The Touareg キャラバン

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T HE T OUAR E G

C a r av a n t o t h e F u t u r e Text & Photographs

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Alissa Descotes-Toyosaki


ぐる話でもある。

み続けているキャラバンの話。

れは、千年前からサハラ砂漠を歩

ば二週間で走ることができる。そのおか

けて移動していた距離を、トラックなら

した。らくだに荷物を載せて約二ヶ月か

伝統的な塩の交易をめぐる状況はトラ ックが導入されるようになってから激変

介されていた。

人たち。そんな調子でトゥワレグ族は紹

まどき時代遅れなキャラバン」を続ける

まるで違うキャラバンの現実と向き合う

頭のなかで描いていた「月の砂漠」とは

目覚める日々を過ごしていた。それまで

のかわりに何百頭ものらくだの吼え声で

旅 を 続 け、朝 に な る と「砂 漠 の そ よ 風」

ろしたりしながらテントを使わず野宿の

ボロ服を着た肉体労働者のようだった。

ルを巻いた気高い戦士」というよりも、

レグの商人の印象は「インディゴのベー

文・写真 デコート豊崎アリサ

塩キャラバンは二つのルートを使って 昔ながらのやりかたで交易をおこなって

げでトゥアレグは激しい競争を強いられ

いる。

るようになった。らくだ乗りの交易には のは大変だった。

彼らは重たい荷物をらくだに積んだり降

ひとつはサハラ砂漠とオアシスの塩田 を東西に結ぶルート。もうひとつはサハ 未来がないということだ。

そして、キャラバンを操るトゥアレグ 族と呼ばれるサハラの遊牧民の現状をめ

ラ砂漠とサヘル地域を結ぶ南北のルート である。 トゥアレグの商人が続けている塩キャ ラバンが三つの地域を結ぶ独特な交易で

キャラバンと共にサハラ砂漠を旅する ことは、私にとって長年の夢だった。そ

ョナル・ジオグラフィック』の記事に描

た。実際に参加したキャラバンは、 『ナシ

べれば調べるほど私は無中になっていっ

〇三年、 今度は四ヶ月間の旅に出かけた。

を自分の目で確かめるために私は二〇

文化の人々を結び続けている。その様子

あることを、私は旅を通じて知った。塩

してついに「ラスト・キャラバン」と砂

私が初めて「塩キャラバン」に参加し たのは、一九九八年のことだった。 「タ ー バ ン に 身 を 包 み サ ハ ラ 砂 漠 を 支 配 し て い た 偉 大 な 戦 士」 「恐 ろ し い テ ネ

漠を渡る機会にめぐまれた。

それは、想像を絶する砂漠の美しさと、

私は三頭のらくだを買って、約四〇日 かけてキャラバンとともに砂漠を渡った。

ら四ヶ月分の穀物を直接仕入れて帰る

って、その売上げで、そこに住む農民か

ロの距離を移動しながら、南部で塩を売

商人たちはナイジェリアまで三〇〇〇キ

キャラバンの世界は奥深く、帰国後に調

レ砂漠を横断する美しいキャラバン」

たのは、おとぎ話のような世界だった。

トゥアレグの生命力に圧倒された旅だっ

米、麦、 はじめた。一ヶ月分の食料 —— マカロニ、トマト・ペースト──そして、

の子羊のキャラバンが東へ向かって歩き

の子供、一五〇頭のラクダ、そして一頭

出発の日、リーサは家族に別れを告げ て仲間と合流した。九人の男性、一四人

てまで旅を続けている。

一六歳だった息子を連れて今も砂漠の果

た。 彼 は 一 二 頭 の ら く だ と、 当 時 ま だ

リーサは過去三〇年にわたって塩の交 易に従事している元気なおじさんだっ

切にして」 。

が一カ所しかないから、このらくだを大

「旅は長い。キャラバンは一日に一六 時間も歩き続ける。テネレ砂漠には井戸

れた。

サハラ砂漠からナイジェリアへ行くキ ャラバンは、 「塩の交易」を通じて異なる

「自給自足のシステム」を実践していた。

ない。朝四時に起床した子どもたちがミ

まで一日に一六時間も歩かなければなら

いったんテネレ砂漠に入ると給水でき る場所が少なくなる。そのため次の井戸

活気を与えていた。

まわる子供達の生命力が塩キャラバンに

いた。働くときも遊ぶときも元気に動き

に、食事を作ったり、荷揚げをしたり、

ゥアレグの少年だった。学校にも通わず

のこと以外は何も知らない昔ながらのト

達は、らくだ使いの仕事と塩キャラバン

に必要な物を作る技術を子どもたちに伝

人のように、自然の恵みを利用して生活

きた彼らは、古くからのトゥアレグの職

も買わない。トゥアレグのなかでも比較

のキャンプ地で私のらくだを紹介してく

サへル南部までの約三〇〇〇キロの旅に

二〇〇三年の秋、塩キャラバンはアガ デス地域から塩田の町ビルマを経由して

かれていたキャラバンの二倍の規模で、

その記事ではキャラバンの役割よりも

た。

当時、たまたま目にした『ナショナル・ ジオグラフィック』の記事に描かれてい

のロマンティックなイメージばかりが強

「ブルー・マン」と呼ばれるトゥアレグ族

鍋やお茶の道具、水袋など、砂漠で生活

レット (穀物) を砕いている間に、男達は

を使ってヤシの葉で干し草を束ねるため

き火を囲んでお茶を飲みながら、手と足

リーサが大声で叫び、息子たちを急が せた。

「早く、早く! 先に進みなさい!」

その声が、砂漠の夜明けの静けさを破っ

らくだを集め、朝食を食べ終えるとらく

らくだを監視するなどの仕事をこなして

承している。一二才から一七才の子ども

的消費社会から縁遠い遊牧生活を続けて

出た。キャラバン商人のリーサが遊牧民

塩キャラバンに参加したことで、私は 初めてトゥアレグの文化に触れることが

するための道具をすべてらくだの背に積

だに干し草を積み始めた。あまりの荷物

調されていたが、それがかえって西洋人

みこんで、キャラバンは進む。

の重さに動物も人間も叫び声をあげる。

の想像力をかき立てたのだろう。らくだ

キャラバンは、ゆっくりと進みながら 幾つもの丘を超え、水と薪とラクダの干

できた。実際に接してみて感じたトゥア

し草のある場所へ向かった。

た。

に乗って一日に一六時間も移動する「い

出発から約一週間が経過したころ、キ ャラバンは豊かな牧草地をキャンプ地と して選び、らくだに食べさせる草の束と 薪を作る作業に入った。父親と子どもた

の縄を編んだ。

「長 く 待 た な い こ と」そ れ が 砂 漠 の 掟

ちは朝から晩まで鎌で草を伐り、夜は焚

キャラバンの男達は食糧と服以外は何

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テネレ砂漠を横断する塩キャラバン


険にさらすことになる。

だを疲れさせるだけでなく、人の命も危

だ。待つ時間が長いということは、らく

くれた。

してくれた穀物のお粥やパスタの残りを

そんな環境のなかで、子どもたちが用意

し続けた。砂漠の昼は猛暑で、 夜は寒い。

くだのこぶの上にジャンプする。夜空が

りて、ふたたび戻るときも歩いているら 「た と え ど ん な に 旅 に 慣 れ て い て も、 砂漠の掟を決して忘れてはいけない」

グの年寄りが言った。

星で満たされるころになっても、キャラ バンはガイドの合図があるまで決して歩

達が時おり血が騒ぐような雄叫びを上げ

た。らくだの上で毛布に包まれている男

ど恐ろしく美しい砂漠と一体化していっ

ようにキャラバンは進み、五感を失うほ

永遠に広がる地平線へ航海を続けるかの

砂漠の夜はとても静かだ。動物のかす かな足音でさえも聞こえてくる。まるで

ーサが言った。

はらくだの体力を考えているんだ」とリ

た ら 水 は な く な っ て い た だ ろ う。 「全 て

水袋はほとんど空っぽだった。一日遅れ

漠 の 冷 蔵 庫」だ。井 戸 に 着 い た 時 に は、

あっても、 水を冷たいまま保持できる 「砂

で作られた水袋は、たとえ気温が四〇度

水袋に一所懸命に水を汲んだ。山羊の皮

みを止めることはなかった。

るが、しばらくすると再び無音の世界が

三日目、キャラバンは小さなオアシス に着いた。周りには数本のヤシの木と、

訪れる。 干し草を背に負うらくだに必要以上の 水を持たせなければ、帰りに重い岩塩を

くだをトゥアレグは昔から尊敬してい

ムライのようだ」と呼ぶかもしれないら

いくらい頑固に死を待つ。 日本人なら 「サ

横になって、人が引っ張っても動かせな

くに見えるオアシスには、長い一日が終

アシスのナツメの木だった。ところが近

現れた。目の前に広がっていたのは、オ

シスへ向かった。二日目、地平線に緑が

同じリズムで休憩もせずにビルマのオア

男達は水袋を水で満杯にしてから、井 戸のそばで野宿した。そして翌日の朝、

る。

わす。この時期のビルマには、何百もの

降り、仲間のキャラバンと熱い挨拶を交

が叫び声を上げながら、らくだから飛び

は霊がさまよう空間だと信じるトゥアレ

うして命を失う者は今も絶えない。砂漠

砂漠で迷えば死の危険にさらされる。そ

て死んだ。らくだや車でさえ、いったん

仲間のキャラバンと思い込み、道に迷っ

ャラバンが砂漠の霊が起こした焚き火を

えなくなるほど激しい砂嵐の夜、あるキ

アシスであり塩田でもある。市場のそば

キャラバンの交差点ともいえる重要なオ

塩キャラバンが集まっていた。 ビルマは、

る。らくだは一五〇キロの荷を背負える

ばすぐに弱っていく不思議な動物であ

生きられるけれど、毎日餌を食べなけれ

ラバンのらくだは水がなくても三日間は

だの群に大量の水を飲ませていた。キャ

なりでは子どもたちが嬉しそうに、らく

井戸では男達が叫びながら、何十メー トルもの深さの水を汲み続けている。と

てバランスをとる。

キャラバンはとてもよく組織されてい る。商人は一頭ずつの積荷の重さを考え

運べる体力を残すことができる。

穴を掘っただけの井戸しかない。男達は

「エジック!」 キャンプの合図を知らせる声が響くと 男達は一瞬で地面に飛び降り、急いで野 宿の準備をはじめた。 「砂漠を甘く見る者には死が待っている」

た。運搬に使う以外にも、祭りの時には

焚き火のそばで年寄りが、かつて渇死 したキャラバンの話をしていた。星も見

男性たちがらくだを豪華に飾り、女性を わっても着くことは出来なかった。翌日

食べた。わずかな食べ物が元気をつけて

すべての荷物を積み終えたキャラバン が順々に進み始めた。一人のガイドが真

口説きに行く。遊牧民の文化では家畜は の夕方、男達の雄叫びと共にキャラバン

だった。

わらぬ技術でキャラバンの生命を握る人

一行をガイドする彼もまた千年前から変

導いていく。 太陽と星を見て方向を定め、

だから降りる際も、こぶの上から飛び降

則が、今も厳格に守られているのだ。神

止めてはならないというキャラバンの原

食べた。砂漠ではらくだの歩みを決して

キャラバンのリズムを崩さないように 一度も休憩をとらず、食事も歩きながら

オアシスの市場は、夕日に照らされて いる。女性たちの衣装の鮮やかな色合い

に祈りを捧げたり、用をたすためにらく

塩キャラバンはオアシスに向けて六日 間もの時間をかけて、広大な砂漠を横断

たくさんの穀物を持って帰ることができ

砂漠では、らくだの遺骨を見かけるこ とも珍しくない。らくだは急に止まり、

が、弱って行くと、急に死んでしまう。

っ赤に染まった東の砂漠へキャラバンを

生きる財産だ。水と草を求めて動物と共 はようやくオアシスに辿り着いた。

が ま ぶ し い。 オ ア シ ス の ど こ を 見 て も

ようなオレンジ色の塩田の周りには、真

の伝統的な製造法だ。火山のカルデラの

四月の一番暑い季節に蒸発した塩田の 塩を収穫し乾かすのが、カヌリ族の岩塩

めの重要な存在である。

ラバンが、今でもライフラインを保つた

産である遊牧民には、岩塩を運ぶ塩キャ

塩は、かけがえのない栄養だ。家畜が財

れている。砂漠で放牧する家畜にとって

今でも家畜のための塩として作り続けら

湖からできた塩田は、古来より食塩と して地中海まで運ばれて物物交換され、

れる交渉をする。

ヌリ族の人々と、岩塩とナツヤシを仕入

バンは何日間もかけてオアシスに住むカ

でらくだと共にキャンプしていたキャラ

にキャンプを移動させる。 サハラでは普通の牧畜と違って、肉を 売るために家畜を飼うわけではない。銀 行に貯金するように、家畜の頭数を増や

変える。水と草、そして栄養の元である

し、必要に応じて一頭を売って、お金に

岩塩を食べさせれば、家畜を元気に飼う

ことができる。 らくだは沢山の塩を運び、 「命」が 溢 れ て い た。キ ャ ラ バ ン の 商 人

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(写真上段) オアシスで塩を売るカヌリ族の女性 (下段左から) ボロロ族、ハウサ族、トゥアレグ族


形に固められていた。リーサは毎朝、 二、

に丸い小型という、らくだに積みやすい

一八キロくらいの円錐形と、パンのよう

っ白な塩の固まりが並んでいた。塩は、

生き延びているのだろう。

きたおかげで、塩キャラバンも現在まで

て一千年前から各地の民族と絆を築いて

めの昔ながらのやり方だった。そうやっ

なく、小規模な交易だけをしていた。

牧民たちはテネレ砂漠を横断することは

季に氾濫する乾いた川)のそばに住む遊

がいた。水と草がある豊かな氾濫地(雨

ボロロの女性はロバに乗って農村の市 場で牛のミルクや植物の薬を売り、トゥ

三頭のらくだを連れ、塩田まで塩を買い

アレグは山羊のチーズ、らくだのミルク

らくだや牛の頭数を増やすことだ。だか

を売っていた。ボロロ族の主な活動は、

付けに行った。カヌリ族と交渉し、塩の

ビルマで一週間を過ごした後、塩キャ ラバンは塩とナツメヤシをらくだの背に

値段を決める。かつてはアガデス地域の トマトや肉と交換されていた塩は、今は 現金で取り引きする。大きい円錐形の塩

個ずつ丁寧に包まなければならない」 。

場で半額でしか売れなくなる。だから一

作 業 を 始 め た。 「塩 は 壊 れ た ら、 南 の 市

きな塩をキャンプへ持って帰って、包む

で ん で い け ば、 一 〇 倍 の 三 〇 〇 〇 Fcfa 売ることができる。リーサは二〇個の大

乾季にらくだの群に砂漠の少ない資源 を過剰に食べさせれば、自然が再生でき

豊な牧草地へ連れて行く習慣がある。

ゥアレグのキャンプはらくだの群を南の

は乾季で枯れた牧草地しかないため、ト

と子供のらくだも連れて行く。この時期

ヤシを雄のらくだに積んで、雌のらくだ

るためだ。穀物を買うための岩塩とナツ

南下し、最終目的地に向かう準備を始め

角もある真っ黒な牛だ。ボロロ族はボロ

牛は普通の牛の二倍の大きさで、こぶと

活を送っている牛飼いである。ボロロの

だけでなく、ボロロと呼ばれる民族もい

プが沢山あるこの土地には、トゥアレグ

った円錐形の塩は牛を健康に育てるため

ら塩キャラバンを訪れる度に彼らは岩塩

キャラバンの人達は、ヤシの葉を編ん で塩を包みながら、キャラバンのキャン

ないことをよく知っている遊牧民は、農

ロ牛を元気に育てるために塩キャラバン

って、またブッシュへ消えていく。キャ

いくつかの塩キャラバンの商人も同じビ

岩塩を丁寧に並べて客を待った。 隣では、

交易を行っていった。市場でリーサは、

行くように、塩キャラバンは、二重線の

は行かず、裏の道を使って農村の市場に

へ移動する。サヘル地域の大きな市場に

れた。いっぽうで町で暮らすアラブの商

たので、トラックはそのまま打ち捨てら

は交換用の部品も修理代のお金もなかっ

しかし、砂漠を横断するトラックは、 二、三年で故障してしまった。遊牧民に

を何台も無償で与えた。

干ばつに苦しんでいた商人に、トラック

八〇年代に、ヨーロッパの開発プロジ ェクトが、塩キャラバンの盛んな地域で

アガデス地域から南へ向うと、そこに はサバンナが広がっていた。遊牧キャン

た。そうしたら、トラックの維持管理費

一〇〇頭を売って車とトラックを買っ

なる。知り合いのトゥアレグが、らくだ

は良いけれど、金がないと大変なことに

の ほ と ん ど 一 〇 〇 % が 利 益 に な る。 「車

ているキャラバンにとっては、売り上げ

だにはガソリン代がかからないため、上

の塩の方が質は良いと知っている。らく

で運んでくるアラブ商人よりキャラバン

はないが、砂漠の境に行くと大勢の人々

グだった。彼は懐中電灯もスニーカーも

「無駄のない」生活が好 リーサは特に、 きなオールド・ファッションのトゥアレ

り切るまで、三週間かけて市場から市場

場では、服、食糧、薬、家畜など何でも

幸運にも残っていた山羊数頭と砂漠に帰

質の塩を仕入れ、価格の十倍の値で売っ

の商人との長い付き合いから、トラック

だった。テネレ砂漠で人を見かけること

ルマの塩を並べて待つが、お客を引っ張 人は、当時から車で塩の交易をやり始め

始めた。父親が鍛冶屋だったリーサは、

重要な存在だ。

らのような人々にとって塩キャラバンは

って、キャラバンの人たちが丁寧につく

状態で踊る。美の文化を持つボロロにと

の粉で化粧をして一週間かけてトランス

が有名である。その祭では、男たちが石

ボロロは動物の世界と繋がる儀式をお こなう他に、男同士で美しさを競う祭り

持ち続けていた。

を払いながら、持ちつ持たれつの関係を

かったが、お互いに遊牧民としての尊敬

って、ボロロとトゥアレグの仲は良くな

情報を交わす。実は昔、井戸の紛争があ

だに良い植物の薬はどこで見つけるのか

を買い、牧草地がどこにあるのか、らく

ヤシを買ったり、トゥアレグ族が持って

民が畑を休閑地にするのと同じように群

から沢山の塩を買う。ノッポで華奢なボ の宝物のように見える。家畜を愛する彼

積んで、再びテネレ砂漠を渡った。遊牧

きた麦やトマトと物物交換していた。ナ

を遠くまで連れて行き、 「遊牧」をする。

ロロは、 サバンナのどこかから突然現れ、

ラバンが野宿する牧草地にトゥアレグや

キャンプに一度戻ってからハウサ地域に

ツメヤシは安いため、小さい物と交換し

「穀 物 の キ ャ ラ バ ン」の 交 易 と 同 時 に、

キャラバンと挨拶を交わしてから塩を買

で 買 っ て、 南 の 地 域 に 運 Fcfa

やすい。賑やかなカヌリの女性とストイ

らくだの群にえさを食べさせることは、

を三〇〇

ックなトゥアレグの物物交換を見ている

遊牧生活を継続するためのサイクルだ。

ウサ語でやり取りをし、納得が行くまで

る。彼らはサヘル地域では遊牧のみで生

と、とても面白い。お互いの言葉が違う

交渉し、小さい物でも絶対まけたりはし ボロロの人が現れるのは、しょっちゅう

プに毎日来るカヌリ族の女性からナツメ

ため、西アフリカで広く使われているハ

ない。交渉は長引き、どちらも大きな儲

りあうこともなく、お互いに話しながら ていた。その競争の中で、塩キャラバン

が車を食って、 その他のらくだも食って、

十年間塩キャラバンを続けた後に、ナイ

けはできないかもしれないが、時間をか

知り合いが来るまで待っていた。ボロロ の交易は生き延びられないと思われた。

った」とリーサは満足そうに、お金を計

なかった時代に塩キャラバンの見習いを

使って暮らしている。

たちが持ってきた穀物、岩塩、服や鍋を

ラバンの商人は市場に行かないで、自分

した。砂漠のキャンプにいる間は、キャ

いは自給自足できる量のミレットを購入

りをし、収穫直後の安価で四ヶ月分くら

袋を作った。そして、農民と直接やり取

キャンプをしながら、ミレットを詰める

ろう。リーサは息子二人を連れて、畑で

塩キャラバンは岩塩とナツメヤシを売

にも、トゥアレグにも、ハウサにも、皆 しかし今、キャラバンが運んで来た岩 塩は、目の前で全部売れたのだ。ボロロ

算しながら語った。空になった市場で、

けて値切ることは、人間の絆を強めるた

馴染みのお客さんがいた。ブッシュの市

やトゥアレグの遊牧民は、塩キャラバン

売られている。そこには農村の人々や遊

しようと思って、お金を稼ぐために塩キ

牧民や、町から来る人もいた。

ンのみんなは、野宿のキャンプへ戻る準

ジェリアのカノ市で家の管理人の仕事を

備を始めた。リーサはナツメヤシを売っ

燥トマトや肉、玉ねぎ、鍋や服を持って

「僕らは車ではなく、らくだが欲しい。 そしてビルマで売れる商品が欲しい。乾

く伝わってきた。

らくだがいる限りは塩キャラバンをや り続けたいという彼の気持ちが私にも強

ャラバンをやる価値はある」 。

まで群を連れていく。何があっても、キ

とえ、干ばつがあっても、ナイジェリア

い、 塩 キ ャ ラ バ ン の 仕 事 に 戻 っ た。 「た

分の持ち物だけで自由に暮らしたいと思

住むカノ市で暮らしてから、リーサは自

三 年 間 や っ た。 「あ の 時 は、 早 く 結 婚 を

屋台の中には、アラブ人が経営してい る店がいつもあった。そこではビルマか

キャラバンの商品は全て売れ、キャラバ

ら小型トラックで運んだ丸い形の小さい

ャラバンをやめたんだ」 。九 〇 〇 万 人 が

るのは、砂漠で雨季が始まる前の五月だ

って、ミレットを買う。皆がまた再会す

皆が自分の知っている農民のところへ行

ナイジェリアより北にあるミレットの 畑でキャラバンは解散した。これからは

れた」とキャラバンの男達は笑った。

いるよ。岩塩が去年よりも高い料金で売

に も 給 料 を あ げ た。 「今 年 は、 恵 ま れ て

塩のお金はミレットのために残し、長男

たお金で,新たに二頭のらくだを買い、

包まずに、 直に車に山盛りに積むために、 塩が崩れてしまう。その塩は塩分の含有 量が少なく、灰色をしていて、キャラバ ンが売る塩よりもよりも安い。「ビルマか らたった三日間で着いた」とアラブの商 人は自慢げに言った。彼は季節と関係な くビルマまで車で往復して、塩を日常の 商品と同じように雑貨店で販売していた。 アラブの商人たちにとって塩は特別貴重 なものではなかった。安く仕入れた塩を アラブ商人から買っていたのは、小さな 家畜を飼うハウサの農民だけだった。

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市場で岩塩とナツメヤシを売るリーサ

塩が沢山売られていた。塩をヤシの葉で テネレ砂漠の砂に埋もれた車。遠方に塩キャラバンの隊列が見える


いけば、岩塩がもっと買える」 。

周りの草原の緑をたっぷり食べることが

地の良い場所を用意し、水や食べ物を沢

山くれる。 そしてキャラバンのらくだは、

塩キャラバンの世界では収益を増やす のは、やはり車ではなかった。

出来る。

わった後に砂漠から来るらくだのキャラ

菜を作るハウサの農民だ。彼は収穫が終

ラと食事を食べた。イドリスは穀物や野

立て、イドリスが持ってきた冷たいコー

を交わしてからリーサは畑にキャンプを

バオバブの木の下でイドリスがリーサ の塩キャラバンを待っていた。長い挨拶

ついた。

り、カノ市の郊外にある農民の畑に辿り

バンナからナイジェリアのサバンナに入

リーサは仕入れたミレットを農民に預 かってもらい、数日後にニジェールのサ

出発するための準備を始める。

乾季が訪れると、新たな塩キャラバンに

ゆっくりとキャンプ生活を送る。そして

らくだのレースや祭りに参加しながら、

プへ戻り、九月の末まで続く結婚式や、

ャラバンは雨季に誘われて砂漠のキャン

彼ら砂漠の民は、雨季が連れてくる雨 と緑ほど美しいものはないという。塩キ

民にも、故郷という言葉はある。

郷を指す言葉である。常に移動する遊牧

アレグの言葉で、 「アカル・イン」とは故

故郷にもどる」とリーサが言った。トゥ

「ここには理想的な条件がある。今か ら砂漠へ帰っても乾季だから、二ヶ月く

バ ン を、 い つ も 待 っ て い た。 「ら く だ の

らすからだ。こんな理想的な経済は、ほ

地球が回っているように塩キャラバン が回り続ければ、平和の希望はある。な

らいここでらくだに草を食べさせてから

糞は農民にとっては最高の有機肥料だ。

「塩 キ ャ ラ バ ン は 終 わ ら な い サ イ ク ル である。今日の旅は明日の旅を準備する」 。 生産の増加を確保できるから、キャラバ

リスは喜んでいた。

かにないかもしれない。

ンが来るのは本当にありがたい」とイド

農民と遊牧民は昔から仲が悪いと言わ れている。お互いのニーズがぶつかり、

キ〉 ホームページ

www.sahara-eliki.org

さまざまな取材活動をおこなっている。 〈サハラ・エリ

母 は 日 本 人。 サ ハ ラ 砂 漠 で ラ ク ダ 使 い を や り な が ら、

援する団体〈サハラ・エリキ〉主宰。父はフランス人、

(デコート・豊崎アリサ)ジ alissa descotes-toyosaki ャーナリスト。写真家。アフリカの遊牧民の生活を支

ぜなら交易を通して民族間に平和をもた

ときには狭い土地をシェアしなければな らないからである。でも、国家の開発プ ロジェクトよりもはるか昔から「サービ ス交換」という仕組みが存在していた。 イドリスは無料で肥料をもらう代わり に、リーサたちにキャンプするのに居心

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