Eaphet Newsletter No. 26 Nihongo

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台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 東アジア歴史資源交流協会ニューズレター East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET)

No.26 日文版 2019/4/1 eaphet@gmail.com Tel/Fax:886-4-2251-9593 台灣台中市西屯區黎明路二段972巷40號

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特集:フィリピン・スタディ・ツアー2018 女性と先住民と国家

<目次> 特集:フィリピン・スタ ディ・ツアー 2018 女性 と先住民と国家

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ツアー日程の概要 阿川 p2-3 ガブリエラに聞くフィ リピン慰安婦像撤去の 顛末 阿川 p4-7 ベティー・リスティーノ 氏に聞く コルディ エーラ先住民族運動の 現在 阿川 p7-12 Eaphet フィリピン 2018 参加記 武藤泰子 p13-19

Eaphet主催で、2018年7月7日から 15日まで、メトロ・マニラ~ブラカ ン~バギオ~キブンガン~イトゴン ~マニラをめぐり、女性と先住民と 国家というテーマを立てて参加者を 募集し、会員5人の参加を得てスタ ディ・ツアーを行いました。 女性と先住民と国家 「女性」というテーマは、この4 月にマニラの慰安婦像が不可解な撤 去処分に遭う事件があり、その事情 を現地の団体(マニラのガブリエラ)に 聞きたい、そういうことがあったので、 掲げました。 ガブリエラはフィリピンの女性運動の 最大の連合体です。マニラのガブリエラ

9 日間のフィリピンツ アーに参加して うきき p19-22 第 10 回会員大会

報告 p22

地洞

図書室開室

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辺野古、中文ウエッブサ イト立ち上げに Eaphet も協力!

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今年の反核行動

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バギオの食堂の女将さん

本部に何度か面会の依頼をメールで入れまし たが返事がなかったため、バギオで女性運動 にかかわっている友人からガブリエラのバギ オ支部の方を紹介してもらい、その方から本 部に一声かけてもらうことで、やっとアポが とれました。今回、マニラでガブリエラの 方に会って、慰安婦像撤去の顛末を聞くこ とができました。 「先住民」のほうは、前回のフィリピン ツアー「先住民と鉱山開発」(2014年3月29 日~4月5日)のときから継続したテーマで す。貨幣経済に飲み込まれ、開発され、抵 抗し、でも開発され、農地を奪われ、それ でも「売れる」専門性を求めて学校に行

Romeo Ranoco, Reuters/File

き、そういう人たちがまた「開発」を 引っ提げて自分の故郷を荒廃させてい く… そうした悪循環をなんとか減速さ せ、どこかで断ち切っていくための種々 の小さな努力というものを確認していく というのが、2014年のツアーから引き継 がれてきた目的です。主な訪問地は先回 からの続きでコルディエーラ地方です。 コルディエーラ・グリーン・ネットワー クさんのご協力を得て、部落巡りをしま した。 これまでのフィリピンツアーで、いつ もお世話になっているブラカンのNGO

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楽しそうなバギオの食堂の娘さん

「キボ―パガサ(Kibohpagasa) 」の高藤辰子 さんに、今年もまたお世話になりました。 バリワグの川沿いのスコーター地域が政府 によって撤去されたので「見せるものがな


いのよお」と言いながらお宅での食事に招待してく ださってフィリピン事情(特に子供たちのこと)を 教えてもらいました。ツアーで出会った多くの働く 女性たちとIPの方々、そして市民運動の方々に感 謝。【阿川記】

ツアー日程の概要

阿川

7/7 午後1:25 マニラ空港着。 タクシーでTimog Avenueのホテルまで移動。ホテ ルはGMAのスタジオのすぐ近くのRed Planet Timog Avenue。 この日の目標は「ホテルにたどり着くこと」と、 低く設定。結果オーライ。

歩き。

7/8 マニラ探訪というか、目標は町に慣れ、空気 に慣れることと、再び野心的な目標設定をして、町 に出た。電車でイントラムロスに向かう。観光、街

7/9 この日の目標はGabrielaの人と会って、慰安婦 像撤去の話を聞くことだ。10時にLila Pilipinaにて

Gabriela のJoan Salvador 氏、および同じくGabriela の人でLila Pilipinaのacting director (リチルダさんが後 述するように入院中のため)であるSharon氏と待ち 合わせた。Sharon氏は体調不良で来られなかった が、Joanさんと、もう一人、現在Lila Pilipinaで資料 のデジタル化をしているOscar Atadero氏がたまた ま居合わせたので、一緒に話した。 話は午前中で終えて、おふたりと一緒にTimog Avenueまで戻って昼食をご一緒した。Joan氏とはそ の 後 別 れ て、Oscar 氏 の 案 内 で、わ れ わ れ は ボ ニ ファシオ公園にある、フィリピンで最初に建てられ た慰安婦の記念碑を経由して、マニラ湾に面したロ ハス大通りの慰安婦像が建っていた場所(右写真) へと向かった。

は別に考えていた。去年までお世話になり、台湾で 連帯会議があったときに台北にもいらっしゃった Rechilda氏にまずメールで連絡するも返事がなく、 最後に電話した。それで入院中だということがわ かった。入院中でも電話に出てくれたリチルダ氏

この会合を設定するまでの経緯を記録のため少し 書く。もともとはLila Pilipina訪問と、Gabriela訪問と

は、それだったらガブリエラのSharonに言ったらい いと教えてくれた。Gabrielaには別途、アポをとる べくメールを入れていたが、こちらも返答なしが続 いていた。Sharon氏に連絡を取ろうにもどうしてい いかわからず、ぎりぎりになってバギオでイゴロー タ(イゴロットの女性形だと思う)という雑誌とい うか運動にかかわっている友人を思い出し、彼女に Gabrielaの人を知らないかと相談してみた。果たし てGabrielaのバギオ支部に知り合いがいるというの で紹介してくれた。Miah Jebulan氏だ。早速連絡を とってみると、Miah氏からマニラの本部に連絡を入 れてくれて、Joan Salvador 氏から返事をもらうこと ができた。ジョーン氏は、Lila PilipinaのSharon氏も 会ったらいいから、場所をLila Pilipinaにしましょ う、と提案してくれて、こちらとしてもちょうどい いということで、会合が設定された。ぎりぎりに なってすべてがうまくいった、という感じだ。

7/10 朝、高藤辰子さんがTimog Avenueまで車で迎 えにきてくれて、ご一緒にブラカンのお宅まで連れ て行ってくれた。昼食を食べながら、高藤さんのこ れまでの活動や、孤児たちのさまざまな事情などに ついて教えてもらった。帰りもTimog Avenueまで 送ってもらった。

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7/11 バギオに移動。マニラを10時発のバスで、4 時間強、午後にはバギオ着。タクシーでTalaに向か う。Talaは、Cordillera Green Network(CGN)が経 営しているゲストハウスだ。前回に続いて今回も、 山の鉱山開発ツアーでお世話になるNGOだ。今は 代表を降りられたそうだが、反町真理子氏は長年の 知古で、Eaphetの大事な協力者でもあり、今回も反 町氏のおかげでツアーが実現した。 夕方、その反町氏からレクチャー(右上写真)。 CGNの活動について、鉱山開発について、 Cordillera地方について。

7/13 先住民と鉱山開発二日目、Brgy. Loacan, Municiparity of Itogon 訪問。個人で小規模な金の採掘 をしている人たちのコミュニティを訪問して話を聞 き、採掘現場、製錬現場を見学した。(下写真)

7/12 先住民と鉱山開発初日、朝6時半、Brgy. Lubo, Municiparity of Kibungan (キブンガン町ルボ村、と訳 しておきます)訪問。かつての銅山が閉山した後、 農業を復活させようと努力している村だ。(右下写 真)

7/14 午前中はバギオの街(セッション通り)を散 策し、午後、ラ・トリニダードでBetty Listino氏と 会って、話を聞いた。Listino氏はResearch Mateとい うNGOを主宰し、コルディエーラの先住民運動の

一翼を担ってきた人だが、ここ一年ほど活動を休止 していた。そのわけや最近の先住民運動について聞 くために、ベンゲット州立大学キャンパスの向いに ある事務所にお邪魔した。実際には事務所ではなく 近くの喫茶店で話した。(下写真) 7/15

便で台湾に戻った。 ツアー協力機関、協力者 Lila Pilipina :Quezon City. ter /Gabriela

Lila Pilipina Resource Cen-

Gabriela National Office : Quezon City, Philippines Ms. Joan Salvador Kibohpagasa: Bulacan, Philippines

高藤辰子

Cordillela Green Network: Baguio City, Philippines 反町真理子 ResearchMate, Inc. BETTY C. LISTINO

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昼前にバギオを発ってマニラに向かい、夜の


ガブリエラに聞くフィリピン慰安婦像撤去の顛末

阿川

2018年7月10日、ケソン市内プロジェクト3のLila Pilipina Resource Centerで、ガブリエラの国際関係 担 当 の J.サ ル バ ド ー ル さ ん に、慰 安 婦 像(通 称 「ヴィーナス」)撤去のいきさつをうかがった。ガ ブリエラは、フィリピンの女性運動の連合体で、リ ラ・ピリピナもその一部というか、メンバーになっ ている。 以前から何度かガブリエラには連絡してきていた けれど、なかなか返事をもらえない状態が続いてい た。バギオで先住民の女性運動にかかわっている知 人に、ガブリエラのバギオ支部の人を紹介してもら い、その人からナショナル・オフィスに繋いでもら い、この日に会えることになった。本来はガブリエ ラとは別にリラ・ピリピナ(フィリピン慰安婦被害 アタデロ氏(左)とサルバドール氏(右)

者の会)も訪問する予定だったのだけれど、同施設 が今までの役割からリソースセンターへと機能を転 換しようとしているため、会合の場所としてリラ・ ピリピナを使わせてもらうということになった。

サ ル バ ド ー ル 氏、資 料 の デ ジ タ ル 化 担 当 の オ ス カー・アタデロ氏で話すことになった。 慰安婦像(通称「ヴィーナス」)は、ガブリエラ が過去9年間、フィリピン各所―特に元慰安所が設 置されていた場所すべてに―何らかの記念碑を設置 するべく運動してきて、昨年の12月8日にようやく マニラ市の許可を得て、フィリピン国立歴史委員会 によってマニラ湾に面したロハス大通りに設置され た。日本のネットにはフィリピン国立歴史委員会 (National Historical Commissions of the Philippines)が 中国系団体であるかのような間違った記述が散見さ れるが、日本でいえば文化庁だろうか、そういう国

リラ・ピリピナの近況をちょっと補足しておく と、Lola(被害者女性)たちが高齢となり施設に出 向いてくることもなくなり、この場所を慰安婦関係 資料のリソースセンターに替える作業が進行中。資 料のデジタル化を担当する方にも会って話を聞い た。ディレクターのリチルダさんさんが持病が悪化 して入院中で、わたしたちがおじゃましたときは、 リチルダさんの息子さんのお嫁さんという方がまず 対応してくれた。ガブリエラで、リラ・ピリピナを 担当しているシャロンさんにもこの日この場所で会 えるはずだったのだが、当日、彼女は体調を崩して 欠席。台湾から行ったEaphetのツアー一行5名と、

家機関だ。設置に協力した多くの団体の中には、 トゥーレ基金会(Tulay Foundation)やワッツィ基金 会(Wa Chi Foundation)のような中華系の団体も含 まれている。トゥーレの創始者は日本との闘いで拘 束され、慰安婦の実態も見てきた人だったそうだ。 ワッツィは、中華系フィリピン人の抗日ゲリラ組織 の 末 裔 た ち が 作 っ て い る 組 織 で、そ こ に 抗 日 性 (「反日」性?)を見ようとする人たちには見える のだろうが、だからヴィーナスが中国の反日プロパ ガンダの産物だという主張は、ガブリエラだけでな くヴィーナスの設置に資金と労力を出した多くの個 人や組織の思いを無視するものだ。トゥーレもワッ ツィもフィリピンの団体であり、近年の中国とフィ リピン間の緊張関係においても中国側に寄り添った 言動などしていない。

2017.12.8に建ったVenus

攻撃を開始した1945年12月8日(真珠湾攻撃の数時 間後)に由来している。 設置から1か月後の2018年1月9日、日本政府の閣 僚、野田聖子総務相がマラカニアン宮殿にドゥター テ大統領を訪問し、「こうした像が唐突にできるの は残念だ」と圧力をかけた。ドゥターテはメディア に対して「日本は像を撤去してくれとは言わなかっ た。ただ残念だと言ったにすぎない」と語り、像は

12月8日という日は、日本がフィリピンに対して 4


ターテ、トランプ首脳会談はいったい誰のおかげで できたのか、多額の経済援助が打ち切られてもいい のか、ということが『私とあなたが築いてきた過去 最高水準の日比関係』の意味だったのだろう。ドゥ ターテは「しっかりとした措置をとる」と返事し た、という。 河井克行氏のブログによると「大統領から『しっ かりとした措置を取る』との表明があった」旨の発 言をしたのですが、実を言えば、大統領との間では もっと突っ込んだやり取りがありました。今回の撤 去は道路工事のためと説明されていますが、情理に 篤いドゥテルテ大統領が、あの時の約束を守ってく れたものと私は信じております。」ふーむ、ドゥ ターテのことだからいろいろ罵詈雑言を吐いたのだ ろうか。

「憲法に保障され た被害者とその家 族の表現の自由 だ」な ど と 語 っ た。 その一週間後の1 月 17 日、フ ィ リ ピ ンを訪問した自民 党の河井克行総裁 外交特別補佐は『安倍首相のメッセージとして、 「日本はアジア女性基金を設立し、歴代首相も謝罪 の手紙を出した。私とあなたが築いてきた過去最高 水準の日比関係が悪化することがないようにご理解 とご支持を賜りたい」と伝え』たという(『』内は 河井克行氏のブログから引用)。(あるネット記事 は、このときのことを『河井は「日本側は激怒して いる」と伝えた』と報じている。)昨年11月のドゥ 野田総務相とドゥターテ

この一か月後くらい(正確な日時が不明)に、奇

怪な事件がおきた。ヴィー ナスにつけられていた「” Filipina Comfort Women” Statue Designed By: Jonus Rocesという表題を書いた 銅板に薬品のようなものが かけられ、字が読めないよ うにされた状態で発見され たのだ(右写真)。正面の 「日本占領下の1942~45年 に虐待を受けたフィリピン 人女性犠牲者の記憶」とい う碑文は、タガログ語で書 かれているためか損傷され ず、裏側のこのプレートが 傷つけられた。犯人にとっ て、銅板のほうが傷つけや

す か っ た の か、タ ガ ロ グ 語 は 読 め な かったのか。 「まにら新聞」によると「像周辺に は昨年12月から約1カ月間は警備員が 配置されていたが、最近はいなかった もよう。」と記している。また同新聞 はこれに続いて「日本大使館もこの件 については知らなかったと話してい る。」と書いているが、それは「まに ら新聞」がこの件について日本大使館 に取材したことを意味している。同新 聞は、大統領府、マニラ市にも同様の 取材をしコメントを求めているが、結 果はその誰もが「私がやったんじゃな い」と言った。

写真は「まにら新聞」より

所)に二台の重機が現れた。重機はDepartment of Public Works and Highways (DPWH) というフィリピ ン政府機関に属している。下水システムの改良工事 だと後に説明されたが、政府機関による夜になって の突然の工事に足を止めて問いただす人もいなかっ たらしい。(あとでメディアから、夜盗のような行 為と言われてDPWHは「夜になって交通量が減るの を待って工事した。ごく普通 の こ と だ。」と 釈 明 し て い る。) 右写真は、27日の夕暮れ、 数時間後に何が起きるか知ら ずに自分の作品の前で記念写 真をとった作者のジョナス・ ロセスさん(写真は「まにら 新聞」より)。

突然現れたDPWHの重機(写真 はまにら新聞より)

そうして4月27日金曜日の夜10時、ロハス大通り の海岸側の歩道(ヴィーナスが設置されている場 5


右写真は、私たちが行ったとき に「ここにあったのよ~」と近 くで屋台を出している女性が教 えてくれた場所。像があった場 所には下水の上げ蓋のようなも のが見える。まわりのタイルと 色が少し違うくらいしか、見分 ける方法はない。

が最大出資国となって 創設された世界銀行ア ジア版みたいなもの で、歴 代 総 裁 は 日 本 人 が 務 め て き た。本 部 は マ ニ ラ。こ の 総 会 の 前 に、準 備 会 合 の よ う な も の が 数 回 開 か れ、政 府 関 係 者、財 界 関 係 者 などが準備会合に参加 し て い る よ う だ。こ う した準備会合に参加し ている財界関係者の「インサイダー証言」をサルバ ドール氏が教えてくれた。

と、まあ、ここまでがメディ アでおいかけることができる 「顛末」なのだが、ガブリエラ のサルバドール氏、アタデロ氏 への取材の中で、少し裏側が見えてきたので、その 話を以下に記しておく。

このインサイダー証言によると、ヴィーナス像撤 去と新たなフィリピンへの経済支援とが抱き合わせ

5月の初めにアジア開発銀行の年次総会が行われ た。アジア開発銀行(ADB)は1966年に日本と米国

に さ れ た、と い う。 具体的な金額は650億 ペ ソ だ。た だ し、像 は ADB 総 会 ま で に 撤 去してもらわない と、援 助 は む ず か し い、と。こ れ が 真 実 アジア開発銀行年次総会で かどうか私たちには確 挨拶する中尾総裁 か め る 術 が な い が、 フィリピン国内でもこの話はささやかれていて、 援助と引き換えに国民のプライドを売ったドゥ ターテという批判も聞かれるようになっているそ うだ。

ボニファシオ公園内の慰安婦記念碑

私たちも知らなかったので、アタデロ氏に案内して もらった。

ヴィーナス像は、フィリピンに建てられた最初 の慰安婦記念碑ではない。最初のものは2003年に ボニファシオ公園に建てられた記念碑だそうだ。

碑は、公園の隅にひっそりと建っていた。アタデ ロ氏も、あれ、どこだっけ、と探し回らければなら

なかった。それほどに目立たない。だから生き延び てきた、のかもしれない。碑文にはこうある。

とき、約1000人の女性たちが victims of military sexual slavery by the 大日本帝国軍によって Japanese Imperial Army. 性奴隷被害者にされた。

In memory of the victims of military sexual 第二次大戦時の軍による性奴隷 slavery during the second world war 被害者に捧ぐ

All over the country, in these “comfort フィリピン全土の慰安所その他の stations” or sites were the institutional 場所で日本軍による強姦と and organized rape and abuse of women by 女性への虐待が、制度的、 the Japanese military were committed. 組織的に行われた。

This historical marker is being offered in この記念碑は第二次大戦時に memory of the Filipina victims of Japanese 日本軍による性奴隷の被害を受けた military sexual slavery during the second world war. フィリピン人犠牲者を忘れないために 建てられた。

Through this historical marker, a memorialization この記念碑を通して of the history of the women victims これらの被害女性たちを記憶し

During the Japanese occupation of the フィリピンが日本に占領された Philippines, approximately 1,000 women became

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ロハス大通りのヴィーナス像は、日本大使館にも遠 くなく、ADBにもまあ遠くなく、観光地の真ん中 だったので狙い撃ちされたのかもしれない。

will be achieved in the hope that this この悲劇が二度と繰り返されることなく、 tragedy will never happen again and that 軍の性奴隷の被害に会う henceforth, no generation of Filipino victims フィリピン人が二度と will never be memorialized as victims of 記念されることがないことを military sexual slavery. 祈る。

フィリピンには日本軍や神風特攻隊を記念する碑 は400ほどあるのに、フィリピン女性の性的被害に ついて記憶しようとする碑はこれ一つしかない。

Unveiled by his honor mayor Jose L. Atienza Jr. 2003年4月22日 市長 on this 22nd day of April 2003 ホセ・アティエンサ (原文は英語、日本語は筆者の適当な訳文なので そのつもりで見てください) ・・・

ベティー・リスティーノ氏に聞く

コルディエーラ先住民族運動の現在

2018年7月14日、ラ・トリニダード町、ベンゲッ ト州立大学から通りを挟んだカフェで、先住民族カ ンカナイの出身であるベティー・リスティーノ氏か ら彼女が子供の時から見聞きし、大人になってから ずっと取り組んできたコルディエーラ地域における 先住民族の権利運動、人権運動について話を聞い た。 リスティーノ氏は2006年にベンゲットで氏が中心 と な っ て 立 ち 上 げ た NPO、リ サ ー チ メ イ ト の 代 表。最近三年間は、ベンゲットの野菜栽培にスイ ス、シンジェンタ社が売り込んでいる殺虫・除草剤 「グラモキソン」(致死性のパラコートを含有して いて、使用する農民にも被害が出ている)の害につ いて調査し、これを排除すべく行政に働きかけを行 うなど精力的に先住民コミュニティの福利のために 活動してきた。 コルディエーラ行政区

阿川

下記のインタビューで氏自身が語っているよう に、この調査啓蒙活動は、シンジェンタ社と癒着し た地方行政有力者の圧力によって政府系の援助を絶

たれ、政策に影響を 与える仕事ができな く な っ た。こ れ を きっかけに、リサー チメイトはここ数か 月、事実上の活動停 止に追い込まれた。 氏に、これまでの経 緯と、今後の見通し を聞くことが、今回 のインタビューの目 的だ。

の、特に先住民の歴史について、あまり背景知識 を持っていないと思いますので、そのあたりから まず、教えてください。 リスティーノ:今いる場所はコルディエーラ行政区 というんですが、コルディエーラという単位がで きたのはエドサ革命【阿川注:1986年のピープ ル・パワー革命、マルコス大統領を引き下ろし戒 厳を終わらせた】後に戒厳が終わり、憲法が改正 された後です。新しい憲法になって、先住民とい う概念が初めて認識されました。 阿川:それまでは、先住民はどのように扱われてい たんですか。

阿川:今日はお忙し いところありがとう ございます。多くの 読者はフィリピン

リスティーノ:スペインが支配した時代、スペイン 人はこの場所に金が出ることを知って、金を目的 にここにやってきました。レパント金鉱、ベン ゲット金鉱などですね。金の採掘は、それぞれの 7


土地を支配するクラン、あるいはトライブのチー フが認めなければできなかったのですが、スペイ ン人に採掘をさせるクランやトライブがあって、 自分たちも掘るけれどスペイン人にも掘らせてや る、そういう状態だったんです。先住民の人たち にとって、金はスペイン人にとっての価値とは違 いますから血眼になって守るということもない。 スペインも、このような関係に満足して―馬鹿 な先住民をだまして金を取り放題だったと認識し ていたのかもしれませんが―それ以上、例えば軍 を送り込んで先住民と戦うようなことを望まな かった。 当時の平地のフィリピン人たちは、山に住む 「首狩り」の習慣を持つ先住民と自分たちは違う のだ、あいつら野蛮人は自分たちの一部ではな い、そういう感じですね。スペイン人たちも、先 住民の(特にトライブの)戦闘力を恐れていたと

思います。 革 命【阿 川 注:スペイン からの独立戦 争】後、平 地 にはフィリピ ン人というナ ショナリズム が生まれまし た が、そ の 概 念の中にコル ディエーラの 先住民はもち ろん入ってい な か っ た し、 先住民の側も 革命について

も第一共和国の成立についても何の知識も、興味 もなかったと思います。

ベンゲットはクランが支配した地域で、イバロ イやカンカナイのクランは複数ありますが、有力 なクランが他のクランを支配下において、自分た ちの言語と文化を主流にしていきます。そうする と、例えばスペイン人は、有力なクランに働きか けて(賄賂を贈ったりして)仲良くなれば、その クランの力でベンゲットでの金の採掘が容易にな ります。でも、トライブが力を持っている地域で は、話はそう簡単にいきません。チーフを抱き込 むことができにくい。抱き込まれたチーフが不公 正、不平等なことをしたら、チーフの首が飛びま す。一つのトライブが「抱き込まれた」として も、ほかのトライブが抵抗します。それも力によ る抵抗ですから、面倒くさいことになります。

阿川:お話の中のクランとトライブというのは、ど う違うのですか。 リスティーノ:クランClanというのは、まあ、血縁 で作られた、家族を中心としたまとまりというか 集団です。トライブTribeは「戦士の集団」で、 戦士とその家族が集まって集団を運営する。チー フを選出して、チーフが公正、平等にことを行わ なければ解任してチーフを選びなおす、という感 じで、自分たちの法がはっきりあります。クラン が貧富や権力の差をもった集団なのに比べると、 トライブのほうが民主的な集団かもしれません が、こちらは戦闘的ですね。自分たちの領土を 守ったり、ときには広げるために武器をとって戦 う。

ミンダナオ

阿川: そうすると、フィリピンの先住民コミュニ ティはこの二つのタイプに分かれるわけですね。

ド)、イトゴンの金鉱を管理するためにバギオと いう大きな町を作りました。コミュニティをコン トロールするために有力なクランを抱き込みまし た。ブントックBuntocでは、しかし、米国はてこ ずりました。 ブントックはトライブなので、米国と戦闘状態 に入りました。米国は、北米で先住民のトライブ との交渉というか戦いには、ある程度の経験があ りましたから、てこずりはしても最後にはブン トックも支配下に入れました。 米国は学校を作り、スペインがしなかったキリ スト教の布教をし、主だった人たちを米国本土に 送って教育し、文化そのものをキリスト教化、米 国化していきます。私の祖父も完璧な英語を話し ました。あなたたちはフィリピンの平地人に差別 されていじめられてきただろうけれど、平地から あなたたちを守ってあげられるのはわれわれ米国

リスティーノ:基本的にはそう言えます。もちろん ミンダナオのモスリムたちは古くからサルタン制 Sultanateをもっていて、これはクランでもトライ ブでもない、もう一つの社会構造です。 スペインから見るとミンダナオのサルタン制 も、コルディエーラも、フィリピン人という概念 には入っていなかったんだと思います。両方とも スペインからの税の取り立てにあっていませんか ら。スペイン時代からこうした分断ははっきりし ていました。その意味では私たちはスペインには 「隷属」されられてはいなかったということで す。 阿川:それが、米国がやってきて大きく変わった? リスティーノ:米国は、1900年にスペイン時代とは 比較にならないような近代的な武器と機械を持っ て や っ て き ま し た。道 路 を 作 り(ケ ノ ン ロ ー 8


人だけですよ、と洗脳していった。 当時の米国人の日記とか残ってるのを見ると、 コルディエーラは彼らにとって第二のカリフォル ニアだったことが分かります。

います。台湾の漢人たちはすでに中国文化に染 まっていてうまく日本人化しにくい。山の人たち は子供のような白紙状態なので、日本人化しやす い、と。

阿川:その辺の話は2011年にベティさんから聞い て、Eaphetのニューズレターに紹介したことがあ ります。「アメリカは私たちの心を飼いならし た」というタイトルで。そこで私、こう書いてま す。「バランガイ・キャプテンになったり、役職 を与えられるとなぜかカウボーイ・ハットに皮の チョッキ、ピカピカのカウボーイ・ブーツにいそ いそと身を包むイゴロットの男達(左写真)に は、フィリピンのほかの地域の人々とは違ったア メリカ合衆国との関係を誇示する雰囲気さえあ る。」と。 これは、台湾の山で、日本人がしたことと似て

リスティーノ:そうなんですね。日本と言えば、バ ギオもトリニダードも中国移民もいましたが、日 本移民の人口がけっこうあったんです。さっきの ケノン・ロードを作ったのも主に日本人労働者で したし。こうした移民がこの地の農業に貢献した と言われています。米国人が好みそうな野菜の栽 培は日本人から学んだそうです。

う米軍基地がありましたが、軍事基地というより 軍隊の保養地みたいなものですから、軍事的な意 味があったというよりも、鉱物開発の拠点として のバギオをたたくのが目的で、日本の狙いは銅鉱 山にあったのだろうと思います。実際、占領した ら真っ先に三井鉱山がレパントに入ってきました 【阿川注:マンカヤン鉱山】。

有料となり、病院も教育も金(現金)が必要にな り住民への負担が増していくにつれて、なぜ自分 たちだけがこんなに不平等な搾取を受けるのか、 疑問というか不満が出はじめます。 平地の人たちの利益が優先され、先住民は存在 しないかのような扱いを受けました。Indigenous という言葉は、植物などに使われましたが、人間 には使われませんでした。私たちはPagans, Savages, Nativesなどと呼ばれました。

リスティーノ:日本は1941年12月8日、真珠湾を攻 撃して数時間後にバギオを爆撃しています。ここ からフィリピンが第二次世界大戦の戦闘を経験し ていくんですが、なぜ日本が最初にバギオを攻撃 したのか。バギオにはキャンプ・ジョンヘイとい

戦後、米国がフィリピンの独立を、多くの経済 協定、軍事協定と引き換えにしぶしぶ認めました が、その協定の中に、資源の採掘権が含まれてい ました。木材の伐採権なんかも。第三共和国は先 住民にそういう負担を負わせて成立したわけで、 根本的な不平等、不公正がありました。最初のう ち、先住民はあまりそのことに気づかなかったの ですが、フィリピン独立後に徐々に暮らしが困窮 していって、米国時代にあった社会福祉はすべて

阿川:イゴロット(Igorot)という呼び方は? リスティーノ:イゴロットは、山の人、というよう な意味でスペイン時代の前から使われていた蔑称 で、これも一般的に使われていました。今は私た ち自身がこの呼称を自分から名乗ってその意味を 変えてきていますが。 阿川:どこまで来ましたっけ…60年代くらいの話を

間で盛んになって、その学生たちがコルディエー ラを含めた農村地帯、山岳地帯に行って貧しい 人々に立ち上がるように説得していった。貧しい リスティーノ:そうですね。1972年にフィリピンは 人たちほど、このイデオロギーに染まるのが早 戒厳しました。この時期、フィリピンは経済成長 かったと思います。IMF、世界銀行、グローバル 時代に入り、電力供給のため山 企業の傀儡となって山を搾取 の水力発電も盛んになって、ダ するフィリピン政府に対抗で ムが次々に建設されていきまし きるのは、マルクス主義者だ た。先住民の集落が立ち退かさ けで、貧しい人たちはマルク れ、水 没 し て い き ま し た。 ス主義の側にしか立てない、 IMF、世界銀行が入ってきて、 という感じだったと思いま いわゆるグローバリズムの影響 す。第 三 の 道 が 見 え ず、こ の をもろにかぶった時期です。山 対立構図しか見えない時代 の人の抵抗運動が始まるのは、 だったと思います。 この辺からです。 マルクス主義者たち=左 この時期にマニラ都市部を中 翼は政府から見れば反逆者、 心にマルクス主義が学生たちの 反乱者ですから、彼らも彼ら マルコス、戒厳令を発す していましたね。そのあと、マルコス時代に入り ますね。

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の活動も非合法化されます。 見つかれば捕まって、戒厳下 ですから拷問され処刑される 可能性が高い。自然とマルク ス主義者たちは武装して潜伏 し、政府に対抗することにな ります。山に入ってきた人た ちも、武装してやってきて、 貧しい人たちに武装抵抗を呼 びかけました。

山に入ってきた武装集団

ていくわけですが、運動を最 初に組織したのはカトリック 教会でした。 阿川:それまでも教会は先住 民の側に立って活動してきて いたんですか。 リスティーノ:教会が社会正 義のために政府と対抗すると いう姿勢を示したのは、70年 代からだと思います。バチカ ンの態度が変わり【阿川注: 1950年代からラテン・アメリカ聖公会が始めた 「解放の神学」―こう名付けられたのは1971年と 言われるが―運動が、62年~65年の第二バチカン 公会議で市民権を得て―その後、バチカンは腰が 引けるのだが―フィリピンにも広がった。フィリ

山の人たちの抵抗のメルク マークとなったのがチコ川ダ ム計画【阿川注:Chico River Dam Project】でし た。1974年、カリンガに政府の役人がやってきて ダムを作る計画を開示しました。いきなり、とん でもないことで、これに対する抵抗運動が始まっ

ピンでは「闘争の神学:Theology of Struggle」と も称された。】、それがコルディエーラに波及し てきたのではないでしょうか。教会は、ダム建設 への反対運動を、これまでは団結することのな かった複数のトライブの結束へと作り上げていき ました。

ない。平和的な方法には当然ですが限界が出てき ます。それでも教会とともに闘おうという人たち と、左翼の武装闘争に接近していく人たちとが出 てきます。政府は軍隊を投入して無理やりにダム 建設を進めてきますから、これに抵抗しようとす る人たちはそれこそ使えるものは何でも使い、で きることはすべてやるしかなかった。神父の中に も武器を取って戦おうという人たちが出てきまし た。地方警察の警察官の中にも、地元民の側に 立って闘う人たちが出てきます。

この運動の中で「土地は命だ」という標語とい うか宣言が出てきました。この言葉が、それまで ばらばらだったトライブやクラン、先住民族の中 に共通の守るべきものを指し示し、連帯への基礎 を作ったんだと思います。

左翼にとっては、これはイデオロギーの闘いで 政府を打倒するまで終わらない闘い、でも、カリ ンガの人たちにとっては自分たちの土地を守る闘 い。本来は違う目的をもった人たちが、政府に対 する武装闘争という戦略面だけで手を結んだ状態 は、やはり何か「ねじれた」状態だと思います。

阿川:そのときマルクス主義者たちは? リスティーノ:そう、そこが問題だったんです。教 会は武装闘争を支持していませんから、抵抗の方 法も限られています。マラカニアンで交渉して合 意に達したとしても、政府側はそんな合意を守ら マルコスは、軍を山に投入します。女たちは工 事車両や軍の通過を阻止しようと、道路に裸に なって横たわった。それでも政府を止めることが できず、教会の平和的な交渉も功を奏さず、左翼 の武装闘争によっても止められない、そういう風 になったとき、反対運動の中心を担っていたチー フが政府軍によって惨殺される事件がおきます。 【阿川注:カリンガのButbutトライブのチーフ、 Macli-ing Dulag の 暗 殺、1980 年 4 月 24 日】こ れ を きっかけに大規模な武装蜂起が起き、数年後に政 府はこの計画を取り下げることになります。

闘関係に手ごたえを感じたでしょうし…。でも一 番大事なのは、コルディエーラ住民が連帯の意識 を持ったことでしょうか。 リスティーノ:カリンガでは、自分たちが土地を 守ったことで、ある種の連帯への手ごたえをもっ たと思います。でも、カリンガの闘いが、コル

阿川:そうすると、IMF、世界銀行、そしてフィリ ピン政府に対して闘いを挑んで勝利したわけだけ れど、この勝利は誰の功績ということになるの か、複雑な感じですね。左翼は自分たちが勝利し たと思ったのでしょうし、教会もまた住民との共

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話は変わっていきますよね。

ディエーラ全体に連帯意識をもたらしたかと言え ば、そうではないかもしれません。それよりも、 この事件は、政府に対する決定的な不信感を醸造 して、政府には抵抗するしかない、抵抗するには 武装するしかないという共通認識を作り出したと 思います。

リスティーノ:マルコスがいなくなった後、世界的 にも先住民の権利というのが認められていきまし たから、新しい時代に入ったことは確かです。コ ルディエーラも行政区として認められました。さ て、それで、自分たちの土地、資源をどう使うか ということに関して自分たちで決定できるように なったかと言うと、そうではありませんでした。 自己決定を行い、土地と資源を自分たちのために 使う、そのためには自治が必要ですが、政府は行 政区から自治区になるには①住民投票と、②武装 解除が必要だと要求してきました。

コルディエーラでの先住民と左翼の蜜月状態― 武装闘争時代は、1986年【阿川注:戒厳解除】ま で続きました。私の家族も、逃亡中の反乱軍をか くまいました―銃をもった人たちが私の家にも居 候して、私は彼らと一緒に育ったわけです。それ が日常だった。政府には抵抗するしかない、抵抗 するには武装するしかない、こういう結びつきを 頭から追い出すのはむずかしいのです。

阿川:コルディエーラ行政区【1987年】ができるに あたって、コルディエーラ人民解放軍【CPLA】 と当時のフィリピン政府の間で和平合意【データ 山和平合意Mount Data Peace Accord、1986】がさ

阿川:でもマルコスは追われ、戒厳が解除になり、 「民主的」なアキノ政権が誕生したわけだから、

れていますよね。そのときには、武装解除は要求 されていないのに、自治区になりたいと言った ら、それを条件に課されたわけですね。

住民はコルディエーラの歴史を知らず、祖先が土 地を守るために血を流してきたことも知らず、ど うでもいいという態度をとることが多い。それが 問題だと思います。

リスティーノ:教会はもちろん武装解除に賛成して いますが、左翼勢力は絶対に首を縦に振りませ ん。政府は嘘をつく、信用できない、これまでも 自分たちの土地を守るために武器が必要だった、 武器を手放したらどう戦えるというのだ、という わけです。

阿川:1987年に憲法が変わって、先住民運動には大 きな影響があったと思いますが、具体的にはどう でしょうか。 リスティーノ:新憲法下に確認された四つの原則に 沿って、1997年に原住民基本法が作られました。 四 つ の 原 則 と い う の は、① 祖 先 の 土 地 (ancestors’ domain)に対する権利、②社会正義 (先 住 民 の 慣 習 法 な ど)、③ 自 己 決 定 権(free prior informed consentに基づく)、④文化保持の 権 利、で す。先 住 民 族 に 関 す る 国 家 委 員 会 【National Commission on Indigenous Peoples】が これら四つの原則が守られるよう監視する役目を

住民投票は今まで二回行いました【阿川注: 1990年と1997年】が、自治賛成派は負けました。 台湾も同じかと思いますが、自治というのは賭け で、もし失敗すれば経済的な自殺行為です。フィ リピンという国家の中にいて、ある程度の自由を 得ながらも、経済的に国家とつながっているほう が安定していて安心だ、というわけです。多くの

ると感じますか。

負うとされました。 ここから、先住民族権利闘争は、法的闘争、法 廷闘争化していきました。というのは、既存の法 律の中に、原住民基本法と矛盾するものがあり、 それらを無効化あるいは改定せずに先住民族の権 利を守ることができないからです。

リスティーノ:国連が「先住民族の権利に関する国 際連合宣言宣言」を出した、あのときの委員長は コルディエーラ出身の人ですよ。マウンテン・プ ロビンスのカンカナイの人。それなのに、自分た ちの本拠地で、住民の意見をまとめて政府と対抗 することができないのは本当に不思議です。今は 運動がばらばらになっている【fragmented】と思 います。

阿川:例えば既存のどんな法律が対象になります か。 リスティーノ:マルコス時代に作られた「18度以上 の傾斜地は政府のもの」という変な法律や、鉱山 会社を守る法律など、基本法の精神に矛盾する法 律が今でもたくさん生きていますよ。

今、運動は、何か大きく三つに分かれてしまっ ているように思います。武装左翼はもう遺物なの で問題にしたくありませんが、思想的な左翼は完 全な自治を要求しています。どのような政権とも 基本的には協力しない、という原則を持っていま す。そうすると、政府から見ると思想的な左翼は 敵対勢力ですね。法を犯さない限り、表立って迫

阿川:どこかで聞いたような話ですね。台湾にも同 じ状況があります。現在、先住民族の権利闘争 は、過去に比べて団結というか連帯が強まってい

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害はできないですが、なんだかんだと理由をつけ て迫害する対象です。国連の先住民委員会に出て る人たちの中にさえ、フィリピン政府からは左翼 扱いされている人たちがいます。彼らは、うっか りフィリピンに戻れませんよ。イデオロギー先行 型の左翼、私はハードコアと呼んでいるのです が、これが一つの勢力です。

的には縮小、はく奪していく方向に働いているか もしれないけれど、あまり気にしない。他に現実 的な方法があるなら教えてくれ、と開き直るのが 妥協派だと思います。 最後に、力は大きくありませんが、独立派―政 府からも、左翼思想からも独立した人たちという のがいると思います。私もそうした人たちの一人 でありたいと思っていますが、左翼ハードコアの ような資金源を持たず、妥協派のように政府や企 業からの援助も期待できない状態で、苦労してい ます。

二つ目の勢力は、妥協派。社会正義を追求しつ つ、政府と妥協して、協力していこうという勢力 です。国際的なNGOなどが、この典型です。社 会正義を作り出していくためには、目の前の人権 問題を一つ一つ何とかしていく必要があり、その ためには政治権力や大企業の金や、それらが支配 する権力構造、メディア力、動員力などを利用し ていく。利用し、利用される関係の中で、実は現 存の権力構造を強化して、先住民族の権利を最終

阿川:リスティーノさんたちが出されたコルディ エーラにおける殺虫剤問題に関する調査、あの仕 事は行政からの援助があったのだと思っていまし たが、そうじゃないんですか。 リスティーノ:少し複雑なので説明させてくださ

い。先住民族権利運動のメインストリームの人 たちはほとんど興味を示してくれないのです が、コルディエーラの農業地帯で致死性の成分 を含んだ殺虫剤が、超国家的企業によって売り 込まれ、使われています。私の兄は、この殺虫 剤で命を落としました。私たちはベンゲット州 立大学の友人と一緒に3年間、この問題を調査 し、現 地 へ 行 っ て デ ー タ を 集 め、報 告 書 を 作 り、こうした殺虫剤を禁止する条例の提案など を行いました。はい、最初は地方行政からの委 託を取り付け、資金援助ももらいました。が、 報告書が形になるにしたがって、殺虫剤会社と 癒着した(金が流れていたのだと思います)町 長や役人によって、委託が取り消され、援助も 切られました。その時点で、一緒にやってきた 州立大学の仲間は手を引きました。行政や政府 とつながるパイプを切られると、調査結果を地

元コミュニティと共有して、実際に農業を変え ていくという作業は非常に困難なものになりま す。禁止条例の制定などを呼びかけるにも、パ イプは必要です。現実に農民が被害にあって、 今でも死んでいく人がいるのに、何もできない という感じで、今、とても苦しいです。 でも、道はあるはずだと思います。コミュニ ティを回って、殺虫剤の害について知ってもら うことも必要だし、今、農業を学んでいる学生 たちにも知ってもらわなくてはならないし、私 たちの仕事はそういう意味での教育にあるのか もしれません。 阿川:リスティーノさんたちは、コルディエーラの 歴史について調べて、それを教育の資源として というか、教材にして学校で使ってもらうとい う仕事を以前もしてましたよね。ただ、教育現

場 に そ う い う 教 材 を 届 け た り、使 っ て も らったり、行って話をしようとすると、や はり地方行政との協力関係が必要ですよ ね。 リスティーノ:そのほうが早いですよ、確か に。独立派は、行政との、あるいは政府と の協力を拒否してはいません。協力できる ところはするんです。利用し、利用される 関係ではないことが重要だと思います。 ・・・・・ 以上、ベティ・リスティーノ氏に聞いたこと を、できるだけ彼女の言葉に沿って書いたつも りだが、話は英語で行われ、すぐ下の大通りを 車が行き来する騒音の中での聞き取りだったの で、細部を阿川の勝手な解釈で埋めてしまった部分 もある。リスティーノ氏の本意と食い違う部分があ

リスティーノ氏(左から3番目)と食卓を囲むツアー一行

るかもしれない。この文章の責任はリスティーノ氏 にではなく、阿川にある。 12


Eaphetフィリピン2018参加記

第三日 元慰安婦の支 援団体であるリ ラ・ピ ィ リ ピ ー ナLila Pilipinaを訪 ね た。韓 国、台 湾、日 本 で 慰 安 婦関連の施設や 会合に行くたびに、これでいいのかなあ、と残念な 気持ちになることが多かったここ数年だったが、今 回のこのリラ・ピィリピーナでは、とても力強い印 象を受けた。 10時の約束だったが、マニラの交通を心配して余 裕を持ってホテルを出発したところ、1時間以上前 に到着した。中に入れてもらって、置かれていた写

武藤泰子

第一日 セブ航空。 マニラの第一印象は軍隊基地、交通、雑多な街。 でも思ったのとなんか違うかなあ。 第二日 イントラムーロス。 行き方をホテルの人に聞く。外国人にはおすすめし ないよ。 インターンの人が多い。 ホセ・リサール…革命…。 バギオへのバスチケットを買いに徒歩でホテルから バスターミナルへ。歩道橋のところで親子で寝てい る。

つであるという。

真やら資料やらを見た。 お話をしてくださったのは Gabriela の Joan さ ん と Oscar さ ん。Gabrielaとリラ・ピィリピー ナの関係を聞くと、Gabrielaはい ろいろな団体の連合組織で、リ ラ・ピィリピーナはその中の一

4月に撤去された慰安婦像 について。どこの命令で慰安 婦 像が撤去され たのかは不 明。国なのか地方なのかそれ も分からない。撤去された時

参考写真

に使われた重機はマニラ市のも ので、表向きの理由は下水道を 通すのが目的だと言う。撤去前に日本のフィリピン との援助に関する会合があり、その中で日本政府が 撤去と引き換えに650億ペソの支援を申し出たとい う話もある。4月の撤去は5月に行われたアジア開発 銀行の会議に間に合わせるような感じだったとも読 み取れるそうだ。撤去された慰安婦像は今は、制作 したアーティストのところにあるが、修理が必要な 状態だという話だった。

安婦像は公的なみんなが見ら れ るような場所 に設置すべ く、今場所をさがしているところ。学校などいくつ か申し出てくれているところもあるが、みんなに開 かれた場所にしたいというのが希望のようだ。 私が最初に書いた「力強い印象」。力強い印象を 受けたのは、リラ・ピィリピーナが組織として何を 行っていくのかという明確な目標がはっきり伝わっ てきたからだ。その一つが若い世代に慰安婦の記憶 を伝えていくこと。フィリピン議会に対する慰安婦 決議の要求や慰安婦像の復帰の署名活動、慰安婦像 はフィリピンの元慰安所だったところに作っていき たいそうだ。歴史教科書やカリキュラムに慰安婦を 書く運動も行ってきた。もう一つの目標は慰安婦だ けでなく、幅広く国家暴力、軍隊、外国の軍隊など の子どもや女性に対する暴力への抵抗だ。ローラ (元慰安婦)たちの要求は「自分たちの名誉の回

「誰も傷つけない、そこにあるだけなのに、なぜ 撤去されなければならないのか」とJoanさん。8月 にローラ 1 たちに見せようと思っていたがそれもで きなくなった。私は知らなかったのだが、フィリピ ンには「神風モニュメント」というのがあって、そ れは州政府から許可がおりて設置されている。それ を目当てに観光客が結構来ることも理由らしい。慰 13


復」と「同じことがおきないようにすること」、 この2つを重要な問題だと考えている。2つ目の目 標はこの「同じことが起きないようにすること」 に 関 わる もの で、現 在進 行 形の 大き な 問題 であ る。 「新人民軍2」に協力していると告発され撃たれ た小学校2年の女の子の話は特に衝撃的だったが、 鉱山開発の話もあった。政府は鉱山開発に外資が 入ってほしいと思っている。しかし外資が入ると 外国の軍が活動することになるという。恐らく鉱 山 開 発へ の抵 抗 を抑 える た めな のだ ろ う。その 他、メディアで報道されない軍隊の活動やフィリ ピン憲法では許されていない外国の軍隊の活動な ど 問 題は 様々 あ るそ うだ。今 回 のフ ィ リピ ンツ アーのテーマは、「慰安婦像撤去問題とコルディ エーラ地方の鉱山開発問題について」だったが、 この2つの接点が示されたなと思った。

慰安婦問題について話を戻そう。興味を持った話 はPAMANAという慰安婦の家族の組織について。 PAMANAはタガログ語でheritageの意味だそうだ。 家族を組織化した 3 目的を聞くと、元慰安婦の人た ちの支援には家族の協力が必要で、その家族に対す る教育や支援が必要だと考えたからだという答え だった。なるほど、そのとおりだと思いつつ、そう いうことが必要だとは思っていなかったし、今まで そんなことをしているところがあるとは聞いたこと もなかった。PAMANAは独自に活動しているとい う。

いらしい。「何かを隠すと、そこから学ぶべきこと も学べない」と話すJoanさん。その通りだと思う。

る。」ローラたちの「同じことが起きないようにす ること」という願いを伝えていこうと強く感じるの は、現実的な危機感を持っていることの現れなのだ ろうか。とすれば、慰安婦問題が過去の出来事とし て箱にしまわれようとしている日本、台湾、韓国

歴史教科書やカリキュラムに慰安婦を記述する要 請について。実現できていない何か理由があるのか 質問したところ、特に慰安婦のことについて何か大 きい反対があるということではないようだ。慰安婦 のことだけでなく、とにかく教科書にはよいストー リー」を書きたがり、負の歴史からは目を遠ざけた

「(米兵のレイプの問題が起きたときに)ローラ たちはものすごく怒っていました。なんでまた私た ちみたいなことが起きるのかって」そう話をした Joanさん。その言葉の中に、可愛そうな阿嬤、かわ いそうなハルモニとは全く違うローラとのつなが り-それは同じ志を持つ人同士という感じだろう か-を感じた。 リ ラ・ピ ィ リ ピ ー ナ で の 話 の 後、Joan さ ん と Oscarさんとともに昼食へ。我々が泊まっているホ テルの近くのレストランに行くことになった。食事 後、Oscarさんが慰安婦の記念碑と撤去された慰安 婦像のあった場所に連れて行ってくれた。 「フィリピンは大国の衝突に巻き込まれる。得る ものなど何もないのに弱いフィリピンは攻撃され

りの話。 孤児の集合写真で男の子が多い。女の子は利用価 値があるから、あまり捨てられない。男の子の方が いいというのは日本的な考えなのだろう。

は、ある意味平和なのだと言えるのかもしれない。 でも、私が何回かスタディーツアーに参加して学ん だことは、平和な日常は、そこにただあるものでは ないということだ。 第四日 高藤辰子さん。高速での道。最初に孤児を拾って きた辰子さんのお母さんの話。まだ子供の支援をし たいけれど、あと10年持ちこたえるのはしんどい か、という辰子さん。 最初にお母さんが連れてきた子ども。日本人の おっさんにお金をせびって突き飛ばされて、病院に 連れて行った。おっさんからお金をもらった。病院 に行ったら最初は診察を断られた。家に連れ帰って 治療し、完治したころに拾った場所に連れて帰った ら、そこにいた他の子どもたちがあとずさっていっ た。かつて仲間だった子が、そうでなくなった。仕 方ないから家に連れて帰った、という話。しらみと 14


臓器を取られてお腹に大きなS字の痕がある男の 子、病院からいくばくかの金を握らされて放り出さ れたという話にはぞっとした。

途中で朝食をとったり、一時下車したりして目的地 に着く。山道でジープニーに揺られながら思ったの は、都会とは真逆のクラクションの使い方。マニラ ではクラクションは怒りの表明だが、山道ではご挨 拶。車がすれ違う時に、どちらかが譲り道をあけ る。上り優先なのか、大きい車優先なのか、どうい う暗黙のルールなのかわからないが、あうんの呼吸 で譲り合いをして、譲ってもらうと必ず「プッ」と お礼。なんかいいなあと思った。

第五日 朝10時出発の高速バスでバギオまで移動。乗車時 間は6時間とも3時間半とも言われていたが、4時間 強ぐらいだったろうか。 高速道路から見える畑、田んぼには農薬の看板が 立っている。この畑は~社の何とか農薬を使ってま す、と書かれているらしい。かかしがいない。農薬 のせいで鳥も来ないのか。 長距離バスの停留所からTalaまでタクシーに乗っ た。夕方、眞理子さんの話を聞く。演劇。民話。妖 怪話。遺骨収集事業。

ルボ村に到着。着いたところは村の公民館的なと ころだろうか。私は話をしてくれる人が2、3人いて くださるぐらいの状況を勝手に想像していたのだ

第六日 朝6時半出発で、キブンガン、ルボ村に向かう。

が、予想以上に人がたくさんいてびっくり。次に、 建物の中にあった黒板に、「Welcome」以下、我々 全員の名前が書いてあってまたびっくり。何か村を あげての事態になっているのだろうか…と見学を軽 く考えていたので緊張してくる。台湾に来た最初の 頃も一見オーバーにも見 える歓迎ぶりに驚いてい たことを思い出した。

が会をしきる。一人一人簡単 な自己紹介をした後、村長さ んの話が始まる。私の勝手な 「村長」という言葉からのイ メージとは程遠い、とても若 い村長さんだ。

「Welcome」黒 板 の 前 のテーブルの周りにみん なで着席。村の方々はそ の後ろの座席に座る。椅 子が足りなくて外で立っ て い る 人 も い た。い っ しょにジープニーに乗っ てきた通訳のアリスさん

人 口 1435 人 の ル ボ 村、349 戸、394世帯が住んでいる。ベ ンゲット州キブンガン町の中

私の理解を記録しておく。1972年に鉱山開発の露天 掘りが始まる(私の誤解は恐らくここで、1972年に 鉱山開発が始まったと思っていたのだが恐らくその 前から始まっている。72年は露天掘りの始まる)。 73年には精錬所が作られ稼働を始める。1983年まで 鉱山開発は進められ最終的に開発会社が破産したと 言って出て行った。最初の話では銅を採るというこ とだったが、金とかほかの鉱物も出てきて全部持っ ていった。鉱山開発の結果、山は砂とか砂利だけに なり水もなくなってしまった。回復作業をしていっ た結果、今は水があるようになった。

では2番目に小さい集落。鉱山で破壊されたのは下 の方で全部ではない。現在はサヨテ(隼人瓜)が主 な収入源になっている。小学校2校、デイケアセン ター3、保健施設2を有し、保健施設には看護師さん 1人と助産師さん2人がいる。デイケアセンターは未 就 学 児 を 預 か る と こ ろ ら し い。来 る 時 の 道 で 「Daycare center」と書いてあったのが見えたが、 まさか日本の介護施設のようなものではないだろう し、なんだろうと思っていたのだが、ここで謎が解 けた。小学校を卒業後進学したいと思ったら、村を 出て下宿をするしかないらしい。子どもを進学させ たいと思ったら、どうしても現金収入が必要にな る。

村の人は元々農業で生活していたのだが、鉱山開 発会社に土地を奪われ開発によって水がなくなり農 業ができる土地がなくなってしまったので他のとこ ろへ移っていった。村の人で開発会社で働いていた のは一人二人ぐらい。掃除をしていた人と、ドリル

鉱山開発について。次の日に判明したのだが、私 がこの時に理解したことと実際のできごとでは違う ところもあったようだ。ここでは、この時に聞いた

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で地下へ掘り進めていく仕事をしていた人がいた。 会社が撤退したあと84年ぐらいから徐々に村民が 戻ってくるようになった。しかし、露天掘りをした ので、土がない。大地は石や砂ばかりになってし まったので、土を他の土地から持ってこなければな らない。土を持ってきて木を植えて山を回復させよ うとしている。

村の主要作物、サヨテを見 せる村長

こ の 後、話 は FBI や ら FPIC や ら MGB、NCIP…に な っ て い く。い っ た い 何 の こ と か 話 を 聞 き な が ら???になってきたのだが、現在鉱山開発をする 場合の手続きに関することのようだ。先住民の土地 で鉱山開発をしようとする場合、鉱山地球科学局= Mines and Geosciences Bureau(MGP)に鉱山会社か ら申請を出す。そして、地元住民から、情報提供さ れた上での自由かつ事前の同意=Free Prior Information Consent (FPIC) を取り付け、その後環境調査=

Field Base Investigation (FBI) を行う。現在もいろいろ な会社から申請は来るが抵抗している。

現在、キブンガン町でこの地域の鉱山開発を禁止 する法律を作ろうとしている。国会までいったもの の「大規模開発がだめで小規模開発を容認するのは おかしいのでは?」という声があり、差し戻され、 大規模小規模すべての開発を禁止するような条文に 訂正し、今、下院で審査中だという。

いた。話に出てきた地元産のサヨテもあった。それ 自体は味の主張がなく出汁をすっておいしく煮えた サヨテは美味だった。台湾風の長いインゲン、大き いけれど全体がサクサクしているキュウリなどな ど、野菜不足を感じていたこともあり、体も休まる 食事だった。

この村長さん の お 話 の あ と、 村民の2人からの お話を伺った り、お 土 産 の 贈 呈式などをした 後、こ れ ま た 村 のみなさんが用 意してくださっ た昼食をいただ

よく考えれば充分予想されたことだったのだが、 驚いたのは、村の人たちは、私たちのように外部か ら人が来て見学することに慣れていることだった。 前日の反町さんの話の中や資料でもあったが、村の 環境回復のために、支援金を得たり指導者を招いた り足尾銅山に研修に行ったりしている。そのたび に、村以外の人に向けて話をすることがたくさん あったのだろう。黒板のWelcome表示、英語で自己 紹介するんですかとうろたえ気味の私に比べ淡々と 英語で語る村の人、村長さんの話に足りないところ

があったのか「あのことも話さないと」と言ってい るように見えたアリスさん、村の取組みがまとめら れていた大きいパネル…。自己紹介の時に村の人の 何人かが言っていた「私たちの力になってほしい」 「サポートしてほしい」を聞いて、いやいや私には 何もできないんですけれど…、足尾銅山に研修に 行った人が「急な斜面を竹 やブロックを使ってどう やって棚田にするかを学ん だ」というのを聞いて、す みません、私は今回フィリ ピンに来るまで足尾銅山は 歴史の話だと思いこんでい ました…。話を聞きながら いろいろ申し訳ないという か情けない気持ちになっ た。

村ではこの足尾モデルという言葉が普通に使われ ているのに、私にはその言葉の意味さえすぐには分 からなかったのだ。昼食の後、環境回復をしている 現場を見に行った。 銅を露天掘りした跡は、湖になっている。周りに は村人たちの手で松の木が植えられているが、まだ まばらに植樹されたばかりで すといった感じだった。他か ら土を持ってきて、カボチャ を作っている小さな畑も案内 さ れ た。こ の ペ ー ス で 畑 を 「戻して」いくには一体どれ くらいの時間が必要なのか、 考えるだけで気が遠くなる印 象。見 学 中、い き な り の ス コール。びしょびしょになり ながら帰路についた。 16


いたが、話を聞いていた時にはそんなことは全く気 が付かなかった。ちょっと顔つきが怖いおじさんだ なあとは思っていたが。

第七日 前日とはかわり、ゆっくり朝ごはんをとってか らイトゴンへ出発。イトゴンは金採掘の小規模マイ ニングをしているところだ。前の日と同じように村 の建物に着いたのだが、ルボ村と少し違ってとても 新しい感じの建物だった。人も少なく、全体で4人 ぐらい。建物に入ってすぐ、ボーンボーンという 音。ダイナマイトの音だった。 え!?と驚く私たちの横で秘書 さんが「でも、この爆発はここ からはちょっと遠い感じ。音が 小さいから」という。

秘書の人がこの地域の説明をしてくれる。何やら タガログで書かれた資料を英語に翻訳して話してく れている感じだ。前日のルボ村のときと同じよう に、今ひとつ事実関係が不確かなところもあるのだ が、私が理解した話を記録し ておく。 ここはロアカン(LOACAN) という村で、6つの「アソシ エーション=鉱夫組合」があ る。6つの組合の中でこの組 合 (Lipma) が 一 番 大 き い。 ちょっと怖い顔つきのおじさ ん は Lipma の 組 合 長 だ。そ の

話を始める前にトップの人か ら「ここに来た理由は?」と聞 か れ 阿 川 が 答 え る。夜 の ミ ー ティングの時に「警戒されてい たんだと思う」と阿川が言って

う の は、昼 間 は ベ ン ゲ ッ ト コーポレーションに見つか るので活動できないので、 夜になってこっそり鉱山に 金 を 取 り に 行 く、夜 に な っ て 活 動 す る か ら「こ う も り」な の だ そ う だ。会 社 が 買い取った土地に入り込む の か、会 社 の 土 地 で は な い けれど近くの土地に近づく と会社から追い払われるの か、そ こ ら 辺 が よ く わ か ら なかった。

場には同じ建物にあるもう一つ の組合の組合長さんもいた。 昔はこの地域では農業をして いた。水もあり、焼き畑もして いた。ある時、山で光る石を見 つけた人がいた。燃料なのか? という話をしていた。それと同 じような頃外国から人が来るよ うになり、金があるということ を言われだした。農業から金鉱 業へと移行していった。19世紀 半ばベンゲットコーポレーショ ンが来て先住民イバロイ族の Fianzaの土地をベンゲットコーポ レーションに売った。その時か ら 村 の「こ う も り 時 代」が 始 まった。「こうもり時代」とい

これもいつ頃のことか定か で は な い が、村 の 人 も 鉱 山 開発はよくないということ に気づいて抵抗をするよう

になった。バリケードを張った り、女性が上半身の服をとった り(前に韓国の抵抗運動の映像 で見たような状況だろうか)し た。先住民の権利意識が出てき たことや会社が露天掘りを始めたこと-露天掘りの 結果、水がなくなった-も影響があった。最終的に ベンゲットコーポレーションは撤退する。撤退する 時に組合は会社と会社の土地を自由に使っていいと いう合意文書を取り交わす。(土地の所有者は今で もベンゲットコーポレーション)合意文書のコピー を見せてもらったが、合意の日付は1990年6月7日。 この合意をしたのはLipmaの組合で、その合意があ ることが、Lipmaは合法的に小規模マイニングを行 えている根拠となっている。(鉱山での採掘は国か ら許可を得る必要がある。ベンゲットコーポレー ションは採掘権を持っているので、その権利を利用

できるということなのだろ う。6つある鉱夫組合のうち 合意したのはLipmaだけらし い) 元々、組合組織は1970年ごろマイク・ピアソンと いう人の組織を作ったほうがいいという助言から組 織された。現在はすべての組合をあわせると600人 ほどメンバーがいる。 組合長は「私たちは合法的に小規模マイニングを している」ことを強調していた。ドゥテルテ政権の ジーナ・ロペス元環境相の鉱山閉鎖処置の話になっ た。マイニングをするなと言うなら、私たちは何を して生活をしていけばよいのか。露天掘りをして水 がなくなったので農業には戻れない。代替案を出さ ずに禁止だけするのは納得がいかない…。環境保護 活動家であるロペスは、昔ながらの方法で行ってい る 小規 模マイ ニン グを見て、これな ら OKよ、と 17


言ったのだそうだ。水銀などを使った場面は見せず に、うまいことやったのかもしれない、と夜のミー ティングで誰かが言っていた。

があちこち建っている。土嚢袋もたくさん置いて あって、採掘した鉱石が入っている。ジープニーで 近くの精錬作業をしているところを見に行く。全体 の広さは小学校のグラウンドぐらいだろうか。ガー ガーという大きな音がしているなあと思ったら、鉱 石を粉砕している音だった。今は粉砕にモーターを 使っているので前よりも随分 楽になったそうだ。次に、粉 砕した砂のようになったもの に水?をかけ、沈殿したもの を見る。大きなお盆のような ものをゆっくりと動かしなが ら沈殿させていく。光ったも のがあればそれが金。見てい たとき、砂の中にキラキラ光 るものが見えて「見えた!見 え た!」と 騒 い だ ら「ミ・

話を聞いた後、実際に今採掘を行っている坑道を 見に行った。もちろん、中は真っ暗。スマホの懐中 電灯機能を使って歩く。ところどころ横に穴があっ て、そこから鉱石を採るよ う だ。電 動 の モ ー タ ー が あって「これを使うように なって楽になった」と説明 された。途中まで行って、 この先ずっと進むと危ない かも(空気の流れが悪く、 ガスが発生している感じが した)、ということで引き 返 し た。坑 道 の 周 り に は 掘っ立て小屋のような住居

を受けた。でも、組合長さん は「定期的に安定した収入に なるわけではない。先がわか らないので大変なんだ」とし きりに言っていた。

エ・タ は ど う い う 意 味 だ?」と反町さんが聞かれ ていた。キラキラ光る砂は その後薬品プールに入れ て、金を抽出する。前は薬 品 を 使 っ て い な か っ た? が、金の買い手からもっと 金が取れる方法があると聞 いて始めたそうだ。ここで は水銀は使っていない、と いう。

この後、ジープニーに乗り、 露天掘りの跡にできた湖を見 に行った。山肌には一応木も 生えていた。ジープニーで再 び移動する。あっちにもこっ ちにも土のうの袋が見える し、小規模の精錬所もぽつぽ つと見える。あちこちの家で 壁のところに花が飾ってある のも見え、きのう行ったルボ 村とは違う印象を受けた。金 の小規模マイニングで生活を

金を売るといくらになる かという話もしたが、いく ら か 忘 れ て し ま っ た。た だ、うわこりゃ大変だとい う感じではなく、まあお金 になるんだなあという印象

引 き 出 す(extract)こ と に よって価値を生み出す。そこ にあるから引き出す。引き出 せるだけ引き出す。引き出し たもの勝ち。そういう生き方 を、こう呼ぶ。

しているここら辺は、少し ゆとりのある暮らしができ るということなのだろう か。 途中下車して、さっき見 たのよりもっと小さい精錬 所へ。女性二人が作業して いる。粉砕している様子は なく、粉砕後の砂に水をか けているのは同じだが、磁 石を使ってるのかなあ?と いう感じで、少しやり方が 違うようだ。ジープニーに乗ってバギオに戻る。

話した。

ナオミ・クラインの「This changes everything」で 読んだextractivism=資源収奪主義という言葉を思い 出す。そこにあるだけでは何の価値もないものを、

第七日の2 朝ごはんのときのこと。技能実習生で日本のレタ ス農家で働いていた人から話を聞いた。といって

今回の案内をしてくれてい るアリスさんが、ルボ村の人 にあなたたちの感想を伝えた いから教えてくれと言われ、 CGNのメンバーも私たち一行 も、それぞれが思ったことを

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も、元からその話になったというのではなく、「彼 はココらへんではちょっとしたプレイボーイで有名 なんだよ~」的な話から始まり、「日本語ができる よ~技能実習生で日本へ行ったこともあるから」 「話聞きたい」となって話を聞いた。彼の行った地 域はひどい環境で働かされている実習生がいて問題 になったこともあり、グーグルで検索すると検索 ワードの候補に必ず上がってくるほど有名だそう だ。「ひどい話はたくさん聞いていたけど、自分 だったらどうなるか、耐えられるのかやってみた かった」といった経験者アルヴィン。元はボクサー でフィリピンでチャンピオンになったこともある。 そんな過去があると落ち着いた日常より過酷なとこ ろに刺激を求めるだろうか…と思いつつ、あまりに 予想外の理由にたまげてしまった。畑に出ていく時 間は早朝1時からだったと言っていただろうか。と もかく収穫したものをその日に市場に出すんだなあ

と思いながら聞いていた。働いていた農家は老夫婦 がやっていてほとんどことばが通じなかったが身振 り手振りで意思疎通をさせていた。アルヴィンはも うひとりの実習生といっしょに仕事をしていたが、 その相棒はあまりの大変さに途中でやめてしまっ た。彼もやめたかったけれど、自分がいなくなると レタスがだめになってしまうから…と残って仕事を 続けた。結局6か月働いてフィリピンに戻った。 実際に実習経験のある人と話したのは初めてだっ た。 第八日 バギオの町を歩いてから隣町、ラ・トリニダドで Research Mateの代表、ベティ・リスティーノさんと 会い、お話を聞いた。話はフィリピンの先住民、特 にコルディエーラ地区の先住民と、その自治運動に ついてだ。この話については阿川さんが書いている ので内容はそちらに譲る。

9日間のフィリピンツアーに参加して 第九日 バギオから空港へ。

うきき 今回初めてフィリピンに行き、フィリピンの歴 史や社会情勢について知ることができた。やはり実 際に行ってみなければわからないことはたくさんあ る。「台湾よりも南にあるから、暑くてたまらない だろう」と思っていたら、宿泊したバギオの山間部 では気温が20度を下回り雨も降っていたため、7月 だというのに夜は寒くて毛布が欲しいと思ったほど だったし、お腹を壊したらどうしようと非常に心配 をしていたが、食事に気をつけて少々高価な料理を 食べていたため、一回もお腹を壊さなかったり…と いう、予想とは違う経験をすることができた。初め て現地でフィリピン料理を食べ、その美味しさに舌 鼓を打ち、ホテルの傍のレストラン(ケソン市の 「Victorinos」)に通いつめ、全メニューを制覇し たいと思ったほどである。この度光栄にもビデオの

編集者の注 注1.「ローラ」:Lora、おばあちゃんの意。 注2.「新人民軍」New Peoples’ Army (New Peoples’ Army):1968年にホセ・マリア・シソンを中心に創 設されたフィリピン共産党の武装勢力で、長年にわ たってフィリピン政府と対立関係にある。 注 3. Pamana は、家 族 だ け で な く、友 人、サ ポ ー ターによって組織されている。ローラたちが亡く なった後、運動を引き継ぐためだ。

し、毎日のミーティングも非常に貴重な学習の場と なった。このような貴重な体験をさせていただき、 参加者の皆様及びツアーを企画してくださった古川 先生に感謝の気持ちをお伝えしたい。

撮影係と食事係を担当させていただいたが、フィリ ピン料理に関して更なる研究を今後も深めたい。 また、毎日の日程終了後に参加者と討論を行う ことで、その日感じた疑問点などを解消でき、人の 意見を聞くことで更に深く思考することが出来た 19


てくるため、田んぼに小屋を建てて50人程のスト リートチルドレンの面倒をみた。女の子は育てると 売れるので、捨てられるのは男の子が多いそうだ。 フィリピンの島嶼の人口が増えすぎて都会に出稼ぎ をしにくるが、建設労働者となった親が子供とやむ を得ず離れ離れになってしまい、字も書けず固定し

今回のツアーのテーマは、「女性・先住民・開 発」。現地で様々な取り組みをしている日本の方及 びフィリピンの人々に出会い、お話を聞くことがで きた。 以下に、特に印象深かった方々のお話を記載す る。 7月10日、マニラから出てやや北部の穀倉地帯で あるブラカンに行き、高藤辰子さんにお会いし、美 味しいティラピアをいただきながらお話を聞く。高 藤さんは白髪の美しい女性で、元々化粧品会社で働 いており退職後お母様の病気療養とリゾートも兼ね てフィリピンに来たが、お母様と一緒に歩いていた ところ、ストリートチルドレンが日本人男性に怪我 をさせられ、お母様とその子を助けて拾ったところ から、退職後ゆっくり読書をしながら海を見ること を思い描いていた生活とは180度異なる人生を送る ことになった。お母様がどんどん貧しい子供を拾っ た住所もなく、親子が一緒に暮らせないといった悲 劇が多々あるようだ。高藤さんが子供の世話をする 過程で、神父など位の高い人が家に来るため、近隣 の人に妬まれ、児童虐待等というあらぬ疑いで政府 機関に呼び出されたという辛い経験もされたそう だ。

義深いが、ストリートチルドレンを極力生み出さな いようにする政策を国が考えなければ、このような 悲劇はこれからも起き続けるであろう。フィリピン では路上生活をしている子供が当たり前の存在とし てとらえられていることがあるそうだが、このよう な悲劇が「当たり前」であってはならないし、有効 な対策が練られる必要があると思う。

また、児童施設の10代の子供がさらわれ、低価 格(8000ペソ)で臓器売買をさせられるという話も 聞き、臓器移植のために日本等から来た患者にフィ リピンの貧しい子供の臓器が移植され、大病院が裕 福な患者のために子供の臓器を安価で売買している という。「フィリピンのストリートチルドレン」と いうと、一見日本と関わりがないかのように聞こえ るが、思わぬところで自分たちにも関わりがあるか もしれないと気づいた。

7月11日にマニラから北部のベンゲット州バギオ 市に快適なバスで4-5時間移動し、2日間コー ディリエラ山岳地方の先住民の集落で鉱山開発状況 について理解を深める。バギオへの移動中に見た田 園風景が非常にきれいで、真っ白な牛も初めて見 て、今までフィリピンに対して貧困・汚職・銃殺と いったようなステレオタイプしかなかったが、この 美しい風景を、フィリピンに来たことのない人たち に見せて、異なる面も見せたいと思った。台湾人の 友人にも「フィリピンは銃を持ってる人がいて混乱

高藤さんがこれまでされてきた活動は非常に意

し下さい。また、TALAには先住民が作った手工芸 品が販売されているので、そちらもお忘れなく。

してて、今まで行った国の中で一番嫌いだ」という 人もいたし、フィリピンに来た自分の目的も、この ような自分のステレオタイプを壊すことであった。 (綺麗な景色だけを見てその他の問題を忘れるとい う意味では勿論ないけれども。)

TALA を 開 設 さ れ た の は、CGN(コ ー デ ィ リ エ ラ・グリーン・ネットワーク)の反町真理子さん。 非常にパワフルかつ気さくな方で、2 日間たくさん興味深いお話を聞くこと ができた。ここは涼しく早朝は霧も出 て、秋のような格好をしなければなら ず、4月が夏で、5月半~10月が雨季ら しい。12月は霜もおりてバギオは朝晩 11度まで下がるとのこと。標高は1500 m程だったと思う。

バ ギ オ に つ き、ゲ ス ト ハ ウスのTALAに到着。夕方到 着し、早速ゲストハウスの2 階 に あ る レ ス ト ラ ン で、 コーディリエラ料理である 血のソーセージをいただ く。台 湾 に も な い 味 で、非 常 に「補 血」出 来 て 疲 れ が 吹き飛び、2日間の山でのス ケジュールを貫徹すること ができた。TALAに来られる 機 会 が あ る 際 は、是 非 お 試

翌日、バギオからのキブンガン町ル ボ村に、乗り合いバスのジープニーで 約3時間半かけてたどり着く。途中か らジープニーの上に乗ることができ

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ているが、かなり揺れるし硬くて痛く、しっかり捕 まらなければ振り落とされる可能性があるので、く れぐれも注意しなければならない。ルボ村の住民は カンカナイとイバロイが主要な民族である。人口 1435人、394世帯が住んでいる。村に到着し自己紹 介を行ったときに気づいたが、住民の中には英語を あまり喋れない人もいる。台湾の原住民族の部落で も、中国語をあまり話せないお年寄りがいるのと似 ている。ここでも美味しい手作りの昼食をいただ き、芋の茎のココナッツミルク漬けの料理や、にわ とりの血の料理等を口にすることが出来、準備して くださった村の人々に感謝したい。 (上写真)、山間部の美しい景色を、お尻の激痛と 共に体験することができた。道はコンクリートのと ころもあれば石でガタガタのところもあり、ジープ ニーの上には鉄の棒が固定されて座れるようになっ

ルボ村では銅の露天掘りによる採掘が1972年か ら始まり、精錬工場もあったが80年代頭に閉山に なった。村の下半分が鉱山会社に破壊され、露天掘 りの跡にエメラルドグリーン色の、鉛と水銀で汚染 された湖がある。現在、住民たちは地元のNGOと

日本のNPOのサポートを受けて植林などを行い、 主にサヨテ(はやとうり・佛手瓜)の栽培を行い、 それによって村の経済が支えられている。公的には 銅を掘っているが、金も非公式に掘っていたとのこ とで、会社は経営失敗を理由にこの地を離れていっ た。そのときには作物を植える土もなかったそうで ある。住民の鉱山開発に対する考えは、自然資源が 壊され土もなくなり、争いが起きたことも残念であ るし、村の中で鉱山開発に賛成か反対かといった意 見の分裂はなく、大規模開発も小規模開発にもどち

で採掘を継続した。約10年前から山岳地域の先住民 族が移住し始め、個人採掘者が増加している地域で ある。ここでは金を精錬する現場を具体的に見るこ とができた。水銀は禁止であるため、シアン化合物

らにも反対という立場である。住民の中には足尾銅 山に実際に行き、どのようにリハビリをするか学ん だ人もいる。鉱山開発により元々は永続的に使用で きた土地が汚染されてしまい、あの湖も原状回復す ることはできない。現在はキブンガンで計9つの開 発申請があるが、村人は全部不許可にすべきだと考 えている。よそから持ってきた土で南瓜を栽培した り、すぐ伸びる樹であるアルノスの木を植えたりし て徐々に回復を試みているが、一度壊した自然環境 はなかなか元に戻せないことの重要さを認識しなけ ればならない。 翌日はバギオからジープニーで30分程の距離に ある、ベンゲット州イトゴンのアンタモック鉱山開 発地域を訪問した。ここはベンゲット・コーポレー ションという金の採掘会社の開発地域で、1992年に 採掘を休止したが、今も土地は鉱山会社のものであ り当時の坑夫たちはそのまま採掘地域に残り、個人 21


で精錬している。採掘者組合のメンバーに話を聞い たが、元々イトゴンにいたのはイバロイ族であり、 祖先は農業をしていた。山の上の方で狩りをしてい るときに燃える炎を見て、金を発見した。ベンゲッ ト社が来てから、会社の所有地は立ち入り禁止で掘 れなくなったため、夜に敷地内に入って金を掘った 1960年から1975年を、こうもりの時代と呼んでい る。1990年代にベンゲット社が露天掘りをしようと したため、住民がバリケードをはり、道に横たわっ て阻止したそうである。

ざるを得ないそうだが、生活のために伝統的なやり 方で掘るのはOKというのがルボとの違いである。 農業と鉱山開発以外に十分な就労環境がないなか で、「環境破壊だから開発はやめるべきだ」と簡単 には言えないし、資源もいつかはなくなってしまう のであるから、鉱山開発に代わる就労方式を探すこ とが求められているのであろう。

第10回会員大会

住民は最初、あわよくば金を掘ろうと考えてい たが、そのうち水がなくなって環境破壊に気づき、 反対運動が始まった。前日のルボ村との違いは、イ トゴンには機械やダイナマイトを使わず手掘りの小 規模開発者がおり、組合も6つあり、その組合のメ ンバーも600人程いるそうである。やはり体調を壊 しやすい環境で働くため、若い男性も2年程で辞め

報告

新年恒例の会員大会が1月19日(土)に行われま した。実は、大会の数日前になって、19日(土)が 通常の土曜日ではなく、振替出勤日になっているこ とに気づき、理事長が出席できない事態になってし まいました。当日の出席者も出勤日の影響で少なく

なってしまうのではないかと心配していたのです が、16名の皆様のご参加がありました。 例年通り阿川さんのビデオによる2018年の活動報 告がありました。その後、2018年の会計報告、2019 年の予算案、活動計画について話が進みました。ま た、2018年まで会計を務めてくれていた「たこや き」こと戴珮如さんから「カリカリ」こと游韻加さ んへの交代が決まりました。また、長年有名無実 だった秘書長の游重器さん(阿器)が復帰されるこ とになりました。長い間手不足だった事務方の充実 で、今年度から協会の運営もスムーズになることが 期待されます。 大会終了後、これも恒例の交流活動が行われまし た。3,4人一組のチームに分かれ、○○を表す「世 界地図」を書き、その○○が何かをあてるクイズを 作り、クイズの問題を出し合うというものでした。

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地洞図書室

ついに開室!

Eaphetの2階に、地洞図書室が引っ越してきまし た。3月30日にオープニングのお祝いをし、4月6日 から、毎週土日、12時から18時まで(象仔書屋と同 じ曜日、同じ営業時間)開館することになりまし た。 地洞は、考古学と人類学専門の図書室で、Eaphet のお友達、LeoさんとBeckyさん、お二人が運営され ます。お二人とも現役の大学院生で、人類学で論文 を書いている最中。 蔵書は中文で、若干の日本語、少しの英語といっ たレパートリーで、日本語が中心の象仔とは言語的 にも内容的にもちがいます。ぜひ一度、のぞいてみ てください。この場所は、以前はEaphetの事務所― 事務スペースとして使っていましたが、使用する機

Becky and Leo

会があまりなく、普段はもったいないスペースと なっていました。ちょうど、前に借りていた場所か ら追い出された(比ゆ的表現ですよ)地洞が場所を

探していて、それならばということになって、引っ 越してくることになりました。Eaphetの事務スペー スだったために、今でも一部コンピュータや事務雑 物が置かれてもいますが、その辺はご愛敬というこ とでお許しを。 地洞では、象仔同様、イベントを催すことがあり ます。その都度、フェイスブック等にてご案内しま すが、まだ地洞のフェイスブックページがないの で、当面は象仔のページでご案内することになろう かと思いますので、お見逃しないようお願いしま す。これからますます充実させていきますので、乞 うご期待。

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辺野古、中文ウエッブサイト立 ち上げにEaphetも協力! 去年、辺野古座り込みの写真パネルを寄贈してく れた沖縄の人たちから、英語版のウエッブサイトを 立ち上げるのだけれど、中文版も作りたいので、協 力をお願いしたいというお話があって(去年の秋く らいだったと思いますが)Eaphetの会員を中心に協 力者を募って、主に日本語の記事を中文に翻訳する お手伝いをしています。担当の会員に報告記事を書 いてくれるようお願いしていたのですが、多忙のた め、しょうがないのでニューズレター編集者が、簡 単でも報告しないよりはいいだろうというノリで、 少し書かせてもらうことにしました。サイト名は右 上 に あ る「Stand with Okinawa」。http:// standwithokinawa.net/zh/

中身は、例えば↑こんなふうになっています。

辺野古写真パネルの方も、埋め立てが始まった 後、県民投票が終わった後の写真を現在送付依頼中 で、それらが到着したらまた以前のパネルと合わせ て展示していく予定です。 辺野古のたたかいもSACO合意から数えてすでに23 年にもなります。辺野古移設が決まったときに生ま れた子供がもう大学を卒業という年になるわけで す。変化がないはずも、挫折がないはずも、ありま せん。そこまでを含めた歴史をどう理解していく か、Eaphetとしては闘争の現状を理解するために歴 史を展示していくことが重要だと考えます。それ で、今年の一つの仕事は、現状を伝える辺野古パネ ルも活用しつつ、歴史を、物語を構築すること、そ れを視覚的に示すこと、です。

喝。店を壊されたくなかったらミカジメ料を払うの が唯一の解決策、なのだ。普天間基地が世界一危険 だという認識があるのであれば、宜野湾市民を立ち 退かせるか、基地を即時閉鎖するか、危険性が除去 されるまで一時的にも飛行禁止にするかするべきな のは小学生でもわかる。それらをせずに、さらに辺 野古基地が完成したとしても普天間基地が閉鎖され るかどうか保証のないところで(ミカジメ料を払っ ても店が無事かどうか保証がないところで)とりあ えず辺野古を作るという、説得力ゼロの行為。南西 諸島全域に日本軍の基地を拡大していくこと、辺野 古基地、高江ヘリパッド建設は、日本の軍拡の一部 としてあり、普天間が危険云々はおためごかしにす ぎません。こうしたことはどこから始まったのか… 1945年をもって昭和に区切りをつけることをしな かった日本にとって、明治の侵略国家開始時点から 連綿と続けてきたことなのではないでしょうか。

普天間基地をなくすためには辺野古移設が唯一の 解決策…日本中央政府のお念仏ですが、やくざの恫

今年の反核行動 は、台北で4月27日午後1時、 凱達格蘭大道出発のデモ行進があります。台中での 企画はまだ聞いていません。Eaphetでも企画を立て たいと考えてはいますが、4/7の運営会議で決める ことになると思います。 去年の10月に物理学者の矢ケ崎先生を沖縄からお 呼びして、主に内部被ばくという観点から福島だけ でなく、日本全国で起きている放射線被害について お話いただきました。今年もこの企画の続きを考え ています。もう福島は終わった、後は上手に廃炉に するだけだ、放射能とか内部被ばくというのは風評 にすぎない―という日本政府の金にあかしたプロパ ガンダに追随しようとしている蔡英文、民進党政権 下で、臺灣世論がマヒしてしまうのを止めるため に、何らかの刺激をし続ける必要があります。今年 の企画も今まさに練っているところです。皆さんの お知恵も貸してください!

26号をようやく出すことができそうです。ずいぶ ん長い間、お休みをしてしまってすいませんでし た。なお、ニューズレターの読みものは、主だっ た 記 事 に つ い て は は Eaphet の ブ ロ グ http:// eaphet.blogspot.com/ にてお読みになれます。また、 ニ ュ ー ズ レ タ ー 全 体 は、ISSUS(https://issuu.com/ eaphet )で読めます。 24


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