791:「Why?」ではなく、「What?」を考える

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アクティベート ・ リーフ No.791

「Why?」ではなく、 「 What?」を考える 築 紫 裕 子

る動画を見ていると、一人の牧師が、 「今は 常に誰かを批判するモードになってしまいます。そ Why ?(どうして)ではなく、What ?(何) んなトゲトゲしい気持ちが心に渦巻いていたら、幸 を考えるべき時だ」という話をしていました。その せになれるはずはないし、結局はそのトゲが自分自 話を聞いて、それこそが、ここ半年間ずっと私の心 身の心を傷つけてしまうことになります。 を思い悩ましていたことに対する答えだとピンとき でも多くの人は、そういう気持ちをぬぐい切れな ました。 いままでいるのではないでしょうか。物事が起こる 今の社会情勢の中で、多くの人たちが、 「どうし 時、その原因はいろいろあり、一つだけではありま てこんなことが起こっているんだ? 何でこんな結 せん。様々な状況が重なり、何人もの人たちの決断 果になってしまったんだ?」と論じ合っていますが、 が影響して起こります。そして、そのすべてを知る その状況を引き起こした「他人」を責めるのではなく、 ことは人間には不可能です。神様だけが、すべての 「自分」に何ができるかを考え、また、 「過去」に何 状況と原因をご存知で、人間には全体像は見えない が起きたかではなく、 「これから」どうすべきかに目 のです。 を向けることが大切だ、という内容が心に響いたの だから、 「どうして?」とか、 「誰のせいで?」と です。 ばかり考えても、あまり解決にはなりません。もち 私の悩みとは直接関係のない礼拝メッセージでし ろん、どうしてなのかを追求することで、反省が促 たが、その「Why?」と 「What?」についての部分は、 され、同じ過ちを繰り返さない助けにはなりますが、 自分の思考回路を見直すきっかけとなりました。私 「どうして?」と考え続けるだけでは真の解決にはつ は自分や身近な人の人生に何かが起こると、 「どうし ながりません。 てそんなことが起こってしまったんだろう・・・」と それに対して、 「では、何をすべきか」と考え始め 考えがちです。そして、 「どうして・・・」というこ ると、道が開かれていきます。 「なぜ」と考えるのは、 とばかり考えていると、そのうちに、それは誰々の たいてい過去を振り返ることですが、 「何をすべきか」 せいだとか、私がこれをしなかったせいかもしれな と考えるのは、未来を考えることだからです。過去 いとか、いつの間にか頭の中で「責任追及の旅」が ではなく、未来を考えて決断を下そうとする時、私 始まってしまうのです。そうなると、誰かに対して たちは前を見ています。そして、どの方向に進むべ 恨みがましくなったり、そうかと思えば自己非難に きかと考えるにしたがって、未来が切り開かれてい 陥って自分を責めたり、あるいは、世の中全般に対 くのです。 しても非難がましい気持ちになってしまいます。 責任追及の旅は、私たちを幸せな場所に連れて行っ 私はそのことに気づいて、自分の思考回路を変え てはくれません。むしろ、心の中が重苦しく暗くなり、 たいと思うようになりました。今までは、つい、 「ど


うしてこんなことが起こってしまったんだろう・・・」 と、暗い気持ちを引きずる癖がありましたが、起こっ てしまったことはもうどうしようもないことで、考 え続けても物事は変わりません。そうであるならば、 起こってしまったことは神様にお預けして、新しい 状況の中で、これからどう行動するか、どう生きる かを考えるようにしたいと思ったのです。 未来のことというと、暗い未来の予想ばかりをす る人もいますが、それだと、未来のことを考える楽 しさが削がれ、心配ばかりするようになってしまい ます。聖書には、将来への希望の約束が沢山記され ていますし、それはすべての人のための約束です。 どんなに暗く不安な状況にあっても、神からの約束 は変わることなく通用します。なぜなら、神はこの世 のどんな状況にもまさって力強い方だからです。それで は、聖書にあるそんな約束の幾つかを見てみましょう。 「主(神)はみずからあなたに先立って行き、 またあなたと共におり、あなたを見放さず、 見捨てられないであろう。 恐れてはならない、おののいてはならない。」 (申命記 31 章 8 節) 「主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」 (詩篇 23 篇 1- 3 節) 「わたし(イエス)は 平安をあなたがたに残して行く。 わたしの平安をあなたがたに与える。 わたしが与えるのは、 世が与えるようなものとは異なる。 あなたがたは心を騒がせるな、 またおじけるな。」 (ヨハネ 14 章 27 節) 「すべて重荷を負うて苦労している者は、 わたし(イエス)のもとにきなさい。 あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、 わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたの魂に 休みが与えられるであろう。」 (マタイ 11 章 28 - 29 節)

「(主は)弱った者には力を与え、 勢いのない者には 強さを増し加えられる。 主を待ち望む者は新たなる力を得、 わしのように翼をはって、 のぼることができる。 走っても疲れることなく、 歩いても弱ることはない。」 (イザヤ 40 章 29, 31 節) 「わたしはあなたを見放すことも、 見捨てることもしない。」 (ヨシュア 1 章 5 節) 「主は心の打ち砕かれた者をいやし、 その傷を包まれる。」 (詩篇 147 篇 3 節) 「神は真実である。 あなたがたを耐えられないような 試 錬に会わせることはないばかりか、 試錬と同時に、それに耐えられるように、 のがれる道も備えて下さるのである。」 (Ⅰコリント 10 章 13 節)

このように神様が約束してくださっているのです。 私たちは何に耳を傾けるのでしょうか。誰かの語る未 来の予想や、自分の心配の声でしょうか。そのどちら も、限られた視野しか持たない人間の考えに基づいた ものです。でも、神様は万物を創造された方であり、 今もそのすべてをご自身の支配下に置かれています。 もし神様がすべてを支配しているなら、どうしてこ んなことが起こるままにしているのかと神様を責めた い気持ちになる時もあることでしょう。でも、神様は 一人一人に選択の自由を与えられ、人が自分で決断し、 その結果に責任を持つようにされました。 だから、私たちにできる最善のことは、神の約束 に耳を傾け、信頼し、未来に希望をもち、神に導き を求めながら進んでいくことではないでしょうか。 神は私たちひとりひとり を 愛 し、 最 後 ま で 見 守ってくださいます。 だから、 過 去 に 捕 らわれず、未来を 恐 れ ず、 神 と 共に 勇気をもって生きて いきましょう。

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