AKIO IGARASHI - erasing painting|五十嵐彰雄 - 削られた絵画

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五 十 嵐 彰 雄

削られた絵画

AKIO IGARASGI erasing painting

Untitled|Oil on Canvas|22.8 x 16 cm|1971 1
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五十嵐彰雄の70年代と80年代の「削られた絵画」 ー 前田希世子

1970年代後半、日本における美術の状況において重要だったのは、欧米で吹き荒れた1960年代からの ミニマルアートやコンセプチュアルアート、その後のアルテ・ポーヴェラ、あるいは国内におけるもの派など の、先鋭的な動向によって劣勢を強いられていた絵画が、再び、可能性のある表現手段として、その表舞台 に完全に返り咲いたことである。70年代初めの国内の画廊や美術館の状況を確認すれば、多くの絵画作品が 現れ、作家それぞれが、独自の方法で絵画と平面の可能性を模索していたことがうかがえよう。例えば、もの

派の支柱であったリー・ウファンは、1973年に東京画廊にて「点より」「線より」の絵画シリーズを発表し、

抽象性を高めた厚塗りの絵画を制作していた山田正亮は1978年の廉画廊で一躍注目を集めた。作家の多くは、 何かを描き出すための絵画ではなく、描くこと自体を目的とした作品に、絵画制作への活路を見出した時代で あった。こうした状況のなか、五十嵐彰雄もまた、様々な実践を通して、「削られた絵画」という独自の方法 を見出していった。

「削られた絵画」に至る最も意義深い実践、それはカンヴァスと絵筆を放棄することから始まった。1973

年のことである。それまでの五十嵐は、アメリカから渡ってくる最新のアートの数々を下敷きに精力的に制作

していたが、突如自身の創作方法に限界を感じ、原点に戻ることを自身に課す。試みたのは、紙を前にまっさ らな気持ちで必死に鉛筆を走らせることだった。線を引く行為は、画面が真っ黒になるまで続けられ、1976

年には高さ2m、横幅が5m以上に及ぶ広大な画面をもつ作品群《Drawing by drawing》に結実した。一様

に黒く埋め尽くされた作品は、鉛筆の鉛の重厚さと質感と、作品を成立させた膨大な時間やエネルギーで、見

る者を圧倒する。「手書きによる身振りの痕跡や心情の表出をできるだけ抑えて、絵画を作為のない純然たる

手の運動に還元しようとするひとつの試み」であったと、美術評論家の乾由明はそれら作品を評した。無数の 描線が重なり合う画面は、しかし、「ただひたすらに線を引くという行為に集中する作者の執念のような意志

が凝縮していて、重厚な迫力を生んでいた」。1979年には、黒く塗りつぶされた部分を、消しゴムで消す作 品を展開しているが、消しゴムの使用は、画面から伝わる作者の強靱な意志、あるいは余剰の執念を払拭する 行為のひとつにも見受けられる。このような思索の延長線上に、「削られた絵画」は誕生する。

ドローイングで手応えを感じた五十嵐が、支持体を紙からカンヴァスへ置き換え、絵画の実践に踏み出した

のは1977年頃のことだが、黒い油絵具でカンヴァスをまず塗り、表面が乾くと、サンドペーパーで丁寧に

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削り取ることで絵画は制作された。支持体の素材感を露わにした表面は、しかし生のカンヴァスとは異なる独 特の肌合いを持ちあわせた。最初期の削られた絵画《Drawing by drawing》は、53×53cmという小ぶりの 正方形の作品で、画面全体を砂嵐のような表面が覆う。砂の上を風がさらい砂紋を生みだすように、五十嵐の 画面は制作者である彼の感情や意図というものを、ほぼ感じさせない。グレイを基調とする画面は、最初に黒 い絵具が塗り重ねられていたとは思われないほど、表面が削られ、曖昧なニュアンスと手触りを伝える。オー

ルオーヴァーな構造は、注視すべき一点をもたないため、見る者の視線を一箇所に留まることを許さず、画面 全体に行き渡らせる。見るべき焦点がないことで、表面の触覚的な情報が、むしろ視覚を支配するのだ。

触覚的な情報、つまり素材の物質性は、同時代の絵画作品にみられる物質性とも呼応しているだろう。山田 正亮の厚塗りの絵画や、リー・ウファンの岩絵具、あるいは桑山忠明のメタリック塗料の硬質性など枚挙に暇 がない。だが、多くの作品において画面を覆う物質性が鑑賞者の目に飛び込み、その主張の強さによって鑑賞 者の視覚を逃れられないよう強要するのに対し、五十嵐の作品における物質性は儚さとともに、徐々に現れる ように操作されている。画面の上をなぞる視線は、五十嵐のサンドペーパーの削り取る時間と呼応するように、 ゆっくりと動かされるのだ。画面はささやかで無軌道にみえるが、しかしある一定の鼓動にも似た微少の動き が感じられよう。それは作家の無心ではあるが無意識の体の動きや、彼の腕の長さや強さといった物理的な特

徴、あるいはサンドペーパーの目の粗さによって規定され、定着した動作の痕跡なのだ。削られた絵画は、誤

解を恐れずに言えば、削ることを目的とするような絵画であった。

さて、この制作行為であるが、五十嵐に限らず1970年代の絵画制作の現場と美術批評の世界において、あ

らゆる作家と批評家にとって共通の課題であったといえよう。重要なのは、もはや「何を描くかではなく、ど

のように描くか」ということだった。この発想の転換によって、ほかでもない絵画を描くといく選択肢が、今 一度有効な方法として作家たちの前に与えられた。かくして、制作行為の場として、カンヴァスが復活したわ

けであるが、彼らの行為はかつての抽象表現主義のような内面の表出としてではなく、あくまで客観的で、職 人的な行為としてみるべきものであった。この点において、当時の絵画作品は、それ自体を劣勢に強いてきた ミニマルアートやコンセプチュアルアートとの関係性において、近似値を示していたといえよう。五十嵐の絵 画に戻れば、削るという制作行為は、内なる表現のための行為ではなく、むしろ、そのような要素を極力排除

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Drawing by drawing|Oil on Canvas|61 x 73.2 cm|1977

するために選ばれたものであり、この点においてミニマリズムやコンセプチュアリズムと問題を共有し、日本

における同時代の作家の動向とも共鳴しているように映る。

ただし、削られた絵画は、これらとは決定的に異なる部分を有している。まず、五十嵐によって見出された

「削る」という行為は、確かにこうした同時代の動向とゆるやかに合致はしていたが、同時代の美術批評の要

請から生まれたものではないという点である。五十嵐の場合、経験的に、どのように絵画を再び成立させるこ

とができるか、という個人の問いから出発するものであった。これは、彼が当時の美術動向を無視したという

のではない。そうではなく、こうした動向、特にアメリカの美術批評を念頭におきながらも、自分の感覚に敏

感に反応しながら、自身の進むべき作品の方向を、欧米の超越性と物質性の二項対立におくのではなく、制作 行為によってこれらを統合し、自身の新しい絵画の可能性を見出していったと説明するほうが適当であるよう

に思う。何故なら、五十嵐の削られた絵画は、物質性と制作行為の視覚的体験をとおして、他でもない超越性

を差しだしているからだ。言い換えれば、ミニマリズムの作品の多くが、その素材の内在性を主張し、そのも

の以上の何かを提示していないのに対し、五十嵐の絵画は、使用されているカンヴァスや油絵具といった物質 を超えて、私たちの視覚に訴える存在として提示されている。この超越性は、偶然に創出されたものでも、無 論、作家の主観によって表出されたものでもない。作家の主体性がほぼ消えかけたところの、物質と物質の出

会いを介添えする、ささやかな動作によってやっと到来しえるような、そのようなものにみえる。削るという 行為は、絵画と平面の思索において、五十嵐独自の最大の武器となる。

「削られた絵画」を契機に、再び絵画制作を開始した五十嵐は、スタイルを変えながら積極的に作品を展開させていっ

た。1983年には《色面―量》の線が緻密に縦横する作品群を、80年の始めを中心としたパネル・ペインティング《描画》

の制作や、80年代後半からの90年代の作品群《色面―相》では、画面を筆のタッチで均等に埋め尽くす白い作品群、 2000年代の楕円形のシェイプト・カンヴァスの使用など,多様な試みとともに近作に引き継がれている。作品によっ

ては、ソル・ルウィットやアグネス・マーティン、ロバート・ライマン、フランク・ステラやブライス・マーデンと

いったアメリカのミニマリズムの作家の絵画の仕事を参照しているようにもみえる。他の作家とのこのような関係は、 彼の絵画の実践そのものが、絵画や平面との抜き差しならない対話に根ざしており、そのような逃げ場のない状況に

身を投じたところからしか可能性を模索できない状況にあることを物語っているのではないか。

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Drawing by drawing|Oil on Canvas|60.5 x 72.5 cm|1978

このような絵画と平面の探求の傍らで、「削られた絵画」は1970年以降より現在まで常に五十嵐の根幹と

して制作されてきたが、近年では重要な転回点をむかえている。90年以降の作品では、一旦油彩にて黒く塗 りこめられた画面は、サンドペーパーによって削り取られた後、新たにペインティングナイフで白やグレイ、

黒の四角の面や帯状の形態が塗り重ねられている。これらの色面は前後関係が常に揺らぎ、地と図の交換が起

こるように配慮され、画面上の諸要素の配置がもっぱらの関心事となっているような展開をむかえた。矩形を

画面の中心や、角に配置する構図は、彼がかつて挑戦したシェイプト・カンヴァスという解決に、再び異なる

アプローチでその問題に向かっているともみえるし、白い矩形と削られた表面の濃淡のイリュージョンの問題

や、面による分割と統合の法則など様々な角度での探求は留まるところをしらない。こうした40年以上に渡

る豊かな、そして多様な創作に結実した五十嵐彰雄の仕事の一貫性は、彼にとっての手近な絵画の伝統、つま

り20世紀後半アメリカ絵画のモダニズムの歴史をなぞり、そしてミニマリズムを経験しながら、絵画と平面

における問題に、独自の方法で突き抜けようとしたことにある。経験主義から獲得された、「削られた絵画」は、 五十嵐にとって平面をめぐる思索のスタート地点であり、同時にひとつの到達点でありうる。それだけでなく、 絵画の本質を求めるさらなる道行きの通過点でもあるのだろう。いわば削ることと、絵画の本質を求めること が、分かちがたく結ばれている。新しい絵画と平面の可能性を、削られた絵画を通して考え続けること、私に は五十嵐の仕事がそのようなものとしてみえている。

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Drawing by drawing|Oil on Canvas|53 x 53 cm|1977 each

画家と絵画の時間性 - 安來正博 国立国際美術館学芸員

Drawing by drawing|Oil on Canvas|45.5 x 53.5 cm|1979

Drawing by drawing|Oil on Canvas|45.5 x 45.5 cm|1979

Drawing by drawing|Oil on Canvas|45.5 x 45.5 cm|1979

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人はなぜ画家になろうと思うのだろう。絵が描きたいから画家になる。当たり前のことかも知れない。小さ

い頃からクレヨンや色鉛筆を持つのが好きで、学校では絵が上手いと褒められる。思春期になると、今度は絵 を見ることも好きになる。印象派やシュルレアリスム、抽象絵画に夢中になり、自分も画家になりたいと思い

始める。こうして美大の門を叩き、いよいよ夢への第一歩を踏み出すのだが、さて、それから数十年。自身の 寿命の尽きる時まで、画家として生を全うする人間はそう多くはない。それだけに、年齢を重ねても若い時の 情熱の炎を燃やし続けてきた人の作品には、いつまでも変わらぬ絵画への偏愛を感じ取ることができる。ある

いは好奇心、探求心と言い換えてもいいだろう。生涯を通して絵画を究める、絵画というものの正体を突き止

めようという執念のようなものである。五十嵐彰雄は、そういう画家であったに違いない。

五十嵐の絵を見ていると、この人は“絵画少年”、今風にいえば“絵画おたく”だったのだと思えてくる。

既に傘寿を超える年齢にもかかわらず、絵画に対して、それほどまでに力強く新鮮な創作態度が溢れ出してい

るからである。具体的にいうと、この画家の“描く”という身体的な行為に対する執着と、絵具やカンヴァス という、絵画を構成する物質たちへのフェティシズムとでもいうべき拘泥の仕方である。これは若い時から一貫し ている。

例えば、1960年代の初期作品に、既にその特質を見て取ることができる。用いた画材は鉛筆と紙であった。

長さ数メートルにも達するロール紙を、ひたすら黒鉛筆で塗り潰していく作品を作っている。一本一本の細い

鉛筆の線が何千何万本と重なり合い、平面を埋め尽くす。黒光りする表面から紙のテクスチャーは失われ、金 属のような質感が生み出される。気の遠くなるような根気と体力のいる作業を飽きることなく繰り返す。一見、 真黒な平面の広がりは、五十嵐の行為の場であり、その行為に要した時間は、黒い闇の中に時を止めたまま潜 んでいるように見える。他に、床や木目をフロッタージュした作品もある。こちらも大きな面積をただひたす ら鉛筆で擦り出していく単調な作業だ。

時代はミニマリズムが隆盛を極めた60~70年代のことであった。五十嵐のこの時期の作品もまた、ミニ

マリズムから大きな影響を受けたことは明白である。還元主義によって、絵画から絵画的なものの一切が排除

されると、遂には物質的な平面としての本性が顕わになる。ミニマリズムは、絵画が消滅する極限の一歩手前

Drawing by drawing|Oil, crayon, chalk on canvas|182 x 227 cm|1979

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で踏みとどまるのだ。しかし、五十嵐の場合、そこに絵画にとって最も本質的な、あるいは最も根源的な“描く”

という行為を介在させる。冷徹な漆黒の画面のその中に、徹底的に描くという人間の意志の力を染み込ませる。

80年代に入る頃から、今度は一転、画面は白一色で覆われるようになる。その後、90年代まで続く“ホワイ

ト・ペインティング”のシリーズである。材質は鉛筆と紙から油絵具とカンヴァスへと変わる。白色の下地は 黒い絵具で作られている。正確にいえば、最初に黒い絵具をカンヴァスの全面に塗り、その上から白い絵具を 筆で、時には指を使って塗っていく。その際、白絵具はフラットに塗り込めるのではなく、さまざまな方角に 向かって何層にも塗り重ねていく。ストロークの痕跡はそのまま画面に残る。一方では、塗り残された箇所か

らは下地の黒が覗いており、特にカンヴァスの縁の部分は、意図的に塗り残すことで、あたかも黒い背景から 白い四角形が浮き上がるように見える。もちろん、作品からはあらゆる再現的な要素は排除され、一見、ミニ

マル絵画の様相を呈しているのだが、こうして、画面には絵画的イリュージョンが生まれ、表現性を含んだ筆

触からは、描くという行為に対する潜在的な志向性のようなものが感じ取られる。五十嵐は「筆触に光を見る」

という表現を使う。それは、何らイメージを喚起するものではないが、確かに、画家の手の営みとしての時間 の集積であり、同時に絵画としての視覚性を強調する要素として働いている。

振り返ると、60年代以降、絵画は表面の問題へと集約されていった。言い換えるならば、メディウム、あ るいはマチエールが重要なテーマとなった。さらに、そういった物質的な絵画としての側面と、絵画的イリュー ジョンとの関係性という問題も生まれてきた。絵画平面が持つこの両義性について、さまざまなアーティスト

がさまざまな回答を提示したのが、この時代であったということもできよう。そしてこの頃から、五十嵐はカ ンヴァスに絵具を塗り足すのではなく、逆に絵具を削り、時にはカンヴァスの布地までも擦り落としながら、

剥き出しになった絵画の物質性を、そのまま作品として提示する試みを行ってきた。サンドペーパーによって 表面を削られたカンヴァスは、灰色の、あるいは茶色の布地の色をさらけ出し、荒くざらついた生地の質感が 見るものの触覚を刺激する。制作のプロセスとしては、絵具や鉛筆で塗り込めていく作業とは正反対の、いわ

ば引き算の絵画であるにもかかわらず、ここでも、執拗なまでの画面への関与の仕方は、五十嵐特有の性質を 示している。画面は、一見静謐で柔和な表情を湛えているが、その背後には、ストイックで強靭な意志の力が 働いている。そうした特徴もすべての作品に通底している。

Drawing by drawing|Oil on canvas|194 x 130 cm each, set of 2|1979

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“ホワイト・ペインティング”を中心とした塗りの絵画の段階を経て、この十年、五十嵐は再び、この“削 り”の作品を試みるようになってきた。きっかけは偶然に見舞われた災害であったという。ある日、突然の暴 風雨で仕事場の屋根が飛ばされ、多くの作品が破損してしまう。その修復のために、傷んだ作品の表面をサン

ドペーパーで削ったことが契機となった。いわば、偶発的な自然の力によって、過去と現在とを繋ぐ絵具の層 が見えてきた。絵画の真相が顕わになった瞬間であった。こうして、2010年以降に本格化する新しい傾向を、 初期の作品と比べると、絵具を塗っては削っていくプロセスそのものは違わないが、最上面に黒やグレーや白 色の絵具で、幾何学的な形体を描き出している点が大きく異なっている。作品によって線的に画面を分割した

ものもあれば、白黒の面によって構成されたものもあるが、いずれも幾何学的抽象に近い。ペインティング・ ナイフを使って、下地が見えなくなるほど厚く平坦に塗り込められている。

振り返れば、五十嵐はごく初期から、こうした構成主義的な画面を構築してきた。それは確かに、ある時期 まで現代美術の革新的な動向の先端を行くものであり、絵画の新しい地平を拓くものとして注目されてきた。

あるいは“ハード・エッジ”と呼ばれた、シャープな輪郭を伴った色面や形体による絵画も、やはり1960年

代の支配的な傾向であった。抽象表現主義と同時代を歩んだ、エルズワース・ケリーやケネス・ノーランドの ような明快な色彩の絵画が頭に浮かぶ。

けれども五十嵐の絵画は、このような欧米発信の絵画とはまったく趣を異にしている。言葉で言い表すこと

は難しいが、敢えて探すとするならば、それらは「繊細」で「親和」的で「素朴」な感じがする。ハード・エッ ジでありながら、声高に自己主張するのでもなく、また不明瞭なものを排除するのでもなく、平面的でありな

がら空間性も保たれたままである。こうした相矛盾する要素は、カンヴァスの表情にも見て取れる。作品に近

寄ってみると、絵具やカンヴァスを削り取って出来た面と、絵具をフラットに塗り込めることで成立している

面との絵肌の違いが際立っている。例えるならば、未踏の大地と人工的なアスファルトの地面のようなコント

ラストである。それでいて、両者は決して対立することなく、ある意味、自然な状態として共存するのである。

それは、現代のわれわれ人類と地球との普遍的な関係性のように見えなくもない。または、文明の根源的なあ

り様を見せられているような感覚にもなる。なんら写実的な描法に拠らずとも、時に絵画は鏡のように現実の 姿を映し出すのだ。

194 cm|1980 19
Drawing by drawing 80-1|Oil on canvas|194 x

絵画はミクロコスモスである。それは人の手によって成りながら、人為を超えた宇宙である。五十嵐は、創

作というささやかな行為を長い年月続けることによって、最後は人間を超えた宇宙の摂理に身を委ね、人類な きあとの世界にまで絵画を連れ出そうと企てているのかもしれない。そして、われわれはその見果てぬ未来を、

彼の絵を通して思い浮かべることになる。時間だけが留まることなく画面の上を通り過ぎていく。

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Drawing by drawing 80-2|Oil on canvas|194 x 194 cm|1980

加藤義夫 (キュレーター/美術評論家/宝塚市立文化芸術センター館長/大阪芸術大学客員教授

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Drawing by drawing|Oil on canvas|68.5 x 33.5 cm|1980
「五十嵐彰雄の削られた絵画 - 宇宙へはなたれた自己存在証明」

■はじめにー削られた絵画との出会い

20世紀後半から21世紀初頭、美術はその価値観を大きく変えた。1980年以降は純粋美術という概念が崩 れてしまったように思える。かつての美術という概念では語りきれない表現と形式が生まれ拡張し、美術は作 品だけでなく社会との関係性で語られるようなものが主流になっている。さらに大衆的なサブカルチャーが美 術の領域になだれ込み、かつての高尚な芸術としての美術はサブカルチャーに王座を明け渡し、美術は息を潜

めて暮らす。絵画はマンガやアニメ、落書きに、そして写真と映像いったメディアに取って代わられ、彫刻は 空間を異化するインスタレーションに変貌し、CG(コンピュータグラフィックス)やVR(バーチャルリアリ ティ)が脳内を駆け巡る。その流れを作り出すのは大衆の人気と市場だ。現在も何がアートかを決め、作品を

価値付けるのは美術館と歴史的な時間の審判と言えるが、これも時代と共に変化していくことだろう。そして

今、私たちはコロナ禍、世界が大きく変わる局面に立ち会っている。時代精神とともに美術の概念もたえず変

そんな中、私は1980年代中頃から五十嵐彰雄の絵画を長年観てきた。1980~90年代の五十嵐のホワイ トペインティングは、絵の具がキャンバスに積層し完成する。それはまるで雪が降り積もるがごとく、時間の 積み重ねを感じる美しい画面の表れだ。柔らかな初雪のイメージを持つ表面は私たちを魅了し、清らかな気 持ちにさせてくれる。また一方、ホワイトペインティング時代に削る行為によって生み出される絵画も制作 されていた。私が知るかぎり、もっとも古いものでは1979年制作の「Drawing by drawing 79-1」がある。

五十嵐の「削られた絵画」はすでに約45年の歴史を持つ。

五十嵐の場合、抽象絵画と言われる形式の絵画制作は半世紀を超え、60年以上継続されてきた。絵画へ向 かう、その愛情と情熱と粘りはどこからやって来るのだろうか。抽象絵画を描いた経験のある人なら理解でき

るだろうが、最初の数点を描くことはたやすいが、それ以降はイメージが次第に枯渇し、描けなくなる人が大 半ではないか。筆者もそのひとりである。

抽象絵画の世界は、作家の周辺、自然や風景や光景を再現すること無く、自己の精神世界を視覚化するもの

で、孤独との戦いと言っても過言ではない。さらに五十嵐の場合、抽象絵画の定番であるカラフルな色彩を使 わず、無彩色で構成されているところは特筆すべき点でもある。

音楽表現がまさに抽象と考え、音を色彩によって組み換え、色彩こそがまさに抽象的だと考えた20世紀美 術の巨人、ロシアのカンディンスキー(1866-1944)、新造形主義を打ち出し色面構成による幾何学的抽象絵画

by drawing|Oil on canvas|116.5 x 72.5 cm|1982 25
Drawing
化している。

を生み出したオランダのモンドリアン(1872-1944)など。そのほか多くの先人たちが色彩による抽象絵画を

試みているが、無彩色でほぼ形体もない世界を描き、60年以上に渡り制作を継続することは前人未到、至難

の技ではないか。そして、五十嵐の抽象絵画への挑戦は、無謀とも思える長い実験の集積だといえはしまいか。

芸術に対するこのような五十嵐の姿勢と態度は敬服に値する。

2020年10月24日に福井県あわら市の金津創作の森美術館を訪れ、アートドキュメント2020|五十嵐彰

雄展「絵画再考 積もる質 / 削られる層」を鑑賞した。当日はミージアムトークということで五十嵐彰雄と土

田ヒロミ館長と筆者が鼎談をした。哲学的な五十嵐の作品世界やアートの役割について語った。筆者は1965

年から2020年までの作品の流れについて、本展の展覧会図録に評論「五十嵐彰雄の世界―幾何学的抽象絵画

からミニマリズムを超えてあるもの」として寄稿する機会を持った。今回は作家本人の依頼で、2000年以降

の作品論を書いて欲しいとリクエストされた。21世紀の五十嵐彰雄の絵画論となる本論は「削られた絵画」

を中心とした評論となる。

■削る行為は絵画として成立するのか

五十嵐の絵画の特徴的な表現は「削られた絵画」だといえる。彼自身が書いた「絵画再考」で、「2010年、 私はキャンバスを削る仕事を始めました。突然の暴雨風と大雨が仕事場の屋根を吹き飛ばし、制作した作品の 多くが破損し、補修のため傷んだ作品の表面にサンドペーパーで削り取ったことがきっかけでした」と記して

絵画に削る行為はありえるだろうか。これまで壁面、天井、板、キャンバス、紙とあらゆる支持体に絵の具 が堆積することで絵画のイメージが生まれてきた。絵の具を積み重ねて行く、たし算の論理が絵画を形成して

きた歴史を思うと、絵の具を削る取る行為は、美術史的に絵画制作を逸脱している。このユニークな手法、「削 られた絵画」は五十嵐の専売特許といえるだろうか。

周囲を見渡すとドイツの画家、ゲルハルト・リヒター(1932-)のスキージー(ヘラ)を用いて形成する抽

象絵画は、広義には絵の具を削る行為といえる。削ることにより何が生まれるか。リヒターの場合、スキージー

で絵の具を引っ張り削り取ることで、現前の絵画が消失し、新たな絵画が目の前に現れる。絵の具を削ること で偶然現れたイメージをさらに選び取ることがリヒター絵画の特徴的な要素のひとつとなっている。リヒター のスキージーを用いた絵画は破壊と創造の上に成り立っている。五十嵐作品も破壊と創造の産物だといえる。

Untitled|Oil on canvas|116.5 x 91 cm each (set of 2)|1989

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いる。(★注1)

他方、サンドペーパーを使って絵画の表面を削るという同様な行為で絵画を制作している画家がほかにいるだ ろうか。思い浮かぶところでは日本の洋画家の有元利夫(1946-1985)がいる。1980年代に活躍した日本の 具象絵画の代表的な画家だ。イタリアのルネサンス期のフレスコ画と日本の仏画を融合させた作風は削るとい

う行為により劣化した絵画に時間を封じ込め、観る者に数百年という時間の経過を観る者に感じさせる。時間

を経た、古いものこそが価値を持つといった感じだろうか。新しさが最大の価値のひとつとしたモダニズム、

近代主義とは真逆の価値観を提示したとも考えることができる。それは温故知新の諺の意味に近い「古きをた ずねて新しきを知る」ということだ。しかし、五十嵐はリヒターでも有元でもなく、黙々と自身の絵画を削る

ことだけを考えてきたように思う。長時間にわたる削る行為の中に生まれる「時」は、五十嵐にとって自問自

答という自己との対話であり、世界と自身を考える思考の時間の誕生だったのではないか。五十嵐のかたくな

な作品制作姿勢とその態度に感銘を受けるのは、思考時間の積み重ねが絵画として表出しているからだといえ よう。

■自己存在証明として、宇宙との関係性を探求

五十嵐から筆者に送られた手紙で「言うまでもなく絵画は人間の知的営みであり、自身の哲学が背後にある。

最近、私は自己の主張をあまり重要視しなくなった。」と記し、さらに五十嵐は「常識の次元を遥かに超えた

広大な宇宙の摂理、その悠々とした流れの中に見えくる事物の構造、それらの様相を絵画に於いて客観化する

こと、そこに私の絵画を求めたいと思っている」と記す。自己主張より客観性を重視する方向へと展開してい

くのは、普遍的なものへの到達の道を意味する。人は自力で生きているのではなく、他者によってあるいは人 智の及ばない力によって生かされているという実感がふつふつと湧き出てきたかのように思われる。削るとい

う制作行為は、宇宙と一体感を持ち「無」にかえっていく行為ではないだろうか。

作品制作は画面に絵の具を多層に塗り込むことから始まり、やがて削る行為へ向かう。削るという行為は モノを磨き上げ、掘り出し発見する行為といえよう。絵画である前に物質である絵の存在は、2006年から

2012年に制作された楕円形の絵画「paintingシリーズ」に顕著だ。矩形のキャンバスではなく楕円形のキャ ンバスを支持体とした作品である。絵画としての空間構造よりも物質としての絵画を意識させる。矩形から楕 円形の変化は何を意味したのか。楕円形は宇宙に存在する星雲の運行を見据えて制作されたのだろうか。五十 嵐の絵画は宇宙空間を表現し、さらに宇宙に放たれているとも感じられる。

Painting|Oil on canvas|116.5 x 73 cm each (set of 2)|1992

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2020年制作の近作「絵画20-300-2」は剥ぎ取られ劣化しほころびた画面に僅かばかりの小さな穴が空い

ているところも見受けられる。画面の向こうから浮かび上がる無数の光は、宇宙から降り注ぐ光の粒子のよう にも感じられる。何光年も彼方から届く光の粒子は、宇宙の遥か彼方から届くメッセージのようだ。五十嵐の 絵画は天地無用のようにも思える。鑑賞者にとっては宇宙空間のような絵画はどこから観ても許されると思っ てしまう。五十嵐の絵画は天地無用とも思えるし、現代絵画の課題であった平面性からの脱出も感じられる。

本作を斜めから観ると白や灰色の細長い色面が画面から浮き立つ。真正面から観ると平面的な絵画も少し斜め から観ると遠近法的な空間が生まれている。これは視覚の錯覚、イリュージョンである。本作において五十嵐 が意図していないことかもしれないが、私にとっては驚きの発見であった。

五十嵐の告白ともいえる記述、「ふり返えれば、私の絵画の制作は、描くことと消すこと、削ることの継続だっ

た。正直に言えば、ここ数年描くことより削ることで絵画の表面を作っている。このような行為のくり返しで 絵画の可能性を探しているともいえる。そこには複雑で多様な時間の経緯の痕跡として記録される。」(★注2)

絵画を削る行為によって、画家自身と宇宙や世界の在り方の関係性を問い、五十嵐なりの普遍性、美意識、 哲学の総体を築いている。自身と宇宙とを結びつけることで現れるものが、彼の絵画の本質ではなかろうか。 自己を通して導き出す世界観と言ってもいいだろう。絵の具を塗り重ねさらに削り出す行為の連続性の中に 五十嵐の時間が幾重にも折り重なり、やがて無我の境地となり、精神と絵画がひとつのものとなる。もはや 五十嵐の作品は、幾何学的抽象絵画でもミニマリズムでもない宇宙との交信が生み出す精神活動の軌跡といえ よう。

それは社会や時代とアートの関係ではなく、普遍性を価値とした世界観の中で生まれてきた美術だといえよ

う。すべてのものに通じる普遍的な真理を探求し、模索してきたように思える。絵画を通して自身と世界の真 理を解き明かすために、ブレることなく突き進む、その制作態度と姿勢は、五十嵐の類稀な才能のひとつだと 感じられるのは私だけであろうか。

このような時の流れの中に身をおいてきたのが五十嵐彰雄であり、世界からみれば極東の小さな島の一地方

で、絵画による真理の探求と宇宙への思索を重ね戦ってきた孤高の画家だ。人生の大半の時間を絵画に注ぎ込 み生み出された五十嵐の珠玉の作品群は、自己存在証明として、また一方、自身と宇宙との関係性を探求した 軌跡の証であり、自画像ともいえるのである。

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★評論文冒頭の一部分は、筆者が執筆した2020年5月19日(火)の朝日新聞大阪本社版夕刊「美術評 - 特別編コラム」の「世

界どう変わる 思索の時」と、後半部分の一部は2020年11月19日(火)の朝日新聞大阪本社版夕刊「美術評」五十嵐彰雄展 「絵画再考 積もる質 / 削られる層」-「宇宙と結びつく視覚芸術」を編集し引用した。

そのほかに、金津創作の森美術館の展覧会図録「アートドキュメント2020|五十嵐彰雄展「絵画再考 積もる質 / 削られる層」

から筆者が書いた「五十嵐彰雄の世界―幾何学的抽象絵画からミニマリズムを超えてあるもの」を編集し引用した。

★注1-金津創作の森美術館 図録「アートドキュメント2020|五十嵐彰雄展「絵画再考 積もる質 / 削られる層」から「絵画再

考 | 五十嵐彰雄」から引用 会期:2020年10月24日~12月6日(日)

★注2 – 鯖江市まなべの館[SABAE MANABE MUSEUM]図録「新三つの個▪展 五十嵐彰雄 橿尾正次 山本廣」展から五十 嵐の記述「Comment」から引用 会期:2022年6月1日(水)~6月5日(日)

Untitled|Oil on canvas|89.5 x 130 cm|2015

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五十嵐彰雄   山口 孝

現代美術家はどうして存在しているのか? 創作の独創性とは? 作家は自由な独創性のある制作をしてい

るのか? 何のために制作するのか? 作家自身のため? ただ自分が制作したいから? 他人のため? 他 人の評価が欲しいため? 他人である私の作品に対する認識とか感じ方は作家のそれとは違うがそれを良しと

するのか? 私も含め観者は美術をどう認識しているのか? 美術を見る眼は美術に何を期待してるか? ど うして観者である私は美術に感動するのか?

何ひとつとして確固たる認識の自覚がないままに、曖昧ではあるがそれでいて、自身の中には美術そのもの に確固たる感動や共感を感じる。また美術の創造者に対しての敬意は薄れていくことはない。それは何故なの

かと強くこの様な疑問を意識的に問い掛けをし続けた時期が個人的にあった。それは日本のバブル経済が破綻

した1990年初頭であった。作品の貨幣価値はほぼゼロベースに低迷し、ギャラリーの維持は極端に困難な時 期を迎えてしまった。その時ふと私は今迄何をしていたのかと考えてしまった。貨幣的なゼロベースは私個人 には如何ともし難い問題である。しかし美術の問題(意義や存在価値)について私は充分に考えてきたのだろ うかとふと頭によぎった。恥ずかしながら、美術品と美術の価値をそれまで同等のものと捉えていた事に気づ

き始めていた事になる。この事は私にとって「私の今があること」に大いに関係がある出来事だったように思う。

それまで美術史、作家論や展覧会評や私の周りで関係のある論考を自分なりに読んできて、勿論素晴らしい

論考には出会ってはいるが、何処か自分が感じることとは違和感があるものや物足りなさを感じるものが多

かった。多分それは自分の中で置いている美術の位置というか、うまく言えないが、俯瞰の仕方の違いなのか、 なかなか深く共感するものに出会わなかった。奥底で何かが違っていた。そこから美術に対する自分なりの価 値基準なりを理解する、いや感じると言った方がいいのか、そのことに少し時間をかけるように心掛けるよう にした。

当初は主にヴィトゲンシュタイン、ユングなど、いわゆる西洋哲学に指針を求めていたが、これももう一つ 身に入らなかった。なぜなら各論はすらすら頭に入ってくるが、この世界に入り込むと、もう一度20歳代に

Untitled|Oil on canvas|89.5 x 130 cm|2015 35

戻ってその論理方法を身につけるために時間を巻き戻さなければならないような感覚に陥ってしまった。

そこで、彼らも多分に感化されたのであろうし、また、私自身が以前から興味があったインド哲学(東洋思想)

の関係書籍を読み漁るようにしていた。その際、西田哲学にも出会い「矛盾的自己同一」には大いに感化され

「自己が創造的となるということは、自己が世界から離れることではない、自己が創造的世界の作業的要素と なることである」と言う論説にはかなり刺激を受けた。また物事を観察する際には龍樹の中論は大いに勉強に

なった。更に世親の唯識論は私の美術を見る視点を広げ、より感受性を高めてくれたのではないかと思ってい る。これらの論理は西洋哲学とは違っていて、幻想の世界に導かれたように感じるが、私にとっては意識と無 意識の問題は大変興味深いものがあった。そのような作業の中で人間社会での営みの中での美術の必然性を感

じ取り、また創造の必然性を徐々に深く感じようになっていったように思える。それを機に美術における経済 的な活動を意識するようになってきた。前段が長くなってしまったが、五十嵐さんから原稿執筆の依頼を受け

てから早6ヶ月以上になるのだが、そういったような事をベースに五十嵐作品もしくは五十嵐さんについて語 ろうと思います。

このカタログは「削られた絵画」だけを紹介している。サンドペーパーで削られた画面の作品である。五十

嵐さんはいつも「自分の過去を消そうと」していると言う。「消すこと」がサンドペーパーでキャンバスにペ

イントされた油彩を削る行為に繋がっているのだが、80年代半ばから発表している油彩のチタニウムホワイ

トによる「白い絵画」は明らかに塗り重ねている。キャンパス素地に黒や白を下地として施し、その上から白

い油彩を画面一杯に塗り重ね、あるものはエッジまで、あるものはエッジの黒地を若干残してはいるものの一

見して作品の印象は白い作品である。絵筆やペインティングナイフでのストロークが強調されたり、薄塗りで あったりするが塗り重ねていることは見てとれる。ある時、五十嵐さんは「この時期の作品も塗り重ねの作業 はそれまでの作品と同じ様に消す作業です」と言及された。つまりサンドペーパーで削る行為と油彩を塗り重 ねる行為は過去の行為を「消す」という作業であると。塗り重ねた表面上のイメージを作品として成立させる よりも、塗り重ねて「消す」という行為自体を作品として成立させようとしているのであろう。

では何故「過去を消す」のかという疑問に突き当たる。それは「今までに制作してきた行為の結果としての 作品をふと客観的に見ると自分の中で腑に落ちない邪念のようなものが画面から感じてしまうと、それを消し

Untitled|Oil on canvas|91 x 91 cm each (set of 4)|2018

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去ろうとする衝動に駆られる」と言うことであった。つまり1971年頃から試作を重ね、作品化されて行った「削

られた絵画」は表面状の手法の違う「白い絵画」に変化して行ったにもかかわらず、それらは塗り重ねて画面

に層を施し作品としての深みや重厚性を表現するための手法ではなく、五十嵐さんにとってはある程度出来上

がった画面を再度客観的に眺め、自身が「腑に落ちない邪念」を塗り重ねによって消し去ろうという行為であ ると。また、五十嵐さんはいつも「現在の自分」を意識しているという。

美術として作品を成立させようと決意した頃からほぼ60余年の間、無意識の内に背負って来た五十嵐さん

の課題の根底には、言葉の問題として捉えるのではなく、行為として「自分の在るがままの姿」としての作品

を追求して来たように見える。私にとっては「消す」ことと「表現」することは図らずも西田哲学の「矛盾的 自己同一」という感覚に吸い込まれていく。ヴィトゲンシュタインは「言葉にできない領域」を神秘として捉

えているが、私たちがその領域に覆われている事には容易に自覚できない。東洋思想に言及される「摩訶不思 議な世界」はそれに相当する。その世界に到達できるかどうか分からないが、到達できるように日々を過ごす ことが意味あることなのかも知れない。

2006年のことだったと思う、ある日五十嵐さんが新作の作品に対するコメントを私に求めて来たことが

あった。その作品は楕円形にシェイプトされたキャンバスに白と黒が塗り重ねられた大作で、そこには過去に 取り組んでいた画面の重厚性や五十嵐さんのオリジナリティが満載され、それでいて新しい模索、実験性を感

じさせる作品に私には感じられた。言葉にできなかった私は「五十嵐さんの試みは全て私にとって信頼できる

ものです」という意味の言葉を返した記憶がある。それらの作品は2020年に金津創作の森美術館で開催され

た大規模な個展に展示されたが、2006年当時の作品の画面は削られ、さらに筆が加わり当時の印象とはまっ

たく違うものとなって展示されていた。我々は完結された画面として認識し、その事を不変のものと捉えがち であるが、五十嵐さんにとっては現在の自分をありのままに作品化するという一貫した姿勢が、躊躇なく、削

る(消す)ことを選択した結果の表れであろうと推察する。その姿勢は眼に見える作品自体を論じる(感じる) こととは別の美術のあり方を提示し、視覚に残る残影が我々の体内(脳?)に発生することが視覚芸術として 存在する美術をとらえる上で最も重要なことのように示唆しているのではないでしょうか。

Untitled|Oil on canvas|100 x 100 cm (set of 2)|2018

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時には迷路に入り込み、紆余曲折しながら獲得した自由に(自に由って)作品を創造する五十嵐さんの作品

に対する姿勢は「目の前に現実的にある作品」と「視覚の残影としてある作品」のあり方の違いを改めて私に 再認識させられるものであり続けるであろう。

悲しみは言葉にならない…深すぎて。

喜びもしみじみと噛みしめるもの。

という北山修氏の詠をふと、想起する。

Untitled|Oil on canvas|100 x 100 cm (set of 2)|2018

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Akio Igarashi during the 1970’s – 1980’s: Erasing Painting - Kiyoko Maeda

An important aspect of the situation of art in Japan in the late 1970s was the complete return of painting that had been inferior to the radical trends of minimal art and conceptual art from the 1960s in Europe and the USA, the later Arte Povera, and the Mono-ha movement in Japan to the forefront as a possible means of expression once again. A review of the situation in Japanese galleries and museums in the early 1970s reveals that many paintings appeared and that each artist was exploring the possibilities of painting and flatness in their own unique way. For example, Lee U Fan, a key pioneer of the Mono-ha school, exhibited his series of paintings 'From Point to Point' and 'From Line to Line' at the Tokyo Gallery in 1973, while Masaaki Yamada, who created thickly abstracted paintings, achieved critical attentions at the Koh Gallery in 1978. It was a time when many artists found their way into painting, not for the purpose to depict something, but for the purpose of painting itself. Under such circumstances, Akio Igarashi also found his own means of “Erasing Painting” through his diverse practices.

The most his significant practice leading to “Erasing Painting”, began with abandoning the canvas and the paintbrush. This was in 1973. Until then, Igarashi had been working energetically on the basis of the latest art coming from the USA, but suddenly he felt the limits of his own creative method and decided to go back to his roots. What he attempted was to run his pencil frantically on the paper with an empty intention. The act of drawing continued until the painting was completely black, led to the fruiting of the series of “Drawing by drawing” in 1976 which are with a huge scale measuring 2 m high and more than 5 m wide. The paintings, uniformly filled with black, overwhelm the viewer with the weight and texture of the pencil lead and the enormous amount of time and energy that has brought the painting to fruition. Art critic Yoshiaki Inui reviewed “These paintings as an attempt of Igarashi to minimise traces of handwritten gestures and expressions of emotions as much as possible and to reduce painting to pure hand movement without artifice”. The surface, with its countless overlapping strokes, was, however, "concentrated with the artist's obsessive will to devote himself to the mere act of drawing lines, which gave them a massive power”. In 1979, he developed a painting in which the blacked-out areas are erased with an eraser, and the use of the eraser can be seen as an act of dispelling his strong will or surplus of persistence that is conveyed from the surface. Following such as this extention of this contemplation, “Erasing Painting” were born.

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Untitled|Oil on canvas|72.7 x 72.7 cm (set of 2)|2018

After getting a good response from his drawings, Igarashi replaced the paper support with canvas and began to paint in practice around 1977, first applying black oil paint to the canvas and then carefully scraping it with sandpaper after the surface had dried. The surface, which exposed the material of the support, however, had a unique texture different from that of raw canvas. The earliest erasing paintings "Drawing by drawing" are small squares (53 x 53 cm), with a sandstorm-like surface covering the entire frame. Just as the wind sweeps over the sand and creates patterns, Igarashi's images are almost entirely free of any sense of emotion or intention of the artist. The grey-toned surface, which is scrapped to the point where it is unlikely that black paint was first applied over it, conveys ambiguous nuances and textures. The all-over structure has no single point of focus, so that the viewer's perspective is not locked in any one specific place, but is spread across the entire surface. With no focus to observe, the tactile information on the surface rather dominates the visual.

The tactile information, or materiality of the medium, would also correspond to the materiality found in the other paintings of the same period. The thick paintings of Masaaki Yamada, the pigments of Lee Ufan, or the hardness of metallic paints by Tadaaki Kuwayama. There is no end to the list. However, whereas in many of those paintings, the materiality that covers the surface of the painting overwhelms the viewer's eye, forcing the viewer's vision to be inescapable by its insistence, the materiality in Igarashi's paintings is manipulated to appear gradually, along with its ephemerality. As if in response to the time Igarashi spends sanding, the viewer's perspective is also slowly moved. The surface may seem modest and rudderless, but you can feel a slight movement that resembles a certain heartbeat. They are traces of the artist's mindless but unconscious body movements, physical features such as the length and strength of his arms, or movements defined and well-established by the sandpaper's coarseness. Without fear of being misunderstood, “Erasing Painting” is the painting that aims to scraped off.

This act of art creation was a common issue not only for Igarashi but for all artists and critics in the field of painting and the world of art criticism in the 1970s. The important thing was no longer what to paint, but how to paint it. This transformation of perspective gave the artists the option of painting as a valid method once more. Thus, the canvas was revived as a site for the act of creation, but their act should be seen as an objective, artisanal act, rather than as an expression of the inner self, as was once the case with Abstract Expressionism. In this context, the work of paintings at the time were an approximation in relation to Minimal Art and Conceptual Art which imposed themselves inferiorly. Turning back to Igarashi's paintings, the act of scraping is not an act of inner expression, but rather an

Untitled|Oil on canvas|72.7 x 72.7 cm (set of 2)|2018 45

However, “Erasing Painting” have some decisive differences from these. Firstly, the act of "scraping" discovered by Igarashi was indeed loosely in line with these contemporary trends, but it was not born out of the demands of art criticism of the same period. In Igarashi's case, his approach was to start from the personal inquiry of how painting could be reconstituted empirically. What this does not mean is that he ignored the art trends of the time. Rather, it seems more appropriate to explain that, while keeping these trends in mind, particularly American art criticism, he responded to his own sensibilities and, instead of setting the direction of his work in the dichotomy between Western transcendence and materiality, he integrated these through his creative activities and discovered new possibilities for his own paintings. Because Igarashi's “Erasing Painting” provides a unique transcendence through the visual experience of materiality and the act of creation. In other words, whereas most Minimalist works assert the intrinsic nature of their materials and do not present anything more than the material itself, Igarashi's paintings go beyond the materials used, such as canvas and oil paints, and present themselves as beings that appeal to our sense of perception. This transcendence is neither created by chance nor, of course, expressed by the artist's subjectivity. It appears to be such that the artist's subjectivity has almost disappeared, and can finally arrive through the modest action that accompanies the encounter between material and material. The act of scraping was Igarashi's unique greatest weapon in the contemplation of painting and flatness.

Igarashi took the opportunity of this "Erasing Painting" to begin starting painting again and he actively developed his work, changing his style. This development was carried over into his recent work along with diverse experiments, such as the panel paintings 'Drawing' series in the early 1980s, the densely lined works 'Color Field - Quantity' series in 1983, the white paintings 'Color Field - Phase' series in the late 1980s and the 1990s, in which the surface is evenly filled with brushstrokes, and the use of oval shaped canvases in the 2000s. Some of his paintings seem to reference the painting work of American Minimalist artists such as Sol LeWitt, Agnes Martin, Robert Ryman, Frank Stella and Brice Marden. Such a relationship with other artists may illustrate that his practice of painting itself is rooted in an unerring dialogue with painting and flatness, and that he is in a situation where he can only explore possibilities from where he has put himself in such a situation from which there is no escape.

Alongside this exploration of painting and flatness, “Erasing Painting” has always been a fundamental part of Igarashi's work since 1970, but in recent years it has reached an important turning point. In the works from 1990 onwards, the black painted over surfaces are scraped off with sandpaper, and then newly painted over with

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a painting knife in white, grey and black squares and strips of forms. These color surfaces are constantly shifting backwards and forwards, and the interchange of substrate and figure is designed so that the arrangement of the elements on the surface is the sole concern of the artist. The composition of the rectangle in the centre or the corner of the frame seems to be approaching again in a different way to the problem of the shaped canvas, which he once tried to solve and his exploration of various angles, such as the problem of illusions of shades of white rectangles and scraped surfaces, and the law of division and integration by plane, is unremitting. The consistency of Akio Igarashi's work, which has resulted in more than 40 years of such rich and varied creation, lies in his attempt to penetrate issues in painting and flatness in his own unique way while tracing the history of certain painting as the traditions of the modernism of late 20th-century American painting, and while experiencing minimalism. The “Erasing Painting” acquired from empiricism is the starting point for Igarashi's contemplation of flatness, and at the same time it can also be a point of fulfilment. It may not only be that, but it may also be a point of passage on a further road trip in search of the essence of painting. In a sense, scraping and the search for essence of painting are inseparably connected. Igarashi's work reflects, in my view, on the possibilities of new paintings and flatness through “Erasing Painting”.

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The painter and the temporality of painting

Why do people want to become painters? They become painters because they want to paint. It may be obvious. Since childhood they like to use crayons and coloured pencils and are praised for their drawing skills at school. In adolescence, they in turn like to look at paintings. Intrigued by Impressionism, Surrealism and abstract painting, they begin to think that they want to be painters. And so they knock on the door of art college and finally take the first steps towards their dreams, but now, decades later. Not many people live their entire lives as painters until the end of their own lifetimes. That is why, in the paintings of those who have kept the flame of youthful enthusiasm burning even as they have grown older, one can sense an everlasting and unch anging preoccupation with painting. Or it could be described as curiosity or inquisitiveness. It is a lifelong pursuit of painting, an obsession to discover the true nature of painting. Akio Igarashi must certainly be that kind of painter.

Looking at Igarashi's paintings, it seems to me that he was a "painting boy" or, in modern parlance, a "painting otaku”. This is because, despite the fact that he is already over the age of 80, he has such a strong and fresh creative attitude towards painting. More specifically, the artist's obsession with the physical act of "painting" and her fetishism towards the materials that make up her paintings, such as paint and canvas. This has been consistent since his youth.

For example, we can already see these qualities in his early works from the 1970s. The materials used were pencil and paper. He creates works in which rolls of paper several metres long are filled in with graphite pencils in an unrelenting manner. Thousands and thousands of fine pencil lines, one by one, overlap and fill the flatness. The texture of the paper is lost from the black shiny surface, creating a metallic quality. The tedious, patient and physically demanding work is repeated without tiring of it. The seemingly pitch-black expanse of flatness is the site of Igarashi's act, and the time it took him to do it seems to lurk, frozen in time, in the blackness. Other works include floor and wood grain frottage. This is also a monotonous process where large areas are simply rubbed out with pencil.

The era was the 60s and 70s, when minimalism was at its height. It is clear that Igarashi's work from this period of his career was also strongly influenced by Minimalism. Once reductionism has eliminated all the pictorial from the painting, it finally reveals its essence as a material flatness. Minimalism stays one step short of the extremes at which painting vanishes. In Igarashi's case, however, the most essential or

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Painting 19-1|Oil on canvas|194 x 97 cm|2019

fundamental act of painting, the act of "drawing", intervenes. In that cold, jet-black surface, he imbues it with the power of the human will to paint thoroughly.

From the beginning of the 80s, the painting turned around this time, and the surface is covered in all white. Afterwards, it was a series of 'white paintings' that lasted until the 1990s. The materials used change from pencil and paper to oil paint and canvas. Finished with white oil paint on a black oil paint base. To be precise, black paint is first painted over the entire surface of the canvas, and then white paint is applied over it with a brush and sometimes with the fingers. In this process, the white is not painted in flat layers, but in layers towards different directions. Stroke traces remain intact on the surface. On the other hand, the black of the base peeks out from the areas left unpainted, especially the edges of the canvas, which are deliberately left unpainted so that the white rectangle appears as if it is rising out of the black background. Of course, all reproductive elements have been eliminated from the work, giving it the appearance of a minimalist painting, but the painting illusion is thus created, and the expressive brushstrokes show a potential intention towards the act of painting. Igarashi uses the expression 'seeing light in the touch of a brush’. It does not evoke any image, but it is certainly an accumulation of time as the work of the painter's hand, and at the same time it works as an element that emphasises the visuality of the painting as a painting.

In retrospect, since the 1960s, painting has been consolidated into a matter of surface. In other words, the medium, or matiere, became an important theme. Furthermore, the question of the relationship between such material aspects of painting and pictorial illusions has also arisen. It could be said that it was during this period that various artists offered different responses to this ambivalence of the pictorial flatness. Since that time, Igarashi has been attempting to present the exposed materiality of the paintings as they are, not by adding paint to the canvas but, on the contrary, by scraping the paint and sometimes even rubbing the fabric of the canvas down. The sandpaper scraping of the surface of the canvas exposes the grey or brown colour of the fabric, and the rough texture of the fabric stimulates the viewer's sense of touch. Despite the fact that the process of creation is, so to speak, a subtractive painting, the opposite of the process of painting over with paint and pencil, here too, the relentless involvement with the surface shows the unique quality of Igarashi's work. The surface is filled with a seemingly tranquil and meek expression, but behind this is a stoic and strong sense of intent. Such distinctive features also find their way through all his paintings. After a phase of paintings in which he mainly focused on "white painting", Igarashi has been experimenting with "scraping" again in the last decade. The occasion was an accidental disaster that he suffered. One day, a sudden storm blew the roof off his workshop, damaging many of his paintings. To restore it, he scraped the damaged surface of the painting with sandpaper. This accidental force of nature has revealed layers of paint

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Painting19-2|Oil on canvas|194 x 97 cm|2019

that connect the past with the present. This was the moment when the truth of the paintings was revealed. Comparing this new trend, which has been in progress since 2010, with the earlier works, the process of painting and scraping itself is the same, but the main difference is that the top surface is painted with black, grey or white paint to create geometric shapes. Some paintings divide the surface linearly, while others are composed of black and white surfaces, but all are close to geometric abstraction. They are painted on so thickly and flatly with a painting knife that the base is not visible.

In retrospect, Igarashi has been creating these constructivist images from the very beginning. It has certainly been at the forefront of innovative trends in contemporary art up to a certain point in time, and has been seen as opening up new horizons in painting. Painting with sharply contoured colours and shapes, also known as 'hard edge' painting, was also a dominant trend in the 1960s. The clear-coloured paintings of Ellsworth Kelly and Kenneth Noland, who were contemporaries of Abstract Expressionism, come to mind. Igarashi's paintings, however, are completely different from these Western paintings. It is difficult to describe them in words, but if one dares to look for them, they are 'delicate', 'accommodating' and ‘rustic’. It is hard-edged but not vocally assertive or obscure, remaining flatness but also maintaining spatiality. These conflicting elements can also be seen in the expressions on the canvases. When approaching the painting, the difference in the painting surface between the surface created by scraping off the paint and canvas and the surface formed by filling in the paint in a flat area is noticeable. By analogy, the contrast is like that between unexplored land and artificial asphalt ground. And yet they are never in conflict, but coexist as a natural state of affairs in a sense. It appears to be a universal relationship between us humans and the planet today. Alternatively, it can feel as if we are being shown the fundamental state of civilisation. Sometimes paintings reflect reality like a mirror, without resorting to any kind of realistic depiction.

Painting is a microcosm. It is a universe that is made up of human hands, yet transcends human artifice. Igarashi may be planning to take his paintings out to a post-human world by continuing the modest act of creation for many years, finally surrendering himself to the providence of the universe, which transcends human beings. And we will see that unseenable future through his paintings. Nothing but time passes over the surface without staying.

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Painting|Oil on canvas|162 x 162 cm|2019

Erasing Painting by Akio Igarashi - Proof of Self-existence out into the Universe

■ Introduction - Encounter with Erasing Painting

In the late 20th and early 21st century, art drastically transformed its values. After 1980, the concept of pure art seems to have collapsed. Art has expanded and developed into expressions and forms that cannot be described in terms of the former concept of art, and has become mainstream, where it is not only about works, but also about the relationship between art and society. In addition, popular subcultures have entered the realm of art, art as a once exalted art form has given up its throne to subcultures, and art lives under the breath. Painting has been replaced by manga, anime and graffiti, and by media such as photography and video, sculpture has been transformed into installations that dissimilate space, and computer graphics (CG) and virtual reality (VR) are running around in our brains. What creates this trend is the popularity of the public and the market. Today, it is still the museum and the historical referee of time that decides what is art and values artworks, but this will also change with time. And now we are witnessing the Corona disaster, a world-changing phase. The concept of art is constantly changing with the zeitgeist.

Under such circumstances, I have been viewing Akio Igarashi's paintings for many years, since the mid-1980s. The white paintings in the 1980s-90s were completed by layering paint on canvas. It is as if snow is falling, and a beautiful surface emerges, in which you can feel the accumulation of time. The surface, with its soft first snow image, fascinates us and makes us feel clean and pure. At the same time, during the white painting period, he also created paintings by the act of scraping. As far as I know, the oldest one is “Drawing by drawing 79-1” in 1979. Igarashi's “Erasing Painting” already have a history of about 45 years.

In Igarashi's case, the creation of paintings in a form known as abstract painting has continued for more than half a century and has been ongoing for over 60 years. Where does this love, passion and obsession for painting come from? Although anyone who has painted abstract

Painting|Oil on canvas|130 x 130 cm each (set of 2)|2019

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paintings will understand this, most people find it easy to paint the first few paintings, but after that the images gradually exhaust themselves and they are mostly no longer able to paint any more. Nor am I one of them.

It is no exaggeration to say that the world of abstract painting is a battle against loneliness, as it visualises the artist's own mental world without reproducing his surroundings, nature, landscapes or scenes. Furthermore, it is worth noting that Igarashi does not use colourful colours, which are standard of abstract paintings, but instead uses achromatic colours.

Kandinsky (1866-1944), the Russian master of 20th century art who considered musical expression to be abstract, recombined sound with colour and considered colour to be abstract in itself; Mondrian (1872-1944), the Dutch artist who developed neo-modernism and created geometric abstract paintings with a colour surface structure; and others. ), etc. Many others have attempted to create abstract paintings in colour, but to create a colourless, almost formless world and to continue to do so for more than 60 years is an unprecedented and extremely difficult feat. And Igarashi's attempts at abstract painting can be said to be the culmination of a long series of seemingly reckless experiments. This approach and attitude of Igarashi towards art is worthy of admiration.

On 24 October 2020 I visited the Kanaz Forest of Creation Art Museum to see the Akio Igarashi solo exhibition ”Reconsidering Painting: Accumulated Quality/Scraped Layers”. On the day, I had a trilogy talk with Akio Igarashi and Hiromi Tsuchida, director of the museum, as part of Museum Talk. We discussed there about the philosophical world of Igarashi's paintings and the role of art. And I had the opportunity to contribute a review of the process of his paintings from 1965 to 2020 in the catalogue of this exhibition, entitled 'The World of Akio Igarashi - From Geometric Abstract Painting to What Is Beyond Minimalism’. This time, at the request of the artist himself, I was asked to write a review of his paintings from 2000 onwards. This review of paintings by Akio Igarashi in the 21st century will focus on “Erasing Painting”.

59 Painting|Oil on canvas|130 x 160 cm|2019

■Can the act of scraping qualify as painting?

The characteristic expression of Igarashi's paintings can be considered “Erasing painting”. In the catalogue of the exhibition, he describes”In 2010, I started again working with scraping canvases. A sudden wind storm and heavy rain blew the roof off my workspace, damaging many of the paintings I had created, and I began sandpapering the damaged surfaces to repair them”. (★Note 1)

Can there be an act of scraping in painting? The image of a painting has been created by the deposition of paint on all kinds of supports: walls, ceilings, boards, canvas and paper. Considering the history of painting, in which the logic of addition with layering the paints has formed painting, the act of scraping off paint is a deviation from art historical painting creation. Can it be said that this unique technique, 'scraping painting', is Igarashi's patent?

When looking around, the abstract paintings formed with a squeegee (spatula) by the German painter Gerhard Richter (1932-) can be described as an act of scraping paint in the broadest sense of the term. What can be created by scraping? In Richter's case, by pulling and scraping off the paint with a squeegee, the existing painting disappears and a new painting appears in front of the eyes. The further selection of images that appear by chance through the scraping of paint is one of the characteristic elements of Richter painting. Richter's paintings with squeegees are based on destruction and creation. Igarashi's paintings are also works of destruction and creation. On the other hand, are there any other artists who create their paintings with the similar act of scraping the surface of the painting with sandpaper? One artist who comes to my mind is the Japanese Western-style painter Arimoto Toshio (1946-1985). He was one of the leading Japanese figurative painters of the 1980s. His style is a fusion of Italian Renaissance frescoes and Japanese Buddhist paintings, where the act of scraping seals time into the deteriorated painting and makes the viewer feel the passage of hundreds of years. The style of the work is such that it is the old things that have passed the test of time that are of value. It can be thought of as presenting values that are the opposite of modernism and modernism, which held that novelty was one of the greatest values. It is akin to the meaning of the proverb "Learn the old to know the new”. However, Igarashi is neither Richter nor Arimoto, and seems to have thought only about

61 Painting|Oil on canvas|91 x 116.5 cm|2019

silently scraping his own paintings. The "time" created in the act of scraping over a long period of time might have been for Igarashi a dialogue with himself in the form of self-questioning, the birth of a time of thought in which he considered the world and himself. It can be said that Igarashi's stubborn attitude and approach to painting is impressive because the accumulation of time for contemplation is expressed in painting.

■ Explore relationships with the universe as evidence of self-existence

In a letter from Igarashi to me, he wrote: "Needless to say, painting is a human intellectual activity, and my own philosophy is behind it. Lately, I have given less importance to self-assertion.” and “I want to seek for my paintings in the vast providence of the universe, which is far beyond the dimension of common sense, the structure of things that can be seen in its leisurely flow, and to objectify these aspects in my paintings”. The development towards objectivity rather than selfassertion represents a path to reach the universal. It seems as if the realisation that people do not live by themselves, but are kept alive by others or by forces beyond human intelligence, has gradually welled up. The act of scraping is probably an act of becoming one with the universe and returning to ‘nothingness'.

Creation of the painting begins with applying multiple layers of paint to the surface and eventually moves towards the act of scraping. The act of scraping can be said to be an act of refining, digging out and discovering things. The presence of the painting as material before it is the painting is evident in the 'painting series' of elliptical paintings created between 2006 and 2012. Those paintings are not on rectangular canvases, but on elliptical canvases as supports. Those remind us of painting as material rather than spatial structure as painting. What did the change from rectangular to elliptical mean? Were the elliptical shapes created with a view to the operation of nebulae in cosmos? Igarashi's paintings represent universal space and can also be perceived as being released further into the universe.

A recent painting from 2020 titled “Painting 20-300-2”, is peeling, deteriorating and fraying, and small holes can be seen in the surface. The countless lights emerging from behind the surface

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Painting|Oil on canvas|130 x 160 cm|2019

seem like particles of light pouring down from the universe. Particles light arriving from light years away are like messages from the far reaches of the universe. Igarashi's paintings seem to have no heaven or earth. For the viewers, his paintings that look like universal space would be considered permissible from any angle. Igarashi's paintings seem to have no heaven or earth, and these show a sense of escape from the flatness that has been the contemporary painting's assignment. This painting, when viewed from an angle, shows long, narrow white and grey coloured surfaces emerging from the surface. Even a painting that is flatness when viewed from the front creates a perspective space when viewed from a slight angle. This is a visual illusion. It may not be what Igarashi intended in this painting, but it was a surprise discovery for me.

Igarashi's statement, which can be seen as a confession: in retrospect, the creation of my paintings has been a continuous process of painting, erasing and scraping. To be honest, I have been creating the surface of my paintings by erasing rather than painting for the past few years. It could be said that I am searching for the possibilities of painting through the repetition of these actions. The surface is recorded as traces of a complex and varied history of time.” (★Note 2)

Through the act of scraping the paintings, the artist questions the relationship between himself and the state of the universe and the world, and builds a totality of universality, aesthetics and philosophy in Igarashi's own way. The essence of his paintings is what emerges from the connection between himself and the universe. It could be called a worldview derived through the self. Through the continuous act of applying and then scraping paint, Igarashi's time is layered on top of each other, and eventually a state of selflessness is achieved, where the spirit and the painting become one. Igarashi's paintings are no longer geometric abstract paintings or minimalism, but the trajectory of mental activity generated by a communion with the universe.

It can be said that this is an art that has emerged from a worldview that values universality, rather than the relationship between society, the times and art. It seems to me that he has been seeking and searching for all-sharing universal truths. Is it only me who feel that Igarashi's attitude and approach to his painting is one of his rare talents, as he continues to push forward without faltering in order to reveal the truth about himself and the world through his paintings?

19-202|Oil on canvas|130.5 x 130.5 cm|2019 65
Painting

Akio Igarashi is a solitary painter who has lived in the midst of such a passage of time, and who, on a small island in the Far East of the world, has engaged in a constant search for truth and contemplation of the universe through his paintings. The gems of Igarashi's paintings, which he devoted most of his life to, can be seen as proof of his self-existence and proof of his search for the relationship between himself and the universe, as well as being self-portraits.

Part of the beginning of the review was taken from "How the world is changing, a time of contemplation" in the "Art Review - Special Column" in the evening edition of the Asahi Shimbun Osaka Head Office on Tuesday, 19 May 2020, which was written by me, and part of the latter part was taken from "Art Review" in the evening edition of the Asahi Shimbun Osaka Head Office on Tuesday, 19 November 2020, in which Igarashi Akio's exhibition ”Reconsidering Painting: Accumulated Quality/Scraped Layers” - "Visual Art Linked to the Universe" was edited and cited.

In addition, my article 'The World of Akio Igarashi - From Geometric Abstract Paintings to What Is Beyond Minimalism' was edited and quoted from the exhibition catalogue of the Kanaz Forest Museum of Creation, Art Document 2020|Akio Igarashi Exhibition: ”Reconsidering Painting: Accumulated Quality/Scraped Layers”.

★Note 1 - Taken from "Reconsideration of Painting | Akio Igarashi" in the catalogue Art Document 2020|Akio Igarashi Exhibition: ”Reconsidering Painting: Accumulated Quality/Scraped Layers” Dates: 24 Oct6 Dec 2020 (Sun).

★Note 2 - Taken from Igarashi's description 'Comment' in the Sabae Manabe Museum catalogue 'New Three Solo Exhibitions: Akio Igarashi, Shoji Kashio and Hiroshi Yamamoto' Dates: 1 June (Wed) - 5 June (Sun), 2022.

Painting|Oil on canvas|89.5 x 130 cm|2019

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Why do contemporary artists exist? What is creative originality? Do artists create with free originality? What do they create for? For the artist himself? Just because he/she wants to create? For others? For the recognition of others? As a stranger, my perception and feeling of the artwork is different from that of the artist, , but that's okay? How do viewers, including myself, perceive art? What does the art viewer expect from art? Why am I, the viewer, inspired by art?...

Without being aware of any firm recognition of anything, I feel a vague but nevertheless firm emotion and sympathy for art itself within myself. Nor will respect for the creators of art ever diminish. There was a period in my personal life when I kept consciously asking myself questions like this, and why.

It was in the early 1990s when Japan's bubble economy collapsed. The monetary value of the artwork slumped to an almost zero base and the gallery faced an extremely difficult period to maintain. At that moment I suddenly wondered what I had been doing all this time. Monetary zerobased is a problem that I personally have no control over. But it suddenly occurred to me whether I had thought enough about the issue of art (its significance and existence value). Embarrassingly, this means that they were beginning to realize that they had previously regarded art and art value as equivalent. This seems to me to have been an event that had a lot to do with 'what I am now'.

Until then, I had been reading art history, artists' theories, exhibition reviews and other relevant discussions around me in my own way, and of course I had come across some excellent discussions, but many of them differed from what I felt or were insufficient in some way. I can't say it well, but perhaps it is the difference in the position of the art I place in my mind, or the difference in the way I look down on it, but it was difficult to encounter something I deeply sympathize with. Deep down, something was different. From there, I began to spend a little time trying to understand, or should I say feel, my own standards of value in art.

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Painting 21-150F-1|Oil on canvas|181.8 x 228.3 cm|2021

Initially, I looked mainly to so-called Western philosophy, such as Wittgenstein and Jung, for guidance, but this was not another thing that stuck with me. Because each theory entered my mind easily, but when I would get into this world, I felt as if I had to go back in time my twenties again and learn how to do that logic. So they were probably inspired, and I also started to read books related to Indian philosophy (Eastern thoughts), which I myself had been interested in for a long time. At that time, I also encountered Nishida's philosophy and was greatly inspired by his "selfcontradictory identity," and was quite inspired by his thesis that "to be creative is not to separate oneself from the world, but to make oneself a working element of the creative world. I also learnt a lot from “Nāgārjuna : the philosophy of the middle way” when observing things. Furthermore, I believe that Vasubandhu's “Consciousness-only” has broadened my perspective on art and made me more sensitive to it. Unlike Western philosophy, these logics feel led into an illusory world, but for me the question of consciousness and the unconscious is of great interest.

In the course of such tasks, I seemed to sense the inevitability of art in the workings of human society, and gradually came to feel the inevitability of creation more and more deeply. This led me to become aware of the economic value of art works from a different angle. It has been more than six months since I was asked by Mr Igarashi to write some text, and I would like to talk about Igarashi's works or him on the basis of such issues.

This catalogue presents only “Erasing Paintings”. These works are created with sandpaper scraping surfaces. Mr Igarashi says that he is always "trying to erase his past”. The “erasing” is connected to the act of scraping the painted oil on canvas with sandpaper, while the “white paintings” in oil titanium white that he has been showing since the mid-1980s are obviously painted over. The works are painted in black or white on a bare canvas as a base, and then painted over with white oil, some up to the edges, some leaving some black at the edges, but at first glance the impression of the works is that they are white. Strokes with a paintbrush or painting knife are emphasized or thinly applied, but it is evident that they are painted over. One day, Igarashi mentioned to me that "the process of painting over the work of this period is the same as that of the previous works, which is the process of erasing”. In other words, the act of

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Painting 22-120S-A|Oil on canvas|193.9 x 193.9 cm|2022

scraping with sandpaper and painting over with oil is a process of 'erasing' past enactments. Rather than trying to create an image on the surface of the painted over image as a work of art, he is trying to establish the act of 'erasing' the painted over image as a work of art in itself.

Then we come to the question of why "erase the past”. He said once that "when I look objectively at a work that is the result of an action I have been working on, if I feel something like an unintelligible evil feeling inside me, I feel the urge to try to erase it”.

In other words, although the 'scraping painting' that were made into works of art through a series of prototypes from around 1971 were transformed into 'white painting' with a different surface technique, they were not painted over to express the depth and massiveness of the work, but rather were an act of looking at the work objectively again and trying to erase the unintelligible evil thoughts that had been created to a certain degree by painting over the work. Igarashi also says that he is always aware of his "present self”.

It appears that at the root of the issues that Igarashi has unconsciously carried with him over the past 60-odd years, from the time he decided to develop his work as an art form, he has pursued his work as "the way he is", not as a matter of words, but as an act. For me, 'erasing' and 'expressing' are, without a figure, absorbed into the sense of ‘self-contradictory identity' of Nishida's philosophy.

Wittgenstein sees the 'unspeakable realm' as a mystery, but we are not easily aware that we are covered by it. The 'Māyāworld' referred to in Eastern thought corresponds to this. I don't know if I will ever reach that world, but perhaps it makes sense to spend every day trying to reach it.

One day, I think it was in 2006, Mr Igarashi came to me for comments on his new work. The work is a large oval shaped canvas, painted in black and white, and is full of the gravity of his past work and his originality, but at the same time, I felt it was a new exploration and experimentation on his part. Unable to put it into words, I remember replying something to the effect of "All of

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Painting 22-120S-B|Oil on canvas|193.9 x 193.9 cm|2022

your attempts are trustworthy to me". These works were exhibited in a large-scale solo exhibition held at the Kanaz Forest Museum of Creation in 2020, but the surfaces of the works from 2006 were shaved and further brush strokes were added, creating a completely different impression from the ones in 2006. We often perceive a completed work of art as an unchanging thing, but I suspect that Mr. Igarashi's consistent attitude of creating works of art as they are in his present self is the result of his decision to scrap (erase) his work without hesitation.

Igarashi's attitude (basis of creation), which he acquired over a long period of time, sometimes entering a labyrinth, twisting and turning, will continue to remind me of the difference between "works that are realistically in front of my eyes" and "works that exist as visual aftershadows".

Suddenly I am reminded of the poem by Osamu Kitayama.

"Sadness is unspeakable... too deep. Joy is also something to be chewed with sincerity”.

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Painting 22-150-A|Oil on canvas|162.1 x 227.3 cm|2022

五十嵐 彰雄|略歴

1938 福井県武生市(現:越前市)生まれ

1960 福井大学卒業

個展

2020 五十嵐彰雄 絵画再考 積もる質/削られた層 金津創作の森美術館、金津、福井

2019 五十嵐彰雄 削られた絵画 新作 ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

五十嵐彰雄 削られた絵画 近作 ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

五十嵐彰雄 削られた絵画 70-80年代 ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

2018 Akio IGARASHI, Willem Baars Projects、アムステルダム

2016 五十嵐彰雄 削られた絵画、ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

2015 五十嵐彰雄 物質としての絵画、ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

2014 五十嵐彰雄 線の仕事̶、gallery AXIS 6917、福井

2013 五十嵐彰雄 カラードローイング (未発表) 、gallery AXIS 6917、福井 E & C ギャラリー、福井

2009 GALLERY TERASHITA、東京

2008 新作展 GALLERY TERASHITA、東京

2007 アルミニウムプレートの新作 GALLERY TERASHITA 、東京

2006 ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

2005 one series 4 -igarashi akio- ONE 展 GALLERY TERASHITA、東京

ギャラリー揺、京都

2004 GALLERY TERASHITA 、東京

2003 ギャラリーヤマグチ 、大阪

2002 鯖江市資料館 、福井 ギャラリーG2、福井

2001 海岸通ギャラリーCASO + ギャラリーヤマグチ 、大阪

1998 ギャラリー17、金沢 ギャラリーココ、京都 金沢福井県立美術館、福井

1997 ギャラリーヤマグチ、大阪 福井県立美術館、福井

1996 ベイスギャラリー 、東京 福井県立美術館、福井

1995 ギャラリー360°、東京 福井県立美術館、福井

1994 福井県立美術館、福井

1993 エルフ福井ギャラリー、福井

1992 いづみ画廊、福井 ギャラリー・OH、一宮、愛知

1991 ギャラリーココ、京都

1990 ギャラリーヤマグチ、大阪

77

1989 アールギャラリー、福井 INAX ギャラリー、東京 ギャラリー・OH 、一宮、愛知

1988 ギャラリーココ、京都

1987 ギャラリーヤマグチ、大阪

1986 ギャラリーヤマグチ、大阪

1985 ギャラリーヤマグチ、大阪 ギャラリーM 、小浜、福井

1984 ギャラリーココ、京都 スペースB’、福井 ギャラリーヤマグチ、大阪

アールギャラリー、福井

1983 靭ギャラリー、大阪

1982 靭ギャラリー、大阪

1981 靭ギャラリー、大阪

1980 靭ギャラリー、大阪

1979 サードフロア、京都

1978 サードフロア、京都 村松画廊、東京

1977 画廊紅、京都 村松画廊、東京

1976 信濃橋画廊 、大阪

1974 信濃橋画廊 、大阪

1966 画廊紅、京都

グループ展

2022 空間の自在者たち 五十嵐彰雄|井田彪|栩山孝、ギャラリーマロニエ、京都

2021 日本の作家 山口藝廊、高雄、台湾

2020 Die Fülle der Leere kunstraum-oktogon、ベルン、スイス

2019 レイヤー - 五十嵐彰雄・金井正夫・宇佐美圭司 福井市美術館、福井

2018 ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代 国立国際美術館、大阪

2017 Kulturhaus Palazzo, バーゼル、スイス

五十嵐彰雄|鈴木隆 Willem Baars Project, アムステルダム、オランダ

2016 NEW SPACE with THE ARTISTS and ART、ギャラリーヤマグチ クンストバウ、大阪

2014 LINE 五十嵐彰雄|池田啓子 ギャラリーヤマグチクンストバウ、大阪

2013 大きな絵画 - 五十嵐彰雄・金井正夫・宇佐美圭司 福井県立美術館、福井

2011 TEXTUREー主張する表面 grid、鳥取

絵画/筆触 Igarashi Akio・Miyagawa Tetsuya 福井市美術館、福井

2009 Black & White GALLERY TERASHITA、東京

2008 1st Small Format GALLERY TERASHITA、東京

五十嵐 彰雄/新作展 GALLERY TERASHITA、東京

アルミニウムの仕事 - 五十嵐彰雄、ダニエル・ゲティン、橋本夏夫 GALLERY TERASHITA、

78

Akio Igarashi、Dieter Villinger、Donald Judd 3人展 GALLERY TERASHITA、東京

2007 五十嵐 彰雄/アルミニウムプレートの新作 GALLERY TERASHITA、東京

2001 アート・ドキュメント2001 福井の美術ナウー森から町へ  金津創作の森美術館、金津、福井

1999 現代日本絵画の展望展」東京ステーションギャラリー、東京

1998 在ること」への問いかけ 富山県立近代美術館、富山

1996 日本の現代美術 50人展 21世紀への予感 ナビオ美術館、大阪 第6回富山国際現代美術展 富山県立近代美術館、富山

絵画の構造・一色一形態 文房堂ギャラリー、東京

1995 戦後福井の美術 50人展 エルフ福井ギャラリー、福井

1992 筆あとの誘惑 モネ・栖風から現代まで 京都市美術館、京都

1991 名古屋コンテンポラリーアートフェア 電気文化会館、名古屋

福井の美術 現代VOL.2 福井県立美術館、福井

1989 ドローイング・プリンティング・紙の造形、ケベック、カナダ

1998

第8回現代美術今立紙展特別企画展 今立トレーニングセンター、今立、福井

1985 藤沢典明の世界展ー藤沢典明と世界の作家 福井県立美術館、福井 日本アートフェア'85 そごう百貨店、大阪

1986 シガ・アニュアル'86ー多義的な表面 滋賀県立近代美術館、大津、滋賀 福井アート・トゥデイ'86 福井県立美術館、福井 現代の白と黒 埼玉県立近代美術館、浦和、埼玉

1983 土岡秀太郎と北荘・北美と現代美術館 福井県立美術館、福井

第1回大阪現代アートフェア'83 大阪府現代美術センター、大阪

1982 第7回イギリス国際版画ビエンナーレ、ブラッドフォード、イギリス

1981 神戸招待現代美術展ー平面へのアプローチ 神戸ポートアイランド博物館、神戸

1980 福井現代美術展 福井県立美術館、福井

1977 第12回リュブリャナ国際版画ビエンナーレ リュブリャナ、ユーゴスラビア

ワールドプリントコンペティション'77 サンフランシスコ近代美術館、アメリカ 現代版画コンクール 大阪府民ギャラリー、大阪

1976 アート・ナウ'76 兵庫県立近代美術館、神戸、兵庫

ジャパン・アート・フェスティバル展 東京、シアトル、ロサンゼルス

1966 北美グループ展(〜'73)、福井

1964 第8回シエル美術賞展 白木屋、東京 藤井大丸、京都

79

文献

2020 加藤義夫 2020年11月19日(火)の朝日新聞大阪本社版夕刊 「美術評」五十嵐彰雄展「絵画再考 積もる質 / 削られる層」

-「宇宙と結びつく視覚芸術」

加藤義夫 五十嵐彰雄の世界ー幾何学的抽象絵画からミニマリズムを超えてあるもの 金津創作の森美術館 個展カタログ

長縄 宣 「絵画」が成立する教会の探究者 金津創作の森美術館 個展カタログ

2004 嶋崎吉信 「筆触の力:五十嵐彰雄の絵画について」

2002 芹川貞夫 「五十嵐彰雄ー抑制と豊饒」ギャラリーG2

井上裕子 「光の扉」鯖江市資料館リーフレット

1998 篠 雅廣 「それはまだ解決していない」 ギャラリーココ 個展パンフレット

1997 中原祐介 「動勢をはらんだ白い絵画」アートが創る宇宙 雑誌ボイス

1996 中原祐介 「白い作品」ベイスギャラリー 個展カタログ

中原祐介 「極小化された表現主義」第6回富山国際現代美術展 カタログ

谷 新  還元からの成熟/還元との距離 絵画の構造 文房堂ギャラリー 個展カタログ

1992 本江邦夫 「白の周縁」いづみ画廊個展カタログ  Akio Igarashiによる「AKIO IGARASHI」

1991 芹川貞夫 「福井の美術・現代Vol.2によせて」美術館だより

中原佑介 「Igarashi Akio,Touching Light」80年代美術100のかたち

中原佑介 「Igarashi Akio,Touching Light」80年代美術100のかたち

篠 雅廣 「五十嵐彰雄の絵画」福井の美術現代VOL.2展カタログ

1990 五十嵐彰雄 「作品におけるホワイトの意味性」ACRYLART VOL.14

中島徳博 「構築と解体」ギャラリーヤマグチ 個展カタログ

1989 中原祐介 「五十嵐彰雄の白い絵画」INAXアートニュースNO.83

茂登山清文「堆積し/切断される“とき”」ギャラリー・OH個展カタログ 中谷至宏「白」へと現代芸術批評誌 エーシー

1986 尾野正晴「多義的な表面」シガ・アニュマル'86カタログ

1985 村田慶之輔 ギャラリーヤマグチ個展カタログ  室伏哲郎 版画事典 東京書籍kk

1984 乾由明「イリュージョンとしての平面」ギャラリーココ個展カタログ 神原正明「壁の思考」ギャラリーM通信

橿尾正次「跡の集積」spaceB' 個展カタログ

1977 乾由明「肉体の律動と透明化・五十嵐彰雄」版画芸術NO.18

パブリックコレクション

滋賀県立近代美術館

福井県立美術館

高松市美術館

富山県立近代美術館

武生市役所(現越前市)

大分県立美術館

80

Biography

1938 Born in Echizen city, Fukui

1960 Graduated from Fukui University

One-man exhibition

2020 “Art Document 2020 – Akio IGARASHI” Kanaz Forest of Creation Art Museum, Fukui

2019 Erasing paintings Part 3, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

Erasing paintings Part 2, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

Erasing paintings Part 1, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

2016 paintings from 70s – early 80s, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

2015 paintings as substance 1969-72, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

2014 gallery Axsis 6917, Fukui

2013 E & C Gallery, Fukui

2009 GALLERY TERASHITA, Tokyo

2008 GALLERY TERASHITA, Tokyo

2007 GALLERY TERASHITA, Tokyo

2006 Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

2007 GALLERY TERASHITA, Tokyo gallery yuragi, Kyoto

2004 GALLERY TERASHITA, Tokyo

2003 Gallery Yamaguchi, Osaka

2002 Sabae City Archives Center, Fukui  Gallery G2, Fukui

2001 CASO + Gallery Yamaguchi, Osaka

1998 Gallery 17, Kanazawa Gallery Coco, Kyoto Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1997 Gallery Yamaguchi, Osakai

1996 Base Gallery, Tokyo Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1995 Gallery 360°, Tokyo Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1994 Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1993 ELF Fukui Gallery, Fukuii

1992 Izumi Gallery, Fukui Gallery・OH, Ichinomiya

1988 Gallery Coco, Kyoto

1987 Gallery Yamaguchi, Osaka

1986 Gallery Yamaguchi, Osaka

1985 Gallery Yamaguchi, Osaka Gallery M, Obama

1984 Gallery Coco, Kyoto Space B’, Fukui Gallery Yamaguchi, Osaka R gallery, Fukui

81

1983 Utsubo Gallery, Osaka

1982 Utsubo Gallery, Osaka

1981 Utsubo Gallery, Osaka

1980 Utsubo Gallery, Osaka

1979 3rd Floor Gallery, Kyoto

1978 3rd Floor Gallery, Kyoto Muramatsu Gallery, Tokyo

1977 Muramatsu Gallery, Toky Gallery Beni, Kyoto Muramatsu Gallery, Tokyo

1976 Shinanobashi Gallery, Osaka

1974 Shinanobashi Gallery, Osaka

1966 Gallery Beni, Kyoto

Group Exhibition

2021

Japanese artists 2021 Gallery Yamaguchi kunst-bau, Kaohsiung

2020 Die Fülle der Leere, kunstraum-oktogon, Bern, Switzerland

Japanese artists 2020 Gallery Yamaguchi kunst-bau, Kaohsiung

2019 "Layer" Akio IGARASHI, Masao KANAI, Tetsuya MIYAGAWA, Fukui City Art Museum, Fukui

Japanese artists 2019 Gallery Yamaguchi kunst-bau, Kaohsiung

2018 New Wave Contemporary Art 80s, The National Museum of Art, Osaka

2017 Kulturhaus Palazzo, Basel

Willem Baars Project, Amsterdam (Akio IGARASHI|Takashi SUZUKI)

NEW SPACE with THE ARTISTS and ART, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Kaohsiung

2016 NEW SPACE with THE ARTISTS and ART, Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka

2014 LINE - Igarashi Akio & Keiko Ikeda, Gallery Yamaguchi, Osaka

Fukui’s Modern art and Hokubi, Parea Wakasa Gallery, Wakasa

2013 Large Scale Paintingss – Akio Igarashi, Kanei Masao, Keiji Usami, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

2011 TEXTURE – Surface adovocating, Grid, Tottori

Drawing/Brushstrokes Akio Igarashi and Tetsuya Miyagawa, Fukui City Art Museum, Fukui

2009 Black & White, GALLERY TERASHITA, Tokyo

2008 1st Small Format, GALLERY TERASHITA, Tokyo

Akio Igarashi New works, GALLERY TERASHITA, Tokyo

Works of aluminum, Akio Igaarashi, Daniel Gotten, Natsuo Hashimoto, GALLERY TERASHITA, Tokyo

Akio Igarashi、Dieter Villinger、Donald Judd, GALLERY TERASHITA, Tokyo

2007 Akio Igarashi - New works of aluminum Plate, GALLERY TERASHITA, Tokyo

2001 Art document 2001 Fukui’s Art Now – from forest to city, Kanatsu craft center, Fukui

82

Art Core, Fukui

1999 Outlook of Japanese Modern Art’, Tokyo station gallery, Tokyo

1998 Query against “EXIST”, The Museum of Modern Art, Toyama, Toyama

1996 Japanese Modern Art 50 persons – Presentiment for 21 century, Navio Museum, Osaka

6th Toyama international Modern Art, The Museum of Modern Art, Toyama

Structure of pictures – one color one form, Bunpodo Gallery, Tokyo

1995 Fukui’s Art after the second war, ELF Fukui Gallery

1992 Temptation of Brushstroke – from Monet and Seifu to today, Kyoto Municipal Museum of Art, Kyoto

1991 Contemporary Art Fair Nagoya, Electrical Cultural hall, Nagoya

ASPECT OF FUKUI CONTEMPORARY ART. Vol.2, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1989 Drawing/ Printing/ Molding of paper, Quebec Canada

1988 8th Modern art Imadate Paper、Imadate Center, Fikui

1986 Shiga Annual ’86 – ambiguous surface, The Museum of Modern Art, Shiga

Fukui Art Today ’86, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

Modern White and Black, The Museum of Modern Art ,Saitama, Saitama

1985 World of Noriaki Fujisawa - Noriaki Fujisawa and international artists, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

Japanese art fair ’85, SOGO Department Store, Osaka

1983 Shutaro Tsuchioka ,Hokuso-Hokubi and Modern Art Museum, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1st Osaka Modern Art Fair 83’, Osaka Contemporary Art Center, Osaka

1982 7th British International Print Biennale, Bradford Great Britain

1981 Invitation Modern Art Exhibition Kobe – Approach to Plane, Kobe Port Island Museum, Kobe

1980 Fukui Modern Art Exhibition, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1977 12th Ljubljana International Print Biennale, Ljubljana Yugoslavia

World Print Competition ’77 , San Francisco Museum of Modern Art San Francisco

Modern Print Competition Osaka, Osak Prefectural Gallery, Osaka

1976 Art – Now '76, Hyougo Modern Art Museum, Kobe

Japan Art Festival Exhibition, Tokyo ,Seattle and Los Angeles

1966 Hokubi Group Exhibition' (-'73), Fukui

1964 8th Shell Art Award Exhibition, Shirakiya, Tokyo / Fujii Daimaru, Kyoto

Public collection

The Museum of Modern Art, Shiga

Fukui Fine Art Museum

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1981 Invitation Modern Art Exhibition Kobe – Approach to Plane, Kobe Port Island Museum, Kobe

1980 Fukui Modern Art Exhibition, Fukui Fine Arts Museum, Fukui

1977 12th Ljubljana International Print Biennale, Ljubljana Yugoslavia

World Print Competition ’77 , San Francisco Museum of Modern Art San Francisco

Modern Print Competition Osaka, Osak Prefectural Gallery, Osaka

1976 Art – Now '76, Hyougo Modern Art Museum, Kobe

Japan Art Festival Exhibition, Tokyo ,Seattle and Los Angeles

1966 Hokubi Group Exhibition' (-'73), Fukui

1964 8th Shell Art Award Exhibition, Shirakiya, Tokyo / Fujii Daimaru, Kyoto

Public collection

The Museum of Modern Art, Shiga

Fukui Fine Art Museum

Takamatsu Art Museum

Toyama Prefectural Museum of Art and Design

Takefu City Hall (currently Echizen City)

Oita Prefectural Art Museum

84

編集・デザイン:山口 孝

英文翻訳:山口 孝

印刷:岡村印刷工業株式会社

:山口 孝

写真:Gert Jan van Rooij, Amsterdam (p.23) 五十嵐彰雄(p.70, p.72, p.74) 山口 孝(その他)

発行:五十嵐彰雄|ギャラリーヤマグチ20023年3月

Edited and Designed by Takashi Yamaguchi

English translation by Takashi Yamaguchi

Printed by Okamura Printed Industries Co., Ltd.

Photo copyright:Gert Jan van Rooij, Amsterdam (p.23) Akio Igarashi (p.70, p.72, p.74) Takashi Yamaguchi (Others)

Published by Akio Igarashi|Gallery Yamaguchi 2023 March

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