台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 東アジア歴史資源交流協会ニューズレター East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET)
No.22 日文版 2016/4/11 eaphet@gmail.com Tel/Fax:886-4-2251-9593 台灣台中市西屯區黎明路二段972巷40號
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五年を迎える今
<目次> ◆ 五年を迎える今 鹿目久美 p1 ◆現在的福島 in 韓国(ソ ウル)報告 上前昌子 p4 ◆国家としての台湾
陳冠文
p5
◆台湾総選挙雑感 冨永悠介 p6 ◆台湾総選後の米台武器 取引
賴台庫
p7
◆リニアレポート2015~ 2016冬 笠井美那 P8 ◆濡らし絵展示会‐芸 術に入り込む生命
陳嬿如
p9
◆ついに完成『セエデク 民族』 古川ちかし p10 ◆台湾で「ことば」と 「国」を考える‐イン ターン報告書 トーマス・ブルック p12 ◆映画「鬼郷」を見た 古川ちかし p15
鹿目久美
2011年3月11日14時45分まで、自分自身 が被災者・避難者になるなんて思いもして いませんでした。 14時46分に引き起こされた地震、そこか ら誘発された原発事故により、震災前に思 い描いていた私の未来は奪われることに なったのです。 福島県安達郡大玉村という8000人の安達 太良山の麓に広がる村は、緑豊かで人も温 かく、米や野菜、水が清らかで美味しい場 所でした。 そこで、ログハウスを建て薪ストーブで 暖をとり、その火からのエネルギーで食事 を作り、ゆくゆくは庭に竈や石窯を作り、 出来るだけ電気を使わず自然に優しい生活 を営んでいく予定でした。 その夢もすべて奪われたのです。 原発から60kmほど離れていた私の元に は、3月12日の爆発のことはすぐには情報 として入って来ませんでした。ですから、
の や な か な か 止 ま ら な か っ た り、塊 が 混 ざ っ て い た り と 心 配 な も の で し た。そ の 年、初めて皮膚疾患になったり…そんな話 をまわりのお母さん達に話すと、うちも鼻 血 が…う ち も 皮 膚 疾 患 に…と、う ち だ け じゃない? 何が起きているのだろうとどん どん不安に気持ちが膨らんでいきました。 精神的なストレスもあったと思います。 自然豊かな環境で過ごしていたので、外 に あ る も の は す べ て 遊 び 道 具 で し た。 庭に落ちている石も土も砂も、草木や木 の実…それを触ることを禁止しなくてはい けなくなったのです。当時5歳の娘と幼稚園 の友達たちは、幼稚園のバスを待つ間、誰 かが葉っぱや石を触ると子どもたち同士で 「放射能がついているから触っちゃいけな いんだよー」と注意し合います。 私がその年齢のとき、『放射能』なんて 言葉は知らなかった。自然は友達だった。 そんな姿を見る度に福島で娘を育てること
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13~14日は食料を買い求め、友達の家に 水を運び、ガソリンを求めるのに外で動 いていました。14日の3号機の爆発の時間 の頃には、ガソリンを買うために2時間ほ ど外で並んでいました。その日の夜にお 風呂を入った時に顔を洗うとヒリヒリ し、咳がしばらく続きました。その時に は、日焼けをしたのか? 排気ガスで咳が 出るのか? とのん気に考えていました が、放射性物質の体への影響を知れば知 るほど、私と娘はあの時に大量に被ばく をしたのではないかと思えてなりませ ん。 その後の娘の体調は、それまで育てて きた時とは明らかに何かが違うと思える ようなものでした。 震災までは年に一二度くらいしか熱を 出さなかったので、避難を決めるまでの 4ヶ月間に4~5回の高熱を出しました。鼻 血も今までとは違う、噴出するようなも
に限界を感じていきました。 そんな不安も気兼ねなく話せる友達は 数人でした。 原発事故が起きて数か月しか経ってい ないのに、原発の事故は継続中なのでそ の不安を口にする神経質な人、面倒な人 と思われるような雰囲気がありました。 その頃すでに避難区域以外から避難して いる人たちもたくさんいましたが、そん な人たちのことを「福島から逃げた人」 「福島や家族や友達を捨てた人」「復興 に向かって頑張っていかなくちゃいけな いのに…」と避難を非難されました。 避難区域以外の地区は、線量もたいし て高くないから体に影響はないと言われ ていたからです。 でも、震災から一年くらいは私の住む 大玉村は0.8~1.2マイクロシーベルトく らい線量はありました。それは震災前の 0.04マイクロシーベルトからすると20~