台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 東アジア歴史資源交流協会 アジア歴史資源交流協会ニューズレター 歴史資源交流協会ニューズレター East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET)
No.20 日文版 2015/4/11 eaphet@gmail.com Tel/Fax:886-4-2251-9593 台灣台中市西屯區黎明路二段972巷40號
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<目次> 目次>
2011年 2011 年 の 3月 11日 11 日から4 から 4 年。日本国で
◆四回目の 3.11 上前昌子
p1
◆言ってはいけないこと 村山さたね p4 ◆日本人学校に何が起き ているか 多田直海
p6
◆日本人が感じた安心と 不安 白石鹿乃子 p8 ◆辺野古・高江に行く 吉田藍 p9
はこの日を地震と津波、大震災の日として記 憶し、原発問題を無視しようとしている。マ スメディアはこの日にこぞって震災の特別番 組を組み、日本、日本と連呼され、復興が謳 われる一方で「いまだに」傷みを抱えて生き る人々への同情が謳い上げられる。放射線被 曝に晒されている3200万の人々(2015年3月11 日、グリーン・クロス・インターナショナル が公表した「2015年福島報告」)についての言 及はない。でも日本の外では… 国連「原子放射線の影響に関する科学委員 会(UNSCEAR)」報 告 書(2014 年 7 月 22 日 公 表):『福島の放射能汚染によるがんの発生 はチェルノブイリ原発事故と比べてはるかに
深刻で、9,000人以上ががんによって命を 失う可能性が極めて高い。』 ナスバウム教授(ポートランド州立大 学、甲 状腺 がん の専 門家)談:『「福 島 原発の事故が流産にどのような影響をお よぼしているのか」について日本政府に 確認したところ「放射能への被曝と流産 との間には因果関係が認められない」と の回答があったが「日本政府がそのよう な観点から調査をしていないだけであ り、過去の事例を見ても放射能被曝が広 汎な異常出産や流産をもたらしているこ とは否定のしようのない事実である。日 本政府はそうしたことに目を向けようと していない」。』
◆危険な権威主義国《日 本国》 Awil Kazuo p11 ■Eaphetゲストハウス新 装オープン p13
◆故郷に想いを、夢と日 本の行方 笠井美那
p15
フランスの放射線防御並びに原子力の安全 に関する研究機関(IRSN)のジャック・レプ サード事務局長の報告書(2014年5月15日): 『東京電力は放射能汚染による水源並びに地 下水の汚染の実態について、正確な情報を公 にしようとしていない。それどころか、プル トニウムやウラニウムが大量に海面に流出し ている事実が隠蔽されている。また、それ以 外のさまざまな核種が放出されているにも関 わらず、東電も日本政府も福島第一原発から 放出、流出されている核種の90%に関する汚 染状況を調査することを拒んでいる。』
四回目の 四回目の3.11
東電は1,2号機のメルト・スルーを今 になって認めた。何もコントロールされ ていない中、汚染水漏洩はひたすら隠蔽 され続け、対策費用もケチられ、かわり に巨額の資金が再稼働のためのわいろと 種々の建設費に使われている。(編集部)
上前昌子
もうすぐ4回目の3.11が来る。意識しないで いようとしてもなんだか心がざわざわしてし まう。 最近、福島で住んでいた頃の夢をよく見 る。それは、普段は思い出さないような以前 住んでいた家の中で、なんてことない日常の 生活をしているとか、家の中で探しものをし ているとか、そんな夢を見ていて、「はっ」 と目覚める。という事を何度か繰り返してい る。三月が近いからなのか、もうすぐ4年だと 思う気持ちがそうさせているのかよくはわか らないのだけれど、目が覚めて、なんともい えない気分でしばらくぼんやりしてしまう。
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原発が 原発 が 爆発して 爆発 して4 して 4 年 になる。当時小 学校5年生と高校2年生だった息子と娘 は、中学3年生と大学3年生になった。 台灣に避難移住してから三年が経過す る。大きく成長した息子を見ると時間 の経過を感じる反面、いつまでも時間 が止まったかのような感覚もある。 先日息子の中学校の卒業式があっ た。三年前、不安そうな顔で入学式に 座っていた息子をふと思い出した。 卒業式の校長の式辞や来賓の長い話 の間、台灣に来てからのことが頭の中 でぐるぐるまわっていた。思い出すと
四回目の3.11 こみ上げるものがあるのだけど、ここで泣いたら校 長や来賓の話に感動していると思われてしまうと思 いぐっとこらえて他のことを考えなんとか自分の気 持ちをごまかした。 原発爆発後、めまぐるしく生活がかわった一年を 埼玉で過ごし、学校でもなじめず楽しいことなど一 つもなかった。暗黒の一年だったからあまり記憶に ない、と最近になってその頃のことを話すように なった息子。たぶんその時はいろいろ大変だからと 私に気を使っていたのかもしれない。
日本では食べ物、飲み物すべてを疑ってかかって 常に緊張した生活をしていたので、言葉の通じない 台灣に来て不安だとかいうよりも、放射能の不安か ら離れられた事の解放感のほうが大きかった。 だからといって放射能についての危機感がなく なったわけではなく、日本から輸入された食品や海 産物にもずっと危機感をもって気をつけて来ている し、何より子どもたちが体調を崩すともしかしたら 被曝の影響ではないかと常に心配をする日々は続い ている。
私と娘と息子で台灣に来たもののビザもなくこの 先の何かなど何にもわからない状態の中だったにも 関わらず、三人共、台灣に着いた途端に火鍋の食べ 放題に行き、日本では安心して食べれなくなってい た野菜や肉をもりもり食べれることにひたすら感動 していた。
薄れゆく危機感 れゆく危機感 最近、時間の経過ともに危機感や事故当初の放射 能に対しての怖さがどんどん薄れていくまわりの雰 囲気を痛いほど感じる。 私は、そんな中時間がたてば楽になる事があるけ れども、時間が経てば経つほどじわじわと悲しみや
不安や空虚感が大きくなることもあるのだというこ とを実感している。 放射能はじわじわと身体を蝕んでいくのと同時に 心にも大きな影響を与え侵食していくのだろうか? いや、放射能ではなく、核災害を起こした後の電力 会社や政府の無責任ぶりに心がやられてしまうのか もしれない。 そして、周囲の無関心さがじわじわとボクシング のボディーブローのようにダメージを私に与える。 二月のはじめに 二月のはじめに一週間 のはじめに一週間、 一週間、日本に 日本に帰国した。免許 証の更新など所用で帰国しなければならなくて一年 以上ぶりの帰国だった。なんだかタイムスリップし てきたかのような気分でテレビから流れるNEWSや番 組をぼんやり観てしまった。 原発から放射能が大量に飛び出し汚染が続いてい る現状など1ミリたりとも出ては来ない。東北復興 のためか、東日本を中心に紹介するグルメ番組や旅
情報、お笑いタレントが脳天気にしゃべりまくるバ ラエティー番組の連続。ニュース番組でもなぜか キャスターやコメンテーターに若いジャニーズのタ レントやお笑いタレントが起用されていて、なんだ かどうでもいいような差し障りの無いようなコメン トをしゃべっている。
しまった。 「久しぶりの日本でしょ、日本食食べてないの じ ゃ な いの? 食べ て 食べ て・・。」と いう 言葉 に、多分私は顔がひきつっていたと思う。久しぶり の再会にうれしかったけどなんだかやっぱり気持ち がざわざわした。
遠い外国の地で起きたことではない。自国で起き た大きな事故なのに、しかもまだ放射能は出続けて いるしなにも収束はしていないのにこの状況であ る。
放射能も被曝も甲状腺癌も突然死もまるでなにも ない世界が繰り広げられる。 帰国中に友人や知人に久しぶりに会った。大阪で 昔一緒に働いたり和太鼓叩いたりしょっちゅう一緒 にいた友人。私より年は上だけどずっと連絡もとり あってきた友人。久しぶりに会う為に行った居酒屋 で、先に友人たちが来ていてすでに料理は注文され テーブルに並んでいた。テーブルの真ん中に舟盛り がドーン。他にも、いろんな種類のお魚が載ったお 寿司の盛り合わせがドーンとあり、目が点になって
私 がおかしいのだろうか? がおかしいのだろうか?なにか別の世界に間 違って来てしまったのだろうか?という気持ちにさ えなってくる。
他の場所でも会う友人や親族たち、或いは母親と 話をすると私がなぜ台湾に行ったのかなぜ台湾に住 んでいるのかを忘れてしまったのか、「いつ戻って くるの?」「台湾で留学中なんでしょ?」「台湾に は安全な食べ物あるの?農薬とかすごいんでしょ? 日本は安全だから早く帰ってきたほうがいいよ」な どなど呆れてしまうような言葉を何度も投げかけら れた。 原発事故から4年だ、まだ4年なのに、なにも解 決していないのに、どうなってしまっているのだろ う。
唯一、神戸の鷹取でFMYYというコミュニティーラ ジオをやっている人と滞在中に会い、番組の収録に 参加させてもらった。その中で一緒に番組にでてい た方は阪神大震災の時もいろいろボランティアなど をされていた方だった。彼は「今まではその場所に 行ってその場所で被災された人に会いその場所で考 え支援などをしてきたが、福島はそれができない。 放射能はその場所にいって考えるということができ ない。」と放送の中で語られ、まさにそうだと収録
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四回目の3.11 後も出演者の方とパーソナリティーの方としばらく 話をしたが、今回帰国して初めて、共感して話がで きる場所だった。 話の中で福島の高校生と神戸の高校生とで話をす る機会があったそうだが、福島の高校生がとにかく 同じように話す。その内容が「私達はガラスバッチ をつけているし定期的に健康診断もしてもらえるし 大丈夫だ。きちんと健康面も放射線量も測っている ので安心だ。」と話すという。それを聞いて「いや いやガラスバッチつけて放射線量の管理されている 事自体がおかしいのじゃないのか?」と神戸の高校 生は思ったそうなのですが、みごとなくらい福島の 高校生は教育されているように感じたと聞き、それ は私の友人も福島に残っている人はそんな感じで あったり、特にまゆこの同級生は、同じような事を FBでも発信しているので、学生ほどすごく教育が行 き届いているのではないかと思い背筋が寒くなっ
た。
いるが、放射能や被曝やこどもの健康などについて は一言もださない。 こどもに関する支援をしているのなら、そこをス ルーするのはおかしい。飯舘村の人が早く帰れるよ うになど脳天気な事を書いて発信している。汚染の 現実やこどもに深刻な健康被害が出ていることにつ いてはまるでなにもなく、目先のその時が楽しけれ ばいいといったイベントを繰り返している。 最近それが以前にましてひどくなってきているよ うに感じる。私が以前所属していた団体に問い合わ せたが、いつも同じような答えしかかえってこな い。「その地に踏みとどまることを決して歓迎して はいないが、よそ者の立場上、直ちに故郷から去り なさいとも言えません。ただ、その地に子どもがい る以上、見て見ぬふりは出来ないのですよ!その場 で生きている以上は。子供たちには何ら責任はあり ませんから」という答え。
やりとりをしている中で「現地にいって支援して いる自分からみればあなたは傍観者にすぎない」と いう答えも返ってきた。現地に入ることだけが支援 と考えるのなら、私は単なるブツブツ遠いところで 文句を言っているおばさんということなのだろう。 彼らの答えは一見そうだよねー と思われそうな返 答かもしれないけれど、私にはこの答えは納得行か ない。こどものためと言うが、本当にこどものため なのだろうか? そう言いながらここに多くのギャ ランティが発生しており、無償のボランティアでは なく行政や主催者からお金をもらっている事実があ る。 困難な中、頑張って住んでいる人を励ましたい、 こどもたちを楽しませたいと言うが、がんばっては いけない場所でがんばれと励ます事の罪の重さを感 じて欲しい。 肝心なところはよそ者だから言えないと言う。そ
れでも子どもたちのためにやっているのですよ、と アピールするのはすごく嫌悪感を持ってしまう。 嫌なことや残酷な現実は楽しいイベントで忘れま しょう、というようなまやかしではないだろうか?
まるで、戦時中の慰問団とかわらないではないかと さえ思えてくる。
嫌なことは忘 なことは忘れましょう? れましょう? ここ1ヶ月ほど毎日のように4回目の3.11を迎え て、日本の人の多くはどうなのだろうか、と考え る。 危機感はうすれ無関心の人がさらに増えたのだろ うか? 避難する人は減ったのだろうか? 避難や保養と いったことを支援する団体は目に見えて減っている ように感じる。復興に関するイベントやそれに協力 する団体にはどんどん行政やいろんな関係のところ からお金がでて復興支援マネーはぐるぐるまわって いるように感じる。 私が以前所属していた全国規模のNPOも福島の飯 舘村や他の自治体の行政とともにこどもの為にとい うイベントや遊び場の提供など積極的におこなって
4年が経過すると汚染だけでなくこういったいろ んなものが浮き出てくる。人間のいろんな部分が見 え隠れしそういう事を目の当たりにした時、言いよ うのない疲労感や虚無感に襲われる。 日本に帰国中、福井の原発の再稼動の話をしても 「仕方ないよね」「それで生活している人がいる し」「国が安全だといっているし」「私達が反対し てもどうしようもないし」という言葉の数々。 他に放射能汚染食品の話をした時にも「仕方ない よね、気にしていたら食べるものなくなるし」「ど うしようもないもの」という声を聞いた。あーこう やって仕方ないよねと言い続け、いつの間にか憲法 も変えられ戦争の出来る国にされ、気が付くと戦争 になっているのではないかとぼんやり考えて、なん
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言ってはいけないこと とも言えない恐怖に襲われた帰国だった。
言ってはいけないこと【1】村山さたね 4年経過したが、この先まだまだ心配である。こ どもたちの未来を思うと不安でたまらない。放射能 汚染の恐怖はこれからが本番だと思っている。まだ 序章である。舞台でいうとまだ幕が開いたばかりだ と思っている。 ますますひどく なる状況に今後ど う生きていけばよ いのか未だにトン ネルの中をふらふ らと歩き続けてい るような気持ちか らぬけ出せないで いる。(了)
反ユダヤと反 ユダヤと反イスラム言説 イスラム言説 2007年1月26日、国連総会は「歴史 歴史の 歴史の事実として 事実として のホロコーストのいかなる否定 のホロコーストのいかなる 否定も 否定 も 受 け 入 れない」 れない と決議した。 デンマークの新聞(ユランズ・ポステン)が掲載し た イスラム の預言 者、ム ハンマド の風刺画 をめ ぐってヨーロッパだけでなく世論が大揺れに揺れ た後、イランのアフマディネジャド大統領が「こ れが許されるなら、こちらはホロコーストを風刺 する漫画展を開催する」と息巻き、実際、2006年2 月にテヘランで開催、さらに2006年12月にはホロ コ ースト・グロ ーバルヴ ィジョン 検討国際 会議 (International Conference to Review the Global Vision of the Holocaust)をやはりテヘランで開催し
た。この検討会は、ホロコースト言説への疑義を集めた形で行 われた。ホロコーストは捏造だ、とか、数字を大げさにしすぎ ている、といった疑義だ。これを受ける形で、冒頭の国連総会 決議がなされた。 決議を提案したのはアメリカ合衆国、日本など103カ国(共同 提案)。問題のもととなったユランズポステンのムハンマド風 刺画(風刺画というよりも侮蔑画なのだが)の方は、何の問題にも されなかった。 2015年1月7日、フランスの雑誌、シャルリー・エブド誌が武 装した二人組に襲われ、編集者、画家など10名が射殺される事 件が発生した。シャルリー・エブド誌はそれまで繰り返しムハ ンマドや、シャリア、イスラム教を侮蔑する漫画や記事を掲載 してきた雑誌だ。犯人はアルジェリア系フランス人の兄弟で 「ムハンマドの復讐だ」と叫びながらの犯行だったと伝えられ た。 (右はシャルリー・エブド誌の「風刺画」【ムハンマドの言葉】わしの尻 はどうじゃ?みんなわしの尻も愛してるか?)
1月11日、フランス全土で300万人以上と言われる 人々が反テロを掲げて街頭に繰り出した。パリでも 数 千 か ら 数 万 単 位 で 行 進 が あ っ た。標 語 は「Je suis Charlie(私はシャルリ―・エブド紙を支持する/ 私もシャルリーだ)」。 イギリスの首相、ドイツの首相、スペインの首 相、イスラエルのネタニヤフ首相、 そしてパレス チナ暫定自治政府のアッバス議長など、フランスの オランド大統領に賛同しこの行進に参加した、とメ ディアはこぞって報じた。(ネタニヤフに関してはオ
る―次頁上、写真)。
行進の標語は「Je suis Charlie」だから、「首 脳たち」はシャルリー・エブド誌への支持を公的 に、ドラマティックに表明したわけだ。米国と日本 は申し合わせたように駐フランス大使だけが参加 し、特に高官を派遣することもしなかった。もちろ んオバマも安倍も不参加だった。米国では後でワシ
ランドに呼ばれたのではなく押し掛けだったとも言われる が、アッバスとネタニヤフを並べて見せる誘惑にオランド が勝てなかったというのが本当のところかもしれない。)
そしてこの「世界のリーダーたち」が群衆とともに パリを行進した(と当時、鳴り物入りで報じられた―下 写真―が、最近になって、「首脳」たちはSPに取り巻かれ て行進している写真だけを撮ったらしいことが判明してい
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言ってはいけないこと ントンポストなどが中心となってオバマ 大統領は参加すべきだったと批判が巻き 起こった。これを真似して日本のネット でも安倍不参加は「外交下手」などと揶 揄されもした。 シャルリー・エブド誌を支持するとい うことは、同誌が継続してきたイスラム 教を筆頭にした宗教侮蔑を「表現の自 由」として支持するということだった。 オバマはそれを避けたかった。安倍は (独自の考えがあったとは思えないが)これ を真似た。(単にフィットネスクラブかゴル フの予約と重なっていたのでスルーした可能性 も…この日に公務は入っていなかった。)
ホロコースト否定、反ユダヤ言説は 《言ってはいけない》が反イスラムは 《表現の自由》という極めて明確で乱暴
束します。(首相官邸HPより:日エジプト経済
な 二 重 規 範は、こ の よう に して作られていった。
合同委員会合における安倍内閣総理大臣政策ス ピーチ 」)安倍はこう述べたのだ。いわゆ
政権批判はテロリスト 政権批判はテロリスト支持 はテロリスト支持 1月17日、安倍首相は訪問 中のエジプトでイスラム国 対策費として「2億ドルの供 与」を 発 表 し た。日 本 政 府 は 後 に「人 道 支援 の ため の 金 で、軍 事 費 で は な い」と 強調したが、1月17日の演説 からそのようには読みとれ ない。「支援をするのは、ISIL がもたらす脅威を少しでも食 い止めるためです。地道な人 材 開 発、イ ン フ ラ 整 備 を 含 め、ISILと闘う周辺各国に、総 額で2億ドル程度、支援をお約
る人道支援は“それも含まれる”という ニュアンスで語られていて、支援の“本 体”はフツーに考えれば軍事費だろう。 二名の「日本人」がイスラム国の人質と なっていた(遅くとも昨年の10月には日本国政 府の知るところとなっていた)が、17日の発表 を受けて20日、イスラム国はこの二人の人 質を殺害すると脅迫する映像をインター ネットで公開した。身代金の額は、安倍が イスラム国と闘う資金として親米周辺政権 に供与を約束した額と同じ「2億ドル」 だった。安倍が売った喧嘩をイスラム国が 買った形だ。 この失態(あるいは猿芝居)への批判は、
しかし、日本国内で封殺されていった。野党である はずの共産党、民主党も「政権批判」自粛に走っ た。無論、その背景には青天井とも思えるほどの費 用(税金)をメディア対策につぎ込む安倍政権があ り、日本政府を批判することは敵(イスラム国)に味 方することだという、ブッシュ・ジュニア顔負けの 短絡した論理が支配するグロテスクな空気が作られ ていた。 人質となり殺害されたと言われる二人は、安倍政 権によって、個人性も歴史も奪われて、単なる『日 本人」犠牲者として、政治的に利用されることに なった。(イラク人質事件のときとは違って、政権サイド
A2A2-B-C上映中止 映画「A2-B-C」の上映が「配給会社の都合によ り」3月16日以降の上映が中止された。配給会社と の契約は後2年残っていたにも関わらず、突然の中 止通告だったようだ。イアン監督の抗議にも納得の いく答えはなかったようだ。上映そのものは、上映 権が監督に戻れば可能になるので、上映禁止という 言葉はあたらない。なぜなのかは、想像するしかな い。「福島で起こっていることについて、うそのな い、オープンな議論をすることは、もう不可能で す。そして、『A2-B-C』の国内での上映が全部キャ ンセルされてしまったことは、日本の言論の自由を 蝕んでいる病の症状でしかありません。」(イア ン・アッシュ氏談)
か ら は、不 思 議 と「自 己 責 任 論」は 聞 こ え て こ な か っ た)。安倍政権は福島原発事故と同様に、自身の失
態・過失を隠蔽して、無垢な被害者を装い、反論を 威圧した。「マッチポンプ」とはこういうことを言 うのだろう。
改めて指摘するまでもないことかもしれないが、 憲法を守ろうとか、平和を大事にしようとか、福島
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日本人学校に何が起きているのか 第一原発事故は収束しておらず危険性はむしろ高 まっているとか、アベノミクスは格差を拡大してい るとか、慰安婦問題を含めた日本の戦争責任を認め ようとか、「言えないこと」が日に日に多くなって いる。 都合の悪い言説はあからさまに力で威圧する。ヘ イト・スピーチによって言論を封殺する。経済的な 圧力をかけて封殺する。あらゆる検閲・統制の方法 が使われる。私たちはますます大声を出すしかな い。(続く)
日本人学校に 日本人学校に何が起きているのか 多田直海
2月28日に息子が台中日本人学校の中学部を卒業 した。台中の日本人学校は台北の学校とは違い小規 模である。1学年20名いたら大人数なくらいで1学年 1クラスで小学部から中学部まである。私の息子は 中学入学から3年間この日本人学校で過ごした。 制服もなく日本の公立の学校にくらべれば規則ば かりで締め付けられる事もなく、点数や成績であか らさまに競争させられ序列化されるわけではないの で比較的のんびりした雰囲気でそれに比例してかこ どもたちもおおらかな雰囲気でありある意味いい環 境といえる学校だった。 しかし、ここ1年でがらりと雰囲気が変化した。
教員は日本から派遣されてきた教員がほとんど で、数名が現地採用の教員、3年周期で帰国しまた 新しい教員が来るというシステムである。
前後になんの関連があったのか「在日のタレントは 日本にたくさんいます。有名なのは◯◯さん、他に も☓☓さんも在日で、・・・」となんの意味がある のか名前をあげて、それを生徒がまじめにノートに 書き写していた、という授業。
教員がかわると雰囲気が変わるというのもある が、何よりも気になったのは授業の内容や行事の 時の偏った感じが毎年ひどくなっているように感 じられること。人の問題なのか、それとも全体的 な文科省などの圧力のせいでの変化なのか、よく わからないのだけれどとにかくなんだか気持ちの 悪さを感じることが度々あった。
また、違う教員は学習発表会に特攻隊の劇を取り 入れ、特攻隊員が書いたという手紙を生徒に朗読さ せ突撃の前夜を劇にして発表していた。その取り扱 い方はあまりにも特攻を美化したような印象をあた えるものであり、それに付け加え、台灣とからめ台 灣の人達は沢山の人が自ら日本の為に兵隊に志願し 日本人と一緒にお国の為に戦いました。というセリ フが劇の中に出てきていた事もあり、なんだか見て いて目眩がしそうになった。 劇の最後は、現代のこどもたちが今は平和でよかっ たね、と言う終わり方だった。
ひとつは社会科の授業。近代史のあたりで日本 が戦争をはじめた理由についての説明が「インド ネシアなどアジアの国々を白人から解放するため に日本が戦争に突入した」という説明をされたと うちの息子は「おかしい」「おかしい」と帰宅後 もその話をして納得行かない様子だった。他にも
うちの息子がリハーサルを舞台袖で見ていて驚い たという劇。「これがやりたかったんだ」と満足そ うな教員に「どうせなら軍歌でも合唱したらどうで すか?」とイヤミで言った息子に「そーなんだよー 軍歌うたいたかったんだよー。やっぱりそう思うだ ろ」と言われて、さらに驚いたそう。
うちの息子も抗議したが、担任は教頭先生がそう いうから仕方ない、という返事。受験で日本に帰国 している生徒にも書き直ししてほしいとメールで 送ってくるという、まるでこどもに対する配慮もな い強引なやり方だった。すぐに電話で事情を聞いて きた保護者と私はメールで学校に問い合わせた。
時代がさかのぼっているのだろうか。 メールでのやりとりが何度かあり、教頭が中学部 の国語の教員と共に説明したいと自宅までやってき たが、終始言い訳だった。書き直しの理由につい て、生徒たちの文章について「くだらない」と言っ たと他の教員たちが話しているのにも関わらず、そ んなことは言っていないの一点張り。私の息子は 「革命」という言葉を消された。なぜ革命がダメな のかを聞いた所、他の生徒に悪影響がある。という 返事。どう悪影響があるのかまるでわからない主張 だった。
インターネットの世界ではネトウヨと言われる人 がいろんな書き込みをしていたり、街中でヘイトス ピーチが頻繁に行われるようになってきている日 本。学校の中でもなにかが大きく変わり始めている のだろうか? そんな風に感じながらあと少しで卒業という時 に、今度は文集の文章をぎりぎりになって管理職の 一声で修正されたり書き直しを命じられたり、クラ スページを差し替えられたりする事件が起こった。
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日本人学校に何が起きているのか くだらないとは言ってないが、自分は教師の立 場でこどもたちの為にこの文集はいろんな人が読 むのでその子が後々恥をかかないようにという事 で、書き直しや修正を命じた。あくまでも教育的 指導だと強調していたが、こどもが自分の書きた いテーマで書いた文章で恥をかくというのはどう いう状況なのか私にはさっぱりわからない。
それから数日後、ネットで原発問題などを取材し て発信しているおしどりマコさんが記者会見で話し た内容の中にこういうものがあった。「小学校6年 生の男の子が、卒業文集に『大きくなったら、一生 懸命勉強して、国会議員になりたい』と書こうとし ました。集団的自衛権の容認や武器輸出三原則が見 直されたことに言及して、『大きくなったら、国会 議員になって、平和な国を作りたい』という作文を 書いたんですが、公立小学校の先生から『その作文 は、政治的批判を含むので、卒業文集には載せられ ない。書き直せ』と言われました。日本の公立学校 の卒業文集に「将来、総理大臣になって平和な世の 中にしたい」という事を書いたものを「政治的だ」 とかの理由で書き直しさせられた。」という内容 だった。 日本の学校はどうなってきているのだろう。教員 はどうなってきているのだろう。
こどもたちの感性で書いたものを大人の小賢し い上辺だけを整えるような修正を加えるのが、こ どもたちの為を思ってやっていることとは到底思 えない。 いったい何を恐れてこういった事をするのか? ま る で 戦 時 中 で す ね、と 話 す 私 に「と ん で も な い、そのようなことはけっしてありません、統制 する気などまったくないです」とあわてていたけ れど、まさにそういうことなのだろう。
国際的感覚なのか?と思うような内容の事が目にも つく、その落差が危うさを映し出しているようにも 感じている。 そんな悪い教員ばかりではない、そんな変な教員 ばかりでない、いい教員もいるしちゃんと自分は やっているという人がいる。というのは勿論わかっ ている。そうではなく全体の大きな流れの事が問題 でありじわじわとそれが広がっていっているのであ れば、注意深く見て いかなければならな いのではないかと思 う。(了)
教育は怖い。かの戦争に突き進んだ時代、学校の 教育は大きくこどもたちに影響を与えた。 台灣にある日本人学校と言うことで、学校の教育 目標には「国際的感覚を養い」とか「国際人とし て」などの文字が並ぶ、が、実際どのようなものが
【左は参考写真であり、本 文とは関係ありません】
協会、 協会、引っ越しました。 しました。台湾東亜歴史資源交流協会は、2010年1月に開いた事務所をたたみ、 去年10月に新住所に引っ越しました。新住所は407407-57 台灣台中市西屯區黎明路二段972 台灣台中市西屯區黎明路二段972巷 40號で 972巷40號 す。電話番号も変わりました。新しい電話は、 (04)225104)2251-9593 です。 朝馬バスターミナルから徒歩4分、と交通至便にな りましたので、一度、覗いてみてください。 なお、旧事務所1階に設置していたE Spaceは、新たに 作り変えて、従来の展示+活動スペースをBook Cafeと しても営業できるよう改装中です。営業開始は5月1日 になる予定です。 また、旧事務所3階に設置していたゲストハウスは引 き続き新事務所にも設置していますので、ご利用くだ さい(会員、非会員、それぞれの一泊の料金は変わり ま し た。詳 し く は 本 号「Eaphet ゲ ス ト ハ ウ ス の ご 案 内」をご参照ください。
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日本人が感じた安心と不安
日本人が 日本人が感じた安心 じた安心と 安心と不安
日本大学法学部1年
最近、電車内にある週刊誌の広告はタレントのス キャンダルか、東アジアの中傷で出来上がっている ように感じる。この広告やインターネットの2チャ ンネル、ヘイトスピーチなど自分が日本に住む人間 として恥ずかしい思いになる。 彼らは、歴史認識という糸口から無理矢理入り、 文化に優劣をつけ傲慢な主張を繰り返しているにす ぎない。この傲慢さは都会のみに収まらず政治の中 心である、国会の中へも浸透している。 安部総理大臣を筆頭に、日本の議員すらも罵りの 言葉や差別的発言を昨今では繰り返している。私は 日本に住む人間として、日本政治に対し批判的な意 見を持っていることは事実だ。しかし、日本の中か ら見ているでけではあまりにも狭すぎると危機感を
白石鹿乃子
覚え、出来る限り多面的な視野で日本をみたいと 思ったのだ。そこで、台湾というフィルターを通し 日本を見つめ直す。これが、今回の旅に出るきっか けになった理由だ。 ここでは、台湾に行き感じた安心感と不信感の話 をしたい。はじめに安心感とは、母国語がいたると ころに溢れていてホッとした気持ちになったのだ。 台北の街には、日本語表記・日本製品が見受けられ た。とくに『の』という、ひらがなを見つけた。化 粧品やお菓子、ジュースなども日本のコンビニの棚 に置かれているものが、多くあり食品チェーンに関 しては、寿司はもちろん、うどんやラーメンが人気 をはくしていた。先進国といわれる日本の海外進出 を目の当たりにし、安心感と複雑さが私の胸を襲っ
た。母国語が棚の上に乗っかっている安心と、同時 に台湾の伝統や文化が、海外進出により狭まり削ら れていく矛盾をひしひしと一人ゲストハウスで感じ ていた。
たり前であるがゆえに政治などの面に関して反発 し、日本という国を好きになれないのだが一歩、言 葉が通じない国に行くと、母国語の歌や商品をみて 「日本と同じ」ということに安心している自分がい ることに気がついたのだ。
驚 い た こ と と し て、日 本 ア ニ メ な ど サ ブ カ ル チャーの認知度の高さがあげられる。コミックで は、ワンピースやドラゴンボール、ドラえもんなど 台湾の学生の多くが知っていて読んでいることが常 識化されていた。台湾はバイクを移動手段として 使ってる人が多く、そのヘルメットには排気ガスに 覆われたキティーちゃんも見ることができた。 余談になるが、日本ではアンダーグラウンドな漫 画「深夜食堂」を台湾の本屋さんでは大きな広告で 宣伝していたのだが、果たして台湾ではポピュラー なものなのだろうか?ぜひ、次に台湾に行く機会が あったら聞いてみたい。 つまり安心感とは、日本にいると日本語表記が当
次に安心感とは対照的な不信感についてだ。 日本の外交では比較的に東アジアの中では台湾 と、親交的な付き合いをしているように伺える。一 括りで語るのは難しいが、日本政府は中国に対し領 土や歴史認識を理由とし、親中とは言いがたい態度 を見せている。 一方、台湾の中でも、中国に対して「台湾独立」 を唱う人もいる。このことからわかるように、日本 と台湾は反中という面で共通し、評価しあっている ことが考えられる。そのため、台湾で出会った学生 に日本の政治に関してイメージを問うと「綺麗・ しっかりしている」などがあげられた。
これらを通し、中国に対し共感できる部分だけを クローズアップしているに過ぎないと私は感じた。 が同時にこの思いは、鏡となり自分が他国を考える 上でこの様に意見があっている部分だけを見て、評 価していたことを思い出し改める必要性を考える きっかけにもなった。 永田町で行われている、日本の外交政策のような ものをこれほどまでに自分が体感するとは正直、想 像していなかった。これらの経験から、自分・日本 人・相手(台湾人)の間でズレがあり、またこれは 先程述べた「日本と同じ」ことで安心している自分 とは異なる意見を持った。同じ敵を持ち評価の対象 にしているその姿勢は、不信感や不安感を募った。
まさに安心と不安の間に、宙づりにされた。これ だけでも、台湾に渡航した意味見いだすことが出来 た。ここで得た自分は宙づりにされているのだとい う感覚を、今後忘れずに持ち続けることでより自分 が住む日本という共同体に内在する問題と向き合 い、思考することが出来るだろう。 19歳でこんなにも、大きな視点というプレゼント を貰えたことに感謝します。2014,11,22(了)
この安心感と不信感は自分を日本人として認識さ せ、同時に外交的な付き合いを目の当たりにしたこ とから、改めて日本政治に対して主体的に介入して いく必要性を感じた。 8
辺野古・高江へ行く
辺野古・ 辺野古・高江へ 高江へ行く
う臨時のテントが設置されたのだが、それが機動隊 によって撤去され持ち去られたのだという。沖縄の 心と平和を象徴するかのような三線の演奏を妨害し たかったのではないかと勘ぐってしまう。中止にす るかという声もあったそうだが、それでも時折小雨 が降る中で演奏は始められた。次第に曲に合わせて 基地の道路を挟んで座り込みしていた人たちもカ チャーシーを踊り始める。私も見よう見まねで混
吉田藍
2015年3月4日、三線の日、私は沖縄県名護市辺 野古にいた。ここへ来るのは六年ぶりとなる。以前 来たときは見られなかった大きな検問ゲートが大浦 湾へ続く道路に建設されていた。三月だというの に、少し肌寒く、今にも雨が降り出しそうなドンヨ リした天気だ。私たちは午前十時前に到 着したのだが、その直前にゲート前に設 置されていたテントが強制撤去されたと いう。少しザワついた空気だった。この 日は三線(サンシン)の日で、沖縄各地 で三線の演奏会が催されており、辺野古 でも二十名の三線演奏者が集まり演奏会 が行われた。ここ数日小雨が降り続いて いたため、本革製の三線を濡らさないよ
ざった。基地建設が強引に進められてか ら激化している米軍・日本の警察・機動 隊・海上保安庁・民間警備との衝突で、 体を張って抵抗し、心身ともに疲弊して いるだろう。それでも心の豊かさは奪われたくない かのように奏でる三線の音色に人間の強さを感じ た。
新しくできていたゲート
沖縄県北部の名護市辺野古の大浦湾を埋め立て る新基地が建設されると発表されて以来、地元住民 や県内外、海外からもたくさんの支援者がここを訪 れ、座り込み、抗議行動をしている。 ここ数年の選挙では全て基地建設に反 対を表明した候補者が当選している。 それでも政府は「粛々と」基地建設を 進め、抗議行動をする市民たちを暴力 でもって排除している。私は今、辺野 古の問題がどう進められるかによっ て、今後の日本の民主主義の行く末が どうなるか、試されているように感じ る。2014年台湾で起こった三一八のひ
ゲート前の三線演奏
まわり運動の時、日本のメディ アは中国への影響を懸念しての 反発だとの報道もあったが、立 法院を占拠した若者たちは一貫 して自分たちの行為は台湾の民 主主義を守るためだと主張して い た。香 港 の セ ン ト ラ ル 占 拠 も、選挙によって市民の民意が 反映されるという当たり前の普 通選挙を守るために若者をはじ め市民が立ち上がった行動だっ た。辺野古市民でもある作家の 目取真俊さんがあるインタ ビューで、記者の「――米軍の
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カチャーシーを踊る
辺野古・高江へ行く キャンプ・シュワブ前の座り込みも見ま したが、若者の姿が少ないですね。」と いう質問に対し、「では聞きますが、ヤ マトゥはどうですか。東京で若い人が集 会に大勢参加しますか。沖縄だけが、香 港や台湾のように若者が燃えるはずがな い。日本では国民の圧倒的多数が政治に 無関心になった。大変なことが起きてい ても、すべて他人任せの国になってし まったのです」と答えている(註 1)。私 が行った時も、確かに若者もいたが、ど ちらかというと年配の世代が多かった。 自分たちで民主主義を守るという意識 が、今の日本(だけではないけれど)で 生まれるのは難しいことなのだろうか。遠い場所で 起こっていて、一見自分とは関係のないと思われる ことが、自分たちの未来や生活を変えてしまうこと
(右)いくつかある高江のゲート前で監視をしている方 (中)豊見山さん(左)村上さん
に危機を感じるにはどうすればいいのだろうか。こ
こで声を上げなくては、日本の民主主義が死んでい くのを傍観しているようなものだと思う。
パスポートがなかった時代は与那国と台湾は人物の 往来が盛んであったことだろう。台湾で与那国島に ついて聞くとそんなに近いことを知っている人があ まりいないことに驚く。国境という線が距離よりも 心を遠ざけているようである。その与那国と台湾は 近年経済的に連帯しようという計画がでていたとい う。2005年3月に台湾との交流で島の自立を目指す 「与那国・自立へのビジョン」というものを策定し ていた。しかし今回の投票結果を受けて、【陸上自 衛隊沿岸監視部隊の配備が町づくりの大きな要素と なるとして「自立に係る状況が変化し、ビジョンは おのずと見直しが不可欠」】(註2)となり、事実上 白紙に戻ってしまった。地元住民の中でたくさんの 議論が重ねられた結果なのだろうが、煽られた危機 感と今だけの利権でこれからのビジョンに暗雲がか かってしまうのは本当にもったいないことだと思 う。
台湾から済州島のカンジョン村に移り住み、現 在行われている海軍基地建設に反対しているエミ リー・ワンさんは済州・沖縄・台湾で孤立せずに非 武装平和三角地帯を創り、連帯しようと呼びかけて いる。もはや一地域や一国で行われている再軍備で はないことは明らかである。アメリカ、中国、ロシ ア、中東、ヨーロッパと様々な地政学的で経済的で 政治的な関係の中で、住民の生活や文化、環境はな いがしろにされ、権力が悪用されている。 先日2月22日与那国島では陸自沿岸監視部隊配備 の賛否を問う住民投票が行われた。結果は住民投票 配備賛成が上回り、今後自衛隊基地建設が進められ ていくことだろう。与那国島は沖縄県とは言え、台 湾本島からも百キロ程しか離れていない。国境線や
ゲート前で:山元さん、筆者、藤本さん、大村さん、豊見山さん
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今回、私たちを辺野古や高江 に連れて行き紹介してくれた沖 縄・韓国平和連帯の代表をして いる豊見山さんはとてもパワフ ルな方で、自分と一緒に闘う仲 間たちを「ステキな人ばかりな ん だ!」と口癖のように褒め て いる。そして何度も辺野古の闘 いは決して孤独ではないと強調 していた。沖縄の運動を知らな い人たちは、抗議しているのは 一部の過激な思想の人なんだろ うと敬遠してしまいがちかもし れない。本土からきた左翼だと か、もしくは中国寄りの共産主 義者だとか(それが悪い意味が あるとは私は思わないが)ヘイ
辺野古・高江へ行く トスピーチをわざわざ沖縄まで来て行う人さえもい る。沖縄での運動と他の地域での様々な運動(反原 発、反基地、反リニアなど)と少し違うと思うの が、沖縄では圧倒的に反基地の住民の方が多いので ある。しかもそれは長い長い反基地闘争の歴史の中 で人々の意識の中に染み込んでいるもので、外から 来た私には容易に理解できるものではない気がす る。 豊見山さんと「圧殺の海」の監督・藤本さんと 那覇中心部の居酒屋に行った時のことだ。そのお店 の店長さんは、時間がなくて自分はなかなか辺野古 に行けない代わりに、真夏の炎天下の中座り込みを している人たちのために日除けになる大きなテント を提供してくれたので、行ってみようということに なったのだ。初めて行ったその店で店長さんは辺野 古で運動している二人が来てくれたことをとても喜 び、私たちにこっそりと色々とサービスしてくれ
た。まだ若い店長とスタッフで、おしゃれな店内 に、沖縄のおいしい郷土料理と魚を提供している。 カウンター席でこれまでの運動や今後のことなどを 盛り上がって話していたのだが、ふと店長さんが隣 に座っている島の外から来たらしき観光客に熱心に 語りかけているのが耳に入った。「私たち“うち なーんちゅ”は基地はいらないんですよ、基地があ ることでかえって沖縄の発展は阻害されるんです」 という内容だった。私は何だか胸がジーンと熱く なった。毎日の忙しさの中で次第に遠い問題として 片づけてしまいそうな出来事がたくさんある。実際 に自分の身に危険を及ぼしているものでさえだ。し かし、世の中をより良くしていこうという行動は、 生活の一部であるべきだと改めて感じた。 観 光客 が集ま る国 際通り を歩 いてい る時 だっ た。若い米兵らしきグループが私たちの前を歩いて いた。少し先に路上で自分の書いた絵を丁寧にガラ
スの張った額縁に入れ売っている男性がいた。ある 一人の米兵がそのガラスを不用意に踏みつけた。し かしその米兵は何事もなかったように、ちっとも気 にも留めず、そのまま歩いて行ってしまった。何だ かそれがまるで沖縄の置かれている状況のように見 えてしまった。その時傍観していた私は「ちょっと 待って!」と声を上げなくてはいけなった。 現在ますます政府と沖縄の対立は深まり、抗議活 動も激しくなっている様子を台湾から歯がゆく見て いる。沖縄以外でも様々な地域で軍備が拡張され、 軍事費も増大していく。ロシアと中国が米ドルを基 軸通貨として使用しない経済圏を作り、中国が中心 となったアジアインフラ投資銀行が開始される。そ ういった激変の中でものごとが繋がって起こってい ることだという認識が必要なのだと思う。台湾もま た無理やりにでも変化を迫られようとしている。私 たちは生活をしながらも、この激流に流されないよ
う 声 を 上 げ て い か な く て は い け な い の だ ろ う。 (了) (註1)琉球新報2015年3月11日付【与那国、台湾交流見直
しへ
陸自配備で自立策転換】
(註2)朝日デジタル2015年3月13日付【(インタビュー)対 立の海で カヌーで移設に抗議する小説家・目取真俊さ ん】
危険な 危険な権威主義国《 権威主義国《日本国》【 日本国》【1 》【1】 Awil Kazuo
3 月 23 日、シ ン ガ ポ ー ル の「父」、リ ー・ク ワ ン・ユー(李光耀)が亡くなった。91歳だったそう だ。宗主国イギリスのケンブリッジ大学で教育を受 け、弁 護 士 と し て シ ン ガ ポ ー ル に 帰 っ た 若 き ハ リー・リーの頭の中にあったものが何だったにせ
よ、人民行動党(People’s Action Party:PAP)の一党独 裁体制の下に世界に冠たる長期権威主義体制を作り 上げた人物として記憶されることになるだろう。李 の権威主義体制は、強権政治によって社会主義と資 本主義のバランスをとる巧妙な経済政策と、民族政 策によって支えられてきた。振り返ってみれば、実 に見事な「権威主義の教科書」のような強権ぶり だった。メディアはSingapore Press Holdings / Media Corp によって完全に政府の統制下に置かれ、人民 の声はコントロールされ、造反者は厳しく処分され る。PAP以外の候補者が選挙で万が一勝とうものな ら、汚職事件をでっちあげて葬り去る。シンガポー ルの民主主義はどこにあるのか、と批判されたと き、李はアジアにはアジア的価値があるのだと居 直って見せた。
孫)が夢見るのは李のような手腕なのかもしれな い。岸信介の孫に、李のカリスマ性はない。しか し、1945年以来、アメリカ合衆国の軍事主義の下で 民主主義を強権発動によって回避しながら開発優先 の権威主義体制を維持してきたという日本国の社会 体制は、シンガポールに似ていなくもない。 権威主義(体制)という概念が提唱されたのは19 世紀後半で、その意味は、辞書では簡単に、 ▼「自由よりも与えられた秩序を優先する体制」と か ▼「政府が絶対的な―あるいは絶対的に近いコント ロールを持ち、そのコントロールは武力(力)に よって維持され、人々の意見や司法システムは力を 持たない体制」とか ▼「権威への盲目的な服従の体制」 といった定義を与えられている。もちろん、これら
現在の日本国のPAP、自由民主党総裁(岸信介の
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危険な権威主義国《日本国》 3)人々が政治的に深く、広く動員されることがな いように人 人々の大規模行動に 大規模行動に制限を 制限を加える(たとえ える ば、権力への敵対者への抑圧的な戦略や、権力への 反対活動の禁止など)
は程度問題であり、たとえば全体主義との間に、あ るいは擬態としての民主主義との間に明確な線引き ができるわけでもない。 フアン・リンスという人は1960年代に権威主義体 制をもう少し明確に識別すべく、権威主義に四つの 特徴を指摘した。それは、
4)権力の 権力の定義( 定義(何ができて、 ができて、何ができないか) ができないか)を あいまいにする あいまい
1)限 限 られた、 られた、責任の 責任の 伴わない政治的多元主義 わない 政治的多元主義(一 政治的多元主義 見多元主義―例えば多くの政党や政治機関、あるい はグループが存在する―のように見えるが、その多 元性は限定されており、しかも、中心となる政治勢 力に対して力のないものなので無責任な主張しかで きない)
の四つだと言われている。これら四つがまったく存 在しない体制を現在の世界に見つけることはむずか しいかもしれないが、四つすべてが一定期間に渡っ て(長期的に)あてはまる場所と言えば、いくつか に限定されよう。その一つは間違いなく日本国だ。
2)権力 権力の 権力 の 正統性の 正統性 の根拠は 根拠は 感情的であり、特に、そ 感情的 の権力が「 「分かりやすい社会問題 かりやすい社会問題」( えば貧困や 社会問題」(例 」(例えば貧困 貧困や 反乱) 反乱)と闘うための必要悪 うための必要悪だと 必要悪だと信 だと信じられている場合 じられている が多い
1. 対抗性を 対抗性を持たない多元主義 たない多元主義 最初の特徴をこう呼んでおくことにするが、その 意味は、権力を持つ勢力に対抗・敵対する勢力とい うものが形式的には存在しながら、それらは擬態と しての対抗性しか持たず、擬態としての民主政治を
演じてみせるためのものになっている状態を指す。 対抗性は何よりも価値観の対抗性であり、それが 多元性の根幹をなすものだ。相手が重要だと考える 価値について、こちらは別のものを重要だと考える ―そこに対抗性が生じる。対抗性が擬態と化すの は、権力が主張する「重要性」を対抗勢力が受け入 れてしまう(そもそも受け入れた上で、枝葉末節的 な部分で対抗を演じて見せる、という方が分かりや すいか)ときだろう。 戦後の日本共産党がレッドパージ以前からすでに 天皇制存続を支持し、天皇制を受け入れ、さらに資 本主義の拡大を受け入れてきたこと、2004年には自 衛隊と言う名の軍隊の存在も受け入れてきたこと は、一つの例にすぎないが、日本国の政治状況を簡 潔に物語っていよう。天皇制とは権力を神聖化する システムであると同時に、明治以降は特権階級を温 存し、同階級によるぼったくり資本主義を「国益」
とする価値観を象徴的に支えるものになっている。 1951年、サンフランシスコ講和条約締結をもって 「連合国」との間の戦争が終結し、日本国は主権を 回復したと“言われる”が、実態はアメリカ合衆国 が日本の傀儡勢力との間で強引に講和を進め、傀儡 政権を維持した。講和の日本側の主体となるべき政 治勢力が日本国内で民主的に作られていたわけで も、「連合国」というもう一方の集合的な主体が存 在したわけでもない。にもかかわらず「連合国と日 本の間に講和が成立した」と称されたことは大きな 欺瞞だった。 アメリカ合衆国を主体とする「連合国」との講和 は、太平洋戦争に関する講和でしかなく、1930年代 からの中国侵略、アジア侵略は“勘定に入って”い なかった。それゆえ中国(大陸にせよ、台湾にせ よ)も、ソビエトも、朝鮮(北にせよ、南にせよ)
自民党の元総裁の祖父にあたる岸信介は極東国際 軍事裁判でA級戦犯被疑者として3年半拘留された が、GHQの「逆コース」の中で起訴を免れ公職追 放された。その岸が(欺瞞の講和条約後)CIAの資 金援助で政界に返り咲き、結党されたばかりの自民 党の幹事長を経て、60年安保を通すために総裁に据 えられた。岸はCIAの金を使ってヤクザ等を動員、 60年安保に反対する人々を暴力で蹴散らした。岸と 同様にCIAから資金を得ていた正力松太郎(読売新 聞社主)はメディア業界に影響力を強め、反政府言 論を抑え込んだ。 日本国はシンガポールのように社会主義を標榜し たことはなく、逆コース前の一時的な福祉社会路線 の残滓以外は圧倒的な資本主義化路線を歩んだと言 えるかもしれない。そのため米国同様に表立っての 言論統制はできなかった。そこで使われたのが、 (例えば逆コース時代の国鉄三大ミステリーに代表
も講和の主体には入っていなかった。インドはこう した事態に対する疑問から、講和条約への参加を拒 否した。 欺瞞的な講和条約を日本国の名で締結し、米軍の 長期駐留を受け入れた日本国政府もまた、連合国同 様に人民代表というにはほど遠い存在だった。吉田 茂、自 由 党 内 閣 は 翼 賛 体 制 に「批 判 的 だ っ た」 (?)という理由でGHQに許容されたわけだが、全 体主義時代の残滓以外のものではなく、全体主義批 判もそこに協力してきたことへの自己批判もないま ま、敗戦後のショックの中で市民が必要悪として (あくまで受動的に)受け入れざるを得なかった既 得権者を代表する政権でしかなかった。 欺瞞の講和条約の数年後(1955年)に、この自由 党が日本民主党と“保守合同”して自由民主党(自 民党)を作るわけだが、その顔ぶれには敗戦前から の既得権者たちがずらっと並んでいる。
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ゲストハウス新装オープン されるような)でっち上げのテロ事件もどきだっ た。下山事件、三鷹事件、松川事件はどれも労働運 動を共産主義と、そしてさらにテロと結びつけて封 殺する手口だった。60年代、70年代の社会運動にも 同様の手口が使われ、社会運動は一様に「過激派」 とレッテルを貼られ、一般市民の敵であるかのよう に巧妙に情報操作がなされた。(続く)
Eaphet ゲストハウス新装 ゲストハウス新装オープン 新装オープン 協会の引っ越しに伴い、ゲストハウスも新協会の 4階に移りましたのでご案内します。 仮称:Eaphetゲストハウス 住所:〒407-57台灣台中市西屯區黎明路二段972巷 住所 40號4F 電話(04)2251-9593 交通:バスターミナル「朝馬」から徒歩4分 交通 (台北あるいは桃園空港から台中行きの高速バスで 「朝馬」―台中駅の手前―で下車、歩いて4分) 市内からは、BRT「秋紅谷」駅下車、徒歩4分。 高速鉄道(高鉄)「台中駅」からはタクシーが便利 です(120元くらい) 部屋:基本的に二部屋、ドミトリー的な施設です。 部屋 下に部屋の紹介を載せます。収容人数は、12名~15
名(最大)。トイレ・シャワー・台所共用。 料金:会員1泊200元/非会員1泊400元(朝食が必要 料金 な場合には1食100元) 予約・ 上 予約・問 い 合 わせ:makoue37@gmail.com(担当 わせ 前昌子) Eaphetゲストハウスは、Eaphet会員とそのお友達 のためのものです。宿泊施設として営業はしていま せん。
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ゲストハウス新装オープン
河馬(部屋の名前) 二 段 ベ ッ ド 4 人 分 常 備。ロ ッ カ ー あ り。折 り た た み ベ ッ ド 2 つ、床に寝具を敷けば、定員は8 人ほどになります。
シマウマ ベッド2つ常備。こちらは家族用にも なり、定員5人ほどになります。
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故郷に想いを、夢と日本の行方 実験的にリニアがある。それはとても速い乗り物 で、将来君達が大人になったら走ってるかも」なん て他人事のような感じだった。当時まだ社会のこと 県のこと、自分の家のこと日本のこと、全てに対し て興味という感覚は芽生えておらず、あって当然、 平和は当たり前みたいな田舎の子供だった。都会も 同じだろうか?原発の存在を知ったのもちょうどそ の頃で「ウランというものは再利用できて発電する にはとてもいい」なんて感じで教わった気がする。 色々知ってから、「なんてぞんざいな洗脳をされて いたのだろうか!」と思った。後にリニアが実家と 関わるなんて、原発が世界的な人類の兵器だったな んて、リニアと原発が切れない関係になるなんて、 詳しくは後述致します。 10年ほど前、ネットの普及はまだまだな田舎は情 報が少なく、県外に出たことのある人とそんな幼少 期の話を今になって振り返ってみると「狭い世界に
故郷に 故郷に想いを、 いを、夢と日本の 日本の行方 私の庭にリニア中央新幹線 にリニア中央新幹線が 中央新幹線が― 笠井美那
「知らぬ存ぜぬ」なんて言葉があるが、被害者に なった人は被害に遭う前に実態を知ろうとせずに結 果が出てから被害者になっているパターンが多いよ うにも思える。もちろん回避できないものもある が。「知らなかった!なんで!!」なんて思っても 現状は現実そのもの。病気も、事故も、原発も同 じ。結果が出てからでは遅い。泣き寝入りする前に できることがあったのではないかと自分を叱る必要 もあるのかもしれない。そう、私も自分を律するよ うに今文字を綴っています。 私がリニアを知ったのは小学5か6年生の時。社会 の授業でのことだった。「自分の県の山梨でなんか
いた」と嘆かわしい言葉を言い合ったりすることも あるほどだ。知らなかったでは通用しない。「知ら ないこと、知ろうとしないことは罪である」という ことを高校、大学の7年間に県外に出て学んだこと になるのだろう。知らぬ間に自分の大切なものを 失ってしまうこともあるのだから。情報社会な現代 だが、自ら情報を探し、生き抜かなくてはいけなく なってきた。被害者になる前に、奪われる前に、涙 を流す前に。 大切なものを護るのに行動していく必要があるな んて、ただ生きることにこんなも息苦しさを感じて しまう。今の日本は生きにくいと思っている人も少 なくはないだろう。
くない。私は高校、大学を県外で過ごした。あまり にふるさとの開発が急ピッチに進む姿を直視出来な くて逃げるように県外にいたのだ。中学生時代は、 山や田んぼ、緑を美術の授業でひたすら描いてい た。その見えていた景色が見えなくなっていったの だ。その故郷を離れて7年間に沢山の事を学び、経 験出来たおかげで前向きになっていけたと思う。 「必ず戻って、そこで家族と生きていこう」と決 意して大学で国家資格の勉強に本腰を入れ始めた ちょうどその頃、リニアのルート最終案が公表され た。大学4年の9月。 そのほんの数年前に父の口から「リニアのルート
「ふるさと」とはなんだろう。ものすごく古典的 な考えだが、私は「自分の帰る場所、受け継いでい くもの、護るもの」そのものだと思って生きてき た。私の祖母の世代なんかはその集落から出たこと なんて数える程しかないと口を揃えて言う人も少な
になるかも」なんて言葉を聞いた記憶があった。そ の時はありえないと思ってあまり意識的に自分の中 に言葉を落とし込んでいなかった。同年10月、故郷 の市内でJR側からの説明会なんて形だけのイベント があり、授業返上で前日帰郷した。そのギリギリま で勉強は手につかず必死にリニアはもちろん、電磁 波問題、実験線の悲惨な被害のことを調べていた。 「夢の超特急リニア」なんて謳い文句。一体誰の 夢であるかを是非とも伺いたい!その夢に私のささ やかで決して大きくない「実家で家族と農業をして 生きていきたい」という夢はぶっ潰されるんですけ ど! 実験線の住民なんて被害を保証されきってなくて 一日中日陰の家にいるなんて人も。開発で山々の水 源が枯れて動植物はもちろん、農業資源の要の水ま
でなくなってしまった事実もある。都心は地下の ルートで、人の多い街中の地下を超特急で走行する なんて地震大国がなんてむちゃくちゃな。万が一事 故が起きてもリニア車内は車掌がいない無人運転で 避難誘導は乗車客同士で協力し合えだなんて言って たり。ユネスコのエコパークに指定された自然環境 豊かな南アルプスに大きなトンネルの穴を空けるな んて生態系の影響が出るに決まっているじゃないで
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故郷に想いを、夢と日本の行方 すか。誰だって家に穴空いたら住み続けたくないと 思いますし。しかも穴掘った残土をまた山に捨てる なんてそんなアホな。 従来の新幹線の数倍以上の電気を必要とするリニ アは原発再稼働の理由づけにピッタリだから国も支 援する気満々。JRのトップが原発推進派で有名です からね。「絶対にペイしない」というお話は「なの で原発再稼働して」と続くはず。JRは元々、国の鉄 道だったから国との関係はなかなか切っても切れな いもので。 こんなあげてもキリがない問題を数字で誤魔化 し、まずいものは綺麗な日本語でオブラートに包ん で良いとこだけメデイアに公開して。そうして自分 たちに不利な情報を上手く細工することに長けてい るから洗脳する側の大きな団体は怖いとつくづく思 う。国も然り。
耳にするワードで「丁寧な説明、理解を得る、意見 を聞く」なんていかにも綺麗な日本語の三種の神 器。私なんてもう耳にタコで、このワードが聞こえ た瞬間、その人物は胡散臭さ満載の人間にしか思え なくなってきてしまった。 故郷の説明会もそんな感じで全く誠意が感じられ なかった。終了した地域の取材に対してのJR側は 「住民に理解をしていただけたと思います」とき た。逆に住民側は「不安が募るばかりで」なのに。 今現在でも不安や疑問は解消されきっておらず、 課題ばかり。それでも昨年末に名古屋、品川駅の開 発のニュースが。用地取得交渉や残土置き場の候補 地の話も進みきっていない。おかしなもんだ。こん な矛盾なんて今や珍しくない日本。いや、世界的に その傾向は強くなっているのかもしれない。 一体どこに向かっているのだろうか。故郷を大切 にする意識が薄れ、戻るという選択肢を失った若者
政治や社会問題に気を配るようになってから度々
が増えて過疎化が進み、多忙な仕事や経済的な負担 は増していくばかり。家族を思いやれなくなって介 護需要、少子化が加速、過剰な消費と生産を繰り返 した残骸は自然破壊の要因。何をそんなに一生懸命 に走っているのだろうか。何を守りたいが為に犠牲 を生み続けるのだろうか。世界のトップになりたい のだろうか。目的がはっきりしているのだろうか。 日本は自然や神を意識して生きてきた民族でその 偉大さを知っていたはず。現代でもお金で、科学技 術で代用できないものは無数にあるが、本物の素晴 らしさ、かけがえのなさを知っている人は今の日本 には少ないのかもしれない。取り返しのきかない場 所に行く前に気がついてくれる人を増やさなけれ ば、遠くない将来また自然の大きな力で痛い目を見 ることになる。失うことは簡単でもそれを取り戻し たり、元に戻すことは神ではない人間では無理だ と、いい加減自覚もって行くべきだ。(了)
2月《【蠱惑的假面】不要!分裂中的台灣‧沖繩‧濟州》と称 して、映画祭、分享会、一日ツアーと、一連の活動を行い ました。そのご報告は次号にて。
編集後記(阿川)一体、何ヶ月「遅れてしまった」のかもう分からないほど、この20号日文版の出版は 遅れに遅れました。ふかーく陳謝するしかありません。原因は(言い訳は)協会の引っ越しでした。BRT (新しいバス)、MRT(モノレールみたいな電車)と次つぎに新しいインフラを作り、地元では誰も買わ ないような高級マンションをにょきにょきぶっ建て、オペラハウスまで作って地価を無理やり上げてし まった台中市。元の協会の大家が「今が売りどきなの、ごめんね」と私たちを追い出したのが去年の10 月。引っ越すんだったら、かねて話があったゲストハウスの充実と、カフェ兼活動場所を作ろうという野 望に燃えてしまったために問題はさらに複雑に。新しく借りた場所の改装工事などすべて自分たちの手 で、というのも振り返ってみれば野望でした。おかげでバタバタの三乗くらいになって、あらゆることが 遅れに遅れ…。カフェ店はゆっくり本が読めて、スローフードとスローカフェがある店で、名称もすった もんだの末に「象仔書屋」と決まりました。「書屋」は日文的には本屋さんみたいに見えますが、中文的 には本を読む場所というイメージらしいです。古本の販売、書籍の交換コーナーなども設けます。主に日 文、中文、英文の“面白い”書籍、児童書を揃えていきたいと思っています。なお珈琲は、スタディツ アーでお世話になっているフィリピン、コルディエーラのAgroforestryのエコ珈琲豆で勝負します。試験開 店は5/1の予定です。象仔書屋とゲストハウス、Eaphetの姉妹施設としてご利用ください。【2月に行った平 和の島連帯会議関連の一連の活動についても本号で記事にするべきでしたが、バタバタのせいで次号(20 号中文)に譲らざるを得ません。ご容赦ください。】
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