棄民と隠蔽①

Page 1

棄民と隠蔽の歴史 1944-2013 Eaphet核電讀書會 2014.1.23


棄民と 棄民と隠蔽の 隠蔽の歴史 東亜歴史資源交流協会 (Eaphet) 核電勉強会 2011年3月11日、地震と津波に襲われた東日本で、東京電力福島第一原子力 発電所が原子炉冷却機能を失い、同発電所内に隣り合わせに位置する原子炉が 次々に炉心溶解を起しました。政府はこの事故によって放出された放射能につ いて「ただちに人体に影響はない」と言い続け、こうした事故の際に放射能が どのように拡散するかを予測する高価なシステムの情報を隠蔽し、結果、多く の避難民が避けられたはずの被爆を余儀なくされました。事故後も、大気中 に、そして海に、放射性物質は放出され続けましたが、日本政府は数値を低く 発表したり、漏洩を隠蔽したりし続けています。 事故から事故後の現在まで、放出された放射性物質の重大な害について政府 は認めようとせず、福島に戻って地域経済を復興せよと人々に呼びかけていま す。福島産の食物を「食べて応援しろ」と全国に呼び掛けています。事故以前 には「年間1ミリシーベルト」だった放射能の基準値を20倍に引き上げました が、これは事故前まで原発労働者に適用されてきた基準値と同じです。発育中 (細胞分裂が盛んな)の子どもたちに、原発労働者と同じ基準値の中で、しか も24時間ずっと生活しろと言います。怖いから避難したいという人たちに対し ては、どうぞご勝手に、と政府は必要な援助をしぶっています。 福島でも、その他の汚染地域でも、健康被害は増加していますが、放射能と は関係ないというのが判で押したような日本政府の(そしてほとんどの民間お よび大学病院の)答えです。 政府は原発事故の恐ろしさと、放出された放射性物質(残留放射能)の害に ついて知らないわけではありません。広島と長崎で原爆が爆発した後で残留放 射 能 の影 響 につ い て調べ て きた ア メリ カ 合衆国 の「原爆 傷害 調 査委員 会 (ABCC)」を70年代に日米共同研究機関として改組した「放射能影響研究所 (放影研)」も、それに先立つ1957年に原発建設ラッシュにそなえて創設した 「放射能医学総合研究所(放医研)」も、原爆被害者のデータに基づいて研究 をしてきています。日本政府は1984年には原発がテロにあった場合の被害につ いてのシミュレーションも行っています。が、これらのデータはそのすべてが 隠蔽され、公開されてきませんでした。その理由は、原爆とその残留放射能に 関する事柄のすべてが、当初はアメリカ合衆国の軍事秘密であり、その後は日 本国とアメリカ合衆国共同の軍事機密であったためです。これは、基本的には 現在も変わっていません。日本政府は放射能の恐ろしさを知らないから「ただ ちに人体に影響がない」と言っているのではなく、知っていてもそれを人々に は伝えないという選択をしています。 冷戦の中で表向きには核兵器を作らず持たなかった日本は、アメリカ合衆国 の「核の傘の下」にいたわけですが、いつでも核兵器を製造できる力を保持し てきました。そのために大量のプルトニウムをリサイクル用だと言って備蓄し てきましたが、自前ではリサイクルの能力がないため、一部をフランスのアレ ヴァ社やイギリスのセラフィールドで処理してもらって「リサイクルしている よ」と い う 体 裁 を か ろ う じ て 作 っ て い る の が 現 状 で す。リ サ イ ク ル 燃 料 (MOX燃料)を日本で最初に本格的に搭載したのが福島第一原発3号機でし たが、搭載して半年で爆発事故を起こしました(2011年3月13日)。それでも 政府は核燃料サイクル計画を継続すると言っています。計画を中止するという ことは、核兵器製造能力を放棄するということになり、それはできないと日本 の権力者たちは考えているからです。 原発は、1953年のアイゼンハワーの国連総会での欺瞞的な演説(原子力の平 和利用演説)以来、国家のエネルギー政策と軍事政策が絡み合って推進されて きました。そこに原発の不透明さと、危険性があります。『原発を止めたら電 気はどうするのか、代替エネルギーはどうするのか』という議論は分かりやす いですが、問題をすり替えて単純化しています。原発を稼働し続けることは、 たとえ事故がなくても人間と環境をじわじわと汚染していきます。事故があれ ばなおさらですが、「大丈夫、たいしたことはない、普通に生活を続けてくだ さい」と政府は言い、癌、異常出産、その他の疾患が多発しても「原因は放射 能ではない」と根拠もなく断定します。原発と燃料サイクルを継続していけ ば、日本は核兵器を製造するオプションを保持できますが、それは国民の健康 と引き換えなのです。 歴史を見れば、いかに日本国が人々(原爆の被害者、第五福竜丸被爆の被害 者、JCO臨界事故の被害者、そして福島原発の被害者)をモルモット扱いはし ても救済せず、放射能の害について隠蔽してきたかが分かります。 このパンフレットの題名を「棄民と隠蔽」としたのは、以上の理由からで す。使っている写真や図は、すべてインターネット上にあるものです。厳密に 言えば著作権法に触れるような使用もあるかもしれませんが、お気づきのこと があればお教えください。 2014年初一(1月31日)Eaphet核電勉強会 (文責は古川ちかし)

目次 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31. 32. 33. 34. 35. 36. 37. 38. 39. 40. 41. 42. 43. 44. 45. 46. 47. 48. 49. 50. 51. 52.

1944年東京 日本でも 日本でも原爆開発 でも原爆開発 1945年Oakridge, Tennessee 米国原爆開発計画の 米国原爆開発計画の三機関 1945年7月16日New Mexico 米国初の 米国初の核実験 1945年8月6日、9日Tinian 広島・ 広島・長崎に 長崎に原爆投下 1945年9月広島・長崎 隠蔽された 隠蔽された原爆報道 された原爆報道 1946年7月1日Bikini環礁 米国、 米国、戦後初の 戦後初の核実験 1946年7月5日Paris 核実験に 核実験に因んで新作水着 んで新作水着を 新作水着を命名 1946年11月5日Washington 原爆ケーキでお 原爆ケーキでお祝 ケーキでお祝い 1946年11月26日広島 原爆傷害調査委員会( ) 原爆傷害調査委員会(ABCC) 1949年広島 ABCCで で検査される 検査される子 子 どもたち される 1950年広島 捨て去られた被爆者 られた被爆者たち 被爆者たち 1953年8月12日Kazakhstan ソ連が核実験に 核実験に成功 1953年12月8日New York 米国大統領原子力平和利用演説 1954年3月1日Bikini環礁 日本漁船、 日本漁船、米核実験で 米核実験で被爆 1954年3月2日東京 日本で 日本で最初の 最初の原子力予算 1954年New York/東京 原爆が 原爆が怪獣を 怪獣を生む 1955年4月New York 原爆乙女、 原爆乙女、ニューヨークへ行 ニューヨークへ行く 1955年5月9日東京 米平和利用使節団、 米平和利用使節団、東京へ 東京へ 1955年8月廣島 原水爆禁止世界大会 1956年1月1日東京 日本政府、 日本政府、原子力局、 原子力局、原子力委員会設置 1956年10月17日Sellafield 英国で 英国で世界初の 世界初の商用原発稼働 1957年4月廣島 原爆医療法制定、 原爆医療法制定、被爆者手帳配布 1957年7月1日千葉市 放射能影響総合研究所設立 1957年7月29日Geneva 国際原子力機関( )創設 国際原子力機関(IAEA) 1957年8月27日茨城県東海村 日本初の 日本初の原発が 原発が臨界に 臨界に達する 1950’s-60’s米国 核シェルター、 シェルター、ブームになる 1964年10月16日ロプノール 中国が 中国が核実験に 核実験に成功 1970年3月福井県敦賀 日本最初の 日本最初の商用原発が 商用原発が稼働 1971年8月6日広島 日本首相、 日本首相、初めて原爆慰霊碑参拝 めて原爆慰霊碑参拝 1972年7月東京 列島改造論・ 列島改造論・電源三法 1973年10月6日シナイ半島 第四次中東戦争・ 第四次中東戦争・石油ショック 石油ショック 1974年12月27日東京/広島 ABCCが が放影研になる 放影研になる 1978年11月2日福島 福島第一原発3 福島第一原発3号機臨界事故 1979年3月28日Three Mile Island 米国で 米国で炉心溶解事故 1985年1月17日六ケ所村 核燃料サイクル 核燃料サイクル基地 サイクル基地 1986年4月26日ウクライナ チェルノブイリ原発事故 チェルノブイリ原発事故 1994年4月5日敦賀 高速増殖炉「 高速増殖炉「もんじゅ」 もんじゅ」臨界 1995年12月8日敦賀 「もんじゅ」 もんじゅ」ナトリウム漏 ナトリウム漏れ事故 1999年9月30日東海村 JCO臨界事故 臨界事故( ) 臨界事故(Level 4) 2010年9月福島 福島第一原発3号機 燃料装填 福島第一原発 号機に 号機にMOX燃料装填 2011年3月11日福島 福島第一原発電源喪失 2011年3月12日福島 放射能拡散予測データ 放射能拡散予測データ無視 データ無視 2011年3月16日福島 安定ヨウ 安定ヨウ素剤配布 ヨウ素剤配布、 素剤配布、遅れて意味 れて意味なし 意味なし 2011年3月17日Washington 米国、 米国、80キロ キロ圏内避難勧告 圏内避難勧告 キロ 2011年4月19日東京 政府、 ミリシーベルト 政府、学校の 学校の基準を 基準を20ミリシーベルト 2011年6月18日東京 政府、 政府、原発輸出を 原発輸出を成長戦略に 成長戦略に 2011年11月20日福島 高線量の 回福島駅伝 高線量の中、第23回福島駅伝 2012年5月4日北海道 泊原発停止で 泊原発停止で日本の 日本の原発すべて 原発すべて停止 すべて停止 2012年7月5日福井県 大飯原発再稼働 2012年9月14日東京 政府、 年代に 政府、2030年代 年代に原発ゼロ 原発ゼロ方針 ゼロ方針 2012年9月19日東京 原発ゼロ 原発ゼロ方針 ゼロ方針の 方針の閣議決定見送り 閣議決定見送り 2012年10月25日福島 子どもたちの尿検査 どもたちの尿検査はしない 尿検査はしない 2012年12月7日広島 黒い雨と癌発症は 癌発症は関係ない 関係ない( ない(放影研) 放影研) 2013年7月22日福島 東京電力、 東京電力、汚染水漏洩を 汚染水漏洩を認める 2013年9月7日ICO総会 オリンピック東京誘致決定 オリンピック東京誘致決定 2013年12月6日東京 政府、 政府、原発を 原発を重要なベース 重要なベース電源 なベース電源に 電源に


1

1944 東京

仁科芳雄

日本の 日本の原爆開発の 原爆開発の中心にいた 中心にいた仁科芳雄博士 にいた仁科芳雄博士。 仁科芳雄博士。

湯川秀樹

第二次大戦末期の日本では帝国陸軍が理化学研究所に委託し た「ニ号計画」、帝国海軍が京都大学に委託した「F号計画」 という二つの原爆開発研究が あった。仁科博士を筆頭に、朝 永振一郎、湯川秀樹(左)など 著名な物理学者が参画した。原 料となるウランの精製に成功せ ずに敗戦を迎えた。同盟国ドイ ツも同様の開発を行ったが完成 に至らず、研究成果は米国とソ ビエトに持ち去られた。 右は理化学研究所が開発した 加速器(サイクロトロン)。


2

1945 Oak Ridge, Tennessee

Oak Ridge のウラニウム精製工場 のウラニウム精製工場で 精製工場で働 く女性たち 女性たち(1945年ごろ) たち アメリカ合衆国の原爆開発計画― Manhattan Projectは、三か所の拠点 を持つ。①テネシー州オークリッジ の「Oak Ridge National Laboratory (オ ー ク リ ッ ジ 国 立 研 究 所)② ニューメキシコ州のLos Alamos National Laboratory ロス・アラモス国立 研究所)、そして③ワシントン州の the Hanford Site ハンフォード・サイ トの三か所だ。 1945 年 7 月 16 日、Los Alamos National Laboratory近くで世界最初の核 実験「Trinity Test」を行い、その3週 間後には広島に最初の原爆を投下し た(下 は Trinity Test に 使 わ れ た 原 爆)。


3 The Trinity Test 1945年 年7月 月16日 日、Los Alamos National Laboratory近くで世界 最初の核実験「Trinity Test」 を行った。 爆心地に立つRobert Oppenheimer(左、マ ン ハ ッ タ ン・ プロジェクトの科学者リー ダ ー)と、Leslie Groves 将 軍 (マンハッタン・プロジェク トの指揮官)

1945.7.16 New Mexico


1945.8.6 Tinian

4

広島・ 広島・長崎への 長崎への原子爆弾投下 への原子爆弾投下 1945年8月6日、Tinian島から原爆 「Little Boy」を積み込んだB-29 は、 パイロットの母親の名をとって 「Enola Gay」と名付けられていた。 Enola Gayは広島に原爆を投下。 三日後に、今度はプルトニウム爆 弾「Fatman」を搭載したB-29 、パイ ロット自身の名をとってBockscarと 呼ばれた爆撃機が同じTinian島から 九州小倉を目指して飛び立った。小 倉上空が天候不良のため、第二目標 だった長崎に原爆を投下した。 1945.8.6 広島市. 広島 被爆者34∼ 35 万人. 死亡14 万人( ± 1 万人) 1945.8.9 長崎市 長崎 被爆者27 万人前後. 死亡7 万人( ± 1 万人).

1945.8.9 Tinian


5

1945.9 廣島/長崎

George Weller Chicago Daily News

Wilfred Burchett London Daily Express 封印された 封印された残留放射能 された残留放射能

Thomas Farrell Major General

1945年8月30日、広島と長崎で原爆の影響を調査するため にマンハッタン計画のNo.2、ファレル準将が米国の科学者の チームを引き連れて来日。9月6日、東京の帝国ホテルで連合 国の海外特派員向けに「広島・長崎では、死ぬべきものは死 んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦 しんでいる者は皆無だ」とする声明を出した。前日の9月5日 のLondon Daily Express紙に残留放射能の影響を大きく報道す る記事(The Atomic Plague)が掲載されたため、大慌てでこれ を否定した。 同じ9月6日、シカゴ・デイリー・ニューズの記者、トー マス・ウェラーは軍人になりすまして長崎に潜入し9月9日付 で残留放射能による障害を「X病」と呼んだ記事を作成した が、日本占領軍司令部によって検閲され、差し止められた (上、中央はその原稿)。


6

1946.7.1 Bikini環礁

Bikini環礁 環礁での 作戦(核実験) 環礁でのCrossroad での 作戦 1946年7月1日と25日、米国は二度に渡ってBikini環礁で核 実験を行った。三度目のテストも予定されていたが、放射能 汚染が深刻だったために中止された。


7

1946.7.5 Paris

1946.11.5 Washington Bikini環礁 環礁での 作戦 環礁でのCrossroad での に な ぞ ら え て、 て、新 作 水 着 を Bikiniと と命名( 命名(上) 1946年7月5日、パリでLouis Reard(上)が新作水着(上) を「Bikini」と命名して発表し た。Bikini核実験と同じく衝撃 的、と い う 意 味 だ っ た ら し い。 ビ キ ニ 万 歳「 歳「原 爆 ケ ー キ」 キ」 (右) 1946.11.5 Crossroad 作 戦 の 指揮を執ったWilliam Blandy将 軍とその妻が、原爆雲(マッ シュルーム・クラウド)をか たどったケーキに入刀。2日後 のワシントン・ポスト紙に報 道され、物議を醸した。


8

1946.11.26 廣島

原爆傷害調査委員会( :Atomic Bomb Casualty Commission) ) 原爆傷害調査委員会(ABCC: 1946年11月26日、トルーマン米大統領は、原爆の人体への影響を調査す るために委員会を日本に送り込んだ。米国陸海軍合同調査団。上は最初に到 着したDr Austin Brues (右端)らと、都築正男医師(右から二番目)。1947 年3月に広島赤十字病院に間借りする形で調査開始。長崎でも調査を開始 し、1951年には広島市比治山に独自の建物を建てた。ABCCの目的は治療で はなく調査であり、調査結果は軍事秘密にされ、「残留放射能は少なくて問 題にならない」という表向きの見解を堅持した。


1949 廣島

ABCCで検査の順番待ちをする子どもたち

ABCCから米国に送られる極秘調査資料

9


1950 廣島

10

治療も 治療も救済もないまま 救済もないまま貧民化 もないまま貧民化した 貧民化した被爆者 した被爆者たち 被爆者たち 日本政府は1945年8月から三カ月間だけ「臨時戦災救助 法」を適用したが、その後は何の救済措置もとられな かった。生き残った約30万人の被爆者のうち、1950年ま でに約5万人が死亡。1950年代に被爆二世は推定で60万~ 70万人。 この 間に生 まれ た子 どもの うち、小頭 症、兎 口、多 肢、無脳症など先天性異常児が多かったというが、その 統 計 数 字 は 残 って い な い。ABCCに 報 告 さ れ な かっ た ケースも少なくなく、全体像は闇の中だ。 「治療をしない」ABCCは、5万人の死亡者の約半数の 遺体を少しの謝礼で買い取って解剖した。資料は極秘扱 いで米国に送られ軍事研究に使われた。ABCCは残留放 射能によるあらゆる影響を公式に否定。ケロイドさえ、 放射能が原因とは認めなかった。


11

1953.8.12 Kazakhstan

ソビエト、 ソビエト、核実験に 核実験に成功 1953年8月12日、ソビエトが初めて核実験(RDS-1)に成功してアメリカ合衆国は恐 怖 し た。(上)RDS-1 の レ プ リ カ の 前 で 紀 念 撮 影 す る セ ミ パ ラ チ ン ス ク (Semipalatinsk)核実験場責任者、Yuli Khariton。左は開発者のIgor Kurchatov(右) とAndrei Sakharov(左)。


12

1953.12.8 New York

Eisenhower米大統領 米大統領、 米大統領、国連で 国連で演 説「原子力の 原子力の平和利用」 平和利用」 1953年12月8日、ソビエトに 核開発で追いつかれた米国は新 たな戦略に出た。それまで軍の 機密だった核能技術を民間と共 有して軍事目的以外に使ってい く こ と を 呼 び か け た。こ れ は 「原子力の平和利用」と謳われ た。この裏で、米国は北大西洋 条約機構に加盟する各国(同盟 国)にも核情報をある程度公開 して、同盟国に核兵器を配備し ていく計画を進めた。こうした 計画を進めるにあたって日本の 核アレルギー除去は早急に対処 せねばならない課題となった。 CIA(Central Intenlligence Agency)、USIS(United States Information Service) は、こ の 時 点から日本での世論操作に力を 入れていった。


1954.3.1 Bikini環礁

米國核実験「 米國核実験「キャッスル作戦 キャッスル作戦」 作戦」で日本漁船が 日本漁船が被曝

13

1954年3月1日、ビキニ環礁付近で操業中のマグロはえ縄漁 船「第五福竜丸」が、米国の核実験「キャッスル作戦」の死 の灰を被り被曝した。キャッスル作戦とは、ビキニ環礁で行 われた米国初の水爆実験の名前だ。第五福竜丸は3月14日に焼 津港に返ってきたが、乗組員23名全員が急性放射能症。無線 長だった久保山愛吉は半年の闘病生活の末に死亡。日本側医 師団は死因を「急性放射能症」としたが、米国は「輸血によ る肝機能障害」とし、放射能とは関係がないと主張した。 1955年1月、日本政府(鳩山一郎内閣)は米国の主張を受け入 れて、慰謝料7億2千万円で事件を闇に葬った。第五福竜丸乗 組員には一人200万円の慰謝料が日本政府から分配された。

1954.3.14 焼津港

久保山愛吉の遺族


14

1954.3.2 東京

正力松太郎 中曽根康弘

日本で 日本で最初の 最初の原子力予算が 原子力予算が国会に 国会に提出される 提出される 1954年3月2日、奇しくも第五福竜丸がビキニ環礁付近で米国の核実験「キャッスル作戦」の死の灰を被り被曝した翌日、日本 初の原子力関係予算2億3500万円(ウラン235に因んだ金額で、米国からのウランの購入などのための予算)が国会に提出され た。提出したのは改新党の若手議員だった中曽根康弘(右上)。中曽根は、元戦犯で読売新聞社主だった正力松太郎(左上)の 子飼いの国会議員だった。正力はCIAの情報工作の協力者として、この後も「核の平和利用」キャンペーンをメディアで展開して いく中心人物となる。


1954 New York/東京

米國核実験「 米國核実験「キャッスル作戦 キャッスル作戦」 作戦」から生 から生まれた怪獣 まれた怪獣 1954年 6月、米 国 で「原 子 怪 獣 現 る(The Beast from 20,000 Fathoms)」が公開された。Ray Bradburyの1951年短 編「霧笛(The Fog Horn)」の映画化だったが、数か月 前のBikini環礁での水爆実験が関係づけられた。水爆実験 で蘇った怪獣がニューヨークを襲うという物語(上)。 これに影響を受けて、日本でも11月に怪獣が東京を襲 う特撮映画が公開された。「ゴジラ」だ(右)。 第五福竜丸事件を描いた映画「第五福竜丸」が公開さ れたのは1959年のことだった(右上)。

15


16

1955.4 New York

「原爆乙女」 原爆乙女」ニューヨークへ行 ニューヨークへ行く 1955年4月、広島から25人の独身女性がケ ロイド治療のため米国に渡った。彼女たち は「原 爆 乙 女」(米 国 で は Hope-Hiroshima Maidens) と呼ばれた。呼び掛け人はSaturday Review 紙 の 編 集 者 で 反 核 運 動 家 の Norman Cousinsだったが、米国政府としてもABCC の主張だった「ケロイドは日本の治療の失 敗」説を強化し「米国の善意」を国内外に 宣伝する絶好の機会なった。


17

1955.5.9 東京

正力、 正力、米国軍事会社による 米国軍事会社による「 による「核の平和利用」 平和利用」使節団を 使節団を招聘 1955年5月9日、正力松太郎はGeneral Dynamics社(米国の軍需産業 大手)のJohn Hopkinsら一行(「ホプキンズ使節団」)を東京に招い て、日比谷公会堂で「原子力の平和利用大講演会」を行った。正力は 傘下の日本TVを使って講演会をTVでも流した。同時に、核は未来の エネルギーという内容の米国宣伝映画(右)もTVで流された。 11月1日から12月12日まで読売新聞主催「 「原子力平和利用博覧会」 原子力平和利用博覧会」 を東京で開催(下)。35万人の観客があった。 11月14日、日米原子力研究協定 日米原子力研究協定が結ばれ、米国がウラン及び原子炉 日米原子力研究協定 2基の供給が決まった。 12月19日、日本政府は原子力基本法 原子力基本法を制定。平和利用に限って核能 原子力基本法 を使うことを国内外に宣伝した。


18

1955.8 廣島

原水爆禁止世界大会、 原水爆禁止世界大会、広島で 広島で開催 日本政府や正力松太郎傘下の大手メディアが核の平和利用キャン ペーンを展開する中、1954年の第五福竜丸事件以来盛り上がった原 水爆禁止運動は、翌55年8月に第1回原水爆禁止世界大会を広島で開 催するまでに至った。開催のために集めた原水爆禁止署名は日本国 内で3千158万3千123。全世界では6億人の署名を集めた。 この年の1月に慰謝料200万ドルで第五福竜丸事件に蓋をしたはず の米国は反核・反米の勢いを何とか鎮静化するために「原子力の平 和利用」キャンペーンを一層強化していくことになる。


19

1956.1.1 東京 1956年 年1月 月1日 日、総理府に 総理府に原子力局が 原子力局が設置され 設置され、 され、原子力委員会の 原子力委員会の初代委員長に 初代委員長に正力松太郎が 正力松太郎が就任。 就任。 1月4日、5年後に日本に原子力発電所を建設する構想を発表した。湯川秀樹はこの方針に賛同せず、1年後に原子力委員会委員を 辞任した。

1956.5.27 廣島

広島の 広島の博物館、 博物館、原爆展示を 原爆展示を原子力展示に 原子力展示に変える 1956年の5月には広島平和資料博物館の原爆被害展示を 一時的に別の建物に移動させて、同じ核の平和利用博覧 会を広島で行った。 米国による「核の平和利用キャンペーン」は東京、広 島だけでなく米国国内でも、南米でも、欧州でも行われ た。 1956年7月、台湾 台湾は 台湾は米国と 米国と原子力協定を結び、米国から 原子力協定 濃縮ウランの提供を受けるようになった。


20

1956.10.17 Sellafield, England

1956年 1956年10月 10月17日 17日、世界初の 世界初の商業原子炉、 商業原子炉、 Calder Hall 原 発 が イ ギ リ ス で 発 電 開 始。 Calder Hall 原 発 が 作 ら れ た Sellafieldは、もともとイギリス王立の 軍需工場があった場所で、1947年から英 国の原爆開発の拠点でもあった。運転開 始後、たび重なる事故と環境への汚染物 質流出によって、地元はもちろん北欧ま で広がる海洋汚染を作り出している。使 用済み核燃料の再処理では日本が最大の 顧客となっている。

Sellafield


21

1957.4 廣島

原爆医療法が 原爆医療法が制定され 制定され、 され、被爆者健康手帳の 被爆者健康手帳の配布が 配布が始まる 1957年4月、被爆から12年たって初めて被爆者救済のための「原爆 医療法」が制定された。30万被爆者の中で被爆者と認められ手帳を受 け取ったのは4200人 人にすぎなかった。朝鮮人や台湾人被爆者は認めら れなかった。ABCCの主張であった「残留放射能は存在せず、直接熱 線を浴びた人以外は被爆者ではない」という見解に立って、被爆二 世、三世はまったく相手にもされなかった。 前年の1956年にはお年玉年賀はがきの収益金で、広島赤十字病院に 「原爆病院 原爆病院」が併設され、日本政府は被爆者支援を熱心に行っていま 原爆病院 すという宣伝に使われたが、これも被爆後11年目のことだった。


1957.7.1 千葉市

22

現在的「放医研」

1957年 年7月 月1日 日、放射線医学総合研究所( 放射線医学総合研究所(放医研) 放医研)が創設される 創設される。 される。 科学技術庁の付属機関として放医研が千葉県千葉市に創設された。主た る任務は「放射線障害に関する研究」だが、「放射線の医学的利用に関す る研究」も目的として掲げられてはいる。2001年に文部科学省が所管する 独立行政法人になる。第五福竜丸事件への対応であると同時に、この後原 発を建設していく国策への対応だった。 『退院直後から放医研は国の予算で俺たちの被爆記録を取り続けた。だ が発病しても治療はしない。事件は解決済み、発病も被爆と関係ない、と いうのだ。被爆と関係ないのなら検査の必要はないと思う』(「ビキニの 真実」大石又七、2003年、みすず書房)と第五福竜丸で被爆した大石又七 は語っている。福島原発事故後、放射線障害のデータを集中的に管理して いるのも放医研だ。第五福竜丸被爆者のケース同様、福島の健康障害を放 射線とは無関係と断じながらデータだけは収集し続けている。

(下)2011年3月11日以降の福島第一原発事故直後、被爆した三人の作業員が 放医研に移送された。(右)福島でWhole Body Counterの実演をする放医研職 員。 事故後、日本の放射線障害研究の権威である放医研は「大活躍」。100 ミリシーベルトは何の問題でもない、大丈夫という日本国の方針に太鼓判を押 し、宣伝した。


23

1957.7.29 Geneva

1957年 年 7月 月 29日 日、米国の 米国の 主導で 主導で 国連の 国連の 下 に「国際原 子力機関( )」が 子力機関(IAEA)」 )」が創設される 創設される。 される。 1953年のアイゼンハワー演説(核の平和利用)を 受けて、1957年に国際原子力機関が創設された。そ の使命は核の平和利用の促進と、軍事転用の防止。 初代事務局長、Sterling Cole(上写真、右から5人目 の白髪の人物)は軍事とエネルギー問題にかかわる 米下院議員だった。IAEAはその憲章で「機関は、 全世界の平和、保健および繁栄に対する原子力の貢 献を促進し、および増大するように努力しなければ ならない」 と謳っている。下写真は、ジュネーブ のIAEA本部。台湾もすぐに(1957年9月)IAEAに加 盟した。


24

1957.8.27 茨城県東海村

1957年 年8月 月27日 日、茨城県東海村、 茨城県東海村、日本原子力研究所で 日本原子力研究所で 日本発の が臨界に 日本発の原子炉JRR-1が 原子炉 臨界に達した。 した。 1954 年 の 日 米 原 子 力 研 究 協 定 に 基 づ て 米 国 GE (General Electrics)社から供給された原子炉JRR-1が、 初の臨界に達した。「日本に原子力の火が燈った」 と大宣伝された。 東海村の「日本原子力研究所」は、1956年8月に設 置され、「完全 完全な 核燃料 サイクル」計画を打ち出し 完全 な 核燃料サイクル サイクル た。米国から供給されるウラン燃料を使用し、使用 後のウランをさらに再処理してプルトニウムを作 り、それをまた原子炉の燃料とするという計画だ。 核燃料サイクル計画は技術的にも経済的にも困難 で、1980年代後半には米国は計画から撤退。日本、 英国、仏国だけが計画を続行してきたが1998年には 仏国の高速増殖炉「スーパーフェニックス」が廃炉 になり仏国も実質的に計画を放棄し、残りは英国と 日本だけである。


25

1950’s-60’s United States of America

1950年代 年代~ 年代、 年代~1960年代 年代、米国では 米国では「 では「核シェルター」 シェルター」ブー ム。 1950年の朝鮮戦争に始まり、激化していった東西冷 戦と、その中での核兵器開発競争は、住宅産業に新た な 売 れ 筋 商 品 を 提 供 し た。核 シ ェ ル タ ー(Nuclear Fallout Shelter)だ。1959年のキューバ革命とそれに続 く1962年のキューバミサイル危機を一つの頂点とし て、一般家庭に核シェルターが普及した。 1963年 年、米国エネルギー企業Bechtel社が台北 台北に 台北に事務 所を構え、以降台湾の核1から核3まで原発プラント輸 入を手掛け、General Electric社とWestinghouse社が交 互に原子炉と発電機を受注する体制ができていった。


Turn static files into dynamic content formats.

Create a flipbook
Issuu converts static files into: digital portfolios, online yearbooks, online catalogs, digital photo albums and more. Sign up and create your flipbook.