自分勝手で、 大人げなくて、
苛立たしい それが不思議なことに正しい生き方
文 モーリー・ベイカー
ラスタカラーの長い帯をスキーパンツの後ろに
ヒッチハイクして山まで行く。彼らと一緒に親指
とっては、彼らの貧困状態は恐るべき名誉でもあ
なびかせた彼と出会ったのは、タオスでスキーを
を立てながら、リトル・コットンウッドまで、ベリ
る。ビショップからアルジェンティエールまで、そ
していたときだった。数週間後、彼はシエラ山脈
ンハムからマウント・ベイカーまで、果てはブエ
してその道中のあらゆる場所に、気候危機に警鐘
を滑るのに数日滞在したいと、スキー板とバック
ノス・アイレスからエル・チャルテンまで、見知ら
を鳴らそうとする私たちが学ぶべきライフスタイ
パックひとつだけでトラッキーの駅に現れた。そ
ぬ人たちと素晴らしくも風変わりな会話を交わし
ルを送っている男女がいる。それは 21世紀には
の数か月後も、彼はまだ 私たちのソファーに居
た。そのおかげでどの旅も、思い出に残るものと
稀な魂を必要とし、カビ臭い粗末な住居を厭わず、
座っていて、昼間はスキー、そして夜は自分のマ
なった。
苔や湿気や暗闇を仲間と考えるような人間だ(と
ニフェストを書いていた。冗談ではない。彼は 毎朝誰が起きるよりも早く家を出て、夜になると 私 たちが作った晩 飯を目当てにまた戻って来て
彼らは同じシャツとパンツを毎日のように着る。 彼らのソックスは臭いを超えて、しばしば腐敗状
きにそれは、他人にたかることを意味しても)。 スキーバムはじつに独立独歩でありながら、自
態にある。日常的に下着ははかないことで知られ、
然と周りの地域社会の両方と大いに相互依存す
唯一の靴はビルケンシュトックのサンダル。真冬
る存在でもある。気まぐれにはじめたスキーバム
の 1 月に、だ。たんに男は皆そうだと思う人もい
も、まるで風に運ばれる種子のように、その多く
るかもしれないが、男のスキーバムと同じぐらい
は最愛の土地のそばに落ち着き、根を下ろす。ブ
ダートバッグな女のスキーバムも私は知っている。
リティッシュ・コロンビア州ペンバートンの農家も
つまりゴミ箱をあさるようなタイプだ。トラック
同じだ(8 ページの『農家が知っていること』を参
が近くの峠を越えて道路を曲がると、その積荷は
照)。これらのスキーヤー兼農家たちは遠くでは
スキー場のある町の埋立地に運ばれる。そこで彼
なく、近くに目を向ける能力に長けている。それ
ジョーイのように、私が知っているスキーバム
女は食料や、スキー場で売れ残ったレギンスのよ
は私たちの季節である「冬」を守るためにはうっ
というのは概して冬の陰に隠れ、雪山以外の世界
うな衣類を収集する(いつも防犯タグが付いたま
てつけの能力かもしれない。なぜなら、彼らが望
とは調和できずに生活する人間だった。彼らの一
まだが、そんなことはもちろん気にせず着用する)。
むほとんどのものは 2 本の足と手があれば手に入
次元的なライフスタイルを欠点だと考えていた時
彼女は埋立地行きとなるゴミの削減について多く
れることができるからだ。もしかすると彼らの能
は、真夜中過ぎまで飲 んだり喋ったりを繰りか えした。そしてある日、突然いなくなった。次は ユタなのか、ブリティッシュ・コロンビアなのか、 ニューメキシコなのか。その行方はあとで知るこ とになる。彼がなびかせる帯のように、ジョーイ・ スモールウッドと出会う人、皆がそれぞれの思い 出をもっている。
期もあったが、気候変動の危機が深まるにつれて、 を語るわけでもなく、言い訳として自慢できると
力は私たち皆が必要とするものなのかもしれない。
最近私のその見方は変わってきている。
いうその事実に気づいている様子もない。だが雪
私たちのためだけでなく、地球のために。自分が
をこよなく愛する他の賢者たちと同じように、彼
愛することを信じることは、ひょっとすると一度
女も名も無き地球戦士の1 人だ。
に複数の仕事をこなす計画よりも重要なのかもし
そんなスキーバムたちから私が学んだことと言 えば、スコー・バレーの食堂で誰かが食べ残した フライドポテトに調味料置き場の無料の粉チーズ
もちろん、真のダートバッグ1 人に対して、ダー
をかけて食べたりすること。ヒッチハイクも彼ら
トバッグもどきも1,000 人は存在する。もしその
から学んだ。バムたちのほとんどは車を所有せ
生き方がうまく行かない場合、大学費用を払って
ず、自転車に乗ったり、公共交通機関を使ったり、 くれる母親や高級住宅地に帰る実家がない者に
れない。愛情の形を静かに、何気なく、役立たせ ることが。
今日スキーバムにハグしましたか?
安定の積雪とライドは、白昼夢にふける者を さらに有頂天へと導く。ブリティッシュ・ コロンビア州セルカーク山脈 Dave Heath
03
Contents
夜明けのアグハ・ポインセノット、 セロ・フィッツロイ、アグハ・ ヴァル・ビオイス。アルゼンチン、 パタゴニア。2018 年 Austin Siadak
08
農家が知っていること
22
痛いほど美味
36
レッド・レディを自由のままに
44
あるひとつの生き様を守る
54
稜線のストーリー
74
あのときと同じ歌が聞こえる
90
喪失のアート
Snow
前の見開き:自宅から 8 キロメートル 以内にあるのなら、行きつけの場所に なること間違いなし。コースト山脈で 滑る〈アイス・キャップ・オーガニックス〉 のデラニー・ザヤック。ブリティッシュ・ コロンビア州 右:小学校に届けるためのニンジン の山を抱えるアリーシャ・ザヤック。 〈アイス・キャップ・オーガニックス〉 はペンバートン・バレーにある他の 農園と提携し、野菜をおやつとして 小学生たちに提供する。
農家 が知って 大地の世話という大切な 仕事は、山深い冬の 余暇と良好なバランスを 保つという事実。
いること つまらない仕事を忘れて人生を楽しむ必要を感じたら、 農家の人とスキーに行くことを勧める。 その興奮は本物だ。彼らはやるべきことが満載の日常か
文 リサ・リチャードソン 写真 ギャレット・グローブ
ら得るひとときを、決して当たり前の時間とは思わない。頭 を垂れて動きつづけることに精通し、元気が足りないような ときでも、巧みな会話を交わしながら体を前に進める。最 高のおやつを持って、しかも荷物を積みすぎてパンクした車 のタイヤを交換したり、雪だらけの溝に埋まった人を掘り起 こすのにもまったく動じない。そして彼らは知っている。休 みの時間というのはみずから作るものだということを。 彼らの同志を見つけるには、高い山に囲まれた土壌の豊 かな場所を目指すといい。 創業 10 年目を迎える有機野菜農園〈アイス・キャップ・
左:ペンバートン・アイス・キャップの すぐそばにある裏庭にドロップインし、 右手にある「アシッド・ドロップ・ スパイン」へと向かうデラニー。 ブリティッシュ・コロンビア州 コースト山脈
オーガニックス〉は、ブリティッシュ・コロンビア州ペン バートン・バレーにある非常に生産性の高い 2 ヘクタール の土地で、大のスキー好きの夫婦によって経営されている。 デラニー(42 歳)とアリーシャ(39 歳)のザヤック夫妻 は、温室や畑が雪に覆われる冬のあいだずっと天候に気を
09
下: 〈アイス・キャップ・オーガニックス〉と〈ラフィング・ クロウ・オーガニックス〉の両農園が成功している、 ペンバートン・メドウズ(別名スパッド・バレー)の 眺め。リルエット・リバーはこの谷の土を潤し、 山々はスキーヤー兼農家たちの魂を育む。
右:土から雪に切り替えて、ダフィ・ レイク・ロード周辺に弧を極める 土壌科学者のエイミー・ノーガード。 ブリティッシュ・コロンビア州 コースト山脈
配っている。そしてデラニーは条件が合えばいつでも午前 3 時に起床し、ド
ています。これは私たちのやりたいことでもありますが、ペンバートンを選ん
アから勢いよく飛び出して、ヘッドランプを頼りに暗闇のなかをシール登高
だ理由は、私たちには山が必要だったからです。世界中をくまなく探してみ
し、ミラー・リッジやダフィ・レイク・ロードを友人数名と探索する。アリー
たら、山と農地のある場所はベラ・クーラ、ペンバートン、チリ、そしてフラ
シャは子どもたちに冬の素晴らしさを教えるのを選ぶことが多い。
ンスの数か所ぐらいでした 」
火山灰の肥沃な沈泥に恵まれたペンバートン・バレーはその土壌によって
当時を振りかえるデラニーは決断の過程を次のように語る。彼らは 1 年を
多くの農家に注目されてきたが、農業とスキーを両立させる人間を魅了する
3 つの時期に分けて、大学、植林、そして旅行かスキーで過ごす、若い放浪
のは壮大なコースト山脈の存在だ。そして人びとを呼び寄せるものが山だと
者のカップルだった。デラニーは 20 代と 30 代前半、年間 100 日以上をス
すれば、ときに彼らを定住させるものは農業である。2,500 メートル級の山
キーに費やしていた。カナディアン・ロッキーやクートニー、コースト山脈を
脈の麓に広がるローム層の大地で、氷河から流れる川の音を聴きながら暮ら
放浪しながら、アンデスやアルプスまでも足を延ばしたそうだ。やがて地に
す生活だ。
足をつけて家族をもつことを意識しはじめたものの、大きな山がなくては自
「それが、私たちがここに住む理由です。冬の休みが、私たちを農業に引 き寄せた理由のひとつなのです」と説明するのは、元農業生態科学者であり 植林を職業としていたアリーシャ。 「農業を愛していますし、農業の力を信じ
10
分が故郷と呼べる場所にはならないことはわかっていた。ペンバートンの土 壌は豊かで勾配もあり、お腹を空かせた市場が近くにある、永久に美しい場 所だった。目障りな景色などまったくない。
現在の彼らの 1 年は 2 期に分かれている。農作業と冬だ。農園が冬の閑
のために果敢に戦いたいと思っていましたが、実際に農家になってみて気づ
散期に入ると車で 2 時間ほど南にある人口 250 万の都市バンクーバーまで
いたのです。このことだけですでに十分だと」 これは、寡黙ながらも急進的
交代で行き、そこにある市場に野菜を納品する。そして計画を立て、農業に
なアクティビズムなのである。
関する最新の科学や開発を調べ、それからスキーを楽しむことで自分たちを 再生させる。 「夏は一生懸命働き、冬は一生懸命遊ぶ」 長年念願だった10 日間のヴィパッサナー瞑想合宿を修了したアリーシャは、6 歳と 8 歳の子ど もたちが目を覚ます夜明け前に毎朝 1 時間坐禅瞑想を行い、自分の心を見つ め、これからの1 日のために平静さを貯め込む。デラニーは春の最後の使命 としてワディントン山脈奥地への旅を計画する。天気が悪い日には農園の雑 用をこなし、発芽器として再利用するために古い冷凍庫を中華系食料品店か ら入手したりする。 そして農作業の時期がやって来ると、彼らは活動家としても活躍する。 「こ れも農業をはじめた理由のひとつです」とアリーシャは言う。 「私たちの価値 観と一致し、地域の一部となるための前向きな方法です。私はそもそも農業
街の市場で週末を過ごして帰宅したデラニーがまずはじめにすることは、 トラックを停め、子どもたちをつかまえて畑を歩きまわり、作物の様子や生 育状況など、その 3 日間で起きた変化を確認することだ。穴だらけの狭い道 の終わりのその先を流れるリルエット・リバーは、氷帽から生まれ、眠って いるようでもいまだに噴気孔から湯気を吐いている硫黄の火山の脇を通り過 ぎてくる。リルワット・ネーションの先住民によれば、 〈アイス・キャップ〉農 園の上流にある野生地は地球の奥底を源とする力をもっているそうだ。デラ ニーは壮大で力強いその場所でスキーをすると鳥肌が立つという。都会の喧 騒を振り落とすように彼は農園の土の上を歩き、それに触れて、大地を感じ る。そのエネルギーとのつながりをすばやく取り戻すために。 冬はそのエネルギーの充電時間だ。
11
下: 「エスプレッソ・シュート」で充填する 〈ラフィング・クロウ・オーガニックス〉の アンドリュー・バジェル(通称バジー)。 このシュートは約 300 メートルの斜面の 北面ルート。
右:これぞ家族経営。子どもたち (アニカとアイラ)とともに、大切に 育てた豊作のフダンソウ畑に立つ ザヤック夫妻。一家が 2 ヘクタールの この農園で働いて 10 年になる。
「 農業を愛していますし、 農業の力を信じています。 これは私たちのやりたい ことでもありますが、 ペンバートンを選んだ 理由は、私たちには山が 必要だったからです」 12
14
小規模有機農家で あることは彼らにとって、 急進的な活動家となる 方法でもある。
*** 「農園にはそれぞれ個性があります」と言うのは、エイミー・ノーガード。彼 女の意見は〈アイス・キャップ・オーガニックス〉を含め、ペンバートン・バ レーのさまざまな農園で働いてきた経験に基づいている。 現在 25 歳のエイミーはカナダ西部、ブリティッシュ・コロンビア州のメ リットという牧畜業と林業の町(人口約 7,000)で育ち、2 歳でスキーやス ノーボードに夢中になった。母親が乳がんを患った当時に高校生だった彼女 は、野菜が有効で美味しい薬であることを知った。そののち、大学での受講 に四苦八苦したあげく資源・食料システム学部に出会い、自分の仲間を見つ けた。
上:トラクターの修理が必要になると、 アンドリューはウィスラーの廃品置場 を訪れて部品を発掘することが多い (そして完全に機能するのにゴミとして 捨てられていた、この K2 の Coomback のようなスキー板も)。 下:6 年間操業した土地から新しい 農園に移転し、最初の基盤となる網 をカーネーションとアスターの畑に 設置するケリー・マッカン。
養蜂家、ヨガインストラクター、そしてクラニオセイクラル(頭蓋仙骨療法) セラピストであるケリーは、オンタリオ州の経済的に落ち込んだ地域で関節 炎専門の理学療法士の助手として働いていた。彼女はその土地で自給自足の 生活を営んでいた「帰農家」の両親から、ホームスクーリング(自宅教育)を 受けて育った。健康保健制度の改正によって仕事が激減した彼女は西へと 旅立ち、7ページにわたる新聞の求人広告を最初に見つけた場所で止まった。 それが、ウィスラー/ペンバートン地区だった。彼女は大家を説得し、アンド リューが野菜を育てていた畑の隣に菜園を作ることを許してもらった。季節 限定の公園監理人の仕事が終わりに近づき、ケリーが次に何をすべきか悩ん でいると、アンドリューが彼のサラダ用畑を拡げることを提案してきた。 「一 緒に農園をはじめるのはどう? 僕ひとりではできないし。養蜂もやろうよ!」
「2013 年にはじめて土壌科学の講座を受けて、私の人生は文字どおり変 わりました。私は農業のシステムやその複雑さや美しさ、食料生産に関する ひどい問題について学びはじめました」 2 年後、最後の 6 単位を取ると同 時に、 〈アイス・キャップ〉の農園で 8 か月インターンとして勤めることにした。 農業に対する自分の夢見がちな考えではおそらく現実に勝てないということ を自覚するために。そこで彼女のすべて── 山への愛情と、一生懸命働くこ ととストレスとはまったく別の問題であるという理解 ── のつじつまが合っ たのだった。農業に没頭するあまり脳が休まることのなかった長年の不眠症 は消え、疲れ果てた充実感で眠りにつくことができるようになった。 もちろん、スキーも一役買った。
ケリーは直感的な農家である。脳を通じて知識を得るタイプのアンドリュー が、本やウェブサイトをじっくり読んで露点温度や凍結高度や気象モデルを 勉強するのに比べて、ケリーの自然界に対する洞察力は彼女の毛穴からあふ れ出てくる。彼女は外を歩き、空気の匂いを嗅いでは、 「そろそろ霜が降りる わ。野菜を覆わなきゃ」と言ったりする。彼らの取り組み方はスキーのスタイ ルにも表れている。アンドリューは地図や他の人のレポートを熟読し、ケリー は直感に頼る。 彼らの〈ラフィング・クロウ・オーガニックス〉が有機農園として認定され、 さまざまな野菜を育てはじめてから 7 年目に突入して、収入と生産量がほぼ 毎年倍増しつづけるいま、アンドリューはこう言う。 「ここまで成し遂げるに
*** ペンバートンで暮らしてきたこの 8 年間、アンドリュー・バジェルは自分の 畑の近くに借りたキャビンに住んでいる。巨大な杉林に囲まれた狭い道沿い に潜むキャビンは断熱材が乏しく、冬は泥まみれにならない唯一の期間では あるものの、その代償は寒さである。あまりにも寒さが厳しい日には、ヘア ドライヤーの温風を顔に当ててなんとか生彩を取り戻すこともある。 「彼はそのドライヤーを『癒しの拳銃』と呼ぶの」とやさしい口調で言うのは、 アンドリューの農業パートナーであるケリー・マッカン。 アンドリュー(44 歳)とケリー(36 歳)がペンバートンで出会ったのは 8 年前。オタワの郊外から流れてきて、ウィスラーでブーツを売りながらスキー 放浪をしていたアンドリューは、副業にサラダ用の野菜を育てることを試み た。彼は農業の知識は皆無だったが、重労働に恐れはなく、学ぶことにも熱
は 2 人とも本当に試練を味わってきた、というのが現実。夜明けから日暮れ までこの農園で働くことは、息をして生きることと同義になっている」 農業 は、髪の毛がツララになってしまう気温下の山のなかでハイキングやスキー をするのと同じように、決してたやすい試みではないのだ。 けれども彼らはいつも美味しいものをたくさん食べ、冬が来れば、毎日 30 はあったやるべきことのリストを忘れて山へと向かう。 ケリーは長年、瞑想やヨガをやってきた。スキーは彼女の冬の鍛錬で、裏 道や川沿いを探索したり、ペンバートン周辺で登高と滑降を繰りかえしたりす る。 「かつては悟りを開くために多くの時間を費やしました。でもパウダーを 滑っていると、それはある意味『サマディ』のようです」 サマディとはヨガの 世界で一体性を意味する言葉で、瞑想に没入し、すべての目標でもある状態 のことをいう。スキーは、その状態への一種の近道だ。
心で、地球のリズムに深く同調した生活を送りたいと思っていた。
15
エイミーは最近、 〈ラフィング・クロウ・オーガニックス〉の面々とともに冬 を楽しむことが多くなっている。 〈アイス・キャップ〉で数シーズン過ごしたの ち土壌科学を専攻して大学院に進んだエイミーは、機会さえあればいつでも スキーに出かける。 「農作業から得られるつながりは、自然の要素にさらされ ることによってもたらされます。そこには不確かなことがたくさん存在し、そ の日がどうなるのかもわからない。私たちは母なる自然が投げかける課題に 対して脆弱なんです」 彼女はスキーをしているときもこのことを考える。山 の人間と農家のあいだに自然な相乗効果を見出し、自然の要素に溶け込むこ とで得られる興奮や生命力を理解する。1日の努力の終わりに得る誠実な疲 労感。自然のなかへ出ていく危険と、その報酬。 現代の先進国のほとんどは、自然にさらされることを抑制する仕組みや 習慣や建造物でできている。変動するものから守るため、苦痛や肉体労働 を避けるため、あるいは汗をかくことすら防ぐために。私たちがスキーやス ノーボードをつかんで自然に帰るとき、動物的本能を取り戻したかのように
彼女はスキーをしている ときもこのことを考える。 山の人間と農家のあいだに 自然な相乗効果を見出し、 自然の要素に溶け込むこと で得られる興奮や生命力 を理解する。
それを楽しむ一方で、その分離の錯覚は存在しつづけ、そして強まる。車に 乗り込み、コーヒーを持ち帰りで注文し、スーパーで多国籍企業が提供する さまざまな商品を買いだめするたびに。エネルギーや食料はつねに淀みなく 提供されるという錯覚が、この精妙な地球に住む私たちの真の弱さを隔離し てしまっている。 スキーを愛する農家が知っていること。それを受け入れるのはいいことだ。
リサ・リチャードソンは、ブリティッシュ・コロンビア州ペンバートンの、 スタッティエム・ネーションの未譲渡地に新たな故郷を見つけ、そこで 執筆(と時折のジャガイモ栽培)に勤しんでいる。
前の見開き: (上段左)ケリー とアンドリューの以前の農園の 住居。すべてのブーツは歩く ために使われる。 (上段中央) 笑顔で山頂にたどり着く エイミー・ノーガード。 (上段右) 〈ラフィング・クロウ・ オーガニックス〉で芽生えた ヒマワリ。 (下段左)自宅から 車でたったの 3 〜 5 分で 新雪にありつくデラニー。 (下段中央)エイミーは ブリティッシュ・コロンビア 西部(フレイザー・バレーと バンクーバー・アイランドを 含む)にある 20 〜 30 件の 農園で、土壌コアサンプラー を使用する。 (下段右)スキー パトロールの古いバックボード を再利用した、 〈ラフィング・ クロウ・オーガニックス〉の 初代のマーケティング用品。 左:ケリーとアンドリューの 玄関先。彼らの優先事項が 雪か土のどちらなのかは明らか。 右: (上)農犬のココと、アリス・ チャルマーズ製 G 型トラクター (推定 1948 年のもの)に乗った デラニーの休憩は、山の眺め に不自由しない。 (下) 「エスプ レッソ・シュート」の醍醐味を 満喫するため、登高に勤しむ アンドリューとスキー仲間の イアン・クルーガー。
19
〈アイス・キャップ〉農園 の上流にある野生地は 地球の奥底を源とする力 をもっているとリルワット・ ネーションの先住民は 言う。その故郷たる地形 のエネルギーに身を 委ねるケリー。
私たちがスキーや スノーボードを つかんで自然に帰る とき、動物的本能 を取り戻したかの ようにそれを楽しむ。 21
痛いほど
文 サキアス・バンクソン
下:安全第一。曲芸はさておき、 カーストンは自家製激辛ソース の瓶詰め作業時にはいつも ゴーグルを着用する。それが 目に入った失敗から学んだ 知識である。
写真 メアリー・マッキンタイヤ
僕は舌が溶けてしまうかのように感じられたが、カー ストン・オリバーは大丈夫だからと保証した。つまり、 死ぬわけではないと。
て、好奇心をそそられた。興味を示している僕を見る と、彼はテーブル越しに手を伸ばして言った。
「ただのカプサイシンの作用だから」と、落ち着いた 様子で牛乳を注文しながら、彼は言った。僕は燃えた ぎる口の中に紙ナプキンを詰め込んだ。 「化学熱傷じゃ ないんだから。痛みを感じる受容体とくっつくことで、 灼熱感を起こすだけ。洗い流せば平気だよ」
そのとき実感したのは、僕は香辛料について何も知 らないということ。それから、カーストンは異常だとい うこと。
それはカーストンとの最初の旅で、日本の寿司屋に 行ったときのことだった。それまで僕は辛さに強いと 思っていた。だから彼がオレンジ色の粉が入ったミン トの容器を取り出して海苔の上に振りかける様子を見
左:ユタのバックカントリーで 360 度のエアリアルを 決める、パタゴニアのスキー/マウンテンバイク・ アンバサダーのカーストン・オリバー。
美味
「試してみる?」
異常とは言いすぎかもしれないが、このプロスキー ヤー兼マウンテンバイカーは、長年自分でホットソース を作ったり唐辛子を育てたりしていて、それが彼のト レードマークにもなっていた。彼のプロモデルのスキー 板は「チポトレ・バナナ」と名づけられ、最初の 25 台 にはもれなくホットソースが 1 瓶付いてくるぐらいだ。
23
「ファンキー・ファーメンティ」、「キャロット・ ハバネロ・ハッピー・タイムズ」、「パープル・ プレジャー・ペイン・ケイブ」など、その名は ユーモラスだが辛さは和らげない。とくに 最後の代物にはご注意:カーストン(中央)が ハチミツとビーツとシソを加えて作る意外な 甘さを帯びたこのソースは、ブート・ジョロキア
(ゴースト・ペッパー)と、辛さでは世界で一二 を争うキャロライナ・リーパーおよびトリニ ダード・モルガ・スコーピオンが入っている。 これらを生でひとかじりしようものなら、 エリック・バルケン(左)とジャスティン・ ギブス(右)のようなハードコアスキーヤー ですら、口から湯気を吹き出すことになる。
結局のところ、僕はその寿司屋で死なずに済んだ。かなりの牛 乳と屈辱を飲み干したあと、僕の口は次第に落ち着いた。それ以 来カーストンとは多くの旅をともにしているが、彼があのミントの容 器を差し出すたびに、僕は断っている。死なないことはわかってい るが、自分の舌は大事にしたいし、紙ナプキンの味も大嫌いだ。 サキアス・バンクソン(以下 SB) :昔から辛い食べ物が好きだった の? それともだんだん好きになったの?
カーストン・オリバー(以下 CO) :小さいころから好きだったよ。 すごく幼かったころ、庭になっていたハラペーニョを摘んではリン ゴみたいにかじってたらしいよ。犬にもあげようとしたけど、逃げ るだけだった。犬は唐辛子は嫌いみたい。
SB:大惨事を経験したことは?
CO:大失敗は 2 回やった。1 回目は瓶詰め作業のとき。安 全ゴーグルを着けていなくて、瓶から空気が抜けて、ハバネロ とゴースト・ペッパーの熱々のソースが目に入っちゃった。 2 回目の失敗は、友達を夕食に呼んだときのこと。激辛唐辛 子を扱うときは、鍋の温度にはとくに神経を使わなきゃならな い。唐辛子のジュースを蒸発させるというのは、つまり催涙ス プレーを作るってことだから。その日の早い時間にいつもの鍋 を使って激辛ソースを作ったんだけど、ちゃんと洗ってなかっ たんだね。その鍋をコンロの上にしばらく放置しちゃって、煙 が出はじめたら、皆を家から避難させなきゃならなくなった。 1 時間は家に戻れなかったよ。
大きくなるにつれて、いろんな種類の唐辛子や、もっと辛いものを 試しては、自分の好みを見つけていった。そして何といまでは毎年、 SB:辛すぎるものを中和させるには何がいちばん効果的? ホットソースを 3、4 種類作っていて、唐辛子は 20 種類を庭で育 CO:カプサイシンは油によって運ばれる。だから水は役に立 ててるよ。 たないんだ。もし口に火がついたようになったら、脂肪分があ るものを飲むといい。牛乳やヨーグルトなんかはカプサイシン SB:たいていの人は辛いものを避けるけど、何が魅力なの? とくっついて運び出してくれる。肌についたら、石鹸で洗えば CO:僕はもともと辛い味が好きだったし、その辛さにまつわるす いいよ。石鹸の原料に油脂が使われているのはその理由。と べてが好きなんだ。血行のめぐりが良くなって、エネルギーがみな くに食器用洗剤なんかは。 ぎって、ちょっと幸せな気分になれる。よく皆に「いつもそんなに 目に入ったら、頭を洗面台に突っ込んで水で徹底的に洗い流 辛くしたら、味がわからなくなるだろう」なんて言われる。でも実 すしかない。基本的にカプサイシンを取り除けば、刺激がなく 際は、味の扉を開いて、この辛さがなければ得られない風味の背 なって焼けるような感覚も止まる。 景を引き出す効果があると思う。 SB:韓国への旅では、ホストのチョイさんと乾燥唐辛子を交 SB:いままで味わったり、育てたり、作ったりした唐辛子のなか 換したそうだね。そのときの話をしてくれる? でいちばん辛かったものは? CO:チョイさんは僕がすべてのものに唐辛子を振りかけてる CO:僕が作るホットソースでいちばんマイルドなものは、シラ のに気がついて、滞在も終わりに近づいたころ、彼の庭で採 チャー・ソースに近いかな。庭にはトリニダード・モルガ・スコー れた唐辛子の粉末が入った小瓶を出してきたんだ。彼は僕に ピオンやキャロライナ・リーパーのような、かなり馬鹿げた辛さの 気に入ったかどうか聞くと、瓶ごとそのままくれた。お礼に何 シネンセ種の唐辛子が数種類ある。ゴースト・ペッパーの辛さは かあげたいと思って、僕の唐辛子をお裾分けした。するとた たぶんそれらの 3 分の 1ぐらい。生のものをひとかじりするだけで だの交換では気が済まなかったチョイさんは、キッチンに戻っ 顔全体が痺れちゃうけど、すごく独特な風味がある。最近はこれ てもっと大きな瓶を持ってきた。 らの激辛ソースをもう少しなじみやすいように、一般人が味わえる レベルのホットソースにしようと試してるんだ。 同じようなことが他でもあったよ。 「オレンジマン」と呼ばれて いる日本人スノーボーダーの山内一志とよく 一緒に滑るんだけ SB:いつから自分のホットソースを作りはじめたの? ど、去年日本に行ったときに偶然登山口で会ったんだ。彼は CO:たぶん 10 年か、それよりちょっと前ぐらいかな、大学 1 年 バンのなかから古いマスタードの瓶を持ってきて、片言の英語 生のころだよ。友達と一緒に思いつきでホットソースのレシピを探 でこう言った。 「カーストン、お前は会うたびいつも唐辛子を振 して、たくさん作ったから何人かにクリスマスプレゼントとしてあげ りかけてるだろう。もっともっと、って。これは俺が自分の庭 たんだ。そこから発展した。 で育てた唐辛子だ」 だから僕も車に戻って、小さな袋入りの タイ唐辛子を彼にあげた。どうやらこの国際的な唐辛子の交 換はいまも健在のようだね。 「スパイシー・マジック・ソース」のレシピは
patagonia.jp/hurtssogood でご覧ください。
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Snow
飛ばし つづける パウスレイヤー・ジャケット
昨夜はヘッドランプで遅くまで滑ったというのに、今朝はもう同じ勢いで板にシールを装着する。日 照時間が短い冬は望むほど長つづきするシーズンでもないことを知っているからこそ、時間をやりく りして、パウダーをターンする滑降時間を最大限に確保せねばなりません。市場最高レベルの悪天 候対応型プロテクションを提供する妥協知らずのパウスレイヤー・ジャケットがあれば、ギアが機能 するかどうかを気にすることなく滑りに集中できます。軽量でコンパクトに収納可能でバックカント リー・ツアリングのために最適化されているので、ヘッドランプが壊れたり、シールが気になったり、 腰痛に襲われたりしないかぎりは、止まる必要はないでしょう。制限なしにデザインされたパウスレ イヤーは驚くほど軽量ながら非常に丈夫で、シェルの表面素材にリサイクル・ナイロン100%を使 用した 3 層構造ゴアテックス・プロ・ファブリクスを採用し、防水性/透湿性/防風性プロテクショ ンの頂点を極めます。さらに DWR(耐久性撥水)加工が耐久性を高めながら、ぐずついた天候下で
上:シーズン初めのパウダーを発見する カーストン・オリバー。ユタ州ワサッチ山脈 Mary McIntyre 前の見開き:2019 年 1 月のエンゲルベルクの 最も雪深い日に、ターンひとつで見事な雪煙を 上げるイヴ・ヒュスラー。スイス Oskar Enander
水分の浸透を防止。山での目標達成のじゃまをしない、洗練されたフィットとすっきりとしたデザイ ンです。
メンズ・パウスレイヤー・ジャケット ¥91,300(税込) I 30305 I XS-XL I レギュラー・フィット I 547 g (19.3 oz) ウィメンズはウェブサイトでご覧ください
29
「 大きなラインを滑ってエア を決めるために、小さめで 洗練されたパックが 必要だった 」
Snow
カイ・ピーターソン パタゴニア・スキー・アンバサダー
高所で進化 改良されたスノードリフター・パック30L
「大きなラインを滑ってエアを決めるために、小さめで洗練されたバックカントリー用 デイパックが必要だった」と言ったのは、カイ・ピーターソン。そこでスノードリフター・ パックについての彼の意見を集め、使用する素材の耐久性、ヘルメットを取り付けて運 ぶ際の機能性、ウエストベルトのウイングの大きさとフィット、ツール用ポケットの好ま しいサイズなどの細部をすべて見直しました。今シーズンのスノードリフターはリサイク ル素材を100%使用して、冬のお気に入りのゾーンを目指すミッションのためにデザイン。 バックパネルからギアに容易にアクセス可能で、アバランチギア専用のコンパートメント には 290cm 以上のプローブ、ショベル、スノーソー、その他の必需品をそれぞれのス リーブに収納できます。かさばりを抑えた新フィット、シンプルになったスキー/ボード 運搬用ストラップのシステム、カバー範囲が大きくなったウエストベルトなどが、登高で
空が果てしなく広がるバックカントリー で、壮大なロデオ 720 を披露する カイ・ピーターソン。ブリティッシュ・ コロンビア州コースト山脈 Elliott Bernhagen
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も滑降でもパックとギアをしっかりと固定します。
スノードリフター・パック 30L ¥23,100(税込) I 48197 I S/M, L/XL I 1,191 g (2 lb 10 oz)
アバランチギア 専用のコンパート メントには 290cm 以上のプローブ、 ショベル、スノーソー、 その他の必需品を それぞれのスリーブ に収納可能
かさばりを抑えた 新フィットとカバー 範囲が大きくなった ウエストベルトが、 登高でも滑降でも パックとギアを しっかりと固定
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Snow
私のあとに ついて来て スノードリフター・ビブ
まだ誰の足跡もない斜面をシール登高し、最初に滑降する決意を固めたときに着るビブが、 同じように意気込みを先導するデザインであることは納得。体をしっかりと覆うスノードリフ ター・ビブはそもそも女性用のウェアとして生まれ、それがあまりにも愛されるものとなった ため、男性用にも作ることにしました。H2No パフォーマンス・スタンダード採用の 3 層構造 シェル素材は伸縮性を備えたポリエステル(リサイクル成分70%)で、風や水分や酷使に耐え ながらもあらゆる動きに対応。ビブ上部には透湿性に非常に優れ、4 方向への伸縮性を備え たソフトシェル素材(リサイクル成分 63%)を使用しています。2 シーズンの開発期間に少な くとも10 種類の試作品を作ったパタゴニアのデザインチームは、日本でのテスト旅行の最終 日に雪深い森の中で結論にいたりました。 「試作品を着て滑っている最中にも、それに変更を 書き込んだりテープで留めたりしました」と言うのは、リードデザイナーのマギー・ヒル。 「そ してそれらの変更を工場に直接もちこみました」 その結果ついに完成したこのビブは、軽量
真冬の猛威(大雪と摂氏マイナス 20 度の気温)をふるうクートニーでの 8 日間のキャンプの、ほんのご褒美。 バックカントリーの登高の成果を味わう リア・エヴァンス。ブリティッシュ・ コロンビア州ナカスプ周辺 Mattias Fredriksson
で透湿性に優れながら悪天候に対応するプロテクションを備え、人力のみに頼る運動量の多 いアクティビティのすべてで、ドライで快適な着心地を保ちます。
ウィメンズ・スノードリフター・ビブ ¥49,500(税込) I 30080 I XS-XL I レギュラー・フィット I 516 g (18.2 oz) 〔写真はウィメンズ・キャプリーン・エア・クルーとのレイヤリング〕 メンズはウェブサイトでご覧ください
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前の見開き:レッド・レディの山頂に たどり着く地元のスキーヤーたち。 コロラド州クレステッド・ビュートから 近いエルク山脈にあるレッド・レディの 頂を、独自の祈祷旗の冠で飾りなおす ことは、この地域における同山の重要 な役割を称えるために行われる。 右:3,762 メートルの頂からクレステッド・ ビュートを見下ろすレッド・レディ。 かつては先住民のユト族の夏の移住地 でもあり、鉱業と牧畜業に依存して きた経済を、現在では観光業に切り替え つつあるという、他のコロラド辺境の 開拓地と同じような歴史を共有する。
レッド・レディを 自由のままに
文 ローラ・イェール 写真 フォレスト・ウッドワード
アクティビズムはいつも堅物で政治的で ある必要はない。コロラド州クレステッド・ ビュートの住民たちは、愛するもののため に闘うとき、それを楽しみながらやるのも ありだということを体現している。 レッド・レディの山頂へ向かう途中、ジュリー・ナニアはお気 に入りのアスペン林で立ち止まり、他の赤装束の女性たちを待 つ。そして裸の木々が風になびく様子を見上げながら、最高の 古き良き物語は大地からふつふつと生まれるものだ、などと言っ たりする。 19 世紀の著名な地質学者にちなんで名づけられたマウント・ エモンズは、地元ではレッド・レディと呼ばれている。1950 年 ごろにクレステッド・ビュートで生まれ育った坑夫が炭鉱での長 い作業を終えて家路を歩いているときにふと見上げると、太陽 が山の大きな窪地の赤褐色の岩に反射して、光を放つ女性の姿 に見えたのだそうだ。当時は、この山が世界で 3 番目と言われ
左:風にさらされたレッド・レディ・ ボウルの肩を滑る著者(第 35 代 「レッド・レディ」)。
る大きさのモリブデン鉱床を秘めているとは、誰も知らなかった。 モリブデンは鋼の硬化剤として使用され、大規模な採掘作業を 要する鉱物である。
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下:自己を超えた目的と故郷の愛をエネルギー源に、 冷たい突風や顔を刺すような雪、そして不安定な スキーのコンディションにも負けることなく、笑顔を 絶やさないレッド・レディのスキーヤーたち。
右:第 11 代「レッド・レディ」のスー・ネイビーは、レッド・レディの鉱山反対 運動に 1977 年以来積極的に関わってきた。2019 年 3 月上旬に開催された 「レッド・レディを救う舞踏会」でのこの写真に写るのは、結果を心待ちに する群衆の前で、第 42 代「レッド・レディ」の受称者を発表する彼女の姿。
レッド・レディの頂上では赤い祈祷旗が激しく舞い、それを木製の山頂標
め に 組 織 さ れ た 地 元 の 環 境 保 護 団 体〈High Country Conservation
にくくりつけようとする女性たちの赤いスカートもバタバタとはためく。 「彼女
Advocates (HCCA)〉の代理人を 25 年間務めている。小規模ながらも頑
が永遠に鉱山から自由でありますように」と、風で髪の毛が口に入るのも気に
固な〈HCCA〉は、採鉱企業に官僚的かつ法的な挑戦を投じつづけ、山の存
せずナニアが叫ぶ。女性たちは赤いレースやスパンコールやパラソルで飾り、
在を祝福しながら住民の権利擁護を奮い立たせることに貢献している。
ポリエステルが織り込まれたスキージャケットを身に着けて、輝いている。
エネルギーの持ち主で、過去 10 年間、水資源に関する複雑な法律(連邦の
70 億ドル相当の価値があるといわれた。それが北米で最も長い歴史をつづ
水利権問題とナバホ・ネーションとの気候順応管理計画を含む)に携わって
る、鉱山をめぐる闘いのはじまりとなった。この闘いは現在もつづいており、
きた。彼女はレッド・レディの自然を守りつづけ、称賛している。クレステッ
レッド・レディの運命は未だにわからない。
ド・ビュートの鉱山問題と水資源保護は密接に関係しているからだ。環境保
「山がまだ形を保っているという事実が、この地域住民の忍耐の証しで す」と言うのは、コロラド大学法科大学院の非常勤教授として、天然資源 と鉱 業関 連の 法 律を教えているロジャー・フリンだ。 〈Western Mining Action Project〉の 発 起 弁護 人でもあり、最初の鉱山 計画に反 対 するた
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フリンの元生徒で現在 33 歳のナニアは、青く輝く瞳とあふれんばかりの
1976 年に発見されたレッド・レディのモリブデン鉱床は、当時の市場で
護庁の報告によると、硬岩採掘はアメリカ合衆国内で最大の毒性汚染源であ り、西部の水源の 40 パーセント以上が鉱業によって汚染されている。ナニ アは現在、 〈HCCA〉のレッド・レディ関連の戦略を先導している。彼女の日 常は午前 6 時にはじまり、数時間仕事をこなしたあとは、バックカントリー
スキーのついでに同僚の水質調査のサンプリングを手伝う。それから車です
的な土地利用よりも優先される。つまり、連邦政府は鉱山計画に対して否認
ばやく着替えて会議に向かい、そのあとはホッケーやダンスを楽しんでから、
はできないということだ。しかしレッド・レディのために、運命のいたずらが
午後10 時かもっと遅くまでまた仕事をする。
救済をもたらすかもしれない。フリーポート・マクモラン社がここでの採掘に
レッド・レディの所有権は過去 40 年のあいだに 4 つの異なる企業に渡っ てきた。2004 年には、そのうちの 1 企業がレッド・レディ・ボウルの国有 地を1 エーカー(約 4,047 平方メートル)につき 5 ドルという一般的な採掘 特許権の価格で買収し、国有地を採掘のために私有化した。現在レッド・レ ディの一部は、地下の鉱物採掘の権利とともに世界最大級の採鉱企業である フリーポート・マクモラン社の所有物となっている。 レッド・レディは 1872 年の鉱業法のせいで危機に瀕することになった。 現在のアメリカの運営の枠組みも、 「西部を開拓するために鉱山開発を奨励 する」というこの法律が成立されて以来、ほとんど変わっていない。現在の 法的解釈では、鉱山は清浄な飲料水、狩猟、牧場、娯楽を含むすべての公
はもう価値がないとみなしたのだ。彼らはすでに国内最大のモリブデン鉱山 の 2 つを所有・操業しており、モリブデンは現存する銅鉱山の副産物として 採取できるものでもあるため、新たなモリブデン採掘は全体的な生産性には 不要となったからである。 最近になって、フリーポート・マクモラン社はクレステッド・ビュートの町、 ガニソン郡、州および連邦機関とのあいだで了解覚書に署名した。その文書 には同社が有するレッド・レディの権利を放棄するにあたり、全関係者が了 解できる解決策の模索に専念すると述べられている。しかしそこには複雑な 問題もある。たとえば古い採掘場から発生する酸性排水を扱うためにフリー ポート・マクモラン社が責任をもつ汚水処理施設があるのだが、それはすで
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「 この土地を崇拝することは、私や 他の多くの人たちにとって日常的な 活動の一部です。レッド・レディの ための意識啓発のつもりでやって いますが、じつはレッド・レディが 私たちの意識を高めてくれている のかもしれません」
に年間 100 万から 200 万ドルの維持費を要するだけでなく、さらに高額な改 修工事も迫られている。クレステッド・ビュートだけでその維持費を工面する ことは不可能だ。幸いにも、これまで長年採鉱企業と闘ってきた周辺地域が、 現在では彼らと協力することで、現場の汚染除去に取り組んでいる。 レッド・レディは公有地と私有地が混在し、連邦、州、地方行政によって ばらばらに管理されている。しかし複数の関連団体や多世代が関わる複雑な ストーリーは、この共同体が自分たちの土地に抱く揺るぎない愛の基盤を築 き上げたともいえる。 「この土地を崇拝することは、私や他の多くの人たちにとって日常的な活動
右:ポリエステルとレースの通気性に優れた 完璧なレイヤリングシステムで、アスペンが 立ち並ぶレッド・レディの山腹を縫い進むシア・ ウィルソン(左)とクリスタル・コトウスキー・ エドモンズ(第 37 代「レッド・レディ」)。 下:一度レッド・レディになったら、永遠に レッド・レディ。クレステッド・ビュートに住む この女性たちは、山とスキーヤーの共生関係 を体現している。
の一部です」と、自分の動機を振りかえりながらナニアが言う。 「レッド・レ ディのための意識啓発のつもりでやっていますが、じつはレッド・レディが私 たちの意識を高めてくれているのかもしれません」 〈HCCA〉が計画した最初の地域活動にスキーによる抗議デモがあった。 40 人のスキーヤーがクレステッド・ビュートからアスペンまでのバックカント リーを、重たいフレームのパックを担いで細いスキーで旅し、雪洞で夜を明 かしたそうだ。スキーヤーたちはアスペンに着くと街のなかを練り歩き、全 国の注目を集めたという。お祭り騒ぎのような多くの決起集会の第 1 回を 飾ったこのイベントは、現在は〈HCCA〉によって開催されてはいないものの、 「レッド・レディを救う舞踏会」は毎冬 42 年間も盛況を呈している。この舞 踏会では地元の人びとが派手な赤いドレスを身にまとい、レッド・レディの自 然を祝いながら踊る。そんな華やかな衣装で変身を遂げるのは、委員会や議 会や非営利団体などで地域の価値観を反映する公共政策に、何年あるいは 何十年も関わってきた人びとだ。クレステッド・ビュートは積極的に、その経 済基盤を鉱業から観光業へと切り替えることを決めた。観光業にももちろん それなりの課題はあるが、自然のままの土地が最も大切な資源であり、尊重 すべきものだからだ。 毎年、レッド・レディのために称賛に値する活動に献身した地元のメンバー に「レッド・レディ」の称号が与えられ、翌年の山の大使に任命される。現在 は、20 代半ばから70 代半ばまでの 42 名のレッド・レディが存在する。第 36 代の「レッド・レディ」は、レッド・レディについての歌を書き、資金集め イベントなどで演奏したミュージシャン。第 12 代の「レッド・レディ」は、ク レステッド・ビュート・マウンテン遺産博物館を運営し、10 年以上レッド・レ ディの苦境について来館者に伝えてきた。第 30 代は支援のシンボルとして 赤い祈祷旗を作った作家で、それはいまもあちこちの家や職場に飾られてい る。第 11代は〈HCCA〉の創立を助け、現在ではその役員会長を務めている。 こうした女性たち(と 3 名の男性)は皆クレステッド・ビュート近辺に健在で、 舞踏会のダンスフロアに集ったり、その翌日はしばしば前夜のドレスを着た まま一緒にスキーを楽しんでいる。舞踏会のドレスを着てレッド・レディでス キーをするという、新しい伝統がはじまったのだ。 彼女たちは皆、声をそろえて言う。 「一度レッド・レディになったら、永遠に レッド・レディなのよ」
ローラ・イェール(第 35 代「レッド・レディ」)は、 コロラドを拠点とする映画プロデューサー兼作家で、 人びとを活気づける土地の物語を探索している。
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Activism
前の見開き:北極圏国立野生生物保護区に あるたくさんの谷のひとつ。この保護区の 海岸平野はポーキュパイン・カリブー群が 出産と子育てに使う土地であるため、 グウィッチン族はそれを「生命がはじまる 神聖な場所」と呼ぶ。 Austin Siadak 右:北極圏保護区はハイイロオオカミの 生息地でもある。このオオカミはアラスカの ジェイゴ・リバーの谷で撮影されたもの。 Austin Siadak
あるひとつの 北極圏では グウィッチン族の 若者が、土地を 守るのはあるひとつ の生き様を守るのに つながる、という ことを学んでいます。
生き様
を守る
ホッキョクグマの洞穴があり、ハイイロオオカミの遠吠えが聞こえるアラスカの ノース・スロープ郡では、土地を守るということは大義を支援することでも、市庁舎
文 リセット・ファン 写真 ケリー・オーバリー& オースティン・シアダック
での抗議デモの様子をソーシャルメディアに投稿することでもありません。それはこ こでは生死を分ける問題です。 ジュエルズ・ギルバートは環境保護家になるつもりはまったくありませんでした。彼 女にとって土地を守ることは、子どものころから自然に身についていたことでした。父 親と一緒にはじめて狩猟に行ったのはまだ 7 歳のとき。20 歳になったいま、その日の ことはほとんど覚えていませんが、澄みきった青いシャンダラー・リバーから 3 時間ほ ど上流にあるアラスカのアークティック・ビレッジの実家を出発し、モーターボートを 北へ唸らせながら食べ物を探して、1,900 万エーカー(約 76,890 平方キロメートル) の原生地域である北極圏国立野生生物保護区に向かったということは知っています。 はじめての狩猟ではギルバートは銃を手にせず、父親が羽の茶色いカモを撃ち、家 に持ち帰って焼くのを眺めて、それを学びました。
左:グウィッチン族の伝統である ベリーの摘み方を習いながら、 ちょっと味見の休憩をとる アリアナ・ギルバート。 Keri Oberly
刺すように寒い森で狩りをするために、いまでもギルバートは同じ川を上って行きま す。肌に風の冷たいキスを感じ、川岸の木々に水が寄せるのを見ると深い郷愁を覚え ます。彼女のボーイフレンドである 22 歳のブレナン・ファースと一緒に、越冬に必要 なだけの食料を探して狩猟に向かいます。
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伝統様式を幼いうちから学ぶ。サーモンの季節に 備えて、水車式漁具を作る祖父アールを手伝う 9 歳のキャノン・カルゾウ。 Keri Oberly
食料となる獲物を追い、狩猟し、皮を剥ぐ伝統
このファースト・ネーションは、まるで永遠に
は、2 万年以上この地方で暮らしてきた先住民族
つづくかのように感じられる長い年月にわたって、
グウィッチンの根本的な生き様です。また、ひと
保護の責任を背負いつづけてきました。1980 年
切れのステーキの値段がひと箱の銃弾ほどもする
にジミー・カーター大統領が探 査を可能にする
時世では、狩猟は必要不可欠です。ギルバートは
「アラスカ国家利益土地保護法」に調印して以来、
獲物を仕留めるのに成功すると、母語のグウィッ
共和党は保護区での天然資源採掘を試みてきまし
チン語で祈りを捧げることを忘れません。そして
た。そしてドナルド・トランプ政権下では、保護
彼女はこうした技術 ── 言語、狩猟、伝統衣装の
区での掘削の試みが加速しています。
ビーズの飾りつけなど── のすべてを、地元の小 学校で子どもたちに伝授するために教えています。 「それが私たち。だからです」と、ギルバートは 言います。
グウィッチンの若者たちはつねにその抗争を目 にしてきました。 それがはじまったのはデミエンティエフが 12 歳のころで、若かった彼女は当時すでに土地の保
こうしたグウィッチン族の文化は現在、危機に
護が緊急問題であることを理解していました。そ
さらされています。数十年におよぶ試みには失敗
していま、緊急性はますます高まっています。そ
したものの、共和党はついに北極圏国立野生生
こで〈Gwich’ in Steering Committee〉は、若
物保護区の一部を石油およびガス開発に開放しま
者に保護区を守るための土台を提供する正式な委
した。この産業はグウィッチンが依存する保護区
員会を立ち上げ、6 月には 7 人の若者が参加しま
の繊細な生態系を崩壊させかねません。ここには
した。
ホッキョクグマやハイイロオオカミの生息地だけ でなく、尊いポーキュパイン・カリブー群の出産 地の、160 万エーカー(約 6,475 平方キロメート ル)の海岸平野もあります。グウィッチンが聖地 とみなすこの海岸平野で掘削が提案されている のです。 若者の誰もがギルバートやファースのような暮 らしに興味をもっているわけではありませんが、 長老から教師まで、地域の指導者たちはグウィッ チンの生き様を若者に示す取り組みを積極的に 進めています。グウィッチンにとって、文化の維持 は保護区を救う絶好の機会かもしれないからです。
若者にグウィッチンの文化を教え、そしてその 興味を維持するのは必ずしも容易ではありませ ん。iPad やプレイステーションやインターネット の時代においては、屋内で過ごす方がずっと魅 力的です。最新のソーシャルメディアのトレンドが 今、屋外で大地と交流するのは刺激的なことでは ないのです。 かつてはそうではありませんでした。ワンダ・ パスカルは覚えています。現在 58 歳の彼女はつ ねに土地と関わりながら暮らし、いまでも秋にな ると山を歩いて、冬用のラブラドルティーの茶葉 (胃に良いとグウィッチン族に伝わる薬草)を集め
やアクティビズムなどではありません。その目的
ます。カナダのフォート・マクファーソンでかつて
は生活そのものです。2014 年に州が委託した報
酋長を務めたパスカルは、いまも狩猟に出かけま
告書によると、全米の他の州にもれず、アラスカ
す。しかし氷原を走る犬ぞりが身近な人は、もう
も食料の約 95 パーセントを輸入に頼っています。
ほとんどいません。昔の方が楽だった、と彼女は
しかし食料品店の棚に並ぶ商品を当てにするのは
言います。犬はとても頼りになります。いまは犬
グウィッチンには不要の贅沢です。これまでずっ
ぞりの代わりにトラックとスノーモービル(彼女は
と、彼らは狩猟と採集で生きてきたのですから。
「スキードゥーズ」と呼ぶ)を使っていますが、ガソ リンは高価で……乗り物は犬と違って故障します。
と未来がかかっています」と言うのはバーナデッ
「いまどきの小学校を訪ねて私が幼少時代に学
ド・デミエンティエフ。彼女は化石燃 料 探 査 か
んだことを説明しても、信じない子どもがいるで
ら 保 護 区 を 守 るた め に 1988 年 に 創 設 され た
しょうね」と、パスカルは言います。
〈Gwich’ in Steering Committee〉の 理 事 で、 2005 年以来、保護区の保全に積極的に関わり ながらそれを声高に訴えてきました。
パタゴニアの取り組みの歴史
1997 社員のジョン・ウォーリンが環境インター ンとしてはじめて〈Alaska Wilderness League〉にボランティア参加。
2001 〈Alaska Wilderness League〉の北極 圏国立野生生物保護区の保護活動のた めに最初の助成金を提供。それ以来現 在までに北極圏で活動する 7 団体に 54 の助成金(総計 807,500 ドル)を提供。
2003 〈Gwich’in Steering Committee〉に 最初の助成金を提供。
ティーンエイジャーのフィードを占領している昨
北極圏では、保護区を守る目的はアドボカシー
「保護区を守ることにはグウィッチンの生き様
北極圏の保護に関わる
変化するのはつねに大変なことですが、パスカ
2016 グ ウ ィッ チ ン の 土 地 と 未 来 を 守 る 〈Gwich’ in Steering Committee〉の 活動を記録した映画『ザ・レフュージ(保 護区)』を公開。
2019 北極圏国立野生生物保護区内の石油お よびガス開発用借地権に関する 2019 年 環境影響報告書草案に対し、パタゴニア の弁護団が広範なコメントを提出。 アンバサダーのクレア・ギャラガー、ト ミー・コールドウェル、ルーク・ネルソン が、 アラスカ 州フォート・ユーコン で 〈Gwich’ in Steering Committee〉主 催の「北極圏先住民気候サミット」に参 加。3 人はその後、北 極圏国立 野生 生 物保護区へと、8 日間の登山とパックラ フティングの遠征に出発。
ルは教わる側から教える側になりました。祖父か ら習ったカリブーの狩猟と処理の仕方、祖母から
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左:アラスカ州アークティック・ビレッジ (グウィッチン語で「ヴァシュライ・ クォー」)の自宅でカリブーの肉を切り 分けるギルバート一家と友人たち。 保護区を採掘産業に開放すれば、 このグウィッチンの伝統は脅かされて しまう。 Keri Oberly 右:カリブーの肉は燻し小屋に吊るされ、 それから冬のために冷凍庫に保存 される。若者は長老たちから、冬を 過ごすための食料の準備と保存の方法 を学ぶ。 Keri Oberly
これらの写 真はグウィッチ ン 部 族 のネッツァイ( アー クティック・ビレッジ) 、グ ウィッチャ(フォート・ユー コン) 、テトリット(カナダの ノースウエスト準州フォート・ マクファーソン)の故郷であ り、彼らが歴史的に守って きた土地で撮影された。
習った肉の切り方を、いまでは孫たちに教えています。もちろん野外へは写 真を撮る携帯電話以外、おもちゃも電子機器も持って行くことは許しません。
しかし、ヴァレンツィのような子どもをとくに「優秀」とみなす専門家もい
「カリブーや乾燥肉が欲しければ外に出て、私たちの狩りを手伝わなけれ
ます。ロナルド・ファーガソンはハーバード大学ケネディスクールで公共政策
ばなりません」とパスカルは言います。 「欲しいものは努力して手に入れるの
を教える経済学者で、優秀な子どもの育て方に関する執筆歴があります。彼
です」
の方程式はシンプルで、目的意識と実行力をもち合わせた子どもは賢い、つ
この春、パスカルはリチャードソン山脈で、15 歳の孫娘とその友達とキャ ンプに参加しました。沈みかけの太陽の下で、雪に覆われた峰々がキラキラ
まりその子どもには目標達成のために最後までやり通す能力があるというこ と。この組み合わせは完全履行に等しい、とファーガソンは述べています。
と輝いていました。家から西へ 20 分ほどの雪山のなかで、少女たちはカリ
「アクティビズムとは目的をもち、その目的に向かって行動すること。目的
ブーを探しました。残念ながら 1 頭も見つけられませんでしたが、別の猟師
が欠かせないのは明白です」と、ファーガソンは言います。 「あなたが効果的
が喜んで肉を分けてくれました。
な擁護者だとすれば、それはおそらく知性的な方法で行動したからでしょう」
パスカルは木の実の摘み方、森での伝統薬の見つけ方、釣り、そしてもち ろんカリブー猟の仕方など、基礎的な技術をつねに家族に教えています。彼 女はハンバーガーやフライやシチューはもちろん、茹でたり、油に浸して焚 火であぶったり、さまざまな方法でカリブーを調理します。これも、次世代 が学ぶべき技術です。
その技術をもっているのなら、使わない手はありません。 太陽が昇らない日が数か月もつづく土地で生き残る技術を伝授することは 保護区の保全に役立つ、と部族民たちは主張します。つまるところ、それが 部族の仲間を守ることになります。グウィッチンの部族民たちは全米各地を 訪れて、北極圏国立野生生物保護区には化石燃料産業の居場所がないこと
そして、パスカルの 5 人の孫はこれらの任務をしっかり果たします。3 歳
を議員たちに訴えてきました。たとえばギルバートは〈Gwich’ in Steering
の孫息子でさえ雪山の冒険に加わります。11歳の孫娘ジェリン・ヴァレンツィ
Committee〉を代表して 2016 年にワシントン DC でロビー活動を行い、パ
は、すでに土地の伝統を最も学んだ生徒に与えられる賞を受賞しています。
スカルはこの 4 月にニューヨーク・シティで国連当局者たちに会いました。
皆勤賞を称賛する学校もありますが、グウィッチンでは文化の継承の方を絶 賛するのです。
彼らが連邦議会に理解してほしいのは、北極圏国立野生生物保護区は手 つかずの自然を残す土地というだけではないことです。そこはグウィッチン
ヴァレンツィは受賞はうれしくて、 「自慢」だと言います。まだ小学 5 年生
にとって、 「生命がはじまる神聖な場所」なのです。国立野生生物保護区に指
ですが、こうした教えが自分たちの文化の存続を助けることをすでに認識し
定される以前、そこはグウィッチンの狩場でした。ポーキュパイン・カリブー
ています。彼女はそれが保護区を守ることであるということも、理解してい
の群れが保護区内を移動するように、グウィッチンの人びともそうしてきた
るのです。
歴史があります。事実、いまでもアラスカとカナダに散在するグウィッチンの
「未来の世代のために、私たちがカリブーを守らなきゃ」と、伝統のミトン を作る手を休めて、ヴァレンツィはつぶやきます。
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そうは言っても、彼女はまだ子どもです。
村々は、ところどころでこの移動経路に沿っています。しかし彼らは保護区 内の海岸平野には決して足を踏み入れません。
左:網目のように流れるジェイゴ・ リバーを渡るポーキュパイン・ カリブーの群れ。「私たちは 信じています。グウィッチンの 未来はカリブーの未来だと」と 言ったのは、グウィッチンの長老 だった故ジョナサン・ソロモン。 北極圏国立野生生物保護区 Austin Siadak
それは、海岸平野はこの土地を移動するポーキュパイ
けれども実際には、自分たちの文化を取り戻そうという
ン・カリブー群が無事に出産するために最終的にたどり着
若者の動きは北極圏に限られているわけではありません。
く場所だ、ということを知っているからです。そこでは、カ
自分たちの土地や水や世界観を守るための若者の行動は、
リブーが周辺の山々に生息する捕食動物を避けることがで
世界中で起きています。新たに芽生えたこのような活力の
き、氷原や砂州で蚊のような虫から逃れられる、彼らの安
多くは、2016 年にスー族の若者がダコタ・アクセス・パ
息地なのです。
イプラインに抵抗したときに開花しました。彼らは石油事
「私たちは信じています。グウィッチンの未来はカリブー の未来だと」と言ったのは、長老だった故ジョナサン・ソ ロモンです。 「ポーキュパイン・カリブー群に危害を与える ことは、グウィッチンの文化と何千年もつづいてきた生き 様に危害を加えることに等しいのです」 この方程式に若者を加えて、彼らを土地につなげること
業反 対の嘆 願書を手に、ノースダコタのスタンディング ロックからワシントン DC まで 2,000 マイル(約 3,200 キロメートル)のリレーを完走しました。 このパイプラインは結局、実現してしまいました。しか しその一方で、抵抗する活力はいまも生きつづけています。 それは、グウィッチンの人びとのなかにも。
は、この場所で野生生物を守る重要な鍵となります。若者
ギルバートとファースは物心がついたときからこの凍っ
はこの場所を失うことで、何が危機にさらされるのか、理
た土地を歩いてきました。彼らの祖先ははるか昔からカリ
解しなければなりません。
ブーに頼ってきました。この若いカップルが保護区を旅す るとき、カモやガンが頭上を飛び交うのを見るかもしれな いし、あるいはカリブー猟の最中に稀なハイイロオオカミ に遭遇するかもしれません。しかしそれらすべてが、いま 危機にさらされています。
この方程式に若者を加えて、 彼らを土地につなげる ことは、この場所で野生 生物を守る重要な鍵となり ます。若者はこの場所を 失うことで、何が危機に さらされるのか、理解 しなければなりません。
「ただただ美しく、すべてが静かです。聞こえるのは動 物たちの音だけ」とギルバートは言います。 「ここが私たち の故郷です」
リセット・ファンはニューヨークを拠点とする環境ジャーナリスト。 ラテン系の女性として、環境と人種にまつわる問題を定期的に 取り上げている。
右:アメリカ合衆国議会議事堂前 で記者会見を行う〈Gwich’ in Steering Committee〉のメンバー たち。グウィッチンの人びとは、 保護区を守る闘いが、地元を守る ためだけでなく、世界中の聖なる 土地を守ることに関わると理解 している。ワシントン DC Keri Oberly
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Alpine
SKYLI 稜線のストーリー
いまから 6,500 万年前、地球の 2 つのプレー
地方にちなんで名づけたパタゴニア社のロゴとな
しかしそうしたことはクライマーにまかせましょ
トが衝突して地盤を突き上げ、現在ではチャルテ
りました。そのロゴを1970 年代初期にデザイン
う。その稜線を私たちは 1 万年以上この地方に
ン山塊として知られる一群の花崗岩の尖峰を形成
したのは、フリーランスのアーティストでイヴォン
暮らしてきた先住民であるテウェルチェ族と共有
しました。それらはまるで磁石のようにクライマー
の友人だったジョセリン・スラック。当時はリオ・
しています。彼らは最も高い頂を、 「煙を吹く山」
を惹きつけ、恐怖と刺激の混ざった体験をさせて
フィッツロイを渡る橋もなく、エル・チャルテン
を意味するチャルテル(またはチャルテン)と名づ
くれます。私たちは悪名高い荒天と手強い岩壁が
の町が誕生したのはそれから17 年もあとのことで
けました。絶え間なくたなびく雲が火山の噴煙に
待つ、その場所に向かいます。
した。
似ているからです。のちにこの山はスペイン人探 検家のフランシスコ・パスカシオ・モレノ(通称ペ
1968 年、イヴォン・シュイナードと仲間たちは
それ以来、様子はずいぶん変わりました。象徴
おんぼろのフォード・エコノラインに乗り込んで
的な稜線を構成する尖峰はどれも登頂され、全 7
ベンチュラを出発し、道中でサーフィンやスキー
峰の連続登攀は 4 日半で実現されています。尖峰
やクライミングをしながらパタゴニアを目指しまし
の数をめぐってはいまでも興味深い論争がつづき、
た。みずからを「飽くなき冒険者たち」と呼んだ
9 峰と主張する人もいれば、11、14、19 峰と言
なかに立ち止まり、煙のような雲の切れ間から空
一行は、新たなルートでフィッツロイの第 3 登を
う人もいます。これは尖峰の見方や数え方によっ
に突き出す、尖った歯のような山々を見つめると
果たしました。山群に近づく景色は、やがてこの
て異なります。
き、私たちはときの流れに触れています。
リト・モレノ)により、フィッツロイと改名されま した。 背の高いパンパスグラス(シロガネヨシ)の草の
INE 前の見開き:チャルテン山塊を一望に。 2018 年 Austin Siadak この見開き:セロ・トーレ山群(左)と セロ・フィッツロイ山群(右)を目に 焼きつけるケイト・ラザフォード。 2011 年 Mikey Schaefer
付随レポート
ミーガン・ブラウン アリソン・オシウス
パタゴニアとその ロゴ、そして 3 世代 のクライマーに ひらめきを与えた 山群の歴史を語る。
フィッツロイの「カリフォルニア・ ルート」で、登山用ブーツでは なくクライミング用シューズを 履けるほど暖かかったら…… と願うケイト・ラザフォード。 2011 年 Mikey Schaefer
ケイト・ラザフォード: フィッツロイのノース・ ピラーの思い出
6 年で 7 峰 の登頂
“
2013 年、マデリーン・ソーキンと私はフィッツロイのノース・ピラー(900
メートル)に挑んだ。私たちはクライミングパートナーとして、ザイオン国立 公園の「ムーンライト・バットレス」のフリー登攀(女性初)やエル・キャピ
タンの「フリーライダー」のフリー登攀など、ともに多くの経験を積んでいた。 でもこの遠征では、パタゴニアでの下降や天候パターンを体験したことがあ るのは、私だけだった。
かつての私は大きな 目標がとても怖かった。 それにはどれほどの 努力と痛みをともなうか がわかっているから。 私の対処メカニズムは、 とにかくはじめること。
“
私がパタゴニアに行きはじめたのは 2006 年。その年マイキー・シェイ
セルし、最後はブーツでスキーをするように滑り降りた。ようやくモレーンに
ファーとフィッツロイの山頂まであと 30 〜 60 メートルという地点まで登っ
足を踏み入れると、涙が出てきた。クライミングを成功させたこと、安全に
たものの、狂暴な吹雪のせいで完全なホワイトアウトとなり、懸垂下降せざ
帰還できたことへの喜びと感謝の涙だった。私たちはフィッツロイのノース・
るを得なくなった。2011 年はマイキーとフィッツロイの「ワシントン・ルート」
ピラーに成功した初の女性チームとなった。
を初登した。マデリーンと行った 2013 年は私にとっては 6 シーズン目、彼 女には最初のシーズンで、私は大きな責任を感じていた。 ノース・ピラーの「マテ・ポロ・イ・トド・ロ・デマス」の頂上にたどり着い
この登攀にはフィッツロイ山群で私がマイキーと一緒に学んだすべての要 素を結集させた。私はそれらを自分自身で適用することができた。かつて の私は大きな目標がとても怖かった。それにはどれほどの努力と痛みをとも
たとき、私はどんなに疲れていても山頂からはすぐに懸垂下降すると主張し
なうかがわかっているから。私の対処メカニズムは、とにかくはじめること。
た。そこではあっという間に天候が変わるし、長い下降ルートが待っている。
目覚まし時計をセットし、朝食を作り、テントを開け、シューズを履いて歩き
山頂には一瞬たりとも長くいたくなかった。
はじめる。圧倒されないよう目的をひとつずつ徹底的に区分し、そして引き
懸垂下降を10 ピッチ繰りかえすあいだに夜になった。私がルートを見極 め、2 人ともくたくたに疲れ果ててついに下降をやめたのは午前 2 時か 3 時 ごろ。幅 1 メートル弱の岩棚に並んで座った。数時間後に目を覚ますと、あ たり一面は真っ白。のちに氷河にたどり着くと、新雪のなかを泳ぐようにラッ
かえすのも考えなおすのもありだということを忘れない。私は良き師たちか ら多くを学び、自分もそのひとりになることができた。 3 日後、マデリーンとリサ・ベディエントと私はアグハ・メルモスを登頂した。 それは私にとっては、この稜線をかたち作る 7 尖峰の最後の山頂だった。
57
アグハ・デ・レスの山頂に立つ ニールズ・ティーツェ。悪天候の なかで僕たちが完登することの できた唯一の頂。2017 年 Timmy O’Neill
ティミー・オニール: フィッツロイの気まぐれな 美しさの沈思
野生の境界 に 腰を据えて
フィッツロイに目を向けると、空に歯を剥く顎の輪郭に見えることもあれ ば、その歯が大望を招く指となり、まるで大切なものをカップのように包む 手に見えることもある。その違いは嵐に見舞われている山を遠くから見るか、
“
山頂は快晴だった。 僕たちはボロボロ ながらも有頂天 だったが、それで 終わりではなかった。
あるいは荒れ狂っている山の内側から見るかによって変わる。 10 代のころ僕は、パタゴニアのカタログから象徴的な写真を切り抜いては、 ベッドの上の壁に貼っていた。東海岸部に住む労働者階級の家庭で育った 9 人兄弟の1人である僕には、フィッツロイに行ける可能性はとても低かった。
に跳ねかえって落下していった。その夜はオーバーハングの下の傾斜したレッ
数十年後、エル・キャピタンの南東壁にある悪名高い「シー・オブ・ドリー
ジにうずくまり、やがてはいびきをかいて眠りに落ちた。もうひと晩ビバーク
ムス」を登るためにネイサン・マーティンとネバダの砂漠を車で横断している
してからついに人里離れた酒場の土間にたどり着くと、生き延びた疲れで呆
途中、ネイサンが来たるパタゴニア遠征について話しはじめた。ありきたり
然としたまま、のろのろと食べては飲んだ。
なマルチピッチのルートを延々と何年も登ってきた僕は、いよいよ世界屈指 の山々を目指す準備が整ってきたと感じた。そこは、クライマーに手招きす るギザギザのモノリスとしても、また不名誉で悲惨な失敗の数々でも知られ る場所だった。 ネイサンは、伝説的クライマーのチャーリー・ファウラーと 2 度もパタゴ ニアを経験している 26 歳のベテランだった。一方の僕は新米なうえ、うっ かりモレーンを転げ落ちて死にそうになり青あざだらけ、という前途多難な スタートを切って、このアルパインクライミングの先輩を心配させた。パタゴ ニアは全体に不安定な厳しい環境で、安全のマージンは薄い。それでも挑戦 と失敗を何度も繰りかえし、風雨や極度の疲労に冷遇されたのち、僕たちは ついに初登攀という勇敢な栄誉を手に入れた。
あとになって僕は、重力や自然は誰が初登し、誰が無事に下山し、誰が山 から帰ってこなかったかには無関心だということに気づいた。そしてネイサン と僕はおそらくこの先ずっと、それら 3 つのどれかでありつづけるということ にも。僕たちは自分たちが拓いたルートを、スペイン語で「まぐれ」を意味す る「トンタ・スエルテ」と名づけた。運よく好天周期に恵まれ、パタゴニアの 手厳しい一撃を食らわずにすんだことに感謝して。 いまから数シーズン前、見込めるクライミングの可能性がほぼ皆無だった とくにがっかりな1年という長い中断期間のあとに、僕はエル・チャルテンを 再訪した。そのときはヨセミテで才能を発揮した若きクライマー、ニールズ・ ティーツェをパートナーとして臨んだが、ふたたび打ちのめされてハイキャンプ からすべてのギアを撤収し、町へと帰還することになった。僕たちが道脇に
登ったルートはフィッツロイ西壁を断ち割る一連のスプリッター。僕たちは
座ってボデガビールを飲んでいると、毛むくじゃらの野良犬が1匹のっそりと
ロープとラックとパック、そしてオフィズスと戦うための巨大なプロテクショ
歩いてきて足元にうずくまった。そこでは何もかもが身をすくめるようだった。
ンを 2 つ持っていった。初日の夜は雪と砂利を削ってビバーク場所を確保し、 薄いパッドの上で寝袋にくるまった。
58
“
下降の途中、僕たちは最近行方不明になった単独クライマーの孤独な遺体 を見つけた。太陽の光で気温が上がりだすと、頭上の氷や岩がクーロアール
僕が最後に町を訪れて以来、舗装道路やマイクロブルワリーやたくさんの 宿泊施設などで、その様子は変わってしまったと嘆く人もいる。けれども僕
翌朝早く、 「カリフォルニア・ルート」との合流点を示すベルグラに覆われた
は、そんな町の発展の愚行とは対照的な、手なづけることのできない山々の
ジャンダルムを慎重に越え、山頂へと登っていった。たまに遭遇する古いピト
獰猛な美しさに打たれた。あの花崗岩の巨兵たちは僕たちに彼らの狭間を歩
ンにクリップしながら、もしかするとそれは元祖「飽くなき冒険者たち」の誰
くことを許し、頂上につかの間立たせてさえもくれるが、決して征服すること
かが打ち込んだもので、僕は歴史のひとかけらにクリップしながら自分自身の
はできない。無敵のように思われたニールズも、のちには彼がこよなく愛し
歴史を作っているのかもしれないと想像した。山頂は快晴だった。僕たちは
たヨセミテの花崗岩で非業の最期を迎えることとなった。変わりゆくのは僕
ボロボロながらも有頂天だったが、それで終わりではなかった。
たちクライマーであって、山々は不動のままだ。
山で嵐が荒れ狂い、大きな分厚い暗雲が積み 重なって、まるで山頂から煙が吹き出しているよう に見えるのは、エル・チャルテンの夕方としては 典型的。シーズンのために町に来ていたほとんど のクライマーたちは、いつものたまり場である レアンドロの店「フレスコ・バー」で、この夕暮れ の劇的な光景に遭遇した。 Austin Siadak
60
61
薄明のなか、セロ・チャルテン (フィッツロイ)の東壁の基部 へと迫るコリン・ヘイリー。 2018 年 Austin Siadak
コリン・ヘイリー: スーパーカナレタの 単独登攀体験
“
ソロ
いまから 1 年半前、僕はチャルテンの山群の顕 著な 11の頂に登った最初の人物となった。しかし つねづね、これらの頂をコレクションすること自 体バカげたことだと感じていた。僕が全 11 峰に 挑んだのはチャルテン山塊に強く惹かれたからで、 そこで何シーズンも登攀を繰りかえすうちにすべ ての頂に登ってみたいという欲望を抱いたからに すぎない。
なんとしても大きな登攀 をしたいという強い思い から、天気予報が少し でも回復すれば山に 向かう価値がある、と 自分に言い聞かせていた。
“
独登攀ではじまった。そして「シッティングマン・
リッジ」の上からチャルテン西壁の基部へと下り、 「スーパーカナレタ」の下部を登りはじめた。雪は 依然としてちらついていた。 「スーパーカナレタ」の最初の1,000 メートルは
やさしい氷雪壁で、比較的楽に登ることができる。 雲と降雪が気がかりだったものの、ルートには不 安を覚えず着実に登っていった。氷雪壁を登りき
僕にとっては、チャルテンの印象的な稜線をか
ると、心理的プレッシャーが大きい困難なセク
たち作る最も象徴的な7 つの頂のコレクションの
ションがはじまった。まず 2 つの難しいピッチを
方がはるかに意義深い。2 度目のパタゴニア遠征
登ると、7 年前に死んだベルギー人クライマーの
を終えた 2006 年の終わりには、僕はこれらの
遺体に遭遇した。彼の遺体はそれまで発見され
象徴的な 7 峰を登り(大半は最も容易なルート
ておらず、クーロアールの氷に埋もれかけていた。
で)、2011 年までには 7 峰すべてを単独で登る
彼の遺体を見て、僕は動揺した。そこは命のぬく
ことができた。多くのことを学んだ素晴らしい体
もりからあまりにも離れた場所で、しかも彼もま
験だった。
た単独登攀をしていたからだ。恐るべき結果の厳
チャルテンそのものは群を抜いて厳しく最も印 象 深 かった。それは 2009 年の 1 月で、5 度目 のパタゴニア遠征の終盤だった。帰国日が迫るな かチャルテンの「スーパーカナレタ」の単独登攀 を狙っていたが、天候はなかなか回復してくれな かった。 残り数日となり、僕はトーレ・バレーへ歩いて 行った。なんとしても大きな登攀をしたいという 強い思いから、天気予報が少しでも回復すれば山 に向かう価値がある、と自分に言い聞かせていた。 風予報の数値が 9 や 10 という状況ではチャルテ ンに向かうのは賢明ではない。しかし当時 24 歳 の僕は、賢明にはほど遠かった。
しさを目の当たりにした瞬間だった。 重量を減らすために 60メートルのロープ 1 本し か持っていかなかったので、同ルートの下降は物 理的に困難だった。完登して山頂を回り、下降距 離が短くて懸垂用のアンカーもある「フレンチ・ ルート」を下ることに意識を集中させた。登れば 登るほど、心身ともに消耗していった。 高度が上がると、岩はますます霧氷に覆われて いった。核心のピッチで使うためにバックパック の底に入れてあったロッククライミングシューズ
かえすという伝統的なロープソロのテクニックを 使った。嵐が迫るなか、手持ちのウェアをすべて 身に着け、チャルテンの頂上を前にたった独りで この傾斜のあるトラバースピッチを往復している 自分がバカらしく思えた。
が、ずっしりと重く感じられるようになった。食
チャルテンの頂上に到達したのは午後 8 時 20 料が尽き、そして水が尽きた。フリーソロをしたり、 分。それまでにチャルテン山塊よりもっと辺鄙な バックパックをあとから引き上げたり、ときには 数々の山脈を訪れていたが、3,000 メートル下に
トーレ・バレーのキャンプを出たのは午前 3 時。 2 つのカムでセルフビレイをとりながら登ったり、
62
下のアンカーを外し、ふたたび同じピッチを登り
いる人びとからの距離をこれほど感じたことはな
あたりは真っ暗でまだ風があり、雪も少し舞って
ロープソロをしたりと、ありとあらゆる手段を使っ
かった。すでに寒さに凍え、この巨大な険しい山
いた。その日はそれほど 難しくない 1,000 メー
た。最 終ピッチは最 難関の 1 つで、ここだけは
から降りるのにたった 1 本のロープしかなく、そし
トルのルート、 「シッティングマン・リッジ」の単
プロテクションをとりながら登り、懸垂下降して
てまもなく暗闇に包まれる。僕の装備では「フレ
ンチ・ルート」で 30 メートルの懸垂下降しかでき
ひとつのミスが 死につながる環境からようや
「スーパーカナレタ」の単独登攀について話すのは
なかった。だから 50メートルの空中懸垂を避ける
く解放されて安全圏にたどり着くと、氷河の上を
まったく意味がないように思えた。その体験の激
ため、意図的に 2 か所でノーマルルートのライン
しばらく下り、そして町へと歩いていった。体は
しさ、ストレス、恐怖、高揚をうまく伝えるのは
を外す必要があった。ついに氷河に着いたのは午
疲れ果てていて、どれだけ着込んでも寒かった。
不可能だとわかっていたから。 「うん、いい休み
前 2 時ごろだったと思う。肉体的にも精神的にも
30 分ごとに止まってバックパックの上に座り込む
だったよ。君は?」
完全に打ちのめされていた。そしてそのとき、ハー
と、そのまま眠り込んでしまう。震えながら目を
ネスにつけていた 2 つのアイスアックスの 1 つが
覚まし、立ち上がってよろよろと先に進んだ。よ
なくなっているのに気づいた。V 字スレッド(アバ
うやく町に着くと、人生で最も強烈な体験をやり
ラコフ)を作ったときにうっかり氷に打ち込んだ
遂げたと感じた。
まま忘れたのか、夜中の下降時にハーネスから外 れて落ちたのだろうと思った。 ( 7 年後、僕が下降 で使った迂回ラインで、2 人のクライマーが氷に 刺さっているそのアイスアックスを見つけた。 )
「それがね、すっごいクレイジーな新年のパー ティーに行ったの。最高だったわ!」と、彼女は 答えた。
「スーパーカナレタ」の単独登攀からほんの数 日後、僕はシアトルの大学の教室にいた。クラス メートが 冬 休 み はどうだった かと尋 ねてきた。
63
「フィッツ・トラバース」の 7 峰の 1 つ、アグハ・サンテグジュペリ へ向かうため、前途を目指して 次の懸垂下降の準備をする トミー・コールドウェル。 2014 年 Austin Siadak
これまでに僕はパタゴニアを 4 回訪れた。ア
なって体を押しつけるしかない。ウェアのレイヤー
レックス・オノルドとの「フィッツ・トラバース」、
を変えようとしてヘルメットを取ると、それはあっ
ほとんど何もしなかった旅、ジョシュ・ワートンと
という間に視界から飛び去った。
のセロ・トーレ山群北部にある 2,700 メートルの アグハ・スタンダルトの速登。そして、僕の人生に 最大の影響を与えるクライミング体験のひとつと なった、2006 年のパタゴニアへの初遠征だ。
僕は 1 か月間、他国のクライマーたちと一緒に悪 天候が過ぎるのをキャンプで待った。あきらめて
州エステス・パークの隣人で幼なじみの兄であるト
何もせずに帰る覚悟を決めると、帰国 3 日前に好
ファー・ドナヒュー。トファーはそもそも彼の父マ
天周期が訪れた。
マイクが亡くなってしまったのだ。トファーはパタ ゴニアのベテランだった。僕もロッキー・マウン テン国立公園のロングス・ピークやヨセミテのエ
今回は友人のエリック・ロードと一緒に、 「リネ ア・ディ・エレガンツァ」という別のルートに挑戦 した。エリックはトポを持っていた。これは 2 年 前にイタリア人チームが開拓したルートで、彼ら は氷に覆われたコンディションで、エイドを使い
自分が居るべき場所
“
の強烈さに対応できるかがわかった。トファーと
当時僕は 27 歳で、一緒に行ったのはコロラド
イクとの遠征を計画していたのだが、旅行の前に
トミー・コールドウェル: パタゴニア初遠征
撤退しても悔しさはなかった。何も期待してい なかったし、むしろこの登攀でいかに自分が体験
ながら 9 日間で完登していた。僕たちは氷河の上 を 5 時間歩いたあと、壁を偵察するために立ち止 まった。そしてトポをなくしてしまったことに気づ いた。しかしそれも大した問題ではなかった。登 頂できる見込みは薄かったし、僕たちはすでにパ タゴニアが突きつける数々の難題に打ちのめされ ていた。 またしても、僕 たちは何も期 待せずに取りか
風除けとなって いた山から 離れると、突風に 足をすくわれた。
“
ル・キャピタンで父とクライミングをしながら育っ
かった。だが、このときは頂上まで登りつづける
たが、パタゴニアに関しては新米だった。
ことになった。乾いた岩を登るのは楽しく、僕は
フィッツロイ山塊の麓にキャンプを設 営して、 「ロイヤル・フラッシュ」に取りついた。当時は天 気予報をその場ですぐに調べることができず、登 りはじめるとすぐに風が出てきた。冷たい水が肘 まで流れ落ちるなか、濡れたクラックをすばやく 20 ピッチ登った。たいてい一方向から吹いてく
核心のピッチをリードした。夜になっても登攀を つづけ、トファーがプロテクションのとれないベ ルグラのコーナーをリードして、ついにフリーでの 完登に成 功した。日の出を 3 回拝んだ 50 時間 の連続行動のあと、僕たちはルートの取りつきに 戻った。
るパタゴニアの風からは守られていたものの、車
歩いてキャンプに戻る途中、僕はすべてが一体
輪ほどもある大きさの氷塊が山頂からいくつも斜
となる強い感覚を覚えた。マイク・ドナヒューの
めに落ちてくるのを目撃した。骨まで凍りつくよ
散骨、指 導に対 する感 謝、トファーとのパート
うな一夜を過ごし、翌朝ふたたび登りはじめたが、 ナーシップ、そして尊敬するクライマーたちと過 頂上へとつづく傾斜の落ちた尾根にぬけるほんの
ごした天候待ちの思い出が、すべて一緒になった。
2、3 ピッチ下で引きかえした。岩棚でトファーが
僕は自分が居るべき場所に居るのだと感じた。
小瓶を取り出し、 「親父とはずっと一緒にいたん だ」と言ってその中身を空けた。遺灰が弧を描き ながら空に舞った。
そのときまで、僕はいつも何となくぎこちなさ を感じていた。スポーツクライミングでさえ、ど こか 違 和感があった。一方、パタゴニアは僕に
そこから氷河を下りはじめた。風除けとなって
ぴったり合っていた。それまでに得たすべての技
いた山から離れると、突風に足をすくわれた。僕
術をフル活用する冒険や逆境、そして仲間同士の
は吹きさらしの場所で育ったが、パタゴニアの風
連帯感が大好きだった。そこではすべてがまった
はまるで比 較にならなかった。氷河に腹ばいに
く正しいように感じられた。
65
“
ロランド・ガリボッティ: パタゴニアで過ごした 人生の回想と、その足跡 をたどる次世代の クライマーへの展望
次に 来たるもの
アスレチックテープで継当てしたが、シースの傷
みはロープの強度を大幅に弱め、僕たちはセロ・ フィッツロイ登頂後に敗退を余儀なくされた。
そのシーズンと翌シーズンにかけて、僕はボラ ンティアによる 5,000 時間の作業を要するトレ イル修復プロジェクトを企画した。グランド・ティ トン国立公園のトレイル作業チームの協力を得て、
この若い世代の大胆な 構想に、いまや僕の手 が届かなくなっている のは明らかだった。 それまでの長いあいだ、 一歩退くことを かたくなに拒んできた が、ようやく喜んで そうできるように感じた。
人気の高いトレイルを長期的に持続可能なものに するために止水板や階段や橋などを造った。あ らゆる天候下で来る日も来る日も岩や丸太を運
2008 年のパタゴニアの夏シーズンが近づくに つれて、僕はいても立ってもいられなくなった。ほ んの数週間前に、長年の夢だった「トーレ・トラ バース」をコリン・ヘイリーと成功させたばかり だったが、天候が回復してきたので、僕を 20 年 以上も魅了しつづけるこの山塊にふたたび戻るこ とにした。僕たちは 1 か月前にフレディ・ウィルキ ンソンとデイナ・ドラモンドが成功させた「ケア・ ベア・トラバース」の再登を狙っていた。これはセ ロ・フィッツロイの稜線の北端にある 3 峰(アグ ハ・ギヨメ、アグハ・メルモス、セロ・フィッツロ
び、夜はあちこちが痛む疲労した体を寝袋に埋め て、充実感に満たされて眠った。
にトライしようとコリンを説得した。体力の大半
スに再挑戦した。しかしまたしてもギアを軽量化
を取り戻すことはできていたが、ギヨメの途中ま
しすぎた僕たちは、使ったロープは太めで耐久性
で登ると、ずっしりと重いバックパックを担いで
があったものの、ビバーク用具は 600 グラムの寝
の苦行にはもはや耐えられないことを悟った。ア
袋 1 つを持参しただけで、テントもビビーサック
レックス・オノルドとトミー・コールドウェルが同
も持っていかなかった。前年よりもコンディション
じ目標ですぐ後ろを登っていた。アレックスのク
は悪く、なかなか前進できなかった。極寒の 3 夜
ランポンはアプローチシューズに合っていなかっ
に耐えたのち、セロ・フィッツロイを登り終えた
た。コリンの提 案で、僕 たちを追い越していく
僕たちは、ふたたび引きかえすことになった。
アレックスに、僕のクランポンを渡すことにした。
この敗退は心に重くのしかかった。体力が衰え
したときコリンの体調が優れず、キャンプを設営
はじめ、高山でのすばやい行動についてはピーク
することなく引きかえした。はじめてパタゴニアを
を過ぎていることを十分自覚していた。10 年前
訪れた1987 年以来、好天周期を逃すことになっ
には先天性の異形成症による股関節炎と診断さ
た 2 度目の体験だった。
れ、その慢性の痛みがやる気をそいだ。また、多
スを落としたいという気持ちがどこかにあった。 この地方での強烈な体験に圧倒されつつあると感 じはじめていた。僕は 38 歳で、そろそろ潮時に
発性硬化症の診断も心の隅に引っかかっていた。
重いバックパックを背負い、アプローチシューズ で 5.10 のルートを同時登攀する 2 人の姿を見る のは、爽快で刺激的だった。それから 5 日間で、 彼らはセロ・フィッツロイの稜線トラバースを成し 遂げた。 町に戻ったアレックスとトミーは、翌日に立ち
登山の妨げとならないよう徹底的に体調管理を
寄って登攀の詳細を話してくれた。話を聞くのは
し、また運の良さにも助けられ、友人には内緒に
楽しく、彼らの成功が心底嬉しかった。そこには
していた。
自分が望んでいた、クライミングからの距離がた しかにあった。
思えた。しかしそのあとにつづく空虚感で自分を
2 年後、ヘイデン・ケネディとジェイソン・ク
見失うのが怖く、そして明確な目標と方針がなく
ラックがセロ・トーレ南東稜を「公正な手段で」
なるのも寂しかった。ひとつの目標に専念するア
初完登(フリー化)したとき、彼らの戦術とスピー
力が懐かしい。そしていまでも、セロ・フィッツ
スリートが、スポーツの消失と自身の消失を同一
ドに驚かされた。この若い世代の大胆な構想に、
ロイの稜線トラバースという夢の実現を逃すこと
視するのは珍しいことではない。とは言え、どう
いまや 僕の手が届かなくなっているのは明らか
につながった、2 度のギアの選択ミスを思い起こ
しても逃したくないチャンスというものがある。
だった。それまでの長いあいだ、一歩退くことを
すことがときどきある。それでも、パタゴニアで
その年の12 月、理想的なコンディションのなか、 かたくなに拒んできたが、ようやく喜んでそうで きるように感じた。 コリンと僕はふたたびフィッツロイの稜線の最北
過ごした年月がもたらした安らぎと内省を、若い
端に向かった。今回はセロ・フィッツロイの南部に
凝りや痛みのない若い体と全速で強引に進む
ころの自分と交換するのは難しいだろう。
北半球に戻ってくると、その 後 9 か月間は初
あるアグハ・ポインセノット、アグハ・ラファエル、
のパタゴニアのクライミングガイド本の出版とい
アグハ・サンテグジュペリ、アグハ・デ・レスの
う、10 年来のプロジェクトに 専念した(この本
4 峰を加え、セロ・フィッツロイの稜線トラバース
は 2012 年の終わりには書店に並んだ)。連日コ
を完成させるのが目標だった。軽量化に重 点を
ンピューターの前に座ることにはトレイル修復作
置きながら慎重にギアを選び、その結果軽すぎる
業のような満足感はなかったが、完成した 400
ロープを持っていったため、初日にロープのシー
ページの本を手に取ると、まるで親になったよう
ス(表皮)が破れて芯がむき出しになってしまった。 な気分だった。 66
返った気分になり、もう 1 度だけ稜線トラバース
2010 年のはじめ、コリンと僕は稜線トラバー
イ)の縦走だ。けれども最初の尖峰の基部に到着
「トーレ・トラバース」に成功したあとは、ペー
“
しかし、何 事にも紆余 曲 折 がある。2014 年 のはじめに人工股関節置換手術を受けた僕は若
チャルテン(別名セロ・フィッツロイ)の山頂へとつづく最後の 斜面を登るロランド・ガリボッティ。この夏は異常に降水量と嵐 の多いシーズンで、この晴れ間が訪れたときの山々は雪と氷と 霧氷で真っ白だった。彼とコリン・ヘイリーが試みたこの プロジェクト「フィッツ・トラバース」は、その数年後にトミー・ コールドウェルとアレックス・オノルドによってついに完登された。 このときはトラバースの半分を登ったが、極寒の嵐のなかで 凍結状態のビバークを強いられたのち、撤退することとなった。 2010 年 Colin Haley
68
Alpine
2011 年、フィッツロイの 「カリフォルニア・ルート」 を熟視するケイト・ ラザフォード。このルート は 1968 年にイヴォン・ シュイナードと「飽くなき 冒険者たち」によって初登 された。 Mikey Schaefer
クールな場所は、 たいてい寒い マクロ・パフ・フーディ フィッツロイをフリーソロで登ったり下ったり、あるいはデ
さを加えることなく、耐水性を備えた保温性でしっかりと
ナリからイランまで試作品1枚でひとっ飛びする以外にも、
包みます。ダウンの構造を模倣して優れたロフトを保ちな
世界中にはクライミングの名所がいっぱい。美しい山で良
がら濡れても温かい化繊の利点を提供するプルマフィルは、
き友と過ごす週末は、凍えるほど寒くとも人生最高のひと
身頃に135 グラム、袖と両脇に 90 グラム(全体に 65 グ
ときと呼べますが、そんなあらゆる場面にお供してきたの
ラムを使用しているマイクロ・パフよりも増量)を施しまし
がマクロ・パフです。
た。縫い目を最小限に抑えた独自のキルト構造は、インサ
パタゴニアの革新的なマイクロ・パフのテクノロジーと成 功に基づき、それをさらに拡張させて噛みつくような寒さ にも対応するよう作った、より温かい選 択 肢です。超軽 量なリップストップ・リサイクル・ナイロン製のシェルは DWR(耐久性撥水)加工済みで外的要素から体を守り、ダ ウンのような化繊のプルマフィル・インサレーションは重
レーションを押さえながらロフトを最大限に高めます。フ ロント中央のツーウェイ・ジッパーはストームフラップ付き ですきま風を防ぎ、上部のソフトなジッパーガレージがあ ごを保護。内側にも外側にも必要な各所に複数のポケット を設け、ホカホカの本体は丸ごと付属のスタッフサックに コンパクトに収納できます。
ウィメンズ・マクロ・パフ・フーディ ¥49,500(税込) I 80115 I XXS-XL I レギュラー・フィット I 357 g (12.6 oz) メンズはウェブサイトでご覧ください
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Alpine アグハ・デ・レスをリードするコリン・ヘイリー。難易度が低めの ルートではあったものの、あらゆる方向から吹きつけるハリケーン 級の風が、その面白味を引き立てた。アルゼンチン、パタゴニア。 2013 年 Sarah Hart
山では持ち物を減らした分だけすばやく動けるので望ましくない場所で足止めを食ら う確率を下げられますが、 「身軽な」装備と「安全な」装備のバランスは保たねばなり ません。まさにそれを念頭に置いて作ったのがアセンジョニスト・ジャケットで、高山 でのライト&ファストのアクティビティで、グラム単位で重さを気にかけるときに最適
すばやく 身軽に アセンジョニスト・ジャケット 70
です。防水性と優れた透湿性を備えたゴアテックス・アクティブ・ファブリクスを使 用したこの 3 層構造のシェルは、縫い目を最小限に抑えて重さを削減しました。ヘル メットの着用に対応するオプティマル・ビジビリティ・フードは、つばの部分にフォー ム入りで悪天候下でも視界を確保。コードロックのシステムですばやく片手で調節で き、ポケットはハーネスやバックパックのウエストベルトのじゃまにならない高めの配 置です。表面素材にはリサイクル・ナイロンを100%使用しています。
メンズ・アセンジョニスト・ジャケット ¥69,300(税込) I 85230 I XS-XXL I レギュラー・フィット I 371 g (13.1 oz) ウィメンズはウェブサイトでご覧ください
ベースキャンプでは、はいたま ま寝た。タスマニアの高山では、 ヤマビルから身を守ってくれた。 クーロアールをブーツで踏み固 めながら登るときも、氷点下の 気温で走るときも、はいた。な ぜかって? その理由は、本当 に寒い状 況でいちばん避けた いのが、上半身だけ温かいこと だから。
マウント・ローガンで大嵐に見舞われた あと、キャンプ 1 を掘り出すカリ・ メディグとクリス・ローワット。カナダ、 ユーコン準州 Steve Ogle
要するに、 過去最高の パンツ ナノエア・パンツ ナノエア・ファミリーの他のメンバーと同じ、濡れ ても温かい化繊の 60 グラム・フルレンジ・インサ レーション(いまではリサイクル成分 40%)を使用 して作ったパンツです。余分な熱を逃す通気性を 十分に備えたソフトで快適なはき心地は、まるで アルパイン仕様の高性能スウェットパンツのよう。 滑らかな伸縮性ウエストバンドはシェルパンツやビ ブと併用しやすいプルオン型で、ハーネスやパック のじゃまにもなりません。脚は先に向かって細くな り、伸縮性に非常に優れた裾は足首でも、ふくら はぎまでまくり上げても締めつけ感はなく、スキー 用ブーツの中にフィット。さらにこの裾は広げてア ルパイン用ブーツの上にもかぶせることができます。
ウィメンズ・ナノエア・パンツ ¥25,300(税込) I 85110 I
XXS-XL I スリム・フィット I 269 g (9.5 oz) メンズはウェブサイトでご覧ください
あのときと 同じ歌 が
聞こえる 44 年前と同じ、旧いギアを使って 初登攀を繰りかえす。 文と写真 アンドリュー・バー
プロボ・キャニオンの「ステアウェイ・ トゥ・ヘブン」の第 4 ピッチを登りつめる アンディ・ナイト。1975 年の初登では これが最終ピッチだったが、現在では 氷の状態さえ良ければ、ルートはさらに 数ピッチつづく。
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1975 年の冬のある朝、 「バージー」と名づけたランドクルーザーがガタガ
の錆びた爪が研がれ、オーバル型カラビナがかき集められ、アイススクリュー
タと音を立てながら、ユタ州ワサッチ山脈のプロボ・キャニオンを仰ぐハイ
がラックに掛けられると、アンディはかび臭いセーターとジャケットを身にま
ウェイを走っていた。急峻な岩壁からは氷水が滴り落ち、温かい南風が穏
とった。このちょっとした歴史的再現で、ジムがアンディをビレイする。
やかに吹いていた。 「エプロン」と呼ばれる最初のピッチに近づいたのは、ジ ム・ナイトとマーク・ワード。ブルージーンズとウールのセーターという装い ながらも、彼らは確信をもって登り、ユタの最高かつ大人気のアイスクライミ ングルートのひとつを開拓したのだった。
天気まで正確に再現することはできず、むしろ正反対となった。横殴りの 雪が降り、骨まで凍りつくような寒さだった。ストレートシャフトのアックス は腕をパンパンに張らせ、ミトンは分厚くて扱いにくかった。時代遅れのス クリューをねじ込むためにアイスツールを使うのは、時間のかかる作業だっ
それからおよそ半世紀、正確には 44 年後、ジムと息子のアンディは、ジ
た。それでもアンディは始終笑顔で、その一瞬一瞬を楽しんでいた。僕も同
ムの旧いギアをおもに使い、このルートを再登した。翌日のクライミングの
じように感じた。ひと世代違うジムとアンディがこの歴史的なルートを一緒
予定を聞くためにたまたまアンディに電話をした僕は、 「うん、親父と登るん
に登る様子を見るのは、僕がそれまでに撮ったクライミング写真のなかでも
だ。一緒に来ないか?」と言われて、彼らに加わることになった。
とくに意義深いショットとなった。車で家に帰る途中、このルートの名前の
父親が初登したルートを当時のスタイルで再登し、過ぎ去った時代のクライ ミングを追体験する、というのがアンディの目的だった。寝室のクローゼット からよみがえったアイスツールのシャフトにワックスがかけられ、クランポン
由来である曲がラジオから流れるのをなかば期待した。しかしその曲は流 れなかったので、僕は頭のなかでレッド・ツェッペリンの 8 トラックテープを 「バージー」のダッシュボードに入れた。
アンドリュー・バーはユタ州ソルトレイク・シティを拠点とする写真家。 左上:やる気満々のアンディと、ややコンディションを心配気味のジム。 左下:木製のストレートシャフトを備えたシュイナード=フロストとシュイナード・ ゼロ(写真には写っていない)が、アンディの手によってふたたび奮い立つ。
上:つねに注意深くビレイをしながら、初登の話を語るジム。マーク・ワードを彷彿と させる焦茶色の巻毛のアンディが当時のギアで登る姿は、1975 年からの多くの 思い出を呼び覚まし、初登時とまったく同じこのビレイへとジムを連れ戻した。
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左:サレワ製ワートホッグ、ロウ製スナーグ(初登では使われなかった)、 当時のワイドスレッドのシュイナード製チューブラー・アイススクリューを 使用して、傾斜がきつく覚悟を要する第 2 ピッチを悪天候のなかで登る アンディ。彼が着用しているのはブルージーンズと旧き良きグレート・ パシフィック・アイアン・ワークス製パーカであることもお忘れなく。
上:新しい革のストラップを施した、当時のクランポン。
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b.
a.
シュイナード製チューブラー・アイススクリュー
b.
シュイナード=フロスト製ピオレ
c.
GPIW/ウィランス製シットハーネス
d.
シュイナード/サレワ製クランポン
右:クライミングを終えたあとの駐車場で、 父の旧いギアで登ることが肉体的にも 精神的にも、いかに困難であるかに 畏敬の念を抱くアンディ。
d.
a.
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Sportswear
自家製ビール、ハッキーサック、 未来のルートについての無駄話 は、天候待ちの時間をつぶす クライマーたちの娯楽。 Austin Siadak
やわらかに 織り上げて フィヨルド・フランネル・シャツ メンズ・インサレーテッド・フィヨルド・フランネル・ ジャケット 厚手のオーガニックコットン・フランネルと、60 グラム・サー モグリーン・ポリエステル(リサイクル・ポリエステル 90%)の インサレーションを組み合わせて作ったのが、温かく快適なこ のジャケット。ソフトでコンパクトに収納でき、コントラストカ ラーの平織りのポリエステルの裏地により、他のレイヤーの上 にもスムーズにフィットします。ボタン留めの前立てと 2 つのボ タン留めフラップ付きチェストポケットを備え、身頃下部の 2 つ のハンドウォーマーポケットは横から手を入れるデザインで、必 需品も収納可能。フェアトレード・サーティファイドの縫製を採 用しています。 ¥22,000(税込) I 27640 I XS-XXL I レギュラー・フィット
メンズ・ロングスリーブ・ナチュラルダイ・フィヨルド・ フランネル・シャツ この厚手のフランネル・シャツはあまりにも温かくやわらかで、 フラッグスタッフへ列車で旅するときはつい毛布代わりに使って しまうほど。快適な温かさを提供するソフトなオーガニックコッ トン・フランネル100%素材は、96%再生可能な資源から調 達された植物ベースの染料で染めています。伝統的な染色過程 を採用しているので、色落ちや色褪せは自然なこと。常温水で 同系色のものと一緒に洗濯し、直射日光を避けて吊るして干す ことをおすすめします。 ¥13,750(税込) I 53510 I XS-XXL I リラックス・フィット
メンズ・ライトウェイト・フィヨルド・フランネル・シャツ 素肌にやわらかくやさしい着心地のこの軽量なフランネル・シャ ツは、その日にどんな計画が待ち受けていようともへっちゃら。 オーガニックコットン・フランネル100%素材はソフトな肌触り ながら丈夫で、涼しい日々にちょうどよい温かさを提供します。 ¥11,550(税込) I 54020 I XXS-XXL I レギュラー・フィット
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散策好きな 人に アウト・ヤンダー・コート 毛布を身にまといたいほど寒いけれど、人前に出ても恥ずかしくない格 好を保つ必要があるときは、それと同じ温かさで魅力的なフィットを提 供するこのアウト・ヤンダーをどうぞ。長めに体をカバーするワークコー トのデザインで、リサイクル・ウールと丈 夫なオーガニックコットン・ キャンバスの古典的な天然要素と、着こなしやすい新鮮なスタイルを 組み合わせました。さらに、かさばらずに体を温める軽量なサーモライ ト・エコ 92・ポリエステル(リサイクル・ポリエステル 92%)のインサ レーション入りです。フェアトレード・サーティファイドの縫製を採用。
ウィメンズ・アウト・ヤンダー・コート ¥34,100(税込) I 26895 I XS-XL I レギュラー・フィット
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セーター 日和 コットン・セーター 私たちは古い衣類を着るための新しい方法を見 つけました。肌を甘やかすほどソフトなこれらの セーターはすべて、回収されたオーガニックコッ トンなどの天然繊維を含むリサイクル素材の混 紡を使用し、最初から体になじむ着心地で迎え てくれます。何とでも合わせられるのでレイヤリ ングにも最適で、一生涯長持ちするほど丈夫に 作られています。
ウィメンズ・オフカントリー・タートルネック ¥14,300(税込) I 50570 I XS-XL I レギュラー・フィット
ウィメンズ・オフカントリー・カーディガン ¥18,150(税込) I 50380 I XS-XL I レギュラー・フィット
メンズ・オフカントリー・クルーネック・セーター ¥14,300(税込) I 50590 I XS-XXL I レギュラー・フィット
喪失のアート 文 ミーガン・ブラウン 写真 ティム・デーヴィス
表紙アーティスト ザリア・フォーマン
ザリア・フォーマンが氷について語る話はじつに魅力的です。とくに氷が 奏でる音。何も見えないときでも雷のように轟き、崩れ、割れる氷。朝食の シリアルのようにパチパチと弾ける音が大音響で聞こえてくるのだと、彼女 は描写します。そしてその音を、シリアルのライスクリスピーをもじって 「アイスクリスピー」と呼び、 「本当に美しい音色です」と言います。
極氷が解ける様子は、おそらく 最も明確でありながら最も抽象的 な、気候危機の視覚的暗喩かも しれません。氷河が割れ、氷山が 漂流し、氷床が後退する様子は、 急速に温暖化が進む世界の脆弱性 を瞬時に感じさせます。それはよく 目にする映像ですが、身近なもの ではありません。感情的に遠く、 人間の行いの届かないところに ある力だからです。 そこで鍵となるのがアートの力です。
パステルや器材の散在するブルックリンのスタジオで、 近年制作中の作品の傍に立つザリア・フォーマン。彼女 が 2007 年の家族旅行ではじめて見た氷河──悪名高き ヤコブスハブン氷河──は、その数年後に母親の遺灰を 撒く場所ともなる。「さらにその 5 年後には、NASAの 飛行ミッションで氷河と、母を、空から再訪しました」 とフォーマンは言う。この絵に描かれた氷山は、 グリーンランドのディスコ湾で彼女が遭遇したもの。
フォーマンはここ10 年以上にわたり、あらゆ
を使って、氷や水の異なる表情をとらえます。親
彼女は氷の地形を観測する研究者たちととも
る形態の水のイメージを対象とした、大規模で
指はぼかしや薄づけに、中指はより細部を描く
に過ごした 3 週間、天候さえ許せば毎日南 極
写実的な絵画を制作しています。そのなかでも
ときに使います。そして描く視点は目の高さ。 「い
の上空を飛んだそうです。 「いままで見慣れてい
氷河は、彼女の最も顕著なモチーフです。 「アー
ちばん扱うのが難しいのは白です」と、彼女は
たのは氷河の側面や水に浮かぶ氷山の姿ですが、
ティストの観点からいえば、氷はかぎりないひ
言います。
それは氷解する直前の最終的な姿です」と、彼
らめきの源です。氷にはたくさんの表面や質感 があるからです」と、彼女は語ります。しかし彼 女にとって絵を描くことは、象徴以上の存在で もあります。彼女は客観的な事実を感情的なも のに移し変えるために、こうした巨大な氷床を 気候科学者とともに間近に体験し、氷が受ける と同時に与える世界的な影響についての理解を 得てきました。 ニューヨーク州ブルックリンにあるフォーマン のスタジオは青い粉の層にうっすらと覆われて います。パステルのトレーからあふれる色素が 靴の表面や底に付着し、白いラバーを淡いアイ スキャンディーのような色に染めています。彼女 がパステルを使う理由は、その媒体の物性。 「パ ステルには間違いの余地があまりないのです。 私はとてもなめらかな紙の上に描きますが、た いていのパステルアーティストは好まない材質 です。それは色素を吸収しづらいからです」と、 彼女は説明します。彼女は指のさまざまな部位
銀髪混じりの頭を短く切りまとめ、地球の環 境破壊からアクロヨガまで何でも語るフォーマ ンの口調には、希望に満ちた情熱が感じられま す。ピンク色の NASA のスウェットシャツにブ ラックジーンズ姿の彼女は、 「ホットピンクが大 好きなんです。おかしいですよね、私が描くほ とんどのものはブルーなのに」と言います。 スタジオ内にはさまざまな制作段階にある、 大きな絨毯サイズの作品が 3 つ掛かっています。 最大の作品は飛行観測から北極と南極の氷を 地図化するという、10 年越しの NASA の科学 ミッション「オペレーション・アイスブリッジ」に 由来するもの。フォーマンの作品を見初めたこ の計画のリードナビゲーターが、彼女を飛行へ の参加に招いてくれたのだそうです。自分も芸 術家の家庭で育ったというその人物は彼女を招 待する際、無機質な数字では伝えることのでき ないデータを伝達することのできるアートの重
女はつづけます。 「ですから、それがどうやって 大きくなり、みずからの重みで分裂して氷河へ と動き出し、海へと流れていくのか、その様子 を実際に氷床を見て知ることができたのは、ま さに目からウロコが落ちる体験でした」 2015 年 の TED トークで、フォーマンは 行 動心理学の理 論についてふれました。感 情は 他の何よりも私たちに行動を促すものであると。 百万分率や海面上昇の数値について何度耳にし たとしても、何も感じないかぎり、私たちは行 動を起こしません。しかしアートには私たちを 動かす力があると。少なくとも、それがフォー マンの構想なのです。アートは私たちにゆとり を与え、その抽象に個性や魂を見つけ、何が起 きているのかに気づかせてくれます。気候変動 ははるか遠くの途方もない現象に思われたとし ても、アートとして表現することで、少し身近に 感じることができるのではないでしょうか。
要性を理解している、と語ったそうです。 フォーマンはソフトパステルを使って 水と氷の形態を詳細に描き上げる。
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リンカーン海のこの区域にあ る氷は通常、北極圏で最も 古く厚いもの。NASA の「ア イスブリッジ」チームはこの 氷を計測し、その厚さの長期 的な変化を研究する。普 通 は、海洋の循環によって氷が 海岸に押し上げられ、その圧 力が大きな隆起を形成する。 夏季に表面に現れる鮮やか な青の池は、粗い氷が形成 する氷解水の水溜まり。この 区域の地形では、こうした水 溜まりはたいてい数十センチ メートルと、北極圏の他の区 域よりも深くなっている。
細部を精密に描写するフォーマン。
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表紙:
カタログの不要な郵送 お引越しされた場合は、旧住所と新住所をお知らせください。万一このカタログが誤 配されたり、複数お受け取りになった場合、あるいはカタログ郵送の停止をご希望の方も、フリーコール 08008887-447、ウェブサイト pat.ag/cs までご連絡ください。 100%再生紙 本カタログは消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%使用の 証紙に印刷しています。このカタログの製造には 1 本たりとも新しい木を切り倒していません。パタゴニアは 25 年 以上もカタログの印刷に再生紙を採用してきましたが、消費者から回収/リサイクルされた古紙 100%に切り替えた のは 2014 年のことです。
ザリア・フォーマン 「 リンカーン海、グリーンランド
FSC®〈森林管理協議会〉認
100% PCW
北緯 82 度 32 分 30 秒 3036 西経 59 度 54 分 50 秒 3814」 ソフトパステル/紙
This catalog refers to the following trademarks as used, applied for or registered in Japan: 1% for the Planet ®, a registered trademark of 1% for the Planet, Inc.; Fair Trade Certified™, a trademark of TransFair USA DBA Fair Trade USA; FSC® and the FSC Logo®, registered trademarks of the Forest Stewardship Council, A.C.; and THERMOLITE®, a registered trademark of INVISTA North America S.a.r.l. Patagonia® and the Patagonia and Fitz Roy Skyline® are registered trademarks of Patagonia, Inc. Other Patagonia trademarks include, but are not limited to, the following: Capilene®, FullRange®, H2No™, Macro Puff ™, Nano-Air ® and Thermogreen™. 掲載価格の有効期限:2020 年1月31日 © 2019 Patagonia, Inc.
(アーティストの許可を得て掲載) フォーマンの活動については 90 ページ参照。