Cyrilicsl japan

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キリル文字のメッセージ アクシニア・ジュロヴァ教授

聖プロホロス    イコン18世紀


聖キリルと聖メトディウス


アクシニヤ・ジュロヴァ (3) キリル文字のメッセージ

政治と経済を越えて常に存在した欧州の文化アイデンティティにとって、キ リル文字を伴ったブルガリアのEU加盟はヨーロッパにインパクトを与える 出来事の一つであった。 ブルガリア王国で9世紀に作られたスラブ人の新たなアルファベット-キリ ル文字の発展・確立とスラブ語である古代ブルガリア語で書かれた国内文学 の繁栄は、他の国々へ到達するための多義のメッセージであった。スラブ人 は、スラブ語で(ギリシャ語やラテン語と同じように)神を礼拝する権利を 獲得したのである。 この成功は、ブルガリアの統治者ボリス公の先見性によるものであった。彼 はモラビアから逃れてきたキリルとメトディの弟子たちを、当時の首都プリ スカ、後にプレスラフで保護し、彼らのスラブ人への教育的任務が消滅する ことから救った。当時の状況は、バルカン半島に4~5世紀以前より定住して いたスラブ人とブルガル人がギリシャ文字をスラブ語へ適用しようと試み、 また、様々なスラブ諸語には多くの類似性が残っているという好条件があっ た。この類似性のおかげで、ギリシャ語から古代ブルガリア語へと翻訳され たブルガリアの文献全体が、後に全てのスラブ諸国が共有する財産へと変わ ることとなったのである。 9世紀は教会統治への戦いの時代であった。スラブ人のヨーロッパ文化のル ーツは旧大陸の文化的ルーツと同じローマとギリシャである。遊牧民族の原 点といった過去までさかのぼれば、ユーラシアの低地地方の文化をそれらの ルーツに加えるべきかもしれない。様々な文化伝統の衝突、融合そして相互 の影響はスラブ・ヨーロッパ文化にとって最も生産的な要因であった。


ブルガリア人の会話 マナサスの年代記


アクシニヤ・ジュロヴァ (5) キリル文字のメッセージ

ブルガリアのボリス公

スラブ国家の多くは、中世初期に欧 州のキリスト教世界の一部となって いた。当時はギリシャとローマという 二つの文化的中心があり、一方はビザ ンティン、もう一方は文化的に台頭し ていたローマの影響下にあるフランク 王国とゲルマン人であった。中欧、 南欧、東欧の文化、さらにビザンティン文化は一枚岩ではなかったが、スラ ブ人は言語の共通性のおかげで、互換性のある文献が広がるという利点を持 っていた。これが共有する文化的特徴の基礎となり、スラブ文化を第一に言 語の文化として特徴づけた。 最古のスラブ国家(681年)であるブルガリアは、ヨーロッパにおけるス ラブ人の新たな発話文明の確立期に重要な役割を果たした。スラブ文字は 数世紀に渡って導入、維持、継続された。ボリス公の息子であるシメオン 王の時代には、スラブ・キリスト教国家の最初のモデルが発展し、スラブ 初の文学的伝統である教会スラブ語が他のスラブ諸国の文学的水準へと変 化した。 10世紀終わり、ヨーロッパのキリスト教コミュニティは、古典時代の遺産 によってラテン・ギリシャの二元性の下にあり、ヨーロッパにはラテン語 とギリシャ語という二大言語地域の影響があった。キリスト教の教義はす でに分離主義へ突入しており、東方教会と西方教会の分裂が高まり始めて


アクシニヤ・ジュロヴァ (6) キリル文字のメッセージ

いた。アンティオキアとエルサレムの衰退、アラブの侵入、コンスタンチ ノープルの興隆はギリシャ・キリスト教を東に展開させた。 11世紀初め、一つの言語で結ばれた最大の民族文化コミュニティ「スラヴィ ア・オルトドッサ」が形成され、ヨーロッパ・キリスト教の二元性への脅威 となった。それは数世紀の間にギリシャ人の土地からヨーロッパ文明の東の 境界といった範囲まで広がった。第一次ブルガリア王国の時代には教会の設 立とスラブ語の信仰が起こり、ギリシャやラテンとは全く異なった文学と言 語が栄えた。ボリス公統治時代(863~864年)にブルガリア人がキリスト教 を受け入れた後の出来事である。彼の軍隊の勝利は領土の拡大につながり、 その結果、ブルガリア国は、コンスタンチノープルとローマという二つの教 区に分かれた。外交に優れたボリス公はローマとコンスタンチノープルの関 心の間で巧みに動き、両教会の説得に成功して、教区への巨大な影響と正教 会の一部でありコンスタンチノープルに近い、新たなブルガリア大主教の制

7人の聖人・ 聖キリルとメトディウスの生徒


アクシニヤ・ジュロヴァ (7) キリル文字のメッセージ

アッセマニ福音書


アクシニヤ・ジュロヴァ (8) キリル文字のメッセージ

定を得た。その時から、ブルガリアは ビザンティン国の政治的・文化的モデ ルを導入し適用し始めた。スラブ人や ブルガル人は自らの文字をバルカン半 島に持ち込まなかったので、適用の過 程での主なツールのひとつがギリシャ のアンシャル文字であった。スラブ人 やブルガル人が使用していたのは原始 的なルーン文字であり、チェルノリゼ ッツ・フラブル(10世紀のスラブ学者) は「異教徒の間で筆記と計算に使われ ている」と記している。ギリシャのア ンシャル文字は、864-865年まで、主にブルガリアの碑文に使われ、870年以 降はビザンティンからブルガリアに持ち込まれた教会写本に使われ始めた。 ブルガリア全土に残されたギリシャ語の石碑は、ビザンティンのアンシャル 文字が使用されていたという証拠である。それはキリスト教とつながる、神 聖な文字と考えられていた。その後、ビザンティンの使節であるキリルとメ トディ兄弟によるスラブ文字の創作により新たな扉が開かれた。新たな文字 は、バルカン半島だけでなく中央ヨーロッパまで広がるスラブ民族の巨大な 集団を包み込む試みだった。 エウコロギオン・スィナイティクム


アクシニヤ・ジュロヴァ (9) キリル文字のメッセージ

コプト語の碑文 ゾグラフ福音書 マリアヌス写本


アクシニヤ・ジュロヴァ (10) キリル文字のメッセージ

863~864年、ブルガリアはキリス ト教を受け入れたが、この新たな 宗教がわかりにくいという課題に 直面した。ビザンティンの宣教師に よるギリシャ語も、ローマ聖職者の ラテン語も、第一次ブルガリア王国 の多様な人々を一つにすることは出 来なかった。新たに改宗したこの国がキリスト教世界の一員に実質的に加わ るには、彼ら自身の言語と文字を見つけることが必要であった。当時の文化・ 宗教政策の拡大はビザンティンによる計画であり、総主教の主権とその教 会管区の従属を受け入れている間は、スラブ語での説教を認め、スラブ人 口の広大な領土の統合を目指した。多民族、多言語のビザンティンでは、 いわゆる伝道の文字と言語の適用は、アルメニアやグルジア地方ですでに 試されていた。398年には、聖書は北東ブルガリアにあるオスゴーの連合国 で、教父ウルフィラによってゴート人の言語に翻訳されていた。これらの 試みは、帝国の拡大政策の中で非常に良い結果を生み、9世紀、フォティオ ス総主教は、スラブ人のための文字を創作しコンスタンチノープル教区に 統合することを奨励した。これが、我々をキリルとメトディの伝道の文字 へと導いたのである。 キリルとメトディの兄弟はテサロニキで生まれた。9世紀のテサロニキはス ビトリャのトリディオン


アクシニヤ・ジュロヴァ (11) キリル文字のメッセージ

オストロミールの福音書 スレプチャの使徒行伝


アクシニヤ・ジュロヴァ (12) キリル文字のメッセージ

ラブ文字の創作には最適であった。ギリシャ語を話す人々とスラブ語を話す 人々が混在し、ビザンティンの重要な文化的中心のひとつであった。兄弟は テサロニキ地方のスラブ人の間で育ち、また幼少の頃よりギリシャ語に堪能 であった。素晴らしい教育と語学への親しみは、弟であるコンスタンティン・ キリルにビザンティン宮中での輝かしいキャリアをもたらした。哲人キリル は、すぐにアラブ人やハザル人への任務に加わった。彼はキリスト教を宣教 するだけでなく、ユダヤ語、サマリア語、シリア語など多くの言語での経験 を積んだ。しかし、兄弟の最も優れた功績はスラブのアルファベットの創作 だった。最終的に9世紀中頃、バルカンにスラブ人の新たな文字が登場した。キ リルとメトディは、最初にグラゴル文字を考案し、聖書をスラブ人の口語に 翻訳するために使用した。二人は大モラヴィア国のロスティスラフ公のもと に派遣され、スラブ語による説教を確立させた。その後、スラブ語の福音

ミロスラフ・福音書 ヴァティカン・パリンプセット


アクシニヤ・ジュロヴァ (13) キリル文字のメッセージ

書はローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の式典で聖別された。 コンスタンティン・キリルはスラブ人の口述による伝承を文章へと変え、三 言語教義という停滞と保守主義に異議を唱える使命があった。すなわち、使 徒としてコンスタンティン・キリルは、スペインの司教であるセビリアの聖 イシドルス(570~636年)の「語源」(第9巻)にある「ヘブライ語、ギリ シャ語、ラテン語という三つの神聖な言語があり、世界中のどの言語より輝 く。ポンティウス・ピラトゥスが聖なる十字架に刻まれるよう命令したのは、 これら三つの言語であった。」という文章に異議を唱える必要があり、キリ スト教の文献と説教はこれら三つの言葉のみで与えられるといった前提を乗 り越える必要があった。シリア人、コプト人、エチオピア人、アルメニア人、 グルジア人は、セビリアの聖イシドルスの著作が異議なきものとなる6世紀 より以前に、それぞれの文字を創作していた。

ロンドン・福音書


アクシニヤ・ジュロヴァ (14) キリル文字のメッセージ

「あなたは三つの言語(ヘブライ 語、ギリシャ語、ラテン語)だけを 命じ、他の全ての民族の目と耳を封 じていることを恥じていない。」と いう、キリルの最も重要なメッセー ジは、他の人々が自身の言葉で神を 礼拝するという平等性のメッセージ である。 三言語主義との戦いで彼は勝利し、 ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語 に続いて、ブルガリア語が、9~10 世紀、新ヨーロッパの古典言語へと 発展する道を開いた。それは多国語、国際的な言語と文学として機能する 言語であった。(R.ピッキオ) キリルとメトディの、大モラヴィア国、パノニアでの西スラブ人への伝道が 失敗し、メトディが死去(885年4月6日)した後、キリルとメトディの弟子 たちは助けを求め、最古のスラブ国家であるブルガリアに避難した。ボリ ス・ミハイル(852~925年)とシメオン王(893~925年)の統治下であり、 「ブルガリアは彼らに平和を与えた。」「彼らのような者たちを渇望してい た」と、ビザンティンの作家であるブルガリア人テオフィラクタス(オフリ エニナの使徒行伝


アクシニヤ・ジュロヴァ (15) キリル文字のメッセージ

エニナの使徒行伝


アクシニヤ・ジュロヴァ (16) キリル文字のメッセージ

ドのテオフィラクタス)は記している。弟子たちへの歓迎はキリルとメトデ ィ兄弟の偉業を継続させ、ブルガリアはスラブ文字誕生の地となった。 弟子たちは、キリルとメトディとその功績-グラゴル文字に対して敬意を持 ってはいたが、第二のスラブ文字であるキリル文字が作り出された。そして、 現在、キリル文字はEUの三つの文字の内のひとつとなっている。グラゴ ル文字は、キリルとメトディ、その弟子たちによって、大モラヴィア国とパ ノニアでの宣教活動に使われ、17世紀中期までクロアチアの文字として残っ たにもかかわらず、ブルガリアでは難解な文字と受け取られていた。グラゴ ル文字は民族アイデンティティであり外国の言語的影響に対する防壁と考え られていたが、ブルガリア人がギリシャ語に親しんでいたのに対して、ヘブ ライ、コプト、エチオピア、サマリアの文字に似たグラゴル文字は彼らには 遠い存在であった。グラゴル文字は、ブルガリアでは12世紀終わりまでしか 使用されず、碑文やアッセマニ福音書、ゾグラフ福音書、マリン福音書、シ ナイ詩篇など、10~11世紀の写本に残されている。 リラ・福音書


アクシニヤ・ジュロヴァ (17) キリル文字のメッセージ

ゲラシム神父の写本


アクシニヤ・ジュロヴァ (18) キリル文字のメッセージ

新たなブルガリア文字であるキリル文字は9~10世紀に、おそらくブルガリ アのプレスラフで作られ、かつてギリシャのアンシャル文字が広がっていた 地域に用意された。アンシャル文字はブルガル人君主の王室や聖職者たちが 説教に使った写本に使われていた。ブルガリアのキリル文字が書かれた最初 期のものは10世紀の碑文である。その後の、キリル文字の写本では、リラ福 音書(13世紀)、イヴァン・アレクサンダル詩篇(1337年)、バチカン使 徒図書館のマナサス年代記(1344~1345年)、大英図書館所蔵のイヴァン・ アレクサンダル王の福音書(1356年)などがある。 図形的にはキリル文字はギリシャのアンシャル文字を基にしたスラブ様式の 文字である。キリル文字のアルファベットは実質的には、ギリシャ文字と古 代スラブ語の音素を表すための文字を加え合わせたもので、いくつかのグラ ゴル文字が加えられていた。

イヴァン・アレクサンダーの詩篇 セレス市のヤコブ・福音書


アクシニヤ・ジュロヴァ (19) キリル文字のメッセージ

ネオフィット・リルスキ キリル文字  学校の参考書


アクシニヤ・ジュロヴァ (20) キリル文字のメッセージ

第一次ブルガリア王国の首都であるプレスラフで、グラゴル文字からキリル 文字への素早い変換が行われたのは、行政、教会、文化的にギリシャ語のア ンシャル文字を長い間使用していたことが理由であり、多くの碑文がそれを 証明している。キリル文字はブルガリア東部からロシアやセルビアに広がっ た。おそらくキリル文字の発案された中心はプレスラフであり、プレスラフ 主教区会議が公式にスラブ語(キリル文字)を採用した893年に、難解なグ ラゴル文字から最終的に変換された。 アーノルド・トインビー教授は著書で、ブルガリア語独自のアルファベッ ト創作と学問の伝統は正教会社会の創造的才能の閃きであり、正教会文明 ではブルガリアをビザンティンに次ぐ第二の中心と述べている。 フランスの歴史家であるアルフレ・ランボーは、ボリス公の息子であり文学 への支援で知られるシメオン王をシャルルマーニュと比較し、シメオンはブ ルガリアのシャルルマーニュであり、我々のシャルルマーニュより教養があ り、ブルガリアの文学的伝統の基礎を作った彼は、より幸せであったと書き 綴っている。 トインビーによれば、未来へのブルガリアの使命は、スラブ人へのキリスト 教文化の「架け橋」「通訳者」「媒介者」となることであり、このようなブ ルガリアの文化的促進の結果、第三の中心であるロシアが形成されたという ことである。 キリルとメトディの偉業の復活、弟子たちの保護、スラブ文字の維持や高度


アクシニヤ・ジュロヴァ (21) キリル文字のメッセージ


アクシニヤ・ジュロヴァ (22) キリル文字のメッセージ

なスラブ文学全集の発展などから、ブルガリアのシメオン王が統治した黄金 期は、ビザンティンの人道主義、カロリング朝ルネサンス、ムスリム復興な どと比較されるが、伝道的行為と強い師弟関係を通してブルガリアから始ま った、他のスラブ人へのビザンティン文明の広がりが特徴的でもある。 ドヴォルザークは、ローマ教会の普遍主義と最高権力への野心を利用して、 ボリスはブルガリア教会の独立を獲得し、キリルとメトディの弟子たちをブ ルガリアに保護して、ブルガリアを「スラブ文化の揺りかご」へと変えたと 言っている。 スラブ語、ギリシャ語、ラテン語で保存されている門弟パウロの説教の文書 に次のようなことが書かれている:全ての人々が精神的で物質的な無言から 救われることは神の望みである。ローマとギリシャはキリスト教の懐へ新た に来る者を指導する権利を保守していた。キリルとメトディは神聖なる黙示 のこの特殊な解釈に対立した。キリルがヴェネチアに行った時、司教、聖職 者、黒衣の修道士たちは彼に群がり言った。「スラブ人のための聖書を持っ て彼らに宣教する?使徒も、ローマ教皇も、ナジアンゾスのグレゴリオスも、 誰も彼らのことを知らなかった。我々は聖書で神を礼拝する三つの言語を知 っている-ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語だ。」キリルは答えた「神は 雨を平等に降らせ、太陽は平等に照らし、皆同じように呼吸しています。 あなたは三つの言語(ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語)だけを命じ、他 の全ての民族の目と耳を封じていることを恥じていない。それは、神はとて も弱くそれを与えることが出来ない、とても妬んでそれを望んでいないと、



アクシニヤ・ジュロヴァ (24) キリル文字のメッセージ

あなた達が考えているからですか?我々は多くの民族を知っています。彼ら は皆、聖書を知っており、自分の言語で神を礼拝しています」 キリルとメトディの言語が作られた頃の、教会、社会的・政治的背景は、ロ ーマ教会が大衆の(「乱暴な」)ローマ語やゲルマ語を初めて説教をするの に用いた時代を思い出させる。キリルとメトディの使命が終了した後、この 言語はもはや「使途方言」ではなく、ボリス公とシメオン王の統治下で公式 の教会言語となった。キリルとメトディの弟子たちが新たな言語を発展させ 「使途方言」を全スラブ人の文語へと変えたのである。 キリスト教は8~9世紀において非常に重要であり、これはエイドリアン法王 が、ローマでスラブ語による説教をすることをコンスタンティン・キリルに 許可したことからもわかる。この行為は、偶然の一致ではなく、新たに生ま れたローマやゲルマンの方言、またスラブ諸語を統轄するためのラテン教会 の主要目的の結果である。これは典礼儀式とは対照的に、説教のみ、または 伝道行為についての奨励であった。885年のメトディの死後にキリルとメト ディの弟子たちがブルガリアに到着した時まで、ほぼ20年間、スラブ語は「 使徒方言」の権利を与えられ、ラテンゲルマン界で第四の「神聖」な言語と して正当化された。ブルガリアではこの言語はすでに公式に教会と文学な基 準となっていた。奇妙なグラゴル文字から馴染みのあるギリシャのアンシア ル字体がもとのキリル文字への変更は言語改革の証明であり、ローマ教会に 承認された許可から距離を置くこととなった。第一次ブルガリア国の立法機 関の中心であったプレスラフとオフリドの学派では、古代ブルガリア語の


アクシニヤ・ジュロヴァ (25) キリル文字のメッセージ


アクシニヤ・ジュロヴァ (26) キリル文字のメッセージ

学者たちは、典礼儀式でのスラブ語の使用を制限されてなかった。彼らは 利点の高い教会文学と原書の文学を、国と教会の当局のため、そして一般 的使用のために製作しなければならなかった。事実上、第4の神聖な言語と してのスラブ語の正当化である。第一次ブルガリア国の首都で9世紀にキリ ルとメトディの弟子らによりキリル文字が考案されたことで、キリスト教 徒の巨大なファミリーとの統合の影響と他に劣らぬ役割回復へのメッセー ジが築かれた。ブルガリアで発展した文学により可能となった事実は、他 のスラブ民族のためと、ヨーロッパ大陸でのブルガリアの精神的な業績を おくためという両面で実質的な役割があった。ブルガリアが、第二のスラ ブ・アルファベット‐キリル文字とスラブ文字の発祥地と呼ばれるように なったのは単なる偶然ではない。9世紀、スラブ文字の広がりはスラブ・ビ ザンティン世界の境界を示した。今日、ブルガリアはキリル文字を持って EU加盟国となり、多様な国々と三つの主要なアルファベット‐ラテン文 字、ギリシャ文字、ブルガリアのキリル文字-を有するヨーロッパの幅広 い文化圏に統合されている。


アクシニヤ・ジュロヴァ (27) キリル文字のメッセージ


キリル文字のメッセージ アクシニア・ジュロヴァ教授

初版 ブルガリア共和国外務省  国立文化インスティチュート 無断転載禁止 日本語翻訳 岩崎伸二 デザイン キリル・ゴゴフ 発行部数 500 印刷会社  デドラクス、 ブルガリア ISBN 978-954-91824-6-0


アクシニヤ・ジュロヴァ (29) キリル文字のメッセージ


アクシニア・ジュロヴァ 1984年よりソフィア大学 「聖クリメント・オフリド スキ」中世芸術科教授 1986年よりソフィア大学 付属、スラブ・ビザンティ ン研究所イヴァン・ドゥイ チェフ・センター所長 創価大学名誉教授(2006年) セルビア科学芸術アカデミー  国際メンバー(2006年) パリ  芸術批評国際協会実行委員(1984~1996年) ドブロブニク  大学院資格大学間センター実行委員 (1987~1996年) スラブ文化教育普及国際協会  副会長(1986 ~1996年) スラブ文化教育普及国際協会、ユネスコ  事務局長 (1997~2000年) オハイオ州コロンバス大学ヒレンダル室  理事(1998年) ;ワシントン  書誌研究所  理事(1999年) ベニ  カ・フォスカリ大学バルカン研究センター  理事 (2005年) ハーバード大学ウクライナ研究編集局(1989~2007年) バリ大学古書体学・写本研究国際ジャーナル(2006年) プラハ  ビザンティン・スラブ学(2006年) ノースカロライナ州アメリカ伝記研究所理事会  顧問 (2002年) 客員教授歴: バチカン  バチカン公文書保管所、古書体と古文書学校 日本  東京大学(1981年) 米国  エール大学(1989年) フランス パリ、ソルボンヌ大学(1992年) イスラエル  エルサレム大学(1992年) イタリア  ナポリ大学、ピサ大学(1993年) イタリア  ベニス、カ・フォスカリ大学 (1995、1997、2005年) 中世と現代美術に関する30以上の研究論文の著者


キリル文字のメッセージ アクシニア・ジュロヴァ

ブルガリア共和国外務省 国立文化インスティチュート




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