Gallery Yamaguchi kunst-bau
TAKASHI SUZUKI
Steel works 1983-2001
steel work 1981
steel work 1981
Steel work (Existence) corten 1983
untitled Steel
24.5 x 54 x 41.5 cm 1991
steel work 1993
steel work 1994
an empty lot ( 空閑地 ) steel
154 x 250 x 140 cm 1991
植物を想う / consider the plants
wrought iron
65 x 63 x 480 mm 1998
steel work 1998
steel work 1998
"TUES" installation v
view The Utsukushi-ga-hara Endowment for Sculpture Nagano/ Japan 2000
呼び寄せたもの 心理的な抑揚とともに呼び起こされた記憶の内部空間とは不思議なものである。17 年前この地、美ヶ原で刻々と変化する 高地特有の気象のなか、高さ 10m 近い大作の設置作業に、胸躍らせた情況の一部始終が一瞬のうちに蘇った。それはまさに、 再びこの地に場所を得ることになったからこその鮮明さでもある。 当時の作品の「在り方」は、その曖昧なタイトルが示すとおり。箱におさめた円柱が、物理的にも保留の余白を孕み、そ の未完結とも言える開かれた状態を、この広大な空間に身をあずけたものであった。思えばその後の展開に、思いもよらぬ 指針を与えてくれる結果をもたらすこととなる。それは、 [真に持続の見込みある単純さ]に内容を求めたことであり、今となっ てもその思いは揺るぎない。さらに減じあの制作においては、気の遠くなる歴史も含めた、様々な回想からに価値と、作品 の着地感を結ぶものを思考する符部にある。またそうした存在基盤を求める一方で、現代に生きる私たちは、可能な限り無 関心に熱視できるときのみ、自由なのかもしれないと思いつつ・・・・・。 今回の TUES 展出品作品[朗読]と[祈り]は、鍛造による鉄の塊からなり、その不透明さと、その重力とはうらはらに、 普遍的次元へにの精神的浮力を与え、ここ標高 2000m の地に受ける光より、内部に蓄積される熱までもその内容とするもの です。 (TUES2000 カタログより )
What called me to come The inner space of memory called upon by the interaction of mind and memory is a mysterious things. For an instant I was reminded of the circumstances which surrounded my first time working here in Utsukushi-ga-hara, 17 years ago, and my excitement at arranging a large ten meter high work in this changing highland climate. This memory came back vividly as I have returned here for my work again. The work which I made at that time – “Existence” showed how, as the title suggests, a column in a box has an open space surrounding it and how the column extends its presence into this void. This earlier work had an unexpected influence on my later work. I had looked for a quality – “a simplicity that is likely to truly continue”, and this is something which I still pursue today. While working recently I have been thinking everyday about the connection between the value of retrospection, into the recent and distant past, and the sense of position or placement of my work. In addition to looking at this, I have been thinking how we, living in these modern days, may be free only when we can passionately watch as indifferently as possible…. The work I present at this TUES Exhibition are “Recitation” and “Prayer” made from forged mass of iron. In spite of their opacity and weight, these works lift the view’s mind to a universal dimension. Light, received by the land here at 2000 meters above sea level, and even heat stored inside are regarded as contents of the works.
朗読 / recitation wrought iron 94 x 60 x 60 mm 2000 祈り / prayer wrought iron 242 x 40 x 50 mm 2000
"ETERNAL MEMORY" Museum St.Wendei, Mia-Münster-Haus Salaland/ Germany 2001
"ETERNAL MEMORY" Museum St.Wendei, Mia-Münster-Haus Salaland/ Germany 2001
steel work 2001
steel work 2001
鈴木隆の彫刻 — 関係としての空間へ
1984
帯金章郎(美術評論家) 例えば子供がレゴや積み木などのような玩具で必死に何かをつくりかける。面白そうな形ができ かけた時、誰かに呼ばれて去ってしまう。残されたつくりかけの玩具は、そのままそれを見つけた 大人達を魅了し、想像力をかきたてる。 鈴木隆の作品を見ながら、そんな情景がふと思い浮かんだ。私は何も彼の作品を子供のような感 性による創造物にたとえる気はない。そのような創造を私に許したのは、彼の作品の持つ非完結 的で現代美術上の様々なドグマから自由な中間的、多義的な性格の由にであり、それはナィーヴ な感性とともに明晰な知性と厳密な計算なしには得られないものである。 70 年代の作家達の物体をそのまま投げ出したような、あるいはまた厳密に概念的に措定した作 品と比べると、一見鈴木の作品は造形的に構成され、過去に一歩後退したかのような印象を与え るかもしれない。しかしよく見れば彼の構成は完結した造形作品を閉じるためのものではなく、 鑑賞者と作品との関係を、視る行為の内に問い直させ、その応答の内に親密な空間を生み出させ ようとするためのものであることがわかる。それゆえ彼の作品は状況的なインスタレーションと もならず、またそれ自体で自立した彫刻作品ともいい難い中間的なものとなっている。また鈴木 の作品は概念的な設定と同時に身体的な即興を感じさせるが、どちらも作品を一義的に決定づけ てはいない。作品のこのような中間的で多義的な性格づけは、表面の処理にも見られる。円柱や角 柱など線的な部分に関しては彼は表面を錆びつかせてチョコレート色にし、金属の素材感を生か し、それら両者を巧みに組み合わせている。このことはそれ以前の素材感を強調した彫刻とも、ま た徹底的に彩色し、素材感を消し去った彫刻とも異なっている。このような中間的性格は、過去の 傾向の折衷ということではなく、より積極的な方向づけから来ているように思われる。70 年代の 彫刻が物質と人間の関係を様々な形で直接的に問い直しつつも、その問うという姿勢や物質性の 強調だけを教条的に形骸化させていったのに対して、鈴木は70 年代の彫刻が提示した関係概念と しての空間を、芸術的なフェイクの中により豊かに広げようとしているのではないだろうか。
Takashi Suzuki's Sculpture: Space as a Relation
1984
Akio Obigane(Critic of fine art) For example, children begin to enthusiastically make something with toys such as "Lego", blocks, etc. When some interesting forms are being made, someone calls the children and they go away. The remaining, unfished toys catch the heart of the adults who look at them and rouse their imaginations. Looking at Takashi Suzuki's work, such scenes pass through my mind. But I have no mind to compare his work to creatures of pure sensitivity like children. Unfinished and multi-signficant features of his work and neutral features being free from various dogmas in the contemporary arts permit me such imagination. Such features cannot be gotten without naitive sensitivity, clear intelligence and strict calculation. Comparing to the works of artists in the 1970's which like discarded objects and which are strictly and conceptionally made, at first sight Suzuki's work may give us the impression as if it were formatively constructed and went one step back to the past. But if we look at it carefully, we can understand that his work is constructed not to be inclosed as a finished formative work, but it questions the relation between onlookers and work and marks an intimate space in answer. Therefore his work becomes neither circumstantial installation nor an independent sculputure, but is a neutral one. Suzuki's work gives us the impression of a conceptional settlement and at the same time of physical impromptu, But neither of them significantly define his work. We can also see such neutral and multi-significant features of his work in his surface treatment. Concerning linear parts such as columns and square poles, he makes the surface of the material rusty and chocolate color to give a soft impression, keeping the simple feeling of the metal and neutralizing the heavy feeling of the metal. But on the other hand on one side of the sculpture he leaves the metal surface in its natural state. Thus he combines the two skilfully. This differs from past sculpture which emphasized the material and also from the sculpture which was completely colored and neglected the material itself. Such neutral features do not compromise the former trend but, I think, result from his own decision. While sculpture in the 1970's directly questioned the relation between substances and mankind in various forms and skeletonized only the attitude of questioning and the emphasis of the substances, Suzuki extends space as a related concept which sculpture in the 1970's presented as an artistic fake. Hisako Miki (Translator)
鈴木隆の作品―接触と静止の強度
1991
正木 基( 目黒区美術館学芸員) 鈴木の今回の新作は、ギャラリーマニンの細長い空間に、7 点が制作されている。円筒などのミ ニマルな形態を無造作に配置したかのような作品で、空間との関係を意識的に取り込んだ発表と なっている。空間の制約が、作品の大きさを従来と比べ、小振りにし、そのため組み合わせる形態 の単位が少なくなり、よりシンプルに見える。しかし、そのぶん鈴木の制作にあたってのコンセプ トは明瞭に読み取れると言えるだろう。 幾つかの作品を見てみよう。円筒を地面に立て、その口にかかるように土管状の円筒を乗せた 作品。幅の短い円筒を地面に立て、その横に径が短く、細長い形状の円筒を触れるように転がした 作品。また鉄板の上に円筒を転がし、その横に上管状の円筒を立てた作品など。幾つかの円筒や板 上の形態を組み合わせるが、そこにひとつのフォルムを生み出すことはない。わずかにそれぞれ が接触する配置の仕方には、むしろ静止した雑然さが感じられる。しかし、その接触の仕方を先に あげた作例で見るならば、それが実に繊細になされ、これ以上動かしたならば直ちに崩れるよう な配置である。例えば円筒の径と径との3 点の接触、ふたつの円筒の弧にあたる面の点的な接触、 鉄板に置かれた円筒の径部分の線的接触という具合で、面的に接触するものが少ない。相互の面 が面的に接触するならば、そこには安定感が生まれ、ふたつでひとつの形態が生じる。鈴木の作品 における部分と部分の接触による組み合わせは、新たな形態としての立ち現れを丁重に忌避し、 非彫刻的な連続的形態となるよう配慮しているのである。さらには、その接触点に一種の発熱感 が発生していることに注目すべきだろう。それは、平面と平面の面的接触よりは曲面と曲面の点 的接触というように、接触する部分が小さければ小さいほどテンションを持つ。それはその関係 性におけるかはかなさのエネルギー表出の度合いである。雑然と組み合わされているかのような この関係性に、こうした厳密な計算( 作為性) と非計算性( 偶然性) とが織り込まれているのを見 るのは難しいことではないだろう。また、鈴木の作品のはかなさの強度を、静的状態に向かうの か、動的状態に向かうのかの拮抗と読み混むこともできる。そのことについては、既に「構成、解 体、再構成あるいは再解体」( 広本伸幸「ここにあるように、鈴木隆の彫刻」) という的確な指摘が なされているが、ここでは未来と過去という時間をも併せ孕んだ制作と見て、 〈 空間との関係〉と 〈時間との関係〉との作品化と言っておきたい。詳しくは触れないが、時間の経過を伝える錆びの そのことへの寄与も疑いない。 彼の作品はマッスのある形態でありながら、円筒などの中がくりぬかれていることや、一応の 安定は獲得しているもののある種のはかなさを内包した配置などから、視覚的に重量感が希薄と なっていることがしばしば指摘されてきた。それは、彼の作品が、ある充足した形態に、空虚感を 拮抗させる構造をとっているためなのだが、それもまた彫刻の中心性の忌避とよみとることがで きる。 こうして見ると、鈴木の作品には、従来の彫刻を宙づりにしようという彫刻史への批評的な姿 勢が看取される。とするならば、彼の作品を彫刻史の文脈に照合しつつ、彼の作品を読み解こうと することも可能なことだろう。
(2) いわゆる量塊からなる芸術としての彫刻が、量塊のヴォリュームと空間のヴォリューム、さら に時間と空間を孕んだ彫刻として意識されはじめたのは、ナウム・ガボ、アントワーヌ・ペヴス ナーの兄弟あたりの構成主義以降のことであった。そこでは倫理的にち密な構成がとられ、偶然 性を丁重に退け、調和のある秩序を生みだすこととなる。鈴木の作品を構成主義的な作品と強引 に参照して見ると、ガボ達の作品は、人間の生的リズムやダイナミックな運動感を保持している のに対して、それと異なる人間の安息としての生の呼吸、いわばひそかなリズムを感じさせたも のとなっている。あるいはまた、構成主義の無機的で、機械的な表情に対して、有機的かつ人間的 な表情が認められるだろう。いわば構成主義が一旦、回答を見出したはずの量塊と空間、空間と時 間のテーゼから生みだされた作品と異なった解答を、鈴木が求めようとしているように思えてく るのである。 さらには、構成主義と系列的関係にあるプライマリーあるいはミニマルな彫刻との関連も見な ければならないだろう。例えば色彩。鈴木の作品は、腐食による素材自体の色彩を持つ。しかし、そ れは彫刻本来の現実性を中和に向かわせても否定へは至らずという曖昧性の内にある。素材自体 についても、素材の物質性を打ち出す構成主義とも、否定するプライマリーな彫刻とも異なる曖 昧な立場にある。しかし形態からするならば、ミニマルな彫刻ではプライマルな形態を反復的に 配置するが、鈴木の作品は、プライマルではあってもその形態中に空間を孕むという構造を有し、 反復的に置かれることもない。プライマルな幾つかの形態、例えば円筒や厚板などの形態を、いか に組み合わせ( 関係)、いかに置くか( 配置) の問題として、作品が立ち現れるのである。また、ミニ マル・アートが感情を喚起することを避けたのに対して、これもまたしばしば指摘されるように、 鈴木の作品はある種の、懐郷的な感情を喚起する。 ミニマルな彫刻では、その作品は自己完結的なフォルムを持つ。ジャッド風に言うならば、 「ひ とつの全体としての物である。鈴木の作品が、自己完結性を保留していることは、既に触れた。ミ ニマルな彫刻は形態の単純化、無機性へと向かうが、それは反復的かつ規制的な配置によってま すます無性格なものとなる。しかしここで、鈴木の作品が円筒や長方形などからなっているとい う点から、デヴット・スミスの、積み重ね、つなぎ合わせといった作為で、部分を全体へと統合し、 不安定な心理的要素を配置の形式によって表出している作例と参照して見るのも無意味ではな いだろう。土管などが無造作に放置されたかのような鈴木の作品には、ある懐かしさを誘引する ものがある。ミニマルな彫刻が無正確な情景の場へと向かうのに対して、鈴木は無定形な記憶に 連なる情景の場へと向かう。しかし、それは記憶が特定されず、言い替えるならば自己表現にこだ わらない地平にとどまる。その意味では無性格な情景の場にもいまだ留まっている。 峯 村 敏 明 は ジ ャ ッ ド の 構 成(compose) に 対 す る 否 定 的 な 姿 勢 に つ い て 次 の よ う に 書 い た こ と が あ る。 「 ジ ャ ッ ド の す べ て の 発 言 を と お し て 特 徴 的 な の は、単 一 性(singleness)、全 一 性 (wholeness)、特殊性(specificity)、部分(parts)、秩序(order)、構造(structure)、構成(composition) 等
の概念が妥協なしに排撃されていることである。」(「現代彫刻を考える( 代2 回)」、 『 季刊現代彫 刻』)。それは、ジャッドの姿勢の反ヨーロッパ主義による。鈴木の作品は、ジャッドのいう「一つ の全体としての物」ではなく、彼が否定した構成あるいは構造を孕んでいる。そしてそこに、 「関係 付けによらない」(nonrelation]) 芸術という点で、一致はしているが、構造や構成を認めざるをえ ないという点で意見を異にしたフランク・ステラとジャッドの関係を浮かべることもできる。と いうのは、鈴木の作品には、ジャッドとステラとの岐路にリンクする部分があるように思われる からである。ただ、鈴木の場合、その構成を、ヨーロッパ的伝統ともアメリカ的伝統とも異なった 地平での模索と受け取れる。 と見てくるならば、ミニマル・アートが抽象的表現主義などの過剰な自己表現に対するリアク ションとして、禁欲的な造形の位相へとのぼりつめたならば、鈴木の作品がその性急な解決に同 調しない地平、ミニマル・アートが得た解答を宙づりにして、制作を行っているとみえてくる。ミ ニマル・アートが記号などをなんの情感もまじえずに描くジャスパー・ジョーンズらの事物的な 制作を引き継いだものであることと、ミニマルな形態ではあれ何らかの情感を喚起させるのが鈴 木の作品であることを併せ考えるならば、鈴木の地平がミニマル・アートの〈現れざる根源〉から の彫刻の可能性を提示していると読み説けないだろうか。 〈主観的な自己表現〉としての抽象表現 主義から、 〈客観的な事物の表現〉としてのミニマル・アートへという言い方にならうならば、鈴木 の作品は、客観としての形態が、多数の主観によって構成されるという意味で、その両者の〈間主 観的な関係〉を作品化したものとは思えなくはないからだ。とするならば、彼の作品は、ミニマル な彫刻を宙づりにするばかりか、ここでは抽象的表現主義からミニマル・アートへという美術( 彫 刻) 史の自明すらも喪失させているのである。 ともあれ、鈴木の作品は、現代の彫刻との照合によって、幾多の批評性を提示する。安直に与す るでもなく、性急に否定しさるのでもなく、己の制作を普遍としての彫刻史に照合しつつの制作 は、今後いかなる鈴木の彫刻史を切開するのだろうか。
THE STRENGTH OF CONTACT AND STILLNESS SCULPTUAL WORKS OF TAKASHI SUZUKI BY MOTOKI MASAKI (CURATOR, MEGURO MUSEUM OF ART)
1991
(1) Suzuki introduces seven new works in the narrow space of Gallery Manin. The relation to space is embraced in this presentation where the works are in minimal forms such as cylinders composed as if there were no rules or order in their arrangement. Due to the restriction of space, the size of the works as well as the numbers of the units forming the works are smaller than usual; therefore, they appear simpler than ever. On the other hand, the concept of the works becomes much clearer in this exhibition. Let's take a look at some of these works. One of them is in a cylindrical form posted on the ground with its opening touched by another pipe-like cylinder. Another one is a narrow cylinder standing on the ground with another slender cylinder lying beside. There is also a work consisting of a cylinder laid on an iron plate with another pipe-like cylinder standing next to it. The combination of cylinders and plates is not for creating one complete form. We can rather see a motionless confusion in the arrangement of the forms which are slightly touching to each other. As can be seen in the above-mentioned works, the slight touch is very delicate. The forms could easily be collapsed onto the ground with even a little change in their arrangement. There are not many forms having the contact of planes in Suzuki's work. For example, there is a work of cylinders with three contacting points in their diameters, a work of two cylinders in which arcs are joined by points, and a work comprised of a cyinder bisected across its diameter by contact with an iron place. If two different forms are joined by planes, they create a stable feeling as their unity makes a new form. Suzuki's works, however, seem to politely refuse the appearance of a new form and try to achieve a continual from in a non-sculptural sense by emphasizing the contact of two different parts. Also, we must pay attention to a certain kind of energy generated at the contact. Tension becomes more concentrated in a point-contact of the curved surfaces rather than in a place-contact, as the point of touching is smaller. It relates to the level of a transient energy produced by the relation of forms. There is not much difficulty in seeing such a detailed calculation (deliberateness) and anti-calculation (coincidence) in the relatedness which seems to be composed without any order. The strength of the transient energy can be translated as a power stretching towards opposite directions-'dynamic' and
'static'. This issue has been described as 'Construction, Destruction, Reconstruction and Redestruction' by Nobuyuki Hiromoto in the book titled As it is here, the sculpture of Takashi Suzuki. However, considering that Suzuki's works show the concept of future and present in this exhibition, I would like to mention his works as the embodiment of both 'relation with space' and 'relation with time'. There is no doubt that Suzuki tries to achieve a profoundness that conveys the process of time. Even though Suzuki's works are in massive forms, it has been pointed out that they have a volumeless visual quality. Such forms as cylinders are hollowed out and arranged with a certain transient feeling although they manage to maintain stability, He incorporates a contrary element such as emptiness into the complete form of sculpture which can be translated as his avoidance to the centralization of sculpture. It appears from what we can see in his works that there is a critical attitude towards the history of sculpture which tends to suspend past sculpture. If this is true, it may be possible to interpret his works in comparison with the context of sculptural history. (2) It was after the movement of Constructivism represented by the Naum Gabo and Antoine Pevsner brothers that sculpture which had been regarded as "the art of mass" began to be recognized as art embracing the volume of mass and space as well as the meaning of time and space. At this stage, the sculpture began to produce a harmonious order with a logical accuracy in composition by avoiding coincidences. When we force ourselves to compare Suzuki's works with those of the Constructivists, we find that his works contain a certain peaceful human breathing and inward rhythm, while the works of Gabo and pavsner reserve a vigorous human rhythm and dynamic movement. In contrast with an inorganic and mechanical expression of Constructivism, more organic and human-touch expression can be observed in Suzuki's work. In other works, Suzuki seems to seek an answer to the thesis of mass and space and of space and time which was once
sought by the Constructivists. In order to interpret Suzuki's works, we also need to be aware of the influence of primary and Minimal sculpture which successively relates to Constructivism. For example, Suzuki's works are in the colors of the corroded material itself. Although the colors neutralize the reality of sculpture, this treatment is not absolutely intended to deny the reality. As for the materials which Suzuki uses, they are positioned somewhere between Constructivism, which emphasize the substance of a material, and primary Sculpture which denies it. Although the primary forms of minimal Sculpture tend to be used repetitively, Suzuki composes his works by enclosing space into their primary forms without repeating them. His sculpture becomes alive depending on how the primary forms such as cylinders and plates are assembled(having a 'relation')and how they are placed(with an 'arrangement'). While Minimal Art refuses to exposes feelings, It is often said that Suzuki's works arouse some kind of a nostalgic feeling. The work of Minimal Sculpture has a self-containing form, which was referred as "one as a whole" by Judd. It has been said that Suzuki's works are self-containing. It Minimal Sculpture, the forms tend to be simplified and inorganic and, due to the repetitive and systematic arrangement, they lose personality more and more. Considering Suzuki's works which are composed of cylindrical and rectangular forms, it might be interesting to compare them with the works of David Smith who piled and joined parts to produce an entire unity and worked to create an unstable mental element through the formula of their arrangement. Suzuki's works, where pipes are placed at random, bring a nostalgic sense to viewers. While Minimal Sculpture tends to remain impersonal, his works create an atmosphere with amorphous memory. However, the memory itself is not specified and is kept under the surface of non self-expressing images, In that sense, Suzuki's works still reserve impersonality. Toshiaki Minemura wrote about Judd's negative attitude towards 'composition' as follows; "Referring to Judd's every comment, it is clear that he denounces the concepts of 'discrete', 'parts', 'order', 'structure' and 'composition', while he persists in the concepts of 'singleness', 'wholeness', 'specificity' and 'thing itself '" in an article titled study of modern sculpture-No.2 (Gendai Chokoku Quarterly Magazine). This attitude is a result of his anti-Europeanism.
Suzuki's works do not represent the concept of "one as a whole" as emphasized by Judd, but instead, embrace 'structure' and 'composition' whichi were denied by Judd. However, we still see a point of accordance between the works of these two sculptures considering that both their works are 'non-relational' art. Suzuki's works have a quality that reminds us of the relationship of Frank Stella and Judd who had different views in the recognition of structure and composition and seem to provide a like between these two artists. Yet, Suzuki gropes for his own way of creating sculpture in a different horizon, neither from the European nor American tradition. If a stoical sculptural form is an ultimate conclusion by Minimal Artists in reacting to the exaggerated self-expression of Abstract Expressionism, we assume Suzuki produces his works without accepting or agreeing to a rash answer given by the Minimal Artists. Minimal Art has succeeded the phenomenal productions of such an artist as Japer Johns who depicts symbols without expressing any emotion. On the other hand, even though using minimal forms, Suzuki's works show some feelings. Considering these facts, it will be possible for us to perceive that his works are suggesting the potentials of sculpture apartfrom "a hidden origin" of Minimal Art. As we follow the definitions of Abstract Expressionism as 'subjective selfexpression' and Minimal Art as 'objective material expression', we can place Suzuki's works between them as 'semi-subjective' sculpture, because they are composed of objective form with subjective approaches. According to this supposition, his works not only suspend Minimal Sculpture but also eliminate threads of the sculptural history in its transition from Abstract Expressionism to Minimal Art. Suzuki provides numerous criticisms by confronting modern sculpture with his works. There is no readiness in response nor haste in dental but he keeps working with close attention to the sculpture with his works with close attention to the sculptural history. We look forward with great interest to seeing his further exploitation of the art for his own place in history.
「場」の彫刻と「場所」の彫刻 ーKommunikation 展によせて―
1999
松本 透 複数の力の絶妙な均衡のうえに生起するフーアマンの構造体と、たいていは二つの鉄塊を積み重 ねたり、隣り合わせに並べることで成立する近年の鈴木隆の彫刻。―前者は、見えかけの危うさの 背後に意外なほどの弾力的な靭さを秘めており、後者は、繊細にして重々しいその存在の周囲に、 どこか空漠としたはかなさのようなものを漂わせている。安定と不安定、静と動、はかなさと永続 性の配合が、両者でかなりくっきりと異なるものである。 もともと電気工学を専攻していたというフーアマンが、作家としての本格的な活動をはじ めたのは、ブランシュヴァイク美術大学に在学中の1980 年代半ばのことである。1986 年には、 R. シューマン、D. ヒンツとともに美術家集団「自由空間(Feiraum)」を結成し、以後今日にいたる まで、ドイツ国内はもとより、オランダ、スイス、ポーランド、イタリア、そして日本と、じつに精力 的にグループ展を組織している。 フーアマンがかつて電気工学を学んだという事実は、ちょっと気になる点である。かれの作品 の多くは、鉄板なその重くて剛性の高い物体と、ばね鋼や空気の入ったチューブやボールなど弾 力のある物体を組み合わせてできているが、冒頭でふれた “複数の力の絶妙の均衡”とは、具体 的には、一定の幅の振動やねじれを許容する柔構造によってもたらされるものだからだ。フーア マン自身は、その際に、“剛”の要因に西洋的なものを、“柔”の要因に東洋的なものを見てとってい るようだが、ここでは別のことがらに注目したい。すなわち、かれの彫刻は、その独特の柔構造に よって一定の変化や運動を受け入れ、いいかえれば時間の要因を受け入れるという点である。 となると、今回の出品作のうち、たとえば2 本の鉄の丸棒のうえに太鼓状の円筒を載せ、そのう えに立てかけた1 本の丸棒の重さと向きの〔そして床面の微細な起伏や傾斜の〕じつにきわどい バランスによって円筒を床から浮上させた《TAIKO》であれ、三つ巴に噛みあった鉄棒がマッシ ヴな円筒を空中で支える《力の場》であれ、われわれは、振動なり回転運動がゼロになった特異な 一瞬を、静止したフォルムとして見ているわけである。いうまでもなく、振動や回転が一定幅を超 えれば、われわれは死んだ物体が床に横たわるのを見ることになるであろう。また、この二人展に 捧げられた一点ともいうべき《TOMODACHI》の場合、直径1955 ミリと1957 ミリの鉄の円筒〔ち なみに、二つの直径はフーアマンと鈴木の生年に合わせられている〕は、お互いにもたれあってい るばかりではない。振動を受け入れ、時間の幅を許容するこの作品の柔構造は、もたれ合いととも に、二つの円筒の自立の一瞬にも含んでいるはずなのである。―《力の場》とは、よく言ったもの である。かれの彫刻は、古典物理的な均一空間のなかに置かれた物体というよりは、それ自身が、 特定の場所(Ort) で、特定の物体によって、時間と空間を緊密に構造化した文字どおり「場(Feld)」 なのである。 鈴木隆もまた、接客した鉄塊を空間のなかに積み上げる仕事をしていた一時期ののち、単なる 物体をいれる容器として無色透明な物理空間にも、近代の芸術作品なるものを容れるこれまた無
色透明な展示空間にも飽きたらず、徐々にそこから離脱していったようである。1990 年代初めに、 かれは、鍛造加工された鉄との運命的な出会いをつうじて、物体のフォルムから空間の質へと意 識を転換しはじめたのである。 素材はあくまでも素材にすぎないとはいえ、それにしてもオレンジ色の半透明のかたまりと化 すまで熱せられて、数百トンのプレス機によってまるで果実を押しつぶすように幾度も叩かれた 鉄塊は、作為を超えたその歪みや肌合いのうちに、おのずからそれぞれの歴史を語っているよう である。鈴木はおそらく、工場のかたすみに無造作に積み上げられた鉄のかたまりの内部に固有 の時間が堆積するさまを透視し、そうした時間と切り離すことのできない固有の空間を透視した のである。 それらの鉄塊は、何ものをも暗示せず、象徴せず、連想させないように、まして間違っても美し くなったりしないように注意ぶかく選ばれて、組み合わされ, 空間中のしかるべき場所に置かれ る。いまや一個の時空をはらんだ鉄塊の存在が、周囲の空間と精妙にしっとりと同調し、物理空間 を、あるいは展示空間を質的に変容させるために、かれは場所の精度に賭けるのである。かれの愛 好する建築家の言葉を藉りるなら、 「ひっそりとたたずむオブジェや建物を見るとき、我々の心も 落ちついて穏やかなものになってゆく。・・・・・・ちょうど、何かが見えるがそこに意識の焦点を 結ぶことができないような状態である。ここで、この認識の真空状態で、記憶が甦る。時の奥底か ら浮かび上がってきた記憶が。」(P. ズントー、依田晋一郎訳) 無限にして空虚な空間の広がりと時間の持続のなかで、死せる物質たちを生きた「場」へと変 成するのがフーアマンの彫刻であるとすれば、鈴木隆の鉄塊は、空漠とした個人史の時空にピン かハーケンのように打ち込まれ、そのかたわらには、一滴の蒸留水のように澄んだ詩的なタイト ルが刻まれる。ひっそりとたたずむかれの彫刻もまた、フーアマンのそれとは違うかたちで、無色 透明な無限空間の霧を払い、この場所、この瞬間に、生の気配を吹きこむのである。 〈東京国立近代美術館 美術課長〉
記憶の深度/場所の精度
1999
松本 透 確たる世界観を喪った時代であればこそ、私たちの意識に俄然くっきりと再帰してくるものが ある。ものの断片とことばの断片である。かしくてコラージュや、レディ・メイドや、概念の芸術 は、勇ましいアヴァンギャルドの手法たる一面の深層に、いわば廃材の巨大な漂着地にも等しい 私たちの時代に特有の気怠く、重苦しい<気分>を隠している。 鉄製の円柱や長方体などのパーツを積み上げる仕事をしていた鈴木降が、とある鍛造工場の かたすみに打ち棄てられ、野ざらしになった鉄材との運命的な出会いを機に、熔接、成形、研磨と いったふつうの意味での作ることを控えるにいたったのは、1990 年代の初めである。以後のかれ の作品は、既成品、いや、正確には既成品にすらなれなかった廃材に、切る、焼く、叩くといった最 小限の手を加えて、それら死児たちに生を授ける態のものとなった。 “Less is more”の極限形といえなくもないが、それではかれの転回の意味を見誤るおそれがある。 前進的であれ、回顧的であれ、制作の時制は現在であるほかなく、しばしば “白い立方体”に喩えら れる展示空間とは、この現在時制の保証装置にはかならない。鈴木は、廃材の漂着する波打ちぎわ に立ったときから、当然ながら、そういった単なる物体を入れる容器としての無色透明な空間か らゆるやかに離脱して、制作というよりは<救済>の時空に足を踏み入れていったのである。 どこかしら魔術的なこの救済作業は、既成品中の既成品たることばの介添えをえておこなわれ る。いわく、迂回の記憶。奇跡的。ここではないどこか。メランコリア。あるいは、見守られた時間。 ものとことばがふたたび一つになるその場所がどのような場所であるか、いま詳らかにはしな い。しかしそれが、記憶の〔そして夢の〕逆光のもとに不意に開ける、あのくまなく澄みわたった 午后の空き地にも似たどこかであることだけは確かであろう。現実は、記憶のなかでこそ自明性 の光をおびて再帰してくるものだからである。
Depth of memory/ Precision of site
1999
Toru Matsumoto In the very time when we have lost a steadfast view of the world, we notice some things abruptly reviving in our mind distinctly. Those are fragments of articles or fragments of words. Thus, collage, ready-made or conceptual art, which partly show a phase of the fierce method of avant-garde, involve in their depth a dull and gloomy atmosphere peculiar to the present day of ours which is like a huge yard for the waste materials drifted ashore. It was in the early1990’s that Takashi Suzuki, who had worked by piling up parts such as iron columns or rectangular pillars, happened to meet iron materials wasted and exposed to weather in nook of wrought iron workshop as fate and stopped welding, forming or grinding, that is, “making” in the common sense. Since then, he has made works with ready-made articles, or to be precise, articles which could not even become a ready-made article, with the least process, such as cutting, heating or beating, which may be likened to bringing dead children back to life. It is possible to say it is an extreme form of “less is more,” but then we are in danger of misunderstanding the meaning of his conversion. Either progressive or retrospective, the tense of producing a work cannot but be the present, and the space for display, which is often likened to “a white cube,” is no other than an assurance for the present tense. Since the very time he stood on the beach where wasted articles drifted ashore, as a matter of course he gradually deserted such a transparent space as a mere container which holds articles, and stepped into the world of salvation rather than making a work. This salvation work, which there is something magical about, is carried out with the help of words which are the most typical of ready-made articles. For example, “Memory of Detour,” “Miraculous,” “Somewhere not Here,” “Melancholia,” “Gazed at presence,” etc. I will not explain now about the place where an article and a word are connected again. It is aure, however, that the place is somewhere similar to a vacant ground under a cloudless sky in the counterlight of a memory (or a dream) in one’s mind. It is because reality revives with a light of axiom just in one’s memory.
Takashi Suzuki 1957
Born in Tokyo, Japan Lives and works in Tokyo
1976
Graduated from Tokyo Metro politan Senior High School for Music and Fine Arts
1981
Graduated from Tokyo University of the Arts
1983
Completed the Master Program, Tokyo University of the Arts
1984
Completed Institute Cours e, Tokyo University of the Arts
Solo Exhibition 2017
[ART FORMASA] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan
[Red and Blue and] Gallery Shilla, Daegu/ Korea
[Red and Blue and] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan
2016
[in light] gallery 21-yo, Tokyo/ Japan
2015
[Rot, Blau und Licht] Galerie Christoph Abb端hl, Solothurn/Switzerland
2014
[Red, Blue and Light] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka
[Farbe Raum Licht] Kunstraum Oktogon, Bern, Switzerland
[recent works] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands
[red, blue and light] Gallery GEN, Tokyo
2012
[Red, Blue and Light] Gallery Shilla, Daegu, Korea
[light] Gallery GEN, Tokyo
2011
[daylight] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka
[daylight] Galerie Christoph Abb端hl, Solothurn, Switzerland
2010
[red, bule and light] Gallery GEN, Tokyo
[red, blue and light] House of Art - Budweis, Czech Republic
2009
[Die Sprache der Farbe] Galerie Christoph Abb端 hl, Solothurn, Switzerland
[art amsterdam`09 SOLO] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands
[daylight] GALLERY TERASHITA, Tokyo
2008
[works on paper] Gallery GEN, Tokyo
2007
[Red Studies] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Recent Works] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka
[Albeiten auf Papier] Galerie Carmen Weber, Zug, Switzerland
[with red] Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland
2006
[Monochromes] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Text] CONCEPT SPACE, Bordeaux, France
[Red-interval] Gallery GEN, Tokyo
2005
[Takashi Suzuki-Gouachen] Galerie Carmen Weber, Zug, Switzerland
Institut f端r bildenerisches Denken, Grenzach -Wyhlen, Germany
2004
[ONE] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Scarlet Paintings -Text] Das Gästezimmer, Wolhusen, Switzerland
[Scarlet Monochrome -Light] Gallery GE N, Tokyo
2003 [Scarlet Paintings -NOTE] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Scarlet Paintings] GALERIE ANDO, Tokyo
2002
[Works of Scarlet] Gallery GEN, Tokyo
2001 [Text of Memory] CONCEPT SPACE, Shibukawa
Museum St.Wendel, Mia -Münster-Haus, St.Wendel, Germany
[Takashi Suzuki Exhibition] Gallery AD&A, Osaka
2000
[TUES-2000] The Utukushi -ga-hara Open-Air Museum, Nagano
[Depth of Memory -Precision of Site] Gallery Alpha M, Tokyo
[Somewhere, not Here] Gallery GEN, Tokyo
1998
Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland
1997
[Recent Works] Gallery GEN, Tokyo
1996
GALLERY 360 Degrees, Tokyo
Gallery GEN, Tokyo
1995
GALLERY 360 Degrees, Tokyo
1994
[Drawings] Gallery GEN, Tokyo
[SCULPTURES and DRAWINGS] GALLERY 360 Degrees, Tokyo
1993
[Steel Sculptures] Gallery GHIBLI, Tokyo
1991
[Recent Sculptures and Drawings] GALLERY MANIN, Tokyo
1988
[New Works] Gallery GEN, Tokyo ( -’89,’90,’91,’92,’93)
1987
[RECENT SCULPTURES] GALLERY MANIN, Tokyo
1984
ANDO GALLERY, Tokyo
1983
Kamakura Gallery, Tokyo
Selected Group Exhibition 2017
[WHITE]Galerie Christoph Abbühl, Solothurn, Switzerland
[Interaction of Color] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan
2016
[ART The Hague] Fokker Terminal, Den Haag/Netherlands
[Japan im Palazzo] Kunsthalle Palazzo Liestal/ Switzerland
[NEW SPACE with THE ARTISTS and ART] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan
[Incidents-Zwischenfälle] KulturAmbulanz Galerie im Park, Bremen/ Germany
[Accrochage] Kunstraum Hebel_121, Basel/ Switzerland
2015
[CORRESPONDENCE LANDSCAPE 015] Gallery KOBO SHIN, Tokyo/ Japan
[ Characteristic Sense of the Rectangle] Gallery Yamaguchi kunst-bau, Osaka/ Japan
[Art Breda]Chasseveld Breda, Breda/ Netherlans
2014
[Dialog Konkret] Galerie Christoph Abbühl, Solothurn, Switzerland
[KUNST RAI] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands
[spektrum schwarz] Galerie Christoph Abb ühl, Solothurn, Switzerland
2013
[KIND OF BLUE] Galerie Katharina Krohn, Basel, Switzerland
[Made in Japan] Kunstraum Hebel_121, Ba sel, Switzerland
[Summer Exhibition] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands
[ART OSAKA 2013] Contemporary Art Fair, Hotel Granvia Osaka, Osaka
[KUNST RAI] Amsterdam RAI Parkhal, Amsterdam, Netherlands
[ANDO SESSION -4, sensiblity to colors exhibition] Galerie Ando, Tokyo
[31st Korea Galleries Art Fair] Seoul COEX Hall, Seoul, Korea
[RAW Art Fair 2013] Pakhuis Santos Rotterdam, Netherlands
2012
[Collections] Gallery Shilla, Daegu, Korea
[Accrochage] Galerie Christoph Abb ühl, Solothurn, Switzerland
[Summer Exhibition ] Gallery nine, Amsterdam, Netherlands
2011
[Collections] Gallery Shilla, Daegu, Korea
[Autumn Exhibition] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka
[präsent] Galerie Christoph Abbühl and Kunstforum Solothurn, Solothurn, Switzerland
[ART OSAKA 2011] Contemporary Art Fair, Hotel Granvia Osaka, Osaka
2010
[a quiet moment] Gallery Yamaguchi Kunst -Bau, Osaka
[works on paper] Gallery Terashita, Tokyo
[Small Size Works -Statements from Galleries -] Gallery Natsuka b.p, Tokyo
2009
[Black & White] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Kunst 09 Zürich] 15th International Contemporary Art Fair, Zürich -Oerlikon, Switzerland
2008
[Small Format] GALLERY TERASHITA, Tokyo
[Asia Top Gallery Hotel Art Fair 2008] Hotel New Otani Tokyo, Tokyo
2007
[Kunst im Dialog] Institut für bildenerisches Denken, Grenzach -Wyhlen, Germany
2006
[transit-abstract] project space -Henzelmann Tower, Berlin , Germany
[TAKE OFF] Kunstraum Hebel_121, Basel, Switzerland
2005
[Kunst 05 Zürich] 11th International Contemporary Art Fair, Zürich -Oerlikon, Switzerland
[ART in CASO 2005] Contemporary Art space Osaka, Osaka
[Rot-Positionen zeitgenössischer Kunst] Galer ie Carmen Weber, Zug, Switzerland
[Suki-Mono-Tachi No.6 Ways Since Rin-pa 2005 Chapter 3] Gallery Yamaguchi kunst-Bau, Osaka
[Personal Structures] Ludwig Museum, Koblenz, Germany
[SUKI-MONO-TACHI WAYS SINCE RIN -PA] Museum of Modern Art,Gunma, Takasaki
2004
[Hand in Hand -Contrasts] Hannover Städtische Galerie KUBUS, Hannover, Germany
[Personal Structures] Galerie de Rijk, Den Haag, Netherlands
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Chapter 1] CONCEPT SPACE, Shibukawa
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Chapter 1- Part 2] DESIGNPLANETS, Maebashi
[ART Frankfurt] Fair Collection, Frankfurt Main, Germany
2003
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.6 -Prologue] Gallery Surge, Tokyo
[Farbmalerei] Galerie am See, Zug, Switzerland
[Recommendation of Coll ecting a work of Art] Museum Haus Kasuya, Yokosuka
2002
[Links] (with Daniel Göttin) Museum Haus Kasuya, Yokosuka
[Correspondence] (with Daniel Göttin) Gallery Gen, Tokyo
[Sculptures and Drawing of Sculptors] Ausstellungsraum Harry Zellweger, Basel, Switzerland
2001
[Recommendation of Collecting a work of Art] Museum Haus Kasuya, Yokosuka
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin-Pa No.5] RINKKOHKAKU Basis Building and Tea Room, Maebashi
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin -Pa No.5] CONCEPT SPACE, Shibukawa
[PITON & 7 ARTEST] Gallery CHIKA, Tokyo
[KUNST IM PARK 4] (with Daniel Göttin) Hotel SARATZ, Pontresina, Switzerland
[Ngoya Contemporary Art Fair] Nagoya Citizen's Gallery, Ngoya
[Boxes, Spaces, Places] Galerie Monika Beck, Homburg, Saarland, Germany
2000
[SUKI-MONO-TACHI Ways Since Rin-Pa No.4] CONCEPT SPACE, Shibukawa
[Japanischer Blick auf Europa] Saar -Pfalz-Park-Halle 21, Bexbach, Germany
[Nagoya Contemporary Art Fair] Nagoya Citizen's Gallery, Nagoya
[CHIKA 2000 VIS ION] (wiith Satoko Shiba) Gallery CHIKA, Toky o
1999
[Tokyo Tatami Space Exhibition] Orimoto house, Kwasaki
1998
[KOMMUNIKATION] (with Frank Fuhrmann) Sagacho Exhibit Space, Tokyo
[Possession of Art works is to Share the Future with Artist] Museum Haus Kasuya, Yokosuka (-’99,’00)
1997
[KUNST=KAPITAL] Gallery 360 Degrees, Tokyo
1995
[5' Contemporary Art -Common Perspectives] BAN Gallery, Osaka
1994
[ART SITE Collection 4] Gallery ART SITE, Fukui
[ART SITE C ollection-Wakasa] Library -Wakasa, Fukui
[Art Works -on the Desk Space 3] Gallery Ar t and Craft,department store - SEIBU, Tokyo
1990
[Two-Dimensional Surface of Sculptors Exhibit] Gallery MANIN, Tokyo
[GOTOH COLLECTI ON 1] Gotoh Museum of Art, Chiba
1988
[Exhibition NEW WORKS] Kamakura Gallery, Tokyo
1987
[The 10th Sculptures by Metal Mold in Japan] Wako Hall, Tokyo
1986
[3-D GAME] (with Interior Designer and Architect) AXIS GALLERY, Tokyo
[Art-A Dialogue on P eace] Ohkurayama Memorial Hall, Yokohama
[A Scene of Contemporary Japanese Art -3] Miyagi Museum of Art, Sendai
1985
[The 8th Sculptures by Met al Mold in Japan] Wako Hall, Tokyo
[Three Artists Exhibition - SECTION] Ga llery Natuka, Tokyo
1983
[The 3rd Henry Moore Grand Prize Exhibition ] The Utukushi-ga-hara Open-Air Museum, Nagano
[Three Artists Exhibition - SECTION] Gallery Atelier -Z, Tokyo
1982
[Three Artists Exhibition - SECTION] Kmakura Gallery, Tokyo
[The 5th Japan Enba Contemporary Art Compe tition] Emba Museum of Modern Art, Kobe
1981
[Exhibition 28 Works] Modern Art Gallery, Tokyo
[Six Selected] Hall at Tokyo National University of Ar t and Music,Tokyo
[The 4th Ja pan Enba Contemporary Art Compe tition] Emba Museum of Modern Art, Kobe
Awards 2004
Awarded International Exchange -Program: Pola Art Foundation
2000
Awarded the TUES Prize : The Utukusi-ga-hara Open Air Museum
1983
Awarded the Prize for Excellence a t the 3th Henry Moore Grand Prize Exhibition:
The Utukusi-ga-hara Open Air Museum
1981
Awarded the Grand Prize at the 4th Japan Emba Art Competition: Japan Emba Museum
Awarded the Ohhasi Prize: Tokyo National University of Fine Art and Music