不発弾とととと共共共共にににに生生生生きる 高江洲直己 ラオスは世界でも有数の不発 弾の埋まる国だ。ベトナム戦争時 代、北ベトナム軍が南へ物資を補 給する際に使ったという俗に言 うホーチミン・ルートが、ラオス の山間部を抜けていた。アメリカ 軍はこのルートを叩くために大 量の爆弾を投下したのだ。その数 約三〇〇万トンともいわれてい る。当時のラオスの人口が約三〇 〇万人ということから、一人あた り約一トンもの爆弾が投下され たことになる。そのうち二割の爆 弾が不発弾として地中に埋まり、 今尚爆撃の激しかった地域は爆 発の恐怖にさらされているとい う。 僕はラオスを旅する際には、不 発弾と共に生きる人々に触れて みたいと思っていた。彼らは身体 に、そして心に傷を負いながら、 どのように不発弾と向き合って 生きているのだろう。彼らと親し くなり、友人として話しを聞きた かった。僕がラオス北部に位置す るシエンクアン県を訪れたのは、 そういった経緯があったからだ。 シエンクアン県に着くといくつ かの村へ赴き、人々と時を過ご し、話しを聞いて回った。今回は 話しをしてくれた村人の中でも、 モン族のジャイキーの話しを紹 介したいと思う。 ジャイキーに話しを聞きに 行った時、彼は初めにこう言っ た。
「話しをするのは構わな い。けれど、写真を撮るの は 私 たち のた めに 何か し て く れる 人や 団体 だけ に し て いる 。爆 弾の 傷跡 を 見 せ るこ とは 、と ても 恥 ず か しい こと でね 。だ か ら傷跡を見せることに よ っ て何 かこ の村 が良 く なるのなら、私は見せて、 写真も撮らせているよ」 彼 の 切 実な 声 だ。 傷跡 を 見 せる こと は決 して 心 地 よ いは ずが ない 。僕 は 正直に応えた。 「僕はボランティア組織 に 属 して いる わけ では な く 、 団体 を動 かす 力も な い し 人脈 もな い。 僕に で などであ きることは web なた達の現状を書いて発信して、 友人たちに伝えることだけです」 写 真を撮 ること を承諾 して く れたのかは分からないが、彼は家 の中へ案内してくれた。無理にお 願いするつもりはなかった。 家の中の明かりは、日の光が入 り口から差し込むだけで薄暗い。 目が慣れるまで数秒かかった。そ して闇の中に顔を浮かべながら、 ジャイキーは喋り出した。 話 しは今 から二 十年程 遡っ た 一九九一年の頃になる。彼は三人 の子どもを持つ一家の大黒柱だ。 当時、子ども達も大分幼かったと いう。 「あの日もいつもと変わらず、私 は農作業に勤しんでいたよ。けれ
ど、あの日は不運だった。鍬を入 れ た土の 中に不 発弾 が埋ま って いたんだ。不発弾は爆発して私の 体を吹き飛ばした。けれど私は生 きていた。かろうじて意識も保っ て いたが 、足の 被害 がひど かっ た。私は血まみれのままドクター の家に駆け込んだよ。私のありさ ま を見て ドクタ ーは こう言 った んだ。 『急いで町の病院へ行くべきだ。 治療を受けなさい。恐らく足の付 け 根から 切断す るこ とにな るだ ろう』 私 は そ れを 聞 いて 病 院には 行 かず家に帰ったよ。どうしても足 を切断したくなかったんだ。治療 費 もバカ になら ない という のも
十三号 目次
ニュースレター Eaphet
■ 不 発 弾 と 共 に 生 き る ( 1頁2) ■会員大会報告 ( 頁3) ▲本年度会員更新手続き ( 頁) 3 ■【特 集 私 - た ち の 今・ 未 来】 ▽ 物 語・恥 の 沸 点 ( 4-7 頁)
▽ ま っ と う さ・極 右 ( 7-9 頁) ▲ 月 12~ 月1の活動 ( 頁9) ▲これからの活動 ( 頁9) ■【聊聊 映画館 レビュ ー】 ▽忠信市場 ( 10-12 頁) ■ 英 語 勉 強 会 報 告 ( 12-14 頁)ショ ック・ ドクト リン ■ 日 本 国・ 自 民 圧 勝 後 の 原 発 ( 14-15 頁) ■ ふ か ひ れ ス ー プ・雑 種 ・ 異種混交 ( 16-18 頁) ▲ EAPHET が見た出来事 ( 18-19 頁) ■受 賞 特 別寄 稿 ― タイ ヤ ル 姫の 母 と 日本 警 察 の父 と 私 の故事― ( 20-22 頁)
EaphetNo.13N #1/22
13号 2013/2/1 日文版