Philippine Tour 2011

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2011 夏・冬 Philippines Study Tour 東アジアと アジアとアメリカ合衆国 アメリカ合衆国 Act. 3 3-1 フィリピンと フィリピンとアメリカ合衆国 アメリカ合衆国 7/13-7/20 Manila/Baguio/Bulacan

3-2 第二回アジア 第二回アジア太平洋平和慰霊祭 アジア太平洋平和慰霊祭 とイゴロットの イゴロットの復権運動 12/5-12/10 Baguio/ /Itogon

両ツアー主意書 両ツアー日程/参加者 3-1アメリカ合衆国とフィリピン 3-1米国とフィリピンメモ(古川ちかし) 3-1活動報告(Iwan思懿) 3-1Newsletter記事より アメリカは アメリカは私たちの心 たちの心を飼いならした― いならした ベティ・リスティノさんとリサーチ・メイトの活動

Give us justice now!― now! リラ・ピリピナのローラたち

フォト・ フォト・エッセー“ エッセー“距離” 距離”(呉偉祺) 3-2第二回アジア太平洋平和慰霊祭と

イゴロットの復権運動メモ(古川ちかし) ツアー日記(宮平杏奈) ツアーで考えたこと(参加者報告) (比屋根亮太・宮平杏奈・古川ちかし)

マニラ新聞の記事

編輯部


東アジアと アジアとアメリカ合衆国 アメリカ合衆国 Act.3 フィリピン編 フィリピン編 1945年以降アメリカ合衆国は東 アジアにとって、それ以前と比べ て格段に無視できない存在となり ました。アメリカ合衆国の冷戦体 制の下に東アジア(政 治、経 済、軍 事)は 再 編成されてきました。 東 ア ジア の「戦後」は アメリカ合衆国の影響 を無視しては語れないのですが、 各国の歴史の中から、アメリカ合 衆 国 の 影 は 奇 妙 に「拭 い 去 ら れ て」います。台湾・韓国・日本は いわゆる「美援」(アメリカ合衆国からの援 助)によって経済発展を遂げましたが、その 代償は親米・反共の独裁政権となり冷戦終了 時まで“民主化”は棚上げされました。こう した歴史は政治にだけではなく食料事情、宗 教、エネルギー、社会運動にまで反映されて います。このツアーでは、台湾におけるアメ リカ合衆国の足跡を辿りながら、私たちの 「今」を考え直していこうと思います。

主意書 1945年以來,美國對東亞而言已成為無 法令人乎視的存在了。在美國的冷戰體制 之下東亞各方面(政治、經濟、軍事)皆 重新洗牌了。跳過美國的影響便無法談論 東亞的「戰後」,然而美國的蹤影卻奇妙 地從各國歷史中「被抹除」了。台灣.韓 國.日 本 因 接 受「美 援(來 自 美 國 的 援 助)」而促使經濟發達,然而其代價是直 至冷戰結束以前都成為了親美.反共的獨 裁政權,"民主化"便被擱置一旁。這樣 的歷史不只反映在政治上,也延續到食品 狀況、宗教、能源乃至社會運動。此次的 台灣之旅,我們將追溯美國在台灣所留下 的足跡,同時重新思考我們的「現在」。

3-1 フィリピンとアメリカ合衆国 7/13-20 スペインがこの地を植民地にすることによって「フィリピ ン」という単位を作り出した。そのスペインから(スペイン 戦争によって)この地を割譲されたアメリカは、ここをアジ ア太平洋貿易の拠点とすべく“同化”していく(1989年~) が日本帝国のアジア侵略、英国、フランス、ドイツなどの中 国大陸侵略と、アジア市場支配をめぐる競争のさなかにあっ てなかなか思うように同化支配が徹底しなかった。そこに太 平洋戦争が起き、フィリピンはすぐに日本帝国軍によって制 圧された。数年後の日本帝国の敗戦とその後の中華人民共和 国成立、さらに朝鮮戦争の敗北(暫定的な停戦)によって北 朝鮮が安定化したことによって、東アジアの地政図は大きく 変化した。ソ連-中共-北朝鮮という共産主義勢力に対し て、アメリカ合衆国の商業的関心を防衛するための軍事拠 点は、南コリア-日本に移り、フィリピンの重要性は低下


した。マッカーサーの失脚も、これに影響しただろう。 フィリピ ンはアメリカ合衆国の関心の推移の中で翻弄された。上層の住民が カソリック教会に通いスペイン系の名前を持ち、英語教育を受けア メリカと同化していく中、中間層が育たず、下層の人々は捨て置か れ、インフラも社会も近代化の半ばで中途半端に放置された。1946 年の第三共和国の成立以後もアメリカ合衆国の強い影響下にあり 「アメリカは父親だ」という言説が「忌むべき植民地根性」という 揶揄を受けながらも根強く主流に留まり続けている。そうしたフィ リピンの歴史と現在に焦点を当てて旅した。 3-2 第 二 回 ア ジ ア 太 平 洋 平 和 慰 霊 祭 と イ ゴ ロ ッ ト の 復 権 運 動 12/5-10 バギオ-ベンゲット地方に“イゴロット”(タガログ語で 「山の人」)と総称される先住民がいる。本来は蔑称だが、これを 自分達の名乗りとして新たな意味を生み出していこうという若者た ち が い る。リ サ ー チ メ イ ト(ReserachMate, Inc.) だ。前 回 の 旅 (3-1リサーチメイト)で出会い、意気投合した。今回の旅は、こ のリサーチメイトと今泉光司さん(バギオを拠点とする映画作家 で、NGO「サルボン」代表)、さらに地元のSEEDSなどの団体の合同 企画である「第二回アジア太平洋慰霊祭+フォーラム」への参加を 主目的とした。この企画は、今泉さんが製作していた元日本兵のド キュメンタリーと、リサーチメイトが製作してきた太平洋戦争末期 のベンゲットにおけるイゴロット歩兵部隊(第66歩兵連隊と呼ばれ た抗日ゲリラ組織)のドキュメンタリー、Project 66…この二本の 同時上映を柱に、国籍や民族を問わず、大戦の犠牲者を慰霊し、平 和を構想しようというものだそうだ。バギオ日系人会、リサーチメ イト、バギオ市民そのほかの参加を得て、企画はバギオで実施され た。 また、イゴロット地域のイトゴン行政区(イバロイ)の協力で、 同地にて第66歩兵連隊の退役軍人らの参加も得ながら、イバロイ伝 統儀式による慰霊祭も続いて催し、平地と山地の交流にもなった。


3-1 表

フィリピンと フィリピンと アメリカ合衆国 アメリカ 合衆国

日程 3-1 フィリピンと フィリピン と アメリカ 合衆国、 合衆国、参加者

7/13(三)午後17:30発 PR899 19:30 マニ ラ着 迎え:Brillo 宿泊:Stone House B&B, Quezon City 7/14(四)午前07時 UP Diliman(フィリピン 国立大学ディリマン校)にてJon先生のクラ ス見学 10:30 Lila Pilipina(日本軍によ る性的被害者の家)訪問 午後はマニラの アメリカ合衆国関係施設(Veterans’Center Museum, American Cemetaryなど)見学 7/15(五)午 前 10 時 CHR(Commission of Human Rights, UP Diliman内)訪問 午後 アヤラ博物館見学予定など 20:15 Cubao Terminalよりバギオに出発 迎え:今泉光司 宿泊:Benguet State University’s Guest House 7/16(六)午前7時、Kennon Roadの30KM地点ま で乗り合い自動車。10時IbaloiのCadian村 にて結婚式に参加。午後La Trinidadに戻 り、市営市場見学。夕方、バギオの重富ト メ さ ん 宅 を 訪 問。食 事 を 一 緒 に す る。宿 泊 : Benguet State University’s Guest House 7/17(日)午 前 中 は バ ギ オ 見 学。Bencab 美 術 館、モ ス リ ム 探 し、Camp John-Hay キ ャ ン プ・ジョンヘイ。夕方から夜、La Trinidad のResearchMate訪問。宿泊:バギオのホテ ル。 7/18(一)9時にBaliwag に向けて出発。午後5 時、ブ ラ カ ン の 高 藤 邸 到 着。宿 泊 : 高 藤 邸。 7/19(二)10:30ころ、高藤辰子さんとともに Bethlehem見学。川沿いの不法居住区見学。 昼、以前台中にいたOFWの人と落ち合って歓 談。午 後 6 時、ブ ラ カ ン 発、マ ニ ラ へ。宿 泊: Stone House B&B, Quezon City 7/20(三)午前4:30ホテル出発、空港へ。7: 30発PR896にて台北へ。

宮平杏奈 (全日程参加) 陳 思懿(全日程参加) 吳偉祺(全日程参加) Geronimo Paras Brillo(一部を 除き全日程参加) 古川ちかし(全日程参加コー ディネーター) 協力者 今泉光司(サルボン) 高藤辰子(Kibo-Pag-Asa) Betty Capaway Listino (ResearchMate, Inc.) Rechilda Extremadura (Lila Pilipina) Geronimo Paras Brillo 協力団体 University of the Philippines Lila Pilipina Commission of Human Rights Benguet State University ResearchMate, Inc. Internet Café, SDS Kibo-Pag-Asa Bethlehem Aquatters’ Brgy. next to Bethlehem 収支決算(補助金なし) 収支決算 予算:一人15000元 実行:予算を若干下回った!成 功。

第二回 アジア太平洋平和慰 アジア 太平洋平和慰 3-2 第二回アジア 第二回 アジア太平洋平和慰霊祭 アジア太平洋平和慰霊祭と 太平洋平和慰霊祭と イゴロットの イゴロット の 3-2 第二回アジア 霊祭と イゴロットの の 復権運動、 霊祭 と イゴロット 復権運動、 復権運動 日程表 12/5(一)古川と宮平は午前1:25 5J-311(Cebu Pacific) にて台北発、マニラ到着03:35。出発が45分ほど遅れた が、マニラで先着していた比屋根と合流。パサイまで ジ ー プ二 ーで 向か う。パ サ イ発 9 時15 分バ ギオ行 き の Victory Linerに乗り、4時ごろにバギオ着。Peoples’ Parkで今泉さんと落ち合い、ホテルへ。 12/6(二)10:00-17:00 バギオ日系人会(Abong)にて、事前 勉強会に参加。日系人会関係者4、5名とともにNHKのド キュメンタリー「マニラ市街戦」などを見て討論する。 12/7(三)10:00-17:00 バギオ日系人会にて勉強会二日目。 台湾と先住民について古川プレゼン。 12/8(四)10:00-12:00 キャンプ・ジョンヘイ内のBell円形 劇場にて慰霊祭。13:30-14:00 Japanese Trail散策。そ の後、Itogonに移動。 12/9(五)09:00―ItogonにてIbaloi慰霊の儀式に参加。午後 は同地にて平和フォーラムに参加。 12/10(六)09:15 古川と宮平はバギオよりマニラに向けてバ スで出発。マニラ発22:40、5J-310にて台北に向かう。

参加者 宮平杏奈 (全日程参加) 比屋根亮太(全日程参加) 古川ちかし(全日程参加コー ディネーター)

協力者 今泉光司(サルボン) Marie Balangue(SEEDS) Betty Capaway Listino ほか (ResearchMate, Inc.) 協力団体 バギオ日系人協会 サルボン ResearchMate, Inc. 収支決算(補助金なし) 収支決算 予算:一人10000元/実行:予 算を下回った!成功。


フィリピンと フィリピンとアメリカ合衆国軍 アメリカ合衆国軍 アメリカ合衆国は、韓国ではイ・スンマン(李承晩)反共軍事政権を打 ち立て、台湾は同じく蒋介石反共軍事政権を支持、日本には(共産化への 最大の防波堤として)天皇制を存続させ、フィリピンでは旧支配層である 地主層を(これも反共の防波堤として)育て、アメリカ合衆国軍の”極 東”戦略に利用していった、という”戦後”の冷戦体制作りが見えてく る。こうした”戦後”の国家体制を「アメリカ合衆国の傀儡政権」と呼ぶ 人もいるが、ある意味ではまったくそうだ。台湾の蒋介石政権も、あれだ けアメリカ合衆国の後押しがなければ存続したはずがない。その後、いか にアメリカ合衆国にとって悩みの種になったとしても、”戦後”の段階、 特に中国に共産党政権が樹立されてから1970年くらいまでの冷戦期には、 台湾もまた防共ラインの重要な一角であったわけだから。 1992年にクラーク空軍基地、スービック海軍基地が撤退し、点在してい たアメリカ合衆国の軍事キャンプも撤収された。その経緯は下を見てほし いが、アメリカ合衆国は1999年5月に訪問米軍地位協定(VFA)を批准し、 フィリピンへの米軍再駐留への道を開いた。 田中宇さんが書いているように、アメリカ合衆国軍にとってフィリピン の重要性はかなり変動を繰り返してきたようだが、911以降、ますますフィ リピン軍とアメリカ合衆国軍とは連携を強めている。ミンダナオの”過激 派”、アブサヤフを攻撃するためと称して、アメリカ合衆国は3000人から の海兵隊をフィリピンに送り込んでいるし、現在進行中の米軍再編によっ て、沖縄や日本本土での演習をやめて、大きな演習はフィリピンにもって いくことでフィリピン政府とも合意しているらしい。つまり、グアムや沖 縄から、演習の際にはフィリピンに(沖縄から)米軍が行って、フィリピ ン軍とも合同演習をする、そういう体制がすでに構想されている。そうい うことをするためには、19世紀から根強く存在してきた反米勢力を駆逐し ていく必要があるわけで、アブサヤフを名目に送り込まれている3000人か らの海兵隊の本当の仕事はそのあたりにあるのではないかという推測もで きる。 アブサヤフという組織は、そんなに大きな組織でもないし、フィリピン 政府もアメリカ合衆国軍も、どこをどうたたいたらアブサヤフを壊滅でき るかすでに知っているという説がある。で、なぜ、叩き潰さないかと言う と、アブサヤフが対テロ戦争の名目になっているから。実際には、共産党 員も含めたすべての反政府―この「政府」というのはフィリピンの昔から の支配層の代表だが―勢力を牽制して、口実があれば叩き潰していくため に3000人からの軍隊の威圧力が必要とされている。対テロという名目は、 平時の法律を乗り越えて(ちょうど戒厳令下のように)反体制勢力を一掃 する口実になっているから、フィリピンはアメリカ合衆国の戦争にここで もまた組み入れられている。 そうした中で、2005年、スービックでアメリカ合衆国海兵隊員による フィリピン女性への暴行事件がおきて、一挙にフィリピンで反米意識が高 まったが、現在、これがどの程度、運動として残っていて実際にアメリカ 合衆国離れにつながっているのか、わからない。前述の通り、韓国でも反 米運動はつねに一定の力をもって存在してきたが、これも今後にどのよう な影響をもたらすのか、まだ分からない。反米的な空気が最も希薄なの は、台湾と日本本土だろうか。 現在、東アジアの米軍は韓国でも日本でも「再編成」をいっています。 沖縄にある海兵隊の拠点はグアムに移され、軍事演習はフィリピンにとい う話がある。 ▲米軍基地と 米軍基地とフィリピン: フィリピン:スービック、 スービック、クラーク基地返還 クラーク基地返還の 基地返還の顛末 1989.12.01最大規模の国軍反乱。米国はアキノ政権支援を表明、米空軍機 を反乱軍牽制に投入。 1990.11.16 米基地交渉で大筋合意。 1991.06.09 ピナツボ山大噴火、クラーク、スービック両基地使用不能に。 1991.08.27 米比友好協力防衛条約調印。クラーク基地返還、スービック基 地使用10年延長で合意。09.16. フィリピン上院、批准拒否。 1991.11.26 クラーク米空軍基地返還。 1992.05.01 ラモス、接戦の末、大統領当選。 1991.6.9 ピナツボ大噴火


1992.09.30 スービック米海軍基地返還。 フィリピンは政府が基地協定の継続をアメリカ合衆国に対して約束していた (条約に調印していた)にもかかわらず、議会がこれを拒否し(批准を拒否)、 1991年に米比基地協定を終了させた。91年のピナツボ火山の噴火が基地返還に拍 車をかけたと言われる―アメリカ合衆国は火山噴火の被害を受けた基地を復旧さ せるより返還を急いだというわけだろうか。92年には、米軍は全面的に撤退し、 広大なクラーク空軍基地やスービック海軍基地が返還された。アメリカは返還の 際、原状回復の義務はないとした。そのため、上記両基地周辺では、深刻な汚染 被害が発生している。 92年の11月にはピナツボ火山の状態が予測できないため、米軍には撤退勧告が 出されたが、それは基地協定の期日満了の日と重なっていたという。このあたり が、ごちゃごちゃしてよく分からない話なのだが、 ① 議会がNOと言ったために、フィリピンは米軍基地を民主的に追い出したの だ、という物語と、 ② 火山噴火で基地が使用不能になり、その後も危険なので一時的に撤退する必 要が生じたところにフィリピン議会の条約批准拒否問題が持ち上がり、米国とし てはこれを不服として争うこともできたが、米国の戦略として基地撤退を決め た、という物語 がありそうだ。両方の要因が作用したのだろうとは思うが、アメリカ合衆国軍と しては火山対策など経費の問題、沖縄やグアム、サイパンなどとの兼ね合い、冷 戦終了でアメリカ合衆国議会に軍事予算拡大の名目が立たないこと、等々が複合 的に作用した結果なのだろう。しかし、フィリピンはイスラム教分離運動も、共 産主義運動も抱え、火種に事欠かない地域であり、”歴史的”に”当然”アメリ カ合衆国の支配下にあるという認識がアメリカ合衆国にはあるから、1999年に訪 問米軍地位協定(VFA)を批准し米軍再駐留への道を開いておく必要があったの だろう。 フィリピン大学教授、ローランド・シンブランは、VFAの性格を次のように要 約している。 この地位協定は、1991年にフィリピン上院によって退けられた友好協力安全保 障条約の条項をはじめとする、以前の各種基地協定よりもさらに悪質なものであ る。以下、地位協定の突出した特徴について述べてみよう。 1. フィリピン領土に入域するすべての合衆国軍隊の構成員(以下、米軍の構 成員)は、犯罪の遂行時にその構成員が公務中であるか、もしくは米軍司令官 により正式公務証書(ODC)の発行を受けているかぎり、実際上フィリピン領 土における犯罪についての刑事訴訟から保護される。 2. 公務についていない間およびフィリピン裁判所の管轄権の下において米軍 の構成員によって遂行された凶悪犯罪を含むすべての犯罪に関しては、裁判中 およびすべての訴訟手続き中の米軍の構成員の身柄は、米軍当局が拘束する。 3.米軍の構成員は、米軍のための輸入および装置その他の財産を現地で取得 する場合は、ほとんど全体的かつ全面的な免税措置を与えられる。 4.フィリピン領土を出入する米軍航空機、船舶および自動車は、着・上陸ま たは港湾手数料、航行または上空通過料金の支払を免除される。 5.この協定は、核兵器の制約なしの入域を許し、フィリピン憲法上の核兵器 禁止を事実上解除するものである。なぜなら、核武装および核搭載能力を有す る米国船舶と航空機は、フィリピン当局にたいし、フィリピン領土へ核兵器を 持込んでいるか否かを証明する公式文書なしで、たんに到着を通告すればよい との義務を負うにすぎないからである。地位協定のとりきめは、このことにつ いて沈黙することによって、憲法が核兵器を禁止していることをまったく無視 している。 以上、http://www10.plala.or.jp/antiatom/html/j/jpub/j-joho10b.htmより 最後の米兵がフィリピンを去ってから13年、基地の汚染物質によって子供たち に 被 害 が 出 て い る が、誰 が ど の よ う に 責 任 を と る の か 不 明。(http:// www.pcij.org/imag/Black&White/toxicwaste.html) 2001年のコラソン・ファブロスさんの発表(アジア平和連合(APA)講演会:http:// www.h2.dion.ne.jp/~hiroseto/HIROSHIMA/PEACE/NOWAR/ACTION/c030618.html)に よ る と、2000 年 8月18日、クラークおよびスービックの旧米軍基地周辺地域に住む有毒物汚染の 被害者とその家族は、米国政府を主要な相手としてフィリピン裁判所に賠償請求


裁判を起こした。アメリカの国防総省にはERPOという計画があり、「国防省 は特定の汚染除去要件および必要な場合の実際の汚染除去作業の実施に責任 がある」としているが、アメリカ政府は、環境法順守において、二重基準や 環境的人種差別を適用している。アメリカは、フィリピン、パナマ、プエル トリコなどの途上国における環境保護・安全基準を守っていないが、1998年 12月28日のニューヨーク・タイムズの論説によれば、アメリカは「ドイツや カナダなど重要な同盟国の基地では、危険な廃棄物を撤去するか、その費用 を負担して」いるのです。1998年だけをみても、アメリカ政府はアメリカ国 内にある基地の汚染除去に21億3,000万ドルを費やしている。既存基地を含む これまでの海外基地の汚染除去に関するデータは、フィリピンは、アジア・ 太平洋地域におけるアメリカの重要な同盟国であるにもかかわらず、アメリ カの配慮の対象であったことは一度もなかったことを示している・・・と彼 女は書いている。 また彼女は、過去数年間、非核フィリピン連合や、基地汚染除去人民部隊 などフィリピンのNGOやアメリカの連帯組織は、アメリカにたいし毒物汚染の 責任をとるように求めていますが、アメリカは汚染問題があることを認める ことさえ拒否している と続け、再びアメリカがフィリピンをその軍事覇権体 制に組み込もうとしている点を批判する。 また、別のサイト(2004年の記述)によると、ピナツボ火山が噴火したと き、麓の住民の約8万人が返還されたクラーク空港の返還跡地につくられた避 難センターに移住。そこで井戸を掘り、7~8年の間、そこで生活をしていた 被災者もいる。ここでの井戸水を飲んだ母親から生まれた子どものなかに、 脳性まひのような症状の示す被害者がたくさん出ている。あるいは、スー ビック海軍基地の跡地では、下流の河川で洗濯をしていた人に皮膚病など出 ている。それらの原因として、米軍が撤退したときに放置していった弾薬庫 跡地や基地内での各種有害廃棄物処分地などからの化学物質によって井戸水 や河川水の汚染が進行していたことが関係していると見られている。と解説 されている。 2009年には、スービックの経済特区(基地後を再開発し、外国企業などを 誘致)で、アメリカ合衆国の傭兵会社「ブラックウォーター」社が軍事訓練を していたことが明るみに出た(右写真はBlackwater社のSubic訓練施設:http:// natoreyes.wordpress.com/2009/09/17/another-american-private-military-contractor-in-thephilippines/

)。フィリピン政府は、憲法上では「外国の軍隊がフィリピンで吟じ活動を 行うこと」を禁じているが、実質的には表でも裏でもアメリカ合衆国の軍事 産業と協力関係にあることが伺い知れる事件だった。事件が発覚したのはア ロヨ政権の末期だったが、2010年5月に発足したノイノイ・アキノ政権がアメ リカ合衆国軍やブラックウォーター社のような米国軍事企業とどのような関 係を取り結んで行くのかは、まだ不鮮明だ。鳩山由紀夫の民主党政権のよう に、下手にアメリカ合衆国の意向に逆らえば潰される。かと言って、あから さまに言いなりでは国民の(一部の)支持を得られない。アメリカ合衆国と の同盟関係を前提に中国の脅威を言い募り、一定程度の米軍(と軍事企業) を受け入れながら様子を見るしかないのだろう。 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国の 合衆国の位置づけ 位置づけ 以前、フィリピンの本屋さん(National Book Store)でフィリピンの高校 で使われている歴史の教科書を手当たり次第に買った。それらのアメリカ合 衆国との関係に関する章には、その教科書の立場を如実に表すような差異が あった。ある教科書ではアメリカ合衆国との関係を、MasterとApprentice (教師と弟子)と表現している。別の教科書ではAmerican Imperialism(ア メリカ帝国主義)という言葉が使われている。第三のタイプは、その中間と いうか、中立的というか、ただ単にアメリカ合衆国統治時代、というような 書き方をしている。 フィリピンで“独立の英雄”と言えば、いつまでもJose Rizal(ホセ・リ サール)というらしい。彼はスペインからの独立運動の際に精神的主柱とし て担ぎ出された人物で、台湾で言えば孫文のような存在だ。“独立”という 単語が、単体で使われるとき、それはスペインからの独立であり、アメリカ 合衆国からの独立ではない。つまり、“フィリピン人”にとっての独立と は、植民地人が宗主国から独立したことを言うのであって、その後のアメリ カ合衆国支配をスペイン支配と同列のものと考えていないーそういうことな

Blackwater training facility


Jose Rizal

のかもしれない。“フィリピン人”とは、スペインからの移住者、および彼らと中 国系移民やマレー系移民の混血(メスティーソ)を指すわけだ。これらフィリピン 人とアメリカ合衆国人とは“お友達”であり、彼らの立場から見ればアメリカ合衆 国はMaster(教師)であり、自分たちはApprentice(弟子)ということになるのだ ろうか。 これに対して、アメリカ帝国主義という言葉を使う人々は、おそらく1986年のエ ドサ革命前後から、アメリカ合衆国(の政治介入)に対して反感を抱き始めた人々 なのかもしれない。また、旧スペイン系や中華系メスティーソの支配層の中の、ア メリカ合衆国資本による利益収奪に対して反感を抱く人々も含まれるのかもしれな い。イデオロギー的反感と、利益衝突による反感・・・。 今回のツアーの柱であったイゴロットの人々の復権運動の中では、スペインもア メリカ合衆国も日本も、すべての外来の(平地の)勢力は、等しく帝国主義的な侵 略者として位置づけられるようだ。対立の軸は、フィリピン対アメリカ合衆国では なく、イゴロット対平地、というわけだ。そもそもが植民地化によって初めて誕生 したフィリピンという単位、植民者とメスティーソによって初めて誕生したフィリ ピン人というもの・・・イゴロットの視点はこれらを基本的に解体すべく要求する - - - - - ものだと思うが、現実には元に戻すことはできない。そうであれば、フィリピンの - - - - イゴロットというあり様を、どこまでどういうふうに引き受ける一方で、イゴロッ トの意味付けを変更していけるのか―すごくむずかしい課題に取り組もうとしてい る。その課題は、台湾の原住民にも、日本のアイヌにも、アメリカ合衆国の先住民 にも、そのほか多くの侵略者国家に居住する先住民にも共通の課題なのだろう。

紀念碑に 紀念碑に見るアメリカ合衆国 アメリカ合衆国 マニラには「マニラの虐殺の碑」があり、バタアンにはサマット山にマルコスが 建てた戦争記念碑があり、コレヒドール(米軍が1942年にここからオーストラリア に撤退した場所)にも大きな紀念碑があり、レイテにはマッカーサーが1945年に再 上陸したことを記念する像がある。バタアンからマニラまで、死の行進(Death March)の道程には、キロ数を示す数値を刻んだ道標が建てられている。 これらの目に付く紀念碑は、すべて日本の犯罪と、アメリカ合衆国の援助を讃え ている。 もちろん、異論を持つ人々もいる。マニラの虐殺では、マニラ住民がいることを 知りながらも砲撃を繰り返したアメリカ合衆国軍に対する批判の声を上げる人もい レイテ島 マッカーサー上陸記念像 上陸記念像 る。また死の行進における死者の大半はフィリピン人だったことを指摘して、アメ レイテ島、マッカーサー リカ合衆国が死の行進を政治的に利用して「自分たちがフィリピンを解放した」と 言い募ることに不快感を持つ人もいるようだ。が、大勢はアメリカ合衆国礼賛に傾 いているのが現状のようだ。 このあたりの事情は、韓国で仁川のマッカーサー像をめぐって市民同士の衝突が あったが、あれに似ているのかもしれない。ノグンリでの米軍による南コリア住民 の虐殺などを挙げて、アメリカ合衆国批判をする人もいるが、大勢はアメリカ合衆 国のおかげで南コリアは北コリアに侵略されずにすんだのだ、という解釈をしてい る。 フィリピンの戦争記憶をめぐって、2000年ごろから、日本の右翼による不気味な 運動も起こっている。サマット山ふもとに、山下奉文大将が絞首刑になった場所 コレヒドールの コレヒドールの戦争紀念碑 (と言っているが怪しい)に、2006年、慰霊碑が作られた。産経新聞、櫻チャンネ ルなど右翼の肩入れだそうだ。2006年8月15日、8月15日の慰霊祭に、サマット山の 慰霊塔までツアーが組まれ、Eaphetの友人である高藤辰子さんたちも出かけたのだ そうだ。途中で黒のダブルの背広に身を包んだ男たちが道の両側に並び、車をある 方向に引き入れている。方向転換したくても道が狭く、くっついていくしかなっ た。車を降りると一人ひとりに風呂敷包みにくるんだ弁当が手渡された。辰子さん たちもわけが分からなかったがこれを受け取って、群衆と一緒に山下大将の慰霊碑 の前に並ばされた。日本領事が担ぎ出されて挨拶。その後、一人ひとりが菊の花 (フィリピンにはないような大輪、おそらく日本から空輸したのだろうと辰子さ ん)を渡され、献花しろと言われた。不本意にそこに連れ込まれた人々の中にはこ れを拒否する人も現れた。するとダブルの背広の兄ちゃんが「なんで献花せえへん のや!」とどやしつける。辰子さんの前の人が「私は創価学会です!」と言って逃 げた。辰子さんも拒否すると「なんや、お前も創価学会か」と言われたが、彼女は 「私は花はいりません」と手だけ合わせてきた。帰りの山中に弁当が手付かずにた くさん捨てられていたそうだ。 2000年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タル 死の行進、 行進、道標 ラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰 マニラの虐殺紀念碑


霊祭が挙行された。慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラ の北方約80kmに位置し、戦時中には、日本の「神風特攻隊」の飛行基地が あった。昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5 機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦 隊に突入していった・・・ ちなみに、レイテ沖海戦では、台湾の台中にあった神風特攻隊訓練所からも 特攻隊が出撃しているが、台中にそのような紀念碑はない。 今回のツアーでLila Pilipinaの理事であるExtremaduraさんは、政府や地方 政府に再三慰安婦の紀念碑の建立をお願いしているが金がないの一点張りだっ たのに、パンパンガ政府は神風特攻隊の紀念碑を建てた、観光に役立つとか何 とか言って・・・まったく腹が立つことだ、と憤っていた。

ノイノイ・ ノイノイ・アキノ新政権 アキノ新政権のこと 新政権のこと Noynoyの評価は「“お坊ちゃん”で何もできない」という感じらしい。今に なってこその評価だろうか。台中のフィリピノ・コミュニティは去年の選挙の ときにはコミュニティをあげてノイノイ・コールだった。フィリピンの大統領 はほぼ例外なく任期の終わりには「汚職」まみれ。アヨロもまったく例外でな かった。清廉潔白イメージのまま暗殺された父親ニノイ・アキノ、その夢を継 いで当選比較的汚職イメージがなかったた母親コリー・アキノの七光りで支持 を得た。 しかし、Noynoyはこれまで(一年)の間、汚職の気配はないし、人権法案を 支持するなど「きれいごと」の分野では評価される。スービック・レイプ事件 のアメリカ側の処理の悪さからVFAの見直し運動も起きているが、フィリピン国 軍の反対にあっている。中国との領土問題を抱えて、ここで米軍の不興を買い たくないという側面も(ノイノイ政権には)明らかにある。VFA見直しは成功し ないだろう。 いわゆるBlackwater疑惑(米Blackwater社が、スービックの5エーカーの土 地を使って傭兵の訓練をしていて、訓練を終えた傭兵たちはイラク、アフガニ スタンに送られている、と米ジャーナリストが2009年にスクープした事件)の 真偽は、ノイノイの選挙で影が薄れたまま、その後の詳細が伝えられていな い。ノイノイが「きれいごと」に終始する意図の下に行動しているのだとした ら、Blackwater事件も闇に葬られるだろう。

Commission of Human Rights 政府系機関だが独立(州政府が金を出している)機関。女性部門は、主に フィリピン内の女性差別の状況を改善すべく研究活動している。フィリピン女 性を多く受け入れている外国との間にも合意書を取り付け、当該政府関係機関 と協力して虐待などの事例をなくすべく活動している。が、実際の訴訟などは 法務局が扱うのでCHRが独自に案件に取り組むことは少ない。韓国の状況につい ては憂慮しているが、韓国の関連諸機関との連携を強めていかないと手が打て ない。台湾にもフィリピン女性が多くいるので、Eaphetも今後情報収集に協力 してくれるとありがたい、とのことだった。(写真、正面左Atty. Lorraine Liezlさん、正面右DirectorのJake Mejiaさん) ベンゲット= ベンゲット=コルディリェラ地区 コルディリェラ地区 住民を「イゴロット」と呼ぶのは、従来は蔑称で「コルディリェラ」が正 式、とされてきた が、近年はこの蔑称を自ら名乗る先住民が増えてきた。 (が、今でも「私たちはイゴロットではない」と考えるコルディリェラもい る。)金鉱山、銅高山がどこにでもある。資源豊富なため、アメリカ合衆国に も日本にも狙われた。(日本時代には三井鉱山)


Cadianで:イーワン、ブリーヨ、杏奈

アメリカ合衆国軍、Camp John-Hayがあったが、軍事基地というよりも軍の 保養地のような位置づけだったらしい。真珠湾攻撃の数時間後、日本軍が最 初にフィリピンで攻撃したのがこkだったとのことだが、それも金山、銅山 が原因なのだろうか。 今泉さんの誘いでIbalio Igorotの村、Cadian村での結婚式に参加した。今 泉さんはIbaloiの伝統的な儀式などがあることを期待していたらしく「完全 に平地式、キリスト教式になってしまった!」と最後に嘆いていた。 村では結婚式に村民を招き、豚を潰して振舞う。約200人ほどの“客”が集 まった。下写真は新婦の家に集まる客たち。宴では、歌や踊りが飛び出す。 私たち一行も歌を歌った(下左写真)。イバロイの花嫁、花婿はそれぞれ英 語的な響きの名前を持ち、式はカソリック。現在のイゴロットのコミュニ ティのあり様を象徴しているのだろうか。

コルディリェラ地区は「自治区」に移管されるはずだったが、住民投票に よって実現しなかったと言われる。その事情は(私には)定かでないが、同 地区を構成する人々の間で利害が対立した結果なのだろう。 ResearchMateのBettyさんも、ここが自治区になるのはまだ早い、今自治区 になても平地の食い物になるだけだ、住民たちの意識が自治の段階に達して いない・・・と批判的だった。「私たちの次の世代で、もしかしたら自治の 準備ができるかもしれない。私たちはアメリカとフィリピンの教育で育ち、 イゴロットとしてのアイデンティティは弱い」とBettyさんは言う。 しかし、事態はますますBettyさんたちが危惧する方向に進んでいるように も見える。 Lila Pilipinaのこと Pilipinaのこと Roxas Cityにも日本軍の性的被害にあった女性たちの組織があり、その代 表はNaliaさん。「Nelia」さんとLila Pilipinaの関係は、もともとNeliaさ んもLila Pilipina立ち上げメンバーだったが、どこかで分裂してNeliaは自 分でRoxas Cityに活動の拠点を持ったらしい。現在のLila Pilipinaは、自分 たちがフィリピンの元慰安婦を代表する組織だと自負している。 Lila Pilipinaは最近、大きな家に引っ越した。ローラたちも年取ったの で、大学などを廻って歩くことはやめ、この場所に若い人達に来てもらいた い。それで展示場所も広げ、懇談の場所も作った。電話でローラと話したと きには、二人のローラが住んでいるとのこと。私たちのために集まってくれ た5人のローラのうち三人は近隣に住んでいて、わざわざ来てくれたようだ。 今後の展望としては慰安婦関連立法、慰安婦決議案に期待している、との こと。日本の民主党にはかなりがっかり。慰安婦法案を今に至るまで通過さ せることができないのだから。(関連事項が、21頁のNewletter記事にもある ので参照してください)。


バギオの バギオのモスリム・ モスリム・コミュニティ モスリム旧移民と新移民-昔からバギオ近辺にいるモスリムとここ数年のモ スリム移民の間には不協和音があるようだ。 現在12のモスク、約1万人の旧モスリム移民がいる。新しい移民は国家警察 National Policeに追われてきたりしているので、そういう連中と一緒にされて は迷惑だ(実際上の不利益があるだろう)というわけで、モスリムは目立たな いようにしているのではないかと想像される。新モスリム移民たちの側では都 市部にはすでに居場所がないので、山中などに隠れ住むように生活しているの ではないかと、これも想像される。 街中で見かけるのは物売りのモスリム女性くらい。これはバギオでなくても 見かける。 バギオの バギオの日系人 バギオで今泉さんが懇意にしている重富トメさんの家を訪れた。今泉さんは もともとは亡くなっただんなと友達になって、だんなの死後トメさんや息子た ち、娘たちと親しくしているらしい。バギオの肝っ玉母さんと今泉さんは呼 ぶ。日系1世だ、とも言うのだけれど、一世の娘だから二世かな、などとも思 う。 下山操子さんのケースと似ている。父親は高齢(70歳)になってフィリピン にやってきてイゴロットの若い女性を妻に(妾に)とる。戦局が怪しくなると 日本の家族の元に逃げ帰り、イゴロットの妻と子どもを置き去りにした。その 後原爆を生き延びたが、1955年に死去。日本の家族とも連絡はあるようだ。ト メさんは農業で生きてきた。仕事で動けなくなるほど疲れるとジンを飲む。こ れが元気のもと、と言ってジンを飲んで、水でチェイス。 1943年生まれのトメさんは、タガログ語教育を受けていない。タガログ語教 育はマルコスが1960年代後半に開始。トメさんが受けた教育は英語によるも の。彼女の歌う歌は古いアメリカ映画の主題歌ばかりだった。 この世代のアメリカ合衆国観は特別だろうか。アメリカ合衆国とフィリピン の「区別」 そのものが明確ではないのかもしれない。しかし、現在のアメリ カ合衆国との間にはもちろん大きな分断がある(今のアメリカ合衆国のことは 知らない)。 バギオ日系人会は、シスター海野テレサによって作られたといわれている。 彼女がやってきて、山の中に隠れて暮らしていた日系人を一人ひとり見つけ出 して、組織していったのだそうだ。(いつごろの話なのかはバギオの日系人会 のHPなどを参照願いたい。)時間的にはダバオの日系人会の方が先に組織され たが、入植時期から言えばバギオが最初。 キャンプ・ キャンプ・ジョン・ ジョン・ヘイ アメリカ合衆国は、この地に、将校用の保養地を作り、ジョンヘイと名づ けた。日本軍は真珠湾攻撃の数時間後にここを爆撃している。フィリピンで最 初に日本軍の攻撃を受けた場所だ。左はベラ・アンピシアター(ベラ円形劇 場)。この場所で去年の「第一回アジア太平洋合同慰霊祭」が行われた。 今では私有地で、公園になっており、この円形劇場に入るのにも50ペソの入 園料が必要。去年の式典でも、参加者に50ペソが要求されたが、それは主催者 側で支払ったとのことだ。 キャンプ・ジョン・ヘイは、日本時代には日本軍が接収していたが、1945 年、戦争末期に米軍と抗日ゲリラ(主に後者)に追われて日本軍は北の山中に 敗走した。しばらくの間は、ここバギオの山中でもゲリラ戦を展開していたよ うだ。

ResearchMate, Inc. 2006年発足。イゴロットの歴史を残すための研究。プロジェクト66:第66歩兵部隊の記録。レパントの戦いの記録。歴 史の教科書への記載を求めている。強い民族意識がある。30歳以下のメンバーで構成されている。 イゴロットはスペイン支配に330年間抵抗して、アメリカ合衆国に対して初めて門戸を開いた。スペインが十字架と軍 隊で屈服させようとしたのに対してアメリカ合衆国は教育と物資を持ってきた・・・。フィリピンがスペイン支配の下に 社会形成したのに対して、イゴロットはアメリカ合衆国支配の下に社会形成した。が、それはフィリピン社会に組み込ま れることも意味したので、複雑な現象がおきた。 ほかのフィリピン社会よりも大きくアメリカ合衆国化している面と、その中での(アメリカ的な)民族独立思想が見え る。 プロジェクト66の映像は、今年の12月、第二回アジア太平洋国際平和慰霊祭およびフォーラムにて公開予定。(関 連事項が、20頁のニューズレター記事にもあるので参照願います。)


活動報告 東アジアとアメリカ:その その間を動いた2011 いた2011フィリピンツアー 2011フィリピンツアー 東アジアとアメリカ その間

イーワン 思懿 2011.08.30

今年七月十三日から二十日までフィリピンへ行ってきた。三年ぶりなので、出発の前、けっこう楽しみにしていた。以前 会った人と再会したり、初めての人にも出会った。この三年間、フィリピンという“国家”は何の変化があるかを見に行く つもりだったが、やっぱり今でも感じたことはうまく言えない、むしろうまく受け取れなかった。今回は主に「東アジアと アメリカ:フィリピン編」という協会シリーズ計画・ツアーのために下見しに行った。以下に行かなかった皆さんの参考に なるかもと思って今回の日程を載せた。 7/13 初日の夜マニラ到着。 7/14 朝 UP Diliman 見 学、LILA Pilipina 訪 問。午 後 Veterans Center Museum(閉 館 で 入 れ な か っ た)、 Manila American Cemetery & Memorialなど見学。 7/15 午前中CHR訪問。夜行バスでBaguio=バギオに出 発、深夜二時バギオのLa Trinidad到着。

7/16 朝La Trinidadから三十KM地点まで乗合自動車で原住民部落Cadian村結婚式参加、午後La Trinidad市場見学。夕方、 バギオの重富トメさん宅を訪問と食事。7/17 7/17 朝バギオへ移動と見学、モスリム探し。午後Bencab美術館、キャンプ・ジョ ンヘイ見学。夕方からResearchMate訪問。7/18 7/18 朝Baliwag=バリワーグへ移動。午後Bulacan=ブラカンの高藤辰子さん宅 到着。7/19 7/19 午前中ブラカンの児童施設Bethlehem見学、川沿いのスクワッター区見学。昼Annaさんと再会。夕方ブラカン からマニラへ戻った。7/20 7/20 朝の飛行機で台湾に戻った。 四人であわせて七日間滞在した。ツアーで気付いたことはとても豊かだが、具体的な文字にできることは実に少ない。で は、その中から最も印象を残っている二、三件を例として挙げよう。 まず最初の夜に、迎えに来てくれたブリーヨさん(*1)とやっと会えた。2007年初めてフィリピンに行く前から、「ブ リーヨさん」という名前をよく聞いたが、会う機会はなかなかなかった。翌日の朝、ブリーヨさんの誘いでUP(フィリピン 国立大学)のJon先生の日本語クラスにちょっと顔を出して、つい日本語会話練習の相手になってしまった。次に訪ねたの はLILA Pilipina、一人のお婆さんは証言してくれた。二回目の訪問で、LILA Pilipinaは新しい場所へ引っ越して、展示室 とかもかなり設置したことを知った。そこで台湾はなぜこのような元慰安婦の援助施設と展示室がないかと聞かれたが、答 えられなかった。その後、Veterans Center Museum(一九九八年から今までの退役兵士に関する博物館)に 向かったが着いたときもう閉館して入れなかった。ここの退役兵士とはWorld War Ⅱで戦った、 当 時 に は 米 軍 の 指示 に属 し た フ ィ リ ピ ン兵 士の こ と だ っ た。時 間 を潰 す た め、近 辺 に ある American Cemetery(*2)に寄った。二回目であまり変わっていないと感じた。めっちゃ広 くてアメリカとフィリピンの国旗があって、太平洋戦争について何十枚大きな地図で戦略 を壁に描いて、十字架とか壁に戦死兵隊さんの名前も刻んで記念して あるが、その意味はよくわからない。もちろん、そこはABMC(*3)が建 てたものだとわかる、フィリピンを植民地から解放して” 民主的な国“にしたアメリカの「力」をほめたたえている


ようだが、でも戦争によってたくさん民間の人たちが死んだことを問わずに建て られた記念館に対しては、違和感がある。 そして16日の朝、バギオ近くのLa Trinidadから三十キロ地点まで乗合自動車 で行った。今泉光司さん(*4)の話によれば、そこは太平洋戦争でフィリピンを 侵略した”日本軍(中に強制連行軍、植民地志願兵がいたかも)“が最後に全滅 されたところだったが、今は私有地だ。隅にも慰霊碑のようなものがあると言わ れたが、私には見えなかった。その後、もっと山の奥に行って、原住民族Ibaloi IgorotのCadian村の結婚式に参加した。今泉さんの誘いで原住民Ibaloiの伝統的 な儀式などがあるかもしれないことを期待していたが、完全にキリスト教式に行 われてしまった。そこから宗教の影響力が強いとわかった。また、そこで目に留 まったのは儀式中、彼らの服装に飾ってある織物の模様だった。その模様は台湾 の原住民族織物にずいぶん似ている、少なくと もセイダッカ族に似ている。台湾原住民とフィ リピン原住民は元々血縁があるという話が頭に 浮かんできた。夕方、今泉さんと一緒にバギオ にいる日系一世か二世:S・トメさんのお宅を 訪ねた。一九四三年生まれ、日本人のお父さん が 戦 争 中 に 逃 げ 帰 っ て か ら、イ ゴ ロ ッ ト = Igorotのお母さんと大変な暮らしをした。ダブ ル(混血)でひどい目にあって虐められたこと もあった。現在、娘さんと孫たちと一緒に住ん でいる。 その夜、トメさんは英語を中心、ときどき山 の言葉で話して、フィリピンの“国語”―タガ ログ語は話せなさそうだ(*5)。真っ白の髪、 楽しくお酒を飲んだり歌ったりした様子をみ て、私にはその昔の生活の大変さを想像できな い。また会えるといいなあというお婆さんだ。 翌日の夕方、La Trinidadに戻ってResearchMate =リサーチメートというNGO団体を訪ねた。今泉 さんのブログによると、「彼らは戦時中抗日ゲ リラとして日本兵と戦い、後に米極東軍歩兵隊 として召集され戦った山岳民族歩兵隊のドキュ メンタリーを制作しているグループ」だ(*6)。


その夜に話してくれたのはBetty C. Listino=レスティノさんだった。彼女の話によると、現在NGOも イゴロット族の伝統文化・言語を復興するために力を入れている。そして去年の十二月八日にはバギオ のキャンプ・ジョンヘイにて第一回アジア太平洋平和慰霊祭(*7)を行った。 乱暴にいうと、国籍と民族を問わずに太平洋戦争で亡くなった人たちを共同記念して、お互いの歴史を 認識して、戦争のいろいろな事実に向き合うという慰霊祭だ。聞くだけでちょっと感動してくるぐらい に今年の慰霊祭に参加したい気持ちがうきうきしている(興味ある方ぜひEaphetに)。 レスティノさ んのほか、NGO事務で活動している青年たち、例えばDave、Rainel、Karlなどとみんな一緒に食事したり 歌ったりした。その場で英語能力をアップしないともっと交流できないなあと嘆いて反省した。

最後の二日間、Bulacan=ブラカンの高藤辰子さんを訪 ねた。三回目だった。辰子さんは相変わらず元気がよかっ た。そこで二人の「娘」:RochelleさんとMarifeさんとチ ラッと話をした。照れ屋の二人は将来教師を目指している と辰子さんから聞いた一方、フィリピン教育制度のせいで 卒業してから先生になるには知識がまだまだ足りないでは ないかと辰子さんも心配している。 十九日の午前中に、近辺の児童施設Bethlehemを見学し た。台湾から運んできた物資をやっとここで降ろした。赤 ちゃんは前と同じように十人もいるし、隣にある川沿いの 不法居住区の子供たちもたくさんBethlehemの教室に通っ ている。ここで思い付いたのは十五日にCHR(*8)の訪問 だ。そこから連想した疑問は、どうやって人権・人命を守 るべきか。不法居住者の命を守るために、居住区から追い 払うか、川に沿って土手を築くか、どっち? 或いは洪水 で流れて死んでくれたら問題解決か? 捨て子の数を減ら すために、コンドーム販売を解禁するか、衛生教育をもっ と普及するか、どっち? 或いは目を閉じたほうが楽か? けっして簡単に解決できる問題ではないとわかる、政府及 び民間団体が時間をかければ少しでも解決できると思う が、今のフィリピンは新しい政権に変わってから一年を 経ったが、目でみるとあまり変わっていないようだった。 昼のとき、アンナー・Fさんがブラカンまで来てくれた。 再会したアンナーさんはかなり痩せて、家族問題及び経済 問題でけっこう悩んでいるらしい。泣いた彼女をみなが ら、三年前に訪ねた彼女の家族、その一人一人の顔がつい 頭に浮かんできた。売られた牛のことも。ブラカンにいる 日、私は何回も思わずためいきをついた。翌日の朝、いろ んな気持ちを持ったまま台湾に戻った。


ツアーからいつも持ち帰るのは満ち溢れる重さと何とかしたい気持ちだ。特にフィリ ピンから戻ったとき。自分が生まれたところの歴史とか文化でさえまだまだ認識してい ないうちに、またほかの国の歴史とか文化を突きつけられると、系統的な認識を建てに くい。もちろん直接に接触・交流するほうがかなり多く得られるが、ある程度の認識を 持たないと深い面のものが見えないから多くを得られない。 今回のツアーについて全体の感想をいうと、東アジアの歴史を一緒にみないとどこか 失ったり迷ったりしたみたい全体像及び前の方向が見えないという実感を確実に感じ た。特に闇に隠してきたアメリカの姿を描きたいなら。 この間、アメリカが崩壊しそ うな経済危機が現れて、国勢及び国際地位が弱くなり始めたと言われている。

だとしても、東アジアと中東地域に対し て歴史的な影響力はまだまだ存在し続けて いくと思う。今年の十二月、バギオにて第 二回目のアジア太平洋平和慰霊祭を行うつ もりだと今泉さんから聞いた。もし行ける な ら、そ の 活 動 を と お し て 東 ア ジ ア 及 び フィリピンの全体像をもっとはっきりして いけるかもしれないと思う。(了) *1 2005年東海大学で行われたアジア学生会 議(Trans-AsiaStudents Conference)で 阿 川 と知り合いになったらしい。現在フィリピン のパンパンガ州のサン・フェルナンド在住。 *2 Manila American Cemetary & Memorial. マニラのアメリカ墓地および紀念館。 *3 American Battle Monuments Commission アメリカ戦争記念委員会。 *3 ドキュメンタリー映画監督、NPO法人サル ボン代表、フィリピン在住十六年。作品「地 球で生きるために:福岡正信インドへ行く」 「アボン小さい家」など。ドキュメンタリー 制作以外に、今もフィリピン山岳地帯で無農 薬麦栽培と販売プロジェクトを行っている。 *5 阿川によるとタガログ語教育は1960年代 にマルコスによって始動された。トメさんが 受けたのは米語教育だ。 *6 今泉さんのブログより(http://blogs.yahoo.co.jp/ benguet2008/28407015.html ) *7 今泉さんのブログより。去年の開催案 内:http://blogs.yahoo.co.jp/benguet2008/27057911.html 慰霊祭の意義:http://blogs.yahoo.co.jp/ benguet2008/27420600.html 一回目の慰霊祭の公 式サイト:http://www.iappmemorial.110mb.com/ *8 Commission of Human Rights 政府系機関だ が独立運営している。


アメリカは アメリカは私たちの心 たちの心を飼いならした― ベティ・ ベティ・リスティノさんと リスティノさんとリサーチ さんとリサーチ・ リサーチ・メイトの メイトの活動

Eaphet Newsletter No. 7より転載 アウイ・カズオ

『武力と十字架を掲げたスペインの三百年の支配にも最後まで抵抗したイ ゴロットのコミュニティへのドアを、アメリカ合衆国は「自己中心的な善 意」と「物資」によってこじ開けたんです。そして「教育」によって私たち の心を飼いならしていった。でもスペインもアメリカも、そして日本も動機 は同じ―ベンゲットの豊富な資源です。』(ベンゲットは金山、銅山に溢れ ている。そこいら中に廃坑がある。日本時代には三井鉱山が銅を掘ってい た。)フィリピンの先住民、イゴロットの自立のためにNGOを立ち上げた若 きイバロイ・イゴロット、ベティ・キャパウェイ・リスティノさん(上の写 真右)は言う。 七月十七日、雨模様のラ・トリニダドで、去年、第一回アジア太平洋合同 慰霊祭を主催したResearchMateというNGOの事務所を訪ねてベティさんほか 若いイゴロットの人達に出会った。バギオを拠点に活動している映画監督、 今泉光司さんの紹介だ。『土地は命です。土地と祖先、それがなかったら私 たちは何ものでもなくなってしまう。』アメリカ合衆国支配下に急速にキリ スト教化していくと同時に、部落が解体し、フィリピンの平地の行政組織で あるバランガイに組み込まれていったイゴロットの人達。バランガイ・キャ プテンになったり、役職を与えられるとなぜかカウボーイ・ハットに皮の チョッキ、ピカピカのカウボーイ・ブーツにいそいそと身を包むイゴロット の男達(左写真)には、フィリピンのほかの地域の人々とは違ったアメリカ 合衆国との関係を誇示する雰囲気さえある。 ベティさんたちは、フィリピン戦最後の戦地となったレパントの戦いにお けるイゴロット部隊、第六十六歩兵部隊のおじいさんたちに話を聞いてド キュメンタリーを作成している。『彼らはアメリカ合衆国軍のために戦った のではない。

彼らは自分たちの土地を取り戻すために戦ったんです。』とは言うものの、ドキュメンタリー に登場するヴェテランたちはUSAIP NL(在フィリピンアメリカ合衆国陸軍北ルソン)のロゴの 入ったヴェテランの帽子を誇らしげにかぶって登場し、流暢な英語で当時を語る。ここにもイゴ ロットが置かれる複雑な自己イメージのあり様が見える。 多くの先住民は平地化を望んでいる。イゴロットを名乗りたくないという人も少なくない。そ んな中で過去には蔑称であった「イゴロット」を自ら名乗り、その歴史に光を当て、引き受けて いこうとする若者たちと出会った。ベンゲットを先住民自治区にしようという動きがあるが、ベ ティさんはそれは自分たちの世代では無理だろうと言う。その理由は先住民の自己意識化が不足 しているからだという。まず自分たちが何者なのか、それをみんながある程度意識化できなけれ ば、自治区を作っても意味がないというのだ。


リサーチ・メイトでは、今年も十二月八日に第二回アジア太 平洋合同慰霊祭を企画しているが、今年は翌日にレパント等の 戦跡へのフィールドツアーを、さらに翌日にはフォーラム(勉 強会)を企画している。 今泉さんは日本からの参加者向けに フィリピンの戦いについての勉強会 を慰霊祭に先立って行う計画を持っ ている。詳細が判明したらEaphetの HPでも案内したいと思う。


Eaphet Newsletter No. 7より転載

Give us justice now!―リラ リラ・ リラ・ピリピナの ピリピナのローラたち ローラたち アウイ・カズオ

実に四年ぶりにフィリピン元慰 安婦のおばあさん(ローラ)たち の「家」、リ ラ・ピ リ ピ ナ Lila Pilipinaを訪れた。四年前の場所 から引越ししていて道に迷った。 新 し い 家 は、120 Narra Street, Project 3にあった。代表のリチル ダ・エ ク ス ト レ マ ド ゥ ー ラ さ ん (Rechilda Extremadura)に電話で 道を教えてもらってようやくたど り着くことができた。リチルダさ んは日本から帰ったばかりで、日 本で会った人々のことをいろいろ 教えてくれた。 以前の「家」は狭くて、ローラ たちの居住区である階上に上がる 階段も狭くて急なので、これで怪 我しないだろうかと心配した記憶 がある。今度の場所は広い。ゆっ たりとした庭がある一階はフィリ ピン慰安婦関係の展示と座談のス ペースがある。「以前はローラた ちが大学とかに出かけて若者たち と話をすることもよくしていたん ですけど、もう高齢になってきて そ れ も 無 理 な ん で す。そ れ で、 こっちに来てくれる若者たちと話 す場所を、ということでここを作 り ま し た。」リ チ ル ダ さ ん は 言 う。「アウイさんは電話で『行く のは四人しかいないんだけど』な んて申し訳なさそうに言っていた けど、数は問題じゃないんです。 ここに来てローラたちの話を聞い てくれる人がいれば、いつでも歓 迎なんです。」 今回相手をしてくれたのは六人 のローラたち、その中でNarcissa Claveria さんが、自分の村が日本

軍に占領され、性奴隷にされた 物語を語ってくれた。【彼女の 物語りは次号に掲載したい―編 集者註。】彼女がタガログ語で 語り、それをリチルダさんが英 語に訳し、それをアウイが日本 語に訳し、それを(同行した) Sさんが中文に訳し、やっと全 員が何とか理解する―。 「フィリピン政府は日本政府 に協力的。慰安婦関係の立法が ずっとできなかった。でも今回 は下院に何人も支持してくれる 議員さんが出てきています。ノ イ ノ イ 大 統 領 (Noynoy Aquino) に、今回こそ実現してくれるこ と を 期 待 し て い ま す。」し か し、親の七光りで大統領になっ たノイノイを『自分では何もで きないお坊ちゃん』と揶揄する 人たちも多い。それでも今まで のところクリーンなイメージは 保 た れ て い る よ う だ(ア ロ ヨ だって最初はそうだったけ ど…)。 リチルダさんは言う。「女性 への暴力はずっと続いていま す。特に外国の軍隊が駐留して い る 場 所 で は 必 ず あ り ま す。 ローラたちがいなくなった後 も、こ の 闘 い は 続 き ま す。で も、彼女たちが生きている間に 彼女たちにとっての正義は実現 しなくてはならない、私たちは そう思っています。」「パンパ ンガ政府は日本軍の特攻隊の紀 念碑は作っても、慰安婦関係の 紀念碑など作る金はないと言い ます。まったくおかしなことで すね。」


Narcissa Claveriaさん、Felicidad de Losreyes さん、Estelita Dyさん、 Remedios Diarinoさん、Hilaria Bustamanteさん、Pirale Freviasさん、六人の ローラたちに感謝。


フォト・エッセー “距離” 呉偉祺 人 物 撮影 の 鍵は”距 離 “だ。そ の”距 離“と は、撮 る 側 と 撮 ら れ る 側 の間にある距離のことを 指 す だ け で は な く、撮 影 に対して撮られる側がそ れ を ど う 受 け と め、ど う 表 れ る か、或 い は 自 分 の 姿をうまく撮ってくれた と 信 じ る か ど う か、と い う心理的な距離のこと だ。 フ ィ リピ ン・バ ギオ で 当地の原住民の結婚式に 参加したときに出会った ある可愛い女の子のこと を 思 う。そ の 子 は ず っ と 落ち着かなかったから、 どうしてもうまく撮れな か っ た。し か も そ の 子 は 英 語 が わ か ら な い し、私 は当地の原住民の言葉が わからないという状況 で、ぜんぜん通じない。

Eaphet Newsletter No. 7より

しかしその子にカメラの画 面を見せると、写された自分 の映像を見た彼女はすぐうれ しそうな顔を見せた。その反 応を受けた私もうれしくて何 回も親指を立てて「Good」と 表した。


その後、撮影とお互いの交流がうまくいけると思った。 今回のツアーで、たくさんの人たちを訪ねたり出会ったり した。ほとんど初対面だったが、お互いに文化・物語を交 流したし、自分を囲む環境と問題について話したし、飲ん で歌って、Facebookまでも交換した。

まるで初対面とは思えなく、国籍 と民族の違いも存在していないよう になっていった。 互いの心に留めたのは真心とその 時を思いつくと浮かんできた懐かし さだった。(翻訳:イーワン思懿)


3-2 第二回アジア 第二回アジア太平洋平和慰霊祭 アジア太平洋平和慰霊祭と 太平洋平和慰霊祭とイゴロット の復権運動 古川ちかし 2011年、7月のツアーで出会った今泉光司さんとResearchMate の面々に誘われて、標記の慰霊蔡に向けてEaphetでもツアーを組ん だが、担当者(古川)の宣伝が足りなかったことと、12月8日とい う時期が台湾の人たちにとっても日本の人たちにとってもフィリピ ン行きがむずかしい時期だったことが影響して、参加希望者は2人 しか集まらなかった。古川とあわせて3人だが決行した。3-1に参 加したイーワン・思懿さんも当初は参加希望があったが都合がつかず 断念。(参加者の報告は34頁。)事前勉強会も出発前日に一度しか できず、あとはツアー中に、ということでばたばたと出発すること になった。まず、今泉さんら主催者の“第2回国際アジア太平洋平 和慰霊祭のご案内”から見てもらおう。 第2回国際アジア 回国際アジア太平洋平和慰霊祭 アジア太平洋平和慰霊祭のご 太平洋平和慰霊祭のご案内 のご案内 コルディリエラでボランテイア活動をしている日本のNPO法人サ ルボン代表(バギオでは無給ボランテイア法人LUBONG-Baguio Inc.に所属、現在理事長) の今泉光司です。昨年は第一回国際 アジア太平洋平和慰霊祭を取材していただきありがとうござい ました。NPO報告書提出のため合計2ヶ月ほど帰国しましたが、 今年はUPバギオで3ヶ月述べ12日間の映画ワークショップやBSU で自然農法、麦栽培実験農場のプロジェクトを開始し、「アボ ン小さい家」映画上映や日本映画祭の上映(7月 )も行いなが らバギオ、ラトリニダッドを中心に活動しておりました。そし て今年も12月を迎え、平和慰霊祭もおかげさまで第二回を迎え ることが出来ます。今年の慰霊祭は、キャンプジョンヘイの献 花式の後、イトゴン地域の人々と合同でイバロイ族の慰霊儀式 を行います。そして多くの犠牲をこうむった国々の人々と戦争 と平和について話しあうフォーラムを企画しました。共同主催 はトリニダッドのNGO,Research Mate 、バギオのNGO, SEEDS, 私の所属するLUBONG-Baguio Inc. そしてバギオのドモガン市長 です。広く皆様の参加をお待ちいたしております。 (日程) 12月6日、7日(2日共10時‐午後5時)NHKなどの戦争ドキュメン タリー(日本語のみ)を観る勉強会。会場:アボン北ルソ ン日系人会会議室 12月8日 10時 慰霊祭献花式、来客のスピーチ。昼食。午後イ トゴンに移動。宿泊(2泊)。 9日 早朝地元イバロイ族の慰霊儀式。映画上映。国際平和 総会とフォーラム。 10日 クロージング・ミーテイング。ダルプリップ移動。昼 食 戦跡ハイク。バギオ着5pm予定。 今年は12月8日の慰霊祭の前の6日7日に、日本語の分かる人向 けにNHKのドキュメンタリーなどを見る勉強会をア ボン日比友好協会の会議室で行います。12月8日に は昨年に引き続きキャンプジョンヘイのベルアン ベルアン ピシアターで ピシアター で 献花式を行います。その午後バギオ 献花式 の隣、イトゴンに移動し、9日早朝にメイヤー協力 のもとベテランおよび戦没者家族を招待して、イ イ バロイ族 バロイ 族 の 慰霊の 慰霊 の 儀式を執り行います。会場はイ 儀式 トゴン・シテイーホールに併設されたジムです。 その後に同じ会場で国際平和 国際平和フォーラム 国際平和 フォーラムを計画し フォーラム ております。参加者は韓国人、中国人、台湾人、 フィリピン人そして日本人の有志が予定されてい ます。 12月8日は日本軍が真珠湾攻撃の数時間後にバギ

The 2nd Asia Pacific International Peace Memorial in Baguio city and Itogon, Benguet November 15, 2011 Dear Sir/Madam, Peace be with you! You are cordially invited to participate in the 2nd Asia Pacific International Peace Memorial (APIPM) on December 6 until 10, 2011. The activity aims to commemorate the bombing of the Japanese Imperial Army of the Philippines, marking their entry into the World War II (Dec 8 at Camp John Hay), provide a venue for expression of stories of WWII from the Veterans and the Japanese participants (Dec 6 - 10), experience vicariously, through storytelling of the Veterans, the challenges of life during WWII, a time to contemplate on the historical accounts, motiva-tions, and current situation of the Japanese-invaded countries in the Asia-Pacific, and activities to empower individuals and communities to observe peace-keeping practices in socio-economic and cultural development. The 1st APIP was held at the Bell Amphitheater, Camp John Hay, Baguio City on December 8, 2010 with details available at www.seedsinc.net. We encourage you to participate in this community event so that we may put the past and its subliminal repurcussions behind us and build a bridge to our future development. Thank you for your prompt response. Sincerely, Team APIP (By: Research Mate, SEEDS, Lubong Baguio Inc.)


オの米軍キャンプジョンヘイを空爆しアジア太平洋戦争 が始まった日です。このフォーラムの主旨は、アジア太 平洋戦争で起きた事実をそれぞれの世代、それぞれの立 場から報告しあい、二度とあのような戦争が起こらない ようにするために、皆さんの自由な立場で話し合いをす ることが目的です。今のところマニラからUPデリマン の歴史学教授Ricard Jose先生が、台湾からは台中の東 海(トンハイ)大学の古川ちかし教授が日本人と台湾人 の学生を連れて、日本からは滋賀県大津市のNGOの川崎 松尾さんが参加を表明してくださっています。そのほか バギオ市長のマウリシオ・ドモガンさん、イトゴンのオ スカー市長、北ルソン日本人会会長小国秀宣さん、日系 人会アボンの代表エスカーニョさんも参加されます。今 年も昨年同様に、日本兵と戦った山岳民部隊、米軍第66

歩兵隊のドキュメンタリーを制作した会社リサーチメイトの Ryan GuinaranとBetty Listino, バギオのNGO、SEEDのMarie Balange、NGO,LUBONG-Baguio Inc, NGO サルボン東京の今泉光 司と一緒に企画運営いたします。 どうかこの平和慰霊祭の主旨をご理解いただき、ご協力をい ただけますよう、皆様の参加をお待ちしております。皆様と日 本とアジアの新しい世代の関係を築いていくために、どうかご 理解ご協力をお頼みいたします。 第二回12・8国際アジア太平洋平和慰霊祭(APIPM) ボランテイアワーカー, 今泉光司 NPO,LUBONG-Baguio Inc./NPO サルボン(東京) 94 LUBAS, LATRINIDAD, BENGUET 2601 PHILIPPINES 093-0312-4185, imakoji2@aol.com 前述のとおり、7月のバギオ訪問の際に今泉さんやBatty Listinoさんから 今年の慰霊祭と平和フォーラムのことを聞いて参加することになった。参加 にあたっては台湾の事情も、ほかの参加者に紹介してほしいとも言われある 程 度 の 準 備 は し て い っ た。今 泉 さ ん か ら は 最 近 上 映 さ れ た 映 画「Seediq Bale」について特に知りたいとの話もあって、Eaphetのニューズレターのコ ピーなども持参した。これは日系人会における事前勉強会で、集まった日本 人を対象に小さな台湾勉強会をした中で多少使ったが、その詳細は参加者報 告に譲る。 イゴロットの イゴロットの若者達 このツーを企画した動機の大きな部分はイゴロットの復権運動にあった。 台湾での原住民運動は、主に80年代から復権運動を担ってきた一部エリート 層と、近年立ち上がってきた若手の運動家たち(彼らの多くはアメリカ合衆 国などで学位をとって帰ってきた学者)と、その中間に挟まれるかっこうで 独自に運動してきた中年層だ。どちらかと言えば、おじさんとおばさんたち が中心という感じ。だから若い人たちが運動を始めたり、参加したりしよう とすると、まずこれまでの歴史を勉強して、年長の人たちの運動の端の方か ら徐々に参加していって… ということになる。イゴロットの場合にも、年 長者たちの運動はあったと思う。おそらく台湾よりも運動が発展していない のだろう。そこには若い人たちが自分たちの考えで、自分たちの思うように 活動と考えを展開していくことができやすい環境があるのかもしれない。 ResearchMateが始めた運動は、イゴロットのベンゲット地区での歴史を、 学校の歴史の授業の中に取り入れていってもらうという運動だった。イゴ ロットの歴史を調べ、教材を作り、それを地元の教育委員会に売り込んで いった。プロジェクト66は、1945年6月から敗走してきた日本軍を一掃するために抗日ゲリラが第66歩兵部隊に組織され、 この66部隊がその任務を完了した歴史をドキュメンタリーフィルムに作るプロジェクトだ。これも若者たちが全部やっ た。 第二回アジア太平洋平和フォーラムの目玉は、このドキュメンタリーの公開だった。ドキュメンタリーの最後は、第66 歩兵部隊の兵士たちが、フィリピン軍からマラカニアン宮殿の近衛兵として来てくれとか、アメリカ合衆国軍に参加して


沖縄に駐留するなどの軍隊内での昇進を 蹴って、銃をすて、山に帰ったと終わる。 彼らはフィリピンのために戦ったのではな い。ましてアメリカ合衆国のために戦った のでもない。彼らは自分たちの山を守るた めに銃を取ったのだ… Bettyさんたちが言 いたかったのは、そういうことだった。そ の意図が伝わるかどうかは、映画を見た人 が判断するしかないだろう。まだ売り出し ていないけれどもコピーを預かってきた。 折を見てEaphetで、鑑賞と討論の会を持ちたい。 いわゆるイゴロットには、6つの言語文化グループがあるといわれている。 ボントク(Bontok)、イバロイ(Ibaloi), イフガオ(Ifugao), カリンガ(Kalinga), イ ス ネ グ (Isneg, or Apayao), カ ン カ ナ イ (Kankana-ey) の 六 つ だ。 ResearchMateの面々は主にイバロイだが、イフガオやカンカナイの人も混じっ ている。彼らは昔は蔑称として平地人から呼ばれたイゴロットという名称を、 今は自ら積極的に名乗ろうとしている。が、ベンゲットの先住民の中に今でも この名を蔑称として嫌い、自ら名乗るなどとんでもないと考える人たちもい る。彼らは「私たちはイゴロットではない」と言うのだそうだ。 最後の 最後の兵士( 兵士(The Last Soldier) 第66歩兵部隊のドキュメンタリーと同時に、今泉さんが製作した「最後の兵士 The Last Soldier」もフォーラムで上映された。“敵味方を問わず、すべての 犠牲者を悼む”という平和慰霊祭のコンセプトは、そもそもはこの同時上映の アイデアから生まれたという。日本軍がフィリピンで最後に敗れたこのベン ゲットの戦い(正確にはレパントの戦い、だろうか)から生きて帰った日本兵 が70年後にこの地に戻ってきて戦友を弔うーそんな映像を、この元兵士のイン タビューを材料に作った。実はまだ完成しておらず、フォーラムで上映された のは仮編集の作品だった。もともと劇映画が専門の今泉さんは、このドキュメ ンタリーをどう完成させるかについて、まだ悩んでいるようだ。 日本軍のフィリピンでの戦いについては大岡昇平さんの「レイテ戦記」をは じめ、かなりの数の“記録”が書かれている。その日本軍の中には台湾兵も多 く混じっていた。台湾兵の生存者が残したフィリピン戦の記憶ーそういうもの も今後のフォーラムには期待される。

ツアー日記 ツアー日記

宮平杏奈

1日目― 日目―今泉さんと 今泉さんと再会 さんと再会 12月5日の深夜2時の飛行機に乗って、阿川と宮平、フィリピンに到着。一足 先にフィリピン入りをしていた比屋根と合流した。明け方5時過ぎに空港から 20分ほど歩き、ジプニ―に乗り、自転車タクシー(トライシクル)に乗り、 やっとのことでパサイのバスターミナルに到着。バギオ行きのチケットを購入 したが、9時過ぎのバスしかないということで、喫茶店で時間をつぶし(睡眠 タイム)、バギオに到着したのは、午後4時だった。 バギオに到着後、また歩くこと30分近く…やっとのことで今泉さんと合流で きた。今泉さんは今回の慰霊祭企画に関わっている人である。昨年、東海大学 を訪れ第一回の慰霊祭のお知らせをされていったが、急だったこともあり参加 することはできなかった。そして今回、今泉さんが以前から熱い思いで推し進 めてきたこの企画に、私たちも参加することができた。 今泉さんにホテルまで案内していただき、翌日の打ち合わせをして解散し た。 2日目 フィリピン歴史勉強会 フィリピン歴史勉強会( 歴史勉強会(ビデオ観賞 ビデオ観賞) 観賞) 10時からバギオ日系人会事務所(Abong)にて、フィリピン戦をビデオを見て 勉強した。この事務所ではフィリピンと日本人との間に出来た子どもやその子 どもなどの日本戸籍取得にも協力している。観賞したビデオは ①「フィリピンの戦い 米軍記録」…米軍作成のビデオで、どうやら1944年の 暮れの映像で、米軍が再びフィリピンに戻ってきて日本と戦ったときの映像の ようだ。全体的な印象として「アメリカは日本に圧迫されているフィリピンを 解放しに来たぞ!」と言う感じ。今泉さんの話によると、(これに先立つ)


「死の行進」で多くの米軍が死んだと言われているが、実際亡くなったのは ほとんど米軍とともに戦ったフィリピン人とのこと。 ②NHK「証言記録マニラ市街戦」…1945年マニラにおける日本と米軍の戦い。 すでに少数になっていた日本軍がスペインが作った要塞「イントラムロス」に 立てこもった。イントラムロスには、しかし、すでに戦火を逃れようとマニ ラ市民が多数避難していた。日本軍は民間人がいることで米軍の砲撃が牽制 できるということも、当然計算に入れていたのだろう。イントラムロスか ら、夜の闇に乗じて切り込み隊が出たという。米軍は民間人が多数いること を承知の上でイントラムロスを砲撃した。日本軍が降伏、敗走したときには 市民10万人の死者が出ていた。(いわゆる「マニラの虐殺」) ③NHKスペシャル「死者たちの声」…レイテ島での戦いについて。8千万以上 97%の日本人がここで戦死した。米軍は日本人を追い出すため、日本軍がい るところはとにかく爆撃、地元の人の多くが死亡した。レイテ島地元住人の 死者は5万人といわれているが、正確な数字は不明。戦争は終わったが、戦後 米軍はフィリピンに基地を置き、またアメリカ企業を優遇する通商条約を締 結、それに日本企業も追従している。戦争は終わってもフィリピンの苦しい 状況は続いている。 17時勉強会が終わった後は、会場からジプニ―で30分くらいのところにあ るカフェへ。メリーさん、デイブ、ジョーダン、レイと打ち合わせ。このカ フェは日本からきたまちゃさんが経営しており、できるだけ有機・無添加の コーヒー、紅茶、料理、お菓子などを出している。この日はカフェのある辺 りが停電していたため、おいしいティラミスは食べれず…。宮平は果物を 使って作った石鹸を10個購入。1個100ペソ(台湾元で80元くらい)、10個お 買い上げで70ペソとお得です!他にも可愛い雑貨、スキンケア用品、お酒も あります。 3日目 フィリピン歴史勉強会 フィリピン歴史勉強会( 歴史勉強会(ビデオ観賞 ビデオ観賞) 観賞) この日は阿川もプレゼンテーションをした。「セイダッカ・バライ」につ いてだったが、「台湾の原住民」について初めて聞く人が多く、質問が殺 到!台湾の言語・原住民/内省人/外省人・自治運動などについてみなさん学 ぶことができた。 午後からはビデオ観賞会。 ①「題名不明」…岡山歩兵10連隊について。昭和20年にルソン島に到着した が、その2週間後米軍がフィリピンへ戻ってきた。米軍の北上を妨げようとバ レテ峠に9連隊が配備されたが、米軍は日本軍が予想していたコースではな く、ブルドーザーで山を切り開き道をつくるという作戦に出た。日本はどん どん不利な状況になり、物資不足になり、追い込まれた日本軍は「斬り込 み」を決行した。「バレテ戦録」には、日本軍が兵士をおどして斬り込み命 令をしたことが記されている。また、ルソン島を指揮下においていた山下ト モユキは、自活を命令したが、30万の兵士にはとても足りず、「現地調達」 が繰り広げられた。そのため、フィリピンの住民は日本兵に食糧などを強奪 された。 10連隊は3千人以上いたが、うち220名しか生きて帰れなかった。また、 フィリピン全体では、52万の日本兵が死亡したが、フィリピン住民は100万人 以上が巻き添えになったと言われている。 ②「じいちゃんが残した言葉」…戦争体験を語り継ぐことの意味について。 祖父母は孫に戦争の体験を語ろうとしない。戦争によるいろんなトラウマを 抱えて生きてきた祖父母に、自ら歩み寄り理解しようという2世・3世の体 験。 4日目 慰霊祭 inキャンプジョン inキャンプジョン・ キャンプジョン・ヘイ フィリピンで亡くなったフィリピン人、アメリカ人、日本人…など第二次 世界大戦にフィリピンで亡くなったすべての人を慰霊しようという主旨の式 典が行われた(リサーチメイトや今泉さんなどが中心になって開催)。キャ ンプジョン・ヘイは当時の国務長官ジョン・ヘイの名前がその由来である。 今この場所は、経済特別区となって開発が進んでいるが、屋敷と隣接する花 園広場を含む600ヘクタールは歴史保護区に認定されて開発はされていない (基地全体は3.8エーカー)。日本がフィリピンに侵攻を始めた後、この基地 を占拠した。 式典では、現バギオ市長、ドモガン氏がまず挨拶に立ち、次に戦後初の市 長を務めた人(バージニア・デギア 氏)が挨拶した。彼女はキドラット・タ


ヒミク(映画監督)のお母さんでもあり、キドラットさんが母に変わって大 部分をしゃべった。その後、フィリピン・日本・韓国から来た人々がそれぞ れスピーチをした。戦争の悲惨さや、戦争で亡くなった人の冥福を祈る内容 だった。阿川はちょっと違うことを言って少々KYだったけど、戦争の話が 「1945年で戦争終わり」という感じになることへの、阿川なりの抵抗だった のだろう。韓国戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争からアフガニスタン、イラク まで戦争は終わりにならないじゃないか、その理由を今問わないでいつ問う のか・・・みたいな。それから黙とうをし、ろうそくを灯し、花を捧げ、慰 霊の儀式を行い、平和を願う「Open hands」という曲で慰霊祭は幕を閉じ た。 慰霊祭が終わった後は、キャンプジョン・ヘイの中を散策した。初めに 「Japanese Trail」と呼ばれる、日本軍が米軍に攻撃され逃げるときに通っ た道。日本が基地を占拠していたときは、フィリピン人が食糧物資などを運 ば さ れ る と き に で き た 道 だ そ う だ。バ ッ キ ャ ロ ー リ ー ブ ズ(Bakkyaro Leaves)と呼ばれる葉がある。葉の表面にトゲ状のものがあり毒性があるら しい。ノグソをする日本兵がこの葉でしりを拭うと、後で腫れてひりひりし たらしい。「ばっきゃろー、葉っぱまでゲリラか!」と言ったのだそうで、 そこからこの名がついた。そんな話をしながら歩いた。 山道を歩き終えたら、イトゴンへ!! ジープ二ーに揺られて1時間ほどか かっただろうか。メイヤー(行政区の長)に表敬訪問をし、近くの温泉プー ルにて夕食&交流会が開かれた。イトゴン行政区がこのフォーラムを受け入 れてくれて、シャーマンの費用、豚の代金などの負担をしてくれたのだろう と思う。夕食が終わったらジプニ―で20分ほどのところにある宿へ移動。昼 間山の中を2時間もあるいたので、みなさんヘトヘトでした。 5日目 慰霊祭 in Itogon 「アジア太平洋国際平和フォーラム」の前に、「慰霊」の儀式が行われ た。儀式はイバロイのシャーマンが取り仕切った。本来ならば朝早くから来 るはずのシャーマンが避が高く登るまで現れなかったので、主催者たちはは らはらしたようだ。結果、現れたシャーマン(下写真で赤いチョッキを着た 人、イバロイでは“マンブーノ”と言うそうだ)は、その後はてきぱきと儀 式を進めてくれたようだ。 豚の解体の儀式が終わると、お酒が出てきて楽器が鳴り響いた。(豚が死 に際に挙げる悲鳴が霊を呼び寄せるのだという。右写真では生贄の豚が適切 かどうか、マンブーノがその肝臓をチェックしている。マンブーノによって は「だめ」出しもあり、そうすると何匹も豚を潰さなくてはならなくなるら しい。イバロイでは、この儀式が終わるまでは鳴り物ー音楽も歌も、一切の 大きな音を出さない。音は霊を呼んでしまうからだそうだ。)縁を描きなが ら男性は鷹、女性は子どもを守る母親のように踊る。踊りが終わったら、さ きほどつぶした豚をいただいた。 踊りは“客たち”(イバロイではない人たち)も一通り踊らされた。かな らず男女ペアが原則らしい。 食事の後、「アジア太平洋国際平和フォーラム」が開かれ、リサーチメイ トの作成した第66歩兵部隊(米軍によってつくられた抗日ゲリラ部隊)のド キュメンタリーや今泉さん作成のフィリピンに来た元日本兵の証言に関する 映画が公開された。 また、韓国からきたジン君による日本植民地時代の韓国とその影響に関す るプレゼンテーションやドクター陳による華僑のみたフィリピンでの戦争に ついてのスピーチがなされた。阿川も日本?台湾?を代表してスピーチし た。 第66歩兵部隊の退役軍人たちも3人ほどが参加した。最初はけっこう埋 まっていた客席も、徐々にまばらになり、雨が降る始めると20人以下に減っ てしまった。 フォーラムが終わると、会場の近くのある民家へ。すでにこの世を去った 旦那さんが元66部隊の隊員で、その奥さんが出てきてお話をしてくださっ た。彼女の家の前には、フィリピンでの戦争の記憶を残そうと、庭をフィリ ピンに見立てていくつかの小さなモニュメントを置いている。旦那さんのア ルバムや、戦争に使ったヘルメット、ナイフなどを見せてくださった。以前 この庭に霊がいて悪さをしているので御祓いをしてもらったら悪いことがな


くなったのだそうだ。 その後は宿に戻り、夕食の準備をした。夕食の準備 をしている最中、ベティーさんとデイブがフィリピン で入手した沖縄戦の写真(米軍撮影)を見せてくれ た。そして、夕食の準備から離れて別室でベティー・ デイブ・阿川・比屋根・宮平の4人で話をした。 プロジェクト66の映像のコピーを預けるについて は、背 景 や 製 作 意 図 な ど を 説 明 し て お き た い…ベ ティーさんはそう言って話しはじめたが、最後の方で はこのような試みをやっていく中でさまざまな困難に 出会い、誤解も受け、仲間の関係も悪くなったりと いったことがたくさんあって、その記憶が襲ってきて 感情的にもなった。「コルディリエーラの中には私た ちのようなグループがたくさんあって、それぞれ考え 方が違う。理想のためには命を賭けるという人たちも いて、尊敬するけれど、なかなか協力して建設的な方 向に向かえない。そろそろ考え方を変えるべきときに 来ている」、そう話してくれた。ベティーさんはイゴ ロットの運動をしながらも、敬虔なクリスチャンであ り、マンブーノが登場するような場には立ち会わな い。そういうことも運動をしていく中で、彼女の個人 的な負担になっているのかもしれない。 6日目 阿川と 阿川と宮平は 宮平は一足先に 一足先にマニラへ マニラへ フォーラムの一行は、今日はダルピリプ(村)の結 婚式に参加するためジープ二ーで朝7:30に出発し た。阿川と宮平も途中まで便乗。幹線道路で、バギオ 行きのジープ二ーに乗り換えて、ダルピリプへ向かう 一行とさよならした。比屋根は一行に同行なので、こ こでとりあえずのお別れとなった。 阿川と宮平はここからバギオに向かい、マニラに向 かった。阿川は(また)水か食べ物にあたったらし い。吐き気をこらえながらの7時間のバスに耐え、何 とか飛行機に乗った。


ツアーで ツアーで考えたこと

比屋根亮太

古川先生の 古川先生の講演 台湾の原住民は将来的には自治を行いたい。民進党の時からそういう動きがあったが、国民党の時で止まった。(民進 党は原住民をうまく利用して、台湾は中国とは違うと、推し進めていたのではないか。また原住民たちは、自治がした いと行っているにもかかわらず、それを支持する民進党を支持しないで、国民党支持者の方が多いのか。) (セデックは日本人を敵にして戦ったのと、日本人側になって戦ったのがある。これはフィリピンでの、日本人側に 立ったマタピリとフィリピン人との関係と似ている。違う点は、台湾のセデックはもともと部落通しの因縁関係があ り、ちょうど良い機会だった。また、日本人側のセデックの、相手の首をとったらいくらかあげるという、やり方は、 アメリカ軍が、抗日ゲリラが日本人をとったらいくらあげるのと似ている。) なぜ、川中島などで最後まで事件のときに、日本に対抗した原住民はまでも、第二次世界大戦時に日本軍として、日本 の為に戦ったのかという、問いで、部落のほかの男たちが行くのに、自分が行かないと面子がないなどいう、考えをは じめて聞いた。そのような、最も最小単位の人間の気質、部落の歴史から大きな歴史を理解することができるという重 要性を感じた。

フィリピン最後 フィリピン最後の 最後の攻防、 攻防、証言の 証言の記録、 記録、岡山陸軍歩兵第十連隊。 岡山陸軍歩兵第十連隊。ETV フィリピンビデオ、ルソン島八ヶ月の死闘、兎狩りと言う名の切り込み、持久戦、、飢餓、人肉を食う、第十連隊3200人 のうち生存者はたった200人。フィリピンでは、自活自戦永久交戦という名の命令において、日本軍30万人が戦った。ゆ えに、略奪などが多発した。日本とアメリカとの国力の差を感じた。 じいちゃんの残した言葉、孫たちへの証言、大阪の出版社、自分史. 戦後五十年後、孫の世代の投稿も混じり始めた。今の世代は、戦争を実際に体験した肉親の話しを聞ける最後の世代。 戦争は法的には、講和条約で終わることができるが、心に残った傷は終わることは難しい。 おじいちゃんのフィリピン おじいちゃんのフィリピン 戦時中、次男三男は、みんなが行きたくないところに志願した。なぜなら、そうすることにより、帰った来たら恩給が もらえるし、警察にもなれるかな思った。愛国心より金のこと。天皇のために死ぬとか、我々の身を思ってみろとか、と 思う人も少なからずいた。 父からの手紙 からの手紙 その手紙から父を理解していく話。自分さえいなければと、父はよく言っていた。それは中国の捕虜を殺す役割をして いて、そのときの後悔。ないはずの指先が、しもやけのようにうずく。60年前の戦争がその子に子育てで影響を与え、園 子が生んだ子へとも影響を与えた。 日本人はなぜ 日本人はなぜ戦争 かったのかシリーズ、 はなぜ戦争へと 戦争へと向 へと向かったのかシリーズ シリーズ、NHK 満州事変、日中戦争、日米開戦、と新聞発行数がどんどん伸びていった。戦争になれば、夫が戦争に行くから、新聞を 買う新しい読者が増える。新聞社にとっては悪いことではない。ゆえに報道合戦開始。号外競争、飛ぶように売れた。 新聞業界はもうかった。満州拡大を支持するか、関東軍を支持するかどうか。新聞業者は強硬論、ゆえに新聞業界にも責 任論がある。その中で、朝日新聞だけが、慎重論をとった、しかし不買運動が起こり、ゆえにやもおえず立場を変えた。


新聞記者と軍部の急接近、メディアと民衆の熱狂が一 人歩き。日本放送協会の総裁近衛文麿首相、1937年政 府とメディアによる挙国一致の開始、ドイツのナチス を参考にしている。そして太平洋戦争終了時まで続 く。市民の生活面では、南京歓楽セールなどが開かれ ていた。海外のメディアは、日本軍の非戦東軍への殺 害を批判。1939年、不景気ゆえに反英集会→日米通商 航海条約廃棄→そこに第二次世界大戦のドイツの快進 撃→日本のメディア、民衆の空気から1940年日独伊三 国同盟→このときの世論ではもう反対はできなくなっ ていた。日本と米英関係は悪化、結果、メディアは自 分たちが作った世論を、自分たちも巻き込まれ、雪達 磨式になり、自分たちも抑えきれなくなっていった。

NHKのフィリピン市街戦の映像や、アメリカが1944年に上陸してきた話の映像を見ました。マニラは全てが戦争の都市と なったこと、どこも戦争の遺跡 だと思いました。マニラでの戦いで、日本人16555人、アメリカ人1010人、フィリピン人 100000人死亡。またそれぞれの島の戦いも、住民の死んだ割合が、兵士の死んだ割合の方が圧倒的におおかった点、地上戦と いう枠をつけると、他の太平洋地 域の島島の戦争と似ている点、また、大国の間に挟まれて、たくさんの地元が死んでいく のは、冷戦のときと似ているとも感じました。第二次世界大戦におけるアメリカと日本との地上戦の中の住民―フィリピン、 沖縄、太平洋の島々の比較―など。それと冷戦時の比較。例えばベトナム戦争、朝鮮戦争など。


式典 スピリチアル マウンテン、それが山下と5万人の人 の精神を平和に替えて投稿させたという、原住民の言 い方もある。というのがとても印象的だった。また日 本人が批判され、アメリカを象徴しているように、聞 こ える 場面が 多く、もと もと は、ここに 米軍基 地が あ った から、日本 軍に狙 われ たんだ、そ のこと を分 かっているのかとも、思ったりもした。なぜ、日本人 が攻めてくる前の、アメリカとのフィリピンの歴史 を、考慮に入れていないようであった。 韓国の参加者は独島、靖国、慰安婦問題、謝罪、謝 礼、戦争責任を果たしていないなど、たくさんの批判 をしていた。これが韓国政府が行っている教育なん だ、とても偏っている気がしたのと同時に、これが一 般的な韓国人の考えなのかとも思い、これじゃ韓国人 が日本人を心から良く見えることはないのでは思っ た。彼らは、昔が解決されないと、今は友達になれな いみたいな考え方であった。

そして、日本の教育のことも少し考えてみた。フィリ ピンの最初の二日間の勉強会で、日本がとても関わって いるのに関わらず、日本では、第二次世界大戦のこと を、そこまで学ばなかったことなどを思い出した。韓 国、中国、アメリカの戦争のことは習うが、フィリピン や、東南アジア、太平洋の島々の、日本が行ってきた歴 史は学ばない。 このフィリピンスタディツアーを通して、世界史、そ れぞれの国の主流の歴史を見るだけでなく、その脈絡の 中で、地域の歴史、部落の歴史、そして自分史を含め て、つなぎ合わせてることの重要性を感じた。その逆で もいいと思いますが。そして、それらを生かして、地域 の活性化、地域のアイデンティティーの向上、歴史を掘 り起こす、そして再構築することが、きっとまだまだた くさんの場所でやる必要がある活動なんだと思った。リ サーチメートはとてもいい例で、刺激になった。


スタディーツアー2011 スタディーツアー 2011 inフィリピン in フィリピンに フィリピン に 参加して 参加 して 宮平杏奈 「リサーチメイト」 リサーチメイト」との出会 との出会い 出会い 今回のスタディーツアーでフィリピンは2回目だった。 スタディーツアーに参加した理由は、太平洋戦争における フィリピンでの死者を、国籍を問わず慰霊する「合同慰霊 祭」と「アジア太平洋国際平和フォーラム」に参加するこ とと、「リサーチメイト」という団体の友人に会いたい、 と思ったからだ。 リサーチメイトは、フィリピン先住民のイゴロットとい う人々で構成され、メンバーのほとんどが20代の若者たち だ。彼らは、イゴロットの歴史・文化・言葉を本や映像に して、イゴロットの人々の間で薄れてしまったものを取り 戻そうとしている。

初めて彼らと交流をしたとき、イゴロットの若者の中に は、イゴロットとしてのアイデンティティーがない者 や、またはイゴロットということを自ら名乗らない者も いるということを聞いた。彼らはそんな状況を打開し、 イゴロットとしてできることを精いっぱい取り組んでい るようだった。 イゴロット兵士 イゴロット兵士の 兵士の物語 6月に彼らに会った時ちょうど、イゴロットの兵士と日 本兵の戦いに関する映画を撮っており、それが今回12月9 日のフォーラムの際公開された。当時兵士だった5名の ヴェテランにインタビューをし、再現映像を交えて、当 時の記憶を鮮明に映し出していた。イゴロットの兵士は 66部隊と呼ばれる、アメリカによって編成された部隊で ある。


一般的に「アメリカのために戦った」と言われるが、リサーチメ イトとしては「土地のために戦った」という主張であった。映画 からは彼らの主張はあまり強くなく、比較的中立のような印象を 受けた。しかし、最後に「フィリピンの英雄」という字幕が出て きたので、少しショックであった。こうしないと、フィリピンの 歴史教材として扱われないのだろうか? また、フォーラムの前にヴェテランの3名とお話をしたが、み なさん軍人の帽子をかぶり、「フィリピンの英雄」のような格好 であった。また、彼らによると最近オバマ大統領から第二次世界 大戦の功績として補助金をもらったらしい。「アメリカの英雄」 としても彼らは讃えられている。そして、リサーチメイトの見解 を合わせてみると、それぞれが違う主張で、ヴェテランの「声」 はあまり聞こえないような気がした。ヴェテランにとって、周り から「語られること」はどのような気持ちだろうか…。

自らの歴史 らの歴史・ 歴史・文化・ 文化・言葉を 言葉を語ること 初めて彼らと会った時、リサーチメイトのメンバーとお話をして いく中で、沖縄の話も出てきた。彼らは沖縄は少し昔まで日本では なかったこと、日本とは違う文化・言葉を持つことを知った。同時 に、私が沖縄の人であるにも関わらず、沖縄の言葉を話せず、主流 の言語・日本語しか話せないことを知った彼らは一瞬驚いたような 表情を見せた。そして、メンバーの一人Dさんは「どうしてアンナ は沖縄人なのに自分の言葉がしゃべれないのか!それは沖縄人と言 えるのか?」と言った。私は笑ってごまかしたが、この時言われた 彼の言葉がずっと気になっていた。


そして、今回12月再会した際、Dさんに「どうして前回あのようなことを言ったのか」と質問をしてみた。彼は前回 酔っ払っていたみたいで、「あまり覚えていない」と言っていたが、「言葉+歴史+伝統=文化だからだ」と説明して くれた。彼らの言葉は、沖縄のように絶望的に途絶えていない。メンバーとの日常の会話はほとんどがイゴロットの言 葉だ。私は「それでは、沖縄には何もないかもしれない」と答えた。義務教育で学ぶ歴史は、すべて日本のことばかり で、歴史の教科書ででてくるのは「琉球処分」と「沖縄戦」のことくらいだ。言葉に関しては、地域差はあるものの、 一般的に若い世代の話者は大分少なくなっているようだし、中心の言語は日本語である。それでは、彼の等式では「沖 縄」はどう語られるのだろう?と疑問が残った。

自らをどう「 らをどう「位置付ける 位置付ける」 ける」か 私はこれまで個人が「沖縄人」 というアイデンティティーを持っ て いれ ば、たと えそ れを「証 明」 する言語や文化が備わっていなく て も、「沖 縄人」だ と語っ ても い いと思っていた。とくに沖縄で彼 らのような「先住民」という前提 の活動をしたら、ものすごい罵声 を浴びるか、白い目で見られるの が現状だろう。私もどこか、そう いう団体とは一線をおくような立 場であった。どうしても「民族主 義 だ!排他 的だ!」と県内 外か ら の反応があるのは避けられない。

しかし、彼らと交流を持ってから、たとえそのような批判があったとしても、 「『自分』が『自分』を語る」上で、その証明となるものを探し出し、広めよう という活動の何が悪いと思うようになった。 沖縄は現在も米軍基地があり、アメリカと日本と二重の植民地状態にあると 言っても過言ではないと思う。そのような中、これから沖縄はどのような将来像 を描いていけるだろうか?このまま主流の教育を受け続け、主流の思考回路にな り、「日本の沖縄」としての立場でしか自らを主張しなければならないのだろう か。沖縄の将来を考えていく上で、やはり過去を見て、今をみて、主体的に未来 を語っていくことが、今の沖縄に必要なことではないかと思った。沖縄でもリ サーチメイトのような活動の可能性を、見いだすことはできないだろうか。


ツアー備忘録 ツアー備忘録

古川ちかし 手作りの、本当に手作りの企画に参加して楽し かった。比屋根さんが英語ができて、宮平さんがだ めでも、私が通訳しなくてもよかったので考えてい た よ りも 楽で した。ここ で は備 忘録 的に、この ツ アーでの出来事を通して、あるいは出来事や出会っ た人たちについて、少し書きます。 企画について 企画について フィリピン在住の友人Tさんが「あのバギオで今泉 さんたちがやってるあれ、なんか意味わかんない わ」と言った。「なんで合同慰霊祭なの?」私は答 えられなかったんだけれど、その名前が適当かどう かは別にして、彼らのやりたい気持ちは分かります と言って、Tさんにも説明した。彼ら、と言ったけれ ど、“彼 ら”が 一 丸 と な っ て 同 じ 気 持 ち で 何 か を やっているわけではない。今泉さん、ResearchMate のベティさん、デイブ、レイネル、ネットカフェの グラディス、SEEDSのマリー、日系人会の山田さん、 山中さん、小国さん、幸っちゃん、いろんな人たち がいろんな思いをもって関係している。そこがまず 非常に魅力的だと思うのだ。合同慰霊祭は何かをす

るための名目みたいなもの、そんな言い方はまずいだろうけれ ど。思いは、それぞれでそんないろんな思いの中に、私の思い も、比屋根や宮平の思いもすれ違いながらも引っかかってい くーそんなツアーになったんじゃないかな。 企画は、山のコミュニティでフォーラムをやって、山の儀式 で戦死者を弔って、山を歩いてた。企画は、山のコミュニティ で活動する若者たちのネットワークを存分に使った。企画はバ ギオ市長を引っ張り出して、韓国の学生や中華系フィリピン人 も引っ張り出して、台湾の日本人も引っ張り出した。なかなか の力だと思う。たとえそれが少数で、場当たり的な「引っ張り 出し」方だとしても。 慰霊祭での 慰霊祭での話 での話 アンピシアターでの慰霊祭で急にお前もしゃべれ、と言われ た。台湾も日本も代表できないよ、という前提で話した。 私が覚えている戦争はベトナム戦争からだ。それ以前の朝鮮 戦争について知ったのは後だった。湾岸戦争もあった。個人的 には沖国大に米軍ヘリが突っ込んだとき、すぐそばにいた。ア フガニスタン攻撃やイラク戦争も身近な出来事だった。第二次 大戦の後「平和でした」という感覚がない。私たちは大戦後 に、戦争は終わりましたと言って、ごまかしてずるずるとここ まで来てしまった。そういうことをしゃべった。あの戦争は酷 かった、今は平和でよかった・・・そんな話はできないから。 キドラット・タヒミクさんが何か言いたそうな顔をしていた。 また会えたら何か言うかもしれない。

イトゴンの イトゴンの農業担当者との 農業担当者との話 との話 イトゴンの儀式の間に、もうすぐ退職するという行政区の農業担当者のおじさん(右の写真)に声 を掛けられた。日本に農業研修にも行ったことがあるそうで、少しだけ日本語を話した。コンバイン が数台あったらここの農業はすごく変わるんだけど、と言う。JICAに知り合いはいないか、そういう 話にもなった。 なぜコンバインが必要になるのか、以前は皆で助け合って田植えも稲刈りもしたのに、その人たち はどこに行ってしまったのか…そういうことは放っておいてコンバインがあれば便利でしょう、とい う話になってしまうのは、何か違うように思った。が、このおじさんは音楽担当でもあったので、音 楽が始まったら呼ばれていってしまった。 私たちはどこでどう間違ってしまったのだろうか。


ジミー・ B. Fong先生 先生のこと ジミー・フォンJimmy フォン 先生のこと アンピシアターの慰霊祭で、UPバギオのジミー・フォン先生 に会った。Mass Communicationの先生だ。次回バギオでツアー することがあったら、この先生の学生さんたちと合流できる か、そんな話をした。いいよ、とのことだが、名刺を彼はもっ ていなかった。 小国さんのこと 小国さんのこと 小国さんは最初はテキサス・インスツルメンツ(ITの会社) 社員としてフィリピンに来たそうだ。バギオの駐在員をしてい た。バギオから転勤になったときに、会社が早期退職を奨励し ていたこともあって、すっぱり会社をやめて日本語教師の勉強 をして、その資格でバギオに戻ってきた。現在はバギオ日系人 会の会長。日系人会というから日系人じゃないといけないのか と思っていたら、そうではないらしい。ダバオの日系人会に 行ったとき(2006年)には、日系人と、それから最近移民して きた日本人は別々の会を作っていた。その二つの会の間に“新 日系人”(ジャピーノなんている蔑称もある)がいて、どちら からもちょっと疎まれてしまう。バギオでは事情は違うよう だ。何にせよ、このバギオのウォルター・マッソー、小国さん は人生興味深々、面白い人だ。


Marie Balangueさんのこと Balangueさんのこと 今泉さんと事前のメールやりとりのなかで、今度の企画はマリーさんという別の(ベティではなく、の意 味)若い女性が動いていてくれて、この人がフットワークがいいんですよ… と聞いていた。うん、マリー は、そうですね、イゴロットのフェミニストで、コミュニティ活動に燃えている。フィリピンでは少数はの道 教、タオイスト(バギオに、ラ・トリニダドだったかな、道教の廟がある。そこに通って大きくなった)。家 が資産家だったのか、アパートを経営し、金に困っている様子はない。不思議な人。フェミニストセラピーな んかに造詣が深そう…。 イトゴンと イトゴンとOFW イトゴン市長と話したら、イトゴンから3000人くらいがOFWに出ているのだそうだ。(イトゴンは大きい行 政区だけれど、人口はどれくらいかな)この数は世界全体だから台湾にどれくらい来ているか、分からない。 彼らは同じOFWと言ってもイゴロットだから、仲間の中で少し違う感じになるのかな。差別があったりするの かな、などと考えてしまった。 右は市役所の掲示版。左のポスターはModel OFW Family of the Year Award(今年の模範的OFW家庭賞)という賞 のポスター。そんなのがあるというのも、ここで初めて知った。役所の中に入ると、すぐにOFWの手続きをす るカウンターがあり、なんだか、市役所の仕事の大きな部分がOFW輸出みたいな感じも受ける。 イトゴンは鉱山の町だ。区域のいたるところに採掘跡がある。出るのは金だ。銅も出る。でも、今でも一攫 千金を狙って金を掘り続けている人たちは多くないが、ヘルメットかぶっていかにも金鉱掘りといういでたち の人がジープ二ーを待っている、そんな情景に何度か出会った。


Betty Listinoさんのこと さんのこと 12月9日の夜、プロジェクト66のDVDをコ ピーするにあたって、話しておきたいことが あると言われて1時間ほど、Bettyと話した。 Bettyには、以前からEaphetのNewsletterに原稿 を依頼していたが、期限までに原稿をもらえ ず台中から催促の電話をかけたりもした。言 いたいことがたくさんあって、時間はない し、で き な い の よ ご めん な さ い、と の こと だ っ た。フ ィ リ ピ ン で は 先 住 民 の こ と を 「IP」と略称する。Indigenous Peoplesの略。IP について、政府が憲法上に条文を設けて保護 を謳ったのはそう昔のことではない。そうい う歴史も含めて彼女に原稿を依頼している。 いつになるか分からないけれど気長に待と う。 ResearchMate を 支 え て い る メ ン バ ー た ち は、(グラディスが経営する)ネットカフェ にたむろするアーティストやらフリーターと いった若い連中だ。ネットカフェの二階に構 えた事務所を前後に仕切って、後ろ側にBetty の部屋がある。みんな、何で食っているのか 分からないけれど、何とか食いつなぎつつ、

活 動 し て い る。ResearchMate の 事 務的な整合性を支えるのもBettyの 仕事で、レポートなどもしっかり 作成する。 でもそういう若者た ちや、今泉さんたちおじさん(失 礼)たちや、コミュニティや、教 育省のお役人や、退役軍人たちー いろんな人たちとの関係を保っ て、プロジェクトを続けていくこ とは、精神的に大きな負担になっ ているだろう。小さな身体で奮闘 す る Betty に い つ も 感 動 さ せ ら れ る。(了)



「東亞與美國Act. 東亞與美國Act. 3」 3」 3-1フィリピンと フィリピンとアメリカ合衆国 アメリカ合衆国 3-2 第二回アジア 第二回アジア太平洋平和慰霊祭 アジア太平洋平和慰霊祭と 太平洋平和慰霊祭とイゴロット復権運動 イゴロット復権運動 編輯:Eaphet編輯部 内文:古川ちかし・Iwan思懿・Jackal偉祺・比屋根亮太・ 宮平杏奈・Awil Kazuo 圖片:Eaphet編輯部 社團法人台灣東亞歴 美編:Awil Kazuo 史資源交流協會 出版時間:2011/12


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