沖 縄・辺 野 古
不 屈 の ストーリー Stories from Okinawa
絶滅が危惧されるジュゴンやウミガメが生息する沖縄・辺野古の海。 アオサンゴ群集もある自然豊かな大浦湾が、米軍普天間飛行場の移設にともなう新基地建設 のために、今にも埋め立てられようとしています。
「新基地建設にNO」を訴える沖縄の人々の活動は18年も続いていますが、いま、大きな局面を 迎えています。おじい、おばあ、若者、県知事まで、沖縄の多くの人が新基地計画に反対している にもかかわらず、日米両政府は工事を強行的に進めようとしているのです。
それに屈することなく、米軍キャンプ・シュワブのゲート前では毎朝6時過ぎから工事車両を止 めようと体をはっている人たちがいます。そして海上でも、船やカヌーに乗った人々が工事の中 止を直接訴え続けています。 グリーンピースは、ジュゴンを守るため、そして次世代のために海 を守ることを決意した勇気ある9人のストーリーを取材・撮影しました(撮影:イアン・テー)。
Stories from Okinawa | Greenpeace
嘉 陽 宗 義 さん
Stor y 嘉 陽 宗 義さん は 9 3 歳 。新 基 地 建 設 反 対 運 動 の 中 心
ないなくなってしまったとため息をつく。昔は、日が 暮
地、辺野古で妻と暮らしている。第二次世界大戦では、
れたら主 婦たちは包 丁をもって海に行き、エビやヒラ
日本 海 軍 の 兵 士として仏 領インドシナ( 現 在 のベトナ
メをとり、サザ エもたくさんとれたそうだ 。キャンプ・シ
ム)に出 征し、爆 弾 が 左 脚の付 け根を貫 通して大きな
ュワブ ができる前 はどん な に豊 か な 海 だった か -
けがを負 い、現 在もその後 遺 症に苦しんでいる。誰に
昔を振り返る。
もけがをしてほしくな い、だ から戦 争 は い やだと繰り 返す。辺野古で反対活動をつづける人々からは「嘉陽 のおじい」 として慕われる。
「90歳を過ぎるといつ死んでもいいといわれるかもし れないが、辺野古の問題がなくなるまでは死んでも死 に切れない。沖縄から基地がなくなる、それが理想」 と
嘉陽さんは辺野古の出身で、環境の変化、海の生き物
語った。
の変化を目の当たりにしてきた。 「辺野古の海はよく知 っている」と目を細める嘉 陽さん 。エビ、毛ガ ニ、みん
Stories from Okinawa | Greenpeace
西 平 伸 さん
Stor y 西平さんは名護市大浦湾を拠点とするダイビングチー
西平さんのダイビングチーム「すなっくスナフキン」は
ム「すなっくスナフキン」の代表で、結成から10年以上
2003年頃から活動している。大浦湾の現状を記録し、
になる。キャンプ・シュワブの対岸で生まれ育った。自
写真展やイベントなどを通して地域社会に発信してい
宅で、大浦湾で集めた貝や生き物の標本、撮影した写
る。2015年には写真集『大浦湾の生きものたち』を発
真を展示し、大浦湾の自然の素晴らしさを伝えている。
行した。
西平さんも以前は、辺野古のメンバーと一緒に船を出 して海上で新基地建設反対の直接行動をしていた。反
西平さんにとってキャンプ・シュワブは生まれる前から
対運動を続ける中で、船を2回壊された。すべて自己負
あり、そのままでも特に悲観することはないと言う。一
担で修理しなければいけないため、かなりの出費を要
つには、皮肉にも米軍基地があることで海岸を開発で
した。そのとき西平さんは、反対運動をする人はたくさ
きずに自然が守られてきたという背景がある。だからと
んいるが、海が壊されることによって失ってしまう大浦
いって、米軍基地を歓迎しているわけではない。新基
湾の自然の素晴らしさを伝えるのは自分しかできない
地建設に反対しているかという問いかけに西平さんは
と考えた。
「もちろんです」 と答えた。未来への希望は「この自然を いつまでもこのままで残したい」 と語った。
Stories from Okinawa | Greenpeace
鈴 木 雅 子 さん
Stor y 鈴木さんはジュゴン保護のための調査活動を続ける市
言われた。納得できなかった鈴木さんは、1999年に研
民グループ「北限のジュゴン調査チーム・ザン」の代表
究者と学生、市民のネットワーク「北限のジュゴンを見
だ 。生まれは神 奈 川・横 浜で、沖 縄 出 身の夫と家 族で
守る会」を立ち上げた。2000年、野生のジュゴンに関
名護市に暮らす。
する初めてのシンポジウムを京都、沖縄、東京で開催 した。地 道に調 査 活 動を続 けていた沖 縄の保 護 団 体
米 軍 普 天 間 飛 行場の移 設 先として注目されていた辺
と、世界の国際的なジュゴンの研究者を結びつけた。
野古・大浦湾でジュゴンが公に確認されたのは1997 年頃だ。当時、日本のジュゴンは絶滅したと思われてい
チーム名の「ザン」 とは、沖縄の言葉でジュゴンのこと。
たため、日本中に衝撃が走った。鈴木さんはすぐにジュ
かつては琉球諸島沿岸のどこにでも見られ、生活に密
ゴンが保護されると思っていたが、環境省は保護をし
着した存在だったが、生息環境の悪化や捕獲により激
なかった。
減した。鈴 木さんは、ジュゴンは豊 かな沖 縄の自然 環 境の象徴だと考える。ジュゴンの生きられる環境を保
「なぜジュゴンを保護しないのか?」 と聞く鈴木さんに
全していけば、遺伝子的に近いアジアのジュゴンと沖
対し、 「ジュゴンには基地問題がついてくるから、下手
縄のジュゴンが 出 会う可 能 性もある。 「野 生の力は偉
に手を出すとやけどする。ふつうのおばさんが考えるよ
大。信じるべき」̶̶鈴木さんは未来への希望を語り、
うに、簡 単じゃないよ」̶ ̶ 環 境 省 や 大 手 N G Oにそう
ジュゴンの
場が広がる名護市嘉陽の海を見つめた。
Stories from Okinawa | Greenpeace
安 次 富 浩 さん
Stor y ヘリ基地反対協議会共同代表の安次富浩さんは、元は
ナム戦争の最中で日本への返還運動が高まっていた。
沖縄県の職員で、福祉医療の仕事に携わっていた。9
意外だったのは、安次富さんは反米主義者ではないと
年前に退職し、辺野古にアメリカの新基地を作らせな
いうことだ。ジャズもアメリカのポップミュージックも好
いための市民運動に18年ものあいだ関わっている。
きだと笑顔で話す。 しかし、アメリカ政府の沖縄への仕 打ちに反感を持っているのである。 「普天間は沖縄の
1 9 9 7 年に普 天 間 飛 行 場の返 還に伴う新 基 地 建 設の
人々が元々住んでいたところを、米軍が接収して村を
是非を問う名護市の住民投票が行われ、安次富さんは
破壊し、整地して飛行場にした。返還の条件に新基地
市民運動を始めた。座り込みをつづける「辺野古テン
を要求するのはおかしい」 と語気を強めた。
ト村」、カヌーチームの「辺野古ブルー」、海の環境調査 や監視活動を行う 「ダイビングチーム・レインボー」も
安 次 富さんの心の師 匠は、阿 波 根 昌 鴻さんだ 。 「沖 縄
同協議会に属する。
のガンジー」 と呼ばれ 、伊江島の土地が米軍に接収さ れたとき、住民の反対運動の先頭に立ち、非暴力行動
安次富さんは1946年に東京で生まれた。父が沖縄の出
を貫いた平和活動家だ。安次富さんは、普天間飛行場
身で、16歳の時に沖縄に引っ越してきた。高校生だった
が沖縄から除去され、辺野古に新基地を作らせないこ
安次富さんが見た沖縄はまだ米軍の占領下にあり、ベト
とを強く望んでいる。
Stories from Okinawa | Greenpeace
東 恩 納 琢 磨 さん
Stor y 東恩納さんは、エコツーリズムで地域おこしをすすめ
ムが流行り出した時、都市部の家のベランダにたくさ
ている名護市議会議員だ。
んのカヌーが置かれていることに気付いた。
子供の頃は、近所に大きな道路はなく舗装もされてい
「カヌーを使って海上で非暴力の抗議活動ができる」 と
ず、家の前の林をぬけて海にすぐ泳ぎに行ったという。
思いつき、 「カヌーのオーナー制度」を提案した。必要
沖縄は1972年に本土復帰し、75年の海洋博から開発
なときは使えるからカヌーを預からせてほしい、そして
ラッシュを迎えた。東恩納さんは、当時中学生だった。
カヌーを環境学習と阻止行動に使わせてほしいと説得 してまわり、それにこたえる人たちが集まった。2004年
建設会社に勤めるようになり、開発によって生活が便
から2005年にかけての辺野古でのボーリング調査を
利になることは地域のためによいことだと思っていた。
止めるのに、カヌーも大きな力を発揮した。今では政府
しかし目の前のジュゴンの棲む海に米軍基地が建設さ
も 学習 し、大浦湾をオレンジ色のフロートで囲い、抗
れるとわかったとき、 「基地を作ることは地域にとって
議船やカヌーが中に入れないようにしている。
迷惑なこと。これは公共事業ではない」 と思い、勤めて いた会社を辞めて「ジュゴンの里作り」を始めた。
東恩納さんは、世界じゅうの人が辺野古で起こってい ることに注目して日本とアメリカを批判すれば、新基地
東 恩 納さんは名 護 市 全 体の反 対 が 必 要だと思 い、名
建設を止められると考える。 「だから海外に向けて発信
護の中心で手作りのビラを配り、人々に基地反対運動
するしかない」 と強調した。
に参加してくれるよう呼びかけた。そしてエコツーリズ
Stories from Okinawa | Greenpeace
渡 具 知 武 清 さん
Stor y 渡具知武清さんの職業は測量士だ。18年前に最初の
がなくても仕事が持ちこたえられると示すことが必要
子どもを授かった時、突然ふりかかってきた新基地計
だった。実 際、仕 事は以 前に比 べて増えた。新 基 地 建
画をめぐって子どもの未来を考えるようになった。それ
設の決定を長い間待っていたために、破綻してしまっ
以 来 反 対 運 動にたずさわり、子どもたちも安 心して参
た業者もあったと渡具知さんは言う。
加できる『ピースキャンドル』を1 2 年 前に家 族で始め た。 『ピースキャンドル』は、静かに意思表示ができるプ
『ピースキャンドル』を始めた当初、建設業の同僚から
ロテストだ。キャンプ・シュワブの前で毎週土曜の夕方
は、気が狂ったとか、政府から仕事をもらうチャンスを
にろうそくをともし、大浦湾の保護を訴える。反対行動
台無しにしたら孤立して生きていけなくなるなどと言
はときどき攻撃的になることもあるが、渡具知さんは子
われた。最初の6カ月は仕事の契約が取れずに、奥さ
どもたちも安心して参加できる方法がないかと考えて
んが家族を養ったことを渡具知さんは語ってくれた。
いた。 そして最近、キャンプ・シュワブ敷地内の測量を依頼さ 道路の測量の仕事のかたわら、渡具知さん自身も辺野
れた。建設費の20%を報酬として提示されたが、渡具
古新基地建設に反対する意思表示をするべきだと思
知さんはその依頼をもちろん断った。
っていた。また他 業 者に対しても、新 基 地 関 連の契 約
Stories from Okinawa | Greenpeace
仲 宗 根 和 成 さん
Stor y 仲宗根さんは、辺野古で抗議船の船長をしている。沖
海とサンゴを傷つけたことが許せなかった。
縄県本部町の出身で、シーカヤックやトレッキングなど のエコツアーガイドを7 年 やっていた。主に修 学 旅 行
所 属するヘリ基 地 反 対 協 議 会は抗 議 船とカヌーを所
生を受け入れていて、大浦湾をパッと見て「きれい!」
有し、海上での反対活動を実施している。抗議船の船
と純粋に歓声をあげる子どもたちを見るのが好きだっ
長として週 に6日大 浦 湾 の 海 上で 監 視 行 動をしてい
たと微笑む。新基地を建設するということは、そんな美
る。そしてほぼ 毎 朝、海に出る前にキャンプ・シュワブ
しい海を埋め立てるということなのだ。
ゲートの前の「早朝行動」にも参加する。
仲宗根さんがエコツアーを始めたときは、大浦湾に設
仲宗根さんは、沖縄にいる米兵に対して憎しみは感じ
置された「臨時制限区域」を囲うフロートはなかった。
ないと言う。生 活のために沖 縄に来ていることを知っ
最初は環境の変化を感じなかったが、オレンジ色のフ
ているからだ 。しかし、新 基 地 建 設を進める日米 両 政
ロートは潮の流れや砂の堆積を変えていった。さらに、
府にはとても怒っていて、国同士がもっと話し合い、沖
巨大なコンクリートブロックが大浦湾に100個以上も
縄の犠牲を続けてはいけないと訴える。そして基地を
沈められるのを見たときは、本当にショックだったと顔
返還してもらい、観光産業を中心とした沖縄にしたい
を曇らせた。コンクリートブロックはフロートを固定す
と希望を語った。
るためのアンカーで、埋め立て自体には関係なく、命の
Stories from Okinawa | Greenpeace
浦 島 悦 子 さん
Stor y 浦 島さんは、辺 野 古 の 活 動を記 録し続 ける女 性 作 家
市に移り住み、反対運動に関わるようになった。
で、原発のある鹿児島県
摩川内市の出身だ。取材の
浦島さんは、基地と補助金、開発の問題についても詳
とき、 「平和憲法」として知られる日本国憲法第9条が
しい。沖縄が1972年に日本に復帰したとき、米軍基地
書かれたTシャツを着ていた。
のない沖縄を目指していたはずなのに、県民の意に反 して本 土 からもっと基 地 が 移ってきた。日本 政 府 から
沖縄に来る前は奄美大島に10年住み、日本の石油会
地元への補助金は沖縄県民の感情をなだめるためで、
社の石油備蓄基地を作る計画への反対運動で元夫と
その補助金を使って必要以上の開発が行われてきた
知り合った。沖縄に引っ越してから25年。基地問題、辺
ことがだんだん分かってきた。
野 古・大 浦 湾の自然、自然と人との関 わりなどを地 元 の人から聞き、1995年以来5冊の本を出版している。
基地に使用されている場所は肥沃な土地で、元々は集 落があったり農業をしていた。返還されれば農業など
沖縄に来た当初、沖縄市に住んでいた浦島さんは自然
一 次 産 業も行 われ 、海 が 破 壊されることもない。基 地
が残る北部のやんばるで暮らしたいと思うようになっ
があるために沖縄は発展せず、近隣国とも緊張関係が
ていた。ちょうどその 頃、米 軍 による少 女 暴 行 事 件 が
生まれる。沖縄から全ての基地をなくして平和の島に
1995年に起こり、米軍基地の整理縮小を求める運動
するのがいちばんよく、開発をするのであれば自然を
が盛り上がった。96年に日米政府間で普天間飛行場
破壊せず、人と自然が関わり合って作ってきた沖縄の
の返還が合意されたが、その条件として新基地を辺野
文化を引き継いで、この土地にふさわしいやり方をす
古に作ることが持ち上がった。その後浦島さんは名護
るべきだと浦島さんは語った。
Stories from Okinawa | Greenpeace
相 馬 ゆりさん
Stor y 相馬さんは、辺野古の海上で抗議船の船長を務める。
るために、船舶の免許を取らないかと言われた。免許
短大を卒業してからケアワーカー(高齢者の介護福祉
を取ってからますます辺野古の問題に関わりたいと思
士 )として働き、ダイビング が 趣 味で 沖 縄 に引っ越し
うようになり、1 年 前 から同 協 議 会 の 専 従 職 員 になっ
た。沖縄で高齢者の介護をしていたときに、多くの老人
た。今は介護の仕事は休業し、船長と大浦湾海上の監
のからだにたくさんの傷あとがあることに気がついた。
視活動をしている。
たずねたところ、多くの人が沖縄戦で小さい時にけが を負ったことがわかった。その体験が、彼女の今の辺
相馬さんは、辺野古のたたかいを描いたドキュメンタリ
野 古での活 動につながっていると涙を浮 か べながら
ー映画「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」にも出演
語った。
した。映画は2015年の公開以来、日本全国で40,000 人以上の観客が見ている。辺野古の問題の解決策を
那覇から辺野古に通うようになったとき、ヘリ基地反対
たずねたところ、 「軍隊をなくすこと」 ときっぱりと答え
協議会の抗議船チーム「辺野古ドリーム」の船長にな
た。
Stories from Okinawa | Greenpeace
「環境保護活動は多くの場合、外側から、しかもメディアでの短いインタビューやコメントなど の弱められた形でしか 報 道されません。私 が 沖 縄・辺 野 古を撮 影した目的は、環 境 保 護 活 動 を続 ける人たちの背 景、つまりそれぞ れの人 がもつストーリーや、環 境 保 護 活 動を始めた動 機を多くの人に紹 介することです。これは、辺 野 古を守るための活 動を支える人たちの『スト ーリー』です」̶ イアン・テー
Ian Teh: 英国人写真家。マレーシアに生まれ 、英国とマレーシアを拠点に社会問題、環境問 題や政治をテーマに活動する。 Photos: © Ian Teh / Greenpeace
辺野古・大浦湾を海洋保護区に 命の海のため、平和のために闘い続けている 沖縄のみなさんと翁長知事にメッセージを送りましょう。 右のボタンをクリックするとウェブページに移動します。
www.greenpeace.org/japan
声援を届ける >