Holiday 2014 50 年も生きる野生のチリー フラミンゴたちはパタゴニア 公園内の浅い湖を安全な 停留地として豊富な食料に ありつく。チリ Linde Waidhofer フラミンゴの群れがいったい そこで何をしているのか? 亜熱帯の島やフロリダ・キーズ でのんびり過ごしているべき ではないのか? そんな疑問が カタログから引き起こされる ことを願ったのは、パタゴニア の初代アートディレクター兼 写真編集者だったジェニファー・ リッジウェイ。彼女が愛した イメージは、好奇心を満たすと 同時に、 「FOMO(見逃すことの 怖れ)」現象を引き起こすほどで した。そしていまこそ当たり前の ように思われるかもしれません が、製品は一切添えずに風景 だけの大判写真をカタログに 刷るということは、1980年代 初期にはかなり急進的でした。 ジェニファーにとってそれは、 彼女が深く親しみ愛した パタゴニアという場所に秘め られた、野生の魂をとらえる 稀少な写真を探すためには 十分で、彼女はいつもそんな 写真に目を光らせていました。
02
導き手 パタゴニアの初代アートディレクター兼写真編集者(そして私た ちにとってはそれ以上の存在)だったジェニファー・リッジウェイ は、1986 年に『パタゴニアックを撮ろう』と題されたエッセイを書 きました。彼女がそこで詳しく書いた写真の流儀の開発は、のち にパタゴニア自体を定義するものともなりました。最終的な彼女の 表現は、 「座ったままでいないで外に出て、行動しようというメッ セージ」。ジェニファーが亡くなった昨秋、カリフォルニア州ベン チュラには 500 人近い参列者が彼女の人生と遺産を称えるために 集まりました。この追悼会は、たとえ私たちが行動するために遠く へ旅立ったり、大人になったり(それを拒んだり)、変わったり、あ るいはいつものごとく風来坊の生活をしていても、パタゴニアはい まも親密な仲間たちからなる社会でありつづけることを思い出させ てくれました。 本誌に掲載しているストーリーにテーマがあるとしたら、それ は「外に出て行動すれば、自分が愛することを同じように愛する人 とも出会うことができ、その人たちも自分の仲間の一部となる」で しょう。ともにするのが食事を分かち合うことであれ、大企業と闘 うことであれ、食料を育てることであれ、情報を交換することであ れ、写真を撮ることであれ、あるいは人生を振りかえることであれ、 すべては私たちをひとつに団結させるもので、分裂化が進む今日の 時代にはとくに重要に思われます。ジェニファーにはそうしたつな がりを認識する眼がありました。彼女は私たちの偉大さも馬鹿らし さも寛大に受け入れながら、私たちの輪が私たち以上のものとな るように挑戦させてくれました。
HOLIDAY 2008 リオ・バケルとリオ・パスクアに 5 つの巨大な水力発電用ダム の建設を計画するハイドロアイセン社に対し、抗議行動 として 2007 年に組織された「カバルガタ・パタゴニア・シン・ レプレサス(ダムのないパタゴニアのための騎馬行進)」。 参加者たちはコクラネから北上してコイヤケでこのデモ行進 に合流するため、320 キロという道のりを馬の背に乗り 9 日間もかけて旅した。チリ Henry Tarmy ジェニファーは人びとが自分の信じることのために立ち上がって 闘う姿を見るのが大好きでした。彼女がこの写真にとくに感銘を 受けたのは、パタゴニアという場所、そして私たちの会社を 形づくる人びとを愛していたからでした。
05
Contents 08
木は立たせておくほうがいい
18
一歩一歩進んでいく
34
自分の居場所
46
最も明らかなライン
58
ある思いも寄らない人生
74
気候危機は人間の問題
78
重要なコットンの実験
86
ジャングルのなかで成長する農園
94
無料ベビー再登場
Spring 1989 パーム・スプリングスに近い ハイウェイ 10 号線沿いに立つ、 「ミスター・レックス」と朝の一口。 カリフォルニア州 Greg Epperson ジョシュア・ツリーへの道中でこの 100トンのティラノサウルスを 見かけたときに突拍子もない発想を 思いついたグレッグは、それを自分 ひとりでどうやって実行するかを 考案し、その様子を収めた写真を ジェニファーに送って驚かせました。 この1枚は、パタゴニアが過去 30 年 間に発行したカタログのなかから 選りすぐった写真集『Unexpected』 (日本語版発売中)に含められ、その 英語版の第 2 版では表紙を飾りました。
木は立たせておく
ほうがいい 08
〔前の見開き〕春のニシンの産卵に よって染まるシトカ湾の島々の沿海。 Lee House
私がトンガス で暮らし はじめたのは 1997 年 9 月、セオドア・ルーズベルト大統領がそこを国有林
もな質問だ。 「クマにはクマの場所があったんだよ」と、私は
に指定した日から約 90 年が経ったときだった。19 歳だった私
答える。
は、コロンビア大学を去るとグレイハウンドバスに乗って西へ 向かい、やがてアラスカの漁村シトカにあるサーモンの孵化場 で働くことになった。 家賃を節約するため、自然のままの姿をとどめる世界最大 の温帯降雨林のなかへと 20 分ほど歩いたところに住むことに した。ベイトウヒの林にミツバチのような黄色いノースフェイ ス VE 25 のテントを張り、木の幹のあいだにタープを吊るして 回廊を作った。冬が近づくと、あまりの寒さでテントの中でオ リーブオイルが白くなった。キャンプ用バーナーでオイルを温め ていると、川岸で腐っていくピンクサーモンのカビ臭い匂いが テントの背後から漂ってきた。寝袋のジッパーを閉め、フリー スを丸めて枕にし、海から運ばれてくる重たい雪がトウヒの針 葉に落ちる音を聞いた。そして業務用の強力なクマ避けスプ レーの缶を腕の下に置いて、眠りに落ちた。
総計 1,670 万エーカー(6,758,250 ヘクタール)というのが 正確な数字だ。 私たちが住むトンガス国有林の地図をヘイリーに見せる。モ スグリーンに印刷された箇所が、細長く伸びるアラスカ南東部 に広がっている。ここは 1 万年以上にわたるトリンギット、ハ イダ、チムシアン族の故郷でもある。ヘイリーは森林に散在す る 32 の共同体のひとつ、シトカに指先を落とす。 ロッキー山脈とシエラ山脈が野生生物の回廊だとしたら、ト ンガス国有林はこれらの回廊の先にあるダンスホールだと言え る。氷原と森林とフィヨルドから成る群島で、雪を頂いた山々 が目のくらむような角度で海から突き出し、エトピリカの巣穴 が点在する崖にワタリガラスやハクトウワシの鳴き声がこだま する。トンガスの半分以上はベイトウヒ、アメリカツガ、ベイス
感謝祭の少し前、都会育ちのアマチュアぶりで、うかつにも
ギ、アラスカヒノキなどの森林だ。樹木は地下で網のように広
バーナーに点火するときにテントの入り口を焼いてしまった。
がる根でつながり、根は世界有数の豊富なサーモンの群れの
仕方なく、チョコレート色のタープを毛布のように引きずって
残骸から栄養素を吸収している。
インディアン・リバーの上流へと移動し、手引ノコギリでアメリ カツガの若木を切り倒して小屋を建て、夜はサーモンベリーの 茂みに自転車を隠した。石から石へと飛び移って川を渡り、ア ンズタケの採り方を覚え、甘草を掘り出してお茶にし、雨のな かで火を起こした。ポケットナイフでトウヒの幹から琥珀色の 樹液をこすり落とし、湿原地帯のハイマツからサルオガセを集 めて焚きつけに使った。サーモンの孵化場で魚を育て、デイ リー・シトカ・センティネル紙に記事を書きながら、こんな風 にして 8 か月間暮らした。 4 歳の娘ヘイリー・マリーに当時のことを話すと、 「クマは いなかったの?」と鼻にしわを寄せる。人口の約 7 倍にあたる 1,500 頭のグリズリーベアが徘 徊するバラノフ島ではもっと
〔上〕高木と低地。アラスカのトンガス国有林の 10 パーセントを覆っている、 「マスケグ」と呼ばれる湿原。 Amy Gulik 〔左下〕バラノフ島のインディアン・ リバーの河口に帰還するピンクサーモン。ここから自分が生まれた渓流へと 遡って産卵し、やがて死を迎える。 Bethany Goodrich 〔右下〕クマやワシ などの動物たちが食べたサーモンの残骸には、その体内に海の栄養素が蓄え られていて、それが森を「養う」。この写真は、リダウト・フォールズで子熊に 与えるためのサーモンを獲るブラウンベア。 Bethany Goodrich
10
words ブレンダン・ジョーンズ
そしてこれこそがトンガス国有林の驚くべき現象だ。 通常、森の生態系は動物が植物を食べるものだと考えられる。 しかしここではその逆であり、樹木が動物を食べている。 毎年秋になるとサーモンの成魚が日陰に覆われた川に回帰し、 そこで産卵して死を迎える。川が次世代のサーモンの稚魚に育 つための場所を提供してくれるお返しに、母魚や父魚の朽ちか けた死骸は川沿いに栄養素のシチューを作り、もっぱら海洋網 だけに見られる独特な要素である窒素 15 を樹木に与える。谷 のトウヒやツガやスギはサーモンから栄養素を得て急速に育ち、 スギは千年近く生きることもある。現に生物学者はベイトウヒ の年輪を観察することで毎年遡上する魚の密集状態を追跡で
これらの写真が撮影されたアラスカ州トン ガス国有林は、トリンギット、ハイダ、チム シアン族の伝統の土地です。パタゴニアは、 彼らの共同体を取り巻く土地と水を守りつ づける、アラスカ州南東部の先住民族の人 びとに敬意を表します。
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ロッキー山脈とシエラ山脈が 野生生物の回廊だとしたら、 トンガス国有林はこれらの 回廊の先にあるダンスホール だと言える。 きることを学んだ。 「サーモンの産卵の歴史は文字どおり 森の図書館に書かれている」と、カナダのテレビタレント であるジヤ・トングは著書『The Reality Bubble』のな かで述べている。 18 世紀にロシア人が到来して以降、これらの樹木との 関わりとして好まれてきたのは斧だった。ロシア人が船や 建物の建造に適した木々を切り倒す一方、アメリカ人は材 木ブームが本格化した1950 年代に産業規模の皆伐を開 始した。アメリカ政府が製材企業にトンガスでの無制限 の伐採を許可すると、伐採業者は渓谷の上流へと向かい、 彼らが「パンプキン」と呼ぶトウヒやツガやスギの巨木を 探した。樹 木は倒され、砕かれ、多層の圧力容 器に流 し込まれた。木片はそこで酸と混ぜ合わせて煮詰められ、 乾燥後に真っ白なパルプのシートとして押し出された。梱 包して搬出されたそのシートは、やがて新聞紙やセロファ ンや紙おむつの原料である綿状パルプなどに加工された。 故郷の川に戻ってきたサーモンは河口に溜まった泥に行 き先を塞がれ、クマはねぐらを失った。また通常は針葉 樹の林冠の合間から自然光を 20 パーセントしか受けない 林床の土は、その日陰を失って太陽に焼かれた。 そして 2001年、皆伐の蔓延を見かねたビル・クリント ン大統領は、任期満了 8 日前に「ロードレスエリア(無道 区域)保全規定」に調印し、トンガスは全米のその他の 国有林とともに道路建設の道を閉ざされた。オレゴン州 での林業と環境保護主義者とのあいだで生まれた妥協案 を前例として学んだクリントン大統領は、道路建設が汚 染の増加、土地の浸食、種の消失につながると同時に国 有林にはすでに十分な道路(621,000 キロメートル、つ まり地球を15 周できる距離)が交錯していると論じた。 製材企業が皆伐を終えたあとの道路管理を任されていた アメリカ合衆国森林局は、その整備に追いつけない状態 だった。 製材企業は停滞した。トンガスに残る165,000 エー カー(66,773 ヘクタール)の原生林への道をブルドーザー
〔左上〕トンガス国有林のスギやトウヒやツガが驚くべき高さに成長する 理由のひとつは、川岸で腐敗するサーモンの死骸から得る豊富な窒素。 Chris Miller 〔左下〕太古から存在する老齢樹を覆う複雑な苔。トンガス のような温帯雨林は、地球上にある他のいかなる森林よりも多くの炭素を 貯留する。 Bethany Goodrich 〔右〕トンガスの道路のない場所で、 地元の環境保護活動家エルサ・セバスチャンの支えとなるスギ。 Colin Arisman
「 森は伐採するよりもここにある方が、より多くの 資産をもたらします。ロードレス規定は私たち にとっては機能しています。アラスカのために 役立っているのです」 エイドリアン・リー
これらの道 路 の 1 本を使ってフレッシュウォー ター湾に行き、 「カルチャー・キャンプ」の開催 に協力している。これは児童や青少年がハマグリ やザルガイを掘ったり、野イチゴを摘んだり、ス モークサーモンを作ったりするのを学ぶ 1 週間の 体験で、アラスカ南東部の経済、生態学、文化
で整地できなければ、チェーンソーの刃を動かす
一方、木材産業がアラスカ南東部に提供する仕
のために尽力する組織のネットワークである〈サ
ことはできない。ジョージ・W・ブッシュは大統
事は 200 あまりで、しかもこの 20 年間には国庫
スティナブル・サウスイースト・パートナーシッ
領就任後の初の布告でクリントンの法令の却下を
補助として毎年約 3,000 万ドルをアメリカの納税
プ(SSP)〉からも支援を受けている。 「かつて皆
試みたが、2009 年に第 9 巡回控訴裁判所が法
者に負担させてきた。
伐された場所をキャンプ地にして、子供たちにい
令を認可した。2012 年には最高裁判所が訴訟を 却下し、それ以来トンガスでの道路建設は禁じら れている。
面談ののち(トランプは身長 200 センチのアラス カ州知事を「ビッグ・ガイ」と呼んで目にかける)、
ろいろな体験をさせているんです」とリーは言う。 「やっと森が回復しはじめたというのに、いまさ らこの展開なんて」
そこで、ドナルド・トランプの出現だ。
大統領は農務長官ソニー・パーデューに、コメン
ブレント・コールは木材の切り出し作業員とし
昨年 2 月、エアフォースワン(大統領専用機)
トを無視し、トンガスをロードレス規定から全面
てアラスカで 9 シーズン働いたのち、倒木を利用
免除する準備に即座に取りかかるよう指示した。
してギターのサウンドボードを作る〈アラスカ・ス
ツイッターにアップロードされた悪評判のビデオ
ペシャルティー・ウッズ〉という会社をはじめた。
では、 「例の件は進んでいる」と共和党のアラス
ビジネスにはシトカスプルースとして知られるベイ
カ上院議員ダン・サリバンに伝えるトランプの声
トウヒが欠かせない。 「アラスカ南東部には良質
がスピーカーフォンから聞こえる。そしてラップ
の木があります。ヨットのマストや飛行機の翼桁、
アラウンド型サングラスをかけ、ポケットに手を
そしてギターのサウンドボードに最適な高級木材
突っ込んできまり悪そうに笑うダンリービー知事
です」とコールは言う。 「僕たちがやろうとしてい
が画面に入ってくる。彼らの背後のデッキには飲
るのは地元で価値を上げること。木は正しく使わ
みかけのアラスカ産ビールが映っている。
れるべきです」
がベトナムからの帰途、給油のためにアンカレッ ジに着陸した。共和党のアラスカ州知事マイク・ ダンリービーはこの機会に乗じてドナルド・トラ ンプ大統領に、トンガスをクリントンの法令から 全面的に免除し、森林を伐木搬出に開放するよ う依頼した。 その前年の秋、森林局の「スコーピング(公開 討論会) 」期間に、アラスカ南東部の住民の 9 割 以上がトンガスの道路建設禁止の継続を支持す るコメントを残していた。先住民部族のリーダー たちも猟師や商業漁師に加わるなど、この地方 の経済は長年の低迷ののちに観光事業と商用漁 業のおかげでようやく復興しているが、これらの 産業には手つかずの森林が必須であるということ を、ワシントン DC から来た議員たちに辛抱強く 説明した。森林局は彼らが「至宝」と呼んでいる トンガスを守る必要があった。なぜなら樹木と川 がなければ、非常に繊細な魚であるサーモンは 姿を消してしまうからだ――スカンジナビア、ア
今年 10 月、連邦政府は環境影響声明草案を発
トリンギットのカケ村に住むドーン・ジャクソン
表し、トンガス国有林をロードレス規定からの免
(トリンギット語での名前は「カアクスワアン」)は
除対象にすることを正式に発表した。これを執筆
コールに同意し、一定量の伐採は道理にかなって
している現時点で、アメリカ合衆国農務省は 60
いると言う。 「地域にとって重要だからです。伐
日間の公衆意見聴取期間を設け、アラスカ住民
採者が嫌いなわけじゃありません。ただ、根こそ
にトンガスについて再度意見を述べるよう奨 励
ぎにしないことが大事です」
している(トンガスの道 路建設禁止の継続を成 功させた初回のコメントのように)。農務長官は 2020 年 6 月に最終決定を行う見通しで、道路建 設は早ければその夏にはじまることになる。
カナダのウエスタン大学に通うジャクソンの 22 歳の息子シャワアンは、 〈SSP〉の一環である 〈ケエックス・クワアン・コミュニティ・フォレスト・ パートナーシップ〉で働く。 〈ケエックス・クワア
「 まったく信じられません。80 〜 90 年代 に
ン〉は数百のサーモン生息流域を保護すると同時
ヨーロッパ西部、アメリカ東海岸部、カリフォル
逆 戻 りした ようで す」と〈Women’ s Earth &
に、小規模の伐木搬出を奨励している。 「肝心な
ニア、アメリカ太平洋岸北西部のように。アラス
Climate Action Network(WECAN)〉のトン
のは資源の責任ある使い方です。輪作林業、間伐、
カはそれを食い止めるべきだ、と地元住民は訴
ガス支部のコーディネーターを務める「カシュド
生息地の復元など、土地を正しく扱うことです」
えた。それはつまり、サーモンの生息地を皆伐さ
ハ」ことワンダ・カルプは言う。ジュノーで育った
とシャワアンは言う。
せないことを意味した。
カルプは 2009 年にジュノーの南西約 110 キロ
イルランド、スコットランド、フランス、イギリス、
観光事業に関して言えば、アラスカ南東部を訪 れる旅行者は地球に残されている最後の野生の 景観を期待しているのであって、間違ってもお金 を払って切り株だらけの荒凉とした月面のような
メートルに位置するチチャゴフ島の、住 民の大 半がトリンギット族であるフーナー村に移住した。 「先住民の村と、住民が数千年間も頼ってきた森 を傷つける歴史の繰りかえしです」
アラスカ州前知事フランク・マーカウスキーを はじめトンガスの全面開放に賛成する人びとは、 土地を正しく扱うことと、再生可能エネルギー事 業のための道路を建設することの両立は可能で、 それはまた木材や採鉱探査にも開放されるべき
風景を見にくるのではない。観光事業はこの地方
継ぎはぎの皆伐地帯はカルプの村の道路網を
だと議論する。マーカウスキーはアンカレッジ・
に約 1 万もの雇用機会を生み出し、年間約 10 億
分断する。毎夏〈WECAN〉のメンバーであるレ
デイリー・ニュース紙の 9 月の意見記事で、この
ドルをもたらしている。商用漁業はその約 2 倍。
ベッカ・サワーズとエイドリアン・リーとカルプは、
地方に林業関係の仕事がほとんどないのは道路
〔上〕過去 1 世紀のあいだ、皆伐はトンガスの風景を変貌 させてきた。地元の住民たちはいま、彼らに残された原生林 を守るために闘っている。 Colin Arisman
14
しかしエアフォースワンでのダンリービーとの
〔下〕ロードレス規定の支持を訴えるため、アラスカ州会 議事堂の前でデモを行うアラスカ南東部の住民たち。 ジュノー Colin Arisman
15
がないからで、ロードレス規定の解除は地元経済にとって恩恵となると指摘 した。 これに対し、 〈シトカ・コンサベーション・ソサエティー〉の編集長であるア ンドリュー・トムズは異議を唱える。 「道路建設と伐木搬出が繁栄をもたらしたという意見が出回っていますが、 現実はまったく逆です。にわか景気と不景気の繰りかえしに過ぎず、金は州 外に出ていくばかり。酒屋が増えても、それは一時的なもの。長つづきはし ません」 事実、夏にカルチャー・キャンプに携わっていないとき、リーはフーナー の酒屋で働いている。リーは酒を買う釣り人と観光客の数を考慮すると、伐 木搬出がとくに酒の売り上げを伸ばすとは思っていない。 「まったく理に適っ ていません。森は伐採するよりもここにある方が、より多くの資産をもたら します。ロードレス規定は私たちにとっては機能しています。アラスカのため に役立っているのです」
昨 年 4 月、 〈WECAN〉のメンバーであるサワーズ、リー、カルプ、キャ リー・エイムズはワシントン DC へと旅し、議 員会館を訪れてトンガスの ロードレス規定の重要性を証言。森林について文化遺産の観点から語ると同 時に、アメリカ本土 48 州のためにも最も実質的な炭素隔離の方法であるこ とを説明した。森はたくましい肺であり、国有林は全米の推定 8 パーセント の炭素を蓄積しているからである。 「トンガスのような森を想像するのは、普通の人には難しいでしょう。だ からそれを思い描いてもらえるよう、最善を尽くしました」とカルプは言う。 4 人の先住民女性は儀式用のケープをまとい、ドラムを叩きながら、トンガ スに関する数千年におよぶ知識を反映するストーリーを語った。それは植 民地化されてから 300 年が経たないというその土地の歴史の、ずっと以前 から語り継がれているものである。 「私たちの目的は、この地方選出のリサ・ マーカウスキー上院議員が『アラスカ住民はロードレス規定を緩和したがって いる』という嘘を同僚に明言していた事実を、他の政治家たちに伝えること でした」
トンガスの木から彫り出した「ワスゴ(海のオオカミ)」のトーテムポールに寄り添う、スグワアヤアンス・ヤング。ここに暮らすハイダ、トリンギット、チムシアン族の人びとにとって、 トーテムポールは価値観を神聖化し、統治を定め、物語に形を与え、歴史を記録し、紋章を示す方法である。 Bethany Goodrich
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私はインディアン・リバーのほとりに小屋を建てたあと、大学を卒業し、 ふたたびアラスカ南東部に戻って商用漁業に従事した。アラスカの大工組合 〈カーペンターズ・ローカル 1281〉に入り、学校の屋根葺きやショッピング モールの建設にも携わった。やがてシトカのキューバ式サルサ教室で未来の 妻レイチェルに出会い、漁船の船長が取りもって結婚の儀をおこなった。レ イチェルと私はベイマツの古木で作られた第二次世界大戦時のタグボートに 2 つの薪ストーブを取り付けて住み、そこで娘のヘイリーを育てた。夜はヘ イリーに「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌って聞かせ、レイチェルは ストーブに私が割ったツガの薪をくべた。ゆっくりと熱く燃えるこのオレンジ 色の薪を、私たちは「夜の木」と呼んだ。 私たちにはいま 2 人目の娘がいる。ヘイリーは鹿の皮を剥ぐための自分専 用のナイフを持つ年齢になった。ときどき、シトカオグロジカを狩るために 生い茂った伐採用道路を歩きながら、ツガの樹皮の木目やベイトウヒの紫色 の木片に手を走らせる。誓うが、木の幹に手のひらを当てると、木のなかで 泳ぎ、白太に光るサーモンの存在を感じることができる。狩る者と狩られる
者、生と死の境は薄らぎ、魚、木々、シカ、そしてそこに立っている私は一 瞬、同じ大家族の一員となる。 ヘイリーにサーモンと森の概念を説明すると、何かを真剣に考えるときに いつもするように、首をかしげる。私たちはそのとき自宅で本棚を作ってい たが、その木材はトンガスの森で落雷に倒されたアラスカヒノキから、私が チェーンソーで切り取ったものだった。彼女はオービタルサンダーで熱心にそ の表面を研磨している。 そしてようやく、眉間にしわを寄せながら、ヘイリーは私にこう言う。 「パパ、 木は立たせておくほうがいいよね」 ブレンダン・ジョーンズの小説『The Alaskan Laundry』は 2017 年アラスカナ賞を 受賞。彼は最近シベリアからアラスカ州シトカに戻り、そこで妻と 2 人の娘と暮らす。
トンガスにロードレス規定を残すことを訴える声に参加してください。 patagonia.com/actionworks/tongass(英語)
〈ケエックス・クワアン・コミュニティ・フォレスト・パートナーシップ〉とカケ村民が組織した集団は、毎年恒例の大人のカルチャー・キャンプ開催中にサーモン漁の網を仕掛け、 のちにその収穫を地元の長老たちに分配する。このキャンプでは共同体のメンバーたちがサーモンを乾燥させて燻す方法などの知識や技術を交換する。 Bethany Goodrich
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一歩 一歩
進 んでいく
〔前の左ページ〕悪天候が過ぎ去るのを 待つあいだ、友人とスラックラインで 暇つぶし。アルゼンチン、エル・チャルテン Lisa Bedient 〔前の右ページ〕地産の オーガニックあるいは天然の食べ物が見せる 豊かさと美しさ。 Eric Bissell
私は1月に モンタナの
words ケイト・ラザフォード
羊牧場にあった、教室がひとつだけの校舎で生
間ができる最善の方法だと知っていたかい」とイ
まれた。その 4 か月後にアラスカに引っ越した両
ヴォンが言った。
親は、森のなかに山小屋を建て、私のためにブ ランコと空中ブランコも作った。何年間も、私が 知っていた交通手段は犬ぞりだけだった。夕食 にはサーモンやカモやヘラジカを貯蔵室に保管 してあるジャガイモやキャベツと一緒に食べ、デ ザートはブルーベリーだった。どれも私たちが狩 猟、採取、栽培した物だ。私はそんな風にアラス カ奥地の食べ物で育った。のちにそこを去ること になったが、いまでも母は畑でたくさんの野菜を 作り、父は狩りや釣りをつづけている。 私は 20 代のときにパタゴニアのクライミング・ アンバサダーになった。季節ごとに岩場から岩場 へと移動しながら、トラックやバンや古いエアス トリーム製トレーラーで 10 年間暮らした。食事 は仲間と一緒に、またはひとりで車中の小さなコ
「えっ?」私は驚くと同時に戸惑った。 「公有地 を守るのが私の任務だと思っていたんですけど!」 「ああ、それも重要だ」と彼は言った。 「だが、 僕らの誰もが 1 日 3 回食べなきゃならない。健 康な土壌とリジェネラティブ・オーガニック農法 は、大気中の炭素を隔離して、気候変動を逆転さ せる可能性があるんだ 」 それからイヴォンは私に『 The Soil Will Save Us(土が 私 たちを救う)』を読むように勧めた。 のちにこの本を読み終えた私は、 「大さじ 1 杯の 土に生存する何十億もの微生物は、植物が大気 中から吸収した二酸化炭素を生命の源である土 壌炭素に変える」ことを学んだ。 イヴォンの新たな目標は直感的に理解できた。
ンロで調理した。2012 年にクライミングパート
自然にはバランスが必要であることはすでに十分
ナーとセロ・フィッツロイの南壁に新ルートを開
承知していた。キツネはウサギの数を抑え、ウサ
拓した。アルゼンチンではそのような偉業は地元
ギがニンジンを食べ尽くしてしまうのを防ぐ。菌
の子羊の網焼きで祝福し、皆が自分のナイフを
根菌は植物の根に栄養素を与え、その引き換え
持ってアサド(焼肉)にやって来る。
に糖分を吸収する。そして土に空気を循環させて
数年前、ティトンでのクライミングの休息日に イヴォン・シュイナードと釣りに行った。イヴォン はサワードウのパンとリンゴとチーズ、そして 3 種 類のムール貝の缶詰をランチに持ってきてくれた。 缶詰は新たにはじめたパタゴニア プロビジョンズ の製品で、味見が必要だった。 「この小さな二枚 貝は世界一のタンパク源だ」とイヴォンは断言し た。そして私たちは食べ物について話しはじめた。 「ところで、 『リジェネラティブ・オーガニック (RO)』農業は、地球温暖化を食い止めるのに人
保水力を高め、枯れ葉や石や泥をリンや鉄分など、 その他の有効な微量栄養素に分解する。このバ ランスを農薬や化学肥料で崩すと、土は死んでし まう。きれいな川から釣った魚やきれいな土で 育った野菜の方が断然美味しいことは、私にとっ ては疑う余地がない。また長年のクライミング生 活で、朝食にはオーガニックの卵を、そして 1 日 1 回はケールサラダを食べ、岩壁ではパンとチー ズ、リンゴとニンジン、あるいはアーモンドや前 夜のサーモンの残りを食べると調子がいいことも 学んだ。私は自然の食べ物を主要燃料とするよう
〔上〕 〈Farm to Crag〉を共同創設したケイト・ラザフォード、 ジュリー・フェイバー、リンダ・タイラー。 〔下〕 〈Farm to Crag〉 の初イベントで土壌科学と農作業について学ぶ参加者たち。 カリフォルニア州キャシーズ・バレー Eric Bissell
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〔左〕エル・キャピタンの 「フリーライダー」を登る著者。 カリフォルニア州ヨセミテ国立公園
〔上〕ケイト・ラザフォードが「ヨセミテ・サーチ&アンド・レスキュー」で働いて いたとき、トゥオルミ・メドウズでの彼女の家だったエアストリーム製トレーラー。 〔下〕パタゴニアでの青空がのぞく日々。アルゼンチン Mikey Schaefer
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もちろん、クライミングを愛し、 食べることを愛する。しかし、 愛だけでは不十分なことも学んだ。 心がけた。私が子どものころ、そして人間が進化の過
一緒に調理したり食べたりできる仲間たちの集まりを
程でそうしてきたように。しかし、大がかりなクライミ
開いた。目的はクライミング先で季節ごとに地元のオー
ングに挑んだ 1日の終わりにオーガニック農産物の直売
ガニック食品を入手し、近隣の地域とより親密な関わ
所や手厚く育てられた動物の肉を探すのは、ほぼ不可
りを築けるようにすることだった。私は農家の人たちに
能だった。とくにケンタッキーの森やユタの田舎では。
会えば会うほど、農業はひとつの芸術形式であること
自分の家の庭にも野菜を植えたが、まもなくイラン やスペインやケニアやチリへと遠征することになった。
を実感し、それを力説したくなった。 2019 年 10 月、 私 たちは 第 1 回〈Farm to Crag〉
クライミングは世界を見るための一風変わった方法で、
の集いをヨセミテ・バレーから近いキャシーズ・バレー
また同時に自分の周囲の仲間たちと独特な親交を結ば
のロー・ルーツ農場で開催した。そこで一緒に料理を
せてくれる。クライミングに行った場所では、たんに体
作り、それを食べ、クライミングをした。土壌の科学
にいい食べ物を見つける方法だけでなく、その場所と
と炭素の循環についてレベッカ・ライアルズ教授から
の深い関わりを築く機会を、私は望んだ。
学び、機能栄養士でもある共同創設者のリンダ・タイ
スペインではパタゴニア プロビジョンズのムール貝 を育てる家族に会った。ペレス・ラフエンテ一家が招待 してくれたのは神話的な山脈の近くの家で、その山脈の ピコス・デ・エウロパには、ピキュ・ウリエリュと呼ば れる石灰岩の素晴らしいビッグウォールがある。彼らと 一緒に何度も素晴らしい食事をしながら、私はムール 貝が進化とともに潮流の境目に生息するようになった
ラーが健康を促進する健全な植物の栄養素密度につい て話し、またバンのなかのような限られたスペースでも 実践できるザワークラウトの作り方を教えた。草取り をし、耕し、収穫し、堆肥を重ねて苗床の準備もした。 そしてハーフ・ドームの下で、ハート型のニンジンを描 いたハガキにここで学んだことを活かす誓いを書いて、 集いを終えた。
こと、そしてその絶えず変化する環境で驚くべき回復力
犬ぞりと母の畑ではじまり、緑葉野菜やエルクの生
を見せることを学んだ。ムール貝は極小の植物プランク
息数に関する実験をしながら生物学の学位を取得し、
トンを餌にしながら、他の生物のために水を濾過してき
プロクライマーとして流浪生活を送り、やがて自分の
れいにしてくれる。人間がスペインのガリシア地方の冷
畑に野菜を植えるという面白い道筋を、私はたどって
たい大西洋の海水でムール貝の養殖をはじめたのは 13
きた。そしていまではオーガニック農家に、リジェネラ
世紀。のちに世界大戦が勃発すると缶詰の需要が高ま
ティブ・オーガニック農業に、土壌の健康に、自然のバ
り、魚介類の養殖、缶詰製造、船舶輸送の巨大産業が
ランスに(そしてアンバランスから発生するケールのア
出現した。ペレス・ラフエンテ家は 4 世代にわたって海
ブラムシに)より深い敬意を抱いている。もちろん、ク
産物業を営み、またヨーロッパではじめてオーガニック
ライミングを愛し、食べることを愛する。しかし、愛
による生産を専門とした。一家は気象が変わり温かく
だけでは不十分なことも学んだ。口に入る物にお金を
なっていくのを世代を超えて目の当たりにしながら、冷
費やし、リジェネラティブ・オーガニック農業を支援し、
水に生息して地元地域を支えるこの小さな二枚貝の適
私たちの心と体と魂に同時に糧を与えてくれる自然の
応性をよりいっそうありがたく思うようになった。
過程を支援する。なぜならそれが気候変動を覆すこと
私はここでの経験を活かし、クライマーと地元のオー ガニック農作物の栽培者を結びつけることを目的に、
になるのだから。私たちが食べ方を変えれば、食べ物 はある種のアクティビズムとなる。
リンダ・タイラーとジュリー・フェイバーと力を合わせて 〈Farm to Crag(ファーム・トゥ・クラッグ)〉を立ち上 げた。それぞれのクライミングエリアの地元で採れる食 べ物、ファーマーズ・マーケット、農産物の直売所の地 図を作り、食べ物について学びながら、クライマーが
〔上〕ガリシアの冷たい水で育つムール貝のあいだを潜水中のケイト・ ラザフォード。スペイン 〔左下〕ムール貝は、潮流の境目という 絶えず変化する環境で進化し、驚くべき回復力を備えているだけで なく、水を濾過して他の生物のために海をきれいにする。
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ケイト・ラザフォードはパタゴニア・クライミング・アンバサダー、 ジュエリーデザイナー、 〈Farm to Crag〉の共同創設者であり、 現在はカリフォルニア州ビショップに在住。
〔右下〕堅焼きパンとムール貝の缶詰はクライミング中の理想的な おやつ。 Ken Etzel
〔下〕ロー・ルーツ農場で昼食に使う 野菜を収穫中。カリフォルニア州 キャシーズ・バレー Eric Bissell
〔右〕ヨセミテの極上かつ最もむき出しのスポーツルートのひとつ 「キーパー・オブ・ザ・フレーム」を登るケイト・ラザフォード。 カリフォルニア州ヨセミテ国立公園 Mikey Schaefer
クライマーへのメッセージ: 〈Farm to Crag〉は地元の素晴らしい食べ物を簡単に探せる地図を提供しています。 これを利用してファーマーズ・マーケットに行き、そこで見つけた豊富な食材を使って、ぜひ一度家族や仲間に夕食を 作ってみてください。美味しい食事を一緒に楽しみ、そして機会があれば自分でも何かを育てることをお勧めします。 一瞬にして食べ物に対する価値観が変わります。皆で実践しましょう。何をどこで食べるかが、私たちをつくるのです。
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コットンで登る
女性デザイナーとアスリートのチームが、1年以上を費やして女性のためのク ライミング用パンツを開発しました。フィットと機能性をとくに重視した結果、 暑い天候下のボルダリングから高山の岩と雪まで、幅広い状況に対応する コレクションになりました。軽量なオーガニックコットンに適度なポリウレタ ンを混紡したこのパンツは動きやすい伸縮性を提供し、立体形状のカットが ハーネスの下でも快適で動きを妨げません。フェアトレード・サーティファイ ドの縫製を採用。 ウィメンズ・カリサ・ロック・パンツ ¥12,100(税込) I 82910 I 0-18/偶数サイズのみ I レギュラー・フィット I 340 g (12 oz)
カリサ・ ロック・ パンツ
〔左〕 「グリッパー」の第 3 ピッチを リードするメルリン・ヴェヌゴパル。 ヨセミテ国立公園のアーチ・ロック・ エントランスからは、威圧的に そびえるこの手強い花崗岩の スプリッター・クラックが遠くに 見える。カリフォルニア州 Drew Smith
緑黄色野菜を食べましょう スコットランドのハイランド地方での アイスクライミングで困惑するほど 氷が不足しているときは、その 乾燥した状況を最大限に利用する しかない。 Drew Smith
30
すばやく動くために グラム単位で重さを 気にかけるとき
山では持ち物を減らした分だけすばやく動けるため、望ましくない場所で足 止めを食らう確率は下げられます。それを理解したうえで、 「身軽な」装備と 「安全な」装備のバランスを保つことを念頭において作ったのが、アセンジョニ スト・ジャケットです。C ニット・バッカー・テクノロジー採用のゴアテックス・ アクティブ・ファブリクスを使用したこの 3 層構造素材は、軽量で防水性と透 湿性を備え、激しい運動とスピードをともなうアクティビティに最適。バック カントリーですばやく動くための機能一式を取りそろえたアセンジョニストは、 パタゴニア製品の中で最軽量のテクニカル・シェルです。フェアトレード・サー ティファイドの縫製を採用。 メンズ・アセンジョニスト・ジャケット ¥69,300(税込) I 85230 I XS-XXL I レギュラー・フィット I 371 g (13.1 oz)
アセンジョニスト・ ジャケット 〔右〕真冬のコンディションにはまだ程遠い「タワー・リッジ」を 見上げるジョン・ブレイシー。雨が降っていなければ、ここは ブリテン諸島で有数の山岳ルートとして知られている。 スコットランド、ベン・ネヴィス Drew Smith 32
自分の
居場所
〔前の見開き〕気の合う仲間と一緒にいれば、 どこでもアットホーム。たとえ、ミネソタの 洞窟でも。ダルースでの雨天のライド中、 集合写真でポーズを取るトレイシー・ブラウン、 レイチェル・オルザーとエリック・アルセ。 Hansi Johnson
「 黒 人の命も 大切だ」という サインが
words エリック・アルセ
表窓に掛けてある〈ヴェンチャー・ノース〉のド
冒険のストーリーからは除外されてばかりいる
魅力はさらに薄れ、2009 年には自分のマウン
アを開けると、コーヒーの香りが私を迎えてく
からだ。
テンバイクを売り払って、すっかり足を洗ってし
れる。店内の壁を覆う写真や壁画は、どれも近 所の有色人種をモデルにした作品だ。この事実 に驚くべきことは何もない。ミネアポリス北部 は歴史的に黒人が多く、 〈ヴェンチャー・ノース〉 の経営者も黒人であることを考えれば。 それでも、そのサインは僕の目を引く。 〈ヴェ ンチャー・ノース〉は自転車店だが、自転車店 というものは、通常は有色人種のマウンテンバ イカーには居心地よい場所ではない。それどこ ろか、苦痛の種となる場合の方が多い。自分の 自転車の知識を証明しないといけないように思
〈ヴェンチャー・ノース〉は例外だ。黒人のサ イクリストによって経営され、温かく迎えてくれ
けれども、僕のマウンテンバイクへの愛情は
る整備士がいる。これが僕が思い描く、通常
消えなかった。トレイルや山、そして精神安定
のライダーにとってのパーフェクトな自転車店だ。
剤としての効果が恋しかった。体が軽くなると
そしていつか、これがマウンテンバイク業界の
同時に、精神が落ち着くことが恋しかった。そ
姿になると信じたい。
れは僕がいわゆるマインドフルネスに達するこ
トレイシーは振り向いて僕にこう言う。 「ここ ではアットホームな気分になるね」 僕自身は、2000 年初期にカリフォルニア州
とが できる唯一 の場所だった。ほ んの 1〜 2 時間であっても、自分自身があるべき姿となり、 幸せになれたのだ。 2016 年、カリフォルニア大学サンタバーバ
マンモス・レイクスでマウンテンバイクを学び
ラ校で社会学の博士号に取り組んでいた僕は、
はじめ、地元のダウンヒルシーンでは唯一の有
ストレス発散のためにふたたび自転車を購入し
色人種であることが日常だった。その当時の僕
た。だが 2018 年 2 月に転倒して鎖骨を折って
にとって、マウンテンバイクはストレスから逃れ、
しまった。病院で僕の首にあるシコリに気づい
せるのは店だけではない。マウンテンバイク業
自由を見つけられる場所だった。サービス業で
た医者が生体検査を行うと、さらに甲状腺癌が
界自体がそうだ。今日、私たちがここにいる理
働くラテン系移民が多いカリフォルニア州の小
見つかった。治療は可能だったが、それは人生
由はまさにそこにある。
さな町では、マウンテンバイクのコミュニティ
の優先順位を考えさせるのに十分な恐怖だった。
から、僕たちの人種を見下すようなコメントを
僕は大学院をやめ、写真を中心とする生活に集
耳にすることもあった。たとえばこんなことも。
中するためにユタ州ソルトレイク・シティに移住
地元でのダウンヒルレース後の集会で、誰かが
した。
わせる、上から目線の整備士や店員がいるか らだ。 残念ながら、有色人種にこのような思いをさ
トレイシー・ブラウン、レイチェル・オルザー と僕は、いまから数時間前、数ブロック先の レイチェルの家ではじめて顔を合わせた。だ が 僕 たちは このトリップ を 何か月も前 から、 〈@allmountainbrothers(AMB)〉というイン スタグラムのアカウントで計画してきた。これ
テーブルにぶつかって皿やコップが散らばった。 すると部屋の奥から、 「メキシコ人に片づけさせ ろよ」という声が聞こえ、皆が笑った。
しかしまずは甲状 腺を切除しなければなら なかった。両親には話しておらず(父も膵臓癌 と闘っていた) 、ソルトレイク・シティには僕の
はトレイシーが共同設立したアウトドア界の有
それは僕にとってはじめての経 験ではない
色人種のためのオンラインコミュニティだ。僕
し、最後でもない。2007 年にカリフォルニア
2018 年 10 月、Lyftドライバーに病院に送っ
たちは皆このスポーツを愛し、美しいトレイル、
大学サンタクルーズ校で学士 号を取得するた
てもらい、数時間後に退院した僕は癌を克服し、
素晴らしい景色、自然とのつながりといった、
め、サンタクルーズに移り住んだ。その地域に
変な話だが、僕の命を救ってくれたスポーツへ
このスポーツが与えてくれるすべてのものを愛
はハードなことで有名なトレイルがあることも
有色人種の参加を増やすことを、より固く決心
している。それと同時に、このスポーツに欠け
魅力だったが、そこでも他のサイクリストたちに
したのだった。
ている文化的および人種的多様性にもがいてい
幻滅し、やがてはマウンテンバイクから身を遠
る。だから僕は写真家として、おもに有色人種
ざけるようになった。最初はひとりで乗ってい
の人びとを被写体として選んでいる。僕たちは
たが、僕にとってのマウンテンバイクの醍醐味
このスポーツで得られる仲間意識の喜び、自由、
のひとつは仲間と乗ることにあった。その結果、
〔右〕一行がミネソタ州トフティにある新トレイル網を訪れようと したとき、天気予報は雨以外の可能性を示さなかった。それ でもバイクに乗りたかった彼らは濡れることを覚悟で出発した ものの、トレイルヘッドから 10 分走っただけでずぶ濡れに。
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まった。
フィアンセ以外、誰も知り合いはいなかった。
実際、僕が新しいバイクラインディングのコ ミュニティを築くことに興奮しはじめたのは、イ ンスタグラムで他の有色人種のサイクリストに出
レイチェル・オルザーとエリック・アルセは引きかえした が、ハンジ・ジョンソンとトレイシー・ブラウンは「ジャック ポット」という新しいフロートレイルへと向かい、そこで 15 分というつかの間の太陽をつかまえた。 Hansi Johnson
トレイルや山、そして精神安定剤としての 効果が恋しかった。体が軽くなると同時に、 精神が落ち着くことが恋しかった。それは 僕がいわゆるマインドフルネスに達すること ができる唯一の場所だった。 会ってからだった。その後すぐに〈AMB〉の存在を知り、トレイ
僕はもっと標準的な、山地に囲まれた地域を推薦したが、ト
シーに連絡を取ってみると、そのコミュニティはすでに存在して
レイシーとレイチェルの心はミネソタに決まっていた。テキサス
いるというではないか。
州オースティン出身のトレイシーはその地域の素晴らしいライ
トレイシーは 2018 年、スヌーク、イーヒディ、コーリーと いう友人とともにバイクトリップを決行したのち、 〈AMB〉を共 同設立した。全員黒人であるこの 4 人は、白人が大半を占める コミュニティにおける有色人種としてストーリーを共有しはじ
ディング体験を耳にしたことがあり、レイチェルは地元のトレ イルを僕たちに紹介できることにわくわくしていた。ソルトレイ クのワサッチ山脈から来る僕は、正直なところ少し気後れして いた。僕からすれば中西部はじつに平らな地域だった。
め、同じような経験をもつ人びととつながりたいという願望が
コーヒーとタイヤチューブを手に〈ヴェンチャー・ノース〉か
あることに気がついた。トレイシーは帰宅すると〈AMB〉を立
ら外へ足を踏み出した僕は、自分が間違っていたことを実感す
ち上げた。設立以来、アカウントは日々成長し、フォロワーは
ることになる。
世界的な規模で増えつづけ、受信ボックスは〈AMB〉のフィー ドに自分たちが反 映されてい ることに 感 謝 するたくさん の メッセージであふれている。 「自分の人種を参加させることは重要だ。なぜなら、誰に とっても尊敬する人やそうなりたいと憧れる人の存在が必要だ から」とトレイシーは言う。 「僕がトレイルではじめて黒人のバ イカーを目にして、そのときに感じた感情。それを共有する場 所を作りたかった。他の有色人種のマウンテンバイカーを勇気 づけるためにも。何よりも、僕はもっと黒人やラテン系の子ど もたちがマウンテンバイクを楽しむ姿を見たかった 」 レイチェルにも〈AMB〉は同じような絆を提 供してくれた。 プロのクロスカントリーレーサーになる前にミネソタ大学で 生物学、進化学、行動学の博士号の取得を目指していた彼女 は、熱心なロッククライマーだった。スポーツ自体が肉体的に 厳しいことは当然だが、その文化はさらに厳しいものだった。 「クライミングはとても新しいスポーツです。それがいかに白 人男性中心であるか、女性や有色人種の人たちにとってはいか に排他的であるかという認識が、あまり広まっていないんだと 思います」と彼女は言う。 「フィールドに出るたび、自分がいる べきところにいることを証明しなければいけない気がして、疲 れちゃいました。どれだけ上手になっても、気持ちよくても、 受け入れてもらえるには、ほど遠い気分でした」 僕たち 3 人は直接メッセージを送り合いながら何か月も過ご し、自分たちのストーリーをどう共有すべきか、サイクリング 文化における他の有色人種の人たちの状況をどう学べばいいの か、いろいろな考えを出し合った。そして多様な発想をもち寄っ た僕たちは、このスポーツで無視されがちな人びとや場所に着 目したバイクトリップに繰り出すことにした。マウンテンバイク 文化で見下されがちな地域があるとすれば、それはアッパー・ ミッドウエスト(中西部の北部)だった。
〔左上〕春にミネアポリス周辺のトレイルで 1 日を過ごすと、粘り気のある土と 新緑に輝く森、そしてミネソタ州を象徴する非公式の「鳥」と呼ばれている蚊の 醍醐味を体験できる。その群れを出し抜くために速度を保つトレイシー・ブラウン とレイチェル・オルザー。 〔右上〕ミネアポリス北部のハリソン地区に佇むコーヒー
ハンジ・ジョンソンとはダルース市のダウンタウンにあるア イスクリーム屋で待ち合わせをしていた。物静かな笑顔で剃り 残しのヒゲが似合う彼は、力強い活動家的な風貌ではないが、 その見かけに惑わされてはいけない。アウトドア産業に人生を 捧げ、かつては〈国際マウンテンバイク協会〉の支部長を務め、 この地域をアウトドアレクリエーションのホットスポットとして 促進するために重要な役割を果たしてきた人物だ。現在はセン トポールを拠点とする環境保護団体〈ミネソタ・ランド・トラス ト〉のレクリエーション用地ディレクターを務め、これまでと同 じような支援運動で州の自然を保護している。 ハンジは以前からマウンテンバイクの文化は包括的であると 考えていた。しかし、彼の養子である韓国系アメリカ人のテイ に、なぜ自分のような姿の子どもがもっとトレイルにいないの かと聞かれたとき、アウトドアのコミュニティに欠けている多 様性に気づかされた。以来ハンジはその欠点を指摘し、非難 する記事を発表してきた。その反応は彼が期待していたもので はなかった。彼の同僚のなかには、問題はそれではないと主張 する人や、このテーマは対立を扇ぐと危惧する人もいた。しか しそれはハンジの決心をより固くするだけだった。 「いつか、僕の息子が振りかえる日が来るだろう」と彼は言う。 「僕を見て、あのとき何もしなかった白人だと思うか、何かを成 し遂げた白人だと思う日が」 ミネアポリス出身のマウンテンバイカーであるレイカン・ウィ ルソンにも出会った。21歳の有能なクロスカントリーレーサー であるレイカンはエネルギーに満ちあふれ、明らかに自分の地 元を誇りに思っている。これまでノルディックスキーのような従 来のアッパー・ミッドウエストのスポーツに打ち込んできた彼に とって、サイクリングは自分の頭をすっきりさせるためのスポー ツであり、地域のテクニカルなトレイルやジャンプラインに興 奮を覚えるようになった。またミネアポリスのバイクシーンでの
/バイクショップ〈ヴェンチャー・ノース〉は、自転車に興味のある家族や青少年 や有色人種の人びと、あるいは美味しいエスプレッソを好む人は誰でも歓迎する。 〔下〕ミネアポリス北部には、いたるところにアートが存在する。地元の人たちを 称える壁画の前を通り過ぎるトレイシー・ブラウン。 Eric Arce
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「 境界線を越えていない、と感じ られる心地よい場所。 『僕はここ にいていいのか?』と自問せずに、 ここがまさに僕の居場所だと 思える場所」 レイカン・ウィルソン
アッパー・ミッドウエストの地形は平らである という一般的な誤解に反して、ミネソタ州 ダルース周辺のトレイルは挑戦しがいのある 地形がたっぷりあるため、 〈国際マウンテン バイク協会〉からゴールド級の「ライド・ センター」指定を受けている。この写真は、 ピードモントのトレイル網の難所をこなす トレイシー・ブラウンとエリック・アルセ。 Hansi Johnson
有色人種として、アウドドアレクリエーションをより
種というときもあります」と彼女は言う。トレイシー
包括的にするために活動する団体〈ロペット・ファ
と僕は異常なデシベルを放つ音以外の何ものでも
ウンデーション〉に携わっている。
ないが、レイチェルにとっては、彼女が孤独ではな
「僕はミネアポリス北部の有色人種の子どもたち のコーチをしているけど、その年齢層は 4 歳から 67 歳までと幅広く、子どもだけじゃない」と彼は言 う。 「子どもたちが何かにひらめく様子を見ること ほど、充実感を得られる経験はない」 アイスクリームを楽しんだあと、ハンジとレイカ ンが地元のトレイル網を紹介してくれて、中西部は 平らではないことを完 璧に証明してくれた。急勾 配、難しいライン、岩からのドロップ、きつい上り などを備えたこれらのトレイルは、アメリカ国内の どこでも素晴らしく手強いレベルと見なされるだろ う。もちろんこれは簡単に築かれたものではない。 ダルースの広大なトレイル網は 20 年をかけた懸命 な努力の賜物である。翌日の晩にハンジの裏庭で 開かれたバーベキューパーティでは他の有色人種の 地元マウンテンバイカーたちにも出会い、このトレ イル網の基盤はもっと古いものであることを学んだ。 ダルースは先住民オジブウェ族の祖先から伝わ る故郷であり、彼らはこの地域を「ミサアベコン(巨 人の地)」と呼ぶ。彼らはスペリオル湖畔で米を収穫 しながらこの土地を何世紀にもわたって保全してき た部族で、アッパー・ミッドウエストの主要な存在 でありつづけている。より大きなアニシナアベ族に 属する同族のメンバーであるアリシア・コズロウス キーと、第 23 回「アニシナアベ・スピリット・ラン」 の最終区間であるフォンデュラク居留地の近くで合 流した。4 日間にわたって開催される 200 マイル (約 320 キロメートル)のこの耐久レースは、薬物乱用 防止を支援するイベントだ。アリシアによると、こ のランはアニシナアベ族社会で、薬物依存と闘うた
いという心の支えだ。 ダルースでの最後の朝は雨に見舞われたが、そ れでも街の北部のトレイルを探索してみようという ことになった。ハンジは雨は上がると言っていたが、 その気配はない。それどころか雨足は強くなるばか りで、レイチェルと僕は脱落した。乗りつづけるこ とにこだわったトレイシーとハンジは、車で待って いた僕たちと合流すると、まるで青空の下で最高の 地面を走ってきたかのように話を弾ませていた。こ れがマウンテンバイクの不可思議のひとつである。 気の合った仲間と一緒なら、馬鹿げているような最 悪なコンディションのなかでも素晴らしい時間が共 有できるという。 トレイシー、レイチェル、レイカン、ハンジのよ うな多様性を理解して尊敬する人びとと出会ってか ら、僕はこれまで以上にマウンテンバイクに乗る機 会を増やしている。マウンテンバイク文化に自分自 身が反映されているのを見ることで、さらに貢献し ようと思うようになったのだ。ダルースでの時間や トレイシーの〈AMB〉での活動に刺激されたレイ チェルと僕は、あらゆるレベルと種類の有色人種の バイカーを祝福する「@pedal2thepeople」とい う新しいインスタグラムのアカウントをはじめるこ とにした。今回の旅の経験で得た、自分自身でい ることの心地よさを再現する試みだ。 だからこそ、自分を表現することは重要だ。 〈ベ ンチャー・ノース〉のように、マウンテンバイクが自 分の居場所と感じられるように。 「君たちと経験できたことは夢のようだった」と、
めの力強いツールとなっているそうだ。彼女はレー
のちにレイカンが僕に語ってくれた。 「夢というの
ス後に参加者を敬うパウワウに僕たちを招待してく
は、つまり、僕が想像していたとおりの心地よさだっ
れた。それは僕たちにとって強力な体験となり、参
たってこと。境界線を越えていない、と感じられる
加者にとっては人生観が変わる瞬間だった。
心地よい場所。 『僕はここにいていいのか?』と自問
翌朝、トレイシーと僕はふたたび新しい友人を 応援するために叫んでいた。レイチェルが地元の
せずに、ここがまさに僕の居場所だと思える場所。 それはきっと、因襲に異なる光を差すと思う」
スキー場でクロスカントリーレースに出場している。 レースはレイチェルが自身を試す場所であり、自分 を受け入れてくれる場所でもあるが、いまでも彼女 がレースで唯一の有色人種女性であることはめずら しくない。 「女性というだけでなく、唯一の有色人
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エリック・アルセ はメキシコ人移民の息子で、ロサンゼルス 地方出身の写真家。現在はフィアンセのクローディアととも にユタ州ソルトレイク・シティに在住する。
汚れても、 汗をかいても、 社交的
汚れたからといって、上品な装いを保てないわ
ライな着心地を保つ通気性を発揮します。従来
けではありません。キャプリーン・クール・ト
のジャージーのように汗だくのライディング後
レイル・バイク・ヘンリーは、すっきりとしたT
に乾いた塩でカピカピになることもなく、ハイ
シャツのスタイルと高品質のジャージーの機能
キュ・フレッシュ耐久性抗菌防臭加工済みなの
を 兼ね 備え、トレイルに打ち込む日々だけで
でお気に入りの T シャツのようなしなやかさを
なく、カジュアルな目的にも気軽に着用できま
保ちます。フェアトレード・サーティファイドの
す。カーブをつけた縫い目や後ろが長めの裾な
縫製を採用。
ど、控えめに施したバイク仕様のデザインはサ ドルの上で腰をしっかりとカバー。リサイクルさ れたキャプリーン・クール素材はコットンのよう にソフトで伸縮性を備え、あらゆる天候下でド
〔左〕ユタ州にあるハリケーン という小さな町は定評のある モアブほど知られてはいない ものの、それに匹敵する世界級 のマウンテンバイクの機会を 提供しながらも、群衆やオフ ロードバギーなどとは無縁。 写真はこのメサ地域で、夕暮れ どきの静かなエアタイムを満喫 するエリオット・ミルナー。 Fredrik Marmsater
メンズ・キャプリーン・クール・トレイル・バイク・ヘンリー ¥7,920(税込) I 24431 I XS-XL I レギュラー・フィット I
173 g (6.1 oz)
キャプリーン・ クール・ トレイル・ バイク・ ヘンリー
43
激しく乗る ことの、 洗練
パタゴニアのマウンテンバイク製品の主力として
はつねにドライで快適。フロントポケットを 2 つ
日々活躍するこのショーツは、ブレザーを着たカ
備えたゆったりめのカットで、ライディング後に
ウボーイのように社交的な装いながらも、仕事は
職場(あるいはディナー)に向かうときにも実用的
きちんと片づけます。ショーツとライナーをひと
な、日常着のようなカジュアルさが自慢です。ウ
つに組み合わせたデザインにより、トップレベル
エストのスナップ留めループはパタゴニアのマウ
のマウンテンバイク用ショーツとしてのすべての
ンテンバイク製品に共通のデザインで、そのコレ
特質は備えながら、上品な装いにより、社交の
クションを構成するすべてのスタイルと同様、こ
場でもトレイルにいるときと同じくらい有能。し
のショーツとライナーにもフェアトレード・サー
なやかながら頑丈な素材は擦ってもコーヒーをこ
ティファイドの縫製とリサイクル素材を採用して
ぼしてもへっちゃらで、パンチの効いたライドで
います。
は通気性と伸縮性を発揮します。フックとウェビ ングで調節可能なウエストバンドはヒップベルト のじゃまにならず、ライナーのパワーメッシュ製 パネルと3 層構造シャモアパッドのおかげで股間
メンズ・ダート・クラフト・バイク・ショーツ ¥22,000(税込) I 24579 I 28-40の偶数サイズと31, 33 I レギュラー・フィット I 329 g (11.6 oz)
ダート・クラフト・ バイク・ショーツ
〔右〕グースベリー・メサの断崖を たどるクラシック、サウスリム・ トレイルの縁を進むエリオット・ ミルナー。これはこの地域独特の メサ(卓状台地)の上にくねくねと 走る何十ものトレイルのひとつで、 この谷のすぐ反対側にはアメリカで 最も傾斜がきつく困難で危険とも 言われる「フライング・モンキー」 がある。ユタ州 Fredrik Marmsater
44
最も
明らかな
ライン
〔前の見開き〕ルーク・ネルソンいわく、「ワサッチ・ アルティメット・リッジ・リンクアップ」でのルート ファインディングはそれほど難しいわけじゃない。 『どこに向かうべきかわからないときは、尾根に 沿って行け!』というジャレド・キャンベルの アドバイスにしたがっただけ」 Jared Campbell
地平 線 から 一筋の日の出 の光が
words ルーク・ネルソン
漏れるなか、僕はモンテ・クリストの麓へとでき
して確立されたのは 2004 年、ジャレド・キャン
るかぎりの速度で進んだ。ルートで最も技術を要
ベルがはじめて麓の街から一気にその完走を遂げ
するセクションのひとつに差しかかると、千メー
たときだ。ジャレドがある午後の「ひと走り」でそ
トル以上眼下の道を車のヘッドライトがゆっくり
の北側の稜線で絶景が得られる、と教えてくれた
となぞっているのが見え、朝の風が吹きはじめた。
ことがある。僕もいつかこのルートを完走してみ
腕時計のタイマーをセットしてファーガソン・キャ
たいと思ったが、当時はまだ心構えができていな
ニオンの暗闇へと足を踏み出したのは、ほんの
かった。
4 時間ほど前のことである。そしていま頭上数十 メートルには、モンテ・クリストの垂直の壁がそ びえ立っている。つい数週間前に偵察で走ったと き、数百メートル下を見て恐怖感に打ちのめされ たのは、まさにこのセクションだ。衝上地塊の侵 食、花崗岩の貫入、先カンブリアン紀の堆積岩に よって形成された地形。けれども今回はそのとき とは違って落ち着いていた。このラインは簡単そ うで、吹きさらしの状態もさほど劇的には思えな かった。数分でなんとかこのセクションを切り抜 け、山頂にたどり着くと、頂上にいた 2 人のハイ カーをギョッとさせた。 「どこから来たんだ?」と 聞かれ、僕はガレ場を登り終えて走る体勢に移り ながらふくみ笑いをした。 全長約 58 キロメートルの「ワサッチ・アルティ メット・リッジ・リンクアップ(WURL)」は、ソル トレイク・シティ近郊にあるリトル・コットンウッ
僕にとってこのルートは、長年山を走ってきた 経験の集大成を意味した。距離的には完走でき る自信があったが、10 年以上前に起きたクライ ミングでの事故で、吹きさらしの場所で恐怖感を 抱くようになった僕は、正直言ってガレ場登りを ともなうセクションは怖かった。だから数年前に 「WURL」に挑戦しようと決意したとき、このルー トに備えるにはかなりの精神的トレーニングが必 要だとわかっていた。先輩や友人たちとこうした セクションでの訓練をたくさん重ねながら、恐
僕たちはつねに社会が解決不可能 な挑戦の連続に直面している ような時代に生きている。
ド・キャニオンの稜線をたどる U 字型のルートで ある。街の端にある区域がスタート地点となるこ
怖心を抑えるのではなく、それとどう向き合うか
のルートは、細い帯のような岩だらけの稜線まで
を学んだ。次第に僕はルートの 50 パーセント以
一気に1,830 メートル以上も急上昇する。
上を占める、風が直撃するその地形にも慣れて
これはトレイルランニングのコースではない。
いった。
むき出しの崖錐を延々とよじ登ったり飛び跳ねた
「WURL」のようなルートは興味深い挑戦でも
りしながら、少なくとも 21の名前のついた峰と
ある。それは企画されたレースとはまったく異な
無名の数峰の頂という難関を含むものだ。地図
り、スタート時間も設定されていなければ、順位
上では明らかなラインに見えるこのルートは、数
を争う大勢のランナーもいない。むしろこうした
十年ものあいだ登山家やバックカントリースキー
山岳ルートは自分の規律にしたがって自分のスタ
ヤーを魅了してきた。これがランニングルートと
イルで走るものであり、ランナー同士で共有する
〔左〕 「WURL」のためのトレーニングは、他のトレイル レースに備えるのとは異なる。そもそもランニングルート ではないため、ガレ場や崖錐を登る冒険に加え、むき出し の地形もふんだんに盛り込まれている。 Jared Campbell
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知識以外は自分自身で解き明かしていくものだ。走っている瞬間に存在する
前進する道を探すのは困難ということもあるだろう。けれどもこれらの挑戦
のはその地形と自分のみ。それは自分自身を探求する時間となり、肉体的な
は僕たちにとって袖をまくり上げ、必要な仕事をやり遂げる人間となるため
疲労困憊を迎え、精神的な挑戦が立ちはだかるときに何が起こるのかを目撃
の素晴らしい機会ともなる。僕は「WURL」のために明確でハードルの高い
する。未知の世界に踏みこみ、可能性を再定義することもできる。もちろん
ゴールを設定し、断片的な要素をつなぎ合わせるように準備をしてきた。こ
そこには競走の要素は存在するし、自己または他者の記録を破ろうとすると
れはいま、まさに必要とされていることと同じである。情熱的なダートバッ
きは、とくに顕著となるだろう。しかし、そうした記録でさえ大した意味は
グから成る僕たちのコミュニティは、まさにこのような仕事に向いている。
ない。僕が「WURL」の最速記録を出して 1か月も経たないうちに、ジョー
僕たちはつねに不可能な道に真っ向から挑戦しているからだ。核心のピッ
イ・カンパネリが 20 分近くも速い記録で打ち破ったからだ。
チを登ったり、身の毛もよだつようなラインを滑ったり、最大の波にパドル
「WURL」を走った数週間後のグローバル気候ストライキ週間に、僕は全 国から集まった若者たちと一緒に肩を並べ、国会で上院議員や下院議員、そ して彼らのスタッフと会う機会を得た。移動中の飛行機で走ったルートにつ いて振りかえり、どんな準備が必要だったかを考えた。 「WURL」での経験 は、このような他の闘いにも通用するように思えたからだ。
アウトするために何をすべきなのかを知っている。状況が変わっても僕たち が毎日していることは同じだ。恐怖に呑み込まれないようになるまで恐怖を 乗り越える訓練を重ねる。同じ原理と情熱をアクティビズムや僕たちの生き 様に当てはめれば、僕たちの目前に立ちはだかる問題への解決策を発見し、 実践することができるはずだ。
僕たちはつねに社会が解決不可能な挑戦の連続に直面しているような時 代に生きている。地域的な紛争から世界的な大惨事まで、すべてが挑戦だ。
〔上〕このリンクアップに出発する前に、ルーク・ネルソンは各セクションでの訓練を重ねた。 そのいくつかを何度も走り、技術を要する地形を単独で(場合によっては暗闇のなかで) 移動することに慣れたのを確認した。 Jared Campbell
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ルーク・ネルソン はパタゴニア・トレイルランニング・アンバサダー/アクティビスト。
〔右〕このルートを完走した直後のルーク・ネルソン。「長年の準備と何か月もの努力の集大成が 山で実現した、素晴らしい 1 日だった。感無量で、至福に満たされた」 Drew Petersen
ハイ・ エンデュランス・ キット
ランニング用パックを身に着けたことのある人
急降下するような、天候と気温の変化をともな
は、行動中にレイヤーを着替えたり必需品へア
うランニングを想定しています。
クセスすることが、いかにイライラのたまる場 面となり得るかもご存知のはず。そこで私たち
この キット の 中 核 を 成 すの が スロ ープ・ラン
は、止まったり動いたり、そしてまた止まった
ナー・エンデュランス・ベストで、ウェアのよう
り、を何度も繰りかえす要因となっていたそん
に体にフラットにフィットし、何を運ぶかによっ
な問題を解決すべく、一体型のシステムとして
て調節できるようデザインされました。
機能するハイ・エンデュランス・キットをデザイ ンしました。それはとくに夜明けから日暮れま
キット の 外側を固める超 軽 量な 3 層 構 造 のス
で1日中全力でガレ場を走り、腿に手をつきな
トーム・レーサー・ジャケットは、緊急 対 策に
がら山を登り、尾 根をトラバースしてまた坂を
最適な防水性シェル。革新的なダブルジッパー
ストーム・レーサー・ ジャケット
+
スロープ・ランナー・ エンデュランス・ ベスト
〔右〕ツェルマットのすぐ北で、 ヴィア・ヴァレーに積もった雪 へと突進するルーク・ネルソン とクレア・ギャラガー。スイス Dan Patitucci
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スロープ・ランナー・エンデュランス・ベスト
メンズ・ストーム・レーサー・ジャケット
¥17,600(税込) I 49515 I XS-L I 175 g (6.2 oz)
¥36,300(税込) I 24111 I XS-XL I スリム・フィット I 198 g (7 oz)
のデザインはベストの下にではなく上から着用する
キットの下半身を構成するのはショーツとパンツで
ことが可能で、行動を停止することなく水や食料に
す。エンドレス・ラン・ショーツは物を 運 ぶために
もアクセスできます。天候が回復して風が止んだら、
ギアが増えることを最小限に抑え、キットを最適化
このジャケットはまた必要となるまでスロープ・ラン
するためにデザインされました。複数のポケットと
ナーのポケットに収まります。
洗練されたフィットを備え、両脇と後部に付けたポ
ハイ・ エンデュランス・ キット
ケットは、パック内の多数の小物を配分しながら揺 着たままで最も長い時間を過ごすことを想定した上
れを抑えます。寒いときや早朝のウォーミングアッ
半 身のレイヤーが、超軽 量で通 気性に非常に優れ
プには通 気性を 備 えた 軽 量なレイヤー、ストライ
ながら風を遮るエアシェッド・プロ・プルオーバー。
ダー・プロ・パンツがおすすめ。ストレッチパネル
ベンチレーションに効果的な長めのジッパー、ぴっ
を施した裾はスナップで留められ、シューズの上で
たりとフィットするフード、手までカバーする長袖を
も脱ぎ着が容易で風や天候から脚を守ります。
備えています。
スロープ・ランナー・エンデュランス・ベスト エアシェッド・プロ・プルオーバー ストーム・レーサー・ジャケット エンドレス・ラン・ショーツ ストライダー・プロ・パンツ
エアシェッド・ プロ・ プルオーバー
+
エンドレス・ ラン・ ショーツ 〔左〕暖かい気温に戻るため の長い下り(と予期せぬ上り) に取りかかるルーク・ネルソン とクレア・ギャラガー。 スイス、ヴィア・ヴァレー Dan Patitucci ウィメンズ・エンドレス・ラン・ショーツ(11cm)
ウィメンズ・エアシェッド・プロ・プルオーバー
¥8,800(税込) I 24875 I XXS-XL I ぴったりとしたフィット I 119 g (4.2 oz)
¥18,150(税込) I 24196 I XS-XL I スリム・フィット I 128 g (4.5 oz)
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FALL 1989 シシャパンマの氷河の上を行く ジョルジオ・ダイアドラ。チベット Didier Givois パタゴニアはいつの時代にも、 スキーリフトではなく、人力に頼る アスリートを称賛していました。 ここで即席の日除けをまとい、 フリーヒールを披露するジョルジオ は、私たちが何よりも愛する自力の 飽くなき冒険を体現していました。 社員のなかにはこの写真を休暇 の過ごし方の好例として職場の デスクに飾る人もいました。
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ある 思いも寄らない 人生 ジェニファー・リッジウェイ (1
9 4 9年 生 – 2 0 1 9年 没)
ジェニファー・リッジウェイが 70 歳の誕生日を
ファーは祖父母がダストボウル(1930 年代にアメ
目前にして癌で亡くなったのは、昨年の秋のこと
リカ中西部を襲った砂嵐)の時代に農園を営んで
でした。彼女はパタゴニアの創業メンバーであり、
いたオクラホマ州で生まれ、彼女の両親はオクラ
35 年ものあいだ私たちの社会に欠かせない不変
ホマ州レトロップやオレゴン州ポートランドで教員
の存在でした。彼女の夫リックはパタゴニアのグ
として働きました。ジェニファーは高校時代から
ローバル・アウトリーチを指揮し、彼らの 3 人の子
ファッションモデルとして働き、大学では心理学
どもたちのうち 2 人もパタゴニアに勤務していま
の修士号を取得。のちにニューヨークでカルバン・
す。ジェニファーはイヴォン&マリンダ・シュイナー
クラインの高級志向の顧客を対象に展示販売会の
ドのよき相談役であり、彼らの子どもたちにとって
企画に携わる仕事に就きました。彼女がカトマン
は叔母同然でした。ジェニファーの後任者となっ
ズの「ヤク&イエティ」という名のホテルでリックと
たジェーン・シーバートは、彼女が多くのパタゴニ
出会ったのは偶然のことで、彼にベンチュラへと
ア社員にとって「スピリチュアルな母的存在であり、
招待され、それが結婚、そして創業まもないパタ
禅マスターでもあった」と言います。
ゴニアでの仕事へとつながっていきました。
パタゴニアの初代アートディレクター兼写真編
何年も前に写真編集者を引退したジェニファー
集者として、ジェニファーはイヴォンとともに「パ
ですが、その後も非公式の見守り役として、パタゴ
タゴニアのイメージ写真」を確立しました。カタロ
ニアのカタログや書籍のトーンや真正性について
グ上でウェアをまがい物のように表現していた当
アドバイスをつづけていました。彼女はマリンダと
初のぎこちない試みをすべて払拭したのです。そ
ともにキッズ製品ラインと社内託児所の立ち上げ
のスポーツに関してまったく無知である著名な写
にも関わりました。自立心とリスク負担を一方に、
真家に、彼らが訪れたこともない場所で、その決
相互依存と協力をもう一方に掲げるという、一見
定的瞬間をとらえてもらおうとするのではなく、カ
矛盾する価値観を重視したこのプログラムは、彼
メラの使い方を知っているダートバッグ族を育て
女の 3 人の子どもたちが卒業し、現在 4 人の孫た
たのです。そしてそんな輩たちの多くは、ジェニ
ちも通っているものです。ジェニファーはまたパタ
ファーが授けた簡潔なルールを手に素晴らしい経
ゴニア・ブックスの 2 冊の書籍の生みの親でもあり、
歴を築いていきました。彼女は撮る人も予期して
1 冊は社内の託児所に関する本、そしてもう 1 冊
いなかった、思いがけずも説得力のある 1 枚を選
はパタゴニアの名選写真集として出版されました。
び抜くことのできる慧眼の持ち主でした。それは クライマーやサーファーがスポーツに取り組んで いる場面だけでなく、農家や音楽家、野鳥調査員 などの活動にまで及びました。
ジェニファーと働くことを経験した私たちは、彼 女の素っ気ないながら優しい声、ユーモア、真実 と美に対する洞察力を忘れません。彼女の感性を 映し出す写真のいくつかをこのカタログのあちこ
パタゴニアでジェニファーが築き、何十年以上
ちでご紹介していますが、それはパタゴニアの歴
もつづけた職務は、もっと若かったころの彼女自
史を綴るページの随所でもご覧いただけることで
身には思いもよらないことだったでしょう。ジェニ
しょう。
ジェニファーとリック・リッジウェイ、ファリア・ビーチにて。1981 年 Lear Levin
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words and photo ベス・ワルド
カタログの 見開きに載せる とても大きな パノラマ写真を 欲しがっていたジェニファーは、そのた
や考え方が変わりはじめたことに気づき
めに私が大型カメラをレンタルすること
ました。私の写真がスポーツから野生美
に同意してくれました。かさばって扱いに
へと進化した、その基礎を築いてくれた
くかったその代物は、標準の 35mm カ
のは彼女です。やがて私は自然 界の破
メラよりもずっと大きい175mm のネガ
壊によって日常生活に影響を受ける人び
やスライドを撮影できるものでした。私
とについて記録するようになりました。
はそれをカナダでのアイスクライミング の撮影で、ほぼブリザード状態の氷瀑の 上で宙吊りになって使いました。5 枚か 6 枚撮影しただけでロールフィルムが底 を尽きたのを覚えています。それを交換 しようと苦戦していると雪の塊がどさっ と私の頭上に落ちてきて、その怪物カメ ラの背中の開口部に詰まってしまいまし た。撮影はそこで終了となりました。
駆け出しのころを振りかえると、ジェ ニファーとの仕事が私にとっていかに重 要だったかを思い出します。彼女は写真 家の個性を評価しながら、その領域を広 げるように挑戦させました。彼女と話を していると、本当に耳を傾け、集中して くれているのがわかりました。ちょっと 逆説的に聞こえるかもしれませんが、衣 料品会社のために写真を撮影することで、
そのカメラを引きずって、私はその他
私は多くの意味で、フォトジャーナリス
にもたくさんの遠隔地へと赴きました。
トとして成長することができたと思いま
ワイオミングの野生の川でカヤックによ
す。そしてそのすべてはジェニファーと、
る初下りを撮影したり、インディアン・
ジェーン・シーバートやスーズ・コレスを
クリークで赤い岩が果てしなく広がる荒
はじめとする彼女のチームのおかげです。
野をとらえたり。そのカメラの使い方を
このような女性のグループと働くことは、
完全に習得したわけではありませんでし
当時では本当に稀でした。ジェニファー
たが、ジェニファーの指導のおかげで、
はいつもそこにいて、私が自分の道を見
風景と私たちのつながりについての見方
つける手助けをしてくれました。
MARCH 2020 サルト・グランデの上にある急流。 パタゴニア、トーレス・デル・パイネ 国立公園(2003 年撮影)
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スミソニアンに依頼された主要なプロジェクト を完成させるため、アフガニスタン、アマゾン、 ネパールなどへ遠征しました。それでも世界 の果てはベスを呼びつづけ、そこで彼女は
クライマーとして南米パタゴニアをはじめて
見慣れた風景を新しい方法でとらえるという
訪れたベスは、のちにその極氷をトレッキング
技術を磨きました。山々はあまりにも壮大で、
するために再訪。その旅で撮った写真の
たいていはフレームに収められることを拒み
いくつかをジェニファーとともに出版した
ます——ここではじめて発表されることと
彼女は、その後ナショナルジオグラフィックと
なった、この写真のように。
words ジョン・ラッセル
ジェニファーは とても上品な 女性でしたから、 それとは裏腹に冗談好きだった事実には多くの人が驚いたのでは ないかと思います。彼女にはいたずらなユーモアのセンスがありま した。そして彼女は私の知るかぎり最もプロフェッショナルで、同 時に最もアンプロフェッショナルな人でもありました。つまり、と てもリアルな人だったんです。はじめてベンチュラを訪れたとき、 私は彼女とリックの家にお世話になりました。パタゴニアはケチ で客を従業員の家に泊まらせていたんですね。そのとき、ジェニ ファーの娘が吐き気を催したかと思うと、私の体中に吐き散らす ということがありましたが、皆それを見て、ただただ大笑いしてま した。それよりもジェニファーは私が腿にワセリンを塗りたくって いたことの方を気持ち悪がっていたと思います。当時の私はちょっ と太めだったので、彼女からもらったバギーズをはくと腿が擦れた んです。私たちは互いの違いを笑い合うことができる間柄でした。 そこでの私のイメージはいつも、ニヒルな登山家たちに囲まれた 元バプテスト信者というものでした。 パタゴニアが写真代を支払ってくれなくても、素晴らしい人間関 係を築くという報酬がありました。それは知らないうちに人をつな げるという、ジェニファーの人柄によるものでもあったと思います。 そのおかげで、彼女のような友人が紹介してくれた人たちと築い た関係、つまり真の財産を得ることができました。 忘れてはならないのは、パタゴニアには強い意志をもった人が つねにたくさんいるということです。なかにはエゴの強い人もいま すが、皆がシチューの材料のように一緒くたになっています。ジェ ニファーはそれがひとつのものとして完成するように、そのルーを かき混ぜるシェフのような存在でした。大きな家族のように、皆 がそれぞれの役割を果たせるように、惜しみなく手を差し伸べる のが彼女でした。ちょっとカルトっぽく聞こえるかもしれませんが、 それが愛というものではないでしょうか。
Spring 1986 ピート・ポーキュパインと、野生動物ファッション フォトグラファーのジョン・ラッセル。 Tony Bell ジョンは高級ホテルやウィンブルドン選手権の撮影のために 高額で雇われるのが普通でしたが、パタゴニアにはヤマ勘で 写真を投稿していました。この写真は、ジェニファーの注意 を引くことを狙った彼が、死んだばかりのヤマアラシに ウェアを着せ、友人トニーの助けを借りて撮った不朽の名作。 これを採用したジェニファーは、その拡大写真を自分の デスクの横に飾りました。
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べし/べからず集
最初の試みは、大失敗でした。1970 年代後期
は、それを撮った写真家や共有すべき写真を提
のクライミング用ツールのカタログにウェア製品
供してくれた興味深い人びとに製品のサンプルを
を加えたとき、私たちはそれをモデルに着せて
送りました。やがて彼女はこの冗談めいた「べし
カメラに向かって微笑ませ、手をつないで山の
/べからず集」を含む、写真のガイドラインを発
草原を歩かせたのです。それはただただ不自然
表しました。しかしジェニファーは熱心な投稿者
にしか見えませんでした。そこで1981年秋には
たちにこれを読むよう奨 励しながらも、E・B・
他の方法を試すべく、スタジオで撮影したウェア
ホワイトが作家のために書いた次の助言を引用し
の製品ショットと、実際に活動している実在の人
ました。「スタイルとは、構成の原則よりも、心
びとの写真(そこではウェアは付随的なもの)を
構えから形作られるものである」 またパタゴニ
組み合わせてみました。それはうまくいき、ジェ
アにふさわしい写真とは、技術的な巧妙さよりも
ニファー・リッジウェイのおかげでそれ以来ずっ
「正しい心構え、正しい精神、正しい体現」が重
とつづけています。投稿された写真の山のなか
視される、とジェニファーは語りました。
から光る作品をみずから掘り出したジェニファー
YES
NO
高地で鳥を狩る猟師 流浪の民 マウンテンランナー 配管工 小さな田舎宿 ラグビー選手 フォルクスワーゲンのバン クロスカントリースキーヤー 内海航路フェリー 艤装を操る人
ビッグゲームハンター サバイバリスト ジョガー エンジニア クラブメッド フットボール選手 キャンピングカー ホットドッグスキーヤー 豪華客船クルーズ 偽装を操る人
WINTER 1991 スピッツベルゲン島でのシーカヤック遠征中、 北緯 79 度/東経 12 度の地点に立つ フレデリック・ピノ。コングスフィヨルド Jean-Bernard Collas ジェニファーは長年、あるフランス人夫婦にサンプル を送りました。教員だったジャン=ベルナールと フレデリックは夏休みを最大限に利用して探検に 費やし、それを見事に反映させた写真をたびたび 送ってはジェニファーの期待に応えました。
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words and photo リンダ・デュフュレナ
明確に覚えて いるのは、 ジェニファーがとても素敵な声の持ち主だったことと、電話をくれ るときはいつも必ず礼儀正しかったこと。そんなに近しい間柄だっ たわけではないのに、すぐに古い友人から電話をもらうような気分 になりました。 彼女から被写体の指定をしてくることは決してありませんでした。 服をいくつか送ってくれるだけ。私はそれを持っていき、皆に自由 に選んでもらいました。とくに振り分けもせず、ただ好きなものを 着てもらうだけでした。 ただし 1 回だけ、もしかしたら 2 回あったかもしれませんが、撮 影のためのセッティングをしたことがあります。あるイメージが湧 いて、年配の友人に赤いバンダナ姿でバイオリンを持たせました。 それが採用されたかどうかは覚えていません。あとはすべて、皆が 1 日中働きながら過ごす様子を撮っただけで、それがジェニファー の望むものでした。私は撮った写真を送り、彼女がその中から選ん だわけですが、最終的にはいつも私たちの意見は一致していました。 ジェニファーは私たちがここで送る生活そのものに興味をもってく れていたのです。
Spring 1988 焼印のシーズンは雨の直前に訪れる。ザッカリー・ デュフュレナ、パイユート・メドウズ牧場にて。ネバダ州 ジェニファーはカウボーイが大好きでした。この男の子は 旅先でポーズを取っているわけではなく、正真正銘の カウボーイとして生まれ育ちました。お爺ちゃんが所有して いたウィネマッカの北西部の人里離れた牧場で、お母さん は馬に乗って放牧をしたり、羊のお産を助けたり、牧場で 働く皆に夜明けからパンケーキを焼いたりしたそうです。 この写真を撮ったお婆ちゃんのリンダは、アメリカ西部の 風景を専門とする著名な写真家でもありました。
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words and photo ジョン・シャーマン
俺が パタゴニア に売った 最初の写真は、オーストラリアでのお気に入りのロード トリップで撮ったものだった。それはハワイアン・シャ ツを着た男らしいクライマーがオーバーハングしたほ ぼブランクな壁をフリーソロしている写真で、明らかに 困難な次のムーブを検討しながらビールを飲んでいる ものだった。 手元に正確な数字があるわけではないが、俺はあ の写真がイヴォン・シュイナードをキャットフードの食 通から億万長者に変身させたに違いないと確信してい る。だがあの写真の男はその後一体どうなったのだろ う。ヤツはこの貢献により一生楽に暮らせる金を手に したのだろうか。しかしあれから 20 年以上も経ってい るというのに、その男はいまだにバンのなかで生活を している。どうしてそれを知っているのかって? なぜ ならその男は俺だったからだ。
Spring 1988 「ロード・オブ・ザ・リング」でクーパーズのベスト エクストラ・スタウトを楽しむジョン・シャーマン。 オーストラリア、アラプリーズ これは、ジェニファーとパタゴニアに新たな厳しい お叱りの手紙を殺到させることとなった 1 枚です。 巷の都市伝説に反して、この写真は加工された ものではなく、登攀もビールも本物でした。
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words and photos ジミー・チン
アウトドア 写真界に、 ジェニファーが与えた影響力は計り知れません。私や同業仲間のように写真 家として成功した者にとっては、私たちの誰もが達成しようと励むことに対し ての展望を与えてくれたのは、彼女がもっていた本物を見極める審美眼、そし てユーモアや皮肉のセンスです。ジェニファーの感受性が多くの写真家を育て たのは事実ですが、彼女の影響はその域をはるかに超えています。世界がア ウトドアコミュニティと私たちのこよなく愛するその文化に触れ、つながるた めの道を開いたからです。その感受性はいまも生きつづけ、彼女の影響力は 間違いなく未来の世代にも及ぶことでしょう。私はジェニファーとともに旅し、 野心や人生や人間関係について語り合う日々をたくさんもったことを幸せに思 います。彼女には写真以外のことにも意見を求め、長年のあいだに私たちが 共有した会話は永遠の宝物となるでしょう。彼女のご冥福を心よりお祈りしま す。空を見上げ、ジェニファーが先見を、そしてあの微笑みを共有してくれた ことを感謝しましょう。
1998–2017 上段: 〔左〕ヨセミテ・ フォールズ・ウォールの 大胆なルート「フリー ストーン」を登るケイト・ ラザフォード。
中段: 〔左〕エル・キャピ タンを登攀中のクライマー をエルキャプ・メドウから 眺めるリビー・ソーター。
〔中央〕2003 年にエベレ 〔中央〕2004 年、ジミー・ ストのベースキャンプを チンはリック・リッジウェイ 訪れた際、スティーブン・ とコンラッド・アンカーと コークはロンブク氷河の ともにチベット北西部で 上に形成されたこの氷塔 チルーの移動を追跡。この を登らずにはいられな トレッキングの旅により、 かった。 野生生物保護活動家の 〔右〕 「ドーン・ウォール」 ジョージ・シャラーは中国 に挑んで 3 年目のトミー・ にチルーの保護区の設立 コールドウェル。 を説得することとなった。
下段: 〔左〕1998 年頃の ジョシュア・ツリーでの、 クライミングバムたちの 伝統的な感謝祭の過ごし方。 〔中央〕ブリティッシュ・ コロンビア州ベラ・クーラ 郊外で、初滑降を控えた カイ・ピーターソン。 〔右〕公式会見。2017 年 3 月 15 日にプマリン公園を チリに寄贈したクリス・ トンプキンスと、それを 受け取った当時のチリ 大統領ミチェル・バチェレ。
〔右〕チリの水域で映画 『180º South』の撮影隊と ともに。 ジェニファーが格別に喜びを感じながら見守っていたのは、「パタゴニアの写真家」たち が自分流のスタイルを見出し、その領域を広げる姿でした。キャンプ 4での生活を とらえることからすばやく成長したジミーは、 『MERU /メルー』をはじめとする劇場 映画製作にまで躍進。やがてヨセミテ・バレーに戻った彼は『Free Solo(フリーソロ)』 でアカデミー賞を受賞しました。
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Winter 1989 羊のスピードスキー世界記録を 達成寸前のラムチョップ・ダグ選手。 Gary Bigham 私たちは、この世界記録保持者の 本名をいまだに知りません。ですが、 彼(または彼女)はジェニファーの 大家族のなかの唯一の「黒い羊」 ではありません。
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気候 危機
は
人間の 問題 74
75
いまから 30年前、
私は最初の著書『The End of Nature』を出
様な時世の核心である不公平に推移していくのを目にするのは
版した。これは当時「温室効果」と呼ばれてい
じつに頼もしい。
た問題に関するはじめての一般向け書籍でも
あった。そしてそのころの私の最大の懸念は……自然だった。
が気候変動の現実である。また大気中に大量の炭素を排出し
た。かろうじて計測できる程度で、我が国にはじめて環境危
た世代はその影響を十分に受ける前に死に、これは次世代に
機の注意を喚起した NASA の偉大な科学者ジェームズ・ハン
対しての不公平を意味している。それゆえ、この運動を率先す
センでさえ、 「一般人」が温暖化を実感するのは10 年先だろう
るのは、気候変動の影響を真っ先に受ける地域の住民や先住
と強調した。それゆえ当時は気候変動が私たちの世界観にど
民、そして若者なのだ。
るかに焦点をおくのは道理にかなっていた。当時アメリカ東部 の原生地域アディロンダック山地に住んでいた私は、この素晴 らしい場所が変わりはじめているのに気づいていた。突如とし て、どんなに遠隔地であっても人の気配を感じない場所がなく なっていた。それは哲学的に見て悲しいことだった。連邦政府 が制定した1964 年の原生自然法(Wilderness Act)はこの ような場所を「その土壌およびそこに生息する生物は人間に制 約されず、そこでは人間は訪問者であり、居残ることはない」 と定義している。しかし、もはやそんな場所はないことは明ら かだった。 そしてときが経つにつれ、気候変動と闘う、より深刻で緊迫 した理由があることがわかってきた。 約 20 年前、私は取材でバングラデシュを訪れた。ヒマラヤ
〔右〕2019 年 9 月 20 日、 シアトルに集った 1 万人 もの同志たち。若い活動家 たちが先導したこの気候 ストライキを支援したパタゴ ニアは、「絶滅に直面して」 という異例の世界的広告 キャンペーンを発動した。 Austin Siadak
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その不公平の一部は人種や場所に現れており、気候変動へ の加担が少ない者ほどその影響をより早く実感する、というの
1989 年、地 球 温暖 化はまだ 理 論上の危 機にすぎなかっ
んな影響を与えているか、私たちが抱く野生感をどう変えてい
〔前の見開き〕解けつづける ヒマラヤの氷河と悪化する モンスーン(人為的気候変動 の兆候)のせいで、冠水下 の通行を迫られる人びと。 インド、ビハール Joerg Boethling
words ビル・マッキベン
とくに、非常に若い人たちだ。9 月 20 日に世界各地で実施 され、その後の毎週金曜日につづけられているグローバル気候 ストライキは、中学生と高校生、そして少なからずそれに加わ る小学生の努力が根底にある。私はグレタ・トゥーンベリをは じめ、あらゆる大陸で立派な任務を遂行する多くの若者たちと 知り合いになった。彼らは真に希望を抱き、世界中の人びとの つながりを深く認識している。彼らは危機を理解し、また協力 し合うことに長けている。 そのおかげで彼らは環境保護活動の暗部に陥りにくく、たと えば、特定の場所だけを重視して守ろうと壁を作って他者を締 め出す、というような考えに屈服しにくい。ある種の自然崇拝 にみられるそのような後退的かつ国粋主義的な性質は、ドイツ のファシストに遡る。しかし、気候の科学に関してわかってい るかぎりでは、そのような考えは当てはまらない。
山脈の急速に解ける氷河により、海面や川が上昇しているのを
科学はすべてが連結していることを100 パーセント明らかに
見た。しかしとくに目に留まったのは、同国初のデング熱の大
している。地球にはひとつの気候系があり、ある場所で放出さ
流行で人びとが死んでいく様子だった。これは地球の温度と湿
れた炭素はあらゆる場所を温める。温暖化が進むにつれて、そ
度の上昇にともなって生息範囲を拡大していく蚊によって広が
の影響はいたるところで感じられる。石油産業の中心地ヒュー
る病気だ。かなりの時間をスラム地区で過ごしていた私もつい
ストンでさえハリケーン・ハービーの直撃によってアメリカ史上
に蚊に刺され、それまで経験したことのないひどい症状をき
最大の暴風雨に見舞われた。
たした。そもそも強く健康だった私は幸い一命をとりとめたが、 ダッカでは多くの人びとが死んだ。私はその様子を目の当たり にしながら、ここの住民はこの苦境を引き起こすようなことは 何もしていない、という事実にこだわりはじめた。バングラデ シュの炭素排出量は世界規模のデータ上ではほんの誤差ほど に過ぎないのだ。 旅から帰ると、私は「おもに執筆家」から「おもに活動家」
ヒューストンで最も被害に苦しんだのは、もちろん、そして いつもながら、最も貧しい人たちだった。それゆえ気候変動に 対する運動は、何にもまして結束に焦点をおくことが非常に重 要なのだ。 「グリーン・ニューディール」は共通の未来のために 誰もがこの闘いに参加する機会を提供する。気候ストライキは すべての大陸の老若男女に地球規模の闘いへの参加を呼びか けている。気候変動との闘いは人道的な移民政策の努力と融
へとみずからの進化をはじめた。 〈350.org〉などの団体を組
合する。自分たちが引き起こしたのではない旱魃のせいでグア
織し、拘置所に送り込まれることにもなったが、気候変動に対
テマラの人びとが農場を去らなければならない場合、その答え
する運動が発展するにつれて、その焦点が歴史におけるこの異
を収容所や壁にすることはできない。それを訴えた私は最近、
自分たちが引き起こしたのではない旱魃のせい でグアテマラの人びとが農場を去らなければ ならない場合、その答えを収容所や壁にする ことはできない。 拘置所に入れられた。かつて自然のために闘った
長であったとすれば、21 世紀の核心は生き延び
いかもしれないが、だからといってホッキョクグ
のと同じ場所、アディロンダックで。しかし今回
ることだ。
マはどうでもいいということではない。すべてが、
は我が国の移民政策の不公平を訴える抗議行動 をしていた。気候変動によって世界の人びとが移 動を強いられるとき、アメリカが提供するのは壁 と収容所だけという政策は許されない。気候政 策は移民政策であり、貧困政策でもある。気候 は問題そのものではなく、経済、政治、外交を理 解するためのレンズなのだ。20 世紀の基盤が成
もちろん自然も大切だ。気候変動の驚くべき不 公平は地球上のすべての生物に及ぶ。ある種のご く一部による無謀な行動が大量絶滅の引き金とな
そして誰もが、重要なのだ。私たちがこの最も危 険な時代を生き延びることができるのは、結束す ることによってのみかもしれない。
り、地球の遺伝子の大部分を奪い取る。怒りと 悲しみが込み上げるのも当然だ。太平洋に沈み つつある島民にとっては、不思議と脚光を浴びる ホッキョクグマは気候危機の最適な象徴ではな
ビル・マッキベン は最新作『Falter』をはじめとする 複数の書籍の著者。 〈350.org〉を創設し、気候変動に 対する草の根運動を展開している。
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重要な
コットンの 実験
これは、 検 証です。 農期の後半を迎えた畑では、白い綿 花があたりに
農 法の実 践です。パタゴニア初のリジェネラティブ・
点々と現れはじめます。この農場では、通常なら単一
オーガニック認証・パイロット・コットンを育てるために、
作物が整然と並んでいるだけの畝のあいだにも植物が
私たちはインドにある150 件以上の農場と提携しまし
育ち、鮮やかな色の美しいサリーを着た労働者たちが
た。これは、この種のものでは初の試みとなる実験で
手作業でひとつひとつ作物を点検しています。インドは
した。
世界最大のコットン生産国で、その産物にはオーガニッ クコットンも含まれます。しかしこの農場の様子が他と 異なる理由は、それが検証の一部となっているからで す。その検証とは、私たちのウェアを育てる方法を変え るための試みです。
健全な土壌は炭素を封じ込めるため、この農法は他 の農法に比べて温室効果ガスを削減する可能性があり ます。つまりリジェネラティブ・オーガニックの実践に 切り替えることで、私たちは農業システムを、問題から 解決策に逆転させることができるかもしれません。オー
工業的な技術や有害な化学物質を用いての食物や繊
ガニックの最高基 準となるリジェネラティブ・オーガ
維の生産は、たった1世紀あまりのうちに地球の気候
ニックは、人間と動物がひとつになって大地の健康を
に大打撃を与えました。そこで私たちがより良い方法
回復させ、色彩と活気に満ちたこの農場のように、明
だと信じているのが、気候変動の阻止に役立つ可能性
るい未来を生み出す後押しをします。
を秘めている「リジェネラティブ・オーガニック(RO)」
〔右〕リジェネラティブ・オーガニック 認証・パイロットの一端として作物 を育てる 150 件以上のインドの農場 のひとつで、綿の木を点検する女性 たち。この認証を通して、農家は 生産するコットンに対する賞与を 受けている。 Avani Rai
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words レイチェル・ホーン
〔前の見開き〕インドにあるこの農場は、 私たちのウェアの素材となるコットンの 栽培方法を変えるための検証の一環。 大地、そしてそれを利用する人間と動物 を尊重し、最終的には気候変動の阻止 に役立つ健全な土壌を育むことがその 狙いである。 Avani Rai
〔右ページの右上〕綿の木とそのあいだに 植えられたウコンや唐辛子の世話をする ミングラシン・デーヴァ・シンガッド。 こうした間作物は収入の足しにもなる。 インド、サトゥルディ 〔右ページの左下〕 インドのこうした畑では、土を肥やすため に数週間ごとに乾燥堆肥を加える。土壌 の質が収穫高、保水力、そして地中に どれだけ炭素を貯留できるかに影響する。 〔右ページの右下〕インドの畑で採れたて の落花生の仕分けをするハンシング・ ダッタ。この畑では 10 月から 11 月に かけて、トウモロコシ、トマト、唐辛子、 落花生などが間作される。 Hashim Badani
81
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〔左ページの左上〕5 種類の異なる 植物の葉をすり潰して作るこの 自然の殺虫剤は、土釜で 1 週間 寝かせてから半分の量まで煮詰め られ、それから水と混ぜて畑に 散布される。 Hashim Badani
〔左ページの右上〕収穫の準備が 整った綿花は手作業で殻から 摘み取られる。 Avani Rai
〔左ページの下〕コットンと一緒に 植えられたマリーゴールドを畑 から摘むアムラトラル・チョガラル・ パティダール。害虫を引きつける 効果があるマリーゴールドは、 祝祭事に重要な花でもあるため、 その売り上げは農家の収入の 足しとなる。 Hashim Badani
〔下〕牛たちとその飼い主の 2 人の農夫。こうした動物が 原料を提供する豊かな堆肥は、 健全な土壌を育成するために 重要な一要素である。 Avani Rai
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Tシャツは 気候変動を 止めるのに 役立ちますか?
これらのウェアは「栽培」されてできたものです。このコレクション は、リジェネラティブ・オーガニック認証・パイロット・コットンを使 用しています。 「リジェネラティブ・オーガニック(RO) 」は、生命を はぎ取るのではなく生命を育て上げる農業システムを目指す、現在 拡大しつつある運動です。動物、植物、土がひとつになって、私た ちの土地の健康を回復させ、より明るい未来を生み出すことがその 目標です。悪影響を減らすだけでなく、好影響をもたらしましょう。 フェアトレード・サーティファイドの縫製を採用。
〔左〕インドにあるこうした リジェネラティブ・オーガニック 認証・パイロット農場では、 単一作物が整然と並ぶ農場とは 異なり、たくさんの作物が同じ 場所で一緒に育てられている。 害虫を遠ざけたり、土に栄養を 与えたり、副産物として農家の 収入源の足しになるなど、どの 植物にもそれぞれ役割がある。 Avani Rai
ウィメンズ・ロード・トゥ・リジェネラティブ・リンガー・ティー ¥5,280(税込) I 38521 I XS-XL I レギュラー・フィット (写真の組み合わせ)
ウィメンズ・オールシーズンズ・ヘンプ・キャンバス・チョア・コート ¥22,000(税込) I 27830 I XS-XL I レギュラー・フィット
ロード・トゥ・ リジェネラティブ・ リンガー・ティー
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ジャングルの なかで
成長する
農園
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〔前の見開き〕加工施設で洗浄される、 リジェネラティブ・オーガニック認証を 目指してアグロフォレストリーを実践 する農園で収穫された新鮮なマンゴー。 ニカラグア Amy Kumler
words バーギット・キャメロン
ニカラグアの サンマルコス にある〈ソル・ シンプレ〉は、 77 件ほどの小規模農園と協働で、パタゴニア
されていないように思えるこの土地は、じつ
プロビジョンズのマンゴー製品(92〜 93 ペー
は収穫量の高い活気あふれる農業システムで、
ジに掲載のオーガニック・チリ・マンゴーとオー
わずか 30 センチメートル 四 方の範囲に、想
ガニック・カカオ+マンゴー・バーを含む)の
像し得る以上の多様な作物がある。ここでは
果物を生産している。農園の多くは自然環境
コーヒー、アボカド、マンゴー、プランテン、
と調和しながら森林で食物を育てるアグロフォ
バナナ、カカオ、スターフルーツ、プルメリア、
レストリーの草分けだ。パタゴニアは〈ソル・
柑橘類がすべて一緒に育っている。鶏や豚が
シンプレ〉とパートナーを組み、 「リジェネラ
木々のあいだをうろつき、雌鳥とヒヨコがちょ
ティブ・オーガニック(RO)」農業を支援する
こちょこと駆けまわり、虫が飛び交い、鳥が
幅広い取り組みの一環として、環境を再生させ
さえずり、蜂や蝶は花から花へと受粉に忙し
る方法で作られた製品の市場を生み出すとと
い。最も乾燥する季節にも、生き物たちはこ
もに、リジェネラティブ・オーガニック認証の
の農園と、その日陰と水分と林冠に惹かれて
発展と実践を進めている。
やって来る。
最も小さなものは 0.1ヘクタールというこれ
このシステムのすべてには目的がある。柵沿
らの農園の多くは、外からはまるでミニ熱帯雨
いに伸びるタチナタマメは鶏の餌であると同
林のようにも見える。上部の林冠が日差しを
時に、土壌の肥沃度を増やす窒素固定を行う
遮り、何層もの枯れ葉や腐葉土で覆われた地
植物であり、土壌と植物の共益関係を築いて
面を守っている。しかし、一見まったく手入れ
いる。私たちを囲むマデラネグラの木は虫除
〔左〕甘酸っぱさと微かな辛さを帯びた パタゴニア プロビジョンズのオーガニック・ チリ・マンゴーの原料にするため、手のひら 大のジューシーな「ローザ」というマンゴー の皮をむく農家の 3 代目。 Amy Kumler
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「 これまでに取り組んだ最も手強い事業のひとつだ。 だが前進しつづけるつもりだ。リジェネラティブ・ オーガニックがうまくいくことを実証できれば、 それこそ地球を救うことができるかもしれない イヴォン・シュイナード のだから」
けの役割を果たし、さらには農家が台所で使う薪に もなる。 現在のアグロフォレストリー農園に見られる豊かさ と多様性は、これまでニカラグアで栽培されてきた 農産物、またアメリカ合衆国の大半の農場でいまも 栽培されているトウモロコシや豆とは著しく異なる。 事実、世界の居住可能地の約 50 パーセントが農業 に利用され、その大部分の食用作物は従来の方法を 用いた単一品種の植え付けがされている。そのせい で、世界の温室効果ガス排出量の 4 分の 1近くを占 める農業は、気候変動に大きく加担している。有害
ひとつひとつの歩みは小さく見えるかもしれない。 事実それらは目立たない漸進的な改善だ。しかし総 合すれば、より安全かつ健康な未来につながる。リ ジェネラティブ・オーガニックは、土地と労働者と動 物を有害な化学肥料や殺虫剤や殺菌剤から解放する というオーガニック認定された農業の伝統ある利点 に、不耕起または省耕起栽培、被覆作物、堆肥など の実践を組み入れ、土壌の健康を改善し、炭素隔離 の可能性を高めるものである。それだけでなく、リ ジェネラティブ・オーガニック農園が栽培する作物は、 たんにより良い食べ物でもある。
な化学肥料、殺虫剤、殺菌剤などが散布された一年
「どのプロジェクトもまだまだ先は長い」と語るの
生作物用の莫大な農地は、生物多様性を破壊し、土
は、パタゴニア創設者のイヴォン・シュイナード。マ
壌浸食を加速させ、流出水で水域を汚染しながら、
ンゴーバーに含まれるアーモンドはオーガニックだが、
私たちの健康を脅かす。
まだリジェネラティブ・オーガニックではない。 「こ
しかしこうした一次産品の単作農場に未来を委ね るには及ばない。私たちは食料生産を介した農地変 換の可能性に真剣に取り組んでいる。これは 2012 年にパタゴニア プロビジョンズを発足させた大きな 理由のひとつだ。痩せた土地を回復させる豆とレン
れまでに取り組んだ最も手強い事業のひとつだ」と イヴォンはつづける。 「だが前進しつづけるつもりだ。 リジェネラティブ・オーガニックがうまくいくことを 実証できれば、それこそ地球を救うことができるか もしれないのだから」
ティルで作ったスープから、ヒゲのような巨大な根が 炭素を蓄えて表土を守るカーンザという草で作った ビールまで、私たちはこれまでに約 30 種類の製品 を販売し、食物栽培の代替法を後押ししている。
〔右〕土中の窒素固定を助けるバナナやマデラネグラのあいだに 植えられた木からマンゴーを収穫する農家。 〔右ページの右上〕 収穫されたバナナの束の傍らに座る農家の娘。多種の作物を育てる と、農家にとっては通年頼ることのできるさまざまな収入源ともなり、 彼らの子どもたちの生活の質を改善することにもつながる。
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バーギット・キャメロン は、パタゴニア プロビジョンズの マネージング・ディレクター。
〔右ページの右下〕手作りのかごにマンゴーを入れ、収穫所へと 運ぶ農家。そこで計測した重さに基づいて、賃金が支払われる。 ニカラグア、サンマルコス Amy Kumler
レベルを 上げる
パタゴニア プロビジョンズのオーガニック・チリ・マ ンゴーと、オーガニック・カカオ+マンゴー・バーに 使用しているフルーツは、 「リジェネラティブ・オーガ ニック(RO) 」農法を実践する農園から供給されてい ます。コーヒー、野菜、豆、カカオなどの農作物をマ ンゴーの木々と一緒に育てることで土壌を回復させる というアグロフォレストリーの実践は、他の農法より も多くの炭素を封じ込める可能性があり、農家の収 入の助けともなります。
オーガニック・カカオ+マンゴー・バーは太陽エネ
オーガニック・チリ・マンゴー はローザという手の
ルギーを利用して乾燥されたローザ・マンゴーとカカ
ひら大のニカラグア産マンゴーからはじまります。格
オニブに、熟した乾燥バナナとアーモンドを組み合わ
別な風味を備え、繊維質はほとんどありません。皮
せて深みと食感を加えました。保存料や GMO(遺伝
をむいて薄切りにしたジューシーなマンゴーは、太陽
子組み換え作物)の原料は一切使用していません。必
電池式の食品乾燥機にかけられます。その甘さを引
要なときに必要なものを届けるフルーツとナッツとカ
き立てるのは、ライム果汁とオーガニックのチリパウ
カオだけで作っています。
ダー少々。アヒ・モリドと呼ばれるこのアルゼンチン 産の赤唐辛子は、やさしい微かな辛さを加えます。
オーガニック・カカオ+マンゴー・バー
オーガニック・チリ・マンゴー
2020年春日本発売予定 I 12 個入り
2020年春日本発売予定 I 1 個( 85グラム)
詳細は patagoniaprovisions.jp でご覧ください。
words ボニー・ツイ 〔左〕2017 年 10 月 18 日、 ヨガのワークショップで 撮影されたガリー・ビガム。 カリフォルニア州サンオノフレ Mali Workman
無料 ベビー
再登場 ゲーリー・ビガムはよく人にこう話す。娘のガリー
てあるのを見つけて、それをボートに積んで湖に行く
はテルライドにあった無料ボックスで見つけたんだ、
ことにした。友人が水中でなんとかそのマカジキを
それを証明する写真もある、と。 「父を知る人は、彼
押さえている傍らで、ガリーがそれを湖から釣り上げ
が冗談好きなことを知っています」と言うのは、現在
るふりをしたそうだ。その超人的な大作は、きちん
のガリー。 「父が言うことを真に受けることはできま
と撮れるまで 2 日間もかかったという。
せん」
16 歳になると、ガリーは母親と一緒にハワイへ移
そうは言っても、1993 年秋のカタログに登場し
住した。母親は引っ越したその週にガリーにサーフ
たその写 真には、未 来を予知する力が少しばかり
ボードを買い与えたそうだ。それ以来ガリーはハワ
あったようだ。 「スキーは私にとってとても簡単なス
イに定住している。現在 27 歳になる彼女は、カウア
ポーツでした。歩くことのように自然に慣れ親しんだ、
イ島でサーフィンとヨガのインストラクターをしなが
大好きなスポーツです」とガリーは語る。幼少時代
ら、彼女自身も母となった。父親と同じように、ガ
はニューメキシコ州タオスでノルウェー人の母親と過
リーはとくに夏に旅をすることが多い。昨年は単胴
ごし、夏になると写真家であり有名なプロスキーヤー
船でゼロカーボン・エミッションのセーリングに出
だったアメリカ人の父親ゲーリーとあちこちへ旅した
航し、今年はスカンジナビアでのセーリングレース・
そうだ。
ツアーに出場する全員が女性のチームの調理師を務
2 人は毎年夏の 2 か月間を、ロードトリップしな がら過ごした。 「どこへ行っても、父は写真を撮る視 点でものを見ていました。そして私に『こうしなきゃ ダメだよ、カメラの方は見ないで、自然にして』って 言うんです」 そしてガリーはつづける。 「父が旅をし ながら作品となる写真を撮って私と一緒に過ごすこ ともできたのはすごくよかったんですけど、正直なと
めることになっている。 「3 か月の実験のようなもの です」とガリーは言う。 「ブタンガスは使わず、島で ときどき焚火を使う以外はソーラーオーブンだけで 料理をして乗り切れるかどうか試すんです。旅をして いるときはレトルト食品に頼ってしまいがちですが、 ちょっと下準備さえしておけば、地元の人のように地 元の食べ物に通じることができると思います」
ころ面倒くさい部分もありました」と。この「すごく よかったけど面倒くさい」ロードトリップは、彼女の 幼少時代の映像記録でもあった。ガリーの写真はこ れまでパタゴニアのカタログに10 回以上掲載されて いる。 それぞれの写真にはストーリーがある。 「私がパン プキンの中にいる写真がありますが、父のホラ話に よれば、私はそのパンプキンを食い破って出てきた そうです」と、ガリーは説明する。アイダホへのロー ドトリップでは、友人宅の壁に偽物のマカジキが飾っ 94
fall 1993 無料の遊び場を活用するガリー・ビガム(1 歳)。 コロラド州テルライド Gary Bigham おさがりの限界に挑戦? テルライドにはアメリカ 西部で指折りの「無料ボックス」があり、そこで あたかも赤ちゃんが提供されているかに見えるこの 1 枚を、ゲーリーは逃すわけにはいきませんでした。
カタログの不要な郵送 お引越しされた場合は、旧住所と新住所をお知らせください。万一このカタログが誤 配されたり、複数お受け取りになった場合、あるいはカタログ郵送の停止をご希望の方も、フリーコール 08008887-447、ウェブサイト pat.ag/cs までご連絡ください。 100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%使用の FSC®〈森林管理協議会〉認 証紙に印刷しています。このカタログの製造には 1 本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは 25 年 以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%に切り替えた のは 2014 年のことです。
100% PCW
This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet®, a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; C-KNIT®, a registered trademark of W.L. Gore & Associates, Inc; Fair Trade Certified™, a trademark of TransFair USA DBA Fair Trade USA; FSC® and the FSC Logo®, registered trademarks of the Forest Stewardship Council, A.C.; and HeiQ®, a registered trademark of HeiQ Materials AG. Patagonia® and the Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. Other Patagonia trademarks include, but are not limited to, the following: Capilene®, Road to Regenerative™ and Patagonia Provisions®. 掲載価格の有効期限:2020 年7月31日 © 2020 Patagonia, Inc.
fall 1988 フィッツロイを目指して前進中。 Barbara Rowell これは私たちが永久に使用権を獲得した最初の 写真で、すぐにパタゴニアの象徴となりました。 初代アートディレクター兼写真編集者だった ジェニファー・リッジウェイは、この埃だらけの 小さな車が大好きでした。のちに彼女の仕事を 引き継いだジェーン・シーバートは、いまでは この写真を見ると、この車に乗って窓から 手を振るジェニファーが次の冒険に向かう姿を 想像せずにはいられないそうです。もちろん ジェニファーは、バーバラがこの写真を 撮ったときにそこにいたわけではありません。 「でもそれが彼女のイメージなんです」と ジェーンは言います。「アメリア・イアハート みたいにゴーグルと帽子で飛行の準備をして いる姿が」 今号のパタゴニア・ジャーナルは、 昨秋に逝去したジェニファーの想い出に捧げます。