている。旗本は江戸在住が原則 であったが、陣屋には「御用場」(知行所)や「御蔵」等 が設けられ、少数の家臣と武家奉公人が住んでいた。城内

には「竜(電ヵ)王堂」が造られ、水神を祀っていた。その 後、堂は安永七年(1778)に新たな社殿が完成し、寛政六 年(1794)には修築された。

明治維新を迎えると、最後の領主戸川達敏(彼は高松藩 主松平頼胤の一族で、養子として戸川氏の家督を継いでいた) は讃岐に隠棲する際、「本段(撫川城址)に祀っていた光 明電王と八幡・稲荷の三神を合祀し、その保存と維持を旧家 臣に委託し、陣屋内の水田1反5畝余をあたえた。委託さ れた旧家臣らは明治十一年(1878)、社殿(本殿修繕、拝 殿造営)を造り、三神社と称した。

以来、撫川城址及び三神社は在住する旧家臣の末裔らに よって守られてきたが、昭和五十九年(1984)旧家臣末裔 の宮田和正らの働きかけにより「撫川城を守る会」が結成され、 翌年城内の土地はすべて岡山市に寄付され公園となった。そ の際、地元有志によって「三神社奉賛会」が結成され、老 朽化していた社殿は改築された。その後、「撫川城址整備委 員会」等が組織され周辺の整備が進むとともに、住民の奉仕 活動によって美しい状態が保たれている。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 108 –第一編 三神社 神社の由来 三神社のいわれ 旧幕時代、撫川領主戸川氏が領内の守護神として鎮座したもの 祭神: 八幡、稲荷、龍王 龍王神は別名を雷神または光明電王ともいい、仏教からきた尊稱語で、祈雨を受け持つ神である。 (「きびのさとNo.82」からの抜粋) 戸川氏はもともと戦国大名宇喜多(直家・秀家)氏に仕え ていた重臣であったが、達安の時秀家と対立し、関ヶ原の戦 いでは東軍に属して戦った。戦後、達安は徳川家康から大名 に取り立てられ、備中に2万9200石の領地をあたえられ、庭 瀬に陣屋を構えた。大名としての戸川氏は4代安風に嗣子が なく延宝七年(1679)一旦絶えたが、安風の弟達冨に知行
三神社の由来(一色節二氏筆) 太鼓橋  太鼓橋は旧屋敷内への重要な表口にして、欄干の敷石に 「文 (1814) 化十一□□石工人 高 たこお 尾村 中谷新助」と刻んである。 (高尾村は現在の妹尾の一部)(きびのさとNo.2より)
路傍の文化財– 109 –第一編 神社の石碑 大手門・表門  現在の門は、太鼓橋の南にあった大手門を御 本壇に移築したもので(時期は不明)、何度か手 が入っている。  また大手門が移築される前は、戸川家館邸の 表門があり、明治初年に岡清三郎が譲り受けて本 屋敷392番地に移築したが、現存はしない。 拝殿 三神社 拝殿・大手門 拝殿の正面には廣陵間寛の筆による「八幡祠」、右側に「光明電王」があり、 左側に「稲荷」が掲げてある。 館邸表門 大手門 三神社 太鼓橋 清山神社 弁財天撫川城址 庭瀬城址
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 110 –第一編 裏面記載無し 表表 表裏 裏 裏 三神社 奉納額 文久二 壬 戌 年 戸川主馬助藤原達敏 九月吉辰日 天保十五 甲 辰 歳九月吉祥日 天保十五 甲 辰 歳 十二月吉旦 小笠原流 岡五郎左右衛門 藤原元貞 徳四郎 源 長之進 藤原政道藤原博篤 常之丞 十二歳十五歳 孫左衛門 藤原守常 源 市右衛門 藤原恭鎮 天保十五 甲 辰 歳九月吉祥日 市右衛門 藤原恭鎮 孫左衛門 藤原守常 徳四郎 源十五歳 長之進 藤原博篤  上部は雨水を含んで破損が著しい。左上隅に「天 保十五年甲辰歳」と記載され、下部には8名の記載 あり。竹釘を使用している。 ※「きびのさとNo.2によれば、当時三神社の拝殿には「岡元貞門 人8名による小笠原流の奉納額」が存在したという。これがそれでは ないかと思われる。おな小笠原流とは弓馬術の礼法である。 本ページは、一色節二氏の調査記録より抜粋  額面上部の左右に矢を装填する輪っかがあり、近くに矢の 一部と思われる竹片があった。和釘を使用。  戸川主馬助藤原達敏は八代(最後の)撫川領主(旗 本)。戸川定太郎達寛は七代領主である。 鏡は現存せず。 森下氏は戸川氏 の家臣。 幅106×高さ73(63)cm 幅34×高さ97(94)cm 幅34×高さ97(94)cm 幅29×高さ86cm 幅33×高さ34cm 納 奉 納 奉 冬 秋 夏 春 奉納額 【 天 (1844年) 保15年9月の札】 【 天 (1844年) 保15年9月の額】 【 文 (1862年) 久2年の札】 【 寛 (1800年) 政12年の鏡台座】 【 天 (1844年) 保15年12月の額】 これらは昭和60年の改築まで拝殿内の鴨居に掲げてあった。改築時に社殿裏の倉 庫に移されたが、後に雨漏り等によって甚だしく腐朽した。平成28年に県立博物館で 燻蒸処理をしていただき、現在は社殿内に保管されている。 戸川定太郎達寛 納 奉 干時寛政十二庚申 九月下旬 奉寄進鏡一面 森下性
路傍の文化財– 111 –第一編 神社の石碑 棟札 裏面記載無し 普請成就 嘉永三庚戌歳四月十五日 御開門 御普請掛 御作廻方元締役 岡田右衛門晴重 丸川喜右衛門光久 丸川新右衛門保政 福永増五郎 横田武右衛門嵩盛 難波章右衛門常貞 佐藤武右衛門栄成 嶋村甚五郎 南無妙法蓮華経 啓運両山 十五世嗣法燈 幅13.5×高さ72cm 幅14×高さ56cm 表 表 表 表 表 裏 裏 裏 裏幅16×高さ76cm 幅15×高さ26.5cm 幅12×高さ34cm 【棟札(大 (1926年) 正15年)】 【棟札(明 (1878年) 治11年)】 【棟札(嘉 (1850年) 永3年)】 【法華曼荼羅(寛 (1797年) 政9年)】 【法華曼荼羅(天 (1844年) 保15年)】 きびのさとNo.82には、嘉永三年、神 門と社殿を修復したという一対の 棟札の記述があるが所在は不明。 本殿右側に収められた覚如山(不変院)第 十一世住職の日顕によって、法華経・天照大神・ 鬼子母神・十羅烈女・八幡大神などを勧請。 不変院第十五世日侃のもとで社殿の旧札を真札 (南無妙法蓮華経 稲荷大明神を中心に、四天 王・妙見大明神・八大龍王・天照大神・鬼子母 神・八幡大神を周辺に配す)に替える。 三神社 棟札ほか 社殿の修理は創始以来数回にわたって行われた。  「當所」(撫川陣屋)のほか「板くら、宮内、茶や町」など近在の居住地が記載されており、戸川家家臣だけでなく、身分を越 えて発句(俳句)を楽しむ同好の人々が集まっていたことが想像される。額裏に「願主」として9名の名前が記載されているが、 雨水と虫害のため痛みが激しい。 幅197×高さ67cm 拝殿内東面の鴨居に 掛けられている。 【 安 (1860年) 政7年の獻納冠發句集 秀吟五十章】
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 112 –第一編 戸川家の系図 庭瀬城主 庭瀬藩主 撫川領主 秀安達安 は実子   は養子 後月・小田両郡内三千石 三千三百石分知↓三千石 一千二百石 四百石↓五百石 三千四百石分知 五千石 二万九千二百石 二万三千三百石 二万一千石 一千五百石分知 三百俵 (延宝七年断絶し庭瀬藩は天領に。達冨が名跡を継ぐ) 妹尾領主 早島領主 (重明) 帯江領主 中島領主 安長安精 みちやす やすもとやすとし やすちか やすあきしげあきら やすともやすずみ やおじろう やすきよ やすなが やすみち ともやす みちのりみちつねみちくにみちひさみちよしみちひろみちとし みちとみやすさだやすはるやすとしやすひろやすおきやすてる やすちかやすたみやすゆきやすみちやすいえ 達義達寛 (断絶) 女 (坂崎出羽守の室) (断絶) 村由村真 安聡安泰 安論安清 八百次郎 安民安行 安道安宅 初代二代三代 初代二代三代 四代五代六代 三神社 戸川家の系図
路傍の文化財– 113 –第一編 神社の石碑 伊勢神宮の天照大神の分霊をお祀りしている社(庭瀬707) 太神宮15
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 114 –第一編 太神宮 神社の由来・配置図 鳥居の跡 (現在は吉備護国神社に移設) 御影大神宮は伊勢神宮の天照大神を祀った神社。  仏道で天照大神を御影大日尊と言う。臨済宗東福寺の別峰国師が天 照大神の分霊を勧請して旧栗坂村(倉敷市庄)の少融山定林寺(現在の 松林寺)に鎮守としてお祀りした事に始まる。  鳥居の在った位置は正確ではないが、昭和時代に吉備護国神社に寄 贈・移設され、(銘は戦後にセメント詰めされた)現存している。 (額束の文字は「大国魂神社」となっている) 天保十四年 怨八建立之 天保十四年 怨八建立之 石燈籠⑤ 天保十五辰二月蠖山代 石燈籠④ 壬 辰 800 700 手水鉢 石燈籠③ 本殿 倒壊中 天満宮石燈籠② 石燈籠① 手水鉢    庭瀬講中明治三八晩秋日  施主 ← 石燈籠⑤ 石燈籠④ 石燈籠③ 小田郡 御用講中 小田郡 御用講中 2m 隣 家 東福寺派禅臨済宗 清水山松林禅寺 宝蔵 正徳二年(1712) 戒壇石 奉寄進 正徳二九月吉日備前岡山
路傍の文化財– 115 –第一編 神社の石碑 西面 【北側】 東面 北面 南面 西面 【南側】 【北側】 【南側】 同 福岡屋重右衛門 北面 北面 南面 東面 東面北面 東面 天保十五年(1844) 「蠖山」は第十六世 蠖山禅師(明治十二年没) 石燈籠② 明治十二年=1880年 石燈籠① 宝暦十年(1761)延享三年(1746) 参道(石畳) 参道(石畳) 「鰲山」は第十代中興 鰲山禅師(宝暦九年没) 宝暦九年=1760年 「月枝珊」は第十一代 月枝珊禅師(安永四年没) 安永四年=1776年 平安時代以前 それ以降 ←駒の爪 名称 梵鐘 半鐘 喚鐘 口径 鐘 青銅製又は鋳鉄 朝夕の時報(暁鐘、昏鐘)太平洋戦争の為ほぼ9割が鋳潰された。 延享三丙寅歳 宝暦十庚辰天現住月枝珊代 三月朔日 現住持鰲山代永代常夜灯 蠖山代 蠖山代 九月廿有六費 1尺8寸以上 1尺7寸以下 高さ75cm以下 平野邑天保十五辰歳三月片宿邑観音堂永野邑西平野邑 世話人観音堂 同平野邑直次郎福岡屋重右衛門 観音堂 直次郎 主 願 郎次熊屋田岡 太神宮 燈籠
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 116 –第一編 同同同同 西側 同同同同撫川町同同同同同同浦見世 世話人 長埜 安井 久七撫川 吉見屋善吉平埜 太田元四郎 奉寄進 奉寄進 宮内 片嶌屋 国富 若松 は 都文治郎 舟越□ 巳之歳男 萬五郎 奉寄進奉寄進奉寄進 佐々木啓亮 同 上原 操 万納屋尾原屋橋本屋橋本屋佐伯屋吉岡屋小西屋長崎屋 繁 屋 大坂渡海□ 屋 和三郎藤 蔵 上庄村  要吉同 江本 翁介同 谷 甚右衛門 太田宗一郎 ←天保十四癸卯秋八月 撫川町 故東平野 郎三徳代熊 同同風呂屋口 原   氏小 池 氏 同庭瀬町西平野 鈴木 政恒吉田孫兵衛 浅尾與右衛門西田 定治郎 福岡屋田中屋児島屋 大河内 又七 同 同 同 同同同撫川治三郎 宗兵衛 国富 源次郎岸田 和一郎 荒木 恕平渡辺 絆 太田 牧太郎 同同同同同同 同 同 同 同 吉兵衛新 助金 蔵清十郎浅五郎吉兵衛栄 蔵善 助彦兵衛弥 吉代 蔵庄 吉仙 吉文治郎松三郎竹 蔵勘次郎 幸 吉儀兵衛 中野屋加納屋大工屋大内屋小西屋鳥羽屋土佐屋岡島屋平野屋 平野屋 喜十郎芳 吉 太田屋吉岡屋 同同 同 同同東平野村 西村喜太夫森田 五郎 鳥越 平兵衛 辰之歳男 同同早島庄九郎 伊兵衛萬三郎三八郎喜三郎源五郎□□□伊兵衛半三郎俊 蔵 延右衛門 物部筆蔵藤治衛門 太 兵 大山 俊造 同同栗坂村 この間、倒壊中。 同 難波重右衛門 奉寄進 同平田村 同 同 同 同 北側 東側 南側 この柱の西面 備前国津高村尾上村 玉垣の銘 土佐屋、鳥羽屋など「ござ」を商う商家の名前があり,「いぐさ」の生産が基幹産業だった。 「土佐屋弥吉」は 撫川八幡神社、須佐之男神社、大橋観音堂にも残っている。 寄進者は庭瀬周辺の村々に広く及んでいる。備前尾上村、平田村、栗坂村、宮内村 … 吉岡屋、吉見屋、福智屋は廻船業。「大坂渡海 三八郎」は船頭か廻船問屋? 南側の片嶌屋萬五郎以下六名は宮内村の人々。 徳田又兵衛富潤 吉見屋善吉母 石原猪平太田口衛士助中山豊平衛 宗 兵 衛幾   蔵金 五 郎 宗 兵 衛幾   蔵金 五 郎 世話人 當町福智屋重兵衛 福岡屋幸右衛門 太神宮 玉垣 万納屋については、 53頁参照。
路傍の文化財– 117 –第一編 神社の石碑 太神宮 鳥居 御影大日尊(松林寺太神宮)の鳥居 (現在は吉備護国神社にある) 十六世 蠖山禅師(明治十二年〔1880〕没)の創建 この地域では最大級の鳥居である。 伊勢神宮と同じ形の神明鳥居(貫が柱から尽きだしていない形)であるが、笠木に反りがある。 柱の文字はセメントで埋められ、額束は「大国魂神社」に掛け替えられている。 かくざん 天保十四癸卯歳九月吉辰 現住恕蠖山代 天保十四年(1843) 5600 3100 1265
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 118 –第一編 八幡神社(大坊) 庭瀬の日蓮宗信徒の神社(庭瀬866) 16
路傍の文化財– 119 –第一編 神社の石碑 燈籠① 昭和六年一月建之 俊三郎熊 隣家 隣家 狛犬 鳥居 手水鉢 石灯籠石灯籠 0 5m 拝殿 米寿記念昭和拾年正月吉日 柳 米寿記念 柳 燈籠① 不変院 屋根の形状、紋章など日蓮宗そのもの。 狛犬、石灯籠はコンクリート製である。 寄進者「河野屋」(高木久太郎)とあるが造り替えられた。「きびのさと」No.118 手水鉢 太田 誠 鳥居 寄進者 太田俊三郎 燈籠②燈籠③ 石灯籠 (コンクリート製) 戸川家の家紋 梅鉢 軒瓦 奉納 3,380 八幡神社(大坊)神社の由来・配置図
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 120 –第一編 瑞離(玉垣)の銘 本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁( 南側) 高木 久太郎 本町の富豪醤油醸造業「河野屋」当主 燈籠①の寄進者「高木 柳」及び玉垣の「当町本家高木申年女」はその妻 本家  高木申年女 南側 北側 東側 東→←西 北→←南 西→←東 西側 本社拝殿建築寄附連名 一金参百弐拾五円 一金壱百参拾円一金壱百円一金三拾二円一金五拾円一金五拾円一金六拾円一金六拾円一金八拾円一金二拾一円一金二拾一円一金二拾一円一金二拾五円一金二拾五円一金二拾五円一金二拾七円一金三拾円一金三拾円一金三拾円 一金拾三円一金拾三円一金拾六円一金拾六円一金拾六円一金拾七円一金拾七円一金二拾一円 野崎常吉野崎増三郎永井伊三郎森 巳之助田中 猪七林 勝次郎安井甚四郎田和富十郎 一金拾二円一金拾二円一金拾二円一金拾二円一金拾二円一金拾二円一金拾二円一金拾二円 安井源次郎安井辰三郎安井五百吉国富清次郎野崎 友吉野上 金吉野崎 武吉野崎 信雄 太田 俊三郎内田 慶太郎高木 久太郎積立金氏子中 安井 熊永井 竹三郎高木 宗太郎藤田 熊太郎太田 五郎吉安井 常太郎太田 鉄五郎三宅 要造野崎 廣太吉田 佐之助太田 敏夫野崎 一十郎太田 久 一野崎 官治 鉄五郎虎之進 奉献  太田 俊三郎 奉献河村丑年女 則武 栄蔵西観音堂信徒中本町邸内信徒中 太田 敏夫 小野 輝太岡本 軍一野崎 幹雄草野 慶三熊代仁左衛門熊代仁左衛門太田 敏夫中田信徒中太田 辰三郎安原 又五郎守屋 定治郎熊代 栄五郎熊代 栄五郎安井 勝太郎午之年男人見 良一森安 繁太高塚 久次郎高塚 弥三郎田中 猪七岡崎 初治片山 政治糟谷 喜三郎 西村 新三安井 柳三郎安井 半次郎安井 五百造 安井 光 平安井 惣太郎 奉献  安井 熊 太田 昌治太田 多三郎太田 鉄五郎林  勝次郎林  勝次郎太田 鉄五郎則武 半二郎 国富 浦 造西  牧太郎安井 米太郎草野 末 吉兼松 浜蔵森安 康二岡本 源治郎高木 宗次郎高木 宗次郎三宅 保次郎三宅 保次郎岡崎 豊三郎山崎 徳太郎野崎 常吉中尾 源平野崎 増三郎野崎 増三郎野崎 武吉野上 淑夫野崎 友吉野崎 源之助東光田信徒中西光田信徒中 国富 清三郎林 彦次郎松本 道造黒瀬 虎吉 矢尾 寿吉太田 誠之 栄町戎町片宿 信徒中 吉田 金作片山 守夫真野 安太郎東平野信徒中東平野信徒中岡崎 孝兵衛岡崎 孝兵衛安井 常太郎安井 常太郎吉田 佐之助吉田 佐之助難波 庄次郡安 斧七野崎 官治野崎 官治難波 重太郎 亥之年男 三宅 常次郎 安井 京一 国富 三喜次永井 伊三郎 八幡神社(大坊)玉垣
路傍の文化財– 121 –第一編 神社の石碑 八幡神社(大坊) 回廊の壁にある芳名録 氏 子信者中世話人 大見屋忠兵衛花尻屋 兼吉田本屋 忠八 明治五壬申四月吉日 人話世 本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(南側)の内側 本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(北側) 本殿と幣殿を結ぶ回廊の壁(北側)の内側 本殿前の線香台 一金八円 森  勝次郎一金弐百参拾円 氏子中一金七円 吉田 佐之助一金八円 吉田 金作一金五円 千原 □□一金七円 江本 □□ 金拾一円 阿部 六郎 仝   関 儀三郎金拾二円 森安常次郎 仝   富岡 吉太郎 仝   仁科 □金 拾円 河村 □ 仝   野崎 伊三郎 仝   永井 利平 仝   横畑 新治 仝   兼松 次郎 仝   真野 直次郎 仝   安井 鉄五郎 仝   矢作 寿吉 仝   熊代 国三 仝   草野 徳三 仝   則武 政金 八円 加治 繁太郎 仝   守屋 定次郎 仝   佐藤 担次郎 仝   小山 倉吉 仝   軍安 分七 仝   松本 □造 仝   岡崎 常三郎 仝   岡本 源治郎 仝   野崎 真喜夫 仝   高塚 弥三郎 仝   吉田 金作 仝   川村 三次郎 仝   兼松 濱次郎 仝   太田 徳三郎金 七円 岩藤 芳之助 仝   安原 栄吉 安井 金次郎太田 俊三郎河村 □燈林  勝次郎真野 安太郎太田 敏夫太田 卯三郎太田 鉄五郎西村 光番吉田 久右衛門吉田 佐之助渡辺 康男岡本 源吉 高木 宗三郎高塚 弥一郎田中 猪七安井 鉄五郎黒瀬 喜代治則武 栄蔵草野 慶三野崎 常吉野崎 官治川田 丈之助森  栄三郎三宅 要造阿部 六郎安原 栄吉 発起者  仝  安井 繁次郎 仝  熊代仁右衛門 仝  野崎 乙松金七円 宇□金二郎 仝  黒瀬 喜代治 仝  野崎 □三郎 仝  中山 常次郎 仝  太田 寿之助 仝  太田 恵三郎金六円 西村 新造 仝  管野 清治 仝  森安 重二 仝  森安 利喜 仝  和田 末吉 仝  桐野 治郎 仝  山崎 芳松金十五円 二宮 熊吉  仝  吉田 常次郎 仝  渡辺 要次郎 仝  千原 寛夫 仝  高島 多七郎 仝  吉田 藤造 仝  内田 仙太郎 仝  難波 重衛門 仝  田山 辰造 仝  角田 太一郎仝 仝  森  栄三郎 仝  阿部 惣五郎 仝  佐藤 木太郎 仝  小山 光三郎 仝  安井 米次郎 仝  則武 栄蔵 大正四年五月建之  西村 光番 書之 太田 ○○ 各イロハ順
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 122 –第一編 妙見社 北極星を神とし、災難の除去、延命を祈願(平野375) 17 国境石 このお宮は妙見宮です。「開運北辰妙見大菩薩」を祀っています。 境内には備前・備中の国境石が甲南村より移設され保管されています。
路傍の文化財– 123 –第一編 神社の石碑 三十番神 境守明王 荒瀧光王 吉川明王 吉川明王荒瀧光王三十番神境守明王 手水舎 5m 道路 JR鉄道用地 奉納 妙法蓮華経如来神力□第二十一番 標識柱 190 1600 ① 国境石 ① ② ② ③ ③ 拝殿前の線香台 祭神: 北極星を神格化した菩薩妙見菩薩は日蓮宗で祀られている。 創建: 寺領は線路の南側の墓地まで及んでいる。 法界様 妙見社 中正山了性寺 火の見櫓 (中正院の隠居寺として創建) 境目川河畔にあった国境石。設置時の正確な位置はわからない。 甲南村は明治8年9月から14年9月までの6年間存在した。 昭和の末期、造成の為放置されていたものを、総代が永久保存の為、ここに 移設した。 従是西備中國甲南邨 次左エ門 田本屋友三郎光屋亥歳男 今保村平野村 妙見社 神社の由来・配置図
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 124 –第一編 妙見社 鳥居・玉垣 南面 西面 南面 石灯籠石灯籠 玉垣左 玉垣左 玉垣右 玉垣右 1822年 文政五 壬 午 三月十五日 文政五 壬 午 三月十五日 東面 北面 天保九戊年 天保九戊年 十二月十一日 十二月十一日 辰北 川入上庄 奉寄進 太平次 宇 七 三郎兵衛 久三右衛門 吉五郎常太郎金右衛門申之歳 大福屋濱田屋宮内山田屋中田屋中野屋中田村目代 今保屋 井出二軒屋 白石久米延友今保 狛犬(台座のみ) 文化十二 己 亥年女中講 妙見大菩薩 鳥居の舟木の底面に書かれている。 文化十二年(1815) 橋の欄干の親柱か、 何に使われていたのか用途がわからない。道 路 1838年1月 宮内村の人の名前が多い。 観音堂北片宿中田長野 西平野岡山中□町 濱田屋今保本屋 藤三郎曾 平甚 平 奉寄進 宮内三門屋宮内長崎屋 西花尻東花尻観音堂岡山本町宮内柏屋太田□□吉東平野村年寄 風呂屋口 藤四郎 彦四郎太兵衛辰之助 半左衛門妙見講中 岡田屋  熊治郎 中當藩 中講中家 中當藩 中講中家 中邨當 中邨當
路傍の文化財– 125 –第一編 神社の石碑 薗 おんざき 﨑神社 大吉備津彦命の重臣をお祀りしている社(延友 前場地内) 18
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 126 –第一編 薗崎神社 配置図1 手水鉢 (銘はない) 太鼓橋 ②③④① 北側南側南側 西側 東側 ④ 線香立 奉 燈 南面 燈籠① 焼却場 井戸 記念碑 1550 旗竿 燈籠① 奉献 0 5m 線香立 本殿前の石橋は、永年寒中修行で積み立てた浄財で 安政5年(1858)に寄進された。 安政4年(1857) 鐘楼 薗崎神社御祭神ハ吉備津彦命ノ重従臣ナリ、 此ノ地ニ鎮座セラレシハ貞享四丁卯九月二十日 備中国加夜郡延友村ト御尊像ノ最下部ニ明記シ テアリ其レヨリ起算シテ三百年ニ相当ス、依テ 往時ヲ偲ビ偉大ナル御神徳ニ感謝シ、記念碑ヲ建立シテ永ク後世ニ伝フルモノナリ 薗崎神社御祭神ハ吉備津彦命ノ重従臣ナリ、 此ノ地ニ鎮座セラレシハ貞享四丁卯九月二十日 備中国加夜郡延友村ト御尊像ノ最下部ニ明記シ テアリ其レヨリ起算シテ三百年ニ相当ス、依テ 往時ヲ偲ビ偉大ナル御神徳ニ感謝シ、記念碑ヲ建立シテ永ク後世ニ伝フルモノナリ 太鼓橋の欄干親柱 本殿 本殿の尊像に「貞享4年9月20日(1687)備中国賀陽郡延友村」と明記されている。 本殿は昭和57年4月大修理された。 ① ②③ 記念碑 南面 西面北面 (1684年10月25日、庭瀬戸川藩滅亡し倉敷代官所管理下にあった) 貞享四丁卯九月二十日 維時昭和五十八年五月 維時昭和五十八年五月 薗﨑神社三百年記念碑 延 友 氏 子 中 功徳力懸之賽銭米之積勲功力懸之寒中修行依安政五年 午七月吉日 世話人□女本村子供中 安政四巳年
路傍の文化財– 127 –第一編 神社の石碑 狛犬狛犬 サクラ サクラ 道路 ① ②③ ④ 石段の親橋 足守川 0 5m 燈籠② 燈籠② 鳥居 天長地久 氏子繁栄 五穀豊穣 岡山県都窪郡 吉備町大字延友 昭和三十二年五月薗﨑神社 平成27年土手改修前の配置 延友氏子中 世話人 国土安穏 奉納者北米加州在住北米ポートランド市在住 牧野 柾治岡崎 静雄野崎 円吉狩谷 一子岡崎 歌津岡崎 秀吉  髙田鋳造所作備後国新市甼 ③④ ② 薗崎神社 配置図2 石段は、平成27年12月、南 側堰堤拡幅工事のため撤去さ れ、少し南側に新しく設けられた が、古い親柱だけは敷地内に残 された。 村氏子中 世話人 子一月吉日明治廿一年 二濱社員 堤防のかさ上げ工事(約2m)は明治21年に完了していた。 石段の親柱 神鐘の銘 鐘楼 ① ① ③ ② ④
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 128 –第一編 文政五 壬 午九月吉日 文政五 壬 午九月吉日 狛犬、台座とも赤御影石。 文政5年(1822) 700 1,250 元禄5年(1692) 2,060 800 薗﨑神社 元禄五 申壬 八月吉日 元禄五 申 壬 八月吉日 岡崎善十郎 昭和九年寄附者 奉燈 奉燈 薗崎神社 鳥居・狛犬 平成27年12月、南側堰堤拡幅工事のため、老朽化した鳥居は撤去され、少し南側に復元新造された。 燈籠2基と狛犬も合わせて少し南側に移設された。 鳥居の額束は旧来のものが 使われている。 旧鳥居 鳥居・燈籠② 狛犬 平成27年12月に移設平成27年11月までの姿 平成27年12月に移設
路傍の文化財– 129 –第一編 神社の石碑 稲荷神社 撫川地域の人々が商売繁盛を願い祀った神(撫川166近隣) 19
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 130 –第一編 稲荷神社 神社の由来・配置図 正一位稲荷大明神 商人中 早 島 540 天保十四癸卯年二月 天保十四癸卯年二月(1843) 380 社号 子年女 備前岡山尾町あたりや □□ □は籤奉? 絵馬 4000 5850 社号の扁額 鳥 居 線香台 線香台 手水鉢 手水鉢 (信者のお話によると) 約150年前、伏見稲荷の「三の鳥居」の神を勧請したと伝えられている。藺草長者の寄進が多い。 天保十四年(1843)に奉納された絵馬がかかっている。信者の人々は信心深く、社殿はきれいに 祀られているが社殿が私有地にあり相続などの問題も起きている。 480 800 480 270 300 700 納 奉明治十九年 五月吉日 お近お亀お花氏木荒
路傍の文化財– 131 –第一編 神社の石碑 新宮社跡 吉備津宮の摂社として、吉備武彦命を祀った社(川入1288近隣) 20
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 132 –第一編 新宮社跡 神社の由来・配置図 ※詳細は次頁 吉備武彦命鎮座地跡地 吉備武彦大神遙拝所新宮社跡 明治6年癸酉(1873) 明治六年 癸酉仲秋 弘化3年(1864) 牛神碑 弘化三歳正月吉日 午 丙 進奉寄 手水鉢 木野山神社 稲荷神社 跡地碑 薬師堂 影向石 つち饅頭 (伝・吉備武彦の墳墓) 弁財天 吉備津神社 祭神 正宮 主神 大吉備津彦命 本宮社 考靈天皇 百田弓矢姫命 吉備武彦命 犬養健命 内宮社 百田弓矢姫命 新宮社 吉備武彦命 岩山神社 影 ようこうせき 向石  岩は王墓山古墳と新宮社の位置関係を表 している。春分、秋分に王墓山→鳥居→真如 院は一直線で太陽に並ぶ。 1. 大吉備津彦命 吉備の中山の麓に「茅葺の宮」に住み吉備 の国の統治をした。280歳の長寿を保ちついにこの茅葺の宮に 薨じ、御墓は「吉備の中山」茶臼山の頂に葬られたという。 2. 吉備津宮の創立は吉備津彦命の五代の孫、加夜臣奈留美 命が茅葺の宮・・・ 3. 一説には、仁德天皇が吉備海部直の娘黒媛を慕って難波か ら吉備国に行幸したとき、吉備津彦の功を嘉して社殿を創建し これを祀った。 4. 創建時、吉備津神社から当社迄約900mの回廊が設けられ ていたが、藁葺でもあり、山火事で焼失した。
路傍の文化財– 133 –第一編 神社の石碑 新宮社跡 鎮座跡地碑・遙拝所 官幣中社吉備津神社禰宜藤井杢之助謹誌 大正四年十一月上萍 分社祭執行 社ニ合祀シ益々財産ノ基礎ヲ鞏固ニシ四時ノ祭祀ヲ厚クセンガ為明治四十 二年八月五日其ノ筋ヘ出願同四十三年二月二十六日許可ヲ得遂ニ同年 三月十六日盛大ナル合祀祭ヲ執行シタリ依テ碑ヲ建立シ諸々顛末ヲ記 シ後年ノ記録ト資スル云々爾 元村社新宮社御  神ハ吉備津神社ノ摂社本宮社御祭神ノ曾孫ニ座坐シ シ御由緒上緒離ル 可カラザル御関係ヲ有スル為ニ往古ヨリ絶ヘズ本社ヨリ幣帛ヲ 奉リ奉祀    セルニ偶々合祀ノ命令ニ接シタルヲ以テ熟議シ上記新宮社ヲ本宮 吉備武彦命鎮座跡地 孝霊天皇 若日子建吉備津日子命 大吉備津彦命 景行天皇吉備武彦命 日本武尊 吉備武彦大神 遥拝所 木野山神社 稲荷神社三宝荒神豊受比賣神 昭和十五年五月建之 裏面に 300 880 1600 吉備津彦命鎮座跡地 吉備武彦大神遙拝所 神社合祀政策明治39(1906)年の勅令 その目的 神社は「国家の宗祀」という国家原則に基づき、神社の数を減 らし、残った神社に設備、財産を集中し、神社の継続的経営を 確立させた。 その結果 大正3年(1914)までに20万社あった神社が7万社に減った。現 在の数は、2012年、国学院大学神道学部の調査で7万9千社 と判明した。 考察 博物学者南方熊楠らの反対で1910年(明治43)以後急激な 合祀は収まった。しかし、多くの祭礼習俗が消滅し信仰心に損傷 を与えた。  かつて吉備津神社の摂社(本社に縁の深い神社)であった新宮社は明治43年(1910)合祀令により、吉備津神社 に合祀され、この碑文はその記録である。ここにあるのは本殿の礎石である。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 134 –第一編 天保二 辛 卯九月吉辰 氏子中 新宮社 吉備津 天保2年辛卯(1831) 笠木島木 貫 6460 5150 4000380 額は吉備武彦命遥拝所跡に置かれており 一部破損している。(鳥居にはない) 新宮社跡 鳥居 春分、秋分には、新宮社跡にある影向岩→鳥居→王墓山古墳が、一直線で太陽に並ぶと言われている。(実際は下図) 明神鳥居 鳥居 影向岩 王墓山古墳
路傍の文化財– 135 –第一編 神社の石碑 八幡神社(大内田) (大内田557) 由緒沿革 大内田の集落西の山中腹にあり、大内田の氏神(もと弥陀八幡という)  誉田別命(応神天皇)他二柱の神を祭神としている。 21
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 136 –第一編 為俊の母 都宇郡大内田村の 森竹右衛門に再嫁し姓を公森に改める 公森氏は藤原俊成の末裔。 藤原定家 (1114~1204) 公森家初代7世8世9世 大蔵官僚から 中国銀行頭取 500年略 (1650年3月) 5代略 太平仲次太郎藤原俊成定家 俊直 為俊孝俊 注連柱 玉垣天満宮参道↑ ⑥ 木山神社 寄進者芳名碑 社領 9000坪 寄進者芳名碑 御成婚記念碑 燈籠 光俊 正俊 太郎 ⑦ 秋葉神社 鳥居 鳥居 燈籠 1 鳥居脇の石燈籠 ② 手水鉢 ③ 注連柱・玉垣 ※ ※ ④ 狛犬 ⑤ 八幡神社(大内田)神社の由来・配置図
路傍の文化財– 137 –第一編 神社の石碑 八幡神社(大内田)燈籠・手水鉢ほか 新井川虎蔵の母が寄進した。新井川虎蔵はいかなる人物か。 家紋を刻んであり、それなりの功のある人物と思われる。 天明4年(1784)、大飢饉の始まる前で、田沼意次の放漫財政で人心は表面上、豊かであった。 社領9千坪といわれたこの神社は裕福さを象徴している。 鳥居脇の石燈籠 正面北面 西面 宝暦8年(1758) 天明四甲辰願主當邑 新井川虎藏 母 八幡宮 奉 ①鳥居脇の石燈籠 ② 手水鉢 嘉永七壬寅八月吉日奉寄附 公森氏明治卅二亥年八月吉日 牛之歳男 奉 献 奉 献 主 施 ③ 注連柱・玉垣 宝暦八年惣氏子中
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 138 –第一編 施主當村   八月吉日天保十三年 倉敷住 石工徳松 献 瓶 ④狛犬 ⑤拝殿両脇 これは天保13年(1842)、石工徳松の作である。 他に3基の作品が旧撫川領内にある。 狛犬の台座(吽形) 氏子中 獻 奉 狛犬(吽形) 狛犬(阿形) 東面南面 北面 八幡神社(大内田)狛犬ほか
路傍の文化財– 139 –第一編 神社の石碑 八幡神社(大内田)寄進者名碑 木山神社 寄進者芳名碑(2) ご成婚記念碑 御成婚記念碑 燈籠 ⑥ 木山神社 一金壹百圓一金壹百圓一金壹百圓一金壹百圓一金五拾圓一金五拾圓 鈴山幸十郎松本松次郎 撫川町 在米国 東京市 尾道市 寄進者芳名碑(1) 寄進者芳名碑(1) 寄進者芳名碑(2) 一金貳拾圓也 同同同同 一金拾圓也 同同同同同同 一金六拾三圓也 一金拾円也 同同 一金五圓也 同同同同同同同同同 同同同同同同同同同 一金五圓也 同同同同同 沢田吉次郎光畑徳五郎鈴山又五郎太田丑之年光畑槇太郎 同同同大阪市 十九一 当 所 岡山市撫川町古新田高松町 当 所 同同同同 当 所 岡山市撫川町 当 所 吉田勘三郎松本槇次郎鈴山嘉平治永瀬甚太郎 西田伊三郎 昭和三年五月 一金貳拾萬圓也昭和五十三年二月 昭和三年五月 寄附者 寄附者 寄附者寄附者 寄附者斎藤友一 發起者 鈴山幸十郎永瀬甚太郎 御成婚大正十三年九月建之 紀 念 永代電燈寄附 寄附者 寄附者 大阪市 一金百円也 一金百円也 一金百円也 一金参拾円 一金五拾円 百 円 中尾二郎鈴山忠夫 光畑槇次郎 京 平野仙造 公森太郎 昭和十七年十月吉日昭和十七年十月吉日
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 140 –第一編 八幡神社(大内田)秋葉神社 秋葉神社 鳥居 鳥居 燈籠 ⑦ 秋葉神社
路傍の文化財– 141 –第一編 神社の石碑 花尻八幡宮 住 所 岡山市北区花尻57番地 主祭神 応神天皇 建 物 本殿・拝殿・幣殿 総 代 長櫓 定雄 境 内 227.48坪(約750㎡) 由緒沿革  備前国旧藩主 池田家文庫本 神名帳に花尻天満宮とあり、建武 年間(1334〜1335)の勧請と伝えられている旧村社である。 本殿は塩飽諸島の舟大工により建てられたと伝えられ、拝殿横の広 場には相撲の土俵もあり、秋祭の奉納相撲が開かれた。  手水鉢は宝暦6年(1756)に、鳥居は安政元年(1854)、石燈籠は 慶應2年(1866)といずれも長櫓氏の寄進による。「長櫓」は吉備津 彦命から賜った姓で、櫓を操る集団の長を示す。  尚、西側の石燈籠は昭和初期、台風で境内の樹が倒れて破壊さ れたため、昭和8年(1933)に再建した。(森安 哲彦) 花尻八幡宮22 応神天皇を祭神とし建武年間に勧請した社(花尻57)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 142 –第一編 花尻八幡宮 神社の由来・配置図 十二月上旬 十二月上旬 1800氏子中 奉 燈 昭和八年十月吉日正十位則武新四郎 昭和八年十月吉日 正十位則武新四郎 安政元寅年十二月吉日 安政元年=1854年 600 南面 北面東面 360 630 宝暦六年=1756 宝暦六 丙 子 歳 慶應二寅年(1866) 慶應二寅年 1m 世話人 吉田氏 大正七年 300 350×220×300h 長櫓長太夫秀好 長櫓長太夫秀好 同住長右エ門同住六三良長櫓平三良 同住庄治良 平三郎同同同 初三郎涼太郎庄治郎 この銘は西面にある。 手水鉢 拝殿 拝殿幣殿 南面 南面 本殿 本殿 土俵 手水鉢 常夜灯 常夜灯 常夜灯 幟旗杭 幟旗杭 常夜灯 鳥居 鳥居
路傍の文化財– 143 –第一編 神社の石碑 白石八幡宮 住 所 岡山市北区白石376番地 主祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫尊・武内宿禰 建 物 本殿・拝殿・幣殿 境 内 121.4坪(約400㎡) 例 祭 春、秋(10月22日) 総 代 板野英資 由緒沿革  当神社は、京都の石清水八幡宮と深い関係があったため、現在で も、地元では「石清水八幡宮」と呼ぶ人もいる。  昔は神仏混淆であり、戦時中神社の改修時に3体の古い石像が発 掘され、境内に社と石碑をたて丁重に祀った経緯がある。  創建は1334年(建武年間)頃で、備前国旧藩主池田家文庫本に 津高郡白石村鎮座八幡宮とあり、建武年間の勧請と伝えられてい る。1880(明治12)年に村社に列格した。(森安 哲彦) 白石八幡宮 石清水八幡宮を勧請した社(白石376) 23
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 144 –第一編 白石八幡宮 神社の由来・配置図 文 政 六 癸未 九 月 政 十 建 之 N 深 井 文 七 郎 政十建之 深井文七郎 田圃 田圃 狛犬(像はない) 720×650 西面 文政6年(1823) 文政六 癸 未 年 天 保 二 辛 卯 四 月 吉 日 1920 720 120 55 道 路 田圃 東側の常夜灯はない。 天保二辛卯四月吉日 天保2年=1831 石橋の側面の文字 南面 北面 拝殿 幣殿 本殿 常夜灯 記念碑 祠 祠 石像三体をお祀りしてある。 常夜灯 昭和4~5年に発掘された石像の祠 用水路の石橋 用水路の石橋 常夜灯 手水鉢 手水鉢 鳥居 幟竿
路傍の文化財– 145 –第一編 神社の石碑 白石八幡宮 鳥居・手水鉢・記念碑 金壹百圓金壹百圓金五拾圓 金 貳 金 金参百圓 皇紀二千六百年紀念本殿拝殿幣殿改築費氏子寄附者芳名 金 参拾円 金 圓 金 五 圓 金 圓 金 拾 圓 金 五 圓 金参圓 金壹百弐拾圓金壹百五拾圓金壹百五圓 平松 壽 治 板野 順 作板野 篤三郎 板野 留 吉 長瀬 富太郎 土光  國岸   慶太田 省三 板野 藤吉平松 敬太郎平松 多作板野 虎吉 板野 一市板野 仲次平松 竹六板野 亀太郎 還暦辰之歳深井 源六 板野 政雄平松 文一板野 誼作板野 利英大藪 左市 板野 銀三平松 鹿治板野 慎平山口 涼治関  藤介         深井 百蔵  板野 五平治大藪 仙三郎中村 孫九郎 板野 清二郎板野 政一板野 辰次 高谷 再治 板野 佐平 斎藤 清 高谷 浅治長瀬 □ク板野 綾吉山上 孝雄板野 近雄時光 房吉 森安 長一郎大藪 竹野大橋 登□□大笹 兼吉 板野 喜 郎 森安 梅次郎 板野 金作細川 留男森安 文七 板野 彦次郎板野 慶治板野 岩男板野 正志大藪 千八 太田 浦太 大藪 金二 板野 肇板野 柾二郎 田村 壮久 梶原 八重子 大藪 國造寺門 榮子箕延 鶴治 浦岡 辰小寺 秀雄矢吹 クニ藤澤 際一川口 富次難波 末野 大久保 馬津野 松田 壽齊藤 茂子 難波 元元成 千代子結城 忠雄岸本 美登岩田 駒野小野 惠伊 人見 時治 丹原 馬太郎 児子 クミ子矢吹 スミ板野 金造岡田 ソヨ大森 富貴子岸本 フミヨ藤田 須満子山本 歌子 浪嘉惣治嘉三郎八重子 板野 登志夫 今井 幸次郎吉田 小松細川 直吉 曽我 美代野 矢吹 能武水畑 艶子石村 文子 時光 トシ子板野 勝太郎則武 喜志子 中田 誠作 林 ヒデ子 伴次郎 赤木 登免神埼 由婦林  小富板野 文平 小富貴 大月 榮 美恵子 井上  浪熊野  板矢  コトラ 織田 房野 板野 音次郎 大藪 鉄造 板野 治郎 板野 春治 板野 安吉 綾太郎 金六拾圓金五拾五圓金五拾圓 八 幡 宮 2330 820 この地域では、全体が完全な状態で保存されている鳥居である。 銘はないが門前の太鼓橋(天保2年)と同時期に奉納されたと思われる。 出氏子寄附者芳名 氏子の戸数は現在と変わらない60戸程である。 昭和15年の改築工事に寄せられた寄進者の名簿 300 1620 記念碑 鳥居 手水鉢 鳥居 改築記念碑
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 146 –第一編 瀬戸稲荷神社 航行の安全を祈願(邸内776) 24

明治4年の庭瀬藩邸内絵図によれば、神社は現在地の南100m程の川岸に在り、大正年間には遷座してい たという。

境内には明和6年(1769)に奉納された石灯籠とクスノキのご神木に抱きかかえられた手水鉢らしき石もある。

藺草の生産量は昭和41年をピークに徐々に衰退して、西本商店は平成21年に廃業した。この年に神社を 整備した。お社の基台を改築し、ご神木も幹を3mを残し伐採した。

社号は「稲荷神社」だが地元では「瀬戸稲荷」とも呼んだ。尚、弁天島にある【庭瀬城址】の題字は先々 代社長 西本留清(本名清人)の筆による。 (2014.9.5 中島悦夫 記)

路傍の文化財– 147 –第一編 神社の石碑 ご神木 伐採 伐採 伐採 瀬戸稲荷神社 瀬戸稲荷神社 明和六 巳 丑 年 一月廿八日 燈籠 石榴 棕櫚の木 社号の扁額 315 440 1590 鳥居(鋼管製φ90) (西面)(南面)(東面) 2,480 御祭神 1100 930 稲倉魂命 大土祖命 水分命 ウカノミタマノミコト オオツチミオノミコト ミクマリノミコト (穀物の神) (土地の神) (水の神) 明和六 巳 丑 年 一月廿八日 惣氏子中 惣氏子中 「庭瀬城址ものがたり」(庭瀬城址保存会発行)から  庭瀬付近の陸地化は9世紀ごろから進んだ言われ、創建は延喜年間(901〜23)である。 この周辺は海で浅瀬となっていたので、航行の船舶は難航していた。醍醐天皇の延喜年間にこの地に祠をたて 稲荷神社を奉斎した。この地の浅瀬は新しい瀬であるから「新 にいせ 瀬」で庭瀬の地名の発祥である。
元西本商店社長 西本正哉さんのお話
瀬戸稲荷神社 神社の由来・配置図
第一編 天満宮(大内田) 十二ヶ郷用水の霊験あらたかな社(大内田) 25 1km 500m 0m 岡山流通センター 伍社神社 妹尾崎 関戸 山田 大内田 大内田ちびっこ広場 大内田道標 題目石 題目石 常夜灯他 三谷の観音 向庵大師堂址 荒神様と千蔵坊址 天満宮 八幡神社 役行者の碑 大蔵坊無量寺阯 地神 大内田常夜灯 遍光山千手寺 ^3 #8 #9 $0 ^7 ^8 %2 %1 %3 @1 @5 %4
路傍の文化財– 149 –第一編 神社の石碑 天満宮 3600 3600 2200 3600 2200 2400 210 1200 奥行1020 奉 東南北東 撫川町長太田清作福田村長難波幾太郎 献 天満宮(大内田)社殿・鳥居ほか 鳥居 本殿からつづら折りの階段を約50m降りた所、八幡様か らの分岐道にある。 社殿 奉納石柱 大正2〜3年頃に妹尾用水路の安全を祈願するために 建てられたもの。撫川町長と福田村長の銘がある。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 150 –第一編
路傍の文化財– 151 –第二編 題目石等の石碑 【第二編】 題目石等の石碑

題目石について

題目石とは、題目の「南無妙法蓮華経」を刻んだもので 当地には多く見られる。これは日蓮宗の信者が集団をなして住 んでいたことの証であるが、信者の多い理由はおよそつぎのよう な事情による。

日蓮上人の死後60年余りたった延元年間(1320年頃)

大覚大僧正が備前の国で布教を始めた。この人の祖先は近 衛家、または後醍醐天皇の第三皇子であるとも伝えられてしる。

大覚大僧正は日蓮上人の高弟日像上人に師事し仏門に入っ

た。大覚大僧正は備前における布教活動で多くの有力者を 帰依させ、信徒の勢力拡大を成し遂げた。信徒の信仰の意 思は固く戦闘的であり強力に実行された。

教義を広げることはまさに戦いであり、有力者は領民に改宗

を迫り叛いて焼き討ちされる者など出て、今までの宗派から法

華に改宗せざるを得ない状況にもなっていた。大覚大僧正はこ

の地域において日蓮宗最大の功労者であった。題目石は当

時の人々の法華経に対する気持ちを表したもので、団結力や

勢力拡大の証となった。

碑文から見ると大覚大僧正の指導力は宗祖日蓮に近い。

無縫塔

無縫塔は高僧の墓で卵塔ともいい、もとは宗祖日蓮を刻み 祀ったが、後に有力な高僧にも及び、崇拝された。この吉備 地区にある題目石43基のうち宗祖日蓮の名を刻んだもの14 基、大覚大僧正は11基でありいかに大覚大僧正の信頼が 厚かったかわかる。一般的に農村集落には五穀豊穣を願い、

妙見菩薩

古代中国では北極星は天帝とみなされた。之に仏教思想 が流入し、菩薩の名がつけられた。「妙見」とは、優れた視 力の意味で善悪や心理を見通すもの。ご利益は、国土を守り、

髭題目の説明(「はねだいもく」とも言う)

字の筆端をひげの様に伸ばして書いたもの。法の光を受けて 万物が真理の活動に入る姿を現したものという。

一般的に農村集落には五穀豊穣を願い地神、水神、牛 神を祀る。

牛頭天王

なった。「牛頭」は栴檀の木を産出する牛頭山に由来する。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 152 –第二編
地神、水神、牛神を祀る。ここでは合わせて32基である。題 目石と無縫塔の43基は日常生活のなかの法華経の占める大 きさを示している。
災難を除去し、敵を退け人の寿命を延ばす。大黒天、毘沙 門天、弁財天と同じ天部に属す。北極星を神格化したもの。
日蓮宗で題目「南無妙法蓮華経」を「法」以外の6文
地神、水神、牛神
地神:地の神。  水神:水の神。水のある場所により海の神、川の神、   泉の神、池の神、井戸の神等と呼ばれている。   (海神、龍神などもこれに含まれる)
薬師如来の化身としてスサノオの尊とされ、祇園社の祭神と
もとはインドに発して祇園精舎の守護神となり、中国に入り道教 と習合して民間信仰の神となった。 天津神・国津神  神話、伝承の中で語られるもので、特定の神ではない。 天津神(高天原に居る神、又は天下った神々) 国津神(天照大御神によって平定された地域の人々が信 仰していた神々) 大祓詞(おおはらえのことば)に 「高天原に神留りますカムロギ カムロミの命を以て…天津神 国津神 八百万の神等共に聞こしめせと白す」
路傍の文化財– 153 –第二編 題目石等の石碑 東花尻 おそっさま(御祖師様)(東花尻467南) 題目石(東花尻)1
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 154 –第二編 東花尻 題目石 通称:おそっさま(御祖師様) 説明板の内容 説明板 大覚大僧正と題目石 (岡山市東花尻) 大覚大僧正は日蓮聖人の孫弟子である日像聖人に 辻説法により教法は広められ、以降大覚大僧正のめて中国地方に日蓮宗(法華宗)を広めました。師事し、正和二年(一二一三)師の命を受けはじ 石碑とともに、題目石の建立が相次ぎ民衆の法華信仰の対象となりました。(大覚大僧正真筆)の次に古い]と云われており、二月十三日[岡山県下では備中三軽部の題目石当所の題目石(中央)は天正十九年(一五九一)日戒上人の建立とみられます。 享保四年(一七九一)、左側のものは天明六年(一七八六)の建立と見られます。  銘  天正第十九年辛卯年奉唱首題一千 成就砌 南無妙法蓮華経 日蓮菩薩花尻村東西眞俗一結士二月十三日 大願主日戒敬白 岡山市吉備地区活性化推進委員会 ① 卵塔 文政6年(1823)癸未(みずのとひつじ) ①’線香立 大正7年(1918)戊午(つちのえうま) ② 題目石 天明6年(1786)丙午(ひのえうま) ③ 題目石 天正19年(1591)辛卯(かのとう) ③’祠 弘化2年/3年(1845/1846)乙巳(きのとみ)/丙午(ひのえうま) ④ 題目石 享保4年(1719)乙亥(きのとい) 建立の年代 ② ③ ④ N ③’ ① ⑤①’ 全体の平面図 奉誦漸々 天正第十九年辛卯年 二月十三日 大願主 日戒敬白 花尻村東西眞俗一結士奉唱首題一千 成就砌 日蓮菩薩 右施主為二世菩提願主茂就院日香営之 千部成就開眼 享保四己亥年七月十三日 文政六癸未歳四月 奉唱首題一千部 邑中 天明六年丙午九月十三日 村中 日蓮大士 天明六年丙午九月十三日 村中 日蓮大菩薩法界万霊 ① ② ③ ④ ⑤ 大正七年五月施主故日照上人 ③ ’① ’ 舟形の水鉢 弘化二巳年 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 大覚大僧正 弘化三年八月吉日 十一月吉日願心未年男 中村 大正七午年五月吉祥日
路傍の文化財– 155 –第二編 題目石等の石碑 東花尻 うしがみさま(東花尻190) 牛神(東花尻)2
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 156 –第二編 東花尻 牛神 通称:うしがみさま ① 牛神 明治8 年(1875)乙亥( きのとい) ② 祠 「地水両神」の祠か? 牛頭天王の祠か? ③ 燈籠 享保5年(1720)庚子(かのえね) ④ 手水鉢 本来は燈籠の「礎石」か「笠石」ではないか ⑤ のぼり 建立の年代 牛頭天王 京都の八坂祇園社の守護神「スサノオノミコト」と同様に疫病退散を担う神とされた。 ②は何神の祠か不明( 牛頭天王をお祭りした祠?) ごづてんのう ③ 燈籠 N ② 祠 ① 牛神 ④ 手水鉢 ⑤ 享保五年庚子十一月十三日 明治八亥年 十月吉日 大正七年五月吉日 施主故日照上人 大 正 年 五 月 吉 日 大 正 七 年 五 月 吉 日 施 主 故 日 照 上 人 大正七年五月吉日 施主故日照上人 施 主 故 日 照 上 人 ④ ① ② ③ 南無妙法蓮華経奉献 地水両神 大正十二年三月吉 信徒中 牛頭天王 中村
路傍の文化財– 157 –第二編 題目石等の石碑 記念碑 道路改修記念碑(東花尻160) 附寄下切防提雨 明治三十七年甲辰年四月吉日為道路改修堤防切下記念建之 立成寺十九世 一金三拾円六円五拾銭七円五拾銭仝 仝仝五円五十銭 仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝 森安甲三郎森安□二郎大賀きく大賀進吉森安利吉大賀仁三郎 大賀□郎森安藤一郎森安千代吉森安円次郎森安万年治 森安□郎森安大三郎森安七三郎 仝仝仝仝仝仝仝仝仝 森安田平次 則武□□森安民三郎森安桂次郎赤木房次郎森安兼吉森安涼太森安政次郎森安仁吉板野平吉 四円五拾銭 仝仝仝仝三円五拾銭 仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝 仝二円五拾銭 仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝仝 森安 四郎大賀高宣中村兼郎板野啓次郎森安定一大賀岩造森安高四郎 森安□□大賀三次郎森安喜太郎江国仁十郎 妙傳寺板野大三郎森安□七森安信太森安旦平治 森安興吉森安□一郎 森安仙一郎森安住三郎森安清三郎 森安増七森安與平次森安□三郎森安兵吉森安浅八森安旦治森安新吉森安□郎森安仲太森安□吉森安喜一森安光造大賀楽三郎□□□□□□新吉 森安 傳五郎森安 芳太郎森安 久四郎森安 忠七 小澤日照森安粂次郎森安貞太郎大賀浅次郎森安延五郎森安芳太郎森安柳三郎 森安忠七森安伊之吉森安喜十郎備前花尻森安豊吉 人話世 森安 進五郎森安 貞太郎板野 啓次郎森安 豊吉 事 工 當 担 明治三十七年、東花尻地区の水害復旧工事のため堤防の 切り下げ工事行った記念碑。 立成寺が経済的、精神的に大きな指導力を持っていた。 70名の名前が刻まれているが、うち58名が森安一族である。 3
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 158 –第二編 題目石(東花尻) 東花尻地域の題目石(東花尻176近辺) 4
路傍の文化財– 159 –第二編 題目石等の石碑 N ① ② ③ ④ ⑤ ① ② ③ ④ ⑤ 大覚大僧正 維持明治三拾八年六月三日 南無妙法蓮華経 西谷番神社 宗祖日蓮大菩薩 西谷信徒中西谷信徒中 南無妙法蓮華経 □□□□大毘沙門天王 南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩 南無釈迦牟尼佛 国家安穏 南無多寶如来 天下泰平 南無妙法蓮華経 妙見大菩薩 為□衆無□現無量神力 明治三十七年十一月吉日一天四海皆□□結注法 □□六月 ⑤の西面 ⑥ 明治三十七年十月十二日 平成二十七年九月吉日建立  末法下種大導師 排 水 路排 水 路 隣家隣家 道路 道路 倒壊した燈籠の笠部分 東花尻 題目石 建立の年代 ① 明治38年(1905)6月23日 ①’ 大正11年(1922)3月吉日 ② 明治37年(1904)10月13日 ②’ 大正10年(1921)10月吉日 ③ 不明 ④ 明治3□年□月□日 ⑤ 明治37年(1904)11月吉日 ⑥ 昭和5年(1930)1月□日
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 160 –第二編 釣鐘 正法寺の半鐘(西花尻261) 西花尻の半鐘 ※1の文字は記すの意。 享和二年九月廿三日=1802年9月11日 半鐘は僧房内の連絡合図用に作られたものである。 この半鐘は平成21(2009)年11月、西花尻の火の見櫓に吊るされていたものを撤去し、正法寺へ移設保存した。 本来は正法寺の備品だったが、太平洋戦争の金属供出を免れる為、防災用として火の見櫓に吊るしたと言われている。 鋳造の地阿曾村には、1800年代に鋳物の工房があり、有能な技能者集団がおり、昭和初期まで存在した。 ※1④③ ② ⑤ 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 東平野村 當村中 世話人 庭瀬町今保屋傳右エ門 平野屋源助中田村 長野孫七 木屋儀八 梶屋太七 平野村 助四良 利右エ門  傳兵衛 享和二年 壬 戌天 重兵衛太兵衛勝 蔵 九月廿三日 備中賀陽郡西花尻村三宝諸天善神志諸精昊法界元祖大菩薩国家安全天下太平平等利益 浄泉山正法寺常住 十五世御領主  御武運長久   阿曾村住備中国賀陽郡 智覚院日應代 林勘五良武雅 ② ③ ④ ⑤ ① 330 500 5
路傍の文化財– 161 –第二編 題目石等の石碑 題目石(西花尻本町) 西花尻本村の「地神さま」(西花尻739北) 6
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 162 –第二編 西花尻 題目石 通称:ぢじんさま ① 地 神 建立年代不明 ② 題目石 大正10年(1921)5月 ③ 題目石 宝暦13年(1763)10月13日癸未 ④ 題目石 天保2年(1831)□月辛卯 ⑤ 燈 籠 文化6年(1809)9月己巳 ⑥ 線香立 明治31年(1898)□月 築造の年代 ④③ ⑤②① ⑥ ⑥ ③ ④ 畑 ③①② ④ ⑤ 畑 N 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 献 奉 南無妙法蓮華経 宝暦十三癸未年 皆帰如法 祈講中安全 一天四海 天保二辛卯年建之 十月十三日 当村講中 四拾人 大覚大僧正 地 神 2,000 の詳細 の詳細 西面 東面 西面 東面 平面図 道路 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 南無妙法蓮華経 奉燈
路傍の文化財– 163 –第二編 題目石等の石碑 題目石(奥谷) 西花尻奥谷の「ほうかいさま」(西花尻791東) 7
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 164 –第二編 ① ④ ⑤ ⑥ ⑦ ② ③ 堂の中の断面 床 ▼ 辻堂平面(1/5) ▼ 奉唱妙題五百部南無妙法蓮華経献五百五十年遠忌報恩謝徳造立之 文政五歳舎 =時壬午三月十三日 明治十二年己卯八月 南無日蓮大士 文政五歳□戊午 三月十三日 ① ② ③ 天神様木像 卒塔婆番神様の御本尊寄進者銘板 N 土間450 西面南面 東面 西面南面 東面 南面 東面 床面 土間 中講女女講中 女講中 女講中 大覚大僧正奉唱妙題五百部 女講中 1330 890 950 460 1300 450 800750 1110 680 560 360 西花尻奥谷 題目石 通称:ほうかいさま 建立の年代  ① 無縫塔 明治12年(1879)己卯(つちのとう)  ② 題目石 文政5年(1822)壬午(みずのえうま)  ③ 無縫塔 文政5年(1822)壬午(みずのえうま)  ④ 御本尊 安政4年(1857)辛巳(かのとみ)   題目石、花筒に「女講中」とある。

「番神堂」解体の折、天井裏から発見されたものである。 三十柱の神々の名が書 き込まれている。多くのお札は[三十番神]とまとめて書かれている。

路傍の文化財– 165 –第二編 題目石等の石碑 西花尻奥谷 題目石 通称:ほうかいさま  天神様木像はここから50mほど西の高台に鎮座した「番神様」のお堂に祀られて いた。お堂が老朽化したため解体し、ご本尊をここに移転して安置した。  安政4年(1857)に造営。正法寺21世日廣上人の揮毫。 「ばんじん堂」は平成19年1月、新築された「法界様」に合祀された。このご本尊は
正法寺第21世日廣上人が奉納した三十番神はすべてが記されており、順番はひ げ文字の様式に倣い、中央から放射状に表示されている。 ④ ⑤ 天神様木像 番神様の御本尊 廿一世 吉備大明神 祇園大明神 気多大明神八幡大菩薩大比叡権現 苗鹿大明神 住吉大明神 平野大明神 天照大神宮 気比大明神 正法寺日廣 ◎ 代 小比叡権現 加茂大明神 鹿嶋大明神 于時安政四 辛己稔七月吉祥日 兵生大明神 稲荷大明神 赤山大明神 聖眞子権現 健部大明神三上大明神 客人権現 八王子権現 松尾大明神大原大明神春日大明神 北野大明神 熱田大明神 江文大明神 諏訪大明神 貴船大明神 廣田大明神 南無妙法蓮華経 三十番神の順番(日蓮宗) 国家人民を一か月30日間日替わりで守護する神様 當邑奥谷中 裏面 表面 510 285 ◎花押 日 神名 現在の名称 初日 熱田大明神 熱田神宮 初二日 諏訪大明神 諏訪大社 初三日 廣田大明神 廣田神社 初四日 気比大明神 気比神社 初五日 気多大明神 気多神社 初六日 鹿島大明神 鹿島神宮 初七日 北野天満宮 北野大明神 初八日 江文大明神 江文神社 初九日 貴船大明神 貴船神社 初十日 天照皇太神 伊勢神宮内宮 十一日 八幡大菩薩 石清水八幡宮 十二日 加茂大明神 上賀茂神社・下鴨神社 十三日 松尾大明神 松尾大社 十四日 大原大明神 大原野神社 十五日 春日大明神 春日大社 日 神名 現在の名称 十六日 平野大明神 平野神社 十七日 大比叡権現 日吉大社西本宮 十八日 小比叡権現 日吉大社東本宮 十九日 聖眞子権現 日吉大社宇佐宮 二十日 客人大明神 日吉大社白山姫神社 二一日 八王子大権現 日吉大社八王子社 二二日 神明大荷稲 伏見稲荷大社 二三日 住吉大明神 住吉大社 二四日 祇園大明神 八坂神社 二五日 赤山大明神 赤山禅院 二六日 健部大明神 健部大社 二七日 三上大明神 御上神社 二八日 兵主大明神 兵主大社 二九日 苗鹿大明神 那波加神社 三十日 吉備大明神 吉備津神社 1~34~6 7~910~12 13~1516~18 19~2122~24 25~2728~30 しょうじんし まろうど せきざん たけべ みかみ ひょうす のうか
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 166 –第二編 法界様改築 御芳名 平成十九年一月吉祥日 金壱百万円 納税組合 金参拾弐万円 実行組合 金四拾万円 土地売却 金弐拾万円金壱百万円 明誠一博一 実 金拾万円 快至子 金六万円金五万円 洋 金四万円 忍 金参万円 巌 金弐万円 井野川勝己 清健一太一健一智 御祝金壱万円 ⑦ 卒塔婆 2400 2120 南無妙法蓮華経 奉 備 南無釋迦牟尼佛 昭和六年九月廿三日 西花尻講中 令汰人住廣宣流布一天四海皆歸妙法 且四月中旬十二日 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩六百御遠忌報恩謝徳者也 寶 矣 ⑥ 寄進者銘板 西花尻奥谷 題目石 通称:ほうかいさま

[きびのさと]№28によれば

東側の祠は持地妙正大明神である。昭和35年には祠の説明札(木の札)があった。

妙正大明神は日蓮宗の疱瘡神である。

中央の題目石は二十四世日廣上人建立とあるので明治時代初期のものであろう。 この石柱の下部に観世音菩薩座像が刻まれており、「観音古墳」の名はこれに由来する。

古老の話では、この碑が「疱瘡」に効くとう言い伝えがあり、子供の頃石を削りに来たという。

西側の「谷住明王」の碑の詳細は不明。

藤原成親が配流された三つの坊の内のひとつ、月心坊のあった場所。

路傍の文化財– 167 –第二編 題目石等の石碑 題目石 月心坊跡(下池西の山中)(西花尻615東)
月心坊は観音古墳の下の平地に建てられ、ここが庵の跡地である。現在は古墳は盗掘され、塚石は散乱している。 日廣上人が成親の遺徳をしのび、700年たってこの碑を建てた。 南無妙法蓮華経 除疫病 観世音菩薩 疱瘡守 谷住明王 奉勧請中山修験者 高山院 明治三十四年   三月吉日 正法寺廿二世日廣代建之月心坊舊跡 当邑講中南無妙法蓮華経 奉勧請持地大士 正法寺 廿一世 日□ 干時安政四丁巳歳七月吉日 願主 当邑奥谷信者 裏面 安政4年(1851) 持地妙正大明神 2260 説明札 説明札(今はない) 8
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 168 –第二編 地水両神 八幡(新幹線側道北側)(川入1115北東) 八幡の集落の地神、水神様。春、秋の社日祭は法華経を唱えてお祭りする。  社日:「社」は土地の意で春分、秋分に最も近い戊の日をいう。  土地の神をお祭りして春は生育、秋は収穫のお礼参りをする。 18 9 南無妙法蓮華経南無待地菩薩 地水両神 830920 460 520
路傍の文化財– 169 –第二編 題目石等の石碑 地神(東山) 東山参道脇(川入734南) なぜ天金神社がここにあるのか? 用 水 路 あまかね 地神 石燈籠 ←東山吉備津参道 明治十二 己 卯四月吉日 燈奉天金神社 1,900 弘化二巳年 十月一日 弘化二年(1845) 火の見櫓 10
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 170 –第二編  昔、この地に仁王門があり、参道の脇には松並木があった。 真如院の仁王門の裏側に説明書きがある。 七月十五日念佛講貞享四年(1687) 1800 貞享四年之天東山村 南無阿弥陀佛 770 460 240 法界萬霊 仁王門の由来 .............................. 仁王門は慶長十二年真如院中興尊賀法印代 松並木馬場境内の中間に建立安置さる。 八十有余年間尊像は本堂下陣に安置さる。明治二十五年破損甚だしく取崩され爾来 昭和四十八年春祖信徒の淨業により現地に仁王像を再建し尊像を安置し奉る。 仁王門の説明書 (念仏石の解説はない) 念仏石 新宮参道(川入770)  仁王尊とは左方密迹金剛は口を大きく開いて阿宇金剛力士といわ れ、万有の根源、胎蔵界の真理を表し、右方那羅延金剛は口を閉じて 吽字金剛力士といわれ、万有終局の真理を表す。  両金剛共全身裸で下方こしのまわりだけ衣装をつけ勇猛な形相をして 仏法を守護し寺の門前の左右に安置されている。  金剛は智を意味し智を以て心の実相を開発して衙迹衆生の苦を抜き 楽を与えてくださる大縁の深いみ仏であります。  因みに仁王尊像背銘を記す。 奉新造慶長十二未年現住尊賀 奉再興明暦二申天現住隆海 仏師 岡山市丸亀町 小野十郎衛門貞武朝臣 奉再興天保十四卯天九月吉 備中宮内片山 中山 力蔵 真如院東林山明仙童寺 天台の題目碑(仁王門) 11
路傍の文化財– 171 –第二編 題目石等の石碑 念仏石・道標 川入の観音堂・前堂(川入578) 12
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 172 –第二編 前 堂 ④ 一畑薬師弘法大師坐像 手水鉢 川入の前堂 共同墓地 道路 670300570280番一第国西 明治四十年未三月八日 発起人 脇本恒三郎中山善太郎 世話人 太田谷三郎脇本慶四郎245800 信者中 有松鹿四郎 ① ② ③ 860 100 190 道路 そてつ ① ② ③ 西 小 中 者 信 県道真金吉備線 川入観音堂・前堂 念仏石・道標

①薬師如来像

②弘法大師像

③観音様 ④御遠忌塔

路傍の文化財– 173 –第二編 題目石等の石碑 川入観音堂・前堂 念仏石・道標 観音堂のあらまし 所在地 岡山市北区川入577−2他 ここには観音堂、薬師如来像、弘法大師像が安置されている。 観音前堂  この観音前堂は明治39年(1906)西国33カ所一番札所紀伊 那智山青岩渡寺より如意輪観音菩薩を勧請した。  観音堂の西面には一間半の中段の窓があった。明治43年 (1910)陸軍大演習の際、惣爪の御立見台上の明治天皇を中 段の窓から直視するのは「不敬に値する」と指摘され改造したとい う。現在の建物は昭和60年(1985)4月改築された。
明治40年(1907)3月、出雲一畑薬師より薬師如来を勧請し た。この地は土地が河川水面から僅かに高いところで「川田」と呼 ばれる低湿地て雨季にはたびたび水没した。それを避ける為石仏 の基台は60cm程度高く上げてある。
この石像は小西の熱心な弘法大師の信者が、その家の護り本 尊として祀っていたものここに安置したものと言われている。 明治41年(1908)8月、弘法大師像を建立。 明治43年(1910)3月、弘法大師千七十七年御遠忌塔を建立。 明治43年「神社合祀令」により、氏神様が村々から吉備津宮へ 合祀されたので、身近な信仰の対象として「観音様」、お大師様 を勧請したのではないかと考えられる。 東面(お堂側) 南面北面西面 奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳 奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳 子時明治四拾三年三月廿一日 昼夜萬民住普賢悲願 我昔遇薩 埵 親悉傳印明 施主   子時明治四拾三年三月廿一日 施主
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 174 –第二編 3980 東面(お堂側) 南面北面西面 200 2740 明治三十三年八月 難波丑 年之男 明治三十三年八月 難波丑 年之男 いなり  道きびつ神社道 施主 都窪郡撫川村 一里半 七丁 たちはし足守 施主 都窪郡撫川村 奉為弘法大師一千七拾六年遠忌報恩謝徳 道標 注連柱 御﨑神社 昭和六年十月 小西氏子建之 犬養 毅敬書 吉備津神社 子時明治四拾三年三月廿一日 昼夜萬民住普賢悲願 施主   子時明治四拾三年三月廿一日 施主   西面 角に道標があり「いなり道」、 「きびつ神社道」とある。 道標 注連柱 910 370 享保五 庚 子 歳 八月廿四日 念仏講 享保の地蔵尊 御 みたちばし 立橋について  この橋は庭瀬郷、板倉郷の境界にあり、ここで縁者を見送った のでこの名がある。  昭和になって架け替えられ、親柱は撤去され御﨑神社に移設 保存されている。(脇本三哢氏 談) 享保の地蔵尊  観音堂北側の共同墓地に地蔵菩薩がある。享保五(1720)年 の設置とある。天明年間の墓石もあり大飢饉の被害者を供養した ものであろう。 小西の御﨑神社に移設された御立柱 川入観音堂・前堂 念仏石・道標
路傍の文化財– 175 –第二編 題目石等の石碑 念仏石 大賀一郎博士の墓地内石碑 (川入461北) (岩根山金剛院) 大本山南無大師遍照尊 大正十一年七月吉日建之 450 1900 義海等薩謹書 大正十一年(1922) 金剛院慈光 大和尚 「義海等薩」は大賀綱太の法名 3600 1400 大賀家墓地 13 大賀一郎博士の父 綱太は、晩年出家し真言宗の布教活動を行い、真言宗岩根山金剛院 (岡山市磨屋町)の僧になった。後に報恩寺の境内にあったものを譲り受け、昭和4〜5年ご ろこの地に庵(金剛庵)を建て本尊とした。大賀綱太は昭和20年に没した。(脇本 三哢氏 談)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 176 –第二編 牛神・地神・常夜灯 常夜灯 (納所76隣) 450 350 740630 西 天保四癸巳歳 四月十五日 天保四癸巳歳 四月十五日 北 東 常夜灯の側面 消火栓 天保4年=1833 2095 ←金毘羅方面 →吉備津宮方面 消火栓 吉備津宮 金毘羅宮 吉備津宮 金毘羅宮 牛神地神常夜灯 御崎宮 南面 ここは信城寺から法万治川をさかのぼり宮内 に至る水路の中間点にあたる。 現在はこの南西30mのところに水路がある。 14
路傍の文化財– 177 –第二編 題目石等の石碑 地水神(川入) 三十番神社門前脇(川入139) 文政3年(1820年) 祭神:稲荷宮 稲荷宮 地水神 用水路 電柱 弘化3年(1846年) 弘化三丙午年六月 地水神 文政三庚辰年十一月 背面に 15
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 178 –第二編 題目石 川入公民館隣 (川入75) 享保12丁未年(1729年) 2600 4300 文化10癸酉年(1813年) 明治26丁亥年(1893年) → 文化十癸酉四月三日 ← 四百五十遠御忌為報恩 四百年恩忌為報恩明治二十六年丁亥 九月十七日建之 ← ← 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 日親大上人 享保十二丁未二月三日 女講中 16
路傍の文化財– 179 –第二編 題目石等の石碑 地神・牛神 中撫川田中邸隣 (中撫川514西) 文政七巳寅年弘化三 丙 三月吉日 三月吉日 畑 1050 隣 家 弘化三年(1846) 文政七年(1824) 道路 17
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 180 –第二編 題目石 福井公民館南側(中撫川507東) 天保十四年(1843)龍集紀(=癸) 天保十四 龍 集紀三月吉祥焉 文政三庚辰年 健 之 六百遠御忌報恩塔明治十五年十二月 女中講建之 大正十二年六月立之 大正十二年(1923) 世話人太田コトヨ 行覚院日月上人 文政三年(1820) 4400 1820 2150 明治十五年(1882) ←→ ←→ 風雨順次五穀豊穣大覚大僧正 中講 界法 南無妙法蓮華経 宗祖日蓮大菩薩 18
路傍の文化財– 181 –第二編 題目石等の石碑 地水両神 板東邸前 (庭瀬29南) 1250 地水両神 19
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 182 –第二編 題目石・無縫塔 中田公民館 (庭瀬21南) 23
路傍の文化財– 183 –第二編 題目石等の石碑 中田 題目石・無縫塔 2600 祠道 路 5200 隣   家 世話人 □屋伊助 西面東面北面 中田村 宗門中 天 保 十 四 年 二 月 三 日 癸 卯 世話人魚屋 中田村 宗門中 世話人魚屋 西面 北面 ① ① ② ③ ④ ⑤ ②③ ④⑤ 文政五年(1822) 平成21年(2009) 文化八年(1811)元治二年(1865) 天保十四年(1843) 大覚大僧正 南無妙法蓮華経日蓮大士 一天四海皆帰妙法 文政五 午 壬 年七月立之 文政五 午 壬 年七月立之 文化八 辛 未年 元治二年 乙 巳 三月吉祥 十月十三日 末法萬年廣宣流布 庭瀬八幡神社の玉垣にも「魚屋 冨八」の名がある。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 184 –第二編 手水鉢 南面 文久四年(1864年) 東面西面 北面 文久四 歳 當 村 太田宇八太田常治 甲子 三月吉日 献 奉主願人話世 倉子城 播磨屋 三玉宮 腰折様(中撫川665南側) 令和4年8月撮影 手水鉢は文久四年(1864)奉納されている。 社殿は銅板葺きで、鞘堂は昭和五十六年に改修されたとある。説明板からも地域の信仰の深さがよくわかる。 平成20年8月撮影 21
路傍の文化財– 185 –第二編 題目石等の石碑 三玉宮(腰折様) の病に霊験あらたかであるこの宮に念ずると腰より下をまつったという。後世、所と言われ、その武士の霊へ敵兵が迫り、討死した場を痛めて休んでいるところ場にして、一人の武士が腰えば、昔このあたりは古戦祭神について古老の説に従創建のほどは不明であるが と信じられている。 平成十九年九月一日 中撫川町内会修復 説明板 説明板 くぬぎの大木 手水鉢 1m 2150 三十番神社 注連柱 注連柱 注連柱 三玉宮 三玉宮 奉獻 大正十年十月健之 中撫川 三玉宮(腰折様)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 186 –第二編 中撫川 三玉宮(腰折様) 参千円 藤原 栄参千円 金子義雄参千円 難波 昇参千円 石原健助参千円 黒岡正夫 弐千五百円 太田里志 弐千円 藤井貞夫弐千円 藤井タカエ弐千円 髙橋虎男弐千円 難波正憲弐千円 荒木岩夫弐千円 難波 巧弐千円 荒木潤身弐千円 荒木定夫弐千円 守谷孝正弐千円 池上寿治弐千円 楠田豊子弐千円 太田数一弐千円 太田卓志弐千円 太田俊太弐千円 太田清生弐千円 太田吉夫弐千円 太田傀一弐千円 佐藤 猛弐千円 太田早苗 弐千円 荒木 喜久恵 弐千円 平松英次弐千円 平松竺夫弐千円 太田孝平 弐千円 藤原熊夫弐千円 髙橋 勲弐千円 髙木正夫弐千円 草野正志弐千円 難波忠夫弐千円 山下道夫弐千円 藤井輝正弐千円 難波清治弐千円 難波 聡弐千円 野村 忠弐千円 坪井達二弐千円 河内孝彰弐千円 太田勝利弐千円 小野 勉弐千円 橋本裕文弐千円 小野亀鶴 弐千円 佐藤 好一郎 弐千円 加藤健一弐千円 坪井喜一弐千円 難波 勲 弐千円 中島 杢太郎 弐千円 荒木 慶三郎 弐千円 下根清人 弐千円  いぬかい 弐千円 山本忠治弐千円 太田佳晴弐千円 荒木仙吉弐千円 大原 猛 弐千円 坪井 登美夫 南面 西面左側 壱千円 橋本省吾 壱千円 松田健一郎 壱千円 石川 哲 壱千円 内藤正則 壱千円 太田晴海 壱千円 今泉 久 壱千円 増田光□ 壱千円 田原博□ 壱千円 横田 博 壱千円 出原悦司 壱千円 郷原俊之 壱千円 塩田邦男 壱千円 今城 浩 壱千円 三好智邦 壱千円 坂本 操 壱千円 岩本 章 壱千円 安田泰治 壱千円 山砥孝平 壱千円 東山 □ 壱千円 能□貴美 壱千円 林 □□ 五百円 安岡 勇 五百円 難波欣一 五百円 中野保治 五百円 西 百千 五百円 曽我四郎 五百円 秋山和夫 五百円 荒木 勝 五百円 中原□文 五百円 太田行治 参百円 藤井 明 弐百円 北村□市 壱百円 熊代善正 壱百円 浅野鮮魚店 壱千円 犬飼 中 壱千円 小林 博 中撫川 高橋兼一 弐万円 増田誉雄 物 納 三宅孝之 参万円 太田宣明 壱万五千円 長谷川種二 壱万五千円 磯井麗子 壱万五千円 太田次夫 壱万五千円 太田 猛 五千円 太田豊彦 壱万五千円 山野茂海江国 篤 物 納 太田 肇 壱万五千円 太田 哲 壱万五千円 太田 巧 壱万五千円 磯井武夫 壱万五千円 吉田 昭 参万円 三宅 誠 壱万五千円 和田英男 壱万五千円 汐崎辰男 壱万五千円 中山実典 壱万五千円 三島隆志中島達夫 施工者 増田誉雄三宅 恵谷本宏志 世話人 三宅 誠次田 猛三宅 誠三宅孝之太田宣明 物 納壱□円
路傍の文化財– 187 –第二編 題目石等の石碑 中撫川 三玉宮(腰折様) 三玉宮改築寄附者御芳名 昭和五十六年七月吉日 落慶 弐万円 肥田璋三郎 弐万円 門木和郎 弐万円 蜂谷勝司 弐万円 脇本一郎 弐万円 次田 猛 弐万円 飛龍株式会社 壱万五千円 大善紙工業 (株) 壱万円 西川 勝 壱万円 池上正志 壱万円 岡崎 顕 壱万円 岡本健一 壱万円 山本嘉雄 壱万円 所司市子 壱万円 三宅 恵 五千円 横田 広 五千円 松永末治 五千円 松永辰美 五千円 中瀬雅恵 五千円 谷本宏志 五千円 安井 隆 五千円 平田 修 五千円 太田弘之 五千円 太田 毅 五千円 平松順一 参千円 黒川鮮魚店 参千円 三宅克甫 参千円 吉田政一 参千円 坂東徳治 参千円 荒木長太郎 参千円 楠田一雄 参千円 難波泰治 参千円 高島久男 参千円   9 アンド 9 参千円 前田弘志 参千円 袖岡照子 参千円 松永富喜雄 参千円 曽我正典 参千円 小林 定 参千円 渡辺隆幸 参千円 正村おゆき 参千円 服部 尚 参千円 佐藤美義 参千円 三宅 勝 参千円 太田 薫 参千円 佐藤 茂 参千円 太田 任 参千円 太田常雄 参千円 太田始男 参千円 太田和男 参千円 黒住祐枝 参千円 太田多喜夫 参千円 太田 明 参千円 俣野清志 参千円 俣野広二 参千円 犬飼健二 参千円 太田真治郎 壱千円 長瀬一二三 壱千円 伊沢幸子 壱千円 御船 実 壱千円 太田芳子 壱千円 吉川 弘 壱千円 郡安敏之 壱千円 中山 孝 壱千円 千田軍平 壱千円 田中元一 壱千円 大賀祐光 壱千円 平 貞子 壱千円 岡本克己 壱千円 山口義夫 壱千円 内田円一 壱千円 俣野美和子 壱千円 荒木梅治 壱千円 太田雅美 壱千円 中野熊雄 壱千円 梶谷 豊 壱千円 柴田辰次 壱千円 丸川直則 壱千円 平川道彦 壱千円 日下政行 壱千円 坂田 清 壱千円 安井正喜 壱千円 小田保正 壱千円 林  登 壱千円 冨山 正 壱千円 曽我 強 壱千円 平川良一 壱千円 高原卓士 壱千円 渡辺 猛 壱千円 栗原隆次 壱千円 山谷幸治 壱千円 河内保雄 壱千円 河口睦己 壱千円 荒木千代 壱千円 荒木 均 壱千円 藤原欣二 壱千円 難波卓雄 壱千円 幸原富士夫 壱千円 曽我 彰 壱千円 難波千賀雄 壱千円 佐々木幸太郎 壱千円 池上省三 壱千円 黒瀬良雄 壱千円 岡崎元二 壱千円 平松賢蔵 壱千円 平松良一 壱千円 平松弥寿恵 壱千円 高橋孝吉 壱千円 中島達夫 壱千円 難波 恒 参千円 福森敏男 壱千円 小原喜久夫 壱千円 間野 保 壱千円 岩崎 稔 壱千円 曽我 靖 壱千円 曽我静夫 壱千円 荒木高子 壱千円 吉田 勝 壱千円 荒木武志 壱千円 難波正夫 壱千円 難波 質 壱千円 荒木 悟 壱千円 荒木勝美 壱千円 荒木 勤 壱千円 児子伴一郎 壱千円 太田喜洋 壱千円 溝手 進 壱千円 坪井圭一郎 壱千円 佐藤文夫 壱千円 太田義夫 壱千円 高島 昇 壱千円 俣野 勝 壱千円 平松虎三郎 壱千円 太田宰至 壱千円 森  醇 壱千円 井上大助 壱千円 花岡鉄雄 壱千円 大山一夫 壱千円 近堂高男 壱千円 岡本耕一郎 壱千円 太田 登 壱千円 岩崎照雄 壱千円 作間 斉 壱千円 岩崎市郎 壱千円 赤木仁史 壱千円 岡本昌子 壱千円 太田碩夫 壱千円 太田順作 壱千円 太田 操 壱千円 岡本仲男 壱千円 岡本 昭 壱千円 岡本浜一 壱千円 岡本 弘 壱千円 太田 令 壱千円 瀬崎昭友 壱千円 川上寄夫 壱千円 中野勝行 壱千円 犬飼 昭 壱千円 原田豊治 壱千円 冨山 昭 壱千円 姫井 晃 壱千円 長尾 謙 壱千円 白石正信 北面 西面左側 グッドショップ 三玉宮
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 188 –第二編 題目石 中撫川三十番神 (中撫川706) 22
路傍の文化財– 189 –第二編 題目石等の石碑 中撫川 三十番神 幟旗台 幟旗台 鳥居 ③ ① 道路 道路 車の衝突で倒壊した為立て直した。 中国産の鳥居である。これも現代の世相を表している。 中撫川・三十番神 平成十年九月吉日建之 中撫川公民館 安政七年(1860) 側面 側面 界 法 2430 嘉永六年(1853) 明治10年(1877) ② ③ ① 明治十年四月二十四日 明治十年四月二十四日安政七庚申年 安政七庚申年 二月社日 地神 牛神 二月社日 850 一天四海 皆帰妙法 後五百歳 廣宣流布 五穀豊饒萬民快楽天下太平国家安穏 嘉永六 癸 丑霜月辰日 南無妙法蓮華経日蓮大士 北面西面 東面 ② 鳥居 贈 哲 太田修市 平成十年九月吉日 三十番神 奉 納 奉 納
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 190 –第二編 題目石 中島公会堂・荒神社の隣(中撫川253-1) 地蔵尊 文政二年(1819) 界法 文政七年(1824) 文政七甲申 文政二乙卯年八月十三日 講中一結大覚大僧正 南無妙法蓮華経 十月大吉日 荒神宮 中島公会堂 東面西面 23
路傍の文化財– 191 –第二編 題目石等の石碑 題目石・地神・水神 大橋妙見宮・地蔵堂 (撫川28-1) ① ③ ⑤地神様 ④水神様 妙見様 ② 地蔵堂 1m 妙見様 地蔵堂 24
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 192 –第二編 大橋妙見宮 題目石・地神・水神 妙見様の所在地は足守川の東側堤防にあったが治水工事のため この地に遷座した。 寄進者は藺草で財をなした人々である。 土佐屋 ござの商人  「土佐屋弥吉」は撫川八幡神社、須佐之男神社の玉垣にもある 鳥羽屋 狭川の人 ござの商家 岡 屋 東町の人(業種は不明) 水 神 1420 980 780 450 南無妙法蓮華経 1320 法 界 → → 嘉永七年(1854) 寛政四年(1792) ③ ④⑤ 正面(東面) 北面 仲春=2月 ちゅうしゅん 安政3年(1856) 五角形の石柱は数が少ない。 南面 東面西面 水 正 ② ① 文政五年(1822) 嘉永癸丑六年 六月吉日 文政五壬午年 妙見大菩薩 五月十有五日 嘉永六年(1853) 撫川在町惣講中 寛政四 壬 子 年 みずのえ ね 安政三年仲春吉日土佐屋 弥 吉 鳥羽屋 重兵エ 岡 屋政 吉 世話人 地 神
路傍の文化財– 193 –第二編 題目石等の石碑 地神・牛馬神 高田青井氏宅前 (撫川372隣) この石碑は、足守川左岸堤防に在ったが、昭和42年に河川改修で 移築された。 地元町内会の努力により、ここに移設した。毎年、社日のお祭りは住民 総出で行われる。 ③の文字は読み取りができない。 2011年1月撮影 2021年5月撮影 常夜灯 足守川 高田橋(板の橋) 嘉永七甲寅八月 秋葉火除金刀比羅日之御守 嘉永七年(1854) ① ②③ ④ ① ② ③ ④ 撫川373 高田 現在の堤防 42年の堤防 高田用水路脇に移設 昭和42年以前 改修前 用水路 1m 940 牛馬霊神若宮大明神 25
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 194 –第二編 ※平成25年、造成に伴い撤去された。 出雲様 出雲大社の分霊を奉祀 (撫川336隣) 戸川時代に大庄屋の難波純一郎が出雲大社の分霊を奉祀したという。 古老の話では、「昔この辺りにお嫁に来てくれる人が無かったのでお祭りした」 お社は年代物であるが出雲大社の御札が納められている。 難波純一郎の長女満勢は、須佐之男神社の本殿前階段の右側壁に備前竹原 村の「赤松満勢」として寄進者名がある。 地神・題目石 民家 民家 下東城之内 公民館 道標 元の位置 こんぴら道 ^2 @7 ※平成25年、造成に伴い撤去された。 出雲様 0 5m @6 26
路傍の文化財– 195 –第二編 題目石等の石碑 地神・題目石 下東 (撫川332西側) ① ② ③ ④ ④③ ②① 天保六乙未二月吉日建焉 天保六乙未二月吉日 地 神 社 大峰山上大権現 金比羅大権現 大覚大僧正明治四乙未 四月三日 明治四年(1871) 天保六年(1835) 文政十年(1827) 吉備津大明神 文政十丁亥八月吉日 南無妙法蓮華経 下撫川村 1480 240 1640 地神・題目石 民家 民家 下東城之内 公民館 道標 元の位置 こんぴら道 ^2 @7 ※平成25年、造成に伴い撤去された。 出雲様 0 5m @6 27
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 196 –第二編 水神 吉備小学校南 (庭瀬305東) 亀井説(亀井政男先生の学説) 6世紀末から出現したいわれる条理型地割が7世紀末から8世紀中ごろにかけて、全 国の平野部にひろがった。吉備地区にも条里制に由来する小字名が数多くある。この塚 が条里を線引きする為の基点となったという学説。 600 条里制の基点? 岡山倉敷線歩道橋 吉備小学校南側 用水路 28
路傍の文化財– 197 –第二編 題目石等の石碑 牛神・火除神 栄町公民館脇 (庭瀬641) 29
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 198 –第二編 もとは、社殿は南向きで今の公民館は幣殿、拝殿に当たりその前に石灯籠があった。 老朽化し、現在の様式に建て替えたとある。 石灯籠や社殿を見ると、かなりの格式のあるお社であったと思われる。 石灯籠の発起人「金右衛門」は庭瀬八幡神社にもある社殿は何神様か?。 牛神 天保四年(1833) いちょうの木 ① ⑥ ② ④③⑤ 献 燭 2100 A 発起人金右衛門風呂屋口 世話方 当村目代 左右共同文 Aの東面 献 燭 A 天保四年 癸巳八月 左の宝珠は創建時のもの 西面 燈籠 ⑥燈籠 社殿 栄町公民館 ① この社殿は瓦葺で丸瓦の紋は「左三つ巴」であった。(きびのさとNo.83) 現在は銅版葺きで家紋は入れていない。 ① ⑤ ④ ③② 明治12年(1871) 南面 西面 西面 社殿 荒神宮 明治十二年卯旧八月建之正八幡宮 火御崎神社秋葉神社 950 栄町 牛神・火除神 牛神 天保四年(1833) いちょうの木 ① ⑥ ② ④③⑤ 献 燭 2100 A 発起人金右衛門風呂屋口 世話方 当村目代 左右共同文 Aの東面 献 燭 A 天保四年 癸巳八月 左の宝珠は創建時のもの 西面 燈籠 ⑥燈籠 社殿 栄町公民館
路傍の文化財– 199 –第二編 題目石等の石碑 栄町 牛神・火除神 ② 神様の名前がわからない ③ 正八幡宮と荒神の裏側に「風呂屋口中」と刻んであった、が今は読めない   もとは、燈籠だったが火袋の部分を破損して笠石のみを載せた。 (2022年3月現在倒壊している)   風呂屋口は明治34年2月の町制改革で栄町に改名された。 ④ 秋葉神社は火を司る神。火御崎神社は日御碕神社で国家繁栄の神様。 ⑤ 造立の日付けがある牛神の無縫塔は例がすくない。飼い牛のお墓なのか? 中正院浜田住職の解説  俗称を「地鎮様」と呼び地神・水神・牛神・火の神を合祀しており、日御碕神社の交通安全祈願をする人も多い。 お社の管理は、地元栄町町内会の方々(日蓮宗の信徒で構成する講中)が春秋2回の社 しゃにちさい 日祭というお祭りをし、 当日は中正院住職のご祈祷が行われる。  拝殿はいま栄町公会堂に使用されているが、もとは幣殿を有する建物で、正面左右に石灯籠があった。 後年、老朽化のため建て直し、燈籠は裏に移設したため、拝殿の機能はなくなり、現在の建物となった。 石灯籠の台石に「風呂屋口」とあるのは旧名で明治34年2月の町制改革により栄町となった。 ① ⑤ ④ ③② 明治12年(1871) 南面 西面 西面 社殿 荒神宮 明治十二年卯旧八月建之正八幡宮 火御崎神社秋葉神社 950
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 200 –第二編 地神 (庭瀬676東側) 牛頭天王 1100 30
路傍の文化財– 201 –第二編 題目石等の石碑 観音堂 一切諸法の観察 衆生救済の自在(平野427西) 地蔵菩薩 天秤石 出所不明なれど趣有。 天秤石 地蔵菩薩 隣家 2m 観音堂 31

都は天台宗の僧であるが、その著書『往生要集』は法然上 人、親鸞上人の教えの原点となった高名な僧である。尚、現在 安置されている像は聖観音坐像である。往時、隣接地に尼僧 庵があったという。「観音堂」は地名としても残った。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 202 –第二編 観音堂  松林寺十世 鼇 ごうざんぜんじ 山禅師の開山と言われ、御本尊として恵心 僧都の作と伝えられる観音菩薩像が安置されている。恵心僧
堂内には鼇山和尚の位牌が祀られている。松林寺境内の 大神宮に鼇山禅師の奉納した常夜灯がある。 鼇山和尚 宝暦九年(1759)70歳で没す。 恵心僧都 天慶五年(942)〜寛仁元年(1017) 観音堂看板 明和六(1769)再興 元文四(1739)隠室 宝暦九(鼇山没1759) 聖かん音様 丑歳正月上京七月朔日下向也 世話役 堂 ノ片田定吉 平成29年 慧心僧都 1030249 1279 天平十(739)~寛仁元(1017) 元文四未年 大悲尊容 ヲ 當菴圓通庵開基雲山慧龍 謹誌 堂本尊観世音大士 當年再興御手 ノ蓮華  玉冠厳 リ後光臺座 松林中興鰲山禅師隠室建立 了 厨子共代銀三百目 慧心僧都御作也 當年  迄一千三十年成 ル茲時明 和六巳丑歳七月吉辰 ※銀三百目は五〜六十万円に相当 ※鰲山は鼇山に同じ 台座の銘 長径355mm  注:岡山県立博物館の鑑定では、「恵心僧都」の作とは断定不可。 観音菩薩像 台座裏
路傍の文化財– 203 –第二編 題目石等の石碑 題目石・無縫塔 妙見社東法界様 (平野375西) 32
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 204 –第二編 平野 題目石・無縫塔 妙見社参道 ③ この碑は安原栄吉、太田俊三郎、永原藤造、太田五郎吉、岩藤芳之助等らが発起人となって当時の寄附金参銭、   五銭の浄財を募り、観音堂の妹尾屋安原栄吉の所有地に建てたが、昭和29年にこの地に移し斎祀した。 ④ 光田は駅前付近にあった古い集落の名前。 ⑤ 昭和32年、既に風化して読めないと記している。 ② ③ ④ ⑤ ⑥ 四月廿八日 弘化二乙年 2100 後五百歳中廣宣流布後五百歳中廣宣流布 南無妙法蓮華経明治九年四月六日遠忌 女中講造立之 観音堂 光 田 □文化七庚午天四月三日 □文化七庚午天四月三日 弘化二年(1846) 文化七年(1810) 裏面 日朝大上人日親大上人 ① ② ③ ④⑤⑥ ① 法界 1720 文政六年(1823) 構中 文政六癸未十一月吉日 「きびのさと」から (解読不能) 道路 □大覚大僧上 南無妙法蓮華経 火の見櫓 笠石 当知是処 南無日蓮大菩薩 即是道場 中者信女男 大覚大僧正 中邑当
路傍の文化財– 205 –第二編 題目石等の石碑 題目石(庭瀬) 庭瀬駅西踏切南(庭瀬923東側) 寛政十年(1798) 象馬車牛羊輦輿車乗 長野村中 正善院十二代 □妙象馬車珍宝之輦輿 文化十丁亥天八月吉祥日 ① ② ③ ④ ⑤ ① ② ③④ ⑤ ③ 昔「大覚大僧正様」と呼ばれていた。今は表面が剥落して読めない。 南面 北面 大覚大僧正 用水路 観音堂 堅牢地神 南無妙法蓮華経 牛二月日 奉寄進 世話人 寛政十年 33
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 206 –第二編 題目石・水神 庭瀬駅東踏切南西 (平野239北線路側) ① ② ① 明治八年(1875) 900 ②南無妙法蓮華経 祭主  祭主  日正 両前川 明治八乙丙歳 七月吉日 為難舟精霊 両前川 明治八乙丙歳 七月吉日 為難舟精霊 34 ①は、かつて船の禍いによって死んだ霊魂を弔うために建てられた。
路傍の文化財– 207 –第二編 題目石等の石碑 1m 平成二十五年、道路拡幅工事のため、ここに祀られていた御崎神社は吉備津神社へ遷座し、木野山神社は備中松山の木野山神社へ遷座した。 道路拡幅工事後(平成25年)道路拡幅工事前 地蔵堂 御崎宮 道  路 掲示板電柱 電柱 題目石 題目石 題目石・石燈籠 庭瀬駅東踏切南(平野238-1) 35
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 208 –第二編 1m 平成二十五年、道路拡幅工事のため、ここに祀られていた御崎神社は吉備津神社へ遷座し、木野山神社は備中松山の木野山神社へ遷座した。 道路拡幅工事後(平成25年)道路拡幅工事前 地蔵堂 地蔵堂 御崎宮 道  路 道  路 掲示板 掲示板 庭瀬駅東踏切庭瀬駅構内 電柱 電柱 電柱 題目石 題目石 木野山神社 道路拡幅工事前(平成24年) 南無妙法蓮華経 天明七丁未歳 →← 七月十三日建之 ①② ③ ④ 大覚大僧正寛政十一年未年 四月三日建之 弘化三丙午年 → → ← ← 天明七年(1787) 火袋が無く笠を乗せた。 寛政十一年(1799) ① ③ ④② 電柱 ごみステーション 1300 730 1300600 1070 1990 630 95 2200 弘化三年(1846) 不明 その昔、近くの民家で起き た家人の不慮の死を悼ん で建てた供養塔。 ここに祭られる理由は不明。 御崎宮 地蔵堂 道路拡幅工事前(平成25年以前) 庭瀬 題目石・石燈籠 平成25年、道路拡幅工事のため、 御崎神社は吉備津神社へ遷座した。 地蔵堂は南側へ新たに建立された。
路傍の文化財– 209 –第二編 題目石等の石碑 平成25年、地蔵堂が新設された。   地神・牛馬神 庭瀬駅東踏切東(平野199西側) 36
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 210 –第二編 地神様 配置の順序 ① ① ⑤ ④③③ ② ② 庭瀬往来 掲示板 隣家水門 路 水 1m 牛神 牛馬神 天照大神 地神: 五角形の塔 {自然石の地神様に対し塔(心石)が五角形} 若宮神社、日車大明神、高田橋近郊等数は少な い。備前の西部にはあるがこの庭瀬近郊では少な い。(庭瀬八幡神社の宮司・田井さんのお話) 名称 神格 ① 天 あまてらすおおみかみ 照大神 太陽神 ② 大 おおなむちのみこと 己貴命 国造りの神 ③ 少 すくなひこなのみこと 彦名命 医薬の神 ④ 埴 はにやすひめのみこと 安姫命 土の神 ⑤ 倉 うかのみたまのみこと 稲魂命 食物の神 ②牛神 ①牛馬神 ③地神 ③地神 地蔵堂(平成25年新設) 庭瀬 地神・牛馬神
路傍の文化財– 211 –第二編 題目石等の石碑 隣  家 奉 ① ② ③ ④ ①②③④ 女中講 文政10年(1827) 天保5年(1834)寛政4年(1792) 火の見櫓 延友公民館 消防器庫 道  路 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 地水両神 七月二十四日 窓前天子守 文政十 丁 亥 歳 花入 南面 南面西面 西面北面 北面 南無日蓮大菩薩 寛政四年 壬子天十月十三日 当村中 当村中 奉唱題目千部供養塔 大覚大僧正 奉唱玄名千部供養塔 天保五年甲子歳 四月三日 題目石・地水両神 延友公民館西側 (延友331-6) 37
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 212 –第二編 題目石(大内田ふれあい広場) ふれあい広場内(撫川713隣 関戸) 往時、ここは足守川の半役樋門と関戸樋門の間の舟溜りであった。この碑はその西側の堤防の路肩に建てられた。 今は、埋め立てられ遊園地となったが、この碑は建立時とほぼ同じ位置であると云われている。 水の事故で亡くなった人の慰霊の為たてられた。 世話人 坂右衛門がいかなる人かは分からない。 南無妙法蓮華経 関戸村中 天保四 癸 巳 十月十三日 世話人 坂 右衛門 960 400 創建時路面 法界万霊 現在道路面 基台 花入 道路 路肩 遊園地 天保時代の路面 道路 舗装により基台が 道路面になっている。 38
路傍の文化財– 213 –第二編 題目石等の石碑 題目石(関戸) 南無妙法蓮華経(撫川714 関戸) 南無妙法蓮華経 天明元年丑天 七月十三日 法界万霊犬飼喜右衛門 道路 1450 400 (きびのさと№39)より 大きさはこの近辺で最大級のものである。 以前は堤防の上に在ったが、明治の中頃、河川改修工事の為現在の地に移転された 39
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 214 –第二編 常夜灯ほか(関戸) 水難者慰霊塔・木野山神社(撫川720南側 関戸) 40
路傍の文化財– 215 –第二編 題目石等の石碑 関戸 常夜灯ほか N 火の見櫓 六間川 ④ ⑤ ② ③ ① 奉 燈 850 1,300 400 700 法界 ⑤ 埴 夜 須 毘 媛 神 埴 夜 須 毘 古 神 300 1,000 600 ① 彌 都 波 能 媛 神 ④ ② ③ ←重し ← 千木 旧樋門の設置場所で、対岸には番小屋があった。自然石で作られた常夜灯は巨大である。 当時、ここが水運には重要な場所であった事を表しているのだろう。 水難者慰霊塔は明治26年に起きた大水害の犠牲者の慰霊塔だとのこと。 風が強い場所なので、木野山神社の社殿の床下には重し用の石が置かれ吹き飛ばされるのを防いでいる。 しかし屋根の千木は補強もなく置かれている。吹き飛ばされないのだろうか・・・。 牛頭天王 ハニヤスヒコノカミ 埴夜須毘古神・・・・土地の神 ミツハノメノカミ 彌都波能賣神・・・・農業用水の神 ハニヤスヒメノカミ 埴夜須毘賣神・・・・稲作の神 この神々を祀り天土の恵みを祈願した。 七月二十三日明治二六年群霊菩薩□建立為水死 関 戸世話方妹尾崎 信者中 発起人  平松源吉庄村下庄 水難者慰霊塔 水難者慰霊塔 常夜灯 常夜灯 牛頭天王 木野山神社 木野山神社 旧樋門のゲートのガイドレール用の石
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 216 –第二編 昭和40年代の足守川拡張工事による移転 旧東堤 旧大橋 道標 足守川修堤記念碑 日車大明神 常夜灯 常夜灯 昭和42年移転 昭和43年移転 昭和15年移転 明治19年水害の後建立 明治19年水害の後建立 大正5年建立 平成25年移転 平成30年原状回復 地蔵堂 建立年不詳 日車大明神 日車大明神(稲荷宮)・地蔵尊・地水両神(撫川1063-25西向) 44 41
路傍の文化財– 217 –第二編 題目石等の石碑 西向 日車大明神 この社は昭和40年代、旧撫川大橋の西側に在った稲荷宮(日車 大明神)と、旧大橋西詰にあった地蔵堂を、河川改修工事のため移 転し、一つのお堂にお祀りした。 鳥居前の親柱には「皇紀二千六百年記念」の文字がある。鳥居 も石燈籠も同じ時期(昭和15〜16年)に築造されている。 ①地神碑 ②線香台 ⑤水神 ⑥手水鉢 ⑦燈籠 ④賽銭箱 ⑪狛犬 ⑨燈籠 ⑩狛犬・石柱 ⑧鳥居 ③六地蔵 Å ı 玉垣 Ç 狛犬 地蔵尊地蔵尊棚 稲荷神社 格天井画
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 218 –第二編 ①地神碑 ②線香台 ⑤水神 ⑦燈籠(南側) ⑨燈籠(北側) ⑧鳥居 戌十月吉日 戌十月吉日 天保九年 天保九年 昭和十六年七月 昭和十六年七月 寄附者 難波泰次 寄附者 難波泰次 林 同 上 日車大明神 南面 北面 東面 南面 北面 東面 裏面 裏面 670 310 銘板を再利用したもの。 何に使われていたものか不明。 390 660 安政2年(1855)3月 天保9年戊戌(1838) 昭和16年(1941)7月 昭和十五年二月建之 叡 献 上 昭和四十三年五月吉日 水梁 是 1,800 ⑩狛犬・石柱 980 150×113 一金七拾五圓御社祠 難波織物工場 安政二 乙 卯三月 水 神 ⑪狛犬 幸 吉 大橋町 吉五良 亀太良 下撫川村利平治 孫 弥五郎 馬揃村 七五良 西向 日車大明神
路傍の文化財– 219 –第二編 題目石等の石碑 西向 日車大明神 外側 外側 南側 北側 東側 外側 内側 献 奉 100 870 2,050 2,115 幸原文武 荒木貞夫川中種次 実 岡 難波季一 木元寅夫 勲 曽我三郎 曽我二郎 林 亨敏 三宅寿子難波玉蔵島村善治難波寛治 昭和十五年一月建之 次田竜太 発起者 猛 明治百年祭 辰之歳之男 平松茂吉 大倉貞一 皇紀二千六百年記念 川中嘉市 彰 木元莊介 莊 曽我四郎岡謹一郎 勝 難波航三 加藤健一難波孝太郎 難波静男 西川米三郎 林幸原昇平 幸原昇平 林 幸原富士夫 幸 藤原欣二 次田利左衛門 難波久夫土師四海平 木元敏明 ワ 熊代節夫 木元壮吉 世話人世話人 世話人 世話人 世話人 世話人 幸原出 高 松 木元壮吉 世話人 木元壮吉 世話人難波朋平岡本栄次郎佐藤好一郎次田秀雄佐々木恒男栗阪屋文治西川藤太郎 曽我徳太郎 発起者 者起発 玉垣 Å 玉垣 Å 玉垣 ı 玉垣 ı 玉垣 Ç 玉垣 Ç
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 220 –第二編 ③六地蔵 地蔵尊 ⑥手水鉢 享保11年(1728) 地蔵尊の壁に貼ってある書き付けのれん 天保八年丁酉(1837) 富  吉茂  吉惣右ェ門人話世 信者中 荒木氏 下撫川村河惣建之 享保十一丙午霜月 忠左衛門 大橋町九月吉日 天保八酉歳 寄進者脇本一郎市會議員西川建設 西川勝 奉南無延命地蔵大菩薩南無延命地蔵大菩薩之御宝前 馬報恩謝徳之 昭和四十九年二月二十三日 岡山市原尾島巳之生五十八才女 大願成就 かかか びさんまえい そわか 昭和五十八年壮月望日 ※陰暦八月十五日 延命地蔵大菩薩六地蔵大菩薩講員連名大倉しげ 荒木花子曽我政子難波登喜世木元壽野川中嘉市西川八千代江原光江難波幹子杉山伊勢野幸原 亀難波静子藤原小糸難波登美子幸原君子加藤よし荒木菊野次田加女幸原富士夫林 亨平難波久男 よつのつぢ むつのちまたを  みだのじゃうどたすけたまへや  ひとすじに 手水鉢の側面 肝煎=名主・庄屋 きもいり ④賽銭箱 箱銭賽 奉納 西向 日車大明神
路傍の文化財– 221 –第二編 題目石等の石碑 西向 日車大明神 稲荷神社(日車様) 昭和八歳旧七月 寄進者連名 小郷ひさ荒木お七髙嶋まさ難波勢伊難波千代野 寄進者連名 曽我ひさ難波まん荒木七五三吉金田重一 小郷文治西田増平 日車様 平成七年九月吉日 集会所改修工事 御芳志者 貳萬円也拾萬円也 毅 壱萬円也貳萬円也貳萬円也貳萬円也貳萬円也貳萬円也貳萬円也 岡 三二郎 壱萬円也壱萬円也壱萬円也 農業土木 拾六萬 西向十五町内会 拾萬円相当 撫川産業 材 料 奉納者 現銀屋藤吉(狹川町所司利男の先)岡屋政吉(東町の岡菊一の先)矢田部屋市三郎 日畑邑 脇本長八新地初治郎橋本屋源吉(平川達治の先)橋本屋音吉(平川某の先) 世話人 鳥羽屋重兵衛(難波貞一の先)道具屋冨三郎(平松哲男の先) 高田屋増吉(難波某の先) 岡山花尻 児島屋藤三郎 下撫川 児島忠吉大工音吉小郷卯三郎(小郷利郎の先) 曽我宗五郎 荒木仁吉坪井元平(坪井礼次郎の先) 難波伊三郎(難波文雄の先)木本愛吉(木本一郎の先) 難波静雄(難波恭文の先)高島惣吉(高島熊男の先)岩崎市五郎金子城板谷 世話人 大橋若連中 中央棚の中にある幟旗袋? 平成七年の改修工事の御芳志者 地蔵堂の奉納者記録 ※「きびのさと」No.119より (この書き付けは所在不明) 日車様遷座 昭和43年4月3日、西向町内の私有地98平米を確保し、 撫川橋西詰にあった日車様と、旧大橋西詰にあった地蔵堂を遷座。 同年5月落慶式を行った。遷座の日は不明 格天井画 元地蔵堂の天井にあったものを移設 世話人 九阡円也
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 222 –第二編 地神・燈籠・手水鉢 地神・石碑・燈籠・手水鉢(撫川1147 定杭公民館前)  定杭公民館にある地神と、少し離れたところに燈籠と手水鉢があり、町内会の人の手で管理され ている。また以前は「大政翼賛」「臣道實践」と刻んだ石碑があったが、現在は撤去されている。 42

定杭公民館にある「大政翼賛」「臣道實践」と刻んだ石碑。昭和15年(1940)に 建てられた。この石碑が建てられた時の地盤面(点線)は現在よりかなり低い位置に在った ため碑文の文字が何文字か隠れている。

時代が下ると都市整備により道路面が上がり碑が埋まった。この種の石碑は残っていること が珍しい。地神様の基礎も埋もれており、設置した時から今まで同じ場所に在ったと思われる。

路傍の文化財– 223 –第二編 題目石等の石碑 定杭 地神
この場所から50m北の空き地の道路わきに燈籠と手水鉢があるが関連は無いのか? この形状の燈籠は小さな祠や参道沿いに建てられたものである。 同じ場所に置かれていたか否か不明。 ① ② ③ ③① ② 皇紀二千六百年記念 定杭公民館 道路 240 裏面 公民館敷地面 裏面 道路 設置時の路面 1,250 900 100 臣 道 實 践 大 政 翼 賛 令和4年3月現在撤去されている。 令和4年3月現在撤去されている。 明治三十八年九月吉日 450 手水鉢 燈籠 明治十三年(1880) 寄 附 寄 附 勝三郎 岡 勝三郎 岡 明治十三年 庚辰立春 310 450 415 1,100 道標 燈籠・手水鉢 地神(100m先) %8 $2
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 224 –第二編 常夜灯(旧西向) 旧撫川大橋西詰の常夜灯(庭瀬416 吉備公民館駐車場内) 昭和40年代の足守川拡張工事による移転 旧東堤 旧大橋 道標 足守川修堤記念碑 日車大明神 常夜灯 常夜灯 昭和42年移転 昭和43年移転 昭和15年移転 明治19年水害の後建立 明治19年水害の後建立 大正5年建立 平成25年移転 平成30年原状回復 地蔵堂 建立年不詳 43

工事ではコンクリートで固められた。これは荷重が有効に垂直に 伝達され、最適な素材であるとの事。移設のたびに内部は現代 様式変化した。近年は加工方法が機械化され、適当な端材が 少ないこと、技能工不足等によりコンクリートで固めるようになっ た。石燈籠を刻む技術も衰退してしまう。

路傍の文化財– 225 –第二編 題目石等の石碑  この近郷では吉備津彦神社の燈籠に次ぐ規模で、地域の遺 産である。創建当時の石工の銘はないが、蓮弁の出来は秀逸 で、何度か落下事故にあい修理されている。笠石はモルタルで 接着し、擬宝珠は蓮弁に鉄筋で繋ぎ、まさに満身創痍である。  川の東岸にあった慶應4年(1870)築造の常夜灯は、大正5年 (1916)の大橋架け替え工事で不要になった欄干の親柱一対と ともに、大橋公民館に保存展示されている。  明治19年の創建当時、常夜灯の基台の内部は、石材の加工 時に発生する割石の破片で満たされていたが、昭和42年の移転
この常夜灯は、明治19年の大水害のあと、大橋の西岸に創建され、 北側の「修堤碑」と並んで建てられていた。この一対の石造物は西向町 内の人達が自力で守った我が町のシンボルである。「修堤碑」は現在、 吉備西幼稚園の園内に移設されており、当時の水害の様子を細かく伝 えている。  大正5年に大橋は架け替えられ、昭和43年に現在の撫川大橋の新設 によりこの橋は廃止された。  明治19(1886)年:足守川大水害のあとに創建  大正5(1916)年:再建  昭和42(1967)年:足守川拡幅工事のため西向(撫川1495-2)に移築  平成25年(2013):防災の見地から、「西向常夜灯を守る会」と 当会の協力で吉備公民館駐車場内に移築  「氏神両神」とは中撫川の須佐之男神社、八幡神社の2社である。そ の昔、日蓮宗の信徒であった領主戸川氏の信城寺(中撫川の八幡神社 の別当)と、観音院(須佐之男神社の別当)の対立融和策に心を痛めて いた。常夜灯には転機となるそれぞれの年代が刻まれている。 旧撫川大橋西詰常夜灯 堤防の路盤面 難波常造発起人難波吟造難波徳三郎難波伊三郎世話人 燈籠講加入連壱口持 難波常造 難波徳三郎仝 難波新吉仝難波伊三郎仝 難波吟造仝次田武吉仝島村平太郎仝 難波藤作仝難波定五郎仝曽我彦太郎仝 町内北西仝 燈籠講加入連名 高島増右衛門小郷吉造半口持仝 難波菊次郎仝 難波文作仝難波三治郎仝 次田直造仝坪井吾八仝平川源吉仝難波萬治郎仝 平川多吉仝曽我宗吉仝荒木甚五郎仝四半口持難波利平仝 木元愛介仝熊代直道仝児島忠吉仝岡藤十郎仝難波平吉仝難波栄一郎仝荒木千代造仝 曽我宗五郎岡 鉄治郎四半口持仝児島源三郎仝難波栄治郎仝 大江平治仝 4700 3070 金刀比羅神社 東面(昭和42年以前は北面)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 226 –第二編 南面(昭和42年以前は東面) 勒記建再籠燈石 勒記 建 再籠燈石 南面 難波嘉平難波菊次郎難波吟蔵發起人児島円蔵児島源三郎中野小十郎小郷卯十郎岡藤十郎木元安吉高島惣吉児島精太郎坪井源次郎難波寛治佐藤常三郎島村善次次田直蔵難波常吉難波静夫世話人 寄附連名 一金五拾円一口参拾円難波菊次郎一口参拾円難波吟蔵一口参拾円難波嘉平一口参拾円難波静夫次田利右衛門一口貮拾円難波常吉 一口拾貮円佐藤常三郎一口拾円島村善治坪井源二郎一口拾円児島忠吉一口拾円難波寛治一口拾円井上次郎吉一口拾円高島惣吉一口拾円中野小十郎一口五円曽我善雄一口五円平松久一郎一口五円岡藤十郎一口五円小郷卯十郎一口五円島いり古や一口五円佐々木恒夫一口五円熊代繁雄一口五円岡浅次郎 木元安吉一口五円 難波欣二金五円1大正五年三月柴田品松同五円 井上次郎吉石工 柴田品松 吉備津神社 旧撫川大橋西詰常夜灯
路傍の文化財– 227 –第二編 題目石等の石碑 旧撫川大橋西詰常夜灯 念記年百治明 西面 燈籠敷地寄附連名岡謹一郎金五千円次田 猛金貮萬円難波久男永代寄贈四坪五合加藤健一仝川中嘉市仝木下芳雄仝幸原昇平仝幸原富士夫仝 幸原文武金五千円 次田克己仝坪井禮次郎仝難波泰文仝難波二郎仝西川米三郎仝西川 勝仝林 亨平仝林 隆博仝林  亨仝藤原万寿男仝 念記年百治明 昭和四十二丁未年第拾月移転 明治十九丙戌年第一月建之 大正五丙辰第三月再建 昭和四十二丁未年第拾月移転 明治十九丙戌年第一月建之 大正五丙辰第三月再建 西面(昭和42年以前は北面)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 228 –第二編 北面(昭和42年以前は南面) 念記年百治明 氏神両社 発起人一金壹萬五千円 荒木貞夫 林 亨平一金貮萬円 吉井久善一金参萬円 山本一美 所司利男 西川 勝 難波保二 難波伊平一金五萬円 次田 猛一金拾萬円寄附者連名 林 亨平 難波保二 難波伊平 次田 猛 川中嘉市 岡三二郎 木元淳介 曽我寿一 曽我三郎 難波 泉 難波 勳 難波三十四一金壹萬円 西川米三郎 世話人  荒木貞夫 西川米三郎  林 亨 林隆博一金壹萬円  中村清 光畑虎雄 次田茂 藤原欣二 林陽平 幸原亀 難波忠史一金壹萬円  幸原文武 加藤健一 次田克己 佐藤好一郎 藤原万寿夫 邑久町 藤原万寿夫林林  佐藤好一郎 幸原未美 幸原文武 加藤健一 次田克己 幸原富士夫 一金五萬円  町吉 同 町内会 幅2160×高さ620mm 昭和五十乙卯年修復再建 ■ 昭和50年の修復再建の銘板 300 620 2160 100 490255 130 旧撫川大橋西詰常夜灯

西向の常夜灯は、明治19年に足守川の旧撫川 大橋の西岸に築造され、当時は船舶往来の燈台 として重要な役割を果たしていた。花崗岩で作られ た独自の様式は、歴史的にも文化的にも貴重な郷 土の文化財である。

その後、大正五年の河川氾濫に伴う再建、昭和 42年の足守川拡幅工事による移築、昭和50年の 修復再建と、地元西向町内の有志による尽力で、 今日までその勇姿をとどめてきた。

平成25年、老朽化に伴う防災の見地から、吉備 公民館敷地内に移転することになった。

路傍の文化財– 229 –第二編 題目石等の石碑 旧撫川大橋西詰常夜灯 変遷の記録 昭和30年代当時の様子(東側から臨む・難波伊平氏提供) 大正5年3月13日「山陽新報」に撫川大橋の落成 式の様子との文中に、『道橋の西詰なる燈籠修築 祝いを兼ねて』との記事がある。 昭和42年10月移転の様子(西向の難波久男氏敷地・南側から臨む) 昭和42年10月〜平成25年1月(西向の難波久男氏敷地) 明治19年(1886)1月: 足守川の大水害の後に大橋の西詰に建設 大正5年(1916)3月: 大水害で大橋とともに崩壊したものを再建 昭和42年(1967)10月: 河川拡幅工事で町内有志により私有地に移設 昭和50年(1975)6月: 町内有志により修復再建 平成25年(2013)1月: 町内外の有志により吉備公民館敷地に移転
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 230 –第二編 常夜灯(大橋) 旧撫川大橋東詰常夜灯(撫川211 大橋中之町公民館) 常夜灯 地蔵堂 妙見堂 妙見堂 旧東堤足守川 旧大橋 昭和43年の足守川拡張工事による移転 昭和41年の足守川周辺見取図(きびのさとNo.96より) 昭和43年須佐之男神社に移転 平成19年移転 44
路傍の文化財– 231 –第二編 題目石等の石碑 旧撫川大橋東詰常夜灯 寄附講中 同 庄五郎 同 小三郎 介 児島屋 宗平衛 吉見屋 善衛門 吉岡屋 粂治郎 同 康右衛門 瀬口屋 静三郎 児島屋 庄 吉 万 屋文治郎 繁 屋丈 助 貝光庵持位 吉見屋 岩次郎 土佐屋 粂 吉 川入屋 仲 蔵 同 善 吉 瀬口屋 平三郎 中木屋 徳兵衛治三郎 鳥羽屋 重兵衛 万 屋 庄兵衛 飴 屋 善 助 嶌 屋 吉 蔵 発起人 袖岡新 助 同 庄五郎 世話人 文治郎 鳥羽屋 重兵衛 基台の北面 北面 西面 1360 2340 南面 南面 大橋中之町公民館 常夜灯 慶應4年=1870 春先勝日建焉慶應四戌辰歳 金毘羅大權現 光華明彩 大 橋 おほはし 大正五年三月架け替え 大正五年三月架け替え 現在の地盤面 この常夜灯が建設された時期は、明治新政府が誕生する激動のとき で、まさに『明治に改元さる』その時を見ていた記念碑である。竿石の「光 華明彩」の文字はその時代を象徴している。 昭和43年撫川大橋新設に伴い旧大橋は廃止撤去され、東詰にあっ たこの常夜灯も解体されて須佐之男神社に仮置きされた。 景観保存の運動により、平成19年にここに復元展示された。「大正 5年3月架け替え」と彫り込んだ親柱と共に保存展示されている。 火袋と基壇の一部は再建の時、新しく作り替えて補強された。
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 232 –第二編 対岸西側から 橋より南より 右に修堤碑 後ろに地蔵堂 対岸西側から 橋より北寄り 妙見堂 南側から 東側から 手前に親柱 対岸に西向常夜灯 昭和43年10月新大橋渡り初め式の記念写真 昭和30年頃の旧大橋と常夜灯(絵はがき) 旧撫川大橋の常夜灯と親柱 ました。 旧撫川大橋東詰常夜灯
路傍の文化財– 233 –第二編 題目石等の石碑 常夜灯(高田) 高田橋東堤(撫川 高田) 旧東堤足守川 昭和42年の足守川拡張工事により移転 常夜灯 高田橋 $5 高田公民館 45

昭和42年の河川改修により、堤防上に置かれたすべてのすべて石碑の類は撤去され、 防災上、復旧は禁止された。

その十数年後に、規則に適った現在の位置に再建された。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 234 –第二編 六十六部供養塔 六十六部 供養塔 ▽文化13年の堤防面 弘化5年=1848 文政13年=1830 ←東 西→ 1830 220300 四月八日 東面 東面 西面 北面 北面 南面 南面 道路 足守川 同 村方世話人 清右エ門 和三郎徳十郎三 吉 藤 蔵 助十郎 岡田屋熊治郎 弘化五年 戊 申 N 1m 平成22年 改修後 常夜灯 足守川 高田橋(板の橋) 現在の堤防 現在の堤防 42年の堤防 高田用水路脇に移設 昭和42年以前 改修前 常夜灯 足守川 金毘羅大権現 吉備津宮 由加大権現 文政十三 庚 寅年 文政十三 庚 寅年 下撫川村 奉納大乗妙典六十六部日本四国供養塔 願主六三郎 日月清明 天下和順世話人 清四郎脇願主備中 道 安 伊兵衛 藤 吉 雲□脇三郎同行中 世話人 主施万十 高田常夜灯 供養塔について  六十六部供養塔は全国66か所の霊場に 1部ずつ納めて回るために書写六十六部、詳 しくは「日本国大乗妙典六十六部経聖」と云 い、全国の六十六か所の霊場に一部ずつ納 めて回るために書写した。  刻まれている願主の名は高田周辺の人々で あるが、宮内村の岡田屋熊治郎の名もある。
路傍の文化財– 235 –第二編 題目石等の石碑 常夜灯(信城寺内) 信城寺境内(庭瀬524) 46
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 236 –第二編 信城寺境内常夜灯 信城寺境内 法万治川 信城寺 文化二年(1806) もとは法万寺川西岸に在ったものを歩道新設工事により移転した。橋本屋、 大黒屋とも狭川町の廻船問屋で、須佐之男神社の玉垣にも寄進者の名があ る。作品の精度は最も高く、特にコーナーの加工は手が込んでいて美しく機 能的。 信城寺境内 東面 栄講中 吉備津宮文化二年 乙 丑 九月吉旦 發起人 橋本屋吉兵衛 世話人大黒屋 西面 北面 法万寺川
路傍の文化財– 237 –第二編 題目石等の石碑 庭瀬港は建久3年(1192)頃から重要な港として利用され てきた。庭瀬城の外堀でもある南側は石垣のみ。北側は陣屋 町の船着き場でもある雁木がある。庭瀬港は飛鳥時代(6世 紀頃)には吉備津(宮内)の外港であった。 平安時代には港の機能は庭瀬に移り、東高梁川がせき止め られて12ヶ郷用水として整備されて新田開発が行われ、慶長 年間の末には延友が外港になった。 常夜灯(庭瀬港跡) 庭瀬港跡(本町公民館北隣) 47  川の南側は外堀のため石垣のみ で、北側は庭瀬陣屋町の特徴であ る石段があります。  表御門跡の石垣も往時を偲ば せてくれます。表御門は廃藩置県の 時、東花尻の立成寺に移築され、現 在山門として残されています。

昭和29年 台風により常夜灯が破壊され、撤去された。(9月26日)

平成19年 岡山市の町並み整備事業として復元された。(19年10月) 礎石は創建時のものであるが位置は現在の道路法に基づき、 北東に約2m移動している。

常夜灯は現代の街灯、燈台の役目。光源は「菜種油」燈芯は 天然藺草の芯。イグサは別名燈芯草(とうしんぐさ)と言われる。 現在の栽培イグサは細すぎて燈芯には適さない。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 238 –第二編 1,430 1,465 真實一路昭和四十七年七月矢吹景秀書 素材:御影石自然石 6,520 本町常夜灯 常夜灯 西暦 和暦 出来事 1699 元禄12年 板倉重高庭瀬藩主となる。 1700 元禄13年 本町の常夜灯が建設された。 1798 寛政10年 野崎家 船問屋として庭瀬藩より独占許可を得る。 1818 文化12年 水路が小舟でも通行できなくなり浚渫作業をする。 …6m×15mの船の残骸。人骨12、馬骨9、銅鉄片々、鎧甲… 1818〜文政年間 本町の常夜灯が修善された。(1818〜1830) 1830 文政12年 吉岡屋が屋敷内に住吉神社を祀り、専用航路を作る。 吉岡屋は油・穀物等を扱い財をなした。 1954
2007
2020 令和2年 外壁焼杉板を修復 石碑「真実一路」について  常夜灯の南隣りの本町公民館の敷地内にある石碑。 1954(昭和29)年に山本有三の同名の小説が映画化され、その名が広まった。  昭和47年、本町の住民がその理想を目指して進もうと、当時の法正山信城寺の住職矢 吹景秀の揮毫により、この碑をたてた。  その後、平成18年建物の新築移転に伴い、廃棄する計画を高橋浩郎氏の強い希望に よりここに移設した。標題の「真実一路」は北原白秋の詞「巡礼」からとった。 矢吹景秀について  妹尾町に在った元亀元(1570)年から明治5(1872)年まで300年余続いた私塾(寺子 屋)矢吹学舎を主宰する矢吹家の末裔。学舎は矢吹家の転居と共に移転しその地名に 従ってそれぞれ、今寺学舎、上寺学舎、和田学舎、白浜学舎と呼ばれ、現在は跡地に碑 がある。2013年7月(森安 哲彦) 石碑 真実 諦メタダヒトリ 真実一路ノタビヲユク 真実一路ノ 旅ナレド 真実 鈴フリ 思ヒダス
路傍の文化財– 239 –第二編 題目石等の石碑 常夜灯(観音堂) 観音堂町内会入口(平野439隣) (平成29年建屋の解体に伴い撤去・廃棄) 2,480 ←北 N 水路 常夜灯 西面 北面南面 妙見宮 金毘羅宮正八幡宮 天保十子 庚 年 六月吉日 南→ 道路 天保10年=1839 1,900 700 1,200 水路 (冬期の水位) 48
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 240 –第二編 修堤碑・忠魂碑 吉備西幼稚園内(庭瀬416) 明治十九年六月十二日足守河修堤功了河發源於賀陽郡間倉村 徑賀陽都宇両郡南注入海綿宜十里許其水平時僅及膝霖潦一到 氾濫崩渤流亡蘆舎荒壊田園其惨状有不可言者蓋堤防卑弱之所 致也郡長橋本貞固赴任後遭此災者再因歎日本郡膏野沃土民物 殷阜濁洪水之暴為深患不可不為之處也奮然起修堤之議而此年 民憊苦慮百計終謀之賀陽窪屋二郡長及各村戸長請官開設都宇 廿二村賀陽七村窪屋二村聯合会議之議即決矣乃都宇郡衙管理 其工事築石搬土修治堅牢之務林奔蔽提者悉芟除之増修總五里 一望寥廓頓改旧觀焉用工三閲月費金壱萬四千円除地方費五千 円之外皆係村費負担也於是平嚮之卑弱変為牢固生命財産頼以 保安焉郡長奮励々氣人民賛翼之刀相須 慮其事之久委堙滅将樹石録之来請余銘余亦受任地方治水之功如此豈不欣挊乎因不辞銘之銘日 平時掲励暴漲襄邱提之不固民之所憂慮此危険旧提新修芳澤長潤河水悠々 岡山縣知事正五位勲四等千阪高雅毫仝 書記官從六位 高津輝撰文 仝 属判任六等官 多田省一書 藤田市太郎調之 碑堤修 水害と修堤の記念碑(明治19年) 足守川の度重なる大水害と修堤工事の様子を細かく伝えている。 表面(東面)碑: 幅 1370 × 高さ 1860mm × 奥行 240~320mm 台座: 幅 2650 × 高さ 350~500mm × 奥行 500~900mm 49
路傍の文化財– 241 –第二編 題目石等の石碑 西向修堤碑・忠魂碑 明治十九年六月十二日足守河修堤功了河發源於賀陽郡間倉村 徑賀陽都宇両郡南注入海綿宜十里許其水平時僅及膝霖潦一到 氾濫崩渤流亡蘆舎荒壊田園其惨状有不可言者盖堤防卑弱之所 致也郡長橋本貞固赴任後遭此災者再因歎日本郡膏野沃土民物 殷阜濁洪水之暴為深患不可不為之處也奮然起修堤之議而此年 民憊苦慮百計終謀之賀陽窪屋二郡長及各村戸長請官開設都宇 廿二村賀陽七村窪屋二村聯合会議之議即決矣乃都宇郡衙管理 其工事築石搬土修治堅牢之務林奔蔽提者悉芟除之増修總五里 一望寥廓頓改旧觀焉用工三閲月費金壱萬四千円除地方費五千 円之外皆係村費負担也於是平嚮之卑弱変為牢固生命財産頼以 保安焉郡長奮励々氣人民賛翼之刀相須淂到此其功也偉兵郡人 平時掲励暴漲襄邱提之不固民之所憂慮此危険旧提新修芳澤長慮其事之久委堙滅将樹石録之来請余銘余亦受任地方治水之功淂如此豈不欣挊乎因不辞銘之銘日 潤河水悠々 岡山縣知事正五位勲四等千阪高雅毫 仝 書記官從六位 高津輝撰文 仝 属判任六等官 多田省一書 藤田市太郎調之 明治十九年六月十二日、足守川の堤防改修工事が終了した。足守川は源 を賀陽郡間倉村(足守)から出て流れ、賀陽郡と都宇郡の両郡を経て海へ注ぐ、 遠く十里(三九二七二米)ばかりに亘り、平時は僅かであるが、霖雨となれ ば水は漲り、水音は高く氾濫して家屋を流し、田園は荒れ、その惨状は言語に絶する。これは堤防の卑弱によるものである。 郡長(都宇)橋本貞固が赴任してその災害に遭れ、深く慨嘆した。本郡 は土地肥沃し、農産物は豊富であるが、洪水のために甚だしく損害を蒙ってい るので、深く憂へ何とか改善せねばならぬと思い、足守川堤防改修の議を起こ した。 住民は毎年水禍に苦しんでいるので、賀陽、窪屋の郡長と各村の戸長に謀り、 当局に要請した。都宇二十二村と賀陽七村、窪屋二村が聯合して開かれ、会 議の結果、即決した。よって都宇郡役所(應徳寺にあった)が工事を管理した。辞することはできず欣んで應じたのである。である。 片山虎右衛門林古谷亀賑治内田泰造平松朋治難波讓太郎太田始四郎高尾仙作澤田龍雄龍治竹太郎中西政愛 賀陽郡窪屋郡都宇郡 関係戸長 表面(東面)原文 表面訳文 裏面(西面)原文 (きびのさとNo.107より)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 242 –第二編 西向修堤碑・忠魂碑 碑:幅 1380 × 高さ 2300mm × 奥行 310mm 台座:幅 2030 × 高さ 700mm × 奥行 1080mm 世話人 裏面(西面)表面(東面) 陸軍大将一戸兵衛書 戦病死者芳名 日清戦役 陸軍砲兵上等兵 齊藤勘四郎 北清事変 陸軍輜重隊輸卒 前田市五郎 日露戦役 陸軍歩兵上等兵 坪井竹三郎 同 陸軍歩兵一等卒 板松金次郎 分会長 袖岡経男 副分会長 林 亨平三宅兵一斉藤友一吉田常夫荒木岩夫松永君夫佐藤寿夫石原佐平河内源次平田音市鈴山 魏  帝国在郷軍人會撫川町分會發起昭和四年四月建立 大手寺下憲治 朔 忠魂碑 忠魂碑
路傍の文化財– 243 –第二編 題目石等の石碑 由緒沿革  周辺にお祀りしてあった石碑を半鐘場(火の見櫓)跡地に移転し整備した。  常夜灯は半壊の状態で放置されていたが地元の皆さんの文化財保護の熱意で復元された。(森安 哲彦) 修復日時 平成26年(2014)1月24日 修復担当 花尻 東・中・西 講中 世話人代表 板野 隆 修復前 題目石・道標 半鐘場跡の道祖神(花尻142西) 50
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 244 –第二編 1720 14701480 1150 820 ① ② ③ ④ ⑤ → ← 文政四年(1821) ①② ③④⑤ 花立て 花立て 大覚大僧正 年遠忌は没後行う法要で50年毎に行う。 日蓮上人の命日は弘安4年(1282)10月13日 没年61歳 弘安4年:元の来襲した弘安の役 道標 常夜灯 天明元年(1781) 明治十四年(1881) 天保十三年(1842) 天保十三年 寅 壬 拾二月十日 五穀豊穣 村中安穏 堅牢地神 南無妙法蓮法蓮華経 則武喜代治則武幸四郎村  當赤井亀造長櫓抗吉田中源治郎 高祖六百遠忌為報恩村中安全明治十四年辛己年九月建立之 南無妙法蓮法蓮華経 日蓮大士 為第五百遠忌□之□□□ 天明元年 子 丑 十月十三日 南無妙法蓮法蓮華経 日蓮大士 文政四年 辛 己 十一月日健之 丑之年男酉年之男 題目石 半鐘場後の道祖神・道標
路傍の文化財– 245 –第二編 題目石等の石碑 題目石 半鐘場後の道祖神・道標 弘化四年 北面西面 南面 献燈 未八月吉日 弘化四年(1847) 常夜灯 一ノ宮 庭 瀬 大正九年二月 青年団発起 寄附則武始男 西面南面東面北面 大正九年の道標 1870 元々は20m程北の三叉路の一角にあった。 車が接触し、折れて放置されていた物を今回 鉄筋4本を入れて接続し復旧した。 この常夜灯の火袋は破損し笠石は長期間放置されていた。 町内会で新しく火袋を作り、平成25年に復旧された。 ☝☝ ☝☝
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 246 –第二編 集落南端の小高い丘の上にあり、日差山廿二坊の一の千蔵坊の阯。本尊観世音菩薩は千 手寺の観音堂に安置されている。現在は石地蔵尊が祭られ、傍らの塀の内に堅牢地神、水神 が祭られ「荒神様」と呼ばれている。 元は草庵があった。本尊の観世音菩薩は千手寺の観音堂に遷され、石の地蔵尊は小堂に 安置されている。 千蔵坊は大蔵坊と同じく、日差山二十二坊の一つで、退転してここに祭祀された。この丘は 昔の大内田住民の墓地であった。 荒神様と千蔵坊址 大内田524の東丘 51
路傍の文化財– 247 –第二編 題目石等の石碑 荒神様 地蔵堂 第75番札所の石像 若連中 世話人 堅牢地神 天保九戊戌年二月吉日 天保9年(1838) 200 235 鳥居の銘 鳥居 第76番札所 第75番札所 鳥居 文政十三庚寅八月吉日 額束の文字 鳥居断面 文政13年(1830) 大正六年十月吉日 ①②③ ① ②③ 七十五番薬師如来 善通寺 金毘羅講中 水神 荒神さん 當村 若連中 荒神さまと千蔵坊址 地蔵堂 荒神様
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 248 –第二編 八幡宮 金毘羅大権現 北西面 北東面 南西面 南東面 甲辰四月建之天保十五年 世話人若連中天保13年=1842 N 吉備津宮 中 村 ↓千手寺 大内田集落の入口(もと船着場)に花崗岩製で高さ約2.4mの常夜灯 が、高さ90cm、1.8m四方の台(石垣)に建っている。「天保十五年甲 辰四月建之 吉備津宮 八幡宮 金毘羅大権現 世話人 村中 若連中」の 銘あり。天保年間までは、この一帯は海岸線であった。 はじめ、燈籠は神仏に献ずる燈火であったが、暗い夜の道案内に目的が 移ってきて、現代と同様交通安全の目的が主流となった。 常夜灯(大内田) 大内田68隣 52
路傍の文化財– 249 –第二編 題目石等の石碑  日差山の山坊の一つが移った坊跡。本尊などは千手寺へ。二畝(60坪)程の敷地の南西に石地蔵尊あり。北に 2祠があり、右は皇太后大夫天神、左は大蔵大明神。皇太后大夫天神は、藤原中納言俊成(大内田里正の公森 家の祖)を祀る。皇太后大夫とは皇太后の仕える役所の長官で俊成がその職にあった。※里正=村長 樹齢300年、樹高20m、目通りの 周囲3.7mのムクノキの巨木が、 岡山市の保存樹に指定されてい たが、現在は倒れて二代目の木 が育っている。 大内田586坪井氏宅北 大蔵坊無量寺阯53
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 250 –第二編 映於此泉底尊影矣正十年三月九日浮間勧請高祖大師大當霊場建立天明年 發起者 大内田 光畑佐平 世話人荒木進三 仝仝大正十四年四月建立之 仝 はつ□ 中野奈津 仝光畑こま 仝 □くに 内田□介 岡本きぬ犬飼はま板谷幸一長尾常造□□□太郎 屋高 同人妻琴女荒井幸之進範光 當菴施主 文化七 庚 牛歳八月廿四日 墓 浮映於此泉底尊影矣(このいずみのそこにそんえいふえいかな) 碑念記 北面 東面 裏面 蓮臺院心月智淨信女蓮華院観月心淨信士 南面 天保十三壬寅年十一月廿四日 西面 1700 900 1160 350 600  千手寺の真南の山腹の御堂跡で、弘法大師を祀る。 千手寺に保存の当庵棟札に、「天明六丙午歳 大師堂当村建立為 寅蔵童子一廻忌追善 武井鉄之丞輝高十六歳書之、大工棟梁塩 飽本島藤原末孫大倉傳五郎政光」、裏面に「当村武井鉄之丞輝 高書之」とある。  現在、ゆかりの人々の墓石、姿見の井戸跡、それと記念碑 「當霊場建立天明年間勧請高祖大師大正十年三月九日、浮映於 此泉底尊影矣(このいずみのそこにそんえいふえいかな)」 が建てられている。地場大師八十八箇所の八十五番札所あり。 在りし日の大師堂(昭和40年発行「吉備町誌」より) 「きびのさと」No.119によると  大内田の山中にある。大正11年頃、撫川大橋に住んでいた荒木近造という 人が或る日、昼寝をしていたところ、大橋の上から真南に当たる山中に一つの 井戸があって、それに弘法大師の霊姿が映ったという。霊夢を感得しその所 在を探し求めて大内田の向庵大師に辿り着いた。  向庵は荒れ果てた小さなお堂が一つと荒井幸之進の古い墓が草むらに 立っているばかりである。雑草をかき分けて行くと竹藪におおわれて古い井戸 が見つかった。これが先に夢に見た井戸の違いないと信じ、一家そろって此の 大師堂に参籠し拝殿をしつらえて念仏信仰の道へ入ったのである。 向庵の墓 向庵記念碑 向庵大師堂跡 大内田 大池南墓地の上 54
路傍の文化財– 251 –第二編 題目石等の石碑 地場大師八十八箇所の第85番札所・巡拝記念碑 向庵大師堂 巡拝記念碑 坂東霊場秩父霊場西國霊場四國霊場 四国霊場會公任先達中尾一太郎四国霊場會公任先達西田紋蔵千手寺住職松本文秀 西国秩父坂東巡拝者芳名建設発起者 久山市夫昭和五十六年二月吉日 大内田 西田紋蔵中尾一太郎 坪井勝男中野猪之太 中尾庄七松永アヤメ 光畑直二藪田綾子平川□野所司市□ 妹尾崎 蜂谷正子料治重子料治杢一久山市夫 大内田 安原政二中野猪之太中野紋太郎中瀬雅惠坪井達夫光畑楠□松永アヤメ 平川良一所司市子江堂美代子 妹尾崎 料治豊一郎 料治杢一平松愛子蜂谷正子 龍治□福島光蔵中山富太郎 阪中山武夫 四国霊場巡拝者芳名表示外全員 五回以上巡拝 十五回巡拝 大内田 西田紋蔵 十五回巡拝 大内田 中尾一太郎 十四回巡拝 坂東□ 十四回巡拝 妹尾崎 久山市夫妹尾崎 久山米□平松愛子岡本アイ子 福島光蔵青□昭三古市八重子 中山栄子中山武夫中山安野阪口禮子中山官太郎 中山嘉市 □西口□□ 百八十八ヶ所巡拝祈念碑
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 252 –第二編 福富公民館北(中撫川66隣) 地神55
路傍の文化財– 253 –第二編 題目石等の石碑 1,650 A 奉 燈 中講女 B 安政2=1855 ③   ②   ①④⑤ ⑤ ④ ③ ② ① N ⑤の基礎石 文化8年=1811 A断面 公民館 常夜灯 常夜灯 福富公民館 B断面 明治三庚子十月吉辰日後五百歳中廣広宣流布 遊歩道 ②の裏面③の東面③の西面 ①の裏面 文化八辛未年 三月十三日 建立之 當村中 當村中 文化八辛未年 三月十三日 建立之 後五百歳中廣広宣流布 安政二乙卯年二月五日 明治三庚子十月吉辰日 安政二乙卯年二月五日 大覚大僧正 南無妙法蓮華経 牛頭天王 秋葉神社  公民館の始まりは石碑の御守堂であった。戦後、昭和 23年頃に公民館の形をとった。  昔、集落で火災が多発し、火除けの神秋葉神社を勧請 しご加護を祈った。常夜灯は足守川左岸の妹尾用水の取 り入れ口にあった。(俣野 堅)

を約束されたが、秀忠に代替わりし、幕府と対立しお家断絶となった。

八坂山の富山城主(岡山市北区矢坂東町1−1)であったころ、領民からの 信頼が厚く、その死後ここに供養塔を立て遺徳をしのんだ。墓所は津和野町の 永 ようめいじ 明寺にある。

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 254 –第二編 坂崎出羽守供養塔56 (白石482附近) 板野耕一郎邸 空輪 風輪 火輪 水輪 地輪 供養塔の通常の形と名称 往時の水害で「水輪」を流失した。 当時周辺を探したが見つからなかった。 車庫 隣家 花立 供養塔 供養塔 道路 宇喜多家の系図戸川家の系図 畑 用水路 →笹が瀬川 18m 18m 320 娘  坂崎出羽守直盛は元の名を宇喜多詮 あきいえ 家といい、備前藩主宇喜多直家の弟 忠家の長子である。  宇喜多詮家は従兄の秀家に仕え2万4千石の知行を取っていたが、秀家と折 り合いが悪く、家康に敵対した秀家に対し、詮家は関ヶ原の戦いでは徳川方に与 し、その功績により津和野3万石の領主となった。  燃えさかる大阪城から千姫を救い出したことで家康から信頼され、千姫の再嫁
路傍の文化財– 255 –第二編 題目石等の石碑 N 260 150 1,000 東面南面 北面 650 カーブミラー 電信柱 元の位置 2m 道路 右右 道 金ぴら毘沙門 ゆ が 高橋幸太郎三宅辰太郎 吉備津宮 左 人話世 北区撫川1283 西向道標  平成29年春、この道路沿い西側の宅地開発が行われ、開発業者から敷地内にある道 標一基を撤去処分する旨の申し出があった。  しかし地元町民が立ち上がり、当時の庭瀬かいわい案内人会長香田氏のご支援と、市 会議員赤木一雄氏、市役所及び開発業者各位の協力により、本来の位置より東へ30cm ずらす形で永久保存できることになった。 平成29年9月8日 西向町内会 坪井慈朗 昭和の遺産  この道路は太平洋戦争の前に本土防衛 のため拡幅整備された。このコーナーは大砲 が通れるように修築された。  明治28年、大日本帝国陸軍発行の2万分 一地形図にこの隅切りはない。 江戸時代末期の道標 設置者 不明(倉敷松島の住民?) 世話人 高橋幸太郎、三宅辰太郎 設置年月日 不明 移設前の様子 57
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 256 –第二編  このコーナーは、西向の道標の角と同じく、太平洋戦争の前に本土防衛 のため、大砲が通れるように修築された。  南に数mのところに  燈籠と手水鉢がある。 (撫川1182-4の三叉路) 42 定杭道標 右 左左 金毘羅 道 道道 玉し満倉しき 岡 山 吉備津 明治十四年辛巳歳 第一月吉辰建焉 難波藤作平川源吉難波定五郎 方附寄 南 東 北 西 300 520 1280 140 58 道標 燈籠・手水鉢 42 58
路傍の文化財– 257 –第二編 題目石等の石碑 吉備小 吉備公民館 旧藤田薬局 元の場所 移設場所 庭瀬(鴨方)往来 松林寺 庭瀬常夜灯 庭瀬本町遊園地 於可山道 右古んひら 左吉備津 安政六龍舎己未年九月吉日健之 ゆ が 倉しき 玉 嶋 板久ら足毛りまつ山 おかやまみち こんぴら 南 南 南 東 東 東 北 北 北 西 西 西 270 1360 (庭瀬本町遊園地内) 本町道標 元の場所と向き 現在の向き  この道標は、庭瀬町当時に道路拡張のため撤去された折 り、他所で保存されていたが、平成19年、岡山市の町並み整 備事業として庭瀬本町遊園地に移設復元した。  元の方角とは少し違う向きになっている。  道標は、人馬の往来の盛んな道に沿って建てられていました。庭瀬・撫川の道標は、二つの ルートに沿っており、一つは庭瀬往来(鴨方往来)、もう一つは信仰を対象としたもので、金毘 羅、由加、熊野神社、吉備津神社、高松稲荷のルートに沿うものです。 庭瀬往来 59
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 258 –第二編 撫川213(大橋中之町公民館前) 大橋道標 右 左 下津井道た満しまみやうち道於かや満 寛政九年 慢迷方建之 吉備宮廿丁 大町氏野﨑氏瑜伽山五里 北 西 南 東 200 880 大橋常夜灯 大橋中之町公民館 道標 この道標は、撫川領主四代戸川達邦の時代である。書体は草 字にして優雅な筆法である。慢迷方とは「行く道の方角に惑い迷っ ているものに」と解すべきか。交通の発達していない旧幕時代に幾 千人、幾万人の旅行者が、この道しるべの惠を受けて東西に往来 したことであろう。篤志家の大町、野﨑両氏が如何なる経歴の人 か知る由がない。 きびのさとNo.47より 60
路傍の文化財– 259 –第二編 題目石等の石碑 住吉町内(撫川172) 狭川道標 金毘羅 吉備津 由 が 倉しき 玉 島 かさ岡 安政六己未年星舎 九月吉祥旦建之 寄附狭川町 吉岡屋 仝 康右エ門 吉見屋 倉敷住 石工徳松 大阪岡山 北 西 東 南 360 630 1560 300 道 住吉神社應徳寺 黒住教日生教会所 道標吉備町地内では最も大きく刻字も立派にして道標としては代表的なものであ る。上部に扇子を手に持って、その方向を示している浮彫りが刻んである。 標字のなかの星舎は秋、吉祥旦は目出たき暁とか、朝の異称である。 きびのさとNo.83より 61
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 260 –第二編 ※平成25年、造成に伴い撤去された。 出雲様 下東城之内 公民館 元の位置 こんぴら道 西面    南面    東面 公民館前の道標 右 おかやまみち 左 しもついみち 左 道 ゆ が こんぴら 215 0 5m 740 道標^2 @6 地神・題目石 @7 民家 民家 撫川331(下東城之内公民館前) 下東道標 四国道から新町を南へ入って御本壇に至る三叉路の東路傍にたてられている。 もと反対側にあったが、道路改修のため無造作にここへ移したものである。 きびのさとNo.83より 62
路傍の文化財 第二編 題目石等の石碑 1km 500m 0m 岡山流通センター 伍社神社 妹尾崎 関戸 山田 大内田 大内田ちびっこ広場 大内田道標 題目石 題目石 常夜灯他 三谷の観音 向庵大師堂址 荒神様と千蔵坊址 天満宮 八幡神社 役行者の碑 大蔵坊無量寺阯 地神 大内田常夜灯 遍光山千手寺 ^3 #8 #9 $0 ^7 ^8 %2 %1 %3 @1 @5 %4 大内田665-1 大内田道標  定杭から大内田集落に入った曲がり角に、折れた道標があり「ゆうか、こんぴ ら道」と判読できる。また大内田の荒神様北にも一基あったが現在不明である。 63
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 262 –第二編 平野23-1隣 毘沙門天・道標 道標 自然石の台上に、毘沙門の線彫りの碑(高さ 178cm×幅78cm)がある。隣の自然石台上に石造 祠があり、その左側に瓦製祠が並んでいる(七福神)。 岡豊前守が足守川の築堤をした一期工事の南端とい われている。 堤防修築の時(1624年)その記念碑として建てら れたと思われる。足守川堤防修築に伴い設置場所は 多少の移動があるが、本体は元のままで地元民に篤く 祀られている。  足守堤防から庭瀬へ通づる三叉路で浜という処にある。この浜は 藩政時代の港にして、船路によって上陸した旅人のために建造され たものである。ここには他藩の蔵米の役所が置かれて年貢米を上方 に船積みしていた港でもあった。 きびのさとNo.83より 右左 道 道 くらしきなつか王なつかわいなりに王せにわせ 南 東 64 140 780 石造祠 毘沙門天 620 1780860 1200 450
路傍の文化財 第二編 題目石等の石碑 久米(境目川沿い) 延友国境石  備前・備中の国境となる境目の川で、元禄15年より境界争いがあり、 宝永年間に13ケ所26本の境界石が立てられた。(※吉備郡史より)  その内、現存するのは、梶ケ野樋門の東寄り南に1基、境目川に沿って 数基が現存する。※昔は、川幅が現在より広かった。 国境石1(説明板)北向き 国境石1(東面) 從是東備前國久米村分 国境石4 国境石3 国境石2 国境石1(説明板) 妙見様 天神様 薗崎神社 境目川 65 □190 1600
吉備・陵南にある石碑を訪ねて 第二編 横倒しのままになっている。 石柱の一つは、昭和の末期、平 野375の妙見社の境内に移設さ れている。(122頁参照) 国境石2 從是西延友村分 從是西備中國甲南邨 從是東今保村分從是東備前國今保村分 □180 □190 幅190×奥行170 □190 1140 1200(地表部分) 1170 1950 1400 延友国境石 国境石4 国境石3 国境石2 国境石1(説明板) 妙見様 天神様 薗崎神社 境目川 国境石4(北面) 国境石3(西面)
路傍の文化財– 265 –第二編 題目石等の石碑 66 役 えんのぎょうじゃ 行者碑 大内田牛 うしがみ 神  八幡神社の西山腹に、「役行者(えんのぎょうじゃ)」と「不動尊」の浮彫の石碑が村を 見守っている。左は伴鬼を従えた役行者で「干時天保十一年大山登山」と書かれ、右 の不動尊には「施主当村中 先達 坪井恵三、長次郎」とある。 67 1200 580 奥行400 干時天保十一年 □□月吉日 先達坪井恵三、長次郎 施主当村中先達 大山登山永代講 1400 800 奥行400 奥行400 1600 800 役行者 不動尊 大内田 天満宮近傍 大内田 天満宮近傍  大内田天満宮から北へ約60m山道を進んだ所に広場があり、そこにひっそりと鎮座している。  古老の話によると、毎年お正月・5月・9月に八幡様と牛神さまにお詣りして、御神酒とおにぎりをい ただくのが慣例になっていた。(おむすび=お結び、宗教民俗の儀礼)
吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 266 –第二編 中正院題目石68 庭瀬614 南無妙法蓮華経 安政六年己未歳 四月廿八日立之 南無日朗像菩薩 南無日連大菩薩 南無大覚大僧正 800 460 570 2100 840 1250 裏面
路傍の文化財– 267 –第二編 題目石等の石碑 忠魂碑 渡米者寄附芳名 中正院題目石 忠魂碑ほか 中正院の門を入った東側に高さ2m余りの自然石に「忠魂碑」とした旧庭瀬町 出身の戦没勇士の大碑がたてられている。「見延嗣法日慈書 大正三年七月健之  当院廿一□日明代」と刻んである。これは在郷軍人会庭瀬町分会渡米者三十一 名外に四十八名の篤志寄附によるものである。その南側本堂に接して「妙法蓮華経 薬草品第五」と刻んだ石碑がある。 …きびのさとNo.89より

編集委員

(アイウエオ順)

2011年4月 初版発行

第二版発行

第三版発行

2011年12月 第四版発行

2014年3月 第五版発行

第六版発行

2022年8月 第七版ダイジェスト版発行

2022年10月 第八版発行

吉備・陵南にある石碑を訪ねて – 268 –第二編 上森  剛 香田 清治 高橋 浩郎(故人) 坪井 慈朗 森安 哲彦 吉備・陵南にある石碑を訪ねて 路傍の文化財
2011年8月
2011年10月
2015年10月
発行人 吉備まちづくり研究会(岡山市北区庭瀬947) 発行所 坪井技研(岡山市北区撫川1274-1) ISBN978-4-9908867-0-7 C0001 Y5000E 本書の一部または全部について、庭瀬かいわい案内人から文書による許諾を得ずに いかなる方法においても、無断で複写・複製することを禁じます。

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