アクティベート ・ リーフ No.708
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の世の中には偽物が溢れています。どうやっ たら騙されずに本物を見つけられるのでしょう か。商品の場合、本物は値が張るため、あえて安価 なイミテーションを買う場合はともかく、本物を求 めていたのに偽物をつかまされたりしたら、たまっ たものではありません。 また、この人は本物だと思ってついていったのに、 まったく信頼に値しない人だったとか、この会社は 本物だと思って入社したのに、相当のブラックであっ た、という場合もあります。人間関係でも、ほんと うの愛や友情を見つけるのは簡単ではありません。 そういう世の中に生きていると、仕事に関しても、 人間関係や結婚に関しても、どうせ本物なんて見つ からないし、妥協して生きていくしかないんだ・・・ と考えてしまいがちになります。そうやって希望を 失った人が増えているという話を聞いて、私はとて も悲しくなりました。 私も人生で沢山の失望を味わい、現実世界の厳し さもよく知っていますから、夢と理想ばかり語って いた十代の頃とは違います。でも、こんなに偽物や イミテーションが溢れた不完全な世の中にあっても、 本物があることは知っています。 私は十代だった頃、友人から「ほんとうの愛」と いう小冊子を受け取りました。そこには、人間の愛 は完ぺきではないので、どんなにがんばっても誰か を失望させてしまうこともあるし、時の経過と共に うつろうこともあるけれど、神様の愛は完璧で永遠 だから、決して私たちを失望させることはないと書 かれていました。 当時の私は、だんだん世の中のことが分かってきて、
築紫 裕子
世の中の状況に幻滅していましたし、両親の不和を知って家庭 生活にも失望し、 「ほんとうの愛なんてないに違いない」と思っ ていました。だから、自分は絶対に結婚なんかしないと決め ていましたし、大人にもなりたくないと感じていました。 でも、心の中では、ほんとうの愛を探していたのです。だから、 その小冊子を読んだ時には、その言葉が頭から離れませんで した。そして、何度も読み返すうちに、自分はほんとうの愛を 探す場所を知らなかっただけなんだと分かったのです。 不完全な人間同士の中に完璧な愛や友情を求め続けるなら、 それは失望に終わります。自分が不完全であるように、相手 も不完全であり、誰かの必要を100 % 満たすことはできない からです。 それでも、私たちの心の中にはぽっかりとあいた穴があっ て、どうしてもそこを満たしたいと願い、何がその穴を埋め てくれるのか分からないまま、ただ探し続けます。ほんとう の愛を追い求めているのに、時にはその空虚さを、地位や成功、 物やお金、または一時的な楽しみやエンターテイメントで埋 めようとします。 その小冊子には、その心の穴は、神様が人間を造られた時 にわざと造られた空間であって、そこは神様の愛でしか満た すことができないと説明されていました。私はその説明を読 んで、やっと分かりました。どうして、いつも何かを必死に 探し求めているのに見つからず、どうしようもない空虚感を 感じていたのかを。 そんなことがきっかけで、私は聖書を真剣に読むようにな りました。最初の頃は理解できない部分も沢山ありましたが、 読めば読むほど、神様の愛がどれほど深いものかが分かって きました。そして、自分の心の穴を完全に満たせるのは神様 の愛しかないということがはっきりし、その穴を他のもので 埋めようとすることはなくなりました。
他のものが悪いというのではありません。成功すること や、必要な物やお金を得ること、また一時的な楽しみだっ て人生には大切なことです。ただ、心の中にあるその特 別な穴は、神様のための空間なので、そこを他のもの で満たそうとしてもうまくいかないし、完全な満足も得 られません。それはまるで、鍵穴に合わない鍵を無理に 入れようとしているようなものなのです。 「人の心には神様の形をした穴があって、それは神様 でしか満たせない。 」そう考えるなら、神様との個人的な つながりこそが、私たちの心を満たすものだとわかります。
ということは分かりますが、どうしてサソリや蛇という 生き物と比べたのでしょうか。当時のイスラエル地方の 様子を知ると、ちょっと面白い発見があります。 イエス様が地上におられた今から2000 年ほど前、イ スラエル地方には荒野が広がり、サソリがたくさんいま した。その中には、腹の色が白っぽいものがいて、触る と丸くなってしまうので、石ころの間などにいると、一 見、鳥の卵のように見えるそうです。 そこでイエス様が言われたのは、天の父である神様は、 子どもたちが「父ちゃん、卵が食べたいよー」と言って いるのに、似ているからといって丸くなったサソリを手 渡すだろうかということです。 また、イスラエルには蛇のように細長い魚がいて、と ても美味しいそうです。もしかしたら、ウナギのような ものかもしれません。それを子どもが、 「この間の魚、す ごく美味しかったから、また食べたい!」とリクエスト してきた時に、似たようなものだからと、蛇を食べさせ たりはしないでしょう。 神様は、私たちが求める時に、決して偽物を渡したりは しません。人間のすべての親よりもはるかに偉大な父であ る神は、万能であり、私たちにとって良いものなら何でも与 えてくださいます。本物は高いからと節約する必要もないし、 本物を探すのは大変だからと躊躇する必要もないのです。 そんな神様に、私たちは本物を求めているでしょうか。健 康、幸せ、愛、喜び、心の平安、そして食べ物や着る物、 良い仕事、住む場所、愛に満ちた人間関係など、すべての 良きものは神様のものであり、上から下ってきます。だから、 遠慮せず、求め、信じ、受け取ればいいのです。そうやっ て神様に信頼しながら生きるなら、どんな時にも希望を持 つことができます。神様は良き父であり、私たちの祈りに 応えて本物を与えてくださるとわかっているのですから。
では、人間の愛や友情はどうでしょうか。私は思います。 それにも、そのための場所があるのだろうと。多くの場合、 神様はご自分の愛を人々に届けるのに、人を器として使 われます。 神はご自分の姿に似せて人を造られたとありますか ら、神様にとって愛を届けるのに一番使いやすいのは 人間なのでしょう。神様はその愛を示すために、あら ゆる人間関係を使われます。家族、親戚、友人、同僚、 先輩、師匠、近所の人というふうに、接するすべての 人を通して、神様の愛が流れています。 でも、そのすべての愛の源である神様を意識しないで いると、私たちは目の前にいる人に期待しすぎたり、頼り すぎたりして、失望を招いてしまいます。周りの人の愛や 友情に感謝しながら、その背後におられる神様に目を留 め、足りない部分は神様に満たしてもらうようにするなら、 あまり欲求不満にならずに人生を送ることができます。 でも私たちは普通、足りていないものがあると、不平 を言ったり、がっかりしたりするだけで、積極的に神様に 求めようとはしません。人には不可能でも、神様には何 でも可能であり、一人ひとりの必要を満たすことは、神 様が何よりも願っていることなのに、その神様に求めるこ 「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことは とをしないのです。 なかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。 私たちは普段、どれほど真剣に神様に期待し、求めて 」 いるでしょうか。聖書には「あなたがたは、求めないから そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 -- 聖書 ヨハネの福音書 16 章 24 節 得られないのだ。 」 (ヤコブ 4:2)とあります。神様は、私 たちが求める時に、必ず本物を与えるとも約束していま す。そのことについて、聖書に面白い表現があります。 「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を 求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求め るのに、さそりを与えるだろうか 。このように、あなたが たは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物を することを知っているとすれば、天の父はなおさら、求め て来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。 -- ルカによる福音書 11 章 11 - 13 節
良い親なら、子どもがお腹をすかせて食べ物を欲し がっている時に、身体に危険なものを与えたりはしない
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