Nl22日文版

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台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 東アジア歴史資源交流協会ニューズレター East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET)

No.22 日文版 2016/4/11 eaphet@gmail.com Tel/Fax:886-4-2251-9593 台灣台中市西屯區黎明路二段972巷40號

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五年を迎える今

<目次> ◆ 五年を迎える今 鹿目久美 p1 ◆現在的福島 in 韓国(ソ ウル)報告 上前昌子 p4 ◆国家としての台湾

陳冠文

p5

◆台湾総選挙雑感 冨永悠介 p6 ◆台湾総選後の米台武器 取引

賴台庫

p7

◆リニアレポート2015~ 2016冬 笠井美那 P8 ◆濡らし絵展示会‐芸 術に入り込む生命

陳嬿如

p9

◆ついに完成『セエデク 民族』 古川ちかし p10 ◆台湾で「ことば」と 「国」を考える‐イン ターン報告書 トーマス・ブルック p12 ◆映画「鬼郷」を見た 古川ちかし p15

鹿目久美

2011年3月11日14時45分まで、自分自身 が被災者・避難者になるなんて思いもして いませんでした。 14時46分に引き起こされた地震、そこか ら誘発された原発事故により、震災前に思 い描いていた私の未来は奪われることに なったのです。 福島県安達郡大玉村という8000人の安達 太良山の麓に広がる村は、緑豊かで人も温 かく、米や野菜、水が清らかで美味しい場 所でした。 そこで、ログハウスを建て薪ストーブで 暖をとり、その火からのエネルギーで食事 を作り、ゆくゆくは庭に竈や石窯を作り、 出来るだけ電気を使わず自然に優しい生活 を営んでいく予定でした。 その夢もすべて奪われたのです。 原発から60kmほど離れていた私の元に は、3月12日の爆発のことはすぐには情報 として入って来ませんでした。ですから、

の や な か な か 止 ま ら な か っ た り、塊 が 混 ざ っ て い た り と 心 配 な も の で し た。そ の 年、初めて皮膚疾患になったり…そんな話 をまわりのお母さん達に話すと、うちも鼻 血 が…う ち も 皮 膚 疾 患 に…と、う ち だ け じゃない? 何が起きているのだろうとどん どん不安に気持ちが膨らんでいきました。 精神的なストレスもあったと思います。 自然豊かな環境で過ごしていたので、外 に あ る も の は す べ て 遊 び 道 具 で し た。 庭に落ちている石も土も砂も、草木や木 の実…それを触ることを禁止しなくてはい けなくなったのです。当時5歳の娘と幼稚園 の友達たちは、幼稚園のバスを待つ間、誰 かが葉っぱや石を触ると子どもたち同士で 「放射能がついているから触っちゃいけな いんだよー」と注意し合います。 私がその年齢のとき、『放射能』なんて 言葉は知らなかった。自然は友達だった。 そんな姿を見る度に福島で娘を育てること

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13~14日は食料を買い求め、友達の家に 水を運び、ガソリンを求めるのに外で動 いていました。14日の3号機の爆発の時間 の頃には、ガソリンを買うために2時間ほ ど外で並んでいました。その日の夜にお 風呂を入った時に顔を洗うとヒリヒリ し、咳がしばらく続きました。その時に は、日焼けをしたのか? 排気ガスで咳が 出るのか? とのん気に考えていました が、放射性物質の体への影響を知れば知 るほど、私と娘はあの時に大量に被ばく をしたのではないかと思えてなりませ ん。 その後の娘の体調は、それまで育てて きた時とは明らかに何かが違うと思える ようなものでした。 震災までは年に一二度くらいしか熱を 出さなかったので、避難を決めるまでの 4ヶ月間に4~5回の高熱を出しました。鼻 血も今までとは違う、噴出するようなも

に限界を感じていきました。 そんな不安も気兼ねなく話せる友達は 数人でした。 原発事故が起きて数か月しか経ってい ないのに、原発の事故は継続中なのでそ の不安を口にする神経質な人、面倒な人 と思われるような雰囲気がありました。 その頃すでに避難区域以外から避難して いる人たちもたくさんいましたが、そん な人たちのことを「福島から逃げた人」 「福島や家族や友達を捨てた人」「復興 に向かって頑張っていかなくちゃいけな いのに…」と避難を非難されました。 避難区域以外の地区は、線量もたいし て高くないから体に影響はないと言われ ていたからです。 でも、震災から一年くらいは私の住む 大玉村は0.8~1.2マイクロシーベルトく らい線量はありました。それは震災前の 0.04マイクロシーベルトからすると20~


五年を迎える今

30倍です。 このまま 住み続けた ら、原 発 事 故がなかっ た時の一生 分の被ばく を娘が成人 する時くら いには受け て し ま う。 それって本 当に影響がないの? 絶対おかしいよね。それだけ の被ばくをするってことは、事故前ならならなかっ た病気になるかもしれない。娘が病気にならなかっ たとしても、娘の生む子どもは? その子どもが産 む子供は? 何世代にも続く影響があるという放射

性物質の影響をあまりにも甘く見ているような気が して、影響がないという言葉は信じられませんでし た。 でも、絶対にこうなるという確証もない中、避難 を強行する理由も見つかりませんでした。

県の実家で過ごし、夏休みが終わり福島に戻ると告 げた時に、「福島は怖くて帰りたくない」と言って くれたから、そこで決断をすることが出来ました。

「この子を守ると決めて避難したのに何を考えて いたのだろう?」これからは、この子のために生き て行こう。何を決めるにも、この子にとってベスト な 選 択 を し て い こ う と 胸 に 決 め ま し た。 それからは、落ち込んだり不安になったり辛い気 持ちになったりしながらも、迷わずここまで歩いて これたような気がします。

福島第 一原発

それは私の中の迷いでもありました。「不安だか ら避難をした、でも一旦避難を決めてしまったら 帰って来れなくなりそうだったから」「避難を決め る時より、帰るという決断をする方が何十倍も何百 倍も難しい」と感じていたからです。どうなったら 安心? 帰れる? 帰ったあとに娘が病気になった ら、私はきっと後悔して一生悔やむだろう?ずっと ここにいても同じ…だとしたら、どの決断が一番正 しいのかわかりませんでした。 そんな悩みの中、避難を決断出来たのは娘のひと 言でした。震災の年の夏休み、被ばくを避け神奈川

いざ避難が決まっても楽なことばかりではありま せんでした。 「避難できてよかったね」という言葉に、私は不 安を口にできなくなり、避難が長引くことで夫との 関係も悪くなり、一時期は鬱状態で起き上がれな かったり、外に出ることさえ出来ない時期もありま した。先の見えない不安に「消えてしまいたい」と 思うことさえありました。 その中でも私を支えてくれたのは娘の存在でし た。「消えてしまいたい」と思っていた時に、何も 言わないのに娘がポロポロ涙をこぼしながら、「マ マどこにも行かないで!」と言ってくれたのです。 その時に目が覚めた気がしました。

でも、月日が費やされても一向にいい方向に向い て行かない国の意向や、忘れ去られているような社 会の雰囲気に時々とてもむなしくなることがありま す。 5年経った今、どんどん風化し忘れられているよ うな気がします。 この3月で震災から5年が過ぎました。 2011年7月から始まった娘との母子での自主避難 生活も4年を超えました。

この4年以上の避難生活の中で、日々気持ちの変 化がありました。 最初の一年は先の見えない不安に押し潰されそう になり、毎晩泣いたり眠れなかったり苦しくなった り、暗闇のなかにいるようでした。 2年目は避難先で居場所が出来、泣きながら苦し みながらも、少しだけ顔を上げられるようになりま した。 3年目は日々の中で、楽しいことをすることに罪 悪感を感じることが減りました。 4年目、一年単位でものを考えられるようにな り、勉強を始めました。 現在、今の場所での生活が少しずつ安定してき て、自分らしく生きることを考え始めました。

ある不安や抱えた問題が何一つ解決していないどこ ろか、そこに目を背けていたことに気付いてしま い、それに向き合ってみる覚悟を決めました。 それに向き合い少しでも整理し、克服しないこと には自分らしくいることが出来ない気がしたからで す。 ですが、その作業も簡単なものではありません。 一人では解決できないことなので、いろんな人の 力を借りていますが、私自身が抱えている問題を理 解してもらうこと、自分の中にある複雑な心境をう まく表現することさえ難しく、それをどうやって解 決したらいいのか、どうすれば問題が克服できるの かさえ見つけられていません。 何より、一番大切なはずの「自分のこと」に向き 合おうと思うまでに5年もかかってしまいました。 そして、問題を解決するには何倍もの時間がかか

一見、少しずつでも元気に自分の生活を取り戻し ているように見えますが、この5年目に自分の中に

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五年を迎える今

それを答えてくれる人が誰一人としていないこ と、それが一番の問題なのではないかと思います。 それがないままでは、「復興」のスタート地点に も立つことが出来ないですし、私たちは生活の再建 を考えることさえ出来ません。震災後からずっと私 はそんな風に感じています。 そしてこれから先の未来に、原発事故の影響だと 思われる被害があった時に解決の手段があるのかさ え何も保証されていません。 そう考えると震災直後から、私たちの生活はずっ と先の見えないまま5年も経ってしまったことにな ります。

ると感じています。 それは福島の問題も同じことです。 今では福島のことも被災地のことも、話題に上がる ことがほとんどなくなりました。 でも考えてみると根本的な問題は何も解決してい ません。 原発事故のこと、放射能による体への影響のこ と、これからの生活のこと、何ひとつ明確な説明や 答えをもらっていません。 それにも関わらず、「復興」「再稼働」ばかりが 進められていることに違和感を覚えます。 何が問題だったのか、その影響で本当はどんなこ とが起きていたのか、それによってどれだけの被害 があったのか、今現在はどんな状況にあるのか、そ れがこれから先の未来にどんな影響を与えるのか、 何一つわからないままです。

私の願いは震災直後から変わっていません。 私たちのような思いをする人を、これから先の未 来に出してはいけないということ。 そのために私たちには何が出来るのか?

今、一番何が必要なのか?この5年の節目に考え ていかなくてはいけないのではないでしょうか。

私「へーそんな風に感じてるんだね。じゃあ、今 は元気になってるからかな?今元気で頑張れ てるのは、どこから力が出てるの?」 娘「それはね、家族がいたから!家族が大切なん だよ。」

先日、震災当時4歳で現在小学校3年生になった娘 とこんな話をしました。 私「もし福島の話を聞かせてほしいと言われたら 何を話す?」 娘「自分の体験した事。車の中で地震にあったと か、放射能のこととか。」 私「そうなんだね。なんでそれを話したいの?」 娘「わかってほしいから」 私「どんなことをわかってほしいのかな?」 娘「いろいろ大変だったこと」 私「じゃあさ、いろいろ大変でかわいそうだった ねって思ってもらいたいのかな?」 娘「違うよ。みんなも同じことがあった時に参考 にしてほしいの。」

私はこぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、娘 の誇らしげな顔を見つめることしか出来ませんでし た。 ここにすべての答えがあるような気がしました。 大人は自分の価値観でものを考え発言し、時には 人を傷つけることもあるけど、あんなに小さかった 娘が、この5年間で学んだことは、 「みんなに自分と同じ悲しい思いをしてほしくない こと」 「家族やまわりの人たちの存在が大切なこと」 だった。

私はいつも娘やこども達に教えられることばかり だとあらためて感じました。

事故からま る5年たった現 在、福 島 は ど う な っ た の か。ほぼ2年半 前に製作した 「福 島 の 現 在」を 改 訂 し ま し た。上 前 昌子さん書き 下 ろ し「福 島 の 現 在 改 訂 版」販 売 し て います。 (一部60元)

そんな風に考え、前を向いているこども達の未来 を、今の大人たちはどう考えているのだろう? 「こども」を守るため、「こども」の未来を明る いものにするためにみんなが気持ちを合わせること が出来れば、日本も今のような流れにはなっていな かったんじゃないかな? と思います。 無関心であったために、原発をここまで容認して きてしまった大人の責任として、「こども」の未来 を、幸せを一番に考え選択できる大人でいたい。そ のために出来ることとして、語ることを伝えること をあきらめずに続けていくこと。「こども」の未来 を一緒に考えてくれる仲間をふやすことに、力を費 やしていきたいと思っています。(了)

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福島的現在 in 韓国(ソウル)

福島的現在 in 韓国(ソウル)報告 核災環境難民 上前昌子

2月26日韓国ソウルの恵化という地下鉄の駅から ほど近い書店(台湾でいうところの独立書店)で、 福島の話をして来ました。 昨年、台湾で行われた平和の島連帯のイベントで 済州島のカンジョン村から参加してくれたドルコレ (イルカ)ちゃんが、私がソウルに行くのを知り企 画してくれました。事前にパワーポイントを送った ものに韓国語で文字を足して沢山準備をしてくれ、 広告も精力的にしていただいたおかげで当日は沢山 の参加者と、テレビ局の取材も入りました。参加者 は、若い学生さんから子ども連れのお母さん、環境 デザインをしているアーティストの方々、いつも書 店に来ている常連さんや書店のお知らせを見てすぐ に申し込みをしたという若いご夫婦などなど。

通 訳は 私の 娘、ま ゆこ と 日本 で仕 事 をし てい た、ドルコレちゃんの先輩の方がしてくれ、専門 的な用語が出て来るのですが、みなさんのおかげ でスムーズに話すことが出来ました。

界中に迷惑をかけているという事をもっと日本の人 達は自覚するべきだと怒りがふつふつと湧いてきま した。 他の質問や感想を少し紹介します。 ☆ 若い会社員の女性が、同僚が妊娠中なのに日本 (東 京)に 遊 び に 行 く と い う の で と て も 心 配 で、何と言えばいいか?と考えているという方 ☆ 最近、結婚したばかりのご夫婦は、爆発後から とても心配で、今日の話のお知らせをみてすぐ 応募した。日本に旅行を計画していたけどやは りやめた。 ☆ 2011年以降、東京に出張があり何度か行った。 その後、こどもが出来て産まれる時に、本当に 心配だった。こどもは大丈夫か、元気にうまれ るか、東京に出張したことを後悔した。放射能 は目に見えないだからこそ怖いと話すお父さ

感想や質問も次々とでて、関心の深さをしみじみ感 じました。 中でも、子どもの給食に汚染された魚や加工品が 使用されるのを心配しているお母さんの質問は、と ても気持ちがわかるだけに、日本がやっているいい 加減な放射能被曝対応に改めて腹が立つ思いと、世

ん。 ☆ 東京の会社で仕事をしていた。311の時も東京に いて大変な事が起きているのに、会社も会社の 人も変わらず残業してなにもなかったかのよう に過ごしていた。ふと怖くなった。妻と子ども の事も心配になったので、仕事をやめて韓国に 戻ってきた。しばらく東京にいたので、こども が大丈夫か今も心配だ。

さんのグループで頑張っていたりします。食品の汚 染データなど日本語でわからないという事なので、 韓国でわかるように書いて送るなど、この会の後も 情報交換をしはじめました。 この五年の間、色んな所でお話をさせてもらった り、文章で書かせてもらったりメディアにも取材さ

たくさん皆さんの話や感想を聞くことができまし た。どの方もまっとうな感覚で本当に心配されてい ます。 終了後はマッコリを飲みながら焼きたてのジョン をみんなで食べていろんな話をしました。環境デザ インという仕事をしているアーティストさんは、作 品で核について訴える展示会をしたり、汚染食品の 心配をしているお母さんは輸入をしないようにお母

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国家としての台湾

れたりしてきました。ここ一年くらいは、日本の人 もそうですが台湾の人達の関心も明らかになくなっ てきています。 そして過去の事になり、あの時は怖かったよね、 というくらいの話になってきている人が多数だと感 じています。 どんなに危ないと話しても、原発反対だと言って いる人でも、東京に旅行に行ったり、海鮮丼を食べ て楽しんでいる姿を目にする度に言いようのない無 力感と嫌悪感が私の中で渦巻きます。 正直、もうこういった話をするのも、勉強会とい うものに関わるのも辟易しています。 そんな中での韓国ソウルでの話で、新たな気付き ももらうことが出来ましたし、つながりもうまれま した。 しかしながら、自分の今後の活動については答え が出ないままです。5年が経過し、自分の周りを見

国家としての台湾

渡した時、何を伝えればいいのか? 意味があるのか?と考える毎日です。 ただひとつ言える事は、無知な人や危機感を忘れ た人から放射能の影響で倒れていく、という現実で す。(了)

陳冠文(翻訳:陳伊品)

旅行に行けるか、台湾の安全には影響があるか、台 湾の株市場には影響がないか、ガソリンの単価は変 動ないかとしか思い出せませんでした。他には自分 とまったく関係ない感じで、新聞が終わったら、こ の事件も解決されたような存在でした。

現在この文を書いているのは、2016年の総統選の 二週間前です。テレビはずっと各地の総統選の戦況 を放送し続けました。こういう時は立候補者と民衆 の一番近い時です。この時、沖縄に米軍基地の反対 運動をしている人がたくさんいますが、台湾の国会 議員立候補者でも、大統領の立候補者でも、一人で も沖縄のことを口にしませんでした。 台湾の住民から始め政治家は国家の関心する議題 は、経済問題と領土問題しかなかったようです。私 も昔はそうでした。いつか台湾は国として世界で認 められればいいと、一度も台湾は国として、世界の 他の場所に何かできることを考えもしなかったで す。新聞の中で他国のことが出たとしても、第三者 みたいな感じで、受けて、聞いて、唯一関心になる のは他国に台湾の人はいないかだけです。これから

私は一度も沖縄にいったことがなくて、沖縄に対 して、ネットや学校の授業や、本や講座でしか接触 したことありませんでした。私は台湾の一人の国民 として、沖縄は私に対して何かの意味をするかをま だ考えたことなかったです。 比較的に、世界の中で今は平和の東亜では、台湾 人として、歴史問題と民族問題にあった台湾人に は、現在沖縄にあったことと比べたら、環境破壊、 植民地問題、戦争の共犯者で悩んでいる、戦ってい る方よりもましとは思いますが。今の香港だと、香 港の人は自発的に中国から極速度に侵入する人権自

化することができなかったため、世界への連帯を感 じなくなったかもしれません。

由及び文化の損害と戦おうとしてます。この視点か ら見たら、台湾は穏やかな生活で、その自覚を無く していたでしょう。 例えば、高橋哲哉さんの本の「犠牲のシステ ム」では、世界の角度から見れば、台湾はずっと違 う政権の付属品です。こういう付属関係は、台湾の 違う民族や、島、主流や不主流、利益者や虐める住 民の中から見えてきます。これは犠牲というより、 競争の中での勝ちと負けの関係のような感じでし た。統治者の変更、植民地の立場、資源がない、多 民族、50年間の戒厳と教育がこの群島の国民性を作 り出してきました。 「軍事化を無くした」よう になって来た台湾人の感覚ですが、民主主義で声を 出せるようになって来た雰囲気ですが、やはりある 価値観や意識の中でしか声を出せなかったような気 がします。台湾に入ってくる情報は少なくないと思 いますが、これらの情報を理解して自分のものに消

国家としての台湾はどのように沖縄や濟州の米軍 基地問題を考えるでしょうか。根本的には、世界の 他の国からの圧力とは一緒です。台湾は完璧な国で はありませんが、私達はどういうような国になりた いのか、また私達ができた国がこの世界の他の国に どういうような力になりたいのかになります。台湾 は政治と軍事と強い国の間に挟めれて、かえって安 定すればいいみたいな保守的な国民性になったかも しれませんが、力を出したい人を集めれば、いつか 大きな力になるではないかと思います。(了)

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台湾総選挙雑感

台湾総選挙雑感

冨永悠介

2016年1月16日、台湾総統選挙が行われた。前評 判通り、総統選挙は民進党候補・蔡英文氏の圧勝 だった。そして同日投開票された立法院選において も民進党は大勝した。総統選の結果はある程度予測 出来たものの、立法院選は「ねじれ」るのではない かと予想していた。しかし蓋を開けてみれば民進党 の大勝・国民党の大敗だった。 立法院選で善戦したのが「第三勢力」と注目され た「時代力量」だろう。結成1年目の新党で、2013 年の「ひまわり学生運動」を契機に結成された新興 政党である。今回の選挙では「第三勢力」としてど こまで善戦するのか注目された。民進・国民両党に 比べ議席数は少ないものの5議席を獲得した「時代 力量」は第三政党に踊り出た。民進党と国民党によ る二大政党の構図はこれからも続くだろうが、新興

政党の躍進によって台湾の政治地図が今後どのよう に塗り替えていくのかその動向に注目したい。 蔡氏の総統就任は5月20日である。蔡氏は、馬英 九政権が進めてきたこれまでの政策をどの程度踏襲 し、また差異化を図りながら独自の政治を展開して

いくのだろうか。その手腕が今後試されるわけだ が、いずれにしても、中国との関係が重要な争点 の一つであることには変わりない。 例えば、南沙(スプラトリー)諸島はどうだろ うか。南シナ海に位置する南沙諸島は岩礁や砂州 か ら な る 島 嶼 群 で あ り、中 国、台 湾、フ ィ リ ピ ン、マレーシア、ブルネイが諸島全部あるいはそ の一部の領有権を主張している。台湾は、高雄市 の一部として太平島を実効支配し、中国は南沙諸 島の領有権を主張し軍事基地化を進めている。南 沙諸島をめぐって台湾と中国の間で現在どのよう なやりとりがなされているのか具体的には分から ないが、馬英九政権であれば南沙諸島の開発は互 いの利益に見合うものだった。しかし馬政権とは 政治的立場を異にする蔡政権の場合、南沙諸島の 領有権問題も一つの争点になりそうだ。 それと関連して、民進党が政権に返り咲いたこ

とによって東アジアの政治状況はどのような動き を見せるのだろうか。安易な推測を承知で言え ば、中国との関係次第によっては東アジアの対立 構造がより先鋭化されるのではないかと危惧して いる。台湾と中国の緊張度がませば、お馴染みの 対中国(北朝鮮)恐怖論から台湾や日本では軍事 化が加速するだろう。そうなれば中国・北朝鮮に おいても同様に軍事化が進められるに違いない。 そして沖縄辺野古への米軍基地移設はより正当性 を増し沖縄はより厳しい状況に追い込まれるので はないか。 今回の総統選の結果をどのように受け止めたら よいのか。実は複雑な心境だ。もちろんそれは台 湾と中国の統一を歓迎するものではないし、台湾 の独立を支持する立場でもない(個人的には独立 か統一かという二項対立で現在の台湾・中国を議 論することにあまり生産性を感じない。しかし独

立・統一という構図が歴史的にどのように作られて きたのかを知ることは現在の東アジアを考えるうえ で重要だと考えている。帝国日本による台湾の植民 地支配がなければ、独立・統一という議論は現在と は異なる文脈で歴史的展開を見せていたかもしれな いし、そもそも独立・統一という議論すらなかった のかもしれない。そう思うと帝国日本の植民地主義 は根深いと私は考えている)。 考えたいことは、今回の選挙を台湾枠内の問題と して捉えるのではなく、東アジアの同時代的な連関 に位置づけたときに何が見えてくるのか、である。 今回の総統選挙に限らず経済・政治・歴史そして個 人の経験にしても、台湾は台湾、沖縄は沖縄という いわば内部の特殊を内部のなかで理解するのではな く、東アジアの同時代的なコンテクスト・連関のな かに置き直して考えてみる方法を自分なりに追求し ていきたい。

「東アジアの対立を煽るだなんて!」と民進党に 一票を投じた有権者の声が聞こえてきそうだ。ある いは「東アジアにとって馬政権のほうが安全だと言 いたいのか?」という声も聞こえてきそうだ。しか し統一であっても独立でもあっても(とどのつまり どの政党が政権を握ったとしても)きっとどこかで 何らかの対立や軋轢は生まれる。それは東アジアを 巻き込んだ論争に発展するかもしれないし、路地裏 や屋台など日常の一場面における口喧嘩なのかもし れないが。いずれにしても、民進党の大勝に踊り国 民党の大敗を笑うのではなく、また今回の選挙結果 に満足するだけではなく、それぞれの持ち場や立場 に即しながら東アジアの視野で今後の台湾のゆくえ を見守ることが次のステップとして考えられよう。 そこではおそらく東アジアの多様な局面を個別具体 的に生きている他者への想像力が試されている。 (了) 6


総選挙後の米台武器取引

総選挙後の米台武器取引頼台庫(翻訳:黃雅芬) 2016年大統領選挙の結果は大方の予測通り、過 去8年間野党だった民進党が再び与党になった。そ れだけでなく、これまで国民党及びその党員が国 会の優勢を持っていたのが、今回は民進党が国会 の主導権を持つようになった。この結果、戒厳令 が解除されてから初めて非国民党が完全に与党に なったため、アメリカと台湾との軍備販売も新し い展開が予想される。

から世界に至る海上航路に影響する。中国がいざこ の政策を推進し続けようとすると、アメリカとの東 アジア地中海区域での対抗状況は現状と変わらない だろう。この状況下、台湾はこの海域の中心位置に あるため、東アジアにおけるアメリカと中国の対立 の主な舞台となるに違いない。それに加えて、アメ リカは最新兵器を台湾に販売する唯一の強権である ため、アメリカと台湾との兵器取引も東アジアの海 運を中心に展開するだろう。

ここ数年の情勢をみれば、西太平洋の二大強権 であると位置づけられるアメリカと中国は、お互 いの協力を重んじるというよりも対抗関係にあ る。特に中国の新しいリーダーである習近平が語 る「中国ドリーム」、「一帯一路」といった策略 は、アメリカの最も重要な資源である、東アジア

2016年総統選挙後、各メディアによると、アメリ カは海軍陸戦隊が使用しているAV-8B垂直離着陸攻 撃機を台湾に販売するという。その理由は以下の三 つである。 1.アメリカ海軍陸戦隊は旧式になったAV-8Bを今後 F-35Cに交換する予定であり、いっぽう、中国の圧 力に直面する台湾は、守備に不安を抱えている。中

国から第一段階の ミサイル攻撃が あ っ た と き、空 港 の滑走路が破壊さ れて使えなくなる ことを考慮すれ AV-8B垂直離着陸攻撃機 ば、台 湾 は 空 軍 力 を維持するために垂直離着陸機(STOL)が必要になっ てくる。 2.台湾はF-35を入手できる日程が今のところ明確 になってないので、国産の戦闘機(ADF)研究開発 生産計画を開始する可能性がある。計画に上ってい るのは、F-35を取得するまでの空中戦力の空白を補 うための垂直離着陸機(STOL)である。F-16とIDFの 組み合わせのように、今後ADFはF-35とともに空中 戦力になる。この機会にアメリカの垂直離着陸機 (STOL)の設計を学び、新しい国産戦闘機ADFを製造

する。 3.台湾周辺とほかの国の領土争議に応じるため、 台湾空軍は長距離作戦能力を一応持ってはいる。と はいえ、南シナ海周辺では各国の勢力が錯綜してお り、この海域で主権を主張するのは七ヵ国もある。 台湾は南シナ海にある東沙諸島の東沙環礁と南沙諸 島の太平島という二つの島の主権を持っていると主 張しており、これらの島に軍隊を駐在させ、滑走路 を改築している。この二つの島と台湾本島の距離 (東沙諸島は台湾から約440キロ、太平島が約1600 キロ)を考えると、これらが他国から攻撃を受けた 場合、台湾空軍の戦闘機は、燃料積載量の問題で、 両島の上空で長時間の作戦ができない。そこで、台 湾は平時補給や戦時中飛行機を駐留させることを考 慮し、これらの島に滑走路を建築すると決めたので ある。また、一万トン以上の全甲板強襲揚陸艦2艘 を製造する計画もある。強襲揚陸艦は海陸突撃、船

を上陸させ、海陸運輸、災害救護などの機能を持つ ほかに、甲板にAH-64 アパッチのような戦闘ヘリコ プターやAV-8Bを搭載し、長距離作戦することがで きる。

の、実際はなにも知らない立法委員に阻まれたた め、台湾の水中戦力はほかの戦力と比べると明らか に不均衡な状態になった。 新政府は執権した後、ア メリカを通して潜水艦を取 得するだろう。新政府は自 力による国防の姿勢を堅持 し、アメリカを通して第三 国の潜水艦設計図を入手す ると考えられる(台湾政府 はこの二年の間に潜水艦を 国産することを計画してい る)。アメリカは半世紀近 くに渡って通常動力型の潜 今後、日本は台湾に潜水 水艦を生産していないた 艦の生産技術を輸出する め、台湾は第三国の力を借 といわれている。 りて潜水艦設計や技術を取

また、台湾軍事に対して長期間注目する人々に とっても周知のように、台湾の水中戦闘力は大変不 足な状態にある。台湾のような島の経済構造では、 貿易を維持するために海運に高度依存をしている。 戦時には、台湾は相手の潜水艦によって海上封鎖さ れると逃げ場がなくなる恐れがある。台湾の水上と 空からの対潜戦力はある程度のレベルに達している が、水中戦力が極めて不足している。現在台湾海軍 は4艘の潜水艦しかもっていなく、そのうちの2艘は 第二次世界大戦直後のものである。本来ならば台湾 は10年前に新しい潜水艦を手に入れる機会があった はずだが、当時ある与党の専門家と呼ばれるもの

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リニアレポート2015~2016冬

得するしかないだろう。台湾の軍事関係者はすでに ヨーロッパの各船工場を見学しているようだが、台 湾はアメリカを通して日本の潜水艦生産技術を取得 し、自分の力で潜水艦を生産する可能性があるので はないか。ここ数年、日本は軍事技術を海外に輸出 する制限を緩めた結果、それを試験的に台湾に輸出 する可能性が高くなっている。(了)

リニアレポート2015~2016冬

行っています。不安や悲しみを抱いた住民が動き出 してはいますが、なかなかニュースに取り上げられ ないので活動自体は広まり方が小さく国民のなかで この計画を問題視しているのはごく一部なのが現実 です。そもそも何が問題なのか、少し記述します。 実験線の地域の水枯れ、地震への対応、山脈の生 態系の維持など自然に対しての問題が一番の課題だ と思います。また、この建設は人(とくに住民)と 自然が相手です。その為に想定外なことも多々予測 がされるので巨額な費用と時間がかかります。計画 がまっすぐ進む平地ではなく建設の大半が山間部、 地下というルートになる計画なのです。なのでコス トがかかり、採算がとれないような計画だと疑問に 思う人も少なくありません。それにともなって税金 投入も十二分にあり得ます。この不景気で2月にマ イナス金利を導入し、消費税が上がり続けて医療費

笠井美那

昨年もリニアについて書かせていただきました。 あれから約一年、計画の方は少しずつの進行でこれ まで建設のための式典や説明会が各地で見られまし た。一方反対運動ですが市民団体がいよいよ建設認 可の取り消しを求める「異議申立書」を国土交通省 に提出。回答はいまだなく今春に訴訟を提起をする ことになりました。現時点(2015年冬)はそれに向 けての準備を市民ネットの代表や会のメンバーが

や福祉の保証は減額。国民は辛いのに、国会議員の 給料が上がるなんて矛盾が起きている日本。全く もって遺憾なことです。私たちのような若い世代は 年金もほぼなしの金額、国の負債も山積みになると 予想されているご時世にまた巨額な負債が…と言っ てもいいはずです。私の実家もルートにかかってい て立ち退きの対象になっていますが、なんといって も家族が住み慣れた土地。近所のネットワークを破 壊する計画に地区の住民も怒りを隠せません。しか も、怒りの原因はJRの対応や態度にもあります。

が、保証は期間限定的での対応で永久的ではないの です。山梨の中心地域にはリニアのレール地上にか かります。その巨大な建設物はマンションなどの4 ~5階建て以上の高さだとされています。 そうなると県内でも日照時間が長い場所なのに日 影ができてしまい、住める場所にも農地にもなりま せん。JRは日影になった土地は畑であれ民家であれ 買い取りはしてくれません。なんらかの対応はする と言ってはいますが、買い取りは含まれてはいませ ん。つまり保証なし同然。ルート自体に引っかから なければただ損をすることになります。また、基本 的にルート部分の保証しかありませんので、敷地が 分断されて移築を余儀なくされても残りの敷地の買 い上げはしてくれないので、家だけ移築、畑だけ移 動なんてこともあるのです。住民のこれまでの暮ら し、財産の保証はとても今までの生活を継続できる

説明会では意見を聞くようなものではなく、業務 説明のように淡々としてます。実験データも非公開 なものもありますし、解ってる範囲でも住民に対す る保証も不十分です。実験線の地域の中には一日中 日が当たらない場所となってしまったり、山脈の沢 や小川の水量が減少して農地に影響が出ています

よ う な も の で は あ り ま せ ん。他 に も 電 力、電 磁 波、騒音などの問題もありますがひとまずこのく らいで。 さ て、私 が 近 日 で 活 動 し た こ と で す が 年 明 け 早々に私は同じ市内の有識者達と自分等の市長に 直談判をしてしました。と言っても新年なのでい き なり バチバ チは 避けて 現状 の有識 者の 活動な り、解る範囲での計画進行の問題を話しに行きま した。メンバーは元教師の方2名、先頃まで会社経 営をしてらした方、と私。市長は決して悪い方で はなく市民の声を積極的に伺ってくださるような 方です。でも市の方針はあくまで計画の推進、協 力。でも市民の考えや要望もちゃんと協力をした いとおっしゃって下さいました。と、今回はソフ トな会だったので大きな収穫や改善ではなかった かもしれませんが代表いわく、私が入ったのが大 きかったと。今回は私以外のメンバーは60歳~70

歳代ぐらいといったところでしょう。つまり次の世 代のために動いている方々なのです。有識者はやは り大半がこれぐらいの世代になっています。説明 会、勉強会も私のような20歳代は皆無に近いです。 地域の説明会は毎回私だけ。なかなか社会的な問題 の有識者の世代は何にしてもこのような問題も抱え ています。若い世代、私のような子育てをしていく 女性などに問題を問題だと印象付けていくのが課題 かもしれません。 情報が流れにくい問題でもありますが、きっとリ ニアの利点ばかりを見ている国民ばかりで現地や運 行に伴うリスクは皆、知ろうともしないのです。表 裏一体が世の中の仕組みでは当たり前。では、利点 は?欠点は?と考えない流れが出来てしまった日本 は上手く大企業や政府に利用されていると言っても いいかもしれません。春の裁判に向けての活動でよ り若い世代に広められたらと思っています。(了) 8


濡らし絵展示会‐芸術に入り込む生命

濡らし絵展示会‐芸術に入り込む生命 陳 如(翻訳:陳伊品)

2015年12月に、雲林出身で平均12~15歳の少年達 が台中の象カフェで濡らし絵の創作をし、自分と芸 術に入り込んだ生命力を発揮することができまし た。これも一つ、新しい顔として、社会と民衆との 会話の形になります。 今回の展示会は、社会の中で我々が考えられない 生活状況の中にいた少年達一人一人のことを思うよ うになることがスタートです。展示会を見て、我々 の環境また教育に対して、よくなるように反省し、 みんなで努力するようにしたいと思います。 2013年8月に、雲林少 年安親学園で美術を教 えるようになりまし た。学 園 に 入 っ て か

ら、ここに入った学生さん達の家庭はみんな崩壊し たことを聞きました。社会環境もこういう家庭の崩 壊した子供達を十分に守ることができず、こんな未 成年な子が生まれてから成長するなかで誰も助ける ことができず、それから犯罪を犯したことになっ て、心が大変苦しくなります。どうして我々の社会 にこんなことが起こるのか、我々大人のみんなが反 省しなきゃいけないと思います。このような子供達 にこれからどういった学習をさせ、そして、どう やってこれらの子供達をうまく社会に戻れるように するのか、一大課題です。 芸術から新しい体験、新しい生命を生み出す 小さい時から美術教育を勉強できた私が芸術の力 と大切さを自分の身で感じ できて、よく考えたら、こ の子達に、新しく成長でき

る生き方を与えなきゃ いけないと思いまし た。これは何よりも大 切なことです。一方、 このような機会は、芸 術によって与えること ができますし、どんな人でも芸術の中から受けられ ます。それで、授業の際には伝統的な絵を描く技術 を教えるのではなく、感覚の覚めること、及び精神 力の悟ることをポイントにしました。目標は「芸術 の中で命は欠かせない、命は芸術だ」という内容 で、私と子供たちとは一緒に勉強を進めました。

を、また現在のような現代 芸術までを説明しました。 話を聞いてくれて、頭の 中にまず芸術はどういうよ うなことなのかを想像でき た感じになって、創作を始 めました。自由に新聞紙を欠片にして、それから濃 い色と薄い色の組み合わせで影像を創造すると、 徐々に形に見えて来たものが多くなって、感覚力も 少しずつ増えて来て、豊かな世界であることを改め て認識するようになりました。その後は石炭にて絵 を描きます。モノクロの世界から「背景がもっと黒 ければ、前はもっと明るくなります」という哲学を 理解してもらえたらと思います。それから濡らし絵 の創作に入ります。水彩により、自分と外の世界の バランスを取るようにします。大よそ二年間の時間 で、創作のことによって、自分を知り、自分の感覚

初めての授業の際に、新聞紙を教室に持って行き ました。最初の授業は新聞紙を貼り付ける絵の創作 です。最初にまず貼り付けの絵の歴史を説明しまし た。世界はどのようにWW1からダダ芸術になったか

力を開発、自分を表現するようになります。このよ うな芸術が子供の教育の中で一般的になるように頑 張っていきたいです。

からネットでの宣伝にも、この経過の説明を細かく したくなかったです。ただその「空間」からみなさ んに考えさせたいです。とてもシンプルな場所で、 単純に絵を見てもらいたかったのです。これも芸術 の中の哲学ではありませんか。

2015年9月の時、子供達の絵を見て、みなさんは 自分の心が開かれて来たと感じられて、描いてくれ た絵はどれも純粋な感情をたっぷり注入してあり、 詩みたいに感じられて、本当に綺麗です。その時に 私は子供に、「あなた達は芸術家です。個展を開け ましょう。あなた達からの美の力を他人にも与えま しょう。」と言いました。みなさんは笑顔でたくさ んたくさん芸術家の夢を見ました。そして、私達は 象カフェで私達の命に関する創作を発表しました。 展示会を開いたら、いろいろな方に質問されまし た。どうしてこういうような小さいなカフェで展示 するんですかと。この質問は私にとって興味深いも のでしたが、あまり深い説明をしなかったし、それ

美学の三曲目-命から命を呼び返す 美学教育によって、自分と本質の探究に戻りま しょう。人は良い方法で外部との連携を始めるよう になり、芸術のことによって、自分の思いや人との 感情、また心の感動を表現するようになります。 12月19日カフェで講座を開きました。美学は本質 の感知力に戻るという話をさせていただきました。 我々は、伝統教育によって自分の感知力を大切にさ れていなかったことを話しました。最後に「Nobody knows」という映画を皆で見ました。社会教育の中 で、あまり話にならなかった、考えもさせられな

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ついに完成『セエデク民族』

かったことが、本当は私達の成長や社会の中で一番 大事なことではありませんか、と。社会問題が発生 した時、台湾全体に、後から解決しようする組織や 団体があちこちに溢れて来ましたが、本当に問題な のは一番シンプルで命に関連することに発生したも のだと、誰がわかっていたでしょう。 《一月》 勇気は救える力に変換 美を感動 真実を守り 純粋 な目標を立て 善を興す 真実は人の本当の生活を導く 自分の行為を端正 平和な感情 常に思考すること 人に信用の大切さを教えること 天が守ってくれる この広い世界の中で 心の奥に 一年十二カ月間の瞑想 - by Rudolf Steiner (迴 工作室-陳嬿如20160103)

ついに完成『セエデク民族』 古川ちかし 昨年(2015年)11月、シヤツ・ナブ牧師が日文で 書き下ろした『セエデク民族』の編集がついに完成 し、EAPHETから出版された。中文版も同時に出版 した。脱稿から3年ちょっと経ってしまった。 2012年8月に、それまで何度かシヤツ・ナブ牧師 にお願いしていた「セデックの歴史」の原稿をも らってから、それを中文に翻訳し、一般の読者にも わかってもらえるよう地図などを付し、出版にいた るまで、想像以上の時間が必要になりました。

シヤツ・ナブさんは、セエデク・タグダヤのカッ ツク社(社=部落)に生まれましたが、幼少のとき 霧社事件が起きました。カッツク社の人たちは蜂起 に(部落としては)参加しませんでしたが、中には 個人で参加した人もいたようです。事件後に、カッ ツク社は隣のタカナン社とともに濁水渓(川)まで 降ろされました。部落ごと、日本警察の管理しやす い場所に移動させられたわけです。ところが、川べ 1939年ころのことです。 父アブさんは、一家が(部落が)埔里に移動され た後、人のいなくなったパーラン社に杉の木を植え るという苦役に駆り出され、何度も杉の苗木を背 負って埔里と霧社とを往復させられたといいます。 (パーラン社があった場所は「電源保護区」に指定 され、人家を一掃して杉の林にした。)母親のラベ さんはどちらかといえば日本贔屓の人だったよう で、シヤツさんの兄のロシが教育所修了後に尋常小 学校に入学が許可され、日本警察に就職したときに は大喜びだったそうです。ロシが警察官として近隣 の部落の派出所に勤め、教育所の教師も勤めるよう になると鼻高々だったとも聞きます。あるとき、日 本警察に対して反乱を起こそうとしていた者をラベ がロシに密告し、ロシが下手人を捕らえて褒美をも らったこともあったそうです。アブさんは、そんな 妻とは意見が合わなかった。日本警察が、ロシの弟

2013年3月23日、東海大学日本語文化系の院生たちとの編集 作業第一回(高峰のシヤツ牧師の家で)

りはマラリヤの蚊が多く、部落から死者がたくさん 出たため、川の反対側のちょっと高いところに位置 していたセデック・タグダヤ最大の部落で蜂起に参 加しなかったパーラン社の一部に組み込まれまし た。そこにしばらくいた後、今度は濁水渓にダムを 建設するのに伴って、パーラン社全体が、もっと低 い場所(埔里から山ひとつ越えたところ)に強制的 に移動させられました。中原部落という部落です。 10


ついに完成『セエデク民族』

だということでシヤツも上の学校に上げないかと 言って来たとき、アブさんは言下にこれを断った。 息子を二人日本に取られてしまうのは、ぜったいに いやだったようです。 そんなわけでシヤツさんは、父アブの農地を継い でよく働きました。兄のロシのように学問を身につ け、日本人と肩を並べて仕事をするのを羨ましがっ たこともあったといいます。日本が去って、ロシが 議員になったとき、シヤツさんも中原部落の農会の 代表となります。隣の部落(川中島)のロボ・ピホ さんと結婚しました。当時、台湾の山の中にキリス ト教が入ってきて、ロボさんは真っ先に入信した。 シヤツさんは、しかし、部落代表の仕事もあって、 政治的なかけひき、繰り返される飲み会、つきあい に追われ、そんな妻の聖書のページをやぶいてタバ コを巻くというような「蛮行」を繰り返していたと いいます。

2014年5月18日、霧社の息子さんの家で、左から小池一平 氏、戴佩如氏、シヤツ・ナブ牧師。地図作成。

シヤツさんが教会に顔を出すようになったのは、 代表の活動で体を壊したときでした。ロボさんに連 れられるようにして教会に顔を出すようになった。 その後川中島の教会で、献身的に布教するアメリカ 人の牧師に出会い、入信したのだそうです。それか ら伝道師になり、牧師になる勉強を始め、1970年代 に日本(鶴川農村伝道神学校)に留学、台湾に戻っ て牧師職に就いた。 シヤツさんが牧師職に就いてから、折に触れて気 になることが起こりました。それは、同胞でありな がら、部落の間に、普段は見えないけれど何かある と湧き上がってくる確執のようなものでした。シヤ ツ牧師は書いています。

2015年8月25日、霧社の息子さんの家で、左からシヤツ・ナ ブ牧師、ロボ・ピホ師母、戴佩如氏。ゲラ刷り校正。

に殺し合いをさせ、仇という憎しみを心の中に 植え付けた。このことは忘れられない罪となっ て、私たちはこの罪を背負い続けたようだ。 ある一人の娘が私に「牧師さん、私が霧社事 件記念活動に参加して家に帰ると、母に叱られ たんです。なぜそんなものに参加するのか、 と」と言うのです。昔のことなのに今でもまだ 恨みがあるのかと、私は驚いた。

私たち三つの系をもつセデックが一致すべき なのに互いにあらそい、仲を悪くしているのを 知った日本は、この弱点を利用して私たち民族

前の陳総統が霧社に上がられたとき一人のト ウダ系の青年がみんなの前で陳総統に「霧社事 件記念碑に行くな、彼らは私たちの敵だ」と 言った。これを聞いたとき、私は心の中で悲し い思いをした。(「セエデク民族」本文より)

編集の過程で困ったことが起きました。シヤツ牧 師はタグダヤの人ですが、蜂起に加わらなかった パーラン社の人です。蜂起した部落の人、そして敵 対してしまったトーダの人、トルクの人にも意見を 書いてもらって、この本に載せたいという牧師の希 望だったのですが、書いてくれる人を探すことがで きませんでした。候補に挙がった名前の中には牧師 さんもいたし、長老たちも、郷土史研究家もいまし た。ほとんど、直接、間接に執筆を断られました。 この交渉に一年以上かかりました。快諾してくれた のは、蜂起部落出身のDakis Pawanさんと、ご自身 はトルクの方で現在はトーダの部落の牧師をしてい るPeyto Nokanさんの二人だけでした。お二人は、 シヤツ牧師の文章を丹念に読んでくれた上で一筆寄 せてくれました。 編集作業はまず中文原稿作成から始まりました が、苦労したのは人名、地名のローマ字表記です。

和解のためには何が必要なのか、シヤツ牧師はい ろいろやってみた。それは試行錯誤の連続だった。 和解はもう何度もやってきた、いまさら必要ない… そういう声が強かった。パーラン社の人間が何を言 うか、味方蕃のくせに。そんな声も聞こえてきた。 「私(シヤツ)が何か言うと怒る人がいるから」 と、発言を控えようとしたこともありました。本書 は、そんなシヤツ牧師の最後の試行錯誤のひとつな のだろうと思います。私にはどうにもできなかった かもしれないけれど、歴史は残しておかなければい けない…そんな思いなのかもしれないと思います。

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台湾で「ことば」と「国」を考える 正書法が確立しているとは言えない状態である上 に、トーダ、トグダヤ、トルクで綴りが異なった り、時代によっても若干異なったりすることがだん だん分かってきました。(結果的に断られたのです が、執筆を依頼したある人からは)綴りがめちゃく ちゃだからどうにかした方がいい、というアドバイ スをもらったこともあります。シヤツ牧師に確認し ながら、基本的にはタグダヤ語の綴りを優先しまし たが、一般的に使われているトーダ語の綴りを使用 した語も若干ですがありました。この作業には東海 大学日本語文化系の「山プロジェクト」の力も借り ました。しかし、それでも最後まで自信のもてない 語があったことも事実です。 最後の一年は、戴佩如さんと私とで、中文、日 文、それぞれの校正を行い、下山誠さんや葉綉清さ んからお借りした写真の校正、そして本全体の配版 を行いました。戴佩如さんは、私の「出版までの経

緯」の中文訳、ペト牧師、ダキス氏の感想の日文訳 と、たくさんの翻訳と校正を担当しました。表紙デ ザインの絵の部分は私が担当しましたが、文の部分 は戴佩如さんが書き下ろしました。非常に多くの方 の協力のもとに、本ができあがりました。どうかご 一読くださるよう、お願いします。(了) ご注文は、eaphet@gmail.com、あるいはフェイス・ ブックで象仔書屋までメッセージをいただければ、 代金・送料の振込み方法などお知らせいたします。 台湾280元/日本1000円(会員価格はそれぞれ、250 元/900円)となっています。

台湾で「ことば」と「国」を考える‐ インターン報告書

トーマス・ブルック

10月半ばから1月の終わり頃まで、年末年始の短 い「一時帰国」を挟んだ約3ヶ月を、私はEAPHETの もとで、台湾台中で過ごしました。そのインターン 期間中、二つのトークを協会で行いました。その一 つは、アジア最大級と言われる台湾のLGBT運動の情 勢をめぐるもので、もう一つは、スコットランドと 台湾における独立運動、その動機や目的などを考察 するものでした。いずれも現代の主流をなしている 「アイデンティティ・ポリティクス」と関わるもの でしたが、そのような具体的、かつ、現実的な出来 事を考える前に先ず、少なくとも私にとって、より 切実に考えずにいられない問題がありました。つま り、これから先、日本語と日本(そして私の「母 語」である英語と「本国」であるイギリス)、こと

嘉義にある「檜意森活村」も訪れました。統治時代に檜 の伐採が盛んに行われ、その檜で建築された「林業村」は 近年観光地として再現されました。壊日傾向の象徴とも言 え、上の2030舊時嘉義館では着物など和服の扮装も提供さ れています。

ばと国というものは、どのように捉え、またそれら とどのように向き合い付き合えば良いのか、という 問いでした。日本語も日本も色んな形で複雑に刻み 込まれている台湾に行けば、視野が広がり、何らか のヒントが得られるのではないかと思ったのでし

た。 台北、嘉義、高雄まで足を延 ばし、タイミング良く総選挙に 居合わせることもでき、協会で 定期的に行われた上映会などで 現地の人と色んな話や討論を交 わし、短い期間ではあったが、 台湾の現在の小さな一部を垣間 見えたように思います。その間 ずっと、日本語から離れること はほとんど一切ありませんでし た。離れようにも、離れられな いような状況でもありました。 発音覚束なくても読めてしまう 繁体字もあれば、求めなくても 日本語が至る所で目に入りまた 耳に入ってきます。日本統治の

半世紀と最近の親日・懐日傾向が 関与しているのか、日本語が特に 抵抗なく口に出され空気を満たし てしまうように、感じました。こ れは、例えば中国大陸や欧米諸国 では想像しにくい風景でした。 ことばを常に意識していまし た。しかし、ことばというものは もともと情報伝達の道具であり、 社会不正、公害、その他諸問題を 告発し、その解決へと結びつくべ き道を唱えるために行使されれば 良いのであって、それ以上ことば に固執して、それが自ら具えてい る(神秘的な、計り知れない)何 かを見出そうという態度は良く言 えばロマン主義的な幻想、悪く言 12


台湾で「ことば」と「国」を考える えば一種の「ことばの病」という他なく、「こと ば」というものに超越的な意味を求める時、台湾統 治とその「同化政策」に先立ち「国語と国家と」 (1895年)という論文で上田万年が提唱した「国語 は国民の精神的血液」であるという考え方と、私自 身の「言語観」は、根本的に、果たしてどれだけ違 うのだろうか、という半ば実存的な不安を覚えま す。現にその引用から「国」という字二字を抜くだ けで、おおよその詩人や文学者、読書愛好家がある ところまで頷ける概念になるはずだろうと思いま す。 とはいえ、上田万年の極論まで行かないまでも、 ことばというものはやはり道具だけとしては説明し 切れないものでしょう。あるいは「道具」という一 言だけでも、その用途は情報伝達に留まらず、それ 以上に、親睦を深める「道具」であり(いわゆる無 駄話に象徴されるような)、そのことばに通じない

者を排他する「道具」である、と言えるかもしれま せん。二二八事件の直後、本省人か外省人であるか を区別するために日本語が利用されたように、差別 の道具であり得ることも言うまでもありません。 そこには狭い団欒における「私(達)言葉」とよ り広い社会における「公言葉」の差異があるだろう が、前者が後者に吸込まれないのにどのような術が あるのでしょうか。その問いは、「私たち」という 団体が「国」という団体に呑込まれない方法と通じ ているところも大きいはずだろうと思います。 そんなことばの有様、ことばとの在り方、自身の 「言語」固執に悩んでいたある日、去年の暮れに大 ヒットした『灣生回家』というドキュメンタリー映 画を観に行くことにしました。「灣生」とは台湾生 まれのことで、この作品に登場する人たちは統治時 代の台湾に生まれ、終戦に伴って「本土」に引き揚 げそれ以来50数年戻れなかった人とその子孫であ

をカメラに向かって回想する り、映画はその子孫の一人 シーン。花蓮育ちの彼は本省 によって撮影・監督されま 人の子供との交流もあったか した。琴など伝統楽器を登 ら か、日 本 に「帰 る」と、自 場させるBGM、花散る桜の 分の話す日本語がおかしいと 下、和傘を持つ着物姿の女 周りからいじめられ、あるい 性を描くアニメーションの は自らその差異に気がつき、 挿入、涙ぐむ出演者など、 「正しい日本語」を身につけ 「ニッポン」を全開に醸し る必要に迫られる。そんな難 出しつつ感傷を極まるもの 題に対面した時、彼が取った でした。私が鑑賞した平日 スコットランドの独立運動をめぐるトークを協会で行 得策は、毎晩、畳の上に正坐 の昼下がりはやや空いてい い、活発な議論ができました。 し、3 時 間 ほ ど『源 氏 物 語』 ましたが、聞くところによ の原文を朗読することでした。「いづれの御時に ると上映期間が完了するまで満席に近い状態が多 か」と彼が暗誦し始めると、今目の前に展開してい く、それも若い人が大半を占めたそうです。 る 風 景 は「日 本」と「日 本 語」が 誇 る 権 威(「伝 映画の中、特に私にとって際立って印象的な一場 統」と言い換えても良いだろう)、その国「日本」 面がありました。主演とでもいうべき富永勝さんが とことば「日本語」を密接に結びつけている権威そ その日本の家を案内しながら、引き揚げ当初のこと

て一種の愛情があると聞くと安堵を覚えるのは、わ からないことでもありません。嫌悪感は世界平和に 少しも貢献しないでしょう。それでも、そこに身体 的な喜びを覚えるのには、やはりその歌、そのこと ば、そしてそれらが表象している国「日本」との一 体感なくては成り立たない気がしてなりません。も ちろん喜ぶなとは到底言えず、更なる違和感を覚え るだけです。 もっとも、「国」との一体感を全面的に否定する ことができません。10月末に見学参加した台北プラ イド・パレードのことを思い出すが、「正常」とい う概念の押し付けに対抗するその健気な態度に希望 を抱きながらも、主催者が「自在な自己空間の展 開」を第一の目的にしているように思われたところ に小さな懸念も抱きました。「自己空間の展開」、 「自分とは何か」という問題の探究はそのままそれ だけに専念すると極端な個人主義にしかなれませ

のものだ、という感慨を覚えました。生まれ育った 土地から引き剥がされ、たどり着いた「本国」の日 本でなお差別を受けた彼が、何らかの確かな足場、 拠り所にできる確実な何かを必要としていた時に、 そんな力強い「日本文化」とその権威の古典的な象 徴にすがりつくさまは、ごく当たり前の反応ではあ るでしょうが、それでも観ている自分、鳥肌立つ思 いをしました。 ことばと国との境界線がぼやけて見分けられなく なり、それらとの(特に後者との、意・無意識的 な)一体化願望だけが目立ってしまう。日本に戻っ ていた正月の間、私は旅先で知り合った人に、台湾 の原住民の方と出会った時、日本語で話している と、何の拍子にか桃太郎の歌を笑顔一杯で歌っても らって、不思議な気持ちになったという経験を話し ました。するとその(日本人の)反応は、「それは 嬉しいですね」。恨みを予想していたところに却っ 13


台湾で「ことば」と「国」を考える の第一歩を果たせているとも言えるかもしれませ ん。しかし、どうしてどうしても「国」なのだろ う、という思いが消えません。よし血縁主義の排他 的な暴力性は日本のみならず世界中の「近代史」を 見れば見えてくるが、血縁ならぬ地縁主義はそれに 交替できるほど丈夫な(また同時に、それほど違 う)ものでしょうか。果たして。いずれにしても、 「国」とその権威の誘惑はまだまだ強いように感じ ます。 台湾は、歴史的な偶然によって、国ならぬ国とな りました。その状態の個人的な面を実に鮮やかに表 しているのは、次の、ある日本人言語学研究者に対 して送られた手紙のことばにあります(『台湾にお ける国語としての日本語習得』甲斐ますみ著、2012 年より)。

台湾を国として公式に認めるよう英政府に求めるネット上請願書

ん。そんな風潮の中、人が、たとえば、スコットラ ンドの独立運動の場合のように、「国」という概念 に頼ってはいるものの、隣り合わせに住む人々の間 の絆を深め、「現実世界」の意識を取り戻すことへ

聞いて下さいませ。此のポイステ雑巾の如きの台

湾人の心の声を。半世紀と云ふ長い歳月かけて生 みの親から捨てられ拾はれの親と云ふ様な哀れな 時代に生れ会せた事を如何に汲み取って下さるで せう? 私こと大正ひとけたの九年生まれの何国 人でせうか?(後略)

実際、その曖昧性の魅力について、台湾滞在中色ん な人と話しました。しかし、当の「台湾人」がそれ を積極的に選ばない限り、あまり意味がないような 気もします。 2016年16日に行われた台湾総選挙で民主進歩党が 圧勝したその翌日、結果発表の中継を一緒に聞いて いた台湾人の友達からメールが届きました。台湾を 国として公式に認識するよう、イギリス政府に求め る請願書に著名してください、とのことでした。 「国際社会から認めてもらいたい」ということば は、台湾滞在中、何回も耳にしました。また、台湾 独立運動に大きく関与してきた許世楷も、その著書 『台湾という新しい国』(2010年)の中で次のよう に述べています。

国籍を自ら選ぶことなく上から授ける意味におい ては、この「大正ひとけたの九年生まれ」は例外的 な存在ではありません。その「何国人」であるかを めぐるアイデンティティ的なトラウマも、現代「国 際」社会における、「国籍」または「国家的アイデ ンティティ」によって定義される強制的な必要性の 反影に他ありません。(その「心の声」は実のとこ ろ日本語なのか言語以前のものなのかはまた別の、 恐らく本人すら永久に答えられない問題でしょ う。)台 湾 の「無 国 性 状 態」に「国」を 越 え た も の、あるいはその可能性を夢見ることができます。

「権力者に追随することはない。自分たちは台 湾人であり、台湾人には台湾人の立場がある」

ということを少しずつ、おぼろげながら意識す るようになったのです。

編集後記 日文版22号をお届けします。今号の編 集にあたっては今年1月16日の台湾総統・立法院議 員選挙、それから丸五年を迎えた東日本大震災を 意識しました。台湾総選挙については若い書き手 が三者三様の記事を寄せてくれましたが、いずれ も今回の結果が台湾の将来にとどまらず、今後の 東アジア情勢に大きな影響を及ぼすだろうという 視点をもって書かれていることに気付きます。ま た、東日本大震災、特に福島第一原発事故に関し ては、鹿目久美さんや上前昌子さんの記事にもあ るように、5年が経ってその記憶が薄れているばか りか、「なかったこと」にしようという意志と力 が様々に働いていることを、台湾にいても感じま す。このニューズレターが少しでも多くの人に届 き、今 の 状 況 に つ い て、こ れ で い い の か 考 え る きっかけとなるよう、願ってやみません。(大西 仁)

しかしそれは権力そのものの否定ではなく、「台 湾という新しい国」の新権力の成立にしかならない のではないか、というように思えます。でなければ 何がその各々「台湾人」を結びつけ(得る)ので しょうか? 結局、その請願書に著名することがで きませんでした。これは当事者に任せようと、自分 がまだどこの何の、どのような範囲に及ぶ「事」の 当事者であるか摸索中のまま、見守る他ありません でした。いや、これは索して見つけるようなもので はなく、これから作って行かねばならないものだと いう風に、意識が傾きはじめているかもしれませ ん。この3ヶ月あまり、そんな私に模索・創作の場 を提供してくださったEAPHETに、心から感謝して います。まだ咀嚼しきれていないものの、色んなヒ ントが得られたように思います。(了) 14


映画「鬼郷」を見た

映画「鬼郷」を見た

古川ちかし

2016年4月2日、大邱で李容洙ハルモニに連れられ て映画「鬼郷」を見ました。上映会の前にハルモニ の挨拶があり、歌や踊りの公演があり、上映会と なった。私がこの場に居合わせた事情については別 のところに書くことにしますが、映画の三分の一ほ どまで見たところである感覚に捕らえられてしまい ました。それは台湾で2011年に公開された映画「セ デック・バレ」との性格の類似性というか、親和性 というか、こういうのどこかで見たぞ…何かそんな 感覚でした。 セデック・バレと鬼郷 「鬼郷」のチョ監督は、「セデック・バレ」の魏 監督と、少し年の差はありますが両者とも1970年前 後の生まれで、エンターテインメント志向の映画と

いっては語弊があるのかもしれませんが、そういう のを撮ってきた、中堅の監督さんたちです。 まずセデック・バレですが、魏監督が少年時代に 読んだ漫画「霧社事件」に端を発しているとご本人

は言っていたと思いますが、歴史物語をアクション巨編の題材にした 作品です。霧社事件という題材は、日本や国民党によって散々使われ てきた、いわば手垢だらけの題材で、映像化も初めてではなく、台湾 の公共放送も連続TV映画として製作・公開されたことがあります。こ れを若い監督がどういう風に語るのか、原住民部落の間でも公開まで いろいろな心配や期待が交錯しました。 心配というのは、漢人の視点から原住民を描いた従来の語りが、原 住民の視点から見ればことごとく歪んだものであったことに起因しま す。モナ・ルダオの末裔部落の人々は魏監督に「くれぐれも私たちの ガヤ(ここでは簡単に「文化」と訳しておきます)を間違って描かな いでくれ」と再三要求を出しました。期待のほうは、若い監督だけ に、従来の語りを打ち破って新たな語りを生み出してくれるのではな いか、そしてそれが原住民の復権と自治運動の道を開いてくれるので はないかという期待だったのだろうと思います。原住民の観光産業に プラスになるという期待も、もちろんあったと思います。 さて、どういう映画ができたかというと、漫画「霧社事件」や、事 件を幼少のときに経験した人が昔書いた本、そのほかの歴史書に描か

れていて相対的によく知られている事件のさまざま なエピソードを英雄「モナ・ルダオ」に強引に絡 め、アクション場面を中心に置いた作品が出来上が りました。辛口に言うと、ちょっと本を読んだりし た人なら知っているあの話、この話を、どちらかと いうと強引につなぎ合わせた無理をアクション場面 で埋めたとも言えると思います。 アニメ映画「ポカホンタス」を公開したときに先 住民団体から「このようなウソの歴史を子供たちに 教えるつもりか!」と追求され、「私たちは娯楽映 画を作ったのであり歴史映画を作ったのではありま せん」と答えたディズニー社と同じように、魏監督 も原住民からの抗議に対して同じような答えを使い ました。 慰安婦問題に関して証言記録やドキュメンタリー (被害の記録というより尊厳の回復と謝罪を求める 運動の記録が主ですが)ではなく、ドラマ映画に

作ったのは尹静慕の『母・従軍慰安婦:かあさんは 「朝鮮ピー」と呼ばれた』を映画化した1993年製作 の「従軍慰安婦」(チ・ヨンホ監督作品)がありま した。「鬼郷」は、そう考えると、22年ぶりの本格 ドラマ化で、姜日出ハルモニの証言に「基づいてい る」そうです。「セデック・バレ」との共通性のひ とつは、実話に基づいているという前提にもかかわ らず、人口に膾炙している有名なエピソードを強引 に主人公のストーリーに絡めて行く、その作り方で した。一箇所の慰安所での経験に、一般に語られて いるすべてのエピソードを無理やりに詰め込もうと する鬼郷は、セデック・バレと似た印象を与えま す。鬼郷もセデック・バレも、人間ドラマ部分は表 層的で型に嵌り、アクション(暴力)中心に進行し ていきます。 鬼郷を一緒に見た人が「ハルモニたちにとって は、映画の内容よりも、こういう映画が作られて多 15


映画「鬼郷」を見た くの人の関心をひきつけることがまず一番大事なの かもしれない」と感想を述べていました。そうだと すれば、これも「セデック・バレ」との共通点にな ります。セデック(民族)がどのような人々として 描かれるか、彼らの文化がどのように語られるか、 ということよりも、映画を通してセデックの存在が 世に知られ、認知されることのほうが大事だと言う 原住民の人たちを私も何人か知っています。が、し かし、「あんなものは絶対信じてはだめだ、平地人 がまた山の人を利用して金儲けをしただけだ」と いった批判も少なからず耳にしています。もちろ ん、現実の人々を題材にドラマ(フィクション)を 作るのですから、どのように作ったとしてもこうし た批判はどこからかは出てくるのでしょう。

暴力を描きながらも暴力がなぜどのように発生して くるのかについて何も語られていないことへの驚き でした。巨大な暴力を振るう人間たちは特別な人間 たちでも、生まれながらの悪人でもないとハンナ・ アレントはかつて言いました。巨大な暴力は凡庸な 人々によって行われる、と。 鬼郷の日本兵はやくざのように話します。おそ らくチョ監督の中で《悪い日本人=やくざ》という 図式があって、彼らの話し方をシナリオに採用した のかもしれません。そこには、自分たちがしている こと(暴力)には絶対の論理があるのだ、正義があ るのだと言葉や振る舞いで示そうとする(偽装して ゆく)人間たちの姿がないのです。暴力を楽しむ か、命令だから仕方なくやるのか、そのどちらかし か出てこない。 そして、もう一方で限りなく徹底的に無力な被害 者としてしか描かれない少女たちというのが、私の

加害者と被害者と英雄 鬼郷を見終わって最初の感想は、実は、ここまで

第二の違和感でした。それは、彼女たちには金がほ しかった人もいただろうとか、生き延びるためには 日本軍に積極的に取り入った人もいただろうとか、 そういうことに起因する違和感ではありません。そ うではなくて、たとえば同じように植民地支配の暴 力によって17歳で獄死したリュ・グァンスンが「能 動的に日本と戦った独立の英雄」として描かれるの に対して、慰安婦にされた少女たちはただただ無力 な被害者として描かれるという、言挙げのしかたの 二極化に対する違和感だったのだろうと思います。 慰安婦にされた、あるいは軍隊から暴力を受けた 経験をもつ彼女たちは、今、私たちの前に「徹底的 に無力な被害者」として存在するのではありませ ん。彼女たちは自分たちの社会や国家とも、そして 日本の社会や国家とも戦い続けてきた人々として、 今、(私の個人的な記憶のなかでは昔から)私たち の前に存在します。犠牲者としてではなく生存者と

して存在します。映画は、しかし、犠牲者としか描 いていない。 その部分までをこの映画に要求するのは欲張りだ と言われるかもしれませんが、これは単なる「部 分」などではありません。今、慰安婦問題が問題と して存在する理由は、少なくとも金学順さん以来ハ ルモニたちによって続けられてきた運動にありま す。その姿を描こうとした映像作品はたくさんあり ますが、鬼郷ほどの注目も、観客動員数も得られて いません。 鬼郷は現在と過去とを往復するプロット構成に なっていますから、その現在の部分で「社会に受け 入れられて幸せに暮らすハルモニ」を置くかわり に、もっと現実に近いハルモニの姿を置くことも可 能だったんじゃないかと思います。その場合、もち ろん《無力な被害者》像が壊れて、大衆に受け入れ にくいハルモニの姿となってしまう可能性もありま

すし、南韓社会の今の問題にも触れざるを得なくな るでしょうが。 積極的に運動に参加せず、経験を隠してひっそり と暮らしてきただろうハルモニたちもいるというこ とを無視したり、非難したりする権利は誰にもあり ません。ただ、私たちが慰安婦にされた人々の経験 から学べることは、ウソと隠しと差別と暴力に対し て、個人としての年齢的な限界まで闘い続けること はできるのだということなのではないかと私は思う のです。 朴裕河さんはハルモニたちが挺対協(韓国挺身隊 問題対策協議会)に領有され、日本を糾弾したい挺 対協によって利用されたのではないかという趣旨の こ と を 書 い て い ま す(「帝 国 の 慰 安 婦」日 本 語 版)。挺対協が韓国内外の世論形成に重要な役割を 果たしてきたことは事実だと思いますが、朴裕河さ んが挺対協がハルモニたちの運動を領有して彼女た

ちから主体性を奪ったということを示唆しているの だとしたら、それには賛成できません。ハルモニた ちの闘いは、ほかの何であるよりもまず、二度と自 分たちの主体性を奪われないための闘いなのだと思 うからです。軍隊にも政府にも世の中の流れにも、 二度と騙されないぞという気概がハルモニたちを支 えているのだと、私は感じています。 ハルモニたちは「徹底的に無力な被害者」にも 「徹底的に反抗する民族の英雄」にもなりたいとは 思っていないのではないでしょうか。そういうこと を「ハルモニたちは」と一般化して語るのは原理的 に間違っているのは承知のうえで、あくまでも私の 個人的な感想として書き留めておきます。(了)

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