アクティベート ・ リーフ No.778
キリストご自身からの言葉
築紫 裕子 リスマスが近づくと、キリストに関する話が本や雑誌 に掲載されるようになります。でもそれらは大抵、他 の人がキリストについて説明しているものです。そこで今 回は、キリスト本人からの言葉に耳を傾けてみませんか。 普通、私たちが自己紹介をする時には、 「私はどこどこで 生まれ、どんなふうに育ち、今何をしています。そして、 こんなことを目標としています」といったことを話します が、イエス・キリストは、自分のことをどのように説明し ているのでしょうか。クリスマスはイエス様の誕生を祝う 日なので、本人からの話を聞くのが一番です。 今から二千年ほど前、キリストが地上で暮らしていた時 に、キリストは自分が何者であるかについて沢山語られま した。新約聖書には、イエスや弟子たちのした活動が事細 かに記録されていますが、中でもヨハネの福音書には、イ エスご自身が語った言葉が多く記されています。そこで今 回は、ヨハネの福音書から読んでみましょう。まずは、キ リストが自分は何者で、何のために地上に来たのかについ て語っている部分です。
ク
わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じ る者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人が あっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、 この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 - ヨハネの福音書 12 章 4 6 -47 節
神様とかイエス様と聞くと、いつも人間を見張っていて、 罪を裁くためにやってきたのではと思う人も多いのではな いでしょうか。でも、今の聖句を見てもわかるように、キ リストは私たちを裁くためではなく、救うために来られた のです。
神様はすべての人が救われて幸せになることを望んで、 ご自分のひとり子キリストをこの地上に送ってくださいま した。人類は神様から離れて迷子になったような状態でし たが、キリストが地上に来て、天の神様のもとに戻るため の道を示してくださったのです。 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを 望んでおられる。神は唯一であり、神と人との間の仲保者 もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。 - テモテへの手 紙 第 一 2 章 4 - 5 節
イエスは彼に言われた、 「わたしは道であり、真理であり、 命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに 行くことはできない。」 - ヨハネの福音書 14 章 6 節
つまり、イエスが地上に来られた最大の目的は、神と人 との仲介者となり、迷子になっていた私たちを魂の父であ る神につなげることだったのです。それによって、信じる 者は、神の子としての身分を授かり、神の愛と光の内を歩み、 永遠の命を授かることで死の恐怖から解放されます。 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは 世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩 くことがなく、命の光をもつであろう。」 - ヨハネの福音書 8 章 12 節
イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。 わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じ る者は決してかわくことがない。」 - ヨハネの福音書 6 章 35 節
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命であ る。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」 - ヨハネの福音書 11 章 25 節
復活の命、それは人が何よりも願うものではないでしょうか。誰 も死は免れませんが、死んだあとも復活して天国で永遠に愛する者 たちと暮らすことができるなら、それほど嬉しいことはありません。 人は皆、死を迎えますが、イエスはその死の力を滅ぼすために地上 に来られたのだとパウロが説明しています。 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエ スもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持 つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のた めに一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
ここにある「言」とか「命」とか「光」という部 分は、すべてイエス・キリストのことを表していま す。そして、クリスマスとは、まさにここに書かれ ているように、闇の世に、光であり命であるキリス トが来られたことをお祝いする特別な日なのです。 このことを理解してクリスマスを過ごす時、私た ちの心は感謝で溢れます。キリストは神であるにも 関わらず、私たちに命を与えるために、神としての 王座を去って、私たちのもとまで降りて来てくだ さったのですから。多くの人は、神様にお願いする ために神社に参拝したり、どこかに祈願しに行った りしますが、わざわざ神様の方から私たちのところ まで降りてきてくださったとは、なんという愛なの でしょう。
- へブル人へ の手 紙 2 章 14 -15 節
ここに、「死の恐 怖のために奴隷となっている」とありますが、 確かに自分の心を正直に見つめてみるなら、誰の心の中にも死に対 する恐れがあるのではないでしょうか。でも、キリストが私たちと 同じ肉体をもって地上に生まれ、その後、十字架の死と復活を通し て死の力を滅ぼし、死の奴隷となっていた人類を解放するという業 が成されたのです。 だから、イエス様を信じ受け入れた人は、死に対して別の見方が できるようになります。天国のことを知っていると、たとえ愛する 者たちとの別れの時が来て悲しんでも、いつか天国で再会する時を 楽しみにできるのです。 死ぬ間際に、 「また天国でお会いしましょう!」と言って笑顔で 旅立っていくクリスチャンの話をよく耳にします。それは、恐れに おののきながら生きるのとは随分と違います。すべての人が、天国 への信仰を持って生きられるようにと、イエス様は地球に来てくだ さったのです。 さて、ここでもう一つ、気づいてほしいことがあります。イエス 様が何度も、 「わたしは来た」と表現していることです。人間だっ たら、 「私は生まれた」と言いますよね。でも、 「来た」と表現する ことで、キリストの命は地上で始まったのではなく、最初から天に 存在したのだと示しています。 そもそも、神もキリストも、命そのものなのです。そのことが、 ヨハネの福音書の冒頭にこう書かれています。 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この 言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。 できたもののうち、 一つとしてこれによらないものはなかった。こ の言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中 に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等し くあることを固守すべき事とは思わず、かえって、 おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿 になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低 くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るま で従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き 上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それ は、イエスの御名によって、天上のもの、地上のも の、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」 と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 - ピリピ人への手 紙 2 章 6 -11 節
ですから、まだ、この神様からの永遠の命という プレゼントを受け取っていないならば、ぜひ、次の 祈りによって、この祝福を受け取ってください。 「イエス様、私たちを恐れから解放し、永遠の命 を与えるために地上に来てくださったことを感謝 します。どうぞ 今、私の心の中に入り、私の救い主 となってください。私の心を天国の愛と喜びで満た し、これからの人生を導いてください。イエス様の 名前で祈ります。アーメン。」
「神はそのひとり子(イエス・キリスト) を賜ったほどに、この世を愛して下さっ た。それは御子を信じる者がひとりも滅 びないで永遠の命を得るためである。」 - ヨハネの福音書 3 章 16 節
- ヨハネの福音書 1 章 1- 5 節
http://www.activate.jp © 2020 Aurora Production, Ltd. All Rights Reserved
「アクティベート・リーフ」の他の記事は、ホームページでご覧頂けます。
http://www.activated.org