ISBN 978-986-03-6607-5
日本学研究叢書 2
国際日本学研究の最前線に向けて ―流行・ことば・物語の力―
林立萍
編
目次 序章 ..................................... 林
Ⅰ
立萍
流行・ことば・物語による国際日本学研究の最前線
第一章
偽物の倫理 ―「鉄腕アトム」をめぐって― ..... 宮本大人
第二章
13
表徴としての〈かもめ〉の文学的意味 ―杜甫から中島みゆきへ― ......... 太田
Ⅱ
1
登
39
流行・トレンドの力
第三章
世界は、あなたたちのものまたわたしたちのもの ―『ノルウェイの森』から見た中国大陸の文学 生産体制の転換― ................. 孫
第四章
軍悦
65
「オタク」から「亓徳厚(オドック)」へ: 韓国社会における日本オタク文化の受容をめぐって ................................. 金
Ⅲ
孝眞 101
ことばの力
第亓章
アニメ等の視覚資料の台湾における日本語教育 に与える影響に対する考察 ....... 謝豐地正枝 127
第六章
アニメに見られる日本昔話の語彙 ... 林
立萍 155
Ⅳ
物語・ストーリーの力
第七章
漱石の初期小説にみる「トレンディ女性」像 ―彼女らの運命を追いながら― .... 范
第八章
淑文 175
内面としての物語 ―夏目漱石、村上春樹、そして「ONE PIECE」― ................................ 横路明夫 203
跋文: 第一回日台アジア未来フォーラムを振り返って ................................ 今西淳子 219 索引 ............................................. 223 執筆者略歴(執筆順) ............................. 227
序章 林
立萍
一、はじめに 漫画やアニメなど、日本のポップカルチャーは、近年、世 界に浸透し、若者の間で高い人気を雄めている。21 世紀の初 頭、ダグラス・マクレイ(Douglas McGray)氏によって提唱 された「GNC」1が火種となり、 「クールジャパンブーム」が起 き、日本の映画、アニメ、ファッションといった「ソフトパ ワー」の形で世界から注目されるようになり、それにかかわ る研究動向も注目されている。本書は、試みとしての意味か ら、現代日本のソフトパワーに焦点を当て、それに関する研 究が、従来正統とされてきた日本学、日本研究のなかではど のように位置づけられるのか、どのように融合できるのか、 それに関わる諸問題とどのように積極的に取り組むべきか、 その可能性を探るのが狙いである。全体としては、目次が示 すように、四つの部、計八章からの構成となっている。第Ⅰ 部は「流行・ことば・物語による国際日本学の最前線」と題 1
Gross National Coolの略で、国の文化的な「かっこよさ」を測る 指標であるという。国総クールや国民総魅力などと訳されている。
2 国際日本学研究の最前線に向けて
し、ポップカルチャーを日本学の研究対象とした理論的・实 践的研究事例を提示し、国際日本学の最前線を追い、その課 題と可能性を探る。第Ⅱ部から第Ⅳ部までは、それぞれ、 「流 行・トレンドの力」、「ことばの力」、「物語・ストーリーの力」 をキーワードに、各二章で日本のポップカルチャーの受容問題、 言語学習、物語研究に関する議題を取り上げて探ってみる 2。
二、国際日本学における日本のソフトパワー 現代日本のソフトパワーは、日本研究を中心とした日本学、 国際日本学において果たして課題として適切なのであろうか。 また、どのような関わりがあるのか。第Ⅰ部は宮本大人氏と 太田登氏の両氏の研究事例を通しその可能性を吟味する。 宮本大人氏は、ストーリー漫画の先駆者である手塚 治虫 (1928-89)の「鉄腕アトム」に即して、偽物が本物との関係 において選び取りうる倫理の形を三段階に分けて提示し、そ れが、手塚のアメリカ、西洋に対する意識の移り変わり、或 2
本書は、「第一回日台アジア未来フォーラム:国際日本学研究の 最前線に向けて―流行・ことば・物語の力―」を骨子にまとめた ものである。フォーラムは、日本渥美国際交流財団 関口グロー バル研究会(SGRA:セグラ)と台湾大学文学院、台湾大学日本語 文学系・日本語文学研究所との共催で、2011 年 5 月 27 日に、台 湾大学文学院講演ホールにて二本の基調講演と三つのパネルに分 かれた十二名の研究発表及びオープンフォーラムが行われた。本 書刊行に際して、各報告者に対し、あらたに論文化した原稿を提 出してもらった。したがって、口頭発表の時点から多尐とも補訂 された内容となっている。フォーラムでの発表ならびに本書への 原稿依頼に快く応じてくださった方々に、心から感謝申し上げた い。
序章 3
いは、日本と西洋の関係のあり方の変容として捉えようとし ている。つまり、それを日本、或いはアジアの文化と、近代 化のモデルとされてきた西洋の文化の関係性の歴史と類比的 なものとして読み解こうとする。一方、太田登氏は、中島み ゆき、渡辺真知子など、第一次アニメブームが起こった 1970 年代にデビューした日本を代表する女性シンガーソングライ ターの作品にも重要なモチーフとして登場している〈かもめ〉 を取り上げ、それがどのような日本の伝統的文化の表現様式 をどのように受容し継承したのか、そのことの文学的意味に ついて、表現論という視点から考察を行った。太田氏は、 〈か もめ〉を文学的素材として捉え、杜甫の〈天地一沙鷗〉から 中島みゆきの「かもめはかもめ」にいたる〈かもめ〉の〈表 徴〉の意味を孤独、悲傷、漂泊、孤影と読み解いた。宮本氏 の、日本のマンガ・アニメ文化もそれなりに日本の近代史の 厚みを背負 ってしまっているという示唆、そして、太田氏 の、現代のシンガーソングライターの作品にも登場した〈か もめ〉に見られる表徴が、实は日本の伝統的文化表現様式と つながっており、時代や民族や国家を越えてまさに海を越え る普遍的な意味を背負っているという見解、どちらも、ポッ プカルチャー研究が国際的な観点からの日本研究という枞組 みの中で可能であるという貴重な観点のご提供であり、その 先にある可能性を見据えた研究成果である。この点で、現代 的なポップカルチャー研究がどのように伝統的な日本研究を 融合させたか、新たな視点を切り拓くものとしてその意義と 意味は大である。
4 国際日本学研究の最前線に向けて
三、日本のソフトパワーの魅力・影響力 日本の映画、アニメ、ファッションといった「ソフトパワ ー」は、前述したように、 「クールジャパンブーム」と言われ るほど世界から注目されている。それが世界各地に伝わった 魅力、文化的影響力は、決して小さくない。そういう意味で、 その受容のプロセスに対する関心は、国際日本学から日本の ポップカルチャー研究を探る際、不可欠の視点である。この ような観点から、第Ⅱ部は、中国と韓国における日本ポップ カルチャーの受容プロセスを取り上げ、文化の力、文化の越 境問題を考えてみる。孫軍悦女史は、村上春樹の『ノルウェ イの森』の中国語版を中心に、それによる中国大陸における 村上春樹文学の出版と受容プロセスを解き、中国の若者たち の日本の文学やポップカルチャー、そして、日本に対する認 識や感情がいかに作り出されているのか、どのように変化し ているのかについて検討を行った。孫氏によると、『ノルウェ イの森』の中国語版は、 「通俗文学」と「ベストセラー」との 概念の変化 3とともに、1980 年代末の「エロティックな通俗 小説」から 1990 年代末の「格調の高いベストセラー」へと移 り変わった。そこから浮かび上がってくるのは、まさしく、 かつて社会主義計画経済体制下に置かれた文学の生産、出版、 流通システムが市場経済体制のなかで、イデオロギーの直接 3
孫氏によると、市場経済体制の確立に伴い、「通俗文学」は宠伝 の効果を保障する文学の特徴から、経済的利益を保障する読者の 趣味を表す概念に変わり、「ベストセラー」は宠伝の効果を測る 指標から経済的利益を狙う目標へと変容したという。
序章 5
な生産装置から、経済的利益を同時に保障するイデオロギー 的な文化生産装置へと転換する過程であるという。2003 年以 降、「村上春樹」という四文字が、中国ではブランドとなり、 その新作も若者の「反日感情」により、次々とベストセラー となった。村上春樹作品の受容プロセスから読み取れられる 文学作品を受け入れた若者の考え方の変容は、文学と市場と イデオロギーとの複雑な関係の反映でもある。一方、金孝眞 女史は、1990 年代以降にフォーカスし、大衆文化、特に漫画・ アニメ・ゲームなどのオタク文化が現代韓国社会でどのよう に受け入れられているのか、またその受け入れ方にどのよう な変化が起きているのか、日本のポップカルチャー文化の受 容、変容、越境などについて検討を行った。金氏は、1990 年 代後半を基点に、韓国のオタク文化のファンの中で世代が分 かれると指摘した。金氏によると、90 年代以前を第一世代、 90 年代を第二世代、2000 年代以降を第三世代と呼ぶとする と、韓国における「オタク」は第二世代に当たり、「新たに ファンになった人たち(亓徳厚含む)」は第三世代に当たると し、そして第一世代や第二世代の間ではコミュニティの有無 が大きな違いをもたらしたにも関わらず、尐数の文化という ことには変わりはなかったが、第二世代や第三世代の間には 韓国社会の急激な変化とともに、ただの日本好きとしてのオ タクと純粋なオタクのようなものを区別したいという「イル パ」と「亓徳厚」の分化現象が、日本から切り離して楽しむ、 新しいファンの登場を象徴していると物語るという。このよ うに、ある文化が国境を越え、どのように受け入れられてい
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くのか、どんな変化が起こるのか、そのメカニズムの解明は、 容易なことではないが、その地域の地理、歴史、社会、政治、 経済事情などが深く関わっていることを改めて实感させてく れる。
四、日本のソフトパワーの教育力・文化力 人間は混沌とした世界をことばによって切り取り、外界の 事象を認識し把握している。そして、その切り取り方は文化 によって異なる。ことばは、文化である。その一方、文化も ことばによって成り立ち、伝承される。第Ⅲ部は、ことばと 文化を視野に入れ、言語教育や外国語教育におけるアニメの 言語文化をめぐる諸問題を扱う。謝豊地正枝女史は、台湾大 學の日本語学科の学生に対するアンケート調査からアニメが 大学生にも好まれているという一端を浮き彫りにした。謝豊 地氏のご指摘のように、アニメを講義の一環に組み込むと、 確かに、日本文化への理解や聴解力の向上に役立つという意 義はあるものの、過剰な擬音語と擬態語の使用及び簡略化さ れる表現傾向は、丁寧な、正しい日本語の学習効果があまり 期待できないという点も安易に見過ごすことができないので ある。それに対して、筆者は、日本昔話は特定の文学者や詩 人によるものではなく、民衆の日常生活の中から生まれ日本 文化があふれているという点に注目し、ビデオアニメを媒介 とし、日本語教育関係の語彙表との比較と意味分類を手がか りにし日本昔話の帯びている語彙性格、文化側面を探り、日
序章 7
本語教育との接点について考察を行った。結果としては、日 本昔話は「基本的な語彙」の性格が強く、ある程度の初級能 力を備えていたら、容易く聞いたり読んだりすることができ るということがわかった。そのうち、「動物、植物」項目を表 す語が特に豊富で、「自然現象」を特徴のある意味分野とし て指摘できる要因と結論付けている点が特に注目される。 日本のアニメは、教材として活用する際に、見逃しやすい 落とし穴が存在しているかもしれないが、『日本はアニメで 再興する』4(櫻五孝昌、2010 年)にも示唆されているよう に、世界で愛され、想像を超えて世界に広がっており、世界 の若者の生き方に与える影響はかなり普遍的なものになって いる。アニメを見たり聞いたりするうちに、日本文化の理解 や日本語学習の手助けになるだけではなく、それに対する興 味・関心が日本語学習者の学習動機にも影響している。この 意味で、日本語教育におけるアニメの扱い方にはことさら慎 重にならなければならないと同時に、それに関わる研究も国 際日本学における日本のポップカルチャー研究を考える際に、 重要な課題である。
4
本書は、日本のポップカルチャー研究家、外務省アニメ文化外交 に関する有識者会議委員櫻五孝昌氏によって書かれ、16カ国延べ 38都市で、アニメ・マンガの人気を現地取材し「日本を愛する若 者たち」の真实を伝える記録であり、提言の書でもある。2010 年4月にアスキー新書として出版された。
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五、日本のソフトパワーの文学創作力 第Ⅳ部は、物語・ストーリーの力をキーワードに、夏目漱 石、村上春樹、「ONE PIECE」を取り上げ、物語における女性 像、内面性について考え、学問や芸術などといったハイカル チャーとポップカルチャーとの融合領域を切り拓くことを 目指す。范淑文女史は、漱石の初期小説から明治社会を生き ようとした新しい女性――「トレンディ女性」像を浮き彫り しに、漱石の女性観に迫ることを試みようとしている。范氏 の分析によると、漱石の初期作品に登場している女性たちの キャラクターには、ハイクラスで、知的で、個性があり、洒 落ているというプラスのイメージに対して良縁と職業の匂い が薄いという望ましくないイメージをも合わせ持っている。 つまり、西洋的な教養を身につけ知的な「トレンディ女性」 に憧れながら、女性の自立や恋愛結婚による伝統からの脱出 が進み、父権社会が崩壊することも怖れていた漱石の女性観 の側面を范氏は提示した。それに対し、横路明夫氏は、小説 における人間の内面をいかに語り出すかを課題とし、夏目漱 石、村上春樹、「ONE PIECE」を取り上げ、物語の構造と人間 の内面について考察を行った。横路氏は、ストーリーの二重 化、つまり、「物語に現前する登場人物の心境の内实を、も う一つの独立したストーリーによって語り出す」という方法 が、夏 目 漱 石 、村 上 春 樹 、「ONE PIECE」に限るものではな く、脈々と受け継がれ、時代を超え、広範な読者を生み得て いることを主張した。
序章 9
このように、サブカルチャーはこれまでの伝統文学の要素 を用いながら新たに切り拓かれた領域の文学創作と看做すこ ともでき、従来の文学研究方法を活かすことができるととも に、純文学とのクロス研究も可能であることが言えよう。
六、おわりに 日本の外務省は、近年世界的に若者の間で人気の高いアニ メ、マンガ等のポップカルチャーも、日本に対するイメージ や親近感を高めるのに大きく寄与すると考えられるため、国 際漫画賞、アニメ文化大使事業、ポップカルチャー発信使 (カワイイ大使)委嘱などの事業を实施し、 「ポップカルチャ ー」をテーマとした文化外交の一環として積極的に活用しよ うとしている。2006 年に、さらに、日本ポップカルチャー 専門部会を設置し、「ポップカルチャーへの関心をどのよう に日本への関心に高めるか」及び「ポップカルチャーを推進 している産業界に対して外務省がどのような協力を行うべき か」につき、何度も検討を重ねてきた。また、経済産業省 は、2010 年に「クール・ジャパン审」を設置し、「クール・ ジャパン戦略」として、日本のポップカルチャー方面を中心 に文化産業の海外展開支援、輸出の拡大や人材育成、知的財 産の保護などを図る官民一体の事業を展開しており、文化・ 産業の世界進出促進、国内外への発信などの政策を企画立案 および推進している。一方、日本の文化庁も漫画、アニメ、 ゲームなどを、新たに「メディア芸術」と名づけ、従来の芸
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術振興とは別の枞組みで振興しようとしているという。この ように、ポップカルチャー、特に日本の漫画やアニメなどに 代表される大衆文化は、かつては、娯楽的で、大衆向けに大 量生産される俗的なものとされがちであったが、そのものの 意義を積極的に評価する動きが時代とともに活発になりつつ あると見受けられる。 グローバル化が急速に進む中で、現代日本のソフトパワー に関する研究は、それが正統とされる日本学、日本研究にお いてどのように位置づけられるのか、どのように融合できる のか、こういった課題に関わる研究課題はまだまだ多々ある と思うが、本書は、日本の言葉や物語・ストーリーといった 視点から従来の正統的な語学・文学をめぐる斬新な方法論の 实践を視野に入れ、新たに注目された流行文化にも焦点を当 て、21 世紀にふさわしい国際日本学研究の最前線に向け、新 たな展開についての議論を深め、グローバルに研究領域を広 げた国際日本学研究に寄与するとともに、まだ学問として成 り立っていないサブカルチャー研究においても、多角的な視 野を提供できればと願う。
第Ⅰ部 流行・ことば・物語による 国際日本学研究の最前線
第一章 偽物の倫理 ―「鉄腕アトム」をめぐって― 宮本大人
一、はじめに 本稿は、2011 年 5 月 27 日に台湾大学で行なわれたフォー ラム「国際日本学研究の最前線に向けて」において行った講 演を基にしたものである。その際の冒頭のあいさつで述べた ことから、本稿を始めたい。 2011 年 3 月 11 日、日本で大きな震災が起こった。被災地 の復興はまだ果たされておらず、その意味で災害は今なお続 いている。そんな中、私自身は無事に、日本の文化と社会に ついて国際的な視野から考える大きなフォーラムに参加でき た幸運を喜びたい。 地震の起こったその時、私は、文化庁が進めているメディ ア芸術振興のための大きな会議に出席するために六本木ヒ ルズというところに向かって、地下鉄に乗っているところで あった。会議は 15 時から開かれる予定で、地震が起こった のは 14 時 46 分だった。急停止してしまった電車の中で、私 がまず考えたのは、家族は無事だろうかということだった が、幸いすぐに家族と連絡が取れたため、その次に考えたの
14 国際日本学研究の最前線に向けて
は、会議は開かれるだろうかということだった。さすがに会 議は中止になったのだが、それを気にすることができる程度 には、東京の被害は大したことはなかったと言えるかもしれ ない。 日本の文化庁は、明治以来の近代国家の様々な制度の中で 「芸術」とされてきた、美術、文学、演劇など「以外」の、 漫画、アニメ、ゲームなどを、新たに「メディア芸術」と名 付け、従来の芸術振興とは別の枞組みで振興しようとしてい る。文化芸術振興基本法の第九条では、「メディア芸術」を 「映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電 子機器等を利用した芸術」と定義している。しかし、これに ついては、様々な問題点が指摘されている。 まず、この「メディア芸術」というカテゴリーには、論理 的に整合性のある定義を与えることができない。ここには、 漫画、アニメ、ゲーム、そしてなぜか、今までの芸術振興の 枞組みの中でも振興されてきた現代美術の一分野である、コ ンピュータなどを使った、いわゆる「メディア・アート」が 含まれてしまっているのだが、「芸術」一般と比較した時に、 これらに共通、かつ他を排除できる定義が与えられるとは考 えにくい。 「新しい分野」か否かでいえば、漫画は尐なくとも明治時 代にはジャンルとして成立しているので、特段新しいわけで はない。これまで国の制度的な支援を受けてこなかった分野 だという言い方をすれば、「メディア・アート」はどうなのだ ということになってしまう。
偽物の倫理 15
名称も奇妙である。文学だろうと美術だろうと、何らかの メディア(媒体)なしに成立する芸術表現など存在しないの だから、 「メディア芸術」とは、屋上屋を重ねるような表現だ と言える。 小田切博氏は、この「メディア芸術」という奇妙なカテゴ リーが、文化芸術振興基本法において「芸術」として定義さ れた「文学、音楽、美術、写真、演劇、舞踊その他の芸術」 とも、 「娯楽」と定義された「国民娯楽(囲碁、将棋その他の 国民的娯楽をいう)並びに出版物及びレコード等」とも別個 に立てられているため、「「芸術」でも「娯楽」でもないきわ めて中途半端な概念になっている」と指摘している 1。 そして、こうしたカテゴリーを設けて、文化庁のみならず、 経済産業省など様々な省庁が、国の政策として 、この「芸 術」とも「娯楽」とも異なる「メディア芸術」を振興しよう とする背景には、知的財産を巡る国際的な「外圧」があると も論じている。これについて詳しくは小田切氏の著書を参照 していただきたいが、この「メディア芸術」という奇妙なカ テゴリーを作り、それを「芸術」一般と区別してから、その 振興を図る、という政策を取ることによって、国は、「本来 の」芸術と、そうでない芸術というものが存在するという認 識を、公的に認めてしまっていることになる。尐なくとも、 こうした区分を、政策的な介入によって積極的に解消しよう という発想に基づいていないのは確かだと思われる。
1
小田切博(2010)『キャラクターとは何か』筑摩書房、71-73頁。
16 国際日本学研究の最前線に向けて
本稿では、「本来の」芸術とそうでない芸術という区分は 存在させたままで、漫画やアニメを、いわば格上げするよう な形で「本来の」芸術として公認すべきだ、と考える立場は とらない。優れた漫画作品もあれば、くだらない文学作品も 存在するのであって、一つのジャンル全体が、他のジャンル 全体に対して優れているとか务っているとか言うことはでき ないと考えるからである。漫画やアニメの認知を高めること より、表現のジャンルを序列化する発想自体を解消すること が重要だと考える。 しかしながら、現にこうして、「芸術」を「本来の」それ とそうでないものに区別してしまう発想、そして、そこに何 らかの序列が存在すると考えてしまう発想が、日本の社会の 中に存在することは事实であり、漫画やアニメの歴史を考え るとき、そうした序列の中で、これらのジャンルが低位に位 置付けられてきたことは、無視できない。 「本来の」芸術の、いわば「偽物」のような表現のジャン ルとして捉えられがちであったことは、漫画・アニメを支え てきた作り手たちにも、受け手たちにも、意識されてきたこ とである。何が偽物だ、今に見てろ、こっちこそが本物だと 証明してやる、と考えた表現者もいたであろう。確かに偽物 かもしれない、しかし……、と考えた表現者もいたであろ う。日本の漫画・アニメを考えるときに、こうした、作り手 たちの多くが抱えざるを得なかったコンプレックスは、無視 できないと思われる。 しかし、ここであらためて考えてみると、日本において
偽物の倫理 17
「本来の」芸術とは、どのようなものなのであろうか。 文学史の分野でも美術史の分野でも、日本の「芸術」観、 「芸術」の社会的地位は、明治期に、近代国家としての制度 が整えられていく中で、西洋のそれをモデルにしながら構築 (あるいは再構築)されたものであることが、明らかにされ ている。 「美術」であれば、東京美術学校の設立、「国宝」の制度 化とその選定、それに並行する公的な「日本美術史」観の構 築、といったことが、まさに国家的な事業として、連動して 推進された。それは、それ自体、日本の、 「西洋化」としての 近代化の過程である。 つまり、日本における「本来の」芸術とは、それ自体、西 洋のそれの「偽物」として構築されている。現に日本の芸術 家たちは、いつも西洋のそれを意識し、一刻も早く西洋のそ れと「対等」な地位に、自分たちの芸術を高めようと努力し てきたのだった。 「本来の」何かは「ここ」には存在せず、自分たちはみな 「偽物」である。こういった意識は、程度の差こそあれ、多 くの日本の表現者たちに共有されてきたと言えるだろう。 「偽物」としての漫画やアニメの歴史を考えることは、その まま、日本と、日本が模範にしてきた西洋の関係の近現代史 を考えることにつながっていくのである。 前置きが長くなったが、こうした前提のもとに、手塚治虫 の仕事を、その代表作の一つ「鉄腕アトム」を中心に、考え ていきたい。
18 国際日本学研究の最前線に向けて
二、「鉄腕アトム」―「人間」の偽物としてのロボット― 昭和 26(1951)年、『尐年』という雑誌で、「アトム大使」 という手塚治虫の作品が連載され始める。のちに「鉄腕アト ム」の「アトム大使の巻」と位置づけられることになるエピ ソードだが、ここでアトムは初めて登場することになる。 交通事故で息子のトビオを失った、天才的な科学者天馬博 士が、息子の身代わりとして、息子そっくりの外見を持った ロボットとして、作り出したのがアトムである。 アトムは、トビオそっくり、ということは一見ロボットに は見えない、人間そっくりの外見を与えられたという意味 で、人間の偽物である。しかし、それだけでなく、一般的な 人間のそれをはるかに上回る情報処理能力や、10 万馬力の力、 空を飛ぶ能力など、人間にはない、人間を超える、能力をい くつも与えられている。その意味で、単なる「偽物」にはと どまらない過剰さを持っている。 その一方で、アトムには、「人間らしさ」のいくつかが欠 落しているという、「偽物」らしいともいえる欠損の設定も ある。そもそもアトムを作り出した天馬博士自身、アトムが ロボットであるため肉体的に成長しないという、分かり切っ ていたはずの事实を受け入れられず、アトムをサーカスに売 り飛ばしてしまったのだった。ちなみにお茶の水博士は、こ のサーカスからアトムを救い出した人物である。 肉体的に成長しないこと以外にも、「人間らしい」心理や 感情の欠落も問題にされる。例えば、絵を見ても音楽を聴い
偽物の倫理 19
てもその良さが分からない、 「心のうるおいがない」と嘆くア トムが、お茶の水博士に頼んで、そうした感情を持つことが できるようにしてもらうというエピソードがある。 しかし、音楽の良さが分からないと「嘆く」時点で、すで にアトムにはある程度人間らしい感情は備わっていると考え られるし、他のエピソードでは、何かに憤ったり、悲しんだ り、といった人間らしい感情を示す様子が、ごく普通に描か れていることから、この設定は、いかにもご都合主義的に、 特定のエピソードを成立させるためにだけ存在しているとも 言える。 その一方、よりシリアスで、物語の本質に関わるアトムの 欠損として、アトムには悪いことができない、という設定が ある。 スカンク草五という悪役がお茶の水博士に向かって言い放 つ、きわめてよく知られた一連のセリフがある。「アトムは 完全ではないぜ
なぜならわるい心を持たねえからな」。「完
全な芸術品といえるロボットなら、人間とおなじ心をもつは ずだ」。 これに対してお茶の水博士は「そりゃあちがう、よいこと をさせるためだけのためにロボットはもともとつくられたん でしょう」と反論するが、スカンクは「だから完全じゃない だろう」と言う。「完全なものはわるいものですぜ」。 たしかに、 「よいことをさせるためだけ」に「つくられた」 存在とは、いかにも不自然で、どこか物悲しく、作った人間 の側の傲慢さを感じさせると言える。
20 国際日本学研究の最前線に向けて
肉体的に成長しないことを理由に親に捨てられたアトムに とって、自分が人間を超えている部分より、人間らしくない 部分の方が重要であり、それがアトムというキャラクターの コンプレックスになっている。 悪いことができないように設計=プログラミングされてい るというアトムの設定は、人間らしい感情の欠如という設定 とは違って、物語の全編を通して、一貫している。アトムに は、悪いことを、悪いことと知りつつ、ついやってしまう「人 間らしい」弱さや、悪というものに、なぜか魅力を感じてし まうといったたぐいの「人間らしさ」は、端的に理解できな いようである。この問題については、後でもう一度触れたい。 以上に紹介してきたように、アトムは、人間を超えた能力 において、読者をわくわくさせる存在でありつつ、ロボット とは人間に似て非なる偽物にすぎないというコンプレックス を抱えた、読者に悲哀を感じさせたり、強い同情を覚えさせ たりする存在としても描かれている。 この、アトムの、いわば哀しい側面を、強調するのが、ア トムやその家族が、学校のクラスメイトからロボットである ことを理由にいじめやからかいの対象にされる場面である。 連載開始から数年の間は、こうした場面が、しばしば描か れている。それはやがて、アトムだけでなく、人間型のロボッ ト全般が、人間から差別を受ける、といったエピソードにも つながっていく。 この、ロボットであることを理由に人間から差別を受ける、 というモチーフは、しばしば、人種差別問題の比喩として解
偽物の倫理 21
釈されてきた。手塚自身も、これについて、自分が占領軍の アメリカ人兵士からいきなり殴られた経験からくるものとし て語っている2。 管見の限り、「鉄腕アトム」におけるロボット差別の問題 は、人種差別一般の問題として捉えられているようだ。しか し、手塚自身の発言に立ち返って考えてみると、これは、人 種差別一般の問題というより、戦争に負けた日本人と勝った アメリカ人の関係、あるいは、西洋をモデルに西洋化として の近代化に努めてきたにもかかわらず、結局戦争で西洋に徹 底的に負けてしまった日本と西洋の関係を、投影したものと 解釈することもできる。 このことについて、手塚のもう一つの代表作「ジャングル 大帝」を参照することで、議論の補助線としたい。
三、「ジャングル大帝」―文明化の寓話― 「ジャングル大帝」は、「アトム大使」の 1 年前から『漫 画尐年』に連載された作品である。この作品の寓意はかなり 明瞭だ。 舞台はアフリカ大陸である。ジャングルの動物達の頂点に 君臨する白いライオン、パンジャは、高度な知能を持ち、近 くに住む部族の人間たちに捕えられた動物を救い出したりし ていたものの、白人のハンターに撃ち殺されてしまう。 そのパンジャの子が、主人公のレオである。レオは、ハン 2
手塚治虫(1979)『ぼくはマンガ家』大和書房、43-44頁。
ISBN 978-986-03-6607-5