半透明空間研究
□ 目次
東北地方太平洋沿岸地域における伝承表現と集落構成研究
第 1 章 序論 1.1 研究背景と目的 1.2 既往研究との位置づけ 1.2.1 □既往研究と本研究 - 沿岸地域における研究から 1.2.2 □既往研究と本研究 - 半透明空間研究から
- 岩手県田野畑村の津波減災から -
1X09A052-1 加藤 聖也 1X09A105-5 高松 めい
第3章 調査概要 第5章 田野畑村における津波災害の伝承表現に関する分析・考察 第6章 結論および展望 第 4 章 日常・避難動線とコミュニティによる集落形態の分析・考察 3.1 一次調査 5.1 分析方法 4.1 分析方法 6.1 結論 3.1.1 □一次調査概要 5.2 分析結果データシート □日常・避難動線の把握に因る沿岸地域の構成把握 □第 4 章集落構成より 3.1.1 □東北地方太平洋沿岸地域津波被害統計比較 □地域コミュニティについて 5.2.1 田野畑村における津波災害の伝承表現 □第 5 章伝承表現より 3.1.2 □東北沿岸地域浸水域分類 □伝承表現分布図 □血縁コミュニティについて 6.2 総論 3.2 二次調査 □石碑 □災害意識度について 6.3 展望 第 2 章 東北沿岸地域における津浪災害 3.2.1 □二次調査概要 □津波石 □避難所の適当性について 2.1 津浪とは 調査地概要 □伝説 第7章 データシート 4.2 分析結果データシート 2.2 津浪災害の歴史 3.2.2 □調査資料 □文学 □住民の良く行く場所 ( コミュニティの場 ) と避難所の適当性について □アンケート・マッピング 2.3 三大三陸大津波被害統計 震災以前のくらしアンケート □写真 □地域別統計における考察 参考文献 2.4 津波災害の伝承と減災 伝承表現と認知度アンケート □歌 地域コミュニティについて 謝辞 2.5 東北地方太平洋沿岸地域における津波災害の伝承表現と分類 日常・避難動線マッピング □講演会 血縁コミュニティについて 津波災害の伝承表現 3.2.3 □調査対象地データ □口承 災害意識度について 東北地方太平洋沿岸地域における津波災害の伝承表現の例 田野畑村明戸地区 □日常・避難動線とコミュニティに関するアンケート−質問毎各地域回答率 □寺 東北地方太平洋沿岸地域における伝承表現の例と分類 田野畑村羅賀地区 5.2.2 伝承表現一覧 □日常・避難動線とコミュニティに関するアンケート−総計 田野畑村島越地区 5.2.3 地区別認知度 □日常・避難動線とコミュニティに関するアンケート−地域別統計 仮設住居 5.2.4 年代別認知度 □日常・避難動線とコミュニティに関するアンケート−年代別統計 田野畑村役場 5.2.5 伝承方法 4.3 第 4 章結 小中学校 5.2.6 伝承表現の特性と分類 □日常・避難動線に関して 3.3 調査結果 5.2.7 神社と津波 □コミュニティに関して アンケートおよびマッピング結果 5.3 考察 □防災意識度に関して □コミュニティの中心性と避難場所の適当性に関して
■調査地概要 岩手県下閉伊郡田野畑村
2)波高・浸水域図の作成
第 1 章 序論
■分析1 伝承について
■研究背景と研究目的
東北地方太平洋沿岸地域の過去の津波災害
田野畑村は、陸中海岸国立公園の一部として
信仰
記録、伝承を収集し分析。
10数kmの海岸線をもっている。そのほとん
信仰 供養塔
史跡
研究背景 近代化の結果、さまざまな環境問題が生じ多くの社会問題を伴ってきました
0
自然物
。そして3月11日の東日本大震災。「自然」 と「人」とのつながりを取り戻し、持続
1)伝承表現の定義「1.津波災害の歴史事実
可能な社会へ時代の 転換が求められており、近代以降の価値観の見直し、 新 たな社
を伝えていると考えられる表現物。2.時代
会共通の認識が必要です。
の新旧を問わず、その場所で津波による被
現在、2011 年の東日本大震災を経て、復旧復興の取り組みの中でさまざまな記録が
害があったことを受けて生まれたものであ
集積されている過程にいます。今後 はその記録や経験をどう継承していくかが大きな
り後世の人間にその史実を意識させる役割
課題です。日本の集落は、繰り返される自然災害の歴史を背景に有し、多くの記録が
を担い得るもの。」
石碑
歌
5
10
15
20
25
30
35M
0
5
10
15
20
25
30
35M
0
的に集落構成へ反映されている」のではないでしょうか。
25
30
35M
日の津波は、この河川沿いに遡って集落を壊
震源地 震源地
文学
掲示
震源地
滅させた。痕跡調査によると、羅賀の辺で遡
紙芝居
資料館
上高22.3m、島越では遡上高27.1mを記録し
体験談・教訓等の口承
看板
語り
た。三陸鉄道北リアス線の島越駅は、高さ10
講演会
ことわざ
mの鉄筋コンクリート製橋梁の上に設置され
伝説
0
『つなみ』 田畑ヨシ作
唐桑半島・津波体験館
紙芝居
資料館
た高架駅であったが津波呑み込まれ駅舎・線
1933/3/3 昭和三陸津波
2011/3/11 東北地方太平洋沖地震津波
(明治29)
(昭和8)
(平成23) 洋野町
3)減災に成功している地域の特定
文学
石碑
大船渡市 越喜来村
宮古市
3.0
業では、羅賀漁港や島越漁港の防波堤は破壊
気仙沼市
鉱業建設業
サービス業
をまぬかれたものの、死者・行方不明者で30 人に登る犠牲者を出した。
越波していないが、無堤区間か らの 回り込みにより浸水被害が 生じたと思われる
データをグラフ化し、死亡率、被害率の時代の
久慈市
山田町
大船渡市 綾里村
南三陸町
大船渡市 赤崎村
石巻市
また、漁船565隻中512隻が流出し、魚市場、
医療・福祉
製造業
0
養殖施設が使えなくなった。それでも、明治
変化率を各市町村毎に統計し減災に成功してい
無形
農林漁業
村人口の約1割に当たる400人が従事する漁
統計値の誤算だと思われる
統計値の誤算だと思われる
野田村
大槌町
「津波てんでんこ」
ことわざ
路が流出した。
1.5
る地域を特定する。 大震嘯災記念碑
500km
1896/6/15 明治三陸津波
町単位での統計資料、波高・浸水域図をもとに 看板
250
統計値の誤算だと思われる
『津浪と人間』 寺田寅彦著
明治津波の高さの表示板
どは断崖である。この海岸線に向かって数本 の川が東流して太平洋に注いでいる。3月11
絵画 地名
2)津波災害を伝承する表現の例 伝承する表現の例
つの視点から、津波の記憶がどのように集落をかたちづくってきたか 、暗黙的な防災
第 2 章 東北沿岸地域における津浪災害
20
写真
そこで、被災対応に成功している集落を取り上げ、その伝承および集落構成という 2 機能を明らかにし、防災・復興の一助となる事を 目的とします。
15
0 1 2 3 4 5± 6± 7 ( 震度 )
すなわち、「被災対応に成果をあげているとみられる集落においては、災害の歴 史 の記録がその知恵が風化することな く 集落の記憶として災害の歴史が継承され暗黙
10
芸術
祭儀
残されているが、それらは表現されることがなければただの情報に留まり、やがて何 百年といわれる大災 害の時間のスパンの中で防災意識は低下、知恵は忘却されます。
5
寺社
名称
参考文献 『アニミズム時代』岩田慶治 法藏館 『津波と人間』寺田寅彦 中央公論新社 『三陸海岸大津波』 吉村昭 文芸春秋 『田野畑村史』 『新・たのはた風土記』 『忘れるな 三陸沿岸大津波』上西勇 『田野畑の大津波 伝承と証言』九里十太郎 『三陸大津波写真集』 九里十太郎 『津波の恐怖 三陸津波伝承録 』山下文男 古今書院 『 東日本大震災津波詳細地図上巻・下巻』 原口強・岩松暉 古今書院 『 集落の構成と機能』 山口弥一郎 文化書房 『 津波と村』 山口弥一郎 恒春閣書房 『 東北の村々』 山口弥一郎 恒春閣書房 『 災害の住宅誌 人々の移動とすまい』 京都大学防災研究所 牧紀男 鹿嶋出版会 「津波記念碑の社会言語学的研究及び書学的研究」齋藤平 , 大池茂樹 , 大島信生 「自然災害への心意的対応ー中国浙江省紹興の水害をめぐる民俗伝承から 」陳志勤 「津波堆積物からみた 869 年貞観地震と 2011 年東北地方太平洋沖地震について」宍倉 正展 産 業技術総合研究所 活断層・地震研究センター 「『三代実録』にみる 貞観地震の実態」坂元 義種 月刊歴史読本 2011 年7月号 「東北の集落」 山口弥一郎 「集落地理講座」 木内信蔵、藤岡兼二郎、矢嶋仁吉 「日本の民俗学4 環境の民俗学」 野本寛一 「東北地方の経済地理研究」 山口弥一郎 「第 8 章 構造物主体の津波対策の確立とその後」 「田野畑村 調査総括表」 「2011 年東北地方太平洋沖地震災害調査速報」 日本建築学会 「高地移転と土地利用規制」東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査 会 「 津波による高地移転集落の現状と災害上の課題」 熊谷誠
三陸地震津波で、200人以上の犠牲者を出し
■2次調査
普代村
釜石市
大船渡市 末崎村
大船渡市 吉濱村
大船渡市 大船渡町
女川町
エネルギー
商業
てから、高台へ住居を移した効果があったか、 犠牲者数は2桁にとどまった。
通信運輸
1次調査に加え、被災率、浸水面積、浸水範囲 ■既往の津波被害
津波記念石
自然物
防災講演会「津 波 の 恐 怖 」
講演会
無形
その代表的な地震津波としては、896年貞観地震津波、1611 年慶長三陸、1896年明
[ みちびき地蔵 ]
波分神社
伝説
寺社
震津波である。 風俗画報 大海嘯被害録
絵画
第3章 調査概要
無形
東北沿岸地域において、明治・昭和・平成の三陸大津波に関する資料を集め、3つの において、明治・昭和・平成の三陸
三陸沖中部
a)死亡者・行方不明・犠牲者数 b)家屋流出倒壊戸数 c)当時の震災以前の町の人口、家屋数
■調査概要
■アンケート対象
調査地である岩手県下閉伊郡田野畑村にて、
・田野畑村役場職員 52人(全
2012年9月8日から17日かけて、アンケートと
職員)
ヒアリング調査を行った。
・沿岸地区住民(住宅訪問)
被災地現状調査
被害戸数 9 戸
羅賀地区 20人
ヒアリング ・田野畑村民俗資料館
1)東北太平洋沿岸地域一帯における町単位での被害統計資料の作成
・宝福寺
(※各地区流失しなかった住宅
世帯数 166 世帯
・NPO法人 体験村・たのはたネットワーク
数のおよそ1割)
死者数 6 人
アンケート調査
・仮設住宅訪問 25人
三陸沖南部海溝寄り
島越地区 10人
a)田野畑村の震災以前の暮らしについて
・田野畑村立田野畑小学校4・
b)津波に関する伝承について
5・6年生
c)住民の日常動線と避難動線について
・田野畑村立田野畑中学校 全
羅賀:人口 469 人
被害戸数 122 戸
島越:人口 587 人 世帯数 189 世帯
学年
第一次調査研究対象エリア(東北地方太平洋沿岸地域)
2012/09/( ) ( ):( ) R・A・S・K( )
日常・避難動線と伝承に関するアンケート 問 の 時 系 列
問 の 分 類
※あてはまる にチェック
(4)田野畑村には下のような津波・高潮の伝説があります。知っていますか?
をいれてください。分かる範囲で大丈夫です。
0∼10 才 41∼50 才
11∼20 才 51∼60 才
21∼30 才 61∼70 才
31∼40 才 71 才∼
□震災まえから知っている
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか?
□震災のあとに知った
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
□知らない
□知らない
□知らない
)
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った □その他( )
女 主婦
その他( )
(8)村のお寺、宝福寺は昭和の大津波で亡くなられた人々のためにつくられたということを知っていましたか? □震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
現在の 島越漁港、かつては「庭平」と呼ばれており ............
☆知っている、と答えた方は、どうやって知りましたか?
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
)
□その他( )
早稲田大学建築学科古谷研究室
平井賀港
須賀
大宮神社
羅賀荘
須賀
□学校や職場で参加する機会があった
大沢フジ
)
□人にすすめられた □津波について知りたいと思った □なんとなく
下村信男
・1999年 吉村昭氏津波に関する講演 など
下坂嘉一郎
□その他( )
中崎英一
大沢カメノ
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
畑山正明
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか? □親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
広内順孝
中村光明
(
川畑清作
参加を考えたきっかけはなんですか
前原健伍
廣内松平
☆参加したことがある、参加を考えたことがある、と答えた方は、
中村岩男
『三陸大津波写真集』 □震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
例 ・2003年 昭和8年三陸大津波70周年記念事業 津波体験発表会
中崎正助
大沢太
ご自身の経験をふまえて自由に回答してください。 (口承で伝えていく、石碑をつくる など) (6)震災以前、津波に関する講演会に参加したことはありますか?
□その他( )
大沢栄喜
中村武男
旅荘旭館 佐藤薫明
□その他( )
(11)東日本大震災の経験を、将来へ継承し続ける為にはどのような方法が有効だと思いますか?
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
下坂弘次
大沢清喜
竹下正志
加藤正光
中村芳男
細川孝男
中崎マート 中村光行 中崎孝正
畠山学
平井賀地区 浄化センター
早野文平
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
内は、現地訪問では聞かないで大丈夫です。
早稲田大学古谷研究室
平井賀郵便局
)
大沢敏隆
(
田子内商店
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか?
角田
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか? □親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
本家旅館 畠山栄一
□その他( ) 『田野畑の大津波・ 伝承と証言』 九里十太郎著
(10)津波の歴史や脅威、教訓について、何を通じて知る機会が多いと思いますか? ( 近所の人との会話、 本を通じて など)
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
畠山昭子
(5)昭和8年の大津波のあとに作られた津波の歌を知っていますか?
鈴木金蔵
( )
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか?
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
Q.地域全体で高台移転の計画には(あったら) 、賛成しますか。 する しない Q.[ する ] と答えた方は、どのような理由からですか。 ( ) Q.[ しない ] と答えた方は、どのような理由からですか。 ( ) Q.何故、明治・昭和・平成と田野畑村は減災に成功してると思いますか。
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
畠山鉄也
吉村昭著
田野畑幸穂
畠山洋悦
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った □その他( )
『三陸海岸大津波』
田野畑村外
NTT 東日本 田野畑村電話交換所
(
食事処汐
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか? □親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
(3)写真の田野畑村に関係する3つの津波についての本を知っていますか?
田野畑駅 カンパネルラ田野畑
□その他( )
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
下村章
(9)回答したもののほかに、つなみの歴史や教訓を教える伝承を知っていたら教えてください。
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった □テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
熊谷則男
□その他( ) 伝説3 大津波があって、大峯山のあたまだけが水から出ていて ....................
晴山信明
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか?
Q.具体的な場所が決まっていましたらよろしくお願いします。 移転前 ( ) → 移転先 ( )
→日常動線・避難動線に関する質問は全て地図へ
中村芳正
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
濱田玉治
□その他( )
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
戸田功三
いない
羅賀新路
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った □親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
中村初男
なかった
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか?
平井賀橋
Q.[ ある ] と答えた方は、どちらに移転を考えていますか。 地域外 同地域内の高台
伝説2
□その他( )
(2)羅賀地区の畑に、明治の津波でうちあげられたといわれる大きな石があるのを知っていますか?(左下写真)
Q.震災前、どれくらい家の近くの人と話したり、遊んだりすることがありましたか。 あった たまにあった あまりなかった なかった よくあった Q.住んでる地区以外の人と話したり、遊んだりすることはありましたか。 よくあった あった たまにあった あまりなかった Q.田野畑村内の同じ地区、他の地区に親戚はいますか。 いる(どこの地区?→ )
□テレビ、新聞、雑誌、本、インターネットで知った
( (
畠山正次郎 駒木満
(
高橋幸男
会社員 (
Q.震災以後住まいの場所をかえる予定がありますか。 ある ない 防 災 意 識 に 関 し て
☆よくあった・ときどきあったと答えた方は、 いつ、 どんな状況で、 誰から聞くことが多かったですか?
(
中村攻
学生
震災前に住んでいた 場 所 今住んでいる場所
Q.家で事前に防災に取り組んでいたことがあれば、具体的に書いてください。 ( )
震 災 後
□震災まえから知っている □震災のあとに知った
本宮神社
に 関 し て
□震災まえから知っている □震災のあとに知った □知らない
□震災まえから知っている □震災のあとに知った
□親族から話を聞いた □近所の人・友人から話を聞いた □自分で見つけた □学校で教わった
ニ テ
被害戸数 138 戸 □よくあった □ときどきあった □あまりなかった □全くなかった
学校
男
職業
※住所がわかる方はよろしくお願いします。地区名でも大丈夫です。
コ ミ
死者数 23 人 (7)震災以前、講演会以外で津波の体験談や教訓を聞く機会はありましたか?
☆震災まえから知っている、震災のあとに知った、と答えた方は、どうやって知りましたか
性別
※住所がわかる方はよろしくお願いします。地区名でも大丈夫です。
震 災 前
平井賀
伝説1 今八幡神社を祭る八幡山は、むかしから「立牛」といった。その ........
↑田野畑
回 答 者
羅賀
島越
名前 年齢
公文図書と津波に関する書物の調査
死者数 1 人
の町村単位で比較し、減災に成功している、ある一つの地域を特定する。
(1)写真は、田野畑村にある昭和や明治時代におきた津波を伝える石碑です。これらの石碑を知っていますか?
住民による聞き取り
世帯数 40 世帯
三陸大津波の被害統計資料をつくり、2次調査における研究対象地域を明治・昭和期 被害統計資料をつくり 2次調査に
B)波高・浸水域図 C)地域の伝承(口頭伝承、お祭り)
明戸:人口 128 人
明戸地区 4人
15 市役所・町村役場 宮城県沖
は死者数1名と他の地区と比較した際少ないため、今回の研究においては、主に羅賀 地区、平井賀地区、島越地区の3地区の比較研究とする。 地区、平井賀地区、島越地区の3地区
→
12 市役所・町村役場
以下のようである。明戸地区においては今回の東北地方太平洋沖地震津波による被害
戸
昭和三陸津波、明治三陸津波)
賀地区、島越地区の4つである。それぞれの人口・世帯数・死者数・被害戸数構成は 陸前高田市
岩泉町
も高い減災効果を示した。よってこれを調査候
明
A)町単位での統計資料(特に東日本大地震津波、
被害率
「波伝谷」 「渡波」 「波路上」
地名
調査対象地である東北地方太平洋沿岸地域一帯 三陸沖北部
田野畑の太平洋沿岸地域は主に4つの地域で構成される。明戸地区、羅賀地区、平井
死亡率
無形
■分析2 被害統計について 害統計について
5日において調査を行った。
田野畑村
より最終決定。
補地とする。
■1次調査 (岩手県、宮城県)について2012年6月27日∼7月
水門 (T.P.15.5m) を 越波したが、 市街地が遠く、被害は軽微
以上より、田野畑村が東北沿岸地域において最
東北地方太平洋岸はこれまでにも津波被害を伴う地震が繰り返し発生してきている。 治三陸、1933年昭和三陸地震津波があげられる。そして、2011年東北地方太平洋沖地
内の人口・世帯数、浸水範囲概況の割合などに
年代別認知度比較
第4章 田野畑村における津波災害の伝承表現に関する分析・考察 NO.
表現形式
名称
石碑
( 左 ) 三陸海嘯横死者招魂碑
小 4 6 年生 中 1 3 年生
これらを9つに分類し各伝承表現の内容を分析、地区別認知度比較によって場所との 関係性を分析 、年代別認知度比較によって世代間の継承のようすを分析、さらに各伝
3
大海嘯溺死者招魂碑
石碑 昭和八年津波記念碑
5
することでそのものの発見が伝承のきっかけとなる。 することでそのものの発見 することでそのものの発 見 見が伝承の のきっかけとなる。 の きっかけとなる
6
23%
17%
19%
17%
13%
12%
17%
15%
33%
25%
50%
62%
25%
48%
55%
40%
27%
33%
36%
44%
90%
64%
0%
1%
津波伝説
0%
8%
(震災後4%)(震災後2%)(震災後0%) (震災後8%) (震災後 0%) (震災後 4%) (震災 18%) (震災後 14%)
伝説
2%
津波伝説
0%
1%
0%
0%
7%
8%
0%
14%
9%
10%
36%
35%
31 40 歳、41 50 歳を境に認知度が半分ほど下がる。
41 50 歳、51 60 歳を境に認知度が半分ほど下がる。
以下は全回答結果を重ね合わせた調査結果になる。明戸地区は今回被害も少なく、地
31 40 歳、41 50 歳を境に認知度が半分ほど下がる。
理的条件も他の浜と異なる為比較対象から省く。主に羅賀地区の結果と島越の結果の
他の伝承表現に比べると認知度は相対的に高いといえるが、年代で
14%
18%
4%
0%
第5章 日常・避難動線とコミュニティによる集落形態の分析・考察
が小さいもの※1
■アンケートのマッピング調査
42%
67%
認知度の年代差
分析
81 歳∼
57%
(震災後 39%)(震災後 30%)(震災後 50%) (震災後 62%)(震災後 73%)(震災後 90%)(震災後 67%) (震災後 45%)
伝説
特性を分類し考察をする。伝承表現は一般に有形表現のほうが認知度が高い。形を有 特性を分類し考察をする。伝承表現 特性を分類し考察をする。 伝承表現 現は一般に有形表現
45%
(震災後 19%) (震災後 13%)(震災後 17%)(震災後 23%)(震災後 27%)(震災後 33%) (震災後 36%)(震災後 44%)
明治 29 年の津波大石
4
71 80 歳
46%
(震災後 22%) (震災後 17%) (震災後 33%)(震災後 23%)(震災後 25%) (震災後 48%)(震災後 55%)(震災後 47%)
自然物
承表現がどう伝達されているかを分析した。以上の分析をふまえて伝承表現の形式と 承表現がどう伝達されているかを分
51 60 歳
58%
17%
(震災後 26%)(震災後 27%) (震災後 17%)(震災後 17%)(震災後 58%) (震災後 46%)(震災後 45%)(震災後 57%)
(右)津波に対する戒石碑
石碑 2
年代別認知度 41 50 歳 31 40 歳
0%
27%
24%
( 中央)昭和八年津波記念碑
1
■田野畑村で発見された津波災害の伝承表現14項目の伝承表現
21 30 歳
(震災後5%) (震災後1%) (震災後0%) (震災後0%) (震災後0%) (震災後7%) (震災後9%) (震災 10%)
比較を行う。
比べると小中学生の認知度は低めである。
ほとんどの住民が知らず伝承がされていないことが分かる。
ほとんどの住民が知らず伝承がされていないことが分かる。
・元羅賀小学校 へ
・久慈、宮古、岩泉へ ( 車で )
北
田野畑村における津波災害の伝承表現
伝説
NO.
表現形式
名称
形態
NO.
表現形式
9%
あっぱ呼ばわり伝説
7
6%
0%
いう年代は伝説を知っている人がいた。
石碑
・約 20 人がいた
・田野畑村役場付近へ
・約 20 人がいた
三陸海岸大津波
8
石碑
(右)津波に対する戒石碑
大海嘯溺死者招魂碑
文学
講演会
67%
三陸海岸大津波
8 文学
田野畑の大津波
9
9
79%
67%
72%
38%
70%
(震災後 67%) (震災後 86%)(震災後 75%)(震災後 75%)(震災後 70%)(震災後 38%)
若い世代でも認知度はほぼ同じ。年代にあまり関係はみられない 81
33%
伝承と証言
伝承と証言
75%
50%
避難指導をしていた
石碑
52%
) (震災後 50%) (震災後 57%)(震災後 75%)(震災後 62%)(震災後 80%)(震災後 52%)
写真
写真 昭和八年津波記念碑
三陸大津波写真集
10
明治 29 年の津波大石
写真
(
例・ 「災害と日本人ー
無形
12
津波伝説
伝説
・友達の家へ ・昭和 8 年の時は
・友達の家
13
)
伝説
歌
50%
37%
25%
北
年代によってばらつきがでた。
2011.3.11 震災発生時いた た場所
・漁業のため海へ
新築した
・サトウエツコさんは
・羅賀荘勤務の人は皆、
漁港の倉庫にいて、 地震後、熊野神社へにげた
・震災前羅賀荘に勤務
(震災後 25%)
頼ってしまっている
・フジヤ、マルヤへ買い物へ ・買物へ ・フジヤ、マルヤへ買い物へ
・ここに震災後
・海での仕事 普段はいくば島 海港
・元の家
・車で避難 ・友達の家
・海が見えないと漁師は生活できあい。 カモメがきたから鯖がきたとか、
3%
復興の歌
12
0%
0%
4%
18%
0%
4%
少しの変化を間近で見ときたい ・ここで畑をやっていた ・ここで畑をやっていた ・友達から聞いた避難経路
・児童館跡
北 ・サトウエツコさんの主人は、 船で沖へ逃げた
・倉庫・漁業作業場
津波石
日常動線
・以前から決めていた
17%
・本人は震災当日仕事で役場近くにいた
% (震災後4%) (震災後0%) (震災後 17%) (震災後 0%) (震災後0%) (震災後 18%)
えた。学校教育で歌を歌った以降の伝承はほぼされていないこと、 習っ
・娘は家の猫を車に積み込み内陸へにげた ・田野畑内陸へ ・宮古へ買い物
・平井賀のフジヤへ買い物へ
た事を記憶にない住民も多いことが分かる。
・浜の人の方が危機感が薄いのでは?
・学校の仮設店フジヤで
気象庁の当初の 3.6m という津波注意報
・学校の仮設へ 売り子をやっていた ・震災時は、仕事のため
例・ 「災害と日本人ー
(
津波は必ずやってくる」
「昭和8年三陸大津波
の誤報に安心している人が多かった
津波の被害が及ばない内陸にいた
)
( 参加率)
( 参加率)
50%
43%
( 参加率)
( 参加率)
( 参加率)
( 参加率)
59%
36%
44%
58%
・盛岡市の大宮幼稚園に勤務 ・友達から聞いた避難経路
・普段役場に行くまでの道のり
参加率に年代による違いはあまり見られない。
・ここで二次避難し、 一日泊まった
70 周年記念事業津波体験発表」
寺社
無形
・この防波堤の存在に ・漁港
・友達の家
・以前から決めていた
講演会
津波は必ずやってくる」
・友達の家
・友達の家
下がる。
80 歳以上の住民は学校で習った事を覚えている方が知っていると答 (震災後4%) (震災後7%)
口承
津波伝説
無形
・以前から決めていた ・仕事で月 1・2 回久慈へ
・漁師の使う浜へでる地下道
自宅の庭にあった
・裏山へ避難
11
復興の歌
無形 講演会
6
・普段から熊野神社へいく
・震災前から決めていた
・船着場
・久慈へ買い物 ・明治の津波の石碑が
羅賀荘の 5 階以上に避難した
58%
7%
29%
) (震災後 37%)(震災 50%) (震災後 29%)(震災後 14%)(震災後 58%)
口承 歌
11
伝説 無形
・漁業作業場 ・裏山へ避難 ・ここの家より高い津波がきた
津波はこなかった
手入れ
のと考えられる。孫世代にあたる 21 30 歳あたりの年代は認知度が
使われなくなってしまった
三陸大津波写真集
10
自然物 歌
自然物
5
・羅賀の友達の家へ
・明治大津波では津波は
半月ほど居候させてもらった ・ここで一次避難し、 ・約 20 人いた 津波が来るのを見ていた
・姉の家の庭などの
80%
62%
明治大津波時の復興住宅ができたために
4
北山大学校へ避難
家まで来なかった ・大江家避難所 ・裏山にいく ・避難後、役場近くの友達の家に
歳以上の老齢の方の認知度は低め。 著者の息子娘世代にあたる年代は認知度が高い。著者の活動によるも
田野畑の大津波
・かつては避難経路として用いていたが、
3
上:保育園 下:お腹の中 ・震災発生時は村の外にいた
・大宮神社に退避後 ・久慈へ買い物
・震災当時は村役場勤務中で
九里十太郎 里十太郎 十太郎
文学
石碑 2
・子供が2人
・ここに避難
・久慈へ買い物
・以前から決めていた 2 次避難はアズビィ
文学
文学
( 中央)昭和八年津波記念碑
1
田野畑村に嫁いできた ・逃げ場は神社に逃げれば良いと聞いていた
・以前から決めていた
・大宮神楽
・1 次避難は大宮神社
( 左 ) 三陸海嘯横死者招魂碑
・普代村の方
・裏山へ避難
・日々訪れ、年 2 回大きな掃除をしている
名称
形態
・中崎マートへ買い物へ
・大宮神楽 神輿を町を一周して、羅賀港に戻り、船に乗せて、 弁天島までいく.今年は仮設住居まで行った ・大宮神楽 神輿を町を一周して、羅賀港に戻り、船に乗せて、 弁天島までいく.今年は仮設住居まで行った
島越漁港が整備される前、伝説の舞台となる庭平で遊んでいた、と
(震災後 13%) (震災後6%)(震災後0%) (震災後8%) (震災後0%) (震災後 14%) (震災後 36%)(震災後 35%)
平井賀地区 S:1/2000
口承
・年 4,5 回は田野畑小学校に
(口頭伝承はあった) (口頭伝承はあった) (口頭伝承はあった)(口頭伝承はあった)(口頭伝承はあった) (口頭伝承はあった)
13
50%
33%
67%
64%
58%
・家はこの辺り
0
・田野畑内陸へ 歩いて行くようにしている ・宮古へ買い物 ( 避難経路確認のため ) ・田野畑駅へ
段階的な年代による差はあまり見られない。
50%
・田野畑村役場へ
3500m
震災発生直後避難した場 場所
羅賀地区 S:1/2000
・久慈へ買い物
0
・田野畑内陸へ
3500m
・宮古へ買い物
・家は地図よりも上 ・避難所はあるが、斜面地で整備をしていないため避難が出来る状態でない。
伝説
寺社 14
あっぱ呼ばわり伝説
無形
7
せめて平らにして、食料備蓄したり、暖が取れるようにしたり、 ・島越内の避難場所はすべてわかる 最低限の避難所としての備えをして欲しい。自分が整備したいくらいだが、 ・決めていた場所に逃げられなかった 地主の関係で用意に立ち入る事ができない。
寺社
宝福寺
14
・ここに一時避難し、
15%
宝福寺
7%
17%
23%
61%
33%
44%
40%
(震災後 25%)(震災後 13%) (震災後 17%) (震災後 23%)(震災後 44%) (震災後 65%) )(震災後 44%) (震災後 40%)
九里十太郎
□図示+言葉
・震災当日、畑にいた
地震がきた
・震災当時は仕事のため、 田野畑村役場にいた
・車で拾い避難
・漁協によく行く ・島越駅近くの山崎マート ・駅に買い物へ ・久慈へ買い物へ に買い物へ
NO.
表現形式
名称
場所
( 左 ) 三陸海嘯横死者招魂碑
島越地区
形態
石碑
( 中央)昭和八年津波記念碑
1
石碑
昭和八年津波記念碑
昭和8年の大津波の記念碑として建てられ、当時の岩手県知事の詠んだ歌を刻む。
明治 29 年の津波大石
畠山貞作
昭和9年
和野 野山岬突端 和野山岬突端
NO.
18%
No.1( 左)と同じもの。
( 震災後 21%)
羅賀地区
明治 29 年
海抜約 25m、海岸から約 360m も離れた畑の中に、およそ 2t ほどの大きな堆積岩があり、明
北端畑内
津波襲来時
治 29 年の大津波によって海からうちあげられたものと伝えられている
40% ( 震災後 45%)
表現形式
名称
石碑
( 左 ) 三陸海嘯横死者招魂碑
全村
(右)津波に対する戒石碑
6人 4人
大海嘯溺死者招魂碑
3人
12 人
4人
昭和八年津波記念碑
1人
7人
明治 29 年の津波大石
4
3人
親族から教えられた
自分で見て知った、という回答が多い。自分で発見したこときっかけに、親類
13 人
・震災以前の元の住まい
・久慈・岩泉に買い物へ
■分析③ 田野畑村の指定避難所を青く示している
・当日は主婦をしていた ・買い物も地元を使えば、 交流もふえる? ・この2箇所はバイパスが通るまでは、山があった。(20 年前 ) しかし山がなくなった事で、西では西風が防げなくなり、
・以前から決めていた
東では浜風と津波を防ぐことができなくなった。
・当日はホテル羅賀荘にいた
・当日はシマノサワ
・切牛に上がっていく方
でお仕事
・海によく行った
・当日島越にいなかった
奥まで津波が行くことなく助かった。
・2,3 時間かけて
そして西の元山の部分は高台移転候補地になっている。
羅賀では避難箇所に、8箇所中7箇所が神社や個人住宅など日常的に訪れる目的ある
・姉の家
45 号線までのぼる
・近所の人はここに全て貴重品を集めたが全て流された
子供に助けられる
:震災発生直後避難した場所
場所が選ばれている。島越では、10箇所と羅賀に比べて避難箇所は多いが、ほとん
・2,3 年に一度は 1 日ひざ下まで川があふれる
:避難経路
や近所の人からのはなしをきいて知るという回答が多く聞かれた。
自分で見て知った
2人
・防災センターまで避難
到着は夜遅く真っ暗であった 着いたらすでにそこには人が沢山いた
・2012.9.15 現在島越の浜では、船を出すための整備がまだ整っていなく、早く船を出す環境を整えて欲しい。 漁をすることでコミュニティも広がるので、漁師の復興を早くして欲しい。
:昭和 8 年浸水域範囲
3人
・神社
また住民は上記のような意見を持っているにも関わらず、復興内容が説明されることもなく、 意見を発表する場も設けられていない。( 家が流されず、残った人は会議にも出れず手当もない )
ている避難所は緑でぬられている。目的ある避難所か、近くで一番高い山に集中して
また昔は防災のために配られた U-sen で村の動きを報道していたが、法律の関係で現在では何も報道されなく なったため村の組織がわからない。
・45 号線
また現在島越に残っている人では、児童館で行われた会議で決められた堤防の高さ 14.3m は低い。
3人 3人
近所の人から、という回答が多い。その他として、漁業組合や婦人組合等の集まりで話題と
2人 5人 5人
8人
どが裏山などが指定されており、目的ある避難所は2箇所になる。住民から認知され
・アズビィまで歩く
:明治 29 年浸水域範囲
その他 無回答
17 人
3人
・島越小学校へ避難
仕事で
:日常動線
本・新聞・インターネットで知った
4人 2人 2人 12 人 1人
4人
・机浜に車でよく行く
学校で教わった 2人
2人
1人 1人
1ヶ月で島越の家に戻ることができた ・バイクで避難
:2011.3.11 震災発生時いた場所
近所の人から教えられた 2人
1人 1人 2人
39 人
・箱石商店 ・友達の家
よくいく
昭和・明治の大津波では東の山があったことで、
5人
22 人
7人 23 人 43 人 8人 8人 26 人 38 人
自然物
・田野畑村役場へ
のところへ、
・1ヶ月に1回は八戸・盛岡にいく
分析
4人
・山崎商店、山根商店に買い物へ ( 徒歩 ) ・久慈、宮古、岩泉、羅賀に買い物へ ( 車 ) ・山根商店
・山崎商店に買い物へ ・島越駅へ
鈴木正孝さん
・震災後の仮設住居の生活では、いろいろな意味で本当に
2人 5人 2人 6人
20 人
6人 2人 15 人
石碑 3
6人
42 人
・買物 島越食堂裏の
・震災後の現在の住まい
・アズビィの方の親戚の方へ
8人
25 人
利用して宮古、久慈へ
・島越漁港近く、 ・漁協によく行く ・親戚を車で拾い避難 ・村役場へ避難
・岩泉に週1日は温泉にいく
1人
避難経路
・国道に出て、三鉄を
・箱石商店に買い物へ
避難所に ・村役場へよく行く ・決めていた
:普段よく行く場所
どうやって知ったか
島越 4人
1人 1人
60 人
石碑 2
(沿岸地区) 羅賀
明戸
11 人 12 人 20 人 1人 8人 3人
( 中央)昭和八年津波記念碑
1
31%
明治 29 年の大津波被害者の招魂の為に建てられた石碑。
( 震災後 33%)
平 平井賀地区
自然物 4
( 震災後 32%)
(右)津波に対する戒めを説く5か条を刻んだ石碑。
北端道路際 北
石碑 3
31%
(中央)昭和八年の大津波の記念碑として建てられ、当時の岩手県知事の詠んだ津波歌を刻む。
不明
不明
住民認知度
内容 ( 左)明治 29 年の大津波被害者の招魂の為に建てられた石碑。
( 中央)(碑文)石黒英彦 (右)熊谷門介・工藤良介
(右)昭和 15 年
羅賀地区 羅
大海嘯溺死者招魂碑
関連人物 (左)畠山貞作
( 中央)(推定)昭和 (推定)昭和9年
南端高台墓地内 南端 端高台墓地内
(右)津波に対する戒石碑
2
成立時期 (左)昭和 9 年
・山の方に車で
:自宅
伝承方法
田野畑村における伝承表現一覧
北
・津波は指定の浸水域よりも高いところへきた
・二次避難をアズビィで 20 日間過ごした ・避難所に約 10 人くらいいた
・畑
※1 各伝承表現の、最も認知度の低い年代の認知度が最も認知度の高い年代の認知度の3分の1を超えていること
最も認知度の低い年代
・車で逃げ、アズビィへ
・ここへの避難は以前から決めていた
・車で思惟大橋まで避難
最も認知度の高い年代
車で家まで戻った所で津波にあう
避難場所は決めていた
・話し合い中
二次避難でアズビィへ
段階的ではないが若い世代ほど認知度は低い。
・震災当時、田老町の大通りにいた
・地図外であるが、 ・友達の家
景観がどうこう言ってる場合ではなく、人命が第一ではないのかという意見。
:平成 23 年浸水域範囲
してのぼったことから知ったという回答があった。
4人
いることがわかる。
島越地区 ( 西部 ) S:1/3000 0
伝説 無形
5
( (
津波伝説
伝説 津波伝説
無形
6 伝説
あっぱ呼ばわり伝説
無形
7
(
今八幡神社を祭る八幡山は、むかしから「立牛」といった。そのうしろに牛の背のように見える丘を「寝牛」という。
) )
羅賀 羅 賀・菅窪で伝 伝 羅賀・菅窪で伝 わる わ るとされる わるとされる
不明
)
不明
た岩場はあっぱよばわりと呼ばれる。天明の飢饉の時代、少女たちが潮干狩りをしていて高潮に遭遇し流された。あっ
三陸沿岸大津波 大津波』 『海の壁 三陸沿岸大
( (
伝承と証言
自宅は島越地区 自
著者・九里十太郎氏の 著者・九里十太郎氏 著 氏の 氏 の
三陸大津波写真集
10
自宅は島越地区 自 宅は島越地区
歌 11
例・ 「災害と日本人ー
講演会 無形
12
津波は必ずやってくる」
「昭和8年三陸大津波
出版 1996 年9月 31 日
(著者)九里十太郎
(製作)九里十太郎
( 震災後 47%)
43% ( 震災後 44%)
5% ( 震災後 6%)
小学校で歌われた歌。No.1( 左)と、No.3 の2つの石碑にその詞が刻まれている。
( ) ( ( )
( 参加率)
津波被害の体験談や、教訓・伝承をひろく伝える為に開催される講演の機会。
九里十太郎
(例)語り部として
無形
九里十太郎
畠山栄一 ら 畠山栄 ら
田野畑 149-1
親族から教えられた
5人
無回答
2人
認知度0%
1人 6人 1人 14 人 8人4人 8人
三陸海岸大津波
8
1人
9人
1人
3人 1人
9
図書館にあったから、という意見が多くきかれた。 「親族から、近所の人から」という人の
1人
7人
昭和 11 年建立
(初代住職) 岩見対山和尚
7人
田野畑の大津波
15人
伝承と証言
14 人
三陸大津波写真集
50%
11
2人 1人 8人 1人
1人
1人 1人 1人 4人
1人
2人
親族から、または近所の人から、など、特別な機会などが設けられるわけではなく日常生活の中
(口頭伝承はあった) 頭伝承 承はあっ
57%
で語られる体験談や教訓の言い伝え。特にそういった口承を積極的に行う人物を「語り部」 と呼ぶ。
講演会
例・ 「災害と日本人ー
(
津波は必ずやってくる」
「昭和8年三陸大津波
)
ひらいた。
20% 0% %
1人
口承
4人
1人
2人
4人
14
18 人 9人 66 人 7人 8人 19 人
(小・中学生)誰から口承を得る事が多かったか 1人 4人
11 人 5人 4人 1人 40 人 9人 13 人
宝福寺
中1∼3年
20 人 54 人 3人 9人 10 人
・昭和の津波を体験した祖父からうるさいと思うくらい聞かされていた
( 震災後 26%) 26%
1人
小4∼6年
・婦人会の集まりで話を聞かせてもらった
寺社
2人
2人
5人
28 人
・避難訓練のときに集まると老人が話をしていた
13
2人
1人 1人
1人
・漁協の集まりがあれば老人から話を聞かされた
1人 3人
2人
1人 52 人 人
ものが多いのに対し、島越には 無目的な避難所が多い。結果と の目的あるものが多いのに対し、島越には裏山などの無目的な避難所が多い。結果と
島越では海岸付近に固まっているのがわかる。
箇所には、日常的に訪れる目的 減災効果が期待できる。 して、避難箇所には、日常的に訪れる目的がある方が減災効果が期待できる。
その他の意見として「著者本人からいただいた」という回答が多かった。
8人
2人
1人
4人 1人 5人 3人 7人
避難箇所の日常的な目的物の有無が大いに関わっている。羅賀には神社や個人住宅等
いる。羅賀では地域コミュニティの場が海岸付近から内陸方向まで散財している。
無回答
1人
・本家旅館の畠山さんからよく聞かされた
なかった田野畑村で犠牲者の供養をする為に田野畑村へとやってきて、民家を改装して宝福寺を
その他
5人
1人
学校で教わった 本・新聞・インターネットで知った
2人
8人
3人
■考察
住民がよく行ったり集まったりする場所、地域コミュニティの中心の場を赤く示して
2人
3人 5人
12
4人
2人 4人
復興の歌
70 周年記念事業津波体験発表」
昭和8年の津波被害の田野畑村でのようすを新聞で知った岩見対山が当時村内にひとつもお寺の
偶然手にした 10 人
3人
1人 1人 1人
3人 4人
割合が低い。
近所の人から教えられた
1人 5人
7人
1人5人 2人
写真 10
2人 1人
8人 2人
18人
■分析① コミュニティに関して
全国てきにも著名な本であり、新聞や本などのメディアを通して知ったろいう意見もあった。
2人 5人
6人
21 人
27 人
親族から、次に近所の人からという回答が多い。
2人 2人 1人 12 人 3人
1人 16 人
5人
本・新聞・インターネットで知った その他
1人
8人
あっぱ呼ばわり伝説
7
2人
2人
認知度0%
認知度0%
2人
畠山栄一 ら
田野畑村
1人
学校で教わった
3人
伝説
歌
昭和8年の大津波の後、当時岩手県知事であった石黒氏がよんだ詞で曲をつくり、三陸沿岸の
(例)吉村昭
)
宝福寺
44%
昭和8年の大津波の被害写真を掲載した写真集。
津田昌業
口承
14
津波伝説
6
( 震災後 67%)
昭和8年の大津波の被害状況や、被災者からの証言を記録した文集。
(作詞)新野仁助
津波災害後
寺社
2人 1人
文学
64%
を現地取材から得た体験者の証言をもとに再現した記録文学。
(作詩)石黒英彦
70 周年記念事業津波体験発表」
13
認知度0%
3人
2人
︵自由回答︶
(
4人
3人
親族から教えられた
出版 1993 年 3 月 3 日
昭和8年
復興の歌
無形
3500m
1人
1人
文学
)) ))
著者・九里十太郎氏の 著者・九里十太郎氏 著 氏の 氏 の
写真
( 震災後 12%)
明治 29 年、昭和 8 年、昭和 35 年と三陸沿岸を襲った津波に関して、前兆や被害、救援の様子
(著者)吉村昭
の題名で初版刊行 行
田野畑の大津波
11%
ぱ(=母)を呼びながら流されたことからあっぱ呼ばわりと呼ばれる。 昭和 45 年
文学
3% ( 震災後4%)
て来た。 現在の 島越漁港、かつては「庭平」と呼ばれており潮干狩りで有名な場であった。その入江の奥にある少し小高くなっ
三陸海岸大津波
9
津波伝説
5 伝説
大峯山の頭に、にわとりのオスメス二羽だけが生き残った。そのにわとりから、だんだんにいろいろな生物がうまれ
不明
文学 8
2人
近所の人から教えられた
島越 島 越で伝わると と 島越で伝わると され さ れる される
(震災後4%)
人々はその「立牛山」に上ったものである。 大津波があって、大峯山のあたまだけが水から出ていて、あと世の中のものはみんな海の中になってしまった。その時、
北山で伝わると 北山 と 北山で伝わると される される され
3%
つなみの時、 「立牛山」はさらに急に高くなった。どうじに「寝牛山」はそれだけ低くなった。明治29年の津波の時、
伝説
9人
5人
6人 1人 1人 2人
11 人
親族から教えられた 近所の人から教えられた 学校で教わった 本・新聞・インターネットで知った その他 無回答
80 代以上に学校で習ったといって歌える方がいて、それ以外の年代は存在を高齢者から聞い た事がある、または新聞で知ったという回答であった。
人にすすめられて 津波について知りたいと思った 学校・職場で参加する機会があった なんとなく その他 無回答
役場の職員で、「職場で参加する機会があった」から、と答えたひとが多かった。他には、
親族から 近所の人から 友人から 学校の先生から 自分で調べて その他
親族や近所の人、漁業組合や婦人組合など、高齢者とのつながりが必要である。また、避難
親族から教えられた 近所の人から教えられた 自分で見て知った 学校で教わった 本・新聞・インターネットで知った その他 無回答
組合に所属していて参加するなど、自主的な理由ではないきっかけをもって参加する人が多 い。 訓練などの集まりも口承の機会となる。小中学生におけるアンケートでは、親族からという 回答が最も多いが、その他の中には「口承を聞く機会はない」と回答した人も数人いた。 親族から話を聞いて、という意見が多かった。お寺を利用する機会は親族との関係でが一番 多いことからと想像される。
■考察 島越は地域コミュニティの中心が海岸付近に固まっているのに対し、羅賀は海岸付近
大宮神社 大宮神 大宮神社 早野盛蔵さん宅付近 早野盛蔵さん 早野盛蔵さん宅 早野盛蔵さ 早野盛蔵 野盛 さん 野盛 さん ん宅 宅付近 付
から内陸方向まで散在している傾向が見られることから、日常的に海岸付近から山ま 鳴台団地 海鳴台団地
でを往来する傾向にある。また地域コミュニティの中心に津波に関する伝承物が配置
野神社 熊野神社
大澤禮典さん宅付近 大澤禮典さん宅付 大澤禮典さん宅 典さん宅付 ん宅付 ん宅 宅付 付近 近
され、日常的に津波の記憶が継承されやすい。 結果として、地域コミュニティが海岸線から内陸までをつなぐことで、避難時にも有 が海岸線から内陸までをつなぐことで、避難時にも有
地区別認知度比較 地 NO.
表現形式
名称
石碑
( 左 ) 三陸海嘯横死者招魂碑
住民認知度
( 中央)昭和八年津波記念碑
1
(右)津波に対する戒石碑
石碑 大海嘯溺死者招魂碑
2 石碑 3
沿岸3地区認知度 羅賀
島越
31%
17%
15%
80%
( 震災後 32%)
(震災後 17%)
(震災後 17%)
(震災後 80%)
31%
58%
61%
20%
( 震災後 33%)
(震災後 58%)
(震災後 70%)
(震災後 20%)
18%
昭和八年津波記念碑
明戸
( 震災後 21%)
27% (震災後 27%)
講演会や文学など、主体的な行動が受け手に必要な伝承表現にはきっかけが重要だ
44%
14%
明治 29 年の津波大石
(震災後 48%)
(震災後 14%)
40%
73%
73%
45%
( 震災後 45%)
(震災後 82%)
(震災後 77%)
(震災後 45%)
北
北
が、伝承表現全般に人とのつながりが重要であり、漁業組合や婦人組合等のつなが なが
NTT電話交換所付近 NTT電話交換所付 NTT電話交換所 所付 付近 付 近 村道和野平井賀入り口 ・家はこの辺り ・ 家 この 家はこの辺り
り、会合等の集まりが機会となる。 工藤市民さん宅東側高台 側高 側高台
佐々木金一さん宅裏山 工藤武志さん宅裏山
北
箱石大蔵さん宅裏山 箱石大蔵 箱石 蔵さ 蔵 さん ん宅裏山 ん宅裏山
伝承表現分布
住民がよく行く場所 住民がよく行く場所 住民が 行 場所
大 大宮神社 早野盛蔵さん宅付近 早野盛蔵さ 野盛 さん 野盛 ん宅付 付近
立野神社登 立野神社登り口 神社登り 神社 社登り口 社登 登り口 登り
■章結
6 自然物 4
中嶋昭男さん宅付近 嶋昭男さん宅付 付近
効であり、伝承を継承する上でも有効な環境と言える。 も有効な環境と言える。
海鳴台団地 海
熊野神社 野神社
大澤禮典さん宅付 大澤禮典さん宅 澤禮典 典さん さん宅付 宅付 宅 付近 付 近 島越小学校裏山
伝説 津波伝説
5 伝説
津波伝説
6
3%
0%
10%
2%
(震災後4%)
(震災後0%)
(震災後 10%)
(震災後2%)
3%
0%
0%
8%
( 震災後4%)
(震災後0%)
(震災後0%)
田野畑村において、史実を伝える表現には、さまざまな形式・特性があることが発見 が発見
(震災後 10%)
5
伝説 あっぱ呼ばわり伝説
7
11%
0%
6%
37%
( 震災後 12%)
(震災後0%)
(震災後6%)
(震災後 37%)
2
8
4
9
三陸海岸大津波
8 文学
田野畑の大津波
9
伝承と証言 写真 三陸大津波写真集
10
64%
33%
61%
42%
( 震災後 67%)
(震災後 33%)
(震災後 63%)
(震災後 42%)
44%
50%
51%
75%
( 震災後 47%)
(震災後 50%)
(震災後 54%)
(震災後 75%)
43%
50%
33%
52%
( 震災後 44%)
(震災後 50%)
(震災後 33%)
(震災後 52%)
3 14
す。それらは人間と自然との関わりの中で村が背負ってきた悲しい歴史を、大きすぎ きすぎ
11
る代償とひきかえに得られた経験として村全体で次の世代を生きる人間に伝える役割 る役割
12
11
5%
復興の歌
講演会 12
例・ 「災害と日本人ー
(
津波は必ずやってくる」
「昭和8年三陸大津波
( 震災後 6%)
)
8%
8%
(震災後9%)
(震災後8%)
田野畑村指定避難所 村道和野平井 村 道和 和野平井 井賀入り口 井 井賀 賀入り口 賀入り 賀入 口 金毘羅神社 金毘羅神 金毘羅 羅神 神社
工藤市民さん宅東側 工藤市民 工藤市民さ さん宅東 ん宅 宅東側高台 側 側高
佐々木金 金一さん宅裏山 金一 さん ん宅裏山 工藤武 工藤武志さん宅裏山 工藤 工 宅裏山 宅裏 山
北
箱石大蔵さん宅裏山 箱石 石大蔵 蔵さ 蔵 さん ん宅裏山 ん宅裏山
住民がよく行く場所
■章結
立野神社登り口 神社登り口 社登 登り
最も減災に成功している羅賀地区では、地域コミュニティの中心、あるいは生活動線 1
島越地区
( 参加率)
50%
( 参加率)
( 参加率)
( 参加率)
50%
37%
31%
住民に認知されて いる避難所
頭伝承はあっ 頭伝承 承 (口頭伝承はあった) (口頭伝承はあった) (口頭伝承はあった)(口頭伝承はあった)
13
57%
80%
67%
早野鶴喜さん宅裏 早野鶴喜さん宅 早野 早野鶴喜さん宅裏山 早 早野鶴 野鶴 鶴 ん宅 ん宅裏山
が重なるように配置されており、避難場所も日常的に訪れる神社や個人住宅、学校な
幕内 幕内茂也さん宅裏山 内茂也 也さん宅裏
56%
どが配置されているなど、津波避
※場所との関係性が強いもの
寺 14
の集中部に津波避難に関わる要素
島越小学校裏山 校裏山 校 裏山
70 周年記念事業津波体験発表」
口承
宝福寺
20%
25%
42%
35%
( 震災後 26%)
(震災後 38%)
(震災後 44%)
(震災後 40%)
島越防災センター 島 越防 防 ー
北
北
NTT電話交換所付近 NTT電話交換所 所付 付
9% (震災後 13%)
幕内茂也さん宅裏山 幕内 内茂也 也さん宅裏
・家はこの辺り ・ 家 この 家はこの辺り
(No.9,10 作者宅)
歌
早野鶴喜さん宅裏山
中嶋昭男さん宅付近 嶋昭男さん宅付
を静かに担っています。
13
7
自然物
されました。さまざまな表現を用いて津波災害の教訓を継承する工夫がされていま いま
10
羅賀地区
文学
住民に認知されて に認知されて 避難所 いる避難所
明戸地区
寺社 島越防 島越防災センター 越防
※語り手を伴う必要のないもの
定在型
金毘羅神 金毘羅 金毘羅神社 羅神 神社
有形表現は定在型と、移動のできる可動型に分けられ、可動型の表現の方が、広く認 型と、移動のできる可動型に分けられ、可動型の表現の方が、広く認 知されやすい。特定の場所との関わりが強い表現は、場所によって認知度に大きな差 特定の場所との関わりが強い表現は、場所によって認知度に大きな差
自然物
有形
がでる。
写真
伝承表現は、年代が下がれば認知度は低下するが、語り手をともなう必要のない表現 代が下がれば認知度は低下するが、語り手をともなう必要のない表現
可動型 文学
は年代による認知度の差が小さく、長く正確に史実を継承し得る。語り手をともなう 知度の差が小さく、長く正確に史実を継承し得る。語り手をともなう らに定在型である表現は偶然的に受け手のみで史実にふれることが可 必要がない、さらに定在型である表現は偶然的に受け手のみで史実にふれることが可
※主体性が必要なもの 歌
最も具体性の高い体験談や教訓の口頭伝承は、もっとも身近であり、受け手への災害 無形 伝説
一方で、具体性は低く、認知度も低い伝説や神社は、最も古くから継承されている。 口承
可能性のある表現である。人間の生きる時間のスパンを超えてやってくる自然災害
■結論
■分析② 日常動線が赤くぬられている
集落構成、伝承表現の2視点からの総論。田野畑村の減災には、津波避難を体得でき
3.11 当日津波がくる前に住人がいた場所が場所を赤く示している。避難場所までに
る集落構成と、災害の歴史を伝える伝承表現という潜在的な要素が関係している。ま
用いた避難動線が青くぬられている。日常動線と避難動線を重ねると、羅賀では多く
た、それらの要素は人と人とのつながりが重要であるという点で共通する。防災対策
の箇所で重なっているのがわかる。島越では一部しか重なっていないことがわかる。
には明示的な要素だけではなく、潜在的な要素への視点が重要であるといえる。
■考察
講演会
能である。 危機意識への影響も大きいが、世代が変わることで風化してしまうという欠点がある
難を潜在的に体得できる集落構成である。
田野畑村指定避難所
石碑
地域コミュニティの散在の影響をうけ、羅賀では日常動線と避難動線の重なりが多く
■展望
見られる。一方、島越では内陸への動線を用いいる頻度が少なく、海岸線上の道路や
今後は震災の記録や経験をどう継承していくか、その土地にあった表現方法を模索し
鉄道を使用する機会が多い。よって、日常動線と避難動線の重なりは見られにくい。
ていく必要がある。また、各地域に過去の記憶を継承する伝承表現が存在するはずで
結果として、避難動線と日常動線の重なりが多い方が、日常的に避難動線を体得でき
あり、それら多くが消えつつある今、土地に潜在する力として再評価すべきであり、
るため、避難に有効であり、減災に有効である。
過去からの教えを新たに賦活していく方法が模索されなくてはならない。本調査の記 録を、東日本大震災後の新たな伝承表現の形成・集落の構成、および潜在する伝承表
を、人間にとって不可能な時間語り続けてきている可能性があるといえる。 神話性
具体性
現の賦活方法を探る糸口とし、明示上の復旧復興・防災対策だけではなく、暗黙的 に、すなわち本質的に自然災害の中で生きる人間のくらしの空間を形成していくべき であると考える。